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江上茂雄オーラル・ヒストリー 2014年1月11日

福岡市東区のケアハウスにて
インタビュアー:竹口浩司、池上裕子、池上司
同席者:江上徹、江上しおり(江上茂雄の長男夫妻)
書き起こし:向井晃子
公開日:2015年6月14日
 
江上茂雄(えがみ・しげお 1912年〜2014年)
画家
福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市)に生まれ、間もなく福岡県大牟田市に転居。15歳で三井三池鉱業所建築課に入社し、以後45年間会社勤めをしながら主にクレパス・クレヨンで地元の風景を描きつづける。60歳の退職と同時に熊本県荒尾市に転居し、水彩絵具による風景写生画を始める。出かけては風景画を1枚仕上げて帰ってくるという日々を30年間ほぼ毎日続け、約9,000枚もの作品が生まれた。暑く照る日も寒く雨降る日も路傍に座りこみ描く絵描きの姿を、まちのたくさんの人たちが記憶している。他にも鉛筆による植物細密画や実験的・抽象的な即興絵画、木版画、染め紙など、制作方法もスタイルも多岐にわたる。2010年に家族によって自費出版された『江上茂雄作品集』をきっかけに、2013年に福岡県立美術館、田川市美術館、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の3館が連携して江上茂雄展を開催。江上氏は2014年2月26日に他界されたが、幸運にもその1か月前の2014年1月、福岡県立美術館での個展を担当した竹口浩司氏を聞き手に、2回にわたってお話をうかがう機会に恵まれた。

竹口:茂雄さんは、明治45年の6月18日、福岡県の瀬高町にお生まれになって、その後、わりと早くに大牟田に引っ越されてるんですね。

江上:はい。父が、左官の職人でしたから、これから三池炭鉱が盛んになるからですね、仕事がたぶん増えるだろうということで、家族を引き連れて大牟田へ行ったと思いますね。

竹口:お父さんはもともと、左官屋さんのお家ではなかったんですよね。

江上:ああ、別にそうではなかったんですけどね。ちょうど、一人前の左官になって、大牟田へ(行った)わけですね。

竹口:茂雄さんはずっと大牟田にいらっしゃるわけですけれども、茂雄さんの子供の頃の大牟田の思い出ですとか……

江上:そうですね、炭鉱の町といっても、筑豊みたいにボタ山はないし、あまり炭鉱らしくなかったんですけど。私は小学6年生のときに父が亡くなりましたから、それから母子家庭ですから、高等小学校出てすぐ、私が就職して母に代わって稼ぐよりなかったんです。私には姉がいて、妹が一人いましたね。3人でした。

竹口:お母さんって、どんな方でした?

江上:母は農家の出でしたからですね、その頃の女っていうのは、そんな仕事が何ができるっていうのはないので、久留米絣を織って、母子家庭を母が支えて、赤ちゃんを育てましたね。

竹口:茂雄さんは、お母さんと一緒にお住まいになってたわけですけれども、お姉さんと妹さんは。

江上:姉は、小学校を出たきりですけれども、今でいう訪問ヘルパーといいますか、その家に住み込んでそこの家族の一員になって、炊事洗濯、奥様の手伝いですね。住み込んで不便をしましたね、姉は。今で言うと、もうほんと、かわいそうですけどね。そういう風にして、支えてくれましたですね。

竹口:妹さんは?

江上:妹はですね、母が、妹までは食べさせきらんと思ったんでしょうね。親戚に、子供のいない親戚のおじさんがおりまして、その人が引き取ってくれて、そこに養女として行きました。しかし、これが向こうの母親とうまくいきませんで、割合に早く帰ってきましたね。そして自分で、仕事を探して、というような生活をしましたね。これはまあ、軍人、海軍さんの嫁さんになって、自分は結婚して、子供を育ててきましたね。まあそういう状況です。

竹口:じゃあ、お父さんが亡くなったのが、茂雄さんが……

江上:小学校6年生のとき。

竹口:小学校6年生、12歳ですよね。

江上:それから母子家庭です。それから母が全部みて、まあ。

竹口:それで、お姉さんと妹さんの思い出みたいなのあります? 子供の頃の。

江上:そうですね。姉は、小学校出てすぐに、なんですか、昔で言うと、女中さんと言いましたね。その家族に住み込んで、そこの一切の奥さんの手伝いからですね、炊事洗濯、住み込んでですね、働きましたね。

竹口:あまり、茂雄さんの中でも、こんなお姉ちゃんやった、とか、そんな思い出は?

江上:非常に優しかったですね。そして、結局軍人さんのお嫁さんになって、サイパンへ行きましたね。

一同:ふーん。

江上:そして、全部、戦争で亡くなったわけではないんですけども、自分も亡くなる、婿さんも亡くなる。それで子供がひとり、帰ってきましたんですね。

竹口:その方が……

江上:それが、今の姉の子供ですね。それが、また戦争になるわけですからね。

竹口:お父さんが亡くなったのが12歳ですから、小学校5年生、11歳くらいのときに、大牟田に新設の尋常小学校ができて、茂雄さんはそちらに転校されているんですよね。(注:当時の第五太牟田尋常小学校、現在の大牟田市立上官小学校のこと)

江上:ええ。私は、大牟田の小学校に行ってますからね、妹は、おじさんの家にもらわれていって、そこで小学校だけ行きましたね。

竹口:茂雄さん自身の小学校の思い出ってありますか。

江上:ありますね。小学校6年生の時に、学校の美術の先生と初めて会いましてね、非常にかわいがられましたね。

竹口:お名前何でしたっけ。

江上:セキトフミタケ(表記不明)いう人で、この人も大牟田出身で、検定みたいな教員の資格を取って美術の先生になって、その人に初めて出会いました。それが、非常にかわいがられました、私は。

竹口:かわいがられるというのは?

江上:それは「江上、江上」と言ってですね、特別に指導されましたし、それから、高等小学校に行くとき、学校が変わるわけですね。小学校が終わって。高等小学校移ってからもですね、非常にこう、私のために、小学校時代のまま指導してくれましたね。展覧会やると「これはちゃんと見とけ」とかですね。

一同:へえー。

江上:学校は高等小学校に変わりましたけどもですね、「展覧会をちゃんと見とけ」とか、そういうことは非常に気にしてくれましたね。

竹口:それはやっぱり茂雄さんが小学生の頃から、絵を描くのが上手で。

江上:ええ、そうですね。特別に目を掛けてもらったと言っていいでしょうね。

竹口:何か、教えてもらって覚えていることとかって、あります?

江上:うーん、そうですね。実はその先生はですね、検定試験で小学校の先生になって初めて私と出会って、あの、何て言ったらいいんかな、非常にこう、細かいところまで気を遣ってくれましたね。

竹口:小学生ですから、使っているのは……

江上:ええ。クレヨンとクレパスの時代ですね。私の小学校の時代に、初めて大牟田で、クレヨン、クレパスができましたね。それまでの先輩の人たちは色鉛筆でしたね。まだそういう時代でしたね。私の時代になってから、クレヨン、クレパスが、小学校で材料になりましたね。小学校時代は、私が出展したのではないんですけれども、先生が出展してですね、二回、賞状をもらいましたね。小学校5年、6年で。それはあります。

竹口:それは、茂雄さんが特別にコンクール用に描いたわけではなくて。

江上:いいえ。

竹口:先生が、見て。

江上:先生がこう、出品して。

竹口:「これはよく描けている」と、出されたわけですよね。

江上:はい(笑)。確かに、その小学校では、絵の上手い子供だ、という風に注目はされてましたね。

竹口:高等小学校に上がられて、また別の先生にも。

江上:ええ。高等小学校では、2年間ですね、ところがこの2年間は全くこう、美術の先生って会ったのか会わなかったのか、小学校の先生みたいなのはありませんでしたね。先生が図画の時間に教室に現れたことがあるかどうか、分からん程度のことくらいしかありません。その、高等小学校の2年間はですね。

一同:ほう。

江上:しかし、私はそのくらい一生懸命やったことは間違いありません。とにかく、好きでしたからね。絵を描くことが好きでしたから、絵は描きましたね。そして、もう、高等小学校を卒業すると、すぐ就職ですね。母子家庭ですから、私が働かなくちゃなりませんからね。働きながら、それからは、もう定年まで日曜画家ですね。定年後は「路傍の画家」で、そんなわけで、大牟田・荒尾を。

竹口:尋常小学校の頃に、クレヨンとクレパスで絵を描かれて、高等小学校に上がってから水彩絵具で描いたんですね。

江上:はい。水彩絵具になりましたね。

竹口:また全然こう、画材が変わるわけですね。

江上:クレヨンから水彩に変わるときにはですね、戸惑いました、やっぱりね。固形の絵の具から、水で描こう、となりましたね。それはちょっと戸惑いますわね。それからそれと同時に、その頃、絵画に、フランスでは、ピカソとかマチスとかっていう新しい絵が出ました時代で。私が小学校の先生から習ったのは、写生の時代ですからね、そのままを見て描くということでしたけれども、ちょうど高等小学校出た頃は、それが、がらりと変わりましてね、写実ではなくて、ピカソとかマチスとか出ましたからね。それはやっぱり少年ながらに、非常に戸惑いましたね。それがある程度、こうやっていけばいいんだ、ということになるまでにはね、当時ピカソやマチスの新しい絵画が入ってきて、非常に戸惑ったことは事実ですね。あまりにも写生ということで来ましたからね。

池上(裕):ピカソとかマチスの絵は、雑誌なんかでご覧になったんですか。

江上:ええ。それは、本物を見るということはね、まだ難しかったですから、日本では。だから、美術雑誌、本屋さんで見ましたね。

池上(裕):どういう美術雑誌を当時、ご覧になってましたか。

江上:その頃は『みづゑ』というのがありましたね。それから、『アトリエ』というのも。大体は『みづゑ』を買いましたね。ずっと、月刊雑誌でしたね。

竹口:茂雄さん、ピカソとかマチスを見て「こんな絵があるのか」と驚かれたのは、就職されてからのことですよね。

江上:非常にそれは、驚きというか、ほんとに写生だけできましたからね、非常に戸惑いましたね。子供ながらに、動揺したんじゃないでしょうかね。写生から、ああいうピカソとかマチスのような新しい絵画になって。もう、あの頃の日本は、フランスのパリへ行くというのが、画家のひとつの(憧れで)。そういう時期でしたから、少年ながら戸惑いましたね。

竹口:茂雄さんの中で、それまでずっと写実、写生をされてて、ピカソ、ブラック、抽象画を見られて、自分も抽象画を描いてみようかっていう風に、挑戦されたことってあったんですか。

江上:うーん、それは自然にですね、美術が動いていくんですから、ついていかないでは時代遅れといいますか、動揺しながらやっぱり、努力はしたんじゃないですかね。非常に混乱しながらもですね。

池上(司):写生のときには、小学校の頃に絵を描かれる頃には、外に出て、風景を見ながら描かれていた?

江上:小学校5年、6年には、(見たまま)その通りを描くということが、もう、写生のあれだったですね。

池上(司):抽象的な絵をされるときには、今度は家の中で、部屋の中で考えてなさってたんですか。

江上:それはですね、絵自身も写実、写生から新しいフランスの絵画が入ってきて、時代が。だからやっぱし、戸惑いながらもやっぱり、それについていく、っていうようなことで。そこは非常に混乱したと思いますけどね、自分なりにそういうものを取り入れていく。美術雑誌を見たり、展覧会を見に行ったりして、私もやっぱり、影響を受けざるを得ませんでしたね。少しずつ変わっていったということです。しかし、私自身としてはやっぱり、どうしても写実ですね。最初のベースにひかれてましたからね、どうしても写実が基本になっていると思います。その頃の美術の変化とともに動いてはきましたけどね。

池上(裕):そうやって描かれた絵を、お見せになる方はいらっしゃったんですか。

江上:いいえ。私の小学校時代には、大牟田では、そういうことはありませんでしたね。大牟田の小学校で初めてコンクールがあったときにですね、私ではなくて、先生が出品しましてですね、大牟田の小学校の全部の作品のコンクールがありましてね、5年生のときに、大牟田全体で二等をもらいましたし、6年なったときにも二等をもらいました。その記憶はあります。

竹口:茂雄さん、それってどんな絵だったんですか。覚えておられますか。

江上:うーん、大体、先生は、日本画の先生でしたけれど、写生を非常に勧められまして、コンクールに先生が出品した。大牟田の小学校全体のコンクール。そのときには、野菜を描きましたね。

竹口:静物画ですね。

江上:はい、静物画です。そして、もうひとつ、5年のときには、風景画だったと思います。そして、賞品をもらったりしましたね。「あれは絵がうまいよ」というような子にはなってましたね。その学校内に。

竹口:それは茂雄さんにとっては、すごくうれしかったこと?

江上:ええー。それは確かにうれしかったですね(笑)。確かに。

竹口:お母さん喜ばれたりしました?

江上:そうですね、母も。私はもう、ほんとに、母に育てられましたからね。母子家庭で。だから一生懸命やったことは間違いないですね。絵を描くのが好きでもあったから、当然ですけどね。

竹口:絵を描くのっていうは、小学校で図画の時間とか美術の時間もあったんでしょうけど、お家でも描かれることは多いわけですよね?

江上:ええ、そうですね。静物も描きましたし、風景も描きましたからね。どっちに偏るということはなかったと思いますけど。そういう時期を通じて、仕事をしながら絵を描いていくんだ、というような気持ちに。一喜一憂せず、一生懸命やろうと決めてからは、大体風景を描きましたね。それはやっぱり、少年の目に映った自然といいますかね。風景だけが優しかったという記憶がありますね。人間は、そのときで人によって区別しますし。そういうことはあんまり言ってはいけないけれど。ところが自然はもう、誰にでも同じ姿を見せてくれるというのはありましたね。それが、私が自然の風景の中にのめり込んだという理由はありますね。風景だけは優しかったということが、何と言いますかな、自然の風景にのめり込んだ、ということに繋がってはいますね。人間の世界には、身分や名前などによって違いがあるが、自然は、みんなに同じ顔だと。それは子供ながらに非常に思いました。私が風景の中へのめり込んだのは、それがあると思いますね。風景の中にのめり込んでいって、大体風景画家で来た、それはあると思います。

竹口:風景はみんなに同じ顔をしてる。けど、茂雄さんにしか描けない絵があるんですよね。

江上:ははは。うーん。

竹口:それが素敵なことですよね。

江上:果たしてそれほどのことがあるのか、分かりませんけどね。

竹口:茂雄さん、尋常小学校や、高等小学校の頃の、お友達の思い出とか、あの人とは仲がよかったとか、そんなのはありますか。

江上:いえ。それほどの人はないですね。ひとりでこう、入っていったように思いますね。たくさんの同学年と会っていますけど、あんまり絵を描く同級生とかは(いなかった)。ひとりふたりは大牟田のコンクールとかで、「あ!」と注目した子供はいますね。

竹口:「あいつやるな」って。

江上:ええ、そうですね。

一同:(笑)

江上:いつもですね、例えば大牟田で言いますと、小学校時代にですね、池尻一郎という人がいまして、それがいつもコンクールあるとね、それが一番で私が二番でね、もう、それがありましたね。その人が日本水彩画会の会員にもなりましたからね、大牟田で。ライバルでしたね。私としても。

江上(徹):私の中学校の先生です。美術の先生でした。

池上(裕):あ、そうですか。

竹口:茂雄さんのライバルが、息子を教えた(笑)。池尻さんとは、交流というか、会ってお話したり、絵のことを話したりということは?

江上:それはあの、大牟田の少年時代ですからね、小学校時代とか、町で会うと話はしましたね。

竹口:絵の見せ合いっことかしないんですか。

江上:絵を見せ合う……一度、一緒に描きに行ったことというのはあります。

竹口:一度。ふーん。

江上:だけど、私としてもひとつのライバルでしたからね、一度だけ見せたこともあります。しかし向こうは、小学校の美術の先生の資格を取ってですね、小学校の美術の先生になって。こっちは働いて職を、鉱山に務めてたんで、いつも引け目を感じてはいましたけどね。向こうはどんどん、日本水彩画会の会員になり、後年は独立美術の会員にもなりまして、ヨーロッパへも行きましたからね。「はー」ってもう、こう、思っていましたね。ライバルとしてはね、少年時代からの。

竹口:茂雄さん、小学校の頃の、好きな女の子とかいなかったんですか。

江上:あー、いや、あのー。うーん。これは、この問題……

池上(裕):この問題(笑)。

竹口:この問題、話しにくかったらいいですよ(笑)。

江上:いや、あのー、やっぱりこう、少年時代からですね、クラスは男女混ざり合っていましたからね、それはあの、気になる少女はいましたね。しかし、それを打ち明けてって、そういうことはできない人間でね。でもやっぱり、「あの子が好き」とかですね、それはもう、当然、幼稚園時代から、そういうのはあるとは思いますよ。

一同:(笑)。

竹口:15才で、三井三池の会社の、建築課に務められて、お仕事というのは、どんなかんじのお仕事でしたか。

江上:建築設計の課に入ったわけですね。昔は、今では考えられないですけど、工業学校とか工業系の大学を出た設計者が、ケントに鉛筆で図面を書きますね。それを今度は、薄い紙に写すんですね、墨で。カラス口を使って。それで青写真を焼く、そういう時代ですからね、1個やって2個やってと、まだ今の、リコー(のコピー機)みたいにパッとできない(笑)。太陽にこうやって、「あ、色が変わった」って、そしたらそれを水洗して、ずっと、青写真が何枚も何枚も、という時代でしたね、私が入った時代は。それで工場をやってた時代で、それがもう、戦争に変わりましてからは、非常に急速に今のリコー機式に変わって、もうどんどん図面が焼けるようにはなりましたけどね。最初入ったときはもうそんな風ですよ。青写真の時代ですからね。

竹口:前にお聞きしたときに、図面通りに建物が出来ているかどうかをチェックして回るようなお仕事もされたと……

江上:それは、ある程度、年数が経ってからですね、段々と仕事が同じことの繰り返しになってもそれが苦にならないんですね。それともう戦争になってからは、青写真の時代がね、非常に急速にリコー機式に変わっていきましたから、だから私の仕事も、そういうトレースみたいな仕事から変わったわけですね。「おまえ、今度からこれやってくれ」(と言われて)。それは、何て言いますかね、設計者が図面を書いて、そして本当の家ができていくんですね。その家を整理していく仕事。工場を建てていく、その図面ですね、それを整理していく、家として、財産として。それが次の私の役目になりましたね。

竹口:15歳で入られたときは、それは元々どういう経緯で? 先生の紹介だったんですか。

江上:はい。私がその鉱山の試験を受けるのは、私の受け持ちの先生が、私が母子家庭でしたから、「おまえ、この試験を受けてみろ」という風に、その先生が推薦してくれて、それで入社したわけです。

竹口:高等小学校の先生が?

江上:高等小学校の先生。

竹口:それは、さっきおっしゃってた美術の先生とは関係ないんですね。

江上:美術の先生ではありません。受け持ちの先生。

竹口:受け持ちの担任の先生。

江上:だから、私にとっては、その(高等小学校の)受け持ちの先生とその(尋常小学校の)美術の先生、これはもう、絶対忘れない、恩人ですね。

竹口:そうですよね。その受け持ちの先生も、茂雄さんが絵を一生懸命描いていることを応援されてた人なんですか。

江上:ええ。(高等小学校の)受け持ちの先生は美術の先生ではなかったですけれども、美術の先生が連絡をしてですね。小学校のときの美術の先生が親切でしてね、先生同士で電話をしてね、「江上はそげんしてください」とか、卒業してからも、どこそこで誰か展覧会をしてると「あれの弟子につけ」とかですね、そういう風に、卒業してからも非常に気をつかってもらいましたね。

竹口:どうして茂雄さんは小学校の先生にそんなにかわいがられたんでしょうね。僕なんて、全然、かわいがられない(笑)。

江上:うーん、そうねぇ、どうだろう。非常にですね、何というかな、悪さのできない子供ですね。だから受け持ちの先生も、どこのクラスにいたって、「江上を見ろ、江上を手本にせい」とこういう風に言われましたね(笑)。だから先生には、非常に、大事にしていただいたですね。

竹口:じゃあ、茂雄さん、絵を描くのは、もちろんすごく好きでうまかったし、あと、いたずらもしない、と。あと、勉強の方もできたというか。

江上:ええ。大体が出来る方だったと思いますね。小学校から高等小学校です、学校に8年間行ってて、だめだったのは、唱歌。それとですね、体操。

一同:(笑)。

江上:あとはだいたい、よかったですね。

竹口:歌もだめだったんですね。

江上:ちょっと音痴で。今もだめ。

竹口:聴くのはお好きだったんですか。聴くのもあんまり?

江上:聴くのは今でも。まあ、歌を聴いて、いい気分になりますからね。

竹口:小学校の頃は、お父さんが亡くなられて生活は苦しかったけど、先生にかわいがってもらって、茂雄さんの中でもすごく楽しいというか、充実したというか?

江上:うーん、充実した…… どうでしょうか。高等小学校卒業するとすぐに日支事変、日米戦争になりますからね。同級生で体格のよいのは、兵隊に引っ張られて、戦地へたくさん友達が。同級生でもね。私は体格がなかったから、兵役関係は逃れましたけどね。しかし、肩身が狭いというかね、そういうかんじでしたね。

竹口:ずっと就職されてからも、絵を日曜日に描かれてたわけですけれど、入社した当時はまだ、風景画よりは静物画を描いている方が多かったんですか。

江上:ええ、そうですね。入社したときには、仕事をまず覚えなくちゃならないし、まだ自分もはっきり、どういう…… 自分で一家を導かなければなりませんからね。どんな風にできるかは、分かりませんでしたけれど。しかし、私の原点というかな、少年時代に考えたことはですね、ひとりの画家として生きたい。江上という人間は、あれもしたい、これもしたい、しなくちゃならんかもしれんけど、「ひとりの画家として生きるんだ!」ということは、ぱっ、と決めていましたね。できるかどうかは分からんが、自分の覚悟としては、江上という人間はひとりの画家として、この世を生きていくんだ、というぐらいに、それは決まっていたように思いますね。

竹口:就職されて、お仕事されてる中でずっと絵を描かれてたわけですけれど、風景画以外にも、いろんな、例えば《私の鎮魂花譜》(注:1938年頃から1968年前後まで描かれた、植物の細密素描シリーズ)を描かれましたよね。

江上:そうですね。抽象絵画とか、それから《私の手と心の抄》(注:1960年代の実験的・抽象的な即興絵画のシリーズ)とか、《私の鎮魂花譜》とかですね、いろいろなものを描いてますね。それはもう、ひとつひとつ、なぜそれを描いたかというのは、少年なりに、青年なりに、それはちゃんとありますね。

竹口:例えば《私の鎮魂花譜》とかは、どうして?

江上:《私の鎮魂花譜》を描いたのは、その当時、日支戦争が始まる頃ですからね、職場に同じ年代の女の人がいたわけです。ところが、その女の人の目は誰を見ていたかといいますとね、兵隊さんを見ていましたね。もちろん国のためにこう(戦っている)。だからその、自分の方なんかは目もくれないという、それが《私の鎮魂花譜》になっていると思いますよ。その寂しさ。

一同:うーん。

江上:あの作品に描いたのは、その寂しさというかな、「俺の方はいっこも見てくれん」といったような、青年、青春時代の寂しさですね、それを私はあの路傍の草を一本一本描くことによって、自分の魂を鎮める、それが《私の鎮魂花譜》という題名になっていると思います。もう非常にこれは、文学的でして「ちょっとそれは……」と思われるかもしれませんけれど、たぶんそういう気持ちであれは描いてきたと思います。

池上(裕):ご自分の魂なんですね。どこかの誰かではなく。

江上:ええ。自分の魂を沈めるために、花を描いていくっていう、まあそういうことです。

池上(裕):先日の展覧会(注:「江上茂雄——風ノ影、絵ノ奥ノ光」展、福岡県立美術館2013年10月5日〜11月10日)でも拝見したんですけど、すごく素晴らしいシリーズだと思いました。ファイルに入れて、めくって見られるようになってて。

江上:はいはい。もう、ほんとにね。

竹口:鉛筆で描く前、外で花なり、草なりを切って持って帰ってこられるわけですよね。今日はこれを描こうとか。

江上:瓶に水を入れて、そこにさして、持って帰ってこないと萎れてしまいますからね。それはやりましたね。帰ってから机の上に置いてですね、その通りを描くだけですから大して難しいことではなかった。たいてい一時間半で一枚できるくらいの感じでしたね。

竹口:よく会場で質問受けたんですけれども(注:竹口は上述企画展の担当学芸員)、鉛筆で描かれてるわけですよね。線がほんとに均一で、細くや太くもなく、継ぎ目もなかったりとかして。

江上:やっぱり(鉛筆を)研いですね、同じ大きさの線、力が同じ平均した線、力を入れたり抜いたりはしないですね。ふわぁーっとこう描く、そういうことはしません、少なかったですね。

池上(裕):描き直しの線もないですよね。

江上:ええ、もう、消しゴムは使わない、最初から。

池上(裕):失敗はされないんですか。

江上:失敗は、いやもう、とにかく、その通りを描けばいいんですから(笑)、そんなにこう、ないんですよ。

池上(裕):普通はそうはいかないと思うんですけども(笑)。

江上:消しゴムは、使いませんでしたね。

竹口:それじゃ、描いてる間って、ものすごく集中されていると思うんですけれど。

江上:ええ。それであの《私の鎮魂花譜》を描いて、絵の修業の上で、非常によかったというのは、一定の時間、ひとつのことに集中するというような、もう絶対そこから外れない、それの練習にはなったと思いますね。一定の時間を同じ調子で仕上げるというかな。

池上(裕):「今日はこれを描こう」っていうのは、どういう風に決めるんですか。

竹口:スケッチに出かけるときに、一緒に瓶を持って行かれたんですよね。

江上:それに入れて、家まで持ってきて、机の上に置いて、その通りに描く。だから、そんなに難しいことじゃないんですよ(笑)。

竹口:(茂雄さんにとって)難しいことではきっとないんでしょうけれども、でもあの絵がずーっと、あれだけたくさん、200、300枚近くあるんですよね。そのことにみなさん非常に驚かれていますし、僕も驚いています。

江上:なぜそんなことをしたかというのは、私の魂を鎮めるためにですね、それをやったからじゃないでしょうか。結局もう、戦争にかかっていますからね。

竹口:戦争で、こんな風に仕事が変わったとか、生活がこんなところやりにくくなったとか、そういうのは。

江上:仕事はもう、会社から「おまえはこれをやれ」ということですからね、それをやらなくちゃ給料もらえませんから。私の仕事は、設計室にいましたからね、その設計室で、誰かが設計をしますでしょ、それで、実際の会社の建物が建っていってですね、もう更地から工場から、自転車置き場から、小さいのから大きいのまで建ってきますね、その一点一点を、一人の人間として戸籍簿みたいなものを作る、それが私の仕事。

竹口:茂雄さん、昼間お仕事されてますよね。その時間中に、「ああ、絵を描きたいなぁ」とか「この景色いいな、描いてみたいな」とか、絵のことを考えたりとかって(あったんですか)。仕事してるときは。

江上:うーん。仕事は仕事、絵は絵、っていうかね。どっちもちゃんとやるべきことはやろう、っていうかな、そういう性質かもしれませんけどね。結局そう思いますね。

竹口:僕は仕事中ずーっと、今日帰ったらごはん何食べようかな、とか考えてしまうんですけれど(笑)。茂雄さんはそういうのないんだろうなぁ、と思ってお話聞いてたんです。

江上(徹):さっきの、池上さんの質問、《私の鎮魂花譜》の花を描くときに、「今日はどの花を描こうか」とか「これにしようか」というのは、実際現場に行って、こう見て、「ああ、これ」って?

江上:あのスケッチブックはね、そこで描くわけではないから、それは家に置いててもいいんでね、とにかく花を取ってこなくてはいかんわけね、それで枯れないように瓶に入れて……

江上(徹):いや、それは分かってる(笑)。

一同:(微笑)

江上:それを持ってきてから先は、家で描く。

江上(徹):どういう花を描くかっていうのは、現場に行って、「ああ、これやね」っていうことで決めるの?

江上:いやー、それはね、歩いて行くと「これにしよう」とか、「あそこに咲いてるあれにしようか」という風に、やっていたと思うね。

江上(徹):それとね、僕もう一つ聞きたいことがあるんだけどね、大体何でも、描くときとか、つくるときにはね、お手本とかね、目標があると思うんよ。風景画にせよ、誰かの絵だとか、小学校のときには、美術の教科書のお手本とかあるわけよね。でもね、《私の鎮魂花譜》のお手本みたいなのは何かあったわけ? これがあるから、こういうのを描こう、という。

江上:いやー、なかったと思うよ。あの、私は三井鉱山に勤めていましてね、三井鉱山というのは、自分の従業員の働きを考えてね、図書館なんかね、従業員が読むように、教養の場、わりあい充実していたもんでね、画集みたいなのも揃っていましたね。それを見たこともありますね。有名な画家の人が描いた本がちゃんとクラブにこう、立っていましたもんね、だからそれは、見たことはありますね。「ああ、こういうのいいなぁ、俺もいっちょやるか」というようなことは、やっぱりあったと思いますね。

池上(裕):どういう画家さんの画集がありましたか。

江上:その頃ですか。辻永(つじひさし)とか、花の画集がありましたね。本棚に飾ってね、クラブに置いてありました。そしてそのときそれを見ました。ああいいなぁ、と思いましたね。その時代は、もうそろそろ日支戦争にかかる時代ですからね。

竹口:すみません、僕、辻永さんを存じ上げないんですが、鉛筆かどうか分からないですけれど、ああいう線で?

江上:細い筆で、日本画の。日本画だったように思いますね。(注:辻は洋画家だが、植物画は水墨で描いた)

竹口:それを見て、「あ、こういうのもいいなぁ」「こんなのもあるんだなぁ」って?

江上:まあひとつは、やっぱしこう、戦争にかかっていく時代ですからね、心のどこかでそういう用意みたいな、例えて言いますが、そういうのはあったんじゃないですかね。そういうものを求めていくというね。

竹口:例えば、クレヨン、クレパスにしても、水彩画にしても、長く描いてらっしゃると、少しずつ描き方って変わるじゃないですか。《私の鎮魂花譜》は、もう初めから、ずっと変わらないスタイルで(行ってますよね)。

江上:それはあんまりこう、意識的に「今度はこんな風にしたい」とかはなく、大体はまあ、できれば同じ調子で。《私の鎮魂花譜》という、一つの草花の画集として、私の魂を鎮めるためのものですからね。やっぱり、不憫な点もあったと思いますけど。

池上(裕):いつ頃まで続けられたんですか。

江上:あれですか。あれは、似ているものもありますけど、あれは何枚かなぁ。まあ正確に数えたことはないけれどもね。

竹口:ファイリングされてるのは、240枚〜250枚ですね。

江上:うーん。ただ、300枚くらいは描いている。その中から減らして、外していますからね。

竹口:60歳近くまでずっと、されてたんですよね。

江上:ええ。大体そうですね。荒尾に移る頃までしてましたからね。

竹口:描き始めるようになって最初から「けっこううまく描けてるな」みたいな、そういう手応えはあったんですか。あるいは出来不出来よりかは、描くということそれ自体が大切?

江上:だいたい、形式というか、こういう方式の絵にするということなんですね。一応鉛筆で。時々、ちょっと色をつけてみるか、というのはありましたけどね。あんまり、いろいろなことをやるのではなかった。まあ、ひとつの《私の鎮魂花譜》で草花を集めた、まあ自分がそれを見て、気持ちが少しでも落ち着けばいいというようなことで始めてるんですからね。

竹口:それはやっぱり、トレースしたりするお仕事とのつながりがあったり?

江上:それはあるかもしれませんね。大きな意味ではね。

江上(徹):もうひとつ僕、聞きたい。あのね、美術学校や大学では、画家になる修行のプロセスで、ああいう精密な細密描写をやるっていう風に僕は聞いてるんだけども、今やってるかどうかは知らないけどね、そういうのを意識してあれをやったってことはない?

江上:いやー、そんなことはないね。そんなことはない。

江上(徹):ない、あ、そう。

江上:そんなことはない。

一同:(笑)。

江上:そういう連中はまあ、美術学校行かしてもらったから。あのね、だから自分として努力してやって、自分でも上手くなろうとか、そんなことは思わない。

池上(司):写実ということで、ずっと見たままに。

江上:はい。

江上:結局、明治維新になってですね、黒田清輝とか、そういう美術関係の人がヨーロッパ行ってびっくりしたわけですね、それまでは日本画の(やり方だったから)。あちらでは非常にアカデミックに精密に描いててね。だから、それに驚いたように私も驚いた。で、やったわけでしょうね。

竹口:茂雄さん、その写実、写生で言えば、高等小学校の頃から水彩絵具を使ってずっとされてたわけですけれども、大体31歳くらいからクレパス画に変えて、水彩絵具をやめてクレパスに自分の仕事を絞っていかれると。その水彩絵具からクレパスに仕事を変えようと思われた経緯とか、理由とかは?

江上:それは逆かもしれませんね。小学校時に美術の先生にちょっと(クレパス、クレヨンの指導をしてもらって)、それからすぐ卒業ですから。自分でやっていくより他ないんですからね。

竹口:(『江上茂雄作品集』を広げながら)例えばですね、この辺り(=10代から20代頃)水彩で描かれてますよね。で、この辺りはずーっとまだ水彩されてるわけです。お母さんのタンスを描いた絵とかですね(《母の赤きタンス1》、《母の赤きタンス2》、1932年前後、作品集28—29頁)。で、このあたりになってくると、ちょっとクレパスが混じってきて、で、ここになると(=30代半ば)、もうクレパスばかりですね。(注:『江上茂雄作品集』、江上茂雄画集制作委員会、2010年。以下作品集と呼ぶ。)

江上:クレヨン、クレパスですね。

竹口:クレヨン・クレパスですよね。水彩やめて、クレヨン、クレパスにかわられたのは、何か事情があったんですか。

江上:それはむしろ、変えてというよりも、こう、うーん……何て言いますかねぇ、順序としてはこんな風に行って……うーん、結局、私の働き盛りの頃の作品は、クレヨン、クレパスなんですよ。

竹口:水彩じゃなくてクレヨン、クレパスなのは、どういう理由で?

江上:理由は……うーん……

竹口:ひとつは、戦争なんかもあったので、水彩絵具が手に入りにくくなったという事情もね、あったかもしれませんけど。

江上:ええ、あるかもしれませんけどもねぇ……とにかく、一番人間働き盛り、私の働き盛りの時代は、やっぱりクレヨン、クレパスの時代ですよ。

竹口:油絵をしようとは思わなかった?

江上:油絵はしようとは思わなかった。これはもう、経済的にですね、だめだと思いました。結局それを描くのには、先生というかな、油絵を描く人にちょっとこう教わったりとか、全然ない訳でしょ、小学校にね。油絵というのは特殊でですね、習わないと、どんな油を使うのかとか、分からないんですから。でも先生につくとか、そういうことできんもんですからね。

江上(徹):さっきの竹口さんの質問でね、少年時代、若い頃水彩だった、そして働き盛りはクレヨン、クレパスになった。それはなぜかと言うときに、絵が大きくなってるじゃないですか。で、水彩だと「こんな大きいのは、ちょっと水彩ではどうかな」という疑問があって、「やっぱり濃い、強い色にするにはクレパスやね」とか「クレヨンやね」という風な判断はなかった?

江上:いやー、あんまりねぇ、ないねぇ。

一同:(笑)。

江上(徹):なんとなく、クレヨン、クレパスに移っていったのかね?

江上:クレヨン、クレパス……

江上(徹):最初クレパスなんよね、クレヨンじゃなくてね。水彩からね、最初、大きい絵になるのは、クレパスなんよ。クレヨンじゃなくて。

江上:それがちょっと後になると(クレヨンになる)。いろいろこう、若い頃ではねぇ、何と言うかなぁ、うーん……

江上(徹):どうして、水彩じゃなくて、クレパスになっていったのか。で、大きな画面(になったのか)?

江上:それはね、できるなら、先生について油絵を習ってね、普通の画家のような油絵を描いていくという順序で行った方がいいんだけれど、それはできなかったからね。

江上(徹):そうね。

江上:(先生に)ついたり、そんなことは私にはできなかったから、結局クレヨンを描いたり、クレパス使ったり、だと思うんですけどね。

江上(徹):水彩だと、そういうマチエールというのができないのかね? 油絵みたいな質感は水彩じゃできないという判断があったんじゃないかな、と思うんだけど。

江上:ああー、ねぇ。

竹口:前にお聞きしたことなんですけど、本で、クレパスを油絵のように描くことができることを教えてくれる本があったと。

江上:ああ、ありましたね。戦時中ですけどね、柄紙もあまりいいものが、いい絵本もなかったですね、でもね、クレパス画の描き方、というのが出ましたのでね。だから私はそれで、クレパスでこんな風に描けるなら、といって、クレパスに非常に熱中するようになったことはありますね。

竹口:油絵にも引けを取らないような表現が、画家としてできるんだ、ということをその本で。

江上:水彩には水彩としての弱さ、というんですんかね、それがあるでしょ。だからね、もう少し強い絵を描きたかったというのは、ありましょうからね。

池上(裕):サイズがちょっと大きくなったっていうのも、そういう所なんでしょうか。

江上:サイズですか。いやー…… クレヨン、クレパスでこうね、この辺りは続いてるでしょ。あの頃がまあ「クレヨン、クレパスで行くんだ!」っていう、こう思ったんじゃないですかね、本人もね。そら、小さい水彩も描きたいけれども、一番血気盛んな時代がその時代ですからね、クレヨン、クレパスで勝負をしたいっていうような、年代のときじゃないですかね。

竹口:(作品集を広げながら)例えばね、茂雄さん、水彩画でも、このカニとサザエの絵って水彩じゃないですか(《かにとさざえ》、1935年前後、作品集32頁)。でもこれ、ぱっと見て水彩に見えないというか。

江上:ええ。そうです。あまり水彩画らしくはないですね。

竹口:さっき水彩って弱いっておっしゃいましたけど、これってすごい強いですよね。

江上:はい。これは水彩ですね。だから、こう、いろいろなことをやった……だからなぜそんな風にかわったかとか、あんまり細かいことは、考えていないと思いますね。

竹口:この《葦の空》(1950年前後、作品集44頁)、この絵を描かれたことは、ご自分にとって大きかったとおっしゃってましたよね。

江上:ああ、そうですね。これは相当、時間がかかりましたもんね。時間をかけたときにですね、「ああ、こんな風に一生懸命やればちゃんとできるんだ」というような、自負心みたいなものを、この絵を描いたときに感じましたね。

池上(裕):どのくらい時間をかけられたんですか、この《葦の空》に。

江上:そうですね。うーん…… それこそ、ほら、描く時間が限られているわけですからね。日曜日って(そんなに)ないんですからね。それからまあ、会社から帰ってからの、ちょっと明るい時間があれば、したことと思いますけれど。

竹口:この作品集でいえば、これ以降は風景画がいっぱいなんですけれども、これ以前は、静物画とかを描かれていることが多かったんですよね。

江上:ああ、そういうことはあるかもしれませんねぇ。それはもう、なぜそういう風に変わったかとかはね、ちょっと今は(分からない)。私も、世間でこう、美術雑誌とか見るわけでしょ。展覧会も見に行くわけですから、そのときの影響を受けたり、「あれいいな、俺もあんな風に描きたいな」とか、それはやっぱり、私自身もあったわけですからね。展覧会も見に行きましたし、雑誌も見ましたし。毎月月刊雑誌をね、『みづゑ』という美術雑誌を取っていましたね。それから『芸術新潮』を取っていましたね。それから『美術手帖』とか、若い人向きの、それも取っていましたからね。

池上(司):展覧会は、どのようなものをご覧になりましたか。

江上:展覧会は、私はもう、荒尾にいますからね。もちろん、大牟田、荒尾の自分の住んでいる町で個展をされるときは必ず見に行きましたね。その他は、(久留米の)石橋美術館とかですね。それから、福岡には、独立展とか二科展とか日展とか、見に行きましたね。

竹口:そういう意味では、すごく勉強熱心でしたね、茂雄さんね。

江上:うーん、そうですね、やっぱし一生懸命になりましたね。そんな大したことではないと思いますけど。

池上(司):展覧会でご覧になるのは、やっぱり油絵が多かったですか。日本画の展示とかもご覧になりましたか。

江上:日本画も、東山(魁夷)さんが出られた頃ですね。私も好きだったから、よく見ました美術展ですね。

竹口:東山魁夷さんのお名前はちょこちょこ聞いてたんですけれど、他に例えば好きな画家とか、この人の影響を受けたかなというような方って?

江上:そうですねぇ……もうちょっと、名前がぱっと出てこない。あの、パリを描いた……なんですか、パリを描いた若い方がいましたね。

竹口:パリを描いた日本人ですか。

江上:日本人です。

江上(徹):佐伯祐三。

江上:ああ、佐伯祐三。それから……

竹口:佐伯祐三、初めてお聞きしました。

江上:私、好きでしたねぇ。パリを描いたね。

竹口:なんかその、雑誌、美術雑誌などには……

江上:美術雑誌はね、取っていたのは『みづゑ』、それから『美の国』、『美術手帖』ってのは若い人向けので、それから『三彩』あたりも取ったことがありますね。後ではもう日本画だけではなくてね、洋画も入ってきます。それから『芸術新潮』は取っていましたね。

竹口:日本以外の海外の画家とか動向も紹介されてたと思うんですけど、さっき、ピカソとマチスの名前が挙がりましたが、他に記憶に残ってる画家は?

江上:うーん、まあ外国のものですと……やっぱし、ゴッホ、セザンヌですかね。ゴッホ、セザンヌなんかの影響は大きくね、私も受けていると思いますね。

竹口:茂雄さんはほんとに独学でされてるので、絵の勉強も、雑誌とか、展覧会を見にいくとかもよくされてたと思うんですけど、小説とか文学も、たくさん読まれてたんじゃないですか。

江上:うーん、まあ……

竹口:好きな小説とか、小説家とかは(ありましたか)。

江上:青年時代というか、少年時代というか、島崎藤村に惹かれました。

池上(司):どういったところがお好きでしたか。

江上:えー、何と言うかなぁ。あの人は「自分のようなものでも、何とかして生きたい」という言葉がでますね。あの憂鬱っていうかですね、憂愁というか、あれに捕まりましたね。

竹口:夏目漱石のお名前も、前に聞いたような気がしますが。

江上:夏目漱石では『草枕』ですね。今でも読むと、誠に『草枕』が一番好きですね。『坊っちゃん』も読んで、くすくす、くすくす、ひとりで笑った記憶はありますね。

竹口:それって、幾つぐらいですか。

江上:うーん、あの頃は、14、5歳じゃないかなぁ。『坊ちゃん』とかね、読みました。あと、『虞美人草』とかもね。一通り読みましたね。

竹口:本は大体、今で言う貸本屋とか、古本屋とかで、そういうところで借りたり買ったりしたんですか。

江上:新本は、とても私の給料では買えない。しかし、今考えると、円本の時代ではあるんですよ。もう1円ですよね。驚きですけど、それでも買えませんでしたからね。もう大抵は古本で、円本を集めた、という記憶はありますね。しかし、集めたわりあいには、読んでないじゃないか(笑)、ということになるんですけどね。

竹口:音楽聞いたり、あと、映画を見たりとか?

江上:映画は見ました。映画は見た方と思います。少年時代から青年期にかけて、フランス映画の時代ですね。それから、『駅馬車』とかですね。

池上(裕):アメリカの西部劇ですね。

江上:今でも映画では、『駅馬車』。やっぱりあの映画は、もう、全然違った。それから『シェーン』。これに凝っていますね。「いい映画だ」と思いましたね。

竹口:当時、大牟田でも、そういった映画は普通に、気軽に見られたんですか?

江上:ええ。大牟田でも、見られましたね。あの、洋劇でしたね。

池上(司):やっぱり洋劇がお好きでしたか? 東宝とか、東映とか、日本のは?

江上:いやー、好きっていうか……そういうんじゃないですけど。西部劇の原点はやっぱ『駅馬車』じゃないかな。あと、『シェーン』っていうのが、非常に残りましたね、私にはね。もちろん、他の映画も、名画はありますけどね。

竹口:大牟田は石炭で栄えていたので、映画もわりと見れるし、いろんな文化とか、遊興施設は揃ってたんですね。意外とね。

江上:はい。やっぱ炭鉱で、石炭掘るのは命がけと言われる仕事でね、それはちょっと特殊なあれですね。それから、大牟田では、三池争議というのがね、労働争議が有名ですけどね。

竹口:茂雄さん自身は、絵を描く、本を読む、映画を見る、以外には、あまり趣味や娯楽に走ることはなかったんですよね。

江上:そうですね。戦争になる前とか、登山というほどのことはしませんでしたけど、阿蘇とか九重とか、登りましたね、山ですね。しかもひとり。

竹口:しかも、ひとりなんですね。

江上:それから、阿蘇にはひとり晩に登ったことはありましたね(笑)。まあ、ちょっと変ですけどね(笑)。晩、阿蘇に登って、もう、バカみたい。

池上(司):山に登って、スケッチとかされましたか?

江上:いわゆる阿蘇、外輪山ですかね。九重とか外輪山、中岳とかこうね、うーん、描きたいとは思いましたけれども、ついに描かなかったように思いますね。九重高原あたりも、確かに惹かれましたけどね。

竹口:惹かれたけど描かないっていうのは、何かあったんですか。

江上:うーん、そうですねぇ。なぜ。非常に描きに行きたいなぁという気持ちは、何回か来たように思いますけどね。もう大牟田の人なんかは、阿蘇に描きに行く人は非常に多かったんですけどね。私はついに描かなかったですね。

竹口:やっぱり自分が住んでいる大牟田の町を……

江上:ええ、自分の足元ですね。少年時代から、自分の足で歩いた範囲内のものを、とにかくこう描きましたね。

竹口:それはご自分の中で決めていたことなんですか?

江上:決めていたっていうことではなくて、他のこと……お金がないから、遠くへ行ったりできないんです。「もう自分のおる所、自分の生まれた所、生きた所、終わる所、それを描くんだ! 他の所はもう描く必要ない!」っていう風に。ちょっとおかしいけどですね。「とにかく自分の生きた所、生まれた所、終わる所を描くんだ、瀟洒な桜島を描いたり、歩くために歩くようなところを描くなんてことはせん!」って言いましたね。自分の生きたところを描け、という風に思ったように思いますよ。

池上(裕):お仕事をしながら絵を描かれていて、描かれたものはそのままお家に置いておかれたのですか。

江上:ええ。そのまま。

池上(裕):家の壁を飾るような?

江上:いえ、ただ畳に。

池上(裕):畳の上に(笑)。展覧会とかによく行かれてて、自分もこういうとこで展示してみたい、という風には思われなかったですか。

江上:展示会は、大牟田で、3回かな。

竹口:退職されてからですね。

江上:そうですね。一応、退職してからですね。

池上(裕):お仕事をされている間は、展覧会とか、全然お考えにならなかったですか。

江上:仕事をしている間ですね。はい、それはしませんね、あまりね。

池上(裕):やっぱりもう、仕事でお忙しいから。

江上:はい。私を含めて7人家族はね、私の給料にぶらさがっているばかりですからね、それは忙しかったです。

竹口:いまちょうど、ご家族の話が出たので。柚子さんが生まれられたのは、昭和20年。初めてのお子さんって、どんな気持ちでした? 生まれたときって。

江上:うーん、どんな風って、そんなことは考える余裕もないですわ。柚子が生まれたのは、終戦直前ですね。(妻は)田舎の農家の出でしたからね。そして、その子供の柚子という長女を残して、家内は死にましたからね。乳をもらって育てんといかん。そのときまだ、母がいましたから、その役目は母がしましたね。ほんと、生まれたのは終戦間際ですね。

竹口:ちなみに、柚子さんのお名前の由来みたいなのはあるんですか。

江上:確か、柚っていう果物、あの小さいあれが、ぽっと浮かんだ。だから、これにするかと、決めたと……

一同:(微笑)。

江上:(その)ように思います。

竹口:えっと、あの柚ですよね。あの柚に……

池上(裕):ちなんだ。

竹口:柚が好きだったとか、そういうわけではなく?

江上:まあ、そんなことではないですね。あんまり、ありきたりの名をつけてもね(笑)。だから、ちょっと珍しくって、まあいいか、というようなかんじですね。まあそういうことですよ。

竹口:「徹」はどちらかというとありきたりですね。

江上:徹くんはね、もう私が、なかなか徹底しないもんですからね。もうちゃんと始めたら、作業をやり続けて、全然平気っていう意味でね、そんな名前にしたんです。

竹口:計太は?(注:江上計太は茂雄の次男で、現代美術作家として活躍している)

江上:計太はですね、これはあの、どうも私は小さい人間で、いかんな、しっかり計画は大きく、みたいなね、そういう。

池上(裕):ほう。

江上:まあ、そんな風なあれがありましたね。

竹口:そういう意味では、茂雄さんの思いというか、こうありたいという願いが込められているんでしょうね。

江上:ええ、やっぱり、そういう名前を付けているっていうのは、なんとなく、自分でできなかったことを実現してほしい、自分でできなかったことをやってほしいとかね、やっぱそういう希望というか、託するんじゃないですかね。

竹口:あれ、えっと、妹さんのお名前は? あ、彩子さん。彩子さんは?

江上:彩子さん、名前ですか?

竹口:はい。彩子という名前は……

江上:彩子というのはですね、ちょっといいんじゃないかな、と思ったんですね。

一応:(大笑)。

竹口:なんか、柚子さんと彩子さんは……

池上(裕):結構適当な感じが(笑)。

江上:なんとなくこう、「お、ちょっと変わったな」というような感じでつけたように思いますね。

竹口:男と女で名前の付け方が変わるんですね。まあ、4人のお子さんとお母さんと、奥様と、7人家族ですよね。普段はお仕事行かれて、日曜日は絵を描くことに専念されてて、子育てとか……

江上:休みの日はもう必ず絵を描く、ということは決めていたわけですね。

竹口:子育てや家事は、もうみんな奥様に?

江上:そうですね、はい。家内も大ごとだったかもしれませんけど、とにかく、あの、「大学に行く」「ああそうか」と言って、大学に入れて、女の子はもう、自分から「大学には行かん」って言いましたね。長男と次男はね。

竹口:ああ、じゃあ、茂雄さんと奥様が「大学に行きなさい」とか「行くな」とか特に言っているわけではなく。

江上:ないです。本人が行くと言うから「そうか」と言うだけのこと。

江上(徹):そうです。僕たちは「勉強しろ」と言われたことがない。

池上(裕):ほう。

江上:もう子供は、おまえがよかろうと(思うこと)、自分のしたいことをしろ、というようなことだったんじゃないかなぁ。

竹口:柚子さんも彩子さんも、同じようですか。

江上(徹):そうです。

江上:女の子の方は「もう大学へ行かん」と言いましたからね、「行く」と言えば、やらねばならんかったかもしれませんけどね。ところが、大学というものは、徹くんは、6年かかったんですね。

江上(徹):違う違う、僕は9年かかった。

江上:あはは(笑)。あのね、もう……

江上(徹):でもそれは、ちゃんとしたプロセスを経て。計太とは違う。

一同:(笑)。

江上:ほんとね。

池上(裕):計太さんは、何年おられたんですか。

江上:計太くんはね……

江上(徹):7年いました。

竹口:ただ、計太さんは行ってすぐ休学してるんです。

江上(徹):ずっと休学。

竹口:ずっと休学して、最大限いたみたいで。

池上(裕):大学に進学して、仕送りもされたりして、そういうところも大変ですよね。

江上:私はもう、全然。これは家内の範囲ですね。私はもう別に、何にもしていません。

池上(裕):奥様がやりくりされて。

江上:ええ。大変だったでしょうね。やっぱりね。どうかな?

江上(徹):大変だったと思うよ。ただ、僕は大学院に行ってからは、奨学金とアルバイトでまかなってたからね。というのは、僕たちの頃は、授業料は安かったんですよ。僕がほんと、大学入って驚いたのは、県立高校の授業料よりも、国立大学の授業料の方が安かったんですよ。

池上(裕):あ、そうなんですか。

江上:国立はね。だからまあ、ね。

江上(徹):県立高校の授業料は、18,000円だったんですよね。でも九大、大学は年間12,000円だったんです。

池上(裕):随分、安い感じですね。

江上(徹):だから、僕みたいな貧乏な家でも行けたんです。

竹口:勉強する気概さえあれば、何とかなるようになってたわけですよね。

江上:だから、計太の場合のような、4年でいいのが6年かかったもんね。

江上(徹):いや、7年やったよ。

江上:7年か。うーん。もうちょっと早く卒業したってですねぇ……

一同:(微笑)。

池上(裕):でも、息子さんが小さい頃は、日曜日は絵を描くって決めてらして、あんまり遊んであげたりとか、そういうのは?

江上:それは、もう全然ない、っていうような(笑)。相手になってね、キャッチボールするとか、そんなことはしたことない。私は私のことをせんならん、っていうようなことでしたね。

池上(裕):ちょっと息子さんとしては、お寂しいこととかもありましたか。

江上(徹):いやー、それはないですね。

池上(裕):あ、そうですか。もう兄弟で遊んでらしたとか。

江上(徹):そう、兄弟ではよく遊んでました。

池上(司):働きながら、日曜日、絵を描かれて、たくさん絵がたまってきますよね。そうやって描き続けられてる間、前におっしゃってた小学校の美術の先生とか、受け持ちだった先生とか、その後、お付き合いはありましたか。仕事を始められてから。

江上:はい、それはもう、卒業しましてからもですね、小学校のときの先生、それから、高等小学校のときの受け持ちの先生、この二人の先生はですね、電話を学校同士でかけてですね、「江上にこう言ってください」というような。「大牟田で今日、非公式でですね、有名な日本の若い水彩画家の展覧会が非公開で、上野金善堂という本屋の二階であるから、必ず見て帰れ」というようなことは、ちゃんと電話が私に来ましたね。そういうことは非常に、小学校の先生達に、お世話になりましたね。よくしていただいたと思いますね。

池上(司):ご自分が描いた絵を持って行って見せられたりとか、そういうことはなかったですか。

江上:私の絵をですか。いやもう、それはとにかく「個展はやる」と、個展はやったわけですね。

竹口:それまでに、絵を持って行って、先生に「こうした方がいいんじゃないか」とかアドバイスをもらったり、そんなことはもう一切していない。

江上:はい、もうしていないです。

竹口:絵を描くのは、本当に自分ひとりで。

江上:はい。自分ですね。先生について質問したりとかですね、そんなことはしておりません。

竹口:それはあれですか、茂雄さんがそういうことはしないと決めてたんですか。

江上:ええ、もう、自分でやろうっていうことです。あまり先生を探したり、こういう人がいるとか(そういうことはしなかった)。大牟田の中で、美術協会とかありますからね、全然付き合いがなかったわけではありませんけれども、私はひとりでやると。ただ、大牟田の中で注目している人が二人ですね、先ほどの中学の時の私のライバルと、薗田いう油絵を描く人、その人の絵は好きでしたから、よくあの、一年間のうちに、一回か二回かは、訪問をしましたね。その人を。

竹口:薗田さんですか。

江上:はい。二つ違いかな。だから私よりもちょっと若いんですけどね、亡くなられました。

竹口:下のお名前は?

江上:薗田日出生(そのだひでお)。

池上(裕):それは、江上さんが、あちらに行かれて?

江上:はい。私が訪ねましたね。一年間のうちに二回くらいは訪問して、話をしましたね。

池上(司):やっぱり絵のお話ですか。

江上:ええ、絵の話ですね。

池上(裕):江上さんのお家に、彼らが絵を見に来るっていうことは、なかったですか。

江上:うーん……あの、私は来て欲しかったですね。薗田さんと、その……来て欲しかったけれども、あのとき忙しかったのかどうか…… 来ませんでしたね。私は非常に話をしたかったけど。それはありますね。

竹口:高田(青児)さんと出会われたのは、もうちょっと後。

江上:高田さんとは、「あっ」と思ったのはですね、高田さんが高校生美術展か、それがどういう地域であったか、福岡県内の高校のコンクールなのか、よく分かりませんけどね、最高賞を取られたということを知ったのでね、「はぁー」って思って、「ちょっと見てみたいな、会ってみたいな」と。でね、私の個展があって、これのときは、もう会場でこう「あっ、高田さんだ」って、分かりました、すぐね。そのときの印象、ぱっと、あれ高田さんだっていうことは分かりましたね。その個展が済んでから、私が訪ねて行きました。「友達になってくれ」って。

竹口:要するに、茂雄さんは60歳ですよね、当時。高田さんがですから、21歳くらいですね。それからずーっとお付き合いがあるわけですね。

池上(裕):親子以上くらいの年が離れて……

江上:私がお願いしたんです。「友達になってくれ」って。

竹口:絵描きさんで数人、高田さんとか園田さんとか、少しお付き合いがあったと思うんですけど、その他、例えば会社の人たちと友達とか、お付き合いがあったりは?

江上:いえ、ありません。ないですね。会社の、勤めていた設計室には、絵を描く人はいませんでしたね。私が入社した頃の社員の人はですね、文化的には、短歌を作っていた人、謡いを謡う人、バイオリンを弾く人、なんかいましたね、その当時の同じ設計室に。

竹口:そういう、こうちょっと文化的に、教養があったりとか、趣味を持ってらっしゃる人でも、絵には興味がなかったりとか……

江上:そうですね。同じように絵を描いてる人は、いたのはいました、確かに。しかしもう、近づいていこうとはしなかったですね。

竹口:じゃあ、友達になるというか、お付き合いするのは……

江上:やっぱちょっと、条件があったというかな、私がこの人と付き合いたい、と思うか何かしないと。

竹口:それって、どんな?

江上:こう、同じ絵に取り組む姿勢というかな。ただの趣味とか、それじゃだめだ、ってね。ほんとにやる気のあるっていうか、それはありましたね。そういう人がおられたら、それはやっぱり、近づいたと思います。

池上(裕):高田さんなんかは年が随分離れても、そういう姿勢が感じられた。

江上:はい。感じました。それで、私の方からお願いに行ったんです。「友達になってください」って。私の個展が済んでからですね。

江上(徹):僕、この前、初めて高田さんの絵を見に行ったんです。

竹口:ああ、今、(個展を)されていますね。

江上(徹):で、何となく分かりましたね。父が好きな、「あ、そうやね」って。

竹口:いや、魅力的ですよね、高田さんの絵は。

池上(裕):ちょっと、だいぶ時間が。お疲れになってもいけないので。

竹口:茂雄さん、随分長く……

江上:いや、自分は話が長いもんで、どうもすみません。

竹口:いやいや、とんでもない、すごい面白かったですし、また是非。

江上:いや、もうほんと、お世話かけました。

池上(裕):とんでもないです。ありがとうございました。

江上:今後もまた、いろいろお世話になると思いますが、よろしくお願いします。私はもう、消えていく人間ですから。

一同:(笑)。

竹口:もうちょっと消えないでください。実はですね、もう少しお話伺いたいな、と思ってるんですけど。今日はこれでお暇して、また日を改めて続きを聞かせてもらえればと思いますので。

江上:まあ、ある意味じゃ、長く引っぱってもらったほうが、あるいはいいかな、と思いますんで。

一同:(笑)。

竹口:じゃ、ちょっと長く引っぱり気味でいきたいと。

江上:まだ作品が県立美術に残っていますからね、もうほんと、お世話かけるかもしれません。

竹口:とんでもないです。こちらはうれしいし、楽しいことで。はい。

池上(裕):ありがとうございました。