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靉嘔オーラル・ヒストリー 2011年11月6日

茨城県行方市の靉嘔自宅にて
インタヴュアー:本阿弥清、西川美穂子、加治屋健司
書き起こし:本阿弥清
公開日:2014年6月15日


 
靉嘔(あいおう 1931年~)
美術家
1950年代にデモクラート美術家協会に参加した後、1958年に渡米。触覚による《フィンガー・ボックス》、「エンヴァイラメント」と呼ばれるインスタレーション、光のスペクトルの色で塗り分ける「虹」の作品で注目を集める。国際的な前衛芸術運動であるフルクサスに参加して、数々のイヴェントを手がける。靉嘔氏と交流がある美術批評家の本阿弥清氏と、2012年に東京都現代美術館で開かれた「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」展を担当した西川美穂子氏をインタヴュアーに迎えて、茨城県行方市での生い立ち、東京教育大学(現筑波大学)の学生時代、デモクラート美術家協会での活動、渡米後の作品やその展開、フルクサスのメンバーをはじめとするアーティストたちとの交流、帰国後の活動などについてお話しいただいた。

本阿弥:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのインタヴューを快く承諾していただきありがとうございます。インタヴュアーは、会代表の加治屋健司と、来年2月から開催される「靉嘔」展(注:「靉嘔:ふたたび虹のかなたに」展、東京都現代美術館、2012年。新潟市美術館、広島市現代美術館に巡回)を担当する東京都現代美術館の西川美穂子、そして、靉嘔さんと20年以上にわたり親交があり、NPO法人で運営する「虹の美術館」の主宰者でもあった本阿弥清が担当します。本名は飯島孝雄。1931年5月19日生まれでよろしいですか。

靉嘔:はい、よろしいです。

本阿弥:先生の兄弟は何人でしたか。

靉嘔:3人です。僕には妹が2人います。下の妹と歳が15違うんですね。親父(孝澄)が戦争に行っていましたので、子供を作るチャンスがなかなかなかったのでしょうね。そして、終戦後、この場所(行方市)に引き揚げてきたんです。僕の親父が次男坊で、この家の長男が跡取りだったのです。長男は飯島茂さんと言います。彼には息子が1人いたんですが、ニューギニアで戦死したんです。玉砕なんかで。それで、息子がいなくなったことなどで悲しいこともあったんでしょう。そして、村の政治家になって、いろいろ政治を始めたんですね。毎日、このうちの母屋で、お芋でお酒を作っちゃってね。本当は作っちゃいけないんですが、戦後、ドブロクと焼酎を作るんです。とくにかく、母屋に行くと焼酎の瓶が三つぐらい置いてあるんです。村の人が来て、その焼酎を飲んで毎日わいわいしているんです。酒を飲みすぎて、いわゆる中風になって倒れて死んだんですね。結局、僕の親父が家を継いで、僕のファミリーの親父とお袋(アイ)が母屋を新しくして住んだんですね。その時は戦後ですが、妹が生まれたんですね。上の妹が則子。飯島則子といいます。その下の妹がミドリ。飯島ミドリといいます。僕と則子とは15歳、ミドリとは18歳違います。親父たちは、赤ん坊が生まれたら百姓を始めたんです。オシメを換えるのも子守なども全部僕がやったんですね。お宮参りも全部僕がやったんです。何だか兄弟じゃなくて親ですね。だから妹たちは僕には文句は言えないですよ。僕は、長男の養子になるんです。叔父さんが生きていたときに養子にさせられたんですね。僕たちは、戦後、疎開から帰ってきてここに住んだんです。養子になっていたことは僕は知らなかったんです。僕の親父(孝澄)と長男(茂)は、お互いに財産は持っていたんですね。しかし、叔父さんが死んじゃったもんだから。僕が、叔父さんの跡取りですよね。親父も死んだら両方僕が跡取りですから。何で分けたかというと、戦後の財産税。財産が差し押さえられるので、分けて持っていたほうがいいということで、そうしたわけですね。なので、僕は2軒分相続できたんですね。(それでも)法律上、土地が取り上げられちゃったんですね。

本阿弥:先生は現在どの程度土地を持っておられるのですか。

靉嘔:水田を一町五反ほど持っていますね。畑が三町歩ぐらいですね。この辺は特に、土地はただより安い値段ですね。僕の妹の則子は、川の向う、石岡に近いところに嫁に行ったんですね。そこは土地がとんどん上がったんですね。東京の通勤圏内なんです。鹿嶋だって、今はバスで通勤するでしょう。ここだけは何もないんですから。

加治屋:戦後の財産の法律で、土地を取られたというわけですね。

靉嘔:戦後、小作に貸していた土地が小作に持っていかれたでしょう。その時の共産党が指導して来るんですよね「土地を早くよこせ」と。夜中に、ドアをドンドン叩くんですよ。僕は小作人のほうに賛成なのでね(笑)。

本阿弥:先生が養子になられたのは戦後ですか。

靉嘔:戦後です。

本阿弥:過去の先生のインタヴューの発言ですが、本名が好きではなかったということですが、いかがですか。

靉嘔:僕の名前は飯島孝雄と言うんですよ。孝行の「孝」と書くんです。「お」は「雄」なんです。孝行に雄というのは、親が俺に孝行しろと言って付けたんじゃないかと思って、僕はひがむんですよ。僕の親父は孝澄と言うんです。僕の名前は、その「孝」を採ったんだと思うんです。その頃に陸軍大将に何とか孝雄というのがいてね。それから採ったんだと親父が言うんです。「そんな馬鹿な話はあるか」と(思った)。

本阿弥:ある記述によると、靉嘔先生は父親の職業には興味がなかったとありますが、いかがですか。

靉嘔:そんなことはありませんよ。とんでもない、とんでもないです。親父は海軍のパイロットです。僕は親父が大好きなんです。本当に大好きでね。今でも好きなんです。僕に4人目の孫の男の子が生まれたとき、名前を孝澄にしたんですよ。それが、モハメッド孝澄なんです。私の娘の花子の息子です。僕がこの名前を付けろと言った覚えはないんです。いかに僕が親父が好きだったかということを彼女が知っていてね。親父は、日本の海軍で滞空時間が一番長い人のひとりなんです。滞空時間とは空にいる時間でね。気球の時代からいたんですね。気球には紐が付いています。空中で望遠鏡で周りを見るんです。偵察なんですね。一生海軍だったので。それが終わると飛行船です。ツェッペリン号なんかですね。飛行船が終わると飛行艇に乗っていた。それからしばらくは、軍艦の比叡というのが横須賀にいてね。比叡からカタパルトでポッーンと出ていく飛行機があるんです。今の人は知らないだろうけど。それに乗っていたんですよ。比叡の乗組員でもあったんですよ。

加治屋:小さい頃は、海軍の軍人さんになろうとか。

靉嘔:僕はそういうことはなかったんですけどね。でも、僕は陸軍の幼年士官学校を受けに行った。中学の一年生の時に。そして行ったら、裸で検査するんですね。ひとりに叩かれて「お前は(父親が)海軍じゃないか。海軍に行け」と試験官に言われた。「はい、そうですか」と言って帰ってきた覚えがあります。

本阿弥:その頃は、陸軍とかに行こうと思っていたんですか。

靉嘔:その頃はみんなそうですよ。一番勉強のできる者は幼年学校に行ったんです。中学一年生のときに。ところが、海軍は四年生じゃないと行けなかったんです。四年生で士官学校(注:海軍兵学校)に入れたんです。普通は、東大などに行って(軍隊に)入ってから(士官に)替わったようですけれども、軍隊(兵学校)に行っているとすぐに士官に替われたということがあるんです。親父は、最後は重慶爆撃。親父は50回行っているんですから。

本阿弥:先生は、千葉県が多かったようですが、小学校を6度転校されていますね。そして台湾にも行っています。

靉嘔:それに、神奈川県の横須賀ね。横浜にもいましたよ。軍港があるところにいたんです。横須賀には比叡が泊まっていましたから。いつも僕と両親の3人でね。

本阿弥:中学校は2回転校していますね。

靉嘔:木更津が最後で終戦になったんですね。終戦になる前に、ここに疎開してきたんです。もう危ないということで、旧制の麻生中学(現、茨城県立麻生高等学校)に疎開してきたんですね。

本阿弥:靉嘔さんは、中学2年で終戦を迎えていますね。当時、時代が変わった。帝国主義から自由主義に価値観が大きく変わったときに、先生が中学校にいろいろクラブを作ったり、生徒会長もされたと聞いていますが、当時のことをお聞かせください。

靉嘔:われわれは、アプレゲールと言われたんです。戦後派ですよね。それこそ石原慎太郎ですよね。慎太郎がヒーローでした。僕は慎太郎刈りをしていましたから。とにかく、戦争中に(麻生)中学に越してきたんですけど、学校の校庭が全部芋畑なんですよね。芋を作って、芋を掘って持っていって食べるんですね。そういうことをしていて、先生にいつも生徒が怒られていたんですよね。それで、戦争が終わった瞬間に、日本の国が崩壊したわけですね。そういうものが一切なくなったんですね。先生は、いつ生徒に殴られるのか戦々恐々なんですね、本当は。学校の運営を全部、生徒が任されたんです。中学の時。僕は生徒会長になって、学校の運営を全部、こうしろ、こうしろと先生に言うと「はい、分かりました」と言うんですね。僕の受け持ちの担任は生物だったんです。僕は生物が大好きで、そうしたら「飯島。講義しろ」と。僕は「はいっ」と。先生の代わりに講義をするんですよ。先生が生徒におべっかを使ったんだと思います。そればかりではないでしょうけど。生徒の多くが東京から疎開してきたんです。疎開してきた生徒は全部頭が良いんですよね。麻生高校からは東大に行く人はほとんどいなかったんです。1人か2人しかいないんです。それが僕のクラスでは東大に5人ほど入っていますよ。田舎の高校がですよ。生徒会などが学校の運営をして、運動部なども作るんです。何にもない時代でした。(誰かが)「野球部」と言うと「はい、作りましょう」と僕が決めるんです。いい気分ですよ。バスケット部は、賛成がひとり足りなくて、できないことがあったんです。議長が賛成すれば部ができるので、僕はみんなに(頼られた)。運動部というのはひどい奴が多くて、僕はヤクザの先頭の親分のようになった。そういうことがありました。

本阿弥:当時、先生にとって美術はどのような環境にあったのですか。

靉嘔:絵は上手でした。例えば、木更津の小学校で絵の展覧会があると、僕の絵がほとんど掛かるんですね。違う名前で掛けてあるんですね。僕はいろんな絵を描いていたんですね。きれいなお花の絵は女の子の名前になっているんですね。

加治屋:それは誰が描いた絵ですか。

靉嘔:僕が描いた絵が彼女の名前になっていたんですね。美人だから、僕は黙っていましたね。そういうことがありましたね。

加治屋:学校の先生が名前を変えて出したということでしょうね。同じ人ばかりではいけないと思って。

靉嘔:自然にそういうことをしたんですね。芝居でも僕は、ほとんどいつも主役をやっていました。僕は芝居をしようと思っていたんですよ。絵を描かないでね。大学を卒業するまでずっと芝居をやっていたんですよ。

加治屋:高校の部活動は、どんなことをやっていたんですか。

靉嘔:美術部でしたが、あらゆるものに関係しました。僕がイエスと言わないと部が存在しないわけだから。威張っていましたね。美術部、それから演劇。演劇と言ったって、高校ですから。学園祭では僕がほとんど全部(主役をやった)。それから、女学校が潮来にあるんですよ。僕のいたところは男の学校だから、潮来まで指導しに行くんですよ。

加治屋:女学校のほうに。

靉嘔:彼女たちの顔を見たい一身でね、自転車で行くんですよ。潮来まで。麻生から潮来まで行ってまた戻ってくるんですよ。夜中に。

加治屋:かなりかかりますね。

靉嘔:おかしかったですね。でもあの頃は、道が県道でも砂利道だったんですね。アスファルトではなくて。夜に高校に行くと、自動車が1時間に1台か2台通るだけで、何もなかったですよ。あの道を5人ぐらいで、自転車で行ったんですね。

西川:どういうお芝居をされていたんですか。

靉嘔:いろいろ芝居をやり、脚本をどこかから持ってきて。

西川:それは日本のものですか。

靉嘔:日本のものもありましたね。

加治屋:翻訳ものですか。

靉嘔:そうですね、西洋のものもありましたね。(ジョン・)ゴールズワージー(John Galsworthy)なんてやりましたよ。ゴールズワージーは知っていますか。今の皇后陛下の卒論がゴールズワージーでね。イギリスのまじめな道徳的な小説家ですけれど、そういうものをやったりしました。それから、脚本を見つけてきて、カルメンとかもやりました。女がいないんですよ。男ばかりですからね。男をみんな女にして。特に1人か2人は借りてくるんですよ。

加治屋:大学に行かれてもお芝居をなさっていたのですか。

靉嘔:はい。

加治屋:そのときはどのようなお芝居をなさっていたのですか。

靉嘔:その前に、潮来で「この曲が終わらざるごとくこの恋も終わらない」という、有名な音楽家…… ショパンではなくて、誰だったか(注:「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」は、1933年公開のフランツ・シューベルトの伝記映画「未完成交響楽」の惹句)。宝塚もあるんですが、そういうのを指導したりしました。

本阿弥:先生は、水戸高校と早稲田高校を受験したが、(答案を)半分だけ書いて放棄して帰ってきたという話があるのですが、それは事実ですか。

靉嘔:それは受験の時ですね。

本阿弥:美術の大学を受けたかったけども、親が反対したので東京教育大学にした、と。

靉嘔:とにかく田舎にいたら、百姓をやらされるんですよ。何とかここから逃げなくてはいけないわけです。それには、大学に行くのが一番いいんです。ところが、家が貧乏でね。戦後はどこの家も貧乏なんですよ。大学なんかに行かせられないんです。田舎でそういうことができるのは、醤油屋とか米屋とかの子供ね。僕なんかのときは、私立には誰でも行けたんですよ。早稲田、慶應以外は。でも、僕が大学に入るには、官立以外にはないんですよね。だから東大に行くしかないんです。東大に行くには、コースとしては水戸高校から東大に行くというのがあった。僕は、水戸高校を受けに行ったんですよ。旧制中学4年のときに、受けに行けたんです。4年の時には受験勉強が全部終わっていたんでね、僕は。だから、それ以後は受験勉強をしなくてもよかったんです。とにかく、試験を受けている最中に、美術の学校に行きたくなったんですね。僕が水戸高校に受かって東大に行って、東大に行っても高等文官試験というのがあるでしょ。受けなければいけない。一生、こんなに勉強ばかりをしているのがいやだと思ったんですね。僕は、自分の言いたいことがその時々であるので、それを言いたいわけです。とにかくね。どんな方法を使っても言いたい。絵を描くときも、美しい絵だとか、きれいな絵だとか、いやらしい絵じゃなくていいんですよ。僕の言いたいことが言えればいいんです。そういう主義だったんです。だからお芝居でも、僕の言いたいことが言えるお芝居。お芝居では、言いたいことを全部使えますから。言葉とか単語でね。

本阿弥:先ほど加治屋さんが聞こうとしていたことですが、大学では、美術以外に演劇の方もやっていたと先生は以前に語っていますね。

靉嘔:はい。両方をやっていました。どんなことをやったかというと。『どん底』をやりましたよ。マクシム・ゴーリキー(Maxim Gorky)のね。それから、フランスのヴォードヴィルの『マリウス(Marius)』(注:マルセル・パニョル(Marcel Pagnol)作の戯曲。1929年初演)というのをやりました。2年ぐらいかな、一生懸命やったのは。『ヴェニスの商人』もやったね。『マーチャント・オブ・ヴェニス(ヴェニスの商人)』には娘がいるんですよ。そうするとお茶の水女子大の生徒を呼んでくるんです。それが全然美人じゃないんですよ。それでキスすると台本に書いてあるんで、どうやってするかなと(笑)。興奮したものです。

西川:『ヴェニスの商人』の時は何役だったんですか。

靉嘔:僕は、親父の役でしたね。

西川:ユダヤ人のですか。

靉嘔:忘れちゃったな。

加治屋:シャイロックのほうですか。

靉嘔:そうそう。肉を切られるほうのお父さんだと思う。僕がやったんです。

西川:そういう演目を決めたりするのは、結構大変ですよね。

靉嘔:それを決めるのは大学ですよね。わりと大きな演劇部でした。お茶の水女子大と一緒にやったりしました。お茶の水女子大は教育大のはす向いですから。

本阿弥:先生は美術科だから、部活動として演劇をやっていたということですか。

靉嘔:僕は美術が専門で、別に演劇部に入っていたわけです。

本阿弥:先生の美術科での担任は誰だったのですか。

靉嘔:松木重雄が助教授で、田原輝夫が教授です。両方、日展です。

本阿弥:大学時代は、デザイン教室の村井(正誠)、大智(浩)、高橋先生のところに出入りしていたと過去に語っていますが。

靉嘔:日展じゃ話が通じないもの。高橋正人ね。村井正誠は講師で来ていたんですけどね。そこに行くと話が通用するんですよ。後、大智浩ね。やっぱりデザイナーというのはいいことを言うんですよ。デザインの教室では一番はっきりとしたことを言うのは僕でしたね。

本阿弥:バウハウスの流れを汲んでいますよね。

靉嘔:もちろんそうです。バウハウスの翻訳をしたりしてね。僕は、変なことばかりやっていました。

西川:前後しますけども、大学に入られるときの美術の勉強をどのようにされていたのですか。

靉嘔:全然していません。ただね、僕は受かって、育英資金というのがあるので申し込んだらインタヴュー(面接)があったんですよ。担任の田原さんが「君は随分勉強ができるんでね」と言うんだよね。試験の成績が一番良かったんでしょうね。僕は東大に行こうと勉強していましたから。東大は何回か受ければ入れると思ったくらいですから、勉強ができないことはなかったんですよね。デッサンなどは、鉾田というところに中学がありまして、鉾田にひとり絵を勉強している男がいるということで、彼のところにある日に行って「デッサンって何」と聞いた。「こうやるんだよ」と、それだけですね。後は、高校の美術部に石膏があって、それをやってみただけで、ほとんどありませんね。基礎がないんですね。都会にいればどこか研究所に行って勉強しますね。上手ですよ。そういう人が一緒に大学に入ってきました。

加治屋:油絵は、高校の時にはお描きになっていたんですか。

靉嘔:油絵は全部自分で(勉強)。何もない時代ですからね。絵具も売っていない時代でした。油絵具もないから、胡麻油で顔料を溶いて描いたことがありますよ。乾かないんだよね(笑)。全部そうですよ。エッチングも全部。インクから何まで全部自分で作ったんですよ。

本阿弥:そのような体験から、それ以降も材料などを自分で作ることが日常的に行われていたのでしょうか。

靉嘔:それ以外にないですから。お金がないし、教えてくれる人もいない。エッチングをやろうとしたときには。まず瑛九がエッチングを始めたんですね。瑛九はどこからかインクを見つけてきたんでしょうね。作り方も本で。アメリカの入門書を紐解くとフォーミュラがあったんですね。エッチングで引くグランドというのは、アスファルトと松脂なんですよ。それを混ぜて塗るんです。アスファルトは盗んでくるんですよ、道で工事中のものをね(笑)。松脂は売っているんですね。印刷工場で使っているんですね。それから黒いインクは、ボイル油という油が売っていたんですね。それは鯨油で、ものすごく臭いんですね。それを入れ物に入れてコンロで温めると、突如として火がぼっと点くんですよ。炎が上がるの。そこにぱっと蓋をかぶせるのね。それを4、5回やると、ちょっとどろっとした油ができるんですね。中学校の先生になったとき、生徒とふたりで校庭でつくりました。

加治屋:その頃も手に入らなかったのですか。

靉嘔:東京で売っているのが、文房堂だけなんですよ。文房堂なんていうのは、とてもじゃないが手が出ないですよ。僕はタケミヤ画廊で展覧会をやったけど、文房堂までは足が向かないんでね(注:「若い仲間たち」タケミヤ画廊、1955年2月)。でもね、文房堂というのは、戦後すぐに版画なんかを売っていたんです。有名な現代版画をね。だからすごいところだったね。

本阿弥:大学時代のことで、3年生の終わり1953年の2月か3月頃だと思いますが、読売アンデパンダンやデモクラート展に出品した作品《悲劇よりもより悲痛なるものの静寂B》(1953年)ではまだ本名の飯島孝雄なんですよ。ということは、4月以降にAY-Oというペンネームを付けていると思われるのです。靉嘔の「靉」は雲がたなびくさまで、「嘔」はサルトルの小説「嘔吐」から採ったと、過去のインタヴューで靉嘔さんは語っていますね。友達と一緒に付けたということですが、その頃のことについて詳しくお話してくれますか。

靉嘔:それはこういうことですね。僕は、育英資金を貰っていますよね。育英資金は3000円ほど貰えるんですね。育英資金を貰うと、友達5、6人を連れて新宿の飲み屋に行くんですね。ションベン横丁に行って。そこで僕は、みんなに金があるかぎりおごるんです。焼酎ですよ。そういう飲み会をやっていて、僕のお金がなくなっちゃうと、みんなでアルバイトするんです。5、6人で。それでトイミシンというおもちゃがあってね。それを学校に売りに行くんですよ。学校に行って「僕達、教育大学の生徒たちです」と言って、講義してね(笑)。「これをやると頭の回転が良くなる」と(笑)。仕事を取ってくる奴がいるんですよね。そいつは天才的にすごいんですよ。三つも四つも取ってきて。僕たちは下っ端で、講義してお金が貰えるんですが、僕なんかは何もしないんですよね。「飯島は、こことここに行ったことにしろ」と。「はいっ」と。ようするに会社に行って交通費を貰うんですよ。そういうことで毎晩新宿で飲んでいたんです。いつも飲み屋でみんなでグルになってね。

西川:その5、6人というのは、どういう方たちなんですか。その5、6人のグループは、いつも同じメンバーだったんですか。

靉嘔:そうですね。絵のグループで、同級生ですね。ほとんど同級生ですね。

本阿弥:そのときに、「AY-O」という名前が生まれたんですね。

靉嘔:そのときに「俺、名前気に入らないから、変えようと思うけど、「あいうえお」の中で一字をどれでも好きなのを俺にくれ」と言ったんだよ。そして、「あ」が一番多かったんだ。その次が「い」で「お」で、「う」と「え」は無かったんですね。それで、名前を「あいお」にしたんですね。

本阿弥:アルファベットの「A」というのは、その後で出たんですか。

靉嘔:そんなことはないですね。「あいうえお」、母音から。僕は何でもそうですが、色を使う場合でも、全ての色を使うというのが自然に備わった僕のチョイスの方法なんだ。一部を使用しない。黒だけを使用するなどはしないんですね。

本阿弥:「靉嘔」と「靉光」の「靉」は同じですけど、これは偶然ですか。

靉嘔:偶然です。それは辞書からです。僕は難しい字を選んだんですね。その当時、雲を描いていたんですね。エッチングを見れば分かるように。雲偏に愛で「変わった字だね」と思って。ともかく「靉」を選んだ。難しい字がいいだろうと思った。その頃、デモクラート(美術協会)は名前を変えるのが流行っていたんだよね。デモクラートに入ってからですね。

本阿弥:1953年3月に読売アンデパンダンのパーティーで、加藤正さん、福島辰夫さんに会っていますね。河原温さんとも会っていますね。その時に意気投合してデモクラートに誘われたと。

靉嘔:そのことは私も書いていますよ。

本阿弥:瑛九さんとはいつ頃会ったんですか。

靉嘔:それでは始めから話しますか。読売アンデパンダンの出品者懇談会というのがありました。東京都美術館の地下であったんですよね。精養軒が店を出しているんですよね。今でもそうですよ。そこで出品者懇談会というのを読売の人がやるんです。僕なんかはとにかく行って暴れるんですよね。岡本太郎(の作品)なんかは四室に持っていくんですよ。四室というのを知っていますか。偉い人は四室ですよ。そうすると僕なんかがねじ込もうとするんです。読売の記者に「なんだこれは。とんでもない」とか言われて。「あいうえお順に並べろ」とか言った。瀧口修造さんなどが僕のことを応援してくれるんで、それでやるんですけど。暴れたんで、「懇親会に出てくださいよ」と言うんだよ。でも僕はお金が無くて出られなくてね。記者の人が「半分、出します」と。半分出してもらって、懇親会に行ったんです。横に河原温が座ったんです。その向うに二人変な奴がいるんだよね。僕は懇親会で(河原)温と話をしていて、今でも覚えているね。カキのカクテルが出たんだよね。食べていたら(河原)温が「君、僕の絵を見たかね。僕の絵はいいよ」と。変な奴がいるもんだと思ってね。日本人ってのは遠慮するものだから。僕も負けていられなくて、「俺の絵はもっといいよ」と。「じゃ見に行こう」というんで、見に行ったんですよね。2階ですから。そうしたら、前にいた二人がくっついてくるんですよね。そして、僕の絵と温の絵を見た。(河原)温のはスパゲティのような気持ちの悪い絵だった。

西川:浴室のものですか。

靉嘔:そうです。〈浴室〉シリーズです。わりに大きな絵でね。それで僕の絵を見て、また戻ってきたんですよ。そうしたら二人も戻ってきた。それが加藤正と福島辰夫だったんです。黄色いパンフレットを抱えていて、「君たち。僕は君たちの絵が好きだよ」と言うんだよね。好きだと言われたら、みんなニコニコだよね。「そうですか」と。「僕達はこういう会を作っているんで、良かったら君たちも参加しませんか」と言って、パンフレットをくれるんです。それで家に帰ってそのパンフレットを見たら瑛九の「芸術は自由の旗の下に」という論文が載っていた号なんですよ(注:「希望は自由なる組織に」『Demokrato』No. 1(1953年)のことか)。僕とまったく同じ考えなんだよね。とにかく彼の言うのは、封建主義というのは一番非芸術的なものだというアイデアですよね。自由というか、デモクラートですからデモクラシーということなんだけど。まったくその通りです。やっぱり僕なんかは、そういう世界(封建主義)に育っていて、序列なんかがあった。学校でいつも喧嘩していても。そういうものだったんですよね。それを読んで感心して、瑛九にはがきを書いたんですよね。「瑛九さん。僕はこの展覧会に出しています。僕の絵も見てください。見て良かったら仲間に入れてください」と。瑛九も出していたんです。瑛九はまじめな人なんだよ。まじめに見てくれた。「僕はあなたの絵が良いと思います。仲間になりませんか」と。そして、次のデモクラートの会合で会った。その時は、(河原)温も一緒に来て入会したんですね。

加治屋:話が戻りますが。読売の記者の方で懇親会に来て欲しいとおっしゃったのは、海藤(日出男)さんですか。

靉嘔:いえ違います。普通の記者です。それがおかしいんですね。岡本太郎の絵を運んでいるんですが、まだ濡れているんだよね。そうすると、記者が絵具を触るんだよね。「怒られるよ」と言うと、ビクビクしちゃってね。おかしいね(笑)。

本阿弥:先生は、卒業論文で、(フェルナン・)レジェ(Fernand Léger)や(アンドレ・)フージュロン(André Fougeron)と自分について比較されているようですね。「シチュアシオン(革命の絵画)主題(テーマ)に於いてのレヂェ、フージロン、僕の場合」という題名です。当時は美術論や哲学も勉強されていたのですか。

靉嘔:卒論は出さなければいけないんです、教育大学は。僕は絵よりもそっちのほうが面白かった。その時代にはデモクラートに入っていたんですが、みんなフランスに行きたいわけですよね。画学生はみんな。フランス、フランスだった。フランス語を一生懸命に勉強したんですね。僕も大学に来たときは、フランス語を勉強していればあとは必要ないと思って、フランス語の授業に全部出たんですね。フランス語の先生が白井浩司なんですよ。白井浩司というのはサルトルの翻訳者です。河盛好蔵が親分で、二人の講義をずっと聞いていました。白井浩司ですから当然サルトルです。実存主義のサルトルです。その頃の若い芸術家というのは、共産主義者か実存主義かのどっちかなんですよ。あとはいないんですよね。あとは保守系、日展系でしょうね。

加治屋:先生は、共産主義ではなくて実存主義のほうですね。

靉嘔:共産主義か実存主義かは、年中論争ですよ。集まったら必ず論争した。共産党、日本美術会が日本アンデパンダンというのをやっていた。共産党は「お前たちはブルジョワジー」だと言って喧嘩するわけですよ。集まって討論会しようと言って、セットアップするんだよね。それをセットアップするのが、(勅使河原)蒼風、いや間違いで、勅使河原宏のほうでした。宏がどこかの旅館の広間を借りてくれた。僕なんかもゲリラで行って、逆に共産党をやっつけに行くんですよ。僕の仲間に白玲(ハクレイ)という絵描きがいて、一緒に(展覧会に)出していた。朝鮮の人でね。いつも二人で行くんですよ、攻撃に。テロに行くんですよ。話は飛ぶけど、彼はある日「北朝鮮に行く」と言うんですよ。ジェット機で行くと言うんですよね。そしてジェット機で行っちゃいましたね。もう帰ってこなかったですよ。白玲と言って、白の玲と書きます。読売アンデパンダンの出品者名を見れば必ず出てきます。

西川:読売アンデパンダンには他にもたくさんの作家たちが出ているわけですが、非常にみなさん親しくされていたと、前にもお聞きしています。今おっしゃっていた共産主義か実存主義かのどちらかで言うと、靉嘔さんと同じ実存主義の方にはどういう方たちがいらっしゃったのですか。

靉嘔:両方でグループを作って46人展というのをやったんです(「アンデパンダン新人展」1954年)。養清堂でやったんです。47人じゃないんだよ。四十七士じゃない。46人でやったんです。日本アンデパンダンと読売アンデパンダンが一緒になってやって、新聞に名前が出たんです。日本アンデパンダンも読売アンデパンダンもスターが結局出るんですよ。両方とも小川正隆さんが書いたんだよね。あの人はそうとう貢献しているんだよ。みんな文句も言うけれども。僕は、彼によってデビューしたようなものだ。作品を出せば、作品の写真が新聞に載ったんですから。新聞に載ると10部は買うんですよ。

本阿弥:養清堂での展覧会は1954年の大学4年生の冬ですね。先生は、大学を卒業してから中学校の教師になられました。美術科の教師ですか。

靉嘔:そうです。中学は美術の先生です。教育大学というのは、普通の大学と全然変わらないんですが、教職(科目)をとれば先生になれるんです。

本阿弥:先生は、板橋区立の志村第二中学校に教員として勤めていますね。

靉嘔:まず育英資金がなくなり、田舎の家から米を担いで持ってきて、みんなに米をあげたりしたが、それもできなくなって。それで、やはり職と言ったら学校の先生ですよね。教育大ですから。僕は先生には絶対にならないと言って、教員試験を受けないでいたんですよ。そうしたら、どうしてもと友達が言うので、一番最後の試験の時に行って、手のデッサンを描いてくれと言うんですね。それで、自分の手を広げて指の輪郭をなぞって描いたんですよ。隣にいた友達が「やめろ、やめろ、やめろ」と言うんだよね(笑)。これはまぎれもなく手のデッサンじゃないですか(笑)。

本阿弥:それで試験に受かったんですか。

靉嘔:教員試験は簡単に受かるんですよ。そんなのは何でもないですよ。面接があって「あなたは教育大ですね」「そうです」と。「あなたは何か好きですか」と。「僕は落語が好きです」と(笑)。その頃、落語に凝っていたんです。あと、歌舞伎の役者になりたくて。新劇ばかりやっていたんで反抗したんですね。新劇に対して。歌舞伎の役者に一時は真剣になろうと思ったことがあるんです。でも、歌舞伎の役者というのは、なりたくてもなれないんです。玉三郎はすごいね。ほんとうにすごい。僕はあんなに美男ではない。歌舞伎役者になれないし、お金もないので、中学校の先生になった。板橋に住んでいたんですよね。教育大が近かったので。教育大は昔、板橋の歩兵工廠跡にあったんですよ。(戦争で)みんな燃えちゃったので、美術は兵舎を間借りしていたんです。板橋の中板橋の三畳の部屋に住んでいました。千葉の美術館(千葉市美術館)にある絵はあそこで描いたんですから。

西川:あの大きな絵をですか。

靉嘔:《若い仲間たち》(1954年)かな。あの作品はあそこで描いたんですよ。そこでバラで描いて、外に持っていって初めて分かるんですね(笑)。(中学校に就職するきっかけは)学生のときからそこに住んでいて、お金もなかったので、下駄履きで自転車に乗って、山を下りて行ったら中学校があったんですね。「僕は今年学校を卒業したんですが、職がないんです。学校の先生の職はありますか」と言ったんですよ。「美術です」「図画の教師か」「教育大です」と言ったら、志村第三中学に行ってくださいと言われた。行ったらすぐにその場で採用なんです。今じゃ信じられないことだよね。だから僕は、誰の紹介もなしに学校の先生になったんだよね。今はいろいろ大変ですよね。悪いことをしたらすぐにつまみ出されるし。そういうことが一切なくて先生になったんですね。

西川:そのときは、ご結婚されていたんですか。

靉嘔:まだ結婚はしていなかったんですけども、一緒に住んでいました。学校を卒業した年に、実家からへんてこりんな材木を持ってきて、家を造ったんですよ。砂が飛んでいると必ず砂が舞い込むんですよ。清瀬の家です。それは細江英公が写真を撮っています。土地は郁子(注:靉嘔夫人)のものです。50、60坪ぐらいの土地があったんです。そこに8坪くらいの家を造ったんです。郁子とは、卒業と同時に一緒に暮らしていたんです。

本阿弥:先生は、中学校の先生をしていた1955年に、堀内康司さんと池田満寿夫さんが訪ねてきたと(お書きになっています)。真鍋博に誘われて「実在者」を結成したそうですね。

靉嘔:堀内康司は死んじゃったんだよ。

本阿弥:堀内康司さんは、デモクラート展を見て色が美しいので、靉嘔さんの作品《現代の恋人》(1954年)を買ったと、あるインタヴューで語っています。

靉嘔:知らないですね。それは堀内の間違いだろうね。

本阿弥:堀内さんは、8000円で靉嘔さんの絵を買ったと語っていますね。

靉嘔:それは買ったかも分からないですよ。僕はかなり有名だったんですよね。読売アンデパンダンで。若手でかなり名前が出たわけね。だから、彼が(池田)満寿夫を連れて僕の家まで来て「グループを作りませんか」と言ったんです。僕はすでにデモクラートに入っていたんですが、若い仲間だけで作ろうかということになって作ったんです。その時に僕は条件を出したんです。絶対に既成画檀に参加しないという条件です。デモクラートの条件がそうなんですよ。既成画檀に出さないということだけが条件なんです。あとは何もないんですね。参加条件は何もないんです。普通のお嬢さんでもいいし、歌舞伎役者でもいいし。共産党員でもいい。共産党員でお茶のセールスをしている人もいましたね。瑛九が共産党に入っていたんだものね。1、2年ね。

本阿弥:実在者は、真鍋博さんとも。

靉嘔:実在者は、真鍋博と堀内と池田満寿夫と僕と4人で作ったんです。

本阿弥:しかし、真鍋さんが二紀会の二紀賞などを受賞したことがきっかけとなって解散と。

靉嘔:既成画檀に出さないという約束で作ったのに、みんな才能のある奴はすぐに誘われるわけね。フラッとするわけね。デモクラートもそうですよ。みんな入っても二科の会員会友にするとか、モダンアートの会員にするとか言われると、すぐに辞めちゃうわけです。真鍋だって才能があるんでね。この人は二紀会なんだよね。福島繁太郎は国展を支持していたんですよ。堀内は福島繁太郎に拾われたんです。「本当に孤児同然だった」と彼は言うんです。福島さんは、証券会社の御曹司、ミリオネアです。山叶證券の御曹司なんですよね。それで福島さんは大金を持ってフランスに行って、美術を買い始めたんです。ルオーを50点も買ったんですから。ルオーだけではなくて、いろんな作家を買って、しかもそれで飽き足らずに、『フォルム』という美術雑誌を作ったんです、フランスでね。パリで発行したんです。それで帰ってきたんです。

加治屋:『フォルム』という雑誌は、フランスの美術を取り上げた雑誌ですか。

靉嘔:フランスの美術界でそういう雑誌を作ったんです。フランスの現在の美術を扱う雑誌です。すごいんですよ。みんな知らないけど。福島繁太郎の奥さんは『うちの宿六』というベストセラーを書いた福島慶子です。

本阿弥:福島さんが実在者の活動を支援してくれていたんですよね。画廊もやっていたんですよね。

靉嘔:実在者というよりも堀内をですね。堀内は、山叶證券に勤めていて、走り使いをしていたんだよね。それでお金を貰っていた。非常に可愛がられて、「お前たち、展覧会をやるんだったら、画廊を使っていいよ」と。その頃、展覧会は1週間だけだったので、すごくお金がかかったんですよ。われわれは3人いるわけですよ。3人で展覧会を1週間やったってつまんないから、「連鎖展」というのを僕は作って、企画してデザインした。1人が一週間ずつするんですよ。1年で2回ぐらいやりました。ほとんどわれわれが分捕って展覧会をやったんです。

加治屋:それは何という展覧会ですか。

西川:フォルム画廊での「連鎖展」ですよね(注:グループ〈実在者〉「連鎖展」、フォルム画廊、1956年)。

靉嘔:そう、フォルム画廊での「連鎖展」です。「戦争」というやつと「無人間時代」(注:グループ〈実在者〉第1回展「戦争」(フォルム画廊、1955年)、第2回展「無人間時代」(フォルム画廊、1955年))。ありますよね、カタログが。カタログは僕のデザインです。

加治屋:タケミヤ画廊で、1955年に個展「若い仲間たち」をやっていますね。

靉嘔:タケミヤは「連鎖展」の前ですね。前から瀧口(修造)さんに「やらせてくれ。やらせてくれ」と言っていた。みんなそうなんですよ、若手はね。瀧口さんがそこでやらせた作家は全部有名になっています。

西川:それが最初の個展ですよね。

靉嘔:そうです。最初の個展をもらったんです。

本阿弥:それでは、デモクラートについて語ってくれますか。

靉嘔:デモクラートはつるし上げの会だよね。1ケ月に少なくとも一度は会合があるんです。加藤正の事務所が下北沢にあって、みんなで集まっていた。みんなで集まってコタツに入ると臭いんだよ。靴下が臭いんだよね。展覧会の打合せも全部そこでやるんです。とにかく展覧会をやろうとして、コーヒーショップを貸してくれると聞けば、すぐにそこでやる。カタログを作り宛名書きをする。郁子を連れていって、宛名書きをさせるんです。とにかく、会員全てがお互いにつるし上げるんだ。いいとか悪いとか言ってね。この頃は瑛九と久保貞次郎が親友だったからね。ほとんど久保さんが瑛九の絵を買っていた。久保さんがわれわれのことを支持してくれたんだよね。それで真岡に行って泊り込んだ。久保さんは泰西名画の版画をいっぱい持っていた。ピカソも持っていたんですよ。僕ほどオリジナルの絵を見た人はいませんよ。オリジナルな絵を見なくちゃだめだよ、本当に。アルプなどをその時代に見て、今でも持っていますものね。久保さん宅に行って1週間ぐらい泊まるんですよ。

本阿弥:その時に行った人はだれですか。

靉嘔:満寿夫とか。加藤正とか。オノサト・トシノブとか。細江もいましたね。そうそう、実在者に関しては、奈良原一高を抜かさないでくださいね。4人いましたね。奈良原は常に僕らと一緒にいたんです。奈良原は金持ちなんですね。われわれは貧しいんで、みんなつるんで展覧会をやっていました。

本阿弥:奈良原さんはデモクラートにも入っていますよね。

靉嘔:それは後からですね。僕がデモクラートのセミナーの時に連れて行った。久保さんの創美、創造美育のセミナーです。毎年、温泉を借り切って日本のどこかでやっていました。湯田中とか温泉を借り切って、創美のセミナーをするんですよ。みんな日本中からやってきた。一時期は300人も集まったんですから。湯田中では全部借り切るんですよね。湯田中に泊まって、みんなでディスカッションするんです。僕は教育が嫌いなんですね。教育大に行っていながらね(笑)。野次馬なんだよね。満寿夫と行って、ポルノを作ってそこで売るんです。

本阿弥:その時に版画を売った女性の旦那さんに叱られたんでしょ。

靉嘔:叱られたのは瑛九ですよ。瑛九が叱られたんですよ。

加治屋:ちょっと戻りますけど実在者は、池田さん、堀内さん、真鍋さん、靉嘔さん、奈良原さんの5人ということですか。

靉嘔:奈良原は会員じゃないんですけど、奈良原の展覧会があるとわれわれが必ず行って、飾り付けを手伝ったりした。あれは大変なんだよね。一枚の絵を掛けるのに3時間ほどかかるんです。奈良原とは常に一緒でしたし、今でも一緒です。奈良原の奥さんというのが、創美の事務局のセクレタリーだったんです。(創美で知り合って)結婚したんですね。そういうことはよくありました。

本阿弥:デモクラートの頃は、ちょうど大阪に具体美術協会もあったと思いますが、ご存知でしたか。

靉嘔:あなたは知らないでしょうが、大変な話なんですよ。とにかく戦後日本でグループを作るというのは。瑛九は宮崎にいたんです。東京に出てくるときは、鈍行なので、必ず途中で1日、2日は寝なければ体が持たないんですよ。必ず大阪に寄っていた。ものすごく啓蒙的な人だから大阪で啓蒙する。彼は写真をやっていました。フォトデッサンです。そうすると、有名な写真家やデザイナー――デザイナーだと山城隆一や早川良夫など――を集めて必ず酒を飲んで演説してから、東京に来るんです。それで彼はデモクラートをまず大阪で作ったんです。泉茂もいた。東京に来て、加藤正を見つけて、加藤正が事務局になって、東京のデモクラートをやった。(大阪と東京は)違うんですよね。会ったことのない人がほとんどですよね。山城や早川は東京に住みだしたけどね。デザイナーたちはお金持ちだからご馳走してくれたね。

西川:泉茂さんはどうでしたか。

靉嘔:泉は貧乏でしたね。泉とは展覧会で一緒でした。

西川:読売アンデパンダンとかで一緒だったんですか。

靉嘔:アンデパンダンにも一緒に出しました。それから版画ね。われわれは版画もしようと言って、版画も始めたんです。その時まず最初に版画家になったのは、瑛九を除くと、泉ですよね。それは大きかったですね。泉が賞をもらって。

本阿弥:泉さんは、それでアメリカに行くようになったのですよね。

靉嘔:そういうことじゃないね。賞を貰って、それでデモクラートがつぶれたんです。瑛九はこういう論理なんですね。ようするに、グループとか画壇というのは、出来ると絶対につぶれないと。時代が経つに従って、どんどん権威が出てくるわけですね。つぶれない。それは一番悪いことだと彼は言うんだね。みんな、心では賛成するんですよ。それである日、デモクラートが2年か3年経って、デモクラートでも有名な連中が出るようになって、賞までもらうようになった。だから、そういうことを続けていたら、悪い轍を踏む、われわれは解散したほうがいいんじゃないかと討論したんですよね。そして、10人、いや5、6人かな、家でやったんですよね。解散に賛成したのは僕と瑛九だけなんです。結局(賛成)しないんですよね。いれば、泉なんかは賞を貰うから。それに、デモクラートというと必ず採り上げられるしね。有名になってきたんです。それで瑛九が「これはデモクラティックな方法じゃないんだけども、俺が作った会だから解散したほうがいいと思う」と、彼は演説するんです。僕も大賛成だと言った。賛成の数は少なかったんです。二人だけで。まだいたのかもしれないけども。とにかく解散いたしましょうということになった。

本阿弥:先生が書かれた解散宣言文のはがき(1957年)は有名ですよね。その解散文のことですが、「デモクラート美術協会」と書かれています。本当は「デモクラート美術家協会」の誤りではありませんか。

靉嘔:知りません。それは批評家に任せますよ(笑)。

加治屋:先ほどの話に戻って、ご結婚の話があったんですけども。もし差し支えなければ、先生のご結婚の経緯とかお伺いしてもよろしいでしょうか。

靉嘔:結婚の経緯ですか。かまわないですよ。僕は教育大ですから、アルバイトの募集が来るんですよ。ある日、アルバイト(の募集)が来て、都庁にアルバイトに行ったんですね。何をしたか分からないけど、何やってたんだろうね。とにかく、教育大の生徒が3人、後は早稲田大学からも来てたね。4、5人アルバイトの生徒が来て、やったんです。朝9時に行かなきゃいけないんですよ。有楽町の都庁ですからね。いつも遅れるんだよね。そうすると郁子がいつも(出勤簿を)直しておいてくれるんだよね。そういう関係です。

加治屋:都庁に勤められていたんですね。

靉嘔:そうです。事務員ですね。姿形が好きだったんですね。何もないですよ。女の人を単純に好きになって、一緒にいたということですね。それでデートを繰り返して、一年ぐらいは一緒にいたでしょうね。彼女は家から通っている。卒業したとたんに、家、スタジオを造ろうということになってね。

本阿弥:先生が造ったんですか。

靉嘔:大工は別にいますよ。デモクラートの仲間に建築家がいて、近所の大工さんに頼んで造ったんです。壁が黄色で、窓枠がピンクで。

本阿弥:先生は、借金をして建てたのですか。

靉嘔:土地は郁子の土地で、材木は田舎の自分の家の木を切って、必要なものは自分で買った。そんなにお金はかけなかったな。とりあえず4坪の家ですから。4坪ですが、でっかいんですね。中二階になっていて。そこで、東京都現代美術館の収蔵作品《田園》(1956年)は描いたんですよ。

西川:《田園》は、分かれた状態で描いていたんですか。

靉嘔:いえいえ。それを出せる長い窓を作って(描いた)。

西川:家は出たけれども、画廊のところでだめだったんですね。

靉嘔:そうなんです。

本阿弥:当時はフランスのほうに行きたかったけども、デモクラートのみなさんもですが、試験が難しくてフランスに行けなくて、アメリカを目指したということだったんでしょうか。

靉嘔:そうじゃないですよ。僕もフランスに行こうと思っていました。まだ、為替レートが無い時代でしたから。外国に行くには留学生として行くしかないんです。留学生としての試験があるのは、フランスだけなんですよね。だから、フランス留学試験を受けてみんな行くんです。だからフランス語を一生懸命勉強するんです。あそこに行くのは東大の生徒ですからね、いつも日仏会館に行っていてね。受かりっこないですよね。河原温なども行って、落っこちたね。加藤正も落っこちたね。僕は受けなかったんですよ。あんなもの受けたって、受かりっこないと分かっていたから。それで受けなかったんだよね。とにかく、その時代はみんなフランス、フランスでした。ちょうど読売アンデパンダンの時に、読売がジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)ともう1人――覚えていないんだけれど、(フランツ・)クライン(Franz Kline)かな――二人をアンデパンダンに招待してでっかい作品を持ってきたんですよね(注:ポロックの作品は1951年の第3回読売アンデパンダンで展示された。そのときのアメリカからの出品にフランツ・クラインは含まれていない。他にマーク・ロスコ、アド・アインハート、マーク・トビー、クリフォード・スティルなどの作品が展示された)。その前の年かな、フランスの(ハンス・)アルトゥング(Hans Hartung)とか(ピエール・)スーラージュ(Pierre Soulages)の絵を持ってきて展覧会をしたんですよ。その頃は、とくかくアブストラクトですからね。絵を比べてみたら問題にならないんですよ。フランスの絵描きとジャクソク・ポロックと比べたら。スーラージュとかアルトゥングとかは、全然、馬鹿みたいなものですよ。ただお綺麗な絵で。綺麗な絵が好きな人はいっぱいいるでしょうが、僕はそうじゃなかった。「すげえ」とジャクソン・ポロックに惚れた。それじゃあ僕はアメリカに行こうと思った。堂本などはフランスに行ったんですよ。アメリカに行くにもなかなか行けなかったんですね。行く方法はただ一つ。オール・ギャランティーならば行けたんです。オール・ギャランティーというのは、向うにスポンサーがいて僕を呼んでくれて、病気になったら代わりにお金を払ってくれて、交通費も滞在費も一切払いますという保証をしてくれる人ですね。それがなければ行けなかったですね。それで行ったんです。

本阿弥:先生は、(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)がフランス人なのにアメリカにいることを考えるとアメリカだなと考えたとか。

靉嘔:それもあります。その時代は、デュシャンそしてポロックですね。最初はデュシャンでポロックが好きになった。デュシャンはフランス人なのにアメリカで活躍していますよね。それが不思議だったんですよね。何でアメリカにいるんだろうなと。でも、僕の知っている限りのアーティストの中で、一番好きなのがデュシャンだったんです。デュシャンがアメリカにいるならば、デュシャンのいるところに行きたいと思ったんだ。ファン根性なんだね。

西川:デュシャンはどうやって知ったんですか。美術雑誌とかですか。

靉嘔:僕だって美術史は端から端まで読んでいますから。どういうことでモダンアートができてきたかは分かっている。もうダダイズムの絵もすでに描いているんですよ。ダダイズムのピカビア(Picabia)を真似して、学校の学園祭で描いたりしてたんです。僕は一番新しいところが好きなんですね。そういう絵を描いていたんです。だから、とにかく知っていますよ。

西川:そういう勉強を始めたのは大学生になってからですか。

靉嘔:違います。高校の時からです。とにかく、新しいもの、新しいものと。さっき話したように、僕は意見を言いたいために絵を描くんです。それは小説であっても、音楽であってもかまわないし、芝居であってもいいんです。それでいろいろやったけど、結局、芝居は共同制作ですよね。僕はわがままな男だから嫌になっちゃうんですね。喧嘩ばかりするんですね。それで芝居を辞めて、絵の道に進んだんですね。音楽は、教育大には全然なかったです。僕の時代は何も知らないですよ。

本阿弥:先生は、おたまじゃくし(音符)は苦手といっていますよね。

靉嘔:勉強したことがなかったですからね。いやいや、ありましたよ。国民学校。小学校からありましたよ。それでやったんですけども。まあ、絵の方が、もっとストレートに言えたんですよ。

加治屋:ポロックの絵は1951年の読売アンデパンダンに出たんですが、あとは52年の第1回日本国際美術展にも出ています。

靉嘔:僕は、はじめに見たのは読売アンデパンダンですね。でっかい絵でしたよ。すごくいい絵ですね。ああそうですか。51年ですか。

本阿弥:大学の1年か2年の時ですね。

靉嘔:そうですね。その頃は展覧会などは無かったんですよ。泰西名画展というのがあってね。モジリアニのいい絵なんかあったんですね。今はどこにあるんですかね。モジリアニの絵は。

加治屋:一般的には、1956年に「世界・今日の美術展」が日本橋高島屋であって、アンフォルメル旋風が強くなった。それまでも、オム・テモワン(Homme Témoin)などがありましたけど、そこからアンフォルメルに関心が移って、フランスの美術に関心を持つ人が多かったようです。

靉嘔:そうですよ。フランスですよ。

加治屋:そのときにアメリカに興味を持ったというのは早いですよね。

靉嘔:即断できたんですよね。「これはもうアメリカだ」と。「フランスはだめだ」と思った。それだけですよ。理由は何もないです。アメリカに行ったのは、ジャクソン・ポロックとデュシャンがいたから行ったんです。損得ではないんですね。ただアメリカに行く方法がオール・ギャランティーだった。僕は美容師で行ったんですよ。

本阿弥:ロサンゼルスへ。

靉嘔:そうそう。真野美容学校というのが新宿にあるんですけども、その美容学校の跡取り娘と僕の友達が結婚したんですよね。とにかく外国に行った人の知り合いは彼女しかいないんだよね。それで相談したら、オール・ギャランティー・レターを買えばいいと。それで買ったんです。闇ドルで400ドルですよ。僕はその頃学校の先生をやっていまして、初任給が1万円です。その頃の1ドルは400円ですからね、360円ではなくて。闇ドルですから。360円は公定でしょうが、誰もそのお金では買えませんよ。

加治屋:ということは、16万円ぐらいですかね。16万円だと1年以上必要ですね。

靉嘔:安いと言えば安いですけど、当時400ドルは大変なお金でした。学校の教師の4年分ぐらいですかね。版画の頒布会というのがあって、僕は版画をずっと作っていて、そのお金を貯金してあったんですよね。その貯金が50から100万円ほど溜まったんですけど、何に使ったらいいかと郁子と一緒に考えた。もっと立派なスタジオを建てるか、それともアメリカに行くのはどうだろうと。鶯谷(東京)の橋の上で相談したんだよね。真野さんと結婚した男で中崎博というのがいるんですけど、御行の松美容院の跡取りだったんですよ。彼が真野さんと結婚したんです。彼女は世界一周してきて、いろいろコネを持っていた。世界一周出来るのは、当時美容師ぐらいなんですよね。

本阿弥:榊原博さんとは違うんですか。

靉嘔:いやいや違う。中崎博といって、親戚と同じくらいの仲間なんです。親父の兵隊の時の仲間で行き来していてね。

本阿弥:先生が100万円ほど溜めたのは、創造美育や小コレクターの会の頒布会ですか。

靉嘔:そうです。3年ぐらいやったんですよ。

本阿弥:福井の木水(育男)さんたちもいたんですか。

靉嘔:日本全国ですよ。10から20人ぐらいですかね。でも毎月5点なんです。新しいものを毎月5点納めるんです。毎月30人か20人かに。それは大変でしたよ。夜、酒飲んで、郁子がくるくるリトを回し、僕がインクを付けて摺ったんです。それが初期の石版画ですね。

本阿弥:《アンフォルメル》という作品ですか。

靉嘔:いろいろですよ。

本阿弥:私も靉嘔先生の1950年代のリトグラフ《アンフォルメル》という作品は1枚持っています。

靉嘔:今度、ミュージアム(東京都現代美術館)でいっぱい見せますよ。

西川:レジェのことは卒論でも書かれていますが、最初にレジェをお知りになったのは、高島屋での展覧会ですか。

靉嘔:久保さんの家に行って(見た)。久保さんは頭が良い人でね。あの時代でもレジェのオリジナルの作品(油絵)は1000万円くらいしたんですよ。今は1億2億でしょうけれども。2、3億かな。だとしたら、1000万円のものを版画で買えば、儲かると思ったんですよ。彼はお婿さんなんですよ。真岡の(久保家のお婿さん)ね。

本阿弥:小此木さんが本名ですね。

靉嘔:金物屋の息子でね。栃木かな(注:足利市生まれ)。とにかく秀才で有名だったんですよ。それで婿にもらわれたんですね。彼は何もしないんです。家は金貸しで、山を3000町歩ほど持っているんですよ。日本海のほうに。番頭を2、3人雇って山を点検して、彼は何もしないんですよね。そのお金でやりたいことをやっていた。絵が好きだったので買っていたんだね。

本阿弥:久保さんの倉庫の外壁に飾ってある絵とかもそうですか。

靉嘔:瑛九が久保さんに「教育学部を卒業していて、とにかく絵が好きなんだから、アメリカに行くときに日本の児童画を持って行きなさい」と言った。久保さんは東大の教育学部を卒業しているんです。児童画を持っていって、美術教師とコレスポンドして情報を得たほうがいいと。久保さんというのは、語学の天才なんですね。英語が上手で、ドイツ語がしゃべれて、フランス語もできるのかな。とにかく弟を連れて洋行したんですよね。「瑛九を連れて行けばいいのに」と俺なんかは文句を言ったんだけど、連れて行かなかった。弟の小此木眞三郎と行った。小此木さんはアメリカ文学の研究者ですね。静岡大学の教授をしていましたね。

西川:版画で最初にレジェをお知りになったのですか。

靉嘔:いろいろ見て、レジェが好きだったんですよ。僕はゴーギャンも好きでした。というのは、美術史をやっていくと、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンでしょう。その中で誰が一番すごいかと僕が引っかかったのが、ゴーギャンなんですね。みんな真似したことあります。それぞれ全部ね。セザンヌの絵を真似しているとね、全部がセザンヌに見えるんだよ、景色が(笑)。全部セザンヌに見えるんですよ。セザンヌの色というのはものすごく綺麗ですから。透明感のあるね。

西川:ゴーギャンから続くのがレジェであるということですか。

靉嘔:まだレジェを知らない頃ですからね。大学の1、2年の時です。でも、やがてデモクラートに入ったら、レジェに僕はすぐに飛びついたんですね。「レジェすげえ」と言ってね。モダンアートの中ではレジェがすごいと思ったんですよ。

本阿弥:先生は、見えるものがみんなレジェに見えて作品《田園》ができたんですか(笑)。

靉嘔:見るもの、描くものみんなレジェだったわけですね。でも前に戻ると、卒論の時、とにかく僕は実存主義者で、その頃若い連中の中で一番問題になったのは共産主義だよね。共産主義の絵だよね。日本の共産主義の絵というのは、風間完。風間完は知っているでしょう。夢のある赤旗を持ってはためかせている。

本阿弥:小説の挿絵もやっていましたよね。

靉嘔:いや、絵描きとして有名ですよ。われわれの時代には一番有名です。日本のアンデパンダンのヒーローですよ、彼は。(アンドレ・)フージュロン(André Fougeron)は、フランスで風間完みたいなシチュエーションだったんです。炭鉱に住み込んで、炭鉱夫の絵を描いていた。共産主義の絵です。文章も書いたんですよ。(ルイ・)アラゴン(Louis Aragon)が編集した『絵画は何処へ行く』という文集が出ましてね(内田巌編訳、三一書房、1952年)。そこにフージュロンとかみんな書いているんですよね。レジェなんかも書いている。社会主義的な絵を見て、絵描きが何で赤旗を描かなくてはいけないかと、まず疑問だったんですね。フージュロンは赤旗を描けと言う。ところが、民衆的、大衆的、労働者的な作家というのはレジェなんですよね。僕は、ようするに大衆が大切だと思うんですね。作家とは大衆を描かなければいけない、選ばれた貴族などは捨てなければいけないというアイデアだったから。共産主義と実存主義者を比べたときに、実存主義的なもののほうが大衆的だと思ったんですよね。

本阿弥:それは、ヒューマニズムということもありますか。

靉嘔:もちろん、そういうこともありますよ。だって、共産主義だってヒューマニズムじゃないですか。それはほんの紙一重ですよね。でもね、作品は違うんです。赤旗を描く絵とレジェの絵を比べると、レジェの絵はモダンだと思います。レジェの次はアブストラクトですからね。アルトゥングとかね。アブストラクト・エクスプレッショニズムですよ。それがジャクソン・ポロックになったわけだから。それが来たので、アメリカだと思って行ったんですね。1958年にね。

加治屋:日本にいるときに《田園》をお描きになっているわけですね。《田園》は当時の他の画家の絵と比べると随分明るい色彩で、かなり特徴的だと思います。そういう明るい色彩を使おうと思ったきっかけはあるのでしょうか。

靉嘔:そうですね。明るい絵というか、もっとひどい色を使って絵を描いていましたね。これは本能的なものですね。みんな、白黒のものはアートだと思うんですよね。版画の展覧会で賞を取るのは全部白黒なんですよ。色の作品というのは賞が取れないんですね。今もそうですよ。みんな白黒ですよ(笑)。

西川:深淵な芸術に見えると(笑)。

靉嘔:アートだと思うわけですよ、白黒は。僕はそのアートが嫌いなわけですよ。だからそれをやめたわけですよ。そういうこともあるし、白黒は本当の隠れたもので、世の中を現実に見ようと思ったら、やっぱり色で見なければならないと思った。

本阿弥:実在者の堀内さんがインタヴューに答えている記述では、当時、1953年ころ、先生が名前をAY-Oに変えた頃は、こんな明るい絵を描く人はいなかったので惚れたと語っていますね。

靉嘔:そうね。あの時代には、原色を使う人は2、3人しかいませんでしたよ。アンデパンダン展でもどこでも。

西川:2、3人とは、他に誰ですか。

靉嘔:岡本太郎が原色を使ったね。後は思い出せないけれど、ひとりいましたね。

本阿弥:堀内さんは、靉嘔先生の明るい絵に惚れたと言っています。

靉嘔:確かに違っていましたね。でも、自然とそうなったんです。わざとではないです。

本阿弥:それで究極には、可視光線の色になったわけですか。虹のスペクトルの赤・橙・黄・緑・青・藍・紫になったんですか。白黒に対して。

靉嘔:そんなことはないですよ。それは関係ないですね。まず、白黒はアーティスティックだということに反対したんだよ。

西川:この頃(1952~53年)の作品で《悲劇よりもより悲痛なるものの静寂》というタイトルでたくさん描かれていますけれども、あのタイトルはどのように。

靉嘔:あれは実存主義者の小説の一節ですね。サルトルではないです。誰か実存主義者の小説のフレーズだと思います。そこから直接採ったんです(注:サルトル『自由への道 第三部 魂の中の死』から採られている。)。

加治屋:《田園》というタイトルは、展覧会名にもなっていたと思うんですよね。

靉嘔:そうですね。ベートーベンの有名な「田園」。僕の実家は百姓だったでしょう。いつも夏休みは帰ってきたんですね。一生懸命に絵を描くんですけど、何も描くものがないので、しょうがないから鋤や鍬などを描いていたんですね。僕のまわりに生きている人間はみんな田園の中に生きているなと思って描きました。東京だって田園みたいなものでしたからね、その時代は。そこから新しく生まれるものがあるということでしょうね。シチュエーションが田園だということですね。

西川:《田園》だけが唯一、画面に言葉が描かれていますけれども、最初に出した時から描かれていたんですか。

靉嘔:そうです。最初からです。日本の絵を見ると言葉が描いてあるんです。みんな何で言葉を描かないのかなと思っていたんです。言葉は、タイトルが非常に大切だと思うんですね。絵に対するタイトルね。

加治屋:タイトルが重要で、《田園》も考えて。

靉嘔:ここは故郷ではないんですね。ここで育ったのは中学生からなんです。僕のファミリーは百姓ではなかったし、親父は海軍の兵隊だった。故郷になったのは僕が跡取りにされてからですね。でも、やっぱり常にありましたね。だからそういうことでは《田園》なんですね。

本阿弥:この自宅のスタジオから今見える風景ですね。

靉嘔:そうね。何もないですね。

本阿弥:ニューヨークに渡った1958年以降のことについて質問します。先生がハワイ経由でロサンゼルスに着いて、一週間後にはニューヨークに着いたらしいですが、その時ニューヨークには知り合いなどはいたのでしょうか。

靉嘔:知り合いは一切いません。だれもいません。

本阿弥:最初の出会いとなる原さんとはどのようにして会われたのですか。

靉嘔:ニューヨークに着いて、まず、プリンス・ジョージ・ホテル(Prince George Hotel)という、よく日本人が泊まってお土産を買うホテルがあるんだけど、空港から乗ったバスがプリンス・ジョージ・ホテルに着いたんだよね。そこで降りてチェックインして、そこに一週間ほど泊まっていた。まず、最初の日にグリニッジ・ヴィレッジでアートショーをやっているというので歩いて行ったわけです。ワシントン・スクエアまで。とにかく宿屋を見つけなければいけないでしょう。英語をしゃべったって通じないし、僕は英語がしゃべれない。それでしょうがないから、ちょうど日本人の似顔絵描きの原さんがいて、日本のブラシで上手に似顔絵を描くんですよね。奥さんがアメリカ人でそばに付いていて、「僕は昨日一昨日に、ニューヨークに着いたばっかりなので宿がないんだけども見つける方法はありますか」と聞いた。「じゃあ、ここに明日いらっしゃい。いろいろ調べてみます」ということになって、それで彼が教えてくれた。日系のための日本語の新聞があって、それに出ていた案内があるんですよね。下宿人を泊めるとか。それで「ここにいったらどうか」ということで行ったんだね。

本阿弥:それで第1回目のアパートに住むことになったんですね。

靉嘔:そうです。原さんは一番目の恩人ですね。しょっちゅう原さんの家にも行った。プロヴィンスタウン(Provincetown)という避暑地があるんですが、夏は避暑地で似顔絵を描くんです。それを商売にしていた。彼の家に泊まったり、遊びに行ったこともあった。プロヴィンスタウンというのは、日本で言えば鎌倉のようなもので、夏に海水浴に行くビーチがきれいなところなんですよ。ニューヨークの出っ張り。ロングアイランドがあって、一番端がありますね。そのところが、プロヴィンスタウンといってゲイがいっぱいいる、ゲイのビーチなんですよね。ゲイがビーチにいっぱい寝ている。俺なんか何も知らなかったけどね。そういうところに行って。原さんは、昼間はビーチで釣りをして、夕方に似顔絵を描くんです。10日から20日間くらい遊んでいましたね。

本阿弥:先生がニューヨークに持って行ったのは、所持金と、脇田和さんから猪熊弦一郎さんに渡す名刺と、久保貞次郎さんからヘンリー杉本さんに渡す名刺に書かれた紹介状だけだったのですか。

靉嘔:そうですよ。

本阿弥:先生と脇田さんとの関係は、どのようなものだったんですか。

靉嘔:「日本人でニューヨークにいる絵描きの猪熊弦一郎を紹介してもらうにはどうしたらいいか」と言ったら、久保さんが脇田和を紹介してくれた。脇田さんは、猪熊さんの義理の弟か、パリ時代の親友か何かでした。僕が脇田さんのところに行って、紹介状をもらってね。

本阿弥:それでニューヨークに行ったわけなんですね。

靉嘔:脇田さんの家を訪ねたときにね、脇田さんにシルクスクリーンを講義された。僕はシルクスクリーンに興味があってやろうと思っていたんだよ。「僕は昔からやっているよ」と言って、「シルクスクリーンはこうやってやるんだよ」と教えてくれたんだよね。

本阿弥:1958年頃ですね。

靉嘔:脇田愛二郎がまだ小さい頃だったよね。

本阿弥:和さんと息子さんの脇田愛二郎さんは、5年ほど前に同じころに亡くなられましたよ。

靉嘔:死んじゃったんですか。

本阿弥:それから猪熊さんの紹介で、ジミー・スズキさんと出会っていますね。

靉嘔:僕はニューヨークで最初に訪ねたのが猪熊さんなんですよ。そしたら猪熊さんが「君とちょうど同じくらいの年頃の日本から来た若い絵描きがいるので紹介しますよ」と。それでジミー・スズキを紹介されたんです。それでジミー・スズキのところに行ったんです。その行った日にちょうど大館年男(おおだて・としお 1930-)というのが来ていた。大館年男というのは、ずっとニューヨークに一緒にいた男です。彼は彫刻家になったんだけれども、大工だったんですよ。ニューヨーク・ユニヴァーシティではなくて、アップステートの大学の先生に呼ばれていた。彼は大工の技術がすごいんですよね。年男は、大工の丁稚から始めて、向学心がものすごく旺盛の男で千葉大学に入ったんです。でも、泊まるところがないんですよね。お金がなくて下宿に泊まれないので、千葉大学の小使室に泊めてもらったそうです。当時の写真が最近いっぱいでてきたんですけどね。年男は、僕よりひと月ほど前にアップステートに呼ばれて行っているんです。大工の腕をみこまれて。どこかの家を直しに行ったんだけど、デザイナーでゲイの家だったんだよね。ゲイに誘われた時に逃げたんだって。逃げて警察に駆け込んだんだよね。そうして救急車で逃げていったと彼が言うんだ。警察が来て、裁判になったんだってね。彼はコート(法廷)に行って、辞書を一冊持って行って勝ったんだよ。それで帰国しなくてよくなったそうです。彼は、オールギャランティーで行ったわけだから、スポンサーがゲイでだめになったら帰らなければいけなくなるわけね。

本阿弥:先生は、観光ビザから学生ビザに変更する必要がでてきたので1960年9月に、アート・スチューデント・リーグ(Art Students League)の版画教室に入っていますね。

靉嘔:日本からツーリストの立場で行ったから一年に1回延ばさなければいけないんです。でもあまり延ばすと帰国させられちゃうわけです。それで、一番いい方法は学生になるということです。ちょうどその頃僕はニューヨーク・スクールの若手の連中の中で有名になっていたんだよね。アート・スチューデント・リーグに大きな絵を担いで持って行って、「僕は、こういう絵描きですけども、スカラシップをください」と言ったら、スカラシップをくれて授業料も免除になってね。でも、ほとんど出席しなかったんだよ(笑)。呼びつけられて怒られたね。

西川:その時に担いでいった絵はどんな感じの絵でしたか。

靉嘔:このアトリエの下の階にある小さな絵ですね。結構、売れるんですよね。それをジミーが持っていって売ってくれるんですね。10ドル、15ドルで売るんです。「5枚くらい売ってこい」と言って、50、60ドルくらいになるとパーティーをやるんですよ(笑)。

本阿弥:先生はリーグにはほとんど行かなくてそのまま終わったんですか。

靉嘔:ほとんど行かないですよね。僕は版画の教室に入った。石版画の教室です。エッチングなど版画は何でもできたんで。そこには石版画の石がいっぱいあって、どう使ってもいいんです。もったいなくて石に傷なんかつけられないですよね。それなのに石に傷をつけて(笑)。悪い日本人もいるものだと。

加治屋:版画科はどのような先生がいらっしゃいましたか。

靉嘔:忘れちゃったですね。プロの摺り師が摺ってくれるんですよ、僕たちが版を作ると。生徒がお金を出して摺ってもらうんですね。日本人の生徒はたくさんいるんだけど、お金がなくて摺ってもらわないんだよね。評判が悪いんです。僕はよく見て摺り方を勉強してやったけど、摺るのは難しいですよね。僕は日本でリトグラフを摺っていたし、リトでアメリカに行ったようなものですが、20版ぐらいでほとんどが潰れちゃうんだよね。最初から10枚ぐらいまでは、ものすごく綺麗に摺れるんですよ。ところが摺り師に聞いたら、版を潰すんですね。絶対にこれに以上に潰れないというほど焼き印などで潰しちゃうんですね。そうしてから摺るんですね。だからわりにステディー(steady)なものができるんです。

本阿弥:それから、先生の第2の恩人という人で、ガゼボ(The Gazebo)の花屋のジョーさんについて聞かせてください。

靉嘔:僕はお金がないのでガゼボという花屋でアルバイトをしていたんですね。メッセンジャー・ボーイとしてね。パーク・アヴェニュー(Park Avenue)という一番お金持ちがいるストリートの六十何丁目かの一番金持ちのいるところで開いている花屋なんです。ゲイなんだよね。ゲイ・ソサエティなんですよ。僕が行ったら、みんな野獣が来たような目で見るんだよね。でもやさしいですよね。昼飯なんか、彼らがサンドイッチを作ってくれるんです。"Ay-O, do you wanna eat?"と言ってくれるんですよ。スープも作ってくれた。僕がいた下宿の親父は、変な親父でね。家賃を一週間ずつ払っていたんですけれども、2日ぐらい払わなかったことがあると、鍵を掛けられちゃって部屋に入れないんだよね。

本阿弥:ゲシュタポの宿ですよね。

靉嘔:ゲシュタポの宿。ジャーマンでね。本当にゲシュタポみたいな奴でね。そこを夜逃げしたんですよ。鍵を閉められちゃったのでね。お金が届くんですけど遅れているだけの話でね。僕は怒ってね。僕の友達のシンヤ(に手伝ってもらって夜逃げした)。今もいるだろうけど、日本の一番大きな赤ん坊の衣類の会社の社長の息子なんですね。社長になったんじゃないかと思うんだけど。シンヤは彫刻家志望だったんだよね。石の彫刻家で、「ドタ靴のシンヤ」と言われていた。金持ちで、車を2台も持っていたんだ。トラックと普通の乗用車。彼の車で遊んで歩いたね。

本阿弥:花屋のジョーさんのところで、アメリカ・ボーイスカウトの会長の奥さんが先生の絵を500ドルで買ってくれたという話がありますね。120センチ四方の絵ですか。

靉嘔:そうです。ニューヨーク・スクールの絵ですね。ジョーが、売れるかもしれないんでお店に掛けておけと言うんだよ。そうしたら売れたんです。そこの花屋には金持ちのマダムが来るんです。ボーイスカウトの会長の奥さんが買ってくれたんですね。それで、それまで離れ離れだった郁子を呼んだ。

西川:奥さんが来るのが1961年ですね。

靉嘔:そうですね。3年ぐらいですか。

本阿弥:奥さんの郁子さんは、渡米して一週間後に大陸商事に勤めたらしいですね。

靉嘔:そうそう。最初500ドルでロフトを借りたんですね。汚いロフトなんです。キャナル・ストリート(Canal Street)の。かなり大きなもので今じゃ数千ドルしますよ。僕はチャイニーズの人に譲ってね。チャイニーズがこのロフトを譲ってくれって来たんですよ。スーパー・リアリズムの絵を描いている人でした。オーケー・ハリス(OK Harris Gallery)で。譲ってやるよと言ったら、「あのすみませんが、靉嘔さんの版画ももらえませんか」と(笑)。やっぱりすごいなと思ったね。あげた覚えがありますよ。一緒に付けてあげました。

加治屋:それはずいぶん経ってからですか。もう60年代の頃ですか。

靉嘔:そうです。それは80年。363キャナル・ストリートの後、私がマーサー(Mercer Street)に移ったのはいつ頃だったか。ワンテン・マーサー(110 Mercer)です。それがロフトなんですよ。ナムジュン・パイク(Nam June Paik)なんかと一緒に買った家なんです。

本阿弥:363キャナル・ストリートはロフトですか。

靉嘔:その時代は、絵描きもそんなところに住む人はいなかったんです。借りられなかった。それを借りるためにデザイナーにならなくてはいけないと思った。デザイナーのようにちゃんとネクタイを締めてね。大家というのはダイクという名前で、ジューイッシュでリカー・ストア(酒屋)をやっていた。その弁護士のところに行ったんだ。その時にしょうがないから、ちゃんと英語をしゃべれる人と思って、内間安?を連れて行ったんですね。内間安?というウッドカットの版画家がいるでしょう。彼はアメリカ人ですよ。内間俊子がデモクラートで、それと結婚していたんです。内間さんがちょうど帰ったんで、「一緒に行ってくださいよ」と。そして内間さんに行ってもらって、家を借りた覚えがあります。借りた前金は、バラ銭で払ったんだよね。今は死んじゃったけど、「あの時は可笑しかったよ」と言うでしょうね。

本阿弥:先生がキャナル・ストリートの部屋を借りたときに、水道とガスのパイプしかない部屋だったので、自分で電気工事とガス工事をやったらしいですね。

靉嘔:そうです。電気はありましたけどね。

本阿弥:ところで、技術をどこで覚えたのですか。

靉嘔:独学です。その場でね。ガスが漏るんだよね。ガス管はあるんですよ。止まっているんだけど。後からギューちゃん(篠原有司男)にスタジオを貸したのね。ギューちゃんが「靉嘔さん、これ臭いですよ」と。「漏っているかも分からないよ」と。パイクが来たら、「ちゃんとガス会社で調べてもらえ」と。ガス会社を呼んだらインチキ工事ということが分かっちゃうじゃないですか。僕が全部配管したんだから。呼べないわけよ。ギューちゃんはチューインガムでふさいだと言っていた。可笑しかったですよ。ニューヨークでの生活というのは。

加治屋:篠原さんは靉嘔先生の後からニューヨークに来られたんですか。

靉嘔:そう。後です。次に来た世代は荒川修作です。彼は為替ができてから来たんです。円が替えられるようになってから。僕の時はまだ替えられなかったからね。替えられるようになってから最初に来たのが彼ですね。河原温はその後から来たんですね。温はメキシコにいたんです。温もニューヨークに来たかったけれども来られないんです。確か温の親父が、日本の会社のメキシコ支店長をやっていたんだと思うんだよね。温は一年ほどメキシコにいたんです。それでニューヨークにやってきた。その後が篠原で、吉村益信ね。それがみんな惨めなんだよ。しょうがないから、僕がスタジオを二つ持っていたので(貸した)。上はカーペンターショップで、機械を入れてあった。アルバイトをするんです。僕はあまりできないんだけれども、友達の川上(高徳)君が来てくれた。福井で学校の先生をやっていて、木工の上手な人で、全部彼に教わって機械を買ったんです。その頃機械というのは、日本ではとても手に入らなかった。ドリルだってそうですね。僕が1週間アルバイトをすればドリルが買えるんですよね。今はもっと安いですけどね。ドリルを買ったら穴を開けるのが面白いから、アルミの作品を作ったんです。毎日毎日いっぱい穴をあけた。下がキャナル・ストリートでジャンクの店です。釘とか、安いのを一本ずつ持ってきたりしてね(笑)。材料も全てそこで買ったんです。僕はアルミを使っていたんですが、日本のアルミは曲げると戻らないんですよ。ベコベコになるんです。アメリカのやつは、はじき返す威力が強いので、飛ばされちゃう感じですね。飛ばされそうになるので、それで郁子が押さえてね。

西川:荒川さんたちと、グループ展をされていますよね(1963年)。吉村さんも一緒でしたか。

靉嘔:そうそう。僕の個展が終わってからね。みんな展覧会ができないんです。一生懸命に画廊を見つけても見つからなかったんだけれども、それでもみんなのチャンスがあればいいと思って、グループ展をしようと思った。それで、ロバート・モリス(Robert Morris)と4人でやったんです。「ボクシング・マッチ(Boxing Match)」と言って、みんな箱を作っていたんですね。吉村も箱を作っていたし、荒川も骨の箱を作っていた。ロバート・モリスは、ただ真四角なコンセプチャルなものを作っていた。4人でやった。僕が最初に(個展を)やったゴードンズ・フィフス(Gordon’s Fifth Avenue Gallery)でやったんですね。

加治屋:何で「ボクシング・マッチ」なんですか。

靉嘔:ボックスですから。

加治屋:なるほど。

西川:靉嘔さんの箱はアルミのですか。

靉嘔:違う。ロバート・モリスのは、ベニヤですね。ベニヤのただ四角い箱でした。天井からぶら下げていたんです。僕のはいろんな箱です。《ティーハウス》(1961年頃)もあった。サイコロだってそうです。箱の中に人がいた《センチメンタル・ボックス》とか《ネール・ボックス》とか(注:《四角い太陽’61》(ネールボックス白)、《四角い太陽’61》(ネールボックス黒)のこと。制作は共に1961年。62年のGordon Fifth Gallery の個展に出品)。

本阿弥:アルミになる前。

靉嘔:そう。最初にニューヨーク・スクールを拒否した。キャンヴァスで作っているんですよ。西川さんが東京都現代美術館で展覧会をやった(注:「日本の美術、世界の美術——この50年の歩み」常設展示室における靉嘔とナムジュン・パイクの特集展示、東京都現代美術館、2005年)。

西川:もう5、6年前ですね(注:キャンバスで四方を囲んだ最初のエンヴァイラメントの作品《ティーハウス》のこと。アルミの作品と共に「特集展示:靉嘔/ナム・ジュン・パイク」2005年、東京都現代美術館常設展示室)で展示した)。

靉嘔:それからアルミになったんですね。四角いのはいいけど、曲線の作品を作りたかったんです。それには金属を使うのが簡単だっていうので、金属を使い出したんです(注:《ハイドラ》など)。

本阿弥:それが1962年の「ファースト・ワンマンショー(・イン・USA)」展になるわけですか。

靉嘔:そうですね。だからいろいろあったんですね。

本阿弥:61年からの《ティーハウス》やアルミの円筒の作品となるわけですね。その頃、YAMフェスティヴァル・ハット・ショー(YAM Festival Hat Show)とかも、フルクサスの前進としておやりになったのですか。

靉嘔: YAMフェスティヴァルですね。芋ですよ。ニューヨーク・スクールのみんなと別れてからの話です。《ティーハウス》のような作品を作るようになったら、ニューヨーク・スクールに反対した連中が僕の家に集まってくるようになったんです。ぞろぞろ来て、その連中がアラン・カプロー(Allan Kaprow)を連れてきたりして、「エンヴァイラメント(environment)」という言葉を僕は使い出した。

本阿弥:ディック・ヒギンズ(Dick Higgins)とも知り合って。アルミの直径4フィートのまわり灯篭の作品は、ディック・ヒギンズが写真を撮っていますね。

靉嘔:彼は展覧会をやりましたよ。

西川:それが最初の個展で1962年ですね。話が飛んでしまいますけれども、最初に絵が売れ始めた頃は、アクション・ペインティングに降参して絵を描いたけれども、その後それに×をつける。

靉嘔:だんだん評判になってくると嫌になってくるんだよね。人の真似をしていたわけでしょう。降参して人の真似をしていたわけでしょう。これで有名になったって、ポロック以上に有名になれないわけですよ。渡りに船で若い連中をなぎ倒したんですよ。それで喧嘩を始めて、完全に一人で飛び出しちゃって、一人でスタジオを借りてそこで変なものを作り始めた。最初に作ったのが《ティーハウス》でした。

西川:オノ・ヨーコ(Yoko Ono)さんが、《ティーハウス》を見せにいろんな方たちを連れて来られた。

靉嘔:ヨーコはその前から知っていたはずなんだけども、ヨーコは気に入ったんだね。いろんな人を連れてくるんだよ。ヨーコは社交家だから、いろんな人を連れてきてくれた。イサム(・ノグチ Isamu Noguchi)なども連れてきてくれた。ディック・ヒギンズが隣の隣に住んでいたんだよね。ディック・ヒギンズがパフォーマンスをするから手伝ってくれと言ってきて、「手伝ってやるよ」と言って、最初のパフォーマンスをやったんです。その時の友達が何かやると集まってきた。僕なんかも「今日、ハプニングがあるから来い」と言うとみんな来るんですね。アル・ハンセン(Al Hansen)のハプニングなどは、部屋の中にビニールが張ってあるんですね。その中でスプレーで臭いのをまいたりした。ハプニングというのは一度で、二度はないものです。その連中が僕が何かやるときには必ず来てヘルプしてくれるわけです。僕もアル・ハンセンとから彼らがハプニングをやるときには行って手伝った。そのような仲間になっているんですね。

加治屋:ハプニング自体を手伝う感じですか。それとも準備をですか。

靉嘔:それはアル・ハンセンのハプニングだったり、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)のハプニングだったりしました。オルデンバーグは1週間に1回ずつやっていましたからね。僕の時にも来てくれて、一緒に路上のハプニングをしたこともあった。

西川:パフォーマーの一人になるということですか。パフォーマーとして手伝うわけですか。

靉嘔:パフォーマーというよりも、みんなで何かやるわけだよ。4人集まれば4人でやるわけです。お客なんていないですよ。乞食ごっこしようとかね。「ダイム(10セント硬貨)をくれ」と言って、ダイムをあげると「サンキュー」と言って、また何かするわけです。

加治屋:アラン・カプローのハプニングは、台本があったり、リハーサルがあったんですよね。

靉嘔:カプローはハプニングなんです。それから後で、僕たちはイヴェントという言葉を使ったんです。イヴェントは2回できるんです。ハプニングは1回しかできないですよ。例えば「イート(Eat)」というものだったら、「イート」という題名のもとに何かすればいいわけですよ。何かしろというんじゃなくて、何かすればいい。カプローがこういうことをしろといえば、すればいいんです。われわれはYAMグループというのを作ったんですね。それで、画廊で何かやろうと集まっては、何か持ち寄って何かをした。例えば、イースターの時には、ハット・ショー(Hat Show)。イースターの時には、アメリカでは帽子をかぶって歩くでしょう。みんなそれぞれ帽子を作って、ハット・ショーをするんですね。

加治屋:それは、事前にこういうことをしようと決めてすることもあれば、集まってその場で決めてやることもあるのですか。

靉嘔:例えば画廊がハット・ショーをやりたいと言えばやるし、「イースターがすぐだからハット・ショーをしよう」となると、ハットを持ち寄るんですね。それまでみんなが何を出品するか全然分からないんですね。

本阿弥:YAMフェスティヴァルというのは、ジョージ・ブレクト(George Brecht)が命名したと聞いているのですが。

靉嘔:ジョージ・ブレヒトね。もっと早くからやっていたんです。僕は英語が対等にしゃべれなかったんでね。YAMという名前をつけて展覧会をやろうと彼らが言ったんです。そういう変な連中が集まってやったということですよ。

本阿弥:フルクサスについては、ジョン・ケージ(John Cage)がキーワードだと秋山邦晴が語っています。「1958年から9年間、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで教えていた。その中の生徒にアラン・カプロー、ディック・ヒギンズらがいた」と。

靉嘔:彼らは鈴木大拙の教え子なんです。一緒に勉強をしたんです。僕は知らなかったけど、(一柳)慧も行っていたはずです。

本阿弥:一柳慧さんもヒギンズもカプローも、ケージの生徒さんだったらしいですよ。そのカプローの周辺にいたのがジョージ・マチューナス(George Maciunas)だったと、秋山さんが語っています。

靉嘔:それは全然違います。ジョージはジョージで、全然別ですね。

本阿弥:カプローの周辺にジョージがいたことは確かですか。

靉嘔:周辺にいるんじゃなくて、別々にいるわけです。誰が誰のということじゃなくて。カプローはカプロー。マチューナスはマチューナス。靉嘔は靉嘔。ディックはディックでいるわけです。それぞれが変なことをして。変な仕事を持ち寄ってするということですね。

本阿弥:そのへんから徐々にフルクサス(Fluxus)ができたということですか。

靉嘔:フルクサスは、また別の話です。僕は、全然ジョージを知らなかったんですよ。僕は画廊を探していて、もっと大きな展覧会をやりたいと思っていたんです。ヨーコがチェンバー・ストリート(Chamber Street)にロフトを借りたんですよね。まずヨーコはジョン・ケージのコンサートをやったんですよ。どんな曲かは知らないけれども。僕に来い、靉嘔もやれと言ってね。木槌を持って床を叩いて歩くんですよね。楽譜があるんです。ジョン・ケージの場合には。あとはピアノのまわりを、スクレイパーという窓を掃除するものがありますが、あれでまわりを掃除したりしました。10人くらいでいろんなことするんです。音を出すんですよね。そういうことをした。すぐにジョン・ケージに言って、その場でジョン・ケージの音楽を作ったわけなんですよね。だから、それは誰の周りにいるというわけではなくて、「あっ、俺のものだ」と思うんです。

加治屋:オーディエンスはいるんですか。

靉嘔:いることもあります。いないこともあります。

加治屋:いるときは、例えば友達の友達だとか、そういう人たちなのか。それとも全然知らない人がふらっと来たりしたのですか。

靉嘔:だいたい友達です。集まるのは20人くらいのものですからね。ただ、コンサートになると、極力呼んできて100人くらい集まることがありました。

加治屋:それは、昼間やるんですか。夜やるんですか。

靉嘔:夜も昼ものべつ。一昼夜やったこともありますよ。シャーロット(・ムーアマン、Charlotte Moorman)もフェリーボートを(使ってやった)。フェリーボートは2日借りたのかな。ニューヨークシティーから借りるんです。ニューヨーク市で運転をしてくれるんですよ。お金を出したら、行ったり来たりしてくれるんです。その間に何かするんです。僕は、後ろから虹を飛ばした。スタチュー・オブ・リバティ(自由の女神像)の形を女の子にやらせて、飛ばして喜んでいたね(注:第5回ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァル、1967年)。

加治屋:スタテン・アイランド(Staten Island)との往復の船ですよね。あれを貸してくれるんですか。

靉嘔:借りるんですよ。一昼夜。市が貸してくれるんですよ。何回も僕達は借りたね。あとジョン・F・ケネディを借りて、それでもやったこともあります。

加治屋:空港ですか。

靉嘔:いえ。ジョン・F・ケネディというフェリーボートです(注:スタテン・アイランドのフェリーボートの名前がジョン・F・ケネディ。前述と同じフェリー)。

本阿弥:先生はジョン・ケージとの交流は。

靉嘔:ありますよ。知っていますよ。

本阿弥:先生のロフトに来たことはありますか。

靉嘔:ケージはフルクサスのパフォーマンスに来てくれたね。「決して終わらない映画」というのがあるんですよ。真っ白けなフィルムをかけるんだ。そうすると向うにフィルムのゴミがチラチラ映るんだよね。パイクが「これはいい映画だね。同じことを二度と繰り返さない」と言うんだよ(笑)。ジョン・ケージもしっかり見ているんだよね(笑)。結局見ているのは僕とジョン・ケージだけなんだよ(笑)。そういうもんですよ。オーディエンスというものも。

本阿弥:先生がコルディエ・エクストローム(Cordier & Ekstrom Gallery)という画廊に行って、本を読んでいるデュシャンの横で毎日だまって座っていたという話は本当ですか。

靉嘔:本当ですよ。あなたは、そのようことをどこから見つけてくるの(笑)。コルディエ・エクストロームというのは、フランス系のフランス人の画廊で、二人でやっているんです。二人ともゲイで。まあほとんどゲイだけれども。僕の家にも僕の作品を見に来たね。

本阿弥:デュシャンがその画廊にいたんですか。

靉嘔:デュシャンと初めて会ったのは、アラン・ギャラリー(Charles Alan Gallery)というところです。

本阿弥:ヨーコさんの関係ですか。

靉嘔:違います。全然知らないときに行ったら、デュシャンのくるくる回る作品があるじゃないですか。

西川:ロトレリーフ?

靉嘔:名前は知らないけど。くるくる回るんですよね。見ていたら、横が画廊のオフィスでアランがいるんだよね。僕はかなりへんてこりんなジャパニーズでしたから、「ハロー」なんて言った。オルデンバーグなどとやった僕のグループショーをやってくれた画廊がアラン・ギャラリーです。そこに行ったら、デュシャンのくるくる回る作品が壁にあるんですよ。“Is this a Duchamp?”と言ったら、そうだと言うんですよ。そしたらデュシャンがそこに座っているんですね(笑)。 “Are you Mr. Duchamp?” “Yes I am.”と。“I admire you.”と言ったら、“Thank you very much.”とデュシャンが言ってくれた。それが最初です。コルディエ・エクストロームというのがフレンチの画廊で、デュシャンはフランス人でしょう。デュシャンはこんなに厚い本をいつも読んでいるんですよ。フランス語の本でしょうね。誰もいない応接間で。展覧会の最中ですよ。一段高いところで本を読んでいたんですよ。行って“Hello, Mr. Duchamp.”というと、“Sit here.”とね。しゃべっても言葉が通じないからね。そこに座ってろってね。そこに座って、そばでデュシャンが横で本を読んでいるんだよね。それは何回かありますよ。5、6回はありましたよ。いつも椅子に座ってろって言って。へんてこりんなジャパニーズがいると思ったでしょうね。

加治屋:コルディエ・エクストロームというのはフレンチ・カンパニー(French & Company)のビルにあった画廊ですか。

靉嘔:そうです。もとは違うところにあったんですけれどね。それがフレンチ・カンパニーの一番上にあったんです。大きくて立派な画廊ですよ。

加治屋:フレンチ・カンパニーというのは、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg)がアドバイザーとなって、抽象表現主義の後のカラーフィールド絵画などを扱っていました。全然系統が違うと思うんですが、何か印象はおありでしょうか。

靉嘔:ニューヨークに行ったら、グリーンバーグとか、何とかバーグといった評論家にはお世話にはならないわけにはいけないんだよね。だからそれはそれなりに。グリーンバーク先生もそれで稼がなくてはいけないだろうし。みんなお互い知っていますよ。僕は元々ニューヨーク・スクールの連中と親しかったので、グリーンバーグにも会ったことがありますよ。それからまだ一人いたよね。

加治屋:ハロルド・ローゼンバーグ。

靉嘔:ローゼンバーグね。会ったことがありますよ。向うは覚えていないだろうけどね。デイヴィッド・スミスはよく来てくれたね。僕はアルミを磨いた作品があるでしょう、西川さん。

西川:はい(注:1962年9月の最初の個展に出品されたアルミの作品群は、1961年から制作を開始していると考えられる)。

靉嘔:あれは僕の方が早いんですからね。

本阿弥:デイヴィッド・スミスよりも。

靉嘔:彫刻で磨いたのがあるんじゃないですか。僕はいつも自慢しているんですよ。本当にそうですよ。あれを磨いたのは僕の方が早いんですよ。

加治屋:「キュービ(Cubi)」というシリーズですね。

本阿弥:デビッド・スミスは1965年に亡くなっていますね。

靉嘔:もうほとんど、最初だけだったですね。1962、3年頃までですね。64年になったらあとは付き合いはなかったですからね。ニューヨーク・スクールはね。

本阿弥:ジョン・ケージには、日常生活と芸術の境界をなくすという考え方があって、それがフルクサスと価値観が似ていたということですが、ヨーロッパ・フルクサスのヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)とジョージ・マチューナスは、ジョージがニューヨークからヨーロッパに行ってから出会ったのでしょうか。

靉嘔:フルクサスというのはその時にできたのです。ジョージは『アンソロジー(Anthology)』という本を作ったんです。赤い本です(注:ラ・モンテ・ヤング編のアンソロジー集の出版にマチューナスが協力した。赤い表紙のものは第2版)。ニューヨークでそれを作ったけども一冊も売れないんだよね。それを何とか売ろうと思って、たくさんヨーロッパに持って行ったんです。売る方法を考えたら、まず人を集める。それにはコンサートをしなきゃいけないと。ヨーロッパというのは音楽がすごいところです。絵の展覧会なんかは低級なんですよ。音楽の方が上なんです。まずコンサートをして人を集めて、それでその雑誌を売ろうとしたわけです。どんなコンサートを開けばよいかと考えて、とにかく一番の前衛の作家を使って、パフォーマンスとか変わったことをしようとした。そうすればお客が集まって本が売れるんじゃないかと思ったんですね。売れなかったですけどね。その本は今はすごく高いですよ。再販されていますけどね。オリジナルの本はすごく高いですよ。

本阿弥:その時にヨーゼフ・ボイスと交流があったのですか。

靉嘔:ヨーゼフはジャーマンのフルクサスなので、交流ということではなくて、すぐに仲間になったんですよ。そしてすぐに喧嘩をしたんです。

本阿弥:ナムジュン・パイクもヨーロッパ・フルクサスですか。

靉嘔:ナムジュン・パイクは、コリアを逃げ出して、香港に行って少しいたんですね。あとは日本に来て東大に入って卒業して、ドイツに行ったんです。確かコローン(ケルンの英語読み)に行ったのかな。ベルリンですね(注:パイクは最初ミュンヘン大学で音楽史を学んだ。1957年にダルムシュタットの現代音楽国際夏期講習でシュトックハウゼンに初めて会い、1958年から1963年までケルンの西ドイツ放送電子音楽スタジオに勤務した。ここはシュトックハウゼンの活動を支える拠点でもあった)。ベルリンに行って、(カールハインツ・)シュトック(ハウゼン)(Karlheinz Stockhausen)のスタジオがあるんですね。シュトックのスタジオに入った。コリアンというのは音楽がすごいんですね。みんな教養もすごくあった。一番音楽がすごい奴は誰かというとシュトックだと言うんですね。シュトックのところに行って研究所に一緒にいたんですね。そういう関係でパイクはフルクサスに興味を持ったんですね。それと同時に、フルクサスにボイスも興味を持ったんですね。

西川:そういったヨーロッパでの1961、62年頃のお話というのは、靉嘔さんはニューヨークにいらっしゃいますので、後から聞かれたわけですよね。

靉嘔:そうです。ジョージがニューヨークに帰ったのは64年だよね。ジョージがヨーロッパに逃げていったのは、その1年か2年ぐらい前ですね。夜逃げしたわけですよ。AGギャラリー(AG Gallery)というのがあってね。バンクラプト(破産)して、夜逃げした。だから本を売ろうと思って行ったんだ。それでほうぼうでコンサートをやって帰ってきたんです。ニューヨークに帰ってきて、すぐに僕の家に来たんですよ。僕はジョージのことをそれほど知らなかったんです。でも彼の画廊が潰れる前の、次の月ぐらいに僕の個展をやることになっていたんです。行ったらバンクラプトしていて画廊がないんです。がっかりしたんだけれどね。(マチューナスは)ニューヨークに帰ってきて直接僕のところに来たんです。スタジオにね。来て、「俺は、これこれこういうことをやっていて、フルクサスというものを作っている」と言った。ポスターなどを持ってきて。ニューヨークでは、ギャラリーではなくてフルクサス・ショップをやりたいと言うんです。ギャラリーというのは画廊でしょう。ショップというのは棚を作って物を売る店ですよ。俺も大賛成だった。画廊じゃなくて、店を作るのを手伝ってやるって言ったんですよ。僕のところはカーペンター・ショップを持っていたんです。2階にね。二つ借りてね。1階はわれわれが住んで僕のスタジオで、2階にマシンがある。テーブルソー(table saw)とか、いろいろ揃えて持っていた。ジョージが仕事を見つけてくるんだよね。ジョージはデザイナーだったから。デザインのショーがあって、その時にブースを作るんだけど、そういう仕事を僕のところにみんな持ってくるんだよね。僕は大工ができないんだけど、川上(高徳)というのがよくやってくれて、ジョージの運転でそれを持っていて、3人で1日やって飾り付けて、外して持ってくるんです。そうするとお金をくれるんだよね。それで、アルバイトも全てやめて、今度は上のワークショップで金を稼ぐようになった。ただ上が空いているので、今度はギューちゃんとか――みんな惨めなもので、ホテルに住んでいるんだよね、益信もね。しょうがないから、家が見つかるまで俺の家に来いと言ってね――半年ほど住んでいたんですよ。それから1967、8年かな(注:篠原有司男の渡米は1969年)、そのときはギューちゃんがあまりに惨めだから「俺のところに住んでいいよ」って言った。僕が帰ってくるまで住まわせた。すごかったね。家の壁が全部変な色になっているんだよ(笑)。お箸があるでしょう。全部一本ずつ違うんですよ(笑)。「何だ、ギューちゃん、これ」と。「ギューちゃん、ちゃんと白く塗り直してくれ」と。「はい、分かりました」と言って塗るんだよね。しばらく塗ると「靉嘔さん、白に白を塗るのは面白くないですから、何か色塗りしましょう」と(笑)。あいつも可笑しい奴だよ(笑)。

本阿弥:ところでジョージさんは絶対にサインをしなかったと聞いたことがありますが。

靉嘔:しないですよ。

本阿弥:サインを一切していないということは、サインは残っていないのですか。

靉嘔:ありますよ。サインはあそこ(靉嘔宅の収納部屋)にある。

本阿弥:ものすごく重要なものですね。

靉嘔:重要ですよ。ジョージは癌になって、「ジョージ。サインをすれば、俺が売ってやる」と言ったんですよ。ジョージは、わりと日本が好きで日本刀を持っていた。「これを売りたいんだ」と言った。日本刀を僕は(日本に)持ってきた。送らせたのかな。しかし手続きが大変なんだよね。許可もちゃんと得て売ったんです。わりにいい値段で売れたね。癌で死ぬ間際ですけど。魚津(章夫)さんっていたじゃない。魚津さんの叔父さんか誰かがそういう商売をしていてね。

本阿弥:京都でね。

靉嘔:京都でね。彼が売ってくれたんですよ。ジョージにお金をやった覚えがありますよ。

本阿弥:ジョージさんは「単純で明快でストロングで、面白くないといけない」と言っていたらしいですね。

靉嘔:そんなことはないよ。(ジョージが言ったと)僕が言ったとすると、いい加減なことを言ったのかね。

本阿弥:この情報は違いますか。

靉嘔:ジョージは可笑しいものがいいと言っていたんです。一番可笑しいものがね。何かやると「わっはっはー」と笑うんだよね。可笑しいとね。一番すごい(ことを表す)表現なんだ。あれは変わった男だよ。どういうことかというと、例えば、ジョー・ジョーンズ(Joe Jones)が、自転車を横につないで、4、5人で乗って坂道を下りてくるということをやったんだ。ジョージが買った農場に行って、やったんだって。どういうわけか知らないけれど、やって道からひっくり返って落っこちちゃったんだって。そして「面白かった。面白かった」ってジョージが喜んでいるんだよね。

西川:面白いというのは、「インタレスティング(interesting)」ですか。

靉嘔:いや、「ファニー(funny)」だった思う。アヴァンギャルドの仕事を一番適切に紹介したのは、フルクサスだと思うんですよね。アヴァンギャルドというのは、延々とやるんだよね。曲なんか作り出したら、本当に一晩も二晩もやるんですよね。

西川:前衛音楽の方が。

靉嘔:音楽でも詩でも。一晩中やるんですよ。大体アヴァンギャルドはそうです。人が分かっていようがいまいが、一晩中やるんです。ジョージはそれを切ったんですよね。(時間を)切ってやったら面白いんですよ。理解するんです。理解はみんな違うし、「俺はフルクサスじゃない」と文句を言う人もいるけど、一番単純な紹介の仕方ですよね。切るんですよね。

加治屋:短くするんですよね。

靉嘔:短くするというよりも、切ってこれだけにしてしまうんですね。エッセンスだけをフルクサスのピースにするんですね。それをみんなでやるんですよ。例えば、みんなが好きな作品がありますよね。好きなのでみんな理解している。そして、ここをやるよと言ったら、すぐにみんなできるんですね。フルクサスの仲間は。それで、片っぱしからやるんです。それが面白いと思うんですね。理解可能なんですよね。

西川:フルクサスの作品と決めるのは、必ずしもマチューナスではないのですか。

靉嘔:フルクサスの作品というよりも、フルクサスがやった作品です。みんなそれぞれあるわけですよね。ベン・ヴォーティエ(Ben Vautier)の《ウィスパー(Whisper)》という作品があります。耳元で内緒話をして、それをまた向うに内緒話で伝えるという作品です。それはベン・ヴォーティエの作品じゃないと言っても、いいんです。無名性というのは、そういうことなんです。今の世の中そういうことをしたら「版権に引っかかる」となるでしょう。それに、実際に売れるようになるとね。そういうものですよ。何も売れないからかまわないことになっていたけれど、売れるようになるとトラブルが起きるんです。

本阿弥:あとで話をしますが、自由民主党のポスターの盗用事件でのグラフィック・デザイナーの模倣と、今のお話のイヴェントの誰がやってもいいというのとは、本質的に違うんですよね。フルクサスのイヴェントは誰がやってもいいけども、先生の絵の作品の模倣の問題とは全然違うものですよね。

靉嘔:違うでしょうね。

本阿弥:デザイナーが模倣することは絶対に許されないということですよね。

靉嘔:そうですね。僕はそう思います。

本阿弥:僕個人の意見としても、デザインと現代アートは似て非なるものと思っているんです。

加治屋:先生がおっしゃったのは、売れないとき、若いときは自由にやるんだけども、だんだん売れてくると変わってくるということですか。

靉嘔:そうではないんです。今でもベン・ヴォーティエの作品をやろうと言えば、やるんです。でも、ベンが「俺のをやったんだから金を払え」とは言わないですよ。

加治屋:《ウイスパー》がベン・ヴォーティエの作品だと決まっているからですよね。

靉嘔:みんな知っています。

加治屋:ただ、誰がやってもいいわけではないですよね。

靉嘔:いや、ベンを好きじゃないとやらないんだよ。みんなその作品が好きだからやるんです。

本阿弥:フルクサスのイヴェントの場合には、誰がやってもお金をよこせということはないんですよね。

靉嘔:ない。それはやったって無意味なことだと思う。

加治屋:話が戻りますけど、ボイスがフルクサスに入って、すぐに喧嘩したという話がありましたが、どういったことで喧嘩になったと靉嘔先生はお考えですか。

靉嘔:よくは分からないんだけれども。喧嘩になった理由は知っているでしょう。ボイスがジョージに送った手紙と、ジョージがボイスに送った返事があるんです。(下記の手紙を再録した)本があります。結局、二人のののしり合いなんだけれども。ジョージはボイスに対して「ファシスト」という言葉を使うんだよね。ボイスはジョージのことを「お前こそ、ナショナリストだ」と言う。そういう言い合いだよね。とにかくボイスはアメリカが嫌いなんだ。実際にアメリカでやったパフォーマンスは、空港から(目に)ハチマキをして(注:実際はフェルトに包まれて救急車で移動した)、(画廊に)着いて檻に入ってコヨーテと一緒に暮らして帰ったというものです(注:《I Like America and America Likes Me》、1974年にルネ・ブロック画廊で行ったパフォーマンス)。知っているでしょう。夜は入らなかったんだけどね(笑)。

加治屋:そうなんですか。

本阿弥:夜に入っていないことは、公表してもいいんですか。

靉嘔:いいですよ。あまり関係ないことですよ。

加治屋:一般的には知られていないことですよね。

本阿弥:先生は、ボイスさんと会ったことがあるんですか。

靉嘔:その時初めてで、一回きりです。その会場に行って、ボイスがコヨーテと一緒にやっているときに「ハロー」ぐらいです。

加治屋:では、夜はギャラリーを出て普通に市内にいたということなんですか。

靉嘔:それはルネ・ブロック(René Block Gallery)の画廊なんです。ルネはボイスの教え子なんですよ。一番尊敬していた。彼の生涯は、ほとんどボイスのために使ったようなものですね。ベルリンの画廊を閉じて、ニューヨークで画廊を開いて、ボイスの展覧会をやって、画廊を閉めちゃったんです。そういう男でした。ボイスとマチューナスは、ファシストだ、ナショナリストだとののしり合っていた。ボイスは、アメリカが嫌いなんだね。マチューナスはリトアニアの出身です。共産国の出身なんですよ。彼はコミュニスティックなことが大好きなんだよ。ソーホーの基になったコープ(Co-op)というのはジョージが作ったんです。最初にソーホーにジョージが作ったんです。ジョージは、1967、8年からお金がなくなっちゃって、お金を作る方法は何かと考えて、アーティストのために安い建物を買って、みんなで分けて住むと(いうことを始めた)。それをやると1階はジョージがもらえるんです。ジョージは1階を売って生活にする。10ぐらいやったんですね。そのうちにジョージよりうんと才能のある男が降りてきて始めちゃったんですよ。レオ・キャステリとか画廊が来て、ソーホーになっちゃったんです。ジョージは「こんなところはだめだ」とやめて、「みんなでアップステートに行こう」と誘いに来たんですよ。誰も行く奴はいないんだけど。

西川:マーサー・ストリートのロフトは。

靉嘔:そうです。ジョージの最後のコープです。パイクが一生懸命ジョージに「作れ、作れ」と言って。お金がなかったんだけど、何とか工面してわれわれが買った。あれはひとつを8人で買ったんです。ブロードウェイとマーサーに面した建物で、真っ二つに切ると、まったく相似形なんですよね。どっちにも中庭があって。ただ、向こうはコマーシャルのブロードウェイで、こっちはコマーシャルじゃないマーサーなんです。だからこっちは静かなんです。こっちはパイクと僕とヨシマサ・ワダ(Yoshimasa Wada)と3人のフルクサスがいた。向こう側にもフルクサスがいて全部で8人で買ったんです。そういうのをジョージは10ほどやったんです。それが終わってアップステートにボブ・ワッツ(Robert Watts)と一緒に土地を買った。すごいですよ、見渡すかぎりの、見えないぐらいの土地を買った。土地が安いんですよ。家もあって、その家を買えって言うんですね。僕は「川にまたがったちっちゃな家なら買う」とか言ってね。

加治屋:アップステートということは、ニューヨーク州ですね。

靉嘔:ニューヨーク市じゃないんですよ。アップステートです。どこかに住所があるけれども。あれを燃したところですよ。

西川:バーリントンですか。それはマサチューセッツですよね。

本阿弥:オノ・ヨーコさんに買ってくれとお願いしたけども、結果的には買わなかった農場ですよね。先生は、後にリトアニアの大統領にもなったヴィータウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis)は知っているんですか。ジョージの親友でフルクサスにも参加した音楽史家のヴィータウタス・ランズベルギスをご存知ですか。後にリトアニアの大統領にもなった人らしいですね。

靉嘔:ランズベルギスね。ランズベルギスは東京に来たの。ランズベルギスは、(リトアニアを)解放した親分ですよね。共産党から解放して大統領になった。西武(セゾン美術館)が呼んで日本に来たんですよ。西武で50年ほど昔のリトアニアの、絵を描いて音楽も作る作家の展覧会(注:1992年の「チュルリョーニス展」)をやったときに。ランズベルギスも音楽をやるんだよね。西武の堤さんが迎賓館を持っているんです。本当に立派な迎賓館ですよ。ジョージはランズベルギスと友達だったと思う。同級生なんですよ。それで「ジョージはどうだった」と聞くと、「子供の頃だからよく覚えていない」と言っていたね。その堤さんの迎賓館のパーティーに僕と塩見(允枝子)さんが呼ばれてね。

西川:靉嘔さんもちょうど東京にいらっしゃるときですか。

靉嘔:そうです。

西川:いつ頃ですか。

靉嘔:10年も経っていないでしょうね。塩見さんも一緒にいたんですから。

本阿弥:先生はリトアニアから勲章などはもらっていませんか。

靉嘔:もらっていませんね。展覧会はやっていますよ。パーマネントの作品があるんです。

本阿弥:最近、リトアニア大使館と先生は交流があると聞いたことがありますが。

靉嘔:それから親しくなって、リトアニアの大使館の人に呼ばれて音楽会にも行ったね。

本阿弥:そんなに古い話ではないですよね。

靉嘔:展覧会をやったんですね。その時はまだ共産国だったんだよね。リトアニアは。

加治屋:80年代ですかね。

靉嘔:たぶんね。解放されてまもなくでしたね(注:2001年)。まだ日本の社会党とか左翼の人も会えなかったんですよね。正式には。日本の政府と国交がないわけだから。それで、みんな来て握手しているんだよね。僕は後ろでケラケラ笑っていた。面白かったよ(笑)。ランズベルギスの妹というのがピアニストで、今でも弾いていると言っていました。

本阿弥:ワタリウム美術館の和多利さんが、ジョージとランズベルギスが友達だったということを書いていますね。

靉嘔:同級生です。それからアンダーグランドの映画の…… 何と言いましたか。

西川:ジョナス…… 

靉嘔:ジョナス・メカス(Jonas Mekas)ね。僕はいっぱい本をもらったね。よく知っています。泉(茂)の作品を泉が僕のところに預けたんだよね。そうしたらジョージがもらってくれたね。

西川:泉茂さんですか。

靉嘔:泉茂の大きな油絵です。僕のところに預けて、彼はフランスに行っちゃったんです。

本阿弥:アメリカの時の作品。

靉嘔:アメリカの時の作品も僕が持っていたんですよ。僕のところに預けていったんです。「どうしたらいいの」と言ったら、「捨ててくれ」と言うんだよね。捨ててくれって言ったって、彼が一生懸命に描いた作品を捨てるわけにはいかなくてね。もらってくれる人がいないかと思って、ジョージに話したら、ジョージが「俺がもらうよ」と言ってもらってくれたんだよ。

本阿弥:先生はシャーロットさんと深い交流がありますけど、いつ頃に出会われましたか。

靉嘔:シャーロットはパイクが見つけてきたんです。パイクがドイツから最初に僕のところに来たんですよ。僕のところにみんな溜まるんですよね。

西川:パイクはその時、初めて会われたんですか。

靉嘔:ドイツから僕のところに来たときに会いました。その前から、フルクサスを通じ、会わないけど知っていたんです。パイクは日本人みたいなものだから、日本語をしゃべってね。

本阿弥:それで、ムーアマンさんと一緒にアンディ・ウォーホルのナイトクラブでパフォーマンスをやっていますよね。先生は裸でチェロになって。

靉嘔:ヌードじゃないですよ。僕は上半身が裸でした。シャーロットは裸ですよ。シャーロットのおっぱいのところに顔を付けて弦を張っておくんです。シャーロットは、僕の後ろで弾くんです。それをアンディ・ウォーホルのボールフレンドがずっと見ているんです。まわりを囲んで。僕はお金をもらって雇われたんです。違う、最初パイクに仕事が来たんです。それでパイクが僕のところに来て“Ay-o, Help! Help!”と言うんだよね。アンディはキャバレーを持っていて、アンディが見たいと言っている。シャーロットがやるからヘルプしてくれと言われた。パイクは(パフォーマンスの最中に)いつもやることがあるんですよね。じゃあ、俺がやってやるよと(言って、やった)。そして、終わったら5ドルくれたんです。

本阿弥:出演料が5ドル。

靉嘔:みんなボーイフレンドに見られたうえに、5ドルじゃ安いよ。

本阿弥:それはゲイのバーですか。

靉嘔:違う、ナイトクラブですよ。

加治屋:ファクトリーですか。

靉嘔:ナイトクラブですよ。エイス・ストリート(8th Street)のね。今は変わっちゃいましたけどね。エイス・ストリートにハンター・カレッジか何かありますよね(注:クーパー・ユニオンがある)。

加治屋:ウォーホルの仕事場とは別ですよね。

靉嘔:エイス・ストリートは、ソーホーの画廊があった近くです。

加治屋:ウォーホルが持っていたものがあるんですか。

靉嘔:みんな知らないですけどね。

加治屋:初めて聞きました。

本阿弥:ファクトリーなら分かるけど、そのようなお店を持っていたというのは知らないですよね。

靉嘔:ファクトリーというのは、彼のスタジオのことを言ったんですよ。そこにゲイが集まってね。毎晩パーティーをやっているんですね。日本人がコックでね。

本阿弥:シャーロットさんは、「アヴァンギャルド・フェスティヴァル」を仕掛けていたんですか。

靉嘔:「アヴァンギャルド・フェスティヴァル」を作ったんです。はじめから最後までやったんです。

本阿弥:靉嘔さんが帰国してからも、先生が作品を送り続けていたんですね。

靉嘔:そういうこともやりましたね。僕がニューヨークにいたとき、大きなところでやるとシャーロットは必ず僕に一番いいところをくれるんですよ。だから、ワールド・トレード・センターでやったときは、ワールド・トレード・センターのてっぺんに洗濯物をぶら下げるということをやったんですね。それから、ジョン・F・ケネディのフェリーボートでやるときには後から虹を飛ばしたりした。とにかく、(シュトックハウゼンの)《オリジナーレ》の場合には一番いいアーティストの役をやらせてもらえた。シュトックハウゼンの曲もやったんですよ。シュトックハウゼンは、マリー・バウアーマイスター(Mary Bauermeister)という奥さんがいて、それのために書いた曲があるんです。その曲のアーティストの役とか(注:第2回ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァル、1964年)。いろんなことがありました。インターメディアといって(ジャンルを)ごちゃまぜにした新しい作曲がある時期に流行ったんです。武満徹はそれで《七つの丘の出来事》というのをやったんですよ。形式的にはほぼ同じです。

本阿弥:草月ホールでやったものですよね(注:「空間から環境へ-ハプニング」1966年、草月会館。武満徹《七つの丘の出来事》は靉嘔に献呈されたインターメディアの作品。靉嘔自身はこの時、《オリジナーレ》でおこなった髭剃りや歯磨きなどの行為を順におこなうパフォーマンスを「レインボー・イヴェント」として独立させておこなった。)。

靉嘔:そうですね。

本阿弥:シャーロットさんのアヴァンギャルド・フェスティヴァルの洗濯物とか、下着とか虹色のテープは先生の持ち物ですか。シャーロットさんから提供してもらったものですか。

靉嘔:違います、違います(笑)。買ったんです。だって500枚ですから。パンティ500枚。

本阿弥:先生がお店で買ったということですね。

靉嘔:店で買って、縫い物してね。全部縫って紐に結わいだ。ニューヨークの何とかシーポート(注:当時サウス・ストリート・ミュージアムに係留されていたアレクサンダー・ハミルトン号)。イーストサイドにボートのミュージアムがあるんですよ。昔からある有名なものです。動かないように船を据えつけていて、そこがミュージアムになっているんですね。そこを借り切ってパフォーマンスをしました。僕は一番上の艦橋にぐるっとひと回りパンティを(掲げた)。

本阿弥:それはどのような発想で出てくるんですか、下着というのは。

靉嘔:いい気持ちですよ。

本阿弥:それはエロティックとか……

靉嘔:そうじゃないです。僕は洗濯物が大好きなんですよ。いい気持ちじゃないですか。あなたは分からないよね。建築家は。

本阿弥:そんなことはないですよ。

西川:バナーの作品には……

靉嘔:洗濯物が干すじゃないですか。あれを干すのは、日本人と、中国もそうかもしれないけど、あとはイタリアンなんです。イタリアでは、外に縄を張って下げているんでしょう。外に干すんですよね。あれが大好きなんですよね。いい気持ちだよね。

本阿弥:男の下着ではなく、女性の下着でないといけないんでしょうか。

靉嘔:何でも。僕は洗濯が好きなんだもの。洗濯をやって干して、乾いたらいい気持ちじゃないですか。

西川:「アヴァンギャルド・フェスティヴァル」で、シアースタジアム(注:正しくはシーポート・ミュージアム。第9回ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァル、1972年。シアー・スタジアムで行なわれた74年のアヴァンギャルドフェスティヴァルでは、透明のフラッグの作品を出品した)でやったのが紫のパンティですけど、他のバナーの作品ではシャーロットの下着だったり……

靉嘔:あれは家の中ですね。カッセルのミュージアムでもそうだった。始めはエミリーの画廊でやったんです。個展で。それからパリに持っていって、パリのミュージアムでやった。カッセルでやって、日本の南天子SOKOギャラリーでやりました。方々でやりました。最近は筑波でやったんですよ。外に掛けたんです。

加治屋:アメリカ人は基本的に洗濯物は外に干さないですよね。僕がアメリカにいたときはみんな乾燥機を使っていました。60年代のアメリカの人たちは、乾燥機を使っていたのでしょうか、それとも家の中に干していましたか。

靉嘔:知りませんね。普通の洗濯屋ですよ。キャナルのランドリー(洗濯屋)に行っていました。ソーホーにはないんですよ。何にもなかったときですからね。

加治屋:ランドリーに行って、そこで乾燥機もかけて持って帰ってくるんでしょうか。

靉嘔:スタジオがでっかいから、僕は大体縄を張って洗濯して干しておくんです。家の中に干しておくんです。綺麗なんだよね。それで、いつか仕事にしようと思っていた。だから箪笥もいらないんです。乾いたものからとればいいので。

本阿弥:1962年9月の初めての個展で大量にフォーム・ラバー(注:スポンジ状のゴム)をプレゼントしてもらったらしいですね。

靉嘔:ゴードンズ・フィフス・アヴェニューの展覧会ですね。

本阿弥:知らない人から。

靉嘔:僕は名刺を持っていますよ。

本阿弥:今でも大切に持っているということですが、恩人のひとりですか。

靉嘔:どうか知らないけど。彼は覚えていないだろうね。僕は作品を1点あげたね。8号くらいのものを(笑)。1点あげた覚えがある。

西川:(話が)戻ったところで虹が誕生したところをお聞きしなくていいですか。

本阿弥:ちょうどこの頃ですよね。先生の「虹」が誕生したのは、1962年9月の初の個展で大きなアルミの作品を出していたときですよね。個展に多くの作品を出品したので、アトリエが空っぽになったときに考えついたのが虹だったということを聞いています。

靉嘔:空っぽになって、何をしようかということになった。絵を拒否したんだから、(その代わりに)何をしなければいけないかと考えた。でも僕は絵描きだから、結局、壁紙でも作ればいいと思ったんですね。僕なりの壁紙を作るには、虹のグラデーションを自然のままに塗ればいいと思って、朝から1本ずつ塗っていたんですよ。部屋中に。構図とかそういうものは一切なし。あるがまま、行って曲がったら曲がったままなんです。

西川:その時には区分けしないで1本ずつ。

靉嘔:そうです。フリーハンドです。1本ずつで油絵の具です。毎日は描けないんですよね。乾くのもあるけれども、乾かないと上がくっついてしまうので、上がくっつかないようにやるんです。まあ重なることもあります。ちょっと乾けばいいですけど。本当に間違えずに、自然に自然に引いていったんですね。50色から60色くらいあるんです。

西川:それは結果としてそうなったんですね。

靉嘔:結果として。赤から紫まで。でも赤から紫まで収めなければいけないという気持ちは持っていたんですね。

本阿弥:先生の場合は、虹の構成は6色ですよね。

靉嘔:そうですよね。

本阿弥:日本では虹は7色ですよね。

靉嘔:6色ですよ。

本阿弥:日本の場合は、虹色は7色ですよ。

靉嘔:虹は7色と言うけれど、そんなのはいいかげんです。

本阿弥:アメリカは6色なんですか。

靉嘔:そんなことはないです。虹色です。スペクトル。スペクトルは何でもあるんですよね。物質ひとつにスペクトルはあるわけです。銅のスペクトルはグリーンの部分がものすごく多いんですよ。銅を持つとグリーンの色がいっぱいでるじゃないですか。グリーンのスペクトルが多いんです。

本阿弥:私が調べましたら、虹は日本では7色だけどアメリカは6色と言われていると本に書いてありましたよ。

靉嘔:いやいや、そんなことはない。それはいいかげんですね。僕はスペクトルなんです。

本阿弥:6で分割しているのかなと思って聞いていたわけです。6、12、24と。

靉嘔:赤から紫までを分割するとやはり6です。真ん中が黄色で、下が変わっていくようにしたほうが単純じゃないですか。そうじゃないですよ、実際には。実際の虹は、オレンジの部分が多いんです。グリーンの部分も多い。スペクトルでは少ない部分もあるので違うんです。スペクトルの通りにやったら全然違うもになるんだけれども、僕の思考のなかで、それを使っていくうえでそういうふうに分けたんです。6色に。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫(せきとうおうりょくせいらんし)に分けて。

西川:6の倍数で24色、48色、96色で、一番多く使われているのが192色です。「いっくに」とおっしゃっているように、麻雀で使われている計算方法ですね。

靉嘔:そうそう。あなたはマージャンするの。

本阿弥:やりません。

靉嘔:マージャンは、24、48、96、192(にいよん、よんぱ、くんろく、いっくに)なんだよね。192の上が満貫です。加治屋さんはやるの。

加治屋:しないです。

本阿弥:靉嘔先生は、荒川修作さんたちとマージャンをやっていたと聞きました。

靉嘔:荒川と僕と(オノ・)ヨーコと三人でマージャンをやっていた。いいかげんなんだよね。そこに(河原)温が現れたんだよ。あれは半分セミプロだから、俺なんかに、自分の都合のいいようなルールを作って教えてね(笑)。

西川:ある時期から24色を基本として、それを分解したり倍数にしていきますよね。それは計算をやっているんですか。

靉嘔:はじめは何もないです。上から塗っていって最後に紫で終わりにする。だいたい終わりになるんですね。また次の赤が現れることはないです。ここで何とか太くしておけばいいとか、そういう調子です。それが50色とか60色になっていきます。はじめの《ミスター・ミセス・レインボー》なんかは多いですよ。(東京)国立近代美術館に入っている作品(注:《アダムとイヴ》(1963-67年))はすごく多いと思います。

本阿弥:それが、ゴードンズ・フィフス・アヴェニュー・ギャラリーの個展の時に、自分のスタジオで「虹のスペクトル」が誕生したということですね。

靉嘔:絵じゃないんです。ただスペクトル、色を描いただけです。直線とか曲線とか面といったものを拒否するということはまではってないんです。だから、僕は最初、人間の作った文化を拒否してみたんですね。僕が人間的に見て、本当に信じられるだけのもので仕事をしたいと思ったんです。

本阿弥:その時にフォーム・ラバーもいっぱい提供してもらって触覚の仕事もなさった。

靉嘔:スタジオがこの部屋の3分の2ぐらいあって、キャナル・ストリートの下にでかいトラックが止まったんですよ。こんなでっかいニグロの男が担いで持ってくるんだよね。で、家まで来て「ボスに言われたので運んできた」と。どんどん、どんどん運んでくるんですよね。いっぱいになっちゃったんだよね。

本阿弥:先生はどうしてそのボスにフォーム・ラバーをもらうことになったのですか。

靉嘔:ゴードンズ・フィフス・アヴェニューの展覧会の時にフォーム・ラバーを使った作品があったんですね。「あなた、こういうのが欲しいか」と言われたので、「欲しい」と言った。しかし、それはみんな端なんだよね。フォーム・ラバーを作るでしょう。真ん中以外の、パンの耳を全部くれたんだと思うんです。耳がみんなくっついているんです。それを何とか使いこなさなくてはいけないというので、僕の作品が生まれたんです。

本阿弥:それが《オレンジ・ボックス》(1963年)。

靉嘔:それで作った小屋が《オレンジ・ボックス》です。

西川:その時に《フィンガー・ボックス》(1963年頃)も《タクティル・アーム・ボックス》(1964年)も《オレンジ・ボックス》も全部作ったんですか。

靉嘔:そうです。それを使ったんです。

西川:アルミの作品の後ですよね。

靉嘔:後です。初めは、アルミの箱を作ってその中にフォーム・ラバーを貼った作品を作っていたんですね。硬いものと柔らかいもの(の組み合わせ)が面白いと思ったのでやったんだろうと思います。非常に本能的なものですね。

西川:そうすると、《フィンガー・ボックス》もそこで初めて生まれたことになるのですか。

靉嘔:まあそうですね。

西川:フォーム・ラバーがやってきたときに。

本阿弥:それで虹も来たし。

靉嘔:僕が入れる箱を作って、《オレンジ・ボックス》になった。

本阿弥:それが理論的には六感覚の仕事となるわけですね。

靉嘔:そうですね。普通は五感覚ですよね。あと第六感、あるかどうか分からないけど、それを入れれば六感でしょう。

本阿弥:それが靉嘔さんの芸術表現となったと。

靉嘔:そうじゃないんです。僕が生きていくのに、感覚以外に方法がないと僕は思ったんです。僕が生きるうえで、僕を中心に宇宙が回っていると思う以外にはないんですよね。僕はみんなに言うんだよね。「君を中心に宇宙が回っているんだから。自分しかいないんだから。自分がいなくなったら宇宙なんかなくなっちゃうんだから」と言うんです。僕にとっては何かと言うと感覚なんですね。それは五感、六感の感覚なんです。触覚とか嗅覚ですね。それは誰かが作ったものではない。例えば、直線は人が作ったものですよね。今、問題となっているギリシアの頭のおかしな男(注:ユークリッド)が、点と点を結べば直線になると言ったわけです。それが人間のコンセプトの始めですよね。それを拒否したわけですよね。そういうものを拒否していって、僕に残っているものが何かあるかというと六感なんですね。触覚はあるし、匂いもある。そういうことで、六感を追求しようというのが次の仕事になったんです。僕に追求できる方法なんて知れたものです。あまりテクニックはないし、知識はないし、難しいことは知らない。でも、僕の知っている限りのことでそういう感覚を追求したいと思いました。それが触覚の作品を作り、ヒアリング(聴覚)の作品を作り、匂いの作品を作るということになってきたわけですね。

本阿弥:先生はそれを「コンクリート・アート」と言っていますね。

靉嘔:それはアブストラクトに対しての反対なんですね。アブストラクトというものを拒否したんです。その時代、ニューヨーク・スクールはみんな抽象でしょう。アブストラクトは分からないと言っていいと思うんだよね。分かる、分からないで言ったら。分からないものを分からないなりに描いている。何も知らないで分からないものを描いているというのもいいんだろうけれども、やっぱり分からない。僕は、自分が分かること、思うことを人に分からせたいために、アートをやっている。出光の親父が何億もする茶碗を見て「美しい」というのは、それはそれでいいんです。それは拒否しない。ただ、そんな馬鹿なことをしないで、例えば、トラックのハンドルのテクスチャーが良いとか悪いとかといったことが、人間が生きていくためにはもっと重要じゃないかと僕は思うんです。それで、アブストラクトの絵は分からないと言った。みんな分からないんだよね。分からないじゃないですか。

本阿弥:私も分からないですね。

靉嘔:分からないでしょう。だから、分からないもので自分の言いたいことを言おうったって、言えっこないじゃないですか。でも何ていうのかな。いわゆる観念じゃなくてね。観念というのはアブストラクトですからね。アブストラクト的なものではなくてね、やる方法を辞書で引くとね。「コンクリート」というんですよ。アブストラクトの逆はコンクリートですから。辞書を引けば出てきますよ。僕がアブストラクトではないものをやるっていうことでコンクリートをやっているんですよね。コンクリートのものを。そうするとコンクリートのものはようするに心に普段にあるものですよね。それに囲まれて僕は生きてて、やがて死ぬだけだと思うんですけどね。

加治屋:音楽だとミュージック・コンクレート、詩ではコンクリート・ポエムがありますが、そういったものは意識されていましたか。

靉嘔:うんと意識しています。だからエメット(Emmett Williams)と僕は友達なんですよ。コンクリートは言葉がありますよね。エメットは「スイートハート(sweetheart)」という言葉からの一冊の詩を作ったんです(本を探しに行って戻ってくる)。この本がそうです。スイートハートという言葉で一冊の本を作っているんです。

加治屋:スイートハートという言葉のアルファベットを組み合わせて詩にしているんですね。

靉嘔:そうです。スイートハートだけで一冊の本をつくっているんです。ものすごくセクシーな本です。僕はエメットのこれを見てほれ込んだんです。これで無二の親友になったんですね。僕はみんな仕事で知り合ったんです、僕の友人というのは。仕事が好きで知り合ったんです。それ(注:ウィリアムスの本)がオリジナルなんです。それが全部売れちゃってないので、ディック(Dick Higgins)がまた同じものを作ったんですね。もっと大型で黒い表紙で、デュシャンのハートがあるんですよ。それが表紙になっている。デュシャンからもらったんですよね。デュシャンのところまで行って、金がないので出版したいんだけど、何とかならないかって言ったら、デュシャンがくれたんですよ、「それを使っていい」と。それで、版画を50枚刷っていいと言ったんです。だから有名なデュシャンのハートがあるでしょう。あれは50枚刷ったからね。「俺は絶対に2枚買うから置いておけ」と言ったんだけど、すぐに売れちゃったんだよ。「あれは売れるね」と言うんだよ(笑)。俺はがっくりしたよ。エメットも馬鹿で、持っていないんだよね、デュシャンの版画を。それでデュシャンのところまで行って、デュシャンがサインをしてくれて、ナンバーをマイナス1にしたんだよね(笑)。彼はもらって丸めて、家に帰っていったんだけど、雪が降っていて、転んでくしゃくしゃにしちゃったんだよね。馬鹿なやつだよね(笑)。

加治屋:ちょっと話が戻りますが、先ほど六感覚の話が出ました。第六感は「予測のテレパシー」だとお書きになっていますが、少しお話をしていただけますか。

靉嘔:例えば触覚と視覚がありますよね。六感というのは、触覚と視覚のぶつかり合いですね。いろいろな感覚があると、それがお互いにぶつかって物語を作るようなものだと思うんです。そういうものがあると思うんですよね、実際に。それはコンクリートなものだと思うんです。触って「冷たい」という触覚があったら、それは、二つの感覚がぶつかり合ったことだと思うんですね。それが三つも四つも五つも重なれば、未来を予測できるようにもなるんじゃないか。生きていくにはいろいろな感覚を使ってそこに到着するわけですから。決してスーパースティション、神秘主義的なものではないんです。実際にあるコンクリートなものだと思うんです。だから、六感というものがあると――僕が言っているだけの話ですよ、実際に学問的に証明されたかどうかは僕には分からないけれども――僕は思いますよ。

西川:触覚を含めた感覚の仕事になるには、まず《ティー・ハウス》があり、アルミがあり、そしてフォーム・ラバーがやってきた。そこからエンヴァイラメントという考え方が出てくるんですか。

靉嘔:《ティー・ハウス》のときアラン・カプローが来て、「僕のアートはアトモスフェア・アートだ」と僕は言ったんです。アトモスフェア(atmosphere)、雰囲気ね。カプローは、「靉嘔、われわれはそれをエンヴァイラメントと呼んでいるんだよ」と言うんです。「ちょっとスペルを書いて」と言って、カプローが帰ったあと辞書を引いたら「環境」となっていた。環境というのは実際に物があるんですね。周りに物があって雰囲気ができるわけですね。雰囲気じゃ、わけが分からないですよね。エンヴァイラメントというのは、こういうふうにも使うんですね。家のワイフと僕のエンヴァイラメントはあんまりよくないんだというふうに。そういう場合には、英語でも「雰囲気」ですよね。エンヴァイラメントを雰囲気として使っているんだと思うんです。でも、エンヴァイラメントと言えば、物が周りにあるということが前提だと思うんです。これは僕の作品にピッタリだと思って、それからエンヴァイラメントと呼ぶことにしたんですね。

西川:最初の虹の一本一本描いていったものも、スモーリン・ギャラリー(Smolin Gallery)で発表されたときには、首から覗けるようにしたりとか、部屋全体がレインボーでその中に入るようなエンヴァイラメントの作品ですよね。

靉嘔:だから、それがエンヴァイラメントですよね。部屋全体がレインボーで、それにはいろんなことを試してみたり。丸いところに塗ってみたり、立てて後ろに入ってみたりということもやったんですが。いろんなことをして見ているんですよね。とにかく、あれは絵ではないんですよね(笑)。ミュージアムは絵で使ってくれるんですよね(笑)。

本阿弥:先生は、それを〈レインボー・ハプニング〉シリーズと言っているものですか。

靉嘔:言っていることもあるでしょうね。

本阿弥:以前、言っていたと思いますが。

靉嘔:あなたは良く調べるね。

西川:ハプニングがパフォーマンス系なんですよね。「ハプニング」シリーズは、カーネギーのリサイタルでのコンサートとか、そういったものをおっしゃっていて。

本阿弥:レインボーの平面作品に首を置いて楽しむ作品は、「レインボー・ハプニング」シリーズとは違うのですか。

西川:初めはエンヴァイラメント。

靉嘔:。初めはハプニングもイヴェントも、われわれはゴチャゴチャだったんですよね。

本阿弥:〈レインボー・エンヴァイラメント〉シリーズね。

西川:はい(注:「虹のかなたに 靉嘔AY-O回顧1950-2006」のカタログのために靉嘔自身が作成した年譜で、主にパフォーマンスを〈レインボー・ハプニング・シリーズ〉、エンヴァイラメント(インスタレーション)作品を〈レインボー・エンヴァイラメント・シリーズ〉として分類している。)。

靉嘔:それはボイスの功績だと思う。ボイスはコンセプチャルという言葉、コンセプチャルなものを非常に重要にした。ドイツ人は重要にした。コンセプチャルというのは、二回以上使えるんですね。コンセプチャルというのは、再現がきくということです。もともとコンセプトというのはそういうものだと思うんですよ。コンセプトというのは、ひとつのきちんとした考えであって、同じことを何度も言えるものです。それでわれわれはコンセプトという言葉をイヴェントに使い出した。イヴェントはコンセプトであると。ハプニングはコンセプトではないんですね。

本阿弥:一回しかないと。

靉嘔:一回しかないんです。二回できるのがイヴェント。だからフルクサスは、脚本があるんですね。脚本があって二回以上できるんです。

西川:スコアという言い方はしないんですか。

靉嘔:僕なんかは「キュー」という言葉を使いました。「スコア」でいいですよ。音楽家は「楽譜」と言うよね。音楽家は(イヴェントのことを)「演奏」と言うんだもの。勝手にしやがれだね。「演奏」なんかと言われたらね(笑)。

加治屋:イヴェントのほうがキューがあると。

靉嘔:イヴェントにはあります。だからフルクサスのものにはキューがあるんですよね。

本阿弥:何回でもできると。

加治屋:それはどんな形で書かれているんですか。例えば、楽譜みたいなものに書かれているとか。

靉嘔:いろいろです。だからジョン・ケージの楽譜は、「フォンタナ・ミックス(Fontana Mix)」の場合には、こんなやつとこんなやつを合わせて音楽を作っていくんですね。そういう場合には楽譜ですよね。ノートと言えばノートですけども。でも、それがあるんです。あるというよりも、それをもとに作られるんですね。キューなんです。

本阿弥:それぞれのフルクサスのメンバーが各自で書いているんですか。それとも誰か記録する人がいるんですか。

靉嘔:知らない。

本阿弥:先生は、自分で書いているんですか。

靉嘔:自分のものは自分で書きますよ。分かるようにね。

本阿弥:後で再現できるように書いているんですか。何月何日にそれを作ったとか。

靉嘔:ありますね。

加治屋:話が戻ってしまうんですが、さっき、オルデンバーグもフルクサスに関わっていたとおっしゃっていました。オルデンバーグはわりとすぐに出ていった感じなんでしょうか。それともしばらくはいたんでしょうか。

靉嘔:いや、フルクサスのグループ(のメンバー)じゃないんですよ。友だちですね。今日はちょっと集まって何かしようと言うと、彼は来てくれるんですね。一緒にチャイナタウンまで歩いてその途中に何かやろうとかね。オルデンバーグは毎週やっていたんですよ。僕は毎週見に行ったね。そのときこのくらいのハンバーグを5ドルで売ったんですよ(笑)。壁に棚が作ってあってそこに置いてあるんですね。5ドルだよ。

加治屋:オルデンバーグの《ストア》というイヴェントというかハプニングがありますよね。

靉嘔:それはよく分からないですが。

加治屋:自分が作った変なものを並べて売る店のようなイヴェントです。

靉嘔:ハプニングをやるたびに、そういうものが飾ってあって、売ったんですね。僕も売ったんだけれども。だから、ギャラリーじゃなくてショップなんですよね。フルクサス・ショップ。安くてたくさん売れると思ったんです。でも全然売れないんですよね(笑)。

加治屋:オールデンバーグは《ストア》を確か1962、3年にやって作品を売っていたので、それと関係があるのかなと思ったんです。

靉嘔:ありますよ。でも(我々は)オルデンバーグとは関係ないですよ。我々は我々で、例えばジョージはジョージです。フルクサス・ショップは、ギャラリーに対するアゲインストです。アートじゃなくてショップなんですね。10(テン)セント・ストアをやったことがあります。見たいものをつくってね。フルクサスのメモリアルみたいなものなので、ツアーをやったんですよ。20、30年くらい経ってからですかね。それで、コペンハーゲンで10セント・ストアを開きました。肉なんかをビニールでくるんであるじゃないですか。ああいうものです。いろんなものを売っているんですよ。僕はカートンボックスいっぱい買ってきたんですね。(しかし)税関を通ったとき(ビニールを)全部破られた。頭にきたね。全部今でもありますよ。誰かが直せばきちんとしたものになるでしょうけどもね。隣の部屋にあります。

加治屋:何をくるんだんですか。

靉嘔:普通のスーパーに行くと、お刺身だったらお刺身があって、ビニールでかぶせてあるじゃないですか。あんなふうになっているんです。それを買ってきたのに、そのビニールが全部破いてあるんですよ。税関が、悪いものがあるとか考えたんでしょうね。

西川:フルクサス・ショップは靉嘔さんのロフトの隣にあったんですか。

靉嘔:そうです。僕なんかが作ったんです。僕がカーペンター・ショップを持っていたから。僕と川上と二人でだいたい作ったんです。棚を作ってね。その写真はきちんとあります。

西川:今お話を聞いていると、お互いのパフォーマンスに行き合っていたんですね。オルデンバーグとも親交があったということですけども、フルクサスの仲間とそうでない人は違っていたんですね。

靉嘔:違いますね。オルデンバーグは、奥さんとか、4、5人でやったのが多いですよね。グリーン・ギャラリー(Green Gallery)という画廊があったんですが、そこでアルバイトを集めてやったという感じがします。とにかく頻繁にやったんです。奥さんがわりにメインなことをして、そのうちに大きなものを作って、売れるようになったのでやめちゃったんだね(笑)。

加治屋:グリーン・ギャラリーのオーナーはリチャード・ベラミー(Richard Bellamy)でしたね。

靉嘔:そう、ベラミーです。ポップ・アートを作った。ベラミーとO・K・ハリス(O.K. Harris)の二人が作ったんですよね。レオ・キャステリ(Leo Castelli Gallery)の番頭みたいな人たちです。彼らがポップ・アートを世に広めたんです。

本阿弥:先生には、フルクサスのカードのイヴェントというのがありますよね。

靉嘔:ありますよ。

本阿弥:それは、フルクサスでは重要なイヴェントになりますか。

靉嘔:みんなそれぞれが作ったんですよね。ほとんどみんな。ジョージがピースを描いたんですね。塩見さん(允枝子)なら塩見さんが作品を描いてカードにして箱に入れて売った。ジョージがやったんですけども、でも、塩見さんの作品ですよね。

本阿弥:先生がギャラリー360°でカードを使ってやったイヴェントもそうですか。

靉嘔:あれは言葉、Wordの作品ですね。あそこの部屋にありますから。このあいだ(箱を)開けてみたら見つかりました。

西川:ちょっと戻りますけども、マチューナスが、ドイツからニューヨークに帰ってきたときに、ヨーロッパで始まったフルクサスの活動のことを話したとありました。そのときすでに「フルクサス」という言葉を使って話していたんですか。

靉嘔:そうですよ。ジョージがどうして「フルクサス」にしたかというと。辞書を引くといっぱいね。フルクサスという言葉の中には、いっぱい意味が出てくるんですよね。吐く意味もあるし、いろんな意味がある(辞書を引く)。

西川:「流れる」とか「流動する」とか。

加治屋:英語だと、fluxというusがないfluxはよく使います。

本阿弥:「融解」とかですね。「溶け合う」ということですかね。

加治屋:「交じり合う」とか。

靉嘔:いろいろあるんですよ(本阿弥に電子辞書を渡す)。

本阿弥:「絶え間ない変化。流転。不安定。流動。溶ける。流れる」と書いてありますね。

西川:ショップだけではなくて、フルクサスのコンサート・ホールにもなっていたんですよね。

靉嘔:それは、ジョージが僕に「このへんにロフトないか」と言ってきたから。「隣の隣に行って聞いてみろ」と言ったんです。もちろんジョージは英語がしゃべれるから交渉できるでしょう。そしてジョージは隣の隣を見つけたんですよ。ロフトですから長い部屋で、僕たちが三つに仕切った。前をコンサートホールに、真中をショップにして、奥をジョージの寝室にしたんですね。そういうものを作ったんですよ。

本阿弥:先生と川上さんが作ったんですか。

靉嘔:ほとんど川上がやったんです。僕は手伝いをした。

本阿弥:先生は、ケージとデュシャンのチェスのイヴェントは見ているんですか。

靉嘔:見ていません。あれはヨーロッパでやったものですよ。あ、デュシャンとケージね。それは(久保田)成子がフィルムにおさめています。パイクの奥さんね。それはちゃんとビデオがありますよ。

西川:そこのコンサート・ホールでは毎日のように何かをやっていたんですか。

靉嘔:そうですね。コンサートは一週間に1回はしましたね。ショップはいつも開いているから毎日ですね。

西川:人は来たんですか(笑)。

靉嘔:コンサートに来るのは僕とケージだけだった(笑)。そんな感じですよ。ケージはよく来てくれたね。あの人も面白い人ですね。

西川:フルクサスの中で、日本の方たちは後からいらっしゃったんですよね。塩見(允枝子)さんとか。

靉嘔:塩見さんと小杉(武久)。あとは成子ね。

加治屋:ハイレッド・センターの日本での活動を、アメリカの人たちに紹介なさったんですよね。

靉嘔:ジョージがね。ジョージが「これは面白い」と言って、「ハイレッド・センター」という新聞を作ったんですよね。それで、ハイレッド・センターのパフォーマンスをやったんです。セントラル・パークの横に大きなホテルがありますよね。一番立派なホテル。プラザ・ホテル。プラザの部屋を借り切って、メジャーメントをやったんですよね。僕はいなかったんですけどね。お風呂に入って、お湯がどのくらい上がるかとかね。ハイレッド・センターのスコア通りにやったと思うんですよ。僕はいなかったんですよね。

加治屋:1966年のウォルドーフ・アストリア(Waldorf-Astoria)ホテルでやったと書いてありますね。

靉嘔:ウォルドーフ・アストリアね。僕はプラザ・ホテルとばかり思っていましたね。

本阿弥:先生がケンタッキー大学に行っていた頃ですか。

靉嘔:そうかも分からないですね。僕はいなかったですから。

西川:1966年の6月ですね。4月から世界一周旅行に行かれていますので、その間ですね。

加治屋:1966年6月11日に《ストリート・クリーニング・イヴェント》というのをやっていますね。

靉嘔:あれはやはりセントラル・パークのあそこだと思いますよ。フィフス・アヴェニューの横です。とにかく僕はそこにはいなかったんです。

西川:ヴェネチアに作品を出された時ですね。

本阿弥:ヴェネチア・ビエンナーレの時ですか。

加治屋:(参加者は)ロバート・ワッツ(Robert Watts)、(ダン・)ローファー(Dan Lauffer)、(ジェフリー・)ヘンドリックス(Geoffrey Hendricks)、マチューナス(George Maciunas)、ムーアズ(Moores)とあります。

靉嘔:ボブ・ワッツ(Robert Watts)はいませんか。いると思いますよ。

西川:ピーターとバーバラのムーア夫妻(Peter and Barbara Moore)ということですかね。

加治屋:ムーア夫妻とマチューナスとヘンドリックスとワッツとローファーということですかね。

靉嘔:ローファーというのは知らないね。

加治屋:その人たちがクリーニング・イヴェントをやったようです。

靉嘔:外でね。でもね、部屋も借りて体重を量ったりしたんです。

加治屋:ホテル・イヴェントもあったと。

靉嘔:それが、僕はプラザ・ホテルだと思ったんですが、ウォルドーフ・アストリアかも分からないですね。

加治屋:ジョージ・マチューナスがハイレッド・センターのことをどうやって知ったんですか。

靉嘔:みんな仲間ですからね。

本阿弥:それは秋山(邦晴)さんが紹介したと語っていますよ。ジョージから「日本に誰かいないか」と秋山さんが相談されて、秋山さんの知り合いにハイレッド・センターがいたので紹介したところ、ジョージ・マチューナスが興味を持ったということらしいですよ。西武美術館で発行している『アール・ヴィヴァン』のフルクサス特集の先生と塩見(允枝子)さんと秋山邦晴さんの座談会で秋山さんが話していますね。

靉嘔:そう。

加治屋:新聞はご存知ですか。

本阿弥:ニュースペーパーはありますよ。

加治屋:その新聞のことは、日本のハイレッド・センターの方たちは知っているんですよね。

靉嘔:ハイレッド・センターの人は、あまり熱心ではなかったね。やったんだよと言ったけれど、ありがたがる様子はなかったね(笑)。

加治屋:日本の方たちはあまり書いていないですよね。

靉嘔:ハイレッド・センターそのものがしょんぼりしていた頃ですかね。今日の朝日新聞に赤瀬川が書いているよね。

本阿弥:書いていましたね。「わたくし美術館」、私設美術館についてね。

靉嘔:「わたくし美術館」を紹介する。

西川:読売アンデパンダンの頃は赤瀬川さんとは交流があったんですか。

靉嘔:ほとんど知らないね。本を作っているんだよね、赤瀬川は。

本阿弥:赤瀬川さんは読売アンパンの本を出していますよね。先生と交流はなかったんですか。

靉嘔:僕は一度しか会ったことがない。彼は3つか4つ若いんです。僕がアメリカに行ってから、彼はやったんですね。

西川:そうですね。1960年代ですからね。

靉嘔:小杉なんかも一緒なんですよね。ハイレッド・センターじゃないですけども一緒でね。僕は、横田茂さんのオープニングで飲み屋に行ってそこで(赤瀬川さんと)会った。「あなたが赤瀬川さん」と話したことがありますね。

本阿弥:横田さんとはどなたですか。

靉嘔:画廊です。

西川:横田茂さん。

靉嘔:でっかいロフトなんです。瀬津(雅陶堂)という骨董屋があるんですよ。日本橋にね。そこの奥さんの弟がずっとやっていたんです。このあいだ初めて戸村(浩)さんの展覧会に行ったんです。

西川:ああ。

靉嘔:「瀬津どうした」と聞いたら、死んじゃったと。大きなアンティーク・ショップです。昔の仏像なんかを見つけてきて、向こうで売るんですよ。でっかい商売をしていたんですよ。鎌倉なんですね。ジミー・スズキの親父が威張っててね。その一派なんです。

本阿弥:(1966年の)ヴェネチア・ビエンナーレとサンパウロ・ビエンナーレの話を聞きたいと思います。

靉嘔:ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーは久保貞次郎さんなんで、僕と(池田)満寿夫と、それから篠田守男とオノサトトシノブを選んだんですね。3人はデモクラートの関係者ですが、篠田だけは違うんですね。それは、今泉(篤男)さんという評論家がいたんだけど、今泉さんが久保さんに篠田を持っていってくれと言ったんですって。それで仲間に入ったんです。守男は、僕のその後ずっと仲間です。友だちになった。

西川:それがきっかけだったんですか。

靉嘔:そうですよ。ヴェニスで一緒になってね。ヴェニスにいろいろな人がいたんで、みんな紹介したりしてね。

西川:イサム(・ノグチ)さんと泳ぎに一緒に行ったんですよね。

靉嘔:イサムは必ずリドにホテルを取るんですよ。リドはプライヴェート・ビーチなんだよね。イサムが招待してくれて。そこに行って泳いだんですけどね。イサムと競争したんです。イサムも年取っていてね、でも泳ぐんだよね。僕はいいかげんだったんだけど。一番だったと得意になっていたよ。イサムは。君たちより僕のほうがと。その時にイサム、ペギーと3人で飯を食って。その時、僕はペギーと喧嘩したんだよ。ペギーはアメリカの絵が嫌いだったんだよね。ペギー・グッゲンハイムね。お金持ちの。エルンストの奥さんになった人だよね。エルンストはジューイッシュ(ユダヤ人)なんだよね。(第二次世界大戦が勃発して)危なかったんで呼んでね。結婚の証明をつくってね。彼女が。結婚したことになっているんですよ。ペギーとエルンストが。

加治屋:その時もペギー・グッゲンハイムは、ヴェネチアに住んでいたんですかね。

靉嘔:そうですよ。死ぬまで。今でもあるでしょう。ミュージアムが。私も行きましたけども。

加治屋:ペギー・グッゲンハイムと喧嘩というのは。何かあったのですか。

靉嘔:ディナーの時にね。ペギーがアメリカの悪口を言うんですよね。ちょうど、リキテンシュタインが招待されていて。その前の時に(1964年)、ローシェンバーグが呼ばれたんですね。ローシェンバーグは、作品を軍艦で持って行ったんですよね(注:正しくは軍用機で運んだ)。それでね。ヨーロッパの連中はみんなアメリカをヘイトしてね。アメリカが嫌いなんですよね。ペギーはアメリカ人だけれどもね。ヨーロッパの友達もいるし。自分の旦那を世話して。エルンストとか。コレクションはみんなヨーロッパのものですよ。盛んにアメリカの悪口を言うんですよ。だから僕が文句を言ったんですよ「そんなことはない。アメリカはいい」と(笑)。

加治屋:もちろんペギー・グッゲンハイムは、ニューヨークにいたときは、ジャクソン・ポロックとかの抽象表現主義の作家たちのこともかなり関心があったと。

靉嘔:いつも行ってね。ジャクソンと一緒に寝たとかね(笑)。こないだ映画があってね。出ていましたよね。

加治屋:その時はもうアメリカの美術は好きではなかったんですよね。

靉嘔:やっぱりね。アートというのは、昔はアメリカでもヨーロッパだったですよ、フランスだったんですね。だから、フランスとヨーロッパ。イタリアもそうなんで。みんな「ヨーロッパ、ヨーロッパ」だったんですね。日本もそうなんですね。

加治屋:ヴェネチア・ビエンナーレに参加なさって、反応とか。何か聞こえてきましたか。先生のところには。

靉嘔:大きかったですよ。今でもヨーロッパでは健在でいられるんですよね。じゃなかったら、みんな「虹」はかっぱらわれていたんですよね。「虹」がかっぱらわれなかったのは、ヴェニスでやったからですよ。ものすごく評判になった。評判になったというよりもね。スキャンダルが起きたんですね。スキャンダルが。僕のフィンガーボックス。大きな建物の中で。大きな建造物の中にフィンガーボックスがあって。ドイツの、あるフィジカルのドクターが、指を入れたらね、怪我をしたんだよね。ピンが入っていたんだよね。それで血が出てきて。彼はヴェネチア・ビエンナーレのオフィスを訴えたんですよ。それで翌日から毎日ニュースが。それからあらゆる美術雑誌。(ニューヨーク)タイムズ、ライフ・マガジン。みんな出たんですよ。有名になってね。おかげで(笑)。それで僕は二度と、「虹」はかっぱらわれなくなったんですね。それがなければ、とっくに他の方にかっぱらわれたんですよ。もうやれないですからね。

本阿弥:先生は、1990年に「フルクサス・イン・ヴェネチア」で、ゴンドラに色彩豊かな果物をつんだ作品を。

靉嘔:そうですよ。《レインボー・ディナー》。

本阿弥:それはヴェネチア・ビエンナーレの一貫ですか。

靉嘔:それはね、また別の時ですね。それはジーノ・ディマジオ(Gino Di Maggio)という男がミラノに画廊を持ってる男で。それがフルクサスの展覧会をやったんです。大展覧会を。その時に僕のいろんなものも持っていったし。今度、東京都現代美術館で出る大きな箱の《エンヴァイラメントNo. 7》(1969年)も持っていったんですね。それで展覧会をやったり。それから、ジョン・ケージのものをたくさんつくって出してね。

本阿弥:それはヴェネチア・ビエンナーレの会期中の一貫でやったんでしょうか。

靉嘔:そうですよ。全部がヴェネチア・ビエンナーレですから。一か所だけではないですから。勝手にやっても。

本阿弥:1990年はヴェネチア・ビエンナーレの一貫で。

靉嘔:ヴェネチア・ビエンナーレのオフィスがやっているわけではありませんよ。やるんですよ、みんな。

加治屋:期間中にね。

靉嘔:草間彌生なんかもそうですよ。彌生なんて1966年に僕がビエンナーレに選ばれたときに来てね。庭にいっぱい玉を浮かべてね。ポックリを履いて歩いていたんだよね。彌生はそういうことをしていたんですよ。その頃はまだね。彌生は最近だよね、ヴェネチア・ビエンナーレに出て。

加治屋:1993年ですね。

本阿弥:話は戻りますが、ニューヨークでは、草間彌生さんと交流はあったんですか。

靉嘔:彼女が毎晩、僕のところに来たんですよ。一晩中、話しているんですよね。僕は眠くて、眠くてしょうがないんだよね。あの人はおかしい。僕との付き合いとはそういう付き合いですよ。あれは困ったよね(笑)。電話がかかってくるんだよね。そうすると外して置いてね。2時間ぐらいたってもまだしゃべっているんだよね(笑)。いや。でも一生懸命な人ですよ。僕は一生懸命にやることは悪いとは思わないですよ。

加治屋:(話が)戻ったついでに、日本から東野芳明さんとか、いろんな批評家とか来たと思うんですが、お会いになったりしたことはありますか。

靉嘔:東野だったら一緒ですからね。志水(楠男)さんと一緒にいて。ジャスパーのところも。ジャスパーと東野と一緒に飯を食いにいったのかな。

本阿弥:南画廊の志水さんですよね。

靉嘔:そう南画廊の志水さんです。例えば中原佑介が来れば、だれかディナーに呼んでくれというと一緒に飯を食ったりね。みんなそうですよ。評論家はみんな来ると会ってますよ。どこかでディナーすると僕が呼ばれてね。僕がニューヨークで一番古いんですよね。最初、みんな来くると僕のところに来たんですよ。だから、そういうことがあるんですね。評論家が来るとみんなね。詩人の岡田隆彦ね。彼なんか来たときも。彼も可笑しかった。

本阿弥:岡田さんも亡くなりましたね。

靉嘔:大手術ですよ。腸のね。全部、胃を取っちゃったんだ。前摘して。胃を取って、腸を前につないだんですね。外にあるんですよ。骨の外に。物を食うと物が下りてくると言うんだね、隆彦が言っていたよ。エメットもそうなんですよ。晩年はね。外にあって。1日に何回か分けてね、食わなければいけないんだよね。それでも、ワイワイ平気で飲んでいたよ。あれも80歳まで生きたんですよね。エメットがね。岡田隆彦はすぐに死んじゃったんですよね。

本阿弥:(第11回)サンパウロ・ビエンナーレ(1971年)についてお聞かせください。

靉嘔:あれはね。コミッショナーは、有名な評論家ですね。持って行ったのはね、僕とね、矢柳(剛)さんとかですね(注:他に田中信太郎、永井一正、野田哲也、木村光祐、保田春彦が出品)。僕は行かなかったですよ。

本阿弥:サンパウロ・ビエンナーレの図録は、確か僕は持っていますよ。

靉嘔:あ、そうですか。僕もあると思うんですが。

本阿弥:先生は行かなかったのですか。

靉嘔:僕は行かなかったんですよ。だから南アメリカには行ったことがないんですよ。一度行くと、何回か行くんですけどね。あのことは、旅行疲れと、ビエンナーレ疲れで。

本阿弥:出品したのは、6点シリーズの〈アダムとイヴ〉の作品ですか。

靉嘔:そうじゃないですね。ケンタッキーで描いた作品でね。

西川:《タイム・トゥー・フライ》(1970年)とか。

靉嘔:銀行が買って持っているんだよね。《ジャンプ》という作品。あの手の作品ですね。

西川:《タイム・トゥー・フライ》。

靉嘔:あの時の作品です。

本阿弥:1971年ですか。

靉嘔:《タイム・トゥー・フライ》とかいう作品なんですね。

本阿弥:先生がブラジル銀行賞をもらっていますね。そうそう。

靉嘔:お金をもらったんでしょうね。たぶん。覚えていないですね。

加治屋:コミッショナーは、小倉忠夫さん。

靉嘔:そうですか。そうそう、小倉忠夫さん。失礼しました。小倉さんは、いわゆるコースを歩いてね。館長をやってね。

本阿弥:国立美術館の館長などをやりながらということですね。

靉嘔:僕のものを持って行ってくれたんですよね。

本阿弥:それから、(第10回)ジャパン・アート・フェスティバル(1971年)にシルクスクリーンを初めてつくったということですか。

靉嘔:そうですよ。ニューヨークのジャパン・アート・フェスティバルね。最初にシルクを初めてやってね。10点出したんですね。

本阿弥:それが先生の最初の摺りの10点ですね。

靉嘔:初めての摺りです。それ以外にあんまりシルクは摺ったことがないですね。僕はへたくそでね。

本阿弥:先生のシルクの師匠というのが、ニューヨークにいた東典男さん。

靉嘔:東典男さんという。ニューヨークにいてね。彼はすごいんだよ。東君は、僕と同じ年なんですよ「靉嘔君、今年は3本ありましたよ」と言うんですよ。「何ですか、3本って」と聞くと、1本が1万ドル。1万ドルの仕事三つ来ているというんで。大昔ですよ。1966、7年でしょうね。三つ来ているというんですよ。それは銀行が買ってくれるんですね。エディションでね。彼の作品は大きいんですよ。油絵の具で摺ってね。ほお木の柄のようなもので摺ってね。ベン・ニコルソンとまったく同じ作品なんですよね。ベン・ニコルソンというのがいるでしょう。綺麗な絵でね。何回も何回も摺っていくんですね。彼はね、はじめカルフォルニアに行ったんですね。日本のバンカラな男でね。それでカルフォルニアの美術学校でドローイングなどをしているとね。みんな女の子が惚れたっていうんだからね。手ぬぐいを腰から下げてね。坊主頭でね。みんなの前でドローイングをするんですね。女の子に惚れられてね。それで、奥さんがものすごく美人なんですよ。彼女、話すとズーズー弁なんだよね。でも綺麗な奥さんでね。アメリカ人なんですね。アメリカ生まれなんですね。奥さんが二世なんですね。余計な話ですが(笑)。

本阿弥:それから10点以降は、岡部徳三さんらにシルクスクリーンを摺ってもらっうのですね。

靉嘔:そうですね。

本阿弥:久保貞次郎先生からの紹介。

靉嘔:いや、岡部は摺り師になりたかったわけですよ。靉嘔君の仕事を紹介してくれよと久保(貞次郎)さんに言って。久保(貞次郎)さんから僕が頼まれて、最初の作品を渡したんだよね。あれが出てこないんだよね。《ミスター&ミセス・レインボー》(1966年)が。どこかにいっちゃったかな。

本阿弥:それは版画ですか。

靉嘔:版画ではなくてオリジナルでね。唯一の色見本をつくった作品があるんですよ。

本阿弥:色番号ではなくてね。

靉嘔:最初の展覧会に出してあるんですよ。どこかにあるか分からないんだよね。今に出てくるのでしょう。

本阿弥:1969年の東京都美術館での現代日本美術展。毎日展の《レインボークロック》という作品がありますね。

靉嘔:ありますね。

本阿弥:今でも清瀬(東京都清瀬市)のアトリエには飾ってあるんですか。

靉嘔:違います。京都国立近代美術館に入っているんだよね。

本阿弥:そうか。確か、この時には京都国立近代美術館賞を受賞されましたものね。

靉嘔:取らされちゃったんだよね。大してお金をくれないのにね。

本阿弥:時計が12個セットになった作品ですよね。

靉嘔:12点のうちの6点を渡したんだよね。それで6点持っていてそれが売れちゃったんだよね。売れちゃったんで、また岡部が作ったんですよ。またそれがあるんですよね。それをね、展覧会に出す。それが1つだけ残っているんですね。

本阿弥:清瀬のアトリエにもありましたよね。

靉嘔:あそこにもあるね。

本阿弥:あの作品は、時間を感じさせるので面白い作品ですね。

靉嘔:あれは、何で12個作ったかというとね。展覧会のときに各部屋に必ず1つずつ置いてくれというのが、僕のキュー(指示)なんだよね。同じ時間がいつもそこにあるわけでしょう。虹なんてのはあってないようなものだから。変なものだよね。

加治屋:実際には置かれたのですか。各部屋に。

靉嘔:各部屋に1つずつ置いてくれといったけど、みんな置かないですね。並べて置いてね。

本阿弥:そうでしょうね。

靉嘔:向うの人は関係ないですからね。

本阿弥:〈レインボー北斎〉の話ですが。

靉嘔:北斎の作品が2点出できました。スライドが。

本阿弥:それは春画の原画ですか。

西川:もうレインボーになったものですね。

靉嘔:展覧会で必ずでるんで。全然、違う話です。

西川:パターンの違うものがありました。

靉嘔:方々に貸すとなくなっちゃうんでよ。

本阿弥:パターンがAとBがあるじゃないですか。

靉嘔:グジャグジャのほうはみんな使わないんですよね。

本阿弥:パズルが二つか三つ違う方を使うんですよね。

靉嘔:ヨーロッパでは、ちゃんとしたもんでしたよ。

本阿弥:それはどういうことですか。

靉嘔:そのままの作品で、ヨーロッパなんかでは。今は。

本阿弥:日本では二つ程度の位置が変わったやつを。

西川:一か所が(注:正しくは3箇所)。

本阿弥:一か所でしたか。

靉嘔:僕は、わりにそういうことはまじめなんですよ。

本阿弥:先生は気をつかったんですよね。

靉嘔:美術館に迷惑をかけちゃいけないとかね。いつも僕は(笑)。

本阿弥:その春画の原画のコピーを久保さんから送ってもらいましたよね。

靉嘔:それは久保さんが持っている。春画のコレクターなんですよ。200~300点持っているんですよ。「久保さんの持っている北斎と歌麿の一番好きな春画を何等分かにして写真に撮って僕に送ってくれ」と言ったんですよ。

本阿弥:それを送ってもらったんですよね。

靉嘔:ケンタッキーまで送ってもらって。歌麿はやらなかったんですね。北斎だけやったんです。

本阿弥:その春画というのは、本とかに掲載されているものですか。僕が探しても見当たらないんですよ。

靉嘔:ないと思いますよ。久保さんが持っているわけで。オリジナルですからね、みんな持っているのは。

本阿弥:浮世絵版画ではないのですか。

靉嘔:浮世絵ですよ。

本阿弥:浮世絵版画ということは、外にも同じ絵柄のものが出回っているのではないですか。

靉嘔:出回らないですよ。ああいうものは。ことに春画というものは、出回らないものですよ。

本阿弥:僕も見たいと思ってもないんですよね。

靉嘔:北斎の全部レゾネとかがあって、調べればあるでしょうけど。

加治屋:最近、刊行はじまっていますね。研究の対象にはなりにくかったんですけど。

本阿弥:《十開の図 仏》。

靉嘔:《十開の図 仏》ですね。それの間に虹を入れて「十開」を「てんこまんだ」にしたんです。

本阿弥:それはどういう意味ですか。

靉嘔:「十開」とはモーゼの十戒(Ten Commandments)ですよ。「てんこまんだ」に引っ掛けたんです(笑)。

西川:元々、「十開の図」と書いてあったんですよ。北斎のほうにね。

靉嘔:モーゼの十戒だよね。やっちゃいけないことという意味で。

西川:先生は、ふりがなをふったんですね。「てんこまんだ」と。

加治屋:言葉遊びを入れてふりがなをふったんですよね。

靉嘔:「十戒」を引っ掛けたわけです。モーゼの十戒に。で、「てんこまんだ」にしたんですね。間に仏を入れて。「虹仏」と入れたんです。「十開の図 虹仏」と。

西川:虹という字を。

加治屋:はい。なるほどね。

靉嘔:虹仏。

加治屋:分かりました。了解です。

靉嘔:何てことないですけどね。

本阿弥:〈レインボー北斎〉というのは、エロティック・アートになるのでしょうか。

靉嘔:でしょうね。あなたはどう思いますか。

本阿弥:僕もそう思っています。

靉嘔:僕は思わなくてもいいんだけれども。

本阿弥:《オレンジ・ボックス》の触覚というのもエロティック・アートに見えますけど。

靉嘔:あれはね。ニューヨーク・タイムズの評論だと、母の胎内だというんですね。エロティックというよりも母の胎内という。僕もそれに近いですよ。

本阿弥:以前、先生に僕がエロティックについて質問したら、「エロスもエロティックも人間の持っている根源的なものだから」とおっしゃっていましたよ。エロスが悪いのではなくて人間の根源だと。

靉嘔:まあそうですね。そういうことですね。あなたはよくそういうことを覚えているね。くだらないことを。

本阿弥:重要なことじゃないですか。

靉嘔:はっはっは(笑)。

本阿弥:ただ偏見でエロスだからいやらしいということではなくて、先生はもっと人間そのものと。

靉嘔:ちょっと買い被りすぎではないですか(笑)。

本阿弥:そういっておかないとね。下品になってしまってはね(笑)。

加治屋:ちょっと戻りますけど、レインボー北斎は、久保(貞次郎)さんが持っていたものがオリジナルということは、隠すのは。

靉嘔:ちゃんとした春画を持っていたんですよ。

加治屋:全部描いてあるんですよね。

靉嘔:それを写真に撮って。写真を。色は除いてね。あの時代には色がないから。写真を撮って、写真を何等分かにして、このくらいの大きさにして、僕に、ケンタッキーに送ってもらったんです。ということは、税関で引っかかったらトラブルですからね。と思って送ってもらったんですよ。

西川:その切られていたのと同じ状態でつくられたんですか。

靉嘔:そうですよ。このサイズですよね。でっかいんですよね。でっかく引き伸ばして。

本阿弥:6掛ける9の54枚で送ってきたんですか。

靉嘔:そっくり、そのままに虹を掛けてね。切ってシルク印刷したんですよ。

本阿弥:久保さんから送られたものは、今は持っていないのですか。

靉嘔:写真だけもらったんだもの。

本阿弥:その写真は現存しているのですか。

靉嘔:現存しているかもわからないですね。ただそんなものは大切に思わないから。どこかに入っているでしょうね。

西川:〈レインボー北斎〉は、1枚ではなくて3枚入れ替えていますね。

加治屋:了解です。

本阿弥:一般的に美術館などで飾るときには、3枚入れ替えて飾ってあるんですよね。

加治屋:このパターンで。

本阿弥:日本の美術館では、性器をもろに見せると性表現で引っかかると思うんじゃないんですか。

靉嘔:引っかからないでしょう。

本阿弥:今はですね。昔と違ってね。どこかの美術館がすればいいんですよ。東京都現代美術館にも収蔵されているんだから。

西川:どうしましょう(笑)。

靉嘔:東京都現代美術館も面倒くさいから、そのままにしてあるんだよね。

本阿弥:兵庫県立美術館にも収蔵されていますね。

靉嘔:そうですか。でも隠してあることが面白いということもあるしね。

本阿弥:自民党のポスター盗用事件というのがありましたよね。これは1982年7月です。それで「六月の風」ウナックトウキョウの海上(雅臣)さんらが監修した本が出ていますね。

靉嘔:「六月の風」ではなくてアトリエ出版社が出しているんですよ。なくなっちゃったんですよね。普通の『アトリエ』は。時々出版物を出すんですよね。

本阿弥:この件については、海上さんが関わっているんですよね。

靉嘔:海上さんがカレンダーを作りたいというんですよ。第一製薬のカレンダー。これをカレンダーにしようと言ったんですよ。バラバラのやつをね。毎月ね。最後に切ってやれば北斎になるんですね。色刷りのカレンダーを作ったんですよ。

本阿弥:それは盗用事件とは関係ないですよね。

靉嘔:その後のことですね。盗用事件のことは海上さんが持ち込んだんですよ。「靉嘔さん。自民党のポスターを作ったんだってみんなに言われる」というんだよね。「本当か」と言いにきたんですよ。「そんなことはない」と。

本阿弥:海上さんの知り合いが自民党本部でそのポスターを見たという話ですよね。

靉嘔:似ていると言うんですよね。「靉嘔君が作ったのかね」と。「自民党のポスターをつくるわけはないですよ」と。それから始まったんですよ。

本阿弥:海上さんが弁護士とかを。

靉嘔:「訴える気があるか」と。「いいよ」と。

本阿弥:それで始まったんですよね。

西川:その事件においてのオリジナリティということを靉嘔さんはどう考えていらっしゃるのか、ちょっとお話しいただきたい。

靉嘔:あれは、オリジナリティというよりも、見た人が「靉嘔が自民党のポスターを描いている」と言ったということが一番大きなポイントですよね。あれは違うんですよね。そっくりそのままコピーしているのじゃないんですよ。巧妙に。何か言われたときに、弁護できるようにいろんなことをしているんですよね。結局、「イメージの盗用」ということで訴えたんですよね。僕の弁護士は。それでイメージの盗用で通用して。結局、デザイナーが謝ってきたんですね、お金を払ったんですけども。

本阿弥:少なかったですか。

靉嘔:少なかったか多かったかは覚えていない。50万円ぐらいかな。もらったのはね。

本阿弥:要求したのは大きかったけれども。実際はそれよりも少なかったということですか。

靉嘔:それは、全部、海上さんにあげちゃった。海上さんが、ローヤー(弁護士)とかに払ったりしたと思いますよ。

西川:レインボーは、靉嘔さんのオリジナルというか。

靉嘔:それで後はマネ、盗用しているわけですよね。レインボーの僕の作品をね。アイデアをね。それは間違いないんですよ。でも、ものそのものは、僕のものそっくりそのまま盗用ではないんですよね。

西川:同じ作品があったわけではないんですよね。

靉嘔:でもほとんど似ているんで。僕がどこからこういうことを描いたかと。文章にちゃんと書いてあるんですよ。「これはこういうものからちゃんと引用して、それに虹を掛けたものです」と。文章に書いてあるんですよ。それを逆襲してきたんですね。「僕も、そこからやったんです」とデザイナーは言いだしたんですね。

本阿弥:先生自身が図鑑からね。先生が、絵を描かないと宣言しているから、自分で構図をつくらないで、図鑑から持ってきたということを、デザイナーも言いだしたということですね。

靉嘔:僕は絵を描かないというよりも。クリエイティブをしないということを決めたんですよね。痩せた人間、みじめな人とから悲しみとかアートが表現したとか。太った人間を描いて幸福とかを表現していたわけですよね。それまでのアートはね。それなどは一切やめて。今まである形に虹をかけることだけをすると宣言して、そうやっていたんですね。とういうことなんですね。

本阿弥:だから北斎の春画にも、アインシュタインの相対性理論のE=mc2を書き込んだ時点で、北斎から靉嘔という作家の作品に変わったということですよね。

加治屋:デザイナーは、靉嘔先生の図録から見たと。

本阿弥:じゃなくて図鑑から。

西川:靉嘔さんが元々使われた図鑑から同じように見て使ったと。

本阿弥:靉嘔さんの作品からは見ていないと言い切ったと。

靉嘔:ダーウィンのね。アメリカの出版社から出ているんですよ。それに使っている図版を僕は使っているんで。かなり有名なものなんですよ。それを使っているんです。僕は、元々、ダーウィニストですから。

本阿弥:そういう理論で裁判でも話したところ、相手も靉嘔さんが見たように自分も靉嘔さんの作品を模倣したわけではないと言ったけど、結果的には相手が裁判に負けたんですよね。

加治屋:分かりました。

本阿弥:ビルボードのほうはどうなったんですか。先生は訴えなかったのですか(注:Penicillinのアルバムの広告イメージが靉嘔作品に似ていた)。

靉嘔:訴えると言ったら、相手がお金を払ったんですね。すぐに。

本阿弥:相手側が。

靉嘔:それは、ビルボードはすごいですよ。でっかい看板に貼ったんですよ。

本阿弥:その看板はどこに掲示されていたんですか。東京ですか。

靉嘔:東京です。作品写真を僕のところに持ってきたんですよね。僕は最初にね、ジャケットに使っていいと言ったんですよ。それで僕はすでにお金をもらったんですよ。ところが、彼らはTシャツにも使ったりね。しかもビルボードに使い出したんですね。で、文句を言ったんです。「この掲載写真を持っていけば褒めてくれる」と思って持って来たんだよね。「とんでもない」と。こんなことをやられては困るから訴えるよといったら、またすぐにお金を持ってきたんですよ。僕はヤクザみたいな感じですね(笑)。自民党の裁判は、面白かったよ。僕が一人と海上さんと。僕の周りは全部自民党の弁護士なんですよね。5、6人です、いつも。雇っているわけね。自民党というのは、アートにはお金を払わないんですよね。いいデザイナーに頼まないで安いデザイナーに頼んだので、安いデザイナーがいい加減なことをやるわけでしょう。だからそういう目にあうんですよ。そうすると高い弁護士をいっぱい雇ってきてね、守るんですけどね。僕のところは弁護士は一人ですからね。僕は出たのは3回くらいしかないよね。ずーとやったんですよ。裁判を。いつも、針生さんが出てくれたんですよ。

本阿弥:針生一郎さんが。

靉嘔:全部出てくれたんですよ。本に載っているでしょう。オリジナルの作品が入っているでしょう。

本阿弥:1枚、版画が。鳥の作品が。この本には、先生が裁判で話をしたことが、生い立ちから詳しく書いてありますね。

靉嘔:そうですか。

加治屋:盗用事件とはこの2件だけですか。外に似ているとかマネされたとかはあんまりなかったのですか。

靉嘔:盗作は外にはないですね。あんまり。目立つから。虹でね。あんまりないですね。でもやられたことはやられたんですね。

加治屋:全然、違うかもしれませんが。先生が虹を発表された後に、フランク・ステラが7色の明るい視覚のスクエアのシリーズをやっていますが。

靉嘔:あれはどうしようもないですね。あれをみんな払ってくれるとなれば、今頃、僕はミリオネアです。絵なんか描いていないよね(笑)。

加治屋:しょうがないというか。

靉嘔:どうしょうもないですよ。虹はね。文句いいようがないし。コピーとも言えないし。僕が、コピーしたと自然から訴えられるんじゃないかという感じですからね。

本阿弥:永平寺(1986年)とエッフェル塔のイヴェント(1987年)のことを伺います。永平寺の虹の20mイヴェントというのは、創造美育協会の福井メンバーの支援があったからやられたということでよろしいんでしょうか。

靉嘔:そうじゃなくて、あれは助田(憲亮)のプリントなんですよね。助田のプリントは、3尺6尺の3×6の和紙に摺ったものなんですよ。シルクスクリーンのプリントは、助田といつも半分っこにするんですよ。僕はお金を払わないんですよ。助田がいつも半分っこするんですよ。僕がサインを入れて。僕は大体、売らないんですね。プリントしたものを。面倒くさいからね。あんなもの売ったって儲からないですよね。せいぜい売れたって5万円とから10万円ぐらいでしょう。やっぱり100万や200万円で売れれば売れたって気はするけど、プリントは売れたって気がしない。僕は売らないです。3×6というのはでかいですよね。1帖ですから。1帖。あんなもほうっておくのも大変ですよね。いっぱいあるんですよね。それで「何とかならないか」と言って。打っ違い(ぶっちがい)にしてね。裏と裏をくっつけて、真ん中に芯を入れて、巻物にできるかと聞いたら、あれは和紙ですから、和紙ではできるんですよ。洋紙に摺ったものはできないんですけど。和紙に摺ったものはできるんです。それで作ってくれたんですよ。福井の仲間が作ってくれたんですよ。あれを福井の九頭竜のダムに。九頭竜川があって橋があって、そこに下げたんですね。ものすごく綺麗でしたよ。それは、2~3人で見ただけですれど。これを永平寺の道元さんに捧げたい。何とか下げたいと。じゃ下げようとなってはじめたんですよ。さっきの話は、道元禅師の有名な本がありますけど。

本阿弥:それをやったらどうかと言ったのは、助田さんたちですか。永平寺は、先生がやろうと思いついたのですか。

靉嘔:僕が言ったんですよ。だって福井で一番有名なのは永平寺ですからね。

本阿弥:それで、先生がやりたいと。

靉嘔:やろうと。僕は有名なところとか。背の高いところとかが好きなんですよね。あそこから下げたら面白いとかね。あそこでは2本下げたんですよ。五代杉。勅旨門という普通の人が入れない門があるんですよね。勅旨門を越えて行くとね、また杉があるんですよ。五代杉といって、五代目の僧正が。道元から数えて五代目の人が植えた杉があるんですよ。それに2本掛けたんですよね。それで中々良かった。それでそれは終わりで。そして、ある日「エッフェル塔から下げたい」と思いだしたんだよね。

本阿弥:先生は「30年来の夢だった」と語っていますね。

靉嘔:僕はエッフェル塔が大好きなんですよ。ものすごく綺麗なんですね。塔で一番綺麗なのがエッフェル塔と思いますよ。エッフェル塔に下げたと思って行ったんです。エッフェル塔の下のカフェで3日ぐらいコーヒーを飲んだり、酒を飲んだりワインを飲んだりしていたんだけれども。どうもエッフェル塔から下げると。エッフェル塔には途中で四角いところがあって下なんですね。このところが50メートルなんですよね。2本をつながれば50メートルですけれども。まるでフンドシを下げているみたいですね。「やーめた」と。「だめだ」と。がっかりしてノートルダムに。ノートルダムには二つ塔が立っているんでしょう。そのところに。塔のところに向うから下げれば、まだ見られるんじゃないかと思って。それも行ってね、1週間ぐらい眺めていろんなことを。

本阿弥:先生はひとりで。

靉嘔:一人ですよ。行って眺めて「これはだめだ」と。どうせやるんならエッフェル塔から下げたいと。エッフェル塔の絵葉書を2、30枚買って。線を1本引いて。その中から良いのを、シティーホールに持っていったんです。

本阿弥:市役所にね。

靉嘔:市役所の美術の課に持っていって「僕はこういうことをやりたいんだ。やらせてくれ」と。じゃなくて、ポンピドゥー・センターに持っていったんです。あそこには絵描きが行くからね。「あれはシティーのものだから、シティーホールに持って行きなさい」と言われたんですよ。それでシティーホールに持っていったんですけども。その時は大変だったですよ。カフカの城じゃないけど、会うまではね。今日はだめ、明日はだめ。

本阿弥:先生はホテルに泊まりこんで。

靉嘔:もちろん、そうですよ。

本阿弥:先生は、一人で交渉したのですか。

靉嘔:そうですよ。一人ですよ。フランス語がろくにしゃべれないしね。それでも英語がしゃべれるのがいるんでね。毎日、チャイナタウンで飯を食っちゃ行くんですけど(笑)。やっと会えたんですね。それから半年経ったある日ね。「興味があるからやりましょう」とね。「やりましょうと言っても僕はお金が一銭もないんですよ」と。そうしたら「市が見つけます」と。それで、シラクが市長さんだったときに。エッフェル塔の前にトロカデロというお城のような綺麗なところがありますよね。前に噴水があって。そのトロカデロの50周年記念なんですって。パリのエッフェル塔をあと2年待つと、100周年だったんですよね。ところが、シラクはフランスの大統領になりたかったんだよね。それで何かやりたいんですよね。派手なことをと僕は思うんですね。それで、やる決心をしたわけなんですね。市のやつをね。

本阿弥:パリ博覧会50周年記念のイヴェントになったんですね。

靉嘔:トロカデロの50周年記念のイヴェント。

本阿弥:1937年のパリ万博技術の50年祭。

靉嘔:トロカデロの50周年。トロカデロというのは知りませんか。

本阿弥:国際万博の50周年記念とは違うのですか。

靉嘔:トロカデロの50周年。トロカデロというのは有名な建物ですよ。

本阿弥:国際博覧会というのは間違いですかね。

加治屋:その時にできた建物だと思いますね。

靉嘔:エッフェル塔もそうですなんですよね。国際博覧会の最初ですよね。

本阿弥:1889年から100年後で先生は考えていたんですよね。

靉嘔:100年後にやるつもりで持っていったんですよね。それが2年前のトロカデロの話になったんですね。でも使うのはエッフェル塔なんですよ。ここに揚げて。お祭りをして花火を揚げてね。

本阿弥:それで市がお金を出してくれたんですか。全部出してくれたんですか。

靉嘔:市が半分出してくれたんです。

本阿弥:後は日本のスポンサーを探せということだったのですか。

靉嘔:朝日新聞社が。

本阿弥:それには海上(雅臣)さんなんかは、かかわっているんですか。

靉嘔:違いますよ。僕が全部やったんですよ。

本阿弥:先生が朝日新聞社に。

靉嘔:それは朝日新聞がやってくれたんですね。朝日新聞は、フランスのパリ市と姉妹都市みたいな関係にあるんですよ。非常に仲がいいんです。フランスと仲がいいんです。僕はその頃はフジテレビ系(フジテレビギャラリー)の作家だったんです。パリ市からフジテレビに「お金を半分出してくれないか」といったんですけどフジテレビは断ったんですね。それで、結局、朝日新聞に話を持っていったらね。

本阿弥:それは先生が持っていったのですか。

靉嘔:パリ市がね。市から来たんですから。

本阿弥:フランスのパリから。

靉嘔:来た男がものすごくゲイでね。その男がね。

本阿弥:ゲイというのはゲイボーイということ。

靉嘔:ボーイフレンドは、有名なバレーダンサーで。

本阿弥:フランス人ですか。

靉嘔:それで、一緒に来ているんですよ。宿に行ったら、彼がいなくて有名なダンサーのボーイフレンドが。有名なデュポン。デュポンというダンサーですよ。背はそんなに高くないね。感じのいい男でね。僕に"I Like Project."と言うんだよね。しばらく話をしてね。わりに感じの良い男でね。

本阿弥:先生はゲイの話が好きみたいですね(笑)。

加治屋:フランスのパリ市から日本に来て、朝日新聞を見つけたと。

靉嘔:そうですよ。朝日新聞の社長と直接、取り引きしているんですよね。エッフェル塔の旗(虹のイヴェント)が終わったときに日本に持って帰ってきたんですよ。そうしたら朝日新聞の社長が、東京タワーに下げてくれと言うんだよね。「俺はいやだ」と(笑)。ひとつも綺麗じゃないからね。あれは嫌だと。そうしたらね。有楽町にデパートがあるじゃないですか。

加治屋:マリオンですね。

西川:朝日だからマリオンです。

靉嘔:マリオン。あそこから下げてくれと。「俺はよけい嫌だ」と(笑)。

本阿弥:それこそ、アートとデザインの違いのようなものですね。

靉嘔:結局、下げなかったんですけどね。それから、しばらく経ってね。今から3年前かね。みんなやりたくなっちゃってね。東京タワーから下げたくなったと。ある人が。日本のフランス大使館がやりたいと。五辻(通泰)さんがね。五辻さんはフランスから勲章をもらったんだからね。ものすごくフランス大使館が興味があって「あれを下げたい」と言い出したんだね。本気になりだしたんだね。「僕はやめたほうがいい」と。何回か調査して結局は、僕がやめさせたんだね。こないだね。

本阿弥:先生の思想からいえば、一番綺麗なところにしかあれは飾りたくないと。

靉嘔:そうねえ。

西川:今回の東京都現代美術館の靉嘔さんの個展では飾らせていただきます。

靉嘔:今度は飾るんですよ。

本阿弥:それはある意味ではちょっと。

靉嘔:違うんですよ。下げるんじゃないんですよ。

本阿弥:ホワイトキューブとしての美術館のひとつの過去の作品の検証としてやるからいいと。

靉嘔:そんな理屈をつけなくても(笑)。その題名は《虹の滝》と。

西川:また違う作品になるんですね。

靉嘔:《虹の滝》なんですね。滝になっちゃったんですね。

本阿弥:それは300メートルを繋げたものですか。

靉嘔:いや違います。ただ虹の滝ですよ。ダッーと下がるんです。

西川:20メートルの長さで。

靉嘔:来年。見てみて。

本阿弥:それじゃ、楽しみにしています。来年の2月からの展覧会をね。

靉嘔:招待状はくれるんじゃないかな。

西川:(笑)

本阿弥:工藤哲巳さんが、当時、エッフェル塔イヴェントについて雑誌にコメントしていますね。「虹はどこにいてもあるけれども、このヒラヒラと仏様の糸が垂れているような軽さは日本的だと思う」と言っていますね。

靉嘔:工藤は、面白い作家で。フランスでね。苦労したんですよ。僕がヴェニスのビエンナーレに行ったらね。工藤が来てね。サンマルコの広場でパフォーマンスをするんだよね。鳥かごを持ってきてね。変なクシャクシャとしたものをその中に入れておいて。2時間ほどずーっとやっているんだよね。工藤がパフォーマンスですよ。僕はね、ヘルプに行ったんですよ。僕はヴェニスでやっていたんですけど、そんなことは知っちゃいない。面白いから、行ったんですよ。工藤の家に行ったりしてね。

本阿弥:フランスのね。

靉嘔:フランスの家に行ったりして。

本阿弥:五辻(道泰)さんのお話もでたんですが、ギャラリー五辻、フジテレビギャラリー、ギャラリー360°など非常に魅力的なギャラリーで個展をやられていますね。

靉嘔:やってませんよ。ギャラリー360°ではしてませんよ。

本阿弥:やっていない。

靉嘔:パフォーマンスはしたけれどね。

本阿弥:フジテレビギャラリーでは。

靉嘔:その前は、南画廊と南天子ですね。

本阿弥:それからスペース11。

靉嘔:スペース11は、もと南天子の番頭が開いたところ。

本阿弥:正木(基)さんが文章を書いていますね。

靉嘔:そう正木さんが文章を書いているでしょう。熱心でね。

本阿弥:非常にそういう意味では、いいところで個展をなさっていませんか。

靉嘔:そんなこと、僕は選んだことはない。

西川:どこにも所属はされていなですよね。

本阿弥:オファーがあると快く引き受けたということですか。

靉嘔:いや、変わった画廊じゃなかったら僕の展覧会をやりたいと思わないですよ。でしょう。

本阿弥:そういうことですか。

靉嘔:やってくれるところは、面白いところが多いですよ。

本阿弥:逆にね。

靉嘔:逆に。東京都現代美術館もそうですよ(笑)。

本阿弥:西川さんがいるからでしょう。

靉嘔:もちろんそうですよ(笑)。

本阿弥:フジテレビギャラリーのころからハンギングツリーのオブジェクトが。アメリカでやっていて日本で吊り下げる仕事が。南天子でもそうですが。その仕事は、「物」が持っているオブジェクトの記憶とか時間に意味があると。

靉嘔:そうですね。僕の身の回りのものです。その時に関係したものね。大根とかね(笑)。

本阿弥:フジテレビギャラリーのころは配置がランダムだったけれども、その後は、幾何学的な配置に。

靉嘔:全部、幾何学的ですよ。

本阿弥:フジテレビのころ。初期のころは違っていましたよね。

靉嘔:そうですよ。

本阿弥:靉嘔さんは、それが納得いかなかったので変化していったと。

靉嘔:いや初めからそうですよ。曼荼羅ですから。基本は曼荼羅ですから。曼荼羅というのは人間が作った規格の中から何かを入れたということでしょう。非常に人間臭いアイデアなんだけども。そうすれば。それで曼荼羅という言葉を使っていたんですよ。オブジェクトハンギングピースです。「オブジェクト曼荼羅」という言葉で。

本阿弥:それはやはり、作風としては非常に新しい方向性が出てきたと。

靉嘔:僕はいつも新しいことばからですからね。古いことはしないんで。新しいか古いか知りませんよ。ヘンテコリンなことをやっているということでしょうね。

西川:さきほどの「コンクリート・アート」のところで、現実の環境の中にあるものを使うって話と、たぶんつながっているんだと思いますが。

靉嘔:そうですね。それが大きなものなんです。コンクリートというものをどのように使うかということが、問題なわけなんですね。コンクリートというものは、具体物ですから。コンリートの花の絵を描いてはだめなんですね。花の絵を描いたら、コンクリートペインティングじゃないんですよね。コンクリートといえば何かといえば、実際のものが問題になるわけで。

西川:描いたものは、表象とかイメージで。

靉嘔:だからそれは、まだまだいいか悪いかわからないんですけれども。まあ死んでよかったとか、悪かってとかになるんでしょうね。

西川:それを吊り下げるというのは、ハンギングするというのは。

靉嘔:ハンギングするというのはね。ハンギングが永久に移動するものであればもっといいんですよね。移動しないけども。まあまあ移動したと思ってもらえばいいようなことで。常に、僕は一番いいのは、宇宙にぽーんとものを放り投げて漂いますよね。真空の中で。それが一番いい状態と思うんですよ。

西川:それは、時間は止まっているのですか。それとも。

靉嘔:止まっていないですよ。宇宙は膨張しているわけだからね。変な話ですが(笑)。止まってないし、あるときは入れ替わったりすることがあるでしょう。

西川:常に変化している。

靉嘔:星なんか常に回っているし。それから違う宇宙もあるしということで。一番いいのは、宇宙の空間にポーンと打ち上げることがね。僕のオブジェクトがどうかということですよね。僕については、僕の身の回りのものだから、常に意味があるわけですよね。常に説明できるんだけれども。客観的には分からないですよね。でも同じ人間だから何か共通点があるんじゃないかと、望みのようなものですね。

本阿弥:先生は、過去の個展で書いていますよね。宇宙で無重力だったらそれが一番いいと。

靉嘔:そうですね。書いていますね。

本阿弥:それは、フルクサスのコンセプトなどの表現が一貫して出ていると。

靉嘔:いや、フルクサスというよりも。そういうんだから、僕らはフルクサスにいるということですね。逆ですよね。フルクサスというのはそういうもので。

本阿弥:ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻とかは日常に近づくと。先生もおっしゃっていますよね。身近なもので。

靉嘔:何でもアートになるということですよ。

本阿弥:ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻ともつながっていると。ボイスがフルクサスといわれる由縁も、やっぱり同じところにあるんですかね。

靉嘔:いや、それはね。ボイスは「俺がフルクサスだ、お前たちはフルクサスじゃない」と言いたいわけだ。しつこいんだから。ヨーロッパというのはしつこいんです。そういう言い方をするんですよね。それで、カッとしてジョージと喧嘩するんですね。でもみんな、それは平等だと思うだよね。言いたいのは勝手に言えばいいんでね。でも、ヨーロッパ人というは言うんですよね。ひどいもんでね。モンドリアンの水平と垂直と同じようなものですよ。厳しいんだよね。東洋は、丸なんだよね、世界というのは。というように僕は思いますね。

本阿弥:磯崎新さんも先生と同じようなことを言っていますね。磯崎新さんは、直線(立方体)は西欧的な父親性で、それに対して丸(球体)は母親性で日本的だと。

靉嘔:あの人は建築家だからね。僕は、このようなことは今まで言ったことないですよ。今日、初めてですよ。

本阿弥:磯崎さんがある著書に書いていますね。

西川:日常のものを取り入れるということにひとつ、芸術の既成概念に反対するっていう意味があると。

靉嘔:もちろんあります。今までにないものを主題にするということもあるし。

西川:靉嘔さんがハンギングピースやオブジェクトを貼りつけたりというのは、もちろんそれだけの意味でもないし。既成の芸術に反対するという意味と両方含まれていると。

靉嘔:それもありますね。そういうこともありますね。でも、ハンギングしたものは、いっぱいあるし。そういうものはみんな芸術とは思わないし。もっと興味本位で見ているだろうしね。

本阿弥:ハンギングというのは美術館やギャラリーでは収蔵しにくいけども、虹の絵だったら壁に掛けやすいし購入しやすいと。でも先生は、新しいことにチャレンジしたいからやり続けるという生き方をしているのでしょうね。

靉嘔:そうですか(笑)。

本阿弥:普通、売り絵という言葉があるじゃないですか。できればこのくらいの大きさで壁に掛かるほうが売りやすいと画商さんは言うじゃないですか。それに合わせたほうがお金になるじゃないですか。だけれども自分としては人と違うことをやりたいしと。

靉嘔:僕は、絵を描く意識は全然ないんですね。普通の絵を描くということは。僕は好きなんだけれども。そういうことはまずありますね。絵なんかどうでもいいと。綺麗もきたないもどうでもいいと。ただ、僕の言いたいことを、言いたいんだと。

本阿弥:お金になる、ならないということは後で付いてくるけども。生活するにはお金があったらいいなという程度の気持ちですか。

西川:一方では売れる絵を描かなくてはいけないと。

靉嘔:僕は、売るために版画をつくっているんですよね。普通の絵だってね。売れますよ。やがて売れますよ。絶対に売れないことはないと。普通の絵描きよりも売れると思う僕は思うんで、僕は知恵を持っていると思うんですけど。売れないかもしれないな(笑)。そんなことは分からないですが。

本阿弥:先生の場合には妥協しないことが、逆に売れる。

靉嘔:そんなことは関係ないですね。やりたいことをやっているだけの話。やりたいことをやれば売れるという自信があるわけですよ。ただね、売るのには30年から50年はかかりますね。

本阿弥:よくいいますよね。

靉嘔:やっと売れているのは30年か50年前の作品ですよ。今の作品は飛ぶようには売れないですね。

本阿弥:評価が定まるには。

靉嘔:評価というか、昔のものが売れるんですよね。不思議でね。何であんなものが売れるのかね。分からないですけどね。

本阿弥:伝説化するからじゃないですか。

靉嘔:安心するんだね。買うほうはね。この美術館にもある。あそこの美術館にもあると。うちも買っておけばと間違いないと。(逆に)変なものを買ったら、あれはおかしいと(なるでしょう)。でも、ヨーロッパでもアメリカでも買っているんだからね。そうですよ。みんなやっているんですよ。シュナーベルの絵とか掛けてあるんだものね。だから、日本の若い作家が、シュナーベルの絵を買うんだったら、俺の絵を買え」ということになるんですよね。でもね。やっぱりすごく売れるんだよね。

本阿弥:福井のみなさんとは、今でもすごく交流がありますよね。50年近くの交流ですね。

靉嘔:彼たちは、僕のことをすると元気がでるんでやっているんだけども。最近、瑛九の100周年で木水(育男)のところ。鯖江で何かやっているんですよね。こないだ助田が行ったんですよ「靉嘔さん、みんなで元気なのは、よっちゃんだけですよ。みんなだめですよ」と。

本阿弥:よっちゃんとは誰ですか。

西川:下のお手洗いに掛かっている(版画の作者)。

靉嘔:藤本よし子というですよ。ものすごくいいエッチャーですね。便所に絵が掛けてありますよ。ちっちゃなのが。そこらへんにも掛けてありますよ。

本阿弥:そのかたが現在元気なだけと。

靉嘔:堀(栄治)さんも。

本阿弥:木水さんは。

靉嘔:木水さんは死んじゃった。堀さんも渡邊光一も入院中だって。「もうだめですよ。みんな」と言っていましたよ。だめでしょうね。僕もその口ですからね。堀さんは僕より5つほど上なんだけれども。あなた、大野の展覧会に来てくれましたよね。

本阿弥:はい。福井のみなさんは、「ふるさとに靉嘔が帰ってきた」という感じですよね。

靉嘔:そうですよ。堀さんは、僕の展覧会にこられるように訓練をしているようですよ。歩くのをね。

本阿弥:来年2月の東京都現代美術館での展覧会に。2月までなんとか元気で。

靉嘔:僕もそう望んでいるんですよ。ほかの事はかまわない、堀さんが来てくれればという感じがしますがね。人間というのはそういうもんだよね。まさに、小コレクターの会、頒布会からのお付き合いですよね(注:2011年11月死去)。

靉嘔:そうですよ。創造美育からの付き合いですよ。

本阿弥:1953年からですね。

靉嘔:そうですよ。

本阿弥:58年になりますね。

靉嘔:そうですか。そうですよ。ずうっと付き合っているんですよ。ずうっといろんなことを、彼らが僕のことを。

本阿弥:助田さんも、木水さんの関係で知り合った。

靉嘔:助田とは1970年(注:正確には1968年)からです。岡部はもっと早いんですよね。彼の最初の版画というのは69年(注:正確には1966年)ころですよ。僕がケンタッキーから原稿を送った覚えがあるので。と思いますよ。

本阿弥:そろそろインタヴューは最後にしたいと思います。先生がオプティミストと言われることについてはどう感じていますか。先生が、最近の朝日新聞の取材記事にも答えていますけど。

靉嘔:オプティミストね。

本阿弥:そう言われることについては、どう思われますか。

靉嘔:いいじゃないですか。僕は何も思わないですよ。俺はペシミストだと威張ることはいくらでも威張ればいいと思うよね。それを言ったって言わなくたって同じじゃないですか。

本阿弥:先生が朝日新聞のインタヴューに「オプティミストのアーティストと馬鹿にされたが反抗心だけでここまできた」と記者が書いていますね。

靉嘔:嘘だよ。そんなこと(笑)。

本阿弥:その新聞記事を置いていきましょうか。

靉嘔:言ったことがあるんでしょうね(笑)。僕は嘘ばっかり言ってるんだね(笑)。

本阿弥:新聞記者が間違って書いたのかもしれませんね(笑)。

靉嘔:だって、僕は読んでいないですよね。

本阿弥:読まないんですか。

靉嘔:ほとんど読まないですよね。DVDなんかを、みんなが送ってくれるんですけど見たことないんですね。みんな、西川さんにこないだ渡したんだよね。いっぱいあったでしょう。

西川:はい。

本阿弥:エッフェルタワー・プロジェクトの「ニュースステーション」の録画も。

靉嘔:あれはね。テレビ朝日の。

本阿弥:夜10時からの久米宏の番組。

靉嘔:あれはね。アメリカ中に流れたんだよね。

本阿弥:その番組特集は、私がビデオで録画してありますよ。

靉嘔:あの時代はDVDなんかないですよ。

本阿弥: 1987年ですね。VHSはありますよね。

加治屋:VHSはありますよ。

靉嘔:放送局がみんなくれるんですよね。持っててもなくしちゃったね。見たことないですね。自分のものを見るのは。

本阿弥:自分は嫌でしょうけど僕らはいいですから(笑)。

靉嘔:なんでこんなにくだらないことをやっているんだと(笑)。

加治屋:アメリカで流れたということはどういうことですか。アメリカで放映されたんですか。

靉嘔:ヨーロッパですね。ヨーロッパで放映されてね。それはパリからですかね。

本阿弥:テレビ朝日の番組がですか。

靉嘔:分からないですね。僕がポーランドにいったらね。みんな興奮しているんですよね。「靉嘔がテレビに映っていてね」と。興奮していてね。

本阿弥:5分、10分程度だったと思いますが。「ニュースステーション」での放映は、朝日新聞が関わっていたから。

靉嘔:長かったですよ。久米宏も出ていてね。久米宏がね「何こんなことをやって面白いの」と言っているんですよ(笑)。あいつ、一言多いんだよね(笑)。

本阿弥:その番組です。私が見たのは。

靉嘔:久米宏は後で謝っているんですよ。「そんなこといってどうもすみません」と(笑)。

本阿弥:私もその時のことはよく覚えていますよ。

靉嘔:あいつは面白い(笑)。そう思うのは面白いと思うね。芸術が分かる分からないというよりも、くだらないというのが面白いと。「あんなものはくだらない」とね。芸術家とは常にくだらないことをしているのでね。

本阿弥:先生は、2001年の世界貿易センタービル9.11の時に写真を撮っていますね。

靉嘔:全部ありますよ。

本阿弥:それは、飛行機が落ちるところを。ぶつかったところを見て撮ったんですか。

靉嘔:ぶつかったところは見ていないです。「ぶつかったから見に行こう」と言われて屋上に行って。写真機を持っていって。ずうっと塔が落っこちるまでいたんですよ。

本阿弥:ヴォルガンク・ハインケ(Wolfgang Hainke)さんと。

靉嘔:ちょうど、僕のところにドイツ人が泊まっていたんですよ。二人ね。それで、動けなくなったんですよ。彼らはね。ここにタワーがあるとね。キャナル・ストリートね。こちらがハウストンで。ここがソーホーというんですよね。ソーホーは下にもいけない、上にもいけない。飯を食うにはここにチャイニーズのレストランがあって。ここまで食いに行かなればいけなくて。彼らは、ずうっと僕のところに泊まっていたんですよ。

加治屋:規制で封鎖されていたんですよね。

靉嘔:規制で。そうなんですよ。僕は住民ですから、手紙で持っているんですよ。だから行けるんですよ。彼らは行けないんですよね。朝から晩まで電話がドイツから掛かってきて、僕は寝られないんだよね。本当にひどかったですよ。

本阿弥:靉嘔先生の友達ですか。

靉嘔:僕の展覧会をやったりね。

本阿弥:作家じゃなくて。

靉嘔:作家ですよ。若い。フルクサスの次の世代の奴だけれども。なかなかいろいろやっているんですよ。ヨーゲン(ユーゲン・オルブリッヒ Jürgen O. Olbrich)も。

西川:ヨーゲンさんもその時にはいたんですか。ニューヨークにいたんですか。

靉嘔:ヨーゲンはいなかったですよ。ヨーゲンの友達がいてね。われわれがつくったんですよ。ドイツのブレーメンというところでセミナーをやったんです。それぞれの作家がポートフォリオをつくったんですよ。その時の石版画が今度東京都現代美術館に出すやつですよ(注:《オーヴァー・ザ・レインボー》(1994年))。古いフィルムを使ってね。リチャード・ハミルトンもつくっているし、それをみんな一緒してできたんだけど。くれるといったけどくれないんですよね。リチャード・ハミルトンは高いからね。「俺のはいらないからリチャード・ハミルトンのものをくれ」と言ったんだけれども(笑)。死んだんだよね。

本阿弥:先生は、世界貿易センタービルにはアヴァンギャルド・フェスティヴァル(1977年)で作品《レインボー・ランドリー》(注:その後洗濯物を吊るす作品を靉嘔は《バナー》と呼んでいる)を飾っていますよね。ツインタワーで。9.11の時の感想は何かありますか。

靉嘔:煙が出ていたでしょう。あるときに「バッーと」砂煙がでて無くなっちゃったんだよね。不思議だったんだよね。ビルだったら何か、骨組みが残っているじゃないですか。何にもないですよ。完全にエンプティですよ。あれは不思議。何でだろうね。あれはね。全部アルミなんですよ。あの建物はアルミ。アルミってのは燃えるからね。粉になっちゃったんですかね。鉄も何も使っていなかったんですかね。

本阿弥:普通は鉄骨か鉄筋コンクリートを使いますよ。

靉嘔:だけど鉄骨は残るでしょう。落っこちたら。何にもないんですよ。

本阿弥:温度がそうとう高かったとか。何千度とか。

靉嘔:中は空っぽですしね。空っぽなんですよ。上まで空っぽなんですよ。

本阿弥:燃えたときに相当な高温だったかもしれないですね。

靉嘔:高温ですよね。アルミはことにね。火薬と一緒ですから。

本阿弥:骨組は鉄骨造りか鉄骨鉄筋だと思いますが。先生は何か感じたことは。

靉嘔:感じないどころか。あのビルは、僕はよく知っているんですから。あのところに洗濯物の作品を下げるときに。何も縛るところがないんですよ。あのビルは。1週間ほど前にフランス人のキチガイがいてね。高いところに登ってる。今でもやっていますよ。

西川:有名な人(注:フランス人のPhilippe Petitは1974年にツインタワーの間を綱渡りした。靉嘔の〈レインボー・ランドリー〉と同年に外壁をのぼったのはアメリカ人のGeorge Willig)。

靉嘔:有名な得意なのが。それがやったんですよ。このくらいの隙間が。そこに金具をつくってね。登ってたんですね。上までね。

西川:外からですか。下からですか。一番下から。

靉嘔:一番下から。こういう隙間から。こういう金具をつくっておいてね。はめて。引っ張って登っていくんですよ。登ったんですよ。

本阿弥:その人は誰かに紹介してもらったんですか。

靉嘔:いやそれは全然違うときですよ。それは僕がやろうとする一週間前のことなんです。

本阿弥:はい、はい。そういうことがあったということですね。

靉嘔:何にも結わえるところがないんで。それで金具を僕はつくって張れば洗濯物が掛かると思ったわけですよ。

西川:どうやって渡したんですか。

靉嘔:ちょうど、機械室でむき出しがあったんですよ。そこに柱があって人が通れて。両方で結わえて、上から紐をつけて持ち上げたんですよね。両方から持ち上げて引いたんですけど。

西川:こうなった状態からダーと。

加治屋:下からずうっと。

靉嘔:持ち上げたんですね。僕はできないんですよ。ユニオンの人が。僕は。素人はいっさい手を出せないんですよ。ユニオンが強烈なのでね。組合がね。

加治屋:何の組合ですか。建物の管理会社とか。

靉嘔:それは許可を得たんです。それはアヴァンギャルド・フェスティヴァルでやったんだから。「俺は洗濯物をここに下げたいから」とにかく「レインボーを下げたい」と。シャーロットに。洗濯物なんかを下げるというとまた文句がでるんで(笑)。下げてみてみんなが感動して「あっ。すげーすけー」と。本当にすごかったですよ。何にもなくなっちゃってね。それを僕は見ていてね。写真に全部撮ったんだね。潰れてなくなっちゃうまで。僕は写真がへたくそだからね。よくは撮れなかったけれども。

本阿弥:先生は、言いづらいかもしれませんが、郁子さんと永年連れ添ってきて、いろいろ助けてもらったことも。先生は日譜にも郁子さんが病気をしたとかね。

靉嘔:よく覚えていない。

本阿弥:脳内出血とか。

靉嘔:そうそう。

本阿弥:ふたりの関係。

西川:お二人の絆が強いと。

靉嘔:強いことないことないでしょう。いままで、50年も60年くらい一緒にいるんですから。それは腐れ縁なんてもんじゃないですよ。やっぱり。

本阿弥:非常に助かっていますよね。

靉嘔:そうね。やっぱりアーティストではないですよね。アーティストだと文句をいわれるけど。僕は文句いわれたら喧嘩になるけど。それもしないし。彼女は優しい人だしね。そういうことでは、感謝というのかね。死ぬときに「あぁ、お世話になった」って死ぬんだろうけど(笑)。

西川:こないだおっしゃっていたのは「人間は対でないといけない」とおっしゃっていましたね。

靉嘔:僕はそう思うんですね。人間というのは。動物。何でもね。何でもペアでないとね。僕はものを描くときには、シングルは描かないんですよ。全部ペアなんですね。みんなペアなんですよ。

本阿弥:それは1950年代の学生のときからいつも。

靉嘔:それは関係ないですね。僕は常にそう思っているんですよね。ようするに彼女の才能とかに惚れたのではなくて、彼女の容姿に。彼女は綺麗だったですよ。今はおばあさんになったですけど。

西川:今もお綺麗です。

靉嘔:彼女は綺麗でしたよ。

本阿弥:郁子さんのことはしっかり記録として書き残しますよ(笑)。

靉嘔:いいですよ。僕は。

西川:靉嘔先生は、結構モデルにされているわけですよね。郁子さんを。お顔とか。モデルとして絵の中に。

靉嘔:ほとんど郁子ですよね。

西川:やっぱりそうなんですね。

靉嘔:考えるとき。ペアで考えるには、やっぱり常にね。だから似ているよね。いつも描いているわけではないですけどね。描けば自分に似るのと一緒ですよ。絵描きが描くものはみんな自分に似るんだよね。

本阿弥:最後に、来年2012年2月の東京都現代美術館での靉嘔さんの個展「靉嘔 ふたたび虹の彼方に」のことでしめたいと思いますが。

西川:(笑)。絵を描くことは拒否されたわけですけども、昨年ぐらいから「絵を描きたいんだよ」ともおっしゃられるようになった。

靉嘔:いや。僕は昔から絵描きになりたかった。でも、やっばり普段のずうっとやった仕事を見るとね。絵じゃないんだよね。何か面白いことをしようというだけの話で。絵じゃないんですね。いつも絵を描きたいと思っていたんですね。

西川:その意味の絵というのはどういうものですか。

靉嘔:僕は絵を描こうと思っているんだけど、すぐに今でも外れちゃうんだよね。絵を描かないで外れちゃうんだよね。違うことをやっちゃったりね。この部屋に飾っている作品だって普通の作品じゃないよね。ヘンテコリンの絵ですよね。ああいうことにすぐになっちゃうんで。まあ、そのうちに描くようになるんでしょう。

西川:今回2月に現代美術館に出していただく新作は、最初絵を描きたいから描くよとおっしゃっていましたけど、やっぱりまた違うものに。

靉嘔:いや僕は、ある意味では何というのかな、隠遁にあこがれているんですよね。隠逸というのか、隠遁というのかな。そういうのに。それはね。みんな日本人は馬鹿にするけどもね。大変なことなんですね。東洋の素晴らしい思想で。みんな僕の友達は憧れているんですよね。フルクサスの連中は、(ロバート・)フィリュウ(Robert Filliou)なんてのは、インドの坊主と山に登っちゃってね。癌になって出てこなくなっちゃったね。それから、ジョージ・ブレクト(George Brecht)はね、ドイツでね。全然、誰とも会わないんですよね。変わり者だよね。あれもね。僕が最初にジョージに会ったときにね。フィリュウもそうですよ。アイチング、易ショウね。「靉嘔、これに易ヒョウと書いてくれ」と。漢字でね。書いたりね。ジョージ・ブレクトね。ジョージ・マチューナスはそういうことはなくて、でも日本が好きでね。刀とか弓とかね。コップとかね。

本阿弥:ジョージ・マチューナスは日本に行きたいといっていたんですよね。

靉嘔:そうです。行きたいと。で、僕は呼んでやるつもりでいたんですけど。お金をまず作ることが大切だからと思ってつくって送ったんですけど、死んじゃったんだよね。

西川:隠遁というのは、禅と関係があるのですか。

靉嘔:禅というよりも、東洋の思想ですね。だから老子の考えだよね。隠遁というのは老子のものを煮詰めると隠遁。隠逸という言葉となって、竹林の7賢人となったじゃないですか。あれはみんなそうですよ。隠遁というのはもう少し違う意味なんですよね。あこがれる理由が分かりますよね、僕は。だから、僕もやってみたいんですね。隠遁をね。やってみたいんですよね。思っているだけだけれどもね。外へ出ないんですよね。僕は全部ヨーロッパ(からのオファー)を断っているんです。最近は。3ヶ所インバイトされてね。断って「隠遁です」と。向うはポケーとしているけど。いいじゃないですか。

本阿弥:MOT(東京都現代美術館)では、しっかりやると。

靉嘔:それは隠遁ですよ。MOTでやるということは隠遁ですよ(笑)。

本阿弥:すごいことじゃないですか。

靉嘔:また違う世界でやることなんで。MOTでやることは非常に面白いと僕の人生の中ではね。勝手に嘘ボケるでしょう。いいかげんなことをね。

本阿弥:先生は、MOTのオープニングでは意表をついたパフォーマンスなどの変わったことをやってくださいよ。みんなポカーンとするようなものを(笑)。

西川:あんまりけしかけないでくださいよ(笑)。

本阿弥:先生が福井県大野でやった「幸福」という講演のパフォーマンスは面白かったですよ。

靉嘔:あなた、いたんですか。あなたはどこでもいるね(笑)。

本阿弥:先生から招待されると行かないわけにはいかないですよ。

靉嘔:僕は招待しないですよ。あれは大野が。

本阿弥:大野市の講演会には、確か市長さんや教育長さんなどのお偉い人が来ていたんでしょうね。会場となった体育館で椅子に座って靉嘔先生の来るのを待っているんですね。靉嘔さんはすぐには来ないんでよ。来たと思ったら、黒板に確か両手で「幸福」という文字を、幸福・幸福という文字を書くんですね。汗をタラタラ流して、黒板が文字でいっぱいになったら今度は黒板の足にも書いて、そして、床にも書きながら20~30メートル先の入口まで「幸福」という文字を数えられないくらい書いてそのままいなくなったんです。講演なのに一言も話はしなかったんですよ(笑)。来ていたみなさんは、講演が始まると思って待っていたけども先生はそのまま戻ってこなかったんですね。だから、普通は講演というものはこういうものだという概念があるでしょう。それで、これがパフォーマンスだなと初めて僕は分かって。フルクサスのニューヨークの活動を僕は知らないわけですが「こういうことなんだ」と、後で感動しましたね。

靉嘔:人に何か言いたいことをね、言わなくたっていいでしょう。

本阿弥:それが、私にとっては「目からウロコ」でしたね。常識という概念が吹っ飛ぶことですね。僕は、靉嘔さんと接していたから少しはその時に状況は分かりましたが、参加された教員委員会や市役所の偉い人や市民の方は今でも分かっていないかもしれませんね。

靉嘔:それは、最初は山形でやったんですよ。大昔の展覧会ですが。

西川:それは「自由」という文字。

本阿弥:ごめんなさい。幸福ではなくて「自由」という文字でした。

靉嘔:山形県酒田のデパートで。

本阿弥:「自由」という文字でやったんですね。

靉嘔:「幸福」じゃなくて「自由」ですよ。

本阿弥:私の勘違いでした。

靉嘔:俺もおかしいなと。そんなことしてたかなと。レクチャーの題名は「自由について」というんです。

本阿弥:それから何回かはやられたんですか。

靉嘔:いやその2回だけです(注:2012年7月28日、新潟市美術館で行なわれた巡回展「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」に関連し、3回目の講演「自由について」をおこなった)。

本阿弥:あれは、イヴェントと見ていいんですか。

靉嘔:レクチャーです。僕はレクチャーを頼まれたんだらか。講演ですよ。

本阿弥:ギャラリー360°のカードのも面白かったですね。西川さんもいましたよね。

西川:はい。言葉のやつですね。エメットに捧げた。

本阿弥:探しても探してもみつからないのであせっちゃいましたよ。後でそのカラクリが分かりましたが。自分が観客から主役に代わって、事前に同じものが「ある」と聞かされているので、頭の中に「ない」という発想はないでしょう。多くの観客の前で路頭に迷っている自分がいたわけでしょう。

靉嘔:隠遁するということはそういうことかも知れませんね。変なことするということ。

西川:変なこととは。

靉嘔:なかなか人の分からないことを分かるように説明したいと思うんですよね。

本阿弥:キーワードは、やっぱりイヴェントかパフォーマンスか講演か分かりませんが、絵とも違う五感の。第六感に影響を与えるというこということで靉嘔先生とつながっていると。

靉嘔:ヨーゼフ・ボイスだって同じですよね。どこかの石を拾ってきて。10メートル置きに立てたんですよ。

本阿弥:「7000本の樫の木」プロジェクトですよね。

靉嘔:石ころです。

本阿弥:玄武岩とカシの木をセットに置かれているんです。

靉嘔:はあ。

本阿弥:カッセルの「7000本の樫の木」の作品です。この作品はニューヨークの通りにもありますね。

靉嘔:あ。そう。あれだって同じようなものですよ。あれはもっと分かりづらいね。

本阿弥:私が説明すると、樫の木はオークといってヨーロッパ大陸では重要な植栽、樹種なんですね。一方の石の玄武岩は、そのヨーロッパ大陸の大地を作っている主要な岩盤、地質なんですね。その重要なものをセットにして展示したというコンセプトですよ。確か。

靉嘔:そうですね。

本阿弥:フルクサスらしいなと。私が長々と話をする場ではないですが。

靉嘔:とんでもない。

本阿弥:じゃ最後にインタヴュアーのみなさんから何か質問があればとうぞ。

加治屋:いえ僕のほうからはありません。

西川:わたしも大丈夫です。

本阿弥:先生、7時間近くにわたり長時間のインタヴューありがとうございました。

加治屋:ありがとうございました。

西川:ありがとうございました。