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長重之オーラル・ヒストリー 2018年3月29日

尼足利市福富町、長重之自宅にて
インタヴュアー:大森哲也(足利市立美術館館長)
同席者:
今井朋(アーツ前橋学芸員)
山本和弘(栃木県立美術館シニアキュレーター)
江尻潔(足利市立美術館次長)
書き起こし:今井朋
公開日:2018年10月31日
 
長重之(ちょう・しげゆき 1935年~2019年)
美術家
1935 年東京に生まれ、小学校の時に疎開のため父の故郷である足利に移り、1960 年代から、地元のガス会社や病院に勤務しながら作品制作を始めます。1968 年には、カンヴァス地に巨大なポケットを縫い付けた「ピックポケット」、1978 年に視床」という極めてユニークな作品をシリーズで発表しました。それと同時に、「ロードワーク」や「アタッチメント」という身体行為を伴ったパフォーマンスを並行して実施し、榎倉康二や高山登らと一緒に点展にも参加しています。その後も「平・面・躰」、「リバーベッド」など領域や境界線をめぐる作品を発表し、自分の家族のルーツや日本最古の学校である足利学校に縁のある論語をテーマにした作品も発表。また、1960 年代後半より障害のある人々の作品展を企画、作品を共同制作するなどの活動も続け、2008年に栃木県立美術館、2018年に足利市立美術館で個展を開催しています。

大森:今回は、高校生や自覚的に作家として活躍する若い時代までのことを聞き取っていきます。長さんは、1935年3月25日生まれですね。

長:そうですね。

【東京・日暮里、家族】

大森:1935年に東京で生まれ、住所、字名ぐらいまで分かりますか。

長:分かりますよ。これだけは、やはり正確に、 3月25日、東京市滝野川区田端町158番地生まれ。その直後に東京市荒川区日暮里町9丁目1057番地へ移転しているんだけれども、それほど距離が離れた所でもなかった。(場所の説明で)一番分かりやすいのは、今、開成高校がある西日暮里(駅)、あそこから少し入った所。ちょうどあの辺りは、上野の山からずうっとつながっている。 それで、田端を通って飛鳥山の方まで行っている。俺たちが住んでいる頃は、谷中の方は金持ちが開発して、きちんと家を建てた、本当に大邸宅。そこで時代劇の撮影などをやっているところをよく見に行った。ちょうど開成中学(注:現在は開成高校)のあたり。 ほら、江戸時代に谷中はたくさんお寺があって、そのような区域にまとめてしまったようね。だけれども、日暮里辺りの山は何か未開地で、何でも人が結構自由だったようです。それで、ほら、田端に芥川(龍之介)やスギモトホウアンでしたか。

江尻:小杉放庵。

長:小杉放庵、なども住んでいた。それで、なぜ住んだかというと、そこが一番、金持ちでない人が住みよかったと。

 俺の家は、開成高校から5~600メートルぐらい離れていて、そこは庶民住宅がずうっと並んでいた。そこにいつだったか行ってみたら、子どものときには200メートルぐらいの距離に感じたのが、行ってみたら5メートルくらい。それで、2階建ての家が、ずうっと住宅のように並んでいて、そこに庶民が住んでいたんだな。

大森:そこには、何人家族で住まわれていたのですか。

長:うちは、長女で祐子(昭和7年生まれ)という姉が1人、俺がその次、その次が俊之という弟、その次が三男で秀之。

一番下が長美代子(昭和18年生まれ)と言うの。美代子は、佐野に嫁いで今いる。もう60、70(歳)ぐらいになりますよ、きっと。それで、一番下の弟(秀之)が熊谷で、アマチュアで写真を撮ったり、野球が好きで、(足利)工業(高校)を出たのだけれども、1回、甲子園に行ったことがある。 2番目の弟が

今、東京の江戸川の先市川に住んでいて、呉服屋をやっていたが、今は退職して家にいる。 うちの姉御(長女、祐子)は、その先の四街道に住んでいます。

DIC川村美術館の近くに住んでいる。それは、もう俺よりも3つ上だから、もう、おばあさんです。

大森:ご存命ですか、長女の方は。

長:そう。

大森:それで、旦那がヤクルトの創立時代の人で、ヤクルトへずうっと勤めていた。

長:そうそう。それが、大体、俺の兄妹。5人兄妹だったね。結局、俺は長男です。昔の長男は、とても重きを置かれて大事にされたところがあるらしい。

大森:お母さんのことは、あまり聞いたことがないのですけれども、お母さんは、もちろんこのときにいらっしゃって、足利に来て、お父さんは先に亡くなられてしまったのですが、どのぐらいまで一緒にいたのですか。

長:おふくろは、今の佐野(市)の小中(こなか)出身。

大森:それで田中正造は、いろいろ関係が深い。

長さんは9歳ぐらいまで東京にいたということで、お父さん(安右衛門)も仕事をしていて、その生活ぶりはどうでしたか。

長:うちの父親は、一応、今の東京藝術大学(以下藝大)図案科を出ていたんです。それで、食うために「イナミ」というネクタイ会社、日暮里駅のそばにノッポビルのようなものがあって、そこへ勤めていたことをかすかに覚えている。そこでネクタイの図案を描いていた。 実際にその下絵のような物が少しは残っているけども、多分、それで一応、専門家で食べていた。あとは、家が地主で米などはいくらでもあったから、食べ物は不自由してなかったと思う。その頃の俺は、生活感なくただ遊んで歩いていただけのような感じだった。

大森:比較的収入は安定していて……。

長:うん、基本的には安定していたのでしょうね。それじゃなかったら子どもを産めないですよ、5人も、多分。

大森:そうですね。それで、長さんは、美術的な何かの刺激などを受けるような環境というのは、9歳で東京は……。

長:今になってみれば、相当、環境としては(刺激は)受けていたね。ただ、無自覚、無意識に受けたのかもしれない。とにかく日暮里の山伝いを行くと、もう藝大でしょう。うちの父親も藝大を出ているから、その辺りはよく知っているわけ。 よく父親と一緒に藝大へ行ったことがある。藝大にお花畑があるんですね、今はどうか知らない。

山本:今は無いですね。

長:そこで一生懸命にスケッチしていたことを覚えている、連れられて行って。その後、子どもが行っても入れると思って子どもだけで藝大へ行った。そうしたら「おまえたちなんか入れねえ」などと怒られて帰ってきたことがあった。 お花畑のすぐ下が動物園で、藝大の下から見えるんですよ。 父親に連れられて行った藝大というのは何をやるところなのかが分からなかった。後から思えば藝大だったのだね。

江尻:では、お父さんも画家仲間がいたり……。

長:いたのでしょうね。あとは、ほら、美術館などがあるでしょう。そのような所へは随分と連れて行ってもらった。 けれども、絵を見てそのような自覚は全く無かったね。  小学校の先生は、俺に絵を描かせてくる。それで、いつも(まわりから言われる)「父親が描いたんじゃねえの」と。(それらの絵は)父親が一気に描いて、戦争画で、トーチカの上へ行って日本人が旗を挙げているところなどは、(当時)戦争が始まりそうで、そのようなムードがあったから先生がよく知っていて、それを必ず貼ったのだよ。 それで、俺の絵を見て「長はうまいなあ」などとみんなが言うのだけれども、全然、感じない。「父親が描いたんだよ」などと言って、先生は、多分、それを知ってたんだね。  その頃は、あまり勉強のことなど眼中に無かったから何を勉強したか分からない。遊びに行っていたようなもの。

大森::お父さんは藝大を卒業して、ネクタイの図案家として、その間に染色工芸品を作ったり、あのような作品は、図案化になるまでの間のものですかね。(注:安右衛門の工芸作品を指す/作品については『長重之展―「祖父の遺産―」』足利市立美術館、2008年6月7日-7月13日図録を参照)。

長:作っていたのは記憶にありますよ。生計を立てながらろうけつ染めを習得して工芸家になろうとしていたようです。

長:いや、ろうけつ染めの作家になるまで、生活のために図案を描いていたと思われますね。だから、専門家で自由だったのではないかと思う、専門職だから。辞めた後かどうかは分からないけれども、洗い張り、織物を紐で張って干したり。そのようなことをやっていたことは覚えているの。

大森:とすると、自宅が仕事場でもあったわけですね。

長:そうそう。今見たら狭い部屋だったのだろうね。そこにこのように、たくさんいろいろな物があった。それで、奥のほうに石膏(像)があって、怖くてしようがなかった。夜に見ると恐ろしい感じがした。

大森:デッサンのときなどにやる石膏像ですか。

長:うちは、古い家だったから刀が幾つかあって、父親が毎週5、6本並べて出して、よく見掛けましたよ。

大森:美術の画集あるいは文学などで覚えているものはありますか。

長:引っ越したときに家に持ってきたような物だけれど、古い美術全集などは、随分とあった。とにかく、ちょうど俺のアトリエのような、今思うとあのような感じだったね、狭い部屋に乱雑にして。

山本:実際は、どのぐらいの広さの仕事部屋なのでしょう。

長:6畳が二つぐらいですよ、2階家で。

山本:二つ? 

では、結構ではないですか。

大森:日暮里の家の周辺はどんなところでしたか。

長:俺の家から200メートルぐらいのところに開成中学があって、その近くの大きな庭の家から黒い石を盗んで、犬に追いかけられてかじられたことがある。魚の問屋をやっている家だったよ。金のある人なんだろうね、きっと。その人の2階建ての貸家が5軒ぐらい並んでいた。 昔は、土地などがみなくっついていて、家で遊んでいて、隣の家には2階からみんなが遊びに行っていたの。2階で暴れていると下でおばさんが「また来てるね。暴れちゃ駄目だ」などと言って、だけど暴れている、そのようなところがあった。 (襖は)きちんとした唐紙だったでしょう。そうすると、俺が遊んでは足蹴りして、みんな穴を空けてしまった。そうすると、そのおばさんが怒鳴り込んできて「また重ちゃんは、やったね」などと怒られてお説教。だけど、またすぐに直してくれるのだよ。また、穴を空ける、そのようなことを繰り返した。みんながいい人だったね。  その隣に住んでいる人は、絵本作家だったね。後になって見たらつまらない絵、よく子どもの絵があるではないですか。

そのような絵を描いている人は、地方から出てきている人が多かった。 そうかと思うと、金持ちの家がぽつんと路地にあって、いい絵が掛かっていて、ピアノの演奏が聞こえる。「ああ、すげえなあ」と。クラシックの音楽を弾いていたり、そのような場所があったのですよ。

江尻:では、結構、面白い環境だった。

大森:結構ねえ。

長:それで、近所の裕福な家の門があって、犬を飼っていて、そこは牛乳を取っていた。それを子どもたちみんなで(盗み)飲んで歩いた。 黒い石が敷き詰められている家で、相当な財閥でいい家だよ。バケツで盗みに行って、たくさん引きずってくると、犬に追い掛けられて、かじられたりした。 けれど、その人たちは、文句を一言も言わなかったね。しようがないと諦めていたのかもしれない。  もう一つは、池の跡で魚釣り。これほど短いさお。あの頃は、そこに勤めている人が、やはり年寄りばかりなの。きちんと東京都の制服を着て、脚絆をはいて、見回りしているのだけれども、みんなが年を取って駆けられない。そうすると(子どもたちが)「くそじじい」、「いーっ」などと文句を言って逃げて回って、追い掛けられるのだけれども、みんな、追いつけないから(子どもたちが)面白がって、そこに魚釣りに行く。

大森:その様子を聞くと、孫の進之介君がここに小さい頃からずうっといましたけれども、長さんが彼を魚釣りに連れて行ったり、虫取りに連れて行ったり、そのような遊びを東京で随分とやっていた。

長:そうそう。だから、そのようなワイルドな遊びを東京で初めに経験した。それで、前にいた開成高校の裏は山でしょう。竹やぶがあり、日暮公園があって、トンボ採り。だから、なんでも田舎でできるようなことは(東京で)やった、むしろ向こうの方が田舎だったような気がする。

大森:うん、そうですね。

【郷里・梁田に戻る】

山本:では、東京から足利へ移ったとき(1944年)、やはり足利は田舎っぽかったのか、逆ですか。

長:とにかく郷里は広い所だと経験した。ここ(梁田/足利市福富町の自宅)から県(あがた)駅(最寄り駅)があるでしょう。あそこまで大体3キロある。昔は建物が少ないし、みんな、木が植えられていたから、それがかすかに見えるくらい。あぜ道で一本道だった。それで今の梁田小学校の向こう側まで来ていたわけ。うちは、その頃はみんなに田んぼを貸していたから二人ぐらい住み込みで番頭さんがいた。(疎開のため帰って来た時)その人が、大八車があるでしょう、それを後に引きながら迎えに来て、うちの父親は、このような(大きな)トランクを三つぐらい運んで荷車に積んで、俺はその真ん中に(座る)。大八車は腰掛けると足が着かなくてちょうどいい。 ……

それで、このようにしてどたどたと来た。 そのときに、今でも覚えているよ、赤城山がはっきり見えたのを。空を見ればヒバリが鳴いていて、とまってヒバリが鳴いているわけだね。とまって鳴くのかと思ってみたり、あれだけは、今、作品を描いているフィールドの現実を 初めに感覚で身に受けたね。

大森:東京から疎開で家族で帰ってきて出迎えが来たというあの時ですね。

長:そう。

大森:何月頃だったのですか。

長:そのときの情景ね。家族で来るときは、俺の祖父が佐野で、安足という運送会社に勤めていて、第1回の東京の空襲(1944年11月)があったときに、やばいというのでうちの父親が頼んで、迎えに来てくれということで、トラックに積んでみんなで足利へ帰ってきてしまった。

江尻:東京とは、全然風景が違うし、大きな山は無いですものね。

長:そうそう。後になって、やはり感覚的に俺が作品で考えることは、どこかで重なり合う。広い空と広い田んぼ。

江尻:初めて見た原風景。

長:後になってみたら、このような自分の生活にダイレクトに関係ある場所でしょう。

大森:昔は、ここから県駅まで障害物無しで見通せるぐらい原野のような空間だったのですか。

長:いや、家は少しあったけれどもね。車など無かった、みんなは大八車やリヤカーで。後は、自転車ぐらいはあったのかな。

大森:よく大地主だと駅まで自分の土地をずうっと通って行けてしまうぐらい土地持ちはいますね。長さんの家も、かなり広大な土地を持っていたことになるのですか。

長:梁田小学校の向こうの道、あの辺りまではそうだった。 本家は、ここから300メートルぐらい離れている。昔は、本家の土地だったでしょうね。本家の方が持っていたでしょう、きっと。

大森:長家のこの系図で見ると、長(重之)さんの家は、新宅であっても相当(大き)な土地だったことになりますね。

【祖父、祐之】

大森:長さんの祖父、祐之さんの話を伺います。長祐之さんは、初代の足利町長(1900-1908)ですね。

長:いや、初代ではないでしょう。 古河(ふるかわ)が(銅山を)始めたばかりで公害を浄化し切れなくて、そろそろ垂れ流しになってきた頃だね。その頃にちょうど町長を頼まれてやっていた。昔は、頼まれ町長というような人が結構いたようです。

【父・安右衛門】

大森:では、お父さんのことをもう少し詳しく……。

これが藝大の卒業制作、《装飾文様「煩懊」》(油彩画、1927年、東京藝術大学大学美術館蔵、同館収蔵品データベース<http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=28223(参照2018/09/03))というタイトルなのですね。

江尻:これは、人が描かれているのですか。小さな人?

長:そうそう。俺がこれを初めて(見た時)、このようなものを描いているとは思わなかった。調べたら、昭和2年頃から日本で金融恐慌があって一番世の中が不安定だったようで、それをテーマにして描きたかったのだと思う。本当は、図案家だからこのようなことをやらなくてもよかったのだけれども、何かそのようなアーチストの血のようなものが騒いだのだろうね。それで「煩悩」というタイトルで世の中の様子を描いたのだと。 これを描いた時代背景を見ると、必然性はあると思う。そのようなところを見ると、親父は、ただの職業画家以上に何か表現したいことがやはりあったのかな、その精神的な遺産を俺も知らないうちに受け継いだのかなと。

【祖父、祐之】

大森:それでは再び長重之さんの祖父、祐之さんの話に戻ります。

長:田中正造が鉱毒について取り上げる10年前に、うちの祖父が鉱毒について気付いた。ちょうど明治18(1885)年の初めに鉱毒が流出して、『朝野新聞』(1874~1893年、東京で発行)と『下野新聞』(1878創刊の栃木県の地方新聞で、創刊時は『杤木新聞』、1884年より『下野新聞』と改題)が第一報を報じたらしいですね、明治18年に。そのときにうちの祖父は23歳だった。東京専門学校、今の早稲田大学に行って、一応は地主のせがれだから、そのようなところでも教育が必要だと(曾)祖父が、長重故(しげもと)と言うのだけれども、その人が(学校に)やっていた。で、(祖父は)それを聞いて『下野新聞』に投書を始めて、その当初が「足尾の鉱毒如何せん」というタイトルで5回ぐらい投稿しているようです。  それで、田中正造以前にこの周辺の同志で渡良瀬川の調査を。その頃は、渡良瀬川の魚を取って暮らしている人がいたようで、きれいな川で。だって、昔は、シャケなども上ってきたというから相当いい川だったのね。 それが何だかそのように侵されておかしくなったというので、この周辺の市町村の有力者が集まって調査活動を始めて『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情』を自主出版した。それが明治24年、1891年(注:発行者欄には「栃木県士族・長祐之」とある)。 ところが、それが治安法維持で発禁になってしまった。今、それは国立図書館に保管されているそうで、コピーしてくれた人がいて、そのコピーがあったと思うね。

大森:そうですね。それで、足利学校(足利学校遺跡図書館、以下、足利学校)にもあったと、『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情』が。

長:うん、そう。俺は、ある人から借りてコピーしてね、昔の人の字は読みづらくて、俺の友達が(現代)日本語訳にしたものもあるよ。

大森:田中正造も『下野新聞』の編集長の立場でいたときがありましたね(注:『下野新聞』の前身の『栃木新聞』時代に編集長を勤めた。下野新聞社ウェブサイト参照https://www.shimotsuke.co.jp/list/company/history(参照2018/09/03))。

長:うん。

大森:それで、どんどん田中正造が鉱毒事件をやっていく中で、正造が現場を見に行った時の古河工業の社長が長家の親戚だったという話ですね。

長:うん。昔の人は、結局、武士階級上がりで士族だから、やはりそのような人たちは何か社会意識があったのではないかと思うね。何か問題が起きたら、やはり世の中のために知る。 この辺りの地主などは、本当にそのような公害があったりすると、飢え死にしてしまう。だから、上に立つ人は真剣だったのだと思うよ、昔の人は。そのような精神を忘れていないし、血筋を超えて創造力の原点のような共感はあったね、そのような意味では後になって……。  

それで、この辺りのいろいろな人や、様々な調査活動(の中)に今度は田中正造が参入してきて、あの人(田中正造)は、もうその頃に県会議員か何かの議員をやっていたんだね(注:明治23(1890)年に衆議院議員に当選)。違う問題で随分と型破りな議員だったらしいけれども、その人がうちの祐之と(一緒に)呼ばれてきたというのだね。その話は、足利の歴史の中に何かの記録があるらしいのだけれども、とにかく田中正造の手記の中に長祐之と会って感動していることが書いてあるんだよ。親戚以上に歓待してくれて、それで一緒になってやり出したわけ。  だけれども、最終場面は、明治の日露戦争が始まるので、結局、国策で足尾銅山は始めたらしいんだね。で、古河さんが買って自分で始めた。ただ、うっかりするとロシアと戦争になる寸前だったらしいから、国が金を貯めるために必死になって国は国として足尾銅山を……。 ところが、造りすぎてしまって、結局、(鉱毒をためておく)貯水池をオーバーしてしまった。浄化槽も造ったのだけれど。それがあふれてそのようになってしまったらしい。  あとは、いろいろな研究書がありますよ。だけれども、ほら、つい最近まで太田でも100年戦争(太田市が起こした古河工業/足尾銅山を相手にした裁判、通称「百年戦争」)で裁判をやっていたわけだね。最近、片がついたというより時間切れのようになってしまったのだろうけれども、裁判上は片がついたと言っているね。結局は、100年たった。

大森:鉱毒塚と言うのですか。

長:うん。

大森:悪い土を集めて蟻塚ように、それが毒素なのですかね。

長:川が豊かだというのは、腐葉土が流れてきて蓄積された、古代エジプトのナイルでもそうだったわけでしょう。そのようなものによって作物がよく取れたのだけど、戦争が始まると、銅を精製するので、いろいろなものが出て、それがあふれてしまった(注:煙害も含む)。 毒ではない腐葉土もあるれども毒として流れ出るようになってしまって、それを集めて山に積んでおく、そのような工夫をしていた。  結局、足尾銅山は操業停止か、どこかを改善してまたやるかと。田中正造派は操業停止だけれども、そのときにうちの祖父は、操業停止にはサインしていないことになっていて、田中正造派からは裏切り者のようなに思われてしまった。それで非難を受けて、田中正造が書いた日記か何かを見ると「長一族は犬猫にも劣るやつだ」というように辛辣なことを平気で言って(書いて)いる。  あるシンポジウムに俺が参加した時、「(サインしていないことに)何とも思いませんか」と聞かれた。「いや、俺は何とも思わないよ。なぜかというと、昔は、そういう正々堂々と渡り合って悪口まで言っても、一緒にそういうことをやったお互いに盟友でもあるわけだ、いいことをやって。だから俺は、むしろそういう二人の創造力は、芸術家と同じで、特に明治のあの二人は、やっぱりパイオニアとして親戚・縁者を超えて俺はすごく尊敬している」と言ったんだよ。 それが俺にとっては一つの遺産のようにどこかに影響したのではないかと思って、いろいろ考えると様々な言葉はあるのだけれども……。

大森:やはり渡良瀬川や田んぼなどは、長重之にとっても作品の源泉のようなところがあるのですか。

長:そうそう。そのようなことが基盤にあるから。

【オノサトトシノブさんの思い出】

長:少し飛んでしまうのだけれども、オノサトトシノブさんと会ったときに、オノサトさんが「長君、絵なんてどこでも描けるんだ」と言うの、俺に。 周りを見ると、それほど絵だけをいつまでも描いている人など見当たらない。けれど、オノサトさんは、そのような矛盾したことを言うわけさ。それで「長君、やるんだらやった方がいいよ。絵なんてどこでも描けるんだよ」と言うので、そのようなことと符合していくと、あるいは何か違う形でできるかなと。

【彫刻家・長渡南】

大森:祐之さんのことはいいですかね。 そうしたら、長一族の中で今度は、彫刻家の長渡南(となん)の話に進めます。本名は「愛之」と書いて「あいし」と読ませたのですかね。祐之の弟ですから、重之さんからすると大叔父になります。

長:何て読んだのかね。長渡南もとにかく資産家に生れたので、やはり藝大(東京美術学校・彫刻科)へ行ったわけでしょう。 この人は、本当に器用なところもあったような気がするね。「器用なところ」というのは、作家になるための人のようで、俺が長渡南について覚えているのは、東京の団子坂にアトリエがあって、それを俺は見たことが無いのだけれども、東京にいるときにタクシーで父親と遊びによく来た。それは覚えているの、はっきりと。昔のトンビのような物(衣装)があるけれども、あのような物を着て、ステッキをついて、一応の格好をしていて、シャッポを被って……。

大森:この写真(長渡南のアトリエ風景)の頃の感じですかね。

長:うん、そうそう。相当、弟子もいたようね。いろいろな有名人の(ための)作品を作ったり、あとは、東京にもいろいろな橋があるではないですか。その飾りのような物を結構作っていたらしい。 やはりお金がある人で後援会を作って、結構売っている。だから、長渡南は、本当にプロの道を歩んでいたような気がする。  それで、偶然、草雲(田﨑草雲翁肖像 注:田﨑草雲は幕末から明治にかけて足利で活躍した南画家)も……。   大森:そうですね、足利銀行の最初の頭取の荻野万太郎さんが中心になって計画がすすめられ、石膏原型(ed.1/2)まで作られたが資金が集まらずブロンズにならなかった。あれは、やはり明治末で、日清・日露などで日本が疲弊して、なかなか金がそのようなところへ回せなくなったというようなことらしいです……。

長:結局、今、足利工業高校にある近藤徳太郎、初代校長の胸像だけは残っている。

大森:ええ。

長:他にも貢献した人などの物(彫刻)は、みんな、(戦争で)持っていかれてしまった。

 少し待って……、富永金吉の立像がある。現在は(大谷石の)台座だけしか……。 足利のいわゆる殖産興業ではないけれども、富永金吉はレンガで名を成し、会社を作って、それで山の上にこのような富永公園という名の遊園地を自分で造った。

大森:長渡南は帝室技芸員・竹内久一(彫刻)指導の下、内国勧業博覧会、上野公園の会場の噴水彫刻を手伝っている。また、これは明治後半に印刷された「長渡る南作品頒布会」のパンフレットですが、これの推薦人がまたすごいメンバーがたくさん入っていて、正田(醤油)が目立つわけですけれどもね……。正田醤油や日清製粉などの会社の創業者の名前、その面々が頒布会の推薦人になって売るということが出ている。

長:そう。昔は、やはり家長制度にはそのようないいところもあったね。一族から変な者を出したくないので、みんなで応援したようですね。 俺の方は中学・高校になった頃、さらに大きくなっても言われましたよ、周りから。「おまえの祖父だの先祖は偉いけど、そんな訳の分からないこと(芸術)を何でやっているのだ」と飽きるほど聞かされましたね。

【疎開で足利・梁田へ】

大森:疎開で俺は9歳で戻ってきて、祐之さんは既に亡くなっていて、お父さんが47歳で戻ってきて1年後(1945年)に亡くなってしまったのですね。

長:結局、父親はこちらに来たのだけれども仕事は無いわけでしょう。こちらに食料があったので、いつも重い物を担いで東武の電車で東京通いしていたのね。1週間ぐらい向こうへ行って仕事をして帰ってきて、また食料を。それで体を壊して結核になってしまった。寝たきりになってしまって。そのときが一番容易ではないはずなんだけれども、家は、そのような意味では親戚みんなが良かったと思えて、おふくろは貧乏している感じ、金がないという感じが無かった。  だって、戦争中だけれども、俺の父親の姉が正田醤油の今の社長のお父さんの従兄なのですよ。そこへ嫁いでいるわけ。味噌やしょうゆや砂糖をみんなもらってきて、結核のペニシリンか何かも随分と手に入ったよう。うちの父親は命運が尽きて48歳で死んでしまった。そのような事情があったですね。  やはりあるところにはあったのだろうね、俺の家には戦争中でも蔵が2つぐらいあった。小さい頃だからよけいにたくさんあったように見えたね、俵が積んであるの、覚えていますよ。

大森:俵ですか。

長:米が。それで、こちらの小さい蔵には味噌蔵があって、昔の地主(にとって)は、この辺りの(家々が)共同体であったのだね。醤油を作るときの醤油絞りなどの道具があったね。 子どもの頃は俺の家にみんなが何となく集まって来ていた。サツマ芋か何かをみんなに出してくれて、それが食べたくてみんなが集まってきて、畑の中で野球などをやっていた。

大森:帰ってきたときは、おばあさんはご存命だったのですか。

長:おばあさんは、俺が東京時代、生まれた頃に死んでしまった。だから俺は知らない。

大森:では、もうここ(梁田)には誰もいないような状態のときに疎開で帰ってきた。

長:そう。だから、お金をもらって雇われていた留守居のおばあさん、おじいさんがいて、その人たちが草むしりなどを全部やっていた。その代わり、家の端に一つ部屋があって、そこで暮らしていたわけですよ。

大森:帰ってきて2年でお父さんが亡くなられて、もう他の方も亡くなっていて、旧法だったから家督相続されたということなのですか。

長:そう。旧憲法のうちで、まだ俺は長男として資格があったわけ。それで、父親が死んで相続になったのだけれども、ダイレクトにおふくろを超えて俺に来てしまったわけ。

大森:それを長さんが全部相続したと。

長:財産全部が来たので、兄妹の一部は心配した。「重之が好きなことをやって全部使っちゃうんじゃないか」と、そのようなことを進言した人がいる。「重ちゃんは相続で自分のもんに全部なったんだから自由にしていいんだよ」などと言う人もいたわけさ。偶然そうなったのだけれども、その後はそれでよかったですよ。

大森:1945年に父親が無くなって、終戦で、1946年に農地改革。やはり相続した土地などは農地改革の影響があったのですか。

長:そう。だから、それは、配分の法律的な決まりで安く手放した。売ったわけ。そのときは、本当にとても安かった。それで切符のようになっている証券のようなものが来て、それを持っていくと金をくれた。 けれども、そのような金をもらっても、もらった気はしなかった。それに対して異議を唱えた人もいたね。だから、あの農地改革は、やはり賛否両論があって、ヨーロッパが先駆けでやって、ドイツかフランスのものをまねしたようね。

【美術家になったのは】

江尻:10代の終わりぐらいから美術家をめざしたのでしょうか

長:俺が、その覚悟を決めたのは、高校の2年頃だったですよ。

江尻:では、10代の半ばですね。

長:それまでは印象派の絵などをまねて描いた。渡南の銅像がある塔などをよく描きに行きましたよ。

大森:富永金吉像を。

長:けれど、世の中へ出てからは、少しいろいろと目覚めたね。

大森:では、10代でもう相続して、それでキャサリン台風(注:昭和22(1947)年9月に発生。国際名はカスリーン)があったでしょう。

長:あった、あった。

大森:もう連続して、終戦、家督相続、農地改革、その次の年がキャサリン台風で、その堤防の向こう側(渡良瀬川左岸)の岸は大分被害が出て、こちら側(右岸)は……。

長:こちらは、借宿(町)という所(の河川)が切れた。

大森:ああ、そうですか。

長:それで、そのときの市民の心理は、とにかくどちらか早く切れた方が助かる、というわけ。両方とも危なかったら……。先に向こうが、わずかに切れたのかな。

大森:借宿は、西の方ですね、(足利市立美術館から見ると渡良瀬川を越えて)東武線(伊勢崎線側)の裏の緑町のあたり。

長:緑町があるではないですか。緑橋が切れたときは、俺の家の前に20㎝ぐらい水が来た、ずうっと。家には掛からなかったけれど。  その前の明治時代に、やはり渡良瀬川(右岸)の堤防が切れたのは、岩井山のあたりだそうで、そのときは、この辺りの農作地帯は大被害だった。 ここは、転地ができても作物が出来ない。なぜかというと、下を掘り返すと砂利ばかりらしい。それで、多分、みんなが工業団地には賛成で踏み切ってしまった。  向こう(渡良瀬川左岸)は、ちょうど今のガス会社から突き当たった辺りに競馬場があったの。そこが切れてしまって小林機械は無くなってしまった。あそこ、あの土手に(キャサリン台風被害の)慰霊碑がある。

大森:ええ。

長:あの岩山、あの辺りが切れるんですよ。今だって渡良瀬川の方が高いのだから。江尻さん、美術館は危ないんだね。

江尻:そう。

長:だから水浸しになると下になってしまう。

江尻:そう、収蔵庫は下、水没してしまう。

【「視床」と土地の関係】

大森:このように土地のことをいろいろと聞いたのは、長さんの作品の特に「視床」シリーズなどは、何となく土地の区画や渡良瀬川の形などが長さんの頭にあって、そのようなイメージが……。

長:土地を持っていることは、不変的に必要なわけですね、それは制度によって持ち主が変わるだけで。だから、(堤防が切れずに)得したというのは、一番リアリティーがあったわけ、俺にとって。大洪水のときにもやはり被害はそのような地上ですね。それが作品を作るのに一番の条件になって、方法論の基本になった。そのようなことが無かったら「視床」のイメージは生まれなかった。  やはり美術をやるにつけて、自分できちんとした理由や必然性が無かったら俺は続かないと思った。はっきりと自分と生きている現実がどこかでかみ合って、誰もが感じざるを得ないような現実を、たとえ作品としては分からなくても、リアリティーのあるものでなかったら駄目だと思った。俺は、とにかく好きなことをどこででもやりながら、絵で暮らそうと思っていたんだ。  田中正造さんもそうだね。あの人が普通に勤め人では、あのような生き方はしなかったと思うね。そうすると、本当にやってみたいことをやるということは、何か必然性が無かったら絶対に続かない。続いたとしても、浪費だけで空しいことになってしまう。浪費だけはしたくないところがあったね、基本的に。

【館林の中学校へ】

大森:中学校はわざわざ館林に通ったのですね。

長:それは大問題になって、父親が死んでから、俺はこの辺りでは不良少年のようなものだったの。みんなは、子どもだから文句を言わなかった。何か盗んで食べてしまったりしても、東京から来たやつということで、特別な人間として扱っていたところがあったんだ。俺の着ている物をみんなは変わった物と思ってたよう。 東京の小学校は、夏になると白襟の洋服で、靴も白い靴で結構けじめがあった。そのようなもので行ったから、みんながいじるの。「何、これ?」「何、これ?」と。何か特別扱いされたような感覚を受けたね。それで悪いことまで平気でして、よその家に物があるとそれをもらって食べてしまったので、おふくろは、父親が死んで抑える人がいなくなったと心配してた。父親の姉さん(伯母の)、(旦那が)正田醤油の専務をやっていて、「そこへ行って少し修行してきなさい」とやられてしまった。伯母さんの家に預けられてしまった。(現・館林市)材木町にあったのだね。そこで朝起きると……。昔の家には引き戸があって、大きな家だからあちらこちらにある。それをまず全部開けること。それから掃き掃除をして、雑巾掛けをしてから学校に行く。それが嫌で、俺の従妹が3人ぐらいいて、それが年頃で、その女たちが俺をいじめた。いじめだと取ったわけね。それで、田舎の学校と市の学校では学力差が全然違った。勉強しないで館林へ行ったから、1日目に字が書けないというので居残り。その伯母さんから「重之はどこかへ迷っちゃったんだ」と(警察へ)届けた。そうして学校へ電話を掛けたら「勉強ができなくて残されてます」と。

山本:館林は何だったのですか、その当時は。

長:町。

大森:町と村の違いということですか(注:昭和29(1954)年に館林市となる)。

長:そうだね、村と町で。だって、ここは、初めは栃木県足利郡梁田村おぼかわと言ったのだ。その次は、栃木県足利市御厨町ね。これは、合併した。御厨町大字福富と言った。それで最後に栃木県足利市福富町何番地となったのだ。  だから、しばらくは、昔の住所で手紙などが来たよ。でも、この辺りの郵便局員は、みんなが地元の人で知っているから「ああ、あそこのうちに来たんだ」ということで届いた。本当につい最近まで来たのですよ、栃木県足利郡梁田村で。

大森:中学校は、1年生ぐらいから卒業まで。

長:小学校6年の半ば頃まで行っただろう。そうしたら、向こう(館林)で新制高校になったのだよ。それで向こうの新制中学1年。  それで、館林で遊んでばかりいて、夜も帰ってこないようになってしまって、それで伯母さんが心配して「もう預かり切れない。もう重之は帰す」と言って帰されてしまった。 だけれども、他人の飯を食べて勉強ができるようになった、おかげさまで勉強せざるを得なくなって……。

大森:では、更生させるために館林に行かされていたのですね。

長:そのようないきさつも、寮へ行けだの何だということも俺は関係あるのではないかと思う。梁田という領域から館林領域に移って、今度はまた梁田村小学校に変わってきた。それで移る先で、みんな、(町や村の)名称が違うわけではないですか。なぜ同じようなときに同じような所でみんな、(地域を)区別しているのかと思ったものね。そのようなものも、多分、作品の発想に感覚的に、知的な意味ではなくてあるのではないかと思うのだね。  それで(帰されてから)、今度は梁田中学へ来たわけですよ。そうしたら(梁田は)合併してしまって御厨と一緒になった。そうすると、また御厨の方が、みんな、レベルが高かったんだよ。向こう(御厨)へ行って、俺は御厨でばかにされて「梁田は程度が低い」などと言われた。先生まで馬鹿にしたからね、みんな。  地生えでここにずうっといる人たちが、一番いろいろなことを言うね。だけれども、今は逆転して、農家の人ができなくなってしまうのだね。そうすると、農家は草だらけだったりして、そのようなところはもう原野になってしまったね。フィールドですよ。

大森:そうすると、ここから館林の間に多々良(沼公園)があって、長さんの作品(《交感テーブル》1993年、御影石、館林市彫刻の小径内に設置された野外彫刻。 http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/bunka/geibun/chokoku/chokokunokomichi/tyo_grf03.html(参照2018/09/04))がありますけれども、このルートは、結構、小さい頃から遊びに行ったり来たりした所なのですかね。

長:そう。館林に伯母さんがいたのは、やはり周辺が、みんな、いい暮らしの人だったの。だから、うちの父親も随分と作品を買ってもらっていたはず。 それから、長渡南も、初代の(館林)町長の銅像も頼まれて作った。その書類なども出てきた。 初めの頃の町長の庁舎にあったの(銅像)が写真に写っているけれども、その次に撮った写真には無いから、やはり供出させられてしまったんだね。  だから、昔は、家を盛り立てるために、変だと言われそうな者は助けたのだね。だけれども、民主主義になったらね……。

大森:けれども、長安右衛門のこのような作品が親戚(正田美智子さん)のところにあるはずだという……。

長:このような物は無いの。確かに幾つか、4、5点は持っている。  昔は、ろう染めの本当に開拓者だったようだね。けれど、残念なことに素材が悪かったね。ぼやけてしまったりして、ひどい。だから、あまり見られないね。 今だったら、そのようなことは俺はないと思う。今、何かやる人は、いい素材があるから幸せかもしれない。昔の人は、大変だったね。 また、時代が良くなかったね。買ってくれた人たちが、ほとんどいないんですよ、もう。芸術好きの家など、それほどいないではないですか、今だって。そういうところは、なかなか変わらないね。  館林で俺は、割に地についた感じで活動していたのは、多少は地縁・血縁もあるから。けれども、そのようなものは、ほとんど頼りにならないよ。 友達の中では小川精一さん(館林の友人/陶芸家)もそうなの。それで新しい仲間を作っていって……。 だって、美術をやっていくのに足利だけでは、到底、難しいではないですか。こちらでやったら、佐野、桐生、前橋、高崎、宇都宮は少し遠いけれども、小山ぐらいの範ちゅうで何かを考えていかなければ。 多分、そのような考えも俺のフィールド意識に関係あると思う。生き方だね、やはり。

大森:もう随分前ですけれども、安良岡倉庫(館林市)でイベントというかグループ展をやりましたね。

長:あそこの家は倉庫業を営んでいて、正田醤油やあの辺りの地域と、やはりしっかりつながっていたんだね、生活が。それで財を残した人で、財産もあったわけだ。そこの倉庫を使わなくなったというので使った。だって、あそこの脇に引き込み線が入っていたし、今、掘っても出てくると思う、線路が。正田醤油だって、みんな、入っているでしょう。

大森:うん。

長:大きい産業は、やはりみんなが駅の近くに造ったね。

【正田記念館と館林美術館】

大森:正田家で言えば、館林の正田記念館。あそこで、アメリカ美術をコレクションしたり、モダンな作品を集めていますね。

長:いや、俺は、つい最近まで知らなかった、そのようなことをやっているとは。

長:それで、染谷(染谷滋/元群馬県立舘林美術館館長)さんが館長をやっていて、その頃に正田記念館の理事か何かをやっているんだね。俺は、全然知らなかった。 (館林美術館を見直したのは、)バリー・フラナガンの作品を所蔵していること。バリー・フラナガンは好きな作家だよ。フラナガンの初期のものは特に好きだったから。 バリー・フラナガンの初期の作品で、ブルーの(ズタ袋に砂を入れたサンドバッグ状の作品)。俺は、あれが最高に好きなんだよ。あと、その次に鉄か何かで組んだ物の上にベニヤ板が載っていて、砂がベニヤ板の上にばらまいてある作品(『東京ビエンナーレ 人間と物質展』出品作品。http://barryflanagan.com/exhibitions/view/10590)、随分と思い切ったことをやるなと思った。 後でいろいろ調べてみたら、バリー・フラナガンも売るために相当考えたようね。ウサギはイギリスでも神話に出てくる動物らしいから、人々に親しまれているのかもしれない。ドイツもそうなんだね。だけれども、あのバリー・フラナガンはいいではないですか。

大森:そうですね。

【高校時代】

大森:そろそろ高校の話題に。館林の中学へ行ったり、御厨町の中学校に移ったり、いろいろと大変だったんですね。その後は高校ということで、足利高校に行ったと。

長:うん。それで、とにかく中学時代から話すと、美術などもうやる気が無かった。あのような面倒くさいことは性に合わなかったのだよ、俺の。それで協和中(学校)の野球部と陸上競技(に入った)。俺は、今でもほらを吹くと、イチローぐらいにはなれたと思っている。俺が内野をやるだろう。そうすると、「長は、どこから投球するか分からない」(って言われて)。だって、俺が学校で遠投では一番だったのだから、たーっと投げて。

大森:とても運動神経がいいですね。

長:運動神経は良かった。みんなは、俺の父親は絵描きだと知っているから、先生も知っていて、そのようなことを吹聴して美術部に呼び込もうとしたんだよ。それでみんなが「長さん、美術部へ来てよ」などと言うけれども「あんな面倒くせえことは嫌なこった」と俺は年中突っぱねていた。 そのまま卒業して、本当は足高の野球部へ入ろうと思ってたら、向こうの野球部は不良の巣だったのだね。それで、平気でスパルタをやっているわけ。それを見て俺はもう「もう駄目だ、これは。嫌だ」と思った。 それで考えたら、やはり青春期はいろいろなことが意識に上ってきて、過去のことも含めて、少し鬱だったんだよ。鬱状態の中で、やはり青春で好きでできるものが無いかと思ったら、うちの父親の使い古した油絵も道具もたくさんあったの。スケッチブックも全然使っていないの。 その頃は、画用紙も売っていたけれども、なかなか高くてさ。で、それを使ってやり出したら、徐々に好きになって「これこそは俺の天職だ」と。食べられなくても、これだけで転々として……。 その頃の画集などは、日本の天才の話が随分と載っているんだね、長谷川利行の奇行などが。で、みんな、早死にしてるではないですか。そうすると、天才画人。それで「そうなってもいいや」と思って、少しそのようなことをやりながら描いていて、美術部が出来たので入った。 高校3年になって、その頃になって「金がねえってのはこういうんだなあ」と思ったよ、初めて、月謝を払えなくて。月謝を納めないとみんな、張り出すんだよ、最後の10人は。それでみんなでかけ合ってる、誰が一番残るかと。俺が年中ビリ。「どうだ、俺が一番最後に残った」と。 そのようなことを言っているうちに担任の先生が心配して……。あのときは夜間部があったんだよ、定時制が。そこで小使いを募集しているから「少しはお金くれるからどうだ?」と言うわけ。うちにいても何も面白くないから、それで喜んで、「じゃあ、そこで仕事しよう」と思ってそこへ入った。そうしたら、最近出た卒業生の名簿を見たら公仕職と書いてあるんだよ、そのような者は。

大森:ナニ職?

長:うん。何て書いてあるか、呼び方があるのだろうね、アルバイトのことを。アルバイトは、その頃の言葉で公仕職と書いてあった。 その頃の夜間部には、集団就職した人なども(いて)。 例えば、ニチボー足利はバレー部が強かった。集団就職した子なども教育させるというので、4時頃になると、みんな夜間に勉強に来てた。夕食は学校で食べなければならない。その頃足利高校の前に宮沢というパン屋があって、夕食する生徒のために俺がパンを仕入れ商っていた。コッペパンのような物が多いんだよ。それにジャムとバターとチョコレートを積んで、俺が行くと、200個くらい、みんな付けて売ってしまうのだよ。 あとは、月謝集め。事務員は、今まで女性が何人かいて、そうしたら、その事務員さんが「長さん、長さん」と言って俺のところに寄ってきて、大もてで楽しくアルバイトをやっていたんだ。  その間に、始まるまでに時間があるから、その当時は美術部に入って、ちょうど、ほら……。

大森:もう1年生から美術部に入って?

長:そうそう。

大森:1年生の頃からこの石井壬子夫先生がいたのですか。

長:うん、そうそう。俺が入ったときに新しく来た。その前の先生は、辞めてしまって。それで石井先生になって、石井さんは俺の作品を見て何か言いたいのだけれども、あまりにも勝手なことをやっているので何も言わなくなってしまった。「長は、きっと自由にやらせた方がいいんだ」ということで、他の人とは扱いが結構違ったところがあった。

江尻:どのような絵をお描きになったのですか、そのときは。

長:極めて人間的な絵を描いていた、自画像のような。麻生三郎のようなものが好きだった。麻生三郎と小山田二郎。

大森:そのような感じで、石井先生も麻生三郎などとも友人関係なんだ。ああ、それで……。

長:俺は、石井さんはまじめ過ぎて嫌いだった。年中、他のことで文句を言うのだよ。

大森:ああ、戦争に行って……。

長:「長君、もうちょっとしっかり勉強しなさい」などと言って。だから俺は、大嫌いだった。 それで俺に間違っているところを教えるのだ、こうすべきだと、「長、これ違う違う違う」と。そのような先生はいないね。そうして正しく描き直したり、大嫌いだった。

大森:嫌いだったのですか、薫陶を受けたというよりも。

長:だけれども、石井先生は、俺の性格を見て、多分「あいつは、ほったらかした方がいい絵を描く」と思ったんだ。それで放っておいた。 それで、付き合いが無かったわけではないんだよ。実際にいろいろと……。そのような感じだったよ。

大森:同じ美術部で覚えている人、あるいは、われわれも知っているような人はいますか。

長:いや、それがいないんだよ。あっ、「VAN」(注:詳細は後述)で、先輩で三田定夫さん、あとは東武(鉄道)の荒牧好和(よしかず)という者が……荒牧は、館林に行ったときに、父親が館林駅の助役をやっていた息子で、それで仲良くなった。  俺が館林から梁田へ移ってきて、梁田の野球のチームだと、よく遠征などで筑波の小学校や中学校へ行った。そうしたら、その荒牧にまた会ったんだ。「荒牧、どうしてまたここにいる?」と言ったら「いや、父親が転勤で県の駅長になったんだよ。それなんで俺も動いてきた」と、そのようなわけで一緒になった。それで高校時代は、ずうっと3年間一緒で、荒牧君も絵が好きだった。絵を描き出して、俺は藝大へ行かなかったのだけれども、荒牧の家は豊かで、藝大へ行こうとして落ちてしまった。それで本人は、父親の跡を継いで東武の駅員になって、最後は駅長になった。  東武は昔、縁故関係で知り合いでなければ入れてくれなかったんだよ。美術部の先輩や、あとの何人かは、荒牧の父親に頼むとみんな入れ(てくれ)た。俺にも入れと言うのだよ。だけれども「ばかやろう、荒牧、俺は制服が一番嫌いだ。あんなもんで敬礼できるかよ」と言って断り続けた。 その頃は職業難だったの。俺は、しようがなくてガス会社(足利ガス)へ入ってしまったのだけれども、これだって、うちの祖父が役員だったというので入れてくれた、そのような感じがあった。  荒牧は、藝大に入れなくて、駅員で父親の跡を継いで、あっさり駅長になってしまって、今度は山辺の駅だ。

大森:そうすると、石井先生とは、別に、絵や美術的な影響を受けた先生でもないという感じですか。

長:うーん……。

大森:絵のことをいろいろと教わったり、誰々という作家の……。

長:まじめな先生だから少しは期待に応えようと多少は勉強したけれどもね。(自分は) いい格好だけはしていた。

大森:よく小林道夫さん(足高美術部の下級生)と石井先生は、音楽で仲良しで、もっぱら音楽などの……。

長:音楽が好きなんだよ、石井先生は、モーツァルトが好きで。俺は、大体、クラシックにのめっている者は、あまり好きではないんだ。だけれど、そのような話ばかりしている。

 俺に言わせると、みんなは「石井先生に世話になった」と言うのだよ。だけれども、世話になどならなかったのだよ。ただ、形式的にはね。でも、いい先生だったことは確かだ。

【パフォーマンスの挿入曲、シャンソン】

大森:話が飛んでしまうのですけれども、今の音楽の話で、よく長さんがパフォーマンスをやるときに音楽をカセットに入れて掛けたりしますね。あの選曲というか、あれはとても楽しみだった……。

長:初めは、亀で、口笛で歌うでしょう。 あれは、俺の作曲だから。「ほーら、ごらんよー。西の空へー」と口笛でやったときに何か作ろうと思って、それで口笛でやり出したら、亀が口笛を吹くと動くんだよ。それで楽しくなってしまって、時々、それは歌う。 あとの選曲は、俺は情緒的な人間だし、(インタヴューに同席している)山本さんもそれはよく知っている。だから、シャンソンなどであまりはやらなかったけれども、いいシャンソンがあるのだよ、フランスは。

大森:うん、シャンソンを掛けたことがあったから「ああ、こういう音楽趣味のかなあ」と。

長: パフォーマンスには、フランスで知的階級に売れたシャンソンで、少しアラビア風の感じのシャンソンがある。あれでパフォーマンスを「パン、パン、パ、パンパン。パ、パ、パン、パンパパパン、バーン、パーン、パ、パパン。パーン、パーン、パ、パーン、パ、パ、パ、パン、パ、パパン、パパン」というのでいいんだ。だけれども、俺が好きなものは、はやらないんだよ。

山本:それは何でしたか、具体的に。フランスのシャンソンの……。

長:うん、フランスのシャンソンでね。

山本:いまひとつ流行っていないものだと難しそう。

大森:何という名前の歌手が歌っているというようなことは。

長:フランスの映画で「髪結いの亭主」というのがあっただろう。あれは、女にほれて結婚して、最後にどういうわけか身投げしてしまうのだね。そのときにその音楽を使っているだよ、アラビア風の。どちらかというと、シャンソンでも昔はフランスは、トルコや中東は、みんな、植民地で、そのような影響があったのだね。 あとは、いろいろなシャンソン歌手がいるけれども、流行らないのだよ。あとジョルジュ・ブラッサンス(歌手)の「リラの門」などを歌った。あれもいいよ。

大森:それは、いつ頃から聞いていたものなのですか。高校生ぐらいから?

長:これは、大体、高校少し前から。 あとは、俳優でイヴ・モンタンがいるでしょう。あの人の「枯葉」は、やはり一番すばらしいのだけれども、時代が過ぎたらあまり歌われなくなってしまったね。あと「愛の讃歌」は一般化したけれども、やはりすばらしいよ、何でしたか、女性の歌手がいたではないですか。

山本:エディット・ピアフ。

長:エディット・ピアフ、あの人のあれはすばらしい。それで、イヴ・モンタンで好きな歌が幾つかあるんだよ、舟漕ぐ囚人の歌など。それは、ロシア民謡から来ていたりして……。 あと「暁に」は思い出がある。荒牧に、俺は金が無くて「イヴ・モンタンのレコードを、おめえ、買ってくれ」と言ったら買ってくれたんだ。それで聴かせてもらって感激して、年中聴いていた。「暁に」は、チャンスがあったら何かに使おうと。いいんだよ、これが。要するに、囚人の歌なんだけれども、囚人が暁になる、日が昇ってくる頃になるといろいろな夢を抱いて、いろいろなことを思い出すという歌。それが、低音から始まって、1オクターブずつ上がっていく、同じ歌なんだけれども、それの最後がいいのだよ。

「暁に」と言うのかな、やはり。この「セタリ」という歌が好きで、何かのパフォーマンスに使う。あとは、オペラの中のアリアなどもいいものがあるではないですか。

大森:うん。

長:俺は、むしろ大衆的ないい音楽が好きだね、やはり。

大森:そうですね、クラシック派とはまた違うのですかね。

長:やはりサティなどは幅が広くて素晴らしいね。サティは、今だって俺の電話番号のあれにしているけれども……。

山本:待ち受けですね。

長:うん、いいですよ、サティは。

長:ねえ、新しいね。あのような人にはなりたいね。 結構、クラシック畑とも随分といろいろな関わりを持っていて、だから「いいな」と思った人は、裏の話を聞くとますます好きになる。

山本:その辺り(を聴いたの)は、元々は、ラジオか何かですね、長さんは最初に。

長:うん。

山本:それとも、誰かがやはり聴いていたものを気に入ったという感じですか。

長:それは、自然に入ってきた感じがするんですよ。ほら、流行歌などがあるではないですか、歌謡曲で自然に歌えてしまうような。あのような面では似ているところがあるんだね。年中聴かされていると自然に覚えてしまう、作者がどうであれ。そのような意味では、外国の作家は、例えばプレスリーだって随分と民謡のようなものを歌っているでしょう。あれは土俗的で、やはりリアリティーがあるのだなと思うんだね、日本のものよりも。それに、やはり詩がいいということはあるでしょうね。音楽は、先天的に好き。

大森:今までの話を聞いていて、美術というよりも、むしろスポーツや音楽などに非常に興味がある。

長:実際、3人ぐらいでグループを作ったことかあるんだよ。

山本:えっ、音楽のですか。

長:それで、みんなが、あのときにプロになってもよかったかもしれない。俺は、別に自慢するわけではないけれども、精神病院に勤めたとき(1963年―1971年)に、二期会で鬱病になった人(のところ)に随分回ったのだ。それで、俺がクリスマスに歌うとその人たちが言ったのだ、「長さん、声がいい。俺んとこ来いよ」「声がいい」と。その頃は30代だろう。今は声を出そうとしても声が出ない、情けないのよ。俺は音楽の方がいいね。好きだね。直接出せるでしょう。

大森:この間来たときに、肺活量が、かつて6,000㏄幾つあったと。

長:そうだよ。

大森:うん、それで、普通は3,000や4,000ぐらいではないですか、大人で。

長:俺はね。……けれども芸術は、他の人が聞いたら支離滅裂ぐらいでいいのかもしれないね。それで山本さんが面白いところは、飾りつけのとき……(山本さんに向かって)いいね、話しても。

山本:どうぞ。

長:(2008年の栃木県立美術館の「長重之展<時空のパッセージ>:足利の来し方、世界の行く末」会場の展示計画について)俺に全部任せると(言われて)やったのだけれども、駄目。それで諦めて山本さんに預けた。そうしたら、この人は、こうやりたいと一晩のうちにぺたぺたと(レイアウトを)やって配置案を作ってしまった。

山本:(そんなことが)ありましたっけ。

長:そのままでやったのだよ。その代わり、絵が系統的に揃っていなかった、初めの方だけで。その方が山本さんの真骨頂なんだよ。 それで、もう少し評論家に、山本的になってもらいたいと思う。例えば、地名なども入れてタイトルを付けなければ駄目ですよ、やはり。 俺は、カタログに「足利」と地名が付いていることは、ほとんど無い気がする。

山本:それの話ですね、展覧会のサブタイトルの。

長:そう、これ。俺は、これは結果的には、ぴったりしていると思った。 あと、そのようなことを含めてオノサトさんが、あっさりと「長君、絵なんてどこでも描ける」と言っただろう。

大森:うん。

長:あれは、やはりオノサトさんはシベリアに抑留されて死ぬ思いをしたからで、そのときに芸術のことを思ったと思うんだね。それからでしょう、帰ってきて。だから、分かるまで時間は掛かったけれども、そのようになった。

山本:先ほどの倉庫、例のアート・アンサンブル・オブ・シカゴのフリージャズっぽいものがとても印象があって、シャンソンとクラシック系のものの名前を覚えていないのですけれども、それは、どこですか。大体、カセットテープで、ガチャッという感じですね。

長:うん、やはり純粋に出てきたものよりも、例えばクラシック畑でも民謡を利用したり、あのようなものの方が俺は親しめるというか、何か分かるような気がするのだね。 だから、音楽家自身の立場を考えてみると、俺は、やはりコラボレーションのようなものが人間の理想だと思っているところがある、あらゆることで。

江尻:では、絵を描くときも音楽を聴いて描いたりなど……。

長:そのようなこともあるけれども、わざわざそのようなことはしない。 結構、歌は出てしまうと思うんだね。プレスリーが難しく「こらえきれずにただ独り」などと言うけれども、あれは独り言で始まるのではないかと思っている、みんなに聴かせるためではなく。自分も一緒、自分で自分を慰めて気分が良くなってしまう。

江尻:そのような感じで独り言っぽい。

長:やはりこれは、自己満足の世界なんだな。自分勝手の方がそれは出せるんだよ、きっと。美術が好きな者は、みんな、よくよく考えてみると変なところがあるね。 変ではないのだよ。それが自然なんだよ。

【「VAN」のこと】 (注:発足当時(1950年)は「VAN洋画グループ」と称されていたが、1952年以降は「VAN」という名称で企画展を行っていた。)

大森:高校時代で聞きたいのは、「VAN」のこと、あとは、久保貞次郎さんのコレクションを借りてきて、足利高校文化祭で展示した……。

長:うん、そうそう。

大森:その辺りのことを聞きたいのですけれども、まず、「VAN」の辺りを、メンバー(磯直温、蓮沼政雄、堀需、長重之、河内正明、河合仁一、堀越八重子、久保田昭三、山田行彦、足立真啓、三田貞夫)は、この間頂いた資料で大体分かっているのですが、その中で思い出す人などは。

長:「VAN」の正確なところは、足立真啓(まさひろ)さんという人がいて、この人は、法政(大学)の哲学科を出て小説家を志していた。その人が文章を書く能力があって、「VAN」の仲間たちということで、この間、資料が出てきたんだよ。それをあげますから、それを読むと……。 俺が思っている「VAN」は、戦後、日本が負けたでしょう。日本の目標が文化国家建設だったんだね。それに伴って今までの共産党から進歩派が解放された。それによって何かアメリカも文化的に豊かなものを日本人が覚えなければ、また軍国主義のようになってしまうのではないか、やばいと思ったと。 それで、少し手を緩めたという感じで、文化国家建設で、みんな、金が無いのに何かやり出すわけだよ。音楽の「歌声運動」などもそうではないですか。組合運動もつくづくそうだったと思う。日教組は、今はあのようなことだけれども、日教組系は大体進歩派で、共産党系のようになってしまったり、それは、ある程度許されていたと思う。 「VAN」も、その流れでグループが出来たのです。俺は、高校2年か3年のときに自然にそのようなグループがあるというので見に行って「あ、俺が遊びに来る場が出来たな」「すごくいい場が出来たな」と思った場所だったね、グループというか。

大森:「VAN」というのは「前衛」という意味だと書いてありますね。

長:うん。ところが、「VAN」にはフランス語でいろいろな意味があるでしょう。蓑のようなことも「VAN」と……。

大森:「ミロ」?

長:「蓑」、着る。それは分からないよ。そのときになぜ「VAN」と……「VAN」という洋服のような物もあったではないですか。俺は、あれの方が先だと思うんだよね。

山本:「avant」の「van」ですね。「avant-garde」の「VAN」。

大森:ああ、「avant-garde」の「VAN」。

長:うん。それで、何かいかにもそのような前衛的な感じに付けたと。磯直温(なおはる)さんという人は、ここにも書いてあるけれども、本当に赤旗のグループ部を作ってしまったの。そうしたら、要するに共産党だということになってしまった。だけれども、全然、共産党などという気の利いたものではないのだよ。ただ、やってみたいことをやりたくて集まっただけ。

大森:3人展(久保田昭三、遠藤昭、磯直温/1950年5月15日~16日、大沢呉服店)が最初で、遠藤昭さんや……。

長:俺は、3人展のときは見に行ったかな、忘れてしまった。自然に「出さないか」と誘われて2回目ぐらいから出したような気がするね。

大森:牛骨の作品がそうなのですか。

長:田部井勝弘さん宅にある自画像ですよ、変な真っ黒、紺の。あのようなものはデッサンも何もなっていないんだよ、ただなすり付けたような。  俺が「VAN」は一番良かったのではないかと思うのは、行く場所が出来たということ。高校を卒業して勤めたわけ。俺はそれほど酒を飲むわけではないし、それほど遊び人でもない。そうすると、(ガス会社が)終わる度に……。遠藤昭さんの家が足利学校のすぐ隣で、「VAN」の会員だった遠藤さんがいたのです。そのお父さん(図案家)のアトリエで、自宅でもあった。そこが「VAN」の集まり場になってしまって、仕事が終わって何かというと年中そこへ行っていて、そこが俺の落ち着く場所だったね。  そのような意味では思想的にどうのというよりも、いろいろな影響を受けたのは、昔の人たちは、結構人をけなしたり酷評する、それが何か空しいような感じがしたのだけれども、何かせこい考えだったね、みんな。 みんなで集まっては「東京でみんなで金を出して展覧会をやろう」というのが夢だったりしたんだよ。

【桐生の「10」館林の「ZERO」】

そのうちに国家目標ではないけれども、あちらこちらにグループが出来だして、桐生に「10」(桐生10、オノサトトシノブも関わっていた桐生の若手絵画グループ)が出来た。それはオノサトさんが大体、頂点ぐらいだった。

大森:「じゅう」という字は、どのような……。

長:数字の「10」。何点付けたか、ゼロを付けていくと、そうしたらどんどん増えていくではないですか、10にゼロを付けると。そのような未来に可能性のあるグループになりたいという希望。

山本:ああ、グーグルと同じ発想ですね。

長:あと、館林にも(グループが)出来たのだよ。

大森:「ZERO」。

長:「ZERO」というのは、「0」からの出発で、「10」(てん)と同じ発想。その連中が初めは何回か展覧会を個人でやっていたのだけれども、一緒にやろうなどと言ってやり出したわけ。そのときに初めてオノサトさんが桐生の連中(「10」)と一緒に来て……織姫公民館って無くなっちゃっただろう。そこで合同展などを開いたりした。 そこでオノサトさんと初めて会った。俺は、高校2年で、父親のような人だろう。寄り付き難いので、挨拶するのが精いっぱいだったよ。オノサトさんのその頃の作品は、しゃもじのようなものを描いていた、人魂のような。まだ丸は描いていなかった。だけれども……。オノサトさんは、結構、有名だったから「こんな先輩と一緒にできてうれしいな」などと思って参加していた。  (館林のグループ「ZERO」とは)そのうち館林の連中で三瓶(昭三/しょうぞう)さんという人がいて、その人が独立(美術協会)か何か出していたのだよ。独立などでいい作品を出していたのは、まだ花形だったのですよ、団体が。だけれども、みんな、それだけでは物足りないのでグループで勝手なことをやり出したんだ。で、一緒になって展覧会をやる。そのような関わりが面白かったね。

大森:これは、何年ぐらい続いたのですか。冊子は16号ぐらい出ているのですね。

長:結局はみんな、それぞれ生活しなければと、ばらばらになってしまったね。俺は、初めのインタビューではないけれども、ガス会社に勤めるようになって、社会意識が目覚めて、それで本当に家の歴史に興味(を持って)「俺の生きていくことと関係あるんだなあ」と問題意識が出てきた。  なので、「VAN」の連中は、今、思うと、何が一番いいかというと、俺が「VAN」へ行って、そのようにしてみんなと関われる場所が出来たことが最高だった。その期間、若い間にいろいろな人を見て。だから、そこで何かを教わったというようなことは、それほど無い。俺が行くいい場所が出来た。もう最高だったね。  その中で、結局、みんながやめた後も、ずうっと創作が続く。本当に何人しかいないんだよ。オノサトさんがトップクラスで、オノサトさんが一番いろいろなことをやり出して、オノサトさんと出会えた点も一つの良かったことだと思う。  それで、俺が村松(画廊)で1968年か、初めて展覧会をやるとき(注:長重之展「ピックポケット’68」1968年5月10-15日)にオノサトさんのところへ行って「こういうわけで東京で展覧会やるんだけども、よろしく」と言ったのだよ。そのときに、ほら、オノサトさんは、毎日現代展でグランプリを取ったりして結構有名で、大体、あの賞を取れたのも、オノサトさんが言うには、若手の連中が随分と落ちたらしいね。中原(佑介)さんや東野芳明さんなど「みんな俺がよく知ってるから、じゃ、みんなにも(案内を)配ってやるよ」とオノサトさんが中原さんなどみんなに出してくれて見に来てくれて、それがきっかけだったね。  オノサトさんは、時々、有名になってから奥さんが仕切ったようで、厳しい時代があったけれども、奥さんは早死にしてしまった。そこで久保(貞次郎)さんの関係も出てくるのだけれどもね。 だから、「VAN」は、戦後、やはり日本が目指した文化国家のときに、それとタイミングよく重なった一つの活動だったと思う。

大森:これを見ると、6,7年続いたということなのですかね。

長:そうだね。

大森:最後が1957年、最初は1950年、だから7年間ぐらい続いたと。

長:そのぐらいのものだろうね。

大森:高校生ぐらいで一番若かったのが長さんと、そのメンバーの中で?

長:今、思うと、そのように若くて何も分からなかったのは、いいことだったね。下手に知識があったらつまらなくなってしまったかもしれない。

大森:足利ガスに今、残っている作品は、磯さんでしたか、磯直温。

長:そうそう、磯さん。

大森:磯さんの作品があるのではないかと。

長:そう。俺がガス会社へ19(歳)のときにもう勤めてしまったでしょう。そのときに「VAN」も盛んだった。その頃、俺がガス会社にいたので、「ガス会社風景」は、歴史的に結構出てくるではないですか、大正の長谷川利行がガス会社風景を描いたり、そっくりなんだね、確かに黒いタンクは魅力的ないい題材だった。そのようなことで、よく描きに来ていたね。  あと、他の人は、みんな、ばらばら。俺は、その頃に読売アンデパンダンテンが始まって、そこへ結構出したんだよ。俺のものも別に現代美術的でも何でもなかった、その頃に出したものは。

大森:自画像だったですね。

【読売アンデパンダン展、久保貞次郎コレクション】

長:そうそう。そのときに河原温さんが<浴室>シリーズを出していたんだよ。それから、池田龍雄さん。あの2人と石井茂雄という点画で描いている人。 あと、あの頃は、松澤宥さんも出していたんだ、やはり。松澤宥さんの印象的だったものは、腰掛けを一つだけ置いて、じゅうたんか何かを敷いてあって、それだけの作品で、みんなが考え込んで見ていた。オノサトさんも(読売アンデパンダン展)をしっかりと見ていて、後になって「松澤さんって、やっぱりすげえとこあったんかな」と。  昔のカタログを見ると面白いよ、ギュウちゃん(篠原有司男)だの。 あのときに知ったのは、ちょうどあの頃は、俺と同じ年代の人がたくさんいたわけだ、中西(夏之)さん、河原温さんもそうでしょう。小島(信明)は、少し下かな。それから、ヨシダミノルさん、荒川修作のセメントのオブジェなど。結構いたんだよ。それで共感があった。 けれども、俺は付き合いは一つも無かった、こちら(栃木)にいたので。後になってからでしょう、中西さんなどとは。あの頃が一番……。 あとは、「具体」の連中がいるでしょう。今、具体は、ヨーロッパでは評価されていて、この間、嶋本(昭三)さんの作品は何千万などと何かで言っていた。時代が変わるのかなと。

大森:久保(貞次郎)さんとの辺りは、「VAN」の活動とはまた別だったということなのですね。

長:うん、そうそう、全然別です。ただ、久保さんは、俺が知らない部分で、ちょうど「VAN」などが出来た少し前だね。足利には、一応、いろいろな美術協会(団体)があって、久保貞次郎さん、小此木さんは金物屋の出の人だから(注:小此木は久保の旧姓)。

大森:そうですね。小此木銅鉄店が、そうだと思うのですけれどもね。

長:結局、一校、東大ではないけれども秀才で、真岡の財閥に望まれていったので、それで足利(の織姫公民館)へ……その頃、セザンヌなども持っていたというんだね。うわさでは、今、ブリヂストン(美術館)にあるサントヴィクトワールの風景画があるではないですか。あれらしいという人もいるのだね。あの頃でも、非常に高価だったのではないかな。そのことを聞きませんか、山本さん。

山本:……。

長:久保コレクション。

山本:今、ブリヂストンに。いや、その辺りは全然詳しくないですけれども、調べてみます。

長:その頃は、俺が足利の高校にいた頃で、調べてみたら、久保さんは足利中学校の第2回(1927年)の卒業生なんだよ。その頃の人は、やはり優秀な人は東大(東京帝国大学)へ行ったりしていて、俺が高校時代に内田先生という人が先生で来た。美術部の顧問になってくれて、ほら、足利で高校などは学校祭をやったでしょう。そのときに「何かいい催しがねえかなあ」などとその先生に相談したら、その内田先生は「久保貞次郎は俺の同級生だ」「親友だ」「あいつに聞けば何か借りられそうだよ」などと言うわけ。それで、その先生が紹介状を書いてくれた。  そうしたら、その頃の久保さんは、池田満寿夫の売れないような小さい版画や加藤正なども(持っていた)。河原温さんは残念ながら無かったのだけれども、泉茂など、みんないたではないですか。その頃は、北川民次を集めていた。家に行ったら、これほど大きい絵がたくさん転がっていた。それで、美術館が別にあって「みんな、美術館見てこい。いいぞ」と言うので、3人ぐらいの学生で行って、そうしたら、そのときは、もうセザンヌは税金を払えないので売ってしまったというのだよ。ピカソの作品などがあって、あとは、前期印象派や、後期印象派のスゴンザックがあるだろう。

大森:ええ。

長:あれなどは高校生時代は好きだったんだよ、みんな、厚塗りして。それで、これでこのぐらい大きなものを。みんなでいじったり、ピカソの作品などもあったので見て、帰りに番頭さんが3人ぐらいいて、俺は絵はどれがいいのか分からない、その頃は、まだよくね。そうしたら、適当に5、6点持っていけというわけで、みな額に、番頭さんがマットを切って入れてくれた。 その中の一つにマチスの版画があった。ほら、ジャック・ヴィヨンがいるでしょう。

ジャック・ヴィヨンは、知ってのとおりデュシャンのお兄さんでしたか。あの人は、版画は定評があったんだってね。版画作品を絵描き仲間が結構頼んだらしいではないですか、モネやマネなどもそこへ行って。 それで、そうしたらマチスの石版画を貸してくれた。こちらは知らないから、それは大事な物だと思って調べたら、あれを今買ったら非常に高いですよ。  借りてきた版画を織姫公民館に一晩で飾ろうというのだ。ピカソの版画のような物もあったと思う。それを5、6点持って真岡の駅へ行ったんだよ。そうしたら、まだあの頃は、駅員が威張っていて「おめえたち、こんなでかいもん載せね」と言って乗せてくれなかった。それで困ってしまって、しようがないから電話を貸してくれと言って久保さんのところへ電話して、そうしたら、半ズボンに下駄姿で久保さんが「君たちは、何でこの辺、うろうろしてる?」「いや、駅の人が、これ、大きいから駄目だって言うんですよ」と言って、(駅員が)久保さんの顔を見たら「あっ、久保先生、どうもご苦労さまです。今日は何ですか」「君たち、乗せてやんなくちゃ駄目じゃないか」「あっ、すいません」と言ってすぐに乗せてくれた。 乗せてくれたのはいいけれども、小山で乗り換えるだろう? あの乗り換えが、あの頃は大変だったのだよ。「これでめっかっちゃ大変だ」というので、3人で一番後ろから駅員の目を隠れて何とか乗り込んで、足利(駅)へ帰って、1人が裏の柵からみんなで作品を降ろす、暗いからちょうどいいんだ。それで1人が見張っていて、代わりばんこで下りて行って、そこから持って帰った、そのような思い出がある。  そのような話をこの間、真岡の巡回展(2017)で俺の「ポケット」を出してくれたのだよ。そうしたら(久保さんについての講演依頼の)連絡があって、久保さんは足利の出身で、俺も久保さんともっといろいろな関わりがあってもいいものの、あまり浮かばなかったけれど、「いや、こういうことがある」「そういうことでもいいから話してくれ」というので(引き受けた)。行くときになったらダウンして(2017年12月に入院)しまって行けなくなってしまった。  久保さんは、俺もその頃は知らなかったのだけれども、あの人は東大を出て退職するまでは日銀へ勤めていたのだね(注:東文研物故者記事はで真岡に航空会社を設立とある。 http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10720.html)。それで余力で評論家になったのだ。それで町田の版画美術館の館長をやって文章などを書いた。  あと久保さんがすごかったのは、やはりさすがに東大ではないですか。政治家。それで、オノサトさんと知り合ったきっかけが、戦後教育で美術教育展(児童画展)があって、自由画運動を提唱したのだと、久保さんが(注:1952年、北川民次らと創造美育協会を設立)。それを文部省が採用して、全国的に教科の中に入ったようだ。  (当時は)みんな、代用教員が多かったのだ、遠藤(昭/「VAN」の先輩)さんも代用教員で先生をやっていたのだから。オノサトさんも代用教員をやっていて、そのときに知り合って、自由画運動が盛んになって、それで久保さんやみんなが作家として活躍するようになって、またいろいろな活動につながっていったようだ。  そのときに久保さんが、ヘンリー・ミラー、あれは、桐生の(摺師)柿沢さんか何か、本物の石版印刷しかやっていない人がいた。一番初めにオノサトさんがその人に石版でやってもらった版画がある。石版は今の時代だと版画として通ってるわけだけど、昔は、だって、あれは印刷の道具にすぎなかった。久保さんは、結構、金もうけもうまいんだね。それでヘンリー・ミラーのものを買い込んで、それをオノサトさんに版下を起こしてもらった。オノサトさんは、ぶりぶり言っていたのだよ、俺が行ったら、あのとき。「俺は、ヘンリー・ミラーは大好きなんだけど、ヘンリー・ミラーの絵を見るとゾクゾクして、あんなの大嫌いだ。久保さんが持ってきて、版下を描けていうので年中けんかをしていた、「嫌だ」「頼む」「嫌だ」と。だけれども「最後は、久保さんに世話になったんで、しょうがねえ、描いたんだよ」と。だから、この辺りにあるヘンリー・ミラー(の版画)は、みんな、桐生で生産した(刷った)んだ。そのようなことは、みんな、知らないかもしれない。  俺もその柿沢さんに<ピックポケット>という70年代にクラフト地に刷ってもらった案内状があるんだよ。そのときの印刷は、ポケットのときに黒いポケットの袋を作ったの(1968年、村松画廊個展)。 靉嘔なども、みんな、そこで刷ったのだよ、<虹>などは。  それで、足利にもコレクターが、2、3人増えてきたのだけれども、そのようなことを知っている人は、ほとんどいなくなってしまった、確かに。知っていても、そのようなことと関係する場にいなくなってしまっているけれども、俺は、まだやっているからそのようなものを忘れないでいるだけの話。

大森:足利の和久井ギャラリー(足利通3丁目)さんのコレクションが久保さんの薦める作家を随分と集めていたわけですけれども、足利高校の河内先生が指南役ということでかなり久保コレクション系の物があったし、浅川邦夫(注:東京の南画廊に務め、後に画廊春秋を営み、蒐集作品を足利市立美術館に寄託、寄贈)コレクションも、今出てきたようなジャック・ヴィヨンの石版画がなぜあるのだろうと思うような物が随分とあったり、ヘンリー・ミラーの物があったりして……。

長:もう、浅川時代で分からないような作品もあるわけだ。ジャック・ヴィヨンなどは、本当に関係者しか知らない。 あとは、お医者さんで岩下という外科がいたのだよ。その人が久保さんから買い込んだりしていた。だから、本当はそのようなことが足利市でも桐生でもつながっているようだと環境的によかった気もするのだね。

大森:織姫公民館の展覧会は、2回ぐらい開いたのですか。

長:2回ぐらいやっている。あれは、地域運動としては、結構…… ただ、あのようなものは長続きしなくてもいいのかもしれないね。それを結果的に受け継いでしまった人。 美術の世界と…… だから、いい立場で何かをやり続けることは難しいと思うね。

大森:うん。そうしたら、大体…… 高校時代で何か印象に残っていることは、他に何かありますか。

長:高校時代は……。

大森:そうしたら、高校を卒業してガス会社、これでいいですか。

山本:今は足利ベースのお話をいろいろと伺ったのですけれども、ぷらぷらと東京に行って誰かに会ったり、何かの展覧会を見たりというようなことはなさっていましたか。

長:社会へ出てからだね、そのような動きがあったのは。それまでは、定番の名作展のようなものを高校時代に見に行ったり、そのようなことはあった。だけれども、あまり自分の刺激にはならなかった。 ただ、今でも印象的なのは、マチス展のような前衛的なものはね……。マチスは、やはり年を取るまでいい作品を作っていた。その様になるとは思わなかったけれども、定番のようなものは見ていたね、高校時代は。  結局、一番関わるようになったのは村松画廊に出せるようになってからですよ。それで、俺が村松でやるようになってからは、結構、いろいろなことで出て行ったりしたね。  そこから先は、今になってみると、やはり足利からはその頃に行って、みんなと関わって、みんなが足利へ来るようになったと思う。俺が村松でやったときは、栃木県から来ると、みんなが「遠いところをありがとうございました」だから、周り中が。関西から狗巻賢二などが来ているけれども、あの連中は近いのだよ。隣の家のようで、それほど遠くなかったよ。それで精神的に距離感のようなものは感じたね。 それで、栃木県よりむしろ太田の方が知っているのだよ。太田は軍事工場があって、みんな、勤労奉仕で行ったり、あとは日光だね。日光は近いと思っている者がいた。 1回、関根伸夫ともいろいろな話をして、あの人が関わる美術学校が出来るのだと。「日光に出来るんで長さん、講師で来てくんねえか」などと頼まれたけれども「関根さん、日光まで行くには、俺は1日掛かりですよ」「何? そんなに離れてる」「足利ってここだよ」と、初めて足利との距離をみんなが知る。 それで(みんなが)足利まで来るようになったら、八田(淳)と藤原(和通)君などは、そろそろこの辺りで弁当を食べようと思ったら、足利と言われてしまって「足利なんてこんなに近いんじゃねえ」などと俺のところへ来て文句を言っていた。  だから、そのような精神的な距離は縮めたと思う。点展のとき(注:「点展」は1973年、自宅アトリエ;1975年、ジャズクラブオーネット、足利;1976年、自宅周辺で開催、参加作家には、榎倉康二、島州一、高山登、長重之などがいた。)には、みんな、随分と来たけれども。みんな、足利駅に来て、今は黄色いタクシーがあって(当時はなかった。?)、俺のところへ一斉に来て、みんなが「長さん、暴力団の仲間か」などと言われているんだ。だって、みんな、このように菜っ葉ズボンだろう。

大森:ええ。

長:俺の家は、ここに門があったからみんな目立ったのだよ。道が分からないから、みんな、真っすぐ来てしまうのだもの、田んぼの中を突っ切って。 だけれども、農家の人も文句を言わなかったのだね。変な、見慣れない、あとは怖そうな人たちには何も言わなかった。

 それで、点展のときには、みんなが来たのだけれども、俺の家には昔の物があったから少し引っ張り出して見せて…… 昔の結構いろいろな物もあるので、そのような物を新鮮に見て帰って「長さんのとこで性に目覚めた」などと言って帰った。 今も昔のエロ本がありますよ、読めないけれども。

大森:これで一旦、おしまいということで、また……。

長:切りが無い話で……。

大森:本当ですね。この後、また社会人になってからのことをお聞きするということですかね。お疲れさまでした。

一同:ありがとうございます。