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荒川修作オーラル・ヒストリー 2009年4月4日

荒川修作アトリエ(事務所)にて、ニューヨーク
インタヴュアー:由本みどり、富井玲子
書き起こし:池田絵美子
公開日:2010年9月26日
 
荒川修作(あらかわ・しゅうさく 1936年〜2010年)
芸術家・建築家
名古屋生まれ。武蔵野美術学校中退。読売アンデパンダン展に1958年から出品。《棺桶》シリーズのオブジェで東野芳明ら批評家の注目を集める。ネオ・ダダに短期間参加した後、1961年に渡米、瀧口修造の紹介でマルセル・デュシャンに会う。翌年出会ったマドリン・ギンスと生涯のパートナーとなり、《意味のメカニズム》などの図形絵画の共同制作を始める。近年は、《養老天命反転地》(岐阜県養老町、1995年)など、身体の刺激を通じて「死に抗する」建築を次々と手がけ、ギンスとの共著『死なないために』(1987年)の日仏出版などで知られる。1997年にはグッゲンハイム美術館で日本人としては初めての回顧展「We Have Decided Not To Die」を行った。このインタヴューは、バーナード・マドフの巨額詐欺の被害に遭い、活動資金の大半を失って間もない頃に行われたが、快く応じてくれ、デュシャンや宮川淳など多彩な交友関係のエピソードを披露してくれた。

由本:それでは、まずお生まれが1936年の名古屋なんですけども、ご両親はどんな方だったんでしょうか。

荒川:もう普通の、普通の人間ですよ。

由本:普通の人間(笑)。お仕事は。

荒川:飲食店やってて、お袋は。

由本:では特に、美術・芸術関係の方はいらっしゃらなかった。

荒川:1人もいない。でも5歳ぐらいからね、庭を共有してたところがお医者さんだったの。町医者で、素晴らしい人で、市川さんって先生でね。その人の奥様が、芸術家だったの。

由本:ああ、そうですか。

荒川:で、「お前、医者になりたかったら、少しデッサンを勉強しろ」って。それで、手の描き方とかを、教わったの。だから僕は、8歳か9歳のときはもう確実に…… 

由本:もうデッサン力が、あったと。

荒川:もう、ものすごくそうだ。でも、お金なかったから。だから、その代わり、5歳半ぐらいから、鞄持ちだったの、その先生の(笑)。だから夜中に1時ごろ、起こされたり。 素晴らしい先生で、お金のない人からは、一切お金を取らないんですね。手術するときも廊下でしたりなんかして。で、僕はそこの、見せられてたわけ、いつも。僕は看護夫の役目だった。手ぬぐいで、腫れを取ったり、なんかそんなことやってた。

由本:お医者さんでも医学的なデッサンができた方、そういうことですか。

荒川:必要。奥様が、「荒川、ほんとに医学やりたかったら、デッサンが完全にできなきゃ、だめだ」って言うんですよ。それで僕はデッサン習ったんですよ、毎日、彼女に。それで段々段々、絵が上手くなって、学校行くと、「お前絵が上手いから絵描きになれ」なんて言われて(笑)。仕方なく(美大に)受かったんだぞ(笑)。

由本:じゃあ、もう中学・高校のときには、そういう風に道が決まっていたんですか。

荒川:そうそう。いや、そのかわり(美大は)すぐ辞めちゃいましたけどね。

由本:ああ、そうですか。

荒川:東京へ出る前に、「お前は肺結核だ」って言われて。10何歳だったかな、15歳かな、14歳かな。それで、「もうお前は、これぐらいの穴が開いてるから、あと半年も持たない」って言われたの。それで、元気なのにね、どうしてそんなことになるのかなあと思ったら…… その頃はね、アメリカの兵隊さんが、1年に1度か2度来て、レントゲン撮ったの、道端で。そこで僕は撮ったんですね。それを撮った人が「お前ノイローゼが酷い、肺結核」って言って。それで、後からわかったんですけどね、すごく走ってたんですよ、そのとき。それで、雲がかかって穴が開いて(いるように見えた)。だから東京へ僕出てって、1人でいろんな先生探して、持って行ったら、笑うんですよ、僕の顔見て。「これいつ撮った」って言うからね、「6、7ヶ月前に撮った」って言ったら、「お前は運動ができるだろう」って。「いやあ、短距離の選手もやってた」って言ったら、「お前これ、短距離走って、すぐ撮ったろ」って言うから、「そうだ」って言ったらね、「それでこんな風になった」って(笑)。

由本:運動のし過ぎで、肺が曇った。

荒川:そうそう、曇ったの。だから運動っていうのはね、後からわかったんですけど、免疫の先生にいろいろ会って。今、最近の免疫の先生は、いっぱい僕に本送って来るんですけど、石原先生っていうのが、「荒川、運動ぐらい免疫に悪いものはない」って。その代わりどうしてみんな運動するかっていうと、どっちみち死んじゃうんだから、野球とかがいいって。一番悪いのはマラソン。走ってる人いるでしょ、あれものすごく身体に悪い。一番いいのはね、動物のように、歩くことですよ。一番小さなマッスルを使う。だからここに行くと、おじいさん、おばあさんはどうしてもこうやって動かなくちゃいけない。《バイオスクリーヴ・ハウス(Bioscleave House)》(イースト・ハンプトン、2000-2008年)ね。そうすると、3時間もしないうちにね、「元気になった」って言うの。

由本:そういうところから、経験から、来てるわけですね。全部繋がって来て…… 

荒川:そうそう。僕がそうしたのはね、ハイゼンバーグ(ヴェルナー・ハイゼンベルクWerner Heisenberg)が、僕たちの『意味のメカニズム』を、出してくれたでしょ、1971年に(注:荒川のパートナー、マドリン・ギンズMadeline Ginsとの共同制作に基づく共著、ドイツ語初版は1971年)。そのときにね、ハイゼンバーグ以下、物理学の先生たちが、「お前どうしてここまでできる。お前のような若いやつが」って、びっくりするんですよ。それから、「実際、永遠に生きたい」って言ったらね、「どうしてだ」って、「どんな風にしてだ」って言うから、「この身体は使いようによって、どんな風にでもなるんじゃないか」って言ったらね、「お前どうしてそんなことが言えるんだ」って言うから、「実はもう少しやり始めてる」って言ったんですよ。それで戻って来てすぐね、18年間クロトン・オン・ハドソン(Croton-on-Hudson)のとこで。行ったことありますか、クロトン(Croton、ニューヨーク州ウエストチェスター郡の村、マンハッタンの通勤圏内)。

富井:あります。

荒川:あ、そう。あそこに僕は7エーカー(acre)も持ってたんですよ。

富井:そうですか。

荒川:家を3つ持って。そこにね、毎週だいたい20人ぐらいの赤ちゃんを、お金を出して…… そのときもう僕は、相当お金があったんですよ。誰だったかな、誰かの美術館が、こんな値段でも「買う」って言うんですよ。そういう絵だったんです、僕の描いてたの。それを61年頃描いた。だから、すごくお金があったから、生まれたての赤ちゃん、3ヶ月までの赤ちゃんをね、約10年間勉強してたの。そうしてこんなことに。未だに、知らないですよ。お母さん、お父さんは、「泣いてるんだ」って言うでしょ、赤ちゃん、生まれたての。あれは、ほとんどの赤ちゃんはね、「1人にしてくれ」って言ってるの。

由本:(笑)。

荒川:あのね、こうやって動かすでしょ、手を、足を。こうやって。あれ、何してるかわかりますか。イメージがないとこれは動かないの。それが(分かるのに)、18年間もかかったんですよ。ということは、僕たち五感だなんて言うでしょ。冗談じゃない。僕たちは何万っていう、感覚がある。それを全部、剥ぎ取ってしまって…… 今日来てた先生たちも、17世紀から、ヨーロッパがどれぐらい酷いことしたかってのは、ジオメトリー(geometry)の発見の後にはね、全てカレンダーのように、みんなこう切っちゃったんですよ。大切な感覚を。だから僕たちは今、この感覚を使えば、生命ってのはいっぱいランディング(landing)してるんですよ、外側に。だからレリジャス(religious)な人はね、「少し、なんとなく、変な気配だ」とか、なんかやるでしょ。変なところへ入ってくと。あれは本当に起こってんですよ。本当に起こってるけれど、それを証明する科学がないの、今のところ。だから僕は、僕たちのグループは、今500人ぐらい来てるんだけど、それで言うの、「荒川、どこでもいいから早くその、街を作ってくれ。そしたらそこに行く」って。このスタンリー・ショースタック(Stanley Shostak)なんてのは、ステムセル(注:stem cell、幹細胞のこと。血球のように特殊な細胞を生み出す未分化の細胞)をしてる人ですね。アメリカのトップの人なんですよ。それで、「荒川、俺は87歳になるけど、お前たちがいなかったら、俺はつまらない科学者でだめになる」って言ってる。僕は思わず聞いたんですよ。電話がしょっちゅうかかってくるからね、「あなたは誰だ」って言ったら、「スタンリー・ショースタック。俺はアメリカでナンバー・ワンの科学者、分子生物学者だ」って言うからね、じゃあ「会いたい」って言ったんですよ。そしたら来てくれて、今でもしょちゅう会いますけどね。一番最初に会ったときに、「我々はこの身体どれぐらい知ってる」って言ったらね、指をこうやってやるんですよ。僕が、「何ですか」って言ったらね、「1%か2%」って。98%知らないんです。「何も知らない。生命なんて何がなんだか、何もわからない」って言うんですよ。それでその先生は、こないだ、ペンシルヴァニアかな、第2回目の荒川、マドリンによる哲学、建築のコンファレンス(ペンシルヴァニア大学、2008年)があったでしょ。そのときに彼がものすごい熱弁したんですよ。どれぐらい我々の科学は、間違った世界に進んでしまったっていうことを、泣きそうになって話してたんですけどね。それが終わってから、もう世界中から、いろんなのがいっぱい来るようになった。それで今日も順番に来てた。

由本:で、お話もどらせて頂きたいんですけど。荒川さん、今はかなりお元気そうですけど、肺結核はどういう風に治したんですか。

荒川:結核じゃなかったんです。ただ曇ってただけ。

由本:ああ、そういうことだった。すいません、分からなくなって。それで結局、東大で数学と医学を、学ばれたっていうことなんですけど。

荒川:いや、いや。

由本:それは間違いですか。

荒川:間違い。僕は、大学は、武蔵野(美術学校、現武蔵野美術大学)に3週間ぐらい行っただけだ。

由本:あ、そうなんですか。

富井:東大には?

荒川:いや、それで東大に入れって言われたけどね、止めちゃってるの。(武蔵美に)行ってね、いろんな先生方にみんな会ったんですよ。それで、あんまりにも先生方が酷かったから、大学なんか行かない方がいいって言って、止めちゃったの、全部。

由本:じゃあ武蔵野も本当に3週間しか行ってらっしゃらないんですか。

荒川:ああ、そうだよ。3週間も行ってないかな。

由本:どこかで版画を学ばれたっていう風に書いてあったんですけども、じゃ、これも間違いですか。

荒川:全然。そんなことやったことない。

富井:滅茶苦茶な情報ばっかり持ってるな、私たち(笑)。

由本:すごいなあ、どっからこんな情報が来たのかな。

荒川:もう、僕の情報は、世界中無茶苦茶ですよ。でも医学は相当やりましたよ。

由本:ご自分で、独学でっていうことですか。

荒川:そう。そういう町医者とかね。

由本:その、ご近所のお医者さんからということですか。

荒川:そう。市川っていう。

由本:なるほど。同時にドローイングもなさったということですけど。

荒川:そう。

由本:そこから、読売アンパン(注:読売アンデパンダン展、以下アンパンとも表記)の20歳頃まで、ご自分で学ばれた医学の情報と美術と、どういう風に発展したんですか。

荒川:もうあの頃ね、芸術は駄目だってことは知ってたんだよ、僕は。だけど、瀧口修造っていう詩人がね、僕のスタジオへわざわざ来てくれまして。「お前何してる」って言うから、「こんなもの作ってるんだ、これは人に見せない」って言ったらね、「これは一度見せてみろ」って言うんですよ。それで箱に入れて見せた。そしたら、ものすごい人気になって、全て売れちゃったんですよね。

富井:どの作品ですか。《棺桶》シリーズ(1950年代後半から1960年代前半)?

荒川:そうそう。

由本:《棺桶》の作品。1958年に、22歳で最初にアンパンに出されたっていうときも、もう《棺桶》だったんですか。

荒川:いや、それじゃない。

富井:それが、即日売れちゃった。

荒川:そうそう。

由本:ああ、ほんとですか。

富井:だって荒川さんそのときまだ随分、最初の個展ですよね。

荒川:そう。だけども、横にいた江原順とか、東野芳明とか、一番立派な人は、読売新聞の海藤日出男っていうやつが、でたらめに助けてくれたの。それで、出光興産の社長さんを呼んで、僕に切符を買ってくれたの。「もうこんなとこにいるな」って。

由本:ニューヨークに行く。

荒川:ええ。

富井:ああー。

由本:そうなんですか。すごいトントン拍子ですけど(笑)。じゃあ瀧口さんとお知り合いになられる前は、どういうことをなさってたんでしょう。まだネオダダの前だと思うんですけどね。

荒川:ネオダダの前はね、自分なりに、医学、科学と芸術、一緒に混ぜたものを、勉強しようと思ったの。

由本:ああ、(カタログを見ながら)ここにドローイングがありました。(注:『荒川修作の実験展--見る物が作られる場』図録、東京国立近代美術館他、1991年)。

荒川:そう。そんなことやってたの。

由本:ドローイングっていうか、これは何なんでしょう(注:《過去を思い出しつつ No.1》、《過去を思い出しつつ No.2》、1958年、図録66頁)。

荒川:絵ですよそれ、大きな。

由本:白黒ではないんですよね。

荒川:白黒ですよ。で、もうその頃からね。僕は科学と哲学、芸術を一緒にしようとしてたんです。だから17、18歳の時点でね、もう美術館ってそんなものには全然興味がなかったから。

富井:こういうドローイングは発表されてたんですか。

荒川:いや、発表したことない。だけど、読売(アンパン)に出したのかな、出せって言われて。今どこにあるのかわかりませんけど。

由本:じゃあ生命…、生物学や医学やらを、もうこの頃考えてらっしゃったということなんですけど、この《棺桶》シリーズに使われたものは身体(からだ)をイメージした、ようなところがあったんですか。

荒川:いや、そんなもんじゃない。

由本:どういうきっかけでここに至られたんでしょう。

荒川:至ってない。話しても、分かんないんだろうねえ。それとね、もうその頃から僕は、永遠に生きてやろうって思ってたの。

由本:ああ、そうですか。

荒川:だから、そのためには何をしなくちゃいけないかってのがあった。でも、どの本屋さんに行っても、どの図書館に行っても、そんな本は出てないんですよね。だけど、ランボー(Arthur Rimbaud)の詩から少し見つけ出したのは、彼が18、16歳ぐらいのときに、手紙を出した、「私は他者だ」(1871年)っていうのがあったでしょ。あれ見てびっくりしたんですよ。それで、瀧口修造が、「お前のようなやつは、演出をマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)でやってみろ」って。飛行場に来て、マルセル・デュシャン、昨日かその前見つけたとこで。あの貧乏な瀧口修造が、40、50年前でね。部屋代も出せない人が、ここに6万円入ってたんですよ(瀧口からもらった封筒を見せながら)。

由本:へぇー(笑)。餞別って書いてある。

富井:餞別ですか(笑)。

荒川:餞別(笑)。考えられない。

由本:6万っていうと、当時の、どのくらいになるのかな。今の30万ぐらい。

荒川:ものすごいお金でしょ。

富井:6万円っていうのは、アメリカ風にするとすごく小さいお金ですね。360円だからね。

荒川:360円でも替えてくれないからね。でも、日本では…… 

富井:日本では大金ですよ。

荒川:ものすごい大金ですよ。彼は、食生活にも困るような人だったのにね、これで。

由本:よっぽど、希望を抱いてらしたんですね(笑)。

荒川:「荒川、お前のようなやつは、もうこちらへ絶対帰って来るな」って言うんで。それで、デュシャンの電話番号と…… 

富井:電話番号。

荒川:だから、飛行場から電話したんですよ。誰も知らないけど。

富井:え、ケネディ空港から。

荒川:そう。着いて、1961年の12月で、雪がこんな降ってたんですよね。ここまでですよ。

富井:じゃあ1メートルぐらい。

荒川:1メートルぐらい。それで、飛行場から電話したらね、「お前誰だ」って言うから、「荒川だ」って言ったら、奥様が最初に出てね。ティーニー・デュシャン(Alexina “Teeny” Duchamp)。「アラ・カワ。いやあ、お前手紙いろいろ書いたろ、マルセルに」って言うから、「いやあ、ブロークン・イングリッシュでいろんなこと書きました」って。 

富井:じゃ、その前に大分お手紙で。

荒川:あの、瀧口さんがくれたんですよ。

富井:住所。

荒川:もう、3年前から。

荒川:だけども何も知らなかったんですよ。ワシントン・スクエアの近くだっていうのも。ワシントン・スクエアがどこにあるかも知らなかったから。どちらにしてもね、ティーニーが、「アラ・カワが、今アメリカに来てる」って言うんですよ。

由本、富井:(笑)。

荒川:「アラがお前の名字で、カワがお前の名前だろ」って言うから、「そうじゃない」って言ってもね…… 「まあ、そうだ」って言っちゃったんですよ。そしたら、「アラ、アラ」って言うようになって(笑)。それで、「アラ、お前今ポケットにいくら持ってる」ってデュシャンが言うんですよ。僕は「12、3ドル、ポケットにある」って言った。それしかなかったんですよ。そしたら「バスに乗れ。お前ワシントン・スクエア知ってるか」って言うから、「知らない」って言ったらね、「36っていうバスに乗れ」って。それでそれに乗ったらね、20丁目ぐらいまで来たんですよね。それで降りたところでバスの運転手に、「ワシントン・スクエアってどこにありますか」って聞いたんですよ。もう本当にブロークン・イングリッシュ(笑)。そしたら、「ここ真っ直ぐ歩いて行けば、ワシントン・スクエアだ」って言うから、じゃあ歩こうかと思って、歩いて来たんですよ。

由本:そんなにたくさん荷物なかったですか(笑)。

荒川:何も。

由本:何も(笑)。

荒川:荷物は、これぐらいですよ。

富井:じゃあ、あのボストン・バッグ1つぐらいですか。

荒川:いや、そんなボストン・バッグじゃない。

富井:手提げカバンじゃないですか(笑)。

荒川:これぐらいの、カバン。

由本:すごい度胸ですね(笑)。

荒川:いや、あのね、駄目だったらもう、すぐ帰っちゃおうって思ってた。

富井:でも帰ってくるなって、皆さんに言われたんでしょ。

荒川:言われたのに(笑)。飛行場でね、どっかに写真が…… 

由本:そういえば6万円は、持ってたんですよね。その瀧口さんからの。

荒川:ノー。いや、それはね、ホテル・リッツで、確かマラルメか、彼が翻訳したフランス人の本なんですよ。それ、便所でこうやってひろげてたら、1ページがものすごい重いんですよ。こうやってひっつけてあるんですよ。これは、それで見つけた。そうでなかったら捨てちゃったかわかんない。

由本:ええー、わからないように置いて、入れてあったんですか。

荒川:そう、この本の間に。

富井:本を頂いて、その本の中にお餞別が6万円入ってたということですか。

荒川:そう。(餞別としてお金を渡すと)僕が取らないと思って(笑)。すごいやつでしたよ。

由本:すごいですね(笑)。

富井:じゃ、それは、後からわかったんですか。

荒川:ええと、1週間ぐらい経ってから。

富井:着いてから。

荒川:そう。だからこれ、取ってあるんですよ、未だに。

富井:ああー、なるほど。じゃあ、お餞別の代わりに本っていうことで。

荒川:そう。

富井:プレゼントみたいな感じで。

荒川:ほんとに不思議なやつでしたよ、彼は。

富井:いつ、瀧口さんとお知り合いになられたんですか。

荒川:1900ねぇ、ごじゅう…… 

由本:58年?

荒川:いや、もう少し前ですけど。それは誰がそうしたかっていうと、東野っていう…… 

富井:芳明さん。

荒川:東野芳明の奥さんがね、出光孝子って。出光さんだったの。

由本:ああ、そうですよね。

荒川:彼女と話してたらね、そこに海藤日出男がいたんですよ。それで、僕にご飯をよく呼んでくれるようにもなったんだよ。「お前何もないのか」って言うから、「何もない」って言ったらね、じゃあ「私のところへご飯食べに来なさい」って言うからね、いつでも来たかったら。それでよく、僕を呼んでくれたんですよ。それで話を聞いててね、瀧口修造を紹介してくれた。それで瀧口さんが、僕が住んでた阿佐ヶ谷の、変ちくりんな、もう汚いとこに来てね、「お前何してる」って言うから…… もうそのとき僕は完全にノイローゼだった。ノイローゼっていうのは、鬱の酷いやつだった。

富井:そのとき例えば、下宿しておられたんですか。

荒川:そう、下宿にいたの。

富井:じゃあ、普通の畳敷きのアパートみたいな感じで。

荒川:や、もうね、きったないね。

由本:文化住宅みたいな。

荒川:いやもう、畳の古い部屋です。あれは阿佐ヶ谷の何丁目だったか、北口だったかな。

富井:阿佐ヶ谷ですか。

荒川:そう。そこにいてね。おばあさんが1人で、下宿屋さんみたいなのやってたんです。

富井:下宿屋さん。

荒川:そこで僕がいて、たまたま変なアルバイトもやってたんですよ。それで、「お前いろんなことができるんだから、こどもに、絵とかそういうものを教えてみろ」って言われて、「どこか貸してくれますか」って言ったら、「この庭、お前、使ってもいいよ」って。

富井:下宿屋さんの。

荒川:そう、そのおばあさん。「その代わり、たくさん生徒が来たら、半分を私に寄こせ」って。

富井:すばらしい(笑)!

荒川:ものすごい良い人だったよ。

富井:じゃ、その下宿でこの《棺桶》の作品とか作っておられたんですか。

荒川:そう、その時に、少しずつやり始めたの。それで、もう忘れちゃったね、これもどうなってたか。でも、一番助けてくれたのは、海藤日出男っていう人と、出光孝子と、東野芳明、江原順、それで、その次が瀧口さん。その辺の人がね、僕の作品とかそんなもん、何もいらなかったんですけど、あんまりに僕が喋ることがね、変なことばっかり言ってたらしいんですよ。

富井:今おっしゃっているようなことを既に喋っておられたわけですか。

荒川:そうそう、もう。

由本:それでみなを魅了したわけですね(笑)。

荒川:そう。それで特に海藤ってのは、「荒川、お前はここにはいない方がいい」。ここってのは、日本にはいない方がいい。「いい人探してやるよ、そのうちに」とか言って、それで、3、4年経って、その出光さんを、連れて来てくれた。

由本:でも、出光孝子さんとは最初から知り合いだったんですよね。

荒川:いや、だけど、(海藤を僕に紹介してくれた孝子さんは)お父さんを僕には紹介してくれなかったですよね(海藤がしてくれた)。

富井:あー、なるほど。

由本:でも孝子さんとは元々どうして知り合いだったんですか。

荒川:その、東野が僕のことものすごく好きだったんです。東野芳明。

富井:東野さんとはやっぱり、読売かなんかで知り合われたんですか。

荒川:そう。

由本:じゃあ22歳以降ですね。やっぱりね。

荒川:そう。その頃ですね。

由本:じゃあ東野さんは、最初の作品をご覧になられて、とても興味を引かれて…… 

荒川:そうそう。もう、びっくりしたってみたいな話をした。江原とかね。瀧口さんも、その前ずっと知ってたから1、2年前。「あいつ変なことやってるから、一度見てみろよ」って。それでそういう人を呼んで来て。

富井:じゃあ、あんまり変なことしてるから、デュシャンとお話しなさいっていうことになったんですね(笑)。

荒川:そうそう。それで、デュシャンを紹介してくれたんですよ。

由本:変な人は変な人に、任した方がいいという(笑)。

荒川:でも、面白かったのはね、「グリーン・ハットとグリーンのコートを来て俺は立ってるから、ワシントン・スクエアの、アーチの下に。老人で、それを被ってるやつを見たら俺だから来い」って言うから、行ったんですよ。そしたらほんとに立ってたんですよ、1人で。

富井:グリーンのハットと、グリーンのコートで。

荒川:そう。それで僕に、「腹減ってるか」ってさ。最初はそう、話が、「腹減ってるか。お前アラだろう」って言うから、「そうだ」って言ったら…… 

由本:アラ(笑)。

荒川:「じゃあちょっとご飯、食べに行こう」って、誘ってくれたんですよ。近所で一番きったないね、イタリアンレストランで。しょうがないところに行ってね、僕、こうやってたら、「俺の食べる通りに食べろ」って言うんですよ。「スパゲット、ウィザウト、ソース(spaghetti without sauce)」って言うんですよね。

由本:(笑)。

荒川:それはともかく、デュシャンは日本のことや中国のことを相当勉強してたんですよ。

富井:あ、そうですか。

荒川:後から分かったんですよ。亡くなってから。家行ったら、禅の勉強とかね、ものすごい知ってたの。そんなこと全然誰にも話さなかった。それで、一番驚いたのはね、「スパゲット、ウィザウト、ソース(spaghetti without sauce)」っていうのは、僕のためだったんですよ、何年も後から考えたら。「お前たち、白ご飯食べるだろう。ホワイトライスを、ウィザウト、エニィ(without any)、何も(つけずに)」…… それを彼は、うまい言葉で言うんですよ。

富井:ああ、じゃあ白いご飯の代わりに白いスパゲッティっていうことだったんですか。

荒川:そうそう、遊んでるだけだった。後から分かったんですよ。

富井:そうですか。

荒川:どうしてかなあと思って、それで。

由本:それ、貧乏暮らしに備えて、っていうことじゃなかったんですか(笑)。

荒川:もうそういうことです(笑)。今からお前、貧乏な暮らしをしなくちゃいけないからって。何しろ、2人で40セントも払ってなかったから。

富井:それは格安ですね(笑)。

荒川:35セントぐらいしか。それで、それから何度も、そこへ行くようになったの。彼と一緒に。

富井:デュシャンさんのお宅とかには行かなかったんですか。

荒川:いや、行きました。ここから近いんですよ。ワシントン・スクエアの、9ストリートの28かな。よく呼んでくれたんですよ。だけど、「芸術だけはするな」って最初に言うんですよ、僕に。

由本:芸術だけは、何ですか。

荒川:「絶対やるな」って。

富井:ああ、「アートしちゃだめだ」っていうことですか。

荒川:だから、僕の手紙は全部読んでたんですよ。変ちくりんなレターですけど。

富井:何を書いてらしたんですか。

荒川:瀧口さんが相当、僕の手紙を直してくれてたんですよね。だから25通か、30通ぐらい。

由本:そんなに(笑)。

荒川:送ってんですよ。

富井:大変ですね。

荒川:だからその度に、瀧口さんに直してもらってたんですね。それをまた僕が書き直すってことをしなかったから、直してあるのをそのまま送ったんですね。

富井:え、校正入りで送っちゃったんですか。

荒川:そうそう(笑)。

富井:正直ですね、なんとなーく(笑)。

荒川:だからデュシャンも、ものすごい変なの(が来るって思ってた)。だからよく知ってたんですよ、僕のことを。その代わり彼はものすごかったですよ。来て、6ヶ月、どれくらい経ったのかね。トントンとね、いろんなところ、一番安いホテルに回ってて、そいでね、オノ・ヨーコっていうのに会ったの。

由本:ああ、そうでしたね。

荒川:それでオノ・ヨーコさんが、「私、ジョン・ケージ(John Cage)に会わせたいと、思ってるの。スタジオがあるから、チェンバースに」って。112チェンバース・ストリートっていう。僕のこと、なんか聞いてたんですよね、日本のニュースを。だからどこで会ったか知らないけど、あ、フルクサス(Fluxus)かなんかで会ったのかな。そこで会ったときに、彼女、「私の(スタジオ)貸してあげるから」って言うから、「どこにあるんだ」って言ったら、「112チェンバース・ストリートにある」って。「私もう使わないから。それで私、日本に帰らなくちゃいけない」って。その頃結婚してたのかな。

由本:ああ、丁度じゃあ62年の5月ぐらいですよね。

荒川:そう、そのぐらい。

由本:彼女が日本に、一柳(慧)さんの後、帰るっていう時に。

荒川:あ、そうそう。

由本:そうですよね。入れ代わりに入るっていうことですよね。

荒川:それでその頃、結婚してたんじゃないの、彼女は。

由本:一柳さんとまだ結婚してらしたんですよね。

荒川:いや、ディヴォース(divorce、離婚)して、誰か他の人と結婚したはずだ。

由本:まだ、そこまでいってなかったんじゃないんですか。

荒川:あ、そう。

由本:その後日本で、トニー・コックス(Anthony Cox)っていう人と、一緒になって。

荒川:じゃあ、それだ。その前に、僕にその部屋をくれて。これぐらいの部屋だったんですよね。

由本:このくらいの大きさ。

荒川:チェンバースで。それで、こりゃ高いだろうなあって思ってたらね。7ドル50セントだって。

富井:1ヶ月。

荒川:うん。だから7ドル50セントだったらね、「荒川、小さな日本のお店ででも働けば、お前、1週間でそれ以上もらえるよ」って言うからね。何をやったのかな。何か変な仕事をちょこちょこ少しずつやってたんですよ。

由本:同じ頃、靉嘔(Ay-O)さんとも、お知り合いになってたでしょ。

荒川:知ってましたよ。

由本:彼らとか、奥さんも、そういう仕事してましたよね。大陸商事ってところで。

荒川:なんか変なことやってたでしょ。

由本:日本の物産を売るような。

荒川:そうそう、そんなやつ。そんなところに僕行ったことあるんですよね。それで、そのスタジオへ入って2、3ヶ月したらね、デュシャンがものすごいのを連れて来るんですよ。アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)とか、そういうのを。

富井:スタジオに。

荒川:いやあ、でも僕は何もないんですよ。作品も何も。

富井:ああ、何もなかったんですか。

荒川:そう、それでね、ウォーホルが、「どうしてデュシャンはあんなにお前のこと褒めるんだ」って言うんですよ。ジョン・ケージ(John Cage)も、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)も。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)なんか僕に、「荒川、お前はどうして(デュシャンを)知ってんだ」と。「お前のような日本から来た若いやつが、どうして知ってる。どうしてあんなに、あいつ(デュシャン)は、お前のことばっかり言うんだ」って。アンディ・ウォーホルはね、それから毎週のように、僕をご飯に呼んでくれるんですよ。

由本:ああ、すごいですね(笑)。

荒川:お母さんがね、アンディのお母さんが、食事を作るんです。

由本:ああ、聞いたことがある。

荒川:78丁目かなんか、あの辺でね。行く度にね、いろんな画商がいたんですよ。そんでその画商が、ドイツの画商がね、アルフレッド・シュメラー(Alfred Schmela)っていうんです。そこで初めて僕は、展覧会(Galerie Schmela、1963年。海外での初個展)やったんですけど、僕のとこへ来てね。「お前何もないから、何でもいいから何かないか」って言うからね。

由本:すごいですね(笑)。

荒川:「明日来たら、何かあるよ」って言ったんですよ。そしたら、「俺はまだ1週間いるから」って言うからね。それで、道歩いてたんですよ。チェンバーの僕がいたところから2ブロック行くと、シティホール(New York City Hall)があるんですよ。シティホールの前にはね、だいたい3週間から4週間…… あの頃はね、古いブルー・プリント捨てるんですよ。もう、何万枚って。

由本:アーキテクチャー(建築)の。

荒川:そう、アーキテクチャーの。古いやつをね。それを僕は拾ってね。これっていうひもの付いてなかったのを……

由本:取って。

荒川:それで、破れてるところもありますけどね。それを持って来てね。それでしょうがないから、みんな人の名前書いてあるでしょ。その下にね、荒川って書いたんですよ。それでそれを、ピンで留めといたんですよ。僕のロフトに、ずーっと。そしたらね、そのアルフレッド・シュメラーっていうのが、「これ、俺に売らないか」って。

由本:すごい話ですね、それ(笑)。

荒川:それで、「いくらくれる」って言ったらね。僕の顔見て、「75ドルか100ドルあげる」って言うから。

富井:1枚でですか。

荒川:そう。

由本:ええー(笑)。

荒川:それで僕もびっくりしちゃってね(笑)。7ドル50セントだったでしょ、部屋代が。

富井:そうですね。

荒川:1枚売れば1年分だから。

富井:何枚ぐらいあったんですか。

荒川:いや、2、3枚だったけどね。「たくさん絵を下さい」って言うんですよ。今、その作品、全部ドイツのナショナル・ミュージアム(Alte Nationalgalerie, Berlin)にありますけどね。それで、大きな展覧会(注:Galerie Schmelaでの個展、1963年か)したんですよ。それで、「荒川、俺2、3ヶ月経ったら戻ってくるから」って行ってね、3日ぐらい経ったらね、「全部売れた」って言うんですよ。全部って言っても僕は2点しかあげなかったんですよね。そしたら来てね、「荒川、あのような作品を、あと、10点ぐらい手に入らないか」って。

由本:トントン拍子ですね(笑)。

荒川:それでもう、だからものすごくお金持ちになったの。それでデュシャンがね、僕にニヤッと笑ってね。見て。

富井:そうでしょうね(笑)。

荒川:それでね、「これ、お前の名前書いてあるな」って言うんですよ。

由本、富井:(笑)。

荒川:「これならいい」って、僕に言ったんですよ。最初に。

富井:あ、お墨付き頂きましたね(笑)。

荒川:「これならいい」って、笑ってるんですよ。「芸術じゃない」って。いわゆる彼のレディメイドの真似だって思ったんですね。

由本:そうですよねえ。

荒川:まあ、どちらにしてもね…… ドイツから手紙をもらって、シュメラーから。「ドイツで一番有名で、一番立派なやつが、お前の作品をどうしても欲しいって言ってるけど、お前、1点だけ、これに似たもの描かないか」って言うんですよ。

富井:え、描かないかっていうのは。

由本:自分で描かないか。

富井:自分でっていうことで。

荒川:そう、それで僕はね、「ああ、絵画はやりたくないって」。ちょっとそういうことをやってたときですね。それで、「じゃあ1点だけ描く」って言ったんですよ。それで、自分でフレームを作ってね、6フィートx 8フィートぐらいの。それで、それを持ってったんですよ。それで、「誰が買った」って言ったらね、「ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)」って言うんですよ。

富井:え!

由本:マジですか、それ(笑)。

荒川:はい。それで、彼とシュメラーで、僕をドイツに呼んでくれたんですよ、すぐ。そのときは行かなかったんですけど。そしたらね、「お前の絵はオープニングの日に売れちゃった」って言うんですよ。「相当高く売れた」って。で、僕びっくりしちゃってね。

由本:オープニングで全部が売れたんですか。

荒川:ノー。その1点だけのショー(Galerie Schmela、1965年か)をやったんですよ。

由本:ああ、1点のショー。

荒川:その、シュメラーってやつはなかなかすごいやつだったんですよ。アルフレッド・シュメラー。

由本:素晴らしい人と知り合いましたね、若くして(笑)。それがウォーホルから繋がったというのが意外ですけど。

荒川:そう、ウォーホルが紹介してくれたんですけど。最近、どっかで見てたら彼の写真が出てきたんですけどね。

由本:アルフレッド・シュメラーはデュッセルドルフですよね。

荒川:そうそう、デュッセルドルフ。

由本:じゃあ、63年は行かれなかったんですけど、その後デュッセルドルフに行かれたのは、もっと大分後ですよね。

荒川:いつ頃になるかなあ。

由本:まあ、これは、年譜を見れば分かると思うんですけども。

富井:あと、ヴァージニア・ドワン(Virginia Dwan)さんともお仕事はなさってますよね。

荒川:ヴァージニア・ドワン。この家を買ってくれたんですよね(笑)。

富井:あ、そうですか(笑)。

由本:恵まれてるなあ、ほんとに(笑)。

富井:ドワンさんとはどうやって知り合ったんですか。

荒川:やっぱり、マルセル・デュシャンですよ。みんなマルセル・デュシャン。ジャスパーとか、ラウシェンバーグなんかにも、無茶苦茶なことを僕に言ったんですよ。僕のことを、みんなに、褒め称えたんですよ。何も知らないのに。

由本:何も知らない(笑)。

荒川:ほとんど何も知らないのに。ジョン・ケージなんかもう、僕を神様のように扱ってくれた。変なことばっかり言ってるでしょ。

由本:禅の師匠だと思ったんでしょうか。

荒川:そう、そんな風に思ってた。完全にそんな風な感じですよ。だから彼は僕に、「マッシュルームを取りに行くから、荒川、一緒に来ないか」とか言って、アップステート(Upstate、ニューヨーク州の中北部)へ、マッシュルーム狩りに行ったんですよ。それで杖を持っててね、「荒川、この下見てみろ」って言うんですよ。それで下見たら、ほんとにマッシュルームが、生えてるんですよ。「よく知ってんなー」って言ったら、「俺、これを、もうほとんどやってんだ。その代わり、俺が見たときに、変ちくりんな、さざ波のような音がするだろう」って言うから、僕は「いや、そのヴァイブレーション、俺の一番好きなものだ」って僕が言ったんですよ。そしたら彼、びっくりしてね。

由本:ケージですよね。

荒川:うん。それで、僕の顔見てね、「お前の若さでどうしてこんなことがわかるんだ。俺は最近これを知ったんだ」って(笑)。「それで、音楽なんかもう全然興味がないんだ」って。それで僕に『サイレンス』(Silence: Lectures and Writings, Wesleyan University Press, 1961)っていう本を贈ってくれたんですよね。どっか最近見つけ出したんですけど。 彼とかね、こういう人たちは僕に変な本いっぱい送ってくる。

由本:変な本(笑)。マッシュルーム狩りっていうと、ちょうど同じころ、62年か63年、フルクサスがもうヨーロッパで始まって、帰って来たばかりのディック(・ヒギンズ、Dick Higgins)とアリソン(・ノウルズ、Alison Knowles)と知り合われました。

荒川:そうそう、よく知ってますよ。

由本:よく、行ってましたよね。

荒川:僕が一番文句言っちゃったから、全部ね。

由本:文句言っちゃった。

荒川:うん。行く度に僕思うから。

由本:フルクサスのイベントについてですか。

荒川:「こんなものしょうがない」って言っちゃった。

富井:しょうがない(笑)。

荒川:そしたら、「俺がほんとにやりたいのは、新しい本屋さん。本屋さんじゃなくて、雑誌かなんかを作りたいんだ」なんて言ってたから、「それならまだいいけど、ランゲージなんてそれほど、信用できるもんじゃないだろ」って言ったんですよ。そしたら、僕の顔見て、いやーな顔するんですよ、みんな。特にアメリカの、ああいう、半分詩人で、相当に頭のいい人たちはね。言葉ってのは、それができるまでに、もう、どんどんリダクション(reduction)しちゃってるんだから。だからフルクサスのやつはものすごい怒りましたよ、僕に。その代わりそん中に1人だけレイ・ジョンソン(Ray Johnson)っていうのがいたんですよ。あいつだけは僕に、最後まで付いて来てくれた。あいつは完全に、認めてたんですよ、僕のことを。だから、毎週3回ぐらい僕のスタジオに遊びに来てね、ふらふらしてんですよ。30分ぐらいふらーってして、戻って行く。

由本:彼なんかはフルクサスの端っこにいた人ですけどね。

荒川:そう、だから、なんて言ったらいいかなあ。もうその頃から僕は、ほとんどのアクティヴィティからは、手を引こうとしてたんですよ。それで、デュシャンが、亡くなる1、2年ぐらい前に、いろんなことを僕に、これはやっちゃいけない、あれはやっちゃいけないっていうことを、教えて。その頃、マドリン・ギンズに会ったんですよ。それで2人で、《意味のメカニズム》(ギンズとの共同制作、1963-88年頃)を始めたんですよ。あの、パネルの作品。それをデュシャンは毎週見に来たんですよ。それで「お前はキャンバスを使う。絵の具も使ってる。ペンシルも使ってるけど、これは絵じゃない」って言ってくれたんですよ。

由本:ふーん。

荒川:それからもう、それを聞いてからね、じゃあこれを徹底的にやろうっていうので。10何年もかかりましたけど、作り上げたんですね。その頃にはもう、いわゆる絵画とか、演劇とか、音楽とかそういうものにはもう全然興味がなかった。ポエトリーにも興味がなかった。哲学なんかおよそ、興味がなかった。だけど、「一度は、読んどかなくちゃいけない」って言うんで、変ちくりんな本も全部読んだんですけど。

由本:デュシャンが薦める本ですか。

荒川:いや、デュシャンは全然本なんか薦めなかった。

富井:デュシャンは何々しちゃいけないってことを言ったそうですけども、じゃあ、哲学読んじゃいけないとか、絵描いちゃいけないとか、そういう風に言うわけですか。

荒川:いや、そうじゃなくてね。もう知ってたんですよ、僕は。何をやろうか。彼にも、3年半ぐらい経ってから、僕が文句言うようになったんですよ。彼は、あの頃まだインスティテューションっていうのを、信じてたんですよ。美術館とか。僕は、「そんなもの全然信じてない」って言ったら、僕の顔見てものすごい変な顔するんですよ。だから、彼は最後、フィラデルフィアに自分の遺作(《与えられたとせよ 1、落ちる水 2、照明用ガス》、1946-66年)も置いてったでしょ。そういうことに僕は、ものすごい反対したんですよ。それで、僕の顔見てニヤッと笑ってね。それで、超親切になったんですよ。僕が彼に文句言うようになってから。

由本:文句言うようになってから。

荒川:なってから。だから、この人は相当なやつだなあと思って。普通文句言ったら、グッバイなんですよ、この国は。アメリカも日本でも、ドイツでもどこでも。だけど…… 

由本:文句っていうより、反論ですね。違う意見。彼のことを、こう全部肯定するんじゃなくて。

荒川:そう。それで、亡くなった次の年…… 66年か67年か。

富井:68年じゃないですか。

荒川:それでそのとき、ティーニーに会いに行ったんですよね。そしたらね、彼は自殺してるんですよ。誰も言わないけど。あのね、(彼が亡くなった日)マン・レイ(Man Ray)とマン・レイの奥さんと、オーストラリアの女性の芸術家かと、その旦那さま、そしてティーニーと彼(デュシャン)で、ご飯を食べたんですよ。僕は次の日に行ったんですけど、また『グリーンボックス』(初制作1934年)を、1人1人に全部にあげたらしいんですよ。それで、マン・レイが「これもう20年前にもらってる。30年前にもらったから、同じものだ」って言ったら、「いや、よく見ろ」って彼が。そしたら中にね、遺言が書いてあったんですよ。

由本:ほんとに。

荒川:遺言っていうよりね、ものすごく不思議なやつなんですよ。ティーニーが言うには、「荒川、彼らが帰って、(デュシャンは)すぐ便所に行ってね、出てきてバッタンって、こういう風に倒れた」って言うんですよ。それで、2、30分前までものすごい元気だったのに、どうしてだって思って便所行ったらね。彼、変ちくりんな眠り薬飲んでたんですよ。普通(服用するのは)1つぐらいなの。そしたら一瓶全部、飲んじゃってた。それで「それを飲んだ」って言ったんですよ。(急に話が切り替わって)これ全部マン・レイの作品ですよ。

由本:そうですか。

荒川:マン・レイはね、よくオフィスに行くようになったんですよ、それから。そしたら、マン・レイが、「お前こういうもの欲しいか」って言うから、「いやあ」って言ったらね、「どれでも欲しいもの持ってけ」って言うんです(笑)。

由本、富井:(笑)。

荒川:いっぱいありますよ。20点か30点。

富井:ホントだ。

荒川:これ全部マン・レイです。こういうの。

由本:ほんとだ。有名なやつですよね、それも。

荒川:「キリコ(Giorgio de Chirico)が好きだ」って言ったらね、キリコも、ローマで訪ねて。マドリンが、どこへだったかな、わざわざ、インタヴューにも行ってるんですよ。この人はものすごく、変わった芸術家でしたね。絵とは全然違うことをしてたんですよ。だから「僕の言うこと全部わかる」って言うんですよ。ほとんどのことはね。稀にみる芸術家でしたよ、キリコっていうのは。デュシャンとキリコは、あるところではキリコの方がもっと遠くへ行ってたようなところがある。でも2人とも似てましたよ。まあいいや。変ちくりんなことばっかりになって。

富井:いや、面白い。

由本:ちょっと遡りますけど、マドリンさんに会われたのは、62年ぐらいだと思ったんですけど。来てわりとすぐ、だったんじゃないですか。

荒川:そう。62年のね、おしまいぐらいかな。僕はビザが問題でね。もう、お金は困らなかったんですよ。この、そういう変なことがあったでしょ。62年の半ばにはもう。

由本:もう全然困らなかった(笑)。

荒川:もう困らない。その代わりね、ビザがないんですよ。それで、学校入らなくちゃいけなかったんですよ。いっちばん簡単に入れるとこはっていったらね、ブルックリン・ミュージアムの学校(ブルックリン美術館のアート・スクール)があったんですよね。そこに行ったら、日本人の先生も1人、2人いたんですよ。それ、誰だったかな。

由本:新妻さんが教えてなかったかな。他は、誰だったかな。名前を忘れてしまいました。何人かいたんですけど。

荒川:1人か、2人いました。それでそこに入って、ビザがもらえたらすぐ止めた。そこにマドリン・ギンズが来てたんですよ。彼女は、バーナード(大学)とコロンビア(大学)を出てて、医学や科学を全部勉強してた。哲学も。それで、奨学資金もらったらしいんですよ、ここへ行く。それで、奨学資金もらったから来てたんですよ。

由本:彼女はアートをやってたんですか、そのとき。

荒川:少しね。だけど僕が見て、「お前全然才能がないから、止めろ」って言ったらね、そしたら、3週間ぐらいで止めちゃいました(笑)。

富井:絵を描く才能はないってことですか。

荒川:うん、そう。

由本:普通の絵を描いてらっしゃったんですか。

荒川:そう、描いてた。

由本:なんか再現的な、リプリゼンテーショナル(representational)な。

荒川:でも、なかなか面白い絵だったんですよ。女性の顔から、にんじんが生えてきたりね。

由本:じゃあどっちかっていうと、シュルレアリスティックな感じの。

荒川:そういうんではないけどね。どっかに絵があるな。

由本:その頃じゃあ、荒川さん、ビザのためにスクールに行かれたんですけど、何も作らなかったんですか。

荒川:もう何も。その代わり1つだけやったことあるんだけど、そしたらそれが、トップA賞もらったんですよね。箸にね、日本人の割り箸があるでしょ。

由本:ええ。

荒川:割り箸に、これぐらいの粘土を練って、その上にガーゼを引いてね、これぐらいですよ。今で言えばピッツァのような。そこに割り箸を1本、挿してね。それでそれを、学生の、なんか、全ての学生の…… 

由本:エキシビションみたいなのに、出した。

荒川:それに出したんです。そしたらそれが最高賞もらったんですよ。それで僕、辞めちゃったんですよ。どれぐらい行ったのかなあ。

由本:1年ぐらいは、行きました?

荒川:いや、そんなには行ってない。

由本:でも、ビザをエクステンド(extend)する必要はなかった。

荒川:あった。そのため、ビザがおりたときにもう止めた。だから、どれぐらい行ったかわからないけど。

由本:でも1年ずつしかおりないんじゃないですか。

荒川:いや、それがね、あの頃は全然違うんですよ。行って認められれば、ビザを(くれた)。チェンバースの近くにあったんですよ。その人が何をやろうとしてるかわかれば、ビザをおろしてくれる。それで僕はものすごく大きな声で言ったんですよ。「科学者だ」って。そしたらもうスッと、信用されて(笑)。

富井:じゃ、学生ビザじゃないものに、すぐなっちゃったということですか。

荒川:そう、すぐ(笑)。

由本:なんのプルーフ(proof、証拠)もないのに。

荒川:何もプルーフない。

富井:大らかですね。

由本:ホントですか(笑)。

荒川:もう全然違いますよ、あの頃は。アメリカは、あの頃と今とはもう全然違います。第一ね、いいエピソードがある。僕は、オノ・ヨーコのロフト見つけたときに、家具も何もなかったでしょ。だから道を、夜や朝早く歩いてね。あのときに、みんなが捨てるんですよ、カウチ(ソファー)とかそういうのを。それで、じーっと見てたんですよ。そしたらポリスマンがさーって来てね、「お前何やってる」って聞くから、「これをあそこに持って行きたい」って言ったらね、「俺らが持ってってあげる」って。

由本、富井:(笑)。

荒川:それで、すぐ電話して、4人で運んで。すごいんですよ。(ソファーは)破れてるけどね。3階で、エレベーターがないんですよ。

富井:そうですよね。ウォークアップ(walk up)ですね。

荒川:ウォークアップ。それで、それを持って来てくれたんですよ。びっくりしてね、「本当にありがとう」って言ったんですよ。それで、「来週、あなた方3人のために、パーティーやりたい」って言ったらね、「ディナー・パーティーか」って言うから、「ディナー・パーティーだ」って言ったんですよ。それでほんとにディナー・パーティーやったんですよ。そしたらね、毎週のように僕のとこに来てね、「お前、イスかなんか見つけたら、俺らに言え」って。

由本、富井:(笑)。

荒川:それで、ほとんど、キャナル・ストリート(Canal Street)に行ったりとか。それで、見つけたらね、「俺を呼べ」って言うんですよね。この辺で、チェンバースの辺で、ほとんど見つけたんです。それでだから僕の家具は、全部拾い物だった。何ひとつ、買ったものはなかった。本箱も全部。

富井:でもそれをポリスが運んでくれたっていうところがすごいですね。

荒川:すごいですよ。

由本:聞いたこともないですよ、そんなの。

富井:普通、道から拾ってくるっていうのはよく聞くんですけどね。

荒川:それぐらい、あのときのポリスは、今と違ってた。しかも外国人でしょ。それにそんなことやってくれたんですよ。

由本:その頃、戦後そんなに経ってないんですけど、ジャップはどうのこうのとか、そういうのは全然なかったんですか。

荒川:それがね、不思議なんですよ。あんまりそういうことが起こらなかったね。例えば、僕のビルディングの4つ目にね、スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)なんて住んでたの。それで、ポンと突き当たったことがあるんですよ。

由本:でもその辺て住んじゃいけないところだったんでしょ、その頃。トライベッカ(TriBeCa)の。

荒川:いや、住んでいいです。

由本:あ、住んでもよかったんですか。

荒川:もう、スーザン・ソンタグたちも住んでたから。それで、その名前がファミリアー(familiar)だったんですよ。それで、「俺の名前知ってるか、荒川だ」って言ったらね。僕の顔見て、「知らない」って。

由本、富井:(笑)。

荒川:それで、3、4年経ったのかな。ドワンで、ショー(Dwan Galleryでの個展、1966年か)やったときに、ヴァージニア・ドワンが「お前、少々有名なやつ知らないか」って言うから、マルセル・デュシャンの他に、誰でも知ってるようなアンディ・ウォーホルとか全部言ったらね、「そういうの全部呼ばないか」って言うんですよ。そん中にスーザン・ソンタグ呼んでやったんですよ。そしたらみんなが、「どうしてこんな女がここにいる」って。

由本、富井:(笑)。

荒川:変なことがいっぱいあったんですよ、あの頃は。

由本:彼女は評判高かったですか。

荒川:いやあ、あの頃はもうすごい、評判があって、みんな誰でも知ってたんですよ。それで僕のことを知って、びっくりして。しかも、マルセル・デュシャンなんかが横にいたりしたでしょ、アンディ・ウォーホルとかも。そしたらびっくりして彼女、「お前、何をやってる」って言うから、「これだ」って言ったら、「絵ではないなあ」なんて。「でもこれは画廊だよ」って言ったら、「なるほど」なんて言ってたけど。彼女は、あまり才能のある人じゃないけど、ある意味でジャーナリストだったのね、いい意味で。

由本:その頃までに、ゴジラの批評とか、書いてますよね。

荒川:そうだろうね。よく会いましたよ。でも、話すことは何もないから。僕の友達のことばっか聞きましたよ。アンディ・ウォーホルとか、ジャスパー・ジョーンズとか。だけどアンディはね、どうしてあんなに親切にしたか知らないけど。今から思えば、数字のあれ、全部持ってくればよかった。「どれでも荒川、好きなもん持ってけ」って。

富井:あ、そのときも(笑)。

荒川:一度も持ってきたこともない。それからジャスパー・ジョーンズもね、アメリカのフラッグなんか描いてたんですよね。それで、マドリンと一緒に行ったときに、「お前、旗でもどれでも、好きなの持ってってもいいぜ」って言うから、「俺は知らない、俺はいいよ」って言ったら、マドリンがね、「じゃ、1つもらってこうか、これもらってこうか」って。「荒川、お前の絵1点寄こせ」って言うから、僕はあげたんですよね。そしたら「どれでもいいから持ってけ」ってね。でも一度も持ってこなかったんですよ。そしたら今になってね、持ってきとけばよかったなって(笑)。

由本:1点だけで50億の世界ですよね。

荒川:最近、彼のボーイフレンドだったやつが、「荒川、お前のことを知りたいから」って言って、ジャスパーの家の電話番号をくれたんですけど。マドリンが、「今からもらいに行こうかなー」って(笑)。

富井:今からじゃもらえないんじゃないですか。(笑)。

荒川:いや、ひょっとすると今でも、寄こすかもわからないじゃん、僕たちに。まあ、いいや。変な話ばっかだね。

由本:いやいや(笑)。でもホントに面白いですよね。

富井:いや面白いです。そういうのはちょっとこの本(注:塚原史著『荒川修作の軌跡と奇跡』、NTT出版、2009年)には、載ってないみたいですが。

由本:あの、マドリンさんのお話になったんですけど、ちょっと聞きにくいんですけど、その前に平岡(弘子)さんと、ご一緒でしたよね。

荒川:ほう。平岡さんのところはね、こちらではないんですよ。

由本:ネオダダのときに。

荒川:僕が阿佐ヶ谷にいたでしょ。そのときにね。そんなに長くないんですけど、「こんな変なとこにいるんなら、私は阿佐ヶ谷に家を持ってるから、来ませんか」って言ったから。それで、一部屋貸してくれた。そのときいつまでいたのかなあ。

由本:彼女のご家族じゃなくて、彼女1人が家を持ってたんですか。

荒川:いやいや、弟と。上にも誰かいて。それで、僕がこちらへ来るちょっと前に、移ったんですよ。いつごろだったのか、もう忘れちゃったねえ。

由本:それは、ネオダダで知り合ってっていうことですか。

荒川:いや、ネオダダじゃなくてねえ。いや、ネオダダかもわかんないね。

由本:最初だったでしょ。彼女が、わりと展覧会に出したりしてたのは。荒川さんも、途中からもうほとんど出さなくなって、ネオダダからこう…… 

荒川:いや僕はもう、1回だけだったから。

由本:ええ。彼女も、後半は何もしてないと思うんですけど。

荒川:あ、そう? 僕が(アメリカに)来てからもやってたでしょ、確か。

由本:それじゃ私が何か、誤解してるのかもしれない。

荒川:やってたはずだ。

富井:今、平岡さんの話が出たついでに、先ほど、日本にいるときには、東野さんとか、江原さんとか、いろんな方がサポートしてくれたと言われました。ニューヨークにいらっしゃってからは、そういう東野さんとか、サポートしてくれた人たちとのお付き合いっていうのはやっぱり、そのまま続いてたんですか。

荒川:東野とね、江原と、瀧口さん。瀧口さんなんかはここ来て泊まったこともあるんですよ。市川浩とか、三浦雅士とか、そういうのはもう…… 市川浩なんか、この部屋に半年以上、住んでました。『意味のメカニズム』(リブロポート、1988年。ドイツ語初版は1971年)を訳すのに。それから東野はね、もう来るたんびに、「荒川、デュシャンのところへ行こう。デュシャンところへ行こう」なんてね。それで、「俺はもう今日、先週会ったから、今日は行かない」って言ったら、「でもティンゲリー(Jean Tinguely)と、ティンゲリーの奥さんが来てるから、一緒に行かないか」って言うから、「そうか、じゃあ行こう」って。それからティンゲリーの奥さん、なんて言いますかね。

富井:ニキ・ド・サン・ファール(Niki de Saint Phalle)。

荒川:彼女と、ティンゲリーと僕と、東野で、3度ぐらい行ったんですけど、僕が、家ん中入って行かないから、ティンゲリーたちは、「荒川、お前、そんなに嫌いか」なんて言うんですよ、デュシャンを(笑)。「いや、昨日かその前会ったばかりだから、俺は待っててあげるよ」って言ったら、「入って来い」とかって東野が言うから、まあしょうがないから、入って行った。それから、ティーニーがね、「あいつらは、喋らせとけばいいから、私と2人でご飯食べない」(笑)。

由本、富井:(笑)。

荒川:ティーニーも、ものすごい良い人だった。

由本:家族扱いですね。

荒川:そう、もう完全に、僕はデュシャンの家では家族扱い。孫かなんかだと思ってたんですよ。

由本:孫かなんか(笑)。

富井:精神的な孫ですよね、きっと(笑)。作品の上で。

荒川:いやあ。だから、完全に信用されてたみたいだね。

富井:あと、宮川淳さんなんかは。

荒川:宮川はね、よく知ってるんですよ。宮川は、いろんなことで、相当中まで入って来たんですけどね。しかも、僕がマーグ画廊(Galerie Maeght, Paris)でやってるとき(1977年)に、すごいんですよあれ。マーグの一番偉い、エーメ・マーグ(Aime´ Maeght)がね、「荒川、お前、俺の画廊嫌いだそうだな」なんて言うから、「俺は有名な画廊なんかいらないんだ」って言ったらね、「じゃあ、お前スタジオいるだろう」って言うから、「いやあ」って言ったらね、「ランボーの住んでた部屋を知ってるから、カフェ・クーポール(La Coupole)から4ブロック横だから、そこへ来ないか」って言うから、「そりゃいいね」って言って行ったの。それで、そこを借りてくれたの。僕、お金出さなくてもいいんだよね。「その代わり、荒川、ここで作った作品を俺のところで見せろ」って。そしたら日本から手紙が来て、宮川が「荒川、あなたはランボーの部屋に住んでるそうですね」とか言うから、「そうだ」って言ったら、来たんですよ。そしたら江原順もいて、4、5人の芸術家がいたんですよね。それで夜、夕方何時ぐらいかな、6時か7時ごろ来てね、「僕たちご飯食べ始めるから、(宮川も)来て。お腹空いてる」って、食べ始めたの。そしたら、1人フランスの女性が来てね、ドアをノックしたんですよ。それで、僕がドア開けたらね、「お前、藤田の息子か」なんて言って、藤田嗣治の。それで、「そうじゃない」って言って、「誰だ」って言ったら、「知らないか。私は、恋人だ」って。そこに住んでたらしいんですよ、藤田嗣治が。そういう偶然があった。それで、宮川、3時間ぐらいいてね、ものすごく変なことやり始めたんですよ。それで、江原が、市民病院連れてったんですよ。そして、その次の日に、大病だとか言って、手術をするってことになったんですよね。それで、僕は見舞いに行ったんですよ。平沢とかいう女性の写真家がいて(注:平沢淑子、パリ在住の画家)、こんなに写真撮ってあるのですよ、僕と一緒の。あの、佐谷画廊で展覧会やったんですよ。

由本:へぇー。

荒川:それでね、次の日かな、僕のオープニング(マーグ画廊、1977年)があって。(宮川は)担架に乗って、こうやって4人で持ってて、それで展覧会を見たらしいんですよ。

富井:へぇー。

荒川:それで、奥様から電話があって、僕が2日ぐらい見舞いに行って、「フランスにいちゃだめだから、宮川、すぐ帰れ」って言ったら、帰って亡くなっちゃったんですね。

由本:ああ、そうなんですか。

荒川:だから、ものすごい無理してたんですよ。もう来ちゃいけないようなときに、飛行機に乗ってったんですね。だから、未だに奥様は、僕のこと怒ってんじゃないかな。

由本:それがじゃあ、最後で初めての出会いなわけですか。

荒川:宮川に会ったのは、いや、それとね、他の日に、パリで何度も会ってます。

由本:あー、なるほど。

荒川:いや、その他に。だけど彼は、僕の絵やなんかのことよりも、僕の考えをいろいろ知りたがったみたい。でも最後は、いろんなこと、相当込み入ったことも書いてたけど、彼はどうしても僕の思ってることが、わからなかったんですよ。リバーサル・デスティニー(Reversible Destiny)、宿命を反転するとかね。そういうこと、どうしても彼は…… こう、僕は半分、宗教でも信じてると思ってた、みたいなところが少しある。日本の人はみんなそうです。でも、渋沢孝輔(たかやす)とか、瀧口修造とか、ああいう人たちは違いましたね。あの詩人の岡田隆彦なんかよく来てた、ここに。あれはよくわかってて、もう心酔しちゃって、大変だったんですよ。だから市川さんが来たときにね、あそこに連れてってあげて、泊まったんですよ。あれ、なんていう場所だかね、いまだに、自動車に乗らないで、馬に乗ってるところがあるでしょ。あの、ここから2時間か3時間行って。

由本:ああ、シェイカー(Shaker)ですか。

荒川:そう。あそこへ連れて行ってね。

由本:シェイカーっていうか、アーミッシュ(Amish)の村ですね。

荒川:アーミッシュのホテルに泊まったんですよ。2日ぐらいね。そしたら彼、えらく感動してね。「なんだ、こんなところがあるのか。アメリカで」。夕食を食べるとき、日本の明治時代みたいに、こんな大きな皿に全部置いてあるんです。それをこうやって、自分で取るんですよ。それがね、日本の食事に似てるんですよ。それで彼はえらく感動してね。それでここへ戻って来て、「荒川、どうしてあそこに俺を連れてった」って言うから、「ああいうコミューナル(communal)な社会っていうのを早く作りたいんだ」って言ったら、「芸術家でどうしてそんなこと考えてる」って言うんです、彼は。それで、こんがらがっちゃって、彼は。ものすごく困ったらしいんですよ。亡くなる前まで、困ったらしい。「荒川、どうして、ああいうコミューン(commune)なものを、お前は作りたい」って言うから、「新しい常識を作らないといけないんだ」って言ったんだ。でも彼はどうしてもわからなかった。

由本:そういうこともあって、あんまり日本には、帰られてないですよね。南画廊や、いろんなところで、個展はされてますけど。

荒川:18年間ぐらい帰らなかった。

由本:18年間も帰ってない。その代わりヨーロッパでの個展が多くて。デュッセルドルフに始まり…… 

荒川:もうほとんど、だいたい1年に2、3回やってましたよね。そうだから、仕方なくどうしても絵を描かなくちゃいけなかったんですよ(笑)。それでさっき言われたプリントみたいなこともやり始めた。もう絵を描いておられないから。プリント1つ作れば、いろんなこう回せられるでしょ。

富井:じゃあどっちかっていうと、画廊が展覧会したいって言ってくるので、作品を作ってたみたいな感じですか。

荒川:ああ、そんなとこもあるね。

富井:《意味のメカニズム》は、でも、デュシャンに見せられてから。

荒川:あれは、独立して、やったんだ。でも、71年にそれができちゃってからはね、2、3点同じもの作ってたんですよ。だから今、全部、下に残ってるのは、あれ一番最初のオリジナルで。堤(清二)がここへ来たときに、「これ、俺に売れ」って言うんですよ。

富井:西武の堤さんですね。

荒川:そうそう。でも今はもう、僕に近寄らないんですけど。傍へ行くと、逃げてっちゃいますけどね。あの、変な本出したでしょ、僕が。

由本:変な本(笑)。

荒川:『意味のメカニズム』(初版:Mechanismus der Bedeutung, Munich: Bruckmann, 1971)まではわかったんですけどね。フランスであの本出して(Pour ne pas mourir/To Not To Die, Editions de la difference, 1987)から、もう最近のなんかは…… こないだも来たんですよ、ジャパン・ハウスが。

由本:ジャパン・ソサエティー(Japan Society)ですか。

荒川:そうそう。

由本:ジョー・アール(Joe Earle)ですか。今の、ジャパン・ソサエティーのディレクターですか。

荒川:いや、知らない。

由本:あ、違う。

荒川:いや、そのときに、この本あげたんですよ。

富井:『死ぬのは法律違反です』(英語版:Roof Books, 2006、日本語版:春秋社、2007年)。

荒川:そしたらね、こうやって置いて、「僕、いらない」って。

由本:「いらない」って言われたんですか(笑)。

荒川:なんかそんな風だった。三浦もそうだった。でも、マドリンの本、今月か来月出すらしいけど、『ヘレン・ケラー or 荒川』(英語初版:Helen Keller or Arakawa, Burning Books, 1994)ってね。だけども、どうかなあ。どうしてあんなにコンサヴァティヴ(conservative、保守的)になっちゃうか知りませんけどね、日本。みんな、ものすごいコンサヴァティヴになっちゃってるね。

富井:でも、いろいろ、作品作っておられますよね。奈義町(現代美術館)の、龍安寺の石庭のようなやつ。

荒川:いやあ、いやいや。作品ていうよりね、みんなここで、80年代の初めぐらいから、モデルを作ってたんですよ、いろんなの。それで、これはもう30年ぐらい前からやりたくて、今、話し合いが進んでるのは、高知のね、なんとか川ってあるでしょ(注:2008年2月8日の高知新聞に視察の様子が載っている)。

由本、富井:四万十川。

荒川:四万十川。あの近くで、今、新しい宿命反転の村を作ろうって言うのでね。どこまで行くかわかりませんけど。それと東京プロジェクトの、新橋の駅の上とかね。東京の駅の上に全部、そういうもの作ろうっていうのが。電通の偉い人たちが、「荒川さん、やりませんか」って来たから、「どうしてだ」って言ったら、「荒川さん、ここまで自殺する人が多いと、荒川さんのようなものがどうしても必要だから、私たちが頑張るからやりませんか」って来たんですよ。それでいろんなの作ったんですよ、僕たち。

由本:へぇー、電通がですか。

荒川:電通が来たんですよ。

由本:すごいですねぇ。

荒川:それで、こんなの作ってるんですよ(何か紙を広げる)。これ、でも、どこなのかな。西王子近郊辺りかな。

由本:新橋の上っていうと、デパートの屋上みたい感じですか。

荒川:そうそう、そういうのを作ろうと。

由本:面白いですね。

荒川:いい土地と、オールド・ホームとかなんかでね。それで、どちらにしてもまだね、僕があまりにも過激過ぎるから、その、河本(英夫)さんなんか分かってるけど。こんな本、『哲学、脳を揺さぶる』なんて本を、書いてるでしょ(注:『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』、日経BP社、2007年)。昔の僕の論理なんか、40年ぐらい前の、書いてんですよ。だから、でも、これ逆さまに写真を載せたりして(笑)。

由本:ああ、そんなの有りですか(笑)。

荒川:でも今のところはね、どこまで上手くいくか分かんないけど、世界中が動き出してるのは確か。科学者が付いて来たからね、ほとんどね。だから、今、ひょっとすると、ヨーロッパのが早くなるかもわかんないんですけどね。明日か明後日もノルウェーとかね、いろんなところから来るんですよ。みんな科学者なんですよ。科学かね、新しい哲学をしてる人たちですよね。芸術家はもうほとんどいない。ゼロです。

富井:荒川さんじゃあそういう、むしろ芸術じゃない科学の分野の人と、上手く交流できるようになって、仕事しやすくなりましたか。

荒川:少しね。しやすいっていうより、向こうは、僕が話してるとすぐ分かるからね。向こうの人は分かる。芸術家は1人もわからない。芸術やってる人は。

富井:建築家とはどうですか。

荒川:もう建築家はゼロです。

由本:建築家もゼロ(笑)。

荒川:例えば磯崎(新)なんて、あれ、40年以上の友達ですよ。

富井:そうですね。

荒川:それなのに(彼は)、「荒川、『建築する身体』を、80%直したら、読んでもいい」って(『建築する身体-―人間を超えていくために』、英語初版:The University of Alabama Press, 2002、日本語版:春秋社、2004年)。

由本、富井:(笑)。

荒川:それで最近、これまた送ってきたけど、J.-L. ルセルクル(注:Jean-Louis Lecercle、『建築する身体』の2008年新版で序文を担当)ってフランスの哲学者なんですよ。絶賛してるんですよね、こんな本は歴史になかったって。それでそれを(磯崎に)送ってやったのにね、何も来ない。だから、あの人たちはもうね、どれくらい古いかって言ったらね、僕の小学生ぐらいのときの頭しかない。中学生じゃないですよ、もう。

由本:話が前後しちゃいますけど、あまりネオダダの話は聞いてなかったので。その頃からもう既に、篠原(有司男)さんとか、磯崎さんとか考え方が全然違うなと思われてたんですか。

荒川:もう、(違うってことを)向こうが知ってたんですね。だから、僕を追い出しちゃったわけですよ。

富井:どうして荒川さん、じゃあ最初に入ってたんですか。

荒川:いやいや、半分入れられちゃったんですよ。

由本:入れられちゃった(笑)。

富井:誰に。

由本:吉村(益信)さんかなあ。

富井:赤瀬川(原平)さんですか、名古屋だから。

荒川:いや、みんな。吉村も、あいつが近くに住んでたんですよ。あの、今君が言った。

富井:ギューちゃん? 篠原さん。

荒川:ギューちゃんだ。でもあいつはもう、生まれたてから、ああいう人だから。

由本:社交的だし。

荒川:芸術家になるっていうより、もうエンターテイナーだね、ああいうのは。

由本:引っ張り込まれたわけですか。

荒川:というよりね、僕も変なことやってたから、こういうのが必要だって思ったんでしょうね。

富井:じゃあ、読売アンデパンダンとかで知り合われてたんですか。

荒川:そうそう。

由本:でも、赤瀬川さんとはもっと前から、知り合い。

富井:ムサビ(武蔵野美術学校、現武蔵野美術大学)だし。

荒川:いや、あそこでは会ってないけど、高校でちょっと会った。僕が高校、(学年を)下りちゃったんですよ。そんときに、肺病だって言われてたから。

由本:ああ、そうなんですか。

富井:休学なさったんですね。

荒川:休学しちゃった。入ったんだけど。あの頃はね、もう、考えは今思ってるものを持ってたんですけどね、ここまで現実に、社会に出して行くっていうのはなかったですよね。もう個人的にやるよりしょうがないって思ってたから。こちらへ来てもね、最初、デュシャンに会うまではそうだったんですよ。デュシャンに会ってね、これほど偉大なやつがね、未だにインスティテューション(institution、制度)を破らない、壊そうとしてないっていうのが分かってね、それでちょっとびっくりしたんですよ。

富井:なるほど。

由本:63年でも、パサデナ美術館(Pasadena Museum of California Art)でね、回顧展したりしてましたよね。デュシャンはね。結構ちやほやされてるみたいで(笑)。

荒川:そう。だから、彼はもう少し、外に出た人ですけど。半分以上、99%、申し訳ないけど、全然信用してなかったから。

由本:それでも美術館は信用してたっていうのは、もう。

荒川:だからインスティテューションっていうものを壊すと、自分のアクションっていうものが、どこにも残って行かないっていうのは知ってたから。だからそういうものを残したいっていうのは、あったろうね。

由本:そういう矛盾から、自殺に至ったと。

荒川:だろうね。レイ・ジョンソンもそうだけど、自分で飛び込んで、自殺しちゃったんですけど。

富井:荒川さんの場合は、一応先ほどから、「ここの美術館にこの作品があるよ」とかいう形で、おっしゃって下さってるんですけども。それが残ってるっていうことは、それほど重要なことではない、ご自分にとって。

荒川:ないですね。全然、ああいうものはなくなった方がいいと思います。

富井:それじゃあむしろ今、いろいろこうプロジェクトのスクラップっていうか。

由本:これを作るための資金がいるために、それのためでしかないわけですか(笑)。

荒川:そうそう、それでやったんです。だけど、僕の作品がものすごい値段で売れるようになったときに、絵を止めちゃったから、世界の画廊がものすごい怒ってるんですよね。20か30あったからもう、昔は。アメリカなんかもう、ちょっとどころじゃないですよ。ドワンなんか、ものすごい怒ってますよね。一番高くなったときに、僕が絵を止めちゃったでしょ。

富井:じゃあ今はこういうものは、別に画廊とかが欲しいとは言わないんですか。

由本:モデルだとか、ドローイング。

荒川:作らないですよね。あそこの、グッゲンハイムで、一度したでしょ(「宿命反転−死なないために」展、グッゲンハイム美術館ソーホー、1997年)。

由本:ええ、これですね。

富井:1階の方で紹介されてましたよね。

荒川:だけど、もう、そういうものをね…… 僕たちのやってることをもし認めたらね、建築会社も、建築家も、芸術家も、哲学者も、科学者も、全部自分の今までやって来たこと、ご破算にしなくちゃいけない。だからみんなとらないんですよ、そう簡単に、今ね。だから、シティ・ホール(注:ニューヨークの市庁舎。市長のオフィスや市議会などが入っている)なんかね、しょっちゅう来るんですよ。それで、「荒川、イースト・リヴァーか、あそこを……」って。それでこれ(《バイオスクリーヴ・ハウス》、2008年)作ったんですよ。

富井:あ、これそうなんですか。

荒川:そうそれ。それでね、「荒川、やれば必ず出るから」って言うので、昔のコレクターを全部集めたんですよ。ここに、20名ぐらい。そしたら、みんな「ノー」って言いました。1人も「OK」って言わないんですよ。ということは、このままできちゃったらね…… まずこう言ったんですよ、「朝ちょっと変だなあと思ったら、お医者さんに電話しなくても、そこへ行けば、日本である交番みたいなものを、ニューヨークにいっぺん作ってみないか」って言ったの。それでそこ行って、身体見たら、老人も若い人でも誰でもね、小学生でも。そしたら、「これなら、このお医者さん、これをやられている」。「それをタダで見られるところを作ったらどうだ」って言ったらね、シティはもうこんなんなってるんですよ(注:感嘆して興奮している様を示す)、「やりたい」って。

富井:あ、そうなんですか。やりたいんですか。

荒川:そう。やりたいんですよ。シティ・ホールは、僕に。

富井:それは、シティ・ホールのカルチャー・デパートメント(注:The New York City Department of Cultural Affairs、市の文化部のこと)とかじゃなくって。

由本:パークスじゃないの。パークス・アンド・リクリエーション(注:The New York City Department of Parks & Recreation、市の公園部のこと)とか。

荒川:ノーノー。あのね、シティ・ホールの、2人の偉い人がいるんですけど、それが町を作ってるんですね。その人がね、「荒川、そんなもの、俺も作りたくてしょうがないよ」って言うから。それで、グッゲンハイムの館長、こないだ辞めたの誰だったかな。

富井:トム・クレンズ(Thomas Krens)。

荒川:トム・クレンズ。トム・クレンズに、「これ、グッゲンハイムの分館のようにしたらどうだ」って言ったらね、「いいなあ」って言うから。それで、上の方全部、お泊りの人が安くて泊まれる、1日泊まったら自分の身体をどのように使うかができる、便所も、ホールウェイ(hallway)も全部。「大変だぞ」って言うんです。「外歩かなくても部屋の中歩いてるだけで、半日、必要なんだ」って言ったらね、「便所行くのにお前、ヘヴィーになるじゃないか」…… そしたら、「かー、そんなのできたらどういうことになるんだろうなあ」って言うので。それで彼も段々最初、ワーって言ってたけど、こうなってたの。というのは、今あるものを全部変えなくちゃいけないからね。それで、例えばこれが今問題になってるのは、いいですか、サザビーに今勤めてる女性(リサ・デニソン、Lisa Dennison)は、あそこに勤めてたんですよ。画廊に、3、40年前。で、彼女がこれ(《バイオスクリーヴ・ハウス》の企画書)を自分で、持ってったんですね。

由本:ドワンですか。ドワン画廊に。

荒川:ノー。ドワンじゃなくてね、ドワンよりもっと前の。それでね、今は、リサ・デニスンって、これをやった人ですけどね。

荒川:見せるとね、みんなビリオネアですよ、「荒川、俺、5つも6つも持ってるけど」、何十億円ってやつをね、「それが一体、これ(《バイオスクリーヴ・ハウス》)を俺が手に入れたらどうなるか」ってそんなことばっかり考えてる、みんなお金持ちは。それでこれ、「4、5億円でいい」って言ったらね、僕ねこれ損して売ってるんですよ。フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)の家と、1エーカーのハーフが、2億何千万円なんですよね。今だったら、もう3億円以上なってる。これものすごいお金かけてるんですよ、8年。それ2億円もしないで売ろうとしてるんですよ。4、5億円で売ろうとしてるんですよ。これ売ったら僕たち損するんですよ、少し。

由本:そうですよね。

荒川:これ、土地も付きですよ。土地付きで家も付けるんですよ。あの、この家の他に家があるんですよ。立派な家が。

由本:おまけに、イースト・ハンプトンでしたっけ。

荒川:そう、イースト・ハンプトン。なかなか立派なところですよ。

由本:土地だけでかなりの値段になりそうなんですが(笑)。

荒川:だから、日本の人がね、誰か買いたいって人がいたらね、買っといたらね、ものすごいお金になるんですよ。それでね、税金を納めたら…… 日本のお金持ちこちらにいたらね、これ買ってね、グッゲンハイムに寄付したらね、どんだけでもお金取れる。「荒川、日本人で誰かいないか」って言ってるんですよね。これ寄付したらね、4、5億円のお金出すでしょ。そしたらね、10億円でも20億円でも僕たちOKって書くから。

富井:要するに評価額になるわけですね。

由本:ああ、タックス・リダクション(tax reduction)ね。

荒川:そう、タックス・リダクション。

由本:でも日本人の場合はどうなるのかな。

荒川:誰か、いたら言って下さい。

由本、富井:(笑)。

荒川:タックスを取りたい人がいたらね。これと、僕たちの《(意味の)メカニズム》は、どんな値段でも言える。世界に1つしかないものだから。どんなことでも言えるから。それでもみんな怖がるのはね、自分が持つとね、持ちたい人はね、最早こういうものたくさん持ってんですよ。そうでしょ。芸術作品も。だから僕たちの《意味のメカニズム》なんかを持っちゃうとね、今まで持ってたシャガール(Marc Chagall)とか、いろいろあるでしょ。ああいうものが、ちょっという間にもう、変なことになっちゃうんですよ。価値の変更があんまりにも、バーンと、360度来ちゃうから。ちょこっとならいいですよ。

富井:そうですね。

荒川:ドカンて来ちゃうから。それでみんな、こんなんなった(注:当惑した、の意)。

由本:まあでも可能性があるとしたら、ベネッセのような、あんな大きな島を持っているところにね。

荒川:それが一番いい。例えば日本で、これ(《三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller》、2005年)を、作ったときね。三鷹の不動産の人は、みんないろいろ集まって来て、三鷹の市長さんも全部集まって来てね、「そんなのできるんですか」って。作り上がったらね、みんな(笑)。不動産にしても全部、誰も付いてないですよ、今は。

由本:もう、付いてないんですか。でも、実際に住んでらっしゃるでしょ。

荒川:ああ、住んではいる。それ、僕たちが連れて来たの。だけど、どれぐらい古いかっていうとね、人が。希望持ってないかっていうとね、もうお話にならない。

由本:あの、《養老天命反転地》(1995年)はまだ、ちゃんと運営されているんですか。

荒川:あれは、日本中で、国が作ったもので、一番お金が入って来る。

富井:儲かってるんですか、じゃあ。儲かってるって言ったら変ですけど(笑)。採算取れてるんですか。

荒川:一番採算が取れてる。

由本:それはそれは。

荒川:それからあれも、奈義の作品(《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》、1994年)もそうですよ。

由本:奈義の、遍在の場、心。

荒川:そうそう、いや心じゃないですよ。建築する身体。

由本:あ、そうですか。

荒川:奈義の龍安寺。

由本:奈義の龍安寺ですよね。

荒川:そう、遍在の。

由本:その他にも、83年ぐらいにヴェネツィアでも大型の建造物を制作する計画(1983年、ヴェネツィア市の小島マドンナ・デラ・モンテに「世界で最もスピリチュアルな装置」を設置する、実現せず)が。

荒川:あれはね、プリースト(priest、教会の神父)が全部来てね。プリーストが来て、「そんなもの作ったら俺らがどうなる」って言うんですよ。彼らがバッチャンとやっちゃったの。

由本:ああ、そうなんですか。カソリックのプリーストが。

荒川:だから、僕たちは内容を言わなかったらよかったんですよ。言わなかったら、作れたんですよ。そんなのやったら、ものすごい人が集まるから。でも内容を言ったからね、「なんだ、俺らにアゲインスト(against、反対)してるんだな」なんて、それでポチャンとなった。それから、エピナール(E´pinal)・プロジェクト(1983年、実現せず)もそう。

由本:なんですか、エピナール・プロジェクト。

荒川:あの、パリの。

由本:それは、パリの方の。

荒川:うん。長い橋作ったりして。あれも、そういうことで、だめになっちゃったの。

由本:86年に、シュヴァリエ勲章(L'ordre des Arts et des Lettres, le grade de chevalier)を頂いてますけど、そのときのアチーヴメントっていうのは、何に対して、勲章を頂いたんでしょうか。

荒川:今までにやった、全ての。

由本:全てのことについて。

荒川:そこにもあるでしょ、ガラスのオブジェクトが。

富井:あ、これ。

由本:それ、ジメリ美術館(The Jane Voorhees Zimmerli Art Museum)からもらったやつですね。覚えてますよ。

荒川:そう?

由本:そのときに私はあそこで働いてたんですよ。

荒川:あ、本当。

由本:はい、ラトガース(Rutgers)大学に行ってたので。

荒川:ああそう。とかね、なんかいろんな賞を外国でもらった。一番上の人は完全に認めてたんです。アメリカの財団からもらった賞、僕もうたくさんあるんですよ。断ったのもありますけど、「お前のようなやつが取ってくれ」って言われて、もらったんですよ。

由本:取ってくれ(笑)。

荒川:「断らないでくれ」って。

富井:もらってくれっていうことですね。

荒川:「もらってくれ」って。ヨーロッパもほとんどそうです。だから、なんてったら言いかね。僕の場合はね、あなたたちに何言ってもそう簡単に、分からないんですよ。この40年以上、倫理とかね、道徳とかそういうことじゃないですよ。そんなものを、覆そうとしてるんじゃなくてね。常識なんですよ。常識ってのがどれぐらい、僕たちの世界で、巣食っちゃってるか。もう、どうしようもないものがあるから。それを変えるためには、ものすごい大変なことが、必要です。

由本:身体(からだ)も含めてっていうことですね。

荒川:そう。いや、身体(からだ)も含めてじゃなくて、身体を中心にしてやってるんですよ。それを中心にしてなかったら、もう今頃僕は、ノーベル賞でももらってますよ(笑)。だけど、これを含めるから、身体が中心だから、今までの全ての哲学、昨日までの哲学が、用を成さない、僕たちに。だから、精神だとか二元論とか、全部そうでしょ。だから、この人たち、河本さんたちなんかは、システムの勉強して来たんですよ。だから、科学の哲学をずーっと。そうすると、これほど我々は、生命っていうものについて何も知らないのか、これほど、私たちの持ってるものを知らないのかっていうのを、この人は勉強してた。だからすぐわかった。だからそういうことを相当勉強してる人じゃないと。でも、わかってもね、スッと簡単に、こういう風に入って来ないんですよ。アメリカの場合なんかもうほとんど。今日来てた先生たちもね、もうこんなんなっちゃって(注:焦って当惑した、の意)。汗びっしょりになって(笑)、帰ってもらったの。

由本:汗びっしょり(笑)。

富井:ドイツの人ですね。

荒川:そう、みんな、こんなんなるんですよ(注:焦って当惑した、の意)。なぜかというと、自分たちを、全部変えなくちゃいけないから。だから、僕たちのやってることってのはね、今から100年200年経ったらみんな、ぼちぼち言うだろうけど…… どれくらい常識が侵されて変なものになっちゃってるかっていうのをね。それをプチンと切られると、どんな人でも、どうしていいかわかんなくなっちゃう。特にお金持ちはもう全然だめなんだ。いやあ、それから、哲学を勉強してる人とか、そういう人たちも。もう芸術なんかおよそ、だめですよね。

富井:じゃあ荒川さんが、今しようと思ってずっとなさって来たこととか、これから、続けて行こうと思ってらっしゃることは、だから逆に言うと、芸術しないっておっしゃってましたけども、そちら(芸術の)側から出てきてるから逆に、先に進んだことができたと思われますか。そういう、科学とか。

荒川:そう、今僕が科学の中にいたらね、動けないですよ。大学でもどこでも。哲学のとこに行ったら動けない。いわゆる、完全にフリーの世界に来たんですよ。

富井:まあ、芸術っていうかアート……

荒川:芸術って言っても、美術館からグッバイってしたでしょ。いわゆるインスティテューションからグッバイ。

由本:どこ、イン・ビトィーン(in between)みたいな。

荒川:だから、いわゆる、職業も何もないところにいるから(笑)。

富井:強いて言えばアーティストですね。

荒川:だから、結局最後にはそういうところになっちゃってるから。

由本:もうこれで47年間もマドリンさんとご一緒で、ずっと、共同というか、コラボレーションという形でなさってきてるわけなんですけども。

荒川:うん。

由本:そういう、この、死なないためだとか、共著ですとか、これらの全てのプロジェクトにおいて、どういう風に具体的に、協働なさってるんですか。

荒川:彼女はね、会って、1年半ぐらいですぐわかったんですよ。僕がやろうとしてること。それで彼女はそれを勉強してね。僕は、「ヘレン・ケラーの勉強しろ」って言ったんですよ。そしたら、「そんなくだらない、女性の、目の見えない人でしょ」なんて言ったんだよ。それで勉強したんですよ。それで、いろんなことを知ったんですよね。彼女は、「何だ、こんなことやろうとしてるやつがいるのか」ってものすごく勉強して、あの本書いたんですよ、『ヘレン・ケラー or 荒川』(Helen Keller or Arakawa, Burning Books, 1994)。それでその前に、そのあれをしてたでしょ、『意味のメカニズム』(1971年)。それを、ドイツにハイゼンバーグって、ノーベル賞もらった先生がいたでしょ。彼が「これ以上すごい本はないんだ」って、言い出したんですよね。それで、彼女はそれを聞いてびっくりしたんです。「どうしてこんな偉い先生が、哲学者や、科学者が、こんなすごいって言うんだろう」って。それで面白いのはね、彼女の方が僕よりあれを勉強してたんですよ。禅の勉強やら何かを。

富井:荒川さんもしてらっしゃったんですか。

荒川:いや、僕は。これを出すときにね。

富井:『意味のメカニズム』。

荒川:これを出すときに、これ、71年に出たんですね。これは彼女なんですよ。

富井:あ、表紙の。そうなんですか。

荒川:ああ、それでね、ドイツ人は、これが僕で、これが彼女だと思ってたんですね。

富井:あ、じゃあ逆ですね(笑)。

荒川:それで、これを出したときにね、グループマン(Jerome Groopman)とか、ハイゼンベルグとかね、あのグループが、「荒川、来年1年ベルリンに来ないか」って言うんですよ(注:1971年、ドイツ・アカデミー交流機関(DAAD)の招待によりベルリン滞在)。それで行ったんですけど。そのときにね、「俺らは世界の天才を30人ぐらい呼んでるんだ」って言うんですよ。それで、「俺は天才じゃない」って言ったんですよ。「天から授かってるもんじゃなくて、全然別なことしてるんだ」って言ったらね、「生命を勉強してるやつを全部、呼ぶ」って言うんですよ。それで呼んでね、面白かったのはね、僕、マインナーカ・ストラーダって、ベルリンの一番すごい道路に住んでたんですよ(注:DADDのあるマルクグラーフェン・ストラーセMarkgrafenstrasseのことか)。しかもね、僕たちの住んでた所は20ぐらい部屋あったんですよ。プリンスが住んでたんですよ、前。それでね、すごい面白いことがあったんですよ。この展覧会を、ベルリンの、ナショナル・ミュージアムが展覧会することになったんですね(Alte Nationalgalerie、1972年)。それで、どんな作品だったかな。あ、これだ、《エナジー・オブ・ミーニング》(注:《意味のメカニズム》シリーズ中のThe Energy of Meaning(Biochemical, Physical and Psychophysical Aspects)、日本語タイトルは《意味のエネルギー(生化学的、物理的、精神物理的諸相)》)。ここにあるのは、全部、最高に、立派な先生が作り上げた、公式なんですよ。みんなノーベル賞もらってるんですよ。その上に僕が「Mistake(ミステイク)」って描いたんです。

富井:ああー(笑)。

荒川:そしたらね、「あんまりにも酷い」って言うので、「展覧会をやめる」って言ってね。「この展覧会はできない」とか言ってね。

由本:それは、美術館が「できない」って。

荒川:ナショナル・ミュージアムのディレクターが(注:当時の館長、ヴァーナー・ハフトマンWerner Haftmann)。ドイツで、じゃなくてヨーロッパで一番優秀な…… それでね、あの、靴でね、それを破ろうとしたんですよ。

富井:おおー、それはすごい(笑)。

由本:ええー、そこまで怒ったわけですか。

荒川:それで、もう、ちょっとじゃなくて。そしたらね、2人の女性が横にいてね、足にしがみついたらしいんですよ。それで、アシスタントがね、僕に電話してくれたんですよ。それで、僕のところから15分ぐらいでね、歩いて行けるんですよ。自動車に乗ったら3分ぐらいなんですよ。だけど僕歩いて行ったんですよ。15分ぐらいかけて。それで、館長さんがいてね、カーって怒ってるんですよ。それで僕が、手を差し伸べてね、「本当にありがとう」って言ったんですよ。そしたら、彼は僕の顔を見てね、ものすごく不思議な顔をしてんですよ。「お前の絵を破ろうとしたんだぞ、俺は。どうしてありがとうなんだ」って言うから、「そんなエナジー・オブ・ミーニング(The Energy of Meaning)って、そのエナジーを俺は作りたかった。キャンバスじゃない。外側にあるエネジーだ」って言ったら、「なんだ、お前の作品はみんなそうなのか」。それでその演説をしたんですよ、オープニングに。

富井:そうですか。

荒川:それで、うわぁーってなったんですよ。世界中が。

由本:それが72年ですよね。

荒川:そう。

由本:それから巡回するんですよね。

荒川:それでね、世界中を回ったんですよ。彼(ハフトマン)はそれから、後から来たんですね。だけど彼はね、それから1週間経って、辞めちゃったの。その先生はね、「荒川、俺イタリア行って、15世紀の勉強するよ」って言うんですよ。「そんなくだらないこと止めろよ」って言ったらね、次の日にね、「ちょっと、俺もう辞めることにしたから」…… それがいかに変な人間だったか…… もう70歳ぐらいはなってるかな。なんていうのか、すごい有名な美術史家なんですよ。それでね、彼の部屋へ入ると、パウル・クレー(Paul Klee)の絵が2つあるんですよ。《音楽》っていうタイトルなんですよ。ただ色がこうやって、あるだけなんですよ。それが2つあって。それで、彼は1点買わなくちゃいけないんですよ。「荒川、こんなくだらないことお前に言ってもしょうがないけど、これ、どっちを買ったらいいだろうか」って僕に言うんですよ。「で、あなたはどうだ」って言ったら、「俺はこれに決まってる」って言ったの。で、僕がね、直観で、「こっちだ」って言ったんですよ。絵なんか見てないですよ、僕。ちらっと見ただけで、「こっちだ」って言ったらね、「どうしてだ」って言うんですよ。それからじーっと見てね、「お前、カンディンスキー(Wassily Kandinsky)って知ってるだろう」って言ったんです。「こっちの、この色は、音を出してるけど、これは出してない」って言ったんですよ。こうやって、立ってね、聴こうとしてるんですよ、音を。こうやって。

由本:(笑)。

荒川:それで、「いや、ほんとだ。荒川、これはほんとに聞こえる」って。それでえらく感動してね。「俺もう明日から辞める」って言うんで、次の日にもう、辞めたんですよ。だから、そういう立派な人もいるんですよ。だからね、辞めるって言ったときに僕は、「美術の世界に、あなたのような人は絶対いなくちゃいけない」って言ったんですよ。だけどね、「もう決めちゃったからだめ」って。(注:実際にはハフトマンが退職するのは1974年。)

富井:(笑)。

荒川:だから、立派な人。そういう人はね、世界に相当いたんですよ。僕、会った中で。だからもうみんな…… 例えばね、デリダ(Jacques Derrida)なんて知ってるでしょ、哲学者の。あれ、僕が最初に会った70年代の初めはね、もう僕たちをものすごくバカにしてたんですよ。だけど、少しずつ少しずつ…… それで、ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard)っていうのが、ものすごく、喧嘩ばっかりやってたらしいんですね、僕たちのために。それだけどもね、(デリダが)亡くなる4、5年前からね、どっこに置いたかな。こんなに手紙もらいましたよ。はがきをポンポン送ってくるようになったんですよ。それで最後に、僕たちの『建築する身体』(2002年)の、まだ本に出る前のを見てね、20何年経ってからね、感動したの。ああいうポストモダンの哲学者でも、自分のしてきたことをカッと変えることはもんのすごい大変だったんですよ。だから、たくさん会ってますよ。リオタールが僕たちのことをあんまりワンワンやったからね、フランスでは哲学者はみんな見たんですよ、僕たちの本。

由本:そういう中でいつも、マドリンさんは、協働しているアーティストとして見られるというか、どうしてもやっぱり、荒川さんの名前が先に出てしまうんじゃないですか。そういうことについては…… 

荒川:いや、そんなことない。あの、マドリンのすごいところはね、言葉をね、僕ができないことを、あんなに簡単に、簡単にではないですね。例えば…… 

由本:アーティキュレイト(articulate、思想を表現する)できる、という。

荒川:それよりね、言葉の組み直しをすることも上手いんですよ。例えば、クリービング(cleaving)なんてね、クリーブ(cleave)ってのはこうすることとこうすることを一緒にやる。そうすると、バイオス(bios)を付けると、バイオスクリーブってのは、生命学的に、引っ付くものと、離れるものが、同時に起こってるってことは、僕たちが目に見えないことですよ。触ることもできない。だから日本語では、気配なんて言ったんですね。気配を作るっていうのは…… それがいっぱい、しかもそれがランディング(landing)してるんですよ、どっかに。マドリンは、そういうこと上手いのね、「ブランク(blank)の上にも降りてくる」って言うんですよね、空(くう)のなんか、上に。そうすると、僕たちは一体何なんだ。そういうものを作り上げているもの。例えばそれを、言葉にできないわけ。だけどそれを彼女はね、言葉にすることが上手いの。英語でね。だから、例えば、あれほど上手いやつが驚いたんですよ。イタリアの作家で、僕のとこへしょっちゅう来たやつがいたの、亡くなっちゃったけど。僕たちのことをすごく書いたけどね。イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)。

由本:へぇー。

荒川:あいつはもう、凄かったんですよ、僕に(心酔して)。気違いじみてたんですよ。だから、僕の評論も、こちらでも向こうでも、いろんなものを書いてるんですよ。それでそのときにね、リバーサル・デスティニー・ターンを作ろうって、亡くなる5、6年前に来てね。それで、その前に映画を作りたいって言うんですよ、宿命反転の町の。それで、イタリアで作ろうって言うの。その代わり、監督はね、どうしても黒澤を呼んできてくれって言うんですよ(笑)。

富井:明ですか。

荒川:そう。

富井:(黒澤)清じゃなくて(笑)。

荒川:「黒澤明、どうしても呼んできてくれ」って言うんですよ。で、「俺知らない」って言ったらね、「あいつがやってくれたら、俺は、この映画、作ったけどな」って言うの。そりゃもう、変ちくなやつでした。なんかいろんなことが起こりましたよ、この何年…… 特にこの10年はね、科学のやつがあまりにも近づいてきてるから、あんまりこういうことは起こってないですよ。

富井:そろそろ2時間ぐらいなので。

由本:そうですか、丁度。

荒川:変なことばっかり喋ったね(笑)。

由本:いや、ちょっと抜けた質問がたくさんあるんですけども、まあだいたい。

荒川:またなんかあったらどうぞ。

富井:いろいろ面白いエピソードを聞かして頂いたから。

荒川:それ持ってって、そん中から入れてもいいですよ。(注:塚原史『荒川修作の軌跡と奇跡』、NTT出版、2009年)

富井・由本:どうもありがとうございました。