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有村真鐡 オーラル・ヒストリー 2013年1月9日

高崎市箕郷、加藤氏自宅にて
インタヴュアー:田中龍也、住友文彦
書き起こし:山川恵里菜
公開日:2014年2月8日
 

染谷:今日はこの間の続きですが、作品の話からちょっとさせて頂けたら、と思っているのですけど、作品のアルバムをお持ちでしたよね。

有村:途中からなんですけどね。

染谷:最初は抽象だったとお伺いしましたが。オノサトさん……。その頃の作品は、もう残ってないですか。

有村:この前、大川美術館で、オノサトと周辺展(「第25回移動大川美術館展―オノサト・トシノブとその周辺」桐生市市民文化会館、2012年11月15日−18日〕っていうのかな、オノサトさんの所へ当時行っていた若い人たちの作品があれば借りたい、っていうので、それで4、5人出したんですよ。そこへ、古いのを。

染谷:大川美術館のオノサト展に、ですか。

有村:大川は階段が多いから、街のなかでサービスで展覧会をやるんですね、移動展。市民文化会館の展示。あまり、宣伝しないんですね。4日間ばかりしました。そこへ2点(《脱走者》1957年、《番人》1957年頃)ばかり古いのを出したんですよ。

染谷:それは、ちょうどオノサトさんに教わっていた頃のですか。

有村:ちょうどその頃のですね。終わったから、当然(作品が)返ってくるのですが、1月中には返せると思います、というので、まだ返って来てないのです。

染谷:その頃の抽象作品も残っているのですね。

有村:残っていますね。(群馬)県展で第3回(1952年)と5回(1954年)だったかな、賞をもらったんですが、それがまだ、やや抽象の作品です。

染谷:第3回県展というと、タイトルしか分かってないのですが、《1952+X》。これが抽象作品なんですね。

有村:まあ、具象的な面もありますけどね。で、その作品は行方不明なんですよ。他人が持っていたので。南城さんがばかに気に入ってね。うんと褒めていたんですよ。それを聞いていた南城さんの絵を買っていた人が、「まだお前のところにあるか」と電話掛けてよこして、「あったら、俺によこせ」ってね。彼にやったんですよ。そうしたら、5、6年前に亡くなって、亡くなったという連絡が無かったから知らないでいて、息子さんに聞けば分かるかな、と思いながらそのままになっている。その時、その家に南城一夫の絵が一枚、僕の《1952+X》という作品が置いてあったんですよ、応接間に。(彼は、)「南城さんのは俺の葬式代に置いてあるんだよ」と言ってたんですよ。

染谷:じゃあ、まだ前橋に残っている可能性も。

有村:いや、桐生です。

染谷:これ(《1952+X》)は、美術協会賞を獲った、と記録ではありますが。初出品で美術協会賞ですね。

有村:そう。中沢清が最高賞だったんですね。詩人の中沢清、切れる奴でしたね。で、その後の作品は覚えが無いんですよ。僕が。だから、大した絵じゃないんですよ。

染谷:4回展(1953年)が《想い》というタイトルです。

有村:4回展じゃなくて、5回展でしょう。

染谷:5回展が《河原の歌》というタイトルで、教育委員会賞をもらっています。

有村:ああ、そうそう。賞は(3回と5回の)2回しかもらっていないと思うんですね。

染谷:この《河原の歌》も抽象だった、ということですか。

有村:ええ、そうですね。

辻:いつ頃から、抽象から具象へ。

有村:抽象から具象へ変わったのは、先生になってからですから。昭和29年の10月に中学の先生になるんだけども、
それから暫くは抽象を描いてましたね。具体的に変わっていくのは、前に言ったことがあった、ベン・シャーン(Ben Shahn 1898-1969)の伝記を読んで。「32歳になって、俺は大工の息子だ」という文章を読んで。「たしかに庶民に訴えかけるような絵が描きたい」と言ったのは、非常に胸に突き刺さって、よしっ、て思って。

染谷:ベン・シャーンの本を読んだきっかけは何かあったのですか。

有村:きっかけというよりは、たまたま先生をやっていて、松本竣介(1912-1948)と同じ脳脊髄膜炎というのをやったんですよ。結核性の疑い、というので、休職したんですね。

辻:それは、いつ頃のことですか。

有村:36年頃かな。大学で講義するので書いたという『ある絵の伝記』の末尾にあった、後記の方に書いてあったの
かな。「32歳になってこうだ」っていうのが。それから画集を見たりした。その前に中学の教科書か何かにありました
からね、ベン・シャーンのは。それを読んでから。昭和35年が勤評闘争の最高潮だったのかな。「戦争への一里塚」、「軍靴の足音が聞こえてくる」と、言われた頃ですよね。1960年代か。安保闘争の頃。

染谷:「軍靴の足音が聞こえてくる」というのは、スローガンみたいに言われていたことなんですか。

有村:うーん、ある意味では。新聞や雑誌に書いてあったりしたのかな。

染谷:それは安保の絡みでですか。

有村:具体的には、勤評は「戦争への一里塚」という。

染谷:勤評闘争自体が「戦争への一里塚」と言われていたんですね。

有村:そう。そこから何か出来ないかな、描けないかな、と思っていて。

染谷:それで軍靴のシリーズが始まるんですか。

有村:37年に桐工(桐生工業高校)に行ったのですが、それからです「軍靴」を描きだしたのは。その前は、それも桐工のときかな、「高校生」というので、ちょっとグレたような生意気な、ストリップ劇場の前でうろうろしているような高校生みたいなのを描いたりした。その時に、電信柱に勤評の紙が貼ってあるような、ちょっと風刺的な絵を描いた。県展で、その時は50号だったのかな、文部大臣賞の候補になったけれども、「描かれてある標語が、あれはちょっと教育委員会主催の展覧会にふさわしくない」とかなんとかで、文部大臣賞から外れたよ、と言われたことがありましたね。
中学校はそんなに長くはない、7年いたのかな。29年10月から。37年の4月には桐工行ったから。1年だけ定時制に行って、38年の4月からは全日制に移ったんですが。その頃、相当ひどくなってきつつあるんだけども、高校っていうのは、随分まだ楽だったんですよ。

染谷:中学よりも高校の方が楽だった。

有村:楽だった、仕事が。授業時間数が少ないでしょ。自分の部屋があるでしょ。中学の時も準備室はありましたけども小さいですからね。だから、割合に描けたのは桐工に行ってからですね。中学時代は、美術教育に現を抜かして、熱中していたから。

染谷:(県展)第9回展(1958年)の《ひでえやつ》というのは、中学時代ですね。まだ大分抽象ですね。

有村:勤評闘争の頃ですね。赤いんですよ。

染谷:赤い作品なんですか。何か具体的に物は描かれているのですか。

有村:ギターを弾いているような所があったりするんだけども、……何かちょっと覚えてないな。(笑)(作品アルバムを見ながら、)これはもう桐工行ってからですね。

染谷:軍靴シリーズですね。

有村:自衛隊と軍靴みたいな組み合わせで。

染谷:軍靴を最初に描いたっていうのは、いつなんですか。この辺がそうなんですか。

有村:これが割合はじめの頃。一番はじめに描いたのは、1足だけ描いたんですよ。オノサトさんという人は、描きたいものだけ描け、余計なものは描くな、って。この頃にも、オノサトさんの家には行って絵を見てもらっているんですね。軍靴だから、俺の好きなものじゃないや、というのではなく、ちゃんと絵として見てくれた。これなんか、オノサトさんがそのまま言ったように描いた感じだったな。「新聞紙の上に、お前、靴1足描いたって絵になるんだよ。」と。これは、新聞をちょっと破いたけども。そういう風な教え方でオノサトさんが言うものだから、軍靴だけずっと描いてましたね。

染谷:そうすると、桐工に行った頃から、靴の、軍靴のシリーズですか。

有村:そうですね。平行して、だんだん原爆の。

染谷:原爆のテーマに繋がりますよね、時計が出てくる。何年ぐらい、靴を、軍靴をテーマに。

有村:どのくらい描いたんでしょうね。大きく分けると10年、11年っていう。結果的に大体そういう期間、軍靴描いたり、時計描いたりしてましたね。これ(《マイホーム》1973年)なんかは、60年安保の頃から、「マイホーム」っていう題名で少し批判的に、自分達だけ閉じこもって外に出てこないっていう意味を込めた。

染谷:これ(《マイホーム》1973年)は、いわゆる箱シリーズになる訳ですね。1973年の自由美術。

有村:そのころ、「なんだお前、洋服だけ描いたって、中身がなけりゃどう仕様もないぞ」と仲間に言われて、それで中に人が入ったような、こんな風にだんだん変わっていくんですけどね。だけど、そのままじゃ面白くないから椅子取っちゃえ、とかね。(作品写真を見ながら)この椅子は最初なんですよ。途中、もっと不安定にさせた方が面白いな、と椅子を取っちゃった。で、この時に坂崎乙郎さん(1928-1985)が、「あのシリーズは面白いから、他にああいう絵を描いているのなら個展をやらないか」という葉書を貰ったのですよ。それで、実はこういう訳で何枚かあります、と言ったら、じゃあ写真を送って寄こせ、と。そしたら、自由美術の友達からは、「坂崎さんは写真なんかで絵は判断しない。本物を見ねえとあの人は、うんと言わねえぞ」って。でも本物を持って東京まで行くのは、容易ではない。写真だけ送ったんですよ。そしたら、すぐ紀伊国屋で個展やらないか、って坂崎さんに言われて、紀伊国屋で個展をやった。これ(《箱》1974年 群馬県立近代美術館所蔵)は、安井賞展出品したんですよ、自由美術で。あの頃は、安井賞は団体が推薦するか、学芸員の方が推薦するか、評論家が推薦するか、そういう風に推薦された人が出したんですね。それで、これは自由美術で推薦されて出した。

染谷:安井賞展(1975年)に出したのは、これが最初で最後になるんですか。

有村:これね、2回目なんです。1回目は落ちているんです。多分ね、宮本三郎(1905-1974)が生きていて審査員やっていたからだ、という、話があるぐらいね、自由美術の作品はみんな落ちていたんですよ(笑)、その頃は。宮本さんが亡くなってから自由美術が少し通るようになって。3回目は推薦されたんですけど、50歳を過ぎていました。52、3だったかな。何だ自由美術はちゃんと人の年くらい覚えておけ、と思って。

染谷:安井賞候補展の出品は50(歳)までで。

有村:そう。自由美術に連絡して、私はもう50過ぎてますから、と。で、これだけですね、安井賞は。

染谷:そうすると、70年代が箱シリーズになるんですかね。

有村:そうですね、大体そうですね。ロッカー……。

染谷:ロッカーのシリーズも、これも箱な訳ですよね。

有村:そうですね。

染谷:時計も比較的早く出てくるんですね。

辻:時計も最初、箱に入っているんですね。

染谷:ほんとですね、箱に入っている時計。

有村:これ(《時計と女》1976年)も『朝日ジャーナル』の表紙になったんですね。靴の時も『朝日ジャーナル』の表紙に1回なって。69年に『朝日ジャーナル』の表紙になったのが最初なんだけども、(資料が)無いんですよ。(写真資料を探しながら、)これは、もちろんもっと大きいんですけどね、上にずっと余白があるんですね。これは、名古屋のお医者さんから、「日展を観に行ったけど、感動しなかった。ところが、名古屋で自由美術の地方展を観たら、あなたのこの絵が気に入ったから、譲って欲しい」という連絡があったんです。それで、幾らだ、というから、あの頃、50号で20万位だったかな、よく覚えていませんが。あんまり安いから、そこに並んでいるのをもう1枚欲しい、って。で、50号を2枚その人が買ったんですよ。

染谷:それは、前の年の自由美術に出た作品ですか。これ、5月号ってことは。そうですね、68年の11月ですね。12月か。

有村:たしかその時は、自由美術は「反戦展」というテーマを掲げていたと思うんですよ。僕が2枚出してたら、初日に行ったらそのうちの1枚だけが会場に飾ってあった。それでどういう訳か、ちょうど見ているときに井上長三郎(1906−1995)さんがやって来て、「おーい、有村君の絵もう1枚持って来い」と言って、落ちた飾っていなかったもう1枚を並べたんですよ。そのくらい井上さんは、こうした方がいいと思うと強引にそういうことをやる。それで、地方展にも2枚行ったんですね。それで、その人が2枚買ってくれた。「僕は医者なんだけども、こういう激動の時代に、僕は何ひとつすることもしていない。何もすることができない。せめて、あなたの絵を側に置いておきたい」と手紙を寄こした。その頃の絵は、後でわかったんですが、大分絵具が剥げたんです。艶が出るのが嫌いなものだから、何回も塗っているのに、マットに仕上ようとテレピンを使ったんですね、リンシードを使わなかったから。それで、絵が傷んでないか心配で手紙を出した。それで、返事が来ないので、どうしたのかな、と思っていた。新聞に、東京駅かどこかで、伴さんという人が線路に落ちて亡くなった、と書いてある。同一人物かもわかりませんが、気になったので、手紙を出したんです。結局それっきりで返事が来ないんです。

染谷:それでは、作品も伴さんもどうなっているか分からないんですね。これは靴の、軍靴シリーズの最後の方になるんですね。

有村:そうですね、69年で。70年代の後半がだんだん箱になっていくのかな。女性像が出てきたりして。

染谷:もう1回『朝日ジャーナル』の表紙を飾ったのは、時計と……。

有村:これで、76年の時計ですね、7年後か。

染谷:『朝日ジャーナル』は、当時こういう絵画作品を表紙に使っていたのですか。

有村:ずっと、使っていた。色んな団体の。ほとんど美術館で見つけたんじゃないですかね。その(誌面の)中味に合わせて選んだのでしょうね。だから、井上肇も2回出ましたよ。

染谷:そうですか。割合に自由美術の人はとり上げられてましたか。

有村:割合に出てましたね。また、内容が内容で。

染谷:ああ、記事の内容に何となく連想するような。なるほどね。“本土と沖縄”。箱シリーズというのは、どういう所から思いつくのですか。

有村:これは、マイホームが最初。時代は今の状況を打破したいと若い人を含めて動いているのに、自分の家に閉じこもって外へ出ない行動しない。それでも少し気になって、鏡で外を映してみてみようと、箱は家なんです。ロッカーなんかは、マイホームというより少しまた違うんだけども。ここには、ひとつ間違えば棺桶となりかねない、という風にも書いてあるけど。マイホームはシリーズで、ロッカーは勤め先に各自ロッカーを持っている訳で、そういう所から出てきたのかな。

染谷:高校生シリーズがそれに続くのですか。

有村:ええ。80年代。はじめ教育ママを描いたんだけども。《閉ざされた部屋》(1981年 第32回県展)。自由美術では評判が悪かった(笑)。「なんだ、あの絵は」なんて言われた。これは、学校の管理体制がだんだん厳しくなってきて、普通高校が予備校化してきて、僕は高商(高崎商業高校)だったが、商業高校などは、だんだん専門学校化して行ったんですね。高商なんかでは、簿記1級とか2級とか資格をたくさん取らせた方が良い、と。(資格が)いろいろあった。競争心を煽りたてて、そっちの方へ追いこんで行って。それで服装検査もうるさかったし、スカートの丈や爪にマニキュア、ピアスの穴など、そんなことがうるさくなって。教頭が先生の靴箱を覗いて歩くようになった。誰がいて、誰がいないのか、と。それで僕は2年早く辞めたんですよ。

染谷:最後は高商だったんですか。

有村:ええ。58歳のときだから、62年です。美術関係(の科目)は、僕が辞めてすぐ、どんどん無くなっていきますからね。違う科目に変更されていって。僕が教えていた時は、商業デザインと美術だったけど、商業デザインが無くなって、情報関係の科目に中身が変わっていった。

辻:桐工のあとが高商ですか。

有村:ええ。

辻:桐工はどのくらい。

有村:18年。あの頃は、希望を出さない限りはほとんど移動しなかったですね。で、希望を出したら、「お前なんか採る所ない」と言われたり、したんだけども(笑)。ちょうど美術館(群馬県立近代美術館)が出来る頃ですよ、桐工にいた頃は。で、転任希望を出し始めたのは。

染谷:昭和37年に桐工に行って、18年いたから、55年。1980年の頃に高商に移る。

有村:「美術館で今募集しているから、美術館行かないか」とかね。(笑)

染谷:高商は何年くらいいたのですか。

有村:8年です。

辻:そうなると、高校生シリーズは高商に移ってからですか。

有村:移ってからです。

染谷:大体10年くらい、というのは決めていたのですか。結果として、そうなったんですか。

有村:決めちゃあいない。あとで見たら、大体10年ぐらいで(テーマが)変わっているんだな、と。

染谷:90年代に入ると、割にテーマが色々ですかね。

有村:そうですね。(《闖入者(ちんにゅうしゃ)》1990年の画面上部の旗の)もとは、日の丸なんだけど、日の丸があんまり見えないように、日の丸が闖入者というように描いた絵。こういうものと関係が無くなっていくような、無関心になっていくような世相だから。今の東日本(大震災)もそうだけど、当時はみんな関心があっても、だんだん薄らいでいってしまうような、そういうものへの問題提起として描きたいという気持ちがあった。

染谷:時計が大分前から登場してますけど、最初から長崎の原爆の柱時計を意識されてですか。

有村:そうですね、長崎の場合は。広島の場合は懐中時計だとか、腕時計がありますけども。柱時計は、広島の場合もあるんだろうけれど、長崎の場合ほどは資料がなかったですね。

染谷:長崎の郷里には随分行かれてるんですか。

有村:ええ、長崎にはよく行きましたね。で、また原爆シリーズも90年代に入って描き始めて。広島も描こうかな、という感じがあって。この間建築家に会ったときに聞いたが、浦上の天主堂を保存しておけば、広島の原爆ドームよりはもっと長持ちするように出来たのではないか、と言われた。また浦上も描こうかと思った。

染谷:浦上の天主堂も大分残っていたのですか。

有村:写真を見ると、一部残っていたんですよね。煉瓦で出来ていたからうまく保存すればひとつの形になったのでは、と思いますね。

染谷:最近は特にテーマを決めている、という訳ではないのですね。

有村:そうですね。2010年で自由美術は辞めたから、80歳を区切りに。周囲からはもっと、描ける、辞めるな、となかなか許可が下りなかった。(笑)

染谷:辞めたのは。

染谷:自由美術の思い出、といいますか、いろんな作家さんがいらっしゃったと思いますが、どういう人が記憶に残ってますか。

有村:やっぱり、井上長三郎〔1906−1995〕が一番記憶に強いですね。あの人は、嫌われてはいたんですかね、ワンマンだから。オノサトさんは井上さんに対しては凄いですよ。

染谷:嫌っていた。

有村:ええ。鶴岡政男(1907−1979)の個展(「鶴岡政男の全貌 戦後洋画の異才」展、群馬県立近代美術館、1979年8月11日−9月24日〕やったじゃないですか。近代美術館で。あの時オノサトさんも、もちろん来たし、自由美術の人たちも随分来たんですよ。レセプション・パーティーの時、井上リラさんがいて、長三郎さんは居なかったんですけど「オノサトさん、井上長三郎さんのお嬢さんのリラさんです」と言ったら、「僕はあなたのお父さんが大嫌いだ」と。

染谷:そりゃあ、言われた方も驚いちゃいますね(笑)。

有村:小さな声で言ったのではないんですよ。割と大きな声でね。(オノサトさんの画風が)丸に変わった時に、(井上さんが)「丸で絵なんか出来るか」とか色々言ったらしいですよ。それで、あの頃かな、「もう、あんた来年は50号だね」と、そういう大きさの事まで言ったらしいですよ。まあ、井上さんだけじゃあないだろうけど、やや井上さんが、一番強かったのではないかな。

染谷:それは、小さくしろ、という意味なんですか。

有村:もう大きい絵なんか出すな、50号1枚だ、というようなね。その他、あれもやったのだと思う。会員審査も。僕らの時はずっとやってましたよ、もちろん。みんなスイッチを持たされて、良ければスイッチを押してね、光が点くでしょ、それでABCで作品の審査をするのです。Cは駄目。

染谷:会員でも出品できないんですね。

有村:そうそう、並べない。

染谷:厳しいもんですね。

有村:僕らが会員になってからは、ずっと続いてましたけど、その前はどこまでそういう事をやっていたのか。今は、ボタンを使わないで、口頭で良いとか、悪いとか。ランク付けまではしてないんじゃないかな。小野里オノサトさんの頃は、会員で批評はやっていた。今年のは良くないぞ、とか、そういう事はやっていたようですね。

染谷:割に、自由美術は、井上さんのワンマン時代が長かった、ということですね。

有村:長かったですね、だから、井上さんが亡くなってホッとした、という人だって随分 いたかもしれないですね。
だからガラっと変わりましたよ。今まで事務局やっていたのだって、どんどん中味が変わりましたから。でも井上長三郎さんが真面目にきちんと見てくれていて、色んな事をとにかく言ってくれたんですよ。例えば、井上肇(1932−2009)の作品見てね、「最近井上君は、もうちょっと作品が…」と言うから、「マンネリですか」と聞いたら、「マンネリなんていうのは、お互い様だよ。そうじゃないんだよ、最近の絵は元気がないんだよ」と。それはもう井上(肇)さんが病気になってからですよね、多分それを見抜いたんだと思う。

染谷:じゃあ割にしっかり絵を良く見ていた。

有村:絵は良く見ていましたよ。あの人は作品を見てね、これはどこに並べたら一番良いか、これは左だ、右だ、縦だとか横だということまで考えていた。それが早いんです。その点はすごい能力を持っていましたよね。あと、同じ年代で西八郎(1929−1979)とか、藤林叡三(1928−1996)とか。今でも付き合っているのは、伊藤朝彦(1928−〕っていうのがいるんですけど。西八郎はちょっと早く亡くなりすぎちゃって。西さんは僕よりちょっと年上なんですけど、よく群馬に呼んで絵を見てもらったんです。彼の見方は「ここの所はいらないから、40のFじゃなくてPにしろ」とか「もっとこっち切っちゃえ」とかね。そういう批評の仕方なんです。一方、藤林は武蔵野美術大学の教授やってるから。西八郎は絵描きの目を持っていて、藤林の方は教育者として絵を見ていた。「どこがどうだから、どうだ」という批評の仕方。

染谷:西さんの方が直感的なんですね。

有村:東宮不二夫(1926−2013)さんなんかと一緒にいると、「おい、東宮、空はあんなに明るくて、物を置けば相当明るく見えるだろう。空をバックに物を置いたら、こんなに暗くみえるだろう。お前、石描いてるけど、石一遍ぶら下げて空を見てみろ」と。そういうことを西さんは言っていました。

染谷:西さんが。

有村:ええ。その辺は具体的で的確なところもあったけど、割と絵描きの目だったんじゃないかな。(描いてるものの)中味については言われなかったし、オノサトさんからも「もう、何描いたっていいよ」と言われたんだけど、やっぱり、なかなかそこから抜け出せない。そのまま終わりそうですね。

染谷:(笑)いやいや(笑)。

有村:(わははは、と笑う。)

染谷:先生が今まで描いてきた中でこれが一番自信作だ、というのはありますか。

有村:自信作、というのではないけど、(作品写真アルバムをめくる)これを描いてて、「もうこれ以上は描けない」と思ったんですよ。

染谷:ああ、そういう実感があった。

有村:(制作年は)1990年くらい。『明日』(井上光晴著『明日一九四五年八月八日』集英社1982年)という小説をヒントに描きました。

辻:1992年に《明日》という作品があります。新聞の切り抜きも1992年とありますね。

有村:出来上がってみたら、そうでもないな、と思った。

染谷:あ、(笑)描いたときは(笑)。

有村:描いているときは、こりゃあ、良いぞと思った。

染谷:《明日》が80号2点。1992年の自由美術ですね。

有村:この時は、井上長三郎が、「俺の隣に並べろ」って言ったんですよ。井上さんがいた頃、2階の一番入口に割合と、こういう絵を集めたんですよ。さっき言った西八郎とか、藤林叡三とかね。伊藤朝彦なんていうのもいて。「『これ持って行っちゃ駄目だよ、井上さん』と言われても、俺はとうとう下ろさなかったんだ」と、そういう風に井上さんが言っていたと、あとで聞いた。何が気に入ったんだか(笑)。

辻:少し作品から離れて、プライベートな事を聞かせて頂きたいのですが、ご結婚はいつになるんですか。

有村:いつ(笑)。

染谷:私も聞かれても覚えてない(笑)。何歳の時でしょうか。

有村:(少し間が空いて)はじめての子供が42歳だったかな。(暫く間が空く。奥さんに聞きに行く)。昭和42年じゃなかったかな。

染谷:昭和42年というと、先生は37、8歳です。

有村:えーと。昭和45年ぐらいかな。(註:実際は昭和44年11月にご結婚〕

辻:先生は前橋とか、伊勢崎にもちょっとお住まいになっていることがあるんですけど。その頃とか……。

有村:うーん、そうじゃあなくてね、えーと、娘が39……。48年生まれだな、あいつがな……。(また、間が空く。)

染谷:桐工にいらっしゃる頃で間違いないですよね。

有村:そうですね。

染谷:昭和39年に主体美術協会(以下、主体)が結成されて、自由美術から大量の退会者が出る、という年がありますが。この時は、もう結婚されてましたかね。

有村:その時はどうだったかな。

染谷:あの時は自由美術は相当大変だったでしょ。

有村:群馬は、ほとんどみんな主体の方に行ったんですよ。残ったのが、東宮と僕と。井上(肇)はそのとき出してたか、出してないかじゃあないかな。他の人は高崎の人たちがほとんどだから、そりゃあ全部主体に行っちゃったんですね。その時は、美術教育で神戸大学の教授をやっていた、上野省策(1911−1999)が自由美術にいたんですよ。僕らは東京でどういう事が起きているのか、あんまり良く分からない。まあ、上野さんが残っているし、そこから動かなかったんでしょうね。前に、オノサトさんが辞めるときも、「僕、自由美術辞めるから、有さんどうする。残るなら残ればいいし、辞めるなら一緒に辞めても良いよ」と言われた時も、「上野省策がいるから、自由美術に残ります」と、残ったんですよ。オノサトさんは辞めて、デモクラート、瑛九なんかと活動するような団体に所属したり。奥さんももちろん入っていたから、確かそうだと思いますね。

染谷:さて、そうすると結婚された年は思い出されませんか(笑)。

有村:1970年ぐらいかな。

染谷:そんな先になりますか。1970年というと、先生は41、2歳になられてますけれど。

有村:40ぐらいですよ、僕が。

染谷:比較的、晩婚っていうのも変ですけど、遅かったんですね。

有村:そうですね。

染谷:奥さんは美術の関係で。

有村:家内は群大の美術で。研究会なんかで一緒になったりしてた。自由美術の群馬展にも、ちょっと出していた。

染谷:そうですか。結婚されてからも絵を描かれていた。

有村:えー、ちょっと描きましたけど、やっぱり絵具代が無かった訳じゃあないけど(笑)、やっぱり2人は。どちらか片方は止めますね。

染谷:女の方はお子さんが生まれたりすると。

有村:兄弟4人のうち、3人とも群大の美術なんですよ。家内の方は。男が一人、女が二人なんですが。今は、一人だけ妹が描いてます。僕の教室に来てます。彫刻やっていたのだけど、身体が大変なんで、絵に転向して。(先生を)退職してから僕の所に来たのかな。もう、63、4になるのかな。

染谷:結婚されたことで、制作に変化が出た、ということはないのですか。

有村:そういうことは、あまり無かったですね。ただ、よく絵を描く人だ、という風に思っていたらしいけど。あまり、こっちを見てくれない(笑)。学校へ行っている時は、帰ってきて、夕飯前に描いて、夕飯食べてまた描いて、っていう感じだったでしょ。それが割合に50代までは、やや出来たのかなぁ。まあ、土曜日曜は空けてあったけど、やっぱり、描いて。

染谷:じゃあ、あんまり結婚に影響されなかった。

有村:そうですね。ただ、僕が言われたのは、学校を卒業した時と、結婚した時、それを乗り越えられれば何とか絵が描ける、と。

染谷:どなたから。

有村:誰だったかな。やっぱり絵描きだったと思うけれど。一番危ないのは、学校を卒業する時。その次は結婚。それで止めなければなんとかもつだろうと。そんなものかな、と思った。

染谷:でもまあ、その通りになったわけですね。

有村:まあ、描いていれば、ある程度までは必ず人間っていうのは行くんですね。そういう所はあるみたいだな。

染谷:結婚されてお子さんは、すぐ生まれたんですか。

有村:ええ、2人。41の息子と39の娘です。

染谷:上が男の子でしたよね。娘さんは絵の方に、修復に進まれたのは知っているんですけど。息子さんの方はどうされているんですか。

有村:息子は駄目で(笑)、「お前、絵描きにならないか」って言ったら、「俺は、絵描いているより、写真の方が早くて良いや」って言って、初め写真をやるようなことを言っていたけれど、駄目だったですね。で、オートバイの方に夢中になって、レーサーになるとかで、休みになるとレースに通って。あの、伊勢崎のオートレースみたいなのではなくて、本当のレーサーに憧れていた。

染谷:本当にタイムを競うような。

有村:そうそう。まあ、とにかく金も随分使ったし、怪我も多かったし、それでとうとう自動車屋になっちゃった。車関係の仕事をするようになった。これしか俺の生きる道がない、とか言って。やれるだけ、やれば良いや、と思って。

染谷:娘さんは、自分の絵は描かれているんですか。

有村:模写展みたいな展覧会で、修復をやっている人たちで、グループ展みたいなのをやったりはしている。それは、去年、一昨年くらいにやって、今のところはやってない。

染谷:修復の仕事の方が忙しい。

有村:修復やっている人は、自分で絵も描いているんだけど、みな模写の方が多いです。自分の作品を描く、ということはあまりしてないですね。最初、修復をやりたいというと、自分の絵を描こうと思っているのなら、修復には進むなと言われるようですよ。

染谷:でも、娘さんのデッサンは上手ですよね、歌田(真介)先生の本の挿絵に描かれたのは娘さんかと思いますが。なかなか筆達者な方だから本格的に絵を描かれているのかな、と思いましたが。

有村:いやいや。(群馬)青年美術展に一遍。

染谷:青年美術展に出されているのですか。それは、気が付きませんでした。

有村:それが最初で最後なのかな。裸の男の…方は、落ちたんだ。縦長のやつで、日本画だったんですけどね。人物がいて、どうだっけな。

染谷:日本画やってたんですか。

有村:膠彩画、日本画で出してましたね。油絵もちろん描いてましたけど。日本画は(前橋)市民展に出して、30周年記念大賞というのをもらっている。その授賞式の翌日が、芸大の大学院入試の発表があるので、それで、「入りました」というので、それから大学院へ行った。本当にバタバタっと。

辻:修復されるようになってからは、有村先生の作品も修復された、と伺ってます。

有村:大川美術館に出した作品の1枚を修復した。それは、すごく丁寧ですよ。裏に、楔が糸でつけてある。たるまないように、楔を打ち込むようになっていて。裏に貼ってあった題名なんか描いてあったのをきれいに取って、それをきちんと台紙に貼って。

染谷:分かります。なるほど。

有村:それで、あと1枚の絵はオノサトさんが結婚する頃、具象的な絵を何人か同級生を中心に売ったんですね。その時の絵があるはずだ、というので、たまたま僕が桐工へ勤めていた頃社会の先生で野球の顧問をやっていた人がいて、その人がオノサトさんの家のすぐ側で、「この前オノサトが来て、絵を買ってくれ、と持って来たのだが」と。オノサトさんの絵を2枚持っている。1枚は桃を描いた、具象的な絵を持ってきた、と。この事を大川美術館に言われたときに思いだして、「阿部さんの家に絵があるはずですよ」と言ったら、東京にいる阿部さんの息子さんに連絡をした。ちょうど、(群馬の家が)空き家なので、壊すときだった。オノサトさんの絵と一緒に僕の絵も1枚あった。オノサトさんの絵は展覧会に出し、僕の絵は「そのまま参考にしたいから置いていってほしい」と小此木さん(註:小此木美代子 大川美術館学芸員)に言われたとかで、僕は、小此木さんに連絡をもらって、行って(作品を)見たのだが、雨漏りをするような家に20年くらい放置されていて、(家を)壊すから、ということで美術館に持って来た事で、(作品の)状態がどんどん悪くなった。亀裂や絵具の膜が上がってくる。それで、家に持って帰ってきて、これじゃあどうしようもないので、何とか他の絵に変えてもらえないか、と思い、息子さんに電話をした。そしたら、「親父が気に入って、死ぬまで床の間に置いていた絵だから、簡単に取り換える訳にはいかない」と言うのですよ。(作品を)直すのにどうするかな、と思っていたら、娘が来たから、どうすりゃあいいと聞いたら、「(修復には)40万くらいかかる」と。40万、とんでもない話(笑)。とにかく、少し手を付けていった。その時はまだ、阿部さんの所へ連絡をしてなくて、何とか取り換えられるだろう、と思っていたのだけど、娘が「お父さん、これじゃあまたバラバラ絵具が落ちるところ落として、また絵具塗っちゃうでしょう」と言って、帰ってきては少しずつ直していたのだけど。阿部さんに連絡をしたら、まあ、「とにかく親父がこれが良い」と。親父の仏間を作って、使っていたものを集めておきたいので、「床の間にあった絵だから戻してくれ」、と。弱ったなあ、と、訳を話したら、「そんな手間暇掛けたら申し訳ないから、そのままで結構です」と言われた(笑)。作者としては弱ったな、と。

染谷:それはいつ頃の作品なんですか。

有村:桐工へ行って直後ぐらいの。(靴シリーズの)空に靴が突き刺さってあるような絵で。その空が傷んでしまって駄目なんですよ。僕としては、靴はそのままだから、取れる絵具全部引っ掻いて取っちゃって、塗りかえれば訳ない。そしたら、修復しなきゃ駄目だ、って娘が。俺が何とかしたいんだけど、って言ったら、絶対駄目だ、と。

染谷:(笑)修復家の意地があるでしょうから。

有村:娘に見せたら、こんなことになるのか、と思った。見せなきゃ良かった(笑)。

染谷:じゃあ、まだそのままになっているんですか。

有村:そのままです。娘が帰ってきては2,3回手を入れただけですから。

染谷:途中まで直してはあるけど、相当時間かかりそうですね。

有村:だから、阿部さんには、「そういう訳だから時間だけは下さい」って言っておいたんですよ。もう仕様がないから。本当に取り換えられるものなら、取り換えたいですよね。

染谷:(笑)いや、よくわかります(笑)。

有村:許可してもらえなかった。子どもにしてみれば、確かに親父さんの物をそのまま残しておきたい、という気持ちは分かりますよ。

染谷:その阿部さんって方は絵をたくさん集めていらっしゃったんですか。

有村:桐生に芭蕉(飲食店)っていうのがあるでしょ。あの人の親戚なんですよ。割合、絵とかそういうものに興味があった。もともとは、歯医者さんの息子さんなのかな。お兄さんは歯医者さんをやっていたから。その人はずっと野球の顧問で、全国の高野連の役職もやったような人なんです。割合に裕福だったのかな。僕の前にいた美術の先生の絵もありましたね。オノサトさんの絵は2枚あって、丸になってからの絵、桃の絵があって、結構ありましたね。

染谷:前橋に越されたのは、いつ頃なんですか。ここに来て何年くらいですか。

有村:ここはね、30年くらいです。81、2年の頃かな。

染谷:その前は。

有村:広瀬にいたんですよ。岩崎(岩崎孝)先生のすぐ隣です。

染谷:広瀬は長かったんですか。

有村:広瀬は10年ぐらいかな。たまたま教員組合の事務局行ったら、あそこへ労金の住宅が出来るから、良かったらどうですか、と言われて。それで僕は、岩崎にその話をしたんですよ。で、岩崎も「そりゃあ良いや」と。で、僕が申し込んで、その後岩崎が申し込んで。という風な感じで。だから、2軒隣どうし。

辻:その前、西善というのは。

有村:西善というのが広瀬町3丁目に改名になったんですね。最初西善町で、その後、広瀬団地として、朝倉からずっと繋がってきた。

染谷:じゃあ広瀬に行く前は伊勢崎ですか。

有村:えーと、そうですね。

染谷:それは借家ですか。

有村:借家ですね。

染谷:ここ、幸塚というと、昔南城さんもお住まいだったのもこの辺でしょ。

有村:そうです。川の側です。大正橋というのがあって、公民館のところから来ると、右へ入って、川沿いですね。そこに清水さんというお家があって、その清水さんの家の離れみたいな感じなのかな。1軒あって、6畳2間だった気がするなあ。南城さんというのは、神経質な人で、僕たちが行くというのが分かると、絵を全部押入れに片づけちゃう。奥さんは長煙管で火鉢の所で煙草吸っている。それで、とにかくひとつも描いてある絵がない、という感じだったですね。そんなに何回も行かなかったんですけど、桐生にいた笠木実さんと一緒に、2人で行ったのか、何人で行ったのか。

染谷:清心幼稚園に通っていた頃の話ですね。

有村:そうそう。

染谷:南城さんの奥さんって、煙管ですか。珍しいですね(笑)。

有村:ええ、これが本当に南城さんの奥さんか、という感じだったですよ。フランス帰り。フランスで結婚してるでしょ。岡(鹿之助)さんと張り合った、という話もあるぐらいですよ。

染谷:ええ、私もそんな。(話を聞いています。)。もともと岡鹿之助さんのアレだった。

有村:粋な感じも……。面白いねえ。

染谷:奥さんって東京の人なんですか。

有村:それも良く分からない。

染谷:奥さんの事情が良く分からなくって(笑)。

有村:向こうで一緒になった、というから、へえ、と思ったんだけど。

染谷:でも、安中に親戚がいたみたいですよね。最後南城さんが行ったのは、奥さんの方の親戚、と確かそう聞いたような気がするんですよ。ああ、安中の人なのかな、と思ったんですよ。なかなか素性を知っている方がいらっしゃらないので、どういう人なんだろうと思って。

有村:そうですよね、南城さんは前橋の人で、お母さんがどこか呉服屋さんか洋服屋さんか。

染谷:南城洋服店ですよね。そうですか、では本当に近くにいたんですね。

有村:すぐ近くなんですよ。橋を渡ったところの左側に奈良商店という店があり、川沿いのところで牛を何頭か飼っていて、そこの奥さんが子供の頃、牛乳をよく南城さんの家へ届けた、と言ってましたね。で、みんな南城さんの事を知っている人がいなくなって、その子供の頃牛乳を持って行ったという人は、まだ、65歳くらいかな。その人ぐらいかな、よく知っているのは。それで、南城さんがウサギを飼っていて、ウサギの絵あるでしょ。

辻:いくつかウサギをモチーフにされてますよね。

有村:そう。ウサギをよく写生していたから、描いているのを見た人が、「私に絵をくれないか」って言ったら、「やるようなものじゃねぇ」などと言われ怒られたとか(笑)。その後は、馬場川ですよね。日当たりの悪い、前の(国道)50号線に家があって、その裏でしょ。

染谷:良い場所ではないから、全然売れてない(笑)。まあ、街中が良かったんですかね。

有村:街中が良かったのか、ここはどうだったのかな。

染谷:田舎嫌いだから。

有村:清水さんの家は子供どもひとりかな、今その人は出ちゃってる。奥さんが残っている。

染谷:今でも、その清水さんのお宅はあるのですか。

有村:あるんです。で、そこの奥さんは、ちょうどお嫁に来た頃に南城さんがいた、っていうのかな。あんまり南城さんの事を知らないみたいですね。

染谷:別棟の一軒屋みたいな所へいたの。

有村:ええ。大きな家があって、別棟の一軒。それを壊して息子の家というので作ったのだけど、息子はそこへ住まない。多分息子の家を建てたあたりにあったんですかね。何に使っていたのか良く分からない。貸家として作ったのか、何で作ったのか良く分からない。旧家で大きな家ですよ。

染谷:今、先生制作は時間を決めているのですか、朝とか昼とか。

有村:いや、あんまり決めてなくて、大体今は午後が多いかな。午前中は中途半端になっちゃうと上手く行かない。午後になってからやるようなかんじかな。

染谷:まあ、朝方っていうのはまとまった時間が出来ないから。

有村:午後から夕飯にかけて、ということの方が多いですね。

染谷:もう夜なんかは全く描かれない。

有村:描かないですね。

染谷:以前は描かれていた。

有村:前は描きましたけども。今はもう描かないですね。

染谷:前橋の市民展というのは、最初から関わっていたのですか。

有村:僕は、途中から前橋へ来たから。何回展だろう、それでも割と早い方じゃないかな。前橋市民展が開かれて、2年か3年経った頃ですよ。

辻:今年が47回展。

有村:3回展か4回展の頃からだろうと思いますね。

染谷:先生が出すようになった頃というのは、審査員はどういう方が。

有村:あの頃は、川隅路之助がいましたね。二紀会の近藤嘉男(1915-1979)、その二人が一番年配だったかな。あとは二科会の久保繁造さん(1911-2006)、清水(刀根)さん(1905-1984)はいなかった気がするんだよな。狩野(守)さんは参加していなかった。あとは岩崎義治、渋谷光典(1921-)なんかがいたのかなあ。あとは自由美術の東宮不二夫がいて、もうずっと若くなる。岩崎さんなんかが今生きていれば90歳をちょっと過ぎたぐらいか。東宮が今86歳。渋谷光典、岩崎義治、東宮なんかかな。田中恒(1927-2009)とか、ああいう人たちがいて、日本画には塩原友子(1921-)が。塩原達次郎(1919-2010)っていう方もいたな。

染谷:御親戚なんですか。

有村:いやいや、全然関係ないですね。

染谷:県展と市民展というのは、どんな風に関わっているのですか。特に関係ないんですか。

有村:市民展と県展というのは、あんまり関係ない、と言えば関係ないかな。ただ、県展で会員になっているのに、市民展では会員になってないのは、おかしいじゃないか、とか、そういう事を問題にすることはありますね。市民展は連盟展も入っているでしょ。始める時に、連盟の人の待遇どうするか、県展の人と同じにしていいのか、どうしようか、っていうのはあったみたい。

染谷:ああ、そういう調整はあったんですね。

有村:結局は、連盟の方が会員なら、やっぱり会員にしたんでしょう。差をつける訳にはいかないので。

染谷:前橋市民展って、誰が言い出して、誰が始めたのですか(笑)。

有村:これは、市でしょ。全部、美術会が出来ている訳ではないですよ。市がやりましょう、ということで始めたのです。

染谷:ああ、なるほど。市の職員の声かけ、社会教育課か何かがきっと声掛けて始めたんですね。今どこが関わっているの。

辻:今は、教育委員会の生涯学習課が担当です。。

有村:そのうちには、前橋市美術協会みたいな団体が出来るんじゃないかな。だって、行政の方はその方が楽ですよ。

染谷:まあ、楽ですよね。行政が直接やっているのは敵わないですよね。

有村:行政でやればその人たちがやらなきゃならない。美術館で関わると、誰がそれを担当するのか、とかね。美術館はどこまでそれにタッチするのか、とかね。

染谷:それは、県展のときにそうでしたから(笑)。

有村:黒田さん(註:黒田亮子 元群馬県立館林美術館長)が盛んに、「もう私たちは」というので、一軒づつ回って来たんですよ。

染谷:あ、そうだったんですか。説得というか。

有村:「こういう状態なんだけど、私たちこうです」って。その後、なかなか話が出来なかったけど。
前橋市美術協会みたいなのを作って、会費幾らとして、やるようになれば、その方が財政的に市だって楽ですよね。職員を動員する必要ないでしょ。

辻:自主的な活動になって行ったら本当は良いですよね。

有村:生涯学習課だけが関わらないで、今度は美術館が関わるような形にはなるだろうけど。どこまで、それに関わるの、というのもあるだろうしね。県展の場合だって、ほとんどね。

染谷:そうですね、県はほとんどタッチしてない。会長の調整ぐらいで。

有村:田中さん(註:田中龍也 群馬県立近代美術館学芸員)が真面目に照明を全部当てて歩いたり。そういう事はするけど(笑)。

染谷:先生、美術にこれまでずっと関わってきて、美術をやってきたことの感想、思いみたいなのはありますか。

有村:やっぱり、自分の足跡を残すっていうか、自分が生きてきた証みたいなものを描き続けてこられた、描き続けることによって残せるみたいな、残したってしょうがないんだけど、自分ではある意味満足かな。描くことで自分を見つめるということがありますから。他の仕事と比べると、そういう満足感みたいなのはありますよね。

染谷:画集を作るような計画は無いのですか。

有村:今のところは考えてない。面倒くさくて(笑)。

染谷:これからの抱負とかございますか。

有村:もうこれからの、抱負はないですね。

染谷:ないですか、もう(笑)。今あちこちで教えてらっしゃる。

有村:あちこちというか、桂萱の公民館で。

染谷:これはもう随分昔からですか。

有村:20年くらいやってますかね。

染谷:何人ぐらい教えているのですか。

有村:今ちょっと少なくなって、18ぐらいかな。

染谷:多い時はどのくらいいたのですか。

有村:23、4でしたかね。みんな高齢になってからね、心臓がどうだとか、梯子から落ちて怪我をした、だとか(笑)。いろいろそういうので、通えなくて、来られない、という人もいるんですね。

染谷:週1偏くらい教えているのですか。

有村:週に1偏ですね。で、あと芳賀の公民館、これが引っ掛かりがあって。これは増えない。固定していて、6人ぐらいかな今。

染谷:これは何年かやっているのですか。

有村:これは、途中から。

染谷:誰かの跡を継いだの。

有村:公民館が、公民館活動を活発にさせるために、そういう事を計画するんですね。それで今年の夏の何日から何日まで、絵画教室をやるから参加しませんか、と呼びかけて。

染谷:集中講義みたいな感じ。

有村:夏季講習みたいなので、やって。それが終わると、自主的に自分達でクラブを作って、そのまま先生に残ってもらうけどどうですか、と。そういう形で。みんな、桂萱もそう。

染谷:そういう作り方をするんですね。最初は仕掛けておいて。

有村:先生が公民館に行って、「絵画教室やりたいんだけども、生徒を集めて」なんていうのではない。そういうかたちで大体残っているのではないですか。

染谷:あとは生徒たちが自主的にお金を出し合って、先生を呼んだり、会場確保したりする訳ですね。なるほどね、上手いシステムですね。

有村:1回幾らぐらいなら宜しいでしょうか、みたいな事、公民館でそこまで決めてる。

辻:じゃあ、今は2か所で週に2回。

有村:芳賀団地は人数少ないから、1カ月に2回だけ。

染谷:以前はもっと他でもやっていたのですか。

有村:いやあ、それはやってないです。桂萱の公民館は田村さんがやっていた所なんですよ。田村清男さん。あの人が水彩画教室をやっていた。その田村さんが亡くなって、その後誰かに来てもらいたい、というので、たまたま私が桂萱地区だから、呼ばれて行ったような形ですね。

染谷:じゃあ、今でも水彩画が主なんですか。

有村:主ではなくなりましたね。始め、水彩画クラブかなんかだったんですよ。だから、これを絵画クラブにしてくれ、と。油絵が今半分以上かな、水彩画の方が少ないかもしれない。だけど、水彩画の人は長いです。30年ぐらい。

染谷:今でも県展に。あ、これきっと先生の教え子だな、というの方のが(笑)。

有村:会員になったり、準会員になったり。描き始めて努力する人は必ずよくなりますね。

染谷:そんなところですかね。

辻:そうですね。

染谷:じゃあ一応こんな所で、時間も来ましたので。本当に長時間ありがとうございました。