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2010年2月6日(土)
ワークショップ「オーラル・ヒストリーと戦後美術の理解」

日時:2010年2月6日(土)午後2時-午後4時
会場:広島市立大学国際学部棟4階434教室

プログラム

開会挨拶・趣旨説明 加治屋健司(広島市立大学芸術学部准教授)
報告発表
「日本美術史とオーラル・ヒストリー・アーカイヴ」足立元(東京藝術大学美術学部教育研究助手)
「北白川芸術村事例より オーラル・ヒストリーの可能性」坂上しのぶ(美術史家、ヤマザキマザック美術館準備室学芸員)
「第三の記憶」としてのオーラル・アート・ヒストリー」牧口千夏(京都国立近代美術館研究員)
「クリエイティヴ・クラスを対象に シャンブル・ダミ展参加者への聞き取り」鷲田めるろ(金沢21世紀美術館キュレーター)
質疑応答
全体討議
・加治屋健司
・足立元
・坂上しのぶ
・牧口千夏
・鷲田めるろ
・粟田大輔(東京藝術大学美術学部非常勤講師)
・池上裕子(大阪大学グローバルCOE特任助教)
・住友文彦(キュレーター)
・辻泰岳(建築史家)
閉会挨拶 池上裕子

議事進行:加治屋健司

日本美術史とオーラル・ヒストリー・アーカイヴ
足立元

 「日本美術史」は、明治期に創出された。それは、19世紀の国際情勢の中で外国向けに生まれたものであり、近代日本の国家思想による歴史の再編成でもあった。実態としては、西洋の学問をよく学んだ若者たちが、支配階級の「官」の立場において、当時流入していた西洋思想の「美術」および「美術史」を日本に当てはめたのである。
 もちろん、西洋の美術史が簡単に日本に当てはまったわけではない。結果的には、当時の西洋側が見ていた日本美術(ジャポニスム)とはまるで違うものが、日本国内で生まれたのだ。明治期の日本美術史では、浮世絵が評価されず狩野派が持ち上げられたように、近世までの支配階級による既存の価値観を反映したところが大きかった。
 また、博物館による古美術保護のための宝物調査が、「日本美術史」の基礎となった。多くの物が失われつつあったまさにそのときに、「日本美術史」は生まれたのだ。とはいえ、そのことは、「日本美術史」が、必ずしも物に寄り添う学問だということを意味するわけではない。むしろ、社寺や博物館の物にアクセスできるかどうか、という立場や人間関係の特権が、学問的な成果をも左右してきたのである。
 「日本美術史」が生まれた頃は美術史と美術批評の差はなかったが、やがて両者は棲み分けをしてゆく。明治期から昭和戦前期までの美術が、「日本美術史」として認められるようになったのは、戦後のことである。そして、21世紀の今、かつての現在であった戦後という20世紀の後半の美術が「日本美術史」として研究されている。
 果たして、次のことは偶然の一致だろうか。おもに「官」に属する、相対的に若い世代の研究者たちによって、オーラル・ヒストリーのアーカイヴというアメリカの研究方法が、日本に適用されている。そこでは、功を上げ、名を成した美術家を中心にインタビューするという点では、既存の価値観を否定するどころか温存・強化している。一方で、文献学者や編集者などにもインタビューを試みるという点では、新しい時代の見方も積極的に取り入れている。さらに、オーラル・ヒストリー・アーカイヴは、喪われつつある者にアクセスすることによって、一種の特権を示している。
 たしかに、日本における人文学の大部分は、欧米の手法を穏健に持ちこむことによって展開してきた。しかし、その自覚のないまま方法輸入と土着化を繰り返すだけでは、どれほど新しい情報や知見を収集してアーカイヴできたとしても、陳腐化の危険は避けられないだろう。これまで、大変な人力と資金が投じられながら、ほとんど使われることのない資料集の数は、計り知れない。
 言うまでもなく、アーカイヴの価値を判断するのは利用者であって、制作者ではない。だが、制作者側が、歴史の中にいる自らの立場を問い直し、インタビューの経験やアーカイヴの意義を問いつづけることは、歴史の風化に抗し、アーカイヴされた声に対する責任を果たすためにも、大事なことではないだろうか。それは、「日本美術史」における既視感のような宿痾を乗り越える道筋でもあろう。

北白川芸術村事例とオーラル・ヒストリーの可能性
坂上しのぶ

 京都府京都市内の北東に位置する「北白川芸術村」は、1960年代前半「ケラ美術協会」という日本画の前衛グループが、自分たちのアトリエ兼住居、引いては作品の発表スペースまでを兼ね備えた場として建設した美術村のことである。公募展や地域の因習への強烈な反発とそこからの脱出を試みた「ケラ美術協会」の活動はほぼ5年間と非常に短いものであるが、その軌跡は当時の新聞等メディアに多く取り上げられる等、大きな影響を及ぼしており、京都の、引いては第二次大戦後の日本の前衛美術運動の歴史を語る上において、欠くことのできない要素を数多く含んだ活動実績がある。
 1960年代前半の京都は、多くの外国人観光客や、安い人件費と高い技術力を求めて集まってきたアメリカ人実業家たちが古美術品を買いあさっていく姿が多く見受けられていた。古美術収集に飽き足らない彼らは、現代美術の方にも目を向け始め、その中で目立って頭角を現してきていた「北白川芸術村」のメンバーのアトリエ内全ての作品をすべて買い上げ、さらには、メンバーたちに「アメリカ武者修行」と称して、滞在費と制作費すべてを無償で提供するという、まさにシンデレラストーリーがそこから生まれたが、アメリカに渡ったメンバーは、劇的に変貌する美術のスタイルに対応しきれず、1年後無念の帰国を果たす。しかし「ケラ美術協会」が解散し、周囲の人々がその存在すらも忘れたその後も芸術村自体は存続し、作家たちは引き続きそこで制作を継続していくこととなる。私は「ケラ美術協会」の取材と称し、当時のメンバーの1人である野村久之氏にインタビューを試みたところ、その後の「北白川芸術村」の知られざる一面を知ることとなった。その内容は次の通りである。
 1960年代後半、野村氏は京都市北部の市街地に住居を構え、作品の制作のみを芸術村で行っていたが、ある日、意外な訪問者が家を訪れた。黒いフロックコートに身を包んだその来訪者は鶴見俊輔氏。当時すでに泥沼化してきたベトナム戦争に反対し、平和を希求する市民運動「ベ平連」の代表である彼は、何の面識もない野村氏にアメリカ人の反戦活動家ヤン・イークスをかくまってくれと要請してきたのである。突然の来訪者にとまどいつつも、野村氏はヤンの保護を引き受け、その身柄を「北白川芸術村」にひそませることにした。しかしかくまうについては芸術村のメンバーに黙っているわけにはいかない。「何か異議があったら言ってくれ」と相談したところメンバー全員が「いいじゃないか!そういうことなら光栄だ!」と賛成。以降一切他言無用。布団を運び入れ、毎日食事を差し入れ、アンネの日記のようにアトリエには鍵を閉め、ヤンそこで身柄を保護されながら、芸術村を拠点に平和活動を日本で広めていくこととなる。当時、広島の大学で教鞭をとっていた野村の広島行きの車の後部にはいつもヤンが潜み、広島の先、山口県岩国で反戦運動を引き起こしていく。観光ビザで入国し、潜伏先を伏せながらも合法的な滞在を希望したヤンのために「彫刻の研究生」という名目を与え、ケラの頃アメリカに留学していたメンバーたちも含め全員は、ヤンに鉛等の材料を提供し、作品を制作させ、法務省にその研究の成果を提出させ、その反戦活動を全面的にバックアップしつづけた。ヤンは1972年、日本での反戦活動をまとめた本『戦争の機械をとめろ!』(三一書房)を共著で出版、その後の活動をアジア全域に広げたのち消息を断つ。
 反戦脱走兵を家々にかくまい、潜伏生活を援助し、脱走ルートを模索しつづけた市民運動の活動は、1999年発行された本、『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)に多くのエピソードとともに収められている。しかし野村氏はここへの執筆依頼を、30年以上もの間沈黙を続けてきた芸術村の仲間への感謝の気持ちを裏切ることになると断り、これまで芸術村での潜伏は一切明かされてこなかった。しかしケラの活動をヒアリングするためのインタビューの自然の流れから野村氏は、「アーティスト(文化人)がポリティカルな枠を超え、社会的な現象には柔軟に対応しつつも信念を持って平和と自由を守る姿勢を持って生きている」ひとつの事例としてこの話を公にしたほうが良いと考える、と打ち明けた。
 美術活動という狭い枠組みの中でまとめていくと、この「ベ平連」にまつわる話は、取り上げにくい内容ではある。しかしオーラル・ヒストリーという口述方式、枠にはまらない捉え方を許容するこの方法論は、地域やジャンルを越境し、より幅広い人々の興味をゆさぶる内容や問題を提議できると考える。この点において、私はオーラル・ヒストリーには大きな可能性が感じられるため、今回その例として取り上げた。

「第三の記憶」としてのオーラル・アート・ヒストリー
牧口千夏

 この発表では、現代美術家ピエール・ユイグが1999年に発表した《第三の記憶》という映像インスタレーションを紹介し、この作品の制作過程と、作家への聞き取り行為を比較することで、私たちのオーラル・ヒストリー・アーカイヴが扱う「人の記憶」とはどのようなものか考えたい。
 この作品は、1972年ニューヨークで実際におきた銀行強盗事件を題材としている。テレビ生中継(映像)と新聞雑誌(文字)を通じて報道されたこの事件は、数年後に映画化(アル・パチーノ主演『狼たちの午後(Dog Day Afternoon)』)されたことで一躍有名になる。ユイグはこの事件が、時間を経つつ複数のメディアを通して描かれてきた過程に着目し、ある出来事にまつわる人の記憶が、他人や当事者の手を介した伝達過程においていかに変容するのかを見事に作品化している。ユイグは映像に強盗犯本人を登場させ、27年前の事件に関する彼の記憶に基づいた証言をもとに、映画とほぼ同じ舞台セットのなかで事件を再現する様子を映し出す。ときおり、当時の報道映像や映画のシーンが解説を補うかのように挿入され、犯人の記憶が報道や映画によって微妙に書き換えられたことが示される。
 こうした記憶の書き換えは日常的なものである。例えば筆者が担当した現代美術家の石原友明氏へのインタビュー中、彼は少年時代(1970年頃)を振り返る際、同じく1970年頃を描いた浦沢直樹著『20世紀少年』の漫画(1999-2006年連載)と映画(2008年)に言及し、自らの体験と比較しながら語っている。映画や文章など事後的に外部から入力された情報によって引き出された記憶は、すり替えと混乱によって本人が無意識のうちに変容していく。当事者と非当事者が共有するのは、複数の人間の記憶の断片を組み合わせることで新たに創出された「第三の記憶」と呼ぶべき記憶の総体ではないか――このような人の記憶のあり方を、ユイグの作品から理解することができるだろう。
 一方で、人の記憶のあやふやさ・自在さは、オーラル・ヒストリーに基づく研究にとってネガティヴな要素として捉えられる。だがオーラル・ヒストリーが目指しているのは一貫した矛盾なき「美術史」を書くことではない。話し言葉ならではの言い過ぎ、言いよどみは、ある出来事にまつわる人々の思いを多様かつ豊かなものにするという意味で、美術史自体のあり方をも検証する上でむしろ重要な要素となってくるのではないだろうか。オーラル・ヒストリーの活動のアーカイヴとして集積されるものは、当事者の記憶そのものではなく、記憶の変容する過程であり、インタビュアーとインタビュイーの共同作業によって見出され、共有可能なものとして社会化された記憶なのかもしれない。

クリエイティヴ・クラスを対象に シャンブル・ダミ展参加者への聞き取りを事例に
鷲田めるろ

 オーラル・ヒストリーという手法の背景には、支配者階級と非支配者階級の対立がある。支配者階級がテキストによって書き残した歴史に対し、声を持たなかった被支配者階級の声を引き出そうという動機が、この手法を導いている。では、この手法を美術史に導入しようとする時、日本のアーティストやキュレーター、批評家などは、どちらの階級に属するのか。この問いは、我々メンバーがインタビューの対象を選ぶ際にも、また、「有名な作家ばかりをインタビューしているではないか」という外部からの批判を受ける際にも、重要なポイントになってきた。しかし、支配者階級と被支配者階級という二項対立を前提としたこの問いの枠組み自体を相対化することも必要ではないか。その際に参照したいのは、リチャード・フロリダが提唱する「クリエイティヴ・クラス」という枠組みである。フロリダは資本家対労働者、政府対市民、企業対消費者といった区分とは別に、「クリエイティヴ・クラス」という中間的な階級を設定し、その重要性が今日高まっていると論じた。フロリダが想定するのは、テクノロジーや建築、芸術などに関わる職業である。
 このクラスに注目して美術の歴史を描くことが可能ではないか、というのが、本発表での提案である。テキストに基づく美術史や、社会学的な量的調査になりやすい美術の受容史の他に、インタビューという質的調査により、美術や文化を支え、形成してきた「クリエイティヴ・クラス」の歴史を描くことができれば、美術の歴史をより重層的に捉えることが可能ではないだろうか。
 このことを、私が2009年、ベルギーのゲントで行ったシャンブル・ダミに関する聞き取り調査を事例に考えてみたい。シャンブル・ダミ展は、1986年、ゲント現代美術館が主催し、市内の個人住宅を会場に行った展覧会である。私は、個人住宅を提供した人や、美大で美術を学びながら会場を結ぶタクシーサービスのアルバイトをしていた人、同時に市内でアンデパンダン展を企画した人などを対象に聞き取りを行った。その人たちの重要性を認識することにより、シャンブル・ダミ展を、美術館を空間的に飛び出したサイト・スペシフィックな展覧会として位置づけるのではなく、市民の中の「クリエイティヴ・クラス」の人たちが積極的に展覧会作りに関わった展覧会の先駆けとして位置づけ直そうとした。

 この事例を通じて、対象の選び方について再考することが、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの今後の活動、および、広く今日のオーラル・ヒストリーの可能性について議論するきっかけに少しでもなったとしたら幸いである。