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前川秀治インタビュー 2017年12月18日

京都市左京区 元・白川小学校にて
インタヴュアー:中谷至宏、山下晃平
同席者:安土優(滋賀県造形集団 初代代表)
書き起こし:日本職能開発振興会
公開日:2020年7月4日
 
前川秀治(まえかわ・しゅうじ、1946年~)
美術家、滋賀県造形集団世話役副代表
1946年滋賀県高島に生まれる。1970年に京都市立芸術大学美術学部西洋画科を卒業。油彩制作を行うが、在学中より版画も手がける。現在、滋賀短期大学名誉教授、京都銅版画協会代表。1975年に滋賀県造形集団が結成されるが、前川氏はその結成時からのメンバーであり、事務総長や代表を歴任し、現在は世話役副代表。滋賀県造形集団は、1975年5月に「長等公園野外彫刻展」(滋賀県・大津)を開催、その後も1981年には「びわこ現代彫刻展1981」、1994年には「現代彫刻国際シンポジウム1984―びわこ現代彫刻展」と、日本の美術動向としても早い時期より野外彫刻展を開催している。これらの野外彫刻展では、乾由明や中原佑介など著名な美術評論家も関わり、国内外の作家が招聘された。さらに、前川氏や滋賀県造形集団の若手メンバーらは、1990年には琵琶湖の沖島という島全体を会場とする「BAO芸術祭 in 沖島」を開催、美術だけではなく、音楽、パフォーマンス、舞踊、文学、また島民とのワークショップなど、ジャンルを超えた芸術祭を誕生させた。一方で滋賀県造形集団は、滋賀県内での美術館設立に尽力し、実際にその運動は実り1984年に滋賀県立近代美術館が開館している。前川氏には、2回のインタヴューを行い、常に琵琶湖という地域性を手がかりとしてきたご自身の制作姿勢について、そして滋賀県の現代美術、文化振興に寄与した滋賀県造形集団のこれまでの取り組みについてお話しいただいた。

山下:最初の質問ですが生い立ちについて、お聞かせいただけますでしょうか。いつ、どちらの方でお生まれになって、ご両親の方は差し支えない範囲でいいのですが、どういった方だったのかというところなど、お話しいただけますでしょうか。

前川:またこれ(注:前川氏の手元資料)を後でお渡ししますけども、昭和21年、1946年の10月3日に生まれました。父が藤蔵、それから母がます。「藤」の「ゾウ」。

山下:ありがとうございます。

前川:それで、五人きょうだいの末っ子で、三男坊です。

山下:五人ものごきょうだいがいらっしゃるのですね。

前川:はい。で、生まれた里がなかなかおもしろいところで、今ちょっといろいろ勉強しているんですけど、継体天皇のお父さんのお里でしてね。その里で継体天皇が生まれて、そこからお父さんが亡くなって、三国の方へ移られて。

山下:三国ですか。

前川:はい、福井の。それから畿内から呼ばれて、それで請われて畿内へと参られたということで。そんな里でございましてね、三尾(みお)族と言いまして。

山下:三尾族ですか。

前川:はい、三尾族。一応生まれたところが、三つの尾の里ですね。三尾里と言いますけど。稲荷山古墳とかね、いろいろとありまして、なかなか歴史的に面白いところです。それからもう一つは、おやじの「藤」もついてますけども、中江藤樹(なかえとうじゅ)。

山下:はい、書いていますね。(注:前掲の資料を見ながら)

前川:はい。中江藤樹の流れで、その研究者のお宅に、何か幼稚園の子供みたいにして、よく寄せてもらっていました、弁当持ちで。

山下:そうなんですか。

前川:それで、百姓の子せがれですので、農繁期には昔はふご(注:竹や藁で編んだかご)に入れて、動けないように包んで。

山下:寝かすんですね。

前川:それで、その上に猫が乗って、動かないようにしていたと。やっぱり動くようになってしまうと農作業の邪魔になりますから。だから、たまたま隣が松本義懿(よしい)という先生ですけど、中江藤樹の研究者だったんです。女学校の初代の校長もやり、それから、中学校の校長もしていた先生です。で、その先生のところに預けられて。そんな関係から中江藤樹の話もよく聞いていましてね。だから、ベースにそんなことがあるのかなという思いがします。

山下:ウェブサイトなどの前川さんの情報では、高島のお生まれとありますが。

前川:ええ、高島市ですね、今は。昔は高島郡安曇川町ですね。

中谷:安曇川町ですね。

前川:はい。それで三尾里(みおざと)という。

山下:それで、三尾里という地名が生まれなのですね。ありがとうございます。

前川:で、水尾とかね、皆、三尾族なんです。三尾、三尾って、あの辺の名前が。

山下:そういう名前が、みなさんにつくのですね。

前川:はい。高島町の岳山(だけさん)も、岳山(だけやま)と言って信仰の山があるんですけど、そこも三尾山(みおやま)といいますね。だから、あそこはもう全部、三尾、水尾、三重生なんですね。(注:古代の音読みの音(ミオ・ミヲ)が先にあって、後代に漢字を当てたものと思われる。)で、継体天皇のお父さんのお墓もございましてね。これが、大王の古墳でございます。王塚古墳。(注:高島町の古い地図を見せてもらいながら。)

山下:ありがとうございます。

前川:はい。ここでよく中学校のスキーまで(笑)。ここまで歩いて、スキーを担いで、そこでよく遊んだと。それで、この墳墓の、ここの畑を、うちが後で買い求めたようでございましてね。だから、何かこう、懐かしくて、うろうろしているんです。この前、ちょうど講演会があったので、喜んで(笑)。また皆さんに見てもらおうと思って、持ってきましたけど。(注:講演会の資料を見せてもらいながら。)

山下:結構、歴史的なことへのご関心も高いのですね。

前川:いやいや、自分のルーツを探るということで。まあ、どうせあれですけど、山賊のなれの果てかもわかりませんけど、まあ、そんなことで、面白い。

山下:ありがとうございます。

前川:そういうところで、松本義懿という先生のところでお世話になったという。5歳の物心ついた頃から、もう弁当持ちで行きましてね。その後、うちの家が買い取りまして、そこへ住みまして。松本先生ご一家は、またちょっと藤樹神社がありまして、そちらの方へ移られて、そこで幼稚園をしておられました。そんなことで、おもしろいご縁をいただきましてね。

山下:そしたら、元々、福井の方からだったのですが、高島の方に来られたと。

前川:いや、お父さん(彦主人王)が三尾里。お父さんのおきさきですね、振媛(ふりひめ)という方が三国から嫁いでこられた。(注:3児が誕生。その臍の緒のえな塚が三尾里に残っている。3児の一人が後の継体天皇。)

山下:あ、お母さんがですか。

前川:ええ。お父さんが亡くなったから、三国に戻って、そこで継体天皇を育てられたということです。

山下:ああ、そういうことですね。

前川:はい。まあ、そういうことで、やっぱり大陸との関係、朝鮮半島の関係が、ルーツとしてね、あるようですね。だから、向こうの方(注:大陸・朝鮮半島との関連)は、よく教えてもらうんですけど、帰化人の磨崖仏(まがいぶつ)とかね、そういうのを、安土先生はよく研究されていましたね。

山下:そうなんですね。結構、そういう歴史的な……

安土:高島という語源がね、高貴な人が住んでいたという、そういう語源があるそうですね。その専門家が言うにはですね。それで、まあ、おっしゃるように、小浜って福井ですよね。

山下:そうですね。

安土:いっとき滋賀県の文化圏が同じように福井にあったんですね。それぐらいの同じような文化圏で。まあ、三尾族は、対岸(長浜)の息長(おきなが)という。いわゆる大和朝廷との関係も深い豪族ですけど。

山下:すごい、お詳しい。

安土:それが擁立したんですね、三尾族っていうのは。ワニ(和邇氏)というのがもう一人いますけどね、湖西に。(注:若狭から大和への文化ルートの中で、鉄鉱石と製鉄技術などで力を持ったそれらの古代豪族が、中央への影響力を持っていた。)

山下:そういう土地柄なんですね。

前川:ご本家が向こう(息長氏)だったみたいね。ご本家から分家みたいな形で高島に来られたとかいう話も。

山下:すごい、お詳しい。

前川:あるような感じはあるんですね。

安土:そうね。で、安閑天皇(あんかんてんのう)という。

前川:そうそう。安閑天皇。

安土:それで、ホツマツタエ(注:ホツマツタヱ、秀真文字(ホツマモジ))ですから、不思議な絵柄。

前川:古代文字の。

安土:古代文字の石像があったりしますね。

前川:石像がありますね。はい。安閑天皇を祭るね。

安土:あまり研究されていませんけど、不思議な石像があるんですよ。

山下:あるんですね。そこは行ってみないと。

安土:それ、お隣ですもんね、生家の。

前川:そうですよ。

山下:前川さん、すみません。確認なのですが、末っ子でいらっしゃって、この三男というのは。

前川:要するに、きょうだいが、男の兄弟が三人と、姉が二人ということで。

山下:そういうことですね。ありがとうございます。

前川:はい。だから、どっちにしても末っ子なんです。

山下:ありがとうございます。五人きょうだいということですが、子供の頃に前川さんが美術を意識し始めるきっかけを教えていただければと思うのですが。

前川:おやじも、それから母もね、美術には全く関係ないんです。で、生活する中で、何かね、文化的な絵画に飢えていたようなところもありましてね。昔、『家の光』(注:1925年、産業組合中央会から創刊。)という農業の雑誌があったんです。そのカラー刷りの折り込みがあるんですよ。それで、西洋美術をよく特集していましてね。その中をキーッと切ってね、姉がよく張ってくれました。張る場所がありましてね。

中谷:なるほど、いつも決まった場所がある。

前川:居間の壁にずっと張ってくれていまして。まあ、そういう意味では、「あ、ええな」。「油絵って、一遍見てみたいな」という思いがあったんです。で、兄が日本画を少し習っていた時期があったんですけども、その兄の絵も見ていましてね、「うわっ、すごいね」と思って。

山下:子供の頃に。

前川:はい。で、「秀治よ、絵はな」って、「そんなふうに覚えて描いたらあかんぞ」と言ってね。要するに、船、軍艦とかね(笑)、私は描けません。で、「そんなので描いていたらあかんぞ」って、よく兄が言いましてね。そういう思いで、絵にはかかわった要素は若干あるんです。で、おやじも手が器用な方で。地域の青年を集めて籠づくりを教えたりしていました。手づくりの世界が私も大好きでございましてね。

山下:もう好きだったんですね、子供の頃から。

前川:はい。魚釣りも針からね、幼児のときにつくって、アカムツを釣りまして。5歳でっせ。

山下:器用だったんですね。

前川:赤色の針金で。銅の針金がよくあちこちに落ちていましてね。それを石でコンコン、コンコン。それからお母ちゃんの針箱から糸を取ってきて、それで「何か棒がないか」と。旗ざおといって、昔、国旗を立てる棒がありまして、そこに結びつけて、それでイナゴを捕まえてね。

山下:ああ、時代が。

前川:イナゴを針につけて、そして前の川に流しましたらね、何と、アカムツがぴーんと。

山下:ああ、すごい。

前川:何にも魚釣りのことは知りませんでしたけど、それがね、私の魚釣りとの最初の出合いだったです。で、近所の…… あ、また魚釣りの話になってしまいましたね。

山下:いえいえ、何でも話してください。

前川:美術は関係ないんですけどね。

山下:大丈夫です。そういうようなお話を。

前川:それでまあ、そういうことが、後々の魚をモチーフにする要素があるように思いますね。料理をしたりね、いろいろと含めて。

山下:子供の頃の遊びは、普通に外でそういったことをされていたのでしょうか。

前川:そうです、はい。

山下:家の外に出ていくということで、美術の図画工作とは別に、家で絵を描いたりとか、そういうことはあったんでしょうか。

前川:あ、クレヨン、パスでしたかね、昔は。あれは買ってくれましたね。学校に入る前は、それで軍艦を描いて、怒られてました(笑)。

山下:やっぱり描くのも好きだったんですね。

前川:はい。小学校で、ちょっと褒めてもらいましてね。展覧会に出してもらって、喜んでいましたけども。

山下:展覧会に。

前川:ええ。

山下:そういう経験も、もうあったんですね。

前川:ええ。それで、ちょうどがき大将ではないんですけどね、仲間の友達の顔を描いて、「あんまりええさかい、秀ちゃん、これ、くれよ」って、取られてしまいまして(笑)。

山下:やっぱり、描くのは得意だったんですね。

前川:小学校のときは、そんなふうに、皆、わあわあ言ってくれました。

山下:お兄さんが日本画の絵心を持っていたということですが、今は、ご家族の中で他にも作家の方がいらっしゃいますか。

前川:もう全然。

山下:今は、皆さんは違う?

前川:はい。

山下:じゃあ、前川さんだけは、こうやって絵の道に進んだんですね。

前川:はい。今、息子と娘がいますけど、もう独立はしていますけども、結局、絵は描かないですね。まあ、たまには絵を描いて、何かグループ展みたいなのもやっていますけどね、その程度で、本格的には絵を描きはしませんね。

山下:中学校や高校のときはいかがでしょうか。例えば、美術部とか。

前川:中学校。そうですね、美術部に入りたかったんですよ。

山下:そのあたりはどうでしょうか。

前川:ところがね、あれがね、女の子みたいっていうのがね、昔はありまして。美術っていうのは女の子のやるもんやと(笑)。

山下:ああ、なるほど。

前川: 結局、それもね、残念ながら。

山下:そういうことがあったんですね。

前川:ええ。それで、音楽もやりたかったんですわ。

山下:音楽もですか。

前川:はい。音楽も、えらい褒めてもらって。小学校のころから、もうボーイソプラノで。それで、中学校もなかなか音楽の成績だけは良かったので。

山下:そうだったんですね。

安土:すごいね。それはすごい。

前川:「楽器、やらへんのかい」って、先生からお誘いも受けたんですけど、結局、ずぼらで何にもしないで。それで、どっちかというと、理科の関係ですね。

山下:理科ですか。新しい情報ですね。

前川:京都大学卒の中学校の教師が、「おい、こんなのがあるけど、ちょっと研究してみないか」と言って、それで菜種の研究をやりましたね。

山下:高校の頃ですか。

前川:中学校。

山下:中学でですか。

前川:はい。それで、県で表彰されましてね。

山下:本当ですか。すごい。

前川:ええ。それは、菜種のさやの、目で捉えた状況と、そしてその油の量ですね。これを、どうかなということで調べましたらね、大体もうぱりぱりになってから収穫するんですね、普通の農家は。ところが、それでいくと、(油の量が)相当落ちてしまってて、無駄ができるんですね。で、「それまでに必ずピークになっているときがあるだろう」ということで、このさやの、何だったかな、半分だったっけな。半分茶色になったとき。そこからもう油の量は変わらないとか言って。それを先生のご指導で、三人がわあわあいって遊んで、それで突きとめて、発表したんです。農協、試験場でもいろいろと聞いてくれましてね。

山下:すごいですね。

前川:面白かったです。それは、やっぱり指導者がね、うまいこと指導をしてくれました。

山下:それでは割と、美術、美術というより、絵ばっかり描いていたっていうわけでもなく、理科も含めて本当にいろいろなことにご興味を持っておられた。

前川:そうです、はい。理科がまたね、化学につながる。それで関連する銅版画にひっついてしまったんですね。

山下:なるほど。そうか、化学変化という。

前川:ええ。やっぱり完全に化学の作用で腐食の段取りができますので。

山下:そうですよね。それでは中学、高校は美術部ではなかったということですね。

前川:あ、高校からちょっとね。そこに岩本鉄之助、うちの同窓です。大正時代ですけど、周凞先生。

山下:周凞先生。

前川:岩本周凞先生がいらっしゃったんですけど、その方が高校一年のときに、顧問で来られて、美術部でわあわあやっていましたよ。

山下:ここで美術部が出ましたね。

前川:はい。非常勤で、いろいろと教えてもらったんですけど。そこへ、その上にあります山本満先生。(注:前掲の手元資料を見ながら。)

山下:ありますね。

前川:この方が高校2年生の時に来られて。そこから薫陶を受けまして(笑)。ちょうど今津町のドライブイン。レストランで個展をされました。

山下:今津のドライブインですか。

前川:ええ。昔、ごっつい作品でしたわ。私は初めてそれで油絵に触れたという感じがしますね。もちろん一年生のときにも、油もちょっと触ったことがあるんですけど、やっぱり本格的には、この山本先生の絵を見て「うわあ」と思ったんです。いい絵ですね。

安土:そうですね。とてもうまい絵です。

前川:最高にね、土の匂いがする。

山下:きっかけが見えてきましたね。

前川:うん。本当にすばらしい油の作家なんですけど。

安土:一ヵ月ほど前に、個展をされていました。

前川:そうそう。

山下:今でも、精力的に。

安土:京都でね。

前川:はい。京都で、ギャラリー恵風でされていたんです。(注:「山本 満 展 —山と湖—」、2017年7月4日–16日。)

山下:そうなんですね。

前川:それで、もう惚れ込んでしまって、「先生、私も絵を描きたい」って。

山下:ああ、そこで。

前川:それで、実は家の関係からすると、兄がね、おやじのちょっと病気がちなところをサポートしていて。もう高校も行かずにね、家を守ったんです。それで、おもしろい男でね、それからいろいろと勉強に行って帰ってきて。開拓村がちょうど。

山下:開拓村。

前川:ええ。この奥の方の泰山寺野(たいさんじの)という、そこに開拓村があるんです。(兄は)そこの開拓をしましてね。

山下:じゃあ、元々は高島の山だった場所ですか。

前川:ええ。山の泰山寺野という山を。今津駐屯地(注:滋賀県高島市)がありますけれど、その反対側です。安曇川を挟んで。そこの開拓をしまして。開拓をしますと、その土地の権利をもらえたんですね。それでどんどん。私もよく自転車でその山まで行って、手伝いはしましたけどね。そんなことで、「おい、秀治、もう家はおまえがやれ」って。「おまえがやらんとあかん」って。「わしはもうこっちでやるさかい」って。

山下:あ、勧めてくれたんですね。

前川:はい。ところが、絵を描きたい(笑)。それで、兄は、両方を一生懸命やってくれました。

山下:そうですか。家は農業の。

前川:そうです。「百姓をやれ」って言われていたんですけど。その関係で、ありがたい、そうなって、一年間浪人をさせてもらって。まあね、最初の高校のときのデッサンは、すごかったですよ。真っ黒けなんだよ(笑)。

山下:真っ黒けですか。

前川:うん。何にも知らないところで、やっていますからね。木炭デッサンをやりまして。暗くなるまで毎日、やってて。

山下:それは画塾ででしょうか。

前川:いや、高島高校で。

山下:高校で。

前川:はい、県立高島高校です。その山本先生の薫陶を受けて、デッサンをやってました。

山下:それでは、山本先生との出会いは結構大きいということですね。

前川:ええ、大きいですね。それで、「やっぱり美大、受けたい」と。「おまえ、やめとけよ」と。それで、「うちの学校から京都美大は誰も入ってへんわ」。

山下:そうですか。

前川:うん。「やめとけ」って言われていたんですけど。

山下:意気込みが違う。

前川:で、その(資料の)下に山尾平(ひとし)先生。で、ちょうど受験の前に、2月ごろから特訓です。それで、滋賀大学に通いましてね。

山下:滋賀大学ですか。

前川:ええ、滋賀大の。

安土:(山尾)教授ですね。

前川:うん。教授でございまして。

山下:それは、ご紹介があったんでしょうか。

前川:ええ。山本先生が。

山下:山本先生から。

前川:弟子ですので、孫弟子みたいなものですわ。で、滋賀大のアトリエで、デッサンをさせてもらって。で、「おい、前川君、もうデッサンはええわ。受かるさかい」って(笑)。

山下:じゃあ、やっぱり。

前川:とても無理。自信、持たせてもらって受けまして、見事に落ちましてね(笑)。

山下:1年目は落ちてしまったんですね。

前川:で、ちょうどその(資料の)下に、伊庭(いば)傅治郎先生。二科(会)の会員で、京都美大の教授だったんですけどね。それで、この伊庭先生の塾に入りたいと。(注:京都二科美術研究所、通称、伊庭研(いばけん)。)

山下:ここで画塾が出てきましたね。高島にあるんですか。

前川:いえいえ、京都の。

中谷:市内ですね。

山下:あ、すみません。京都市内ですね。

前川:はい。京都市の北白川。

中谷:北白川でしたね。

山下:結構遠いですよね、高島から。

前川:いや、もうどっちにしても、叔母のところに泊って、うろうろしてましたし、それで、浪人をさせてもらうことになって、叔母の家から自転車で毎日、通いましてね。で、毎日、10時間ぐらい、させてもらっていたかな。

山下:受験前の状況が見えてきました。じゃあ、京都にいらっしゃったんですね。1年。

前川:はい。ただ、そこで、伊庭傅次郎先生のご指導がね、相当おもしろいんですわ。おもしろいって言ったらあれだけど。あ、伊庭美術研究所や。「伊庭研(いばけん)」って言ってますけど。

中谷:伊庭研ですね。伊庭研に行かれたのは、滋賀ということで、「京都だったら、やっぱり伊庭研に行こう」みたいな流れは。

前川:はい。それで、これも、山本満先生に。

中谷:ああ、そうなんですね。

前川:はい。相談して、「それなら、そうせいよ」と。もちろん山本先生も、「うち、来てもええんやさかい。それで気が向いたらまたおいで」ということで。で、1年間また勉強させてもらって。で、そのときの伊庭先生の(面白い)ご指導があって。それまで、七、八十枚ためてましたかね、石膏デッサンを。それを見てもらって。そうすると、釣りざおでね、おーって示して。

山下:釣りざおなんですね。

前川:釣りざおです。

山下:面白いですね。

前川:いや、先は取っていましたけどね。

山下:そういう指導なんですね。

前川:はい。それでね、椅子に座って、おーって。うん。

山下:ああ、面白い。

前川:で、私、こう下に座って、次から次から出すんですね。それで「いいですね」と、もう褒められることしかないんですわ。

中谷:なるほど。

前川:うん。「まあ、いいですね」か。それで、「いいですね」「これはいいですね」、3段階評価(笑)。

中谷:(笑)なるほど。

山下:シンプルですね。

前川:それで、「これはいいですね」と言ってくれたのが、1枚あるんです。

山下:あ、そうですか。

前川:それで、そのとき、大分天狗になってましたんやわ。こう、調子のつけ方とかね。相当勉強させてもらっていたから。

山下:やっぱりデッサンは得意だったんですね。

前川:それで、何と、「これはいいですね」って言われた作品はどれかいうと、一番最初に描いたデッサンなんですよ。

山下:後じゃなくて、最初の。

前川:最初。

山下:新鮮な気持ちの。

前川:あれは、受験生にとっては、もうショックでしたね(笑)。

山下:受験前の、完成じゃなくて。

前川:半年以上も別のところで描き、ね、先生のところでお世話になって、見てもらったんですけど、「これはいいですね」と言わはったのは一番最初のデッサンでした。

中谷:今、少し調べさせてもらったら、伊庭傅治郎さんは1967年にお亡くなりになられていらっしゃるので、もう本当に最後の最晩年のころに出会われたんですね。

前川:ええ。オフレコですけど、「伊庭先生を殺したのは前川と森田や」って。

中谷:なるほど(笑)。そういう話があったんですね。

山下:それほど伊庭先生にとって前川さんは印象に残っていたんですね。

前川:大学へ入って1年目です。作品を背負ってね、見てもらいに行ったんです。そうしたら、もう一目で、「ああ、美大に入ったらあきませんな」って(笑)。で、それから調子が悪うなられて。皆に言われました。

中谷:なるほど。

山下:ありがとうございます。不勉強ですみませんが、その伊庭研時代のときに一緒に学んでる人が大勢いて、今でも仲間というか。

前川:ええ、たくさん。

山下:結構、仲の良い関係でしょうか。

前川:仲間同士もあるし、それから「あ、おまえも伊庭研か」とかね、そういう形で。

山下:かなり活発な状況だったんですか。

前川:ええ。つながりがどんどんできるんです。まだまだ広がるんですね、不思議と。あの当時の仲間だけと違って。

中谷:もう、ものすごい数ですよね。京都で考えると。

前川:そうです。それで伊庭新太郎先生とも親しくさせていただき、「新ちゃん」「新ちゃん」と恐れ多くも呼んでいましたけどね。新ちゃんの奥さんが「嘉子さん」。それから、伊庭傅次郎先生の奥様が「おばさん」。もう家族ぐるみでね。

山下:そうですか。すごい。

前川:ありがたかったです。その中で勝負するのが、それは競争相手ですから。ところがね、一歩外に出ますとね、まあ、スクラム組んで。

山下:そのあたりの話が興味深いです。

前川:わあわあ遊んで。近くに京都大学の農学部があって、そこにグラウンドがあるんです。よくあそこへ、ボール持ってね。

山下:あ、スポーツも。

前川:遊びに行き。大文字山に登り。雪が降ると、あそこに登るんです。それで、比叡山も夏にね、夜に登山をするんです。まあ、そんなことで。

山下:そういう受験時代ですね。

前川:仲間づくりを、もう大事にしてくれましてね。本当に最高の研究所でした。あと、その場では、そうですね、新太郎先生もお帰りになって、それでご指導もいただきましたし。ちょうど3回生ですかね。黒川彰夫さん。彰夫先生に、またそれぞれご指導を受けましてね。デッサンの指導を受けて。ありがたい。いまだに、何やかんや、おつき合いさせてもらっています。

山下:そうですか。大学に入る前の話をもう少しだけ確認しておきたいのですが。山本先生の油絵を見て、本当に美大に行こうと思ったということですが、でも、本当に高島高校周辺ではあまり行く人はいないという状況だったとのことで、その決心は揺るぎないというか、「私は他の大学は受けない」というような気持ちになっていたんですね。

前川:はい。それはもう3年生では、確実に「もう絶対」という。

山下:それだけ、やはり美術が好きだったということですね。

前川:はい。

山下:理科とか、いろいろと興味もあるけれども、「行きたい」と。

前川:はい。いや、もうあのころ、できん坊のクラスに入りましたからね(笑)。1年のときは、6クラスあるんですけど、進学クラスが2クラス。で、トップのクラスに入学しましてね。

山下:でも、美大の方に。

前川:3年になって、文系ということだから、どっちかというと、悪い方に回ったのか分からないけど、あまり成績はよくなかったね(笑)。

安土:いや、能力はあります。

前川:で、わあわあ言うて。

山下:ちなみに、そのときのご両親の反応というものは。

前川:「そんなもん、飯、食えへんさかい、やめとけ」っていうのは、親父は言いましたけど。

山下:反対でしたか。でも、受けさせていただけたと。

前川:うん。そうですね。「あかんかったら、帰ってきたらいいさかい」と言って。

山下:では、理解もあったんですね。

前川:ええ。ありがたいことですね。だけど田んぼ1枚、売りましたね、やっぱり。

山下:資金ですか。

中谷:基本的に浪人の時代というのは、先ほど、市内のご親戚の方のところに。それはもう、そこで生活してというか、下宿をして。

前川:ええ、そうです。下宿してです。はい。

中谷:そういう形なんですね。ご実家から出られて、1年間ずっと。

前川:はい。米穀(配給)通帳を作ってもらって(笑)。

中谷:米穀通帳ですね。

山下:そういう決心で、本当に京都で1年と。

前川:はい。

山下:やはりこのころは、美大へ行くのというは、現在の京都市立芸術大学を目指すということになりますでしょうか。

中谷:当時で、美大系で、京都市内でと言いますと。

山下:東の東京芸術大学ではなく。

中谷:この1960年代というと。

前川:ええ、もう美大へと。

山下:関東とかは考えていなかったのでしょうか。

前川:関東は、山尾先生も勧められましたね。「東京芸大をなんで受けへんねん」と言う。

山下:やっぱりそういう話もあったんですか。

前川:だけどね、東京は。「これ以上、迷惑をかけられないしね」ということがあったから。

中谷:なるほど。

山下:西の京都芸大1本で、ここを目指すということですね。

前川:はい。金沢(注:金沢美術工芸大学)も志願はしたんですけど、結局行かずじまいで、現役のときは。

中谷:そうですか。選択肢として、私立というのは。当時だとないに等しい。

前川:全くなかったかな。

安土:なかったですね、はい。

中谷:そうですよね。

山下:皆、京都芸大を目指していた時代なんですね。すごい倍率で。

前川:ええ。結構な倍率でしたね。

安土:そうですね。

山下:そうですよね。相当ですよね。

安土:大阪もありませんしね、その当時。

中谷:そうですね。

安土:はい。

山下:ありがとうございます。それでは、子供時代の状況は見えてきたんですが、そういう決心で1年間、伊庭研に行かれて、京都芸大に入るということになりますね。大学での状況もお聞きしたいのですが、どのような先生に付いて、どういった教育だったのか、少し思い出していただければと思うんですが。

前川:そうですね、はい。今井憲一先生、安田謙先生、それから真野岩夫先生、津田周平先生、伊藤継郎先生。あと助手の3名の先生(舞原克典先生、山添耕治先生、大串佐知子先生)がおられたんです。

山下:結構多いですね。

前川:ええ。で、その舞原(克典)先生から特によく怒られました(笑)。悪さばっかりしてましたよ(笑)。

山下:西洋画科の先生方ですよね。

前川:ええ、はい。西洋画科です。

山下:多いですね。

前川:まあね、酒、飲んでは怒られてた(笑)。

中谷:もう舞原先生とはすれ違ってないのかな、山下さんは。

山下:そうなってしまいますね。お名前は。

中谷:そうか。辞められた後だったんですね。そうか、そうか。

前川:「デッサンは、前川君、もう美大の先生の言うことを聞いていたらあかん」と言うた、山尾先生(笑)。それで、山尾先生が土日と画塾を開いておられましてね。そこへよくお手伝いに行きました。

中谷:ああ、なるほど。

山下:スタッフですね。

前川:うん。で、「前川君、すまんけど、ちょっと留守にするさかい、ちょっと見たってえな」とかね、そういうこともちょっとやらせていただいて。「前川君、デッサンはもう。まあ、本物のデッサンはこれからやけどな」って。要するに、「白い石膏を黒い木炭で描くんやから、それはもうあかんで」と。そういうことで、とにかく真っ白けに描けと。

山下:真っ白けに。すごい逆説的な。

前川:いやいや、本当にね、ポイントだけで立体ができるんですね。

山下:興味深いです、そういうご指導。

中谷:ああ、なるほど。

前川:デフォルメももちろんですけど、デッサンのデフォルメなんですね。

山下:うん。60年代ですよね。

前川:「タッチもそうやし、で、ポイントさえつかまえたら立体をあらわすんや」と。「質感も出せる」という、そういう指導を受けました。それで、美大へ入ってから1年めに、「おい、前川君よ、東京芸大行け」って、山尾先生に(笑)。

山下:あ、入ってからですか。

前川:それでね、また親によう言い出せんかったけど。だけど、「とにかく受けてみるだけ受けてみるか」と言ってね。で、山本満先生に相談したら、「秀ちゃんよ、そんなもん、やめとけ。せっかく入ったんや。誰も入れんかったん、おまえ、入ったんやから」って。だけど、何か憧れがありましたね。美大では何も言いませんでしたけど、とにかく内申書を書いてもらおうと思ったら、「退学せんと書かないし」って。

山下:そうですよね。

前川:そういう具合で、それでセーフになった。

山下:まあ、60年代後半の学部生ということになるので、美術史としては具象から抽象まで、表現が広がっている時代だと思うのですが、授業では石膏デッサンとかそういうことも。

前川:いやいや、まあ、石膏デッサンも、油もあったんですけどね、どうも、ご指導そのものの世界からすると、ぴたっと来たところがちょっとなかったのもありますね。で、山尾先生とかへ。

山下:あ、外の方へ。実際、学部生時代は、課題では石膏デッサン以外にはどういった作品をされていたんでしょう。

前川:もちろん動物を描いたり、油をね、よく描かしてもらいました。

山下:課題で抽象もあったんでしょうか。

前川:抽象はなかったですね。

山下:抽象はなかったですか。

前川:はい。もう抽象をしている者もいましたけど、それぞれ自分の世界で。で、ちょうど教職も取っていましたし、それで版画を2単位でしたかね。吉原(英雄)先生と古野由男先生の授業を受けないといけなかったんですけど、受けてないんですわ。

山下:え、そうなんですね。

前川:それで逃げて回って。「なんで洋画にね、版画なんかやらないといかんねん」と、変な理屈をこねて(笑)。

山下:はい、ですが後に版画になっていきますね。

前川:それで、結局、晩に学校へ帰ってきて、そこで仕上げまして。両方とも課題は出したんですがね、先生の指導はちっとも受けていない(笑)。

山下:そうなんですね。結構、破天荒な。

前川:いやいや、それで、吉原先生の石版の方ですね、リトグラフの方で。

山下:吉原先生ですね。

前川:たった2点しか作っていないんですけど、それを舞原先生が「ええわ、これ。ちょっと貸せ」ということで。舞原先生の、何やら芸大で収集があるんですわ。

山下:収集ですか。

前川:教え子の収集してくれていまして。そこへ「貸せ」と言って、1点いっています。

山下:そうなんですね。

前川:逃げて回ってたのが、1点、それ(笑)。それで、古野先生のも全然、一遍も先生に会ってないんです(笑)。

中谷:(笑)ああ、そうなんですか。

山下:会わずに、卒業へ。

前川:会わずに、それで作品をこしらえて。うん。

山下:まあ、でも、それで大丈夫だったんですね。

前川:それで、よく怒られた、舞原先生に。ベルソー(メゾチント製版の工具)って、うん。ロッカーでね、「これ、おまえ、持って帰ってるんだろう」って(笑)。ばれまして、それで慌てて返しに行った。それで作品ができたということで。それで、まさか古野由男先生の下で教職につくとは思わなかったです。

山下:どの先生に教わりましたかと、よく聞くのですが、基本は舞原先生になりますでしょうか。

前川:いや、それぞれの先生にお世話になりました。お酒もよく呼ばれたし。今井先生のところへ1本持ってね。さっき言いました森田という同級生と行って、持っていったものよりもぎょうさん飲んで帰ってくると(笑)。

山下:すごいですね。やっぱり今の京都芸大とは様子が違いますね。

前川:そんなことで、よく悪さばっかりしてまして。まあ、一番怒られたのは舞原先生です。

山下:そうですか。

前川:「おまえやろう」って(笑)。

山下:基本的には具象的なものを描かれていたのでしょうか。

前川:そうですね、全く具象でした。静物から人物が、どっちかというと得意は得意だったんですけど。だけど、結局、あまりろくな作品こしらえてない(笑)。

安土:いやいや、今、お話を伺って、なるほどと思った。修業時代というのはね、やっぱりすごいなと思って。だから(前川さんの)具象はすばらしい。200号ぐらいの絵を、よく覚えていますけど、すごい描写力ですよ。

前川:いやいや。

安土:今は版画の世界ですけどね。がらっと変わりましたけど。いや、あのころの仕事っていうのは、すごいなと思って、もうちょっと続けてほしいなと思う(笑)。

前川:いや、もう泣けて(笑)。

安土:やっぱり今、いろいろと話を伺っていたら、なるほどなと思って。やっぱりすごい知見を勉強していたんだなと思って。

山下:それでも、なかなか先生からは逃れてもいたということで。

前川:それからね、4回生のときに、受験生の塾があったんですね、画塾が。

山下:京都市内ですか。

前川:ゴーキ美術研究所。(注:1963年に作家の遠藤剛煕氏が京都市内に開設した美術研究所。現在に至る。)

中谷:ああ、ゴーキさん。

山下:ゴーキさんですね。

前川:あそこへ1年ちょっと行きまして。

中谷:そうですか。

前川:はい。まあ、アルバイトみたいな感じですけど。で、行きますとね、伊庭研の思い出の世界とちょっと違うんですね。

中谷:なるほど。

前川:「これはあかんぞ」と思ってね。で、「先生、卓球台を買ってください」って、庭で卓球ができるようにして。で、アトリエはアトリエ、それ以外は「ほんなら、茶でも飲み行こうか」と言って、茶を飲ましにわざわざ連れ出したり、よくしてました。で、夏の合宿ね、泳ぎに行きましてね。

山下:生徒を連れて。

前川:ええ。で、わあわあ言って。

山下:ちなみに、やっぱり京都芸大の学生の男女比というのは、この頃はほとんど男性ですか。

前川:あのときは女子が強かったな。

山下:あ、女子が多かったですか。

前川:女子が強かった。強かったというか、勉強はよくできますので。学科の方がね。

安土:そうですね。そういう傾向、ありましたね。

山下:そうですか。

前川:だから、半々よりも、ちょっと女子が多かったかな。

山下:そうですか。へえ。

中谷:なるほど。既にそうだったですか。

山下:でも、お酒もいっぱい飲んで。

前川:ああ、皆。

山下:皆、飲んで。

前川:とにかくそれだけで。先輩との関係とか、他のいわゆる学科の連中とかいうのは、もう皆、酒でつながりますのでね。

山下:特に仲よくしていた友人のお話とかはありますか。作家同士のつながりといいますか。

前川:陶芸の陶器科の横尾和晃(注:現在、向月窯で)とかね。それから染織の方の、何とかいったかな。吉村正郎か。難女苦事(なめくじ)会という会をつくりまして。

山下:難女苦事会ですか。

前川:女に難する。それで、苦しむ。

安土:苦しむ。

山下:ああ。

前川:で、それでうまいものを食おう。酒を飲もう。それでアトリエを借りよう。

山下:分かります。

前川:そんな形で清水四郎さんだったっけな、彫刻家のアトリエをちょっと借りて。あのころ学校で昼間は描けないんです、大学運動で。

中谷:はい、はい。

山下:(学生運動について)少しお聞きしようかと思っていました。

前川:で、しょうもないし、朝昼は下宿で描くか、そのアトリエで描くか。それで、晩になってから、「夜の美大、行こうか」とか言いながら。まあ、夜の美大と言っても、ご飯を食べてから。それで版画もできたんですけどね。

山下:そうですか。昼間は制作をするには難しい状況でしたか。

前川:ええ。

山下:その学生運動の状況もお聞きできればと思ったのですが。

前川:なかなかね、自己批判で「どうなんだ」と。「何で行くのか」とかね、「ブルジョワジーの世界でのうのうと住んでおけ」という。まあ、私らノンポリでございましてね、逃げて回ってたんです。

山下:積極的に何か集まりとかに行かれたりとかは。

前川:ああ、一応少し顔を出したりするんですけど、結局はもう夜の美大生やさかい。

山下:前川さんは、どちらかというと制作をしていた。

前川:ノンポリで。それであの頃は舞原先生はよう苦労されたと思いますよ。それで、夜はもうずっと大学で制作をしていましたからね。デッサンをしていましたし。モデルも昼間、一人で描かしてもらったりね。他は誰もいない。

山下:そうですか。でもね、モデルさんは来ていますから。

前川:そういう優雅なことはさせてもらったこともあります。まあ、非常に不幸な時期ですね。

山下:京都市立芸術大学全体として、昼間はちょっとそういうきな臭い状況だったんですか。

前川:そうですね。「またあいつらの顔を見るの、かなわんし」と。だから、完全にノンポリでしたね。

山下:そうですか。ありがとうございます。

前川:それで「清水さんのところで、子供たちを集めて何かやろうか」とかね、いろいろと。

中谷:清水さんのところというのは。

前川:清水四郎さんといいましてね。上賀茂の方だと思うんですけどね、ちょっともう忘れてしまいましたね。で、女の会員(後の妻も)も集めましてね。五、六人がいつも、どうたらこうたら言って歩いていました(笑)。

山下:在籍中、学生時代の作品発表の場というのは、今の京都芸大は作品展がありますが、どういう形でしたでしょうか。

前川:いや、あの当時は美大展だけでしたね。

山下:だけでしたか。

前川:うん。

山下:学内のギャラリーのような所は。

前川:ないです。

山下:そうですか。

前川:今熊野のね、東の七条の校舎でしたので。

山下:では1年を通して、前川さんとしては、年明けの美大展に向けて普段は動いていたという。

前川:はい、そうですね。もちろん山尾先生の仲間で、「おい、秀ちゃん、出せへんかい」というのはありましたけど。

山下:あ、そういうのはありましたか。それは、外に出て。

前川:ええ。もう田舎の施設で、少し1点だけ出すとかね、そんなものでした。

山下:そのあたりをお聞かせいただけたら。

安土:「3回生までは出品するな」というようなことも、ありましたね。

前川:そう、ありましたね。

安土:その当時はね。

中谷:当時はね。

安土:4回生になって初めて。

中谷:「展覧会するのは早い」と。

安土:早い、そういう具合。

山下:そうですか。

前川:今と全く逆ですわ。今は、もう1回生から。

安土:ああ、そうですね。

山下:それはちょっと初耳です。そうなんですね。

前川:でね、本当にね、変な教育だったですね。いやいや、それで良かったのかも分かりませんけども、「ちょっと違うんだなあ」と。

安土:そうでしたね。

前川:一番の、その世界もちゃんと指導せいとかいう、学生運動の。そこにもあったな。

山下:公募に出されたりというようなことはいかがでしたか。1960年代なので、少ないですが。

前川:もう、大学の間は絶対出していないですね。

山下:そうですか。本当に年度ごとの卒業制作のみということなんですね。

前川:そうですね、はい。

山下:1960年代でまだまだ画廊も少ない状況で、そんな中で京都市美術館がありますが、制作以外で、展覧会を見て回ったりはいかがですか。

前川:展覧会は見に行きましたね、よく。

山下:大阪とか関東の方へはどうですか。

前川:関東は、そうですね、三美祭(注:東京芸術大学、京都市立芸術大学、金沢美術工芸大学の三つの芸術大学による共同開催。)があったときに、ちょっと行ったり。それで、ちょうど私の一つ下ですけれども、東京芸大へ入ったのがいましてね。それで、そいつのところに訪ねていったり。山尾平先生の長男がそうなんですけど。それで、デッサンを息子と一緒に習っていたんですけど、きつかったですね。

中谷:あ、ご自身のご子息には。

前川:うん。自分の息子には厳しかった。いや、それでよく、満さん(山本満先生)、スリッパでたたかれたと(笑)。そんな話もありました。厳しい先生でした。しつけもね。「そんな描いてる人の前を通るやつがあるか」って、デッサンをしているときに。

安土:そうですか。

山下:厳しい。

前川:それはそうですわ。誰しもむかっとしますから。よく怒られましたけど。

山下:本当ですか。

中谷:三美祭は、それよりずっと後だと、普通に学生をしているだけだと、あまり関わりがなかったり、何かクラブをやっていると、それの人材みたいなことでしたけど。当時は、三美祭で行ったりっていうのは、特に何かクラブでということではなくてでしょうか。

前川:私はクラブ入ってないんです。安土先生はラグビーでした。

安土:はい。

山下:ラグビーですか。

中谷:ラグビーは伝統的にずっとね、今でも。

山下:今でも。

安土:私らが作ったんですけども。

山下:ええ、そうなんですか。

中谷:ああ、そうだったんですか。

安土:もう素人集団でしたけど、ほとんど。

山下:今でも活躍しています。

安土:ラグビーね。まあ、50周年超えましたけどね。私らには高校の経験者が何人かいましたから、熱心なのがね。それに引きずられて、「楽しいビー」っていう感じで、「楽ビー」。そのラグビー部だったんですよ。寄せ集めのチームでした、最初は。

前川:それで野球部はどうだったか分からないけれど、ソフトボールを、狭い狭い、ネズミの額みたいなところでやって、よくホームランやどうたらって言って(笑)。

山下:結構そういう、体を動かすのも好きだったんですね。

前川:いやいや、もう三人で三角ベースをしたりね。なかなか、あほみたいなことを。ちっとも絵を描いておらんな(笑)。

山下:いや、状況がいろいろ見えてきます。ありがとうございます。滋賀県造形集団の前の話をもう少し確認しておきたいんですが。前川さんご自身の初めての個展や最初の作品発表の機会について少し確認させていただければと思うんですが。

前川:これがね、また造形集団の巣みたいなところで。

山下:あ、そういう場所が。ここに現展とあります。(注:前川さんの手元資料を確認しながら。)

前川:あ、現展。公募展。(注:現展は現代美術家協会の公募展の名称。1948年に設立され、現在に至る。)

山下:最初はどこになるでしょうか。

前川:日本版画協会の版画展は卒業してからですね。3回入選しているのかな。

山下:あ、それはもう版画ですか。

前川:版画です。それで、油の方を現展に出品していました。

山下:卒業後ですね。

前川:これも、「前川君、ちっともどこにも出さないけど、出さないのか」って。それで、古野先生が「それなら私が入っているところに、どう」って。

山下:その辺のお話を聞かせていただければ。

前川:それで、結局、日本版画協会に「出せ」「出せ」と言われて。ちょうど初出品が、そうですね、昭和46年(1971年)か。あ、結婚するときです。結婚するときに「出せ」と言われて。それで、結婚の前に出しまして、落ちましたけどね。そこから少しそういう公募団体にも関係はしたんですけど。

山下:先生の勧めがあって。

前川:ええ。ただ、あんまりね。

山下:数は少ないけど、公募展に。

前川:現展に勧められたのは何かというと、「自由に発表させてくれるから」と。それなら1回で入選。それから準会員、会員推挙とかね、もうぽん、ぽん、ぽんと会員になってしまいまして。

山下:そうですか。

前川:うん。で、会員賞ももらったんですけど、やっぱりあんまり面白くないとか(笑)。

山下:ああ、そうだったんですか。

前川:今はもう除名段階では(笑)。

中谷:こちらの方は、どなたかのご推薦とか。

前川:いや、これも古野先生の関係で。

中谷:あ、そうなんですね。

前川:それで、現展京都作家展というのを1972年からやったんですかね。

山下:京都作家展。

前川:うん。それを三人から始めて、五人、八人、十人とかいう形で、どんどん毎年、増えていって、なかなか面白かったんですけどね。

山下:それは、どういった動き、グループなのでしょうか。

前川:やっぱりね、古野先生の後進指導の関係がありますし、それから、私のゴーキの美術研究所のあたりの仲間もありますしね。そんなことで、ちょっとずつ、倍々ゲームみたいな形で増えまして。

山下:場所はどちらでしょうか? 

前川:京都府立文化芸術会館で。

中谷:ああ、芸文会館ですね。

山下:あ、今も活発な場所ですね。

前川:うん。それで新人展とか何とか、いろいろなものに出させてもらったのも、その関係でありまして。

山下:それは全員でお金を出し合ってという。

前川:そうです、はい。それで、現展の本部は東京にありますけど。現代美術家協会。この本部をこっちに持ってこようという気概があるぐらい、大分増えたんですけど、もう一つ、あんまり面白く…… (笑)。飽き性で。

山下:そのときの前川さんの作品は、傾向としては具象の。

前川:ええ、具象です、はい。

山下:モチーフみたいなものは。

前川:モチーフは、女性。

山下:人物ですか。

前川:人物、女性ですね。やっぱり版の方がちょっと面白くなってきてたかな。それで、ずっとそれから並行して、両方。

山下:それでは、卒業の直後からもう版画と洋画という。

前川:ええ。両方。それで、古野由男先生の下で助手(注:滋賀女子短期大学。2008年より滋賀短期大学と改称。)で入りまして。

山下:そうだったんですね。

前川:はい。そこから助手、講師。

山下:すごいですね。版画の方に。

前川:助教授、教授という形で。他の学校にも浮気をちょっとしながら。人事の当て馬にね、出まして(笑)。これね、見事、当て馬でした。

安土:いやいや。

山下:少し戻りますが、初めての個展はこのバオバブ(滋賀県大津市のギャラリー)が最初でしょうか。

前川:バオバブがそうですね。

山下:卒業して6年目ということですね。

前川:はい。それで、1975年にバオバブで、いわゆるシンポジウムもありました。それで、そのバオバブの長等公園というところで、野外彫刻展をやっていただいた。(注:長等公園野外彫刻展、1975年5月1–31日、滋賀県大津市。)その初代代表が安土優さんです。はい。で、そのときのパンフレットを一生懸命探すんですけど、出てこなくって、今日は。また別のときに持ってきます。

安土:そうですね、はい。

山下:ありがとうございます。そうしたら、そういった滋賀県造形集団のご縁もあって、「個展もしませんか」というようなことにもなり、滋賀県に戻るわけですね。

前川:ええ。で、ちょうど、鈴木靖将(やすまさ)氏が事務局長だったんです。

安土:そうですね、はい。

前川:初代の事務局長。で、野外彫刻展をしていまして、そこでシンポジウムも、滋賀県知事(注:当時は武村正義氏。)を呼んで。知事がまた自転車で駆けつけたという。

山下:滋賀県造形集団のお話ですね。

前川:はい。それで「美術館を作ってくれ」というのが。

山下:というような話になっていきますよね。

前川:ええ。で、そのときに「今すぐとは言えないけれども、何とか考えようかな」ということで(知事が)動いてくれました。その火つけ役が滋賀県造形集団だったと思いますね。

山下:そうですね。

前川:それで、福井と滋賀ぐらい、もう美術館のないところは2県だけだと。

安土:はい、そうでしたね。

山下:そうですよね。その辺、後でお聞きしたいなと思っています。そうしたら、滋賀県造形集団に入られた後に、バオバブでの個展ということも。

前川:そうです、はい。ちょうど明くる年(1976年)なんですね。

安土:はい、そうですね。

山下:個展のときは、作品はどれぐらいで、どういったものでしょうか。

前川:当時の写真があるかどうかわかりません。やっぱり版画と油と両方。

山下:やっぱり200号とかですか。

前川:いや、あの当時は100ですね。100が中心です。

山下:100ですか。

前川:はい。で、50号の作品とか、30も含めて。狭い畳の部屋だったんですけど、ドンゴロスで壁を作っていて、いい画廊でしたね。

安土:そうですね、はい。

前川:鈴木靖将がやっててくれまして。

山下:そうですね。バオバブシェアって、有名ですよね。それではそれは卒業後6年ということですので、制作場所というのは滋賀の方に。

前川:ええ。私、もうこのときは、ああ、伏見(注:京都市伏見区)に住んでましたかね。

山下:伏見ですか。

前川:うん、伏見。伏見に5年ほど住んでいました。

山下:南側ですね。そこで制作場所も確保されていたという。

前川:そうです、はい。

山下:大学の方でも。

前川:大学を出たときは、もうアパート住まいをして、勤めも膳所になりましたから。滋賀女子短期大学。

山下:あ、そうですよね。

前川:で、安土先生の近くに移りまして。

山下:膳所ですね。

前川:本丸町といいましてね、そこで一軒家を借りて。で、ヨシ屋根のすごい家でした。村田弥平さんのね。で、一軒家を借りて、10,000でした。

山下:10,000円ですか、当時の価格で。

前川:和室が三つほどつながってる。一間半間の土間が、でーんと。

山下:安いああ、そうなんですか。そこを借りることができたんですか。

前川:土曜日は、子供の絵画教室をやりまして。

山下:大分スペースもありますね。

前川:それで日曜日はみんな集まって、クロッキーやろうかと言ってね、よう、また遊んでました。

山下:そこで制作も可能だったということですね。

前川:そうです、はい。もう、一室が仕事場になっていました。その後、結婚して、女房の母が亡くなりまして。それで「伏見に、おやじ一人になるさかい、一緒に住むか」と言って。それで、おやじさんのところへ行きまして、そこで5年ほど住んだんです。

山下:そうですか。そこでの制作の場所は。

前川:やっぱり2階の。

山下:ご自宅で。

前川:ええ。またモデルに学生に来てもらって、またクロッキー会をしたりね。

山下:そのあたり、結構貴重な話です。

前川:それで、女房もそこで子供の教室をやって。

山下:そうなんですね、奥様も。奥様も美術系の。

前川:美大の、ちょうど芸大1期生ですけどね、二人とも。

山下:あ、そうですか。学内で。

前川:日本画出身で。それで一緒になって絵を描くかと思ったら、やめましてね。

山下:ああ、そうなんですね。

前川:ええ。安土先生のところはご夫妻とも、ずっと絵を描いていますね。

安土:いやいや、描いていますけれど。

山下:ご夫婦でやはり作家なのですね。

前川:それで滋賀県美術協会で活躍されて、今度の受賞になったという。(注:安土氏は2017年12月6日に地域文化功労者表彰となった。)

中谷:今、申し訳ないですけど、時系列として、結婚なされたのが何年とおっしゃいましたでしょうか。

前川:昭和47年3月。

中谷:47年ですよね。1972年ですよね。

前川:1972年、はい。

中谷:1972年に結婚された。で、1972年から伏見に。

前川:ちょっと待ってくださいね。1971年に結婚してるな。

中谷:先ほど、1971年とおっしゃったかなと思いますね。

前川:すみません。1971年です、はい。

中谷:昭和46年ですよね。1971年に結婚されて、そのころから伏見に移られたんですね。

前川:そうです、はい。すみません。1年、間違ってる。

中谷:それで、2年ぐらいいらっしゃったんですね。はい。ですから、滋賀女子短大に、助手で最初に行かれたのは、もう1970年。

前川:ええ、1970年3月。

中谷:なんですね。

前川:はい。4月。

中谷:4月ですね。

山下:卒業時ですね。

中谷:卒業時にもう。

前川:ちょうど卒業時で、そして、また、短大が開学初年度だったんです。

中谷:あ、なるほど、なるほど。

安土:ああ、そうですか。

前川:これも、山尾先生のお世話で。

山下:ああ、そうだったんですか。

前川:それで、学生時代に「前川君、短大ができるんだけど、おまえ、やらないか」って。「一晩考えさせてもらう」って偉そうに言って(笑)。それで、考えて、お世話になることになって。それで、山尾先生がまた古野由男先生を引っ張ってこられたみたいで。

中谷:ああ、なるほど、なるほど。

安土:ああ、そういうこと。

中谷:先に前川さんの方がいらっしゃったという。

前川:そうなんですよ。

中谷:いらっしゃったというか、声かけられてたってことですよね。

山下:本当ですね。すごい、順番が逆に。

前川:で、思わない出会いを、再会をしたんですけど、一遍も授業に出ていない(笑)。

山下:今度は教員同士でのつながりになるという。

中谷:一応、勉強しておられましたという。

前川:それでね、ちょうど松本義懿先生ね、雰囲気がよう似てるんです。

山下:松本義懿先生。

前川:よう似て、うん。温厚でね。

安土:そうですか。

前川:温厚で。褒めて育てるという。

安土:ああ、なるほどね。

山下:私も滋賀女子短大に入られるお話も聞きたいと思っていたんですが、短大ではどういったご指導を生徒にされていたんですか。

前川:私はね、全ての美術関係、要するに、幼児教育学科ですから、幼稚園教諭養成の図画工作、それから絵画製作。

山下:全般ですね。

前川:それから、おまけにデッサン。デッサンのある養成校というのはないんです。それは山尾先生の思いがカリキュラムにも入っていましてね。それで「おまえ、デッサン、ちゃんと指導したれ」って。

山下:そういうのですね。

前川:それで大人数になったんですけども、それでもなんと大学の玄関でイーゼルを立てさせて。

安土:ああ、そうですね。

山下:イーゼルでですか、卓上じゃなくて。

前川:玄関でっせ。あの玄関、入ったとこ。

山下:すごいですね。

安土:人数多いから。定員が多かったんですね。

前川:急に増えたんです。最初は47名だったかな。まあ、定員割れから始まり。万博(注:日本万国博覧会、通称:大阪万博)にちょうど昭和45年ですから、連れていってね。

安土:はい、はい、はい。

山下:そうなんですね。へえ。

前川:はい。で、もうあちこち案内していました。

山下:そうですか。

前川:2科(注:服飾学会、幼児教育学科)ができましたな。

山下:そうしたら、保育士になる方に。

前川:そうです。

山下:全般的なことを指導していたという。

前川:ええ。それから、幼稚園教諭だけでなく、保育士、今は。「保母」と言っていましたけど、保母養成が後から加わりまして。それで、余計にまた人数も増えていきましてね。それで美術部もおもしろ楽しくやりました。合宿にも連れていってね。あのころは、ちょうど自分らが、ねえ、大学のときに、山尾先生に「波切(注:なきり。三重県の志摩半島南東付近の地名)に写生に来い」って。「3枚ぐらい、キャンバス持ってこい」って。よくお世話になってね。

安土:そうですね、はい。

前川:波切、よく行きましたね。

安土:ああ、そうですね。

前川:それで、そういう思いを、また学生に楽しまそうということで、また波切の宿を予約して、よく行きました。

中谷:何か、「なぜ皆さん、波切に行かれるのかな」というような。

前川:本当です。

山下:ああ、そうですか。

中谷:ええ。定宿みたいなのがあったんですか。

前川:定宿なんです、モヘジ屋って。

安土:写生のメッカみたい。写生、スケッチのね、はい。

中谷:ですよね。メッカ。

前川:モヘジ屋さんというね、民宿屋さんがありましてね。モヘジ屋。

安土:夏休みは、ちょっと泳げたりしたから。

前川:そうそう。それで、「絶対、泳ぐな」と言っていたら、泳いでいたんです(笑)。もう喜んで。

山下:遊びになりますよね(笑)。

安土:いい場所ですもんね、ちょうど学生にとっては。

前川:一生懸命、指導、回ってんのにね、いないんですよ。「どこ、行ってた」って。「泳いでます」(笑)。

山下:前川さんは、学生時代は割と授業に出ないとかいう話もありましたけど、お聞きしていますと、結構、指導をすることもお好きというか、何か学生をいろいろ連れていくことも好きなんだなというのが見えてきていますが。

前川:ああ、そうですね。

山下:二面性というか、そういうところもあるといいますか。いろいろな場を作っていくことが好きということもあったんですか。

前川:すみません。いや、結構ね、そういうのが好きだったんですね。で、仲間づくりというのが好きで。本当の、ねえ、絵の競争をしないといけないのに、仲間づくりばっかりしてましてね。

山下:大事ですよね。

中谷:ゴーキで、卓球台というところから。

山下:ですよね。その辺も聞いてと思ったのですけど。

前川:いや、とにかくね、ちゃんと買ってくれたんだけれども、なかなか。だけど、あの頃の連中が今、活躍していますし。フランスで絵描きをしていますし。それで、こっちに帰ってきて、こっちで個展やっていますしね。なかなか、ええやつもおりますわ。で、その当時のことをわあわあ言ってくれますわ。

中谷:例えばその教え子さんといったら、どんな方が先生に。

前川:フランスでやっています、はい。松田敏男か。

山下:松田敏男さん。そうですか。

前川:こっちの方にも、芸大の教員にもなったやつもいたかなという。うん。結構いろんな連中がいましたね。

山下:分かりました。ありがとうございます。少し一歩引いて当時の美術状況についてもお聞きしたいと思っていたのですけれども。卒業前後は見えてきたのですが、先ほど万博のお話もありましたが、ちょっと美術の転換期かなと思うのですが。卒業された頃ですが、1970年、「東京ビエンナーレ」という日本国際美術展の第10回展「人間と物質」も、まさに卒業時にありまして、中原佑介さんがされたり。(注:毎日新聞社主催、「第10回日本国際美術展(通称、東京ビエンナーレ) —人間と物質—」)あるいは、1969年だったら、京都市美術館の方で「現代美術の動向展」も。(注:「現代美術の動向展」、京都国立近代美術館。開館の1963年から1977年にかけて11回開催された。)

中谷:これはあれだ、近美だ。

山下:失礼しました。そうですよね。京都国立近代美術館では「現代美術の動向展」が開催されていましたけど、そういったコンテンポラリーな動きに関しては、前川さん自身はどのように思っておられましたでしょうか。

前川:そうですね、いろんな展覧会も、まあ、いろいろと勉強に行きましたけれども、結構こちらの仲間の関係に。それでアンデパンダン形式で造形展もやろうということに。で、これが私の「あ、これか」と思っていました時期だったですね。

山下:ああ、興味のある方向性というか。

前川:はい、はい。

山下:まあ、東京ビエンナーレは京都市美術館にも来ていますからね。

前川:ええ。造形展がまあ、そういう形で、うん。アンデパンダン形式で、とにかく足元を見詰めて。「足元を見詰めて、そして、じっくりやればインターナショナルに通ずるんや」と言ってね、自分の足元の分析からという。

山下:足元の分析。

前川:ええ。で、「立ち位置をいろいろ考えよう」というのが、造形集団の神髄でした。

山下:じゃあ、こういう動きにアンテナを張っていたという。

前川:はい。それは、(滋賀県に)美術館ができていたら、もっと情報が入ってきていたのか分かりませんけども、ない中でやっぱり京都に依存する形でずっといますので。だから、やっぱり「美術館が欲しい」「子供たちのためにも、ぜひ美術館が欲しい」と。美術系の大学といったら、もう京都しかありません。で、「滋賀県の方にも、やっぱり美術コースを持つような高校をつくらないといかん」とかね。それで、「文化振興課、これもつくらないといけない」とかね。ということで、文化行政についてもいろいろと勉強させてもらって、みんなで旗じるしを掲げ。

山下:掲げていくと。

前川:ええ。それで、そういう形で展覧会の開催をずっと続けていった。

山下:に至っていくんですか。

前川:はい。

山下:1970年とか、1972年の京都アンデパンダン展は、(滋賀県造形集団)結成前の、卒業後のその間ということになるんですけども。

前川:そのあたり。結成前です。はい、そうです。

山下:1972年とか1973年は、京都アンデパンダン展も「京都ビエンナーレ」と銘打つような動きもあって、いわゆる絵画、彫刻だけじゃない、立体作品やコンセプチュアルなものが、若手の作家から活発化してきますけれども、そういうのも、前川さんも見に行っていたということに。(注:「京都アンデパンダン展」は、元々は1955年に京都青年美術作家集団が開催したアンデパンダン展であるが、1957年より京都市主催で開催され、1991年まで京都市美術館で続いている。)

前川:ええ、見に行っていましたけれども、やっぱり根元がね。「やっぱり足元や」という思いで。それで、それは刺激も受けますけれども、(滋賀県を)「何とかしよう」というのが、そういう思いではありましたね。はい。で、(滋賀短期大学の)開学当初ですので、5年間は、まあ、どたばたしていました。それで、実質、描いてはいながらも、とにかく学生の面倒を見ながら、そんなに勉強していなったかも分かりませんね。いや、それは刺激を受けて発表をしないといけないんだけど。

山下:というような状況なんですね。

前川:うん。

山下:京都市美術館の方の「人間と物質」展には、見に行かれたりは。

前川:あの当時はね、どうだろう。ちょっと印象深く残ってはいないですね。

山下:ああ、そうですか。

前川:はい。

山下:実際、友達同士で、こういう「人間と物質」展とか、「京都アンデパンダン」が「京都ビエンナーレ」という名称になっているなとか、そういう話題はあったのでしょうか。

前川:やっぱりこの造形集団(注:滋賀県造形集団)で、みんなで集まってからの世界ですね。

山下:集まってからですか。

前川:うん。「本格的にやらないといかんな」というのが、どっちかいうと、造形集団に入ってからです。

山下:「本格的にやっていかないといかんな」というのは、そういった京都アンデパンダンの動きとかの刺激があったということになるんでしょうか。

前川:そうですね、はい。ベースは、まあ、そういうベースなんですけど。

山下:はい。分かりました。ありがとうございます。

安土:滋賀短期大学にいた頃は、5年間、まあ、生え抜きというか、最初からずっとおられましたね。最初、やっぱり5年間ほどは、幼児教育というと幅広いですからね。ずらっと、こう、恐らく絵画製作というのも準備が大変だったんと思う。私も同じあれなんですけど、私の場合は滋賀県立短期大学で、やっぱり幼児教育なんかで、同じような環境だったものですから、よく分かるんですけど幅広いんです。

山下:土台づくりですか。

前川:教材も一からですので。で、凧を、こちらの京都のデザイン、何だったっけな、名前、忘れた。北白川にありましたね。研究所がありましたけど。(注:後日確認。インターナショナル美術研究所)凧を作っている先生がいて、凧の勉強に行きました。何とか研究所がありましたね。

中谷:片仮名で。

前川:そうそう。そこの先生に、実際にどんなふうに指導するかって。立体凧から何から、凧も本格的にちょっと勉強して。うちの大学の竹を割ってね、その下準備をこっちでして。

中谷:なるほど。材料をちゃんと下ごしらえはして。

前川:下ごしらえして。それで、こんなふうに作ってみようか。一人横へ、こうやって抱えるくらいの凧をね、みんな、一つずつ作らせて(笑)。写真が残ってる。そんなこととか、あるいは陶芸関係ですね。これも一からです。こちらの大学へ就職するまでに「前川君よぉ」と言って、古野先生が「陶芸もちょっと勉強しといて」と。それで陶器科の連中(横尾和晃氏)にいろいろと習って、一晩でろくろを覚えて。

山下:どんどん教育の方に、準備を進めていかれたのですね。

前川:ええ、準備に。いや、学生時代に、卒業の1年前から、やいやい言って、させてもろらってた。それで窯を発注して作って。釉薬も自分でミル(注:混合用機械)で混合してね。大変だったですけど。そんなことで学園祭には「楽焼の店を出せ」と言って、学生にやらせたりね。

山下:もう陶芸も。

前川:で、何から何まで全部やらないといかん。

山下:結構忙しい状況だったんですね。

前川:まあ、かえって幼児教育は、そういう意味では面白いね。

安土:うん、そうですね。

前川:で、遊びの原点ですので。だから造形の遊びの延長線上に、やっぱりコンテンポラリーなアートの世界も完全にありますしね。

安土:そうですね。

山下:そうですね。その後の(滋賀県造形集団の)シンポジウムのテーマも、どんどん現代美術の方にも。そういう非常に忙しい状況というのが見えてきたのですが、京都アンデパンダンとかには「出品しようか」はもうあまり思わなかった?

前川:いや、あの当時は。

山下:それどころではない感じですかね。

前川:いろいろ、ほら、油と版画と並行するとなれば、必死でしたね。

山下:必死でしたか。

前川:うん。それで帰ってから寝るまでが仕事でしたから。あまり、何ていうかな。もうちょっと掘り下げないといけなかったんですけど。

山下:もうあんまり見ている状況じゃなかった。

前川:目の前にある出品のための制作がほとんどでしたね。

山下:なるほど。ありがとうございます。

中谷:1970年。やっぱり京都アンデパンダン展の流れでいきましてもね、1957年から京都市としてやり始めていますけれども、1960年代の後半ぐらいまでというのは、本当にタブローが並び、台座の上に彫刻ができているっていうアンデパンダン展だったんですね。それが、70年ぐらいですと、もうそういう額縁と台座というのが、かなりなくなって。で、まあ、そういう出品もあるんだけれども、どちらかというと、主流が現代美術というか、「具象絵画をアンデパンダン展に持っていきます。しかも、若い人が持っていきます」というムードでは、もうなくなりつつあった時期なんでしょうね。

前川:そうです。

安土:はい、そうですね。

前川:いや、だけど、あれですね。この造形展の初っ端のあたりでも、全然立体をやらない先生が、日本画をやる先生が。立体をこしらえて。

中谷:なるほど、なるほど。

山下:そういう動きが。

前川:それはすごかったですわ。

山下:その辺はすごい参考になります。

前川:「あ、これは面白いわ」という。

安土:ああ、そうですね。いやいや。

山下:それはやはり「タブローや台座を超えた、次の表現を自分もやってみよう」というふうな機運が高まっていったんですね。

前川:はい。で、音の出るものとかね、いろいろとちょっと勉強しましてね。まあ、「教育の方にも関わるし、アートの方にも関わるところで、そんなこともできないか」ということで。

山下:その両立を、間を模索されていたんですね。

前川:はい。ただ、出品するとなると、やっぱり版と油しか。

山下:ああ、そこはもう。

前川:情けないね。で、当時は、いろいろと思いはありましたけど。

山下:やはり悩みというか、模索があったんですね。それで仕事の方も進んでいくしという。

前川:はい。

山下:ありがとうございます。見えてきますね。そうしましたら、そういう流れの先に、1975年に、滋賀県で造形集団というものが結成されることになります。これまで資料を私も見てきたのですが、非常に興味深い集団の動きだなと思って。1975年の立ち上げのいきさつですよね。少し既にお話しいただいていますが、改めて所属するきっかけですね。立ち上げ時の結成メンバーの状況をもう一度教えていただければと思うのですが。

前川:そうですね。あの当時、何人いたかな。五、六十名。

安土:はい、そうですね。

中谷:五、六十名ですか。すごい数ですね。

前川:四十何名は確実ですけど。

山下:すごく集まったんですよね。そのスタートはどういった。

安土:資料を持ってきたかな。

前川:今日も持ってこようと思ったんですけど、ダンボール箱をあけるのを(笑)。この時間に起きてしまいまして(笑)。先生、持ってきはった?

安土:正確ではないかも分かりませんけど、大体、出品者数、こんなメンバー。五十人ぐらいが、ざっとね。(注:第2回造形集団造形展の資料を確認しながら。)

前川:このとき、四十何名かな。

安土:これ。

山下:最初にもう45人ですから。

前川:第2回です。

安土:え、第2回で。

前川:第2回。

安土:これぐらいですね、メンバーはね。

前川:うん。そや、そや。

安土:五十人ほどいた。五、六十人。作品が64点ほどでしたかな。

前川:私が3回目の事務局長だったかな。で、そのときに、46名とか、何やら数を覚えてるんだけど。

安土:ああ、そうですね。五十人ほどでしたかね。

前川:そこからずっと、40名がコンスタントに出してまして。それで、もちろん節目、節目には、10周年記念展とかね、そういうことで、それは相当また数が増えましたね。

山下:そのネットワークは、どのような形だったのかが非常に気になるんですが。

前川:やっぱりそれぞれがね。

山下:声かけですか。

前川:声かけですわ。ええ。

安土:そうですね。

山下:立ち上げ時は、どのような様子だったんでしょうか。

前川:立ち上げは、昭和50年(1975年)の1月に。

安土:そうですね。(昭和)50年1月。

前川:で、総会がどこかの2階でしたね。

山下:飲み会中に。

前川:飲み会中だったな。

安土:はい。

山下:ちょうど滋賀県で集団を立ち上げようと、安土さんが。

安土:まあ、何にもないということでしたのでね。滋賀県は、京都と名古屋というか、中央の谷間でしたから、はい。もう大学もありませんしね。大学もほとんどなくて、滋賀大学が経済学部と教育学部があるぐらいだったんですね。

山下:そうですよね、はい。美術館もないし。

安土:で、私もたまたま滋賀県立短期大学に勤めて間がなかったんですけども。それまでは、大阪の市立工芸高校で美術コースがありましてね、そこに5年ほどおりまして。それから、滋賀県に帰る機会がありまして。それまで、韓国へ行ったり、しばらくして京都芸大(注:京都市立芸術大学の略称)の研究会でインドへ行ったりして、それで、まあ、逆に滋賀県のことを見直す機会があったんですね。「あれっ」と思いましてね。特に韓国あたり。特に先ほどちょっと話が出ましたけどね、高島の話が出ましたけど、「向こうがルートだな」ということが明確になりましてね。まあ、よく中国とか、インドネシアとか、インドとかというのは、研修旅行を通してですけど。で、まあ、「滋賀県に何もないな」といったことが明確になりまして。で、まあ、現に1970年代は、日本列島大改造ということで。

山下:はい、万博も行われて。

安土:まあ、自然破壊。経済発展はすごかったんですけども。

山下:はい。その後ですね。

安土:一方では、京都もそうだったと思うんですけどもね、自然が開発されていくっていうようなこともあって。それにもかかわらず、「滋賀県には何もないな」ということが本当に明確になってきたものですから。それが、まあ。

山下:滋賀を活性化すると。

安土:自然発生的に。私はたまたま大津におりましたけど、京都の近くで、あんまり京都に近いものですから、認識不足のところもあったんですけども。特に北の方のね、高島とか、湖北の長浜の人たちとは、まあ、そういう思いを同じくして。で、たまたまそういうことで運動が始まったようなことなんですけどね、きっかけは。

中谷:本当に、突き詰めて言いますと、どなたとどなたというか、最初の発起人という形としては。

安土:発起人は、まあ、私と土田(隆生)、鈴木靖将っていう。(前川)先生も一緒にやられたんかな。2年目か、3年。

前川:いやいや、私はその年の絵画展から出しています。(注:第1回造形集団絵画展は、1975年12月10–15日に開催された。)

安土:絵画展から出したんですけど、ほとんど。

前川:絵画展は12月だったっけな。

安土:はい。

中谷:1月の結成のときということで言いますと、安土先生と土田さんと鈴木靖将さん。

安土:はい。私も高校時代からは滋賀県、まあ、美術クラブで活動しまして、県展に出しかけたんですけどね。ところが、美術館がありませんので、毎年、秋に体育館を借りて。体育館、秋っていいますとね、運動シーズンでもありますので重なります。そういう中で、やっていまして。まあ、私、たまたま日本画だったんですけども、本当に場所の取り合いみたいな、陣取り合戦みたいな中で、毎年それがずっと続いてましてね。「それはおかしい」ということで。で、現に調べてみたら、県立の美術館がないのは福井ともう滋賀県だけじゃないかってという形になってきましてね。それまでにも、沖縄に行ったり、復興する前にですね、行ったりしたりこともありまして。その当時、まあ、第二次世界大戦の時、大変な犠牲になったとこですから、いち早く、なだめるためにつくったんだろうと思うんですけど、立派な博物館をね、復興する前からもうできてましてね、本土復興する前から。(注:1946年に沖縄民政府立東恩納博物館が開館した。現在の名称は、沖縄県立博物館・美術館。)それで、もう滋賀県といえば、京都、奈良に次いで、現地にある文化財といったら、すごいものがあるというふうなこと。「これは何ていうことやろう」ってなことで。で、現に見たら、図書館すらないんですよね、その当時。

山下:ああ、1975年。

安土:図書館も滋賀会館の間借りで。滋賀会館というのは、文化ホールみたいな役割を担ってたところですけどね。(注:滋賀県立図書館が現在の大津市瀬田南大萱町に移転、開館するのは1980年7月。)

中谷:県立図書館なるものが。

安土:なかったんです。

前川:うん、なかった。

中谷:なかったですか。

安土:なかったんです。それで。

前川:それで、文化ゾーンに。

山下:まあ、文化ゾーンに今は(県立図書館が)大きくありますね。

安土:確か、もちろん市町村にもありませんのでね。それで運動を始めたんですけれども、「県立美術館もないのもわかるけども、その前に、文化会館もないし、図書館がないんや」というような優先順位から、まだハードルが高かったんですね。

山下:結構大きい志ですよね。

安土:ちょうど、ね、卒業された頃の話ですけど。前川先生が出展されているの、1970年代ですよね。その当時はそんな状況だったんですよ。何にもないというか、大学もない。文化会館ない。図書館すらない。

中谷:図書館すらない。

安土:はい。

山下:そこで「滋賀県造形集団を結成する」というふうに決意されて、すぐに。

安土:で、特に切実になったのは、滋賀県にとっては最大の美術展だった県展というのがありましてね。京展みたいな形の。

山下:県展ですね。

前川:滋賀県美術展覧会です。

安土:それが毎年変わるんです。場所は各地域で。

山下:転々としていたんですね。

前川:体育館を。

安土:高島へ行ったり、長浜に行ったりですね、能登川へ行ったり、そんな状況だったんですよ。それで、まあ、そんな状況がね、はっきりしてきましてね。その中で、特に彫刻をやっている人は、そういう体育館の中でやるもんですから、制限がありますわね。だから、彫刻家なんかが特にそういう切実な思いを持っておられましてね。で、まあ、まずそれということで、野外彫刻展をやろうというのがありましてね。

山下:それがすぐ5月の「長等公園野外彫刻展」(1975年5月1–31日)につながったと。

安土:長等公園で、はい。それで、私も日本画の平面でしたけども、まあ、彫刻も、何か、木を使ってやったりして。

前川:で、それ見てね、「これはすごい」。

安土:いやいや。

前川:日本画の大先生がね。

安土:いやいや、そんなことないんですけど。

山下:その辺、非常に興味深いです。

前川:立体を作られて。

安土:いや、ちょうどその当時、私は最初、日本画だけで中央を目指していましてね。滋賀県も、県展は時々出していたんですけどね。もうほとんど、その当時、新制作協会という中央展ばっかり目標にしていたんです、大阪に勤めていたころは。ところが、滋賀県に帰ってきて、幼児教育をやって、「幅広くやらないと」ということで、「もうあんまり偏った専門的なことだけ教えているのも違う」ということになって。沖縄へ行ったのもそうなんですけどね。染色をちょっと勉強しに行ったり、型染めを。まあ、そんなことでいろいろと勉強したりして。それで当時、(京都)国立近代美術館なんかで、フランス展覧会とか、いろいろと現代アートの展覧会がありましたから。そういう折に重なって、まあ、ちょっと幅広くやりかけて。手探りですけれども、そういう状況だったんですよ。それで、ちょうど(前川さんとは)同じような環境というか、まあ、生い立ちも伺うと同じような。滋賀県での生い立ちでもあります。

山下:文化のことも知っていますし。

安土:滋賀県の文化というか、同じ環境の中で育ったものですから、まあ、意気投合して今日に至って。滋賀県造形集団もやったのはいいけど、運動に偏り過ぎて「だんだん作品が悪うなったな」と言われるぐらいに。

山下:その辺をこの後ゆっくりとお伺い……

安土:追い立てられましてね。そういう悩みもありつつ。

山下:悩みも抱えておられたのですね。

安土:どんどん有力作家が離れていったんですよ。だから、よく40年ももったなというのが。途中、間に、この前川さんがおられたから立て直されたんですわ。

前川:いやいや、とんでもないです。

安土:いや、本当。私もこの間、たまたまその賞(注:2017年に地域文化功労賞を受賞した。)をいただいたというのは、そういう中で来ているんで、まあ、私だけもらったんじゃないと思って(笑)。

前川:いやいや、とんでもない。

安土:いやいや、地域文化功労賞というのをたまたま、長生きしていたということもありますけど。今年いただいた。先ほどお祝いを(笑)。

山下:いや、本当に。

安土:来ていただいたんで、恐縮なんですけど。まあ、そういう流れの中で、実際ずっとそれが尾を引いていまして、難しい問題がありましてね。運動をするとやっぱりそっちの方に非常に関わりが深くなってきましてね。

山下:その辺もお聞きしたいとは思っていたんですけどね。

安土:両立しにくくなって、で、有力作家が離れていったということがありました。その後、引き継いでくださったのが、もう、この前川さんなんですよ。

中谷:なるほど。一番最初のですね、結成の段階でですね、何らかの宣言文ということではないでしょうけど、趣意書のような文章というのは、何か。

前川:それは、美術館設立の運動のための趣意書をつくりましてね。で、その思いを、この奉加帳で寄附を集め、運動を広げていこうと。それで、最初は三つの野外彫刻展でしたね。それと合わせて、絵画展も同時に近くのところでやっていたんです。そういう形で、どんどんやってきたんですけども、やっぱり「もっと広げないといかん」と。それで、第4回展からかな。県内2箇所を巡回の、そういう造形展をやろうということで。ずっと2箇所でしたね。(注:長浜文化芸術会館と大津琵琶湖文化館(2008年3月休館)で開催した。)

安土:そうですね。

前川:で、琵琶湖文化館と、もう一つ、長浜のどこの会場とかね、まあ、そんなふうに、どんどんやってきまして。それで何ていうかね。仲間がそういう意味では、またプラス加わっていきました。

山下:その辺の組織化というのは、もう最初から意識されてたということでしょうか。

前川:そうですね、はい。

山下:組織をしっかりと整えていくという。

前川:とにかく推薦を受けて、それが資格になるということで、出品してもらって、それで、団員になるということで。

山下:(造形集団)造形展も立ち上げの思いから、やろうという。特に美術館設立を目標に掲げてということだったんですが。

安土:はい。三つのスローガンを挙げましてね。県立美術館の建設ということと、それから、県立高等学校に美術コース、美術科の設置ということですね。

山下:すごい。本当に滋賀県の教育行政的なことですね。

安土:それから、各市のね、文化振興課の新設。窓口ということ。

前川:もう各市にも。うん、県もそうですけど。

安土:それを訴えまして、それで機構改革されて、文化振興課というのができましたね。新しい、お若い知事。当時、武村(正義)さんという方。

山下:武村さん。後で出てきますね。

安土:40代そこそこでしたかね。まあ、私らと年もあまり離れてないということもありまして、理解をしてもらって機構改革されたんでしたかな、最初は。そういう運動の始まりの頃にね。それで窓口ができたということ。

山下:そうでしたか。

安土:はい。

山下:今日、さらに詳細にご質問していきたいと思っているのですが。その「滋賀県造形集団」という名称はどなたが決定されたんでしょうか。

前川:どうだろう。

安土:当時ね、私もそれ、自分でもその「集団」というと何かあまりイメージとしてはよくない。

前川:探偵団みたい。

安土:よいイメージは持っていないんですけども。

山下:ずっと変わらず来ていますよね。

安土:まあ、民主的に、皆さんの意見がそういうようになっていったんで。

山下:もう立ち上げ時に、その名称はすぐ出てきたんですか。

安土:はい。私、これの「集団」というのが、どうも(笑)。イメージとしては、ごろがあまり好きじゃなかった、実際、感覚的には。

山下:あ、そうだったんですか。

安土:それでも、まあ、幅広いというか、そういう意味でいけば、そうかというのも。

山下:一応話し合って決めたということですね。

安土:パフォーマンスも含めて。

前川:そうそう。それで、平面作家が立体をこしらえるとかいう世界で、「造形」という言葉を使っているんですね。

山下:その辺、貴重な話ですね。

前川:それで、私の現代美術家協会。このときにも、平面の作家が代表でしたがね、それが桜の木を切りましてね、それが痛々しくて、包帯を巻いて、第1室の床に展示したという。

山下:ああ、そうですか。

前川:「これ、おもしろいな」と思って。それで、それと同じ要素が。

山下:平面じゃなくて、やってきて。

前川:長等公園の野外彫刻展にありまして。「あ、これは幅広く、今のアートを考える」。

山下:「表現、広げていくんだ」ということですね。

前川:「いくんだな」ということで。はい。

山下:時代の動向を見据えていたとことですかね。

前川:はい。いや、それはありがたかったですね。それで、野外彫刻展も3回やってきましたけども、いろいろと、やっぱり現代美術の作家も、動くものやら、音の出るのやらね、よくやってましたね。(注:滋賀県造形集団は立ち上げ直後から、野外彫刻展を3年連続で開催する。1975年5月1–31日まで長等公園野外彫刻展、1976年10月13日–11月3日まで豊公園野外彫刻展)、1977年10月16–30日、希望ヶ丘公園野外彫刻展。なお、絵画展も同時開催で企画している。)

安土:そうね。

山下:その野外彫刻展もお聞きしようと思っていたんですけれども、1月に集団を立ち上げて、5月という段階で、すぐにまず大津市の長等公園で野外彫刻展。この動きの速さ、すごいと思うのですが。

前川:この展開。

安土:はい。

山下:先ほどお話がありましたように、メンバーの方が、まず彫刻を外で展開したいという希望があったということになるのでしょうかね。

安土:まあ、一番は。

山下:すぐ野外に出ていくという動きが、すごいと思って。

安土:インパクトが強いのは、やっぱり野外でやるというのとね、それと大津市長等って。事務局をバオバブという、昔お茶屋さんだった場所なのですけれど、そこを自分で改築されまして、画廊をつくったり、先ほどのドンゴロス(麻袋)を張って、手づくりの画廊をつくったりされていた作家がいましてね。鈴木靖将が事務局を引き受けてくれた人なのですけども。で、そこのところは昔、長等といいまして、大津京というか、そういう中心地だったところなんですよね。歴史的には、非常に信仰の山というか、三井寺があるようなところですよ。そういう環境の中でやるのは、やっぱりインパクトが強いじゃないかということと。

山下:最初のインパクトですね。

安土:大津の真ん中でもありますしね。京都に対抗して、対抗するというか、ちょうど琵琶湖の懐に抱かれたとこですので、山の。歴史的にもいいんじゃないかというところで。で、そこでやるとなると、まあ、準備が大変なんですよね。ブロックを運ぶだけでも、山へ持ち上げていかないとならない。運び込んでいかないといけないというようなことがありましたですけども。しかし、無理して、まあ、我々は平面が専門でしたけれども、そういうことからやり始めて。それで2回、3回と続けていく中でですね、管理も大変なんですよね。長浜でやったときも、琵琶湖のほとり、長浜城の近くなんですけれども、そういうところでも、もう管理が大変で。自然の突風があったりですね。夜中に彫刻の部品が盗まれたり。子供がやっぱり公園と間違えて、いたずらしたりっていうんで。まあ、いろんな意味で。

山下:実験的な最初の取り組みだったわけですね。

安土:負担が大変になってきて。それで奉加帳を回すのでもですね、年配のやっぱり誇りある先輩なんかは、「こじきみたいなことするの嫌や」というふうなことがありましてですね(笑)。まあ、実際、私らも公務員として働いていましてね、まあ、嫌々というか、大変だったですよ。奉加帳を回ったりする(笑)。

山下:でも、なし遂げていったという。

安土:そういうようなことで、「運動というのは、なかなか大変なことだな」というふうに実感しましてですね。それで、もう本当に、先ほど言いましたように、両立が難しいということで離れていった人も実際ありまして、大変だったんですよ。で、いっときはもう本当に小さくなってですね。

山下:ああ、そうですか。

中谷:改めてですけど、その1月の立ち上げの時に、先ほどおっしゃっていただきました三つのスローガンというか、美術館をつくるのと、美術コースをつくるのと、それから、役所のシステム、窓口の課をつくってもらうということも、最初に、造形集団の結成と同時に、アピールというか、運動としての主張というのは持っておられて集まられたということでよろしいですかね。

安土:そうですね。それまでね、特に大津では鈴木靖将という人が、三橋節子さん(注:京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)出身の日本画家。鈴木さんとご結婚されたが、35歳で若くして癌のため亡くなられた。)という作家がいましてね、その人の旦那なんですけどね。

中谷:そうか。

安土:はい。それで、節子さんがもう卒業されて、そのこともあって、彼も何かそういう新しい「何とかしたい」という思いもあったんだろうと思います。自分の自宅をですね、何ていうのか、買いかえたのかな。下に住んでいましたのをね、無理して借金してでも昔の茶屋を買って、広い場所を確保して画廊をつくると、その当時。ちょうど手術された後だったかな、節子さんが。それで一方で長浜の方では、縄ギャラリーというのがありましてね。土田隆生という人が中心で縄ギャラリーのオーナーの下郷周次郎さん。

前川:もう現代美術の最たる。

安土:現代美術の作家五、六人が集まって、縄ギャラリーと。それが何にもなかったし。画廊にほとんど何もなかったのに、大津とほとんど同時期に、そういう動きがあったんですね。それで話し合っている中で、共通の認識ができていって。それで、まず窓口をつくろうというような話になったんですね、県、行政に対する。先ほど言いました「文化部をつくってください」という言い方。社会教育課の中で、教育委員会の社会教育課でしたかね、そこしかなかったんです。それを、そこで「振興、文化部をつくってください」というのに固まっていったと思うんですけどね。そういう話し合いの中で。

前川:それで、信楽の作家も結構ね。

安土:そうそう、信楽の作家も、そうですね。

前川:多い。川崎千足さんなんか、その最たるとこですね。その仲間にも、もう他界した者もいますけれど。やっぱりすごい現代美術のそういう、陶芸、彫刻作家もたくさんいましたから。だから、仲間は意外とすごいメンバーが集まっていたんですね。

安土:そうですね。当時のメンバー。

山下:それは、お互いが連絡をし合ってという。何か公募を出したとか、そういうことではないんですよね。

前川:公募じゃなしに、どっちかというと、もう、何か、集まったな。

安土:そうです。

山下:その辺が非常に気になるんです。

前川:不思議と。

安土:そうですね。

山下:不思議とですか。

中谷:口コミという、基本的には。

安土:いや、「何にもないな」というのは、みんな、分かっていたことなんですね。

中谷:ええ、共通の認識が土台にあったんですかね。

山下:この後もう少し質問を続けさせていただいてもよろしいでしょうか。滋賀県造形集団の話に入ってきたので、切りがいいかもしれませんので。

(休憩)

安土:はい。(滋賀県知事の)現役が負けるというふうな、一つの刺客ですかね。何ていうんでしょうか。そういう動きがあったんですよ。

山下:それで武村さんが、どんどん出てくるんですね。

安土:時代の趨勢というか、武村さんが四十…… 前、八日市の市長からですけど、滋賀県のトップになったというような、そういう動きがありましてね。それで、われわれも。

中谷:それは何年ですかね、大体。代わられたというか、武村さんになられたのは。もう、野外展に来られたときは、武村さんですよね。(注:武村正義氏は1974年に45歳で滋賀県知事に初当選した。八日市市長は1971~1974年。)

安土:はい、そうです。

前川:まだ、(活動を)始めてですね。

安土:始めてもう1年。当時。

前川:1年経っていたかどうか。

中谷:まあ、調べたら。

安土:当時、そうですね。野崎欣一郎さん、それなりに地方から来て、政治家として、立派な大仕事をされたんだと思うんですけどね。そういうちょっと失脚するということがありましてね。それで県が、今の県立美術館が建っている文化ゾーンと言われていたころ。(注:滋賀県立近代美術館は1984年4月に大津市の文化ゾーン内に建設された。8月25日開館。)

山下:文化ゾーンですね。私は非常に近いところにいますので。

安土:あれの後始末みたいなこともあったんです。そういう動きがあったんで、われわれは、それにちょうど重なって、両面だったと思うんですけど。それで、この方(武村 知事)も本当、若いときは自転車でこう割とまめに動くような方でした、その当時。

山下:そうか。だから、こういう新しい動き。

安土:自転車で行動するような。公用車がありながらね。そういうあれもありまして。そういうふうな形で当時、大学(京都市立芸術大学)でも梅原猛という先生が、若くして学長になられて。(注:梅原猛氏は1974年7月1日から1980年6月30日まで。また1983年7月1日から1986年3月31日まで京都市立芸術大学の学長を務めた。)それで、これのとき(注:長等公園野外彫刻展)に序文を書いていただいたんです。

山下:そうでしたか。

安土:「欧米文化、再考」ということで、書いてもらったんで。滋賀県はすばらしいものもあり、まあ、あれして。

前川:とにかく、また探して持ってきます。

安土:そうですね。それの序文を書いていただいて。

山下:これ、ぜひ拝見したいですね。

安土:その当時、学長になって間があまりなかったと思うんですよ、梅原猛さん。

山下:なかなかこの冊子が見つからないので、ぜひ見せていただきたいと思いますね。

前川:ええ。ゆうべ、ちょっと探したけど。

山下:あ、そうですか。

前川:ゆうべが、この教室(注:前川さん主催の版画教室)の打ち上げだったんで。

山下:ああ、そうですか。

安土:これも手づくりでしたからね。だから、もう本当に。

前川:そうそう。みんなで。まとめは後の方でしたね。

安土:はい、そうですね。

前川:それで、絵画展のことも書いていただいてたかどうかと思いますけど、なかなか。

山下:少しずつ、またインタヴューを再開してもよろしいでしょうか。

前川:はい、すみません。

安土:はい。

山下:そうしましたら、今日はせっかくの機会なんで、滋賀県造形集団の流れをかなり細かく質問してみたいと思うんですが。もう一度、その立ち上げ時の確認なんですが、そうしましたら、組織化はあくまで口コミでということですが、もう最初に10名ぐらい集まったということですよね。

前川:はい。

山下:その後に最初の野外彫刻展を開催するのですが、その出品者の選定とか、彫刻展の応募条件や、そういう内容をどうするのかというのは、細かい規定は初回はされずに。

前川:規定そのものが高校生以上。

山下:高校生以上。

前川:はい。それだけです。

山下:広報とかもされたんでしょうか。

前川:ええ。いわゆる趣意書を書いて、出品要項、そして出品票そのものを書いてもらって、応募してもらうように、毎回それで用意しています。

山下:広報先というのは、皆さんで選定をされて。

前川:高校の教師も大分いましたから、学生、生徒にもということで。どんどんそうやって広げて、文化施設にもできるだけ置いてということで。なかなか文化施設もなかったんですよね。県立文化会館がぼちぼちできてきたころですかね。

安土:はい、そうですね。

前川:そのころに情報を置くような文化相談なんかあったのかな、県の。

安土:文化相談。

前川:あそこの、滋賀会館とか。

安土:はい、滋賀会館ですね。

前川:そういうところへ置いて、まあ、ぺらっとした要項ですけど。

山下:はい。そうしたら、そのメンバー以外の方からの応募も来るわけで。そういうのを皆さんがチェックされて。

前川:ええ。要所、要所の作家には送っていましたね。

山下:あ、なるほど。

中谷:要項を。

前川:はい。

山下:(長等公園野外彫刻展の)出品者数は、最初25名、出品数39名という記録があるんですが、その野外の場所の許可もすぐ出たということになるんでしょうか。時代的には画期的だったんですけど。

前川:会場そのものも、やっぱりあそこの教育委員会関係にプッシュして、それで、県の後援と教育委員会の後援も、とにかく全部取ろうということで、行政に関わっていこうということに。

山下:なるほど。

前川:その中で文化行政の応援もするし、逆にこちら、文句も言うと。もろ刃の刃でいこうということで。

山下:はい。そういう気持ちですね、意気込み。

前川:運動を展開していったということですね。

山下:では、行政の方も使って良いという許可も出た。

中谷:長等公園というのは、一応所管としては県ですか。

前川:あれは。

安土:大津市。

前川:大津市。

安土:大津市が、ちょうど幸いなことに、あのころも革新系の市長さん、山田耕三郎さんという。その後参議院議員でしたかね。

前川:そうそう。

安土:その方が大津市長だったんですよ。社会党の革新系の市長さんで。

中谷:なるほど。

安土:はい。それで、知事もちょうど、その当時は革新的な方でしたからね、幸いしたんだろうと思うんです。

中谷:今おっしゃった知事は、武村知事のことですか。

山下:ちょうど、そうしたら、新しいことをしていこうという動きに同調していただけたということですかね。

前川:はい。

山下:ちなみに、1960年代後半、美術史を振り返りますと、山口県宇部市の現代彫刻展とか、神戸の須磨離宮公園野外彫刻展、箱根(彫刻の森美術館 国際彫刻展)とかもあるんですが、メンバーの中に、そういった動きも気にされての野外という意見もあったんでしょうか。

前川:ええ。そこら辺でグランプリを連続で取っているのが、土田隆生って。(注:土田隆生は、1989年に神戸具象彫刻大賞展大賞、1990年に第3回ロダン大賞展では上野の森美術館賞、1991年に神戸具象彫刻展優秀賞を受賞している。)

山下:そうか、そうですね。会長になられた、土田さんですよね。

前川:京都女子大学の名誉教授でございますけども。

山下:はい。

安土:土田隆生はですね、はい。

山下:では、そういう意見もあってということになりますでしょうか、野外への展開というのは。

安土:はい。

前川:そこら辺は、滋賀県で一番何というか、美術館のないところで、野外でも、他の都市でもやってはいるけれども、やっぱりうち独自のものをやろうじゃないかって。

山下:はい。

前川:それがこの三つの野外彫刻展、そして、ひいては水をテーマにという。

山下:そうなってきますね。

前川:「びわこ現代彫刻展」(1981年)につながっていくわけですけど。それから、一貫して野外が出てきているのが面白いと思うんです。

山下:そうですよね。かなり、この時代としては早いと思うのです。

前川:はい。

中谷:あえてなんですけれどもね、市長が社会党のということではないんですけれども、先ほど前川先生が、その、(学生)運動の時代というのはノンポリでというふうにおっしゃっていましたけれども、この立ち上げの状況の中で、イデオロギー的なというかですね、あるいは思想的なというようなことについての話題、あるいは雰囲気みたいな、イメージみたいなものは、特に色は、皆さんの中では。

前川:私個人としては、全く色をつけたくないし。

中谷:ないという、むしろ。はい。

前川:もちろん革新系の良さもあるし、それで自民党系列の豊かさも、そら魅力は魅力なんですけど、ですけど、やっぱり自分の仕事は色をつけたくないですね。

中谷:なるほど、なるほど。

前川:この教室もそうなんですよ。これ、隣が青土社。

中谷:はい。

前川:うん。青土社は、やはり少し革新に近い要素をお持ちなんで、ここの請願書を出して、この京都市民美術アトリエを守ろうとしたときに、結局、私は色つけてないところで仕事していましたけど、請願書を出したのは、やっぱり革新のところに出してしまった。だから、いまだに色眼鏡で見られてるという、この教室が。

中谷:はい、はい。

前川:それはおかしいと。

中谷:なるほど。

前川:うん。私は、もう一切色つけたくないし、造形集団も色ついてないですね。

安土:そうですね。そうですね。

前川:いろいろな思いがあって。

中谷:なるほど。

前川:九条を守る会の大先生もいはるし。

中谷:はい。ですから、それは割と一緒になるというところでは幅広く。

前川:ええ、幅広く。

中谷:だけど、運動としての色はできるだけつけないでおこうと。

前川:そうですね。だからもろ刃の刃というのは、そういう意味だということで。

中谷:なるほど、なるほど。

前川:応援もするし、反対もするしということ、両方でやっぱり滋賀県のため、滋賀県の子供たちのため、文化のためということで。

中谷:なるほど。

前川:やっていきたいということで。はい。

安土:滋賀大学の中では、いわゆる日展系の作家がほとんどだったです。

前川:そうそう。

安土:彫刻も。

中谷:なるほど。

安土:ところが、特に彫刻の野外彫刻展をやったときも、日展の、申しおくれましたけど、伊室(重孝)いう先生が熱烈なね、滋賀県に県立美術館がないというのをものすごい情熱的に考えておられて、それでちょっと性急に命絶たはるということがあったんですよ。

山下:あ、そうですか。

安土:当時、これをやっていた。

前川:私もお世話になったんですが。

山下:そうだったんですね。

安土:一方では、革新系の古谷謙先生ですかね。

前川:小谷先生。

安土:あの先生は、いわゆる在野ですわね。

前川:ええ、ええ。

安土:何ていうんですか。

前川:両方いました。

中谷:なるほどね。

安土:対象的な作風だったんですけど、それでも参加されましてね。

中谷:なるほど。

山下:幅広く。

安土:そういうことでした。だから、思想的な対立は出ても。

前川:思想的には、うん。

安土:その思いは一緒だったんですよ。

前川:思いがこれだったら、皆でやろうかというね。

中谷:どういう形でも。

前川:はい。

山下:それでどんどん集まっていったということもあるんですね。

前川:ええ。

山下:ちなみに、最初の三つの野外彫刻展のときは、選抜というか、応募した方はどなたでも参加できたのでしょうか。あるいはちょっと内容を見て、お断りとか。

前川:出品作家を選ぶということはしていなかった。

安土:なかった、なかったです。

山下:それはなかったですか。

安土:ええ、はい。

山下:では、全員参加という形の。

前川:はい。基本はアンデパンダンという思いで。

安土:そうですね、思いで。

前川:平面の作家が、立体を出してもという、それはもう。

山下:何でも良いと。

前川:断りも全くなしで、新しいアートの流れをということで思っていますけど。

山下:はい。ちなみに野外ですが、そういう油彩とか、ブロンズなどそういう彫刻も含めて。

前川:ええ、含めて。はい。本当に、どっちかというとサイトアートみたいな世界も含めて。

山下:はい。

前川:インスタレーションみたいな、そういう雰囲気の場もこしらえたり。

山下:はい。かなり新しい動きですよね。

前川:うん。結構、面白いことができたと思うんです。

山下:当初は1975年で、結構、最初はスタートして大変だったと思うのですが、それで終わらずに1976年に、また場所を変えて長浜でされて、1977年に希望が丘という、これは。

前川:現実。

山下:そこまでいこうという思いというものは。

前川:大変だったですけどね(笑)。

安土:本当ね。

山下:一回では終わらないでいこうということですかね。

安土:そうですね。

前川:やっぱり若かったせいか、パワーあったよね(笑)。

安土:(笑)相当無理していましたがね、でも。

前川:無理してた。

山下:ああ、そうですか。

安土:無理してました。

山下:でも、3回、毎年開催でいこうという思いで。

前川:はい。

山下:機運だったということですか。

中谷:1回目の野外彫刻展は会期で言うと、何日間ほどされたんですか。

前川:会期、どうだったかな。

中谷:1週間、一月。どのくらいのスパンで。

安土:一ヵ月だったか。

前川:一ヵ月ぐらいでしたね。

安土:はい、一ヵ月。

中谷:一ヵ月されたんですね。

前川:二週間とかそんなものではなかったと思います。

安土:はい。

中谷:一ヵ月やっていた。(注:後日確認。1975年5月1–31日の1ヵ月間開催した。)

山下:そうなのですよね。それもメンバーで決めたと、一ヵ月でいこうと。

前川:これ(『第1回長等公園野外彫刻展記録集』)、10月の記録集で書いてるね。

安土:はい。

前川:二回も。

山下:二回目は10月です。(注:二回目の豊公園野外彫刻展は1976年10月13日–11月3日まで開催された)

前川:第三回も10月という、そういう形で大体、ひと月だったかな。(注:希望ヶ丘公園野外彫刻展・絵画展は、1977年10月1–30日まで開催された。)

安土:(造形展は)野外彫刻展と並行して。

前川:ちょっとまた間違っていたら訂正します。

山下:大丈夫です。

安土:当時はね、滋賀県にはいわゆる百貨店、高島屋とか大丸に相当するようなものがなかったんですよ。だから本当に大変だったんですけど。

山下:そうですよね。

安土:会場を、だから、彫刻は野外でできるんですけど、絵画、平面はね、雨にさらすわけにいかないんで、どこか借りてやるということに。

山下:はい。

前川:やっぱりひと月です。

中谷:あ、ひと月ですか。

前川:長等公園、ひと月。

山下:はい。

中谷:なるほど。

前川:第二回は10月13日から11月3日まで。

中谷:大体一ヵ月スパンを。

前川:そうですね。

中谷:心がけて。

前川:はい。

山下:すごいですよね。

安土:だから、今から思うと文化的な装置、何ていうんですか、装置がなかった時代で、映画館もなかったんですよ。だから、滋賀会館の中で映画館が。滋賀会館というのは県立の施設で、今も、あれも存続運動を私も中心になってやったんですけど、だめだったんで、NHKに買い取られたんですが、結果的に。そういう形で滋賀会館が、その文化の一つの情報の。

山下:滋賀会館ですね。

安土:会館だったんです。

前川:あれもつらかったな、壊されて。

安土:ええ。

山下:ちなみに、その一ヵ月スパンというのは、土田さんとかもいて、宇部とか須磨とかを見ていたという、その辺も参考になったとかはあるんでしょうかね。

前川:はい。それからね、希望が丘で、第三回目をしたときには、これは二週間ですかね。

山下:そうか、二週間か。

前川:10月16日から10月30日ということで、そんなもんだったかな。

山下:はい。

前川:やっぱり会場を借りるのが大変だったよな。

安土:そうですね。

山下:その間、メンバーの方が監視をされたりとか。

前川:そうです、そうです。

安土:そうです。

山下:ということですか。

前川:はい。だから、スタッフが案外多かったので、何とかいったけど。

安土:そうですね。それでもやっぱり。

前川:毎回、それでシンポジウムをして。

山下:はい、そうですね。

前川:希望が丘で25名(がシンポジウムに参加)、第三回で。(注:10月16日にテーマ「県立美術館の位置、現状と展望」としてシンポジウムが開催された。)

山下:はい。

前川:それで、第二回が。

山下:長浜でもシンポジウム。(注:長浜向浜荘にて35名が参加。テーマは「第2回 造形展開催の意義と県立美術館設立への展望」。)

前川:はい。51名。違う、ごめんなさい。これは人数は書いていないな。出品者が51名とか。

中谷:これ、会費とかね、それから出品に当たっての経済的なことというか、その辺はどんな形ですか。

前川:野外彫刻のときには、搬入搬出は自分の力で。

安土:はい。

中谷:自分の方でやるんですね。

前川:大体、5,000円程度だったと思う。

安土:奉加帳で大分カンパをね、いただきに、やっぱり持って歩きましてね。

山下:はい。

安土:お願いします、いう形で。

前川:だけど。

安土:会期中も。

前川:それにはあまり手をつけずに。

中谷:なるほど。だから、ただ呼びかけとしては。

前川:それね、面白いのは、小品を持ち寄って展覧会をして、売り上げの40パーセントを、団に入れろという。小品展で。

安土:そうでしたね。そうそう。

前川:資金稼ぎをしましたね。

安土:そうです、そうですね。

山下:その彫刻展のためにという。すごい。

前川:まあ、彫刻展もそうですし、それからこの運動のために。

山下:運動の。

前川:団の運営のために。

中谷:なるほど。

前川:大体、年間の団費は5,000円ぐらいだったかな。

安土:そうだね。

前川:今でも5,000円。(注:出品料は別。)

安土:はい、今も5,000円ですね。だから、私、自分の作品売れないけど、作家の作品はうちにあるんです。

前川:(笑)

安土:仲間の作品はたくさんあるという。

前川:私もぎょうさん買うてある。

安土:(笑)

山下:そうやって、全貌が見えてきます。

前川:要するに、やっぱりあんなのだったら、お金出す方が楽だろうと思う。

安土:そうですね。

前川:作品も出さないといけない。

安土:そうそう。

前川:(笑)

山下:そうか。

前川:それで40パーセントしかね、寄付できないから。それはちょっと難でしたな。そういう形で作品展の、小品展の売り上げを運動資金にしたし、それで、これ、十周年、ちょっと飛んでしまいますけど。(注:資料『’84滋賀県造形集団 10周年記念展図録』を見ながら。1984年に開館した滋賀県立近代美術館でも11月13–18日まで展覧会を開催した。)

山下:ええ。

前川:十周年をしたときには、武村知事がね、買ってくれたんです、知事室に。それも下手くそな私の作品。

安土:いや、そうそう。大きな絵でした。

山下:買い上げですね。

前川:150号か。

安土:150号ですよね。

前川:それで、知事室に長いこと置いといてくれて、運動のシンボルみたいな形で。この作品かな。

安土:ポケットマネーで買われて。(注:《記憶の変容Ⅳ》)

中谷:ああ、そうなんですね。

前川:これも、それで三桁はあんまりですし、二桁で、900,000で。

安土:ああ。

前川:これ、ちょうど土田隆生さんが段取りしてくれて。

山下:はい。

前川:十周年のこの記念の作品を見て、「どれかは置いてくださいね」と、多分うまいこと売り込んでいただいた。それで、(武村知事が)もう一遍、会場を見てくれて、シンポジウムもちょうど来てくれて見てくれて、「これや」と言ってくれたのが私の作品で。

山下:はい。

前川:それで900,000を。それで、400,000少し、また団に入れられるという。

山下:ああ。

前川:それで、あとの500,000でパソコンを買いましてね。

中谷:はい。

前川:あのころ8ビットの。

山下:はい。

前川:厄介な(笑)。

中谷:(笑)

前川:富士通のイレブン(FM-11 AD2)というやつで、究極の8ビット。それを買って公文書を打つようにしたんです。

山下:あ、それから正式……

前川:一字変換ですわ。漢字一字変換。

山下:はい。

前川:大変時間かかる(笑)。書いた方が早いって(笑)。

中谷:(笑)

前川:そういうことを、ちょうどこのときに事務局をやっていましたから。

山下:戻りまして、希望が丘というのも、私は滋賀県に住んでいるので、あそこの規模の大きさと場所の知名度は知っているのですが。希望が丘も許可がすぐ出たんでしょうか。

前川:あれも、やっぱり。

山下:一般の人が普段から使っている場所ですよね。

前川:向こうも、いろんなイベントや何やかやの隙間を埋めていかないといけないというところがありましたね。

山下:はい。でも、出たんですね。

前川:借用できたね。

安土:あれ、文化振興課もできましたからね。

前川:そうだ、そうだ。

中谷:それは大津市。

安土:それでもう話が。

山下:いや、大津ではなく、守山になります。

安土:県立です。

中谷:県ですか。所管は。

前川:県です。

安土:県ですから、もうそのころは文化部ができてましたから。

中谷:ああ。

安土:はい。

前川:県立の施設だったから、それで県とのいろんなやり取りはしていますので。

中谷:はい。

前川:それで、やっぱり後援依頼をしていいことになると。

山下:なるほど。

前川:うん、それは何とかしてくれましたね。

山下:ああ、そういう。

前川:上手に。

山下:結構、行政との連携があったんですね。

前川:はい。それで、もちろん、その野外彫刻のあたりは、警察とかね、消防とか、もう皆、連絡して。野外彫刻展のときは第2なぎさ公園(注:守山市)でやりましたから、あのときは全てそういう浜辺や何やかは、港湾法、公園法等の占用許可申請をもらってという。

安土:はい、はい。

山下:最初のこの三つの野外彫刻展では、現場に来て物をつくる作家の方、滞在制作をする方もいらっしゃったのでしょうか。

前川:あのときはしてなかったな。

山下:まだこの頃は。

安土:はい。

前川:滞在、その作っているところを見せるということはしませんでした。

安土:はい、はい。

山下:まだ、搬入搬出の。

前川:はい。

安土:はい。

前川:ずっと後の方の、BAOのときには。(注:BAOはBiwako Artists’ Organizationの略称。詳しくは後述している。)

山下:そうですね、はい。

安土:そうですね。BAOのときからですね。

山下:日本画の方がそういう立体をされたりとかはあるけれども、基本的に作ったものを持って来られて。

前川:そうです。はい。

山下:設置場所は自由に?

前川:いや、やっぱり相談で決めてたね。

安土:そうですね。

山下:参加者全員が集まって。

前川:4トンのユニックで据えつけないといけない作品もあるし。

安土:そうですね。

山下:はい。

前川:何か不思議と、あまりもめなかった。

安土:そうですね。

山下:もめなかったですか。スムーズに。

前川:「びわこ現代彫刻展」(1981年)のときには、あの人。

安土:安藤さん。

前川:安藤忠雄さん。

山下:そうですね。後でお伺いしたいと思って。

前川:設計をしてくれまして。

山下:はい。それでは、その三つの野外彫刻展に入場するお客さんの様子やメディアの反応で、何か記憶がありましたらお聞かせいただければと思いますが。

前川:人数やら全部書いたように思うんだけどな。(注:第1回長等公園野外彫刻展では入場者数4,000余名との記載あり。(前掲「滋賀県造形集団10年史」、p.67。))

山下:お客さんの反応とか、取り上げとかは、ここに少しNHKやテレビで放映されたと。(注:手元資料「滋賀県造形集団40年の歩み」を見ながら。)

前川:新聞をとにかく集めました。

安土:新聞、これ小さいのしか。(注:前掲資料を見ながら。)

山下:掲載されて。

安土:掲載、はい。

前川:皆、こういう形で新聞の記録も、記録集としてまとめさせてもらっていますので。

山下:そうですね。やっぱりここに。

前川:これは「びわこ現代彫刻展」ですけど、シンポジウムも、それから野外彫刻展もこういう形で全て、新聞の記事をベースに記録集に載っけていました。

山下:はい。本当に身近な公園だと思うので、一般の方も見に来たり。

前川:そうですね。

山下:入場料は特にないですよね。

前川:入場券は取っていなかったと思います。

安土:はい、そうですね。

前川:「びわこ現代彫刻展」のときには、もちろん、いただきましたけど。

山下:はい。そうしたら、メディアでの掲載とかもあって。

前川:はい。

山下:注目があったということですね。

前川:とにかくね、新聞社、広報活動は一所懸命やりましたからね、私が。

中谷:なるほど。

前川:はい。

中谷:このときのメディアとしてね、具体的に記者の人で、かなりサポートしてくれた人というか。

前川:滋賀県の記者が中心でしたけれど、もっと後の方には京都新聞の。

中谷:京都新聞。

前川:藤(慶之)さんか。

中谷:藤さん。

安土:はい、はい。

前川:あの先生あたりは、よく書いてくれました。

中谷:ああ、そうですね。

前川:こういう記事ですね、コラムの。

中谷:はい。

山下:そして、その1976年と1977年での野外彫刻展の際に、シンポジウムを開催されていることで確認なんですけど。

前川:はい。

山下:そのテーマは。

前川:テーマは県立美術館の設置が大体。

山下:についてですか。

前川:ええ、ベースですね。ベースはそこになっています。

山下:それで、1979年の三つの彫刻展を終えた後に、県立美術館建設の「一口アドバイス」というのを、全国の美術館350ほどに送付されたという、面白い企画をされたと思うんですが。

前川:はい。送りまして、それを回収しましてね、それで、こちらの準備室。

山下:はい。

前川:美術館の準備室、開設されていたかな。(注:後日確認。滋賀県教育委員会事務局文化部県立美術館開設準備室設置は、1981年4月。)

安土:はい、開設されていました。

前川:うん。そちらへ、どんとそのままお渡ししておきました。

山下:そうしたら。

前川:それで、その「一口アドバイス」の趣旨とを含めて、そのはがきをお渡しさせてもらいました。その中で、特にできてしまってから、あんなことが書いてあったはずなのになあってのが、まあ、実際。

山下:ありました。

前川:ブラックボックスの中で設計が進みまして、搬入搬出のところがコンクリになっていますね。

山下:はい。確かに。

前川:大体、展示室のギャラリーのところなんか、タイルなんです。

山下:ありますね、はい。

前川:もう作品が傷むに決まっているって。

山下:ああ。

前川:それはかなりお願いしたんですけどね。

山下:そうだったんですか。

前川:結局はアウトだったです。それはもう残念ながら、全部は生かされていないという。だけど、ちゃんと受け取って設計はしてくれたろうと思うのよ。

中谷:何年にできたんでしたかね、準備室。

前川:準備室は何年だっただろう。

山下:準備室はですね。ここですね。

中谷:その中に検討委員会でしょう。

山下:はい。

中谷:でも、事務局としてね、準備室ができたのは80年代でしょうね。違いましたっけ。

山下:80年代だと思います。

安土:文化部ができたんですよ。武村さんが。

山下:四者会談をしています。いつだったかな。

安土:第二回目です。第二回目には文化部ができていたんです、振興課。

中谷:振興課は、もう第二回目のときあった。

安土:はい。振興課は第二回目。だから、中央から大体二年か三年。

前川:あれ、二年。

安土:か三年で替わられるんですよね、中央の。

前川:文化振興課長。

山下:はい。

前川:それで、その課長とは、よく場を持って、よく話し合いをしました。

山下:ああ。

前川:それで、よく話を聞いてくれた人は皆、出世しています。

山下:(滋賀県立近代美術館の)建設調査委員会というのがありますよね。

安土:え。

山下:建設委員会というのが、早い段階からあるみたいですね。

中谷:1979年にもあるんですね。

山下:はい。準備室はどうなんでしょうね。

中谷:建設委員会が、1979年にできていますね。(注:前掲資料を見ながら。)

安土:(建設)委員会のときは、上原恵美さん(注:美術館開館年の1984年時は、滋賀県教育委員会・文化部長)になっていたのと違うかな。

中谷:ああ。

前川:課長が。

安土:うん。あの方はずっと滋賀県にいる。それから、大概、二、三年で替わっていたんですけど、それまではね。

前川:石丸正運さん(注:1984年の開館時は学芸課長。)がその準備室に入ったのは大分後違うかな。

安土:後ですよ。

中谷:後ですよね。

安土:はい、はい。

中谷:多分、準備室ができて、石丸さんが(大津琵琶湖)文化館から。

前川:そうそう。

中谷:というのは、もう80年代入って。

安土:80、そうですね。

前川:そうすると、文化振興課に出ていたんですね。

安土:出て、うん。文化振興課は早かったんです。

前川:うん、三回目の。

安土:文化振興課は、最初のまず窓口を作ろうということで、最初にできたのが文化部、それから文化芸術会館が、つまり県民の要望が優先順位でしたからね。

山下:ありましたけど、四者会談になっています。準備室というのは。

中谷:準備室と何とかができてるということで言うと。

前川:何年なっている?

中谷:1981年ぐらいですね。

前川:81、ああ。

中谷:1981年にはもう準備室から四者会談で出てきておられるから、そのときにはもう。

山下:はい、これを確認したと思っていました。(注:前掲「滋賀県造形集団10年史」を見ながら。1981年12月24日に、第2回びわこ現代彫刻展に向けての四者会談が開催されている。「県文振課、美・準備室、第1回展事務局、推進委員」と記載あり。P.71。)

前川:ああ。よく、この記録をしっかりと取っていたですね。

山下:この記録、大変ありがたいです。

安土:こうやってね。

前川:これ、みんなでわあわあ言って、やっと作ったんです。

山下:そうですか。

安土:そうでしたね。

山下:大変ありがたい資料になっています。

前川:これも印刷屋が安くしてくれましてね(笑)。

安土:(笑)

中谷:なるほど。

山下:そうしたら、その滋賀県建築設計家協会やデザイン研究会の方々とも。(注:前掲「滋賀県造形集団10年史」に、1975年5月24日に懇談会の記載あり。P.67。)

前川:もちろん。

山下:連携していたという、実際そうだったんでしょうか、設立に対しては。

前川:ええ。それで建築家協会の冊子がありまして、そこにも何やかや書かしてもらったことがあったんですよ。

山下:それでは、やはり武村さんが滋賀県知事に来られて設立への動きが加速していったという。

安土:そうですね。

前川:何とかしようという思いはね、もう初っ端で酌み取っていただいたような。

山下:はい。そうしましたら、そういうのもあり、さらに三回の彫刻展をされて、そのままの勢いといいますか、その三回目の野外彫刻展が終わった直後に、滋賀県文化振興課に湖上の野外彫刻展、後の「びわこ現代彫刻展1981年」の提案をされているという。

前川:はい。

山下:これは、野外彫刻を三回していて、間をあけて、より大規模なものを展開しようという。

前川:そうですね、そのノウハウを持って、滋賀県ならではの野外彫刻展をできるようにと。

山下:はい。

前川:それはもうインターナショナルに通ずるように、いいものにしようということで。

山下:そうですね。これはかなり大規模な。

前川:はい。それで、県に20,000,000、市に10,000,000出してもらって。

山下:すごい。

前川:あと企業もあり。

山下:はい。

前川:もう手弁当で皆、回って。

山下:回って。

前川:それで4,000,000とか、ね。

安土:そうですね。

前川:滋賀銀行が4,000,000だったかな。

安土:うん。

山下:その点、もう一度確認になるんですが、作家でいらっしゃいますが、やはり何とかしようという意識でしょうか。自分の作品を作りたいという時間も欲しいのではとか思ったのですが。

前川:いや、自分の作品よりも、私もこれには出せませんしね。

山下:そうですよね。

中谷:はい。

山下:運営側に入っておられる。

前川:うん。だから。

山下:運営として。

前川:運営として、中心的な推進団体が、滋賀県造形集団。

山下:ですよね。

前川:他の団体にも声がけして、そういう建築家協会なにやかやと、もう全部関わってくれて、七つぐらいの団体でやったな。

安土:実行委員会ですね。

前川:実行委員会をこしらえて、それで滋賀大学のあの人が、副実行委員長かね。

安土:そうそう、副実行委員長。秋元(幸茂)さん。

前川:秋元。

安土:はい。

山下:それはもう今振り返っても、やりたい。

安土:そうですね。

山下:彫刻展をやるんだという思いがあったということですね。

前川:それはもうみんなはヒイヒイ言ってましたけど。

山下:でも、やると。

安土:そうですね。

前川:それで切符も売らないといけない。

山下:はい。

安土:あれは特に自然の脅威がすごいと改めて認識しました。

前川:波で。

安土:ええ。

前川:波、風でね、壊れるんですよ。

安土:私ら、同じ琵琶湖でも、私は膳所というところで山際なんですけども、対岸でやりましたから、平野部の多い比良おろしのですね、あれでもう。

前川:10月のあの時期にやったらいけないんですね。

安土:ええ。琵琶湖に浮かべている作品がありましてね、それが。

山下:ええ、そうですね。

安土:ものすごい太い鉄のパイプなんですけど、それがもう切れてしまって。

山下:ああ。

安土:そういった上に、鉄で直しにいかないといけない。もちろん作家も、九州の作家でしたけれども、九州から駆けつけて。

山下:はい。

安土:それで、お手伝いですわね。

前川:そうそう。

安土:私ら絵描きがそういう仕事をしていました。

前川:みんなね。

山下:ですよね、作家ですけど。

安土:それでごみ集め。

前川:草むしり。

安土:草むしりから、ごみがもう舞い上がって。

前川:それでこうやって皆、手をつないで。

中谷:はい。

前川:それで、この前を、でーって行くんです。

中谷:ずうっと真っすぐ行く。

安土:風が吹くたんびに、ごみが寄せられましてね。

山下:ああ。

安土:ごみ拾いが。

山下:その辺のモチベーションが、今振り返るとすごいなと思うんですけども。

安土:こういうとこでやっていましたから。

前川:手弁当、手づくりという。

山下:はい。

前川:これがもう基本はやっぱりこの三回のノウハウですわ。

中谷:なるほど。

前川:全くボランティア。

安土:ボランティアですね。本当にボランティアで。

前川:それで、ボランティアも。学生を集めてね。

山下:そうですか。

前川:そういうことまで。

山下:学生にも呼びかけて。

安土:これがなくなった作品ですね。こんなとこですから、ごみが寄ってくるんですよ。

山下:ああ。

安土:時期がまた冬でしたから。

前川:そうそう。もう、本当に。

安土:大変でしたよ。

前川:土の作品が溶けてくるわ。溶けていいはずなんですけど、怒りよってな。

山下:すごいですよね、本当にこの展覧会を実行したというのは。

安土:いや、この作品は、もう更地にしてくれという約束で借りていましたから、公園課からね、終わったら。

前川:これ、今残しています。(注:速水史朗《水の形》)

山下:あ、そうですか。

前川:買い取ってもらって、残しています。

安土:だけど、粘土でつくった作品があってね。

前川:そうそう。

安土:それで作家がごねましてね。

前川:古代の。

安土:社会問題になる。

山下:そうなんですか。

前川:古代の琵琶湖の土を、何層にも層にして、これが風化していくところを見せるんだと思ってたんです。すると、違う。

安土:そこの作品が、これ。

山下:ああ。

前川:これもそうですね。

安土:これは野焼き。(注:藤田昭子《波塔 No.2》、図録『第1回びわこ現代彫刻展1981』を確認しながら。)

前川:野焼きの作品。

安土:野焼きの作品ですね。これをね、置いておいてくれと作家は言うんだけど、公園課としては、これは危ないと言うわけです。

山下:ああ。

安土:子供が泳ぎに来たりして、そういう問題もありましたね。

前川:それは風化するし。

安土:風化するし。だけど、風化するというのが作品だと、作家は言う。

前川:うん、言うんだけど。

山下:作家が作家に言うというのは、面白いですね。

安土:(笑)運営する方としては、もう。

山下:運営ですね。

安土:それは困りますというわけですよね。

前川:主催者側としてはね、いろいろ悩みます(笑)。

山下:その運営開催までのいきさつが、記録によると結構いろいろとあったということで、確認させてもらえればと思うのですが。長浜市が後援を降りられたりとか、読売新聞社が主催できないというような記録がありました。1975年から1981年までということで、結構、6年間を要しているんですが、その経緯について思い出せるところを話していただけますか。

前川:土田さんを呼んでこないと。

安土:土田さん、呼んでこないといけない。

山下:少し、行政とすれ違いも起きたんですかね。

前川:ええ、命かけてやっている雰囲気で。

山下:はい。

前川:もうね、裏切られたという。

山下:はあ。

前川:うん、長浜の商工会が。

安土:ああ、商工会議所が共催になったんだ。

山下:はい。

安土:ところが、商工会議所というのは、下部組織ですわね、JCっていうんですか。若手の。

中谷:若手の、はい。

安土:ところが、上部団体の商工会議所のトップから、それは。

前川:だめだと。

安土:やめてくれと、急に降りられた。

山下:ええ。

安土:梯子段外された形なんですよね、共催の。ところが、もう動いてましたので、審査員の先生方がすごく怒られて。

山下:急に降りたのは、何か、内容が自分たちには合わないとか。

前川:どうだったでしょうね。あの長浜の。

山下:あるいは予算の問題とかですか。

前川:何か、最初はいい調子だったんですけどね。土田さんが一番苦労しているんだよ。

安土:そうそう。いや、だから審査員に事情で謝りに行った経緯があるんですけどね。

山下:そのようですね。読売新聞社も、最初は主催のご予定だったのですか。

前川:読売新聞は、私はあまり覚えていないですね。

山下:ああ、そうですか。

安土:うーん。結局それも、ゴーのサインが降りていたのに。だめになって、そういう事情がありましてね。

山下:うーん、急になったのですか。

安土:それで大慌てしたということなんです。結局、だから、先生方に自宅まで行って、謝りに行ったんですけれども、当然、そうそうたるトップの審査員ばっかりでしたから。
(注:第1回びわこ現代彫刻展1981の審査選考委員は、イサム・ノグチ、乾由明、中原佑介、堀内正和、本間正義。)

山下:ええ、そうですよね。

安土:はい。いいかげんなことをしていてはいけないということで叱られたという経緯があります。

山下:ああ、そうですか。なるほど。

安土:それでも、まあ結局、実現したんですけどね。

山下:そうですよね。

安土:守山の。

前川:守山市がね、もう。

安土:ひょっとしたら、守山の景気というか、潤っているから。

山下:はい。

安土:いいんじゃないかという情報がありましてね。

山下:ああ、そうですか。

前川:髙田信昭市長が。

安土:ええ。

山下:守山の市長。

安土:それで守山に掛け合って。

前川:二つ返事で「よっしゃ」って。

安土:やりましょうかということになって。

山下:ああ、そうだったんですね。

前川:その交渉も大変だったみたい。

安土:それが20,000,000という、20,000,000ですか。

前川:いや、10,000,000。

安土:10,000,000ですか。

山下:はい。

安土:それは10,000,000。

山下:それで(今浜美崎)「第2なぎさ公園」(守山市)が浮上したんですか。

前川:そうです、そうです。

安土:はい。それで、主催地が10,000,000出したら、県も20,000,000出せるという、そういう条件で動きましたんで。

山下:ああ、すごい金額ですよね。

安土:ええ。

前川:結局、60,000,000、70,000,000の。

山下:すごいですね。

前川:仕事になったんです。

安土:ねえ。

前川:あんまり大きい声で言えませんけど。

山下:いや、でも、すごいです。

安土:結局、安藤(忠雄)さんという人も凝り性だから、砂浜にわざわざ赤い土をぶつけて。(会場構成を建築家の安藤忠雄が担当した。)

山下:ああ。

安土:作品を置く、いわゆる装置ですわね。凝り性でしたから。

山下:それもお聞きしたいところなんですが。

安土:ヘリコプターで、ぐーっと会場を見てですね。

山下:はあ、なるほど。

安土:お金のことを考えてやらない人ですから。

山下:はあ、なるほど。

前川:まだ若いとき、安藤さん。

安土:そうそう、安藤さん。若いときは、まだ大阪のあれで認められ。(注:《住吉の長屋》(1976年))

山下:はい。

安土:神戸でなかなかということで。乾さんがね、評価されて。もう乾さんは亡くなられましたけどね。

山下:はい。

前川:ああいう大先生のところへお願いに行くのも。土田隆生さんと二人で行ったね。

安土:あ、そうでしたね。

前川:後の方の話ですけど、1995年の秋の。

山下:あ、「’95びわこ現代造形展」ですね。(注:1995年に滋賀県造形集団が主催となって開催した野外展。滋賀県大津市浜大津・大津港イベント広場にて。)

中谷:ああ。

前川:あのときも、とにかく、何というか、電話一本入れて。

山下:はい。

前川:それでお願いに行くという。

山下:そこですが、この「第1回びわこ現代彫刻展1981」から規模が急激に大きくなりまして、安藤さんをはじめ、審査員の方にイサム・ノグチさんも。

前川:はい、そうです、そうです。

山下:中原佑介さん、堀内正和さん、本間正義さん、そして乾さんという。こういった、いわゆる著名な方々を招聘されている、この人選はどなたが決めていたのでしょうか。

前川:それはもう実行委員会の中だと思いますね。

山下:メンバーで。

前川:うん。

安土:いや、その当時。乾由明が決定だった。

前川:乾先生が。

安土:はい。あの方が中心になって。

山下:はい。乾先生とはもう最初から身近な関係にあったのでしょうか。

安土:はい。そうですね。

山下:乾さんを通じて、イサム・ノグチさんとか。

安土:顧問をしてはったんや。

前川:そうですね。

安土:滋賀県立近代美術館の。

山下:はい。

安土:だから、現代アートを一つの柱にしましたから。

山下:はい。

安土:滋賀県の近代美術館の。

前川:実行委員が乾さんに。

山下:乾さんにご連絡したところ、中原さんとかも呼びましょうという話になっていったんでしょうか。

安土:そうです。

前川:そうですね。

安土:イサム・ノグチさん、この方も皆、乾さんが中心になって。

前川:そうですね。

安土:人選してもらった。

山下:メンバーとしても、それでいきたいとなってということでしょうか。

安土:はい。

中谷:先ほどの時系列で言いますと、もう(県立美術館設立)準備室が(滋賀)県としてできました。できた後にというふうになるのかな。(注:後日確認。前掲のように準備室は1981年4月に設置されているので、「びわこ現代彫刻展」の準備はその前となる。)

前川:はい。

中谷:ほぼ同じぐらい。

前川:そうですね。

中谷:事実上、美術館ができるぞという芽はもう見えてきたわけですね。

前川:はい。

山下:そうですね。

中谷:かつ、準備室の顧問というか、県の方から乾さんに頼んで、お願いしておられたという経緯があったので、ここからは、いわば県立美術館をつくるための運動というところから、県立美術館をどうしていくのかという、まさに県立美術館の準備という節に変わっていったのかなという感じがしますよね。

安土:近代美術館的な方向が、方向づけられてきたんでしょうな。

前川:もう近代美術館の、うん、方向ね。

中谷:ある意味で、それまでの積み重ねておられた運動の結果というのは、一つはもう見えてきたというか。

安土:見えてきたようなね。

中谷:(美術館を)作ってくれるというところまでいったというところですよね。

前川:この後の1984年のときは、「国際シンポジウム」のあのあたりで。(注:美術館が開館する1984年に「現代彫刻国際シンポジウム1984—びわこ現代彫刻展—」を開催している。)

中谷:はい。

山下:そうですね、海外に。

前川:やはり中身を、アメリカの現代美術も頭にしてという、作家の招聘もあったと思うんだよね。(注:滋賀県立近代美術館の所蔵の柱の一つにアメリカの現代美術が掲げられた。)

山下:ああ。

安土:それは副実行委員長のあの人、秋元幸茂さん。

前川:秋元さん。

安土:秋元さんのセンスですね。

前川:そうそう。

安土:中原祐介さんという人は。(注:1984年では、中原佑介は選考委員会、シンポジウム委員会を務めている。)

前川:うん、なかなか難しい先生だけど、よく呼んでこられた。

山下:いや、本当に。

安土:それで、それは秋元さん、あの先生。

山下:すごい方々が来られてますよね。

前川:何かいろいろとあったみたいよ。

安土:そうですよね。

山下:それでは、県の準備室の方や四者会談もありましたが、結構そういうメンバー以外の方のご意見も入ってきている彫刻展になりますでしょうか。

前川:そうですね。

安土:そうです、はい。そうですわ。

山下:では、乾先生がご連絡したら、中原祐介さんも、堀内さんも、割とすんなりと、行きましょうという話だったのでしょうか。

前川:でしたね。

安土:だから一つ、近代美術館の収集というか、集めるということもあったんじゃないかな。

前川:あれ、本間先生は、土田さんの関係かな。

安土:ああ、はい、はい。

中谷:ああ、なるほど。

山下:ああ、そうですね。すごいですね。

前川:(近代美術館の収集)対象の流れだと思います。

安土:はい。

山下:その先生方の、美術評論家の方々の審査のご様子など、少し覚えてることがありましたらお聞かせいただければと思うのですが。

前川:審査は、(安土)先生、立ち会いました?

安土:いやいや。

山下:審査はどのような形だったのでしょうか。

前川:私らは、ちょっと、もう。

山下:事務局とは別ですか。

安土:はい。

前川:マケットの審査。

安土:私も、立ち会ってませんわ。

前川:マケットの審査をやっていましたね。

山下:はい。

前川:マケットの後で、その展覧会をやって。(注:「びわこ現代彫刻展1981」では、マケット作品による第1次審査があった。マケット作品展が1980年10月5日–12日まで、守山市北公民館で開催された。)

山下:はい。では、その審査の中身の様子はお任せしていたという。

前川:もう私らは、雲の上の話やさかいに。

山下:ああ、そうですか。では、その一次審査、二次審査、授賞形式という形は、この1981年で初めて行われるんですけど。

前川:そうです、はい。

山下:その形式の採用は、審査員の方々が考えられたわけではないですね。

前川:ないと思いますね。

山下:公募をしていますから。

前川:はい、やっぱり。

山下:それはメンバーの方々が。

前川:メンバーだと思います、はい。

山下:じゃ、今回は二回の審査形式でいこうと。

前川:ええ。やっぱり、乾先生あたりの思いが入ったのかなと思います。

安土:乾先生は、もうね、勤めていましたから、余計ですわな。

山下:ああ。

前川:それでマケットの展覧会を守山の公民館(速野公民館)みたいなところでやりました。

山下:はい。

前川:それで、その当番には順番に行きましたけどね。

中谷:そういう意味でね、ちょっとステージが変わったというところで、最初はずっと手弁当で、手づくりでされてこられたこの団があって、その運動があって、ある意味では花開いたんですけれど、他方では、おっしゃったように、ちょっとコントロールがきかないというか。

前川:ええ、そうです。そら、そうです。

中谷:もう違うところに行ったなという感覚っていうのは。

安土:そうですね。

前川:違うところには行ってるんですけれども、やってることは一緒なんです。手弁当で、草むしりから何から。

中谷:なるほど。そうですね。だから、事実上、外見(そとみ)のところは自由さはなくなったけど。

安土:いわゆる草の根。

中谷:実際の下支えしているのは、同じ思いで、ずっと続いていってるということですね。

前川:はい。これは今ね。

安土:草の根文化と言われて。

前川:そうそう。

安土:それに振り回されたところもあるんだけど。

前川:振り回された。

中谷:(笑)

前川:だから、この二つの展覧会で、何人か辞めましたね。

山下:あ、はあ。

前川:(笑)

安土:もう、ええかげんにしてくれって、草の根はええかげんにしてくれって思っていましたけどね、私なんかは。

山下:ああ、そうでしたか。

中谷:ですから、そこのところで、実際その出品をする(注:造形集団造形展への出品)というのと、運動をするというのが、あるバランスが取れていたところが、ここではもう本当の。

前川:全く。

中谷:運動の仕事ということになるということですね。

前川:はい。

山下:それで、辞められる方もいてという。なるほど。

前川:ここで、メンバーがやいやい言い出すとね、なあなあがあるのかという、変な、ね、あれを探られますので。

中谷:なるほど。

前川:だから、一切、実行委員長です、うちの代表も出していなかったです。

中谷:そうですよね。

前川:もちろん、昔の仲間は出していましたけどね。

安土:はい。

山下:ちなみに、その出てきた作品の表現は、ステージが一つ上がって、さらに幅広くなったと思うのですが。

前川:そうですね、はい。

山下:当時を振り返ると、印象はいかがでしょう。作家さんのコンセプトや形態、あるいは琵琶湖との関わりということが大きく出てきたというような印象はあったのでしょうか。

前川:それはね、私どもの、何て言いますか、自分史の勉強にもなりました。全く。

安土:そうですね。

前川:全くありがたいことに、思いは。「ああ、そうか」という。マケットを見るだけでもね。

安土:そうですね。

前川:ありましたし。

山下:琵琶湖との関わりというのは、強く感じられましたか。

前川:ええ。それは元々、琵琶湖との関係を。

山下:水とという。

前川:子供の頃から持っていますし。やっぱりこれは、世界に向けてでも自慢できる根っこの部分だということですわ。

山下:はい。

前川:作品づくりもね、先生もそうですし。

安土:そうね。

前川:私もそこら辺は、近江、琵琶湖とか、滋賀とかね、そういう世界だと思うんですよね。

山下:はい。

安土:そうですね。勉強にはなりましたけど、つらいあれやな(笑)。

中谷:(笑)

安土:両面がありますわね。

山下:なかなか、実態が見えてきます。

安土:いや、われわれ平面をやってるものからするとね。

中谷:そら、そうですね(笑)。

安土:はい。

前川:もう、ええかげんにしてくれって。

山下:なるほど。

安土:ええかげんに。でも、行政は草の根文化をね、うまく乗せる、そういうあれがありますわ。権力というかね、政治的な流れで。

前川:だけど、反対に言ったら、行政を乗せたんです。

安土:うん、乗せたんです。

前川:うん。だから、われわれが乗せなかったら、今はないですね。

安土:そうですね、うん。

山下:大賞は4,000,000円という、こういうこともどなたが決めたんでしょうかね。(注:「びわこ現代彫刻展大賞」は八柳尚樹《Water Surface》が受賞した。)

安土:これ一流。

山下:4,000,000というのは、すごいですよ。

前川:あのころの金額からしたら、どうなんでしょうな。

安土:全く魅力あったよ。

前川:あった。あれはね、それぐらいのやっぱりステータスを持たないとだめですと。これは、ついこの前やった1,000,000もそうなんです。(注:2016年4月2日–17日に滋賀県造形集団主催による全国公募展「公募BIWAKO大賞展」(滋賀県立近代美術館)を行った。大賞は賞金100万円で吉田芙希子《Morningu Star》が受賞した。)

山下:ええ、そうですよね。

前川:どれぐらい、いや、やっぱ三桁やなとかね。

安土:でも、この作品なんか1,000,000だったけど、この製作費がもう何百ってかかっている。

山下:ああ、そうか。そうですよね。

安土:はい。

前川:この当時でもそうですし。

山下:そうか、そうか。

前川:今はもう。

安土:時代で言ったら、ステンレスの作品で大きなものですから。材料費がもう1,000,000ではとても足らないという。

山下:なるほど。

前川:今はそこまで作家の方でできるかという世界ですね。それが。

山下:展開したんですね。

前川:いろんな場所に展示され、買いあげされるならいいけど。

山下:はい。

前川:それができない現状がね、もう情けない。ジリ貧になってきているのでね。

山下:ちなみに、安藤さんの話なのですが、安藤忠雄さんが会場担当になったのは、どういったいきさつからなんでしょう。

安土:それは乾さんの推薦です。

山下:乾さんが声をかけたということですか。

安土:大阪の建築で、乾さんが評価されていましてね、特に。

前川:まだ全国的に。

安土:知られていなかった。

前川:イメージからすると。

中谷:ですね、まだ名前は。

前川:まだまだお若いというか、やっぱり。

安土:そうですね。

山下:先ほどお話ありましたように、会場のそういう地盤の土を入れたという話がありましたが、担当というのは、そういう会場の地盤づくりみたいな、設計とかじゃないですよね。

前川:いや、建築の。

安土:安藤さんが構成をされたんです。

前川:うん、建築のノウハウをですね。

山下:はい。

前川:あんなやわらかい砂のところに。

山下:作品が置けるような環境づくりを。

前川:うん、置けるようにしようとするならばどうしたらいいかって、やっぱり建築家の世界ですね。

山下:入っていただいたということですか。

前川:もちろん彫刻家の世界でもありますけど。

山下:はい。

前川:設計というかね、レイアウトを決めるだけでも、そういうノウハウがないといけないだろうなと。

山下:はい。

前川:それで、あの人引っ張ってきたんでしょうね、やっぱり。

安土:うん、そうですね。

山下:そうか。それでは、本当にそういった方々が上で動き、滋賀県造形集団の方々がそれを実行し、というような構造ができていたんですね。

前川:はい。これも、どけて。(注:図録を確認しながら。)

安土:これ(鎖)が何回か切れましたな。

前川:そうそう。

山下:あ、そうなんですか。

前川:これ、中がもうちょっとしっかりして。

安土:これ、比良山ですのでね。

山下:はい。すごいインパクトがありますね。

前川:これが(浜辺へ)打ち上げられた。(注:図録を見ながら。木戸龍一《Rolling circle》は、プラスティック、鉄、石による立体で、水面に浮遊するように設置されていた。)

山下:ああ、打ち上げられたんですか。

安土:打ち上げられて、切れて。

山下:ああ、そうだったんですか。

前川:鎖ですね。ワイヤーか何か。

安土:ええ、ワイヤーで。鎖です、大きな。

山下:大分大変だったのですね。

前川:やっぱり、力学的な安全設計がね。

前川:されているはずなのに、やっぱり滋賀の自然の方が勝ちよったんです。

山下:でも、そういう入選を決めていかれたのは、先ほどの中原さんとかノグチさんだったんですね。

前川:はい、そうですね。

山下:あと、そのときには二回シンポジウムを開催されて、第一回は「環境と造形とのかかわり」、第二回が「草の根文化と現代美術、現代美術は地方に生きることができるか」ということですけれども、そのときに三木晴夫さんとか、小倉忠夫さんとか、中原祐介さんもと、さらにメンバーが追加されて来られているのですが、それもその審査員の方々のご提案でしょうか。

前川:だと思いますね。

山下:そのテーマの設定は現代美術や環境という、その地域性との関わりの意識が高いのですけれども、それは滋賀県造形集団の方の思いが含まれている。

前川:そこら辺は、うちのメンバーがいろいろと言っているでしょうね。とにかく元々のコンセプトが、湖上に浮かぶ、浮かぶじゃないや、湖上彫刻展です。

安土:水がテーマでしたからね。

山下:そうですね。

前川:水をテーマ。

山下:はい。やっぱり滋賀という地域性や、美術あるいは現代美術と地域との関わりが常に念頭にあったということですか。

前川:はい。これでもって、一般の県民の皆さんの観客の世界からするなら、やっぱり全くピカイチの新しいものを見てもらおうということで。それは、そういう意味では大成功でしたね。

山下:そうですね。そうか。実際、美術評論家の中原さんとかも来られていますが、理論的なものはどんな感じだったか、何か思い出せることはありますか。

前川:あまりそこまで頭回ってなかった。

山下:もう運営の方で。

安土:いやあ、それに中原さんって京都大学の。

山下:そうですね。

安土:物理学の。

前川:先生。

安土:専攻された人なんですね、肩書見てみますと。

山下:どういった議論だったのかというのも気にはなりますけれども。

前川:もう一遍、読み直しますわ(笑)。

山下:(笑)

安土:湯川のゼミっていうか、研究室におられたと聞いてますけどね。

前川:そうですか。

中谷:そうです。理学部です。

安土:それで難しいことを、私らは平面をやっているから、分かりにくいところもありましたんですけれど。

山下:ここは、まあ、一般の方々も含めて誰もが聞けるという設定でシンポジウムを。

前川:あのシンポは、先生。

安土:はい、シンポジウム出ました。

中谷:シンポジウムは、書き起こしみたいなことは、このときにはされてないですか。

安土:ここら辺ありましたでしょう。第一回のシンポジウムの内容。出ていませんでした? これ、あったと思うんですよ、どこかにあったと思います。(注:後日確認。第1回シンポジウムは「環境と造その関わり方―現代彫刻をめぐってー」をテーマとして、1980年10月5日、守山市中央公民館大ホールにて開催された。講師は三木多聞。第2回シンポジウムは「草の根文化と現代美術—現代美術は地方に生きることができるか—」として、1981年4月26日に大津市・滋賀ビル9F 鈴鹿の間にて開催された。司会が小倉忠夫、パネラーが乾由明、中原佑介、安藤忠雄、近藤博志、藤田昭子。(『第1回びわこ現代彫刻展1981』図録にシンポジウムに関する記載あり。))

山下:次の1984の時は、少し載っていたりしますけれども、1981年のときの議論もどうだったかとは思っていまして。

安土:なかったかな。これ、図録にはなくて。

前川:図録とあわせて記録集という思いは、造形集団ではやっていたと思うんですけど。

山下:やはり彫刻そのものの概念というか、彫刻がもう大分変容していくということや、作品がその場や空間と関わっていくというようなことへのベクトルが、参加している方々にもあったのかということを聞いてみたいと思ったのですが。

前川:特に外国の作家を招聘したのも、そういう思いはありましたでしょうね。

山下:ありましたか。

前川:そういう活動をされている世界で。

山下:はい。やっぱり空間や周辺との関わり合いというのが、作品というものの定義としても重要な要素を持ってきているのか、という動きがあったということですね。

前川:はい。本郷重彦さんもね、昔から。

安土:はい、はい。

前川:風やら、水やら、音やら、関係しています。(注:本郷重彦《PONKO-37》、鉄、前掲図録。)

山下:そういった変化に合わせつつ、滋賀県というこの環境でどういうふうに美術展をやっていくのかというようなディスカッションだったのかなと思ったりもしているのですが。あと、この頃は琵琶湖で割と水質の問題とか、先ほど環境のお話があったのですが。

前川:そうですね。

山下:彦根の。

前川:最高の汚れたときかな。

安土:そう、そうです。

山下:そうだったので、割と意識は全体的にも琵琶湖の再生の方に向いていたのかなという。

前川:うん。

安土:環境問題として。

前川:石けん運動とかね。(注:1970年代後半に琵琶湖に淡水赤潮が発生したことで、主婦層を中心に合成洗剤の使用をやめて粉石けんを使おうという運動が展開した。)

安土:石けん問題、そうですよね。

山下:そういうのもありましたか。

前川:武村さんの時代ですので。

安土:そうですね。

山下:もう少しだけ質問をさせていただいて、今日の分は終えさせていただければと思います。1981年の「びわこ現代彫刻展」の構造が見えてきたのですが、それでもやはりもう一回、1984年にもやるという。

前川:はい。トリエンナーレで定着したいという思いは。

中谷:なるほど。

山下:あったんですね。

前川:あったんですけどね。だけど、もう時代がだんだん変わってきていますよね。このときもやっぱり、第二回も予算を要請していますし。

山下:はい、そうですね。

前川:その金額的には、やっぱり同じネタで同じところへお願いに行ったという。

山下:はい。それでは、やはり滋賀県立近代美術館ができる1984年に向けて、もう一回大きなものをしていくと。

前川:はい。

山下:記録によりますと、この第二回「びわこ現代彫刻展」は、先ほどの四者会談みたいに美術館準備室の方も出席しているようですね。

前川:はい。

山下:こちらになってくると近代美術館の関係者の方々との関わりも大分入ってくるということに。

前川:はい。キュレーターに相当する連中も。

山下:はい、ミーティングに入ってきてということですか。

前川:うん、いてたんだろうと思いますね。はい。美術館にも、作家の作品が少し残っていたりもしますし。

山下:はい。

前川:ちょっと、放ったらかしですけど(笑)。

山下:それで1982年の4月に八日市の文化芸術会館では、シンポジウム「滋賀現代美術は今」というのもされてるようですので、やはりテーマとしては常に、現代美術と近代美術館というのが。

前川:そうですね。

山下:意識の中にあって、そのシンポジウムを定期開催していこうという機運だったんでしょうか。

前川:あの当時のキュレーターは四館のキュレーターがいまして、それぞれ仲よかったんですね。

安土:はい。

前川:それで、いまだに私どもも付き合っているんですけども。

山下:はい。八日市の方とか。

前川:やっぱり何というか、待遇も含めて、とんでもないことやなあと思いながら、何とかと思って、その応援の意味も込めて美術館ができたときに、この巡回展をやったんです。(注:「滋賀県造集団10周年記念造展」は、1984年9月27日–11月18日まで、安曇川文化芸術会館、長浜文化芸術会館、八日市文化芸術会館、水口文化芸術会館、滋賀県立近代美術館と巡回した。)

山下:ああ。

前川:はい。キュレーターに随分世話になって。

山下:はい。そういう、大分、近しい関係だったんですね。

前川:はい。

山下:なるほど。

前川:この構想も、他にはない世界ですね。

山下:はい。

前川:滋賀県は、真ん中に琵琶湖があって、その取り巻きに各市があるんですけど、その拠点が文化芸術会館だったんです。

山下:はい。

前川:もう、今、全部、市のものになってしまいました。そういう意味では、やっぱりネックレス構想ということでやろうじゃないかという。やっぱり、ここでは見れますけど、向こうへは行けませんという距離的な世界、気分的な距離感とかいう、その両方があるかと思うんですけど、なかなか滋賀県というのは、そういう意味では難しいところです。

安土:そうですよね。文化圏では他府県みたいな感覚がありますからね。

山下:琵琶湖があるから。

安土:私らも大津市は、京都に近いので、それこそ30分もかからないっていう位置ですけども、高島から対岸になりますとね。

中谷:そうですね。

安土:はい。

前川:やっぱり風土の違いというのはすごいなと思う。風も違うし、空気も違うんです。

安土:そうだね。

山下:はい。

安土:そうそう、大津市でも細長いですから。

前川:そうそう。

安土:帯状になってますから。気温、随分違うんですよね、同じ冬でもね。

前川:まあね、空の色まで変わるという。北陸系から。

山下:確かに、近江八幡を越えると。

安土:そうそう。

山下:変わりますね。

安土:変わりますわね。だから文化部ができて、いち早くできたのが、やっぱり文化会館ですね。

前川:そうです。

安土:四つの。

前川:四つの文化会館。

安土:ブロックにね。

中谷:ブロックに分けて。

安土:東西南北の、はい。

前川:それで、五つめが県立近代美術館と。

中谷:なるほど。

前川:これが大もとになってくるという、ありがたいということで。

山下:はい。

安土:図書館がちょっと早かったんでしょうね。

前川:そうそう。図書館の方が早い。(注:滋賀県立図書館は現在の近代美術館に隣接している。1980年7月10日に会館した。)

山下:その近代美術館設立までの間に、少しずれる話ではないですが、1982年、83年と、BBCとIBMから「滋賀現代絵画展」の後援も、滋賀県造形集団の方に依頼されてるようなのですが、これは具体的にどのような関わりがあったのかと思いまして。やはりこれまでの実績があるから、作家集団でもあるんですが、事務局でもあり得るような組織にもなっていたのかなという。後援を依頼されているというのは。

前川:どうだったろ。

山下:何だか、意外といいましょうか。

安土:(滋賀)現代絵画展。

山下:そうですね。全く別物だと思いますが。

安土:これで一応ノウハウというか、東洋レーヨンとか、いろいろ企業を回りましてね、20,000,000ほど集めさせてもらったんで、ちょうど景気がいいときでしたから応じてくれたんですけれど、立石電機とかですね、まだそれほど、中興の企業でも、乗ってくれるということがあったんです。でも、この何回かになってきまして、もうそれも10年もなりますと、また変わりましてね。

山下:はい。

安土:状況が変わりまして、やっぱり企業の方も経営が厳しいということだから、なかなか厳しくなってきた経緯がありますけれども、ちょうど。

前川:これとこの間に、要するに絵画展の後援をせいと。

山下:あったんですね。だから、もう滋賀県県内における、滋賀県造形集団が、そういう展覧会を運営していくような役割を担っているなというふうに思ったので。

前川:いや、結構メンバーがいましたので。

山下:どういう状況だったのかと思うのですが。

安土:だから、当初残っているのがもう三人だけですので、発足当時から。

山下:ああ。

安土:残っているメンバーは。

前川:この当時は結構いるな、メンバー。

安土:いたんです。

前川:井上隆夫さんや川内伊久さん等とかね。

安土:うん、そうそう、いたんですけど。

前川:なかなか理論家が、一人いてくれましたし。

山下:はい。

前川:三回目の代表でもあったし。

安土:いや、やっぱり事務局の鈴木靖将、この仕掛人の人、この人も途中でもう辞めましたんですわ。

山下:ああ、そうですか。

安土:もう役割は終わったということで、彼は。

前川:もう美術館ができたんだろうから、もういいんじゃないかって。

山下:いいんじゃないか、ですね。やっぱり一つの。

前川:結局は。

安土:それぞれ事情はありましてね。事情、環境も変わったというか。

山下:本当に規模が大きくなっていきますよね、そのことも。

前川:それで、いわゆる県展改革の初っ端をこのシンポジウムでやったんです。

山下:十周年のときに。

前川:十周年の水口文化芸術会館で。それから(県展の)改革運動に取り組んで、今も続けているんですけど、もう辞めようと言っているんですけど、辞めたら元の木阿弥になる。だから。

山下:走り続ける。

前川:いつまでもやり続けざるを得ないという。

山下:ああ。

前川:メンバーはどんどん年いくけど(笑)。

安土:そうですね。

前川:若い作家が、そこら辺は県展なんかという世界がありますからね。だから、どうしていったらいいだろうなと言いながら。

山下:なるほど。

前川:ちょっと目離しますと、元の木阿弥に。

中谷:ちなみに今、県展会場はどこでやっていますか。

前川:ずっとしばらくは、県立近代美術館中心でやっていましたけど。

山下:そうですね。

前川:前は(滋賀県立)文化産業交流会館(長浜市)と交互でした。その前は。

中谷:先生、いろんなところで。

前川:ジプシー。

中谷:ジプシー(笑)。

前川:今、建築中(注:滋賀県立近代美術館は2018年4月からリニューアルのため休館中。)ですので、それで文化産業交流会館に戻っています。この前70回、72回かな、やりましたね。

山下:そうですね。

安土:県展ができないということで、県立美術館を運動してきたんですけど、ところが、二回に分けないと並び切らないというのがありましてね。(注:滋賀県美術展覧会は、平面、と立体、工芸及び書の4部門を二分して会期を分けて展示している。)

山下:ああ。

安土:京都もそうでしょうけど、半分はもう常設展ということで。

山下:はい。

安土:企画とギャラリーという二本の柱ですので、最初から制約がありましたから、並び切らないということがありまして、われわれは箱物で立派な迎賓館なものではなしに、箱でいいから全部並ぶようなものを要求していたんですけど。

山下:ああ、そうですね。

安土:ところが、違いましてね。

山下:庭園もあって。

安土:それでまだ運動が続いているんですよ。

前川:(笑)

山下:ああ、そうですか。

安土:だから、最初はそれなりの集客力があったんですけど、だんだんと高齢化してきまして、私もそうですけど、もう80、90、当時の応援していた人は。

中谷:はい。

安土:なってきまして、それもまた違ってきましてね。集客率がものすごく悪いということがありまして。

前川:悪い。

安土:それで、今度は三つの柱でいうことで。ところが、また中途半端な感じになりそうなんですよね。

中谷:なるほど。

安土:それで三つの柱というのが、美術館と。

山下:将来ですね。

安土:それから博物館ですね。

前川:それから、仏教美術の博物館がないとおかしいんだけど、いわゆる博物館が欲しいんですけど、結局それを美術館に吸収して。

安土:ところが、やっぱり滋賀県というのは国立博物館があってもおかしくないような量なんですけどね。

前川:文化的に。

安土:実際は。

山下:都がありましたしね。

安土:京都、奈良にあるからということもありまして。

山下:はい。

前川:なかなか、滋賀県は、すごいものがありますからね。

山下:少し話が戻るのですけれども、二回目の彫刻展に向けてなんですが、1983年に第2回びわこ現代彫刻展(仮称)の実行委員会が立ち上がってくるということで、その準備室が先ほど、県立美術館準備室が事務局になっていくということで。

前川:はい。

山下:先ほどトリエンナーレとおっしゃっていたんですが、現代彫刻展という現代という名称をつけて、次の展覧会もやっていくんだということですね。

前川:はい。

山下:その機運というものは本当に、滋賀県造形集団の方もそうですし、滋賀県下の関係者全員の思いで立ち上がっていったということなんでしょうね。

前川:うん、思いであろうと思いますけど、美術館が受けて本当はやってくれないかんと。

山下:事務局はここで、準備室になりますね。

前川:だから、美術館ができたら、こんな手弁当でぺえぺえが走り回る世界ではあかんぞと。やっぱり県立近代美術館ができたら、美術館が。

山下:やって欲しかったと。

前川:主体で、公共団体としての、いわゆるグランプリの世界を展開してもらうとものすごい質が上がってこようという思いで、大分、気持ちはもう。

山下:あ、譲るという。

前川:もう近代美術館の方に委ねる世界は多分にあったと思いますけど。

山下:ああ、そうですか。

前川:だけど、土田さんは一所懸命やっておられるので。

山下:ただ、結果、翌年には名称が変わりますね。

前川:そうです、はい。

山下:「現代彫刻国際シンポジウム」と。彫刻の国際シンポジウムは海外でもありますが、こういう名称で応募受付を始めるというのも。

前川:それは、どの辺か、ちょっとよく分からないですけども、乾さんあたりもいろいろ考えたのかな。

安土:うーん。

前川:やっぱり県の美術館の準備室の意向でもあったんだろうと思います。

山下:ああ、そうですか。

前川:うん。

山下:書類の方ではそのインスタレーション的なものも対象としていこうと、書類審査を導入したりということで。

前川:それで、現場でつくって見せたりもやっていましたし。

山下:そのあたりの内容決めというのは、滋賀県造形集団の方々が。

前川:いや、私らの手は離れていたと思うんですね。

山下:ああ、そうですか。

前川:なあ。

安土:うーん、ね。

前川:直接、どうのこうのは、相談してなかったような。

安土:そうですね。

山下:じゃ、四者会談とかをされているから。

前川:うん、疋田孝夫さんがやっていたと思う。

安土:それぞれのいろいろな考え方がありますのでね。まあ、しかし、県としては、この美術館建設に当たってですね、この近代美術館を一つのメインにしようというあれがあったから、これで公募してくれたようなとこもあるんですよね。だから、われわれの考え方と、われわれと言ったらおかしいですけれど、私個人の考えとしては、かなり考え方のずれもあるんですけどね。

山下:ああ、そうですか。その辺が聞けると、なかなか新鮮で。

安土:それ、現代美術という、滋賀県の風土としては、やっぱりもうちょっと違ったやり方もあるじゃやないかと個人的には思っていましたけど。

山下:ああ、そうですか。

安土:しかし、全体の仲間の中での動きですのでね、合わせてやっていましたけど。だけど、いつまでも草の根の文化で動かされるのかなという思いはありますわ。

山下:ああ。

安土:いや、実際ですね、われわれ勤め人だから、余裕はありますわね。

山下:そうですね、はい。

安土:経済的にも。

山下:はい。

安土:でも、作家で、若い人がね、どうでしょう。そんなできませんよ、実際。

山下:はい、そうです。

安土:生活するのが精いっぱいで、私の教え子でも、九州で、非婚で、家賃何万か、50,000かな、払いながら、絵描き修行やっていますけどね。

山下:ああ、はい。

安土:もう大学出て10年以上になるんですけど。それが若い人の実情ですわ。

山下:ああ、そうです。

安土:それが手弁当で、呼び出されて、体(てい)のよい下働き。一方で、行政の役人さんはね、やっぱりちゃんとした給料をもらって。

山下:なるほど。

安土:われわれもそうだから、余裕ありますけどね。

山下:はい。

安土:だけど若い者に「やれ、やれ」という時代ではないです。われわれのときはハングリー精神で動きましたけどね。

山下:ああ、ハングリー精神。

安土:余裕があったからできたんですけどね。それは同じように、今、若い人にやれったって、本当に厳しい時代ですよ、今。

前川:今、厳しいから。

安土:厳しいと思います。

前川:厳しいて、厳しいて、厳しいから、衰退しているじゃないか。

山下:ええ。

前川:だから、何とか、ハッパかけないかんわというのが。まあ、(話が)そこまで飛んだらいけないんだけど。

山下:後でまた。次のときに。

安土:それは時代の流れもありますわね。映画がポシャってテレビという。

山下:なるほど、そういう思いですよね。

安土:テレビから、私なんかでもそうだけど、スナックがポシャって、何ていうのか、カラオケの時代になって、一人カラオケとかそういう時代になってくるようにね、やっぱり表現もいろいろ変わってくるし。

前川:いや、確かに変わってきているんだけども。

安土:うん。

前川:変わってきているんだけども、それでよしとする世界と、ちょっと寂しいなと思う世界。

安土:そうそう、その両面あるんですよね。

前川:というのは何かと言ったら、やっぱり美術離れとかね、彫刻離れとか。

山下:はい。

前川:うん。もう彫刻は成立しない造形大学がある感じですね。

中谷:そうですね。

前川:だから、何とかしないとという思いはするんですけど。

中谷:ちょっとまた確認なんですが。美術館、やっぱり滋賀県にあるべきだということでずっと活動してこられて、準備室が出来て、実際に1984年ですかね、開館。

山下:そうですね。

中谷:ですよね。その美術館のあるべきという事柄の中に、先ほどもちょっとお話が出てましたけど、二つある。滋賀県として誇れるきちっとした美術館が必要であるという事柄と、それからアーティストの発表の場所としての美術館という機能を求めるという、両面あるかと思うんですよね。そんな中で、状況的には発表の場所としての美術館という意味合いというのは、最初の運動からすると、やはりちょっと違う形になって。

前川:はい、違います。

中谷:ということなんですよね。

前川:全く、はい。

安土:そうだね。

中谷:ですね。それは県展というモジュールになりますが、引き続き発表の場所をきちっとすべきという運動としては、引き続きまだという。

前川:はい。やっぱりもうちょっと、下駄履きで気楽に誰しもが行ける場では、あまりにもないというね、そういう寂しさがちょっとありますから。あれはブラックボックスだからということではないんですけどね。

中谷:そこら辺の、どうも思っていたのと違うかもしれないというような動きは、ちょうどできる前後というのは、何となく集団の中でも。

前川:はい。

中谷:頑張ってきたけど、何か、成果としてはちょっと違うんじゃないかという。

安土:いや、それは一つの事情もあったんでしょうね、県の。先ほど最初に申しましたけど、土地の利用ということがね、いわゆる文化ゾーンというところは、本当に私らでも学校に通っていたころは自転車で通っていましたけどもね、キツネやタヌキが出るようなところでした。

山下:本当、きれいな場所になりましたね。

安土:あれを県の土地に、土地転がしの関係で。

前川:土地転がし(笑)。

安土:文化ゾーンという形にしたんですよね。

中谷:はい。

安土:だから、初めから足場が悪いんですよ。最初のころは、小倉遊亀さんとか、そのファンが。(滋賀県立近代美術館は、郷土の画家である小倉遊亀の展示室が設けてある。)

山下:そうですね。

安土:活躍されたころで、たくさんおられて、集客力も多かったんですよね。会員がね、当時は千五百人ほどいた。私もいまだに会員で入っていますけどね、最初から。

山下:友の会。

安土:もう今、二三百人ですよ。

山下:ああ、そうですか。

中谷:そうですか。

安土:三百人切れてるぐらいなんですよ、会員が。

前川:一所懸命。

安土:年間5,000円の。

中谷:ええ。

安土:途中で、若い人は3,000円で会員にしたり、いろいろ、私も理事をしていたことがありますがね、友の会の。そういう状況で、最初から場所が悪い。ところが、やっぱり美術館というのは、ちょっと買い物ついでに寄るというのが、そういうところが大事だと思うんですよね。幾つか美術館が見られるとか、博物館が見られるとか。

前川:本当にね、買い物かごを提げて、行けないといけない。

安土:そういう場所ではないんですよ。

前川:ない。

安土:最初から。だから、京都から例えば来ていただくとなると、半日はかかりますわね。

山下:ええ。

安土:半日。だから、いい企画であれば、それは予算があっていい企画をすれば、それは半日かけようが、一日かかりでも来ますけれども。

前川:いい企画を。

安土:そういう状況じゃありません、地域のね。

前川:いい企画をというのは、お金がかかるし。

安土:小さな規模、予算がないから。だから、悪循環ね。

前川:今の時代で、美術館を何とかしようというのは、大変な作業だと思うんです。よう努力さえしていただいてますし、感謝して、また応援もするし、協議会の委員も今まだやらせてもらっていましてね。文句ばっかり言うてるんですけど。

安土:いまだに文句言うて。

前川:言うんですけど。

安土:相変わらずやっとるって笑われているところもあろうかと思うんですけどね。最近、滋賀会館の存続運動をやっていまして、2年前まで。あれも唯一のね、いわゆる滋賀県からしたら、もう玄関口でしょ。

山下:ああ、そうですよね。

安土:一つの、県庁の前にある。

山下:はい。そうでしたね。

安土:それは歴史がありますし。

山下:残念でしたけど。

安土:総合的な文化ホールということで。実際、あそこで皆、勉強した人は多いんですよね。映画館をはじめね、図書館も、小さな間借りでしたけど、ありましたし、いろんな講演会も。

山下:はい。

安土:それが耐震の問題で。

山下:はい。そうでしたね、耐震の問題でしたね。

安土:立派な建物、大正時代で、近代建築としても価値があるから残してくださいって言ってたんですけど。

前川:一所懸命運動しましたけど。

安土:だめだったんですよ。

山下:そうですか。

安土:それも随分エネルギー使いましたけど(笑)。

前川:(笑)

安土:県会議員、皆、回って。

中谷:はい。

安土:もう随分エネルギー使いましたけども、結局だめですわね。結局、NHKって、ああいう大きいところが買ってしまって。

山下:そういうお話がこの後のBAOにつながっていきそうな気がいたしますので。BAOはちょっと次のお話にしたいと思いますけど。今日はこの「彫刻国際シンポジウム」まででもよろしいですか。

中谷:はい、ええ。

山下:そのあと、後半、また次の機会に。

前川:すみません、もうちょっと、ちゃんとお話ができれば(笑)。

安土:(笑)脱線ばっかりしている。

山下:いえいえ。それでいいんです。

安土:ごめんなさいね。

山下:いえいえ、それがインタヴューの醍醐味ですし、これまで見えなかったものが見えてきてるんですけど。大分、時間が来ていますので、この1984年までお聞かせいただいて、また次の機会をいただければと思いますが。

前川:わかりました。はい。

山下:もう少し踏み込んだご質問をさせていただきますと、先ほどの「彫刻国際シンポジウム」という名称にしたのは、そうしたら、滋賀県造形集団以外のチームとなりそうでしょうか。

前川:いや、あのう。

山下:その準備室の方とか。

前川:実際そうでしょうね。外国人の作家を招聘するというのも、そこで考えてもらった世界でしょうし。リュックリームとか、作家の選択も。(注:1984年の「現代彫刻国際シンポジウム1984—びわこ現代彫刻展—」では特別出品作家として、アリス・エイコック、ドナルド・ジャッド、デビッド・ナッシュ、ウルリッヒ・リュックリームが招聘された。)

山下:そうですね。その選考委員会が、今度は磯崎新さんですし、乾(由明)さんに大島(清次)さんに酒井忠康さん、中原祐介さんが作家の選考をされた。

前川:はい。

山下:シンポジウム委員会は、乾さんや、今度は彫刻家の村岡三郎さんとか。(注:シンポジウム委員会は、乾由明、中原佑介、村岡三郎が担当した。)

前川:そうでしたね。

山下:来られてるんですが。まずは、先ほどの一回目(「びわこ現代彫刻展1981」)の確認と一緒なんですが、この人選の決定は、そうしたら、また乾先生なんでしょうか。

前川:どうでしょうね。

山下:結構、そうそうたるメンバーですけど。

中谷:磯崎、乾、大島、酒井、中原、これはみんなもう友達ですわ。

山下:ああ。

中谷:この人らは。

山下:ああ、そういう。

安土:そうそう。

中谷:乾さんが「ちょっと、頼まれてるし、ちょっと寄ってくれへんか」と言って。

安土:そうそう。そうですね。

中谷:連絡してはったという絵でしょうね。

安土:そうですね。

中谷:それで、一回目にちょっと安藤さんみたいなの巻き込んだこともあるし。

山下:ええ。

安土:そうそう。

中谷:「じゃ、ちょっとイソさん、頼んでみよか」みたいな。

安土:そうそう。そういうことです。

中谷:そういう感じの、そういうノリな感じはします。

山下:なるほど。

安土:そういう流れですね。

中谷:このメンバーを見ると。

安土:おっしゃるとおりですね。

前川:トリエンナーレのつながりという、そういうイメージの人選の仕方かなと。

安土:そうそう。

前川:推察するんですけど。

安土:そうだと思いますね。

中谷:乾さんが、まあ、ちょっと。

安土:そうだと思いますよ。

中谷:友達に。

山下:だから、メンバーとしても、そういうのを聞いて、今回それでいきましょうというような形でお任せしたというところですかね。

前川:それで、トリエンナーレでまだ続くはずだったのに、美術館がやらなかったという、その思いもちょっとこっちもありますけど。やっぱり、県展の運動をしているんですけども、質を高めて、それで裾野を広げるという、両方やらないといけない。質を高める方はやっぱり美術館主体で、こういう国際的なところまではまあまあだけど。全国的なレベルのやっぱ公募展をやってもらないといけないということは、前から言っているんです。

中谷:なるほど。

前川:ただ、美術館、それはやる気はないですからね。まあ、お金も、この行政の体たらくではできませんし、大変ですけど。だけど、やっぱり4,000,000とか何百万とか集めて回ったのは私らでございますし。

山下:そうか。

中谷:そうですね。

山下:最初、意見を言い合ったりとかはなかったんですか。

安土:何が? 

山下:どういった形式で展覧会をするかとか。

前川:この中身は、もう全然私ら話しなかったな。

山下:そうですか。

安土:国際シンポは、はい、はい。記録集がどこかに載っていたと思うんだけど。

山下:ではドナルド・ジャッドやデビッド・ナッシュとか、当時の国際的な作家になりますけど、その招聘の決定とかも。

前川:もう私どもはもう。

山下:選考委員会の方が。

中谷:彼らですわ。

山下:ですか。

前川:私どもでは全然、そこまで知恵がありません。

山下:いえいえ。じゃあ、それで進めましょうという。

中谷:うん。だから乾さんあたりで、決めたんでしょうね。

山下:ただ予算の準備は、今のお話でも、県とかから出していただいて。

前川:一遍は1981でしたので、このノウハウで今度もお願いね、というお願いの仕方だと思うんです。

安土:そうそう。はい。

中谷:実際、造形集団としては、この1984に関しては、関われた事柄というのは。

前川:あんまり強くない。

中谷:予算集めも、今回このときは、もう全然関係ない。

前川:はい。ただ、掃除に行ったのは行った(笑)。

中谷:いや、だから、掃除に行かれたわけですよね。

安土:お金集めに行ったもんでね。

中谷:そこが大事でね(笑)。

山下:いや、私もそう思います。とても大事だと思います。

前川:それで、切符売りをとにかく。

中谷:切符売りと。

前川:学生に、やいやい言って買わし。

山下:ああ。

前川:大変でしたよ。

中谷:っていうところはされたんですよね。十分にされたんですね。(注:1984年の「現代彫刻国際シンポジウム1984—びわこ現代彫刻展—」の実行委員会には、滋賀県造形集団会員の秋元幸茂氏が副実行委員長、井上隆夫氏、疋田孝夫氏が専門委員を務めている。(図録より))

前川:はい。

山下:大分、構造的な差がありますね。

中谷:いやあ。

安土:本当に、当時は秋元(幸茂)さんはもう造形集団にあんまり関わってないんだけど、このときは東京でいろいろ美術のあれがありましたわね、中原祐介さんを中心にして、グループの。

山下:そうですね。

安土:現代アートのね。

山下:はい。

安土:その人の動きがかなり強かったですよね。動きというか、ええ。

中谷:そうですよね。

安土:一方では、県立美術館の文化部の上原恵美さんという人が、当時の課長でしたけども、その人もこの一つの柱に近代美術館という発想がありましたから。

前川:そうだね。

山下:はい。

安土:その流れで大体お膳立てが仕組まれていたように思うんですわね。

山下:はい。

前川:初代館長も。

安土:そうそう。

中谷:そうですね。

安土:そうです。だから、それの顧問が乾さんだったんですね。だから、乾さんも、私なんかイサム・ノグチなんか本当に呼んでこられるんかなと半信半疑でしたけど。お会いしたことないんですよ。ただ電話でのやり取りでやっていたみたいですよね。

山下:なるほど。

安土:乾さんは、イサム・ノグチさんと。だから、それがものすごく効いてますもんな。審査員にイサム・ノグチが。

山下:効いてますね。

安土:それのファンがものすごいですからね。

前川:ファンがいて。

安土:だから、なかなかの仕掛人やと思いましたわ、乾さんって人は。

前川:作家もね、そこら辺が「ああ、イサム・ノグチだったら出したい」という。

安土:「手伝わしてもらいますわ」という人が。

山下:ああ。

中谷:なるほど。

安土:来まして、「手伝わしてもらいますわ」と言う。

中谷:なるほど、なるほど。

安土:はい。

中谷:「草むしりもします」と。

安土:はい。

山下:ああ、なるほど。

安土:われわれが呼びかけたって、全然見向きもしない。

前川:(笑)

中谷:いやいや。

安土:それだけのスタッフのあれでね、名前だけでもう作家が協力。「私も実行委員会に入らしてください」というな形で、私どももね。

山下:実際、ドナルド・ジャッドはちょっと体調とかで無理でしたけど。

前川:ええ、はい。

山下:他のアリス・エイコックとかデビッド・ナッシュとか来られて、案内したりとかもあったんでしょうか。

前川:私らは会ってないですね。

山下:あ、そうですか。その辺は、そうしたら、選定委員会の方が、乾さんとかが対応した。

安土:私も一応入っていましたけど、お金集めとか、そういう企業回りはやらされましたけどね。

中谷:いやいや(笑)。

山下:そうですか。

安土:カンパ。東洋レーヨンとか立石電機とか(笑)。

山下:現場のこと、一番分かりますよね。

前川:アリスさんのあの作品も、結局どこかで作ったんだと思います。

山下:はい、そうですよね。

前川:彼女が来ているのか、来てないのか分かりませんけど。

山下:ああ。

前川:シンポジウム、どうだったか忘れました。(注:シンポジウムは1983年9月1~3日、KBSびわ湖教育センターにて3日間に渡って開催された。)

山下:シンポジウムは来られていたみたいですね。

前川:だから、組み立てやら何やから、また別のところで協力しているような人がいたと思います。

山下:はい。

安土:この石丸(正運)さん(注:滋賀県立近代美術館学芸課長(当時))は、よう見ててくれているなと思うんですが、この人は(笑)。

前川:そうです。

安土:客観的に。

中谷:だから、最初からずうっと見ているのは、石丸さんだけですかね。

前川:そうです、そうです。

安土:そうですね。

前川:それで、今回のこれも、そのことについて書くから、と言って。(注:石丸正運「滋賀県造形集団結成40周年によせて」、図録『BIWAKO大賞展—滋賀県造形集団40周年記念—』、p.9参照。)

中谷:うん。

前川:これは何より願ってもないことです。

安土:そうです。石丸さんが集約して、ねえ。いつも見ててくれていますから。

山下:はい。

安土:まあ、お人よし集団だなと思っていたんでしょう、この人らおとぼけ集団っていうことで、行政から見たら(笑)。

前川:毎年、一杯飲んでるんです。

安土:いや、バランス感覚がありますわね。この方らがやっぱり科学者やら、わしらみたいのと違って(笑)。

山下:いやいや。

安土:失礼やけど(笑)。

前川:私らは酒飲むだけや(笑)。

山下:いやいや。いや、もう、この二つの野外彫刻展は本当に、そうそうたる顔ぶれが。

前川:そうです。

山下:琵琶湖で行われたというのは、でも、本当に感慨深いものがあるなと思うのですけど。

安土:これはセンセーショナルでしたね。

前川:そうです。

安土:やっぱり私はありましたね。

前川:やっぱり知事の人柄が。

安土:滋賀県というのは何かね、おくれているのにね、何かええ格好するとこがあるんですね。先取りしたいとか。

山下:そしてBAOがありますから、まだ。

安土:これも割と、京都の人から見たらびっくりしたみたいですよ、このときは。

前川:それで、乗せたのは、私ら。

山下:ああ。

安土:(滋賀県立)近代美術館でもね、京都でもしないことはしました。いきなり近代美術館で作品ね、アメリカの美術を中心にしたりする。(注:開館記念展は「20世紀彫刻の展望—ロダンからクリストまで」。)

山下:でも、本当にそれは滋賀県造形集団の方が動いていなかったら、多分なし得てなかったと、実像が見えてくるんですけど。

安土:だから、昔からそういうとこがあるんですよ、長続きしないというとこがあるんですわ。滋賀県の文化の中心になりかけていたけど。

山下:なるほど。

安土:皆、短命に終わるという、風土的なものかもしれませんけどね、その琵琶湖を挟んで。また雑談になるけど、豊かなところってハングリー精神が少ないところがあるんですよ、滋賀県は。

山下:ああ。

安土:昔から、田んぼとか山があったりしてね。一方では、公務員になったり、先生になったりしながらやっている人、結構金持ちなんです、平均化すると。

前川:すみませんね。

山下:いえいえ。ちょっと長くなって、すみません。

前川:いやいや、一番肝心なところをお答えできない。

山下:いえいえ、実際のところは見えてきています。

安土:ハングリー精神が少ないし。そういうところもあるんですね。

中谷:やっぱりアーティストの集団として先ほどの草むしりもやります、お金集めもやります、それから本当に自分たちの発表の場ではなくなっているのに、それの下支えも継続的にされるというのは、かなり「あれっ」と言っていいのか。

山下:そうなんですよね。

中谷:だと思うんですよね。やはりアーティストとしてそういう運動というのは、自分たちの発表の場所をきちっと確保してくれという主張の方がどうしても強くなるので、そういう招聘した作家の展覧会を支えようという広さっていうのはなかなかないと思うんですけどね。それを実現されてるというのは、かなり意義のあることだと思うんですよね。

山下:それを踏まえて1990年のBAOは湧いてくるのかなとも思うので、それはまた聞かせてもらえればと思います。本当にそういう特殊な状況も見えてきたというふうに思います。ありがとうございます。

中谷:その状況の中で、われわれ同業者、もっと頑張らないといけないなという感じがします(笑)

安土:(笑)

山下:ありがとうございます。ちょっと長くなっていますし、ちょうど真ん中あたりかなとも思います。

前川:はい。

山下:今日は、このあたりでよろしいでしょうか。

中谷:はい、そうですね。

山下:ありがとうございます。