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河口龍夫オーラル・ヒストリー 2012年3月19日

河口龍夫アトリエにて
インタヴュアー:大谷省吾、牧口千夏
書き起こし:池澤茉莉
公開日:2016年5月1日

 

大谷:先生よろしくお願いいたします。

河口:こちらこそよろしくお願いします。

大谷:今日はいくつか質問をご用意させていただきまして、先生のこれまでについていろいろお話を伺えればと思うんですけれども。なんとなく年代順にお話を伺っていくのがきっとわかりやすいかなと思いまして、最初はどういう生い立ちというか…… あんまりご両親のお話というのも、詳しくは今まで伺ったことがなかったと思うんですけれども。

河口:そうね、あんまりプライベートな話してないね。

大谷:あとは子供時代にどんなことをされていたかとか、どうして美術の方向に進もうとされたのか、みたいなことをまずはお話いただけたらなと思います。

河口:何から話そうかな。

大谷:お父さまは何か物をつくられる仕事をされていたという?

河口:父親はね、河口秀夫っていうんですけどね。それこそ丁稚奉公から叩き上げられたような人で、ブラシの製造業というのをやってた。父親のコンセプトは「世界の全てありとあらゆるところを美しく掃除をする」ということでした。

大谷:はい(笑)。

河口:だからブラシもいろんな工夫をしてつくる。後に僕が父親の名前でパテント取るんですね。最初は「河口商店」という店から開業しました。それから「兵庫ブラシ製作所」という会社になって。住まいと物をつくる工場が共存していたんです。

大谷:それは神戸市内ですか?

河口:神戸市内の兵庫区なんですけどね。子どもは製造する所には危険だから入っちゃいけないんですけど、その工場で遊ぶのがものすごくおもしろかった。いろんな道具や、機械類、そういうのが置いてあったんです。例えば、ブラシを植毛するための生地がバーっと積んであったりしてる。そこの生地をバラバラにして何か組み立てたりしてつくるんです。だから《部分の作品》(1972–75年)なんかは振り返ってみるとそういう体験が影響してるかもしれない。そのときに例えば自分がくぐれるくらいのものをつくるとかね。そういうので何か造形物をつくってたね。その完成後のもう一つの快感は、つくったものを―ゴジラじゃないけど―潰す。それもおもしろかったね。だからものすごい初期の僕の絵画に、父親がブラシの植毛を機械に向かってやっている油絵が残ってる。

大谷:そうなんですか。

河口:結局僕は父親の跡を継がなかったんだけど、ブラシや掃除用具のパテントを考えたりしたのは、罪滅しみたいなことをしてたのかな。

大谷:先生は1940年にお生まれですが、戦争のときはその工場は大丈夫だったんですか?

河口:1941年に日本が太平洋戦争に突入していくわけですね。だから生まれて一年目で世界戦争をもう体験してるわけですよ。そして5歳のときが終戦でした。僕が生まれたのは父母が結婚して5年目だったんですよ。当時、母親は5年間ずっと子どもが産めない女だからって、昔だと離縁だとか。母親にとっては不都合なそういう時代だった。ようやく5年目に僕が生まれた。これは母親から聞いた話だけれど、逆子でしかも母親と僕とが繋がっている命の綱のへその緒を首に巻いて生まれてきたそうで、大変な難産でした。

大谷:危険な状態ですね。

河口:だから誕生することが生死を分かつような状態で生まれたんですね。だから生まれるところから親不孝。へその緒を首に巻いてたっていうのは、僕にはもちろんその記憶はないんだけれど、母親が大変な思いをしたようだった。へその緒の作品(《へその緒》、1975/1991年)あるでしょ?

大谷:はい。

河口:へその緒を何の抵抗もなく作品に導入できるっていうのは、やっぱりへその緒を首に巻いて生まれたっていう、強引に結びつけていくと、そのことと何か関係があるのかなって。それで、僕が生まれて5年後に弟の富夫が、その5年後に妹の範子が生まれてるんですよ。要するに5歳の終戦まで戦争の渦中にいるわけですよね。

大谷:はい。

河口:神戸市兵庫区の松原っていうところで生まれて育って、その一角は神戸の空襲があったときに助かったんです。小火とかもちろん焼夷弾による火災があちこち起こったりしてたんですけど消し止めて、家は残った。だから敵国を批判するようなレコードとかそういう物があった。それから覚えてるのは鉛筆。「HB」とかは敵国の言葉だから使えない。だから「軟硬」。軟らかい硬いっていう表記をしていた。そういう物も残っていたので、それを使ったことはある。あとは食糧難。食べ物がない。それと前に少し文章(注:河口龍夫「〈精神の冒険〉としての芸術――関係のこちら側からの記憶の断片としての覚書」『河口龍夫 言葉・時間・生命』東京国立近代美術館、2009年)で触れたけれど、栄養失調とか、それから多分リアカーに乗せられて逃げまわったとか、いろんなことがあって失明するんですね。それは単純に何も見えなくなって、子ども用のサングラスが与えられて、母親につれられて通院するんです。

大谷:何歳くらいのときですか?

河口:それがね、何歳なのかな? 終戦後なのか、その前なのか…… 母親が生きてたら聞けるんだけど。記憶に残ってるくらいだから終戦後かな。それで、その病院に行って、注射を打ったりして大人しくしてると、当時、注射打った後、ガラスの瓶があって、ハート型のヤスリでポンって切って、その容れ物をくれる(注:注射剤が入れられているガラス製の容器でアンプルと呼ばれる。アンプルカッターというヤスリで容器の首の部分を折って使用する)。くれるっていうか、僕が多分ねだったんだと思う。それをずっと並べていって、いつそれが見えるようになるか。「見る」ということに今から考えると関心があったのは、見えなくなったということだろうな。しばらくは、また見えなくなるかもしれないというその恐怖はあったと思う。それで「見る」ということに対する執着とか、見る営みである「美術」、そういうものが特別なものになってきたんだと思うんだな。

大谷:なるほど。

河口:終戦があって―これも文章に書いたことがあるけれども―焼け跡で遊ぶのがものすごくおもしろくて。焼け跡は危ないから子どもはそこに入っちゃ行けないのだけれど、スリルがあった。どれも原形が分からないくらい破壊されてるから、その破壊されたものの元々を想像するとか、そういうのがすごい楽しかったね。全部が破壊されてるから、戦争が終わったのは「もう壊すものがなくなった」、つまり「破壊するものがなくなって終わった」という自覚がありました。子どもなりに非常に冷めた、今考えるとなんてクールな自覚の仕方かな〜。もちろん人骨なんかも出てくるしね。人骨も大人は必ず「捨てなさい!」とか言うんだけど、他の物質と全然変わらない。それから、話が戦中にもどるけれど、そのうち神戸で空襲があるという情報が流れて疎開するんですよ。

大谷:そうなんですね。

河口:兵庫県の淡河(おうが)というところに疎開して。街の子が田舎に行くとだいたいいじめられる。そこで、僕なりにいかにいじめられないで共存できるかっていうのを子どもなりに考えてやってた。だからいじめられた記憶ってない。ただね、疎開先で洪水に遭うんですよ。僕は2階にいて階段を降りていったらそこが水浸しになってて。それで、父親におぶさって逃げまわったんですね。そうするとニワトリとか地面にくっついてる動植物は全部死んだんです。近くに川があって橋の上で男の人が「助けてくれ〜」って言って橋ごと流れていった。その「助けてくれ〜」という叫び声は記憶に残ってる。助けようもなかった。僕が助かったのはニワトリよりも高い父親の背中におぶさってたから。背が高かったから。そういう自覚があります。だから早く大人にならないと(笑)。洪水が来たらある程度身長がないと水没しちゃうという、そういう自覚があったね。
 食糧難だった頃の食べ物に関しては、父親と母親が完全に廃墟になった焼け跡の地面を耕して、そこに種を蒔いて。そうすると食べ物が出てくるでしょ。キュウリとかトマトとかジャガイモとかカボチャとか。それは飢えてる僕にとっては手品だね。マジック。たぶん畑だったらそんなに感じないと思うけど、そこは焼け跡という廃墟だったから。そのあと、進駐軍が来て、チューインガムと真っ白な食パンとチョコレートを分配してくれる。大人はプライドがあるから絶対貰いに行かない。だけども子どもはそういうプライドがないから行くわけ。それを大人は許してたね。「そんなもん、ちょっと貰ったって足りないんじゃない?」って(笑)。 子どもにとってはチョコレートなんてこんな美味しいものはない。それから食糧難のときに食べてて飲み込まなくてもいいチューインガムっていう食べ物がある。もう奇跡みたいなのね! 別にそれで満たすわけじゃないんだけど、ずっと噛んでても減らない。すごい食べ物。だからそれだけあればずっと一生生きられるみたいな錯覚を感じるような、そういう新鮮さがあったな。あと食パンの白さ。たぶん漂白してたんだと思うんだけど、真っ白だった。
 それで―これはしゃべっていいかどうかわからないけど―ある家に行って、そこに美しい年頃の女性がいて、その人からチョコレートとかチューインガムとか貰うわけですよ。すごくうれしく思い感謝してたけれど、その女性が要するに売春してるわけね。それを知って、その内容というのがそんなにわからないんだけど、あんまりいいことじゃない。そのチョコレートとかチューインガムを自分が食べたことが共犯みたいに思うから、それからその方からは貰わないようにしていた。

大谷:小学生なわけですね?

河口:その頃はね、小学校まだ行ってなかったか、入学したばかりだったかな?

大谷:じゃあ本当に戦争が終わってすぐくらいのときですか?

河口:僕、ものすごく不思議に思うんだけど、結構覚えてるんだね、その頃のこと。だからやっぱり心が傷つくような特殊なことなんですよ。なぜそんなに鮮明にいろんなことを覚えているかっていうのは、あんまり起こってはいけないことが起こってたからだと思うんですよね。それこそ遊園地に行っても滑り台の滑るところが木でしょ。それが燃えて無いでしょ。そうすると鉄骨だけがあるわけ。ブランコも鎖しかないでしょ。座るところがない。それを見ると大人なら「ブランコでこうこうあって、滑り台があって……」って想像できる。子どもはそのまま受け入れるわけ。受け入れて、例えば鎖にぶら下がってバーっとやるとか、滑り台は滑るところがないからよじ登って遊ぶとか。だからそこでもうクリエイティブになっていくのね。元々が何かっていうのはもう考えない。そこから始まってる。だからそこらへんは以前何であったかをよく知っている大人とは全然違う。
 それで、やっぱり食べ物がないのは共通だから、お腹がすいたというのは何も恥ずかしくない。これは母校の明親小学校でのことだけど、その小学校も空襲を受けて、鉄筋コンクリート建築だったので消失はしなかったけど3階建の3階が全部破壊されていて、そこは危険なので上がっちゃいけない。そこに上がって、鳩の卵を捕る。それで全員に分担があって、料理する奴と先生の見張りする奴と。ものすごく団結するわけ。僕は捕る役(笑)。捕った鳩の卵を目玉焼きにする。こんな小っちゃい。今考えたら美味しいかどうかわからないけど、そのときはやっぱり美味しくて。奪い合いっていうのは絶対しない。順番待ち。いじめとかそんなんもないし。みんな公平にそれぞれ働いて、分け前をいただいて(笑)。だから捕る方は人数分捕らなきゃいけない。最悪捕れなかったら自分は我慢しなきゃいけない。そういう自分の中で小さな社会の中のルールを守っていくというのができていく。それから弱い子はやっぱり守ってやらなきゃいけない。だからいじめるというのは全然なかったね。もう時代にいじめられてるからね。めちゃめちゃ。いじめられてるからなかったと思うな。
 子どもの頃、路上で蝋石で絵を描いたりするのが好きで、それはずっとやってた。あと、今ならゲームとかいろいろあるでしょ? 当時は遊ぶものがないから。僕はいじめられなかった。いじめてもいないよ?(笑) それはね、遊びをいっぱいつくってたわけ。暴力的なボスみたいなんがいて、「河口、なんか考えろ」って言うんで遊びをやってた。それは僕も楽しかった。

大谷:例えばどんな遊びですか?

河口:例えばね、箸をつないで銃をつくるという。あるじゃない? ゴム飛ばしたりとか。それだけだったらおもしろくないので、ようやく映画とかで西部劇が出てきたから、「西部劇ごっこ」っていう(笑)。早撃ちとかね。チャンバラごっことか。道路にチョークや蝋石で、人工の子どもの道路をつくって。そこからはみ出たらダメとか、そういうルールとか、いろんなのやってたな。何しろ何もないから。あとは冒険ごっこね。冒険ごっこというのは、要するに危険なところに行って飛び降りたりとか。墓場に行って墓石がある場所に高いとこから飛ぶわけ。間違ったら墓にぶつける。狭いスペースにバッと着くという。それができないと意気地なしになる。ただ意気地なしと言われたくないために恐怖を(笑)。恐怖は一瞬だから。今考えたらすごい危ないんだけど。だけどそれをクリアしないと、仲間はずれではないけど、やっぱり自分で自分が情けないみたいなことになる。それもルール。生きていくためのルール。
 失明の話に戻るけど、母親と医者が話してるわけ。それで治る方法があるって話をしてる。お金。金なのね。そのときに、「金があれば治る、金がなければこのまま見えないようになる」その話が聞こえるわけですよ。そうすると金ってね、目が見えるようになったり見えなくなったりする。侮れない。だからたぶん母親も父親もすごく無理して金を用意したんだと思うね、見えるようになったのは。こじつけで言えば、見えなかった記憶があって、それで闇に対する関心が僕なりにあって、闇に真正面から向かっていって、それが《DARK BOX》(1975年– )とかそういうものに繋がっていった。あとから考えるとそれもあるかなって思うけど。それから僕の家の床下に防空壕があったんです。それで、空襲がきたときにその防空壕に逃げるわけ。ご近所で防空壕がないかたも全員がそこに集まってる。東京国立近代美術館に鉛の缶詰(《関係―種子、土、水、空気》1986–89年、東京国立近代美術館蔵)を出品したでしょ?

大谷:はい。

河口:地下防空壕に空襲警報が鳴って入りますよね。それで、地上がバーンって破壊されていってて、いよいよ危ない、と。そうすると大人たちが判断して非常食を食わせてくれる。缶詰。パイナップルとか桃とか。それが楽しみでね〜。

牧口:不謹慎ですね(笑)。

河口:不謹慎よ(笑)。大人はどうせ最後の食事になるかもしれないから、子どもたちに食べさす。ある意味では危険なほど美味しいものをいただけるという。なんだろな(笑)。子どもが持ってる現実とのギャップがものすごい。それで鉛の缶詰を作品にすることによって、その問題みたいなものを僕なりに解決していくっていうのかな。結局そこは破壊されなくて、家が残った。親戚は全部破壊されて、疎開先がない人たちが全部我が家に来た。母親がその人達を食わせて面倒をみていました。

大谷:そうなんですか。

河口:うん。母親は寅年でね。五黄の寅で、僕は辰でしょ? 喧嘩したらすごいんだけど、味方にしたらすごい頼もしい。一旦味方になったら絶対守ってくれるから。親戚中が反対しても母を味方にできれば心強い。その母に美術の勉強をすることにすごい反対されて、その頃は何しても怒ってたね。なんかもう八つ当たり。

大谷:それは多摩美(多摩美術大学)を受験する前ですか?

河口:その前もそう。小学校のときに美術の絵とかで賞をとるでしょ? 父親も母親も「お前ようやった」ってすごい褒めてくれて、いい親孝行してくれて嬉しいと言ってた。ところがあるときから見向きもしなくなる(笑)。「このままいくと危ない」と言って。そのときはもう僕のほうが美術に関心が強くなってきてたから、もう手遅れだったかもしれない。だから美術大学行くときは反対で。母親は徹底的に反対するけれども賛成にまわればきちっとみてくれる。父親は理解力があって判断をするか、母親は本能として「わかった」という。わからないのも本能みたいだから大変なんだけど(笑)。やり合って喧嘩するでしょ。それで電話がかかってくるでしょ。電話をかけてきてる人はこの喧嘩とは関係ないから、母親は普通に話してる。それで切るでしょ。「龍夫。何してた?」「喧嘩」「あ、喧嘩だった」という(笑)。そういう態度からもわかるように根に持たない。さっぱりしてるところはすごい魅力的だったね。

大谷:そんなに反対されたんですか。

河口:あの当時はたぶん全部反対されるんじゃないかな。まず絵描きになって食えるっていう保証がないし、経済的な問題で反対される。母親の親戚に漁師の人がいて、その漁師の人は食い物を海に出て捕るわけね。母親は僕が芸術家になったら食べられないということを心配してた。そしたらその漁師の人が「食べるというのは一番優しいことだ」と言って母親を説得した。彼はすっごいいい顔してた。日焼けして。本当に。男が滴ってるようなね。構造がいいとかじゃなくて、本当に少年の僕が見ても、自分で完全に造形した顔。命を張ってつくっていった顔。「あんな顔になりたい」と思ったもんな。あのときに「顔っていうのは自分でつくっていくんだ、だから自分も自分の顔をつくっていかないと」と。食べ物を捕りに行けば食べられるというのを一生やってた人だから、「〈食う〉っていうのは〈腹がすいたら食う〉っていう簡単なことだ」と悟りきっていた。
 母親は美術大学へ行くというのに条件出したわけ。優秀な成績で出ること、それから卒業後直ちに帰ってくること、それで教職に就くこと。それを条件に美大に行くことが許された。4年間仕送りしてもらうでしょ。あの当時は送金は現金書留でしたね。卒業して引越しのときかな、現金書留の封筒を捨てずに保存して持ってた。すごいね。僕もいいとこあるなと思って(笑)。まぁ手紙がちょっと入ってたりとかしてたけど。商売みたいなそういう稼業だから浮き沈みもあるし、金額が多いときとか少ないときとか。
 それから僕は長男だったから、母親のしつけというのは、仏様のお茶と食べ物をお供えする役、もう一つは便所掃除。崇高なものと不浄なものを同時にやった。論理性が全然なくて「長男だからやりなさい」と。それで、仏さんのお茶をお供えするの、やっぱりサボるじゃない? そしたら母親は「はぁ〜可哀想に喉乾かして。はぁ〜お腹すかして」って(笑)。怒られる方がまだいいんだけど、そういうふうにしつけられてた。便所は掃除しないと汚いまま。便所掃除をすれば字がきれいになるという。これも論理性全然ないわけ。だけどね、掃除しないと字が汚くなるような、気になってくる(笑)。掃除すると字がきれいに書けるような気がする。もう暗示か何かわからないけど。だから下宿しても便所掃除とかそういうのは全然苦痛じゃなかった。あと、仏さんとかは見えない。お茶をやっても飲んでいないから減るわけじゃない。見えない、存在もしないものにお茶をあげて食べ物をあげなきゃいけないというのをやらされることが、なんていうのかな?(笑)。僕なりに論理的に考えてもおかしいのに、やってる自分がいるわけですよね。これもなんか不思議なしつけだったね。

大谷:その後のお仕事になんとなく繋がってるような気もしないでもないですけど(笑)。

河口:ね? なんかね。そうなんだよね。見えないものに対する関心とか。それから、商売してるから、すっごくいいときはお手伝いさんがいたりして面倒みてくれる。だから母親の愛情とかは直接受けられない。経済的にダメになったときはそういう人が全部いなくなって母親と一緒におれる。だから子どもなりに、「お小遣い減っても、経済状態がいいときの方があんまりよくない」みたいなね、そういう意識があったな。そこらへんがやっぱりお金に対する執着、経済的に成功するという願望の希薄さみたいな(笑)。
それで、兵庫ブラシ製作所というのは弟が継いだのね。僕は継がなくて。母親は「継いで欲しい」ってずっと言ってて、「お前が継いでくれたら潰すかもしれないけど大きくする可能性がある」って言ってくれたんだけど。そのへんは親不孝だと思うけどね。

大谷:いやいや。

河口:でも生まれてすぐに戦争が起こって、食料がなくて、よく育てたと思うわ。話が飛ぶけどね、阪神大震災ってあったでしょ?(注:阪神・淡路大震災、1997年1月17日) 母親が部屋の真ん中でドーンっていて。それで、たんすがまるで母親をよけるように倒れてる。仏壇とかも全部。それで「恐くないか?」って言ったら、これは要するに「地震だ、自然災害だ」と。「殺しに来てない」って言ってたもん。「戦争の時は私を殺しに来た」って言う。目的がそれだから、それの恐怖に比べたら。なんかもう本当に……よけるように(笑)。だからかすり傷一つしてない。そこらへんはなかなか太っ腹っていうかな。……やっぱり戦争っていうのは残酷っていうかな。
 それで小学校のときに親友がいて、その親友が疎開するときに「二人きりで会いたい」って言ってきた。その人は在日韓国人だった。日本人名を名乗ってて、「ずっと君に嘘をついていた」と。最後別れるときに、「在日韓国人で日本人でない。すまなかった」って言って。それで、僕の中に人種偏見とかないのに、彼にそういうふうに言われたことがすごく悲しくて、そのことを今も覚えてるわ。国が違うということが子どもにまで影響して。あのとき、やっぱり戦争中、朝鮮の人は敵視されてるみたいなところがあったから。ものすごいショックやったな。そのときまでそんなの知らなかった。最後に、もう一生会わないかもしれないというときに、そのことを告白されたというのが僕にはショックで。僕は彼が日本人だから付き合ってるわけでもなくて、人間として付き合ってたつもりなのに。それは未だに覚えてる。顔はもうだいぶ忘れてしまったけど。たぶん会ってもわからないけど。そのことを言われたのは覚えてる。
 それから、校庭の掃除をするでしょ? そうすると焼夷弾とか出てくるわけ。それで僕はそれを発見して、持って、先生のところに行って、「先生これは何ですか?」とか言うと、「やめなさい!捨てなさい!近づかないで!」とか言われて(笑)。なんのことかわからないけど、大変な危険物ということだけはわかった。

牧口:結構あるんですね。

河口:グループ〈位〉の一人が、やっぱりそれが爆発して欠損したのね、指を。それで彼はずっとポケットに手を入れて隠してた。グループ〈位〉の会合のときにその体験を乗り越えたいって話がでて。これは言っていいのかわからないけど、指をみんなに見せて、写真を撮って、徹底的にもう見せるっていうことを提案すると、彼は怒ってね〜、ものすごく。怒らない人だけど、初めて怒られてさ〜。すっごく傷つけたなと思ったけど、それが一番いいかなと思って。それで、彼は僕をきっと絶交し、口を利いてくれなくなるだろう、と。ところが次のグループ〈位〉の会合のとき、「河口!」って言って手の写真を。

牧口:お持ちだったんですね。

河口:うん。中学校の先生をしてて、初めて担任をもって話するときに彼はその話をする、と。「今は見せない。だけど自然に見て欲しい」って言って職員室に帰ると、生徒がバーって窓から覗いて(笑)。子どもの残酷さと、あどけなさと。

大谷:まぁそうですよね。

河口:だから、なんていうかな、戦争の被害っていうのはあるんですね。いろんなところに。それで、僕自身がこれだけ記憶しているっていうことはやっぱり特別なんでしょうね。ましてや銃を持って人を撃った人なんて。それが大義であったとしても、重いもんがあると思うなぁ。

河口:そうね。

大谷:東京にやっぱり行きたいっていうことはあったんですか?

河口:小学校のときに、桝井一夫さんっていう図画工作の先生がいたのね。その人が僕に絵の才能みたいなんを見出してくれて、例えば文化祭の書き割りとか指人形の花咲爺の小道具とか、そういうのをつくらせてくれた。僕は主役をやりたいんだけど(笑)。ただ、授業をしてると桝井一夫先生から呼び出しがあって、サボれるわけね。書き割りして、そのときに木を一本描くでしょ。すっごく丁寧に描いても、観客席から見たら生きてる木に見えないのね。それで、近くではすごく粗っぽいんだけど、下がって見てみると、生きた木に見える。木はいっぱいある。だけど生きた木としては見てない。そういうことで、表現っていうのはおもしろいな〜と思った。その人は彫刻をしない人で、絵の人。小磯良平さんのお弟子さんだったっていう人で、美術に関わる職業で、例えば画家っていうのがある、とか教えてくれたね。それだと子どもながらに、「一生絵を描いてていいんだ〜」とかね(笑)。どうやって食べるんかわからないけど。まぁ楽しいね。絵を描くことは芝居とか、そういうのにも役に立つし。それから虫歯予防のポスターかな? それもやって賞をもらったりして。描くことっていうのは多機能。純粋に描くこともあるし、あるいはテーマがあって描く。そういうのに目覚めていったのかな。それでそういう画家で美術の先生がいるところの中学校、高校へ進学しました。
 神戸市民美術教室というのがあった。それは大人の人が行くんだけど、中学3年生でデッサンが必要だと思って行ったんだ。ただね、ヌードデッサンってのもあってね。このとき(着衣)はいいんだけど、裸の女の人なんて見たことないでしょ、中学3年生で。それで指導の先生に「ちゃんと見なさい!見て描きなさい!」とか言われて(笑)。見れないねん。恥ずかしくて。だけど、みんな大人の中で中学3年生が描いてるわけでしょ? だからすごいかわいがってくれたけどね。
 それで、中学校3年生のときかな?桝井一夫先生が紹介状を書いてくれて、神戸で一番優れたデッサンができる人というので小磯良平さんを紹介してくれた。僕はデッサンを一心で見て欲しい。中学3年生の時に御影の小磯良平家に訪ねて行ったわけ。御影駅を降りて、小磯家へ行って、百日紅の木があって、門があって。画家ってこんな立派な屋敷に住めるのかなって思った。それで呼び鈴を押すのを躊躇して、周りに小磯って探したけど、みんなあそこらへん豪邸ばっかりでね。「ここしかないな」と思って。それで呼び鈴を押したらお手伝いさんが出て「お待ちしてました」って、応接間へ通されて。小磯さんがアトリエに案内してくれて。あの人は私と対等に向き合ってくれました。彼のモチーフが全部そこにいっぱいある。楽器とか。それで、石膏デッサンを見てもらって、何か批評してもらったんだろうな。そのときに、これは謎だったんだけど、小磯良平さんが僕に「ありがとう」って言ったんだな。なんでかわからなくて、「なぜありがとうなんですか?」って聞く勇気もないし、余裕もないし、もう見てもらうだけで精一杯で。自分で考えるしかしょうがないから、ずーっと大学生になっても考えてたかな。それで僕なりのわかり方ですが、 それは、デッサンっていうのは画家の基本でしょ? その根本的な力がどのぐらいあるかを君がみせてくれて「ありがとう」ってこと。つまり「信頼してくれた」ということに対する御礼というのが「ありがとう」だったんじゃないかな、というのが僕の後で考えた解釈。それとどんなに偉くなっても、「偉い」というのは相手が思うことであって、「俺は偉いんだ」っていうのは……(笑)。そのことを学んだ。中学生なんかボロクソに言っても構わない立場の人が、全部応対してくれて。それで、後日談みたいになるんだけど、僕がある程度、大学受験の年齢になったときに、どっかで小磯良平さんに会ったんだ。僕はもちろん藝大(東京藝術大学)って思ってたんだけど、「君は藝大に向いてない」って(笑)。

大谷:そうなんですか!?

河口:ということは、「力がない」っていう意味かなって思うじゃない? だけどどうもそうではないのね。つまりアカデミズムの藝大に向いてない。「君はもっと自由に自分自身が表現したいものを表現できる大学に行くのがいいんじゃないか」っていうことだと思う。それでね、当時アカデミズムで写実的なのがやっぱり優等生なら藝大。それから武蔵美(武蔵野美術大学)があるでしょ。武蔵美はそういうのは劣等生になるわけ。自分の表現がどの方向にむかうか確信がないから。多摩美は両方とも認めている。つまりアカデミズムで描写力もあるというのも一番。それから抽象絵画みたいなのもよければ一番。僕はアカデミズムでいくかもしれないし、新しいことにも興味あるし、高校生としてはわからなかったわけね。わからないから両方を認める。それと教授陣がやっぱり多摩美は豊富で多様だったけど、藝大っていうのは藝大の卒業生しか先生になってないと思えたので。

大谷:高校のときにそれだけ情報を集めてたんですね。すごいですね。

河口:そりゃね! 命がけですよ! 親にあれだけ反対されてさ(笑)。指導の高校の担任の先生は、京都芸大(京都市立芸術大学)か神戸大学の(教育学部)美術科に君だったらいけるからいかないかって。僕はやっぱり東京へ出たかった。むしろ東京へ出たいために東京の大学選んでるっていう理由もあったから。それでどうしても。藝大は経済的にはいい。ただね、藝大の卒展見たんだな、やっぱり。全部同じ絵が並んでて、ショックで。そこにまた僕が同じもの描くんかな〜っていうのを…… それでも藝大は一応受けたんです。受けて最終までいったんですけど、どっかで萎えたな。それで多摩美は受かってて、藝大は最終的にはダメでした。それで受験生で最終まで残っていたのはほとんど浪人でした。丸刈りは僕だけだった(笑)。当時の高校生は丸坊主で。
 それで美術大学(多摩美術大学)に入って、みんなが画家や彫刻家になりたい人ばっかり集まってて、どんな話題が話されるんだろうと思ってたら違うのね!(笑) それはごく一部で、違うんですよ。もう行くところないから来たとか、ファッションみたいな感じで来てるとか。それから私学だから貧富の差が結構あるし。多摩美での教育は石膏デッサンで1年。2年目は人体デッサンですよ、1年間。3回生は人体を油絵で描く。4回生で創作みたいなことをする。それで僕は、最初は画家になりたかったから、どんなものでも描ける訓練をしなきゃいけない。それこそ指紋がなくなるぐらいデッサンもした。それで描けるようになった。だけど、こんなことだけしてて大丈夫なんかなって。それをね、先生に質問した。

大谷:誰先生ですか?

河口:あのとき誰やったかな? 指導の先生で、「こんなことずっとしててちゃんとした芸術家になれるんですか?」「君の疑問はもっともだ」とか言われてね。僕はきちっと勉強してたからね、一生懸命いつも描いて評価も良かったから。それで質問してるから、わりかた正直に答えてくれた。「君がやりたいことをやった方がいいよ」って言われたんよね。それで片一方で下宿で創作をやって、片一方大学で習作というふうに、分けたわけ。何年生のときかな、在学しながらすいどーばた洋画研究所(注:すいどーばた洋画会。1965年より「すいどーばた美術学院」)というところに行ったんだ、一食抜いて。そこに男か女かわからない人がいて、「多摩美に行ってる」って言ったら、「ガハーッ!」って笑われて、「お前、大学なんか信じてるのか!」とかボロクソに言われて。「芸術なんて自由にやるもんだよ!習い事やないやろ!」ってガンガン言われて。その人ね、なんかのときにおっぱいがちょっと膨らんでるのがわかって、女性なの。男言葉を話すし、煙草吸うし、絶対女に見られないようにして抽象絵画を描いてたの。

大谷:誰だったんですか?

河口:知らない(笑)。

大谷:おもしろいですね。

河口:大学に絶対いないタイプ。

牧口:それって1950年代ですよね?

河口:そうそう! 1958年か59年頃。それでね、大学に行ってる人だけが芸術を目指してるんじゃないのがわかったわけ。もっと野人のように一切人の教育なんて受けないで、自由に勉強してるっていう。そういう人もいるんだっていうので僕の視野が広がったわけね。要するに美術大学の学生だけが相手じゃないっていう。ある意味では学歴なんか何もなくても、優れた絵を描けば画家になれるということかな。それはちょっとショックだったな。
 美術大学っていってても芸術そのものは教えてくれないでしょ。あるときまでは僕は画家を目指してたんだけど、交換実技というのがあって、彫刻をやるんですね。彫刻をやって、表現っていうのはいろんな仕方があるんだってことがだんだんわかってきて、それから画家や彫刻家といったことではなく芸術家になりたいって思いだしたんですよ。ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)も彫刻も絵画もやってたでしょ? ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)もやってたでしょ? 別に芸術家として表現を自由に選べばいい。
(質問票を指しながら)ここにも出てるけど1960年、僕が20歳のときに安保闘争があった。絵画の中に政治的なイデオロギーを表現するというのは―社会主義リアリズムみたいなのは―プロパガンダになる。僕はそういう作品はつくらない。もうちょっとそういうものも超克した、乗り超えたものをしたい。そうするためには直接肉体で政治的なことに関わらなきゃいけないと思ったわけ。それで、友だちはいたんだけど、友だちに相談して安保闘争をどう考えるかというのは一切しないでデモに行ったんです。僕は学校を全然休まない、真面目。でも休んだんです。一番最初は上野の徹夜支援ですね、安保闘争のための。労働者が賃金闘争以外に政治的な問題で初めてストを起こすんです。それの支援。一人で行ったんですよ。僕の問題だからね。友だちは一切誘わない。行って、そこで握り飯とか供給されて。労働者が全然働いてない学生を対等に扱ってくれてね。ある意味では、ちょっと大人に見てもらったわけ。そこからですよ、行ってデモをしたりとか。そのときはヘルメットもないし何もない。ただ、男性が弱い女性を真ん中にいれて行進するという。それで、右翼が時速40キロで来て、角棒に釘があるやつを振り回して。そのときに初めて棒を持った。「なんか持たないと」と。でね、当時はそんなに食べ物を食べてなくて、痩せてたし、全然強そうにみえないのに、端っこで守る役。なんか「強くならないといけない」って(笑)。そのときは暴力の問題、暴力で来たら守らなきゃいけない。それでデモに行くでしょ、学校を休むでしょ。学校に来ても授業中なんか絶対寝ないのに、徹夜支援なんか行ってるからさ。友だちが心配しだして、「河口、お前どうした」って。女ができたと思ってね(笑)。まぁ年頃だから。「いや違う」って。それでしょうがないから話したら「僕たちも行く」って言って。僕はデモに行って国会に抗議に行って、警察が来るでしょ。デモ隊が来るでしょ。体が浮くんですね。そのわりと近くで樺美智子さんが圧死したんですよ(注:1960年6月15日、全学連が国会に突入した際、警官隊と衝突して当時学生だった樺美智子さんが死亡した)。本当にゴォーっていう騒音とともに潰れるんじゃないかなと思った。

大谷:あのとき現場にいらっしゃったんですね?

河口:いた。それからありとあらゆるデマがとびかった。ナチのときと一緒だな。国会が放火されたとか。それからデモ隊を煽動する右翼がいるんですよ。警察と完全に衝突させて潰すという。それが見つかって袋叩きにあってるのを見た。スパイみたいなもんですね。制裁を受けてたんです。20歳の僕が精一杯受け止める現実。それでデモをやってて、銀座通りをこうやって手をつないで歩いてたんですよ。時には笑顔で迎えられて、ビルから花びらみたいに紙吹雪が舞い落ちた。それでも失敗したんです。完全に失敗ですよ。だから、平和のために武力を使わない。その代わりアメリカの武力をもってアメリカに保護を受けないと、できない、成り立たない。今もそうですけどね。そういう現実というものはわかってる。だけど片一方でもう少し日本としての「自立」「自由」。そういうものが要るんじゃないかっていう、そういうことだろうな。それでやっぱり芸術に何ができるかだよね。
 やがて学生全部がデモに行くようになった。すっごい真面目な学生がいて、モデルさんがいるでしょ? モデルさんを描いてるわけ。モデルさんがね「あんたデモ行かないの?」って言う。「僕は絵を描きます……」「私、行くからね!」って(笑)。「勝手に描きなさい」って、僕らと一緒に。それでもダメだったな…… だから政治的な問題を「絵に描く」「彫刻にする」「芸術として接近して結びつける」、そのことができないなら自分がデモに参加するとか、意思表示するとかしなければならないと考えさせられた。
 僕が海外に憧れるなら、日本を捨てて外国に行って、芸術が通用して、そこで食える。そういう国へ行くというのは一番便利でしょ? 芸術表現としては良い環境が整ってる。そのときに、どうしても日本を捨てられないっていうのは、フランス行っても、イタリア行っても、アメリカ行っても、要するに異邦人でしょ? 内政干渉になるわけですよね。税金も払ってないし。だから市民権を取れば別だけど、日本人のままでいながら政治的な発言は一切できない。多摩美のときにデザイン科に長澤英俊がいた。交流は一切なかったんだけど、パリ・ビエンナーレ(「第8回パリ国際青年ビエンナーレ」、1973年)で出会ったときに、彼なんかは、政治的な問題に対する欲求不満がものすごいあるわけ。イタリア人じゃないから。だから彼は自分の政治的イデオロギーも託せる友だちをもってる。それでないと、社会人じゃなくなっちゃうのね。芸術家ではあるけど。そこは一番大きな問題で。海外に行ってて、「お前は帰ったら大学の先生しなきゃいけないだろう」とか、「ここで毎年10回展覧会をしたら食わせてやる」とかね。そういうのはありましたよ。そしたらね、日本がよぎるんだ。日本で、あの中で頑張ってる友だちとかさ。なんか抜け駆けして、食べるためだけに日本語も捨て、日本人も捨て、そのこと自体がいいのかなって。もっと芸術っていうのはしっかりした根っこがあって。作品だけがポワ〜って浮いてるんじゃなくて、大地からガーっと生えてきた作品でないと力がないんじゃないかなって。全部超越して、作品がパッっといいなんてそういうことは難しい。歴史に残ってる画家っていうのは、その時代と格闘してるよね。
 でも安保闘争っていうのは、政治的に日本が苦難にあって、どういうふうに解決するか。たった一人では解決できないから、その考えだけで共有できた時代だったと思うね。僕自身が一人で、学校に行かないで、何が僕を動かしたのかはちょっとよくわからないけどね。だから本当なら芸術に関わる、例えば展覧会を見に行くとか、学校で勉強してる方がいいっていうこともあるんだけど。それでね、これ、大学時代のノート。

大谷:ちゃんと取って置いてあるんですね!すごい!

河口:いやたまたまね、こういうインタビューの話があったから。

大谷:これは私、初めて見せていただきます。

河口:社会学とか生物学とかね。絵画にしろ彫刻にしろ、芸術を選ぶでしょ。そのときに僕自身の中ですごい不安な問題があって。ここにわりかた残ってるのは社会学とか生物学とか物理学とか、そういうものを一生懸命勉強しているのが残ってるのね。つまり芸術をやることによって他のものは勉強しなくていいという考えもあるんだけど、もう関わりがないから、そのこと自体は勉強しておかなければならない。意外に芸術に関するものはあんまりここには残ってない。それは私なりに身についてるからね。必死で勉強したから。だけどね、ほとんど覚えてない(笑)。これは美学概論、構成理論でしょ。

大谷:うわ!すごい!なんて真面目な学生だ!

河口:大学だから聞き書きでしょ。

牧口:すごい。

大谷:ちゃんと絵も描いてありますね、植物の。うわ〜すごい。

河口:こんなことやってたんだよ。試験があるでしょ? 試験があるとき僕のこのノートなくなるのよ。つまりコピーがないから。定期試験の結果が不安で危ない人集まってきて、「河口、何が出る?」って。先生って意地悪じゃないから、「これとこれ」って。大事なものしか出さないじゃない。

大谷:すごいですよ、これ!

河口:なんかいろいろ書いてるわ。それでね、ノートって全部使わないでしょ。残った白紙ノートを切ってるのね!(笑)

大谷:またこれはよくできてますね(笑)。すごい。このノートは展覧会に出品したかったですね。

牧口:本当ですね。

河口:あと教職も取ってるから。それはあんまりノートがないのね。手帳はもういろんなことを書いてるな。デザインもね、就職のために勉強しておいた方がいいかなと思って。

大谷:多摩美のデザインは先生がすごいですよね。いろいろ。

河口:あとから友だちが調べてくれてわかったんだけど、イッセイ・ミヤケがいるね。同期生で、デザインの方に。

牧口:そうなんですか!

河口:僕の友だちに臼田宏っていうのがいて。

大谷:一緒に展覧会(「臼田宏・河口龍夫 二人展」夢土画廊、1964年、ほか)とかされてますよね。

河口:そうそう。彼が名簿をコピーしてくれて。友だちとか、卒業式の写真とか、先生の名前とか。実技の先生としては福沢一郎さん、末松正樹さん、大沢昌助さんがいて。理論の方では高階秀爾さんとかね。中原佑介さんは途中で辞めちゃって。これ(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの聞き取り)をきっかけにいろいろ出てきた。

大谷:この方、この方って、ちゃんとみんな取って置いてるんですね。

河口:このとき(1962年)に卒業したのが、油(油画)86名、日本画11名、彫刻13名、図案って言ってた図画工作122名。僕ね、総代してるの。

大谷:そうなんですか!

河口:そのことを臼田くんが知らせてくれて思い出した。だから答辞を読んだ。和紙に毛筆で書いた。前年度がそうだから毛筆で書けって。卒業証書を全部もらって、各科に分けた。だからね、一応母親との約束は果たした(笑)。それで神戸に帰って先生をした。総代になるなんて全然意識してなかったけどね。勉強したいだけして。それで、これも出てきたんだよね。パウル・クレー(Paul Klee)の日記(南原実『クレーの日記』新潮社、1961年)。

大谷:はい。

河口:でね、これは在学中に出版されたので、クレーの日記を読んでるんだけど、読み方がね…… クレーがどこに行ったか、何を読んだか、何に感激したかって書いてある。これ全部、僕尋ねるつもりでいたんだ、きっと。クレーってわりと読書家なんでクレーの読んだ本を書き出して参考にしている。

大谷:すごい。

河口:あとバーナード・ベレンソンってイタリアのルネッサンスの大家ね。その日本語訳(山田智三郎ほか訳『ルネッサンスのイタリア画家』新潮社、1961年)が出たとき、バーナード・ベレンソン(Bernard G. Berenson)の授業っていうのを僕がつくって、バーナード・ベレンソンの本を置いて、本にお辞儀して、勉強する。ベレンソンの授業を受けて。イタリア・ルネッサンスについては完璧に一応自分なりに押さえておきたいという。ベレンソンさんに質問するんだけど、いないから、自分で答えて(笑)。「今日はここまで」とか言って(笑)。

牧口:それは学生時代ですか?

河口:学生時代。だから架空の授業。それはちょっと恥ずかしいから人に言わない(笑)。

大谷:すごい学生だったんですね。このあたり初めて伺いました。

河口:だからたぶん、芸術って物理とか生物とか全部トータルに関係あるんだっていうのは後にわかってるんだけど、このときはなんかまるでね、決別していくような。だから一生のうちで何をするか、建築家になるかとか生物学者になるかとか、一つのジャンルしか生きれないっていう。それ以外のことをどうするんだっていう不安。だけど芸術をやることによって、エネルギーの作品とか天体とか、僕はいっぱい逆にできたから、芸術をやってよかったな。元々、芸術っていうのはそういうものなんですね。

大谷:そうですね。

河口:あとね、シュルレアリスムとかキュビスムとか勉強するでしょ? それは理論で勉強して、僕はやっぱり作家になりたい、表現者になりたいから、キュビスム風に世界を見たらどうなるかとか、シュルレアリスムとして見たらどうなるかっていうのを一点ずつ描いてる。それは勉強のために描いていて、創作じゃないから残ってないと思うんだけど。

大谷:学生時代にそういう?

河口:勉強の仕方として、僕なりに僕が理解するにはやっぱり実際に表現した方がいい。そのときに、普通シュルレアリスムの影響である時期バーっと描くってことがあるけど、それはやめようと思った。勉強だから、僕はシュルレアリスムの作家、キュビスムの作家になるわけじゃないから。理論で理解するのと同じように実際の実技というか作品表現で理解すればいい。

大谷:なるほど。

河口:だからそんなふうにやってたというのは誰も知らないと思うわ。あと多摩美で学期に一回ほど、ある時間、1週間とか2週間とか創作をやって、それを持って行って指導の先生方による合評会がありました。福沢一郎さんとか先生方全員が集まって批評会してくれた。普通は1点か2点見せるんだけど、そのときに自分流に勉強したものとか、たくさん持って行った。だけどそんなに多くの作品は見せられないだろうと思ってた。福沢一郎さんが僕の作品を見てから「そこに持ってるのはなんだね? 全部出しなさい」って。学生はずっと待ってるでしょ? 関心ない他の先生も結構いる。福沢一郎さん貫禄あったからね。その先生が「見せなさい」って言ったら、みんな「やめなさい」とは言わない(笑)。それで丁寧に見てくれたのは覚えてる。福沢一郎さんも、不思議な絵を描くよね。シュルレアリスムだけど。

大谷:そうすると先生は卒業制作っていうのはどういうものを?

河口:卒業制作あるよ。

大谷:えっ!

河口:平面の作品で。初期絵画で棒みたいなの(《作品64-6, 無機物》1964年、ほか)あるでしょ。あれがああいうふうに整然としてなくて、空間に浮いてるみたいな。

大谷:そうなんですか。じゃあ学生の頃からそっちの方向にはもうかなり。

河口:そうね。向いてたね。僕の学生のときはアクション・ペインティングが全盛。みんなやってたよ、ドリッピングとか。「河口!これが一番最先端だぞ!」「そんなん今最先端のものをやってたってダメなんだよ。その先をを行くんだ」「先はわからないじゃないか!河口、お前わかるのか?」「わかる」とか言って(笑)。嘘ですよ。わからなかった。

大谷:まさにそういう時代ですよね。

河口:うん。だからものすごい勉強している最先端の人はそうしてた。

牧口:そのとき話題になってた作家というのは、それこそポロックとかですか? どのあたりの人の名前が挙がっていたんですか?

河口:アンフォルメルも入ってきてたでしょ。それからジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)の数字も入ってきてた。

大谷:そうなんですか。

河口:僕はやっぱり1、2、3、4、5、6、7、8、9がアートになる、絵画になるっていうのはすごいことやってるなって思った。新しいモチーフは一切ないでしょ。それから立体のものは絶対平面に描かないでしょ。

大谷:そうですね。旗とか。

河口:標的とかね。平面には平面のことしか描かない。絵画とそこに描かれるものを一致させる。そのことはおもしろいなと思った。片一方で(コンスタンティン・)ブランクーシ(Constantin Brancusi)みたいなね…… なんというか普遍化する。僕はブランクーシについて書いた文章があるんだけど。百合の花とか薔薇の花とか言うけど、だけど「花」という花はないでしょ? 鶴とか鷲とか言うけど、「鳥」という鳥はないでしょ? だけどブランクーシは鳥を形態にした。つまり鶴じゃなくてペンギンじゃなくて、鳥で「飛翔」という普遍化した作品を創作した。それはすごいなと思って。僕は根っこのような作家になりたいと思ったのね。「枝葉はもういいわ!」って。ブランクーシとか(カジミール・)マレーヴィチ(Kazimir Malevich)とか抽象絵画の根っこの作家の研究をしだした。なかなか根っこの作家になれないけど(笑)。

大谷:当時、ブランクーシはそんなに注目されてました?

河口:いや、ごく一部ですよね。彫刻そのものが絵画ほど関心がないから。(アルベルト・)ジャコメッティ(Alberto Giacometti)とかも。彫刻に関心を持つこと自体が時代の流れではそんなにないから。ロダンぐらいでしょ? やっぱり文学的に理解できるものしか、なかなか理解されない。だから物語性とかエピソードとか。絵画がドーンとあって、彫刻がドーンとあって、それ自体でガーンと感激するようなもの。そういうものを創作し存在させたいと願ってた。
 友だちの話が出てたでしょ。臼田宏、土屋忠美、竹屋京子、増田恵美とわりかたつるんでて、一年のときに臼田君っていうのが、僕が石膏デッサンしてるときに来てね、「僕は君と友だちになるよ」って言われて。「友だちって〈なるよ〉って言って宣言してなるんじゃなくて、自然に友だちってなるんじゃないの?」「いや、僕は君と友だちになる」って。それで、一生の友だちになった。

大谷:おもしろいですね。今も描いていらっしゃるんですか?

河口:今は編集の仕事をしてて、絵はあんまり描いてないね。だけど必ず展覧会は観てくれてるし、僕のほとんど全部の作品を知ってるだろうし、多分見てる。それで今回確認のために(笑)。僕の記憶と間違いないかって、こういろいろ証拠を確認してもらった。卒業式のときの写真も。

大谷:この方も相当特異ですね。

河口:そうだね。このヴィル・グローマン(Will Grohmann)が書いた『パウル・クレー』っていう本あるでしょ? それを古本屋で見つけて。これを買うと下宿代を払ってしまったら食べ物代が全然ない。どうしようと悩んで買った。買って臼田君と土屋君に「これを買った。金はもうない。これ見せるから、一ヶ月食わしてくれ」って(笑)。本って飢えるのはわかってても、なんか所有したくなるっていうのかな。ヴィル・グローマンって後に草月会館に来るんですよ。パウル・クレーの講演。これはね、たまらなかったな! スライドでクレーの作品をパーって映すんですけど。ヴィル・グローマンが一冊の本にして、ずーっとクレーと親交をもって、ものすごい愛情。カッコイイのはスライドを変えるときに万年筆でポーン!って叩くの。これ絶対使いたいな!って(笑)。もう隅々にまでクレーに対する愛情。それは普通話す人にある「これだけ俺はクレーを知ってるんだ。クレーを知ってることによって俺を評価しろ」というのが一切ないんです。本当に「クレーって素晴らしい」、もうそれだけ。どれだけ素晴らしいかをみなさんに知ってほしいということを一生懸命話してた。ものすごい気持ちのいい講演だった。だからあのとき初めてね、画家でもない、彫刻家でもない、だけど一人の芸術家をすごく理解して、理解したことを自分だけに留めないで、みんなに共有したいっていう研究者とか歴史学者とか評論家、そういう人にも素晴らしい生き方があるっていうのがわかって、「僕もそんな人が欲しい!」って(笑)。まさにクレーを歴史に残した人。そのことによって僕たちもクレーの作品に親しみをもってきたという。あの講演はよかったね。なんていうかな、歳をとってるんだけど、万年筆を机にパーン!ってやるときの若さみたいなね。この買った本だけは手放さないで持ってる。ほとんど手放したけど。(ヒエロニムス・)ボッシュ(Hieronymus Bosch)とクレーはずっと持ってるかな。あとは買えないからね、見るだけ。

大谷:先生は多摩美の4年間(1958〜62年)というのは時期的にいうと…… 卒業されるのは1962年ですよね?

河口:18歳から、19、20、21歳まで大学にいたんだ。それで、もう22歳のときは教職に就いた。

大谷:この頃って、例えば読売アンデパンダンとか、ものすごい盛り上がってた時期なんじゃないですか?

河口:だから読売アンデパンダンに絶対出そうと思ってたわけ。出そうと思ったら潰れちゃった(笑)。それで、アンデパンダン ’64(東京都美術館、1964年)というのを、針生(一郎)さんたちがやって、やっぱりアンデパンダンが必要だっというんで、それには出した。それで京都アンデパンダン(京都市美術館)っていうのには出品した。

大谷:京都アンデパンダンは60年代ずっと出されてたんですよね?

河口:そうですね(注:1966年は不出品)。だから1970年の東京ビエンナーレの前の年くらいの京都アンパンというのはものすごく盛んというか、盛会でしたね。だから場所取りがなかなかできなくて。僕は神戸から行くから、京都の人に負ける。だから京都の友だちに頼んで場所だけ取っといてくれって。

大谷:早い者勝ちなんですね。

河口:早い者勝ち。ガムテープをガーって貼って「河口」って書いて場所を取ってくれてたわけ。僕が行くと向こうから、「河口!お前、作品ガムテープか?」って(笑)。あの頃何でも作品に見えるから。「いや、まだこれから搬入なんだよ」って。それが《関係》(1970年)っていうコピーの仕事。

大谷:それより前のことは京都市美術館でやったとき平野(重光)さんが少し書かれてますね(「関係―河口龍夫・論」『河口龍夫―関係・京都』京都市美術館、2000年)。

河口:そうですね。そのときはまだ人間の形態がちょっとあったりとか。

大谷:グループ〈位〉(注:1965年に井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博州、豊原康雄、中田誠、向井孟、村上雅美、良田務の9人で結成)の活動をされていても、個人として京都アンデパンダンには出してらしたんですよね?

河口:そうです。東京にいて神戸に戻った。関西に具体(具体美術協会)はあったけど、具体はもうサロンみたいになってたからね。具体のメンバーの人に「河口さん参加しないですか?」って誘われたこともあるけど、僕が考えてることと違うなと思ってて。それで神戸の中で精神的に飢えがあるそういう人たちが何回か集まって、グループ〈位〉になった。個人の仕事は個人でやろう、グループでしかできないのをグループ〈位〉でやろう、と言って。穴掘りなんか個人でもできるけど、集団で穴を掘ることの意味ってまた違うから、それで穴を掘ったり。まぁ結構過激な。今度、ロサンゼルス(ロサンゼルス現代美術館)に《穴》(1965年)は出るのよ。

大谷:えっ!?

河口:《穴》の写真。ジャリ(《E・ジャリ》、1966年)は再現する。

大谷:そうなんですか。

河口:うん。それで僕の《陸と海》の映像の作品(『陸と海』1970年、『Location』1970年)とかも。“Ends of the Earth”「地球の終わり」というランドアートの大展覧会(“Ends of the Earth: Land Art to 1974,” The Museum of Contemporary Art, Los Angels, 2012)があって、そこに出る。ランドアートのつもりは全然ないんだけど…… 《穴》とジャリ。「砂利は積みに行ってもいい」って言ったら、旅費の問題があるから、それは美術館のスタッフにやらしてくれって。その代わりすごい細かいんだ。何色の砂利かとか、大きさはどのくらいかとか、そんなんもう…… 日本では砂利って言ったら砂利しかなかった記憶しかないんで。それは再現することになった。
 グループ〈位〉がものすごい活発にずっとやるなら、僕は個人の仕事というのは最終的にやめてもいいと思ってた。だけどそうでもなかったから、個人でやる仕事は個人でやる。ただ僕自身は、個人の表現としての芸術つまり「私」の表現というのは考えてなかった。だからグループ〈位〉でしかできないいろんなことをしてきた。ただね、個人の仕事というのは、「個人」対「社会」なんですね。その関係を僕は変えたかったわけ。小さくてもグループ〈位〉というのは社会でしょ? 「社会」対「社会」の関係それは一回しとかないとダメと思ってた。

牧口:ジャリはどちらから調達されたんでしょうか?

河口:グループ〈位〉のメンバーの誰かの知り合いの土建屋さんだったと思います。砂利をね、ベルトコンベアで何トンかな? これ企画展だったんですよ。ヌーヌ画廊(大阪)というところで。それで、プランを全然言わなかったわけ(笑)。プランを言ったらその段階で「やめてください」って言われるかもしれないと思って、どんどんどんどんジャリを積んで。画廊にこういうものを積むっていうのは世界的にも最も早いのね。エドワード・フライ(Edward Fry)って、グッゲンハイム美術館のキュレーターが、大阪に来たときに「会いたい」って言ってきた。僕の作品を見たかったのね。グッゲンハイムの展覧会のためだったのかな? 最終的には彼と僕との考えが違って、僕は出さなかったんだけど。この「穴」とか「砂利」の写真とか見て、エドワード・フライはショックを受けてて。彼は絶対アメリカが早いと思ってた。「なんで出来たの?」と不思議がっていた。それともう一つ「なぜ日本の評論家の人たちは世界に向かって自慢しないのか?」って。「私たちはそのためにエネルギーを使ってきたのに。こんなに早くあるって、どうして……」って頭抱え込んで。全部書き換えないといけないって。

大谷:穴を掘るのだって(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)より早かったですもんね(注:Placid Civic Monument, 1967)。

河口:もちろん早い。

大谷:当時やっぱり穴を掘るだけとか、他の人は考えつかないですよね。

河口:考えつかない。ただグループ〈位〉でいろんな考えをしていくうちに、個人というのを超えた新しい芸術家になれるかというのはあったわけですよね。《穴》に関してはね、満場一致だったんですよ。それでじゃあ、なぜ穴を掘るというのに賛成なのか一人ずつ聞いていくと違う。その違いを《穴》が飲み込んでいった。
 ホテルに泊まるお金がないから僕はお寺に泊めてもらって、穴を掘るためにずーっと生活して、穴を掘るでしょ? 筆しか持ったことないから、体力ね。肉体っていうのは、自分がやりたいことに耐える肉体を持たないとってことを肝に銘じてね。「軟弱や!」と思って。それで穴を掘ってるでしょ、すると単純になっていくんですよ。哲学的な思考とか、それから過去に学んだ勉強したことが全部音を立てて崩れていくわけ。それとともに開放感がでてくる。すごい単純になっていって。女の子が通ると、僕なんか絶対できないのに「おーい!」とか言って手をふる。僕、こんなことできる(笑)。ものすごく恥ずかしがり屋でそんなこと全然できないのに、なんかね。向こうも「おー!」とか言ってくれるし。それで、穴を掘って、その穴を他のことに使われないために埋めたんです。純粋にするために。穴って普通は墓穴とかゴミを捨てる穴とか宝物が出るとか、必ず目的がある。穴を存在させることだけが目的の「穴」だから。僕は人類始まって以来、純粋に「穴」を掘り存在させたと思ってるわけ。用途がない「穴」ね。たぶん芸術におけるこれは最先端であるというのが自分の中でわかった。こんな気持のいいものはない。だけど歴史がついてくるかどうかはわからなかった。何もついてこなかったらもう何の意味もない(笑)。たまたま歴史がそっち側に動いてきて。

大谷:やっぱりあの時代の中で突出してますよね?

河口:突出してるね。

大谷:まぁ凹んでるんですけど(笑)。

河口:うまいこと言うな〜(笑)。グループ〈位〉で例えば話をするとき、特別な言葉として、言葉を使う場合はその意味を話さなきゃいけない。それ以外は辞書の中に載ってる言葉として理解する。ベトナム戦争から、ありとあらゆることを話題にした。例えばヘリコプターからベトナム人がアメリカの兵隊によって落とされる瞬間の写真がある。それをどう見るかとか。人間の存在というのは一番問題になってたから、存在の状態がそれぞれあるっていう。(あるとき)向こうからヘッドライトを点けた自動車がグループ〈位〉の横を通り過ぎた。そうすると「あの車の色はよかった」って言ったら「いや、運転手の横にいた女性がよかった」とか全部違うんです。自分が見たものを車の総体として受け止めてるわけ。だからグループ〈位〉が9人いて、初めて少し世界が見えてる。一台の車を正確には個人というのは、本当にちょっとしか捉えられない。だから近代というのはやっぱりちょっとを全体にしたかったわけ。自分を正当化するために。

大谷:すごくわかりやすい話ですね。

河口:それは世界にとっては間違いなわけね。だからグループ〈位〉というのは、そういうそれぞれが単位であるとか。だから極端なことをいえば、紅白歌合戦が庶民のコンセンサスであるならば、紅白歌合戦に出ようと言って、本当に考えたのよ? それでルックスで誰がいいかって言って。流行りを入れないといけないでしょ? アイドルのような。誰もいないわけですよ。一つは整形するか、今の時代にあうように。歌はどうかって。歌が上手い下手っていうのじゃなくてウケるかどうかでしょ? ウケるというのが非常に大事なのであるならば、グループ〈位〉の仕事として紅白歌合戦に出ようって。もう無理だけど(笑)。

大谷:すごいな。

河口:リーダーを置かない。だから記録する人も必ず順番に回っていく。司会する人も下手上手に関係なく必ず。下手だからできないと言っても全部やらされる。上手な人は上手にやる。下手な人は下手にすればいいってこと。

大谷:そこらへんも具体とかとは正反対ですね。具体は吉原治良という人がいて、その下に……という感じですけど。

河口:全然違う。だから吉原治良に認められたら作品として優れてるというのを信仰するというのは全然理解できない。吉原治良さんとどっかの展覧会場かなんかで目線が合って、見ると正装してるわけ。パーっとすれ違ったら吉原治良さんはワイシャツが背広の後ろから全部出てた(笑)。後ろ入れるのを忘れてた。それで「あっ!吉原治良……」(笑)。なんというか偶像じゃない。「親しみがあるな」って(笑)。

牧口:生身の人間だな、というか(笑)。

河口:誰も奥さん以外は言わないでしょ、「出てる」って。それはちょっとおもしろかった。

大谷:言えないでしょうね。グループ〈位〉のみなさんは平等で、リーダーも置かない。でも毎回今度の発表はどういうものをやろうというふうに決めていくのはどうされてたんですか?

河口:集まるのだけ決めるんですね。そこの話題はみんなが持って来ないといけないんです。その話はみんなが関心を持たないとダメなんです。だから自分が関心があっても、みんなに関心があるかどうかをそこで考えないといけない。それを話さないといけない。(グループ〈位〉は)冠婚葬祭を一切やらないでしょ。個人的事情は一切抹殺するから、金がないというのは言えないんです。金がないというのは個人的事情だから、グループ〈位〉でこれだけ要るっていったら絶対用意しなくきゃいけない。ただ、グループ〈位〉でずっとやってると矛盾が起こってくる。ものすごい共感を抱く意見を常に言い続ける人と、もうなんかあんまりね…… そうするとシンパシーが食い違ってくるわけ。それをみんな感じてて、元に戻そうという話題が出て(笑)。「絶対戻そう!」って言って、どうしたら戻るかって……戻らない!(笑) どんなに話し合っても戻らないね。それでグループ〈位〉も解散しようということが出てきたわけです。僕は解散に反対で、「解散してもいいという人が出ていけばいい。僕は必要だから一人でも残る」。それで今は4人(河口龍夫、豊原康雄、中田誠、向井孟)残って、他は出ていった。

大谷:まだ続いてるわけですものね。

河口:そうなのよ。

大谷:それは兵庫県美での何年か前の展覧会(小企画「グループ〈位〉展」兵庫県立美術館、2004–05年)のために再結成したというわけではないんですよね?

河口:再結成じゃなくて。グループ〈位〉の考えで商売したりするのもいるし。グループ〈位〉の考えで教育をする。いろいろしてるわけ。僕の考えですよ? グループ〈位〉の考えを持ちながらグループ〈位〉の活動を一切しない。それもグループ〈位〉。たまたま兵庫のときは、《非人称絵画》(1965年)をやったから《非人称彫刻》(1965/2004年)をやろうっていう。それと「非人称絵画」が阪神大震災で全部なくなったからね。それを全部保管してるところの家が全部潰れちゃったから。それで再制作。その費用を兵庫県立美術館が出してくれたんです。あそこに工房があるでしょ。そこで再制作してつくった。1965年の「非人称絵画展」の時に絵画はそれぞれ人によって違わないといけない。それが全く同じ絵を描くというのは、ある意味絵画のありようからの解放がある。 ただ、どういう絵にするかっていうのは大議論。大議論で、青と赤とか全部決めて、フォルムも決めてそれぞれに描いたら、接近すればするほど違いが出てくるんだ。タッチが出てきたりとか、青とか赤の解釈がそれぞれ違ってたりとか。それで体育館を借りて、筆はやめてローラーでみんなで一緒に描いた。自分を繰り返さないというか、同じ絵を二度と描かないというのを2枚同じ絵を描いたからね。それは絵画が成立している幻想みたいなものを全部潰したから。その上に創造というのは成り立ってるんですね。単なる個人の表現、「痛い」って言ってるだけとか、そんなことを表現してもしょうがない。

大谷:そういう関心からだんだん存在と認識みたいなものへ移ってきますよね。そのあたりはどのような感じなんですか。

河口:グループ〈位〉でわりかた大きなことをやっていくでしょ? そうすると芸術の表現における各論みたいなものが抜けていくんですね。例えばオブジェとかイメージとか、それについてどう思考していったらいいか。実体と虚像みたいなのはどういうふうに解釈するか。「トリックス・アンド・ヴィジョン」(「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」東京画廊・村松画廊、1968年)に出してる(《球体と立方体》 1967年、《円錐体と円筒体》 1967年)ように、実体と虚像を一元論にする。実体の影が虚像であるという考えはしない。だから半分の球体があるんですね。それが映ることによって球体にみえてしまう。これは一元論なんですよ。石子(順造)さんは一元論の現実を見抜いて、そこに向かっていくわけですよ。石子さんも見る目はすごくあったと思う。だからあれは円錐体の半分でないと困るわけ。それで「実体と虚像」「イメージとオブジェ」というのが一体化する。そうするとどっちが優位であるというのがなくなる。見えるものと見えないものも対等にできるわけでしょ? 光と闇も対等にできる。そこに僕は向かっていった。そうすると「生と死」ということも当然でてくるし、それを一元化するというのはどういうことか、という。

大谷:1960年代の後半は時代としても、そういうものに対する関心というのはやっぱり強かったんですかね?

河口:例えば関西はやっぱり情念ね。ドロドロ。それがもうちょっといくとアンフォルメルみたいな。だけどアンフォルメルにみえるけど実は情念だったりする。そこらへんがわかりにくい。僕なんか神戸でずっと仕事をしてると、関西にずっと住んでるのに「神戸にいらっしゃったんですか?」とか皮肉を言われるわけですよ。知的な作品とか、そういうのが……

大谷:そうなんですか。

河口:わけがわからないものというのは、わけがわからない。僕は作品を見て知的興奮というのがあるからね。数学とかそんなんじゃない、芸術しか味わえない、脳がカーっと興奮するような。そういうものも大事だと思ってるから。そういうものはなかなかなかったね。

大谷:なんかちょっと意外です。神戸ってやっぱり昔から海外との交流があって開かれた場所のイメージがあるので。

河口:具体なんかに叩かれるわけですよ。神戸っていうのは何もないって。ただね、神戸っていうのはゴルフ発祥の地でしょ? それから洋服を初めて作ってるわけですよ。それからディスコもそう。老舗なんだけど老舗をあまり大事にしない(笑)。これは港の特徴なんだけど。ピザが初めて日本に入ったのもそうだし、先程言ったディスコ。その店は行ったことあるけどね。一人で踊れる、パートナーがいなくても踊れるっていう、すごい画期的なことだったんですよ(笑)。 ダンスホールはパートナーがいないとそこにも入れないじゃない。ただ、ディスコは相手に触らないでしょ。空間を必ずおいてるわけですよ。だから安心なわけね。パートナーは代われるし、誘いやすいわけです。寂しいときはな〜、もうちょっと距離を縮めたくなるけど。

牧口:60年代、京都アンデパンダンにわりと出されてますけど、関西の同時代の美術の印象として、やっぱり知的なものはあんまり多くないなという印象でしたか?

河口:いや、そういう人もいたと思うけど。アンデパンダンっていうのは団体展に対する反発。それですよね。団体、そこにアートの問題というのは生まれないという、それがまず大きくて。団体展にも出してアンデパンダンにも出すという、そういう人もいますけどね、何の意味もない(笑)。芸がないっていうか。片っぽをやめて、片っぽを捨てるということの表現が全然できないという。要するに発表の場所が、団体展に関わらない作家にはないんですよ。自分たちでつくらなければならない。だからアンデパンダンというのは、コツコツつくってそこで発表する仕事もあるけれども、アンデパンダンのためにつくる、そういう仕事も出てくるわけですね。僕はあんまりそっちの方はしなかったけどね。わりかた自分でコツコツつくったものを出してた。

大谷:読売アンデパンダンだと、だんだん過激さの競争みたいになっていったと思うんですけど、京都の場合だとまたちょっと違うんですか? でもやっぱり新しい表現を求めていくような意欲というのはあったんですか?

河口:それはありましたね。どうやったら目立つか。どこの会場でもよくある足跡とかね。団体展だったら絶対入選しないような仕事はいっぱいあった。それとアンデパンダンっていうのは要するに自分の作品を自分が審査するわけですよね。だから自信作が出るんですね。僕にとっては日曜画家みたいな人の絵があって、その隣りに僕の作品があってという、作品の中の比較のされ方がものすごく大きいわけです。それは僕にとってものすごい試練なわけです。それがおもしろかった。その会場に中原さんとか呼んで懇談会みたいな形式で合評会をしたり。
それでアンデパンダン(「京都アンデパンダン」1967年)の僕の作品を中原佑介さんが取り上げた。そのとき3点出してたんかな。1点絶賛して、あと2点にも高い関心を示してくれはした。その日の夕方、河原町を歩いてたら中原さんがひとりで向こうから歩いて来られて、僕も若かったからね「中原さん。ちょっと話したいのですが……」。それで中原さんも京大(京都大学)だから「ちょっと飲みに行こう」って言って連れてってくれて。これがなんというか明快。彼が喋ることでわからないことがないんだものな。話っていうのはわかるようにするのが話なんだという(笑)。煙に巻くことは一切ないし、わけのわからないことを言うわけじゃないし、俺はこれだけ勉強してるんだというのを僕に訴えるわけじゃなくて、僕の疑問に対してものすごくきちっと話してくれる。この人は僕の作品を完全に理解できる人だと。批評というのがやっぱり白樺派以後、文学者が批評することで、文学的批評というのがものすごく席巻したでしょ。それで中原さんはもう一度、純粋な批評、文学に依存しない創造としての批評をしようとしてた。のちに中原さんが、僕の作品なんか誰も批評を本質的にはできない、つまり「君の作品は文学性が全然ないから、文学的な批評を好む人にとっては書けないだろう」そう言っていた。中原さんは「自分ばっかりが書くというのは君にとってマイナスだから、他の人にできるだけ書いてもらえよ」って。それで、「どなたがいいですか?」って聞いたら「う〜ん……いないな〜」(笑)。「でしょ?」っていうふうに。

大谷:それだけみんな文学的な。

河口:そうね。読む人も楽だし。書く方も形容詞みたいな言葉の表現で逃げてしまえばいいし。彼はやっぱり理論物理やってるから。物理を文学的に書いたって何の意味もない(笑)。情緒でしかないから。

大谷:でもじゃあ中原さんの方も河口先生のことをかなり意識されたうえで、1970年(「第10回日本国際美術展〈東京ビエンナーレ〉人間と物質」東京都美術館ほか、1970年)にお声がかかったんですか?

河口:そうですね。東京ビエンナーレね。あのときは僕のところに中原さんから電話があって「河口君に頼みたいことがある。こうこうこういう展覧会があって、君に是非出してもらいたいと思う。ただし美術館でできることでないとダメで、野外はできないんだよ」という話があって、そのときに僕は二つ返事で参加するって言わなかったのね。「少し考えさせてください」って言って。それは、《陸と海》(1970)については考えてたんだけど、「人間と物質」というふうなことについて、それがテーマであることに相応しいかどうかっていうことは考えてなかったわけ。「人間と物質」の関係性を考えて、次の日かな、すぐに電話して「参加したいと思います」って言ったら中原さんは「すぐそちらに行くから」って言ったのね、会いに。いや〜プランが決まってないからどうしようと思って、まさかすぐに来ると思ってないからどうしようかなと思った。それで、まぁいらっしゃって、会った。当然「何出すの?」とか「《陸と海》についてどう考えてるのとか」とか、そういう質問があると思ってたんだけど、一切なくて、「河口龍夫を選んだんだから、もう何してもいいよ」って。「ええっ?」って。早めにそれ言っといてくれれば(笑)。それで《陸と海》は写真の作品になるから、「大丈夫ですか?」って言うと「構わないよ」って言ってくれた。

大谷:あの作品の仕事自体はもう進んでいたんですか?

河口:いや、プランは考えぬいていたけど、具体的な作業はあまり進んではいないんですけど。東京ビエンナーレに出すということになって初めて大きさの問題とか、展示会場がどれくらいかとかが出てきた。

大谷:そうすると、中原さんが是非この作品にというわけではなくて?

河口:ちがうんです。なんでもいいということです。中原さんの中に「人間と物質」というテーマがあって、それでそのテーマを押し付けるんじゃなくて、そのことを僕の過去の作品から感じ取ってるというかな、学び取ってるというかな、そういうことだと思う。

大谷:その前に中原さんは「トリックス・アンド・ヴィジョン」展でも企画してらっしゃったんですよね?

河口:そうなんです。だから中原さんとの繋がりというのは長いですね。切れることなくずっと亡くなるまで。ある時期、「中原佑介を感動させればその仕事は相当なものだ」というふうにターゲットにしたことがある。《陸と海》を出品した東京ビエンナーレの「人間と物質」の間(Between)というテーマ。そのときに僕は現代美術に、ある共通のものがあって、それが共有できるという意識があったんだけど、実際に展覧会場に見たものというのは、中原さんの関心の広さもあるけれども、それぞれの作家がやってることというのはやっぱり違うんよね。すごくそれぞれの作品が違ってて、そのことが僕の中では非常に興味深かった。現代美術をやってる全てが共有してるものがあったとしても、それぞれの考え方は違うという。だから40人の作品が並ぶことができるみたいなね。僕にとっては初めての国際展なわけ。
 パナマレンコが上野で売ってた羽ばたき飛行機のおもちゃを自分の展覧会場に飛ばしてるっていう(笑)(《7個の加速装置》、1970年)。あの自由さっていうか。おもしろかったね。それから政治的な発言をアメリカの作家が文章に書いて大統領に抗議して(リチャード・セラ(Richard Serra)、カール・アンドレ(Carl Andre)《豚はその子を食べてしまう》、1970年》)。そういうのだったりとか。ああいう展覧会がそれこそインターネットもファックスも携帯もなくて、まさに全部出品作家を訪ねて行って、会って作品を決定していくことがよくできたと思う。情報でやった展覧会でなくて、実際に作品とか作家に会って構築できた展覧会。非常に打率がいいっていうか。後にいい仕事をした人はすごく多い展覧会だった。

大谷:東京だけじゃなくてあの後回ってるんですよね?

河口:回ってるんよ(注:京都市美術館、愛知県美術館、福岡市文化会館に巡回)。

大谷:他の会場のことってあんまり知られてない。

河口:知られてないね。

大谷:河口先生の作品は写真だから、展示は比較的不都合なくいけたかもしれないですけど、人によってはえらい大変な…… どうだったんだろうと。

河口:そう。再現がね。

大谷:ええ。その都度、作家は来てました?

河口:東京での最初の展示には来てたと思います。

大谷:そうですか。そこらへんももうちょっと跡付けたいなと。他の会場でもソル・ルウィット(Sol LeWitt)はあの色まで詰めてたんだろうかとか(《紙の挿入》、1970年)、(ヤニス・)クネリス(Jannis Kounellis)(《閉鎖した部屋》、1970年)は他の会場でどうしてたんだろうとか。ちょっと謎ですけど。

河口:ソル・ルウィットはたまたま上野の壁が穴が空いてたからできたんだろうけどね。他の会場ではどうしてたんだろうな。ただあの展覧会が起こったときに、美術評論家とか批評する人が批判をしたでしょ。僕はとりあえずあれが開催されたことは喜ばしいというか、肯定みたいな。それを前提としての批判が出ると思ってたのが、そうじゃなかった。それがちょっとやっぱりね…… ある批評の貧しさみたいなのを感じたな。中原さんが言ったのは、「自分が展覧会をして作家も選んだ。それに対する批判については作家の擁護とかは一切する必要がない。自分が認めてるんだから」と。水戸の芸術センターで僕の展覧会(「河口龍夫――封印された時間」水戸芸術館、1998年)をしたときに、初めて東京ビエンナーレについて彼が話したかな。それは河口龍夫の原点ということで、僕はグループ〈位〉について話して、中原さんは東京ビエンナーレについて話して、その後対談するという形式をとったんだけど。あの展覧会「人間と物質」の「間」というのを日本語のときは主催者側の都合で削除されて、英語表記は “Between man and matter” って。これはあの展覧会で終わるようなテーマではなくて、継続することができる。そういう大きなテーマを投げかけて、美術だけのテーマじゃなくて、やっぱりきちんと見据えるっていう。中原さんはそれができてた。そういうことをする人がもっと出てくればいいんですけど。

大谷:確かに当時からしたら、やっぱり批評とかを読むとみんなまだついていけなかったふうの印象はありますけれど、一方ではああいうものに関心を持つ作家さんが現れてきたからこそ中原さんはああいうことをされたのでしょうし、その前後にいたって、この後質問させていただく東京国立近代美術館では東野さんの企画の展覧会(「1970年8月:現代美術の一断面」東京国立近代美術館、1970年)もありましたし。ああいう、もの派みたいな―もの派だけじゃないでしょうけれども―それこそ物質と人間の関係とか、そういうものを取り上げていくような動きというのはあったと思うんですけど、どうして…… やっぱり新聞社が主催でやったから、みんなが期待してたものと違ってたんですかね?

河口:毎日新聞がやった国際展のああいう系列と全然違うでしょ? まずコミッショナーは一人だ。それから国別じゃなくて人別ですよね。これが画期的なんですね。そういう国の代表が出てるというのが国際展だと思ってる人にとっては、理解できないと映るでしょうね。ただ国際的には日本にも現代美術があるというのをすごくアピールしたんですよ。だから海外からインフォメーションが来るようになったのは、あの展覧会がきっかけですね。だから、あの時点であの展覧会そのものを叩くとかじゃなくて、その展覧会の意味とか、人間あるいは物質、その間とか、そういうものをきちっと評論できる人がいればよかったんですね。だからその展覧会がどうのこうのっていうことだけだと、そのために展覧会をしてるわけじゃないから。それは言っても構わないけど、もう一つ大きい「人間と物質」について自分がどう考えるかっていうことを誰も言わないという貧困さ。そうすると展覧会をする意味がなくなってしまうんですよね。だから展覧会をして、それを行司が良いとか悪いとか言うだけだったら、展覧会なんかする意味がもうほとんどなくなってしまう。まるでコンクールみたいなもんですよね。ただあれを見て、そこから芽生えてった人もいるだろうし。僕はあの展覧会に参加して、僕自身が一つの考えをもってやってる。一人の人間が全部トータルになるということの不可能さみたいなね。それがあるから僕は「関係」という言葉を使ってるんで。この世界と僕が関係してるという。それしかないっていうかな。

大谷:ちょうどあれが大阪万博の会期中だったわけですよね。

河口:大阪万博というのは人間を忘れたんですよね。

大谷:そうなんですか?

河口:物質なんですよ、あれ。

大谷:ああ、なるほど。

河口:物質が絶対人間を幸せにする。物質を全面的に評価したんですね。「人間と物質の間」は、その「間」が大事だって言うんですよ。ここがものすごい重要で。あのときに作家も分かれたわけですよね。万博は僕は参加しなかったんで。ああいう経済優先、物質優先、その物質の繁栄みたいなんで人が経済的に潤っていけばいい、そういう路線。それが福島のところ(注:2011年3月11日に発生した大規模地震、東日本大震災にともない福島原子力発電所では事故が起こった)まで延々と続いていったと思うんですよね。あのときに物質は人を豊かにするかもしれないけど、物質によって人間がどうなるか、人間の問題としてね、もう少しやればよかったんだけど、経済成長のお祭りみたいで。僕も大阪万博、初日に行ったかな?

大谷:そうなんですか。

河口:初日でも招待されてる人がものすごく多くて(笑)。ドーっと見に行くような感じで、月の石なんかとても見れない。だからやっぱり繁栄。繁栄を謳歌してる。そのときに自分はそこに乗ってるという意識と、少しずれてるという意識と、たぶん分離していく。経済的に人間が勝ち得た物質は全部持たないとダメだっていう路線。それこそ自動車はもちろん飛行機だって船だって何だって、個人の移動のために全部所有できるんだという。博覧会として最後みたいなもんですよね。後は博覧会というのは動員も落ちていく。だから難しいところは、経済的に物質が豊かになることによって、人間の生活はすごく良くなっていく。それとともに精神的なものがついていけないとか、経済優先のために切り捨てられる何か。そこらへんの問題はやっぱり出てくるね。だから万博は現実世界から抜けて遊園地に行ったときみたいな気分はある。これは別世界で楽しめばいいという。
 陸と海があって、それが理解できれば世界が理解できるかもしれない。だけど陸と海を理解するために、そのまま写真を撮ってもダメで、そこに何か介在させなきゃいけない。陸と海の間に。あの場合は4枚の板なんですけど、それを介在させることが、人間ができること。そうすると陸と海の間がまさに見えてくる。干潮と満潮とか、月と地球の関係とか、全部の関係の中で今こうやっているんだ、というような。それがもしわかったら、ものすごいスリルがあるし、充足するし、孤独でないんですよね。

大谷:あの作品はやっぱり河口先生の中では前までの仕事からポーンと、こう何歩かステップ・アップしてるような。

河口:《陸と海》(1970年)やったでしょ? それから《石と光》(1971年)やったでしょ? その前に《関係》(1970年)やって、それから《関係―熱》(1970年)やって。ここらへんのね、ポン!ポン!ポン!ポン!って跳んでいってるのは、どうやってそうできたかって聞かれたときに、なかなか説明が難しいね。スタイルが変化した、そういうのとは違って。なぜできたのかな。

大谷:認識的にも地球レベルの話じゃないですか(笑)。ものすごく引いて物事がみられてるというか、視点の自由さというか。

河口:そうね。それが持てたのはグループ〈位〉が大きい。自分自身を中心に据えると、自分がなくなったら世界がなくなるわけでしょ? そういうことはあり得ないから。中心に据える意味がないんよね。

大谷:でも1970年という年は、京都アンデパンダンにあの《関係》を出されて、その後5月にこれ(東京ビエンナーレで《陸と海》)も発表されて、8月は東京国立近代美術館で鉛を溶かす東野さんの展覧会(1970年8月:現代美術の一断面」で《関係―熱》)で。表れ方としてはいろいろなものが出てきて。

河口:そうね。現実的に「関係」に近いものを考えていくと、熱だというのがわかったわけね。熱は見えない。だけどただ熱というのは方向があるでしょ? 高い方から低い方へ。「関係」にはそれがない。そこだけが不満だったんだけど。鉛を立てかけて、トーチランプで溶かす。そうすると鉛が固体だったのが液体になるのね。その鉛の溶解によって生まれた角度が固定するわけですよね。それは僕が仕掛けた「関係」なんだけど、その「関係」は全部、熱という眼に見えないもので、ある関係をつくっていく。あのときは、「物が物としてあるということが、物として物があることなんかな?」っていう疑問があった。物がそこに「ある」ということを本当に認識させたい場合は、何か方法が介在しないと、人は認識しないんですね。それは作者のエゴで、「あるでしょ? あるでしょ?」って言ったって(笑)。事実はその人がつくったわけじゃないから。

大谷:このとき(「1970年8月:現代美術の一断面」)は美術館の空間を作家さんで好きに場所を選んで、それでそれぞれプランを立てていかれたんじゃないかと思うんですが。

河口:漠然と「ここらへんは河口さん」とかあったけど。ただ李(禹煥)さんなんかは僕の作品の途中にいれたりして。

大谷:そうなんですか。なんかもうすごいアナーキーな空間がこう…… 壁も全然なくて。「これはどうやってみんな場所決めていったんだろう?」って。あとから見ると不思議な感じがしますけど。柱を使いたいとかはわかるんですけれども。しかも美術館でつくった展覧会のカタログというのは、それこそプランしか出てないカタログなので。

河口:ペラペラでね。

大谷:ええ。だからこれはどういうふうにこの展覧会が組み立てられていったんだろうというのが、あとから見る人間はよくわからないところがありまして。

河口:やっぱりそれは東野さんの考えとか、東野さんの上手さみたいなもんじゃないのかな。

大谷:展覧会のタイトルもすごくニュートラルじゃないですか。「人間と物質」みたいなんじゃなくてですね。

河口:あれは東野さん自身が中原さんを意識して、ああいう明快なコンセプトを出さないみたいにしてんのかな。東野さんってやっぱり文章読むとわかるけど、読者をすごく意識してるんですね。だからレトリックをものすごい使うし、読者をいかに満足させるかというサービス精神がすごくある。だから彼とのインタヴューは、もう完全に彼は観客側を向いて(笑)。みんなが聞きたいことを考えて、東野さんらしい言葉で話す。

大谷:なんかわかるような気がします。

河口:彼はやっぱりすごいダンディズムがあるから。カッコ良く自分が見える、それが大前提。だからああいう病気した後で人に会わないでしょ。山口(勝弘)さんみたいに車椅子でも会ってくれる。そのようにしたらもっと長生きできたと思う。とても残念です。

大谷:先生から見ると、もの派といわれていた人たちっていうのは、ちょっと世代が下ですか?

河口:李(1936– )さんは上ですけどね。関根(伸夫)(1942– )さんはちょっと下。

大谷:多摩美で例えば斎藤義重さんとかに教わったというのは、ちょっと微妙に下なんですよね?

河口:そうですね。だから斎藤義重さんは僕の先生ではないんです。斎藤さんに「アトリエに来ないか」とかいろいろ言われてて、普通に社交辞令だと思ってて。たまたまBゼミの授業かなんか行ったときに、奥さんが迎えに来て、アトリエに行きました。斎藤さんは酒飲まない。コーヒーを何杯も飲んで、ずっとしゃべってる。話ができるアーティストね。だからトイレ行きながら話してる(笑)。すごい印象的だった。僕と話したいというのがすごくわかる(笑)。僕はね、「物質」って言うでしょ? それを「物」だけ切り取るというのにあまり興味ない。物質のどっちか言ったら、その物がもってる質の方にものすごく興味があるわけ。だから物だけ見せられても、物だと思わないわけ。その物質のもってる質、鉄は錆びるとか銅は電流を流すとかは、僕に持ってない性質ですよね。それにすっごく惹かれるんです。それを見せてくれないと物質とも物とも思わない。だから視覚にだけ依存している物は、その物の本質、それから物を見る人間を単純化しすぎているっていうかな。だから「もの派」って言うんだったら、僕はあえて言うなら「質派」だ(笑)。勝手にそう言ってる。

大谷:この展覧会のときは河口先生とそういう人たちのすれ違いというかニアミスというか。河口先生はエネルギーの方に行ったりとか、やっぱり違う道を歩まれてるなというのがすごくわかるんですけど、でもやっぱり、この時代はある近い関心があったのかなと思ってたんですが、今の話でよく違いがわかりました。

河口:こないだ横田(茂)さんのところで展覧会(「November 2011 河口龍夫」横田茂ギャラリー、2011年)やったときに文章ちょっと書いたけど、やっぱりそこらへんで別れるのかもしれない。観念か物質かっていう。この当時の表現の欲望として、やっぱり人間の考えとか観念とか一切侵されないで世界を見たい、というのが一つあって、もう一つは物質に一切依存しないで人間の考えとかを視覚化したいという。そこが極端にでた時期ね。僕はその中でどちらにも関心があるし、だからそれを繋ぐものとして「関係」っていうふうにしたわけ。

大谷:ということなわけですね。

河口:世界の中で一つだけ特別に抜き取るというのは、すごく強烈になるけど、失うものもものすごく多いわけね。だからそこらへんをどう折り合いをつけるかよね。全部の人間が大好きで八方美人だと結婚もできないし(笑)。子どももできない。何より、どっかで選ばなきゃならない。そうすると選ぶための理由として、愛とかいろんなことを自分が納得し、相手が納得する理由が要る。だけど人間ってやっぱり人間を知りたいんですね。全部の人を知るというのはできないから、ある特定の人を徹底的に知りたがる。それで知るということは、悪い面もいっぱい知らなきゃいけないわけ。それも知って、それでも壊れない。そういう強固さもいるし、もちろん向こう側からもそれを求められるわけですよ。だから例えば一生このペンだけずっと見続ける人がいたら、完全にニュースになりますよ(笑)。一つの表現だけずっとしてる人って、それだけで、その一点では一つ関心をもたれると思うわけ。だけどそれはこの世界の中で「これを見てる」ということをどこかで表現しないとアートにならない。それだったら極端なこといえば、人間がものすごい大手術して牛になるとか、豚になった人とか。それをやったら歴史にも残るし。人間をやめたわけですからね。ものすごい強烈な批判にもなるし。「福島原発、それ以後私は豚になりました」(笑)。それも具体的にね、 本当に整形して豚になる。

大谷:すごい発想だ(笑)。そうですね。

 

牧口:京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展の1968年に河口先生は出品されてますけど、どのような作品を出品されたかというのをお聞きしていいですか?

河口:68年だから、光と環境展(「現代の空間 ‘68 光と環境」神戸三の宮そごう、1968年)というのが神戸新聞の主催で神戸であって、そのときに中原佑介さんと赤根和生さんという評論家が企画し、あのときは僕はグランプリ(三洋現代美術賞〈大賞〉)とったんですね。動向展ですから、その作品(《無限空間におけるオブジェとイメージの相関関係又はからっぽの女》、1968年)を京都国立近代美術館が出してくれって言うので出品した。

牧口:なるほど。

河口:あの作品は三洋電機がお金を出してて、だから一種の買上賞みたいな。三洋電機というのは美術館を持っていないから、三洋電機のどっかに置いてて、そこから貸し出しして戻ってきて、阪神大震災でもう…… 建物が壊れるぐらいだから。調査してくれた人もいるんだけど、全然もう、痕跡もない(笑)。

大谷:そんなに?

牧口:それこそ動向展の出品作品というのを、私たちも今更ながら調査をしているという段階にあって。重要な作品をそのときは収蔵できなかったという話があって、みんな少しずつリサーチしてるんですけれども。そうですか、もうないんですね。

河口:それでね、東京国立近代美術館に僕のカミさんが、作品が災害で消失してしまったことを惜しく残念に思ってくれて、それを機会に作品を再制作したらどうかっていう提案をしてくれたんだけど。一旦つくったものをもう一度つくるってのはまた別のエネルギーが要るんで。壊れたままでその残骸さえ残っていないのですが、いつか再制作の機会がおこればするかもしれません。あれはこの作品以前の鏡の作品(《球体と立方体》)において球体が張り付いてるというのが原理なんですけど、中原さんに言わせれば、「芸術の〈術〉はある。〈芸〉がない」って言われて(笑)。

大谷:そうですか。う〜ん。なるほど(笑)。

河口:それでハーフミラーの中を見ると「芸」が出てくる(笑)。それは芸術って考え方だけを伝えるんじゃないから。考え方だけ伝えるなら文章でね、充分かもしれない。

大谷:あの頃はカタログも薄かったりするんで、ついついわかんなくなっちゃうんですよね。

河口:そうだよね。

牧口:作品調書というのが倉庫にあって、それを見ないと出品作というのもわからないんですよね。当時のカタログではね。

河口:京都国立近代美術館の以前の会場って、あまり個性がないニュートラルな空間で、わりかた作品になびいてくれるような。「美術館、美術館」ていう感じがあんまりしない。

牧口:元々、博覧会の建物でしたからね。

河口:あれは一年間の検証みたいな感じですよね。いろんな動向があった中でピックアップして。見なかった人も見る機会を与える。

 

大谷:パリ・ビエンナーレ(「第8回パリ国際青年ビエンナーレ」パリ市近代美術館、パリ国立近代美術館、1973年)は、お誘いを受けた経緯というのは?

河口:パリ・ビエンナーレはちょうど反体制が叫ばれた頃で、ヴェニス・ビエンナーレが賞をなくすとか、コミッショナー制でパリ・ビエンナーレに推薦するとかいうのがなくなった時期で、組織委員会がいて、推薦者がいるわけです。そのときの推薦者が峯村敏明さん。その選考にもたぶん加わってるんだと思う。そこで決まった人が出す。それで出したんですね。あのときは高山登、菅木志雄、北辻良央、長澤英俊、狗巻賢二、僕。 結構個性的なメンバーでした。それで《関係―エネルギー》(1972年)というのを出品し、そのときに現地制作のため1ヶ月くらい滞在したのかな? 作品の展示場所として会場にね、2ヶ所、どちらがいいかって。片一方は100ボルトに変圧されてて日本のものが使える。片一方は変圧器がないとダメ。どっちにするかって。要するに電圧を変えないとダメな会場の方が僕は《関係―エネルギー》の展示には気に入ってるわけ。それで僕は条件を出した。ボルテージを200ボルトから100ボルトに落としてくれるんだったらこの部屋を使う。そしたら担当の人が「どちらか決めろ」って言うわけですよ。僕は条件出して「ボルトを変えてくれ」って。そしたら「違う。まず選べ」って言う。そのボルトの問題は技術的な問題だから、後から話しようと。僕は心配だから(笑)。これがヨーロッパ人と全然違うところなんですよ。それがまず、考え方が違う。じゃあ向こうに寄り添って、200ボルトの部屋を使ったんですよ。ちょっと扇形みたいな感じの部屋でした。

大谷:機材は前年につくられたものをそのまま全部持って行って使われたわけですよね?

河口:ネオンだけは現地で発注した。それでネオンを発注に行ったんですよ。一応フランス語の通訳の人も行ってくれて。作品で作ってるネオンは文字じゃないでしょ?

大谷:はい(笑)。

河口:ネオンっていうのは、なぜ文字に…… 困ってね(笑)。それはなんとか解決して。(図版を指しながら)これね、ここに水道があるんですね、この中。オープニングの前かな? クレームがついたんですよ。消防関係ってわりかた力が強くて、ここから漏電したら館内が全部ダウンするから、要するに電気を全部止めろということになったわけ。

大谷:じゃあ作品にならないということに(笑)。

河口:峯村さんとか組織の人に言ったら、全然受け付けてもらえなくて「そりゃしょうがないね」って。

大谷:えー!?(笑)

河口:この作品に電気を流して全部点けた状態をいろんな人が見てる。リハーサルみたいな感じで。僕は「全部消す。ただし撤去はしない」って言って。それで臨むことにしたわけ。するとつまんないわけね(笑)。そしたら水道の人とか電気屋さんが技術的に話し合って、水道の元栓止めればいいって提案してくれて、それで大丈夫だった。エネルギーっていうのはフランス人も日本人も変わらないだろう、と。それで人間が並べたら多分こうなるだろうと思って並べたの。ところが始まってフランス人の方には「東洋を感じる」とか言われてしまいました。

大谷:どうしてなんでしょうね(笑)。

河口:もうね、「感じる」って言うからしょうがないよね。僕が日本人やフランス人とか人種に関係なくて人間が並べたと思うみたいに展示したかった。そのときにね、僕の中にずっと先祖から日本人の思考とか血とかが流れてて、それはもう否定できない。それを人間が並べたみたいに思ってても、フランス人が「そうじゃない」って言う。しかもそれが「素晴らしい」って言うわけでしょ(笑)。だからそれは、例えば僕はイエス・キリストや一神教を聖書を読んで知識としては理解しても身体としては理解できないみたいなことと同じで、そのこと自体はもう呑むしかしょうがないっていうかな。
 それで一人ね、片足の悪いスペインの画家が作品の展示のときに来てたんですよ。ものすごい鋭い目で、じーっと。初め気になって気になって。もう女房と仕事してて、「なんやあの人」とか思いながら、仕事の方が大事だからほとんど無視して展示作業をしてた。後からわかったんだけど、その人だけがこの仕事を反対してた。パリ・ビエンナーレに招待するのを。それでその確認のためにじーっと見てて。何回か来たかな? それで握手して僕を抱いて、なんか全然わからない(笑)。だけどそれでわかった、認めたんだって。いい仕事だっていうこと。その経緯がわからないから。じーっと見て握手して抱きついたり。「なんやこの人。気持ち悪いな」(笑)。この作品はすごい評判よかった。「賞があれば君がもらうね」とかいろいろと言われた。それで日本の人って見ても何にも言わないでしょ? 「いいですね。がんばりましたね」とか。フランス人は全然違ってて、キャプション見て東洋人ってわかったら「お前はアーティストか?」「今日来て良かった!素晴らしい!」「今日一緒に食事しないか?」とかもうなんか全然リアクションが違うのよ。だから逆の場合もひどいんでしょうね。「お前こんなひどい作品」って。僕はフランスにずっと住んでる人に、「ああいう反応っていうのはお世辞なのか」「本当に感動したからああ言ってるんだ」って言われた。そしたらパリに住みたくなるじゃない(笑)。そんないい仕事したらそれだけ反応が返ってくる。

大谷:なるほど。そうでしたか。

河口:それでこのパリ・ビエンナーレのときにアルゼンチンの作家かな? 「明日画廊との契約が切れるんだ」と。彼はパリにずっといる。「自分は自由だ!」って言って喜んでるわけ。僕は契約したいって思ってるのにさ(笑)。すごい違うんよね。僕と思ってることと全然違う。ただ僕はパリ・ビエンナーレとかに行って、その後文化庁からも行ったんだけど、海外に。そのときに憧れとしてパリに住むとか伝統的にあるじゃない?  パリで成功して日本に凱旋して偉そうにするっていう。実際にはそこに住んでる人は苦労してるんですね、いい作家が。政治的な問題も含めて。そのときに「パリを選ぶか、ニューヨークを選ぶか」と全く同じウエイトで、僕は日本を選んだんですよ。それからあんまり迷わなくなった。日本に住んで、日本で仕事をして、いかにインターナショナルな仕事をするか。そこで世界に発信する仕事をする。それは別に世界にもって行かなくてもいいんですよ。東京国立近代美術館で展覧会しても、これは世界に発信してる。
 それで話が飛ぶけど、僕は福島で今回やるのは(「光あれ! 河口龍夫―3.11以後の世界から」いわき市立美術館、2012年)、完全に国際展だと思ってるわけ。なぜかというと、今、日本の地名で最も国際的に有名なのは福島なんですよ。いい意味じゃないですけどね。東京とか京都以上にね。別の意味で。
 いろいろあったけどね。展覧会を十回すれば食わすようにするとか。それからイタリアでコスモスのある作品(《COSMOS》、1974–75年)をすごく気に入って、それで個展をしたい、と。僕は「全部作品売ってくれるならする」って。ほとんど断られるために条件を書いた。それを長澤に訳してもらったのかな? その相手の人は全然怯まないで、巡回してくれって言うわけ、世界を。その人はゲイの人。すごい感じいいわけ(笑)。顔はイタリアのハンサムな顔とは全然違うんだけど。世界は広いなって思った(笑)。男性と一緒に住んでる。結局旅先だったこともあって、それは実現しなかった。

大谷:そうなんですか(笑)。

河口:国際作家になっていくというのは、その作品がその街だけで売れるんじゃないというのがちょっとわかった。だからミラノに行って全部完売の人なんか国際的に全然知名度ない。だってそこで全部売れるから。他で出品する必要ないから。だから芸能人でも、ミラノのコメディアンみたいな人も、そこで充分生活できたら国際的になる必要がない。

大谷:そういう考え方もありますね。

河口:うん。そのときにわかった。巡回してだんだん有名になるのは、マーケットをあちこちに広げていく。それがないとダメなんだって。長生村(注:河口龍夫のアトリエ)で制作した作品がコレクションされてゆけば大学まで教えに行かなくても(笑)。ただ世界に名が轟き渡る快感みたいなね。そういうのがたぶんあるから。エネルギーになるかもしれない。パリ青年ビエンナーレって、年齢制限あったでしょ?

大谷:そうですね。

河口:ここも看守の人がつくんですよ。ものすごい体格のいい、僕より大っきい人で「守ってやる」って(笑)。ちょっとでも触るようなら彼がピタっと。プロ意識かなんかわからんけど。

大谷:ある意味危険な作品ですからね。この頃はわりと中の方まで入れたんですよね。

河口:入れた。

大谷:最近の展示ではやっぱ怖いから。美術館の側もビビリですから(笑)。これはやっぱり危ないですよ。私、展示のとき(「河口龍夫展 言葉・時間・生命」東京国立近代美術館、2009年)はやっぱり毎日もうドキドキしながら(笑)。火事になっちゃったら大変ですし。

河口:そう。一応ね、漏電なんかしないで。このときも電気技師がちゃんとついてくれて。

大谷:「ニクロム線の下の石はどのくらいの熱さだろう?」 とかね(笑)。

河口:そうね。このパリ・ビエンナーレのときは長澤英俊と出会って、彼がミラノまで連れてってくれて、彼のアトリエで少しの間、僕の妻の千賀子と息子と三人で滞在しました。

大谷:息子さんおいくつですか?

河口:そのとき5歳。おもしろかったよ。彼の話はね、まずね、国がわからない。ミラノはわかる、駅があるところだから。「イタリアはどこにあるの?」「イタリアはミラノの中にある」というのがわからないわけ。ミラノはここがミラノだからわかるけど、「ここもイタリアなんだよ」って言うと「ここはミラノでしょ?」って言う。国の概念ってやっぱり相当難しい。あとはキリストがわからない。教会に行くとキリストが出てくると思ってるわけ。劇場みたいでしょ? わからないんね。「キリストっていうのは人のように出てこないんだよ」って言って。どこに行っても磔の絵があるでしょ? 一緒に歩いてると、ときどき「何してんの?」「はりつけ」って。「カッコ悪いからやめて」って(笑)。それと言語はね、彼は日本語。それで僕より早くイタリア語が話せるようになる。子どもだから音楽聴くみたいに。それでパリに行ったときかな、彼は世界は日本語とイタリア語でできてると思ってたのね。だけどフランスではフランス語で話す。子どもたちと遊んでるとき「ギャー」って言って。言葉がわからないから(笑)。それでもう「日本語で行け!」って言って。そしたらずっと遊んでたら、みんなが「ドッコイショ」とか「ヨッコラショ」とか言って(笑)。
 やっぱり研修で行ってるから美術館が多いでしょ? ずーっと。それでバチカンに行って、ラファエロ(Raffaello Santi)の絵とかいろいろ見て疲れきってるからぐずってる。ところがシスティーナの礼拝堂入ったら、(ミケランジェロを見て)僕の手をギューっと握って興奮しているの! 「俺の子だ!俺の子だ!」(笑)。感激してるわけ。彼の身長まで下がって、僕のありたけの知識で解説した。ずっと聞いてた。4歳か5歳でも芸術わかるんだと思って。ラファエロでもグズグズしてたのに。だいたい「ラファエロだから見ろ」って言ったってね。だけどエジプトは好きだったね。僕も好きだったけど。(ヨーゼフ・)ボイス(Joseph Beuys)も好きだったかな?

牧口:ボイスはどんな作品だったんですか?

河口:どんな作品かな。 なんかチーズがでっかくあったやつとか。僕も一生懸命見てたから、それもあるだろうけど。
 移動していくでしょ? 「ここ何泊?」って聞くわけ。「ここは2泊するよ」と言うと、2泊分のおもちゃを出す。それで日本に最後帰ってきて「何泊泊まるの?」「ずーっといるんだ」って言ったら全部出して(笑)。

大谷:相当いろんなところ回られましたよね?

河口:世界一周しましたよね。行かない国もあったけど。それでやっぱりイタリアは研修地にしてたから、イタリアは見るものいっぱいある。もうそれこそ毎日楽しいし、食べるものも美味い。北欧行ったら見るものだんだんなくなって、制作しだした(笑)。

大谷:ルイジアナ美術館(デンマーク)で発表されたんですよね?

河口:ルイジアナは(クヌート・)イエンセン(Knud W. Jensen)が僕のパリ・ビエンナーレのを見て、ものすごく感激してくれてて。一度も図録とか送ってないのに、(本棚の)「K」のところに僕の資料があっていろいろ集めてた。僕、感激して。僕は送ってないからね。「これが美術館の仕事です。当たり前のことです」とか言って。それでイエンセンが「《石と光》を日本からもって来れるか? それかルイジアナでつくってもらえるか?」って。「この仕事の一部の電流流す作品(《関係》1976年、ルイジアナ近代美術館蔵)。それとやってくれるか?」って。《石と光》は石を選んだとき知らせてくれって。海に行って石を選んで。そしたら見に来ましたよ。電流を流す仕事は3?9mの部屋で、「ここでいいか、天井は大丈夫か、床の色は大丈夫か」全部きいてくれるわけ。「アーティスト・フィーにするか作品としての価格にするか、どっちがいいか」って。僕、デンマークでの銅とか金属の値段わからないから、材料費は全部持ってくれって言って、アーティスト・フィーにしたの。やってたら会計からなんか呼び出されて、ちょっと使いすぎ(笑)。それでプラン全部説明して、これだけの材料がないといい仕事ができないって言ったらわかってくれて。一人アシスタントがついてやったんですよ。全部展示して、全部片付けて。彼が一人でその通り再現する。それで間違う。その間違ったところがすごくいいのよ。「間違ってるんだけど素晴らしい。ここはお前の作品だ。組み込んでもいいか?」って言ったらすごく喜んでくれて。エネルギーの作品は図録に出てるはずです。

大谷:そうですね。詳しいのが。

河口:ルイジアナって女性の名前なのね。これは配置図。だからどっか外すと電気消えちゃうんよね。

大谷:これはいまもあちらでコレクションになってるんですか?

河口:うん。ただ常設はできないって言ってた。だから展示訓練して。これを制作しているときにエジプト展が開催された。それでレーザー張ってあるでしょ? ダーっと。イエンセンが「夜も制作したいだろうから、ここはくぐれ」とか、全部教えてくれたわけ。

大谷:ダメじゃないですか(笑)。

河口:宝石類やらあるのにね。すごい信頼してくれて。それでもし「レーザーに触れたらどうなるか」って聞いたら「警察と消防と自分のところに直ちに連絡がくる。君は逮捕される」(笑)。それでくぐって制作して。完成したら何時でもいいから呼んでくれって。それで真夜中になったのかな? 一応完成して、「どうする? 夜だよ」って言ったら、そのアシスタントの人が「是非連絡をした方がいい」って言うので彼がしてくれて、イエンセンが来て、シャンパンかワインか持ってきて乾杯して。僕は感激したの。彼はこの中入って踊ったんですよ。何を喜んでるかって、自分が欲しかった作品が手に入ったっていうことを喜んでるという。もう少年のようにね。あれでちょっと疲れがとれた(笑)。あんだけ喜んでくれて。それで荒川(修作)さんにパリで会った時に、ルイジアナで仕事をしたって言ったら「河口さん、お金もらったか?」って言う。「もらいました」って言ったら「彼はお金を払わないでコレクションをする名人だっていう噂だよ」って言われて。それは例えばジャコメッティのところに行って、一応作品を決めてお金は払ってるみたいなの。だけど帰るときに、別の作品に「これがルイジアナのあそこにあればな〜」とか言って帰るわけ。それで来る度に「これが〜」。ジャコメッティ「いいよ。持って行って」(笑)。そら作家もね、そこまで言って何度も来られたら、つい「いいよ」って言ってしまうんやな。「持って行きなさい」って。

大谷:なんか、いい話を聞きました(笑)。

河口:ハハ(笑)。ルイジアナの美術館って一番いいところがレストランなのね。それでレストランへ行く途中で作品を見てくれればそれで充分だ。イエンセンが食堂のレストランの食べ物を全部チェックしてるんですよ。オープンサンドも食べてアドバイスしてた。館長として最も大事な仕事はレストラン(笑)。それで彼の部屋はものすごい狭い。館長室は一番狭くて、そこに行ったときに、一番来ない客は出産直後の母親だから託児所を計画してた。赤ちゃんを預かる。5歳とか6歳くらいの子はもう預かってるわけ。絵を描いたりとか。それでもう模型もできてた。

大谷:先進的な。

河口:ブックっていう副館長がいて、子どもさんを紹介してくれて、何人か。5人くらいいたかな。全部顔が違う。全部養子。デンマークでは異国の血を家系に入れると繁栄できるというのがあって、中国系とかインド系とか(笑)。だからそこには世界があるみたいな。それで全部に父親、母親を名乗って、子どもたちが納得する。すごいなと思って。

大谷:なるほど。

河口:結局この仕事をすることになって、ちょっとデンマークでの滞在が長くなってね。ボートハウスっていうのがあって、そこに滞在してくれって。イエンセンって国際人って聞いてたんだけど、もう亡くなりましたけどね、ヘンリー・ムーア(Henry Moore)もジャコメッティも、ここのゲストルームで暮らしてくれた、と。「河口さんも同じところですまないけれど」って。ジャコメッティとヘンリー・ムーアと僕と同じなんです。彼の中で。ヒエラルキーがない。これは国際人ですよね。だからそれはすごい気持ちよかった。それで僕と妻のためにパーティーをしてくれて、みんな来て、彼が僕の紹介をして。そのときに文化庁のなんとかでという説明が一切ない。「マイ・フレンド」。彼の友だちが全部僕の友だちになるわけ。彼が友だちだって言ったから。あれはすごいカッコイイっていうんかな。予想だにしてない紹介の仕方だった。それで酒飲んでね、世界中のアーティストが集まって歌を歌い出したのよ。

大谷:先生も歌われたんですよね?

河口:そう! フランス人はシャンソン歌うでしょ。ドイツ人はビアホールで歌う歌。それぞれの国の歌を歌うでしょ。「お前も歌え」って、僕困ってしまって。それで演歌を歌った。ど演歌。それで歌詞とかちゃんと覚えてないかもしれないけど、日本の言葉はわからないから。ウケてね! 他の国にないじゃない? 演歌って。「ラブソングだ! 素晴らしい」って(笑)。あれで演歌見直した。日本では外国の歌のほうがモテるみたいなところがあるけど。それでエジプト展のオープニングがあって、デンマークは女王様がいるでしょ? 王女様というか。息子がね、ずっと名画見てきてるじゃない。王女様とか王様とかの絵を見てきてる。もうすごい期待して。王女様が来るって言ったら、もう目をキラキラ輝かせて。そしたら普通の人が来て、がっかりして「違う。王女様じゃない」って言って(笑)。説得が大変だった。「全然違う。普通の人だ」って言って。楽しかった。

牧口:デンマークでどれくらい滞在されてたんですか?

河口:一ヶ月か二ヶ月か。わりと長く滞在したよね。だからこの作品(《関係》〈ルイジアナ美術館〉)と《石と光》と。で、デンマークにはこの長い蛍光灯がなくてね。スリムラインという細いやつを使った。現地で制作したのは、デンマークと日本間の作品の運送費の方がかかるから。

大谷:そうですよね。ヨーロッパの話だけでもう尽きることないですよね。私はトリノの聖骸布の話はちょっと聞いてみたいんですが。あれはそのあとのお仕事にもつながるんじゃないのかなっていう気がちらっとしたんですが、それはこじつけですかね?

河口:僕はイエス・キリストっていうのは芸術家でもないし、文学者でもない。宗教家であって、物質に何も託さないで人を惹きつけることができた、それは何だろうって考えて。ミラノの大聖堂にイエス・キリストが磔になった3本の釘がある。3本の釘(《三本の釘・around A.D. 26〜30》、1975年)は僕つくったんですよ、鉛で。ここに(塚本千春編『河口龍夫作品集』現代企画室、1992年)載ってる。それは、一人の人間が神になっていったのはどうしてなれたのか、なぜ神にしなければならなかったのかとか。それから聖骸布ね。亡くなった人に被せたその布にキリストの痕跡がある。それも写真で撮ったネガでわかったってことでしょ? それにも興味をもって。聖骸布の本が出たのね。それでトリノに行ったんですけど、本物は国宝みたいなもんで特定の日しか見れない。精巧なコピーっていうかな。模造品なんですけどレプリカがあって、それは見ることができたんですね。かなり大きな人。僕はローマのカタコンベも行ったけど、ローマの人は150cmとか160cm、墓で測って、わりかた小さいので、その中でものすごい上背のある人。だから台座がなくても目立ってた。それで股間は手で隠してて見れない。医学的には、身分の高い人っていうのは腐敗止めを塗って、悪臭は香料で抑えて、充分布を被せたらそれが転写するというのは事実みたい。布も当時のものであると。ただ贋作をつくる人っていうのは、そのぐらいのことはするのね。当時のものを材料にするぐらいは。今の学説ではそれは偽物じゃないかって言われてるんですけど。ただその転写すること自体は非常におもしろいね。だから「関係―質」(1976–89年)みたいなね、こじつけられなくもないけど……
 あとナポリかな? サンセベロっていうお寺(サンセヴェーロ礼拝堂)があって、そこはイタリア人が「行け行け」言うわけ。そこへ行ったんですよ。ナポリは失業者がものすごい多いのに生活できてる。スリがものすごく多い。歩いて行ってて街の人が「お前の後ろにスリがいる」って言う。それでたすき掛けみたいにして荷物をこうやって。そしてちょっと見たら、「チャオ」ってスリが言う(笑)。どこまでもついてくるのよ。そこらへんはおおらかといえばおおらか。街の人も「狙われてる」って言ってるし、本人が見ても「チャオ」でしょ? それでサンセベロへ行って。どうも錬金術やってたお寺みたいで、そこに不思議なものがあった。17世紀くらいの彫刻かな? 漁師が網を持って魚を獲ろうとしてる。それを大理石で刻んでるわけ。網とともに中の人体を彫ってる。だからものすごい技術ね。網をくっつけたわけじゃなくて彫刻してる。それとキリストが磔にされて、地面に置かれて、布が被ってるのを彫ってる。本当に布の下にいるみたいな感じ。もう一つ《泣く天使》というのがある。それを見に行ったのね。「アクア」っていうのは水だけど、「涙」っていうのがわからなくて、「アクア! アクア!」って言って通じて(笑)。「今日はずいぶん涙が出てる」って。それは天使の彫刻から涙が出るわけ。奇跡だって言われてるんだけど。石を液体にする技術があったんじゃないかという説がある。それで水の成分が出てるみたい。それからもっと奥に人体が2体あるんですね。そこは見せられない。見せられないと言いながらこうやって手を出すわけ(笑)。お金を出すと見せてやるという意味ね。それはすごかった。あのね、全身があって骨があるでしょ? 肉は一切なくて全身の血管だけが残ってる。それが2体あって。それをつくろうとしたら生きている血が流れている間に鉄分になるような薬液を血管に注入して、そしてつくらないとダメ。そこは写真を撮っちゃいけないんだけど、また手を出され、それから僕は撮ったんだよね。それからキリストの道行きで、荊棘の冠から血が出て、汗をかいてるときに転写するでしょ? 暗い中にじーっと見てるとキリストの顔がでてくるハンカチみたいなのがあって。そういうふうに彫ってるのかな。 それもあった。おもしろいお寺でした。