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李禹煥オーラル・ヒストリー 2008年12月19日

鎌倉市二階堂、李禹煥自宅にて
インタヴュアー:中井康之、加治屋健司
書き起こし:友枝望
公開日:2009年7月20日
 

中井:昨日も少し話が出ていたと思うんですけども、1968年の10月の須磨離宮公園で初めて行われた野外彫刻展(第一回現代彫刻展)で、関根伸夫さんが《位相−大地》という作品を作られた。読ませていただいた記録等によると、そのことを関根さん自身から電話で聞いて、実際にご覧になられたんでしょうか。

李:あれが出来て、そんなに経たない、1週間ぐらいたったときかな、僕が行ったのは。僕は2度行きましたけど。

中井:そうですか。

李:もちろん現場では関根さんには会ってないんです。やっている時に行こうと思ったんですが、その時に僕はアルバイトか何かで時間が作れなくて。オープンしてしばらく経った頃、行ったんです。話は聞いていたし、もちろん、どこかに写真が載っていたと思うんだけども、写真ではよく分からなかったんですね。電話でいろいろ聞いていたから、そうかなと思って。でもそれはその当時、そんなに話題にはなってなかったんですよ。

中井:そうですね。

李:僕はやたらと書きまくったというか、僕自身個人的に非常にびっくりして、興奮して書いたんです。みんなは、そんなにはピンと来なかったみたい。実際関わった、関根さんだとか小清水さんとか吉田さんからも話を何べんも聞いた。彼らはみんな興奮した。何に興奮したかというと、意味合いとかそういうのではなくて、大地を掘って、スポッと抜いたように立たせて置くということにでした。実際にスポッと抜いてそこに置けるわけないんだけども、理屈の上からしても視覚的にもスポッと抜いて置いたような感じを与えるわけですね。そういうことで、大地と関わるということ。イベントとかパフォーマンスという言葉は後から出てきた。その時はまだハプニングという言葉がよく言われていたんだけど、それを実際に体験したという感じを聞いた。僕はその時に行って見て、僕の想像や考えが、それを見ることによってものすごい変化を起こしたということです。
僕は大学で一応哲学を学んでいて、哲学の中では特に現象学を中心に、ハイデガーだとかニーチェだとかそういうものを勉強したりして、卒論もハイデガーを通したニーチェ論を書いたりしていたわけです。現象学的還元という言葉がありますが、現実を肯定するという考え方が非常に強かったんです。そういうわけで、60年安保とか、社会的なものにも、社会に出てから学校出る前後から、相当現実的なものとの関わりというか社会思想にも関心があった。学校にいる時はマルクス主義とか、そういうものにはそれほど強い関心はなかったんですが、学校を出る前後から、幾つかの読書会を組織したりして毛沢東とか第三世界にも関心を寄せ、そうこうして社会運動にも首を突っ込んだりした。でも積極的にそっちの方で身を立てるということはあまり出来なかった。性に合わないというか。気持ちの一面では、後に表現行為に関心を寄せる時も、その表現が社会的なものとどう関わるのかということはずっと気になっていた。僕は、60年代後半、統一運動に関わったけども、どうしても自分は政治に合わないということで、そこから身を引くというか距離を置くことで、それと同時に美術に非常に積極的になったように思う。

中井:はい。

李:つまり、あるところでも述べたことがあるんですけども、何か心情的には、美術の方が逃避というか逃げ口、逃げ場としてそれを選んだという気持ちがあるんです。だから、本格的に美術をやるとは思ってなかったし、馬鹿にしていた世界だったんだけども、だんだんといろいろな美術関係の友人や知り合いが出来ると同時に、展覧会を積極的に見に歩いた。当時奨学会にいてギャラリー新宿という拠点を通していろいろな人と会ったり、何か作品の真似事のようなこともやってみたりしているうちに、それがだんだん身近に思えて、のめり込んでいくということの中に、少しずつ自分の活路というか、何かそっちの方に道があるかもしれない、ということで美術の方に逃げ道を探した。
そうして後に、僕が非常に興味を持ってやっていたのがトリッキーな仕事だった。そのトリッキーな仕事をやりながらも、どうもこれは、トリッキーということはやはり非常に美的すぎる、美学的すぎて現実とつながりがちょっと弱いんじゃないか、そういう不満があったんですね。トリックそのものは、表現の方法としては実におもしろいけども、何かちょっと自分でやってみても、メビウスの輪を作ったり、いろいろなことをやっても――トリックとレトリックって言葉は直接関係ないんですけども――やはり悪い意味でごまかしという感じを受けたり、それがいまいちしっくりこない。つまり、現実逃避、まさしく現実から逸らして、おもしろい美的なものにおぼれていくという感じだったんです。それが、須磨の関根さんのそれをぱっと見た時に、これはトリックであるかもしれないけど、ある意味では現実なんだと。まさしく、トリックを利用して、トリックから出る、超えるという、一種のコペルニクス的展開ということを感じた。それは多分僕が思想史や哲学をやっていたからだと思うんです。そういうふうに考えを転回するというかひっくり返すことが出来たのは、ちょうどハイデガーの思想の中にも「転回」という思想があって、それがヒントになったと思う。始めは彼は実存というものを打ち出したんだけれども、その時に将来自分の考えがひっくり返るかもしれないということを早くから言っていた。それで後半期になって実存よりは存在の方が大事だという考えに転回するんです。そのようなことを、まさしく考えて、非常に普遍性を感じて、これは単なるトリックではなくて、まさに現実なんだって思った。現実というようなものが一つの表現行為を通して見直されるということ。埋めてしまえば何でもなくなっちゃうし、それを掘ったことによって、その大地がそのように見えるということです。それで、トリックと現実の対比を、いろいろなものから引いたんです。例えば山の上から見ると水平線が丸く見えるとか、湾曲して見えるんだけれども、海を間近にして見たら真っすぐですね。でも、真っすぐ見えるということは実際は嘘であっても、それが現実でもあるわけでしょう。海を曲げて描くということは、トリックのようだけれども、現実でもあるんだと。そういう現実とトリックというものの関係に気が付いて、ああ、作品行為というのは、意外と政治的なものだということが分かった。それで僕はすごく気が楽になったんですね。

中井:はい。

李:表現行為というものは決して逃避の場ではなくて、もろに政治を持ち込まない、社会的ないろいろなものに引っ掛けなくても、表現行為そのものはもっとおもしろい、もっと次元の高い政治性というか、普遍性を持ったものになると思えてきた。そのきっかけを与えてくれたのが、関根の《位相−大地》だったんです。もちろんその前に、彼のいろいろな作品、「トリックス・アンド・ヴィジョン」展の東京画廊とか村松画廊であった時の、あの湾曲したベニヤのものだとかを見ていますし、そこから影響を受けて僕も似たような作品を作るんです。半湾曲のベニヤが色付けによって円型に見えるということはやはり面白い。それを写真で撮ると、本当丸く見えちゃうんですね。錯視現象で丸く見える。それは完全にもう本当にトリックそのものの世界だけど、それが《位相−大地》は現実と結びついた中で行ったから、すごいと思ったんですね。多分本人自身もそこまでなるとは思わなかったと思う。それで僕がワーワーギャーギャー言うことで、彼も始め半信半疑でその考えはおもしろいとか言っていたけど、それをきっかけに急激にものすごく親しくなったということはたしかです。僕は、なぜあんなに必死になって書いたかということはいろいろ難しい問題もあるんですけども、後々から考えてみると、そのトリックは美学の問題を超えて、これは対社会学的な問題にも繋がるんだということです。だから自分にとって、それは現実からそっぽを向いて逃げ込む世界ではなくて、正しくそのものが、もっと大きい意味での表現行為、政治性やあらゆるものをひっくるめた行為になりうるという。それが自分に納得出来たから、ものすごい必死になったんだろうと思うんです。それで、トリックとトリックならざるものとの関連、トリックはどこまでも方法の問題だというように規定というか限定づけることがあった。それで、僕は何回も関根のあの作品について書くにあたって、人から馬鹿にされたり、皮肉られたりいろいろなことがありました。何でそんなにそれにこだわるのかと。僕もよくは分からないんだけども、作品が目に焼き付いて、現実が全部、《位相−大地》のように見えちゃうんですね(笑)。本当におかしな話ですけども。視覚の見方というのはさまざまあるんだと。そのちょっと後かな、中原さんの『見ることの神話』という本が出るんです。近代的な「見る」ということは、特定な制度によって作られたことであって、必ずしもそれは信用に値しないと。それも、一種の「見るということはトリックだったんだ」ということの指摘といえますね。

中井:はい。

李:そういうことがあって、後に「人間と物質」という、世界から注目をあびる企画、人間と物質の関係を再吟味してみようという大きい展覧会を組むことになったと思う。中原さんも「トリックス・アンド・ヴィジョン」を通して、そういうことがだんだん分かってきたんじゃないんだろうかなって思うんです。僕は全然別な回路だったけれども、そのトリックから現実と非現実というようなものとの関わりを見た時に、やはりその後の僕のタイトルになる「関係」という言葉が大きなウェイトを占める。非現実でもないし現実でもない、またはその両面でもある。その間を、その関係をあらわすもの。僕の『出会いを求めて』の序文の中にも「即」って言葉を書いているんですけども、その「即」という漢字の性格は相互媒介的な接触詞だということです。生きている「andアンド」という媒介項という意味で、それは関係項ということになりうるってことです。「即」という言葉を書いて、その後にずっと関係項という言葉を使うようなことになるんです。ところで60年代後半、日本で全共闘運動が盛んになったり、第二次安保と言われるいろいろな社会運動が盛り上がるわけですけれども、それは、非常に典型的な思想の運動だったというふうにもとれるんです。アメリカで出てきたヒッピーとか、ジーンズのようなものが、世界中を席巻した。それから、フランスの5月革命というのは、68年ですけども、同時期日本で全共闘のようなものが出てくる。全共闘は主に学生たちを指すんだけども、学生のみならず、その当時の吉本隆明だとかいろいろな文化人、知識人たちの自己叛乱みたいなものがあるんですね。

中井:はい。

李:僕は、高橋和巳さんは何度も会ったことがあるんです。山の上ホテルにあの人はずっとこもってました。僕はその時いろいろな用事で、山の上ホテルに行っていて、誰の紹介か、親しくはなかったけど、挨拶していて本当に病んでいるなと思った。あんなに忙しい時にしょっちゅう一人でお茶を飲んだり、ぼーっとしているような姿を見た。それからしばらく経ってから、あの人は死ぬんですけれども。高橋和巳さんの本を僕はずいぶん読んだり、講演にも出かけたりしたこともあったけれど、「我が解体」という言葉が典型的だったですね。自分として従来学んだ知識や、武装していたものを一旦ばらすしかないという。ばらすと結局現実だとかそこにあるものを意味付けできないわけです。それは三島由紀夫も同じことで、全共闘に出かけて、それで講演したりした。そこには僕は行ってないんですけれども、講演録やいろいろなものが残っているわけですね。そういうのを読んだりしてみても、とにかくその従来の規定された仕組みや制度というようなものが、段々おかしくなって、窮屈になって、世界的にもっと自由な空気を求めるようなことがあって、それが日本でも波及したという感じ。そこで後に、もの派といわれるような現象が出てくるんです。トリックからトリックじゃないもの、あるいは、表現がなぜトリックになるかという問題。そのトリックというのは、意味そのものではないし、何かやはりねじれとか、歪曲とか再提示とかいろんなものがそこにあるわけです。
そういうようなものの一番天才的な作家が高松次郎だった。僕は歳は高松さんと同じだったんだけど、彼は当時雲の上の人のようでした。そのようなトリックのものを、彼らは始めは、すごく美学としてやっているように映ったね。美しくやるというきれいごとにうつっていて、それに反発があった。そういうことが一気に崩れながら、意味付けの出来ない側面というものが出てくる。その意味付けの出来ないところで、みんな、ものだとか空間とか、そのなまのものとか、むき出しに転がるという。それこそ物自体になってしまうということです。物自体というのは、意味付けようがないという意味なんですね。 “Ding an sich”というのは、日本語で翻訳すると「物そのもの」とか、「物自体」というけれども、それはそれ自身ということ。それ自身というのは、分からない得体の知れないってことなんですね、カントが言っているのは。ようするにもう、何て言っていいか分からないもの、他者を目の前にするということがあらゆる分野で起こった。高橋和巳さんの「我が解体」に象徴されるように、解体されてみると、もう言いようがないという、言いあてられないという。そういう場面で出てきた様々な現象が、唐十郎たちの演劇であったり、武満(徹)の音楽であったりした。その時一柳(慧)さんが非常に電子音楽でいい仕事をやっていたんです。あとでだんだん彼は、古典的なものに戻っちゃうんですけども。文学では古井(由吉)さんたちの内向の世代の出現。小田切(秀雄)さんという批評家が、「内向の世代」という言葉を付けたんです。小田切さんというのはある面では、社会派的な批評家だった。社会派的な批評家からすると、自分しか分からないことをみんな書いているんじゃないか、という気になる。本当は内面を書いている人たちじゃない。全然。いわゆる「もの派ふうな文学」と言っていいわけで、後に僕は古井さんと親しくなるんです。少し遅れて、中上(健次)だとかいろいろ出てきて、彼らともすごい親しくなるんですが。彼らは本当にぶつ切りというか、ものや位置やいろいろな関係の描写をみんなしだしたりしていた。僕はその当時、文化全体が一種のもの派ふうという感じだったと思う。
もの派という言葉は誰が言ったのか全然分かりません。いつから出来たのか。たぶん69年終わり頃出たんだろうと僕は想像します。僕らがしょっちゅう、関根とか小清水とか菅とか吉田とか、いろいろな人たちがワーワーしていると、「あいつらもの派の連中が」とか、ものすごい皮肉を込めて馬鹿にするようなことで、そう言われていたんです。それがいつ誰がどうしてということは、僕は分かりません。いろいろな説があるんだけども、僕は全く自信がない。それは、どういう意味かというと、当時言われた当事者としてはすごく嫌だったけれども、まともにものが作れない連中、表現が出来ない、絵も描けない、生のものに頼る連中という意味なんですよ。それで結局、作ることを拒否したというようなことで、さんざん僕は批判を受けるわけです。今でも僕は反省しないのは、今になってみれば非常に明らかなわけですね。そんな、のんきにいい気になって作れるわけない。今誰も作らないと言って、誰も非難、否定する人はいないんです。嬉々として作品が簡単に作れるということは、のんきすぎるというか。それは、おかしいというようなことがみんなあったわけですね。さっき言ったように、その典型的な言葉が「我が解体」って言葉にあったし、それから美術の側では、同じ時期に今ちょっと思い出しましたけども、岡田(隆彦)さんとか、写真家たちがインパクトのある雑誌を出していた。えーと……

李美那(以下、美那):宮川淳さん?

李:違う違う。「プロヴォーク」というグループを作って。

美那:中平(卓馬)さんとか。

李:そう。中平と岡田と。

中井:多木(浩二)さん。

李:多木さん。ね。多木さんたちが作った『プロヴォーク』という雑誌でね、「知の構造」とか「知の解体」という言葉を、彼らはしきりに使っていたんですよ。これも高橋和巳さんと同じようなことなんですね。その背景には、もっと早く吉本隆明、谷川雁さんたちの活動とか、そういうものがあって、とにかく、今現実と思われていることが幻想で、それを壊さなきゃならないんだというのが強くあった。それを壊したらどうなるんだという、彼ら革命幻想はもってない。谷川さんは若干ありましたけれども。のちに僕は谷川さんと親しくなるんですが、ある時から、それは幻想だったというようなことを、何べんも言っていた。その後の世代はさらに幻想を持ってない。ただぶち壊すというようなことが、非常に強かったですね。それは、全共闘運動をどう捉えるかという難しい大きな問題もあるけれども、結局はヴィジョンがないんですよ。それで最終的には内ゲバになって、パーになっちゃう。

中井:はい。

李:もの派が、彦坂(尚嘉)とか藤枝晃雄とか峯村敏明とかいろいろな人から、作ることを否定したとか、せっかく日本の戦後、修復しかかった美術史をぶち壊してしまったとか、何がやりたいのか分からない、極めて神秘主義的だとかアルテ・ポ―ヴェラの真似だとか言われた。これは、全部一つも当たらない。当たるとすれば、ぶち壊そうということを感じたならば、それは大いに成功だったということです。本当はぶち壊すことなんか出来なかった。ぶち壊すように映っていたことは、それは良かった。ブツとかモノとかという言葉の背景にはやはり、作ってないというようなことがそこに現れているということです。作ることに対してかなり疑問があった。創造すること、作るということはつまり、現実体制を正当化するということなんです。そういうことに対するかなりアナーキーで反体制的な要素が非常に強かった。作らないままを再提示すること、これは捉えどころがないものだから、いろいろと批判をされることになったと思うんですね。近代的な創造、生産第一主義を拒否するような表現、つまり非表現の表現ということでいろいろ刺激あるものに映ったんだろうと思う。批評家がまともにそれを捉えて論じたり、批判も含めてやったということはほとんどなかった。ほとんど内ゲバみたいなものです。例えば彦坂とか堀(浩哉)さんたちは自主講座で僕を呼んでいたんです。

中井:はい。

李:多摩美自主講座に僕を呼んで、講師を叩くような形にしながら、その講義、講座をこしらえていくというような形だった。僕の書いた『出会いを求めて』というのが70年だか、出たのが。

中井:1971年1月です。

李:71年。「出会いを求めて」という文章はちょっとその前ですね。

中井:はい。

李:『手帖』に載ったのは。

中井:『美術手帖』に載ったのは70年2月ですので、69年中に書かれた。

李:その本を出した田畑書店というのは、青木書店から出た分派で、これは全共闘の拠点のような出版社なわけです。同じところで僕の本、多木さん、刀根康尚さん、彦坂さんの本も出れば、いろいろなものがそこで出たわけです。針生さんの選集も作ったりしたところなんです。その『出会いを求めて』がなぜかかなり売れたんですね。

中井:はい。

李:それはみんな全共闘の、圧倒的に全共闘の人たちが読者だったらしい。それは美術関係じゃない。

中井:そうですか。

李:左がかった一般の学生たちが読んで、よく売れた。後に、建畠(晢)さんだとか、いろいろな人たちも言っている。それは一般の学生たちにとっておもしろい本。美術にとっての問題ではなくて、考え方が刺激的だったとか。出会いというのも、難しい意味は後からくっ付けたものであって。まず、訳の分からないところに出ることというか、よく分からないところに引っ張り込むという、そのよく分からないところやもの、人、知識とか従来の知的なことでくくれるようなものではないところに出ようという意識と思うんです。その当時のことは、語るたびに少しずつはスタンスが違ってくるんですけど。いずれにしても、現実に対する反抗や抵抗というようなものが、新しいヴィジョンを持ってやるよりは、そのヴィジョンがなくて、とりあえずアナーキーな行為、制度を壊した後どうなるかは分からないけれども、意味ではないところまで持っていくという。関根伸夫は「埃を払う」とか言いました。それもまたものすごく誤解を受けたりもするんです。言葉としてはちっとも誤解を受けるようなものではないのに。

中井:はい。

李:「埃を払う」とか、彼の幾つか言葉があるんです。まず、既成の、決められたものではない、無垢かどうか分からないけれども、そういうところに出てみようという。僕は「あるがままをあるがままに」という、これもすごい誤解を受けたことです。これは「かぎ括弧を付ける」ということですね。現実に例えばコップがここに3つあるとすれば、これがこの通りかどうか、とりあえずこれを「あるがまま」ということで再言してみる。こういう括弧付けを帯びると、まわりが再認されるわけです。一種のトリックとして括弧を付けてみるということは再提示の方法なわけです。「あるがままをアルガママに」。だから、始めのあるがままを、ひらがなにして後をカタカナ表記にするとか。「あるがままは何処にあるんだ」というような批判をされたけども。僕の言い足らなさもあるんだけども、その再提示によって現実が鮮やかに映るとか、他者と出会うとか。

中井:はい。

李:宮川さんと僕は個人的にはすごく親しかったけれども、あの人の言い方は、イメージがあってイデアールなんです。イメージ天国のようなところがある。それはおかしいんじゃないかと、よくぶつかったんです。表現はイメージの表出などではなく、現実にかぎ括弧を付けることが表現じゃないかというのが僕の主張でした。そこで僕は「即」とか「関係」とかということになっていくわけです。だから意味を表すとか、意味を与えるというところから極力距離をとるというか、注意を促すという感じです。そこが評判が悪い。「あいつら、物を真面目にまともに作らない。作るというコンテクストをばらしてしまった」という批判を受ける。ある面では、本当にそう映ったのならばそれは本望というか、よかったなと。でも本当にそれが上手く出来たかどうかは、とても怪しいです。怪しいけども、それくらいに一般の人からすると衝撃的だったのかなという気もします。トリックから、トリックじゃないものとトリックであるものとの関係を見せることによって、見ることがどういうものなのか、表現することがどういうものなのか、どんなことがそこに出てくるかということです。もちろんこういう解釈は結構綺麗なので、これは後で出来たことで、その当時このような言い方はしていませんでした。

中井:こちらが聞きたくて用意していたことを、いま李先生にまとめてお話をいただきました。一番最初に戻って申し訳ないんですけど、《位相−大地》を2回先生ごらんになられた。

李:そうですね。

中井:それはもう一度確認をしたいという意味合いがあったんでしょうか。

李:それもあったんですけど、その時に、神戸に僕の友人がいまして、その友人の見舞いに行くがてら、もういっぺん行ったと思うんです。それでついでに見たと思います。

中井:いま先生のお話をお聞きして、僕自身も、《位相−大地》が生まれた経緯というのは、美術だけで見るのではなく、1968年5月革命から始まった世界同時多発的な、どんどん起こっていった反体制的な社会風景というのも十分ありながらの(ものだったと分かりました)。そういうふうに影響された文学とか、先生が『出会いを求めて』という文章に結実するような考えを用意するための周辺状況というのは、ずいぶんあったことにいま改めて思います。同時にその時、特に《位相−大地》に関しては、うまい批評が生まれず、本当に先生自身が《位相−大地》について次から次へと論文を書かれていったということを、いまお話をいただいたんですけども、そのことは実際的にはどのような形でどういうふうにというようなことをもう一度お話いただければと思います。

李:当時、美術批評ではなくて文学の批評の中でも、フランス中心に――ドイツもそうだったけども――「内在批評」批判みたいなものがあった。内在批評というのは、その作品の内側だけに真理があって、作品を分析したり、作品主義というか、作品の中だけに本当の世界があるみたいな。それは純粋バカで外部のない批評だという批判です。

中井:はい。

李:それは閉じられていて、一見自立的に見えるけれども外部がない内面主義でそれは共同体にしか通じないものだということですね。それが後で、構造主義者とか社会主義関係の人たちから批判される。つまり、今から思うと、近代批判の始まりだったわけです。そういうものを僕は早くから読んでいたし、頭にあったので美術の作品の内側だけ、閉じられた空間というのはつまらないという、もどかしさがあった。だから、作品が外との関連があるんだという、内と外との関連があるんだというようなことを、その作品を見て気が付く。それがトリックの内的な構造だけではなくて、それは現実的な構造とつながりがあって、一種の両義性がある。その両義性というようなことを、僕は哲学やっていたから分かったわけです。一般はその当時あまり気が付かなかったと思うんです。非現実的なものの想像力と、現実というようなものは絶えず相互交換するようなものだと考えた。そこへ、ヒントというか、それが自分の目の前に現れた時に、ものすごい、まず自分が救われた気がしたということなんですね。だから、それをしきりに書くと同時に、高松を僕が知った。高松を紹介された。赤瀬川さんと石子さんに連れられて高松の家に行ったんです。それが正確に何年何月だったか今ちょっとあれですけども。高松さんに一回行くだけですぐ親しくなるんです、直ちに。ずっと彼は僕の文章を読んでいたし、僕は彼の作品から影響を受けていましたから。僕が高松論を書いたりして、だいぶ批判的に書いて、後で彼に精神的なダメージを与えることになったと、いろいろな人から言われ反省もしました。それでも個人的には最後まで親友でした。だんだん彼はトリッキーな仕事をやめるんです。

中井:はい。

李:トリッキーな仕事をやめて、もっと構造的な絵を描くとか、空間構成みたいなものをやるとか、むしろ逆にもの派ふうの作品を作るようになるんですね。それでそういうふうになると同時に、高松はだんだん、力が弱まってしまう。従来、本当に雲の上の人に映った人が、現実に近づいてくると同時に、あんまり面白くなくなってしまうということになるんです。これは一人の作家の問題であると同時に、ものの見方によって、人間そのものまでおかしくうつってしまうという、とてもいいサジェストだと思います。
僕は関根の《位相−大地》については、『三彩』に短い文章を書いたり(「存在と無を越えて―関根伸夫論―」(1969年6月))、それから、『ジャパン・インテリア』(「彫刻から非彫刻へ」(1969年10月))だったかな――どこかに控えがありますけど――あっちこっち書いていて、いろいろ書いても上手く行かないわけです。何べんも、もどかしい、上手く、今語るような語り口では上手く出ないんです。ようするに、表現というのが、トリックのような感じでいて、しかも正しく現実である。現実であるかと思えばそれが非現実であるという、そういう両面性を持つということについて、その作品というのは、一つの「あるがままをアルガママに」することだという。そういうことで語ったんだけども、それが上手く伝わらなくて、誤解をどんどん生んでいく。僕もやはり自分の日本語がだめなんだなと思ったり、反省したりしました。

中井:その辺り(《位相―大地》について論述されたこと)がおそらく69年ぐらいに集中して綴られていたと思うんです。その時に菅さんあるいは小清水さんと、石子さんたちと話を重ねられていた。外から話されているところというのは、先ほどの先生の話ですと、69年ぐらいには「彼らはもの派だ」と言われていたような感じなんですね。そういう言葉を聞くと、『美術手帖』のその時の編集者の福住さんは、その時福住さんは編集長ではないんですけども、美術手帖の編集部に何か伝わって、「ものがひらく新しい世界」という、先生方を集めて討論会を誌上に広くというふうなような形になったんだと思うんです。

李:「ものがひらく」というのは、多分福住さんが付けたんだろうと思うんです。

中井:そうですね。先生方が集まって話をすると、とにかく「もの」という言葉がどんどん出てくるので、それがキーワードだと思ったというふうに詳しく福住さんから聞いたことがあるんです。

李:多分そうかも知れません。その時僕は司会をやったんです。司会をやって、それを最後まとめる時に、菅と僕2人が美術出版社に缶詰になって、徹夜でそれを手直ししたり、組み立てたことがあるんです。もちろん、福住さんも一緒になって。最終的には福住さんが自分が責任を負うということで、最後の校正は福住さんなんですけども。その手前では、僕と菅の2人がやった。

中井:はい。

李:討論会はもっと膨大な、勝手にしゃべったわけですから、長いものだったんです。それで後でみんなに了解を取ってOKになったと思う。まとめ方にみんな不満もあったんですよ、その当時。多少は文句もあったりしたんだけども。それでも、その後々まで、そんなに仲悪くならないで、結構しょっちゅうお茶を飲んだり、口喧嘩したりしながらやっていました。僕は、後でアルテ・ポーヴェラの連中とも親しくなったり、シュポール=シュルファスの人たちともみんな友人になった。彼らは喧嘩してお互いに口もきかない。きかなくなったところを僕は自分でヨーロッパに通いながらたくさん見たけども、もの派はそこまではいってなかった。こんなことを言っていいか分からないけども、例えば、菅と小清水は、または榎倉と吉田などはあまりウマの合う仲とはいえなかった。

中井:そうですね。(笑)

李:それぞれの考え方や立場があって内心穏やかじゃない気持ちがあっても、だからといって、展覧会をしないとかそういうことはないし、一緒に外国で大きな展覧会を組んだり旅行したり、しかも一度や二度ではなくて何回もやった。日本国内でも何回もやった。結構みんな、意外とお互いに認め合いながらやってきた。仲間の中で僕は歳は上だったけれども、絶えずみんなをたてることで上手くいくというスタンスがありましたね。だから僕はしゃしゃり出たり、先頭に立つというようなことは、なかったつもりです。ほとんど関根をたてることでこれは上手くいくという感じでやっていた。それで、よく巷では多摩美派とか芸大派とか言うんですが、それは少々オーバーです。はじめ関根さんと親しかったんだけども、それが吉田さんというのがまた関根とものすごく近いんだけども、この人がだんだんと、すごく僕と仲良くなるんですね。それで吉田さんの誘いで僕は鎌倉に引っ越してくることになります。彼らも、みんな小清水に聞いてみると分かるんだけども、榎倉ともけっこう親しかったんです。僕もみんなと連れ立って榎倉の家に遊びに行ったりした。原口が一番若かったんだけれども、よく一緒に歩きました。69年のジャパン・アート・フェスティバルの搬入の時に、その公募展の搬入の時に、日本籍じゃないということで僕はその年は出してなかったけども、それを見に行って、みんな手伝ったりして、僕が批評したりした。「今回は吉田克朗が大賞を取るだろう」とか、「もしかしたら原口が大賞を取るかも知れない」というふうに言っていたら、菅がいて「オレはだめだな、どうも今年は落ちたわ」と言う。落ちたと言った奴が大賞を取って、原口も落選だったし、吉田も落選した。でもその両方落選した作品は、すごく良かったんです。後から見てもやはりのこる作品だった。その当時、みんなやはり一緒で、すごく仲が熱かったんです。高山はいつから一緒だったか記憶がないんですけども、原口の方は一番ちびっこというか、若いんだけども、よく頑張っていた。多摩美だけうんぬんとか、それは外から見た人たちであって、決して、内側ではそんなことはありませんでした。みんなもう喧嘩しいしいしながらでした。例えば、榎倉さんなんかは峯村とうまが合わなくて、峯村さんとのことですごい剣幕になったりするようなことがあったけども。71年のパリ・ビエンナーレの時も榎倉とか小清水だとか成田とか僕はずっと一緒だったわけです。振り返ってみるとみんな本当に仲も良かった。で当時僕たちのたまり場はやはり田村画廊でした。画廊主の山岸信郎さんの存在は忘れられない。

中井:榎倉さん、原口さん、吉田さんに関して、69年12月だと思うんですけど、ジャパン・フェスティバルで一緒だったという、非常に重要なお話を伺えました。

李:搬入の時に僕は行って手伝ったり、みんな一緒に帰りにお茶を飲んだり、わいわいした記憶が鮮明に残っているんですけれど、僕の批評は当たらなかったんですね。

中井:いえいえ。(笑)。そのとき大賞を取った、菅さんの作品というのは。

李:菅さんの作品は、セメントで固めた大きなポール。四角い箱上の木枠に大きなポールを斜めにかけて、ユーモラスに石ころを置いた作品です。

中井:もう既にいわゆるもの派的な作品になり始めていた。

李:もちろんそうです。菅さんの話をすると、彼は嫌がるかもしれないけど、それは絶対嫌がる必要ないと思うのは、彼は68年頃、椿近代画廊で個展をやっているんですよ。彼は自分のいろいろやっていたことを消し去ってしまっている部分があるんですが、その展覧会を僕ははっきり記憶しているんです。それは、完璧にトリッキーな絵画で、ネガポジというか、要するに平面が立体的に見える絵画群でとても面白いものでした。何かものを重ねたり形を重ねているように描いているんだけど、本当は平面なのに立体的に見えるような、そういう絵画だったんですよ。で、そういうトリッキーな仕事をやって、その後の年にシェル賞でも彼は洗濯機だとかイス(を使った作品を作る)。それも僕の記憶では、極めてトリックな仕事なんですね。トリックな仕事で賞を取ったりする。後で、彼はトリックが嫌いになって、それを一切やめてパフォーマンスや状態性の方向に行くんです。はじめは小清水もトリック。みんなね。トリック性が最も少なかったのは吉田ぐらいなものでした。榎倉は一見トリッキーに思えないけども、彼もシュールから出発しているので、壁に油を沈み込ませる仕事など、これもトリックです。みんなトリックから出てきている。そういう一連の時代性というか空気というものがあったんです。トリックからトリックじゃないところへ出て行くという、一見何処にでもありそうな物や状況の光景になってきて、そこにさまざまな解釈の可能性とか、どう見るのかという議論があった。だから純美学的な問題から、美的でもない、何て言っていいか分からないような現象が、作っているのか放置しているのか分からないものが出てくるというところで、もの派という言葉が多分現れたんだろうということだと思う。

中井:今、菅さんの話があったと思うんですけど、『美術手帖』で菅さんと李先生が最後残られて編集してというような話……

李:みんな仲が良いとはいえ、勝手にしゃべり余りに膨大な分量だったので菅と僕は本当にまいりました。2人は可能な限りみんなの意見や立場を生かす形で整理しまとめたつもりです。もちろん福住さんが側にいて絶えず意見を言ったりチェックしましたけれど。

中井:それに象徴されるように、その対談の前だったか後ろだったか、先生の「出会いを求めて」と、あと菅さんも論文(「ものがひらく新しい世界」)を出されていた。李先生がみんなの理論の中心で話をされるということがあり、少し離れたところで菅さんは論理的なところで先生と話をされていた。

李:そうです。その少し前に論文募集で、菅と僕が佳作に入っているんですね(『美術手帖』1969年4月号。菅は桂川青の筆名で入選)。彼は首席佳作で、唐十郎だとかいろいろなものの演劇論を中心にしたもので、それも一種のもの派的な表現なわけです。その時に当選したのは、ポロックの絵画を論じた大久保喬樹という、後に文芸評論家になった人です。すごく綺麗な文章ですけども、僕はそんなにおもしろいと思わなかった。針生さんもそれはおもしろいと思わなかった。針生さんは僕の文章が一番面白かったと選評で書いていました。「事物から存在へ」という文章だったんです。それは、ほとんどハイデガーの影響丸出しだったんですけども。

中井:同じ70年8月に東京国立近代美術館で、「現代美術の断面 1970年8月」展というのを東野さんが表に立ってやっているんですけども、これも本に書いてあるのを読むと、メンバーや内容まで李先生が関わられたということなんですね。

李:いや、それは、たまたまというか。70年の中原さんの企画した国際展に、僕だとか吉田だとか何人か入ってないんですね。それで、どうして入れなかったんだろうということを東野さんが――既にもう東野さんは僕と親しかったんですけども――「お前は何で中原が抜いたんだろうね」とかいろいろ言っていた。東野さんからすると、中原さんが組み立てる「人間と物質」展というのがすごく気になっていて、それに対抗するという気持ちもあったと思うんです。それで、中原さんと東野さんというのは非常に愛憎関係というか、おもしろい関係で、お互いに深く認め合い、親しい仲でありながら、また反発もしたりするようなところを、よくバーやいろいろなところで見かけたり論じたりするような場面にいました。今でも中原さんは、東野さんがヴェネチア・ビエンナーレで成田とか何人か出した作品を、ボソットアート、ボソットという言葉を作ったことについて卓見だったと言っています。

中井:東野さんがですね。

李:ボソットというのはえてして妙な、実におもしろいテーマ、タイトルだと、中原さんが言っている、今でも。一方、東野さんも「人間と物質。新鮮でインパクトの強い展覧会だったね。何か分かったような、分からんようなタイトル。不思議だね」って、ずっと気にしていた。それで、「お前は何で選ばれなかったんだろう」とか、それで選ばれなかった人の名前を数えられたりした。それで、夏、近美が空いているらしいから、何か展覧会を組もうと思うんだけど、何かおもしろい知恵ないかねと言う。そこからずっと僕との話し合いというか、いろいろなことで、その展覧会の枠組みが出来ていく。それ結局70年、「現代美術の一断面 70年8月」展になっていったかな。

中井:はい。

李:具体的なイメージや意味を与えるようなタイトルをやめようと、僕がやめようと言った。

中井:何か抽象的な言葉で。

李:で、ボソットとか、東野さんしきりに言っていたけど、結局それはやはり意味ありげで気に入らないとかいろいろ言っていて、「一断面」に落ち着いたんです。その時にやはり僕のために入れなかった人もいたり、東野さんの意見で入れられたりしたのは、大西清自、田中信太郎とか……。でもやっぱり多摩美出身が多かったんですけども。

中井:関根さんは?

李:その時に関根さんはたしかイタリーに行っていなかったんですよ。

中井:ヴェネチア・ビエンナーレに行って。

李:ビエンナーレに行って。後で彼は、そのままミラノに居座っちゃったか何かでした。実は、ヴェネチア・ビエンナーレに関根はステンレスの鏡面状の柱の上に巨石を乗せた「空想」を出品していて、東野さんはこの作品についてべたぼめの言葉を「一断面」展のカタログに書いています。

中井:あの時は本当に李先生が全面的に展開したというか、美術館の構造に作品が対峙するというか、それこそ関係性を持っていくということを全面的に展開されたわけですよね。

李:僕は少し嫌なぐらいだったけれども、東野さんが僕の場所をゆったりと大きく取ってくれて、僕の作品が一番いっぱい並んだ感じ。

中井:写真から見てもそのように感じます。(笑)

李:壁から鉄板が10枚たたたたーと長く、だらだらとなだれかけるというものだとか、柱を使うものだとか、壁にまた、床に角棒というか枕木のようなものを組み合わせて置いたり、壁に立てかけたものもあった。みんな狭いのに、僕が最も場所をたくさん陣取ったことで、すこしやりすぎだったなって思った。

中井:いえいえ。(笑)

李:そういうこともありました。それはほとんど東野さんの配慮だったんですけど。いずれにしても高松や田中(信太郎)、小清水の仕事はとても良かった。

中井:先ほどの話で少し出ていたんですけど、彦坂さんなんかが先生にずっと食いつかれていて、特に『デザイン批評』の12号で李批判が全面に出ました。それこそ李先生が石子さんに言われて中原さんにくってかかるというふうにして世に出てきたのと同様に、彦坂さんも、前の一番大きい存在をということもあったかもしれません。ただ全面的に先生の批判というか非難だったので、あのときのことを。

李:一つのやり方としては、僕が中原さんにくってかかったということに似ている。やはり彦坂からすると僕が一番うっとおしくって、それで僕をやっつけた方がいいということだったのかなと。後で本人にそういう話を聞いたりもしたんですけども、そうであるとかないとかということを、上手く言えるような感じではなかったみたいです。客観的に見れば、その当時までは、まだまだ日本は非常にある面では健全だった、大きい意味では。僕が中原さんにくってかかるとか、藤枝さんも中原さんのことを批判的に書いたりした。みんな議論したり批判的に書くということは、かなり流行ったんです。

中井:はい。

李:社会全般にそういうことがあったわけです。それから批判しても、非難してぺちゃんこにやっつけるということではなかったんです。全共闘の後半期にさしかかるような頃で、非難合戦みたいなものが、例えば彦坂の議論の進め方のようなものが、繰り広げられるということですね。彦坂のやり方は、今でも僕は腹立つが、これは、本人の前でも、いろいろな人の前でも(言っていますが)、僕は酷く傷つきましたが結果的に僕を強くしてくれたのです。後から――10数年前の話ですが――後から考えると、あなたがそういうふうにでたらめではあっても批判してくれたおかげで、僕はかえって生き延びたかもしれない。日本にそのまま居座らないで、もっと活路を見出そうと思って、ヨーロッパも積極的に出かけるようになったり、自分の理論もそうだけど、いろいろなものをもっともっとセーブするようになったかもしれない。そういう面では、頭にきながらも感謝するというようなこともいったりするまでになったんです。だけども、やはり彼の書き方そのものは、メチャクチャでほとんど当っていない。
その当時、未来派批判みたいなものが、結構流行っていたんです。未来派はテクノロジー万能主義だとか神秘主義的であるとか、未来派はファシズム云々という、そういう見方が強かったんです。そういう理屈と同時に、それはおかしいという反批判もあった。僕は、外の文献にも多少詳しかったから、未来派をそういうふうに見るということは、ナンセンスだということを早くから分かっていた。しかし僕は未来派を参照にした覚えは全然無い。どこをつついても。テクノロジー批判はすることはあっても、テクノロジー万歳を書いたことも全然ない。僕の文章の中には、テクノロジーに対して、ものすごいアレルギーを起こしているようなことを書いたことはある。ところが、どこでどう読み違いをしたのか、僕がテクノロジーを崇拝するみたいに受け取っちゃっているんですね。そしてファシストと言ってみたり、神秘主義と言ってみたり、彦坂はいろいろなことを言っているけども、彼の言いたいことは、実はそんなことではなくせっかく日本の美術が整理されようとするのに、歴史の連続性や正統性、これをぶち壊してしまって、作ることとか表現を破棄してしまったと、そこが彼の言いたいことらしい。ところで僕は近代主義こそが人間のおごり――ファシズムであり、その道筋で作ることを批判しているわけです。近代的な意味で作るというようなことは、もう本当に出来ることなら破棄した方がいいという考えは今でも変わらない。ただ僕自身が近代にどっぷり浸かっている人間なんで、完全に破棄なんか出来るわけないんだけども。とりあえず一つの姿勢というか、一つの方法としては破棄に向かうということです。内面化された歴史をばらすというようなことは、それは要請されることだということにおいては、今でも正しい主張だと思っています。今はもう、誰もがそういう近代という歴史は、終わったんだと言ってる。その時はまだ柄谷行人の『日本近代文学の起源』というのは書かれていないんです。ある面では僕の近代批判は、それに似たような、むしろその後のことのようなものだった。従来決められた特定な視線やスタンスで、物事を無理に繕うというようなことを早くやめようということ。それはどこから出てきたか。李は哲学を勉強して云々ということではなくて、僕は日本人じゃないということと関係します。外から入ってきた、日本人にとって他者なわけです。それで僕にとっての日本人は他者なんですね。他者同士が認め合うためには近代をやめることが要請されるわけです。当時美術界には三人の非日本人がいた。60年代後半、68年頃から僕は、ジョセフ・ラブ(Joseph Love)というアメリカ出身の神父さん批評家と、非常に親しかった。彼は69年の初期からずっと『アート・インターナショナル』だとかいろいろな雑誌に、日本の現代美術について文章を書いていたんです。そして僕のことも一生懸命紹介したり、文章を書いてくれたりした。それと、ヴラスタ・チハーコヴァ(Vlasta Chihakova)というチェコ出身の批評家。彼女もよく発言しました。こういう人たち、外の人たちと私は近かった。その親しくなる理由は、やはり三人とも外の人間だから。外部の人たち同士が日本の美術状況について発言したということ。日本の美術にとって、外の空気が入った時期なんです。

中井:はい。

李:だから僕のみならず、ラブさんが入ったとかチハーコヴァさんがいたとかという、外の空気が入ったことに対して、面白くないという、一部の声をよく聞きました。

中井:はい。

李:ところで70年代半ばから状況は急激に保守化してくるし、もの派現象もしぼんできます。もの派以後に出た若いアーティストたちの多くは形や色彩の華やかなまとまりのある作品を作り出しています。みんな日本帰りするんです。淋派とか日本様式とか、そっちの方に帰っていくんですね。80年代の半ばまでそういう淋派ふうな絵がばーっと流行る。だからもの派の後にみんな修復されちゃうんですね。もの派のような物や空間や身体をぶつけておくとか、壊すとか、むき出しになるという現象からだんだんと意味付けが再びされて、社会的にも日本の政治やいろいろなものも、綺麗に修まってしまう。ものすごい保守化されてしまうということです。
一部でもの派は日本的とか伝統とか言われましたが、これも嘘です。どの人の作品を見ても、もの派に日本伝統を思わせるものはありません。後になって、ちょっと小清水さんの作品に若干、形というか様式性を思わせるようなのもあるけれども、あれは微妙なアイロニーやユーモアやトリッキーな要素で形作られていて、もろに伝統を謳歌するようなものではない。だから僕は全体的に、特に70年代前後のもの派と言われた人たちのものは、歴史の連続性の否定、一種の断絶はあっても、日本帰りとか、ポスト・モダンというのには当らない。これはどちらも全然当てはまりません。ただそれが作ることの不信や様式性に欠けたがためになかなか規定しにくいということは確かね。どこにくっ付けていいか分からない。そこで、歴史の隙間の表情みたいな、非常に怪しいし、不気味だし、危険分子である。それで多方面から、保守的な方からも、あるいは全共闘を支持した人たちの中からも、批判の的になったということです。批判それ自体は、非常にいいことです。何の問題にもならなかったら、そんなものいらない。あれがもっと大きくなったり、もっともっと世界的な視野に、作家たちがどんどん世界の方へ出ていくということになれば良かったんですけども。それは、そう上手くいったとは言いきれない。でも後になって、日本国内よりはどんどん外国でもの派の展覧会が広まるという、それが非常にアイロニーというかおもしろい。
一番早くもの派に注目して文章を書き出したのも、バルバラ・ベルトゥッツィ(Barbara Bertozzi,)というイタリー人であった。その子がローマ大学の現代美術館でもの派展を開くとか、それがきっかけであちこちで、もの派展が広まるようになるんです。だから外の人たちからすると、それは実におもしろい現象に映った。それがおもしろい現象に映ったのは、ただ日本のものに関心があるのではなくて、やはり彼らの背景に、イギリスのアンチ・フォームだとか、フランスのシュポール=シュルファスとか、イタリーのアルテ・ポーヴェラとか、そういうものと軸を一緒にした、似たような現象として、しかもそのようなものとは若干スタンスの違う、むき出しな物的要素と空間的な要素を絡めたりボソッと見せることで、彼らは非常に関心を持ったと思う。アルテ・ポーヴェラは、石炭をそのまま出すとか、ガラス、綿、鉄板を使うとかいっていても、やはりむき出しではなくて、どこかしら、意味論的というか始めから歴史に対する再解釈(があった)。それで、徐々に彼らはメタフィジックの方に還っていくんですね、再び。ルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)とかマリオ・メルツ(Mario Merz)、ジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone)など、アルテ・ポーヴェラの人たちは、最終的にみんな貧しいでもポピュラーでもなく、独特なイメージ、形而上学的な表現になるんです。それに対して、もの派というのは、考えてみると、もともと日本や東アジアに形而上学的な側面というのは薄いわけです。それよりはやはり現象というものに、関心、興味があった。現象学は西洋的な意味も強いけども、こちらは現実を反省的に見直す現象学と言っていい。日本の空間だとか独特な時間の中でものをズラして見る現象学のような側面が強かった。もの派は、直接ものとものを組合わせたり、あるいは、ものと空間を関わらせたりしている。これは、様式性や持続性が弱い。時や場と結びつく場合が多いのでこれを持続化、普遍化として展開していくということは、すごく難儀です。もの派の表現には様式のコンテクストを切ってしまうようなところがあったわけです。それは、一過性のものだとか、その場でしか成立しないものだとか、そういうようなことで、表現論から要求される様式性というものは弱い。歴史の破綻とか、歴史のある歪みの中で出てくるようなこととして見えていても、それを普遍化していく、持続していく、展開していくということが難しい。それで何人もが途中で止めたりした。作家活動とか仕事を変えていくというようなことになるんですね。現象学的な表現というか、もの派には、そういう部分があるかと思うんです。
ここで思い出しましたのでちょっと触れておきたいことがあります。それは例えば僕の鉄板と綿の作品とか小清水の石を破った作品、吉田の電球、成田の炭その他の作家の作品の多くにアルテ・ポーヴェラやその他のものと似たものがあるということです。だからもの派の作品はみんなアルテ・ポーヴェラかヨーロッパ作家の真似だといわれたりする。これは全然違うことを確り言っておきたい。当時ほとんど外の情報はありませんでしたし考え方も違う。表面的に似ることは世界中いつでもどこでもありうることです。僕やもの派の名誉のためにも真似論を認めることはできませんよ。

中井:先生も今おっしゃられましたように、70年代にもの派が当然評価されてしかるべき時に、日本国内でもの派が等閑視された部分があると思います。そういう中で、先ほど先生も少し話された、71年8月のパリ青年ビエンナーレ等々からずいぶん海外に発表されるようになっていかれて、73年の東京画廊での発表あたりから、絵画の表現の《点より》《線より》という作品を始められるようになりました。そういうことは今先生がお話をされ始めようとされていた持続性というものを、李先生の中で、絵画の形式でというようなことがおありだったのかなと思うんです。ある記録で読んだんですけれど、先生がニューヨークでたまたま70年の。

李:71年。

中井:71年ニューヨークでバーネット・ニューマン(Barnett Newman)を見た……

李:確かニューヨーク近代美術館での大きい展覧会。

中井:それは。

李:それは非常にショックでした。そのとき見たのとまた少し僕の内部で変わってきたかもしれませんけども、白っぽい作品が多かったんです。縦割りの白っぽい空間のものが、ものすごく印象的で。赤とか黄色とかよくある鮮烈なカラーフィールドというような印象はむしろ弱かったです、僕には。それよりも、その大きな空間が、都市的な抽象化された物体に見えるというか、空間として迫ってくるというようなことでした。だからそれは、絵画であると同時に、物質的な空間という感じ。それが決定的と言えるだろうけど、ミラノでフォンタナのものもたくさん見ましたし、パリでイヴ・クラインだとかいろいろな人たちのものを見て、強い刺激を受けました。絵画というのが物質とものすごい関係があるし、しかもあまり意味付けされてない。身体とものをぶつけることで出来ている。平面的な仕事で、物質的な要素を持ちながらそれを乗り越えていったりするようなことが出来るんだなというようなサジェストというか予感を僕は受けたんです、その旅行を通して。もちろんその前から、目にハレーションを起こすような平面的なことやっていたんだけども、旅行から帰ってきて、確信を得たと言える。僕はとにかく身体と絵具を直接ぶつける等身大の絵というか、あまりイメージじゃないもので平面やってみたいという意欲でいっぱいになった。そして一方ではこれからどうも世界は、具象も出てくるなという、社会的で具体的なものの絵も出てくるなという予感もした。どこか座談会でも僕はそれを述べているはずなんです。だけども、まだまだ圧倒的にやはりミニマルがそれからずっと先も広がる。帰ってからしばらくして、気になってあれやこれや本を読んだりバーネット・ニューマンの文章にも目を通したり、いろいろ資料を再点検しているうちに徐々に考えが整理されたんです。そうしているうちに今度はバーネット・ニューマンがだんだん嫌になったんですね。はじめぱっと見た印象と違う。意志的な縦のポールとかカラーフィールドの方が、どんどんどんどん目についた。それから部分的なんだけども、(クレメント・)グリーンバーグ(Clement Greenberg)の文章を目にしたりした。そうすると、どうもこれは僕の思ってるものと違うと。

中井:はい。

李:物質とか空間とかそういう問題ではなくて、これは大変なモダニズムだと。このモダニズムはやはり外界の物質や空間ではない内的に完結されたものだと。自己完結されたもので、これは僕が擁護したり従うようなことじゃない。それでだんだん、随所でバーネット・ニューマンたちをチクリチクリと嫌な部分の指摘(をするん)です。斜めとか真っすぐのポールが描かれている。これはある意味では一種の男性中心主義的な象徴に映る(ところがある)。アメリカでもその後、そのような指摘が結構出てきたりするんですね僕自身本当にそう思うようになった。このポールは何だと。横からのものも例外的にあるんですけども、やはり基本的に上から、縦から伸びる。非宗教人の僕にとってはちょっと困る象徴という感じです。ニューヨークで見た僕の印象はそういうのと違って、非常に大きなスケールのある、観念的な空間ではなくて物質的な、未知な空間として迫ってきた。だからこれは新しい絵画だと、絵画も可能なんだと思えた。

中井:はい。

李:僕は絵画というのは、頭の中であったのは、イメージとしては綺麗な絵だとか意味あるものなど一種の観念が平面的に対象化されたものと思っていたけど、意味が薄いもの空間化されたものでも絵画になりうるということで、そんなふうに考えられてとても刺激的だったんです。

中井:先生の解釈で、バーネット・ニューマンとかフォンタナとかイヴ・クラインの作品を通して、絵画というところに可能性を見いだして、東京画廊の《点より》《線より》という作品になられた。お話を聞いて改めて思うんですけども、その時の日本国内での先生の絵画に対する評価というのはどのようなものだったんでしょうか。

李:はじめはほとんど無視ですね。それでも東京画廊の山本(孝)さんとか中原佑介さんなどはすごくおもしろいと励ましてくれた。それから、南画廊の志水(楠男)さんという人も、僕の絵を73年頃東京画廊に発表する前に、早速ヨーロッパやアメリカのコレクターに何枚も売ってくれた。その後東京画廊で展覧会する。実は、73年とサインされているもののかなりの枚数は72年の秋頃描いたものです。サインをしてないので東京画廊に持っていって、山本さんに言われて画廊でみんなサインをしたんですね。

中井:はい。

李:画廊でサインしたから、73年になっているけども、あれは72年の大体秋から始めた。はじめはやはり、《点より》から始めて、《線より》はちょっと後でやるんです。どうして《点より》《線より》を始めたんだということよく聞かれるんですけど、これはそう難しい問題ではないんです。欧米の新しい絵画を見て、では僕に出来ることってどういうことかと考えたわけです。綺麗ごとではなくて、やはり僕が子供の頃に幼児体験として点をつけるとか線を描くとかというようなことがあったことを思い出した。そういうことをかなり意識的にやるということが70年代の《点より》《線より》の出発だった。その前に、一見フォートリエふうな――64、5年頃とかですね――絵の具をコテコテ塗り付けることをやってみたり、絵の具をチューブからだらだらしぼっておいたり、あるいは噴霧器でもって噴いてみたり、いろいろなことをやったりしています。具体的に絵の具をもって全面を塗り込んだりするようなことは、僕自身実際、美大で絵を習った時間は非常に少ないので、外からの刺激とか思い込みで、そういうふうになったというだけです。しかしどれも確信が持てず永続きしなかった。そうこうしているうちに、子供の頃学んだことや自分の手になじんだものに還っていく。そういう記憶が残っていたと思う。だから、50年代後半、58年59年、ちょんちょんちょんとやったようなものはマーク・トビー(Mark Tobey)……アンリ・ミショー(Henri Michaux)あるいはポロックに似ています。いろいろな人がアンリ・ミショーを見ているかと聞くんですけど、僕は見た記憶は定かでないんです。アメリカ帰りの深田という僕の社会史の先生の弟に当たる人が、いろいろな資料を見せてくれるうちに、その中にアンリ・ミショーがあったかどうか、記憶が全然ない。僕が印象に残っていたのはマーク・トビー、それからポロックだとか。その時名前もよく覚えてない。学生だったし。アメリカの美術はもちろん、現代美術そのものがよく分からない。僕は見て、はっー不思議だな、まるで子供の頃の筆遊びという思いが頭いっぱいでした。それで、さっさと家に帰ってから自分も、筆で、墨汁を買ってきてやってみた。それでもう学校に行って、ぺたぺた貼ってみたりするようなことだったんです。美術史に対する知識はほとんどなかったわけです。もの派ふうなものをやっている時、だんだん美術史を振り返ってみるとか、60年代後半に本格的にじゃあ僕は美術をやろうって時に、だんだんと雑誌も一生懸命見るとか、美術史を読むようになりました。その前までは、世界の現代美術について、積極的に真面目になって見たというのはあまりないんです。だから、僕の60年代の表現史はちぐはぐで行ったり来たり、ぐちゃぐちゃなんです。
どうして、一貫性や筋道がなく、行ったり来たりしていますかと聞かれます。僕自身がまよいっぱなしで、もう全然まとまらないんです。そういうわけで、綺麗に発展したようなことはありません。いろいろな人から、韓国からもよく、そういう僕の批判が出てきたりした。あの人はこんなことをやったと思ったら、あんなこともやるし、ちんぷんかんプンだって。それはその通りです。僕は美術をやろうと思ったのはずっと後だし、遊び面白半分でいろいろなことをやってたから。もうしょっちゅう考えが変わったし、いろいろなことがごちゃ混ぜになっていた。そういうことが60年代後半になってだんだんまとまって、72年の秋頃から、《点より》《線より》ということが始まるんです。それも、《点より》《線より》だけではないです。自信があるわけじゃないですから、それをやりながらも、絵でない方法は何かないだろうかと思って、紙を貼り合わすとか、筆に膠を付けて、穴が開くか開かないかぐらいにずっと押し当てるとか、木の板にノミを入れて表面にささくれ立つようにするとか、いろいろなことをやりました。いろいろな背景、マンゾーニやフォンタナなんかを雑誌か何かで見たような影響もあったと思います。これは、郭さんの影響ではないかと聞かれたりしますが、やはりフォンタナだと思うんです。郭さんそのものが、フォンタナから圧倒的な影響を受けていたわけです。東京画廊の山本さんとか南画廊の志水さんだとか、瀧口修造さんとかいろいろな人たちが、韓国絵画展(東京国立近代美術館、1967年)に出したハレーションを起こす絵を描く頃から「おもしろいんじゃない?」とか、「もっと大きいものを描いて見たらどうか」とか言われて、《点より》《線より》になったり、徐々にそのような仕事が増えていったということです。反応のいいものから段々いっぱいやって、反応が少ないものが自然ともうたたんでしまうという結果を招いたのであって、自分で自信があったわけではなくて、まずとにかく、絵画ふうなものをやりたいということがあった。

中井:はい。

李:これから再び絵画が出てくるんだと。僕が71年の旅行からかなり確信的にそういう予感をもって描いたことも確かです。点をつけるというのはイメージではなくて、システムとプロセス。プロセスという言葉は、ラブさんからの影響だったと思うんです。あの人はしきりにプロセスということを言っていて、その時プロセス・アートを教えてくれたりした。まさしく僕のは、それに値するようなことかなと思ったんです。プロセスを示すようなことと、それから、システム。これはいわば構造主義の影響と言えます。やはり、文化人類学でレヴィ=ストロースの――その時日本に紹介され始めた頃で――このレヴィ=ストロースの影響というのは、実を言うと意外に僕には大きかったんですね。歴史というのは縦割りでずっと流れてきて、ある絶対的なものだった。それがですね、大昔は民族学としてあったものが文化人類学に変わったんですよ。特定な地域や時代にあるものは、意外とそれは、世界中に全時代に広まっているものなんだという。それは歴史とは関係があるようでなくても、ずっと長い間同じことが起こりうるし、それが進歩して発展しているかどうかは分からないということです。それは、さまざまなものが同時に起こったり、長い間そのままずっと持続したり、全然交通のないところでも同じような現象が起こるんだという。これは、すごい僕にとってはインパクトがあった。理論武装する上では力になった。そういうような影響で、僕の作品や考えが歴史性が薄いって言われたりするのかも知れません。だからといって、全然歴史がないとは夢にも思わないんだけども。子供の時に学んだものが今出てきたりするのも一種の歴史性なわけです。ただ縦割りで徐々に(進む)、この展開的な歴史ということから外れていくための理論としては、文化人類学は、僕に大きな影響を与えたと思う。

中井:今李先生が言われているように、理路整然としてないというふうには、僕は思わないです。レヴィ=ストロースの構造主義とかを多くの人が分かるようになってから勉強を始めたので、ごくすんなりと入るところでもあります。そういう中で、ある確信性をもって、絵画あるいは《刻みより》みたいな作品を作られていったということがあるかと思います。

李:『デザイン批評』に「世界と構造」という(文章を書きましたが)、それはやはりハイデガーだけでなくレヴィ=ストロースの影響なしでは書けないものです。縦軸より横軸に関心が強まり広がったということですね。

中井:先ほど《点より》《線より》という作品の南画廊の志水さんが海外の方に紹介されているということで少し納得いくところだったんです。その辺り、70年代後半からヨーロッパにずいぶん発表を始めるようになって、特に78年にデュッセルドルフ市美術館とかルイジアナ現代美術館で絵画を中心とした個展が開かれたということは、おそらく先生の発表歴の中でも大きな出来事だったと思うんです。そこまで至るところを、ヨーロッパでの反応とか、美術館で先生の展覧会を開かれるまでの大きな出来事のようなことをお聞かせ願えればと思います。

李:僕は71年にパリ・ビエンナーレを起点にして、初めて世界旅行をしたんです。まず始め僕はインドのバナレス経由でギリシャに入って、アテネを見て、それでローマに入った。ローマで、見知らぬ人にバーに誘われましてね。何も分からない人間ですから、そこで変な人に引っかかって、お金をみんなすられてしまうんです。旅行のノウハウや何にも知らないで出かけたものですから。言葉もほとんど通じないようなところでお金をすられた。それで、ミラノの長澤(英俊)さんに電話をしたら、電車に乗るぐらいのお金あるかって。そのとき僕は切符を買ってあったんです。日本からずっとそこに行くようなことはみんな出来ているのね。お金はほんの少ししかないけども、切符はあるんでね。そうしたら、すぐミラノに来いよって、夜行列車に乗れば何時間で来られるってことで。それで、本当はローマにもっと何日かいる予定だったのが、4日ぐらいで引き上げたんですね。で、ミラノに行ったら長澤さんのところに関根さんがいて、関根さんは、そのときどのくらいだったかな、かなりの時間そこにいたんです。そこに一緒になって、やっとお金の心配もなくなっちゃって、とても良く遊んだ。パリ・ビエンナーレの前です。

中井:はい。

李:そのとき(ルチアーノ・)ファブロ(Luciano Fabro)さんも知り合いになったし、ファブロさんを中心に何人かアルテ・ポーヴェラのアーティストたちに紹介してもらったりした。関根さんも片言のイタリー語を覚えて。彼はいろいろなデッサンを見せてくれた。僕が見たら、うらやましいってわくわくした。後に河口龍夫が石に穴をあけて……

中井:電球を通す。

李:蛍光灯を通すような仕事をした。たしか現代展かジャパン・アート・フェスティバルに出した。南画廊の三木富雄の展覧会だったか何かで、僕の記憶が間違いじゃなかったら、その時に東野さんが河口に「お前関根のデッサン見たんじゃないの?」って聞いたんです。いや、それは違いますと河口はきっぱり否定した。それは本当分からないんですけども、僕の目で見てもあまりにも同じだった。しかも僕は東野さんよりもずっと早く、ミラノでそっくりなドローイングというか、プランニングを見てるんでね。その時の彼のプランニングはおもしろいのがいっぱいあった。後で彼は、全部もっているんではなくて一部捨てちゃったから、もうないって言われたんだけども。木の中をほじくって、それより小さい木を入れて、またその中をほじくって、もっとちっちゃいのを入れて、そういうようなものも作ったりね。後から考えると、それは後の(ジュゼッペ・)ペノーネ(Giuseppe Penone)に似たようなことでもあったりしたんだけど。当時ペノーネはまだそういう仕事していなかったんです。おもしろいドローイングをいっぱい持っていたんですよ。ちょっとしばらくの間、カステラーニが政治問題でスイスに逃げちゃっていなかったので、カステラーニの仕事場を僕が使って、そこで遊んでいた。フォンタナのスタジオだったというところも出入りしたり。本当におもしろい体験をしばらくやっていた。それでパリに来て、韓国出身で水玉を描いていた金昌烈さんにさんざんお世話になりながらパリ・ビエンナーレの準備にかかりました。パリ・ビエンナーレでは宮川(淳)さんと何日か一緒に過ごしました。通訳を手伝ってくれたり、毎日お茶飲みに連れて行ってくれたりした。本当に楽しい時間を過ごした。日本から行った人たちはかなり評判は良かったし、僕もテレビのインタヴューも受けたり新聞も出たりしたんです。そのときは中平卓馬も一緒だった。72年は僕は休んでヨーロッパに行かなかったんですけど、73年から毎年出かけるようになったんですね。
それで、74年にはすでにパリで画廊で個展をやっています。エリック・ファーブル(Eric Fabre)という画廊で、その後長い間つき合うことになる非常に重要な画廊です。ジョゼフ・コスース(Joseph Kosuth)とかジルベルト・ゾリオ(Gilberto Zorio)たちもこの画廊でしたし、特にコスースは僕の展覧会の番をしてくれたこともあります。もちろん展覧会する時も簡単に出来なくて、パリに住んでいる水玉を描いている金(昌烈)さんという韓国人の僕の先輩にあたる人が、この人も自分の画廊がなくて展覧会も出来なかったけど、僕をサポートして一生懸命自分の奥さんの車に僕の絵を積んで、いろいろな画廊に絵を見せに行ったりした。それをやっても、この画廊もあの画廊もだめということでした。たまたま偶然にその画廊に行ったら、パリ・ビエンナーレに出展した僕の作品を覚えていた。パリ・ビエンナーレに出した僕の作品は石でガラスを割ったような仕事だとか、キャンバスの枠を厚くして3枚の150号か200号ぐらいのキャンバスに大きい石を位置を少し変えて乗せている。これはほとんどマレーヴィッチ。マレーヴィッチの絵の中に位置をやっている絵があるんですよ。それを立体でやって見せるというものだったんですね。位置によって、しかも重さというもので凹むとか、位置によって違って見えるとか、そういう。ようするに場の概念が僕にとっては大事になっていくんですね。ガラスも段々と暴力的なことではなくて、力関係という、関係というものに段々移っていったりした。またゴムを引っ張って、石で押さえておく。引っ張ってないところは、そのまま伸びちゃっているとか、そのような作品。3つの違う作品を出していた。吉田は布にぐちゃぐちゃ赤い色を塗って、その前に電球で電気を付けるようなことをやったりした。

中井:はい。

李:小清水は《表面》という作品で、ギザギザを大きな枕木を、あるものは縦に、あるものは横に、あるものは斜めに、さまざまな表情の違う同じ大きさの四角い枕木なんだけども、それがやり方によってどれだけ表現が違うのかという、そういうものを並べたんですね。それはもと田村画廊で発表したもののバージョンだったんですけども。榎倉は、バンセンヌ公園というところでパリ・ビエンナーレが行なわれて、その公園の少しなだらかな丘にある松の木、2本の松の木の間をセメントでずっと壁を作るというようなことで、これが賞を取ったんです。中平は毎日パリで撮った写真を一枚ずつ貼り付けていく。やはりある面で、一種のもの派ふうな仕事だったと思っていいんです。そういうようなことでみんな本当に楽しい時間を過ごしたんです。宮川さんが通訳してくれていろいろやってくれて。峯村さんがその時にジョルジュ・ブダイユ(Georges Boudaille)という総合コミッショナーの下でアシスタントをやってました。その時は岡田隆彦さんが日本のコミッショナーだったんですね。僕は韓国のセクションで出したけども、実際韓国とはあまり関係なく日本の友人たちと毎日一緒だった。初めてのパリの経験が僕にとっては刺激だった。
日本ではなかなか評価されたという感じは持てなかった。その当時のことを後でいろいろな人に聞くと、もの派というものは非常に怖い連中の集まりに映ったんだそうです。僕はとても信じられなかった。関根のようにシンデレラのように、片っ端から賞を取る人もいたかと思うと、はじめ菅も賞を取ったりしたけども、彼は落選半分、賞半分だったと思うんです。すぐ落選することもあったり、大きい賞を取ることもあったりしたんだけど。みんながラッキーボーイばかりではなかったんですね。僕はもう、落選専門家みたいなものだったし、しかも国籍が違ってだめということもあったりした。いろいろなことでとにかく活路を見出さなきゃならない。日本で面白くないこととか、目に見えないいろいろなことが、僕にはプレッシャーがいっぱいあった。それで、やはり生き延びるために、段々と外に道を求めたということかな。ところで僕が文章書くきっかけを作ってくれたのは石子さんなんですね。美術出版で論文募集があるということも知らなかったので、石子さんが論文募集があるからお前、いつも石子さんの家で喋っていると、今日喋ったことをそっくり書け、とかですね。それで書いたものを、日本語が下手だからそれを手入れしてあげるからって。それで石子さんに持っていって、それをまた直してもらったのを、またもう一ぺん石子さんのところに持っていったから、それを石子さんの手下の者か誰かが、多分美術出版に持って行って出したんじゃないかと思う。そういうこともあったんです。
ただ幻触の人たちに近い人たちは、初めは僕が石子さんの影響を受けたんじゃないだろうかというふうに思う人も中にはいたんですけど、今はあまりいないと思うんです。実際今みんな分かっているので。始めは石子さんの考えと僕の考えは相当隔たりがあったんだけども、すごい親しくなった。段々と距離が出来たのは、喧嘩したわけでもなんでもなくて、考えが違うんですね。石子さんは民俗学に関心を持ってたりして、そっちの方で現代美術から遠ざかって行った。自然と、そうこうしながら僕も石子さんに会う機会が少なくなったというだけのことなんです。いずれにしても、僕は石子さんには、ものすごく感謝の気持ちというか。とにかく、中原さんの存在がどれだけ大きいか、すごいことを教えてくれたのも石子さんだった。文章書くように一生懸命言ってくれた。宮川さんを紹介したのも石子さんだったと記憶しています。そういう人たちに助けられて、どんどん文章を書いたり、日本語ではそう言わないんだよ、とかね。でも、そう言わないけれどもそれはおもしろいとか。例えば「世界が世界する」とかね、こんな言葉はないって。でもこれは直さない方がいいと。いろいろなことだいぶ教わりました。だけども、僕が評価されているという気持ちよりも、窮屈さ、上手く行かなさも覚えたり、強い風当りには忍び難いものがありましたね。で、徐々に外に出る度数が頻繁になっていって。パリでやって、それで75年か6年にギャラリーmというドイツの画廊でやるんです。これはどういう経緯かというと、デュッセルドルフ・クンストハーレで日本の現在と伝統とかいう展覧会があった時に、ユルゲン・ハルテン(Ju¨rgen Harten)という人が……72年?

中井:74年ですね。

李:そうですか。僕の点と線の作品を沢山選んでいるんですよ。木の作品も紙の作品も選んでいて、それがデュッセルドルフのクンストハーレに並んだわけ。それでドイツ人で僕の仕事を面白がる人がいっぱい出てきた。そのユルゲン・ハルテンが僕をギャラリーmというところに紹介したんですよ。まだ若い画廊だけれども、これからドイツでは非常に重要な存在になるだろうから、そこに行って展覧会してくれないかってね。そこの真裏に、シュメラー(Schmeller)という画廊があったんですけども、そのシュメラーは有名だということは既に僕はもう分かっていたんです。しかし時代は変わっていくからって、そのハルテンさんの紹介で、そこのアレキサンダー(Alexander von Berswordt-Wallrabe)という人と会って、それから長い付き合いになっていくんです。ギャラリーmのアレキサンダーが74年だかの日本展を見に来て、僕に関心があるっていうことを言っていたようです。それから長い付き合いの中で、フランソワ・モルレー(Francois Morellet)とかアルヌルフ・ライナー(Arnulf Rainer)とかリチャード・セラ(Richard Serra)を紹介されたり、ドイツのみならずヨーロッパ中、僕のものを宣伝して回り、大きいグループ展に押し込んで、どんどん広めるような一番大きい役割を果たすことになった。
それで、ベルギーのスペクトルム・ギャラリーとかアントワープ・ギャラリーというところでやるようになって行きます。徐々にいろいろなてがかりが出来て、段々と面白くなって、ヨーロッパに通うようになる。僕はすごく貧しかったから、飛行機の切符を買うということが難しくて、いろいろな人のお世話に。日本からも韓国からもいろいろなところから援助を受けて、切符を手に入れるということで。全然絵なんか売れませんから。家内も苦労して料理教室をやったりしてお金を作ると、全部僕が持っていってしまうような形だったんです。どんどんそういうふうに広がっていくということは、段々自分のことが何かしら少しずつ認められていくという感じを受けたんですね。それで、75年だか6年にギャラリーmの展覧会評が『フランクフルト・アルゲマイネ(Frankfurter Allgemeine)」とか『ダス・クンストベルク(Das Kunstwerk)』などに出たらしくて、ずっと後になって、ローマン・オパルカ(Roman Opalka)からいつも会うとその話を聞かされた。自分と僕と、それからギュンター・ユッカー(Gu¨nther Uecker)は、釘を打つ仕事もやっていたけど、ドローイングで、ちょんちょんちょんと、ずっと、布に《点より》に近い仕事をやってたんです。その3人を引っ括めて文章を書かれたりしたこともあった。それが76年頃だったと思うんです。それから徐々に自分の仕事が向こうに知れ渡るようになるという感触を得ながら、どんどん積極性が出て、年に1回2回行ったのが、3回になり4回になりそのうちにひと月ふた月ではなくて、1980年代半ば頃からは、ほとんど半年近くをヨーロッパでやるようになっていた。それですでに多摩美は専任だったんだけども、学校を休むことが多くて悩んでいました。ほとんど東野さんがフォローしてくれなかったらできなかったんですね。もちろん主に春休みとか夏休みを利用して行く場合があるけども、普通の時も結構行って日本にいない時もあったりした。本当に東野さんや周りの同僚たちの理解のおかげで僕はヨーロッパに行ってかなり学校を忘れて活躍することが出来た。そうこうして80年代半ば頃にはたくさんのアーティストだとか評論家とか知り合いも出来、いろんな美術館で展覧会も開くようになりました。もうすごい居心地が良くて、僕のように語学がへたな人間でも、友達がうんと出来ると、日本にいるよりずっと楽しいし、知ってくれる。特にドイツは段々と僕の彫刻をうんと評価して、ボイスやセラたちとも展覧会を組ませてくれた。

中井:はい。

李:いつも、彫刻と絵画を両方やるんだけれども、彫刻ばかりが話題になったり雑誌に取り上げられたりしていた。それで、2001年に僕は、クンストミュージアム・ボンというところで絵画の回顧展をやるんです。そこのクリストフ・シュライヤー(Christoph Schreier)という副館長が、2年がかりで僕のすごく調べて、かなり研究して、展覧会の話が飛び込んだんです。で、今度は彫刻はやめて絵画だけにしたいと。どうしてですかというと、彫刻と絵画を一緒にやると、また彫刻だけが取りあげられるだけで、自分の見た目では彫刻もおもしろいけど、絵画の方がずっとおもしろい。おもしろい問題を含んでいるので、絵画だけでやりたいと。しょうがないから、その直前に、ギャラリーmという画廊で、すごくでかい画廊なので、本格的な彫刻展をやって、その次に絵画の回顧展(をやることになった)。今まで、韓国でも日本でも、絵画の回顧展はやったことがない。回顧展は初めてやったんですね。それは、すごく僕にとってもいい勉強になった。
その年に、僕は世界文化賞を取るんです。それはドイツから推薦を受けたのが大きかったようです。ドイツが一番に僕を推薦し、二番にジグマー・ポルケを推薦しています。日本でも中原さんが僕のことを推薦していますけど、韓国から推薦されたことはないんです。その時のドイツの世界文化賞の推薦委員の責任者は、カタリーナ・シュミット(Katharina Schmidt)という女性で、その当時はバーゼルのクンストミュージアムの館長だった。実はこの人は78年、デュッセルドルフ・クンストハーレの副館長時代に、関根伸夫と僕の展覧会を組んでいる人なんです。だからずっと後まで僕の作品や活動を見守っていて良く知っていた。それで僕をそういう賞に推薦したと思う。それぐらい、ドイツは僕を大事にあつかってくれたように思います。ドイツではいろいろな美術館で個展、グループ展などたくさん展覧会をやるようになるわけですけど、本当によく理解してくれるし、温かく見守ってくれたということがあった。本当にありがたかったんですね。もちろんフランスも、早く死んじゃったんですが、ポンピドーの館長だった、ドミニック・ボゾー(Dominique Bozo)という人がいまして、この人は70年代、白羽明美というパリ在住の女性を通して、エリック・ファーブルという画廊にいる時から親しくなった。いつもお茶を一緒に飲もうとか、お昼を食べようとか行って、僕を温かく見守っていた。で80年代に、もうちょい待ってくれ、すぐ展覧会するからって。それが癌にかかって突然亡くなっちゃったんです。
で、それを隣で見ていたダニエル・アバディー(Daniel Abadie)という人が引き受けたと言えます。実は、71年のパリ・ビエンナーレの時のジョルジュ・ブダイユという人のアシスタントをやっていたのが彼です。首つかまえて喧嘩した相手がアバディーだったんですよ。ボゾーがいればすぐポンピドーで出来たはずなのに死んじゃったからということで、その時アバディーはジュ・ド・ポームの館長だったから、僕の展覧会を組んだわけです。だからいろいろな人間のつながりというか、人脈は大事だと思います。その間ピエール・レスタニ(Pierre Restany)も長い間僕のことを見守ったりしてくれたり(したけれど)、突然いなくなった。僕は、中原さんがパリにみえるとよくカフェドムでレスタニさんと食事をしたりお茶を飲んだものです。コンラッド・フィッシャー(Konrad Fischer)というギャラリストも僕を見守ってくれた一人でした。展覧会をしてないけども、デュッセルドルフの良い画廊で、その人も陰で一生懸命応援してくれたのに、突然亡くなった。大事な人をたくさん亡くした。日本でも東野さんを亡くしたり、いろいろありました。そういう中で、すごく周りに見守られて、生き延びた感じです。
日本では実際のところ最近まで、僕はヨーロッパで何をしていたかは、ほとんど知られてない。僕はあまり言わなかったですから。あいつはいつもヨーロッパに行って何をしてるんだろうと、そういう感じだったらしいんです。いろいろな人の話を聞くと。しょっちゅう遊びに行っているとばかり思っていたみたいです。僕としては必死だった。結果的にヨーロッパのいろいろな批評家や美術館から、東と西の橋渡しの役割を果たしたと言われるまで時間がかかりました。実際僕はそのつもりでやったわけじゃないけれども、結果的にそう見えたらしい。しかも僕の文章は相当訳されて、その間いろいろなカタログや雑誌に載ったもの、訳されたものを集めたり、さらに加えて、日本の『余白の芸術』にある相当の部分が、1996年にロンドンのリッソン・ギャラリー(Lisson Gallery)でジャン・フィッシャーという批評家の編集で本として出た(Jean Fisher, ed., Selected Writings by Lee Ufan 1970-96 (London: Lisson Gallery, 1996))。

中井:はい。

李:その後2000年だか2001年に全面的に翻訳し直して、同じギャラリーでまた出した(Lee Ufan, The Art of Encounter, trans. Stanley N. Anderson (London: Lisson Gallery, 2004))。そういうのがよく売れるんですね。

中井:はい。

李:それが僕にとってはすごく幸いしたようです。僕の作品世界というか考え方を知らせる上では、非常に大きなプラスになった。東アジアの批評というものが紹介されてないんですね。全然本がない。日本人や韓国人や中国人が書いた現代美術の本がないわけです。だから僕の本の翻訳がほとんど唯一だったようです。僕の本を通して、東アジアのアーティストというか芸術の考えがどうなっているかということを知るようになったということはよく聞かれることです。フランス語訳も出ています(Lee Ufan, Un art de la rencontre, trans. Anne Gossot (Paris: Actes Sud, 2002))。フランス語と英語でかなり広まったかなと思います。

中井:先ほど先生がおっしゃられたように、2001年で絵画を中心とした展覧会がドイツで開かれた。展覧会された方が、特に絵画で作品が展開していっていると言われたように、最初、点、線というのは、厳格な、装飾性を外したかたちで描いていたんですけど、1980年あたりから規則性から離れてというふうに変化が出られたということでしょうか。

李:そうですね。

中井:そういう絵画の変遷について先生ご自身は。

李:彫刻と絵画が両方とも、徐々に変化が出てくるんです。まず絵画は、はじめはかなり行為性が含まれつつシステマティックな絵画になったんですね。一番はじめ73年のサインがあるようなものを見ると分かるんだけども、少し、若干の動きがありながら、構成としてはシステム的な、あるいはプロセスを示すような絵画になってる。これが74、5年になると、きっちりした、あまり行為性が目立たない、システムだとかプロセスだけが目立つ。それから、出来るだけ抑制の利いた完成度を高めるというようになっていきます。それが多分78年頃から絶頂に達すると思う。ところが、78年頃になると僕の中で、すごく内部で分裂が起こる。後から考えると、その当時は分からなかったけれども。キャンバスの前に立つとすぐ冷や汗をかいたりですね、震えたり、いろいろなことが起こった。それで、82、3年まで点や線を描いてるんですけども、基本的には80年代に入るとほとんどちゃんとしたものが描きにくくなってきました。

美那:70年代でしょ?

李:いや。80年頃で、ほとんどもう描きにくくなるんですね。もちろん無理して描いているんですけども。78年頃を越えると段々とね、隙間を作ってみたり、間のあるものだとか、ぎくしゃくするようなことが出てくるんです。それで80年になってくると、もう今度は、かなり動きというか破綻が出てくるんですね。それが、80年代の82、3年頃からもっともっと破綻がいっぱい出てくる。もちろん例外的に70年代半ばにもそういうのがあるんですけど、それは例外に近いものであって。綺麗に描けるんだけれども、時々遊び半分で、合間が出来て多少余裕のようなことで、隙間のある絵を描いたりしているけれども、本格的に隙間を意識するようになるのは、70年代の終わり頃から80年代に入りつつ、そういうことが意識化されてくる。意識化されると同時に、点も線も崩れていって、点だか線だか分からないような、どっちともつかないような、それから、それが呼吸だとか身の動きだとか、そういう行為性が強調される。それと同時に、その周りの地がどんどん広がっていくんですね。

中井:はい。

李:先ほど、70年代後半になって、78年頃からキャンバスの前に立つと冷や汗をかくと言ったんですが、これは本当に病気だったようで、病院も行ったり、いろいろなことがあったんです。絵に対する拒否反応というか、なかなか上手くいかない。何回何枚失敗したか分からないですね。途中ですぐ失敗してしまう。ぴっちり描かなきゃならない、まるで機械のようにやらなくてはならないという、それが拒否反応を起こしたんだと思いますね。とにかく、もうシステマティックに完璧に描くということが段々出来なくなった。出来なくてぎくしゃくするわけです。どうしても失敗するとか、真っすぐ描いたつもりなのが後で見るとちぐはぐになったり。で、はじめはそれは駄目だと思ってどんどん破いたり。ところが、失敗したと思っていたのが、ある時見るとそれが面白く映ったんですね。隙間がいっぱい出来たり、筆触がひどくぶれていたりする。それでいっそのこともっと隙間を作っちゃったらどうか。もっとね、ぐにゃぐにゃとか。上手くきっちり出来なくてもいいのかなってね。そうこうしていたらかなり徐々にそのように意識化されてきた。それでもう気が楽になりはじめた。のびのびに見える、自由に見える。それは本当は自由ではなくて、その中で、えいくそ、とか、もうちゃんと描かなくていいんじゃないかとか、そういうようなことになってきて、それで僕は体が回復したというか、元気になってきましたよ。それは自分の生理現象であると同時に、後で考えたんですけども、やはり80年代というのはそういう時代なんですね。かなりいろいろなものが混ざり合ったり、きっちりしたようなものが崩れてごちゃごちゃになったりする、そういう虚脱さというか、そういうようなものがいろいろなとこから出てくる、そういう時代でもあったんです。

中井:はい。

李:それは後からの理由付けであって、その当時は、自分の体のせいだとばかり思っていたんです。それで段々と、色もブルーとかオレンジから黒に変わってくるんです。はじめ赤だとか青などいろんな色を使ってみたんですけども、やはり色を使うと華やかで現実に近づくような感じなのですよ。多彩色は僕にはちょっと合わない。儒教の影響なのか、非常にストイックなというか、ピュアな自分の性格とも関係がどうもあるのかなと思うんだけど。で、結局は白黒に絶えず戻っていくという感じです。その前に、はじめ、なぜブルーでなぜオレンジなのかという質問がよくあるんです。ちょっと挿入しておきます。特に意味はなくて多分ブルーを選んだのは、空、何の意味の無い、最も遠い色、実際例えば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』という言葉にもよく表れているように、美術ではブルーというのは、透明な色という意識があるんですね。空だとか、遠い色という感じ。それから、オレンジというのは、韓国では黄土色。ちょうど、山口長男さんがよく黄土色を使っていたけど、あれは韓国では土。土は黄土色なんですね。だから大地の色。だから一方で空かと思って、一方で大地という、きちっとそれを決めたわけではないですけど、暗々裏にそのようなものが、知らないうちに無意識のうちに作用したのかなという程度のことです。それで、絶えず白黒に帰るということは、やはり子供の時からの白黒の意識というようなことが、どこかあったんだろうと。非常に僕は儒教の影響とか山水画の環境とかいろいろなことが子供の時からあった。色―現実に対するアレルギーというか、色に大きな意味合いを込めるというようなことはしないということがあって、白黒に帰るということが絶えずあったと思うんです。80年代に絵面(えづら)は華やかに一見、見えたり、自由に見えるけども、それは黒で抑えるという感じになった。
さっき言いましたけども、自由奔放とよく書かれるけども、決して自由奔放ではなくて、それは、抑制がきかなくなってばらされたり、めちゃめちゃになっただけのことです。画面がシステマティックなものから、行為性が暴走しだしたというか、眼に見えるシステムを壊していくということ。それから、描いたもののみが絵面ではなくて、描かない地の方がもっともっとおもしろいというようなことが段々と分かってきたという(ことです)。はじめ《点より》《線より》というような概念も、やはり一種の無限概念だった。無限概念で繰り返していく。繰り返すためには、一点一点が完結してないといけないということもあったわけです。繰り返しの中で、無限概念を表すということだったんです。そういう意味では、ものすごくコンセプチュアルだったとも言えるんです。だんだんそれがバラバラになっていく、描いている部分と描かないものとの対比みたいなものに気が付いてくるんですね。無限というのは、一つの概念の繰り返しの中で出てくるということよりも、描くことと描かないこととの組み合わせというか、そういう一種の時差みたいなものの中に、無限というのは出てくるんじゃないかというふうに考えが変わってくる。考えが変わるというか、ある発見みたいなことが、僕の中では起こった。それで、どんどんと地というものを広げるようになっていくんです。そのうちに今度真っ黒けに、全部つぶしてしまってみたり、あるいはうんと広げてみたり、それが、数年繰り返されていくうちに、ぐじゃぐじゃにもなったり、つぶしたりしていたら、80年代後半になってまた整理されていくんです。整理されていって、80年代後半から90年代はじめにかけて、いくつかのストロークに集約されてくる。
それが、90年代の半ばになると、ストロークが3、4個、しまいには、1個にまでだんだん減っていくということになる。しかも、抑揚やいろいろなものが感じられたものが、出来るだけそれも抑えて、表に見えるようなものを出来るだけ隠して、呼吸も隠れた呼吸、ほとんど隠すような術というものを強くするようになった。はじめは筆を一発一発だけで決めていたものが、2度、3度、4度まで重ね塗りをするようになったのは90年代後半、2000年に入ってからですね。でもはじめは、1回2回ぐらい重ねていて、3回4回までは2000年代に入ってからどんどんそうなってきた。今は大体3回から4回重ねている。重ねるということは、完全に乾いた上に重ねるんではなくて、半乾きぐらいの時に重ねるから、中で下に描いたものと上に描いたものがどこかでお互いが刺激し合うというか、混ざり合うふうに出てくるんですね。ただ下のものを上のものが被せちゃうんではなくて、両方が上手く組み合わさるという感じです。そこがおもしろいと思った。時には完全に乾いてから上を被せてみたりする。ただ完全に乾いた上に被せると、ぺたっとなる場合があるんですよ。それが嫌で、大体半乾きの上にやっている。見ると筆の跡がすうっと見えるようになるんです。最近作になるまでは、そういう試行錯誤がずっとあった。それで今は、大きな点というか、ストロークが極端に制限されて1つ、2つ、3つぐらいで止まっている。描くことと描かないこととの関連が大きな絵のモチーフになる。点だけを見るのではなくて、それによって周りの空間、さらにはキャンバス空間を飛び越えて、周りの現実空間までもひびき合うようなことにしたいということです。だから、そういう点では、今の仕事もやはりかつてのもの派の息吹みたいなものは残っているのかなという気もします。空間との関係、描いたものだけが問題ではない。描いてないものとのひびき合いということです。僕のいう余白というのは、よく山水画でいう描いてない部分を示すのではなくて、描くことによって起こる現象としての周りのひびき合い(です)。絵も含めて、大きな空間のひびき合いを余白と呼ぶということです。そういう僕独特な余白の言い方になったかなと思います。ですから、描いたもののみを論じたり、描いたもののみを写真に撮るということは、すごく僕にとって抵抗があるんですね。僕はキャンバスと周りの壁を一緒に撮ってほしいとか、床まで入れて撮ってほしいとよく注文したりするんです。絵によって、絵のみならずその空間との関連、空間で起こりうる現象としての絵画という、そういうことに至って、自分が全部描くのではなくて、一つのきっかけを作れば、周りのものがお互いに刺激し合うんだという、それがむしろ絵の出発じゃないだろうかって。だから今やっと、絵画あるいは表現の出発点に至ったのかなという感じがするんです。
絵画がそうであると同じように、彫刻においても細かく見ると、何回かの変化はある。はじめは結構いろいろな材料を使っていた。もちろん石だとか、布だとか、ゴムだとかいろいろなものを使っていたけども、最近は産業社会の最も代表的な材料である鉄板と、その鉄板の祖先である石。石の粉を選り分けて抽象化したのが鉄板なわけですから、鉄板になるずっと前の気が遠くなるぐらいの時間帯の塊としての石というようなものを組み合わせることだけで、もう十分じゃないだろうかと、それで、自然と産業社会というものの橋渡しが出来ているんじゃないんだろうかということ(です)。それと、そういうものの組み合わせの中に、空間の問題、時間の問題、いろいろなことが出来るようにしたいということが最近のモチーフになったんです。その間はかなり暴力的あるいは攻撃性が強くなる時期もあった。トリッキーなものがうんと強い時期もあった。かなり複雑な要素を絡め合わせる時期もあったりしたんです。今は、トリックも使うんですけども、それはトリックであると同時に現実というものが、その両面が見えるような提示の仕方をとっている。例えば鉄板のある位置に石を置くと、その石の力でもって、鉄板が膨らんだような、鉄板の周りがある部分膨らんだように見える。まんざら嘘ではないのは、ものすごく細かく厳密に計れば、恐らくは鉄板も石の重さによって膨らむはずなんです。これは宇宙にとっては当たり前なわけですね。ある世界的に高名な日本の宇宙学者は――カスヤの森現代美術館というところがあるんですけど、その近くに住んでいる人で、いまその人はハワイに行ったと思うんですが――その宇宙学者は僕の画集を見たり、前から僕の作品も知っていた人なので、画集見ながら、「李さんは宇宙のことに関心があるのですか」って。「いや、別に特にないですけど」と言ったら、僕の作品を指して、「みんな宇宙の物語ですね」と言ったんです。それで「宇宙は実際こうなんですよ」と言って、膨らましたり縮ましたりする。「いや、僕はそれよりもトリックとトリックならざるものとの両義性を方法としてとっている」。「それは表現の中での言い方かもしれないけど、宇宙からするとまさしくこうなるんだ」と言うんですね。それで僕も本当におもしろいなと思ったり、気を良くしたこともあるんです。石と石が対話するように向き合わせてその周りを二枚の湾曲した鉄板で囲い空気が石の緊張関係でプーと膨らむ感じを出すとか。トリックな感じも若干取り入れてあるけど現実でもあるということ。それによって、見る人もそこに現実認識や緊張感が味わえるというものです。出来るだけコンセプチュアルでピュアな、しかも、材料も単純に方法も単純にして、一つの場を作りその状況の中に人を立たせれば、どういう気持ち、反応が起こるんだろうかということに、関心がだんだんと集約されてきたのかなということですね。

中井:先生に今に至るまでの絵画と彫刻の話を、今お伺いしました。最後にいくつかの展覧会のお話を少しお聞きしたいんです。2003年に韓国サムソン近代美術館の主催した大きな展覧会をやられたりとか、あるいは、先ほどニューヨークのペース・ウィルデンシュタインでアメリカで初めて大きな展覧会をされたりということがおありになりました。祖国の韓国でやられること、あるいは、先生昨日もあまり好きな国じゃないと言われたアメリカで大規模な展覧会を開催されたことに関して今のお気持ちを。

李:サムソンでは回顧展をやる予定ではなかったけど、結果的に回顧展ふうになったんですね。美術館の要望――はじめは近作ばかりでやりたいと言ったのに、徐々にそこのオーナーやいろいろな人たちの要望もあって半端な回顧展めいたものになりました。ところで、韓国は自分の生まれて育ったところであるだけに、非常に神経を使う。あまりに彼らが身近に感じるので、僕のが客観的に見えるかどうか、かなり疑問もあるんですね。それで案の定、展覧会を開いたら、新聞とかでは記者たちがよく書いてくれて、わぁわぁ騒ぐけれども、専門家たちはコテンパンだったんですね。本当に豈図らんやというか、コテンパンで、滅茶苦茶な、「日本的」「空虚」とかね。特に僕は日本で住んでいるから、韓国でやるとことあるごとに、日本との関連みたいなものが、誇張されたりするんです。素直に見てくれないということは、これはしょうがないんだけどもある。ものすごく僕は用心しているんですけども、それに引っかかって、やはりまともに見られてないなということで、気持ちが複雑だった。日本でもいまだに回顧展は一回もやってないんですね。古いものと一緒にちょっと並べることはあったけども。本当の回顧展は一切やってない。それはもうかなり僕は用心している。意識的に。今ならやってもいいかなという気持ちがないわけでもないんだけども、つい最近まで本当に回顧展はやりたくないということが――やはり冷静に見てくれる時期までは時間かかるということが――あるんです。
僕も70過ぎたので、外も多少は広がったかなと思うようになりました。外国で僕をテーマにした論文でドクター取ったり、研究論文が出るのは、多分日本よりも多いですから。すごく良い論文も出ているんですね。日本では出ていないけれども。ドイツとかイギリスとかアメリカですごく良い論文が出ている。今翻訳が進んでいるんですが、ドイツで本当すばらしい本が出ました。僕の研究書がすでに英訳されたり韓国語訳も出ている。ですから、そろそろ僕の全貌がどうなってるか、日本でもいっぺん並べてみたいという気持ちにようやく少しなりかけている。今まではすごく用心して、韓国も日本も近さゆえの誤解でまともに見てくれないだろうという不信感が、僕の内部に相当あった。
ところでアメリカは、長い間個展をやらなかったんです。僕は意識してやらなかったんであって、いわゆるチャンスがなかったわけじゃない。無数のギャラリーから今までオファーがありましたし、いろいろな美術館の人が家に来ました。
しかしアメリカに対するイメージ、これは多分に政治的な漠としたものですけれども、僕はずっと乗り気が起こらなかった。71年にポーラ・クーパー(Paula Cooper)とペース・ギャラリー(Pace Gallery)を当時のアメリカ文化院長のウォーレン・オブラックさんの紹介で訪ねましたけれど断られて以来やる気は起こらなかったです。それが数年前からペース・ギャラリーから積極的なアタックがあって2007年のヴェネチア・ビエンナーレの僕の個展を見てアーニ・グリムシャー(Arne Glimcher)というオーナーが日本にとんで来るようなことになりました。
ペース・ギャラリーでやることが決まってすぐバーバラ・グラッドストン(Barbara Gladstone)から強烈なアタックがありましてかなり迷いましたけれどもSCAIの白石正美さんに入ってもらってうまく断り、それでもいろいろあって08年9月にペースでニューヨーク初の大個展を開きました。二つの会場だったので絵画と彫刻をゆったり並べることが出来、思い通りのいたれりつくせりの個展をしましたね。
で、オープン前にいろんな批評家にも会ったり、それから一般の人たちにも会った全体的な印象は、これはもうヨーロッパや日本とは全然違う。彼らの反応というのはどういうものかというと、文化的スタンスじゃない。例えば僕の絵をぱっと見ると、あっとか、ワンダフルとか、シンプルとか、ベリーストロングとか、非常に簡単な反応。これはヨーロッパや日本では絶対にない。あっとか、そういうようなことはない。じーっと見て、何かねじれたような言葉で声かけるとかね(笑)。この人の背景はどうなっているんだろうとか、あなたは何に関心があるんだとか、ややこしいことになる。アメリカは批評家であろうが一般人であろうが同じ。もう非常に単純明快。だんだんそれが分かったんですね。一般の観客の反応も批評家の反応も同じだということが分かった。
それを決定的にしたのは、同じ時期にペノーネが他の画廊で展覧会をやっていて、アメリカ人の感性が分かった気がした。マリアン・グットマン(Marian Goodman)といういい画廊ですけども―、あるレストランで彼に会ったんです。彼は昔から親しく、パリのエコール・デ・ボザールで同じ年に招聘教授として入って、彼は正教授で居残った。僕はしばらくやって辞めたんだけども。ペノーネに呼ばれて彼の展覧会のオープンに行ったんですね。行ったらお客さんはまばらなんだけども、その展覧会はたまたまパリのマリアン・グッドマンで見た展覧会だった。いくつか作品を変えただけだったけども、とても僕にはおもしろい、新鮮だった。パリで見れたものとまた違って、ニューヨークだと本当にどう見ていいか分からないけれど、よく見ると彼は、例えば木の皮を鋳物で型取ったり、木の中をくり抜くとか、前は表をはがしていたのに今度は中をくり抜くとか、木の表皮をブロンズでとるとか、いろんなことをやっていて、僕にはすごくおもしろかった。そこで二人の批評家に会った。会ったら僕にそっと「これおもしろい?」と聞く。「おもしろい」。「どこがおもしろいんだ」と言うから、「いや、どこがと言ったって、前から知っているからね。僕は親しいし」。「ふーん」なんて言って、みんなあまりいい顔しないんですよ。それで後でペノーネに聞いたら「こいつらは俺の作品なんて全然分からないんだ」と。「そんなはずないと思うけど」と思ったけど。
それからマリオ・メルツの個展もバーバラ・グラッドストンで見ましたが、そこでもある別の批評家に会ったんですね。会ったら、彼の原始人めいたコンセプトは何となく分かるけども、この意味ありげな感じはいやだねって。その近くにポーラ・クーパーがあって、そこにカール・アンドレ(Carl Andre)の枕木みたいのが並べてあって、あまりにも違うの。それで、その批評家は「カール・アンドレのを見たか」。「もう嫌になるほど見たけども、去年来てその作品も見たけども、今もまだ同じもんだね」と言ったら、「あれでいいんじゃないか」と。マリオ・メルツの作品を見ていると、ヨーロッパの連中は何か難しいイメージで頭が痛くなるみたいな。彼らは何となくぱっと言ったんだけども、だんだんとそれが分かってきたんです。もちろん彼らは専門家だったから、コンセプトもよく分かってるんだけども、反応として認めたくないということがあるんだなあと。それに比べると僕のは、難しく考えないで前にぱっぱっとあるだけで、石と鉄板があったり、すごく明快なんですね、彼らにとってみれば。アジアチックとか、よくヨーロッパで言われるんですが、そういうようなこともないしね、一切。目の前にあるもので全て。
これはなんだろうと思った。若い人たちの展覧会もあちこち行って見たり、ハイテクを利用したビデオだとか写真やらを見ると、ウォーホルを見直した感じで、コンセプチュアル・アートもポップ・アートもミニマルも何も、大きい意味では通底している。そんなに難しいこととして彼らは考えていない。目の前に提示されたまま。目の前にあるものが全てという。これは文明なんですね。ある出来事なんですね。今の出来事が、今の都市社会、産業社会、ハイテクの社会ではこうなんだという。単刀直入にぱっと映る、それが全てで、背景がどうとか長い時間につかっているかどうか、発酵しているかどうか関係ない。ヨーロッパだとか日本だと、どうしても背景がどうなって、どれだけ熟成したのか、クオリティーがどうなのかとか(聞かれる)。こんなのは全然関係ない。それを僕は了解した時に、すごく気が楽になっんだよね。僕の世界だけではなくて、現代美術の大きな、全体的な動きです。
今の美術となると、批評家たちが展覧会を組むときに大半がまずインスタレーション、それからビデオ、写真、言葉を変えれば、ひとつの出来事を拾っているんですね。だから、発酵したり、長い時間の文化がどうなっているかの問題ではない。これは文明の断面なんですね。そうして見ると、すごく分かりやすくて通りが良くなる。僕は、自分のことは否応無しに紛れもなく文化の問題でやっているのに、あの連中は文明の問題として受け取ってしまう。単純明快に今、目の前にある出来事をすっと受け取るとういう感じです。近代性とかヨーロッパ、アジア、そんな問題に彼らは全然関心がない。誤解であろうが何だろうが、彼らは彼らの独特なスタンスで受け取ってしまう。その背景としては、今の大きな世界的な一つの流れというか、一つの出来事というか、文明的なものの見方というものがあるのではないだろうか。そうするとけっこうつじつまも合うし、非常に通りよく、落書きふうのものだとか、茶化しているものだとか、機械で描こうが手で描こうが、ちょっとした面白半分なものから、インスタレーションだとかビデオとかいろんなものが繋がっていく感じも非常に分かってくる。クオリティーが低いとか高いとか、そんなことに彼らは全然関心がない。ばっと目の前にぴかっと光るかどうか、それだけが問題という感じです。僕にはアメリカ周りで世界の動きとか美術のあり方、現象が、何となく分かったような気がするようになったんですよ。

中井:先生の作品について、ヨーロッパ、日本とアメリカ、その文化、考え方の違いというのは非常に興味深い話でした。

李:ヨーロッパでは僕のは、山水画と関係があるかとか、あるいはフォンタナと関係があるかとか、彼らは必ずどこか引っ掛けて聞いたり、ずーっと長い間のこととかけて聞くんですよ。簡単には目の前のもので済まさない。あなたのものをヨーロッパで30数年ずっと見てきたんだけども、だんだんヨーロッパの絵に見えるんだけれども、あなたの気持ちはどうですか、とかね。アメリカではそういう質問受けたことがない。無数のインタヴューを受けたんだけど、一切ない。彼らはそういうのに関心がないんですね。

加治屋:ヨーロッパや日本とは違う解釈というのが登場してくるんでしょうね。

李:そうですね。アメリカのあれは、グローバリズム云々というのではない。グローバリズムというのは、ある意味では、一種の文明的な見方ということだと思うんです。それは必ずしも、アメリカ発なんだけどアメリカだけではない。たぶん今、画廊や美術館で従来のコンテクストだけで美術を見ようとしたら、これは、どうしてもちぐはぐで見えない。もっと別な視角で見ないと、今現在行われていることをフォローするのは難しくなる。僕は学校の先生を長くしたせいか、展覧会もよく回ったり若い人たちの展覧会も見たりしたせいなのかもしれないけど、自分はそうしなくても今動きはそうなんだということは、僕は一応、少しは知っているつもりです。だけど、僕自身の作品はそれによって影響を受けるかというとそれほどないと思う。自分のやるスタンスをもっともっと切り詰めて、もっともっと徹底化していくしかない。もう今さら変えようがないわけですね。ただ、それでもどこかアメリカは、行き違いや誤解かもしれないけども、僕の作品は彼らに引っかかる部分がある。引っ掛けられる部分が僕の中にあるんだということも否定できないかなという気もする。
僕は今若い人たちがやっているようなパフォーマンスふうでもないし、かなり長い間訓練したテクニックや伝統的な道具など、いろんなものを使って、クオリティーも相当気にしながらやっている。だけども、これが、美術の内側で収斂しているのではなくて、開かれたものにしているつもりです。それこそ外との関係、空間との関係とか、空間や場との関係が見えるもの。彫刻になると石と鉄板を引き合わせたりしていて、それが一種の出来事、パフォーマンス、インスタレーションというか、そういう感じを与えると思う。この出来事によって絶えず外と内との関連が見れるようになっているわけです。僕独特なやり方で、内と外とか他者と自己という問題などいろんなことをやってきた。僕の身体を媒介にする仕事は、方法も違うしスタンスも違うんだけれども、今現在の文明的なものと、行き違いはあるけども、どこか引っかかりがあるのかなあという気もするんですね。作品主義だけに収斂しない、周りの空気や広がりと関わる問題を抱えているのかなという感じもします。

中井:最後に、2010年に予定されている瀬戸内国際芸術祭において、安藤忠雄さんと共同のプロジェクトを立ち上げているということを聞いています。そのようなことも含めて、今後の展開、今やられているプロジェクトについてお話を伺いたいと思います。

李:2010年1月頃、ロサンジェルスで、ペース・ギャラリーと関係のあるブラム・アンド・ポー(Blum & Poe)画廊でやるんです。ニューヨークに並んだものを移動する感じです。それからヨーロッパではまだ断定的に言えないけれども、美術館の展覧会とか画廊の展覧会がいくつか、続きます。特に11月はニースの現代美術館で彫刻展が開かれる予定ですが、もしかしたら少し先送りの可能性もあります。9月にはパリのタダウス・ロパック・ギャラリー(Galerie Thaddeus Ropac)で個展があります。
日本では美術館の展覧会は、横浜以来まだやっておりません。今のところ、美術館の話はいろんな地方からはあるんですが、しばらくは、急いでやるような考えはあまりもってない。2010年に直島で、安藤さんの設計で僕の美術館が建つんです。これは去年福武さんから持ちかけられたんです。実は安藤さんは昔からの親友ですし、何か一緒にやろうよという話はあったけれども、今まで実現してなかったんです。それが、安藤さんの手による建物と僕の作品を合わせて一つの美術館を作ろうということになって、今設計も大体終わりました。美術館が2010年5月頃出来上がるという予定で進んでいますね。美術館の話は外国でも時々出ますが難しいです。ヨーロッパでは美術館で僕の部屋があるところは数カ所あるんです。自分の個人美術館というものはどういうかたちにしたほうがいいのか、いろいろ考えているところなんです。本当に自分で最もやりたい方向で、安藤さんも周りの人たちも納得いくような空間造りをしたい。だからたくさんの作品が見れるようなそういうものではなくて、本当に空間というか一つの世界が見れるような美術館にしたいということで、いろいろ今やっているところです。
今の自分の仕事がどう変わっていくのかという質問をされるけども、それは僕にも分かりません。僕はだんだん、年も決して少ないほうではないので、もっと徹底化するということはあっても、がらっと変わるということは非常に難しいだろうと。だからもっと厳格にしていって、もっともっと自分のやりたいことを整理していくという感じかなあと思います。

中井:先生の展覧会を個展で拝見したいですけれども、空間がとても重要だと思います。個人美術館というのは本当に私たちの期待が膨らみます。

李:どうなるか僕も不安と期待でいっぱいですけど。安藤さんということで非常に僕も楽しみです。

中井:まだ本当はお聞きしたいことはいっぱいあるんですけども、先生のご予定もおありだと思いますので、今日のところはこれで終わりにさせていただきます。

中井・加治屋:どうも長いあいだ本当にありがとうございました。