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イチゲフミコオーラル・ヒストリー 2016年7月18日

東京都練馬区、イチゲフミコ自宅にて
インタビュアー:池上裕子、細谷修平
書き起こし:五所純子
公開日:2016年12月1日
 

イチゲフミコ(1940年〜)
アーティスト
東京生まれ。多摩美術大学油彩科卒。画家、立石紘一(1941年~1998年。1968年からはタイガー立石を、1990年からは立石大河亞を名乗った)の妻。1964年に立石と出会い、パートナーとして暮らし始める。1969年に二人でイタリアに渡る。今回の聞き取りでは、イチゲの見た1960年代の東京の美術シーン、イタリアに渡るまでの立石の制作と活動、漫画家としての活動、また渡伊後の生活やエットレ・ソットサスとの協働について語っていただいた。

池上:今日はよろしくお願いいたします。内容は少し電話でご説明したんですけれど、多くの場合は、作家さんにお生まれから現在に至るかたちでお聞きしています。

イチゲ:はい。私は本人じゃないので、わからないことがたくさんありますけれども。

池上:イチゲさんのご活動についてもぜひお聞きしたいです。

イチゲ:いえ、私は活動とか全然してなくて。

池上:でも素敵な作品が……(注:部屋に飾られたワイヤーの立体作品を見ながら)。

イチゲ:これはね、もう作ることはないと思ってたんですね。心臓の手術とかして。あとは、大事に生きていこうと思っています。

池上:そんなそんな。

イチゲ:本当に。だんだん自覚するような感じに。去年の暮れまでは、小さなドローイングを描いていたんです。なんかSF的なものが好きで、五次元って影が立体になる次元なんですね、そういうのを想定しながらカラーペンシルで描いていたんです。でも急に、それを立体にしようと思って、去年の暮れから始めて。圧迫骨折したから本当に動いちゃいけないんですね。動くと骨が固定しなくて手術につながるっていうことで、何もしない。それでやっとコルセットが取れてから作りたくてしょうがなかったので、今はずっとやっています。ステンレスワイヤーを、本当に糸一本とペンチ一つっていう。それだけなんですけど。

池上:これとか本当に素晴らしいですね。中と外がつながってますよね。

イチゲ:そうなんです。表面が全部つながってるというアイデアで。

池上:素晴らしいです。どういうふうに作るのか、ちょっと想像が……

イチゲ:頭の中で立体的につないでいく感じです。

細谷:なるほど。これが立体というか、SFのように。

イチゲ:何て言うか、影が立体になる次元と言うんですけれども、五次元。そういうのが本当に楽しくて。これから何点か作って、一度くらい作品展ができるかなという感じなんですけど。まあ2〜3年かかると思うんですけど。

池上:楽しみですね。イチゲさんのことについても少しうかがえればと思うんですが、イチゲさんご自身がお生まれになったのは……

イチゲ:私は東京です。

池上:何年にお生まれですか?

イチゲ:1940年生まれです。立石は1941年なので、私のほうが1歳上というか。

池上:そうなんですか。イチゲさんご自身も小さい頃から絵を描いたりとか。

イチゲ:ええ、好きでしたね。

池上:そういうお勉強のほうに進まれたんでしょうか?

イチゲ:そうですね。高校が都立高校の普通の高校なんですけど、大学が多摩美術大学の油彩科です。

池上:そのときの先生はどなたでしたか?

イチゲ:先生はね、末松正樹さん。

細谷:ご入学された年は何年か覚えていますか?

イチゲ:ええとね、卒業が1963年だから、58年か59年だと思う。

池上:卒業されて、タイガー……、タイガーさんとお呼びしていいんでしょうか。

イチゲ:立石で結構です。

池上:立石さんと出会われたのが、卒業されてその次の年ということになるんでしょうか。

イチゲ:そうですね。1964年の3月ですか、上野の都美術館で自主アンデパンダンというのがあったんですけど。1963年で終わってるんですね、アンパン(注:読売アンデパンダン展)は。その時に観に行って、1964年なんですけど。立石はその時は《汝、多くの他者たち》(1964年)という油彩を出して、私はそれを観て。入口で、入口というか出口で彼が向こうから歩いてきたので出会うんですね、出口のところで。

池上:この作品の作者だというのは?

イチゲ:それは知っていた。その前からアーティストの家で会ったりとか、作品は知っていたんですけど、直接話したこととかなかったんです。私はこの作品がすごくインパクトがあって、そういうことを「立石さん」とか言って喋って、それから付き合うようになった。

池上:イチゲさんはご出品されてなかったんですか?

イチゲ:その年はね、篠原有司男さんがやった「Off Museum」(椿近代画廊、1964年6月17日〜22日)ですか、新宿のそっちに出した。なんかね、ギューちゃん(注:篠原有司男)が「イチゲさん何やってる? 出さない?」って誘ってくれたんです。それで2点作品を、平面ですけど、出した覚えがあります。

池上:それは油絵を出されたんですか。

イチゲ:油絵というか、その時はアクリルで描いてたんですけど、ちょっとポップ・アート的な。その頃は、いつも小さいカメラを持っていて、自分で撮影したフィルムを投影して、輪郭をとって絵を描いていました。

池上:椿近代画廊であった展覧会ですよね。

イチゲ:そうです。深沢七郎さんとかいろんな方が出した。

池上:すごくいろんな方が出されてた。

イチゲ:はい。私は(読売)アンパンは1962年と63年ですか、学生の時に2回出しただけです。

細谷:今おっしゃっていた、他の美術家の家に集まったりとか、そういうことは頻繁にされていましたか、ギューちゃんとか。

イチゲ:そうですね。内科画廊に行くといろんな展覧会をやっていて。私も一度やったことがあるんですけれども。

細谷:内科画廊で。

イチゲ:ええ。その時は中西夏之さんが顧問で、宮田(國男)さんを経由して。私はお金はちょっとまけてくれたりとか。一度だけですけど。(注:「市毛富美子個展」1964年8月17〜22日)

細谷:ギャラリーを介して他の作家の方とも(出会われたのですか)。

イチゲ:そうですね。なんとなくそういう感じでした。

池上:そこで立石さんと出会われて。その作品が印象的だったというのは、どういうあたりが。

イチゲ:その頃、なんかね、手で描くのは古いとか皆言ってた。そういう時、ちゃんとイメージで富士山が、モーフィングって言うんですか、そういう感じで。

池上:はい、少しずつ形が変わっていくような。

イチゲ:私は映像的なものにすごく興味があったので、自分もいつもカメラを持っては不思議な感じがするところを写して、それを絵に描いたり、そういうことをやっていたものですから。そのときはね。

池上:当時の立石さんはどんな印象の方でしたか。お二人ともとてもお若くていらしたわけですよね。

イチゲ:そうですね。彼は22歳、私は23歳。

池上:お話が合うというか、気が合われて。

イチゲ:そうですね。

池上:イチゲさんが東京ご出身ですけど、立石さんは田川(福岡県)の炭坑町ということで、彼が生まれ育った環境というか、背景は、どのような感じだったんでしょうか。

イチゲ:どんどん変わりましたけどね。私は戦争中は茨城県の水戸というところに、両親の里ですけど、そっちのほうに疎開していたんですね。それで母の実家が焼けたりとか、すごい怖いイメージというか恐怖症みたいになって、終戦、終わっても飛行機の音で本当に暗い所に駆け込むとかいう感じで。そんな話をしてましたら、立石のほうは、炭坑地帯というのは戦後のエネルギー政策のために絶対爆撃しなかったんですね。だからそんな怖い思いじゃなくて、上からきらきら焼夷弾が落ちてきたりとか飛行機が燃えて落ちてきたりとか。彼は4歳か5歳だったのかな。視覚的な綺麗なイメージしかなくて、怖いというのは全然知らないと言っていましたね。曇りガラスに小さい鉛筆で絵を描いては、母親が雑巾で拭いてくれてそこにまた描くとかね。そういう感じでいつも小さい時からそういう飛行機の絵とか戦車とか描いていたと言ってました。紙が貴重だから。

池上:そうですか。イチゲさんご自身は東京で空襲に遭われたり、そういうことは経験されてますか?

イチゲ:あのね、いちばん最初に覚えてるのは、B29ができてから直接爆撃可能になったわけですね。それまでは沿岸をつたって日本に来てたんですけど。

細谷:ええ。直接来るわけですね。

イチゲ:直接来るようになったら、その時、戸越銀座というところが爆撃されて、そこから血だらけの人が担架で病院に運ばれて。そういうのはちらっと覚えていますけど、それが初めてだった。あとは疎開しましたから。

池上:じゃあ、いちばん空襲が激しかった時期は茨城におられた。

イチゲ:ええ。

池上:お二人とも同世代ではあるけれども、どこにいたかによってだいぶ経験が違うんですね。

イチゲ:そうです。

池上:占領期にアメリカの文化がドーッと入ってくると思うんですけども、イチゲさんもそれはすごく吸収しましたか。

イチゲ:ドーッと入ってきたというか、私は終戦後の第一回目の小学校なんですけど、その時はもう東京ですから、小学校なんかも焼け落ちちゃってない。場所が不足していて、一つの学校に三つくらいの学校が一緒になって、だから一日に三つくらい分けて、授業がほんのちょっとしかなかった。

池上:それはどちらですか。

イチゲ:最初は品川区だったんです。

細谷:品川のどちらですか?

イチゲ:荏原中延です。

池上:その小学校に通われるようになった頃も品川で。

イチゲ:そうです。そういえば、運動場のはずれに天皇のご真影、写真を入れておくところがあって、奉安殿とか言いましたけど。そこが終戦になったら皆で壊して。それを子どもの時から覚えてます。「何これ?」と思ってました。それまでは命がけで守らなきゃいけないですよね。先生方が宿直みたいにして。それから後、やっぱり食糧難の時にいろんな物資がアメリカから来て、給食の、皆まずいとか言ってましたけど、あれで皆栄養をもらったような感じですね。それを覚えてます。

池上:立石さんの昔のインタヴューを読むと、アメリカ映画がバーッと入ってきて、それを夢中になって見ていたということも言われているんですが。

イチゲ:ええ。そういう政策もあったと思います。学校から、たとえばディズニーの『ファンタジア』(1940年、日本公開は1955年)とか『白雪姫』(1937年、日本公開は1950年)に連れて行って、皆に見せて、それが基本というか。それから天然色の映画。『船乗りシンドバッドの冒険』(1947年、テクニカラー、日本公開年不詳)とかね、あれは本当に覚えています。

池上:やっぱり凄いと思って?

イチゲ:凄いというか、夢みたいな。その周りには、私は本が好きだったんですけど、子どもの本といったら最初は藁半紙に綴じた『小学校一年生』とかがあったんですけど、毎年ちゃんとした本に変わっていくとか。3年くらいしたらわりとちゃんとした出版の本になったのかな。

池上:物質的によくなっていくという。

イチゲ:そうです、はい。

細谷:立石さんも、ディズニーにだいぶ衝撃を受けたとインタヴューで(「ロング・インタヴュー 立石大河亞 亜細亜はタイガー」、『美術手帖』、1995年8月)。

イチゲ:ええ。周りは本当に焼け跡とか灰色の感じで。それで映画はすごい天然色。

池上:二人とも映画がお好きでいらしたのも、気が合われた部分だったんでしょうか。

イチゲ:そうですね。最初二人で出かけたというのは映画。三本立ての黒澤(明)の映画ですね。オールナイトの。

池上:そうですか。じゃあ、日本映画もたくさんご覧になっていた。

イチゲ:そうですね。日本映画はあまり観なかったですけど、大人になってからはやっぱり黒澤とか大島渚とかはちゃんと観まして。

池上:ちょっとお訊きしようと思っていたのが、1963年の読売アンデパンダンにイチゲさんも出品なさっていたということですけども、立石さんも《共同社会》(1963年)というすごく大きなパネルの作品を出されていますよね。それはその時にご覧になって覚えていらっしゃいますか?

イチゲ:見てますね。私はこれよりは次の年の《汝、多くの他者たち》のほうが好きだったんですね。

池上:そうですか。それはさっきおっしゃっていた、イメージがちょっとずつ変わっていく感じとか。

イチゲ:そうですね。《共同社会》のああいう作品はすぐ理解できるというところはあったんですけど、油彩のほうがすごくフレッシュで新しい考え方が伝わってきて、すごくドライな感じで。(資料を見ながら)あ、これですね。

池上:こちらですね。たしかに、今から見ると《共同社会》のほうが毛色が違う感じに見えますね。

イチゲ:そうですね。1964年のアンパンには、本当は《汝、多くの他者たち》じゃなくて、富士山の大きいネオンサインみたいなのを想定してたんですね、出品作として。それでアンデパンダンがなくなって、急遽油絵を描いて。でもそのできなくなったものを考えながら、自分のポスターとして《立石紘一のような》というグワッシュの作品を描いて。それはこの富士山の作品のポスターということです。その作品ができなかったから、そのポスターを一生懸命描いたみたいなんですよ。どこかで東野芳明さんが「立石君、今何やってるの?」と訊かれて、「こういうのやってる」と言ったら「じゃあ見に行く」と言って、小さいアパートに連れて行って。東野さんが見てくださって、これを(「ヤング・セブン展」で)見せるのに出しましょうと。

池上:それで大きくして《立石紘一のような》(1964年)という絵画作品に、ということなんですね。(注:絵画作品は高松市美術館の所蔵だが、小さいグワッシュ作品の現在の所在は不明)

イチゲ:ええ、そうです。

池上:これは本当に大きい作品ですよね。

イチゲ:そうですね。4点に分かれていて、保護するためにビニールがかかっていたので残っていました。

池上:横が250センチ近くあって。

イチゲ:もう一つ、これに関連したことがあるんですけど。青焼きポスターですか、ネオン作品を発表の時に宣伝のチラシとして配るための青焼きコピーというのが出てきて。立石が亡くなってからなんですけど、2000年に。彼の友人が小学校の美術の先生をしてたんですけど、退職した時に自分のスケッチブックの間に挟まれていたのを見つけて。それは本当にいっぱい刷る前の参考として一点だけ作ったもので、それが出てきて、私にくれたんです。彼もびっくりしてました。「全然忘れてました」って。その友人は《共同社会》を作る時も手伝ってくれたり、いつも常にいろんなことを手伝ってくれてた人で。

池上:その一点出てきた青焼きポスターというのは、今どちらにあるんですか?

イチゲ:山本現代(注:立石作品の取り扱い画廊)に全部預けてあります。それが二年前でしたっけ、ニューヨークでありましたよね、日本の。

池上:MoMAの東京展(注:“Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde”展、ニューヨーク近代美術館、2012年11月18日〜2013年2月25日)ですよね。

イチゲ:その時に出品されています。

池上:カタログを見てみます。

イチゲ:それがね、カタログが印刷間違いで、違う作品になって。それは本当にがっかりしたんですけど。

池上:出品されていたのにカタログには載ってないんですか。

イチゲ:そうです。それではなく、サトウ画廊というところでやった個展(「積算文明展」、1964年2月10日〜15日)の小さいチラシになってるんですよ(注:“Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde”展図録、77頁に「積算文明展」の予告チラシが掲載されている)。その前に何回も打ち合わせで電話がかかってきたりして話してたんですけど、カタログを作るときに……

池上:間違いが起こってしまった。

イチゲ:それは本当に残念でしたね。

池上:実物をぜひ拝見したいです。この富士山とか旭日というモチーフが1963年から出てきていると思うんですが、このモチーフがどういうふうに出てきたかご存知ですか。

イチゲ:生まれ育った田川の駅前の文房具店の看板にレリーフ状の旭日があり、子どもの時からずっと眼と頭の中に入っていて親しんでいたと聞いたことがあります。作品を考える時に、まず旭日のイメージが出てきたと話していました。あと、やっぱりその頃、『ライフマガジン』なんかでアメリカのポップ・アートの特集とかがありましたね。あれと同時くらいに日本でも、直に影響を受けてというのではなくて、それぞれ影響を受けてるような人たちがいて、彼もそういう感じがしましたね。日本で誰もそういうドライな作品を作ってないのに、旭日パターンの作品が。

池上:アメリカのポップもまだそんなに大々的に紹介されてないと思うので、その影響とはちょっと関係ないところからこういうパキッとしたスタイルを始めてらっしゃる感じですよね。

イチゲ:ええ。彼はムサビ(武蔵野美術大学)の短大(芸能デザイン科)なんですけど、卒業してからネオン会社(注:昭和ネオン工業株式会社)に就職して1〜2年働いてたんです。それもこのネオンの作品を作りたいがために。だからそのコピーも会社のいろんな材料を使って作ってる。

池上:会社のほうも理解があったというか。黙ってやってたんでしょうか。

イチゲ:黙ってやってたと思います。宿直しながら自分のことをやっちゃったみたいな。

細谷:当時の原稿を読んでもそのことが出てきます(「迷路からの脱出 アンデパンダン展についてこう考える」、『美術手帖』、1964年6月)。

池上:そうですね。1964年アンパンがなくなってしまってショックを受けたという話もされてますね。

細谷:せっかく働いてまで準備したのに、結局読売アンパン自体はなくなってしまって、ショックというか。

イチゲ:彼はいつもそういう狭間、境目を経験してるタイプなんですね。年代的に。

池上:いわゆる反芸術の他の作家さんよりも少し若くていらっしゃるし。

イチゲ:そうですね。この虎のモチーフの《虎の園》(1964年)というのはね、中国の紅衛兵の革命がありましたよね。あれの始まった頃、岩波の教育映画の人たちが中国に行って撮っているときに遭遇して、それをドキュメンタリーにまとめたのがね、1964年だと思うんですけど、二人で観た記憶があるんですね。それにすごく影響されたというかショックというか、彼はそれから虎を描き始めた。

細谷:岩波映画ですか。何年ですか?

イチゲ:1964年だと思うんですけど、ちょっとそれもはっきり……(追記:映画は1967年に公開された『夜明けの国』。その完成前のフィルムを1964年末に紀ノ国屋ホールで見た記憶があり、それが《虎の園》の制作につながった。)

池上:紅衛兵についての映画。

イチゲ:ええ。だからアジアのパワーですよね。ブワーッと。紅衛兵といっても中学生とか高校生くらいの、10代の、頬っぺたを真っ赤にしてハチマキをして、というイメージで。それと毛沢東で、《虎の園》というのを描いたんですよね。この絵はなくなっちゃったんですけど。預けてなくなっちゃったんです。残念です。

池上:プロパガンダの大きい力というか。旭日のモチーフとか富士山とかも、戦時中にはそういう意味合いもあったわけですよね。

イチゲ:はい。でも彼の場合、それにユーモアをプラスするみたいな感じで。

池上:そうですね。それを笑い飛ばすというような。

イチゲ:そうですね、はい。ダリ展も一緒に見に行ったんですけれど(注:「ダリ展」、東京プリンスホテル、1964年9月8日〜10月18日)。(作品の写真を見せながら)これはダリの顔ですよね。そのすぐ後に描いた絵なんです、これ。

池上:これはちょっと私、カタログでも見たことがない。

イチゲ:写真やスライドはあるけど、現物はもうどこにあるか全然(分からない)。

池上:これは何というタイトルですか?

イチゲ:分からないですね。「ダリの鼻面で〜」とか。

池上:ダリ展からかなりインパクトを受けたということが分かりますね。

イチゲ:そうですね。帰ってきてからすぐ描いたのかな。小さい絵なんですけど。

細谷:ちなみに、《虎の園》は、いつ頃までお手元にあったんですか。

イチゲ:中国系のアメリカ人の人がいて、奥さんが日本人なんですけど。テキサスで画廊をやっていて。その人が日本に来て、こういうアヴァンギャルドの人たちの本を作ると言って、動いていたんですね。

池上:私、その人の話聞いたことあります。他の作家の方から。

イチゲ:デヴィッドという人です。《哀愁列車》(1964年、1988年再制作)もそうなんです。南画廊を通して裁判みたいなのがあったみたいなんですけど。それで一点返ってきたのもあるんです。

細谷:それで、《赤い覚醒》は1964年ですか。

イチゲ:そうですね。これは残念ながらなくなっちゃったんですけど。ただ、これは小さいミニチュアサイズで描いたのがあったんですね。それはイタリアのナビリオ画廊、今はないと思うんですけど、その人が買ってくれた。どこかに残っていると思うんですけど。

池上:旭日モチーフというのはいろんな方に親しみのあったモチーフだと思うんですけど、横尾忠則さんもポスターで使っていきますよね。そういう共通点といいますか、そういったことに何かおっしゃっていたことはありましたか?

イチゲ:横尾さんのほうがすごい年上なわけですよね。

池上:ご年齢はそうですね。

イチゲ:でもサトウ画廊でやっていたのは立石のほうが全然先だと思うんです。

池上:そうですか。

イチゲ:ただ立石の場合はどんどん次から次へといくから、あまりそういう面倒くさいことは避けて、という感じが。

池上:自分のほうが先だった、みたいなことを主張されるわけではなくて。

イチゲ:そういうのは絶対に外で言ったりしない。

池上:日付けを見れば分かりますし。

イチゲ:その頃日本は、美術シーンというのもそんな複雑じゃないから。よくわからないですけど。

池上:今見てもすごくインパクトのある作品だなと思います。

イチゲ:そうですね、はい。

池上:もっと大きい作品の場合ですと、イチゲさんが手伝われたりということは?

イチゲ:絶対にしないです。

池上:それはご自分の制作もあるから?

イチゲ:ええ。トレースとか何かで手伝ったりしたことはありますけど、30代くらいの時。でもほとんどしないという感じで、彼は彼、私は私。

細谷:お二人はどちらにお住まいになっていたんですか。

イチゲ:いつですか?

細谷:その頃、一緒になられて。

イチゲ:最初、アパートは広尾というところだったんですね。彼と一緒に暮らすようになってから彼が亡くなるまで、15回は引っ越してるかな。

池上:イタリアに行かれたり、いろいろされてますもんね。

イチゲ:イタリアの中でも4回引っ越してる。

細谷:最初は広尾に。

イチゲ:そうです。アトリエ兼というか、まあ六畳一間ですよね、最初。私がちょっと体を壊したりして、日本画廊の「3人の日本人展」ですか、あれの話があって(注:「3人の日本人展(3人の画家による戦后20年)」、日本橋画廊、1966年2月1日〜19日。中村宏、山下菊二とともに出品)。私の実家がその頃、大田区だったんですけど、そこに二人で居候を何ヶ月かして、その間に描いたんです。《アラモのスフィンクス》とか《明治百年》(1965年)《大農村》(1966年)、《荒野の用心棒》(1965年)。

池上:どれも、わりと大きな作品ですよね。

イチゲ:そうです。でも彼は一等最初の《汝、大きな他者たち》も百号くらいなんですけど、三畳間で描いていたんですよ。だから、絵のことだけ考えると日常のやることはギリギリでも平気だったみたい。

池上:ご実家に身を寄せられているときにこんな大作を次々にものしているとは。「3人の日本人展」は中村宏さんと……

イチゲ:山下菊二さんと。

池上:三人でされてますね。中村さんとは観光芸術研究所を一緒にされてますけど、そのご交流というかお付き合いについて聞かせていただけますか。

イチゲ:観光芸術研究所について話をすると、立石と中村さんと全然話す内容が違うと思うんですね。だから私なんかがとても話ができる内容じゃないと思います。

池上:でも人によって言うことが違うというのも、私たちは当然のことと思ってお聞きしています。いろんな見方があっていいと思います。

イチゲ:ええ。だから私も立石が亡くなってからよく訊かれたんですけど。どうしてやめたのかとかね。説明できないですよね。自然消滅みたいな感じで。1年半か2年くらい活動して自然に終わった。立石にしたらやるだけやったという感じで。だから中村さんはまた全然違うことをおっしゃられると思うんです。

細谷:立石さんから見た観光芸術研究所というのは、どういった……

イチゲ:立石は二人だけでやるというのじゃなくて、どんどんいろんな人を巻き込んで、そういう感じで言ってましたけど。中村さんはそうではないというか。私もよくわからないですけど。

細谷:立石さんとしては二人だけじゃなく……

イチゲ:ええ。

池上:「研究所」と言うからには、二人以上いてもおかしくない。

イチゲ:そうですよね、はい。

細谷:もっといろんな人を巻き込んで。

イチゲ:それでどんどん変わっていくような、内容が。そんな確かではないんですけど、中村さんと話し合ってとかそういうのもあったかどうかわからないですね。ただ手紙のやりとりは何回かしてましたけど。

池上:こちらにも写真が出てますけど、「路上歩行展」(東京駅周辺、1964年4月)もされたり。

イチゲ:これ面白いですね。

池上:ちょっと映像も残ってましたっけ、これは。

イチゲ:写真だけだと思います。

池上:これもアイデアがやっぱりすごく面白いなと思って。

イチゲ:そうですね。ラッシュのときに重いキャンバスを持って歩くのが大変だと言ってた。

池上:そうですよね。こういうことをされるときに、今度こういうことをやるんだとかアイデアをお話しになることはありましたか。

イチゲ:私にですか?

池上:はい。

イチゲ:この時代は本当に、知り合って何年もたってるとかじゃないので、まだ知らなかったです。川原でやってたときも映像しか見てないです。

細谷:中村さんが撮られてますね。

イチゲ:はい。チラシを貰ったけど行かなかったのかな。

池上:多摩川の岸壁ですよね。

イチゲ:ええ。あれは中村さんが映像を持っていらっしゃいますけど。

池上:未完ですけど、ネオンの富士も出てきますよね、あの映画に。

イチゲ:(資料アルバムを見せながら)これも川原で、大きいのになるはずだったのがこれで終わっちゃったみたいなんです。欠片みたいな感じ。これは星みたいになるのかな。

池上:星形の大きいオブジェを作る予定で。

イチゲ:そうですね。それがこれです。

池上:ああ、これが部分なんですね。まだ星になってない。

イチゲ:はい。これだけ写真が残ってて。

池上:面白いですね。ネオンの富士の絵画のほうは映像にもあるのでわりと有名ですけど、この星形のほうはあんまり。この写真、とても貴重ですね。

イチゲ:そうですね。今見ると……

池上:ドラム缶の蓋みたいな。

イチゲ:ドラム缶を切ったり何かして。

池上:鉄、金属片がくっついていますね。

イチゲ:途中で終わったという感じで。

池上:こちらの絵はがきは?

イチゲ:これは高校生のときに描いたの、田川の風景。これは何かね、美術部の同級生の女の子にプレゼントしたら、彼女が何十年も持っていて返してくれて、美術館に寄贈して。小さい絵だったんですけど、ちゃんと残ってた。

池上:そうなんですか。最初はやっぱりこういう絵も描いてらしたんですね。

イチゲ:そうですね。一点だけしか、ええ。

池上:貴重ですね。

イチゲ:若い頃のは全然残ってないですよね。

細谷:ちょっと話を戻していいですか。観光芸術の前に、さっきおっしゃっていた「3人展」が山下さんとの。

イチゲ:それも観光芸術につながりますね。

細谷:つながりますけれども。

イチゲ:それで終わったのかな、中村さんとの活動は。

池上:最後の大きいイベントみたいなのがあるわけですよね?

イチゲ:そうだと思います。

細谷:ちなみに山下さんとの関わりとか接触なんていうのは、イチゲさんのほうから聞いたり見たりされていますか?

イチゲ:いや、特にないですね。ただ一緒にご飯を食べたりとかそういうのは。でも山下さんってその時、40代ですよね。若かった。

池上:そうか。世代が上という感じだけど、立石さん本人がすごく若くて。

イチゲ:それで中村さんは元左翼で、山下菊二さんは元軍人ですよね。じゃあ俺は右翼だ、って。そんな感じで。

細谷:ちょうど10歳くらいずつ違う。

イチゲ:そうですね、はい。

細谷:あとはさっきおっしゃっていた「ヤング・セブン展」(東野芳明企画、南画廊、1964年1月30日〜2月15日)があったりして。

イチゲ:はい、1964年ですね。

細谷:この時、中西(夏之)さんとか工藤(哲巳)さんとか菊畑(茂久馬)さんとかも出されてますけど、他の作家の方々との何か交流みたいなことは?

イチゲ:これ、展覧会は見に行ったんですけど、その時は立石とはまだ話をしたりするような間柄ではなかったです。だから1964年というのはいろんなことがぎっしりありましたね。オリンピックもそうですよね。

池上:イベントが目白押しというか。

イチゲ:そうですね。そうですね。

細谷:お知り合いになられてから、他の作家さんと親しくされていたりとかはありますか、立石さんは。

イチゲ:いや、全然覚えてないですね。中村さんくらいかな、その頃は。お正月行ったりとか。

池上:中村さんはどういう方という印象でしたか、当時?

イチゲ:うーん、どういう方って、人間ですか? 

細谷:作家さんとして。

イチゲ:当時、映画やSFの話をたくさん聞いたことを覚えています。何でしたっけ、あの作品。《場所の兆し(1)》(1961年)。あれがすごく好きだったんですけど。

池上:立石さんとは共通する部分もある一方……

イチゲ:けれども、全然違う。

池上:基本的に全然違う作家さんだなというふうには思うんですけども。

イチゲ:そうですね。そこが興味があるんですけど。

池上:その二人が一時期こういうことをされてたっていうのがやっぱり面白いなと。

イチゲ:そうですね。オリンピックと書いているんですけど、私が覚えているのはテレビの番組があったんですね。30分くらいのかな。

細谷:ええ、長野千秋さんの番組ですね。

イチゲ:あ、そうです。

池上:「ある若者たち」(1964年)というやつですね。

イチゲ:ほとんどオノヨーコさんが出てるっていうやつ。

池上:けっこうたくさん出てきます(笑)。

イチゲ:そういうふうに誰かが言ってました。その時は駒沢公園で中村さんと椅子に座ってドーナツを食べてるって。

池上:そうですね。五輪型のドーナツというかパンというか。

イチゲ:それをテレビで、家で見たことがあるんですけど、ちらっとしか覚えてないんです。

池上:それは番組用にされたということなんですか。

イチゲ:長野さんのプロジェクト、企画のために。でも実際はオノヨーコさんの番組になっちゃったと誰かが。

池上:オノヨーコさん以外のシーンもたくさんありますよ。

イチゲ:そうですか。

池上:あれは、「番組用になにかやってよ」ということでされたんでしょうか。

イチゲ:そうだと思います、はい。

池上:そういう時のアイデアというのは、中村さんと立石さんで話し合って決めていたんでしょうか。

イチゲ:そうだと思います、ええ。

細谷:《東京バロック》(1963〜64年)とかここらへんが1964年ですよね。

イチゲ:《東京バロック》もさっきのデヴィッドさんが持ち出しちゃって、それで南画廊が取り返してくれたのかな。

池上:今は高松市の美術館に入ってるんですね。

イチゲ:そうです、はい。

池上:こちらの《哀愁列車》のほうは再制作をされて。

イチゲ:これはどうしても描きたいというので、展覧会の時に。

池上:じゃあ1964年のものに加筆をされているんですか? それとも?

イチゲ:それはもう預けちゃってそのままになって。要するに取られちゃったということですね。

池上:今もアメリカのどこかにあるということですか。

イチゲ:そうでしょうね。どこかのコレクターの部屋に入っちゃったのかもしれない。

池上:ちゃんと調査して、どこにあるかくらいは確認したいですね。

イチゲ:そうなんですよね。その時は私たちは若くて、他の人たちもそういう経験があまりなかったので、皆けっこう預けちゃった。

細谷:(《哀愁列車》には)三橋美智也がいたりとか、大衆的なものもどんどんモチーフに取り入れていく。

イチゲ:そうですね。

池上:旭日が出てきたり、富士山も描かれていたり。

細谷:こっち(《東京バロック》)はいろんなものが出てきていますね。三船敏郎も出てくるし。

池上:ビクターの犬も。

細谷:ビクターの犬も出てくるし。こういうのからたとえばシュールレアリスムの影響とか、あるいは社会主義リアリズムの技法みたいなものを意識されていたというのはお感じになりませんか?

イチゲ:そうですね。そういう方法論的なものをあまり話し合わなくて、ただできたものを「面白い!」とかそんな感じ。でも映画ですよね、基本になっているのは。次元の違うものが全部一緒くたに入ってきちゃうっていう。

池上:やっぱりコラージュだったりモンタージュだったり。

イチゲ:だからこんなものを入れていいのかとか、そういう制約は彼の場合ないと思います。

池上:画面の中に唯一の視点があったり、遠近法でここに収斂したりということをあまり気にしないわけですよね。

イチゲ:ええ。

池上:すごいなあ。現代的というか、そういう意味では。

イチゲ:そうですね。

細谷:ある種の映像感覚。

イチゲ:漫画を描く時のセンスともつながっていますよね。紙に描いてしまえば全部リアルというか。

池上:モチーフを選ばれる時っていうのは、何かこのモチーフに惹かれるみたいなことがあったんでしょうか。

イチゲ:そうですね。あとやっぱり、作品としての構成みたいなのは彼独特のセンスというか、それはあったと思いますけど。でも三船はあの時代の象徴的な人物として、好きだから入れたんでしょう。

池上:そういう素直なところも。

イチゲ:素直なところと複雑なところが一緒になって。

細谷:さっきの黒澤三部作を観に行ったオールナイトもありましたけど。

池上:ばっちり出てきてるわけですけど、やっぱりここで労働をしてる方が出てきたりとか。

細谷:そういうのが社会主義リアリズムっぽい、何ていうか。

イチゲ:というかね、オリンピックの前の時って本当にすごかったんですよ、東京。

池上:突貫工事で作業してる人たちというのも入っているんですね。

イチゲ:ガンガンやって。はい。

池上:でもすごく壁画的なイメージですし。やっぱりこういうところは社会主義リアリズムっぽい感じを感じます。

イチゲ:でも彼の場合は冗談が出てきちゃって「なんちゃって」とかそんな感じですよね。

池上:何か一つの主義を真面目にやるということではないという。

イチゲ:ないですね。材料として再構成するわけですね。

細谷:ただ時代状況というかその時々の、映画が特にイメージとしてあるように思います。

イチゲ:そうですね。あとやっぱり炭坑の町で育ったから、何て言うんですか、ポスターとかデモンストレーション、そういうのは感覚としてはあるんでしょうけど。自分の作品にする時はやっぱり、そういう下地に影響を受けてると思います。

池上:炭坑の町の視覚文化というか、そういうものが根っこにあるんでしょうか。

イチゲ:ええ。この時も日本中からいろんな人が集まってきて、絵を描いてるお兄さんとか、労働者として働きながら絵を描いてる人とか、いろんな人がいて面白かった。そういう人の影響を受けたとは言ってましたね。

池上:1964年から66年くらいにかけて、ものすごいペースでかなりの大きさの絵を何枚も描いていらっしゃると思うんです。一つ描いたら次のにいって、という感じで描かれていたんですか?

イチゲ:速かったですね、描くの。

池上:2〜3作同時平行で描くのではなくて、一点にずつ集中して?

イチゲ:やっぱりオイルだから、乾くのを待ってなくちゃいけないですよね。その間に他のを描いて、やっぱり3点くらい。何回か描かないと、マテリアル的にしっかりしない。

池上:じゃあ、同時進行的に何作か進めておられたんですね。

イチゲ:ええ。彼の場合、描く前に頭の中に全部できちゃってるわけですね。だから後は自分が自分の手を使うって、そういう感じで。だから描きながら追求してくというんじゃなかった。もう全部。

細谷:菊の紋が飛んでますからね。(注:《昭和二十一年筑豊之図》、1964年の図版を見ながら)

イチゲ:これ小さい絵だったんですけれども、これは石子順造さんの企画展に出して(注:「クリティカル・アート(評画)展・第2部(油彩作品を中心に)」、梅香亭ギャラリー、1964年12月13日〜19日)。六本木の梅香亭というお菓子屋さんの上にあったギャラリーだったんですけど。本当はここに赤いビロードがバーッとくるんですよね、床に這わせて。それが日本の流した血とか言うんですけど。

池上:それで菊の御紋が飛んでいるというのはかなり刺激的な。

細谷:そういうかたちで展示されたんですか?

イチゲ:ええ、そうです。この時覚えているんですけど、彼は仕事で、代わりに私がまだ出来上がってないような感じで濡れている絵を持って行ったんですね。そこに赤いビロードをこうやったのを覚えています。

池上:それは展示風景を見てみたいですね。

細谷:展示の時はビロードをつけてたんですね。

イチゲ:そうです。他にどんな作家さんがいたのか覚えてないんですけど。

細谷:石子さんの企画ですか。

イチゲ:ええ。まだ初めの頃ですね。

池上:こういうちょっとシュールレアリスムっぽいんですけど、飛行機が出てきたり爆撃があったり、戦争のイメージみたいなものが入ってくるような。

イチゲ:そうですね。どういうタイトルの企画展か覚えてないんですけど、それとやっぱりちょっと関係あると思いますね。この少年は自分なんですよね。五歳の時。自分が住んでる炭坑の長屋の家に住んでたわけですよね。そこの坂のところで目撃した風景だって。馬が動けなくなっちゃって、それを棒で皆で叩いて動かそうとするんだけど、そこで馬が死んじゃうのかな。そこでアメリカ兵がそれを見てるっていう。

池上:じゃあ、これはすごく自伝的な作品なんですね。

イチゲ:そうみたいです。一種の自画像じゃないけど。

池上:昭和21年の筑豊ですもんね。これは今、所蔵が書いてないですけど。

イチゲ:山本現代が預かってくれてて。小さい絵ですけど。

池上:でもすごく重要な絵なんですね。

イチゲ:そうですね。こういう絵はほとんど描いてないですね。

池上:でもご本人は爆撃とか空襲とか直接経験されていないですよね。

イチゲ:はい。ただこの馬が殺されるって、それはすごくショックで。それは本当に起きたことだから。

池上:そうでしょう。それはつらい。小さく日本列島の図が出てきたり。

イチゲ:日本が影みたいになってる。

池上:そうですね。よく見ていくと、いろんな複雑な入れ子構造みたいになった絵ですね。

細谷:何層にも。

池上:これはぜひ実物を見に行きたいです。他にもここ(《紅虎超特急》、1964年)に大きいものを描いていらして、虎のモチーフが本当にどんどん出てきますね。

イチゲ:そうですね。どんどん変わっていきますけどね、虎の最初のと。こっち(《強行着陸》、1965年)は漫画みたい。

池上:虎がコーラを飲んでいて。

細谷:中国の飛行機があって。

池上:ちょっと映画みたいなパノラマ的な風景が出てきますね。こういう絵は当時はどこかに展覧会に出しても、売れるということは全くなかったんですか?

イチゲ:なかったです。一点も売れなかったですね。

池上:売るつもりは?

イチゲ:欲しいと言ってくれる方がいたら喜んでという感じだったと思いますけど、そういうことを考えることもなかったですね。その当時はそれが当たり前みたいな。

池上:売れるなんて思いもしないという。

イチゲ:ええ。

池上:じゃあ、売れないから悔しいとかそういうことでもないですか?

イチゲ:ないですね。ただ面白かったのは、この日本画廊でやった時。私は写真の引き伸ばし機を持ってたので、白黒だったんですけど、何種類か絵葉書を焼き増しして置いといたら高校生みたいな子が買ってくれたりして、けっこう感動しました。

池上:そうですか。人気になったんですね。

イチゲ:ええ。

池上:やっぱり、大衆的なモチーフをすごく上手に使われるので、そういうところは親しみやすいのかなと思ったりしますよね。

細谷:1965年くらいですよね。

池上:これがご実家で描かれたという《明治百年》(1965年)。

イチゲ:そうです、ええ。これがあの、パチンコの台になってるんですよね。

池上:え、そうなんですか?

イチゲ:こっちのほうがわかるかな。(別の資料を取り出す)

細谷:『朝日ジャーナル』(1966年Vol. 8, No. 33, 8月7日号)に載ったんですね。

イチゲ:ええ。『朝日ジャーナル』の表紙。ここに釘が……

池上:ああ、たしかに日本列島の上に釘が。これはパチンコ台を。

イチゲ:うん。日本列島がパチンコの台になってる。

細谷:ということですね。

池上:そうか、それは分かってなかった。この間お手紙にも書いたんですけど、私がアメリカで企画に関わった展覧会にこの絵を出させていただいて(注:“International Pop”展、ウォーカー・アート・センター、2015年4月11日〜8月29日)。でもこの釘みたいなものは何だろうって実は思っていて。

イチゲ:そうですか。

細谷:何だろうとは思ってたんですね。

池上:そうそう。パチンコとかそういうものだとは思いつかなかった。

イチゲ:もっと前ははっきりわかったんだけどな。

池上:でも今も見えるのは見えますよ。

イチゲ:そうですね。

池上:でもそういう意味のモチーフだということはわかってなかったです。面白いですね。

細谷:面白いですね。

池上:なぜパチンコなんでしょうか。

イチゲ:日本列島と日本人の生活はパチンコで成り立っているような、そういうイメージだったと思うんですけど。

細谷:なるほど。

池上:当時はやっぱり人気があった娯楽で。

イチゲ:ええ。今とパチンコは全然違いますよね、その当時は。指で弾いて。でもすごい日本という感じで。

池上:可笑しい。そうか、そういうところに。

イチゲ:これは何だろう。中国から攻めてきたのかな、この虎は、日本を。

池上:赤と星で中国っぽいイメージではありますね。

細谷:1965年ですからね。

イチゲ:はい。天皇も描いてるけど、全然ニュートラルな感じです。

細谷:そうですね。

池上:この明治天皇と西郷隆盛と昭和天皇と。

細谷:裕仁を描いて。

池上:マッカーサー。

イチゲ:今見たら、なんで三船なの?って言う人がいますけど。

細谷:出てきますね。昭和のある種の象徴なのかもしれないですね。

イチゲ:そうですね、男性的な。

池上:戦後のスターで。これはやっぱり他の作品と比べてもすごく面白いというか、ユニークな感じがするなと思ったんですけど。

イチゲ:そうですか。

池上:《明治百年》というところですとか、まだ百年じゃない時にそれを描いていて。1965年ですから、まだ2〜3年はあるのに。こういう図柄というか、絵柄にするぞというのは、パッと思いつかれていたんですかね?

イチゲ:そうですね。

池上:特にこれは気に入っているというふうに話されていたものはありますか?

イチゲ:どうでしょうね。自分の中でそういう、何て言うんですか、作品に対する、特別これに思い入れがあるとかは、そういうのはないと思いますけど。

池上:だいたい一枚描かれるのにどれくらい?

イチゲ:この時はね、さっき話しましたけど、実家にいたわけですよね。なるべく早く別のところに移りたいというので、ものすごく集中して描いて。冬、寒かったんですけど、それを覚えていますね。速かったです、描くの。

池上:本当に絵具が乾いたらすぐ出来上がりというような?

イチゲ:そう、そんな感じですね。

池上:今見るとこれだけの大作をね、そんな短期間にこんなに。

イチゲ:あと一年くらいこういうのを描いていたら面白かったのにな、と思うんですけど。

池上:一点一点それぞれ全然違うものじゃないですか。

イチゲ:そうですね。

池上:シリーズで似たようなものが展開していくというのと全然違うので。

イチゲ:半年もかかってないですね、全部描くの。

池上:すごいですね。

細谷:本当に映画的というか、イメージですよね、頭の中にある。

池上:いくらでも湧いてくる方なんですね。

イチゲ:そうですね、ええ。

池上:さっきも紅衛兵の話が出ましたけど、この時期に中国のことをこんなにテーマにしている方というのも珍しいですよね。

細谷:どんどんね。

イチゲ:そうですか? そうですね。日本人は描いてないですね。

池上:他の人の作品ではあまり見ないと思います。

イチゲ:ええ。

細谷:あまり、そうですね、ここまで毛沢東を出したりとかそんなに。

池上:文化大革命のこととか。

細谷:他にないかもしれないです。

イチゲ:でもね、毛を描く時はね、その当時、パロディを意識して本当に強く描いちゃうと中国人の方から抗議が来たりして、危ない感じがした時もあるんですね。

細谷:実際に来ましたか。

イチゲ:絵画じゃないんですけど、大人の雑誌ですか、ナントカマガジンとかありますよね。ああいうのにパロディのページをもっていて、これは何年か後ですけど。

細谷:週刊誌ですか?

イチゲ:そうです。その時は身辺を気をつけるように言われたりとか。

細谷:それは編集者、出版社から?

イチゲ:ええ。でもそれ以上ではなかったですけど、今みたいにそんなに強くは……でもちゃんとした抗議は受けたみたいです。

細谷:中国大使館とか?

イチゲ:そういう、いらっしゃいますよね。偉い方たちとか事業をやってる方たちとか。こういう感じだったら大丈夫なんですよね。

細谷:まだギリギリ。

イチゲ:ここまで見る人がいなかった。

池上:週刊誌だといろんな人が見るからというのがあるんでしょうね。

細谷:なるほど。

池上:ちなみにこの《大農村》(1966年)という絵ですけど、サングラスをかけたこの人物って?

イチゲ:これは『マッド(MAD)』(1952年〜)というアメリカのパロディ誌がありますよね。その『マッド』のマスコット・キャラクターのアルフレッド・E・ニューマン(Alfred E. Neuman)という人物。いつも表紙が変わるんですけど、その頃そういう『マッド』を見ていまして。

池上:そういうキャラクターなんですね。

細谷:じゃあ、それの表紙から?

イチゲ:そうです。それはアメリカというイメージだったと思います。

細谷:アメリカのイメージとしてこれを置くわけですね。

イチゲ:ええ。パロディ誌です。

池上:中国のイメージと対比させて。

イチゲ:ええ。

池上:面白いですね。

イチゲ:すごい漫画がいっぱい載ってたわね。今もあるのかな、『マッド』。テレビ局になってるみたい。それは何年も前だからはっきりしないですけど。この時はね、終戦後、アメリカの進駐軍っていましたよね。その人たちが引き揚げていく時にそういう漫画の本とかをいっぱい置いていったのが神田で売っていたんです。私はそれが面白くて『マッド』の本を何冊か買い溜めて、それを彼が一緒に見ていて「わあ、面白い」って。それが漫画の刺激になったみたいです。その後も、イエナ書店(銀座)で時々買っていました。

細谷:そうでしたか。

イチゲ:子どもの時から画家か漫画家か図案家になりたくて。何でも視覚的なことを仕事にできれば何でもやりたかったって。それで漫画はそれで火がついたみたい。

池上:イチゲさんもそこの転向にはちょっと関わっておられたんですね。

イチゲ:そうですね、私も漫画好きで。

細谷:イチゲさんも漫画好きで?

イチゲ:ええ。ナンセンス漫画が。

細谷:そうですか。これは機関車で、これも列車で、これは核爆発ですかね?

イチゲ:そう、爆発ですね。《大農村》というのは、ちょうどその頃、中国が「大農村」と言われていたんですよね。どんどん変わっていきますけど。

細谷:そこで水爆ですかね。そこを虎が飛んで。

イチゲ:ええ。別に意味はない。ナンセンスな。

池上:この絵は特にそういう感じがありますよね。

イチゲ:そうですね。こちらの《大停電》(1966年)っていう作品は、ニューヨークで停電があったんですね、その頃。それで中国がやったとか、陰謀が言われて。

池上:陰謀説のような。

イチゲ:それを描いたんだと思います。中国が攻めてきて。ナイアガラですよね、これ。これが自由の女神。

池上:飛んでくる虎というのはやっぱり、そういうちょっと攻撃的な中国の。

イチゲ:そうですね。この場合の顔は、いろんなふうに……

池上:今やるとまた大変な意味が出てきそうな感じのモチーフですけど。

イチゲ:ええ、でもこれはちょっと違いますね。これはもう本当にコミカルな。

池上:当時はやっぱり空想だから描けるモチーフだと思うんですけど。

イチゲ:そうですね、ええ。

池上:アメリカと中国をぶつけるというか、面白い対比のさせ方ですね。

イチゲ:そうですね。

池上:アメリカ的なものはわりとこの時期、皆さん多くモチーフに使ってらっしゃると思うんですけど。特にポップに近いような方たちで、これだけ中国的なモチーフが出てくるのは他にない。

イチゲ:ただアメリカだけだと真面目になっちゃうけど、中国をぶつけるとわけわかんない面白さになったような感じですね。ただね、ちょっと間違えると、暴力的になっちゃうと、絵画から離れていっちゃうような。今だったら大丈夫かな。

池上:でもそのユーモラスなところのバランスの取り方がすごく上手というか、面白いと思います。

イチゲ:そうですね。彼はそういうところがあるのかな。意識しないでも。

池上:ちょっと挑発的ですけど、誰かが傷つくようなものではないっていうか。

イチゲ:ではないですね。

池上:これもね、これ全体が虎の口の中という。

細谷:そうなんですよね。口になってるんですよね。

イチゲ:そうですね。歯があって。

池上:可笑しい。やっぱり何層にもなっていて。すごいスケールの大きなシーンに見えるけど、実は口の中という。

イチゲ:そうですね、はい。

池上:このへんは再制作されてますよね。《タイガーポップ》とか、《七転八虎》とか。(注:ともに1966年制作、1989年再制作)

イチゲ:はい。

池上:これはやっぱり当時のものは?

イチゲ:なくなっちゃって。それで展覧会をやる時にやっぱり1960年代のイメージが欲しかったので、急遽描いたんです。

池上:再制作されるにあたって、これを描いた時は「これはこんな感じで」とか思い出して話されたりとかそういうことはありましたか?

イチゲ:特別ないですね。カラースライドはあったので、それを参考にして制作したんですが、全部、頭の中に入っている感じでした。

池上:これは写真か何か残っていて、それを?

イチゲ:これ(《七転八虎》)の場合はイメージが頭の中にあって、だと思うんです。

池上:これは後で絵本のモチーフにもなっていく。

イチゲ:ええ。あと漫画の。自分の名前と一緒に使ってますけど。

池上:この《タイガーポップ》というタイトルが秀逸だなと思うんですけど。もし虎が中国的なモチーフだとしたら、その虎がコカコーラを飲んでるなんて本当に現代的というか。

イチゲ:うん。この絵はたしかね、元の絵は池袋の西武デパートですか。中村宏と篠原有司男と横尾忠則さんと四人で、四つの観光展というので描いたと思うんです。(注:「美術の中の4つの“観光”展」、ギャラリー西武、1966年4月15日〜27日)

池上:その四人の組み合わせも面白いですよね。

イチゲ:中村さんと二人で考えて、お誘いを。

池上:お二人に描いてもらって。

イチゲ:そうだと思います。

池上:《荒野の用心棒》(1965年)のほうはMoMAの東京展に持っていった作品ですよね。

イチゲ:そうですね、はい。ここにKKKがいて。

細谷:中国の紅衛兵もここに隠れてるんですね。

イチゲ:それでここに骸骨があって、これが『マッド』の。

細谷:先ほどの『マッド』のキャラクターですね。

池上:後ろ姿ですけど。

イチゲ:1970年代に映画でチャールス・ブロンソンとアラン・ドロンと三船が出て、こうやってやっぱりアメリカの西部劇みたいなそういう映画(『レッド・サン』、1971年)があったんですよね。「赤い太陽」だったかな。イタリアで観た。「ええ、そっくり!」って思った。

細谷:共演してるやつですか。

イチゲ:そうです。たしかチャールス・ブロンソンとアラン・ドロンじゃなかったかな。チャールス・ブロンソンは出てました。あと三船も。向こうが飛び道具で来たら、こちらは刀で。

細谷:はいはい。

池上:異種格闘技みたい。

イチゲ:観ました?

細谷:観ました。ちょっとタイトルは今ど忘れしちゃって。

イチゲ:でも何か似てますよね、この感じ?

池上:ちょっと三つ巴みたいな。

細谷:映画を観られているんですか。

イチゲ:これは1965年だからそれを観る前です。だから1970年代にイタリアで観たときに「あれっ?」って。

池上:ちょっと予言的な。

細谷:でも映画的な感覚ですね。

池上:やっぱりこのシーンが、《アラモのスフィンクス》(1966年)もそうですけど、西部劇に出てくる有名な荒野、モニュメント・ヴァレーなんですよね。

イチゲ:ああ、そうですか。

池上:やっぱりそういうところに場面設定をされてるんだなと。ウエスタンとかカウボーイ映画とか、そういうものをかなりご覧になってたんですよね。

イチゲ:そうですね。マカロニウエスタンが出てきた時、それは東京で最初に観ましたけど、けっこう観ましたね。彼はウエスタンをもっとたくさん観てると思います。

池上:すごいペースの制作だなと本当に思います。先ほど、これをもう1〜2年続けていたら面白かったのにとおっしゃっていたんですけど。

イチゲ:こういうようなタイプの絵ですよね。

池上:1966年くらいでこのスタイルはストップされてる感じかなと。

イチゲ:そうですね。その頃から漫画を描き始めて、生活の中心を漫画にもっていくようになっていたんですね、この頃はだぶっていて。それで絵は一応置いておいてという感じで、漫画のほうへ。

池上:それは漫画のほうが面白くなったということですか?

イチゲ:生活をちゃんとしなきゃいけないというのと、あとポップアーティストだったら直結してるわけですよね、漫画とポップは。そういうふうに飛んじゃって、じゃあ漫画家になっちゃおうと。

池上:真の意味でのポップって、漫画のほうですもんね。

イチゲ:最初は台詞のないのを書き溜めたり何かしていたんですけど、けっこう短い時間でしたね。やっているうちにさっきの自費出版ですか、漫画誌を出して(注:1968年9月、漫画集『TIGER TATEISHI・立石紘一漫画集』を自費出版する)。あれが1968年だったんです。だから1967年くらいには描いていたのかな。その傍らでもちろん仕事もしていたんですけど、漫画家として。

細谷:ネオン会社に一年くらいいらして、その時はそれで生計というか。

イチゲ:そうですね。

細谷:それをお辞めになられて漫画までというのは、どういった生活をされて。

イチゲ:ええとね、そのネオン会社を辞めてからネオンサインのデザイナーとして、どのくらいかな、あまり長いことじゃなかったですけど。個人としてそういうスタジオをやっている人がいて、そこで中心としてやらないかと言われて、それで生活してましたね。

細谷:そうでしたか。

イチゲ:ネオンのデザインを描くテクニックというのがエアブラシなんです。それを習得して、それでずっとイラストレーターになってからもその手法で。

細谷:技術を得てですね。

イチゲ:技術的なものにつなげるのも好きですね。シルクスクリーンの時も、オリベッティの仕事でシルクスクリーンの、カットして版を作る技術を覚えて「じゃあ、これで自分のをやろう」とか言って、早速ライトテーブルを作って、自分の作品を。だからあれは12〜13版あるんですけど、全部自分で切っていったんですよね。人に頼んだらものすごい高くなるし。だって彼はそれをやりたかった。

池上:むしろそっちの作業が好きだった。

イチゲ:ええ。そういう技術も好きですね。

池上:お仕事と制作と自然に結びつく感じですね。

イチゲ:ええ、そうですね。視覚的なことに結びつくものなら何でも好きだった。

池上:だから絵にこだわるわけではなくてっていう。

イチゲ:ええ、そうですね。

池上:他の方はやっぱり……

イチゲ:違いますよね。

池上:メインは絵で、他にいろいろあって、という方が多いと思うんですけど。立石さんはそのへん……

イチゲ:本当はメインは絵だったのかも分からないんですけど。イラストの場合はものすごい量をやったんです。「絵を描く練習だ」とか言ってました。

池上:それが生活の糧にもなっていって。漫画を描かれるようになった経緯をお聞きしていきます。

細谷:『毎日中学生新聞』とか『少年サンデー』に出されたりして、1965〜66年くらいには描かれていますね。

イチゲ:そうですね。それくらいですね。

細谷:今おっしゃったようにポップで漫画への移行というふうになったんですね。吹き出しがある漫画も描かれていらっしゃいますけど。

イチゲ:それは後ですね。

細谷:それは一応イラストにというか、絵のほうに近いんですかね?

イチゲ:台詞のない漫画。

池上:こちらのカタログに載ってるものだと『ノアノアゴーゴー』(1964年、未発表)という作品が。

イチゲ:これはもう全然。漫画家として始める前に毎日描いていて、何か溜めていて、人には見せていたりしたんですけど。

池上:正式には発表されていないんですか。

イチゲ:ええ。

池上:映画の始めみたいにドーンと活字が出てきて、《立石紘一のような》の時と同じような手法でタイトルが出てきたり。やっぱり純粋に描くのが楽しいというので描き溜めていらしたんでしょうか。

イチゲ:そうですね。漫画家になろうと思っても、誰かのスタジオに入ったり誰かの弟子になってやるというのは全然考えてないんですよね。全部一人でやるっていうか。これはでも漫画家の人にけっこう見せましたね。

池上:反応とかは覚えてらっしゃいますか?

イチゲ:面白がってくれたっていうか、園山俊二さんっていらっしゃいますよね。彼なんてこういうのをけっこう気に入って、ドドーンと使いましたよね。

池上:何だっけ、ナントカ人間……

イチゲ:『はじめ人間ギャートルズ』。

池上:その方ですよね。何か通じる世界があるなという気もちょっとしますけど。

イチゲ:こういうのを見ると、まだそれが描かれる前だったんですが。

池上:けっこう影響を与えていたりするかもしれませんね。

イチゲ:そうですね、ええ。それは彼も言ってました。

池上:何かちょっと世紀末な感じとか。久しぶりに思い出しました、ギャートルズを(笑)。

細谷:これは投稿したやつですね。『プレクサス(Plexus)』に。

イチゲ:そうですね。1968年に自費出版マンガを送りました。油彩でもこれを描いていますけど。

池上:これはフランスの漫画雑誌でしたっけ、『プレクサス』という。ここに投稿してみようと思われたのは何かあったんですか?

イチゲ:その頃、洋書を売っているお店が、イエナ書店というのがあったんですね、銀座に。あそこに時々行っては面白い本を買ってたんです。『プレクサス』を見つけて買って、それは『プレイボーイ』とは違うんですけど、やっぱりちょっとウィリアム・バロウズ(William Burroughs)とかね、(アンドレ・ピエール・ド・)マンディアルグ(André Pieyre de Mandiargues)とかね、そういう……

細谷:カウンターカルチャーみたいな。

イチゲ:そういうのがばっちり載ってて、傍らナンセンス漫画がちょっと入ってるんです、フランス人が描いたのが。

池上:バンド・デシネの伝統があるから。

イチゲ:そうですね。それでイラストなんかもすごく面白い、イラストレーション、ちょっとエロティックなのが出たりして。この本素敵だからここに送ってみようと送ってみたら載せてくれて、合計3回載ったんですけど、その本なんかは山本現代に預けてあります。(追記:3回目は、ミラノで生活するようになってから、新しい原稿を送った)

池上:この本からタイガー立石という名前をお使いになるんですよね。

イチゲ:そうですね。自費出版の漫画を送って、そこから出してくれたのかな、4点くらい。ヨーロッパって漫画というのは文学の領域に入るわけですね、カルチャーとして。

池上:そうですね、はい。

イチゲ:それで何かちょっと文章が書いてあるんですけど、日本の浮世絵の線みたいですごく美しいとかそういう感じで書いてあるわけです、フランス語で。だから日本と全然違うなと思って。それともう一つ同時に送ったのが、『ビートルズ・イラステレイティッド・リリックス(The Beatles Illustrated Lyrics)』っていう、アラン・オルドリッジ(Alan Aldridge)という人が作った本があって。その1巻をイエナで見つけて買って、これはすごいと送ってみたら、2巻に4点くらい載せてくれたんですね。その頃、皆外国にどこか行くでしょう。ナンセンス漫画だったら台詞もないし、言葉もそんなできるわけじゃないから、住みに行くのは漫画家として行こうと。最初はそうだったんですけど、やっぱり。

池上:イタリアに行かれる前に、日本にいながらにして既に発表されていた。

イチゲ:発表というか、本当に短い間でしたけど。

池上:でもそうやってすぐに反応があったわけですよね。

イチゲ:そうです、ええ。

池上:画家としては立石紘一、漫画家としてはタイガー立石というような、何か使い分けがあったんでしょうか。そこまで意識されてない?

イチゲ:意識してないですね。ただイタリアに行った時点で絵もサインを全部タイガーにして。というのも彼は紘一という名前が好きじゃなかったんですね。「八紘一宇」でしょう、アジアを。だから彼は長男じゃないのに「一」と付いているわけです。それで何か嫌いだからね、タイガーにしちゃえって。ずっとイタリアでタイガーって。

池上:八紘一宇の紘一で、そうか。当時の名前としては……

イチゲ:戦争の。

池上:当然そうでしょうね、その漢字を使うってことは。でもやっぱり戦後世代になると、かなり色がついている名前ですよね。

イチゲ:そうですね。名前が嫌いだったから。紘一だったら別人になれるわけでしょう、名前を変えちゃえば。タイガーとか言ったら得体の知れない何だかわからない名前だし。

池上:覚えやすくて、あと呼びやすいというのもありますよね。

イチゲ:うん。プロレスラーみたいで良くないって批評家の人とか言ってたけど、構わない。

池上:覚えやすいほうが、いろいろ良いことがあると思います。

イチゲ:自分はそれで気に入ってたみたい。それから皆、「タイガー、タイガー」って。

池上:それ以前から虎がすごく大事なモチーフとして出てきてましたものね。

細谷:ちなみに先ほど名前が出た石子順造さんは、日本にいらした時からお付き合いがあったと思うんですけど。

イチゲ:ちょっとの間でしたね。石子順造さんは漫画でも違うタイプの漫画のほうが。つげ義春さんとか。だから立石とは全然。

細谷:なるほど。

池上:立石さんはやっぱり「立石紘一SF劇場」という、こちらにもありますけど。(注:1965年に『アサヒ芸能』に連載)

イチゲ:そうですね。

池上:不条理というかナンセンスというかっていうね。

イチゲ:これはね、朝日新人賞とかいうのを貰ったんですね。漫画で。朝日新聞が主催して。その頃は13回でワンクールですか、13点出展するんですけど。その時、大賞の賞金が百万円で。

池上:すごいですね。

イチゲ:それで大賞をとったら絶対にどこか行こうと。そしたらね、新人と言いながら、一位がやなせたかしさんだったんです。その頃、40歳を過ぎててね、名前を皆知ってるしね、新人じゃなかったわけですよね。だからそれで立石は佳作で、一万円貰ったんですけど。

池上:ずいぶん大きな違いですね。

イチゲ:立石としたら納得いかないからね、葉書に「佳作、取り消してください」ってちゃんと書いて、一万円は受け取らなかったんです。でも今もどこかの経歴に「朝日新人賞で佳作をとる」って書いてあるから、彼が見たら嫌な感じがするだろうと思って、お断りした。

池上:そういうことがあったんですね。

イチゲ:でも日本でそういうことをやっていると、狭くなりますよね。全然そういうのを彼は気にしなかった。

細谷:気にしなかったんですね。

イチゲ:でもそのかわり、『アサヒ芸能』っていう週刊誌、今もあるんですか?

細谷:ありますね。

イチゲ:そこに載せてくれた。13回、載せてくれた。

池上:そういうかたちで漫画のほうが生計にもつながるという。どういう媒体に載せておられたのかなと思っていたんですけど。『アサヒ芸能』とか。

イチゲ:ただその時は、新人賞に応募したやつですね。

細谷:他に何か週刊誌には載せていらしたりしましたか?

イチゲ:『ボーイズライフ』(集英社)とか、『ヤングコミック』(少年画報社)ですね。あとね、『ヤングエース』(学習研究社)という、学習研究書で3号でなくなっちゃったのがあって。それは一人で全部描くんですよね。ものすごい仕事をしていて、でも3号でなくなっちゃって。それはもう本当に気違いじみていて。その原画も山本現代にあります。

細谷:素晴らしい。

イチゲ:何と言ったっけな。

池上:この当時、赤塚不二夫さんとも……

細谷:そうそう、『コンニャロ商会』という漫画が、その後で赤塚不二夫がニャロメを出すのに影響を与えたみたいで。

イチゲ:ああ、何かそういうふうに言われるんですけどね。

細谷:どうですか、実際?

イチゲ:うん、実際そうなんです。立石はそういうのを言われるのが嫌だったみたいなんですけど、実際に……(『コンニャロ+デジタル商会』、筑摩書房、1983年を取り出して見せる)

池上:ぜひ拝見しましょう。

イチゲ:その頃、赤塚さんのところで働いて一緒にやっていた長谷(邦夫)さんという方がいらっしゃって、その方を通して立石と知り合った。赤塚不二夫さんが編集していたギャグマンガのファン誌に『まんがNO1』という小誌があって、立石が長谷さんから依頼されて、マンガをそこに載せたのがきっかけです。

池上:(44頁を開けて)「水虫ニャロメ」というキャラが出てくる(笑)。

イチゲ:これも見たとき、ちょっとびっくりして……

細谷:これはちょっときてますね。

イチゲ:これは『毎日中学生新聞』に書いていたやつです。立石がイタリアに行っていなくなってから赤塚さんのニャロメというのが大当たりしたっていうのは聞いたことがあるんですけど。でも立石にしたらもう全然違う世界でやってるし、それはそれで。

細谷:直接、赤塚さんとの接触はあったんですか?

イチゲ:ええ、一緒に二回くらい、『少年サンデー』で。これの原画がこれくらい大きくて、それがすごい面白いんです。それが全部揃ったのが、やっぱり漫画の……。ええとね、去年の何月か。DOMMUNE(注:ライブストリーミングのサイト)ってご存知ですか。

細谷:ええ。

イチゲ:去年の10月かな、DOMMUNEで百人のアーティストの映像として。

池上:出られたんですか。

イチゲ:そうなんですよ。私、その時は、やっぱり本人じゃないと、って辞退したんですけど、豊田市美術館、天野一夫さんがやってくださるというので、天野さんだったら喋れると思って。それで一緒に出てくださったんです。

池上:天野さんはO美術館での立石展をされた方ですもんね。(注:「メタモルフォーゼ・タイガー:立石大河亜と迷宮を歩く」展、O美術館、1999年11月19日〜12月23日)

イチゲ:その時にこういうのを出しながらやってて、水虫とかね、ニャロメとか見たら、見に来ていた人たちが皆びっくりしてた。「ああ!」とか言って。若い人たちばっかりで。ほら、こういうところに「ニャロメ」とか出てるんですね。

池上:「コンニャロ」とか。

細谷:もう字で出てるんですね。

池上:すばり出てますね。

イチゲ:あとね、1968年のお正月の特集号(注:新年躍進特大号)というのに、8ページくらいだったかな。赤塚さんとタイガー立石とあと2人、長谷(邦夫)さんと山口さんというライターの方と4人で、時代劇の恰好をしていろんなことをやって皆で絵を描くというのがあって。赤塚さんがペンを入れて、立石がアイデアを出して、そういうのがあったんですけど。

細谷:長谷さんと山口さんがライターの方で?

イチゲ:ああ、山口さんも絵を描くかな。

細谷:あと立石さんと赤塚さんで。

イチゲ:で、中入れはこうやって、一緒に絵を描いた。そういうのがあるんです。

細谷:それは雑誌か何か?

イチゲ:『少年サンデー』のお正月号で。

池上:雑誌の企画というか。

イチゲ:そうです。そういうのがありました。それも最後にもう「ニャロメ!」って猫が出てるんです、赤塚さん。だから本当に好きだったみたい。

細谷:じゃあ、お仕事も一緒にされていたんですね。

イチゲ:ええ、短い間でしたけど。

池上:それはイタリアに行く少し前ですか?

イチゲ:ええ、少し前です。

池上:では1968年とか、69年初頭くらいにそれがあるのかな。

イチゲ:ただそれをスクラップしたやつも残っていて、それも漫画の資料で全部まとめて山本現代に入ってる。

細谷:さっきお話ししかけていた長谷さんを通じて知り合った。

イチゲ:長谷さん自身も描かれていたんですけど、最後、赤塚さんがけっこうもう描けなくなっちゃった時期がありますよね、アルコールとかで。その間は長谷さんがずっと仕事をしていらっしゃったんですって。

細谷:じゃあ長谷さんは赤塚さんのところにいらっしゃったんですね?

イチゲ:そう、最初から最後まで。でもあと私は詳しいことは知らないんですけれども、最後は別れられて。

細谷:それで長谷さんの紹介みたいな感じで(赤塚さんと出会った)。

イチゲ:そうです。一緒にやったりして、はい。

池上:『コンニャロ+デジタル商会』は1983年にまとめて出されているんですね。

イチゲ:ええ、筑摩書房から。筑摩書房の面谷哲朗さんという編集の方は、1960年代に学習研究社で仕事していた時からの知り合いで、立石の展覧会もほとんど見て下さっている長い友人です。この表紙、原画がね、これくらい四角くて大きくてすごい綺麗に描いてあって面白い。

池上:それも山本現代さんですか。

イチゲ:ええ、全部漫画の資料としてまとめて。もう持っていられなくて、今度の引っ越しをきっかけに全部預かっていただくようなかたちに。

池上:絵画の世界に通じるようなパノラマっぽい画面もあったりして、面白いですね。そうやって雑誌なんかでお仕事もあったけれども、イタリアに行っちゃえということになった。

イチゲ:ええ。

池上:直接のきっかけというのはありましたか。

イチゲ:直接のきっかけは、やっぱり生活を変えたいという。ただそのままやっていると本当にもう漫画家っていうのになっちゃう時期までいっちゃってたわけです。

池上:そうやって落ち着いちゃうのは嫌だっていうようなところがあった?

イチゲ:ええ、若かったし。

池上:27歳ですもんね、イタリアに行かれるのが。

イチゲ:そうです、だからね。

池上:まだまだ冒険というか、違うことをチャレンジしたいというような。なぜイタリアというのがありましたか?

イチゲ:その頃、皆ニューヨークに行きましたよね。

池上:たしかに皆さん憧れていたのはそうですよね。

イチゲ:私はニューヨークと考えたことがあるんですけど、彼は行っても漫画のほうで挑戦すると思うんです。イタリアは友人が2人いて「どこか外国に行きたいんだったらイタリア来れば?」とかいうのがあって。その一人が高橋君なんですよ。

池上:ええ、高橋尚愛さん。日本に彼がいらした頃からお付き合いがあって?

イチゲ:私は学生の時に知っていて。

池上:彼は多摩美。

イチゲ:の彫刻科ですね、彼は。同じ年ですね。

池上:ほとんど同級生のような感じで。

イチゲ:そうですね。あの当時、東京画廊がヨーロッパの若いアーティストを呼んで、日本で滞在中に制作したもので作品展をやるとか。

池上:ええ、やってましたね。

イチゲ:それでロベルト・クリッパ(Robert Crippa)という彫刻家がいたんですけど、高橋さんはそのクリッパの時に、自分の小さい作品を持ってクリッパのところに行くからちょっと手紙を書いてと言われて。それで書いて。全然物怖じしないからね、彼は。それで手紙を書いて行って、あなたのところで働きたいとかね。

池上:勇気がありますね。

イチゲ:呼んでほしいとかね。そういうのも全部書いたのかな。で、行ったら小さい作品をプレゼントに買ってくれたのか。そして帰ったらちゃんと手紙をくれて、正式に呼んでくれて。だから高橋さんは3年生の時に船で横浜から行ったんですよね。

池上:もう大学を卒業する前に行っちゃったんですか。彼もかなりの冒険者ですね。

イチゲ:ねえ、そうですね。それでロベルト・クリッパの次がルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)のところで。

池上:高橋さんもミラノにいらしたんですか。

イチゲ:そうですね。それで私たちが着いたら、彼はニューヨークに行っちゃって、もういなかったんですけど。

池上:この頃に(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)のアシスタントになられたんでしょうか。

イチゲ:そうだと思いますね。

池上:どういうふうに知り合ったんでしょうか。

イチゲ:ナビリオという画廊があったんです。そこに東京画廊の山本(孝)さんなんかがしょっちゅう来ていらっしゃったみたい。そこでラウシェンバーグ展をやった時に高橋さんが知り合ったのかな。よく分からないけど。

池上:そうかもしれないですね。

イチゲ:なんとなくそんな感じで。あと草間彌生さんが、やっぱりナビリオでやった時も、マカロニがいっぱいついてるのがありますよね。あれも高橋さんが制作をお手伝いしたと聞きました。

池上:そうですか。お洋服とかにたくさんついている。

イチゲ:そんなのをやってましたね。彼はニューヨークに行ってからも、1〜2回ミラノに来た時は会ったことはありますけど。その時、彼の友人のファッションメーカーのスタジオでテキスタイルなどの仕事をするように紹介してくれて、1〜2年続きました。

池上:そうですか。それでお知り合いもいるからイタリアに行こうかと。

イチゲ:そうですね。あと未来派とかすごい興味があったし、別にイタリア語なんてできたわけじゃないんですけど、急遽少し勉強して。私のほうが先に行ったんですね、何ヶ月か先に。友人がいるし。彼は仕事を全部ちゃんと終わってから。

池上:一応片をつけて。

イチゲ:それから私は飛行機で、アリタリアで行ったんだけど、彼はウラジオストクまで船で行ってそこから、初めての旅行で汽車でずっとウィーンまで行って、そこから飛行機で。

池上:お二人とも初めての海外ですか?

イチゲ:そうなんですよ。もう行っちゃえという感じで。

池上:かなり勇気がいることですよね。すごいと思います。

イチゲ:でもその頃はね、それまでヤングカルチャー、若者の文化ってなかったんですよね。そこでビートルズが出てきて、そういう、世界は皆開かれているというイメージと、もう一つは東西の冷戦ですか、何が起きるかわからないという、いつ何が世界が終わるかわからない、そういうイメージも一緒になって、どこかに行こうと。そういう感じです。

池上:できるうちにやろうというか。

イチゲ:そんな真面目には考えなかったんですけど、とにかく、そんな感じで。

細谷:『プレクサス』に出したりとか、あれはバロウズとか出てるじゃないですか。いわゆるカウンターカルチャーのムーヴメントとか、当時の若者文化というか、音楽とか、映画が特にあるかなと思いますけど、立石さんの関心は?

イチゲ:私たちが行ったばかりの頃はね、ミラノなんですけど、まだヒッピーの方たちがけっこういたんですね。それか2〜3年たったらもう全部、追い出すというか、国の政策で、居づらくなって。皆イタリアに憧れて来て、レコード抱えては友達のところに行って吸いながら、皆で一つの絵を一緒に描いたりするんですよね。けっこう1年くらいはそんなふうにして。絵を描く人たちと知り合って。

細谷:では立石さん自身もヒッピームーヴメントに関心は?

イチゲ:彼はそうでもないですね。一緒に絵を描くとか漫画を描くとか、そういうのはやりましたけど。

細谷:イチゲさんはどうでした?

イチゲ:私もけっこう、そうですね。やっぱり魅力的というか、楽しかったですね。

池上:やっぱり日本にはなかった文化で。

イチゲ:ええ。でもどんどんきつくなって、居住ができなくなるような感じになって。

池上:そうですか。学生運動も収束して。

イチゲ:ああ、そうですね。

細谷:世界的にそうですからね。

イチゲ:私たちは1969年に行ったんですけど、知り合ったイタリア人から、68年までよかったんだとよく言われました。「なんで今頃来たの」とかね。

池上:イタリアは移られて楽しい生活で?

イチゲ:楽しいというか、最初はすごい違和感がありましたね。大人の文化というか、その頃ジーンズを履いてる若者がほとんどいなかったんですよ。1〜2年たってからちらほら。日曜になると、日曜はお店が閉まってますからね、皆いい服を着てぶらぶら歩くとかね。それからどんどん変わっていきましたね。

池上:ミラノではアパートで暮らされて、そこがスタジオでもあった?

イチゲ:ミラノもね、最初は友達のところにちょっと3ヶ月くらいいて、それからヴィア・ブレラ(Via Brera)近くのオルソ(Via dell’Orso)という職人街みたいな、ブレラ美術学校の傍に越して、もう一回真ん前のもうちょっと大きなアパートに越して。オルソのアパートには、ディーノ・ブッツァーティ(Dino Buzzazi、イタリア人の作家、記者)が来てくれたことがあります。立石の絵をとっても興味深く見てくれました。それからヴィア・サングレゴリオ(Via San Gregorio)の、いちばん大きい、いちばん長くいたところに越したんですけど。イタリアも長いからいろんなことがあって。政治的にすごくはっきりした国だから、1970年代は本当に共産化されて……

細谷:そうですね。赤い旅団の頃ですね。

イチゲ:ご飯を食べていても爆弾で部屋が揺らぐとか、まあ大変だったんですけど、その頃は30代で若かったから。剥き出しの政治的なものはすごく感じる時でした。

池上:イチゲさんもイタリアでも制作されていたんですか?

イチゲ:制作というか、自分のためにドローイングを描いたり、そんな感じで。あとはイタリアで自動車の免許を取ったので、私が運転手で、いつも犬と彼を乗せて。車がないと何もできないところですよね、ああいうところ。ヴァカンスの時は自動車旅行をしていました。ロンドンにも自動車で行きました。

池上:そうですよね。タカタカという犬を飼われていたんですよね。

イチゲ:はい。イタリアのそれは、1978年まで続いたのかな。法王がCIAのメンバーやNATOと組んでものすごいことをやってたりとか、そういう時代で。イタリアには政府が三つあると言われていたんですね。いわゆる普通の国の政府と、マフィアの組織と、それと政治的なものと。いまになって、映画がたくさん作られています。

細谷:1970年代のイタリアは政治の動乱の季節ですよね。

イチゲ:そうなんです。消費税も17パーセント。あっという間に5パーセントがバンバンと上がっちゃうんですよ。

池上:まだ日本には消費税がない時代ですもんね。

イチゲ:あと国民番号制って今やっているでしょう。イタリアは1974年か75年くらいから。あれは税金とつながっていたんですね、イタリアの場合。それまで税金を払ってなかったような人たちも、どんどん変わっていきましたね。たとえば部屋代なんかも、戦争後からずっと上げちゃいけないという法律があって、税金を払うと全然儲からないと言ってたんですけど、それも変わって。あと外国人で居住する場合は、コピーじゃなくて、税金を払ったっていう証明ですか、元の支払い書を警察に持っていって、居住を一年間許可してもらう。コピーだと皆作るから。

池上:けっこういろいろ管理というか統制が厳しかった。

イチゲ:それはもうすごかった。引っ越して部屋を借りようと思っても、オーナーの人が警察に一緒に行って「この人はテロリストではない」という書類にサインしないといけない。連帯責任になるわけです。そういう時代で、非常に興味深かった。

池上:外国人が暮らすにはいろんな制約というか、不自由もあった時代ですね。

イチゲ:ええ。もっとすごいこともありましたね。6年たった時に、大晦日に郵便を個人的に届けに来るわけですね。郵便局がもう機能あまりしてないし。それを開けたら、6年間居住してた人は一年間100万リラのお金を払えっていう、正式の書類が。それを個人にちゃんと届けるように、大晦日に来た。私たちは6年いたから600万リラ。

池上:わあ。

イチゲ:それは半分にまけてもらって必死に払ったんですけど。じゃないと、急にどこかの国に行くなんて不可能ですから。

池上:いきなり言われても、っていうことですよね、それを。

イチゲ:それでイタリアはね、どんな法律でも3ヶ月は続けなきゃいけないという法律がある。

池上:ひどい。悪法といえども法である、ということですか。

イチゲ:面白いんです。だから何かあったら作っちゃえばいいわけです、法律を。

池上:逆に3ヶ月我慢してれば何とかなるかもっていう。

イチゲ:ええ。だから裏を知ってる人は、すごくそういう生き方ができるようなことです。

池上:でも外国人として住んでいて、いきなりそうこられたらね。無視もできないですよね。

イチゲ:ええ。「お前たちは外人なんだからね、インチキしたら牢屋に入れられるぞ」と冗談で言われましたね。

池上:ひどいですね。

イチゲ:まあ若かったし面白かったですけど。でもうんざりする時もありました。あと5年税金を支払ってれば居住権を申請できるというのがあったんですけど、それはやる気がないからやらなかった。

池上:立石さんの制作のほうで言いますと、漫画をメインでいこうと思って最初は移られたんですよね。

イチゲ:でもすぐ変わりましたね。行ったらもう、漫画はそういうものじゃないなって。そんな本も本当に何種類しかないし。彼がミラノに来たら、メンバーとして一緒にやろうと言ってくれたパロディ誌があったのですが、着いた時点で、なくなっていました。フランスの『HARAKIRI』のイタリア版で『KARAKIRI』という雑誌です。

池上:あちらでは、日本での漫画の人気とは……

イチゲ:全然違いますね。

池上:それで生活していけるような感じとは違う。

イチゲ:ええ。マス(大衆)じゃなくて。やっぱり絵が描きたくなって絵を描いた。それでコマ割りの絵画ですか、油彩の。あれだったらどんなアイデアでも表現できるからって、それで描き始めて、20点近くなった時に撮影して、6×6判のスライドみたいにして。それを(エットレ・)ソットサス(注:Ettore Sottsass、オーストリア生まれのイタリアの建築家、インダストリアル・デザイナー)に見てもらったら、すぐ来ないかというふうに言われて。

池上:コマ割り絵画の最初の頃っていうのは、ある意味、漫画と絵画を融合させたような形式でもあるわけですよね。

イチゲ:ええ。どんなアイデアでも描けるから。

池上:ちょっとナンセンスっぽい。

イチゲ:それがこの『ムーン・トラックス:タイガー立石のコマ割り絵画劇場』(工作社、2014年)に全部入っています。

細谷:楽しみに見ておきます。

池上:漫画的なアイデアでも絵として見せるということがヨーロッパでは大事だったんでしょうか。

イチゲ:そうですね。

池上:漫画文化と絵画のほうの文化とやっぱり全然違う、社会の中で違うフィールドだった。

イチゲ:ええ。しばらくいたら絵が描きたくなった。それで描き出して、100号くらいなんですけど。

池上:やっぱり大きいんですね。このときはアクリル絵具でしょうか。

イチゲ:油絵です。油のほうが描きやすいと言ってましたね。アクリルはすぐ乾くから描きにくい。

池上:ある程度時間をかけて乾かしながら。

イチゲ:ええ。何回か重ねないと。

細谷:頭の中にあったものをとにかく絵に起こしていく?

イチゲ:そうですね。この頃のアイデアノートというのが、いっぱい描いたのがあるんですけど。

細谷:それは(紙に)つけてたんですか?

イチゲ:ええ。それも資料として。それはぜひ見ていただきたい感じなんですけど。

池上:はい。イタリア時代の資料も山本現代ですか?

イチゲ:ええ、全部資料をまとめて。

池上:埼玉県立近代美術館のほうにもイタリア時代の資料があるとお聞きしました。

イチゲ:少しですね。平野到さん(注:埼玉県立近代美術館主任学芸員)がすごく研究してくださって。

池上:でも大部分は山本現代さんのほうに。

イチゲ:はい、預けてます。

池上:このシリーズがきっかけになって、ソットサスの研究所でお仕事されることになって。

イチゲ:はい。

池上:これはたまたまソットサスに出会われたんですか?

イチゲ:いえ。ミラノで知り合った日本人の友人がいて。ソットサスは、オリベッティとプライベートと、二つ仕事場をもってたんですね。彼女はソットサスの傍で仕事をしたくて留学したという人で、留学生の期間が終わった後、そのプライベートのほうで(働いてて)。彼女がソットサスに見せてみるって持っていってくれて、ソットサスのスタッフが見たらしいんですけど、皆が面白がってくれて。ソットサスは出版っていうか、自分の絵を描いてくれる人を欲しがっていて。

池上:立石さんが原画をたくさん描かれたというふうに。

イチゲ:この本はご覧になったことがあります?(注:Ettore Sottsass Jr. ‘60–’70, Editions HYX, 2006)

池上:ないです。

イチゲ:これに全部出てるんですけど。

池上:フランスで出たソットサスの作品集ですね。

イチゲ:そうです。ソットサスがどこかフランスで展覧会をやった時に。(本を開いて)こういうのは全部タイガーですね、描いたのが。

池上:《祝祭としての惑星》(1972年)というシリーズの原画を描かれた。この人物画(注:1972年の《vestiti e svestiti cioè tutti sono vestiti》という作品)も立石さん?

イチゲ:ソットサスの仕事というか。

池上:「TIGER PINXIT」ってカッコして入ってますね。

イチゲ:「タイガー・ピンクシット(TIGER PINXIT)」というのはラテン語で「タイガーが描いた」という意味なんですって。

池上:ああ、そういうことなんですね。タイガー・ペインティッドみたいな。名前がちゃんとクレジットされてるんですね。

イチゲ:ええ、一応。(《祝祭としての惑星》の原画ページを見せながら)これも全部。

細谷:わあ、すごい!

池上:このへんめちゃくちゃ面白いんですよ。

イチゲ:『カサベラ(Casa Bella)』という建築デザインの雑誌に、特集で載って。これは、偶然パルコの地下にあった。これも彼が描いたソットサスの顔なんですけど、こんな小さく描いたのがあって。

池上:そうですか。それが作品集の表紙にまでなって。

イチゲ:これね、私、本屋さんで見つけたんですよね。どこかで見たことがあるって。

池上:「どこか」どころじゃないですね。

イチゲ:それで何冊か買って、差し上げたりしたんですけど、もう一冊しかなくなっちゃって。

池上:でもきっと探せばまだありますね。

イチゲ:あると思います。フランスのオルレアンにあるフラック・センター(Frac Centre)でソットサスの展覧会をやった時にこの本を作った。編集をやったイタリア人と去年会いましたけど、日本に来た時。ミルコ・カルボーニ(Milco Carboni)。

池上:このへんのイメージが本当にすごいですよね。

イチゲ:アイデアはソットサスというふうになってるんですけど、もう勝手に描いちゃったのもあるみたい。「ピンクシット(PINXIT)」って書いてありますよね。

池上:アイデアをより膨らませたりとか、ご自由にいろんなものを付け加えたりされてるんでしょうね。

イチゲ:これが19点か20点くらいあって、原画がMoMAに入ってる。

池上:そうですよね。平野さんのお話でたしか読みました。MoMAに調査に行きたいですね。(注:平野到「ミラノの虎:タイガー立石のイタリア時代」CCA北九州市民美術大学講座、2015年6月13日、http://cca-kitakyushu.org/event_book/20150613/)

イチゲ:平野さんが教えてくれて、ネットで見たら出てました。

池上:でもいいところに入ってよかった。

イチゲ:どこかの財団が寄贈したのか、売ったのか、ちょっとわからないですけど。ソットサスの展覧会の時は必ず出てます。

池上:立石展にも出すべきじゃないかと思いますけど。

イチゲ:そうですね。もし貸していただければ。(追記:生前、立石は自分の作品としては展示しないと言っていました。ソットサスの作品だから、と。)あとリトグラフは8点、私が持っていて、それは埼玉県立近代美術館に寄贈というか。持っていると紙のものは怖いんですよね。カビが出たりとか。

池上:たしかに保存には気を遣いますよね。

イチゲ:何年か前にそうして。平野さんが喜んでくれてよかったです。

池上:このシリーズはやっぱりすごいと思います。でもオリベッティのほうから「正社員になったらどうか」というお誘いは断られるんですよね。

イチゲ:あれはね、ちょっと違うんです。立石が就職した時って、オリベッティには外国人コンサルタント制度があって、外国人がスタッフとして働くというのがあったんですけど、だんだん時代が変わってそういうのをやめて、正社員になるか辞めるかどっちか選択するということに。立石がプロダクトデザイナーだったらまあいいんでしょうけど、彼はデザイナーじゃないから社員になる意味がないって。それで。

池上:本当にそれだと一社会人になってしまうというか。

イチゲ:そうですね、ええ。でもその時は絵だけでやるぞと言って辞めたんですけど、いろんなことがあってイラストレーターとして仕事をするようになったんですけど。

池上:でも画商のアレクサンドル・イオラス(Alexandre Iolas)とも出会われて、個展も何回もされますよね。

イチゲ:そうですね。

池上:それで絵だけで生計を立てられるようになられたんでしょうか。

イチゲ:ある程度なったんですけど、その後オイルショックとかありましたよね。その時、タイガーの絵を買い続けると言う人もいたんですけど、建築家なんですけど。でもオイルショックの時に、大きいプロジェクトがだめになったからもうだめだって。皆そうだったんです、周りは。建築家の友達もオリベッティを辞めちゃって、違う人と大きい事務所を持つことになっていたのがだめになったりとか。

池上:直接そういう経済の動向が影響してきちゃうんですね。

イチゲ:ええ。あの時はすごかったですね。でもある時期、紙が不足して、週刊誌など休刊になったりしたんですが、FABRIという立石が仕事をしていた出版社は製紙会社を持っていたので、出版が継続できたということがありました。

池上:それで1970年代の後半はもっぱらイラストの仕事を。

イチゲ:そうですね。イラストもね、けっこう最初は絵画とだぶってたのかな。頼まれてやったのがどんどんそっちにいっちゃって。

池上:でもやっぱり成功されてしまうというのが立石さんっぽいというか。

イチゲ:彼は何て言うんですか、イラストを描いてもシュールっぽいアイデアとかが入ってくるわけですよね。そういうのがやっぱりユニークと思われて、それで最後のほうは、10人くらいスタッフを持って、会社をやってくれと言われたんですよね、イラストの。でもそうなるとそっちの仕事ですよね。

池上:完全にビジネスになってしまう。

イチゲ:彼はそういうタイプじゃなくて、自分一人でやるのでないと嫌で。じゃあこれは潮時だから辞めようって。

池上:イチゲさんは一緒におられて「でも良い話だから受けたらいいんじゃない?」とかそういうことは全然言われなかったですか。

イチゲ:私もどっちかと言えば、辞めちゃって別のことをやるっていうのが好きだから。ただ彼の場合はね、どんなことがあってもビジュアル関係の仕事だったら生きていけるという自信があったから。だめならだめで別の……。

池上:生活できなくなる不安は逆になかったんですか。

イチゲ:いや、ありますよ、いつも。

池上:でもいざとなれば、仕事にしちゃえば必ずできると。

イチゲ:彼はそういう自信がすごくあったみたいで。

池上:実際にものすごく上手ですものね。

イチゲ:でも、イラストいっぱい描いた時もね、「絵の作品のための修行だと思えば別にいい」とか。やっぱり絵がいちばんなのかな。そうでしょうね。

池上:そうか。でもやっぱり生き方が潔いというか。

イチゲ:いやいや、若かったから。でも彼はそうですね。炭坑のああいうところで育ったから、ゼロになるのは全然恐くないというか。あんまりしっかりして動いたって、そのとおりにいくわけじゃないから。

池上:たしかに。この頃、版画やシルクスクリーンもたくさん作られていますよね。

イチゲ:はい。

池上:これは絵と同時に?

イチゲ:そうです。自分の絵をシルクスクリーンに起こして。

池上:それはたとえば、絵のほうが売れてしまって手元になくなるからとか、そういうことでしょうか。

イチゲ:そんなのもあったのかな。そこまで話したことはないんですけど、オリベッティで、ソットサスを通して、刷り師のオッタヴィオ・ベルナルディ(Ottavio Bernardi)という人と知り合って。彼はミラノ近郊のカロンヌに住んでいて、自身もアーティストで、市長もやったことがあります。その人がすごくいい人で、通じるタイプの人だったので、家族的な付き合いで。

池上:じゃあ、刷り方とかこういう色使いというのもすぐに分かってくれた。

イチゲ:ええ。面倒くさいことでもちゃんと。

池上:これはエディションで100枚くらい刷られていたのかなと思うんですけど。

イチゲ:そうですね。100枚ですね。

池上:刷ったらコレクターの方なんかが買っていかれたんでしょうか。

イチゲ:そうですね。シルクスクリーンの場合はそんな値段が高いわけじゃないし、若い子が「これ気に入ったから」とかね。クリスマス頃になると知らない子が買いに来たり、友達がけっこう買って。あとアーティストって人に何かプレゼントをする時、自分の作品のほうがいいわけですよね。そういう感じで。まだいっぱい残ってたんですけど……

池上:じゃあ特にコレクターではない方たちも、わりと気軽に買えるようなお値段というか。

イチゲ:そうですね。あと建築家の友達がけっこういて、自分がインテリアをやった時に必ず何点か入れてくれるとか、そういう友達もいましたけど。今はやっぱり自分で持ってると本当にカビとか日本の気候って大変なので、残ってたのを山本現代に全部預けちゃって。

池上:でもシルクスクリーンというのは、ちょっと漫画とかとも共通するというか。

イチゲ:そうですね。

池上:たくさんできるわけじゃないですか。なので、絵と違って、版画というのは立石さんにとってどういう存在というか位置づけだったのかなって。

イチゲ:そうですね。自分のアイデアだから、100点くらいあっても別に。

池上:広く皆に届けばいいという考えですか。

イチゲ:そうですね。あとシルクスクリーンだと、イタリアで刷ってもらったからすごく色が綺麗なんですね。発色が。

池上:自分で絵具で描くのとまた違う楽しみといいますか。

イチゲ:ええ、楽しみですね。自分で版を切ってカットして。

池上:制作行程そのものを楽しまれるというところが面白いですね。

イチゲ:ソットサスの事務所には何年くらいいたのかな。

池上:正社員になるように求められるのが1974年と書いていますね。

イチゲ:じゃあ3年半か、4年近いですね。

細谷:このへんのソットサスが気に入るところと、それから立石さんの出したいものというのがうまく合ったというのがあるんでしょうか。

イチゲ:そうだと思いますね。あと面白いことに、ヴィア・マンゾーニ(Via Manzoni)って、中央駅にザーッと行くメイン通りがあるんですけど、ソットサス事務所があって隣りがイオラスの画廊だったんですね。全然建物はつながってないですけど。

池上:そういうつながりもあった。

イチゲ:偶然なんですけど。イオラスにプレゼンテーションしたのは、自分の手作りの本を作って、それをイオラスのいない時に持っていった。彼が1年に2〜3回しか来ないのかな。預けておいたら知らせがあって、絵を見たいからということで運んで見てもらって。その時がイオラスの最初で、10点くらい買ってくれたんですよ。

池上:じゃあ、最初から気に入って。

イチゲ:そうですね。それで「自分が助けてあげたいから、何がしたい?」と言われて。イオラスのほうから展覧会をやりましょうというんじゃないんですよ。すごくクールな感じで「お前、何がしたい?」って言われたんだって。「展覧会をやりたい」って。それでその年にジュネーブで第1回の展覧会をやったんです。その時は、カタログと、リトグラフのポスターも作りました。制作はセルジォ・トージ(Sergio Tosi)で。サングレゴリオのアパートは彼の工房で、彼が越した後、私たちが7年住みました。

池上:イオラスさんは、いろんなところに画廊をお持ちだったんですよね。

イチゲ:そうですね。何ヶ月単位でパリとかニューヨークとかに住んで。マドリッドの画廊はもうその時はなくて。

池上:ご自分はたしかギリシャ人で。

イチゲ:そうですね。でも1976年ですか、引退して。

池上:その後にじゃあ別の画廊と、ということにはならなかったんですか。

イチゲ:立石ですか? イオラスの知り合いとか友人関係のトリノの画廊に託して、タイガーに会いに行くようにと言って。そこで倉庫を借りてという感じだったんですけど、その人と全然合わなくて、もういいやと思って。そういう時代だったんです。

池上:コマ割り絵画も他の絵画もなんですけど、ヨーロッパで売れていた絵というのは、いまどこに。

イチゲ:イオラスを通してなんですけど、全部で100点近く描いてるんですね、イタリアで。日本に帰ってくる時に7〜8点キープしてたのを持って帰ったんです。

池上:あとは全部売れて。どこに入ってるというのはもう?

イチゲ:分からないです。友人が買ってくれたのは分かるんですけど、どこかにまた譲っちゃったかも分からないし。

池上:今アメリカにあるはずのものもあれば、ヨーロッパにあるはずのものも。

イチゲ:ええ。全然分からないですね。ただ、オークションなんかにたまに出てくるらしいんですね。そうすると中国人はそういうのを買わないとかね。モダンなのはだめなんですって。いっぱい描いてないと、とか言ってた。売れ残って返したとか。ちらっと聞いただけですけど。

池上:でもやっぱり足跡を辿りたいですよね。

イチゲ:でも辿れないですね。何人かははっきり分かってますけれども。

池上:手放したりするとまたさらに分からなくなりますしね。

イチゲ:すぐ手放しますもんね。友達のほうが持っててくれてる。あとイオラスのパリの画廊で働いてた、彼は20代だったのかな、今パリで自分の画廊をやってる人がいるんです。彼に手紙を書いて訊いたことがあるんですよね。でも自分は1点は持ってるけど、他のはイオラスを通してどこに行っちゃったかわからないと言うの。

池上:そのあたりも今後の課題といいますか。

イチゲ:友人でも、越しちゃったりすると分からないですね。ソットサスの事務所にあった1点も、ソットサスが亡くなってから、どこにあるか分からなくなったと聞きました。

池上:写真で撮って残してはおられるんですか。

イチゲ:ええ、そうです。写真は全部撮っています。

池上:じゃあ、どういう作品があったかはわかる。

イチゲ:それが『ムーン・トラックス』の元になって。全部ではないですけど、90パーセントは入ってます。

池上:すごい。その後に、長い滞在の後、1982年ですか、日本に帰ってこられるんですけれども、直接の理由やきっかけはありましたか。

イチゲ:直接の理由は、その途中でもね、1970年代の途中で、もうイタリアじゃないところに行きたいねって。ロンドンとか友達がいましたから、イギリス人の。その頃ロンドンも大変だったんですね。自由業でやっていくなんてほとんど不可能だという感じで。税金が高いからね、イギリス人でもアイルランドとかに越しちゃって、毎週通ってくるとかね。じゃないと税金だけでお金が残らないとか、そんな話ばっかり聞いてたんですけど。そしたら犬の検疫が6ヶ月なんですよ。9ヶ月かな。それはもうだめだからしばらくイタリアにいようとか言って。それで1980年くらいになったらやっぱり生活を変えたいねって。

池上:やっぱりもう10年以上いらして。

イチゲ:あと、それ以上いるんだったらもう本当に居住権を取るとか。そこまでの理由はなかったんですね。やっぱり最後はサンフランシスコに行って、SFのコマ割りの絵を描いて暮らしたいねとか。

池上:それいいですね。

イチゲ:ねえ。そういうのがあったんですけど、とりあえず彼の両親も年取ってきたから、一度帰ってみようと言って。きっかけは『虎の巻』という漫画が出版になるというので。

細谷:工作舎でしたかね。

池上:帰国された時点でまだ40歳になって少しくらい。

イチゲ:そうですね、今から考えると……

池上:お若いんですよね。キャリアもこれからみたいな感じで。

イチゲ:ええ。

池上:だからそれまでにされた仕事量が膨大なんですよね。絵にしても漫画にしてもイラストにしても。

イチゲ:そう。まあけっこうやってますけど。立石は、振り返って考えるという感じはなかったです。

池上:すごいことだと思います。

イチゲ:でもね、昼間はソットサスの事務所に行ってこういうのを描いたりしてたんですけど、帰ってきたら自分の油絵を描くわけですよね。そっちがメインだから、こういうのはソットサスのためのという感じで。今になったら皆見てくださってすごく面白いとか言って、「ああ、そうなのか」という感じ。

池上:だからどっちもすごいクオリティだということが、やっぱり驚きます。

イチゲ:こうなってると面白いですね。

細谷:すごいですね。仕事に手抜きがない感じがすごいと思う。

イチゲ:これの時もね、ヨーロッパってすごくアーティストの権利がはっきりしてて。ソットサスがサインしていろんな美術館に入れてるんですけど、「タイガーってこっちに刷れば」とか「お前、行ってこい」とかそういう話もあったみたいなんですけど、彼はそういうの全然興味なくて。自分は家で自分の作品を作ってるから、これはソットサスの仕事というふうに頭の中で分けて。そういうふうに言ってました。

池上:それで『虎の巻』を出されて、1985年には『とらのゆめ』という絵本も出されて。これは絵本にしませんか、というお誘いがあったんでしょうか。

イチゲ:『とらのゆめ』はね、後になってお話しして分かったんですけど、福音館の編集者の方から手紙を受け取ったんですね。帰国してすぐ。その人が1960年代から絵本を一緒に作りたいと考えてて、そしたらイタリアに行っちゃってもういないというのが分かったんですって。それで帰ってきて『虎の巻』を出したのを知ってすぐ連絡をくださって。

池上:じゃあその方からすると、20年越しの希望が叶ったというか。

イチゲ:ええ。

細谷:福音館の編集者の方。ちなみにお名前はわかったりします?

イチゲ:その方はね、関口展(ひらく)さんなんですけど、あの人の甥にあたる人です、植草甚一(注:映画評論家、ジャズ評論家)さんの。

細谷:植草さんの甥っ子さんなんですか。

イチゲ:なんかね、お母さんと植草甚一が兄弟だって。でも『とらのゆめ』は、残念なことに関口さんと始めたんですけど、会社の方針でポジションが変わって別の人になっちゃったんですね、途中から。

細谷:なるほど。

池上:残念。

イチゲ:その人と立石と、制作上の意見が合わなくて、じゃあもうこれやめるとか言って、関口さんとその方が二人で家に来て話し合いをして、じゃあなんとか続けると言って、それでできた本なんです。彼にとっては初めての絵本で、色々と難しかったけれど、愛着のある本だと思います。

細谷:なんとか関口さんが頑張ってつないで。

イチゲ:そう。イタリアに行く前から考えていたんだというのは、つい去年くらいに聞いた話だったんです。「ああ、そうなの、関口さん」って。今でも、1年に1〜2回くらいお会いするんですけど、関口さんはしょっちゅう映画を観た葉書とかくださる。

細谷:皆さん、映画好きなんですね。

イチゲ:そう。

池上:それでお名前のほうなんですけども、作家、芸術家としても「立石大河亜」という漢字のほうに改名されて。カタカナと漢字の「タイガー立石」のほうは絵本で使うというふうに使い分けをされるんですか。

イチゲ:はい。漢字の、大河亜という漢字のほうも、1970年代のオイルペインティングの裏にもう既にそのサインを使っているから、いつか使おうと思っていたんだと。

池上:裏にちゃんと書いていた。それはやっぱりいろんな媒体でお仕事をされるので、一応区別を。

イチゲ:そんな真面目じゃないんですよ。こういうふうにしようとかね、そうやって自分をちょっと変化をつけて。

池上:あとはちょっと時間が前後しますけども、表装された作品で、巻物のような《海底飛行》(1987年)だったり《水の巻》)(1992年)という作品がありますね。そういう新しい形式のものも……

イチゲ:掛軸ですね。

池上:出てくるように思うんですけど、その形式というのはどういうふうに。

イチゲ:掛軸に関しては、ミラノにいた時は、そこはもう本当にデザインでいろんなものがありますよね。いつか掛軸を自分で作ってやってみたいとは言っていたんですね。それで日本に帰ってきて千葉県に住んでいた時に、アマチュアの方で引き受けてやってくださる人がいて。

池上:表装をしてくださる方が。

イチゲ:ええ。どんなに変わったものでもオーケーでやってくれた。それでINAXギャラリーでやってくれたんですけども(注:京橋・1987年11月4日〜29日、大阪・12月4日〜20日)。

池上:こういう縦のものもあれば横長のものもありますよね?

イチゲ:はい。それは巻物ですね。

池上:《遺伝子戦争》(1987年)という。これは7メートル近くあるので、開いて見ていくのがすごく楽しそうな作品ですけど。日本に帰ってこられて作風の変化みたいなのは感じられましたか。

イチゲ:作風の変化っていうかね、「明治・大正・昭和」っていう大きな油彩があるんですけど、あれは絶対描きたいと言ってましたね。日本にいるというのを……。

細谷:これですね。

池上:これもとても大きな作品で。

イチゲ:それに関しては、たとえば江戸も一点描いたんですけど(注:《大江戸複雑系》、1997年)、未来とか過去とか超未来とか超過去とかずっと続けるというふうに話してましたね。

池上:「明治・大正・昭和」、これは三部作ということですよね?(注:《明治青雲高雲》《大正伍萬浪漫》、《昭和素敵大敵》、すべて1990年)

イチゲ:ええ、そうですね。

池上:本当に一つ一つがすごい大作で。

細谷:見出したら止まらなくなっちゃうような。

池上:これはそれぞれの時代に対して立石さんの、何でしょう、思いというか。

イチゲ:そうですね。ビジュアル、視覚的なイメージで構成していくというか。

池上:やっぱりすごく大衆的な、当時の時代を代表するようなイメージが。

イチゲ:そうですね。構成のしかたも何段階かになっていて。たとえば食べ物がずっとあるとかね。(《昭和素敵大敵》について)バナナとかレモンでしょう、こっちはお芋とか。

池上:バナナが高級品だった時代ですよね。

細谷:ここに岡本太郎がいたりする。

イチゲ:ええ、縄文の埴輪と一緒に。

細谷:淀川長治がいたり、当時の皇太子がいたり。

池上:その時代の総括というか。

イチゲ:そうですね。この頃も絵画制作はスピーディーだったんでしょうか。

イチゲ:すごいこれは集中して、ものすごい時間をかけて。

池上:これは大きい作品だし。

イチゲ:あと資料も、神田に行ってはこんな買い込んで。

細谷:だいぶ資料を集められて。

池上:一方で富士とかタイガーというモチーフも継続して描かれてますよね。

イチゲ:そうですね。はい。

池上:これが《水の巻》っていう、横にすごく長い巻物で。

イチゲ:6巻あります。

池上:素材は何でしょう。

イチゲ:50メートル近い。和紙に硬い鉛筆で描いて。

池上:やっぱりメディアが違うので、作風の印象もすごく違いますけど。でもなんかどんなメディアで描いてもお上手なんだなって。

イチゲ:新しいことに取り組むと、パワーが出てくるのだと思います。

池上:すごい。この水滴の感じとか。

イチゲ:全部つながってるんですね、50メートル近く。

池上:これはある物語みたいなものに沿ってはいないんですか。

イチゲ:ええ。一応ね、《水の巻》というSFの小説があって、小説が半分で、それと全然関係なくずっとつながる絵を描くっていうので始めたんですけれども。

池上:なんかものすごく想像力の広がりを感じます。

細谷:SFは映画も小説も、ずっと続けて観たり読んだりされてましたか。

イチゲ:彼はSF小説はあんまり。でもロバート・シェクリイ(Robert Sheckley)の『人間の手がまだ触れない』という短編集に出あって、アイデアが何でも視覚化できるコマ割り形式の絵画につながったようです。ある時期J・G・バラード(James Graham Ballad)も読んでいました。

池上:映画はどうですか。

イチゲ:はい、映画も見てました。

池上:『2001年宇宙の旅』(1968年)には衝撃を受けられたとか。

イチゲ:そうですね、はい。

池上:あれはイタリアでご覧になったんですか。

イチゲ:いや、あれは日本で。

池上:行く前に出たんですね、映画が。

イチゲ:そうです、はい。

細谷:でもやっぱりこうやって見ていても動きが、全体を通してのモーションというか。

池上:やっぱり映画的という特徴がずっとあるのかなという感じがしますね。

イチゲ:そうですね。

池上:でも一方で焼きものも始められますよね。

イチゲ:はい。あれはね、きっかけがあって。房総半島に住んでた時、私の学生時代の友人が茂原というところでギャラリーをやっていて。そこで縄文土器にちなんで皆で赤米や黒米を育てて、収穫の時に粘土で何か作って野焼きして遊ぼうというので、会費を払ったら粘土を持ってきちゃったんですよ、友達が。私たちはお米のほうはやらなかったんですけど、食べる時は行きました。それで野焼きを始めたら面白くって。

池上:じゃあお二人とも行ったんですか。

イチゲ:そうです。丈夫な粘土も友達が教えてくれて、いっぱい取り寄せて。それで籾殻が出ますよね、お米だから。籾殻をお百姓さんからもらってきて、焚火した後、乾かした自分が造形したものをいっぱい置いて、籾殻をかぶせてね、一晩置くんです。すると朝になるともうできてるわけですよね。どんどんできちゃって。もうそれが楽しくってね。ずいぶん作って。そのうちにどんどん本当の作品みたいな感じになって。

細谷:やっぱりそこで、さっきおっしゃっていた技術的な面白さみたいなものも。

イチゲ:そうですね。彼はやっぱり彫刻、立体も興味があったので、それで最後は電気炉ですか、買って備えて作るようになったんです。

細谷:炉を買ってですね。

イチゲ:ええ。それでアーティストシリーズとかね、作って。

池上:興味はあったけれども実際に作るのは初めてだったんですか、立体作品というのは。

イチゲ:野焼きですか?

池上:いえ、野焼き以前には実際には立体の制作は?

イチゲ:以前、彼は学生の時、向井良吉さんっていますよね。

池上:彫刻家の。

イチゲ:ええ。その人のところに一年くらい居候みたいにしてお世話になって、その時行動展に出したんですよね、彫刻。彼は嫌みたいだったけど、写真とかちゃんと残ってるし。だから彫刻や立体もすごく興味があって。(資料を見ながら)これは馬かな。馬ですね。

池上:おかしな味わいのある。

イチゲ:そうですね。裏と表と。

池上:そうか、これは裏表なんですね。やっぱり面白いですね。

イチゲ:アーティストシリーズのいちばん初めなのかな、ゴッホなんですけど(《VINCENT》、1996年)。ここに浮世絵のモチーフが。裏ですね。

池上:広重の《大橋あたけの夕立》ですね。

イチゲ:ええ、そうなんです。大橋の下にゴッホの切った耳が流れてる。

池上:ええ、ああ本当だ!

細谷:うわぁ、すごい。

池上:大橋あたけの夕立で耳が流れてくっていう。いや、これはすごい。やっぱり立体だからいろんな見るところがありますね、角度によって。

イチゲ:こっちはピカソかな。立体だから(《GUERNICA》、1996年)。

池上:ピカソは《ゲルニカ》のシリーズもありますよね。

イチゲ:そうですね。《ゲルニカ》もやってます。これは特別大きいやつですね。

細谷:これは? (注:『イラストレーターの展開とタイポグラフィの領域』、角川書店、1998年を指して)

イチゲ:これはね、田名網敬一さんが何か。

細谷:この四次元イラストレーションというのは立石さんがおっしゃったんですか。

イチゲ:いや、違います。

細谷:違いますか。さっき五次元というお話があったのでもしかしたらと思って。

池上:これは田名網さんがグラフィックを手がけたんですか。

イチゲ:京都造形芸術大学の、通信教育の教科書で。その時に連絡くださって、載せてくれたんです。

池上:田名網さんも1960年代の東京のシーンにいらしたから。こういうふうに展開するのかというのがまたすごく面白くって。岡本太郎さんもありますね(注:《TARO》、1996年)。

イチゲ:はい。

池上:これは作陶もされつつ、平面というか、絵も並行してされていたんですか。

イチゲ:そうですね。立体もどんどん本当は生きていたら作るんでしょうけど。一応、12点作って、まだまだいろんな人のを(作る予定だった)。

池上:ちょっと変な質問かもしれませんが、作家の方ってスランプの時期があったりする方もいらっしゃると思うんですけど、立石さんはそういうことは全然なかったんですか。

イチゲ:彼が言っていたのは「スランプなんか時間がもったいない」。一度もないです。

池上:そうですか。やりたいことはいくらでも出てくる?

イチゲ:いくらでもあるのにね、スランプで青い顔してどうしようとか、そういう友達の話を聞くと、全然そんなの知るかっていう感じ。

池上:悩んでる暇があったら、という。

イチゲ:やりたいことがいつもいくつもあったみたい。

池上:素晴らしい。

イチゲ:最後のほうに言ってたのは、こういうつながってくやつですね、時間的に、そういう巨大な絵と、多次元絵画っていうのかな、一枚の中にいろんなものが入ってくるタイプのと、あとSF的なコマ割りのと、この三種類の絵は絶対に続ける、やっていきたいって言ってました。

池上:本当に無限に続けられそうな可能性がたくさんある形式ですね。

イチゲ:はい。だからいくら時間がいくらあっても足りないというか、60歳になったらやるぞって言ってたんですけど、56歳で亡くなった。

池上:ご病気になられて。

イチゲ:ええ、そうですね。千葉県の大きい民家を貸してもらって、そこを床を張ったりいろんなものを直して、電気炉もあってそこで粘土ができたんですけど、絵はこれから描くぞと言った時に病気で倒れた。

池上:アーティストとしての交友関係もお聞きしたかったんですけども、中村さんの話とかお聞きしましたが。親しくされていたアーティストや批評家の方はいらっしゃいましたか。

イチゲ:批評家の方だと、中原佑介さんかな。彼がINAXギャラリーの顧問をされていた時に立石は4回やっているんですね、展覧会。「立石君、何やってるの?」とか言って、「これ描いてる」って。これも最後に大きいやつでやってくれた。あとはね、『美術手帖』で対談したメディア・アーティストの藤幡正樹さん。藤幡さんは「立石大河亜と立石紘一が同じ人だとは思わなかった」と。藤幡さんは絵を一点買ってくれたり。

池上:中原さんは立石さんの作品をすごく評価されていたんですよね。

イチゲ:だと思いますね。4回もやってくれましたから。

池上:そうですよね。普段からお付き合いがあったんですか。

イチゲ:行き来して? そういうのはなかったです。ただオープニングの時に会うと一緒にお酒を飲んだり。

池上:じゃあ、あくまで批評家と作家というので。

イチゲ:そうですね、ええ。

細谷:お付き合いはイタリアに行く前からですよね。

イチゲ:ええ、若い時からですね。あと東野芳明さんは亡くなられちゃって。イタリアにいる時、東野芳明さんから絵葉書をいただいたことがあるんですけど、漫画のタイガー立石と立石紘一だとは知らなかったって書いてあった。

池上:東野さんにも言われたんですね。藤幡さんもそうかと思うんですけど、帰国されてから若い世代のアーティストとのお付き合いとかはありましたか。」

イチゲ:天野裕夫さんって方とか。すごい巨大な彫刻を作るアーティストです。天野裕夫さんは、お付き合いをするようになってすぐ彼のほうが亡くなっちゃった感じなんですけど。

池上:ああ、そうですか。

細谷:(1999年、O美術館での個展図録に)何人か感想みたいなのを書いてますよね、たしか。

イチゲ:そうですね。天野(裕夫)さんも。

池上:あの図録はオスカール大岩さんも文章を寄せられてますよね。

イチゲ:そうですね。展覧会を企画した天野一夫さんがやってくださった。

池上:あと会田誠さんとか松本弦人さん。

イチゲ:でも(本人は)全然お会いしたこともない。私は会田さんとお会いしたことがありますけど、立石は全然。

池上:作品を見てやっぱりすごいと思われてたっていうのがあるんでしょうね。(細谷に向かって)あとお聞きしておきたいことはありますか?

細谷:全然違うかもしれませんが、図録の文章に「『歴史のひき出しを多く持っている国民は幸福である』―これは私が13年間のイタリア滞在から学んだ結論である。」と書かれているんですよね。(注:「立石大河亞1963−1993展 筑豊・ミラノ・東京、そして…」、田川市美術館、1994年4月12日〜5月8日)そういうことを最初に言ってから、この三部作について書かれているんですけれども。

イチゲ:じゃあつながっていきますね。

細谷:国とは言わなくても、故郷(ふるさと)とか、ある種の立石さんの原風景みたいなものが、日本に帰ってきてからもう一回そこに帰っていこうみたいなことはあったんでしょうか。

イチゲ:そうですね。日本にいるからこの仕事はしなきゃとは言ってました。

細谷:「大地の記憶―個展によせて」っていう文章なんですけど。

イチゲ:(個展のパンフレットを見せながら)こういう絵もあるんですけど。(注:《大地球運河》、1994年、《富士のDNA》、1992年の図版などが掲載されている)

池上:やっぱりすごい大作揃いで。

細谷:これは若い時ですね?(《富士のDNA》に描かれた自画像を指して)

池上:タカタカ君と一緒に。

イチゲ:はい。タカタカ君です。これは時間的にずっとつながるのと、一つの画面にいろんなものが多次元的に入ってくのと。

池上:こういう横長のパノラミックなものと、ちょっと縦で周りでというのと。

イチゲ:そうですね。

池上:これは展覧会の時のパンフレットですか?

イチゲ:山本現代がやってくれた展覧会ですね。(注:「TIGER TATEISHI」展、山本現代、2011年1月8日〜2月5日)

池上:5年前のものですね。山本現代さんは今、立石さんの作品をリプリゼントされてますけど、どういうつながりというかご縁で?

イチゲ:それも不思議なんです。山本さんがギャラリーを始められて、神楽坂にギャラリーがあったんですけど、私は展覧会を見に行って、神楽坂の坂のところで山本さんが出勤してくる時と出会って。その前から何回かお会いしてるんですけど、それでちょっと話して。それから何日かたって山本さんのほうから電話がかかってきて、ぜひ立石さんの作品を扱いたい、やりたいからって、そういうお話で。だからね、ちょっと変わった話なんですけど、その時も坂の上で会って、こういうふうに位置が変わって話をして別れて、それから電話がかかってきて。立石と会ったのもね、都の上野の美術館ですか。階段で会って、下りてきて、彼が向こうから来てこういうふうになって、それで話して。そういう出会いがなかったらなかったと思うんですけど。

池上:大事な出会いがそういうところに。

イチゲ:ええ。その時は全然考えなかったんですけど、70歳を過ぎると「あれ、不思議だったんだな」と。そういうちょっとした出会いって不思議なことがありますね。

細谷:そうですね。

池上:でも起こるべくして起きたご縁なんでしょうね。

イチゲ:わからないんでしょうね。だから他の会い方で、他の人と出会ったら、その人と暮らしてたかも分からないし。だから不思議だなと思って。

池上:面白いです。すみません、本当に長くお時間をいただいてしまって。今日は立石さんの作品を中心にお話をうかがったんですけども、こうやって振り返ってお話しされて、あらためてお感じになることがあればお聞きしたいなと思うんですが。

イチゲ:いやあ、そうですね。彼はあれから5年でも10年でももし生きていたらどんな仕事していたかなと思うと、面白い仕事をしてたんじゃないかなと思うんですけど。

池上:どんどん発展していく。

イチゲ:ええ、はい。それで美術シーンもどんどん変わりますよね、今は。そういう時にどういう仕事をできるのかなと思う。興味がありますね。

池上:でもそういう流行りというか、流れに左右されずにやりたいことをすごく貫いた方だなという印象を受けますね。

イチゲ:ええ。

池上:私、あと一つだけ実はお聞きしたいことがあって。順不同になってしまうんですが。イタリアに行かれたのが1969年ですけれども、日本でもすごく政治の季節でしたよね。

イチゲ:はい。

池上:学生運動があったり全共闘があったりという。立石さんはもう働いていらしたとは思うんですけど、そういう政治的な動きに特にシンパシーがあったりとか関わられたりということはなかったですか?

イチゲ:関わりは全然ないですね。ただ考える時はやっぱり世界のいろんなことを一緒に考えるとか、そういうことは当たり前でやってましたけれども、関わって活動するとか、それはなかったです。

池上:デモに行かれたりとかは全然?

イチゲ:それはなかったです。

池上:そうか。三人展の山下菊二さんと中村宏さん、元軍人、元左翼、「じゃあ俺は右翼」っていうのも、本気で右翼なわけではなくてポーズなわけじゃないですか。

イチゲ:そうですね。誤解されても全然構わないとか。

池上:だからポーズとしての右翼とは別に、ご自身の政治的なスタンスというか。

イチゲ:その頃はなかったですね。

池上:ノンポリと言ってしまっていいんでしょうか。

イチゲ:でもやっぱり田川市ですごい労働争議とか見てるわけですから、感覚はあると思うんですけど。自分は、ぎりぎりのところにきたら参加してどうのってことはありうるかも分からないんですけど、あの当時はないですね。

池上:原点としてはあるけど、実際にコミットするほどのところまではいかなかった。

イチゲ:ええ。あとイタリアに暮らした時、イタリア人って本当に政治中毒ですよね。

細谷:そうですね。

イチゲ:政治の話ばっかり。アーティストも、ここで展覧会をやるには共産党のメンバーじゃなきゃできないとかね。社会党とか。それでがらっと変わる人はすぐ変わりますよね、建築家なんて。社会党に鞍替えしたりとか。別にそんなの何も言わない。人に言わないし、人は言わないし。

池上:逆にそういう政治的にコミットすることから距離を取るという?

イチゲ:そうですね、ええ。

細谷:そういう状態を当たり前に引き受けてるというか。

イチゲ:ただナンセンス的な考え方になっちゃうと、皆距離を置いて考える。ヨーロッパ人というかフランスに「ハラキリ」というパロディ誌があって、それはもうすごいんですよね。日本はもう政治家なんか、自分が何か描かれたり言われたりするとすぐ電話がかかってきてとか裏工作して、皆できないようにするでしょう。そういうんじゃないんですよね、宗教的にも政治的にも。

池上:頼むところというか信じるところは自分と自分の制作というところがいちばんあったんですかね。

イチゲ:どうでしょうね。

細谷:でも世界を見ながらというところがあったのかな。

イチゲ:ええ。

細谷:すみません、私また一つ質問が出てしまいました。

イチゲ:どうぞ。全然。

細谷:これは平野(到)さんの話に出てきた、禅の『無門関』(平田高士著、1969年、筑摩書房)。

イチゲ:ああ、『無門関』。

細谷:これは、いつ頃から読まれていましたか?

イチゲ:1960年代。漫画を描き始めて。草森伸一さんっていらっしゃいますね。(注:漫画評論家)彼は中国文学も詳しくて。知り合った時に漫画を描いたのを見せたりして、「『無門関』という面白いのがあるよ」と言って。虎をもう描いてる時かな。そういうのとつながってきて、そういう絵を何点か描きましたね、その時。その後もずっと『虎の巻』とか描いてる時も、全部その『無門関』の禅問答ですか、ナンセンスな。

細谷:あれが結局(立石さんとしては)ナンセンスなんですよね?

イチゲ:ええ。それはだから自分の解釈ですよね。本当に理解してるとか、そんな学問的なんじゃなくて。でもそれがすごくつながってると思います。

池上:ただのナンセンスじゃないところもやっぱり。

イチゲ:『無門関』、今持ってますけど。(棚から出して見せる)これはね、引っ越しの時もずっと取っておいた。

細谷:それをずっとお持ちだったんですか?

イチゲ:ええ。これですけど。平野さんに「差し上げます」と言ったら、「いや、まだ売ってますから買えます」と言われちゃった。これ、イタリアに持って行って持って帰ったのかな。ここにあるということは、そうなのかもしれない。

細谷:公案集で、本当に問答ですから、ナンセンスといえばナンセンスかもしれない。

イチゲ:ナンセンスなんですよね。虎が窓を通り過ぎていくやつとかね、それの元のお話とかあって。

池上:ちゃんと典拠のあるナンセンスなんですね。

細谷:これが平野さんの文章を読んで気になって。

池上:現物を拝見できてよかったです。

イチゲ:でも彼自身はこういう話をしないですよね。作家はあまり。そういう話になればするでしょうけど、立石からそういう話をしたことはないんじゃないかな。

池上:実はちゃんとこういうバックボーンがあるんだよとか、そういうふうには言わない。

イチゲ:そうですね。

細谷:そうですか。じゃあ1960年代からもうこれで。

イチゲ:ええ。

池上:面白い。最後に良いことが聞けました。ありがとうございました。

細谷:思い出してよかった。

池上:今日は長い間お話しいただいて、ありがとうございました。