文字サイズ : < <  
 

長重之オーラル・ヒストリー 2018年4月5日

栃木県足利市福富町、長重之自宅にて
インタヴュアー:大森哲也(足利市立美術館館長)、今井朋(アーツ前橋学芸員)
書き起こし:今井朋
公開日:2018年10月31日
 

大森:前回のお話は、生まれてから、高校を卒業するくらいまでの期間を色々と聞いてきたと思うんですけれども、今日は高校を卒業してから大人までを。大人になってからは長いので、私が思ったのはちょうど《視床》の始まる頃と言いますか、栃木県立美術館で北関東美術展(1983年)があって、そこで出して賞を取ると、そのぐらいの時期までの長さんの活動を聞いていきたいなと思ったのですが、よろしいですか。
 それで、最初なのですけれども、この間、高校時代のことを聞いたのですけれども、肝心なところで、まず長さんは、旧制中学だとか、ちょうど戦争前後でありますよね。我々だと15歳で高校に入るという感覚ですけど、長さんの場合は、どういう。

長:俺なんか入った頃はね。新制高校が始まって2年目だったね。なので前の中学の人は中途半端の人もいたみたいね。まだ高校行くんだら、中学の何年までなんだろ。もう1回高校行ってもいいって言うんで、そんで行った人たちとね、第一回目の人は一緒だった。

大森:ちょうど切り替えの時期ですよね。

長:その時に遠藤さんなんかもね、その中にいたんじゃないかと思うんです。

大森:遠藤昭さんですね。

長:遠藤さんや磯直温(なおはる)さんや足立真啓(まさひろ)さんとかね。その頃のことを聞いたことがあったけれど、みんな社会人だからタバコをすぱすぱ吸っていて、教室中で休み時間になるとみんな吸ってる、いろんな人がいて面白かったんだよ。

大森:じゃあ、旧制中学の中学に入っていて、ちょうど15歳くらいの人はもう1回入って。

長:俺も最初は知らなかったんだけど、後になって聞いたところ、高校は第二回目なんだよね。だから、中学は新制中学。二回目の卒業生なんだよ。

大森:新制中学の二回目の卒業で、新制高校の二回目の卒業生ということね。

長:その頃は、先生なんかも戦争中だからもうみんないなくてね、大学出たばかりの先生が結構いたんだ。俺なんかの担任は、台北帝大を出た考古学やってる変わった先生、から教わったことがあるんだよ。
そんなこんなで石井(壬子夫)先生は、新制高校で赴任してきたんだね。その前の先生は辞めちゃってさ、だから結構古い、歳をとっている先生もいて。美術部の顧問をやってくれたのが、足中(足利中学校)の第二回の卒業生で、久保(貞次郎)さんと親友だという人がいたんだよ。割にすごい自由教育になったんだよね。だからたぶん、高校時代になるとね、勉強もしないで、教練なんかばっかりやってたんさな、きっと。

大森:高校卒業するまで長さんと美術の関わりは、一番が「VAN」の活動に参加したのが刺激が多かったと、それで久保貞次郎さんのコレクションを展示するみたいな、そういうのも高校時代にやったと。

長:はじめは絵に興味はなくって、野球部か、どっかで野球が好きだったからさ、中学時代も勉強もしないで。とにかく戦争の真っ最中で。だから先生は招集されちゃっていなくなっちゃうしさ。そんなんもあって、高校行ったんだけど、あんまりスパルタで、やだなと思って、たまたまうちに親父の道具がいっぱいあって、何か自分で好きなことを一つくらいやろうと思って、それがきっかけで美術部入ったわけだよね。

大森:それで、「VAN」の活動の中でも、1、2回出品してますよね。そういう油絵の勉強というか、油絵の具の使い方だとか、そういう勉強は誰から教わったか。あと他の国内外の作家の画集とか見る機会というのは。

長:結局ね、学校でも油絵なんかでも、高校時代金がなくて月謝も払わないんでさ。先生が心配して、定時制で小遣い募集しているから、やってみるかっていわれて、その話したっけ、で、そん時に金が入ってきたんでね、ちょうどよかったんだよ。ほんとにあの時は、5、6千円もらってさ、急に金持ちになってさ、それで絵の具を買って、高校時代に絵を始めたんだよ。それで、ちょうど「VAN」の人たちと知り合ってさ、直接は油絵を教わってないけど、見よう見まねで始めたんだ。

大森:(1回目に伺った時に)「VAN」で一番よかったのは、居場所ができたと。いうわけですけれども、その居場所になる、遠藤昭さん。そのお宅では、みんなが絵を描いていたりしていたものなんですか。

長:別に集まってやろうと言っているわけではないんだよ。あんまり描いてるやつはいなかったな。ただ遠藤さんはその頃、藝大目指して受験するんで、食うのが大変でね、代用教員やってた。だけど、休みとかなんとか(言って)いつもいてさ。なにかあの頃ね、(足利市立美術館の)館長になった弟さん、遠藤武幸(たけゆき)いるだろ、あれがまだこんなにちっちゃくてね、生意気でさ、来るとえばってやがって、それなんでよく知ってさ。それで、美術館始める時に館長になって。で、割に疎通が持てたんだよね。

大森:「VAN」の足立さんでしたっけ。抽象絵画について大論文を機関誌に載せたりとか、ああいう抽象画のことだとか、モダンアート、そういう情報っていうのは、「VAN」が一番大きかったんですか。

長:結局ね、ほら戦後だったでしょ、いつも言うんだけどね、戦後の国家目標自体が文化国家建設だったんだね。駐留軍が入ってきてさ、駐留軍に牛耳られちゃったわけだ、教育もね。あとはね、アメリカの方からあんまりプレッシャーをかけると、また日本人ていうのは、結構、玉砕したりさ、最後は天皇陛下万歳で死んじゃうような人が育っちゃ危ないっていうんで、共産党なんかも日本はみんな、ほら徳田球一さんとか、みんな牢獄に入れられていたんだよ。進歩派が。そういうのを解放したんだよね。組合活動を盛んに奨励したわけ。それで、遠藤さんなんかも割に自由に政治活動なんかやりはじめてさ。たぶん、そういうムードがあったんですよ。それで、歌声運動聞いたことあるでしょ。俺なんかも歌声運動なんか参加しててね。俺は歌が好きだったからさ、よくね、あっちこっち歌いにいきましたよ。何人か組んで、桐生の方に行ったり。そんでね、社会的には、遊ぶことや好きなことをやるのに事欠かなかったんだよね。それでその調子でね、ガス会社入ってから、労働組合があって、一番総評(日本労働組合総評議会)系でしょ。総評というと全国ガス(労働組合連合会)っていうと東京ガスだからね。あっちこっちに会社があってさ、全国区みたいなものでしょ。日教組も総評なんだよ、でみんな過激な連中もいたわけね。で、ガス会社なんかはさ、結局オルグがみんな地方に来るようになって、その人たちの言うことを聞かなくちゃなんねんでさ。みんな会社にどうのというのではなくて、賃上げとかなんかもやったから。で、俺なんかも労働組合に熱をいれて、「長、おまえも赤のレッテルをはられているんだから気をつけろ」なんて言われてさ。みんな脅かされた。で、いや実際ね、あの特攻みたいのもいたと思いますよ。過激なのを取り締まるんだ。

大森:なるほど。今の労働運動の話なんかは、ガス会社に入ってからの話ですから、そろそろガス会社に入る頃に入りたいと思うんですけれども。その前にもう一つ聞きたかった、高校時代の描いている絵が印象派的じゃないけど、風景画とか、決してモダンアートではなかったと思うんです。絵を描く手本にしてた作家というか、いるもんなんですか。印象派の誰とか。

長:いやね。幼稚っていえば、幼稚で、今考えると。ユトリロなんか好きだった。

大森:ユトリロ。

長:そんで色んな伝記なんか読むだろ。あの人はアル中でどうのとかさ。そうするとね、変わった人が絵描きでさ。それでね、ユトリロの絵みたいの描いてたんだよ。でも、もう全然なくなちゃって。で、結局、石井先生はね、やっぱり後期印象派、最後はセザンヌみたいな絵ばっかり描いていた。それで、とにかくいずれね、ああいう高名な画家になって、プロの画家になるってのが夢でさ、そんで現代美術もへちまもなにもなかったですよ。

大森:でも、もう高校時代にセザンヌだとか、ユトリロだとか、20世紀の。

長:随分このへんの油絵も描いたんだよ。だけどね、持ってくだろ、そうするとねあの先輩ですよ、「VAN」の連中がこきおろすんだよ。みんな、こんな絵を描いていたらだめだっていうんで。

大森:前衛のなんとかっていって、あれですもんね。

長:そんで、みんなどこでも、サークル運動やってると。要するに抽象絵画だとか社会主義レアリズムだとか、労働組合、運動やっているやつはね、結構抽象絵画を批判したりしてさ。それで、だいたい二つに分かれちゃったんだよ。俺なんかはね、中立だよね。とにかく自分の好きなことをやる。で、「VAN」の連中もだいたいそうだった。

大森:ガス会社に入ったのは、もう高校卒業して、18歳で入ったことになるんですか。

長:その頃俺もね、少しでも早く金を取ろうと思って。実際の年齢は19歳だったね。それで、ガス会社、労働組合の連中とさ、まあ実際は雇用組合みたいなものだったよね。今、考えると、みんな結構偉いやつがさ。

大森:まあ、ガス会社は、足利ガスという会社で、長さんのおじいさん(長祐之)も経営に参加していたから。おじいさんが創った会社みたいなところがあって入れたと。

長:あのね、就職運動もやったんだけどね、優秀な奴ばっかりきて、就職できなかったんだよ。それで、その頃のいい企業っていうのは、野村證券とか足利銀行とか富士重工とか。あとはね、もう縁故がなくっちゃね。縁故があった方が絶対有利。それで、俺がちょうど就職したけど、創立した人ってのがね、石川さん。うちのお祖父さんもそうだったわけね。で、みんなね、明治時代の士族だからさ、パイオニアだったんだね、株主でさ。お前のお祖父さんが経営者だったんだから、話してみろなんて言ったらさ、本家の人が話してくれて、じゃあ来てもいいと。それなんで、まあ要するに期待されて入ったんだ。だけど、俺はさ、事務はできないし、とにかく座ってやるのが嫌でね、とにかく現場にしてくれ。と。で、始めはね、どっか事務所のいいところに据え付けようと思ったんだけど、あいつはやる気はねえし、だめだなと思ったみたいね。

大森:じゃあ、自ら望んでまあ、ボイラーマン、そういうふうに現場に、配属になった。それで、実際何年間、19で入って何年間ガス会社に?

長:7年間勤めたんだよ。その1年は副業でね、ガスメーターってあるでしょ、ガスメーターなんかも直していた。いい現場だったんだよ。計量器を作る時は、ペンキ使ったりしてさ。模様なんか描いたりしてさ、こりゃあいいやなんてさ、喜んでやってた。そのうちに、計量器の会社がだめになっちゃったんだよ。あんまりいい機械ができないんで。だって、みんな技術のある大会社が計量器なんか作って、いいのができて、競争力に負けちゃった。それで、その次に職場転換するっていうの。外のガスメーター取り替えたり、製造って部分と、事務とだいたい3つなんだよ。供給がだいたい外回り、あとは会計係は集金とかね、それで結局一番よいじゃない職場が石炭配りなんだよ。そこに回されちゃってさ。それで、本当にね、収容所よりひどいところだったですよ。

大森:収容所よりね。具体的にはその、《ガス発生炉》という絵に出てきますけど、まあ、そういうものに向かって......。

長:かまぼこ型のガス発生炉が、1本、2本、3本、4本、5本、6本あんだよ。で、6本か7本あってね、奥行きがだいたいね3メートルくらいあるんかな。それがこう、埋まっているわけだよね。で、その埋まってる、あの、ほら、鋳物でできていたからさ、そこに石炭をくべて、下から熱して、還流するわけ。還流っていうのは、蒸すんだよね。炭と同じ。

大森:ああ、なるほどね。

長:よく、コークスって聞いたことない? 見たことない?

大森:ああ、あります。

長:最近はほとんど見かけなくなったけど、よくね鍛冶屋さんなんかが使ってた(燃料な)んだよ。それで、コークスを掻き出して、そのあとね、250キロくらいの粉のような石炭をその中にいれるんだよ。そういう仕事だった。今思うと、始め3分と続かない。もう、くたびれちゃって。なるべく早く詰め替えたほうがいいわけ、それを開けるとさ、コークスが真っ赤になって、それを3メートルくらいの鉄の掻き出し棒みたいな、その棒がね、一人で持ち上げられないくらいなの。そんで、台の上に載るわけ。台の上にも載れねんだよ、始め。
ところがね、慣れてくると、片手で持ち上げて、ぴょーとのって、それでばんばん出せる。そうするとね、夏なんか60度くらいあるんだよ。そんで、釜が空いているから、石炭入れた時は燃えているわけ。それを皆でね、一人が3本くらいやんなくちゃなんないんだよ。係で。いつも3人くらいで組んで9本詰め替えるんさ。それで、俺の持ち場としては3本。で、その間、汗は出るしね、熱くてナッパ服着てるから暑いんだ。それで、そばに塩が置いてあるんだよ。ザラメみたいに塩。それ舐めながら水飲んで。そうすると始めは汗が出るんだけど、最後はね、全然しょっぱい汗なんて出ないんだよ。ただ、水が出てくるだけ。だらだらだらだら。

大森:ガスを発生させる石炭とそれを蒸すための燃やす石炭とまあ、二層になっているんですか。

長:その窯の温度が1,500度あるんだよ。もう既に。で、そうじゃないとちゃんとガスができないの。

大森:それでガスを発生させた残りがコークスということになるんですか。燃えカスみたいな。

長:そうそう。それを取り出して100メートルくらいのところに捨てにいくんだよ。その台がまたね、木なんかだと燃えちゃうだろ。鉄でできてる台なんだから、それを持ってって、ぶんまけて、それでまた水をジャージャーかけて、もうね、埃っていうか、そのカスとね、蒸気とね、もうそんな中ですよ。そういう仕事だったん。それでね、一人でだいたい7時間くらい。一時間おきくらいにやる。1時間くらいで、9本みんなでつめちゃって。もうすぐなんかできねんだから、くたびれて。ほんで、2時間くらい休んで。定期的にその詰め替えをやるわけ。
でね、それがね、続くようになっちゃう。その時に絵を描いてて、あん時描いた絵がみんな自画像(注:《火夫》1956年頃から制作)なんだ。勤めてて考えたんだよ、俺はこんなことをしていたら体を壊すか、好きなことがこんなんじゃ続かねえと思った。だけど、とにかく金取るのはいいんだけど、こういう仕事をやって、なんの芸術の意味があるんだと思った。よく考えたらね、結局、肉体と精神のこれは戦いだと思ったわけね。それをとことん突き詰めてやろうってんでね。要はね芸術のためにこれをやるんだと。きっと何かの役に立つと、それで、こういう絵になっちゃったんだよ。
はじめ会社入った時は、組合運動の影響を受けて、社会主義リアリズムみたいな、労働者の写実の絵を描いたんだよ。だけどね、そんなもんじゃないと、もっと人間のね、本質を見極めなくっちゃ、しょうがない。っていうんで、それでジャコメッティが色々出てきてさ、ジャコメッティがね、描けば描くほど細くなるとかさ、で、最後は消えちゃうなんてさ、こういう気持ちとそっくりなんだよ。それで勉強したわけよ、サルトルなんかも(ジャコメッティの事を)評論で書いたんだよね。実存主義っていうのが流行ってね。人間の生き方を追求する哲学だなんて言われてさ。で、そん時はほら、カミュの書いた『異邦人』とか、なんだっけ、もう一人面白いの、カミュともう一人作家がいて、有名なの。その小説なんかベストセラーになってね。そういうのと通じることを発見して、それでジャコメッティを好きになった。むしろジャコメッティはね、芸術作品は徹底してものとしてみていかなかったら、生きた現実はつかめないって言ってたんだよ。で、あれはさ、外見だけじゃなくて、自分が感じたことをああやると、ものっていうのはこういう風になっちゃうんだよ。あれがね、現代芸術の走り、一番新しい考え方だったね。サルトルが実存主義、サルトルも相当ね。あとは、ボーヴォワールとかも出てくるでしょ。女性の権利みたいのとか主張してさ。そういうような評論書いたり、小説書いたりして、とにかく前衛的なものが出てきたんだよ。その頃ね、美術と文学を同時に見ていた。それでね、ベケットみたいのとか出てきて、ベケットが一番好きだったんだよね。『ゴドーを待ちながら』なんて、演劇やったでしょ、そうすると、ただ待ってるだけの演劇なんだ。普通面白くも何にもない。だけど、そん中に、人間の本当の姿を見出すみたいな。そうすると学者も戦後出てきたね。注目される学者、心理学者でニーチェみたいのが出てきてさ。その頃の影響は、随分やっぱりあったね。で、あんまり物語的なものはさ、ロシアぐらいですよ。『静かなドン』なんつって、ショーロホフなんていたでしょ。その人は、ほら、帝政ロシア時代の民族の姿を描いてさ、それが発展して共産党になっていったわけだよ。コサックとかね。

大森:労働運動があって、そういう関係の本とか友人の話だとか、その後に実存主義だの、ジャコメッティだのになってきた。

長:ちょっと今、しゃべり損なっちゃったんだけど、その頃アンパンができたんだよ。「日本アンデパンダン展」がだいたい左派だったんね。「読売アンデパンダン展」がちょっと後にできて。その二つが右左みたいなね、感じで。だけど、読売の方が、どっちかっていうと、現代美術の始まりだったよね、あの頃。でね、両方、俺は出していたんですよ。でね、この作品(注:《火夫A》油彩、1962年、《火夫B》油彩、1962年)はね、日本アンデパンダンに出したと思うんだよ。

大森:そうですね。

長:それでね、読売にも同じようなのを出していたんだ。そうしたらさ、その頃ですよ、両方出している人なんてね、河原温さんの〈浴室〉シリーズなんてあったでしょ、あれは、日本アンデパンダンに出していたよ。で、池田龍夫さん。あの人は、特攻を描いてさ、美術が好きで、美術のことを始めたんだけど、あの人はペン画みたいのでね。やっぱり、どちらかというと社会主義的な傾向。河原さんは、ちょっと違ったんだけど。〈浴室〉シリーズっていうのはね、人間の物体化した姿を描いたわけ。作品のテーマなんかもね、池田さんは「網元」なんて言ってさ、それを批判的に、絵ではわかんないけどさ、それらしい姿でね、権力者のような姿を映して描いた。で、あとはペンで描いた人がいたよね、何かモノクロで。その頃ね、日本の美術界は、外国から色んな展覧会があったんですよ。あと、メキシコ展、メキシコは社会主義化してるんだけどさ、もっと過激だったのが、シケイロスなどの壁画運動ね。あれが息づいててさ、あれは結構日本も影響受けたでしょ、作家はね。で、その頃出してたんが荒川修作、あの人は日本アンデパンダンだと思ったな(注:荒川は1957-1961年、第9回-13回読売アンデパンダン展に出品)。で、ヨシダミノルとか、キネティックアートとかの元祖ですよ。で、その頃ね、小島信夫とか、篠原ギュウ(有司男)ちゃん。そんで、俺も並行して、ほら、1968年に初めて展覧会やったろ。村松(画廊)で。そん時みんなね、その連中が溢れてたんだから。年中画廊に行くと誰かいた。そんでね、結構、一緒にさ、俺は飲まなかったけどさ、新宿の方で、ゴーゴーなんか踊りに行きましたよ、みんなで。で、ギュウちゃんが、最後にすっぱだかになっちゃってさ。あの人はそういうので有名だった。で、その頃ね、菅木志雄は、彼はまだ学生でね、あのほら、シェル賞なんかあったでしょう。で、あの頃ですよ。金子英彦さんもシェルで賞をとったでしょう(注:金子は1964年、第8回シェル美術賞展で、菅は1967年、第11回で1等受賞)。

大森:シェル賞っていうのは、すごいお金が出たんですね。足利で(2000年に展覧会を開いた)清水晃さん、彼もシェル賞でいい建物(自宅)を、もちろん全てそれでまかなったわけではないけれども、そのくらい賞金が出たって。

長:シェルはさ、石油会社だよね。そういう公募展なんかあってさ、いくつか賞金なんかでたんね。それで日本の美術界はね、みんな元気だったんだよ。それで、加藤アキラさんなんかもさ、その頃、一番作品を作って。

大森:加藤さんもやっぱり東京に出品してた。

長:で、色んな運動したじゃない。シャッターに絵を描く運動とか、金子英彦さんがリーダーだったわけだけど(注:「シャッターにえがく15人の画家たち」1966年、前橋市前橋ビル/金子がリーダーだった「群馬NOMOグループ」のほか東京の「ジャックの会」、水戸の「ROZO群」のメンバーが参加)。その頃何人かいて。そういうことがだんだんわかってきた。わかってきてね、一番おもしろかったよ。それでほら、(大阪)万博が始まったでしょ。そしたら万博でね、あれが、いいようで悪かった。今思うと。で、俺は万博の作品を見て、嫌いになっちゃったんだよ。ああいう、ちらちらきらきらしてるの。それで、河原温さん(の作品図版)なんかは、《ピックポケット「閉じ込められないもの」》中に入れてあるんだよ。

大森:〈浴室〉シリーズ?

長:『美術批評』という薄っぺらい雑誌でね、みんな全員の連中が。詩人もみんないた、結構。前衛的な連中がね。それで、中原(佑介)さんとかみんな出てきてね。岡本批評、岡本批判をしていた。

大森:岡本太郎ね。

長:岡本太郎は、万博であんな(太陽の)塔なんか建てたでしょ。でね、確かに日常的な社会現実を踏まえた上での芸術の批判ではないわけですよ。で、岡本太郎っていうのはさ、日本の原始時代の縄文の中から発見して、元気のいい作品を作って、もっと地道な活動をしたい連中がいたわけだよね。それが、俺は、河原温とか荒川修作だったり(と思う)ね。

大森:アメリカに行ってね。

長:で、アメリカにみんな行ったでしょ。三木富雄とかね。という一連の連中がいましたよ。で、俺なんかもね、その頃からやっぱり荒川修作さんや河原温さんなんが好きになって。だんだんね。それが、一つのコンセプチュアルアートにね。河原温さんだって、コンセプチュアルな作品を作り始めたじゃない。
 (読売)アンパンに松澤(宥)さんも出していたんだよ。でね、今覚えている印象的なのはね、絨毯か何か一つひいてあって、椅子だけおいてあった。オノサト(トシノブ)さんなんかも、みんなね、関心をもって見てたんだよ。俺も一緒に見たけどさ。こういう人がいるんだ。そしたら、後から知り合った松澤さんがそんな仕事しててさ。だから、松澤さんは、現代社会を根本的に批評して。あの人は、数学者で、建築の技師でもあったんだけど。私は、セメントの家は絶対に建てないと。宣言したわけ。確かにそれ以来建てなかった。それでコンセプチュアルなものをつくってさ。で、あれは結構国際的な影響があった。それに影響された若い人たちもいた。それで、諏訪の松澤さんが主催でね、「音会」っていうイベントをやっていた。そこに、藤原和通とか、池田龍雄なんか、みんなその頃の若い人たちが参加してさ、それでその先を行っているようなイベントだった。

大森:あのブラフマン(<BRAHMAN>シリーズ)とかの。池田龍雄さんが、パフォーマンス(《梵天の塔》)をやったりしてね。

長:そういう影響も受けたんだよね。影響を受けた人たちがいて、その中に首吊りをパフォーマンスにする人がいたんだよ。それで、藤原和通はね、《音響評定》1972年/長自宅にて)って言って、石をこうやるだろ。そんでね、松澤さんと知り合ってから、あの人はすごい人ですよっていうんですよ。なんでって聞いたら、山ん中でね、藤原君はね、青大将(蛇)捕まえてきてね、ナイフで切って、その生き血を飲んだんだって。だけど、後で聞いてみたらね、あの人(藤原君)は岡山なんだよ。そんでね、「音響評定」を始めるきっかけは、木こりのアルバイトをやってね、山ん中で木こりがあの音が素晴らしいんだってね、それに影響を受けて、音をやりだした。その前まではクラシックやってたんだから。
それで、有名な音楽大学(桐朋学園)があるがね。なんだっけ。小澤征爾なんかがいたとこかね。そこに行って、ソ連の有名な指揮者で作曲家が(イタリアに)いたんだよ、そこに留学してた。それで、帰ってきてから会ったんでね、作曲するだろ、「俺の作曲した曲じゃなくなっちゃうんだから」って、それで不満があって、それで(日本に)帰ってきちゃった。それからまた《音響評定》って始めて。それで、1973年に俺んちでもやったんだ。

大森:藤原さんの話が出たので、藤原さんと接点ができたのは、松澤宥さんと?

長:いや、そうじゃなかった。松澤さんは、松澤さんとして色々そういうことをやっててさ、俺は、展覧会を村松画廊でポケットをやった、次あたり会ったんだよね。

大森:69年か70年くらいに。

【もの派とつながる、『原野Ⅱ』、「点展」】

長:そしたら結局ね。菅木志雄氏は学生デモやってたんだけど、みんな学生だったんだよ。榎倉康二、高山登とかみんなそのへんの連中が。それでね、家を(一緒に)壊したのはさ、<ポケット>の後、70年代入って、1973年頃やったんかな。そんでその時に『原野Ⅱ』(注:8mmフィルム、山田利男ほか撮影)っていうんで、山田利男さんなんかと家を壊したんだから。

大森:壊した家は、これ(築250年の旧母屋)を壊したということですね。

長:その時に壊した残骸も持って行ってさ、村松に展示したんだよね。その時に、高山氏に一番初めに会って、そしたらみんな影響し合っている仲間だったんだよね。それそっくりアトリエに飾ったんだけどさ。それ村松でそっくり飾った。そんでみんながさ結構注目してくれて、すげえ、面白えやって。だいたい家の古い残骸全部持って行ったんだから。

大森:それこそ、「もの派」ね。

長:そんでね。その後になってさ、榎(倉)ちゃんとかみんながそれをきっかけに知り合ったんだよ。それで、俺んちなんかにも来るようになってさ。そんで、その次に「点展」が始まったわけ。

大森:この写真が、そのさっきの母屋を取り壊した後の集合写真のようなもの。

長:メンバーの集合写真なんだよ。

大森:その他に、高山登さんだとか。

長:いるんだよ。これが、高山登。

大森:長さんは、どこにいるんですか。

長:俺はここに居るん。これが、藤原和通だ。こんな格好して、みんな参加したん。で、これは中村さんって言ってさ、同級生で何人か一緒に来たんだよ。

大森:榎倉さんは、みえたことないんですか。

長:榎倉氏はこなかった。これが、小林道夫だから。これが、山口たかゆき、これが春山なんだよ。

大森:春山清さん。

長:それでね。その頃はね、スペース戸塚(SPACE TOTSUKA、横浜市戸塚区)というのをやってたんだ。スペース戸塚っていうのはね、戸塚の古い家に高山は住んでた。高山は古いうちが好きでさ。そこでね、藤井さんとかね、何人かのグループでやって、その次また、俺たちが70年代に入ってから、70年初頭にね、「点展」(注:1973, 75, 76, 77年の4回開催。メンバーは長以外に榎倉康二、高山登、羽生真、藤井博、島州一、内藤晴久、八田淳、原口典之、藤原和通。それぞれの自宅やアトリエを会場に行なわれ、最終回のみ村松画廊で展示された。)というのをやりだした。その第一回の点展が俺だから、点展の時の作品でさ。で、その大きいポケット(《ビックピックポケット》)は、俺は前に作っておいて、で、場所が無いんで、いいんじゃないかっていうんで、古いやつだけど、72年かな、それ。やったんですよ。

大森:73年だったですね。自宅を取り壊した廃材で、いろいろこう個展だの作品を発表するわけですけど、この布、よく出てきますよね。この布っていうのは、建物の廃材とは違うと思うんですけど。

長:それはね、要するに、ポケットの時に布に興味があった。だから何年か前ですよ。70年に入る前ね。

大森:68年の時ね。ポケットを作った時。

長:だから、要するに、日本の現代美術は、実際的には我々の世代のちょっと前60年代から入っていたんだよ。で、70年代に入って一番盛んになったわけだよね。

大森:「もの派」ね。

長:それでね、結局ね、60年代はね、万博はね、ものの世界に行かなくてね、環境に流れちゃったんだね。それがね、みんな俺たちの世代はね、我が家の春が来たような感じさ、みんな作品をつくらせてもらったんだから。で、岡本太郎がピークだよ。だけどね、やっぱり批判勢力がいたんだよね。で、あん時は横尾(忠則)さんなんかも結構色んな作品を作ってね。藤原和通も何か作ったって言うんだよね。その頃。だけど彼は若いからさ、まだあんまり注目もされてなかった。で、俺はね、それを見てさ、もううんざりしたんだよ。なぜうんざりしたかというと、それは、たぶんね、俺んちの歴史を見ているから。そんなはずないよって。
 俺は「もの派」とどこかで繋がちゃったというのは、この古い家ですよ。古い家はね、みたらさ、どうってことないものだよね。現代社会になって、色んなものが出てくる以前に、ものみたいのはあったわけですよ。で、俺はね、古い家を受け継いでね、このものものしさに嫌になっちゃってた。でね、本当にね、火でもつけて燃やしちゃおうかと思ったんだから。広い家でさ。不便でさ。その代わり、真っ黒になった古い柱だろ。煤だらけでさ、それはもう、「もの派」が体験したくらいの感じだった。ただ、「もの派」とかなんとか言わなかっただけ。で、結局さ、家が、士族でさ、地主なんかやっていたそういう制度がそっくりね、その延長線で、現代社会を繋げていったんだよね。で、ほら、アメリカが形式的には財閥を解体したわけ、で、一旦は、住友や大手など解体はしたんだけど、みんな復活しちゃったわけね。そしたら、どうっていうことはない、要するに農地解放したというのは、農民を救うこともあったと思うけどさ、むしろものをもっと自由化したかったんだよね。だから、地主が持っているものを解放することで、市場ができたわけでしょ。で、日本はさ、土地がなくっちゃ景気がよくならなかったんだもん。やっぱり資本家は知っていたんだろうね。そうすると、よく見るとさ、みんな繋がっているわけですよ。その繋がりの中でさ、やっぱり美術をやりたいなと思いだしたからね。
ただ、まったく新しいアメリカ的なものとかさ、影響は受けたけど、以外と繋がっているところがあったと思うんですよね。生活の足元の中で、だけど時代の流れは、万博みたいな、一つの時代でもあるんだろうけど、ちょっと違うんだよね、資本主義社会の構造の表れみたいなね。向こうはね。

【精神科病院】

大森:ガス会社に7年ほどいて、そのあと、精神科病院に勤めて、で、今のお話の日本アンパン、読売アンパン、そして70年代の万博以降の長さんのこの「もの派」的な活動って言ったら失礼かもしれませんが、そういう風になっていく、その間に、70年頃は仕事は病院の方に移っている。

長:結局ね、内容からいくとガス会社で肉体と精神の問題をばっちり体験させられてさ。肉体のもろさとね、危機感を感じたわけ。それで7年間勤めて辞めちゃったんだよ。あんまり過酷なことがあって、体もまいっちゃうんで。
1年間退職金をもらって、奈良と京都に一週間くらい行ってきた。それで、帰ってきてね、子どもに絵を教えようと思ったのだけど、金が一銭もなくて、それでまた勤めちゃったわけ。ただ、自分の建前としてはね、どっちが本音だかわかんないけどさ、本音とするとね、肉体の現実を見たから、今度は、人間の精神の状態を体験できるんじゃないかと思って、食べて行くならそういうことを通じて、自分の仕事にしていこうと思ったんだよ。だから、内容としてはね、今思うとね、結構筋は立っていたんだね。こういう理由で進めたの。

大森:長さん、何歳の時からですか。

長:28くらいですよ。俺は、27にガス会社を辞めてるでしょ。たぶん。ほら、それでちょうど19で就職してね7年くらいだから。それで一年くらい遊んで、結局ね、精神科始めた根岸達夫先生といって。遠藤さんたちと同級生だったんね。そういうのもあって。その前にガス会社の先輩がガス中毒にかかっちゃって、一時、群大の精神神経科に入院した人がいたんだよ。神経がおかしくなっちゃって。その時に、根岸先生に世話になって、よく知ってて、その人が来てもいいよ、っていうわけで、根岸先生は遠藤さんもよく知ってる仲間だったんだ。まあそういう関係なら、一応信用してもらえたと思うんですよ。仲間がいたんでね。それで、俺は勤めだして、それで10年間勤めたんだ。そうすると30いくつでしょ。

大森:38歳まで。

長:その頃、始めてね。

大森:日本アンパンとか読売アンパンとか、1960年の始め頃に盛んに、勤めながら出品もし、東京に頻繁に出て行くようになったわけですか。

長:でね、俺は今思うとね、何かね自分の生き方と常の現実社会と距離感があってね。この生き方としてね、何とかしてかないとね、やばいぞみたいな。兆候が出てきたんですよ。東大闘争があったでしょ。あれもね、精神科があって、そこの学生がね、医局(講座制)廃止の運動から始まったって、と聞いた。それで、俺が精神科に勤めた時ね、群大の精神科のインターンの人たちが、みんなごっそりいてさ。みんな研修に来たんだよ。その人たちはその頃の全学連のメンバーだった。東大闘争っていうのはね、医学界の新しい波だったんだよ。それがああいうところまでいっちゃったんだ。群大の精神科だの受けた人は、みんな東大落こった人が翌日試験だったんだって。徹夜で帰ってきてね、翌日受けて、みんな群大入ちゃったんだよ。その連中が、みんなインターンだけど、若い面白いやつだったんだよ。それで、俺のやっていることを面白がってさ、結構絵なんか買ってくれたりさ。医者だから金持ってるんだよ。あの頃で、デッサンを6000円くらいで10人くらい買ってもらったよ。そんで仲良くなって。

大森:長さんが勤めた病院に群大からインターンが来るんで、そこで長さんと接点があった?

長:俺が来る人みんな案内した。資格もないのに。そんで知らない先生なんか来るとさ、「じゃあ私が見てます」なんて、夜中行くだろ。しばらくたつと「長さんやばいですね」なんて、そしたら眼鏡がなかったりさ、みんなね無垢だったん。みんな注射もできないんだよ、はじめは。それで看護婦に教わったりしてさ。それで、覚えて。で、俺の方が年齢も上だからさ、だいたい医者が来るとね、俺が全部案内するんだよ。人っていうのはね、初めに話をした人を一番信頼してくれるんだよね。何かっていうと聞きに来るわけ。わかんないことがあると。そうすると教えるわけ。あとはね、石川信義先生は桐生の出なんだけど。東大の登山部でカラコルムに登頂して、有名だったんだよ。それで、精神科のお医者さんの大将だったんだから。そういう先生と一緒にいてね、とにかくあの頃は、社会全体がやる気があった。って感じがあった。だから俺もね、金もなくって、学校なんか行かなかったんだけど、学校なんか行くよりも社会勉強になったんだよね。今考えるとでかかった。勤めた30歳になった時に結婚したんだよ。で、すぐ花子が生まれちゃってさ、花子なんか精神科の医者がみんなで診てくれて、ダウン症というのはこんなんだよとか、教えて貰ったりしてさ、随分助けてもらったよ。

大森:60年代っていうのは、全体的にお医者さんが内科画廊なんてあったように、美術に興味を持って勉強したり......。

長:だからね、社会全体がね、やる気があったんだね。本当にいい社会を作ろうと思って。それなんで、結構普通の社会の中で生きられたような気がする。今みたいな社会だったら嫌になっちゃうね。で、みんな平均して金がないんだから。

大森:その病院の中で、長さんの《ピックポケット「閉じ込められないもの」》(1996年制作)の中にありますけども、病院が持っていた精神病患者の描いた絵だとか、そういう作品を入れてますよね。それは、院長先生とかが、興味を持ってたんですか。

長:それはね、そういう研究材料みたいので色んなものがあってね、病院がみんな捨てたことがあったんだよ。その時、俺が捨てに行ったらね、絵のあるパンフレットがこんなにあるんだよ。その中にね、今よく見るようになった細かく描かれた、精神病患者の(絵が)。英語とかドイツ語は読めないけどさ、そしたらこれは研究書だよって言うんだよ。そういうのを俺は全部もってきちゃったんだ。で、それを入れたわけ。それで、とにかく精神科というのは、本当に開放されたのは、外国は割に早かったんだけど、日本はみんな閉鎖病棟で、戦後、みんな開放病棟を作って、そういうお医者さんが人間的になったんだね。それで、うちの病院も新しい病院だったんですよ。それで俺が絵が好きだったもんだから、院長が毎年秋と春に病院の中で展覧会やっていいって言うんだよ。それでクラブを作ったんだよ。ただね、俺がね、先生に注文を出した。その絵を通して患者を治療するような仕事だったら、俺は手伝わない、って言った。で、その時反論したんだよ。昔の教科書はね、ゴッホだのムンクがね、病気の文化人っていうんで、それが教科書に出てたらしいんだよ。で、そんなんじゃねんだって。そんな気持ちがあったもんだから、とにかく開放して、みんなが平等に生きていくような社会がほしい。それなんでね、クラブ作ってさ、自由画の教室で、俺は何も教えない。結構、才能のある人がいるかと思ったらね、なかなか才能のある人っていないもんなんだね。だけどね、ああいう人たちが特徴的なものはね、実際、今生きてて売れてるような作家に似ている人がいるんだよ、表現が。ムンクだってさ、アメリカのジャスパー・ジョーンズだって、あれだって源流を辿るとね、結構変わった奴の表現そっくりだよ。こんなちゃかちゃか描く奴ね、ジャスパー・ジョーンズの絵の描き方とそっくりな奴が病院にいたよ。だから、誰がどうって言うんじゃなくって、そういう幅広いね人間観ができたん。おかげで。だからね、一番喧嘩したのが、医者だったね。俺は、病院で何の資格もなかったんだ、だけどね役割はね、入ってきた人の知能テスト係だった。それでね、全部の人の知能テストをやった。伊藤忠に勤めていた人とか、とにかく色んな人がいるからね。患者さんで。そしたら、その人たちが本当に優秀なんだ。ほんとにね。それで、普通な人で優秀な人はね、部分的な知識としてはいいとことね、全体を把握するっていう、それがやっぱり弱いんだよね。それが1点くらいの差なんだよ。人間ていうのはね、想像力のある人は、全体をこう、直感でやってるんだよね。それをね、経験しましたよ。

(休憩)

【《ピックポケット 68》】

大森:初めて聞くことが多くて、病院に勤めていて10年。まあその間に初めての個展(1968年)、ポケットを作り出したのが、その前の年くらいなんですか。

長:もっとね、4~5年作ってたような気がする。ところがね、それがぼろぼろの。足利の駅の前に「くるま」っていう喫茶店があった。そこで個展なんかやってた。うまく縫えなくて。今思うと、あれを取っておいたらおもしろかったよ。

大森:絵の中にポケットが出てくるのが65年くらいでいいんですかね。

長:だから絵の方が早かった。

大森:このポケットがでてきたきっかけというのは。なんかあれですかね。

長:アメリカのラウシェンバーグとか。あの人はなんでも貼り込んでね。その影響はありましたよ。

大森:ジャスパー・ジョーンズとか。

長:ジャスパー・ジョーンズもそうだけど。あと、オルデンバーグも好きだった。

大森:一番好きだったのは、ラウシェンバーグが?

長:ラウシェンバーグも好きだったね。オルデンバーグも面白かった。

大森:日用品を少し拡大していますよね。

長:一つの文脈の中ではそうだけれども。それと同じくらいやっぱり身近なものだよね。身近なもので自分でもわかるし、人にもわかって、それでいて訳のわからないものみたいな。

大森:それがポケットを選んだ理由みたいなものなんですかね。

長:イギリスに好きなアレン・ジョーンズっていうのがいるんだよ。

大森:アレン・ジョーンズ。

長:絵を描くんだよ。その人の絵の裸婦だのが好きだったん。ちょっとその影響があるんだよね。鮮やかに描く。俺はあんまりね、女の人の絵って描いたことがないんだよ、どういうわけかね。これは、唯一くらいだよ。どういうわけか、女性は描く気がしないというか。女性はもう、たぶんね、おっかなかったんだよ。変な風に描くと怒られるんじゃないかと思って。

大森:少し遡のぼると、自画像のようなポケットのような、ガス会社の頃の配管とか、パイプの。

長:これなんか、精神科の頃でしょう。これは明らかに鉄格子を意識してた。

大森:鉄格子? 患者さんのその病室なんかの。

長:鉄格子の中のもの化した人間ね。不自由な人間像。これなんか、ものとして人を見るようになってきたんだよね。患者もそうだけど職員も同じなんだよ。だんだんね、勤めているうちにね、絵と患者の実態とねみんな同じように見えてきて、感じられるようになってきちゃう。芸術ってそういうところが考えていくと面白い。だけどね、こういうのを解説していくと、俺の独壇場になるんだよ。タイトルも無意識のうちにね、自分で自分の絵が語れるようなものも描きたいな。と、思って。何時間でもしゃべってる。これはね、何とかの夏っていうんだ。

大森:《ポケット ノ ナツ》(油彩/1967年)だ。

長:夏といえば裸の女みたいでさ。これはね、そういう意味があって描いた。

大森:これは顔が、この人の顔がここにあるって感じですかね。

長:あとはね、ばらばらって感じがしてたんだよ。人間っていうのは。みんな分裂している。それが、まとまってるんだけどさ、自分の実態というのを見るとさ、まともに考えているのか、考えてないようなところもあるんだよ、人間っていうのはさ。だから、それがおもしろいんだ。

大森:自分がおもしろいなと思っているのは、後半、《視床》とか《ポケット》とか、モノトーンのイメージがあるけれども、この頃のものはカラフルで、長さんが、ものすごく色彩が豊かで。

長:純粋には、アメリカの抽象の絵なんかも、ちゃんと描いてるなっていう感じするよね。だけどね、やっぱりね、色っていうのは、なんの理屈もなく使いたいところがあるね。人間は統合失調的なところがあるんじゃねんかな。それが、実態って感じ。俺はね、精神科に勤めてそういうことを一番感じたね。彼ら(患者)の言っていることのほうが正しいんだよ。

大森:今回足利美術館の年間スケジュールの表紙にさせてもらったのが、この辺の絵なんですが、これもパフォーマンスの写真とか記録を元に、その素材となったもの、こういう包帯状の大きな布とかね。福猿橋の鉄のアングルだとか、自宅の廃材を使った展覧会の時の形が出てきたりだとか。

長:で、やっぱりね、ずっと描いていてね、周囲からの解放も必要なんだけど。自分で自分を解放することが一番難しいと思ったね。終局はね、やっぱり全体像を描きたいんだよ。全体を。でも、誰に言っても全体は描けないっていうわけね。確かにそうなんだよ。一つの作品でただ一つのことをイメージできるというよりも、その作品を通して、その人の感じる限り、いろんなものを感じさせられるような絵が、本当の芸術作品のような気がするんだよ。よく抽象なんていうじゃないですか、やっぱり抽象がいいのは、何も写実的に説明しなくもさ、あんだけのものを描ける能力があるんだよね。アメリカのフィールドペインティングじゃないけどさ、ニューマンだっけ、あれは見損なっちゃったんだけど、あれを平気でやっちゃうっていう、あれだけ見てもまいっちゃうね。だけど、自分がこうしたいということはまとまらないのが普通。まとまったら、病気かもしれないね。

大森:そのポケットの絵が油絵からだんだん……。

長:俺が、ポケットを選んだというのが、具体的になんでかという明快に答えはないんだね。ただね、感性として選んだ限りで考えるとね、一番わかりやすいけど、一番わかりにくいものを選んじゃった、そういう後悔がある。ポケットって誰でも使っているじゃないですか。そういう意味ではね大衆的で、誰でもわかんないはずはないんだけどさ。だけど、あんまりわかりきっているものっていうのは、他の人も薄気味悪いのかもしれないんだよね。それだからこそ、まだ作ったりしているんだよね。

大森:三木富雄が耳を作り続けて、どうしてですかって聞かれて、いや自分が選ばれたんだみたいなことを言われてね。

長:あの人も、耳について理屈を言わないよね。

大森:そうですね。

長:あれもある意味本当のような気がする。

大森:選ばれたみたいな言い方をしてますけど。

長:あとはね、語る人は、大変だと思う。見る人も。誰かが言ってたんだよ。カフカとの対話、カフカの言葉の本みたいのが出てね、誰かが言ってるんだよね。正しい質問をできる人、正しい質問をしてくれ、と。だから、質問が間違ってると、どんどん間違った方向に行っちゃう。だから、インタビューも、これは完璧なものはないかもしれないけど、やる価値はあるなというのを感じる。だから、そういう意味で生きてるっていうのはさ、だから時々俺も病気してさ、これで終わりだろうと思っても、続けちゃうみたいな。

大森:こういうかなりの量の布というか、かなり丈夫な布、テント地というか、わかりやすく言うとテントの布だと思うんですけど。こういうのを調達するのも結構大変だろうし。

長:方法ね。作品を思いついたからその人の方法論みたいなのが必要なんだね。で、めったやたら作っていくとできなくなっちゃうしね。これはね、これを縫える基礎を踏んだなと思った。というのはね、病院に勤めている時、あの頃はね、ほとんどが畳なんだよ。みんな、布団に寝ていたわけ。そんだからね、半年使うとぼろぼろになっちゃう。畳屋さんが半年に10人ぐらいずつ来て取り換えてる。その時にポケットを作るのを気が付いたん。下に台を置いてさ、畳を縫うんだよ。手っ甲みたいのつけてさ。見たらさ、10~15cmくらいの長い針がついてるわけ、これだなと思って。それでね、こんなの作りたいんだけど、教えてくれって。みんな道具やるからって言ってくれて、針をもらって、それから作れるようになりましたよ。

大森:じゃあ、そういう道具は畳屋さんから、もらったもので。

長:それでさ、古い壊しちゃった家があるだろ、あの中の八畳二間をアトリエにしていた。そこが薄暗くて、年中ケガしてた。そしたらね、夜になるとねずみが出てきて、ポケットの中に入って、うるさくて眠れないこともあった。動物もね、袋みたいなのが好きなんだなと思って。で、結構きちんと額をつけたりさ、結構かっこつけてんだよ、これでね。

大森:じゃあ、布そのものは調達しなくちゃなかったものなんですか。

長:これはね、弟が、呉服屋をやってた。問屋をよく知っててさ、見つけてもらった。割にあっさり手に入った。で、今の天竺あるだろ、問屋に電話すると、長さんのお兄さんですか、って言ってすぐに送ってくれるんだけど、だんだんなくなっちゃってさ。で、厚いのなんか、問屋で売ってないのはね、水野(テント)さんから買うんだよね。

大森:戦争時代によく使う布は丈夫で。

長:帆前船に使う布でね。だけど、それを専門で作ってるみたいよ。そのかわり、需要はあるみたいね。でね、帆前船は、よく商戦学校の練習なんかあるだろう。これでなくっちゃならない何か理由があるみたいね。

大森:やっぱ、丈夫だとか。

長:何か、いろんなものに使えるらしいん。遭難した時とかね。あんまりそういうのは、語られていないんだけどね。ほら、「うさぎや」(注:足利の銘仙などアンティーク着物を売る店)の大竹さんが言っていたけど、布というのは古代から使って、インドなんか一枚でこう使っちゃう、可変的なところ、つまり自由になんとかなる。それが人間にもなくてはならない、ものを扱う必要条件。だから、ものとしては一番人間的なような気がする。

大森:このロープもね。なかなか日常的に売ってるものではないでしょう。

長:これは、なくてもいいんだけどね。でも、あるんとないんだとね、何かしっかりしたものを使用しようとすると、あった方がいいよね。わかりそうでわからないのがポケットだと思っている。俺自身みたいな気がして、そう自分で理解するようになったらね、なんだかそれでも作り続けていているわけよ。たぶん俺、死ぬまで作っているよね。だからね、ポケットというのは、不思議。不思議なね、人間にとっての何かだと思っている。ポケットが売れた時は、売れた時が最後じゃねーかと思ってるんだけどね。だからほら、アーツ前橋でさ、展覧会して(来場者に)色々質問したじゃない。あれを読んでるとおもしろいよね。だからね、子どもにね、これをモデルにして作ってもらったのがあるんだよ。だけどね、色んなものを作るんだよね、子どもだとね。だから、100人いたら100人違うものを作るんかもしれない。(私の作るポケットの形が)こうなってるのは、軍隊のものなんだよね。軍隊はデザインがいいんで選んだんじゃないんよ。軍隊というのは一番非人間的でさ、一番もの的だと思うような気がした。でもそれももの的にね、しっかり作ってるんだよね、形が。むしろね、ネガティブな意味で使い続けている、そういう物質でもある。物質っていうのは、両面あると思うんだよね。だから、事物として、名前が違うだけで、物っていうものをみんな同じように見てるわけ。で、作品というのは、物と自覚できなかったら、もしかすると、アートとして作る資格がないような感じもするんだよ。

大森:絵の中にポケットを描いていた時は、そのままタイトルをポケットっていう。物体のオブジェのポケットになった時点からだと思うけれども、「ピックポケット」っていう。スリの。

長:俺もスリの一員でね。普通に考えると、スリというのは犯罪だよね。だけどね、犯罪じゃなくってね、自分の相反する姿、行為そのもののような気がする。でね、歯がゆくってね、道具だけだと、一面的に考えたらポケットでいいんだよ。だけどね、もう一つ人格を加えないと、何かすっきりしないんだよ。だからね、ピックポケットってさ、ピックっていうのは何か摘むっていう意味があってさ。それでね、ポケットが付いたほうがね、相対的な意味合いが持てるかなって。そういう意味はありますよ。それもね、初めっからわかっているのでなく、作っていくたんびに何か思いつくんだ。

大森:初めての個展が村松画廊で、この画廊はやっぱり老舗の画廊だし、現代美術の作家たちが盛んに発表した場所ですけど、どういう経緯で。

長:村松画廊というそういう名所の画廊があるのは知っていた。そしたらね、桐生にね、「10」っていう洋画グループがあってさ、オノサトさんなんかが主体になってやってた。中村善一さんがいて、かなり歳とってきたんだけれども、彼が、久保さんとも色んな意味で繋がっていた。ていうのは、桐生「10」というのは、戦後、文化を目指した日本でさ、色んなグループができた。で、「VAN」もそうだった。「VAN」ができて、それで桐生に「10」ができ、そのメンバー(注:オノサトと中村)で(学校の)先生やってた。先生の世界で、久保貞次郎が自由画を提唱した、それが一つの教科として文部省に取り上げられ全国で広がった。それは戦後の文化を目指した日本国であるからこそさ、久保さんの威力もあるだろうけどさ、一つの教科として取り上げたんだね。それをやったお陰でさ、自分で好きで(先生を)退職したんだよ中村さんは。俺は自分で絵をやり、それでは食えないから落書き教室を始めた、戦後すぐ。それが当たってさ、生徒がいっぱい。何年後なんだろな、テレビで取り上げられたことがあった。そういうので、有名になっちゃって、やっぱり国策のお陰っていうのもあるわけね。今頃、落書き教室っていったって、つまんないでしょ。戦後でね、急に自由な雰囲気になったから。学校でも自由学府になったから、そりゃあ父兄だってそういう塾があったらやりたいじゃない。今になってみれば、それが流行ったわけですよね。

大森:「10」は、自由でもある。数字の10だけども、自由をかけてるんですかね。

長:0をつけると無限大にどんどんなっていくっていう、未来志向があったみたい。で、一方で舘林は「ZERO」っていうんだよね。ゼロからの出発なんて言ってさ。足利は「VAN」でさ。

大森:その中村善一さんに、村松画廊を紹介してもらった。

長:戦中さ、みんな疎開してたんだよ。そしたら、(村松画廊の)川島(良子)さんっていう人を知ってるから、その中村さんが紹介してくれた。そしたら、俺んちにすぐ来てさ。これ、おもしろいわね、やりましょうなんて言ってさ。いや、その時はただじゃなかったと思うよ。そういう関係があったね。

大森:じゃあ、偶然、村松画廊で。

長:東京で戦後現代美術の一番の画廊がね、南画廊と東京画廊だったわけさ。で、みんなやりたいけどさ、東京画廊だとか南画廊は、みんななかなかできなかった。よく村松画廊と東京画廊と南画廊もたぶん親密だった。でね、一番広いのが村松画廊だったんだ。いくつも部屋があったから。最後は一つになっちゃった。それで、東京画廊が場所が足らない時は、二つ使って、東京画廊が菅木志雄展やったり、そういう関係で村松画廊も人気があったんですよ。あの川島さんがしっかりした人で、みんな悪口もいったけど、あのおばさんも口が悪かった。そんな犬猿の仲だけど、良い関係だったんですよね。俺やった時の御三家の評論家で、中原(佑介)さん、針生(一郎)さん、東野芳明さん。第一、オノサトさんに個展やるって言ったら、評論家に手紙出してやるっていうんで、オノサトさんから随分出してもらった。そしたら、みんな見に来てさ、中原さんも見に来て。うーん、なんて関心しているような、しらばっくれているような。そしたら、その時ね、毎日現代(美術)展をやってたんだよ。で、毎日現代展はさ、学生から「もの派」の連中まで出しててさ、俺も出してたんだよ。それが終わって、展覧会で落こっちたらそこで(村松画廊で)飾ろうと思ってたんだよ。そしたら、みんな入って、俺のだけ(賞から)落こっちゃった。でも、今思うと、学生はみんな教え子だから入ったんだよ。俺は関係ねえからさ。それで、中原さんが来た。その時ね、安斎重男、写真やりだしたん。彼がね、そのポケットを気に入って、中原さんがちょうど来てたので、安斎君が俺の味方になってくれて、食ってかかったんだ。なんでこんないい作品、現代展通らなかったって言ったら、中原さんが、誰かがポケットのボタンがでかいって言ってたんだよね。しらばっくれてんさ。それから、安斎くんとは仲良くなってさ。その頃からみんなね。あと、ギュウちゃんが来た。これはおもしろれえなあ。なんて。そんで、東野さんは、これはちょっとポップとは違うよ。で、それはそうでしょポップとは違いますよ。足利の美術館にもあるでしょ、抽象のでかい絵を描いてた交通事故で亡くなっちゃった、なんて言ったっけ、画廊春秋の人(浅川邦夫氏)とも仲良かったよ。

大森:田中繁一さん?

長:そうそう、繁一さん。あの人がね、自宅が下石神井で新しい家でさ、奥さんが絵描き。奥さんの方がキャリアがあって、結構いい絵を描いてて、でっかいアトリエがあってね。そうしてね、展覧会というと、ギュウちゃんだの菅なんかも来てさ、集まっててね、それで終わると新宿へ飲みにいったんだよ。で、俺は飲まないんだけど、行ったところがゴーゴーが流行っててさ、ゴーゴーなんか歌って帰りに田中さんのところで、みんな酒盛り。で、朝まで飲んだりして。ほんで朝になると下石神井から銀座行きがちゃんと出てるんだよ、バスが。それでまた、お昼頃になって、みんな暇なんかなと思って、付き合ってたよ。で、その頃知り合ったんだ。だけど、俺と同じ年齢の人は、その後みんな活動が少し停滞したけどね。付き合いは全然いないんだよ、同じ年齢は。その後の「もの派」の連中ね、榎倉氏とか菅氏とかさ、あの連中と、俺も東京に出てくる機会、展覧会があると、それでみんな歳が違ったんだ。それのほうがみんな友達になったんだよ。高山もそうだし、それから藤原氏もそうだし、八田(淳)くんもそうだし。俺は幾らか上だろ。そうするとね、みんな、高山氏も榎倉氏もみんな元気だったんだよ、取っ組み合いの喧嘩なんかするんだから、飲むと。俺は少し上だからさ、少しすましていたし、だからちょっとよそから来た感じでね。わりに丁寧に先輩として扱ってくれた。俺が違うことをやりながら絵を描いていたことに高山氏なんかは興味があったみたいね。みんないい感じの奴だったね。だけど、みんないい作品作った。俺は初めて画廊と展覧会をしたときさ、1か月やって3人しか来ないんだよ。で、一番初めは高山、その次は池田龍雄さんと川島さん、その3人きりさ。こんな角瓶を、俺は酒は飲まないけど、みんなにもらったのがこんなに山盛りにあったんだ。そうするとみんなにくれて、そんで龍雄さんは飲まないんだよ、ほとんどね。そんで、高山氏が一晩でこんなでかい角瓶飲んじゃうんだから。そんな感じだったですよ。そしたら、だんだんだんだん「点展」の時は、こっち(足利の自宅)でやったから、それなんでみんなぽつりぽつり来るようになったん。

大森:さっきのが1971年「廃屋と画廊と荒れ地とアトリエによる複合展」。それが、あれだったですか。

長:そんで、高山氏はそういう古い家がさ、枕木の古いのと似てるんさ。俺は、高山氏の《地下動物園》の枕木が好きだったんだけど。

大森:このへんのもの(「廃屋と画廊と荒れ地とアトリエによる複合展」の廃屋の展示記録写真)は、なんなんですか。

長:これはごみだよ。そんで奥にさ、紋が描いてあるん、それは風呂場。

大森:これは、もともとこういうものがあって?

長:俺がわざわざ描いたん。

大森:ああ、なるほど。この揚羽の蝶。長家の家紋。

長:そこの土間だけで、20坪くらいあったんだから、でその下で絵を描いてたん。で、下が泥だろ。だから、ペンキを使ってもね、あんまり気にならなくてさ。

大森:で、これは日の丸なんでしょ。

【イベント「ロードワーク<X>」】

長:その日の丸をイベントで、1971年の12月31日の午後11時55分からその後次ぐ日に渡ってそれを吊るして歩いたんだ。で、始め田中橋(足利)からさ、下が見えないからさ、紐を流して、どぼーんと落っこちたら、少しあげて。ようするに、時間の境界を生きる、っていうんで、それでそこを駆けていったんだからね。そうしたらね、次の日ね、やったぞって言ったらさ、写真撮ってきた人がいた。それで、残ってたん。

大森:ああ、なるほど。これはまあ再現写真みたいな......。

長:誰も撮ろうとしなかったんだね。ただね、中橋(足利)に吊るしたのは、なくなってた。

大森:この時期のイベントっていう、パフォーマンスじゃなくて、イベントっていう言い方をして、それで、「ここ」という場所とか時間の際だとか、そういう意味合いで、「ここ」なんだと思うんですけれども。

長:で、結局ね、どういう訳かやる場所がさ、どうしたって隙間が見えたり、見えるところになっちゃうじゃない。そうすると渡良瀬川沿いになっちゃんだよね。それは、芸術行為とするとすごく日常の中の一つでね、俺はすごく自然な感じで、わざとらしくも無かったんだ。だって、渡良瀬川は結構小さい頃から水浴びしたりさ、随分遊んだりしたところですね。色んな人から聞いてたろ、どこが危ないっていうこととか、みんな大人が言ったから。だってこの(年の)夏だって川流れが、夏中に10体くらいあるんだよ。

大森:川流れっていうのは、水死体?

長:水死体。それは、自殺なんだかわかんないけどね。そうすると消防なんかが来てね。だから、死んだばっかりを発見したこともある。

大森:渡瀬川は、キャサリン台風があったので、足尾の方にダムを作り、水量を制御して、川幅を広げて、堤防を嵩上げしたり、色々やってきた。昔は水量がものすごくあったんでしょ。

長:もっと深かったんですよ。で、結局さ、戦争中山を伐採して、保水量がなくなちゃったせいもあって、荒れてたんだね結局。その後ほら、砂利取り業が企業家したんだね。それで、随分掘りすぎちゃってさ、川をだめにしちゃったなんてさ、それで中止になちゃった。だから建築、高度成長時代にビルを作ったでしょ、みんなこの辺からダンプで砂利だの砂、売れたんだよ。

大森:川砂利、こう丸くなった砂利じゃないとダメなんですよね。コンクリートの骨材っていうのはね、それでこういう河川敷から、砂利をとって。

長:一時は産業にもなったけど、今度は掘りすぎちゃって、河川が荒れちゃって。

【70年代のインスタレーション】

大森:それでは、〈視床〉あたりまでいって終わりにしたいなと思います。このイベントとか、インスタレーション、70年代の始めはこういうのも面白いと思うんですけれども、足利市民会館でやったものとかは。

長:それでね、70年代はほとんどインスタレーションが多かった。

大森:「もの派」の人たちとともに行動するという意識もあったのでしょうかね。

長:それもあったよね。ただ、割に自然な感じだった。みんな俺の周辺の作家に興味があってね、俺はそういう創作活動をガス会社勤めている間、ほとんどやっていないから、余計楽しかったんですね、みんなと付き合うのが。それで、結構インスタレーションなんか始めてさ、で、みんなが手伝ってくれてね、70年代は一番苦労がなく、それに打ち込めたんじゃないかな。

大森:非常に私が好きなのが、《居留地》の石の重みで布をひぱって、自立するみたいなね。

長:これもきっかけはね、よく西部劇でインディアンが出てきて、インディアンの帽子みたいのが出てくるんだよ、宙づりしたようなさ、あれはすごくワイルドな感じが良くてさ。そういう感じとうちの方のまだ未開拓な土地、そういうイメージと結びついてね。そのテントみたいのが好きだったんだよ。で、よくアラビアとかさ、テントじゃない、ああいうのにロマンを感じてたん。それもタイトルが《居留地》っていうんだよ。居留地っていうのは、インディアンの居留地でね、要するに、法律で定められたその限り認められた自由な場所。インディアンのために国が許可するから住んでもいいよみたいな場所を居留地って言ったんだよね。なにか居留地っていう言葉がね、魅力があったん。タイトル付ける時はね、やっぱり意味ありげで、結構いいなあって言葉をね、割に選ぶ方なんですよ。

大森:あと73年に《脳髄の空き部屋を見ろ!》と、これ点展の。

長:これ部屋みたいになったのはね、精神科病院と重なっちゃっててさ。それは、古い家の中に板が貼ってあったんだよ、いっぱい。

大森:これは、何か厚みがありそうな。

長:板が貼ってあって。

大森:壁ですか。壁の板ですか。

長:(厚い無垢)板が貼ってあってさ。これが燃し火で、ヤニ(煤)が付いて、汚くって。天井板も麦わらで煤けているわけさ。それが洗っても落ちないんだ。それが何か魅力的な感じで、それで周りを囲ってね。要するに一つの限定された場所でありながら、空しか見えないわけ。それを表現したんだよ。

それで、一か所入り口があって、この中に入って空を見るような、そういう見方を。だから、今までの心理的なものも反映していたと思うんだ。その布は、ポケットなんかを作った布がいっぱいあって、それを(突き立てた板の周りに)張り巡らしたんだからね。で、それは「点展」の時の作品で、わざわざ作ったんだよね。

【イベント 「渡良瀬川の水を採取、それを上空よりとりもどす」】

大森:同じ1973年に渡良瀬川の水を採取したうえで、セスナ機に乗って、その水を上空からこぼすと。

長:ところが、落とすっていう過程でね、実際は落とせなかったんですよ。危なくって、飛行機のエンジンにかかったりね。で、パイロットが、長さんそれだけは勘弁してくれよ、って。じゃあ撒いたつもりって。それで、こうに持っててさ、傾いても水平は保てるじゃない、そこで一つの空間を移動しているね、バロメーターでさ、だから、宇宙に行っても平は平なんですよ。

大森:飛行機乗るのは相当高かった時代で。

長:そうそう。これはね、太田の養護学校で、中年の人でね、飛行機の練習をしている人がいて。飛行機乗りたいんですよなんて、言ったら、知り合いなら無料で乗せるわよなんて言って、それで乗せてもらった。

大森:ああ、そうだったんですか。

長:実は、ある日ね、みんな暇になると、日曜日にね、みんなが集まってくるんだよ、仲間が仲間で。じゃあ遊覧飛行で行くか、なんて言って、それで他の人は自宅にも連絡しないでさ、内緒で行ちゃったんだよね。それで帰りに、赤城上空で台風に会い、それで消息をたった事件があった。それで、1か月くらい見つからなかったんだ。そしたら俺が乗せてもらった飛行機だった。それで1か月くらいたったかな、奥日光で見つかったわけ。

大森:墜落して?

長:そう。飛行機だって僅かに残骸があっただけみたいね。それで、ちょっと問題になちゃった。その人(パイロット)は特攻隊員だったんだよ。だから、自分で平気でぶんぶん、ぶんぶん飛ぶんだって。
自分が乗せてもらった時にも(地上)5メートルくらいまで降りたんだから。ブーンっていうんで。うちのかみさんと花子に下で見てろって言ったら、落っこちると思ったなんて。

大森:じゃあ、特攻隊員じゃ、ゼロ戦をね。

長:で、(そのパイロットが)問題になって。整理したら写真に撮ってあるのよ。それでね、結局ね、俺はほとんどインスタレーションでやってたでしょ。
 それで、その頃、みんなインスタレーションが多かったんだよ。菅だってみんなね。それでね、だんだん平面化しないと売れないっていうんでさ。俺も考えは同じで、平面化してねインパクトのある作品を作るようになったんですよ。それが、《視床》の始まりなんだよ。

【《視床》の始まり】

大森:実は、長さんの《視床》の厚みはスタイロホーム(注:畳のあんこに使われる建材)なんですよね。あれは、なんて言うんでしょうね、畳中というか、中に入れる今の素材で言うとスタイロホーム。

長:みんな日常生活の反映みたいなものがあったんだよね。でさ、ビルなんかできるでしょ。で、作品を飾る場合ね、絵より物としての作品の方がね、迫力があるしね、表現できるっていう。そういう気持ちもあった、みんな。それで、俺もレリーフ状にして、で、俺はこういう考えがあったわけ。立体作品で立体の中に平面化された作品の要素も含んで、両方の感じを出したいと。それは、平面化した場合ね、彫刻になった場合。そうするとね、結局下へ置くことがすごく必然的な感じになった。で、平面的なものを作りながら、目線で見ることによってね、現実が変わっていくみたいな。あとはその逆で、平面的な絵画の中には、ある程度立体的なものが含まれているもののほうが、世界が広くなるんじゃないか、みたいな。そこのところを山本(和弘)さんは、評価してくれた。要するに、美術の中間的な領域と呼んでくれた。両方の要素を盛り込むことで。それで、特に下に置いた作品は、ちょっと高いのもあるんだけど、両方ね、一つは歩きながら目線によって、現実を知る。それは、フィールドと繋がっていたんだけどね。だから、自分の身にしみた生活感みたいな。

大森:この1976年の足利市民会館でやった、これなんかもう、なんとなく《視床》の床型のね、はしりっていうか、というイメージがありますよね。

長:これなんかね、涅槃みたいなつもりで作ったんだよ。

大森:棺みたいな。これなんかもね。

長:ちょうど背が立つくらいの。で、あとは目線かな。目線の立体というか。だから自分の感覚において捉えられる限りのものというかね。その中で何かを語りたい。結局ね、《視床》というタイトルも、これは脳の中に視床っていう部分があって、小脳の部分なんだね。人間は大脳と小脳になちゃったわけさ。で、昔は小脳だけでさ。知的なものの発展する大脳みたいなものがなかったんで。だけど、そこんとこはさ、嗅覚以外は全部脊髄を通して感覚が通ってるってとこに、何か機能としての魅力を感じたんですよ。で、あとは見る現実を語りたいがために、そういうタイトルにしたわけ、《視床》って。それでほら、視床っていうと俺が発見したような言葉なんだけど、実際、名称で使ってるんだよね。それなんかの解剖図を教わったのも、精神科の若い医者に教わったんだよ。そしたら、ドイツ語でサラメージっていうんだって。どう意味かって言うとね、大した意味はついてない、サラミソーセージがあるがね、あれにそっくりなんだってね。脳みそっていうのは。硬くて柔らかいみたいなね。それで、そう付けてあるだけなんだって。別に意味は無いんだよ。で、なにか名称を付けるのにさ、意味もなにも、あまりかしこまった意味ではなくて、付けちゃったりさ。それなんで俺もタイトルにね、サラミ、ブルーなんとかって付けた。

大森:ああ、視床の。

長:それはね、ピックポケットと共通な感じがちょっとしたんですよ。意味は無いんだけどね。だけどどっかで似てるところがあるみたいなね。

大森:この形は棺みたいな、これなんかも棺の。

長:なんの形って言われてもね、これが脳髄の空き部屋なんですよ。

大森:これなんかは、そんなイメージのね。ちょうど荒川修作の〈棺桶シリーズ〉の作品みたいな。

長:結構、俺たちの年代の作家にしても10年後の作家にしても、色んな実感は受けたと思うんだよね。ただ、それをどうやって表現するかというとね、それなりの表現だったんだけど、俺の場合は割に、日常を踏まえて、ただ単なる想像力じゃなくて、どっかで繋がっているみたいで、やり通したかったところがあるから。

大森:《視床》ができて、その間もインスタレーションの中で、ロープで括った振り子状のレンガをよけるパフォーマンスをやっていますけれども。これなんかは、山田利男さんが撮った。この頃が一番、山田さんとか春山さんとか一緒にやっていましたかね。

長:山田利男さん(注:足利の写真家)はね、彼がね写真を始めた頃から70年代はほとんど彼が撮ってる。

大森:(足利)富士見台病院も一緒に働いていたことがあるんでしたっけ。

長:後から入ってきて、「長さん、俺も一応就職してね、何か続けてやりたい趣味がやりたいんだけど、なにがいいんでしょうね」なんて。そんな話をするようになったんだよ。「何か好きなことある?」と聞いたら、彼は器用なんだよね。「鈴一」っていうカメラ屋さんがあって、彼はね、メカが好きで自分で現像やったり、それで、自分で店作ってさ、結構みんな写真撮ってるやつが集まってきた。その頃から70年代入って、それで色んな写真家が出てきた。東松照明だとか、あとは森山大道さんだとか、みんな影響を受けるようになって、木村(恒久)さんなんかも日常性を撮るようになった。ごく当たり前なものに目覚めたわけ。俺が連れていくところはさ、展覧会で、ちょっと訳のわからないものばかりで、とにかく利男さんに記録してくれといった。

大森:山田さんは、病院に仕事で入ってきて、そこで出会ったという感じですか。

長:山田さんちはみんな優秀なんだよ。富士見台の賄い部で入ってきた。それで、富士見台(病院)に本格的につとめるということで、山田さんが入ってきて、文化活動も活発になった。演劇やるといえば舞台装置を山田さんが作ったり。器用だった。

大森: いろんな人がパフォーマンスに関わるなど70年代くらいから、長さんをめがけて人が集まってきた。

長:本当にアートをやろうと決意したのは70年代だった。うちがダメになったので。それが境界線だった。加藤(アキラ)さんは、それまで作品をかなり作ってきたが、撤去問題があったのが70年代の後半だった。俺も加藤さんがいるというので、パフォーマンスを見にいった。

大森:東京で展覧会をするときに廃材などはどうしていたのですか。

長:ポケットのときなどは、徹夜して搬入して、「オーネット」(ジャズクラブ、足利)に仙田さんという人がいたんだ。ジャズが好きで、美術が好きで、おれの仕事を手伝ってくれた。でっかいライトバンに境界領域の廃材などを積んでくれた。あんまり、運送屋に頼んだことはなかった。

大森:ランドスケープアートのような感覚の制作だなと思っていて。実際の建物になっていて、住めるような、建築物のようなイメージ。そんなスケール感があるんだなと思って。そのような土地のイメージがあるのですか。

長:いろいろやっているうちに、こうじゃなくちゃならないというのはなくて、もうあとは重いものって限界があるじゃない。使いやすいもの。特に平面体になったら、スタイルホームの上に厚い板をはって、あれは便利なんですよ。みんなからその頃、これどんな風につくっているのって聞かれた。

大森:一番大切にしてきたのは。

長:あきらめないでやるということ。スポーツでもなんでも、そう答える人がいるけれど、これで食えなくもこれでやっていく覚悟。予定をたてるとかそういうことを問題にしない。結果的には問題にしていない、深刻なんだよ。家族が路頭に迷っちゃしょうがないから、どうにかしようと思うんだけれど、お医者さんとかが買ってくれた。体が一番大事だなと思う。いかにやり取りできるか。

大森:昔の廃材だから板だってこんな厚い板みたいなね感じだから大変だったでしょう。

長:だからね、あんまり、あえて運送屋に頼んだことはなかったんだよね。

大森:まあ、こういうものからだんだんスタイロホームを使って。

長:使いやすいもんだよね。だから、特に平面体になってからは、自分で細工できないとね、お金にならないんだよね。なんで、スタイロホームをさ、現場行ったらさ、簡単に使えるから、ああ、これだら。

大森:そうですよね。あれは、優れた、断熱性っていうかね。

長:みんながその頃これどんな風に作ってるって、みんなに聞かれたことがあるん。

大森:それで、発砲スチロールよりも目が細かいっていうか、詰まってるんで、シャープに形がでるっていうか。

長:ただね、あれはね、最終ナントカブツって言うでしょ、あれ以上、ごみにならない。

大森:産業廃棄物で、ええ。

長:あれは、燃すのにね、今、制限があるっていうかね。だからあれが燃え出したらね、でいつまでも燃えているんでね。あれが今、鬼門なんだよ。

大森:長年にわたる美術との関わりの中で、一番大事にしてきたことは何ですか。あとは、これから何をしたいとか。そういうのも含めて。

長:うん。一つ目は、現実的にあきらめないでやるということなんだろうけど。死んだりさ、家族が路頭に迷っちゃまずいからさ、何とかしようとするわけ、そうするとね、なにかムラムラとさ勇気みたいのが出てくるんだよね。だから、俺はお医者さんと知り合って、結構、買ってもらったりしたのはね、みんなそういう気持ちの時だよ。でね、なにかね、知的なものは補助的なものになるけれども、それをやり続ける原動力にはならないじゃない、やっぱり体が一番大事だなと思う。
体といかに自分がやり取りできるかだね。だから、ちょうどよくさ、見る前に飛んじゃわないと何もできないみたいな。その代わり、落こった先がどんなんなってるか、わかんないけど。そのくらいの気持ちが、そのくらいの気持ちになっちゃうような、精神みたいなね、それは、体しかないんですよ。知的に考えたらそんな怖いことはない、やれなくなっちゃう。こういう風に生きたいんだってことを、できるだけそれに振り向ける、それを進めることなんだろうね。でね、結局ね、他のことっていうのはね、そんなんだったら食べられないじゃないかっていうけどね、事実なんですよ。みんな本当。で、その場になるとね、そういう行為になるんですよ。金をどこかから見つけて、方法を講じるわけ。だから、普通の人だったらさ、ね、自分ちの屋敷なんか売ったりしないで済ませるじゃない、普通。だけどさ、そういうこともある場合は、やっちゃうわけですよね。で、そういう、それはね、勇気があるから、そういうことをやるんだか、なんだかそれはわかんないね。

大森:まあ、事実ね。だいぶ土地を売られて。

長:いや、それはたまたまあっただけでさ。もし無かったら、そんなことできないんだよ。

大森:ねえ。そうやって、でも続けられるっていう気力がね。

長:でも、やっぱり、一番大事にしたのは、あのね、本当にやってみる必要があったから、やった仕事で、とりあえず、そういう想いを、いつ何時でも忘れないで、進めるっていうかね。で、結局あとは、それをよくするためには、周囲のことをちゃんとやんないとできないですよ。だから、例えば、子どもなんかいてね。子どもが行く場所が無いのに、ほったらかしてさ、自分のことをやってるわけにはいかないんだよね。これは、もう理屈じゃなくて、やるべきことをちゃんとやらないと、自分のことができないんじゃないかって、そういう実感を持って生きていることなんだろうね。これはね。で、あとはまあ、いや、色んな想いは誰でもしてますよ。

大森:では、そんなところで、まあ本当に長時間、のべで6時間インタビューをさせていただいて、まあそのうちの八割がたは、長さんがこうしゃべっていただいたってことで、もう大変お疲れになったんじゃないかと。

長:思いつきみたいなもんかもしれないけど、でも、少なくもね、自分が受け止めたことの中から出てきた言葉だろうから。まあ、何か生きていくのに参考になることがあれば、いいし。