文字サイズ : < <  
 

平田実オーラル・ヒストリー 2015年7月19日

東京都練馬区、自宅にて
インタヴュアー:池上裕子、細谷修平
書き起こし:居村匠
公開日:2017年4月2日
 

池上:今日もよろしくお願いいたします。前回お聞きし忘れてしまったことがありました。フリーのカメラマンとして活躍されていた頃、「タンス拝見」のシリーズについて前回お聞きして、その時に桂ゆきさんのところにも行かれたということですが。

平田:桂さんはね、確か弟さんかな、桂英澄っていましたね。桂家ですからね。埼玉のあそこでは有名な方でしてね。確か弟さんが桂英澄って、太宰さんの弟子なんですよ。お話した、太宰系統の人が集まった小さな出版社。

細谷:それは繊研(注:日本繊維経済研究所)ですか。

平田:いやいや、『健康の友』。それをやっていましたもんでね。確か弟じゃなかったかな。絵を描いてて桂ゆきだって言うから、「桂ゆきの絵が好きだから撮りにいかせてください」って言ったら、新宿にゆきさんのお家がありましてね。花がいっぱいあって、そこに撮りにいったんですよ。

細谷:それは桂家のお家ですか。

平田:実家が埼玉の浦和で、桂家の邸宅が有名で。

細谷:ゆきさんおひとりのお住まいで。

平田:おひとりでした。そこに伺って話をお聞きして、絵を見せてもらったりね。ずいぶん撮りましたよ。

細谷:『健康の友』で美術家を撮ったのは、桂さんくらいですか。

平田:そうですね。美術家だけじゃなくて、とくに編集者の皆さんは太宰さんの弟子でしょ、文学者が多かった。それから有名な政治家とか、初めてノーベル賞もらった人とかね。

細谷:湯川秀樹さん。

平田:そう、湯川さん。湯川さんの取材もそこで。簡単にできるんですよ。というのも皆さん、文学の世界と出版社で力をもった作家たちだったから。太宰さんの愛弟子ですからね。そういう取材がたやすくできたんですよ、小さな出版社のくせしてね。他の大きな出版社と対等に、好きな方の取材ができましてね。その時に、湯川さんにもお会いしたのね。あの時確か中山書店が湯川さんの伝記を作ってて(湯川秀樹 編『人間と科学』、1956年、中山書店)、そのインタビューを私がおこなって、速記で湯川さんのお話とりにいったりしたもんですけどね。

細谷:やっぱりその時は速記を使って。役立つんですね。

平田:おかしいんだけど、速記者がいやでやめたくせにね(笑)。

細谷:もうそれは技術ですからね。一人で行って写真も全部やるんですよね。

平田:そう。写真と速記ができたから。ただ、インタビューは出版社の中山三郎平さんって社長が一緒だったと思うんですね。対談を私が速記取って、写真撮ってね。そういうことがあったもんですから、政治家だけじゃなくて時の有名な芸能人の方も「タンス拝見」で。

細谷:それはその後の繊研で。

平田:繊研です。

細谷:徳富蘇峰とかは『健康の友』。いわゆる有名人で。

平田:他の絵描きと同じように、いろんな方を知ってましたもんで。たまたま弟さん、英澄がいたんですよ。「桂ゆきを取材するなら紹介するよ」って言うから、「ああ、行きますいきます」と言ってね。それで行ったんですよ。

細谷:実際、お会いしてみていかがでしたか。

平田:すごくどっしりした方でね。だけど花が好きで。いい方でした。その頃、美術界では有名だったけど、まだ一般にはそれほどじゃなかったけどね。ほんとに静かで、いい方でね。しかも力強い目をもっていてね。弟が文学者だから、文学についても薀蓄が深くてね。とても人間的にどっしりした女性でした。またいい絵を描いてね。岡本太郎の絵に似た絵を描いてましたね。

細谷:桂ゆきさんのアトリエを撮ってますね。

平田:アトリエとお住まいと一緒です。お庭があって、花がきれいに。彼女は花が好きですからね。いい方でしたよ。

細谷:こないだ1964年の東京オリンピックまでお話を聞いたので、きょうはその先の1960年代後半辺りからいこうと思ってまして。

池上:前回、ハイレッド・センターのお話をけっこう詳しく伺ったので、今回はもうひとつのグループ、ゼロ次元の写真もたくさん撮られてますので、加藤(好弘)さんとの出会いについて、まずお聞きしていいですか。

平田:いいですよ。

池上:加藤さんが、1964年に東京に出てこられると思うんですが。その時にお会いされた。

平田:加藤さんとは、皆さんとお会いしたちょっと後かな。時間がはっきりしないけど、その当時ですよ。

池上:写真集を見せていただきながら、進めたいと思います。

細谷:ただこの写真集(『ゼロ次元−加藤好弘と60年代』、2006年、河出書房新社)は後のものなんで、初期の発表では、『推理ストーリー』(「俺たちの次元 都会人のど肝を抜いた奇行集」、1965年3月1日号)に平田さんが出してるものがあります。そこには内科画廊での「エロス博物館」(「博物館計画第1次予告展・スイートホーム展 加藤好弘個展」、1964年11月9日-11月14日)も掲載されています。この掲載が65年なんです。

平田:加藤さんとお会いしたのはもっと前だ。

細谷:加藤さんが東京に出てくるのが1964年の頭なんですよ。

平田:その時だ。

細谷:1964年の後半で、もう平田さんは撮ってるんです。この『推理ストーリー』には「パンティ行進」(「銀座パンティ行進」1964年12月、東京・銀座)も掲載されています。それから「エロス博物館」は内科画廊ですね。

平田:それから目黒のお風呂(「正装服のまま入浴儀式」、1964年12月、東京・目黒の銭湯)、あれが最初だと思いますよ、確か。来いと言われて、飛んでって撮ったのが初めのころだと思ったな。

池上:この時期、11月、12月にいろいろしておられますよね。

平田:一斉に東京で始めだした時に、風呂場はごく最初です。だから私以外に風呂場はあんまり撮ってないんじゃないかな。

細谷:いまのところ発見されてるのは平田さんの写真だけですね。

平田:その後で新聞かなんかで騒ぎたてたもんですからね。

池上:最初に加藤さんと会われたのは、1964年のもっと前半。どういうお話をされましたか。

平田:新聞に出てたんですよ。おかしな、狂気集団とかね。

細谷:それは名古屋の活動が新聞に出てたんですかね。

平田:確かね。それで東京に来るっていうから、ぜひ会ってみたいと思ってね(笑)。そしたら誰かの連絡で、向こうから「これこれやるんで来てください」って言うんで、行って。最初はお風呂かな。いろいろ撮ったもんでね、風呂場以外に。最初の頃でしたね。あの頃、急に東京へ出てきたからね。

細谷:ものすごい勢いでやってるんですよ。「これがゼロ次元だ」って。

平田:それで、私が一番に写真を撮りにいったわけだ。他の新聞社の連中は、ただ狂気集団だとかスキャンダル的な見方しかしないからね。私はなんか気に食わなくて、そういう報道の仕方がね。加藤さんには直に会って意味を知りたいし、やってることを見たかったから、飛びついてすぐ行ったんですよ。

細谷:実際に会われて、写真をファインダー越しに撮られて、ゼロ次元にはどういう印象を。

平田:最初はね、私は前衛美術的な視野じゃない感覚を、わっと得たんだ。これはね、私はいろんな写真を撮ったでしょ、男と女の愛情とか。だからゼロ次元を見た時に、なにか彼自身の女性に対する個人的なオマージュみたいなものを変なかたちで出してるんだよ。しかもそれを出すとね、男の儚さ、みっともなさ、悲哀みたいなものを、私は前衛美術的な視野じゃなくて個人的に男と女の関係、愛情ってものを狙っていたから、彼が裸になって芋虫ごろごろってやってんの見たらね、ああこれは男の悲しみだなと思って、興味を持った。ゼロ次元の、芸術的な匂いのする行動よりかは、私は彼自身の男の悲しさみたいな。私の感情よ、これはね。それを写真ですごくシャッター切ったね。

池上:おもしろい。

細谷:人間性みたいなところで。

平田:だから違った意味で、加藤好弘をその時に見たわけよ。彼らが真っ裸になって芋虫ごろごろってやってるのを見たらね、私は男の悲しみっていうのをほんとに感じて、これはすごいなって思ったんだよね。あの写真は好きなんですよ。みんなつながってやってるでしょ。

池上:こちらですかね。つながってますね(「全裸尻蔵界儀式」、1965年11月10日、K神社・東京)。

平田:これは前から撮ったけど、後ろ姿があるんですよ。これに出てますけどね。

池上:巫女さんがいらして、その前で。

平田:これこれ、これが最初ですよ(「全裸尻蔵界儀式」の写真をよく見て)。この時に、加藤好弘個人の人間像というものに、むしろ私は惹かれて撮った写真、これはね。だから、この写真は好きなんです。なんか男の悲しみあるでしょ。

池上:それはなにか意外と本質を突いた理解かなという気がしますけど(笑)。あんまりそういう風には言われてないんですよね、一般的にはね。だけど、腑に落ちる感じがします。

平田:みんな、加藤好弘はひとつのプロパガンダ的なね。

細谷:アジテーターですよね。

平田:そう見ているけども、私は最初会った時に、この男は男としての悲しみとか男と女の愛情とかを直に体現してんだなあと思ったの。

細谷:東京だと加藤さんが中心的な役割を担ってましたけど、集団としてのゼロ次元というか、他のメンバーの方とは。

平田:名古屋の岩田(信市)さんが、私の見るところでは、ゼロ次元としてリーダー的な動きをしていました。東京に加藤氏が出てきたから、マスコミはゼロ次元=加藤と取り上げたと思うんだけど、私は名古屋の彼の存在をすごく感じてました。あの人は加藤氏とはまた違った性格だから。あんまりガタガタ言わないけれども、ゼロ次元そのものの思想は彼がしっかり持ってましたからね。

池上:平田さんが理解するゼロ次元の思想というのは、分かりやすく言うとどういうものでしたか。

平田:これは難しいねえ。分かりやすく言えるかな。加藤さんは芸術的な意識を非常に持ってますよね。だけど行為としてやったという、行為自体がすごいと思った。よくやるなあと思ってね。もともと美術家ですよ。そういう芸術家が、あの頃はもうすこし後でアンダーグラウンドがはやったけれども、アトリエにこもってタブローの世界で芸術家として仕事をするということではない世界をね、初めてエネルギッシュにやった男だなと思ってびっくりしたんだ。すげえなと思ったんだよね。私は賛同というかな、やれやれと思っていたよね。社会状況がいろいろあったでしょ。その中で彼はうわあっとやったからね。芸術家でこうやってアクションでやるっていうのは、新鮮に思えたし、いいなと思ったんだよな。しかもたくさんの、ひとりだけじゃなくて、集団でやったってことが、これは頭がいいなと思ってね。彼はそういう力があったんだよ。会社の社長だったからね。

細谷:明星電気の社長ですからね。

平田:社員をみんなやらせちゃってさ。それですげえなと思ったね。

細谷:目黒の銭湯のこととか覚えてたりしますか。

平田:時期はまったくこんがらがっちゃってるけど、銭湯も呼ばれてね。行って、なかなかフォトジェニックな場面でおもしれえなあと思ってね、一緒に楽しんじゃったよな。この前にみんなで入ったんですよ、衣装を着たまま。これなんかはすごく楽しかった。初めてこういう風景を実際に体験できたし、目の前でやってたからね。いいなあと思ってね。

細谷:こういうある種のパフォーマンスと、例えばハイレッド・センターの清掃行動なんかでは、平田さんの中ではどういった違いがあるんですかね。集団として行為をするというところの違いっていうのは。

平田:これはもうはっきりしてますね。ハイレッド・センターは、皆さん大きな声で言う人たちじゃないんですよね。リーダーシップも誰がもってんだか分からないくらい、みんな和気あいあいと静かなジェントルマンばっかりでね(笑)。

池上:ゼロ次元はジェントルマンじゃないかのようですけど(笑)。

平田:まったく加藤さんとは違った世界の芸術家ですよね。確か、いつも電話くれたのは赤瀬川さんかな。赤瀬川さんとはどこで最初に出会ったんだか。とにかく高円寺か阿佐ヶ谷の居酒屋であったのがきっかけでね。いろいろやってるから見にこないかと言われて、ヴァン(映画科学)研究所も赤瀬川さんのお話で訪ねたんだよね。あの時、赤瀬川さんいたかな。

細谷:写ってます。ギュウちゃんと。

平田:中西さんは来なかったんだ。中西さんは、いつもあんまり集団に来ないんですよ。

細谷:その集団としてこういうことをするっていうのでね、みんな若いというのもあって和気あいあいとはすると思うんだけど、違いみたいなものが、平田さんから見てどうだったのかなと。

平田:まったく違います。加藤さんの過激な行動ですね、彼は文学的に、江戸のええじゃないかみたいなもんでね。

細谷:土着的な。

平田:そうそう。そういうものを現代にもってきてという面でね、見ていたんだけれど。ハイレッド・センターはまったく違うんですよ。非常にジェントルマンシップというのかな。こういうことをやりますからいらっしゃいませんかと言うから、なにするんだと思って行ったらね、すごくスマートなんだよなあ。ああよく考えてるなと思ってね。しかもその頃、加藤さんがマスコミでスキャンダル的な面で取り上げられて、芸術やってんだと言うんだけど、あの3人はまったく違うんだよね。そして、私はとにかく見たいからね。楽しみだった、皆さんがやることがね。アクションというのを、芸術家がこんな風な意味で捉えてくれたってことが、すごく新鮮だったの。表現の方法としてのアクションをね。これはすごいなと思ってね。

細谷:それはハイレッド・センターにしろ、ゼロ次元にしろ、同じで。

平田:そうそう。ただハイレッド・センターの方がよりいっそうそれを感じました。アクションによってひとつの芸術家の思想をね。アトリエからばあっと出て。しかも私はあの頃、民衆の取材で、反安保だとかやってましたもんでね。その時に芸術家がなんかやるっていうんで、ゼロ次元とハイレッド・センターのふたつが目立ってたけど、やり方がまったく違うんですよね。非常に頭脳的です、ハイレッド・センターは。新聞社も困っちゃってんだよ、取材してね。加藤氏たちのと同じような見方で来たんじゃねえかな、最初はね。1回来て、2回目来ねえんだよね。馬鹿だなあと思ってね(笑)。

池上:ついていけなかったんですかね。

平田:なんか、分からないんだよな。《ドロッピング》見てね、私はものすごい楽しかった。高松(次郎)さんの知り合いだったのかな、御茶ノ水の池坊会館は当時有名だったんだけど、そこを借りてやるっていうからね、加藤氏と全然違うなと思ったんだよね(笑)。まず場所を選んでやるっていうんでね。しかも、借りられたのは池坊会館の屋上ですよ。池坊会館って有名だったの、若い青年たちの中でね。芸術の勉強の場所で、自由な学校的な雰囲気があったもんで、そこを借りたってことは、なにかおもしろいんだなと思ってね、すっ飛んでったんだよね。したら、やっぱりおもしれえんだよなあ。最初ね、あそこは3階建て、4階建てのビルかな、屋上で、投げるってんで道路に投げたの。それを撮ったんだけど、こりゃ危ない警察が来るよと、そういう点はすごく意識してた。ちゃんと、社会的におかしな行為じゃなくて、社会の場でやるということを緻密に考えていたはずですよ。すぐ道路をやめて、会館の中庭に落っことそうじゃないかということ自体がもうそうですよ。加藤さんだったら道路にばんばん投げますよ、きっとね(笑)。

細谷:なんとも言えないですけど(笑)。

平田:そして、ただ投げるんじゃなくて、私はまず登って一緒に投げんのを見てたの、そしたら赤瀬川さんがなに言ったのかな。あんまり嫌なんですよ、やるまえにいろいろ聞くのはね。私自身楽しみたい、なにやるかをね。でもとにかくね、投げるだけじゃないんだっていうことをちょっと言ったもんだからね、あれと思ったんだよね。投げ出したらね、投げる落下物がおもしろいんだよ。落っこちてもおもしろいんだよ。あ、これだなと思ったんだよね。落とす行為と落下する物体の形だとか、そういうもの全部が含まれていたの。私の見方よ、これはね。だから上から撮るだけじゃなくて、落っこちてったやつを下まで追いかけていって、落っこちたものも撮ったんだよ。そしたら落ちた物体が、落とす前の物体じゃなくなってる、全然違った物体で倒れてんだよね。形がおもしろいんだよ。全然違った世界が出てくる。それもおもしろいな、頭いいなと思った。全部知ってて、意識してやってるなと思ったの。それで、撮ってたら和泉(達)さんも一緒に下りてきて、回収してまた持っていくんですよ。私は階段降りて、落っこちる瞬間を撮ってた。彼が回収しようとしたら、ふたりの頭の上に落っこちて、ばあんとなにかが。慌てて逃げてった時の写真があったでしょ。また回収して持ってって、3回くらいやったのかな。

池上:同じものを何回か落としてるんですね。

平田:ひとつの条件として、ただ落とすだけじゃなくてね、落とす行為の中にいろんな物語が展開するわけですよね。これはすごいなと思ったね。全体がひとつの行為というアートなんでしょうね。これはやっぱり頭いいなと思ったんだよな。

細谷:ちなみにこれは《ドロッピング》の時に他の方が撮られた写真なんですけど(羽永光利撮影の写真を見せて)。ここに写真撮ってる方がいらっしゃるんですよ。これは平田さんじゃないかなあ。こう、下を向いて。

平田:ちょっと見せて。新聞社は来てたよ。3、4人は来てたな。

細谷:平田さん、こういう時スーツ着てましたか。

平田:あの頃、スーツみたいなの羽織ってたかな。分からないなあ。

細谷:確認は取れないですよね。

平田:ちょっと分からないです(笑)。新聞記者もみんな同じような格好してたからね。記者は来てたんだよね。だけど夕刊かなにかで1回しか出さないで、それで終わりなんだよ。しかも出し方がおかしいんだよね。まったくおかしな連中が上から落っことして騒いでるよってな記事なんだよね。馬鹿だなと思ってね。こんなこと言っちゃいけないけどさ。

細谷:一方でゼロ次元は大衆的な場所を選んで、土着的なね。

平田:市民を巻き込んで、ええじゃないかええじゃないかとね。彼はそういうことをすごく意識してやってましたね。

細谷:線香を使ったりとかね。

平田:あれもまた、民衆の視線ではおもしろかった。中目黒かな。オバQ(オバケのQ太郎)かなにかの人形つけて歩いて。

細谷:あれは「ミューズ週間」という、ヨシダ・ヨシエさんが企画した中の一環なんですけども(「ミューズ週間」、1965年12月16日-12月22日、MAC・J)。

平田:あれはおもしろかった。一般の民衆がいるってのは。昔の芸術家たちはアトリエにこもって描いて小さな作品を出してたけど、彼は舞台を社会の中に持ち込んだんですよ。これはすごくおもしろい。楽しくてね。

細谷:(写真を見て)犬も見てる(笑)。

平田:これはみんな意識してない。彼らもお互いに意識してないんですよ。人が集まるかどうか分からないんだけどね、出てきちゃう、そういうのがどんどん。これは新しい世界なんだよ。私は、この新しい世界をおもしろいなと思ったの。例えば写真だけの世界じゃないし、彼らの行動だけの世界じゃない。どんどん時間と同時に変わってくんだ、条件が。これがまたおもしろくて。市民の表情がまたおもしろいんだよ。いろいろ話してるんだよね。この人なんの信仰かなと思って、おばあさんが見てるしね。

細谷:宗教かなにかだと思って。

平田:子どもたちはね、おもしろいって騒いでたよ。犬は、なんだ馬鹿だみたいな(笑)。

池上:ちょっとその銭湯の写真でお聞きしたかったんですけど。これをやってる間は、他のお客さんは入ってこないんですよね。

平田:借りきったんです。確か一日借りきったんじゃないかな。あるいは午前中とか午後とかね。銭湯側と十分にお話しあってね。舞台を作ってからやったんですよ。

池上:平田さんは、自分は濡れないようにしながら写真を撮られたわけですか。

平田:そうそう。

池上:滑ったりしそうで大変そうですけど。これも子どもがちょっと不思議そうに見にきたり。

平田:銭湯のお子さんだと思いますよ。なにやってんだろうと思って、飛んできたんだよね。この状況だけじゃなくて、全体の状況というものが、私にとってのひとつのアートだと思ったの。これだけじゃない、もう全体が。そういうものは、いままで日本の写真界にはなかったわけですよ。私は、写真ってそういうもんだと思ってんの。記録ってのは、ただ自分の観念だとか、彼らの観念だけじゃなくて、全部含めた社会を舞台として、時代とかいろんな問題が込められてると思うの。それが楽しかった。こんな新しい世界があるのかなと思って。ただ単なる写真の世界じゃないんだよね。それでほんとに自分自身も楽しかったね。これはみんな彼の作品ですよ。

細谷:これは岩田(信市)さんですよね。

平田:そう、岩田さんの作品(《走れサラリーマン》、1969年)。

細谷:さっき見た「枕ころげ」の時は、岩田さんがサキソフォンを持ってたりして。

平田:岩田さんには、なぜみんなもっと注目しないのかなと思っているんですよね。

池上:この時は岩田さんも名古屋から東京へ来てたんですか。

平田:彼も来てますよ。

細谷:たびたび大きいことがあると来るんですよ。

平田:あの方は、ゼロ次元の中でも主導者だけれども、表に出てこなかった。頭のいい人でね。

池上:一緒にやったらまた名古屋に帰ってという感じで。

平田:そうなんです。だから皆さんもっと岩田さんに取材して、いろんな話を聞くべきじゃないかなと思ってんだよ。ゼロ次元の最初は、私はきっと岩田さんが中心者じゃないかと思ったぐらいなんですよ。よく知りませんけど。

細谷:2、3年経ってくると、平田さんの写真には、ゼロ次元だけじゃなくて、いわゆる儀式屋の人たちというのが出てくるでしょ。平田さんが撮った写真だと、「故由比忠之進追悼国民儀」(1967年12月1日、椿近代画廊前、新宿駅西口安田生命裏特設会場)というものがありますね。由比さんはエスペランティストで、焼身自殺されたんですけども。その国民追悼儀として儀式をやったわけですね。椿近代画廊から出発して。

平田:これずいぶんいろんな方が集まりましたよ。

細谷:この時集まってるのが、クロハタの松江カクさんですね、それから糸井貫二(ダダカン)さんも来て、そして告陰、ゼロ次元、それから牧朗さんの薔薇卍結社。

平田:一般の方もずいぶん途中で参加してましたよ。

細谷:これは葬列ですからね。

池上:一般の方も、これは忠之進の追悼なんだということを理解して参加してたわけですか。

平田:そうです。そのために集まってきた方が多いですね。クリスチャンもいましたよ。おもしろかった。

細谷:椿近代画廊を出発して、最終的には新宿駅西口まで行くんですけれども。この時のことは、なにか思い出すこととかありますか。

平田:新宿の広場に行くまでの間はね、民衆まで巻き込んで、入ってきたような感じでしたよ。その頃は由比さんの話が、それほど一般の中に浸透してましたしね。だから一般の方でも、途中から参加した人いると思うよ。場所選びも、いいところ選んだなあと思って。地下道の広場でね。

細谷:あとこれ(注:「故由比忠之進追悼国民儀」関連写真、新宿駅西口安田生命裏特設会場)ですね。

平田:これは許可取らないでやったと思うんだよね。

細谷:人形を燃やしたんですよね。松江さんは火を使うのがすごくうまかったそうですね。

平田:この火をつけて燃えてる写真なんかずいぶんありますよ、そばで撮った写真が。

池上:人形ってなんの人形ですか。なにかを表しているというのは。

平田:由比さん自体を表していて、彼がガソリン被って死んだ現場を模して、ここでやった。

池上:それのある種再現のようなかたちでやったわけですね。

平田:そしてみんなでまたお祈りしたんです。

池上:ちょっとショッキングな。出来事自体がショッキングですし、それの再現というのも。

平田:燃やすと人形かなにか分からないという点もまたね、彼らの意図だと思う。だから一般の大衆はみんなびっくりしてね。警官が駆けつけてきて。

池上:また同じようなことが起きちゃったのかと思う人も。

細谷:ゼロ次元も参加してるわけですけど、例えばこの時はかなりクロハタの松江さんたちが動いたわけですけど、他の儀式屋の方々になにか印象はありますか。

平田:あまりなかったですね。松江さんが、小柄な方でしょ。人形を背負ってね。最初子どもを背負って。それで油を被るっていうからびっくりしちゃってさ。げえ、やめろやめろってね。

池上:それはやめてほしいですね。

細谷:ゼロ次元が防毒マスクで歩いた後に、松江さんがやろうとしたそうですね。

平田:防毒マスク被って、あれはゼロ次元だけじゃないんですよ、確かクロハタも参加してて。

細谷:平田さんが撮られてるのはこれ(注:「故由比忠之進追悼国民儀」関連の新宿街頭での手上げ写真)ですね。

平田:こん中にゼロ次元じゃない人もいろいろ入ってました。だからこれをゼロ次元としちゃ、ちょっとまずいんじゃないかなと思ったんだよね。

池上:もっと大きな。

平田:そうです。

細谷:ある種、ゼロ次元だけじゃなく、儀式屋の集団性みたいなものを見られてたわけですよね。

平田:そうなんです。確かひとりクリスチャンがいたな。聖書持って歩いてる女の子がいたよ。これ、どっか聖書持ってるでしょ。

池上:このロザリオみたいな。白いヴェールを頭に被ってらっしゃる。カトリックの方ですかね。

平田:いろんな人が参加してました。

細谷:この時は、糸井さんが。

平田:糸井さんはいつもぐずぐずしてるからね(笑)。

細谷:ぐずぐずっていうか、逃げないんですよね。

平田:そう、糸井さんは逃げないんだよ。だから首謀者だと思われて、とっ捕まっちゃったんだよ。

細谷:これ交番まで連行されるんですよね。その時に、ヨシダ・ヨシエさんが付いていくんですよね。

平田:確かひとり付き添いがいた。私も付いてったんだけどね、フィルム撮られちゃいかんと思って逃げたんですよ。必ずフィルム撮られます、関係者だと思われると。私は、一般の野次馬のような格好して逃げちゃった。

細谷:平田さんも連行されそうになったんですか。

平田:もちろん。一緒にいたからね。だから、私は見にきたんですよと言ってね。

細谷:記録を取られたらまずいですからね。

平田:すぐやるから、ばあっとフィルムを抜いてね。

細谷:じゃあ折角なので、ここで糸井さんのことを聞きたいなと思うんですけど。

平田:糸井さんは、いつも沈黙です。黙ってなんにも言わないで。黙々としてましたね。正々堂々、というわけにはいかないと思うんだけどさ。たいていとっ捕まると慌てふためくでしょ。彼は違うんだよ。ぼけえっとして同じような感じでね。粛々と連れていかれたよ。私もそばまで付いていったんだけど。ヨシダさんも一緒に行ったんだよ。

細谷:ヨシダさんとのお付き合いはどうでしたか。

平田:あの時はあんまり関係はなかったね。

細谷:平田さんとはあんまりお付き合いはなかった。

平田:なかった。他の友人とはずいぶん付き合ってたけどね。沖縄の星雅彦とも、ずいぶん付き合ってたけどね。動き方もね、とっ捕まると必ずやられるってことは、1回とっ捕まって、池袋の時(池袋アートシアターでの「万博破壊ブラック・フェスティバル」をめぐる逮捕事件、平田は任意同行)に桜田門まで行って、警察の聴取状況を全部見ちゃったからね、それからなるたけ注意して。

細谷:その話も後で聞きたいと思うんですけれども。この後、平田さんが儀式屋を撮ってるものだと、この翌年のイイノホールでやった「狂気見本市大会 年忘れアングラまつり」(1968年11月30日、イイノホール)というのがありまして。これがいわゆる儀式屋総動員と言いますかですね、クロハタ、告陰、薔薇卍結社、小山哲生さんのビタミン・アート、秋山祐徳太子さんの新宿少年団、錚々たる面子ですね。

平田:ずいぶん撮ったんだけど、ネガが出てこないんだよなあ。

細谷:ありますよ。

平田:あ、少しある。あれは双葉社の『週刊大衆』かなにかで、ずいぶんネガを持ってった。

細谷:これはイイノホールでしたけれども。

平田:イイノホールでもやったし、他でもやってた。

細谷:本牧亭(「狂気見本市」、1968年3月13日)とかでもやってましたよね。こういうゼロ次元だけじゃなく、儀式屋の集まりを撮るっていうのは、平田さんはどういう風に見てたのかなと。

平田:みんなが意識的に固まってやるということじゃなくて、大きな舞台でわいわい騒いでやろうという雰囲気だったんですよね。大きな目標を立てて一斉にやるっていうんじゃなくて、なにかお祭り騒ぎ的な感じがしたから、私は嫌になっちゃったんだよね。舞台を使って騒いでやるということは、あんまり好きじゃなかったんだな。

細谷:イイノホールの時は、観客席で秋山祐徳太子さんの行為を撮るでしょ。

平田:ほんとはもっと撮ってたはずなんだけどね。そういう表面的なものしか撮ってなかった。

細谷:そこまで儀式屋、アンダーグラウンドの活動みたいなものは(深入りしなかった)。

平田:あの時はアンダーグラウンドというよりは、もっと前に出過ぎてた気がするよ。私の考えではね。私の考えるアンダーグラウンドというのは、もうちょっと違うんだよな。

細谷:これは、いわゆる既存の美術史に現れなかった人たちの集まりじゃないですか。そういうのを平田さんはどう見られてたのかなと思って。

平田:私はそういう風な集まりは大事だと思ってたよ。ただ、いろんな雑誌だとかに出てる状況を見てると、単なるお祭り騒ぎみたいな状況になっているからね。私はもっと違った目で見たいと思ってたし、協力したいと思っていたわけですよ。小さなアンダーグラウンドがたくさんできたんだよ、あの頃はね。いろんな無名の方たちがやったんですよ。それはずいぶん撮ったよ。その中で、秋山祐徳太子が一番大将みたいな存在でね。アングラ大将ですよ。私も加勢したりして。

細谷:比較的個々人の活動にシンパシーをもって。ゼロ次元もしかり、秋山さんもしかり。

平田:そうです。他の方たちが取材してるのを見ると、また視点が違うんだよね。そんなことどうでもいいけどさ。惜しかった、新聞社の方とか、雑誌社の方とかね。もっと肉薄してくれればと思ってた。朝日だとか毎日だとか、全部来てたからね、そういう方たちが、追跡してくれると思ってたんだよね。そしたら、それっきり終わりで次から来ないんだよ。それはそれでいまも同じだろうと思うけどさ(笑)。

池上:マスコミはネタとして見ていて、思想まで理解しようってことにはならなかったんですかね。

平田:そこはマスコミはもったいないなあと思ってね。いまは東京新聞が活躍してるでしょ。

細谷:比較的リベラルな行動をしてますね。

平田:そうそう。そういう新聞がないんだよ、あの頃はね。

池上:いま秋山祐徳太子さんのお話が出たので、どういう風に知り合われて注目されたのかお聞きしていいですか。

平田:秋山さんとはなにが最初か。最初は読売アンデパンダンの最終回の時かな。彼は檻の中に入ってなかったかな。アンデパンダンで、そんなのを見た気がするんだよね。あの時、いろんな方がいたんですよ。高松さんは紐を出した。アンデパンダンは見にいって、いいなと思ってた。

細谷:平田さん、アンデパンダンは見にいってたんですか。

平田:行った。その時に確かね、秋山祐徳太子が檻の中に入ってた気がするんだよ。高松さんは紐やってたよ。その時にショックというか、喜んじゃってね。あんまり写真が残ってないけどね。

細谷:写真も撮ってはいたんですね。

平田:もちろん。カメラはいつも持ってたから。だけどあんまり熱中して撮ってはいなかった。ただそれ見てね、いろいろインパクトはありました。

細谷:繊研新聞とか、服飾新聞とか、いわゆる記者として活動する一方で、美術家たちに関心をもって、読売アンパンを見にいくとか、あるいは内科画廊に行くとかそういうのは。

平田:個人的な興味です。

細谷:もう個人的な興味で行くんですね。

平田:行ってる間に、見て知ってね、その世界がすごく新鮮で興味をもったわけです。新しいひとつのアートの方法じゃないかと思ってね。しかも私は写真家だから、プラス写真というのはね、これはおもしろい世界だなと思ってね。やっぱり写真で記録するということは大事であるし、とてもおもしろいんですよね。単なる彼らのアクションだけじゃなくてね、全体の時間とか周囲の状況とか、これが全部混然となって時を表現しているわけですよ。これおもしろくてね。しかもその時だけじゃなくて、刻々と変わっていくんですよね。これは新しい世界だなと思ってね。この写真というのはすごいなと思ってね。しかも写真は撮ったものが、雑誌とか印刷媒体でより多くの人に見られるでしょ。これはまたいいなと思ってね。それから写真のほんとのおもしろさというか、意味を感じられるようになりましたね。その原因は、皆さんのアクション、アートですよね。写真のすごさに気づいたきっかけですよね。違った意味で、いままでは『アサヒカメラ』のような、個人的なきれいな写真を撮ってたのが、また違った世界が、皆さんのおかげでね、出てきたわけですよね。いっそう写真というものがすごいなと思ってね。

池上:アートのほうが変わったから、写真の新しい可能性も出てきたという。

平田:アートの新しい表現で、写真の新しい可能性も出てきたのだと思います。

細谷:秋山さんの写真だと、やっぱりこれがかなりインパクトが強い。この子どもたちとね(《ポップハップのグリコおじさん》、1967年)。

平田:これ子どもたちを呼んだわけじゃないんですよ。ここにはグリコって書いてある。新聞に出てたもんで取材に行って。彼の住んでるアパートがあるんですよ、高輪にね。それで私は舞台かなんかでやった写真って好きじゃないし、街の中で展開するってことを、私としては撮りたかったから、秋山さんと、君の屋上を使ってやろうじゃないかと。彼とはその頃よく、小さなバーに行って話をしてた。それで、屋上でやろうじゃないかと。行って準備を始めたら、子どもが集まってきちゃったんですよ(笑)。彼の写真を撮りだしたら、一緒になってやりはじめちゃった。やってくれって言ったんじゃないんですよ。

池上:子どもが子どもらしい格好をしていて、とてもいいんですよね。

平田:ひとりひとりの芸術家がやったことが、こういう風に街の中に展開していくってことに、また私は新しい魅力を感じたわけです。子どもたちは大喜びですよ、あ、グリコおじさんだって。

池上:すごく楽しそうにしてますよね。

平田:彼も最初はそこまで意識してなかったはずですよ。これがまたおもしろいんですよね。やってる間に、どんどん状況が展開していくっていう。

池上:これはやっぱりグリコだから子どもたちが反応するわけで。

平田:そうそう。あの頃みんなグリコだったからね。

池上:大衆性というのがここにもありますよね。

平田:彼も子どもたちに見せるためにやろうとしてたわけじゃないんだから。これがまたおもしろいんだよ。子どもが気がついてね。

池上:グリコが好きだから、キャラメルが好きだから、好意的に反応しちゃうっていう。

平田:グリコおじさんだってわけでね。みんなすっ飛んできたんだよね。これがまたいいなあと思った。そこに写真というものが媒体であるからね。おもしろいなと思って、写真てのはね。だから、意識して演出したわけでもないんですよ。そんな写真はないですよ。

池上:これはまた場所を変えて。

平田:これは九十九里浜だと思うんだけどね。

池上:湘南海岸となってます(《グリコ的ポップハプニング》、1967年)。

平田:なんで撮ったのか、ちょっと記憶にないんだけどね。

細谷:たぶん一緒に動いたんじゃないですかね。これもそうですけど。

平田:これは私が主にやれやれと言ったの(笑)。

細谷:この写真は排気ガスとんでけってやつですよね(《車を捨てて、走れ走れ》、1971年頃)。

平田:すごかったの、あの頃ね。環七かな、環八かな、(排気ガスが)問題になってて、すごかったからね。ちょうど彼がこれやってたから、やろうじゃないかと彼をそそのかして。私は陸橋で待っててね。

池上:ここではグリコじゃなくて点々(タドン)になってて。

平田:この前また銀座で(展示を)やったんでしょ。

細谷:お母さんのことを書いた本を出されたんですよ(『秋山祐徳太子の母』、2015年、新潮社)。

平田:そうですか。お母さんの写真もずいぶん撮ったんですよ。いいお母さんで。

池上:すごく見守って、支えてくださったお母さんだって聞きましたけど。

平田:江戸っ子気質のお母さんでね。

細谷:ギュウちゃんもそうでしょ、お母さん。

平田:ギュウちゃんのお母さんは人形を作ってたね。

細谷:美術家とその母親の関係というのを、どう見ていましたか。

平田:私はわりと気に止まっちゃうんですよ。取材は別に撮らせてくれって言ったわけじゃないんだけど、母親がいると撮りたくなっちゃうんだよね。だから秋山さんの母親も撮ってますよ。

細谷:みんな精力的に手伝うでしょ。

平田:そうなんですよ。ギュウちゃんのお母さんだって一生懸命やってたよ。

池上:内職して家計の助けもしながら。

平田:ギュウちゃんのお母さんは、人形師として展覧会やってたからね。紙人形かな。

池上:木を彫って和風の人形をされていたと。もともとは日本画家でいらしたみたいですし。

平田:同じアパートに住んでました。都営アパートでしたね。

池上:映像(『ある若者たち』、ディレクター:長野千秋、1964年、日本テレビ放送)とか見てると、ギュウちゃんがコーラ飲んでる奥に、お母さんが人形作ってるのが映ってたりしますよね(笑)。

細谷:加藤さんの場合は子どもがいたりして。

平田:そうそう、おもしろかった。私は、当たり前の人間の生活の中の芸術家という見方、でいつも見てるからね。みんないい家庭でしたけどね。子どもたちがよかった。

池上:お母さんがみっともない、やめなさいとか言わないのがいいですよね。応援してるっていうのが。

平田:それを写真に記録するっていうのは、その頃楽しかった。それまではそういう状況はなかったからね。

池上:とくにこのグループとかこの集団を撮ってて楽しい、一番楽しいなという集団はありましたか。

平田:ハイレッド・センター。

池上:やっぱりハイレッド・センターですか。

平田:知的な楽しさがあるんだよね。彼らはそんなこと全然言わないけど。また新しく状況が展開していくんだよね。

池上:そういう知的な刺激も受けながら写真を撮るというのが、特別に楽しかった。

平田:いままでそういうことなかったからね。

池上:そう考えると、平田さんの写真がなかったら残っていないハイレッド・センターの活動もありますからね。ほんとにコラボレーションに近い活動だと思いますね。

平田:いまネガを探してんですけど、出てこないですね。むかしの私の担当の編集部員をやっと探して、もう老人になってて、だけど出版社に全部預けちゃって保存してないって言うんだよね。

細谷:やっぱり破棄してしまったんでしょうね。

池上:溜まっていくと大量なことになりますからね。

細谷:しかも週刊誌ですからね。

池上:撮って出しの世界ですよね。

平田:私ももっと利口に立ちまわって、どんどん返してもらえばよかったんだけどなあ。

池上:この時期は次に撮るもの、次に撮るものとありましたからね。

平田:こっちはむしろ電話が来るのを待ってるんですよ。

細谷:大衆に向けて発表することが、平田さんの使命というところがあったんですよね。

平田:それが私の写真の立場ではないかと思っていたし。マスメディアを非常に有効に使う、知恵を絞ってだまくらかしたりしてやってました。

細谷:1960年代後半になるにつれて、学生運動がどんどん盛んになってくるでしょ。それで平田さんも行かれた、1968年のいわゆる10.21新宿騒乱があって、ちょっとその時のことを聞かせて下さい。平田さんは、学生運動を撮りにいったりしましたか。

平田:東大には何回か行きましたけどね。なんであの頃それにこだわらなかったか。いろんな考えがあったんだなあ、きっと。国会もそうですよ、あの時も。

細谷:1964年の佐藤内閣ですね。

平田:あの頃、カメラ持って中に入って、じゃんじゃか撮ろうという気はなかったですね。

細谷:こないだ言われてたのは、1964年の時は国会に知り合いがいるから、というのがひとつあると。

平田:それもちょっとあったけどね。

細谷:政治運動を撮ろうという意志は、そんなになかった。

平田:政治的な問題が大きすぎてね、私はすごい考えていたけども、それを写真で捉えようという大きな欲求はなかったね。すごく考えてました、安保の時もね。いろんな資料を集めたりね。友人が反対運動をしてたりしましたからね。ここで言うの嫌だけど、国会速記者の中にもシンパがいたんですよ。それとは連絡を取っていたけどね。それで私が国会に取材に行くと、今度は目付けられちゃうからね、警察やらなんやらに。

細谷:新宿の騒乱の時は、平田さん、行かれてますよね。これは行かないと、というのがあって。

平田:終わりの方でしたね。撮っておかなくちゃいかんなと思ったし。私は新宿の飲み屋横丁が好きだったし、知り合いのマスターやなにかもいたしね。そういうこともあって、(学生を)かくまってやったとかいう話も聞いたもんだからね。ただあまりにも中に入りこんでしまうと、いままでの私の写真の撮り方と違って、(政治色が)出ますよね。

細谷:それでも距離を置きながらもということですよね。

平田:ずいぶん警官たちの暴動記録は撮ってありますよ、ものすごい量ね。それが出てこなくなっちゃった。疎開(注:万博破壊共闘派メンバー逮捕時の家宅捜索対策)したら、そのまんまどっかなくなっちゃってね。

細谷:その時に足を。

平田:新宿の大ガードがありますよね。片方は新宿駅で、もう片方は大久保の駅で。それで、機動隊と学生、学生は新大久保の方から、機動隊は駅の方から来て、その間に挟まっちゃったんですよ、マスコミの取材陣が。逃げ場がなくなっちゃって、みんなガードの橋の上に逃げた。こっちから機動隊来るし、こっちから学生が石投げてくるでしょ。機動隊は盾持って、石防ぎながらね。マスコミ10人ぐらいうろうろしてるから、一緒になって警官隊がやるわけよね。石はどんどん飛んでくるし、逃げ場なくなっちゃったんだよね、ガードだしね。7、8人ガードの端の崖でつまづいてごろごろっと落っこちちゃった。その中に巻き込まれて、足を折っちゃったんだよね。まだ時々痛むけどね。あの頃は警官隊が放水するんですよ。青い水色の。放水すると取材陣にかかりますよね、かかったのをみんなとっ捕まえちゃえっていうんだ、警官隊はね。それで私たちに向かってくるわけよね。マスコミの友人たちもずいぶん叩かれてました。もうとにかく戦争ですよ。大きな盾で学生叩いたりね、学生は木刀でちゃんばらしたり。そんなこともありました。全部記録はしたんだけどね。やっぱり意識して取っておくべきだったなあ。警官は警官で若造ばっかりで。これもかわいそうなんですよね。お互いに同じような歳の若者が、喧嘩してるわけですよね。警官も捕まると若者にむっちゃ叩かれて、のびちゃってるんだよなあ。こりゃなんだと思ってな。同じような歳若い青年たちが。この元凶はどこにいるんだってわけよ。

細谷:1968年の10月21日があって、1969年の頭にはゼロ次元はもう「万博破壊」というのを言いだすんですよね。

平田:あの頃、万博が格好の題材になっていたんだ。

細谷:加藤さんもそうですし、儀式屋の人たちが、万博に対するアンチを示していくっていうのは、それはどう見てましたか。

平田:彼らも欲しいわけよ、ひとつの目印が。目標じゃないけど。

池上:「打倒なんとか」っていうね。

平田:それで万博ってものが出てきたもんだから。私は、客観的に見てね、ほんとうの意味で万博反対という気持ちはなかったけどね。やらないほうがいいとは思ってたよ。だから万博破壊共闘派の方に主にね。

細谷:ある意味共闘していく感じで。

平田:そういうことなんですよね。実はオリンピックにも、私は反対してた。ずいぶんお金使ってたからね。だからあの頃、不思議とオリンピックの取材はしてないです。

池上:あえてする気にならなかった。

平田:撮ってないんだよ、オリンピックは一枚も。目の前でやってるのにね。オリンピック関係撮ったのは、「クリーニング・イヴェント」の時の。

池上:たまたま写りこんでいるものだけ。

平田:それだけです。オリンピックはかなりお金使ったんですよ、東京でね。問題もあったの。こんなことでという変な偏見も私にはあったんだよ。オリンピックに金使うなら、ということもあったし。オリンピック自体にはまったく興味なかった。

細谷:それで万博破壊共闘派との関係だと、1969年の6月8日に池袋アートシアターで「万博破壊ブラック・フェスティバル」というのがあって、平田さんは行かれてると思うんですけれど、その翌日にはキャラバンを、いわゆる反博キャラバンを出すんですよね。これ平田さんは、マイクロバスに一緒に乗ってくでしょ。この時って公安はずっと付いてるわけですか。

平田:付いてるはずですよ、絶対。ずいぶん写真も撮られてるはずですよ。

細谷:付いてってこれを撮らなきゃいけないって意志が、平田さんの中にありましたか。

平田:もちろん、写真家である以上ね。どういうことを展開するのかなという意味でね。いろんなメンバーが、いろんな会派の連中が集まっていましたからね。

池上:ちょうどマイクロバスから撮った写真がこれですね。

平田:これはどこで撮ったのかな。名古屋あたりで撮ったのかな。どっかのクラブかなにかで。

細谷:これは浜松のサービスエリアで、おりてやるんですよね。

平田:これがおもしろかったよ。一般の知らない人は、理解できないことですよね。なにやってんだろうってわけ。

池上:みんなすごい見てますよね、集まってきて。

平田:意味分かんなかったんでしょ、みんなね。万博反対もなにも。これはおもしろかった。

細谷:これは京都ですね。

平田:神社仏閣が好きなはずの加藤好弘だけど、これはどこかの神社の前ですよ。

細谷:これは京都八幡宮の前で。こうやって公安が付いてくるわけですよね、歩いていると。ある種緊張感みたいなものはありましたか。

平田:もちろん、ありました。写真を警官の方からずいぶん撮られちゃって。こっちもばんばん撮ったけどね。

細谷:これは京大に着いて。

池上:このルートというのは、どなたが決めてたんですか。東京出発して、最終的に京大行ってというのは。

平田:私は、加藤好弘から参加してくれと聞いたんだけど、どっか中枢があったんじゃないかな。知りませんけどね。私は加藤氏の方からいつも情報を聞いて、参加しました。

池上:彼が中心になって。

細谷:あと末永(蒼生)さんもいましたね。

平田:そうそう。末永くんとふたりだ。告陰というグループで。情報が両方から来てました。

細谷:そしてこの歴史に残る写真。

平田:これは告陰が作った兜ね。

細谷:この手上げが《京大講堂屋上のイヴェント》ですね(1969年6月10日、京都大学教養学部屋上)。

平田:これは告陰の末永くんの前の奥さんじゃないかな。

細谷:これですね。水上(旬)さんは、綱をつたって。

平田:落っこちちゃった。この2、3秒後に落っこちちゃった。

池上:じゃあいい瞬間を捉えて。これはアクションとしても、写真としてもすごいですね。

細谷:平田さん、これ上から撮って下から撮って駆けおりて、忙しかったんじゃないですか。

平田:忙しかったんだよ。駆けって下りたんだよ。水上さんが無事降りるところまで、撮ろうと思ってさ。駆けって、まだ降りてこなかったから撮ってたら、ああっと落ちちゃった。落ちた瞬間は撮れなかった。落っこちてから撮った。奥さんたちみんな駆けよってね。

池上:(写真を見ながら)ああ、ほんとですね。痛かったでしょうね。

細谷:骨折してるんですよ。

平田:だから私心配したよ、死んじゃったんじゃないかと思ってさ。

池上:ここに「造反有理 帝大解体」と。

細谷:京大らしい。

池上:京大らしいですね(笑)。こういうものも全部写りこむ所もおもしろいですよね。

細谷:ちょうどここありますけど、告陰なんか女性の方の参加がありましたでしょ、ゼロ次元もそうですけど。平田さんから見て女性の参加というのは、どういう風に。

平田:まったく自然ですよね。全然特別には感じなかった。まったく自然にね、当然だと思ってた。あの頃、ジェンダーかなんかやってたんじゃないかな、アメリカの方で。

細谷:ウーマン・リブが盛んになるのはちょっと後ですけど。

池上:この方たちはいまもお名前は分かりますか。

平田:分かりますよ。

池上:実名も公表して。

細谷:してない方もいらっしゃるし。

平田:末永くんのとこに行くと、いろんな資料があると思います。

池上:ある意味女性が入ってくるのも当然というのも分かるんですけど、実名はいまでも公表したくないという方もいる。それを公にしちゃうと、ただのアクションではなく性的なものとして見られちゃうということもあったと思うんですけど。

平田:セクシャルに見られるおそれもありますね。ただね、こういう事実は、私は残しておかないといかんと思いますね。ほんとによくやってくれましたよ、女性たちはね。告陰の女性たちが一番頑張ってたな。

細谷:これは「万博破壊ブラック・フェスティバル」ですね。

平田:これを前から撮ったのが、『週刊明星』かな。

細谷:池袋の「万博破壊ブラック・フェスティバル」の写真が『週刊明星』(1969年6月29日号)に載るんですよね。

平田:集英社編集部による写真で捕まっちゃうんだよね。

細谷:警察の証拠物件になって。

平田:しかも集英社がネガを出しちゃったんだよ。最後まで出さなきゃいいのにね。

細谷:末永さん、加藤さん、秋山さん、小山さんらが捕まるわけですけれども。

平田:差し入れに行こうとしたら、私も捕まっちゃうって言われてね、差し入れにいかなかったんだ。

細谷:杉本(昌純)弁護士のところに相談に行ったんですよね。

平田:杉本さんに相談に行って、それで私は警視庁に連れていかれて。

細谷:いわゆる任意同行で行ったんですよね。

平田:任意同行で。隠れちゃおうと思ったんだけど、杉本さんがね、それよりは正々堂々と、取材の記録で行ったんだからなにも臆することはない、だけど証拠写真だけは絶対渡すなよと。見せてもいいと。私はプリントしたのを持って、見せましたよ。最後にね、判子を押せってんですよ。判子を押すと全部没収されて、記録になっちゃう。それは杉本さんに、判子を押せと言われたら、叩かれたりなにされても絶対に押さないでくれと言われてた。私は拒否したの。そしたら取り調べの年取った警察官、4、5人いたのかな、最初は東北弁使ったりにこやかにして尋問してたのがね、「判子を押してください」、「押しません」って言った途端にがらっと変わったね。あんだけ人間て変わるかと(笑)。ほんとに鬼みたい。があっと叩いて、寄こせえってんだよね。絶対押さなかった。もし殴られたら証拠になるからね。殴られてもいいと思った。殴りはしなかった、かっこだけしたけどね。絶対に押さなかった。それで帰ってきたの。だから、証拠にならなかった。

細谷:泊まらずにすぐ帰れたんですか、一日で。一泊くらいしましたか。

平田:しないしない。ずいぶん調べたんだよね。私が国会の速記者だったことも、全部いってるんだよなあ。

細谷:身元は全部ばれてるわけですね。

平田:なんだ国会の速記者じゃねえかって言いやがってね。

細谷:その前かな、いわゆるガサ入れがはいるといけないというので、写真をご親族にお預けになるんですよね。

平田:そうそう。必ず来ると思ってたからね。それを風呂敷にまとめて預けたんだけど、預けた姉が病気で死んじゃってね。まだ出てこない、探してんだけどね。

細谷:そこにけっこう重要な写真が。

池上:しかも大量にあるんですよね。それは発見したいですね。

平田:ネガです。証拠物件を全部まとめてね。

細谷:ギュウちゃんの初期写真も、そこに入ってるかもしれないんですよね。

平田:もちろん。それから田中信太郎。そういう周辺の写真もずいぶんあったんですよ。彼もあったな。ヴィクターの犬が壁に向かってる立体作ったのは誰だっけ。

池上:坪内一忠さん。

平田:坪内さんだ。あれもずいぶん撮ってあるんですよ。

池上:そうですか。あれもおもしろい作品ですよね。

平田:それが全部一緒にあの中入っちゃっててね。

池上:ぜひ見つけたい。

平田:あれはもうきっと出てこないね。預けた私の親戚が死んじゃったからね。

細谷:それで皆さん捕まったけれども、すぐ出てきたんですよね。というのは1969年に、大阪城公園で、反博大会がありますね(「反戦のための万国博(ハンパク)」、1969年8月7日-8月11日、大阪城公園)。

平田:その時の写真もたくさんあったんだけど、出てこないんだ。

細谷:この時はベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)とか。

平田:親玉も撮ってるんだよ。

池上:こないだ捕まったから、「わいせつ物」というので隠してるんですね(笑)。おもしろいですね。でも、いまとまったく変わらないというか、出てたらだめという短絡的な基準ね。40年経っても変わらないって、ちょっとすごいですよね。

細谷:この頃、美術だと針生一郎さんが共闘したりして。

平田:針生さんはいま。

細谷:亡くなってますね。

平田:そうだよな、確かな。これはいろんな連中ですよ。

細谷:出てきてすぐだから、この時に反博の皆さんに歓待されたんじゃないですか。

平田:と思うよ(笑)。

細谷:これも真正面からぱっと撮ったわけですよね。

平田:これネガ出てこないんだよな。

細谷:これは出てきた。

平田:出てきた、よかった。ひどいネガなんですよ、露出オーバーで。

池上:この方たちにとって、裸体を使うというのはどういう意味があったんですか。

平田:ゲバ棒が大嫌いなんだよね。

池上:あ、そういうことで。

平田:ゲバ棒代わりですよ。

池上:身ひとつで抵抗するっていう。

平田:おもしろいやり方です、すごくね。わいせつ物として罪になってるからね。

池上:ある意味ゲバ棒より破壊力がある(笑)。

平田:みんなよくやりました。エネルギーあったなあ、あの頃の若い人たちは。これ砂川なんですよ。もう1枚出したいんだよ、今度ね。砂川でひとりが、こうクロスした、十字架にこうやって。確かネガはあるはず。名前ね、末永くんが知ってるから。あれは砂川の反対闘争のほんとの象徴だからね。キリストじゃないけど、彼はこうやって。

細谷:ありますね。だいたい1970年くらいまでの話は、このあたりまでなんですけれども。

池上:こちらの『黒の手帖』という雑誌にも、よく。

平田:懐かしい。

細谷:『黒の手帖』が71年創刊なんですよ。これは宗太郎の名前で、平田さんが。

平田:(記事を見ながら)どんな写真。これ、階段。

細谷:これね、団地を撮ったやつ。これ宗太郎の名前で。

平田:じゃあ私だ。

細谷:そもそも『黒の手帖』の紹介というのは誰からだったんですか。

平田:編集長の友達だろう。いや違うな、太田克彦。

細谷:編集者の太田克彦さん。

平田:編集者じゃないんだ。彼はフリーで執筆してたの。彼が、『黒の手帖』の編集長と仲がよかったの。それで私に出せよって言ったもんで。

細谷:宗太郎の名前は、美術というよりはこういう風俗的なものですね。

平田:(風俗的なものに)限って使ってるんだよ。他にもあるんだよね。永瀬なんとかとか。平田って書くと、活動範囲が狭くなっちゃうからね(笑)。

池上:こういう偽名を使いながら。

平田:ええ、ずいぶん使いました。そうすると出せますから。警察とかなんとか後から追っかけてこないから。

細谷:永瀬実という名前もありますね。

平田:そうそう。

細谷:『黒の手帖』の平田さんのところをピックアップしてきたんですけど。

平田:よく撮ってる。こんなの記憶にないんだ。

細谷:この時に、集団蜘蛛の記事を発表してるんですよ。

平田:懐かしいなあ。これも『黒の手帖』にあった。これも私が撮ったんだ。

細谷:このことをちょっと聞きたくて。

池上:「ディスカバー・ジャパン」のシリーズ(注:国鉄が個人旅行の促進を目的に1970年から始めたキャンペーン)でも撮られてるんですよね。

細谷:「ディスカバー・ジャパン」で、この人形付けて、これも平田さんでしょ。

平田:もちろん。

細谷:このページの校正を、平田さんがやってるんでしょ。

平田:全部そう。ここに、あれがないな。ヘドロのヴィーナス。ヌードモデルを撮って、港まで行って、情景を合成したんですよ。ヴィーナスとヘドロ。その写真がカラーで、これにも出したはず。それどっかにあるんだよね。

細谷:それを「ディスカバー・ジャパン」でやるというのは、どういう意図があったんですか。

平田:反「ディスカバー・ジャパン」ですよ、これは。それをどっかの雑誌でやったんだよ。

池上:「ディスカバー・ジャパン」もやったし、アンチもやって。

細谷:これ自体がアンチなんですよね。

平田:これはアンチ「ディスカバー・ジャパン」を、ある雑誌の特集企画で私が持っていって、カラー写真も持っていって、「ディスカバー・ジャパン」ということでやったわけ。

細谷:これ自体が、もうアンチなんですよね。

平田:全部アンチだった。

池上:じゃあ国鉄のはやってないんだ。

平田:全然関係なし。アンチです。

細谷:だって、こんな写真だから。

池上:そうですよね。《DISCOVER JAPAN 美しい田子の浦の私》(1971年)というタイトルがすごい皮肉な(笑)。

平田:これみんなアンチです。

細谷:この人形はどういう。

平田:これは私の妻が愛用してた日本人形だったな。別れた妻がね。

細谷:どうしてこのページ構成で?

平田:日本人形ってのは、日本を象徴するものでもあるし。日本を象徴したかったんだ、ヘドロの中の日本をね。

細谷:なるほど。それでこの組み合わせで。

平田:それだけじゃなくて、ヘドロのすごい状況の中にヌードモデルが、名画と同じような格好して合成したものもあった。

細谷:これもありますね。

平田:なに撮ったんだろうなあ。

細谷:これは光化学スモッグ(《DISCOVER JAPAN スモッグ東京・東西南北》、1971年)。

平田:空撮したんだな。

池上:人形がここに、反対向きに現れて。

平田:これ、名前なんて書いてある。

細谷:これは「平田実」で出してます。

平田:じゃあヘドロとヌードモデルは違った号で出したのかな。同じかな。これは誰かな。

細谷:これは中村宏さんですね。

平田:懐かしいなあ。女学生をモティーフに使う中村さんだな。よく探したねえ。

池上:細谷さんが、探してきてくれました。

平田:はあ、すごいな。これはなんだ。

細谷:これは平田さんが撮った、ゼロ次元ですね。たぶんK神社だと思います。

平田:そうか。これは秋山祐徳太子だ。

池上:ちょっとエロティックな(笑)。

細谷:加藤さん宅ですね。

平田:加藤さんの家でね。とっても広い家だったから。ずいぶん撮った。

細谷:『黒の手帖』は1971年の創刊なんだけど、それ以前の写真も、さっきの集団蜘蛛とか、ゼロ次元とか、あるいは秋山さんもこうやって載せてるんですよ。平田さんにとっては、ある種発表の場にもなっていたのかなと思っていて。

平田:これ出版社どこ。

細谷:檸檬社。こないだ来た時にも聞いたんだけど、写真と文が平田実になってて、文章がけっこう特徴的な文章じゃないですか。

平田:ずいぶんいじられて。向こうの編集部の意向に変えられちゃうんだよね。その時に名前を私も変えようと思ったんだけど、変えてなかったなあ。ほんとはいろいろ変名使って。発売する雑誌社の意向があるんですよね。こっちは有名じゃない、個人の写真家だから。名前で出さない方がいいんだけどさ。いろいろでたらめな名前を使ってさ。

池上:じゃあこの文章なんかも、ほんとに平田さんが書いたのとは変えられている。

平田:ちょっと違います。

細谷:こないだ平田さんがおっしゃってたのは、時代に合わせて平田さん自身も、文章を構成してるっていうのはあるんですよね。

平田:そうしないと出してくれないからね。いま考えてみるとね、個人というものよりか、いかにみんなに見せるかということで、いろんな知恵を絞ってたわけですよ。もっと他の雑誌でおもしろい写真もありますよ。原爆問題だとかね。それから日本の殺人勲章。勲章というのは人を殺せばもらえるんだというテーマでね。金鵄勲章とかなんかずいぶん集めてきてね。撮った記憶あるよ。それは、どっかの雑誌にカラーで出してるはずよ。

細谷:この頃は、これからヒッピーの時代に入っていくので、若者に受けるような文章とかね、そういうのも平田さんの中で、なんていうか工夫した。

平田:ただ、私本来のものを全部出したということではないですね。かなり編集部でいじって出してますからね。編集部の中にもいろんな派がありましてね。

細谷:ある種の集団制作なのかな。

平田:出すことによってね、一般の大衆が読者なんですよ。そういう影響をすごく意識して、考えてやったもんです。いま考えると、若い、馬鹿だなと思うけどね。ほんとのこと書いたって、絶対出せないでしょ。

池上:写真だけは出せるわけですからね。今のようには修正できないですから、当時は。

平田:あの頃、マスメディアも乱雑でしたからね、出せる余地、穴があったんですよ。

池上:いまはなかなか難しいですよね。

平田:とてもできないです。あの頃は私の友人、文筆関係が多かったもんでね。ほとんどいろんな雑誌の編集長をやってたから。こっちはやりたいことをやっちゃったもんですよ。末永くんの最初の本も、私の友人の出版社から出したの。見たでしょ。

細谷:『ウルトラ・トリップ 長髪世代の証言』(末永蒼生・中村政治 編、1971年、大陸書房)ですね。

平田:大陸書房。彼、死んじゃったから、社長。友達だったんだよ。出せだせと言ってね。

細谷:いまのお話につながってくると思うんですけど、万博破壊共闘派以降の若者たちへの関心で、万歳党とか出てきますよね。

平田:出てくるけれどもね。ひとつ筋が確立していると言えないし、まともにはちょっと付き合いづらかったね。

細谷:そうですか。

平田:いいな、やれやれと、けしかけてはいたけどさ。ちょっと私の考えていることと違うから。

細谷:万歳党はこうやって、『アサヒグラフ』にも載せてますよね。

平田:『アサヒグラフ』出してた? 誰だ、編集者は。ああ、ほんとだ。私の写真だ、これ。

池上:再発見(笑)。

平田:よくあったなあ。編集長誰だっけなあ。『アサヒグラフ』は割とやってくれたんだ。

池上:こういうのは『アサヒグラフ』から依頼されたわけじゃなくて、ご自分で取材に行って。

平田:そう、友人関係ですね。こういうのをやってるから出せよってね。いやあ、懐かしいなあ。

細谷:さっきおっしゃってた、若者にやって欲しいみたいなのはあるけど、それは平田さんのそれまでの美術家たちへの関心とは、ちょっと違うんですね。

平田:ちょっと違う。私には私の考え方がありましたからね。彼らだって個人々々と話してみると、同じようなことは言わないからね。

細谷:じゃあなんとなく若者たちの集まりというよりは、個々人に関心が。

平田:あまり際立った個人はいなかったけどさ。だけどやれやれって気持ちはあったね。

池上:ハイレッド・センターやゼロ次元を見てらっしゃるから、あのレベルじゃないな、みたいなのはあるんですかね。

平田:それははっきり分かった。だからこっちが本気になって、彼らと一緒になってやろうって気持ちじゃないんだよね。

池上:気持ちの上では応援するけどという感じですか。

平田:マスメディアに出すからね。なかなか出してくれないわけよ、マスメディアってのはね。私はルートをもってたから。出すからやれよってね。テレビもおもしろかったですよ。

細谷:テレビジャック。

平田:テレビジャックやったの、みんな知らないんだよね。これ、いま言ってもかえってまずくなると思うんだけども。

細谷:もう大丈夫だと思いますよ(笑)。

平田:10チャンネルの番組があるんだよね。完璧にハイジャックしちゃった。1時間番組で。司会者が落語家の。

細谷:桂小金治の『桂小金治アフタヌーンショー』。

平田:そうそう。あれがやってた。その番組全部、1時間番組かな、ハイジャックしちゃったんだ。万歳党が(笑)。

池上:ずっと万歳万歳言ってたんですか。

平田:そう。テレビの経営者たちは、万歳と言うと別の意味で喜んじゃうわけよ。そこがつけ目だった。ほんとの万歳党ってのは、平和と戦争反対なんですよ。それで万歳やったんだけど。テレビ朝日かなんかの経営者たちは、万歳と言うと別の意味だと思って喜んじゃってね。桂小金治かなんか使ってやったんですよ。そしたら、最初から最後までみんな番組をぶっ壊しちゃった。あれは初めてじゃないかな。万歳って言いいながら、全部ぶっ壊しちゃったの。大成功(笑)。あれはいままでのテレビじゃないことですよ。末永くんもよく知ってると思うよ。

細谷:末永さんは、この後の中村政治さんとのつながりもあるから。

池上:状況劇場の話もお聞きしましょう。

細谷:平田さん、テント芝居は西口公園を撮られてますね。

平田:その前に花園神社の境内で撮ったはずなんだけど、出てきません。

細谷:国立国会(図書館)で調べたら、新宿の西口公園の写真が出てきたんです。

平田:寺山修司さんの劇団(天井桟敷)は、なぜあまり撮らなかったんだろうなあ。

細谷:芝居には関心はあったんですか。

平田:もちろんありましたね。あったけど、ちょっと私の考えと違うんだなあ。

細谷:じゃあいわゆるアングラ演劇、テント芝居は、そこまで行かなかった。

平田:追求しなかったね。なんか他のことを考えてたなあ。あ、沖縄問題が浮上してきたんだ。

細谷:ちょっとそれは後で聞きたいんだけど。もうひとつは土方(巽)さんたちの暗黒舞踏があるでしょ。こないだ発見された写真ですが、芦川羊子さんを撮ってますよね。それで、それをちょっと聞きたくて。土方さんとの接触って。

平田:土方さんの稽古場に行って撮ったけども。

細谷:アスベスト館。

平田:行ってるんだけども、私はあんまり撮らなかった。自分自身の中になんかあったんじゃないかな。あれほどすばらしい人なんだけどね。土方さんとはお会いしてお話聞いたり、知っているんだけど、写真はあまり撮ってないんだよ。不思議でしょうがないんだけど。なんかあったんだ、私にあの時ね。その後の沖縄のことで、かなりいろんなことを考えていたんだよね。

細谷:芦川さんを撮ったのはどうして。

平田:これは土方さんの紹介です。こういうのがいるから撮ってやってくれと言われてね、撮ったわけですよ。彼女は、土方さんとちょっと違って社会派なんです。そこで彼女にやってもらったんですよ、屋上まで行って。アングラ劇場、地下でやってたけど。私は、劇場の舞台の上でやるアクションはあんまり好きじゃないんで、実際にやってくれと、じゃあ屋上でやりましょうとなって。それで、彼女を屋上に連れてってやったんだよ。

細谷:これ、屋外なんですね。

平田:そうなんですよ。私は、シナリオがあって、ライトがついて、そういう舞台でアートをやるのが好きじゃないんですよ。生のものをやってもらいたいんで、屋上行ってくれって言ったら、屋上でやってくれたんですよね。あの頃、よくみんなやってくれたと思うんですけどね。それがいま問題の、渋谷のマンションの屋上だと思うよ。

細谷:あと舞踊の方だと若松美黄さんがいますね。これはどういう経緯でしょう。

平田:若松さんの踊りは、踊りとしてはそんなに意味を感じてなかった。形がおもしろいだけであって。そりゃおもしろいよ、袋みたいなの被ってやったしね。斬新なアートだったけどね。それ以上のものは感じなかったからね、そんなに撮ってないはずよ。ただ、劇団日本は、親分だれだっけ。あれは案外よかったからね。

細谷:劇団日本はなにに惹かれたんですか。

平田:内容ですよ。アクションに近い。芝居そのものというよりか、ちょっと逸脱、外れているんだよね。そこがおもしろいっていうだけのことでしたね。あの親分の名前いま忘れたけど、話はおもしろかったよ。

細谷:そう考えると、寺山さんとか行かなかったのは不思議ですね。

平田:なんか寺山さんとは、ちょっと自分の世界と違って。私は馬鹿ですから、気持ち広くないからね(笑)。あの頃は若いから、ちょっとそういうものがあると足が遠くなっちゃうんだよね。

細谷:ただ、夜行館は撮ってるでしょ。夜行館は野外というのが強かったんでしょうか。

平田:そういうのがあったね。

池上:おもしろいですね。周囲のものも一緒に写したいというのがあるから。

平田:時代っていうかな、社会っていうかな、そういうものが素直に入ってるのが好きだった。

池上:舞台は切り離しちゃいますからね。

平田:そうなんです。そっちの世界のほうが、若い時代に魅力を感じたんでしょうね。出来上がっちゃってシナリオ通りに展開するってのは、あまり好きじゃなかったんだよね。好みの問題かも分かんないけど。

池上:実際、屋外で魅力的な写真をたくさん撮られてるので、分かるような気がしますね。

平田:舞台は舞台で、演劇は好きだったけどね。そういう世界を一緒にはしたくなかったんですよ。私の考える写真のアートってのはね。もっと社会状況に密接してるし、時間が素直に展開していく情景っていうのに魅力を感じていたから、どうしてもそっちの方にウェイトがいっちゃったんだろうなあ。年を取ってれば、もっとずるいことを考えただろうけどさ。

池上:先ほど沖縄のことが自分の中でも大きくなってきて、とおっしゃってたんですが、初めて沖縄に行かれたのは。

平田:1967年。

池上:返還前にすでに行かれてるんですね。

平田:もちろん。1972年5月が復帰の日ですからね。大城(立裕)さんが芥川賞貰ったのは1967年かな、68年かな。それが主な取材だったんですよ。その前にも行きたいと思ってたけど、あそこはパスポートも英語のが必要だし、なかなか行かれなかったもんでね。そしたら、大城立裕さんが沖縄の方で初めて芥川賞をもらってね。そして、興南高校が九州大会に初参加するって、ふたつの事件が重なったと思うんだよ。それを、ちょっと学研と知りあってたもんで、学研の編集者と一緒に大城さんの取材に沖縄に行ったのが、初めて。だけどその前にね、私は沖縄のことについてはかなり興味あってね。沖縄の歴史の本、いかに沖縄がヤマトに収奪されたかという資料を読んでたの。だから絶対行きたかった。調べたかったんですよ。アメリカに占領されて、日本じゃなくなって、経済的にもいろんな面で沖縄が困窮しているという情報だけきたから、その前になぜ日本に収奪されたかということも調べてみたかったしね。どんな風に島津藩とか明治政府にいびられたかも、知りたかった。ずっと行きたかった。だけど、個人じゃなかなか行かれないんだよ。パスポートも必要だしね。そしたらちょうど学研の編集者に一緒に行こうと言われたのが、1967年か8年。
 それで沖縄に行って、ある程度取材を済まして先に帰ってもらう。それから本番の私の取材。ところが金がなくてさ。ドルを送ってこなくちゃ。ドルの時代でしょ。東京から送ってこないんだよ。困っちゃう。私はいろんな歴史や事情を調べて、いかに日本が沖縄を収奪していじめてるか知ってるもんだからね、まともに沖縄の市民の顔を見られないくらい、申し訳ないと思って話を聞いてたんですよ。そんなことで、沖縄をもっと知ろうと思って行ったけども、取材が終わって編集者が帰っちゃって、金送るからってんで待ってたんだけど、なかなか送ってこないんだ。難しかったの、ドルに替えたりするんでね。それで困っちゃって、一銭もなくなっちゃった。どうしようもない時に、私がいつも謝ってうつむき加減にしてた、周辺の市民が助けてくれた。泊まってた旅館もお金なくて、タクシーもお金がないと、なんにもできなくなっちゃった時に、私が取材してたクリーニング屋の親父とか、刳船(くりぶね)を持ってる漁師とかいろんな方がね、「一銭も要らないよ、俺んとこ泊まれ」と全部面倒見てくれた。びっくりしちゃってね。こんないじめてたヤマトを、こんな風に思ってくれるんだと思ってね。そこはやっぱり、沖縄という人種ですよ。ヤマトと違うんだよね。これを実際に体験した。優しい人たちでね。どうしてこんないじめたヤマトを、しかも取材できた人を優しくするのかと考えたり、話を聞いたりするうちに、だんだん分かってきた。散々苦しめられた人たちは、苦しみを知ってるんだよな。それで私が苦しかった時に、優しくしてくれたんだ。全部ただですよ。白タクの運ちゃんから、泊まってる宿代まで全部タダ。漁師は刳船に乗せてくれて、久米島まで写真撮りにいったりね。それがきっかけなの。やっぱりこれはヤマトじゃねえな、琉球だなと思ったの。
 お金送ってもらうまでの間、お世話になってたのはひと月くらいかな。全部本島周りましてね。やっとお金送ってくれたから、(一度東京に)帰って、すぐまた戻ってきた。それから沖縄の取材の始まりなんですよ、個人的にね。出版社とはあまり関係なしに、個人で周りました。それがきっかけで調べれば調べるほど、琉球の文化ってのはすごいんだよ。これまたびっくりしちゃってね。いろいろ知り合いができましてね。絵描きだとか、舞踊家だとかね。あの頃まだ、舞踊家も大きな組織の親分じゃなくて、売れてない人たち多かったもんですからね。大城立裕さんとは、以来ずっと親交を続けてるんですけどね。舞踊家で佐藤太圭子さんだとか、いま有名になった方たちがまだ、那覇市長の秘書やってた。佐藤太圭子さんは19歳で沖縄タイムスのグランプリもらっちゃったんだよな。それで琉球舞踊の取材をして、仲よくなったりしてね。いまでは沖縄でナンバーワンの舞踊家です。その頃、琉球舞踊にまたびっくりしちゃってね。日本舞踊と違うんだ、まったくね。しかも舞踊だけじゃなくて、衣装の美しさね。衣装と、織物だとかね。全部琉球の文化なんですよ。これは中国文化入ってるけどね。ヤマトじゃねえんだよね。それにまたびっくりしてね。琉球の文化ってすげえなと思った。そのうちに、今度は絵描きさんとあったら、絵描きがいい絵描いてるんだよなあ。そういう方たちと仲よくなって、それこそ自分の費用で毎年通いました。それと前衛芸術とちょっと重なった時期があるのね。

細谷:それで1972年をいよいよ迎えるわけですよね。

平田:5月15日。いましたよ、向こうに。返還の日までね。返還は大変だったんです。返還を受け入れる派と反対する派と二分してたの、沖縄は。フィフティー・フィフティーですよね。日本に帰らないで琉球国を創ろうじゃないかという連中が、半分いたんですね。

細谷:琉球独立党ですね。

平田:やっぱり日本に帰って、経済的にどんどんよくならなきゃいかんってのが半分。これは佐藤政府の側ですよね。琉球派はいたんだけど、日本の自民党が沖縄に力を、経済的な面でやったもんですから、沖縄の経済人が右の方に行っちゃった。それで返還があるから、初めて沖縄の知事を公選しましょうと、始まったんですよ。その時にふた派に分かれて、本土復帰、日本になろうという派と、それから琉球に戻ろうという派と、五分五分で選挙が始まったんですよ。だけど、経済的に自民党がうわっと来てね。佐藤政権の影響ですよね。結局、屋良(朝苗)さんが最初の県知事になったの。立派な方だけどね。反対派は敗れてね。5月15日に日本になったわけよ。それまで私はずうっと向こうにいたんですよ。

細谷:その日の夜のことを聞かせてもらえますか。

平田:その日の夜はバーにいましてね。沖縄の人たちの賛成派が多くてね。決まっちゃったもんだからね。とにかく日本になってお金が入るんだと、しかも返還が決まれば基地がなくなると、みんな思い込んだわけよね。日本になって、基地がなくなって経済もよくなって嬉しいねってわけでバーの人たちと飲んで。明日から日本になって豊かになるんだと、喜んで新しい日の丸を買ってきて。12時にNHKの放送があって日本になったという時を、私は那覇市のバーで迎えたんですよ。その時の写真をいろいろ展覧会で使ってんだよね。
 だけど、どうですかいまの状況は。全然よくなってないじゃないか、ね。そんなことでね、「消えない残像」という展覧会をやったんだけど、石垣市の方から連絡があって、昔石垣の人たちと仲よくなっていろんなことやってたもんだからね。石垣の小さな出版社の編集の方から手紙が来て、復帰前に私は石垣とか竹富とか撮ってたから、その写真がすばらしいから使わせてくれと連絡があったんですよ。どうぞ使ってくださいということになって。それから、いままでやった展覧会は沖縄本島と八重山諸島のある部分と一緒にやってたんだけど、いま八重山諸島ってのは大変重要な島々なんです。石垣が一番、それから竹富、小浜、黒島、与那国ね、すごく大事な場所なんですよ。台湾が近いし、尖閣がすぐでね。そこの方たちがいまいろんな意味でいい八重山を目指したいと言ってきましてね。ある出版社が沖縄の着物について出版するというんで、編集部から手紙が来てね、私の写真を、どっかで見つけたんだなあ、竹富島のおばあと。それは確かフランス、アルルの写真フェスティバルで、沖縄の写真をずいぶん出したの。それで沖縄を30点出したらその中に八重山を撮った写真がある、これをどうしても八重山の出版社が出したいと最近連絡があったの。それで考えたのは、いままでは沖縄本島と八重山と一緒に出してたんだけど、今年は八重山だけ、それを主体とした「消えない残像」をやろうと思ってね。石垣でやろうと思ってんですよ。もちろん沖縄本島もね、かなりいろいろ紹介してきたんですけど、私はこの際、八重山諸島ね、あれはほんとは一番問題にしなくちゃいけないんですよ。尖閣がそばだし、すばらしい、本島以上に琉球をもってるんです。
 そんなことがあっていまも沖縄と連絡があるんだけども。前ね、石垣市長と仲よかったんですよ。ほんとに昔ね。実は石垣で、ハングライダーの国際大会を開かせたことがあるんです。アメリカから私の友人、パイロット3人を石垣まで呼んでね。大会もやったことあるから、石垣を中心として、問題の八重山諸島の復帰前の写真をやろうかと思って。沖縄とはこれからもっと関係を深めたいんですよ。基地問題もさることながらね、日本の市民も沖縄を、観光だけじゃなくて分かってくれそうな気がするからね。それから向こうの出版社の編集部が、写真集(注:大森一也『来夏世―祈りの島々八重山』、2013年、南山舎)作って、私に送ってくれたんですよ。これ、すごい貴重な写真でね。竹富島のご神事、要するに自然信仰ね、そこで貴重な祭りをやったんだ。それを私は取材できなかった。そしたら石垣の写真家の大森さんが送ってくれたの。竹富の有名な祭りでね。それから、安本千夏さんという方が八重山の伝統的な染織を調べていて、本(注:『島の手仕事―八重山染織紀行』、2015年、南山舎)も出されています。

池上:沖縄のトピックとしては、1975年に海洋博(沖縄国際海洋博覧会)があって、『うるま―平田実・沖縄写真集』(1975年、読売新聞社)という写真集を出されているんですけれども。

平田:読売新聞からですね。見せましょうか。古い本だけど、いまありますよ。

池上:ありがとうございます。

細谷:これが平田さんが沖縄を撮ってきた、75年までの集大成的なものですよね。

平田:読売新聞の編集局長が私の知り合いで。これも太宰さんの系統と関係あるんですよ。編集局長だったの、二宮信親さんという方。それで沖縄を撮ったから出せよと私が言って、じゃあ海洋博があるから会場で売ろうじゃないかと、それで出してくれたんですよ。

細谷:内容としてはどのようなものでしょうか。

平田:内容としては、私の個人的な沖縄は出せないわけよね。観光的な意味合いが強くて、復帰前の琉球〜沖縄を紹介したものです。だけど、中にどうやって入れようかという苦労もあるんですよ。これは黒田(黒ダライ児)さんがよく知ってるけどね。海洋博の会場で売ってた本にこんなのがあるのは、読売新聞の編集局長と私となあなあで入れちゃったんだよね。

細谷:環境破壊を提示した写真ですね。

池上:石油基地が写ってたり、タールが海岸に流れてきたり。

平田:これはアメリカの石油基地です。それで漁師がもうね、環境が干上がって魚が採れなくなっちゃった。

池上:これは問題になったんですか。それともうまくやったから。

平田:後で問題になったはずよ、読売でね。黙って出しちゃったんですよ、本の後ろの方、モノクロで。これ完全に反対でしょ。これ海洋博の会場で売ったんですよ。いろいろ問題になったけどね。

池上:光と影という風にちゃんとね(笑)。

平田:そうそう。光が強ければ強いほど影が濃いいんだよって書いた。これもフランスのアルルで出したら、この写真は評判良かった。

池上:前半はこういうきれいな風景だったり、文化の紹介だったりっていう。

細谷:やっぱりこれもそうですし、前衛美術の人たちもそうですけど、人間をかなりクローズアップというか、人ですよね。

平田:そう、人です。カラー写真見てるうちは、観光写真ですよ。いいでしょ。この人たちみんな有名になっちゃって。彼女はもうおばあですけど、いま有名ですよ。

池上:沖縄の方たちからすれば、こういう影の部分もちゃんと紹介してくれたってことがやっぱりすごく大事で。

平田:だから今度は八重山の「消えない残像」をやって、沖縄本島を抜かしてやろうと思ってるんだよ。いろいろ出版社とか展覧会場の問題とかはあるけどね。

池上:1975年という段階でこういう写真を出したというのはすごく早いし、勇気もあることですよね。

細谷:平田さんの写真は出すまでが重要ですからね。

平田:いつもそれで貧乏してんですよ(笑)。こういう美しい場所は、いまみんなスナック建ってたりなんかして。

池上:最後に、どういう風に聞いたらいいでしょうね(笑)。

細谷:いろいろ写真のことをお聞きしてきましたけれども。

池上:長年写真を撮ってこられた中で、平田さんが大事にしてきたことっていうのはなんですか。

平田:一言では難しいなあ。みんな大事なんですけどね。世の中で展開している事象はすごく大事だし、時の流れも大事だしね。写真って世界で撮れる範囲を、私は100パーセントやりたいと思っているし。写真っていう機械で記録するということが、すごく意味があるし一番大事なんですけどね。個人だけのアートの範囲じゃなくてね、写真のアートの範囲ってものは大変意味があるし、時代が変われば変わるほど価値があると思うんですよね。だから今更ながら、写真というのはすごいものだと思いますねえ。機械で記録するということですねえ。しかも個人で記録するということ以外に、マスメディアの発達とか社会の動きと同時に、写真ってものが必要になってくるし、意味があると思うんですよね。だからますますこの写真という世界を大事にしてますね。

池上:ありがとうございました。

平田:あんまり言葉じゃうまく言えないけど、何回でもチャンスがあればお話しますからね。

細谷:引き続きよろしくお願いします。

平田:こちらこそ。いろいろやることあるからね。あれもあるんだ、空の話。これは死ぬ前にやろうと思うんですよ。ゼロ戦が馬鹿にはやっちゃったでしょ、マンガやなんかで。私はゼロ戦っていうのは飛行機としては好きだけど、あれは人殺しのすごい武器なんですよ。そうじゃない世界が、私は戦争の後で友人たちとやってきた世界があるんです。ゼロ戦の設計者のひとりに本庄季郎さんって科学者がいて、私たちと一緒に「手作り飛行機をつくる会」を作った方がいるんです。その方が作った人力飛行機だとか、それから世界で初めて人力飛行機の世界記録を作ったポール・マクレディー(Paul McCready)という博士がアメリカにいて、その方のインタビューもしてるんですよ。そういう世界ですね。戦後の翼は戦争の道具じゃないっていう世界で、スカイスポーツが始まったんですよ。ハングライダー、パラグライダー、熱気球、風と一緒に、風のように鳥のように、もう一度写真でまとめようと思って、それも含めて始めようと思っています。

池上:これからもまだまだやることがたくさんで、お忙しいですね。

平田:いろいろ協力してください(笑)。

細谷:こないだ、空ってのは「くう」で、死というのが平田さんの中でイメージとしてあるとおっしゃってたのが、印象的で。空へ向かうってことが。

平田:人間にとって、最後に残されたテーマなんですよね。あんまり観念的なものと写真を結びつけられないし、しちゃいけないと思うんだけども、そういう表現に似た世界をこういうことでやってますからね。どうして人間が空へ向かうのか。その向こうになにがあるか分からないのに。私にとっちゃ空だけですよ、残されたものはね。これはきっと死ですよ。

細谷:それは悪いイメージじゃなくてね。

平田:もちろん。生き物はそうなるんだから。それを端的に形にするには、単純に鳥のように飛びたいとか、風のように飛びたいとか。それから、風と私の関係を「風に吹かれて」というタイトルで、今後の大きなテーマとして写真で取り組みたいと思っています。

細谷:美術家たちが未知の世界に行こうとするっていうのは、つながるところですか。

平田:もちろん。みんな求めてるんだよね。だけど分からないしさ。旅をしたいですよ。そうして熱気球で空飛んでると、いろんなことが目の前に出てくるんですよね。ロケットとか使って轟音出して飛ぶ世界とはまったく違う、私の世界はね。そんなことで、写真と結びつくことができましたからね。この世界をやらなくちゃならない。たくさんポジはあるからね(笑)。これある人がデジタルにしようじゃないかと言ってくれて。私はもう目も悪くて自分じゃできないしね。同調してくれる方と一緒に、「風に吹かれて」、また今年はやろうと思ってんですよね。

細谷:美術も沖縄も空も、そして風もひとつづきですからね、平田さんの中では。

池上:これからのご活躍を期待しております。今日は本当にありがとうございました。