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福岡道雄オーラル・ヒストリー 2013年1月25日

河内長野市 福岡道雄仕事場にて
インタヴュアー:江上ゆか、鈴木慈子
同席者:谷森ゆかり
書き起こし:永田典子
公開日:2014年4月19日
 
福岡道雄(ふくおか・みちお 1936年〜)
彫刻家
大阪府堺市生まれ。大阪市立美術研究所彫刻室に学び、1958年白鳳画廊で初個展を開催。1960年代の棒状のオブジェと風船状の作品、70年代から80年代にかけてのFRPによる黒一色の風景や波の彫刻、また90年代末以降の平面に文字を刻んだ作品など、幾度か大きな作風の変化を見せつつ、常に独自の立場を保ち存在感を示してきた彫刻家だが、2005年12月の個展を最後の発表と宣言、以後、制作を断つ。1回目の聞き取りでは生い立ちから風景彫刻を始めるまで、2回目は1970年代以後の作風の展開、そして「つくらない彫刻家」となった現在までをお話しいただいた。3回目では、顧問的立場にあった大阪の信濃橋画廊(1965-2010)についてお聞きした。インタヴュアーは2012年度に「信濃橋画廊コレクション」の寄贈を受けた兵庫県立美術館の学芸員、江上ゆかと鈴木慈子が務めた。

江上:このインタヴューでは、お生まれになった時のことからお話を聞いてるんですね。お生まれになったのは1936年ですね。

福岡:36年、昭和11年です。

江上:堺に。

福岡:堺のどの辺りかは分かってるんですけど、住所番地まではちょっと知らないです。

江上:堺でお生まれになってすぐに。

福岡:6ヶ月目に北京に。親父の仕事の関係で。電電公社かどこかに勤めてたんです。北京に3年いてて、それで終戦、敗戦ですね。敗戦のとき、9歳のときには済南というとこにいました。

江上:敗戦のときまでということは、何年間になるんですかね。

福岡:足かけでいったら10年、丸9年。

江上:当時のご記憶というのはありますか。

福岡:3年生のときに脳膜炎という病気にかかりまして。生死をさまようまではいかなかったんですけども、それで記憶というのがほとんど飛んでしまってて。だからあんまり中国の記憶はないんです。飛び飛びに、どうでもいいようなことは覚えてるんですけども。半年目で行ったもんですから、たぶん中国語もうまかったと思うんです。

江上:うまかった(笑)。

福岡:そういうふうに聞いてるんですけども、中国語もほとんど覚えてないし、時々なんか、ふーっと、いろんなもんが出てきますけどね。

江上:それはいまだに。

福岡:うん、いまだに。

江上:別に順番とか関係なく、ふっと。

福岡:ふっと出てくる。中国語に対するイントネーションの、あれはわりと自然に耳に入ってきて、あんまり違和感はないんです。

江上:体が覚えてるという感じですかね。

福岡:日本語は、当時、向こうではいわゆる標準語というのをしゃべってて。

江上:なるほど。ご家族の方もそうだったんですか?

福岡:そうです。兄弟は向こうで4人いましたかね。こちらへ帰ってから1人できましたから、5人なんですけども。

江上:何番目?

福岡:僕は長男なんですよ。でも兄貴がいてるんです。その兄貴というのは、親父とおふくろが結婚して、何度も子どもを流産なんかして、結局子どもができなくて、兄貴を養子にもらったんです。5つ上なんですけどね。それからバタバタッと子どもができたんです。僕はそれを小学校の2年生か3年生ぐらいに知るんですけど、兄貴は結婚してからも長いこと知らなかったです。ずいぶんショックだったみたいです。

江上:お父さんは電電公社にお勤めということだったんですけど。

福岡:親父は、敗戦でこっちに帰ってきて、郵便局に勤めて定年まで。

江上:お母さまはどのような方ですか。

福岡:おふくろは田舎の人で、6人兄弟かなんかの2番目で。とにかく、じっとしてるのが嫌いな人で、マメな人でしたね。親父は伊達男で、小さくて、痩せてて、伊達眼鏡かけて、チョボヒゲ生やして。当時ちょっと流行ったらしいんですけどね。

江上:伊達眼鏡ですか。へえー。

福岡:カンカン帽みたいな帽子をかぶって。そんな感じの写真を知ってますけどね。

江上:ずいぶんオシャレな方だったんですね。

福岡:いや、その当時みんなオシャレじゃなかったのかしら。写真を見たらみんな、こんな帽子をかぶってますね、あの時分。

江上:ご家族とかご親戚で美術に関係があるようなお仕事されている方は。

福岡:美術はないですね。ただ親父は尺八の師匠をしてて。僕の生まれたときからしてて、晩年までずっと尺八を教えてました。親父のお兄さんも――お能の女役を何と言うんですかね、おやま(女形)っていうんかしら、お面の、女役の専門のお能の師匠をしてました。おふくろの弟が大工をしてたり。大工の影響というか、僕は大好きでしょっちゅうついて回ってたんですけども。小学校の4年生、5年生あたり。

江上:それは敗戦後、戻ってこられてから。

福岡:そうです。敗戦後戻ってきて。その敗戦の記憶はわりと覚えてるんです。普通だったら2日半ぐらいで帰れるんですけれど、ちょうど2ヶ月かかって、おふくろの里が滋賀県だったんですけど、そこに帰ってきた。その時に、僕は標準語をしゃべるもんですからね、当時としたらものすごい奇妙なんです、田舎にしたら。で、革靴履いてるわけですよ。みんな一番いいのを着て、あんまり持つもん持てないから。革靴履いて、ヘルメットみたいな変な帽子をかぶって、田舎にしたらものすごい奇妙な。それで「ボク」って言ってるって、笑うんです。

江上:一人称が。

福岡:「オレ」と言っても笑うんです(笑)。方言というのか、田舎の言葉でそう言って。こちらにすぐ慣れてしまいましたけどね。そんなんでたぶん無口になったんかな、とも思ってるんです。中学2年生まで田舎にいてるんですけども、堺にまた戻ってきて。そしたら今度はもう、その田舎の言葉しかしゃべれないです。そうしたら、またこっちで笑われる。

江上:田舎というのは滋賀県ですよね。

福岡:滋賀県の(高島郡)マキノ町。海津というきれいなとこですけど。

江上:先ほどおっしゃっていた、大工の仕事をされていたのは、その滋賀県?

福岡:そうです。おふくろの下の下の弟ですけども。普請があるごとについて回ってましたけどね。いろんな木の端切れとかもらって。そんなんがものづくりの勉強みたいになってるんでしょうね。もともと絵はうまかったんです。なんかそれは記憶にあるんですけど。中学でも飛行機ばっかり描いてましたね。それもアメリカのボーイングとか。鉛筆だけで、アルミニウムの光沢を出して。そんなのを看護婦さんに褒められて。そんなんは覚えてます。絵だけは、こっちに帰っても、どこへ行っても、うまかったんです。学校内で1番ぐらいうまかったです。自分は「絵はうまい」と思ってたんです(笑)。

江上:中学校までの滋賀県のことで、ほかに何か印象に残っていることってありますか。

福岡:滋賀県の印象というのは、まず中国から行ったもんですから、まず野菜というのがどんなふうに作られているかも知らなかったし、人糞を野菜にかけるという、もうあれがまいってね(笑)。どうしようもなくて。それから一切野菜類を食べなくなりました。

江上:え〜(笑)。

福岡:今は食べますけども、そのときは炊いた野菜でも嫌だったです。そんなイメージがあるもんですからね。

江上:じゃあかなり大きなカルチャーショックというか。

福岡:でしょうね。中国は特に生もんは食べなかったもんですから。ミネラルウォーターなんかまだなかった。一応みんなお湯にして、それを冷やして飲むとか。野菜に肥料をやる、あれはもうどうしようもなくて。

江上:ものづくりに興味を持たれたきっかけというお話が出てきたんですけれども、最初、建築家になろうと思われたという話を。

福岡:それは、その大工さんの影響があると思います。建築家になろうと思ってたんです。ただ建築家というのはどんなんか、あまり知らなかったです。まだ当時、建築家というのは、今だったら安藤(忠雄)さんみたいに独学で建築家になってますけど、そんな発想は全然なくって。やっぱし大林とか竹中組とか、ああいう大きな会社に入らんといけない、ちょっと性格的に会社は無理やな、と。それで建築の雑誌をいろいろ見てて、その時にたまたまガウディの写真集を見て、その辺から彫刻というか立体みたいなものに興味を持ち出したんですね。

江上:その興味を持たれたというのはいつ頃のことですか。雑誌をご覧になっていたときは。

福岡:それは高校の2年生あたりです。

江上:高校が建築学科の高校ですよね(注:堺市立工業高等学校)。

福岡:そうです。建築科に、高校は入ったんです。レベルからいったら、僕はもうちょっといい高校に行くように言われてたんです、担任の先生なんかに。でも「いや、僕は建築家になるんだ」いうことで。建築いうたらその当時、堺と今宮(高校)と都島(高校)か、そのぐらい。やっぱり近いとこ、ということで、堺に。そんなんで、勉強はほとんどしてなかったです。でも学校の先生が「ひいき」してたんでしょうね。あんまり取れない点数が取れてる、成績表は。答案をほとんど白紙で出してるのに、ちゃんといい成績が。大ひいきだったんです。今は知らないですけどね。それでこっちもいい気になってしまって、よけい勉強しなくなって。
 で、絵はさっき言ったみたいに、うまいと思ってるから。その当時、白石正義という、東京の美校を出た、工芸を出た人なんですけども(東京高等工芸学校工芸彫刻部卒)、その人が堺の商工会議所かなんかで夜、塾をやっておられました。僕が絵を好きだということを知ってて「うちに来ないか」って言われて。「僕、お金がないから」って言うたら、「いやお金はいらん」って。それで初めて、ヌードのクロッキーとか、そういうのを我流ですけどやって。

江上:そういう絵の塾に通われたのと…

福岡:そんな、塾っていうのは一切通ってない。

江上:塾っていうか、そこの白石さんのところに行かれた。

福岡:その時も、なんていうんですかね、僕も生意気だったから、もっとも先生も教えてくれなかったし、ほとんど周りも素人の人ばっかりだし。

江上:行って、みんなで描いてるだけっていう。

福岡:初めてヌードを見たっていう感じで、見よう見まねでクロッキーしてました。その先生のところに1年ちょっと行ってましたかね。それで京都の美術学校を受けたんです。

江上:今の京都市立芸術大学。

福岡:京都芸大。僕はうまいと思ってるから。そしたら、いくらでもうまい人がおるわけですよね。

江上:受験はちなみに何科でされたんですか。彫刻科ですか。

福岡:彫刻科です。当時は7名でした、募集が。今から思ったら陶器屋の息子が4人おりましてね。宮永理吉と、あと何人かいましたね。そんなんで、まあ見事に落ちて。それで正確にデッサンをやり直さないといけないということで、天王寺の研究所(大阪市立美術研究所)に行ったんです。そうしたらそこの研究所の事務の女の方が、「デッサンをしたか?」と言うから、「しました」と。「ヌードはしたか?」と言うから、「しました」って。勘違いして「しました」と言ったんですけども、そういう経験があるということを言っただけなのに、そしたらということで、彫刻室にやられたんです。

江上:もう課程は終わったという風に、向こうは理解されたんですね。

福岡:そうです。デッサンを勉強するつもりだったのに、彫刻室に入ってしまって。そうしたらそこがすごく面白くて。そこはどっちかといったら、アマチュアよりもプロになりたいというような人が沢山おられて。一つはモデル代を払える余裕がないというのと、仕事場がないということで。月曜日から土曜日まで、何時間だったかちょっと覚えてないんですけど。僕はもう朝早くから行って、4時ぐらいまでいました。

江上:それを月曜日から土曜日まで、毎日。

福岡:ええ。だからいつの間にかデッサンの勉強なんて忘れてしまって、「もういいわ」と思って、それで次の年(大学は)受けなかったんです。

江上:ずっと研究所ではヌードの塑造をやるんですか。

福岡:塑造をやり始めたんです、ヌードの。でもやっぱし、なかなか出来ないんですよね。そうなるとあまり面白くなくて。研究所は結構出入りが激しくて、彫刻室の上のほうの棚に石膏の袋がいっぱい置いてあったんです。「これ誰のですか?」言うたら、誰のか分からなくて。使われてないような石膏なんです。古くなると、「石膏が風邪ひく」って言うんです、固まらなくて。それを海水で溶いたら固まるというのを誰かに聞いて、すぐ石膏をもらって、堺の海岸でそれを溶いて、そこに石膏を流して。そうするとちょうど逆に出てくるんですよね、モノが。指をグッと突っこんで、そこに石膏を流して。そうしたらこんな、全部、砂がついたままになるんです。洗ってもついたままになるんです。それが面白くて。それで美術館の研究所の隅っこで、石膏で、砂で、そういうものを作りだしたんです。
 そしたら日展の藤本という、頭のいい方でしたけどね。藤本何といったかな(注:藤本美弘)、その人も研究所に長いことおられて。モデルを使いたくて時々来られて、隅っこで作っておられた。その人がすごく「これ、いけるんとちがうか」と言われて。僕もその時まで、なんか分からなかったんですけれども、それから本格的にこれを作りだしたんです。

江上:日展の方がそういうことをおっしゃったんですね(笑)。

福岡:そうなんです。日展の人なんです。

江上:研究所って当時、保田龍門さんが先生だった。

福岡:保田龍門さんは、その前に来ておられて、一度やめられて、そのときは和歌山の大学の先生をされていたみたいです。でも時々そこへ来たら覗かれて、それで知り合ったんです。

江上:じゃあ研究所は、誰か指導される方がずっと。

福岡:指導されていたのは今村輝久さんです。でもほとんど僕には何も、なんとなく「ヘンなもん作るなぁ」というような感じで。

江上:みっちり指導するというよりは、みんなが自由に制作をされているという雰囲気だった。

福岡:そうですね。ほとんど自由にしてましたね。

江上:ほかに研究所の仲間というか、同世代でおられた方はあるんですか。

福岡:先輩に山口牧生がいましたね。もう一人、岡(忠)さんという、やっぱり東京美術大学を出た人がおられましたけれども。今から思っても、「ちょっと変わってるな」と思うような人が何人かいましたね(笑)。その人はほとんど毎日来られてたし。絵画のほうには、あとで知ったんですけど、木梨アイネとか、坂本昌也とか、モクボ何とか(注:モクボ明)とか、何人かいましたね。

江上:ご自身の作品の話に戻りますけれども、そういうのを作り始めて、それから、それを発表されるまでというのはかなり短いんでしょうか。

福岡:それは、今村さんが行動(展)に出しておられたんです。こういうの(行動美術協会)の会員になって、出したらといって。彫刻室のすぐ隣が集荷場なんです。

江上:なるほど、大阪市の美術館の中ですからね。

福岡:5点出したら、5点通って。あれは関西展ですかね、行動美術賞をもらって。「あんた、ええなあ」って(笑)。1回だけそこに出したんです。

江上:1回だけですか、行動に出されたのは。

福岡:はい。

江上:反響はどうでした? その当時ほかにそういう作品というのは。

福岡:団体展の反響の内容は僕も知らないし、どんなだったか知らないです。そのすぐあとに個展の話があって。それは松岡(阜)さんという、やっぱし東京美大、今の(東京)芸大を出た彫刻家、その人も行動だったんですけども、その松岡さんの仕事も手伝いに行ってたんです。松岡さんが「こんな画廊が空いてるから、きみ、しないか?」と言われて、それでしたのが最初(の個展)です (1958年8月12日—18日、白鳳画廊) 。

江上:じゃあ松岡さんが先に白鳳画廊のことを知っていて?

福岡:松岡さんがどうして白鳳を知られたのかは、僕も知らないですけども、1ヶ月ぐらい前だったんですね、その時、初めて個展をして。そうしたら、彫刻の個展はたぶんそこでは僕がしたのは初めてだったし、まだ個展というのが、二十歳そこそこでする人間がいなかったんです。大学行っている人はまだできなかった、卒業するまで。しても、彫刻の個展というのはまだそんなになかったんですよ。そんな溜められないというか。一つ作るのに何ヶ月かかかる、そういう概念があって。そんなので珍しがられたというか。
 それで、初めてやったわりには、山口牧生さんに言わしたら「すごいデビューやった」という(笑)。新聞もこうやって取り上げてくれて。朝日新聞なんか村松(寛)さんが来られて、もう一つ上の十河巌(そごう・がん)さんという人が、朝日の旗立てて、ハイヤーでボーンと横付けされて見に来てくれましたからね。そのときに聞いた話では、その人も絵を描いておられて、「僕の絵とかえっこしよう」と言われて。僕は「替えていりません、僕のあげます」言うて、向こうのはいただかなかったんですけど。そのぐらい生意気だったんですね。

鈴木:十河さんにあげられた。

福岡:うん。僕はあげるけども、そちらからは要らない。どんな絵か知らなかったですけど。まあ、いろんな人が褒めてくれて、新聞にも取り上げられて。で、その次の年に朝日新人展(1959年 6月30日—7月5日、大阪・高島屋)かなんかに呼ばれて。まあとんとん拍子にシュッシュッシュッと。
 その時に、「関西でしてたら駄目だなあ」、そういうようなことを思って。その時分から『美術手帖』を見だしたんです。そしたら関西のなんか、誰も出てないわけです。展覧会案内もないし、何もないんですね。でも東京では出来ないし。だったら向こうから評論家を呼ぼうと思って、それで、その当時有名な御三家に手紙を出したんです。

江上:手紙を出された?

福岡:3人に出した。東野(芳明)さんと、中原(佑介)さんと、針生(一郎)さんと。そしたら東野さんは「行けない」と。けれど「君の作品はもうちょっと観念的であるべきだ」というような返事をくれました。

江上:手紙に資料か何かを付けられたんですか。写真とか。「観念的であるべきだ」みたいなこと言ってこられるというのは。

福岡:それは、個展をするちょっと前に「集団現代彫刻展」というのが東京の西武であったんで。

江上:1960年ですね(第1回集団現代彫刻展、9月16日—25日)。

福岡:その時にその人たちは見に来てくれてて、僕の作品を知って。その時は砂の作品じゃなくて、セメントの作品だったと思うんですけど、第1回は。

江上:東野さんはそういうお返事で、針生さんは。

福岡:針生さんは返事も何もなかったです。中原さんは「その週には行けないけども、次の週だったらひょっとしたら行けるかもしれない」と。それで見に来てくれた。でも彫刻に対してはほとんど無反応というか。

江上:あ、そうなんですか(笑)。

福岡:ぴゅっと1つ小さい丸を描いたドローイングにすごく関心を示されて、「これがいい」って。それで急きょそのグループ展に呼んでくれたんです。それが、あの「不在の部屋」という展覧会です(1963年7月15日—27日、内科画廊)。

谷森:それは仕事場の方に見に来ていただいたんですか。中原さんに来ていただいたところというのは。

福岡:うん。汚い小さな仕事場に。

江上:当時、関西でやってても駄目だということで、東京のほうに案内を出されたということなんですけど、一方でその頃、関西でも結構いろんな作家さんがおられて、いろんな活動をされていたと思うんですけど、当時の状況とかというので何か思い出すことはおありですか。

福岡:ほとんどの人が、どこかの団体展に出しておられて。僕ら位の年令の人だったら、まだヒラですよね。あるいは早い人で会友になるとか。その団体展って、僕、どうしても嫌でね。嫌っていうか、審査する人が僕らの作品を分かるはずないと(笑)。分かる人がおったとしても、たぶん1人か2人だろう。実際、展覧会した時に、見に来られる人は8割方団体展の人ですから。まあ、その中で何人か知り合いになりましたけども。
 ちょうど、具象と抽象というのがすごく問題になってて。「やっぱし抽象だ」ということで、みんななんか抽象になってて。僕の場合は、抽象も具象も、そんなんはあんまり関係なくって、なんというんですかね、ふっと出てくるもんだから。もう一つ理解できなかったりするのでね、抽象だ、具象だという問題はね。年配の人たちは、それまで具象を一生懸命してて、抽象に変わらんといけないから、半具象ぐらいから入って徐々に徐々に抽象になっていった、そういう人が多いですよね。その中でちょっと光ってたのが堀内(正和)さんぐらいですね。
 若い人はねぇ…… いろんな勢いのいい人は沢山出たけど、ほとんどやめちゃいましたね。残ってる人は、どっちかといったらやっぱり美術学校を出た人で、学校の先生になってるか。彫刻の場合だったら学校の先生になるか、あるいはマネキン会社に勤めたら一番御の字というか。

江上:へえ、当時すごく流行りのご商売だったんですかね。

福岡:それか、あと、さっき言った、芸大出た人のほとんどが陶芸の息子たちで、自分たちは陶芸家になるっていうんで。彫刻っていうものに対する考え方が、なんかすごく古くさいという気がしましたね。そのとき元気が良かったのが具体(美術協会)の連中で。でも具体の連中は、僕からみたら、なんか素人っぽいというか。芦屋の団体展の生き残りだなという感じがしてて。その中から何人かの人たちが、東京画廊やら南画廊やらに出して、スターになっていくわけですけども。どっちかといったら具体は、僕ら意識してなかった。

江上:逆に意識もしてなかった。

福岡:うん。具体の人たちも僕らには近づいてこなかった。

江上:近づいてこなかった(笑)。

福岡:近づいてきた人はほんの少しだけです。向井修二と、今井(祝雄)と、堀尾(貞治)ぐらいですね。

江上:今井祝雄さんと堀尾貞治さん。

福岡:あたりだけが画廊回りしてた。あと元永(定正)さんは知ってましたね。

江上:ちょっとお話戻るんですけど、東京であったという「集団現代彫刻展」。その時、山口勝弘さんなんかがご一緒だったんですかね。

福岡:ええ。今村さんが出さないかといって、出したわけですけど。僕が一番若かったと思いますけどね。そのときに向こうで山口さんと知り合って。いろんな人にそのとき知り合いましたね。

江上:関西だと村岡(三郎)さんなんかも出されたんですか。

福岡:村岡さんは、2回目かなんかに出したのかな。ちょっと忘れましたが。村岡さんよりも僕は平川さんという人に注目してたんです。

江上:正道さん。

福岡:そうです。

江上:でも平川さんって、あまりその後のご活動は……

福岡:平川さんは結局アル中になってしまって。ずいぶん昔に、ここ(注:河内長野の仕事場)ができた頃、フワッと犬連れて入ってこられて、「おっさん知ってるか」とか言ってね。すぐ分かりましたけども。この近くに住んでおられたみたいです。

江上:平川さんの作品のどういうとこに注目されていたんですか。

福岡:なんせ、関西的じゃなかったですね。

江上:関西的ではない(笑)。

福岡:どっちかといったら東京的な、きれいな、精密な作品ですね。緻密というか。いわゆる計算されたというかな。あんまり話したことないんですけどね。いつも垢抜けしてたというか、関西の、手垢のついたような作品じゃなくて。

江上:福岡さんご自身としても憧れるようなというか(笑)。そういうのとも違う?

福岡:もう少し話してたら好きになったのか、ちょっと分からないですけども。見た目ではすごくカッコ良かったですね。ただ生活は乱れてたみたいですね。村岡さんは、いつも誰かとひっついてんとやっていけない人なんです。だからずっと平川さんと一緒に付いてました。平川さんは大酒飲みで、村岡さんはちょっと飲んだら駄目なんです。二人でもう、悪さばっかりして。

江上:時代的にちょっと前後するかもしれないんですけど、1960年に彫刻家集団「場」というのを結成されていますよね。先ほど、団体展が嫌いで、自分たちの発表の場を探していた、みたいなお話だったと思うんですけれども、「場」って、どういう流れで作られたものでしょう、どういうことを目的に。

福岡:今から思ったら、僕のワンマンで。ほんとだったら、もう少しいろんなことをみんなと話し合って、例えばネーミングから、あるいは今度どうしようか、あれしようか、そういう順序になるんですけど、自分で勝手に全部決めてしまって、自分で全部人を選って、「場」という、その辺の知ってる連中でつくったわけです。その時に、一つは金がなかったせいですけども、「やっぱり彫刻というのは外に出るべきだ」、なんかそんな気持ちがあって、それで野外展をするんです。今村さんに紹介状を書いてもらって、大阪城公園に行ったんですけどね。わりとすぐに貸してくれて、展覧会をしたんですけど。その「場」というグループに対しての思い入れみたいなのは、あまりないんです。作品展は何回かやりましたけどね。

江上:彫刻は外に出るべきだと考えられて。最初は彫刻に対して関心を持ってはおられたけれども、絵を、デッサンを習いに行くべきところを偶然のように彫刻をやり始めてしまって。でもこの頃には、いろいろ彫刻に対しての考えとか、やはり彫刻家になりたいというか、彫刻家でありたいというような気持ちをすごく強く持っておられたのかなと、お話を聞いていて思うんですけれども。彫刻家になるとか、彫刻家であるということは、どういうことを目指しておられたのか、当時。

福岡:彫刻家という人の考え方がすごく古かったと思います、どっちかといったら。絵描きのほうがやっぱし少し先を行ってるというか。彫刻家の考えってすごく古いなと思って。そんな意味の反発心みたいなものがあったし、それとそのときに野外彫刻、外でやるという気持ちがすごくあって。そしたら、今まで作っていたものを外に持っていくだけでは通用はしないというか。一つには大きさのこともあるだろうし。そんなのでやったんですけど、そんなにたいしたこと考えてなかったから、やってしまったら、やっぱし散々な目に遭うというのか。悪さはされるし。

谷森:その当時、みなさん、モデルを見て塑造を作られるのが彫刻のような感じで。福岡さんの作品というのは、「彫刻」とみんなにすんなり受け入れられたんですか。

福岡:いやいや。今でこそ、僕は彫刻家になりたいし、彫刻家だと思ってるけど、彫刻家と言われたのは、ほんと50を過ぎてぐらいからかしらね。

江上:そうですか。じゃあ何と言われていた、思われていた?

福岡:一番よく言われたのは「立体造形作家」ですね。すごく嫌でね。

江上:嫌ですか。

福岡:あんなの、世界にもあるんですかね、「立体造形作家」なんて。造形という言葉は分かりますけど、その上に立体が付いている。下手したらまだその上に「現代」が載っかっている(笑)。僕はずっと彫刻家だと思ってやってきたんですけど、「いや、これはオブジェや」とかね。

江上:ああ、オブジェは当時流行ってましたよね、きっと。野外ということで言えば、枚方のモニュメントを作られていたのは、ちょうどその頃ですね(注:《奇蹟の庭》、1961年)。

福岡:白鳳画廊の荒木(注:荒木高子、陶芸家としても知られる)さんが紹介して、若い建築家(注:片倉健雄)だったですけども、「こんな仕事しないか?」と言われて。ちょうどロの字型になっている建築で、今でもあるんですけども、その中庭に彫刻を作ると、何をしてもいいと。

江上:何をしてもいい(笑)!

福岡:材料代は、セメントと、蛇紋石という石の緑の粉ですね、あと鉄筋はいくらでも提供すると。それと粘土と石膏代はもらいました。それは、そんなにたいした額ではない。現場も半分以上かな、出来てましたからね、建築の中で作らせてもらってたんです。アルバイトも何人か、3人以上は雇ってましたね。いくらやったかなあ、一日。僕は日当1,000円でした。

江上:当時の1,000円って結構いい値段ですか。

福岡:でしょうね。アルバイト350円ぐらいだったんじゃないかな。でも制作費というのは何もなかったんです。それで、内緒だけどもちょっとアルバイトを増やしてもいいって、水増ししてもいいって言われて。で、2人ほど水増しして。半年がかりだったですけれども。そこで思い切り大きなものを作ってしまって、ちょっともう、嫌にはならなかったですけれども、まあこの仕事はもう済んだな、と。で、しばらくちょっと空きがあると思うんですけども。あの彫刻、今置いてあったらもうちょっと良かったと思うんですけどね。表面が、セメントもやっぱしちょっと溶けていくんですよね。今だったら、きっと蛇紋石がいっぱい見えて、きれいだったと思うんですけどねえ。

江上:この作品かな(ファイルを見ながら)。のちに無断でなくなってたという。

福岡:それは、ある日、読売新聞かなんかに、削岩機でガーッと壊してる写真が載ってたんです。僕は知らなかったんだけど。そんなことを聞いて、「つぶされたよ」と言われて。それで抗議に行ったことがありますけど。そしたら結局たらい回しで、あっちやられ、こっちやられして、「誰のか分からなかった」ということで。プレートも何も出してなかったし。
 そんなので、つぶされて何もなかったあとで、何年か前に行きましたら、そこはずっと日陰なんですよ。よっぽどのちゃんとした植木じゃないと育たないんですけど、当時、枚方に有名な造園家が入っていたらしいんです。その人が「こんなもん、どけ」って、造園をやるということでつぶしてしまったらしいんですけども。何年か前、通ったら、やっぱりそこは植木が育たなくて、チョロチョロっと何かあって、パンダが2つ置いてありました。

江上:えー(笑)!

福岡:このぐらいの陶器のパンダ。

鈴木:パンダですか!

福岡:今あったらいい感じにはなってると思うんですけどね。

江上:ねえ、そういう場所であるとね。

福岡:ちょうどロの字型だから、その4階建てですからね、ずっと見えるわけです。上の角度からね。

鈴木:相当大きいですね。

福岡:18メーター。

江上:こういう、いわゆる流し込んで作るというというのは、これが最後ですね。

福岡:そうですね、それも5センチくらいの厚さですよね。

江上:次に登場してくるのが、この形になるわけですか。この《何もすることがない》。

谷森:木を彫り出して、変身…… (新たなファイルを取り出して)《SAND》(シリーズ)、エスキースから、落ちてきた木を拾われて、彫刻を彫られたりなど、そういった「変身シリーズ」というのが(その間に)。

江上:変身シリーズ?あ、(ファイルの)最新版があるんですね。ああ、すごいですね。おそらく一番最初の頃は若干、不定形のものだったのが、こういう形のある……

福岡:砂(《SAND》シリーズ)がだんだんうまくなってきて、面白くなくなってきたのと、その当時に、木の場合(《変身》シリーズ)、あまり自分としては、はっきりしたものは持ってなかったと思いますね。ただその辺の木を切ってきて、傷をつけたり。それでこのセメント(枚方のモニュメントのような作品)になって。この時に初めて、自分でも彫刻に対する考えというか、まあ、背は高くならないとか、そうならないのは、何と言うんですかね。

江上:水平に。

福岡:這ってでも下に行くっていうような、そういう気持ちは強くなってきて、いわゆる床置きの彫刻になりましたね。でもその当時、まだ床に置く作品があんまりなくて、みんなブロックとか何かに。ブロックが流行ったんです、彫刻台のあとに。ブロックを何段か積んで、そこに彫刻を置く、そういうのが「集団現代彫刻(展)」なんかでの主流でしたね。下に置いているというのは、立って俯瞰的に見るという彫刻というのは、なかったですね。僕はそれを意識的に作ったんですけども。でもそのシリーズは、さっき言った枚方の作品で一応十分やって終わってしまったという。
 それからいろいろ、ガチャガチャやってたんです。今から思ったら、その当時そんな言葉は知りませんでしたけれども、彫刻ドローイングだと思います。

江上:彫刻ドローイング。

福岡:うん。その辺のは。今はそう思うんですけど。そんなのをいっぱい作ってました。

江上:これは、今この資料を拝見しても、材質がミクストメディアとなってるんですけれども、いろいろな材料で語り尽くせないというような感じなんですか。

福岡:まず木は近くから切ってくるとして、あとは道端で拾ってきたものをだいたい付けてました。

江上:ああ、それで材料が書ききれないというか、たどれないというか。

福岡:いろんなものをひっつけて、靴の裏に打ってる鋲とか。よく革靴でもみんな、最近は知らないですけど、そんなんをしてたり、いろんなものをしてて、それにひっつけていって。その辺の作品はそうでしたね。

江上:この《何もすることがない》というタイトルが出てくるのは、1962年ぐらい。どういう……

福岡:それは、枚方の仕事が終わってからいろんなことをしてたんですけども、むしろこれといって自分がするものもないというのか、でも何かしないといけないという意識もあって、その辺から来た言葉だと思うんですけど。もう、ほんとに何もすることがなかった。一生懸命働いてたら、そら、それでいいんでしょうけども、働くっていう気持ちがなかったですね。これは何ででしょうね。べつにお金持ちでも、むしろ貧乏だったと思うんですけど。両親も働けとは言わないんです。

江上:あ、そうなんですか。

福岡:それだけは不思議でしょうがない。働く気がなくって、それでいて彫刻家になりたいって言うてね。普通だったら、そんな彫刻なんかで食っていけないから「なんかせぇ」って、そう言うもんやと思うんですけどねぇ。うちの親父がちょっと変わってたというか。

江上:彫刻っていうと、むしろ作るのにお金もかかるという。

福岡:(拾ってきたものを材料にしたのは)それもあったでしょうね。それと、やっぱし美術学校を出てないせいもたぶんあるんでしょうけど。その当時、美術学校を出た人は、みんな素材から入ってるんですよ。先生が石やってたら自分も石を。作るのも石で作って。木彫だったら、先生はたいがい木彫。僕の場合はそのどれもしたことがないもんですから、そういうことしかできなかったというか。
 それと偶然そういうのが、「あ、こんなんがいま流行ってるんだ」というのがありましたね、『美術手帖』なんか見てたら。そういう連中は、ほとんどが彫刻はやってない連中です。絵画をやってた。ハイレッドセンターもそうやけどね。みんな彫刻や立体をやってないんですよ、絵画ばかり勉強してて。だから、影響はべつに受けなかったですけど、「あ、こんなんやってるんだ」という、向こうも「関西でこんなんやってるんだ」という感じで、お互いに知ってはいましたけどね。
 そのゴミの作品は、きちっと評論してくれた人、誰もいないんちゃうかな、いまだに。

江上:いまだに。当時だけではなく?

福岡:うん。なんででしょうね。

江上:この作品を最初に発表されたのは大阪ですか。

福岡:みえ画廊という、すぐなくなりましたけど、ちょっと面白いところがあって。今の老松通りですけど、そこで(注:みえ画廊での個展は1962年7月30日−8月5日)。僕はとにかく新しい画廊が出来たら必ず行って「やらしてくれ」って強引に言うんです。

江上:そうなんですか。

福岡:それでだいたいやらせてくれました。お金払わずに。もちろん梅田画廊は断られましたけど。

江上:えっ、梅田画廊にも行かれたんですか。

福岡:行きました。一番最初に行きました。「もっと勉強してらっしゃい」って言われました(笑)。白鳳画廊の2回目のときは、「しないか?」と言われて、「まけたげる」って。「いくらぐらいまけてくれるんですか?そんなに出せない」。「いくらぐらいなら出せるの」と聞くから、「1日に250円ぐらいだったら出せます」、「そんなだったらいらない」って(笑)。もう、そのままさせてもらいましたけれど。
 荒木さんには、可愛がってもらったというか、大事にしてもらいました。この方が(白鳳画廊を)やめられてしばらくして御堂筋通りのビルの1階に、あかお画廊というのが作られたんです。「あかお」ってひらがなで書くんです。その時に「しないか」と言われて、いやがってちょっとにらまれましたけど。画廊で断るっていうのは、すごく難しいです(注:『オール関西』1969年3月号に掲載の記事「画廊めぐり 7」によると、あかお画廊は1967年10月開廊、田上美津子と荒木高子がディレクター、一等地にしては安い料金で作家に場所を提供して喜ばれていたが、1969年5月でいったん閉廊)。

江上:そうですか。

福岡:たいてい仲が悪くなる。それは個展だけじゃなくてグループ展でもそうです。断るというのはすごく難しくて。

江上:東京の画廊で初めて発表されたのが……

福岡:東京でなかなか個展をする機会がなくって。「集団現代彫刻展」のときに、そこがちょっと曖昧なんですけれど、「集団現代彫刻展」か、ちょっと記憶にないんですけども、秋山画廊でやったときかな。東京画廊の山本(孝)さんが、「うちでしないか」、東京(画廊)でしないかっていうことで、喜んでしまって。でも結局さしてもらったのは、ちょうど10年後です。2回飛んだんです(注:東京では1965年8月3日—9日の秋山画廊が初個展、その後、次の個展は1976年3月15日−31日の東京画廊となる。「集団現代彫刻展」には1960年第1回から1962年第3回まで出品)。

江上:あ、そうなんですか。

福岡:何月にするというのが決まってて。その時にちょうどアメリカのいろんな新しい作家が入ってくる時で、いろんな作家が飛び入りで東京画廊で決まってしまって。結局、弱い僕のを取り下げてしまった。「僕もう結構です」言うたんです、東京画廊の人に。そしたら、それからまあ考えられたんでしょうね。ちょうど10年目にさせてもらって。ちょうど東京画廊に「しないか」と言われた次の日に、南画廊の志水(楠男)さんにも言われたんです。

江上:へえ。

福岡:「でも、きみ、もうつばつけられたんだよねえ」とか、もうちゃんとニュースが入ってて。僕、どっちかといったら南画廊でしたかったんですけども、そんなあれがありましたね。

江上:作品のほうに話を戻すと、この棒状の作品(《何もすることがない》)から次に、ピンクのバルーンのイメージが。

福岡:そうです。その棒状も、群れで立ってるけれども、作ってるときはどういうふうにそれを展示するかというのは頭に全くなかったんです。ただどんどん毎日作って、溜まってきて、「これをさてどうしたもんかな」と思って。それでそんなのに結局なってしまったんですけども。

谷森:以前の、《奇跡の庭》シリーズのセメントの作品から、地面から立たないように立たないようにというテーマで作られてたのが、なぜこういった立つような作品に変わられたんですか。

福岡:それは反動かなと僕も思ってるけどね。立つけども、ほかの人が作ってるみたいに、堂々と立つ姿じゃなくて、今にもこけそうに立つ。こける者同士は寄り合おうと。なんかそんな気持ちがあって。もっともっと沢山あったんですけどね。

江上:数がですか。

福岡:うん。ほとんど毎日1本ぐらい作ってましたからね。腐ってしまった。

谷森:これは何なんですか(笑)? 「僕達」なんですか、ヒトなんですか。これは何?

福岡:人だよね。

江上:それは、当時その意識はありました? 作っているときは。

福岡:作っているときはあんまりないんです。

江上:あとから思うと、ということですね。

福岡:あとから思ったら、人でしょうね。ただ、これは女の子、これは男、そんなのはないです。

谷森:ご自身じゃないということですね、だから。いろんな他者?

福岡:僕もどっかに入ってるのかもしれんけど、これというもんはない。

鈴木:人びと。

福岡:ただ、みんな仲間だという気はあった。

江上:仲間だという気は。仲間であると。

福岡:うん。で、結局もう立てなくなって、そしたらどうしたらいいんかなと思ったときに、ふっと浮いたのが、ふっと上がったりしないかというのが、そのバルーンの発想なんですけどね。

江上:浮かび上がるというのは。

福岡:でも、浮かび上がってるのは、風船みたいなのが、ずっと上がっていくっていうのではない。単にふわふわ、ふわふわ漂っている。

江上:これなんかは倒れて、隠れてますね(笑)。

福岡:そんな変なのもありますしね。

江上:このときは壁にもいろいろな「仲間」が。

福岡:その時、初めて、そうやって平面みたいなのをしましたね。

江上:これはどこですかね。

福岡:昔の秋山画廊だと思います(注:前出の1965年の個展)。室町にありました。

江上:美術館で発表されたのが、たぶん最初がちょうどこの前後というか。1964年に「現代美術の動向展」を京都国立近代美術館の分館で、たぶんそれが最初にされたんじゃないかと思うんですけど。

福岡:東京の国立近代美術館が最初だと思うけどね、京橋の(注:1966年の「現代美術の新世代展」のことなので、実際には京都の展覧会が先)。その時すでに、新しいのができるというのがあって、もうそこはつぶすから、どうしても構わん、というのは覚えてます。ピンクの(バルーン)じゃなくて、石膏だったんです。

江上:はい、そのときに出されたのが。

福岡:黒いやつ、これがそうだと思います(写真を指しながら)。

江上:この時は、天井から。

福岡:どなたが撮ったかか知らんけど、上手に撮ってくれてるなと思って。

江上:バルーンは、最初ずっと石膏で作ってらしたんですね。

福岡:石膏と、あと胡粉ですね。胡粉をニカワで溶いて塗ってましたね。

江上:樹脂にされるのは?

福岡:樹脂は少し後ですね。平田(洋一)君というのが、美光社というマネキン会社に勤めていて、そこに僕もアルバイトに行ってみようっていうことで、行ったんですけどね、1日目で「これはとってもできないな」と。なんか「首作ってみろ」とか言われてね、やるとそれが難しいし。樹脂なんか扱うのはまた違う職人の人がいるんです。

江上:平田さんとはどこでお知り合いになったんですか。

福岡:平田はね、画廊だと思いますけど。白鳳画廊にはよく居ました、そのときはまだ作家してなかったですけど、よく来てて。平田は、もし本格的に作家してたら、すごい人になったと思う。

江上:当時から平田さんはマネキン会社に勤めていらっしゃったんですか。

福岡:当時、脇山(幹夫)さんという方がトップにおられて、それで平田がいてて、村松達也という、二紀の会員ですね、がいて。杉本(勝三郎)という若い良い作家がいました。それから高田和廣という、千早に住んでるんですけど、そんな作家がいて。それから狗巻(賢二)がいてましたね。ほとんどみんな平田の影響を受けてるというか。うまかったですね、仕事は。

江上:仕事? それは樹脂?

福岡:樹脂を使うのを勉強してて、うまいというのか、きれいというか。

江上:じゃあ福岡さんは、例えばそういう樹脂の扱いというのは平田さんに教わったようなかたちになるんですか。

福岡:うん、平田君から直接習って。そこの(仕事場の)外に出してますけど、宇部に出した野外彫刻展(注:「第2回現代日本彫刻展」1967年10月1日−11月5日、宇部市野外彫刻美術館)、そのときに初めて指導して、教えてもらったと。

江上:ああ、これですね(直置きの巨大な《Pink Balloon》)。平田さんや村松さんとかとは、アローラインというグループを一緒にされていたんですよね。

福岡:はい。

江上:それはどんな経緯で?

福岡:とにかく、しょっちゅう会ってましたね。

江上:で、「一緒にやろう」みたいな。

福岡:だいたい昔は画廊に行ったら誰か居てて、友だちおったら声をかけて「あの人がやるんやったら」って誘ってましたね。ほとんどこういう連中は美術学校に行ってない連中ですね、偶然ですけどね。師匠もいないし。何人かはやめていきましたけどね。平田なんかもアル中になりましたけど、もっとちゃんとやってたら大作家になってたか、まあどういう風にしてたか、ちょっと分からないですけども。才能のある人だったと思います。

江上:なんとなく、信濃橋画廊がちょうどオープンするぐらいの時期まで(話が)来ましたね。

谷森: 信濃橋で、皆さん(当時)ブロックを台座にしてたって。信濃橋の下にブロックいっぱいありましたもんね。

鈴木:それに(作品を)載せはるんですね。

福岡:ブロックも、それからしばらくして軽量の、軽いのが出て、その時にはもうブロックはやらなくなって。でも今から考えたら、あんな穴あきあきの台座っていうのは、なんか変なんですけどね。なんであんなの使ってたんだろうなって思って。

江上:それこそ昔の都美館(東京都美術館)の団体展の写真とか見たら、たしかに必ずありますよね。あの床とあのブロック、セットになってる印象があります。

福岡:あんなん不思議でならなくって。あれがカッコ良かったんかもしれないですけどね。

江上:でもブロックも、当時は新素材といえば新素材ですよね。

福岡:まあそうですよね。

江上:なんていうんでしょう、規格がそろっていて、便利な。ところで、福岡さんは、こういうインタヴューは、結構沢山受けていらっしゃるんじゃないですか?

福岡:いや、そうでもないです。藤巻(和恵)さんの展覧会のときくらい。

江上:伊丹市立美術館の(注:「所蔵品展2 答えのない質問」2009年10月3日—11月23日でのインタヴュー)。

福岡:最近、やっと少し話すようになりましたけど、若い時はほとんど無口でね。「福岡さんがしゃべってる!」ということで、大変だった。ほとんどしゃべってなくて。それは最初に言った、言葉のせいだと思います。

江上:小さい頃の。

福岡:田舎弁が出るのが恥ずかしくてね。

谷森:この当時、みんな、なんでグループを作られてたんですか。すごい気になります。東京もだし、関西もですね。関西はちょっと遅れて。

福岡:それはやっぱり、反団体展。団体展の中でも、やっぱり自分たちだけでやりたい若い人たちがいたりして。行動(美術協会)でも、行動のなかでいくつかありましたね。僕らは無所属の、どこにも属さずにやろうと思ったんですけど、続く人はほんとにいないんです。ほんとに平田ぐらいです。そのうち皆どこか団体展に出したり。あるいは出しても、いつも落ちている連中ばっかし。だからひとつは、ちゃんと正規の美術学校行ってないでしょ。さっき言ったみたいに、美術学校出た連中は一つのパターンみたいのがあって、「うちらはこんなんだ」というのを教えこまれてしまってるから、なかなか抜けられない。いまだに関西で活躍している立体の人は、みんな違う分野から、だから松井智惠さんみたいに染織から出てきて活躍する。松井紫朗とか今村源とか、ちゃんと彫刻科出た人は少ないです。ただあの時は、たぶん入学するときに、彫刻科じゃなくて美術科かなんかの大きな枠で募集されてたんだと思うんです。僕の時は、そうじゃなくて工芸、彫刻と分かれてたんです。で、工芸の連中は陶芸やってるから、工芸行ったらいいのにと思うのに、彫刻に行ったり(注:京都市立芸術大学の美術学部は1971年から「改革案」が施行され、今村源氏によると当時は「造形コース」「工芸コース」「デザインコース」のうち「造形コース」から日本画、油画、彫刻、構想設計に分かれてゆくという仕組みだった。なお現在では「美術科」「工芸科」「デザイン科」となっている)。

江上:それが不思議ですよね。

福岡:それはたぶん八木(一夫)さんの影響だったと思います。

江上:そうですね。逆に工芸は工芸のなかで、すごく伝統のなかで新しいものを求めている人たちがいたってことなんですけどね。さっきのオブジェっていう言葉、それこそ「オブジェ焼き」とか流行ってましたよね。

福岡:絵画も「平面」と言ってしまったりね。やっぱり僕は「絵画」でいいと思うんです。「平面」てのは何かね。でも「僕は平面です」と言う人もおりますしね。

谷森:その当時、山口さんは何をされてたんでしょう。山口勝子さん(注:信濃橋画廊の画廊主。詳しくは第3回のインタヴュー参照)。画廊が始まるまではお会いしたりとかしてないんですか。

福岡:知ってたけど、そんなに親しくはなかった。ただ信濃橋画廊は、また今度話すけども、山口勝弘さんが設計してる(注:山口勝子と山口勝弘は親戚にあたる)。「君のために、(作品を)吊すようにしといたよ」とかいって、(天井に)フックが付いてる。

鈴木:金具が付いてる。

江上:勝弘さんとは、東京の展覧会以降、ずっと交流というか、あったんですか。

福岡:勝弘さんとは「集団現代彫刻展」で知り合って。

江上:福岡さんは、ご両親も「働かなくていい」ということだったんですけど、ご自身の生活は、こんなプライヴェートなことをお聞きしていいのか分からないですけど、どのようにされていたんですか。

福岡:生活は、25歳のときに友だちがやってる…… 友だちってほどでもないんですけども、絵画教室を長居でやってて。それを「僕、もうやめるから、君しないか」と言われて。その時したのが、週1、半日働く。その時、5人ぐらい子どもがいましたね。その保育園が大きくなりまして、法人になって、今はもうすごく立派になって、そこで二十何年か教えてました。多い時は50人ぐらいいました。週1回ですしね。あとはブラブラして。親にやかましく言われてたのは、「賭け事だけはするな」と。

一同:おー!

福岡:僕は凝り性ですからね。「賭け事だけはせんといてくれ」とは言われてました。まあ、それが唯一の収入というのか。10万ちょっとありました。女房がかなり年上で、喫茶店へ行ってもどこへ行ってもみんな払ってくれてましたから、お金は要らなかったです。その女房も、働きなさいとは一つも言わなかった。それはありがたいことですけどね。ただ、今居てる娘がやかましいです。

江上:そうなんですか(笑)。

福岡:今頃になって「働け」って(笑)。

江上:お嬢さん(福岡彩子)は作家さんでいらっしゃいますよね。

福岡:作家というか、陶器を作ってます。これも、皆そうですけどね(お茶を飲んでいる器を指して)、これは失敗もんだと思いますけど。だから今、陶芸で自分が一家を養ってるみたいに思ってるんです。うまいのか下手かさっぱり分からん(笑)。薄いのと、すごくひっくり返しやすいんです。なんか、ルーシー・リーですか、に影響されて。それからまあ、お金にはあまりならなかったけれども、彫刻やってたら、モニュメントの仕事が結構あります。僕はどっちかというと、してないほうなんです。

江上:そうですよね。

福岡:バブルの終わりかけあたりに、ちらっとしたぐらいで。あれにドボッとはまった作家はほとんどだめになってしまったというか。モニュメントというのは、違いますから。それでいてモニュメント作家というのは、あんまりいないんですよ。

江上:モニュメント作家(笑)。

福岡:はじめから自分はモニュメントを目指してるという。個展をするにしても、モニュメントの模型というか、そういうので自分は目指していこうという作家の人は、あまりいないんです。一番近いのは新宮(晋)さんですけど、彼も、そんなにモニュメントというのは、あまり意識してなくて。

江上:そうですね。

福岡:たまたま、風をつかわないといけないからだと思うんですけど。

江上:ちょうどさっきの、時代的な流れの続きにお話が戻ると、60年代、いろんなところで発表されて。ちょっとざっくりした話の流れになりますけれども、そのあと70年前後となると、ちょうど野外彫刻展のブームだった頃ですよね。福岡さんも何度か出品されてますよね、宇部とか須磨とか。

福岡:ねえ。あれなんかも、最初のうちはみんな賞なんかあてにしてなかったんです。本当に好きなものを作って、出して、でもそんなのはほとんど賞はつかなくて。ちょっと面白いのは、K氏賞というのを取ったんです。あれは作家のなかでは割と位の高い賞で。

江上:位の高い(笑)。作家の間での位の高い賞。

福岡:5万円でしたけどね。

江上:K氏賞を取られた作品が、まさしく(仕事場の)外にあるんですね(注:1967年の宇部に出した《Pink Balloon》)。

福岡:当時、もうほんとにいやらしい色をしてたんですけど。ヨシダミノルが、福岡の横で嫌だ、と言って(笑)。
それから今度は、「こうしたら賞がつくだろう」というコツを覚えた作家が出てきましてね。木村光佑がうまいこと言ってましたね。3つ素材を組み合わせる。ピカピカにする、映るようにね。ステンレスと、何かと、3つ素材を組み合わせて、そしたら一発やとかって。何人か、最初は面白いのあったんですよ、ピンとロープだけ張った宇佐美圭司の作品とか。

江上:すごいいろんな可能性を、みんな追求している。

福岡:僕は須磨の時に、「ここではしないほうがいいな」と思いました。

江上:何の時?

福岡:須磨離宮公園。すごく立派な公園で、こんなとこに彫刻を置く必要ないと思いましたね。造園家の人がものすごく反対されてて。

江上:そうなんですか。

福岡:それで作家にそれぞれ抗議状が来ました。そういうのをされたら困ると。そうしたらまたすぐに引き続き、今度は役所から、「変なものが行ったけど、すまなかった」というような、そんな手紙が来ました。

江上:そういう話も、逆に今だと考えられない話ですね。

福岡:芝自体は、1ヶ月(作品を上に)置かれてたら駄目なんですって。貼り替えても、そこだけ色が違うし。

江上:でも結局、須磨は2回出品はされてますよね。

福岡:そうです。2回で、3回目で辞退したんです。というか、何を作っていいか分からなくなりましてね、野外彫刻という話が来たら。どうしようと、作れなくてやめたのと、さっき言ったように須磨なんか、ないほうがいいと思ってたし。

谷森:何かお手紙を出されたって、もう出さないって。

福岡:どこに手紙?

谷森:事務局に抗議書かなんかをお書きになったって。

福岡:僕、持ってないけど、来たのは覚えてる。

谷森:いや、福岡先生が事務局に書かれて。

福岡:それは辞退したときでしょ?

谷森:「こうこうこうやから、僕は辞退させてください」って。

福岡:その時に、もうやめたほうがいいのと違うか、というようなことは書いたような気がする。

江上:その彫刻展自体もやめたほうがいいんじゃないかと。

福岡:うん。

江上:ちょうどその頃って、今、資料を拝見してても、あそこ(仕事場の中)にもありますけど、毛の生えたようなものを作られてたり。

福岡:これは毎日の現代展に出した作品の一部なんですけどね(注:第9回現代日本美術展、東京都美術館、1969年5月10日—30日に出品した《空中美術館》の一部を改名し、《地球を植毛すること》として1997年に信濃橋画廊での個展で発表)。平井さんって神戸におられましたよね。

江上:平井章一さん(元・兵庫県立近代美術館学芸員)。

福岡:あの人が、「これ、うちでほしい」って。(予算の問題で)すぐ話はつぶれてしまいましたけど(笑)。

江上:彫刻でも、すごくいろんなものを使ってされていますし、あとこの頃って、私は拝見したことないんですけど、映像とかも作って。

福岡:そうですよ。なんか、いろんなことしてたんでしょうね。

江上:映像って、どんな作品を作ってはったんですか。すっごい興味あるんですけど。

福岡:映像作品は、見たことないですか?

江上:ないんです。

福岡:いっぺん信濃橋(画廊)でチラッと編集して流してもらったんですけどね。映像展は、いつの頃かな、1970年代、流行ったんですよ。8ミリカメラがやっと普及しだして、一般の人も買えるぐらいの値段に。8ミリの映像が流行って、画廊でも映像を、何かそんなのをしましたね。僕も映像を、その8ミリカメラを借りてやってたんですけどね。
 どんなんがあるかなあ。一番簡単なのは、御堂筋にチョークでずーっと線をひく、それは映像をする前にいっぺんやったことがあるんですけど、御堂筋の歩道ですけどね。棒にチョークを結びつけてずーっとチョークで引いていった。その当時「ハプニング」って言ってましたけどね、やったことがあるんです。

江上:チョークもピンクなんですね。

福岡:そうです。巡査も来ましたけどね(笑)。「帰りに消します」って、それで済みましたけどね。それはダーッとピンクの線が走っていくような感じだけで。一番最後に、僕が線を引いていくところがチラッと映って、終わりと。

鈴木:誰に撮ってもらわはったんですか。

福岡:誰が撮ってくれたんでしょう。ちょっと記憶にないですね。

江上:仲間の作家さんとかでしょうかね。

福岡:作家か、ひょっとしたら山口さんかもしれません。山口さんのカメラです。

一同:ああ、そうですか。

谷森:山口さんはかなりお手伝いされてますよね。この作品(《地球を植毛すること》1969年)も山口さんが貼ったんですよね。

鈴木:ふさふさをですか?

谷森:はい。それは勝弘さんですか、撮影は。勝子さんですか。

福岡:勝子さん。このファーを貼ってくれたのも山口さんです。

江上:当時、勝子さんが。

福岡:山口さんと、画廊に勤めておられた武田(千恵子)さんという女性の方二人で。

谷森:意外ですね。山口さんが撮影されたなんて(笑)。

江上:しかも御堂筋で。

鈴木:一緒に付いて行かれるわけですよね。

谷森:でもなんか分かるような気がします。こう(カメラを)持って歩かれる。

福岡:短い3つを1本にした映画なんですけど。あと何やったかな。

谷森:《ボディカバー》。信濃橋画廊に車で。

福岡:ああ、そうかそうか。《ボディカバー》というタイトルの作品で。車のボディカバーなんですけど。僕がボディカバーを車にかぶして、それで乗り込んで、画廊のとこをクリッと曲がってきて、止まったらボディカバーを開けて出てきて、きれいに丸めて車のトランクに入れて、ひゅっと階段を下りていく。そんな内容です。やってることの逆をやっただけのことです。今から思たら怖いんですけどね(笑)。ボディカバーをかぶったまま、たぶんこのぐらい切ったらここで止まるだろうな、ということでやってますけど、グルッとは回ってないんです。ウソついて、出るときと、車を止めたとこだけがボディカバーを着てる。そんなんだったかな。

谷森:あと、モス、蛾。《Moth》ですね、英語で。

江上:《Moth》! 蛾!

福岡:蛾はね、ここで偶然写真のライトを、何してたんかなあ、何か撮影してたら、こんな(大きな)蛾が向こうの方からバーッと飛んできてね。それでボーンとスクリーンに当たって、ポトッと落ちる。ほんとにハガキぐらいある、こんな蛾です。そんなんがいっぱい来るんですよ。それで「これは面白い」って。いろんな蛾が来ましたけどね。スクリーンにとまるんです。とまって落ちるんだけど、また来てとまる。それで最後に、ピピピピッと羽にガソリンつけて、ピュピュッと火つけて。

鈴木:わーっ。

福岡:スクリーンはガラス繊維なんです。だから燃えないんです。蛾だけがポトッと。《Moth》、これが、ないんです。

江上:フィルムが?

福岡:うん。どこかに何度か貸したのは覚えてるんですけどね、なくて。よう覚えてたね。

谷森:信濃橋画廊で一度発表されたでしょ、何年かに。

江上:それを再上映というか。再発表というか。

福岡:そうだったかな。何度か貸し出したけどね。

江上:ここ(仕事場)ですか、その蛾が。

福岡:そうです。

江上:じゃあちょうどこのお仕事場をつくられた、すぐぐらい?

福岡:ここはまだなかったんです。ちょうどガレージあたりのところにスクリーンを張って。

江上:建てられる前ということですか、ここはなかったというのは。

福岡:これは10年ちょっと前に大工さんに建ててもらった。

江上:ああ、(仕事場の)ここからこっち(側の部分は、最近、大工さんが建てた)ということですね。

福岡:はい。こっち(反対側の部分)は自分で建てたんです。この辺は雑草だらけでした。

江上:ここを建てられたのはいつ頃でしたか。

福岡:30歳になってからかな。1970年か…… ちょうど作りかけのときにドクロ(注:《エピローグ》1970年第2回須磨離宮公園現代彫刻展に出品)を作ってました。

江上:ああ。じゃあ1970年ちょうどですね。

福岡:まだ家が出来てなくて。屋根だけは張ってましたけども、柱だけがあって、外で作ってましたね。

江上:ご自分で作られたというのは、設計だけじゃなくて、ほんとに作られたんですか。

福岡:もちろんそうです(笑)。違うところで全部普請してきて、ここで棟上げをした。ふつう棟上げというのはだいたい1日で終わるんです。でも3日もかかって。土地の人が「大丈夫かいな」とかいって、あとから聞いたらそんなことやって。みんな革靴を履いたままハシゴに登ったりしてるんですからね。

江上:この場所を選ばれた理由とかはあったんですか。

福岡:いろんなとこ見て回ったんですけどね。ここは、あちこちに池があったんです。ため池があって。その時に釣りに凝ってて、ここなら釣りができると思って。それと調整区域だったんです。住宅は建てられないんです。農家の人が自分の家を建てる分にはいいんです。でも普通の人が勝手に家を建てることはできないという、1ヶ月前にここを購入したんです、その法律が出来る。それまで奈良とか、あちこちいっぱい見て回ったんですけどね。ここは坪1万円だった。もうちょっと向こうとここと、どっちがいいかって、同じ地主さんなんですけど。ちょうど桃が生えてまして。だからこれ建てた時には、まだこの辺、桃がいっぱい生えてて、まだちゃんと成ったんですけど、でも手入れせんと駄目なんですね。
 これは、でも僕が買ったんじゃないんです。山口さんのお母さんの名義で買ってるんです。

江上:山口勝子さんの? え、そうなんですか!

福岡:はい。

江上:それはどういうことなんでしょう。

福岡:それは僕が、仕事場がないということと、そしたら「土地をあれするから、自分で建てますか?」って言うから、「建てます」って。上(建物)はなんとか浮かしながら、でもそれも払ってもらったかもしれない。

江上:山口勝子さんじゃなくて、勝子さんのお母さんが、ですか。

福岡:そうです、お母さん。山口さんも、その時ぐらいから油絵はもういやになってて、ちょっと立体みたいなのを作りかけてたんです。それで、それを行動に出しておられた。ここでちょっとの間作っておられたんです。

江上:山口勝子さんは、画廊を始められてからも行動に出してはったんですね?

福岡:始まってたのかなあ。始まってたかもしれません。でも、そのうち画廊が面白くなったのと、忙しくなったので、そんなのしてられないのと、作る興味がなくなったんでしょうね。一時「画廊が面白くなった」と言ってました。

江上: 先ほどのチョークのところで思い出したんですけど、《ピンクバルーン》の、なぜピンク色なのかということをお聞きするのを忘れていました。

福岡:ひとつには、彫刻には、まず色はなかったんです。「なんで彫刻に色がないんだろう」というのが、一番不思議な疑問で。で、いろんな人に言ったたら、「彫刻には色はいらん」とか、「彫刻は素材のままでええ」、そういう返事が多かったんですよね。でも僕にしたら、彫刻に色がないというのは不思議でしょうがなくて、なんとか彫刻に色をつけたかった。
 ミクストメディアでいろいろ作ってた時期に、偶然缶を拾ったり、缶にチラチラと色がついてたんですけども、どっちかといったら焼け焦げたみたいな感じで。でももっときれいな色を塗りたい、そしたら何がいいかなと。白と黒と思い浮かんで。透明もありましたね。その当時ピンクというのは、どっちかといったらいい意味では使われてなかった時代なんです。「ピンクサロン」とかピンク何とか、卑猥な色という。それでいてきれいな色というか。両方兼ねた色で《ピンクバルーン》というのを作って。でも僕のピンクには、あまり卑猥という気持ちは入ってないんです。むしろ願望とか夢とか、そういうきれいなものという、その辺からピンクにしたんですけどね。長いことピンクに凝ってましたね。ピンクという色を打ち消すのにすごく大変になって。

江上:大変な?

福岡:なんとかピンクをやめるのが。そうしたら今度は色がなくて。それで結局、考えた末、ピンクを消すにはとにかく黒しかないだろうと。それで黒にしてしまったんです。すごく簡単なんですね。

江上:黒で塗りつぶすという。

福岡:やりかけたらしつこくてね、いまだに黒をやってるんですけど。黒へ行ってしまったら、これは消せないんですね。何を入れても黒になるんですよね。

江上:ちょうど黒という色が出てくるのが、さっきお聞きした映像にも出てきた、蛾が出てくるのとちょうど時期が同じというか、黒が最初に(彫刻で)出てきたのが、蛾の形だったように思うんですけれども。

福岡:そうです。蛾じゃなくてもよかったんです。

江上:蛾じゃなくてもよかった。

福岡:黒のヤモリでもよかったんです。でも蛾が一番、何か「これかな」と思って。僕、蛾が大嫌いなんです。

江上:あ、嫌いなんですか!

福岡:その当時、そこ開けたらもう真っ黒いのがバーッと飛び出るぐらいに蛾がおったんです。あの小さいの、どこ行った?

谷森:後ろです。

福岡:(樹脂の蛾を取ってきて見せる)

一同:ワーッ!!

福岡:こんな黒くはないんです。これ、本物の蛾です。本物から型を取ったんです。これはプラスチックなんですけどね。ここに触覚が付いてるんですけど。この蛾がもう、ほんとにすごかったんです。

江上:こんな小さいんですね。

福岡:これは小さいんです。

江上:大きいのもこれですか。

福岡:大きなのは、それからしばらくしてもう来なくなりました。いなくなりました。最近は知らない。けど、たぶんいないでしょう。これはどんなサナギなんだろう。青虫なんだろうか。

谷森:私の世代はあんな蛾見てないです。ほんとに。

福岡:それで気持ちが悪い模様がついてるんです、同系色みたいな感じで色がついてて。その時に「怖っ!」というか、不気味なものを作りたかったんです。だから、その時は思いつかなかったですね。今だったら、「ああ、こうしよう」っていうような気持ちがあるけど、その時はなんか分からなくて。そこにちっちゃいブロンズあったでしょ。なかった?

谷森:あぁ、どなたかの作品ですね。

福岡:僕のじゃない。

谷森:ですよね(作品を取りにいく)。

福岡:なぜ不気味なものを作りたいと言われてら困るんですけどね。僕は、もっと人間というのは、怯えないといけない、怯えないといけないと思ってたんです、その時分から。ただ「怯え」という言葉はそのときは頭に浮かばなかったんです。

江上:(谷森から握りこぶし大のブロンズ作品を受け取って)ほぉー。

福岡:それはね、長野県にいてる山崎(豊三、やまざきとよみ)という人の彫刻なんですけどね。そんなんのでっかいのを作りたかったんです、今思ったら。

江上:この作品に出会われたのはいつ頃ですか。そのちょっと前ぐらいなんですか。

福岡:いや、それはかなりしてからです。それは(もとの形は)粘土で。

江上:指の跡ですね。

鈴木:重いですね。

江上:すごい。ズッシリ。

福岡:そんなんを作りたかった。

江上:あとから、これを見たときに?

鈴木:「ああ、これや」と。

福岡:「これちょうだい」って買ったんですけど。その人も、東京の山岸というブロンズ屋で。

江上:ああ、山岸鋳金さん。

福岡:そう、もう一人友だちがいてて、どこかの教授をしてた。

江上:黒川(弘毅)さんですか。

福岡:一緒にブロンズ屋で仕事してて、僕が頼んだ。服部緑地で仕事をした時に山岸鋳金にブロンズを何点か頼んで、その時に知り合ったんです。それから間なしに、東京かどこかで個展したときに、なびす画廊かどこかに出てたんです。

江上:不気味ですね、確かに。不気味だし、生々しいですよね。

福岡:なんかね、すごく。僕はブロンズにしたいとは思わなかったんですけど、まあ、出来たらブロンズでもいいんですけども。とりとめのないようなもので、そういうのを作りたかったわけですけども、この時はとっても思いつかなかって、蛾になってしまったんですけどね。だから一発もので、あとが続かないというか。

江上:さわっていると、さわり心地がいいです。

福岡:なんかその大きさがちょうどいいんでしょうね。

江上:お渡ししなければ話は続けられないんだが、さわっているとさわり心地がよくてずっとさわってしまいそうで(笑)。私がさわったところ、ホコリがとれて、表情がかわってしまいました。

谷森:ずっと置いてはったからです(笑)。余談の話をまたしていいですか。

江上:もちろん。

谷森:この前、倉庫整理をしていたら、蛾(の作品)が出てきたんですよ、先ほど話に上がった。あの蛾に手や足が付いてるんですよ。人間の手とか。

江上:蛾に?

谷森:あれ、なんで人間の手とか足とか付け……

福岡:手とか足がピンクだったと思う。

谷森:それ、(この前)写真撮って。そこ(ファイル)には載ってないんですけど、客観的にみんな蛾とかしか撮ってないので。足とか手が付けてありましたよね、あれ、ピンクの。

福岡:蛾には足は付いてなかった。

谷森:付いてました。

福岡:手は付いてなかった。

谷森:手は付いてないですか。

福岡:足が付いてた。

谷森:ピンクだったんですね。

福岡:だから、そのとき一生懸命その作品でピンクを打ち消そうという気持ちがあって、それで一番最初は大きなピンクの袋が自分を押さえつけてるような作品だったと思う (注:《桃色の袋》、1971年) 。それは下に変な足がのぞいてたと思う。あれは僕の足だと思うんだけど。

谷森:あれにも足があるんや。

江上:これの下に足があるんですか!(ファイルの写真を確認する。)

谷森:あ、これにも足があった! それは知らんかった。

福岡:それ、足ない?

江上:これですか、うっすら見えるの。

福岡:それが足。

江上:足は作られたんですか、足を。

福岡:足は、僕はだいたい何でも自分で(型を)取ってしまうんです。本物から。自分の足を取ったか、取ってもらったかだと思います。その袋がまたこっち(黒い蛾がピンクの袋を押さえつけている《Pinkの残影又は黒の降下》1972年)に利用されてるんです。

江上:大きいですね、この袋。

福岡:大きいです。それも山口勝子さんがミシンで縫ってくれた。とにかく不気味なものを作りたかったのと、黒にしたかったということと、それでいて、なんかガッとこう押さえつけたり、押さえられたり、そういう彫刻というのか、そんなものがほしかったんでしょうね、黒の中に。

江上:黒の中に押さえつけるものが、ですか。

福岡:うん。それでいて不気味なもの。だから自分でも思うんだけど、自分はこっちで押さえつけられていて、でもどっちかというたら、押さえつけるよりもピンクを消してしまいたいという気持ちがあって。それで次からはピンクが消えていくんですけどね。蛾も消えていって。

江上:この袋の中身は何ですか。

福岡:それは発泡スチロールの軽いやつです。

江上:こちらは写真の作品なんですか(《石を投げる》1971年)。

福岡:そうです。そのへん、ちょっと写真が流行ったんですね。

江上:石を投げてる。川、いや池ですか。

福岡:池です。この近くの池で。それはトリックがあって。ふつうそのフォームでは水面にポチョンと落ちないんです。ボチョンと落ちたときにはもうそんな格好してないんです。

江上:そうですね、はい。

福岡:だから二遍、僕は(同じ)格好してるんです。投げて、もういっぺん同じ格好して、それで落ちるとこと投げてるとことが同時に撮れてるというか。その当時、近くの町の写真屋さんが、すごくこんなことするのが好きでね。写真を上手に焼いてくれるんですよ。3枚ぐらい撮って、どれがいいかとか、「この辺をもうちょっと焼き込んでみようか」とか。この辺の写真も、みんなそうです。

江上:作品の記録写真も含めて?

福岡:撮影は僕がしてるんですけど、焼き付けをきれいにしてくれてて。洗いもきっちりしてくれてて、いまだに全然変色してないです。

江上:こちら(《僕の顔》1974年)もご自身の顔の型取りでされているんですか。

福岡:それは個展の時の看板みたいな作品で。僕はもう現代美術から足を洗って、なんていうかしら、ちょっと負け犬みたいな気がありましてね。「だからもう好きなことするよ」てな感じで、開き直って。それから、そのへんの周りの風景の作品を作り出すわけです。その時の一番最初の看板というか。もうよそ見しないというか。そういう意味でちょっとペロッと出してるっていう。

江上:舌を。

福岡:その舌は、どっちかというと意地悪な舌ですね。「あっかんべー」の舌です。

江上:この顔の作品と、このあたりの風景の作品が。

福岡:それは同じ個展のとき。

江上:一緒のとき。74年。これは信濃橋でされているんですね(注:「福岡道雄展−無言」1974年10月21日—11月2日、信濃橋画廊)。

福岡:はい。信濃橋だけは、いつでもというわけにはいかなかったですけども、嫌だったらやめられたし、したいときに出来たので、それはすごく有難かったですけどね。そのかわり、壁塗ったり、いろんなことはしましたけど。それと、一番最初に「その人は(展覧会を)しないほうがいい」とか、「やめといたら」とか、かなり強引に言いましたけどね。

江上:ああ、アドバイスというか、強引に。

福岡:画廊の色がつくまで。いろんな人が来るんですよ。そのかわり僕はずいぶん嫌われたというか、にらまれたというか。でもその当時は、(信濃橋)画廊は学校みたいになってて、まあ、そこだけじゃないんですけど、白鳳画廊とかもそうでしたけどね。そこへ行ってみんないろんなこと仕入れてくるというか、勉強したりとか。大学へ行ってない、美大に行ってない連中は、かなり勉強してましたね。まあ今でもそうですね、どっちかというと続いている作家は。「もうやめたらええのに」と思うけども、やっぱし「いえ、ボクまだやる」とかいうてやりますね。そんな友だちもいますけどね。定期的にちゃんとするんですよ。お金がなかったらできないですけども、お金があったらお金を払ってやったほうが。そうしないと、すぐあっという間に、何もしない時間がすっと経ってしまうんです。大事な年齢の時期があって、30代とか40代、その辺はちょっとでも、お金払えたら払ったらええし、払えなかったら「払えない」って言ったらいいんですよ、「それでもしたい」って。でも、お金払ってまでするのは何とかって言う人もおるし。でも、代わる画廊はないじゃないですか。
 この谷森も、そう。お金払わない。あちこち頼みに回ってますけどね。この間も断られてきたみたいです。でも断られたぐらい、また行かなきゃ。向こうは好きでやってる人が多いから。これで儲けようと思ってる人はあまりいないですよ。

江上:そうですね。

福岡:儲かるもんじゃないし。不思議と現代美術をやる画廊の人って、売るっていうことをようせんのですよ(笑)。

谷森:舌をペロッと…… ご自身の顔、《僕の顔》の作品を信濃橋で発表された時、ずっと今まで展覧会をされている時、案内状に文章を書かれて皆さんに発信されて、でもここで「無言」というタイトルを付けられてますよね、《僕の顔》を発表された時は。「無言」と付けられたということは、僕はもう何もしゃべらないということなんですか。

福岡:そうそう。

谷森:そこからもう、いっさい案内状に。

福岡:しゃべらないというか、しゃべる言葉を知らないというか。どっちかといったら僕は、「作家はしゃべる必要がない」と言う人もいるんですけども、個展のときはリーフレットを出していたわけです。ヘンな、へたくそな文章を。何かこっちから強引に伝えていかないとヘンな方に行ってしまうじゃないですか。それから習慣というか、短い文章でもいいから、個展の内容に、ちゃんと自分の言いたいこととか、言わんといけないことを書くようになるべく努力してたんですけどね。このときは、もう書きようがなくて。

江上:書きようがない。

福岡:書けなかったですね。だから開き直って、僕、もう何も言わんぞと。それで「無言」というタイトルを付けたんですよ。

江上:書きようがないということと、さっきおっしゃっていた、「現代美術から足を洗うつもりで」ということは関係があるんですか。

福岡:このときにこんな具象の作品を作るのなんか、とんでもないことだったんですよ。

江上:当時としては(笑)。

福岡:ほんとにコンセプトの、コンセプチュアルが流行ったときで、そこを無理やりに作ったもんですから、僕自身が開き直ってしまったというか。今は抽象を作ろうが、具象を作ろうが、何作ろうが誰も何も言わないですけど、その当時、具象的なもので何か表すっていうのは、ある意味では勇気がいったし、開き直らんとできなかったというか。ただ、作っててすごく面白かったです、作ることが。それまではあんまり作ることが面白くなかった。

江上:作っている時は、自然にこういうイメージが出てきて、形にしていったという感じなんですか。

福岡:イメージは、作るイメージはないんです。「あ、ここ作ろう、ここ作ろう」とか、そういう感じで作ってましたから。

江上:むしろ、まわりを見ながら。

福岡:はい。ただそんなうまくないもんですから、下手くそですけどもね。無理に下手にも作らなかったし、ちょっとうまく作れても「僕はこれでいいや」てな感じで。

江上:「これを作ろう、これを作ろう」という、なぜそのように思われたのかという…目の前にあるものを作ろうと思われたことは、どのように選んでいったのかということを、もうちょっとお聞きしたいんですが。

福岡:最初は「ああ、ここ作ろう」、車でここへ来しなに「あ、この坂道作ろう」とか、そんな感じで作ってたんですけども、しまいに何も作るものがなくなってきて、「次、何作ろうかな」って。そのうちになんか水の作品がすごく多くなってきて。それは釣りをしていたせいもあるんですけども、しばらく意識的に水を作るようになりましたね。水面というか。それともうひとつ、コロコロ変わったら、もうそうそう作れないと、もうちょっと頑張ろう、頑張ろうって無理やり引っぱってきたというか。普通だったらもう5年とかその辺でコロッと変わってきたのに、この時代はものすごく長いわけです。まだ黒を引っぱってる。「もうないだろ、もうないだろ」って言いながら作ってるんですよね。「もうここでほんとにないだろう」とは思ってるんです(笑)。でもなんかの拍子にプッと出てくるわけです。

江上:風景を、最初はそれこそ作り始められたという。

福岡:風景を作るという頭なんか全くなかったんです。だから風景じゃなくてもよかったんですけどもね。そのうち風景彫刻なんて言われて。その当時、風景彫刻っていうのは、ありそうでないな、という。日本の欄間とかなんかも、あとから見たら風景的なものがありますけどね、現代美術の中で風景をやるというのはね。そのうち山本正道さんあたりが、きれいなの作りましたけどね。

江上:でも、いまもおっしゃってましたけど、黒というのはずっと変わらなかったんですよね、蛾があって、79年に(正しくは74年)、最初の(風景の)個展をされたときから。

福岡:その時に黒を決めたのは、やっぱし何も見たくないっていうことと。黒しか残ってなかったですね。

谷森:何も見たくないというのは、現代美術のことですか。

福岡:うん、現代美術。そのくせチラチラ見てたんだけどね。でも、その辺から気分が楽になったというのか。しばらくしたら、ものを作る楽しみみたいなのは出てきましたね。

江上:なるほど。その、見たくないというときの「現代美術」というのは、いったい何なんでしょう。

福岡:現代美術というのは、僕もはっきり分からないんですけども、やっぱり文句なしに新しくないといけないと思います。例えば100メーター走るとしたら、記録に出ないとだめだと思う。だから、一番速い人を追い越すとか、あるいは追いつきたいとか。それをちょっと過ぎてしまったかなと思って。そこそこの速さでは走れるけどね。「もうあの人にはかなわない」とか、「わあ、すごい人が出てきた」とか、そんなんがありましたね。

谷森:その当時、先頭を走っていたような作家って誰になるんですか、現代美術で。新しいものを引っぱっていく。若い人ですか?

福岡:(自分には)引っぱっていきたいという気持ちはなかった。ただ、マラソンで言ったら第1集団にいたいなあと。あるいは第1集団じゃなくても、まだ第1集団の背中がそこに見えてるというぐらいのところを走ってないと、第3、第4ではなんか嫌だったね。自分が先頭を走ってたかどうかは知らんよ。ただ、僕もそうですけども、ほかの人でもいいんですけども、美術の世界がもう少し良くならないかなというのは最初からあったんです。そのうち美術館がいろいろ出来て、画廊もいろいろ出来てきたけど、それもまた今へたってしまったんですけども。自分もいいのを作りたいけども、その世界が、もうちょっと何かこう、報われるというのか、それが一向にそうならないから。だから今の若い人たちなんか、一生描けないでしょうね。作ってる人が少ないというか。あまりにも、ある何かに光を当てすぎるっていうか、奈良美智なら奈良美智、何でも奈良美智になってしまう(笑)。何でも具体になってしまったし。「ほんとに具体は良かったの?」って、僕なんかは言いたいわけ(笑)。反具体論を、僕が評論家やったら書くんですけどね。でもそんな書く知識もないし、能力もないし、そんなん書いてもしょうがないしね、まず。
 だから僕、今一生懸命、女性を応援してるんですよ。今でもそうですけど、ほとんど教官は男ですしね。せめて何人かは女性の教官が。男でも、女性に習ったほうがいい男もおるわけです、きっと。でも、今のビンタのあれじゃないですけども、やっぱりそれに近い世界ですからね(注:聞き取り当時、大阪の高校で起きた教員による体罰事件が問題になっていた)。一枚絵を持ってる、版画を持ってるんですけどね、山下君、いい版画をする人がおったんです。山下義…… 何と読むのかな、あれ。

江上:義宣さんですか。義理の義に宣。

福岡:そばなんかを作ってる。

江上:そば作ってる人ですよね、はい。

福岡:あの人なんか、毎日のように先生に殴られてたんです。

江上:へーえ。

福岡:美術の世界でもそんなんやから。どうして、みんな美術をするのに必ず美術大学に行く、それが不思議です。美術大学を出てない若い作家は、ほとんど知らないです。美術をやるんだったら、語学をやるとか、もっと違うほうをやったほうがいいような気がするんですけどね。美術なんかは別に教えてもらうもんでもないし。
 よくしゃべるね。(笑)

江上:まだまだお聞きしたいんですけど、さすがにもう薄暗くなってきて。

谷森:集中力もそろそろ(笑)。

江上:福岡さんも、いまお話しされている間は大丈夫ですけど、たぶんあとでお疲れが。

谷森:でもすごい面白いお話を。

鈴木:すごいお話を。ありがとうございました。

江上:ありがとうございます。

谷森:勝手に想像で物語を作ってしまいそうなんですけど、聞けば聞くほどまた面白いことが。

江上:そうですよね。聞けば聞くほどいろいろ聞きたいことが出てきてしまって。

谷森:気になるわぁ…… ピンクの袋にはご自身の足で。ご自身が押さえつけられてるんですよね。

福岡:ピンクの袋?

江上:ご自身の足が付いていて、押さえつけられてるんですよね。

福岡:これでもかって。

谷森:そのまわりに蛾がいるじゃないですか。

福岡:それは、あとでだよ。

谷森:それはもう押さえこまれてるんですか、蛾に。

福岡:そうそう。

江上:すごいそこにこだわってますね(笑)。

谷森:若い頃からの作品を見てると、《SAND》の時代から、急に「棒」に行かれて、急にこういうふうにならはって、それで最後は押さえつけられて「無言」に行くのかと思って(笑)。

江上:まだでも、あと30年以上分お聞きしないといけない。

谷森:あと30年。

福岡:まだ30年あるの? ちょうど僕50年なんです。

江上:作家生活50年。半世紀ですね。

福岡:正味50年。自分でこんなん言うのおかしいですけど、50年ずっと続けた作家ってあまりいないんですよ。みんな大抵どっか勤めてるんです。それも一番いいときに勤めちゃうんですよ。だからせめて40ぐらいから勤めて、それまではブラブラしてて欲しいんですけどね。僕らのときはブラブラしてる人が沢山いてたんですよ。

江上:世の中に、ということですね、それ。

福岡:うん。ブラブラしてる人がいなくなった。

江上:たしかにそうですよね。むしろ働いても働いても食べられないみたいな風潮になってますもんね。

谷森:どうしようもないですよね。どうにかしてもらわないと、政治で(笑)。

福岡:現代美術って言われてるけど、何かに書いてましたけど、僕は、現代美術はちっちゃいところで、3%か5%といいましたかね、そこを現代美術と言ってて、あとは違うと思うんですよ。だから、何でもそうですけども、スポーツと一緒で、個人差は少しはあるけども、だいたい幾つから幾つぐらいって(いう時期がある)。まあ能力はもともと違うでしょうけども。現代美術に技はないと思うんですね。そしたら、そんなに続くのは、何か分からないですけどね。幾つになってもやってるという。小説家もたぶんそうだと思うし、いい時期の良さっていうのは、だいたいこの辺って決まってるし。でも、それで食っていけてたら、それはしてないってことはあるでしょうね。飯食っていけなかったら、違うことしてもいいと思うんですけど。それは難しいですね。僕も(制作、発表をやめたのは)70歳でしたからね。42か3かで勤めてます。

江上:大学?

福岡:ええ。でも変な大学で、もうほとんど自分の好きなものを作ってたんです、教室をアトリエにして。一応学生に課題は出してましたけど。生徒1人のときもあったんです。(注:関西女子美術短期大学に、1977年から非常勤で、翌年より教授として1996年まで勤務。)

江上:えーっ!

鈴木:先生1人。

福岡:先生はすごい先生ばっかり集まっててね。でもやっぱり作家先生はだめですね。

江上:だめですか(笑)。

福岡:1人か2人、1人ぐらいおったらええと思うんです。学生が横目でチラチラと見ながら、「またこの人、作ってる」というのは1人ぐらいおっていいと思うけど、あとはやっぱし学生のことを考えてくれるプロフェッサーがほしいですね。高校の先生みたいな人が、大学にもやっぱりいないといけないと思う。みんな作家、作家になってしまって。

江上、鈴木:ありがとうございました。