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江上茂雄オーラル・ヒストリー 2014年1月25日

福岡市東区のケアハウスにて
インタビュアー:竹口浩司、池上裕子、池上司
同席者:江上徹、江上しおり(江上茂雄の長男夫妻)
書き起こし:向井晃子
公開日:2014年6月14日
 

竹口:前回は、生まれた頃から順番にお話を聞いてて、今日もなんとなくその続きでお話伺えればと思うんですけれども。茂雄さんはもちろん、思いつくまま話していただいて構いませんので。今日は、《葦の空》、あの絵を描かれて、茂雄さんが風景画家としてやっていこうと思われたという、そのあたりから聞かせていただければと思うんですが。あの絵は、どの辺りを描かれているんですか。(注:《葦の空》は1950年前後に制作されたクレパス画。『江上茂雄作品集』、江上茂雄画集制作委員会、2010年、44頁。以下作品集と呼ぶ。)

江上:あれはですね、大牟田で黒崎という有明海に突き出ている、いわゆる江の浦ですかね。海岸ばたですよ。ヨシの木が生えていて、少しうねった木がこの先につづいて、有明海がこう、位置をしめる、というような海岸近くの場所で。そこでヨシというか、葦というか、その風景を描きましたね。

江上(徹):大牟田市の北の方ですね。

江上:ええ、そうね。北の方だね。江の浦とか、渡瀬に近いとこにね、黒崎という岬があります。昔から、大牟田の小学生の遠足の目的地に使われている。神社がこう、高い所にありまして、石段が昔の旧電車の、こうにあります。遠足、大牟田の小学生の遠足が、よくそこへ。そこと三池山と……

江上(徹):もういいよ(笑)。

江上:それから、倉永があんな風になりましてからは、倉永がまた遠足、小学生の遠足の目的地になりましてね。昔は黒崎でした。そして後では、三池山のほうですね。梅がある。それから、何といいますか、三池山のふもとが、遠足、小学生の遠足の候補地になりまして、よく行ってましたですね。

竹口:じゃあ、《葦の空》で描かれているこの風景は、大牟田の人達がよく慣れ親しんだ場所?

江上:うん、そうですね。まあ、海岸に行けば、結局、海と田畑の境に、そういう葦があった。

竹口:この絵を描かれて、茂雄さんが、風景画家でやっていけるという風に思われたってお聞きしましたが。

江上:うん、そうですね…… 一生懸命描きましたね、そこをね。海岸ばたの、ちょっと海に近い、その突端(とっぱな)ですね。海に近い敷地の田畑の突端(とったん)、海際ですね。そこを描きましたね。そして、それを、どのくらい描いたか知りませんけど、「ああ、一生懸命描けばできるんだ」っていう感じを、それを描いたとき初めて、自分に思いましたね。

竹口:この絵を描くまでも、風景画というのは描かれてたんですか。あまり描いてなかったんですか。

江上:私は、大体はもう、風景画家ですね。

竹口:うん。そうですね。

江上:そして、大牟田と荒尾から離れなかった、みたいな。そこで、生涯を終わりにですからね、よそへは、もう行きませんでしたから。自分の生まれたところからですね。私は黒崎の付近で生まれました。今は瀬高ですね。

竹口:はい、瀬高ですね。

江上:そこで生まれましたから。

竹口:じゃあ茂雄さん、《葦の空》を描く前までも、風景画はよく描かれていたんだけど、この絵を描いて、「あ、なんか風景画家としてやっていける」という実感を持ったというのは、今までの絵と比べて、一生懸命描いた感じが……

江上:はい。「一生懸命になって描けば、ちゃんとできるんだ」ということを感じた一枚です、最初に。

竹口:じゃあ、それまでは、「風景画としてどうなんだろう」という不安があったとか?

江上:ええ、まあ。方々描きましたけれど、その絵を描いたときに初めて、自分として、「うん、できた」という感じを受けたから、印象に残っていますね。

池上(裕):これは、お気に入りの場所だったんですか。

江上:うーん。まあ、一生懸命描いて、「あ、できた」と思ったんですからね。それと、《雪降る》(1960年前後、作品集54頁)というのがあるでしょ。あれも、そんなに離れていないですね。だからまあ、「あ、できた」という感じを持った、一枚、二枚、ですね。

竹口:《葦の空》と《雪降る》ですね。他の絵と、どこが、茂雄さんにとってちょっと違うのでしょうか。

江上:うーん……本人が描くのですから、そんな大きな違いはないんでしょうけれども。やっぱそれは、気に入ったものができた、ということでしょうね、一般的に言うとね。まあ、描いたものの一枚ではあるけれども、私も気に入ったと思いますね。《雪降る》と……

竹口:《葦の空》ですね。《葦の空》と《雪降る》は、福岡県美の展覧会でも、すごく、皆さん、いい絵だっておっしゃって。絵の前に立って、涙を流される方とかもいらっしゃって、茂雄さんの気に入っているという思いは、見る人のいろんな人に伝わっているんだなぁ、というのが(会場で感じられて)。展覧会やって、あらためて、よかったなぁ、と。

江上:確かに、気に入った部分で描いては、変ですけど……

竹口:いえいえ。

江上:気に入った一枚、二枚、というとこですね。

竹口:ちょっと話が飛ぶんですが、木版画について聞かせてください。《大牟田五十景》を大体47歳くらいからつくり始められるんですけど(注:1972年発行の多色刷り木版画集。全て茂雄氏の手作業で制作された)。木版画を始めたきっかけと、《大牟田五十景》というシリーズを始めた理由みたいなのがあったら、教えてもらえますか。

江上:《大牟田五十景》は、大牟田で実際生きてきた人間ですからね、大牟田の風景を50枚にまとめようと思った。あんまり、「これをやろう」という気はなかったんですけれども、それは生活上のこととか、そういうものは。それから、やっぱし大牟田に生まれてね、大牟田と荒尾が隣りですからね。県も違う、名も違うけれども、同じ炭鉱の町ですから、それを、大牟田の絵はがきみたいにまとめようか、と思いました。(注:木版画の制作は福岡県大牟田市に住んでいた47歳頃から始めているが、60歳で熊本県荒尾市に引っ越してからそれらを木版画集として1冊にまとめた)

竹口:木版画は、もともと、昔からされてたわけじゃないですよね。

江上:いいえ。私は木版画家的では、自分ではないと思っています。版画というのは、絵の方向としてはね、絵がそこにあるでしょ、それを単純化させなければいけないんですよ。簡単な方向へ。3色のものを2色にする。今まで描いてるのはですね、自分の中にもうひとりの(自分を)発見をする。もっと深いところへと、深みにこう、いくでしょ。版画というのは、それを単純、10色のものを5色にする、5色のものを3色にする。逆ですね、やり方が。それで、やっぱり、大牟田に住んでですね……大牟田の生を全うするとか、それから、あの……なんて言うかなぁ、(版画は)単純化して、自分と反対の方向だけれども、やっぱし7人家族が食べていくことですね、そういうことから、生活上のことから来る、大牟田のそういう名所みたいなものを、誰かが買ってくれる、というようなことも(考えた)。私は7人家族ですけれど、そういうものをちゃんとつくって、なんとかそれを、困った時には買ってもらって、絵の具や紙を買っていくため、というのはありましたね。

竹口:130部作られたんでしたっけ。

江上:そうですね。それはそれで、どのくらい作ったかなとか、売れるかな、とか。その程度、《大牟田五十景》は。

竹口:当時いくらで?

江上:あー、《大牟田五十景》は……

江上(徹):35,000円か25,000円じゃ……

江上:ああ、なんか、その程度。

竹口:(資料を見ながら)そうですね。25,000円ですね。

江上:全部あると思いますね。50枚…… 54枚かな。

竹口:五十景だけど、54枚あるんですね。

一同:(笑)。

江上:退職しましてからね、明日から、何でこう、食べていこうかねとか。だから、最初は大牟田市長とか助役さんとか、商工会議長とか、そういう人(に買ってもらうために)、もう行くしかないと思いましたけれどもね、買ってもらえませんでしたね。

一同:(笑)。

池上(裕):全然売れなかったんですか。

江上:そうですね。買ってくれなかった。

竹口:でも最終的には、もう茂雄さんの手元にひとつ残っているだけですからね。あと全部売れて。

江上:はい。結局ですね、いわゆる文化人って言うのは変ですけど、大牟田市に文化人はいないな、って思いましたね。買ってくれませんでしたからね。それで、小学校の先生に、大牟田の中で文化人っていうのは、小学校の先生しかいないな、って思いましたね。偉い人はもう、見てくれませんですからね。小学校の先生、小学校へ行きましたね。大牟田中の小学校全部、訪ねました。

一同:ふーん。

江上:はい。あの、先生がね、小学校の先生が買ってくれましたね。大牟田の小学校の先生が、買って下さいました。

竹口:その買って下さった先生というのは、茂雄さんのお知り合いではなかったんですか。

江上:ないです。大牟田中の小学校、全部訪ねましたね。校長先生に会ってですね、木版を好きな先生がおられても、校長先生にまず会って、「教室をちょっと覗いてみられるといいでしょう」というお言葉を受けて。

竹口:おおらかな。

江上:職員室にまず入って、そして、小学校の先生が、買ってくれましたね。

竹口:生活の足しにするというか、生活費を稼ぐということがあったということですかね。

江上:ええ、稼いでいかなくちゃしょうがない。会社を辞めてからはね。

竹口:木版画、彫刻刀で木を彫るっていうことは、昔から茂雄さんがされてたわけではないんですね。

江上:あ、そんなことは(ないです)。正直、あの……子供が小学生のときに、小学校3年か4年のときに木版の教科がありますわね。こうして彫る、木版というやり方があるんだって。で、うちの子供も習って、その道具が残っていたからですね。

池上(裕):ああ。

江上:それで、「それじゃちょっと」って。そして、私は酒がでけんもんで、会社の正月休みが、3日くらい日にちがある。そのときにこたつで子供と話していたら、子供が小学校で使っている道具が、板とか彫刻刀とかあったんで、それで、もう私は酒はでけんし、こたつの中でダラーともでけんもんだから……

竹口:(笑)。

江上:ちょっとその道具、暇つぶしに。そしたら、面白いなって……

一同:(笑)。

江上:それから、大牟田の風景をね、ちょっとやってみたい、という風に思いまして。そういうのもあって、木版を始めましたね。

竹口:ほんとはね、クレヨン、クレパスで絵を描きたかったんでしょうけど、お正月休みで、家族が集まってるから描くに描けない、っていう状況だったんですよね。

江上:はい、こう……正月休みは3日くらいあるわけで、その3日というのは、私にとっては、絵を描けない。

竹口:やることない(笑)。

江上:そしたら、子供の彫刻刀とですね、板が余ってたわけで、こたつの上に。「ちょっと、やってみるか」って思って、始めたんですね。

竹口:でもそれでね、ついこの間まで《私の筑後路》というシリーズ(注:1973年前後から2012年頃まで続けた木版画のシリーズ)もずっと続けられていたわけですから、たまたまの出合いが、茂雄さんにとって、いいお仕事というか制作につながったわけですよね。

江上:そうですね。《大牟田五十景》をやって、まあ、面白いとは思いましたね。こう、やってみて、簡単にちゃんと、何枚も同じものができる。それで、《大牟田五十景》をやって、生活に困ったときに、それを小学校の先生に買ってもらった、ということですね。

竹口:うんうん。その《大牟田五十景》をやりだされたのが、大体、昭和34年の47歳頃ということだったんですけど。今、生活上の、とおっしゃったわけですが、例えば、昭和35年には大牟田の三池争議とかがあるんですが、茂雄さんが生活したり制作していく中で、三池争議の影響とか、そういうことは何かあったりしました?

江上:ええ、それは、三池争議は、結局、会社が首を切りますですね、もう。それで、ああいう事件になりましたからね。三池争議は、(昭和)35年かな。そして(昭和)38年くらいまで続きましたからね。結局、会社は争議の終わりにですね、退職は定年が55歳なんだけど、「53歳で辞めてください、そのかわり、退職金を少し増やしてあげます」と、そんな風な滑り出しになったわけですね。それでもなお、人間は余っていますから、結局最後は、「52歳で辞めてください、そのかわり、退職金を少し増やしてあげます」という案になったわけですね。その52歳の線に私はひっかからなかったんです、ちょっと遅生まれで。それで、来年もまた、会社が52歳の線を出したら、私はもう、辞めなくちゃならない、とそういう時代になりましたね。そういう争議がありましたね。それでまあ、結局その時代になって、私が勤めていた建築課は、だんだん人間を減らしていくわけですね。それで、会社も資本を出すから、「あなたたちは実質上会社から離れて、建築設計事務所を作りなさい」と言ったんです。建築技術者の職場ですからね。それで私は、即座に引っ張ってもらいまして、会社を退職いたしてね。それからは、会社が資本を出して作った、サンコー・コンサルタントという建築事務所の人間になったわけです。そこに雇われたんです。

竹口:そういう生活上の不安がある中で、《大牟田五十景》をつくられたりとか、あともうひとつ、《私の手と心の抄》(注:1960年代の実験的・抽象的な即興絵画のシリーズ)なんかも、ずっと、この頃から描かれてましたよね。

江上:はいはい。《私の鎮魂花譜》(注:1938年頃から1968年前後まで描かれた、植物の細密素描シリーズ)があって、それから《私の手と心の抄》なんかをね、勤めているうちにつくったわけです。

竹口:この《私の手と心の抄》をやり出したきっかけみたいなのがあったら、教えてもらえますか?

江上:《私の手と心の抄》、それはですね……絵というものがですね、私たちが少年の頃、それから就職した頃は、写実や写生、そういうものが主体で。日本の絵画は、明治維新後は、日本画も描いていいけれど、西洋式の洋画教育をやりはじめたわけですね。日本もヨーロッパに負けない絵を描こう、と。そういう絵の変わり目、といいますかね、(そういうもの)に、小学校を出て就職した頃からですね、そんな風になってきましたね。自分の絵画も、いわゆるヨーロッパ式の西洋画というか、洋画になりましたね、そうすると、絵も、もう一つの変わり目ですね、ピカソというのが出ましたね、それからマティスと、ブラック、全然見たままを描くんじゃなくて、(抽象的なものに)変わりました。それは、ちょうど、会社に入社しようとする時代に、ちょうどその時代に絵が変わりましたから、非常に戸惑いましたね。ピカソやブラックとか、マティスとか、新しい絵画が始まって、それまでは写生で描いていてほめられていたのが、全然違った絵が出て来ましてね、子供ながら非常に動揺しましたね、私自身は。その絵の変わり目に、自然にですね、私も、マティスとか、ピカソには、子供ながら戸惑いましたけれど、付いていった、ということじゃないでしょうか。

竹口:それが、この《私の手と心の抄》になったんでしょうか。

江上:まあ、そうですね。確かに、そうなってますね。写実、写生とか、そのまま写した(絵から)、当時離れて、もうちょっと変わった絵、ピカソやマティスに付いていく、ということじゃなかったでしょうか。非常に混乱しながらですね。

竹口:じゃあ、茂雄さんにとって、《私の鎮魂花譜》は茂雄さんの心を鎮めるため、ということで、《大牟田五十景》は、木版画は楽しいけれど、ちょっと生活の足しにするということもあった。それに比べれば、この《私の手と心の抄》という抽象画のシリーズは、ご自分にとっても挑戦というか、抽象画が自分にできるかな、という。

江上:そうですね、はい。抽象画に不安を持ちながら、「俺にできるだろうか」ということを、まあやってみよう、というのになっていますね。

竹口:やってみてどうでした、ご自分の中で。

江上:うーん……やっぱり絵画の世界でもですね、写実のものから、フランスの絵が変わって行くわけですね、だから当然私も、美術界の大きな波に影響されて、「できるだろうか」と思いながらやったんじゃないでしょうか。

竹口:やってみたら「結構できるやん」って思いました?

江上:ああ。あの、なんて言うかなぁ。やっぱり、面白い。ポール・クレーとかね、全然暗くなく、楽しいですね、見ていてね。だから、できんながら、私も、世界の絵画のように、美術雑誌も展覧会も見に行きましたから、私も非常に付いていく、というか、とりすがっていくというか。まあ、そういうことを言わざるをえませんね。

竹口:クレヨン、クレパスの風景画が茂雄さんにとって、絵描きとしてのご自分の仕事だとしたら……

江上:それはですね…… 人間の働き盛りといいますかね、体力の旺盛な時代に、非常に一生懸命、体力もまだ盛んでやったのは、クレヨン、クレパスの絵でした。それはもう力を込めて、一番体力的に盛んな、体も丈夫、気分も乗りきっているというか、私個人としての一番旺盛な時代は、やっぱりクレヨン、クレパス画です。まあ、小学生の画材ですけどもね。絵はつまらんかもしれんけども、一番体力も盛んで…… 

竹口:絵はすばらしいですよ。つまらんことなんて全然ないです。三池争議とか、生活の不安とか言われた時期と、茂雄さんが一番体力的に充実していてクレヨン、クレパスの素晴らしい作品が生まれた時期と、大体重なってるんですね。

江上:はい、重なってますね。そういう、なんとかして、ついていく、っていうか、やっていくっていうか、ですね。まあ、体力的に一番旺盛な時代は、クレヨン、クレパス。つまらんかもしれんけど……

池上(裕):つまらなくないです(笑)。

江上:体力的に一番旺盛な時代は、クレヨン、クレパスを描いた時代が一番ですね。

竹口:クレヨン、クレパスを描いているときと、《私の手と心の抄》のような実験的な抽象画を描かれてるときと、ご自分の中でどっちの方が楽しいとか、何か違いはありますか。

江上:絵を描く楽しみは、どちらにもあると思いますけど、うーん……「どっちがおまえ本体か?」とかね(笑)、そういう風になると、ちょっといけませんねぇ。まあ、どっちも楽しかったですね。

江上(徹):あのね、例えば《雪降る》(1960年前後の制作、作品集54頁)という絵を描いて、「ああ、なんか行かれるんじゃないか」って、それから《葦の空》を描いてね、「ああ、一生懸命描かけばできる」っていう、そういう感慨があったわけよね。でもね、抽象画を描いてたときには「やってみたら楽しいね」という話だったんだけど、《雪降る》を描いたときと同じように、「おお、できた」という風な、抽象画で「おお、俺もここまで描けたか」というような感慨を持ったことはある?

江上:うーん、それは、ある方向の絵を描いた時代と、ある方向の(絵を)描いた(時代は)、同じ人間が描いたんだけどね、同じ絵ではないんだけれどね、うーん……

江上(徹):要するに、《雪降る》を描いたときの満足感のようなものを、抽象画で得たことはある?

江上:うーん。それはやっぱり、画壇がそんな風に動いていったわけよね。そうすると、美術雑誌、展覧会を見てるから、やっぱしその影響をね。日本も抽象一色になった時代がある。特に戦後、(昭和)24年に美術が再建、再開するというかね、だから……

江上(徹):うん。だから、そういう風に自分も描いてみようと思ったのは、わかるんだけどね、《雪降る》を描いたときのような満足感、「ああ、俺もできるね」という、そういう感慨を、抽象画を描いていて持ったことはあるか、という……

江上:それは、終戦後、二科会の団体というのが復興し始めて、活躍するようになってくよね。

江上(徹):だからそういう動きに自分も。

江上:ついていけるか、というのもあるからね。

江上(徹):それで、そういう抽象画的なものをつくっていったんだけれどもね、そういう抽象画を描いて、いい作品ができたときに「これはいい作品やね」という思いが時々あったと思うんだけれども。そのときの思いが、例えば、《雪降る》を描いたときと比べてどうね、というのが僕は気になる。

江上:それはいいとか悪いとかいうことではなくてね、美術も動いていく、日本も(昭和)24年頃やと戦後復旧するからね。そして、さっき言ったように、体力的にはクレヨン画を描いていた頃が一番体力があったけれども、自然に病気をしたり、衰えてきたりして、結局水彩画に変わっていったわけね。

江上(徹):その途中で、抽象画があるやないね。

江上:抽象画ね。

江上(徹):《私の手と心の抄》という。その……

江上:あれはね、やっぱし日本の絵の世界も、フランスの影響を受けたりして、なんていうか、入ってくるわけよ。だから私も、展覧会は見たし、美術雑誌は見たし、その影響を受けて……

江上(しおり):描いてみただけなのか、お義父さんは描いてみて、そのことをどんな風に感じられたのかしら、と。描いてみて、どんな風に感じられました? ご自分で。

江上:それは、日本の美術界も、戦前、戦中、戦後とかね、変わって行くように、そういう動きと同じじゃないかねぇ。

江上(徹):それは分かるよ。そのときに、たぶんね、僕が感じるのは、《雪降る》のような作品をつくるエネルギーと、こういう抽象画をつくるエネルギーには、なんか差があるんじゃないかなという気が……

江上:違う……

江上(徹):それはない、あんまり?

江上:いや、私もやっぱし世界の美術が移るようにね、日本の絵画も抽象一色になった時代もあるし、やっぱしその、美術雑誌、展覧会を見にいくからね、そういう影響で、動きといえば動き、変わっていったと言えば変わっていった、じゃないかねぇ。

江上(徹):それは、そうなんよ。

池上(司):この抽象画はだいぶ小さいサイズだったと思うんですけども、こういう抽象画をもうちょっと大きい紙で描いてみたりとか、あるいは、もうちょっと長く続けて描きたいと思われたりとか、そういうことはなかったですか。この一時期だけですか。

江上:やっぱり、大牟田、荒尾というひとつの炭鉱の町、もしも、この町がですね、文化の町で、そういう絵を買ってくれる人がいたら…… ちょっとずつ続けたかもしれませんね。

池上(司):ああ。

江上:だーれも、買ってくれんもん。

池上(司):ああ、なるほど。理解してくれる人が、やっぱりいなかった。

江上:はい、荒尾とか、大牟田とかはですね、非文化の町と、私は思います。しかし、生まれて、そこで生きた町ですから、悪口を言っちゃいけませんけどね。とにかく、あの…… 金にならんというか、こういうことを言っちゃいけんかもしれませんけれど、応援してくれるとか、後押しをしてくれるとか、時には買ってくれるとか、そういうことは全くありませんもん。この、大牟田という町は。

池上(司):作品を拝見してて、水彩とクレパスの過渡期で、重ねて両方使われたりとか、いろいろ実験されてるなぁ、と思ったので。それがもっと大きいサイズの風景画のように発展していったら、また違った絵ができたかなぁ、って。

江上(徹):可能性はあったと思いますね。

池上(司):そうですね。

池上(裕):でも、見る人がいないっていう問題が。

江上(しおり):どこかに出展するっていうことを一切してない義父ですからね、やっぱり人の目に触れなかったんですよね。

竹口:だって描いてるとき、個展とかされてませんもんね。だから買おうにも買えないですし、茂雄さん自身が、ほんとに《私の手と心の抄》を見せて、買いませんか、っていう風にしたかと言うと、そうじゃないですもんね。

江上:そういう展覧会か何かをするのには、お金がいるんですよね。

池上(司):そらそうですね。

江上(しおり):だから偶然、もう何て言うか……

竹口:僕は今の、徹さんと茂雄さんとのずーっと続いたやり取りは、非常に意味のあることだと思うんですが、そのまま続けるとちょっと長くなりそうなので。《私の手と心の抄》で何か聞きたいことある?

池上(裕):そうですね。この作品とか、ほんとに素晴らしいと思うんですけど(注:作品集の151頁。このシリーズは一点一点にタイトルはついていない)

江上:これはもう、色の遊びをですね……

池上(裕):こういうのをつくられて、ご自分で、「これ気に入ってる!」みたいなのとかはありますか。

江上:こういう絵を描いた…… あのー、ポール・クレーという。

池上(裕):ええ、すごく雰囲気似ていらっしゃるなぁと。

江上:この人の絵を見たときに、私なんかは、目の前に本物置いてとか、そこの現地に出かけていって、この風景をどこにどう置こうかとかと、それだけで。「はあ、こういう世界があるのか」っていうように思いましたね。それで、自分にもできるか、というのをやったんじゃないか。

池上(裕):じゃあ、この絵なんかは、「できた!」と思われましたか。

江上:ああ。そうですね。ここ(作品集)に出しているものは、「まあ、いったかなー」という……

一同:(笑)。

江上:そういう遊びっていうかな、そういうことですね。できた、面白いな、遊び、それは実景を描いているのとは違ってですね、はっ、とできる。

池上(裕):これも、すごく短時間でできるんですか。

江上:できるんです。

池上(裕):どれくらいですか。

江上:あの、白い紙が、こうね、あるでしょ。

池上(裕):はい。

江上:そして、チューブで赤い色、白い色、まあ、もうちょっとこう、ここ、絵具を置くんです。で、三角定規です。(注:定規で絵具を平らに伸ばしつつ、フォルムや構図を作っていく)

池上(司):へえー。

江上(しおり):「できたー!」ですよ。

一同:(笑)。

池上(司):じゃ、一日一枚?

江上:もう、こちらの方が、絵を描いてて、三角定規で絵具の塊を、こうこう、ぱっ、とやる。

池上(裕):そしたら、2、3分とかでもできちゃいますか。

江上:ええ。もう。

江上(しおり):びーん、って(笑)。

池上(司):へえー、そうなんだ。

池上(裕):楽しかったですか、それは。

江上:ええ。あの、そしてそれを、水道場の下に(持って行って)ですね、ばーっと水を(流して)、はい。

池上(司):へえー。

江上:そういうこと。

江上(しおり):こんなのとかね(作品集の147頁を見せながら)。

池上(裕):ああ、そうですね。流れてますね。

江上(しおり):水でじゃーっと流す。

江上:水でこう洗う、水でこう流す、ざーっと、ざーっと……

池上(裕):ほんとに実験ですね。

江上(しおり):その一番気に入ったところを切り落とすわけ。

池上(裕):切ってるんだ。

江上:気に入ったのがあると……

江上(しおり):それを切り落とす。まあ、偶然の中でも。

池上(裕):へえー。

江上(しおり):いろいろですよ。

池上(裕):素晴らしい。

池上(司):そうかぁ。

江上(しおり):どこが良いっていうのをね、ちゃんと。

池上(司):じゃあ、描き方が全然違うんですね。写生のときとね。

江上:はい、写生とは(違う)。

池上(司):つくり方が違うんですね。へぇー。

竹口:水道で洗ったりいろいろされてるのは、もう一つのお仕事の染め紙がありますよね。

江上:あれは、大体私はですね、小学校の学校で使っている手本、あれを見て、「あ、あの方式でやってみるか」っていうのがある。小学校で使っている美術の本の折り紙を使ったり。それで私、「お、やってみるか」って言って、そこのへんを、折り紙みたいに、こう折って、そして、端に絵具を溶いて、ちょっと待つんですよ。ここは、色が行かんようにっていうのは、しっかり二枚にして、押さえておく。そこには、絵具が行かん。それを何回か繰り返して、ぱっと開くと、ああいう模様になるね。

江上(しおり):養父が言ってましたけど、それの図柄もきちっととるのは、非常に難しい、って言うんですよ。好きでね、自分もやってみた……

竹口:その、ちょっとやってみたとか、遊びっていうのが、いろいろ茂雄さんの場合あるんですけれども、それが全て、クオリティを持っているのと同時に、染め紙もだって、膨大にありますよね。量を続けてられてるんですよね。《私の手と心の抄》もそうですけど。全部「ちょっとした遊びよ」って言われるんだけれども、それがかなりのボリュームを持った仕事として継続されてるのが、それが茂雄さんにしかできないことじゃないのかな、と僕は思うのですが。まあ、ちょっと長くなるので……

一同:(笑)

竹口:少し進めますけれども、勤められてるとき、いろいろ不安もありながら、クレヨン、クレパスを画家として描きながら、いろんな実験的なこともされてて、退職されて、初めての個展をようやく、井筒屋でされるわけですけれども。念願の個展ですよね。個展を開催するにいたった経緯とか、思いとか、お母さんへの思いとか、聞かせてもらえますか。

江上:えーと、まあ、母のことはですね、もう、何と言いますか、母は、「おまえには、鉛筆と紙さえやっておけば、おとなしい子だ」と言ってましたね。それで一生懸命描いて、まだ何を描くかも分からず、ただこう、鉛筆でね、描きなぐってたんじゃないかね。

竹口:その頃の絵が残ってたら、ちょっとすごいですよね。

江上:ははは。

竹口:で、お母さんがずっと見守って。前におっしゃってた、クレヨン、クレパスを描いてるときに床が汚れても、お母さんが黙って拭いてくださってたりして……

江上:はい。私の三尺の一間半かな、板の間でですね、向こうは戸を隔てて外、こっちは畳四畳半と(の間にある)、その一間半と三尺が、そこが私のアトリエですね。

竹口:アトリエですね。

江上:で、母は、私が絵を描いた後、黙って、掃除をしてくれましたね。クレヨンでこう汚れると、まるっと、母は、家具掃除を、毎日してくれましたね。クレヨン画の時代は。

一同:うん……

江上:これは非常に、母に対してですね、最初の展覧会を早くやって、恩返しというか、それはやるということはもう、早く決めていましたね。

竹口:で、ようやく退職で、初個展になったわけですけれども。

江上:はい、退職してすぐ、第一回の展覧会をやって、「あ、これで母に対するお礼が済んだかな」と。第一回の展覧会を大牟田の井筒屋でやりまして、母も見に来ましたから、母に対してはご恩返しができたかな、とその時思いました。

池上(裕):お母さんは何かおっしゃいましたか。

江上:いえ…… でも見に来ましたもんね、初めての展覧会をね。そして、一通り息子が第一回の個展をやった、ということは、母も報われたと思いますね。私は「母に対するお礼は済んだかな」とは思いましたね。

竹口:大牟田井筒屋も、茂雄さんはそれまで全然展覧会などされてないわけですから、よく貸してくれましたね。その、個展をするのにあたって。

江上:あの、大牟田が、松屋という百貨店と井筒屋という百貨店がありました。(今は)もう、ありませんけれどね。大牟田の人はそこで展覧会をやりました。もちろん、文化センターも後年はできていましたけれどね。そういう画家の人はちょこちょこ個展してましたからね、井筒屋はできてからまだ新しかったし、「俺もここでやる」ということは決めていましたんで。

竹口:それはじゃあ、やりたいって言えば、すぐに「やっていいよ」っていうかんじで決まったんですか。

江上:いいえ、これはもう、井筒屋に私、頼みに行きましたね。展覧会をさしてくださいと。そしたら、井筒屋の人に「何々会の会員とか、肩書きのある人ならまあね」と断られましたね。

池上(裕):うーん。

江上:何もないおじさんですからね、当然でしょ。それで、「もしもそうなったときには、私に言ってきてください」と言っていた人が大牟田にいまして。大牟田の文化会館の会長かな、その人が「(そのように)断られることがあったら、私に言いなさい、私が背中押してできるようにします」と。大牟田の文化会長。それから、西日本新聞社の大牟田支局長、その人も約束をしていました。私の絵を見に来て「いっぺん断られるだろうから、私がちゃんとできるようにします」って。それでできました。

竹口:お名前、何て方でしたっけ。

江上:えーと・・・ 文化会長・・・ 何ていったかなぁ。

江上(徹):いやぁ、僕は知らん。

竹口:ちょっと調べてみますね。以前ね、お聞きしてるんですけどね。(注:大牟田文化連合会会長 安元薫氏のこと)

江上:大牟田の文化会長。

竹口:じゃあその方達は、既に茂雄さんの絵をご覧になってて、いい絵だっていう風に(おっしゃってた)。

江上:ええ、前に家に見に来られて「もしも、断られたら私に(言いに)来て下さい。私が井筒屋さんに言って、ちゃんとします」って。それから、西日本新聞社の大牟田支局長も、「もしも、断られたら私に言いなさい、していただけるように井筒屋に言います」って。それはもう、いただいてました。

竹口:その方達とどういうきっかけで知り合われたんですか。茂雄さんが来て下さいって呼ばれたんですか。

江上:きっかけは、会社で私が《大牟田五十景》というのをつくっていたのを、その会社にいた機械課の課長が見まして、「展覧会をやれ」て言いましたね。

池上(裕):ああー。

江上:で、「今はまだ働いて、退職しましてから必ずやりますけん」って言っていたわけです。その人と文化会長が「必ず断られるから、私の方ができるように、向こうを説得します」ということは、言ってくれていましたからね。

竹口:じゃ、《大牟田五十景》がきっかけになって、茂雄さんのクレヨン、クレパス画もご覧になって。

江上:ええ。はい、そうですね。

池上(裕):じゃあ、見る人は認めてらしたんですね。

江上:はい。

江上(しおり):会社の人はねぇ、見て下さってた。

竹口:個展の反響って、ありました?

江上:個展の反響…… そうですね、井筒屋で第一回の展覧会を開いて、見てもらったわけですから、それは、西日本新聞にも掲載されましたし。

竹口:そういえば、大牟田の文化連盟から賞をもらわれましたよね。

江上:その年が、大牟田に文化連盟ができてから、20周年記念かな、だったんです。それで展覧会の後援もしてもらったし、ちょうど20周年記念だったから、私が(文化連盟から)、第一回の表彰をされました。

竹口:小学校以来でしたね。

一同:(笑)。

江上:はい。初めてでしたね。

竹口:それ以降、展覧会は8回されてますね。

江上:はい。福岡とか、熊本、それから八女で展覧会をやりました。

竹口:その8回やった中の展覧会で、一番大きな意味を持っていたのは、記憶に残っているのは最初の個展?

江上:ええ、それはもう、第一回というのは、母のための一回はやらないかんというのはですね、私も初めて作品を……

竹口:ずうーっと描きためてた作品を、初めて展覧会に出すわけですから、すごく怖かったんじゃないですか。

江上:それは、怖いというかんじでは(なかった)……これで一応、大牟田の人や荒尾の人、近所の人、皆に一応見てもらえるかな、ということ。

池上(裕):最初の展覧会に出されたのは、クレヨンとクレパスの絵ばっかりですか。それとも《私の手と心の抄》とか、《私の鎮魂花譜》とか、他のものも出されましたか。

江上:それは……とにかく、初めての展覧会で、ばっと今まで描いたものを発表したわけですからね、もちろん、大牟田だけじゃなく、その後、第二回個展、福岡、荒尾、八女、それぞれに発表して……

竹口:初個展には、クレヨン、クレパスの作品が、一番たくさん出品されてたわけですよね。

江上:そうですね。初めての個展のときは、私は大体はクレヨン、クレパスを一番血気盛んな折に描いてますからね、やっぱり、それを見てもらいたい、というのはありますからね。

竹口:その他の、例えば木版画とか、《私の鎮魂花譜》とか、《私の手と心の抄》なんかも、少しは出されてたんですか、一回目の個展で。

江上:一回目の個展、それは大牟田ですからね、当然出しているわけです。

竹口:そうなんですね。

池上(裕):それは徹さんもご覧になってるんですか。最初の個展。

江上(徹):見てますね。でもね、僕の印象に残ってるのはクレヨン、クレパス画だけですね。

一同:(笑)。

江上(しおりさん):それと《大牟田五十景》ですね。

池上(裕):ああ、それを主に出されたという。

江上(しおり):というのも、ちょうど(徹と)婚約して……

池上(裕):そうでしたか。

江上(しおり):結婚をね……

竹口:ああー、そりゃ、しおりさんも気合い入れて見ますよね。

江上(しおり):最初に、お義父さんの絵をここで見せてもらって、ビックリして、おばあちゃんの、あのタンスの絵なんか、「わぁー」(と思って)すごく心を打つ……(注:《母の赤きタンス1》をはじめとした一連の作品のこと。作品集28–29頁。)

池上(裕):うんうん、そうですよね。

江上(しおり):(心を打つ)印象が、ずーっとあったんですね。「こういう時代がね、あったんだなぁー」って、じーんときましたからね。それまでは普通のおじいちゃん(だと思っていた)。

一同:(笑)。

江上(しおり):申し訳ないけど、(それまでは)そんなに見てないからですね、ちょっと会っただけで。

池上(裕):徹さんは、あらためて、個展という形でご覧になって、どう思われましたか。

徹さん:「ああー、上手いねー」と思いましたね。

一同:(笑)。

徹さん:いや、そんなに僕も見てないですよね。その、作品をね。「ああ、こんなにいいのがあったのか」というかんじでしたね。

池上(裕):作品を選ぶお手伝いとかは、誰もされていないんですか。

江上(徹):いや、してないです。

池上(裕):お一人で。

江上(しおり):その頃は、お義父さん、元気だったからね。

江上:はい。私の絵に手伝いは、誰もしていません。

江上(徹):(笑)。

江上:私が一人で。

竹口:退職されて、初個展をされて、荒尾に引っ越されました。生活環境が大きく変わったと思うんですけれども、何かご自分の中で、制作するにあたって、大きな変化っていうのはありました? クレヨン、クレパス画は、荒尾に行かれてからは、もう描かれてませんよね。

江上:はい。まあー、最後は毎日、絵の道具を背中に担いで、荒尾の家から30分くらいの圏内を。

竹口:30分? もうちょっと遠出したんじゃ。

江上:いや、ここらへんでいうと、倉掛。それから、グリーンランドのそばの運動公園。それから、駅前の通り、それと自分の家の周り。まあ、そういうとこですね、ずっと描いて、毎日、描いたのは。

池上(司):もともと、荒尾に引っ越されたきっかけというのは、どういったこと?

江上:それは、結局、どこへ行くとか、そんなのないですよ。生まれた所は大牟田のちょっと北の方で、5、6歳からは大牟田で暮らすんです。100歳、101歳になるまで。結局、大牟田と荒尾は道一つ、だから同じ町ですね。

江上(しおり):退職がきっかけで。社宅にお義父さん、住んでたでしょ。退職したから、出なきゃいけない。みんなこの頃の人たちが、一角に開発された所に、ご近所も結構引っ越して一緒に建ててあったみたい。だから、心強かったんじゃないですか。知らない人達ばかりの所ではなくて、知った人が何人も、あのときは、あの団地にいたんですよ。家を建てて。で、設計したのが、あの旦那様(注:ちょっと離席した江上徹さんのこと)(笑)

一同:(笑)

江上(しおり):あの旦那様に一戸建てを建ててもらったと、退職金で、と聞いております。

池上(司):ああー、なるほど。ということは生活圏も変わらずに。

江上(しおり):ええ、そうですね。

竹口:荒尾に引っ越されて、水彩画を始めるのがちょっと後ですよね、67歳くらいからですよね。

江上:ええ、体力が。クレヨン画を、一番血気盛んな時代に描いて、体力も落ちてから、水彩ですね。

竹口:荒尾に引っ越されて、当初は木版画をされてましたよね。

江上:木版画はもう、いつっていうか……

竹口:ずっとやってた?

江上:やり始めたらしばらく続けるっていうことではなくてですね、やめては続け、思い出したようにやり、ですね。

一同:(笑)。

江上(しおり):合間、合間にやってたんですね。

竹口:さっき病気のことを言われましたけど、62歳で目の病気をされて、67歳で脳血栓されて、お医者さんからは「絵を描くのをやめなさい」って言われたりしたって、以前お聞きしました。茂雄さんはそれでも、やめようって本当に思ったことっておありですか。

江上:いや、絵を描くのをやめようと自分で思うことはない。体力がですね、こんな風になって、最後まで行けなくなって、しょうがないから描けなくなったんでですね。自分でもう、やめようって思ったことはない。でも歩いていって、よぼよぼになって、絵を描いてから道具を片付けて、リュックを担ぐときにですね、よろよろドスンとね、倒れて。その頃から、もうちょっと無理だなぁ、って。

竹口:それは、97歳とか、そのぐらいですね。

江上:ええ、そうですね。やっぱし99(歳)までは、毎日描こうと思っていましたからね。大体100(歳)なわけですね、できないな、と思ったの。(注:江上は67歳から97歳までの間、ほとんど毎日自宅から徒歩で出かけては水彩絵具で風景画を一枚仕上げて帰ってくるという日々を過ごしていた。上述の出来事がその日々に終止符を打つこととなり、それ以降99歳頃までは、自宅で版画制作にほぼ毎日勤しんでいた。)

江上(しおり):倒れたときは、半身だめだったの。すごい状態になったの。私がお見舞いに行ったときは、食べ物が、完全にね。

竹口:倒れたというのは、その、67歳の脳血栓のときですね。

江上(しおり):はい。子供を連れてお見舞いに行ったときは、かなりショックな状態ですね。お医者様が、なかなか元には戻らないっておっしゃったんですが。ものすごい奇跡的な回復をなさって、

竹口:へぇー。

江上(しおり):病院の先生がもう、ほんと、驚かれるくらいの回復。「やっぱり絵を描きたいという情熱が病気より勝ってたんだなぁ」って、私はそう思いましたね。ただし、力がね。半身不随になってるから、もうクレヨン、クレパスは描けないということで、水彩で、リハビリの意味で水彩を描き始めた。

池上(裕):動かない方っていうのは、利き腕の方だったんですか?

江上(しおり):確か、左半分だったと思うんですけどね。どっちの方が、倒れたとき、お義父さん?

江上:口?

江上(しおり):いや、脳血栓で倒れたときは、どっちの方が利かなかったんだっけ?

江上:脳血栓……脳血栓で倒れた(とき)、口がきけないのね。私の場合は、唇をぱっと合わせるのが発音できない、なにぬねの、はひふへほっていうんで、唇が合わんとその言葉にならないですね。確か、な行かは行、ぱぴぷぺぽとか。他のことは発音できるが、唇を合わせるという機能が(できない)。そこの神経が麻痺した、というんですね。

江上(しおり):出てすぐね、描き始めてるものね。

竹口:半身不随より、しゃべれない方をよく覚えていらっしゃいますね。

一同:(笑)。

江上(しおり):一番(つらい)ですよね。

池上(司):ああー。

江上(しおり):食べたり、しゃべったり、ということが、即、自分でもね、分かりますからね。思い通りにできないという自覚がね。

竹口:水彩画を始められてるのは、脳血栓で倒れた後ですよね。67歳なので。

江上:はい。これからは、これしかないな、というので。

竹口:荒尾に引っ越された直後から、67歳までは木版画をされてましたよね。その間、クレヨン、クレパスもしない、水彩もしない、というのは何か理由はあったんですか。

江上:うん…… どうですかね。

江上(しおり):お父さん、退職したらいっぱい時間があるから、今までのように日曜だけじゃなくて、これからいっぱい描けると思ったのに、いざ時間ができたら描けなくなったってその時期じゃないですか。

竹口:うん、その時期。

江上:はい、あの…… そうね。

江上(しおり):意外と描けなかった時期があったんですよ。

江上:リュックを担いだらバタッと倒れてね。そういう風になってからやめました。

池上(司):毎日日曜日になったら筆が進まない。

江上(しおり):そういう時期があったと、私は聞いてます。けど、あまり関係ないのかな。

竹口:じゃ、ちょっとその水彩画を描かれてたことなんですけど、67歳から毎日一枚描かれますよね。毎日一枚描こうっていうのは、まあ、そう決めたからなんですが……

一同:(笑)

江上:「一日一枚は描きたい」っていう、それで続けてきていましたしね。「できるなら描きたい」っていうことたっだんでしょうね。

竹口:できるなら……

江上:それが、足がこんな風に不自由になって、また倒れたりするから。バイク屋(注:大正時代の人働車や自転車タクシーのことか)を雇えたら雇っていますけど、お金ないからやめざるを得ないな、って思うようになったわけですね。

竹口:ただ、クレヨン、クレパスのように、お家の中で描けば、外でバタッと倒れる危険性もないわけですよね。けど、わざわざ外に出て描こうと思われたのって何か理由があるんですか。

江上:家の中で描ければ描いてもいいはずだけれども、やっぱし自然の中へ出て行くといいますかね、自然の風景に触れて歩いて行くと、向こうが「描いてくれ、描いてくれ」というような風で続けていましたからね。

竹口:クレヨン、クレパスのときも、スケッチは外に行かれますよね。

江上:はい、若いときね。

竹口:そうですね。

江上:何て言うか、筑後じゅうをもうね、描きましたからね。その中から絵になるものと、描かなかったものと、分かれたと。

竹口:クレヨン、クレパスを描いているときも、「描いてくれ」みたいな風景からの呼びかけを感じながらスケッチをして、家に帰ってクレヨン、クレパスを描いていた。けど、67歳からは、その場で、風景と相まみえながら描くというか、そこに変わられたのは、なんかこう……

江上:うーん、やっぱり体力の衰えですね。道具を片付けて、もう帰ろうと準備するときに、ちょっとヘロヘロと倒れそうになったりしましたからね。バイクが通り、自動車が通り、自転車も、もう危ないな、と感じたと思いますね。それで、今まで描いた水彩画から、木版を主体にやっていくか、と思ったわけですよね。

竹口:うんうん。クレヨン、クレパスから水彩に変わった理由ってありますか。

(江上、しばし沈黙)

竹口:やっぱり体力的な問題?

江上:結局……もう、危ないとかね、倒れるかもしれん、とか、そういう危険を感じるようになって、今まで描いた水彩から木版にできるなら、それでもやるか、というとこですね。

竹口:そうですね。じゃあ、水彩画をずっと、30年間描かれて、10,000枚くらいあったわけですが、茂雄さんの中で作品の良し悪し、点数をつけてたとおっしゃってますけれども、それはどんなかんじで(つけてたんですか)。ひとまずみんな60点以上の及第点だとおっしゃてたように記憶していますが。

江上:うーん、外へ出て行くのが難しくなって、水彩画で描いたものが目の前にありまして、描いた水彩画から木版にできそうなものを、今まで描いた水彩の中から取りだして、それを木版にするということをやろうかと。結果が、そういうことになりましたね。

竹口:うんうん。《私の筑後路》ですよね。

江上(しおり):家にいないから、私もそんなに聞いたことがそんなにないけれど、毎日出かけなくてもいいんじゃないですかって。本人も個展をしたときに、「江上さんはどうして、エネルギーをずーっといっぱい溜めて、時々ばっと爆発させるような絵を描かないんですか」って知り合いに言われることもある、と。ところが、自分は一日一枚描くって決めたのと、結局、出て行った方が、気持ちがすっきりするらしかったんですよね。家にいても、年齢的なことがだんだんきつくなってくると、かえって外に出て歩いている方が、体調がよくなる、それも含めて、毎日歩くということと、お義父さんにとっては、かえって爽快だったんじゃないかな、と。そして、絵を描いてると忘れますからね、疲れなんかふっとんでしまいますから。ただし、年齢がいくにつれて、以前は1時間半からもっと遠いところまで行けてたのが、30分になり、だんだん狭い範囲に囲まれてしまうんですね、体力がなくなっちゃって、それでいよいよ、さっき言ったみたいに、よろよろするし、坂道が無理、危ないということを自覚して、もうやめる。スパッとその辺のけじめっていうのは、自分でコントロールして行ける人なんですね。だからビックリするぐらいでしたね。

竹口:すごいですね……

一同:うん……

竹口:じゃあ、最後にさせてもらいましょう。

池上(裕):そうですね。じゃ、最後にお聞きになりたいことをお願いします。

竹口:質問というよりかは、お会いする度にお伝えしてることですけど、茂雄さんは「ご自分の絵はつまらない」とか「自分には個性がない」とよく言われるんですけど、展覧会では、本当にたくさんの人が茂雄さんの絵の前で涙を流して、「いい絵だ」と、「また見たい」と。で、「県美で見れるようにしてくれ」と僕はかなりいろんな人から言われてるんですね。その声はなかなか茂雄さんの耳に直接は届かないんですけれども。茂雄さんはよく「あと20年若かったら(展覧会も)もっとうれしかったのに」とおっしゃってましたけど、僕は今、ようやくいろんな人が江上茂雄の絵を見て、感動できるようになってきたんだと考えています。その辺をどんな風にお考えかな、と思って、ちょっと聞かせてもらえれば。

江上:私としては、とにかく、私がいて、私が描いた絵が残っていますから、やっぱり、私は私の作品を見ていただくことが、一番うれしいというか、ありがたいというか。そういうことですね。

竹口:わかりました。

江上:したがって、本当に大変だと思いますけれども、竹口さん他、みなさんのおかげを、まだお世話をかけると思いますが、よろしくお願いします。

竹口:もうお疲れですよね。お話し最後の方、こだわってしまい、すみません。

池上(裕):ありがとうございました。

池上(司):ありがとうございます。