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有村真鐡 オーラル・ヒストリー 2012年12月5日

前橋市幸塚町、有村真鐡自宅にて
インタヴュアー:染谷滋、辻瑞生、住友文彦
書き起こし:宮谷奈津子
公開日:2014年2月8日
更新日:2021年3月17日
 
有村真鐡(1929‐)
1929(昭和4)年、長崎県大村市に生まれる。東京の千住を経て1945年3月、東京大空襲後に桐生に移り住む。桐生中学(現・桐生高校)卒業。50年、桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)卒業。同校在学中に美術部に誘われ、前橋の春陽会群馬研究会に参加し、南城一夫や横堀角次郎の指導を受けた。その後、シベリア抑留から帰郷したオノサト・トシノブを知り、晩年まで交流した。1951年自由美術家協会展に出品。以後、80歳を区切りに2010年まで自由美術展に出品する。1975年第18回安井賞展に《箱》を出品。1985年自由美術展で平和賞を受賞。群馬県内では、1951年にオノサトが創立会員であったため第1回連盟展に出品。翌年は連盟展と群馬県展に出品するが、それ以降は県展に出品し、1986年第37回展で山崎記念特別賞を受賞、2003(平成15)年には県展を運営する県美術会の会長も務めた。軍靴、箱、高校生シリーズと一貫して虚無感に対する現実社会へ問題提起する作品を制作している。

辻:それでは、始めさせて頂きます。時系列で生まれた時の頃から、だんだんと話を聞いて行きたいと思います。まず、有村先生がお生まれになったのは、昭和4年、長崎県の東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)という所ですね。

有村:ええ。

辻:福重村の寿古郷(すこごう)というところですか。

有村:ええ。寿古郷ですね。

辻:どんな所でしたか。その頃の記憶というのはありますか。

有村:その頃というのはね、大村湾に近く歩いて15分ぐらい、また、山にも近い所ですがね(笑)。なかなか良い所ですよ。そこは、母の実家なんですよ。父はね、早稲田に行っていて保護者だった姉のご主人が亡くなって、学費が出せなくなったのかな。それで早稲田の今で言うと、予科と言うのでしたっけ旧制は、大学の学部じゃなくて、その前の。要するに昔の高等学校ですよね、そこの電気科を出て、学費が出なくなったので、今の大村中学校(高等学校)そこへ数学の先生で赴任するんですよ。なんで、そこへ行ったかと言うと、鹿児島の時の中学校の恩師が、今の教育委員会にあたるのですかね。そこの指導主事のような立場にあって、それで中学校の数学の先生として(父を)引っ張ってくれたらしい。それで何年勤めたのか、3年か、4年か。

染谷:お父さんは、そもそもどちらのご出身だったのですか。

有村:鹿児島です。ほとんど兄弟が姉を残して皆亡くなっているんですよ。両親はもちろん。姉一人だけだったんですね。姉のご主人が学費を出してくれていたんだけども、その方も亡くなって、早稲田を辞めて、そこの中学校の先生になったんですね。それで、先生になったのは良いけど、その頃は高等師範を出てないと、なかなか給料が上がっていかない、というところがあったらしいんですね。校長の裁量で給料が上がったり、下がったり。それで、先生をやっていても駄目だ、と思ったらしい。そこは何年いたんでしょうね、はっきり分からないのだけど、僕が生まれてすぐぐらいだから昭和5、6年には東京へ出ちゃったのかな。先生やっていても駄目だ、他の事をしようと思って、東工大に行くつもりで東京へ行ったんですよ。数学の先生をやっていたので、あとは物理と英語か何かを勉強すれば何とかなったのかな。昭和8年に東工大に入るのかな。父親がこれから勉強しよう、っていうのに金がそんなにあるわけない。だから、(有村の)お袋の実家に頼ったのでしょうね。もう子供も二人、姉と私がいました。弟が生まれた時には東京の中野にいましたから、これは(弟誕生は)東工大に入る前の年ですね。行ったり来たりしながら、何とか東工大を出た、という感じかな。僕は小学校入るまでは、東彼杵郡福重村の寿古郷という所にいたわけです。小学校1年の夏休みに東京へ出てきたんだと思ったな。

辻:小学校1年生の夏ですね。

有村:夏ですね。東京千寿第二尋常小学校という所に入った。千住緑町にずっと、桐生に来るまではそこに住んでいました。

染谷:お姉さんと二人で住んでいた、と前に伺っていたのですが。

有村:それは、父がたまたま終戦の前の年に桐生の検査所長をやらないか、という話があった。戦争がまだ激しい頃、家族は大村(長崎県)に疎開させたんですよ。食糧事情もあるし。たまたまそういう時期に、終戦の前の年の19年に、あの頃繊維統制会って言ったんですかね、繊維統制会桐生検査所というのがあって、そこへ来たんですね。19年の暮れに長崎から疎開していたみんなを桐生に呼んで、そこの小曽根町に住み始めた。僕は中学校だったし、姉は専門学校に行っていたから2人は東京に残ったんですよ。

染谷:御兄弟は。

有村:7人。

染谷:有村先生は何番目ですか。

有村:2番目で長男です。姉がいて、僕がいて、二男、あとはもう全部女性ですけども、兄弟7人。

染谷:お姉さんがいて、有村先生、その下が男の子、女性が4人で7人兄弟。
先ほどの話で、小学1年生の夏の時、東京の千住の緑町に来た時は、家族中で来たんですか。

有村:家族中ですね。父が大学を卒業してね、千住にあった大和毛織という会社に就職をしたんですよ。そこの社長が持っていた借家みたいな家があって、そこを借りていたんですね。それでたまたま千住に来たんです。僕は桐生に来るまで離れなかった。家族は長崎に行ったりしていたけど、そこから桐生に来た。

染谷:7人のお子さんを育てるのは大変なような気がするのですが。

有村:大変ですよね。だけどその頃は普通だったでしょう(笑)。

辻:どんなお子さんだったのですか、有村先生は。

有村:まあ、普通の子でしょうね。そう出来る子ではなかったのだけど。(当時の学校では)不思議に出来る子を集めて勉強を教えるようなところがあってね。それで3人残って。あの頃は男女合併のクラスは1クラスあって、あとは男のクラスと女のクラス。たまたま僕がいたクラスの先生は、3人男の子を集めて、今で言うドリルを、残って勉強させたり。あとは、普通でしたね、絵は好きだったし。先生に褒められた記憶というのは、土瓶を描いたときに、土瓶の取っ手を外側にはみ出すように描いたら、「大きさが出ていて良い」と一遍褒められたような記憶があります。

染谷:それは何年生の時でした。

有村:6年生の時でした。そういうのはありましたが、特別に絵が上手かった、というのは無かった。ただ、皆と一緒に体操をするのが、僕はどうも好きでなくて、前の人が一斉に手を前に出したりしていると、反対のことをやったりするところがあって、順応性がないというか、へそ曲がり、というか。

染谷:妹や弟たちは、みな同じ千寿第二小学校だったのでしょうか。

有村:一番下の妹は桐生に来てから生まれました。あとは全部同じ。

染谷:それだけの兄弟のご長男というと、取りまとめ役をされていたわけですか。

有村:うーん、結局は子守だとか、何かすることが多かったのではないですかね。姉もいたけど、下の子の面倒を見る、ということはあったし。後になってからですよね、長男だから、ということで、やりたい事をやらせてもらえない、というのがでてくるのは。僕は、演劇と美術と一緒にやっていたから、本当は卒業するときに演劇の方に行こうかと思ったくらいだった。でも、親父に「河原乞食にだけはなるな」、と散々言われ、「お前があとは面倒を見るんだぞ」ということでしょう。長男というのはそういうことで、これはとても自由が利かないな、と思った(笑)。

染谷:話を戻して恐縮なんですが、小学校1年になるまでは長崎にいらっしゃって、その時の本当に小さい時の原風景というか、大村湾を見た記憶というのは、残っているものなんですか。

有村:前に川が流れていてね、その川が大村湾につながっていたんです。ちょうど家のところが曲がり角になるんです。よく洪水に遭ったらしい。僕が居た時には遭ってないのですが。とにかくきれいな川で鮎や手長海老がいたり。そういう所で遊んだ記憶がありますね。あの頃農家は牛ではなく、馬を飼っていて、周りが全部農家ですから、川に馬を洗いに来るんです。その裸馬に乗せてもらったり。爺さんが馬喰(ばくろ)をしていた。馬を買い付けて、売っていた。家の庭には去勢する場所があってね、櫓が組んであって、馬を入れて去勢するんですよ。去勢したあとのアレをまた皆で食べるんですよ。ほとんど生で食べたんじゃないかと思うんですよ。それがひとつのお祭りなんでしょうね、一年のうちに何回あるんだか覚えてないんだけど、とにかく大勢の人が集まって、それでそういうものを食べた記憶があって。

染谷:そういう所から東京に出てくる、というのは随分環境が変わったのでは。

有村:変わりましたね(笑)。

染谷:小学校の時の絵に関する記憶というと、その土瓶の絵ですか。

有村:うん、そうですね。

染谷:お父さんや弟に、特に絵が好きだった人は。

有村:弟は先生の所へ習いに通っていたんですよ。僕はそれはしなかったですけど。どういう訳か、その担任に言われてだか。担任の所へ絵を描きに行っていましたね。

染谷:先生は他の習い事をしてなかったのですか。

有村:他は何もしてないですね。その頃、男で習い事をするというのは、ほとんどないでしょ。ピアノがある家は1軒だけだったですから。

染谷:近くに。

有村:いや、1クラスの中で。あいつの家の側まで行くと、ピアノの音が聞こえる、というんでね(笑)。

染谷:小学校は1学年に何クラスもあったのですか。

有村:僕らの時は、男子が3クラスで、女子が3クラス。男女合併は1クラスかな。

染谷:当時って、1クラスの人数は多かったんですよね。

有村:50人位いたんじゃないですか。

染谷:父親が桐生に行かれたのが終戦の前の年ですか。

有村:ええ。たしか、19年ですよ。

染谷:その前に皆さん一緒に暮らしていた。ああ、疎開していた。

有村:疎開させていて、姉と父と僕は3人で東京にいた。

染谷:母親がみんな子供を引き連れて戻っていたんですね。

有村:それで19年に桐生に行ってからは、僕ら2人が残された。

染谷:東京での戦争の思い出とかありますか。

有村:小学6年生の12月に太平洋戦争が始まって、中学1年の時、アメリカ艦載機が飛んできた。戦争の時は、中学2年生で、疎開の手伝いで、今で言えば常磐線ですかね、北千住から松戸へ行く線が走っていますが、その道幅を広げたんですよね、爆撃された時に備えて。

染谷:爆撃の火事に備えて。

有村:道幅を拡げるために家屋を壊したんですよね。2年生になってからは、疎開作業の手伝いです。ほとんど学校へ行かないで。その沿線の所と、千住の遊郭があった所があるんですが、今ではあまり記憶してないが、その道も拡げた。

染谷:そういう風に、空襲に備えて、道を拡げるために家を立ち退かせていたわけですね。

有村:だと思う。僕らは、建具を外してどこか一箇所に集めて、あとは専門家が柱に鋸をいれて引っ張って壊しちゃう。あとは運び出すみたいな。

染谷:そうですか。

有村:そういう手伝いを2年生でさせられて、3年になってからは日立精機亀有工場という会社に、何とかテストというのを受けて、全部割り振りをして、「お前は旋盤」、「お前はフライス盤」、「お前はボール盤」という風に分けられたんですけども、そこからはずっと3交代で毎日作業ばかりですね。

染谷:中学校の名前を聞き忘れたんですけど。

有村:中学は、府立十一中学校。あれは、七中ぐらいまでが割合に古いのかな、その後のは新しいのではないかな。僕らが行った十一中というのはね、1年に入った時に5年生がいるくらいの新しい学校じゃなかったか、僕らは、5回生くらいになるのかな。新しい方ですよね。今は江北高校になってます。今の綾瀬駅が一番近いですかね。僕らがいた時は、綾瀬駅がなかったから、東武線で行って、小菅駅、その次が五反野だったかな。小菅駅というのは小菅刑務所がある所ですよね。その小菅刑務所の脇を通って学校へ通っていました。

染谷:結構遠かったのですか。

有村:いや、北千住の隣ですから。荒川を渡れば、もう小菅なんですよ。小菅の駅からは学校まで歩いて15分くらいはかかったのかなぁ。あの煉瓦塀の所をずっと通っていたんですね。

染谷:そうすると、中学で授業らしい授業というのは、してないんですか。

有村:2年の途中までやってすぐ疎開作業、その後授業をやって、3年になってからは無いんじゃないですかな。桐生に来た時は4年になって終戦になってからですが、数学なんかは、東京で1年の時と2年の途中からやっただけなのに、ずっと先へ進んでいましたね。

染谷:(笑)もう、やったことになっていた、という事ですか。

有村:いやいや、東京の方が進んでいた。

染谷:あ、東京の方が進んでいたんですか。

有村:「対数計算なんか、まだやってねぇんか」っていうくらい。向こうの方が。その頃は、軍関係の学校に何人入れるか、というのがひとつの目標だったんですかね、府立というのは。

染谷:割に、しっかりと教えていたんですね。

有村:それはもう厳しかったですね。それに、しょっちゅう軍関係に行った卒業生が講演に来たりね。この学校は良い所がある、と。何で良い所があるかと言うと、毎月10キロマラソン、というのがあったんですよ。それから年に1回40キロマラソンというのがある。

染谷:えー、フルマラソンですね(笑)。

有村:40キロマラソンというのはですね、千住からね、草加、粕壁を通って、大宮の氷川神社まで歩いたり走ったりして行くんですよ、それが40キロ。

染谷:はー。

有村:「そういう鍛え方をしたから、俺たちは学校へ行っても楽です」という風なことを言うものだから、ますますそれが激しく、エスカレートして行った(笑)。だから、学校へ行ったのは本当に少なかったけれどもマラソンなんかはやっていた1年の時、2年の途中から疎開作業、それが夏休み前に終わって、2学期から3年になるまでは学校に行ってましたね。3年になってからは、日立精機亀有工場に勤めた従業員ですよね。

染谷:絵を描いた記憶は、東京の中学時代には無いのですか。

有村:東京の中学ではね、絵はもちろん描いたことあるんですけど、美術の先生で長谷川先生という人がいたんですよ。その先生が背が高くて、ボソーとした先生でした。朝礼に出てくるとき、先生がみんな履いているゲートルを、その先生だけ巻いてないんですよ。不思議な先生だな、と思っていた。ある日授業の時、「僕は、多摩川が近くて、魚釣りを良くするんだけども、餌を撒くための袋が欲しいと思っている。袋で一番良いのは、豆腐を作る時の袋が一番良いんだって(笑)。誰か、豆腐屋のその袋を貰ってきてくれないか」と言った。たまたま、小学校の友達に豆腐屋の倅がいて、2つぐらいもらってきたのかな。それをその先生に持って行ったら、さっそく先生が梨なんかを持って来てくれて。その先生と親しくなったんですよ(笑)。その先生を知ったから絵を描くとか何とか、ということは無かったんだけども。ただ、授業の時は良く面倒は見てくれましたね。「ここは、もっとこうだろ、ああだろう」なんて事は助言してくれたりしましたけど。その先生が不思議な存在として映った、というのが僕にはまずひとつ印象として強くある。
当時、学校から帰るとき、何人か集まると上級生が「歩調とれ」と号令をかけ、校門を出るんですが、マラソン大会の後などは脚があがらないんです。そういうい時に軍事教官がいて、「なんだ!」と。全員平手打ちで。そういう時代ですよ、そういう時代に美術の先生がゲートルも履かないでそこに居る、というのが何とも不思議な存在でした。相当抵抗したのだと思いますよ。まあ、ああいう風には普通の人は出来ないだろうな、と。だから、美術の先生って凄いなって、その時思ったけどね。それが美術を自分でやるようになるとは思わなかった。やるようになってから、その先生の存在をまた改めて再確認しました。

染谷:東京大空襲の話をちょっと聞かせて下さい。

有村:東京大空襲の前後は毎日のように空襲があったんですけども、ほとんど着の身着のまま寝ていたようなもので、空襲警報が鳴ればすぐ、枕元の鉄兜と手荷物を持って、パッと外に出ていく、という感じだった。とにかく、3月10日はすごく広範囲に渡っての空襲だった。まったく、空が赤く見えるくらい。焼夷弾が落ちてくる時、付いている青い麻の紐が燃えながら落ちてくるんですね。それが、綺麗だ、というのはアレなんですけど、綺麗な感じで落ちてくるんです。姉はその時は工場に行っていていたのかな、東京大空襲の時は、僕はひとりだった。家が割り合い広かったので、夫婦と子供2人の4人家族に一部貸してたんですけど、小母さんが醤油瓶だの生活用品を出してきて「これを持って逃げて行ってくれ」と手伝わされて、そういうものを持って京成電車の西千住と千住大橋というのがあるんですけど、その広いグランドになっている所へみんな逃げた。戦時中のバケツリレーなんてものじゃ役に立ちませんよ(笑)。毎日のように訓練させられて。バケツ持って運んで、梯子登って、ジャーなんて。あんなことなんて出来ないですね。もうどんどん焼夷弾降って来るし。みんな逃げるだけでしょ。みんなそのグランドに逃げて、家族同士であっちこっちにたむろしているんですけど。幸いにその時は僕の家は焼けなかった。前と西の方は燃えたが、割とそこの一角だけ取り残された感じで。隣の家にも僕の家にも(焼夷弾が)落ちたんですが、火災にまでならなかった。隣の家には隅に落ちて、畳の下から燃えている感じですよ。それなんかは、畳剥いで、すぐ水掛けて(火が)止まったんですね。(住んでいた)家に落ちたのは、焼夷弾の油が襖に跳んだが、(火は)消えました。家のほうは大丈夫だったですね。とにかく逃げる事で精一杯という感じでしたね。もう、消火活動というのは、自分の家と隣の家だけだったですね。もう朝見たら、顔中ススだらけで、真っ黒け。酷いもんだったけど、よく命永らえて、という感じです。それで、その後動員されていた工場へ行ったら、「深川の連中はみんな死んだ」とか、同級生も亡くなりましたね。みんな隅田川に飛び込むが、両岸から炎が来るから水の中にいても熱いんですね。沈んで、上がってくると、火があるからまた戻る、そのうち疲れちゃってみんな亡くなったのかな、と思う。

染谷:先生のお住まいだった千住は、割と被害は少なかった。

有村:割と、少なかった。(東京大空襲の)3月10日には。でも結局は焼けちゃった。それを経験したものだから、桐生のみんなの所へ行こう、いつ死ぬか分からない、と思っちゃった。動員先の工場は、軍の管理の下に置かれているから、軍需品を生産している。亀有は軍需工場地帯で全部狙われているんです。(工場には)焼夷弾ではなく、爆弾が落ちるんです。空襲が来ると、防空壕に入るのだが、工場の変な機械の油が染み出て、それが、ろうそくの火に照らされて暖められて嫌な臭いがするんです。その中で、シュシュシュ、と爆弾が落ちてくる音を聞きながら、じぃっと待つというのは。自分で相手を倒すっていうほうがいい、とその時は思いましたね。じっと(相手が)通りすぎるのを待っているような感じ、っていうのが、あれが辛かったですね。いつ死ぬか、という感じだったから、それでとうとう逃げ出した感じかな。その後、3月23日に桐生に来たんですよ。

染谷:(桐生行きは)誰かに言われてですか。自分で判断したのですか。

有村:親父なんかからは、「まあ、こっちに帰って来いや」って、何回も言われていたんだが、友達もいるし、東京でみんな頑張っているんだし、何とか俺も残りたい、という風に思っていたんだけどね。あまりにも(空襲だの)そういうことが迫ってくると、居たたまれなくなってきたのかな。

染谷:桐生へはお一人で(帰ってきたのですか)。

有村:ええ、その時は。姉はその後帰ってきました。東武線で新桐生まで帰ってたんですが、その間何回も空襲で止まりました。ちょうど、中島製作所に通っている人達が帰る頃の時間帯だったのかな。僕は、初めての桐生で、住所だけ書かれた紙っぺらを持っていて、降りてから、そういう人達に聞いて、探して、家族のいる所へ行ったんです。相当ありましたよ、新桐生から。今の大川美術館の側で、小曽根町という所ですから。その頃バスなんか走っていたのか、それが分からないんですけど。

染谷:その頃、お父さんは他のお子さんとは一緒だったのですか。ひとりですか。

有村:家族はみんな一緒ですよ。桐生へ赴任してしばらくはひとりで居たんですけど、そのあと家族を呼びましたからね。

染谷:大村から、皆さん桐生に来ているわけですね。

有村:たしか、(家族は)19年の暮れには(桐生へ)帰っている。僕は、20年の3月に桐生へ行ったわけだから。3カ月か4カ月早く家族は桐生に来ていますね。

染谷:ご家族の方は、長崎に居なくて幸いした。

有村:良かったですよ。だけどね、大村だから長崎の町とは離れていましたからね。だけど、お袋の兄弟、家族は原爆手帳を持っていますよ。それは、長崎で被爆した人達を大村病院という陸軍病院で看病していたから。看護婦さんを手伝ったのでしょう。二次被爆です。

染谷:それで、昭和20年3月には家族がみんな桐生に集まったということですね。で、桐生で終戦を迎えられる。

有村:桐生に行ったときは、古河製作所という飛行機の窓枠とか、操縦桿みたいなのを作る鋳物工場に動員された。だけど、もう飛行機を作る力が無かったんですね。前から動員されていて、僕が行ったのは4月ですけど、2カ月位でもういい、と言われた。今度は、広沢にある大日本機械へ行った。そこでは高射砲の弾を作っていた。僕ら1クラスは拳銃を作っていた(笑)。拳銃と言っても我々が作る拳銃だから、そんな大それたものではなくて、銃身があってね、持つ所、取っ手があって、引き金があって、猟銃の弾のようなものを詰め込んで、引き金を引くと、1発は撃てるんだけども、2発は撃てないかもしれない、というぐらいの。今見たって、まったく玩具みたいなもの。何だと思った、初め見た時は。特攻隊の自殺用のピストルだと言ってましたね。

一同:(ため息)

住友:1発で良いと。

染谷:なるほどね。

有村:だから、もう分かっている人には、そういう様子を見れば、今の日本はどうなっているのか、戦線がどうなっているのか、分かっていたのだろうと思うんだけど。我々はまだそこまでは。夢中で与えられた仕事をやっていた。それ以降作る仕事が随分無くなった。拳銃を作る仕事も無くなってきました。

染谷:前にお話しを伺ったときに、桐生に来たら、空襲がほとんどなくて、と。

有村:本当になかった。大日本機械のある広沢で空襲に遭うと、山のなかに逃げて行くのだが、(空襲が)本当に少なかったですよね。飛行機の姿を見たことがなかった。桐生は駅前で飛行機からの機銃掃射で1人か2人亡くなっている、それだけでしょうね。まあ、偵察機みたいなのが来て通りがかりの人を撃ったんでしょうけど。なんで桐生がやられなかったのか、良く分からないですね。みんなやられているでしょ、高崎から前橋から、製作工場のたくさんあった伊勢崎はもちろん。桐生はあの頃、軍需工場はなかったんですかね。

染谷:太田は、ねえ(空襲が多かった)。

有村:太田はもちろん集中的にやられた。桐生は本当に燃えてないんですよ。

染谷:終戦の日の記憶、ちょっとお話頂ければ。

有村:重大発表があるから、12時に食堂に集まれ、と言われたのかな。それでお昼に行って、大きな食堂のなかに、そんなに大きくないラジオが置いてあって、そこで声が流れてくるんだけど、何を言ってるんだかさっぱり分からなかったなぁ。放送をしている間は、重々しいというか、天皇の声が漏れ聞こえてくる。そのあとで、「日本は負けたんだ」と先生が言ったのか、工場で言われたのか、その辺もよく覚えてない。でも、とにかく食堂から出てきたときは、戦争が終わったんだ…というより、日本が負けたんだということの方が、みんなには(印象)強かったのかな。そのあとは、学校へ帰っても、どうして良いのか分からない、本当に背骨が無くなっちゃったような。その後が酷かったですけどね。先生に、何を俺たちに教えたんだ、という感じで。随分先生も参ったでしょうね。

染谷:学生が詰め寄るということがあったのですか。

有村:ええ、そういうことがありましたね。

辻:桐生では、どちらの学校に行かれていましたか。

有村:桐中(註:旧制桐生中学校)です。前中(註:旧制前橋中学校)へという話があったんですけど、桐生からだと通わないといけないですからね。それに、ああいう時は受け入れるのか、そういうのも良く分からなかったから。

染谷:桐中の3年生に入った、ということですか。

有村:5年制ですからね。3年が終わっていた。だから4年生に編入になった。4年5年と桐中です。

住友:御親戚や親しい知人で戦争に行かれた方、というのは。

有村:うちの母の方は、弟が満州国陸軍中佐で、獣医をやっていて。なんで満州に行ったのか、それは分からない。こっちで獣医をやっているよりは、満州でやった方が良いと思ったのか、言われたのか。その人がいるぐらいで。父の方は、親戚が皆、士官学校だのを出た人たちが多くて、ほとんど軍関係ですよ。子供たちのどこまでが亡くなったのか、はっきり分からない。父の方は、本当に近い親戚というのが亡くなっていたから、子供の頃何回か行った家があるけども、皆軍関係です。鹿児島というのはそういう所ですね。ちょっと良いと、裁判官。あとは、軍関係、お巡りさんとか、そういう感じですよね。官吏みたいな人が多いです。あそこは、あまり産業が無いんですよね、鹿児島はね。かつおぶしと、あとは焼酎と(笑)。

住友:戦争が終わってから戦争時の話を聞かれたりする事、っていうのはあったんですか。

有村:鹿児島の方からは、全然そういう話は聞かなかったですね。

住友:交流が無くなっちゃった。

有村:話す相手が、僕らはなくなっちゃった。父が亡くなるのが早く、詳しい事を聞けなかった。親父は、(亡くなったのは)58の歳だったから。

染谷:何年ぐらいのことですか。

有村:親父の亡くなった年度、忘れちゃうなぁ。

染谷:お幾つくらい歳は違っていたのですか。

有村:28くらい違っていたかもしれない。

染谷:先生が28歳くらいの頃、というと昭和32年くらいの事ですかね。

有村:あ、そうですかね。

染谷:長崎に原爆、新型爆弾が落ちた、という話は桐生に伝わってはきましたか。

有村:新型爆弾だ、という話は伝わってきましたよね。それが、原子爆弾だ、という話はいつ発表になったんだか、ずっと遅いですよ。新型爆弾が広島に落ちて、長崎に落ちて、という話は伝わってきた。

染谷:長崎の郷里のことを心配した記憶っていうのはありますか。

有村:爆弾が落ちたのが長崎で、住んでいるのが大村だから、まあ、距離はあるから、という感じではいましたねぇ。
母親の方も。長崎の空港が出来る前に、大村飛行場っていうのがあったんです。海軍の飛行場。

染谷:では、戦前にあった、ということですか。

有村:戦前にあった。戦後になって大村飛行場は民間機が離着陸していた。だから、大村にも爆弾は相当落ちたんですよ。

染谷:佐世保が、むしろ近いですよね、大村だと。

有村:佐世保だって相当(距離が)ありますよ。佐世保は随分また、やられたんでしょうね、軍港でしょうからね。

染谷:はい、では、戦後の話に移らせて頂いて。桐中を卒業したのが何年になるのでしょうかね。

有村:桐生工専に入ったのが23年ですから、23年の3月ですね。

染谷:その時そこで演劇部に入られる。

有村:近くにいた友達の兄貴が桐生工専(註:桐生工業専門学校。現在の群馬大学工学部)の演劇部に関係していて、さかんに勧めるものだから、別に運動はやってなかったので、じゃあ、演劇部で舞台装置を作る裏方なら良いよ、という感じで入部した。だけど、裏方をやりながら、俳優がいないから、と随分引っ張り出されて舞台の上には、よくあがりましたね。

染谷:大道具も合わせてやっていたんですか。

有村:大道具もやってました。

染谷:美術の方と、接触するのはどういうきっかけですか。

有村:美術部と演劇部の部室が隣り合わせで、美術部の部長を森村惟一(1926-)という人がやっていた。この人は、一家を支えているような人だった。

染谷:学年は同じですか。

有村:僕が入った時に3年生。

染谷:2つ上なんですね。

有村:あの頃、伊勢崎で絵具屋を始めたんですね。創美社という。伊勢崎の人だったんですね。器用な人でね、絵も上手かったですよ。その人が卒業するときに、「美術部の部員がいないんだ、俺が卒業すると美術部が無くなっちゃうから、何とか引き継いでやってくれないか」と言われ、僕は人が良いんですね(笑)。引き受けちゃったんです。

染谷:演劇部もやりながら。

有村:やりながら、美術部も引き受けて。もう、予算も付いている、というんですよ。とにかく、美術部を残していく、というので、部長をやって、部員を集め、絵も描き始めるわけですよ。演劇は(発表が)1年に1回でそんなにいつも忙しいわけではない。演劇を公演するぞと決まってから、舞台装置作ったり、脚本を覚えたりしなければならないけれど。やっぱり一番困るのは、全然絵を描いてなかったから。美術部のパンフレットの表紙を描いてもらったり、舞台装置の案を考えてもらったり、そういう人がたまたま近所に、美校(東京美術学校)を出た笠木実(1920–)という人がいた。まだ卒業したばっかりだったかな。その笠木さんが、家の側にアトリエを作ったんですよ。

染谷:小曽根町ですか。

有村:小曽根町から、そのとき当時の東堤町(註:現在の堤町)へ移転した。小曽根町は大きな機屋さんに部屋を借りていたから、一軒家に移りたい、というので。笠木さんが西堤町にアトリエを作って、近かったので、「絵を見てくれないか」と頼んで、笠木さんの家に通ったりしました。それで水彩なんか描いてましたが、「水彩なんか描いていたら、あんた駄目だよ。油絵を描きなさい」って言われて、油絵を始め、森村さんの創美社まで絵具を買いに行った。

染谷:伊勢崎まで絵具を買いに行くんですか。

有村:そう。それで、油絵を描き始め、2年になってから美術部を受け継いだようなもので。森村さんは、卒業されて、伊女(伊勢崎女子高等学校)の先生になったのかな。あの人、なかなかそういう点では、堅実ですね。南城(一夫 1900-1986)さんと、どこでどう知り合ったのか、森村さんが春陽会の研究所をやろう、っていう話になって、前橋の黒田サチ(1890-1971)さんという人が経営していた幼稚園、清心幼稚園を借りて、月に1度、春陽会研究所って言ったかな、研究会だったかな、そこで始めたんですね。桐生から、笠木実、オノサト・トシノブ(1912-1986)さんの奥さんの智子さんと、僕と、桜井幸子っていう、この人もまだ絵を描いてますがね。それと、今の無燐館に昔、桐生文化学院があり、そこの事務職をやっていた田島康男さんって人も、前橋までひと月に1回通ったんですよ。

染谷:当時電車は走っていたんですか。

有村:電車は走っていました。上電(上毛電気鉄道)で通っていました。要するに、ひと月に描いた絵を持って、研究会に行って見てもらって、ということです。

染谷:それはいつ頃ですか。

有村:桐生工専にいた時代です。2年生の時。

染谷:2年生の時に、春陽会。では、森村さんは卒業してすぐに、そういう事を始めていたんですね。

有村:始めてくれたんで、これ幸いと、前橋まで行った。多分、(ひと月に1回の日は)日曜日だと思う。南城一夫と、川隅路之助(1906-1993)、横堀角次郎(1897-1978)、この3人が会員だったのでしょう。あと、随分若い連中から年配の人が集まっていましたね。前橋の人が多かったと思いますね。

染谷:どんな方がいらっしゃいましたか。永井(金四郎 1931-)さんは来てましたか。

有村:あの人とは一緒にならなかったですね。手塚(宏一 1928-)という人がいました。

染谷:手塚宏一さん。岩崎義治(1921-2010)さんなんかは。

有村:岩崎義治さんは、その時は全然無関係ですよ。あの人は、創元会ですよ。始めた頃は、あんまり僕も知っている人はいなかった。成田一方(1894-1973)や遠藤燦可(1911-1993)なんか来てましたよ。

染谷:(両氏とも)日本画家ですよね。

有村:日本画家です。また南城さんは人を褒めるのが上手くてね、(真似をしながら)「有村さん良いよ、なかなか良いよ」と。展覧会を1年に1回やって、自信賞をくれたりね、自信を持つように(笑)。

染谷:展覧会っていうのは、清心幼稚園でやるんですか。

有村:どこでやったのかな、清心幼稚園ではなかった気がするんです。どこかの会場を使って。そんなに大きな展覧会ではないけど。それで、そこへ2年は行ったのかな。それで、笠木実さんが南城さんの紹介で岡(鹿之助 1898-1978)さんの家へ行っちゃうじゃないですか。それと同時に僕らは通ってないですね。

染谷:笠木さんがリーダーシップをとっていたのですね。

有村:ええ。智子さんはオノサトさんと結婚して。

染谷:智子さんはオノサトさんと結婚する前の姓は。

有村:田口智子さん。オノサトさんとすぐ結婚しちゃうから、自然に2年で(前橋通いが)終わったのかな。オノサトさん、23年にはシベリアから帰ってくるから、もうその頃いたんですね。桐生美術協会(註:以下、美術協会)を作って、オノサトさんが初代会長なんだけども、それで行き来をするようになったんだと思う。どういう出会いだったのかは、どうもあまり思い出せないのですよ。春陽会が嫌になったのは、ひとつは「春陽会に出せ、出せ」って川隅路之助さんがすごく言うのですよ。まだ絵を描き始めたばかりでわからないじゃないですか、春陽会がどういう会か、とか。ただ、「はい。はい」と言えない。また会うと言われるのかな、嫌だな、なんて思って行っていたものだから。だから、離れるきっかけも早かったのかもしれないけども。美術協会は、色んな会が集まってできている訳ですから、その時に一緒になったのだと思う、オノサトさんとは。

染谷:結局、美術協会が出来たのは、いつですか。25年の10月ですか。そうだとすると、先生は桐生工専を卒業した年ですね。

有村:そのくらいかな、いや、だけど学生の頃から行っていた気がするなぁ。

染谷:オノサトさんの所へですか。

有村:オノサトさんの所もそうだけど、美術協会に関係していたのは、学生の頃からだったような。簑輪初太郎(1901-1986)さんという人がいて、オノサトさんと中心になって作ったから。その時はまだ、笠木さんもいましたね。それで、オノサトさんと知り合って、オノサトさんが、また貴公子ではないけど、良い顔をしているんですよね。

染谷:すごく格好良かったんですよね。

有村:日本では見ないような防寒服を着て、それがなかなか(格好良い)。見惚れてしまうような、白系ロシアの人のように見えたりした。それで、僕ともまったく同じ目線で話をするんですよ、あの人は。つまり、僕を絵を描き始めた小僧、みたいなそういう見方を全然しないですね。例えば、瀧口修造(1903-1979)さんに、何でか紹介状をオノサトさんが書いてくれて、それを封筒に入れる前に僕に見せて、「こういう風に書いたんだけども、これで良いかね」と。それを見たらね、「僕の若い絵の友人の有村君を紹介します」と書き出しにあるんです。若い絵の友人、なんて書いてある、ビクッと、そういう見方にまず驚いた。桐生の宮地(佑治 1934-)君も、自由美術の展覧会場に行ったら、オノサトさんが皆のいる所で、「僕の若い友人の絵描きの宮地君です」と紹介された。そのとき、宮地は僕より下の高校生。この前、宮地君とそういう話をしたんだけども。そういう人なんですね、オノサトさんが。絵描きだからかな、って思ったけども、全く新しい人種に会ったような感じだったですね。それで、惚れ込んだ感じで、絵をずっと見てもらっていた。それでも、だんだんオノサトさんと考え方が離れていくようなところがあって、オノサトさんは「文学性みたいなものは絵の中に入れるものではない。絵画は絵画だ。文学性は否定しなくてはならない」と言っていて、僕は、文学性を背負い込んでいて、なかなか離したくないようなところがあって。それでもずっと、随分長い間見てもらいましたね。ただその中で、「とにかく有村君、描きたいものだけ描けば良いんだ、他の余計なものは描かなくて良いんだ」ということは徹底して言われたような気がする。だから、靴なら靴一足、みたいな、とにかく余分なものは描くな、と。僕に関係するようなパンフレットや資料をよく取っておいてくれて、行くとくれたりね、僕は全然オノサトさんの絵の方向とは違う方へ行くようになるんですけども、そういう点では非常に几帳面で、きちんと大事にしてくれましたね。

辻:具象的な絵を当時も有村先生は描かれていたのですか。

有村:オノサトさんの所にいたときは、あまり具象的ではないですよ。

染谷:抽象。構成画みたいな。

有村:具象的なものは、なかなか描けないでいた頃だから。余計抽象的なものに走っていたような所があり、やや抽象的な作品が多かった頃かな。オノサトさんのところに行っている頃は。それが、だんだん美術教育をやるようになってからかな、先生になってから段々変っていくのかな。どっちにしたって描けなきゃ抽象画だって描けないのだけども、はじめ何となくとっつき易い所がありますよね。(抽象画には)とにかく戦後は自由で良いんだ、何を描いたって良いんだ、という風潮が強くて、大きな流れはほとんど抽象に流れて行ったでしょう。オノサトさんのところにいたし、そういう流れがあったでしょう。

染谷:桐生工専の美術部で絵を描いていたときも、抽象画だったのですか。

有村:そうですね。

染谷:その頃、学生の美術連盟みたいなものを作られたのですか。

有村:それも森村さんですよ。初代委員長ですから。委員長の2代目が狩野守(1929-2004)さんですよ。その時、僕が副委員長をやった。3代目は誰だったのかな。狩野守と僕は同学年なんですね。

染谷:狩野さんは前橋の群大(群馬大学)、群馬師範ですよね。

有村:僕がこっち(桐生工専)でしょ。大学や専門学校関係が合併して。関東学園も入っていたかな。あとは高等学校も含めて(美術連盟を)作ったんですね。

染谷:それは年に1回くらい展覧会をやる、ということですか。どこで展覧会をやっていたのですか。

有村:これは前橋の……どこだったんだろう。桐生支部もあったんだろうけど、支部で(展覧会を)やることはなかった。

住友:その頃影響を受けた作家とか作品とか、見て心を動かされたものというのは、あったのですか。オノサトさんと会う前。

有村:オノサトさんに会う前というのは、ほとんど作品を見てないんですよね。森村さん、笠木さん、南城さん、横堀さん。見る機会もなかったでしょ、なかなか。今も記憶しているのは、石井壬子夫(1912-1990)さんの《倉庫》っていうのを、いつ見たのか、桐生の高島屋で見た時に「絵っていうのはこういうんだ」と思った。しょっちゅう見ていたオノサトさんの絵以外にね。

住友:どういう作品だったのですか。

有村:すごく堂々としていて、良い絵なんですよ。

染谷:それは倉庫の建物を描かれたものですか。

有村:隅田川があってね、その向こうに倉庫があって、起重機かなんかあるやつですよね。桐生は行かれなかったんだっけ。大川(美術館)は。

住友:行きました。

有村:石井さんの作品は見ましたか。そこに展示されていた。(註:「石井壬子夫展」大川美術館、2012年10月5日-12月16日)

住友:ご覧になった作品が展示されていたんですか。

有村:大川美術館にその作品がある。その絵を初めて見た時に、絵っていうのはこういうんだ、と思った。

染谷:それはどういう会場で。個展か何かですか。

有村:グループ展みたいな感じで、美教の展覧会だったのでしょうか。桐生の高島屋です。石井さんは個展はやってないと思いますね。

染谷:桐生にも高島屋があったんですか。

有村:あったんですよ。今ね、美喜仁っていう所にあったんですね。

住友:石内さんが好きだと言っていた。

有村:石内都さんか(笑)。

辻:名前が良い、って言ってましたね。

有村:美しく喜ぶ仁ってね。他にもあるよね。

辻:桐生高校の裏にもあります。

有村:(桐生市民)文化会館には何が入っているの。

辻:そうですね、あそこにも美喜仁が新しく入りました。

有村:大体、美喜仁は魚屋だったんだろう。あそこが魚屋で寿司屋を始めた。そしたら景気が良くなっちゃって、みんな買い取っちゃった。高島屋まで買ったのかな。だから、展覧会というと、たしかあの時はね、桐生は高島屋じゃないかな。高島屋の2階にちょっとしたスペースがあったんですね。

染谷:織物会館などは使っていたのですか。

有村:ああ、使いました。井上肇と二人展したときは、織物会館だったかな。あとね、桐生倶楽部というのがあった。

染谷:ああ、今でもある。

有村:桐生倶楽部も使えた。(展覧会を)やりましたね。

染谷:当時まだ桐生には画材屋は出来てない。

有村:画材屋は、三俣(画材店)っていうのがあって、結構前から始めていたんだろうなぁ。相当前からですね。創美社へ僕が行ったのは、森村さんのお役に少しでも立てれば、というので、買いに行っていた。その頃、三俣はあったと思いますね。
創美社はその後、奈良書店の斜向かいくらいに作ったんですよ。森村さんは、女性の兄弟が多くて、桐生にお店を作って、その妹さんが来てましたね。それが、でもやっぱり三俣には敵わなかったのかな。そんなに長くやっていない。

染谷:三俣には、ギャラリーはあったんでしょ。

有村:あれはね、ずい分後で、反対側の空いた店を買い取って、ギャラリーにしたんですね。それは新しいですよ。古くからはなかったですね。

染谷:桐生で一番古そうな画材屋って言うと、やっぱり三俣。

有村:三俣ですね。今はツカサ(画材)だけかな、画材屋は。

辻:この頃は、就職されていて、お仕事はどのような事をされていたのですか。

有村:卒業したのが、25年の3月で、4月からは吉田研究室という、色染科の研究室があって、1年間ずっといようと思ったんです。染物を習おうと思って。そこへ2カ月位通った頃かな、館林の織物工場で、どうしても一人卒業生が欲しい、と。工場長と社長が上手くいかない。社長というのが、製粉会社から派遣された人で、織物工場は製粉会社が作ったもの。

染谷:日清製粉。

有村:大和屋精麦という会社。その会社が朝日織物っていう工場を作って、社長は織物の事を全然知らない。工場長と上手くいかないので、替って工場をやってくれるような技術者が欲しい、という要望があり、面白いから行ってみないか、と言われた。

染谷:え、卒業したばかりなのに、工場任されちゃうのですか。

有村:任される、というか……。そういうことだから、面白いから行ってみろよ、と周りの先生にそそのかされて、12月まで行った。行ってみて、たしかに嫌な所はありました。この織物を作るには、タテ糸と横糸がどのくらい掛かって、1メートル幾らくらいで出来るか、みたいなことをすぐ計算しろ、なんて、行った途端に言われたような気がする。ノートを引っ張り出して、計算して出したら、遅すぎる、とか何とか言われて。散々そういう苛め方をされたけど、ほとんど営業をやっていたんですよ。東京や佐野の買い継ぎ屋さんへ行ったり。たまたまその頃、父が身体の調子を壊して、勤めているよりは、自分で始めた方が良いと思ったのか、織物工場をやる、って言い出した。それで、毛織物の工場を桐生で初めて作ったんですよ。桐生は絹織物でしょ、そこへ一番初めに(父が)勤めた大和毛織という工場の毛織物の織機を借り受けた。あとは新しい織機を入れ、5台位で工場を始める、という。お前も帰って来い、というので、12月に僕は朝日織物を辞めた。その時、辞めるのなら、替りを必ずよこせ、というので、運よく高崎にひとり、まだ勤めてない同級生がいて、頼み込んだ。「背広の生地はもらうし、随分歓待されたよ。おらぁ助かった。面白かった」と後で言ってたけれど。とにかく、そいつに行ってもらった。桐生に帰ってきたあと、25年から29年の7月くらいまで、大和毛織から材料を出してもらって織り、納める、賃機(ちんばた)という仕事をしていた。やってみないと分からないことだが、毛布を作るような糸はものすごく柔らかくて撚りが少ない。綿みたいなもので、すぐに切れる。そういう織物を織るのに大変苦労をして、それでも何とか4年くらいやったのかな。だんだん景気も悪くなってきたのかな、親も賃機なんかそろそろ諦めた方が良いと思ったのか、「お前、好きなことやっていいよ」と言われた。それでやっと、私は絵を描いていたから、先生になるのがいいと。南城先生なんかにも、「こけしのアルバイトなんかしながら絵を描くもんじゃないよ。先生なら良いけど」と言われていたから、とにかく先生をしながら絵を描こう、と思って、29年の10月に、その頃の佐波郡(現在の伊勢崎市)豊受村(とようけむら)の中学校に採用された。それが先生になって初めての学校でした。この時も森村さんの紹介ですね。

辻:それは美術の先生で。

有村:美術の先生で行った。免許状を持っていれば教科以外の申請をすると、美術が教えられた。何の免許でも良かった。美術を教えたい、というと許可が下りたのかな。僕は、最後は高商(高崎商業高校)へ行ってたでしょ、免許状は美術で商業科の免許状は無かった。商業美術を教えるには、本当は商業科の免許状が必要だった。それと同じで、工業の免許状で美術を教えていた。美術を教えるようになって、武蔵美(武蔵野美術大学)の通信教育で免許状を取り始めた。それから、仮免の先生が随分行っていた群馬大学の夏の講習会にも行った。29年から37年まで、豊受から桐生の昭和中学校へ移って、37年に桐生工業高校へ行くのですけれども、高校の美術は、武蔵美で取った免許状は全然使えないんですね。要するに、短大で取った免許状は中学までしか使えないでしょ。結局新しく群大に通ったんですよ。たまたま、桐生工業の定時制に1年いて、昼間空いているときに群大に通った。36単位。曲がりなりにも、絵を描いていたから、礒部勘次(1912-1991)さんとか、「作品だけはきちんと出してくれよ」と、そういう対応は助かったのだけど。同級生の狩野(守)さんは、うるさかった。「とにかく授業出てこなければ駄目だ」と。

染谷:群大に1年通われた。

有村:1年です。1年で36単位。小川参二(1909-2013)さんの高等図学というのがあって、これが面倒だった。こっちは元々工専の卒業生だから、図学なんていうのは出来て良いはずなんだけど、そういう授業はなかったし、それにやっぱり面倒くさいですね。学生はテーブルに5、6人集まって、授業受けて、試験の時もそこで受けているんですよ。こっちは一人でしょ、教えようと思えばいくらでも教えられる。(一同笑)。小川参二さん、今でも元気でいらっしゃるそうです。百何歳とかいって。その先生に、「分からない。先生本当はどうなんですか」って言うと、「うん、じゃあ、このノートを持って行け」って、教えてくれるんですよ(笑)。あとは、しょうがないから高等図学の本を1冊買って勉強したりして。あれだけが、ちょっと試験が大変だったな。

染谷:それが何年の頃ですか、群大に行ったのは。

有村:37年。37年から38年でしょうね。

住友:休憩入れましょう。大体2時間お話伺って、昭和30年超えたくらい。

染谷:前に遡って、自由美術の話を聞かせてもらいたいので。

住友:有村先生、記憶力ほんといいですね。あまり年とかスラスラ出てこないでしょう。名前とかもそうですけれどね。

有村:いやいや、そんなことないですよ。