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和泉達オーラル・ヒストリー 2014年5月24日

ルノアール新橋汐留口前店にて
インタヴュアー:河合大介、渡辺くらら、宮田有香
書き起こし:渡辺くらら
公開日:2014年12月31日
 

和泉:よろしくお願いします。

宮田:よろしくお願いします。前回は大学に入った頃までを伺いまして、いろいろその後ふとインタヴューを終わってから思い出されることとかありましたか。

和泉:いやいや。それはもうそれで。

宮田:はい。ではさっそく続きの、大学に入ってからのことを伺っていきたいと思います。入学が1960年の4月、で合っていますか。

和泉:そうですね、はい。

宮田:入ってすぐのことですごく印象的に残っていることってありますか。

和泉:今はもう残念ながら残っていないのですが、やはり、大学のキャンパスの建物ですね。木造で、文化的な価値があるものだったん(?)ですよね。入学式が奏楽堂というところ、音楽学部の方にあった。今、上野公園の方に移築されて残っているのですけれども、あれがやはり印象的っていうか、建物としても素晴らしかったですしね。あとは、美術学部の方にあった建物ですか。それも本当に木造で素晴らしかったですね。建物そのものは小さいですけれど。一学年、美術と音楽を合せて500名いるかいないかぐらいの人数ですからね。まずそれが印象的でしたね。

宮田:人数が少ないと、お互い顔見知りになってよく話をしたりしたりとかいう雰囲気はあるのですか。

和泉:それはもう。

宮田:じゃあまず入られて、どんな先生のどんな授業が。

和泉:まず、音楽学部の方はどうか知りませんけど、たぶん同じだと。美術学部の方は、午前中は実技なんです。で、午後が学科。大きく分けてそういうことなんですね。私は彫刻科ですから……。当時、油とか何か全部ですね、主任教授の名前がついた教室になってるんですね。彫刻は山本教室(山本豊市)と菊池教室(菊池一雄)というのがあって、私は山本教室という方に入ったのですけどね。それは自分で選択できるというかですね、そういうことでした。山本さんっていうのは、大船に観音様がありますよね(大船観音寺)。あれ、昔もちろんあった観音様なのですけど、非常に劣化したということで再建の時、今でもだからそのままですけれども、ちょうど59年くらいに完成したんですかね(注:1960年完成)。(その)修復に携わった教授だったのです。油なんかも小磯教室、小磯良平ですね、そういう、名前で分かれてましたね。

宮田:その山本教室にされた、選ばれた理由っていうのはあったのですか。

和泉:若干ですね、やっぱり(教師たちは)それぞれ作家ですから、みんな。その作風だとか何かとかいったもので、私は……。二つしか選択肢はないんですけどね(笑)。山本教室の方を選択したというね。

宮田:だいたい半々になるんですか。一学年彫刻コースって何人……。2、30人?

和泉:そうですね、だいたい。19名いまして、ほぼ半々。希望は聞きながら、たぶん調整をしたんだと思うんですけどね。

宮田:それはわりと、1年生で入ってすぐに振り分けられるものなのですか。

和泉:そうですね、はい。

宮田:だいたい1年生の時は、午前中の実技っていうのはどんな授業が。

和泉:ほとんどが……モデルさんがいて、裸婦像の制作ですね。

[ウェイターが来て一時中断]

和泉:だからモデルさんを置いて裸婦像なんですけど……。あ、最初はですね、一番最初は全身ではなくて、胸像だったかもわからないですね。それは裸婦ではないモデルさんがいて、ここ(胸のあたり)までですね。たぶんいきなり全身はやらなかったかな。

宮田:まずデッサンから?

和泉:もちろんそうです。デッサンからあって。

宮田:作る方も同時に始まるのですか。

和泉:そうですね。

宮田:それは、素材は粘土……。

和泉:最初は粘土です、いわゆる塑像といわれる。で、粘土で原型を作るということですね。

宮田:入った時に1年生から4年生までのカリキュラムで、全体を見渡すような機会っていうのはまずあるのですか。何年にどこまでの目標がとか……。

和泉:えーっと、どうだったかなぁ……先輩のやってる仕事を見て、「ああ、すると2年次はこんな、3年次はこんなものかな」って。4年次までどういうふうにするってのはなかったかもわからない。ただ、あったのはですね、いくつかの素材をやってきますというのはありましたね。ていうのは、基本は粘土、塑像なんですね。で、材料としては、木ですね、あとは石。で、私の作った(コッペパン)、あのテラコッタで作って、テラコッタで焼くというふうな。当時はそんなものでしたね。今はいろんな素材があるので、もうちょっと多岐にわたってるというか、素材が広がってるんじゃないかなと思いますけどね。

宮田:その当時は、粘土が終わったら木をやって、木の次には石をやって、みたいに順番に進んでいくのですか。

和泉:ですけどね、えっと、とにかく粘土は基本ですから4年まで必ずあるんですよ。その中に2年次とか何かで木だとか石が入ってくるというふうなことですね。ベースはだからずっと粘土がありました。で、粘土っていうのは、木とか石とかは作ってそのまま保存も含めて置けるわけですけれど、粘土は固まって割れますから。最後はブロンズなんですけど学生時代そんなことできませんから、石膏の型を取っていわゆる保存(可能な)状態にしておくというような。だから石膏を取る手法とかそういったことも同時にやるわけですね。

宮田:作りながら合評みたいなことって頻繁にあるのですか。先生からの指導はどういうふうに。

和泉:ありますよ、それは。

宮田:作ってる横から指導が入るのですか。

和泉:そうでうすね、うん。

宮田:初めて作られたものって覚えておられますか。

和泉:えっとね、たぶん裸婦の胸像かなと思いますけどね。

宮田:指導を受けた時に、「自分は違うのに」とか、反発だったり素直に受け止めたりとか、そういうのってどんな感じだったですか。

和泉:最初の段階はこちらが当然ながらテクニックなど持ってないわけですから、指摘するものについてはね、それは「なるほど」ということはありましたよね。だけども、要は、主任教授っていうのは一週間のうちでもあまり来ないです。そこには副手とか助手とかいうのが、研究室の人たちが来て、それはもう毎日来てですね、いろいろ「ああでもないこうでもない」というふうなことは言うわけですね。だから「バランスが悪い」とか言われればそれはもっともな話でね(笑)、「なるほど」というふうに。

宮田:じゃあわりと、自分で作ってる時間帯は静かに没頭して作りながら、その横でいろんな人と会話しながら作るっていう雰囲気だったんですか。

和泉:そうですね。それはありますね。

宮田:午後の授業の学科っていうのは、どんな授業が。

和泉:語学があるでしょ、それは選択で英語だとかフランス語だとかイタリア語だとか何かありましたね。それで、美術史みたいなことがありまして。で、美術解剖学っていうのがある。これは面白かったですよ。あと、体育があるんですよ、体育(笑)。だけども、そんなものですかね、科目としてはですね。

宮田:解剖学は当時、三木(成夫)先生とか?

和泉:えっとね、中尾(喜保)先生。

宮田:そういうところは、実際に何かを解剖したりも……。

和泉:解剖はしませんけども、東大にですね、献体した(された)人体がアルコール漬け。そこには見に行きました。そういう機会も作ってくれるということですね。それも、その後いろんな、私に影響を与えるんですけれども、やっぱりショックというかね。生身の人間がああいうふうに本当に、なんて言うのでしょう、木のようにですね、ごろんとアルコールの中に漬かっているんですよ。

宮田:それは何体か。

和泉:何体か、もちろん。たぶん地下室みたいなところだったと思うんですけど、そこにプールみたいなのがあって……あるんですよ(笑)。

宮田:プールに何人かがこう。

和泉:そうですね、うん。聞いたら、身元不明者だとかですね、そういう人たちがそこに、研究者からしてみたら貴重な資料として来るらしいですけどね。まあそのアルコールとそのなんとも言えないにおいというか。それで、昼飯は東大のですね、食堂で食べようってことになったのですけど、みんなね、なんか(笑)。

宮田:食べる気にはならない。

和泉:ええ。東大のごはん、麦飯だったんですよ。

宮田:それは何年生の時ですか。

和泉:えーとですね、何年だったかなあ。1年……2年だったかなあ。というのはですね、1年生の時、後で出ますけども、60年安保で、キャンパスもほとんど授業にならなかったような時間帯っていうのがあったん(の)ですね。で、あの時の、すごいなあって思ったのは、国会へのデモ、デモですね。一般の市民だとかサラリーマンの人たちも参加したし、学校においては教諭たちも学内の集会だとか何かに参加してですね。だから結構ですね、入学した年度はそういう意味では結構授業なんか飛んでっちゃいましたね。

河合:そのデモとかには参加されたのですか。

和泉:ええ、しました、もちろん。

河合:国会に……。

和泉:国会に行きました。もちろん、はい。

宮田:それは何か、みんなで誘い合って……。どういうふうに情報が入ってくるものだったのですか。学内にいて、「今日はデモだ」っていう感じ?

和泉:そうですね。

宮田:みんなで移動しながら行くんですか。

和泉:そうですね。学校によって後に70年(安保)ってのがあって、過激だとか何かなるんですけども。藝大にはさほど、その(笑)、過激さはなかったですけどね。当時大学の、代表的なのはやっぱり日大、法政、東大、ですね。そのあたりがいわゆる先頭に立って、学生の中でのリーダー格みたいなところをやってましたね。

河合:和泉さん自身はそういう当時の安保運動とかに対してどういうお考えだったのですか。

和泉:私は、当然だというふうに。やっぱり、反対という意味でね。それは思ってましたね。

河合:結構積極的にそういう運動に参加されてた感じですか。

和泉:積極的かどうかはわからないです。行動として積極的かどうかはわかりませんけども、その考えについては当然ながらそれは、反対だという。そういう面では、しばらく、しばらくというか今でもそうかもわかりませんけども、それはずっとあんまりブレないで残ってるのかなという感じは、私自身ずっとこう振り返ってみて思いますけどね。

宮田:その授業が成り立たなかった時期も、制作とかデッサンとかっていうのは続けられていたのですか。

和泉:ええ、それはやりましたね。

宮田:皆さん周りもそういう感じ……。

和泉:いや、周りはどうかはわからないですけども、特に当時思ってたのはやはり、デッサンというのは少なくとも物を作る上では重要だと位置づけはしてましたけどね。後で関連するかもわかりませんけど、ピカソなんかのデッサンを見てると、やっぱりね、これは本当に素晴らしいデッサンですね。

宮田:ピカソやそういう作家たちのデッサンを見る機会、文献とかっていうのは、よく大学の図書館とかを利用されたり……。

和泉:若干ありましたけど、そのあたりの美術雑誌なり本なりは結構自分で当時古本屋とか神田のそういう専門店とか行って、そこの分は結構買ったりしてましたね。

宮田:その当時よく見てた作家さんっていますか。ピカソ以外……。

和泉:やはり彫刻ということで、当時ですね、イタリアの彫刻が結構エネルギー持ってたというか、あったんですよね。あとはイギリスのヘンリー・ムーア(Henry Moore)とかですね、イタリアではマリノ・マリーニ(Marino Marini)だとかエミリオ・グレコ(Emilio Greco)だとかいろいろ当時いわゆる具象派に入るんでしょうけれどね、やはりそれなりの力というか、私にとっては……というようなあれですね。イタリアの場合はそういう、なんていうか、造形美というか、力強い造形美みたいなもんですよね。対極的にジャコメッティ(アルベルト・ジャコメッティ、Alberto Giacometti)という作家がいまして、それはそれでまたやはり素晴らしい感じは思っていましたね。

宮田:ご自分の中で具象的な方に行くのか抽象的な方に行くのかっていうのを、何か、表現を選んでいかなきゃいけないというようなことを考える機会ってありましたか。

和泉:ありましたね、それは。

宮田:それはだいたいいつぐらい……。

和泉:ただそれはね、今言ったのは具象的なあれで。絵画の方からすれば私、ミロ(ジョアン・ミロ、Joan Miró )だとかですね、カンディンスキー(ワシリー・カンディンスキー、Wassily Kandinsky)だとかですね、あのあたりが好きだったですね。うん。だから後であんまり彫刻作らなくなって、学校の中に版画部ってのがあったのですけどそこの方に結構通うようになって。その版画、銅版画ですけどね。腐食させるってのが極めて、私はその時表現方法として合ってたかなと思って。その時のテーマだとかそういったものは比較的、抽象的なようなものを作ってた感じが。

宮田:ぜひそのあたりのお話をもうちょっと詳しく伺えればと思うのですけど、大学入ってから、授業があんまり成り立たなくなってきたのっていうのは、60年の、もう、春過ぎて夏というぐらいですか。

和泉:いや、そうでもないです。60年自体はあまり授業自体がなかったですけど、しばらくはやはり、基礎という意味でもですね、それは結構粘土なり何か、それはやりましたよね。

宮田:だんだん彫刻を作らなくなっていく時期っていうのは、どういう、どのあたりだったか。

和泉:えーっと、2年次くらいですかね。やっぱりそういうものをだんだん、少しこう疑問を持ったりですね。で、またあの……『みづゑ』だとかそういうところからの情報ですけど、アメリカの絵画だとか、そのイタリアの彫刻だとか、いろいろ海外の情報だとかあるんですけども、中でも一番、今でもそれは思っているのですけども、アメリカの中でポップアートだとかいろいろこう流れがあったでしょうけども、やはり一番ショックを受けたのは、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)ですね。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschnberg)だとか、何かそういう(作家も)いるんですけど、そういったものについてはさほどないですけども、やはりジャスパー・ジョーンズの作品の在り方ですね。アメリカ国という中にあって、アメリカの星条旗をずっとテーマにして描いているのですけども、私にとっては極めてこう、抑制されたようなんですね、表現の仕方だとか。何かそういうことにすごく、彼の哲学とか何かそういったものにですね、感銘を受けたというのはありますね。

河合:自分の思想を表現するようなものではなくて、ジャスパー・ジョーンズのようにこう、旗とかターゲットのような対象を描くっていうような方法に共感を受けたという。

和泉:そうですね。そういう、テーマの取り方とかですね。だから、立体(彫刻)はあまり作らなくなってですね……。入学した当時私はすぐ大学の近くに、谷中に下宿してたのですよ。それは下宿ですからご飯付きだったんですけどね。で、そうですね、2年次になったぐらいからいろんな、思いを持つようになって。であれば下宿から出て大学の寮があったのですね、上石神井、今でもあると思いますけど、そこに移って。で、その大学の寮で少しやったのは、それは、ペンキでですね、交通標識だとか何かそういったものを、平面的な表現をした時代が若干あったですね。だからもう試行錯誤の連続ですけどね、もちろん、それは(笑)(注:石神井寮は2014年3月に閉寮)。

宮田:アメリカの同時代の作家とか作品の情報っていうのは、大学で聞くよりも、雑誌だとか……。

和泉:大学でも『みづゑ』とかそのくらいまでは、『美術手帖』とか。

宮田:授業とかで出てくるわけではなく、その、美術史の授業とかで何か名前が出てくるわけではなく……。

和泉:いやいや、授業は全然そんなの出てこないです(笑)。

宮田:ご自分の関心から。

和泉:そうです。

宮田:雑誌から情報を得てたんですね。

河合:まわりの学生たちは、藝大の当時の学生たちは、傾向としてはやっぱりそういうアメリカの現代のものに関心があったのか、それとも同時代の日本の画家たちの方に関心があるのかっていうのは?

和泉:いや、まったくたぶん関心なかったと思いますよ。

河合:どちらに。

和泉:まわりの……、やはりアカデミックな大学の中で……その後にですね、その後みんなそれぞれ現在どんな作品を作っているのか、作家活動続けている人たちが(いるか)、知りませんけどもね。その後4年次を終えて、大学院に行ってるわけですよ。私からすれば4年も嫌だし(笑)。嫌ですね、それは。だから何かっていうとストレートに、アカデミックな、それがセンターラインみたいな形でみんな思ってるのですね。

河合:団体に所属して、公募で出してっていう人たちが多かったですか。

和泉:そうそうそう。そうなんです、そうなんですね。今でもたぶんそうだろうと思いますね。

渡辺:じゃあ、共感し合えるお友達っていうのはいなかったのですか、周りには。

和泉:えっと、いなかったですね。一人ですね、たまたま大学の寮に入って同室になって、一年後に日本画に一人、友達が。同寮、同じ部屋ですからできたんです。彼は比較的そういうことをやっていたんですけどね。周りから見ればたぶん、その後みんながどうなったか十分は情報を知らないですけども、いないですよね。油(画)の、中西夏之さんだとか(高松)次郎さんの時代はああいうふうに何人かですね、あの年代をこう見ると、いるんですね。工藤(哲巳)だとかですね、結構いるんですけども。だからあのあたりはばっと、あの年代はそういうのがですね、お互い刺激し合ったのかなっていう感じがしますけどね。私の同級でっていうのはいないですね。

宮田:逆にその中西さんの影響というか、そういう話題が聞こえて来たりとかっていうのもなかったですか。

和泉:当時は全然知りませんし、それは。あと、今思えば……。だけどやっぱり、櫃田伸也とは結構仲良くしてたんですよ。それで(個展の時)内科画廊にも来てくれましたし。だけども、作風としてはそうでもないですよね。だけども、関心は持っていたようですね。

宮田:彫刻科の先生は、1年生の時に選んだらずっとその先生の教室についていく……。

和泉:そうですね。それは、4年次まで。

宮田:2年生ぐらいから関心が変わっていって、アメリカのジャスパーとかの影響を考えながら、版画に、版画部に行こうっていうきっかけはあったんですか。

和泉:いや、版画部っていうのは、あくまでもあれですから。

宮田:サークル。

和泉:そうです、サークル的な。

宮田:じゃあ版画コースというのはなかった、ですよね。

和泉:ない。ええ。

宮田:版画部はもう結構盛んに活動してたのですか、サークルがいくつかある中で。

和泉:いやだって、そこにいるメンバーって2、3人ですよ(笑)。

宮田:2、3人(笑)。

和泉:駒井さんって知ってる?

宮田:駒井哲郎さんですか。

和泉:あの人が、トップにいた人なのですよ。

宮田:その頃版画を教えてくれる先生っていうのはいなかった……?自分たちで。

和泉:いないですね。だからそこに行ってですね、誰かがいれば捕まえて。あとは本だとか若干ですね、あるじゃないですか。寄稿集だとか何か。そういったものを。駒井さんの版画の基礎知識みたいなのがあって、それを先輩から譲ってもらったりとかですね。

宮田:じゃあ結構実験みたいな感じで。実験を繰り返すという感じですか。どれくらいの腐食時間で何を使ってっていうのは。一日の授業というか、学校で過ごす中で版画部の時間の割合っていうのはどれくらいだったんですか。

和泉:どんどん増えていきましたね。

宮田:ほとんど版画部に入り浸っているぐらいの。

和泉:そうですね。

宮田:その頃、版画の描かれているモチーフというか、どんなものを描かれていたのですか。

和泉:だから比較的抽象的っていうか、イメージを、カンディンスキーだとかそういった感じのようなものをいろいろやったりしてましたね。当然ながらお金がないから、貧乏ですからね、できるだけ制作費を使わない(笑)。銅版画は自分で買わざるを得ないですけれども、あそこ(藝大)にすごい石版がですね(あって)、大学にあるものを使えるんですよ。原版は作るんですけども、それを全部一度削ぎ落とせばですね、どんどん、本当に立派な大理石のですね、石版があるんですよ。だからそういうものは使えるから(笑)。

宮田:じゃあ、リト(グラフ)も銅版もされるし、木版的なものも?

和泉:木版はやらなかった。木版は年賀状くらい(笑)。やはりその、彫ったものを腐食させるとか何かそういったものがちょっとね、面白かったですね。

宮田:彫刻で作るその石、彫刻の時に授業で触る石の感じと、その(版画の)線を彫ってという、また違う表現になっていくと思うんですけど、心が惹かれて行く感じというのがあったんですか。石に対しての取り組む、こう、石を削っていくのと、もうちょっと違う……。

和泉:それは、違いますよね、うん。……何なんでしょうね、その分岐点なり、そちらを選択したっていうのは。あんまり明快なものは今思うとないのかもわかりませんけどね。

宮田:同じ素材なのに面白いですね、そうやってこう選んでいくっていうのは。

和泉:うん。

宮田:学外の話になっていきますが、この頃展覧会などは、東京都美館(東京都美術館)だったり、西美(国立西洋美術館)だったり、東博(東京国立博物館)だったりが近くにあったと思うんですけど、見に行く機会ってわりとあったのですか。

和泉:あのですね、一番行ったのがやはり国立博物館でですね。(上野)動物園も博物館も、あそこ(藝大)の学生は無料で入らせてくれるのですよ。だから動物園にも行きました(笑)。博物館は、特別展というより常設展の方がなかなか面白くてですね、さほど物は買ってないですけれども、同じものを何度も見るみたいなことはしていましたね。

河合:お気に入りの作品とかコーナーとかは。

和泉:いや別にですね、そういう特別ではなかったけど……。なんとなくずーっともう。

河合:もう彫刻から、陶芸、工芸からですか。

和泉:そういう意味でやっぱり仏像は、魅力あるものだったですね、それはね。

宮田:アメリカの美術も見ながらも、同時に日本の古いものも平等に見るっていう。

和泉:それはそうですね。ええ。

宮田:画廊めぐりなどはされていましたか。

和泉:ええ、ぼちぼちしてましたね。やはり東京画廊だとか南画廊だとか村松(画廊)だとか夢土画廊だとか、そのあたりは行ってましたね。

宮田:それはやっぱり雑誌を見て、誰がいつ何をやってという情報を?

和泉:そうですね、『美術手帖』なんかで見れば一応情報が出てますからね。

宮田:それは、周りの人がどんな作品を作っているのか見に行くという意味で関心があって見に行ったという感じですか。それとも自分が何か発表したいなという気持ちがあって。

和泉:いや、当時はまだ。あそこ(藝大)は在学中は外での発表はだめなんですよ。

宮田:あ、そうなんですか。知らなかった。

和泉:ええ。美術はまったく。音楽の方はどうかわからないですけどね、音楽はそうでもないみたい。美術はですね、そういう団体展だとか賞は全部、それはNOですね。

宮田:団体公募展も見に行く機会ってありましたか。

和泉:公募展ですね。近いから最初の頃は何回か見に行ったことがありますけどね。

宮田:その山本先生はどんな会に所属されてたのですか。

和泉:えっと、院展ですね。ええ。日展から別れて院展というのが、今でもあるのですかね。あります?

宮田:ありますね。はい。

和泉:そこに属してましたね。もう一人の菊池教授っていうのは新制作という団体展があってそこに出してて。みんな学生たちはほとんどそういう意味でですね、その後もね、そこにずっとこう流れていくんですよ。だから師弟関係みたいなことがずっとできていくんですね。それは団体展でもそうですし、大学の資料もらいましたけどね(注:インタヴュー前にお渡しした東京藝術大学の当時の教授リスト)、これなんかも、副手だとか助手だとか、その後何人かが教授とかなってるんですけど、そういう、ずっと脈々と師弟関係が続くようなことがあるのですね。

宮田:和泉さんの場合は早い時期から、ちょっとそういうのは違うなっていうのを。

和泉:そうですね、あまり関心がなかったですね。

河合:ちょっと話戻りますけど、画廊を回っている時に、どういう作家、どういう作品を作っている作家のものを見に行こうと思って選んでいたのか、っていうのはありますか。それとも……。

和泉:作ろうとは別に思ってないんですけども、いろいろ刺激を受けた人たちっていうのはもちろんたくさんいますね。

河合:画廊を回る時は、作家で選ぶというよりは、特定の画廊をそれぞれの会期に一通り回るという感じですか。

和泉:一通りは回らないですよ。やっぱり、この画廊で誰の個展をやってるかみたいなことですよね。ただ先程言ったようなところは、当時の私からすればみんな関心がある人たちを、作家を、画廊自体がやっぱり企画展で持ってきてましたからね。

宮田:回りながらいつかは自分も個展をしたいなと思うことってありましたか。

和泉:それはありましたけどね。

宮田:大学の3年生くらいになっての大きな変化っていうのは。

和泉:3年次の時、(大学を)辞めるきっかけにもなった例の裸婦像の課題が出てですね、材料はテラコッタでやるということで、私はコッペパンを作って。「これだったら課題じゃないから単位があげられない」ということで。「どうしてももう一回作らないか」って言われて。「いや、これが与えられた課題です」というような話で、主任教授とね、話して。それで、「じゃあ、作り直せないのだったらこれを《裸婦像》というタイトルでコッペパンを(提出)しなさい。それだったらいいよ」っていう。だけど「これはコッペパンですから」という話で(笑)。

渡辺:タイトルも《コッペパン》だったんですか。

和泉:そう、もちろん《コッペパン》ですよ。

宮田:それは3年生のいつぐらい……。

和泉:秋だったと思いますね。

宮田:裸婦像は、一年間の課題として与えられるものですか。

和泉:そうです、はい。

宮田:じゃあ、作り始めるのはデッサンとかから始めて作っていく途中、始めの頃から裸婦像に対しての、その課題の在り方みたいなのに疑問を持っておられたのですか。その、どうコッペパンが登場するのか(笑)?

河合:なんでコッペパンであったのか(笑)。

和泉:いや、コッペパンはね。デッサンがほとんど、まあ鉛筆もありますけども、木炭デッサンなんですね。で、木炭デッサンを修正したり消すのにコッペパン使うんですよ。だから身近に、ぽろぽろ周りに落ちてる。それで、だけど私にとってはあの形がなんとも、こう、なんでしょう、結構エロチックでありですね、非常にいい造形(笑)をしてるんではないかなというふうなことであり。しかもテラコッタですからそんな大きいものはできないんですよ。釜で焼かなければいけないので。で、19人いるわけですから(作品は)だいたいどのくらいの、最大このくらいの大きさだよっていうふうな、そこは(教授が)言うんですね。(コッペパンは)ちょうどそれ合うわけですよ(笑)。

宮田:コッペパンくらいの大きさだったんですね(笑)。

和泉:ええ。そこはかなりの条件に適合するわけです。

宮田:周りでは裸婦像を作られているけど、「和泉はコッペパン作っているけど、アイツ大丈夫か?」みたいな雰囲気はあったのですか。

和泉:そりゃあったでしょうね。

河合:(笑)。

宮田:それは、特に何か聞かれることもなく?「何やってるんだ」とか。

和泉:いやいや、まあ、それは冗談話でいろいろやり取りはしましたよ。

宮田:副手の方とか、たまに主任の先生からも、「何やってるんだ」っていう。

和泉:それはたぶんあったと思います。言われたと思います。

宮田:強く言われる感じでもなく……。どんな感じだったですか。

和泉:そういうのは普通の大学ではですね、よくは知りませんけども、たぶん違って。一応皆さん作家ですから、そういう「これはしなきゃ駄目だ」みたいなことは、あまり雰囲気としては言わないんじゃないかと。たぶんなかったな。だけど「おかしいよ」とかね、そういうことはあったと思いますよ。どう見ても(笑)。

渡辺:だってみんな同じ時間帯に制作をしているわけでしょう?

和泉:もちろんそうですよ。

渡辺:そしたら一人だけコッペパンを描くなり作るなりしてる……。

和泉:いや、描く必要はないですよ。

渡辺:デッサンとかは。

和泉:物があるわけですから。私は、石膏で一度型を作るわけですね。で、中のパンをですね、石膏をずっとかぶせて、こう、どちらか切り分けるわけです。で、パカっと開けて、コッペパンを出して。テラコッタでですね、いわゆる陶器の土みたいなものですね、それでもう一度押し込んで、抜くと、できるわけですね。

河合:じゃあ実物からもう型を取って作った……。

和泉:みんなそうですよ。裸婦像であっても、みんな自分で粘土で作るでしょ。

河合:粘土で作る……。コッペパンは、粘土でコッペパンを作って?

和泉:いや、それはしません。それは全然違うんですよ、私の考えからすれば。

渡辺:それってだってすごく……すごく変ですよね(笑)、周りからしたらね。

宮田:その合評の時に、「和泉これは何だ」という感じで、「いや、コッペパンです」というやり取りが……。

和泉:そうですね。

宮田:それで、その「裸婦像がおかしい」と、「その課題がおかしいと思うんです」とかっていう話を特にするわけでもなく……?

和泉:いや、それはしないです。別に裸婦像が間違っているわけじゃないんですよ。私の方が間違っているんだから(笑)。それをあえて「そんなことはおかしい」っていうふうな、それは一切しないですね。そこはたぶん世界が違うだろうからというふうな(笑)。

宮田:そこはご自分で割り切って……。

和泉:そこは論争してもですね、どうしようもないし。相手の方が道理は通ってるわけですから(笑)。

宮田:もうわかっていたんですね。その、コッペパンが通ると思っていましたか。《裸婦像》っていうふうに名付けたら通してやるって言われた時に、やっぱり「えっ?」って思うと思うんですけど。

和泉:うん、それでも、妥協すればいいんでしょうけども。だけどもそれは最初に言ったね、粘土でコッペパンを作るのと、コッペパンから直接型を抜く、そこの違いで。じゃあコッペパン、これタイトルを《裸婦像》にすれば単位をあげるよというのとですね、「わかりました、じゃあそうしましょう」っていうのと、「いや、これはコッペパンです」というのとは、違うんですよね。それは(笑)。

河合:それはもうコッペパンを作ろうと思った段階で、ある程度そういう結果は覚悟していたというか……。

和泉:覚悟、別にそれ(コッペパン)を拒否するとも思わなかったんですけどね。そうそう。別に、教授がOKする……。そのあたりは全然、どうだろうみたいなことは思わなかったですね。

宮田:そのコッペパンで、「いや、コッペパンです」というふうに言って辞められるんですか、大学を。その秋に辞めた……?

和泉:いや、辞めたのは……作ったのは秋で、その年を越して、3年次の最後の時、春ですね、もう。

宮田:62年の。

和泉:そうですね……。

宮田:60年に(大学に)入るので、63年の……。

和泉:年度で言えば。

宮田:62年度末ですけど……。

和泉:末ですね。

宮田:63年の春に辞める。

河合:大学を辞めることに関して、ご家族とかは特に?

和泉:それは、最初は「うん?」とか言いましたけど。ただ、それは私の母も父もですね、いろいろな意味の、小さい時からのことも含めてですね……。うん、最初はびっくりもちろんしましたけどね。ただ「絶対やれ」みたいなことも逆にあんまり強くは言わなかったですね。戸惑ったことは間違いないと思いますけどね。
 ちょっと違うかもわかりませんけど、私ずっと左利きなんですけどね。特に母親なんでしょうけども……、まだ当時は左利きっていうのは矯正をしてた時代なんですね。ただ、字だけは左で書くと鏡文字でどうしても読める字にならないということで、字だけは直させたらしいのですけども、ほかの、ご飯を食べるだとか刃物を使うとか全部(矯正を)やらなかった(という)ことがある。それは本当に私はずっと、今でも感謝してますね。だからそういうあまり矯正しないというふうなことが、その時(大学中退)のジャッジもあったのかなあというふうに思ってるのですけどね。で、左利きは結構ですね、こう現在に至るまで何か物を選択する時、左利きというのがいろんなあれを規定するようなことも多々あったかなというふうに、今なんとなく思っているんですね。だからそういう意味ですごく私は、あまり直してくれなかったことに感謝してますよ。一般的によく器用だとかなんかは言われますけどね。当時は、左利きはたぶん矯正をさせられた時代じゃなかったかなと思いますけどね。

宮田:藝大時代の……。ちょっと話戻ってしまうかもしれないんですけど、作られてるものとかデッサンとかっていうのをお父様とかに見てもらう、指導っていうわけではなくて、お父さんが見る機会はあったのですか。

和泉:ええ、写真とかは何か当時のものがですね、夏休みとか帰るとそれは見せてましたね。

渡辺:コッペパンも見せられたんですか。

和泉:コッペパンはどうだったっけなあ。最後の頃は父も母も横浜で同居しましたから、たぶん知ってるはず……。どっかで見せたかもわからないですね。

宮田:じゃあ大学の3年生くらいの時にはもうご両親が横浜に出てこられて。

和泉:いや、もっと後です、それは。

宮田:大学を辞めるってなると、じゃあどうしていこうということを考えられると思うのですけれど、先あたってのことというか、どうお考えだったですか。

和泉:まず一つは、何かを自分なりに発表する場を作りたいというのがあって。経済的にはアルバイトをしなきゃいけないということで。(大学を)辞める前後から、(赤瀬川)原平さんと出会うんですね。で、原平さんがいろんな看板だとか何かですね、あの人もいわゆる定職に就いたことがない人ですから(笑)、そういうアルバイト的なことで生活をして。それでそこにアシスタントとして連れてってもらったとか、そういうことでありましたね。あとは、これは当時、日生劇場がちょうどできる頃だったんです(1963年9月竣工、10月開場)。それはそんな長期のものではないんですけれど、たまたま大学の時の同級生が声をかけてくれて、あそこの一階のフロアのところにモザイク張りが今でも残ってると思うんですけれども、ああいうの(を)藝大の生徒がアルバイトでずっと行ってやるんですね。だからそういうところにも「来いよ」みたいな声をかけてもらって、そういうことでアルバイトなんかをしばらくの間してましたね。

宮田:赤瀬川さんと出会うきっかけっていうのは何だったのですか。

和泉:一番最初はですね、夢土画廊に荒川修作の作品があったんですね。行って、あれについて私は当時衝撃っていうか、受けたんですけども。そういう人たちが、当時ネオダダとか何かあってですね、もうその時は荒川修作さんはニューヨークに行ってたんですね。それで、ネオダダの人で夢土画廊なんかでいろいろ情報を聞いたらですね、えっとー……あれ、あの人、名前忘れて、私が(「ハイレッド・センター 「直接行動」の軌跡展」[注:以下HRC展と表記し「図録」はこの展覧会の図録を指す]図録に)書いた……。

河合:平岡さん。

和泉:平岡弘子さん、うん。(平岡さん)が、まだいるっていう。それで聞きましたら、当時銀座の喫茶店ですね、平岡さんの作品(展)、喫茶店の中でやってるっていう。今までそういう場所でもたぶんなかったんだろうなと、見に行って、それで何らかの形でそこの喫茶店で平岡さんと会う機会があったのですね。すると平岡さんももう明日明後日ぐらいにはニューヨークに行くっていうふうな話で、「じゃあ私の……」あの人も阿佐ヶ谷にいたんですかね、「近くに原平さんがいるのでどう?」みたいな話で。そこから原平さんと出会うようになったんですね。

宮田:その当時ネオダダは盛んに活動を目にする機会が多かったですか?

和泉:いや、私はネオダダ自体あまり関心はなかったですね。後であくまでも情報としていろいろ知ったということで。

渡辺:いつになるんですかね、赤瀬川さんを紹介してもらってお会いした時期っていうのは。

和泉:年代?年代は……。

河合:まだ大学を辞める前っていうことですか。

渡辺:在学中?

和泉:6……うん、その前後とたぶんオーバーラップしてると思いますね。

宮田:63年?

和泉:62年、の、前後あたりですかね。そういうのちょっとあまり私よく覚えてないんで。

宮田:大丈夫です。アルバイトをしながら、いろんな作家さんたちと会う機会が増えていく、情報交換をしながら、っていう感じですかね。63年に大学を辞めてから、発表したいという気持ちはどこで決断というか、「発表しよう」というふうに、何かきっかけがありましたか。

和泉:それは、(大学を)辞めようが、ものづくりみたいなことは当然したいという欲は持ってたわけですから。何らかの形でできないかなみたいなことはずっと思ってましたね。

宮田:その当時阿佐ヶ谷に住まわれていて、大学を辞めてからも阿佐ヶ谷にずっとお住まいだったのですか。

和泉:いや、まず最初に入学してすぐですね、谷中にしばらく下宿に行きましたね。それで2年になった時かな、大学の寮に、上石神井に行きまして。で、辞めたから当然そこは出なきゃいけないということで、それで次が目黒です。

宮田:目黒。はい。目黒(個展案内状を見ながら)。

和泉:あ、これですね。そこで、これはアパートですけども、いました。

宮田:何か目黒にした理由はあったんですか?

和泉:えっとね、大学の同級生一人目黒の人がいたの(ん?)ですよ。それで、すぐそういうアパートにしろ何しろ探すにも、私はあまり情報を持っていないので、その平山という同級生が、彼が目黒でしたんで、「じゃその近くにちょっとあたってみるわ」ということで探してくれたんですね。

宮田:そういう周りのお友達は大学を辞める時に引き止めたり、「なんで辞めるんだよ」とかいう感じの雰囲気ってありましたか。

和泉:それはない、あまりなかったですね。

宮田:みんな我が道を行く?

和泉:そう、みんなそういう連中ですよ(笑)。

河合:当時中退するのはそんなに珍しくはなかったですか?

和泉:と思いますよ。もちろん多くはないけど(笑)、多くはないですけど。

渡辺:大学を辞められて「これからどうしよう」っていうのは、不安感ですか、それとも「やってやるぞ!」みたいな感じですか。

和泉:両方ありますね、それはね。もちろん不安感もあるし、だからその不安が「やってやる」みたいなところも、当然それはあるんですよ。両方並行して走ってるんですよね。

宮田:63年の7月に内科画廊で初めての個展を開かれますが、わりとこう案内状も凝ってると思うんですけど、いつ内科画廊でやろうってことが決まったんですか。

和泉:だからまず原平さんと会うじゃないですか。するとその原平さんが、(中西)夏之さんだとか(高松)次郎さんだとか、ああいうふうなハイレッド・センターだとか、その前のいろんな、それとは違ったまた、新宿での展覧会だとか……。

宮田:(新宿)第一画廊。

和泉:そういう人たちが、仲間っていうか、がいたんですよね。で、私も原平さんといろいろ会ってそういう展覧会会場に行ったり、するといろんな人紹介してくれたりですね、それは幅がだんだん広がっていくわけですね。で、夏之さんと会って、それで夏之さんと宮田(國男)さんの関係で。内科画廊はだから、夏之さんがその宮田さんにですね、あそこの内科(診療所)を閉じるにあったって、「じゃ次は何する?」ということで、たぶん、じゃあ画廊という話になったんだと思うんですけれども。そのあたりに私がたまたま出会うわけですね。私もだからどこか発表する機会があればみたいなことは思ってましたから、それがどうして最初に私になったかはよくわからない(笑)。それはね、わからないんですけども。

宮田:その7月の前に、内科診療所から画廊に変わる時期っていうのがあったんですけど、その時期にもうすでに中西さんたちと集まる機会っていうのは。

和泉:あそこ(新橋駅西口前のビル3階)に上がって、まだですね、医者の看板が残ってましたから、当時。そのあたりからだから出会ってるわけです。

渡辺:そういう人たちと出会われるのはかなり世界がこう、大学までとはかなり変わりますよね。

和泉:え、何が変わるの?

渡辺:その、知っている作風というか。ネオダダのこととかもご存知なかったんでしょう、それまであまり?

和泉:うん、ネオダダは知りませんね。

渡辺:それから赤瀬川さんに出会って、「ああ、今こういうことをやってる人たちがいるんだ」っていうのが、こう、びっくりしたってことは。

和泉:うん、それはだけどジャスパー・ジョーンズなり、画廊めぐりとかをしてまして、それは別にさほど。

渡辺:じゃあわりと自然に。

和泉:いや、すごい急速な、猛スピードでそこを走ってたかもわかりませんけども。だけども、どーんとこうギャップがあってというふうなことではさほどなかったですね。

渡辺:じゃあパフォーマンスのようなこともあまり、自然に受け入れてたというか。

和泉:うん、あのね、またそこはちょっと遡るんですけども。それは60年安保の時まで遡るのかな、やっぱり。当時まだ若いこともあって、精神的な部分と肉体的な部分のバランスみたいなことっていうのが必ずしも安定していない。安定しているのがいいとは言えないんですけども、少なくともそういう中で、当時、死というものについてすごく敏感になってたんですよ。樺美智子さんが亡くなったりだとかですね。
後でちょっと(資料が)ありますけども、大学時代に文芸部にちょっと入ってたのですね。それは、三河島で電車事故があってですね(1962年5月3日)、大勢の人たちがその事故によって亡くなってるんですけども。そのニュースだとか何かで流れてくることが、生きていた時はこの人はちゃんと名前があって、ところがその事故に遭ってニュースとしては「何歳の女性らしきもの」とかですね、そういう表現だとかそういったものが、何だろうと、いうふうなことを感じて。やっぱり、生きるということと死について……(鞄から取り出して)これ、文芸部の冊子なんです(『藝大ARTS』)。

宮田:へえ、すごいしっかりした冊子ですね。カラーで。

和泉:これは、もちろん(巻末に)関係者(一覧)があるんだけども、こういうところで初めて……。これ、コピーお渡ししますけれど。

宮田:ありがとうございます。

和泉:ここ、当時やはりね、私の中では生きるということと死ぬ、死ということがすごく大きな存在だったですね。当時読んでいた実存主義だとかカミュだとかですね、サルトルだとかいろいろいるんです、ニーチェだとかいるのですけども、そういったものとか。

宮田:読まれてた時期がやっぱりあるんですか。

和泉:うん、まあ、しばらくはそういうもの……、だから内科でやったものもですね、形にしないだとかっていうのは大いにこれと関係あるんですね。今終わったらもうそれはないんだとかですね、なんかそういう。作品を発表するにしても、あまり、むしろ残したくない、みたいなことですね。自分の軌跡みたいなものを。だからそういうのは結構当時強くあった感じが。それでああいった形の表現方法を取ったという感じですね。(注:内科画廊での初個展「EVENTS」は、画廊空間にある既存の物、例えば換気扇などにキャプションを付ける、という展示だった。(図録pp.86-87)

宮田:文芸部にはいつぐらいに入られたんですか。

和泉:えーっとねぇ。そこ(奥付)は何年になっている? 60……。

河合:これは62年ですね。6月発行になっています。

和泉:だから1年、もしかしたら1年の後半くらいかもわからないですね。

宮田:かなりちゃんとした冊子として作っていますね。編集会議みたいな……。

和泉:それは、まだね、だけどこれ4号くらいでしょ。まだ浅いんですけどね。で、この時……。

宮田:『美術手帖』並みの。

和泉:最初はだから、これ(文芸部からのハガキ)藝大の寮の方に来てるんですよ。だけどもう辞めていなかったから、転送して、ここのところ(目黒の下宿先)に来てますね。そういう。あまり私資料ほとんどないんだけども、たまたまあったからちょっと(持ってきた)。

宮田:結構なページ数ですね。54ページもある。

河合:文芸部には結構人はいたんですか?

和泉:人?

河合:文芸部に。

和泉:まず学生の人数が少ないから(笑)、さほどいないですよ。どうなんだろう、全部いても十人ちょっとぐらいですかね。

宮田:学生の間にこれだけの雑誌を作るって結構すごいことですね。

和泉:そうですか。

宮田:本当に普通に『美術手帖』並みの雑誌みたい。

渡辺:そもそもなぜ文芸部に入られたのですか。

和泉:やっぱり彫刻だけではなくて、いろいろなところに気にかかるものが当時たくさんあったんですよね。だからこういう活字みたいなものとかですね。

渡辺:本をあんまり読まれる雰囲気とか、前回の高校までのお話ではあんまり感じられなかったですけれども……。

和泉:読んでない、あまり。

渡辺:東京に出て大学に入って、そういう環境で何か影響されて読み出して?

和泉:いや、やっぱり自分が迷ったりしてるじゃないですか。するといろんなものを読む。だから別に隣の人ではないんだけれども、こういう文字にしてる人たちがどんなこと考えてるとか、それはやっぱり(興味)ありますよね、欲求としてね。だから当時高校までは読んでなかったけれども、それ以降は結構読みましたよ。

渡辺:その大学2年、3年っていうのが、だいぶん迷われた時期なんですね。

和泉:もちろん。今でも迷ってますけどね(笑)。

宮田:文芸部では自作のものを作る以外に、そういうお互いの読んだ本とかを、意見交換とかも多かったんですか。

和泉:そう。オーソドックスには、部長がいてですね、「次回までに誰の……」、メモで太宰治なんて書いてあったけども(笑)読んでですね、それについていろいろ発表しようみたいなことは一応テーマとしてはあるんですよね。

宮田:(部誌に)載って、自分の作ったものに対して何か意見をされたり、意見を言われるということとかもありますか。

和泉:それはありますよ。だからここに、(部誌の)最後に。

宮田:評価はどんな感じ?

和泉:評価はたぶんしない。ここ(編集後記)に……、我孫子さんかな?っていう人がちょっと書いてるけども……。中身どうこうと言うんじゃなくて、ちょっと。

宮田:(部誌巻末を見ながら)こういう、ちゃんと「大浦食堂」とか「キャッスル」とか広告を取りに行くのもされたりしたんですか。

和泉:私はやったことないですけど、たぶんあるんですよね。いや、これはあれですよ、学食ですよ。

宮田:学食にちゃんと(交渉にいく)、お金を取っていたかどうかはわからないけれど(笑)。

和泉:うん、それは少したぶん貰ったんだと思うんです。

宮田:大学を辞められてからも関わってたのですか。

和泉:いや、物理的にちょっと行けなくなってましたからね。

宮田:では、内科画廊での個展が決まって何かしようっていう時に、まず場所に行って考えられたんですか。どんな個展にしようか。

和泉:そうですね。一番最初は、まさに画廊の紹介みたいなものですから。

宮田:オープンを意識して、初めて画廊になる場所だからという気持ちもあった。

和泉:そうですね。それとあと、特に2回目はね、たまたまメモ書きがあったから…… こんなことが書いてあったんですけどね。「画廊のスペースは私が借りる」と。で、「その借りたスペースを、ほかの人たちが来て、そこで何らかの行為をする」と。それがたまたま指紋(検出)ということだったんですけどね。

河合:それは1回目も同じようなコンセプトがあっただろうということですか。

和泉:そうですね。近い、ね。

宮田:自分の痕跡を残したくないというのがおもしろいですね。人の死に……。

和泉:そうですね、結構、当時はね。ていうのは、死なんかと関わってるんでしょうけどね。一秒前生きていたけどもその後はどうなるかわからない、というふうなことで。だから、形にして永遠に残るようなものは、当時特にですね、し^たくないという。結構そこは強い意思というかメッセージというか、それはあったように思いますね。だから今でも比較的そういうことは強いんですよ。いろんなことをやって、やって終わったと。そこであまり振り返ることはしないんですよ、私は。

渡辺:それなのに今(笑)。

河合:今まさに振り返ってますけども(笑)。

宮田:振り返させられてるんですよね(笑)。

和泉:それはクエスチョン受けてるから。だから、もっとちゃんと整理する人だったら、何年何月にどうこうしたみたいなメモランダムがあるのかもわからない。そういったものがないんですね。今日もだから(家を)出る時、かみさんに「結婚はいつされたかな」と(笑)恐る恐る聞いたんですよ、間違ったらいけないから(笑)。

一同:(笑)。

宮田:そうだったのですね(笑)。ありがとうございます。

河合:ちょっと話戻るんですけど。これ(和泉さんの自筆年譜)、以前、私(宮田からコピーを)もらったのですけど。藝大の「藝祭で個展のイベントに参加」っていうのがあったんですけど……。

和泉:これはね、大学祭。大学祭は別に(出品しても)いいんですね、学内だから。その時の作品は、たまたまですね、でかい……。なぜそこにあったかは、道具入れか何かだと思うんですけれど、棺桶みたいなでかい入れ物が、ちょうど私が入れるような大きさだったんですね。それでそれを。(展示する場所は)それぞれ学科によって教室が与えられるわけですよ。で、彫刻科の教室のところにそれを運んで、その中に私は入ってしばらく、何時間かずっといたっていう、そういうイベントをやったんです。

宮田:それは、箱ではなく、蓋みたいなものはなく?

和泉:いや、布でそれはしました。

河合:外からは見えない。

宮田:じゃあ、ぺろってめくると和泉さんがいる……(笑)。

和泉:そうそう、いるかもわからない。めくる人はいなかった。

宮田:ああ、いなかった(笑)。

和泉:作品だとは思ってない、たぶん。そういうところだから、そういうのが作品だとはとても。まずね。

河合:なるほど。作品だとすら思ってないし。

和泉:そう。すら思ってない。

河合:中に人が入っているなんて(笑)。

和泉:そうそう(笑)。

宮田:タイトルみたいなものとかが置いてないのですか。

和泉:置いてない。タイトルがあれば作品になってしまう。その時はなかった。

宮田:皆さんほかの作品、生徒さんのものにもタイトルとか特に……。

和泉:それはもちろんあります、たぶんあって。

河合:それは場所としてはどこに置かれていたのですか。展示されていた場所というか。

宮田:教室?

和泉:えっとね、どこだったっけな。いくつか小さい教室があるんですよ。それで、この部屋は彫刻科だとか油画(科)だとかそれぞれ割り振られるわけですよ、だいたい人数に応じて。その彫刻科の部屋。

河合:部屋の隅っこの方に(笑)?

和泉:壁に。真ん中ではなかった。壁にくっつけて。その中にしばらく入って。

河合:周りには普通の彫刻が並んで(笑)。

和泉:そうです。

渡辺:作品の中に自分で入るっていうのが同時期に読売アンパンとかでもあったとは思うんですけど、そういう影響とかなしに思いついたんですか。

和泉:その時はだって読売アンパンとか知らなかったんですから。

渡辺:まったく自分で思いついて。

河合:なんでそうしようと思ったんですかねぇ(笑)。

宮田:その時パフォーマンスだっていう意識がありましたか。

和泉:いや、それは、やっぱり死だとか何かと関係あるんですよ。やっぱり棺桶だっていうふうにちょっと。

宮田:(作品から)出ようって思ったのは、何かあったんですか、「もうそろそろいいかな」っていう感じで(笑)?

和泉:そうですね、それは。

河合:でも中から出てくる時に周りに人がいるんですよね(笑)。

和泉:いや、そんなにはいませんからね。

河合:その頃から、死というテーマが通底しているということなのですね。

和泉:それはありましたね。

宮田:死に触れて、「何か形になるものをもっと残さなきゃいけない」って思う方もいると思うのですけど、そうではなく、痕跡を消していきたいっていう。

和泉:そうですね。

渡辺:周りに身近な死があったというわけではなくって、そういうニュース、事件というところから考えていかれたのですか。

和泉:うん、それは考えつくというか、生き方そのものみたいなところですからね、それはね。だからそういうのも当時は、できるだけ、その思いみたいなものと自分の行動なり何かを一体化したいというのは、強い意思でありましたね。

宮田:内科画廊の個展の方に戻りますが。内科画廊でやろうと思って、内科画廊の場所を見て、一つ一つ画廊にあるものに名前、キャプションを付けていこうっていうのは、「こんなことやろうと思うんだけど」と周りの人に話したりっていうことはあったんですか。

和泉:いや、それは全然ないですよ。

宮田:じゃあこの案内状も、ご自分で考えて、作って出すということも全部ご自分でされたんですか。その時にお名前の表記を「TATU」さんにされていますけど、これは何か意味が。自分の作家名を表記するのに何か考えられたのですか。

和泉:いや、これは(「達(とおる)」を)「たつ」って読むだけ(笑)。

宮田:本名ではなく「たつ」で行こうっていう。

和泉:そうですね、それは。

河合:それはこの時に「たつ」っていう読み方で、っていう?前からもう?

和泉:ていうよりですね、名前呼ぶ時に「いずみたつさんですか?」って言われることって結構あるじゃないですか、いろんな(場面で)。なるほど、でもないんだけども(笑)。だからそういうふうに呼んでる人、呼ぶ人がいるのだったら、みたいなことで。っていうのは、「とおる」って逆になかなか読めないから、フルネームで呼ぼうとすると「いずみたつさんですか?」っていうことになるのね。じゃあそれでもいいかなって(笑)。

渡辺:周りの赤瀬川さんだとか高松さんとか多くの方が作家名を作っていたということと、関係はしているんですか。

和泉:いや、それは関係ないですね。

宮田:皆さんに何て呼ばれてたのですか。「たつさん」って呼ばれてたんですか、周りの人に。

和泉:いやいや、「和泉、和泉」って言われて。ていうのはあの人たち(ハイレッド・センターのメンバーたち)からするとですね、(自分は)4、5歳若いんですよ。だから私も若干、あの人たちはお兄さん的なところもあって(笑)。

宮田:(第一回個展の案内状を見て)始めからクロージングを考えられておられたっていうのがすごく面白いと思うのですけれど、この案内は同時に送っているわけですよね、封書で。

和泉:えーっと、どうだったっけね。そう?

宮田:はい。残ってたものは、これに(案内状に同封した)オレンジジュースの(袋入りの)粉末が一緒に付いてたのですけども、そちら(クロージングの案内)はハガキでした。なので、一緒に送ったのかなと。

和泉:別ですよね。

宮田:別に送ったと。じゃあ個展を始めてからクロージングの案内を出されたんですか。

和泉:そうですね。

宮田:それは始めからクロージングはしようと思っていたのか、途中で「クロージングやったら面白いかも」というふうに思ったのですか。

和泉:したら面白いかなっていう要素も無きにしも非ずですね。最初からそんなに、計算尽くであまりやろうとも思ってなかった部分もあるのね。だからクロージングもセットで当時考えてたかっていうと、どうかなーという感じも。だけど「これは面白いよ」とは、そういうことでパッと当時は行動してたっていうことはありますよね。それから後々ハイレッド・センターも結構そういう部分はすごくあるのですよ。

宮田:初めての個展の時に来られた方で印象深い方っていうのはおられますか。

和泉:当時の同級生も、後に作家にならなかった人だとかですね、コマーシャルディレクターになった人とか、そういう人たちも結構来てくれましたしね。あとは、名簿見ましたら相当な人は来てましたね。

宮田:ああ、そうですか。芳名録が残ってるのですね。

和泉:残ってました。

宮田:それはお手元ではなくて、画廊にあったのをご覧になったのですか。

和泉:いや、それは手元にありました。少ない資料の中で。

宮田:あるんですか、ああ、そうなんですね。今度また是非見せてください(笑)。その、(お客が画廊に)来られて、「あれ、作品がないじゃないか」っていう感じだったのですか(笑)?

和泉:うん、たぶんそうだと思いますね(笑)。

宮田:特に説明するわけでもなく、気付かれる人は気付かれるっていう姿勢だったんですか。

河合:会場には和泉さんはあんまりいらっしゃらなかったのですか。

和泉:そうでもないですよ。夕方近くなると会場にいましたね。

河合:その時は特に、近付く人に説明とかっていうのはしない?

和泉:説明はしません。

渡辺:ただ、綿菓子を作ったという……。

和泉:それは、作り方は教えてあげた。

渡辺:あ、ご自分で作られるわけじゃなくって?

和泉:そうですよ。自分で作って食べてください、と。

宮田:綿菓子製造機ははじめから置いてあったのですか。

和泉:そうです。

宮田:それはじゃあ、唯一画廊の外から持ち込まれたものが綿菓子製造機だったっていうことですか。

和泉:そうですね。

宮田:綿菓子製造機はどうやって入手したんですか。

和泉:えーっとね、当時結構流行ってたんですよ。当時、いわゆるドリンクね、飲料も当時はほとんどなかったんですよ。コカ・コーラがあったのかなあ。せいぜいそんなものですよね。それで粉末のジュースっていうのがすごく流行っていて、テレビコマーシャルなんかでも結構やってたんですよね。そういうこともあってこれはいいんじゃないかなと(笑)。

渡辺:じゃあかなり最先端の雰囲気だったんですかね?綿菓子とかオレンジジュースとか。

和泉:最先端と言うかどうかはわかりませんけどね。綿菓子ってのは昔のお祭りだとか、あるじゃないですか。それは売ってるものですけどね、屋台でね。いわゆる夜店でね、売ってるものですけど。やっぱり、綿菓子そのものはなんとなくそういうね(笑)、感じがあって。しかもそれがこんなちっちゃいもので手作りできる、みたいな。「ふーん」って感じですよね。

宮田:夕方から画廊に出られて、集まった方とわいわい他愛もなく世間話とかをしたりとかしながら画廊で過ごされたんですか。それとも「最近何が面白かった」とか。

和泉:何か所か当時主要な画廊があって、だいたいみんな何か所か回ってたみたいな感じがすごくありましたね。

宮田:だいたい画廊は何時くらいまで?決められた時間ってあったとは思うのですけど、5時……。

和泉:あるけども、そんな、人がいると守らないじゃない。よっぽど遅くなれば「もうそろそろ」なんですけども。そんな、邪魔をするほど。それは宮田(國男)さんに聞かないとわからない(笑)、迷惑な……(笑)。

宮田:夜、夕方だからお酒が出るとか、そういう感じでもなかった……?

和泉:いやそれは、あまりお金がないから、こちらがお酒を提供するようなことはなくても(笑)、もしかしたら持参してきて何かあったのかもわかりませんけどね。

宮田:個展をやってみて、何か感じられたことだったり、反応見て満足行くことだったり。やってみての初めての個展っていうのは、どう思われましたか。

和泉:うん……当時、残したくはないんですけど、自分で何かはアクションはしたいというふうなことで。そのアクションについての満足感みたいなものはありましたけどね。

宮田:ハイレッド・センターと同時に動きが始まっていくと思うんですけど、ハイレッド・センターの集まりというか、どういう感じで連絡を取り合ってどんな話をしていたのかっていうのを教えてください。

和泉:当時は、よっぽどのことがないと、連絡っていうのは取り合わなくてもなんとなく夕方集まってくる感じがすごく強かったんですよ。特に内科画廊ですね。そこでいろいろ話して。「じゃあちょっと」ということであそこ(新橋駅)のガード下のVICTORIA(喫茶店)に行って。だから、ハイレッド・センター、その後のいろんな行為だとか何かっていうのは、あそこの場でいろいろああだこうだってやってるのがたぶん一番時間的には多いかなと思いますね、VICTORIAでね。

宮田:その頃皆さん、日中はアルバイトなりお仕事をされていて、夕方から画廊でこう集まってきて……。

和泉:そうですね。原平さんと夏之さんは別に定職に就いてないからね。次郎さんはあそこに、編み物屋さん(シルバー編機製造株式会社)にまだ社員でいたんですよね、たぶんね、しばらく。で、私も(仕事が)ないし。だから原平さんと私はそういうことでアルバイトみたいなことを。(原平さんに)付いて行ったりしましたね。

宮田:そういう時間もあり、3か月後にすぐにもう次の個展、2回目の個展を考えられますが、その間「次は何をしようかな」っていうのがあったのか、予定が決まっていたのか、ぽっとこの時期に空いたから個展やってよという感じだったのか。

和泉:それは……3か月後に、たぶん私が何かやりたいということ話して、画廊も日程的に調整できたという、そういうことだと思っていますけどね。

宮田:その時に、「指紋検出展」、ですよね。第2回目の個展。

和泉:はい。

宮田:指紋を使おうっていうふうに思ったのは、先程の「参加してもらう」っていう考えからだと思いますけど、具体的にこれ使えるなって思ったのは何かきっかけはあったんですか。

和泉:アルミの、指紋のね、アルミのパウダーの質感がなんとなくいいなというかね。あれはその後、例の一円玉の入った缶詰になるんですけども、それもね、ああいうアルミの質感みたいなものがなんかすごく、私にとってはなんかいい感じがするのね。

宮田:なかなかアルミのパウダーに触れるっていう機会がないと思うのですけど、何かそういう機会があったのですか。

和泉:いろいろ探しましたけどね。昔はね、御徒町だとか下町だとかそういうところにいろんなものを売ってる、今は合羽橋だとかなんかああいうのに集まってしまいましたが、昔は、御徒町あたりだとか田原町あたりとかね、そういう職人さんが使うような材料だとか何かたくさんあちこちにあった、行けばね。今回(HRC展のため)一円玉の復刻版の缶詰を作るのに(注:図録p.117)、アルミの顆粒のものを買おうとしたらなかなか見つからなくて、インターネットでも。ていうのは、1トンとかだったらお分けしますとかいうね。「なんだこれは」(笑)。本当にがばっと買ってやりましたね。だけども関西にいろいろ探してみたら見つかったので、それでも最小ロット5キロですよ(笑)。だから、マチエールというか、アルミの質感だとか、あとは比較的いいなと思うのは鉛の質感みたいなものは、とても肌に合うような感じがしますけどね。

宮田:そうやって普段から素材を触ったりとか、何かしら自分の、何か考え、イメージに合うものを意識されてたということですか。

和泉:うん、アルミとか鉛も、いわゆる、色に関してはあまりないですね。ああいうモノクローム的なもので。誰かが指摘してましたけど、ハイレッド・センターにはカラーが極めて少ない。何か問題があるのですかというふうに(笑)、誰かが聞いたことがあると思いますけど。

河合:それは、実際に白黒写真が多いからっていうんじゃなくて、実際にあんまり色を使ってなかったですかね。

和泉:ないよね。この前の(HRC展)展覧会場を見ても、そういう、たしかにね。あまり意識したことはないですよ、たぶん私たちもね。私だけではなくて他の人たちのあれ(作品)を見てもあまり。

河合:たしかに。

渡辺:モノクロだっていうのは、作品の話ですか、雰囲気の話ですか。

和泉:両方ありますよね。作品もそうだし、雰囲気もありますよ。

宮田:2回目の個展の案内で、新聞とか、あるものを自然に使っている。わざわざデザインして作って色で、いっぱいいろんな人に見せるというわけではなく、あるものを使いながら案内を作っているというのが、少し通じるのかなっていう印象も受けるのですけど。こういう新聞をDMというか個展の案内に使おうって思ったのも、質感だったり、毎日届けられる当たり前のものを使おうという考えがあったのですか。

和泉:それはありますね、極めて、そういう。それと、これは新聞を使ってるんですけども、この切り方によっていろんな情報が分けられてますよね。これは大学の時に作った詩と同じですけども、まわりにはいろんなものが同時に動いてたりする。情報もそうですよね。そこに、少なくともこれは私なり(ナム・ジュン・)パイクなりのあれをその中に重ねて、これもだから情報の一つが重なっているわけじゃないですか。だからそういうものってのはちゃんと考えてやってるんですね。しかも同じものはたぶんないと思うのですよね。

宮田:じゃあこのサイズ(B5サイズくらい)に新聞を一枚一枚切って、シルク(スクリーン)を、シルクだったと思うのですけど……。(注:図録p.104参照)

和泉:いや、これは普通の、たぶん、印刷だと思う。そんな高くない(笑)。高いとあまり良くないです(笑)。

宮田:なるほど。パイクさんに(案内状に載せる)短歌をお願いするっていうのは、どういう出会いだったのですか。

和泉:それがね、またこれよく、どうしてかって思い出せないんです。パイクさんも結構内科画廊に来てたりとか、たぶん私の1回目(個展)を見てくれて、「次にやるよ」みたいな話はしたと思うのですよ。そしたらパイクさんが私に短歌を作ってみたいという(笑)。「なるほど、じゃあそれ頂きましょうか」とか(いう)話だと思いますよ、いきさつは。

宮田:(短歌の印刷について)間違い、「重大なミス」っていうふうになるのは、パイクさんが「間違ってた!」っていうふうに言いに来られたのですか。

和泉:レターが来たの。

宮田:お手紙で。

和泉:そう。「案内状を貰ったけども私の短歌と違うよ」と。

宮田:これは、「カキクケコ」……。

和泉:そう。そんな捻る必要ないと。「カ、キ、ク、ケ、コ」。

宮田:その前のやつは「カキクコケ」になってたのを。じゃあそれで、それは「重大なミス」っていうふうにしたら面白いっていうことで、もう一度刷り直して送ったのですね(笑)。

和泉:そう(笑)。

宮田:何人くらいの方に送ったんですか。お金をかけないという意味では、郵便……。

和泉:そこそこ送ったと思いますよね。

宮田:名簿みたいなのを見たりして。

和泉:そうですね。

宮田:見て欲しい人に。それは評論家の方だったり、ご自分の知っている人だったり。

和泉:送りました、それは。

宮田:見に来てほしいなって、この人に見に来て欲しいなって思っていた方って具体的にどなただったんですか。

和泉:まず、いろんなところで今まで私が出会った人で送り先がわかる人と、あとは『美術手帖』なんかの、ありますよね、年鑑なんかの名簿が。そういったものからチョイスして送ったりしましたね。当時ってどんな、どのくらいですかね。100から150くらいかな。そのぐらいは出してると思いますね。

宮田:(図録を広げて、p.105、C087)この写真を見ると、画廊の壁の周りに、ガラス……。

和泉:ガラスです、板ガラスです。

宮田:板ガラスを貼り付けて。で、真ん中のこれは?

和泉:プラスチックの玉。

宮田:プラスチックの玉なのですね。これ、重さ……中は空洞ですか。

和泉:空洞で、軽いものです。

河合:色としては。

和泉:グレーだったと。

宮田:その周りに、この、指紋検出の叩くものは、アルミの入った、粉の入っている、棒みたいなものは、それぞれの場所に。玉の近くだったりガラスの近くだったりにぶら下げて。

和泉:そうですね。刷毛と、パウダーの入ったガーゼのような布、布袋ですね。来てもらって、どこかいたずら半分に触ってもらって、自分でパウダーをぱっぱっと叩いて、刷毛ですると、指紋がくっきり出ますよ、というような。

宮田:来られた方にそう説明をして?説明をされたのですか。

和泉:いや、さほど。聞かれたらするので。こちらからすることはないですね。

河合:何もわからず見て出て行っちゃう人も?

和泉:いましたね。だけども、まったく一般の人はそんなに来ないですから、あそこの場所にね。しかも階段を上がって来るわけだから。だけど、何だか(何か?)あるだろうという興味津々の人たちだから(笑)

宮田:そうですね。案内からはわからないし、「なんだろう」という感じにはなりますよね。この、記録に残っている写真というのは、どなたかに撮ってもらう?

和泉:だったと思うんですよ。これも私はまったく持っていなかったんです。原平さんの資料の中にこれはあったんですね。今回、(HRC展を)名古屋と松濤でやるということで、原平さんのいろんな資料というかデータ、ファイルの中に探して見つけてもらったような、そういういきさつなんですよ。だから私もこんなのが残っているとは知らなかった(笑)。

宮田:わりと作品的に、写真一枚でもすごく作品として成り立つように見えるんですが、これはカメラマンの方の視点というか、和泉さんがこういうふうにお願いしたわけではなく、こういうのが残っていたということなのですね。

和泉:と思います。ええ。

宮田:(写真を見ながら)すごくよく指紋が出ますね。

和泉:出ますね、それはね。

宮田:皆さん、刀根(康尚)さんとか自分のサインをしたり、そういうふうにされる方もおられたんですね。

和泉:ありましたね。いましたね。

宮田:(新聞記事に指紋を押した作品の写真を見て、図録p.106, AS5, AS6.)国会議事堂(の写真が載った記事)と指紋っていうのは、こういう、ガラスの中に新聞記事とか雑誌の切り抜きみたいなのを入れているコーナーがあったのですか。

和泉:いや、これは受付の近くのところにですね。これ(写真)、アップですよね。こういう、何枚か新聞バッと広げて。そこはね、私がやったものですよ。

宮田:そうなんですね、ご自分で。それは、(作品(新聞?)の)上にガラスがのっている?

和泉:いやいや、壁に貼ってあったと。

宮田:壁に貼ってあったところ。

河合:初日の、(個展を)開く前に、和泉さんがこう?

和泉:そう、それは。うん。これに関してはたぶんね。

河合:勘のいい人はそれを見て同じようなこと……指紋を採るみたいなことを、気付くと。

和泉:うん、かもわからない、それはね。

渡辺:そもそも「指紋検出展」と名付けていたわけではなかったでしたっけ。

宮田:案内には書いてない。

和泉:うん、タイトルはたぶん付けてなかった。

渡辺:じゃあ、まったく何かわからない状態で(個展が)あったのですね。

和泉:「指紋検出」(というタイトル)はね、もしかしたら山田(諭)さんが付けたのかもしれない、名古屋(市美術館)の(学芸員)。

宮田:ああ、後になって。

和泉:そうそう。

宮田:2回目の個展の直前に「内科コレクション展」(1963年10月14-19日)というのがあったようで、(案内状のコピーを出しながら)お名前が載ってるのですけども、何か覚えておられますか。

和泉:覚えてないです、これは。(チラシを見て)名前入ってますね。

宮田:この案内のパターンが、臓器(のイラスト)が五種類くらいあるのですけど、どなたが考えたのかなと。

和泉:ふーん。このイラストは……。

宮田:これはそれこそ医学辞典みたいなものから切り抜いて、写真で撮ってるみたいですよね。お名前を記入した紙片を切り抜いて、臓器の図版の上に乗せてから、上から複写しているような……。

和泉:これ、私はね、記憶ないですよ。

宮田:何かしら、参加された……。ハイレッド・センターとしてではなくて、和泉さん個人で参加したような感じですよね、お名前(が単独で掲載されているから)。

和泉:そうですよね、これはね。だけども……これはいつになっていますか?

宮田:63年の10月です。このあたりの(名前が掲載されている)、和泉さんや、小杉(武久)さん、岡崎(和郎)さん、刀根さん、豊島(壮六)さん、高松さん、三木(富雄)さん、風倉(匠)さん、赤瀬川さんって、よく集まってた人たちなんですかね?

和泉:いやいや、そうでもない。画廊にいればこの人たちはだいたい来てましたよ。だけども、集まるという意味ではですね、別に。何か目的で集まろうという仲間ではなかったですね。ハイレッドの人たちと、その中に時々刀根さんだとかが入ってきたという感じはありますけどね。豊島、岡崎、篠原(有司男)、三木……しょっちゅういるっていうのではなかったですね。

宮田:刀根さんってすごくハイレッド・センターによく関わってくる印象があるんですけども、刀根さんも何か一緒にやるっていう。話し合いには参加はしないけども、ハイレッド・センターに一番近い……一番とは言わないですけど、近い……。

和泉:近い。刀根さんの方が近寄って来てる(笑)。

宮田:そういうのがあるんですね。

(休憩)

宮田:再開いたします。ちょっと話が戻ってしまうかもしれないですけど、先程、赤瀬川さんとの出会いは伺ったのですが、中西さんと高松さんとはほぼ同じ時期に出会われたのですか。

和泉:そうですね。

宮田:赤瀬川さんを通じて会うという感じですか。

和泉:そうですね。

宮田:その時、それぞれの第一印象って何かありますか。もう、まだ、ハイレッド・センター?

和泉:第一印象ねえ……。あんまり、言葉で言う印象は、あまりないですけどね。だけど、中西さんと会って、「うちに来ない?」みたいなことで、当時大井町に住まいがあって何回か行ったことあるんですよ。(図録の)中にも書きましたけど、あそこで、「中西さんが作ってくるミルクコーヒーがとても美味しかった」って書いた(笑)。やっちゃんって言ったかな、奥さんもいらっしゃってね。とてもよくしてもらいましたけどね。

宮田:その時、中西さんとはどんなお話をしたのですか。

和泉:どんな話をしたかなあ。あまり……あの人は仕事場を絶対見せないからね(笑)。

宮田:そうなんですね。

和泉:うん。だからごく普通の話みたいなことだと思うけどね。

宮田:ハイレッド・センターのメンバーとして誘われるっていうような雰囲気があったんですか。ハイレッド・センターに入っていく時の……。

和泉:2回目の個展のあたりですかね。いろいろなんだかんだ話していたら、たぶんこれは高松次郎さんだと思うんだけども……。えっと、最初に、内科画廊で4人ぐらいになったから……「和泉をメンバーにしたらどう」みたいな話があったと思う。それかVICTORIAかどっちかで。

宮田:誘ってもらった時にはどんな、嬉しかったですか。

和泉:それは嬉しかったです。それは。とても嬉しかったです。

渡辺:そもそも3人と知り合った後に、3人はハイレッド・センターを結成して、(和泉さんが)個展をやって、という感じですよね。

和泉:じゃなかったよね。

渡辺:じゃなかったですか?62年に(3人と出会われたとすれば)……?

和泉:その前にちょっと成功してましたよね、3人が。

宮田:ハイレッド・センターという名前を使っていなかったかもしれないですけど、3人での活動を始められていた……。

渡辺:で、「ミキサー計画」というグループ展があった時には、行かれてるんですかね。

和泉:たぶんそれは行ってると思いますよ。プレ・ハイレッドみたいな時代が若干あったんですよね。

河合:山手(《山手線のフェスティバル》1962年10月18日)とかのですよね。

宮田:じゃあ、ハイレッド・センターに名前をしようというのがその頃ですか。

河合:それは63年の……。

和泉:いや……たぶんその前に作って、名刺が、たぶん3人の名刺が最初にあると思うんですよ。(注:図録p.60)

渡辺:4月、5月くらいですかね。63年の。

和泉:いや、みんなその時圧縮されてるから。どんどんこうなんか、変わってるっていうか、変貌してるというか。

宮田:そうですよね。私たちが(質問で)引き伸ばして、引き伸ばして。

河合:(図録を示して、p.60〜)この頃ですよね、「第5次ミキサー計画」。

渡辺:63年の5月ですね。

和泉:はい。そう、これが。

宮田:すみません、ではちょっと。(図録をめくり)和泉さんがメンバーとして入られて、一番初めのハイレッド・センターのイベントっていうのは、何になりますか。記録で言うと?

河合:記録で言うとNHKの番組ですかね。(注:図録pp.108-109)

宮田:NHKの「われら十代」っていう……。

和泉:これ、他のグループもいましたからね。刀根さんだとか、小杉さんとか風倉だとか。

宮田:この頃テレビに出るって結構すごく特別なことだったと思うのですけど。

和泉:そうですよね。嬉しかったですよ、これは。

宮田:一日……これは一日行ってみんなで作業する感じの……。

和泉:それぞれが比較的勝手にやったというふうな感じが。それぞれの持ち分をね。そこにあれは入ってると思いますよ、綿菓子(製造機)……。

河合:(図版を確認して)これですね。

渡辺:みんなで打ち合わせするわけではなくて、各々。

和泉:いやいや、それぞれは一応。全体で打ち合わせはしないですけども。それぞれはなんとなく打ち合わせは。

宮田:収録ですよね。

和泉:そうです。

宮田:じゃあ、「スタート!」みたいな感じで始まって「カット!」みたいな感じで(笑)終わるっていうわけでもなく、こうみんな……。

和泉:当時は撮りっぱなしに近いところがたぶんあったと思うんですよね。

宮田:どなたにお話がきたのですか。

和泉:それがわからないんですけどね。誰かには来てるんですよね。てことはNHKも、ディレクターがいて、こういうグループ集団、けったいな(笑)グループ集団があるというふうなことで、たぶん。

宮田:63年の11月に行われる。じゃあこの時に、初めてのメンバーとしての……。

和泉:はい。

宮田:で、次に《シェルター計画》(1964年1月26、27日)。

和泉:そうですね。

宮田:これは、11月に(NHK番組収録が)終わって、1月にかけて何か相談をされたのですか。

和泉:そうですね。これは結構やりました、打ち合わせを。たぶんこれは、例の、ライト(フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright)の作った旧帝国ホテルですね、それが取り壊されるっていうのは残念だということで、じゃあそこで何らかのことをやろうというのが発端なんですけどね。「じゃあ何をやろうか」「せっかくだからスイートルームを借りてやろう」という(笑)ことだったんですね。

宮田:じゃあ、先に場所が決まって。

和泉:そうですね。これは、場所が決まって。

宮田:何か使うっていう時に、人を招き入れるっていうプランを練っていく。

和泉:招待状を出して。

宮田:結構ちゃんとした招待状ですよね。

和泉:そうですよ(笑)。

宮田:その時に役割分担みたいなことってありましたか。

和泉:うん、いろんな時、そんなさほど役割分担っていうか、なんとなく話してるうちに文章誰が書くだとか、そんなこといろいろやってましたね。

宮田:文章を書かれるのは、いつも同じ誰かっていうわけではなく、みなさんで。書いてきたのをみんなで手直ししたりだとか。

和泉:そうですね。そういうのだと思いますね。

宮田:その時に同時に『ハイ・レッド通信』(1964年2月24日、図録p.122)を出されていますけども、そういう刊行物というか冊子みたいなことも「面白いね」って感じで?

和泉:これは他にもいますよね、書いた(人)。ハイレッドのメンバーだけじゃなくてね。たぶんそれはほかにも「書いてよ」みたいなことで。書く人はたくさんいましたから(笑)。

宮田:編集作業みたいなことはどなたがされたのですか。

和泉:それはねぇ、お互いになんとなくやってた感じがしますね。

宮田:《シェルタープラン》(注:《シェルター計画》、図録pp.110-119)は結構すごくお金も使って、準備期間もあって。実際に一日の、二日間でしたっけ、二日間のスケジュールも皆さんで考えて。

和泉:そうですね。

宮田:来ていただく方には、日にちは指定されたのですか。

和泉:してません、たぶん。

宮田:いつでも来てくださいっていう?

和泉:はい。

宮田:皆さん背広、きちっとした格好して。

和泉:そうですね、それは。帝国ホテルですから(笑)。

宮田:帝国ホテルに合わせて。帝国ホテルの人に怪しまれたりはしなかったですか。

和泉:いや、しましたよ。しょっちゅう守衛のような人が覗きに来てました。ドアボーイが、なんとなく服装はちゃんとしてるのだけども、ちょっと見るからに変な人たちみたいな(笑)ことがあったようです、それは。

宮田:(お客が)入って来られたら、機械的にというか儀礼的に。

和泉:そうです。それはビジネスですから(笑)。ちゃんと(対応は)お客さんで。

宮田:もうその時にビジネスっていう……。ビジネスにしようっていうのはこの時のプランで出てきたんですか。

和泉:そうですね、それは。いくつかのメニューがあって、それをやりたい人ができるようになっていると。場合によっては有料で売るものもありますから(笑)。それはちゃんとした応対というか対応をしなきゃいけないっていうことで。

宮田:来られた方の反応というのは。行って、いきなりいろいろ(体を)測ったりとか……。

和泉:まあ、だいたい来る人は、まずどういう連中がやってるって(知ってるから)(笑)。招待状貰った人は、それなりの。ただ、来てみて実際今までに経験したことのないようなイベントだったりするわけですからね、それはびっくりする面もあるんでしょうけど。

宮田:一通り終わったら、最後帰っていただく時には「お帰りください」っていう感じで帰ってもらうと。

和泉:そうですね。シェルターボックスなんてのは、採寸とかいろいろしてるじゃないですか。それなんか、注文を取って。

宮田:写真もかなりしっかり撮られてますけれども、イベントの後に現像して、こういうカルテを清書されたりっていう、その後の作業も結構ありましたか。

和泉:後は、あったと思いますけれど、実際どうかちょっとわからないんですよ。カルテはその場で書きますからね。

宮田:カルテを書く担当はどなただったのですか。

和泉:それはたぶん時間でローテーション組んでたと。測る人とね。

宮田:フォーマットは印刷して。

和泉:そうです、フォーマットは。そういうシート作ってて。

宮田:用意して。じゃあそのシェルターボックスを依頼された方、その分は、(図版を見ながら)こういう6カットですね、写真を撮られて。

渡辺:シェルターを依頼した方の写真を撮るんですか。それとも全員撮って?

和泉:いえいえ。もちろん注文を受けて。だって、洋服の注文を受けてそれで採寸する(笑)。

渡辺:じゃあ一番始めに「シェルター要りますか」っていう話になるんですか。(部屋にお客が)入ってきて。

和泉:えー、それはどうだったっけなあ……シェルターボックスと缶詰ですよねぇ。

宮田:(シェルターの)見本を作られてる時の……わいわいとみんなで作ったら面白いということで、実際に見本も作ったんですか。

和泉:そうそう、それはやりましたね。

宮田:空き缶の方は、缶詰を探されたりするのも皆さんで「この大きさのがいい」とか。

和泉:なんかね、みんなそれぞれで作ったのかなぁ。

宮田:この時も(図録を見ながら)写真がこういうふうに残っていますが、写真撮って欲しいっていうのは羽永(光利)さんとかにお願いされてた記憶ありますか。

和泉:それはしてましたね。

宮田:羽永さん以外にも撮られている方っていらっしゃったのですか。

和泉:いや、それはいなかったんじゃないですかね。

宮田:羽永さん独占で。

和泉:こちら側が正式にオーダーしたのはたぶん羽永さんだけだと思います。

宮田:やっぱり写真を撮って記録に残すっていう意識があったのですね。

和泉:うん、こういうものとか何か、ありますからね。あとムービーも撮ってますね。

宮田:そうですね、映像が残ってましたね。

和泉:えっとあの人、何だったっけ。VANの人。

宮田:城之内(元晴)さんではなかったですかね。

和泉:そう、そうですね。

宮田:VANとの交流も結構あったのですか?当時、映像……。

和泉:ありましたよ。それはね、原平さんとか……。高松さんは吉祥寺だったでしょ。だから中央線沿線。VANは阿佐ヶ谷にありましたから。だから物理的にその人たちは結構来てました。VANには中西夏之さんはあまり来なかった。

宮田:映像を撮られたりは、和泉さんはされなかったですか。

和泉:してません。

宮田:特に映像、動くものへの興味っていうのはそんなになかったんですか。

和泉:いや、なくはないです。自らが撮ろうということはなかったですね。

宮田:映画とかは普通に観に行くことはありますか、劇場に。

和泉:多い方ではないと思いますけどね。

宮田:この頃もうハイレッド・センターの活動でそれどころじゃなかったと思うんですけど、他に画廊めぐりも続けられたり、他の人の作品は普通に(ご覧に)……。

和泉:それは、それなりにはもちろんしていましたね。

宮田:この頃、お仕事っていうかアルバイトも、さっきの日生劇場ではなくてレタリングだったり、看板のアルバイトっていうのを続けられてたんですか。

和泉:その直後にですね、(近年まで)ずっといた広告会社に入ってるんですよ。

宮田:直後っていうのは、《シェルタープラン》の直後……63年の1月……。

和泉:そうですね。そこ(《シェルタープラン》当時)はまだ入ってないと思うんです。その直後ですね。

宮田:64年ぐらい……。ではその就職の話はもうちょっと後にしますが、この、今(図録の)ページがめくれて、このマーク(図録p.118, B24.)は皆さんで選ばれたんですか。ハイレッド・センターのマーク「!」。

和泉:それもね、「ビックリマークみたいなのあるよね」という話、「あれは結構インパクトある」みたいな。わいわいわいわい言いながら、「それをトレードマークにしようか」というふうな(笑)。

宮田:それはこの《シェルタープラン》の頃、この缶詰の時に。

和泉:何が一番最初ですかね。使ったのは。

渡辺:(宮田がめくる図録を指して)ここにもありますね。

河合:たぶん最初の方に、「第5次(ミキサー計画)」のとこに載ってなかったかな。(図録をめくり、p. 61.)ありますね、ここ(展覧会案内状)に。

宮田:ありますね、すでに。じゃあもうすでに使われていたものを、よりマークとしてシンボル的にどんどん使って……。

和泉:この時はまだハイレッド・センターのマークとしてはしてないんだよね。

河合:ああ、そうなんですね。使ってはいたけど。

和泉:いわゆる、ビックリマークのそこは、まだデザイン上の処理。

宮田:逆にオリジナルのマークとしてデザインを加えたりとかってされたり。

和泉:細かいのはどうかわからないですけれども……。

宮田:ちょっとずつ違ってきますね。(図録を見ながら)こっちの感じとか……制作物が増えていっている感じですね。

河合:そうですね。この頃にいろいろと出来事があったと思うんですけれど、読売アンデパンダンの中止(1964年1月12日通達)と、赤瀬川さんの朝日新聞の事件(1964年1月27日報道)とかは、たぶんこの《シェルター計画》に前後してあったと思いますけど、そのあたりに対する和泉さん自身とかまわりの人たちの反応っていうのはどういう感じだったんですかね。

和泉:千円札(事件)のあれは、たまたまね、私が。原平さんまだ阿佐ヶ谷にいた。で、たまたま私が、アルバイトした帰りか何か、一緒にアパートに、原平さんのとこに泊まってたんですよ。そしたら早朝刑事が二人来てですね、もちろん刑事ってわからないですよ。アパートの部屋が二階で、ひょっと上がってきて「原平さん?」って言うんですよ。「そうですけど」って。何かごしょごしょっと言って、階段のところに梱包か何かの作品もあったのかな、「これ原平さんの作品?ふーん」とか言いながら、ひょっと帰っていったんですよ。「なんだろう」というふうな、その時はね。そして数日後かな。朝日新聞が「画家が(旧)千円札(を模造)」っていうリークが出るんですね。それで、じゃあということで、原平さんと夏之さんと私で朝日新聞に抗議に行こうということで、抗議イベントがあるんですね。最初、当時朝日新聞は有楽町のとこに本社がありましたから、そこに行って。当時のあの記事を書いた記者がいないということで、じゃあ後日ということで連絡を取ってもらって、二度目(に)会ってるというふうなことですよね。そういういきさつがあったのですよ。

宮田:新聞に載って驚かれたと思うんですけど、赤瀬川さんはどんな?怒ったりっていう感じですか、びっくりする……?

和泉:いや、あの人はあまり怒らないから。「うーん?」とかなんかそんな程度だと(笑)。実際には憤慨はしてるとは思うんですけどね。

河合:抗議は結構早いですよね。抗議するまでの行動が早いですね。

和泉:早い、早い。

河合:それはもう即座にみんなで「これは抗議しよう」と。

和泉:そうですね。やらなきゃいけないっていうことで。

渡辺:それは赤瀬川さんが言い出したことではなくって?

和泉:それは(抗議に)行ってる3人で、なんとなく……。それはだからみんな憤慨してますよ(笑)。すぐやろうっていうふうなことで。

宮田:じゃあこの頃には、お仕事を始められた時期になってくるんですか。

和泉:そうですね。たぶんそのくらいから私は勤め人をやってた。

宮田:それはどういうお仕事だったのですか。

和泉:それは、広告会社。当時は、広告会社、すごくテレビが活発になって活況でしたんですよ。だからなんとなくふと行って、「どう?」みたいなことでいくらでも採用してくれたんですよ(笑)。その後あまりよくはなかったんですけれど、当時は電博…… (入社した会社は)第一広告社っていう名前なんですけど、電博一広(電通、博報堂、第一広告社)っていうふうに三本指に入ってるぐらいの会社だったんですよね。ところがその会社は同族会社で、やっぱり同族会社ってあんまりうまくないんですね。その後、それで1970年に事実上の倒産になったんですよ。その倒産ってのはどういう意味かっていうと、売上がどんどん増えていくのですね。すると広告会社ってあんまり資本金持ってないんですよ。電通ですら極めて少ない資本金、当時はですね、数千万単位の資本金です。今は億単位になってますけどね。それで資金が、運転資金が大変なんですね。ていうのは広告会社の支払いがどうなってるかっていうと、放送局と新聞にはですね、媒体費用を、手形で言えばたとえば2月(ふたつき/につき)、60日で払わなきゃいけない。ところがそのスポンサーからは90日の手形が来ると。すると30日足りないんですね、資金が。すると、そこをどうするかというとですね、その第一広告社の経営は、当時、金融会社にその手形を落として、どんどんだから足りなくなるんですよ。手形を落とすっていうことは前払い100%のものが9割だか何かになると、どんどんお金がショートしてマイナスになってくる。そういうことで事実上の倒産みたいなことになりましてですね。その後、私はそこで会社再建のために、結構労働組合でがんばったですよ。で、今でもその会社はありますけど、ただ残念ながらそういう勢いがなくなったのですよね。

宮田:入社当時はどういうお仕事を担当されたのですか。

和泉:テレビコマーシャル。プランニングをしてました。だからしばらくその部門にいて、当時いろんなコマーシャル作りましたよ。

河合:たとえば印象に残っているものとかは。

和泉:それはもう作品としては覚えてないと思うんですけど、やったのはキューピーとかですね、ライオンだとか。当時まだライオンは歯磨きとライオン油脂に別れてたんですよ、今は一緒になりましたけど。車で言えば当時は東洋、今はマツダとかですね。東京ガスだとか。ちょっとハードな重いものでは川崎重工だとかですね、結構やった、作りましたよ(笑)。

宮田:クライアントから依頼が会社に来て、どんなCMを作ったらいいかっていうのはクライアントとの話し合いの中で決めていく……。

和泉:そうですね。付き合いっていうのはだいたいクライアントから見ると、広告会社と(は)、こことここ何社くらいってそれぞれみんなだいたい決まっているんですよね。その中でプレゼンテーションさせて、向こうのオーダーに沿ったようなことで決まって、制作をしていくっていうふうなことなんです、制作に関してはですね。それと後は、広告会社で一番大きな仕事っていうのは、メディア、媒体者から、テレビ局とか新聞社だとか雑誌が、それは法律じゃなくて商習慣としてですね、媒体をクライアントが直接買うっていうのはできない仕組みになってるんですよ。だから広告代理店という名前が付いてるのですけれども。媒体を、テレビにしろ新聞にしろ雑誌にしろ広告社が調達をしてきて、それをクライアントにセールスするっていうふうな仕組みなんですね。それは今でも変わってないんです。

宮田:和泉さんは具体的にディレクターとして、制作もされるし、クライアントの調整もされてたということですか。

和泉:いや、私は制作、クリエーター部門で。営業ってのがいまして。広告会社にはクライアント営業と媒体営業があるんですよ。媒体営業っていうは媒体からいろんな情報を見てできるだけコストの安いものを仕入れてきて、お得意さんに売るという。クライアント営業というのは、クライアントといろんなやり取りをして、オーダーを受けたりするのですね。で、その受けたものに対してクリエーターという部門があって、そこでいろんな原稿、テレビコマーシャルだとか新聞原稿だとか諸々作る部門があるんです。そういう仕組みになってるんですよ。

宮田:じゃあそのクリエーター部門の中の、新聞だったりCMだったりっていう時の、CM、テレビ広告の担当をされていたわけですね。

和泉:そうですね。

宮田:下積み時代っていうのがあったと思うんですけど、そのちょうどこの千円札(事件)が始まってくる頃に(会社に)入られて、下積みっていうのはどれくらい期間があったんですか。いきなり、そのディレクター?

和泉:いや、そんなことないですよ。どんなもんでしょうねぇ。5、6年とか、そんなものだと思いましたけどね。

宮田:想像するだけでもすごく忙しそうな仕事だと思うんですけど、一日中夜遅くまで働くっていう感じだったですか。

和泉:それはね、クリエーターっていうのは、24時間です。別に会社にいるからいいアイディアが出るっていうわけではないのね。だから仕事については24時間。たまたま会社には朝から何時までいるっていうふうなことで(笑)。アイディア捻り出すのは途切れることはないですよね。

宮田:わりとハイレッド・センターの活動も活発になってきて、お仕事の方も働かなきゃって思うことがあったのですか。

和泉:あのね、ハイレッド・センター3人で、4人でやってました。それで千円札事件が起きたら、今までのやり方はもうできなくなって。千円札にいわゆる特化っていうか、その対応でバッとそこに寄ったんですよね。たまたまそれが裁判としてやろうというふうな頃、私もその職場で結構忙しくなって、しかも広告の仕事面白いんですよ、極めて。ということで、いつも裁判対応の会議っていうのは昼間ですよ。皆さんそういう意味では時間があるから(笑)。いろんな評論家とか関わってるけど、皆さん別に昼間でも構わない(笑)。ただ私はそこにだんだん物理的に出られなくなってしまったということがあって、ちょっとだから遠ざかって、それは原平さんに申し訳ないなと今でも思ってる、そういう状態ですね。

河合:就職されようと思ったきっかけは何かあったのですか。

和泉:それは「生活しなきゃ!」。

宮田:その時、さっきの奥様に確認されたご結婚とかは、この時期だったんですか。

和泉:69年。

宮田:69年。じゃあもうちょっと後だったんですね。

和泉:ええ。69年に結婚して、先程言った、70年にその第一広告社が事実上の倒産をしたという。「えー!」と思って(笑)。「どうしよう」みたいなことを話したことありますけどね。かみさんってのは、その会社でコピーライターやってたんですよ。

宮田:そうだったんですね。

河合:二人とも職を失う危機だったのですね(笑)。

和泉:そう(笑)。まあ、それはお互いにあれで、なるようになるみたいな形でずっといましたけどね。

宮田:(図録を開きながら)この辺の、《シェルタープラン》の後、千円札が始まりかけた頃に、この印刷物っていうのをいくつか出されていますけれど、この辺はずっと関わって。

和泉:関わってる、そうですね。

宮田:立て続けに出してますよね。すごい勢いで。これは、とにかく出さなくっちゃっていう……。

河合:その(ハイ・レッド通信『目薬特報』、図録p.122)表紙は和泉さんが描かれてますね。

和泉:はい、イラストはね。(タイトルを指して)これは原平さん。

河合:ああ、レタリングは。

和泉:ええ、タイトルは。

宮田:編集会議みたいなのはするよりも、持ち寄ってどんどんその場で作るっていう感じ?

和泉:そうですね。

宮田:で、印刷をして。なぜ「目薬」というタイトル、『目薬特報』っていう……。「目薬」はどこから来たんですか。

和泉:それは、目が曇らないようにちゃんとパッチリさせて世の中の状況を見たらどう、というふうな。

宮田:その次、『ペリカンクローヴァ』っていうのは?

和泉:これはですね、なんか名前も(図録に)載ってるんですけども、よくはわからない。(当時)皆さん経済的には大変なわけですよね。ビジネスにはならないんだけど、そういう少しでも何か金儲けできるようなものはないか、みたいなことでそれはスタートしてると思うんですよ。このメンバーの中心っていうのはVANというところで、その人たちは日大の芸術学部を出て、映像部門の人たちがそこで集まってたんですね。だからそういう映像だとか印刷物だとかそういったもので何かお金になるようなことはでいないかなというふうなことで、たぶんパンフレット作ってると思うのですけれど。

宮田:ペリカンっていうのはその、会社の名前みたいなイメージだったんですかね。(注:後日、中西夏之さんの幼なじみの方に伺った話によると、当時、大井町にあった中西さんのアトリエを「ペリカン・ハウス」と呼んでいたという)

和泉:いや、だからそれもどういういきさつでそうなったかっていうのが(わからない)。私とかハイレッドの人たちも、名前は出てるんですけど、あまり関わってないと(笑)。

河合:ご自身がこれに関して何をやったかっていうのはあまり記憶にない(笑)。

和泉:記憶ない。たぶん相談も受けてない(笑)。

宮田:そうなんですね(笑)。

河合:これ(「特報!通信衛星は何者に使われているか!」、図録pp.124-125)は、赤瀬川さんの部屋にお二人でいる時に思い付いたっていう。

和泉:いや、これも4人だったと。

河合:4人で。

宮田:64年4月12日、「特報!通信衛星……」ですね。

和泉:ただ、原稿みたいなのは原平さんと私が書いたのがいくつかありますけども。これはね本当に、内科画廊かVICTORIAで打ち合わせして。

宮田:この頃通信衛星っていうのが飛ぶ(ことは)、何か話題にもなっていた……。

和泉:そうですよ、話題になっていて。「あれはスパイだ」とか何か、やっぱり興味があるんですよ、我々はそういうね(笑)。だからそういったものを素材にしてビラとか何かでやったらどう、みたいなことで。(ケネディ米大統領の)暗殺事件もあったでしょ。そういうものも、「たぶん犯人は捕まったけど真犯人は違うんじゃないか」とか、そういういろいろあるじゃないですか(笑)。

宮田:そんな話をVICTORIAとかでしながら。

河合:そうなんですね。『ミキサー計画』(赤瀬川原平著『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』PARCO出版、1984年)だと、(和泉さんと赤瀬川さんの)二人で考えた、みたいな書き方をされているんですけど。赤瀬川さんは。

渡辺:赤瀬川さんはそう書いていますね。

和泉:あ、そう?

河合:そうですね。ここ(図録)も二人しか名前が載ってないんですけれど。

和泉:それはたぶん原稿を書いたからだと思うんですけども。

渡辺:本の中では、赤瀬川さんのおうちに二人でいらっしゃる時に、ラジオでそういうニュースがあって二人で思い付いた、という劇的な話だったのですけどね。

和泉:ああ、そう(笑)。

宮田:次に……(開いた図録のページの)この前になるんですけど、すみません。この頃って、グループ音楽だったり塩見(允枝子)さんだったり久保田成子さんだったりが活動されて、ニューヨークに行くというタイミングも重なってきて、そういう渡米されたりする方たちのお話っていうのは、面白そうだなっていう感じで受けとめてられましたか。

和泉:(図録の)どこの部分?

宮田:久保田さんだったり、塩見さんとかが……周りで活動されてる方たちが、アメリカで発表しに行くとか(生活する)国を変えて活動しようっていうのは、何か思ってたことってありますか。

和泉:塩見さんは何回か会ったりしたことあるんですよね。久保田さんはね、その後そういう活動をしてるって実は知らなかった。というのは久保田さんはね、私(大学入学にあたって)一浪してるんですね、で……。

宮田:すいどーばた……。

和泉:すいどーばた研究所(注:すいどーばた美術学院、当時の名称はすいどーばた洋画会)で久保田さんと一緒になったんですよ。それで、あの人は教育大(東京教育大学、現・筑波大学)の方に行ったんですね。その後それぞれがどうしてるかっていうのは音信不通だったんですよ。で、ずーっと隔てて、私が知ったのはあれなんですよ、パイクさんと結婚したっていうのを(笑)、ぐらいから知ったんですよ。だからどっかでアメリカに行ったとか、その時はほとんど私はあんまり知らなかった。

[動画カメラの充電が切れ一時中断]

和泉:後で聞いたら、私は知らなくて、久保田さんの方がフルクサスだとか何かそういった経由で、私がかつてそういう活動をしてたとか何か知った、そういういきさつみたいですね。

宮田:その、フルクサス新聞と呼ばれているものに、和泉さんの1回目の個展の案内などが載っているのは後から知られたんですか。

和泉:そう。だから私も見たこともないし、それは。許諾も何も得てない(笑)。……(フルクサス新聞が)その(図録の)中にどこかにあるの?出てる?

河合:(ページをめくりながら)出てるんですかね……。これ(図録に掲載されているフルクサス新聞の記事)はハイレッド・センター(について)ですね。

和泉:そうですね、じゃあどこかにあるのかもわからないね。

渡辺:アメリカに行って作家活動とか自分でもしてみたいな、とか思われたりしたんですか。

和泉:それはあまりなかったですね。あと、勤め人になってアメリカに行った時に、ソーホーとか何かちょっと行ったことがあるんですけども。一番盛んな頃とはまたちょっと需要が変わっていたような気がしましたね。

河合:それはいつ頃ですか、仕事で行かれたのは。

和泉:行ったのはね、80年くらいですかね。

河合:その頃まだ向こうに残っていた、(60年代)当時東京で一緒に活動していた(方は)……。

和泉:刀根さんがいた。刀根さん、だから向こうで会ったんですよ。

河合:向こうで会ったんですか。

和泉:あの頃久保田さんはどうしてたかな。久保田さんには会わなかったですよね。

河合:篠原さんとかもいましたよね。

和泉:ああ、そうそう。だけど私はギュウちゃんとはあまり。画廊には来て「ああ!」ぐらいはするけどね。さほど、話まではいかないんだ。せわしなくて(笑)。

河合:作品見ても方向性がだいぶ違う感じがしますものね(笑)。

宮田:(60年代当時)フルクサスの活動の情報なども特に入って来ず?

和泉:そうね、最初の頃に少しはあったけども、その後さほど私は知らなかったですね。情報としては極めて少なかったと。

宮田:千円札(事件)が始まりますか……?「大パノラマ展」(図録pp.128-133)がありますが、これは。

和泉:私は参加してないと思います、これは。

宮田:そうなんですか。(図録によると)参加者にお名前が……。

和泉:ある?

河合:お名前出てますよ。でも、こっち(『東京ミキサー計画』)にはないですね。

宮田:特にじゃあ記憶にはない。

和泉:うん。

河合:会場には行かれたんですか。

和泉:いや、それね、もしかしたら行ってないかもわからないですね。

宮田:そうですよね、だって(会期中画廊は)閉まってるわけですもんね。それで最後の日にオープンという。

河合:クロージングの日にオープニング。

和泉:(笑)。

宮田:「こんなことをやるよ」っていうのは何か話で。

和泉:ええ、それは来たと思います。

宮田:次に、64年の6月に「OFF MUSEUM展」。これもお名前が挙がってないようですけど。

河合:『美術手帖』を見た時に名前が載ってなかったと思います。なので、参加されていなかったんでしょうね。

和泉:と思います。

宮田:この頃はお仕事の方が忙しくて。

和泉:そうですね、これは。

宮田:アンデパンダン展は、大学生の時にはご存じなかったということですけども、その後見に行くってことはあったんですか。

和泉:なかったです。

宮田:私たちが後から知ると、読売アンパンは物凄いもので、それが中心になって(美術界が)動いているような印象を受けていたんですけど……。

和泉:それは当時はそうだったと思います。やっぱり凄い。

河合:和泉さんはあまり関わってなかったですけど、ほかのハイレッドのメンバーっていうのは(「読売アンデパンダン展」)中止後、)「OFF MUSEUM」に出すか「アンデパンダン’64」に出すか、そういう話は結構していた?

和泉:そうですね。こういう関係(の人たち)っていうのは、いわゆる普通の、都美術館でやってる団体展ってのは絶対イヤなわけですからね。まあ、(そもそも)受け入れてもくれてない(笑)、都を優先しないとね。みんな審査なんかされるのはけったくそみたいな人たちばっかりだから(笑)、その時本当にここは格好の場だったんですよね。規模もでかいし、一応読売新聞がやってたわけですから。だけどよく読売新聞はやったと思って、今考えると(笑)。さすがにたまらくなってやめたけど、そういうきっかけを次郎さんか誰かが作ったのだけどね(笑)。

宮田:「アンパンでこんなことやってる人がいたよ」みたいな話も皆さんとお話している中で。

和泉:それは後で聞きましたよ。どういうのって、そこは当時はやっぱりすごい場所だったっていうね、それは聞きましたけどね。

宮田:この頃評論家の方たちも活発にいろいろ発言されたりすると思いますけれど、その交流はありましたか。和泉さんが、中原(佑介)さんだったり東野(芳明)さんだったり針生(一郎)さんだったり。

和泉:私はあまり評論家好きじゃないから、ほとんどなかったと思いますね。

宮田:《ドロッピング・イベント》(1964年10月10日、図録pp.139-144)になりますが。これは参加されてますね。

和泉:してます。

宮田:《ドロッピング・イベント》は……「イベント」じゃなくて「ショー」だった のですね。(《ドロッピング・ショー》という図録の記載を受けて)。

和泉:それは、あれでしょうね、たぶんこれはカメラマンの平田(実)さんが週刊誌から持ち込んで、どうかと。それは面白いんじゃないのっていうことで、やったんですよね。だからハイレッド+αのメンバーはそこにいますと思いますけどね。

宮田:風倉さんとか。

和泉:はい。

宮田:この《ドロッピング・ショー》は、平田さんからお話があって「じゃあ何をしようか」っていう中で……。「ハイレッド・センターを撮りたい」っていう形で依頼があったのですか。

和泉:そこはどうだったですかね……。

宮田:この頃、物を落とすことっていうのに皆さん関心があったのですか。衛星とかそういう、重力とか。そのへんのことが話題に上がっているっていうことはご記憶ありますか。

和泉:物を落とす、落とそうっていうのがどこであれしたか(思い付いたか)記憶ないですけども。落とす場所って意外となかなかないのですよね。一般の路上だとか何かで物落とすとたぶんこれはできないことだと思うので。そういう、場所が限られた、みたいなこともたぶんセットになってたんじゃないかなと思いますよね。

宮田:落とす前に実験とかされたんですか。こんなふうに落ちる(と)。

和泉:いや、そういうことはあんまりしないんですよ。行って。

宮田:一発で。

和泉:可能な限り。平田さんが(事前に)行ってるかもわかりませんよ。だけども私たちはたぶん行ってなくて、その場でできることをやったというようなことだったですね。

宮田:落とすことは決まっていて。わりと皆さん鞄とか持ってきている。天気が良いけど傘とか。落とすものとして準備されて。

和泉:それは(準備)しました。何を持っていこうか、とかね。

河合:前もって話し合って。

和泉:ええ、それはいろいろ。「こういうものが広がりやすい」だとかね、そういうことは。

宮田:ああ、「鞄の中も出るかもしれない」とか。

和泉:鞄はこれ、高松次郎さんの鞄じゃないかな。(図録の写真を見て)これは儀式ですから、ちゃんとネクタイをしてみんな行こうというふうな。そういうことは決めるんですよ、位置づけは(笑)。

宮田:わりと(イベントを)やるってなるまで、行為するまではしゃべらないとか、あまりそういうわけでも?

和泉:いや、そこまでは別にやらないです(笑)。

河合:落とすのは、建物の下に落としたり、屋上に落としたりしてますよね。これは何か。

和泉:これは、(当日)行ってみて、屋上よりさらにちょっと小高いところがあったのが、たぶんこれですよね(写真を指して)。それで、もうひとつ屋上から下に、道路ではなくて、落とす場所がたぶんあったと思いますよ。

河合:では道路には落としてない?

和泉:道路には落としてない。はい。

宮田:危なかったりしたんですかね。これで、行為を行った後に、「今日はうまくやったね」とかそういう会話は(笑)。振り返ったりしないということで、反省とかも(ない)?

和泉:ほかの人は知らないですけども、私は「これで終わり」だと(笑)。

宮田:ハイレッド・センターとしても終わった後も、何か「ああだったね」と言うよりも、次に、次の話っていう感じで?されてたんですね。

河合:あ、これ(図録p.144, C108.)、鞄ですね。

和泉:それ、何かね、次郎さんいわく由緒ある鞄か何かで。

河合:年季の入った鞄ですね。

宮田:そして、続けて路上清掃(《首都圏清掃整理促進運動》1960年10月16日)の話に入っていきますが。この路上清掃は、刀根賞、内科画廊で開催された刀根賞の応募作品だったという。

和泉:それは、どうかな……?

宮田:(図録p. 145, B51, B52を示して、)こういう、皆さんと応募用紙みたいなのを見た記憶は、特に。

和泉:私は覚えていないけど。刀根さんが作ったのかもわからないけれど、それは。

宮田:路上清掃はどういうふうにやるって決まっていったのですか。

和泉:それは、当時オリンピック控えてたでしょ。国を上げて街をきれいにしようという、国立競技場あたりは洗濯物(を外に干す)制限が出てきたりとかあったじゃないですか。「なるほど、私たちも銀座をきれいにしよう」ということですよ(笑)。

宮田:なぜ、銀座だったんですか。

和泉:やっぱり象徴的な、まず、場所が一番ですよね。たぶんほかに行くとしたら国会議事堂ぐらいか何かしか(笑)。だけど銀座は一般の人も通ってる。やるからには目立ちたいっていうのは当然あるんですよ、これは(笑)。

宮田:そうですよね、人に見られないと。この時は結構メンバーが増えてますけども、これは参加したいっていう人が入ってきた?

和泉:そうですね。ハイレッドだけではないという、刀根さんたちが入ってるとすれば、何人か声掛けたという人も。

河合:(刀根さんではなく)川仁(宏)さんと谷川(晃一)さんですね。

和泉:そうですね。

宮田:スタート地点とか、最後、ゴール地点みたいなものを決めてやってたんですか。それとも「このエリアのそこだけ」っていう?

和泉:エリアとしては極めて限定的なところがあって、場所もね。それぞれがやるのもですね、給水管だとかそういう金属をきれいに磨くだとかそういうことですから、敷石の一枚を丁寧に磨くだとかいうことですから。

宮田:担当を、自分が(道具?)持ってきてどこを磨くかっていうのを、事前に話してたりとかして?

和泉:そうですね、行ってみて、「じゃあこのあたりでやろう」ということで、「じゃあ私はここやるよ」みたいなことでそれは。一番ハイライトはやっぱりこれ(消火栓、図録p.149の図版C114)なんですよね。昔のちゃんとしたビルにはこれがちゃんとあって、これ真鍮でできてて、ちゃんとしたところはいつもピカピカ磨いてあるんですよ。それをタダできれいにしてあげようという(笑)。

宮田:これ、皆さんマスクとか白衣っていうのは、決めてこられたんですか。

和泉:これはどっかで借りてると思います、白衣は。

河合:途中から白衣がなくなるんですよね。

和泉:あ、本当だね。これどうなんだろう。時間が限定されていたのか、返さなきゃいけないとか何か。

宮田:結構遅くまで。モノクロなので写真はわからないですけど、ちょっとだけ暗くなってますよね。夜遅くまでやったんですね。

和泉:そうね、結構遅くまで。

宮田:そんなに移動距離はないと思うんですけど、この「清掃中(掃除中)」の看板を設置して、スタート。

和泉:そうです、それは。

宮田:このデザインはどなたが。

和泉:これは、原平さんか何かだと思うんですけどね。

宮田:この時に、何か話しかけられたりとか。写真で、警官が近くにいる写真とかもありますけど、話しかけてくる方とかおられましたか。

和泉:何人かはいたと思いますけど、すごくいいことやってるわけだから(笑)。

宮田:堂々と(笑)。

和泉:そう。長く見てると「この(敷石)たった一枚しかやってない」と(笑)、だけど通りすがりで見ると、「あ、きれいにしてるんだ」という行為だからね。

河合:横断歩道とかもきれいにしたと。車も止めて(笑)。

和泉:そうね、ちょっと。そうですね。

河合:そういう時もやっぱり「清掃中」という看板を立ててやると、協力的ですか(笑)。

和泉:うん、ちょっとね。なんとなく騙されてるのか何か。疑われない(笑)。

宮田:休憩も挟みながら遅くまでされたんですかね。

和泉:いや別にたいした作業じゃない(笑)。重労働だったら休憩するけども(笑)。

宮田:終わって、「楽しかったね」っていう感じで終わり?

和泉:そうですね。

宮田:この頃、お仕事で映像を扱われていくようになられていくわけですけども、CMを作るっていう意味で。このあたり(図録pp.152-153)の、フィルム・アンデパンダンだったり、そういう実験映画との関わりだったり、実験映画とともに舞踏とかそういう身体表現との関わりっていうのはありましたか。

和泉:あまりもうなかったですね。

宮田:たとえば中西さんとかが土方(巽)さんの舞台の美術をやったりという時期もあったと思うのですけど、そういうのはご覧になったりはしましたか。

和泉:いや、それは一度も行ったことがないんですね。

河合:ハイレッド・センターとしての活動は、だいたいこの清掃のものくらいですか。

和泉:そうですね、うん。プレ・ハイレッドとハイレッドと、後期ハイレッドを入れるとすれば、千円札事件はそこに位置付けられると思うんですよね。だけども4人でやったっていうのは、その、清掃だと思いますね。

渡辺:これをクライマックスにしようということがあったわけではなくって。

和泉:いや、そんなことは全然ないです。

宮田:皆さん逆に、千円札の方にばっと忙しくなって、集中していくっていう流れがあったという。

和泉:それはだって、今でも解散宣言はしてないということで(笑)。夏之さんはどっかでそれらしいことは言ったよみたいなことは、言ったらしいのだけど。

宮田:このあたり(「千円札裁判」のページ、図録p.158〜)が66年ですけども、60年代、67年から70年くらいにかけては、もうお仕事が忙しくて。

和泉:そうですね。

宮田:ハイレッド・センターが千円札(事件)にどんどん集中していった時に、少し、お忙しかったのもあったと思うのですけど、何か自分で制作をしたりとか発表をしたいなという気持ちよりは、仕事の方にどんどん集中していくかたちだったですか。

和泉:そうですね。

宮田:仕事の中で、さっき「どんどん仕事が面白くなって」っていうのは、具体的に……。デザインをして、たくさんの人と物を作るっていうことだったり、それにお金がちゃんとした成果として表れるっていうことだったり、どういう点で惹かれていったのですか。

和泉:やはり、プレゼンテーションをやって、クライアントってのは厳しいですから、制作の質とあとは掛かる費用も含めて向こうは判断するわけですね。その時何社か、いわゆる共同プレゼンして、一番嬉しいのは勝った時ですよ、プレゼンしてね。当時はしょっちゅう電通、博報堂と一緒にプレゼンテーションするみたいなことがあって、そこで獲得するっていうのは一番のあれなんですね、ご褒美なんですよ。だからそれを味わうとなかなかね、当時(笑)。

宮田:71年に櫟画廊で個展をされますが、これは少しお仕事が落ち着かれて、自分の時間というか、発表したいという気持ちが生まれてきたのですか。

和泉:そうですね、そういうことがあって。結果的に私はそれは失敗だというふうに自分で位置付けているのですけどね。ちょっとなかなか、やりたい表現が未完成のままやったみたいなことがあるのですよ。できれば、たとえば身体なら身体で、よくプラモデルのあるじゃないですか。最近はもっと精密なものができていて、昔はプラスチックでいろいろな部品があったりして、それを解いて、中にいろんな部品があって、枠がこうありますよね。ああいったもの本当は作りたかったのですけど、なかなかそこまでいかなくって、単なる平面処理だけで終わって、あまりよくなかったんですけどね。

河合:作品としてはそのプラモデルの枠があって、中に部品がついているようなものを?

和泉:そうですね、素材としてはその中で、人間を素材にしたかったですけどね。

河合:それも来場者が参加するようなものなのですか。

和泉:いや、その段階ではそうではなくって、できれば後ほどそれを解いて組み立てができるというふうなところまで持って行きたかったですね。

宮田:それを(個展に)出した時には、平面というか図面みたいな感じのものだったんですか。

和泉:うん、そうなんですよ。

宮田:櫟画廊で……なぜ櫟画廊だったんですか。

和泉:そこは当時そこそこの傾向のあれを、企画をやってたんですね。

宮田:仕事がお忙しくても画廊めぐりみたいなのはたまにはされてたんですか。

和泉:たまにしてましたよ。東京画廊とか南はやっぱり気にかかる画廊だったんで、行ってましたね。

宮田:70年代に入られて、会社が一度倒産というか作り直さなきゃいけないっていう中で、70年代はそういう会社作りみたいなのに集中されていくんですか。

和泉:それは短期間でしたけどね。

河合:70年くらいがちょうどその時期で、71年の頃にはもう落ち着いていて。

和泉:そうですね。

河合:その後はもう仕事の方に集中して。

和泉:そうですね。その後ですね、会社を再建しようということで。幸いにして倒産しなかったのです。ぼちぼちですけども会社が再建の見通しが立ったんですよね。で、その頃、今度私突然人事の方に行ったんですよ。最後はだから人事担当の役員で終わっているのですけどね。その途中で、実は堤清二さんなんかとの出会いがあるんですね。ていうのは、第一広告社とですね、堤清二……西武は(堤)義明さんの不動産関係、鉄道関係と、堤清二さんのいわゆる流通関係、百貨店だとかファミリーマートとか吉野家だとか、そういう大きな二グループに分かれていて、広告はその流通関係の方が当然断然多いわけですね。だからそこの、私たちはハウスエージェンシーと言っているのですけども、クライアントが広告を出す時、自分の中に広告会社を作ればお金がグループの中で回るみたいなことで、ハウスエージェンシーみたいなとこがあったんです。そこと第一広告社が業務提携したんです。当然ながら堤さんは社外取締役で入ってきて、だから株主総会なんかではあの人と会ってました(笑)。

宮田:繋がりがあったんですね。69年くらいに奥様と出会われ職場で結婚されて、一緒にCMを作ったりとかもされてたんですか。

和泉:一緒に仕事をしたことはありません(笑)。

宮田:じゃあその後、奥様はお仕事は少し続けられて?

和泉:しばらく勤めてましたね。で、辞めた後もフリーで何か仕事もらってやってました(笑)。

宮田:じゃあわりとおうちでも、こんなデザインだったり、クライアントに対してこういうプレゼンをしたらいいかなとか、そういうお仕事の話もされてたのですか。

和泉:それはしてないです(笑)。

宮田:一緒に展覧会を見に行ったり、美術の話をされるっていうことはありましたか。

和泉:それはやりましたね。(仕事の話題に関しては)ユーザーとしての意見を聞いたりとか、そういうことはありましたよ。「主婦感覚でどう思ってるの」とかですね(笑)。

宮田:その後、ご自分の作品を作るっていう気持ちになったり、何か人に伝えたいっていうよりは、お仕事の中で社会に関わっていくっていう方が。

和泉:そうですね。その後クリエイティブ的なことをするっていうことはあまりもう、現在まであまり考えていないですね。

宮田:ちょうどその80年代に入ってくると、60年代を振り返るような機会っていうのがこういう美術界でも始まると思うんですけど、先行して70年に『美術手帖』でハイレッド・センターの活動をまとめた一枚の……。

和泉:「全貌」。

宮田:全貌を作られますけど、あれは依頼があって作られたんですか。

和泉:そうですね。

宮田:どなたからの依頼だったんですか。

和泉:あのですね、直接私に来たのかどうかちょっとわかりませんけども、この前あの方と……。

宮田:福住(治夫)さんですか。

和泉:ええ、会ったのですよね。依頼の経緯(いきさつ?)はちょっと忘れてます。ただ少なくとも皆さんの了解を得てやったっていうのはちゃんと、手続きはしてますけどね。ていうのは、材料とか何かを私はほとんど持ってなかったものですから、いろんな写真だとか提供してもらっていますからね。そういうことでやりました。

宮田:手書きですよね。すごい作業量だと思うのですけど、一気に集中して作られたんですか。

和泉:そうですね、あれはちょっと大変でしたね。もっと上手いといいんだけども。ただ、あれは本当に当時のですね、ハイレッド・センター周囲の人たちのリストはほとんど挙がっている、名前がね、挙がっていると思うんですよね。

宮田:じゃあ、振り返られて来なかったけれども、そうやって強制的に振り返させられる機会っていうのが、定期的に訪れるっていう(笑)。

和泉:そうなんですよ、そう(笑)。

宮田:その時作りながら、作ることで精一杯だったかもしれないですけど、何か思うこととかっていうのは。

和泉:それはあまりなかったですね。ていうより関わった人たちをできるだけ溢れないように、いろんな材料をですね、持って、名前を記載したっていうのがありますね。

宮田:じゃあご自分でも美手帖とか見直しながらとか。

和泉:そうですね。

宮田:それが出た後に、何か反響というか、連絡をもらったりとかっていうようなことはありましたか。

和泉:名前を勝手に使ったから場合によっては抗議が来るかなと思ったんですけど、それはなかったんですけどね。『美術手帖』には来たかどうかわかりませんけども。

宮田:その頃ハイレッド・センターの皆さんとの交流っていうのはどういう感じであったんですか。

和泉:電話で時々そういう話だとか何かしてたことはありますね。

宮田:それぞれの方の個展だったり、その後70年代以降ですけど、見に行くことっていうことは。

和泉:それはあります。夏之さんは結構丁寧にいつもですね、展覧会の案内状、今でも来てます。ただ遠いところがありますからね(笑)、なかなか行けないんだけども。大井町(ギャラリー21(現・gallery21yo-j))とかいろいろやってたじゃないですか、倉庫、あのあたりは行って。

宮田:横田(茂)さんのところですね。

和泉:ええ、そうですね。

宮田:80年代にこの『(東京)ミキサー計画』、赤瀬川さんの本が出ますけど、この時にもまた反響があったと思うんですが、また振り返りの機会を与えられたと思いますが、何か……?

和泉:いや、それは、私に対してはなかったんですよ。私がその後、作家活動してないということと、具体的に何も残っていないっていうことでたぶん認知度は極めて薄かったと思うんですよ(笑)、冷静に見て。だからそういうことで、それに対してはさほどなかったですね。

宮田:でも個展の指紋のことだったり、初個展のことが丁寧に書かれていますよね。読まれた時に、何か思うことって、懐かしいなとかありましたか。特に(はない)?

和泉:うんうん、とかいう(笑)。

宮田:「あったあった」という感じですか。

渡辺:「これは演出のしすぎだ!」とかありませんでしたか。

和泉:そういうのはたくさんありますよ(笑)。

宮田:「面白いな」っていう感じ?

和泉:そう。それはだって、事実と少し違ってることとかっていうのは結構いろいろありますからね(笑)。

宮田:それはそれとして?

和泉:それは、だけど記憶違いであったり。あるいは原平さんがちょっと面白おかしく書いてたりとか、いろいろあるじゃないですか。

宮田:90年になると、名古屋での赤瀬川さんの大きな展覧会(「赤瀬川原平の冒険 脳内リゾート開発大作戦」名古屋市美術館、1995年1月21日-4月2日)があって、また振り返りというか、紹介される時期が来ると思うんですけど、これはご覧になられましたか。

和泉:行きました。そこでトークやってますよ。

宮田:そうですよね、参加されて。皆さんと久しぶりに会った感じでしたか。全員、関係者の方がたくさん集まったと。

和泉:結構来てましたよね。特に原平さんファンの人がいましたからね。

宮田:何か久しぶりにお話して思うことってありましたか。

和泉:あの、あの時ですね……建築家の藤森(照信)さんが来てたんですよ。それで、始まる前かな……トークが始まる前かなんかで控え室でいろいろ話してたら、あの人が面白いこと言ってたのは……。原平さん、本人いるんですよ。原平さんが、いろいろたくさん書いてるでしょ。だけども締切に遅れたことがない。書くことにほとんど悩まなくてどんどん書けるんですって。そういう話を原平さんがしたら藤森さんが、「原平さんの脳の中はほかの人とは違って、脳で考えるんじゃなくて、目そのものがそのように、文章に書いてあるように見えるから。あの人は何も悩むことはないんだ」みたいな。なるほど(笑)。

宮田:特殊ですね(笑)。久しぶりに当時の作品を見たりする時に何か懐かしいなという感じですか。それとも。

和泉:そういうのはあまりないですよね。だけど、ずっとその当時の作品とか……作品の持ってるパワーが、それ以降の現在に至るまであれだけのパワー持った時代なり作品っていうのが、そんなに私丁寧には見てないんですけどね、ないなっていうのは、あの時もそうですし、今回(HRC展)の時もちょっとそれは感じますよね。

渡辺:(当時を振り返って)楽しかったなっていう感じですか。それとも若かったなっていう感じですか(笑)。

和泉:いや、若かったのは、それはそれで否定はしない質ですから。楽しかったっていう方が多いですね。

宮田:何か今もずっと続いている感じがしますか。それとも少し距離がある感じですか。

和泉:距離はないですよ、私は。その時々その肯定をして、私はだから、私なりのステップみたいなもので現在に来てるっていうふうな感じがしますけどね。

宮田:今回の名古屋と松濤の時に、ギャラリートークでお子さんやお孫さんが一緒に来られてるのがすごく印象的だったのですけど、わりとご家族でそういう話をされたりすることってあるんですか。

和泉:話はあまりしません。だけどそういう場を見せたりとかっていうのはいいんじゃないかというふうに。

宮田:お子さんに、「お父さんは昔こういう制作活動をしてたんだよ」っていうことを特に語るわけでもなく、一緒に見に来た時に……。

和泉:子供の方はある程度は知ってますしね。孫にも別にあれなんですけども、この前も孫は見に来てくれて、娘の孫の方も別の日に来たらしいんですけどね。若干それぞれクリエイティブ的な家族なんですよ。ていうのは、娘が嫁いだ相手は建築の設計してるんですよ。それで長男の方も広告会社なんですけども建築関係のことをやってて、連れ合いは設計事務所に勤めてるんですよね。だからあまりそういう世界に対して拒否反応っていうか拒否感もあまりないんですよね。

宮田:娘さんが何かしら自分の進路を考える時に「お父さんがこんなことをしてたなんて」っていうので関心を持つ時期っていうのはあったんじゃないかなと思うんですけど、いろいろ聞かれることってなかったですか。

和泉:関心は持つかどうかわからないけども、娘もコピーライターなんですよ。今でもフリーで時々やってるんですけどね。だから聞かれたことはないんだけど、ただ辿っている道を見ると、まんざら無関係ではないという感じですよね(笑)。

宮田:この間の展示を一緒にご覧になって、何か後で「あんなことしてたんだ」っていうようなことも特に話としては出ない?

和泉:男の孫は「缶詰がほしい」って言ってました(笑)。そんな言い方ですよ(笑)。

宮田:いいなぁ(笑)。

渡辺:「おじいちゃんすごい!」とかないんですか。「おじいちゃんすごいね」みたいなことを言われたり(笑)。

和泉:いや、なんかね、「なんか有名人だったんだね」みたいなことは言ってたらしいんだけど、別に(笑)。

宮田:お孫さん何歳くらいなんですか。

和泉:今……娘の孫の方が(小学校?)2年生と年長かな、幼稚園で。それで長男の方の孫が、一緒の日(松濤美術館のギャラリートーク)に来てくれた孫が、女の子で年長です。

宮田:これから何か関心を持つかもしれないですね(笑)、ちっちゃい頃に見ていたら。

和泉:今はね、最近の生活っていうか、勤め人をリタイアしてから、普段通りの生活をしたいっていうふうなね、そういうことがあるんですよ。もうリタイアするから毎日住んでるところにいるわけじゃないですか。だから今、そのコミュニティでいろんなことが、町内会とか自治会みたいなことがありますよね。そういったものも普通に役割が回ってくればやるみたいなことでですね、やってます。それが今すごく大切なんじゃないかなというふうなことですよね。あとは、あれやってるんですよ。焼き物(笑)。

宮田:それはご自分で使われる、日常的に使うための。

和泉:そうです。

宮田:じゃあ、改めて土を触るっていうような(笑)。

和泉:いやいや、それも普段通り、普段使いの器で。今度送りますよ。

宮田:嬉しいです。今、松濤の展覧会とかもそうですけど、アメリカとかでも60年代の振り返りだったり評価みたいなのが始まっていて、この二人(河合、渡辺)も研究の道で関わって来られてるんですけど、そういう60年代に注目するアーティストでも研究者でもいいんですけど、何か……伝えたいっていうことがあるとは思わないんですが、今までのインタビューを受けて(笑)。それでも何か伝えたいことだったり、こういうことが大切だったよというか、何かこんなことが話せたらいいなって思うことありますか。

和泉:あの……パワー自体も最近どうかなってのはもちろんあるんですけども。かつての60年代のああいうことからすれば、もっと、クリエイティブな世界ってなんとなく開かれてる感じがするのね。いわゆる垣根が極めて低くなったりとか、別な言葉で言えば何でもありみたいなこととか、あるじゃないですか。ただ、少し違和感っていうのが。それがなんなのかっていうと、少しコマーシャルベースみたいなね、そういう部分が常に、画廊なり画廊主なりみたいな何かそういうものがこう……。

[部屋の電話が鳴る]

和泉:時間?

宮田:はい。大事なところで切られてしまいました。

和泉:(が)あってね。作る側も結構そちらをなんとなく意識しながらやってる。その部分がつまらなくなっているような感じがするんですよね。名前を出したらあれだけども、それは後で消しといて。

一同:(笑)。

和泉:村上隆だとかそのあたりね。非常に。奈良(美智)さんはちょっと同じような使われ方をしてるけどもちょっと違うと思うんだけど。あのあたりは何だろうっていう感じが正直なところちょっとしてますね。知らなかったんですけど、奈良さんが(の)、先生が櫃田だったらしいですね。だから櫃田はそういういい作家をすごく生み出してるみたいな、後で(知った)。

宮田:櫃田さんとはご関係が。

和泉:大学時代だとか、当時の考え方とか、内科画廊に足を運んでくれたりとか。……そういうのがパワーが足りなかったり、するんじゃないかなという感じがちょっとね、思ってるんですよ。

宮田:今、若手のそういう表現は、いろんな関心を持ちながら、見続けておられるんですか。

和泉:せいぜい新聞見てる程度ですけどね。そのあたりを、いわゆる国際化だとかグローバル化だとかそういった面ではかつてからすればそれなりのものができていると思うんですよね。だけどなんか物足りなさみたいなことはちょっとそういうところに。全部が全部じゃないですけども、いわゆる商品化されている傾向が。だからコマーシャルギャラリーにとってみれば、いい。そういう育て方をしてるのかわかりませんけどね。それをだから作家たちも心得ながら、賢くやってるような、そういう部分がちょっと何なんだろうというような感じがしますけどね。

宮田:松濤でも名古屋でも熱心に見ている私たち世代の人たちがいたということで、また違う魅力を60年代だったりハイレッド・センターの活動に憧れを持ちながら、今ない部分だったり、今自分たちが考えたいことっていうのを何か映し出してくれる。強いメッセージはないけれども何か感じさせてくれる場として足を運んでいるのかなという印象を受けたのは、そういうことがあったのかもしれないですね。

和泉:結構若い人たちが来てくれて。

宮田:何かいろいろ聞かれたりしましたか、やっぱり。(ギャラリートークで)結構捕まってましたよね(笑)。

和泉:そうですね(笑)。最終的に(展覧会)何人来たか聞いてます?

宮田:聞いてないです。

和泉:なんかね、一万人はいかなかったんですけど、松濤で9000人くらい。カタログもすごく(売れて)。名古屋では販売しなかったんだけど(注:会期当初は販売されず)こちら(松濤)ではすごく売れて、2500部くらい売れたという。すごいよね(笑)。

宮田:それは、皆さん持って、各地に、家庭に2500の場所でそれがあるっていうことは、またちょっとハイレッドっぽいですね(笑)。

和泉:(インタビュアーに)皆さんの方から逆に何かありません?

渡辺:逆に何かしゃべり残したこと、言っておきたいことは。

和泉:いえ別に(笑)。お役に立ったかどうか。

河合:いえいえ。

宮田:ありがとうございました。長時間、ありがとうございました。