文字サイズ : < <  
 

川添登オーラル・ヒストリー 2009年3月24日

豊島区北大塚 川添登研究所にて
インタヴュアー:中谷礼仁、鷲田めるろ
オブザーバー:中村敏男(元『a+u』編集長)
書き起こし:戸田穣
公開日:2009年6月1日
 
川添登(かわぞえ・のぼる 1926年〜2015年)
建築、都市、文明評論家
『新建築』編集長を務めた後、評論活動を行う。著作に『建築の滅亡』、『民と神のすまい』など。また、メタボリズム・グループの立ち上げに参加するなど、オーガナイザーとしても手腕を発揮し、シンクタンクCDIや、生活学会の中心的存在として活躍。インタヴューでは、戦争中に子供と遊んだ話から、童話を書いていたこと、終戦直後の子供会の活動、児童施設の設計から建築に関わるようになったことが語られる。さらに、『新建築』編集部、メタボリズム、CDIなど、組織の中の意思決定の経緯などが語られている。

鷲田:まず、お生まれになったところから伺います。お生まれになったのは、この巣鴨の近くで、ずっとこちらに。

川添:住所はちょっとわからないけれども豊島区の駒込ですよ(註:東京府北多摩郡巣鴨町染井、現・東京都豊島区駒込6丁目)。

鷲田:ツツジがすごくきれいなところで。

川添:染井ですよ。

鷲田:桜のソメイヨシノですね。

中谷:はい一応、覚え書(川添登『思い出の記』年譜を差し出す)

川添:この本の146頁。昭和小学校(註:東京市本郷区、現文京区立昭和小学校)に入ったって書いてある。沢田幼稚園(註:本郷通り妙義坂下、現・北区西ヶ原1丁目)に入園なんて。詳しいんだなあ。

鷲田:お父様が建設の仕事をされていた。

川添:そうですよ。戸田建設です。だから、ずっと現場でたたき上げてきたわけですよ。

鷲田:小さい頃から建築に対する関心ていうのは、お父さんの影響が強かったんでしょうか。

川添:うん。だけど、建築っていったって土建屋ですからね。それでおやじが、ぼくが長男なもんだから、やたらと現場に連れていきたがるんですよね。それで現場っていうのは荒々しいからねえ。

鷲田:それは小学生くらいの頃からですか。

川添:それで郊外の、戦時中だからぼんぼん飛行場や工場の建設とか色々あるでしょ?そういうところも連れてってくれる。それで仕事やって、1時間でも2時間でもほっぽかされてさ。嫌だったですよね、ほんとに。このへんだったら文京区役所とかね。文京区役所ってない今、小石川区役所(註:逆か?小石川区は1947年本郷区と合併して文京区となる)。まあ、嫌いでしたね。

鷲田:近くで遊んでなさいというような。

川添:いやほっぽらかしですよ。遊んでなさいなんて言いませんよ。それから「今日は夕食ご馳走してやるから学校の帰り寄れ」とかって言うんですよね。学校つったって小学校の3、4年の頃なんて3時かそこらで帰ちゃうでしょ。それで行くでしょ。そしたら、ほっぽらかしなんですよ。おまえ何しに来たっていうような顔されて。

鷲田:弟さん(註:智利(ノリヨシ)と泰宏、下記)もいらっしゃるんですよね?弟さんも一緒に?

川添:弟はまったく関係ない。ぼくは長男だからね。

鷲田:お父さんは建築のことをやって欲しいと思っていられた?

川添:思ってるっていうより……。こっちはどっちかっていうと病身でしたからね。病気がちだったから。だから、そういう荒々しいのはどうも。だけど、あれはまだ西巣鴨にいた頃だから4年だと思うんだけど(註:1932年から1937年まで東京府北多摩郡西巣鴨4丁目320番地に暮らす)。おやじが本読まないってお袋がずいぶん不満がってましたけどね。だけど住宅についてのことをすべて書いてある一冊本があって、その本をみて、自分の自宅の家のプランをちょっと書いて、それだけは親父が褒めてくれたね。ぼくは別に親父に見せるつもりはなにもなくて、お袋がそれを見て、親父に見せて。そんなことやってたから嫌いじゃなかったんでしょうね。

鷲田:小学校の1年生くらいの時に引越をされて。

川添:そうですね。巣鴨の小学校(註:西巣鴨第4小学校、現豊島区立朝日小学校)。そのころはまだ郡部ですよ。東京市が大東京市になったのはぼくが小学校2、3年の時じゃないですか。(註:1932年に東京市市域拡大し、北多摩郡西巣鴨は豊島区西巣鴨となる)

鷲田:東京の郊外に近いと。

川添:うん。だからなんという田舎だと思ったね。その前は昭和小学校、文京区にいて。そのときは越境入学だったんですよ。だからぼくはね、一年の時と六年の時は越境入学なんですよ(註:1937年6年時に小石川区窪町小学校へ転校)。

鷲田:隣の。

川添:だから文京区。豊島区と文京区とはいまでもそうだけど、もう格段の差があるんですよ。だから、同じ学校だったら。たとえばね窪町小学校と昭和小学校と行ったんだ。そこで1クラスで一人か二人くらいはね、この人(中村敏男氏)みたいに小石川高校へ入れた。こっち(豊島区)は、もう何年に一人っていうくらいですよ。成績のいいのは五中(註:東京府立五中、現・都立小石川高校)を狙ってみんな落っこちるんですよ。先生がこれは五中でも行けるかもしれないなと思う子はみんな九中(註:東京府立九中は現・都立北園高校)、板橋中。五中は全校でもう何年に一人。

鷲田:五中が優秀な人たちが行く。

川添:九中だったら1年に一人くらい入るけど、五中は5年に一人くらい。そのくらい違ったでしょうね。だから榮久庵(憲司 1929- )なんていうのはね、やっぱり優秀なんですよ。すぐそこにいたんだ。巣鴨小学校だから(註:西巣鴨第一尋常小学校、現・豊島区立西巣鴨小学校)。だから特別だなあいつ。あれ頭いいとはちっとも思わないんだけども。

鷲田:中学のころからたとえばよく神田とか、銀座とか行ってられたんですか。

川添:九段中学、第一東京市立中学校[現・千代田区立九段中等教育学校]。府立じゃないんですよ。東京市立なんですよ。設備がいいことでは東洋第一と言われました。関東大震災以後に、東京市の教育を市(註:府か?)だけにまかしてはおけないって建てた。関東大震災の頃の東京市っていうのは、非常に進歩的なんですよ。というのは、だいたい市長っていうのは昔から幕臣がなったんですよ。京都もそうですけどね。民生の場合には、その長はそこのなかから出す。尾崎咢堂[尾崎行雄 1858-1954]とかね。たとえば東京市政会館、日比谷公会堂があるでしょ。あれニューヨークの市政会館に学んでつくったんだよね。ニューヨークの市政会館はタマニー・ホール(Tammany Hall)っていう。当時、シカゴなんていうのもそうですけどニューヨークもギャング団が市政を牛耳っていた。それを追い出すためにまず市政会館を作る。市政会館のなかに都市問題の研究所をつくって、そこでいろいろな運動をやったり、選挙の方法を考えるとかゆって、それでひっくりかえして、民主的な市政を作るんですよ。それをまねて東京がやるんだよね。だから尾崎咢堂と、鶴見俊輔(1922− )のお父さんの鶴見祐輔(1885-1973)が、やっぱり市長をやってるよね。それがアメリカを手本にして市政会館をつくって。それで市政会館は自立できなきゃだめだっていうんで、市政会館のなかに日比谷公会堂(1929年竣工)をつくってね。経済的にいざということになっても、そのあがりでなんとか食えるように。東京市ががんばってる限りは、ちゃんと維持費もらえるけど、たとえどうなったとしても、なんとしても生きられるようにってつくったの。それで当時ね、講演会やるっていったら国に対する反対だったんですね、国に対する演説会っていう。それから新劇とかやってもどっちかというと進歩的。
 これは早稲田の建築はみんな知ってないといけないんだけど、あれは佐藤功一(1878-1941 1910年早稲田大学に建築科を創設)さんの設計ですよね。はじめは日比谷公園の角、宮城の見えるところにあった。その頃のスタイルはルネサンス様式ですよね。あの頃は様式選択主義でしょ。だからパレス、宮城に合わせて。それをこっちに移して、今度も角にもってくる。だから今度は町並みに合わせてゴシック様式に変えたんですよ。
だけど官庁、霞が関がすぐそばでしょ。だから内務省が大騒ぎして、なんとか潰そうっていう。

鷲田:そこでいろいろ講演会が行なわれて。

川添:講演会が行なわれたらねえ、目の前で何事かっていって。そういう時代で(九段)中学校がつくられた。だからぼくらわりあい進歩的だったんですよ。

鷲田:そこで行われていた講演会にもよく行かれてたんですか。

川添:講演会は行ってないよ。オーケストラ。あとは共立講堂(共立女子学園の講堂)とか大隈講堂(註:早稲田大学の講堂。1927年竣工 設計佐藤功一、内藤多仲、佐藤武夫)を除けばね、唯一のオーケストラ演奏会場ですよ。僕らの世代、ていうかぼくらの上だよね。音楽評論家の吉田秀和さん(1913- )とかにはもう思い出の。

中谷:よく戦前戦後の映画みると、コンサート行きましょうっていって必ず日比谷公会堂が出てきますよね。

鷲田:先生は、日比谷公会堂によくコンサートを聴きに行かれたんですか。

川添:中学校3年くらいから。みんなやっぱり。それで会員なんかもいたよ。今N響だけどさ。

鷲田:よく銀座とか、神田の古本屋とか。

川添:九段だから、巣鴨から行ったら乗り換え場所ですよ。だからそこで引っかかっちゃうわけよ。

鷲田:それで毎日のように。

川添:毎日。いつ行っても川添来てるって。だから「日参」ってあだ名がつけられて。それで、こりゃあいけないと思ってね。それで国電に変えたんですよ。秋葉原の。そんなことしてもダメだねえ、やっぱりねえ。

鷲田:その頃は小説が多かった。

川添:やっぱり、文学が多いですよね。まあ小説だけど。小説だって文学。

鷲田:美術とか、建築とか、音楽とか、そういった本もよく。

川添:美術と音楽も。大塚駅から南にここの通り(南大塚通り)を行くとお茶の水女子大(当時、東京女子高等師範学校)があってね、それから、いまはなくなっちゃったけど、その先にこっち側には高等師範(その後東京教育大学を経て、現・筑波大学)があったでしょ、それから跡見女学校(現・跡見学園女子大学)とか。だから、わりあいいい古本屋がここの通りにあって。そして、そこで戦前の、昭和10年くらいに出たんじゃないかと思うんだけど、『世界美術全集』ていうのがね30冊から40冊。それが古本屋にわりあい安く出てたの。それで、ぼくの中学の頃の同級生で鍛冶(良堅。明治大学(名誉?)教授)君ていうのがいて。弁護士になって、家族法では日本の権威なんですよね。奥さんが千鶴子さんていってオシドリ弁護士。それでこんなん出てるよって鍛冶に言ったら、鍛冶がお袋さんに頼んで買いましたよね。鍛冶が買うくらいだから、ぼくの方が良く知ってたからね、そういうのは話題になっていたんだと思いますよ。

中谷:よく先生と同時代の方へ聞きとりすると『世界美術全集』って出てきますね。その頃『世界美術全集』に遭遇してっ…ていうのは。基本的には、一枚の絵から、ぼくの人生がはじまったっていう。

川添:戦時中ですからね。神田やなんかでは、ぜんぜん出てこない。

中村:平凡社でしたよね。

川添:平凡社ですね。

鷲田:その頃は古本屋さんに行って、本はけっこう買って帰られたんですか。見るだけじゃなくて。

川添:買うの。貸本屋なんていうのは、ないことはなかったけど。貸本屋にはろくな本がない。

中谷:文学はないですよね。

川添:文学があっても大衆小説。

鷲田:それで、その後、戦争、徴兵で行かれたんですか。

川添:徴兵ってのもね、これはねえ、ぼくは中学校で2年ドッペったんですよ。病気がひとつ。

鷲田:中学校は5年間通われた。

川添:1年ドッペったのかな、2年だったかな。

中谷:胸の病気。

川添:胸の病気ですよ。それで早生まれだもんだから、終戦の年に身体検査を受けた。東京で受けられたんですよ。でもね宮崎が本籍地。届け出すれば東京で受けられたんですよ。でも戦時中で旅行も何もできないから、ちょっと行きたいじゃない。それで宮崎で受けた。その一週間くらい前に、早稲田の専門工科を受かったのね。第一理工なんてのはみんな落っこちちゃった。だいたい小説ばっかり読んでてさ。ろくに勉強してなかった。試験を受けて、行って、そしたらその姉がついてきてくれましてね、その身体検査から出てきたところで待ちかまえてて、早稲田の専門工科受かったよって言ってきたのね。それで東京に帰ってきましたよね。それで入学の手続きをして。それで3月10日の大空襲があって。それでよっぽど慌てたんだよね。山手線やなんかの沿岸、100mの重要道路の両側とかが一週間の強制疎開になったんですよ。もう最後は箱に入れられてね。軍隊がやってきて。ぼんぼん、ぼんぼんほっぽりだして。それでのこぎりでいれて、ひっぱって、つぶすんですよ。親父やなんか宇都宮で飛行場建設をやってたので、そこでみんな疎開してて。ぼくと弟だけは残ることになってたんですよね。だけどお袋はいたんですけどね。で、それがみんな帰っていって。ぼくと弟は学校行かなくちゃいけないんで。滝野川(東京都北区滝野川)に親類がいたもんだからリアカーで荷物を運んで。それで今日はやっと運べて、今日はゆっくり寝坊できるなと思って親戚の家の二階で寝てたらね、電報が来てるわよって。それで徴兵にひっぱられたのかな。宮崎ですからね。受けてから2,3ヶ月後くらいですね。4月5日だな。「カワソエノボル 四ガツ五カ ニュウタイシタカ」という問い合せ電報が親類の家に来て。それで軍隊。
 だけどね歳とってるでしょ。83才ね今ね。83才にもなるとね、いろんな昔を思い出すでしょ。一番思い出すことって何かっていうと、軍隊にいたわずか半年間。何でだろうと思ってね。それは日本ていうところはいいところだなと思うんですよ。それは、はじめ屯営にいて。屯営が空襲にあったりなんかしてね。最初は都城ですけど。都城から一里半くらい入った山奥に分宿してたんですよ。ほんとはね、穴を掘っていたんだけど、人間が住むような穴なんかなかなかつくれないから。その後、民宿で。そしてそのうちに屯営が空襲されちゃって、移動になったんですよ。どこに移動したかっていうとね、ぼくらは補充隊に回されたんですよね。補充隊っていうのはね、九州ではもう敵前。沖縄の次は九州だと。関東は違うんだよね。関東は九十九里浜などと思ってたんですよ。いきなり攻めてくる。そうすると最後の線。九州に敵が上陸してきたら、最後の線をうちらは守ろうとしていた。それはね、阿蘇山。外輪山に陣地構築して中に最後の線を。そこに10日くらいいましたかね。そしたら特別混成中隊ができて、それで吉松(旧吉松町。2005年栗野町と合併して湧水町)に移るんです。要するに熊本・宮崎の霧島の裏側の麓でしょ。そこをね南九州の武器・弾薬、医療とか衣服とか食物とかの物資の集積所にしたの。交通の要衝で食料を管理するの。はじめ食料ないときはね、やっぱり腹ぺこだったですよね。みんな民宿でしょ。民家でね、お汁と漬物くらいは出してくれるんだけど、ご飯は軍隊で支給されたもの。だからね、本隊にいるよりは少しはましだったけど、やっぱり少なかったですよね。

中谷:どぶろくつくたって書いてありますよね?(『思い出の記』年譜参照)

川添:米が来たもんだから。軍隊っていうのは員数だけ揃えばいいんですよ。数だけ揃えばいい。それで、ひとつの米俵の中から半分とって。それで泊ってる民家の分けたりしたもんだから。それから時々やっぱり軍隊にも肉とかなんとか配給があったりしますよね、そうすると民家に分けて。民家とは大の仲良しで。娘さんがいっぱいいて、土地には男の若者がいなくなってるから、いたるところでロマンスがおこって。

中谷:戦争末期で特殊な空間だったんですね。

川添:軍隊そのものが特殊な空間で。屯営じゃなくてみんな民家に民宿してたわけでしょ。それでだいたい軍隊がたてこもるようなところって、みんな風景がいいんですよ。まあ大都市にも防衛隊はいたけどさ。ぼくらは一番はんぱなところばっかり。最後の線ていう。
 それがねえ、文章になんにも書いてないんですよ。どういうわけか知らないけど、今どきねえ、いつかは書こう、って。ずいぶん家族と仲良くなって、ちっさな小学生が二人いてね、それにぼくは童話が好きだからお話を聞かせてやったりして。近所の人とか仲良くなって。でも固有名詞、そこの誰さんていうのを忘れちゃったしね。固有名詞はもちろん、町の名前から部落の名前から、ぜんぜん分からない。それで地名変更あるでしょ。だから調べよう調べようと思って、何も書いていない。だから幻想だもんだから、ますます。

中谷:戦争末期の、川添さんの想像空間に適したテーマかもしれませんね。それはぜひ書いて下さい。おもしろうそう。

川添:書きたいんですよ。だからもうしょうがない、昔は参謀本部地図っていったけど、あれの詳しいやつで調べて。だけど地名変更とかしてるからね。分かんないの。

鷲田:地域の子供たちと遊んだりとか。

川添:民家に世話になるから。ぼくが民宿してもらったところは、お母さんと小学生の5、6年と2,3年くらいの男の子二人いたけど、働き盛りの若者はみんないないでしょ。だから農作業もたいへんでしょ。それで休みの日は、みんなたんぼの草をとるとかね、そういうのしてあげましたよね。だから民家の方も感謝してる。ものすごくいい関係だったですよ。

中谷:おもしろいですね。戦争中なのにね。その頃、先生20才ですよね。

川添:今流には19才ですよ。

中谷:多感な時期で、その前には童話作家にもなりたかったんですよね。そういう特殊な戦争体験で、ちょっと一般とはちがう。

川添:童話たくさん知ってるんですよ。銃を磨いたりしていると子供はふれたがるんですよ。それで磨かせてさ。童話を聞かしてやろうって。

中谷:先生がお好きだった童話って何だったんですか。先生、自分で書かれてたんですか。あるいは宮沢賢治とか。

川添:その頃ね、宮沢賢治(1896-1933)の童話をお話するのはちょっと難しいよ。少し大人向けの講習会だよね。なにかお話になるのは。むしろ新美南吉(1913−1943)だよ。ちょうどね新美南吉が出てきた頃で。『新児童文化』って言うクォータリー(季刊)の雑誌があったんですよ。ぼくは、そこに投稿して。この「ある晴れた日に」、これは『ラジオ小国民』。この真中にある「やさいスープ」、これは『新児童文化』(註:この二編の童謡はともに『思い出の記』巻頭に収録)。この選者は両方とも、巽聖歌(1905−1973)。戦時中、新美南吉がね、巽聖歌の家に下宿してた。ぼくが『民と神の住まい』で毎日出版文化賞をもらったでしょ(1960年)、その時、『新美南吉全集』が特別賞だった。その選者代表で巽聖歌さんが賞状貰いに来てた。そこではじめて会ったんですよ。むこうから声かけて下さって。遊びに行こうと思ってたんだけど、ついに行かなかったけどね。

中谷:その頃、軍国少年だったのですか。

川添:軍国少年でしたよ。それなりに。

中谷:影響を受けた、軍国的な考え方とは具体的にはどのようなものですか。

川添:別にないね。

中谷:ないですか。でも日本浪漫派とか。

川添:日本浪漫派はそれなりに影響受けてましたよ。日本浪漫派って誰だっけ?

中谷:保田與重郎(1910−1981)。

川添:保田與重郎なんて。それなりに。

中谷:他には。

川添:他には、あの頃の日本浪漫派なんて誰だったかな。

中村:亀井。

川添:亀井勝一郎(1907−1966)。戦後すぐの『大和古寺風物誌』(1943)なんて、かなり影響受けてますよね。

中谷:たとえば「近代の超克」会議とか、『文學界』とかはけっこう読んでたんですか。

川添:あれねえ、それほどじゃいなけど、まあまあかなあ。だけど一番読んでたのは翻訳本ですよね。なんてったってドストエフスキーよ。ドストエフスキーとポール・ヴァレリー。

中谷:ポール・ヴァレリー、ドストエフスキー、日本浪漫派。なかなか複雑な。それで児童文学だし。

川添:みんなね戦前戦後と断絶があるっていうでしょ。ぼくは断絶感じないのよ、ぜんぜん。たとえばポール・ヴァレリー全集が筑摩書房から出てた。いまの装幀とおんなじで出てましたよ。それが戦時になってちょっとね。はじめ箱入りだったのが、箱入りじゃなくなって、カバーになって。でも、それとまったく同じデザインで戦後出てましたからね。それとドストエフスキー全集が三笠書房から米川正夫(1891−1965)の訳で出て、それとまったく同じスタイルで戦後出てました。宮沢賢治だって全部そうでしょ。だからあそこで断絶がある断絶があるっていうけど、断絶なんてあるか。人間の意識ってのはつながってる。

中谷:戦後のインテリの基盤は戦前からもちろんあって、大正時代くらいからきっちりと日本のインテリゲンチャはつくってきた、そういう感じですかね。

川添:だから断絶があるとすれば。その頃でしょ。

中谷:その頃というのは明治・大正?

川添:昭和の初期。あるいは関東震災(1923)以後とか。なにかその頃でしょうね。

中谷:治安維持法の頃ですか?

川添:ぼくらは知らないけど。もし断絶があるとすれば、ですよ。だけど、いろいろ調べてみると、断絶なんてあるかと。みんなわかってない。たとえば今(和次郎 1888−1973)さんの考現学なんかやってさ。モダンていうのが洋服着てるなんて言うでしょ。だけど、たとえばアールヌーヴォーとかアールデコとか、そういうデザインが日本に入ってきたっていうのは着物からですからね。和服からですよ。それで和室に椅子を置いたり、絨毯をひいたりなんて。だから、いまの近代史とかなんとか、風俗については今和次郎以来ちょっと理解が間違ってますよ。

中谷:今和次郎以来。今和次郎以降。どっちですか。今和次郎はあってる?

川添:今和次郎も分かってない。分かってたのかも知れないけどちゃんと書いてない。だから気がついてなかったんでしょうねえ、みえてんだけども。みえてんだけど、やっぱりモダンていったら洋服ってなっちゃう。

中谷:東京大空襲は先生は直接受けてないんですよね。

川添:受けたんですよ。

中谷:帰ってきたらもう……。

川添:もう焼け野原。延々とした焼け野原。

中谷:先生のところは焼けてなかった?

川添:焼けてましたよ。3月10日にはやられなかった。だけども、目の前で高射砲がB29を撃ち落としたり。すごかったね。とにかく昼間のように明るかった。

鷲田:いったん宇都宮に帰られて。それでまたお父様のところに。

川添:もぐりこんだ。それで子供会やった。当時の国鉄っていうのは頼もしかったね。ほんとに頼もしかった。とにかくずっと空襲に。たえず移動したときに、そう思ったんでしょうね。たとえば、阿蘇から吉松に帰るときは、その前日に熊本が空襲受けた。だからね延々と電信柱がぼんぼん燃えてる間を汽車がどんどん走っていった。戦後、帰るときに台風が来てね、山陽線が鉄橋がひとつ落ちたりして。山陽本線はね、ものすごく手間かかりましたよ。途中で降りて歩かなくちゃいけない。
宮本百合子(1899−1951)に「播州平野」(1946)ていう短い短編がありますよね。宮本が、どっか中国地方か九州か知らないけど、疎開してて。宮本百合子の旦那の宮本顯治(1908−2007)が牢から出されて。それで宮本百合子が会いにすぐ上京してくる。空襲じゃなくて台風が来てね。橋が落ちちゃって。汽車がなんかしか通らなくなちゃった。仮橋かなんかのところを歩いたりしてたんですよ。それから駅。せっかく広島まで着いたのにね、出されちゃって、駅の前で散材かなんか使って延々と焚き火をして一夜を過ごす。その人たちが、そういうふうにして辿り着くんですよ。東京まで来る。神戸を過ぎるとね、さすがにね、やっぱり都会度が違いますよ。まったくそういうことはない。そういうのが実によく書かれている。それが全然いらいらしないんだよね。むしろ家に帰れるとか、旦那さんに会えるとかっていうのがあるからね。いらいら全然しないで、そういうところ歩いてくる、近づいてくるっていうの。これは実に、さすが小説家だ。

中谷:終戦迎えて、ひいらぎ若葉会に入るんですよね。おもしろいですね。

川添:ひいらぎっていうのはね、ぼくらが卒業した小学校(西巣鴨小学校)の校章がひいらぎなんですよ。もうひとつ青年会を作ってたのがあったんですけどね、それは柊友会、ひいらぎの友の会。いまでもそうじゃないかな。

鷲田:その頃、人形劇とかもされてた。

川添:子供をただ集めてもね何をするか種がなくなっちゃうんだよね。そんなことだったら人形劇。当時プークっていうのがあったんですよ。

中谷:ああ、人形劇団プーク(註:1926年ダナ人形座の名で創設、1929年LA PUKA KLUBOと改称。略称プーク)。

川添:ぼくは毎回見に行ってた。

鷲田:東京の民間の劇団なんですか。

川添:そうですよ。戦後すぐ始まった。だいたい共産党員。なんといっても人形劇にチェコですから。

鷲田:共産党と関わっていた。

川添:いや党員ですよ。

鷲田:党員の人達がやってた。

川添:だから左翼的なものばっかりやるわけですよ。左翼的に演出するというか、もともと人形劇は民衆芸能ですから。

鷲田:具体的には、町のどこかを借りて。路上でされてたんですか。

川添:路上でもしましたが、だいたいは、ちゃんとした劇場。池袋には人生座っていうのがあって。あとは小学校の講堂とかなんとか。地元で呼んだりする場合があるわけよ。あと小学校の講堂とか。焼け残ったところもしっかりありますから。

鷲田:先ほどの共産党の話が出てきましたけれども。学生運動との関わりはどうだったんでしょうか。

川添:専門部の英語の先生がね松尾隆(註:1907-1956、筆名:木寺黎二。ロシア文学研究家・文芸評論家、後早稲田大学露文科教授)っていう共産党員。早稲田唯一の教授細胞。当時は共産党員の大半は秘密党員ていうか、公開党員じゃなかったんですよ。あとで「先生も党員か」って。これが英語なんだけど、英語の授業なんてやりゃしないんですよ。まず集合論やったりとかして。天文学の話からはじまってさ、いつのまにかマルクス主義の話になっちゃって。

鷲田:その方の影響が大きかった?

川添:うん。

鷲田:活動としてはなにか?

川添:おもしろい先生だから、青年会で呼んで。当時は文化講演会しかすることないんだよ。お寺の庫裏にかなり広い座敷があって、そこのなかで文化講演会ていうのやって。たいがい大学のおもしろそうな先生を呼ぶ。ぼくはだから松尾先生を呼んできた。

鷲田:共産党の党員としても活動を?

川添:しましたよ。いまそんなこと言っていいのかどうか知らないけど、平良(敬一 1926−)、宮内(嘉久 1926- ともに建築評論家・元『新建築』編集部)はみんなそうですよ。

中谷:あの頃の世代の人には多いですよね。

川添:共産党入らないとちょっとね。

中谷:戦争中は軍国少年で、そのあとすぐ共産党員。だからファシズムと共産党員が両方いるような。先生の年表読んでるとちょっと同じような感じを受けますね。

川添:ファシズムとは限らないんですよ。文学青年もなっちゃうんだから。亀井勝一郎とか、あれもファシズムかなあ。だからよくわからない。

鷲田:弟(智利)さんもその頃よく一緒に子供会のこととかも。

川添:一緒にやってた。

鷲田:弟さんは上野の美大(東京美術学校、1949年より東京藝術大学)に行ってらしゃった。

川添:美大にいて、それで卒業してて、早稲田の武(基雄 1910-2005)さんの研究室。そこから東海大学ができて、東海大学にひっぱられてって、東海大学の講師になって、それで教授までなった。その下にもう一人泰宏っていうのがいて、子供会の子供だったんだよ。それが武蔵美(帝国美術学校、1948年武蔵野美術学校と改称、現・武蔵野美術大学)に行って、「子供会のときの子供が、子供会やってんじゃないか」って言ったら、「そうだ」っていって(笑)。それが武蔵美の教授になって。だから3人。ぼくの弟みんな大学教授なんだよ。みんなうちでごろごろいたりなんかしてたでしょ。それに離れに住んでた姉が、お茶とお花の先生やってたわけ。外から電話がかかってきて「川添先生いらっしゃいますかって」いうとお袋が怒るんだよね。「どの川添先生ですかっ」て(笑)

鷲田:河野通祐(註:1915− 建築家・京都市立第一工業学校卒。日本大学専門部政治科中退。土浦亀城事務所、日立製作所に勤務。雑誌『生活と住居』編集長。後日本大学生産工学部講師等。児童施設研究所主宰。設計事務所和・会長。参照『みみずのつぶやきー無名建築家の生涯』1997)さんていうのはどんな?

川添:河野通祐さんは、戦前、土浦亀城建築事務所に勤めていたけど、その後、日立製作所の厚生科にいたんじゃないかと思う。戦後、東京に戻って「双葉園」の復興計画をスタートしたわけ。「双葉園」(戦前は「子どもの家学園」。児童保護施設)の園長は、有名な高島巌(1894-1976)で、戦前、『主婦の友』に連載され映画にもなった獅子文六の小説「太陽先生」のモデルですよ。施設は河野が設計していたけど、戦災で全焼し焼け出されていたんだ。「双葉園」を設計してその近くに住んでいたら、杉並区の文化人区長だった新居格(1888-1951)が「杉並子供の町宣言」を出したんで、それに参加して運動をしたりね。それから、あの有名な貼り絵画家の山下清(1922-1971)のいた八幡学園(註:千葉県市川市の指定知的障害児施設)の設計を頼まれたらそこへ入園しちゃうんです。、そこに戸川行男(註:児童心理学者、1903-1992。1938年早稲田大学講堂で『特異児童作品展』開催)さんが住みついていてね。
山下清を世に出したのは、式場隆三郎(註:1898−1965 精神科医)と言われているんだけど、あれは山下が有名になってからでね。美術出版社の雑誌『みずゑ』に山下清たち特異児童の特集をしたのは、戸川行男さんで、その後、山下は放浪して克明な日記を書くんだけど、それを「へたな論文よりこっちの方がよっぽどいいんだ」といって『早稲田学報』に戸川さんの名前で載せてます。

鷲田:河野さんは建築家だった。

川添:建築家です。それでぼく学生時代に児童施設やってたでしょ。そしたら『新建築』に芝児童館ていうのが載った。そしたらそこに児童福祉施設研究所って書いてある。それでぼくは地域子供会をやっていたもんだから、東京都の社会教育課とか児童福祉課に、けっこう顔が利いていたんです。それで東京都の社会教育課に「河野通佑っていう建築家知りませんか」っていったら、「その絵書いた人ですよ」って指さして。芝児童館てああいう会館式にする前は、分舎式の計画だったのですが、そのパースが架かってた。福祉・厚生施設だよね。

鷲田:これをされてた頃は、同時に早稲田大学の工学部。建築の専門のところにいらっしゃったんでしょうか。

川添:心理学をやって元に戻ったの。専門工科を卒業すると、3年の編入に受験資格があるわけよ。それで試験を受けて文学部心理学科3年に編入で入った。その後、理工学部に戻ろうと思ったときに、理工学部の方は、昼間の方は編入試験がないの。でも夜間の第二理工学部は編入があったので、その3年に入ったわけ。それで昼間あいてるじゃない。それで昼間は、今和次郎先生の助手。

中谷:今和次郎先生との出会いはどんな感じだったんですか。衝撃的な出会いがあったとか。

川添:そういうロマンティックなものはなにもない。

中谷:今和次郎先生にどうやってお会いしたんですか。

川添:いや、いきなり。

中谷:夜間を担当してたら自動的に今和次郎先生にお会いすることになったんですか。

川添:いや今さんは第二理工学部教えてない。

中谷:教えてないですよね。やっぱりなんか出会いがあったんじゃないかと思うんですが?

川添:今さんの名前はみんな聞こえてましたから。あ!ありますね。新(日本)建築家集団(註:1947年建築文化聯盟、日本民主建築会などが集合して結成)。

中谷:NAU(The New Architects' Union of Japan)。

川添:そこで武(基雄)さんが新建築家集団にいて。ぼくが、なんで共産党入っちゃったかっていうとさ、その松尾さんが会長だった青年共産同盟が、松尾さんの講演会を毎週何曜日か放課後にやってんだよ。けっこう評判がよかったから、人気あったから結構100人くらい集まりましたよ。ぼくはかぶりつきに座ってるでしょ。そうするとね、必ずね「ちょっと君、水を事務所からもらってきてください」て言われてね。こういうビーカーに水入れてもってく。もう毎回なんだよ。共産同盟が主催してるんでしょ、そしたら共産同盟の人がやったらいいじゃない。これが、やらないんだよ。「それじゃあ、こりゃしょうがいない。ぼくが共産同盟入って先生のお世話するか」と。それで松尾さんに「共産同盟ていうのは、あれは政治団体ですか?」聞いたら、「あれは研究団体だ。政治団体じゃありません」ていう。それじゃあ、まあいいかって入った。そりゃそうだよね、そう言わなかったら学友会だって、学校から予算が貰えないよね。こっちは純粋っていうのか、思考が単純にできてるから。

中谷:それからNAUにも入られたんですね。

川添:NAUはその前に入ってた。丹下元夫人なんかは丹下さんに「絶対入っちゃいけない」って言ってて、芦原義信(1918−2003)も入らせなかった。だから芦原さんはフルブライト貰ってアメリカに行けたけど、池辺陽(1920−1979)は行けなかった。NAUなんてのは左翼がかった文化団体としか思ってなかった。まわりはね。当然、みんな共産党入らなかったって左がかったのが多いんですよ。少なくとも社会党系ですよ。自民党なんて言ったら……

中谷:若いのにねっていうことになる。

川添:それで武さんに「早稲田の教授で、もっとNAUに入んないんですか」って聞いたら、「入らないね。入るなら今さんしかいない」って。

中谷:今さんをオルグったんですか?

川添:それでNAUでやってたのは、図師嘉彦(註:建築家。劇場建築に関する論文・著書多数)だよね。

中谷:そうですね劇場建築の。

川添:今さんにね言ったらさ、日本建築学会に反対するなら入ってもいいって。

中谷:おもしろいこと言いますね。なるほどね。

川添:それで今さんがそう言ってたよって図師さんに言ったら、図師さんほか何人かで行って、今さんをNAUの一番偉い委員長かなにかにしちゃったんですよ。

中谷:それは1950年くらい。

川添:だけど一年でやめたよ。たしか一期で。

中谷:今さんはそういうの苦手そうですよね。

鷲田:この頃の学校の方の武先生の教育というのはどのような。

川添:武さんはかなり授業面白かったよね。ぼくはあまり聞いてないんだけどさ。ぼくがはっきりおぼえてるのはコア・システムについて。武さんがあれだけ喋ってるから、建築家ならみんなコア・システム知ってると思ったら……

中谷:けっこう知らない。最先端の授業だったんでしょうね。武さんは丹下と並ぶ人ですからね。

川添:それがすごく面白かった。だけどね、ぼくは幼稚園・保育所の専門でしょ。安藤勝雄(註:早稲田大学理工学部五一号館設計者)が小学校建築やらなくちゃいけない、と。命令なんですよ。で、小学校についてショの字も知らない。それで今さんのところにね、どういう本を読んで勉強したらいいかって聞きにきたんだよ。そしたらぼくが助手でそれをやってたわけ。今さん「おおそれなら川添君」。それで「ぼくの家にきて下されば、お貸ししますよ」って言って、それで何冊か貸したんですよ。その授業を聞かなくちゃいけないんだよね。そうするとね、やっぱり聞きにくいよ。

中谷:年表を見ると、学科3年に編入で第2理工学部夜間なので昼間は暇なので今和次郎助手になるって書いてあるんですけど、この場合の助手って言うのは個人助手ですか?

川添:個人助手。

中谷:やっぱり今さんに気に入られてたんですよね。

川添:気に入られたって、なんていうのかな……

中谷:今さんはやっぱり児童研究とかひいらぎ会とかやってた川添さんのことを面白いと思ってたわけですか。

川添:面白いと思っていたとは思いますよ。だけど今さんと必ずしも合わないんですね。編入試験のときに、趣味なんて書く欄があるから、読書って書くでしょ。口頭試験で今さんが「読書って何が好きか」って。「文学」。「文学って誰が好きか」と。「ポール・ヴァレリーとドストエフスキー」なんて言うでしょ。「なんだフランスとロシアか」って。だめなんですよ。趣味において合わない。

中谷:趣味が合わない。丹下さんとはまだお付き合いないですよね、その頃は。

川添:その頃はない。だけど『新建築』に入ってまず行ったのは丹下だよね。

中谷:結局、『新建築』に入られた事情はどういうことなんですか。明石(信道 1901-1986)先生の紹介でバイトして、そのまま籍を置いちゃったって感じですか。

川添:籍を置いてあって辞めるって言わないからね。

中谷:で、そのまんま、いついちゃった。

川添:こっちが勝手に。

中谷:実際のものづくりをするよりは、編集の方に興味をおぼえたってことですか。

川添:興味をおぼえたのはこの当時じゃない。

中谷:まだもっと先。

川添:設計だって弟の方がはるかにうまいもん。うまいかどうかわかんないけどさ、アイディアはどうかと思うんだけど、上手だよね。やっぱり建築家は絵が描けなきゃだめよ、アイディアいくらあたって。

中谷:川添先生どちらかというと、アイディアが頭の中にいっぱいあって、でも手は。

川添:だめ。

中谷:だめで。じゃあもう……

川添:口でやるよりしょうがない。

中谷:口でやると。じゃあ確信犯で『新建築』に入ったんですね。そのとっかかりとして。その頃から評論家になろうという野望はあったんですか。

川添:できたら評論家なんて言うのは面白いなとは思ってました。だけどそういうのが成り立つかどうかは分からなかった。

中谷:あの頃、浜口(隆一 1916-1995)さんなんかはもうだいぶ載ってましたよね。浜口さんとは交流あったんですか。

川添:仲良かったよ。

中谷:同い年くらいでしたっけ。

川添:同じ年じゃないよ。ぼくよりひとつ世代が上ですよ。丹下さんと同期だから。それで(浜口)ミホ(1915−1988)さんと仲良かった。ぼくらが今さんの研究会やったりするとミホさんがよく来ましたよ。わたしが学生時代から。

中谷:「玄関廃止論者」ですよね。あの頃の計画学っておもしろそうですよね。ぼくとしては非常にラディカルな時代だったと思うんですけど。封建性の打破とかいって、ほんとうに玄関とか取っちゃうとか。けっこう短絡的だなあという気はするんですけど。(註:浜口ミホ『日本住宅の封建性』)

川添:短絡ですね。

中谷:あの当時の研究会の様子ってどんな感じだったんですか。

川添:だけどね実際を知ってるのはほとんどいないんだよ。

中谷:みんな頭の中で。

川添:それで頭の中だって、要するにたいしたことないんだよ。ぼくが幼稚園の権威になれるみたいなもんですよ。

中谷:今さんはそういうところにも参加された。

川添:参加されましたよ。

中谷:そういうとき今さんはなにかコメント言うんですか。「君ら甘いね」とか。

川添:「甘いね」とは言わないけど、類したことは言うね、辛辣だからあの人は。あの人、ほんとにもう偉くなっちゃった。ぼくも偉いと思うけどさ、自分で、適当なこと言って。今さんはぼくよりずっと上だからな。ほんとにはじめは、コンプレックスの塊だったっていうんですよね。まあ明石信道がよく「あの人はちょっとコンプレックスが強過ぎる」って言ってたけどさ。それが急に偉くなちゃったからね。ほんとに偉くなちゃったんですよ。そういうところがまたある意味、素直なんだけど。だけど明石さんに言わせると、やっぱりかなり屈折してます。松尾隆はずっと純粋ですよ。

鷲田:その頃、伝統論争をしかけられたとよく書かれてるんですけど、しかけるっていうのはどういうことだったんでしょうか。

川添:伝統論争をやってもらったっていうか、いわばやらせたということですね。

鷲田:それぞれに寄稿をお願いしたというようなことなんですか。

川添:浅田孝(1921−1990)が余計なこと言うんだけどさ。とにかく「今の若い奴らを金床の上でトンカントンカン叩かなきゃダメだ」って、なにかっていうと言うんですよ。今の若い奴らをトンカントンカンて。それじゃあ、こっちもねえ「建築家をやってやろう」っていう、そういうところはありましたよね。しかけるっていうのは。だから丹下健三を、鍛えないといけない、とかさ。ちょうどぼくがうっかりそういうこと言うと、浅田孝がのっちゃってさ、けしかけるんですよ。

鷲田:ペンネームでも書かれてたんですよね。

川添:そう、岩田知夫。

鷲田:そのころ岡本太郎(1911-1996)の現代芸術研究所の方にも参加されてたということですが、どういう関わりだったんですか。

川添:ぼくはね、まだ下っ端というか。機関誌を出す女の子が、瀬木慎一(1928- )か誰かにいじめられて、見るに見かねてね、手伝ってあげてました。瀬木慎一はあいつは偉いんだよ。集まってたのが小説家の安部公房(1924−1993)。岡本太郎っていうのは戦前のアヴァンギャルドの生き残りでしょ。それと詩人の瀧口修造(1903−1979)。瀧口修造が考えてみると中心だったような気がするね。岡本太郎、瀧口修造。そのつぎに花田清輝(1909−1974)。

鷲田:集まっているところに参加して議論されたりしながら、機関誌の編集を手伝っておられたというような?

川添:ぼくは、よそもんですから、参加してません。世代が違うんだよ。ぼくらはまだ子供。針生一郎とか瀬木慎一っていうのは、偉いからね。こっちはね、だめなんですよ。純情可憐な方だから。人はそう思わないけどさ(笑)

中谷:1953年に新建築に入られて、「伝統論争」と後から一括して呼ばれるセッティングをすぐさま始めますよね。つまり伝統って言うのが非常に重要な意味を、その頃の川添さんにとって持っていたと思うんですけど、それはどういう背景で考えればいいんですか。

川添:たとえばコルビュジエ読んでみてもさ、コルビュジエが書いてんのは機能主義でも構造主義でもなんでもないよ。パルテノンだけだよ、あれ。

中谷:つまりコルビュジエすら機能主義の他に、そういう……、

川添:コルビュジエが特別じゃないかと思うけどね。そしてやっぱり特別じゃないとああいう風にはならない。グロピウスになったらおもしろくない。

中谷:そうですね。つまり、それと同じように日本の伝統的なものの中に、ちゃんとある種の普遍性を見つけ出さないとまずい、という考えがあったってことですよね。いまちょっと誘導尋問みたいですけど。でも、その背後にそういう戦争中の考え方とか、文学とか、子供とつきあったこととか、妄想癖とかが、集約されてるんですか。

川添:そう思いますよ。ぼくは少なくとも、活字文化の方ではね、ませてたんですよ。かなりませてた。だから読書傾向が丹下さんの世代と変わらないんですよ。丹下さんが一番ぼくに話しやすかった。

中谷:つまり相対する編集者の中で一番若くて……言いやすくて……

川添:編集者だけじゃなく、本読んでるみたいで、浜口隆一でもたいして読んでないんですよ。ほんとに何を読んでるんだろうかと思うよ。当時の戦前から流行してた、ポール・ヴァレリーとかね。丹下さんドストエフスキー読んだかどうかわかんないけど、ポール・ヴァレリーはね。とくに東大の場合は、ポール・ヴァレリーを翻訳してるのは辰野隆(たつのゆたか 1888−1964)でしょ、辰野金吾(1854−1919)の息子だよね。それから鈴木信太郎(1895−1970)は、鈴木成文(1927- )のおやじだよね。だから当時の東大の建築学生は、やっぱり近親感をもっていたと思うんですよポール・ヴァレリーに。だから、そういう感じっていうのがわかったのはぼくだけ。

中谷:背景というか感じですね。

川添:感じですよ。口では言ってないけど「感じ」。

中谷:ジェネレーションギャップを感じなかった。

川添:吉武(泰水 1916−2003)さんにかわいがられたのもそう。とくに東大の場合には計画学がないでしょ。吉武さんに聞くと、計画学は岸田日出刀(1899−1966)。でも岸田日出刀の建築計画っていうのはさ、病院ていう建物にはどういう部屋とどういう部屋がある、なんていう建物にはどういう部屋とどういう部屋がある、それだけなの。あとは照明だとか音響とかいっちゃうわけですよ。

中谷:でも吉武さん動線とかそういうのちゃんと考えてる。

川添:そういうやつをどこで学んだかっていうと早稲田。早稲田はちゃんとあったんですよ。それで、動線やったのは今さんなんだもん。今さんは当然ヨーロッパでは、そういうことの実証的研究をやってるにちがいないと信じてた。向こうに行ってた白鳥義三郎が帰ってきたときに、まず聞くんだよね。ないんだよ。それで、そんならやってやろうといってやったのが、建築学会に提出した論文。なんだっけ、あるよ、動線の研究。統計的研究。

中谷:それいつくらいのやつですか。

川添:どっかにあるんですけどね。だけど決して成功してない。それでこれは実証的な研究じゃダメだ。実証的っていうか、実験的な研究じゃだめだ、実証で行かなきゃダメだっていって。やっぱり動線は結局、動線計画じゃダメだっていうことになったんじゃないかなあ。

中谷:それ今さんの若い頃ですか。

川添:若い頃ですよ。習志野市の市長になった白鳥義三郎と一緒に。

中谷:大きくいうと昭和初期。

川添:昭和初期ですね。たぶん。

(しばらく資料を探す)

川添:動線の変な図形のあるやつ。もう学問のための学問ていう感じだったんだけどね。今和次郎にしてこれかっていう。どこかにあるよ。ちょっと後で探します(「住宅各部の配列に関する統計的研究」、昭和9年4月号)。

鷲田:『新建築』の方で英語版を出されました。それは海外に向けて日本の建築界の事情を出していかないと、という。

川添:それよりはね、ぼくの感じではね、英語版出せばもう完全に『新建築』の独裁が成立すると思ったんだよね。それまでやっぱりね『建築文化』とかね『国際建築』とかっていう競争誌があるでしょ。だけど日本の建築家達は海外に弱いから、それがそのまま海外版になるって言ったらば、みんなもうなびいてくると思ったのよ。それでね建築の写真・図面でね、日本の現状をそのまま欧米に伝える、世界に伝える。そのために海外版に向けてやったらば、これはちょっとやっぱり、フジヤマゲイシャじゃないけど、そういう類いにどうしたってなるよね。それを避けるためにという理由で、写真版はそのまま、図面もそのまま、日本語をただ英語に変えて、レイアウトも入れちゃう。そうするとね、翻訳代と印刷代だけなんだよ。そうするとコストはたいしてかかんないよね。その分、広告とりゃいい。そしたら一冊も売れなくても。そういって社長に言ったら、顔つきがかわちゃったよね。

中村:どうやって売ろうと思ったんですか。海外に。英文版を。

川添:それは、いろいろその筋に聞かないとだめだよ。売れなくてもいいから配れっていうことだったんだよね、ぼくの考え方は。

鷲田:海外の建築家にどんどん送ってた。

川添:まず、ぼくが調べたのは、建築科がある大学。中国やなんかでも。全世界の建築科のある大学とかさ。それぞれ建築家協会みたいなのがあるでしょ。それはある程度日本でも分かるよね。そういう有名な団体とかさ。

中谷:日本の状況をきっちりと海外に知らせることで、日本とはなにか。日本の近代とはなにかということを知らせたかったという思いもあったんですか。

川添:知らせたかったというより、日本の建築ジャーナリズムを支配できると思った。

中村:それが本音よ。

中谷:逆輸入でまたという……

川添:この人(中村氏)がそういうのの専門だけどさ。むこうからも作品を送ってくると思うんだよ。建築家もね。そしたらぜんぜん取材が楽になるよ、国内はもちろん。それをうまく使えばね。そこまでは言わないけど、それに近いこと言ったら、吉岡(保五郎。当時、新建築社社長)さん顔つき変わっちゃったよ。

鷲田:その後で『新建築』の方を辞めて……

川添:ガラに合わないことやっちゃだめなんだよね。それで『新建築』の社長さんが、にわかに元気になちゃったわけだ。それまでは、もうぼくの言うなりになってさ、適当にやってくれくらいの感じだったのがさ。適当にやってくれって言ったらおかしいけど、任せっきりで楽隠居みたいな感じになってましたよね。それがにわかに元気ついちゃって。英語版が出せる。そういうことなら出せるぞっていう。

中谷:新建築社は『a+u』とか海外向けの雑誌を出すと元気になるんですねえ。やっぱり海外に名が出るっていうのは名誉なんですね。

川添:ぼくはそうじゃないけど、丹下さんなんか目の色変えちゃったからねえ。

中谷:白井晟一(1905−1983)さんすら自ら一緒に会社まわりをしたっていう。

川添:それで「『新建築』いてもしょうがない、ぼくら独立してやろうか」となったときに、だけど、すかさずみんな言うよ、丹下さんと白井さんと「だけど英語版は出せないでしょ」って。だからとんでもないことやっちゃったと思って。

鷲田:そろそろ時間なので、次に世界デザイン会議の話、万博の話、CDIの話等、続きを伺いたいと思います。今日は長い時間ありがとうございました。