文字サイズ : < <  
 

工藤弘子オーラル・ヒストリー 2011年4月10日

東京都北区、工藤弘子自宅にて
インタヴュアー:島敦彦、池上裕子
書き起こし:小野尚子
公開日:2011年11月27日
 

島:今日は、ジャン=ジャック(・ルベル、Jean-Jacques Lebel)さんの作品について哲巳さんがどんなふうに思っておられたかっていうのをちょっと。

工藤:ジャン=ジャックさんと初めて会ったのは、ヴェニスのサン・マルコ広場だったんですけど、その時になんか工藤の《インポ哲学》(1960-61年)の写真を見て、すごく興奮して、この作品は素晴らしいとか言って、一緒に展覧会をやろうということだったんですけど。ジャン=ジャックはそういう新しい作品にはすごく興味を持っていて、例えば同じお友達のエロ(Erró)とかも好きだったようなんですけど。彼自身も作家で絵を描いているんですけど、展覧会のオーガナイズをするのも好きで、ビエンナーレから帰ってきて、パリで今度は冬になってから「レイモン・コルディエ画廊(Galerie Raymond Cordier)という所で展覧会をやるからそれに一緒に参加してくれ」って来たんですね。で、その時初めてジャン・ジャックの作品を見たんですけど。元々レイモン・コルディエ画廊っていうのは、何て言うのか、シュルレアリスム系統の作家の展覧会をやっている画廊だったんです。そして初めてジャン=ジャックの作品を見たら、やっぱり昔のパリっていうか、ヨーロッパの作家のような感じだったので、工藤がちょっとびっくりしたようですけど。

池上:それはどういう? 立体の作品ですか。

工藤:立体っていうよりはコラージュが多かったですね。

島:ジャン=ジャック・ルベルさん自身も、『美術手帖』に大コラージュ展を企画したというようなことが書いてありますね。そうするとやっぱりピカソとかブラックとか、20世紀初頭の実験の延長上の作品で、どちらかというとオーソドックスな前衛というか、そういう流れを汲んでたんですね。多分シュルレアリストなりダダイズムの作家達と交流があったので、作品はそうなってしまってた。ただ意識としては、もっと過激なこと、これまでの体制に反発して、もっと新しいことをやりたいという気持ちは強かったんですね。

工藤:そうですね。

島:弘子さん、哲巳さんの目で見ると、それが明らかにヨーロッパの伝統につながっているように見えて、違和感がすごくあったんだろうと思いますね。

池上:哲巳さんはそれについて、ジャン=ジャック・ルベルに何か言ったりされたんでしょうか。

工藤:工藤の作品についてですか。

池上:いえ、ジャン=ジャックさんの作品について。

島:哲巳さんが「あなたの作品がこういうところが」とか、直接的には…… 

工藤:いいえ、そういうことはあまり(笑)。

池上:直接は言われなかったけれども、ちょっと違和感が。

工藤:そうですね。

島:少し気になったというところで。

工藤:他の作家の友達でも、その作品自体の評論や感想っていうのは、あまり言わないみたいですね、お互いに。私も何も言ったことはないです。工藤の作品に対して。ただ要するに素人として面白いと感じたら「これ面白いわね」とか、そういうことは言いましたけど、ここがどうとか、この色がどうとか、そういうことは一切言ったことはありません。

池上:哲巳さんが他の作家に対して、「あの人の作品はこうだね」っていうような評を弘子さんに伝えられるようなことは。

工藤:そういうことは時々。それから全くその作家とは関係のない方とのお話を聞いてて、「ああこういう風に感じているのかな」っていうことは分かったりしたけど。 

島:そうですね。哲巳さんの文章を読んでると、作った作品っていうのは、一つのコミュニケーションの道具であるってことを言われたり。それからなんだろう、いろんな解釈を誘発すると言うのかな。例えば西洋人だったらこんな風にきっと反発するだろうとか、あるいは日本人だとこれはきっと理解できないだろうとか、けっこうその辺りを戦略的に考えて作られてたなぁという感じが文章の中からもよく分かるんですね。ですから、昨日もお聞きした「インポ哲学」っていう言葉にしても、これは80年代に入ってからの文章ですけども、西洋の人、「フランスの人は失われつつあるヒューマニズムに対する抗議だっていう風に解釈する」という風なことが書いてあって。だけど日本人はちょっとまた違う感覚で捉えたんじゃないかなと思うんで。

工藤:そうですね。

島:ですから昨日弘子さんも「インポ哲学」って何だろうって問われると、弘子さん自身も一つの答えでは答えきれないし。僕もなかなかそういう意味では、すぐには答えられないってところがあって。

工藤:ヨーロッパの人は、何て言うのか、さっきもちょっと出てきましたけど、伝統にわりとしがみついてて、そこから抜け出すのが大変みたい。そういう意味でむこうの人は、人間性とか何かを失うのを恐れてるようなところの方が多いんですけど。工藤はむしろその反対で、もっとそういうところから抜けきった方がいいというつもりで言ってるみたいなんですけど。

池上:じゃあかなりラディカルな問いかけというか。

島:そうですね。

工藤:だからあの頃、むこうに私たちが行った頃に、日本ではインスタント食品とか、そういうものがどんどん出て来た頃で。そういうことをすぐには受け付けないのがヨーロッパの人たちなんですよね。だからそういうところを挑発して、「もっとこういう風になったらいいんじゃないか」っていうようなことを言いたかったようなんですけど。

島:それで出てきた作品が《インスタント・スパーム》というような作品になってるわけですね。

工藤:そうですね。あとは真空包装ですか、いつまでも鮮度を保つために真空包装して。

島:真空パックになってるやつですね。

工藤:そういうのも、読売アンデパンダン展に出した《インポ分布図》の中で、作家の写真をプラスチックの中にこう入れて……

島:封印をして。

工藤:ええ、封印をして。それも真空パックの包装と似たような。

島:じゃあ《インポ分布図》の中で、床に垂れ下がって中に行って、ビニールに包まれているのっていうのも、そういう発想で。それがフランスへ行かれてからもつながっていったわけですね。

工藤:そうですね。

島:それでその時に人型がサンドイッチされて。60年半ばですよね、《ホモ・サピエンス》。

工藤:ええ。《ホモ・サピエンス》というような。

島:それこそ人類の、何て言うんだろう、抜け殻みたいなものがここにサンドイッチされて、保存されているような。

工藤:標本のような感じですね。

島:標本のようになっている感じですね。これをフランス人とかヨーロッパの人が見ると、「原爆の悲惨な経験をした日本人アーティストによる作品」みたいな解釈が、必ず判を押したように出てきてしまうという。哲巳さんはそういう反応が出るのも承知の上で出している。一方ではそういう日本にある日常的な真空パックみたいな発想をここに盛り込んだっていうものなんですね。  

工藤:だから《インスタント・スパーム》もそうなんですけど、今でこそ精液を保存したりしますよね、冷凍にして。そういうのと同じだったわけです。すごくおかしかったのは、《インスタント・スパーム》というのを作って、みんなに渡すハプニングがあったんですけど、その時はコンドームの中に、精液に見えるように、ヨーグルトとなんかウォッカのようなものを混ぜたりして入れてあるわけです。自分ではそれをこうやって飲んだりするようなハプニングもあったんですけど、あるハプニングに来てその《インスタント・スパーム》をもらった人が、本物の精液が入っていると勘違いしたみたいで(笑)。「これはどうやって保存すればいいのか、冷蔵庫に入れておけばいいんでしょうか」っていう質問が来たりして、びっくりしたことがあるんですね。 

池上:保存しようと思ったんですね、その人は(笑)。

工藤:みたいですね。

島:飲むのはちょっと怖いし。

池上:おかしいですね(笑)。

島:あと、これは哲巳さん自身もよくおっしゃっておられますが、パリへ行く理由と言うのは、かつては日本の画家たちがみな芸術の都であるパリに勉強に行くんだという、そういう態度だったと。ところが、行かれる前からもう、ヨーロッパから学ぶことは全くないということを断言されてましたよね。留学と言うと、一般的にはやはり勉強っていう感覚があるし、むこうの方が本場だという風な、どうしても日本人は少し自己卑下するような感覚があるから、むこうの方が優秀だと思いがちなんだけども。哲巳さんがそういうちょっととんがったところというか、まだ26、7歳でよくそういう風に意識をしたと思うんですが。それはどうですか。

工藤:そうですね、普通はむこうへ行ったら美術館もたくさんあるし、ルーヴルとか印象派美術館とかいろいろあったんですけど、絶対見に行かなかった(笑)。

池上:一度もですか。

工藤:そうですね。

池上:それはすごいですね。

工藤:たまに日本から観光のお客さんが来たりして、案内頼まれたりすることがあるんですけど、そういう時も全部私に押し付けられて。むこうに行って何年ぐらいしてからでしょうか。日本の評論家で岡本(謙次郎)さんがいらしたことがあるんですね。

島:岡本謙次郎ですね。

工藤:ええ。で、その話をして、「工藤は一度もまだ美術館っていうものに行ったことがないんです」って言ったら、「それは酷い」って、印象派美術館に無理に連れて行かれたことがあるんです。その時が初めてなんですね。

池上:何か感想はおっしゃってましたか。

工藤:「うん、いいな」とは言ってましたけど(笑)。別にそこから学ぼうとか、真似をしようとかそういうことではなかった。

島:パリ市立近代美術館の方はパリ・ビエンナーレとか、展覧会があるから関わって。現代美術の展覧会ですしね。

工藤:そうですね。現代美術は画廊なんかでもやってますから、そういうのは見に行ってましたね。

池上:ではルーヴルは一度も行かれなかったんですか。

工藤:行ってないですね。一度母親がずっと後になって来たことがあるんですけど、やはり「もちろんルーヴルは見たい」って言って。その時も私もお付き合いで一緒に行ったんですけど、《モナ・リザ》の前で彼女が感心して言うには、「あぁ絵葉書とそっくりだわ」って言うんです(笑)。それを家に帰ってきて工藤に話したら、「そうだろう、だから絵葉書を買えばそれでいいんだよ」ってそう言っていましたね(笑)。

島:昨日の続きですけども、例の鋸山のモニュメント(《脱皮の記念碑》1969年)を作られてからまたフランスに帰られて、70年にデュッセルドルフのクンストハーレで(「工藤哲巳 放射能による養殖Tetsumi Kudo Cultivation by Radioactivity」展、クンストフェラインKunstverein für die Rheinlande und Westfalen、デュッセルドルフ、1970年4月17日〜7月5日)、それから72年にアムステルダムの市立美術館(「工藤哲巳 環境汚染 養殖 新しいエコロジー あなたの肖像 Tetsumi Kudo Pollution Cultivation New Ecology Your Portrait」ステデリック美術館Stedelijk Museum、アムステルダム、1972年2月25日〜4月9日)ということで。ヨーロッパでこれだけ大きな規模で、回顧展って言いますか、近作展みたいな形で発表されたのは初めてだったんですよね。 

工藤:そうですね。

島:デュッセルドルフのクンストフェラインは、所蔵品はほとんどないと思うんですけどね、あそこは。

工藤:無いですね。

島:そこで発表されて。それぞれ別の企画者の人から声がかかったんですか。その辺りの経緯は。

工藤:デュッセルドルフは、あそこで当時ディレクターって言うか館長さんをされてた(カール=ハインツ・)ヘーリング(Karl-Heinz Hering)っていう方からお話があったんです。前の年ぐらいに、ちょうどニキ・ド・サンファール(Niki de Saint-Phalle)が個展をやってる時に見に行ったらそういう話になって、展覧会を約束して、その後で日本に行って、それで帰ってきてすぐに。それでその時はいろんなコレクターから作品をお借りしたりして、自分の持ってるものも合わせたんですけど、「やっぱり新作を、少し大きいものが無いと困る」って言われて、「じゃあこれから作ろうか」っていうことになって、その時にアトリエを借りてくれたんですね。「ドイツ人の作家のアトリエを貸してくれる」って言われて。「そこで作るように」と言われて、早く作らなければならなかったので、石膏で大きなものを作ることに決めて。その時にセックスの形と鼻、それを全部で3個(《脱皮の記念品−子供たちのための》(1970年))作ったんです。

島:(図録写真を見ながら)これですかね。個展の時ですね。これがボーリングみたいになっていて、ここにセックスの形をしたピンが立っていて、球を転がして子供たちが遊べるようになっているんですね。ライトボックスみたい。

工藤:はい、これはアムステルダムで作って、もうギャラリーのものだったんですけど。あとこの石膏の…… 

島:鼻の形ですね。

工藤:はい、この展覧会のために作ったんです。

島:下にキャスターがついていて、動くんですね。これは白黒写真だけど、カラーで見るとすごくカラフルなんですね。

池上:そうなんですか。

島:今は青森(県立美術館)の方に、寄託のような形でありますね。

工藤:そうですね。

島:一時、パリではご自宅にずっと保管されてたんですね(笑)。でも場所をとるので大変だと言っておられたとね。

工藤:はい、石膏なので重くて。

島:これが当時の最新作と言うか、頼まれてドイツでアトリエを借りて作られたという形ですね。でも、それまでの60年代の作品がほぼ網羅される形で、ここでは展示をされたと。 日本から持って行かれた作品はここには展示されなかったんでしたっけ。

工藤:《インポ分布図》(1961−62年)は部分的に。

島:部分的に使われた。

工藤:はい、使いました。それから今やはり青森(県立美術館)にある作品で、《インポ哲学》(1960-61年)っていうパネルと立体を組み合わせた作品。

島:初期の作品ですね。これもやはり一部を。 

工藤:いえ、これは全部見せました。(フリッツ・)ベヒト(Frits Becht)さんのコレクションに入っていたから。

島:これは文芸春秋画廊で発表されたものですね。

池上:じゃあ本当に初期の。

島:現在青森の県立美術館がコレクションしているものですね。ちょうどベヒトさんのお話が出て来たので、アムステルダムの個展のことも含めてなんですが、ベヒトさんの存在が非常に大きいと思いますけれども、少し出会いからのことをお話し頂けますか。

工藤:出会いは、オランダのハーグで「ニュー・レアリスト」っていう展覧会があった時に出品を依頼されて、その時なんですけど(注:「ニュー・レアリスト Nieuwe Realisten」展、ハーグ市立美術館、1964年6月24日〜8月30日[31日の表記もある])。どうして工藤に出品依頼が来たかと言うと、65年にパリのギャラリーJで初めての個展をやったんですけど、(ピエール・)レスタニー(Pierre Restany)のオーガナイズで(注:「工藤哲巳個展 すべてきっちりと KUDO Rien n’est laissé au hasard」ギャラリーJ、1965年2月26日〜3月25日)。その展覧会を見に来たハーグの美術館のディレクターがいて。いや、もっと前ですね。サン・マリノ・ビエンナーレというところに(注:「第4回国際芸術ビエンナーレ:アンフォルメルを越えて IV Biennale Internationale d’Arte: Oltre l’Informale」、パラッツォ・デル・クルザル(サン・マリノ)、1963年7月7日〜10月7日)…… 

島:出品をされた。

工藤:ええ。それは大きなグループ展なんですけど、それを見に行った時に、工藤の部屋に鍵がかけられていて、この部屋を見たい人は事務所に行って鍵を申し出て、鍵を受け取って、そういう形で見られるっていう。どうしてそんな部屋に入れられたかっていうと、陳列拒否だったんですね。カトリックですから、宗教の人たちが多い国なので、「そういう作品は見せられない」って言われて。「展覧会に招待されたにもかかわらず、そういうのは失礼ではないか」と工藤はものすごい抗議をしたんですけど。そしたら最終的に、そういう一つの部屋を作って、全部ドアも鍵をかけて、「一般の展覧会のように見せるのではなく、見たい人にだけ見せるという形でなら」と言うんで、工藤も妥協をしてそういう形になったんですけど。その展覧会を見てびっくりして、アトリエに訪ねて来たんですね。

島:それは、ハーグ美術館の方が工藤さんの作品に初めて接したときのことですね。

工藤:それで自分のやる「ニュー・レアリスト」展に出品してほしいって言うんで、その時にギャラリーにも行ったのかな。よく分かんない。あのハーグの展覧会は64年……

島:64年ですね、確か。

池上:サン・マリノは1963年です。堂本尚郎さんが金賞をとられた。

工藤:そうなんです。それで「ニュー・レアリスト」展に出すことになった作品が、サイコロが四段重なってる作品で。初めてパリのビエンナーレ(1963年)に出した作品だったんですけど、ハーグにそれを出すことにしたんです。工藤とギャラリーJとはもうコンタクトがあったので、そのディレクターが画廊を通じて出そうとなさったんですけど、その作品が展覧会に来るっていうことを知ったベヒトさんが直接オランダから手紙をくださって、「あの作品がすごく好きだから自分が購入したいんだけど」って言われたんで、びっくりしました。作品が売れるなんていうこと、それまであまりなかったもんだから。その時には美術館からはただ出品の依頼だけが来ていたので、べヒトさんが購入したいって言うのに賛成したんです。「けっこうです」って言ったら、もうすぐにお金が来ちゃったのでこれにもびっくりしたんです。後で美術館にすごく怒られたんですが。「美術館が本当は購入したいと思っていたんだ」って。そういうことも何も聞いてなくて、私達は初めてのことだったし分からなかったんで。そしたらそのコレクターの方は、いつもそういうことをする方だというのを後で知ったんですけど。 

池上:もう直接、作品を。

工藤:美術館が展覧会をオープンする前にもう全部下見に行って、自分の気に入ったものがあると全部とっちゃうみたい。なんか(エドワード・)キーンホルツ(Edward Kienholz)もそういうことがあったらしいです。

島:一般的に美術館が展覧会をやった時は、美術館が第一の優先度が高いんですね。だけど多分その頃、哲巳さんも弘子さんもそういう経験がなかったから(笑)。

工藤:ないからびっくりして。後になってから知ったんですけど、それなら美術館も先にそうおっしゃってくれればいいのに、と私達も思ったんですけど。こちらも聞かなかったし、美術館も言わなかったから。

島:多分美術館とすると、とにかく展覧会をやって、終わる頃までにはお話をしようという気持ちでおられたんでしょうね。

工藤:多分そうだったんだと思う。

島:だけどベヒトさんはいつもそういうやり方で、先にいいものを取っちゃうところがあったから(笑)。

工藤:それで初めて展覧会のオープニングでお会いしたんですね。それからずっとお付き合いが始まって、すごく楽しかったですね。

島:じゃあ63年にパリ・ビエンナーレと、サン・マリノの「アンフォルメルを超えて」っていう展覧会があって。その翌年は「ニュー・レアリスト」展というハーグの美術館で、64年からの長い付き合いになっていると。その後もいろんな展覧会があるたびに、いろいろ声をかけられて、作品を購入しておられたと。

工藤:そうですね。直接アトリエに来て「これがほしい」とか。それからパリで展覧会がある時には必ず来て、やっぱり始まる前に自分で好きなものを真っ先に、「これを買う」ってことを決めて(笑)。とにかくなんでも一番先にとらないと気が済まないっていう感じでしたね。

島:驚いたのは、日本で発表された《インポ分布図》(1961-62年)と《インポ哲学》(1960-61年)のような、日本で発表されたものまで、ベヒトさんがコレクションされたんですね。

工藤:そうですね。

島:これはいつ頃…… 

工藤:それはですね、実を言うと工藤が賞金をもらってパリに行く時に、その作品(《インポ哲学》)はちょっと持てなかったので、立体部分だけ持って行って、2メートル四方くらいあるパネル部分は南画廊に預かって頂いてたんです。何かの時に購入するとか、売ってくださるっていうことがあるかもしれないと期待して置いて行ったんですけど、一向に音沙汰が無くて。すごく困った時にお手紙も書いたんですけど、返事もこなかったんですね。それで鋸山に来た時に、「まだ持ってる、倉庫に入れっぱなしだ」って言うんで、「それなら引き取ります」と引き取って、そしてパリへ持って帰ったんです。

池上:それが今、青森(県立美術館)にある作品。

島:そうですね。《インポ哲学》(1960-61年)です。ですから「インポ哲学」っていう言葉は、この時からはもう。この展覧会の時ですかね。

工藤:正式には、《インポ哲学》とは言ってなかったかもしれませんね。

池上:今はそう呼ばれてる。

島:今はそのようですね。これが60年から61年に作られて発表されたと。

工藤:この展覧会の時に、確か瀧口(修造)さんが。

島:そうですね、テキストを書かれたんですね。

工藤:あの時のカタログには何て書いてあったか覚えてないんですけど。《増殖性連鎖反応》っていうタイトルの作品が多かったですね。

島:多かったですね。それで南画廊から持ちかえって、その後間もなくベヒトさんが「これも買うよ」っていうような。

工藤:そうですね、もうほとんどデュッセルドルフの展覧会(1970年)の直前だったんですね。でもこれはベヒトさんのコレクションに入っていたから、展覧会に貸して頂いて、デュッセルドルフでは完成した形で展示することができたんです。

島:読売アンパンに出したもの(《インポ分布図》、1961-62年)はもう既にパリにあったので、それはもう少し早い段階でベヒトさんの所に行ってたんですね。

池上:当時哲巳さんはギャラリーJと関係があったわけですけど、ギャラリーJがそういう作品の扱いを代行するっていうことではなかったんですか。

工藤:あんまりはっきりしてなかったんですね。

池上:例えばアメリカなんかだと、もうギャラリーがついたら、作家が勝手に売ったりできないっていうのがありますよね。

工藤:そうですね、ちゃんとしたコントラ(contrat、契約)っていうんですか、契約がまだ成立していなかったし、それほど力が無かったんです、ギャラリーJというのは。前衛の、とってもいい作家の展覧会はやるんですけれども、経営っていうか資金があまりなかったみたいで。アメリカのようにきっちりと縛るようなコントラまではやらなかったんですね。

池上:じゃあそういう風に、コレクターが来て直接作品を買って行ったりしても、ギャラリーJとトラブルになったりということはなかった。

工藤:はい。そのコレクターも、自分の方がギャラリーよりも工藤を前に知っていた、と言うわけです。だからなんか個人的なコントラっていうようなことを主張するんですね。画廊はそういうコレクターがついている作家っていうのは、画廊にとってもいいので、やはりちょっと譲ったようなとこがあるんですね。

池上:ベヒトさんからすると、自分の方が先に見出したんだと。

工藤:そうですね。でもその後で工藤がマティアス・フェルス(Galerie Mathias Fels & Cie)っていう画廊と正式にコントラをするんです。そうなると、ベヒトさんでも、買いたい時はギャラリーから買うという形式になりましたけどね。

島:それが67年。その前ですと、アムステルダムのギャラリー20(Galerie 20)とか、エッセンのM. E. テーレン(M. E. Thelen)といった画廊で発表されてますね。でも64年の「ニュー・レアリスト」展以後、ある意味では工藤さんがヨーロッパにデビューしたと言うのかな。わりと活動が広がっていった時期にあたるわけですね。ベヒトさんが買ってくださることで、工藤の仕事は面白いよっていうのも、ベヒトさん自身からも広がる形で多くの方に共有されて行ったというのはありますよね。ベヒトさん以外に興味を持たれた方っていうのは、オランダにはけっこういらっしゃったんですか。

工藤:何人か。ギャラリー20っていうのもそうですけれど、個人のコレクターも何人か。あとデュッセルドルフとか、それからエッセンでもやったので、ドイツにも何人かコレクターがいます。

池上:ベヒトさんがある程度まとまって持っておられたのが、今はこういう風に美術館に入っているというのは、何か経緯があったんでしょうか。

工藤:ベヒトさん自身は1、2年前に亡くなったんですね。その前に、工藤が亡くなった翌年ですか、オランダにあるものだけで追悼展をやってくれたんですけど(注:「工藤哲巳1935-1990 Tetsumi Kudo 1935-1990」ファン・レークム美術館Van Reekum Museum、1991年4月14日〜6月3日、ステデリック美術館Stedelijk Museum、1991年6月29日〜8月25日)。その後で、大阪の国立国際(美術館)で回顧展があるとか、そういうお話なんかがあった頃に、工藤の作品はまとめて日本の美術館が所有した方がいいのではないかという風に考えられたんじゃないかと思うんですね。あの時に国立国際には行かなかったんですけど。

島:そうなんです。ベヒトさんの作品は国立国際には一点もその時は出なかったんですね。多少やり取りは、中村敬治さんとされたようなんですけども。

工藤:そうですね、多分その美術館の予算とか、いろいろおありになったようで。

島:そうですね。多分ベヒトさんのコレクションを全部運ぶとなると、輸送費がかなりかかるということもあったかもしれませんね。

工藤:私はそういう交渉の場は全然分からないので。

島:この時(「工藤哲巳回顧展 異議と創造」国立国際美術館、大阪、1994年10月6日〜11月29日)は結局、パリのギャラリーとポンピドゥー・センターを中心に、代表作だけ含めるということでなんとか構成できたという経緯があります。ただ国際美術館で展覧会が終わった後に、青森の美術館がもう準備を進めてて。

工藤:まだできてなかったんですね。

島:まだできてなかったですね。青森県と、それから岡山県の倉敷市立美術館。岡山が第二の故郷ということもありますので、倉敷でも。あと高松市の美術館。この三つにベヒトさんのコレクションがまとまって入ったんですね、それぞれ。分散してなんですけど。

池上:そういう経緯が。

島:それは、弘子さんは直接的にはタッチされてないんですね。

工藤:私は直接的には関わってなくて。多分ベヒトさんと美術館の間にギャラリーが入ったんではないかと思いますけど、それも私にははっきりしたことは分かってないんです。

島:幸い、ベヒトさんのコレクションは、日本にかなりこれでとどまることができた。

池上:それは良かったですよね。

島:その読売アンパンに出た《インポ分布図》の方は、最終的にはウォーカー・アート・センター(Walker Art Center, Minneapolis)のコレクションに入って。

工藤:あれは結局箱の中に全部分解して入っているので。青森の美術館(青森県立美術館)が言うには、「その箱のままを買っても、どういう風に陳列したらいいか分からない」って言うんです。陳列方法が分かるのは私だけで、当時アンデパンダン展に並べたのでよく分かっているんですけど。それについて具体的にどうしたらいいかということも何も示してくださらないし、美術館は。私も「それじゃあ私がしますから」っていうわけにもいかないし。

池上:なんだかねぇ。

工藤:ええ。それでうやむやになって、青森の美術館は結局買ってなかったんですね。値段の交渉も難しかったみたいで。売り手も買い手もなかなか折り合いがつかず。間に入ったギャラリーも、陳列方法も分からないし。それがウォーカー・アート・センターで展覧会がある時(「Tetsumi Kudo: Garden of Metamorphosis」展、2008年10月18日〜2009年3月22日)に、その時には美術館の方ではっきり「どうしてもあれを陳列したいから」と言うので、私も出かけて陳列の手伝いをしたんです。それで初めてウォーカーで。 

島:再現された。

工藤:ええ、ほとんど同じような形で、読売アンデパンダン展の時に近い形で陳列ができたんです。

池上:じゃあ、青森はちょっともったいないことをされたというか。とにかく購入して弘子さんにお聞きすれば、それで分かったのにという気がしますね。

工藤:そうですね。私が行って陳列するための費用とか、そういうことまで出せないとかいうことを言って。

池上:青森がですか。

工藤:ええ。

池上:なんかそれは枝葉末節なような。もったいないですね。

島:ちょっと話が戻りますけども、デュッセルドルフの個展(1970年)がありまして、すぐ2年後にアムステルダムの美術館で個展ということで、相次いで展覧会があったんですけど、アムステルダムにはまたさらに新しいものも展示されたと。内容的にはデュッセルドルフのものもかなりアムステルダムでも出品されたんでしょうか。 

工藤:そうですね、同じ作品も行ってます。アムステルダムの個展の時には、パリのマティアス・フェルス・ギャラリーが協力をしてくれて、同じ時期にギャラリーでも個展をやる。で、ギャラリーで発表したものを持って行ったわけです。

島:なるほど。

工藤:その時に畑の形式の作品がだいぶ行ったんですね。新しい作品として。デュッセルドルフに出さなかったものが。

島:今はポンピドゥー・センターにコレクションされて、大阪にもウォーカーにも出た一番大きな畑の作品(注:《環境汚染−養殖−新しいエコロジー(接木の花園)》、1971年)はアムステルダムの時に初めて展示されたんですね。

工藤:そうです。

島:アムステルダムではイヨネスコの特別な部屋ですとか、水槽の特別なインスタレーションのようなものもあったようですけども。

工藤:工藤が展示方法として、何々の部屋っていう部屋に名前を付けて、展示をしたようですね。

島:これは哲巳さんから提案されたんですか。それとも美術館の方から、あるいは両方から。

工藤:多分両方じゃないかと思うんです。どういう形の展示方法で展覧会にしようかって、話し合ったと思うんです。その時私がちょうど紅衛が、娘が生まれる直前で行かれなかったんです。工藤は来いって言ったんですけど、私はお医者さんに言ったらもう。

島:出産直前だったんですね。

工藤:そうです。行く途中の汽車の中で生まれるとも限らないから、「それはちょっとやめた方がいい」と言われて。それで良かったんですけど。オープニングの日か、その次の日ぐらいに生まれたんです、パリで。

島:そうですか。オープニングには行けなかったんですね、そうしたら。

工藤:行けなかったんです。

島:会期中にはご覧になられたんですか。

工藤:はい。最後の日に間に合って。もう生まれた後で、子供を籠に入れて。生まれて1か月半ぐらいでしたか。それで最終日っていう日にカメラを持って(笑)。

池上:ちゃんとお仕事もされたんですね、写真を撮るという。

工藤:そうなんです、そのために行ったんです(笑)。 

池上:もう、お休みなしですね。

工藤:子供はもう泣きわめいているのを床に放り出したまんま。

島:まだ首も据わらないような状況ですもんね。

工藤:みんなに「ベイビー、クライング。ベイビー、クライング」って言われて。

池上:でも写真を撮らないといけないという。

工藤:そうなんです。できるだけ一生懸命撮ってきましたけど。

島:そうすると生活環境も、紅衛さんが生まれたということで、これまでと同じようには哲巳さんの仕事を手伝えなくなったんじゃないかと思うんですけど。どういう風に変わられましたか、生活というか、仕事のリズムというか。

工藤:ものすごく怒ってましたね(笑)。

池上:以前のように手伝ってあげられないから。

工藤:そうですね。

島:それでも撮影はやらなきゃいけないから、限られた時間だけども、ギャラリーへ行ったりとか。

工藤:そうですね、やっていました。

島:展示の撮影なんかは、紅衛さんも連れて行かれたりして、続けておられたんですね。

工藤:ええ、展覧会もできるだけ連れて行きました。連れていく以外に仕方がないので。例えばベルギーに行ったことがあるんですが、やっぱり大変でした。ホテルに置いたまま行かなきゃなんないわけですよ、作品の展示やなにかに。一緒に二人で。そうすると、眠っている間は一生懸命寝かしつけて、それで「さあ行こう」と行って。でも帰ってくると、起きてものすごい泣いてるんです。それでホテルの女中さん達が「代わりばんこに一所懸命なだめるんだけど、どうしても泣きやまない」って言うんですね。私が帰ってくるとピタッと泣きやんだんですけど。おかしいのは、一人だけ髪の毛が黒っぽい方がいたそうなんです、女中さんの中に。その人があやした時にだけほんの少し泣きやんだから、「お母さんに似てたんでしょうか」って(笑)。私が行ってちょっと抱き上げると、もうぴったり泣きやむんですね。ベッドの上に寝かしてても、もう怖くて、転げ落ちるといけないと思って、ありったけの布団やなにかを全部ベッド周りに敷いて。私は、子供が生まれてからは前のように工藤の仕事を手伝っていても半分は気もそぞろなんですね。子供のことと分かれちゃって。だからそういうこともきっとあんまり良くなかったんでしょうね、工藤にとっては。「戦力が半分になった」とか言ってましたけど。

池上:でもお子さんの誕生自体は喜ばれたのはないですか。可愛いでしょう。

工藤:ええ、可愛いのは確かなんですけどね。だから私にとっては子供が二人いるみたいで(笑)。すごく機嫌のいい時には、自分の作品の材料として持ってるマテリアルがあるわけですよ、変わったものが。貝殻とかいろんなお魚の小さな模型とか。機嫌のいい時には、「はい、これあげるよー」なんて子供にはあげて。子供は喜んで、パパにもらったと思って大事にして持ってると、自分が作品に使わなきゃならない時に、ひょっと思い出して、「あれを返してくれ」って言うと子供は、自分はもうもらったものだと思うから「嫌」って言って。するともう、「俺のものだ!」って(笑)。

島:兄弟げんかみたい。

池上:子供のけんかのような(笑)。

工藤:そうなんです。「だって自分があげたものじゃないの」って言ったら、全然そういうことは理解できないんですね。「自分の仕事の材料だ」って。「ならあげるって言わなければいいのに」って。きかないんです。そうすると、仕方がないから私が何か違うものを持ってきて、「これあげるからそれちょうだい」っていう風に取り戻して(笑)、工藤に渡すっていうような。

島:そのたびにひと悶着あるんですね。

工藤:そうなんです。

池上:仲を取り持たれるのが大変ですね、間に入って。

工藤:馬鹿みたいですよね。

池上:お子さんの誕生が仕事内容に影響を与えたとか、変化が起きたようなことは特にはございませんでしたか。モチーフとか。

工藤:モチーフ、そうですね…… あるかもしれませんね。一度アル中で病院に入院したことがあるんですけど、その病院から出てきた後は、やっぱり病院にいる間にきっと堪えたんじゃないかと思うんです(笑)。その後で《パラダイス》というようなタイトルの作品を作ったことがあるんですけど、そういうのにはちょっと現れてるような気がしますけど。

島:そうですね、あるいは70年代の半ばぐらいから……

工藤:はい、80年とか。

島:80年にかけて、出てきてますよね、確かに。またちょっと話が相前後しますけども、哲巳さんは初めての個展(「工藤哲巳個展 制作実演」ブランシェ画廊、1957年10月2日〜7日)をブランシェ画廊でされた時からもう「制作実演」と銘打って。後で中村敬治さんと一緒にそれを「ハプニング」と定義づけて、「ハプニング」とか「反芸術」という形で呼んでいたんですけど。ただ実際には、「ハプニング」という言葉とか、あるいは「反芸術」っていうのも、もう少し後になってから流行った言葉なので。最初はやはり多分、ジョルジュ・マチウ(Georges Mathieu)なんかもやっていたように、「制作の実演」という言葉が非常に雰囲気が出ているという感じがするんです。いずれにしても実演という形でやったり、公開制作のような感じでやったりして。その後パリに渡ってからは「ハプニング」と。それから70年代末にはもう「セレモニー」に。80年代は同時代的にも「パフォーマンス」という言葉がわりと一般化してたということで、絶えず身体的な行為をされている。これは、率直にお聞きして、どうして最初からそういうことをされていたのかなって。弘子さんがそばでご覧になっていていかがでしたか。

工藤:そうですね。これは私が思うことなんですけど、初期の実演のような形でしていた頃は、文章を書いたり喋ったりということはあまり得意ではなかったような感じなんですね。それと、みんなが見ても、形の無いものを描いてたりするので、みんなにも何なのかが分からない。自分でも、それをはっきりこうだっていう風に説明するのも難しいので、多分「この描いている過程を見せれば、自分がどういう態度で制作して、どういう風にその作品が出来上がっていくのか、その過程を見せるだけでも、みんなに少しは分かってもらえるんじゃないか」と思ったんじゃないかと思うんです。初めのうちは。

池上:そういう意味では、ちょっと具体の公開制作と最初の動機は似たところがあるかもしれませんね。

工藤:具体もそうだったんですか。

池上:その「見せれば分かってもらえるだろう」というのは、きっとあったんじゃないかと思います。

工藤:なんか工藤は、筆のタッチ、ひとタッチひとタッチが真剣勝負みたいなものだって、初めの頃は…… 

島:書いてありましたね。

工藤:昔の侍が剣を持って戦う時には、ちょっとでも誤ればそれでもう致命傷になることもあるわけですよね。だから筆と剣とを一緒のものと考えて、自分はひとタッチ、ひとタッチ真剣に描いたり置いたりしているっていうつもりらしいんですけど。その態度を見せれば、ある程度…… 

島:伝わるんではないかと。

工藤:ええ、そういう気持ちでやってたんじゃないかと思うんですけど。

島:篠原有司男さんも、「筆は剣」っていう言葉を工藤さんから聞いてて、篠原さんの文章の中に、確か68年ぐらいに出した『前衛の道』(美術出版社、1968年)の中に書いていらっしゃいますね。

工藤:そうですか。だから何一つ無駄にやってはいないって、ただいい加減に置いてるんじゃないんだっていうことのつもりだったんだと思うんです。それが、ヨーロッパに行ってからは、やはり自分の行為が、作品を説明することの一部だと。その時には、絵の具を塗るっていうこと以外に、箱の中に入ったり。よく音を使ったんですね。小鳥の鳴き声とか、あるいはラジオの、何て言うんですか、超音波かしら。

島:ああ、ラジオからこう、ピーピピーと出ているような。

工藤:あるいは株式の、ストック・エクスチェンジって言うんですか。

島:株式相場の、絶えず流れる。

工藤:ずっと同じ調子で言っている、そういうのに合わせて、一つはオレンジ色の箱の中に入っているハプニングなんですけど。「なんとかかんとかで何円安」とか言うのに合わせて、小鳥の鳴き声がピピピと聞こえて、その時にレシートの束をたくさん(持ち込んで)、音に合わせて「トータル」と書いてはポンとのりで貼っていって、だんだんこう長くなっていくような。そういうのをやってましたね。

島:ベビーカーの作品なんかにも、赤ん坊の声がやっぱり音で入ってますよね。

工藤:はい、そうですね。あれは五月革命の影響で、新しい世代っていうものを意識して、ぼろぼろになった皮が乳母車を押してるような。

島:そうですね。

工藤:《若い世代への賛歌——繭は開く》(1968年)は、繭から新しい世代が飛び出すっていう。

島:これは繭から。68年の作品ですね。

工藤:これが古い世代の象徴で、これが新しい世代で、生れてくるっていう。

池上:脳みそのような形を。

島:ええ。これ(《若い世代への賛歌——繭は開く》)が東京都現代美術館に今所蔵されているんですね。なんかこれを引っ張って新宿なんかも。

工藤:そうですね。

島:確か新宿の駅前あたりで。あとはデュッセルドルフでも。

工藤:デュッセルドルフはこれ(《脳みそ》)で、新宿はこっちの繭(《若い世代への賛歌——繭は開く》)でしたね。

島:あ、こっちの方ですね。そうだそうだ。

工藤:ここにもタイトルが書いてあるんですけど、《若い世代への賛歌》って。これは何て言うのかしら、大きなスーパーマーケットの袋なんですね。今でもあるモノプリ(MONOPRIX)っていうパリの。

池上:ああ、ありますね。

工藤:これは私が昔、野球見物に行く時に使っていたパラソルです。ハンカチぐらいの。こんな小さな、日よけに。これもやはり古い世代の象徴の。

島:これは紅衛さんが乗っていたベビーカーではないんですか。

工藤:どっちかがそうですね。

島:どちらかは使われていたものですね。

工藤:ちょっと待ってください。でもこれ60年代。

島:ってことはまだ。

工藤:まだ生まれてなかったですね。

島:そうですね、どちらもじゃあまだですね。

池上:最初はその制作実演っていう、ちょっと見せて、よりよく理解してもらえるようなっていうところから、パフォーマンスなりハプニングなりっていうものが、それ自体が作品化していくっていう流れだったんでしょうか。

工藤:そうですね、作品の一部っていうか。あるいは自分が考えてるアイディアを行為として出しているっていうか。その両方ですね。

島:時々行為をして、その時に使った鳥籠が、その後作品になっていくというようなものもいくつかできていますね。

工藤:ありますね。

島:そういう意味では、単にオープニングの時にただイベントをやるっていうだけではなくて、非常に密接に作品と行為っていうものが関わっていたんですね。

工藤:ええ。

島:さっきちょっとアル中のお話が出たんですけども。最初に入院された頃っていうのは75、6年なんですか。

工藤:いいえ、もっと後です。あれはベルリンから帰ってきてからですから79年から80年にかけてのことですね。

島:病院に入らなきゃいけなくなるくらい、かなり重症というか。

工藤:そうですね。私が見ていても何て言うか、脱水症状のような感じなんです。目をつぶっている時以外は、飲んでいたんですね。朝起きるとビールから始まって、後は夜寝るまで続くんです。それで食べるものはあんまり食べないんで。あまりにも酷かったんで、パリのコレクターの中に精神科のお医者さんがいらして、そのお医者さんに私が相談をしたら、「どうしても病院に行った方がいい」と言われて。ただし、本人が行く気にならなければ、強引に病院に入れるわけにはいかないわけです。だから自分が納得して、自分から行くっていう形にしなきゃいけない。それにはどうしたらいいかっていうことで一生懸命心配して頂いて。たまたまその時に「日本から研修で来ていらっしゃる日本人のお医者さんが自分の病院にいるから、その人に説得してもらおうか」って言われたんです。精神科っていうのはやはり治療する時に言葉を使うので、「フランス語よりは日本語の方がいいと思うからどうですか」って言われたんで、「お願いします」と。慶應病院の方だったんですね。慶應だったらきっといいお医者さんだろうってお願いして、来て頂いて、それで「あなたの状態は、入院しなきゃならない状態だから、奥さんも心配しているから病院に行ってください」って言われて。そのパリの友人で、コレクターであるお医者さんがいろいろ探してくださったんです、ベッドが空いてる所がないかって。でも「考えたら、パリの病院に入ったら抜け出してお酒を飲みに行っちゃうんじゃないか」って(笑)。「だからちょっと郊外の方がいいと思うんで、郊外に決めました」って言われて。そうしたら大変なんです、電車に乗って二時間ぐらいかかって。降りたらまた畑しかないんです、周りは。そこの中に昔の貴族の方がそういう病院を作ったんだそうですね。自分が住んでいた館を。だから病院っていうより、古いお屋敷って言うか、ちょっとお城っぽいような所で。

島:いわゆる普通の病院と違うから、依存症の方とか精神的に障害を持っている人が行く場所なわけですね。だから手術したりとか、そういうような病院じゃないんですね。

工藤:そういうのじゃなくって。「これなら抜け出して飲みに行こうと思っても何もないから大丈夫だ」って言われて、「そうですね」って行ったんですけど。中にも大きなサロンのような広い部屋があって、そこにピンポン台まであって。患者さん達がみんなそれで遊んだりしているような。庭も広くって、きれいなお庭だった。でもさすがにそこにポンと1か月ぐらい入れられた時にはきっと懲りたんだと思うんです(笑)。 

池上:何か月くらいで出てこられたんですか、じゃあ。

工藤:そんなに長くはなかったですね。1、2か月だったと思うんですけれど。

島:その間でも何度かは行かれて。衣類とかそういうことは、弘子さんがやらないといけないですよね。

工藤:そうなんです。まず入院の時にはとるものもとりあえず行って、本当に身の回りのものしかなかったもんですから、私が本人を置いて帰ったわけですよね。そうするともう次の日から頭が混乱してるみたいで(笑)。次の日に「すぐに来い」って言うんですね。それで「何と何を持って来い」っていう風に私に言いつけるんです。言われたとおりに、次の日に大きなボストンバッグに言われたものを詰めて持っていったら、玄関で「今日は来てはいけない」って言うんですよ。会ってはいけないんだそうです、すぐ次の日っていうのは。でも「こういうものを持って来いって言われたので、持ってきたんです」って言ったら、「じゃあその荷物は預かりますから、奥さんは帰ってください」って(笑)。

池上:厳しいですね。

工藤:そうなんです。でもそれはその日だけで。後は時々娘を連れて遊びに行きました。

島:面会は。

工藤:大丈夫。

島:ちゃんとすれば面会はできるわけですよね。

工藤:そうです。それで私とその係のドクターとでお話をして。どういう状態だったかっていうのを聞かれるんですね。それで全部お話をして。ドクターは分かりましたって言って。なんかとっても感じのいい方で。

島:慶應のお医者さんが説得はされて。ただ郊外の病院は、フランス人だけなんですよね。お医者さんはね。

工藤:そうなんです。お医者さんはフランス人だけです。

島:その慶應の研修医の方が一緒にいてくれてたわけではないんですね。

工藤:それはなかったですね。

島:最初のきっかけとして、慶應の研修医でパリにたまたまいらした方が説得にあたって、パリの友人のお医者(コレクター)がそこを紹介して、連れて行かれたということなんですね。

工藤:ええ。ただ退院してきてからは、研修の間はパリにいらっしゃったんで、時々自宅に来てくださったり。それでいろんなお話をして。

池上:入院される前、症状がけっこう酷かった時も制作はずっと続けておられたんですか。

工藤:そうですね、制作はしていたんですけど。見ていても、もう一つの作品を仕上げるまでいかなくて、その前にもう疲れちゃってるんです。なかなか進まないで一つの作品をぐちゃぐちゃとなんか捏ねているっていう感じですね。小さい子が泥遊びしているような感じで。

島:それは79年ぐらいですか。病院に行く前で、なかなか仕上がらないというのは。

工藤:仕上がらないで、もたもたとしている作品がいくつかありましたね。

島:病院へ行かれた時、病院で1、2か月の間、制作は?

工藤:私に「画用紙とパステルを持って来い」って言うんで持ってったんです。そしたら病院の中でも何か描いてたみたいです。私は何を描いたか見てないんですけど。

島:いわゆる鳥籠とかオブジェをそこでは作ってはいなかったんですね。

工藤:作ってはいなかったです、オブジェは。多分その係のお医者様に、お礼としてあげたりしたんじゃないかと思うんですね。

島:ちょっとしたデッサンやなんかを。

工藤:ええ。

島:まあ一応、治ったかどうか別として、最終的にとりあえず戻って来れたわけですね。

工藤:そうですね。

島:それが79年の秋ぐらいになるんですか。

工藤:そうですね、79年とか80年にかかってたでしょうか。それで、制作途中で放り出してあった作品もいくつかあったんですけど、帰って来てからはすぐに仕上げて。それから新しくまた作ったり。それがなんか、がらっと変わって、明るくなった感じでしたね。

島:そういう時は《パラダイス》っていうのも、もちろん更に作られたし、遺伝染色体に関するものもその前後から。

工藤:ええ、そうですね。病院に入る前は、同じ糸の作品でもすごくこんがらがったようなものが多かったんですけど、出てきてからはすっきりした感じで。それで、《ブラックホール・シリーズ》とか、《天皇制の構造》っていうようなのが。
                                                                                                                            
島:出てきたんですね。それまでのペニスだったり、あるいは眼球とか鼻とかそういう体の部分が籠の中に入っているようなものが完全に影をひそめていった。

工藤:ええ、だんだんと。しばらくの間脳みそなんかもあったんですけど。わりとはっきりした感じの作品になってきて。で、日本に20年ぶりで来ることになったんですけど。それがきっかけで、《天皇制の構造》というシリーズを。5年ぐらいはそういう作品でしたね。

島:あるいはパリにいらっしゃる頃から、例えば《天皇制の構造》という言葉とかそういうのはおっしゃっていられましたか。

工藤:あれは一度アル中が治った後で、日本に来た時からですね、そういうタイトルを考え出したの。

池上:それは日本での滞在中に何かきっかけというか、それに関心が向かうようなことがあったんでしょうか。

工藤:じゃないかと思うんですけど。私も子供が夏休みの間は一緒に連れて来て日本にいられたんですけど、私は子供の学校が始まるのに合わせて帰っていたんで、わりと日本に来てからは一人の時間が多かったんですね。それであんまりぴったり一緒でない時もあったので。日本に来た時に、勅使河原宏さんが「展覧会やったらどうかね」って言うことがあって。工藤が旅行する時っていうのは、展覧会をするとかしないにかかわらず、いつも何か必ず持ってて。いつどこでも発表できるように(笑)。それはもう昔からそういうんで。たまたま持ってきてたんです、いくつか。

島:(部屋に置いてあるトランクを指して)あのトランクもそうですか。

工藤:そうです。あのトランクがその作品運ぶための。

島:小さい籠があったりすると、4、5点入るんですね。

工藤:あれも私が買いに行かされて。「なるべく大きなトランクを買って来い」って言われて。そしたらあれ、紙でできてるんですよね。見たところ、いかにも周りに皮かなんかが貼ってあるように見えるんですけど。

島:見えますね。

工藤:あれ絵で描いてあるんです。

池上:紙なんですか。

島:金属でパチってとまっているように見えますね。

工藤:見えるでしょ。

島:丈夫そうに見えますよね。

工藤:糸の縫い目まで描いてあるんですよ。安くって、まあまあ丈夫そうに見えたんで買ったんですけど。多分、移民の人たちが使うトランクだと思うんです。あれすごく気に入って、穴が空いたりしたのをちゃんと自分で繕ってたりするんです。

島:学生運動の時も非常に共感されて、当時の若者たちと関与したいということを盛んに言っておられて。《天皇制の構造》は直接学生運動とは関わりませんけども、そういう政治的な関心については、日頃何かおっしゃっておられましたか。

工藤:あんまり私も聞いていないんです。あちこちで講演をしたみたいですけど、同志社大学とか。そういうのを後になってちょっと読んだりはしましたけど、直接にはあまり。

島:そうですね。

池上:やっぱり天皇制に対する批判的な意識みたいなものをお持ちだったんでしょうか。

工藤:いえ、批判じゃなくてその逆だと思うんです。

池上:そうですか。

工藤:それが別に政治的な意味でじゃなくて…… 

島:むしろ何か科学的な観察っていうのかな。                                                                             

工藤:そうですね。制度って言うんですか。

島:それに対する工藤さんなりの観察の一つの模型として提示されているっていう。

工藤:そうですね。社会構造とか、物理と関係のあるような構造って言うんですか。それを「天皇制」っていう言葉を使うことでやっぱり…… 

島:みんながはっと思うと。それはある意味では「インポ」とつながってるんですよね。

工藤:そうですね。

島:「インポ」という言葉自体にも、何か人をこうドキッとさせる、惹きつける。

工藤:ええ、惹きつけるような、関心を持たせる。

池上:人に「なんだ?」と思わせる。

島:「天皇制」という言葉もみんなが「えっ」と思う。特に日本人の場合は…… 

池上:海外でもそうじゃないですか。何かメッセージがあるんじゃないかと思わせる。

工藤:まずこっちを向かせるっていう。

島:向かせるための一つの要素って言うか。見せる作品も、なんだかこれまでのものとはちょっと雰囲気が変わって。糸巻きでこう巻いて。これ(《二つの軸とコミュニケーション》 Axes Orient et Occident、1980年)は直接「天皇制」って書いていませんけど、こういった形で、見かけ上は美しい糸の絡まった形なんだけども、そこに…… 

工藤:《二つの軸とコミュニケーション》が20年ぶりに帰って来た時に草月で見せたものなんですね(注:「工藤哲巳1977-1981」草月美術館、1981年9月7日〜19日)。

島:そうですね、こちらは《人生カセット》(1981年)というようなタイトルが付いていたりして。そういう意味でも、見かけ上はなんだか美しい筒なんだけど、結構挑発的なタイトルになってたり。あるいはドップラー効果だとかいうように、科学的な用語から引用した言葉を使われたりしてますね。

池上:じゃあ天皇制に関しては本当に対象としてたまたま取り上げて、その構造を分析する対象というような。

島:そういう感じですね。ですから多分「インポ」もそうだけど、インポは人間の体に関わるそういう一つの現象に過ぎないんだけど、その言葉が持っている、何て言うんだろう、一般的な人が感じる違和感とか嫌悪感とかも含めて、みんなを振り向かせる要素っていうのがやっぱりあったということは言えるかもしれませんね。

池上:ただのショックバリューじゃなくって、すごく注意を喚起する力が強いような言葉遣いですよね。 

島:それが単に言葉だけに終わらずに、作品にもそれをどう反映させるかっていう非常に入念に考えて作られたなという感じがしますね。

工藤:そうですね。まず自分でこう振り向かしちゃった以上やっぱり責任があるから(笑)、振り向かしただけではやっぱり済まなくなって、それをどういう風にまた展開して自分の思うつぼにこう嵌めていくかっていうそういう感じですね、何かやり方見てると。

島:今のその、思うつぼってとこですね。

工藤:そんな感じですね。

池上:人にはまってほしいつぼがあるんですね。

工藤:自分自身でも、「どうしたらそういう風になるだろうか」と考えながら作ってるんだろうと思うんです。最初からちゃんとアイディアがあって「はい、これ」っていうんじゃなくて、いったん振り向かしておいて、それも自分にとってはきっと課題なんじゃないかと思うんですね。で、一生懸命、どうしたらその課題をちゃんと…… 

島:形にして。

工藤:で、理論付けられるかとか。作品も一応、ちゃんと美しく見えなきゃなりませんよね。この天皇制の作品になる以前の人の体の部分とか、ちょっと見ると気味悪いものでも、作品になっちゃうと「すごくユーモラスで、それできれいだから不思議だね」ってある人が言って。「部分をこう一つずつ見ると、すごいグロテスクだったり、気味悪かったりするんだけど、作品としてこうなっているとユーモラスだったり奇麗だったりするのはどうしてかしら」なんて言ってくださる方もいるんですけど。

池上:やっぱりいかにそれを作品として、ものとして成立させるかってことにもすごく心を砕いていらっしゃったんですね。

工藤:そうですね、なんか隙が無いって言うか。

島:以前インタビューの中で、「タイトルが一行エッセイになる」ということを、「作品はつけ足りである」っていうことをおっしゃっているんですけど(注:「対話 現代芸術の戦略」(工藤哲巳、中村雄二郎)『現代思想』1981年11月号)。実はそういう言い方にも、「つけ足りに過ぎないんだよ」って言ってるんだけど、実はすごく一生懸命作っておられるっていう。そこがまたみんなを思うつぼにはまらせるのかな(笑)。

工藤:そうかもしれませんね。

池上:言葉も字義通り捉えていいのかっていうところがあるでしょうね、哲巳さんの場合。

島:みんなひっかかっちゃうんですね。一見哲学的で、科学的な思考をみんな考えちゃってね、それに向かって一生懸命解釈しようとすればするほど、つぼにはまっていくような感じですね(笑)。

工藤:そうですね。

島:少し80年代のことをお聞きしますけど、日本に戻られて、パリと東京を行ったり来たりの期間が長くなってきて。以前私が勤めていた富山の県立近代美術館でも展覧会(「第1回現代美術祭−瀧口修造と戦後美術」展、1982年)に出品頂いたり、東京の国立近代美術館(「1960年代−現代美術の転換期」展、1981年)、当時の東京都美術館(「現代美術の動向II 1960年代−多様化への出発−」展、1983年)、それからオックスフォード近代美術館(「再構成・日本の前衛1945-1965 Reconstructions: Avant-garde Art in Japan 1945-1965」展、オックスフォード近代美術館、1985年)、ポンピドゥー・センター(「前衛の日本1910-1970 Japon des avant-gardes 1910-1970」展、1986年)という風に、80年代は、非常に60年代、あるいは戦後の日本の美術を回顧する展覧会が続きまして、工藤さんの仕事も改めて注目されるきっかけになったと思うんですけど。弘子さん自身はパリにいらっしゃる時間が多くて、なかなかこういう展覧会は。まあ、ポンピドゥーのはもちろん間近で見られているんですけども。その時に哲巳さんがそういう展覧会に出品をされてて、印象的な出来事とかあったでしょうか。80年代全般の様子といいますか。

工藤:工藤個人の?

島:ええ、哲巳さんが出品するにあたって、哲巳さんの仕事も振り返られる時期にたまたまなってたのかな。草月展(「工藤哲巳1977-1981」展、1981年)ももちろんありましたけどね。

工藤:そうですね、日本に来るようになってからちょっと傾向が、何て言うんでしょうね、挑発がわりと少なくなってきて、静かに考えるような作品も増えてきたと思うんですけど。それで大作っていうのにはあんまり興味を持たなくなってきました。

島:以前は、いくつかのパーツが繋がりながらも、かなり大きなものが、確かにありましたね。それはアルコール中毒っていうか依存症を克服して、体力的なものとか。 

工藤:ええ、それもありますし。多分こう、大きく広げるようなものよりは、もっと掘り下げるようなものに興味を持ってきたんじゃないかと思うんですけど。年齢のせいもあるし、病気になったことも関係していると思いますけど。

池上:ちょっと内省的な感じになって行かれたんでしょうか。

工藤:そうですね。

島:70年代の後半から既に《危機の中の芸術家の肖像》というタイトルがあって、ご自身の、それまでヨーロッパあるいはフランスの知識人達なんかに向けていた非常に攻撃的な姿勢が結局自分に帰ってくるというね。

工藤:それもありますね。それとあの頃、オイルショックというのがありましたね。

島: 73年からか。

工藤:そうですね、子供が生まれた少し後ですね。それであの時、ちょっとやっぱり美術界が影響を受けて。

島:沈滞した時期が。

工藤:ええ。それまではすごく、美術館なんかが積極的にアーティストを後援するような仕組みがあったんですけど、そういうのが無くなってきて。それからギャラリーも契約制が無くなってきたんですよ。

池上:そうですか。

工藤:ええ、だから急に。それでなくてもアーティストっていうのは、サラリーをもらえるような仕事じゃないので、大変だったところに、そういうことになったんで、そういうことも関係してると思うんです。あの《危機の中のアーティストの肖像》っていうのは。美術館さえアーティストを、英語でその時アメリカ人の作家の人が「feedしてくれなくなった」って言ってた。餌をくれなくなった。今までわりと美術館が買い上げることなんかもあったんですけど、そういうこともなくなったって嘆いている人もいたくらい、その時ちょっと大変でしたね。

島:あと80年代は、以前のハプニングとかセレモニーなどのパフォーマンスもされたんですけど、随分対話とか対談をされて。日本の哲学者とか心理学者とか、河合隼雄さんなんかと、いろんな形で。あと中村雄二郎さんとも随分お話されていて。これもパフォーマンスの延長上にあるものかとは思うんですけど、そういったものへ積極的に関わられた頃のお話というのはなにか。あんまり直接その現場にはいらっしゃらなかったですけど。

工藤:そうなんです、現場にいなかったんですね。でもシンポジウムがありましたね、河合隼雄さんとは。後で文章になったものは読んだんですけど、その場にはいなかったんですが、あれは面白かったようですね。

島:そうですね。読まれてどうでした、後で。

工藤:そうですね、やっぱり心理学をやってる人なので、箱庭の模型っていうことをお話しになってて、私は面白かったと思いましたけども。

島:そのまま続けて、鳥籠の中で編み物とかあやとりというものが出てくるんですが、これはどういうきっかけだったのかなぁと思って。素朴な疑問なんですけどもね。

工藤:そうですね。編み物はやっぱり《危機の中の芸術家の肖像》のあたりによく出てきましたね。

島:普通ですと編み物あやとりというとなんとなく女性、女の子がね。

工藤:女の子とか。編み物っていうのも、あんまり役に立つようなものじゃないと思ってたんじゃないかと思うんです。私が編み物をするの嫌いだったんですね、見てて。

池上:そうなんですか。

工藤:ええ、「くだらないことをやってる」ってよく言われたんですね。私が編んで、途中で失敗してよくほどいてはまた編みなおしたり(笑)。「なんでそんなくだらないことがやっていられるのか」っていうように馬鹿にされてたことがあるんですけど。そういうのを敢えて取り入れるっていうことは、やっぱりアーティストもそんなところがあるんじゃないでしょうか(笑)。 

池上:そういう気がしました。作ってまたご破算にするような、創造行為も同じようなところがありますよね。

工藤:それなのに今度は私に、作品の部分に使うのに、編み物を頼むんです。

島:哲巳さん本人はやらないんですよね。

池上:それはわりと細かく「こういう感じにしてほしい」っていう注文が来るんですか。

工藤:はい、「何センチの幅で何センチの長さの、こういうものを編め」っていうような感じで(笑)。

島:随分カラフルですよね。いろんな糸がいろんな風に絡まって。

池上:きれいですよね。色も指定されて?

工藤:色の付いた糸で編む時にはその色でって言われたし、後から工藤が色を付けたものもありますけど、編んだものに。

島:これ(《危機の中の芸術家の肖像》、1976年)は国際美術館のコレクションですけど、これもそうですね。この辺りも。

工藤:わりと難しいんですよ。最初の編み出しはこの幅で、最後がずっと糸のように細くなるように。

島:確かにそうですね。ここが少し太くてだんだん細くなって、少し尻すぼみになるような感じになってますね。

池上:じゃあもう頭の中にこういう作品にしたいっていうのが既にあって、その部分としてこのパーツをっていうことで。

工藤:そうですね。

島:あやとりってどうなんですかね。あやとりって編み物ともまた違う。もちろんあやとりも編み物も、戻せばなんか一本の糸になってしまうっていうのはありますけど。

工藤:そうですね、あやとりは昔からあった遊びの一つですよね。

島:ですよね、ええ。毎日お家で紅衛さんとやってたわけじゃないですよね(笑)。

工藤:そういうわけでもないんですけど、きっとあれがだんだんと複雑になっていくのに最後にしゅーっと一本の糸にまた戻るっていうのが。

島:それも元の木阿弥みたいな。

工藤:多分そんなものだろうと思うんですけど。あやとりをしてる間はなんか一所懸命考えてるかもしれませんよね。この次にはこういう形とかね。

島:それがちょっと遺伝子とか、そういったものとも絡んでたりとかして、遺伝染色体のこう糸みたいなものも関わってると思うんですけど。そういったものから祈る姿のものが出てきたりしてですね。これもつぼにはまってしまうのかもしれないんだけど(笑)、何かこう宗教的なものとか、そういったものに関心を感じてしまうお客さんもいたりするんじゃないかと思うんですが。そういう内省的な感覚で作品を作っていくっていうのは、結果的にそういう精神的な深い部分につながるような、見かけ上そういう風になっていったのかなぁとも思うんですけど。それはご覧になっていてどうでしたか。

工藤:そうですね、多分母親が亡くなったことも重なってると思うんですね。

島:確か74年に亡くなられたんですね。岡山で亡くなられたんですか。

工藤:そうですね。

島:その時はパリからやはり一旦、岡山に帰省というか、戻られて?

工藤:はい。

島:工藤さんが初期には絵画、それからオブジェが中心になってきて、76年には《広島の化石》という版画も珍しく作られて。あれも版画とはいえ手彩色になってたりするんですけど。版画というのはあまりないですけれど、《広島の化石》を作られた時のきっかけとか経緯をちょっとお話頂けたら。

工藤:お友達で、版画の工房を持ってる方がいらしたんですね。

島:それはパリに。

工藤:ええ。それでその人が工藤と一緒に一度仕事をしたいっていうことを言われて、それで考えたんですね。版画をあまりやらなかったっていうのは、版画は自分の表現方法にあんまり合わなかったのかもしれないですね。

島:でもあれは、いわゆる型押しの作品ですよね。そういうのは、その友人の方と相談しながら。

工藤:ええ、何か変わったものを作りたいっていうんで、二人で相談して、どういうものにしようかということになって。「紙を濡らして、デコボコをつけるっていう方法はできるのか」って聞いたら「できる」って言うんですね。それでああいう形になっていったんですけど。

島:あれは確か五点組みで。どれくらい刷られたんですか。

工藤:はっきり覚えてないんですけど(笑)。

島:今だとエディションとかいって。けっこうばらばらで、全部揃ってる美術館があまりないですよね。 

工藤:ええ、無いですよね。やっぱりみんな自分の好きなものを選んじゃうんですね。で、仕方がなくて。

島:広島とのつながりでいいますと、原爆をイメージさせるような仕事が多いんですけれども、これもやはり戦略的に、多分そういうものをイメージするだろうと思いながら作られたのかなと思うんです。そういう見方をきっとするんじゃないだろうかというのも、後付けでお話しされてるところもあるかなという気もするんですけど、原爆についてなんかお話されてることとかあります?

工藤:そうですね、本人は直接原爆に遭ったことはないと思うんですね。ただやはりどういう状態だったかっていうことは、人づてから聞いたり何かを読んだりということで。私にはよく、人間が一瞬にして溶けてしまったのに、その人間の形が影のように壁か何かにさーっと残ってるっていう、それのことを時々言ってましたから、そのことが印象にあったんじゃないかと思うんですね。

島:あとは日本とパリと行き来されてる80年代に、弘前にもアトリエを構えられて。東京藝大へ行かれる前から、もう既に弘前に?

工藤:弘前の方が先ですね。83年からくらいですか、弘前は。

島:そうですか。弘前でも制作をしつつ、日本とパリとを行ったり来たりして、東京でもけっこう展覧会されたりしたんですね。

工藤:多分弘前にアトリエを借りたのは、自分で仕事をすることもあったんですけど、その前に父親の作品が中途半端にどこかに預けられたまんまになってたのを、弘前の博物館(弘前市立博物館)の館長さんが昔工藤の父の教え子だったんで。それで館長さんになられて、先生の作品をまとめて所蔵したいっていうお話と、それから展覧会もやりたいっていうことがあったんで、工藤が全部まとめて美術館に寄贈したんですね、弘前市立博物館に。その仕事もあって、弘前にちょっとアパートを借りました。

島:それは展覧会になったんですね。

工藤:84年ぐらいでしたか。父親は工藤正義っていうんですけど。

島:そうですね。二人展を84年頃に確かされていますね。そういったお父さんの作品の整理と寄贈の手続きだとか含めて、弘前に行かれることが多くなって、それで制作場所もそのついでに確保されてたんですね。その頃作られた作品は、糸で巻いた作品なんかも若干あったり、あとは色紙とか短冊っていうのはまた別でしょうか。

工藤:色紙とか短冊とかは、草月の展覧会(1981年)をやった後で、82年ぐらいにやってますね。

島:あれはかなり集中的に描かれているようにも見えるんですが。

工藤:そうですね。その頃のオブジェがすごく糸を使ったものが多かった。色紙も糸のような細い線を使って描いたのとか、富士山の中のブラックホールとか、そういうものが多かったですね。

島: 83、4年がほんの少しあるぐらいで、ほとんど集中的に色紙・短冊関係は82年に描かれてますね。これは若干美術館もありますけど、ほとんど個人の方が所持されている。

工藤:そうですね、小さいからきっと個人向きだったんでしょうね。

島:そうでしょうね。

池上:1987年に東京藝大の教授に就任されるわけですけれども、これはわりと周りの方からすると驚きだったのかなという気もするんですが。どういう経緯で。 

工藤:本当に、私が一番驚いたと思うんですけど。工藤が日本に一人で来ていた時に、きっとそういうお話があったんでしょうね。それを私は聞いていなくて。工藤がパリにいる時に日本から電話が来て、「この前の東京藝大に来ていただくというお話のお返事を伺いたいんですけど」って。その電話は私が受けたんです。

池上:寝耳に水ですね。

工藤:それで「えっ」て言ったんですね。「えーと、工藤はそういう学校の先生になるっていうことは、あまり好きではないはずなんですけど。それはどういうお話でしょうか」って言ったら、工藤が横から来て、私の話してる受話器をさっと取って、それで一人で返事してるんです(笑)。「あら、いつの間にそんな話が決まったのかしら」って私はその時はびっくりしたんですけど。

池上:受話器を取られて、「行きます」というようなことをおっしゃってるんですか。

工藤:ええ、なんか肯定的な。私にも説明も何もしないんですね。その少し前からちょっとまた体の具合が悪くて、アル中の後5年間くらいは一滴もお酒飲まなかったんですけど、それを過ぎてまた飲み始めて。今度は飲むのと、それから煙草の吸いすぎで「喉がおかしい」って言ってたんです。そしたら癌になってたんですね。初め自分では「食道癌じゃないか」なんて言ってたんですけど、パリでお医者さんに診て頂いたら、食道じゃなくて喉のところって言われたんですね。工藤も相変わらずフランス語が苦手なもんですから、もう前にアル中で入院は懲りてるんです。自分では本当の気持ちは日本で治療したかったんですけど、その診てもらったお医者さんが、「日本で治療したいんだったら自分でさっさと行けばいいんですよ」って。だけどお医者に行くのが嫌いで、日本に行ったりしていても、やっぱり私がいるパリで、一緒に連れてってあげないと病院には行きたがらない。 

島:自発的にはなかなか。

工藤:なかなか行かなくって。それでパリで行ったんですけど。検査した結果、そういうことになって。お医者さんに「日本で治療したいんですけれども、どうしたらいいか」って相談したんです。そしたらお医者さんが「治療はパリ、もしかして手術しなきゃならないという時には、手術は日本ってそういうわけにはいきません」って、「どっちかにはっきり決めなきゃだめ」だって。「治療も手術も、パリならパリ、日本でやるんだったら日本。それでどうしますか」って。もうすぐに決めなきゃいけないっていうことになって、やっぱりパリでやることに決めたんです。ついていかなきゃならないし。手術はしないで済んだんですけど、薬とそれから放射線治療ですか、それで一応おさまったんですね。多分その病気のことがあって、先生の仕事を引き受けたんじゃないかと思うんです。 

池上:引き受けられた時は、病気はもう。

工藤:そうですね、一段落して。お医者さんに「日本で仕事をしてもいいか」って聞いたら、「大丈夫です」って。「定期的に健診しなければならないけども、大丈夫だ」って。そういうことがあったんで、多分経済的なことが一番先に頭に来たんだと思うんです。

池上:藝大の側からすると工藤哲巳さんを呼ぼうというのは、どなたが中心になって決めたのかご存じですか。

工藤:それもよく分からないんですけど、直接電話なんかをくださったのは、何て方でしたっけ。藝大のやっぱり先生で。

島:榎倉さんじゃない?

工藤:榎倉さんじゃなくって。ごめんなさい、私名前を忘れた。名前を言って下されば思い出すけど。前にちょっとオランダにいらしたことがあるっていう方(注:大沼映夫、1974〜2001年東京藝大油画科教員)。

島:田口安男さんではなくて。 

工藤:違います。

島:その前ですね。誰だったろう。読売アンパンなんかにも出しておられましたかね。

工藤:あんまり工藤とは同じような作品ではなくて。もう少しまともな。

島:まともと言うか何というか(笑)。

工藤:油絵を描いてる方。

島:油絵ですね、そうですね。多分油絵を普通に描いてた方ですね。

池上:なんで工藤さんを呼ぼうっていうところも聞いてはいらっしゃらないですか。

工藤:聞いてないです。なんか他に候補者として、草間彌生さんと、中西(夏之)さんとかいろいろ…… 。

島:そういうことがあったんですね。中西さんは結局その後入られましたからね。

工藤:ええ、中西さんその後で入られましたね。高松(次郎)さんも既に教授になっておられましたけど。(注:実際には高松次郎は1972〜74年の2年間、非常勤講師をしていた)

池上:じゃあわりとそういう先端的な仕事をされていて、海外でも活躍されていた方を呼ぼうっていう。

島:そうですね、哲巳さんもちょうど日本にいらっしゃってたし、そういうこともあったかもしれませんね。

工藤:そういう話がどういう風に持ち上がったのかも私は分からなくて。本当にその電話の時はびっくりしたんですけど。多分、自分の体のことと、家族のことを考えて、もう少し安定した生活が必要だと自分で思ったんじゃないかと思うんですね。

池上:実際に教授になられてからは、学生のことですとか、大学のことですとか、何かおっしゃってましたか。

工藤:あんまり。ただ、学生さんには教室で教えるっていうより、一緒に飲みに連れてって、飲み屋さんでお話をしてた方が多かったようなことを聞いていますけど。

島:けっこう関西でも東京でも、今ちょうど専任講師をやっているぐらいの世代の人たちが、哲巳さんの教え子だったりするんですね。たまに工藤哲巳さんの名前を出す時は、「先生でしたよ」って人を時々みかけます。

工藤:そうなんですか。でも私はやっぱり先生に向いているとは思えなかった(笑)。どうしてそんな仕事をする気になったのかなっと思ったんですけど。後から考えたら、もしかしたら、今まで通りの不安定な生活っていうのは、きっと心配だったんじゃないかと思うんです。自分では分かってたかもしれませんね。あんまり長く生きられないって。

島:弘前に行かれたということもあるのかもしれないんですけども、比較的晩年になると、縄文とかあるいは津軽凧とか…… 元々その津軽塗っていうのも、馬鹿塗りとか言われている。

工藤:そうですね。

島:そういう津軽塗にちょっと似てるってわけじゃないんだけども、糸もこう延々こう巻き付けたりとか、非常に表面がきれいだったりする。なにか郷里に根差したような、そういうものと関連するような形での作品をわりとよく見かけるようになったんですけども、それは何か言っておられましたか。 

工藤:津軽の馬鹿塗りっていうのはよく言ってましたけど。塗ってはやすりで削ってまた塗ってっていうような、そういう繰返しを何度も何度もやるっていう。

池上:馬鹿塗りと一般的に呼ばれてるんですか。

工藤:なんかそうみたいですね。

島:ウォーカーでの展示(2008年)には、国際美術館の回顧展にも出品した作品が一点出てますね、確か。

工藤:ああ、筆の作品(《意志の方向に対して直角に現れるもの》、1984年)ですね。

島:筆の作品ですね。この台が津軽塗なんです。そして、ここに筆がこう突き刺さっていて、周りになんか結晶するような感じで、樹脂かなんかが。

工藤:はい。これは自分で樹脂を付けたんじゃなくて、樹脂を使った手で筆を持って色を付けて、また樹脂を使ったりしてるうちに、自然にこういう風になってきちゃうんです。

池上:非常に面白い造形になってますよね。

島:ここに付けたんではなくて、使ってた筆でなっていったんですね。

工藤:何本かこういう筆があるんです。オブジェを作るのに樹脂を使うんですけど、その樹脂の付いた手で筆を持って、使ってるうちに、何年か経つとこういう風に。

池上:本当に、作家活動の軌跡と言うか。

工藤:そんな感じですね。

池上:動きがそのまま残っている感じで、面白いですね。わざわざ意図してできる形じゃない。

工藤:だからこういうのと共通するところがあると思ったのかもしれませんね。

島:全然別の話ですが、菅井汲さんが幅広の筆を使った頃、それをこう筆立てのように立てたオブジェがあって、たまたま見かけたんですよ。「あら、工藤さんみたいなことやってるな」と思って、ちょっと驚いたことがあります。

工藤:そうですか。やっぱり作家っていうのは筆に愛着ありますよね。

島:普通だったら使いきれなくなったら捨ててしまうところだけれども、捨てきれなくって、パレットを作品の一部に使ったりする人もいますしね。そういうことがここにもあったんですね。筆を作るっていうのではなくて、使ったものを造形化していくような。

工藤:そうですね。

島:これもタイトルがまたユニークでしたよね。《意志の方向に対して直角に現れるもの》(1984年)というような。いずれもそのタイトルですよね。

工藤:そうですね。

島:これについて何か聞かれたことがありますか。これも解釈が難しそうですけど。

工藤:そうですね、自分は言わないけど。でも筆ってやっぱりこういう風に使うでしょ。

島:直角に、ああそうですね。

工藤:ところがこれはこういう風に直角にくっついてるじゃないですか。筆はむこうに向かって使うのに。

島:直角にこう。

工藤:全部このデコボコがこっちの方には向いてないですよね。だからすごく、タイトルそのものじゃないかと思うんですけども(笑)。

島:これは大阪の時は3点出品したんですけども、これ以外にもあったんですか。そんなに数があるようには見えないんですけども。

工藤:そうですね、これはどなたか個人のコレクターの方が。

島:中村敬治さんが一つですね。もう一つは…… 

工藤:あんまり数はなかったですね。

島:なかったですね、確かね。弘子さんが一つお持ちだったものと、もう一つは埼玉の個人コレクションですね。一つは京都ですから、これは中村敬治さんですね。あと80年代の細いカラフルな糸を巻いた作品、《二つの軸》であるとか《人生カセット》っていうようなのがあって。でも津軽塗のものとかでも、初期の絵画にもちょっと通じるような。初期のものはわりと点で集合していくような、あるいは増殖していくようなイメージなんですが、どちらかというと抽象的な表現という意味では、初期のものにも通じるのかなあという。

工藤:そうかもしれませんね。

島:意図してそうなったって言うよりも、この作品なんかも、やはり線が絡まっていくというようなね。

池上:イメージ的に回帰というか、繋がっていっているような感じがしますね。

島:ちょっと戻るんですけど、この作品(《平面循環体に於ける融合反応》、1958-59年)、実はこの前、東京都の現代美術館で改めて拝見して。最初ビニールの紐なのかなと思ったら、中に針金が入っているビニールなんですね。ですから、形がきちっと出るんですね。

工藤:そう。形を作るために針金を自分で入れて。

島:自分で入れたんですね。

工藤:そうです。ビニールの中がこう穴が…… 

島:チューブになってて、ええ。

工藤:チューブのような色の付いたのをこんな束で買ってきて、自分が形をつけて絡ませるのに都合のいいぐらいの長さにカットして。それに合わせて針金を入れて、両端をちょっと出して。それをもう私、朝から晩まで(笑)。

島:やらされた、なるほど。

工藤:針金を入れては切る仕事をさせられて。

島:僕の最初の印象では、なんか軍手だとかそういうようなものを、とにかくぐちゃぐちゃとただくっつけただけなのかと思ってたんですね。でもよく観察すると、いろんな色の緑のものとか、ピンクとか黒とかいろいろあって、正面から見るとそれがいかにも筆で描いてったかのように、空間上に広がって見えるんですね。だからすごくよくできた作品だと思いました。

工藤:私が朝から晩までそれを縁側でやってるのを見て、近所の小さい子に「おばちゃん何の内職してるの」って言われたことがあります(笑)。

池上:確かにちょっと造花づくりのような(笑)。

工藤:そうなんです(笑)。

島:こういうキャンバスの上でやる場合は、絵筆でこういう風に流れるんだけども、こういう、要するに支持体が何もない状況で、流れるように線が見えるためには、その針金を入れないと造形ができないし、それが絡み合っていく雰囲気ってのは作れないっていうのを、この前改めて見てね、驚きました。

工藤:そうですか。

島:裏を見ると、塗ってないとこがいっぱいあるんで、軍手だとか針金だとかもうはっきり分かるんですね。

工藤:ありますね、軍手の白地がそのままだったり。

島:ただ表は完全にちゃんとペイントがしてあって、絵として、というか正面向きの一つのものとして完結していて。軍手というのも分からないですね。

工藤:分からないですね、裏に回らないと。

島:そういう対比がこう…… 

池上:ちゃんと裏表でまた別の様相を見せるんですね。

島:うん、裏表でよくできてて。裏も見ることができるし。そのあたりに関しては、改めて感心してしまったんですよね。これ(《H型基本体に於ける増殖性のパンチ反応》、1961年)もそうですね。これはたわしが入ってるみたいですが。たわしがたくさん入ったものはちょっと紛失してしまったりして、あまり数がもうないんですね、確か。

工藤:だからこの頃は、キャンバスは四角でなきゃならないっていうはずはないっていうことで、だから裏も表も、それから縦も横も、いろんな方角に作ってた頃ですね。

池上:ちょっとこのウォーカーの個展の話をお聞きしましょうか。

島:そうですね。2008年から9年にかけてウォーカー・アート・センターで大規模な回顧展をされて。その際にマイク・ケリー(Mike Kelley)も文章を寄せたり、あるいはポール・マッカーシー(Paul McCarthy)という、これはお二人とも西海岸のアーティストなんですけど、このお二人がかなり早い時期から哲巳さんの仕事に興味を持っていて。数は少ないですけども熱烈なコレクターがアメリカにもおられるということで、そういう反応について、弘子さんとしてはどういう感想を。あるいはウォーカーの展覧会があった時、これまでフランスの美術館とかあるいはそれ以外のヨーロッパの美術館と一緒に展覧会をしてこられたと思うんですが、アメリカの対応と言いますか、あるいは興味の持ち方に対する素朴な感想と言いますかね。なんかおありでしたら。

工藤:あの、やっぱりびっくりしました。その作家ですか。

島:マイク・ケリーとポール・マッカーシー。

工藤:工藤の作品に興味を持っていたっていうこともわりと最近になってから知って(笑)。

池上:全然ご存じではなかったんですか。

工藤:そうですね、パリのギャラリーの人がそういうことを言ってるのは聞いたことがあるんですけど。工藤が生きている間は、全然そういうお話が無かったから。

池上:じゃあ哲巳さんは全然ご存じなかったんですかね。

工藤:もしかしたら何か文章で読んだことはあるかもしれませんけど。

池上:西海岸に行かれたことはなかったわけですね。

島:アメリカは一度もないですね。

池上:結局一度もなかったんですか。

工藤:そうです。全然アメリカから展覧会っていう話はなかったですし、想像もしなかったですけども。

池上:ケリーとマッカーシーの少し前の世代でキーンホルツですとか、ブルース・コナー(Bruce Conner)ですとか、ちょっとこう不気味でグロテスクな感じのアッサンブラージュを作る作家が西海岸は多かったので、その系譜で何か親近感みたいなものを彼らは持ったんじゃないかなと思うんですけど。でも直接の関連が全然ないところで、なんか精神の呼応というか、そういうのを感じられてたっていうのはすごく面白いなと。

工藤:そうですね。で、ヨーロッパって言ったら東海岸に近いですよね。ポップ・アートは東海岸でしょ。

池上:基本的にそうですよね。

工藤:そうですね。パリで初めてポップ・アートを見た時は、すごく面白かったですね。

池上:(イリアナ・)ソナベンド(Ileana Sonnabend)が画廊を開いて。

工藤:ええ、やった時に。初めてなんかこう、新しいものを見たっていう感じで(笑)。それまではそれこそ、さっきお話したジャン=ジャック・ルベルにしても、一所懸命言うことはとっても新しいんですけど。彼自身もポップ・アートがすごい好きなんですよ、ジャン・ジャックなんて。もう率先してソナベンド・ギャラリー(Galerie Ileana Sonnabend)の展覧会を見に行って、すごく興奮してたのを覚えてますけど。私達もパリに来て初めて「あぁ、なんか新しい空気を吸った」っていうような(笑)。

池上:印象に残った展覧会とかございましたか。

工藤:ポップ・アートですか。全部面白かったですね。ポップ・アートも、それからダダですか、(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)とか、そんなのもやってましたし。

島:あとパリだと市立近代美術館が多かったんですか、そういう現代ものは。

工藤:そういうのは近代美術館でもやってませんでしたね。

池上:やっぱりソナベンドですね。

工藤:ソナベンド・ギャラリーが初めて。

池上:ほとんど単独で持ってきたっていう。

工藤:だからポップ・アートの個展は一通りやりましたよね、全部。私は個人的には(アンディ・)ウォーホル(Andy Warhol)が好きだったけど、工藤は(ロイ・)リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)がいいって言ってました。

池上:そうですか、それは面白いですね。

工藤:何が面白いかって言うと、わりとよく言ってたのは、漫画が点々でこう描いてありましたよね。

池上:「ベンデイ・ドット(Ben-Day dots)」っていうやつですよね。

工藤:そうですね、あの作品が一番好きだったみたいですね。

池上:じゃあ西海岸の作家のことも、ほとんどご存じではなかったんでしょうか。画集なんかではご覧になってるかもしれないですけど。

工藤:キーンホルツぐらいですね、知っていたのは。キーンホルツって言ったら、歳も同じぐらいかもっと上ですか。

池上:ちょっと上かもしれないですね(注:キーンホルツは1927年生まれ)。

島:多分このマイク・ケリーもポール・マッカーシーも、出て来たのは80年代後半…… 

池上:作家活動自体はもっと前からやってますけど。

島:活動は70年代からやってるけれども、日本でも紹介されたのは…… 僕は富山で87年にグループ展に出てもらったことがありましたけど。僕らも知っている人は知っていたけども、日本ではそんなには。

池上:ああいうちょっとグロテスク系のものは、入ってくるのが遅かったというか。

工藤:キーンホルツにはベヒトさんのとこでも会ったんですね。

島:コレクションもあるんでしょうね。

工藤:あります。それこそ一部屋使ったなんかすごい古いお家の、お化け屋敷のようなのとか、いくつか持っていました。その後ベルリンで会いましたね、キーンホルツに。

池上:本人にもお会いになって。

工藤:ええ。それでキーンホルツがアムステルダムで個展したでしょ。それからパリでもやったみたいですね、ポンピドゥー・センターで。だからキーンホルツは知ってるんですけど、他の方は知らなかったです。

池上:面白いですよね。画集なんかを見て一方的に、すごく親近感を持っているという。

島:あと昨日も少しお話があった、見る側の変化、あるいは美術館側の、かつては展示拒否とかあって。今でもそれなりの抵抗感を持つ場合もあるかもしれませんけれども、以前に比べるとかなりそういう意味での変化というか、受け止め方がまた変わってきているような感じがしますけども。それはやっぱり実感はされてますか。

工藤:そうですね。今はあまり…… 

島:直接的にね、そういう(拒否されるような)場があまりないから(笑)。

工藤:多分今のこの感じだと、工藤が作ったどの作品でも陳列拒否っていうのはないんじゃないかと思いますね。私達は、前から陳列拒否に遭うのはおかしいって思ったぐらいなんですけど。私達はそんなに変わってないんですが、社会の方が変わったと思いますね。

島:質問としてはだいたいそんな感じですかね。写真とか作品とか見てお聞きするとまたいろいろ、あと何日あっても足りないぐらい。

池上:最後にもし、長年哲巳さんの私的にも制作的にもパートナーとして一緒に過ごされてきて、これは言っておきたいというようなことがもしあれば、ご自由に話して頂ければと思うんですが。

工藤:そんなに急に言われても(笑)。

島:言われても困りますよね(笑)。

工藤:分かんないですね。ちょっと思い出すかもしれませんけど。今すぐには。

島:逆に僕がご質問したいのは、哲巳さんわがままだったと思うんですね、かなり。別にその好き嫌いっていうのはなくてもね、よくついて行かれたなと思うんです(笑)。ちょっとそこがね、なんて言うんだろう、制作ももちろん一緒にやり、一方で撮影もして、作品の整理をしてリストも作って。紅衛さんが生まれた時はね、けっこうなかなかそこは整理しきれなかったと思うんですけど。

工藤:まあ時々そういうことを言われるし、娘にも「どうしてあんな男と結婚したのか」って聞かれたことがあるんですけど(笑)。そうですね、何て言うのかしら、好きとか嫌いとか惚れたとかそういうことを抜きにして、なにか一生懸命やっているんで、手伝わざるを得ないっていうか(笑)。なんかそういう気持ちで今まで来ちゃったっていう感じですね。

島:確かに僕も何度もお会いしてそういう感じがしました(笑)。

池上:今もそれは続いている感じですか。

島:やむにやまれぬ感じですよね。

工藤:そうなんですよね。それで、何も整理をしなくてそのまま急にいなくなっちゃったので、今度は私が後片付けに追われてて、別にやらなくてもいいかもしれないんだけども、他にやる人がいないみたいで。それが今気になってて。「やんなきゃいけない」ってどうして思っちゃうんだろうって。よく真面目な方でいらっしゃいますよね、自分でもってこれはしなきゃいけないって、宿題のような形で一所懸命やる方がいるけど。私は怠け者なんで(笑)。でも、やんなきゃいけないような気になるのはどうしてなのか分からないんですけど。 

池上:最後に一つ謎ですね。

島:僕も富山の県立近代美術館にいる時に、一度だけ哲巳さんにお会いしたことがあるんですね。それがちょうどアルコールがもう抜けた82年。「瀧口修造と戦後美術」っていう展覧会に出品して頂いたんですね。で、作品の確認か何かでちょっとふらっと急に訪ねて来られてね。誰もいなくて、僕しかいなくて、館長室にご案内して。ネクタイ締めてすごく紳士的なんで、とにかく過激で挑発的で、議論好きで、そういうイメージとあのスキンヘッドのちょっと怖い風貌とかだったんで、「どんな人かな」と思ってたら、すごくちゃんとしてて。お話の仕方もすごく温厚で、何一つ危険を感じるところがないお方だった。なおかつその時出品してたのが、初期の結び目の作品だったり、80年に入って糸で巻いたりとかする、あまりおどろおどろしくないタイプのものだったんですね。そういうこともあったのかもしれないけど。そのあたりから出発して、その後僕は直接工藤さんの展覧会をやるってことは全くなかったんですね。展覧会はギャラリー16で見たり、東京のギャラリーでもいろいろ見てて、たまたま大阪に移って、中村敬治さんに「島くん、工藤展手伝ってよ」って言われて、急遽僕は途中から参加して。それでパリの工藤さんのお宅にお邪魔して、あの時は4、5日、毎日お宅にお邪魔して、資料の整理をして。

工藤:すごくお世話になって。

島:それでなんとかこれ(回顧展の図録)が。

工藤:でもびっくりしました、島さんがすごく早く資料を…… 

島:いえいえ、僕一人では全部できませんけど。いろんな人に手伝ってもらいながら。

工藤:もうあの時はごった返していましたもんね。

池上:島さんがそういう形で続けておられるわけで。

島:なんかご縁ができてしまって、僕も「なぜかなぁ」みたいな(笑)。

池上:巻きこまれて、やらざるをえない状況になっているっていう(笑)。

島:その後日本に戻ってこられてから、時々ご連絡を頂いて、「資料をどうしましょう」っていうんで悩んでおられたんで、最初は僕もどうしていいのかなぁと。僕の手にもちょっと余るし、最初は六本木の方(国立新美術館)でアーカイヴを作ったらどうかって。弘子さんは東京だし、東京の人がやっぱり日頃、毎日のように来て整理をしたり、場合によってはそれをそのまま美術館に持っていって、ちょっと広いスペースで整理すれば、早くいろんなこともできるし。絶対それが良いって思って言ったのに、全然(笑)。

池上:そういうことにはならず。

工藤:じゃあ、あそこの美術館は、アーカイヴを作るようなスペースはあるわけですか。

島:いや、スペースはないんですけど、そういうのを作ったらどうかと。無理やりでもね、狭くてもいいからそういうスペースを作って。

池上:その気になればスペースだって作れると思いますけどね。あんなに大きいんだから。

島:どっか一角に作ればね、できないわけないんでしょう。

工藤:やはりやる気がないんでしょうね。

池上:そこに回す予算がないんでしょうね。

島:あと人手でしょうね。それに関する人手がやっぱりなかなか確保できないんで。もしそういうアーカイヴ担当っていうので、例えば3人とか専従の人ができてくれば、ある程度はできるでしょうけども。だから今はなんとか国際美術館で引き受けられる限りのことは引き受けて、まず展覧会やるってことを一つ目標にして、そういうことでいろんなものが進行しますのでね。

工藤:そうですね。

島:今はカタログ・レゾネまではいかないんだけど、ここにあるものとか、イタリアにある資料とかを全部整理していますので。ある程度まとまったら、一度また整理したものでお見せできると思います。

池上:まだまだ哲巳さんに巻きこまれる方が続くということで(笑)。

島:まだ僕も美術館には最低5年はいますので、その間にはできる限りのことはしていきたい。

工藤:私もだんだん歳をとってきちゃったので。周りの今まで知っている方がどんどんね、中原(佑介)さんも亡くなっちゃったし。誰もいなくなっちゃって。それで今度は自分の番な訳ですよ、もう。だから生きている間にもう少し片付けなきゃいけないんじゃないかって、焦っちゃってるような感じですね。こんな地震なんかあるとね、なおさら「あらどうしよう」っていう感じで。すごくストレスになってきてます(笑)。

池上:でも本当に、今回は長い間お話を聞かせて頂いて。

工藤:こちらこそお世話になりました。

島:なかなか、改めて聞く機会ってけっこうないもんね。

池上:お仕事をまとめていく中に、このインタヴューも加えさせて頂ければと思います。本当にありがとうございました。

島:良かった。本当にありがとうございました。