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飯田昭二オーラル・ヒストリー 2010年9月18日

静岡市、飯田昭二自宅アトリエにて
インタヴュアー:本阿弥清、加治屋健司
書き起こし:本阿弥清
公開日:2011年4月9日
 
飯田昭二(いいだ・しょうじ 1927年〜)
美術家(立体)
静岡市で活動した美術家のグループ「幻触」(1966年〜1971年)の中心的メンバー。その前身の一つであるグループ「触」(1965年頃〜1966年。静岡市の旧静岡市地区で主に活動)のときから、美術やマンガ、キッチュなどを幅広く論じた批評家の石子順造と交流しつつ、鳥かごに鏡と物体を配置した《Half and Half》シリーズを制作して知られる。「幻触」再評価のきっかけをつくった都市環境デザイナー・美術批評家の本阿弥清をインタヴュアーに迎えて、父親の赴任先の旧満州での生活、石子との出会いと交流、「幻触」やそのメンバーの活動、「幻触」と李禹煥との関係を中心に話していただいた。

本阿弥:静岡市生まれということですが、生年月日を聞かせてください。また、実家はこの場所だったのでしょうか。

飯田:昭和2年12月6日生まれです。僕の生まれたところは同じ静岡ですが水道町というところで、川の近くの町なんです。父親が転勤族でした。転勤族と言っても、同じ市内をあちこちに行く学校の先生です。そのうちに丸山町というところで僕は小学校に上がったんですね。ですから、水道町の時は、保育園と幼稚園でした。それから結婚して、この場所、田町に住むようになったんです。僕が移動したのは3回ですね。

加治屋:それは静岡市内だけですか。

飯田:そうです。

加治屋:美術を好きになったのはいつ頃からですか。

飯田:学校に入ってからですね。

本阿弥:中国奉天の工業学校を卒業しておられますが、何を専攻されたのか、なぜ中国に行くことになったのかを聞かせてください。

飯田:中国に行ったのは僕にとって重要なことです。理由はいろいろあるんでしょうが、小学校の3年か4年の時に母親が家を出まして、しばらく父親と暮らしました。戦前の日中戦争が始まる頃で、父親が満州へ赴任させられました。当時の僕は、赴任ということがよく分からなくて、親父とお袋がいなくなったということが事実でした。家の中ががらんどうになった。兄弟はいたけれども。僕の二つ上の姉とその二つ上の兄と、僕より11歳違う長男がいました。その頃、長男は兵隊に行っていました。兄弟がいたにしても両親がいなくなったということは、何を意味するかと言うと、僕の心に空洞ができたということなんですよ。普通、両親がいる子供は、空洞はないだろうと思う。それは、両親がいることの安堵感ということもあるでしょうし、また、躾なども含めて、いろいろと両親から示唆されるものがある。それは、その人の一生を原体験として支配するものですよ。大人になっても、そのことは、陰に陽にその人を支配するだけの示唆力を持っていることなんですね。だから両親がいないということは、ただいないから空虚だということではなくて、その間の教養が身につかないわけですよね。それが空洞という意味なんです。今にして思えば、その空洞をずっと僕が引きずっているということなんです。小学校の頃は、そうであるがゆえに、精神病理学的な対象になるくらいの気質というか、そういうものになってしまったのです。それまでは、ずっと学校で一、二番を争う優等生だったんですよ。でも、学校に行かなくなったので成績はずっと落ちる。でも、行かなくても試験をやると僕はできるものだから、みんなが怒られていましたね。僕は何をやっていたかと言うと、川に釣りに行ったり、隣の町に行ってケンカしたりしていた。それから、家に70、80センチぐらいの蓄音機がありまして、音楽をかけてふたをして、そのふたにうつ伏せになって目いっぱい大きな音を出していることがとても心地よくて、一日中そのようなことをやっていました。それから、親父の書斎があったんですよ。それが子供の勉強部屋で、兄弟が4人だから4つ机が並んでいた。3人の机は毎日使い慣らされてピカピカだった。毎日勉強をしていたんでしょうね。僕の机だけは埃だらけで、本をどけると埃のしるしがついたりした。そこは書斎だから本棚があって、そこに、親父かお袋が好きだったのか、『世界美術全集』があった。それを毎日のように見ていたんですよ。見たと言っても芸術的教養として見ているのではなくて、女の裸が出てくるんですよ。神話のニンフとか。それが見たくて本を見ているんですね。湯浴みとかね。当時小学生ですよ。今にして思えば、ずいぶんマセた子供だったと思うんですが、それが空洞を埋めるべき出来事でしたね。それから学校にたまさか行った。実際は、学校に行っている時が多くて、休んだ日が少ないのですが、今思うと、休んでばかりいたように思うね。絵というか、図画工作があって、僕はすごく得意だったんですね。写生などをやらされると、地面を描くんですよ。今思えばフェティシズムですね。フェティシズムというよりも偏執狂と言ったほうがいいのかな。限りなく地面を擦って地面らしくするんですね。地面の上に紙を置いて擦ることが魅力だったんです。クレヨンで描いて塗った。初めのうちは、「おまえ何を描いてんだ」と言うので、それじゃまずいなと思って、その上にアリを描いたり、葉っぱを一枚置いたりした。そうすると急に成績が良くなって、自分でも天才ではないかと思い始めたりした。天才だと思うのは悲劇ですね。あれは思わないほうがいいですね。でも、美術は得意だったな。

本阿弥: 当時は、お母さんがいなくて、お父さんが赴任されていたので、自宅には兄弟4人で生活していたのですか。

飯田:兄貴は、兵隊に行っていたのでいなかったですね。真ん中の兄貴は今の静岡高校、当時の静岡中学に行っていまして、その後は物理学校、今の東京理科大学に行きました。僕が満州から休暇で帰ってきたら、兄貴も帰ってきていて「今すごいことをやっているんだ」と言っていましたね。

本阿弥:飯田先生が満州に行ったのはどうしてですか。兄弟では誰が行ったんですか。

飯田:僕ひとりが親父を慕って行ったんですよ。行くにあたってはいろいろありましたけれどもね。

本阿弥:お父さんと満州に二人でいたのですか。

飯田:しばらくは二人でいた。親父は教育者でしょう。ブラブラしちゃいかんということで(工業学校に行った)。

本阿弥:中国に行ったのは何歳くらいの時ですか。小学校の時ですか。

飯田:小学校は静岡の安西小学校です。それから高等小学校に1、2年行ったのかな。その後、突然に中国に行ったんですね。満鉄で経営している工業学校でした。化学工業科というところですね。あの当時は勉強なんかしなかったですね。半日は工場に引っ張られて、蒸留釜の上に座って昼寝していましたね。製油の工場です。石炭と石炭の層の間にオイルシェールという地層があって、それを取ってきて、蒸留して精製するんですね。何キロもある大きな工場でした。直径3メートルぐらいの釜をガンガン燃やして蒸留するんですね。そこで遊んでいました。働いていたのは中国人でした。僕は半日は工場に行ったけれども、だからといって何かするということではなかったです。帳簿を付けさせられたことはありますが。工業学校に行っても、化学記号と亀の甲(ベンゼン環)を少々やった程度で、あとは何もしなかったですね。

本阿弥:その後、美術の道を志した理由は何だったんですかね。

飯田:中国から帰ってきたときには静岡はほとんど戦災で焼け野原でした。我が家は丸山町でしたので、そこの一角は残っていました。残っていたのはいいけれども、長男はすでに結婚して嫁をもらっていた。僕の家だと思っていたら、相手はそうは思わないんだな。「満州から変な奴が来た」と。これは僕ばかりじゃないでしょうけれども、誰もが感じる不思議な社会現象でしたね。「変な奴が帰ってきた」と。よくドラマでは、抱き合って「よく帰ってきた」とあるけど、あれはどうも嘘だな。そんな具合なものだから居るところがなくて――しばらくはいましたけれど――そのうちに、出なくてはいけないかなと思って出ました。その時に木梨さんという絵を描く人に出会った。僕も絵が嫌いじゃないものだから、絵の具を買って――当時絵の具は1本10円でした――よく大崩あたりに風景画を絵を描きに行きました。そのうちに、仲間というのか、誰でもそうでしょうけれど、匂いでもって寄ってくる人間がいましてね。虫なんかといっしょです。そうして仲間というか先輩ができた。自由美術に出していた牧野重信という人がいたんですね。何でもできて絵も上手でした。そいつを尊敬していたので、そいつの言うことは全て本当だと思い込むようになっちゃったんですね。そいつを中心にして川口君、播磨君、そして僕と、4人はいつも朝から晩まで喫茶店で絵の話をしていました。そのうちに、僕も自由美術に出したんですよ。後に麻生三郎さんに会うんですね。そうしたら、いきなり2点入選するんですね。もしかしたら俺は天才じゃないかと思っていたので、まさかこのことではないかと思った。しかし、しばらく考えてみると、初めて出してこんなになるなんて、そんなに美術が簡単であるわけがないと思った。こんなところで甘えてはいけないと思って、次の展覧会からは出さなくなったんです。自由美術に出したのはこの1年だけでした。アンデパンダン展に出したのは、その次ですね。無審査で勝手なことができるからね。牧野という人物は、その後、自由美術の会員になった。僕は、麻生さんの絵だけが、なぜか分からないけれども一番すばらしい絵だと思った。当時の僕は、年齢的には22、23歳の頃だね。

加治屋:その時に描かれていたのは油絵ですか。

飯田:油絵です。

加治屋:どんな感じの油絵だったのでしょうか。

飯田:牧野さんと交流のあった頃は、造形意識が大事だと言われて静物画を描いていました。当時よく言われていたのは、美術でひとかどの者になるには、セザンヌをやらなければだめだということです。麻生さんにも言われた。喫茶店で話をする4人は、朝から晩までセザンヌ論ばかりでしたね。セザンヌについてはめちゃくちゃ話をしました。今でもセザンヌの世界観というか僕らの世界観は、時代の違いとしてあるなと思っています。つまり近代のひとつのメルクマークとしてセザンヌはいたし、遠近法が僕らの中にあるんですよ。それが近代だというメルクマールがあるんです。だから今を支えているものは、そういう友達関係で生じたものです。疑念というか問いの姿勢がずっと続いているんですね。それも「空洞」を埋めるために。今でもそうですよ。空洞においては変わりない。

本阿弥:飯田さんは、読売アンデパンダン展の第6回(1954年)から第10回(1958年)展まで5回参加していますが、自由美術から読売アンパンに移行した理由と作品の傾向を聞かせてください。

飯田:セザンヌが好きだと言っていましたけど、牧野氏を中心としてみんなで集まっていたその時代には、フランスの動向としてオム・テモワンというものがあったんです。オム・テモワン、つまり「目撃者」ということだけど、ミノー、ロルジュ、ビュフェという3人が、当時の美術の動向の中枢を担っていたんです。その世界にのめり込んでしまいました。その影響がずっと尾を引いてアンデパンダン展の頃の作品となった。(注:当時のキャンヴァスに描いた油絵を見ながら)この作品のタイトルは《あわてて裏がえしになった男》というものです。自由美術に出した作品です。読売アンデパンダン展には、《厨房》という作品を出して、今泉篤男さんがすごく褒めて新聞にも載せてくれましたね。それ以外には、読売アンパンについて印象はないですね。訳が分からないという印象はありますね。自分も勝手なことをやっていましたから。基本的にはキャンヴァスを使ったタブローでしたね。タブローから離れるのは石子さんと会ってからですね。

本阿弥:「幻触」になる前に、丹羽勝次さんと「触」というグループをつくって活動していたと思いますが、その頃の話を聞かせてください。

飯田:その頃には牧野氏は自由美術を辞めちゃって家業を継ぐようになった。川口君は東京でデザイナーになった。播磨君は芸大を卒業して金沢の工業試験場にしばらく勤めていたという噂でした。だからその連中とも別れた。その代わりに、丹羽君が静岡大学のころから知り合いで、いろいろと話し相手になった奴でしたので、大学を出て、学校の先生になってもずっと付き合っていました。「いっしょに絵をやろう。「触」というのをやろう」と言ってね。そんな具合ですよ。「退屈だから会でも作って展覧会でもやるか」という素人の集まりです。

加治屋:「触」は1960年代半ばに結成ですが、読売アンデパンダン展に最後に出されたのは58年でした。1960年代前半というのはどのような活動をなさっていたのでしょうか。

飯田:当時、飯を食うために我が家はいろんなことをやったんです。その時は、下駄にミッキーマウスを描いていましたね。静岡は下駄の産地でしたからね。一足いくらといってお金をくれるんです。「何で足は二本あるんだ」と言って怒ったね。二つ描いて一足ですから。二つ絵を描いても、一つ分しかお金をくれないんですね。「絵なんか描いちゃいられない」という時代が長く続いた。そのうちに腸チフスのばい菌が静岡に二匹いましてね、その二匹をうちの親子が食べてしまったんですね。そして入院してしまった。僕には入ってこなかったんですが、病院に移ってしまったので飯を食うのに困って「看病しますから」と言って入り込んで寝ていましたね。夜になると抜け出して、鈴木健司さんのところに遊びに行った。そのようなことがしばらくあった。あ、そうか、その前に絵の教室をやっていたんだ。その時に、病気になったので「絵の教室を休むぞ。やめちゃうぞ」ということになって、子供たちをやめさせちゃった。「ばい菌がうつるぞ」とか言ってね。(絵の教室を始めたのは)下駄が下火になっていたんですよ。うちのかみさんが、長女の学校の役員をやっていて、そのうちに子供を連れてきて「うちで絵でも描きなさい」と言っているうちに、100人いや百何十人も集まって、立派な絵の教室になっちゃった。石子さんに会ったのは、その時期でした。だから石子さんは俺のことを「絵の先生」と言っていました。

本阿弥:石子さんに最初に会ったのは、1964年に版画家の伊藤勉黄さんの紹介だと伺っていますが、当時のことを聞かせてください。

飯田:当時、伊藤さんは偉い人で、静岡市の美術協会の会長などをやったりしていた。僕はことあるごとに盾突いていた。しかし、僕の言い方が彼の中では正しいと思うこともあったんでしょうね。文句を言いながらも信じていたようですよ。僕は石子さんを全然知らないある時に。彼が石子さんをどうして知っていたかは分かりませんが、「俺について来い」ということになって、石子さんのところに連れて行かれた。「石子さんと付き合うといいよ」と伊藤さんに言われたんです。だから僕はただの付き合いと思ったんだよ。「いいよ」と言って、しばらく経ったら、だいぶ様子が違ってきて、ただの付き合いでは済まされないことになりました。石子さんは難しいことを言うし、訳の分からない言い方をする。僕らの言語の体系とまったく違う言い方でしょう。石子さんの自宅が静岡の産女にあった時ですね。何を言っているのかさっぱり分からなくて、「あっ、そうですか。そうですか」と聞いていた。美術に対する思考体系が違った。あるいは、東京と静岡という言語文化の違いなのかも分からない。そういった分からなさでしたね。

本阿弥:この時期は、石子さんがまだ東京に行かない頃ですね。

飯田:石子さんは清水から移り住んで、伊藤勉黄さんの言い方では、産女での静養ということでした。体を癒すと。最初は、石子さんが清水から静岡に来るから付き合わないかということでした。僕の印象にあるのは、言語の違いというか、それが深いか浅いかの違いでした。僕らは楽天的でしたからね、性格的にも。石子さんの小難しい言い方は、僕の理解にいたるもっと先の段階ですね。違和感と言った方がいいかな。

加治屋:その時、石子さんは飯田先生に対してどういう感じの接し方をしていたのでしょうか。つまり、絵について語る人が欲しかったとか、それとも何かいっしょにやろうとしたのか。

飯田:僕は小さい頃から釣りが得意だったんです。石子さんは静養に来たんだから、釣りでもやって体を癒すかと僕の中では思っていたんですよ。その限りの付き合いでいいなと思っていたんです。どっちみち難しい言葉にはついていけないからね。そうしたら、どうもそれだけでは済まされないということになりましてね。言っていることが分からないとしょうがないわけなんです。
河原にいるときには、そんなに難しいことは言わないんです。ここには魚がいそうだとか、いなさそうだとか。魚とはどういうところに生息しているのかとか。そんな聞き方だったので、それについては答えられるし、また、それ限りと思っていたんですね。そして、夕方になって産女の石子さんの自宅に帰ると、突然に難しい話になっていくんです。鈴木慶則が待っていたり、小池一誠君が来ていたりした。すると、もういけません。ついていけないというか、彼らもついていけなかったんだよね。だって、話をするのが終始石子さんだからね、最初から最後まで。途中で石子さんが「今言ったこと、君はどう思う」と言うのなら話はできるんだろうけど、それすらないわけです。ですから、みんな「はあ、はあ」と聞いているだけでした。それも、付き合って一年ぐらいは、わけの分からないことで済んでいたんですが、人間というのはおもしろいものですね、話をしているうちに、そいつが何の話をしようとしているのか、何について話しているのかが分かってくるんですね。言葉というのは便利です。一年ぐらいでしたよ。いくらか分かるようになってきたのは。その時に僕も何とかしなければと思った。当時、石子さんの前で鈴木慶則や小池一誠君が困り果てている姿を見て、とてもうらやましく思ったんだよ。俺もそうなりたいと。「これは勉強しなければ」と思った。勉強しようというのはかねてから思っていたんだけれど、勉強する方法がそこで決まった。それが、たまさか哲学の本であったりしたもんだから、話し言葉がテクニカルタームになったわけですよ。日常言語ではなくてね。第一次思考ではなくて第二次思考の世界に入っちゃったんだね。だから話す言葉がどうもテクニカルタームなものだから、哲学的と思われがちなんです。今どき哲学的なんて言うと、かえって恥ずかしい。反哲学とか非哲学と言うのであればいいんだけれど、哲学的と言われると馬鹿にされたみたいな感じになります。僕も改めなければならないと思っているんですよ。

加治屋:読まれていた哲学書にはどのようなものがありましたか。

飯田:一番興味を持ったのはマイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』。レヴィ=ストロースよりおもしろい。ヨーロッパの知の文脈が1960年にかけてヨーロッパの文化そのものによって否定された。レヴィ=ストロースらが盛んに言い始めたんだけれども、ヨーロッパのある地方の知の文化は、世界的規模で言えばごく限られた知の水準であって、文化というのはあらゆる形で偏在している。現代美術がヨーロッパを対象としているのに対して、自分自身の足元に横たわっているものに目を向けさせたのがレヴィ=ストロースだった。そういう意味でレヴィ=ストロースがおもしろいと思いましたね。石子さんも多分そうだと思う。そう思うことは、とても大切なことです。先住民族というのは近代以前ですね。僕は戦中・戦後を経験したものですから、ヨーロッパの近代が唐突にやってきたという感じがある。あなた方は違うでしょうね。僕らはそうだったんです。唐突だったので困ったんです。僕らの風俗や習慣は、合理化されたり、言語化されたり、体系化されたりするものではない。言語の上に置き換えられるものではなくて、暗黙の了解というものがあったんですよ。
それは、日本人の最も悪いところとされている。今日では、集団の社会性と言いますが、昔は「世間」と言いました。「間」という字があります。人間というのも「間」で、間という場所、トポスのことです。それを日本人は非常に大切にしていたという文化状況があるんですが、そこに突然、合理主義がやってきたんです。それだから困っていると言ったんです。僕の作品も暗黙知の次元ですよ。僕だけじゃなくて、美術をやる奴はみんな暗黙知でしょうね。西洋の知の体系というのは、俺の体を通さないと俺は了解しないほうだから、了解に至らないんだな。

本阿弥:「幻触」のスタートについてお聞きしたいと思います。グループ「白」の前田守一さん、鈴木慶則さん、小池一誠さんと、グループ「触」の丹羽勝次さん、飯田昭二さんたちが、いっしょになって1966年5月にスタートさせていますね。

飯田:鈴木君、前田君、小池君は僕より十ほど年齢が下です。前田君はちょっと上かな。ジェネレーション・ギャップがありました。彼らは、僕のことをおじさんと思っていまして、よくお年寄り扱いされました。僕もあえて反論はせずに「その通りだ」と。文化状況も彼らとは違いました。彼らは大学に行って教養も身につけていた。アカデミーです。僕は大学に行かなくて、教養がなくて、アカデミックでもないです。「空洞」だから。まだ埋めるべきものが何も見つかっていないと思っている。今でもそうなんです。ですから、彼らとの交流も、彼らが準備して、彼らが話し合って、それで進んだ。彼らが何がしかのことを計画したとしても、僕は「いいでしょう。やりましょう」と言うだけです。だから、ある種の熱を持った会話や行動はない。行動については、僕はついていけない。お金もないし。彼らはお金がなくっても行動するんですよね。僕はそんなに情熱はない。家族も抱えている。彼らは東京に束になって行ったりしたが、僕は行かない。東京が嫌いでした。東京が嫌いというよりも、ここが好きでした。離れたくなかった。僕らの若い頃は、牧野さんの時代です。みんな東京へ東京へと草木がなびいていたですね。その時は、みんな東京に行って、大学に行ったり、勤めに行きながら絵を習っていたりしたんです。そうしないとひとかどの者になれないと、みんな思っていたんです。僕はいやだった。だけど、ついに俺も行かなくてはまずいんじゃないかと思って、ある時にかみさんに話したんだよ。「みんなが東京に行くんで東京に行くよ」と。そうしたら「あ、そうっ」と言うんです。何かスカをくらっちゃったようでした。泣いたり騒いだりすると思っていたのが、半ば嬉しそうな顔をして、行李を持ってきて――行李は知っている? 竹で編んだ輸送用の入れ物です――下着をいっぱい入れて、しっかり縛って「はい、どうぞ。行ってらっしゃい」と。そうしたらもう行くのがいやになっちゃってね。裏から行李を抱えて出たんだけれど、上の子供がパッと扉を開けて「お父さん、どこ行くの」と言うから、もう一歩も先に行かなくて、回り道して家に帰ってきちゃったですね。その時に、家に座って見渡したら、ものすごく家の中が新鮮に見えた。天井の汚れとか。畳のスレ具合とか、柱の傷とか。そうゆうものがありありと新鮮に見えた。家というもの、あるいはものというものが、これほどありありと見えたことはなかった。李禹煥さんのいう「発見」だろうな。「発見」と言ったってこちらの心情もあるし、誰もが発見するのではないよね。それから金輪際、家を出るなんてことを言わなくなったね。僕にとっては、それは大きな事件でしたね。反省を含めて。

加治屋:それはいつ頃でしたか。

飯田: 1955年か56年頃です。

本阿弥:「幻触」をスタートしてから、約10ヶ月後にみなさんで機関誌を出しています。1号、2号を同時に、同じ3月7日にタイトルが『幻触記』『幻触器』で出しているのですね。事務局が飯田さんのお宅の住所になっていますが。

飯田:さっきも言ったとおり、私が一番年上で、メンバーが僕に敬意を払って、事務所をここにしてくれと。後は俺たちがするからということでしょうね。僕は作ってないよ。

本阿弥:そうすると前田守一さんですかね。

飯田:そうだね。彼は几帳面だからね。同じ日付やタイトルが違っていたのは、一つの遊びでしょうね。あの当時は、あまり一つのことに限定することを嫌っていて「俺たちは非限定だ」なんて言っていましたからね。タイトルは、最後には『幻触記』をやめて『幻触』にしたでしょう。

本阿弥:「幻触」をやり始めた時には、石子さんは東京に仕事場を移していたと思うんですが、グループ「幻触」に関して石子さんの影響は当時あったのですか。

飯田:石子さんがいない間に、俺たちだけで集まって「この前、石子さんはこのようなことを言っていたけど、どういうことだったのか」なんていう話は、しょっちゅうではないですけど、していましたね。問題を深化させるところまでは行かないけれど。ある時に石子さんに反論したことがありました。石子さんの家だったか、話の文脈の中で「世界はですね……」と言ったら、すかさず石子さんが「今、世界と言ったが、それは何の世界かね」と聞くんだよ。「あぁ、そうですか」と、「では石子さんは世界を限定して考えているんですね。世界を一部のものとして考えているのですね」と言ったら。じっと考えていて「うーん、まあいいか」と。そういう反論ができるようになりました。僕は石子さんと年が近い。石子さんより年が一つ上です。

本阿弥:東京に行くのを、地方の人はあこがれていましたが、飯田さんはそれはなかったと。しかし、他の「幻触」メンバーが東京に進出したことで、李禹煥さん、関根伸夫さん、成田克彦さんらが東京で「幻触」展を見たことの意味は大きいと思われますが、いかがでしょうか。

飯田:それらのことは、僕には全然分からない。つまり、美術と僕の関係の分からなさは群を抜いています。その時の話、もっと後の話かな、東京画廊ですごく作品の注文があってね。《HALF&HALF》のシリーズです。鳥かごにピンポン球を入れたもので、しょっちゅう注文がきて家で作っていたんですよ。高松次郎や他の人もいたかもしれないが、僕の作品も売れたんですよ。東京画廊で「不思議の国のアート」展(注:1967年12月11―26日開催)というのがあって、それから売れたんです。東京画廊の山本さんに「いいかげんにしろ。俺はもう作らないよ」と言ったんだよ。後で「東京画廊の注文を断ったのはおまえだけだ」と言われました。僕は、以前に下駄に絵を描くことをやっていたでしょう。一足いくらで。鳥かごの作品も一ついくらでしょう。同じように思っていた。ありがたい芸術なんてちっとも思わなかった。俺はもっとやりたいことがあるんだから、いいかげんにしろと。それらは両方同じだったんだよ。「不思議の国のアート」展のオープニングには、石子さんも中原佑介さんも来ていた。石子さんが「飯田君、ちょっとこい」と。中原さんや他の人を紹介するからと。「俺はいいです」と。「もうすこし出来るようになったら紹介してください」と。それくらい美術界と僕との関係は、あいまいというか、無知というべきか、あまり型にはまらないものだった。ある時、東京に行く用事があって、静岡の家を出るんですよね。静岡駅に行くと人がいっぱいいるんですよね。東京はそれ以上に人がいると思って、それから急いで家に帰ってきたりした。
しかし、東京画廊で作品が売れたので、娘も大学に行けたし、山本さんには頭が上がらないよね。頭を下げることがあっても、あんなことを言うべきではなかったな。俺は下駄といっしょだと思っていたので。

本阿弥:以前、瑛九らが主宰するデモクラート美術家協会のメンバーだった磯辺行久さんから、瑛九に一番可愛がられていたのが池田満寿夫さんで、その理由が芸大や美大を出ていないからだと聞いたことがあります。ハングリーであり、自由に美術に取り組む姿勢があると。当時、東京芸大に行っていた磯辺さんが一番劣等性といわれていたということで、磯辺さんは学生の最後のころになると学校にはそんなに行かなくなったと聞いたことがありますね。

飯田:そういうことは分かるような気がするね。その人たちはそうでしょう。僕はのっけから空洞でした。その人たちは一応、空洞ではないんですよね。その代わりに空洞の中心の周りに教養が張りついていて、その教養を剥ぐのに一生をかけるものですよね。気の毒だなあ。

本阿弥:「幻触」が評価されだしたのは、東京での1966年のギャラリー創苑での「幻触展」と、1967年のギャラリー新宿での「(  )展」ですが、この頃のことを聞かせてください。また、飯田さんはおぎくぼ画廊賞を受賞して脚光を浴びた時期ですね。成田克彦さんもおぎくぼ画廊で個展をやっていますね。

飯田:当時、李禹煥さんも関根伸夫らも、石子さんに紹介されたわけではないですね。たぶん俺は一人だけ仏頂面していたので、近寄りがたかったんだと思う。赤瀬川原平とも会ったね。画廊に焼き芋を持ってきたね。二人でベチャベチャ話したことを覚えているよ。あいつがその後、あんなに有名になるとは思わないものだから、当時は僕らも平気で付き合っていた。成田君はまだ若かったね。俺は偉い奴が嫌いだというわけではないけど、偉い奴は俺のことを嫌いになるんだよね。当時、赤瀬川なんかも俺の家に来て、台所で俺のかみさんとおかずなんか作って、みんなで食べたりしたことがあったね。

本阿弥:当時、石子さんの自宅があった安倍川上流の産女や飯田さんの家によく東京から美術関係者が遊びに来ていたと聞いていますが、その頃の思い出を聞かせてください。

飯田:当時の俺の家は、たまり場というよりも足場ということでしょうね。立ち寄る人もいるし素通りする。その程度のことですよ。名前を挙げると、赤瀬川夫妻、成田克彦君、ジョセフ・ラヴ、(ブラスタ・)チハーコヴァ、美術家がいっぱい来ていたね。非常に親しいわけではなかったけど、谷川晃一さんも来ていただろうね。赤瀬川なんかは、石子さんの家に行く途中で俺の家に引っ掛かっちゃって、飯を食ったり騒いだりしていたね。成田君も食事をしたり泊まったりしていたね。成田君とは、おぎくぼ画廊からの頃からの知り合いでね。成田君は、石子さんのところに行くというよりも、俺の家に来た割合の方が強いだろうな。

加治屋:東京で「幻触」がやった展覧会は、どなたが主に中心になってやったのですか。

飯田:詳しくは、鈴木慶則に聞いてくれると分かると思う。俺は詳しく知らないんだ。その辺の事情は、鈴木君が知っていると思うよ。東京の画壇とのアンチーム(親密)な関係の中で僕は作品を作っていたわけではない。作品については、想像力の問題だから個別性があるでしょう。石子さんは、論理的であるし原理的ではあるけれども、それがどういう形で作品化されるかというイマジネーションはない人でしたね。それは作家としての僕らの仕事ですよ。それは誤解のないように「幻触」の名誉のためにも言っておきたいことです。大事なことです。僕も含めてね。慶則は「石子さんにどうのこうのと言われたから」とよく言っているけれども、そんなことはないですよ。彼(鈴木慶則)の力量ですよ。

本阿弥:当時、鈴木慶則さんがシェル賞に二席入賞したり、丹羽勝次さんも前田守一さんも佳作に入選したり、飯田さんがおぎくぼ画廊賞を取ったりしていたことで、後にもの派になる人たちや李禹煥さんは、石子さんと「幻触」の関係を、あこがれを持って見ていたと思いますが、いかがですか。

飯田:当時の「幻触」は、たまたまの群集心理だと思ってくれたほうがいいね。ある理念を持って行動したということは一度もない。「いっちょ、やるかー」という群集心理だね。
聞くも涙、語るも涙だけど、慶則が二席を前田君らが佳作を取った時は、涙なしでは語れないですね。俺も作品を作ったんですが、落選しているんですよ。なぜ落っこったかというと、作品の部品を持っていくのを忘れちゃってね。鏡の前にあった石鹸を置く台を付け忘れて、落っこちたんだよ。彼らはみんな賞を取っちゃった。(家に戻って)俺は家の屋根に上ってペンキを塗りながら、かみさんに向かって「まだ結果の返事はないか」と尋ねたということもありました。そのうちに返事が来たんだよ。「お父さん、落選だよ」と近所に聞こえるようにね。俺はポロっと涙が出たりしてさ。「ちきしょう」と、そんな思いをしたこともあるよ。みんなが入賞してご褒美をもらって、俺だけが落選してね。まだご褒美がもらえないだけならいいよ。落選はないだろうと。みんなと同じ考え方で作品づくりをしたのにと。俺だけ落っこちちゃってね。

本阿弥:「幻触」が結成されてから、静岡に講演会で高松次郎さんを呼んだりしていますが、当時の高松さんの遠近法の作品から「幻触」が影響を受けて作品づくりをしたり、高松さんと似通った作風になったりしたということはありませんか。特に、シェル賞の佳作になった前田守一さんと丹羽勝次さんの作品などですが。

飯田:理屈の上ではね。当時、石子さんを通じての話ですが、遠近法を問題にしていたんですよ。それこそ、近代のメルクマールとしてね。石子さんも盛んに言ったし、僕らもそれを基盤としていたわけなんですね。そういう話し合いは、石子さんと出会った1964年頃からそのような話をしていた。遠近法に見られるような「錯誤」が近代を用意したとかね。そんなことを「幻触」メンバーや石子さんとしきりに話していました。だから、高松が遠近法をやっていたとしても驚かなかったし。「そうだろうな」という感じだったですね。だから、世俗的に言えば、最初に出した奴に対して後に出した奴がエピコーネンだという見方をされるけれども、同じ考えの下でやった場合には、同じような作品ができることは、避けがたいことです。ですから。それを前後の関係だけで括らないほうがいいと思います。李禹煥さんの問題もそうです。静岡文化芸術大学の尾野正晴さんが高松次郎を評価するという基準の中で僕らが出てきたものだから、高松の評価が弱まったり薄れたりすることを恐れているのではないかな。あれは政治的イデオロギーですよ。そういうことは考えないほうがいいですよ。それから、あなた(注:本阿弥清)が『あいだ』171号(2010年4月)で書いている「今日の美術―静岡」展での丹羽勝次君のゴムの作品や鈴木健司君の作品の問題でも、過去のある作家の作品の写真を見ると確かに似通っていると思うけれども、原理から言えば、それは誰だって考えることですよ。

本阿弥:当時石子さんは、「何とかと何とか」とか、「間」とか、「虚在と実在の二項対立」とか、「経過の中で何かが何かに変化する」などと言っていますね。当時石子さんから大きな影響を受けた「幻触」のみなさんはどうだったのですか。

飯田:石子さんが先にペラペラ、ペラペラとやるわけね。そうすると俺たちは、その後にゾロゾロ喫茶店かどこかに集まって、「今日、石子さんの言ったことをもう少し考えてみようよ」と言ったり、作品に変換してみたりした。僕らは、作品を通じてしか物事が分からない性分だからさ。美術をやる奴は大概そうだね。頭がそんなに切れないものだから、体を通じて理解しているということなんでしょうね。

本阿弥:当時、作品が大きく変化するポイントは何だったんでしょうね。李さんは、「Tricks and Vision」展のイリュージョンがあったからこそ変わったと言っていますね。「幻触」があったからこそ変わったと。

飯田:「幻触」がやったトリックスは、問題は「Tricks and Vision」のヴィジョンの方なんだ。見るということ、先を読むということです。先見性というかね。そういうことが主だということは当初から言っていたんですよ。当初というのは、つまり、世界があるね――石子さんに言わせれば部分だって思っていたらしいが、最後にはそう思ってはいなかったらしい――世界というものが全体としてある。そして、その中で人間の営みがあり、そして、その営みが見るということ、読むということ、あるいは考えるということですね。知覚から認識への回路のことを言うわけですよ。あの時は、その全体の中の見ること、人間の文明的あるいは文化的営みとしての見ることを先ずやってみようと考えた。「見る」にこだわったわけですよ。「Tricks and Vision」展が終わって、先ず最初にやってみようと言うからには、取りあえずやってみようということなんでね。それで残されたのがヴィジョンとしてのもの。「もの」というのは、困ったもので、「もの派」というものが、僕の中で、言葉の上で違和感を覚えるのは、人間がものを捉えられるわけがないと僕は思っているわけね。誰もが思っているだろうけど。「ホコリを払えばものが現れる」と関根が言ったと聞いたときに、みんなと「そんな馬鹿なことがあるか」と言った覚えがあるね。「Tricks and Vision」で示されたように、見るということはそれで完結したとして、残された見られる方としての「もの」を僕らは取り残しているのではないかという思いにいたったわけですよ。それは、にわかに思ったわけではなくて、前から準備していたんだけど、答えが出ないものだから、取りあえず見ることにこだわったということですね。当初からは分からなかったにしても、石子さんが、一人で喋りまくっていることの根底には、そのことが脈々としてあるということを理解していたから、その限りで「幻触」の「Tricks and Vision」がもの派の前提になったというなら、そのような文脈の中でしか連関性はないと思うんだよ。だから、ほかに何かあるのかもしれないけれども、それはエポックメーキングとしてあるのではなくて、全体から割り出された部分的な文脈の中でしか機能しないわけでね。「見る」ということはね。「在る」ことには触れていないわけですよ。

本阿弥:その時に「見る」ことから「存在」すること、「在る」ことを、「虚在」から「実在」ということを、1967年前後の「幻触」展や「Tricks and Vision」展で、みなさんが相当語って表現していますね。「虚在」ということはトロンプルイユでありイリュージョンであった。そして、「在る」とか「実在」ということが次のヴィジョンに移って現実に現れた作品が、1968年10月の《位相−大地》だったわけですね。そして、石子さんが静岡でおこなった1968年12月の講座がそのことを語っていると思います。この講座は、李さんの芸術評論募集の最終原稿をテキストにしています。最初の一部のみテープを聞きたいと思います。

(注:石子順造の講演テープを聞く)

本阿弥:このとき聴衆に対して、石子さんは相当多くのことを語っています。李さんの考えていることを、石子さんなりに自分の言葉で解釈しながら語っています。李さんの論文をテキストにしたということを含めて、石子さんが語ることによって、次の年の1969年の現代日本美術展で作品傾向が大きく変わりますよね。このことは、「幻触」だけじゃないですよ。

飯田:石子さんのこの講演は、僕らが毎日現代日本美術展に出す前のことですか。

本阿弥:はい、そうです。李さんが出した第6回芸術評論募集の締め切り日から一か月後のことですよ。1968年のことです。
《位相−大地》が10月です。そして12月に評論募集の原稿をコピーしたものを石子さんが持っていて、静岡の講演で多くの人に李さんの論考を語りながら、石子さんの中で解釈して話をしています。

飯田:それは、『美術手帖』に出る前にやったわけだね。

本阿弥:李さんの入選結果も出ていないときなので、この論文は公には伝わっていないものです。李さんと石子さんとの関係で原稿が石子さんの手元にあり、みなさんにも聞いてもらいたいとの思いでテキストにしたのだと思います。それから、石子さんが講演でも話しているように、第9回現代日本美術展の審査員に石子さんもなっています。「もし公募展に作品を出すのであれば私の話を聞きなさい」というようなニュアンスで語っていますね。石子さんが審査員だとすれば、静岡の作家たちも石子さんの話を聞いて努力しようと考えた人もいたと思うんですよ。

飯田:石子さんという人は、「俺が画廊に頼んでやったので作品を出せ」とか、「誰々に何をしてやったから、何をしろ」とかいう人じゃなかった。絶対にそういうようなことを言う人ではなかったよ。

本阿弥:私が言いたかったのは、石子さんはこの講座の発言の中で「俺が審査員だ」と言って、「誰々さんの今までの傾向の作品は落ちるね」とか「こういう作品だったら受かるよ」と言っていることなのです。聴衆者の中には、石子さんが審査員だから出そうかという人もいたかもしれないということです。

飯田:僕は違うんだよな。僕は講座とか講義とかあまり聞いていないんだよ。

本阿弥:石子さんのことはさておいて、この1968年10月から69年5月の半年間で多くの方の作品が急激に変化しました。虚在から実在に変わったと思います。極端に言えば、キャンヴァスを否定してまで、コンセプチュアルな作品を作る人が出てきたことは極端で、尋常なことではなかったと思いますが、いかがでしょうか。

飯田:キャンヴァスからは、既に「Tricks and Vision」展で離れたんですよ。

本阿弥:何で、こんなにも急激に作品傾向が変わったんですかね。

飯田:内的には、さっきから言っているように、石子さんに会ったときから、世界存在とか全体像みたいなことは、嫌というくらい聞かされているんですよね。論理的にそうだということではなくてね。ある時に安倍川の河原に出たんですよ。「飯田さん、あれは何に見えますか」と山を指差して言うんだよ。僕は「山でしょう。自然でしょう」と言ったんだよ。そうしたら「違いますよ」というんだよ。「何ですか」と聞くと、「あなたがあれを山と言葉に言った途端に、あの山は人工的な山になってしまったんですよ。山、本来の姿ではない」と当初から言っていました。この会話が、石子さんと出会って1年以内のことです。ですから、そのような感性というか思考というのは、ずっと石子さんの意識の中にあったはずです。のべつまくなしにしゃべり続けることも、その周辺を徘徊するという形での話でしたね。ですから、当時、突然に作品ができたかのように言われますが、俺だけかもしれないけれど、《位相−大地》なんかも知らなかったし、そのような展覧会があったことも知らなかった。そこに穴を掘ったということも事実として知らないんだよ。ある時、東京から第9回現代日本美術展に招待するからという手紙が来て「いいですよ」と言っている時に、石子さんが東京から静岡の自宅帰ってきてその話になってね。「飯田さんは、何出すの」と言うんで、そのときは作品がまだ決まっていないんだけど、突然に「富士山」って言った。富士山というのは高いというイメージがあって、そこに木がいっぱい植わっている。「世界を見渡せるところにあるスギの木」とすぐに思った。「それを半分に切って、半分は置いて、半分は美術館に運びます」と言ったんだよ。そうしたら石子さんはしばらく考えていて、「それはすごい。是非やってください」ということになった。僕も、石子さんにあまりにびっくりされたものだから、二重にびっくりしちゃった。まあ、ほかの人は戸惑っていたけどね。なぜか僕がすぐに答えたんだな、直感的にね。

本阿弥:それは、飯田さんがイメージしたことを石子さんに話したら、石子さんが褒めてくれたということですね。石子さんは、68年の静岡での美術講座でも、参加していた個人個人の作品を分析して褒めていますね。これは、石子さんの助言が、ある意味では非常に生きているという気がしますね。

飯田:それがなぜ出たかと言うと、たぶんあの頃、石子さんと日本の文化のことを話していたんだ。山から生きた木を取ってきて家の中で美的に変換する習慣があってね。万年青(おもと)とか。そういう話をしていたんだよ。それから借景。居住空間があって、庭があって、山がある。普通だったら、このエリアの中だけを取り留めるわけでしょう、家として。だけども、向こうの風景までも借りてきて自らのものにするということです。問題は、その境に神経を使うわけよ。向こうとこっちの境に。これは、石子さんに言われたわけではなくて、俺の解釈だけどね。毎日現代展の前の頃は、例えば、日本には鳥居というものがあって、そこに白い紙がぶら下がっていたりしている。まずは鳥居には表も裏もないでしょうとか、そういう話をしていた。家の前に塩を盛り上げてメタフィジカルな空間を演出したとか、緑の草原に真っ赤な絨毯を敷いて茶の湯を楽しんだとか、そんな話を、ある時期しきりにするようになったね。

本阿弥:鳥居を空中に浮かせる話は、石子さんが静岡の美術講座でも話していますね。

飯田:そう。

本阿弥:講演の中で石子さんは、鳥居を浮かせることは、時間と空間を作品にしたものだと言っていますね。後に関根伸夫さんが鳥居を空中に浮かせた版画作品を制作しています。当時の石子さんが、東京で李さんや関根さんと勉強会をやっていた時に、誰かが言ったことかもしれないですよ。

飯田:そのことは、石子さんはずっと前から言っていたよ。俺にはよく分かるんだけど、戦中・戦後派の昭和2年、3年生まれでしょう。そのころの風俗のことを言っているのだと思う。例えば、自動車を買うと、フロントガラスの前にお守りをぶら下げる。石子さんは「俺のような合理主義的な者でも、それを外して脇に捨てたりできない」と言う。「飯田さん、いったいどういうことなの」と聞かれたことがあります。石子さんは、俺にはそういう話をするの。つまり、難しい話を言っても始まらないんで、そういう話を仕掛けてくるわけね。さっきの山の話もそうだけど。だから、そういう話によって、俺と内的には話が通じていたということですね。他の人にはもっと難しい話をしたんだろうけどね。

本阿弥:飯田さんは、その時に感覚として答えて、富士山麓の木を運ぶことになったと。

飯田:じゃあ、石子さんとそういう話をしなかったら、そういう作品が生まれなかったかと言うと、そうかもしれないんだよ。

本阿弥:ある意味で、石子さんが褒めてくれたのは、支援という形になって、影響はゼロではなかったと言えますね。それから、加治屋さんも興味を持っていることだと思いますが、1964年に東京オリンピックがあって、70年に大阪万博があった。まさに、池田勇人内閣の高度経済成長期の真っ只中で、ほとんどの国民が都市を向いていた。都市化に抵抗がなく憧れていた時に、石子さんは自然や身近なものなどに目を向けた。飯田さんは静岡の風土が好きだということで、石子さんの感性と重なり合っていたので、交流もあったんでしょうね。そして、1969年に静岡市で行われた「今日の美術―静岡」展のサブタイトルが、「自然・存在・発見」です。パンフレットの表紙には「丸石」がプリントされていますね。69年頃の「幻触」の飯田さんたちの作品は、富士山麓の木を運んだ飯田さんの《トランスマイグレイション》も、小池一誠さんの《石》も、前田守一さんの「氷」の作品も全てが、《位相−大地》に繋がる作品だったと思います。自然を使いながら、自然を攻めるのではない。つまり、ヨーロッパ的な志向ではなく、先ほど話に出た借景などの思想ですね。私の言い方では、《位相−大地》が土を掘って土を盛ることは、プラスマイナスゼロになる。相殺されて大地に戻ると思います。飯田さんの木も、半分は山に残して半分は美術館に運ぶ。それでも一つの木です。小池一誠さんの石も同じです。静岡の「幻触」のみなさんは、そのような傾向の作品を多く出品しているんですよ。重要な意味があると私が思っている作品として、長嶋泰典さんの「炭」の作品があります。69年の「今日の美術―静岡」展に出品した、自然の樹が炭に変わる作品ですね。ものが変化する作品ですね。そのような考えが「幻触」や静岡の作家たちに広がった理由などをご存知だったら教えてください。

飯田:(そうした作品は)自然と人間の中間項でね、あなたが言うこと以上でもそれ以下でもない。僕は、みんなにもそういう作品をつくれと言ったこともない。どういうことかと言うと、自然ではないですよ。自然物です。石子さんに怒られたのもそれです。「山と言った時、それは自然物であって自然そのものじゃない」と(石子さんは)言っていたと思うんだよ。僕が「山は自然でしょう」と言っちゃったもんだから石子さんは、自然という言葉に固執したのかもしれない。自然と人間の間にあるもの。それが大事なんだ。出会いということに通じるんだけれども。ただ中間にあるというだけではなくて、ある触発がある。例えば、人間がちょっとボタンを押すと自然のほうがリアクションする。そのリアクションの仕方が自然である。時間と空間で言うと、時間軸に沿って事物の存在が推移していくことを普通は時間と言うよね。時計を見ながら物事が動いていくということです。そうではなくて、事物とは、時間の前に立ち止まってこう解釈してくれよと言って待っているわけではないよね。事物存在そのものが動的で、動いている。その動きそのものを、我々は「時間」というべきである。時計の流れに応じて事物が存在するというような仕方はよくない。例えば、俺の「幻触」以降の作品で、錆なんかはそうなんだよね。右から左に移行していくものが時間というのではなくて、時間というものは堆積するものだと思っている。淀んでいる。俺たちの身体がそうですよね。淀んでいるので、老いていくんでしょう。どんどん変化していく。それが時間だと思っている。何でもそうです。木も石も水も。みんなそう。自らが動的要因を持っていて、動いていく。それを人間が作品としてちょっと促してやると、そのリアクションとしてそこに様相が現れる。そうした様相が出会いとならないと「なるほど」とも思わないし「すばらしい出会いだ」とも思わないですね。人工的なだけの出会いで、今さらびっくりするような人は一人もいないよ。自然との関係にびっくりするような時代になっているということだね。時代の要請としてあると思うんだよ。

本阿弥:人間が自然に手を加えて変化する。それが、飯田さんも長嶋泰典さんも小池さんもそうだと思うんです。後にもの派と言われることになる《SUMI》の作家の成田さんが、当時、飯田さんのところに遊びに来ていたと聞いていますが、どうだったんでしょうか。

飯田:今僕が言ったことは、成田君にも言っていますよ。具体的に炭について言った覚えもあるね。長嶋君にも。長嶋君と成田君がいっしょにいた時ではなくて、別々な時に話をしています。したのはその話だけではないですよ。静岡展は、すべからくそのような話の中から出ていますよ。その観点から言ってももの派とは違うわけだから、僕らはもの派の前提ではないです。だから、さっき言ったような文脈でなら前提と言えるかもしれないけど、やはり違うんですよ。今回、初めて「もの派−再考」展でもの派の作品群を見たけど感動もしないし、「造形作品じゃないか」と思うしかなかったですね。あれをどうしてもの派と言ったんだろうと思った。第一、もの派という名前を誰が付けたか知らないけれど、あれがものが素直に現れた姿なのかなと思った。そうではなくて「人工過剰」でしょう。明らかに人工物ですよ。

本阿弥:当時の東京のもの派のみなさんは全員若くて、アカデミックな教育を受けていた。ヨーロッパの美術論を習得したり、斎藤義重さんや高松次郎さんの教育を受けていた。作品があの方たちの解釈で出来上がっていた。しかし、静岡のみなさんは、石子さんを含めて、借景とか、自然を受け入れて作品化していた。それは21世紀を先取りしていたと感じるんですけど、いかがですか。

飯田:そういう見方は俺がすることではないので分からないね。あの種の作品群をもってもの派と言い、そのもの派の前提として「幻触」があるとしたら、それは違うんだよ。それは、ある種の政治的意図で我々「幻触」を疎外したことの意味以上に、違いが大きいと思う。僕の中では非常に明確に違いは分かっているんだけど。俺たちのことをもの派と言うのであれば、「それは違うよ」と言えるんだけど、どういうわけか俺たちのことを言わないものだから、こっちも言わなくて済んでいるんだけど。

本阿弥:1969年9月の「今日の美術―静岡」展ですが、石子さんと針生一郎さんが審査員で、招待作家が、斎藤義重さん、高松次郎さん、前田常作さん、横尾忠則さん、吉田克朗さん、李禹煥さんが作品を出しています。李さんのこの時の作品タイトルが《現象と知覚》です。どのような作品だったか記憶はありますか。

飯田:メビウスの輪だったと思うよ。

本阿弥:それは間違いないですか。京都国立近代美術館での「現代美術の動向」展が1969年8月で、李さんは《現象と知覚A》と《現象と知覚B》を出品しているんですよ。李さんのこの作品が、石と鉄板とガラスで構成されたものとしては、公式に写真が残っている作品となります。静岡と京都で同時期に開催された展覧会で、作品タイトルも同じであれば、作品が石と鉄板の作品なのかと思ったから伺ったのです。「幻触」は、1971年頃に活動が終息しますね。その理由には杉山邦彦さんの死亡届作品事件だったり、李禹煥さんが「芸術の風化」という論文を『美術手帖』(1971年3月)に書いて、間接的にですが、石子さんの評論活動の方向性とか、杉山さんの死亡届裁判事件などを暗に批判しています。その影響などがあったのでしょうか。また、前田守一さんらはこの年に(旧清水市で)「現代美術を語る会」を立ち上げて、東京から李禹煥さんを毎月呼んで勉強会を開催しています。静岡市側の飯田さんたちと、(旧)清水市側の前田さん、鈴木慶則さんたちで少しずつ分かれていって、「幻触」のメンバーが(旧清水市の)グループ「白」と(静岡市の)グループ「触」の時代に戻っていく。「幻触」が解体していって自然消滅していく。機関誌も71年の6号が最後の発行となり、約5年間の「幻触」活動が終わったと推測されます。尾野正晴さんも同様の解釈だと思います。当時の状況を聞かせていただけますか。

飯田:「幻触」の仲間だけじゃないんだけど、誰でもやっているように、静岡県の芸術祭に僕は招待されて、杉山君は作品を出品した。ある時「幻触」が集まって話したことは、「県展はけしからん」、文化統制だということだった。県展があると、前の日に東京の公募展の審査員が来る。生命保険会社の支社のようなものが各地方にあるんです。公募展の長が、前の日に弟子を連れてきて、その日に賞が決まってしまうという悪しき習慣があった。俺たち「幻触」メンバーは、これは何とかしないといけないなということになった。あの頃は、そのような権力の横暴さをなじったり、反対したりした傾向があったでしょう。僕らも当初は、その傾向に乗ったせいもあったのだけれども、やっているうちに本当に権力のすごさを目の当たりにした。俺が、意地になって百何十人のハンコを押した反対意見を集めたのに、それが1週間も経たない間に、電話がどんどんあって、最後には一人もいなくなったということがあった。僕一人になった。「幻触」の前田君がさっそく作品を引っ込めちゃうし、鈴木慶則もしばらく付き合った。「県教委死ね」というような看板を作って、夜中に行って、県教育委員会がある駿府城の崖の石垣のところに、県教委に見えるように看板を立てかけてきちゃったんだ。それほど過激になった俺たちの仲間もみんなやめていった。

本阿弥:私が言いたかったのは、李さんの「芸術の風化」の論文で、間接的にしろ石子さんや杉山さんの死亡作品事件を批判していることが、結果的に杉山さんを支援する立場にいた飯田さんたちには面白くなかっただろうし、逆に前田さんらが李さんを毎週、清水に呼んで勉強会を開いたことで「幻触」に亀裂が生じたのではないかということです。

飯田:「幻触」は解体したのではない。僕の場合は、群れるのが嫌いで、僕がいなくなったということです。だからといって、「幻触」がもともと堅固に結びついていたということでもないんだけども。僕がいなくなったということですね。先ほど言ったように、もともと「幻触」というのは、通り抜ける場だったからね。

本阿弥:「幻触」に規則があったわけではないでしょうし、組織・団体でもなかったですしね。

飯田:組織としては希薄だったね。

本阿弥:みなさんは機関誌を出したり、周りに石子さんがいたりして、個人として自己を啓発させる運動体だったんでしょうね。それがちょうど5年ぐらいの活動だったと。

飯田:たいしたことではないな。

本阿弥:しかし美術史的には、東京での発表が注目されたり、もの派の起源であったと言われたりしています。仮にこの5年間の「幻触」の活動がなかったとしたら面白くないものになったとは言えませんか。

飯田:時系列に沿って言えば、確かにもの派が誕生する前の活動としてよかったのではないかということです。それでいいんだ。石子さんや「幻触」の名誉のためにも言っておきたいんだけど、《位相―大地》を見たから、にかわにあわてて僕らが作品をつくった、作品が変化したのではないということだけは、はっきり言っておきたい。

本阿弥:だけど外部から見ていると、1968年から69年の半年間に、多くの作家たちの作品が急激に変化したのは謎ですね。尾野正晴さんも同じことを前田守一さんとの対談で尋ねていますが、私も同じ意見ですね。

飯田:それは、変わったというよりも、みんなが気づいた時期なのではないかな。気づくということは、その前から準備していることだからね。また、そういう時代だったでしょう、あの時代は。その前の時代の価値意識というか価値観が、実際にひっくり返らないにしても、ひっくり返るという幻想の中にいたでしょう。

本阿弥:時代の節目として1970年から大きく変わったという人もいるけど、私は1969年からだと思いますね。180度ね。

飯田:いつだったか石子さんも、それはアリストテレス以来の転換だったと言っていますね。西洋の歴史そのものを、東アジアないし日本的なレベルでひっくり返したのが、僕らの作品であったと言っています、石子さんの著書『表現における近代の呪縛』に書いてある。

本阿弥:それは「幻触」のことを言っていたのですか。

飯田:「幻触」のことです。関根伸夫の《位相―大地》も含めてね。確かに価値意識の変化という意味ではそうです。石子さんの著書『表現における近代の呪縛』では「表現とか創造とかは、今や廃語と化そうとしている、といっておこう。したがって作品が価値にかかわる、ルネッサンス以来の転換といってもいいすぎではない」(注:「美・世界・発見」、195頁)とあります。

本阿弥:石子さんは「幻触」やもの派が終息する頃に、小絵馬や丸石神に移行していますが、その理由のひとつとして、気候温暖な清水に病気治療を兼ねて来たこともあったのではないかと考えることができます。鈴木慶則さんは、「大絵馬ではなくて小絵馬だから意味があると石子さんがしきりに言っていた」と語っています。大上段に構えた大きな額縁に入っている、権威の塊のような献上する大絵馬ではなくて、名もない庶民の心がこもった小絵馬が重要であって、そのことを逃すと石子さんを語ったことにはならないと鈴木慶則さんは私に言っていました。

飯田:小絵馬とかマンガにはついていけないわけではなかった。石子さんは、庶民とか一般という言い方をするんだけども、いつでも俺は、庶民とは何か、一般とは何かと考えていたんだ。下層文化に限定してしまうと、それにこだわってしまうので、あまり興味がなかったけれど、丸石については、石子さんがいよいよ辿り着いたという感じはあったね。非常に象徴的な意味で丸石だったんでしょう、石子さんの中では。もしかしたら、日本の精神文化の重要なファクターになりうるものと考えていたのだろう。ある種の社会現象というのか、クリマというのか。それにのめり込んだ当事者はそのように盛んに言いたがるだろうけど、疑い深い俺は、いつでも横目で「そうかな。そうでもないでしょう」と思う悪い癖もあったね。例えば、今のような文明状況の中で丸石のことを語っても、どれだけ説得力を持つか。個人的にはそうであっても、それを一般化することは、よほど違う形でしかそれは成し得ないのではないかと思う。丸石を持っていって、小池一誠君のように「これは芸術です」と言っても、誰も信じないよ。小池君の弱いところは、石子さんに溺れているところかな。やめたほうがいいと思っても、両方にかわいそうだから間に入って言えないよ。せっかくあれほど相思相愛の関係なんだから。鈴木慶則と石子さんの関係も同じだな。だから横目でジロジロ見て、「そうかな。そうでもないでしょう」という感じでした。これは、俺が「空洞」だからでしょうね。空洞というのは始末が悪いんだよ。

本阿弥:石子さんと飯田さんが、年が近いということもあるでしょうね。

飯田:そうかもしれないな。

本阿弥:同世代で、ある意味で競争意識があったりするんでしょうね。小池一誠さんや鈴木慶則さんは10歳程度、歳が離れているわけだから、師弟関係になりやすいんじゃないですか。運命としてのスタンスが飯田さんの中にもあるんじゃないかな。

飯田:俺はどこに行ってもそうなんだよ。ある時会議があって、その後に祝賀会があったんだ。「今から祝賀会に移ります」と言われて、俺が「何の祝賀ですか」と聞いたら、俺の嫌いな奴が「県から書道家がご褒美をもらったから」と言うんだ。そして、みんなが席で立ったんだね。それでも俺だけ立たなかったな。俺だけ変だと思われただろうな。俺も立つべきだと思いながら、立てなかったんだな。体が動かなかったね。身体というのはすごいぞ。「みんなが立っているのに俺だけ立たないのはおかしい」と頭で思っても、体がいうことを聞かない。やっぱり心が空洞なんだね。

本阿弥:作品づくりに自信のない人ほど、権威にすがってしまい、弱いですよ。それと比較して、自由な人、作品づくりに徹している人、仕事で他に頼らず利害が少ない人は、扱いづらいものです。飯田さんは、子供絵画教室で生計を立ててきたので強いですよ。コントロールしづらいんです。ところで飯田さんは、子供絵画教室を何十年ほどやってこられたのですか。

飯田:もう子供教室をやめようと言っているんだけどね。高校生、大学生になった子が、勉強が忙しいのに来るので「君たち、俺のようになっちゃうぞ」と言うんだけど。60年近くやっているね。年を取っちゃって、「君たちと付き合っていられない」と言うんだけど、だんだん俺みたいに教える人が少なくなるので、希少価値というか。変な者として見に来るんだね。自分の過去の作家としての経歴等は一言も、習いに来る子供たちや父兄には言ったことないね。ろくでもない奴だと思っているんじゃないのかな。なまの付き合いだから来るんだろうね。全然、技術なども教えない。自由に好きなようにやらせている。俺にとっては、ずうっと生業だったものね。

本阿弥:石子さんが、鈴与を退社して批評家になるべく東京に拠点を移したわけですが、自宅は静岡にあったので、晩年は二週間に一度は静岡に戻ってきたと、前田守一さんのところに来ていた年賀状には書いてあったのですが、月に1、2度程度は、石子さんから釣りや交流のための連絡は飯田さんにはありましたか。

飯田:石子さんら「今から行くから」というような連絡はなかったんじないかな。仲間から「今、石子さんが戻ってきているから行こう」ということはありましたね。清水のグループ「白」の仲間は、石子さんと非常に皮膚感覚で付き合っていたところはあるけど、静岡の俺はよそ者というところがありましたね。そういう関係でしたね。丹羽君もそうだろうね。

本阿弥:グループ「白」は、石子さん自身が作ったという経緯がありますからね。

飯田:皮膚感覚で濃密なアンチームなやり方は、僕や丹羽君はなかったようですね。

本阿弥:「幻触」終息以降の話ですが、第10回現代日本美術展に飯田さんは招待されています。結果的には作品を出さなかったと聞いていますが、その理由を聞かせてください。確か作品写真が残っていて見せてもらったことがありますが、卍文字を描いた作品でしたよね。

飯田:最初、断ったんだよ。でも、展示されないだろうということで制作した作品には、「国家安康」という文字を書いたんだよ。お茶の千利休が首を切られたでしょう。

加治屋:豊臣(秀頼)ですね。

飯田:それをもじって書いたものだね。ただ、ぶっそうな意見で出さなかったわけではなくて、実際には、前回に木の作品《トランスマイグレイション》をやって、その次に良い作品なんて簡単にできるわけがないよね。

本阿弥:確かに、「幻触」の鈴木慶則さんも1970年以降、数年間は作品がつくれなくなった時期があるとうかがっています。作品が大きく変わった人は特にそうでしょうね。作品傾向が以前に戻ったり前に進んだりすることは、作家としてどうだったんでしょうかね。飯田さんも悩んだんですか。

飯田:悩まなかった。今年もつくり来年もつくり再来年もつくるというものは、作品とは普通言わないと思っているんでね。ある時、突然、ぱっと出てきて消えてそれでいいと思っている。それで終わり。つくらなければならない濃密な意味を伴わなければ、義理や人情でやる必要がない。僕はさっきから言っているように、子供の頃の空洞があった。「今に見ていろ、俺だって。待ってください、おっかさん」というお母さんは俺にはいなかった。待っている人がいないから、別にどうだってよかった。それは大きいよ。あなただって、一生懸命仕事をしてそれなりの者になるのに、ただ個人的な観念の問題ではなくて、家であいつが褒めてくれるからとか、よくやったと言われたいとか、あるでしょう。

本阿弥:ちょうど、その頃のことになりますが、「石子順造とその仲間たち」展でやった飯田さんと針生さんとの対談で、静岡で針生一郎さんを招いて小林幹於さんが中心となって「針生ゼミ」をやったという発言が飯田さんからありました。どういう会だったのか聞かせてください。

飯田:それは、小林さんと丹羽君がずっとやっていたんだよ。針生さんに手紙を出したりしていたね。

本阿弥:資料を見るとスタートしたのは1972年ですね。ちょうど1971年から「白」と「幻触」のメンバーだった清水の前田守一さんらが李禹煥さんなどを呼んでやっていた「現代美術を語る会」の勉強会とは別の形で、静岡の丹羽さんらの「触」で「幻触」メンバーだった人たちが針生さんを呼んでいたという構図が面白いですね。

飯田:俺が一番年上だったから、例えば講演のお礼で謝礼を渡すときには、いつも俺が渡す役だったんだよ。「いやだ」と言っていたんだけど、なぜかと言うと、お金が集まらないんだ。五千円のこともあったね。新幹線代にもならない。それを俺に渡して来いと言うんだ。俺は正直に、針生さんに「針生さん、五千円しかないんだけど、勘弁してくれる?」と言うと、にっこり笑って「いいんだよ、そんなこと。君は心配しなくても」と言われて涙が出てきたことがあった。(針生さんは)そういう人物だった。

本阿弥:それで、飯田さんはそれ以来、針生さんを慕っていたんですね。飯田さんは、対談集『石子順造とその仲間たち』の中で針生さんにお世話になったことに触れていますものね。

飯田:俺がお世話になったことは、金のことぐらいだよ。貧乏暮らしだったので金ってありがたいんだな。

本阿弥:東京画廊の山本さんからも作品を買ってもらってお世話になっているんですよね。

飯田:おかしいんだよね。娘が出来上がった作品を持って行くと、たくさんお金をくれるんだよ。しかし、俺が行くと半分ぐらい。そんな画廊はないね。つまり同情かな。学費に使ってくれということかな。俺が行くと半分で娘が行くと倍という画廊は変だよね。もっとも(娘は)新幹線で作品を抱えて持っていったから、なおさらそうなんだろうね。足代ということかな。でも、足代で倍も出すかね。

本阿弥:《HALF&HALF》の作品ですよね。静岡県立美術館の展覧会でも、この作品を見た小さな子供から高齢者までが驚きながら楽しんでいましたね。このような作品が本当の意味での美術作品ではないかと私は思いました。デザイン作品ではないですよ。品格もありながら、子供から老人までがその場で時間を共有できるものです。東京画廊さんやコレクターの皆さんが欲しがった理由が分かりますよ。それで私も、最近、新作として制作してもらったでしょう。

飯田:僕にとっては、下駄をつくるのとそんなに変わらないね。

本阿弥:飯田さんが「Tricks and Vision」展に出したこの作品《HALF&HALF》は、「虚在と実在」というテーマに沿った重要な作品ですよね。

飯田:虚と実というよりも、自らに騙される体験なんだよ。他人に騙されるのではなくてね。

本阿弥:この作品は、飯田さんにおける作品の中でもヒットだと思っていますが。

飯田:そうかもしれないね。

本阿弥:小池一誠さんの、石をカットした作品《石》(1969年)は、現代美術を研究している人には、ある程度分かると思いますが、一般の人には、「石を切ったこの作品は、日本の現代美術の中でも重要な作品ですよ」と言っても理解してくれませんよ。しかし、この作品《HALF&HALF》は、少しは分かると思うんですよね。現代美術として。

飯田:難しいところだけれども、俺が騙したわけではなくて、自分に騙されているという体験なんだよ。そこが面白いんじゃないかな。そこを分かってくれないといけないよね。自分がそれを見ることによって騙されているという、そのことの体験を自分がしているということを、もう少し見る者が考えてくれるといいんだけれども。

本阿弥:「実在」という意味を持った作品として、ちょうど、もの派が生まれる黎明期に、エポックメーキングとして現れた作品として、非常に重要だと私は思っています。

飯田:そうかもしれないね。

本阿弥:飯田さんは、何年ぐらいこのシリーズの作品をつくったんですか。

飯田:おぎくぼ画廊に出した作品は見ていますか。

本阿弥:当時の雑誌『みづゑ』か『インテリア』に寄せた中原佑介による展覧会紹介欄にカラー写真で作品が掲載されていますよね。

飯田:部屋にあるのはミラールームなんだよ。おぎくぼ画廊の三浦(早苗)さんが文章を書いていますね(注:『眼』31号[1968年3月15日])。それから、宮川淳さんが、僕のおぎくぼ画廊の個展に来てくれました。話が面白かったですね。あの方の話の面白さは文学的な面白さでしたが、僕の関心はもっぱら鏡に映る事物、インデックスの不思議さでしたから。つまり、パースの記号による三区分のことですが、そんなことに関心があって、宮川さんと話しました。そのことは、宮川さんもとても面白がっていました。事物からの徴候、しるしが記号の機能としてあるだろうということですね。

本阿弥:おぎくぼ画廊で発行していた機関紙『眼』は見たことありますが、図録を見たのは初めてですね。

飯田:この会場に中原佑介さんは来たんだよ。

本阿弥:成田克彦さんなんかは、このような作品を見て影響を受けたんでしょうね。飯田さんと交流が生まれた。

飯田:おぎくぼ画廊は、新人の登竜門だったんだね。だから俺が出したわけでもないだけど、何で出したんだろう。

加治屋:この展覧会は、針生さんが声を掛けて選んだんですかね。

飯田:その年にやった展覧会の中から誰かが選考して、もう一度秋に何人かで個展をやるんだよね。会場は、企画ではなくて作家自らお金を出して作品発表する画廊で、ただみたいな値段だったね。『眼』を発行している画廊ですね。石子さんは、書いてはいたけど、選考委員じゃないよ。

加治屋:この画集には、1966年11月から67年10月までにこの画廊でやった作品・作家は24名いて、おぎくぼ画廊賞展は出品者が5名いて、審査員が3名いたと書いてあります。67年の場合には、針生一郎さん、中原佑介さん、三木多聞さんが審査員ですね。

飯田:それで中原さんが来たのかな。けなしていったよ。

本阿弥:中原さんと石子さんは当時交流があって、「幻触」展のパンフレットの文章を中原さんにも書いてもらっていますよね。話は変わりますが、1969年の第9回現代日本美術展の審査で、「幻触」は、グループ「幻触」名で審査の一般公開についての趣意書を提出しています。書いたのは前田守一さんじゃないかと僕は推測しているのですが、誰がどういう目的で出したか記憶はありますか。

飯田:俺の字じゃないな。

本阿弥:尾野正晴先生が「幻触」展(鎌倉画廊、2005年)のときに発行した冊子に「「幻触」の主な活動の記録」が掲載されていますが、その中にも書いてあります。そこには、新潟県現代美術家集団GUNとグループ「幻触」が要望者を提出したとあります。尾野先生は、前田守一さんの資料から判断し記載したものと推測されますね。

飯田:こういう場合は、たいがい俺が文章を書くんだけど、誰が書いたか分からないな。原稿の写しが残っている以上、出したと思いますよ。つまり、毎日現代展といえども、これを審査する仕方は村意識だなといつも思っていた。ある種の美術評論家の界隈にいる美術家がいつも賞を取っていた。さっきも言った静岡県展と同じようにね。あの時代だからね。そう思っていたことは確かだね。

本阿弥:当時、そういう気運があったんでしょうね。

飯田:あったんでしょうね。今の僕らにはないですけどね。勝手にやってくれと。

本阿弥:主催者側が作品を受け取らないことから起きた事件の裁判は、モデルがあったんですか。赤瀬川原平さんの千円札裁判などは当時有名だったでしょうし、当時、そういうアクションというか、国家や体制に対する反発は美術家としてあったのでしょうね。

飯田:ありしまたね。

本阿弥:それがこういう形で具現化したんでしょうね。

飯田:これを権力とする言い方は一般的にはあるかもしれないが、図式的には、権力者は非権力者によって支えられている側面がいっぱいある。百名近くも印鑑を押してくれていたのに、一週間で誰もいなくなった、ということは、その人たちによって権力が支えられているんだよね。だから、何を持って権力というのか、よく分からなくなる。つまり、そういうことは権力者に向かってたしなめる意味で言うべきなのか、自分の中にある意識に向かって言うべきなのか。僕は後者のほうなんだけどね。ある種の高い精神構造の下でそう言うんじゃない。僕らはそんな高い意識は持っていない。そうではなくて、「幻触」の杉山君の死亡届作品事件というのは、学生も参加したんですよ。学生は「権力反対」とか言っている。俺は「許さない」ということをただ単に言い続けてきた。百何十人もいなくなっちゃった時もね。俺一人で静岡県教育委員会に乗り込んだんだよ。ダッと戸を開けて「出てこい。お前らはどれだけ口で言っても分からないんだから。今からぶん殴る」と。そうしたら「今はいません」と。ようするに、ヤクザに近いんじゃないんかな。「許せない」という(思いがあった)。俺はそんなに高級じゃないんだよ。

本阿弥:確かに「幻触」のメンバーは、小池さんは公立高校教師、丹羽さんは中学校教師、前田守一さんは小学校教諭です。飯田さんとは違う立場ですよね。

飯田:俺は言えたんだろうね。俺が小さい頃、近所から毎日、苦情が来たんだ。しかし、うちの親父は学校の先生だったけど、俺には一言も文句は言わなかったな。美術家は作品づくりに専念するというのも分かるけど、俺はそういう意識はまったくないものね。俺は、大変な作品だから擁護しようとしたわけではなくて、杉山君とは仲の良い友達だからさ。

本阿弥:杉山さんの場合は、飯田さんの世代と異なり若い世代だし、表現行為としてのパフォーマンス的要素もあったとは言えませんか。

飯田: いいんじゃないかな、それで。それぞれの生き方の問題だな。

本阿弥:「幻触」と石子さんとの関係というのは、どのようなことで結びついていたんでしょうか。

飯田:鈴木慶則なんかは、杉山君の作品事件を契機として俺から離れていったと思っているかもしれないが、俺が群から離れただけだった。当時の石子さんは、違うベクトルを持っていたんだよね。そっちの方に向かっていって、「幻触」なんかどうでもいいと思ったわけではないだろうけれど、「幻触」の活動からは疎遠になっていったのだと思う。自分の考えていることのほうが大事だったと。石子さんを理解する上で、欠くことのできないのは、僕らは能天気で、命のことなんか考えないんだ。石子さんは、常に限りある命。限定された身体と精神、与えられた時間、いつ襲ってくるか分からない死の予感がある。そういうものの中にいて急がなくてはならなかったと思うんだよ。そのことを思うと、瑣末な意見で石子さんが離れていったとか、美術界から疎遠になったという言い方で締めくくりたくないんだよ。そうじゃないと思う。一人の人間としてね。だから壮絶な生き方に当然になったわけだし、急ぎ足だったと思うんだよ。急ぎ足だからといって、一つ一つのことをないがしろにしていたのではないのが彼のすごいところだった。一つ一つを完璧に近いほどにやりつくす。急ぎ足で。そこのところが僕らとえらく違うところだった。褒めても褒めきれないくらい、すごい人だと思うんだ。それを僕らがとやかく言う筋合いはまったくないと思うんだよな。すばらしいとしか言いようのない人だった。何も僕らから離れていったんではなくて、ある方向に向かって歩いていったというだけの話でね。僕は僕で、石子さんがいなくなった「幻触」から離れるというよりも、一人で単独者としてやっていけるなという安堵感をもって、群れから離れていったというのが実情ですね。その時の心理状態は、何も恨み辛みで離れたとかいうことではなくて、やっとこれで一人になれるというものだった。元々一人だから、一人になれたということですよ。だから、それからは東京にもほとんど行っていません。もちろん、たまには用事があって行くことがあるけど。どこの場末で朽ち果てようと一向に構わない。静かにいなくなろうというだけの話でね。だから、それ以上でもそれ以下でもないということです。美術活動は、内的欲求があって問題意識を抱えて、そして、それを実験的にあるいは仮説を設定してやっていく。静岡にいるということは、どこかで、中央集権主義に、つまり、東京に行かなければ物事が成り立たないという風潮にどこかで反対しているんですよ。いやだなと思っている。反対というほど大仰なことはないけれどね。それで行かない。俺の生きているところは静岡だから、静岡で発表しようと思う。幸いに、ただでやらせてくれる画廊があるものだから、そこで隔年ごとにやって、後は、友達がやろうと言って二人展、三人展をやっている。たまさかですがね。その程度ですね。

本阿弥:小池一誠さんについてお聞きします。元々は油絵を描いていた作家だったと思うのですが、1969年に石をカットした作品をつくり、そして、丸石神を見つけ出した石子さんの影響で、小池さんも丸石神を求めて石子さんらといっしょに調査で全国をまわるんですね。1970年代は、ほとんど丸石の作品をつくっていましたね。石を削る作品なども手がけるようになりますね。石に小さな点のような刻みを入れる仕事です。

飯田:それは、郭仁植さんの影響でしょうね。

本阿弥:小池さんと郭さんとは交流があったんですか。

飯田:交流はあったでしょうね。李さんともあったしね。郭さんは、韓国展(注:「韓国現代絵画展」[東京国立近代美術館])にも出していたんじゃないのかな。

本阿弥:郭さんも石の作品を制作していたんですか。

飯田:やっていましたよ。平面だけではなくてね。丸石じゃなかったような気がするが、石に点描というのか篆刻というのか、それはやっていましたよ。

加治屋:韓国展というのは、1968年の展覧会ですね。郭さんの作品は大きなものですかね。確か小さな石の作品もあったと思いますが。

飯田:かなり大きな石でしたね。

本阿弥:小池さんは、そのような作品から影響を受けましたと思いますか。

飯田:影響は受けたでしょうね。小池君の石の作品は、その後の作品だからね。見ているはずですよ。

本阿弥:小池さんは、石子さんの丸石神からの影響だけではなくて、郭さんの影響もあるということですか。

飯田:確かにあるでしょうね。郭さんは、天空に向かって打っているという感じでしたね。小池君はどうだったか知りませんが。小池君が勤務していた学校が家のすぐ近くだったから、いつも来ていました。「展覧会に出すんだけど何をやるかな」と言うので、「これやれ、あれやれ」というような話もしていましたね。学校が代わってからは会う機会がなくなりましたね。小池君が影響を受けたのは、石子さんや郭仁植、それから杉村孝君がいるね。

本阿弥:杉村さんは石彫家で石子さんとは晩年に非常に交流があった方で、丸石神の調査にも同行していますね。

飯田:そうですね。

本阿弥:それでは、「幻触」以降、現在までの飯田さんの作家としての活動について聞かせてください。

飯田:「幻触」から離れて一人身になって、静岡で生きている。美術家だから美術をやるということは当たり前だと思っていない。それでも一生懸命になって発表しているんだけど、木の作品《トランスマイグレイション》をやってしまうと、一つの結節点というか高みと言ったらいいのか、あれを超える作品が、質から言ってないんですよ。違う目線で作品を構造化するかというと、それもないですよ。だから相変わらず、「世界・自然・発見」ということから離れることはないんだろうけれども、年取ると「軽芸術」になるじゃないの。重いものは腰が痛くなるのでいやだとか、紙でいこうとか。そうすると平面になったりする。ほとんど平面だな。前に鉄の作品をやったシリーズがあるんですよ。1990年以前だね。東京の村松画廊や銀座のギャラリー手でやったりしましたね。

本阿弥:最後に現代美術についてのメッセージを聞かせてください。

飯田:時々、東京の画廊から案内状が来るのを見ると、マンガが描いてあることがある。それを見ると、虚像文明は僕らが生み出したものだから、俺たちに責任があるのかなと考えることがある。今の状況を見ていると、美術に限らず、資本王国の植民地化の最も成功した例が今の時代じゃないかと思うんだ。昔は「労働と資本」と言ったり「資本と大衆」と言ったりしたけれど、今は、資本と購買者である消費者が最もパラレルな関係にある時代ですね。なぜパラレルかと言うと、消費しないと資本が成り立たないという神話の元に構造化されているからでしょう。毎日、テレビでこれでもかこれでもかというくらい、消費、つまり欲望をあおっているでしょう。虚像文明です。そういう中の落とし子として、マンガのような作品が出てくるのは当然だろうなと思う。いつの時代でもそういう状況はあるんだよな。だから、サジェスチョンとか注意とかでなくて、この状況の中からメタフィジカルなものが生じてくるのかどうか、ということを僕は考えているね。資本と消費者のパラレルな関係の落とし子として今の美術状況が生まれたとする。それを一般者としたら、それを凌駕するメタフィジカルなものとは何だろうかというのが今後の課題になるのではないかと思っている。