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林康夫オーラル・ヒストリー 2011年7月4日

インタヴュアー:奥村泰彦、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2013年3月23日
更新日:2013年6月16日
 
林康夫(はやし・やすお 1928年〜)
陶芸家
1928年京都市生まれ。父は京焼の林沐雨。1946年京都市立美術専門学校日本画科中退。1947年前衛美術陶芸グループ四耕会結成に参加。1957年退会。1972年ファエンツァ国際陶芸展グランプリ等国際展で4つのグランプリ。インタヴュー冒頭では特攻志願をした経験を持つ戦争中の詳細な記憶が語られている。前衛陶芸を志向した四耕会での活動から1950年フランス チェルヌスキー美術館で開催された「日本陶磁展」にアヴァンギャルド陶芸作家として参加〜退会後現在に至る制作活動とその思考について、京都の地域性や伝統を踏まえた考え方を聞き取る事が出来た。

林:僕の生まれたところはね、JR東海道本線の東山のトンネルの手前で、南側の高台のところです。が、その家での記憶はありません。早くに転宅していましてね。僕が美工に入学した時はまだありました。しかし戦争が激しくなって、東海道線が複々線化されたときにね、拡張工事で撤去されて無くなりました。確か海軍に入隊した頃かと思います。(注:林は1928年生まれ)

坂上:それは戦争が……

林:そうそう。輸送量の増加ですね。

坂上:お父様は林さんがお生まれになった時から、もう、陶工で。

林:父は、15歳の時、祖父に陶業を学んだ様です。しかしね、18歳で祖父を亡くして苦労の末、24歳で独立してるんです。僕の生まれた頃は、製陶業として調子は良かったらしいです。が、その頃の話は全くしませんでした。僕が生まれて暫くして病気で休業しているんです。病気は長くてね。家業はきつかった様で、姉は叔母に預けられていました。叔父からの経済的援助があった事等はずっと後に知りました。父は31歳の時、五代清水六兵衛さんに師事しています。まだ完全に健康にはなってなかったらしいですが、六兵衛窯でいろいろ陶芸の勉強をさせてもらったんでしょう。35歳で、五代清水六兵衛さん方を辞し、沐雨(もくう)と号して自立したんですね。それから2、3年の間、京都府美術工芸展に鯉の置物や菓子鉢等が再三入選したりしていますが、そんな事はよく知りませんでした。父が33歳の時に、深草の藤森に転居するのですが、それまでにも3回移転しているのです。最初、東山トンネルの東の辺り、それから松斎陶苑(新匠工芸福田力三郎さんの実兄が社長)内。次が城南宮の西で、それぞれに鮮明な思い出があるんですよ。

坂上:深草の第三小学校。

林:そうです。最初の所は全然記憶がないんです。よほど小さかったんですね。松斎陶苑では敷地内の家でした。登り窯の側に松割木が沢山積んであってね、分厚い松の皮を削って小舟を造り、雨後の水たまりに浮かべたり、疫痢になって入院して、ゴム鉄砲で遊んでいる時、ベッドから転げ落ちた事、それからこの話は全然記憶にないのですが、松斎陶苑の社長(注:新匠工芸福田力三郎さんの実兄)が手回しロクロの真ん中に座らせて、グルグル回して遊んでくれた、と言うのです。それで僕はロクロが好きになれん、のかな。

一同:(笑)

林:次が城南宮の西です。国道を越えた野菜畑の先で、池のある洋館風のちょっとしゃれた感じの2階建てでした。そこではね、雨まじりの風の強い日に、傘をさして池に架かっている手すり無しの小さな橋を渡るんです。真ん中辺りに行った時、風に煽られ傘を持ったまま池にドボンです。危ないところでしたが、誰かが叫んだらしく、おふくろが池に飛び込んで助けてくれました。それから深草、藤森に行くんです。当時も今も、城南宮から藤森までの交通の便は直線的には無くてね、暑い日に田畑の中をトボトボ歩きました。とても遠かった覚えがあります。そして深草第三小学校入学です。深草鳥居崎町、ここが終戦までの住所になりました。

坂上:お母さんは優しかったんですか。

林:母は気丈な方でした。深草で妹たちが生まれ、家族は祖母と叔母の所に預けられていた姉が帰って来て、弟と7人兄弟となり賑やかでした。本来は長兄が居る筈ですが、生後しばらくして亡くなりました。兄には「彦」という字を付けて亡くしたから、僕には「康夫」としたんです。健康な男であって欲しいと願ったんでしょう。それでも「彦」には未練があった様ですよ。

坂上:彦左衛門みたいな。

林:何彦かな。結局、僕は次男ですが、戸籍上の次男が、予科練で禍(わざわい)したんですよ。長男は特攻の志願をしても、外していたんです。

奥村:ほう。

坂上:向こうが? 国側が?

林:それがね、僕が居た航空隊では、募集した時に、隊長が言ったんです、「長男で家を継いで何かせんとならんという人は、志願せんでもよろしい」と。

坂上:じゃあ、次男は死んでもいいと。

林:次男はね。戸籍上、僕は次男だから。心配ない奴です。

奥村:実質長男だけど。

林:そう。でも関係ないんですね、軍ではわからないから。

奥村:で、お姉さんがいらして。

林:ええ、姉がいまして。この姉が京女(現:京都女子高校)を卒業後、府庁に勤めましたが、僕が予科練に行ってから、関東軍の軍属になって満州に行きました。終戦後、僕が復員して間もなく帰ってきましてね、余りに早く帰って来たのでびっくりでしたが、皆、安堵して喜びました。満州ですからね、心配でした。

奥村:小学校の頃は、もう、お父さんが陶器を作ってらっしゃるってことを、ほとんどごぞんじ……

林:それがね、ハッキリ陶器を製造していることが解ったのは小学5年の時です。担任の先生が病気で長期間休まれてね、級友数人とお見舞いに行った時、父がこれを持って行けと渡してくれたのが、小鳥が枝にとまっている置物でした。そこで理解したわけです。それも押入に仕舞ってあってね、日頃見た事が無かったんです。目につく所にあると直ぐ壊すと思っていたんでしょう。そしたら押入には鯉の置物が大事にしまってありましてね、びっくりしました。こんなんつくってる。

坂上:家ではほとんど……

林: 家で陶器や仕事の話等聞いた事はなかったんです。壁に義経のような騎馬武者の絵が貼ってあってね、絵を描いているのか、位にしか思っていなかったんです。工房は五条、家は深草で離れていたから全然わかりませんでした。制作現場など見た事ないんですからね。食事の時は、食卓の前に座ってその日の新聞を読まされました。国語の本に出ていない、未だ知らない字が出てくるたびに行き詰まり、よく叱られました。そんな時ご飯が喉を通らない感じでしたよ。6年生の時、学校で将来の夢を書かされました。日本画の絵描きが希望だったから「画伯」になりたい、でした。そこで中学は美工と決めてね。その頃は陸軍か海軍の大将が男の子の夢だったんですよ。

坂上:お父さんが美工に行けと言った訳ではなくて、自分で。

林:絵が好きやから。でも、父もそう思っていたようです。

坂上:継ぐかな、みたいな感じは。

林:そういう事はなかったな。継がす様な話とかは言ってないんです。美工は第一志望絵画科、第二が彫刻、第三は第二工業の(注:現在の伏見工業高校)窯業コースです。やはり家業が分かりましたからね。入学試験はこの年から「口頭試問」だけになりまして、美工絵画科に入学しました。日本画の絵具の扱い、筆の使い方、写生の方法などが分かり出した2年生の12月、あの戦争が始まったんです。エラい事になったと思いながら、その日1時間目は数学の授業でした。丁度その頃、「柿」や「コスモス」が画題で気持ちよく描けましてね、講評の時、どちらも良い点で級の作品の一番上にありました。嬉しかったですよ。柿なんかね、絵具をいろいろ併せて柿に塗るんです。塗ったところがわからない。これだ!!って言うわけ。面白かったですよ。その作品は担任の前田荻邨先生が、学校に残して欲しいから「親と相談して来なさい」、と、言うことで、美工に寄贈しました。2年生の学年末の制作で僕が金賞、1年の時は中野弘彦、3年の時が加山又造君でした。

坂上:見たいですね。

林:今、どうなっていますかね。僕も見たいですよ。その頃美工の校歌や応援歌の練習がありました。昼食後、上級生が校舎の屋上に下級生を集めてね、威勢良く「三三七拍子」ってやるのです。午後の授業前までね。下村(良之助)さん、野崎(一良)さん達が中心になっていました。秋の中学校連合運動会に出て、競技の方は美工はドンジリばかりで恥ずかしかったんですが、応援歌の方は、丁度本部の真正面に美工の席があってね。それはそれはよくまとまって、高い評価で自慢だったんです。下村さんは応援団長で張り切っていました。かっこよかったんです。開戦は12月ですからそれまでの日々はまだのんびりとしたものがありました。

坂上:お調子者だったんですか。

林:その当時の中学生の一方の流行を現したような、伊達男みたいなね。3年生の夏に美工にもグライダー部が出来ました。軍事教練の時間が増えて、英語の授業が少なくなり、戦争の影響がひしひしと現れてきました。部は出来てもグライダーはありません。そこで舞鶴二中の先生の指導で訓練です。部員は絵画科が6人、加山又造、西村昭二郎、杉村恒、丹羽三義、川崎晴太郎、僕。彫刻1人、三宅五穂。不思議に図案科は0人でした。美工の部長は英語の中島先生で、5年生が2人ほど参加しました。

坂上:堂本尚郎さんは日本画だったんですか?

林:彼は日本画(絵画科)、入学時は一緒でした。

坂上:それで同級生でグライダー部に入って。

林:いや、彼は入っていません。

坂上:加山又造さんは入ってるんですよね。

林:そう。写真に写っていますね。堂本は病気で1年ダブりました。グライダー部は不思議に絵画科ばかりでね。図案科の方が多いかと思ったんですよ。絵画科は真面目でこういうたぐい(まっしぐらのジェスチャーをしながら)、ストイックに。その頃のグライダーですが、プライマリー、セコンダリー、ソアラーとありまして、初級のプライマリーで訓練です。翼は木製布張り、その他も木製の骨ばかりで出来ていました。身体を覆うものはなし、座席に座って右手は操縦桿、左手は機首から頭上の翼を支える斜めの支柱を持つんです。機首のフックにゴム策を引っ掛けて、左右に7〜8人分かれて逆八の字になってゴム索を引っ張るんですよ。15歩くらいで先生が旗を振り下ろすと、後ろで機尾のロープを、地面に打ち込んである杭に巻いてあるのを持っている者が放すと、ざざーと砂地を滑走するんです。最初は危険だから操縦桿は引いてはならぬ、と厳しい基本です。それが少し操縦桿を引くと15センチくらい浮くんでね、すると風が全身にあたって気分いいんですよ。面白くなってもうちょっと引くと1メートルも上がるんです。こんな感じ(浮くようなジェスチャー)で気持ちがいいんですよ。そこで20歩引っ張る時にね、わざとロープを放すタイミングをずらしたんです。中まで申し合わせて、すると飛距離が伸びてね、木津川の中程にザブンです。真夏の午後です。多少の悪さ気分が逆に行水になりましてね、涼しくていいやないか!と言うわけで、それでみんな次々ジャボンジャボンです(笑)。

坂上:まだのどかだった。(注:この頃既に太平洋では日本海軍は大敗して大打撃を受けていた。)

林:それは、気分的には。3年生の夏。ところが4年生の夏は丹波の山中、須知農林学校になりました。ここは山と谷が目について、気分が乗らず、それに食糧難があり、資金集めに暑いさなかに京都の部員の家を回りました。この年には中学生も動員されて、陸軍の弾薬庫で火薬の運搬をしたことがあります。

坂上:それは1943年の。

林:僕が4年生。10月1日、海軍に入る年です。話が前後しますが、絵が面白くなってきて、3年生の春にね、父が突然、陸軍幼年学校の入学試験要項を貰って来たんですよ。そして、「これを受けい」ってね。「いや、ちょっと待って」って(笑)。驚きました。父はいつの間にこんなこと考えたんか?とね。

坂上:お父さんは割と(戦争に前向き)?

林:その頃はね、陶器屋さんはしんどくなって来たようです。「贅沢は敵」の標語が新聞に出るようになって、「置物」の前途も危ういと思ったんでしょう。時代の花形は陸軍の将校ですから。父も僕も藤森神社の境内や、周辺の路上で、様々な演習をしてるのをほとんど毎日見ています。それで父は兵隊ではなく将校だと思ったんですな。ところが僕はこんなの嫌だと思いましたね。ある時、市街戦を想定した演習の時にひどい光景を見ましてね、陸軍は嫌だと決めました。

坂上:訓練でそうしてるんですか。

林:そうです。それは海軍だって同じ事なんですけどね。海軍なんて全然見ないでしょう。舞鶴に行ったことも無いけれど、服は紺色でかっこいい(笑)。陸軍は何かこう、悪いけど、ダサさみたいなもので、日常的に。カーキ色(国防色)の軍服を着て、四列縦隊で鉄砲を肩に、腰には剣、小さな大砲(歩兵砲)を引っ張って、進軍ラッパを吹いて隊門から出ていくのです。勇ましいんです。将校は馬に乗って一応格好いいんですが。

坂上:毎日毎日それを見る。

林:その当時は、毎日のようにね。「月月火水木金金」の時代で、軍国主義が日常でしたからね。僕の住んでいた家は長屋で、周辺に知的な話をする人はいなかった様です。京都師団のエリアの真ん中に居たわけで、言われるがままの軍国少年でした。4年生になる年の1月だったか、予科練の受験年齢が1年早くなって、15歳から募集となったんです。よし受けるぞ!って。予科練に行く時、美工で日本画の3回の実習で、金、銀、銅、佳作を取ったので、やる事はやったんだ。だから、まあいいか、といった気持ちもありまして、どうせだったら絵を描く余裕もないし、未練はなかったですね。

坂上:喜んだんですか。

林:喜びました。「はよ受けよ」って。

坂上:で、受かって。

林:それがね、「美術学校の教育位では難しいぞ」と言われて。「受からへんのちゃうかな」と思ったんです。それでしっかり勉強しましてね。第一次試験(学科)が、下京区の区役所の講堂でありました。京都駅のすぐ前のところです。

坂上:あ、あそこの区役所。場所変わってないんですか。

林:今はどうか知りません。合格の通知が来て、次に二次試験の場所が指定してありました。宮津市粟田の海軍航空隊、ここは水上機の航空隊でした。雨が降っていて7月頃だと思います。兵舎のデッキに回転式の椅子があって、そこに腰掛けてグルグル回してガタンと急停止するとポンと前に放り出されるんです。そこで、左右にどれほどの幅で直立出来るか、目の回り具合は、正視出来るまでの時間は、などを見るのです。これにはひどい人がいましてね。椅子から放り出された時立てなくて、転んだまま10メートルくらい斜めの方向に転んで行くんです。不思議な事にね。

坂上:それはへたっぴで。

林:それは身体能力とか、感覚とか。兵舎は真ん中に2メートル幅程の通路があって、約10センチの段差で左右のデッキになります。通路の段差を乗り越えて壁に当たっても未だガタガタしていました。上手下手でなくて。

坂上:止まれないんですか。

林:止まれないの。いやー気持ち悪い感じ、怖いなって。

坂上:操縦出来ないですよね。

林:それはもう、感覚が全然違う。「世の中にいろんな人がおるんだ」と思いましたね。なんだか可哀想でした。

坂上:林さんはもう。

林:僕はまあまあ普通でした。次に、動態視力の検査(着陸時に重要)と一般的な身体検査があって、最終の部屋です。ここではね、人相を観るのですよ。長髪で黒いサングラスをかけて着物を着た人がいて、A3くらいの紙に顔の正面と側面が印刷してあって、それに何か書き込むんです。海軍で人相を観るのに驚きました。この人たちは2人いましたが、入隊後3ヶ月して操縦と偵察に分かれる時にも同じ様に、正面を観たら、「横を向け」で何か印を入れていました。そして種別が決まったんです。僕は操縦、嬉しかったですよ。

坂上:実地的な試験があったと。

林:それは身体能力として、想定される事に対応できるかどうかを見ているんですね。動態視力なんかは相当なスピードで航空母艦に着艦する事を前提にしていたんです。海軍は船が基本ですから、陸上での作業でしっかり着艦の時の艦尾の高さ「眼高5メートル」を視力で覚えるのです。

坂上:で、落ちた人は多かったんですか。

林:何人落ちたかねえ。

坂上:でもやっぱり受かった人はそれにパスしてるから、かなり優秀っていうことですよね。

林:優秀なんかなあ。まあそういう範疇に入ってる人間しかとらんから。そうして昭和18年10月1日、第13期海軍甲種飛行予科練習生として、美保空(美保海軍航空隊)に入隊しました。鳥取県の弓ケ浜、西は中ノ海東は日本海、冬はいつも小雪やミゾレまじりの西風が吹き、15歳から20歳までの年代差の中で、僕は15歳、きつい事ばかりでした。最初の1ヶ月は新兵教育、2ヶ月目から海軍の軍人としての教育、3ヶ月目の終りに先に言いました人相見、それと、回転椅子にかけて左右に動く幅を修正する装置の検査もありまして、操縦分隊、偵察分隊に別れ、19年1月からそれぞれの専門的カリキュラムに従った教育が始まったんです。新しい分隊になって、人相見の判断はかなり当っているように思いました。走ったら遅いが計算の巧みな人とかね。

坂上:そういう人はそういう人で、それに相応しいところに回されるんですか。

林:偵察ですよ。「操」、「偵」しかありませんからね。偵察員ってのは計算しなければならないのです。飛行機の大型機、中型、副座機には偵察員が搭乗します。艦上爆撃機、艦上攻撃機は前席が操縦で、後席が偵察員、後席の方がエラいんです。高度、方位、速度、風向等を計算して指示を出す。操縦はヨーソロー(注:これは船や飛行の際に使用される独特の用語。ヨーソローは直進の意味)でその通りに飛行機を持って行く。点から点を正確に行かないと広い海の上、目的地点に到着しないんです。間違ったら大変、太平洋で迷い子では話になりませんからね。

坂上:すごい。レーダーとか全然ないんですね。

林:ないない。

坂上:GPSとか。

林:そんなの皆目。

坂上:飛べば全部見えないのに。林さんは操縦。

林:操縦。今の話は操縦と偵察の基本的な役割りのことです。僕の搭乗員歴はね、予科練を10ヶ月で卒業して、飛練(飛行術練習生、築城航空隊)です。16歳の8月1日、この航空隊でいよいよ飛行機の操縦訓練が始まりました。真夏です。飛行場には小さなテントがあって、そこが指揮所。練習生はテントの外で炎天下の作業ですが、今、飛行機の操縦をしていることの感激で頑張りましたね。6ヶ月間複葉機(通称赤トンボ)で操縦の各過程を習得して、卒業。本来、ここから夫々の機種に分かれて、実用機の部隊で3ヶ月訓練して実施部隊へとなるんですが、その猶予はなく、20年2月特攻の編成となったんです。

坂上:で、3月に特攻隊に志願。

林:そう。編成するとなると、みんな志願すると思ってね、だれも、徴兵で来た搭乗員はいないんです。予備生徒も、予科練出も、みんな志願兵ですから。

坂上:志願ということは喜んで。

林:新しい分隊を編成すると言うことは、特攻のことですから。それこそ男の美学だから、皆応募して狭き門になるかと思ったんです。400人程の搭乗員全員を講堂に集めて、隊長が訓示しました。行ってやろうと言う人は○、命令なら行くという人は四角を、「長男で家の事情で行けない人は遠慮せずに×を書いてよろしい」と壇上で話しました。紙片が回って来て志願制です。みんな○を書くだろうと思いましてね。そこで二重丸にして出しました。でも「安心出来ないな」と思って、夕食後、窓の外を見たらね、士官宿舎の方から帰ってくるんですよ、何人もが。「あ、越された!」って。僕も急いで嘆願に行きました。そして翌々日の2月23日。庁舎前に搭乗員総員集合、ここで氏名を呼ばれた者が2つの新分隊(八、九分隊)に編入されて、僕は八分隊の一員となったのです。ホッとしました。後で聞いた話では、トップの方がなかなか決まらず、もたついた様です。

坂上:軍部も。

林:いつの時代も一緒の構図ですな。そういうことで。特攻分隊になってガラリと立場が変わりましたね。同じデッキにカーテンを張って仕切りですよ。

坂上:食べ物は。

林:全然違う。贅沢。兵隊としての贅沢で、言うなら食べ放題みたいなね。兵舎が爆撃を受ける様になって、山手に疎開しました。そこでは主計兵の人がパエリア用の鍋みたいなものでご飯を炊くのです。これがまた美味しくて、おこげが出来てね。蒸気の釜のご飯と違う、言わば娑婆の味です。兵舎の廃材で炊きますから、「おき」が沢山出来るんですよ。これを利用して、卵は自由に食べて良いと言うのでね、大きな卵焼きをつくってみんなで楽しんだものです。山の兵舎には卵がギッシリ詰まった大きなミカン箱がいつも10数箱積んであって好きに出来たんです。特攻でない同期生達は少ない食事で、飛行場周辺の雑事にかり出されていました。何かの折に卵やご飯を提供したことがありまして、ものすごく喜んでくれましたよ。

坂上:それ位死ぬ確率が高いというか。

林:訓練でも亡くなった人がいます。そういう人が一番かわいそうやな。戦死にならないから恩給なんか難しい事になっているんではと思います。僕と同じ下宿にいたT君は20年7月29日夜、北九州の山に衝突して亡くなりました。彼はその時後席で、操縦してなかったんです。遺族は戦死にして欲しいと再三当局に陳情した様ですが、殉職は変わらなくて、お母さんの悲しい物語があるのです。僕が佐伯に行った後の出来事でした。可哀想でね。特攻訓練で、士官、下士官計11人が殉職してるんです。佐伯空庁舎から一旦本隊の築城空に帰った直後、広島(の原爆投下)です。変な雲だなあと仲間たちと話してました。

坂上:林さん知っていたんですか。

林:見えたのは(雲が)もっともっと大きくなってからで、築城から北東の方向に広島があるんですから、けったいな雲やなあって。爆発直後に近いのを見たという人もいました。

坂上:だけど爆弾だとは思わなかった。

林:「けったいやなあ」って思ったね。「何かおかしいぞ」って話。そのくせね、向こうの戦闘機が制空権を持って日本の国土を蹂躙して飛んでいて、勝敗のことになれば、勝つと言う言葉が出て来ない様な環境になっていても、僕らは眼前の訓練に励んで、技能を磨く事が大事でした。昼間は役には立たない機種です。夜間の二機編隊で、如何なる状況にも対応出来る技倆を身につけること。飛び立てば一番機だけが位置を知っているので、暗闇の中、電気を消して付いて行けなかったらお終いです。訓練と言えども真剣勝負の世界でした。

坂上:いつ特攻隊で出て行くかもわからない。

林:それはわからない。

坂上:急に言われると。

林:それは上の方で決める事ですから。日頃の訓練の中で、自分のミスであの世行きはバカらしいから、腕を磨くしかないんです。その、やっている事が面白いからね、国の為、君の為、なんて関係無しにね。よしよしってその瞬間の面白さ。「出来た!」一番機が好き勝手に様々な行動をするのに、執拗に編隊としてきちんと正位置で付いて行く。それあるのみですよ。何とも言えぬ緊張感。目で見た事が直に手足に連動しなければね、頭で考えると時間のロスになって遅れるんです。操作が遅れてはいけません。技術者、職人。

坂上:林さんは死ぬ覚悟だったんですか。

林: 小学校1年生から海軍に入るまで、ずっと犠牲的精神を尊ぶ教育と、言葉でなく行動で示す事が軍国少年の務めとされていたんですから、僕はそれを素直に実行に移す時が来たんだと思ったんです。志願した時から当たり前の事としてね。規制された枠の中での志願制ですから、形を変えた命令ですよ。誰かが行かねばならぬなら「俺がゆく!」と言うような感じでね。編成替えで名前を告げられた時「よしやった」と思ったんですよ。そして翌日から猛烈な飛行作業が始まりました。何の迷いもなくただ一途によくやったと思います。第五航空艦隊神風特攻隊菊水隊が僕の隊名で、昭和20年5月1日、海軍二等飛行兵曹に任官して、実施部隊の一人前の搭乗員としての待遇になりました。五航艦の司令部が築城空に来て、参謀長が直接我々に、攻撃時の説明をした事に、ある感銘を覚えたものでした。4月には、薄暮、深夜、黎明の飛行作業がありまして、特に薄暮、夕陽に向かって着陸することは大変危険でした。山の端に沈む太陽の光で地面が見えませんでね、手探りの感じです。目を一杯見開いて、後は勘。それに比べて深夜は全て暗いし、カンテラで着陸地点が示されているから、深夜の方がやりやすかったですね。いずれにしても、昼間飛んで行ける飛行機ではないので、5月からは夜間飛行ばかりになりましたがね。去年ね、ネットで佐伯空の跡地を見ていたら、何も制限無く周辺を通行出来る様なので、やっと思い立って行ってきました。日豊本線が想像以上に早く、65年ぶりに佐伯駅に降りました。大分からリアス式海岸のトンネルは、まさにタイムトンネルです。JR佐伯駅の大分寄りの山陰に、退避させてあった赤トンボを、整備員と一緒になって飛行場に押して行った事。愛機を築城から夫々二機編隊で空輸して来た日の上空から見た佐伯空。飛行場は爆撃で大きな穴だらけ、着陸地点を見定めることが第一の仕事でした。駅からは東に真っすぐの道、突き当たりが佐伯空、通りの喫茶店で当時の話をしても、誰も通じなくてね、「浦島太郎」です。長生きしたんですな。跡地にモダンな平和記念館があって、そこに「赤トンボ」の車輪が朽ち果てて置いてありました。もう懐かしくてね。海軍の資料館になっているんです。敗戦時ここは僕らの「赤トンボ」しかなかったので、間違いないんです。幅1メートルに満たないサイズ。65年ぶりの対面でした。

奥村:築城(基地)から飛んで行ったやつの。

林:そうです。僕のかもわからなんし、一番機か、誰か。93式陸中練の車輪と書いてあります。よくまあこんなのでねえ、と、館長と話したんです。車輪の側に衣嚢がありまして、その時俄然として思い出しました。僕は佐伯派遣隊組で、築城を出る時飛行服だけしか持たずに来た。その事に何の疑問も持たなかったけれど、椎田駅前でちゃんと整列して水杯で乾杯した。あの時が別れの儀式だったんです。派遣は転勤でない。転勤ならば衣嚢を持って行く筈。飛行服だけという事は、佐伯に何日も滞在することはない、と言う事であったのだと思うと、今になって急に恐ろしくて、怖い感情が背筋を走りました。夏の盛りに着替えの下着無しですからね、子供でしたね。

坂上:行ったらすぐに乗せてもう行っちゃうと。

林:佐伯に派遣して、すぐに行くと。そういう計画だったんでしょう。着替え無しで前後2週間です。

坂上:佐伯に行くという事は、イコール命が無くなる。

林:そう。出撃は早いという事だったんですね。佐伯空庁舎が未だに残っていました。(注:現在は海上自衛隊使用、この年末に解体)その東側川沿いの道路を南に行くと、右側の長島山のトンネルがあって、トンネル兵舎がある、そこが僕たちの居住区でした。今は材木でフタがしてあって、内部を見る事は出来ませんが、回りは草ボウボウ。懐かしい思い出が目の前にあるんです。ここが僕の日本での最後の地になる筈だった。8月15日にあの放送を聴いたのは庁舎前広場でね、正確な位置は今は道路上で、川の東側が飛行場です。あの15日がなかったらね、あれです。

坂上:20日だったら死んでたかもしれないですね。

林:不明確な情報で飛ばされていたかもしれません。五航艦に妙な情報が入ったら、「おい、佐伯行け」って言うことでね。今から考えるともう間近な事だったようです。汗だくの一週間、それで戦争が終わって築城に帰りました。

坂上:みんなで帰ってきたんですか。

林:築城に帰って山の兵舎に行ったら、僕の衣嚢が元通りに置いてあったんです。「あ、まだ残っとったな」、誰も触らずそのままでね、自分の身体の一部に会ったような、ホッとした気分になりました。不思議なもんです。一種軍装(注:冬に着る正式な制服の意味。夏服のようなラフなものとの差の意が込められている)その他冬の衣類、シャツ等が入っているのでそれを担いで帰りました。

坂上:戦争が終わった時に玉音放送は聞いて。

林:そう、佐伯の庁舎前でね。思い立って行ったのは、放送を聞いた場所に行ってみたいと思ったからなんです。派遣隊の僕らは全体の一番東の端に整列して聞きました。

坂上:それは、内容は知らないで集められた。

林:何か大事な放送があるからって総員集合がかかったんです。ガーガー言う音声の中に、しんどい言葉が聞き取れて、なんだ負けたんだ、なーんやって感じでいっぺんに気が抜けて。アホみたいでした。戦争に負けて何もする事がないので、次の日16日。トンネル兵舎の2階で暑いからね、裸で何人かで酒を飲んでいたんです。そしたらね、夜の8時過ぎに命令が来たんです。「搭乗員出撃準備、ただちに飛行場に集まれ。」何だこれはとばかりに大急ぎで爪と髪の毛を切って小さな箱に入れ、酔い等どこかに飛んでね、飛行服を着て、救命ジャケットの紐を括りながらね、対岸の飛行場に走りました。飛行場では既に「赤トンボ」がエンジン始動しだしてて、暗闇の中にすごい緊張感が漲ってました。それぞれ決められている編隊の小隊順に地面に座って待機していました。僕は第一小隊の位置(注:2機編成×2の2番機)。だから右から2番目の後ろです。前が1番機、1少尉、右がS1飛曹、そして1番機で指揮官(某士官)から、「貴様はこの派遣隊の指揮官だから、みんなが出た後、見届ける責任がある」と言う意見が出て、結局くじ引きで、先発は第3小隊と決まったんです。そうしたらね、第3小隊の辺りの雰囲気がサァーッと急変しました。暗闇のわずかな灯りに同期生の顔が蒼白に見えました。イザとなると……。僕は第1小隊だから最初に起つのは当たり前と思っていたからね、どんな顔していたのかな。どんじりになった時、ちょっとだけ生き延びた感じを持った記憶があって、心理って不思議なものです。戦争が終わったのに、なぜ出撃なのか、という疑問を持ったんですが、すぐに消えました。ただし、1時間あまりして、作戦中止の通知がきて解散になったんです。慌ただしい事でしたが、みんな安堵しました。そしたらね、別れの宴として主計科が用意したご馳走が運ばれてきたんですよ。平日見た事もない食材です。多分士官用の食材だったんでしょう。これは行かなかったからもうけものみたいな感じでゆっくりご馳走になりました。このような事がありましたが、混乱していたんですね。

坂上:林さん、結構格好よかったですよね。若い頃ね。

林照子(林の妻、以下照子):持ってきましょうか、写真(笑)。

坂上:可愛いんですよね。

林:その時僕の一人おいて隣にいた、京都の同志社出身のI君が「あーあ、これからまたイットイズからやるんだな」と言いましてね。8月15日になると電話でその話をするんです。本人は忘れていて記憶がないと言いますがね、僕には鮮明に残っているんです。彼はその後商船学校の方に行き、日本丸か何かの帆船の艦長になりました。

坂上:気が抜けた。

林:抜けましたよ。助かったんだと言う事がひとつありましたが、戦争に負けてこれからどうすればいいのか、精神的な柱はやるべしやるべしであったのに、目的がばさっと消えてしまった時、下士官と予備生徒の士官とは知能が違っていて、士官達は「これから働ける、やるべしやるべし」で糧末(食糧)やら何やらを山に運べって。

坂上:それは戦争をまだ続けるぞって。

林:そう。

照子:こんな。

林:写真は知ってるでしょ。

照子:ほこりで。

坂上:可愛いですよね。

奥村:うん。

照子:その帽子ね、まだあるのよ。

坂上:この帽子は貰えたんですか。

林:そのまま帰ってきたから。

坂上:へえ。

奥村:飛行帽、お持ちでしたよね。

照子:マフラーと。白の。

林:外国人が来た時に見せるとね、被らせて欲しいって言いますよ。

坂上:この写真は撮ってくれたんですか。向こうで。

林:それはね、編成があってからね、町の写真屋で撮ってもらったんです。ガラス板の写真です。

奥村:ガラス乾板の。

林:枚数がないからね、堪忍してくれって、嫌がったんですけど、私らは特殊分隊だからと言って、撮ってもらったんです。

坂上:昭和20年3月撮影。

林:これは19年の5月予科練の休暇で帰った時に、京都四条大丸の写真場で写したんです。

坂上:こういう制服って全部支給されたんですか。

林:そうです。これが冬服で一種軍装。二種軍装は白。

坂上:ああ、あこがれる気も分かる気がします。

照子:私らの時は「あつどったん」って言うてね、宝塚のファンかこの服かどっちかって。(笑)。

坂上:で、戦争が終わって築城にみんな。

林:築城に引き揚げて山の兵舎に行きましてね、一部荒らされていまして、食事が出来なくて、下宿にお世話になってました。山に築城空の詰め所があって、そこで搭乗員は9月20日迄本州に行って居れ、と言う事で、復員証明書を貰って下宿に行き、別れの挨拶をした時に、椎田の町長さんだった下宿のお父さんが「一度死んだから、その気になって頑張りなさい」と言われましてね、その言葉が僕の今迄の支えの一つになっているんです。

坂上:この格好のままですか。

林:これは着替えてね。普段用の三種軍装で草色の服です。日常の白の作業服ってのが格好いいんです。海上自衛隊が着ているあれ。ここで蝶結びで、よく目立つので草色に変更したんでしょう。

坂上:よくドラマで出て来るような服ですか。

林:そうそう、草色の服。飛行靴は、彼は搭乗員だってすぐわかる。予科練では被服点検が定期的にあり、衣類の洗濯、ボタンの完備等が厳しかった。ボタンの1つまで天皇陛下からの授かり物だ!特に二種軍装は汚れが目立ちますんでね、白がね、ある日、島根県出身のHの服だけが異様に綺麗なんです。みんなの白は酸化炎の白で、彼だけが青白磁なんです。今で言う。それでどうするかと訊いても教えないので一緒に洗濯しましてね。そしたら最後のすすぎの時インキを落とす。

奥村:青い。

林:青インキを落として水色にするんです。全然違う。おしゃれです。(それからまわりの事を)「貴様のださいな。きれいやろ」って(笑)。その頃僕は青白磁なんて知りません。大きなオスタップ(注:バケツ)の重いやつに水をいっぱい張って「誰も見てないな」ってインキを落として撹拌して、暫く浸けてから干しておくと、綺麗になるんです。おしゃれです。その服は19年7月25日美保空を卒業の時、後輩に着せる為に供出させられました。

坂上:着古したものを後輩が着るんですか。

林:せっかく綺麗にしたのに供出せいって(笑)。もっとも飛練に行ったらぜんぜん着る環境無しだったから良かったんです。25日の暑い日に山陰線の夜行で九州へ、日豊線で憧れの飛練、築城海軍航空隊に到着。上空には12期の先輩達が卒業の編隊飛行をしていました。兵舎前に整列した時、我々の教員になる当直から、「お前達、吊り床は何秒で降ろすか!」と聞かれました。私らの当直練習生が「55秒です!」予科練は1分を切れば良かったんです。「55秒」はちょっと自信がありまして。そしたら向こうから声が返って来ない。で、しばらくして、「それ、どこの幼稚園か!」ってね。その言葉の裏を考えたらみんな背筋がぞーっとしましたよ。「ここはすごい所だ」って。緊張しました。今日は夜行で疲れているから、吊り床訓練はしない。「明日からやるからそのつもりで」。翌日です。55秒が出来なくて、「55秒は嘘か!」ってことで。さあ大変なことです。寝る迄は10回じゃ収まらず、降ろしては上げ、の繰り返しで、夜10時の巡検間際までやりました。汗だくどころではありません。これが年末まで続きました。55秒から始まって、(次は)45秒が設定されました。10秒もどうすればよいか、遅れた者は罰直が待っていますから、風呂に行くとお尻がモンゴルになっていて、顔をあわせて笑うのみですね。そうこうして毎夜就寝前の吊り床降ろしは熱を帯びて、45秒に到達するんですよ。やった!と思った途端35秒で!と次が設定されましてね。そんなんどうしたら又10秒?も?ってことでね。みんなカンカンになって考えたけれど、考えても仕方がない。最短ルートは決まっているんだから、それを如何に早く動かすかだけしかないんですよね。身体の姿勢、ロープの巻き方、敏捷で正確な操作、やれば出来ていくんですよ。人間の能力って凄いです。11月頃に35秒をクリアしましてね。次が25秒。こうなると全員自信がついてきて、「やれるんだ」って気持ちになって、そうするとね、「さあ来い!」ってなことです。25秒からついに20秒です。100人余の練習生がドドー!で20秒。一斉にピタっと降ろすんですよ。吊り床を。壮観です。一時など18秒行ったことあったんです。これが僕のバックボーン。「あれが出来たんだ!やったんだ!」というね。昼間は飛行作業や座学がありますが、なんせ飛行機を操縦しているという、少年時代の夢の世界にいるわけで、きつい事ばかりなのに、面白いというか楽しい日々でした。翌20年1月末に飛練を卒業したんです。

坂上:すごい訓練ですね。

照子:それは16歳位? モールス信号は?

林:16歳の8月1日から飛行作業開始。モールス信号、発光信号、手旗信号などは予科練時代。15歳で予科練に行き、モールスはそこでね。初めの3ヶ月の間に基礎的にやって、操、偵別になってから様子が変わりましたね。偵察は1分間にモールス信号は、120字から130字送受信する技術を習得しなければなりません。操縦は60字でした。当初、食事前に練習生を廊下に立たせ、班長が食卓の端の正面で、箸を使って食器でツートンやるんです。それを聞いた我々が、分かり次第班長に伝えに行くんです。文章はありません、バラバラの仮名ですから当て字がないので予測は立ちません。ダーッと早いものから答えてね、遅いと食事にありつけない。餌につられてみたいですが、これはよく覚えますよ。なんせ何時も腹ぺこなんですからね。飯と寝る事が一番でした。こんな風に英語やったらな、ってね。(笑)。隣の分隊では、覚えが悪いとか、隣通しのテーブルでモールスの競争して、負けた方は食事抜きがあったという情報がありましてね。僕らの分隊は良い教員が多くて良かったんです。次に発光信号、発光時間は100ワットくらいの電球を白い紙に包んで、高い所に吊るし、電気をつけて、ピカッ、ピーカピカッってやるんですが、瞬きをした時に何かを見違えると、1字がわからなくなって、後が大変ですねん。記録の用紙を見たらもう駄目で、灯りを見たまま横に字を書いて行く。難しい!午後の1時間目の発光信号は、眠りの世界みたいでもの凄い苦痛でした。前列の4〜5列目以降は絶望的で、処置無しの感じ。通信科の人も大変なことです。

照子:15、16歳やったらよう覚えられたやろね。

林:(写真を見て)この2人は殉職したんです。この君は九州直方の山に夜間飛行で衝突。こちらは四国の観音寺空で昼間に墜落。

坂上:墜落って、訓練中に?

林:4月の初め、3回に分かれて築城から四国の観音寺空に移動訓練がありまして、その3回目に行った帰り、離陸して上昇中エンジンの故障らしく、飛行場内での事故で人家に被害が無かったと聞いています。ガソリンが劣化していてね、僕も移動訓練中で、松山の上空にいました。すると、プロペラが見えるんですよ。普通エンジンは高回転しているから見えないのに、バラバラっと形が見えるんです。機速は落ちて来るしね、その時は定型の4機編隊です。僕は3番機だったので、後ろに4番機がいるもんだから、どうしようかと必死で考えました。1番機に合図して松山空に不時着するか? まずエンジン不調の合図をしました。電話なんてないからね、翼を数回バンクさせて注意してもらい、他の3機に手でエンジンを指差して、飯を食う真似をしてから両手を×してね。それしか方法がないんです。合図してすぐ、燃料ポンプを力いっぱい押しまくりました。押しながら「神様、仏様どうか助けてください。藤森の神様お願いします」一生懸命祈りましたね。必死でした。豊後水道に出た辺りでね、ブルンといった感じでエンジンの調子が回復して、プロペラが見えなくなったんです。ヤレ助かった。あの時はひやっとしました。3カ所あるガソリンの濾し器に滓が詰まるんです。

坂上:「同期の桜」とか歌ったりしたんですか。

林:それはよくしました(歌いました)が、今は歌う気がしません。涙が出て来るから。

坂上:私が小さいときはテレビでもしょっちゅう流れていて、みんな歌ってましたね。

林:そんな事で帰ってみて、僕ら(京都出身者)は家があってね、親がいて。

坂上:それは8月15日か20日のときに「解散」ってなったんですか。

林:搭乗員は8月20日までに本州に行っておれ!と。とにかく海軍内部でも混乱してデマがいっぱい飛んだんですよ。アメリカ軍が来たら、搭乗員は先にひっぱられるから、まず九州から離れろと言うことで、飛行服と衣嚢だけ持って8月22日に京都に。

坂上:2日かかって。

林:20日の午後に下関の駅で大混乱でしたが、僕ら山陽本線組が5、6人一団になって、超満員の列車に乗り込み、荷物の山の上に陣取っていました。その夜か定かではないのですが、夜中に広島に着きました。丁度駅舎の東寄りに停車したので、月の光を便りに列車の網棚から、橋立てのまたのぞきみたいにして街の方を見たんです。そしたら市内は何もなくて、焼けた立ち木か、電柱なのか、ひょろひょろっとしたものが数本あるだけ。駅舎はあるのにその前から先は何も無しで、うわーってね。駅舎は何で残ってるんかなと思いました。

坂上:駅は残ってるんですか。

林:駅は残ってるのに何で向こうだけ無いのだろうって。しばらく停車してからのろのろと、随分かかって京都駅に着いて、午前10時頃、証明書を渡して第二工業出身のS君と別れ(注:彼と下宿が同じだった)、昼前に家に帰りました。彼の家は駅から10分くらいのところで靴屋さんでした。

坂上:じゃあ、七条の靴屋さんにSさんは帰って。

林:靴屋さんに帰ってすぐに家業を手伝ったんですね。忙しそうでした。彼は第二工業で建築科と言ってましたから、そちらに行くかと思ったんだけれどね。頭のいい人で惜しいと思います。

坂上:林さんはうちに帰って。みんな家族は無事だったんですね。

林:そう。家族はみんな無事でした。僕が復員してから、何日ほどだったかな、ほぼ一月もしたか満州に居る筈の姉が帰宅しましてね、あまりに早くて驚きながら喜んだんです。満州は嫌な噂もあってとても心配でしたから。みんな揃ったら小さな家が狭くてね、10月に東山松原に近い所に転居しました。すると同じ満州に居た叔母達が引き揚げてくる。叔母の子供もやって来る。1年後には叔父が中国から復員と、一時は13人が松原の家に住んでたんですよ。超満員で大変でした。現在妹が住んでいる家です。東山に移った頃、美専の編入学の試験を受けました。市の職員に混じって、前田荻邨先生の姿があって、これはありがたいと思いました。海軍の退職金と月給を合わせ、戦中、下宿の人に依頼して家に送金していたのを父が出してくれて、授業料を払い、絵具、紙、筆等を購入して、美専1年生に編入したんです。美工の同級生は2年生になってました。学校に戻ったら、昔は居なかった女子学生がのんびりした感じで遊んでいてね、髪の長い学生も居て、とてもなじめない雰囲気でした。無性に腹立たしくてね。何でも4月に学制の変更で、絵専が美専になったんだと言う。結局在学中は1点しか描かなかったんです。

坂上:気持ちが乗らない。

林:ええ、乗らない。さあこれからと思うんですが、平安神宮の池で何人かと一緒に、鯉でも描こうかなと思うんですが、全然描く気がしなくってね、何か1点描いたんですが、それもどこへ行ったかわかりません。

坂上:昭和21年。

林:2年生になった5月末に、市から2回目の授業料の督促が来たんですが、払えないのでそのままで、中途退学です。退学の手続きなどなしに。その頃河原町で小学校3年の担任だったM先生に偶然会いました。M先生は、日国工業の技師をしている。「飛行機の材料のジュラルミンで占領軍のスーツケースを作っている会社だ」と言うことを聞いて、即就職を決めました。月給300円給食付き、M先生がプレス課長で、ここでプレス工として4ヶ月働きました。最近まで3ヶ月とばかり思い込んでいたんですが、一昨年の夏、年金受給の件について、社会保険庁から通知がありました。就業の問い合わせでした。

奥村:その間就職して働いていたかという。

林:その下調べですね。それには4ヶ月働いた事になっていたんです。重要個所は空いていて、そこに自分の記憶を記入すると言うもの。そんなの忘れるもんですか、全部キチッと記入して。

坂上:穴埋め問題みたいな。

林:そうです。それで一発でした。それには6月5日から10月5日まで。それで考えますと、私が家業をやりはじめたのは、10月6日以後の何日かしてでしょう。

坂上:日国工業を辞めて、その直後。

林:辞めてすぐの感じでした。会社があの時保険をかけているなんて事全く頭になかったんですよ。混乱の最中ですから食べる事しかね。これは国会で議論になったお陰ですな。差額の送金がありまして、年金に幾らか加算があるとなっています。

坂上:日国工業を辞めたのは、陶器を継ぐから辞めたんですか。

林:そうです。戦時中の統制経済で、父なんかの陶器屋さん達は廃業させられて、焼き物は旧家の数軒だけしか許されていなかったんですね。その統制が解除になったんで、父が陶器作りを始めるから手伝え!って事になったんです。その頃叔父が復員していまして、「おまえ本当に陶器やりたいのか。日本画やりたいのと違うんか」と言う話があって、「ほんまに日本画やりたいんやったらわしが何とか考える」と言ってくれました。しかし我が家の環境がね、弟妹、祖母の大家族です。僕だけが一番の労働力なのに僕がはずれて、「叔父の援助で勉強なんて、それはちょっと出来んな」と思いました。もともと美専に戻った時に、どこか日本画に違和感があったのだし、生活が差し迫っていて、選択肢はなくて陶器をやると決めたんです。叔父は僕の美工の成績が意識にあったんでしょう。提案はそれでも嬉しかった。その叔父が一月あまりして亡くなりました。「陶器をやるなら英語を覚えておけ」英語と陶器を一生懸命やれって。これが叔父の言葉でした。

坂上:それは家でやるから。

林:そうそう。自分がやっていた焼き物をやるから今日から手伝え。僕はつい昨日まで日国工業に行っていたから、陶器の「と」の字も知らん、土をもんだこともないし陶器の勉強は何もした事が無い。

奥村:その日からほんまに陶器を始めて。

林:そう。即戦力で始めるという。それが初めてです。

坂上:親子2人だけで。

林:そうです。暫くはね。そして近所の人が手伝いに来てくれました。その人も陶器は初めてでした。

坂上:お父さんは教えてくれるのではなく……

林:親父はそりゃあ始めはやってみせるんです。後は教えるっていうよりは、命令だけみたい(笑)。「これやれ」って。土もみなんか母が教えてくれたんです。「土をこうしてもむんや」練りもみもね。ほうーっと。母を見直して、「ああ、こんなこと知ってる!」って。ハハハ。

奥村:お母さんも手伝っていたんですか。

林:小さな陶器屋は家内工業ですから、子供を背負って何らかの仕事をしていたという事を、陶器を始めてから聞きました。窯詰めなども昔は手伝っていたんですが、母は何も言いませんでした。祖父が絵付け職人で、父が焼き屋を始めたんですが、若い陶器作りは一人ではなかなか仕事が捗らず、母の手は大事な働き手だったと思います。ですから僕に土もみ等サラッと教えられたんですよ。

坂上:お父さんはやっぱりもう一度そういう陶器をつくれるっていうのを喜んで。

林:ええ、そうです。それしかないわけで。別に仕事場があるわけでなし。普通の2階建ての住宅で、僕と同じくらいの年代の家です。2階の奥の間で(注:京間の六畳)父と向かい合いに座っての仕事です。玄関に防火用水槽(注:戦時中のセメント製)を土のタンクに利用して、4斗樽に基礎釉薬を入れて並べると、小さな家がたちまち狭くなり、陶器屋らしくなりましてね。ここで昭和28年まで仕事をしたんです。

坂上:家業は順調に。

林:それはね。全国的に焼き物は割れていて無いんです。爆撃されてますし。良く売れました。しかし経済の方は厳しくて、長い手形などで難儀しました。そして世の中を知って行くわけですね。僕の仕事は4寸皿の型おこし。「これヤレ」です。土をもんでスライスしたら、フランスパンみたいに穴があって、これでは仕事にならないから、必死に練習しましたよ。

坂上:穴ぼこをなくすために。

林:スライスしたらみんなきれいに。芸大の子みたいに半年もかかってたらえらいことで。3日か4日でもめないと生活出来ない。厳しい現実に追われますから、覚えるんです。海軍の吊り床起こし、あれです。そう思えば仕事で大した苦と思う事は無かったです。次に土の感覚を覚えるのに役だったのは、箸置きの型起こし。これは1日にね、1000個起こして翌日500個仕上げて、次の日もう500仕上げて、1日300個の計算になる。初めは肩が凝って大変でしたが、これもやり方を研究して難なく乗り越えられました。技術的な事ですから、工夫をする気さえあれば、出来るんです。1000個は最初驚きましたが…… 月日とともに技倆がついて来ると、父が次々箸置きの原形を作るのです。それの型取りをする事になって、石膏の型取りです。箸置きから置物へと種類が増えて行きました。リアルな形が中にあって、外側を均等な厚みで石膏で形を整える。この場合は使い良い様に綺麗な形にするのです。この形が最初の1年は分からずにやってました。後に四耕会に入ってから、宇野(三吾)さんの家に独立美術の松崎八笑亭さんがよく見えて、この人の説明が大変リアルで、口角泡を飛ばしての話が、現代美術の抽象について、凄く勉強になりました。何の事はない、うちでやっているあの型取りは抽象やないか。

坂上:どっかで箸置きとかお皿をつくっていたのがチェンジして抽象になったというんじゃなくて。

林:それはね、まず家業継ぐとしたら、父のやっている置物の勉強をしようとしたんです。そしたら「そんなことせんでいい、自分の仕事をやれ」って言うんです。「あれ? 好きにやっていいのか!」って思いましてね。好きな事をやっていい事になって、何か肩が軽くなった気がしました。ある時、青年作陶家集団の展覧会を観たんです。陶器の勉強をするには、こういうグループに入って勉強するのかな、と思って尋ねたところ、日展の偉い人3人以上の推薦がないと入れんというんです。これは在野と違うなあと言うわけ。

坂上:じゃあこの頃はすでに在野という意識を。

林:もちろんです。美工の頃に父の姿を見て在野という意識を持ってました。その頃美工日本画の先輩で、浅見茂さんと言う人と五条坂の窯でよく会うんです。そこで青年作陶家集団の事を話したら、「あれちょっと違う」と言う事で意見が一致して、「何か別のグループを作らへんか」「そやなあ」と言う話になりました。それから暫くして、五条坂で会った時に、「林君、グループ作るけど、来るか」って。「宇野三吾さんの家に11月17日に集まるから、良かったら来て」「行きます」で、行ったのが高台寺の宇野さんの家。その日に四耕会が結成されました。それが1947年11月17日です。

坂上:じゃあ初めて宇野さん宅に行ったその時に四耕会が結成したと。ということは林さんが初めて行ったその日が四耕会結成の日。その前は浅見さんしか知らなくって。

林:そうそう。五条の窯で清水さんとかね、窯詰めしているのは知っている。谷口(良三)さん、ああ、あの人と言うのは知っている。それと鈴木(康之)さん。東山五条辺りでよく見かけていたんですが、宇野さんのお弟子さんかということもね。

坂上:だけどお互いにそう……

林:子供の頃も中学時代も知りませんし。五条に行って1年ですがな。知っているのは浅見さんだけ。

奥村:ちょうど1年ですね。

林:そうです。焼き物の世界に入って1年。窯詰めは僕の方は磁器の間で、他の人は土の間を詰めていましたから、話す機会はあまりなかったんです。若い者10人のうち、下から3番目でした。清水卯一さん、伊豆蔵(寿郎)さん、大西(金之助)さん達が会の名称を提案していて、伊豆蔵さんの「四耕会」に浅見さんがその意味を質したら、「各自が各自の四方を耕す、四つを耕すと書く」と。「ああそれはおもしろい」。「四次元を目指す」という話も出て、それに決まったんです。四次元が出なかったら、またもめたかもしれん(笑)。それで宇野さんも一緒にやると言うから。

坂上:鈴木(康之)さんはねえ、最初、宇野さんは顧問でやるというか、顧問じゃないけど、上から見てもらうというそういう感じで思っていたのに、自分も一緒にやるというから、驚いた。

林:そうそう。あれ僕は下準備の話は全然知らんのですよ。(清水)卯一さんが割と中心的に動いていたらしいんだ。五条では。あの人は石黒(宗麿)さんのお弟子さんで、焼き物の経験は随分あって。僕は何も知らんから、とにかくじっと聞いてるだけでした。グループに入れてもらう。そこでとにかく勉強すればいいんだ。「よし、今日からグループ始める」「よろしく頼みます」って。それから僕は宇野さんのところへ入り浸りになって。

坂上:宇野さん宅は「いつでも入っていいよ」という感じで。

林: そうですね。あまり忙しいのは…… そんなに仕事しなくてもといった不思議な感じでした。

坂上:宇野さん自体はあの辺ではまあまあ……

林:僕はその頃知らなかったけれど、宇野さんはかなりユニークな存在やったんです。それは徐々にわかってきました。五条の窯でも定期、不定期さまざまの窯詰めで、何かカリスマの別の世界の様な感じがしていてね、家に行くと幅の広い様々な話が出て来るでしょ。僕の両親と宇野さんは小学校が同じで、数年にまたがって顔を知っているんです。そんな関係の人があの周辺に大勢いて、時々うちにやってきては、父と仕事の合間にね、宇野さんの噂話も出てました。いろいろ。

坂上:やっぱりその頃からお互いに言いあうっていうか。

林:やっぱりね、それは、こちらはこちら、向こうは向こう、みんな似てるわね。陶器だけじゃなくてみんなねえ。

坂上:そうですね。四耕会は1947年の末に出来て、もうその時には展覧会をやるっていうのは。

林: 11月17日に(四耕会が)出来たら、、宇野さんがぱっと言うわけ。(来年)3月に展覧会、って。

坂上:決めていたんですね。

林:もう、すぐ決める。「朝日(美術画廊)でやるさかい、今から用意しろ」って。はあ、って。忙しかったよ。私、ろくろ知らんでしょ。

坂上:抽象っていうのも四耕会に入ってから。

林:もちろんです。

坂上:ということは四耕会の入会式っていうか、その時はまだ抽象っていう概念は無い。

林:まだ無い。

坂上:ただ、新しい事をやろうと。

林:何かね、とにかく在野で焼き物をやろう、という意識だけです。最初は。とにかく在野でやって、官展ではないというだけでした。その頃はまだ前衛の“ぜ”の字も誰も知らんし。なにしろ在野、官展の対極しかなかったからそれしか頭にないんですよ。それで始まって、3月に第1回展があって。清水さんの感想では、大成功だと言ってました。(注:1950年3月9日〜14日 第1回四耕会展 場所:朝日美術画廊(京都) 後援:京都美術懇話会 出品者11人:伊豆蔵寿郎、宇野三吾、木村盛和、林康夫、藤田作、清水卯一、大西金之助、浅見茂、鈴木康之 谷口良三、荒井衆)

坂上:はい。

林:展覧会の最終日だったか、会の顧問の須田国太郎さんが我々を集めてね、「君たちはあわててものを作らなくてよろしい、40まで本を読みなさい」と言われました。しかしね、その時既に宇野さんから、夏の大阪展、秋の岡山展を決められていたんです。それでどうしたらよいか、一同呆然としてしまいました。須田さんはそんなこと百も承知で、「ああ、困っとる困っとる」てなもんで。ややあってから、「それが出来ないならとことん作れ」と話されて。それでみんなホッとして。何か正気に戻ったみたいな話です。展覧会終了後の研究会で、宇野さんが会の進路、方向について全員に意思決定を迫られたんです。どうするんだと。そこでみんな在野で行くと言って手を挙げました。

坂上:その第1回展の時に鈴木さんがこの作品つくったんですね(注:つぼみの形の作品)。

林:それはね、その作品は1年程前に作ってあって、二科展に出品の予定だったらしです。それを清水さんが、みんな四耕会一本でやろう、「他の会に出すな」と言ったので、鈴木さんは止めたと言ってました。一方で小原豊雲さんが、花展に何か作品を鈴木さんに依頼していたんですが、出来た作品があまりに性的なんで、小原さんは使わなかったと言う話を聞いています。

坂上:林さんが、抽象っていうのはこんなもんなんだって、やっとわかったのは四耕会に入ってから、話を聞いて。

林:3月以降です。宇野さんが。僕はずーっと日本画でしたからね。大西さんは武蔵美で油をやっていたから、知っていたと思いますよ。年も上だし。

坂上:第1回展のときは、こんなにおもしろい作品を作っているんだって鈴木さんの作品を。

林:びっくりしたんです。こんなこと作るやつがおるんかと思ったんです。で、宇野さんがこれを奨励しているという。教えてるでしょう。

坂上:そうですね。「傑作です」って(絶賛してる)。

林:その頃に僕は知らなかった一番最初の印象が、宇野さんの家の玄関のエルンストの絵です。

坂上:それはもう行ったその日にはあったんですか。

林:ええ、玄関に、汚い木の(額で)、「きったない絵やなあ」と思いました。で、聞きますとマックス・エルンストだと。で、マックス・エルンストって誰っていうことで、美術雑誌を見ました。その頃、『みづえ』、『アトリエ』、『三彩』なんか出ていて、それで勉強したんです。月とか森とかが出ていたりして、初めは大して思わなかったけど、小原流東京支部の支部長の息子さんが京大に在学中、時々宇野さんの方に見えて。ある時、「あんたらなあ、宇野さんがマックス・エルンストを日本に紹介したんだよ」と話されて。宇野さんを尊敬しました。それからしげしげと宇野さんの家に行くと、松崎さんや独立の人がよく来るんです。

坂上:サロンのようになっていて。

林:それで何かと教えてもらいました。抽象の話を。「陶器屋はちっとも勉強せえへん」とか、「壺や鉢はやっぱり売れるさかいにな、それ以上進まへんのや」とか、「抽象の私らの絵はなんぼ一生懸命勉強してもなかなか売れへんのや」とか。「そやから勉強せんならん」とそういう説明です。「だから壺や鉢は会場では売れへんでもいつかその人の家に行ったらあらへん」って言う。「やっぱり売れてんのや。そういう形で売れるからやっぱりあかんのや」と。

奥村・坂上:ああ。

林:わけわからんのやけど。

坂上:わけわからないけど、そしたら売れない作品を作ろうって。

林:そしたら「芸術は売れんでも一生懸命した方がええんやなあ」って思いました。僕が日本画の勉強をしてなかったら、この話の受けとめ方は違ったかもしれません。初めから焼き物しかやってなかったら、そんな事ないって思うに違いないでしょう。絵描きで売れない人知っていますし、しんどいって言うのも知っているから、素直に聞きました。うちにはろくろが無いからろくろは出来ないし。(注:林は25歳の時に仕事場が五条に出来て、そこでやっとろくろを始めた)。そんな話の時、みんな在野で行くって諸手を上げて賛成したんだから、卯一さんも在野で行くと思っていたんです。そしたら京展に入選した。清水卯一、それからもうひとり誰だったかな、谷口良三かな、その2人の名前が新聞にバーッと発表されたんです。

坂上:谷口と清水と。はい。

林:そしたらね、「何で在野で行くと言うた人が、官展の(人が)審査員する展覧会に出品するの」という疑問をみんなが持ったんです。一番にかんかんになって怒ったのは大西さんで。大西さんは武蔵美で油絵描いていた人ですから。その筋道の事うるさかったんです。そこで在京の会員が宇野さんのところに詰め寄ったんです。で、宇野さんが一件預かりで、何か処理をする事になったんですが、上手な処理をしていなかった様です。その当時京展の陶磁は日展の人だけで審査していて、在野の人はいません。それから何年かして不思議な事に、ある日、日展の人が二科展に入るんです。二科会員の資格で京展の審査をするんですよ。一人だけ在野。京都市のあれはからくりを作るんですな。「日展だけと違います、在野の人も入っています」って。たった一票でどうなるんですか。単なる飾り。そんな風にしてごまかしているだけ。この国は、根本的に。今まで通りの青磁の花瓶を作っている人です。作風に何の変化もないのに……

坂上:まあでも残ったメンバーたちは。

林:みんな「けしからん」って。

坂上:「在野でやるんだ」って。

林:その空気はまわりまわって伝わったんですな。

坂上:清水さん達に。

林:(京展に出品した)3人に。そこで四耕会はそれ以後純粋にオール在野で行こうと言って話が決まりました。そういうことならと宇野さんが吉原治良さんを呼んで、現代美術の勉強をして、そちらの方に行く様にしようと。

坂上:「現代美術」という言葉がもうあった。

林:そういう雰囲気でした。モダンアートっていうかな。現代美術と違う。モダンアートの方。新しい在野の美術。

坂上:新しいものを作ろうと。

林:結局、須田国太郎さんが、四耕会の為に書かれた言葉がありますね。「日本の工芸は死んでる」と。「それはこの若い元気のいい人達が一歩踏み出すという事だから、この人らに期待する」という事だから、「もう、因習的な事や無しに新しいスタイルで行こう」と。それで吉原さんに新しいアートの話を聞くんです。丁度、走泥社が結成(1948年)されて間もない時期でした。せっかく吉原さんが芦屋から見えるんだから、と、宇野さんの声がかりで、走泥社の人達も呼んで、宇野さんの家の前の尼寺で講義を聴きました。この事を走泥社の人達(八木一夫、山田光、鈴木治)が一切話したり、書いたりした事は僕の知る限りありません。で、次が中山文甫さんに。前衛華道の方から我々に何か話を、と言う事で、同じ尼寺でお話を聴きました。その最後の方で、「我々が使うのに困るような器を作ってください」と。その言葉がきっかけで、ぽわーんとかたちが浮んでくるんですよ。何を作ってもいいんだ。難しい言葉じゃないのに、大きな展開の基になったんです。

坂上:挑んで来いと。

林:それが始まりです。それはもう走泥社が出来てまだ一月くらいしか経ってない。

坂上:抽象的なものにしても具象的なものにしても、花生けを作るっていうのは、壺を作るというのがベースにあったんですか。

林:つまり壺と花瓶の固定化した形態がほとんどです。中国、朝鮮、日本の古陶が貴ばれて来たわけだから、ポジティブな器がなかったんですね。前衛華道家としては寂しいことだったんでしょう。花生けとして、壺も花瓶も口は上にあります。しかし、四耕会は口を形と考えました。どこに(口が)付いていようと形が大事だという意識です。宇野さんの壺の解釈は、「壺には中心に見えない垂直線が通っている。その線の一本とか、細いしょうもないのはあかん」と。つまり垂直線がいかに太いかと言うことが問題です。ということを教わって、考えるとね、口縁、肩、胴、腰、立ち上がり、高台とこれだけをスライスして、それぞれの中心線(垂直線)が違っていたら、それを束ねると太くなりますね。それで自ずと壺の形がどのような姿か想像できるというものです。ろくろの上手な人は芯が一本かもしれんけど、それは機械が勝手に作るのと同じ。何も面白くない。走泥社の人は壺の口を塞ぐとしましたが、壺本来の形の科学的な解釈はしていなかったようです。

坂上:宇野さんはそういうのを作ってた。

林:宇野さんの富士山壺(そろばん玉型)は凄かった。独特の作り方でした。壺が大きく見えるというのはそういう科学的な要素を持っているからだということです。単に口をフタするかどうかというのは、どんな壺でもいいわけで、壺の形の根本に切り込んではいない。概念的。

坂上:そういうそれまでにないかたちの壺というのを生け花の人達は喜んで買って行ってくれたんですか。

林:ええ。だから全然違う僕の《ハイヒール》なんか、中山さんが喜んで持って行かれました。あんなの見たことないって。誰も作ってない。花器屋さんもね。

坂上:向こうの方も、そういう新しいものが……

林:ないんです。有名な陶芸家さんのはみんなきれいです。飾りをつけても何も面白くないし。中心線は一本で変わらない。真ん中に口がどんと在るから、外側に多少の手を加えても面白くならない。中心線を移動させたり大小束ねたりとかすればね、もっと言えば口が真ん中についてなくてもいいやないかという事です。生け花の方からすれば、固定化した器では表現の幅がないという事だったんです。器の方がイメージを誘うと言う。そういうものがなかったので、一番うまくタイミングが合ったんですね。

坂上:それで前衛生け花と新しい陶器が。

林:その当時、お花の方が一歩進んで前衛で活動していたんですね。

坂上:お花の方が、陶器よりも前にもう。

林:陶器はその時からですから。昭和23年の夏にそういう話が来て。「そうか」と。「そういうことをしてもいいんや」と、そういう話になって。それなら、あちこち手をのばしてもええやないかと。それが他のグループにも波及して行ったんです。お花の前衛は昭和13年頃から始まった様です。

坂上:最初、四耕会がそれを作ったときは、五条坂を揺るがす大事件。

林:だったらしいですけど、若くてよくわからないうちに、結局あっという間に疎外されていったんです。何やわからん、ジェラシーかわからんけど。

坂上:前衛生け花が挑戦状を叩き付けて。陶芸の方がそれを受けて、コラボレーションみたいな感じで前衛生け花と陶器の展覧会を(開いて行く)。それプラス、カンディンスキーの絵を(会場に)飾るとか。そういうのは宇野さんのところに独立の人たちが行っていたから油絵の人たちも生け花の人たちも(自然と一緒に展覧会をするようになったのか)……

林:それはね、宇野さんがいろいろなプランを持っていたんです。我々若い者に提案して討議することもなく、四耕会を総合的な美術団体にしたかったようです。

坂上:プロデューサーみたいな。ディレクターみたいな。監督みたいな感じで、四耕会をこんなふうにしようと考えていたのか。

林:四耕会を陶器だけじゃなしに、絵画の人や写真の人や彫刻の人らを勝手に呼んだんです。そしたら呼ばれた人は、「宇野さんが勝手に名前入れよってね、困ってんねん」って。「どうなってんねんや」って。二科会の人(注:年代は宇野さんと同じ)、独立の人達数人、最初は半信半疑でね、出品されました。その方々はどうも空気が違うと思われて、「君達は本当に私らと一緒にいてええんか」と。何か変だと思われての質問で、「私ら陶器だけでと思ってましたけど」って。「やっぱりか!」って。結局宇野さんの独断専行があまりに過ぎて空中分解をした。せざるを得ん。

坂上:自分たち若い陶芸家たちの気持ちと、宇野さんという年齢が離れていた人の(考えのギャップが)すごくあったということを、鈴木さんがおっしゃってましたけど。

林:それはすごくありました。そういう意識で始めていたんです。それが展覧会毎に脚光を浴びたんですね、3年間程の間。そしたら宇野さんが自信を持ち、言葉は変ですが舞い上がったみたいな。昭和25年7月。当時の丸物百貨店での四耕会展の後。(注:1950年7月22日〜30日 四耕会展(第6回展) 場所:丸物百貨店丸物画廊(京都) 出品者:不明 この時カンディンスキーの絵(100号)とイサム・ノグチのテラコッタ「力士」を同時展示する)パリに行く現代日本陶芸展が全国公募されました(注:日付不明 現代日本陶芸展、パリ・チェルヌスキー美術館)に前衛派として四耕会から宇野三吾、大西金之助、林康夫が入選した)。8月1日四耕会からは宇野さん、大西さんと僕の3人が入選し、新聞に僕の《ハイヒール》の写真が掲載されて、ちょっと騒ぎになったみたいです。京都国立博物館の学芸の人が、林さんの作品が前衛の代表です、とおっしゃって。えらいことになったと思いましたね。パリでは前衛派の作品が好評で、美術雑誌に浮世絵と一緒に展示された。雑誌には富本憲吉、宇野三吾、イサム・ノグチと僕の紹介がありました。感激したもんです。それが後々大変なことになるとは思いもよらなかったですね。宇野さんの富士山壺は美術雑誌の編集長が購入し、大西さんの三段重ねのようなコンポートはピカソが自作と交換云々という話がちらついて。実現はしなかったんですが…… 僕の作品はね、《ハイヒール》の梱包を当時の日通が梱包の困難を理由に、作品の変更を要求したために、《人体》の方に変更されたんです。何年経っても、もし《ハイヒール》が行っていたらなあとよく思います。

坂上:(宇野さんは)みんなに相談することなくどんどん進めていくと。

林:どこかの国の総理大臣みたいな(注:インタヴュー当時は菅直人首相)。ひとりで決めているみたいな。最終的にはね、「林さん、四耕会は国展に持って行こうかね」って。「国展って、何を言うたはるんや」と思いましたね。あっち振れたりこっち振れたり。そうかと思うと最後、「日展は文部省の課長扱いやけど、工芸会は文部省の部長扱いや。こっちにこないか」って。

坂上:それは四耕会の最後の頃。

林:ええ、最後の方です。在野で旗揚げて前衛活動が始まって、様々に問題がある中で、(四耕会を辞めて)文部省の部長扱いの工芸会に来ませんか、ってそんな失礼な話に唖然として。四耕会を辞めました。工芸会の結成準備段階で(宇野さんは)会議に参画されていたようです。(僕は)家業の仕事の中から抽象の意味を見出したんだから、こういうものを焼き物で作りたいと思っていました。

坂上:ちょっと戻るんですけど、林さんが《雲》とか《ハイヒール》とかおもしろいカタチを作った時に、誰かがこれはすごいとか誰かが絶賛してくれたとかそういう記憶ってありますか。

林:うん、それは美術家の人。絵描きの人とかはおもしろいなあと言ってくれて。しかし絶賛というふうな記憶はありません。中山文甫さんが秋の三巨匠展に使われたので、(注:1951年10月20日〜25日 大阪松坂屋、11月2日〜7日 銀座松坂屋 小原豊雲、勅使河原蒼風、中山文甫)中山さんが認めてくれたのが嬉しかったですよ。その他は声なき声で、注目はしてくれたようですが。

坂上:何か、こう、ものすごく自分の刺激になったとか。

林:良いか悪いか知りませんが、ああ、こういう奴がおるんやなあということは、インプットになったかもしれません。

坂上:そしたらもっとやってやろう、もっと驚かせてやろうと。

林:そんなに大層な事は思わんけども、とにかくもっと突っ込んだ仕事をしないとあかんなあということだけは。そこで《人体》の作品で考えたのがキュウビズムです。これをやろうと。

坂上:見てくれる人は見て反応して。

林:でもその頃ね、一番四耕会で成績が良かったのは三浦(省吾)さんでした。三浦さんはものすごく、フォーヴィズムの塊みたいな作品を作っていたからね。で、アンデパンダン賞は三浦さんがもらったんです。

坂上:ああアンデパンダン展ってありましたが、あれは宇野さんのアイデアですか。(注:1949年3月26日〜31日 四耕会展(第4回・アンデパンダン) 場所:朝日美術画廊(京都) 後援:京都美術懇話会 顧問:武者小路実篤、須田国太郎 受賞審査員:小原豊雲、中山文甫、吉原治良、須田国太郎 出品者(会員9人):伊豆蔵寿郎、増井哲、林康夫、藤田作、大西金之助、三浦省吾、岡本素六、鈴木康之、宇野三吾 アンデパンダン形式をとり絵画・彫刻・工芸の総合展を試みる。会員9名の作品20点、会員外の17名作品20点が出品される)

林:そうです。須田先生が審査委員長で、貝が2つ噛み合っているような作品、それこそ激賞されました。あの作品が今あればどんな評価になっていたか。残念でなりません。

坂上:みんな結構棄ててしまって。

林:それはね、僕の知らないお花の先生のところに行ったんですね。僕が僕の作陶40年史を作る時、四耕会の歴史と同体で歩み出したんですから、その当時のメンバーの作品を探して印刷したらいいと思い、三浦さん、鈴木さんに協力してもらって探しました。しかし先方は世代替わりで行方不明、鈴木さんの作品も、初めの形はどこへやら、テラコッタ作品など正体不明の別物になっていて、意識の違いと世代の感性が寂しい結果となってました(注:持ち主に勝手に作品を削られたり、形を変えられたりしていた)。僕の40年史(『林康夫 作陶資料・年譜 前衛陶芸発生のころ:四耕会を中心として』、1987年)を刊行後にその時代を見直す動きがあって、旧作を集めた時、三浦さんは数年前に全部廃棄したと言いまして、もう少し早く手をつけてくれたら、すごい展覧会になったのにと悔やみました。もう少し辛抱してくれていたらと思いましたが、彼は諦めてしまったんですね。何1つ残さずです。和歌山近美に1点在るのが救いです。

坂上:せっかく作って形になっているのに、勝手に変えるとか。

林:作り手からしますと、心の寒い、寂しい話です。最初は感動があって、そのまま使われるんですが、次はわかりません。そんな事を考えた事も無い。作家としての精魂込めて純粋な気持ちで制作した作品です。1点1点。どれも信じられない有名華道家の表と裏。昭和20年代の混乱期だけの現象ではない。花は主、器は従の意識は拭えない心理なんでしょうか。中山文甫さんのところに行った僕の作品は幸運です。その他多くの時代の「傑作」が無知か傲慢のままに消えてしまいました。

坂上:その器は、ひとりの陶芸作家の手による作品だという意識が無かったということですね。

林:骨董は大事にするけどね。現代の作家の、あの一番厳しい再生の時代、混乱期に食に苦しみながら精神込めて作った作品がパーなんて。明日を夢見て展望の無い時代に、新しい文化を!と、熱気があったんです。先生方皆さんがそうだとは思いたくありませんが、あの頃のオブジェ花器の作品は残念な運命をたどったものが数多くあります。

坂上:四耕会は世界へも。

林: みんな頑張りました。四耕会は昭和24年から吉原(治良)さん、井上覚造さん(二科九室会)が応募全作品を審査されるというので、芦屋市展に出品したんです。そしたら毎年誰かが市長賞を受賞しました。風呂敷に包んで芦屋市精道小学校にね、戦後のまだ混乱期です。一回目の作品、僕の《群鳥》を市が買い上げてくれてね、「買ってくれた!」って。昭和25年に《人体》が市長賞二席、朝、通知が来た時は落選したかと思いましたが、それが僕の出品歴最初の「賞」です。祝賀会の時、井上覚さんが「林君、なんであれ売らへんねん」って。「そんな、売ろうとして値段つけてますけど、売れません」って笑ってました。そして四耕会展、日本陶芸展(注:パリ開催)の応募です。あの時、カンディンスキーの絵を奈良の法華寺に返却に行きました。京都駅から奈良電で西大寺で降りて、持ち難いから田んぼの畦にある竹竿を借りてね、それに吊るして前後で担いでね、暑い日に田んぼ道を返却に行きました。

坂上:宇野さんの知り合いの方が持ってたんですね。

奥村:法華寺さんが持っていたんですかね。

林:いや、法華寺さんに預けてあったみたいです。どなたかが。僕らは誰だか知りません。鈴木さんが知っていたかも。彼も知ってなかったのかな。

照子:大きかったで。

林:あれ大きかったよ。100号くらいあったんじゃないかな。とにかく大きな風呂敷(一反風呂敷)を2枚を前後でくくって。100はなかったかも知れないな。

坂上:何で《力士》を持って来てたんですか?

林:僕らは知らず宇野さんがみんな演出してイサム・ノグチの《力士》が並んだんです。宇野仁平さんのところにあったのを持って来られたんです。その時僕はイサム・ノグチに会っていません。会場に来られたらしいですが。どういう事になっていたのかよく分かりません。丸物展が済んで、パリ行きの日本陶芸展に応募です。全国公募です。

坂上:それはもう京都の人にも東京の人達もすべて陶芸をする人たちには……

林:全国公募です。京都の審査には73点出品で26点が入選。名古屋、東京を入れて77点をパリに。出品者は49人。

坂上:1人1、2点を。

林:僕らは1点ですが、偉い先生は、茶碗が4、5点並んでる。

坂上:それはその中(一般公募の中)から選ばれたわけじゃなくて。たくさんの中から選ばれたのが77点。

林:それは全部でですから、偉い先生方のは別口で決まってる。そんなこと僕らには分かりませんでした。ずっと後、2005年頃にスミソニアンの学芸員の人から、当時のチェルヌスキー美術館のカタログのコピーを貰って分かった事です。1952年の鎌倉近代美術館の帰国展に行っていたらもう少し事情がわかったんでしょうが。案内状は来ていたんですが、行けませんでした。生活状況からね。

坂上:座席というか、もともとある程度の作家やジャンルの振り分けは決まっていた?

林:初めにフランス側から注文があって、全国各派から必ず公平にということです。しかし名家、長老級は別口ということになりますな。カタログを見れば。

坂上:各派というのは。

林:いろんな傾向。

坂上:新しい人とか民芸とか、古くからやっている人とか。

林:大きな団体に固まらずに、マイノリティーからもと。フランスにもそういう弊害があるから、日本からもそういうことにならんように公平にどこからも集めてくるようにと。

坂上:日展と新匠工芸会とインディペンデントの作家と民芸と前衛陶芸、これは誰が選んだんですか。上の方の人が。

林:結局それはその小山(富士夫)さんが中心になって全国的に。向こうの要望を入れて、その頃、公式に名前の挙がっている団体はみんな集められたんです。それ位しか団体が無かった。他には(無かった)。

坂上:実際にそれでいろんな作品が集まって、選んだのが、小山さんとグルッセ(博士)。

林:グルッセさんは直接選んでいません。選んだのは副館長のエルセエフさん。

坂上:彼が、日本に来て1点1点見て選んで。

林:新聞に写真が掲載されています。審査しているところが。京都市美術館で。その時《ハイヒール》が入ったんです。

坂上:林さんは《ハイヒール》を出して。

林:《ハイヒール》と《人体》と両方出したんです。そしたらむしろを引いて、むしろの上に《ハイヒール》を置いた写真が新聞に掲載されてね。さきに言いました様に「こんな難しいもんよう梱包せん」ってことで。梱包の楽な《人体》に出品が変更になったと京博の学芸の方から聴きました。

坂上:ああ、日通さんが。

林:それで、「林君、あんたのは前衛(カテゴリー)だ」って話。ウワーって思いましたな。

坂上:一番年下ですね、林さん。

林:そう。その(展覧会冊子の)コピー持ってますよね?組織ごとに分けて名前が載っていて、作品タイトルがありますね。僕の友人がそれを見て、「林さんだけが(ジャンルが)figureだよ」って。他はみんな茶碗や器物ばかりです。その時フランスの評判を吉川逸治さんがまとめて書かれたのが『アール・オージュルデュイ(Art aujourd’hui)』誌に掲載の解説と展評です。当時は未だ敗戦国で、現代の作品だけを展示できない、と言う事で、パリにある浮世絵と一緒の展覧会になったんです。その雑誌の事は先にも言いましたが、その記事は日本の偉い陶芸家の人には気に入らないんです。(吉川さんが)帰国後、東京の某会場で、大勢の陶芸の長老の前に引きずりだされて吊るし上げられて閉口した、と話されて。陶芸の世界とは無縁になられたんです。

坂上:やっぱりそれ位、今もそうですけど、古い体質の人たちっていうのは権力を持って。

林:自分らのことは袖にされたっていうので怒っているわけでしょ。

坂上:まあ今と変わらないですね、陶芸の世界だけじゃなくてみんな。

林:そうそう。

坂上:政治とかでもそうですもんね。会社もそうだけど。

林:で、みんなその展覧会の事はなるべくどこも美術館がきちんと書かないようになった。僕の作品集の時、吉川さんに聞いたんです。そしたら「私があれから書かないから」っておっしゃって。

坂上:鎌倉の美術館でやった展覧会の記録も全然。帰国展の記録も無いからどういう反応だったのかもわからないですね。

林:東京のある美術館の館長に聞いたらね、あの頃は,お金がなくて。何も出来なかったって。

照子:あれあの、スミソニアンか? くれはったね。

林:スミソニアンの人が、あなたの名前も作品も印刷されていますから、これを進呈しますと言ってあのコピーを(展覧会冊子の)持って来られたんです。

照子:5年、もっと前かしら、持って来てくれはって。それしかないの。日本にもないし。

林:その時はもうひとりの日本人女性が同行してきて、東京の人が。「四耕会の事はこれから調べて書きたい」って言うので資料を揃えて渡しました。だけどそれから何も無し。スミソニアンは「イサム・ノグチが関わった日本人陶芸家」の展覧会を開催しました。そのカタログの中で、僕の作品《人体》と《ハイヒール》の作品を大きく掲載すると言うので、2点のポジを渡しました。しかし出来た物は走泥社礼賛。四耕会には極めて侮辱的な言葉遣いの文章が並んでいます。僕の作品写真等4×5のポジが、名刺サイズの、それも白黒です。どこかで四耕会は邪魔だから、叩き潰すことを目的にしているんだとしか取れないような扱いをされています。単にアメリカから見たという観点だけでない。どこか恣意的なものが濃厚に感じられるんです。しかしニューヨークの弁護士が動き出して。ヴィクトリア・アンド・アルバートの方にボールを投げてるから、どのようになるのか面白いと思います。

照子:本見てもらった?あの弁護士の。ルリーが書いて、出版した本。まだやね?

坂上:大きい本(『Fired with Passion』)。見ました。(四耕会と走泥社の作品を)比較してってやつですよね。

照子:ばちっと。誰が見てもわかるように。

坂上:やっぱりああいうところアメリカ人は。

林照子:やっぱり弁護士やしね。実証的にこれどうやって。有無を言わさない。やっぱりね。弁護士でしょ。訴訟の方をやってるから特に。

坂上:チェルヌスキーで、フランスで評判いいっていうのはやっぱり吉川さんの新聞記事を見たりとか。

林:それは美術雑誌の記事が元です。展覧会の様子を宇野さんに送られた手紙が新聞に掲載され、向こうが「日本の焼き物でこんなのが出て来た」って。「芸術的や」って前衛派を認めたんですね。(展評で取り上げた作品は)技術的やなしに。技術よりもアイデアというか、フォルムにおいて、造形性を追求するという、美術を取り上げたんです。(それに対しおしなべて)日本の焼き物は技術は確かやけど、固くなっていて、言うならばやわらかさとか精神のおもしろさとかそういうものには欠けてることを言うたわけでしょ。それを言われたからって腹立ててるんです。それがずっと今も続いていて。この間フランスが、パリで、日本の焼き物のオークションを開催したんですよ。すると国外で知られている人は売れたんです。それで味しめてか日本の現代陶芸をもっと売ろうと思ったんでしょう。で、いろんな人に呼びかけた。最初の何倍の人を集めたのか知りませんが、同じ条件でやったら、ぱたっと売れなくて、全然違うんです。こちらの人の陶芸観と、外国で通用する作品とはね。僕のは残らなくて良かったけど、追加したのが大半残って大失敗になったようです。以前、ここ(清水焼団地)からバロリス(ビエンナーレ)に団体賞を期待して、大勢まとまって出品したんです。僕は初め参加しないと言っていたのに、林さんが出してくれなかったらどうにもならんと。そこで団地内の下水の問題で僕のところは難儀な事があって、その修復を条件に同調しました。そしたら日展の審査員が落選して、(反対に)若い人が受賞したんです。そこで偉い人がここから電話で抗議するんですね。

坂上:何であんなやつが受かってって。

林:それでそこ(現地会場)へ見に行く時に、何月何日に展覧会を見に行くから20人程行くのに、その日だけでも(会場に落選した)審査員の作品を並べてくれって言うんですよ。

林照子:落ちた人の。

坂上:顔を立てるというか、

林:それでね、僕は、「そんなみっともないこと言うな」って言ったんですよ。

坂上:そうですよね。

林:でもなんとも思わん。並んだんでしょう。往生したらしい。向こうの人がね。

坂上:林さんの作品がフランスに行って売れたとか、売れるとか、誰か欲しいと言っていたとか、そういう話はなかったんですか。このチェルヌスキーの時に。

林:チェルヌスキーの時はね、宇野さんの作品を向こうの雑誌(アール・オージュルデュイ、Art aujourd’hui)の編集長が買い取ったんです。黄釉のこんなやつね。僕には何も。

坂上:大きいそろばんのみたいな。

林:しぶい黄色でね、いい味わいがいっぱいでね。フォルムが透徹してるからね。表面の味より全体の力がすごい良かったです。

坂上:大西さんの作品をピカソが欲しがったって。

林:そうそう。それはね。ちらっと聞いたんですけども。実現してないんだけどね。どこからその話が出たのかはわかりません。

坂上:大西さんは武蔵美のときは陶芸していなかったんですよね。

林:武蔵美のときは油絵ですね。

坂上:で、こっちに来て。

林:京都の上京区かに実家があったようで、こちらに帰った理由は知りません。陶磁器試験場の職員でした。絵付けのセクションです。そこで焼き物に接してね。あの人研究熱心やからあちこちやったんでしょう。その頃か、伊豆蔵さんも試験場の関係で知り合って。そこに浅見さんも試験場の繋がりで縁が出来たんでしょう。新しいグループを作る時に大西さん一生懸命になったんですよ。で、あの人が事務的なことをものすごくやる人で、試験場のガリ版使っていろいろ書いてくれたりしてくれてたんです。

坂上:四耕会の葉書を作ったりしたのも大西さんですか。

林:大西さん。全部大西さん。事務的な方の功労者。貴重な資料です。

坂上:そうなんですか。四耕会って書いてあって。何とか画廊とか。四耕会の冊子も。字もイラストも。

林:そうそう。四耕会第一回展の案内状のデザインは僕が受け持ったんです。

坂上:すごい人ですね。

林:ところがあの人が独立して花器屋として売り出して行くと、器はやっぱりどこかで宇野さんとぶつかるんです。お花の先生のところに行くでしょう。するとみんな宇野さんにぶつかるんです。言ってみれば、偉い先生のところは大抵宇野さんの作品があるんですな。

坂上:ああ、手広く宇野三吾の作品が。

林:それでぶつかって難しいことになって行くんでしょう。それでこんなんだったらやってたってしょうがない、という風にもう思って、撤退するんですね。食器を作ろうとはしないんです。で、(大西さんは)写真の方に行くんですね。写真のDP屋さんを始めるんです。丁度カラー写真がはやりだした頃、大きなDP屋は資本力でいい機械を備えるが、小さなDP屋には資本的に安価な機械しか買えないから、質的に太刀打ち出来ないと言うことで悩むんですよ。彼は。そこで絵描き心がむらむらと湧いて来て、アニメーションになるんです。アニメーションのごくごく初期にやりだすわけです。彼が日本のアニメーションの開拓者の一人でしょ。ね。その前に映画やり出して、すぐに、『明日を創る』を(注:林を対象とした陶芸のドキュメンタリー映画、大西金之助監督、1960年)。

坂上:画期的ですよね。あの頃の陶芸のああいう窯の映像とか、そういうのないですから。あの(映画に出ていた)バイク(のシーン)も面白いけど。

照子:よう撮っといてくれはった、あれ。あの人に会うてしゃべりたいんやけど。

坂上:私も一時期(大西)金之助さんを探したんですけど。

照子:探したでしょう。わからへんねえ。

坂上:難しい名前だからわかるかと思ったんですけどねえ。

林照子:甲高い声で、ようここへ来てしゃべってくれはってんけどね。

坂上:やっぱり写真を始めて、その前に四耕会がもうチェルヌスキー終わった頃から、なんとなく分解しはじめて。

林:チェルヌスキーの後は、(大西さんは)試験場を辞めて陶器屋として、陶芸家としてね。昭和25、6年頃独立されたと思います。道具を揃えてね。窯も割と広く場所を借りて、花器を作り始めたんです。うまく行くかに見えたんですが、先にも話しました様な事で。彼は目先が良く効くんですよ。で、「こんなことしててはあかん」ってね。それですぐにぱっと切り替えて。写真もこんなマイノリティーでは駄目だ。アニメーションもこま絵をたくさん描かねばならんから大変だ。手塚さんのアトムが頭にあってね、あとは商才がどこまであるかとかが影響するでしょうから、そちらの方に行くか行かないか、で悩んでいましたね。あの人の性格ではそれは無理だから。そこでまたやめるわけですよ。それで「これからはロシア語や」って、やりはじめたんですよ。

坂上:その頃から音信不通になってしまったんですよね。ロシアに行ってるかもしれないですね。

照子:そのたんびに奥さんが……

林:あの奥さんはすごいわ。

照子:ええ人やったわ。からっとしてね、スポーツマンみたいな人。

林:そうかといって情がないわけでもないしね。気持ちもやさしいし、よう気がつくし。

照子:あんな人いないわ。

林:文句も言わないしね。僕は向こうに写真頼んだりしても絶対そんな言わない。「はいはい」ってねえ。昔はぶつぶつ言ってたかもしれないけどね。

照子:あっさりした人で、ねちょっとしてはらへん。うちの人はこんなであんなで、なんて言いはらん

坂上:言いたいですよね、ころころ(変わるから)。

照子:言うでしょ、本当はちょっとくらいは。こんなんであんなんでって。どこで発散したはるんやろ。

林:いっぺんも聞いたことがない。

奥村:で、フランスに行って。それは、当時はフランスで注目されてるっていうのは、日本にいても伝わってきてたんですか。もう作品が行ってるだけでわからんかったんですか。

林:それはね、宇野さん宛の吉川さんの手紙が始まりです。手紙の内容を宇野さんが説明されて、(手紙はお宅で見せてもらった)あの毎日新聞に掲載された記事で知ったんです。宇野さんへは他にも手紙はあったようです。作品売買の件とか。ほとんど宇野さんを通じてですが、その後吉川さんが帰国されて、東山五条の陶磁器組合か、作家協会かの建物の2階でフランス展の報告会がありました。あとは『みづゑ』の誌上にリアルの彫刻家(注:高田博厚。雑誌のパリの特派員をしていた)が、前衛の陶器を厳しく批判した文章を書いていたもの。やはり衝撃はあったんでしょう。そして1951年に『アール・ド・オージュルデュイー』が輸入されて、内容がわかりだした位です。

奥村:昭和28年からろくろを……

林:僕の25歳の時に、父が五条坂の浅見さん方で(注:林の父の先輩で、親戚でもある)、小さな2階建ての小屋を借りました。かなり荒れていましたが、その一階の土間にやっとろくろを据えたんです。

坂上:抽象的な作品を作りながら家の箸置きとかお皿も。

林:そう。で、ろくろさわった途端に、「五寸の皿を作れ」って。父独特の(営業で)。

坂上:お父さんはろくろをやってなかったんですか。

林:僕以上に出来ない。やってなかった。私はまあしょうがないからね、ろくろも覚えようと思いました。で、大きな手回しが据わった途端、未だ何日も経っていないのに。僕は水引きのやり方を始めたばかり。湯のみや杯を10個として引いた事もない。皿など全く予想もしてないのに、「五寸皿」ですよ。平皿でエクボが付くんです。これ(手元の皿)これ位やったかな。「75枚注文取ってきたから引け」って言うんです。「え?そんな!まだ杯やら湯のみも作ったことないのに、数も」。それが五寸の皿75枚「次の窯に入れんならんさかいに」「待ってくれ」って。五寸のベタ皿は土がたくさんいるんですよ。土こしらえです。市販の土ではおもしろくないんでね。水引きの時は収縮を掛けた寸法になるのでね。さん板に5、6枚しか乗らないのですよ。自分で土から用意して、さて、ろくろ力任せに回してもうまく行きません。未経験でもやらなくてはならんのでね。腹は立つしむかつくし、涙がぽろぽろ土の上に落ちて。引くわけにいかんのですよ。生活がかかっているから必死でやりました。近くの仕事場のろくろ師さんの「引き方」を見に行って、左手の指の使い方を見て覚えるんですよ。すぐに役に立たなくてはね、こっちは切羽詰まってるんですから。あっちの人、こっちの人の技術をね、覚えました。

坂上:数日で。

林:窯の日は決まってるんですから。逆算して何日で水引きを終えて、となりますんでね、身を粉にして。

坂上:無事に納品出来た。

林:登り窯の時代です。あまり便利なものはありません。人力あるのみ。父の絵付けで、「もの」になってどうにか責をつくした感じでしたが、おかげで水引きが出来る様になりました。うちはことごとく荒療治、即戦力の綱渡り。

坂上:でも1950年に朝鮮戦争が始まって、特需のお金があちこちに行き渡り始めて、生活が良くなって。やっぱり注文も増えてきて、生活は。

林:支払いが良くなりましたね。

坂上:この間みたいに3ヶ月支払い待ってくれという事は無くなって。

林:少しは良くなりましたが、陶器屋さんはね、ちょっとの間だけなんです。景気が良いのは一番後から、不景気は一番早くに来てね。かわいそうな職業です。僕なんか逃げるところないから、しょうがないからやってたけど、他の陶器屋さんの次男三男。多忙な時は手伝って、悪くなったらみんなブルーカラーで、働きに行く。うちは輸出の仕事をやっていましたから一長一短ですが。

坂上:ああ、日雇い労働者みたいに。

林:そういう職種です。その頃。そういう事はその後も再度ありました。

奥村:その頃はまだ共同窯ですよね。

林:全部共同です。それで共同窯も先行き短くなったっていう情報でね。

坂上:先行きがというのは。

林:つまり登り窯が段々焚けなくなって。

奥村:公害問題で。

林:だからその準備をせないかんと。

坂上:それはもう1950年代にはもう。

林:僕が30になる前に、それに対する思考(註:研究)は進んでいて、電気窯を研究をしている人がそこここに成果を話していましたね。僕のところは場所が全然なくて、窯が築けないもんだから、方々の窯持ちさんにお願いして、お世話ばっかりかけていました。

坂上:だけどこの1960年の『明日を創る』の時は登り釜でやってましたね。

林:あれはまだいくらか余裕のあった頃で、タイミングは良かったんですね。僕の登り窯の最後の作品は1963年です。《顔》。これより後は公害の設備を施した窯しか焚けなかったと思います。違う地域では1つか2つの窯はあったかも知れませんが。63年以後は電気窯を三浦竹軒さん(注:美工時代の同級生)の電気炉を借りて、走泥社展などの作品を焼かせてもらったんです(注:林は1962年から走泥社に参加する)。一方、電気窯と重油窯が併用されていました。重油窯は近くの人が持っていて、還元炎のものを焼くのに借りたんですがね、なかなか思うように行かず、そこの家の方と一緒に美濃の方に見学に行きました。生産の規模が全然違っていて驚きました。京都はままごと遊びみたい。焼成の技術も格段の差があって、良い勉強になりました。行って良かったね。

坂上:もっと量産して出来る。

林:はしごがサヤ鉢の柱に立てかけてあるのかと思ったら、窯詰めしていると言う。倉庫かと見たらそれが窯。デカイんですね。窯の外側に直径70〜80センチの送風管が窯を取りまいて、還元焼成用(陶芸用語。なるべく窯の中に酸素が入らないようにして焼成すること)の装置だと言う。横に並列の窯は今還元がかかっていると言うので、上部の覗き穴から中を見ると、窯の中はウラウラと揺れているようで、サヤがそのままハッキリ見えるんですよ。嘘!って。いや、これで最高に還元がかかっている、って。脱帽です。京都では、登り窯の還元時の様子が概念にあって、煙が猛烈に吹き出さないと還元ではないと思い込んでいる。その間違い、何という事か、油と薪を同じ様に考えて過剰に放り込んでいたわけ。「京都の人は金持ちですやなあ、ええ重油をね」って皮肉られて。笑われて。2人して「えらいこっちゃなあ、ドラム缶1本なんていらん」。大笑いです。様々な問題点が解明できて、油の窯がわかったと思った頃。電気窯の還元焼成の技術が開発されて、そちらの方に態勢が移り出しました。(経済的で)油では音も相当なもので、とても深夜には無理。装置も大事になるので、一般的には普及しませんでした。特に京都ではね。電気窯は酸化焼成に都合が良く、還元も出来る事になって、加速度的に普及しましたよ。これは少しの空間があればいいんでね。

奥村:宇野さんが自分とこで登り窯を築かはったけど、最初に失敗しはったっていう話を鈴木さんから聞いた事があって。

林:詳しい事は知りません。場所は興正寺の境内と思う所で、「ここです」と宇野さんが話された記憶がありますが、いつ頃の事なんか。そんなところ(境内)に。

奥村:四耕会の話に戻ると。芦屋市展に出して。ゲンビ(注:現代美術懇談会)に入って行かれるんですね。あれもやっぱり、ゲンビが出来るそのものにも宇野さんが関わってはった。

林:ゲンビは大阪朝日新聞社の村松さんが言い出して、話が進んだ段階で体調を崩されて長期入院となり、確か森(泰?)さんが後を引き継がれました。あれはね、宇野さんと我々4、5人で何かで芦屋に行った時、吉原さんの家に宇野さんが我々を連れて行ったんです。宇野さんは二科に出品されていたという事からでしょう。親しい関係だったんでしょうから。家の前には吉原さんが指導されている若い人数人が見えていて、後に具体に参加した人達。吉原さんは会社もあって忙しいから、お出かけの前に家の前でちょっと会っただけでした。そこで、吉原さんが「おいお前さんたち、この人らは四耕会の猛者やで」って。立ち話です。具体の出来る何年も前です。宇野さん吉原さん世代では、それなりの話題があったのだと思いますね。当初中心になって話をされているのは吉原さんでした。年代的にはあの年代の先生方の研究会みたいで、若い者は初め大阪朝日のビルか?の頃にはそれなりに出席していましたが、追々出席は3、4人でした。ゲンビ展には大勢若手が参加しましたよ。

坂上:ああ、勉強会の時に。

林:「しっかりしいや」とかそんな話を。「はずかしいなあ」って。そこまで言われるとねえ。「まだそんなことしてへんのになあ」って。まあ、僕らは吉原さんの絵は二科の絵も見てね、宇野さんがそういう人の話をして紹介してくれるから、仲良うなれたらいいなと思ったんですけど、やっぱり距離感がね。

坂上:それは物理的な。

林:そう、京都と芦屋という関係とかね。それからやっぱり、四耕会の中でもオブジェ家と、美術家としての立ち位置をどうするかを迷ってる人がいました。宇野さんと鈴木さんの個人的な問題と、宇野さんと若い者との問題が交錯して、結局三浦さんが鈴木さんに同調し、仲良くなって退会しましたら、それに中西(美和)さんもついていったね。僕が同調しなかったので怒っていたらしい。

坂上:それは1955年ですね。

林:そして西宮に窯を作って、窯を開放して鈴木さんが中心になってやり出して。今の陶芸教室の走りみたいになったんです。

坂上:でももう、フランスのチェルヌスキーの展覧会が終わった1951年頃には、四耕会の活動というのは、半ば停止状態になる。それはどうしてですか。

林:それは会の内紛とかね。会員が地方に多くて、研究会も出来ず、花と絵とのコラボ展等だけで、ゲンビの会合でも他の誰も出ませんでした。せっかく会が出来て気持ちがまとまったと思っていたのに残念でした。それぞれの会員が自分の生活をどう維持するかが大きかったと思います。大抵の人が「花器」しか作っていなかった事がね。京都では僕一人で鈴木さんの後に土本(真澄)さんという、後にブラジルに行った若い人が宇野さんの弟子として入りましたが、その頃はまだ戦力にはね。京都府のギャラリーでの四耕会展が京都で最後です(注:1955年7月)。この時には4人京都の会員が退会して寂しかったですが、地方会員が頑張っていましたので、展覧会としてはまずまずでした。

坂上:宇野さんの家はまだサロンみたいだったんですか。それともだんだん。

林:その頃からは、閑散としていましたね。奥さんがある時、僕の顔を横目で見ながらね、「ええ人みんな辞めはったし……」なんてね。残ったのは…………みたいで。

坂上:もう情熱が薄らいでいた……

林:そう。あともう、宇野さん自身が迷い出していたみたい。方向を。

坂上:そういう人がいたらやっぱりみんな気持ちが離れて行ってしまいますね。

林:もう求心力もありませんし。仕様がないです。宇野さんも自分の将来とか、仕事の発表の場を考えないといけないから、それで工芸会の話が出て来るんですよ。

坂上:それを言われたときはショックでしたよね。

林:ショックですよ。いよいよやっぱりあっちに行かはるんかって。それはねえ、伏線というかね。独立(美術協会)の人でね、絵画の人と一緒の時に、宇野さんの仕事が話題になったんです。絵の人はね、宇野さんの作風というのは何かというかね、あれやっぱり古いんや、と言うんです。

奥村:伝統工芸。

林:ええ。あの、独立の人が言うにはね。僕は、「それは言い過ぎや」と言ったんです。「そんなん違う」って。そしたらやっぱり日本(新匠工芸のこと)工芸会の話が出てきたんですよ。「やっぱりあの人らの言うたはったのは本当だったんだな」って。(新匠→伝統工芸に変更すると意味が通じなくなるがのでそのままにしたい)
**宇野さんは新匠工芸を意にしてなかった**(新匠工芸のこと)は無くていいと思う
坂上:どこかで古い体質にも頼って。

林:陶器の立ち位置を絶対に崩さないと言う。それが考えてみたら、走泥社の人も一緒なんです。彼等3人(注:八木一夫、鈴木治、山田光)はゲンビには参加しないんです。現代美術懇談会にも、陶芸をテーマの時だけ出席しただけで、その他のいろんな問題をテーマに、津高さんや吉原さん、植木茂さん、森田子龍さんとかが討論される会合に出席した事がない。走泥社の人は。あの津高さんの架空通信展の発起人の中に鈴木治の名前があるけれども、一回も出品した事が無いし。行った事もない。うん。あの人達は自分の立ち位置がこの中だけの話なんです。ここから出たオブジェという意識はないんです。この中だけのオブジェという。陶磁協会の中だけの話なんです。

坂上:もっと広く、芸術っていう枠組みの中で新しいものを創ろうという創造の意識ではなくって。

林:うん。僕にはそう見えた。五条の窯で、窯詰めの時にいろいろ話した時に、「ああ、そうやなあ」って思った時もありましたし。「なんで工芸会に行かないのかあ」という気になったんです。

坂上:でもあの人たちは走泥社。

林:それは四耕会を意識しての、(四耕会が)あっての話みたいなところがあって。こちらの方が早くオブジェを作って、こういう表現が出来るってことを知らしめた。そしたら言葉は不適切かもしれないけど、あれいける、みたいに(向こうには)映ったのでしょう。

坂上:走泥社自体が、年月を重ねるに従って権威になっていったという事実がある。

林:四耕会はもう空中分解して消えてしまったんだから、もう心配しなくていい。やってないんだから。

坂上:空中分解した原因というのは距離があった、年齢の差もあった。

林:問題はたくさんあったと思いますね。最初から要素が多過ぎた。時代がまだ混乱期で、情熱だけが先走ったような。しかし僕はかなり石を投げかけたと思っています。走泥社は京都の人間だけが京都で集まって強固に。

坂上:もともと血が濃ければ離れられない率も高いというか。

林:四耕会の方は、いろんな要素を持った人間が多かったがために。ある人が言うには、「四耕会からは人間国宝が出とるねえ」って(笑)。卯一ちゃん(笑)。そういう事を書く人がいます。記事によっては。「林みたいに飛び出した人もおるで」とかね。

坂上:クオリティも高かった。人間国宝になるような人がそこに目をつけてたよ、みたいな見方もできますね。

林:グループ活動というのは昔は5年から10年と言われていました。わーっと集まってかーっとやって、何か掴んだらもうええやないかと。小さいグループはそういうもんですわ。京都ではそういうグループが戦後いくつもあった。鉄鶏会とか何とか、みんなわーっと集まってかーっとやって、それぞれの方向を見つけて。それぞれになっているでしょ。グループの功罪というかね。

坂上:やっぱりそこに権威があるから。

林:うーん。

坂上:でも結局四耕会は空中分解して、林さんは。

林:僕は宇野さんが部長扱いとか課長扱いとかいうことで、日本工芸会の話になったので、もう辞めようと思って。

坂上:辞表みたいなのを出したんですか。

林:いえ、口上で、辞めますと言うて。「お世話になりました。私はオブジェを作りたいので」って言って。

坂上:本来はそういうものを作る会だったのに。

林:日本工芸会についてこい、みたいなことを言う。誰もついてこんって!(笑)。それじゃついて行かないよね。課長だったらあれで部長だったらええ、っていうのもおかしな話で。工芸会に行かれて、安心されたんでしょうな。

坂上:林さんはひとりの独立した作家となってサトウ画廊で展覧会(1958年3月10日〜15日)するっていうのは誰かがサトウ画廊を紹介……

林:これはね、東京の小原会館の編集部にいた人に、「東京で個展するんやったらやっぱりあの辺に前衛の画廊があるから」って事で紹介して貰ったのがサトウ画廊。東京の最初の個展はここで、会場が2階なんです。1階の入口から2階まで階段に1枚1枚こんな陶板を、DMの陶板を作って目につきやすい様に階段の縦板に懸けておいたんです。最終日には無くなっていました。

坂上:みんな持って行っちゃうんですか。

林:ええ、みんな持って帰ってしまう。最終日頃には一枚しか残ってなくて。

坂上:サトウ画廊でやって。後はどういう。

林:サトウ画廊と後は養精堂画廊で2回。

奥村:山田さんも養精堂画廊で個展してはりましたね。光さん。

林:やってましたかな。養精堂もねえ、あれも小原の人の紹介。見に行ったら流(正之)さんの彫刻展がありました。

坂上:なんか、そういう画廊で展覧会して、おもしろかった事とかありますか。広がったなあとか。

林:あまり広がらなかったような気もしますけどね。ただね、いろんな人が見えて、いろんな人の話が聞けました。一番感銘を受けたのは、江川和彦という評論家の人に会って。いろいろ神妙な話を聞いて。これから続けようという意識を保てたというか。あそこは版画の画廊ですからね。陶板の大きいのを並べて、立体は2、3点。オブジェ花器です。陶板1点画廊さんが買ってくれて。後はあちこちにお世話になった方にあげました。その時の陶板1点だけ残っています。江川さんは小柄な方で、いろんなところに書いてられて。「あなたはようここまで来ましたねえ」って言わはった。他には行動(美術協会)の村井さん、版画の品川工さんとか知り合いましたね。

坂上:陶芸の人でね、そういう風にジャンルを問わないところでやるとか、そういう事っていうのは。

林:少なかった様に思います。それはさびしかったですよ。夕方までね、人があまり来ないんです。2階の大きな窓から下を見てますと、夕方銀座のお姉さん方がうろうろし出すわけですよ。灯がつきだしたらね。1日3人とか5人とか。お花の知り合いの人とか。昔の海軍の人がたまに来るとか位で。寂しい展覧会でした。3回目の年の春に、交通事故にあってね。病院から断りの手紙を出して、それで終りになりました。その年の秋に松葉杖をついて歩いていたら、八木さんが「一緒にやろうやないか」と話かけて来たので、いろいろ様々に考えて、走泥社に入る事になったんです。

坂上:いつでしたっけ。

林:1962年ですね。

坂上:その前に寺尾(恍示)さんが「前衛陶芸の灯火が消えそうだから」って。(注:寺尾は当時「前衛陶芸をやっていてもどうしてもつぶされてしまう。大同団結しないと何されるかわからんぞ!」と若い前衛作家に声をかけて回っていた。)

林:そうそう。その頃、前衛はね、ものすごい圧力がかかってね。

坂上:それは旧来のそういう……

林:いろんなとこです。ひしひしと感じるんですよ。

坂上:お皿作ったり壺作ったり、伝統工芸的な人たちからも。

林:何やらよくわからないんですが。とにかく前衛は危機にひんしてるという感じなんですよ。バラバラでは潰されるって感じです。とにかく彼は一生懸命、川上(力三)さんのところに説得に行きましたね。そんなのね、言われんでもわかるんですよ。で、「みんなでまとまらないかんぞ」って僕から寺尾君に言うたくらいやから。で、彼は血の気が多い方だから、若い人のところにわーっと行ったんですね。僕はそんなの別に言わんでも集まる人は集まるやろうし、やめる人はやめるやろうし。声かけたところで本人の判断にまかせるしかないんだから、ちょうど時期も時期やし一緒にまとまった方がいいと思った。僕はもっと大きい意味で団結しようとその頃思ったんだけど、それぞれなのか、走泥社の考えはちょっと違った。あれっていう気がした。僕と入れ替わりに叶敏さんが辞めたんです。いろんな話題がありましたね。

坂上:もうすでに1962年の段階で走泥社というのはかなり大きな。

林:少し大きくなっていた。まだそれ程じゃないけど。

坂上:私たちが知っている程ではない。

林:ちょっとなりかけ。その前に藤本能道さんに会いたかったんですが、縁がなくてこの人には話の機会はないまま。「もういいわ」と思いました。「俺はオブジェを作るんだ」、という事で、1、2回、走泥社風を作るんですね。あの土味の(表面が)がさがさしたやつ。、そしたら面白いなあと言う人が数人いたんだけど、僕は何か違うあなという気がしてね。あっ、と思ってね。これしたらあかん、と思って、作風を方向転換した。そしてその時に、そういう風にしようと思うきっかけになった作品はここにある作品。まだ四耕会の時に作った。これはもちろん花器なんやけど、こう、造形的に組み合わせて。あれは半分お酒で酔った勢いで作ったんです。飲んで帰って来て何か知らないけどこんなもの作っとかんとあかん、と思ってね。ふらふらで作ったんですよ。会場で「あ、コレ違う、」と思ったんですから。で、これ式の立体を出すようになった。それからずっと続くんですね。1980年の手前まで。それが抽象化した作品に変って行った。赤土は(赤合わせ土)土も良くておもしろかったんです。

坂上:《ホットケーキ》とか。(註:この作品は1973年カナダの国際陶芸展でグランプリ)

林:ええ。何かいろいろこうやっているうちに展開して行って、ファエンツァがあったり(注:国際陶芸展の開催地。(註:林は1972年に最初のグランプリを受賞。国際陶芸展1972年のグランプリはFace他)。ファエンツァはここ(山科)へ来られたから出来たんですよ。

坂上:その前に(ここに)引越して来たんですか。

林:そうそう。ファエンツァの前にここに来てなかったら、出来てなかったと思う。45日しかなかったんだから。

坂上:提出というか。

林:通知をもらって、七条の日通の倉庫の搬入日まで45日しかなかったんです。だから前の家にいてたら間に合わなかったと思う。出来ても(出品必要点数の)5点は無理で、ここに来ていたんで、夜更かしなんぼしてもええということで、安心感があって。一気呵成に。

坂上:ファエンツァのそういう公募展って、好きに出していいよ、という通知って誰から来るんですか。

林:あれはねえ、あの時は前の年に、1971年にコミッショナー制っていうのがあって乾(由明)さんが7人の作家を選んで出してるんですよ。それが72年の年はコミッショナー制が廃止になったんです。何か東京の美術家から「どっかのビエンナーレになんで日本だけがコミッショナー制で作家を選別するのはけしからん」っていう説が出て来て。それで「よその国はそんなことしないのに何で日本だけはそうなんや」って文句が出て。それで乾さんからこんな通知が来て、コミッショナー制が無くなってこんなこんなで自由に出品していいですよ、どうぞ、って来たわけですよ。それを見てから集荷の日まで45日。「へえー!よしー!そんならいってやろうかー!」って思ってだーっと作ったんです。それでも1点足らんのですよ。足りないのは出来合いの作品に釉掛けして間に合わせました。釉が掛かってないとダメなんです。条件としてね。そして5点。5点出して5点入選した中からしか賞の大賞にならないと言う。半身像、等身大なら1点でも良いと。そんなの今からやっても難しいってんで、とにかくいつものやつで行こうと5点出しました。グランプリ穫れるとかそんなの全然ないし、とにかく出すべしというだけですよ。ものすごいお金かかったんですもん。運賃が。その頃運賃5点で36万。いくらかかるか考えずに出せやというのでね。でもきつかったよ。後で聞いた話、里中(英人)さん。東京の、小さいのから順番に並んだ作品。あれ、公式にはね、110万だって言うんです。日通が。そんなお金ないって言うたら、70万余にしてくれたって。それでも70万。

奥村:出品だけで。

林:はあ。

坂上:それだったらもう飛行機に乗って行っちゃった方がいいですよね。5点持って。機内の荷物に持って。

林:それで、36万払って。そしたら思いがけず、乾さんから電話があって、「林さんあなたの作品がグランプリです」。聞いた時はそんなに感激もなく、「ああそうか、おおきに」位でした。賞金は125万リラ。それを知り合いの人が計算して、「林さん、えらいことでっせ。1500万円くらいだ!」って。「うそーっ」って。「えらいこっちゃ」と「うっそー」が入り交じって。結局実際もらったのは62万2、3000円かな。その頃はドルと円と2回交換料を引かれていますので。授賞式の後、僕のグランプリの賞状が行方不明になって一騒ぎになったんですが、夜遅く、日本文化会館の館長の車から出て来てホッとして。ファエンツァではツアーでの寄り道だったので、賞金を受け取らずに目的地へ合流を急いだんです。

坂上:まあ言ったら林さんの陶芸生活の中で、ほとんど初めて日の目をみたような感じですね。

林:言ったらフランス展からずっと、時々展覧会への招待状あって出品した事はあったけど、日本陶芸展入選とか、だけど父がどういうのかなあ、「鳴かず飛ばずで何やっとんねん」って言うわけですやん。僕が30前です。怒っていましたね。「いつまでも文学青年みたいな真似しおって」って言ってました。僕の仕事場なんて無いし、随分とね、しんどかった、確かに。迷ってた。

坂上:誰も認めないというわけじゃないけど、ものすごくスターになるわけじゃないのに、自分の身銭を切って作品を作って行くという事に対して厳しい視線というのは。

林:でも自分で決めてこれはやらねばと決めていたから、とにかく結婚したら女房もまあ「やれやれ」言ってくれるからありがたかったんで。

坂上:ファエンツァで認められてやっぱり。

林:ファエンツァでね、ホテルに着いて早速会場に行きました。会場までの街は、清潔な格調ある道筋で、イタリアらしいきれいな看板があり、直ぐ分かりました。会場の建物の前の広場に国旗掲揚台があり、3本の旗がはためいてました。その真ん中に日の丸が翻っていて、「ああ、これは僕が立てたんだ」と大きな喜びで見上げましてね、会場に入ったんです。そしたらそこでね、予想もしないものすごい怖い事を知りました。展覧会事務局長マラビーニさんに会って、こんにちはの次に彼が問うにはね、「あなたはいつから陶芸の仕事をしていますか?」ってね。つまらん事を聞くもんだなあと思ったんです。平井(智)さんの通訳です。そしたら、あなたの情報は日本から送られて来る中に、どこを探しても見つからない。大学を出て2、3年の実績のない人から長老級の人まで、たくさん来ていますが、あなたのはありません。当時、僕は25年陶器を作って来たのに。走泥社のメンバーであったのに。僕は日本の国には存在しない者とされていたんです。存在しない者が突然現れてグランプリを獲得した。前年のコミッショナーが選んで送り出して来た人達も取れなかったのに。彼は大変驚いていました。幽霊が現れて。まさに人権侵害。17歳で国の為に特攻を志願までしたのに。今真面目に一生懸命陶器を作っている人間を、どうして存在を否定するのか。あの日は暑い日でしたが、背筋がぞおーっとしました。誰が何の権力で、僕どんな悪い事をしたのか、僕が陶芸の世界にいてはいけない理由は何なのか。生涯忘れられない事です。その後どうと言って、何も変わらへんです。

坂上:でもうれしいですよね。

林:うれしいね。それはうれしかった。だけど作品を買ってくれる人は現れへん。学校に行っていたから助かったんです。

奥村:1968年に大阪芸大の(先生に)。

林:はい。これは五条坂の仕事場に鈴木治さんから電話があって、「浪速芸術大学(後の大阪芸術大学)の方に今度話があるんやけど、手伝うてくれへんか」言うてね。その頃朝日の村松(寛)さんが大学の重要な仕事をなさっていて、新年度欠員が出来るとかで、鈴木さんに後任の依頼があったんです。鈴木さんはそれは1人では無理だと言う事で、僕に手伝うてくれとなったんです。その頃、貧困の最中やから、給料はいくらか知らんけどありがたい話やと即答したように思います。2人で天王寺に行き、村松さんに合流して、あっち向きの電車に乗って、「遠いなあ。生駒ももう見えへんで」って言って。(笑)。「えらいとこきたもんやなあ」って。「こんなとこ来たことないなあ」って。「こんなとこに来るんか」って(笑)。

坂上:ここから通ったんですか。

林:そうそう。鈴木さんと一緒に。3時間超えたんです。「東京より遠いで」とか言って。うん。それでまあ行き出して、しばらく(通勤に)3時間は超えていたんですね。で、おいおいと向こうの方の交通の便が良くなってきて、3時間以内になってきてね。うん。それで最初の給料は3万2-3000円位でね。助教授でそんなん。京芸の先生(先輩)に「あほか」って言われて。ようそんなんで行くなあ。(笑)。

坂上:でもその時だけですよね。やっぱりいくらなんでも。

林:せやけどなあ。日本でも下から2番目位に安い大学ちゅうわけで。それでまあ労働組合がカッカカッカやってるんです。うん。でもこっちはそんな労働組合でカッカカッカやっとる力あらへん(笑)。ここに借金払わないかんし。学校は3日、1日だけでいいと言われたってそういうわけにはいかん。僕は短大と芸大の兼任。鈴木さんは芸大専任でした。あの時、津高(和一)さんが「おい林君」「何ですか」「毎月なあ、銀行にお金が入ってるってことはありがたいなあ」そういう風な。「こんなの今まで無かった」って。安いけど、今までと違って毎月入っとる(笑)。結構ですわ。あの人もよっぽどうれしかったんでしょう。

奥村:津高先生はねえ、そうでしょう。

林:私今度、津高さんについて文章書かなあかんねん(注:2011年の「架空通信展」、西宮市大谷記念美術館)。それ書こうと思って。

奥村:今度。

林:フフフ。

坂上:学生の大学闘争みたいなのはありましたか。

林:ありました。ありました。

坂上:やっぱり大阪芸大も激しかったんですよね。

林:僕が行ったときは組合の方が激しくて。しばらくして学生が激しくなったんですよ。ちょっと間あるんです。うちの研究室におる人が、旗ふりの3強の1人だったんです。だからうちの研究室は学校からにらまれて全然。設備はもう棚上げやったんです。金工の方なんかと比較にならん。ひどいもんでした。

坂上:陶芸科は全然ですか。

林:はあ。全然設備無いんですよ。陶芸科。行ったって何も無いんです。鈴木さんが最初こんな窯ではあかんと、電気窯をとにかく入れ直したんです。普通の電気窯を。最初のはね、菓子焼く窯。

坂上:お菓子?

林:クッキー(笑)。

奥村:そ、それは、オーブンじゃあございませんか。

林:そんなようなもので。窯の格好してるけど、全然。よくこんなんで4年もやっていたなと呆れたり、驚いたり。前任者は理事長側とどのような話で始まったのかわかりませんが、とても陶芸科としての設備にはなっていなかったんです。それを軌道に乗せる役割りが陶芸家としての我々教員にあったんです。理事長側は陶芸の仕事の具体的な設備について、詳しい事は何も知りませんでした。芸大の責任者だったSさんは、「俺はもう学校は勤めないで辞める」って言って。1年で引いて。そしたら京芸の先生に(いつの間にかなってる)!

一同:(爆笑)。

林:「何これー!」って。驚きました。それで(自分は)芸大専任になったんです。そしたらいつからか柳原(睦夫)が来ていて、例の旗ふりさんの直の先輩だから抑止にいいだろうと、村松さんが呼んだと言うんです。ところが何の役にも立たず裏目に出て。アメリカに行ってしまって1年の筈が2年ですよ。帰国してなかなか落ち着けなかったのかどうしてか芸大に戻ってきました。難しい話がありまして復帰しました。真相は僕だけが知っている事です。

坂上:でも、大阪芸大って日野田(崇)さんとか、上田(順平)君もそうだけど、(若い)おもしろい学生が(出てきてる)。

林:おります。日野田君は学部の時から際立っていましたね。

坂上:やっぱり一生懸命教えたというか。

林:僕は31年間一生懸命やりました。

坂上:上田君なんかすごく根性つけられたって。

林:上田君は学部の時会ってないんです。少し(後)の事で、大学院ができたから。研究室も陶研からかなり離れた所に移転した為に疎遠になりました。彼が卒制で何をしたかも知らなくてね。僕が学生に大分きつい事を言うから、冷たいって。冷たいって事になってるんです。冷たい奴やって。そんなこと学生言ってますわ。

坂上:そうですか? みんな根性をつけられたとか、すごい厳しかったから勉強になったとか。

林:そうですか。そう思ってくれてたらありがたいけど。やっぱりきつい事言われたら、厳しいだけで冷たいことになるんですな。芸大に行ってしばらくして、藤岡了一さん(中国赤絵の研究者)が教授の1人として来られました。そして「林君、学生には厳しくやってください!」って言われたんです。その前からやっていたから、「やってます」ってね。

坂上:その時は(先生の厳しさが大切な事は)わからないですからね。後でわかってくる。

林:それはね、時々そういうふうに言ってくれる人がありました。全然わからなくて。あの時は何を言ってるのかと思ったけど、ずーっと焼き物をやっていてわかりました。あの時の話はこうやったんやなあっていうのが今ね。ちょいちょいあります。だからまあ、気持ちを分かってくれてる人がいたらいいんですよ。最初大阪芸大に行った時に村松さんが、10年に1人、作家になる人がいたらもう御の字なんやって言うて。10年に1人やないなあっていうくらいに作家が出てきました。崎山(隆之)君なんかね。アメリカのメトロポリタンのメインポスターになった。ヨーロッパでもね。セーブルのポスター(『日本陶芸・前衛と伝統展』、2006年)とカタログの表紙になった。

坂上:作品が《ホットケーキ》みたいになって、世界で認められて、世界で活躍の場が広がって。こういうふうになる、今の作品のきっかけになることってあったんですか。

林:1972年にイタリア、73年カナダ、74年フランスとグランプリを貰ったけれど、国内的(陶芸的)には何も変わったことはなかったですね(注:1972年第30回ファエンツァ国際陶芸展グランプリ、1973年カルガリー国際陶芸展グランプリ、1974年第4回バロリス・ビエンナーレ・グランプリ・ド・ヌール賞、1985年には第1回オビドス・ビエンナーレグランプリと海外で4つのグランプリを受賞)。75年に芸大の記念(創立30年)で学長から何か作れ、と言って仕事を依頼されたのが最大の出来事です。それも慌ただしくてね。今聞いてすぐにかからなければ到底期日に間に合わん。大学の上層部で話が決まった様でした。これは外国の受賞のおかげでした。この時代は赤土の作品でしたが、1980年頃から赤土の人体系抽象がマンネリ化してきたんで、根本的に考えを見直して、素のかたちとしてキューブをもとに据えました。そして四角いカタチを紙の上に描く時、実線と点線で斜めに据えて描くとわかりやすいですよね。それを土で実体として作ろう、それはどうしたら出来るかということからフォーカスシリーズが始まったんです。これは俯瞰図のようになるんですが、マイナス空間に白線を入れるとプラスの空間になることがわかりました。そこに。サーッと現れたんですが、あの忘れもしない命がけの夜間飛行作業での経験ですわ。前機の尾灯と農家の灯りが2つ並んでしばらく動かない。ややあって1つが動くんです。それが前機でなく違った方向に行くのについて行く。錯視空間です。闇夜の中の計り知れない空間。時には360度上下なく暗黒の空間です。怖さなど消えて魔の空間に引き込まれて行くような。あれが蘇るようでした。他の作品では出て来なかったのにね。それで黒地をベースにしているんですよ。視点、視角などやっているうちにアイデアが次々と湧いてきましてね。芸大がとても忙しくなってきた頃でした。遅くに帰宅しても苦にならず、制作が出来ましてね。どこか学生の為の教材を作っている感じもしたんですが、これはやらねばならぬ事だと考えて楽しい時期でしたよ。84年のファエンツァの第2回マエストロ展の招待状が届きました。この時はね、京都新聞が大きく取り上げて紹介してくれました。グランプリの時などどこの新聞も小さいもんでしたが。やっとそれらしく扱ってもらえた!って気がしたもんです。そのマエストロ展のカタログに必要な写真(ポジ)を至急送れとイタリアから通知があったんです。プロのカメラマンを探してる時間は無いし、芸大の写真機売店で一眼レフ機の推奨機種を買いましてね。素人写真を我流で写して送りました。それが4人のプロ写真家の写真に交じってカタログになったんです。キャノンニューF1。それでカメラの視点と人間の視点をこもごもに、作品の視点定めの為に行ったり来たりを繰り返して、フォーカスです。87年にポルトガルの第1回オビドス・ビエンナーレの招待状が届きました。ハンガリーのケチケメート国際陶芸実験工房からも招かれていたので、忙しかったけれどね、嬉しかったですよ。オビドスは外国人20人、国内20人を委員会が選定して、その中からグランプリを1点選ぶ。その他の賞は無し、という方法でした。この時はヨーロッパの知人作家も選ばれて出品していましたが、僕に決まりうれしかったですね。ポルトガルの新聞は数社が大きく掲載していました。ファエンツァのマエストロ展からヨーロッパでの個展ができて、それが「数学とセラミックス」展に繋がりましたね。作品集の発表1ヶ月前に、全然知らないドイツの数学者から手紙が届きました。「国際数学学会にあわせて『数学とセラミックス』展を企画しています。「あなたの作品はこの展覧会の趣旨にフィットすると思いますので参加しませんか」と言うんです。これはまた別の意味でとても嬉しかったですよ。小学生の時数学の出来が悪いとよく叱られましたからね。数学者が言うには、「我々は数字で遠近を証明できる。しかし実体の陶器作品でここまでやったのを見た事がない!」と言ってね。「2、3日眠れなかった!」って。売れるのとは別次元の喜びに興奮しましたね。感激でした。ドイツはベルリンの工科大学の数学教授(夫妻)。あっちに行ったら小学校の先生に報告します。よいお土産が出来ました。ハッハッハ。

坂上:まったくジャンルの違う人に。

林:そうです。違う人に。数学の先生が興味を持ってくれたのはね、ゲンビの研究会で、科学と芸術が交差するかというテーマがありました。津高さんたちが喧々諤々やっててね。それはどこかでプラスするはずだっていう。その結論はあったんです。

坂上:だけど具体例っていうのは。

林:その頃はどこに具体例があるかよくわからなかったけれど。今では建築や映像等にはたくさんあるでしょう。僕の作品が多少なりともそういった角度で数学者の目にとまって「びっくりさせた」ことは、作品の要素をよく理解してくれたんですが、同じ学会に日本の数学者が何人出席または参加されたか知りませんが、誰1人興味を持たれた人はいなかったのではと思いますね。どこか視野が違っているんでしょう。何も反応は来ませんからね。それから僕の作品についてね、このシリーズの作品に、高橋亨さんが「幻視の舞台美術」と評されたことがあります。言い得て妙だと思いました。すっかり気に入っていましたらね、僕の作品集の表紙を見たフランスのオペラの指揮者が現れました。家に来て、お能の話ばかりしていたのが急にね、「作品のポジ(4×5)を貸してください」と言い出してね。「何するねん?」って聞いたらね、オペラの舞台美術に使いたいって言うんですよ。どうしてと思ったらコンピューターに画像を移してそれを拡大して、その前でオペラを演ずると言うんですよ。「それはおもしろいなあ、そしたら貸してやるわ」って。意気に感じて。それが実際に実現して、カンヌとニースの大きな劇場でやったんですよ。「ああ、こういう風に使うんか」って。おもしろかってね。こういう使い方。お金使わんとうまいこと使いよるなあって(笑)。うん。その分衣装は一応時代を映していた様です。それは今日本でもどこかで使ってますな。映像を使って舞台をちょっと位は経費を削減して。その指揮者の狙いは、僕の作品が持つ幻想感が気に入って、舞台の背景に使ったんです。テーマは「牡丹亭」(注:明代の戯曲「牡丹亭還魂記」からの翻案)。3回目(カンヌ)が一番良かったという評で、最終の幕で僕はカーテンコールで花束をもらいましたよ。あのカンヌの舞台でですよ。こんな経験またとないでしょうな。ポスターには「舞台装置」林康夫と印刷されています。不思議な体験をしました。高橋さんの言う「幻視の舞台装置」が実現したんです。高橋さんはこんな事を想定されたかどうか、たぶん想定されていないと思うんですがね。世の中グローバル化して、京都の街をどこの国のどんな人か、何を求めて歩いているか。やりたい事を一生懸命やっていたら、どこかで誰かが見ているんだなという事のひとつの証でしょうと思ってね。若い人に希望を捨てずに、疎外されようと何であろうと、自分の信ずるままにやりきれば良いのです、と言っているんですよ。誰も偉い人が介在せず、権威者の世話になって出来たことではないんでね。とても嬉しく思っています。僕の作品の中に科学性と精神性(情緒)が内蔵されている事が認められたんでしょう。2つの劇場とも満員で盛会。フランスの南東部地方には、音楽のイベントを開催する時、小学生を参加させねばならない、という条例があるんだそうです。子供達が舞台に上がって早くからオペラに親しむ。フランスらしいと感じました。

坂上:フランスで賞も取って、学校の先生もして。私から見ればある程度の地位を獲得したという段階で、改めて四耕会についてまとめられたじゃないですか、奥様と。それはどういう気持ちで。

林:これはね、戦後、戦後僕たちが仲間(四耕会)と混乱の真っただ中から、明日を夢見て何か新しい息吹を上げなければと、立ち上がって活動を開始した。その事が幸運にもフランスで認められました。しかし、国内のしかるべき立場の人を信じて、あった事はあった事として、事実は記載され評価されるものと思っていました。が、それは期待はずれで、むしろ邪魔者扱いの様にされてきた。フランス政府の要請で実現した1950年の現代日本陶芸展が、そんなものは無かったかの様な視点で、後から出てきた者が創始者扱いになる。この不条理な現実に対してね、知らない人に知ってもらいたい。せめてあった事はあった事として、事実を記録しておきたい、って思いました。それは僕が陶芸家として制作活動をはじめたグループ(四耕会)の発足と重なるからなんですよ。普通に真面目にやっているのに、どこかの都合で勝手に消されるなんてひどい話でね。時々精神的支援者が現れては励まされてきたのでね。いつか見直してもらえたらいい。それは何年先かわかりませんが、という思いで資料だけをとにかく集めたんです。協力して頂いたすべての人に感謝しています。家内がしんどい事なのによくやってくれました。先にも話して重なるようですが、戦争中己を滅して国の為にあんな年齢でね、15歳、17歳で特攻でしょう。あの緊張感がパッと無くなって、一時はね、魂の抜け殻みたいな時期があったんですよ。僕にもね。その頃新聞はよく「特攻くずれ」の悪行を紙面で叩いていました。故郷に帰ったら、家も両親も家族は誰もいない人がいましたよ。僕の同級生に。戦友です。気の毒で可哀想でね。そんな人の気持ちを考えたら、すさんだ生活をとがめられますか?それを真似るのが横行したんですね。僕は家も両親もあって幸運でした。しかし「特攻」ゆえの肩身の狭さを感じましてね。こういう背景で戦後の人生を生きた証としての記録でもあるという……

坂上:愚連隊。

林:うん。それがね、行ってなくても特攻くずれを語る。

坂上:何かそれも悲しいですね。

林:アメリカのベトナム帰りと一緒。おんなじことですよ。一生懸命国の為にやっていた人が帰って来たら、ね。まああの人らはアメリカやからまだ実家ありますがな。日本の復員兵は、家も両親も失った人が大勢います。ちょっと違うかもしれんけれどね。こっちのほうがよっぽど可哀想。でも荒れた真似する亜流の特攻くずれが。悪さして。よく新聞に記事になってね。特攻くずれ特攻くずれって。僕も同じ風に思われるんちゃうやろうか、と思ったりして、特攻なんて言わんとこうと。

坂上:悲しい。

林:それを何で覆したらええかって、焼き物やる事になったんだからね。陶芸で文化的な事をやらないかんなって。もとは日本画の絵描きになりたかったんだから。初めはそんな前衛でどうしようこうしようって無かったんですよ。日本画の時は何も感じなかった事ですが、陶器の立場で本を読むと芸術に第一と第二があると言うんですな。陶器は第二芸術。それは何?ってことからね、陶器も第一に見てもらいたい。それにはどうすればいいのか、って事からね。基本的に在野志向もあって。父の生き方なんかも大きかったと思います。昭和27年頃、関東の人で日展の会員の方が父に勧誘に来られたことがありました。日展に出しなさい、ってね。何とかお世話します、って。しかし出しませんでした。そやからこれは必然の道やったんです。父が亡くなる3月程前にね、やっと父が、「お前はお前の仕事をした」と言いました。それはまあ認めたというか安心したんかな、という気がしましたね。ファエンツァのグランプリ取ったとか報告しても「フン」って。それだけです。何もなし、一言も言わない。「お前、これお祝いや」というのも何もない。その後の時も「フン」って。それだけ。僕もそれで十分ですから、それでいいんです。ごちゃごちゃ言うたらかえっていやらしい。そういう親でしたからね。父も自分の腕に自信を持っていたから、「あれにも負けん、これにも負けん」って思っていたわけですよ。いっぱいファンがおるんです。僕が知らん間に。

坂上:私も。沐雨さんの展覧会、終わった後に見て、欲しいって思って聞きましたよね。そしたらほとんど売り切れてしまっていて。もう無いんですね。

林:何年か前にね、京芸の院の卒展に行ったんです。うちに来た事がある子から案内状を貰ったんでね。そしたら会場にね、耳に補聴器(をした)おじいさんがね、こっちもじいさんやけど、その人がね、ある学生の作品。青磁の作品をずらーっと並べているその子の前でね、「お前さんなあ、昔なあ、林沐雨さんっていう人がおってなあ」。僕びっくりして。偶然ですね。「それはなあ、隅々まで神経が行き届いて。あんたらそういう人がいはってんで。こんなあんたずるずるしたらあかん!」って(笑)。

坂上:沐雨さんの作品はきゅっと、中に宇宙がきゅっとなってる感じなの。他の人にはないきゅっという感じ。

林:それでそのおじいさんがこんこんと言ってるの。私出て行く幕があらへんねん。

坂上:「息子です」って。

林:言えなくて。その人はそのまま帰られて。僕はその人と話はしなかった。そこで院生4、5人と会ってね、知ってる学生もいて。「今の話のなあ、僕はせがれや」って。「ひえー」って。(笑)。「そうですか」ってな話で。そういう人がおるんですな。世の中に。大芸にもね。東大を定年退官して大阪芸大に来た先生。いつの間にか父と仲が良かったんですよ。全然知らなかった。その先生が、清水坂の陶磁器会館で父について聞いたんですね、会いたいからと。「そんなこと言ってもなあ、あの人は偏屈やで、会わやしまへんで、けんもほろろです」って話をされたって。そしたら会ったらようしゃべってくれた、って。「何やこの!」って思ったって(笑)。何かそんなんでしたけどな。まあ偏屈は偏屈です。せやから仕事したんだと思っています。

奥村:作品の話を飛ばしちゃってるんですけど。前衛的な作品に取り組み出されてから、ずっとベースにキュビスムとか幾何学的に捉え直して形を作っていくという。

林:四耕会で作品を作り出して、抽象化する事を知ってから、見るもの見るものすべてが形に見え、形になったんです。初期の頃は《鳥》であり《貝》であり《人体》(注:残っていない)などね。手当たり次第の感じでした。その辺りで宇野さんが、「お前の作品には直線がない」という話があったんです。そこで目についたのが直弧文です。それとキュービスム。陶器で形を作るんであれば立体なんだから、立体の強さがないのではおもしろくない。で、あるならばキュービスムの勉強をやろうと考えたんです。一番先に目に飛び込んだのはね、ザッキンの《ロッテルダムの廃墟に立つ》という立体派の「人体」作品。天を支えるような形、人体を立体風に削いでね。強烈な印象でした。もちろん写真です。一方、京博が近かったんでね、よく通いました。埴輪の部屋です。3世紀から5世紀のものに素晴らしいのがあって、特に5世紀の岡山の出土品が興味深くてね。ある時、小さなロクロの上にピカソ、ブラックなどのキュービスムの絵と、直弧文の図を乗せて回転させるとね、直弧文の方はダイナミックに外へ広がって行くんです。キュービスムの絵は小さくしかまわらない。これはおもしろいぞ、と思いましたね。情感の強いフォービスム的な作風は共感を得やすいんですが、しっかりした骨組みを掴もうと思ってね。直線と弧(曲線)による構築、これを土(陶)で肉付けする。これが僕の仕事のベースになりました。ある時アンジェイ・ワイダ(注:ポーランドの映画監督、1987年京都賞受賞)と園田高弘(注:音楽家)がNHKのTV対談で話していましたでしょ。「芸術は情感だけではダメです。音楽も映画も数的要素が必要です。そこに普遍性が生まれる」って。陶芸も同じだと思います。僕は21歳の時にそう決めたんです。間違ってなかったんだと。戦後の建築は直線ばかりでした。しかし万博あたりからでしょうか、建築も直線と弧(曲線)の構築になって、近ごろはそんなかたちが多く見られるじゃないですか。直弧文から派生した建築と言ってもよさそうなね。アール・ヌーヴォーとは違った弧の強さを生かしたっていう。日本の3世紀にあるんですからね。20世紀に出て来たもんとはね。これはどこで生まれたのか。インド、中国にも起源になるものは見つからない.多くの人が研究をしているんですが、確定したものはまだない。まだこれだというのを知りません。石棺や埴輪に刻まれていますんでね。中国か韓国かと思うんですが、よくわからない。でもまあ僕の造形の基礎にあるのは直弧文です。作品によってはあったり無かったりしていますけれども。数学とオペラの件でちょっと喜んだ時、彫刻の四面性を問われた事がありましたね。立体としては重要な問いと思いましたんで。錯視空間(闇夜の三次元)は未だやる事がある思いながらね。六面体に取り組んだんです。平面思考と立体思考を重ねるのは同じでも、形が違うとまたいろいろ出てきましてね。最近は少々華飾が過ぎてね。そう思いませんか?(笑)。

奥村:いや、もうそれは1960年代くらいには赤土でポップな見かけ。で、1970年代。それで1980年代からあの錯視的な。一方から見ると平面だけど、一方から見ると立体という。そういう仕事になって。そこからまた立体的な存在で。それでやってきて。華飾がすぎるかどうかはわかりませんが。基本は直弧文。

林:それでやっているうちに、決まった形から問題が出てくるんですね。ちょっとずつ。その問題いくつかあるはずなんです。だけれども、あれこれやりながら結局「好きな」方向に決めてきたんです。その蔭で見過ごしているかもしれない、気がつかなかったのかもしれないって事はあったでしょう。これはおもしろいという事でこつこつ来ているんですね。その都度、作品が問題を突きつけてきます。「あ、」とか「これ」とか試行錯誤の連続でどこかの路地に入っているかも知れませんが、大きな意味で内蔵しています。

坂上:この間の地震の時のあの作品(目の前に置いてある)が色がつかないまま、そのままになってるっていうのはすごく。

林:いやあ、あんなんね、もう仕事出来ませんがな。この家が津波で無くなるという事は無いと思うけど。これがずーっと潰れるんだと。自分も助かるか助からんかわからないぞと思ったら、ああ、うわー、ってね。もう大変です。それでその日一日そればっかり。もうこれは手をつけまいと。次の日ちょっと我にかえって、やっぱし出さないかん、って。もうこの仕事やめようかと思ったけども、会期があるし、出品者だし。これはこういう風にしようと思ったんだからやろうと。

坂上:あの時は私も悩みました。こんなことやってて、って。いいのかなあって。

林:ねえ。僕は復員の時、広島を通過して帰った時に、あの風景見ているし。爆撃で悲惨な光景の街もたくさん知っています。身近では飛行場で亡くなった人達。いろんな姿が頭に入っていますがな。それが戦後の日本の経済復興のおかげで何かしらこう浮ついた感じが目についてしょうがないですよ。うん。だから僕らの同じ世代仲間では、「もう1回1945年8月15日がこないと、この国は助からんのやないか。覚醒せんのちゃうか。」いう位の感じを持っていたわけですよ。それが東北で起こったもののこっち側は何ともないんだから、そこまで行くかどうかはわからへん。東北だけが戦後の感じですがな。(戦後は)あれが全国的やった。今はその他は裕福で格差が目について、当時の気分とは大分違うけど、どこか似たものがある。戦後は5年程で朝鮮戦争が起こり、朝鮮特需でお金が日本に落ちて復興が早まって、生き延びられたっちゅう事でしょ。あれは非常に大きかったと思います。朝鮮戦争は神風みたいなものですよ。別の形の。僕は昭和22年頃、箸置き作ってても停電するんですからね。毎日夕食の後30分は停電するんですよ。停電するからって寝ていたら時間が足りないんでね。ろうそく立てて、鯨油の灯りも足して(3、4カ所)仕事しました。時には45分位の事もあったんです。ろうそくで思い出しますが、リアルな彫刻家の先生、山本格二さんからいい事を教わりました。「ろうそくでこうして形を見るもんや」って。なるほどなあ。こういう影のところはね、表面はしっかり見えるんですよ。「影で見えないところはみんな手を抜いてる」っていうお話で。それはこうするんだって事で。「ろうそくでずーっとやったらすぐわかる」ってね。赤土の頃はよくやりました。

坂上:でこぼこも見えて。

林:うん。作品の事については、山本格二さんとと植木茂さん。大阪のフォルム画廊でね。誰がやったか、有名な彫刻家の作品の解説を植木さんがされたんです。その時の負の空間の解説が勉強になったんですよ。くぼみは膨らみに見える。それがこの白い線のYの字を描いたらこっち出てくる。あれやって。

坂上:夜間飛行の(夜間飛行からインスピレーションを得た作品)は。

林:それはこれよりも前のね、白い線の(作品を)する前の段階で。黒地にしたのは夜間飛行の空間意識からなんでね。(闇夜の3次元)錯視感の造形化は赤土での仕事の末期に手がけたんですが、《FOCUS’83-3》(1983年)が始まりとなりますな。その意味では。僕が特攻に入ったから夜間飛行は出来たんですけど。もし命が惜しいからって特攻に入らなかったら、夜間飛行は全然体験出来なかったわけで。何が幸いするかはわかりませんな。帰ってから、生かしてもらったんだから、何か仕事をしなくてはと思いました。この間、痛切にそれを思ってね。去年の10月25日に佐伯で。ああ、ここで8月15日にあのラジオを聞いたなあ、って。65年振りでした。本隊の築城に行ったが寝るところがないんです。そこで下宿で泊めてもらってね。下宿の親父さんは権田の町長さんでした。早稲田を出た人です。帰る時、「あんた達はいっぺん死んだんだから、死んだつもりでやりなさい」って話で。「はい」って。僕は何回かそういう人に会ってね。この(銅像の)人は坂本繁二郎。この人は、50年の、つまりはフランスの日本陶芸展で僕がいくらか認められていたよ、っていう事を新聞社の人が説明したんでしょうね。それで八女郡の山の中からわざわざ博多まで出て来て。3階の講堂まで上がって丁寧に僕らの展覧会を見て下さったんです。眼光がするどくてね。

坂上:1951年ですね。(注:10月7日〜11日 陶芸展 場所:西日本新聞社福岡本社(3階) 後援:西日本新聞社 出品者:林康夫、三浦省吾 特別出品:宇野三吾 坂本繁二郎、海老原喜之助が展覧会に訪れ芳名。)

林:51年の10月にね。着物で、ことこと上がってきはってね。坊主頭で。こんなちっちゃい信玄袋みたいなのを持ってね。それで目つきが、「これは普通の人と全然違うぞ」と言って三浦さんとしゃべっていて。

坂上:海老原喜之助さんと一緒にいらしたんですか。

林:別々で。それぞれ別々に。いろんな人が見えてね、大変うれしかったんです。坂本さんはずーっとひとまわりされて向こうで(入口の芳名録に)サインされたんです。(僕達は)こちらで見ててね。で、帰られたら「サイン見に行こう」って見に行ってね。そしたら読めんのですわ。さらさらっと書いてあってね。「難しいな」って。そしたら「お、これは繁二郎やぞ」「繁二郎が読めたならこれは坂本やぞ」ってね。そこで慌てて階段を飛び降りて行った。それで玄関を出られたところで追いついて、挨拶したら、「良い仕事やから頑張りなさい」って、言われて。ただ「頑張りなさい」じゃなくて、「良い仕事」がついてるから。はあ。もう雲の上の人ですがな。その頃ね。そして、講堂、上へ上がったんです。その直後に事業部長が出先から帰られて、その話を下で聞いたんですね。それでサインを確認したんですよ。坂本繁二郎って書いてあるから。「これはえらいこっちゃ」って言うわけです。「お前さんたちは大変だぞ」って。こっちは大変な事がどんな事かよくわからない。そしたらな。「この人は西日本新聞社が企画した、揮毫の会とか寄付やら何かの会に必ず来る人です。来ることは来るけど一回も書いたことがない。サインも、絵も字も。席に座って時間がくるまでそこに座ったまま。(時間が)来たら帰らはる、何も残ってへん。ところがお前らの展覧会に名前が書いてある!ありがたいことやで」って言われて。「ははー」って。

坂上:見てくれる人は見てくれるんですね。どんな状況でも。

林:ああ。だからそれがもう私の精神的な柱です。これはね、たまたま博多の人(注:佐賀高専の教授)が何かのご縁で見えた時。僕が西日本新聞での坂本さんの話をしたら、坂本さんの銅像の除幕式に行った時にメダルを貰ったんだけど、「それは私が持っているよりあなたが持っていた方が価値が違うなあ」って言ってね。作品と交換したんです。それから坂本さんの拓本なんかもね。ちょうどこんな顔ですよ。この時の。こんな感じのままで。

坂上:ああ、お会いした時もこんな。着物着て。こんな。

林:そうそう、こんな感じ。で、下駄はいて、ことこと。

坂上:3階まで下駄はいてきたなんてすごいですね。

林:ああ。これはだいぶやさしいけども、目つきがな。かーっとしてる。

坂上:これはただ者ではないという感じ。

林:それは、人生経験の少ない僕らでもわかる。

坂上:戦争をくぐりぬけた林さんでも。

林:これは違う。百姓さん違うなあって。普通に見たら農家のおじいさんです。こんな布のねえ、ぶら下げて。下駄でしょ。なんぼ。坊主頭だしね。地味な服、着物ですがな。これはどこかの農家のおじいさんが来たとかいう風采に見えたんです。せやけど、目ん玉だけは違う。これは違うと思った。そやから飛んで行って、名前を探って。

坂上:須田国太郎さんにしてもやっぱりそういう目上の、かなり目上の人が発破かけてくれてというか、応援してくれて。恵まれたというか。

林照子:そうですね。

坂上:どこかでそういう風な人が。

林照子:きっかけ作ってくれはってねえ。

林:それですね、一生懸命本を読めと言われてね。読み出したんですが、忙がしゅうて読む時間ない。毎日毎日夜通しで仕事だし。だから、一時は、カミュの本2、3冊読み出したんやけど、3冊目くらいでやめました。プルーストも中途半端。

林:小学校から中学校に行く時に3つの選択肢があって、日本画か、彫刻か、陶器のろくろの学校か、があったんですよね。前にも言いましたように。それで一番嫌いな陶器屋になったんでしょ。絶対陶器だけはやりたくなかったんですよね。でも戦争から帰ったらね、選択の余地無し。あそこで頭の切り替えをして、しゃあないなあ、って思って。だからというか、最近は結局立体と絵画と両方兼ねて作品の中に入ってるんかなあ。それが焼き物で。だから3つ全部が一緒になったようなものになって来たという風に。焼き物自体にそんな要素がありますがな。作るというのじゃなしに、そういうことになりますやん。

奥村:スケッチしたりとかされます。

林:多少はしますね。赤土の時代はマケットを作って、カタチを考えたんです。今はそれはしません。一面性の前面をどうするか考えていたら、舞台美術の場に繋がった。何らかのテーマを持てばまだまだやることになるでしょうが、今はそちらに行こうとは思わないんです。

奥村:前衛陶芸っていうのを僕らは簡単に言ってしまいますけど、一からされたんですから。

林:私は果たしてこれは前衛かなっていう(笑)。

奥村:まあ言葉は言葉としてね。でも、やっぱりこれだけ作ってこられたものが今見たらあるから評価できるなって思うんですけど。最初の一点がつくられて、《人体》つくられて、《ハイヒール》があって。やっぱりとんとんと出来てきたやつを見て、その時点で評価できたかって言われたら、それはやっぱり見る方も無理やったかなあという気はします。

林:やっぱりねえ、見る人はそんな研究はしていない気はします。評論家の先生でもね。焼き物で誰もしてないんだから。大方そうです。しかしね、油彩の在野の人達は早くから支持してくれていました。とにかく前例がないものは嫌うんですな。第二芸術から抜け出せない。

坂上:邪道って思われた人も。

林:邪道だって。がらくた扱いですがな。五条坂の仕事場でも窯でもね。オブジェでもないんですよ、器でもね、口が一枚の土でなく太い袋状になっていると、通りがけの人は「おもしろいですね」って。しかし業者は全然。「がらくた」って。それ、本人に聞こえてるんですよ(笑)。窯ではね、「あ、傑作が並んでる」って、慇懃無礼。こういう冷やかしや侮辱はよくありましたな。「ああ、またか」ってことです。何年かして言わなくなるとね、「もう言わないんか」って、寂しい感じ。しかし静かになったら質が悪くなりましたよ。

坂上:どうしても自分の考えている以上の何かが出てくると、それはわからないっていうのは仕方がないことなのかもしれないですけどね。

林:それは仕方が無いですね。みんなはずっと時代が進んでからやっと理解されて「ああそうか」って理解する人もいて、ちゃんと説明する人もいて、すると、理解されてくるという。それはいいんです。あった事を恣意的に消却しようとした。これがね。どうも。

坂上:美術に携わる者として、そういう風な事はいけないなっていつも思いますけどね。疑問がある作品ほど大事にしないといけないというのは、ずっと教わってきてるし。それはいつも思ってます。自分がわからないものを否定するっていうのは、駄目な人だと。

林:それはやっぱりそれだけ時間が経って、教育の仕方に対する検証っていうか、そういう風に進んで来て幅を持ってきたんでしょう。世の中はものすごくグローバル化しているのに、教育の面では非常にこう縦割りでこう、細くて矮小化された部分があって広がらないというか。

坂上:あとやっぱり年取ると、前は良くないなと思ってたものが良く見えたり。変わって来るじゃないですか。そういう時に前は良くないと思ったけどいいなあと思ったら、それはそれでやっぱり否定するんじゃなくって、受け入れるというか、自分の中に。それはすごく必要じゃないかと思います。難しいですけどね。自分がぼろくそに言っていたものを受け入れるというのは。自分でも、私でも素直になれないから。

林:それは仕方がないけど、素直に戻って。素直に謝って(笑)。私が狭かったんだというだけの話だから。それが出来たら上々ですがな。

坂上:今はそれを受け入れるというのはすごく自分の見方を認める事になるから、大事な事だなと思う。今日はすごく満足です。

林:こんなんでよろしいんかいな。

奥村:充分ですよ!