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磯崎新オーラル・ヒストリー 2012年3月31日

東京都港区元麻布、磯崎新自邸にて
インタビュアー:辻泰岳、中森康文
描き起こし:成澤みずき
公開日:2014年3月11日
更新日:2016年1月31日
 

辻:オーラル・ヒストリーということで、本日はお生まれになった時からこれまでを順番にお話しいただきたいと思います。これまで磯崎さんが書かれたものも含めて同様のものがたくさんありますので、今日のお話はとりわけ建築と美術、他の表現領域との接点や、書籍や媒体でお話しいただいていないことを軸としてお聞きしていきたいと思っています。

磯崎:できるだけそうしてください。もういっぺん喋っちゃったことはしょうがないと思うんです。考えてみたら1960年代、70年代前後を喋るのが一番面白いんじゃないのっていう話になって。そういうのも結局どう言ったらいいのか、領域が変わっていく、領域間のいろんな問題だね。これとの付き合いというのがかなりあるんだけど。みんなそういうことは分かってきているんですが。1980年代以降っていうのは僕自身もあまり整理する機会がなくて、いずれ近いうちやろうと思っていて探っているというのがあるので。1970年代くらいまではいろいろ喋れるんですが、そこから後のやつはまた別の機会にしてもらう方がいいな、というのが僕の印象で。メインは70年代ぐらい半ばまでにした方がいいかなと思いますけれども。

中森:このインタビューというのは2回だけでは終わらずに、先生の整理がついたところで、またその後の話を将来的に聞かせていただければよいと思います。

磯崎:これは、フォーマットはいろいろわかるんですが、それを一部始終を記録して残す、というのが基本なんですか? それとも今までのものは、あれこれ飛んだ話を適当にまとめてもらうというのがよくあったんだけれども。僕自身は系統的に喋るのは大概うまくいかなくて、とびとびになるだろうと思うんですけどもどういうふうに考えたらいいですか。というのはテレビなんかで喋ると、どうしてもただダーっと、ストーリーをきちんといかないといけないじゃないですか。だけどそういうわけにもなかなか(いかない)。そういうのは僕はあまりわりとと不得手だから、なるたけ(テレビには)出ないことにしてきたのがこれまでの状態なので。

辻:はい。もちろん個別の事項、たとえば一緒に活動されていた人なども大事なんですけれども、このオーラル・ヒストリーの特徴というか魅力が、先ほどおっしゃったような、とびとびになっちゃったりだとか、お話の順序がずれてしまったり脇道に逸れてしまったりというのも全て含めて、全体的にお話いただいたことを文字におこして、そういった中から他の方に聞き取りをしたことだったり文献と合わせて閲覧や利用ができるという資料というところに魅力があるので。

中森:「私の履歴書」的な情報に関しては必要は無くて、そういったものはもうありますから。このインタビューではもう40人程度の方々の聞き取りが終わっていて。そういった中でこれまで僕たちがやってきたものが、いわゆる横の繋がりが見えて来るようなところがあると非常に良くてですね。ですから思ったところをお話しいただくこと、それを記録するということに重きがありますから、こちらからもちろんクエスチョンはありますけども、それを乗り越えてお話されても、もちろん嬉しいわけです。

磯崎:そうですね。ということは、これはまたこれで別の筋書きとして組み立てられる。こう、理解したらいいですか。

中森:ただこれは交差点も、もちろんあるじゃないですか。これはもう公のものとして、全ての人に公開されるということです。

磯崎:はい。

辻:好きにジャンプしてお話されて構いません。

磯崎:そうしてもらうほうがいい。

辻:大掴みになってしまうところも出て来てしまうと思うんですけども。1931年にお生まれになってから終戦までの14歳くらいまでのお話で、たとえばこれまでお話いただいていないこととか。たとえば私の興味としては、どういうお住まいで生活されていたのかというのはすごく気になります。どういうような場所で生活されていたのでしょうか。

磯崎:子どもの話になったら、結局親の話をやらないといけなくなってくるから。親がどういう所にどう住んでいきさつはどうなったのかと。そういうのが片っぽであるんですけどね。これは僕にとっては又聞きになるところがあって。記憶っていうのは…… そうですね、おそらく3、4歳までは大分の西大分という所に家があったというのがわかっています。それから僕が5歳か6歳、4、5歳くらいの時に、これは写真がいくつか残っているから、その家を建てて移り住んだんだ。これはそういうことなんですが、その西大分というのは港の横なんですよ。そしてもう1つ前が、それは親父もじいさんもまだいたんだけど。そのじいさんはもう1つ前に、大分って今の名前になる前の、大道という所で米問屋をやっていた。もっと先祖は、堀川という所で麹屋と呼ばれていた。酒とか味噌を作る麹を作っていたのではないかというふうに言われている。そしてそれが男親の方の系列ですね。大道という所の話が一番おもしろいんですが、米問屋をやっていたので、そこで親父は子どもの頃は遊んでいたの。(一緒に遊んでいた)その内の1人が、林房雄(1903〜1975)っていう名前になっていて。それはだから日本で言うと東大新人会、あの日本で初めての学生の組織ですね。それになって、当時の日本共産党の文化的なポリシーに関わりはじめた連中というのがあってですね。これが親父が子どもの頃、(家の)斜め向かいくらいに(林房雄の家が)あって。それで子どもの頃にうちに遊びに来ていたの。というのが大体分かっていて。そして林房雄は東大に来て、(その後)裁判になって。それで宮本顕治(1908〜2007)といろいろ対抗していたの。というのが当時の状態ですね。それとうちの親父は、東亜同文書院(注:東亜同文書院大学)っていう、上海にある学校に行ったんですね、なぜか。大概、林房雄たちから洗脳されていたと思うんですけども、その東亜同文書院というのは、当初は日中関係をいい形で組み立てられる、文化的な面をやれる人間を養成していくんだってなっていたんだけれど、もう親父は、1920年頃ですから、その頃は既にもう大陸侵略の政策を担うための養成学校、という気配を示しはじめていたらしくて。それで向こう(上海)に残って日本の仕事をやるのは嫌だって言って、日本に帰って来たと。その判断をしたのが、たいがいそういう林房雄なんかとの付き合い(が原因)だったんであろうというふうに思うんですね。そうして親父は、そこで慶應(義塾大学)かどっかにもう1回入り直したのではないかと思うのですが。そのうち関東大震災に遭うんですよ。そうすると1923年ですね。この大震災というのは、今で言うと大したふうではないんですけれども、東京ほとんど壊滅状態になって。あらゆる機能がもう全部無くなって。大学も閉鎖とか動かないとか、そういう状態になっていたらしいんですね。それでしょうがないんで、(親父は)田舎の家に戻って来たと。(そのような時代状況)だから、谷崎潤一郎(1886〜1965)は、それまでは大正モダニズムの(文学の)トップだったんだけど、一番やっていた人ですよね。それで関西に行って、最後は関西、日本文化をやって、『陰影礼賛』以降の『吉野葛』とかああいうのをやるような、そういう所に移っていくわけだけど。むしろこれはある意味で言うと、そういう震災がある種の心の回転、改心をさせていく、そういう文化的な改心が起こるような、こういうことを強いた状態というのがあったと思う。それでうちの親父は、そこで田舎に、もう東京にいられないというようなことで、田舎に戻っちゃったわけですね。そのうち(親父は)次男だったのに、長男がなぜか死んじゃったんですよ。それで嫌々ながら家を継いだっていうのがあって。その当時もう一人不思議な人物がいて、大分に。これが三浦義一(1898〜1971)という人なんですね。この三浦義一っていうのが、林房雄と同じ位かなあ、歳がちょっと上か、それくらいだと思うんですが。この人は実は三浦義一の親父さん(三浦数平、1871〜1929)というのが大分の市長をやっていた。それでその時の市議会議長がうちのじいさんだった。こういうきっかけがあってですね、まあ付き合いはいろいろあって、その息子のジェネレーションが僕の親父の時代なわけですね。その三浦義一は、今度は林房雄と違って、右翼の歌人になったんですよ、歌うたい。ですから保田與重郎(1919〜1981)が三浦義一についての文章を書いているんですね。その三浦義一がいかに満州大陸にいろいろ、大陸浪人ですね、一種のね、これをやりはじめたかと。それと戦争のせいで1930年代ぐらいの日本(の文壇)というのは万葉リヴァイバルですから、彼は万葉調の歌人になってきた。それで保田與重郎はわかんないけど、なぜか一生懸命その三浦義一を褒めたりしているんですね。それで話がうんと飛ぶんですが、この三浦義一という人は、晩年で逼塞している時の保田與重郎の、いわば一種のパトロン的な役割をしていた男だったんです。そうして保田與重郎は京都の奥かなにかに、逼塞しているわけですね。そうしてこの三浦義一という人は、実は日本ではロッキード事件、田中角栄(1918〜1993)の事件で有名になった児玉誉士夫(1911〜1984)っていう、これが右翼のフィクサーとして政治家を動かしたって言われてるけど、これ(児玉)の親分級だったのが、この三浦義一だったと言われているんですね。それでこの人は後でまた話しますけど、僕は付き合うことになってきたんですね。それでここらの事情は、滋賀県の大津に芭蕉(松尾芭蕉、1644〜1694)のお墓があるお寺(注:義仲寺)があって、芭蕉のお墓があるんです。芭蕉寺と言われています。そこに、保田與重郎と、三浦義一が並んでお墓に入っているんです。お墓、ぴったり同じで、あなた方2人が並んでいるような具合にお墓が並んでいるんですよ。そしてそのお寺の横にある芭蕉の墓と言われているものは、ただちょっとした石ころがちょっとあるだけです。まあ(古くから)俳人は芭蕉の墓の横に(自分の)お墓を作りたかったから、そこに俳人のお墓がごろごろあるんですけど。確か芭蕉は死んだのかな、このお寺で(注:大阪で客死した松尾芭蕉の生前の遺言によって義仲寺に墓が建てられた)。ともかくそういう所があって、ここでですね、なぜかはわからないんだけど三浦義一が、芭蕉の寺があまりにも戦後荒れているからこれを復活させたいと、復興したいと(考えた)。それにあたってですね、保田與重郎を呼び出してあれこれ、つまり芭蕉を評価してくれとかこのお寺の(復興を)やってくれとかいろいろ頼んでいたらしくて、このいきさつを全部大きな石碑に保田與重郎が自分で書いた一文が、そこのお寺にあります。この2人というのはお寺にとっては重要人物なんだけれどあんまり表に出せないようなポジションだから、一番(大事な2人の)お墓は隅に並んでいるとか、この碑というのはそれがなるたけ見えないような壁際にあるとか、そういう状態になっているけど、(こういうことは)行けばわかるんですね。つまりこういう人間が、右と左に極端な奴らがその両方とも同世代にいて、みんな付き合いがあるわけですよ。それが家に(来ていた)。この親父が僕が大学に入った時に死んだので、半ば孤児というか誰も面倒見てくれないような状態になっていたときに、いろいろなかたちで地元で僕をサポートしてくれたのがこの付き合い。この右翼と左翼の真ん中でうろうろしていたうちの親父と、その関係者というのが、こういうところにちょっと関わっているんですね。それで(親父は)大震災で田舎に戻って来たんだけど、もう後はすることが(なかった)。つまり林房雄さんも捕まっていて転向したわけですから。それこそやること為すこと気に入らないわけですよ。それでなぜ谷崎が『陰影礼賛』みたいなことになったのかという気分が僕にはよくわかる。と思っているのは、ちょうどその頃にうちの親父がやっぱり転向してくるわけですよ。そういうある種政治的な、ヴィーナスの世界からさえ逃げているという感じになって、ようするに遊び人にしかならない、できないわけですよ。それで何をやったかというと、(親父は)俳句をやっていたわけ。俳句は新興俳句と呼ばれていたもので、当時新興俳句というのは、戦争中は弾圧されていてそれでもう活動停止状態になっていたんですけど。3人くらい日本で重要人物がいるんですが、そのうちの1人が吉岡禅寺洞(1889〜1961)という名前の人で、福岡に戻っていて、福岡で『天の川』という俳句の雑誌を出していたんですが。これは全部、公募俳句なんですよ。戦争前ですから、大正モダニズムみたいですね。これがね、その中で、20代くらいで、一人詩人が出て来たというので、登場したのが、どうもうちの親父らしいと(笑)。それで結局、(生活は)成り立たないわけですよ。そういうのをやったって、それはもう俳句ですからたいしたことにはならないというんで、それで後はしょうがないのでもっぱら芸者通いをしている。それでうちは(元々)運送会社だったので運送業を始めたんですね。米の輸出、運送業をやったの。運送業をやるのでそこから近所にある有名な牡丹の木を(集めた)。これは中国に親父が行っていた時の唯一持って帰った何物かなんですが。この牡丹の木をそこら近所から全部買い集めていた。(当時)まともなじいさんは、普通の、ごく普通の日本庭園を作っていたんです。(でも親父は)これを全部引っこ抜いて、牡丹の木に全部植え替えちゃったんです。だから(家には)何百本かあったんですね、牡丹の木が。狭い、そんなに広くない街の中のなんですけど。でも僕はその牡丹の木を見て育った。というのが子どもの時のあれ(記憶)でした。一番うちのお袋が嘆いていたのは、(親父は)もう宴会が好きなわけですよ。牡丹の季節になると、なにしろ人を集めちゃ牡丹の花見の宴会をやっていたらしくて。そのうちに当時昔の文化活動をやっていた左翼の連中がもう全部弾圧されてバラバラになった。戦争中ぐらいですよ。僕は12、13歳くらい。その頃はそういう花見を理由に、どうも左翼の連中がその縁で集まっていたらしい。それが特高(特別高等警察)に挙げられた。つまり(特高に目をつけられて)それがまともに京都とか東京だったら、宴のお開きをして逃げたでしょう。こういうものと同じようなぐらいですけど、こっちはただ飲んでるだけでした。それで(特高に)挙げられたらしくて、ずーっと特高の監視下に我が家は置かれていたということなんですね。だから公職は一切、戦争中は就けなかったという事情でした。それでしょうがないんで、そういう意味でフリーなものは芸者の世界、花街ですよ。花街というのは別府が中心ですけど、別府というのは山本五十六(1884〜1943)の率いる日本の艦隊の寄港地だったんですよ。それで別府温泉というのはその海軍がどーっと来て、そしてそこでドンチャン騒ぎをして、休んで、それでまた出港という、こういう海軍の保養地だったわけね。それでアメリカはそれを知っていてここだけ爆撃しなかったわけ。そしてすぐ戦後はアメリカ軍がいわば基地を作ったという、今の沖縄みたいな状態で、別府は押さえてあったんです。別府は温泉で、エンターテイメントの場所なんですね。ちゃんとアメリカ軍までこの情報が入っていた。ですから山本五十六が、どの芸者とどうしたこうしたというような言い伝えは、ずいぶん別府に残っているわけだけど、そいつは全部戦後、アメリカ軍に乗っ取られたという。こういうようなところだったんですが(笑)。もうその頃親父は戦後になって公職追放。自分から年上のやつは全部公職追放されちゃったから。(公職追放があったため)なんかまあそういういろんな役を、まだ(親父は)40そこそこちょっとくらいですよ、なんか全部やらされていたというのを僕が覚えている。それで飲み過ぎて死んだわけですよ(笑)。それでまあいろいろあるんですけども、僕は生まれ育った所はそういう所なんですが、実は港町です。この港町というのは西大分という所なんですが、今は大分港となっています。それと(その後)僕はお城のすぐ裏の新開地の中島という所で育ったんです。そこは新しい、おそらく昔の湿地帯か、海岸線を埋め立てて住宅地造成した所ですね。ここが新しく開発された住宅で、そこにこちらから移ったんです。この中間に沖の浜っていう名前の、今でもあると思うんだけど、実はその沖の浜というのは今はもう無くなったんですけど、昔は瓜生島っていう島だったの。そういう言い伝えがある。その島はデータができていてわかっているんですけど、慶長の大地震(注:慶長豊後地震、1596年9月4日)で伏見城が壊れたという、有名な地震があるんです。京都の伏見では歌舞伎で言うと「地震加藤」という(話があります)。つまり(豊臣)秀吉が怒って加藤清正を閉門させてあったのに、地震の時にまっさきに加藤清正がお見舞いに駆けつけたって言われています。それでこれは歌舞伎の有名な話になっているんですよ、「地震加藤」という話で。それはなんとかっていう名前ですけど、一般的には通称「地震加藤」というんですね(注:歌舞伎狂言『増補桃山譚』)。この地震の翌年に、ここの別府湾にあった沖の浜と言われている瓜生島が潰れて、水没したんですよ津波で。その架空の地図というのがあるんですよ。架空というかその後の。これは、ルイス・フロイス(Luis Frois、1532〜1597)という『日本史』(Historia de Japam)を書いた人がいますね、フランシス・ザビエルの頃に。あの人とかそれから大友宗麟(1530〜1587)の活動とかっていうものが、この沖の浜という島が瓜生という名前で出てくるんですね。ここの港で南蛮貿易をやっていたということは、ここに書いてあるから実在していた。それが津波でその地震の翌年に消えてますから、この京都あたりから瀬戸内の横を通る活断層があるんですよ。今の大飯原発(大飯原子力発電所)はその真上にあるんですよ。それが皆、反対する最大の理由になってるんですね。こちらの東南海は当然のことなんですが、その瀬戸内海のど真ん中から京都まで活断層が入っているんですよ。四国の一角を通って別府まで通って。それで別府なんかの温泉っていうのは、その続きで阿蘇まで(地底に広がって)いっている。阿蘇を通り越して向こうを通り抜けると、なんとか原発っていうのが鹿児島にあるんですよ(注:川内原子力発電所)。そしてなぜか知らないけど、ちゃんと活断層の上に原発がきて乗るように、内陸でさえなっているんですね。そういう順序があって。これは地質学的にもほとんど今この1年くらい、昔のそういう雑情報が今集められている、整理されつつあるということですね。うちはだからそこらへんの事件に遭ってるから(よくわかる)。僕はじいさんが15代目で、たしか僕は17代目になるはずなんですね。つまり(日本海の)向こうから流れ着いて、そしてようするにこの陸になんとか生き延びて(きた)。沖の浜というのと僕の小学校の中島という所は同じ校区だったの。沖の浜というのは、まだ(主な産業が)漁師ですから、当時。そしてその網元をやっていたというのが、やっぱり僕の小学校の数年先輩にいて。村山内閣を作ったのがここの漁師の子なんですよ。僕の小学校の数年先輩というのは。こいつ(村山富市、1924〜)も元左翼すよ。別府の奥にアメリカ軍の練習場があるんですけど、彼はここに来るのに労働組合の委員長で反対闘争に行っていたやつなんですよ、あの首相は。それが社会党になってどんどん世の中で右の方に寄っていった。だって自民党のサポートした内閣の首相になっちゃったわけだから。これは林房雄さんも文句も言えないっていう(笑)。あっちの方が筋が通ってる確信犯なんですけど、こっちは確信犯じゃないから僕は問題なんだと思う。そういうのが僕の小学校の先輩にいるという、そういう国なんですよ。右も左も、だから社会党も含めてですね、入り乱れているんですよ、僕の机上では。これはまあ何の話になっているかわからないですけどその中で結局言いたいのは、最も自由だったのは花街だったということですよ(笑)。

中森:そういったある種ラディカルな環境の中で、いろいろな極端な意見を聞く環境にいるっていう、幼い時からそういう環境にいるということは、人のことも聞けるし自分の意見も言うことができるし、非常に刺激のある環境ですね。

磯崎:それはね、日本では普通だったんじゃないかと思いますよ、方々。いろんなところにいるとは思いますけど。まあこの場所が、もともと大藩じゃないわけですよ大分っていう所は。昔は大友宗麟というのがいて。これは大内家と大友家というのが、室町時代にこの辺の小大名になっていた。それで一頃には大友家というのは九州の北半分を全部押さえていた。それがだんだん大内家という、今でいう山口県周辺でずっと始めていて、やっていた。これがいつも競っていたけど親戚関係になってるんだ。こういう関係はあるんですよ。そういうことで言うならば、美術で言うと堂本尚郎(1928〜)がいるでしょう。あの女房で真実っていう、堂本真実っていう絵描きなんですよ。堂本尚郎の奥さんですね。その娘が堂本右美(1960〜)さん、絵描きで結構彼女の方が売れているくらいじゃないですか。その真実っていうのは、毛利っていう名前だったんですよ。毛利真実なんですよ若い頃は。堂本印象(1891〜1975)の甥っ子と結婚するまでは。それでその毛利は大分の一角の佐伯っていう所をおさえていたんですね、大内家が毛利に勝ってから毛利でおさえていた。その一族で毛利。そういうのが絵描きでいるんですけど。それで美術で思い出すと、その同じ場所から出て来た人が、新制作(新制作協会)の猪熊弦一郎(1902〜1993)。これがこの街から、佐伯という街から出て来たんだと思います。そのすぐ隣町に臼杵の石仏(注:臼杵磨崖仏)っていうのがあって、臼杵にさっき言った野上家っていうのがあって。野上豊一郎(1883〜1950)とその奥さんの野上弥生子(1885〜1985)と、そういうのがやっぱりいる。評判の(すぐ伝わる)小さいあれなので。同じく縁がいろいろそれぞれあるんだけども、瀧廉太郎(1879〜1903)が岡城っていう竹田っていう所から出ている。あの「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)っていうのは、もともと仙台のなんとかっていう有名な詩人(土井晩翠、1871〜1952)ですね。それにつけた音楽なんだって。この作曲家の瀧廉太郎っていうのは岡城から出ているので。それで隅田川のなんとかって有名な歌(「花」1900年)がいろいろあるじゃないですか。この人はなかなかやっぱり音楽の(才能が)あったと思う。この人は大分のやっぱりはずれの小学校ですよ。そういうわけでここは大国ではないから文化らしいものはいろいろあるんですが、何て言いますか、まとまりがつかない。いつもお互いに衝突しているという。だからこれは朝鮮半島が南北関係にいつも喧嘩しているというのと同じ。あれよりももうちょっとまだまだ細かい対立でいつも衝突している関係というのがありますね。その時に佐藤敬(1906〜1978)というのがいた。この佐藤敬っていうのも、この大分なの。だから佐藤敬っていう人は僕の中学の先輩か何かだった。なんか時々来ては、いろいろ言って帰ったりっていう。僕はそういうので顔は見たことがあります。

辻:上京された頃に、ちょうど丹下健三さん(1913〜2005)たちが新制作協会の建築部の活動をされています。学生でいらっしゃった頃に、新制作協会の建築部の展覧会とかは見たことはありますか。

磯崎:もちろんあります。丹下さんも小さい建築模型か何か出していたし。

辻:《広島計画》を出します(注:丹下健三《廣島の都市計畫とその平和記念建築》東京都美術館、1949年)。

磯崎:《広島計画》が出た、もしかしたらコンペで落ちた(作品ですね)。僕の記憶では上野の水族館の小さい建物の模型(注:光吉健次、丹下健三《上野動物園水族館(上野公園に建つ水族館計画案)》1950年)。丹下さんの初期ではあんまり評判にならないけどなかなかいいデザインだと思っていたんですよ。この模型は新制作展に出ていた、僕の記憶では。これは高床になっていて、この上がこれは理屈にあっているんですよ。水族館なんだけど、屋根がこういう波型になっていて、段々減衰していって平になっていくという。こういう形の屋根のデザインなんですね。上野に水族館あるじゃないですか。あれの建物のコンペだったの。それでこれが(コンペで)落ちてるから模型しか(無い)。丹下さんの模型は記録に載ってないかなあ。

辻:他は家具とか、あとは彫刻の方々が新制作協会にいらっしゃるじゃないですか。そういった方々と一緒に会場の中で展示されていることがあったかと思います。他に見たもので覚えてらっしゃるものはありますか。また展覧会で当時、影響を受けたものはありましたか。

磯崎:影響…… 個人的に影響というのは、僕はこの辺はあまり受けなかったかな。むしろ岡本太郎(1911〜1996)とかのところに派遣されたことがあるの。太郎の影響というのはいろいろな意味で大きいのですが。そこら辺は丹下さんとの付き合いだという感じで見ている。丹下さんの(研究室に)僕は入って、最初から図面引いたのは《香川県庁舎》(1955〜1958年)。《香川県庁舎》にある猪熊弦一郎の壁画(《和敬清寂》)。あれは猪熊さんの(作品の)中では結構いい方でしょう。丸亀(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)はああいうものがなければ(いけない)。「谷口吉生(1937〜)の建物はいいんだけど」ってみんな言うのは、これも猪熊さんの壁画が確か入り口にあるからだと思いますけれども。あれは猪熊さんがニューヨークに行く前の仕事だと思います。だから香川県庁舎(の壁画)は確かに(いい作品)。猪熊さん、ニューヨークに行っていたのは60年代だっけ。

辻:1950年代の後半からくらいです(注:1955年〜1975年)。

磯崎:その頃ですよ。もともと猪熊さん経由で丹下さんがあの仕事をやれるようになった。その前には浅田孝さん(1921〜1990)が関わって。もともと香川の人だから。県知事の金子さん(金子正、1907〜1996)という人とお付き合いがあってということは言われているんですが。もしかすると僕の感じでは猪熊さんのアドバイスがあって、そしてその金子さんが丹下さんという名前を出したんじゃないだろうか。

中森:偶然に金子さんと電車の中で隣の席に座ったという、丹下さんの話がありますよね。

磯崎:ああそうか。だからそういう時に猪熊さんが関わっていたとするならば、丹下さんは新制作協会の関連というものが当然あるでしょうね。

辻:1950年に上京された時は東大の駒場寮に入られたと思います。その時に美術研究会で活動されていたと思います。その頃のお話をお伺いします。同室に津田孝さん(1930-、新日本文学会)がいらっしゃったということですが(注:松本俊夫も美術研究会で一緒であったと語る。松本俊夫(インタヴュアー:本阿弥清)「石子順造のこと映像表現のこと」『虹の美術館ニュースレター』10号(2004年3月5日)。2016年1月31日更新)。

磯崎:美術研究会っていうのは、東京に出て来て僕は住む家というのは下宿とかの他に無いわけですから寮に入ろうと。それで最初に割り当てられたのが三鷹に学生寮があって。ここは一応登録はしたんだけどね、これは住む所じゃないって思って。それでうろうろしているうちに、大分県が学生の寮を作っているっていうのがあってですね。目黒のあたりで、山の手線の内側ですからうんと駒場にも近いということがあって、そこにちょっと何ヶ月か、2、3ヶ月ぐらいいて待っていたわけ。そうして東大の駒場寮というのに空席ができたっていうんで入るっていう時にどこに行くかというので、美術研究会っていうのを選んだの。それがいきさつなんです。そして行ってですね、僕は2回目ですから新制(大学)の。第1回目からということは、ようするに半分、昔の一高の流れでいた人たちが第1回になって。第2回の僕らは、完全に新制で行ったわけですよ。この時にですね、美術研究会っていう所にいたところで、何も美術のプリンシプルがあるわけではないんですよ。そこで最初に入った時に顔を見渡したら、津田孝はまだいなかったんだ。ナカノ(表記不明)さんという、その後朝日の記者になりました。朝日で結構頑張って有名になった人だったんですが。その時彼は、大学入った時に既に50年の夏頃に朝鮮戦争が始まったぐらいですから。もう政治的にごった返していた時期ですよね。そしてこの50年頃にそこに入っても、そんな美術がどうだなんて理屈を言う人は誰もいなかったわけだよ。それでそうこうしているうちに、近所に学生を集めてデッサンの指導をしているアトリエがあると。この人は、黒田なんとかさん(黒田頼綱、1909〜1998)って言う人で、あれは何系なんだろう。その人のアトリエと、それからもう1人は本郷新(1905〜1980)っていう彫刻家。彼は《きけわだつみのこえを》を作った人ですよね。そして鈴木博之によると、あの時の台座は新制作の付き合いで丹下さんがデザインをしています。《きけわだつみのこえを》の台座のデザインをやったとかやらないとか、やることになってたとか、まあともかくここらへんはちょっと僕では正確にはわからないですけど。なにせ話は当然そういうのにのったことだから。これは有名な《きけわだつみのこえを》ですから猛烈に売れたわけですよね。この売れた時に、これの推薦文を書いたのが渡辺一夫さん(1901〜1975)。そしてこれはまた別の段階で話があるんですけど、こうなってきたと。それでですね、東大の美研の頃は僕は記憶に無いのですが、後に山口昌男(1931〜)っていう文化人類学の、あいつと僕が初めて会ったのは、僕がたまたまロードアイランド・スクール・オブ・デザイン、あそこに行った時に1人、日本人でうろうろするやつがいて。僕はシンポジウムがあって、こいつも「別のシンポジウム(注:東欧記号論国際シンポジウム)で来てるんだ」って。それで「俺は山口という男だ」って言って、そこで僕は初めて会った記憶があるんです。でも「俺はお前と美術研究会で一緒にいたんだよ」って。「だけどお前、俺の部屋にいなかったじゃないか」って言ったら「俺は部屋は違っていたんだ」って。「だけど美研だよ」って言うわけですよ彼は。それで「そんなことないだろう」って言って、それはもぐりだとかなんとかって僕が言うと「そうじゃない。美研のパーティーの写真を俺は持っているんだ」って。こう彼は言うんだけれど、あいつは資料気違いみたいな奴ですから持っているのかもしれないけど。この写真は僕は見てない(注:磯崎新「山口昌男に訊いておきたかった緊急問題」『ユリイカ』45巻6号、2013年6月)。

中森:それは1963年に、最初にアメリカに行った時ですか。

磯崎:それじゃなくてもっとそれから10年くらい後です。それはですねその時にボーダーランドアーツ・アンド・デザイン、そこにねアーキグラムの1人、デヴィッド・グリーン(David Greene)だったかな、マイケル・ウェブ(Michael Webb, 1937〜)だ。どちらかがロンドンにいたんですよ。それが誰かに引っ掛けて、僕の名前を出して。その時にそういう彼ら、アーキグラムの奴らはピーター・クック(Peter Cook, 1936〜)以外は全然、そういうアドミニストレーション能力が皆無。それでアドミニストレーションが出来るのは、ウィーンの出身でサン・フロリアン(Friedrich St. Florian, 1932〜)という奴がいたんです。こいつがいた記憶があるんだそこに。彼が何かいろんな名前を、僕の名前を聞きつけて何かに呼んだんじゃないかなという気がするんだ。まあだけどあんまり記憶がはっきりしていないけど。その時の記憶が昌男に会ったということ(笑)。山口昌男はそれから後はべったり付き合うようになったんだけど。それまではあいつも別にうろうろしていて。まだ何て言うか日本で言うと、彼が有名にしたいくつかの概念がありますね、70年代の始め頃。

辻:「周縁」とかですか(注:山口昌男「文化における中心と周縁」『世界』(380号、1977年7月)、今福龍太編『周縁』(筑摩書房、2003年)所収)。

磯崎:「周縁」はいわゆる吉本隆明(1924〜2012)みたいなコンセプトですけど、それではなくて。一つは「Foll」の訳があるじゃないですか。シェイクスピアか何か。道化役者。道化役というのを何かあの頃コンセプトで、文化人類学の中でそういう道化の役割というものをがーっと引っ張り出していくこと。こういうものとか、彼の場合はいくつか70年代に、そういう日本の文化領域にずっと影響を与えていくようなことをやって。それで僕は70年代の半ば頃に『文化の現在』(岩波文庫全13冊)という岩波の現代叢書に付き合いがあった時に、こういう顔ぶれが登場したというのがあって。その頃に昌男やら何やらとだんだんと付き合いが始まったというのがいきさつなんですけれども。その前は、学生の時というのは彼は全然、ただ普通に歴史をやっていた人だったんだと思いますね。それでそこで美研の時に、津田孝がいたかいないか……もうすでにそこに入っていた。この人は絵なんて描けない人ですから。だけどどういうことをやっていたかというと、東大再建細胞。つまり日本共産党が当時は宮本顕治や志賀義男(1901〜1989)なんていう、そういう人たちが国際派と呼ばれていて。ロシアのコミンテルン(第三インターナショナル)の繋がりでいろいろと一派を成したと。それに対しておそらく中国の毛沢東の影響だと思うんですけど、もう一つの一派で、これは所感派と言われていた一派があってですね。この権力闘争をずっと中でやって(いた)。それで東大の共産党細胞が除名をされたんですね。除名されたグループの中で中心的な活動家の一人が辻井喬(堤清二)だから。それから武井照夫(1927〜2010)とか、こういう理論的にすごい人たちがいたわけよ。これが全部オール除名されたわけですね。それで東大に共産党細胞が無くなった時に、美研に津田孝というのが入って来て、これが看板を掲げたのが再建細胞。これはつまり主流派というか、所感派で。この流れなわけですよ。宮本顕治なんかはもともと文学(の人)でしょう。だから彼も文学なわけですよ。そして当時そういう文芸、文学の世界で言うと2つ(の雑誌が)あった。一つ1つは『人民文学』 。もう一つはその方が後まで残っていたけども『新日本文学』。これは針生一郎(1925〜2010)を読むと全部出て来る。針生一郎は最初は『新日本文学』の編集部に入った。そして本当は対立している『人民文学』と、今度これを全部除名したから共産党(文芸誌)を作ったわけですよ。この編集部に針生一郎は入った。だから針生一郎は共産党の中核の文学の編集をやりながら、(美術の分野とも)両方と付き合っている珍しい人だったんですよ。それでこの二つというのはある意味で言うと、50年代の日本の一水会や新制作会とか二科会とかあった、あれは大体戦前の流れですよ。それで戦後になって、日本アンデパンダンとそれから読売アンデパンダンと、2つできたわけよ。この2つの対立というのは、これは日本の美術の中で50年代を考える時に猛烈に重要なことなわけですけれど。僕らはその前の段階で。この時は既に僕が学生の時に内田巌(1900〜1953)っていう人が有名だったんだ。この人はまっとうな社会主義レアリズムできた本郷新とか、ここらへんと組んでいた人だと思います。そういうせめぎあい状況が不思議なかたちで日本の50年代の芸術領域、文化領域全体に圧倒的にいろいろ影響を与えたという時期があるわけですよ。これが全部「アヴァンギャルド」と自称した。それで結局、政治的アヴァンギャルド、芸術的アヴァンギャルドの違いはどうかというようなことで、その間に一番活躍したのが花田清輝(1909〜1974)。花田清輝が最も微妙な、両方がわかっている人だったわけで。この人はもともとは戦争中に右翼で、大陸浪人の元締めをやっていたのが福岡にあるんですけど。そこの機関誌の編集部にいた人で。その頃に書いたアフォリスムの文章というのは、僕らも圧倒的に影響を受けた。それはもちろん戦後に発表されたけど、戦争中に書かれたものでというのがありますけど。『錯乱の論理』という花田清輝の本ですね。今のいろんな主流になった人たちの仕事が有名なんだけど、花田清輝のこの頃というのは、吉本隆明と喧嘩したのかな、衝突したんだと思いますけれど。吉本隆明なんかはまだ新人で、理屈が何を言うかっていうような感じで。清輝は岡本太郎と組んで猛烈に強かったですよ。そういう時期ですね。

辻:「夜の会」ですね(注:発起人の花田清輝と岡本太郎を中心に文学や美術などのジャンルを越えた芸術運動として1948年6月に発足)。

磯崎:その頃の状態というのは東大美研に影響をしていたわけですよ。それで再建細胞ができて。再建細胞が文化活動をやらないといけないということになって。津田孝はいずれそこから『人民文学』の編集をやりながらそれの中に日本共産党の文化活動方針みたいな、そういうベーシックな理論を組み立てていった。それがつながっていたのは山村工作隊に行けという、これで文学というものを進めたという。その中で。それにアーティストで乗せられて行ったのは、美術界の中では勅使河原宏(1927〜2001)、桂川寛(1924〜)、池田龍雄(1924〜)、それから山下菊二(1919〜1986)はその時は外れていたと思いますけど。こういう人たちがみんな山村工作隊に、連中は除名された側の劣等群ですけど行っているんですよ。それの元締めをやったのが(聴取不能)。

辻:関連のお話を聞かないといけないですね。

磯崎:それがその時に対抗していた学生でいたのが『人民文学』の連中だった。僕は本来ならば対立する側が目の前にいたんですよ。そして住んでいたわけだから、これくらいの部屋に7、8人こうやってベッドを置いて住んでいるのが東大の寮だったんですよ。僕は隅にいた。向こう側の隅にいたのが津田。だからあれと似たようなもんですよ、赤城にこもった日本赤軍(連合赤軍)の小屋と。あれもこうやって寝ているでしょう。東大の寮というのは割合そういうもので。

中森:美研では作品は作っていたのですか。作家としての磯崎さん。

磯崎:それにいくまでに(まだかかる)。僕は彼らの連中、彼らの学生の政治運動をやる以外に、山村工作隊に行くために、お前たちは紙芝居を作って山村工作隊に行くんだと。これは中国なんかではやっているんですよね。中国は版画でたくさんやっていたと。そこで出て来た方針が紙芝居だと。紙芝居をやるにあたって日本で唯一、革命闘争を歴史的にやったのは山城国一揆というのがあると。これは農民運動で中世の末、戦国の始めくらいの動乱の中で、山城という国で農民一揆があるんですよ。それでこれのストーリーは歴研という、歴史研究会っていうのが3つ並んでいたんですけど。僕は北寮にいたのか。南寮、北寮、明寮というのがあるの。北寮の14番というのが美研だったの。明寮の3階の何番か忘れたけど、そこに歴研というのがいるの。ここがストーリーを書くからお前らは絵を描けというのがあって。そのようするに農民一揆の紙芝居、30枚くらいのストーリーが書いてある。それは僕だけじゃないけど手分けして(絵を描いた)。僕は侍の兜やら何やらっていうそういう道具物の方が描けるんだけど、人間は下手だから、他の奴が描いたところに兜入れたり槍を持たせたり、そういうのを描いていたんですよ。そのストーリーを書いていたのがいろいろいたんだけど、山田洋次(1931〜)がいたんです。寅さんの監督がそこにいたんですよ歴研に。僕は唯一歴研で友達だったのが山田で、ずーっと今でも付き合いがあるんですが、これがその時の紙芝居からなんですよ。山田は忘れていると思いますけど。寮では部屋同士の付き合いっていうのはそう無かったですよ。だけどこういうのがあってそれの元締めは津田の政策ですよ。それで結果は知りません、僕は行っているわけじゃないから。それからあと知り合いがみんな山村工作隊に行って、それは再建細胞の連中ですね。(でも)だんだん消えて行ったんですね。そういう時代があって、それでおそらく帰ってこなかったんですよ学生に。その山口昌男はそういうのはよくよく知っていたというのがその後の話でわかるんですけど。あいつの近所にいろいろそういうのがいたんだろうと思いますね、山村工作隊の。僕は実はそのうちの1人に、当時の言葉でオルグする(勧誘する、動員する)と言うんですけど、ちょっとこれから秘密の共産党の秘密の会合がどこそこであるので、お前たちは警官に踏み込まれるまでに、なんせそこでごねて、彼らが逃げる間食い止める、その役だっていうので行って動員されたことがあります。それで何も起こらなかったんだけど。ただそこで部屋で待っている、詰めているだけですから。ドラマで言えば共産党細胞の護衛隊みたいのがいるじゃないですか。当時は何もない。そういう所の連中なんかは貸本屋か何かをやっている、商売をやっている連中が、そういう秘密会をやっているわけですよその場所で。それでしょうがないんで僕ら学生が4、5人動員されて詰めてですね、そこでもっぱら当時の漫画とかエロ本とかなんとかっていうのがだーっと積んであるんですよ。もちろん共産党の本なんて何も無いですよ(笑)。それで奥の方は秘密会議。それを読んで時間潰して何も起こらなかったというのが、まあその当時の美研の1つなんですよ。そのうち絵を描いたこともあったりして。お前ちょっと理屈も言うみたいだからついてこいと言われて。実はあれはいわゆる普通の政治活動の会合なんだけど、今度文化活動の芸術家の活動があるからこれにちょっと連れて行くからって、それで僕連れて行かれたんですよ。それが大学入って1年目か、1951年、52年の春とか、そういう感じですね。それでどっか中野かどっかに焼け残りの家があって、木造の家ですよ。入り口に門札が出ていて、片岡鉄兵(1894〜1944)って名前の表札。どうも彼の家らしいんですね。その片岡鉄兵というのは戦前の左翼の作家で結構有名な人だっていうのは、名前くらいはわかっていたのですがこの人の家らしいと。その横に新しい表札が2つ掛かっていて。1つは石川淳(1899〜1987)。これは大作家です。それでどうも石川淳がそこで間借をしていたと思う。これは石川淳の記録というのはたくさんあるから研究者もいろいろいると思うんですね。その期間がどういう期間か僕にはその時には顔を見ていないので(わからない)。もう1人いて、勅使河原宏がいたんですよ。勅使河原宏というのは片岡鉄兵の家の洋間みたいなところに住んでいたからちょっと金があったんだと思う、石川淳よりは当時。そこで5、6人、人がいるわけよ。その勅使河原宏と、覚えているのは桂川寛。それから池田龍雄がいたかどうかは覚えてないですがそういう連中なんですよ。それがいるというのはわかったんです。ようするにその当時のいわば芸大の学生か、あるいは卒業した途端くらいで。こちらはまだ学生だけど。向こうはちょうど学校出たくらいの年ですかね。それでなんやかんやこう議論をしているわけ。僕はだから政治的なこととかいろいろさっぱり様子がわからなかったんだけど、どうもアヴァンギャルドを言っているらしいと。花田清輝くらいは読んでるわけですよ。それから瀧口修造の『近代芸術』っていう、戦争前に発禁にいっぺんなったやつを、伏せ字をもういっぺん戻して戦後出たという、初版をたまたま持っていて読んだということがあって。それで理屈を学生で傍聴に来ているのに何かいろいろ言ったわけよ。そうしたらもう1人いた、むーってふて腐れたような男が一人いてですね。「お前生意気だ」って言い出したわけですよ。「それで何でこんなこと言うんだ」ってまくしたてるわけですよその人が。そしたらこれが安部公房(1924〜1993)というやつだったんです。それであそこで女性の活動家が2、3人他にもいて。名前は僕は覚えてませんね。それで安部公房がいて。安部公房とその時に仲良くなったんですよ僕は。喧嘩をしたせいで。それから僕は田舎に帰って、そのグループが「世紀群」という名前になっているというのを聞いたんで。これは針生一郎もいろいろ書いているんですが、大分の木村屋(キムラヤ)というところで僕は高校の時に吉村益信(1932〜2011)とか木村(成敏)(1925〜2008)さんという人がいたんですが。この人は後に大分の共産党の市会議員になった人です。この人の家の裏の倉庫みたいなところでデッサン会をやっていたというのが僕の高校の時代です。それでそこに戻ってまだ(当時も)やってるから。それでちょうどその頃、原平(赤瀬川原平、1937〜)あたりがちらほら出入りをして。風倉匠(1936〜2007)も出入りしていて。それから雪野君(雪野恭弘)っていうのもいて。「雪野」っていう小説がありますね(注:尾辻克彦『雪野』文芸春秋、1983年)。彼もいて。彼はまだ元気ですよね。そういう連中が出入りしているので。それでやっぱり名前付けようよっていうんで、世紀群(注:「世紀(の会)」)じゃもうあるから、それに「新」をつけて「新世紀群」っていう名前に。そうしたらそれをなぜか針生一郎が本に書いちゃった。いまだにいろいろその話が残っているということですがいきさつは簡単なもので、そういうごくごく簡単ないきさつなんですよ(注:磯崎新「「新世紀群」由来」雪野恭弘、KABU-IPPAN編『ZINC WHITE・草創記の新世紀群(東京から)』ライフエージェンシー、1985年8月)。それがあって。そして僕は東大の方に来ちゃったので、吉村たちは武蔵美(武蔵野美術大学)に行って。原平も武蔵美ですね。みんな行ったと。ここら辺のいきさつは、去年新宿の旧ホワイトハウスがまだ残っているっていうんで、『新建築』でインタビューがいろいろやって(磯崎新、吉村益信、赤瀬川原平、藤森照信「「新宿ホワイトハウス」を巡って 半世紀前の回顧 ネオ・ダダと磯崎新の処女作」『新建築』2011年4月号)。あの時は吉村が最後に出てきたんですよ。吉村益信はずっと引っ込んでいて来れないだろうと藤森(照信)なんかは言っていたんですよ。原平は来ると。それで吉村は来てくれたんですよ。それでその時の話があの時の座談会みたいなもので。それが吉村は(生前の)最後だったんですけど。どっちにせよこれは後の話につながるんですが。そういうのがあって。この大分のこの繋がりがそこに繋がっていたんですけど。安部公房がその時に会った2、3ヶ月後に、芥川賞を取ったんです(安部公房『壁 S・カルマ氏の犯罪』1951年)。僕は驚いたって言えば驚いて、あいつが芥川賞もらうような人だったのかって。まあこういう記憶があるんだな。それで基本的に安部公房はある意味で言うと、今でもまだ流行るけど、結局《ゲルニカ》(《Guernika》)のピカソ(Pablo Picasso, 1881〜1973)のスタイルを(好んだ)。ちょっと似たようなスタイルで、ケーテ・コルヴィッツ (Kathe Schmidt Kollwitz, 1867〜1945)という20年代の表現派の女性の絵描きがいますけど、彼女はわりと風刺画風に描いていた人ですね。(一方で)ピカソが《ゲルニカ》を描いた。この2つを足したような絵というと山下菊二みたいな絵になるの。このあたりをいろいろ模索していたのがこのグループ。勅使河原宏なんかのグループなんですよ。「世紀の会」、これを理屈つけていたのが安部公房だった。安部公房は花田清輝がなんかやるとかなりそこにべったり付き合っていたというのが何となくそれ以後わかってきた。こういう人間関係で成り立っていて。彼らはその正統派の社会主義リアリズムをどうやって変えるかという。ようするにフォルマリスム、アヴァンギャルドの側にストーリーを組み立てようとしていた連中だろうと(思った)。だからいわゆるリアリズムのアヴァンギャルドじゃなくって、フォルマリスムのアヴァンギャルドという。それを媒介しているのがピカソの《ゲルニカ》ですよ。だからピカソが共産党に入ったというのが大きいんですね。それはフランスの当時のサロン・ドートンヌとか何かいくつかそういうのがあって、フランスの中では左翼でモダニズムやりたいという一派が当時いたんですよ。だけどみんなあんまり有名にならなくて。むしろ映画監督なんかの方がみんな有名になってきた。マルグリット・デュラス(Marguerite Duras, 1914〜1996)なんていうのはその中を突き抜けた人ですね。アラン・レネ(Alain Resnais, 1922〜)も。その周りの社会主義リアリズムの人たちがたくさんフランスにはいた。美術にもいて。このへんの流れが影響していた、日本の50年代の全般に。ここらへんにごたごたしたのがある。僕の考えでは、地図で考えれば、岡本太郎というのが実は別の筋書きでその中に割り込んできたというのが僕なりの構図なんですよ、50年代の初期の。それは僕が学生の頃に見ていた周りの美術界の動きみたいなものですから。これはだから読売アンパンの前なんだな。

辻:新世紀群の頃は、たとえば日本アンデパンダン展だったりとか、出品されたりはしましたか。

磯崎:日本アンパンはあったかな。

中森:1947年くらいからアンデパンダン展になってますね。

磯崎:それはだから、僕は自分でこういうので(絵を描くことで)プロフェッショナルになろうと思ってなかったから。紙芝居の手伝いくらいはすると。あとは勝手に1、2枚油絵を描いたことはある。それは吉村が突然去年の座談会の時に思い出して、僕がメーデーの絵を描いていたって、「あれは良かったんじゃないの」って吉村が言っているので。ああそうだった、僕も描いてたんだって(笑)。

辻:どういった絵だったのでしょうか。

磯崎:これはもう当時の関心は僕も同じく《ゲルニカ》経由のいろいろなものですから。だけどおそらく人間が叫んでるとか何とかってああいうのは、《ゲルニカ》にたくさんあるから、それ風になっていたと思うんですけど。ただ《ゲルニカ》がモノクロで、日本で描く人がみんな薄暗い色ばっかり使うので、これは面白くなかったので、黄色とか赤とかの原色ばかり使ったという記憶がありますね。その絵はどこに行ったか知りませんけども。吉村が記憶していてくれてた。

中森:あの頃はメキシコの絵画の展覧会があったりだとかしましたね。

磯崎:これはね、いろんな意味ですごい日本に影響を与えたと思うんですよ。これは僕、1954年に丹下さんのところ(研究室)に入ったんですよ。この時かな、その秋かな、夏かな、なんかにメキシコ展というのがあったんですよ(注:「メキシコ美術」展、会場設計:丹下健三、1955年9月10日〜10月23日)。それはあそこの東博(東京国立博物館)の1階を全部使って(注:博物館本館2階で開催)。東博の階段が今あるじゃないですか。あそこのど真ん中にものすごく大きい顔があるでしょう。不思議な石の。あれの複製であろうと思うんですけど、それがどーんと置いてあって。それからメキシコのいろんな壁画運動、ああいうものに関わるものまで全部その時に来てましたね。それでシケイロス(David Alfaro Siqueiros, 1896〜1974)とかこのへんの名前を僕らは覚えたんですよ。それはもう1つ、1952、53年頃に、僕の記憶では、世界の現代美術か現代建築か何かの紹介をする本が日本に出てきた。この中でメキシコの例の壁画運動をやっていたり、リベラ(Diego Rivera, 1886〜1957)とか、シケイロスとか。ここらへんと、それから何人かの、バラガン(Luis Barragan Morfin, 1902〜1988)のうんと初期を入れたメキシコ特集号っていうのがあって。僕なんかそれを随分(読んだ)。それともう1つはブラジル特集。これはほとんどニーマイヤー(Oscar Riberio de Almeida Niemeyer Soares Filho,1907〜)。この2つをかなりボロボロになるくらい持って歩いていた。コルビュジェ(Le Corbusier,1887〜1965)は(出典として)丹下さんに使いつぶされているから。この両方の南米のリアリズム建築みたいな。スターリング(James Frazer Stirling, 1926〜1992)はちょっと感心なかったからね当時。これは無いだろうと。そうするとメキシコとブラジルだけですよ。このへんはおそらくイサム・ノグチ(Isamu Noguchi, 1904〜1988)なんかがメキシコ行きますね。それからロックフェラーセンターに連中が来て絵を描いたりするじゃないですか。あそこらへんの交流というのは日本には全く、戦前はおそらく情報入ってなかったと思うんですけど。その50年頃ですよ。

中森:ちょうど伝統論争の関係もありますよね。同じ頃のディスクール(言説)ですよね。

磯崎:その伝統論争の前史みたいな感じですね。きっかけみたいな感じ。それでですから、最終的に岡本太郎がアズテックですね、彼は猛烈に勉強するんですね。当時は遺作の翻訳が無かったマルセル・モース(Marcel Mauss 1872〜1950)がインタビューを受けてますね。それから敏子(岡本敏子、1926〜2005)さんが管轄していた本と違う、太郎しか読まなかったであろうという本の中にエリアーデ(Mircea Eliade, 1907〜1986)をかなり読み込んだ痕跡があるというのを(聞きました)。だけど全編読んでいるわけではなくて何ページの間とか、そういうのを研究している人がいましたけど。そのエリアーデは南米なんか行っていろいろやっているけれど、やっぱり喋り方というかそういう説明にいろいろ使ってはいるけれど、太郎の気分はやっぱりモースだというように僕は思うんです。このいきさつというのは日本には全く理解できない状態にいたというのがあったんですね。僕は太郎の伝統論の問題の始まりみたいなものというのはここらへんなんじゃないかって。縄文(という概念)まで見つけて、(伝統は)無いって言うんですから。その辺は何て言うかかなり太郎の思考を辿ると面白い時期がある。むしろ1948、49年、それから1950年、51年、この数年というのは一番面白いという風に思いますね。縄文の展覧会について書いたのは1952年だと思うので(注:岡本太郎「四次元との対話 縄文土器論」『みづゑ』558号、1952年2月)。

中森:たとえば「現代の眼」展(国立近代美術館)とか、そういった現代のものと縄文、あるいは前近代的なものと両方を見せる展覧会というのが、あの頃いくつかありましたよね。

磯崎:そうですね。50年前後だと思うんですけど。というのはどういうのかっていうと、アメリカのモダニズムと日本の伝統的なものというか、日本文化とアメリカのモダニズム。ある意味で言うと日本の、つまりモダニズムの日本解釈というのかな、ここら辺の重なり、接点が50年前後に1つあると。これは向こうのアーサー・ドレクスラー(Arthur Drexler, 1925〜1987)というのがいたじゃないですか。

中森:そうですね、ニューヨーク近代美術館の(建築・デザイン部門の)キュレーターですね。

磯崎: ドレクスラーをそこに押し込んだのはフィリップ・ジョンソン(Phillip Johnson 1906〜2005)。ここらへんにですね、アメリカの50年代文化、50年以降の戦後文化の一つの問題っていうのがあって。みんな鈴木大拙(1870〜1966)の影響とかなんとかいろいろ言うけどもそうじゃなくて、僕らとドレクスラーたちが、ダイレクトに日本を占領したアメリカ軍の後ろにくっついていて、日本から拾って行ったものというのが、これが大きいんじゃないか。

中森:1953年にドレクスラーたちが日本に来ました。ドレクスラーの前にはロックフェラー夫妻がいたわけで。ロックフェラーの文化政策というのが、たとえばアメリカであったらアジア・ソサエティだとか、ジャパン・ソサエティだとか、そういったフィランソロピー(慈善事業)みたいなところを作るわけじゃないですか。

磯崎:話が全く飛ぶけども、後の話になるんだけど、僕は何かの時にロックフェラーのタイケットという邸宅があるじゃないですか。大きなコンプレックス。その一部に吉村順三(1908〜1997)がお茶室を作った。それもそこにあるんですね。それで何かの会議があって、僕が呼ばれて向こうのゲストハウスに泊まって。ロックフェラーの先々代くらいからのコレクションがあって。それもまたコンプレックスの中にあるんですよ。それをずっと見て歩いたことがあるんです。本当、ロックフェラーの集めた物というのは日本の…… あそこらへんの流れでボストン美術館が……

中森:ロックフェラー・コレクションとか。

磯崎:モース・コレクションとかどこかにありますね。あそこらへんのガラクタのレベルのもので。ようするに全然価値は無いけれども、何て言うか、手が込んでいて値が高いと思われるようなもの。まあ薩摩焼風のものですよ明治(時代)の。あそこらへんの種類のもの、鎧やら兜やら、山とあるんですよ。ロックフェラーが持っているんですよ。これはだから戦後のデヴィッド・ロックフェラー(John D. Rockefeller 3rd, 1906〜1978)の先々代くらいからのものだから。あそこらへんの50年代の、どうもあの辺の始まり頃にですね、ロックフェラーも代が変わるでしょう。あそこらへんでモダニズムが入って来る。そこらへんのきっかけがどこかにある。

辻: 1951年に生田勉(1912〜1980)がマンフォード(Lewis Mumford, 1895〜1990)に会いに渡米しているんですね。それでその後1952年に浜口隆一(1916〜1995)が渡米して、ドレクスラーに会っているんじゃないかということがあります。

磯崎:隆一さんが行ったのは何年?

辻:1952年の1月です。

中森:吉村さんは《レヴァーハウス》(Lever House, 1952)で隆一さんと会っているんです。

磯崎:そうですね。それは隆一さんが帰って来てから、僕はわりと話をいろいろ聞いた記憶はあるから。

辻:それはいつ頃ですか。直後ですか。

磯崎:はい。それから確かゲスト・エディターになって隆一さんが。日本戦後建築、日本建築か、特集みたいなものを、レコード(Architectural Record)か何か。

辻:『アーキテクチュラル・フォーラム』(Architectural Forum)の1953年1月号です。

磯崎:『アーキテクチュラル・フォーラム』ですか。これが結構大きい影響を与えていて。ドレクスラーの、吉村順三の引っ張り出し方というようなものになっている動きが、一つあると思うんですよ。

中森:浜口さんはロックフェラー財団の奨学金でアメリカに行ったわけで、ロックフェラーというのは東アジアでこれから政治がどうなっていくのかということをやっぱり見ているわけですよね。アメリカの民主主義がいかに芸術にとって良かったということを知らしめるために、ニューヨーク近代美術館で作った展覧会を、たとえばアジアだとか中南米に持って行くわけですよね。たとえば「人間家族」(「ザ・ファミリー・オブ・マン(The Family of Man)」展(ニューヨーク近代美術館、1955年1月24日〜5月8日)、「人間家族」展(日本橋高島屋、1956年)として日本にも巡回)なんていう写真展もありましたね。

磯崎:この展覧会は日本に来て。これは丹下研で日本で巡回するためのフレームとパネルを全部、デザインをしたというのを僕は覚えているよ。「ザ・ファミリー・オブ・マン」、あの展覧会。

中森:あれもニューヨークの近代美術館の写真部が作った展覧会だったんですけども、人類愛だとか人間の生と死だとか喜びとかそういった大きなテーマでもって、写真をどういったデザインで見せるかということを考えて、会場構成を考えて非常にうまく使っているわけですよね。あれなんて全世界、100カ所くらいに巡回したくらいですから。

磯崎:あれは一つ、そういうある種の報道写真的な要素を持ちながら、ちょっと新しいリアリズムみたいな感じでした。それに対してケペッシュ(Gyorgy Kepes, 1906〜2001)とかモホリ=ナギ(Moholy-Nagy Laszlo, 1895〜1946)とかのシカゴ派的な抽象化した展覧会、これで言えばケペッシュのこういうやつですよ。この手のやつ。この設定のはあの時にはその中には入っていない。これはこれで、その次に出てくるような気がするんですよ。これはいつ頃ですか。

中森:モホリ=ナギになるとですね、死んだのが1947年とかですから。ですからこのリアリズムのところに政治性のメッセージを噛ませた。エドワード・スタイケン(Edward Steichen, 1879〜1973)というキュレーターの下でですね。スタイケンはドレクスラーの同僚だったわけですよね。やはりあの展覧会もニューヨークの近代美術館の展覧会ですからメッセージがあるんですよ。こういったアメリカのいわゆる文化に対する政策だとか写真だとかいうものが、今の世界に欲されていると。だから本当は、あれは洗脳するための、オルグするための展覧会ですよね。

磯崎:そうですね。ここらへんのアメリカの文化の、ようするに国家的な政策みたいなものとしての一つの動きというのはあって。これはまたこれでいろいろ、今となったら面白い組み立てが見えるところがたくさんあると思うんですけども。いろんなそういうポリシーの中で、日本のモダニズムというものをどう取り出したのかということがあって。ようするに1930年でバウハウスの、世の中の写真が全部ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)になったという。だからあの展覧会(「ザ・ファミリー・オブ・マン」展)はノイエ・ザッハリヒカイトみたいなものがあるわけですね。それでだけどその後、全部ストップしちゃうわけじゃないですか。解体されるわけじゃないですか。後は結局いわゆるデリダ(Jacques Derrida, 1930〜2004)が言うようなディセミナシオン、散種ですね。ようするにそれがアメリカと日本にとんだんだ。それでヨーロッパはいったん切れているというように僕は思っていて。日本はその時、とんだ時にコルビュジエを輸入したと。アメリカはミース(Ludwig Mies van der Rohe, 1886〜1969)を取った。それでこの違いが10年間別な動きをして。日本の場合はとんだものがですね、日本の伝統をどうモダニズムで解釈するか。つまり石元さん的なものがぱっとわかるような下地になるような見方が、伝統との組み合わせの中で日本は出てきて。アメリカはこれを全部、テクノロジーの問題に全部置き換えていた。日本は敗戦して被占領国家になった。アメリカは占領していると。占領して持ってきたのは当時の、つまりミース系のテクノロジーを介してのモダニズムだった。そして日本は敗戦してるけど、それまでに一応積み上げてきたモダニズムというのは、伝統的な日本の建築形式やデザインのパターンやらというものが、いわゆる日本的なもの、これはようするにヨーロッパのモダニズムを学んだ人たちが、(戦時中に)先を見るわけにいかないものだから歴史(過去)を見ていたと。(ブルーノ・)タウト(Bruno Julius Florian Taut, 1880〜1938)以来そういう「伝統」になってきたと。積み上げられてきた。こういうところから出来上がって来たのが日本のモダニズムだよっていうのを、さっきの浜口隆一の、日本建築を10個くらいセレクションして出してあったんですけれど(注:浜口は掲載する建築物8作品の選定を担当)。これはモダニズムがどうやってプア(貧相)な木造や何やらの技術の中で(受容されていたか)、テクノロジーじゃないわけですよ。にもかかわらずモダンに見えるようなデザインがやれていたか、やっていくかと。これがその時の問題じゃなくて、やっぱり日本の場合は1930年代からの蓄積があって、それが戦後になってそういう状態になる。これをアメリカは戦利品にしたんじゃないかと(思う)。そうすると日本の場合は美学があったんだよ。美学としてモダニズムを解釈した。アメリカの場合はテクノロジーとしてモダニズムを解釈した。アメリカのテクノロジーしか無かったところに美学の欠落部分を弱肉強食で補填したというのが僕の印象です。このプロセスが1950年代のはじめ頃に、ニューヨークでMoMA(ニューヨーク近代美術館)を介して起こっていたという。それでだからその頃に結局、シカゴでのミースのいろいろな仕事も、MoMAが持って行くわけじゃないですか。

中森:そうですね。すぐそこにある《シーグラムビルディング》。日本家屋が(MoMAの)ガーデンにできた(注:「Japanese Exhibition House (Japanese House in the Garden)」展(1954年6月16日〜10月21日、1955年4月26日〜10月15日)、ちょっと後の話ですよね。

辻:浜口隆一さんはノーマン・カーヴァー(Norman Carver)という、京都にいた(進駐軍の)元兵士の日本建築に関する本の翻訳をしています(注:ノーマン F. カーヴァー, Jr 『日本建築の形と空間 FORM and SPACE of Japanese Architecture』浜口隆一訳、彰国社、1956年1月)。

磯崎:そうすると石元さんの例の桂離宮の、ノーマン・カーヴァーっていうのは僕らから見ると石元さんほど写真はうまくないから。ようするにショットとか切り口とかいうのは光と陰とか何とかって言う感じでやっているので。こういうのは、たとえばドキュメンタリー風の撮影をやりはじめた二川幸夫(1932〜2013)とか、ああいう人たちの方がノーマン・カーヴァーの影響受けていると(思う)。

中森:石元さんがカーヴァーさんとは何度か話したことがあって、桂の屋根を切りましょう(写真をトリミングしましょう)という話も「『僕がそうするんですよ』って言っていたら、カーヴァーさんがもうやっていた」という話がありました。カーヴァーさんはまだご存命ですから。

辻:言及が少ないこと、お書きになっておられないことでお聞きしたいことがあります。1952年ごろに藤島亥治郎先生(1899〜2002)のもとで、模型制作のアルバイトをされたということがありますが、当時の建築家、建築史家の先生、もしくは建築評論家の方との交流で覚えておられることはありますか。

磯崎:そこらへんで言うと、もちろん東大の美研から本郷に移った時。あれは1952年ですね。さっき僕の親父の関係のことをバックグラウンドで言ったんですが、その時まだ名前が出ていなかった1人で、ツツヤソウイチ(表記不明)というのがいたんですよ。これは同級生だった。彼は一高にきて、そして三菱銀行かな、なにかに就いたんだな。そしてその前後の仲間の中に、これも日本共産党のバックグラウンドになってくるんだけど、戦前の活動家で、かつ戦後は実業界に出て来た水野成夫(1899〜1972)。それから国策パルプという会社をやってこれが猛烈に儲かった。かつ日本の当時の政治家の政治資金をいろいろやっていた。そしてそこの流れくらいが今のフジテレビになっているんですが、その元みたいな人がいるんですよ。それでこの人たちの知り合いだった。この人は何かその時に自分でもう銀行を辞めて、結構会社で儲かっていた人で。これがなんとかパトロネージをいろいろ考えてしたいと。そのうちの一つで同級生で渡辺一夫っていうのがいたんだよ、一高の時に。これがそのさっきの『きけわだつみのこえ』の翻訳の段取りをしたり、それから紹介をしたりというそんなことをやっていたというのはわかっているんだけど。真砂町っていうところがあるわけ。真砂町の先生っていうのは、有名な貫一・お宮の時の真砂町の先生っていうのが出てくるような(注:尾崎紅葉「金色夜叉」)、東大の先生の住んでいたような住宅で。この横が菊坂というところで。菊坂は樋口一葉(1872〜1896)が長屋に住んでいた所。そこの上の高台なんです。それが真砂町という所だったんですね。今の本郷三丁目あたりの所ですよ。そこに渡辺一夫さんの親父がいて。そして大きな家を作って住んでいたんだけど親父さんが亡くなって。それで戦後になってその家に兄弟何人かがみんな住み込んだり、バラバラになってごった返して、売っぱらわないといけないという事態に落ちいった時に困ったって言っていたら、じゃあ私がともかくそのへんのものを全部管理して実務的にちゃんとやりましょうということを言って、まあ同級生だから。それでいろいろ資産分配、管理みたいなことをやってあげていた人なんですね。だから渡辺さんは何も言う通りにしかできないという。それでその時に僕は親父が死んでると(いう状況だった)。(渡辺は)この男(磯崎)を書生みたいにして入れてくれよというのを言って(くれた)。それで名目的には息子の家庭教師ということで、僕はその渡辺一夫さんの家に住み込みになったんですよ。だからまともなフランス文化をやっているところで(暮らした)。当時仏文もみんな貧乏だったから、物書きも。暮れになると渡辺邸で大パーティーをやるんだな。そうするとお偉方は辰野隆(1888-1964)とか鈴木信太郎(1895〜1970)というのもこういう人なんだけど、その他に筑摩書房とか中央公論の誰々とか、出版関係でフランス文学が猛烈に流行っていたからその頃は、中村光夫(1911〜1988)とか。小林秀雄(1902〜1983)だけは姿を見せなかったかなあ。だーっといろいろいて。僕はそこにパーティーの下働きでレコードかけるとか。それで僕はだからフランス音楽のぱーっとしたのは面白くないから、もっぱらロシアのハチャトゥリアン(Aram Khachaturian, 1903〜1978)とか何とかあの当時流行っていたショスタコーヴィッチ(Dmitrll Dmltrievich Shostakovich, 1906〜1975)とか、そういうやつを探して来て。レコード係でかけていたんですよ。そしたらお前はこんな妙なやつをかけてしょうがないとか仏文の大先生から怒られた(笑)。僕はだから書生のチンピラがやっている、そういう状態だったからね。そういうふうにして住んでいた。僕はだからそこにいたということがあった。そういうことで大江健三郎(1935〜)は渡辺一夫さんのことばっかり未だに(書いている)。まあその通りでえらい先生なんですけど。この先生のところに実はいろんな、今で言えばみんな亡くなってますけども、中村真一郎(1918〜1997)や加藤周一(1919〜2008)やら、そういう仏文系の若い作家たちが出入りをたくさんしている。それでみんななんやかんややっているというのは、いろいろ見聞きしていたわけですけど。すぐ横に野間宏(1915〜1991)っていうのが住んでいたの。それで実は僕はその時に、駒場の寮にいたころ、美研にいた時に、そこにもう一人妙なやつがいたんだ。ちょっと名前全部ど忘れしちゃった、思い出すとおもうんだけど、同人雑誌を作っていたんですよ。僕は物を書くつもりはないから、それのカットを穴埋めにしてね(描いていた)。そしてその同人雑誌から流行作家が、2、3人登場したんだ。

辻:何という方か覚えてらっしゃいますか。

磯崎:名前はいつか思い出します。僕はそれの穴埋めのカットを描いていたわけ。

辻:どういうものを描いていたんですか。

磯崎:それでそいつを持って野間宏のところに(行った)。これは渡辺一夫さんから、(野間宏に)用があって(お使いで行った)。その時に行っていたのは、みんなもう共産党地下に置いてある。表立って共産党の理論に基づいた小説を今頃書いていてももう先は無いから、翻訳か何かをやっていて。こういう時は歴史的にそういう人たちは、無名で翻訳をやって。翻訳をやることによって息つないできているというのが、戦争前からのみんなのやり方だったのです。野間宏に、お前も仏文出てるんだからって、渡辺さんは(野間宏に)仕事を回すから、下訳の仕事をやって、共産党の妙な政策で小説書いたりするなって言っていたんですよ。それは僕が横にいるときそういう話になって。それで何か物を届けに僕は(野間宏の所に)行かされて。その時にカットをやっている、同じ部屋にいたやつがやっている雑誌を持って行ったわけよ。それで一緒にこういうのを友人がやってますから、文学のあれですからって(野間宏に見てもらった)。それでその同人誌を野間宏に渡したら、おーって見ていて。「あなたは何をやっているんですか?」って言うから「僕はカットを描いているんですよ」って言ったわけよ。そしたら「どうして廃墟ばっかり描くの?」っていうのを野間宏から言われたの。それで「いやあ、わかんないですけど、もうこれしか描くネタが無いですから」って。ようするに僕としては、シュルレアリスムで、ダリ(Salvador Dali,1904〜1989)の時計じゃなくて、もう一人、ああいう妙な溶けた絵画を描く人がいますね。

中森:エルンスト(Max Ernst, 1891〜1976)ですか。

磯崎:エルンストじゃなくて。

中森:デ・キリコ(Giorgio de Chirico 1888〜1978)ですか。

磯崎:デ・キリコじゃなくって、もうちょっとマイナーなんだけど。アルプ(Jean Arp 1886〜1966)風のオブジェを地上に描いたりとか。これは言い換えると、野間宏はもともとブリューゲルの『暗い絵』(真善美社、1947年)という小説があるんですけど、彼の処女作品で。これはブリューゲルの絵を書いているんですけど。これが地上にボッシュ(Hieronymus Bosch, 1450〜1516)風の穴が空いていて、この中で妙な物体、人間が物体に変身していくような、こういう幻想をずーっと、彼はダンスか何かパフォーマンス見ながら、そういう幻想だけを延々と書いている、そういう小説なんですよ。これで彼は始めて出てきた人です。だから彼はそういうシュルレアリスムを持っているんだと思うんだけど、彼はどうもわかっていたらしくて。なんかまあそういうカットの皮肉を交えた批評か何かをしてくれた。僕はだからそういうことをやっていたというくらいのことですよ。その頃何をやっているかというと、(藤島)亥治郎さんの講義というのは、これは建築史とはいえども戦争前に、まあこれはみんな建築史やった人は知っているフレッチャー(Banister Flecher, 1866-1953)っていう、いわゆる様式主義の歴史をやった本があって有名な。これの挿絵をパネルにして教材用に、エジプトっていうと1枚持って来たらだいたい全部説明つくの歴史的に。それが2、30枚、海外版が印刷されたやつがあって。これが東大の教室に入っていた。これを毎日1つずつ持って来ては、それの解説をすればもう講義は終わる、歴史(の授業)は終わる、そういうやつだったわけですよ。でも面白く無いけどもしょうがないって言って。いろいろ言っているうちにうろうろしていたら、向こうのいわばセクレタリー(秘書)みたいな人に捕まって、バイトを探しているんだって。一つは藤島さんが作った建物の模型を作ってくれと。これはNHKが、テレビというものができて試験放送をやると(注:NHKテレビジョン実験放送番組「便利な住居」、1952年12月2日、午後2時45分〜午後3時)。それで教育番組の中で現代住宅というものを解説する番組を藤島さんが受けているんだけど。この時にこの先生の書いた木造住宅というものが、テレビだからはじめて使いたいと。それでどこにもテレビセットなんて無い時代ですから。それでバイトだと。それは結構だと。屋根を取って、中の間取りが全部見えるというのをこうやって、僕はこれくらいの模型をバルサで作ったわけですよ、屋根付きで。それでテレビの前で、カメラの前で藤島さんが(解説を)やったんですよ。これも知らないんだ僕は。運び込むまでで。その揚げ句にですね、いくらかNHKから模型代をこれっていってもらって。僕はだからそれはアルバイトだったわけです。それをやったような。それでその時に僕は失敗して、どうも藤島さんがやったプラン(平面)がもたもたしてるので、もうちょっとここはこの壁はこちらに移してすっきりしておきましたってやったら、「馬鹿野郎」って怒られて(笑)。「説明できなくなったじゃないか」って言われて。ストーリーが合わなくなっちゃうわけよ。それで怒られたけどしょうがなかった(笑)。まあそういうのがあって。それであそこについて来いっていうので、中山道の調査に僕は連れて行かれたんですよ。中山道のどこか覚えてないんだ。それでどうもその時にいろいろ見ている。どうもおかしなお寺に泊まったんだなあ。それでお寺に泊まってね、そこの坊主といろんな話を、もうほとんど猥談だけどしているわけですよ、東大教授とその坊主が。どうもわかんないんだけど、京都あたりでお寺の修行やっている頃の知り合いか何かが、あそこらへんの中山道の大きなお寺の格が上がった坊主になって。それで京都の時は相当遊んだとかって、こればっかりやっちゃ飲んでるわけですね。それでこっちは後ろに、学生ですから控えてひたすら聞いているという、こういうのがある。その時の和尚さんが、まだデザイン・サーヴェイなんていうレベルじゃないんですよ。ともかく言っちゃなんか実測図みたいなのを作ってあげたんですよ。そして面白くないわけ、こちらもついて行っても。それでしょうがないから、ああいうところの中山道なんかの宿はですね、大概上にちょっとした旅館みたいなのが多いから、お茶室風の造りになっているんですよ。それでそこにようするに趣味の悪い丸窓とか、僕はそういうのばっかりディテールを採集(記録)して。うわ、これいらねえって(笑)。町屋の型(類型)を研究しているのに、こんなのいくらやったってしょうがないとか何とか言って怒られて。それで「もう一回で結構」っていって逃げたのが、その中山道の話。

辻:それがはじめての都市の調査なのでしょうか。

磯崎:僕としてはそうですね。

辻:それでは本日はこのあたりで。今日はありがとうございました。