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藤本由紀夫オーラル・ヒストリー 2009年3月26日

兵庫県神戸市のスタジオにて
インタヴュアー:池上司、鷲田めるろ
書き起こし:佐藤恵美
公開日:2009年6月1日
 

(前回のインタビューに関する資料を見ながら)
藤本:このころあんまり理解できていなかったですね。(エドワード・)マイブリッジがどうとか。(エティネンヌ=ジュール・)マレーがとか。Tu’mという作品をデュシャンはいやいや描いたみたいなんですね、ドライヤー女史から書斎に飾る絵を頼まれて、絵を描くのをやめていたので、適当に影でなぞって描いたんです。2次元、3次元、4次元が絡んでるのだなと分かってきて。解読できるのが面白くなってきて。これならなんとなく分かるかなあって。これだと音になおせるんじゃないかなと思ったんですけど、メモで音響彫刻とかでるんですよね。
音で空間の彫刻ができるんじゃないかなと思ったんですね、実際にジョン・ケージはデュシャンのメモをもとに作品をつくったりしてたんですけど。
これが『ロック・マガジン』。ソノシートの付録付きなんですね。1枚目はブライアン・イーノのソノシートが付いてた。ブライアン・イーノは阿木譲がインタビューしたんです。そのインタビューを入れてたみたいで。でもこれも今から考えるととんでもないことなんですけど、外国の雑誌から出典も出さずに勝手に翻訳して。全部サンプリングマガジンなんですけどね。当時としては向こうのすごい早い情報がいっぱい載ってたんです。

池上:これが『ロック・マガジン』主催のイベントですよね。

藤本:イベントのときにロックと現代音楽を一緒にしていこうということを考えていたみたいで、現代音楽でだれかいないかっていうことで、人づてに僕のところにきて。
これがポスターですね。

池上:変わったフォーマットですね。

池上:みんなのユニット名がすごい(笑)。

藤本:すごいでしょ(笑)。

池上:このとき、先生は「3年ぶりに活動再開」とか書いてなかったかなあ。ひょっとして個人名でされるのが久しぶりだったんですかね。

藤本:それまでは現代音楽という分野だけですから。

池上:これは79年でしたよね。これは完全にイベントとかコンサート的な。

藤本:そうです。それとレクチャーとか一緒にひっくるめてやっていて、僕はその中で、ライブっていうか、モールス信号でどんどん重なっていくというやつをやったんですけど。

池上:録音して重ねるという?

藤本:そう、ライブで重ねる。音がどんどん重なっていく。当時はほとんどまだそういうこととやっている人はほとんどいなかった。

池上:モールス信号でどういう言葉を言ってたんですか。

藤本:このときは必死でこれのためにモールス信号を覚えて。アルファベット全部。ジョン・ケージの「サイレンス」からのテキスト。英文でひたすら打つっていうことをやっていた。

池上:どちらかというとステージで演奏するような。

藤本:演奏するんですけど結局70年代初めくらいからやっていたのは、小杉(武久)さんとかに影響をうけて、ライブエレクトロニクスだけど即興みたいなやり方をしてた。だけど、どうにもそういうのが自分には合わなくて、もっと即興じゃなくてできないかなと思って。文字をそのままモールス信号で打っていけば、それは仕事みたいなものだからというので、それだったらできるかなと思ってたりしたんです。

池上:こういったイベントでのパフォーマンスはほかにもその時期からやっていましたか。

藤本:これでシンセサイザーとかそういうのは自分たちで持っていて、持って行けるようになったんで。(資料を見せて)こんな感じですよね、東京でやった時の。。

池上:へええ。志村哲・・・日永田広

藤本:大阪芸大にいましたから、そのときの助手してたのと学生かな。

池上:このときはこの三人でノーマル・ブレインだったんですね。このときからアルファベットが一文字ずつ・・・

藤本:フランケンシュタインが入ってくるんですね。ほかの人たちはパンクとか、ニューウェイヴとか、そんな人たちばっかりだったんです。

池上:いわゆるバンド的な方ですか。

藤本:うん。ちょうどそのころから日本でもいっぱいそういう人が出てきたころなんですよ。で、このあとにYMOみたいなのが出てくる感じ。それと平行してこういう「現代音楽アンデパンダン展」を手伝ったりしてたんです。大体が大学の先生とかそういう人たちですね。

池上:室内楽作品とかはいわゆる曲ということですか。

藤本:現代音楽の、ほんとにいろんなかたちで。

池上:(チラシを見ながら)「テープ+α」、「スライド」、「ビデオ」・・・

藤本:第2回。このときはタイトルは《ノーマル・ブレイン》にして。これもテープとスライドを使うのかな。これはまたやってみたいんですけど。ホールのステージで一番最初に僕がオルゴールの箱を持ってきて、これがオルゴールを使った一番最初だと思うんですが、舞台の真ん中でオルゴールのねじを巻いて、《トロイメライ》の曲が鳴りだすんです。それを置いて引っ込むんですよ。そうすると、300人か400人かの会場で、ただオルゴールが小さく鳴ってるだけ。しばらくしてから今度はラジカセを持っていくんですよね。ステージのオルゴールの後ろの台にそれを置いて、プレイボタンを押すと、《トロイメライ》を録音した音が半分の速度で低くなって流れてくるんです。この状態でしばらく引っ込んでじっとしてるんですけど、そうすると次に、会場のPAスピーカーから、ものすごい低い音でねじを巻く音がキキキキっと鳴るんですよね。それはさらに4分の1くらいに速度を落とした音なんで、ものすごい重低音でゆっくりした。ねじをまいてからタンダーンって音がでる。そのタイミングでスクリーンにスライドがばんと出るんですけど、それが何が出るかっていうと、ラジカセのでかい映像が出る。「複製と拡大」っていうのがテーマだから、オルゴールを複製したものを拡大して、今度これの拡大ということで、視覚的にラジカセの拡大。本物はここにあって。笑いが起きて。まさかこれは拡大が出るとは。このころからものを置いていくだけでパフォーマンスが成り立つんだって思ったんですよね。

鷲田:これは「第2回現代音楽アンデパンダン」。

池上:1980年。

藤本:これをやってて、だんだん気楽になったんで、現代音楽でも今から考えたらインスタレーション的なことなんですけど、ほかの人は一切そういうことを考えてなかったときなんで、ライブでこういう風にやっていたことはそのまま持っていけたんですよ。

池上:こういう中でも先生の作品はちょっと異色でしたか。

藤本:異色だし、ほとんど内輪の人しか来てないし、ほとんど無視されちゃうわけですよね。

池上:現代音楽の文脈のなかでは。

藤本:古いタイプのものでした。これが完全なスコアです。

池上:おお。なるほど。音も拡大して、ビジュアルも拡大するんですね。ライトっていうのは?

藤本:結局これって一人でできなくて、会場の照明の技師さんとか音響の人に、このときにこうしてと全部指定しなきゃいけない。照明の人たちはさっぱりわからない。なんでこれを置いただけで当てなきゃいけないかとか。リハのときってそんな全部をやるわけじゃなくてタイミングだけでこれをこうしてくださいってやるんだけど、そのときは一応これに従ってやってもらったんだけど、本番になったら、置いて引っ込んで、スライドがドンと映るとき、ぼくは照明・舞台監督の人が袖にいる横でずっと見ていて、そこでぼーんと映ってそれをずっと見ていた照明の人が「ああ、そういうことか」ってすごい喜んでくれて。
理解されたと思ったらすごいおもしろかったですね。こういうのもデュシャンのこういうのをいろいろ見ていたから考え付いたと思うんですよね。それでもう、別に現代音楽がどうのとか興味なくなっちゃって、「自分がやりたいことをやればいいんだな」って思ったんですよね。いろいろなところ、ほかの美術の人たちから紹介とかあって「ビデオアンデパンダン」に。

池上:今井祝雄さんとか、ヨシダミノルさんとか出てますね。これは大阪府立現代美術センターですね。このとき機材を貸してくれるとか。

藤本:そうです。ビクターが、これに出すことを前提にするとビデオカメラを貸してくれるんじゃなかったかな。それならってやってみた。70年代終わりから80年代初めって、いろんな機械がアナログからデジタルに変わるとき。ビデオなんかでもVHSに変わるときで。そうそう簡単に買えるものじゃなかったんで、それを使って実験できるってのはすごくおもしろかったです。そのときにある道具っていうか、とらえるってのがおもしろいなって思ってたんです。塩谷(宏)教授にファンクションだって言われたのが引っかかってたんだと思うんですよね。複製ってどういうことか。そうするとオルゴールの音を録音しても複製だけど、それを流してるカセット、そのメディアを複製するってどういうことか、全く別に知覚的に複製していくと、その前のオルゴールって一切関係なくなる、でも拡大には変わらないですよね。

池上:違った意味合いの「複製と拡大」。

藤本:すごい皮肉なことになるっていうのが、やってみて初めてわかる。これは単に録音の道具だと考えていたら、こういうこと考えなかったと思うんです。やっぱりラジカセだから、電池でそこから音がでるというのは、オルゴールを巻いて、そこから音が出るっていうのとすごい似てる。最後に会場のスピーカーから流してホリゾントに映像を写すということは、劇場全体がオルゴールの箱になる。

藤本:これが「スピリチュアルポップ」。椿(昇)さんとかも出してたんじゃないかな。京都芸大の人と、山部(泰司)さんがいろいろやっていたので。

池上:ギャラリーとかいろいろ行かれたりするなかで知りあったんですか。

藤本:山部さんとは、「インスタント・アート」のときに初めて知るようになったのかな。

池上:このあたりから現代音楽というものでものなく、美術ともまだ分からない。

藤本:現代音楽っていうジャンルが無くなっちゃった時なんですね、もう新しいやり方が無くなっちゃったし、完全に停滞して興味も無くなったし、それと比例するようにパンクロックとかテクノとか高校生でもみんな好き勝手に音楽をやりだしたんで、それがすごくうらやましかった。でも何やっていいかとか、どういうところでやっていいかとぜんぜん分からなかったんですよ。場所もどういうところでやったらいいか分からないし。レコードのかわりにカセットにして出してくとかやってた人もいたけど。スピーカーの音とか興味なくなってたときだから、レコードを出すとか録音したものなんていうことも、すごく拒否反応がして。それで一体何していいかぜんぜん分からなくて、ほとんど何もしないときだった。でもビデオやったりとか、友達のオープニングのときに適当にやったりとかしてたのがすごくおもしろかったんです。

池上:先生のそのとき興味あったことがフィールド自体がない状態だったんですね。

藤本:もともと憧れで始めた。電子音楽っていうのがあるからまねしてみようとか、小杉武久って言う人がいて、いろんな楽器を使ってフリーでやってるからこれならできそうだなってまねしたり、現代音楽っていうジャンルがあって、そこで何するかとか考えたり。そういうあると思っているフィールドのなかでやるんですけど、なんか違うなと思って。

池上:いわば自分もオーディエンスの一人というところから興味をもって始めていくんですね。

藤本:でもまねと憧れでしかない。そこが自分にとって合ってたらやってたと思うんだけど違和感があって。なんで人前でやらなきゃいけないんだろうかとか、それはやっぱり自分には合っていないなとか、いろんな疑問があるんだけどどうしたらいいか分からなくて。ただ焦ってた感じは全然なかった。むしろカシオとかウォークマンとか出てきてたからやってみるのがおもしろかった。

鷲田:録音にするのか、ライブのようなかたちだけど自分は不在になるべきかというようなことを考えていらした時、展覧会に出していた他のアーティストも似たようなことを考えていたのですか。

藤本:ひとつは「パフォーマンス」と当時は言われていて、どっちかというとパフォーマンスは相当人を驚かすようなこととか、当然人前で身体表現することなんですけど、それが当たり前で、自分でもやってたんだけど、なんか違和感があって。しらけるんですよね、人前にいる時間の間も、ここに僕いなくたっていいんじゃないかとか。実際自分で道具でやっているときは、人に向けてやっているよりも、子供が遊んでるように、この機械をこっちに繋げたらどんな音がするだろうかとか、こっちからこっちへ動かしたら、というよう、半分観客側にいるわけですよね。でも「これから始まります」とかいわれるとその時間はみんなから見つめられているから、精神状態として客観的になりにくい。そのへんがパフォーマンスというのはやりにくいなあと思ってて。かといって、じゃどうやったらいいかというのは分からなかったんです。それで、そのうち「インスタレーション」ていう言葉を見つけたんですよ。「インスタレーション」てどういう意味か分からなくて、辞書を引いたら、「設備・配線・配置」って書いてあったんですよね。「そういうことか、スタジオでダイアグラム描いてることと同じことだな」と思って。機材と機材を繋いで構築すること。これなら自分に合ってるなと思った。「まさにシンセサイザーとアンプとスピーカーを線で繋いで置いてくみたいなこと、これがインスタレーションじゃないかな」と思って。そしたら、人間がいなくてもいけるんじゃないかと。「インスタレーション」て言葉を見つけて、何かできるんじゃないかなというきっかけだった。いつごろだったかはよく覚えてないです。

鷲田:1986年の「箱庭の音楽」の時には「インスタレーション」という言葉ははっきりと意識されてた?

藤本:そうです。この本を東京のワタリのオン・サンデーズでみつけたのが決定的だったんですよ。

鷲田:1980年のカタログですね。

藤本:ドイツで行われていた「目と耳のために」という展覧会のカタログです。全部ドイツ語で、表紙がマン・レイっていうのが気になって。これを見たらシンセサイザーか電子楽器のことが写真でわかるわけですよね。テルミンっていう一番最初の電子楽器とか。写真見るだけでもおもしろかった。ここに小杉さんがでてくるんですよ。それからデュシャンのが載ってたりとか、すごいおもしろそうだなと思って買って。ローリー・アンダーソンとかフルクサス。これはおもしろいと思って、大阪芸大の学生の子と一緒に必死に訳したんです。こっちが推測して、これは何してるとか。ものすごい、いろんな音に関する表現が載っていた。これは小杉さんの《五十四音点在》。人がいなくてもこういうことできるんだと思って、これがそういうきっかけでしたね。未来派から始まる音の表現。これなんか先ほどの僕の作品に結構似てたんですけど、解説読むと、レコードが鳴って、ここから犬の鳴き声が出てるらしいんです。そのレコード盤があって、犬の絵とレコード盤の絵が描いてあって、コピ−ということになると思うんですけど、自分がやっていたこととそんなに違わない人がいるなあ、こういうことやっていてもいいんだ。これで作品をつくれるんじゃないかと思ったんです。これに出会ってなかったらやってなかったかもしれないです。

池上:それからその作品をつくるほうが先だったんですか。

藤本:知りたかったんですね。調べてくってのはすごくおもしろくて。もうひとつここで自動演奏装置の歴史を論文で書いてあるんですけど、そういうなかに奇妙なイラストがあって、それにキルヒャーって書いてあったんです。それから(アタナシウス・)キルヒャー(Athanasius Kircher)を調べてみようとして、いろいろ大学の図書館でキルヒャーの本とかないか調べてもらったら、慶応大学が持っているということで、閲覧とコピーを頼んで、それが昔は好きなだけコピーさせてもらえたんですよ。「Musurgia Universalis」ていう1650年にキルヒャーが出した本のリプリント版なんですけど。全部じゃなくて、一応何ページから何ページまでって。これもラテン語なんで、全く分からないですよ。音楽工学とかやってて良かったと思うんですけど、絵を見るとだいたい解読できるわけです。音の反射とか。数学的なものですから。すごくおもしろくて、一番彼の有名なのが、盗聴器っていう……(笑)。これは中庭で休憩の時間に使用人がいる。悪口言ってないかっていうんで、ここの主人が盗み聞きするための装置。壁に穴があいてて、壁の中をとおって、主人の部屋に繋がってる。ここでおもしろいのは、ただ聞くだけじゃなくて、彫像の口に繋がっている、それがいかにも話しているように。すごくおもしろいこと考えてたんですよね。これも楕円の焦点で反射したっていう。実際につくったって書いてあるんですけど。これで、はっと思ったのは、電気使わなくていいんだって。テクノロジーじゃないか。こんな簡単なことでこんな装置がつくれるんだ。建物と建物の間にパイプをつなげれば話ができる。こんな簡単なことでいいのかっていうことだったんです。

池上:要は、ファンクションっていうことですよね。

藤本:そうです。電子音楽は新しいもんだって思ってたんですけど、ファンクションで考えたら新しいテクノロジー使わなくても同じことができる。しかも何百年前にこんな発想してる人がいたっていうのがすごくおもしろくて、それからキルヒャーの本はなんかないかと思って。(本を見せながら)紀伊国屋で外国の本のコーナーを探してたら、ドイツ語訳のリプリント版が出てた。「Neue Hall und Thon Kunst」。「Thon Kunst」って「サウンド・アート」なんですよね。「新しい響きと音の技術」ということなんですよ。音響学の本なんで。「Phonorgia Nova」という本の1670年くらいのドイツ語訳の本が出たということなんです。ドイツ語でもさっぱり分からなくて、ドイツ語の先生に聞いたら、ドイツ語でも古語に相当するからよく分からんて言われて。音響学の本なんですよ。昔は音響学も音楽も一緒で。

池上:だんだん応用編になってますね。

藤本:マニエリスムの人だから、最初は分析するんですけど、途中でアイディアが沸いてきちゃって。とんでもないアイディアを妄想でやってくんですよね。このキルヒャーが有名なのは、マジックランタンっていう、幻灯機を一番最初に紹介した人で、光学の本の方が有名なんですよね。

池上:システムとしては一緒ですよね。

藤本:でもキルヒャーの理論はほとんどでたらめだったということで、この人はぜんぜん評価されなくなっちゃったんですよ。近代科学のシステムからみたら、完全に妄想が入ってたから、これもねじったほうが音がよく届くだろうとか勝手に考えるんですよ。これはどうも三半規管がねじられてることから理論をだしていったみたいですね。別に科学的なことでいうと、何の意味もないんだけど、アートとしてみたらすごくおもしろいんじゃないだろうかと思って。これはエオリアンハープっていう、単に箱に弦が張ってあるだけなんですけど、風が吹いて妙なる響きを流すっていう楽器で、これを調べたときに、こんなんで鳴るわけないけどやってみようっていうんで、大学でギターを外の枝に吊るしてやってみたんですけど、ぜんぜん鳴らない。そういう想像力がいっぱい出てきたんで、ほんとこの本が決定的でしたね。それで、キルヒャーが自動演奏装置の研究をずっとやっているんです。カリオンから始まって、機械でどうやって音を出してくかっていう。そのなかで、オルゴールに興味を持ち出したのも、キルヒャーがきっかけだった。

池上:オルゴールは歴史的なところから研究されたんですね。

藤本:この中で自動演奏装置の歴史ということで、要はこれがオルゴールになってくわけですよね。

池上:そもそもオルゴールとは何かという自動演奏装置の歴史から興味を持たれたわけですね。実際のオルゴールを集めて研究されたりとかはあったんですか。

藤本:それまでもオルゴール使ってたんですけど、そのときは音源の一個としてしか見てなかったです。オルゴールってメカ自身がすごくおもしろい。宗教と絡んできている。世界の創世とか、ピタゴラスの鍛冶屋の場面を自動装置として一緒に鳴らすとか、ミューズの神がいたりとか。オブジェとしてのひとつの考えを表現してる。これがいわゆる自動、オートマタっていう形になってくんですね。今のロボットみたいな。それで19世紀になって本格的な機械が音楽を演奏する装置ってことで生まれてきて盛り上がったんですけど、20世紀になってレコードが出てきたために自動演奏装置として意味がなくなってきた。最盛期はわずか何十年もなかった。本物の音を聴きたいなと思って、東京の早稲田の近くに、個人の人がコレクションしてつくった「オルゴールの小さな博物館」が今でもあるんですけど、そこがあるというのを知って、初めて19世紀のオルゴールを聴きに行ったんですよ。博物館っていっても勝手に見るんではなくてツアーなんですよ。そうすると、そのときに10人とか20人とかを博物館の学芸員の人が一台一台を解説しながら。音を鳴らさないと意味がないから。一つ一つ移動しながら巻いて音を鳴らしながら。その音があまりにすごいのでびっくりして。おもちゃとしてしか見てなかったんですけど、とんでもないちゃんとした音でびっくりした。そうすると、一台終わると次のところに案内されて、次を鳴らしてくれる。それでおもしろかったのは、一つ一つの作品が別の場所にあって、ちゃんとものとしてあって、そこでひとつ体験したら、次のを体験する。そこには人間だれもいない。ものがあるだけで音楽が体験できるっていうんで、半ば自分にとって理想的な環境だったと思って。自分も観客になれるし、ちゃんとした音が出せる。それじゃオルゴールを使ってなんかできないかなと思った。東京の博物館で実際に体験して。

池上:展示として音を体験するわけですよね。

藤本:眺めるだけでもおもしろいんですけど、実際に音を聞くとぜんぜん違うんですよ。みすぼらしい箱のオルゴールがすごくいい音をしたり。ものすごい装飾的な大きなやつがそれほどでもない音だったりとか。見て、まさに「目と耳のため」ですけど、見ることと聴くことの両方絡みあっているおもしろさですね。それで前々からこのいわゆるおもちゃのオルゴールは家に持ってたんで、なんかできないかなって思って始めてみました。大きな箱にくっつけたら大きな音がするんだって分かったんで、なんかにくっつけてみようと思って、東急ハンズでバーゲンで売ってた大工道具の箱があったんですよね。木製の。それは安くて、500円かなんかで売ってたんで、工具箱にして使おうと思って置いてたやつで。その箱にくっつけてみたらでかい箱だから良い音するんじゃないかと思って、実際くっつけてみたらすごい大きな音がして。おもちゃと思ってたけどばかにできないなって。

池上:(写真を示しながら)こちらの作品ですね。パタンと閉じて持って移動された。

鷲田:1986年ですね。

藤本:実際はその前の年につくってたかもしれないです。つくったときは人に見せることは考えてなかった。自分で大きな音がするって驚いて、おもしろくてこれでなんかつくれるんだって分かったんですけど、自分の作品をつくる方法が分からなくて、そのまま回すと他人がつくった曲が流れるだけなんで、どうしたらいいかと。そのとき思ったのは完成してるんだったら、未完成にしたらいいんだって音数を減らしたらいいかと。そのときデュシャンのメモとかああいうのを読んでいた経験が活かされて、もう一回分割して、もう一回あわせたらどうなるかとか、一曲同じ曲のオルゴールを4、5本だけ鳴るようにして、違う音が鳴るようにして、4つで1曲分がなるようにしたら、曲がばらける。即興みたな音になっておもしろくなったんですよね。

鷲田:もしタイミングが合えば、曲が再現されるという。

藤本:そう。でたらめではないけど、毎回違うということは一応即興なんですけど、即興も自分の意志でやるのではなく偶然任せにできて、しかも自分が作った作品を眺められるというそれがすごくおもしろかった。眺めているのはなんかおもしろいなあと思って。《箱庭の音楽》ってタイトルつけたんですけど、箱庭みたいだなと思って。自分が神様になったみたいに自分がつくった世界を眺めてるようで。それもキルヒャーの影響だったと思うんですけど。世界をつくるっていう。こうやってつくったらひとつのユニバースがつくれるっていう。おもしろくてつくっていたんですけど、つくっても家に置いてただけで、友達が泊まりに来たときに最近こういうのをつくったんだけど、て見せてただけんですよ。そしたらふーんと言って、話してて。

鷲田:それを1986年の展覧会の時に出されたということですよね。

藤本:オルゴールの博物館とか行って、なんかこんなことやってる人いないかなあと思って、探してたんですよね。そしたら、誰かから、今大阪のノースフォートっていうギャラリー(NORTH FORT大阪市北区本庄西)で音の出る作品の展覧会をやってるよって教えてもらって、そこのギャラリーを見に行ったんですよね、初めて。そしたら、いわゆる音の出る彫刻、楽器のような彫刻のような作品がごろんごろんとしてて。するとギャラリーの人がいろいろ話をしてくれて。そのときに、実は音楽をやっていて、今こういう音の出るオブジェに興味があって、いろいろ見てるんですって話したんですよ。そうしたら、しばらくしてから電話がかかってきて、それはその前の年の秋だったと思うんですけど、「年明けにここで音をテーマに展覧会をやろうと思ってて、そのなかでひとつやりませんか」って言われたんです。いわゆる音の展覧会といっても、会場にいって音をテープで流すというようなことを予想してたと思うんですけど。僕もギャラリーっていうのは初めてで、考えてもいなかったんで「やります」って言いました。テープで流すなんてことは一切やる気もなくて、ギャラリーで絵や彫刻を見るようにできないかと考えた。オルゴールてそういう感じだなと思って、つくったやつがあのまま流れれば普通に展覧会できるから、オルゴールを並べようと考えたんです。それで、さっき話したのと同じ方法で、曲を変えて分割を3つにしたり2つにしたりしてやってみた。そのギャラリーのためになんかつくろうと思って、壁に18個の作品をこの個展のためにつくったんです。これはそのときのギャラリーの。(写真を取り出す)

池上:当時の写真ですね。

藤本:18個っていうのはオルゴールの歯が18本でできてるんで、それを単位にするんです。この箱だとオルゴールを詰めても限りがあるんで、極端なのをやってみました。18本でオルゴールできてるから、1本しか鳴らないようにしてやればいいかと思って。展覧会のためだからということで、一個の音、一個の箱で一音ずつ鳴って、18個の箱が重なる。このときはこっちがだいたい同じ曲とか、あと3曲とかいろいろやったんですけど、これは18曲全部変えたんですよ。ずべて違う曲の一音なんです。左から低い音から高い音。

池上:こっちの大工道具箱の作品の方は、音を分割するときになんかルールっていうのはあったんでしょうか。

藤本:あんまり決めてなかったですね。

池上:4つか5つか何音かずつで、コードになってたりとか、そういうことはあったんですか。

藤本:いろいろやってみたんですよ。3つに分けるときは、最初は低い音から、6音毎に。順番に分けたのもあれば、一番典型的なのが、2つに分けるときに互い違いを取って、奇数番目と偶数番目。

池上:いわゆる和音的な感じとも違うんですね。

藤本:違うんですよ。オルゴールの歯って音階に相当するんですけど、一曲一曲全部違うんです。ピアノの鍵盤みたいになってなくて結局全部使うから、使わない音があるともったいないから、曲にあわせて音階が全部違うんです。それで最初どの音を使うかっていうんで一個一個採譜してたんですよ、聞いて。で、最初ちょっとこの音とこの音がいいなってやってみたんですけど、自分でフレーズを取り出したのを並べてきいてみると、互い違いとかルールで勝手に決めて、音を聞かずにやったときに比べると不自然にきこえたんですよ。作為的なフレーズが聞こえてきたり。それよりも低い音9音、高い音9音とルールを決めて分けたほうが自然に聞こえてくるんですよ。「変だな、これ聞かないでつくったほうがいいんだ」って思って。それから音を決めるときは、このときからそうですけど、一切音を聞かないで、ルールだけ決めて。そしたら、そっちのほうがずっと自然に聞こえてくるってことが分かったんです。

池上:曲が何の曲であるかは関係なく?

藤本:あまりこだわらなかったですね。

鷲田:このとき展覧会は1月20日から2月1日までとなっていますが、そのうちの1日、1月25日に2時間、「サウンド・パーティ」というのをやってますね。これはライブのようなことをされたというよりは。

藤本:いや、やったんですよ。そのときが《テーブル・ミュージック》っていう、ストロボでパシパシっとするのをやったんです。

池上:(写真を見ながら)この目の前に立っているのがストロボ?

藤本:そこにトランジスタラジオを置いていくんです。閃光と同時にノイズがバシっと出て。そのストロボフラッシュの発光の同期も約1秒ずつくらいなんだけどリズムがずれていくんで、それと同期してノイズがパパパパっとなる。演奏するというよりも配置していくだけなんですよね。

鷲田:ラジオとフラッシュの関係はどうなっているんですか。

藤本:要はストロボのフラッシュっていうのは電気をためていきなり放電するんです。そうすると放電する瞬間に電波妨害が起きる。ラジオが影響をうけてノイズが発生するんです。近くにあると。そうするとそこで光と音の同期が生まれるんですけど、フラッシュライトが光った瞬間にラジオからパシっていうノイズが発生するんです。

鷲田:ラジオは一つで、ラジオはラジオの音を流している状態で?

藤本:ラジオは流す場合もあるんですけど、だいたい曲と曲の間にして、そのままではほとんど鳴らないようにしておいて、ストロボを空間に置いていって、近くにラジオを置いていくと、距離によるんですけど、反応して。

鷲田:じゃあ、ラジオもいくつか置いたんですね。

藤本:十いくつか。それをどんどん増やすと音が増えてく。光も増えていって。だから始まりはライト一個から増えていって、最後に無くなる。起承転結があるんですけど。

池上:終わるときというのはどんどん減らしていく?

藤本:そうです。減らすってのはどういうことかっていうと、8台とか光がパパパと光る。今度は光を一個ずつストップしてくと、光が少なくなると同時に音も減ってくんで、両方フェードアウト。

鷲田:ストロボとラジオの作品を《テーブル・ミュージック》と名付けられたんですか?

藤本:このときはギャラリーにあった展示用の台かなんかを並べてその上に置いたんです。スライドで、「it is knowing」って、ビートルズの《tomorrow never knows》て曲の歌詞を一節ずつスライドにしてつくってたんで。流しながら。

池上:ビジュアルでもそういうことばが変わっていくという。タイマーですかね。

藤本:いやだれかにやってもらっていた、そんな複雑なことは。

池上:アートスペースの方は嶋本昭三さんと二人展みたいな感じなんですか。

藤本:この日がそうです。展覧会はどうですかって言われたんですよ。嶋本さんがこの当時頭をそって、自分の頭でメールアートをコピーしたのを世界中に送って、とかいうのをやっていたときで、パフォーマンスやる日で、ひとつは嶋本さんが立って、そこに投影してたんじゃないかな。

池上:これは後ろ向きですね。

藤本:そう、後頭部に。

池上:アートスペースで展覧会をされるきっかけというのは。

藤本:アートスペースで助手をしてた人だったのかな。ノースフォートってアートスペースが関係あったみたいなんですけど。

池上:楠本さんという方は?

藤本:ノースフォートの人で元々嶋本さんとこに出入りしてた人なんじゃないかな。たまたまアートスペースで嶋本さんの助手みたいなのをしてた人が、僕のを見て、おもしろいと思って、嶋本さんに話したのかな。嶋本さんもとりあえず人がやっていないことをやっている人はOKっていう人だったんで、まったくぜんぜんまわりと違うことをやってたんで、アートスペースでどうだということになったと思うんです。それで展覧会ってことになったら、やります、という感じで。

鷲田:このときも《テーブル・ミュージック》をされたんですか。

藤本:はい。この展覧会をするためにつくったのが《テーブル・ミュージック》という作品なんですよ。

鷲田:《テーブル・ミュージック》という作品に2種類あって。

池上:パフォーマンスの作品とオブジェクトの作品と両方あるんです。

藤本:ノースフォートでは壁に18個つけたんで、アートスペースではどうしようかなと思った時に、壁につけると取り外ししなきゃいけないから、持ち運びできるようにできないかと思って、それで18個で同じ方法でできないかというときにテーブルにしたらいいかなと思ってつくったんですよね。

鷲田:これは展示中にずっと置いてあったんですか。

藤本:このときには、先ほどのパフォーマンスをこのテーブルの上でやったんですよ。《テーブル・ミュージック》ってその後名前をつける必要が出てきたときに作品の名前をつけたんです。

鷲田:壁に《テーブル・ミュージック》ってタイトルが出てますね。

藤本:テーブルをつくって展示したときは出来上がってすぐだったんで、ニスを厚塗りしたんですよね。あんまり乾いてなかった。その上でパシパシパシってパフォーマンスをして。クライマックスのところで金粉を降り注いだんですよ。そうすると、金粉が暗闇のなかで光りながら舞い降りて終わる。きれいだったんですけど、終わったら金粉はニスにくっついちゃって、それで残ってるんです。

池上:そういうことですか。

藤本:作品としてそうやったわけじゃなくて、パフォーマンスとしての残骸。それが異様にきれいになっちゃって。

池上:いまでも残ってますよね。

藤本:テーブルにしたのは自分で家で使おうと思ってたんですよ。ねじをとれば普通にテーブルに使えるんで。これだったら邪魔にならないし、自分で好きなようにつくろうと思って、ちょっとチェス盤風にしようか思ったら、凝りだしちゃって。ワイヤーの溝を掘って埋めてとか、ステインで色を変えて市松にしたりとか。

池上:下の足も折りたたみですね。

藤本:そう、折りたたみなんです。このときだけ一番力を入れたんです。

池上:それは机として使おうと思ってたから?

藤本:そう、そしたらみんなにほめられて。「よくできてるな」って、テーブルをほめられたんですよね(笑)。違うんだ、って思って。

池上:むしろこっちのファンクションですね。「分離と結合」という。

藤本:そうです。対になってて、「COSMOS CHAOS」とか、「SEPARATIO CONJUNCTIO」とか横にキーワードの言葉とかをスタンプで金文字で入れたりとか。自分のなかではかなりキルヒャー的なもう少し大きな世界を目指してつくったら、工芸的なみられ方をして。なんかこの時つくりすぎるのはいけないんだと自分自身で思った。このときはピークでしたね、ものをつくろうと思ったのは。

池上:このときは同じ曲を一音ずつですよね?

藤本:そうです、《枯れ葉》という曲。

池上:これも高いほう、低いほうっていうのは?

藤本:どこかから順番に並んでるんです。

鷲田:この展覧会のときはこの作品だけを出されたんですか?二つ?

藤本:アクリルのキューブで。

池上:6面にオルゴール。

藤本:(写真を見ながら)下のこれは響板なんですけど、これはつけてなかったですね。

池上:あ、キューブだけだったんですか。これも18音を3つずつとか。

藤本:これはさいころで1の向かい側が6、2の向かい側が5というように、さいころの目と同じように、オルゴールの歯の数をそれに合わせたんです。

池上:1音から6音まで?

藤本:それでDICEのDを最後にもっていくとICEDとなるってことで、タイトルを「凍ったさいころ」ってして、あとでジョージ・ブレクトっていう、フルクサスの人に《ICED DICE》ってのがあってびっくりしたんです。まねしたんだろなって思われると思った。

鷲田:このときは嶋本さんの作品と一緒にやったんですか。

藤本:いや、僕の個展ということで、嶋本さんがパフォーマンスのときに出たんです。

池上:先生の個展は21日から26日に。ということは、初日と二日目だけコラボレーションということですね。

藤本:嶋本さんも、ほかの人とぜんぜん違うことをしてるということで、受け入れてくれたというか。嶋本さんがAUという「アーティスト・ユニオン」というグループを率いてて、毎年、東京都美術館で「AU展」というのをやってたんですね。それで出ないかって言われて。展覧会のときに東京都美術館の会場のフロアに等間隔でストロボを並べてくんですよね。そうするとパッパッパッっと光って、そこにラジオを置いて、それをまたどんどん片付けていく、パフォーマンスとしてこういうやって。人が見ても冷静になれるというか、田植えみたいなものですから、作業をしていくと場が変わっていって、かつ見る人も僕が何かを演奏していると思わないわけですよね。作業している人みたいに。何が起きているんだというふうに見ている。それがやりやすくなった。

鷲田:(写真を見ながら)これは映像で記録したものを?

藤本:テレビ画面で撮ってたもの。ぜんぜん自分では撮ってなかったと思うんで。

池上:こういう感じで、嶋本さんも具体の方という意識ではなくて?

藤本:そうですね。他のところからは一切。ノースフォートで3回やってるんです。毎年。ノースフォートはまたという感じで2回目3回目とやったけど、他のところからはぜんぜん反応もなかったし、こちらから売り込むとかやりたい気持ちもなかった。唯一嶋本さんのところはおもしろいからうちでやらないかと誘われたんです。

鷲田:チラシが「ワークショップ」となっているのは、観客の人が参加したんですか。

藤本:「ワークショップ」という名前をつけただけですね。3人で音を出したということくらいです。

鷲田:これはどういった内容だったんですか。

藤本:それぞれがそれぞれの音を出してという感じですね。同時に、セッションみたいな感じだったと思います。

池上:ノースフォート、アートスペースの関係でされていって、89年に児玉画廊という江戸堀にあった画廊で、そこではコンスタントに個展をされてましたね。

藤本:児玉画廊でやるきっかけも、加藤義夫さんっていう、そこのディレクターをしていた人が、もともとアートスペースで働いてた。アートスペースにいたときにこの展覧会があって、そこで加藤さんが僕の作品を見たんです。それでTABLE MUSICの作品を気に入ってというのがきっかけで。おもしろいのが、この作品を加藤さんが気に入って、「これって買えるのかな」と思ったらしくて、もう一人のアートスペースの関係者に聞いたみたいですね。その人から電話があったんですよ。僕の作品は売ってるのかなというような話だったんで。ノースフォートで最初のときから値段は出していたんで、「僕の作品は3万円からです」って言ったんです。それが加藤さんに伝えるときに間違っちゃって、間に入った人が僕の作品は「すべて3万円なんだって」って、伝えちゃった。加藤さんは「これも3万円か」って、びっくりしたらしく、「それなら買う」っていって。それで電話かかってきて、「3万円で買い手がつきました」って言われてぼくびっくりして。でも3万円で売ったんです。加藤さんは3万円で買ったことを気にしてたみたい。そのあとで加藤さんが児玉画廊にいってから、3万円で買ったのは悪いから、その分のお返しも兼ねて、児玉画廊で展覧会をやってくれた。それが89年。

池上:それからはいわゆるアートギャラリーみたいなところで、コンスタントに展覧会を?

藤本:でも基本的には児玉画廊ですね。

鷲田:その前にニューヨークで展覧会をしてますよね。

藤本:それは嶋本さんのところがニューヨークにギャラリーを持ってたんですよね。

鷲田:オープンハウスギャラリーですか。

藤本:そう、結構AUの人たちを送り込んだりしてて、僕の前は小杉さんがやったんだったかな。それで僕にもニューヨークでやらないかって。

池上:そのときはどういう作品だったんですか。

藤本:いわゆる《HORIZONTAL MUSIC》とか。だいたいこのノースフォートでやったのと、アートスペースでやったのを並べた。

池上:このときは展示に行かれたんですか。

藤本:はい。

鷲田:飛行場かなんかの通関のときの取調べで・・・。

藤本:はい、このときです。これを送るときは「材料」とかで送ったんだけれど、これが終わってから送り返すときに、向こうで「アート作品」かなんかって書いてきたんで、税関でチェックが入っちゃったらしくて。一括して送るときは、素材だから。向こうの美術品かなんかで来たんで、「中身は何だ」ってことになって、どこかでストップしちゃったんですね。そのために一個一個全部チェックして、僕は全然立ちあってないんですけど。そのためにストップして、結局もう一回通してそこで正式に許可が出て、戻ってきて。そのときの税関に出す書類が、一点一点全部イラストが描いてあって、寸法も描いてあって、おもしろいイラストだったんです。それだけならおもしろいんですけど、「まわすと音が出る」とか、「ここに入れると音がする」とか、「音楽にはなっていない」とか、そういうことが描いてあって(笑)。「ソノシート状だけど音は出ない」とか書いてあって。

池上:「アート作品でした」というはんこで通ってきたわけですね。

藤本:美術品とかすると税金が違っちゃうんじゃ。アートスペースとしては余計なことしてくれたみたいな。「材料」とかなんとかで返してくれたらいいのに、ということだったと思うんですけど。

池上:それでとりあえず通って帰ってきたということですね。このあたりですと、栃木県立美術館、89年に、「音のある美術」、あれは山本和弘さん?

藤本:じゃなくて杉村・・・。

池上:杉村浩哉さん、この方がキュレーターで音の出る作品を集めた展覧会をされたんですね。

藤本:おそらく日本で初めてだったと思います。

池上:小杉さんも入ってますね。

藤本:これはなんで僕が選ばれたかっていうと、児玉画廊のときにカタログをつくって全国の美術館に送るわけですよね。それで見て、コンタクトしてきたんです。

池上:美術館の展覧会に出された最初ですね。

藤本:でもこのときは作品を集荷にきて。展示は当然美術館の方でしたんですよね。そういうもんだと思ってて。展覧会が始まって見に行って、あるひとつのブースのなかに展示してあったんですけど、びっくりしたのはぜんぜん自分の作品に見えなかったんですよ。展示によって作品が変わるんだなと思ったんです。

池上:そのときはどういう展示だったんですか?

藤本:等間隔な感じで。

池上:ばらばらっとおいて。お客さんが触っていい作品だったんですか。

藤本:はい。このときに僕のは大丈夫だったんだけど、ほかのは結構壊れたらしいですよ。触れるとなったらみんなものすごいことになって。会場は音だらけだったんですけど。大変なことになって。

池上:そのときの美術館の印象というか、展覧会に対する印象というのはあまり・・・。

藤本:あんまりなかったですね。僕はオルゴールだから音が小さいんです。そこに展示している空間にいても、ほかのところの音が聞こえてくるわけです。そうすると音の場合は、スペースだけ割っても意味がない。人のところにどんどん飛び越えていっちゃって。むしろ美術館というのは無理なのかなと思ったかもしれないですね。

池上:展示をするのには向かないということですね。それよりはギャラリーのようにスペースが確保できるほうがいいんですね。

藤本:そうですね、僕の作品はギャラリーは大きさ的にいいと思ってたんで、いきなり美術館で同じ物があると違和感があった。というか、こういうことを考えなきゃいけないんだということも思いました。音は暴力だなと。

池上:そのころ方々の美術館に出品されるのが90年代に入ってから?

鷲田:このころ大学は?

藤本:ちょうど89年にやめたんです。

鷲田:やめられたきっかけはあったんですか。

藤本:シンセサイザーとか興味なくしていて、80年代になってるんですけど、学校では教えなきゃいけない。そういうのが耐えられなくなっていたというのもひとつあったんですよ。それで86年くらいから、こういうアコースティックなことをやると、学校ではまさにコンピューターとかデジタルの方に進んでるわけで、そのアンバランスがあった。僕70年代はアナログでずっとやってたんで、デジタルのほうをやろうと思っても、学生のほうが早いんですよね、のみこみも。もう完全に遅れてるなというのと、そういうのがひとつあったのと、上の教授の立場が変わって、派閥的なもので僕自身も居づらくなって、ちょうどいい機会かなと。まだそのころは、80年代は、アートよりもデザインというのを考えていて、音のデザインっていうのはいろいろできるんじゃないかなと思ってた。ドアのチャイムとかそういう音をつくるとか。少しずつ企業とも関わってたこともあったんで、ちょうど花博があったころなので、こういうのでもひょっとしたらやれるかもと思ってた時期でもあったんで。それで決めちゃった、バブル真っ盛りのころ。やめてからバブルが終わると思ってなかったんで、わりとイージーな感じでやめたんです。

鷲田:博覧会での音のデザインを仕事として受けられていたんですか。

藤本:花博は直接関係しなかったんですけど、その前に今でも流れている大阪市の地下鉄の、列車警告音のデザインに関わったんですよね。大阪市の人から連絡があって、仕事として、基本コンセプトをつくるという仕事。その次は花博のために、京橋から鶴見緑地まで新しい地下鉄の線のための、音のデザイン。最初の計画では、各駅をトータルにデザインし、かつ全部違う音をつくるということだった。当時はサウンドスケープデザインが盛り上がってた時期なんです。

鷲田:地下鉄の仕事が一番最初ですか。

藤本:あと、その頃だったんですけど、都市計画みたいなことで、そういう場所に音をということとか、いくつかあった気がするんですよね。

鷲田:大学で教えられている頃に平行して、そういうこともされていたんですね。その後、大学を辞められてから美術館で発表されている頃にも、続けてそういうこともされてたんですか。

藤本:ええ、やってたんです。89年にやめたから、90年くらいから徐々にバブルが終わり、そういう音のデザインみたいな領域も、結局みんな考えたけど難しいなとだんだんとしぼんでいったんです。だからそんなに仕事としてはなかったような気がします。

池上:そのころ常勤で別の仕事とかはされてたんですか。

藤本:非常勤で京都芸術短大とか。それと、積水ハウスがどこかのまちづくりの仕事で、コンセプトプランのなかの音の計画とか、音のモニュメントのコンペのプランをつくったりとか、そういうのをやっていました。

鷲田:1986年くらいから展示という形式で発表され出してからもライブでパフォーマンスは続けられてたんでしょうか。

藤本:パフォーマンスやるのはライブというよりも展覧会にひっかけてとか、そういうかたちですね。

池上:オープンニングのときにされたりすることが多かったんですよね。

鷲田:86年、アートスペース、ファイナルフェアでパフォーマンスをされている。「ファイナル」というのはこのときがアートスペースの最後のイベントだったんですか?

藤本:それは86年の年末ということです。

鷲田:アートスペース自体はいつごろまで?

藤本:今でもありますね。89年に児玉画廊で展覧会をやったんですけど、86年だったかな。児玉画廊でパフォーマンスしてたんですよね。これがさっき言った『ロック・マガジン』。80年ごろ『ロック・マガジン』で付録だしたりしてたんですけど、興味なくして86年からオルゴールでこういう作品をしだしたら、阿木譲から連絡が来たんです。彼もアートとなんとかって考えてたみたいで、こういう画廊を使って音楽とアートのイベントを考えてた。そこでパフォーマンスしてくれないかって言われた。

鷲田:(チラシを見ながら)パフォーマンス《TABLE MUSIC》ですね。10月12日。これは「Les Bois」っていうアートスペース?

池上:ここはもともと児玉画廊の前身ですね。

藤本:そうです。貸し画廊みたいな形でやっていて、そのあと画廊になるということで加藤さんが入ってきて「児玉画廊」という名前になったんですけど。

鷲田:これが1986年ですね。ほかの方とも一緒にされてたんですか。

藤本:児玉画廊の奥の部屋でやったと思うんですけど、いわゆるライブと同じで順番に。僕もその中でストロボでパシパシパシとやったんです。そのとき作品を展示したのは(写真を示しながら)これ。

池上:手前のギャラリーの方は絵とかいろいろ。

鷲田:これはどういった作品なんでしょうか。

藤本:《ET ROSE》と《ET EROS》ていう、視覚と聴覚です。こっちがオルゴールが二つ入って、さっき言った、一曲を二つに分けたやつなんです。もう一つがステレオスコープで、ストロボで発光したときだけ見えるようにして、左目と右目で見るものが分断してというやり方。コンセプトは同じで。

池上;こういうのを展示しながらパフォーマンスもされてたんですね。

鷲田:レ・ボワと阿木譲さんも近かったんですか。

藤本:いや、ただこの時はイベントスペースとして使ったと思うんですけど。

鷲田:『ロック・マガジン』のほうが主導して場所を借りてという?

藤本:そうだと思います。

池上:次に90年代です。栃木のあとが福岡市美術館で「流動する美術」、そのあと水戸芸、それから徳島、東京都写真美術館、兵庫県立近代美術館、この辺から、毎年美術館で・・・

藤本:きっかけはこれ(栃木県立美術館の展覧会)だったのかもしれないですね。各美術館が音って言うと僕に声がかかって。もうひとつは子ども向けというときには呼ばれました。休みの日に音だと子どもが喜ぶんじゃないかというのがきっとあると思うんですよね。

池上:それで、夏休みとかにこういうのを出してみませんかというようにですか。

藤本:現代美術に親しませるにはと考えたときによかったんでしょうね。

池上:ワークショップとかも流行り始めた時期ですね。

鷲田:夏原晃子さんの展覧会のときにパフォーマンスをされたときは、ぜんぜん違うタイプのものをされたんですよね。

藤本:夏原さんともアートスペースの関係で知り合ったんじゃないかな。夏原さんはABCギャラリーでアクリルの作品で個展をするんでパフォーマンスをしてくれないかと言われた。

鷲田:1990年、水を使ったものですね。

藤本:下にあるのは夏原さんの作品なんですよ。作品の上に立って水をコップからコップに移す、水が落下するというパフォーマンスしたんです。最初は普通のコップが二つあって、空っぽのコップを床において、もうひとつのコップには水がいっぱい入ってて、自分が腕を伸ばした高さからコップに注ぐんです。それが終わったら次に少し大きいコップでやって、それを何段階かやるうちに、カップの大きさが大きくなっていって、どんどん水量が変わっていって、最後のほうになると、滝のように勢いがついてカーブを描いていくんで、ほとんど入らないんです。その音を録音していて、やり方は同じなんですけど、一回一回録音した音を、ループで会場に流して音が重なっていく。

鷲田:水量が少ない時に録音した音が、水量が多くなった時に同時に重なって流れているということですか。

藤本:はい、前の音がテープで流れている間に次の水が流れて、それをまた録音してますからどんどん重なっていく。基本的にはやっていることは変わらないと思うんですよね。

池上:何を使うかというのがいろいろ変わっているんですね。

藤本:あと空間でどう見せるかってのは、ギャラリーとかだとどうやったらいいかというのは変わっていったと思うんです。

鷲田:これはリアルタイムで録音してすぐに流していたんですか。

藤本:はい、あらかじめ録音していたものは一切ありません。

鷲田:水を使われたのはこれが初めてですか。

藤本:これはもともと作品としてやったと思うんですけど。だいぶ初期のころです。それこそアートスペースでやった展覧会に出した、《MAGICAL SIMULATION》ていう。87年の嶋本さんのライブのときですね。そのとき《HERMETIC SCALE》という名を初めてつけた。写真がこれなんですけど、実は。棚に、普通のガラスのコップが並んでるんです。そこに水が入ってるんですけど、だんだん水の量が少なくなっていく。どうしてかというと、上にそれをやったときのポラロイド写真が貼ってあって、最初は床において、ひざまづいて、すぐ近い距離から水を移す。その行為をだんだん高くしてくんです。最終的には、体を伸ばして移す。そうするとはねかえったり外れたりして、水の量がだんだん高さとともに減っていって、いわゆる音階のようにスケールができる。同じ行為を高さを変えただけでやっていってできたスケール。これでまず作品にしたんです。

鷲田:展示として水そのものと写真を並べたということですね。

藤本:それを次にパフォーマンスでやるようになったんですね。パフォーマンスとして初めにやったのが児玉画廊の個展のオープニングのとき。作品とパフォーマンスは大体連動してるんじゃないかな。

池上:《HERMETIC SCALE》という名前のオブジェクトも作られてますね。

藤本:それはその後。

鷲田:直径の違うお皿の上にオルゴールを載せてますね。

藤本:ある規則を決めてそれに従うことによってできるスケールという意味なんです。この場合はお皿にオルゴールを載せるけど、規則は直径を変えていく。このころほとんど実験みたいな感じでやっていた。作品としてフィックスさせることまで考えてなかったんじゃないかな。ほとんどの人がそれを見てもきょとんとしてる感じでした。

池上:このあたりの作品で代表作なのは耳の作品ですね。

藤本:耳の作品は、最初はノースフォートで4人展とかを・・・。

池上:90年ですね。ギャラリービュウ?

藤本:じゃなくてノースフォート。グループ展です。ここに作品を出してくれって言われてて。

池上:ありました。「形、音楽、筆」展、89年7月ですかね。このときは椅子がないですか。

藤本:ないです。人が入るとTの字になるんで、初めてこれを作品として出したんです。つなげると「TEARS」になる。

池上:このあと椅子が付いてくるわけですね。

藤本:誰もここに入ってくれなかったんですよ、見るだけで。大失敗だったんです。

池上:これは今までのオルゴールの作品と違うアプローチですよね。

藤本:そんなに変える気はなかったんですけど、雨どいのパイプがすごい音がするってのは知っていた。録音のときにパイプにマイクを突っ込んで録音したことがあって、それを聞いてみたらすごい音がしてびっくりした。実際パイプに耳を当てたらすごい波のような音がしてたっていう体験があったんで、このときはグループ展だったんで気楽にオルゴールじゃなくて新しいことやってみたいなと思ってやったのかもしれないです。こういうのはどうかなと思い浮かんだのを実際にやってみたんですけど。このときも完全に反応が一切なくて、誰も体験してくれないし、説明したら今度は耳が届かないとか言われて、背の低い人は一切届かないし、これは無理かってのが分かって。その次の年にギャラリービュウだったかな。そのときに椅子を置いてやれば高さを調節できるんじゃないかと思って、自分ではリベンジのつもりでやった。前の時と同じパイプなんですよね。そしたら椅子を一個置いただけで座ってくれるようになったのがおかしくて。体験してくれる。この時くらいから展示ってのは大事だなと分かったんですよね。ビュウのときは、すごい小さいギャラリーだったんです。(インタビューを行った部屋を指して)この正方形くらい、5m四方もなかったのでは。部屋の機能でやろうと思って。これはバウハウスの誰か。かっこいいなと思いながら。こういうのも、もともとはダイアグラムの発想なんですよね。ここからどう生まれてくかということで。つくっていく段階でいろいろ考えていって、前ノースフォートで背の低い人が体験できないとかあったから、背の大きい小さいってのも関わるんじゃないかなと、極端に大きい人とか小さい人とかも違う世界にいるんじゃないかと思って。(冊子を見ながら)一センチ違えば違う世界、ガリバーの旅行記とか。もうひとつがレコードということを考えてて、薄っぺらい、レコードのなかに世界がある、ラピュータっていうのは、円盤状の島ってことですごい似てるなと思って。ロバート・フラッドというキルヒャーと同じ頃の人たちの宇宙観とかが、まさにレコードなんですよね。レコードは二次元。立体的な世界に住んでるのと、二次元とではどう違うかとか。これがアボットていう19世紀の人。二次元の国の物語(『二次元の世界―平面の国の不思議な物語』)って書いたのが出てくる。デュシャンがこの本を読んで興味を持ったという。もうひとつはレコードに溝が刻んであるということで。ガリバー旅行記のなかにでてくるんですけど、回転して文字を組み合わせるという。カフカの「処刑機械」ていうのは体に全部刻み込んでくレコーディング。今度は「聞く」ということで、これは大江健三郎が耳に手をあてている写真。何かの雑誌に載っていた。だけど、これが別にいいとは思ってなくて。昔、トポフォンという装置があって、海の上で敵艦の位置とかをみるために、要は聴診器と一緒なんですけど、アンテナを広げたものがあったんですよ、聞くっていうのは昔からこういうことやっていて。もうひとつは、ステレオの実験のときに、マネキンの耳にマイクをつけてなるべくリアルな人間に見せるために服を着せたり髪の毛をつけたり。名前をつけているんです、「ミスターオスカー」とか。ダミーヘッドです。もうひとつはメガネもひとつの旅の装置だろうなと思って。ローリー・アンダーソン(《ビッグ・サイエンス》)。もうひとつはフルクサスのジョージ・マチューナス。こっちは外向きにこっちは中向きに。メガネってことだけで、違う世界に行ける。これはジャスパー・ジョーンズ(《批評家は見る》)。これは『タイム』か『ライフ』の、3Dの映画を見ている観客。このなかに一人だけメガネをかけてない人がいる。そうすると、このなかではメガネをかけてない人が非日常になっちゃう。最後にデュシャン。こういうものをずっと集めていて、人には見せないですけど、展覧会を一個つくるっていうのがおもしろくなってきた。作品を見せるんじゃなくて、展覧会がひとつの作品というか。

池上:これは先生が展覧会をつくるためにつくられたノートですか。

藤本:結局コピーしたやつをギャラリーに置いてあったとは思うんですけど。

鷲田:これらの図版とか写真とかは展示されたわけではないんですね。

藤本:ええ、ただの資料という感じで置いてあったかも記憶にないくらい。

鷲田:これはカタログのようなかたちでたくさんつくったんですか。

藤本:いえ、1部。最近自分で製本したんです。コピーして。楽譜みたいな感覚です。見せるんじゃなくて、展覧会をつくるときに、どういう構成にするのかというためのもの。こうやって集めるのと同じ感覚ですよね。こういうかたちでやろうと考えると、展覧会がだんだんおもしろくなってきたんですよね。それまでは同じ作品を別のところに置くだけだから、ただ作品が置かれる場所だと思ってたんですけど、展覧会そのものが自分の作品になるという、こうやって自分でつくれるんだなとおもしろくなったんですよね。

鷲田:この展覧会が90年3月にギャラリー・ビュウというところでされていますね。

藤本:大阪のアメリカ村にあったギャラリーです。

(休憩)

池上:92年にシャルロッテンボーで出された展覧会、(「UNDR/Kunst Videoskab Teknik」シャルロッテンボー美術館、コペンハーゲン)アメリカの展覧会を除いては初めての海外展ですよね。出品されたきっかけは何ですか。

藤本:これはコペンハーゲンで、アート&テクノロジーの展覧会をやるということで、、実はステラーク(Stelarc)っていう人が選ばれていて、この人は日本に住んでて、東京都の写真美術館で、開館する前に・・・。

鷲田:パフォーマンスをされていた人ですよね。

池上:(資料を見ながら)青山のスパイラルでもやっていますね。これですね、「Tokyo Metropolitan Museum of Photography、"Event for Video Shadow, Automatic Arm and Third Hand"」。

藤本:そうです、そのときに展覧会で一緒だったんです。

池上:91年、「ANIMATED IMAGINATION 視覚への欲求」。

藤本:そう、そのときに《PRINTED EYE》と、さっきの。

池上:ストロボですね。

藤本:それをいくつか出品したんですね。そのときステラークもパフォーマンスしてたみたいで、そのとき僕は会ってないんですけど、たぶんアジアからの人を呼びたいと考えていたらしくて、ステラークが写真美術館で面白い人がいたって言ってくれたみたいでもうひとつは日本ということでダムタイプから聞いていて、アート&テクノロジーだったら僕がいるみたいなことをきいてたらしいんですね。それで、フリントさんていう人なんですけど、この展覧会に協力していた人が、日本にリサーチにきて、その人は東京芸大にいて、ダムタイプと関係があった人みたいで、それで日本語ができて、児玉画廊に来て、実はこういう展覧会があるんだけど、っていうことで、いろいろリサーチされていたみたいです。それでたまたまそのときに、僕が《屋上の耳》を展示していたときで。

池上:児玉画廊の屋上にですか。

藤本:そうです。屋上でその作品を体験してもらって、そのときは会ったらしばらくしたら、いわゆる招待状が届いたんです。それで展覧会の企画書と。そこにはナム・ジュン・パイク、ローリー・アンダーソン、ブライアン・イーノとかすごい名前が書いてあって。

鷲田:フリントさんはキュレーターじゃなくて協力者ですか。

藤本:協力者だと思います。このときデンマーク人のディレクターは二人いて、博士論文を書くという目的もあったのかな。

池上:この展覧会のタイトルが「UNDR」。

藤本:これが、おもしろいんだけど、バイキングの古語で、ボルヘスの小説のタイトルなんです(『砂の本』所収)。英語だと「wonder」。これを読むとおもしろい。この展覧会は、僕を選んだことでもわかるように、ハイテクだけじゃないんです。テクノロジー全てを網羅する。アメリカの人でも太陽光を反射させるだけのやつとかそういう作品もあって、テクノロジ−という見方はそういうところを見ているんだということをおっしゃっていたんだけど、サブタイトルは「Kunst Videnskab Teknik」で技術と科学をアートを通して考えると、結局はwonder、驚きが根源にあるんだろうということでこのタイトルをつけたみたいですね。

池上:シャルロッテンボーていうのはなんですか。

藤本:デンマークの美術館ていうか、宮殿。コペンハーゲンのど真ん中にあるんですけど、そこで展覧会をやったりする。森村(泰昌)さんのグループ展があったみたいで(「現代日本美術の多様」1990年)ミュージアムショップにポストカードが置いてあった。そこにロンドンのRCAに相当するような王立美術学校がそのなかにもあるんですよ。元宮殿だからすごい大きい。

池上:そこで「耳」と《PRINTED EYE》を展示されたんですね。

藤本:はい。

池上:(写真を見ながら)パイプが窓の外にまで出てますね。

藤本;これは現地でつくったんですよね。窓があるということで、プランを出した。でも窓を開けて外に突き抜けるので、雨が降ったら展示室に雨が入ってきてしまう。「無理かな」と思いながら「こうしたい」って言ったら、「Good idea.」って言われて。開きっぱなしだったんですよ。このとき僕の部屋の突き当たりが最後の大きな部屋だったんですけど、そこがブライアン・イーノのスライドのインスタレーション。僕の方が簡単にセッティングできて、お昼食べて戻ってきたら、ブライアン・イーノがニコニコしながら僕の作品に座っていて、「僕のつくる音楽に似てる」って言われた。

鷲田:(資料をみながら)これはライカハウス?

藤本:そうですね。

鷲田:コペンハーゲンと同じ年ですね。

藤本:そうですね。これは展覧会ていうよりも児玉画廊で僕の作品はカタログやビデオにしないとわからないということで、撮影用に展覧会をしたんです。一応展覧会というかたちでやったんですけど、目的はビデオのための撮影ということで、この場所にしたんです。

池上:(写真を見ながら)さっきの水の…。

藤本:こういうふうに(コップが)ならんでいて。(壁に貼ってあるのは)ポラロイドです。一番低いところで水をついで、だんだん高くしていく。音階みたいに水の量が減っていくんです。最後はほとんど入らない。

池上:このころから海外の展覧会に出品をされるようになったんですか。

藤本:でもそのあと児玉がヨーロッパに持ってったとかだから僕が外国に行くのはもっとあとですね。

池上:耳の作品は日本の現代美術の展覧会ということで加藤義夫さん、児玉画廊が企画された?

藤本:次のイタリアとドイツの(展覧会)は児玉画廊の作家を、向こうで展覧会するという企画です。あのころは児玉もお金があり余っている時代だったから。

鷲田:C.A.P. (特定非営利活動法人 芸術と計画会議)の活動が始まるのはいつですか。

藤本:C.A.P.として始まるのは1994年です。

鷲田:その一番最初から関わっていらっしゃるんですよね。

藤本:そうです。ちょうどヴォイスギャラリーでやったころからなのかな。86年ころ、(個展を)始めたころはほとんど反応がなかったんですけど、反応があったのはアーティストが見に来て、友達のアーティストに「おもしろいのやってる」と電話してくれて、そういうので知り合いになった。

池上:ヴォイスギャラリーというのは88年の京都のヴォイスギャラリーの展示ですね。

藤本:その辺までやると、関西で当時一番活発に活動していた人たちが興味もってくれたんですよね。石原友明さんとか森村さんとか、みんなだいたい京都芸大卒で、わりと同じ年代くらいの人だったんですよね、僕より10歳くらい若い。石原さんたちとは個人的に話はしていたんですけど、あるとき石原さんから電話がかかってきて、「杉山知子っていう人から誘われたんだけど、社会に対してアートをみんなどう考えてるか話し合いたいから集まらないか」って。杉山さんは自分の同学年あたりのアーティストに呼びかけたんです。杉山さんは石原さんに呼びかけて、石原さんは僕に電話して。「じゃ行ってみます」って最初に集まったのは、(このアトリエの)隣の杉山さんのアトリエで、(神戸市中央区高砂ビル)10人くらい集まった。社会に対して自分たちはどういうスタンスで行けばいいのか話し合うというかたちで集まりました。とりあえず月に一回ずつ集まろうというのがきっかけです。

鷲田:それまでも社会に対しての意識は強く持っていらしたんですか。

藤本:石原さんとはよく話してました。彼はそういう問題意識をすごい持ってた人なんです。だから僕を誘ってくれたんだと思うんですけど。

鷲田:最初はそういったミーティングから始まったんですね。

藤本:そういうときに神戸市が美術館をつくるという情報があったんです。それに対してアーティスト側からちゃんと要望を出そうということで、壁の厚さとか、提言書をつくったんです。そのときに団体名がいるということで、集まりの名前をC.A.P.ってつけて。「芸術と計画会議」で「Congress of Art and Project」の略です。それで、とりあえず集まるのが大事だからパーティやろうかということで、94年の年末にパーティをやりました。このアトリエで。そして「さあこれからやろうか」という次の年に震災が起きたんです。その美術館の構想なんか全然なくなっちゃうし、メンバーも3ヶ月くらい会えなかった。そのあとどうやっていこうかということで、一度大阪で集まったんです。「こんな状況になったけどどうしよう」というときに、結論は「特に震災があったからどうのこうのではなく、このまま続けていこう」と、持続するということに決めました。そのころ、フランスのアーティストたちが神戸のアーティストを支援するために、向こうでコンサートとかやってお金を送るという話があった。でも送られても、神戸市は特定の団体に渡すことできないから、そのお金は一括の支援金になってしまう。だから神戸市を通さずに、直接C.A.P.(に送るの)はどうだという話が来まして、C.A.P.としても向こうからのお金を受け取ろうということで受け取ったんです。受け取ったら何かのかたちでそれを見せようということで、イベントをやることになりました。その年、95年の10月にジーベックホールでアートイベントをやったんです。それがきっかけで毎年11月3日に自分たちでイベントをやろうということが続いてるんです。

鷲田:そのときはC.A.P.のなかで藤本さんはどういった役割をされていたんですか。それとも誰がどういう役割というのはなかったのでしょうか。

藤本:あんまりなかったです。みんなで考えてて。義務でもなかったんで、どんどん出入りもあったし。

池上:メンバーが変わって?

藤本:はい。考え方も違っていて。「イベントをやるなら(自分は)違う」という人もいたりとか。ぼくは一番最初からいたんでなんとなくそのままって感じですね。

池上:少し戻りますけれども、阪神大震災のときは先生はこちらにはいらしゃったんですか。

藤本:はい。新大阪ですけど、うちも寝てた隣の部屋が本棚全部倒れたりとか、結構すごかったです。ほとんどそれまでの流れがいろんな面で変わっちゃいましたね。

池上:そのなかでC.A.P.の活動を続けていくということは先生のなかで意識としてあったんですか。

藤本:自分のなかで大事に感じたのはあとあとになってからです。別にそのときにやめる理由が無かったというだけなんです。みんないきがっているわけでもなく、どっちかというと、ボランティアとかチャリティとかなんかしなきゃっていうムードだったんです。だけど「アートでは(何も)できないだろう。それよりも長い目で自分たちがやることがあるんじゃないか。だったら普通どおり考えてることを続けていくことのほうが大事じゃないか」ということで、そのまま続けていくことになったので特に震災がきっかけになっているというわけじゃないですね。

鷲田:作品や、考え方に対して大震災が影響を与えたことはありましたか。

藤本:それはありますね。すごく大きかった。まず最初にテレビで神戸が崩れているところを見たときに、率直な印象は「きれいだな」と思ったんです、崩れ方が。でも、あとでだいぶ時間が経ってから実際に(現場を)見たときには汚いと思ったんです。なぜかなと思ったんですが、地震というのは自然の、偶然の要素で起こる。とんでもない力がつくった造形だと考えると、崩れるというのはおもしろい、きれいだと思ったんですが、しばらく経って復興するというのは人間が片付けていくわけですよね。そういう景色を汚いと見えたのは、作為的なものが入っていくと違うものになる。構築するということもあるんだけど、崩れるとか壊れるとか、マイナスになるというのもひとつの日常なんだなと、思い知らされたんですね。いきなり来たわけだから。いきなりあるものが無くなるとか壊れるとか。でもこれも日常で、良い悪いというのは、例えば美とかそういうものを考えたときに関係ないんだと、実感としてわかった。もうひとつ僕にとって大きかったのはオウムです。サリン事件が3月にあったときに、最初わからなかったんです。ちょうどぼくは昼間に日本橋の電気屋さんにいて。テレビがダーってあるんです。あのニュースがやってるんですけど、音が出てないんで、担架で人が運ばれていたけれど一体何のことかわからなくて日射病か何かかと思いました。ぜんぜん悲惨さがなかったんです。家に帰って、テレビを見て、はじめて毒ガスというのがわかった。なぜ悲惨とわからなかったのかは、血が流れていないとか、ものが壊れていないとかだからですよね。無色透明な武器で、見てもわからないもので傷がつくと逆にメディアは訴えられないという無力さがわかった。その前の大震災のときは崩れた映像があるから、テレビはおもしろがって伝える。みんなも悲惨だと思うけど、視覚では伝えられないものがあるということが、そのときにすごくよくわかった。ついに目に見えないものが武器になったんだという、でもそのリアリティはすごいだろうなと思った。ひょっとしたら自分も被害にあっている可能性があるわけですよね。だからオウムの時点でステージが変わったんだなって。ぼくにとって20世紀はそこで変わったんじゃないかな。ますます音がリアリティを持ってくる。かたちはない、目に見えないけどリアリティがあるもの、そういうものの意味というものがどんどん増していくんだろうなという実感したのと、つくるというのはプラス方向とマイナス方向の両方ある、壊れるとか崩れるというのにもつくる要素があるというのを震災で感じた。関西に住んでいないとその二つは体験できなかった。それが2ヶ月の間に両方、かたや自然、かたや人口100パーセント。クラブ活動みたいな人たちがやってしまったっていう行動は大きかったですね。

池上:その頃の作品で崩れる壊れるというのだと代表作は《SUGER》というのがありますが、その頃から、作品を考えられる、つくられるときにそういう体験やその中で考えられたことは関係していますか。

藤本:明らかに変わったと思いますね。95年に埼玉県立近代美術館で「やわらかく、重く 現代日本美術の場と空間」という展覧会がありました。そのカタログで各作家にアンケートがあって、最後が「今興味があることは?」という質問だった。すべての作家に同じ質問をしているんですけど、(私が答えたのは)「『消える』ということ」。これが一番そのときに自分のなかでリアリティをもっていた。これはどういうことなんだろうと。

池上:ご自身で95年以降の作品で、最も(震災やオウムの事件を)反映されている作品、この作品はその前だったら無かったというようなものはありますか。

藤本:目に見えてというのは無いと思うんですけど、もともと自分のなかで興味を持ってたのがはっきり意識に現れたんじゃないかなと思います。それがデュシャンのアンフラマンスていうのを、リアリティとして自分が捕らえていくようになったのはこの頃からなんです。

池上:関心としてあったのが明確になってきたということですか。

藤本:半分自分が考えてやっていたことは間違っていなかった。ますます時代と重なっていくんだろうなという気持ちになったところでした。

池上:ちょうどそのあとから西宮市大谷記念美術館(以下、大谷)で「美術館の遠足」という10年間、1日だけの展覧会を始められていますね。96年にワークショップをされて、97年から展覧会ですね。

藤本:震災前にプランを出してたんですけど、ギャラリービュウとかをやりだして、展覧会自身(を作るの)がクリエイティブで、展覧会をつくるというのに興味があったので。大谷で毎年ひとりのワークショップの企画があった。最初の年が松井智惠さん、次の年に僕をという話があったのです。94年だったと思うんですけど、僕が出したのが展覧会のワークショップ。展覧会というものがどういうものかを考える。アーティストが考え、美術館が考え、観客が考えるというもの。場所が違ったらどうなのかとか、そういう展覧会を考えるワークショップというプランを出したら、「またにしましょう」と言われてしまった。それで結局無くなった。震災がきたらまた連絡があって、「前言ってたのをやりませんか」と。96年10月の毎週土曜日、4回、展覧会のワークショップというのをやったんです。それはすごく評判がよかったんで、そのあとで、篠(雅廣)さんと中井(康之)さんが、慰労してくださって、「来年も同じことをやりませんか」と言われたんで、「できません」と断った。体力的にハードだったんで、「無理です」と断った。そのときに4回のワークショップの場合は、収蔵庫を展示室にしたり、庭を展示室にしたり、美術館のいろんな場所で毎回違う場所でやってたんで、これなら同時にできるなとやってたんで、美術館を全部使ってやったらどうなるかと思ってたんで。僕が言ったのはプライベートのつもりだったんですが、「美術館が空いているとき一日だけ僕に貸してくれたら、ワークショップでやったのを全部やりたいんです」と話したんです。そうしたら篠さんが、「ふーん」ときいて、少し沈黙があって、「はいわかりました、10年間やりましょう」と言われた。びっくりして。だけど、断ったら一日もできないから、僕は10年なんか続く必要もないと思っていて、「1日でもやれたらいいや」とOKしたのがきっかけだったんです。

鷲田:テルミンの竹内(正美)さんとか、いろんな人とコラボレーションされてますが、それは全部藤本さんが選んでいたんですか。

藤本:そうです。担当の学芸員は中井さん、その上に篠さんが学芸課長でいて。1日だけやるわけだから、誰もそんな大それたことは考えていなくて、200人くらい来たらいいんじゃないかと思って、一回目をはじめたんです。あのときは、荒木高子さんの展覧会の会期中の休館日にやったくらいで、その前の日の夕方とその当日の午前中に展示してという感じで始めた。簡単な感じで始めたんですが、1回目に予想外に600人の人が来たから慌ててしまった。篠さんに次に会ったとき、会議かなにかで「来年は1000人集めるって言ってきちゃったから」と言われて。電子楽器のテルミンのプレーヤーの竹内君、彼は僕の大学の後輩だったんですが、ロシアで習って帰ってきたときだったんですが、ちょうどいいと思って呼んだりした。狙いはなんとか集客を増やすためということ。そのせいか次の年は1000人も入っちゃったんです。すると篠さんは今度は1500人集客するって言ってきたからと言われた。それで3回目は知り合いのあがた森魚という人を呼ぼうと思って。そうしたら、本当に1500人来てしまったんです。全く10年間計画してやったわけじゃなくて、毎年その回をどうするかとやってきて、結果的に10年経ったという感じでしたね。

鷲田:この頃から、お書きになるものが増えてきているかと思うんですが、それはなにかきっかけがあったんですか。

藤本:こちらから、意識的ではなく、言われたら書いたという感じですね。

池上:『美術手帖』を95年から96年に連載、『大阪人』という雑誌や新聞でもサウンドスケープのこととか、文筆をされていますね。

藤本:新聞とかは取材で記者が来て、話して、それから、しばらく経ってから連載しませんかと言われた。こちらからなにかやりたいと思って書いたのはひとつもない。書くのは苦手で時間がかかるんですよ、ものすごい大変で。

池上:読んでるとまったくそんな感じには見えないですね。

藤本:どんどん文章を縮めていくんで、やたら時間がかかるのと、原稿料が文字数ですよね。書いて文字を減らして、原稿料が減っていくのを考えたときに、何やってるんだろうなと思って。今でも書くのは・・・。

池上:『美術手帖』とか他の連載は今まで話していただいたような、聴くこととか見ることとかサウンドスケープのことを書かれているんですが、この演劇情報誌の『JAMCi』に連載されている70年代の体験談は異色といいますか、前回お話いただいたような大学時代のこととか、結構いろいろなもの、演劇やコンサートの話とか。これはどういったことでされたんですか。

藤本:編集部の人から「連載を」と言われてどういうものがいいかと考えて、演劇もちょうど大学行く前から赤テントや黒テントを見ていたり、大阪に来たら維新派を見たり、70年代に西部講堂に行ったりしていたから、そういうアンダーグラウンドカルチャーのような(ものを)自分が体験していたから、自分が合うのではないかと思って。維新派が一番メインで扱われているような雑誌なのでそういう連載をしたんですよね。

鷲田:それから海外で展覧会に参加されたりとかはベネチア・ビエンナーレの参加(2001年)が最初のほうなんですか。

藤本:その前にハンブルグでしています。

鷲田:はい、されてますね。3人で。(「Art of the Senses − their physical extension」1999年、クンストハウス、ハンブルグ)

藤本:石原さんと大久保英次と僕。加藤義夫さんがキュレーションで、大阪市とハンブルグ市が友好10年とかで、要するにエクスチェンジだったんですよね。ハンブルグの人たちの(展覧会)はキリンプラザであったんですけど。

鷲田:その次が2001年のベネチアの日本館ですね。

藤本:逢坂恵理子さんがコミッショナーだったんですが、2000年の秋に(川崎市)岡本太郎美術館で「震災5年後」(「その日に 5 年後、77 年後 震災・記憶・芸術」)とかいう、2000年というのは関東大震災77年、阪神大震災5年という年。このキュレーションをしたのは新見隆さんという、今ムサビ(武蔵野美術大学)で前はセゾン美術館の学芸員の方。彼がこれを企画したんです。電話がかかってきて、関東大震災もあるんだけど、阪神淡路大震災ということで関西の作家を入れたいんだけど、僕ぐらいしか知らなくて、震災でなんかある?と言われて、「うちも結構崩れましたけど」と言ったら、「じゃ出てよ」と言われて。《SUGAR》という作品もあったんで、それがひとつと、それと崩れるという震災そのものを作品にできないかと思った。キューブを積み上げた・・・これとこの二つだけにしたんですよ。ブースが隣同士で、広い空間にシュガーを一個だけと、隣の。

池上:《ON THE EARTH》というタイトルですね。

藤本:はい。木の5cm角のキューブを積み重ねただけで、あと一個でぎりぎり倒れるところ。このときは会期中にまた地震が来るとも限らないし、人が触れて倒れるかもしれない。人災だろうが自然だろうが、災害とはいつ起きるかわからない。起きたときにこれが床に崩れて完成する。ということを想定して作った作品。これは絶えず崩れていく。この展覧会をたまたま逢坂さんが見ていたんです。この《SUGAR》を見て印象に残っていたみたいで、そのときに「国際交流基金から連絡があって、ベニス・ビエンナーレの日本館のコミッショナーに、と言われて。一週間後にベニスに行って打合せしなくちゃならない、作家を決めなきゃいけない」といわれて急にメールがきた。今でも覚えています、メールのタイトルが「ベニス」とだけしか書いてなくて、意味がわからなくて。(逢坂さんからメールがきたのが)ファーレ立川以来、何年ぶりかだから何のことかなと思って開いたら「ベニス・ビエンナーレ」と書いてあって驚いた。中村政人、畠山直哉、僕、彼女の趣旨が書いてあって、どうですかと。全然断る理由が無かったんで、「その頃は空いてますから大丈夫です」と言って、いきなりベニスが決まっちゃったんです。全く自分とは関係のない世界だと思っていたので、びっくりして。

鷲田:そのときは具体的にどんな作品をというところまでは決まっていなかったんですか。

藤本:逢坂さんは完全に《SUGAR》と決めていて、展示する想定も三人の作品も大体決めて、だからほとんど自分が出る幕は無かったんですよ。僕としてはつまんなかった。《SUGAR》だったらただ渡すだけみたいなもんなので。それで月に1、2回ずつ交流基金で打ち合わせで、作家と逢坂さんとでやっていて。それはおもしろくないなと思ったから。《SUGAR》は《SUGAR》で、「もうひとつやってもいいですか」と言って中村さんはマクドナルドをやるとかで、彼は模型をつくってやっていたんで、「じゃ、キーボードならできるな」と思って、僕のほうから「キーボードの作品を入れたい」と言って。それは逢坂さんはぜんぜん知らない作品だったから「邪魔にならなければいいんじゃない」という感じだったと思うんです。

池上:《ROOM》という作品でキーボードが4台配置するんですね。

藤本:はい。これはそれまでに「美術館の遠足」で毎年庭やいろいろなところでやってたから、だいたいどういう効果があるかわかっていたんで、ここでもやりたいなと思って。

池上:この作品はそれぞれ出る音が違うキーボードを?

藤本:オルゴールでやっていたことと同じですね。セパレーション。分割してもう一回重ねる。キーボードの白鍵が36あるんですけど、4台で9つずつ音が鳴っている、別々に。空間のなかでは36個の音が一緒に鳴るんだけど、場所を移動するごとに微妙に重なり具合が変わる。

池上:そうですね、歩いていると耳が拾う音が変わっていく。

藤本:出てる音は一定なんだけど、人と場所と関係によって変化していく。人が音楽をつくっていくという作品なんですよね。

池上:これはどの音を出すかというのは決められていたんですか。

藤本:ランダムです。コンピューターで全部ランダムに振り分けて。だから偶然和音になっているものもあるんですよ。

池上:日本館の一階ですか。

藤本:ええ。下のところは細長い廊下のような部屋をつくって、ほとんど真っ暗にして、長方形なんで、入ったすぐ横の短い辺の壁に畠山さんの《UNDERGROUND》という写真で、一番奥にいったところに《SUGAR》があるという、2点だけの空間にしたんですよ。

鷲田:行われていた会議のときはアーティスト同士の話はあったんですか。

藤本:逢坂さんを交えてです。おもしろいのが、逢坂さんも自分の考えだけではなく、アーティストの考えを取り込みながらという感じでやっていたんです。中村さんが一番やる気で、プランを出してきて。中村さんにとっては僕と畠山さんは邪魔だったみたいですけどね。僕はそれほど意気込んでいたわけではなく、畠山さんも写真なんだけど、どういうスタンスで向かっていったら良いかとちょっと引き気味だったんで、3者3様だったんですけど。

池上:大きなビエンナーレという国際展に参加されて、展示も現場でされるし、内覧会だったり、すごく華やかなイベントですよね。その行かれた感じは?

藤本:それまで行ったこともないし、ベニス・ビエンナーレというのは世界中のアート関係者が集まって、政治的にもすごいんだろうなと思っていた。ベルニサージュ、内覧会の初日のオープンするときは日本館にいるわけです、そうするとオープンと同時に人がわーと入ってきて走っていくんです。みんなカジュアルな格好で、にこにこ、わいわい、がやがやしながら。なにかに似てるなとおもったら、「美術館の遠足」と同じでした。すまして来るのではなく、ほんとに楽しんで歩いていて。大谷と一緒なんだと思って、おもしろく感じました。ベニス・ビエンナーレはただ作品が並ぶ展覧会ではなくて、人が2年に一度そこへ集う、そしてそれを楽しむというのがベニス・ビエンナーレだとやっと納得できた。「美術館の遠足」でやっているのは間違いじゃない。ユニークだとか変わっているとか言われているけれど、「(ベニス・ビエンナーレと)一緒じゃないか」という、こっちのほうが本来なのかなと納得がいきましたね。

鷲田:もう少し最近になりますがシュウゴアーツで展示されるようになりますが、東京での活動は?

藤本:東京ではヒルサイド・ギャラリーとかでやっていたんですが、特に「東京」と意識したことはなくて。シュウゴアーツでやるきっかけもベニス・ビエンナーレだったんです。ベルニサージュのときにぼくが日本館の外でぼーっと立っていたら、佐谷周吾さんが出てきて、僕は久しぶりに会ったんですけど、すごい興奮していた。僕のキーボードの作品がすごい気に入ったらしくて。それがきっかけだったんです。6月の終わりくらいに佐谷さんから電話があって、和歌山のプロジェクトで一緒に仕事しないかと言われて、それがきっかけで仕事をして。最初は佐賀町のほうの最後の展覧会をやりませんかと言われたんですが時間的に間に合わなかった。そのあとに移ったところで展覧会をすることにやったんです。

鷲田:「和歌山の」というのは「和歌の浦の丘」プロジェクトですね。

藤本:全部偶然の結びつき。加藤さんだって3万円で売ったからという結果。彼だってまさかベニス・ビエンナーレに出る作家になるなんて思ってなかっただろうし、児玉画廊はジャコモ・バッラとか1点売ったら1年間安泰という時代だったから、遊びでできていただろうし、C.A.P.の杉山さんと会ったのもたまたまで今までずっと続いてきたとか、佐谷さんともベルニサージュで会わなかったら無かったですし。

池上:ビエンナーレがきっかけで、海外のギャラリーや美術館から直接連絡が来て、いろいろと展覧会に出されるようになりましたよね。

藤本:ペンザンスもそうですね。それはセント・アイヴスのアートフェスティバルで、ニューリンアートギャラリーのディレクターがベニス・ビエンナーレで僕の作品をみて大谷に問い合わせたということだった。ヘイワードはベニスの前に決まっていたんですよ。ジョナサン・ワトキンス(Jonathan Watkins 2009年現在バーミンガムのIkon Gallery館長)という人が日本にリサーチに来たときに決めたんですが、彼が僕を決めたあとでベニスが決まったので、彼の方としては、「どうだ俺の目は」という感じだったらしいです(笑)。それでベニス・ビエンナーレでキーボードを見て、ヘイワードでもこれをやってくれないかとその場で言われたんです。特にこれだからこうなったじゃなくて、ほんとにたまたまのきっかけでずっと来たと思うんです。

池上:2007年に今度は国際企画展のほうで参加されてますけれども、そのときはどういう?

藤本:その前の年の夏に佐谷さんから電話があって、「シュウゴアーツにロバート・ストー(Robert Storr 2009年現在ニューヨーク大学教授)が来る、彼が来年のベニスのディレクターになって、うちにきて作品を見せるんだけど、テーマがコンセプチュアルアートと言われていて、僕の作品を見せてもいいかな」といわれて。いや、「外国のアーティストはぼくの作品見たらコンセプチュアルアートだとみんな言いますけど」と言ったら、「じゃ見せよう」と言われて。シュウゴアーツのリサーチのなかで見せるんだなと思っていて。「ストーが大阪に行くから会える時間あるか」という電話があって、「どこに行くんだ」と聞いたら、「国立国際に行くから」と言って、「じゃ僕も行きますから」と言って、いろんな作家が行ってるのかと思ったら僕しかいなくて。彼は児玉画廊で《屋上の耳》(1990年)を体験していたんです。そのときもいろんな人と会っただけなんで、僕がカタログを見せたら、「これは知ってる、今でもあるのか」と言われて。ちょっとぱっと見せたら、わーっとしゃべりだして、「ベニスへどうぞ」と言われて、いきなり決まってびっくりして。それもほんとに偶然というか。そのときに言われたのが、「コンセプチュアルアートというのは言葉で考えるものと言われているけれど、ぼくは感覚というもので考えるということこそがほんとのコンセプチュアルだと思っている、(カタログを見て)こういうのこそまさにぼくの考えていることなんだ」と言っていたんです。展覧会が始まると「think with the senses」というタイトルで、まさにそうだと思って。

鷲田:どういう作品を出品するかに関しては・・・?

藤本:何にも言われませんでしたね。でも耳のことを言われていたんで、これを出さなきゃなとは思っていました。耳の作品は90年ですから、10年をポイントにしようと思って、《RECORD》という溝を刻むやつと、《DELETE》。 90年、2000年、2007年とちょうど僕のなかで区切りのようなものを自分で選んでやったんです。

鷲田:ウォークマンやipodなど、音楽機器のポータブル化は、何か作品をつくることに対して影響を与えていますか。

藤本:70年代の終わりから、自分のつくるものも変わったんです。ウォークマンが出てきてアナログからデジタルに変わるとき。いわゆるこの10何年というのはどちらかというとコンピューターなんですが、直接的には変化は無く、むしろ意識的に距離はとっていたと思うんですが、明らかに変わっているというのは確かですね。

鷲田:それは世の中が変わっているということですか。

藤本:当然表現も変わっていて、無視もできない。2001年のベニスのときはやりとりはファックスだったんです。2007年のときは招待状もメールですから。すべてメールになるし。具体的にそれを使う使わないではなく、関わらざるを得ないと思うんです。それでおもしろいなと思ったのは、「ipod shuffle」が出てきたときです。結局ジョン・ケージの考えが商品になっちゃったんですよね。偶然、チャンスオペレーションで作品をつくるということを、彼は半世紀前からやっていた。人まかせというか、サイコロにまかせるなんてと言われていたのが、ipod shuffleはまさにそうですよね。自分の聞きたい順番ではなくて、勝手な順番を聞くという商品なので、そういう時代になっているというのはすごくおもしろいなあと思って。自分でもそうやって音の鳴る順序とか、サイコロを振って決めていることと商品として出ていることが全く変わらなくなっている。ことさらそういうもので作品をつくる必要はなくて、生活のなかでそういうものを自分がどう使うかという方がおもしろい。まさに日常がアートになっている時代だと思うんですよね。でもその元をちゃんと認識しておかないと、例えば20世紀の音楽や美術をきっちり検証しておかないと。そういう結果がipodであったりとか、デザインのかたちとして出てきているということを。重要なのはコンセプトを生み出した人がちゃんとリスペクトされることで、単に売れたものとか、ものができてまねしたらいいとなれば、すごく危ないと思うし。

鷲田:ほかの音楽機器とか、プロダクトで影響を受けたものはありますか。

藤本:最初はおもしろいと思ったのはMDです。デジタルになると並べ替えができるわけですよね。アナログの場合は、順番、シークエンスが、昔はテープで切って編集しているわけで、デジタルになるとランダムアクセスができるのとは、全然違う。そこがデジタルのおもしろいところだなと思ったんです。逆にデジタルでできないものがアナログにあるという、そっちのおもしろさを再発見させてくれたということがなんか発見だったと思うんです。90年代の初めって21世紀はペーパーレスになると思っていたんですよね。全部デジタルで、マルチメディアでいけるとおもってたけど、ちょっと手を出してみたら、書物というのは、紙の書物が一番強くて、よくできてるなあと思って、逆にフロッピーとか、CDディスクとか関わるようになると危うい、案の定フロッピーディスクとかなくなっちゃうけど紙の本は残っている。千年は残っている、すごいなあと思って。気づかせてくれたのは、最近のテクノロジーのおもしろさで。本を調べていたら、巻物というのはすごいテクノロジーを持っているというのがわかって、恐ろしくおもしろいんですよね。画面サイズが自由に選べる。「鳥獣戯画」とか「伴大納言絵巻」とかコピーして原寸大のをつくってわかったのは相当早くスクロールさせていたんだということ。巻物というのはすごいおもしろいメディアかもしれない、それはコンピューターの画面ではできないおもしろさという発見があった。そうやって調べていくと、フリップブックとか、赤青で見る3Dとか19世紀とか20世紀のはじめに生まれていたおもちゃのようなテクノロジーが新鮮というか、おもしろくなってきたら、最近そういう作品も増えてきているんですよね。ぼくだけではなくて、みんな過去のものを捨てるのがテクノロジーだと思ってたんだけど、その時代ごとのテクノロジーにはその時代ごとの価値があるというのをみんな見直してきている。今はハイテクということに価値を置く人はいなくなりましたよね。それがおもしろい。すべてのテクノロジーを同等として見ていく。この前ICCでやっていた「ライト・イン・サイト」。(2008年−2009年)おもしろいのがほとんどハイテクの作品が無い。ライトでもナム・ジュン・パイクのキャンドルテレビ。ろうそくの作品をあえて展示していたりとか。それがまたかっこいいんですよね。だから光でも昔だったらレーザーとか、そういうものが新しい可能性を持っていたのが、今はそういうのよりも逆にろうそくの炎を見て新鮮と思えるようになった。僕自身がそうだし、結構みんなそういうふうに思っていると思うし。

池上:そういう意味でいきますと、最初は電子音楽の仕事をされて、オルゴールを使われたり、その時々関わられたメディアやもので作品をつくって、今でも新作をつくっていられますけれども、その変わったものと変わらないものといいますか、電子音楽やオルゴールという構造と今の作品との関連といいますか、先生の作品のなかでの変わったものと変わらないものはありますか。

藤本:電子音楽を始めたのは最先端でこれが一番すばらしいと思って、始めたらそうでもなく、だんだんこれまで見向きもしなかったようなものが見えてきて、その奥に何があったかというと、普段の生活そのままが自分の表現の対象になる。歩くことや空を見ていることとか。だからそういう意味で言うと、1万年前の人も2万年前の人も、目の位置はそんなに変わらないだろうし。一つおもちゃみたいな機械が生まれると思考まで変わっちゃう、アートというと個人の内面の個性とか言うけれど、ちょっとしたおもちゃが一個出てくるだけで変わるくらい、ころころ変わるものなんだという両面が実感としてあるんですよね。

池上:変わらない感覚と、変わっていくテクノロジーとその関係。

藤本:それがちょっとしたことですぐ変わるんですよね。だからこれからもまた変わるだろうし、もう一つは、どう社会だとか、テクノロジーが変わろうが変わらないものも必ずある。どちらかがいいということではなくて、両方が並び、両立していることがおもしろい。どちらか一方にしていくと無理が生じる。

池上:そういうふうにテクノロジーを捕らえることは、普段から意識していないと難しいですよね。

藤本:意識する必要はあるけれど、新しいテクノロジーって誰が一番得意かというと、子どもなんですよね。それは意識していないからだと思うんです。自転車の乗り方だって理論では乗れない。最初からあって乗っていたら自然に乗ってしまうというのと同じで、その辺は「UNDR」じゃないけど、「なんだこれ」といつも驚く気持ちは忘れちゃいけない。もうひとつは単にそれがおもしろいというだけで終わるのではなくて、根源的なことで、「これは一体何なんだろう」と、それはファンクションだと思うんですけれど、子どもだったら感覚の驚きだけでいけると思うんですけれど、大人だとついつい何だろうと考えるほうに行きがちなんだけど、驚くということも持っていないと、両立させていないと、それこそ全く変わらないことになっちゃうと思うんです。驚くということを持続させることが難しい。つい知ったかぶりになっちゃう。

鷲田:社会のなかで震災とオウムの事件が非常に大きかったとおっしゃっていましたが、例えば9.11とかは何かありましたか。

藤本:9.11を見たときも、オウムがやったことと同じことだと思っていました。特にちょうどベニスが終わって国際交流基金で打ち合わせをして、東京のホテルに泊まっていて知人と電話をしていたんです。「いまテレビを見ているんだ」というから「どんなテレビ?」ときくと、「ビルが燃えてる」と。映画を見ているとばかり思っていて、「《タワーリング・インフェルノ》?」ときいたら「生中継だ」と。それでテレビをつけたら、オウムのときに日本橋でニュース見ていたのと似てるなと思った。ひたすらずっと映しているわけですよね。そのちょうど3週間後にヘイワードギャラリーの展覧会でイギリスに行ってテレビをつけても一切その映像は映していないわけです。そのかわり、番組は深刻で次はロンドンだと言われていて派兵するとか警官が毎日増えて、ロンドンの街中は緊迫していた。でもテレビでは一切(9.11の映像を)映していない。映すと「自分たちも」って恐怖感をあおる。それが逆にリアリティがあった。日本に帰ってきて、テレビをつけたらまたあの映像が映っていた。テレビはその映像を好きで映しているんだと。日本はやられる危機意識がないから、野次馬意識で楽しんで見ている。結局、みんないまだに目で見えるものを追いかけていて、実際のアルカイダとか、ニューヨークやロンドンも含めて当事者は目に見えないところで戦いをしている、そういう現実なのにいまだにまだ昔の考え方で、見えるものでやっているというのが、短い期間でロンドンに行って日本で見て、その差がすごいわかった。コンテンポラリーというのはその場の自分の周りをちゃんと受け止めないとまずいんだろうなと思った。メディアというのは逆にあとから遅れてやってくるものなんだと実感しました。

池上:最後になりますが、大学でずっと学生に教えていらっしゃいますけれども、学生に授業を教えるときに、大事にされていることはありますか。

藤本:大事にしていることは、自分の体験を伝えないということです。自分の考えは言いますけれど、自分がこうだったからこうしなさいとは絶対言えない。時代がどんどん変わっているわけだから、自分が前にやっていたことは今の時代は通用しない。だからそういうことを教えても意味が無い。むしろ僕は今学生たちがどういうことを考えているか、どういうことが思っているかが知りたい。そのことに対しては、ほとんどこうしたほうがいいとか、言わないようにしてる。その代わり今自分がこういうことを考えているということは一方的に言う。それをどう思うかは自由というように気をつけているんです。

鷲田:塩谷先生とか、上浪先生のように録音したりとか。

藤本:そこまでできればかっこいいと思うんですけれど(笑)、そこまでの自信もないから、とりあえずは自分が今やりたいことはやるというだけで。

池上:結構「?」の学生はいるかもしれないですね。

藤本:たぶんいっぱいいますよ。ぼくは課題を出さないんです。特に京都造形芸大というのは、ほかの大学もそうですが、芸術系の大学は課題をやって実績を積んでポートフォリオにしてというのが多いと思うんですが、最初の授業で課題はありませんからといったら、「じゃ、何するんですか」と質問するから「勉強するんです」といったらきょとんとして。「大学とは勉強するところじゃないですか」と言ったら少しずつわかってくれて。そういうふうにしか自分はできないですから。そういうふうにすると、すごいおもしろい反応があったりとか、全員ではないけれど、コンタクトとれるおもしろさがあって、大学に勤めていないとそういう人たちに出会える機会はないですよね。20歳くらいの人と話したりとかはないから。そうすると時代が1年、2年ごとにどんどん変わっていると感じます。歳をとった人を見ているとあまり時代は変わっていないように見えるんだけれど、1年ごとに本当に変わっている。

鷲田:今おっしゃった、「勉強する」というのは、例えばドイツのカタログを一緒に読んでとか、そういうのでしょうか。

藤本:そういうのもあるし、いまゼミでやっているのは、「目と耳がつくる空間」というテーマで、見ることと聴くことを鍛える。最初何をやるかというと、西洋の遠近法絵画の見方を勉強する。描き方の歴史を勉強して、一点透視法というのはどうやって生まれたか、これがいかに不自然な描き方であるか、画家がアトリエで穴ごしに描いているということは、この一点でしか成立しないということだから、見る場合もこの絵画はある場所一点から片目で見なければと成立しない。ということで絵画を実際見ることできないので、プロジェクターで壁に投影して、片目で見る場所を探す。そうするとほんとに3Dに見える場所があるんです。次に2つの目で見てると一体どうやって見ているかとして、3D。三次元を二次元に落として見てるのと、二次元を三次元に見てるのと何が違うか。いろんなものを見ながらら、動いて見えるというのはどういうことかとか、聴いてもステレオというのは何で右から左に動くとか、そういうことをずっとやるんです。実際に体験して、いかに動いていないものを動いて見ていたり、平らなものを奥行きがあるように見てたり、それをどこでつくっているかといったら体験者側がつくりあげている。作品というのは表現者がつくると思われているけれど、実は受け取る側がほとんどつくっているんじゃないかという授業なんです。そこでは制作物というのは一切ない。つくる側になったとき、見る側が勝手につくってしまうということを意識してつくるか、自分がつくったものが完成品という意識かで、全然変わる。そういうのがやっぱり自分自身がずっと例えば浮絵というこんなもの飛び出て見えるわけないと思っていたけれど、実際に、でも江戸時代の人は見えてたという記述を読んで、自分で訓練したら見えるようになったとか、体験があって、それを伝えていく。そうやって、少しずつ、自分がやっていることが伝わっていると思う。そのあと、それぞれの人がどうするかは自分たちで考えてくれと、言っているのでほぼ突き放している。一番嫌なのは自分と似た作品をつくる人が出てくることなんです。僕に影響を受けて、全く違うことをする人がいっぱいでてきたらいいなと思っています。

鷲田:長時間ありがとうございました。