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八田豊オーラル・ヒストリー 1回目
2016年2月22日

福井県越前市、八田豊自宅にて
インタヴュアー:永宮勤士、鷲田めるろ
オブザーバー:島川泰広
書き起こし:牧山好海
公開日:2021年12月25日
 

八田豊(1930年-)
現代美術家

1930年福井県に生まれる。金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)美術科洋画専攻を卒業後、福井県に戻って教員生活を送りながら創作を行う。パルプボードやデコラ板などに円など幾何学的な図形を刻む「カーヴィング」の作品を手がけ、第9回シェル美術賞で3等賞になるなど全国的に評価される。50歳代で失明し、その後は絵具がキャンバスの上を流れてゆく音を聴きながら制作したり、指先で確かめながら画面に楮の樹皮を貼り付けるなど、聴覚や触覚による造形へと展開した。また、北美文化協会に参加したのち、現代美術今立紙展、国際丹南アートフェスティバルなど福井県のアートイベントや文化運動をオーガナイザーとして主導した。金沢美術工芸大学の卒業論文で八田豊について論じた(2004年にLADSギャラリーより『八田豊論 その作品と文化運動の語るもの』として出版)永宮勤士氏を聞き手に、福井県における前衛芸術と文化運動について伺った。

永宮:生い立ちからお伺いします。1930年に今の鯖江市にお生まれということですが。

八田:今立郡中川村下河端。

永宮:家族構成はどのようでしたか。

八田:祖父、祖母、父、母、それから兄弟が6人です。その頃では少ない方かな。今だったら、うわーっという数になるんかね。

永宮:ご両親はどういうお仕事を。

八田:昭和17年まで織物企業。機屋です。ばたこんばたこんって。

永宮:鯖江の地域は織物が盛んで、ということですか。

八田:そうそう、下河端っていうのでも機屋っていうのは何軒もありましたよ。

永宮:産業の一つとしてそういう織物が栄えていたと。

八田:そうそう。

永宮:ちょうど戦争に差し掛かる頃というくらいですかね。

八田:そうだね。なんで昭和17年頃に行ったかっていうと、実は僕の家が昭和12年に自分の所が火を出して、近所20〜30軒焼いてしまったんやね。

永宮:ああ、火事が起こって。

八田:うん。だから祖母が「学校行っても子供にいじめられるんでないか」って色々心配して。それで、機屋止めてどっか探して、村から出よう、と。それで行ったんだろうと思うんです。

永宮:それで武生市に移住した。

八田:王子保村今宿という所に。今の今宿ね。

永宮:昔のアトリエがあったところですね。

八田:そうそう。あの所へね。

永宮:それが昭和の…… 

八田:17年。

永宮:16年という風に年表では書かれてますね。

八田:ああ本当。

永宮:だいたいそのあたりで。ちょうど第二次世界大戦に突入してきた頃に。

八田:そうそう、ちょうど翌年大東亜戦争に突入するんですよ。情勢がね。

永宮:そこで昭和21年の頃に木水育男さんと出会ってるという風に書かれているんですけど。

八田:うーんとね、21年というのは武生中学校に入って。同級生で武生中学校に入ったのは2人しかいないの、田舎のことってね。

永宮:その地域ではそれくらいということですね。

八田:王子保で、木水先生が兵隊から帰ってきて絵を描いててね。妹に「お前何してんや」って言ったら「木水先生のモデルになって絵描いてる」と。中学校か、小学校の5年生か6年生やったか。で、覗きに行ったら木水先生が(妹に向かって)「あれなんや」と言って。(妹がそこで)「私の兄貴です」って。初めて目と目で(合っただけで)実際にご挨拶はしていないんです。

永宮:顔を合わせただけで、会話としては正式に…… 

八田:してない。ただね、軍隊入って教鞭は取れなかったんやね、学校では。そういうの木水先生にあったわけです。

永宮:終戦直後で、育男先生はちょうど戦争から引き上げてきたばっかり。教職を得て…… 

八田:復帰されたけど、現場には出られない人だったの。

永宮:そういう事情があったというわけですね。

八田:教壇に立てなかったんやね、その当時は。だけど不思議にね、うちの妹と、妹の友達とかオルガンを弾いてる絵を描いた。後で思いついたんやけどルノワールがね、《ピアノを弾く女》とかっていうのを描いてるのとよく似た構図だったと思うんですよ。あールノワールの絵がこんなとこ出てくるんかーって。ルノワールでないかもしれないけど。終戦後油絵を描くなんて言うと、ひどくショックだったもん。結構大きい作品だったしね。

永宮:そういう状況があった中で、前後するとは思うんですけれども、美術といったものに関心が向くようになったきっかけというのはどういう所だったんでしょうか。

八田:終戦後は、僕は幼年学校を受けて、幼年学校に入る、入らん、という中で目が悪いので。「お前また受けに来たなあ、目が悪い奴はだめって言ったやろ」と言われて、軍人にはなるのは諦めて。終戦になって、さあて、何すっかなあ、て。

永宮:目が悪いというのは、どこに受けに行ったんですか。

八田:軍隊の学校はね、0.8ないと入れてくれないの。僕は中学の1、2年の時に受けられたのよね。それでだめやったんや。試験官から「おいまた来たな、あかんって言ったやろ。」って怒られて。特に幼年学校なんてどうでもいいんで。

永宮:パイロットを志願されていたんですね。

八田:おじさんが飛行機に乗っていたから。そういう関係もあってね。

鷲田:近視だったということですね。

八田:うん、近視でだめだったの。黒板の字が見えない。先生に黒板の字が見えないって前の方行ったら怒られた覚えがあるんですよ。近眼はだめなのか、と、近眼の認識をしたのが中学の2年の頃かね。

永宮:美術に関心を持つようになったきっかけというのは。

八田:それで、絵描きにでもなるかあ。だけどこんな田舎にいて絵描きになるってなあって。

永宮:将来の…… 

八田:で、絵描きになるっていうのはどういうことかっていうのは木水先生が絵を描いていたから。あ、あんな人になりたい、と。あれで食ってくとかそんなことは全然関係ない。

永宮:木水先生の姿を見て、絵を描くということに、憧れなり興味を持ったということなんですね。

八田:で、1年たって、いとこが金沢にいたから。第四高等学校、四高に行ってたの。それでうちにいてもしょうがないから、家出していとこのとこに行ったんやね。

永宮:遊びに行ったと。

八田:遊びにって、家にいるのが嫌だったから。家に引揚者がいっぱいいてね、家でちゃんと飯が食えなかったんやね。こんなとこかなわん、嫌だって。(それで金沢に)行ったんですよ。そしたら美術学校が。夏休みに行ったんやね。寺の坊さんが「おい、あんちゃん、金沢に美術学校できると」ちゅうんで、えー、って。(それで)受けに行ったんです。

鷲田:その時は美大が出来たばっかりの頃だったんですね。

八田:そう、(出来たてで)湯気が上がってる頃に行ったんですよ。そしたら、なんで、学校の書類も出した覚えもないのに通ったんですよ、一次試験が。それで口頭試問、二次試験の時に何年に中学校4年生卒業したっけなあって言われて、「そんなもんあかん」って「一次試験通ったのに、なんでえ」って言ったら「そこまでよう調べなんだ(よく調べなかった)」と。ケンカしたんですよ。そしたら「無試験でも入れてくれるか」って言うたら、「初めから受けなおし」って言うたのに、翌年行ったらほとんど白紙同然に出したのに…… そんなこと書いたらあかんのかな。

永宮:いやいや(笑)

八田:入れてくれたんですよ。

永宮:(注:手元資料を見ながら)この猪飼先生というのは。

八田:猪飼先生というのは中学校の四年生の時の担任の先生です。

永宮:その方が紹介してくれた、と。

八田:いやいや、寺の坊主やって。

永宮:その人が。

八田:うん、「学校出来たで受けや」って。それで学校から帰ってきて受けたいって言ったら、「んー、ほんなら受けてもいい」って。

永宮:で、進学ということを考えた時に…… 

八田:進学とかそんなこと全然。学校が出来たというから、ほー、ほんなら受けてみるかなあと。行けるかどうかわからん。金出してくれないもん、家からは。

永宮:じゃあもう勢いで受けたということなんですね。

八田:いやー、坊主が言ったから受けてみただけで。

永宮:わかりました(笑)。

八田:ほんで家帰ったら家では、母親が「うーん、9月からか。よし、なら3月まで仕送りしてやろうかな」と。ところが学校は入れてくれなんだ(くれなかった)で、4月に受けなおして、母親に、6か月でない、1年間仕送りしてくれって。美術学校っていうのは予科が1年あって本科が3年あったんですよ。んで、予科の授業は安いから。予科の授業料だけで。あとはアルバイトして行ったと。1年たったらもう金くれんから、さーて、出なあかんなということやね。金沢はいいとこでね、ともかく学生に寛大で、なんでもアルバイトさせてくれたし、もうちょっとくれやって言うと「おーい、いくら欲しいんじゃ。なんかもっと違う仕事やれ」って支援をしてくれた町なんやね。昼アルバイトして、働いて学校というのはほとんどなしにいったんかな、午後実技だから、行ってな。本科になって、もうちょっと真剣に絵を描かないかんなあって。アルバイトと学校行くのをうまくコントロールしながら。授業なんてほとんど行ってなかったんですよ。人のノート借りて、話聞いて。試験なんてスレスレで学科を通って、1年2年3年てすり抜けてきたんやと思うんですね。

永宮:洋画を専攻されたということですけども、やはり洋画のきっかけというのも木水先生。

八田:やっぱり木水先生の油絵やね。かっこいい。あのパレットに絵具をのせて。水で溶くとこぼれちゃうでしょ。(でも)こうやったかって、こぼれん。はあー、あんなことして絵描くのか、おもしろい。その後、気ぃ張って見てると、西洋の絵描きはパレットの上でチョイチョイチョイって絵の具を溶かして絵を描いてるのを見てると、あんなことして絵が描けるの、けったいな絵やなあ、あれが油絵というのか、と言って。だいたい学校に行くよりも油絵を描きたいという方がすごかったんじゃないかと思うね。

永宮:油絵に関して興味が出たと。

八田:ところが油絵の具っていうのは高いんやね、どこ行っても。昔の価格でも、1番安くても何十円ってしたと思うね。もっと後になると何百円、千円、2千円っていう絵の具もあったから。それはもうちょっと、学校卒業してからの話やけど。油絵の具ってなんでこんなに高いのかなあって思う時代が通過していくんやね。

永宮:アルバイトをしながら絵の具代を稼いで、学生生活を送っていたと。

八田:僕の友達が看板屋をやっていてね、僕は文字がうまいこと書かれんのやね。看板屋って言うと「この文字はあかん、お前使いもんにならん」って。なら、俺、絵ぇ描く。片方の奴は字ぃ書く、というようなことをやっていたけれど。なんかね、その頃の絵っていうのはね、性病予防の看板を描く仕事が多かったんで、淋病、梅毒のその虫の拡大したような絵を描くんやね。そんな、気持ちの悪い。やだなあって、看板屋辞めて。結局何やってたかっていうと下水道掃除に行ったりね、道路掃除に行ったりね、かなり悲惨な労働をしたね。下水道掃除なんて憐れなもんやねえ。死ぬような思いでやったもん。それから金沢市を出て大野の、郊外にある大野町に行くんですよ。そこで学生会館に行く頃になると、なんで俺を学生会館に連れて行ったかっていうと、なんでかまかない係にして、まめに使ってくれた。僕は家から米持ってきて、配給の米っていうのは、米の中に大豆が入ってるんやね。大豆をおばちゃんに選ってもらって、米で飯食わして、その大豆を、大野港っていう所は醤油屋が多いんで、大豆で醤油を換えてもらって。学生には大豆飯を食わさんように食わさんように、としたんやね。それが儲けたんかも知らんけど、1銭いくらっていうときもあったんやね。そんなことは生活なんて関係ないもんで。結局、墨をつくる、炭団をつくる、年末年始は家に帰って正月餅も食わずに、アルバイトして何年か過ごした覚えがあります。悪いことはすぐ忘れる方で…… 

永宮・鷲田:(笑)

八田:何十人ていた学生寮に1人の、金沢医専っていう所に行っていた人がいて炭焼きや炭団つくりに行った覚えがありますよ。

鷲田:その時の学校の先生は、どんな方がいらしたんですか。

八田:竹沢基さんが卒業の時の担任だったんだと思う。1、2年の頃はね、おじいちゃんで名前忘れてしもたなあ。2人とも東京美術学校出てた人ですよ。はー、東京美術学校出てるとこんな立派な先生になれるのかって。でも絵は、上の親分の方の絵は上手かったし。あのペンペコペンペコペンって筆跡を残してる絵ってのはなんだろうなあ。宮本三郎っていうのは1期上の連中の面倒を時々見たでしょ。んで、宮本三郎の絵を時々見に行ったんだけど、あれは上手い。この人は一体なんじゃこりゃ、筆跡がない絵を描くんですよ。こういう絵もあるのかなあ。だけど筆跡が残ってた方がいいのかなあ。ということで印象派の絵っていうのは学生の間でもちょこちょこ問題になって。ピカソの話、マチスの話っていうのがかなり出てきて。良い悪いの論争をやったことがあります。だけどピカソ、マチスの絵から後は、あ、ボナールの絵が話題になったこともありますね。学校の先生は「あんなものは下の下じゃ」っていう話になって。それから宮本三郎の話は消えて。それで卒業したと。

鷲田:直接宮本三郎に習ったということではないんですね。

八田:ではありません。教えてる部屋を覗いて、見に行った。

鷲田:上の学年を教えていた、ということですね。

八田:はい。そしたら連中は、「おい、うるさいぞ。勝手に出入りすんな」って怒られたけど。なんやあ、6か月先輩なだけで、と思ったけど。そんなことどうでもいいんです。宮本三郎の絵っていうのは…… だいたいね、宮本三郎という人は、看板には宮本三郎教授とかなんか書いてあったけど、ほとんど学校には来てなかったです。結局日展系統の人たちが出てきて三郎は学校を追放されたという噂も聞いたし。6か月か1年で出てってしまったんでしょ。金沢にもういなかったもん。

永宮:学校は4年間で卒業、と。

八田:うん、4年ですね。

鷲田:その頃、鴨居玲は……

八田:うん、6か月先輩でいました。その人はあんまり絵描いてなかったんでないかな。先輩はあんまり絵、描いてなかったですよ。酒飲む話やらくだらない話ばっかりして。くだらんやつやなあ…… 大部分が軍隊帰りでしたからね。1期上っていうのは。僕は6か月遅れて入ったけどやっぱり軍隊帰りが多かった。面白くない学校やなあって。で、香林坊の方行って、金がないから五目打ちに行って。あの頃、2,000円かな。欲しさに負けてやったら、勝ったはずなのに負けてるんです。チンピラに、靴から洋服から盗られて、「金持ってこい、そしたらやる」って。そしたら日本画の奴が「おい、荒らしに行こう。その靴やら取り返しに行こう」ちゅうて五目荒らしをやったこともあるし。いやあ、随分悪いこともしましたよ(笑)。

永宮:鴨居玲という話もありましたけど、同級生とか、あるいは下の後輩で交流があった人とか、誰かいらっしゃいますか。

八田:1級下はやっぱりね、あんな学校でも学年を越して交流はなかなか難しいね。僕らはやっぱり上級生には、面白いからからかいにも行ったし。だけど怒られたけど。たいして1期上でも、ろくな絵描いてないなあ、鴨居玲だけがちょっと上手いなあー、なんでかなあーっていう具合で。ていうのはね、学校なんてほっぽらかしですよ。戸を開けると作品並んでるし。あんまり出入りして目立つと叱られるけどね。

永宮:その頃の油絵を卒業された人たちはどんな就職先というか、皆さんどんなところに就職されて、進んでいたんですか。

八田:さあー、僕はなんか、学校の先生しかないから、試験受けたら今でも覚えてるけど数学の試験が悪かったもんで、石川県の採用試験には落ちました。

永宮:まず、石川県の採用試験を受けたと。

八田:貨物列車がね、15度の傾斜の所を通って行って、この貨物がレールに加わる力の計算をせよっていうのが、今でも忘れないけど。こんなの美術学校の俺らに何になるんじゃあ、って。ほやけど、これどこで習ったんかなあーって。僕は習ってないんやねえ。っていうのは、学校変わっている間に新制中学校か高校の中で出てくる問題なんですよ。だからあんなもの僕らの時では全部解けるはずがないと思う。あれ、今でも覚えてるんやけど、タンジェントかコサインかなんか使って計算せえって言うんかなあ。数学の先生に聞いたら、お前らそんなもん出来るわけがないって言われたもん。だけどあとでは新制高校の中で出てくる問題で。そりゃあ受かるわけはねえよなあ。それで、金沢落ちて、福井県ではテストなしで入れてくれたんです。学校の先生が足りなかったんで。

永宮:美術の教員というか、教員を…… 

八田:採用試験なんてなかったの。

永宮:欲していたと。そういう時代だったんですね。

八田:いやあ、石川県と福井県の差は。片方は採用試験あるし。学校の先生がいなかったんですよ。なんでか聞いたらね、学校の先生はみんな月給が安いから、学校の先生辞めて会社へみんな代わっていった人が多いんで、学校には先生の数が足りんかったの。僕も敦賀1年行って、その次の年には高校行けるっていうんで代わってきたら定時制がもうなくなってしまってね。今できたけど。その校長が「お前の免許状は中学校やけど、高校の免許状なしに来たって3年か勤めたらクビになるぞ」って。こりゃやばいな。ほんな放送や記録にしゃべられんほど、その切り替え時期っていうのは学校の現場っていうのはバタバタですよ。

永宮:はい、そうですよね。

八田:で、みんな新制中学校、新制高校っていうのは、短大が出てきたの。4年制大学なんてないから。短大出てきて、学校の先生になる。僕らは結局は脅かされて。なんていうかなあ、夏休みに東京の大学に行って勉強してこいっていう具合になって。行かなんだ(行かなかった)けど。クビになるのかな、受けなんだら。色々あって浜の学校に追いやられて6年間いて、そこの中にいて、夏、講習会を受けて資格をもらったのかねえ。

永宮:教員の…… 

八田:よく覚えてない。うん。それも美術じゃなくって、技術課程の免許をもらって、技術科に入って、美術の先生になってしまったのか、そこのとこはちょっとよく覚えてない。あんまりそこの所を話するとクビになるのかもしれないけど、そんなものかつてだから、何十年も前の話だから、いいかげんなことしゃべってるのかもしれないしね。

鷲田:1番最初から美術の先生というわけではなかったんですね。

八田:なかったんです。

永宮:でもやはり、美術の学校を出たということで、福井に戻っても何かしら美術に関わっていこうとは思っていらっしゃったんですか。

八田:だいたい学校を出た人がいなかったもん。中途に止めてしまったり、行けなかった人が多かったんやと思うね。

永宮:学校に進学できる環境にあった人がいなかったと。

八田:たまたま学校にいる先生が、月給が安いから、学校の先生を辞めて普通の会社に勤めたという時期なんですよ。だから学校が足りないというか、石川県は足りなかったんか余ってたんかどうか知らないけど、試験はしたけど。僕らの所では学校の先生を募集して、「おい、(先生に)なれ、なれ」って。「敦賀でもいいか」って、どこでもいいやって言って、入ったの。それで僕らの同級生は6の1で入ったのに、5の5っていう階級なんやね、月給の。教育施設の、敦賀の方は二種支局っていうのがあって、支局に文句言ったら怒られた。「お前、資格のないもん採用したんやから文句言うな」って。あれー、大分違うなあ言うことが。嶺北来たら嶺北でまた違うの。やっぱり教育課っていうのはばったくさな中にあったんやと思うね。石川県の方がまともやったんじゃないの。

永宮:教師をする傍ら、絵を描くことも続けていこうと思っていたんですか。

八田:うーん、その頃は学校の月給では、とてもその日が食えて行かれんようなもんやね。1年行くと月給が倍くらい上がるんやね。5の5っていうのは5,500円やったか、それが7,000円くらいぽっと1年で。その次が7,000円、8,000円って上がり方がね。「ああ、これで絵が描いていけるかなあ」って言ったのが、河野行って2、3年経ってからかねえ。

永宮:河野の中学校。

八田:うん、河野中学校行って。河野が僕にとって重大な時期だったのが、子供が昼飯の時こうやって頭から洋服を被って飯を食ってるんですよ。「こら、ちゃんとして飯食え」ってパッとめくったら、弁当箱にご飯が入ってないの。何人も。あれえ、お前もかって…… 弁当箱の中に米のないもんがようけ(たくさん)いたんですよ。こんなかわいそうなことして…… 心の中で謝って。しばらく考えて。美術だけの先生でないんですよ。僕はもう一つ副専でなんかもう1つやれって言われたんで、理科をやったの。浜辺の、海辺の生物っていうんかな、それで理科を担当してね。子供は弁当持っていいし、4時間目から5時間目の授業には「おい、弁当箱持って、みんなで海行こう」って言って海で遊んだんです。弁当箱には米も何もないんですよ。で、海行ったら貝を採って、ナマコを採って、それを焼いて食わせて、弁当を持ってるやつは分けさせて、それからもう、どんなに寒くても海に行っては、貝を採ったりそういうことして。ほとんど授業っていうのは…… 「この貝はな…… 」(と言うと)「先生、そんなの俺らの方が知ってる。そんなもん教えんでもええ」って子供たちにはバカにされたけど。でも子供は、弁当のあたらん連中には、サザエを採ったり、ナマコを採ったりして食べさせて、かなり評判がよくなってきたし。親からも尊敬されるようになったし。6年間っていうのは、自然と、それから漁師の生活とか、色んなことを学んだんですよ。で、片方では夏休みになると「北美入れ、入れ」って。北美の連中っていうのは、色んな前衛、抽象絵画の先生ばっかりだったんですよ。福井大学の講習会に行ってね。ジレンマで悩むんだけど、僕はその連中と講習会の時は一緒に仕事したけど、やっぱりちゃんとした、写実的な仕事をやってたの。ていうのは、船が難破して帰ってくると家中が飯食えないんやね。壊れた船と母親が子供抱きあげて泣いてる絵、と言うような象徴的な絵を描く仕事をやってたんですよ。で、25か6の時かな。教職員美術展に、福井の方に出したら福沢一郎が「おー、こんなに若いのにすごい作品を描くやつがいる。」って福井新聞に写真入りで載ったの。ほんで、北美にいると(まわりは)わけのわからん、へたくそな絵を描いてやがるし。で、講習会出ると「現代美術っていうのは…… 」。岡本太郎なんていうのは「芸術は爆発だ」なんてその頃は言ってなかったけど、「現実を無視していかなあかん」っていうような話もあったし。僕は現実は無視できない、というジレンマの中で、講習会に行ってもあんまり先生の話聞かないし。面白くなかったんやね、北美の講習会は。

永宮:北美との出会いはどのようなことがきっかけだったんでしょうか。

八田:いや、河合勇というのが僕の1級下にいてね。アメリカ帰りなんですよ。何でか知らん、いつの間にか仲良くなってね。中学時代。それが、金沢の学生会館にいる頃に、「おい、北美入れ」って。北美見に行ったら、誰も絵なんか描いてないの。昭和23年、初めて北美の2回展かな。見た時にはベニヤ板に釘打ってあったり針金打ったり、パチンコの座標みたいなの描いたり、うわあ(と思うものばかりで)…… 講習会ではもうちょっとマシなものもあったけど。それが北美との出会いなんです。それは、その思いの中ではちょっとズレがあったと思う。作品はもうちょっと色んな。ともかく、絵らしいものは…… 絵の具を買う金がなかったと思うね、(昭和)22年、23年。終戦が20年だから。彼らは結局、素材を使って、ほとんど遊びというか造形というか。こんなことして作家になれるかっていうんで、1年は、次の年は出品しなかったけど。夏の講習会に出て、どうもジレンマと…… ともかく、絵描きになろう、美術学校行くっていうのと、北美の運動はがらがら噛み合わなくて。ノイローゼ気味やったんやね。

永宮:整理しますと、金沢美大にいた頃に河合勇がやってきて「北美と言うものがある、見に来ないか」と。誘われて行ったところ、実際見たら自分が思っていたのとはギャップがあったと。

八田:うん、全然違うんやね。

永宮:では前衛的だったと言う意味なんですかね。

八田:いや、その頃僕は決して前衛だったとは思わないし、絵画の初めというか、これで芸術になるのかっていう悩みの方が大きかったと思う。それで1、2年遊んでたんだけど、どうしても河合さんが来いって言うんで参加した時に…… その辺りっていうのはあんまり明確にしゃべれないくらい混沌とした世の中だったんですよ。

永宮:なるほど。

鷲田:北美展が始まったのも戦後の…… 

八田:昭和23年に出来たんです。できた当時はね、偉い人もいたし、自分の旧作品を出したのか、良い作品があったらしいけど僕は見てない。

永宮:初回から、先ほど恩師と言われていた木水育男さんだとか、福井で教職員をしていた人を中心に初期の北美というのは運営をされてたんですか。

八田:いや、僕もあまり見てないから。見てないことはあまり言わない方がいいと思うんですね。僕が意識したのはやっぱり、学校の教員になってから、入って初めて僕がその、河野の子供たちの弁当がないのを見て、それから船が目の前で沈没していく、遭難していくのを見て、漁村の生活というのはこれはほっておけないっていうんで、それを素材にして絵を描くんやけど。それから北美の連中との噛み合いは全然良くなかったです。

永宮:自分の描いている、目の前にしているその現実を絵にしていた作品と、北美の人が目指している作品との中にズレがあった、というのが戦後直後のこの時期だったというわけですね。

八田:(昭和)26年、27年、28年、この辺りは反北美というか。北美なんて入ったかってしょうがねえなあと思ってた。ところが、絵を描いて、福沢一郎に褒められていい気になっている時に、村井正誠さんか岡本太郎か、岡本太郎には反発したけど…… 村井正誠がね、針金をこう、ペンチ使って…… 針金を積み上げて。構築の講習会の中で。なんかね、へんなもん着けてろうそくかなんかでジャーっと焼くと節約が出来る…… はんだっていうんかね、それは面白かったね。北美の講習会でそれを教えてくれたの。そしたらね、理屈っていうより、そのものづくり。もともとものづくりが好きなもんやから。んん、これは面白いなって。岡本太郎さんが来た頃になると、金がない、会費は納めなあかんし。岡本太郎と弁当持ってってしゃべらなあかんな、あんな奴は嫌やなって。なんでかっていうと、しゃべることがあんまりようわからんかったし、夜になると葵(注:レストラン)の横のダンスホールに行ってたんですよ、岡本太郎が。あの奴ね、縦縞のものすごい良い洋服着てね。日本人の女性とダンスしてるの。男はみんなアメちゃんですよ。アメリカのなんちゅうか、外人の兵隊ばっかりですよ。そんなんで初めクソっ腹立ってたけど、際立って岡本太郎のダンスが上手いの。アメリカの軍人の方が下手くそなんや。

永宮:進駐軍の軍人に混じっても引け目を取らないということですね。さすがパリ帰りの…… 

八田:いや、パリ帰りとかそんなん。クソ生意気なと思ってきたのが少しずつ変わってきて。岡本太郎が展覧会するということになって、僕と堤野(学)と後は誰も手伝いもしないというのに人絹会館ビルで、日本で初めての岡本太郎展を開くんですよ。何年かよくわからん、忘れてもたけど。それから、わからん奴やけど興味のある奴っていうのは大事にせなあかんなっていうことで、だんだん抽象画に接近していくと同時に、北美の中での戦いがね。例えば針生一郎さんも来てたけど、小野忠弘とか。この間死んだあの京都の評論家…… 

永宮:中原佑介。

八田:そう中原。それでちょっと酒飲んだりするとケンカばっかりですよ。どうも言うてることは劣性やなあ、「そんなこと言うてえんと、さっさとつくれえー」って、そりゃそうやなあってやっていく中で。現代美術ってわけのわからんことをなんでやるのかなっていうことと、ジレンマの中で自分もやってみる、上手くいかない。こんなもんはどうしようもないなあ、という中で29歳頃から引き上げて、南越中学校から三中に入るんやね。

永宮:三中、武生第三中学校。

八田:そう、武生第三中学校。その時にね、ヨーロッパに行けるチャンスがあったんですよ。それはね、国の指定で、道徳教育の指定校になったの。俺道徳って今さらなあ…… で、1年学校辞めさせてくれって校長に言ったら「あかん。猫の手も借りたい時に何を言うか」って言うんで。でも調べたらヨーロッパ教育視察団っていうのがあったんで、そこへクジ引き(抽選)で入れてもらったの。その時校長には「お前、絶対に帰ってくるんでないと出さんぞ」と。「はい、帰ります」(と答えたけど)実際には帰るつもりなかったの。ところがヨーロッパで一番頭ガーンとやられたのが、大英博物館ですよ。あれを見てかなり頭にきてねえ。こんなもん全部ギリシャの盗品じゃないか、というので頭にきて。もうその視察団から外れて毎日遊んで。でもロンドンって遊ぶところがないの。やっぱり学校見に歩いて。で、学校の教育っていうのも全然違うの。先生なんてどこにいるか分からん。子供らは後ろの戸棚に寝そべって、ドアから入ってくる僕らをジローっと見てるだけ。我々はお客さんが外から来たら「おい、起きろ」っていうのに、イギリスはもう自由にさせてるの。感覚がもう全然違うんやね。お客さんが来ようと何しようと、学校でやることちゃんとその通りにやってるの。ほう(と思って)、体育の授業見に行ったらデブチン(太った子)が肋木を上がられないの。子供たちが一生懸命になって(その子を)上げてやってるの。先生どこにいる、って見たら真ん中で肋木上がられた子だけ集めてなんかやってるの。自由教育ってこんなんかなあって…… それからドイツまで見に行ったんやね。ドイツはなんていうかな。中等教育の所行ったら、女の子がマニュキア塗ったりとんでもないのが。ミニスカートみたいなのがいたり。またけったいな学校見に来たもんやなあ。イギリスからドイツの教育見て、パリ辺り、フランスは全然行かなんだ(行かなかった)もん。
で、パリでやっぱりむかついたのがルーブル美術館。ミイラばっかりやの、その頃は。なんやここも盗っ人みたいな。これで国の誇れる大美術館って言えるのかなあって。ただ一つジョコンダの像(《モナ・リザ》)っていうのはああこれは(すばらしいな)って。でも名前見たらイタリア人でしょ。これだってなんか盗人みたいな…… 何やってんやここの美術っていうのは毎回。日本の美術っていうのは何かあるんかなって。それからやっぱり通う。こんなヨーロッパのなんか見落として、大芸術家になろうって考えたのはよっぽどアホな。何見てるんやって。それでやっぱり1か月近くいたら日本帰ってきて。それで帰ってきて悩み、悩み、悩みぬいて…… それで俺の過去の作品を洗いざらい燃やしてしまうんやね。全部燃やいてもたんや。

永宮:それは油絵からの脱却という話になってきますけれども。ちょっと戻りまして、北美に河合勇さんの言葉がきっかけで関わってくるようになりますけど。北美という福井の前衛美術運動の指導者であった土岡秀太郎さんがいると思うんですが。土岡さんとの最初の出会いというのは覚えていらっしゃいますでしょうか。

八田:覚えてないね。顔見るのも嫌やもん。そんな訳のわからん…… 

永宮:でも会場に行ったらいらっしゃるんですよね。

八田:そうやろうね、僕の認識の中では北美の前半のほとんど違う…… こんな訳もわからんものを…… けったいなもんやなあ、やっぱり美術学校の方がちゃんとしてるでいいって思い込んでたんですよ。でも学校出てしまうと独り立ちせなあかんから、つい。北美とは何かって、もっとしっかり見なあかんなあって。河合さんがその頃土岡さんが作った雑誌に命を懸けている、福大(福井大学)も行かずにやってるから。何やってんやあいつ、確か絵なんか描けなんだはずやけどなあって。河合さん自身も阿部展也という先生のところ行って。阿部展也さんというのは写真家とばかり思ってたらしい。彼も写真をやってたから、行ったら写真を見てくれたらしい。でも違うと。みんながそんなズレズレの中で初回はそうやって北美に集まってきたんですよ。そのうち、現代とか現代美術とかいう意識を叩き込まれて少しずつ絵が変わっていく、自分の意思もはっきりさせていく。その中に何があったかっていうと、現代美術ってしょうがねえなっていう時に、土岡さんが音楽を聞かせたの。現代音楽を。ベートーベンなんてつまらない、こういうものはもっと認識せなあかんっていうのが出てきたときに、ハチャトゥリアンとかソビエトの6人組とか出てきて。ええ、こんなの聞いたことないって。ということで、現代音楽から入ってくるということなんですよ。ほお、いいな。音楽はいいけど、絵画はどうなってるんかなっていうことで片方は北美とは関係なく僕自身が現代美術を勉強せなあかんので。敦賀にピカソが来たんで、ピカソを見に行った時に、これが絵か、うわー、ピカソってこんなもんかって見たのが訳もない…… こんなもん絵かなあって思って見たんですよ。それが昭和26年かな。

永宮:この時に、年表を見ると、土岡秀太郎さんに師事すると書いてあるんですが(注:「八田豊展 -流れ-」カタログ、LADSギャラリー、2011年、10頁)、これは事実ですか。師事っていうほどの事でもなかったんですか。

八田:そんなもんじゃないですよ。かっこいいからだんだん。ものは言いようや。この人はね、理解されて偉い人だなあって認識がわかってくる、すると少しずつ土岡秀太郎に師事という言葉が出てくる。初めは、こんなへんてこなとこに来て困ったなあ、と思ってたの。おそらくみんなそうだったんだろうと思う。だって1年と続けてた人いないもん。だから北美は2回、3回ってなると、どうするーって言って、なんかベニヤ板に落書きしたようなもんばっかり集まって。それが翌年になってコロッと講習会受けた連中がなんか絵らしくなってくるという。でも俺は俺のやることがあるからって言って、ありもしない金でキャンバス買うて来て。油絵で漁村の風景、難破して、食えない親子を描いたりして4、5年いたんやね。

永宮:その漁村の風景を描いていた作品を出していたのが創元会になるんですか。

八田:そういうことになるね。創元会っていうのはもっとたらくさいんやね。絵みたいのも、うーん、なんか面白くないなあって。自分が中途半端にいる訳よ。普通に描写絵画に入る中に、現代美術の魂みたいなのを入れこまれていく中で、悩み悩み、悩んで転がっていくんですよ。現代美術の方に。それがヨーロッパ行ってみて、しっかりせなあかんということですね。ヨーロッパ知って、その上に立つ自分が何から始めていけばいいかなって。白い紙に、鉛筆やナイフでガッと傷をつけていくというという所から始まるんやね。あんまりその辺はね、記憶が定かでないし、だんだんやっぱり現代美術の方にのめり込んで行くと、過去のそういうことは消えていくんやね。

永宮:記憶から。

八田:うん、だから語れ、語れ、語れって言っても、覚えてないの。

永宮:じゃあこの年表を見て…… 

鷲田:海岸で難破した船を描いておられた頃は、その絵がルポルタージュ絵画であるというような意識はあったんですか。

八田:いや、そんなもんではないですよ。やっぱり僕なりに、昨日葬式があって、あそこの家族の親父さんも死んだんかあー、大変だなあーって記録として。腐って、難破して、海岸に打ち寄せられた船を見て、はあーこんな船でよく漁に行ったなあって。ひどい世の中やなって船を印象に入れて、家に帰って船を描くんですよ。そしてそこへおっかさんと子供があくる日の飯が食えないという状況と噛み合わせて絵をつくっていくんですね。ルポルタージュというよりも、現実と想像とが組み合わさって絵画の構成をやっていく、と。

永宮:創元会、北美洋画展には毎年出品を続けていくことになると思うんですけど。

八田:北美洋画展の何年度くらいって書いてあるの。記録としては。

鷲田:昭和28年に、第12回創元会展に出品、入選と…… 

永宮:それが創元会の一番最初ですね。北美洋画展は河合勇さんに出せと言われて卒業直後から多分出していると思うんですけども。昭和26年から毎年出品されていますね。

八田:出せって言われたから出したけど、悪評だから、お前出せって言っててなんじゃあーって。まわり、四面楚歌やね。みんな訳のわからん仕事して、僕だけがしゃんとしていて。だけどしゃんとしてるのは自分だけの思いであってさ。人から見たら何たわごとやってるんや、ってなことになったんだろうと思う。

永宮:それは自分の絵が、北美のまわりの絵に比べるとアカデミックだったからですか。

八田:うん、全然、合わないの。

永宮:金沢美大で、教えられた…… 

八田:いやあ、28年ていうのはもう、金沢出て学校の先生してるんだから、普通のドローイングも描いてるんですよ。ところが他の連中というのは抽象画だから。合うわけがないの。で、河野行ったらもっと明快になってきて、リアリズムになってくから。

永宮:その、リアリズム、ルポルタージュ…… 

八田:いや、ルポルタージュではないです。そんないい加減にしたらだめですよ。どっちかっていうとね、なんて言ったらいいかな。自由絵画をやってる連中の、生活絵画。社会主義リアリズム。そこまで綿密に描かないと思う。今の人たちにはそういう日本語があるけど、ルポルタージュ絵画なんていう言葉は無いですよ。あの頃の言葉では、社会主義リアリズムとかね。ほやねえ、自由美術の中に…… 

永宮:労働を描くということですね。

八田:写実絵画なんていう、まるで写真みたいな絵が出て来るけどね。そういうのを捕まえてルポルタージュなんて言うと、うん、あの事かな。

鷲田:先ほどの名前出てきた、阿部展也さんというのは、割と近い。

八田:いや、どちらかというとそれはね、シュールレアリスムなんですよ。描かれるものは一つ一つ非常に写実的なの。魚を食う河童なんていうのはもう、口開けてる河童の顔をリアルに描いて、口の中にイワシをくわえてる。まるっきりリアリズムですよ。当時河童なんていない、河童を想像して描いたりね。イワシはまあ実物いるけど、で、なかなかもてはやされて。シュールレアリスムとして、モダンアートでないし…… なんかそういうグループにいたんですよ。よくわかりませんけど。で、来られた時には、はあー、こういう描き方かあ。リアリズムをもっともっと壊していって、漫画みたいな。もっともっとリアリズム感があるんです。河童がいたんかなあっていうような河童を描く。イワシなんか、まるっきりイワシをくわえてるんだから。リアリズムですよ。そんなことよりも、この世にない写実っていう考え方かな。それをシュールレアリスム、現実を越えたリアリズムとして阿部展也さんなんかは高く評価されていたし。でも僕としてはちょっと面白くないな。行くんなら思い切りどこ行くんかなあ。ちょっと中途半端じゃないかなあというようなことですよね。リアリズムそのものを否定するのだったらとことんやらなきゃあかんぞってもう1年も2年も経たんうちに…… ああいうお偉い連中が出てくるんですよ。

永宮:阿部展也さんは河合勇さんが師事していたというか、大分尊敬されていたという方ですよね。北美の講習会にも来られてはいたと。

八田:そうそう。あの頃はへえーと思ったけど、今になってみりゃやっぱりリアリズムですよ、一種のね。シュールレアリスムだから、リアリズムですよ。現実を越えたリアリズム、という言葉やね。僕の中では、それではあかん、これでもない、という意識がだんだん出てきて結局ヨーロッパで受けた影響をみんな消してしまう。自分の世界というのは、ただ棒に鉛筆で、縦、縦、縦…… ずーっと直線を並べて。面白くないなあって。今度はナイフで画用紙を切ってく。切り目で光を当てて、こう切ったらこっちに、切り目が浮くんですよ。そして影が出来るんです。この幅は0.5mmくらいのね。これは面白い、と。光と陰でね、ものをつくっていくという。それがだんだん角度を変えていく。一回りする。大きい作品もつくる。なんか直線ばっかりで面白くないなあ、コンパスの先でこう、画面を切ってく。コンパスくらいであかんので、刃物で傷をつけていく。傷ではあかんので徹底的にもっと刻み込んで行く。という具合に変わってきて、いきなりシェル(美術賞展)で3等賞かな。なんかに通って。あれ、こんなことで通るのか。もっとしっかりせなあかんなっていう問いかけですね。

鷲田:そういう切り目を入れていく作品というのは昭和37年頃の…… 

八田:そうですね。初めはみんな落選してたんです。ドリルでガバーッと穴開けていったりね、そういう傷だらけの作品っていうのはとことんやっぱりだめで。

永宮:1960年代前半ということですかね。

八田:うん、かねえ。

永宮:昭和32年、1957年の第1回個展、これは油絵の個展だったんですか。福井のCR画廊って書いてありますけど。

八田:ああ、それはまだ、漁村、船と、母と子というような、非常に感傷的な油絵です。

永宮:それを経て、先ほどおっしゃったヨーロッパへの研修…… 

八田:年度はいつになってるの。

永宮:書かれてないですね。昭和37年に体調を崩し入院すると書かれていますけど、この辺りですか。

八田:僕が30歳っていうと何年になるの。

鷲田:1960年に30歳。

八田:ああ、そこからヨーロッパ帰りで、あらゆる油絵やキャンバスを燃やしてしまうのは…… 1960年やね。30歳の時。これが僕の毅然としたその、人生で言うと初めて恋をしたみたいなもんやね。絵画に目覚めるというか。

永宮:その後。体調を崩して入院するとありまして…… 

八田:それは何年になるの。

永宮:昭和37年。

八田:ああ、あれはねえ。体調を崩してっていうのは、かなり彫ってくんですよ。円をごーしごしごし…… 

永宮:ああ、この頃もうやっていたんですね。

八田:やってたんです。アトリエは暑いし、ブロックは暑いし、外出たら蚊にかまれるし。そんな中でガアーッとやって。37年っていうのは出だしとしては学校行っても子供と一緒になってコンパスで下描きやってるし、家帰っても飯食わんと作品つくるっていうひどい生活をやって…… シェルの入選はいつになってますか。

鷲田:1965年。

八田:体調を崩すっていうのは67年。

永宮:62年。昭和37年。

八田:62年。あんまり年数はわからんのやけど。

鷲田:体調を崩して入院というのが2回出て来るかな。1970年にも。

永宮:これはあれかな、失明する時期かな…… 

鷲田:もしかして入院されたのはシェル美術賞よりも、後。

永宮:そんなことはないです。

鷲田:1962年というのは正しい。

永宮:体調を崩して入院のあと、創元会を退会…… 

八田:辞めるんでしょ。

永宮:で、北陸中日美術展に出品して、福井市市議会…… 

八田:ああ、議長賞をもらう。その翌年、中日大賞をもらうんですわ。

鷲田:1965年大賞と書いてありますね。

八田:だから1960年っていうのは、世の中を捨てる、キャンバスを燃やす、非常に僕の中では荒っぽいというか、荒っぽくもなんにもないんですけど。非常に自己革命を覚えて独り歩きしていくんですよ。相談相手がいないからね。結局、リアリズムやった八田豊と突然現れたようにみんなは思ったかも知らんけど、この4、5年というのは非常に格闘時代やね。何やってたんやってそんなこと思い出してボロクソに言う時代にありますよ。そりゃあ人にとってはそうでしょう。一生懸命になって人の顔や風景の描けた人間が、ある日突然直線になってしまうんですから。やっぱり僕はヨーロッパ行って、一丁前の印象派を理解して、すばらしい画家になろうと思って夢見てたのが、ヨーロッパ行ってとんでもないことをやってるなヨーロッパ人はっていう反発が自分を改革していくんですからね。

永宮:じゃあヨーロッパの現代美術を見てそう思ったわけではなくて、ヨーロッパの博物館、美術館が自分たちの…… 

八田:あまりにも乱暴なことをやってるからねえ。

永宮:自国の美術を発信するのではなくて。

八田:略奪品を集めてこれが我が国の美術だっていう見せ方がね。非常に憤慨してね。何やってんやと。だってね。オランダ行ってね、ゴッホの絵が1枚もなかったんだから、その頃は。ほんで行ったらね、レンブラントの絵が。これはまともや、オランダはまともやなと。だけどレンブラントはあれ、油絵やと思わなんだ、エッチングばっかりかと思ったけど油絵だったんだ。油絵じゃないんですよ、本当は。で、最終的に、こんなヨーロッパなんてと言ったけど、イタリア行って、イタリアの壁面触ったらちゃんと壁だし、描いてる絵の話をどう聞いても日本と同じ顔料なんですよ。イタリアだけだなあ。ヨーロッパは死んでる。イタリアだけが今日生きてる。俺にとっても大事にしなきゃいけないのはイタリアだと。で、帰って色々やっても、イタリアなら見てやる。後はフランスもどこも行きたくない。というような偏見…… まあ偏見とは思わない。自分の中ではそれが正しいと思ってる。だってイタリア見てみたらみんな壁やもん。壁に絵描いてる。まさに日本の白壁に絵を描いてるようなもん。イタリアだけだなあ、という感動の仕方をして帰ったんやねえ。

鷲田:それを受けて、30歳の時の変革という…… 

八田:そう、変革の要素が、ずーっと1か月近くの旅行でヨーロッパを垣間見て。何で印象派の人たちはフランスの印象派を…… あいつらバカかってなもんで、否定をしていく。印象派自体も、バカタレ、アホタレーってなもんで。ただあそこでねえ、見たのは、なんか2、300号かな、最後に来たんですよ日本に。女が上半身裸で、自由の女神(《民衆を導く自由の女神》)という絵があるんですよね。誰やったかな。

永宮:ドラクロワ。

八田:ドラクロワ。あれー、これだけはフランスじゃないか、とは思ったんだよね。やっぱりこの劇的な、愛国心に満ちてる。日本の貧しさを脱却するのに、と思ったけど、ああそれもキャンバスや油もみんなよそのもんだ。でも一つにはね、帰ってきたときにこういう文章があったんですよ。フランスの評論家がアメリカに向かって手紙を書いた文章の一つに「アメリカ人よ、ヨーロッパに追いつけ追い越せなんて、何を言ってる」なんていう文章を読んだんです。その後どうなったかっていうと、アメリカ人だってキャンバスや油絵の具を捨てていくんです。何をしたかっていうと、アメリカではドラム缶に絵具を、ローラーでガーッと…… はあー、やったなあ、そうだろうって。そこが何年か圧縮してアメリカ絵画に対する信頼感っていうのを持っていって。マチスとか、あんな連中は単なるお芝居で。これがアメリカの現代美術だ。あのくらい思い切らなあかん、というものを、アメリカ雑誌を見ながら自分の中にアメリカを礼賛し、ヨーロッパ批判をしていくんですね。

永宮:それでキャンバスを燃やしたと。その後のボードに鏨などで線を刻んでいくというシリーズのきっかけというか、制作方法の発見というか。そのいきさつを教えていただけますか。どういうきっかけでその作品に至ったか。

八田:いやだから、キャンバスも絵の具もみんな燃やしてしまったから。さて俺はどうやって制作するんや、っていう自問自答の中でそこらあたりの紙に鉛筆で描くんやけど。なーんも面白くないんやなあ、鉛筆で描いたって。それで分厚いボードをナイフでぐっと切ると、真っ直ぐにナイフの跡が引っ込まんのですよ。ナイフっていうのは、片刃のナイフでやると、片っぽで押したところは盛り上がってずーっと行くし、片方は引っ込む。それで、あ、これは面白い。ということが始まりです。傷跡と、傷のでこぼこやね。でこぼこ絵画というものが面白いということになってくる。もちろん夜、だいたい合わせでやるもんやから、あらららら、という表情が魅力になってくる。

永宮:夜、作業をしたと。

八田:うん。

永宮:あ、昼間は学校ですもんね。

八田:昼間は学校の先生です。夜は制作する。ライトをつけて。だから絶えずライトに頼っていく。引っ込んだ黒い部分と、出た、日の当たるぴかっと光る部分と。1mm、2mmの勝負をずーっと連ねてく。だからみんなは線の影だと思ってるかもしれんけど、僕にとっては光の当たってるところと影の部分との制作なんですよ。誰もそれを言わないから。黙ってるだけで。僕の場合は…… 

永宮:制作の現場ではその…… 

八田:光と影です。光と陰ってね、ときどき鏡になってね。鏡の制作に移るんやけど。そんな浮気したらあかん。一途に一途に、一途にって、鏡の世界もちょっと出たり。それは木下(滋敏)らがやるあの鏡の世界ね。

永宮:かなり体力のいる作業だったんですか。

八田:いる作業ですよね。画用紙をね、ぐっと起こしたってあんまり面白くないのよね。やっぱり厚みが2、3mmある板をカーッと切った方が、片刃のナイフで傷つけると傷つけた方が盛り上がるの。傷つけられた方が引っ込むというこの光と影の部分がなかなか面白いんですよ。これがたまらなく快感を味わいながら。直線よりはもうちょっとまがった線、まがった線、まがった線、ほんならいっそのこと丸じゃあーって、丸を描く。ああ、ほんとや、丸やなあ。丸の連続、面白い。光と影の交差するのが、微妙に不思議な状況をつくるということなんですね。本当のこと、みんなあれやこれやと描くけど、僕自身は、光と影だなあ、光と影だなあ。誰もそれを感動してくれない。線の合成、線の合成、まるで線を引いてるようなこと言ってるけど、何を言ってるんだ。ちっともよく見てくれてない、と思ってる。

永宮:カーヴィングの作品を展示する時も、照明の当て方ひとつで作品が変わってくるということも言えるんでしょうか。

八田:本当は言えるんやけど、今のあの会館では、高い高い天井の上に光が光ってるだけで、そんなもの光の当てようも影もなんもありゃあせんので。だから、最近ですよ。画廊で照明をぱあーっと当てて、光と影、とかって。あの当時は高い所に明かりがぽっぽっと灯ってる。それが画廊空間だったんですよ。それを山本圭吾らが光、光って。がらがらがらがら、光って言って。ああいう具合に光使うんかあ、照明ってもっと下ろしてくれなあかんなあっていう時代に、画廊の照明がずっと下がってくる。僕はその頃はもう、あんなのしょうがないなあ、天井の高い所光当てて、光や影って言ってもって。どうでもいい。もっと、線、線、線、といういき方で。頼りないときには、白い塗料をわざとナイフで削り取ってしまうという、要するに、白い所と黒い所。頭の中では、光と影のつもりなんです。でも本当は光と影じゃなくて、削り取る傷跡が影の部分なんやね。その部分のことはあんまり言っても、非常に技術的になるし、僕は技術、技術、技術っていうのはあんまり嫌なんで。もっと視覚的な表現に移っていけばいいんで。まあ見えたままでいいや、ってこうやね。まだまだ面白い話あるけど、これは言わんときます。

永宮:はい(笑)。

八田:色々やったんや。

鷲田:最初からパルプボードを使ってらっしゃったんですか。

八田:最初はやっぱり画用紙が足りないからもっと分厚く傷つけて深く傷つくもの、っていうのはパルプボードだったんだ。その前に本当はね、オーディオなんかの裏板ね。あれがパルプが分厚いんですよ、柔らかくて。あれをガーッと削るのはいいけど、出来上がったものはぶかぶかになるんですよ。柔らかすぎて。結局分厚いパルプボードの、樹脂の効いたものということになるんですね。で後にはね、デコラ板もやったけど、デコラ板は何十年か経つと、ヒビがもとでガラスが割れるように、めくれていくんですよね。アメリカ建材は何物にも負けないって書いてあるけど、なんや。傷つけて10年も経ったらぱらぱらぱらってめくれてくという、製品に偽りありの宣伝がアメリカの建材にいっぱいあって。バカヤロウってなもんで。建材は使わない。もうこんなものは。金属板以外はどもならんという信じ方に変わるんです。

鷲田:もともとそのパルプボードっていうのは、建築用の素材。

八田:そうです。メキシコの空港の中にね、何メートル四方にでっかい穴が空いてるんでね、見たらパルプボードでした。こんなもんにする空港も空港やなあ。なんか飛行機がぶつかったんか知らんけど、でっかい穴が空いてましたよ。

鷲田:パルプボードをしばらく使っているうちに、耐久性についても気がついて、その後金属も試されるということなんですね。

八田:ほうやほうや。毎日現代展(現代日本美術展の通称)に、金属に絵を描くというんで、全国版に載ってました。僕、受賞も何もしてないのに。その作品探してるんですけど、ちょっとどこ行ったかわかんない。新聞記事も取ってなかったし。何言うてるんや、賞もくれんといて。けったいな。俺ばっかり売りもんに使いやがって。中身見たら何にも説明書いてないんですよ。後でわかったんです。金属が制作パネルになったということで、問題意識の高さというか。審査員の中で問題になったらしいんです。出した作品は30号か20号の小さい作品でした。それから金属板やるかって。丸いペン、描く度に、針の先みたいなの、熱で折れるんですね、ぴーんと。しょうがないからいっぺん折れたらヤスリで削ってやる。そのピーンと折れるアルミとの接点がね、光るんです。ガガガガッとやったら、ガザガザガザッとした…。弁当箱の錆びたようなねずみ色なんです。それをぴーっとやるとね、ぴやっと光るんです。あー、これはどういうことや、ってね。ヤスリでカーッとやっても、ぴーっといっても、削っては、ぴーっ。このね、光る線の魅力をね。もうどうでもいいや。線が光る。和歌山医科大の、かなり目暗になってからですけど、ステンレスを腐食させて、それを腐食中和剤でややねずみ色に光るという仕事をやるのはかなり目が悪くなって、ここの2階で、村上(芳一)とか、福井一郎とか、ブラジル行った吉沢太とか。大きな制作に入るんです。それは白い紙に黒いサインペンで描いて、それをステンレスの上に版画で写して、写してない部分をゴムで覆って、ゴムで覆ってない所を電化塩で腐食させていくという。ところが光り方が気に入らないんです。これをメッキする方法はないかって。そんな何百万もかかるぞーって。ほったらかしのままなんです。今日、料亭(寿恵広)を出てきた(ところの)、ガラスの中にあったのは、和歌山医科大のエレベーターの作品が1点あそこに置いてあるんですけど。それ少し光ってるんけねえ。

鷲田:ええ、光ってます。

八田:あれが、もっと光らなだめなんです。

永宮:徐々に加工の方法というか、色々な技術を模索しながら、現在までつくり続けてこられているということですね。

八田:そうですね。35で河合勇の作品展をやるって言って、ロス行って、河合勇の弟と会って。河合勇の作品を返せ、お前展覧会をするために返してやるって言うたじゃないかって、1週間経っても会うてくれん、10日も経って青い空見て嘆いていたばっかりで。そしたらある日、目が見えなくなってしまって。帰ってきたら、「ほーんな青い空ばっかり見てたら目暗にもなる」って(言われて)。ああそうか、あれがやっぱりあかなんだんか、って。視力がガーッと落ちてくるんやね。で、医者行ったら「もうあかんぞ、目暗になる覚悟せなあかんぞ」って言われて。55か6かな。ああもうやめたっ、これで人生終わりやあ。

永宮:制作について油彩からカーヴィングヘということでお聞きしましたけども、そういった制作方法の転換から、様々なコンペや個展も精力的にたくさんされていますね、1964年から始まりまして、65年、66年。

八田:あんまり個展やった覚えはないけど、それどこですか。

永宮:まず1964年に福井の品川画廊で。第2回、第3回の個展…… 

八田:ああ、それはまだ、樹脂絵の具でグルグル、テン、グルグル、テンってな時ですね、最初の方は。削ってく作品は67、8年頃にならないと個展に出てこないと思う。

永宮:ああ、そうですか。

八田:うん、いや、わからん。2回展なら…… 

永宮:もう、1965年にはパルプボードに代わって出てますね。

八田:ああ、本当。なら出てるんですね。1965年ね。

永宮:先ほども言いましたけれども、北陸中日美術展で大賞ですね。

八田:その辺りからですね。ああ、えらいこっちゃなあ。削らな仕事できんなあ、と自分をなだめながら削ってく。明けても暮れても、飯食う以外は、テレビも見ない、ラジオも聴かない。問題は、音楽だけを聞いて朝早くからかなり遅くまでという仕事が続くんやね。

永宮:あと、シェル美術賞展、3等賞ですね、それも65年ですね。それから翌年の1966年に「現代美術の動向」展。

八田:横浜。

永宮:いえ、京都。国立近代美術館京都分館。

八田:ああ、それは横浜のと続いた一緒の作品だったと思うなあ。新しいシリーズを加えたかもしらんけど。

永宮:横浜はもうちょっと後ですね。

八田:ああ、横浜が逆に後、あ、そう。

永宮:そうですね、「今日の作家」ですね。

八田:ああ、「今日の作家」ね。

鷲田:同じ年。「今日の作家」が10月。

八田:別々にやったんでねえかなあ、しんどかったもん。こっちで展覧会やって、また作品…… あーしんどいなあ(笑)。

永宮:あと北美の個展シリーズとかが色々あるみたいで。この年はグループ展よりもやはり北美としても個展が盛んになってた時期なんですね、年表を見てると。

八田:まあ、作品があるとドンドコやれるよね。

永宮:そうですね。グループ展も、東京、あるいは大阪でやってますけども。

八田:大阪でグループ展やってる?どこ?

永宮:信濃橋画廊で。

八田:信濃橋ってどこやったっけな。焼き物のとこかあ。そこでね、具体の大大将と会うんですよ。第1回のグループ展で。

永宮:吉原治良さん。

八田:うん、吉原治良さんが訪ねてきて。え、こんなおんさん…… 現代美術なんてとんでもないって顔してるなあって、じろっと見たことあるの。で、ヨシダミノルともその辺で会うんですよ。

永宮:それで、1966年の11月に長岡現代美術賞展に、招待出品。

八田:長岡の招待の前にね、村松(画廊)で何人か選ばれて展覧会するんですよ、書いてないかもしれんけど。

永宮:書いてありますよ。「今日の作家」で、橿尾正次さんと共に出品ですね。

八田:橿尾は新潟に出てこないの。

鷲田:10月にも村松画廊で北美グループ展。1966年に村松画廊で2回していて、1つは「今日の作家」…… 橿尾さん、もう1つが北美グループ展。

八田:その中でね、6人か7人が展覧会に招待されておきながら、新潟行ったのは僕とヨシダミノルだけだったの。「ヨシダミノルってあんなもんが」って思ったけど、ヨシダはヨシダで、「こんなもんが」って思ってたやろうと思う。あとみんな落ちてしまった。制作して自分の作品見る暇もなく、長岡へ出かけたんや。大雪の日で、もう軽井沢かどっかで疲れて降りてしまって。泊まった夜は雪が降って、鼻血出して。ひどい目におうて新潟に着いたんや。展覧会もさることながら、人間様もえらいこっちゃなあ。新潟は遠かったですよ(笑)。

鷲田:先ほどカーヴィングの削っていく角度を変えていくことで円というモチーフが出てきたとお話がありましたけれども、それ以前にも円というモチーフは描いておられたんですか。

永宮:油絵の中で…… 

八田:油絵具というか、結局ね、キャンバスじゃなくて…… 描いてました。

鷲田:この円というモチーフはどこから出てきたものなんですか。

八田:キャンバスを捨てて、どっから絵を描くのかなあという。丸や直線を…… べたーっと直線を並べた時もあるんですよ。でも絵にならんなあ。で、丸を描いて、サマにならんし。絵具を真ん中にグルグル、ポンと、遊びから入るのも手かと。直線、直線、一つの画面にでかい刷毛でベタッ、2本、3本。小さい丸を、チョン。あ、そんなら白いパルプボード切って白く塗ったのに、丸、ペンってこうやって遊んでやってくんですけど。どうもショキンとしないなあ、ショキンと丸描かないとあかんのかなあ、という風なことですね。

鷲田:後のカーヴィングの作品に出てくる円というモチーフにも、そこから繋がってくるものはありますか。

八田:それはね、カーヴィングの魅力っていうのは、今言いましたように、ずーっと丸を刻んでいきますよね。光の当たってきたところの内側の線が、半円に光るんです。こっちの半円は影ですよ。丸じゃなくてこっちの白い線がこう、白く光ってる。こっちは黒い影の…… 丸を描いておきながら団子型になってくるでしょ。丸を一つ描いても影の部分と光る部分と出来てくる不思議さがかなり魅力的だったんだろうと思います。金属の持ってる面白さっていうのはね、光った円がここに描いた円と、この辺にもうひとつ円ができるんです。どう言ったらいいかな、光った部分と実際の円とがダブって見えるんです。

鷲田:二重に見えるんですね。

八田:ええ。反射した丸がここにあり、描いた丸がここにあり…… これが二重にうわあっと。それがだんだん目が悪くなった現象なんですけど。でも医者に言わせれば「そんな現象あるさ、自動車がバックミラーに光ると、違うところ光るみたいなもんで」って。そうかなあと思いつつ。その辺からかなり、視力が変になって。焦点が定まらないんですね。村上さんに「金属板やめた方がいい」って言われたんです。「人間の力なんてそんな確かなもんでない。頼りないもんやぞ。そんなことやってると目が見えなくなる」っても言われてたんです。ほういうわけにもいかんしなあって、鏡持ってきて、四角い鏡に映るというのを半年ほどやってみて、だけど中途半端に変わってもいけんなあって。

鷲田:鏡に映る作品というのはどういった作品ですか。

八田:こちらにある鏡をこちらに映すとね、1m20pの鏡が、1mになるんですよ。平行の場合やけど、少し角度をつけるとね、短くなるのは当たり前ですよ。それをわからんようにやると1m20pがここで1mになるんですよ。ちゃんとしろよー、いやちゃんとしても角度によってそうなる。背の高い人が鏡に映っても、鏡がべこっとなってると(歪んでいると)あら、俺チビ太に見えるわ、デブに見えるわっていう鏡のいたずらあるでしょう。それなんですよ。それが、刻んだ丸がずっと並んでいるところで違う現象を起こす。光る、反射する…… はあー、これはとんでもないことになってきたなあ。1点決めておかないとまた、目がストライキ起こすなあって。思い思い…… だけど映る鏡ならいっそのこと丸描かないで四角なら四角って。おっとっと、ってやっていくんです。大きな1m、2mの鏡を持ってきてね、角度を変えるとここに海で使うガラス玉がぽこんと浮く瞬間があるんです。この角度がね、前にある玉がぽこっと浮くんです。これも面白いなあ。遊びの哲学もいいけど、時々下手すると鏡の中に玉がなくなる時があるんですよ。消えた丸、浮かぶ丸、と色々やってるうちに…… 

永宮:それはこの《飛ぶ5月》っていう作品からですか。

八田:そう、その辺りから目が疲れて、この辺から転換出来たらやめなきゃあかんかな、という時が、鏡をオモチャにすると玉が飛ぶ、あるいは消える玉、《消える5月》っていうのはあるいは僕の誕生日さえ消えていくのかなっていう。

永宮:この1975年というのが、目がかなり悪くなってきた頃ですね。

八田:うん。だから彫るんじゃない、もう彫れないからもっと遊んで行かなきゃあかんかなっていうのが、《飛ぶ5月》、《消える5月》というものが出てくるけど、上手くいかんのやね、角度計算きちんとせんと。でもそれはやりたい仕事の一つで。でも木下くんが、後で鏡持ってきてやるから、「俺のやりたいこと、お前にやるわ」って。で、谷さんが東京で展覧会やるって。結局東京でやったんけ。

島川:やりましたよ。ギャラリーK。

八田:俺のとこからようけ鏡いっぱい持ってったもん。パネルも。鏡に映るっていう仕事を止めたらね、やっぱり虚像が多すぎるんやね。だから実態が消えてくると、面白いは面白いけど、自分が目が悪いのにこんなことをやってると、何が確かなのかわからん時代がね。消えたのか、見えなくなったのかがわからないというおかしな現象が起きてきて、止めてしまった。

永宮:それまでは、一生懸命にカーヴィングの作品に取り組んでいたということですね。

八田:そう。

永宮:制作については、60年代から70年代の前半まで精力的に制作された。一方でこの頃、北美の運動も盛んにされていたと思うんですけど、その辺のお話もお聞かせ願えますか。

八田:60年代、北美の20年前後になるとね、北美の主力がみんなどっかへ消えてもたんやね。「金かかって嫌や、金かかるのに余計な仕事ばっかりさせられる」、と。そこで僕が中心になってやっていると、若い連中が来る。若い連中らを集めてくる時に、今度は小浜の連中らがぐわーっと来て、北美を若狭に持っていこうとする。そこでなんか面白い力関係で争いが起こる。河合を連れてってしまう。なんや、勝手にせい、ということになって。越前の方の北美は非常にやりにくくなって、若狭の方に行って北美の運動が1年か2年やったんかなあ。

永宮:抽象的な話になってきたので、一つ一つ確認してゆきたいと思います。まず北美としては、最初は河合勇さん、木水育男さん、美術教師をされていた方が支えていたんですよね。

八田:いや、全然支えていません。初回の1回か2回だけですよ。あまりそういうこと書かれると土岡秀一が非常に悲しむから、僕らは語らないでいたの。初回だけですよ、みんなで寄ってたかって行ったの。それが一気に潰れてく。やっぱりね、前衛運動は疲れるんですよ。後でわかるんやけど、ほんなもん1回や2回で潰れるの当たり前やと思ったもん。

永宮:その危機を感じて、河合勇さんがどうにかしようとして、色々奔走されたということですか。

八田:いや、河合勇はね、奔走したんじゃなくて都合悪くなって消えてまうんや。

永宮:そうですか(笑)。

八田:あいつ自身がね、金がないから。結局世界漫遊の旅から帰ってきてからは、僕のとこの座敷にどっぷり居座ってたもん。今日はいるんかなと思うと、布団はもぬけの殻で。須藤武子と1年くらい出入りしてて。だから僕の座敷の布団は、リー(・ウーファン)さんが泊まり、河合さんが女の子同伴で1年ほどいて、それからポーランドの作家が1日か2日、山本美智代らと泊まったり。かなり偉い人があの座敷で寝泊まりしていたんですよ。冬はキリスト教みたいなのがいたり。キリストの御大将みたいな。何か月いたかなあ。結局河合さんが都合悪くなると消えてしまうのはなぜかなあ。ちょっとよくわかりません。一つにはアメリカにみんな行ってしまったし、東京にいても生活ができなかったのか。人のことは言わんときます。

永宮:福井からは消えてしまったということですね。

八田:うん。最終的には八田豊の家に居候していて、後で見たら八石の分校教室が空いたから、みんなでわっしょいわっしょい移動して行くんです。でも1年も経たないうちに死んでしまうんですよ。

永宮:北美は初め北美洋画展ということで、洋画を中心にやってきたんですよね。

八田:まあ出来たての看板なんてそんなもんで、北美洋画展って言葉を使ったんでしょう。いつの間にか北美現代美術展っていう具合に。そんなもんまわりの様子が変わると言葉も変わるんですよ。

永宮:10回を機に、北美展になっていきますね。

八田:10回を機っていうけど、実際には北美は30年しかなかったの。

永宮:はい。それで10周年以降は東京の方にも。

八田:東京に行ったのは、河合勇が東京にいたから。東京展を銀座画廊でやったり、何回かやったんですよ。初めの方の東京展は反アンフォルメルという文集まで書いた時代があるし。それは街中なんか飛び上がってばーっとアクションペインティングみたいなのに反対して、描くんなら徹底的にキチンと描けっていうつもりがあって、ああいう文章を書いたんですよね。だけど、河合くんらはなんとなく苦笑いをしてたんだろうと思う。北美の5年か10年辺り、そういうのが出てきて、日本会館で居座って、文章を書いて、その文章をしっかりとあなた(永宮)がため込んで持っていって、八田豊の芸術論を書いた中の手紙っていうのは、大部分は堤野学の文章ですよ。堤野学の北美通信。あの辺りから堤野自身も八田豊を支持していたし、僕も迷いながら漁村の生活苦を。社会主義リアリズムでもないんだけど。自由美術の中にそういう一派がいたんですよ。団体の名前は忘れたけど、木水さんらもそこへ出してた時代もあるんです。

永宮:1960年代になるにつれて、北美の活動も東京、大阪、あるいは京都で、グループ展を行うことが増えてきていると思うんですけど、こういう機会を通じて、八田さん以外にも、橿尾さんとか山本圭吾さん、個の力をつけた人たちが発表する場になっていったということでしょうか。

八田:一番早く北美を辞めたのは山本圭吾なんや。河合勇さんは圭吾さんの話すると嫌な顔する。「あんなやつ、北美の精神なんてなんもわかってない」って。というのは早く東京の人たちと結びついて、北美を辞めてしまったんやね。神戸新聞の70周年かなんか、その辺りから圭吾さんは消えたと思うんや。あ、もうちょっと後や。毎日の現代展に彼が箱の中で蚊取り線香を焚いた辺りから、圭吾さんは北美を出てってまうんです。俺はその頃何してたかっていうと、線に鏡の線を…… 彫った線を光らせて、反射させて、線に鏡を反射させる、鏡でない所は削って取ってしまうという1mか2mの作品を10枚ほど並べて消えるなんとかっていう。人が通ると光った線の所だけ人の影が映るという映る作品に気持ちを移動させた時代があるんやね。その頃から圭吾さんがその展覧会を最後に、ガラガラ動く世界や、煙や、支配する空間というものをビデオに。その翌々年からコロッと変わっていくんだろうと思う。人のことはどうでもいいけど。

永宮:この《虚の谷》っていうやつですか。

八田:そうそう、それ何年になってる。

永宮:1969年。

八田:70年やね。その頃になると東京が騒がしくて、大学紛争なんかでガチャガチャやってるうちに圭吾さんはビデオアートの方に変わっていってしまうし。僕も線が映るなんてこざかしいことやって。もっとなんかガンってあたる方法っていうのが…… 映るなんてことはやめたっていうのかなあ。目がしばしばしてきたのかな。そのあたりもちょっと映る映らんのことをやめた時代があるんです。それでもっぱら、円の連続、線の連続っていうものを。映る映らんはやめて、線だけで勝負して行こうという風に変わるのかな。人間なんていうのは、ものづくりなんていうのはその都度「おおっ」ていうのがあるとそれに引きずられてしまうの。それで「しまった」と思って引き返す。行ったり来たりするんですよ。かたちとかなんとかじゃなくて、微妙な変化の中でうつつ抜かしたり、あ、だめだと思ったり。だからその作品を出したのは、山本圭吾が箱の中に蚊取り線香を10個か20個並べて、上野の美術館で。僕はぎゅーっと曲がったカーブの線やし。彼は何もせんと箱持ってきて火を焚くって。人をバカにしてんのかって、考えてみりゃ、クソー頭脳的だなあって思ってみたり。そこで山本圭吾の動きっていうのは、ただならぬものを、警戒しながら横目で見ていく。いわゆる全体を支配する空間っていうのかな。そういうことで刻まれる《虚の谷》とかってなっていくけど。そんなことじゃなくてとことん削っていくという具合に、とことんのところへ行くんだろうと思うんです、僕自身が。やっぱり現代美術っていうのはひとつの空間を支配した方が勝ちだっていうところもあるんですよ。支配する仕方っていうのは煙もそうだし、あらゆるものを映すとか。僕がビデオに行くんならいいけど、山本圭吾さんの方がビデオに行ってしまったんやね。消えるっていうことがあんまりよくない。だんだん後でわかってきたけど、見えなくなって絵の具をたらすと確認ができない。確認のできない制作態度なんてあるかって。手で触ったもので確認だ、と思ったけど、彫れなくなってしまう。意識、言葉の闘いっていうのが自分の中に翻っていくんですよ。

永宮:少しまた話戻りますけど《位相空間(虚の谷)》というのは壁のような形で覆ってひとつの環境ということに関心というか、目を向けて制作されたものだったんでしょうか。美術のジャンルには、空間、インスタレーションという言葉があったかどうかは…… 

八田:圭吾さんは使ってたかもしれないね。「インスタレーションってなんや」、「即興」「ええー」って、言ったことある。酒飲んでて。

鷲田:1969年なんですね、その《位相空間(虚の谷)》。

八田:圭吾さんはもう完全に藤枝(晃雄)と対話をかわして精神分析みたいな話をしていたし。なんとなくわかる。同じ車に乗って、(一方が)左側だけ見ていて、自分は右側だけ見ていたらどこにいるのかわからんようになる、同じところなのに、人間の意識なんてたわいのないもんやというような話をちょっと聞いて。ビデオでやったら、全然別世界を映しているようなもんやと言い出して。今立紙展の時にいの1番に圭吾さんを紙とメディア、なんでかしらんけどビデオアートを出してきたんやなあ。結局、北美そのものが結局バタバタしながら30年終わってしまうし。記事としては流れが大変なことだった、ということで終わってね。北美の30年運動が終わってもこれでは大変だなあと思って、まず始めたのが「ヤングアート」なんです。

永宮:北美というのは土岡秀太郎さんが戦後直後、復興期に、30年はやると宣言してやったもので、なんとか終了したと、簡単に言ってしまうとそういうものですかね。

八田:いやー簡単に言ってしまわないと複雑に絡んでいくから。まだ秀一さんも生きてるから、あることないこというな、お前どんだけわかってるんやーってケンカになるから。過去のことでケンカする必要もないし。

永宮:その、終わりのころに戻ってきたのが、先ほど出てったと言った河合勇さん。

八田:いや、河合さんは自分でわかってたんですよ。30年運動せなあかんなって。「おい、30年締めくくろうさ」「なんやお前、どこいってたんや」ということやな。それで30年を締めくくるんです。それで30年の展覧会は終わったんですけど。最後までやってると色々とあるわね。

永宮:そうですね、継続して続けられたということで、色々あったかと思うんですけれども。

八田:問題はね、北美なき後というか。なき後って言葉としてまずいけど、現代美術の運動がこれで終わるのは、くだらんなあ、面白くないなあ。もっとやれることならもっと吹っかけておいて、やりたいって言ったら思う存分やらせればいい。これあかん、あれあかんって言わないで。っていうのでやり始めたのがヤングアートなんですよ。その頃に出てくるのが島川(泰広)くんかな。

永宮:それは八田先生が教師として教えていた、市内の中学校とかの教え子…… 

八田:初めは高専やね。中島(清)らが「やろうさ」って言うんで、「おう、やれ」って言うんで。

永宮:教え子の人たちが中心となってということですね。その人たちはやはり北美の展覧会を手伝っていたりもしたんですか。

八田:あんまり意識はないと思うね。「北美が終わったんやってなあ、続けてなんかやれよ」って言ったら「おう、やろうよ」って集まってきたんですね。

永宮:美術室に出入りしていたような、若い。

八田:そうそう、美術準備室でコーヒー飲んでた連中が集まって「やろう」。

永宮:地元の若者ということですね。

八田:3人か4人、初めは上野とか中島とか、サッカーやってたあいつらが集まってきて。面白くない、こんな少ないんじゃって、各学校に呼びかけて。高校、工業高校、商業は後から。上野が1人武生高校。あれが指導部に怒られて。「何言ってるんや。学校祭に出入りしたからって何文句言ってるんや」って言ったら「お前呼んだ覚えない」って。「バカいえ」ってケンカしたことあるんやけど。怒られたんや。高校祭に大人が出入りしたって。大人でない、八田豊が来ると困ったんや。

鷲田:1975年に北美展が30回で終了して、ヤングアートが始まったのが、その次の年くらいからですか。76年くらいから…… 

八田:そうですね。北美もうない、やろうって言って。北美っていうのは虚像のくせして、あのすばらしい展覧会が終わったのを見て、俺らだってやろうさって。公会堂でやりだしたんですね。

永宮:北美の終了と共にですね、この頃徐々にご自身の目が悪くなってきているという時期でもあったんでしょうか。

八田:いや、もともとあまり視力は良くなかったけど、全く見えんっていうのは50いってからやで。54、5かね。

鷲田:1985年…… 

永宮:1980年代になってから。この頃はまだ。

八田:最後の展覧会ってどっかに書いてない。

鷲田:年表では、1980年、つまり50歳くらいの頃にこの頃より視力が低下し制作活動に支障をきたすとなるとなっているんですが、1984年に教職を休職するというのが。

八田:辞めたんでしょ。ああこれは完全にあかん、月給泥棒やな、もう辞めた。もう完全に辞めたんです。

鷲田:85年に公立学校教員を退職するとなっています。

八田:退職しましたけど、なんやうざうざと辞めきれん。学校は辞めたんですけど、仕事は辞めてないです。

永宮:その間に、1979年に土岡秀太郎さんが亡くなる。その翌年に、河合勇さんが亡くなる、と立て続けに。美術運動というか、共にやってこられた方が亡くなっていくということがあって。それから視力も低下されると。この頃は結構、制作とかもやり辛くなってきたときであったんでしょうか。

八田:そうですね。77、8年。具合悪いなあ、学校行っても生徒がよく見えんし、作品評価も出来ないし。そしたら(他の)先生が「なんで学校来ないでどうしたんや」って。「ちょっと体具合悪くてあかん」って。「子供ら待ってるのに何言ってるんや」「いや、もう行かん」って。あの頃ってなあ、学校に行かんとそれだけでいかんの。今やったらもうどうでもええことやな、学校行かんなんて。行かなんだんです。ひとつには、八田豊、ごねてもどうにもならんっていうことがあったんでしょう。

鷲田:今日はすでに2時間以上お話いただいたので、この80年の頃以降は、明日お伺いしたいと思います。