文字サイズ : < <  
 

堂本尚郎オーラル・ヒストリー 2008年12月20日

東京都世田谷区深沢、堂本尚郎自宅にて
インタヴュアー:池上裕子、粟田大輔
書き起こし:野田弥生
公開日:2009年6月1日
 

堂本:僕のものの考え方というのは、政治家でも経済家でもなく、一絵描きとして、僕の周辺のアート・シーンで捉える。その当時、今も続いている日展というところにいて。それで、何の変化も起こらなくて。昔の因習があって、嫌だなと思っている。「嫌だな、いつまでこんなところに居なきゃいけないのかな」と思いながら。それでも、僕はわりに重宝されて、日展の審査員にもなるところだったんだけど、たまたま1952年にヨーロッパに行って。その時にバチカンのミケランジェロの《創世記》をみて大変なショックを受ける。24歳といったら、そうたいした年齢ではないけど、当時、自分の過去というものを抹殺したいという気持ちがあった訳よね。それはどうしてかというと、単に自分が24年間生きただけではなくて、その間に戦争というものがあって。意識するとしないにかかわらず、それに巻き込まれていたわけですよね。それで巻き込まれて、3年間学徒動員に引っ張られて、暗黒の時代というものがどうしたってあったんだろうね。それを背負った人間が、システィーナ礼拝堂やバチカンの広場の柱の構成を見た時に、過去を一掃したいという気持ちになったわけ。その過去を一掃したいという気持ちは、24歳だから単純だよね。君はいくつだ。

池上:プラス10(歳)くらいです。

堂本:だけど、幸か不幸か、僕なんかが体験したものを君たちは体験していないから、そういう、ギリギリの世界というものを知らないわけだよね。

池上:そうですね。

堂本:観念ではわかるけども。僕なんかも実際はそうだったわけ。それと、ローマのブルースカイと、バチカンの礼拝堂のずーっと白い柱と。戦争が終わったのは8月15日なんだよ。僕は、舞鶴の海軍校舎にいた。その時の天候とやはり似ていたんだろうね。おそらく、広島の人はあれを見たら、原爆の破裂した時のあれ(光)を連想したんじゃないかな。これは僕のあくまでもイマジネーションだけれども。そのくらい強烈だったんだよ。だから、24歳で、しかも日展で特選を一回取って。特選は当時大変なことなんだよね。それで僕には伯父がいて、いろんな関係があるもので、25歳で日展の審査員になることになったんだ。だけど、僕はそれが逆に嫌になったわけだ。だから、ひっくるめて辞めるんだけどね。だから最初の僕の転機というのはそこから起こっている。それは(日本の)敗戦であった。これは君らなんかに聞いておいてほしいんだけど、僕が常に怒っている人間であるというのは、日本は、僕の知っている範囲の理論では、全部嘘なんだよね。敗戦を終戦という言葉に置き換えているでしょ。それから、維新という言葉は革命ではないんだよね。全部、ずらしていったわけだ。それは戦後美術も同じだ、と僕は思っているわけ。だから、僕は今でも、日本の戦後美術なんてあまり信用していないし。これからアメリカとかいろんな話がでるんだけども、僕は「自分はどこに住んでいるんだろう」といまだに思うんだよ。本当に分からない。京都で生まれて、フランスに適応して、ニューヨークでも仕事して。それで、日本に帰ってきて、京都に帰ってきていないでしょ。

池上:はい。今日はそのあたりからお話をおききしたかったのですけども。

堂本:動機でしょ。なぜかということだよな。

池上:それにはやはり明確な理由がございましたか。

堂本:明確な理由だけでなく、曖昧な理由もあるのだけどね(笑)。そこを僕はこれまであんまり発言したことがなくて。僕の記述というのは非常に少ないんだよね。昨年か一昨年に、初めて大きな展覧会を京近(京都国立近代美術館)でやって。君は見てくれたかな。

池上:はい。2005年の。

堂本:あの時に、初めて僕は日本で市民権を得たという感じを持つくらいだったわけだ。

池上:そうですか。

堂本:うん。部分的にパリやニューヨークでやっているという捉え方だけで。ところが、これは全く別の話だけど、現在君たちが外国に行くには、JALやANAがある。ところが、昔はJALなんてなかった時代なんだよね。JALができたのは何年だろう。平和条約ができたのが1952年ですからね、当然それ以後だ。ある日、JALのパイロットが、友人だったんだろうな、「本当に日本は情けないんだよ」と言うんだ。例えば、日航機がパリやニューヨークに着く。「着いた時に、飛行場の一番端っこに僕たちは降ろされるんだ」と言うんだよ。「それは敗戦国の飛行機だから仕方がないと思っている」と。そして、今度は羽田に帰ってくる。「羽田でも我々の飛行機が一番隅っこだ」と。ど真ん中に着陸するのは、やはりパンナム(Pan American Airways/ Pan Am)とか。だから、そういう悶々としたものは、僕はパイロットじゃないけども、パリで同じように体験している。だから今、村上隆なんてやっているけど、これはもう時代が違うわけだよね。僕は彼を否定も肯定もしない。結構だと。どんな流行が出てきても、僕は絶対否定しないんだよね。ところが肯定もしないというのが僕なんですよ(笑)。福田首相じゃないけども、「私はあなたとは違うんだよ」(笑)というところも僕にはあるよね。その理由はやはり、京都人であり、日本画であり、そういう家庭で育った。それから、京都はね、君はどこの人か知らないけれども。

池上:神戸です。

堂本:神戸? 神戸は完全に爆撃された。京都は爆撃されていないんだよ。その時の同級生には加山又造とか。加山は同級生なんだよ。彼は秀才でもあったし、終戦後いち早く東京に出て。僕は1952年くらいにヨーロッパに行ったんだけど。日展も嫌だしね。その当時いた創造美術の日本画家、山本丘人も結構ですよ、上村松篁も結構。だけどどこに違いがあるんだ、日展の作家と。ただ、昨日まで軍国主義って言っていた奴らが、急に民主主義に変われる日本人の器用さと同じであって。それで、日本が爆発したのは1960年なんだよ。それは知っているでしょ? 国会議事堂に押しかけたの。

池上:はい、安保闘争ですね。

堂本:あれが60年。僕はそういうものに参加はしなかったけども、50年にはもう、そういう意識はあったわけよね。僕も幸い80まで生きたんだけども、こういう体験とこういう発言のできる作家というのは日本にいないと思う。みんな体験していないし。だから、その辺を踏まえてほしい。それでパリに行って、なぜ僕がアンフォルメルにいたかということは、君もおそらく疑問に思っていると思う。美学的にアンフォルメルと僕、堂本尚郎がどう繋がっているのか、おそらく君は専門家だから(疑問に)思っていると思うんだ。

池上:そうですね。(ミシェル・)タピエの言っていたことと、一作家としての先生のお考えはどこまで同調していたのか、ということは気になります。

堂本:でしょ。それで、僕がどうして2年半くらいであのグループを出たかということ。今井俊満は、べったりくっついたわけだ。僕はどうしてもだめだった。自分なりに考え直して、それは一体何だったかというと、僕が、アンフォルメルにたまたま1955年から56年、57年くらいに参画したのは、さっき言った、自分の過去を全部否定したり、抹殺したいというのを1952年にローマで体験し、その前に、敗戦で自分というものが完全に、本当に360度ひっくりかえったんだからね。それは自分の意思じゃなくてやったわけでしょ。その時は天皇ですら自分の意志をはっきりさせていないわけ。天皇制を残すことにしたのは、日本の戦後を考えたうえで吉田茂とGHQが決めたということになっているけれど、やはり彼はあのとき自分の責任や進退について、考えを表明すべきだったと思う。僕は皇室はあってもいいと思う。だけどそこを曖昧にして、(当時の)皇太子が民間の女性と結婚したことが民主主義の象徴のように解釈されてしまって。そうやってごまかしてきたのが日本の戦後60年間であると。それが結局今日の状況にまでずっとつながっているから、文化にしても政治にしてもいよいよ本当に立ちゆかなくなってきているわけだ。
 だから、荒川という絵描きがニューヨークで「堂本さん、僕ね、亡命したいんだよ」と冗談で言った。だけど亡命は、政治的とか、思想的とか、何か理由がなきゃいけない。日本人には残念ながらそれはないものね。だから、僕なんかでも、今日亡命したいといっても、どこ行くかわからないけれど、亡命する理由がないんだよね。分かるでしょ。だからそういうところに、僕たちはふわふわ浮いているわけだ。君も含めて、みんな。まあ、アーカイヴも結構だけども。アーカイヴなんて、その言葉を使っているのが、だいたい僕はおかしいと思う。どうして日本語で言わないんだ。本当に日本人は外国語が好きなんだよね。ところが、例えば面白いのが、京都の清水焼ってあるでしょ。京都の焼き物。清水焼には、オリジナルがないんだよ。信楽なら滋賀県の信楽。それから、山口県の萩には萩焼があるでしょ。京焼はないでしょ。全部寄せ集めなんだよ。寄せ集めてできたものが、京都。だから京都というのはそういうとこだよ。京都の現在でも弱いのはそれなんだよ。オリジナルがない。

池上:ある意味、とても日本的ですよね。

堂本:そうなんだよ。それなの。僕はそこ(京都)に育って、その弱点というものを意識してずっときた人間だから。だから京都に帰ってないわけ。ほら、結論出ただろう。だから京都には帰らない。僕は帰っては駄目なわけ。

池上:この世田谷は深沢を選ばれたというのは、何かあるのですか。

堂本:これは、バイ・チャンス(偶然)で。三井不動産の36階を作った江戸英雄という有名な実業家がいたわけ。彼を知っていて、東京に帰ってきた時に、「どこか探してほしい」と言ったら、彼が探してくれた。

池上:最初日本に帰国されて、生活に、あるいは制作の方でも変化がございましたか。

堂本:制作? 生活?

池上:はい。どちらもですね。

堂本:それはものすごくあったよ。日本では引っ叩かれたよな、僕は。

池上:当初は。

堂本:うん。誰も理解できないんだもん、僕の言うこと。1968年でしょ。その前に、安保の60年の時に、第一回目の個展をしているんですよ、南画廊で。その直前に南画廊では、(ジャン・)フォートリエ(Jean Fautrier)の展覧会をやっているわけ。そうすると、フォートリエを代表にして、日本がそういう方向を向いたわけよね。その直前までは、例えば、東京画廊というのがあって。それと、その後に南画廊というのができるんだけども。日本がひとつ誤っていることをやったのは、東京画廊とか、その前におそらく日動画廊とかがあったと思うんだ、保守的な画廊がね。ところが、東京(画廊)の山本孝と、一緒にいた(南画廊の)志水楠男が、それこそ昨日まで竹槍持ってたやつが、民主主義にぱっと変わる。日本人ってね、ぱっと変わるんだよ。変わりたがるわけ。その時に、その二人が戦後美術を作ったということになっているんだけども。なっているでしょ?

池上:画廊の歴史においてはそうですよね。

堂本:そうでしょ。ところが彼らがやった方法というのは、それまでに古い絵を持っていたわけ。そこで東京画廊は斉藤義重に目をつけ、南画廊はオノサト(・トシノブ)に目をつけた。これを売り出そうとして。ところが、コレクターは知らないわけよね。コレクターがいないわけだ。その時にいたのは倉敷の大原(總一郎)さんくらいだよね。

池上:でも、現代のものはあまり集めていいらっしゃらなかったんですよね。

堂本:そうでしょ。ところが志水と山本というのは、大原さんがいてくれたために、安井曽太郎なんかを売って金を作るわけだ。

池上:はい。ありますよね、今も大原美術館に。

堂本:あるでしょ。あれは有名な絵なんだ。それで東京でマーケットを広げようとして。行為としてはいいんだよ。だけど例えば、そのオノサトと斉藤の前にいた、誰がいたか知らんけど、フィギュラティヴな絵を売っていたわけなんだよね。その時に、斉藤とオノサトを担ぐというか、売りだすために、もうこの辺では駄目なんですよって、彼らが言うんだよ。これはもう、どこにも載ってないけどね。

池上:たいへん大事なお話ですね。

堂本:だからね、君は書いてもいいけども、本当に調べて書いてほしい。それで、どうしたかというと、前に売ってる絵と交換したわけ。だから、前のやつをいただきますから、これをどうぞ、と言ってコレクションを始める。それがずっと戦後続いているんだよね、日本は。

池上:作家を入れ替えてということですよね。

堂本:そう、入れ替え。だから、戦後の日本美術の画商たちの弱体というのは、そこから始まったのね。ところが、歴史の表のほうでは、東京画廊と南画廊がなかったら、どうにもならなかったなんて言っているでしょ。だから誰も言わなかったし、メディアも言わなかったけれども、僕は嫌なことはこういう機会に言い残して死にたい、とは思っているんだよね。

池上:入れ替えられてしまった古い世代の作家さんたちは、どういう方たちがいらっしゃったのですか。

堂本:おそらく、脇田和とかだったと思う。まあ、作家の名前は詳しくは言わないけど、入れ替わりをやったんだ。

池上:それで、新しい方向を作りだしていったんですね。

堂本:そう。ひとつの方法としてそうした。それしかできなかったんだろうな、きっと。

池上:そうですよね。

堂本:うん。だから、例えば、全然違う例だけども、パリにフィアック(FIAC:Foire Internationale d’Art Contemporain)ってあるでしょ、知っているかな? 画廊の。フィアックって、今も東京でもなんかやっている。あんなことは全部イミテーションだけども。バーゼルにもあるわね。このごろは、韓国でもやっている。ところがフランスでフィアックが始まった時、何の展覧会をやったかというと、家具の展覧会をやった。ファニチュアの展覧会だから、壁を作っているでしょ、スタンドだから。そこへ絵をかけたわけ。おそらく(ピエール=オーギュスト・)ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)だったかもしれん。そうしたら、家具が売れずに絵が売れちゃったというんだよ。その絵は非常に高価で。それで家具をやめるわけ。それが美術展なんだよ。それはまだ20世紀前半ですよ。これは、フランスの画商が話したことであって。そんなことで入れ替わったわけよ。だから僕が言いたいのは、古い絵と新しい絵をそうやって入れ替えたわけね。

池上:先程のお話に戻りますと、帰国当初はあまり評価が良くなかったということなのですが。

堂本:まず、僕が帰国した時は、仕事が進みすぎて、パリでも僕は駄目で。認めてくれたのは、ニューヨークのマーサ・ジャクソンだけで。

池上:個展をされていますよね。

堂本:そう。それがこの時期なんですよ。この前の話をしていないよね。アンフォルメルがあって、ずっと続いて。それで、ひとつの次元だけじゃなくて、絵画が二次元とか三次元とか言っている時代に、実際のカンヴァスが二枚三枚になっているんだよ。それはどうしてかというと、観念的に言っている空間の次元というものではなくて、本当にこうなんだというんで。この時分、僕は、一柳(慧)とか武満(徹)とかと接触があるわけ。

池上:はい。アメリカで。

堂本:書いてあるでしょ。これが全部、例えば、ヴァイオリンであったり、ピアノであったり。どうして音楽というものは、ああいうものを総合してできるんだというね。漠然とそういうことから入ってくるんだよね。それで、この時に僕はパリの画廊と大喧嘩になって出て行くんですよ。

池上:はい。おっしゃっていましたね。

堂本:それで、その時の絵がこれ(《絵画 1962-−27》、1962年)なんですよ。あの、本当にご縁なんだけども。この展覧会(「異邦人たちのパリ1900-−2005」、国立新美術館、2007年)に僕も出したでしょ?

池上:はい。拝見しました。

堂本:あの黒い絵。あれが問題で僕はスタドラーと喧嘩になるわけ。これはおかしいんだけど、日本というのは、美術館なんて大威張りで、いわゆる管理(するの)がこういう国だけどね。フランスなんかは画商と美術館は対立しているんだよね。僕が一番強烈な印象を受けたのは、1963年だったかな。ローマで展覧会をする時に、絵描きと画商がグルになってローマの近代美術館と争いがあるんだよ。たまたま、僕はその時に展覧会をローマでやらなきゃいけなくて。それで作品を持って(街に)入ったら、各画廊が全部閉まってるわけ。それで僕は(ピエロ・)ドラッチオ(Piero Dorazio)とかね、(アッキーレ・)ペリッリ(Achille Perilli)とか、(ガストーネ・)ノベッリ(Gastone Novelli)とかみんな友達だから。それで、「どうしよう、俺はどうしたらいいか」と。「まあ、君は日本人だからやってもいいんじゃないの」と言われて、(展覧会を)やったんだよ。ところが、「一体何があったんだ」ときいたら、その時分、ローマの近代美術館に(ジュリオ=カルロ・)アルガン(Giulio-Carlo Argan)っていうのがいて、館長はブッカレリートという人だったんだけど。アルガンはローマ大学の文学部の教授で、彼が、「戦後美術を援助して今日までもってきたのは我々だ」って言ってしまったんだよ。この我が近代美術館だって。そうしたら、画商が怒ったんだよ。自分たちがやったやつを、やっと数年後に君たちがやったんじゃないか、と。それで大問題になるわけ。それが63年。

池上:その年に、アルガンはサン・マリノ・ビエンナーレもやってますよね。先生が金賞を取られた時。

堂本:あなたも見ているの?

池上:アルガンが企画したビエンナーレだったと思います。

堂本:まあ、それはそんなに大したことじゃない。それで面白いのは、63年のローマの騒動は、68年のパリまでひっぱっているんだよ。その後の64年に、僕がヴェニスのビエンナーレに出した時には、賞があるんですよ。

池上:はい。アルチュール・レイワ賞をお取りになって。

堂本:その次はないでしょ。ヴェニスのビエンナーレ。賞なし。

池上:そうですよね。賞制度そのものがなくなったのですよね。

堂本:だからあれと、ソルボンヌ大学(の学生運動の騒動)と全部が繋がっているんですよ。日本ではそういうことは(あまり言われない)。

池上:ビエンナーレ自体が封鎖されたりしましたよね、70年に。

堂本:そう。その時にも面白いことがあるんだ。僕は64年に出して、その次のビエンナーレの時に、確か三木富雄や高松(次郎)が出したんじゃないかな。

池上:66年ですね。(注:実際は68年。66年は、久保貞次郎がコミッショナー、オノサト・トシノブ、池田満寿夫、篠田守男、靉嘔が出品作家)

堂本:それで、コミッショナーが針生(一郎)だったのかな。(注:68年は針生一郎がコミッショナー、出品作家は菅井汲、山口勝弘、三木富雄、高松次郎)それちょっとよく調べて。名前を間違えては絶対にいけないからね。これは重大な事件なのさ。その時に菅井(汲)も出しているんだ。ヴェニスのビエンナーレにね、日本はお金がないもんで、国際交流基金がいろいろ目処をつける時に、例えば、4人出す場合は2人は現地で。だから、僕と豊福(知徳)は。

池上:現地採用のような形ですね。

堂本:もう本当にケチくさいんだけどさ。これは僕が出したんだけどね、66年(注:実際は68年)ですよ。その時に、針生だった、確か。よそのパビリオンはみんな閉めるって言っているんだよ、フランスのパビリオンも。それでいち早くフランスが閉めた。日本はどうするかということになった。その時の発言がけしからん。日本のコミッショナーが「よその国も閉めるなら自分のとこも閉めよう」と言ったんだよ。まず、あれ(主体性)がないわけだよ。これは全部聞いたことだから、どこまで本当か知らないからよく調べてよ。(注:針生一郎が後に記したところによると、針生が4人の作家に意志を確認し、菅井と山口は開館するべきだという意見、三木と高松はコミッショナーに一任するという意見だったため、開館のまま開会式を迎えた。「特集 世界史のなかの68年」、『環』 2008年Spring 33号より)

池上:はい。

堂本:そしたら菅井が、「私は何もキュレーターのためにヴェニスに出しているんじゃないんだ」と。「自分の仕事を見せるために持ってきたんだ。どうして閉めなきゃいけないのか」と。彼だけが反発したそうだ。その時のエクスポザン(出品作家)たちの中に、おそらく三木も高松もいたんじゃないかな。「じゃあ、キュレーターが言うんなら僕もそれに従うよ」と言って。それが日本人なんだよ。まあ、いろいろ面白いよ。だから、こういう裏話を僕はちゃんとするべきだと思う。僕も含めて、ヨーロッパやアメリカで展覧会をするよね。そうすると、知っているみんなに、葉書でも書くんだろうね。誰だってみんな成功しましたって書くじゃない。日本で発表すると、全員の展覧会が成功したことになっているよね。そんなことはありえないんだよ。僕は最後にパリの近代美術館で展覧会やった時に…… 79年かな?

池上:そうですね。市立近代美術館で展覧会をされています。

堂本:その時に、わりに有名な雑誌、『ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール』( “Le Nouvel Observateur”)か何かだったと思うけど、インタヴューにきて。インタヴューは受けたんだけれど、記事を書く時に「やめて下さい」と僕は言ったんだよ。どうしてかと言うと、僕の美学の一番大切な部分は日本の美学だ。僕はこれだけフランスをよく理解しているけれど、(僕の中には)こういうこぶがあるんだ。そのこぶは、日本というこぶなんだ。ところが今考えてみると、僕にはこのこぶが一番大切で。あなたたちは、僕の絵を評論する場合、フランスの美学の一部分でしか言えないでしょ。だけど、僕(の本質)はここなんだ、このこぶなんだ。これをお前に分かれとは言いたくない。だから書かないでくれって断ったんだ。向こうはびっくりしていたけどね。だけどいまだに僕はそうなんですよ。

池上:結局書かれなかったんですか。

堂本:いや、書いたよ。もう大褒めよ。それとさっき言ったように、僕はずっと外様でいて、日本でも認められなくて。僕は、学生時代から梅原(龍三郎)、安井って大嫌いだった。梅原、安井って、君らにしたらとっくの昔の人で、それでいいんだけども、当時の日本の評論家はともかく(彼らを)アート・シーンの最高峰にしていたわけよね。ところが僕はその時分からルノワールを知っていた。(ピエール・)ボナール(Pierre Bonnard)を知っていた。(フランソワ=オーギュスト・)ビヤール(Francois-Auguste Biard)を知っていた。もちろん僕の隣には堂本印象がいて、蔵書なんて全部あるから。全部見ているわけよね。だからその影響もあったかもしれないけど、僕には梅原、安井が一番良いとは到底思えなかった。それでパリに行った時も、一回半年間いて、そして三年間日本に帰って勉強して二回目に行きなおす。その理由の一つのポイントというのは、スカンジナビア・エアラインというので羽田から、ローマまで50時間かけて、降りながら行った時の飛行機の中で、入国に書かなきゃならん書類があるじゃない。日本の平和条約が5月1日で、僕は5月5日に飛んでいるんだから。

池上:はい。すぐですよね。

堂本:確か、パスポートが千いくらだった。その時に(書類に書かれている)言葉がわからないわけよ。でもちょうど尼僧の軍団がいたわけ。

池上:ローマに戻られる。

堂本:いかにも品格の高い尼さんがおられてね。その尼さんに、書類を書くのを手伝ってもらって。そうしたら、その尼僧が「あなたは絵描きなのね」と。「アーティスト、ペインター」と僕が書いたんだろうね。そして「アーティスト、ペインターが何をしにローマに行くの」って。すると「もちろんキリスト教絵画。それに一番興味がある」と知ったかぶりして、「チマブーエの、ジョットの」なんて言っちゃったわけだ。そしたらその尼さんが「あなたカトリックか」と聞いたの。これは衝撃だったよね。「カトリックを勉強しない人がそんなの見て何になるんだ」と言うわけ。すばらしいよね。まずそれで一撃くらった後で、バチカンに行っているわけだけども。だからそういう体験があって、その前に(日本の状況を)くだらんと思っていて。そういうものを全部整理するというか、自分自身を納得させるためにヨーロッパに行って。でも近代美術館に行っても、さっき言ったように、僕はもう子供の時から蔵書でみんな見ているから、美術館に行くと「ピカソ、こんなの知ってる。あのページにあったな」って。生意気だけど、全部知ってたわけよ。まあ興味はあるよ、「実物はいいな」くらいに。そうでしょう? それで研究所に行って。これ二回目よ。三年間日本に帰ってきて、フランス語勉強して。それは尼さんに言われたから、日本で勉強するわけよね。そして三年間でパリに行って、そこには菅井とか今井とか皆アーティストがいたんだけど。僕は、その後、すごく早くデビューしてるでしょ? それで妬まれるんだけども。三年間いない間に、チャージしていたわけよ、一番大切な部分を。今井とか菅井は、三年間ずっとパリにいてクロワッサンを食っていたわけだ。僕は茶漬け食いに帰ったわけだ。

池上:行く前の三年間の京都でのご体験がとても重要だったということですね。

堂本:それで、もう一回、日本の美学があるとするならば、そういうものを認識した。だから、奈良の戒壇院の四天王見に行ったりしているわけだよね。それで、研究所に行って。ギョエツ(Go¨ez)というベルギー人の教授に「僕は油絵を初めて描くんだけども、あなたに習いたいのは、フランスの美学を習うのではなくて、油絵の描き方だけ教えてくれたらいい」と言ったら、怒ったよね。

池上:ちょっと生意気な学生ですよね(笑)。

堂本:そう(笑)。あとで僕がデビューしたら「堂本は僕の弟子だ」なんて言いふらしていたけど。そういうことがあったわけ。僕はパリに行って、別にジャポニズムを売るつもりはないのよ。その時分、例えばゴッホにしてもモネにしても、浮世絵の影響を受けたとか、日本の先生方はそういうことばかり言っている。そういうのが事実であっても、僕の場合は、向こうのものを理解するだけの能力は、子供の時から見ているから、まず持っているわけよ。そして、美しいものって一緒だよね。京都の美学とパリの美学と、京都人の意地悪と、パリジャンの意地悪というのは全く一緒なんだよね。アメリカ人は単純だから、これは違うと思う。ごめんね、アメリカって(笑)。

池上:いえ、別にアメリカ人ではありませんから(笑)。

堂本:だから、僕はフランス語がそんなにできたはずがないんだけども、フランス人が何を考えているかというのは全部見えたよね。京都の意地悪さをそのままやればいいんだからさ。

池上:それはニューヨークとは全然違うところですよね。

堂本:全然違う。ニューヨークなんて、うっかりしたら、冷蔵庫と便所まで見せるじゃない。フランスでそこまで到達しようとしたら、何年かかるの。京都と一緒。

池上:奥が深いというか。

堂本:そう。今、流行で、何とか屋(町家)っていうので、若い人が内装変えてビジネスになるって。あんなのは、京都人が便利で使っているだけであって。フランスもそういうところなんだよ。みんな疲れているわけ。だから、今のフランスの凄さがあるんだけどね。まあ、それはそこに置いておいて。日本に帰ってきたけど、日本の評論家が僕を認めようとしない理由というのは、日本の評論家というのは、やはり西洋美術、そっち側でドクトルを取ったり、ディプロマを取っているわけだ。僕がこういう絵を描くと、あんまりヨーロッパを勉強してないんだよねって。だから、不評というより理解できなかったわけよね、日本の評論家は。だから僕は悶々としたですよ。だって日本に引き揚げて、ヴェニスのビエンナーレで賞を取って帰ってきても、画廊はなかったんだから。南画廊も僕をやろうとしなかった。これはどうしてかというと、そういう美学を持ってないんだよね。ひどいのは、この作品を見て、東京画廊の山本孝が「堂本はついに畳をやりだした」と言ったんだから。
 山田正亮という絵描きの名前は知ってる? 一つの例として、山田正亮と僕は親しくなった時期があるの。どうしてかというと、山田正亮みたいな作家が日本に残っていたわけだ。ところが、日本の東野(芳明)や中原(佑介)などの、いわゆる一番有力な人間というのは、山田正亮をピックアップしなかったわけだ。そういうことに、逆にシンパシーを感じて。正亮の展覧会の時に、佐谷(和彦)がスピーチしてくれと言うから、「これは僕たち全員の手落ちである。山田みたいな作家がいるとは知らなかった」ということを本当は僕は話したかった。僕は東野(芳明)なんかを批判したんだけど。ある日、山田が「堂本さん、一回家に来ない?」と言うんだよね。「絵を教えてあげる」と言ったんだよ。ショックだったよね。軽いショックだったよ。「こいつ、生意気な野郎だな」と思ったけど、後から考えてみたら、彼はヨーロッパ的なキュビズムから入っているわけ。だから、彼の作品の弱さは、安井曽太郎の系列なんだよ。わかるかな?

池上:先生が苦手とされる。

堂本:彼は僕の絵を見てハラハラして、「青雲の描き方教えてやる」って言ったんだよ。歯痒いでしょ。そういうものなんだよ。

池上:でも、むしろ先生にそういうところが全くないから、日本に帰ってこられて、不遇な時期があったということですよね。

堂本:そうなの。彼もそう思ったんだろうな。彼は善意で言ったわけだ。だけど、それだけの器というかキャパしかないから。その山田正亮であれ、日本でね、君(粟田を指して)も絵描きになるのかならないのか知らないけども、本当に考えてほしいのはこれなのね。君(池上を見て)を取り巻くのでも、日本美術じゃなくて、やはりアメリカの美術でしょ? どうしても。僕は、それをいかんとは言わんよ。だけど、残念ながら僕達日本人なんだよ。それで、僕の体験として、フランスに行って、もちろん絵描きなんて大体頭悪いんだから、日が経つにつれて、モンパルナスで俗語とか変なフランス語を覚えていくわけだ。いかにも自分はフランスのオーソリティだよという感じを受けるわけ。ところが、あるレベルまでいくと、それ以上出られないんだよね。おそらく君だって一緒だと思う。

池上:それは分かります。自分のこととして。

堂本:その時に、僕は逆説的に、パリの地面を自分の爪で掘っているという感覚になったわけ。初めは僕の欲しい水がすぅーっと出てくるんだよね。ところがね、掘っても掘っても最後は出てこないんだよ。それが、日本に帰る理由の一つになったね。それで、パリのあとにニューヨークに行って、ニューヨークで掘ったらアメリカの水は出たんだ。どうして僕が1968年に帰ったかというと、その間にベトナム戦争をフランスで経験しているんだよ。経験というか見てるわけ。その後、ニューヨークへ展覧会に出しにいった時、ニューヨークで北爆を知ってるわけよ。

池上:ちょうど同じ時期ですよね。

堂本:そう。60年に日本へ帰ってきたときも安保闘争があった。その時に初めて僕は東洋人であるという意識になった。そのあと8年間で引き揚げるんだよね。その8年間に何があったかというと、アメリカの原子爆弾の核実験、ソビエトの核実験と、最後にはフランスがやって。そして、ピエール・レスタニーという評論家知ってるだろう。レスタニーと僕は友達でね。それで、ピエールに「アメリカはけしからん、ロシアはけしからんし、今度はフランスがやった。お前、どう思うんだ」と。そうしたら「大国が二つあって、アメリカに勝手なことはさせられない。フランスが真ん中にいてバランスを取っている」と。それがフランス人なんだよ。だから、「お前もフランス人かよ」と。あいつはまあ、ユダヤ人なんだけどね。フランス人って嫌だなと元々思っているところに、大親友のインテリですらそういうことを言う。それからその間に、最初の湾岸戦争(中東戦争の意)が始まるのよ。

池上:はい。イスラエルとエジプトですよね。

堂本:そう。その時の体験とか。それから、僕の個人的なこと。パリに14年間いて、税金を払って。交通事故起こして、裁判所にまでいって。まあいろんなこと経験してよ。ところが、随分おじいさんになってるから仕方がないけど、(僕には)兵役がないわけ。ミリタリー・サービスとか。そして、選挙権がないんだよ。こんな人間がパリにいて、絵を描いて、何の役に立つのかという。だから、僕は自分の祖国に帰るべきだと思い、帰ってきた。帰ってきてから、善良な国民として、いち早く区役所に行くのよね。それで、長いこと外国にいたけど、年金は払わないといけないと思って申告に行ったわけ。そうしたら「あなたは1年間足りません」と言われて。年齢が60歳くらいで終わるんだね。

池上:納付期間がありますものね。

堂本:だから僕は年金なしだ。だから一つの例として、画壇は別にして、さっきの君の質問に非常に端的に返答できるのは、例えばこういうことなんだ。そしたらこの前、年金事件が起こっただろ。「ざまぁみあがれ」と言ってたわけ(笑)。僕は年金なしだった。

池上:今も?

堂本:そうしたら、ありがたいことに去年文化功労賞もらったでしょ。あれで年金がおりるんだよ。年間、悪いけど350万、君たちの税金からもらってるんだ(笑)。世の中って面白いよね。

池上:そういう仕組みだとは知りませんでした。

堂本:だけどそれは功労賞(を貰ったから)。偉いんだよ、俺(笑)。その前に、本当に善良な市民になろうと思って(役所に)行ったのよ。だからいかに阻害されたか。パイロットが自分の空港に帰ってきて、自分の国なのに端っこに置かれた。今では、日航が一番真ん中にいるでしょ。昔はそうじゃなかったんだよね。だからこれは僕だけの問題ではなくて、時代背景がそうだったわけよね。以上。僕は決して優遇されてないのよ。誰も僕の展覧会をやらなかったんだから。

池上:その後、南画廊でまたされていますよね。

堂本:それはここに書かれているでしょ。

池上:はい。円と波の。

堂本:それは、画商がどうだからなったんじゃないけど。ここ(《連続の溶解》シリーズ)からここ(《蝕》シリーズ)に変わった。パリで変わった時は、画商(スタドラー)と喧嘩になった。これは書いているよね。

池上:尾崎(信一郎)さんの論文でも書かれていたと思います。

堂本:京都に帰らなかった理由は、京都をよく知っていてね。京都というのは、もちろん文化遺産はたくさんあるけど、今日がないのよ。そこにもってきて、僕はパリとかニューヨークとか、いつもそこの国の中心地しか行ってないんだよね。それで、僕は1960年に東京に帰ると、安保闘争があって、ひしひしと自分の近くにそういうものがあると(感じた)。京都だったらね、迫撃砲も弾も飛んでこないんだよ、向こうの街は。

池上:守られているわけですよね。

堂本:いやもう、眠ってるわけね。だから、ポリティークというか、イデオロギーというか、政治的な意識というものもない。(明治時代に東京に)移った天皇が帰ってくるなんていまだに言っている。帰ってこられたら邪魔で仕方がないからね。(帰ってくる)ということは警護でしょ。ところが、日本って間違っているんだよね。東京に政府を置いておくと人口過密だから遷都しようなんて。遷都なんてしたら、よその国の大使館はどうするの。本当に日本の行政も政治家も何を考えているのか。あなたはアメリカにいたから、よくわかると思うけど。よくいるね、日本に(笑)。鼻血が出そうだもんな。僕なんかしょっちゅうそうだったもの、日本に帰った時。それで僕流にものを言うと、「アナクロだ」って言われたよね。例えば僕は今でも、宗教心というものがなきゃだめだって言う。それから、国家、国旗、パスポート、全部僕は必要で、僕は日本人以外何でもないですよ。それで、日本は戦争を放棄したから外国が攻めてこなかったら平和にいられると思ったんだよね、60年間。「そんなことはありえない」ってなことを僕は言ってるから、「お前はすごいナショナリストだ」と随分やられたし。だから言っちゃ悪いけど、谷川俊太郎なんかもう、絵に描いた餅みたいなデモクラットだからさ。学生運動の時も、左翼に対する反発で僕はやった。だからどちらかと言ったら右だったよね。学生時代にそういうものがどうして起こったかというと、日本に1940何年に米軍が入ってきた時、マッカーサーが宮城(皇居)の前の、今の第一生命保険のところにGHQは来たんだ。京都は烏丸の丸太町の前にGHQが来た。ところが京都のジェネラルはインテリで、共産党のシンパだったんだ。それで学校改革をやるんだよ。京都の美術学校が駄目になったのは、その当時の校長の中井宗太郎。知っているかな? だから、京都の美術学校は全部教師が入れ替えになるわけ。

池上:今も左が強い?

堂本:そう。それの影響が、上村松篁とか、秋野不矩とか。秋野不矩って名前知ってるだろ? あれなんかは学生時代、助手だったからね。それが日展から出てそっちに行ったら、もう自分は前衛の極みたいな誤解をしたわけだよね。その上村松篁は芸術院の会員になりたがったんだろう。日本って本当に、芸術院がどういうものかってことも知らないわけよね。だから平山郁夫の駱駝なんかがでてくるわけだ。あんなもの仕方がないからね、本当言って。だけど、岡倉天心から続いている今の院展、それから四条派からきている日展。いろいろあるけど、日本の洋画よりも日本画のほうがいいですね。どう思う? 君は絵をやったの? 実際に。

粟田:一応、少しはやりましたけど。

堂本:俺は本当にそう思う。竹橋の近代美術館なんて哀れじゃない。青木繁やったかな、気持ちの悪い。あんなの本当に仕方がないよね。あの時に、上野の美術学校にイタリーの先生が来るんだよ。絵描きも彫刻もね。

池上:フォンタネージでしたっけ。

堂本:それがもう悪かったよ。だからそういう意味で、僕は日本画出身であったことに自信と誇りと(がある)。それから、日本というのは洋画のほうも、わけもわからずにシュール(レアリスム)から入っているんだよね。僕はシュールに一歩も手を付けなかった誇りはあるね、逆に。だいたいね、日本の洋画家にはそこと、ダダイズム、次のマルセル・デュシャンがいて。ところが弱いんだな、僕から見ると。僕の考えでは、あの日本の作家たちはまるで回虫、お腹の中にいる虫みたいなグループだと思います。太陽のあたるところにいったら死んでしまう。例えば僕は、高松とか三木、特に三木とは親しいんだよ。親しい作家は、先に死んでしまったよね。今は中西が残っているけどさ。中西なんてどうしていいの、あれ。君は信者だろ? どこがいいんだ、あれ。

粟田:違いますか。先生のお考えと。

堂本:うん、僕らはあんなにインテリになれないし、まず。

池上:(文章も)難解ですよね。

堂本:難解って、あんなもの読む必要がないんであって。だけど、問題はやはり作品でしょ? それは、僕はあんまり感動しないんだよね。日本ってああいうミスティックな生き方が好きなんだよ。それはずっとあるよね。鳥海青児だってそうだろ。これ知ってる(カタログを見せながら)? 日本の作家として(取り上げられている)。

池上:分厚い辞書のような。

堂本:そう。写真ばっかりだけど。

池上:そうですか。本当だ。

堂本:最近出た。2、3日前に送ってきたの。もう少し詳しく言わないといけないね。日本に帰ってきて、アンフォルメルからこう移っていく1964年に、日本はオリンピックと新幹線があった。僕は絵描きだけど、鹿島昭一という鹿島建設の社長というか息子が留学しにパリに来ていて。その後、彼は行ったり来たりしていて。ある日、パリにまた寄った時に「堂本君、近いうちにハイパー・エクスプレスというものが通るんだよ」と言うんだよね。東京から大阪まで4時間と言ったかな。僕は「それがどうした」と。フランスが古いからさ。「社会が変わるんだよ」と彼が。それが一つね。「はあ、そんなもんかなあ」と。それで僕は1964年にヴェニスのビエンナーレに出した後、すぐに帰ってきて、オリンピックの時に新幹線に遭遇して。だから乗ったよ、それに。

池上:初代の新幹線ですね。

堂本:そう。それが一つなんだよ。その時、僕はフランス的に古いものだから馬鹿にしたけれども、鹿島は「変わっていく」と言った。それで僕なりに考えて、新幹線と古い東海道線は、東京から大阪に行くという目的は一緒で、行為としては一緒だけども、システムは違うんだ。だから世の中はこうやって変わっていくんだ、と。美術界もそうであろうというのが、おぼろげながらの認識であった。だから、その時にこれに変わってくる。一柳なんですよ、作曲の。彼が「堂本ね、パリなんて古いよ」と言ってきたの。彼はジョン・ケージにいかれているもんだから。どこまで本当かは知らないけどさ。知ってるでしょ? 一柳。見るからに無味乾燥な感じの男ね(笑)。僕はあいつと仲がいいんだけど。彼が「自分自身は、ビートルズとベートーヴェンを同じバリューで考えるんだ」と言ったんだよ。これは、くそったれがと思ったけどさ。それがこういうところ(《二元的なアンサンブル》シリーズ)に出てくるのよ。要するにバリュー。この二つは今でも残っているね。

池上:陰と陽の関係ですよね。

堂本:陰と陽。それで、これ(《連続の溶解》シリーズ)に入っていって。この時にヴェニスのビエンナーレに出して。そして、受け入れられなくって。さっき言ったように、南画廊の志水はゴンドラでオノサトのカタログをこんなに運んでくるわけだ。東京画廊の山本が、モーターボートで斉藤のカタログを。豊福と僕のはカタログないんだよね。

池上:現地採用だからですね(笑)。

堂本:そう。豊福と「あいつらが賞なんて取れるはずがないんだ」と言って。「ほっとこうね」と。「ただし、僕たち二人が取ったら、どっちが取っても喧嘩はなしだよ」と、僕と豊福と(約束した)。豊福は僕の兄貴だから。そうしたら、僕が取っちゃったわけだ。それで、また叩かれるわけ。

池上:豊福さんは何かおっしゃっていましたか。

堂本:いや。叩いたのは南画廊と東京画廊。自分のところに賞が欲しいわけ。外様の僕が取ってしまった。

池上:それで、少し面白くなかった。

堂本:そう。だから、それもみんな引っかかっているわけ。

池上:帰国されて、南画廊では、ちょっと反応がよくなかったというのは、そういうところも。

堂本:反応どころか、ヴェニスのビエンナーレで志水が来ているから。証人がいるんだけども。賞を取ったあとに、彼が泊まっているホテルに行って「悪いけど、今後東京で展覧会してよ」と言ったら、「知らんな」と言われたのだから。その時に、マーサ・ジャクソンが「なぜあの人はあなたの仕事がわからないのだろう」と。それで「ニューヨークにおいで」と言うわけよ。

池上:やはり、外様、外様で行かれているわけですね。

堂本:そうなのよ。それでニューヨークに行って、描き出したのがこの絵でしょ。だから、同じ行為だけども、全然違うんだよね、テクスチャーが。これはパリジャンでしょ。こっちはやっぱりさ、フィフス・アヴェニューになっちゃうわけだ。それで、その時に丸がでてくるわけ。そして、ありがたかったのは材料がね、この時アクリルの絵の具が初めてアメリカででるの。

池上:はい、リキテックスとかあのタイプのものですよね。

堂本:そう。リキテックスが出てね。リキテックスというのは水性絵具なんですよ。僕日本画出身だから、水性なわけ。

池上:相性がいいわけですね。

堂本:そう。僕には非常にフィーリングが良かった。そこから、これ(《連続の溶解》の Planet シリーズ)になっていく。これなんかも面白いのよ。(ヴィクトール・)ヴァザレリー(Victor Vasarely)に影響を受けてると言われると、もちろん受けてるだろう。でもディテールから全部フリーハンドなの。

池上:そうでしたか。

堂本:全部フリーハンド。それで、ジョアン・ミッチェルだったかな、彼女が僕に「堂本、あれやめなよ」と言うわけ。「どうして」と。「あんなもの何回やっても、ヴァザレリーじゃない」とね。「よく見ろ。ヴァザレリーは定規で描いている。俺は全部フリーハンドだ」と。だからこれ、全部歪んでいるんだよ。だから、鼓動みたいなものは確かに東洋というか、日本と西洋の違いじゃない。

池上:自分の手で、直に描いていくという。

堂本:手で描かなければならないとは言わないのよ。でもそれができるのは僕の技術だし。向こうの人はびっくりしたよね。これは確か、使ってあるのはリキテックス2色だけでしょ。これ(《惑星B 沈黙》、1972年)なんか、黒の上に同じ色なんだよ。同じ色を一回かけるのと二回かけるのと。

池上:重ねていくことで、濃淡がでていくのですね。

堂本:そう。全部そうなんですよ、そこ。

池上:本当に美しいシリーズですよね。

堂本:だから僕はパレットがいらないのね。パレットということは、ホワイトとブラックを混ぜて、こうやってね。下に黒が置いてあって、乾いてから白をやると、グレーになる。

池上:もう混ぜないわけですね。

堂本:うん。だけど、それは、フランスの印象派の絵描きはそうだったよね。

池上:そうですね。

堂本:だから、さっき言うように、僕は、西洋美学を知識として理解はしているし。日本画も両方知っているのは、おそらく僕だけじゃないかな。

池上:そうですね。それを象徴するようなシリーズというのが、近年手がけていらっしゃる、蓮池図のシリーズが、まさにそういう感じではないかと思うのですが。あのシリーズについても少しお話をお聞きしたいのですが。

堂本:梅原には《紫禁城》(1940年)とかいい絵もあるよ。それから、梅原は「金髪の女よりも日本の足が短い裸のほうが私は好きだ」と言って「俺もそうだ」と言ったんだけどね。ところが、日本では、梅原さんが日本の岩絵具を混ぜたからといって評価するんだよ。そういうことを聞いたんだろうな。日本って、そういうくだらないことを言っているわけ。僕なんかでも、日本画の絵の具も使いますよ。それを梅原さんが使ったからって、どうだというんだ。僕のアトリエ見てくれたらわかる。日本絵具も全部並んでいるよ。それは片方は顔料であり、こちらは染料であり。その違いであって。だけど、本当にありがたいのは、僕は日本画しかやってなくて、その代わりに、人に誤解を受けて、なかなか認めてもらえなかった。ある作家には、「絵を教えてやる」なんて言われたりしたんだけどね。だけどそういうものを全部通り越して、これでよかったなと思うのね。それで気がついた時に、今君が質問したこの絵(《蓮池 無意識と意識の間》シリーズ)ができるわけよ。こいつがね。

池上:2005年の回顧展では、本当にこのシリーズに感動しまして。

堂本:ありがとう。まあそれは結構なんだけども。でもこの時に、やはり僕は行き詰っているわけ。ここにくるまでに。これ(《連鎖反応――クロード・モネに捧げる》、2003年)なんかモネでしょ。「ちょっと、お父さん助けて」という感じだったの、これ(笑)。必死でやっているわけよ。

池上:睡蓮のような雰囲気ですよね。

堂本:そう。「モネ祖父ちゃん頼むよ」って、これがまさにそうなの。これは西洋美学をちゃんと勉強して、わかってやっている。

池上:基本はそうなんですよね。

堂本:リピートでしょ。こういうところに、十分にヨーロッパが入ってくるわけよね。これは、京都の法然院なんだけれども。これは、タイトルをみたらわかるよね(《臨界》シリーズ)。いずれにしても、原子爆弾や原子核の問題や、くだらないことばかり考えているんだけども、いろんなことやって、モネおじさんも何も言ってくれないもので、困ったなと思って、仕事してた時にこの絵を描いた。この絵が一点できるのよ。

池上:はい。この《一期一会》(2004年)という作品ですね。

堂本:そう。その時に、世田谷美術館の酒井(忠康)が、僕の展覧会をやると言って、困ったわけよ。俺が作品を描かないから。「ここまでだったら困るよな」とみんなが言っているわけだよ。

池上:やはり、新作も入れてということに。

堂本:「新作も出来たら見せるよ」って。そうでしょ? 別にさ、キュレーターが偉いわけじゃないし。「俺がいなきゃ、お前は展覧会できないんだぞ」っていう感覚だからね。そして、やっとこれができたんだよ。できたけどね、作家というのは、最後は豪語する。俺なんかでも豪語する。(だけど)自信はないしね。作家ってそうだよ。もう本当に、ひょろひょろしてるんだから。そうしたら、アトリエの隅にこれがあったのを見てね、酒井が「それなあに」って言うんだよ。「いいじゃない」とか言ったわけ。それでその後、酒かなんか飲んで「堂本さん、僕は心配だったんだ。あなたのアトリエにいくとね、空気が止まってるんだよね」と言うんだよ。これ強烈だよね。酒井ってなかなかいい男だよ。「だけど、これを見た時に、空気の動いているのが見えた」って。うるさい男だけど、本当に彼はいいこと言ったわけ。

池上:ガツンときますね。

堂本:うん。だから、「彼がいなかったら、このシリーズはできなかったね」と言って。そしてまあ、なったんだけども。僕は「省エネ・ペインティング」と言って出したんだよ。というのは、僕って、ともかく描ける男なんだよね。そうすると、もう描きたくないわけ。

池上:描けてしまうからですよね。

堂本:そう、描けちゃうのよ。それで、描いていると、うちの女房が「そこで止めろ」って言うんだけどね(笑)。

粟田:描いてしまう。

堂本:そうすると駄目なんだよね。

池上:この(蓮池)シリーズは、描いてらっしゃらないですよね。

堂本:何にも描いてない。全然描いてない。ところが、これが面白いんだよね。洋画の連中が友達に多いでしょ。横尾(忠則)が「堂本さん、あれは水をまず敷いてから描くの」と聞くのよ。

池上:違いますよね。

堂本:これは油なんだよ。だけど、油絵の人にはこれが出来るとはわからないわけ。これ全部油絵具なんだから。

池上:下塗りはどういう風にされているのですか。

堂本:下塗りは普通のジェッソよ。

池上:この滲み具合というのは。

堂本:今、多摩美の教授をしている人は、僕がずっと世話をした子でね。その彼がカンヴァスを全部貼ってくれるわけよ。アルバイト料払って、「お前ちゃんと全部塗っておいてくれよな」って。だから彼が塗ったやつなの。それで(この滲みが)できるわけ。

粟田、池上:へえー。

池上:それは、先生が配分を(お決めになったのですか)。

堂本:なにも配分はしてない。

池上:その方が勝手にしてくださっているんですか。

堂本:そう。むこうも笑ってるんだけどね。すると、彼が旅行なんかすると、俺は困るんだよね(笑)。

池上:この滲み具合が本当に素敵で。

堂本:だけどこれは、日本画とかなんとかではなく、僕だからできたことであって。だけど、これは健康上よくないんですよ。だってここまで、ぼやけさせるためには、あれは揮発分だものね。

池上:それをやっぱり吸ってしまうと(健康上よくないですよね)。

堂本:だから、これ(マスク)をして。

池上:色を置いて、ほっておかれるのではなく、ずっとそこで見てらっしゃるんですか。

堂本:いや、部屋中に(揮発成分が)充満するから。しかも、テープ(注:NHK、BSの堂本についてのドキュメント番組)あげたよね、見たでしょ。こうやって口で吹いている。

池上:はい、拝見しました。

堂本:息で吹いているでしょ。エアー・コンプレッサーできないのよ。だから息なのよ。ヒューマン・ペインティングって僕は言うんだけども(笑)。

池上:近寄るからやっぱり、たくさん吸われますよね。

堂本:それは、吸っていますよ。

池上:今はどれくらいのペースで、このシリーズを続けていらっしゃいますか。

堂本:今また、やりだしているよ。でもそれがさ、こんなことをやると、次が描きたくなるわけよ。描いている時間は、半年くらいあったんじゃないですか。だから今、平穏になってきたよね。

池上:ちょっとジオメトリックな。

堂本:そうそう。今度見せるよ。

池上:はい、ぜひ拝見したいと思います。

堂本:最後はこれ(《蓮池 無意識と意識の間》シリーズ)なんだけども。これは売れないよ。

池上:そうなんですか。

堂本:うん。一点だけ売れたのは、これ(《蓮池 無意識と意識の間》、2005年、2005年図録の6-01)なんだよ。しかも日本人じゃないの。これは韓国のコレクターに売ったの。

池上:そうですか。

堂本:うん。不思議だよ。

池上:意外です。すごく売れ行きがありそうに思っていましたが。

堂本:僕がセゾン美術館に「全部買えよ」と言うんだけど、買わない。いいんだ。もう片方のアンフォルメルの(作品)は、去年ブリヂストンが高い金を出して買ってくれたんだけど。これは何年かな。1963年?

池上:63年〜64年ですね、はい。

堂本:これ去年売れたよ。ということは何年経っている?

池上:44、5年は経っていますね。

堂本:だから、ほうっておけばいいんだよ。

池上:ほうっておけば必ず(売れる)。

堂本:そうだと思う。ただ、残念なことに、日本の税法がいかん。俺が死んだらさ、税金がかかってくるんだよ。そういうところも日本は駄目よね。棚卸商品って言葉知らんの。これ、税法なんだよ。例えば、僕が絵の具を買うでしょ。小学校の先生じゃないから一本買って、とかではないよね。がばっと大量に買っていく。そうすると、領収書あるじゃない。「これでどの絵を描きましたか」って言うんだよ。そして、「絵の具残ったでしょ」って。日本の税法って、そんなところよ。だからもう、むちゃくちゃ。この間も、税務署の奴と随分口吻したんだけどね。だから、本当はこういうの(聞き取り調査)をやってくれて(変わればいい)。高階(秀爾)とも話をするけど、日本の税法の悪いところなんか突っつかないと駄目なんだよ。これ(今日の話)は、一生に残る。僕のこういう話を残さないといけないということは、日本でもフランスでも言われているんだよ。どうしてかというと、フランスでもほとんど死んじゃったわけ。

池上:そうですね。レスタニーさんもそうですし。

堂本:それから、君なんかにちゃんと勉強してやってほしいんだけど、アンフォルメルにどうして力がないか、政治的に。シュルレアリスムとかみなイズムが付いているんだよ。フォービズム、キュビズム、ダダイズム。アンフォルメルは付いてない。タピエは、トゥールーズ・ロートレックの甥で、貴族なんだよね、変なおじさんだけど。最後には、金に汚くて身を滅ぼすんだけど。金に汚いというか、興味がありすぎた。勅使河原蒼風にくっ付いたこととか。お金がいっぱい入るじゃない。それから吉原治良、あの人は吉原製油の社長だからね。だから、両方と非常にぴったりいった。彼のまずかったところは、日本でそうやっておきながら、通訳と行った銀座のバーの女と一緒になった。そういう汚いことがいっぱいあったわけ。それを日本の世の中で純粋培養された東野とかがとても嫌ったわけだ。それ(アンフォルメル批判)の火付けをしたのが、あの馬鹿ったれの瀬木(慎一)なんだよ。

池上:(当時の)新聞にも(批判が)出ていましたよね。

堂本:瀬木は初め、あっちをやっておきながら否定したわけ。だから、あいつらのやり方が非常にまずかった。パリでのタピエのまずさは、イズムという言葉がないように、「私は、評論家ではない。アドバイザーではあるけれども、評論家ではない」というところだ。だから、いい作家を―堂本も含めて―見つけるわけよ。そういう眼はあるんだけども、アンドレ・ブルトンのようなあれ(評論)はないわけ。それが弱かったわけよ。それで最後、蒼風さんが死んで。そこに今井俊満が入って。僕は今井が悪いとは言わないけども。今井はどちらか言うと、こちら側(指をこするジェスチャーをして)のほうだったから。だから、僕と今井がどうしても合わないのは、僕はお坊ちゃまで「お金なんて十分あるからいりません」という、すかしているほうでしょ。だから、その辺をうまくタピエとかが喧嘩をさせたりしたわけだよね。その時に、僕はレスタニーとも親しかったんだけども、評論家というのはそうなんですよ。例えば、日本もね、短いところでみると、今泉(篤男)さんがいて。今泉さんが一番最初にフランスの美術を持ってくる。そして富永惣一がアンフォルメルを持ってくるわけだ。アンフォルメルで駄目なところは、瀬木慎一がミシェル・ラゴンなんかを持ってくる。そこへ東野はポップ・アート。中原(佑介)は観念アートを持ってくる。何にも理由はないんだよ。思想があってやっているならいいけど、あの人たちがやったことは違うよ。自分のイズムじゃないでしょ。みんな借り物なんだから。だから、その中で一番僕が峯村に言うのは、「僕はお前大嫌いだけど、もの派っていうのを作ったのだけは偉いね」って僕は言う。(注:峯村敏明自身は「もの派」をあくまでも「自然発生的な集団」としている)だから日本というのは全部翻訳ものなんだよ。その辺を注意してほしい。僕は君たちヤングに間違っているところを直して、後輩に道を広げろと僕は言わない。後輩があほなら何を言ったって分からないから。それよりも、間違った方法で入ってきたものを、まっすぐにしたいなと。僕は日本の評論家の系統では、高階、酒井、建畠(晢)辺りまでは信用してるんだよね。批評家はいるけど、評論家っていないでしょ、評論できる人が。評論すると、中西になってしまうんだよ。中西であり、中村一美であり、宇佐美圭司であり。小さいんだよね。これでは駄目だということを分かってよ。まあ、そういう意味で面白いんだよ。僕は池田満寿夫とも親しいんだよ。どうしてかというと、池田満寿夫も外国で苦労している人間だから、合うんだよね。ところが日本では通用しないの、二人とも。

粟田:ご苦労されましたよね。

堂本:僕なんか、恵まれているほうよ。認められて、これ(「異邦人たちのパリ1900-2005」展、国立新美術館、2007年)に出たから大ショックだったわけだよね、日本でも。まさかと思ったわけだよ。

池上:国立新美術館の。

堂本:どこにいったんだろうね。入っているのかな。ついているんだ。違うか。(カタログの堂本図版を探しながら)

粟田:これは、テキストですね。

堂本:テキスト。反対だ。この辺だ。これ、懐かしいでしょ。ジョアン・ミッチェルと僕は、これが最後なんだけどね。君ら会ったことないよね。

池上:会ってはいないです。

堂本:アメリカではどんな人に会ったの。

池上:作家の方で直接お会いした方は、あまりいないですね。

堂本:いないの。僕はジャクソン・ポロック以外全員会っているんだよ。

池上:うらやましい。

堂本:(ハンス・)ホフマンが好きでね。

池上:(カタログの図版を発見して)こちらですね。3つパネルの(《絵画1962-27》、1962年。

堂本:(この絵を描いた)当時はポンピドゥー・センターはまだないから、(僕に)近代美術館のコネクションができた時に、スタドラー画廊はむくれたわけよね。パリの同じ空気を吸った人間というのは、高階、芳賀(徹)くらいしかいないんだよね。それで、絵描きは田渕安一がいて、彼はコブラ(CoBrA)だった。コブラというのは、コペンハーゲンとブラッセル(注:さらにアムステルダム)の作家が集まって、その頭文字をとってコブラにしたんだけどもね。アンフォルメルとコブラは違うんですよ。面白いのは、マーケットの問題なんだけども。例えば、僕らは小さかったからかもしれないけど、フランスで他のスクールの作家に挨拶なんてしなかったね。そんなものほっとけという感じだった。だから、ベルナール・ビュッフェが展覧会をやっても見にも行かなかったよな、あんなくだらない作家。日本だったら、全部行っちゃうでしょ。
 ところで(本を見せながら)、こんなの知らんでしょう。これはモンパルナスなんだけども。僕はこの一番奥の、ここにいたことがある。昔は藤田とか、スーチンとかいたんだよね。それで、これは今、観光客のために残っているんだけど。この中に、佐藤敬っていう絵描きがいて、彼はそこにいた。僕はこっちにいたの。これはおかしいんだ。パリの冬なんて、ものすごく寒くてね。朝起きたら、ガラスが全部氷で凍っているの。僕がパリに出はじめの時、家賃が13,000円位だったかな。仕方がないから電熱器を買いに行って。電熱器をつけたら、電気がショートしちゃうんだよ。よく調べたら、40ワット以上は駄目なわけ。それで仕方がないんで、夜にみんなでカフェに行って。暖を取りながら時間を費やすのが、パリのカフェなわけよ。アーティストはみんな貧乏だから、そこに集まるわけ。ジョン・ミッチェルとか。もうほとんど毎晩一緒。ジョアンなんて、あいつは酒飲みだからさ。酒飲みで男をみなくわえよるから。ある日、僕と今井が「送ってきて」と言われて。今井と「おい、これ知らんぞ。どっちがつかまっても知らんぞ」って言ったの。そのような面白い時代なんだけどもね。その時に、そのカフェで、(アルベルト・)ジャコメッティなんかも一緒になるんだけどね。そのカフェにさ、夜の遅くまで、たくさん絵描きがいるわけ。これでも食えるというのが、本当に僕は、日本の絵描きのように、朱毛氈の上に座らなくなったのは、ここで鍛えられたことだね。
 だからいまだに僕のアトリエには、テーブルがないのよ。みかん箱の上に板を置かないと、テーブルにならないの。そうでないと落ち着かないわけよ。そういう生活をして。その時に今井と言ったことなんだけど、馬鹿絵描きというか、僕らも含めてだけど、「この中からピカソが出るんだよね。どっちがピカソになるかね」という会話を交わした。そういう会話を交わしたのは今井とだけだね。第一次大戦の時に、ダダイズム、シュルレアリスムはできたわけでしょ。僕らは敗戦になるまで、あれほどの大きな犠牲を払って。ジョアンもいるし、リオペルもいるし、両方のサイドの作家の卵がいて。「これから僕たちは何をするべきか」という話はしたよね。その連中はアンフォルメルだった。アンフォルメルというのは、僕は仕事じゃなくして、ともかく過去を否定して。僕の場合は、日本のミリタリズムを否定したいわけよね。非常に面白かったよ。タピエスは僕の7つ年上かな。ある日、僕は彼に「失礼だけどあんた、どうしてここにいるの」と。僕は、パリもニューヨークも画廊が一緒だからね、あの人と。「どうして」というから、「確かスペインでは内乱があっただろ。ほとんど若いのは死んだはず。お前はどうしてここにいるんだ」と。そうしたら「幸い、自分はサナトリウムにいた」と。そういう会話とかね。

池上:その時代ならではですね。いろんなところからパリに集まってきて。

堂本:そう。イヴ・クラインって知ってる? ブルーの絵の。彼と僕と同じ年なんだよ。ジャスパー(・ジョーンズ)は僕の一つ下。会ったことがなくても、なんか繋がっているの。同じ空気なんだね。ジャスパーは、絵描きになんて全然なるつもりはなくて、水兵で横須賀に着いて。横須賀から上野に行ったら、アンデパンダンの展覧会をやっていて。それを見て絵描きになるんだよ。

池上:そういうことは、あまり言われてないですからね。すごく貴重な証言ですね。

堂本:それから、イヴが死んだ時でもね、イヴ・クラインが自殺する3日前位、僕はモンパルナスで一緒にいたんだけどもね。(注:公式にはイヴ・クラインの死因は心臓発作。)彼は「堂本、君はいいな。次々に作品の方向を変えられて」と。「お前もやりゃいいじゃないか」と。「いや、そうはいかない。大衆が、私の次のブルーはどうなるって、そういう期待をしているから動けないんだ」と言って。そういうことをイヴに対して言っている記述はどこにもないよね。彼は、そういう悩みを持っていたよね。それは、高階秀爾だってそうだよ。彼は本当に苦労した男よ。年齢的には僕の弟みたいな。僕が一番世話になった留学生は高階だったよね。留学生で来ていて、西洋美術館ができるという時に「堂本、俺帰ろうと思うんだけど」。「どうした」と。「西洋美術館が一つできるから、そこに来ないかと言われている。どう思う」なんて。そういう仲だったよね。建畠は俺がいる所に「アンフォルメルについて教えて下さい」って言ってきた。だけど、同じ時代に同じ空気を吸って、同じ目標を持っていて、という人間がだんだん少なくなっている。例えば、アメリカでいったらアルマンなんて知っているだろう。あの《アキュムラシオン》の。彼と僕は同じ年でね。ここにも遊びにきているよ。あれは機を見るに敏な男なんだ。フランスのオークションで買い占めた骨董品をチェルシー・ホテルに持っていって。彼はチェルシーにいたんだよ。チェルシーのホテルに彼がいて、道具をみたら、全部そこに並んでいるわけ。それをアメリカで売って、今度はアーリー・アメリカのものを買って、パリで売って。初めはそうやって生活をしていたんだよ。それは悪くないよね、生活のためだから。僕はニキ・ド・サンファール(Niki de Saint-Phalle)も知っているし、(ジャン・)ティンゲリー(Jean Tinguely)とも友達なのよ。展覧会の時の写真が一枚でてきた。

池上:ギャラリー・ド・フランス(Galerie de France)でされた時のものですね。

堂本:そう。これ見てごらん。これはティンゲリー。これは(ピエール・)スーラージュだよ。

池上:これはどこで展覧会をされたのですか。

堂本:これはパリの近代美術館。

池上:1979年のですね。

堂本:これは高階だよ。今なんかもう髪の毛あらへん(笑)。

池上:いえ、ございますよ(笑)。

堂本:いや、整理していたら、色々と出てくるもので。だから、君に「写真いるか」と聞いたの。いるときは言って。これ、一柳がおるだろう。

池上:今とほとんど変わりません(笑)。

堂本:面白いよね。

池上:はい、貴重な写真ですね。

堂本:貴重なんだよ。ほんの一部だけど。なぜ、こんな所にスーラージュが出ているのかとか。まあ、そういうことで。

池上:長いあいだありがとうございました。