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加藤好弘オーラル・ヒストリー 2015年8月21日

所沢市の自宅兼アトリエにて
インタヴュアー:細谷修平、黒ダライ児、黒川典是
書き起こし:五所純子
公開日:2016年8月13日

 
  撮影:黒ダライ児(Photo by KuroDalaiJee)
加藤好弘(かとう・よしひろ 1936年〜)
美術家
1936年名古屋生まれ。1959年、多摩美術大学美術学部絵画科を卒業後、名古屋にて岩田信市らとともに〈ゼロ次元〉として活動。1963年1月の名古屋栄町における「はいつくばり行進」を皮切りに、東京を中心に「儀式」と称したパフォーマンスを長期にわたり膨大な回数行なった。幼少期の満洲での体験、前衛美術家や映像作家などとのジャンルを越境した様々な交流、〈万博破壊共闘派〉の結成など、その実践と思想が語られている。本オーラル・ヒストリーは、長期にわたり〈ゼロ次元〉の調査を続けている戦後日本前衛美術研究家の黒ダライ児氏、同氏の著書『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(2010年、グラムブックス)の編集者であるグラムブックスの黒川典是氏とともに行なわれた。また、本オーラル・ヒストリーは、〈ゼロ次元〉の岩田信市インタビューとともに、韓国・光州のアジア文化の殿堂(Asia Culture Center)との協働で行なわれ、同時に行なわれた映像記録をACCではアーカイヴしている。あわせてご参照いただきたい。

細谷:ぼちぼち始めますね。加藤さんは1936年に名古屋でお生まれになった。加藤さんのご家族、お父様やお母様について聞かせてください。

加藤:お父さんがいるんだけど、家にいないのよ。軍隊で満洲にいた。1回行って帰ってきて、こっちに1年いて、また満洲に行っちゃった。ほとんど帰ってこない。普通は2回も召集されることなんてないんだよね。だけどいい歳こいて行くということは、特殊な任務があったんだと思う。俺が4歳か5歳の頃にハルピンか奉天にいて、そこで親父と会ったことはある。その頃、日本がやばいというので終戦の3年前くらいに帰された。親父の妹二人がハルピンにいたんだけど、その家族は終戦ギリギリで帰ってきたからボロボロだった。命からがら、よく命があったなという感じだった。なかなか親は言わないんだけど、あとで聞いたところによると、おそらくハルピンで「キャピタル」というキャバレーをやっていた。親父と親父の女きょうだいが経営していたんだと思う。日本から4〜5人くらい、チャイニーズがしゃべれる人と露助(ロシア人)とフランス語がややしゃべれる人を送っていた。しかも皆、一級品の美女で英語がしゃべれる人だった。そのキャバレーは、露助だ、フランスだ、アメリカだ、チャイニーズだ、朝鮮だ、7ヶ国くらいの美女が集まっていた。それを兵隊や商社マンが支えていたけど、一番支えていたのは満鉄。うちの親父はどうも満鉄と組んでいたんだよね。そういったものと軍隊が組んでいるので、表向きは日本人の経営じゃなくて合資会社みたいだけど、どうもそこから帰ってくるお姉さん方としゃべっていると、スパイ合戦をやっていたことがわかった。情報交換をやり合っていたんだね。ほとんど嘘を流すことが情報交換なんだけど、嘘のなかで本当のことを読みとる。女でも特殊な子なんだよね。男を接待するんじゃなくて、相手の何々を聞き出せるとか、超能力者みたいな奴らがお互いにやり合っている。俺はそういう環境の子だった。朝鮮の記憶があるんだよね。朝鮮から移って上海にいたようで、4〜5歳の頃、高いカウンターの上に乗せられて、そこでコーヒーや何かを飲んでいた。周辺に来るのは外人ばかりで、中国人をチャンコロと言ったり、ロシア人は露助だったし、すごく蔑視的だったね。日本人が一番いい感じだった。その記憶はパリに行ったときにふっと思い出した。パリは昔の上海にそっくりなのね。日本では絶対にないような空間で、俺は4〜5歳の記憶がある。5歳でも僕だけは特殊でやばいとわかっていた。日本に帰ってくると、空襲がバンバン始まってしまう。

細谷:名古屋に帰ったんですか。

加藤:名古屋に帰った。帰った途端に疎開させられちゃってね。状況がわかってるんだよね。おふくろの在所が(当時は海部[あま]七宝町、現・愛知県あま市七宝町の)安松という七宝村だった。そこにお祖父さんとお祖母さんと俺と妹が送られて、一軒家で暮らした。学校は午前中になると空襲警報が鳴るので、1時間か2時間すると帰されてしまう。(疎開に行く前)名古屋で小学校1年生のとき、俺は変な塾に入れられて、そこには先生が羽織袴でいてさ。鞭を持っているんだよね。そこに10人くらいいて、いろんなことを質問されるんだけど、答えられないと鞭でピシャッと叩かれる。そういうすごいところだった。教科書も一切ないのに、全部答えるような訓練をされた。俺はどうもそこで2年くらい過ごしたらしい。普通の学校に行くときも、教科書なんか持たずに頭に入っちゃうようになっていたね。

細谷:まだ戦時中ですよね?

加藤:戦時中ですよ。そういう塾で育ってるから皆そうだと思っていたんだけど、違うんだよね。俺だけ変なグループだった。10人くらいの少年がいて、間違えると「総殴り!」と言うの。それで9人が1人を殴りに行くの。殴り方が悪いと「お前、殴り方が悪い!」とまた全員に殴られたりね。毎日ボカボカと殴られる、そういう塾だよね。

黒川:それは皆、男ですか。

加藤:男ばっかり。そういう塾に行くと、教科書を1回読んだだけで覚えるようになる。試験で間違えるときは、印刷が間違ったところをそのまま間違えるだけ。教科書を持たずに行ってほとんど頭に入ってしまうから優等生なのに、俺は毎日人を殴ることをやらされた。だからものすごく嫌われるんだよね。俺が歩くと皆がバーッと逃げていった。特殊なところなんだなと思った。満洲から帰って名古屋に半年くらいいたんだけど、俺の家は(名古屋市中区)南外堀町のお城の南側の大津橋の脇にあった。何百年前も昔からそこに住んでるんだけどね。その橋を17〜18歳くらいの女の子が笑いながら歩いていると、軍隊が来て「戦時中に何を笑っているんだ!立て!」と橋の上に1時間立たされるとか、「なんだこれ」と思うようなことがあった。土手があって、そこを瀬戸電(瀬戸電気鉄道、現・名古屋鉄道瀬戸線)という電車が走っているんだけど、土手で俺たちは毎日遊ぶのよ。そこに帽子をキチッとかぶった学生が100人くらいで穴を掘っていたんだよね。防空壕だ。毎日そこに行って掘っているのを見て遊んでいるんだけど、夕方になると10人か20人くらいが立たされて、右から左に軍隊式にビンタされるの。往復ビンタですよ。一人が殴ると、また次の奴が来て殴る。その塾と同じなんだよね。とにかく殴る蹴る。男というのはそういうものだった。ところがハルピンやあっち(上海)へ行くと、ものすごくにこやかだわ、優しいわ、何でもやってくれるわで、天国だったよね。何語をしゃべっていたかわからないけど、俺だけ特殊に扱われちゃう。日本人はほとんどいなくて、外人ばっかり。なのに日本へ帰ってきた途端に、すごいよね。毎日殴って鼻血を出して、そういうことがくり返される。田舎に行って疎開したら、いよいよB29が来た。夜は花火大会だ。眠れないね。しっかり焼夷弾が来る。そして俺だけ特殊に帰らされて田舎に行ったので、1時間か2時間か勉強やるだけで、一日中遊んでいた。畑へ行ったり、川でドジョウやナマズを捕ったり、「何だ、ここは?」と思っていた。上海と疎開先はパラダイスだったよね。あとは地獄なの。終戦のとき、お祖父さんとお祖母さんと俺と妹で住んでいたんだけど、お祖父さんが死んじゃった。田舎で葬式をやるのをお祖母さんと親父が嫌がって、親父と一緒に二人してお祖父さんを名古屋までリヤカーで持っていった。すると途中でものすごい臭いがしてくる。7〜8mの壁が左右にある通りにぶつかった。ものすごい臭いがして気持ち悪いなと思って、ふっと見たら、黒焦げになった死体が何千体とあった。ターッと積んであって、それが放置された中をリヤカーで歩いた。親父はわざと俺を連れて歩いたんだと思う。そういうところを突き抜けて歩いたら、子どもに会った。俺の場合は身なりをキチッとして帽子をかぶっているんだけど、その子どもは町で座り込んで煙草を吸っていたんだよね。俺と同じ5〜6歳だよ。外国で言うストリート・チルドレンみたいなのがゴロゴロいた。名古屋が焼け野原になって、全員がホームレスになっていた。一挙に家がなくなったから。

細谷:お父さんがわざと連れてきたと思ったのは、それを加藤さんに見せたほうがいいという判断をお父さんがしたからですか。

加藤:「リヤカーを引け。5〜6分で終わる」と言ったのに嘘ばっかりで、2時間もかかって頭にきているうえに、わざとそこを通っていくからね。そういう親父なのよ。ハルピンに行ったときはレンガ壁のすごい家で、名古屋の木造建築なんかとは全然違う世界だった。説明は一切抜きだった。そういう環境だった。終戦したら、俺の家族は7〜8人しかいないのに、40人くらいがダーッと来ちゃって、2階を占拠されて俺の部屋もなくなった。キャバレーの女所帯なんだね。2階に遊びに行くと、そこではなぜか日本語をしゃべってなかったね、日本人なのに。うちのおふくろや俺に聞かせないためだろうね。俺が行くと全然違う言葉になっちゃう。ものすごい綺麗だし匂いがいいし、俺はそこで寝るようになった。1階でおふくろを見ると、もんぺを履いて雑巾みたいな顔をしているし、それに比べて2階はすごいものだった。親父の女が4人いて、俺はそっちに行くようになった。「こっちもお母さんだ」と言われて、日本の母と引き揚げてきた母とね。俺は自分の母をやめて、こっちを母だと思うようにしようと思って毎晩そこに寝に行くんだ。そういう二重生活だよね。

細谷:ある種、最初の女性体験みたいなものですね。

加藤:そう、女性体験だよ。

黒川:それが何歳くらいまで続いたんですか。

加藤:1年くらい。1年したら彼女たちは皆消えた。

黒ダ:日本の戦局が悪くなって、終戦でキャバレーを閉めて、そこで働いていた女性をお父さんが引き取ったということですか。

加藤:そうそう。親父は前に帰ってきていた。ひどい感じで帰ってきた。うちは食堂というか天ぷら屋で、特に夜になると別の店にするの。するとアメリカ人が来る。親父の女たちはその接待の天才だった。英語がベラベラだからね。彼女たちのためにヤンキーがチョコレートやケーキを持ってきて、毎晩宴会みたいに大騒ぎだったね。

黒ダ:食堂があったのと生まれたお家は同じところですか。

加藤:そうそう。好乃屋(よしのや)というの。名古屋の南外堀町。大津橋ともいう。有名なところだけど、そこがちょうど燃えなかった。毎晩、大宴会だ。終戦直後、僕は小学校へ行くんだけど、俺が行った小学校はコンクリートの3階建てで燃えずに残っていた。1階の2つの教室に、1年生から6年生まで全員が入っていた。まだ帰ってこない人もいたからね。教科書はなしでね。2階や3階はホスピタルといって病院になっていた。そこにはアメリカ人がブワーッといて、昼になると白い風船が飛んでくる。それを俺たちが取りに行くと、先生が「触るな!」と怒るの。ヤンキーが衛生サックを何千個と膨らませて飛ばしていたんだ。子どもがそれを取って持っていくと、「ギブミー・チョコレート」でチョコレートと替えてくれるんだよ。悪いことやってるよな、あいつらも。おかしいよ。そういうふうになじんじゃってね(笑)。急に世界が変わっちゃってね。地獄と天国、地獄と天国だった。今(自分は)78歳なんだけど、たしか8歳で終戦だったと思う。満洲にいたのは1年ぐらいらしいので、4歳から5歳までだと思う。

細谷:それは強烈に覚えているんですね。

加藤:覚えていますよ。ものすごく大切にされた。中国人や朝鮮人の息子たちをインド人のように扱っていたね。インドに行ってわかったよ。ボロボロの服を着て、あの感覚だね。

細谷:それだけ日本の戦局が、ある意味でよかったわけですね。

加藤:もうスペシャルだったわけだ。はっきりわからないけど、着ているものから何から全部違うよね。外国に行っても日本人がまるで頂点みたい。どこへ行ってもそういう雰囲気だった。露助というのも馬鹿にしていたわけだから。今考えたら、相手は白人なのにね。綺麗で背も高い。だけどへりくだってくるんだ。そういう状況で1〜2年いた。そのなかでスパイ合戦の「キャピタル」みたいなものの経営を親父はしていたわけだ。軍人であると同時に2回も行ったというのはおかしいよね。普通は1回行ったら半分くらいは死んでいるのに、うちの親父だけ死なないで2回も戦争に行っているということは、特殊なことをしていたんだよ。

黒川:加藤さんのお父さんは何年生まれですか。

加藤:何年生まれかな。知らないね(笑)。もう死んだんだけど。

黒ダ:もともと名古屋で飲食業をやっていて、兵隊にとられて満洲に行ったんですよね。最初に行ったときに特殊な才能を認められとか、そういう感じですか。

加藤:親父のコネクションを見ると皆、満鉄関係なんだよね。戦後に、うちの親父が通訳みたいな奴を連れてきて、僕に英語を覚えろと言った。ところが俺はヤンキーにやられたので、英語なんて覚えるもんかと思っていた。親父はしまいに日本語ベラベラなアメリカ人まで連れてきて、俺にぶつけるんだよね。何か変だなと思っていた。俺は全部、嫌だと断った。そういうことがあって、俺は中学校から高校に行くときに、左翼の組織に入っちゃったんだよね。

細谷:その前だと思うんですけど、北川民次さんの教室に行かれていましたよね?

加藤:そう。北川民次は中学校だったと思う。小学校へ行くと俺は「お前だけは特殊だから」ということで、違うクラス、絵だけのクラスに入れられたの。田舎でもそうだったんだよ。絵を描く連中だけいるクラスに放り込まれた。俺の家は町の中心部だからバカバカにやられて、中学校も燃えてなかった。だから大須という下町のほうに行って、そこで岩田(信市)と会うんだ。俺たちは居候で行っているから、岩田たちが威張っていて喧嘩をふっかけてくるんだ。こっちはけっこうお坊ちゃんで、あっちはやばい奴だったから、やられちゃう感じでね。岩田があっちの大将、こっちの大将は俺というふうでね。1年とか2年とか、1クラスが50人くらいいるんだよね。普通はああいう喧嘩の強いやばい奴というのは学業はできないよね。だけど成績表が貼り出されると、岩田も俺も50位以内に入っていて、ものすごく不思議がられたよ(笑)。廊下を歩いていると女が逃げていくくらい無茶苦茶だったのに。岩田も俺もそんなふうだった。変なふうに有名だった。

細谷:前津中学校に通いながら北川民次の教室に通ったんですか。

加藤:中学校のときに塾を紹介された。その前に、中学1年生のとき、北川民次とは別の塾へ行ったら、中学生のくせに大人のクラスに入れられて、ヌードを月に2回くらい描かされた。もうびっくりして「これはいいや!」とやってるうちに、ヌード(写生)大会があって、ヌードのお姉さんが10人くらいいて、描く奴が80人くらい、いろんな塾から集まっていた。そこへ行ったら俺の英語の先生が裸でいて……。それでヌードが描けなくなっちゃったんだよね。

黒ダ:現役の先生ですか。

加藤:現役の英語の先生だった。ショックだったよ。そこをやめて違うところに行って、北川民次に会った。俺はそうやって次から次に紹介されるんだよね。

黒ダ:小学校のときに絵のクラスに入ったというのは、絵がうまかったということなんでしょうね。

加藤:うまかったんだよ、たぶん。絵と体育だけ評判がよかった。

黒川:絵を好きになるきっかけはあったんですか。

加藤:ないよ。全然ない。

細谷:絵を描くのは好きだったんですか。

加藤:好きじゃないよ。飛行機や軍艦、兵隊の絵ばかり描いていた。それしか描かなかったね。でも見ると「こいつ、いける」という感じだったんでしょう。ヌードが嫌でしょうがなくて、違うところへ行ったら北川民次の塾だった(1949年に名古屋市東山動物園で夏季児童美術学校として開設、のち1951年名古屋市瑞穂区南山に北川児童美術学園開設。加藤がどちらに通ったかは不明)。

細谷:メキシコ帰りの北川民次ですよね?

加藤:そういうことは全然知らなかった。そこを出てから民次の本を読んだりして、高校時代にやっとわかった。

細谷:北川民次の教室の頃のことで、覚えていることはありますか。

加藤:メキシコの風景をよく見せてくれた。聞いてみたら、メキシコから帰ってから、日本でメキシコによく似た土壌を探したらしい。瀬戸は昔は瀬戸物の町で、土が掘られて瀬戸物をやらなくなったから、洞穴みたいなのがずっと残っているんだよね。「そういうところがメキシコに似ているから、俺はここに来たんだ」と言っていた。

細谷:教えられたことで覚えていることはありますか。

加藤:覚えてない。好きじゃなかったの、俺。仲間が全然違うんだよね。俺は大人の仲間に入れられて「お前は若いのにおもしろい」と言われるんだけど、周囲もおもしろい奴ばっかりなんだ。特殊児童みたいな奴ばかりでとけ込めない。でも先生がおもしろい人だったので、1年くらい通った。

細谷:北川民次はおもしろかったんですね。

加藤:俺にとってはおもしろかった。「絵を描くことは、お前自身が強くなり、闘うためだ」と何度も言われた。それがすごく印象に残っている。「日本には俺みたいな人はほとんどいない。東京には岡本太郎がいる」と言われた。そこで何気なく太郎を紹介されたんだよね。そういうことがあって、俺は瀬戸に(陶窯の洞穴を)見に行ったりして、すごいところだと思ったりした。ずっとあとになるけど、あさいますおが家出中学生の少女たちを10人くらい集めて、陶窯の洞穴で暮らし始めた。俺の名古屋の展覧会(日本超芸術見本市、1964年8月30日〜9月5日、愛知県文化会館美術館)で、10人の少女が紐で電車ごっこをやりながら「チンチンデンデン、デンデンゴッコ」とついてくるので、気持ち悪いなと思ったよ。岩田に「邪魔くさいな、あいつら」って言ってたけど、仕方ないよね。毎日来てやってるから。そういうふうにあいつらに出会っちゃってね。その後、あさいが伊豆で死んだんだけど(1966年7月31日)、不審なところがあると思って俺は問い合わせをしたんだ。だけど断られちゃって、様子がわからなかった。あいつは無鉄砲に行っちゃうところがあった。工藤哲巳が岡山にいて、あいつと同級生だったカメラマンの吉岡(康弘)さんがいる。友達だから自然に話していたんだけど、「そろそろ加藤、デビューさせようか」「そうしよう」ということで、吉岡が『宝石』に載せたのが実は最初なんだ(「あるエネルギー 反俗で描くおれたちの絵」、1966年1月)。吉岡のシリーズで、俺の評論を書くと言っていたのが深沢七郎だった。その頃、深沢七郎は〈ゼロ次元〉に隠れていた。右翼に追われていてね。俺の家に隠れていたり、うちの若い衆にも抱きついたりして気持ちの悪い親爺だけど、有名だし小説を書くから「仕方ないな」と言いながら置いておいた。展覧会をやると朝から晩まで店番をしてくれたりしたしね。

黒川:店番というのは目黒時代の明星(めいせい)電機ですか。

加藤:そう。あの頃は若いのが7〜8人いて、「君のチンチンはいいな」なんて言ったり、着物を持って走ったり、深沢七郎が皆を世話していたよ。(〈ゼロ次元〉の活動に)感動してものすごい顔をしていた。彼はそういうことをあまり言わなかったんだけど、あの頃は右翼に追われていたからね。

細谷:『風流夢譚』事件 (1961年2月1日、「嶋中事件」ともいう)ですね。

加藤:そのときなんだよね。彼が吉岡が撮った写真について〈ゼロ次元〉の評論を書くつもりだったんだけど、途中でやばくなって消えちゃった。それで吉岡が書いた。本当は深沢が書く予定で、原稿を半分まで用意してあったくらいだ。そのまま載せようかという話もあったんだけど、「尻はいい」とかメモみたいに書いてあるだけだったから使わなかったね(笑)。ああいうふうに(深沢のように)ベタベタするアメリカ人がリッチ(ドナルド・リチー)だったわけ。だから(リチーや)吉岡や深沢が〈ゼロ次元〉に来る目的は、男が裸でいるという、それを撮りに(見に)来ただけという感じだね(笑)。

細谷:話を少し戻して、1952年に大須事件がありますね。そのあたりをお話しいただけますか。

加藤:岩田も参加しているんだ。俺はポリが真正面からピストルを撃ったところを目撃したりはしていないんだけど、そういうかかわりから、明和高校に行ったら、俺の友達がどんどんもっていかれた。すると彼らがうちのおふくろに泣きついてくるんだね、「何とかしてくれ」と。うちの親父が愛知県警にコネがあったんだよ。

細谷:つながりがあったんですか。

加藤:右翼の根源なの。そのつながりは軍隊からきてる。

細谷:関係がずっと続いているわけですね。

加藤:明和高校は名古屋のトップ中のトップなので、そこを卒業したら就職から何からあらゆる将来を保証されているのに、そこで捕まってしまったら一生が台なしになる。それでうちに泣きついてくるんだ。俺が「どうしたんだ?」と訊くと、「親父さんを紹介してくれ。困ったことになった」と言う。すると「俺の仲間だ」と思うんだよね。彼とはちょうど1週間前に神社(詳細不明)で集会をやっていたんだ。

細谷:それは高校生ですか。

加藤:いや、高校生だけじゃない。(集会では)書くものを一切持たないで、やりとりをすべて暗記するんだ。

細谷:証拠を残さないんですね。

加藤:そういう集会を、見合い結婚という建前で神社を借りてやっていた。あの頃は神社が集会所だったね。

黒川:男女がいたんですか。

加藤:男女も大人も子どももいた。(共産党の)徳田球一の弟子たちだから半端じゃなかったね。ものすごく優秀な奴らだった。俺の場合は、芸術をやるということはマルキスト(マルクス主義者)になることだった。左翼のマルクスを勉強しないような奴はアーティストでも何でもなかった。左翼になるかその思想にかぶれるかが、アートをやって闘うということだった。アートは闘いだったんだと。そこであのメキシコの先生(北川民次)のことを思い出すの。人間として潰されないために、生きるために絵を描くのであって、綺麗だとか上手だとか関係ないと叩き込まれたからね。ヌードを描くことにワクワクしていた俺が、やばいところにもっていかれて変わっちゃった。そして高校時代は左翼に入った。俺は昼間に行くんだけど、(学校の)机の下に連絡事項を書いて貼っておくと、夜間の奴がそれを読む。主流の奴らは皆、夜間だった。俺がそういう運動家だったことを、おふくろだけが知っている。高校2年のときに家にポリが来て、俺は連れていかれちゃった。隠してあった150冊くらいの左翼の本、クロポトキンとかを全部持っていかれた。「この高校に行っているとお前の未来はないから、今から東京に行くように」と、すでに刑事が手配してあった。

細谷:それはお父さんの関係ですか。

加藤:いや、親父は一切口を出さない。それで2年生から俺は絵に入っていった。またデッサンに戻るんだ(笑)。マルクスの交換論に感動した。交換してやっと価値が出るということ。もともと山にある芋はタダだ。海の魚もタダだ。芋と魚を交換したときに初めて価値が出るのだということ。そこから俺は誘導された。

黒川:そこでは思想的なものだけだったんですか。たとえばプロレタリア美術についてどう思われますか。

加藤:生徒によってそういう段階があった。プロレタリアで闘うのと、思想だけで闘うのと、ふた通りに分かれていた。

黒川:加藤さんは主に思想だけですか。

加藤:そう。これが本当のアーティストになる道だと叩き込まれるから、絵なんて描いていられるか、ヌードなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。だけど高校に行って、北川民次とつながるわけだよ。ここから大学は難しいだろうし、美術学校だったらとろい奴ばかりだから勉強しなくても入れると思って、それで多摩美を選んだのよ。

細谷:左翼に入っていくなかでお父さんへの反発はなかったですか。

加藤:あるよ。俺はあるんだよ。黙ってあるのよ。あるから、英語をやれと幼児期に誘われたのに「しまった!」と思うんだけど、通訳とかヤンキーが俺を誘ってくれたのに、何か嫌だったんだよね。あの野郎たちは日本をこんなにひどい目に遭わせたのに何を言ってやがるんだ、というのがある。親父は負けたくせに次は英語をやらないといけないと言う。

細谷:切り替わっているわけですね。

加藤:奴は外人と同じようなものだから。横浜生まれの横浜育ちなんだけど、満洲で一旗揚げるという野心があったようで、まるで日本育ちではないみたいだ。親父は女も外人なわけでしょう。女も違うわけ。百姓のなかの米屋は、百姓に金を貸して働かせるというので高利貸しなんだね。米を管理して、自分の土地でやらせる。そういうところの娘をどうして親父は選んだのかと訊くと、戦争に負けたときに食えるからということで。だから一番の米屋の娘を嫁に貰ったって、婆(母)が言うの。当てつけなんだね。俺は4人の美女が母だと思っちゃったから、こっちの母は鬱陶しいし、汚いし雑巾みたいで嫌だと思っているけど、また実母のところに戻された。母が(加藤の左翼活動を)知っていてポリを呼んで、そういう相談に来られた。

細谷:進路相談みたいに来られたんですね。

加藤:捕まっちゃったらやばい。その中枢を見抜いているんだね。

細谷:かばおうというか、助けようとしていたんですね。

加藤:そうだね。ポリを呼んで脅されて、名古屋にいたら将来がないから東京に行けと。

黒ダ:このまま活動を続けていたらしょっぴかざるをえないから、と?

加藤:そうそう。親父もそんなことは全部知っとった。どうしようと(家族で)相談までして、ギリギリで(東京への進学に)切り替えたわけだね。俺の親族で引き揚げてきた従兄弟や再従兄弟は全部東大だからね。俺だけなんだよ、普通なのは。満鉄の連中や何かはボロボロの乞食みたいにして帰ってきてるけど、高校時代になると家は皆、東京に送り込んでいるんだよね。多摩美に1年行ったら昔引き揚げた連中がいて(自分を)紹介してくれるので、ぐるっと回るのよ。武蔵小金井とか、あのへんにいるわけだから。そこへ行くと全員が東大。「なんだ、こいつら」と思った。

黒川:大学で東京に行くというのは、必ずしも加藤さんの意思ではないんですか。

加藤:ない、ない、ない。多摩美なんて、しょうがないからだよ。普通のところだと入れないから、とにかくまた(名古屋に)帰ってくると困るので、受かるところということで多摩美を選んだ。

黒川:東京芸大などは受験していないんですか。

加藤:してない。しまったと思う。俺はデッサンをやっていたから絵は描けるのに。だけど俺は絵がダメだと思って芸大をやめた。

黒川:受けたのは多摩美だけですか。

加藤:そう。ストンと入った。(浪人)3年、5年のおじさんばかりで、行くと七輪を廊下に置いて、女房と秋刀魚を焼いて食ってるような生徒ばかり。3人くらいが現役で、あとは皆おじさんやおばさん。ものすごいやばいっていうのか、「うわ、これが大学か」って。その頃いろんな大学運動があって、あとで調べてわかったんだけど、そのときの学長と教授陣の7人衆か8人衆が早稲田を追われて多摩美に来ちゃったの。学長も含めて。それが俺に西洋史を叩き込んだ。

細谷:先生の名前は覚えていますか。

加藤:覚えてない。田中一松(1895〜1983年、美術史家、1947年に多摩美に着任)だけは知ってるんだけど、とにかく高校を出て東京へ行って、もうびっくりしたのが「学問ってこんなものか」という。西洋史でも何でもいいかげんに勝手なものでまだできていないから、「君たちがこれからつくるんだ」と言う先生ばかりなの。ものすごいハードなの。左翼と同じなんだよ。左翼に教わってマルクスを叩き込まれているのとレベルが同じだよ。西洋史、哲学史、日本史。田中一松もそうなんだよ。「お前がつくるんだ。日本に歴史なんてなかった」と言う。あまりすごいので、はじめは30数人いた生徒が最後は5人しかいなくなる。この多摩美の馬鹿たちと一緒になると人間が腐ると思って、ものすごい勉強するんだよね。初めて学問をちゃんとやったよ。美術史に入る、西洋史に入る。田中一松は「日本史は自分でつくれ」と言うのでね。とにかく日本には美術史なんてなかったと。全部、隋、唐から来たんだからと。俺が百済に詳しい理由はそこにあるの。18歳のときに叩き込まれたんだ、アジアンタリズムは。今俺がやってるアジアンタリズムはむしろ本チャンなのよ。そして日本には美術も何もなくて、真似して輸入したのであって、本チャンの敦煌に行かなくては絵なんて描こうが意味がないと言う先生10数人に囲まれて、東京に来て学問のすごさに打たれたし、人間になるってこういうことかと思った。あとで多摩美の後輩に訊くと、そんな先生は一人もいないし、歴史なんてやろうとする奴はいやしない。「加藤だけは別に何かやろうとしてたんじゃないの」と言われるくらい。とうとう卒業して、これを本格的にやらないといけないので名古屋へ帰った。それは奈良と京都へ通うためなの。密教をやって、華厳をやって、それをやることで中国史をやる。中国に行く金がないからだ。俺が帰って4年教員をやったのは、北川民次の教えを子どもに伝えることと、シュルレアリスムを子どものなかから引きずり出すテクニックを太郎に叩き込まれていたから、それを実験するため。そして、奈良と京都に毎週通うため。1ヶ月のうち2回は東京に行く。2回は奈良と京都に行く。そういうふうに学習をしに行った。

細谷:実験的な学習ですね。

加藤:本格的な日本史と中国史のなかに入ったんだ。4年では足りないんだ。

細谷:教職をとって子どもに教えるということは、自分の意思があったんですね。

加藤:もう1回名古屋へ帰れば、うちの親父のコネでどこでも入れるから。高校の免許を取ったんだけど、高校は愛知県(内)で(家から)1時間もかかるので、そこが空くまで名古屋の中学校に行けと(父に)言われて行った。そこで以前のレッドパージの連中に出会った。皆、教員をやってるから。それで1年で俺は日教組の愛知県の青年部長(詳細不明)になった。俺はアジが得意だから、あっという間に人気が出た。俺の中学校の校長が俺の家へ……。

細谷:教職員組合? 日教組?

加藤:そうじゃなくて、教員だけの組織のあるところ(詳細不明)から校長先生や何かになったりする、ちょっと特殊な学校なの。そこに預けられていた。俺が青年部長になったら即その年に、教頭が日教組の長になった。大人(本部)の日教組の部長が、同じ中学校で(青年部長の)俺を抑えるために来た。そこは親父の策なんだよ。飛び跳ねて戻るとまずいということで。そこの中学校が特殊だった。教頭も校長も全部、日教組の長の奴なんだ。そして教員組合なの。

細谷:子どもとの対話、岡本太郎のシュルレアリスムについておっしゃいましたが。

加藤:太郎が言っているのは、人間から必死になって生きようという意欲を引きずり出すことが絵だと。絵は金になったり有名になったりするものじゃなくて、お前自身がひとつのボートをつくればいいと言う。一人乗りの、生きるための。「浮き輪みたいなものだ」という言葉がカーンときて、そういうためだけに絵を描くんだということ。それと北川民次の言う、世直しのために描くということ。この世を変えるために描くということ、生きるために描くということ。この二人が言ったことがドーンと入る。骨ばかり描いたメキシコのシュルレアリスムのお姉さんがいて、夫(ディエゴ・リベラ)が壁画の天才で、(アンドレ・)ブルトンが来て彼女の絵を発見する。

黒ダ:フリーダ・カーロですね。

加藤:そこに俺の先生(北川民次)がいるの。どういうことを見たかというと、そこへトロツキーが来る。彼(リベラ)のアトリエにいて暗殺されるのとか全部あるわけ。(リベラは)フリーダ・カーロのパンツを洗ってるような人だったのか?とイメージできるから、そこの話と太郎の話が勝手に重なってくるわけ。

細谷:実際に教員になって、子どもとのやりとりはどういうものでしたか。

加藤:子どもというのは俺の実験の道具だった。

細谷:対話をする、何かを引き出そうとするわけですよね?

加藤:俺が学校の廊下を歩くでしょう。窓がバッと開いて「よっさ! よっさ!」と俺はヒーローだった。好弘だから「よっさ」なんだ。「廊下を歩かずに直接教室へ入れ!」と言われたくらい、ものすごい人気者だったね。教室に行くまでに全員がキャーキャー言う。

細谷:それは男も女も関係なく?

加藤:関係ないと思う。

細谷:すごくもてたんですね。

加藤:もてたどころじゃない。もうアイドルなのね。教室に行くと、勝手に15分演説をやるの。聞こうが聞くまいが、俺の訓練をするわけだ。

細谷:アジテーションをするわけですね。

加藤:そう。どこに行ってもアジテーションをやってる。それがだんだんとわかるようになるんだね、子どもっていうのは。揺さぶられてファンになってくる。ものすごく難しい話をしてるんだよ。その頃からロラン・バルトとかフランス思想の話をやってるんだ。

細谷:少し戻って、岡本太郎との出会いのお話を。

加藤:太郎は、俺が多摩美に行ってるとき(1955〜59年)、多摩美と同じ上野毛が彼のアトリエだったの(1954年5月に岡本太郎は青山に自宅兼アトリエを新築)。彼は演説に来るんですよ。教室に入れるのは30人なんだけど、あらゆるところから来て200人くらいになる。マイクを持ってやるんだけど、外でも聴いてる。とにかく太郎の人気はすごい。太郎の版画を刷るために、多摩美が石版画(のプレス機か)を設置する。そのときに俺が(アシスタントに)選ばれるわけ。

細谷:それで加藤さんは石版画を制作するようになるんですね。

加藤:石版画で先生方の絵を刷ったり手伝ったりする。だから版画教室じゃないのよ。講師の先生方のおつくりになるのを手伝う。もっとプロが来てやっていて、俺は水を汲んだり何だりをするだけで、昔の石版画は難しいから刷るなんてやれるものじゃない。それの手伝いをさせられて、太郎の絵も間接的にやった。太郎が新宿の喫茶店へ行くときには鞄を持って一緒に行って、彼があそこで2時間何をアジるのか、夢中になって毎回聴いていた。そんな2年間を暮らしていたね。太郎の鞄持ちだね。何でもかんでもやる。

黒ダ:新宿の喫茶店って?

加藤:有名な喫茶店で、風月堂という。風月堂に顔がきいたんだよね、俺は太郎と行くから(岡本はこの時期、東中野のモナミでしばしば会合・講演を行なっていた)。

黒川:その2年間は大学何年生のときですか。

加藤:3年と4年だと思うけどね。太郎と一緒になれるのは月に2日間くらいしかないんだけど、その2日間は版画をお手伝いするのと、太郎が遊びに行くのにくっついて行った。言っていることも暗記しようと思って、ベタッとくっついていた。だから太郎が太陽の塔にならなかったら、俺は闘争なんて起こさない。関係ないもん、万博なんて。糞食らえですよ。太郎がやっちゃいかんですよ。ああいうふうじゃないことを俺に仕込んでいたんだよ。「お前が生きればいいんだ」と言っていたのに、太陽の塔なんて、頭が狂ったと思った。太郎を諌めなきゃいかんと思って、俺は組織した。〈ゼロ次元〉が最後は〈万博破壊共闘派〉になるなんて思ってなかったからね。

黒川:政治的な動機というよりも、岡本太郎個人に対する思いが動機としては強いですか。

加藤:あったの。そして前の組織論が戻ってきた。もともと叩き込まれているから、組織屋なのよ。アーティストじゃないんだよね。戻っちゃったの。だから京大でも法政、早稲田、慶應に行っても、夜の全学連の集会になると俺は名演説家なんですよ。学生はとろいから言葉になっていない、喚くだけだから。「俺は万博反対というような針生一郎たちとは違う。反対じゃなくて破壊だろう!」と俺はやるから、ちょっと違うよね。言葉尻が全然違う。もともとそこ(名古屋での教員活動)で鍛えられていて、アジテーションはプロだからね。人を巻き込むからね。やれちゃうんだよ。大衆を洗脳して巻き込んでいくときには、1人の人だけにしゃべれという伝達があった。昔の左翼に「100人いても、1人だけ口説け」と教わっていた。俺は素人だから皆にもてたいというしゃべりをやってるうちに、教員の2年目に徳田球一の論理を思い出して悟る。1人を口説くだけでいいんだ。子どもがそうなの。「全員にしゃべるな。1人だけに語りかけろ。そのときお前の目についた奴だけでいい」。それを思い出したからね。三里塚(「日本幻野祭 三里塚で祭れ」、1971年8月16日)なんて3,000人を相手にしていたけど、1人だけにしゃべっているんだよね。ハリークリシュナ(ハレ・クリシュナ教団)なんか、ニューヨークのウッドストックでLSDを60,000錠配っていた。主催者になって俺の後ろで踊っていた。太鼓を叩いて音をやるのが〈頭脳警察〉でしょう。〈頭脳警察〉とハリークリシュナというロックの頂点の感性をもった奴がワッと来た。アメリカに帰ったときなんかでも、(グレイトフル・)デッドの追っかけだった。デッドの共同体のテントに潜り込んで一緒に回らないと、本当のロックなんてないんだよね。それをやることを表向きにするとやばいので、「俺は絵描きになる。アーティストになるんだ」と言っているけど、本当は絵どころじゃない。サイケデリックで頭はギュンギュンなるわ、本場でやるのと日本でシコシコやるのはわけが違う。だって野球場で30,000人の倍だからね。仲間だけで3,000人いて、半分はお客。アメリカでは60,000人いるから。3,000人の俺のファミリーと60,000人の奴が、彼(デッドのギタリストのジェリー・ガルシア)がビューンとギターを弾くだけで、1時間、皆もたない。いっちゃうから。ものすごい会場なんだよね。「何だこりゃ」っていう。煙草が右から左から延々と回ってくるわ、L(SD)をキメてるわ、ブラブラになって皆わけがわからなくなった頃、ビュワーンと出てくるのよ。その頃は半分がひっくり返っちゃってるからね。もっとすごいのは、500人くらいのポリが担架を持ってきて、1人ずつ救急車に運び出す。「アメリカって何だこりゃ!」と思ったね。ポリも参加しているからね。全然違う。これは日本なんかにいたら人間のスケールがせせこましくなる。そう思ってデッドに目が覚めたね。当時のアメリカのカウンター・カルチャーは太郎どころの騒ぎじゃなかった。

細谷:少し戻って、岡本太郎とシュルレアリスムの影響がかなりあったと思います。澁澤龍彦との交流はその時点ですか。

加藤:それはずっとあと。土方(巽)のところに行って、横にいた青年があとで澁澤だと聞いてびっくりした。三島(由紀夫)の顔は知ってたけどね。いつもは三島がしゃべっているのを皆で聞いてるだけだった。

細谷:シュルレアリスムは大学生の頃ですか。

加藤:そうそう。一番衝撃を受けたのはシュルレアリスムではなくて、図書館員になってシコシコやった天才のバタイユと、交換論(『贈与論』)を書いたマルセル・モースを太郎に紹介された。同時に針生一郎の、複製版画論(複製芸術論)の(ヴァルター・)ベンヤミンにガーンときた。結局、日本にはアートの土壌はない。すべてフランスだと。俺はおっちょこちょいだから、それにかぶれちゃうんだよね。それと歴史について、絵を鑑賞することは歴史を読むことであって、絵を芸術として見てはダメということを早稲田の先生(坂崎坦[しずか]、1887〜1978年、早稲田大学教授、1947年度より58年度まで多摩美に着任)に叩き込まれた。絵はいろんなものが記号として埋め込まれているので、歴史をやらなければ絵なんて一切わかるものではない。西洋の絵画は全部伝承されているので、オリジナルなんてものはないのだ。そう叩き込まれた。一人で勝手に描いたものは絵ではない。そう言ったのは多摩美にいた早稲田の先生なの。だからネオ・プラトン(新プラトニズム)のマニエリスムのすごさは、早稲田の先生に会わなかったらわからなかった。多摩美で叩き込まれた。マニエリスムというアラブ的なものを導入する、ものすごい革命がルネサンスにあること。それとベンヤミンの、人間が薄くなる、コピーのコピーでアウラが人から抜き取られるのは当たり前だということ。それがルネサンス論で重なった。ルネサンスのときに印刷術が広まることで、一人ひとりが神になる。グーテンベルグの印刷術とドイツ・ルネサンスを叩き込まれるんだよね。だから絵を描くことそのものは神を描くことではなく、神とのかかわりを描くということ。だからカラヴァッジオを初めて見たとき、俺は写実でつまらないと思っていたけど、とんでもない。巡礼者という普通の人が神と出会った瞬間を描いたわけであって、カラヴァッジオの絵こそ本格的な革命だということ。それは日本の西洋史を読んでいたのではわからない。先生はちょうどカラヴァッジオ研究のために向こう(ヨーロッパ)に行っていて、向こうの葉書を100枚くらい持ってきた。本がないから、そのカラーの葉書を見せてくれるのよ。「お前たち、手袋を持ってきて見よ」と言われるくらい大事にね。その息子が今、有名な評論家になってるけどね(坂崎乙郎、1928〜85年、1958年度より69年度まで多摩美に着任)。その父親の彼がそういうふうに教えてくれて、他の美術の先生と全然違った。その先生だけ。

細谷:大学時代にたとえば画廊を見て回るとか、他の美術家の作品を見て回るとか、そういうことをしましたか。

加藤:しない、しない。

黒川:アンフォルメルとか、あのあたりも素通りですか。

加藤:そうではないけど、土曜日だけは行くのよ。絵を見に行くんじゃなくて、酒を飲んで論争しに行く。タダ酒だ。

黒ダ:どのあたりのギャラリーですか。

加藤:銀座。村松(画廊)とか、7〜8軒回れるんだよね。日本人が描くのを絵だと思えなかったね。生意気だけど、本当にそうだった。つまらないのよ。

細谷:論争相手として印象に残っている人はいますか。

加藤:いないよ。俺が一方的にやってるだけだから(笑)。

黒川:それは論争じゃなくてアジテーションじゃないですか(笑)。

加藤:そうだよ。アジの訓練に行くんだから(笑)。

黒ダ:ちなみに、こんな写真(ネガの記載では1956年9月の「青美」[青年美術家協会展か]とある)が出てきました。1956年ですから……。これはアンフォルメルじゃないですけど、けっこう抽象絵画ですね。

加藤:抽象絵画だ。その頃ね、バケツに絵具を7つくらい溶いておいて、ハタキを7本置いておいて、それでバンバン描いてた。でかい絵なんだよね。全部、抽象絵画だよ。中学校で教室ひとつ与えられていたときに。

黒ダ:その描き方だとアンフォルメルという感じですけど、アンフォルメルには興味がなかったですか。

加藤:アンフォルメルは興味がないけど、抽象絵画でむちゃむちゃやることに好奇心があった。自分の絵を描くんじゃなくて、ぐっちゃぐちゃにやっているうちに無意識が出る。描くんじゃなくて、俺も知らない俺をひねり出す。

黒ダ:意識的にコントロールしないものを出すんですね?

加藤:そうそう。それははやりだったね。

黒ダ:広い意味ではアンフォルメルの部分があるのではないでしょうか。

加藤:そうだと思うよ。相当影響を受けてるからね、フランスのアヴァンギャルドに。

細谷:名古屋に教職で戻ってから、〈青年美術家協会〉をけっこう精力的にやりますよね。

加藤:まぁ、俺がつくったんだからね。

細谷:そこで兀下(はげした)巌さんとか。

加藤:同級生なの。多摩美時代の。

細谷:その頃の人の交流について。

加藤:俺が〈青年美術(家協会)〉をつくって2年目に、岩田が名古屋で〈ゼロ次元〉をつくった。〈ゼロ次元〉は俺がつくったんじゃないのよ。川口(弘太郎)が実は多摩美の俺の1年先輩だった。川口がフランスの小説を書いて、サルトルに惚れて、嫁が有名なボーヴォワールなんだが、サルトルの実存主義の影響で〈ゼロ次現〉という名前をつくった。川口が〈ゼロ次現〉をつくって、岩田とやり始めた。すると、〈青年美術家協会〉の名前がものすごくダサく見えた。それで〈青年美術家協会〉を潰して、俺も〈ゼロ次元〉に入った。それから川口を追い出して、看板だけもらってきた。

細谷:もう一人、小岩高義さんもいましたよね?

加藤:小岩は岩田の旭丘高校時代の同級生。岩田はあの頃、ちょっと天才だったんだよね。かけ離れていた。絵を見ると、100号くらいのキャンバスに赤い旗だけを描いていた。これでもうびっくりするよね。天才でかなわんなと思った。その天才に惚れて週に2回岩田の家へ通っていたのが、赤瀬川原平と荒川修作。二人は岩田の弟子だった。

細谷:岸本清子さんはどうですか。

加藤:岸本はずっとあと。俺の家の前が終戦直後、焼け野原になっちゃうんだよね。そこが岸本の家で全部燃えちゃった。あとでわかるんだけど、うちのおふくろが岸本の玄関を買いに行ったらしい。岸本のお母さんとうちのおふくろが友達どうしでね。玄関が150坪だった。岸本の家は100m四方あったね。岸本のお母さんは本当の岸本家のお嬢さんで、旦那は大学生のときに全国から8人集められた書生の1人で、全員東大に入るんだけど、そのトップの奴と岸本のお母さんは一緒になったというわけだ。男は全部買ってきている。そういう伝統の家だった。

黒ダ:医者もやっているんですよね。

加藤:やってる。岡本病院という。あれは岸本のお母さんの妹。名古屋では桁違いのトップクラスの金持ちだった。俺が大学3年生から4年生になろうというとき、岸本がうちのおふくろをたまたま知っているもので、俺の話を聞きたいということで、岸本と向こうのお父さんとお母さんが俺の家に来た。「(多摩美は)不謹慎で淫らなところじゃないでしょうね?」と言うから、「いやいや、お嬢さんにぴったりのところですよ」と嘘ばっかり言ったよ(笑)。「あんなところに行くのは上流階級の女だけだ」と俺は言い切ったんだよ。それで、岸本は多摩美に入った(1959年)。紹介するといってもいっぱいいるけど、ギュウちゃん(篠原有司男)がやっと世界をとり始めた頃だった。いっぱいいたけど、頭角を現し始めたのが篠原だった。だからまずギュウちゃんのところに送ったのよ。そしたら岸本が「加藤ちゃん、どうしよう?」と言うから、「どうした?」と。「ギュウちゃんが結婚してくれって言うんだけど」って。慌ててね(笑)。「あんな顔じゃ嫌だ。もっと美男がいい」と言うから、三木富雄のところに預けた。三木富雄の嫁がギュウちゃんの姉さんなんだよね。ギュウちゃんと三木富雄は親族関係だから、そこに預けた。三木富雄の姉さんが銀座でバーをやっていて、そこで働くと言って岸本はがんばり始めた。俺が名古屋にいた4年間、岸本が「今、これをやってる」なんて言ってくる。俺は月に1回、東京へ出る。荒川修作君のところに泊まったりして、そこで岸本を指導したりしていた。皆、仲間があそこに集まっていた。あのへんは皆が同窓生なのよ。

細谷:ギュウちゃんは学生の頃から知っていたんですね?

加藤:そうそう。工藤(哲巳)を知っていたからね。俺は工藤から入ってるから。芸大は週に1回行っていた。芸大の連中は「加藤、お前、卒業式に来なかったな」と心配したくらいだよ。

細谷:加藤さんを芸大だと思っていたんですか。

加藤:そう(笑)。

黒ダ:勝手に潜り込んでいたんですか。

加藤:描いたり聴いたりしていた。週に1回、芸大に行っていた。

黒川:何が一番の目的だったんですか。

加藤:いや、遊びに行くだけよ。目的は全然ない。授業を聴いても、芸大はレベルが低すぎる。多摩美の俺が行っていた教室に比べたら、中学校みたいなんだよね。「うわ、ここに来ちゃダメだ」と思った。でも絵を描く雰囲気はずっと芸大のほうがいい。アーティストは芸大、学問は多摩美、そう思ってた。そして両方行かないとまずいなと、俺は勝手に通ってた。

細谷:赤瀬川さんや荒川さんは名古屋の頃から知っていたんですか。

加藤:赤瀬川と荒川は、武蔵美(武蔵野美術学校、現・武蔵野美術大学)に行っていた。

細谷:赤瀬川さんや荒川さんも高校のときから知っていたんですか。

加藤:岩田のところで知り合った。俺が多摩美のときに国分寺にいたのは、婆さんのような金持ちの女と懇意になって、ある一軒家にいたんだけど、その婆ぁに嫌われて追い出されて阿佐ヶ谷に行ったら、あいつらがいた。週1回は俺の家にいた。俺がちょっと広いアトリエをもっていたので、そこで延々と飲んで3人で討議していた。

細谷:学生の討議ですね。大学を超えての。

加藤:そう。その頃、〈ネオ・ダダ〉(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、1960年3月結成)なんかができて、まだ〈ゼロ次元〉という名前はなかったけど(前身である〈0次現〉の結成が1960年6月、62年10月に改称)、俺も何かつくるぞという感じだった。

細谷:〈ゼロ次元〉にいく前に、〈青年美術家協会〉をやったのは何か目的があったんですか。

加藤:何もないよ。多摩美同窓生というだけ。

黒川:その頃、先生をやっているわけですよね。日教組は同時並行なんですか。

加藤:そう。俺は日教組の青年部長だった。名古屋の昔の仲間の左翼に戻っちゃったんだ。

細谷:時代的には60年安保じゃないですか。それは名古屋で迎えたんですか。

加藤:名古屋に来ているから、もうその頃、俺は安保はどうでもよかった。日教組という組織のなかに入ると、いろんな情報が全然違うんだ。まるで違ってくる。教職員になったら何かしゃべるときに、ものすごく都合がいい。

細谷:安保というものが?

加藤:いやいや、安保をやっちゃなんだよ。安保闘争云々と言うと、教員は学校で馬鹿にされちゃうんだよね。

細谷:個人の意識ということですか。

加藤:安保に対して教員は教員のなかでどのような運動を起こすか、それをしゃべるのに日教組へ行くと、昔の左翼が全国の闘争情報を俺に叩き込むからいやすい。そのためだけなのよ。ただ4年すると、俺がアート革命論をしゃべれるものだからどんどん押し上げてくる。これはまずいと思って逃げた。そうすると俺自身が危なくなる。

黒ダ:押し上げてくるとはどういうことですか。

加藤:名古屋の日教組の青年部長にするとか、全国で加藤を売り出そうとか。そうすると専従になるんだよね。

黒川:その前にお辞めになったんですか。

加藤:そう。スレスレで逃げた。

黒川:実質どれくらい日教組をやっていたんですか。

加藤:3年間。3年間で頂点に駆け上がっちゃったからね。でもあんなものは組織がもっていくだけで、芸術のように個人では上がれないですよ。組織なんです、全部。

黒ダ:そのまま日教組をやっていたら、それはそれでおもしろかったかもしれないですね(笑)。

加藤:あっちはあっちでおもしろいからなのよ、もっていかれちゃった。

細谷:ちなみに1961、62年に読売アンデパンダンがあって、加藤さんは「加藤好弘」で出していますね?

加藤:個人じゃない。そのとき〈ゼロ次元〉で出したんだ。

細谷:いや、個人で出していますよ。

加藤:そうか。

細谷:先ほどからお話に出ているんですけど、個人制作で版画やオブジェをつくっていくものから、集団的な動きに移っていくのは?

加藤:というより、作品を美術館に置くと客が来ないのよ。来ても1日に10人見ればいい。それでは作品がかわいそうだということで、岩田と俺は作品をおんぶして歩き出した。それに乗ったのが小岩だった。おんぶできるオブジェをつくって百貨店に行ってみたり、電車に乗ってみたりし始めたのがハプニングの最初なの。

黒川:それは作品を見せることが目的だったんですか。

加藤:そう。作品を皆に見せなければ作品がかわいそうだという、単純な論理だ。でも終わると皆、愛知県美術館に返す。そこがちょっと違う。元あった場所に戻すの。それを美術館がおもしろいと言ってくれた。理解する奴がいるんだよね。約束どおり、同じ時間、同じ場所に返すんだよね。それで協力してくれたみたい。それは名古屋での教員生活4年の間の2年目から。パフォーマンスをやるとき半分は俺が教える中学生だった。道路をはいずったりしていた、あの半分は俺の生徒がやっていた。

黒川:加藤さんから「やらないか?」と声をかけたんですか。

加藤:そう。

黒ダ:最近はいずりパフォーマンス(1963年1月1日、愛知県文化会館美術館での「狂気的ナンセンス展」のとき)の新しい写真が見つかったんですが、かなりの人数がいます。これは商店街ですか。

加藤:商店街だと思いますよ。百貨店の中に入っちゃうからね。

黒ダ:最後はナンセンス展という看板のところに入っていく。

加藤:そうそう。美術館に戻っていくんだ。

黒ダ:これは人を誘導したわけですよね。

加藤:そう。それで人がザーッと来てくれるの。

黒ダ:作品を背負ったというのは、これ(1964年1月16日、愛知県文化会館美術館での「狂気ナンセンス展」会期中の加藤、岩田、小岩高義による街頭パフォーマンス。黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、2010年、グラムブックス[以下『肉体のアナーキズム』]、p.358参照)ですかね?

加藤:袋みたいなのを背負って。こっちははいずるパフォーマンスのあとだね。これも全部、俺が教員をやっているとき。教員のときに〈ゼロ次元〉になったの。〈青年美術家協会〉を1年やっていて、それから入っていって、ボスの川口(弘太郎)を追い出した。あいつは〈ゼロ次元〉の看板を持って出ていくと言っていたんだけど、一人で看板を持っていても、〈ゼロ次元〉といったら6〜7人いたわけだから、こっちが主流になっちゃうんだよね。川口にもう1回帰ってこいと言ったけど、「お前らみたいな馬鹿のところに帰れるか」って。俺はその一声を待っていた(笑)。それで帰ってこれなくなった。俺は一言誘ってるんだよ。「お前がつくったんだし名付け親なんだから、帰ってくればいいじゃないか」って。そしたら「お前がいる以上は嫌だ」って、駄々をこねてね。

黒ダ:川口さんが出ていったのは、やはり加藤さんの路線と違ったからですか。

加藤:やっぱり違うんじゃないの。作品派と行動派とで。

黒ダ:川口さんの作品を見たことがないんですけど、路線が違うんですか。

加藤:地味なのよ。

黒ダ:加藤さんが岩田さんを引き込んでパフォーマンスをやる方向にいった。川口さんはそれが嫌だった?

加藤:そう。絵が地味で暗くて、社会主義リアリズムみたい。あの頃、はやったんだよね。具象的な絵。それもボーヴォワールの実存主義にかぶれていた。だから川口には哲学があったけど、俺たちには何もないんだよね。ややこしいものが一切なくて、「いけ! いけ!」という感じだったから。

黒ダ:岩田さんは中学時代から知っていて、赤色の旗の絵をはじめ天才的なものを発していたんだけど、もう一人の小岩さんは?

加藤:小岩はものすごく個性があって、人間的には一番おもしろい。昔気質のやくざみたいな男なんだよね。あいつがメンバーとしているだけでパワフルだった。キャラクターがすごいんですよ。

黒ダ:彼が箱の中に入って林檎をかじるパフォーマンスの写真が残っていますね。

加藤:あいつは一人でこつこつと独りの世界をやってるんだよね。

黒ダ:箱の中に入っているのは、のちの〈ゼロ次元〉につながる身体表現としては、最初にやったものではないですか。

加藤:何かわからないけど、あまり人気がないんだよね。誰も見ないで一人でやってる。孤独な作家という感じがしたね。実際見るとつまらないんだけど、一人で力んでやってるから「お前は偉い!」って。あと小岩に出られると、俺としてはまずいんだよね。何をやっても迫力があるから。だから「すごい!すごい!」とほめちぎる。実際はつまらないんだけどね。作品はダメだなと思っていたけど、キャラクターは岩田よりおもしろい。

細谷:〈ゼロ次元〉の「ゼロに導く」というのは最初からあったんですか。

加藤:ないよ。何もない。〈ゼロ次元〉という字がすごいから(1960年の創立当時は〈0次現〉、のち〈0次元〉に改称)。決定的だよね。あれが芸術なんだよ。理屈は何でもいい。〈ゼロ次元〉という、あの字に惚れた。決定だよ。これ以外にないと思った。俺は〈青年美術家協会〉に3年いたけど、全部やめたんだ。俺がいないと1年で終わっちゃうよね。

黒ダ:そこで〈ゼロ次元〉以上のかっこいいグループ名にしようという発想はなかったんですね?

加藤:ないですよ。もう〈ゼロ次元〉がかっこいい。これをやらないと世に出れないと思った。〈青年美術〉はこっち(名古屋)のほうでも人気だった。可能性もあるし、有名な奴がそろっているし。それに対して〈ゼロ次元〉には誰も行かなかったけど、俺は逆だった。ガーンと頭にきて、こいつらに入らないと人生はないと思った。入ったのは俺一人だった。兀下とかがあとから来たけど。その間、〈青年美術〉もやっていたけど、だんだんハードになってきて、皆、〈青年美術〉からこっちへ来た。

細谷:小岩さんや岩田さんとならやれると思ったのでしょうか。

加藤:岩田と小岩と俺の関係がすごかった。だから岐阜(1965年8月9日〜19日に岐阜市民センター、金公園、長良川河畔で開かれた「アンデパンダン・アート・フェスティバル」=通称「岐阜アンデパンダン展」)のときだって、徹夜で怒鳴り合って殴り合ってる。〈ゼロ次元〉は他のテントと全然違ったね。迫力があった。野卑な暴力団みたいだったよね。

黒川:加藤さんとしては少数精鋭主義だったのでしょうか。それとも〈ゼロ次元〉に入りたいという人が来たら、来る者は拒まずだったのでしょうか。

加藤:来る者拒まずですよ。でもどんどん出て行っちゃうよね。しつこくいる人もいた。出て行けというのはやめたんだよ。川口だけにした。川口は自分でやめたんだ。以降は、出る人にも入る人にも「どうぞ」と。出入り自由だった。そしたらだんだん人気が出るよね。しまいには〈九州派〉が来る。糸井貫二が来る(名古屋の展覧会などに参加するようになる)。最後は全国的な組織になっていった。そして〈ゼロ次元〉は、「狂気見本市」とか名前を重ねていった。

細谷:63年、新〈ゼロ次元〉、「狂気的ナンセンス展」の写真が先ほどありました(『肉体のアナーキズム』、p.166参照)。

黒ダ:〈ゼロ次元〉がうけたのはこれが評価になったんでしょうか。

加藤:いや、このときはまったく無名でしたよ。何のかんのいっても、吉岡康弘のカメラが『宝石』に出てから。それまでは俺たちだけで祭って、ご機嫌にやってるだけだった。

黒ダ:皆ではいずるというのは加藤さんのアイデアですか。

加藤:そう、俺のアイデア。ハプニングになると俺が全部演出していた。

細谷:このときから「見る/見られる」という関係は考えていましたか。

加藤:とにかく街へ身体ごと作品をぶつけて、びっくりさせればいいというだけだね。

細谷:ハプニング以前ですね。

加藤:ハプニングという言葉がなかった。パフォーマンスという言葉もない。とにかく作品をずるずる引きずって歩くというアイデアから来ているから、思想的な背景は何もない。

黒川:ではこれも作品を見せる延長で、美術館にお客さんを動員するためのものだったんですか。

加藤:そう、美術館にお客さんを呼び込もうと思って。動機がいやしいんだよね(笑)。

細谷:でもここに至るまでは、先ほどお話にあったように、北川民次や岡本太郎を通過しているんですよね。

加藤:通過しているけど、二人のことはもう全然頭にない。もう一切なかった。

細谷:挑戦するとか、そういう考えもなかった?

加藤:ない。二人は一切関係ない。学生時代だけなの。学生のときはどうしてもあの二人がいないと生きる動機がなかったけどね。中原佑介と友達になるのは、あいつがメキシコをやったから。中原のメキシコ論(『1930年代のメキシコ』、1994年、メタローグ)は真面目だからね。地味でちっともおもしろくないけれど、じわじわきくのね、民族の血が。

黒ダ:地味なのがダメなんですね。

加藤:地味なのはダメ、若い頃は。太郎みたいにあおってくれないとだね。

黒ダ:正確な記録がないのでわからないですけど、はいずり以前のパフォーマンスを奥さんの家ですでにやっていた?

加藤:そうそう。これ(『肉体のアナーキズム』、p.356参照)をやるときに俺の石版展を桜画廊(1963年6月13日〜19日)でやった。桜のおばちゃん(藤田八栄子)という、名古屋で唯一の画廊だった。

黒ダ:この写真ですか(『肉体のアナーキズム』、p.165参照)。

加藤:そう、これの延長なんだよね。これは画廊の中に茶席をつくってる。俺の嫁が金持ちで、庭に茶席があった。そこで俺たちは勝手に飲んだり食ったり、集合場所にしていた。その延長で俺がそこで個展をやったんだ。

細谷:このとき、もう裸ですよね。

加藤:裸になったりしているのよ。

黒ダ:最近スキャンした写真で、何か読んでいる人がいたり、笛を吹いている人がいたりしました。

加藤:そうだね。これは松葉(正男)。東京に来るんだ。嫁の一家が俺を支援し始めるんだよね。庭を自由に使ってもいいということで勝手にやったんだ。この版画は、太郎たちを手伝ったために俺が会得したもの。名古屋に帰ってから、助手時代のことを思い出した。

細谷:石版画はかなり夢中になりましたか。

加藤:名古屋にいる4年間、石版画は100枚くらいつくった。大理石(の模様)が版に写るのね。

黒ダ:これは普通に額に入れた石版画の展覧会ですね。こういうのは全部、石版を使っているわけですか。

加藤:そう。石版画を和紙に貼ったりしてね。また和紙が太古の版を写し返すの。

黒ダ:これは全体として、今で言うインスタレーションとしてつくっているんですよね。

加藤:そうそう。版画を貼ったオブジェだけは金のある人に売りつけていた。それで画廊代は出るんだよね。パフォーマンスをやった。嫁がお茶を点てたりしてる。

黒川:事前の告知なくやったんですか。

加藤:キチッと打ち合わせをやったよ。

黒ダ:たしか案内状に書いてありましたね。「赤の儀式」と。

加藤: そこから儀式が発生したのか。

黒ダ:これ(儀式の図解)は伊藤孝夫が持っていたんだけど、誰がどういう音を出すかなどが書いてある。完全にサウンド・パフォーマンスなんですね。ここで動いている人がいるんですけど、誰でしょうか。

加藤:ちょっと見せて。これは誰だろうな。たぶん俺だと思う(笑)。俺一人でやってるんだよ。そういうことで名古屋ではスキャンダルの帝王になったんだ。もう独占だよね。誰もやらないことだけをやってるんだから。当時、太郎の弟子という触れ込みで書かれるから、新聞社が来るわ、もう有名人だった。雑誌がインタビューしてみたりね。東京帰りというだけで有名人になれたんだよね、この当時は。今じゃ誰でも行くんだけどね。

黒ダ:これをやったあとにさっきの全裸の茶室なんですかね。

加藤:そう。このあと。

黒ダ:(加藤夫人宅での全裸茶会の写真で)小岩がいるでしょう? だからそんなあとじゃないんですけど、これはカラー写真だし……。

加藤:小岩が出て行く前だよね。

黒ダ:最後くらいかな。この場所は奥さんのお家なんですね?

加藤:うちの嫁の親父がつくった茶席だね。

黒ダ:奥さんとは?

加藤:東京まで来たし、子どもを3人も産んだけど、俺がハードに〈ゼロ次元〉ばかりやるので「帰るわ」って言い出したんだよね。ちょうどその頃に俺に女ができていたので、お互いに都合がよかったんだ。

黒ダ:奥さんと出会って、そういう場があって、お茶という発想になったんですか。

加藤:いや、俺は幼児期からお茶を仕込まれていたの。俺は高野山派といって、密教の家柄なの。

細谷:それはお父さんのほうですか、お母さんのほうですか。

加藤:親父のほう。だから奈良とか京都へ行くと山の一軒家に茶席があって、そこに中学生の頃から1ヶ月のうちの3週間くらい行って、朝4時半頃に起きて坊主と一緒に庭掃除をやって、お経を聞いて、そのあとに勉強をするという環境をずっと続けていた。だから高野山の伝承的なところへ入る予定があった。伝承された坊主の組織に。

黒ダ:お父さんがそこに入れようと思っていたんですね。

加藤:そう。それが戦争でずれた。戦争で、俺の人生は決まっていたのが相当ずれた。俺は長男なのに、下のほうが東大を出て金持ちになった。出世してないのは俺だけだ(笑)。中枢にいるのがひっくり返ったか何かのせいだと思う。最初は親父の親父は横浜に大きな工場をもっていたけど、関東大震災で全部潰れてしまった。スッテンテンになって(名古屋に)帰って、今度は満洲に行ったけど、満洲がやられて帰ってきた。とにかく外へ出ては財産を潰すという家柄なんだね。だから俺もそういうことをすべく、ね。だから俺の場合、東京に来たら帰っちゃいけないんだよ。となると、当時の俺は日本にいてはいけないとどこかで思っていた。アメリカに行かないと成功しないとか、そういうジンクスが俺にはあった。

細谷:大学に行ってからいったん京都、名古屋に戻るのは、何かあったんですか。

加藤:それは勉強のため。百済が唐と合体した新羅に追い出されて、3,000人が崖から落ちて死ぬという話を聞かされていた。それで4,000人が仏像からすべてを持って日本に亡命してきて、それで飛鳥をつくる。だから日本は、ホッテントットみたいに未開のところにいきなり朝鮮から文明が来てつくられたわけだ。日本の天皇という名もないし、日本という国の名もないから、百済の連中が全部でっち上げてつくる。日本という国がもともとあったと嘘をついて、隋のほうへ小野妹子を送り込んで直接やり始めるのは、百済が来たからだよね。あいつらが亡命してくれて、国づくりをしてくれて、律令国家をつくったり大仏をつくったりしなければ、国は治まらないというので、つまり仏教をやるのは政治だったわけだ。そういうふうに俺は仕込まれてきた。俺の家は右翼で、ポリが家に来てタダで天ぷらを食ってたからね。うちの妹はポリと結婚する寸前までいったし、ポリが周りにいっぱいいたよ。

黒ダ:加藤さんが共闘派で捕まったとき(1969年7月14日)、お父さまはご存命だったんですか。

加藤:ご存命ですよ。ビンビンだよ。1週間後に目白署に4人の刑事が来てるんだもん。

黒ダ:いろんなところでお父さまの影響がすごいですね。

加藤:ものすごいですよ。そこにきて毎晩、俺が全学連の奴と討議してるわけじゃない? やくざが来て「お前、けっこう弁が立つな」とほめられたり、ポリが来て「加藤、この頃チンポが勃たないんだけど、どうやったら勃つようになるか」って言うから、「毎日、水で冷やして揉め」って答えたり。俺は(容疑が)猥褻物陳列罪だから、そっちのほうはプロだと思われていた(笑)。(留置所に)入ると、万博の人じゃなくて、セックスのプロだと思われるわけ。そのとき黄色く茶髪にしたり、女みたいな恰好をしたりしてる。親父の亡霊というのがにっちもさっちもならないね。そのくせ俺をはめ損なったんだよね。俺のせいじゃなくて、やっぱり時代のせいなんだよ。とにかく戦争というものでひっくり返った。そのへんが俺は知覚できるのよ。秘密なので、一切情報がわからない。俺のおふくろには一切言わない。だから俺は個人的に勝手に生きてきたみたいなところがあるね。今日は言っちゃいけないことを相当言ってるな(笑)。

―休憩―

黒川:北川民次のところに行ったのは、週に1回くらいの頻度ですか。

加藤:いや、月に1回くらいかな。俺はあまり好きじゃなかったから。民次のことはあとから知ったんですよ。児童の絵画教室の本を読んでびっくりした。すごい奴なんだなって。行っていたときはちっともおもしろくなかったんだよね。あとから効いてくる人だった。

黒川:名古屋から京都に通っていた時期は1年間くらいですか。

加藤:いや、4年間ずっとですよ。京都じゃなくて、奈良です。奈良の法輪寺というのが家の寺なんです。法輪寺はさびれているんだけど、山に茶席をもっているんだ。その一軒を、夏休みと冬休みに俺に貸してくれる。そこに100冊くらい本を送っておいて、俺はそこに本を読みに行くだけなんだけどね。

黒川:よく考えると、どういう生活をしていたんだろうと。奈良に週末通って、東京にも月に2回くらい行くんですよね。そして日教組があって、〈青年美術〉があって。

加藤:その頃はだいたい3時間以上寝たことがない。ものすごく忙しかったね。

黒川:学校で描いたりしていたんですか。

加藤:そう。学校でひとつの部屋をくれるから、そこをアトリエにしていた。

黒川:美術の先生として行っていたんですか。

加藤:そう。ひとつの部屋をくれるから。これがありがたいよね。

黒川:担任としてクラスをもったことは?

加藤:もってます。3年間もっていた。それがおもしろいの。担任は家庭訪問できるんだよ。あれがたまらないね。子どもの絵の実体を庶民とか実生活から知ったね。家庭訪問のために俺は担任をもったんだ。

黒ダ:先ほどのお話で、はいずりがあって茶室があって、名古屋時代のグループ展で、街のなかで食事をしたりしています(1963年8月28日、栄町街頭での「女体試食会」。『肉体のアナーキズム』、p.357参照)。これはのちの〈ゼロ次元〉とだいぶ違いますが、これも加藤さんのアイデアですか。

加藤:そうそう。これはふっと思いついてやったんだよね。

黒川:先ほどのような展覧会に人を動員する目的ではなくて、これだけでやったんですか。

加藤:うん、これだけ。ここだけで傘さしてやったんだよね。栄町の交差点の街中で出来事が起こる。

黒川:事前の告知はあったんですか。

加藤:ないです。このときに「見に来い」とパンフレットは出す。だけどほとんど来ない。火を燃やしたりしているのは、ここから400mくらい離れたところに俺の家の100坪くらいの土地があったんだよね。そこに石版の掘っ建て小屋があった。

黒ダ:これは展覧会ですか。

加藤:そう、展覧会をやった。女が発狂しちゃって、小岩の作品を火で燃やしちゃったんだよね。小岩がものすごく怒ったけど、あとの祭りだった。あんな強い奴が泣き出しちゃってね。彼女にどうして火をつけたかって訊いても、作品に火をつけることが作品だと言い張るから、皆は文句を言えなかった。小岩が泣くなんてありえないからね。でも火をつけて作品なんだと言われると、小岩も怒れなくなった。それはそうだなと思うだろ? 俺だってそう思った。

黒ダ:I.Y.ですかね。

加藤:I.Y.だな、たぶん。その子は演劇の子だった。彼女が演劇団でちゃんとやってるところに、俺たちが舞台にはいずり込んだ。そのときの……。

黒ダ:サルトル原作の『蝿』(1963年12月21日、青年芸術座『蝿』公演、会場不明)じゃないですか。

加藤:ああ、それそれ。

黒ダ:12月21日と、何かのデータ(加藤の日記か)にありました。

加藤:I.Y.が伊藤の女なのね。I.Y.は美術の人じゃないけど、演劇だからパフォーマンスで入ってきた。

黒ダ:この時点の〈ゼロ次元〉は、加藤、岩田、そして高橋皓子(こうこ)さんは美術の人ですよね。

加藤:そうそう。教員になった人だね。

黒ダ:今のがI.Y.で、そして川口がまだいたのかな。

加藤:川口はもういない。

黒ダ:あと水野光典?

加藤:水野がいたね。教育委員会の会長の息子だった。愛知県の教員の総元締の息子。今そっちのほうに入ってると思う。すごく偉い人なの。(愛知)教育大学を出てね。

黒ダ:このへんのメンバーは〈青年美術家協会〉ではないんですか。

加藤:ない。名古屋の人。

黒ダ:メンバーではなくて、このときはただ野外展ということで?(1963年10月20日〜11月9日の「〈ゼロ次元〉野外展/破産宣告・自爆によるオブジェ/集団儀式『貴方は見てはいけない』」の写真を見せながら)

加藤:そう。

黒ダ:このコルセットをつけているのは?

加藤:それ、俺なんだよね。そういう恰好でパフォーマンスをやったんだ。

黒ダ:こういう動きがあったんですか。

加藤:もう忘れたけどね。それをはめて踊っていた気がする。

黒ダ:コルセットはこのあとの東京時代に何回か出てきますね。

加藤:そう。それは自動オナニー機の原型だよね。

黒ダ:パンツを履いているんですかね。

加藤:履いてるね。でも東京だともう履かないんだよね。名古屋のときはまだ履いてる(笑)。

黒ダ:これも展覧会があって?

加藤:そう。皆、作品を背負ってるんだよね。このときは小岩と岩田と僕だけですね。

黒ダ:このときは各人バラバラで好きな恰好をして?

加藤:下着の好きな恰好。股引と下着を着た。昔の股引なんだよね。

黒川:股引は必須アイテムだったんですか。

加藤:どうしてかな。股引はかっこ悪いから、わざとそれにしたんだろうね。今はこんな下着、ないでしょう? 無意識がみっともなかった。

黒ダ:もちろん全員、展示物は出しているんですよね。

加藤:うん、担いだり背負ったり。

黒川:ではこれは全部、展覧会の出品作なんですね。

加藤:そう、出品作。愛知県美術館にあったやつなんです。

黒川:ということは、この間、美術館に行くと展示物がそこにない?

加藤:そう。あとでそこの台に戻して、また作品になる。こういうふうな作品の一部なんです。(実際には「〈ゼロ次元〉野外展」のとき、愛知県文化会館美術館での「ゼロ次元展」[1963年8月27日〜9月1日]は終了している)

黒ダ:これ(1964年1月13日〜16日の「狂気ナンセンス展」)は今(加藤、岩田、小岩による街頭パフォーマンス)と恰好が同じだから、出ていく前ですかね?

加藤:前だと思うね。ここでもパフォーマンスをやってるんだよね。

黒ダ:(上記展覧会の立体作品の写真を見せて)これとかこれとか加藤さんの作品ですかね。

加藤:これは4つとも俺の作品だね。

黒ダ:このへんはもう石版がなくて、立体ですか。

加藤:もう完全にパフォーマンスのための作品になっちゃってるね。パフォーマンスをやるための作品に移行してる。作品なしでパフォーマンスになるのが東京に行ってからだね。俺と一緒になった嫁の親父がもともと東京に会社を出したかったんだけど、名古屋でやれと言われて戻されちゃって、だから僕と嫁のために事務所として目黒に一軒家を借りてくれて、社員を2人つけて送り出してくれた。ものすごい金をかけてね。その目黒の事務所と家のすぐ500m奥に土方巽がいた。

黒川:それは偶然ですか。

加藤:全部、偶然。この明星電機のときに土方と会う。近所にいたんだ。うちの息子は土方の嫁(元藤子)の教室に入っていた。弥平治は土方の舞踏教室の生徒でもあったわけ。

黒川:加藤さんが入れたんですか。

加藤:覚えがないね。土方が馬を連れて(日本)青年館でやったとき(1968年10月9日〜10日、「土方巽と日本人―肉体の叛乱」)のペニスは、俺がつくったんだよね(加藤によれば、実際の制作は〈ゼロ次元〉メンバー上條順次郎の上條工房による。稲田奈緒美『土方巽 絶後の身体』[2008年、日本放送出版協会、p281]には人形作家の土井典による制作とある)。長いペニスをつくってくれと言っていた。それからあいつはパフォーマンスのたびに、看板をつくってくれって言っていた。ものすごく金をかけてね。でもあいつは一度として払ったことがない。「必ず現金で払ってやる」って嘘ばっかりで、いつもだまされたよ。あとから知ったけど、土方は熱海にものすごくでかいビルをつくってるからね。野郎、だましたなって。あの人は金持ちだったんだ。

黒ダ:このへんは名古屋時代ですか。「日本超芸術見本市」(1964年8月30日〜9月5日、愛知県文化会館美術館)、これは実は映像も残っているんですね。

加藤:残ってる。フィルムも残ってるね。

黒ダ:これが加藤さん?

加藤:わからないな。僕だろうとは思うけどね。

黒ダ:女性が床にはいずり回って何かやっているんですけど、誰が何をやっているか覚えていますか。

加藤:このへんはわけわからないね。

黒ダ:このときは平和公園のときに〈九州派〉の桜井孝身を行進に呼んだり、あさいますおを呼んだり、名古屋での〈ゼロ次元〉の活動が活発になったんでしょうか。

加藤:固まったよね、いろんな奴が集まって。自然にやっと集まり始めた。今考えると「えっ?!」という奴が、「超芸術見本市」から来るようになった。そのなかでもあさいますおは白眉だね。だって北川民次の瀬戸の陶窯の穴に女を集めた。中学校の生徒のなかで、今日本でものすごく有名な小説家(金井美恵子)がいる。姉妹の姉さん(金井久美子)がパフォーマンスでここに参加していて、妹が瀬戸に飛び込んだ。小説家の妹があさいますおとつながったので、姉さんが〈ゼロ次元〉に来た。絵描きだよね。この頃は岸本は東京に行きっきりで、全然姿を現さないですよ。

黒ダ:まだ東京にいたわけですか。

加藤:ずっといた。ちだ・うい(現・有為エンジェル)とかが岸本の弟子になるんだよね。

黒ダ:〈九州派〉が公園に来ているし、桜井が行進に来た(『肉体のアナーキズム』、p.204参照)。これは小岩とK.T.。

加藤:これが教育委員会の息子の水野。隣が俺の生徒でカトウ(詳細不明)という。このチンチン電車を引っ張っているのが、実はあさいますおなんだよね。

黒ダ:ちなみにこれは、展覧会は愛知県文化会館美術館でやって、平和公園まで歩いていったんですよね。けっこう遠いですけど。

加藤:けっこう遠いんですよ。夜でも2時間くらいかかるからね。

黒ダ:最初から公園でこういうことをやると決めてあったんですか。

加藤:決めてあった。ものすごい数が来ていたんだけど、やるとなったら30人くらいになっちゃった。

黒ダ:加藤さんが演出して、だんだん裸になっていくんですか。

加藤:そう。暗示をかけていくんだよね。

黒ダ:基本的には皆が一律に?

加藤:そうね。2時間歩いて酒飲んで、ドラッグなしで入る感じだったね。このときに金井の姉さんが参加している。

黒川:この段階になると美術館に人を呼び込むというものではなくなる?

加藤:うん。一切関係ないね。平和公園の中での初めての「いなばの白うさぎ」になろうとしている。

黒ダ:これは写真がないんですけど、映画『いなばの白うさぎ』の最後で、寝ている男の上を女が歩くところ。

加藤:あれをやらせるの。

黒ダ:これが名古屋の終わりですね?

加藤:前哨戦なんだよ。

細谷:始まりでもある。

加藤:ただ、あさいが参加しているのがおもしろいね。

黒ダ:あさいは展示もしているんですか。

加藤:してない。あの人は詩人なのよ。このときに毛色の変わったのがいろんなかたちで入ってるんだよね。

黒ダ:桜井孝身はどうやって知り合ったんですか。

加藤:あの人は読売アンパン(アンデパンダン)からの知り合い。東京で会ってると思うね。桜井と糸井貫二がその当時から有名だったからね。大変なものだった。桜井と糸井貫二と仲良くなれば出世街道に行けるというくらいのものだった。この人と知り合いかどうかによってレベルが決まっちゃう。

黒川:では〈九州派〉はそこそこ名前が知られていたんですか。

加藤:ものすごく有名でしたよ。日本カウンター・カルチャーの発生地〈九州派〉。何をやっているかわからないけど、有名なんだよね。何をやったかわからないが、野蛮な行動として頂点にいた。

黒ダ:〈九州派〉の展覧会は見ていましたか。銀座画廊などで。

加藤:見てる。藁をぶら下げたりとか(1958年8月2日〜9日、銀座画廊での「九州派展」に出品された石橋泰幸の作品か)、本当にくだらない。ひどいというか、よくこれで作品と言うものだって感動した。加工も何もしていない。藁をぶら下げただけで「どうだ!」と言うんだから、「すごい!」と言うしかないんだよね(笑)。美術の基準が全部外れてる。

黒ダ:単に〈九州派〉が有名だったからじゃなくて、作品を見て印象に残っていたんですね。

加藤:あまりの馬鹿馬鹿しさに感動した。意表をついてるよね。衝撃のほうだね。俺だったらまだ考えたりジタバタしたりするけど、奴らはそれが一切ないね。つまり田舎の土着から百姓一揆で東京へ迫るアナーキストだよ。

細谷:糸井さんはどうでしたか。

加藤:糸井は違うんだよね。名人芸でキチッとやる。パフォーマンスで一番名人だと思うのは、橋本(正一、風倉匠の本名)、風倉匠だけ。あれは本当の芸だ。

黒川:風倉さんの何をご覧になってそう思ったんですか。風船ですか。

加藤:相当いろんなものを見てますよ。どれを見ても、あいつだけはちゃんと芸をしているね。あとは皆、無茶苦茶で感動するしかないんだけど、風倉はビシッと決めるのね。シャツ1枚でチンポ出して踊ってる。〈ゼロ次元〉だと「下半身が出てるぞ!」となるけど、風倉はそういうふうに一切感じさせずに作品になってる。俺はパフォーマンスでは風倉が一番だと思う。阿佐ヶ谷のときに風倉は荒川の家に居候として入り込んだ。荒川は何ができるって、将棋屋に行って酒やビールを運ぶくらいしかできないんだよね。赤瀬川はちゃんと一日中、道玄坂に(サンドウィッチマンとして)立ってるけど、荒川は2時間以上働かない。それで150円をやっともらえるとかで、どうしようもない。荒川の3畳の部屋に行くと、天井まで両方にベニヤ板を真っ黒に塗ってるだけなんだよね。荒川だけは本当の作家だと思うよ。ものすごく真面目で、いつ行っても塗ってる。完成とか関係なくて、塗ってるだけなんだ。「加藤、お前のところでいつも飯を食わせてもらってるから、今日はこっちに来い」って言うから行ってみたら、町の夜の屋台のラーメン屋に連れていかれた。こんなのが阿佐ヶ谷にあったのかと思いながら座ったら、荒川が「いつもの2丁」って偉そうに言うんだ。そしたら具を入れた汁だけが出てきた。麺がないと思ったけど、「ああ、熱くておいしいな」と荒川がやり出したから俺も文句を言えなくて、汁だけを奢ってもらったね。15円でね。そういうふうに10回に1回くらい奢ってくれるんだけど、いつも衝撃なのよ。そこ(阿佐ヶ谷)になだれ込んじゃったのが風倉だった。

黒ダ:桜井さんらの〈九州派〉を見ていて印象が華々しくて、糸井さんも有名だったとおっしゃいましたが、糸井さんの読売アンパンの作品などを見て印象に残っていたんですか。

加藤: 糸井貫二はちゃんとした作家で、職人芸だった。コラージュの写真と詩とが並ぶマンダラ絵画。小さいだけで、ものすごい凝ってる。作家だなと思うもんね。風倉と同じ感動をもつよね。ベトナムの仏教僧がガソリンをかぶって自殺の儀式をしていた当時、新宿の街でモヒカン姿で同じ儀式として再現してそこで連行された(1967年12月1日、〈クロハタ〉の焼身自殺儀式に糸井が参加)。1964年のオリンピックのときは1年間どこかの精神病院へ隔離される事件を発生させたりしている。

黒ダ:桜井と比べると糸井さんは作家としてつくり込んでいるという見方なんですね。

加藤:そう。糸井は人生をつくり込んでるよ。ただそれだけを仕込んで生き抜くアーティストだな。

細谷:糸井さんは作家ですか。

加藤:完全なる作家。いろんな意味で、芸術家です。禅的ダダイストとしての日本の始原的パフォーマーです。

黒ダ:名古屋時代から東京のはじめまできました。今日はここまでにしましょう。