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原広司オーラル・ヒストリー 2012年8月9日

東京都町田市、原邸にて
インタヴュアー:辻泰岳、ケン・タダシ・オオシマ
書き起こし:成澤みずき
公開日:2013年7月14日
更新日:2018年6月7日
 

辻:この間は1960年代中盤くらいまでお聞きしたので、本日は「空間から環境へ」展(松屋銀座、1966年11月)からお話をうかがおうと思います。この展覧会で《有孔体の世界(スクエア)》という、壁面リリーフ、模型を集めた作品を出展されています。これは《伊藤邸》(1967年)、《佐倉市立下志津小学校》(1967年)、《慶松幼稚園》(1968年)が元になっていると思います。この展覧会は粟津潔さん(1929-2009)とか、瀧口修造さん(1903-1979)、靉嘔さん(1931-)などエンバイラメントの会のメンバーと一緒に出品されています。当時の展覧会のお話をお伺いできればと思います。

原:そうですね。まあこの細かいことというのはいろいろ忘れちゃったんですが、この機会と、それからもう1つ、今日話すであろう岩波の勉強会、それから筑摩(書房)での勉強会というのは、外部の人たち、建築以外の人たちと知り合うことになる契機になったわけですね。それが最初の集まりだったわけだけども。まあこういうムーブメントというのはちょっと上の世代の人たちが中心になっていて。どちらかというとですね、美術批評をやっている東野さん(東野芳明、1930-2005)とか、中原さん(中原佑介、1931-2011)とか、それから音楽の批評をやっていた亡くなった秋山邦晴(1929-1996)さんとかね。その人たちは、ちょうど僕らより5つくらい上の人たち。というと磯崎さん(磯崎新、1931-)ね、ようするに世代としては。武満さん(武満徹、1930-1996)とか、武満さんは入ってないかなあ。入ってないね。まあ粟津さんとか。僕よりかは上の、8つから5つくらい上なのかな。そのくらいの人たちが中心でいろいろ動き始めたので。それは磯崎さんがきっと僕を呼んでくれたんですよ。そういうかたち。その前に磯崎さんたちとの勉強会はずっと続いていましたから。これは何年かというと……

辻:1966年です。

原:1966年ですよね。66年ですから、(磯崎新との)勉強会というのは60年から62年頃まで続いていますかね。まあ何かといろいろ磯崎さんが呼んでくれたんじゃないかって。そうじゃないと、何かソサエティみたいなものだから(入れなかった)。それでこういう人たちと会ったわけですね。

辻:この展覧会よりすこし前に今のメンバーで「色彩と空間」展(南画廊、1966年)という展覧会が南画廊でやっていたのですが、先生はそちらには。

原:それは入ってないね。

辻:ご覧にはなられましたか。

原:いやー…… 見たかもしれないけど記憶にはないなあ、あんまりね。そういう展覧会はあったと思うね。この頃、岡本太郎(1911-1996)の展覧会(注:「岡本太郎展」西武百貨店、1964年)を磯崎さんがやった後、岡本太郎の展覧会の構成を僕はやっていますよね(注:「生命・空間のドラマ 太郎爆発展」(銀座松屋、1968年)、粟津潔と共に会場設計を担当)。そういうのもきっと磯崎さんが、岡本太郎に今度は僕にやらせてもいいからと言って、それでやったんじゃないかと思うんですよ。

辻:展覧会の企画の会議は磯崎さんのアトリエでもやっていたみたいなんですけど。

原:このエンバイラメント?

辻:そうです。

原:それが全てじゃないけれども、当時御茶の水にあった磯崎さんの事務所へはしょっちゅう行っていたね。何かあると。例えばよく記憶しているのは、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930-)が来た時にパーティとかね。

辻:先生もいらしたんですか。

原:うんいましたね。いろいろそれで知り合って比較的近い人、一柳さん(一柳慧、1933-)とか、麻雀のせいもあるんだけど、しょっちゅう会うようになったとか。まあ粟津さんとか、泉(真也)さんとかがここで知り合って、『デザイン批評』(風土社、1966年から1970年に刊行)に進んでいくんですね。

辻:そうなんですか。こちらでの出会いなんですね。

原:そうです。僕が《有孔体の世界》のパネルを作って、その次に粟津さんはどういう作品を出したかというとね、ステンレスに水を入れて、みんな周りの人が歩くと僅かな振動が出来るんだよね。その振動によって波紋ができるという、そういう作品を作っていたんだよね。だから非常に今日的な話ですよね。ちょっと若い世代ですね。僕が一番若かったくらいだから。

辻:(資料を見ながら)これは松屋の会場なんですけど、会場設計は磯崎さんがやっていて、原先生の《有孔体の理論》のパネルはここなんですけど、何か他の作品で覚えておられるものはありますか。

原:そうね、高松(高松次郎、1936-1998)は同級生でしょう。高松が椅子を出しましたよね。パース(パースペクティヴ)がついていた(注:《遠近法の椅子とテーブル》1966-1967年)。それから一柳さんは何を出したのかなあ。あんまり記憶していないですね。田中信太郎(1940-)は何出したんだろうなあ。田中信太郎は結局、《札幌ドーム》(2001年)でいろいろ作品(注:《北空の最弱音(ピアニッシモ)》)を作ってもらうんですけども、(日本側のメンバーとして)呼んで作ったんですけどね。今でも長い付き合いですけどね。横尾忠則(1936-)はポスターだろうなあ。

辻:他の作品の資料を持ってくればよかったんですけど。

原:横尾は「泣いてくれるなおっかさん」のあれがさ…… 「とめてくれるなおっかさん」かな(注:「とめてくれるなおっかさん」は1968年11月の駒場祭のために橋本治が作成したポスターのセリフ。横尾の出展作品は《腰巻お仙》、1968年)。何かそういうのだよねえ。あの感じね。

辻:美術批評家の東野芳明さんとはどういうお付き合いがあったんですか。

原:これはね、東野さんには僕はもう非常にお世話になってね。磯崎さんと東野さんと同じくらいだったのかな。僕が建物作ったりすると、東野さんがたいてい新聞に書いてくれた。東野さんは、デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)ですよね。東野さんはね、もうすこし長く続けていてくれればね、かなり日本の美術界も変わったんじゃないかと思いますね。

辻:中原佑介さんも。

原:中原佑介さんは、ずっとその後も長い付き合いだから。直接そんなにごく親しいってことじゃないけど。東野さんなんかは一緒に海に行ったり魚釣りに行ったりさ。これは宇佐美圭司(1940-2012)が…… ここ(「空間から環境へ」展)には宇佐美はまだ若くて入っていないんですが、やがて宇佐美圭司とは長く付き合う。東野さんは宇佐美を非常に可愛がって期待していたんですね。そういう関係だった。

辻:すこし上の世代ですけど、瀧口修造さんも入っています。

原:瀧口修造さんは何ていうのかなあ。もう僕らにとっては神様みたいな人でさあ。シュルレアリスムっていったら瀧口さん。ようするにもう圧倒的にみんなが信頼しているというか別格の人だよね。我々の仲間というか、こういう時代を切り開いてくれた、我々の時代の前に時代を切り開いてくれた。シュルレアリスムが持っている意味というのが(わかっていたのは)、まあ岡本太郎も実体を把握していたけれども、ほとんど瀧口さんですよね。日本におけるシュルレアリスムの意味をわからせてくれたという人はね。伊藤隆通(1939-)もいたんじゃないかなあ。伊藤隆通はここ(原邸)に来て、ベーコン作ったりハム作ったり(笑)。

辻:粟津潔さんはその後、《粟津邸》(1972年)(の設計)につながると思います。出会ったきっかけは何ですか。

原:これだと思う。エンバイラメントの会で。とにかく気が合うというか、そういう感じでしたね。

辻:他にも例えば勝井さん(勝井三雄、1931-)とか、木村恒久(1928-2008)さんとか、デザインの方々がおられます。

原:知っていますよみんな。特に木村さんとか。ごく親しくなったというのはやっぱりあれだよね、粟津さんとか一柳さんとか。だけどもこれは非常に意味があって、一柳さんを通じて武満さんと仲良くなっていくという感じだし、そのあと高橋悠治(1938-)も仲良くなって。それは後の岩波とか、筑摩とかそういうところ(勉強会)の関係で。だけども武満さんと(の話)は、この後のほうがいいかもしれませんね。

辻:この展覧会に前後してキーワードになったのが、発注芸術という言葉だったり、プライマリー・ストラクチャーというような動向です。原先生の論文の中でもプライマリー・ストラクチャーという言葉が出てきますが、どのような影響を受けましたか(注:原広司「現代のかたちの感覚」『SD』(1969年2月)。2016年1月31日更新)。またどういう興味を持っていましたか。

原:当時流行だったんじゃないかなあ。やっぱりアンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928-1987)が出てきますからね。とにかく粟津さんがアンディ・ウォーホルから強い影響を受けていたからね。僕はね、エンバイラメントというのはいろいろ解釈できるし、エンバイラメントというのはそのタイミングをうまく選択してくれたなと今では感じますね。僕がエンバイラメントって言い出したわけじゃないし。だけど一柳さんがジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)の所へ行って、エンバイラメントという概念を持って来た。やっぱりエンバイラメントだっていうふうに言った。僕は他の人たちの流れで。宮脇愛子さん(1929-)とかさ、そういう人たちの。秋山邦晴さんとの対談で何か言っていることの他の文脈かもしれないけど。当時、エンバイラメントという概念が出つつあったところでは一つの源流というのかな、それはやっぱりジョン・ケージじゃないかなあ。その後を見ても、ようするにブライアン・イーノ(Brian Eno, 1948-)がああいう世界で、ロックだけどアンビエントとか、ああいう概念を出してくる。そういうのもジョン・ケージ。ブライアン・イーノも直接じゃないけど、間接的にジョン・ケージのところにいた人の影響を受けているんだよね。それからなんていうか、環境音楽的な発想をしてくる。《4分33秒》(1952年)とか、静かにしていて周りの音を聞いてみようみたいな。つまり環境的なんだよね、ジョン・ケージの話というのは。だからそういう感じで僕は捉えていましたけどねずっと。

辻:それと関連してもう少し先になるんですけど、1968年の4月に草月アートセンターで「Exposé1968」というシンポジウム(「なにかいってくれ、いまさがす」)があって、そのご感想を「チカチカチカ数学者になりたい」(『デザイン批評』6号、1968年6月)という論文にまとめておられます。このシンポジウムは先生も参加されていますね。

原:そうですね、参加していろいろパフォーマンスをやって。なんかさ、粟津さんがやっぱりいろんなことに興味を持っていて。もうその時には『デザイン批評』が出ている頃ですよね。それはやっぱりさっきのアンディ・ウォーホルじゃないけれども、コピーとか複製芸術。それから僕が出て行っていろんなことをやったというのは、音楽でいうと当時もうその頃は武満さんたちを知っているんじゃないかと思うんだけれども、一柳さんたちがやって、クセナキス(ヤニス・ クセナキス Iannis Xenakus, 1922-2001)が来たり。クセナキスと僕は対談やったんですよね、対談というかインタヴュー(注:秋山邦晴、木村俊彦、栗田勇、佐々木宏、原広司、堀川正也「私の建築思想 来日したヤニス・クセナキスにきく」『建築』(1961年6月))。その時にはもう何ていうの、偶然性の音楽とか、アクションペインティングがはじめに見えていたけれど、そういう偶然性を入れた音楽の作曲を武満さんもやっていたし、クセナキスもやっていたし、みんなやっていたという、そういう感じですね。ステージにラジオを何台か置いて、それを偶然にやるとどういう音の場ができるかみたいな(笑)。そういうことを作ってみようということだったね。そんなことをやっていたよね。

辻:この論文の中で建築家廃業宣言をされています。「シンポジウムに影響を受けて」と書かれていますが、どういった心境だったんですか。

原:それはねえ、1968年でしょう。それはね、もう少し複雑ですね。というのは、全共闘運動が70年安保。この「空間から環境へ」展ではそれは目指してはいないけども、やがて70年の万博で行われるであろうそこでのいろいろな催し、それから建築というようなことに対する準備みたいな話。かたや全共闘運動が起こっているわけですから、それがやがて来るという状況なんだよな。そういう状況でどうするの?というようなことがいろいろとあって、そういう文章になったんだと思いますね。とにかく何か非常に曖昧ではあったけども、RAS(RAS建築研究所)を続けるというのは、東大に僕が行ったら、生研(東京大学生産技術研究所)に行ったらちょっと無理なんじゃないかという、そういう感じがあったということと、それからRASはどうも理念的にも、やっぱり僕がいろいろやらないとできないという状況がまずいんじゃないかとかね。宮内(宮内康、1937-1992)がいるし、宮内が左翼だからとかさ(笑)。そこは全体の力学が影響して、つまるところ僕は、建築やめていった方がいいんじゃないかというかさ(笑)。それでもう東大に行かなくちゃいけないというのはわかっているし。だから変なんだよねえ。ようするに片っぽでは万博、片っぽではそれを破壊しようとする全共闘運動とかさ。それから公害という概念と環境問題。エンバイラメントというのは公害という話になってくるんだよね。だからそこらで、どうもこの政治的な流れというのが非常に厳しいなというかさ。まあとにかく何かね、左翼というのがリベラルというか、もうすこしアグレッシプで前衛みたいな。そこらのところが非常に難しいというか。人のことは言っていられないというか、もうそういう状況になりつつあるわけですよね。僕が集落調査を始める1971年の時にはかなり、それまでの人間関係みたいなものがある程度(整理された)。自分の意見は決まっているっていうのがあるけれども。まあそこらのところがいろいろ複雑。RASというグループをどうするかという問題もあるし。だから非常に個人的なことが絡んでいるというかね、個人的な身の周りのこと。そこを何しろ切り抜けなくてはならないということが、どうやって切り抜けるのかっていうのが。正直言ってどうやって生きるのか難しかったですよね、その頃は。

オオシマ:ちょうどこの頃は1965年、66年にアメリカだと、さっきウォーホルの話でもありましたけど、Electric Circus(注:ニューヨークのイーストヴィレッジで1967年から71年まで営業していたディスコテーク)とか、それをもとにしたディスコの動きもあるし、ジョン・ケージも含めていろんな動きがありました。アメリカに最初にいらしたのはいつ頃ですか。

原:それはですね、ただ通過したという意味では…… 、『建築に何が可能か』(学芸書林、1967年)というのを30歳になるまでに書こうと思ってさ。その原稿を渡してそれで旅行に行く、はじめて世界に行く、アメリカへ行ってヨーロッパを回って帰って来るっていう世界一周の切符を買って出かけた。

辻:それだと1966年ぐらい、この展覧会と同じ年ですね。お誕生日は展覧会より前ですか。

原:だと思うよなあ。行っちゃってから作ったんじゃないかなあ。まあ(模型)寄せ集めですからね。いろいろあったやつに新たなものを加えて作ったから。66年は9月、10月って旅行しているはず。そうすると前かなあ、環境展は。

辻:「空間から環境へ」展はちょうど秋に行われているので、展覧会にはいらしていない可能性がありますね。

原:それなら作ってから出たんですかね(注:原の誕生月は9月、帰国後に「空間から環境へ」展の設営に参加している)。(いずれにしても渡航する前に)それはもうできてるよ。だって表紙がそうだもん、『建築に何が可能か』の。粟津さんが穴開けて(本の装丁を)作ったでしょう。だからもっと先にできていたんですね。

辻:「有孔体の理論とデザイン」、いわゆる有孔体理論が作品というか、かたちになったものが《有孔体の世界》(1966年)というパネル、(模型の)寄せ集めの作品ということですか。

原:そういうことです。有孔体に関してはずっと前から書いていましたよ。『国際建築』とかそういうところに書いているんだけれども、これが有孔体っていうんだよと、《有孔体の世界》のパネルをというのを何かまとまりとして(見せる)。本として『建築に何が可能か』というかたちにしようとしていたんですね。

辻:旅行の際には、どの都市に行かれましたか。

原:大抵のところには行きましたよ。まずサンフランシスコについて、ロサンゼルスに行って、シカゴに行って、ニューヨークへ行って、ボストンに行って。アメリカはそうだよね。それからどこへ行ったのかなあ。ロンドン、パリに行ったのかなあ。忘れたけどロンドン、パリ、それからバルセロナ。マドリッドは行かなかったのかな。それから北欧へ行って、北欧の建築を見るというのがアールト(Alver Aalto, 1898-1976)とかさ。あとはドイツ、ベルリンでしょう。当時外国…… アーヘン大学にいた友達が向こうで全部連絡しておいてくれてさ、それでドイツ、ベルリンでいろいろあって、彼の家にも泊めてもらった。それでこの間も彼に呼ばれてアーヘンへ行ったんだよ。彼は早稲田に行って京都のことをやって。それで北欧行って、それでイスタンブールが最後に見たところだったかな。それで大体、都市はよーく見て歩いたんですよ。集落調査を始める時に、まあ都市はもう十分見ているし、これは集落を調べた方がいいんじゃないかなあっていう感じに、すっと割り切れるのはそういうことがあったからだよね、一つには。

辻:アメリカでは、例えばニューヨークでラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925-2008)に会ったという記載があります。

原:それはまた話が違う。それは1968年だ。68年に来て、ハーヴァードでインターナショナル・セミナーっていうのがあって、キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger, 1923-)がやっていたんだよね。キッシンジャーがやっていた時は、ステート・デパートメント(国務省)だからね、アメリカは。アメリカの文化戦略なんだよね考えてみると。アメリカの文化戦略だから、もう何でも会いたいと言えば会わせてもらえる。それで僕はもちろんミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe, 1886-1969)ね。あとはヴァルター・グロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)。そういう名だたる人たちを全部言ったわけ。そしたら「わかった、わかった」って(笑)。それで手配をするぞということでね。だけどもさすがにミースは断ったか、本当にいなかったか。だけどもグロピウスには会えた。まあハーヴァードの近くだからね。それから名前思い出せないけどとにかくいろんな人にみんな会えたの。それで「大変申し訳ないですね」と言ったら、「いやーステート・デパートメントには断れないから」って。ステート・デパートメントはすごいんですよね。僕と若菜(北川若菜)がね「何月何日に行きますから」って言うと、なんかもうすぐ自動車が…… フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson, 1906-2006)がジャガーのスポーツカーで駅まで迎えに来てくれたんだよ(笑)。《ガラスの家》に(行った)。ニューヨークではフィリップ・ジョンソンのオフィスにも行ったし、それからポール・ルドルフ(Paul Rudolph, 1918-1997)とかね。それからすごい住宅を作ったブロイヤー(Marcel Breuer, 1902-1981)とかね。もうみんな会っているわけよ(笑)。みんなね、命令に背くわけにはいかないわけだよね。ステート・デパートメントというのは、ようするにCIAとかFBIとかね、ああいうのを完全に手中に入れている人たちだからね。もう権力が一番あって。紙1枚、手紙があるとそれに従わざるをえない。それでみんな行っていましたね。

オオシマ:感動した建物はありましたか。

原:その前に(フランク・ロイド・ライトの)《ジョンソン・ワックス(社)》(1939-44年)を見ていたしね。だけど《落水荘》(1936年)はまだ結局見ていない。ミースのものはもちろん見たね。《シーグラム(ビル)》(1958年)とか。すごいなあと思ったんですね。たいてい建物を見ちゃっているんだよ。最初(の渡米時)に見ちゃってる。

辻:先ほどのアーティストとか、キュレーターとのお話はどうですか。

原:それはまた全く違う話で。それはアメリカの権力の話だよね。権力的な機構の中にいて、だけどそうじゃなしに、そういうこととは全く無関係に、アメリカから日本に来たマース・カニングハム(Merce Cunningham, 1919-2009)。(カニングハムの)彼女が日本に来ていたんですね。その人が頼りで。ようするに彼女が向こうへ帰っていて、僕をヴィレッジの人たちに紹介してくれたんだよね。(自分が)別に大した建物建ててなくてさ、まあ有孔体のいくつか建っているくらいだよね。グロピウスの雑誌が置いてあって。それで「あっ、これが私の作品です」なんて言って(笑)。まあその程度だよね。だけどもみんな仲間たちがいてね。アメリカのキッシンジャーは何となくやっぱりパワーの人でさ。すごいパワーを持っていて。何か他の大学の先生とはちょっと全然違う。ハーヴァードなんかでも全然違うんだよね。偉いんだよ、やっぱり。ステート・デパートメントの力を持っているからね(笑)。全然違うんだな。僕の政治家不信の一つだなあ、あの基金では。あれはね、ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913-1994)とちょうど選挙戦をアメリカの銀行の財団がやっていて、ニクソンが勝つんですね。それで負けた方の親玉の有名な銀行なんだけど。しょっちゅうやっていたんだよ、キッシンジャーが。いかにニクソンがダメかというのを言っていて。そうやってニクソンは勝って、彼は負けたんだ。僕はステート・デパートメント(との関係)で旅行をしていたんだよね。ある日テレビ見たらね、なんかニクソンがプレジデントみたいになっていると。おかしいんじゃないかっていって、それでまた帰って来てもう1回確かめたら、いやそうなんだって。ぱっと手のひらを変えるようにね。そのうちに彼は有名になってノーベル賞取ったからいいけれど(笑)。あれは驚いたなあ。政治家はこういうものなんだって。

辻:費用とか助成金とかは、どういうものを利用されたんですか。

原:それはようするに試験を受けて。僕は丹下さんと槇さん(槇文彦、1928-)の紹介状を持っていた。それでめちゃくちゃ強いわけだよね。だって丹下さんはMIT(マサチューセッツ工科大学)から帰って来たところだし、槙さんはハーヴァードにいたわけだし。だからそれでまあ通してくれたんだよね。そのメンバーというのが、ものすごい豪華なメンバーでね。実は大江さん(大江健三郎、1935-)が1年前に行っている。それでお互いにね、アメリカのあそこが気に入らないとか、お互いに行ったねっていう話は一言もしたことない(笑)。こういう話はあんまりしないんだよね。片っぽではそういうふうだから。みんな将来、王様だとかさ、それからイギリスの国会議員だとか、イタリアの国会議員とかそういうメンバーなんですよ。それでケネディの寮にずっと泊まっていたの。それで、だけどもどうも居心地悪いからさ、それでヴィレッジへ。マース・カニングハムのメンバーの。それでラウシェンバーグに会ったりするのも、その人たちのグループの。そこなんだよね。だからもう毎晩ヴィレッジ行って。旅行になる前の2か月間はさ、ほとんど僕はさぼってさ。ヴィレッジに行っていた。そこでラウシェンバーグ系の人たちに会ったんだよね。ちょっとかけあえばベルベッド・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)とかさ、それからウォーホルとかさ、そっちの系統の人たちに会うはずなんだろうな、とか。そっちの人たちとは結局(会えなかった)。まあ一緒にいるのかもしれないけどね。毎晩みんな同じ所でドンチャン騒ぎして、みんなコップ割って大騒ぎしてやっているわけね、みんな。健康たるわけですよ。もうヴィレッジではね。

オオシマ:ジョン・ケージもいらしたんですか。

原:いやジョン・ケージは会ってないです。一柳さんがジョン・ケージといたんですね。

オオシマ:ケージには日本趣味もありました。

原:そうですか。だからそれは非常に変な体験でね、そのおかげで。かたやアメリカの権限のおかげで、片や全く自由なもう一面のアメリカ。両方とも健康たるものだけどね。

辻:一度目の1966年頃の旅行の時は、どういう感じだったんですか。貧乏旅行ですか。

原:そうですね。まあ世界一周の旅行の券を買って。それで行って。まあ普通の旅行。建築と都市をよく見て来たという感じですね。

オオシマ:好きな都市はありましたか。サンフランシスコからロスまで。

原:何しろ始めはとにかく何か恐ろしいっていうか。すごいもう安い宿、YMCAとかの建物でさ。そういう所でもう黒人たちが夜になって酔っぱらって来てばーんとか叩いたり、恐ろしくて眠れない。あの頃はね、地下鉄なんかでもね、黒人たちがガーっと入って来るともう本当にやられるんじゃないかって、そういう迫力があったからね。時代からすればいろいろやっぱりようするに黒人の活動というのはあの時すごかったわけだよね。やがてキング牧師(Martin Luther King, 1929-1968)とかが出てくるからね。

辻:(アフリカ系アメリカ人の)公民権運動ですね。

原:そうそう公民権運動。だからその継続。やっぱりすごくおっかないというか、迫力があったよね。実際にどうされるっていうわけじゃないけれど、黒人っていうのはこういうものかって。やっぱり建築、ホテルとかそういう所にも行ったし。都市…… 僕はイスタンブールが好きだったなあ、ハギア・ソフィアとか。集落調査するようになってもやっぱりトルコっていうわけじゃないけど、ようするにイランとかねイラクとかああいうところの集落に出会って、あそこからイスタンブールに続くイスラム世界というか。砂漠は世界中にあるわけだから、その中でもやっぱりあそこが非常に良く見えるんですね。そういうのがあるから、まあ好みというのはあるかもしれないけれども、イスタンブールはかなりいいんじゃないかという。かなりハイブリットな感じがあるじゃないですか、基本的に。

オオシマ:それはドイツの後に行ったんですか。

原:そうですね。

オオシマ:アメリカ、ヨーロッパと行って。

原:それで北欧を見て来て。何度か往復しましたけどね。まあヨーロッパのカテドラルを見たわけですよね。これはもうやっぱり現代建築はすごいかもしれないけど。本当にいいと思いましたけどね。ユニテ(《ユニテ・ダビダシオン》)なんかも見たし。やっぱりこれはすごいんじゃないかと思ったね。カテドラルを見るわけですよね。やっぱり現代建築もすごいかもしれないけれど、コルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965)のロンシャンとかは見ていいと思いましたけどね。やっぱり古典はすごいと思ったね。カテドラルを見てみると、コルビジェは対抗していますよね。どうかなという感じは持ちましたよね。

オオシマ:アーヘン・カテドラル(Aachen Cathedral)はミースの原点で、(ミースは)アーヘンに生まれたんですね。ちょっと思い出したんですが、さっきの人はマンフレド・シュパイデル(Manfried Speidel)さんですね。菊竹事務所にもいたらしいです。タウト(Bruno Taut, 1880-1938)にすごく興味があって。

原:シュパイデルはしょっちゅうRASの事務所に出入りしていたんですね。それで最後に、僕が生研に行ってからその時に、僕は勉強会のメンバーではないけど、まあしょっちゅう会ってるというか。門内(門内輝行、1950-)とかね、あの連中と記号論の勉強をしていたんですね。

辻:いつ頃ですか。

原:それはね、70年代入ってからかな。80年に近いかもしれないね、だって門内がいるからね。そういうシュパイデルは非常に個人的によくいろんなことが通じる(笑)。彼は弓道だね。議論か何かって言うより弓道。すごいんだよね、彼ね。かなりの高段者なんだろう。何とか六段とか、そういう。

オオシマ:ちょうど2年前にアーヘンに行った時にシュパイデルさんと会ったんです。それでいろいろな話を聞きました。

原:すごいんだ彼は。本当に。日本人的だよね。日本人みたいな人。

辻:同じく1968年ハーヴァードで槇さんもご一緒だったと思いますが。

原:顔は合わせてない。一度も合わせてない。っていうのは、僕は夏休みだからね、行ったのは。夏休みの間に2か月間。寮が全部空いてそこにいたという。

辻:お2人ともスチューデント・パワー、アメリカの学生運動に関してご執筆された文章が残っています(「スチューデント・パワーと文化(特集)」『デザイン批評』7号、1968年)。

原:それはね。アメリカは、そんなにめちゃくちゃな運動にはならなかった。そうなったところもあるかもしれないけれども、日本の全共闘の状態、ああいうものにはならなかったんじゃないかなあ。日本は大変でしたよ、バリケードのその時代は。それから帰って来てからはいろんなことがあって。すごくいろんなことがありましたよ。個人的な体験でいろいろあるけどね。

辻:すこし話が戻りますが、『デザイン批評』の共同編集のお話をお聞きしたいです。粟津さんと「空間と環境」展でお会いして、あと泉真也さんと川添登さん(1926-)がいらっしゃいました。

原:僕がいろいろ批評を書いていたりするじゃないですか。だから川添さんが「お前一緒にやろう」って(メタボリズムの)粟津さんと一緒に話して決めた。最初に会ったのは今でも覚えていてね、川添さんと。川添さんなんて当時、神様みたいな人だよね。僕らが学生の頃に(川添が)『新建築』に論文を書いたりしているでしょう。『近代建築』の巻頭論文もずっと書いていたり。川添さんって大変な人だって。そういう人にお前たち一緒にやろうって言われたのは、非常に嬉しかったですけどね。だけどもあれはね、ようするに針生さん(針生一郎、1925-2010)ね。針生さんもそうなんだよ。針生さんもそれ以上に僕は昔、学生の時から、ロシアリアリズムに関しての…… つまり前衛っていう概念で、花田清輝(1909-1974)とかアヴァンギャルド、アヴァンギャルドというものは、リベラリストのアヴァンギャルドっていうのがいてさ。どちらかというと瀧口修造さんとかさ、花田清輝とかそういう人たちがいて。それでロシア、左翼のアヴァンギャルドって言ったら、その理論をしていたのが針生さんなんですよ。だから当時のレーヴァイの論文とか彼が訳していて、それを僕らが大学に入って1年の頃によく考えてみると、みんな読んでいるんですよ(注:ヨージェフ・レーヴァイ「建築の伝統と近代主義」『美術批評』針生一郎訳、1953年10月)。勉強しているわけですよ、それで。針生さんがいろいろ書いていることに対して、そのまま教わっているっていう感じかな、教科書みたいな感じかな。そういう人だったんですね、針生さんっていう人は。だから今考えてみると、すごい不思議なメンバーなんですよね。その時のその5人というのは、泉さんとか川添さんとかでしょう、それで針生さん、粟津さん、それで僕だから。メンバーとしては非常にいろんな人がいるっていう感じですよね。だけどそれが成立したっていうのは粟津さんなんだよ。結局、粟津さんがとにかく1人でやったという(笑)。極端に言えばね。極端に言えば編集会議だって何だって、出て来たり、出て来なかったりするけど。僕はあの頃は《粟津邸》を設計してる頃かなあ。だからしょっちゅう会っているんだよ粟津さんとは。粟津さんはね、《粟津邸》を設計するって言っても、うちあわせにしょっちゅう来るんだよ。しょっちゅう来るんだけどね、自分の話しかしない。家の話はしないんだよ一切。それで見てみてもさ、どういう建物になるんだろうって、僕ら設計が1年間くらい続きましたからね、そういう状態、ずーっと。来ると彼は自分の作品の話、「ああ、あれやればいいな」って電話かけたりする(笑)。口で伝えて、グラフィック・デザイナーだからたくさん仕事しなくちゃいけなくて、もう山と(仕事を)持っているわけね、当時の売れっ子の粟津潔は。装幀からはじまってポスターだなんだって。それで彼はさ、すぐ仕事やっているんだよ。建物のうちあわせしながらね。「ああ、そうだこれでいこう」なんてね。それですぐに電話かけてね。そういうふう。とにかく粟津さんがなんていうか、若い連中集めて俺がやるぞって、そういう感じじゃん。だからもう他の人はついていけないっていうかさ。

辻:《粟津邸》の竣工が1972年なので、おうちあわせは『デザイン批評』より後かもしれないんですけど。

原:『デザイン批評』は何年まで続いた?1971年?

辻:10号くらいで終わりになっています(注:1970年に12号で終刊)。最後は粟津さんだけ(の編集)になって終わります。

原:そうなんですよね。あのすごい全共闘運動のまっただ中だったからね。

辻:載っている論文も関連のものです。原先生ご自身もいくつも論文を書かれているんですけれども、ビルディングエレメントに対する限界のご指摘だったりとか、全体ではなくて部分、内部から作っていく建築のお話をされていたりということもあります。この中で多木浩二さん(1928-2011)も執筆をされておられます。

原:多木さんももちろん何回も会っています。

辻:多木さんは内田先生の研究室にもよくいらっしゃっていたかどうかはわかりませんけど、(内田研の)旭硝子の系列の本の編集をされています(注:『ガラス Glass & Architecture』など)。

原:ああ、そうだったねえ。なんかそうだよね。多木さんが…… それでか。旭硝子のパンフレットか何かじゃないでしょうか?やがてそれを剣持(聆)と一緒にやるんじゃないかなあ。

辻:そうです。

原:剣持がやるやつを多木さんもやっていたんだ。それでしょっちゅう会っていたんだなあ。

辻:『建築のためのガラス』という、内田研でやっている本(注:東京大学工学部内田研究室編集、剣持聆ほか執筆『建築のためのガラス』旭硝子、1964年)。多分、剣持聆さんが中心になってやっておられた。原先生は関わってはおられませんか。

原:僕は関わってないですね。旭硝子で住宅を、ALC(軽量気泡コンクリート)の実験住宅を僕が担当してやりますけどね(注:《旭ガラス鉢山社宅住宅計画》)。剣持なんか木製の窓枠を作るとかね。その雑誌とか何かには関係してない。

辻:この『建築のためのガラス』という1964年に出た本は、途中途中のページで、多木浩二さんがガラスを撮った写真が差し込まれています。その後、剣持聆さんとはどういうご関係だったんですか。

原:剣持は2年下の後輩。あいつにみんな麻雀教わるんだよ(笑)。麻雀を教わったんだよね、入って来た頃に。ラグビー部のキャプテンだったからね、彼はね。だからすごく何ていうか背は高いしさ、勢いはある。それで僕が交通事故に遭うんですね。剣持のお父さんって剣持勇(1912-1971)。丹下先生と、例えば代々木(注:《国立屋内総合競技場》(1964年))のインテリアとかやっているわけだから、大変偉い人なんですね。ともかく僕が交通事故の後で、天神荘ってアパート(で療養している)って連絡したら、「そんなことをしていちゃダメだ」って、うちへ連れて行ってくれるんだよ。「うちへ呼んでこい」って剣持さんが。ちゃんと検査したり安静したり栄養採らなくちゃいけないんだって。それで剣持(勇)さんにそこで初めて会う。(剣持聆は)間もなく死んじゃうからね。なぜだろうなあ。すごいパワーのある、活力を持った人間だったねえ。だから信じられなかったねえ。自動車の中で、事故で死んでるなんて。内田先生も非常にがっかりしていた。剣持がいたらちょっといろんな状勢が変わっていたと思いますね。

辻:その後、村松貞次郎さん(1924-1997)が司会で、原先生と磯崎さんと川崎清さん(1932-)と、あと剣持聆さんで座談会というのが『建築雑誌』でありますが、覚えておられますか。

原:覚えてない。川崎さんと会っていたんですかねえその時に。あまり覚えてないですね。

辻:『建築に何が可能か』(学芸書林、1967年)の後に、多木浩二さんが「写真に何が可能か」(『まずたしからしさの世界をすてろ 写真と言語の思想』田畑書店、1970年)。中原佑介さんが「現代芸術に何が可能か」(『見ることの神話』フィルムアート社、1972年。68年に朝日ジャーナルに掲載された「オップ・ポップ・キネティック・サイケ 現代芸術に何ができるか」を改題)。それから『デザイン批評』でもご一緒だった今野勉さん(1936-)が「テレビになにが可能か」(『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(田畑書店、1969年))。いわゆる「なにが可能か」が続きます(注:他に粟津潔『デザインになにができるか』(田畑書店、1969年)など)。

原:そうだよ。それは要するに『建築に何が可能か』というのを書いて、建築の分野の中で全共闘の連中が読んで、それをテーマに掲げて。というのは(『建築に何が可能か』は)60年安保のことを書いているわけだから、(全共闘は)それを乗り越えていくというようなことの気構えで。バリケードの中でいろんなことがあったねえ。それはこの間も僕は震災の時の話でもしたんだけど、東大の安田講堂で集会があった時に、テーマは何か矛盾するけれども、数学者になりたいという…… バリケード内での話がどういうものかっていうと、単純に言うとね、全共闘の主張はあらゆる職業を超えて「人間は」と先に問わなくてはならない。だから数学やっていようが何してようがさ、「人間は」ということだったら「人間として何をやるべきか」という問いの立て方をしなくちゃいけない。それに対して僕は徹底的に「建築は」と先に問う。「建築は」ということと、「人間は」ということは、全く同じなんだということだから、建築家にとっては。だからそれを徹底して問わなくちゃならないんだっていうことに対して、もう次から次へととにかく総スカンを食うわけだけど、バリケードの中ではね。それはもう絶対そうだと思ってその時も信じていたし、今も信じている。やっぱり建築をやる人間であって、人間なんて抽象的にはあり得ないという。目標を持ってない人間なんてあり得ないというところで。三宅(三宅理一、1948-)とか布野(布野修司、1949-)とかあの連中は、「建築はやはり建築家にならないとわからない。「人間は」って問わないといけない」って(笑)。僕はそれに対して「だからそうじゃないんだって、そうではないんだって。建築っていうのは、生きるということと全く同義じゃないか」っていうようなことを主張した。それが『建築に何が可能か』なわけだけれども。だからそこのところで三宅たちとか杉本(俊多)とかね、まあ(建築家に)なれなくなっちゃうわけだよね。

辻:「雛芥子」(注:杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、丸山茂、布野修司らによるグループ)ですね。

原:その時にデリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)の「グラマトロジーについて」(『根源の彼方に(下)グラマトロジーについて』現代思潮社、1972年)の読書会を、みんなで一緒にやろうっていってやっていた。それでもうバリケードの中で記憶に残っているのは、横浜国大ですかねえ。葉山っていう男がいてねえ。本当に包容力のある運動を展開したんだ。他の連中はセクトがあるでしょ。セクトのみんな主要人物がバリケードの中であって論議するんだけどね。僕はやっぱり政治活動はダメだと思ったね。今も思ってるんだけど。とにかく何ていうかね、基本的に間違ってるんじゃないかっていう、思考自体。イズムをとらないで…… 政治家っていうのは、政治的人間というのは、アウトじゃないかって今でも思ってるし。ほとんどその時の体験っていうのはある。矛盾に対する哲学っていうかな。つまりさ、単純にいうと、矛盾を被っている人間が矛盾を許容しながら生きることができるか。そのことに対する矛盾。僕は、矛盾はもう許容しないと、許さないといけないと(思っている)。矛盾はあんまり気にしちゃいけないっていうね。矛盾を起こすということに関しては。それじゃなかったらね、死ぬしかないんだよ。決戦しかないんだよね、やっぱり。だからあさま(山荘事件)にいっちゃうわけです。いかざるを得ない。矛盾を認めないとね。私はダメな人間であると。こういうことがわかっていながら、矛盾の中で生きていかざるを得ないんだっていうことを認めない矛盾論は、僕はダメだと思う。矛盾を許せ、というさ。矛盾を恐れるな。言い訳は許していいんじゃないか、人間は。言い訳も許さないともう大変。生きるか死ぬかだから。もうそれは無理じゃないかということを、僕は建築ということとさ(関係させようと思った)。それは甘いと言えば甘いのかもしれないけれども。本当言うとそうじゃないかっていうかね。真実は。格好良くいったら死ぬしか無い。格好良く矛盾無しでいこうとしたらね。だからやっぱり毛沢東(1893-1976)をそのままあれするわけじゃないんだけれども…… 今でも僕はそう思ってるね、やっぱり。やっぱり何ていうかそこがさ、西洋思想の限界ではないかとも思うんだよね。東洋的な、非ず非ずの考え方でいけば、それも正しく見えているけれども正しくない(注:原広司「非ず非ずと日本の空間的伝統」『空間<機能から様相へ>』岩波書店、1987年)。何を言っても正しくないわけだよね、東洋思想で言えば。だからしょうがない(笑)。楽しくないんだ、みんな。全員楽しくないんだから、まあ言い訳も許さなくちゃしょうがないんじゃないかっていう話なんだ。非常に過酷な弁証法と、多様な世界というかそういうものを認める時に。今でも正しいと思ってるけどね。それ両方認めないとね。片っぽだけで生きるっていうのはダメだと思うんだよ。ようするに弁証法だけで生きるなんていうのは殺し合いみたいなものだし、多様な世界でいったら怠け者の集団みたい。だから両方を何か同時に視野に入れながら生きるというのが、矛盾をそれなりに、言い訳を許しながらいこうじゃないかみたいな、そういう話だもんね。

辻:対極主義を唱えた岡本太郎のお話ですが、1968年に「太郎爆発」展の展覧会の会場構成を、粟津さんと原さんがご一緒にやっています。磯崎さんの太郎展の構成(会場設計)はもうすこし前です。この時は何かどういった経緯があったか、覚えておられますか。

原:松屋でやったんだなあ。2回やったんじゃないかなあ。

辻:銀座の松屋です。「空間から環境へ」展と同じですね。

原:そうですね。太郎さんはね、あんまりそんなことはどうでもいいの(笑)。そんな固いことは言わない。固いことは言わないというか、ああやれとか、こうやれとか、そういう人じゃないですね。言われたままにいろいろあれやこれやお手伝いしたということじゃないですかね。

辻:岡本太郎の家具が出展された展覧会なのですが、プラスチックとかアクリルとか透明感のある素材を利用しているようにも感じられます。

原:あんまり覚えてないなあ。それは何年?

辻:1968年です。

原:そんなにあれやこれや作らなかった気がするけどなあ。だけどもちろん模型か何か作ってさ、やっていた。

辻:その後(に設計する)1988年の《游喜庵》、この命名は岡本太郎さんですね。

原:そうそう岡本太郎ですね。それはまた不思議な縁でさ。その《游喜庵》の施主がね、岡本太郎のコレクターだったの。その時岡本太郎なんてね、もう僕だって言っても(自己紹介しても)わからないの。もう全然わかんない、記憶に無い。あなた誰だっけ?っていう(笑)。我々も少しずつそうなっているけどさ。もう見ても全然わからない。お腹が痛いとかさ、そんな感じ。それまでは、岡本さんのところというのは、僕らの事務所が青山の方にあって、それですぐ近くに岡本さんの拠点があって。それでしょっちゅう行き来していて。それで岡本さんの全部面倒を見た女性がいるんだよ。

辻:敏子さん(平野敏子、1926-2005)ですね。

原:そう。彼女とほとんどいろんなことをうちあわせしていた、その頃になるとね。当時は岡本太郎のいろんなことをやる事務所があったんだ。事務所のメンバーたちと何人も僕は知り合っているんだなあ。岡本さんや敏子さんというんじゃないですね。川添さんは関係あったかなあ。何か混同している。事務所があってね。その人たちが介在していたなあ。岡本さんと全て打ち合わせるというよりか、その岡本太郎事務所みたいなのと話していろいろ決めていた気がするなあ。

辻:1968年頃は多分、岡本さんが万博で《太陽の塔》(1970年)をやっていた頃だと思います。

原:そうですね。そこはまた不思議なところでさ。丹下先生がいるわけじゃん。それで結局僕はまあ、万博はまずいんじゃないかって(笑)。ようするにコミットしてはまずいんじゃないかと思ったわけだよね。それは丹下先生だから、そんなたてついても文章だけだとか、まあそういう感じだよね。だって丹下先生はとにかくもう毎日通っていた先だからね。だけども万博やりませんとも言えないし。だけども基本的には曽根(幸一)とかいたからねえ丹下さんの所には。だからまあ彼らがやればいいんじゃないかと思っていたね。

辻:当時《動く歩道》(1970年)は、曽根さんと原先生と、あとは宮脇檀さん(1936-1998)とで(設計に関わられています)。

原:そうそう。そういうようなことになっているんだけど、実は僕はやってないんだ。事務所(RAS)の連中がやっているっていう感じだよね。もうやっぱり周りがそんなさせる状況じゃないっていうか。一方では運動の流れから言ってね。そっちに入っているなんていうのはあり得ないんですよ。

辻:当時万博の「われらは不可能に挑戦する」という『デザイン批評』(8号、1969年)の共同討議があります。加藤好弘さん(1936-)というゼロ次元の方とか、同じ(建築)計画学の服部先生(服部岑生、1941-)、グラフィックの及部克人さん(1938-)、あとは当時建築ジャーナリズム研究所の宮内嘉久さん(1926-2009)の所にいた有村桂子さん(1942-)たちと対談されています。

原:この人たちとはものすごい戦いになる(笑)。

辻:これも万博を巡ってのお話です。

原:服部なんてまだ学生だもんね。もうちょっと違ったメンバーもいましたよね。

辻:「建築家行動70委員会」というものですか。

原:それじゃないですね。『デザイン批評』経由のメンバーでね。長田弘(1939-)とか。

辻:宮本隆司さん(1947-)とかですか。

原:違う、宮本さんは普通だよね(笑)。(原が作成したメモを見ながら)あっ中平卓馬(1938-)ね。

辻:プロヴォーグの頃ですね。

原:そうですね。中平卓馬とかさ。そうねえ。まあいろいろいたなあ。いろいろまあ複雑で結局は何か曖昧なんだけど。宮内嘉久が入って来るとまた複雑になっちゃうんだよねえ。当時は自分が前衛だと思っていると、それが何か蹴落とされるというか非難される。そういう形であるということを納得しないうちに、何か批判されちゃうという、そういうことなんだよね。今だったら、今は非難されても何て事無いと思うけれども。その現場にいるとヘルメットかぶってこん棒を持っているし、それでセクト間ではやっぱり死んでいくわけだからね、みんな。だからすごい肉体的な恐怖があるんだよね。攻められてくるっていうさ。やっぱりしょうがない連中だって思ったけどなあ。だから僕は政治的な人間っていうのは、全面的に不信を持つっていうか。

辻:次は集落調査からお聞きしたいです。

原:集落調査は、そういうところでそれじゃあ再出発をするというようなところから。そうするとどうすればいいのかというので、もちろん当時いろいろ動きがあったわけだけれども。動きというのは集落に対するね。それがあったけれども、まあとにかくそれまでの経験から言って、都市をやるよりか集落をやった方がいいんじゃないかという感じ。もう一回、近代建築の原点というのを確認した方がいいんじゃないかということで。だけどそれをそうと言っても、集落調査というものができるかどうかもよくわかんないから、まずは行ってみようというので出かけたら、いろいろ見ているうちに最後の過程でガルダイヤ(アルジェリア)っていう所に行って、ああこれは集落調査やった方がいいんじゃないかっていうふうに思ったわけだよね。それでこれをやるならば10年間くらいにあと5回くらいやれば、きっと何かまとまりがつくだろうということで、平良さん(平良敬一、1926-)が『SD』にいたから、平良さんといろいろ相談して、やるかっていうことで、やりはじめたことなんですよね。

辻:宮脇檀さんが、1960年の時点で日本全国一周調査をされています。

原:それは知っていたんだよね。僕は宮脇に会った時には、宮脇はそれを計画して実行していた感じだった。だからまあそういうのもあったのかもしれないけども、外国へ行って、自動車で歩くということが可能かどうかというチェックをして。まあ最初はレンタカー借りて、そういうヨーロッパの範囲というかな。まあアフリカも行ったんだけど、ヨーロッパの延長として行っていたという。それをもうちょっと本格的にやるためには、もうちょっと例えば自動車会社と交渉してちゃんとやらなくちゃならないとか。そういうことをやり始めたときに、佐藤潔人という男が出て来て。彼がいたからできたんだよね。佐藤さんというのは、昭和女子大学の教授だったんだけども。彼が自動車直せるんだよ。運転はもう完璧だしね。その彼が何度も我々のピンチを救ってくれたわけだよね。それで大抵、海外の調査っていうのは、まああんまり詳しいことは僕は知らないけどとにかくダメになっちゃう。それは何故かというと、事故起こしちゃうから。というのも、我々は注意深くやって。理顕(山本理顕、1945-)もいたしね。それから藤井(藤井明、1948-)がいたし。まあそういう続けてやっていく、持続力というのが基本的にはあったと思うんだけど、中でも佐藤さんという人に僕は感謝している。僕が一番驚いたのは、ガードクルーザーを借りてメキシコで走っている時に、僕は助手席に乗っていたんだけど、その時に、「あっ」って彼が言ってね、何か部品が飛んだって言うんだよ。それで全員並べって言ってさ。全員並ばされて。何か金物の小さなやつが落ちているから、それを探せって言ってさ。本当に落ちていたんだよ。これはもう大変なものじゃないかなって思っていて。それで今度はサハラに行った時に、サハラの砂漠を越えちゃいけないんですよね。事故が起こったら全員止まらなくちゃいけない、先に行っちゃいけない。不文律があって。残されたら死んじゃうわけだから、それを越えちゃいけない。そしたらヤマハのオートバイに乗って来た連中が、女性がね。数人でいたんですね。その1台が故障したって。それで全員、当然次から次へとサハラ越えする連中が、そこで止まっちゃうわけ。そしてその彼が言うにはみんな大勢いるから、もう200人くらいになって。ヤマハだからあんたたちわかるんじゃないのって言われてさ。それでまあ佐藤さんの実力を僕は知っているから、あなた見てやったらって言ったら、「いやいや止めた方がいい」って。それはどうしてかって言うと、オートバイはね、故障したオートバイと、健全なオートバイを2台平行して部品を外していかなくちゃいけないって言うんですよね。そうしないと原因がわからないから、部品を外していくんだ。それで部品を外していくんだけども、おそらく2台ともダメになるだろうと。彼の読みだとね。まあ1台復活というのも無理だし、更にもう1台解体した方もダメになっちゃうんじゃないか。それは避けた方がいいんじゃないかって、彼はやらないって言ったんだけど、もうどうにもならないから、それじゃあとにかくやってみたらって言ったら、それじゃあやってみるかって。彼はそれで直しちゃったの。2台解体して原因がわかったって。そういうのはさ、非常にシンボリックで、みんな本当に泣いて感謝した。すごいもう砂漠の中で大喝采。サハラの中で動き出したってさ。彼女らも最後、アーデンっていう所までの3泊4日、あるいは4泊5日の行程を行って、健全に越えて行くことが出来たんだよね。まあそういうことですよ。いろんな所で彼が全部救ってくれたわけよ。ともかく技術、自動車に関する技術が、彼がいて完璧だったということなんだよね。

辻:ちょっとお話がずれてしまうかもしれませんが、1962年から東洋大学でお仕事をされると思いますが、そこでの他の先生方との交流の(集落調査への)影響はありますか。

原:それは無いと思う。やっぱり全共闘運動ですよ。その時に一体何をすれば生き延びることができるかって言った時に、やっぱり公害とか何かとかいう問題が出て来ているわけだから結局、近代建築の技術。いや近代建築と言わなくてもいい、技術全体の見直し自体を含んで、それで出直すんだっていう言い方くらいしか無かったんじゃないかと思うんだよね。

辻:車で乗り入れてそのまま実測の調査をして次の村へ行く。他の研究者の方々から直感的な(都市)調査の方法という指摘をされることがあるのですけれども、宮脇檀さんがやっていたデザインサーヴェイや、もしくは『日本の都市空間』(彰国社、1968年)とかが60年代からあるんですけど、他の都市調査に関して参照されたものとかはありますか。

原:うーん。まあみんないろんなことを見ているし、それから資料の作成の仕方とか、そういうところでも参照しているけれども、一番の問題点は、僕は研究だとか何かと言わないというのがいいんじゃないかと思ってたくらいなんだよね。例えば文化人類学だとね、ようするに住み込んでみないとわかんないじゃないかって。それは確かだよね。そういうのが調査というものじゃないかというふうなことを言うならば、我々は別段、調査は調査かもしれないけど、研究とは言わなくたっていいんじゃないかっていう、そういうことであるけれども。自分では、ああこれは一つの方法だなって思ってたけどね。つまり何ていうかな、表面的に現れる集落というものの研究であって、その内部に行っての意味とか何かというようなことだったら、それは確かに意味の世界は限りなくあって、そんなことは理解できるものとも思えないし。だけども非常に表層的なことは記録に留めることができるんじゃないか。だけどそれも記録の意味というのも、何ていうのかな、単なる記録っていうんじゃなしに、ある一つの解釈、解釈っていうのが記録じゃないかって思うわけですよね。だから何がどうかっていうのは、これからもう百年とか何百年とか過ぎてみると、我々がやった調査っていうのはきっと残っているんじゃないかっていうような感じを僕は持っているんだよね、今もね。それはなぜかっていうと、イラクかどこかで戦争するとか、貴重な所がどうなっているかとか、確認したわけじゃないけれども、かなり変質しているんじゃないかっていう気もするので。ある瞬間的にこういう、単純に言えば1枚の写真が残っているというようなことでもいいんじゃないかっていう。それがどういう意味を持っているかっていうのはわからないけどね。例えば那覇の城西中学校(《那覇市立城西小学校》、1987年)っていうのを作る時に、1枚写真が出て来たんだよね。当時の首里城の周りの環境はこうであった。その写真というのは非常に何か示唆に富んでいて、ああこういうふうにすればいいんじゃないのっていうのを示していたと思うんだよね。そういうような意味での調査っていうのは(意味がある)。そりゃ厳密に調査するって言ったってどこまでやったら厳密な調査になるのかっていうことも、それもまたわかんないことであってさ。その都度いろいろなものの解釈っていうのかなあ。それに委ねられているんじゃないか。その都度新しく解釈されるという。

オオシマ:アメリカだとルドルフスキー(Bernard Rudofsky, 1905-1988)とかアモス・ラポポート(Amos Rapoport, 1929) とかの見方、建築家ではない人たちからの見方があって、ヴァナキュラーとかどちらかというとそういうものに近いですね。

原:そうですね。どちらかというとそういうことですね。ある建築というのが再現性を持っているような調査をしなくてはならないんだっていうようなことになると、やっぱりもっと厳密にいろいろやらなくてはいけないけれども。依然としてちょっと曖昧ですけどね、そこらのところがね。どこまでどういうふうに起こっているのかということはね。だけど個人の体験として俯瞰すると、これは調査研究ではなくって、個人の体験談だと言ってもいいわけ。個人の体験である。そういう体験をしたんだっていうふうに考えれば、それはそれでいいし。だからその国の大学と連携して調査をするとか、そういうのは今だと可能だし。だから1970年代というものの記録として蘇ることがあるかもしれないということだよね、将来ね。それは僕の感じでは、かなり時間が経った方が意味が出てくるような気がするけどね。というのは何しろやっぱりさ、近代化っていうのは恐ろしい。恐ろしくってね、破壊していくんだよ、きっとこれから。まあだけどわかんないな。保存という考えを、ちゃんと最近みんな(研究)しているからな。保存するかもしれないね。観光的な価値があるっていうことがわかったら。中国はそうですね。やるでしょうね、それを。

辻:開発か保存かという問題で、60年代にライト(Frank Lloyd Weight, 1867-1959)の《帝国ホテル》が壊されたりだとかが大きなきっかけにはなっているんですけど、例えばホテルが壊れた時はご覧になったりしましたか(注:1967年に取り壊し)。近代建築が壊れるというか、壊されていく。

原:近代建築が壊されていくのは、気にしないっていうことはないけどね(注:原広司「気配の変革」『近代建築』(1966年3月)に帝国ホテルへの言及あり。2016年1月31日更新)。壊されるっていうのは、しょうがないと思うんだよね、ある程度ね。建築っていうのはいずれ壊れるんじゃないかっていう感じがするから。だけどちゃんとした記録にするということが、非常に意味を持っているということは言えると思うんだけども。まあ多くの場合、これからもそうだと思うんだけども、部分がやっぱり取り替えられるよね。それは避けられない。国の政策、国家の政策とか世界の政策の中で、保存するということが守られる建築以外は、やっぱり無理だよね、なかなか。

オオシマ:京都だと、《京都タワー》(山田守設計、1964年)が京都の町並みを壊すという議論がありました。京都駅(《京都駅ビル》、1997年)を作るときに、その流れがある(それが問題化される)んですけど、京都タワーの印象はありましたか。

原:いやそんなに思わなかったけど、京都タワー、すごいものがありますなっていう(笑)。京都駅を建てて(いたとき)、うわあすごいものがあるなあって(思った)。だけどもどうなんだろうなあ。やっぱり建物はいずれ無くなるよなあ。それはもう、いいものを残そうって、残すことにこしたことはないけどね。集落見ていてそう思うんだよね。やっぱりいろんな所行ってみて、学校ができるでしょう、集落の内部に。そうすると集落が壊れちゃうんだよね。鉄筋コンクリートの近代建築が出て来てね。集落の構造自体を壊しちゃう。景観的にも壊しちゃう。だから学校作っちゃいけないのかっていうと(そうではない)。ようするにそれを古い言葉で作り続けることができるかっていうこと。中国の場合は、中国で集落の仕事をしていて思ったんだけど、もう信じられないぐらいのものが残っているんだよね、城壁の中に。ヨーロッパで見たものや何かより、ものすごい時代の長さっていうのが出ていた。彼らは人口の1万5千人住んでいる中の6千人だから、実際の数字は忘れたけどさ。それで数を限定して、その人たちが観光できる、その城壁の中でね。古いその生活を演劇的にしながら、半ば演劇的だけども、けれども保存しようという。そういうふうなら保存できるだろうと思うんだよね。だけどどっかのものすごい支援がないとできないし、破壊は進むね、結局。

辻:ちょっとお話が出ましたが、先日《下志津小学校》(1968年)を見学させていただいて、もう50年弱、竣工から経っていて痛んでいる部分もあって、壊す前に修復するというお話もあると思いますが、近代建築だとやはり、空間そのものの体験(を残す)ということは、保存に取り組んでおられる方にも難しい問題なのかなと思います。ちょうどビルディングエレメント論の頃(の作品)なので、サッシだったり、ディテールの部分でも当時の取り組みがまだ下志津小学校には残っていて。近代化の過程で一度しか起こらないものもたくさんあるなと。それが失われてしまうというのは、その頃の歴史がわからなくなってしまうという側面があるとも感じました。

原:やっぱりその歴史ってさ、長期的に見ないといけないんじゃないかっていう気がするんだよね、僕なんかはね。だから長いスパンで見た時に残せるものは極めて限定されるような気がするよね。だからその都度そういう保存をした方がいいという運動は非常に重要だけれども。歴史をどのくらいのスパンで見るかという見方で、僕はやっぱり千年とかさ、やっぱり見ておかないと、これからどんどんあるわけだから。だからそれは無くなっても仕方がないなという感じが僕はしていますよね。ただそれがいろんな記録、記録として残っているといいなっていう感じがしますよね。そのもの、「もの」としてそのまま残るということは何か難しいだろうね。僕は去年《札幌ドーム》のね、10年経ったところで全部お金の計算をしたんですよ。それの保全計画を立てろという市の依頼を受けて。それで竹中工務店と大成建設と今、全体のメンテナンスに当たっている、全員のものすごいバックアップの元にすごい調査をしてね。それでやってみていろいろ感じたし、大体どれくらいお金がかかるかっていうのもよくわかったんだけども。大体7割5分から8割がね、(建築)設備なんですよね。設備の更新です。どうしても変えなくちゃならないわけだから。だから僕は一つには保全工学というのはものすごい重要だと思う。それは歴史がやるのか、歴史学の意味での保全という前に、何か技術がある。保全の技術的判断。その中で僕はね、実験を3種類やって、それによってすごいわかったんですね。その1つは防水層がどれくらい保全されているか。それからもう1つはあそこのサッカー場のチューブがどれくらい摩耗しているか。それからもう1つは設備を……最近は設備っていうのは人間と同じで、外からのレントゲンと内部からのレントゲンが撮れるようになったんですよ。それを設備でやると、すごいデータが採れる。だからどの辺りがダメになっているか、一目瞭然でわかってしまう。お金さえかければ技術的にそういうことができることがわかったので、どういうふうにしていくかっていうのを判断する技術的な根拠がある。ただそれをやるための実験も(お金が)かかるし。ただね、そういう金額は実際に補修したり、修繕したり何かするということに比べると、(金額が)一桁違うのね。二桁違うっていうこともあるかもしれない。だからそういう保全工学の全体を確立するっていうことが、かなり重要じゃないかと思うけどね。

辻:ちょっとお話をまた戻しますが、集落調査について 『住居集合論』(東京大学生産技術研究所原研究室編)が『SD』(別冊、1973年から1979年に刊行)に掲載されますが、国内の反響がたくさんあったと思います。たとえば鶴見俊輔さん(1922-)が集落への旅を評価されたりとかもありましたが、集落調査が一段落した時の国内の反響は、どのように受け止められましたか。

原:何ていうか集落調査に行くっていうことは、村の中に平気でずかずか入って行くわけだし、基本的には何か先進国が侵入していくようなものでさ。地元に還元するっていってもさ、記録として残す程度だし。まあそんなに大したことをやったという意識は我々には無いんですよ。それを必要以上に評価してもらいたいとも思わないし。だからいいんじゃないかっていうこと。あんまり気にしない、それに対してね。それが何か一つの業績とかさ、そういう学問的成果とか、そういうものではないんじゃないか。それにしないほうが正しいのではないかと僕は思うわけね。それがその学問のあり方っていうこと、学問とは何かということに残されているとは思うけども、まああんまり結構ですっていうかさ。

オオシマ:いろいろな集落に行って、たとえば階段での動きとか、自身で影響を受けたということですか。

原:それは自分で。それはもうすごいですよ。だからやっぱり集落、まあある程度大きな建築とか何かやって(設計して)、スケールに対する基本的な感覚はかなり修練されているというか。100mというのはどういうスケールであり、200mというのはどういうスケールでありというのは、集落で体験しているから。ああこれはあの寸法だなとか。だからある程度スケールが小さいものっていうのは別段調査しても…… まあそれもあるのかもしれないけどね。寸法が大きくなってきた時の全体的な判断力っていうかなあ。そういうのがトレーニングされるっていうのはありますね集落というより、都市全体の調査をやっていれば更にそういうスケールの感覚っていうのは得られるんじゃないか。だからまあ体験するっていうことがいいんじゃないかということですね、まずはね。そのくらいでいいんじゃないかっていうか。

オオシマ:図面よりも、動きながら実際体験すると、スケール感が違うんですね。それに車より、実際歩くと(スケールが)わかります。

原:そうそう。実際歩くとわかる。だからスケールアウト、まあそういうこともやるけどね。そうね、寸法関係に関してはトレーニング。集落調査っていうのはトレーニングになるんじゃないかと僕は思っている。

辻:その点ではやはり60年代から関係がありますね、ビルディングエレメントの寸法(スケール)というものと。有孔体の理論や集落調査、反射性住宅、リフレクションハウスは、『建築』だったり『都市住宅』の編集をされた植田実さん(1935-)の力もすごく関係していると思います。植田さんとのご関係は60年代からですか。

原:そうだね。内田研の頃だね。だから内田研に彼が現れていろいろなことをするということに関して、彼は(大学では)建築(が専門)じゃないから、僕が多少いろんなことがわかっているようなことかな。本来詩人ですからね、彼はね。何か人のことはあまり言えないんだけどさ、長い間教育をやってきて建築家を育てるという観点からものを言うとね、建築で面白い建築を作る要素はね、ちょっとしたことなんだよね。それはどういうことかっていうとね、芸術っていうことがわかるかわからないか。それはね、すごい頭がいいとかね、それから設計がうまいとかね、そういうそれぞれの天性とトレーニングがあるように、それは単に僕の見方でしかないかもしれないんだけども、教育的にはね、このことは教えることは出来ないんだよね、実際は。どうやると芸術になるのかっていうことはね、教えることができないんだ。教えることはできないが、それがわかるっていうこととわからないことの間には、すごい差があるっていうことなんだよね。やっぱり芸術的だっていうのが重要なんじゃないかと思うんだよね。それは美学的だということだと思うんだけどね、言い換えれば。僕は美学ってあんまり言わない。美学っていうのはすごい総合的で、最後の何か砦みたいなものであって、それはいろんなかたちで形成されると思うんですよね、いろんな助けを借りて。それで今のところ僕は数学だと思っているわけだけど、その由来するところがね。今日においては数学だと思っているけれどもそれは何に由来しているかわからないんだよね。正しいっていうかさ、あっこれはっていうのはね。だから僕は妹島さん(妹島和世、1956-)なんて本当にそうだと思う。子どもの時からっていうかさ、これは何かものになるんじゃないかっていうかさ。なぜならば何か彼女がちょっとした絵を出したんだけど、そのことに芸術的な、つまり美学的なセンスを感じるんだよね。僕はアメリカでもそうだし、ヨーロッパでもそうなんだけど、先生たちが美学的なことを言うんだよなあ指導者たちが。まずは指導者たちが芸術をわかってないと。芸術っていうのはそういうものだと思うんだよね。だからなるたけ美学的に語らない方がいいんじゃないか、そういう人たちは。もっと他の論理から言っていって、歴史なら歴史ということを通して語るとか。それから一般行動なら一般行動というものを語っていく。その方がいいんじゃないかと思うんだけれども、みんなその美学的なことの重要さがわかっているから、美学的なことを語りたいんだと思うんだよね。アメリカの教育ってそうなんですよね。すごいそうなの。みんなそうなんだけどさ。それ言っている本人は全然わかってないと思うんだよ。いつもそう思ってるんだ、僕は。なんでこんなことを言うんだろうなっていう。その何ていうかつまりさ、武器が、聞き慣れたいつもの概念じゃなしに、自らの概念で武器にして語るっていう語り方じゃないと、芸術って語れないはずだよね。それをみんな似たこと言うんだよなあ。それももう自分がわかっているっていうわけではないけど、重要なところはそこに岐路があるということだよね。建築とかそういうものの中で。

辻:それと植田さんのお話はどう関係していくんですか。

原:やっぱりさ、彼は芸術がわかるんだよ、自分が作家だから。詩人だから。だから雑誌を作るにしても、なんにしてもやっぱり他の人とは違う。内容的には素晴らしいし、紙面的にはグラフィックもでてくるっていうかさ。

オオシマ:植田さんはシュルレアリスムも背景にありましたね。

原:ああそうなの? 彼はあんまり自分のことを語らないから。どんな詩を書いているのかなんて、僕は一度も聞いたこともない(笑)。だけど彼はたいていそうだけどね、付き合っていると、その原因は武満さんなんだけどね。つまり武満さんも、なるほどこれが芸術かっていうのがわかるんだよね。武満さんの、何て言うかなあ。すごい繊細な、音楽と同じような発言とか物腰とかね。あっこれが芸術かっていうのがわかるんだよ。植田さんがどういう詩を書いているかは知らないけど、そういう何か構えを持っているよね。

辻:そういう意味では、特に70年以降の『都市住宅』は原先生のお仕事、もしくは磯崎さんや他の建築家のお仕事を通じて、植田さん自身が言いたいことを語っているメディアとも言えるような気がします。(原の)下の世代の方々に圧倒的に、当時の『都市住宅』というのは影響がありますよね。

原:あると思う。ものすごいあるんじゃないでしょうかね。いろいろな物事の考え方といいね。やっぱりそうね、何ていうかあのパワーというか。紙面に現れるパワーっていうのはやっぱりすごいですよね。ああいう表現力っていうのは。

オオシマ:1969年頃に磯崎さんと杉浦さん(杉浦康平、1932-)が表紙を編集して、表紙と中身は全然違うんだけどすごく面白いですよね。そういう面は(雑誌での)住宅特集に出てきますよね。(まさに)「都市住宅」を表現しています。

辻:自邸(《原邸》)の一番早い発表はやはり『都市住宅』(1970年10月)です。ちょっとまた作品の話に戻りますが、この《ACT2》(1972年)というものの中で、《ゴースト・プラン》という作品があります。

原:宇佐美(圭司)といろいろやっていた頃だよね。

辻:宇佐美さんとはどういった所でお知り合いになったんですか。

原:宇佐美はね、本来だとさっきのあれ(エンバイラメントの会)のメンバーに入って来るんだけど、若すぎたから。けれどもエンバイラメントやる頃から、磯崎さんの所で会っているんじゃないかな。みんな集まって来る。

辻:「関係論争」という特集も面白いですね(注:宇佐美圭司、高松次郎、寺山修司、原広司「関係論争」『SD』1969年10月)。

原:寺山修司(1935-1983)が出ているやつだね。

辻:これはどういった経緯でこの企画になったんですか、宇佐美さんと高松次郎と寺山修司です。

原:何しろ高松はもうしょっちゅう会っているっていうかね。荒川修作(1936-2010)と高松次郎と僕は同年なんです。荒川修作は、みんなニューヨークに行くと「荒川修作と会って」って言う。僕は荒川修作がすごい、いい作品を作っていたということはよく知っているけども、個人的にはあんまり会ったこともなかった。ずっと後になってからですよ彼と会って話をするのは。だからそれに対して高松は何かしょっちゅう現れていたっていうか。話をする相手だったりしたからね。寺山修司はようするにこの時に現れたけれども、演劇で言うと津野海太郎(1938-)、彼がよく会っていたんだよね。それはなぜかと言うと、その理由は《伊藤邸》(1967年)というのは津野海太郎の劇団(六月劇場)の練習場としていたんだよ。その時に悠木千帆(1943-)よ。悠木千帆っていまお金持ちになって。あのおばあさんの役やる女の人、樹木希林。悠木千帆がいてそれが劇団のキーマン、キーパーソンだったんだよね。それをやる場所として板の間で。その時に伊東さんっていうディレクターと、その奥さんがそれの劇団に関係していたんだな。住居もさることながら、練習場に使えるようにしてくださいって。

辻:(《伊藤邸》の)あのスペースはそういう広がりなんですね。

原:そういうふうにして作って下さいって言われたから。300万円しかありませんから、それで全部作って下さいって言われて、作ったのがそれなんだよな。渋谷のさ、僕の事務所(アトリエ・ファイ)があるじゃない。(そのすぐ)向こうの先にすごい豪邸があって何か若い誰かと結婚してさ、若い男と。何かものすごい稼いですごい豪邸(を建てた)。悠木千帆っていう名前は売ったんだよね、芸名を。それで樹木希林に変わった。面白いですね。どこの劇団もそれぞれにやっぱりすごい女優がいるんだよね、キーとなる。

辻:高松さんとは作品や制作のこともお話をされたんですか。

原:そういう感じではないね。それは宇佐美のほうがある感じがする、そういう話。高松はだけども冴えていたからね。高松、その頃ものすごい冴えていたんですよ。家業やったりさあ、演劇やったりすごく冴えていた。

辻:それ以前のネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)、ハイレッド・センターでの活動は、先生はご存知ありませんか。

原:知らない。だからもちろん磯崎さんの友達たちとすれ違うとか、そういうことはあると思うけれどもね。それは知らないね。東野さんを中心としたその周辺にいる人とか、中原さんの周辺にいる人たちとか、そういう感じじゃないですか。まあ針生さんの場合は作家というのはあんまり。

辻:当時、もの派と後に呼ばれるような作家の方々が70年代以降に出て来ると思いますが、そういう展覧会とかはご覧になったりされましたか。

原:あんまりしてないね。僕はたまたまこの瞬間にさ、大勢の人と接触したけれども、もともとそんなに、特にそれ以降なんて人と会わないからあんまり。これから話すであろう人たち以外と会ったかというと、会わないです。それから後の画家、アーティスト。ようするに京都(《京都駅ビル》)とかさ、札幌(《札幌ドーム》)とか、宮城(《宮城県図書館》、1998年)とかああいう建物やる時に、作品を作ってくれたコスース(Joseph Kosuth, 1945-)とかさ、それからクリスト(Christo, 1935-)とかさ。それから僕は会ってないんですけれどもリキテンスタイン(Roy Lichtenstein, 1923-1997)とか。会ったことあるのはラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1923-2008)とか河原温(1933-)とかね。そういうアーティストたちというのがいるんだよ。もしその先を話せと今日言うなら、その後の話っていうと、この間もボルタンスキー(Christian Boltanski, 1944-)、今もボルタンスキーが十日町の街の中でやっている(《最後の教室》、2006年)。ボルタンスキーとこの間会って。ボルタンスキーというのはすごい作家だと思っている。

辻:そういう方々のご紹介は北川フラムさん(1946-)からですか。

原:そうそう、それが媒介。だからだいたいそうだなあ、僕と筋が非常に似ている、例えばコスースとか。コンセプチュアル・アートの人とかね。河原温ってなんで知っているかというとね、宮内のいとこなんだよ。宮内康。それでよく知っていたんだよ。フラムが何かやる時に窓口になってくるから。川俣(川俣正、1953-)とかさ。

辻:後にゆりあ・ぺむぺる工房とか。

原:それはアパルトヘイトの運動のね。

辻:記号学会を立ち上げられる頃に、中村雄二郎さん(1925-)とか、あとは山口昌男さん(1931-2013)とか。

原:それに会う前だよね、岩波の勉強会っていうのは70年代の終わる頃ですよね、確かね。だからその時に『文化の現在』(注:叢書『文化の現在』大江健三郎、中村雄二郎、山口昌男編集代表、全13冊、1981年から1982年刊行)っていう本を、岩波…… どこの出版社もそうなんだろうけれども、一つの叢書というかシリーズを出す時にあらかじめ準備する(注:例の会。井上ひさし、大江健三郎、磯崎新、原広司、一柳慧、武満徹、鈴木忠志、吉田喜重、清水徹、高橋康也、東野芳明、中村雄二郎、山口昌男、渡辺守章らがメンバー)。その時に山口という男がいて、山口昌男じゃない、山口昌男は大先生だよ。山口…… 岩波にいたんですよ彼、死んじゃったんだよ。麻雀仲間なんだよやっぱり。その時に彼が組織的にやって(注:山口一信)。もう1人山口さんっていうのがいて、それが『世界』の編集長をやっていて、岩波の社長になって(注:山口昭男、1949-)。

辻:大塚さん(注:大塚信一、1939-)ではないですか。

原:大塚、山口。年代的に言うと、緑川さん(緑川亨、1924-2009)という人が我々の時の社長なんだけど。大塚さんという人がいて、山口さんがいて。という感じかな。その時代に編集しようっていって集まったメンバーが、大江健三郎であるとか山口昌男であるとか、そういうことですね。

辻:これはどなたがお声がけをされたんですか。

原:岩波にいた人っていうことだろうと思うけれども。中心は大江健三郎、山口昌男。磯崎さんは(会議に)出て来ない、基本的には。磯崎さんは出て来てないですね。中村雄二郎、ソフトな人だから。武満さんはよく出て来ていたけどね。みんな出て来てたですね。

辻:これより以前に「都市の会」(注:多木浩二、市川浩、河合隼雄、中村、山口、前田が参加)という会もあったようです。先生は関係無いと思います。あとは前田愛さん(1931-1987)とか。

原:ああ前田さんはね、ここに入ってませんよ。このメンバーではないが違う感じでね。前田愛さんとか、それから黒井千次(1932-)とかね。それはですね、『現代詩手帖』、『ユリイカ』、ああいう詩の雑誌を通して。それから『現代思想』。『現代思想』に三浦さん(三浦雅士、1946-)がいたわけだから。三浦さんがオーガナイザーですね、全体のそういう意味では。そういう人たちと知り合うのはね。この岩波のグループはちょっと特殊なんだよな。

辻:文学の方だったり哲学の方との交流が始まるのは、例えば大江さんは『集落の教え100』(彰国社、1998年)に関して新聞に書かれていましたし、井上ひさしさん(1934-2010)も書いておられたりとか、そういう先生のお仕事に対して、反応してくださるような文学や哲学の方がいらっしゃるということも、一つのきっかけだったりするんですか。

原:いや、そうじゃないですね。後ですね。集落調査をやっている最中だからね、終わりの方は。そういうのがいたのかっていうような感じじゃないですか。

辻:先ほどの筑摩の方の勉強会はどうですか。

原:それはね、本当に勉強会なんだよ。この連中、宇佐美とかね、高橋悠治(1938-)っていうのは下の世代でしょう。それから村上陽一郎(1936-)は、僕と生年月日全く同じ。村上陽一郎、それから西江(西江雅之、1937-)、そういうメンバーでやりますよね。だから青木保(1938-)とかね、そういうのも『現代思想』系ですね。一緒のグループで勉強していたというのは、勝股(光政)さんという人がいて。『展望』の編集長をやっていた。その人の下に集まっていたっていう感じかな。

辻:それぞれみなさんが発表されたりして。

原:そうそう。テーマがあって、大体誰が話すかという感じでね。

辻:そういった中で、例えば前田愛さんが『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、1992年)で、先生が書かれた近傍の概念に関する内容の引用をしていますが、そういう勉強会だったり『文化の現在』の集まりが、先生ご自身の理論の展開にも影響があるのでしょうか。

原:それは共通点がいろいろ出て来たというか、確認できたというだけの話でね。前田愛さんの場合は両方のグループに属してないんですよ。黒井千次さんもそうだし。みんな都市に対する興味を持っている人たちだったわけですね。その人たちがこういう人がいるのかっていうのを気がついたっていう程度じゃないですか、お互いにね。そこにおいて理論や価値観がということではないね。たださ、何ていうかやっぱりすごいわかりやすいっていうかね。例えば大江健三郎っていうのは、もう文学(作品)をみてると、ものすごい難しくごちゃごちゃごちゃごちゃやっているけどさ、もうあんな面白い人は世の中にいないっていうくらい、まあ面白いこと言える人なんですよね。もうね、サービス精神に富んでいてさ。何か次に言うことでいかに人を笑わせるかっていうことばっかり考えていうの(笑)。そういう人でさ。

辻:すごくユーモアがあるんですね。

原:ユーモアがあるし、それからそれに対して井上ひさしっていう人は本当に真面目な人でね。すんごい真面目な人でね。彼は1か月に350枚400枚、もう本当に印刷したくらいきれいに書いているの。彼は2時間書いて1時間休んで、2時間書いて1時間休んでっていうのを4回やると20枚書くんだっけなあ。何しろ1日20枚書けちゃう。5回やるのかな、それを。それで彼はその頃連載7つか8つ持っているんだよね、出版社。それで下で編集者が待って、麻雀やっているんだよ。そうすると彼は2階に上がって行ってそのインターヴァルを繰り返す。それを20日間、1日20枚書くというのを20日間続けると、それで400枚書けるんだ。世間にはそう言っているけど、実は450枚書いてますって言っていたけどね(笑)。もう信じられない量だよね。僕は前に計算したことがあるんだ、柳田國男(1875-1962)が1日何枚書くか。そしたらさ、1日2枚なんだよね。1日2枚書いて何十年経つとね、あの『柳田國男全集』になっちゃうんだよね。彼(井上)は毎日じゃないけどさ、一月に20日間書くとそれはすごい。例えば原稿もぴしーっと書くんだよね。何かグラフィック・デザイン見ているみたいに綺麗でね。片や大江さんはさ、彼の発表は本当にインプレッシヴだったんだけども、原稿を持って行くとさ、これは書き出しだって言うんだよね。すごい美しい文章が書いてあるわけよ、もう教科書みたいな。それを彼は全部ねじ曲げていくんだよね。文章をいじくりまわしてさ、変な読みにくい文章にどんどん変えていくっていうさ。だから彼の論文はものすごくわかりやすいわけよ、論文集は。エッセイとか小説になると途端にぐっと読みにくい文章書くとかさ。まあそういう話よ。

辻:『文化の現在』のシリーズで『交換と媒介』(岩波書店、1981年)という本がありますが、そこでは谷への着目とか、境界論に繋がるようなお話が出て来ています。

原:その頃は集落調査をするのと、多少数学をいじくっていたということもあって、そういう。

辻:大江さんや他の文学の方々とのお付き合いは、70年代後半からのお知り合いなんですね。

原:そうですね。やっぱり特に大江さんは、非常に思考が似ているということでしょうかね。まあ向こうはすごい人だけど。とにかく偉い人です。光君っているわけですよね。もう大変なわけよね。その中で作っていく。文学の方法論がやっぱり素晴らしいから。

オオシマ:戻りますがニューヨークとの関係で、(Kenneth Frampton(ed.), A New wave of Japanese architecture, New York, 1978 を見ながら)この展覧会はInstitute for Architecture and Urban Studies(IAUS)の。

原:これはですね、何かグループが行ったんだよね。若いグループが。

オオシマ:磯崎さんと相田さん(相田武文、1937-)と。

原:まあみんな入っているのかもしれないけど。

辻:相田さん、磯崎さん、藤井さん(藤井博巳、1933-)、あとは竹山実さん(1934-)が出展しています。

原:それで若手(の建築家)がアメリカの各地に行ったんですね。それでレクチャーやった。僕は他の建築家とはもう付き合いがあまり無いんだけど、スティーブン・ホール(Steven Holl, 1947-)に会ったら、スティーブン・ホールがこのレクチャーを聞きに来ていた(ことがわかった)。シアトルで聞いたって言っていた。

辻:シアトルに行ったんですね。これが原先生にとって初めての国際的な展覧会への出展になるんですか。

原:そうでしょうね。それまでそんなことはやってないから。国際展というか、これは日本のものを持って行ったという。そのパターンというのはかなり生きてて、その後ね。《影のロボット》(1984-1986年)っていうのを小嶋(小嶋一浩、1958-)たちが作るんですね。あれはミネアポリスの美術館が「Japan Today」みたいな企画するとかさ(注:《影のロボット》を出品。「Tokyo: Form and Sprit」展、ウォーカー・アート・センター、1986年7月~11月。「Japan Today」展は1997年)。それと全く同じパターンでグラーツもありましたね。それは日本(がテーマ)じゃないけどね。グラーツは呼ばれて行ったわけだけども(注:《A Message from East Asia シェルター内縁日「1984」》を出品)。デンマークのルイジアナ美術館、あそこでの展覧会とかさ。そういう系統だよね。

オオシマ:ミネソタのウォーカー・アート・センター。

原:あそこのディレクターのフリードマン(Martin Friedman)。僕らが頑張ってやるから、よろしくって。彼も非常に頑張ってくれたんだよね。

オオシマ:その本はケネス・フランプトン(Kenneth Frampton, 1930-)が文章を書いたんですけども、フランプトン先生とも会っていますか。

原:会ってますね。ケネス・フランプトンはここ(《原邸》)へも来てますよ。彼は今どうしてるの。

オオシマ:まだ教えています。僕の指導教授でした。その頃はアンドリュー・マクネー(Andrew MacNair)さんが(IAUSに)いて、奥さんは荒川(修作)さんの事務所にいた。スティーブン・ホールといろいろやっていて、ずっとそれが続いています。ここ(IAUS)はアイゼンマンがつくったところですね。(建築家たちの)いろいろ交流があったのですが、実際どういう展覧会だったんですか。

辻:アメリカ10都市を巡回しているみたいです。

原:そこのところへ若手がレクチャーに行ったということ。

辻:原先生ご自身はその時、アメリカには行かれてますか。

原:行っています。それで何カ所か。あの連中とも最近は付き合いが無いけれども。

オオシマ:マーク・トライブ(Marc Treib)さんと会ったのはいつ頃ですか。

原:マーク・トライブも(《原邸》に)来たから。《粟津邸》(の設計を)やっている頃だよ。

辻:70年代前半ですね。

原:マーク・トライブが来て日本にずっといて、しょっちゅう来ている。すごい面白い男。それからようするにあそこに何回か教えに行って、向こうからもみんな来てというような、いろいろな交流をしましたけどね。

辻:70年代の前半くらいまでに、原先生の建築物や作品やお仕事は、もう世界中で知られているような状態だったかもしれませんね。

原:そうね。まあ《粟津邸》とかね。やはり有孔体というよりかおそらく反射性住居、リフレクションハウス。その頃じゃないですかね。ようするに表面的に穴を開けるのではなしに、立体的な穴を作ろうという考え方。そういう時の作品が多いかもしれないけれども。

辻:先ほど出たミネアポリスの(展覧会の)話は1985年くらいのお話で、ジョージ・オーウェル(George Orwel, 1903-1950)の『1984年』という作品に関連しています。「シェルター内縁日」という、小嶋一浩さんが原研(東大生産技術研究所原広司研究室)でやっておられた、オーバーレイの実践ですね。

原:そうですね、オーバーレイとかの考え方です。その頃モダリティっていうのを言い出すんだよね、みんなね。時間的な変化を言い出して。

辻:モダリティは様相ですね。多層構造論もここで(発表されます)。村上春樹が『1Q84』(2009年~2010年)という作品を書きましたが、先生は読みましたか?ジョージ・オーウェルの『1984』が出てきます。

原:ううん。でもそれがその頃の話ですね。すごい面白い先生がいてさ、ウィーン工科大学で。彼がしょっちゅう日本に来ていたんだよね、それで付き合ってたんだ、行く度にね(注:エメリッヒ・シモンチヂ(シモンチッチ)、Emmerich Simoncsics, 1933-)。この間も僕はウィーンに行って、あの人どうしてるかなあって言ったら「今でも教えてますよ」って。《ヤマトインターナショナル》(1987年)を作っている時に、《ヤマトインターナショナル》のエレベーション(立面図)を音楽にするっていうの。ウィーンのその先生が試みて。ありますけどね今も。この間「それ無くなったから、もう1回送って」って言ったらすぐ送ってきてくれた。

辻:このシェルター内縁日の日本での展覧会は、小池一子さんの佐賀町エキジビットスペースで開催されました(「A Message from East Asia 「1984年」 シェルターの縁日」展、1984年6月1日~6月10日)。小池一子さんに、植田実さん(1935-)からご紹介をされたというご縁があったとお聞きしました。

原:ああ、そうかもしれませんね。そういう感じじゃないかなあ。

辻:建築の設計だけではなくて、展覧会の作品や他のメディアを通じて理論や訴えることを展開されることも多いと思いますが、展覧会に関してはどのように考えておられますか。ちょっと抽象的な質問ですが。

原:今のその話じゃないですかね、全くその通りで。単純に言えばコンセプトみたいなものを、それを実験してみるっていう発想。

辻:こうしたインスタレーションも含めた作品というのは残っていますか。

原:残ってない。記録としてしか残ってない。例えばミネアポリスでは大掛かりな手作りのコンピューターで、10分の1秒ごとに変化させたんだよね。アメリカを巡回したんだけども、それは《ヤマトインターナショナル》で考えた多層構造みたいなやつを時間的に変化させる。自然現象の中での変化っていうのと(同じです)。いずれにしても不確定性みたいな考え方があって。ようするに部分を作るっていっても、それを積み重ねていくっていっても予想できないですよね。僕はその頃、武満さんに聞いたことがあってよく覚えている。「武満さんは作曲した音をちゃんとわかるんですかって、聞こえているんですか」って言ったら、「いいやそういうもんじゃないよ」って言っていたの。僕はまさにそう思っていてね。自分で設計する建物、例えば《ヤマトインターナショナル》のファサードの変化とかいろいろな変化は、予想してある程度これは変化するだろうと思って作るんだけど、その変化の内容がどういうふうあるかというのはほとんどわかんないですよね。それが例えば《影のロボット》だと10分の1秒で変化させるっていうのは、音じゃなしに光だけれどもその何種類か、5種類か6種類の光を、LEDとかそういうのをもっててそれでやるんです。そこで、面出さん(面出薫、1950-)なんかが登場するんだよね。それがアクリル板に収まって大きな直感的な構造、例えば水平のLEDだけを走らせるとか、こういう曲がった虹の形をしたネオンサインが移動する時、それ自体はわかるんだけどいっぱい組み合わせるとね、もう全然どうなるかわかんないっていうかさ、予測不可能みたいな(ものになる)。だけども計画はできるっていうのかな。予測はできないけれども、ある程度こうなるんじゃないかなみたいなさ。だから(展覧会を)やる。建築というのはそういうところがあって、機能とか何かっていうけど、機能で概念はおよそ把握できない。予測できないことが毎日あらゆる瞬間に起こっているわけで。それに対してどういうような設計をしていったらいいのかというようなことが、いつも興味の中心だったわけですよね。必ずしもそういうテーマだけじゃないけれども、展覧会でいろいろやってみようじゃないかとか、何かそういう感じが非常に強いですよね。

辻:当時《ヤマトインターナショナル》と《田崎美術館》(1986年)でも同様に、時間的な変化や様相の問題に取り組まれています。建築物の表現もありますが、展覧会は建築の表現というものがいろいろ拡張して考えられるような場所かもしれませんね。

原:そうだね。実際はかなりそういうように予測できないことが多いけどね。だから何を捉えておくと、ある程度予測したことがなるたけ意図通りになっていくのかみたいな話かな。例えば様相もモダリティって言ってるけども、モードですよね。様態の変化っていうことに関しては、日本では「層」って呼ばれてますよね。東洋では。それで昔から、アリストテレスからモードって言ってるわけだけども、いろんな人がかなり細かいところまでいろいろ読み込んで(その)言葉を(使っている)。ハイデッカー(Martin Heidegger, 1889-1976)の文章に出てくるモードっていうのを全部拾った本を僕は持っているんだけどね。ガーっといっぱいこのページ、このページって。なんだろうね、80くらい出てくるんだよ、モードっていう(言葉が)。モダリティっていう概念が限られているというのは。モディフィカス論っていう概念があって、スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632-1677)が一番正しく説明しているんじゃないかと思うけど、わかりやすい。スピノザは、神がいるわけだから、神が本質というものを決めるんですね。そのものには本質がある。本質はあるんだけども、あらゆる瞬間にモディフィカスというもの、外へ現れているものは変化している。ただ僕は本質っていうのはきっと無いだろうと思っているんですね。あるのは変化だけっていうか。非常に東洋的ですよね、その考え方は。そういう様相なんて言い出したのは、ファンクションっていうのはどうも怪しいと思っていたから、もうすこし広く歴史に戻った方がいいんじゃないかと思ったんですね。だから何か新しいことを言ったつもりは全然無くて。逆戻りなんだけど、そういう転換をした方がいいというか。前に行くためにはそうした方がいいんじゃないかっていうんだけども。それじゃあどういう世の中にはモードがあるかっていうのがね。それはよくわかってないですよね。今はようやくコンピューターのおかげでさ、モードっていうのはもうみんなわかったわけだよね。だけどもこういうモードとこういうモードが世の中にあるんだっていう話は誰もしたことがないし、それをしても無限にあるんだろうからわからないんけれども。だからハイデッカーなんてさ、そういうふうに80か所くらいモードっていうのを使うんだけど、こういうモードの時はっていう、勝手に作るわけだよ。こういうモード、こういうモードって。天気の場合にさ、僕が朝とか、夕方とかさ、夜明けと夕暮れっていうのは、非常にモードとして安定していると思うんだけれども、昼間っていうのはあるのかとかさ、3時っていうのはあるのかとかさ。冬のモードとかあるけどね、現実には。だけどそれをそうわけるのがいいのかどうかっていう論議はあんまり無くって、やっぱり可能態か必然態かくらいの(区別しかないのではないか)。アリストテレスに戻って結局その2つくらいしかないんじゃないかって。もうすこし具体的にどういうモードをやるのっていうことに関しては、それは野球モードからサッカーモードに転換するとかね。《札幌ドーム》をやったからものすごいよくわかるんだけれども。それじゃあ《札幌ドーム》はそれでいいけれども、普通の建物っていうのはどういうモードをどういうふうに転換しているのって言われてもさ、自分ではよくわかってない。例えばこの家なんかは、1日に1回、ぴちーっと対称形になるんですよ。あとの時は影が発生しちゃうから、対称形が壊れているんですよね。そういうその1日に一瞬あるモードっていうのはさ、対称形の保存っていうモードはあるけど、ほかにいっぱいあるんじゃないのって(ことを考えさせる)。何が重要なのかとか、そんなのわかんないよね。

辻:天候とか気候のお話は、原先生の建築を考える上ですごく大切なお話だと、オオシマさんと一緒にお話をしていたところなんですけど、この《原邸》(1974年)はさきほど私たちが入って来た時と建築の表情が全然違いますし、今鳴く蝉の声は昼の蝉の声とは違っています。このあと京都駅のお話、あとは梅田の《スカイビル》(1993年)のお話で、だんだんスケールの大きな建築物に携わることになってくるかと思います。そこでまた新しい理論として、空中庭園のお話が出て来たり、あとは地球外建築のお話が出てきます。

原:原理としては《田崎美術館》をやった(設計した)でしょう。そうして500、600平米でしょ。1,000平米にまだ満たないけども、いろんなことを全部やってくると大体1,000平米ね、ああいうのはね。あれをやって、《ヤマトインターナショナル》やって10,000平米越えるんですよ。そうして後で梅田、僕の80年代からの仕事っていうのは、もう3つか4つに限定されちゃうんだけど、梅田っていうと100,000っていう何かすごいボーダーがはっきりしているんですね、それくらいの差があったんですね。だけど梅田なんてやったって、競争相手がマイケル・グレイブス(Michael Graves, 1934-)。マイケル・グレイブスなんて世界的にもすごいし、まあ実現しないかなと。勝てる相手じゃないし、実現しないなって思っていたら、何だか知らないけど積水ハウスの人たちがこれを実現させようじゃないかって言ってくれて。それで実現するんだけどさ。その時は絶対僕が勝つなんて思ってないけど、勝って実現するとか。さすがに《札幌ドーム》の時には、何か竹中(工務店)と大成(建設)が組んで僕と組もうって言ったから、これは負けるわけにはいかないって思ったけどね。だけども全然そんなことが実現するはずないって思っていたものが実現したという感じですよね。経験も無いし。だけどほとんどその3つの建物ですね、それ以降。いろいろ作らせてもらったけど。結局ね、建物が実現、計画しはじめて建物が完成するまで、短い所をとっても6年間はかかるんですよ。つまり、それを3回繰り返したわけね。梅田(《スカイビル》)と京都駅(《京都駅ビル》)と《札幌ドーム》で。そうすると20年間経ったわけ、その間に。だから1985年から2001年…… 85年ってことはもっと前からか。2001年くらいまでのその間っていうのは、何だか知らないけどそれだけに。その他の建物も建てましたよ。建てましたが、意識はもうほとんどそこにあるからさ。人にも会わない。会うとすれば(設計の際に)招待する芸術家、アーティストと会うくらいで、外部の人と会わない。建築のジャーナリズムでとかそういうところではしょっちゅう話はしているけども。全く自閉的な世界で20年間くらい生きて来た感じがしますね。若い頃の、ああいう開かれた世界には全然いないね。

辻:いわゆるスケール、寸法は、建築物のサイズとしてはかなり大きくなりますよね。

原:それがね、完成期っていうのは、これがこう下がってきて上がっているという、そういうかたちのV字型の感じですよね。2,000倍になるんだよね、大きさが。2,000倍っていうのは面積にしてだけどね。それを扱う時は、超高層を建てるっていうので最初、竹中の人たちにいろいろ教わったし。それで《札幌ドーム》の時には竹中と大成の人たちがすごいバックアップしてくれて。それでできてるけれどもね。やっぱりすごい量でね、考えるべきことが。それからディテールのデザイン。現場の人たちが毎週通って来るんですよ。その時に持っている質問の量が、いつも600とか持ってるの。それでそのうちにこれをこうしなさい、ああしなさいっていうのをこさえてくるの。ところが答えられないのがかなりあるから、それは宿題で1週間かけてそれを絵にしてとか。だから絵を描くトレーニングをめちゃくちゃしたね。結局そういうもの全部、惜しいと思うんだけど、みんな最後にぐちょぐちょってやってさ。それをみんな取っておけばよかったねってみんな言うんだけど、なんにも残ってない。鈴木隆之というのが現場にいたんだけどさ、最後にもう終わったっていうんで(図面を)みんな燃やしちゃった(笑)。それでもそういうものなんだろうと思うんだけれども。めちゃくちゃな図面量ですよ、その間に書いた図面の量っていうのはね。

辻:私は都市という言葉が限定されてしまう感じがしてあまり好きな言葉ではないのですが、(京都駅は)いわゆる「都市スケールの建築」(注:都市的な規模をもつ巨大建築物)と呼ばれるものだと思います。一方で京都という都市ゆえに、京都駅のコンペティションでは高さ(規制)が問題になりましたよね。それはごく単純に、概念としての高さをめぐる議論だったと思います。

原:つまり60mという高さが京都駅、まあ高さはいくらでもっていう話だったんだけど、結果としては僕が出した案が一番低くて。現存する中で一番高い60mっていうのをおさえた。それでまあ(いいかな)と思ったんだけどね。何しろ言い訳ばっかりになりますが、いろいろな話になるとね。僕は京都駅をやる(設計している)ときに毎晩、僕はローリングストーンズのファンだから、ローリングストーンズのコンサートのビデオがあってね、もう繰り返し繰り返し見ていたんだけれども。もう「テレビに出ろ、テレビに出ろ」って、テレビも新聞もめちゃくちゃな攻勢なわけじゃない。全部断ったんだよ。すごい不思議なんだけど、僕は梅田で建てているわけじゃない。梅田やっている時にその(京都駅の)指名コンペになったんだよね。その時にさ、京都で(建設)反対運動があるとかそういうの全然知らなかったよね。大阪と京都っていうのは、ああいうふうに違うんだっていうことを、今にしてみれば当然だし納得がいくけど、わかんなかったしね。なんだかみんな何でガーガー言うのかなみたいな(笑)。政治的っていうか。もう本当に嫌だと思った。選挙があったのかな、京都府京都市、それで何か賛成派と反対派がどういう人たちなのか全然知りもしないで勝手にやっているわけじゃない、選挙のスローガンとして反対、賛成って言って。その度にいろいろ何かテレビとかさ、新聞とかあーだこうだあーだこうだ聞いてくるわけじゃない。それが嫌だった。京都という都市に対してどういうふうに考えますかっていうことだったらいいけれども、言ってくることが非常に政治的でさ。つまり今、選挙が賛成と反対で戦われている、それに対することに関連するわけだよね、僕が言うことがね。だからもうそれはもう絶対嫌、関与したくないっていうか。

オオシマ:先ほどモダリティのお話で、京都駅は時間ごとに変わってくるんですね。年を重ねるとまた印象が変わって来るし。僕は夜が一番好きですね、その雰囲気が、光と音とか。本当にできた(竣工した)時と今と、多分印象が違うと思います。京都タワーもできた時に反対の人が多かったんだけど、でも今はかなり親しみを持っている人とか、あと上(階)の雲のかたちとか天気によって違ってくるじゃないですか。そういうモダリティが非常に重要だと思います。

原:ようするに人間ってさ、過ちを起こすじゃない。過ちっていうかね、何が正しいかわかんないよね。人間、どうやって生きるかという時に。そういう時にどちらかというと、禁止することが一番よくないんじゃないかと思うんだよ。人間が生きていく上でね。きっともっといい建物も世の中にいっぱいあるし、自分が建てたよりかもっとうまく建ててあげる方法がいっぱいあっただろうし。それは事実だと思う。それはそうなんだけれども、それだからといってそれが何かをしてはいけないということに繋がるかというと、そうではないんじゃないかって。僕が左翼の連中にめちゃくちゃ叩かれたのは、あなたたち気に食わなかったら壊せばいいじゃないかって僕は言ったんだ(笑)。めちゃくちゃに叩かれてさ。そんなにダメならば壊す。人間の生き死にに関係することは禁止っていうのはあると思うんだよね。人を殺してはいけないとかそういうようなこと。だけども生き死にに関係しないんだったら壊せばいいんじゃないか、建て直せばいいじゃないか。それはいくらでも修正する可能性はある。だからまあ、あんまり生き死にに関係しなければ、比較的自由にやった方がいいんじゃないかっていうのが僕の考え方なんだよね。アナーキズム的な考え方ですけどね。

辻:オーラル・ヒストリーでは網羅できないこともありますが、ここで一区切りにして終わらせていただこうと思います。最後に、今日は8月9日で長崎に原爆が落ちた日です。2日間お話をお聞きするお時間をいただいてきて、戦後の建築や都市、それ以外のことについても経年的にお話を聞いてきたと思います。いま振り返って、これからの建築や都市、芸術に関して、昨年大きな震災(東日本大震災、2011年)があったこともありますが、どのようにお考えですか。

原:そうね。震災に関してはね、何か時代が違うっていう感覚ね、僕は。(震災の問題は)もっと若い人たちに属していて、それに対してああだこうだ言うべきじゃないんじゃないか。我々はいろいろやってくる中で、自由にできた。そういうことが善かれ悪しかれいろんなことに繋がってきているわけで。震災に関してはこうやったらいい、ああやったらいいっていうのは、それは局所的には言えるかもしれないけど、それはもう若い人たちに属している。僕らがああだこうだ言うべき筋合いじゃないんじゃないかって思っている。各年代であれですけど。それから人がたくさん亡くなったこと、それは大変なことで大事件だけどね。それは我々が体験してきた戦争とか何か、そりゃ戦争と震災と一緒にしちゃいけないっていうのはあるけどね。そういう出来事の一つであってさ、こういうことが起こりうるんだと思うんだよね、幸か不幸か。大惨事を喜ぶということは全然無いけどね。だけどもそういうことが起こりうるっていうか。なんか様々な状況の中でそれは起こりうるんじゃないかな。

辻:ここで終わらせていただきます。ありがとうございました。