文字サイズ : < <  
 

2010年11月27日(土)
シンポジウム「オーラル・アート・ヒストリーの実践」

会場:東京藝術大学・上野キャンパス 美術学部中央棟2階第3講義室
書き起こし:永田典子

プログラム

開会挨拶 池上裕子 (神戸大学国際文化学研究科准教授)
[基調報告1]黒ダライ児(戦後日本前衛美術研究家)
「美術館にオーラルヒストリーは必要か」
[基調報告2]平井章一(国立新美術館主任研究員)
「私の経験から―美術館での研究、キュレーションとオーラルヒストリー」
[報告1]坂上しのぶ(ヤマザキマザック美術館学芸員、本アーカイヴ)
「オルタナティヴ・スペースにおけるオーラルヒストリーの実践―前衛陶芸集団「四耕会」を例に」
[報告2]住友文彦(NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ/AIT副理事、本アーカイヴ)
「キュレーションとアーカイヴ」
[ディスカッション]
パネリスト:黒ダライ児 、平井章一、坂上しのぶ、住友文彦、加治屋健司(広島市立大学准教授、本アーカイヴ)
閉会挨拶 加治屋健司

池上裕子:
皆さん、こんにちは。池上裕子と申します。本日のシンポジウムを主催した日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴという団体の副代表をしております。今日はたくさんの方々にお越しいただき大変うれしく思います。お手元のハンドアウトにもこのアーカイヴについての紹介がありますが、この団体は2006年に設立されました。設立といってもそんなに大げさなものではなく、こういうアーカイヴを始めたいという意志を共有する人間が何人か集まり、プロジェクトを立ち上げようということで始まったものです。このプロジェクトは、日本の美術界に携わってこられた方々に広範にオーラル・ヒストリーという手法を用いた聞き取りを行い、そのインタヴューの書き起こしを公開することで美術に興味のある方々に広く役立てていく、という趣旨で始めました。
 2009年の6月からはホームページを立ち上げまして、聞き取りの書き起こしをそこで公開しております。現在では約20名強の方々のインタヴューがそこで閲覧できます。去年の11月には、ホームページの公開を機会に、第1回目のシンポジウムを大阪の国立国際美術館で行いました。「オーラル・アート・ヒストリーの可能性」というタイトルで、ひとつには私たちのアーカイヴ活動について広くお知らせしていきたいということ、また、戦後美術の研究にオーラル・ヒストリーという手法が意識的に持ち込まれたのは比較的最近ですので、まずはそうした現象について公の場で議論を共有したいという目的から開催しました。今回のシンポジウムでは、もう少し具体的にテーマを掘り下げて、実際にオーラル・ヒストリーが戦後美術の研究やキュレーションに活用された事例を参考にしながら討議をしていきたいと思います。
 特に本日の登壇者の、報告をしてくださる方々はすべてキュレーターですので、オーラル・ヒストリーとキュレーションの関係が討議のひとつの大きいポイントになってくるかと思います。プログラムとしては、最初に基調報告を二つしていただき、そのあとに休憩と質疑を挟みまして、当アーカイヴからも2名のメンバーが発表を行います。そして全体討議と質疑応答というふうに進めていきたいと思います。今日ここに来てくださった皆さんは、美術史を勉強していたり、キュレーターを志していたり、あるいはすでに歴史研究、アーカイヴ活動、キュレーションといったことなどに携わっていらっしゃる方々もいらっしゃると思います。それぞれの興味から来てくださったと思うんですが、登壇者も含めてすべての方にとって意味のある討議をしていけたら、というふうに思っています。質疑の時間でも皆さんからの積極的な質問やコメントをぜひお聞きしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 では最初に、戦後日本前衛美術研究家の黒ダライ児さんから報告をいただきます。タイトルは「美術館にオーラル・ヒストリーは必要か」です。よろしくお願いいたします。

黒ダライ児:
お待たせしました。ただ今ご紹介いただきました、黒ダライ児と申します。私のことをわざわざ「くろ・だらいじさん」と言わなくても、「くろださん」と言われてべつにかまいませんので、はい(笑)。
 私は今までほんとにいろんなところで話をしてきましたけど、トップバッターになったというのは初めてですし、それから、このシンポジウムほどかなり丁寧にオーガナイズされたものというのは初めてです。今までに世界各地で散々いいかげんな、段取りも何もしてないようなワークショップとかシンポに散々出てきたんだけども。それからまた、きょうの発表者は、実はお互いにあらかじめペーパーを渡して、お互いにそのなかで意見交換をするなんて、そんなことまでやっていました。そんなのやったことないぞ、って感じだった(笑)。それでさすがに、何と私にとってはとても珍しいことに、原稿を書いております(笑)。私は、実はいかなる学会、美術史学会だろうが、美学会だろうが、芸術学会だろうが何だろうが、一度も学会発表って、したことがありません。ああやってなんかペーパーを書いてそれを読むということは、私はすごい耐えられない、絶対できないと思っていました。そうこうしてるうちに、会費を払わなかったから、美術史学会の名簿からもう消えてなくなった(かもしれない)んですけども(笑)。
 それで、なぜか、というのはちょっと今日のテーマに関係あることです。私の中では、話し言葉と書き言葉は違うものであるという――ちょっと説明を簡単にできませんけど――ことがありまして。かつて英語で発表したときとかもありますが、そういうときにはもちろん原稿を書かないととてもできません。それすら書かないでやったことはありますけども。そういう原稿がある場合であってもかなりアドリブをやってきて、それなりのウケを狙って、ウケたりウケなかったりしてきたわけなんです。なので、できるだけ、一応原稿はあるんですけでも、できるだけ話し言葉に近いかたちでやってみるというのが、なんかひょっとしてひとつの問題提起になるのかなと思っています。
 それではちょっと、いきなり最初と最後にだけちょっとイメージをお見せします。先ほど(申し上げたように)、皆さん、ほんとにちゃんとした学会的な発表とかしてないんです。今日はもう私が日頃考えてること(についてお話します)。と、それとこれまでに私がアーティストや美術関係者にやったインタヴューというのは、おそらくたぶん150回は優に超えていると思うんですね。先ほどの池上さんのお話にもあったとおりに、アメリカでもオーラル・ヒストリーというのを美術史で行い始めたというのは最近だったのに、私もそういう言葉を知りませんで、いわゆる「取材」というかたちでいろんな人のインタヴューをしてきたんですけれども。まあ数だけはやたらにやっていますから、そのなかで考えたことをあとでちょっと、問題点を若干まとめながらしゃべろうということにしようと思います。その前振りというわけではないんですけど、かなり唐突なものをちょっとお見せします。

(スライド上映開始)

 絶対に覚えきれない、とても長い名前のミュージアムに行ってきました。これはいわゆる南京大虐殺記念館、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」ですね。そこに行ってきまして。行ってきたのが9月の終わりでありまして、ちょうど尖閣諸島のあれが起こって、反日感情が大変高揚している、そういう時期にしれっと行ってきました。
 ものすごくお客さんがいっぱい入ってましてですね。しかも大変皆さん熱心に見ておられる。外国人らしい人はほとんどいません。かなり行くのに不安があったんですけども、私がヘンな格好してて、ヘンな髪型してて、たしかバングラデシュのろうけつ染めのシャツかなんか着てたと思うんですけど、そんなの着てたから日本人と思われなかったせいか、べつに何ともなく結構きちんと見ました。
 実はこれ、外観の写真はいっぱい撮れるんですけども、中の写真というのは撮れませんし、ネットでもほとんど見つからなかったんです。これについてはあまり詳しく説明する必要はないんですけど。このミュージアムは、非常に、ものすごいコンセプチュアルなミュージアムというか、「遭難者 被害者300000」というのが、エントランスのところで、屋外に、こういうふうに出てきます。そしていろんな世界各地の言葉でそのことが書かれております。それから、こういう何かの再現モニュメントのとこにはやっぱり「300,000」という数が書かれております。
 こういうところを入って、地下のほうに、展示室に行くとなると、かろうじてこの写真しか見つからなかったんですが、いわゆる歴史博物館のパターンです。まさに膨大な展示物があったんです。なかには、ちょっと写真はないんですけども、きょうの話のオーラル・ヒストリーに関係あると思われる、そういう聞き取りによる調査に基づくそういう展示もありました。
 ここで何でこれを見せたかといいますと、とにかく先ほど見せた30万という数が最初に現れて、膨大な展示をめぐった最後にもう一度30万人とか現れるんですね。それで何かすごい複雑な感慨を受けまして。ひとつは、ものすごく膨大な資料と、そのためのすごい手間暇とお金とかけて、それからいろんな展示技術を使って、そのすべてが30万というひとつの数字に収斂されてしまうという、そのすごさというか怖さというのがひとつありました。いろいろな個別の経験があるだろうし、またもちろん政治的なイデオロギーとか研究の度合とか、そういうのは皆さん違うでしょうけど、それがすべてとにかく30万だということを主張するために、そういう数字に抽象化されてしまうということがひとつです。
 それともうひとつ、ここで非常に私が気になったのは、実はこのなかにいくつか「美術」と思われるものがあったことです。ひとつは、(画像を)持ってこなかったんですけども、最近、中国のわりと若い画家(李自健、1954〜)が(1991年に)描いた南京大虐殺のシーンというのがあった。それは油絵なんですけど。あと実は現代美術みたいな展示が結構あちこちにあったんですけど、それはちょっとおいておきます。それ以外に美術的なものが二つありました。
 ひとつは、最初に日本が空襲していったときに、空襲から逃げる人の彫刻、ブロンズだったと思いますけど、それがひとつありました。その背景がちょうどこういう資料的なものの前に、そういう彫刻がポンと置いてあるわけです。それは美術品として展示しているというよりは、いわゆる博物資料として展示しているわけです。それともうひとつ、どこだったか分かりませんけど、実際に日本軍が南京に到達する前の過程で、絵はがきがありました。それが非常に牧歌的な、歴史的な場所とか名所旧跡のところを水彩かなんかでスケッチして、それを印刷して絵はがきにしている。そういうような形にしているものが美術という、つまりひとつの彫刻とひとつの絵画がここにあったわけです。
 いまのは歴史博物館なんですけども、では、いわゆる美術館というのは、いまのここに展示していた、さっき言った彫刻ひとつと絵はがき、それは原画かもしれませんけど、それだけを展示して、白い壁の前に展示して、美術館における美術作品であると言ってるんだろうということが分かったわけです。
 ただ、こういう歴史的な背景とか民族的な背景とか、そういうのを社会的な背景とは切り離して何かを展示するということが問題とされているというのは、昔からミュゼオロジーである議論ですから、べつに珍しくないんです。ただ、それを美術館とか博物館の、何と言うか、枠組みを転換してしまうと、博物館の中に美術があるように美術館の中に博物館があると考えてもいいんではないかということを思ったわけです。つまり、これは多分実際に歴史家とか民俗学者とか、散々もう絵巻物を見て、それを歴史的な資料として扱う、そういうのは散々やってきているので新しいことでもなんでもないんだけども、ただ一見そういう歴史資料とか民俗資料ではないような美術作品というものから、歴史とか社会とかそういうものを語ることができるのではないか、と。そういうふうな、まあポジティヴに見ていっていいのではないか、と思ったわけです。
 以上で私の話は終わります。
というのは冗談でありまして(笑)。私、結構こういうの、好きで。あっという間に始まって、あっという間に終わります(だんご三兄弟「あっという間劇場」)って結構好きだったんで、これで終わりにしようかと思ったんですけど、まあ一応さすがにそれはまずいだろうということで、もうちょっと続けます(笑)。
 お手元にお配りしている「黒ダライ児の書きもの」というのを見ていただくといいんですけども。一つひとつ説明すると時間を食っちゃうのでこれを作ったんです。このなかで私の過去の仕事ということでいうと、ポイントとなるのは、一番最初に1988年、下のほうの最初のほうにあります、九州派の展覧会(エッセイは「異説・美術運動としての九州派 共生する制作者たち」)をやりました。それから(1993年に)その次のネオ・ダダの写真展(同「明るい殺戮者 その瞬間芸の術」)をやって、それから(1997年に)その下の「『集団蜘蛛』の軌跡」展(同「集団蜘蛛 崇高な愚行」)というのをやったわけです。これはすべて福岡市美術館の展覧会でした。
 一番最初の「九州派展」というのは、これは基本的に現存作品を探してきて展示する、と。写真資料とかパンフとか若干ありましたけど、基本的には作品展です。あまり知られていませんけど、この「九州派展」には実は新作という部門もありまして。当時、ほとんどご存命だった九州派のアーティストたちが、別なコーナーで近作、新作を並べたんですよね。非常に美術展らしい美術展だったわけです。再制作は一点もしていません。
 その次の「ネオ・ダダの写真」展になりますと、これは写真展です。いわゆる絵画、彫刻とかオブジェとかは一切ありません。パフォーマンスは実は風倉匠さんにやってもらった。それが今の私につながる結構大事な転機だったんです。その展覧会そのものは写真展です。5人の写真家の展覧会です(東松照明、石黒健治、石松健男、小林正徳、ジャックリーン・ポール)。5人、皆さんプロの写真家です。ネオ・ダダの作品はないけど、写真という作品はあったということで、そこで、あとに残らないイヴェントとかパフォーマンスとかそういうものを写真によって記録する、その記録するということが一種のクリエイティヴな行為であるし、また写真家というのもひとつの歴史家ではないか、歴史家になるのではないかとか、そういうことを思い始めたのがこの展覧会以降です。
 その次に、集団蜘蛛の展覧会になりますと、これはもっとハプニングだけのグループです。時間があれば、あとでちらっと、中心メンバーの森山(安英)さんのヴィデオを見せようと思うんですけども、これは完全にもう、その写真作品さえも見せなくて、パンフレットとか資料的なもの、もちろん実は蜘蛛の人たちがつくった版画とかはあったんですけど、それはもう重要ではなくて。一番基本的だったのは、当時まだスキャナとかPowerPointなんかなかったので、業者さんに頼んで写真をスキャンして、それをスライドショーにしてもらったやつをVHSのヴィデオにして見せた。時代を感じます。そのモニターも当然液晶ではない、昔のあれ(ブラウン管)なんですけど、だから、写真というのも作品として扱わなかった、と。つまり、三つの展覧会からだんだんだんだん作品が消えていったんですね。
 それが、今やっている黒ダライ児氏になりますと、もう展覧会というのはしないで、ひたすらテキスト、文章を書くこと。で、最後には『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)という、そういう本になる。そこに黒い箱のような本というか、これが届いたときに「DVDボックスが来たと思った」とか「箱に入っていると思ったら中身だけだった」とか、なんかいろいろ(言われました)(笑)。「モノリスみたいだ」とか「これで人を殴るにはもうちょっと紙が重くてよかったんじゃないか」とか、なんかいろんなご意見をいただいたんですけど(笑)。まあそういう本になっていったわけなんです。つまり、だんだん、きょうの話に即して言いますと、最初は研究に基づくキュレーション、展覧会企画だったのが、いずれキュレーションがなくなって研究だけになっていったということになります。そういうことをやってきたわけです。
 そこで、確かに、こういうところで呼んでいただくこと、オーラル・ヒストリーというものの意義というのは、私は高く評価し認めております。特にそれが、私がやってきたような仕事に関して大事なのは、もう皆さんお分かりのように、モノとして残らないもの、イヴェント、パフォーマンス、まあエフェメラル(ephemeral)という英語がありますけど、エフェメラルなものというか、そういうようなアーティストの活動を扱ってきたわけですから、当然作品はないわけです。しかもそれは、たまたま私がパフォーマンス研究をやったからじゃなくて、もっとほかの、造形作品を扱う歴史家にとっても同じことです。というのは、読売アンデパンダンに出た、当時紙面をにぎわしたような大作の絵画、彫刻の大半が失われてしまっているわけです。工藤哲巳のあれ(《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》、1961〜62年)とか残っていますけどね。しかも、それは読売アンデパンダンみたいなものだけではなく、もっと古い、その同時代かそれより以前の絵画でさえ多くのものが失われているわけです。写真さえ残っていないこともあるわけです。ですから、そういうときにはもう作家の記憶に頼るしかない。それでないともう美術史がつながらないわけです。どうしようもないわけです。だからこれは、ひとつはパフォーマンスというメディアの問題であるということがひとつと、もうひとつは日本社会全体の問題であると。
 私がよく思い出すんですけど、(1997年に)ロサンゼルスのミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートで、エドワード・キーンホルツ(Edward Kienholz)の展覧会をやってました。キーンホルツが、ばかでかい、部屋みたいなインスタレーションをつくって、それは誰かが持って、ちゃんと残っていて、しかも再構成されて、とても再構成とは思えないくらい生々しい作品がちゃんと展覧会で出るわけですよね。それはびっくりしました。あと、このあいだ(ヨーゼフ・)ボイス(Joseph Beuys)が東京に来たということについての展覧会「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」が水戸芸術館でありましたけど、あのときボイスが描いた黒板はアクリルをかぶせられて残っています。ボイスがちょっと何かやったことが、すべて商品化されて、コレクターが買ったり、美術館が買ったりするわけですよね。一番すごいなと思ったのは、クリス・バーデン(Chris Burden)という過激なパフォーマーがいますけど、彼が手足を拘束してどこかに長時間その状態でいるというパフォーマンスをやったときに、その手か足を拘束した金属の金具かなんかが、それがちゃんと誰かにコレクションされて残っているんです。こんなもん誰が買うんだというやつも、実は結構欧米の美術史では残ってしまっている。もちろん今、たまたま残ったやつを言っているだけですけども、日本に関しては残っていないモノははるかに多いと思うわけです。それは何で残らなかったか。

(タイムアップの音)

 あっ、じゃあ時間が来たのでこれで終わります(笑)。ああ、やっぱり余計な話をしすぎましたね。でも、どうせこれはネットで記録に残すときはほとんどカットしますから(笑)。(池上さんの「そんなことないです」の声)。だいたいそうなんです。そうやって記録集とか出ると、私がしゃべっていることの大半が与太話なんで、しゃべったことは実はすごく少ないんです(笑)。
 ただ、作品が残っていないってことをアーティストのせいにしてはいけないと(思う)。かつまた、その当時の評論家とかコレクターとか、キュレーターということはなかったですけど、美術館の人とか、そういう人たちのせいにも簡単にはできない。何でそれが残らなかったということをちゃんと考えるべきだし、そういう重要なものが失われてしまっているということを脇に置いといて、しれっと現存作品だけで展覧会をやるというのは、私はすごくまずいと思っています。というのは、それはもう、まさに勝ち残った人の歴史でしかないからですね。美術史というのは、そうなると勝ち残った者の歴史になりますし、展覧会というものは、ベンヤミンふうに言うと「戦利品」の一種の陳列会、見せ物になるということですね。
 ですので、オーラル・ヒストリーをやるからには、すでにあるストーリーを強固する、神話化をさらに進めるというだけでは意味がない。むしろ、何でオーラル・ヒストリーが美術史にとって遅かったかというのは、やっぱり政治学とか社会学とか、それからあと結果的には文化人類学ですね。文字という文化を持たない人のリサーチというときには、もうオーラル・ヒストリーするしかないわけですよね。まあモノがあったりしますけど、モノだってあまりないわけですから、そういうところでは大事だったと。美術史においてオーラル・ヒストリーがあまり重要じゃないと思われていたというのは、やっぱり作品があったからだろうし。
 それから、実はこれは私の本に対するある人のコメント(Living Well Is the Best Revenge(tomkins.exblog.jp/14267635))についてのちょっと反論になるんですけども、美術作家が何かを書いて、それが残って、しかも、かつそれが人に広く使われるという状態というのは、それはそのこと自体ですでにその作家の相当な特権性を表すものなわけです。ほかの人たちはそもそも書く機会がない。書いてももうガリ版で刷ったやつで、捨てられてしまっているとか、あるいは書いたものがあるということすら知られていないという、そういう作家がものすごくいっぱいいるわけです。そういうものが残ってないからといって、その作家が重要でないということは断言できないわけですよね。それからまた、美術史にとってオーラル・ヒストリーが決してマイナーな手法ではないというような理由はいろいろあるんですけども、それはちょっとすっ飛ばしまして。こうやってどんどんすっ飛ばしていると最後まで行ってしまうということなんですけど(笑)。
 先ほど実は加治屋(健司)さんにちょっとお聞きしたんですけど、少なくとも今ネット上で公開されているこの研究会の聞き取りの文字化によると、ほとんど結構知られている人というか。やっぱりさっきお話ししたけど、展覧会をやる機会があるとか、学芸員が仕事をする、仕事としてやれるとか、そういうような人が優先されてしまうんですね。そうこうしているうちに、そうじゃなかった人はどんどん亡くなってしまう。ほんとにどんどん亡くなっていますからね。もう絶対にオーラル・ヒストリーができなくなる、そういう状態になっているので、やっぱりオーラル・ヒストリーをやるからには、そういう既存のストーリーに対する、あるいは既存の権威とか権力に対するチャレンジというか、そういうものがないと意味がないし、そういうような観点からまずリストアップすることから、優先順位をどうするかとか、そういうことからやっぱり考えていく必要があるだろうと思います。
どうしましょうかね(笑)。
 あともうひとつ、オーラル・ヒストリーの問題というのは、ネットでこの記録を読まれた方はひょっとして感じられたかもしれないんですけども、インタヴューする人とされる人の中では流れとストーリーは共有されていますけど、それを読む人にとっては何のことか分からないと思うんですね。例えば水上旬さんというのが一人いますけど、水上旬という名前を知っていた人、今、ネットに載っているなかで最もマイナーではないかと私は思うんで。私は水上旬さんのことは知っていますし、本に書いていますし、何遍も会っていますし、資料もいっぱい見ていますからある程度分かるんですけど、知らない人にとっては「何、これ」という感じの、「この人だれ?」って感じだったんじゃないかという感じがするわけです。それがまあ白髪一雄とか針生一郎とか、そんな人だったらある程度ストーリーは共有されているわけなんですけど。結局、オーラル・ヒストリーは注釈が必要になってしまうということになっているわけですね。また、そこで注釈をどんどんつけていくと、もうオーラル・ヒストリーは原資料ではなくなってしまっていく、と。
 先ほどの書き言葉と話し言葉のギャップの問題もあるんですけども、そうした場合には、結局それをほんとに歴史的な根拠とできるかというような、そういう問題が出てくるわけです。それは、ただひとつ手法として、何か私がやったことで「こんなのもあるよ」というやつで言いますと、先ほどのペーパーの中で、上のほうの固まりの、2008年、「トーク・ショー『風倉匠と語る』」というのがありまして。これは、福岡でやった、風倉さん最後の、亡くなる前の最後の公開インタヴューです。これはべつに私が企画したわけでも何でもないんですけど、『あいだ』に頼まれたときに、これを残したほうがいいと思って、それを人に頼んでテープ起こし、文字起こしをして、それにいろいろ註とかを付けました。それはかなり私の主観的なというか、私のツッコミというか、私が「ここは大事である」と、ほかの人はそう思わなかったかもしれないけど「私(にとって)は大事である」というようなことをいろいろ「註」で入れておきました。今日ちょっと持ってくればよかったんですけど。そういうやり方もあるかなと思います。
 それともうひとつ別なオーラル・ヒストリーの別なあり方として、住友(文彦)さんが、わりとアーカイヴ的なというか、いろんな人にインタヴューをした現代美術の作品について、確かちらっと書かれていたかもしれません。そういうものもありますけども、いわゆるアーティストがほかのアーティストにインタヴューするというようなあり方もオーラル・ヒストリーとしてあっていいと思います。実はそれを昔からやっているのは、そこにちらっと『機関』という雑誌を置いていますけど、『機関』という雑誌、これが福岡で出るようになってからは、一貫して元九州派の菊畑茂久馬さんがある特定の作家とか評論家にロング・インタヴューをする。それと作家の自筆年譜を同時に掲載するということをやっている。ちなみにちょうどそこに今持ってきているのが、これが先ほどちょっと言いました集団蜘蛛の特集です。その集団蜘蛛というのはほんとに、先ほどの、私がやった三つの展覧会の中でも最も作品がない、最も展覧会にならない人だったんですけども、その人に対してまず菊畑茂久馬さんが『反芸術綺談』(海鳥社、1986年)でオマージュと評論を捧げるというのを初めてやった。それで集団蜘蛛がかなり重要になってきたわけです。
 それともうひとつ、時間がないからもう省いちゃいますけど、実は北九州・小倉にある、Gallery SOAPというところの運営をしている宮川敬一さんというアーティストがいまして、彼は私と同世代で、非常に私が尊敬する人なんですけども、宮川敬一が森山安英に対するインタヴューというのをDVDにしております。それは決していわゆる研究者がやるようなものではないかもしれませんけども、基本的には森山さんに対するインタヴューなんですけど、そこで結構おもしろいというか、オーラル・ヒストリーの醍醐味というかそういうのが出てきているので、ちらっとそれをお見せしようかと思います。

(インタヴュー映像を流す。約1分25秒、さらに流しながら)

 これが宮川敬一さんが監督した、「MORIYAMA」という、森山安英インタヴューというやつです。これは非常におもしろいことに、森山さんが3回、全然別な場所でインタヴューされていました。今、これはこういう事務所みたいなところで、わりと親切に、好意的にというか話しているんですけど、それからまた別なところでは、アトリエの中で喋っていまして、そこだと非常に彼は真剣になってるから、何と言うかな、自分を主張するような、そういうかたちのしゃべり方になっています。そういうような三つの場面で全然しゃべり方と言っていることが違って見える。あと、このなかにも、先ほどちらっと出ましたけど、実は今泉省彦さんという、お亡くなりになった美学校の方と、それから私が出てきます。(映像を見ながら)こんなふうにボソボソしゃべっているんですけど(笑)。
 つまり、何でこれをお見せしたかということ、実際にテクニカルにオーラル・ヒストリーをやることのおもしろさと問題が出てくるということと、それから、今までインタヴューしていた私がインタヴューされる側になったということで、つまりインタヴューする側というか研究者側をアーティストのほうがとらえ直してしまうというような、そういう一種の転倒があるということです。そして一番大事なことは、宮川さんがこれを自分の作品として認めないかもしれないけども、やっぱり美術の歴史というものは、必ずしも作品の歴史でなくてもいいけども、少なくともアーティストの活動の歴史であるし、それは誰がつくるものでもなくアーティストがつくるものであるし、アーティストにしかつくれないものである、と。そういうことをやっぱりオーラル・ヒストリーをするときには忘れてはいけないのではないかと思うわけです。一応結論らしくなりました。すいません(笑)。

池上:
ありがとうございました。少し時間が押していますので、早速次の報告に移らせていただきます。国立新美術館の主任研究員でいらっしゃる平井章一さんから、「私の経験から:美術館での研究、キュレーションとオーラル・ヒストリー」というタイトルで報告をいただきます。ではよろしくお願いします。

平井章一:
ただ今ご紹介いただきました、国立新美術館の平井です。いまの黒田さんのような、挑発的なというか刺激的なお話になるかどうか分かりませんが、今日は、私の体験というか、色々やってきたことの中から、オーラル・ヒストリーの可能性というか展開というのを少し考える手がかりにしていただければと思っています。
 皆さんのお手元にあります資料に、私の経歴が載っております。もうすでに以前からお知り合いの方も今日何人かお見えいただいているのですが。私は、国立新美術館に来る前は長く兵庫県の美術館におりました。ですから今日、今からお話しさせていただくことのほとんどは、関西が舞台になっております。また資料には、先ほどの黒田さんと同じような、これまで私がやってきた仕事のうち、今日関係ある仕事としてはこういうことをやってきましたというのがありますが、まずはこういうことをやるに至った原点について、お話をさせていただきます。
 今、美術館に入って22年になりますが、私の美術館での活動の原点というのは、学生時代の「具体」との出会いです。「具体」というのは、具体美術協会という関西に1950年代から60年代にかけて存在したグループですが、私が学生時代ですから、1980年代の初頭ですね、たまたま私が行っていた大学に、その「具体」の――すでにこのときは「具体」は解散してずいぶん経っていたわけですが――会員の方が教えに来られていました。私は当時、これはあまりこれは言いたくない過去なんですけど、美術部というクラブに入っていました(笑)。その部室に時々その鷲見康夫さんという方が顔を出して来られて、鷲見さんからかつて「具体」というグループがあったということをいろいろ教えていただいた。しかも、関西を地盤に活動して非常に新しいおもしろいことをやっていたということだけじゃなくて、国際的な活動もしていたんだということを聞かせていただきました。私は関西生まれの関西育ちですので、関西にこんなグループがあったのかというのはまったく不勉強で、鷲見さんを通じて初めて知った。これは私の中では発見であり、驚きであったわけです。
 一般的には、当時「具体」というのは今ほど知られておりませんで、美術館の学芸員レベルでぼちぼち調査・研究が進み始めていた頃でした。学生のレヴェルで、「具体」と聞いて「ああ、あれね」というような、そこまで知られていたグループではなかったですね。だから、大学では調査・研究の対象としても見られていなかったということがありました。鷲見さんに感化されて、学部の卒論は「具体」で書こうと思ったんですが、まあこれはずいぶん当時の指導教官に反対されて(笑)。何にも資料がないのに、そんなのどうやって卒論書くんだ、と。あなたはまだ学部の学生なんだから、大学院に進む気があるのなら外国語の文献をちゃんと読むことから始めなさい、みたいなことを秋ぐらいまでずっと言われ続けましたけど、結局まあ「具体」で書こうということで書きました。
 とにかく、いま言ったように資料がないんですね。その後展覧会があちこちで開かれましたし、私自身も後に「具体」について本を出しましたけれど、当時は1976年に出た『具体美術の18年』という記録集があるだけだったんですね。これはあとから見ると、元会員が集まってつくられているので間違いも結構多いんですが、とにかくこの記録集を頼りに、あとはもう当時会員だった方を回ってお話を聞くしかなく、お話を聞いては当時の資料を見せていただくというようなことでありました。
 やがて私の関心は「具体」から、「具体」と同時代に関西で活動していた前衛美術グループへと広がっていったわけです。これは結局、「具体」を違う角度から見るということでもありました。当然「具体」の方たちというのは、自分たちがいかに先進的で国際的なグループであったかということをお話しされるわけですけど、一方で画廊なんかを回って「具体のことを調べています」なんて言うと、当時私は「具体」しか最初見えてなかったわけですが、実は同時代にいろんなグループがあったことを教えられ、そこも見ていかないと「具体」というのは本当は見えないんじゃないか、ということを思い始めて、その他のグループへと関心が移っていったわけです。
 しかし、結局、資料がないという状況は「具体」と同じだったんですね。私が始めた頃はそれについてまとまって書かれた本などなく、本屋や図書館に行けば何か分かるかというと、まとまったものはない。50年代、60年代の美術雑誌、『美術手帖』とか『芸術新潮』とかね、いろんなそういう当時の雑誌を見るとポツポツと出てくるんですけど、ただ、それらを追っていっても、関西の動向は流れとして見えてこないわけです。「具体」なんかその中では出ているほうで、東京で展覧会を盛んにやっていたということもありますが、東京を中心にしたメディアにも結構記事が残っています。しかし、関西でほんとに若い人たちでやっていた前衛グループの活動というのは、そういうものを見てもなかなか現れない。逆に言うと、優れた作家や作品の存在というのが、関西というだけで、これは関西だけでなく地方と言い換えてもいいのですが、東京ではなかったというだけで歴史から消えていくということの危機感みたいなもの、言い換えれば東京の動向だけが日本の戦後美術史のすべてであるかのような状況に対する違和感を、関西に生まれ育った私としては非常に感じたわけですね。それが、その後の私の美術館での仕事の原点というか、関西での作家や前衛グループを対象にした調査・研究や企画展につながったと言えると思います。
これはちょっとオーヴァーな話になりすぎかもしれませんが、当時、私が学生の頃は――これは実際にはもっと前から言われていたと思いますが――ポンピドゥー・センターで「前衛芸術の日本」展(「前衛芸術の日本 1910-1970」展、1986年)とか、その前にはオックスフォードの近代美術館で日本の前衛美術の展覧会(「再構成:日本の前衛1945-1965」展、1985年)が開かれたり、海外から日本の近代というものを検証してみようというような動きや、あるいは国内でも80年代の初頭に東京都美術館の1950年代展(「1950年代―その暗黒と光芒」展、1981年)というのがあって、戦後美術の見直しみたいな動きがありました。特にヨーロッパでの日本の前衛美術に目を向けた動きというのは、西洋だけでなくて、例えばアフリカや日本のようなアジアに視野を向けることによって、欧米の一元的なものの考え方、あるいは一極的なものの考え方から、多元的、多様なものへと価値観とか世界観とか歴史観へと変わっていく時代のひとつの現れだったのかなと思います。まあそれに影響を受けたというわけではないんですが、結局、日本の戦後の美術というのは東京だけじゃない、と。それは、さっきお話しされた黒田さんなんかの住まわれている、例えば九州・福岡とか、あるいは関西にもあるし、東北にもあるだろうし、北海道にもあるだろうし、いろんなところにあったはずです。そういうものをパラレルに相対化して見る、そしてそこから日本の戦後の美術をもう一度見直さなきゃいけないんじゃないかという、そういうちょっと生意気な気持ちもありました。
 それで1988年に兵庫県立近代美術館というところに入りました。入ってからも私なりに関西の作家や作品の掘り起こしというのを、あるいは活動の記録化というものに、そういう意識のもとで取り組んできたつもりです。そしてこの間、たくさんの作家さんとか関係者から聞き取りをしてきたわけです。ただこの表の斜線になっている部分は、テキストでの発表というか、要するに展覧会にできなかったものなんですね。展覧会というのはモノがないと成り立たないものなんですが、先ほど少し黒田さんも触れられていましたが、モノとして見せられない、あるいは残っているもので見せるという危険性も確かにあるんですけれども、それ以前に何も残ってないということがあるんですね。そういったものについては要するにテキストで触れるしかないので、それは斜線になっています。あとはだいたい展覧会ですね。
 これを見ていただくとお分かりのように、私がやってきたことというのはやはり展覧会が中心の作業でありました。逆に言うと、展覧会が目的でないと、なかなか聞き取りだけに行くというのは、美術館の仕事としてできないわけです。これは私がいた兵庫県立近代美術館に限らず、美術館というのは、こういうオーラル・ヒストリーを収集するということが別にミッションとしてあるわけではなくて、作品を集めていくということは役割というか機能としてはあると思いますけれども、形にならないものを集めていくということは、美術館の仕事として入っていない。ですので、例えば「ある方に展覧会とは関係なく話を聞いてきます」とか「記録をとってきます」というようなことではなかなか出張はできないということがあります。
 ただ、まあ私の場合は、それをいち個人として聞くというよりも、やはり県立ですので、公立の美術館、公の美術館として何かこういう掘り起こしの作業をきちっとして、何かを伝えていくことにそれなりの意味があると思ってきましたので、この兵庫県立近代美術館というのは「具体」の作品をいろいろと集め始めていたので、じゃあまあ「具体」に関することだったら、それにかこつけてならいろいろ出られるかなということで、「具体」を中心に、あるいはそれを時には方便にして、その周辺を切り崩しながら展開させてきました。ですから兵庫県の美術館時代の仕事というのは、網羅的にしたかったのですがなかなか網羅的にもならないところがあって、当時私ができる範囲でできる限りのことをやったという感じです。
 そのなかで今日テーマになっている聞き取りですけれども、そういったものについては、私の中では聞き取り自体を記録として残すという意識は当初はなくて、あくまでもやはり展覧会で作品を探すとか、あるいは新しい資料を発見する作業の中で行って、それを最終的には展覧会やカタログのテキストに反映させるということをやってきたわけですが、2000年に大阪のworkroomというサロンで、月に1回、関西の戦後美術について作家をゲストに招いてレクチャーを行ったり(「シリーズ講座 前衛たちの時代 関西の戦後美術グループの記録と記憶」)、あるいは2005年ですが、ここにもありますけれども兵庫県立美術館で――兵庫県立近代美術館から兵庫県立美術館に移転しまして――グループ<位>という、これは1960年代半ばにあったグループで、「具体」とは非常に好対照をなすグループだったわけですが、そのグループの公開の座談会みたいなことをやったりしました。要するに、私が興味を持って聞きたいこと、聞いてきたことを、ほかにも聞きたい人がいるということに気がついて、それを残していかないといけないということを自覚的にやり始めたのは、ここ10年ぐらいからですね。
 さっき移転の話をしましたが、兵庫県立近代美術館というのは1970年の開館で、私が入ったときはもう開館して18年ぐらいたっておりました。2001年に閉館して、今の兵庫県立美術館という、別の場所の大きな美術館に移転したわけです。兵庫県立近代美術館は30年ぐらいありました。そこで開館時から、展覧会ごとに、あるいは教育普及的なことで、いっぱい講演会をやってきたわけです。それは当初オープンリールでとっていて、それからカセットテープになって、Uマチックのヴィデオになって、デジタルの8ミリヴィデオになって、とメディアはどんどん変わっていきましたけど、移転のときにそれらをデジタル化しました。いろんなメディアに記録された貴重な館の財産をデジタル化して保存していくことも実は私はやったつもりなんですけど。残念ながらそれを公開するというところまで行き着けずに、東京へ来てしまったようなことです。
 2006年に今の国立新美術館に移ったわけですが、そこに移ってからも、聞き取りや証言を記録化したり、あるいはそれらを公開することが、どうしたら美術館という制約や制度の中でできるかという意識を持ちながら、できる範囲でやってきたつもりであります。この私の資料の2010年のところにありますが、「美術雑誌と戦後美術」という講演会もそのひとつです。私は今、一応「情報資料室長」という肩書きがありまして、国立新美術館は作品は集めない代わりに美術に関する資料や情報を集めます、と当初から言っているので、そういう立場から、集めている美術雑誌をただライブラリーで並べて利用者を待つだけでなくて、そこに関わってきた人たちのお話も聞いてみようと。そして資料として眺めているだけでは分からない世界というものを知っていただいて、われわれがライブラリーで持っている資料の価値をもう少し積極的にアピールしたいというところから始めたわけですけれども、まあこういう活動をしています。
 ちょっとスライドを見ていただいて。次をお願いします。

(スライド投影開始)

 資料に並べたなかからいくつかピックアップして画像を持ってきましたが。これは私の仕事の出発点みたいなもので、89年にやった「画家たちの関西」(「画家たちの関西 洋画壇物語1890−1940」)という展覧会。戦前の関西の美術史を少し発掘したというか、特にこれは美術教育施設、学校ですね、美術学校。関西にあった美術学校を切り口に、関西の埋もれた美術史、戦前の美術史を概観するような展覧会です。
 これなんか、カタログだけ見ると、ちょっと双子の展覧会みたいに見えますね。右側は逆に戦後の関西の、特に前衛的な動向を、非常に雑ぱくですが振り返る展覧会をやろうということで、94年にやった展覧会です。「関西の美術」(「関西の美術 1950’s〜1970’s―創造者たちのメッセージ―」)というのは、本当は「前衛たちの時代」というタイトルでずっと準備していたんですが、もう言っていいと思うんですけど、当時これを一緒にやった新聞社が非常に「前衛」という言葉を嫌がられて(笑)。どうしてもタイトルを変えてほしいという話になって、すったもんだあったんですが、結局こういうタイトルになってしまった。今まで学芸員をやっていて悔やむことはたくさんあるんですが、そのうちのひとつですね、これは(笑)。何でタイトルで折れてしまったんだろう、というのがあるんです。この展覧会は94年ですが、ちょうど1995年が敗戦50年だったんですね。で、「戦後文化の軌跡」(「戦後文化の軌跡 1945-1995」)という、日本の文化を振り返る大きな展覧会を、東京では目黒区美術館でやりましたが、兵庫県立近代美術館でもやろうとしていた。ただ、その前に関西の戦後美術をちゃんと見るべきじゃないかというか、どこも一度もそれを見てない。うちでそういう展覧会をやるなら、その前に関西の戦後美術を振り返る試みをやってみるべきじゃないかということでやった展覧会です。次をお願いします。
 いまの二つの展覧会が、私の中では大まかに、関西の戦前・戦後の美術史をつかんだというか、自分の中で大づかみした展覧会だったわけですが、そこでいろんな方にお話をあちこちうかがって、そしてそこで実は作品がたくさん残っているとか、作品は残っていないけど資料があるとか、あるいはこれは掘り起こして何かかたちにする意味があるかなと思ったものの、各論みたいなことをそのあとずっとやってきたわけですね。
 これ(「石丸一とその周辺―よみがえる昭和モダン」)は94年にやった、石丸一という戦前の大阪で活動した前衛美術家の展覧会です。前衛美術というか抽象ですね。戦前に大阪でこういうことをやっていた人というのは、戦後「具体」のリーダーになった吉原治良や、あるいはこの石丸一、それから石丸がつくっていたロボット洋画協会という、右上にありますが、このグループくらいなんですけど、ここの人たちの作品なんか非常におもしろいんですね。ただ、作品が現存しているのはもう石丸さんしかなかったんですね。この人も、これ話すと長くなるので端折りますけど、たまたま没後に作品が見つかった。たくさん出てきたんです。次、お願いします。
 それから、95年というのはご存知のように1月17日に大震災がありまして。そして美術館は、1月に震災があって全面復旧したのが11月です。ですからその間ずっと復旧作業をしていたわけですが。地震で亡くなった作家さんも何人かいらした。そのなかでも知られている方として津高和一さんがいらっしゃいました。こういう線的な抽象を描く方だったんですが。この方は、1950年代に現代美術懇談会という「具体」の母体のひとつにもなったと言われている研究会が関西にありまして、その中核メンバーでもありました。津高さんは西宮市在住でしたので、津高さんが震災で亡くなったということで、地元の西宮市の大谷記念美術館が大きな回顧展を予定されていたので、兵庫県は別のことをやろうということで、じゃあこのゲンビ(現代美術懇談会)に焦点を当てて、これも「具体」つながりですが、美術館の建物の復旧中に準備して、「津高和一とゲンビの作家たち」(「津高和一とゲンビの作家たち 1950年代のモダニズム」展、1995年)という展覧会をやりました。次をお願いします。
 ゲンビはもともとは勉強会です。関西の非常におもしろいところは、当時の美術団体とかジャンルをまたがって、彫刻家、画家、陶芸家、書家、デザイナー、写真家、いろんな人が一堂に会して、これからの抽象造形を考えようとしていたことです。ゲンビは勉強会だけではなく展覧会もやっています。そこで、この人たちの作品を集めて、戦後の新しいものをつくろうという意識で高揚していた時代を振り返ろうという展覧会をやりました。次、お願いします。
 それから、「具体」とまったく同時期にこういうグループがありました。制作者集団<極>です。これ、キワメとかいろいろ読む人がいて、ふりがなをふればよかったと思ったんですが、キョクと読みます。東京で言うとルポルタージュ絵画のような、いわゆるモダニズムとは一線を画した半具象的な作品を発表していて、当時の混沌とした社会状況を背景に、人間の存在とか、哲学的なテーマや政治的なテーマで前衛たろうとした人たちです。東京の制作者懇談会と合同展をやったりしています。「具体」のようなモダニズムの集まりだけではなくて、こういう人たちも関西にいたんだということを展覧会で紹介しました(「制作者集団「極」、1996年」。この人たちは幸い作品が全部残っていたので、グループとして取り上げることができました。次をお願いします。
 戦前、1920年代には、神戸にこういう人たちがいました。関東大震災で、たくさんの作家が大阪や神戸、京都など、関西に逃れて来たんですね。そのうち神戸にいた人たちが、地元の、特に関西学院の学生たちを巻き込んで新しい運動をやろうとした。パフォーマンスをやったり、当時としては非常に新しい傾向の絵画を発表したりしています。こういうものはまったく作品が残っていないので、これは研究紀要等で調べたことを発表いたしました。次、お願いします。
 「具体」をテーマにしているので、白髪一雄さんの、海外に流出した作品について調査研究もしました。次、お願いします。
 それからまた戦前に戻りますけど、大阪に「四美術社」というソ連の美術団体の日本支部というのがありました。これも全然知られていないんですが、「具体」の吉原治良がここの研究所で講師をしていて、関係していたわけです。次をお願いします。
 それから、グループ<位>ですね。60年代中頃に神戸で結成されました。「具体」の初期が先ほどの<極>だとすると、「具体」の後半には、こういうグループ<位>のようなのが関西に現れる。次、お願いします。
 「具体」がずっと私の根っこにあるので、「具体」、あるいは「具体」の作家である白髪一雄の展覧会というのもやってまいりました。次、どうぞ。
 さっきお話ししていたworkroomでのレクチャーというのはこんなラインナップであります。次、お願いします。
 今、国立新美術館でやっている連続レクチャーはこんな感じです。当時、美術雑誌の編集に関わられていた方々をお招きして、当時の雑誌をこうやって見ていただきながら、編集方針とか、どういう視点で美術を切り取っていたかみたいなことをお話ししていただいています。スライドはたぶん以上です。
 もう時間が来ていますが、まとめ的なことをしなきゃいけないと思うので、最後に少しだけお話しします。こういう展覧会や調査・研究の中でいろいろな方のお話を聞いてきたわけですけど、まあひとつは、やはりずっと関西におりましたので、最初のお話に戻るかもしれませんが、関西あるいは地方というところは東京のメディアから取りこぼされて、記録が何もないというか、乏しいわけですね。だからこそ、こういう聞き取り調査というか、そういったものが非常に重要になってくる。それを記録として残していくということも非常に重要だと思います。
 ただ、私が経験上言えるのは、例えば「具体」を例にとると、「具体」というのは18年間あったグループなので、たくさんの人が関わっています。最初から最後までいた人もいるし、途中でやめた人もいるし、途中から入った人もいる。それぞれ「具体」観が違うんですよね。結局、「具体ってどういうグループでしたか」と聞くと、100人、まあ100人もいませんけど、例えば10人に聞くと10人とも違う答えが返ってくる。これは「具体」の会員だった元永(定正)さんという方がよくおっしゃるんですけど、「具体」の会員の数だけ「具体」があるんだ、と。まさにそのとおりで、結局、あるひとつの事柄についても、例えば「具体」がやったある展覧会ですね、それについてそこに参加していた人たちに聞くと、まあ当然なんですけどみんな意見が違う。それについての評価も違うし、話も違う。だから、オーラル・ヒストリーというか、聞き取りというのは、やはり多角的にたくさん集めないとひとつのものが見えてこないな、というのが私の実感であります。一人の方から、それが白髪さんでも嶋本(昭三)さんでもいいんですが、聞いた「具体」がすべてかというと、そしてそれがすべてのようにどこかで表現してしまうと、何か過ちを犯してしまうような気がしています。
 それから、やはり美術館の人間としてずっとやってきたので、このあとこういう聞き取りの記録というのがどうなっていくんだろうかと。これは、美術館として何かしないといけないんじゃないかと。美術館というのは、もちろん万能な機能を持った施設ではないし、制約や制度上の問題というのはいろいろあるわけですが、ただこれだけ地方にたくさん美術館があって、一方で、地方の美術というのはどんどん失われて、作品もどんどん捨てられています。さっきの黒田さんの話にかぶりますけど、黒田さんもたぶんそうだと思いますが私もそのとおりで、現場でいろいろな美術に接していると、ほんとにどんどんモノがなくなっていることを実感するんですね。人も亡くなっていっています。戦前のことを聞くことは、今やほとんど不可能に近いですね。関西について言えば、私が89年に「画家たちの関西」という展覧会をやったときが、直接関わった方からお話が聞けた最後のほうでした。今では戦後の第一世代の方も、どんどん亡くなっていっています。「具体」で言うと、創立の頃からいらした方というのはもうかなり亡くなってしまっています。ですので、ほんとにボーッとしていると、モノも人もどんどんなくなっていく。そのなかで、あまねくこれだけたくさんできた公立の美術館で何かやることはないのか、できることはないのかなというのがひとつはあって、モノとして残らないこういう口述史料というものをどう残していくか、そしてそこで美術館はどういう役割を、特に地方において果たしていくかということを少し考えていきたいなというか、考えてみるべきではないかなと、今、私は東京におりますけど、そのように思っています。
 ということで、私の発表といたします。ありがとうございました。

池上:
ありがとうございました。質疑応答の時間は最後にまとめて取る予定ですが、せっかく興味深いお話を二ついただいたので、ここでごく短く、これは聞いておきたいとか確認しておきたいということがありましたら、ぜひ手を挙げて聞いていただきたいと思います。第1回のシンポジウムは書き起こしをホームページに公開しているのですが、このシンポジウムについても同じことをしたいと考えています。質問される方はあとで、書き起こしの中でお名前が公開されることを希望する方はその旨お伝えいただけたらと思います。逆に名前は出してほしくないという方もお知らせください。会場の皆さん、いかがでしょうか。

質問者1(高山登):
すいません、ちょっと初歩的な質問で申し訳ないんですけど。このオーラル・ヒストリーの組織といいますか、日本の中ではどういうふうな状況なんですか。

池上:
この組織の活動について、ということですか。

質問者1:
はい。

池上:
今、日本で、公のかたちで美術に関係する方たちへの聞き取りを組織的に行っている団体というのは、多分ほかにはないと思います。私たちがこの組織を立ち上げたのも、今までは個々の研究なりキュレーションのために、個別の聞き取り取材というかたちで行われてきた、そういう聞き取りの蓄積はたくさんあると思うんですが、そうではなくてアーカイヴとして、最初から公開することを前提に、個々の聞き取りを蓄積していくという目的で2006年に立ち上げたものです。

質問者1:
それは、何と言いますか、支部というか、いわゆる美術系の大学なり地方の美術館ですね、そういう学芸員とか、そういうもの全体がそれに自然に関わるかたちが何かできているんですか。

池上:
メンバーとしては、今、国内で12人メンバーがいます。アメリカにもアメリカでインタヴューを行うメンバーが3人います。インタヴューを行うときに、12人のメンバーではそれぞれ専門性や得意な分野というのも違いますので、この作家あるいはこの方に聞き取りをしようということになった場合に、その方のお仕事に詳しい方にメインのインタヴュアーというのをお願いしています。その方は学芸員だったり、批評家の方だったり、その時に応じて適切な方にお願いして聞き取りを行うというシステムにしています。

質問者1:
その(適切な)メンバーがいない場合、いわゆる外注するというかたちもあるということでやっているんですか。

池上:
インタヴューそのものを、ですか。

質問者1:
はい。

池上:
現時点ではすべてのインタヴューに私たちのメンバーが同行するというかたちをとっています。そのことによってフォーマットにある程度の一貫性を持たせ、手法にも一貫性を持たせるということです。

質問者1:
マネジメントはどういうふうになっているんですか。

池上:
すいません、どういう意味でのマネジメントでしょうか。

質問者1:
それを維持するためのいろんな、経費その他はどういうようなかたちでやっているんですか。

池上:
財団から助成金を得たり、今年度からは文科省の科研の補助金も得ていますけれど、恒久的なかたちでの資金というのは現在ありません。そして、インタヴューの書き起こしをネット上で公開するというのが現状で、理想的にはインタヴューのマテリアルそのものも閲覧していただく、ハードのスペースですね、空間そのものが本当は欲しいんですけれど、そういうものを準備する資金を調達する目処は全然立っていないという状況です。

質問者1:
今後何年ぐらいがひとつの目処としてのあれ(活動)なんですか。

池上:
恒久的に、ということを目指しています。アーカイヴですから。
 ご発表についての質問もいただきたいんですけど(笑)。どなたかありますか。今、もし特にないということでしたら、一度休憩をはさみまして、会場の右側に資料コーナーを設けていますので、その紹介をさせていただきます。
 黒田さんが先日出版された『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)ですとか、平井さんの『「具体」ってなんだ?』(美術出版社、2004年)というご著書に始まり、当アーカイヴに関係する資料を並べていますので、ぜひご覧ください。10分ぐらい休憩をはさみたいと思うんですけども、その間に私たちの活動が実際にどういうふうに行われているかというのをちょっと見ていただきたいと思います。私とアメリカ在住の富井玲子さんという方で共同で行った、篠原有司男さんに対するインタヴューの映像を休憩の間流したいと思います。席を立ってお手洗いに行かれたり、自由にしてくださっていいんですが、基本的に映像を流していますので、ご興味のある方はぜひご覧になってください。

(休憩)

池上:
では、次の部に移りたいと思います。ご着席をお願いいたします。
 第2部では、私たちのアーカイヴのメンバーから報告を二つさせていただきます。まず、ヤマザキマザック美術館の学芸員をしている坂上しのぶさんに発表をしてもらいます。「前衛陶芸の発生――四耕会をめぐるオーラル・ヒストリー」というタイトルです。お願いします。

坂上しのぶ:
坂上です。はじめまして。よろしくお願いします。きょうは「前衛陶芸の発生――四耕会をめぐるオーラル・ヒストリー」ということでお話しさせていただきたいと思います。その前に、私は、今日、会場にいらっしゃっている方のお顔をほとんど知らないので、おそらく皆さんも私のことをご存知ないかと思います。
 べつに自分のことをマイナーだと思っているつもりはないんですけれども、一番最初にお話しされた黒田さんが、オーラル・ヒストリーの中で20ほどのインタヴューをやっているうち、わりと名前が知られている人のお話だったら書いてある内容は分かるけれども、例えば水上旬さんとか、そういうふうなマイナー――マイナーと私は思っていないですけども――マイナーな人のお話というのは読んでいてもさっぱり意味が分からない、どうしたらいいのか、みたいな話をおっしゃった。そのマイナーな水上旬さんのインタヴューをしたのが私です。私自身も今日の登壇者の中では一番マイナーだと思いますし、やっている活動もマイナーで、これからお話しする四耕会というのも、べつに私はマイナーだとは思っていないんですけれども、ほとんどの人は知らないのでたぶんマイナーだと思います(笑)。四耕会というマイナーなグループが、今日は東京に来てメジャーになったらいいなと思っています。
 先ほど平井さんが、関西の美術というのは東京にくらべてマイナーだというか、あまり知られていないという話をしたんですけれども、四耕会は、マイナーな京都の中でもさらにマイナーなグループです。四耕会というのは京都の前衛陶芸グループですが――京都には走泥社というメジャーなグループがあり、メジャーな走泥社にくらべて四耕会はマイナー。けれども、平井さんがおっしゃったように資料や作品が全然残ってないわけじゃなく、四耕会というのはかなりふんだんに資料も作品も残っているんですけれどもマイナー。モノがあって資料があるのになぜマイナーなのか。その問題点を、オーラル・ヒストリーをしていくことによって、まあメジャー化させるというわけではないですけども、知ってもらいたい、そこにオーラル・ヒストリーの意義があるのではないか、ということをこれからお話ししたいと思います。
 四耕会というのは、1947年12月に結成された前衛陶芸集団で、京都で誕生しました。その初期の代表的な作品がこれらです。陶による作品で、見てのとおり抽象的なんですけど、当時抽象的な陶芸の作品というのは他にありませんでした。イサム・ノグチが抽象的な陶の作品を作っていますけども、それは1950年代に入ってからなので、40年代でこれだけ抽象的な作品というのは作られていませんでした。次、お願いします。
 走泥社の作品画像です。四耕会と同時期に走泥社のメンバーがつくった作品ですけれども、見てのとおり、抽象的というよりは、ほとんど「壺」ですね(笑)。でもまあ一応前衛陶芸集団ということになっています。八木一夫とか鈴木治など、京都のみならず全国各地で展覧会をしているのでご存知の方は多いと思います。特に八木一夫さんは皆さんご存知だと思います。次、お願いします。
 これは八木一夫の《ザムザ氏の散歩》という、1954年につくられた作品です。これは、皆さん、知っていると思います。乾由明さんという、陶芸を中心とした美術評論家の中でも最も権威だと言われている人なんですけれども、乾さんが《ザムザ氏の散歩》を「画期的な陶芸作品だ」ということで、「器物からモノへ」「機能から造形へ」「この飛翔の最初の作品として記念碑的な意味を持つのがこの《ザムザ氏の散歩》」(と述べています)(注:乾由明編『現代日本陶芸全集14 八木一夫』(集英社、1982年)。他にも、乾編『現代の陶芸16』(講談社、1977年)、乾編『原色現代日本の美術16 陶芸(2)』(小学館、1979年)、 乾編『八木一夫作品集』(講談社、1980年)等で同様の主張を行っている)。この作品が日本の前衛陶芸の先駆け、前衛陶芸の、抽象的な陶芸の先駆けだ、と。これまでは抽象的な前衛の作品はなかった、けれどもこの八木一夫の《ザムザ氏の散歩》が誕生することによって前衛陶芸が飛翔した。抽象作品の一番最初の作品である、と絶賛したわけです。
 この発言により、《ザムザ氏の散歩》こそが前衛陶芸の第一歩、一番最初の飛翔であり、これ以前は抽象的な作品はなかった、と(定められたに等しい)。
私は、四耕会という存在を知ったときに、まず作品を見せてもらったときに、明らかに《ザムザ氏の散歩》よりも前につくられた四耕会の作品の方が、抽象的に見えたので、《ザムザ氏の散歩》以前にこのようなグループがあったということに焦点を当てるのが私の仕事だと、四耕会の作品にめぐり会ったときに思いました。次をお願いします。
 ちょっと見づらいと思うんですけれども、左のほうが四耕会で、右が走泥社です(『四耕会 1947-1956頃 前衛陶芸発生の頃』(ギャラリー16、2007年)4-5頁)。同じ時代にどういう作品をお互いがつくっていたか(が分かるように比較しています)。右は前衛陶芸の権威と言われる走泥社。壺ばっかりです。四耕会のほうは抽象的な作品です。明らかに、四耕会のほうが抽象的というか、前衛だなと思いまして、「ここにこそ前衛の灯(ともしび)がある」と私は感じたんですね。それと同時に、何で灯がある四耕会がまったく世に知られていないのか、ということを知りたくなってきました。それで、とりあえず四耕会に話を聞こうと思いました。次、お願いします。
 林康夫さんという、1928年生まれ、四耕会の一番若いメンバーです。この林康夫さんに、話を聞きに行きました。林さんは、見てのとおり特攻隊でして。第二次世界大戦に行っているんですけども、帰ってきてから――もともと家業が京焼の家でして、お父さんが沐雨(もくう)さんという京焼の職人で、とても素敵な作品をつくっている方なんですけれども、あまり皆さん知らないと思います。マイナーな京焼の職人のお父さんを持った林康夫さんですね――戦争から帰ってきて、自分も家業を継いで京焼をつくろうというときに、特攻隊まで行って自分は死のうと思ったのに、生きて還ってくることができたから、あとはおつりの人生だと思って、もうはっちゃけて生きていこうみたいな感じだったそうで。けれども林さんは、お父さんの家業を継いでも、今までみたいな壺をつくるんじゃなくて、もっともっと楽しい、魂が行き交うようなものをつくりたい、そういうふうな感じに目覚めるんですね。
 1947年の秋、戦争から帰ってきた林さんは、新しい作品をつくろうと張り切っていたときに、京都の五条坂の窯で偶然、学校のときの先輩に声をかけられます、「林君、新しい会をつくらないか」。後の四耕会になるんですけれども。林さんも新しい、楽しい陶芸をつくりたいと思っていたし、林さんだけじゃなくて、同じぐらいの京都の若い作家たちも、新しい会をつくって、もっともっと楽しい、もっともっと抽象的な作品をつくりたい、そういうふうに思い始めていたんですね。次をお願いします。
 清水卯一さん。人間国宝です。清水卯一さんは京都の五条坂の陶器の問屋に生まれました。つくり手じゃなくて問屋さんのほうです。ですので、京都の中ではマイナーですね。二代目や三代目(のつくり手)が多い五条坂では、肩身が狭い思いは強かったと清水さんは当時を述べています。もう一人、四耕会のメンバーだった伊豆蔵壽郎(じゅろう)。伊豆蔵さんは石川県出身で、京都に出てきて、国立の陶磁試験場に勤めてました。伊豆蔵さんは「新時代にふさわしい会でもつくって、ひと暴れしようや」って。石川県から出てきて。京都は都ですから、まあマイナーですね。伊豆蔵さんもとても悔しい思いをしていました。鈴木康之さんというメンバーは、祖父が東大寺の大仏殿の、明治大修理事業の瓦部門を請け負ったりするなど、奈良で古くから古文化財に関わる仕事をしてきた家系に生まれているので、サラブレッドかと思うんですけども、京都という都から考えると、これまたマイナーです。そういう人たちが戦後京都に集まってきて、とてもつらい思いをしていたんです。そういう背景があるからこそ、京都では――当時は日展が京都を一番牛耳ってましたから――そういう重圧が強い、因習が強い京都だったからこそ、マイナーで虐げられている人たちは、京都を押さえている重圧に対する反発として何か自分たちのものをつくりたい、そういう気持ちをこめて立ち上がった。それが四耕会だった。次、お願いします。
 四耕会のメンバーを見ると、ほかにも大西金之助とか浅見茂とか、谷口良三だとか、皆さん知らない名前が多いと思います。宇野三吾とかもいますけども。みんな京都ではマイナーなんですけれどもそういう人たちが集まって、日展の重鎮、京都を押さえている重圧に対する反発心、何か自分たちのものをつくりたい、そういうことで1947年の12月に四耕会が立ち上がった。次、お願いします。
 この写真は五条坂の窯です。例えば清水九兵衛など有名な人はみんな自分の窯を持っているんですけれども、そういう家系じゃない人たちは、共同窯を使わなくちゃいけなかった。そういうなかでも、ヒエラルキーがあって、力のある人たちは窯の真ん中、いい焼け具合のところを使っていました。(笑)林さんとか四耕会の人たちはマイナーで、力もなくて、みんなに馬鹿にされているので、こういう端っこのほうを(使っていました)。端っこのほうは何で不利なのかというと、火がボーッと、窯の外側から焼けるんですけども、端っこのほうにいると外側ばかりがこんがり焼けて、中はうまく焼けないとか。窯の位置でも不利なところにやられたり、四耕会の人たちはとても苦労して、いじめられていた、そういう感じですね。
 この頃のことを林さんが話していたので、引用したいと思います。
 「昔、親父は清水六兵衛さん――清水六兵衛って有名な京焼ですけれども――のところにお世話になってました。ちょうど五代目さんのときで、六代目と親父が同級生です。私の親父は18歳のときに父親を亡くして苦労しました。そういう関係で清水さんにお世話になったのです。ところが、親父と親父の同級生の六兵衛さんたちが仕事をしていると、明らかにうちの親父のほうが仕事ができるというのを五代目が見抜いてしまいました。当時、二人そろって展覧会に出す機会がある――親父と六兵衛の息子ですね――出すということで、むこうの親父さんが、「自分の息子よりもいいものをつくって出すな」」(坂上しのぶ、林康夫氏へのインタヴュー、2006年8月8日)。林さんのお父さんは才能があったんだけれども、息子の清水よりもいいものをつくるなということを大先生から言われたという、釘を刺されたということを親父が言っていた、と林さんは言っていましたね。そんなのは封建制時代の話のようですけれども、そういう因習めいた、重い側面が京都の体質の大きな特質であるんです。清水家は古い家です。京都という土地は古い家を大事にする土壌があるのです。
 次、お願いします。
 これは戦後の五条坂の付近です。今もあまり変わらないんですけれども、見てのとおり、数百メーターしかない小さな坂です。そこに陶芸の、有名な人からマイナーな人まで、いじめられている人、さっき出てきたような人たち、みんなこのへんに住んでいるから、村八分がおこりやすい。次、お願いします。
 これは第1回四耕会展のときの写真とハガキです。1948年3月、四耕会は初めて大きな展覧会をします。会場には石黒宗麿――有名な陶芸家です――、石黒宗麿とか、須田国太郎――画家ですね――が現れるなど反応は大きく、「京都の陶芸家たちはびっくりして見に来てくれた」と清水卯一は述懐しています。展覧会後は須田国太郎、武者小路実篤を顧問として迎えるなど、四耕会は上々のスタートを切りました。リーダーの宇野三吾の家には、「独立」や「自由美術」の人たち、当時何か新しい表現をしようとする絵画とか彫刻の人たちがどんどん集まってくる。サロンのような体裁になってきて、活動が前衛性を帯びてくるわけですね。宇野三吾の家にはもともとマックス・エルンスト(Max Ernst)の絵が掛かっていました。マックス・エルンストを初めて紹介したのは宇野三吾だというふうに私は聞いていますけれども、それぐらい前衛的なものに対する眼が、四耕会のリーダーの宇野三吾にはあったわけです。四耕会のメンバーが集まるところには、例えばパリから帰ってきた里見勝蔵が神戸から直接宇野家に来て、2時間も3時間も(モーリス・ド・)ヴラマンク(Maurice de Vlaminck)の話をするなど…。
これが1950年「日本現代陶芸展」。非常に重要な展覧会ですけれども、パリのチェルヌスキ美術館(Musée Cernuschi)というところで日本の美術が紹介された陶芸の大きな展覧会ですね。ここに林さんとか四耕会のメンバーも出まして、大きく取り上げられました。林さんの作品、当時こういうのでした。宇野三吾、イサム・ノグチとか、向こうの雑誌でも大きく取り上げられたんですけれども。皆さんこの展覧会についてあまりご存知ではないと思います。というのは、日展の重鎮とかそういう人たちも、この展覧会に選ばれて行ったんですけども、そういう日展の重鎮の作品がほとんど紹介されなかったんです。この雑誌(『Art d'aujourd'hui』,1951年3月)にも日展の重鎮の作品は全然取り上げられず、代わりに四耕会の林さんたちが取り上げられた。もう日展の重鎮たちは怒ってしまって、「こんな展覧会、もうなかったことにしてやれ」みたいな感じで。(笑)ほんとにそうなんですよ(笑)。
 1950年にパリで展覧会が行われたあとに、凱旋帰国展が神奈川の近代美術館で開かれているんですけれども、全然資料が残っていない。私も林さんも問い合わせをしたんだけれども、「全然資料が残ってないし、分かりません」というふうに神奈川の近代美術館の人に言われた、それぐらい何の資料も残っていない。たぶんもう抹殺されたんですね、きっと資料自体が。ほんとに。ウソじゃないんです(笑)。実際に資料も残っていないし、まあそうだったんじゃないか、と。次、お願いします。
 「目新しさ、新しさ、激しさに在洛の陶工挙げて驚倒し、続いて意地悪げな静かな看過となっていった」。これは八木一夫の文章です。《ザムザ氏の散歩》をつくった八木一夫がここまで書いているとおりに、四耕会は、バーッとメジャーに、みんなびっくりするぐらいバーッと取り上げられたんだけれども、あっという間にみんなが無視するようになった。一生懸命がんばってどんどん作品を出していっても、まるで取り上げてくれない、無視されるようになった。
 そして、乾由明さんが八木一夫の《ザムザ氏の散歩》が抽象的な陶の表現の出発点だということを、何年かしたら言い始めた。その後、乾さんの言葉のみが一人歩きして、実際にがんばっていた四耕会の作品、活動すべては黙殺されて、誰にも知られないようになった。そういうふうな話ですね。
 その後、四耕会の活動について私はこういう本を書いて、当時働いていた画廊で展覧会をしました。林さんからは、当時どんな目に遭わされたかとか、どれだけ京都は因習がひどかったとか、どれだけいじめられたかとか、そういうふうな話もたくさん聞いたんですけれども、実際この本(『四耕会 1947-1956頃 前衛陶芸発生の頃』(ギャラリー16、2007年))を発行するのに際し、当たり前ですけれども、林さんが村八分にあったとか、そういうふうな話は私は一切書きませんでした。また、京都でどんないじめが行われたかということももちろん触れていません。ただ確認できる事実、どんな作品が生まれて発表されたのか、それだけを述べました。私が確証をとれる、こういう作品を何年何月に発表して、それにはこういう証拠が残っている、そのことだけの本に書いて。展覧会でもそれだけを残したわけですね。
 オーラル・ヒストリーは、そうじゃないところをクローズアップできるところが非常に重要だと思うんです。作品が生まれる土壌や時代背景を調査することは大変重要なこと。印象派が生まれた時代背景とか、ポップ・アートが生まれた時代背景とか、「もの派」が隆盛した時代背景、どんな作品であれ作品はその時代から離して考えることはできない。作品は何であろうが自立してあるべきだ、という考えを持っている評論家もいますけど、私は大きく否定します。そのためにはどうしたらいいのかというのは、作品だけを切り取って話を聞くのではなく、その作家の生い立ちや家族状況、地域の特性や時代背景、それらを勝手に私たちがつくり上げた美術の概念の枠に押し込めずに話を聞き出していく。オーラル・ヒストリーの重要性はそういうところにあると思います。
 例えば裁判でも、覚醒剤取り締まりでも婦女暴行でも殺人でも、どんなことでも、検察も弁護士もその関係者のあらゆるデータを聞き出しますね。一見関係ないように見えるそういうふうなデータでも、犯罪の本質をえぐり出す可能性があるからそういうことを聞くわけです。もちろん犯罪に取り組む人たちはそういうふうなデータにくまなく目を通します。美術もまた同じことが言えるのではないでしょうか。
 確かに本を出版するにおいて、展覧会をすることにおいて、その責任の範囲を超える憶測について触れることはタブーであるかもしれないですけども、しかし結論をさぐっていくのにそれらの推測が実は大きな役割を果たしていくと思うんですね。そこがオーラル・ヒストリーの重要性だと思いますし、美術の歴史、乾さんがつくり上げた「《ザムザ氏の散歩》が出発点」という歴史はありますけれども、それが終着駅なんじゃなくて、それがやっぱり塗り替えられて、新陳代謝を繰り返していくことが美術の大事な仕事、われわれの一番大事な仕事だと思うんです。そういうことが四耕会の話、私は林さんからいろいろお話を聞いて、改めて感じました。そこに私はオーラル・ヒストリーの可能性ということを大きく感じたんですね。そういう意味を込めて、私は今回、四耕会の話をしました。本には載せられない、確証もとれないけれども、林さんがいじめられた歴史とか、四耕会がいじめられた歴史とか、そういうふうな話を私は聞くことができて、それで四耕会がどうして誰にも知られていないのか、これから知ってもらおうと思うきっかけにもなった、そういうふうなことをオーラル・ヒストリーを通して感じたのできょうお話ししました。どうもありがとうございます。長くなってすいません。

池上:
坂上さん、ありがとうございました。坂上さんが何回「マイナー」って言ったか数えてみたんですけど、83回言っていました(笑)。すいません、ウソです(笑)。
 続いて、当アーカイヴのメンバーで、NPO法人のアーツイニシアティヴトウキョウ(AIT)の副理事をしている住友文彦さんから「キュレーションとアーカイヴ」というタイトルで報告をしてもらいます。では住友さん、お願いします。

住友文彦:
こんにちは。住友といいます。今、3人の方から発表をいただいて、皆さんご自分の貴重な経験をもとにした発表だったんですけれども、私は、このあとディスカッションに入りますので、そこへのブリッジになるような発表をしたいと思っています。
 池上さんから最初に、今回のシンポジウムの目的はキュレーションとオーラル・ヒストリーであるというふうに話がありましたけれども、例えばオーラル・ヒストリーのことを皆さんと議論するうえで、文化人類学とか政治学のオーラル・ヒストリーと何が違うのかとか、そういった話もできると思うのですけれども、きょうのところは、キュレーションという、展覧会をつくることであるとか、あるいは美術館であるとか、そういった現場と関わるオーラル・ヒストリーとの関係性を話したいと思っています。
 そのときに、今までの話の中でも、皆さん学芸員でキュレーションという仕事をされている方ですので、展覧会をつくるためのプロセスの中でそういったオーラル・ヒストリーが行われているという認識がたぶん強いかと思いますけれども、もうちょっとそれを超えて、オーラル・ヒストリーが持っている特徴なりその方法なりが、今までのキュレーションであるとか美術館であるとか、そういったもののほうを逆に問い直すような、そういった可能性というのはないのだろうかという、そういったことがちょっと意識の中にはあります。
 私は、特に先ほど「どうやってマネジメントしているんですか」というご質問がありましたけれども、この活動のお金の獲得なんかをするときに、説明するのが一番難しいなと思っているのが、「何の研究をしているんですか」とよく言われるんですね。「何の研究のためにこれをやっているんですか」と言われるんですね。でも、そういうことではなくて、「研究のための素材をつくることをやっているんです」と言うと、ときどき「それだとよく分かんないな」と言われちゃうことがあるわけですね(笑)。ただ、それがほんとに重要な目的だと思っていることを、まずとてもよく理解してもらいたいと思っています。
 それからもうひとつは、私自身も展覧会をつくっているわけですけども、そのときに、例えば非常におもしろい作家がいるとか、この作品が非常におもしろい、と。それを伝えようとして当然展覧会というのをつくるわけですけども、そのときに展覧会という形式が持っている限界――もちろんそこには可能性もあるわけですけども――何か伝えきれないものがすごくあふれ出てしまうような、そういう感覚がいつもあります。そのこともオーラル・ヒストリーの活動と私が関わっていることとおそらく関係があるんだと思っています。
 タイトルが「キュレーションとアーカイヴ」という言葉になっています。これはオーラル・ヒストリーという活動の特徴を、基本的には、そのときに重要とは思われていないような出来事についてそれをなんとか残そうとするための作業として考えると、「アーカイヴ」と言われるようなものの性質を重視すると今日の議論ができるのではないか、と考えてこのようなタイトルにしました。
 僕の発表は作品を見せたりしないので、電気をつけたままでいいです。ほとんどBGVのような、イメージ画像のようなものです。

(スライド投影開始)

 これは作家のアトリエの画像です。作品というのは、鑑賞者の方に見られる以外に、はたしてどのようなプロセスを経ているのでしょうか。作家の頭の中ですとか、日常のこういった物質の中であるとか、あるいはテレビの画面や、映画だとか、写真だとか、そういった、まだ素材としての断片の状態というのも非常にあると思うんですね。それが、いろんな試行錯誤の中でだんだん作品としての結びつきを迎えていく、と。
 そうすると、これは、アトリエの中の作品がクレートといわれる木箱の中に入っている状態ですけれども、作品として完成されて、例えば梱包、貯蔵されて、移動されて、売られたり、場合によっては死蔵されたり破棄されたりするという、そういったプロセスを経ていくわけです。
 そうすると、これは美術館の収蔵庫ですけれども、キュレーションという行為は、作品を展覧会として見せるだけではなくて、そういった作品がたどる道のどこか――どこかというか、そのすべてに関わっていくような点がとても重要なのではないかと思っています。もちろんこれは職業として学芸員とかキュレーターをやっている人だけではなくて、ギャラリストであるとか、アーティスト自身もそういった全部のプロセスに関わるという可能性はあるわけですけども、キュレーションというのは、例えば、作家のアトリエに行って目撃したものを自分の中になんとか定着させようとする、それを言葉にする、記録する、そういったこともありますし、こういった収蔵庫に入れたり出したりするということにも関わっている。この時点ですでに、例えば、ある見方をすれば作家の手から離れてしまっているということを言いたいわけですね。
 そして何らかのかたちで表現されるこうした作品は、おそらくそのままでは作品と呼ばれてこなかったわけです。それは、もしかしたら暴力的とも言えるかもしれませんけども、あらゆる作品が、非常にたくさん作品がつくられているわけですけれども、その中からある価値観を流通させるために、展示、記録、批評、収集などと呼ばれるようなシステムが社会の中に介在して、そのシステムが介在することで作品が流通するという、そのことをキュレーションという行為の中でとても強く意識しないと、キュレーションの限界とか可能性とかを考えることはおそらくできないだろうと思います。
 これは、作品にとってはいわゆる一番のハレの場と言われる展覧会、美術館の展覧会の会場です。キュレーションというのは、ここまでもっていく間に、その選択のための排除を行う、そういった政治的な行為と見られる展覧会の実践を、基本的には肯定することで成り立っていると思います。それは、調査や研究によって展覧会が伝えようとするものを、なんとか練り上げ、つくり上げ、作品を選び、もしかしたら関係ない人には普段は見えづらいかもしれない背景にある政治や経済の編成をなるべく正確に把握して、その網の目の中に位置づけようとする。それはただ単に合意をつくるだけではなくて、それを裏切ることもあるかもしれませんけども、とにかくその網の目がいろんなかたちで絡まっているということ。さらに展覧会の会場をつくるときには、そういった言葉や論理だけではなくて、自分自身の身体、観客の方の身体であるとか、記憶を伴うような空間体験というものになっている。そうすると、おそらく今まで「美術史」と言われてきているようなものをキュレーションとしてそのまま考えるという見方は、決定的に間違いであって、もちろんお互いに大きな関係はあるとしても、キュレーションの場合には、経済であるとか政治であるとか、そういったものに関する知識も要するという点ではまったく異なるものだろうと思っています。
 ということは、キュレーションという行為はそういった政治とか経済との関係を隠蔽するのではなくて、むしろそれを明らかにすることが求められているのだろうと思います。美術館のミッションであるとか、それから事業別の目的、あるいは助成金ですとか、後援のあり方、それから企画者の置かれている立場とか、社会的な、当時の社会的な関心の動向、そういったものを巡ってどのような交渉が行われているかというものをきちんと注視しないといけないのではないかと。そういったことを、はたして日本の美術館は注視してきたのだろうか、というところがとても気になります。
 ここで問題になると思われるのは、自然だとか歴史、社会、世界というものを眺めるときに、美術館、展覧会の誕生が、それを眺めるわれわれ人間にとってとても透明なメディアとしてこれまではおそらく成立してきたことです。つまり世界を眺めるうえで、展覧会を見ることでそれを認識することができたという見方が、すでにもうだいぶ昔に無効になっているわけですね。ということは、坂上さんも言っていたように、基本的にはどんどん新しい見方というものが塗り替えていって、違うもの、まあおそらく「マイナー」と言われるようなものが(笑)、これまでのドミナントなものに対して変わっていくというような見方を、キュレーターはつくることで、歴史を初めて書くということに関わっていくのだろうと思っています。
 これは2008年に行われたシドニー・ビエンナーレの会場なんです。マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)という、ちょっとショッキングな作品をつくる人の作品と、ちょっと幾何学的なモビールの作品と、あとはロドニー・グラハム(Rodney Graham)が近代絵画の巨匠の作品を真似るという、すごく変な作品をつくっていたんですが、そういったものが並べている、キュレーションとしてとてもチャレンジングな部屋だったので、これを出してみました。つまり個々の展覧会の試みというのは、不完全であり、おそらく破綻しているかもしれませんけども、同時代、あるいは歴史の中に発表されてきた作品をなんとか位置づけようとする試みを、破綻しているということを自覚しながら試みることによって初めて、それまでドミナントだった芸術の形式に対して別の声をつくり上げることができるのではないでしょうか。
 それからこれは、私がこの間韓国でやった展覧会のオープニングに居並ぶ政治家の方たちの写真です。つまり、作品にとって重要なのは、展覧会というものが最終地点だというふうに見なすのではなくて、それが通過する場所として見なし、その前後に強い意識を向けたほうがいいのではないか。例えば、作家の声、アトリエの設備とか素材、支援者、こういった支援機関の働き、作品への批評・応答といった、作品が通った道筋を、カタログや書物に記述されない出来事として記録していくことがおそらくわれわれの試みであろうと。あるいは主要な展覧会に出されませんでしたが、そのほかの場で表現された膨大な数の作品もあります。そういったものが潜在的な潜勢力として複数の歴史を積み出すのであろうと思います。
 これは、ある若手の作家がニューヨークのアーティスト・イン・レジデンスに行っているときに、新しい作品のアイデアを話していたときに撮った写真です。そのあと彼は作品の傾向を大きく変えるのですが、そのヒントとなる話をこのときに聞いてとても印象深かったので見せています。
 私たちは、インタヴューの集積されたものを「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」というふうに呼んでいますけども、オーラル・ヒストリーと呼ばれるインタヴュー自体が、通常注意を向けられる対象である作品以外の、おそらく価値がないと見なされてきた様々な些末な事柄、記憶を集めて集積させるアーカイヴ的な特徴を持っているのだと思います。したがって、展覧会の準備のために、下準備としてオーラル・ヒストリーを見なすのではなくて、その時点で、展覧会によって展示室、図録、講演など様々な機会によって表に出される資料とはならない、不必要、価値のない情報であっても残していくことは、別の声をあげるためのとても重要な素材になるだろう。展覧会をつくり上げるときに働いている選択の枠組みを、歴史的には一過性のものとして考えて、必ずあとで見直しがされるという立場をとることは、展覧会を実際に実践するわれわれにはどのようにして可能なのでしょうか。
 それから一方で、アーカイヴの重要性というものを強調はするんですけども、別の側面もやはりあると思います。多かれ少なかれ、たぶん文化や芸術のアーカイヴ構築の重要性というのは東アジアの地域でも強く認識されていくと思います。そのとき多くの美術館が手を出すというふうに思っています。ただし西洋の歴史が残した「権力としてのアーカイヴ」というのも、そのときにおそらく気づくことになると思います。なぜなら私たちは、規範と考えている、私たち自身が今規範として考えている美術作品がそう見なされている理由は、欧米の主要な美術館が収蔵し、その価値を再生産し続けている、そういった歴史的な経緯があるということを知っているからです。
 したがって、黒田さんが最後に言っていたことと関係しますが、「抵抗としてのアーカイヴ」というものを考えざるを得なくなってくるだろう、と思います。どのようにして「抵抗としてのアーカイヴ」を、権力の装置である美術館が実践していくことができるだろうか、ということをこのあと議論をしていかなきゃいけないだろう。そのときに誰が、何を集めるという判断をするのか、どこに境界線が引かれるのか。アーカイヴというのは、初めにこのアーカイヴの活動を説明するときに私が申し上げたように、理念的には、集める主体にではなくて、それを利用する側に価値判断が委ねられるという特徴があるのだと思っています。その点では、求心力のある正当なオフィシャルさを持つ集合体ではなくて、拡散的で、もっと寛容な、オープンな集合体である。キュレーションは展覧会を構成する価値判断の主体を必ず持つのに対して、アーカイヴはそれを他者に委ねる点で、両者は異なるものだと言うべきかもしれません。
 しかし、この、ある時点で重要と見なされていないものが未来にどのように活用されるかという視点は、今ますます、今までの方たちの発表と同じように重要になっていると思います。実際に今、美術館は、新自由主義の要請であるとか、不況の影響などによって予算がどんどん削減されて、広報や普及活動に力を入れなきゃならないという、現場の不満がとてもあると思います。ただ、それはおそらく僕は些末な問題だと思っています。そうではなくて、人々が歴史を知るとか、他者を知るとか、そういったことを必要としているのか、必要としていないのか、それに美術館ははたして貢献できているのか、できてないのか、といった問題が今の美術館の苦境の背景にはあるのではないでしょうか。美術館に対して、例えば中高年の教養の場であってほしいとか、観光誘致をしたいとか、町おこしをしたいとか、メセナのマーケティングだとか、そういったことを期待する人はおそらくたくさんいますけども、公共機関としての美術館が、歴史を知るとか、他者を知るとか、そういった場所になるためには、おそらくアーカイヴといったものが構築されていくことが必要不可欠なのではないでしょうか。
 ここまではおもに美術館の現場として、展覧会というものに対して考えてきたことですけれども、キュレーションと言ったときには、おそらく今の美術作品がアーカイヴという形式を持っていることにもおそらく関わっていくことがあると思います。つまり作品の動向というものが展覧会の形式といったものとまったく無関係であるとはとうてい思えないですし、そこを考えることがなぜ今の作家たちがこういった資料の集合体のような作品をつくったりするのかに対して、美術館で働く立場の者たちが応えていく方法ではないかと思うからです。
 これは、写真や映像、テキストなどの史料の集積が、鑑賞者に対して非常にオープンな形式を持っているような作品表現を説明した論文(ボリス・グロイス「生政治時代の芸術」)の中にある文章です。「アート・ドキュメンテーションは、定義としてはアートそのものではない」。アート・ドキュメンテーションという作品の形式のことを言っているわけですけども、つまりそれはアートを指し示すだけである、と。そのことによって、この場合、「アートはもはや提示され、直ちに目に見えるものではなく、むしろ非在であり、隠されたものであることをそのような方法で明確にするのである」。これはボリス・グロイス(Boris Groys)という人の言葉です。
 こうした傾向は、絵画を世界に開かれた窓として、透明なメディアとして考えてきたルネッサンス以降、それからやがて、絵画とは何かとか、彫刻とは何かとか、そういったメディアの不透明性を追求した近代芸術の枠組みが有効ではなくなったさらにあとに、アート・ドキュメンテーションという手法によってわれわれの生を指し示そうとする傾向が現れているというふうに、非常に大きな表現の仕方の流れを宣言しているもののように私には聞こえます。
 よく知られている例は、こうしたゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)の《アトラス(ATLAS)》のような作品だと思います。これは作品制作のための資料体のような作品です。しかしそれにとどまらず、アラン・セクーラ(Allan Sekula)、マーサ・ロスラー(Martha Rosler)といった作家、それから2002年の「ドクメンタ11」で紹介された多くの非欧米圏のアーティスト。欧米ではなく非欧米圏のアーティストがこういった作品の形式をなぜつくるのだろうか、というのを考えることも重要ではないかという気がしています。
 それから、これは新しい動向なのではなくて、むしろジョン・ハートフィールド(John Heartfield)のフォトモンタージュ、それから(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)、リチャード・プリンス(Richard Prince)、そういった人に至るまで、そういった傾向の中で考えたほうがいいのではないか、というのをハル・フォスター(Hal Foster)という人が言っています(Hal Foster, “Archival Impulse,” October, no. 110 (fall 2004), pp. 3-22)。彼はこういうふうに言っています。「ここでアーカイヴと呼んでいるものは、その意味でデータベースではないのである。それらは扱いにくい素材であり、代替可能なものというよりも、断片的なものであり、そのために機械的な再処理よりもむしろ人の解釈を希求するものである」。これは、黒田さんが注釈をたくさんつけたという話とちょっと関係があるかなという気もしています。つまり、あまり知られていないものに対して注釈が持っている役割があります。それから、同じ論文の中では、フィリップ・パレノ(Philippe Parreno)やリクリット・ティラヴァニヤ(Rirkrit Tiravanija)という作家がアニメーションのキャラクターを二次創作した《No Ghost Just a Shell》という共同プロジェクトにも触れています。ここで二次創作の問題も出てきていて、このへんは日本の今の若い作家の動向とも、もしかしたら関係があるかもしれない。おそらく重要なのは、こうした、残された、価値のないと見なされた断片の数々を、人々がつくり出す物語の中に組み入れられることで初めて再度生が与えられる。平坦な素材だったものが、なにか生き生きとした語りを始める。その点でアーカイヴと物語というものが結びつく必要性というものがここで指摘されているのでしょうか。
 それからほかに、今、例えばヴィデオや写真を使った作品の中で、観客の側が作品を見ながら再解釈する手法として、リナクトメントとかマルチスクリーンの作品、コンピューターゲームといった手法を利用した作品が非常に増えているとも思います。こうした作品は、過去のイメージを再利用し、鑑賞体験に直接関わってくるようなルールが制作過程で設定はされていますが、実際には物語の帰結や鑑賞者個別の反応は自由に開かれている。つまり、ルールの設定者は超越的な立場には立たないというのが特徴です。過去のイメージの集積、つまりアーカイヴの形式を取り込んだ作品は、第三者の手によってつくられたイメージを借用する。例えばフッテージフォトとか、ヴィデオ、フィルム、そういったものを使う作品は、真っ白なキャンヴァスに絵を描くのとは異なり、現実の記憶や社会がそこに重ね合わされている。断片としての素材の上に表現が重ね合わせられている。そのように見ることができると思います。
 しかし、実際にはそのデータベースとは異なる、扱いづらい素材と言われたものが再び利用の機会を持つことに着目し、キュレーションの実践や同時代の作品の表現形式に顕著に見られるこうした動向を比較検討していくことで、私たちは実際にどういうことがいま言えるのだろうか。展覧会というものを、世界や今の表現を見るための透明なメディアとして見なすのではなくて、史料によって、展覧会のもしかしたら外側にある、不在の何かを指し示すようなキュレーションの試みというのは可能なのでしょうか。そういったことを議論ができたらというふうに思っています。以上です。

池上:
ありがとうございました。ここで短く休憩をとる前に、ここだけは確認しておきたい、聞いておきたいというご質問があれば受け付けたいと思います。ぜひ、ご質問がある方は挙手をお願いします。
 (手が挙がらないのを見て)東京でシンポジウムをやったらたくさん手が挙がるはずと思って今日来たんですけど、去年大阪でやったときのほうがずっとたくさん手が挙がりましたねえ(笑)。ちょっと不思議な現象ですけど。
 特になければ、あとでまとめて質疑の時間をとりますので、ここでもう一度短い休憩を入れたいと思います。先ほどご紹介し忘れたのですが、私たちのアーカイヴのホームページのデザインをしてくださっている、青木意芽滋さんという方がいらっしゃいます。彼はアーティストでもありまして、ちょうど今日から渋谷で個展をされます。今日がオープニングなんですね。DMが資料コーナーの脇にありますので、ぜひ取っていただいて、お時間がある方は会期中に個展にもぜひいらしてください。では5分後に再開します。

(休憩)

 

池上:
では、第3部といいますか、最後の討議に入らせていただきます。まずパネリスト同士で30分ぐらい討議をさせていただいて、そのあと会場に開くかたちで質疑応答をしたいと思います。ここから当アーカイヴの代表である加治屋健司がパネリストとして加わります。私も司会をしつつ、何かあれば少し意見を言わせてもらうというかたちで進めていきたいと思います。
 4名の方から報告をいただいて、私が一番この場で討議できるといいなと思ったことは、利用者の問題です。4名ともやはりキュレーションに関わってこられているので、情報を集めて、それを公開していく立場にいる方々だというのが共通していると思うんですね。最後の住友さんの発表でも、聞き取りとアーカイヴに共通しているのは、集めるほうに価値を決める主体があるのではなく、利用する側に積極的な主体があって初めて存在する意義があるんだということです。私も常々その点は感じています。そこで、利用者側のリテラシーが問題になる。オーラル・ヒストリーにしても、私たちは必ずしも聞き取りを集めて、これが唯一絶対の真実で、それを資料として信じてください、という意図で公開しているわけではありません。そうではなくて、今までに語られてきたこと、活字になってきたことを少しずつずらしていったり、あるいは補足していったり、複数の歴史を、複数のかたちでどんどん増やしていくことに興味があるわけです。利用者の方たちにも、できればオーラル・ヒストリー自体を批判的に読んだり、ほかのものと相互参照しながら読んでいただきたい。ですから私たちの活動を、利用者側の批判的・生産的な利用法にどういうふうにつなげていくか、ということも討議できればいいと思っています。
 代表の加治屋さんからも、四つの発表を聞いて、少しポイントのようなものを挙げていただいたらと思います。

加治屋健司:
加治屋と申します。きょうはお越しいただきありがとうございます。四つの発表を踏まえつつ、「キュレーションとオーラル・ヒストリー」というテーマを中心に話していければと思っています。
 黒田さんのご発表にありましたように、黒田さんは美術館の学芸員として、九州派の展覧会、ネオ・ダダの写真の展覧会、そして集団蜘蛛の展覧会というふうにどんどん、モノとしての作品がなくなり、写真、史料といったものが中心の展覧会に変わっていった、と。そしてご自身も、最終的にはあのような大部の研究書をお出しになったというお話がありました。そして、最後のほうには「作家がつくる歴史」という興味深いお話があったと思います。平井さんの発表は、最初に具体美術協会に関心をお持ちになって、様々な資料を発表するなかで関西の美術を掘り起こしていくという活動をなさったというお話でした。
 二人の話を伺っていまして、美術館の活動とオーラル・ヒストリーの活動が、ある種なじみにくいものというお考えをお持ちなのかな、という印象を受けました。平井さんの資料にイタリックになっているものがありましたね。これは展覧会にはならなかった企画、研究発表です。実際の展覧会というのは、やはり作品がなくてはできないんだというお話がありました。では、史料としてのオーラル・ヒストリーは本当にキュレーションとなじまないのか、ということに私は関心を持ちました。というのは、住友さんから「キュレーションとアーカイヴ」という話がありましたが、キュレーションというのは、作品という最終的なかたちだけではなくて、作品をつくる前の様々な試行錯誤とか、あるいは梱包とか輸送とか様々な要素が入っていて、住友さんは、キュレーションを、アーカイヴとしてのオーラル・ヒストリーとパラレルに語っていたと思うんですね。それを聞いて、キュレーションとオーラル・ヒストリーの親和性というか共通性を考えることができるんじゃないかと思いました。実際、坂上さんの発表にあったのは、そうしたオーラル・ヒストリーの史料を使いながら、最終的にギャラリー16でなさった展覧会のかたちになったということだと思います。
 ゲストの黒田さんと平井さんにお伺いしたいのは、オーラル・ヒストリーと美術館ないしキュレーションというのは、どの程度共存可能なのか、あるいは共闘可能なのかということです。先ほど池上さんが言っていた利用者のリテラシーの問題、あるいはほかの発表者に対するコメントや質問も含めてお話しいただければと思います。

池上:
では、お二人のうちどちらからでも結構ですので。黒田さんもうマイク持っていらっしゃるので、お願いします(笑)。

黒田:
スイッチを入れたのを見られましたか(笑)。私がときどきやる手なんですけど、質問されたのに逆に問い返すという手をときどきやるんです。でも、間接的に答えることになるんです。ちなみに、皆さんお分かりのように、圧倒的に図抜けて完成度の低い発表をしてしまいましてすいませんでした(笑)。
 先ほど、最後に住友さんが何かの展示の風景を見せながら、展覧会というのは不完全である、一過性のものであって、それはいつか見直されるものであるという、そういうやり方として展覧会をとらえるものだとおっしゃったと思うんですけれども、それは実際には非常に困難ではないのかと思います。展覧会というのは、いっぺん見たらそれだけで、もうその続きを見てくれる人というのはあまりいない。まして国際展になったらもっと見に来ない。そんなに熱心な人ってそういないですよね。だからひとつの展覧会だけで、そこでどうやったらそれが続くというか、「to be continued」というか、そういうのを見せることができるか、というのはいかがでしょうか。(笑)

池上:
加治屋さんの質問にもできれば答えていただきたいんですけど(笑)。

黒田:
あー、だから、さっき言った手で、人に答えさせるという手なんだけど(笑)。

住友:
えっと、いいですよね、自由に話をして。

池上:
はい。お願いします。

住友:
黒田さんの言うとおりです。私は、そういうふうに展覧会を考えることができるのか、とは言いましたけども、例えば見る人の中の認識とすれば、当然展覧会というのはある種の完成形であるとか、統一されたかたちを持っているものだというふうに見る――それもリテラシーの問題なのかもしれませんけど――ものだと思います。で、そこにやはり限界があるのが現状だと思います。ですけど、展覧会というかたちが生まれた経緯というものが、美術館が自分たちの歴史を自意識的に見せようとすることにあるのであれば、ほかのかたちで美術の歴史を書くというのもある、展覧会以外のやり方もあると思うんです。お二人はすでに、部分的ではありますけどもたぶん実践されているんだというふうに話は聞いてはいたんですけども。それを、例えば展覧会のやり方の中でどうすればいいということではないのかもしれないんですが、まだ分かっていて今日発表したわけではなくて、そういうことができるという仮定のもとで議論ができたらいいかな、というのがまず趣旨ではあったんですね。

黒田:
実際には何で人にふったかといいますと、やっぱりそれは、展覧会と美術館というのはちょっと次元が違うのです。先ほどの加治屋さんの話から「美術館とオーラル・ヒストリー」ということで言いますと、やっぱりリンクさせるのは実は意外に難しいという気がします。平井さんも、みんなよく知っていると思いますけど、美術館の学芸員って、要するに事業に関して――事業って展覧会やイヴェントです――仕事をして、ほとんどそれだけで終わってしまう。すべての時間がとられてしまう。実際にはそういうふうになってしまう。何かそういう記録をするためだけに聞き取りに行く、そういうので出張ができるかというと、できないんじゃないかなという気もしますよね。まあそれで聞いたわけなんですけど。
 ただ、例えばですね、先ほど坂上さんが最後のほうにものすごく言われた、背景、いろんな、個人的、社会的、歴史的な背景を見せるということの重要さに関しては、僕は否定はしないんです。ただ実際に、例えば作家のインタヴューとかときどきありますよね。いっぱいモニターが置いてあって、全部違う人がやっているやつとか。このあいだ、水戸のボイス展でやったりしました。あれはまだおもしろかったんですけど、でも、ふつうあんな面倒くさいもの、人は見ないですよね(笑)。じゃああとで本にして誰かに読んでもらうって、そんなの実際ほとんど読む人いないんですね。だから展覧会のプロセスを書いたやつをあとで出版したって、ほとんど買うやつはいないんですよね。だから、展覧会のニーズと、そういう、実は歴史を理解するということは、現実としてはなかなか両立しないものである。だからひとつの手としては、たまにやるんですけども、先ほど言ったことに関係しますけど、全部じゃないけど一部の作家に関してやたらにいっぱい資料をつける、ということをする。このあいだ私ちらっとやったんですけど、お配りした私の資料の中でひとつ異質なやつがあります。黒ダライ児の一番下に、「『1/24秒の意味』と1970年前後韓国前衛美術」。これは韓国史上初の実験映画(キム・クリム、1969年)のヴィデオ(の上映)をやって、そのときにいっぱいパネルをつけた。そういうことはやりますけど、それは部分的な絵解きなのであって。結局、展覧会というかたちで「to be continued」とか、これはごく一部であるというのは、非常に難しいんじゃないかなと思っているんです。

加治屋:
私の質問がちょっと不十分だったかもしれないですね。オーラル・ヒストリー・アーカイヴという私たちの活動は、アメリカにあるオーラル・ヒストリーのアーカイヴを参考にしながら立ち上げていきました。例えば、スミソニアン博物館群とか、ニューヨーク近代美術館のアーカイヴとか、いずれも美術館の中にオーラル・ヒストリーを含むアーカイヴがあります。もっとも、キュレーターではなく、アーカイヴィストが仕事としてオーラル・ヒストリーを集めているのですけれども。今、平井さんは情報室長という立場で、たぶん展覧会とはまた別のかたちでオーラル・ヒストリーを含む資料についていろいろお考えになっていると思いますので、お話を伺えればと思います。

平井:
さっきの発表は、時間がなくてちょっと言葉足らずで終わってしまったのですが、いまの話と関連づけてお話しします。私自身は、美術館というのは展覧会だけをやるところではない――それは皆さんご承知だと思いますけど――教育普及的なことをやったり、あるいは資料を集めていったりしており、展覧会というのは美術館の活動のひとつでしかないと思います。そういう活動のひとつとして、記憶の貯蔵庫というか、あるいは地方文化の記憶庫みたいな役割というのはできないのかな、と思っています。つまり、先ほど来、要するにオーラル・ヒストリー・アーカイヴというのは、非常に柔軟な組織であって、ある偏った見方から収集するのではなくて、組織的には非常に緩やかにして、いろんな角度からできるだけたくさん資料を集めるという話がありましたけど、今、ホームページで文字にして公開されていますが、それを利用する側が選択するというのはもちろんなんですが、現実問題としては原資料を見に行くける場所、あるいは聞ける場所が必要じゃないかな、と思います。美術館、特に公立の美術館が主導的にお話を聞く人を選んで、ある特定の学芸員だけで話を聞いてまわって、それが口述史料、地方文化の史料として有効かと言われれば、私は全然そうは思いませんけど、少なくともいろんな視点で集められたものがあって、それが活用できる場所として美術館は機能できるのではないかと思います。そして今、どなたかのお話にもありましたけれども、地方の公立美術館というのは飽和状態で、予算も削られ非常に苦しんでいるんですが、それらの存在意義のひとつとしてそういう機能を位置づけられないのかな、と思っています。

池上:
いまのお話に関して私からひとつ補足させていただくと、私たちのアーカイヴが集めているインタヴューの資料について、確かに現実の空間というものを私たちはとても必要としています。そして今、オーラル・ヒストリーのインタヴューを収集しているというのは、とりあえず場所がなくてもできることから始めているという側面もあるわけです。本当はいま日本に一番必要なのは、ハードのもの(書簡や写真、その他エフェメラルなもの)を集める、本当のアーカイヴなんです。でもそれは、私たちみたいに有志というか、目的を共有する人たちが十何人集まったところで、いきなり立ち上げられないわけです。収集したインタヴューに関しても、理想的にはどこか公的な機関に所蔵できるのが一番いいとは思いますが、でも、今日のお話を聞いていても、じゃあ公的な機関だったらいいのかというところももう一度考え直さないといけないなというふうに思っています。というのは、民間だからできることというのもあるわけで、公のどこかの美術館に入ってしまうと、黒田さんや平井さんのお話にもあったように、特定の権力装置と結びつくわけですよね。その結びつきをアーカイヴとして歓迎するかどうかという話にもなるので、すごく重要な論点が含まれていると思います。
 ほかにパネリストの方たちでお互いに、この点にレスポンドしたいというような点があれば、ぜひご発言をください。坂上さん、いかがですか。

坂上:
全然誰かに答えるとか聞くとかそういうことじゃなくて、いまの話を聞いていてちょっと思ったことなんですけれども、このオーラル・ヒストリー、1年くらい前に、加治屋さんが教えている広島の大学でオーラル・ヒストリーの話があったときに、私はちょっと発表させてもらったんですけども。ケラ美術協会という、京都の、マイナーな(笑)、すいません、そういうマイナーな人たちがいるんですけれども、その人たちが1960年代から70年代にかけて北白川という京都の山奥のほうに美術村というのをつくったんです。そこでは自分たちで全部、土地を開墾して、家を建てて、そこをアトリエにして制作したり、会議したり、ケンカしたりという、そんな感じの場所だったんです。私は野村(久之)さんという人に、ケラ美術協会のことと北白川芸術村の話を聞きたいなと思って、そのメンバーの人の話を聞きに行ったら、実はケラ美術協会の話も北白川芸術村の話も楽しかったんだけれども、一番おもしろかったのは、北白川芸術村という山奥のこぎたないアトリエの中で、ベトナムの脱走兵とかベトナムの反戦活動家、アメリカから来た人をかくまっていたという話です。それをいかにかくまって、アメリカのスパイ組織とか日本の警察とかに、いかに北白川芸術村にその脱走兵とかが隠れていることを分からないようにさせながら、いかに反戦運動をするか、みたいな話を野村さんから聞いて、すごくおもしろくて。
 美術の話よりもそっちの反戦のほうがずっとずっと興味をひかれてしまったんだけれども、かといって、例えば北白川芸術村とかケラの美術の展覧会を美術館でするときに、脱走兵の話を出せるのかといったら、まあちょっと、「脱走した人たちをかくまっていました」みたいなことは書けるかもしれないけども、そういうふうな展示とか展覧会というのを美術館でやるのはすごく難しいというか、ほとんど不可能に近いんじゃないのかなと思います。さっきの加治屋さんの話で、キュレーションとオーラル・ヒストリーと展覧会が共存可能なのか無理なのかという話に対して、私は、そういうふうな例を考えると、まあ無理というか、ちょっと難しい面があるなと思ったんだけれども、逆に、オーラル・ヒストリーという間口の広い形式だったらすべてをカヴァーできる、おもしろい何か新しい可能性が見えてくるんじゃないのかな、というのをちょっと感じました。すみません、なんかヘンなことを言ってしまって……。

黒田:
いまので思い出した。自分のことを完全に棚に上げて、人に聞いてばかりいてすみませんが、最初の加治屋さんの問いかけについての、また人に答えさせるずるい手なんですけれども、先ほどの坂上さんの話、すごい、圧倒的におもしろかった。一番気に入った台詞は「ほとんど壺ですね」という(笑)。なんかいい台詞だなと思って。坂上さんは、具体的なものと抽象的なものとをうまく(比較して)、非常にツボにはまった話をされたということを思ったんです(笑)。ただ、非常に複雑な気持ちだったのは、その林康夫さんとかがさんざん、いかに村八分にされたり、いじめられて、回覧板も回ってこないという、そういうことを聞いたということをあえて展覧会では出さずに、拡大された事実と作品の展覧会をしたんですよね。でも、そうやって林さんから聞いた言葉というものが、展覧会の何カ所の構成とか作品とかに影響したのか。あるいはそもそもそういう作品とか展覧会を見せるときに、坂上さんの、少なくともモチヴェーションとしては何か大きな影響があったんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

坂上:
林さんの話では、いかに村八分にされたかとか、そういう話がとってもおもしろかったんだけれども、実際に展覧会をやったときは、作品を並べて、そのものだけを見せました。それ以上のことは何もやっていないです。もちろん本も出しましたけれども、そこにはほんとに、こういう作品が当時生まれたということしか書いていないんです。それは、やっぱりなるべくフェアに、知られていないグループだけれどもこれだけのものをつくったということをフェアに見てもらいたくて、あえていじめられたとか、そういうふうに書くと、なんか脚色しているような感じでかえって嘘くさく思われると思ったから、そういうことを全部排除した。ほんとは歴史のこととかいっぱい言いたかったけど、作品というかモノだけにしました。

黒田:
そうだったら何のために聞き取りをしたんですか、とかって(笑)。

坂上:
何のためにというのは、やっぱりもともと四耕会の作品がおもしろいから、それをもっとみんなに知ってもらいたい。あ、ごめんなさい、知ってもらいたい前にそれに興味を持ったから、それがほんとにあったのか、どういうものだったのかというのを聞きたくて訪ねました。そのときは四耕会は知られてなかったから。だけれども、その話を聞いたときに、「よし、この四耕会を絶対にメジャーにしてやる!」というふうな気持ちで、展覧会をやるときは、そういう話の内容はあえてカットという感じでした。

池上:
メジャーにはなりましたか。

坂上:
微妙に(笑)。あまり、なってない。たぶん会場の人たちは知らないと思うので。なってないといえばなってないかもしれないですけれども、私が展覧会をやったのは2007年なんですが、そのあとに前衛陶芸の展覧会をしたりするときに、四耕会もきちんと取り上げてくれるようになりました。走泥社の下だったりとか、あくまでも乾さんの話を前提にした話であっても、今まで存在すらなかった、カタログにさえ載らなかった名前が最近になってどんどん載るようにはなってきていると思います。

池上:
聞き取りが実際に歴史の塗り替えをしている、ひとつのいい例ではないかなというふうに思います。平井さんも?

平井:
ひとついいですか。伺いたいんですけど、乾さんが諸悪の根源みたいにあがっているんですが(笑)、乾さんに話は聞かれたんですか。

坂上:
聞いてないんですよ(笑)。

平井:
私は乾さんも、四耕会の林さんや鈴木さんも存じ上げているし、片やいつも競争相手としてあげられる走泥社の方々も存じ上げています。やっぱり走泥社の方のお話も聞かれてない?

坂上:
しています。聞きました。

平井:
最初の黒田さんの話で、南京の博物館が出てきて、ある大きなテーマの中でひとつの文脈がつくられていく怖さみたいなことがあったんですけど、やっぱり両方の話を聞いて判断しないといけない部分があるのかなと思います。それが、むしろわれわれ聞き手としては、歴史をつくろうとしている歴史家なのか、資料を集める立場の人間なのかということをどう意識し、聞き取りするかが問題になると思います。口述史料を集めているにしても、誰に聞くか、何を聞くかによって、歴史的な判断をしているわけです。例えばメジャーかマイナーかという、先ほどからずっとその図式で話をされているんだけど、ほんとにメジャーで、ほんとにマイナーかというのは、結局分かんないと思うんですよ、そういう意味ではね。だからあまり性急に判断したくないなと私は思います。まあこれはセンスの違いかもしれませんが、だからこそたくさんの証言がたぶん必要なんだと思うんです。「具体」のところでちょっとお話ししましたけれども。

池上:
研究目的やキュレーション目的でやる聞き取りと、アーカイヴ活動としてやる聞き取りとの性質の違いは、ひとつはそこにあるのではないかなと思います。私は、アーカイヴのメンバーとしては、資料収集をという目的でインタヴューをして、そのときにはなるべく解釈的な質問なんかは避けるようにしているんですね。なるべく語り手に主体的にお話をしていただいて、その解釈はやっぱり利用者が判断すべきことだと思うからです。でも、研究者としてインタヴューに行くときは、もっと突っ込んだ、自分の解釈も交えた質問もどんどんしていき、それはやはり特に公開はしません。その資料の価値を判断するのは、研究者である自分だと思っているからです。聞き取りにはいろいろな種類があって、広義にはすべてそれを「オーラル・ヒストリー」と呼んでもいいと思うんですが、たくさんある種類の、性質の違いを分けて考えていく必要もあるんじゃないかと思います。

坂上:
ちょっといいですか。すみません。いま平井さんが言われたみたいに、私は、乾さんが諸悪の根源っていう話をしてしまったかもしれないんですが、みんなにそういうふうに受け取られてしまったかもしれないんですけども、一番良くないのは、べつに乾さんじゃないんです。乾さんが書いたことを鵜呑みにして、みんながそれ以上何にも話を聞かなかった。それが数十年間続いたということが一番良くないことだと思っています。

池上:
まさに最初に私が挙げたリテラシーの問題になったわけです。登壇者の方でこの点についてご意見がある方はぜひ伺いたいんです。

黒田:
緩やかに関係することが、私の本のどこかに書いているんですけど、(本については)まだほとんど読んだ人がいないというか、外見の話しかほとんど聞かないですね(笑)。坂上さんが最後に、ほんとに確証できないものはやっぱり書けないというか、書かない、出さないというのと、平井さんが言われた、複数の人から聞かなきゃいけないということを合わせて言うと、結局、実際よくあるんですけど、人から聞いた話と資料が合わないことがあるんです。どうやっても合わない、だからいろいろごまかしたりしないといけないわけなんです。どうにも資料がこれ以上出てこない、もう誰も聞く人がいないという場合に、それを不確定のままにしてしまうのかという問題があります。そこで例えばある人が聞きに行って、Aという人がこういう話をして、それに対してBという人に話を聞いて、違うことを言っているということはよくあると思うんです。ただ、それでも少なくとも二人から聞いたということによって、緩やかな確からしさというか、少なくとも意見が違うということ自体がひとつの情報ですよね。合わないということが情報なわけです。何で合わなかったかという参照点になるわけです。だから私は、裏が取れない、元が取れないというのは、私が調べただけでも結構いくらでもあるんですよ。しょうがない、もうあきらめているというか(笑)。だからそこで私は、学問的な厳密さはないかもしれないんだけども、緩やかな複数のソースの参照によってひとつの歴史が生まれるんじゃないか、と私は考えたいところです。

加治屋:
オーラル・ヒストリーの史料の解釈というのは、その時点ではやはり決定できないところがあるんですね。研究では、例えば10年後、20年後に、同じ資料を見ながらもあとから分かってくることというのがたくさんあるわけですね。したがって解釈というのはある程度未来に委ねなければいけない、委ねる必要があると思います。黒田さんがおっしゃった話で、これは私も『あいだ』に書きましたけれども、話した内容が事実かどうかは分からなくても、その話したという事実自体は存在しているわけですよね。そのことがまた将来に解釈される可能性がある。ただ、そのためにはやはりマテリアルを公開しないと意味がないですよね。池上さんが最初にも言っていたように、聞き取り調査とオーラル・ヒストリーの大きな違いというのはやはり公開性だと思うんですね。つまり(アーカイヴとして行っている限り)、公開しないオーラル・ヒストリーというのは基本的にはないと思うんですね。公開しないと、話したということが事実かどうかということすらもう分からなくなってくるので、やはりマテリアルは公開を目指していくべきでなんじゃないかというふうに思っています。

池上:
ほかに、この点について言っておきたいということがあれば。

平井:
今、ホームページで文字として公開されていますね。それを音声で公開するとか、ほかにもいろんな手があると思うんです。私はオーラル・ヒストリーというのは、個人的には、お互いに交換し合って、まずいところだけ削除して、そしてお互いに同意した部分だけが文字になって公開されるというのもあるかもしれないけど、やっぱりその人の語り口というか、言葉としてのヒストリーならではの――黒田さんのお話の中に「オーラル・ヒストリーの醍醐味」という言葉があって、これは意味が違うかもしれないけど――醍醐味があると思うんですよ。要するにただ口で言って、それが文字になっているだけだとオーラル・ヒストリーの意味があまりないような気が、私はしています。例えば方言。関西だとみんな関西弁ですよね。九州もそうかもしれないし、地方へ行くとそうですが、そういうものも全部ひっくるめてオーラル・ヒストリーではないかと。そして私の経験から言うと、録音させてもらった話ってだいたいおもしろくないですよね(笑)。結局、録音を前提にしないからみんないろいろおもしろい話をしてくれる。だけど、「これ公開されますよ」と言ったとたんに、話はたぶん終わっちゃうと思うんですよ。何ていうか、言葉ならではのおもしろ味がある。だから、生の録音は今は公開できなくても、何十年後かに公開するとかいろんなかたちがあると思うんです。オーラル・ヒストリーの特質みたいなものを、どこかで少し掬い上げられたらなという気はします。

加治屋:
平井さんがおっしゃったことは、まさにそのとおりだと思います。私たちも、今は、基本的には技術的な問題から書き起こしに限って公開しています。実際に音声や映像を閲覧する場所を持たないので、そういうことはできないわけですが、ただ最終的には、音声なり映像というところが一番元のマテリアルとしてあるんじゃないかと思います。そうした場所の問題が解決されれば、公開も考えることができるんじゃないかと思います。

池上:
そろそろ30分ぐらいたっていますので、ここで一度フロアに開きたいと思います。

質問者2(渡辺真也):
キュレーターの渡辺真也と申します。オーラル・ヒストリー・アーカイヴの最終的な目標は、アーカイヴをつくることではなくて、作品を残すため、つまり作品をキュレーションするためのマテリアルの提供であったり、そういったことがひとつ目標にあるという話がありました。それと、黒田さんがおっしゃった、例えばクリス・バーデンの拘束された道具みたいなものがアメリカでは残っているにもかかわらず、日本にはなかなか残っていないのが現実だ、とありました。私がその話を聞いて思っていたのは、やはり作品を残すということを仮に目的にするのであれば、市場価値を高めるしかないと思うんですね。市場価値を高めると、まあ作品が残る。
 例えば、赤瀬川原平さんが零円札を300円で売ったとき、300円で買った零円札はほとんど何も残っていないけれど、10万円で販売したものはほとんどすべて残っている。それが経済効果のひとつであると仮にした場合、日本の場合、市場価値を持っているものを公立のインスティテューションに例えば寄付した際に、メリットというのはほとんどないと思います。例えば、私が思ったのは、オーラル・ヒストリーをつくるアカデミズムの研究者の人たちがいて、ミュージアムのキュレーターがいて、さらにコレクションに対して管理をする人だったり、アプレーザルをしてそれに対しての寄付行為でどれだけのリダクションを受けられるかということをする人であったり、アートロイヤーであったり、そういった専門性を高めた人というのが話せる場所をつくって、それが機能するシステムというのをみんなで話していくことが重要じゃないかと思ったのです。オーラル・ヒストリー・アーカイヴの中でそういった話が今まであったのかどうかということだけ伺いたいのですが。

加治屋:
アーカイヴの目的は作品を残していくことではありません。少なくとも私たちがやっている日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴは、作品というよりは、作家の声を残していくということが活動の中心になります。したがって、作品の市場価値を高めていくということに関しては、特にアーカイヴとして何らかの検討をしたことはないと思います。

渡辺:
そうすると池上さんがおっしゃった、最終的にはハードを残したいという目標があるというのと、加治屋さんの認識がずれているということでしょうか。

加治屋:
池上さんが言ったハードというのは、いわゆるアーカイヴにあるもの、例えば講演の草稿とか、展覧会の写真や資料とか、そういったもののことだと思います。

池上:
はい、作品としてのモノではなくて、エフェメラルな資料としてのモノを残すアーカイヴが必要で、でも、当面それは私たちができることではない、ということを申し上げたつもりです。

渡辺:分かりました。

住友:
いま渡辺さんが言っていたことは、アーカイヴの目的とは確かにちょっと違うんですけども、「なぜ残さないのかということを考えたらいいんじゃないか」と黒田さんが最初に言っていたことと大きく関係があると思うんですね。つまり、アメリカがそれをやっているのは、確かに市場価値を持つものを残そうとしているから残しているわけだと思うんですよ。だけども、将来これは価値を持つだろう、売買されるだろう、高く美術館が買うだろうというかたちで、残すことだけを目的としてアーカイヴのドライヴとなるのもちょっと違うかなという気もするんですね。ただ、それがひとつ重要なポイントとしてあって、なぜ日本で作品が残されていないか、なぜこういう資料が残されていないのかということを考えるうえではとても大きなヒントなんだろうという気はするんですけどね。

池上:
そうですね。アーカイヴ活動を続けていけば、作品としてのモノでなくても、そのアーカイヴ自体に市場価値が発生しますよね。それについても考えていかないといけないし、市場価値が発生したときに、それをどういうふうに、できるだけフェアなかたちで公に利用され続けていくかをいかに担保していくか、ということが課題のひとつになっていくと思います。
ほかの方もお願いします。後ろの方にマイクを回していただけますか。

質問者3(池田龍雄):
池田龍雄と申します。画家なんですけども、見渡したところ、知ってるような顔、絵描きさんの顔、作家の顔、ほとんどないですね。僕は、「ヒストリー」というあれがついているから、歴史という問題で、歴史というのは非常に大事なもの、重要なものだと考えるからここに来てみたんです。ですからこれは質問とかいうことじゃなくて、自分の考えをちょっと述べさせてもらいたいと思って立ったわけです。
 とにかく歴史というのは、これは未来のために重要だと考えるんですね。ですからちゃんと残さなくちゃいけないと思うんですよ。その「ちゃんと」というのが、できるだけ正当というか、正しく、正確に、偏らずに、ということが大事だと思うんですね。僕は戦後まもなく――先ほど四耕会の一人の林さんという人が、1928年生まれ、特攻隊だったみたいですけど、僕も同じように特攻隊で――絵描きになってからちょうど63年近くになるんですね。60年以上となると歴史ですから、戦後の美術の歴史というものにこの身で関わってきたし、見てきたわけですね。だけど、どうもなんか偏っているんじゃないかと。特に20世紀いっぱいぐらいの歴史は。21世紀になってからはちょっと様子が違ってきたようにも思いますけれども、例えばこういうオーラル・ヒストリーなんていう動きが出てきてますから、そのあたりでちょっと違ってきたと思うんです。
 1999年あたりまでは、「具体から戦後の美術史は始まった」というような言い方をする人がいたんですね。「具体」というのは大阪、先ほどもちょっと出てきましたけれども、55年、6年あたりからなんですね。戦争が終わったのは45年ですから、その10年間はほとんど日本に美術の歴史はなかったかというような感じで、そういうふうに言っている人がいるということですね。具体と言いましたけども、具体から、さらには「もの派」と言われるもの、それをつなげて、なんかそういう線だけしか日本の美術の歴史は重要なものはなかったみたいな考え方をする人がいるんじゃないかな、と思うんですよ。これは大変困ったことだと思うんですね。
 僕自身は、最初からほとんど「アヴァンギャルド」と言っていいんですけどね、岡本太郎やなんかが始めたのと、すぐ飛び込んでいって関わってきました。1948年からなんですけれども。さっきの四耕会の人たちよりは1年ぐらい遅いですけどね。そういうわけで、見ているとどうも、つまりその時期ですね、50年代の前半というか、そのあたりのことがあまり問題にされていない。その当時、戦後まもなく、混沌の中からというか、焼け跡のめちゃくちゃな状態の中から立ち上がってくるわけです。社会というもの、あるいは政治というものと密接に関わっていたというか、つながっていた、そういう面があるんですね。そういうものがなぜか大阪でさえ、ちゃんと見られていないような状態じゃないかなと思うんですね。最近、また少しそのへんのことが注目されるようになったんで、大変いいことだと思うんです。要するにそのように、ある種の偏りというか、そういうものがないように、しっかりと聞き取りといいますか――まだ生きている作家が結構いるわけですからね。戦後まもなくから始めた人たちの中でもいるわけですから――そういうところをちゃんと。それからもちろん、最近、若い人たちからでもしっかりと、「マイナー」ってさっき盛んに言葉が出ましたが、マイナーなところがないように。しかしこれは難しいんですよね。平等にといってもきりがないわけですからね。なんでもかんでも全体というわけにはいかない。そこから何が正しい、正当であるかということを見極める作業が必要だろうと思うんですね。そういうこと、なんでもかんでも一様にというわけにはいかないと思うんで。そのへんのことは非常に難しい問題があるんだと思うんです。そういうことを少し気をつけてやってもらいたいと思うんですね。
 僕個人のことで言うと、ある作家が――その人は僕が関わった制作者懇談会というものの一員なんですけどね、もう亡くなりましたので、名前を出してもいいんですけど、あえて出さないことにしましょう――この人が、制作者懇談会は、自分と、熊谷光之、粕三平――映画に関わって、もうこれも亡くなりましたけど――この二人でつくったんだ、という言い方をするんですね。事実はまったく違うんですけどね(笑)。そう言われた熊谷光之なる者は――それは文章になって、都の『美術館ニュース』(東京都美術館発行)という中に活字になっているんですね――これに怒りましてね。そんなはずはない、と。その人はね、藝大に行く前に慶応に行っているんですね、慶応大学の階段の下で熊谷光之と会って、二人で意気投合して、それで制作者懇談会をつくった、なんて言うんですけど、その熊谷君というのはその時期には九州にいましてね。それで自分は慶応大学の門をくぐったことすらないというようなことを(その文章の中で書いている)。まあそれは僕自身も知っていることで、はっきりしたことなんですね。それが活字になる。活字になるとそれはそのまま残されていく。ほかのところのカタログなんかでは、制作者懇談会は、そのなかに河原温がいるんですけどね、河原温と二人でつくったみたいな、そういうふうになってしまっているものもある。そういうことが起こるんですね。そういうことがないように願いたいと思うわけです。以上です。

池上:
ありがとうございます。いまのコメントは激励として受け止め、活動に生かしていきたいと思います。レスポンスをどなたかいかがですか。

黒田:
さかのぼって、渡辺さんにすごくいい問題提起をしていただいたと思います。それに対する住友さんのレスポンスに私も同感なんですけど。さらにその流れでいまの池田さんの話を聞くと、やっぱりものすごく基本的な問題として――まあ池田さんがここに知り合いのアーティストがいないのは、たまたま知っている方がいなかっただけかもしれませんけども、先ほど私は、アーティストが歴史をつくるべきじゃないかと言ったんですが――、アーティストに限らず、若い人、若い人だけじゃなく年配の人にとってさえも、一般の人にとって、そもそも歴史ってあまり必要ではないんじゃないかな、という気がします。歴史を語る、残す、語り継ぐという言葉が重要だというのは、例えば、それこそ原爆の被害者を語り継ぐとか、そういうのをやっているところですよね。歴史観というのか、有名な政治家がつくった、権力者がつくった歴史ではなく、一般の庶民の歴史というような歴史学がいま出てきてはいると思いますけども、ただ、若い人は――若い人たってここにいる人たち(パネリストのこと)はみんな私たちより若い人なんですが――ほんとに例えば池田さんの話を知りたいと思うか。あるいはさらに言うと、美術史を知ったうえで、それに対して作品をつくろうと思っているのか、実はかなり危惧しております。
 これは間接的に聞いた話なんですけど、ある大学で絵画を学んでいる美大の学生がマチスを知らなかったという話がありまして(笑)。東大生でもドストエフスキーを知らなかったというのがあるんですけど。あと、若い人でも、そもそも日本とアメリカが戦争をしたということを知らなかったとか。結構その程度、と言っちゃいけませんけど、そういうのは実はいっぱいあるんです。ですので、歴史が大事であるという認識すら若い人に伝えられなかったというのがあります。ですので、最初の美術館が歴史を語りうるかということに関しては、そもそも美術館にそういうことが求められていないと言える。なので、そうとう根本的な日本社会の教育とか価値転換をしないと、そもそもオーラル・ヒストリーをやっても「こんなの誰が使うの?」と言われちゃうわけです。「利用者が一日何人いますか?」とかって(笑)。「それに対する費用対効果はどうですか?」と言われるわけです。ないですよ。限りなくゼロに近い。100人のヒストリーがネットに公開されたとして、それをどれだけ使うかというと、それを使うという意識はないんじゃないかと私は思っています。非常に限られた研究者しかしないです。それを、一般社会の公認された価値、まさに市場価値と言ってしまっていいくらいの、市場価値に相当する価値観というのをつくらない限りはオーラル・ヒストリーは使われません。はい(笑)。

池上:(会場内で手が挙がっているので)
先にコメントをいただきたいと思います。

質問者4(高山登):
私、高山と申します。この大学に勤めていて、教育現場みたいな話もちょっとあったようなので(話します)。いま池田さんがお話しになったのはよく分かるんです。僕自身も戦後、アトリエ村で育ったものですから、小さい頃から見ていて、その人たちがどんな絵を描いているかを見て、そういうことから上野の美術館を見たり、日展から何かから、戦後まもなくのルーブル展から何から全部見てきたんですが、そういう歴史というのは、ほとんど今の若い人たちには分からない。どうでもいいようなことのように感じているかどうかは分からないんですけど、まず興味がない。実際に僕自身は歴史というのをどういうふうにとらえていくか、今回、オーラル・アート・ヒストリーで残していかなきゃいけないというのは非常に強く感じているんですけども、それがどれほど将来に対して、未来に対して意味を持つか。それが、先ほどあったように20年後、30年後、40年後という、初めてそこのところで意味を持つかもしれないぐらいの気持ちでやらないと、これに対してあんまりいろんな価値観の問題だとか、そういうのを言うこと自体無理があるんじゃないかというような感じがしています。
 ただ僕自身が、池田さんもその頃その辺をうろうろされたかどうか分かりませんけども、豊島区のあちこちで、熊谷守一から何からいろいろ小さいときから眺めて見ていた。小さい頃は戦後の焼け跡をのぞきながら、「これが彼の描いた絵なのかな」とか、そういう原風景を見ながら歩いていたわけです。そういうなかで、語り手というか、言葉の世界だけではなくて、現実の風景というか、原風景みたいなのは時代によって変わっていくわけですね。そういうものをどうやってリアルに残していくかという、関係性として残していくかという、アーカイヴの立て方ですね。今は語り手の問題というか、インタヴューの中で起きる。それからそれが起きるためにも、ある程度作品があり、それからその人の言動があり、ということを媒体にしながら、そこから広がっていくんだと思うんです。その限界というのも当然あると思う。それ以前に、作家なり作品が、ある意味でジャーナリスティックなり何かのかたちでつくられてないと、そこに行き着かないという問題も出てくる。あとから発見するにしても、先ほどのように、林さんのような作品はあるから見れたということがあるわけです。もうなくなっている、散逸している、特に戦前の作品というのは焼けちゃって、形が残っていないもの、噂でしかないものもある。それをどうやっていくかというときに、今現在で、戦前生きている人でももうギリギリでしょうからね。100歳以前の、長生きしたとはいえ、それぐらいの人たちに何らかのかたちで、急いでそういうことを、みんなで手分けしてできないものかな、と思います。それこそ戦時中の人たちが、自分たちが中国でやってきた何かの話だとか、捕虜をどうしたとかいうのを、最近、死ぬ間際になってみんなしゃべり始めるという時代ですから。そういうことが、今、逆に言うと、80代、90代の人が何か言い残したいこととしてあるかもしれない。それを窓口として開ける方法も、アーカイヴのほうから広げていく方法を考えていただけないかな、というような感じもするわけですけど。まあそんな話です。

池上:
ありがとうございました。大変大きい宿題だと思います。そろそろ時間が迫ってきていますので、あとひとつ二つでも質問を受け付けたいのですが。お願いします。

質問者5(本阿弥清):
本阿弥清といいます。会の皆さんへのエールと要望なんですが、二つあります。ひとつは、作家の選定の問題です。乾さんのお話を坂上さんがされましたが、70年前後にですね、峯村(敏明)さんが「もの派の通説」というものをつくって今まで来ている。これが、坂上さんがおっしゃった乾さんのこと(と関係していると思う)。乾さんのものを鵜呑みにした、その後発の美術研究者の問題があります。それを開拓しようとしなかった、針の穴かもしれないけれども何かから疑問を持つということがなされなかった。現代美術というのは少数の方たちによって通説化され、それが定説化の道を歩んだと思います。ですから、この会に対して望むことは、一貫して皆さんおっしゃっているように、定説化されたものを孫引きのようなことをするキュレーターであってほしくはないということです。やはり疑問を持ちながらやるということが会の中心軸にあってほしいというのがあります。書物にあるものを集めるだけではなくて、新しい写真であったり、記事であったり、その方のインタヴューであったりということがあると思います。非常に小さなジャンルですから、逆に言うと歴史というのはすぐにつくれてしまう。ですから黒田さんがおっしゃったように、歴史なんていうのは、もしかすると他愛のないものになってしまう。そうなってほしくないんですよね。やはりいいものを残してほしいということで、30代から40代の会の皆さんが、逆に定説化をつくる危険性を持っていますので、非常に小さな問題も含めて、少数派の方も含めて、やはり勝ち残った者の歴史ではなくて、バランス良くということをお願いしたいです。皆さんはその立場にあるということです。
 それから二つ目なんですが、インタヴューの質の問題です。これはちょっとインタヴューをした方に対して失礼かもしれないのですが、荒川修作さんのアップを読ませていただいて、まあ正直、発見的な会話はなかったように思います。ちょっと社交のレヴェルというのですかね。そういう点で、加治屋さんもおっしゃっていたと思いますし、あとほかの方も言っていたと思うんですけど、やはり亡くなるんですね。非常にスターであってもスターじゃなくても亡くなるんです。池田さんが1928年生まれですから、もう八十数歳ですよね。(この会場には)高山登さんもいたりするんでしょう。そういう意味で、荒川さんについては最後の最後、もしこの会ですさまじい発見のようなものを聞き出していただいたとすれば、私は非常に感動したんです。そのあとで逝ってしまったので、これは結果論なんですけども。できればニューヨークの方が荒川さんとキャッチボールをしながら、このへんの空白地帯はどういうことをなさったのかとか、どういうかたちで今の作品の質とか形態になったのかを突っ込んで、内容を検討したうえでアップできれば、これはこの会の非常に価値が出るかなと思いました。これについては苦言というか、要望ということで話をさせていただきました。以上です。

池上:
ありがとうございます。荒川さんのインタヴューについては、個人的には非常におもしろかったし発見もあったと思うんですが、ちょっと補足しておきます。インタヴューに際して、こちらはもちろん事前調査をして、質問表もつくってスタジオに伺っているわけなんですが、インタヴューを担当したメンバーによりますと、やはり荒川さんは難者であったと。こちらは歴史的な調査をして伺うんですが、彼の興味はあくまでも現在にあって、「この時期にどういうことを思って何をされていましたか」というのを聞いても、どんどん現代に話が戻ってしまって、深いところに突っ込むことが非常に難しかったという感想を持ったそうです。あのインタヴューは、結果として荒川さんがお亡くなりになってしまったので、1回で終了ということになってしまったのですが、もう1回、2回と続けるつもりで、いかにして彼の制作のもう少し深いところまで突っ込めるかという対策をちょうど考えているところだったと。その点だけ補足させていただきたいと思います。
 そろそろ時間が迫っているんですが、他には。恐縮ですが手短に質問をお願いします。その後ろの方、お願いします。

質問者6(女性):
先ほどの平井さんの発言の中で、マイクを向けると話が止まってしまうというか、マイクを向けたときとマイクを向けていないときの発言の内容はちょっと異なってしまう、録音装置を回してないときのほうがおもしろい話が聞けるということをおっしゃっていました。聞き取り調査をした人間はだれしもそういうことを一度は考えたことがあると思うんですけれども、やはりオーラル・ヒストリーで残されたものが、権力や政治の圧力によって削り取られてないかというと、そうではなくて、個人の思惑ですとか、またご家族のお考えとかでずいぶん、こちらがおもしろいと思う部分が削られていってしまうと思うんですね。かろうじて録音装置を向けたときにとった記録でも、相手にそれを「どうですか?」と添削をお願いしたときに、結構個人に絡みついたところは「削ってほしい」というような要望が出てしまう。結局、結構おもしろいと思う部分が削られていくという経過を私も経験したことがあります。オーラル・ヒストリーを皆さんが実践されていくなかで、その経過の中で削り取られて公開できなかったものを、エフェメラルのハードとしてどう残していくのか、そしてそれを複数の資料としてどう公開していくのか、ということをどのように考えていらっしゃるのか、ご意見を伺いたいと思います。

池上:
加治屋さん、お願いします。

加治屋:
確かにいま質問の方がおっしゃったように、録音したけれどもやはりこれはちょっと削除してほしい、というような話はないわけではないです。ただ、これは日本という文脈についても考えたほうがいいと思うんですね。アメリカにもオーラル・ヒストリーを集めたアーカイヴがあります。そこでは、例えば「ここでカセットテープを止める」というような指示があって、カットされている部分があるんですね。ただ、いったん録音したものについては公開していくという原則をアーカイヴとしてはたてているわけです。日本ではまだ慣れていないと思います。そのような、公開することを前提とした聞き取り調査は、これからの分野だと思いますので、こうしたものがどんどん浸透していけば、徐々に変わっていくんじゃないかと私個人は思っています。
 もうひとつ、削除に関しては、例えば差別に関する発言があった場合は、アーカイヴとして差別を助長する行為に荷担するわけにはいきませんので、それに対しては何らかの措置が必要だと考えています。

池上:
ほかにご質問は。なさそうですので、加治屋さんから閉会の挨拶をしてもらおうと思います。その前にモデレーターとして一言。アンケートをお配りしていると思いますので、ぜひそれに記入をしてください。去年もアンケートをしまして、その結果私たちのホームページの体裁を少し変えたりですとか、インタヴューの対象の候補を新たに増やしたりですとか、実際に活動に直接反映させていっています。皆さんの声は非常に大事なものだと思っていますので、ぜひアンケートを記入して、あちらに置くところがあると思いますので、そこに置いて帰っていただければと思います。

住友:
ごめんなさい、僕、最後言いたいことができてしまったんですけど。

池上:
はい、どうぞ。

住友:
黒田さんが「歴史はほんとうに必要なのか」と言ったことはすごく重要なことだと思っているんですね。このオーラル・ヒストリーがどうやって残っていくか、残されるのかとか、そういう点を感じたときに、「これが有効である」という経験を少しでも話をしてから皆さん帰っていただくときに考えてもらえるといいなと思ったんです。
 具体的に有効だと思った経験があります。ジョージ・コーチ(George Kochi)という、ACC、アジアン・カルチュラル・カウンシルのディレクターであった人が今年辞めたので、インタヴューしたんですね。彼は作家ではないので、文字がなかなか残されない。ですけれども、例えば彼がディレクターになった直後に村上隆がグラントをもらってニューヨークに行くといった経緯があったし、ACCは堤清二のお金をもらってどういうふうに助成の目的、ミッションをつくってきただとか、そういった過程が明らかになることは、あとでミュージアムのマネジメントとか、そういったものを考えるうえでは間違いなく有効になると思うんですね。
 それともうひとつ、私が東大で授業をやるときに、学生に自分の問題意識で発表させるんですが、後半は、必ずそのテーマと関連する過去の美術批評の議論を投げるということをやってるんですね。例えば今の学生だと複製のことに関心があるわけです。新しいメディアのことであるとか。そういったことについて話をするときには、岡田隆彦とか多木浩二がどういうことを言っていたかということの話をすると、たぶん議論は精微になっていくはずだと思うんですね。ゼロから議論をするのではなくて、過去にそういうことが言われていて、今の新しいメディアとそのときのメディアと何が違うのか、ということが議論できるわけです。そういった点ではおそらくそれは有効だと言うことができると思うんですね。すべてのインタヴューが有効だというよりも、いろんなかたちの使い方がやはりあるとは思うので、一応そのことは言っておきたいなと思いました。

池上:
ありがとうございました。では加治屋さんお願いします。

加治屋:
きょうは長時間おつきあいいただき、本当にありがとうございました。「キュレーションとオーラル・ヒストリー」という大きなテーマを掲げて、今回はシンポジウムをしました。いろいろお話をうかがい、またディスカッションしていくうちに、キュレーション、美術館の活動とオーラル・ヒストリーの間には長い道があるのかもしれないと思いましたが、ただやはり実際の聞き取り調査を多数行っている二人をお招きして、聞き取りがオーラル・ヒストリーへと変わっていく可能性について考えることができたのではないかと思います。オーラル・ヒストリーとキュレーション、美術館について話をするという、こうした場はこれまでほとんどなかったと思いますので、そうした点でも、意味のある議論ができたのではないかと思います。またいくつかご要望、宿題のようなものをもらいました。
 黒田さんからは「オーラル・ヒストリーは、アーカイヴは必要ではない」という話がありました。確かに短期的には、現在の状況だけを見れば、歴史的なものというのはなかなか価値を持ちにくいかもしれないですけれども、長期的には、時間がたっていくうちに価値はついてくるものだと思います。したがって、オーラル・ヒストリー・アーカイヴというのは、長期的には確実に必要になってくると私は思っております。
 今日は美術館の方、作家の方、美術関係者の方、それからオーラル・ヒストリーの関係者の方など、様々な方、幅広い年齢層の方に来ていただきました。ぜひオーラル・ヒストリー・アーカイヴのウェブサイトを見ていただいて、活用していただいて、また場合によっては活動のほうにご協力いただければと思います。きょうゲストに来てくださった黒ダライ児さん、平井章一さん、ありがとうございました。今一度拍手をお願いします(拍手)。それから、今日ご来場いただいた皆さま、本当にありがとうございました。そして最後に、このシンポジウムの手伝いをしてくださった東京藝大の方、ありがとうございました。では、本日はこれで終了いたします。