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松原光江オーラル・ヒストリー 2011年7月19日

番画廊(大阪市北区西天満2-8-1大江ビルジング1F)の事務所にて
インタヴュアー:原久子、宮田有香
書き起こし:宮田有香
公開日:2014年10月26日
更新日:2016年1月31日
 
松原光江(まつばら・みつえ 1945年〜2013年)
番画廊主宰
大阪府堺市生まれ、すぐに家族で三重県に疎開。幼少期より大阪市阿倍野区で育つ。大阪市立工芸高校日本画科卒業後、印刷会社に就職。オープンして間もない梅田コマ劇場・宣伝部にデスクを置き、ポスターやプログラム、新聞広告を制作する。その後6年間、グラフィックデザイナーを多く紹介した今橋画廊に勤め、1979年に番画廊を大阪市北区西天満に開廊した。 このインタヴューでは幼少期から工芸高校への進学、授業の内容、画廊勤めの頃に考えたことや当時の画廊巡りルート、番画廊開廊の経緯とその活動、そして関わった作家たちについてお話頂いた。 インタヴュアーの原久子さんは関西を拠点に活躍されているアートプロデューサーで、代表的な美術ライターのお一人。1980年代半ば以降多くの雑誌・Web媒体にさまざまな企画の展評を執筆され、番画廊にも通われた。 番画廊は松原さん逝去後も画廊スタッフによって2013年末まで活動した。その間34年、京阪神を中心とした750名を超す作家たちの発表の場として1600回もの展覧会が開催された。閉廊企画展「サ・ヨ・ナ・ラ bangarow」には300名もの作家が出展し、期間中画廊が入るビルは人々で溢れた。 2014年には番33記録集編集委員会によってその全活動を記録した『番33 plus one 番画廊1979-2013記録集』が発行された(各展覧会の案内状や展評等の掲載記事をカラーで紹介)。このインタヴューの書き起こしは当委員会の協力を得てご遺族に確認のうえ、ここに公開した。

松原:あの、いわゆる学歴のない人っていうのは本当に珍しいと思うのですよ。私ぐらいじゃないですかね。いわゆる大学に行っていない。

原:美術画廊の方で?

松原:はい。まぁ昔は、ねぇ、画商さんとかに丁稚奉公に入っておられますでしょうけど。たぶんね、だいぶずっと前から、まわり見回したら、「あっ私だけや」っていうのは。ずっとずっと、経験上。まぁ、どうってことないですけどね。

原:では始めさせていただきます。

松原:よろしくお願いいたします。

原・宮田:よろしくお願いいたします。

松原:お手柔らかに、って言うこともないですね、柔らかですね(笑)。お願いします。

原:ではまず。どちらのお生まれですか?

松原:昭和20(1945)年5月22日生まれです。終戦の時です。生まれた場所は堺なんです。で、育ったのは大阪市内、阿倍野というところ。

原:街中ですね。

松原:はい、街中ですね。5月に生まれて、8月に終戦ですよね。だから何、戦時中、戦中か……。

原:ちょうど堺の空襲が。

松原:そうそうそう。(戦争が終わるのが)3ヵ月後。その頃父が材木関係の仕事をしておりまして、堺っていうのは進駐軍とか何とかっていうのが恐いって言って、すごい恐がりの父親だったやったんですね。それで家も仕事も全部たたんで、疎開したんです。秋に、戦後。

原:戦後になってから、疎開されたのですか。

松原:はい。10月とか11月とかに。

原:8月過ぎで秋になってから。

松原:食べるものもないし、女、子どもは危ないとか。進駐軍が上陸するとか聞いて、伊勢志摩へ疎開したんですよ。食べるものが美味しいし、すごい食べることが好きな人やったし。
でね、4年くらい、疎開先に居てて。
これ(から)は(子どもの)学校のこともあるし、大変やでっいうので大阪に戻ってきて阿倍野に住んだんです。
うちの(材木関係の)仕事で言えば戻ってきた時にはもう出遅れたというのか、戻り遅れてたというのか。もうそれからずうっとだめ……やったみたいですけど。

原:ご商売が。

松原:商売が。出て行く時はそんな家なんかいつでもどうにでもなると思っていたけれども、どうもならなくて。その後はまぁ売り食いのようなことをしてたんじゃないかな。私は小さいからわかりませんけれど。由緒あるものとか(売って)、っていうふうなことは母が言っていましたね。

原:材木の商いというのは戦前までやっていらした。

松原:はい。その後も帰ってきて勤めたりはしてたみたいですけど、自分ではもうできなくなっていたみたいですね。病弱やったから。で、阿倍野は……。

原:その伊勢志摩で5歳くらいまでっていう時の記憶はどうですか。

松原:ほんとにないです。帰ってきてから小学校5年生まで、阿部野に住んでいたんですね。これ(インタヴューの質問表)で(追って)いくと美術の方で(答えて)いくと、絵を描いたりするのは好きでしたね。ご褒美いただいたり、そういうことがあったりして。私、きょうだい5人いるんです。一番下なんです。で、小学校の小さい時から「この子はアホやアホや」と言われて育ってまして、「アホやから手に職をつけないとだめだ、やっぱし何かできることが」って。まぁ、ほかのきょうだいだって賢かったわけではないんですけど。
 少し飛びますけども、阿倍野は昭和町ですので、大阪市立工芸高校(注:大阪市立工芸高等学校。2013年創立90周年。以下、工芸と表記)が近くにあるんですね。兄の一人も工芸の建築に行ってまして、工芸はわりと身近な存在やったから、工芸に行かすよりしょうがない、勉強嫌いやし、っていうので工芸に行ったんです。まだ私たちの頃は工芸もまぁまぁ活発やったかな。あそこは図案科と(指折数えながら)木材工芸と金属と美術と写真と、もう一つ何かな? …建築と、あったんですね。そのうちのデザイン、図案科というのがありまして、図案科は私が行っていた中学校からは工芸に行った人が前例がなかったものですから、「ちょっと図案科はやめて美術の方にしてくれ」と言われて(笑)。

原・宮田:えー。

松原:図案科というのは競争率がすごく高かったんです。だめだったら困るから美術の方に。で美術は40人なん、どこも40人なんですけれど、20人20人で洋画と日本画に分かれてたんです。私は日本画を取りまして、日本画というのは応用がいっぱい利くんですね。

原:着物の図案とか。

松原:そうなんです。図案科とちょっと共通するようなところがあって、筆も使えますし、美術の日本画に入りました。そんなに熱心じゃなかったですけど、卒業して、就職して、転々として、で、なぜだか画廊に関わるようになって、今に至るなんですけど。転々はいっぱいあります。

原:ちょっと巻き戻っていただいて、よろしいですか(笑)。伊勢志摩の時は……。

松原:はい、あら、えらい(前に)。

原:ご記憶がないということなのですけど。伊勢志摩というのは海があったり、非常に温暖な場所で。食べ物とかはやっぱり大阪市内に居るよりは……。

松原:全然ものすごく良かったみたいですね。

原:豊かなわけですよね。もうそこで採れた魚があったりとか。

松原:もう本当に食べることに執着した人だったみたいで、牡蠣の養殖を始めたんですね。伊勢行ってね(笑)。

原:まぁ。

松原:それが台風なんかで。

原:伊勢湾台風ですか。

松原:いえいえもっと前ですよ、きっと。伊勢湾かな…伊勢湾って(昭和)20年代かな?(注:伊勢湾台風は1959年9月なので別の台風か) で、全部やられてしまって、とにかくいろいろと失敗を重ねて、這々の体で帰ってきているだと思うんですよ、大阪に。

原:食べ物に困ることがないというのが大阪市内とは全く違うわけで。

松原:そうです。だから居心地も良かったのだと思うんです。だから戻ってくるのも遅かった、らしいです。

原:5人きょうだいの末っ子さんということは上の方は、

松原:学校のことがありますからもう戻らざるをえなかった。

原:なるほど。

松原:私はまだですけども。

原:絵を描くことが好きだったとおっしゃってましたけど、末っ子っていうと上の方たちとはだいぶ年離れていたのですか。

松原:離れています。みんな5つずつくらい。一番上の兄が昭和5年生まれですから今もう80歳くらい。

原:わりと一人遊びというか、絵を描くというのはごきょうだいで遊ぶというよりは……。

松原:一緒に、それはなかったです。

原:ご自分一人の時間っていうのをずっと絵を描いて。

松原:そうだったと思いますね。まぁそんなに熱心に描いていたはずはないですけれど。きょうだいで遊んだということはなかったですね。兄、兄、姉、姉、私なんですけれど、上の姉は私が中学の時に結婚したりしていますから、本当に一緒にきょうだいと住んで(遊ぶ)っていうのはあんまり記憶にないんです。

原:絵を描くこと以外で興味を持たれてこととかないですか。

松原:ないですね。運動ぜんぶだめですから。体動かすことは何にもできませんから。あとはなんやろ、なんやろ……。活発に動き回るっていうことはまずなかった、ですね。わりと静かーな子やったと思いますね。

原:絵を描かれるというのは当時だと画材というと、どういうのを使われて。

松原:色鉛筆やクレパスとかじゃないですかね。油絵具なんかはまず(ない)。日本画でしたから、日本画の絵具使ったのか……。

原:もっと御小さい時の。

松原:ああそうですよね、だから手元になかったと思いますね、色鉛筆とかしか。

原:クレヨンとか。どういうものを描かれていたか残っていたり、憶えてらしたりしますか。

松原:残ってへんですね。風景やと思います。

原:風景。伊勢志摩の風景……。

松原:いやいや、それはないと思いますね。

原:もっと身近な。

松原:身近な風景ですね。

原:絵を描くことが唯一(の楽しみ)。

松原:うーん、何でしょうね。それよりしょうがないんかな。ふふふ。

原:大阪に5つくらいで戻って来られてて、阿倍野だったということは例えば天王寺の美術館とか?

松原:そうなんですよ。小学校は阿倍野の丸山小学校というところだったのですけれど、猿沢池のとかあの辺のスケッチっていうのはよく行っていますよね。

原:じゃあ奈良に。

松原:あ、ごめんなさい。えっとえっと天王寺、慶沢園とか。

原:あ、天王寺公園の中の池。天王寺公園付近というのはよく学校からも行かれて。

松原:はい。あの辺は美術館の近所でね。

原:美術館自体にも行かれたりとか。

松原:はい、行ってました。

原:当時憶えておられる感動というか、記憶に残っているようなものってありますか。作家名っていうことじゃなくても。

松原:じゃなくてね……。

原:天王寺公園もそうですけども阿倍野の方ですとお寺さんもけっこう多かったり。

松原:上町台地ですけども、もうちょっと谷町よりじゃないとお寺はなかったと思いますね。たぶん。わりと大きなお家の集まっている場所で、私たちが住んでいたその界隈というのは。阿倍高(注:大阪府立阿倍野高等女学校、現・府立阿倍野高等学校。2012年創立90周年)の近所に住んでいたんですね。市立工芸あって、阿倍高があって、ゆったりとした街に住んでいました。

原:市立工芸は建物が。

松原:そうですね、煉瓦のね。

原:すばらしい建物で、あれを見るだけでもこういうところで勉強できたらな、とちょっと憧れというか……。

松原:憧れは少しありましたね。それからあそこの学園祭というか、あの頃の工芸高校というのは普通の学校じゃなくて、大人が行っていたのですね。年齢も高校生のいわゆる15から18じゃなくて、もっと二十歳前後の人が行ってたみたいな、すごい大人の人も居てて。

原:じゃぁ一度働いてからとか、ほかの学校に行ってから戻ってくるとか。

松原:はい、浪人、留年というのもありましたから。

原:市立工芸行くために浪人してでも一本で。

松原:そういう人もいたのでしょうかね。大人が多かったから工芸祭というか、秋、ものすごい派手な仮装行列があったり、派手でしたね。だからそんなん楽しかったですよ。子どもの時。

原:ごきょうだいも(市立工芸に)、。

松原:一人だけ、兄が行ってました。

原:お兄さんも専攻はやはり美術ですか。

松原:建築でした。

原:そのまま建築の道に進まれて。

松原:はい。

原:人数のバランスが、図案も40人、建築も40人……。

松原:みんなあの頃は40人でした、一クラス。

原:木材工芸も40人。

松原:はい、そうです。(学校の規模としては)小さいですよね、コンパクトでしょう。

原:小さいですけど、今の感覚で言うと建築があって、美術大学というかアート・スクール的な感じがします。

松原:でしたよね。私が行くちょっと前までは専攻科もあったみたいですよ。だから、ゆくゆくは大学もできる予定やったん違いますか? 結局できなかったですけどねぇ。

原:当時の同級生とかそういった方で記憶にある……。

松原:同級生はね、今ね、今ね(笑)……。

原:学生時代の記憶に(笑)。

松原:誰かな……えっと…先輩はたくさんいらっしゃいますね。一番大先輩は図案の方の早川良雄さん(1917-2009)……早川先生、山城隆一先生(1920-1997)とかいらして泉茂先生(1922-1995)もいらして、やっぱりすごい錚々たる大正生まれの方がいらして。で、近くなってきたら松谷さん。

原:松谷武判さん。

松原:今井祝雄さん。今井さんは私より一つ下なのです。だから「具体」の立ち上げのあの頃というのは私たちリアルタイムで知っていますから。最年少で今井さんが入った。あの人はまだ高校生でしたよ。

原:早熟な……。

松原:そうそうすごい早熟でしたよ。

原:いろんな年齢の方がいた学校ということで、みなさん、今の高校生と比べると、

松原:恵まれていますよね、と思いますね。

原:学校の授業といいますか、先生というのはどういう方がいらしたのですか。

松原:その頃ね……ご存知かな、どうかなぁ。私が習った先生はもう亡くなられましたけれど、富田卓司さん(1921-2002)とおっしゃってデザインの、足立眞三さん(1932-)とか、あんまりいらっしゃらないなぁ、私の頃にはもう既に。かつてはね、すごい先生だってやってはったと思いますけど……。

原:有名無名は問わず、授業を受けていて教え方とか教えられたことで記憶に残っている授業はありますか。

松原:やっぱしね、一番好きだったのは日本画の筆を使う仕事。だから運筆というのかな、ああいうことはけっこう気に入っていました。

原:日本画の場合、デッサンを厳しく、というか下絵とかそういったものをコツコツみなさん(されていた)。筆の作業が一番が楽しいのかも知れないですけど、そこまでの作業というのは。

松原:油絵の方がデッサンの方が厳しかったですよ。

原:美術が40人のなかで、洋画、日本画は20人、20人、ですよね。

松原:はい。もうほとんどね、その頃女子の方が多かったです。

原:そうなんですか。

松原:日本画は特に。40人のうち20人の油の方が(男女比が)10人、10人で。日本画はね、男の子が3人でした。はい。もう既に。

原:今はね、そう聞いてもおかしくないですけど。当時なら美大に行く人も。

松原:そうですね。ただね不幸なことに、私もそうですけれど、実習時間が多いんですね、工芸高校というのは。プロを育成、もともとそれで完成の学校だしたから、勉強してないんですよ。単位で言えば3で良かったのかな。

原:国語とか。

松原:英語と。

原:理系の科目とか。

松原:そうそうそう。普通どれくらい要るんですか?高校って。5単位要るとしたら3単位くらいしか取ってないと思うんです。その頃は、私たちの頃っていうのは美術系大学というのは(関西には)なかったですね。京都……。

原:京都市立芸大、まだその時は美大(京都市立美術大学)。

松原:金沢と、かろじてあったのが成安の短大でした。あとは教育大ですから。京都に受けに行って、京都って勉強できへんかったら入らへんですよね。先に勉強の方……。

原:学科の試験があってから。

松原:学科の試験があってからですから。実技の方はみんな、けっこうできているわけですけども、それの前にもう学科の方でみんな滑ってきますね。だめでしたね。私の時は特にね、45年生まれっていうのは終戦の年ですから人数少ないんですよ。その2年後?の団塊の世代の3分の1ぐらいしか人数がいないから、ずーっと競争というものを知らずに育ってきているのですね。で、大学で初めてそれこそ全部落ちて、いうようなそんなんですよね。揉まれたことがなかったのですよ。だから10クラスほか前後(の学年)があったら、私たちは4クラスとか5クラスぐらいしかなかったんですよ。(昭和)20年生まれは少なかったから。

原:そのなかで専門特化された学校に通われていたわけですけども、その周辺ことで興味を持たれたとか、一所懸命になられたこととか(ありますか)。例えば小説や映画とか、そういうことがさかんだったかも知れないし。

松原:そうですね。小学校とか中学校……親に連れていかれて『自転車泥棒』であったり『シェーン』とか、ああいう映画は行きましたね。小学校の頃だったか『風と共に去りぬ』っていう映画はものすごく感動したのですけども。あれがまだ小さい時でしたよ。後で考えてみたらあの映画を、日本がそれこそ敗戦敗戦でなんにもなかった時代に「アメリカという国はこういうすごい映画を作っているこんな大きな国やったんや」ということを叩き込む、その時のショックというのはすごかったですね。色んな映画もそうですけども、あの壮大な映画を、こっちはもう敗戦で食べるものもないようなところで。そちらの勝った国は、ああいうすごい国やったん、そんなもの勝つわけないわ、と改めて思ったりしましたわ。

原:阿倍野で、大阪の市内に居て5歳くらいから過ごされていたってことは、いろんな文化が都市なので入ってくるというか、人の入れ替わりや移動というようなものもあって、大阪の人だけが周りにいるだけではなくて、ほかからの影響というものはありましたか。もちろん今のようにテレビがあったりインターネットがあるわけではないわけですけども。外のものに触れる、というのは映画以外には。

松原:大阪ってミナミとキタって分かれますでしょう。ミナミの人というのはわりと純粋培養というか、ミナミの人だけ、って感じじゃないかなと思うんですよ。工芸というのは学区制外れたところですから、キタの人も。梅田よりキタというのはけっこういろんな所から人が集まってはるところのような気がして。ミナミって、ミナミの人だけって。私はいろんな事情があって引っ越し3年に1回とかしているんですね。子どもの時にね。戻ってきてからの後。阿倍野、住吉、あの界隈をうろうろうろうろしているんですよ。だからわりとそれ以外の界隈を知らない。

原:住みやすさというものが――まぁもちろん自分で選ばれたというよりはご両親が選ばれたことですけども――子どもを育てるのに相応しいと。

松原:そう思ってあげた方がいいじゃない(笑)。そんなふうに考えていなかったと思いますよ。

原:思春期に受けられたこと、興味があったことというのはもちろん日本画を描くことかも知れないですけど、その時に影響を受けた人とかは。

松原:今思ったら良くも何にも知らなかったなと思うのですけれど、公募展とか美術館とか行って、暗い絵に憧れたんですよね。それこそ日本海とか(描いていた)。日本画のなかの、あの人はどこの人やったかな、新制作だったかな。笑われると思うのですけども、小野具定(おの・ぐてい 1914-2000)という人がいましてね。黒い線のものすごいきつい、暗ーーい絵の作家がいたんです。すごいかっこいいと思って(笑)、憧れました。

原:ほかには……。

松原:ほかはあんまり知らないかなぁ。洋画の人はもちろん知ってますけど、日本画の人って知らなかったです。
なんかかっこええと思ったんですよ。はい。

原:もちろん学校なので学校教育として教えられることもあるわけですけども、作風というか、松原さん描かれる作品自体もその小野さんの影響を受けるっていうのはあったのですか。

松原:かっこいい、とかそっちから入ってしまったから結局続かへんかったし、何もできへんかったんですけども。だから壁描いたりね。

原:花鳥ではなく(笑)。

松原:そうそうそう、全然違って。卒業制作っていうのがありまして、それは南禅寺の疎水、ありますやん。あれ描いてました。100号とかに。人物はいらない何もないし、みたいな(笑)。はい。壁ばかり描いてました。住吉大社とか……。

宮田:入られる前にデッサンを習われたりされたのですか。

松原:してません。いきなりでした。

宮田:どんな試験があったのですか。

松原:一応全部あります。水彩……とか、たぶん。学科もそうですけども。

原:鉛筆デッサン、水彩、着色……。

松原:水彩までですね。ガラスコップに何かあって。

原:モチーフを描く、というような。じゃぁ実技の試験があって。

松原:ありました。たぶん。

宮田:工芸高校に入って、いくつかクラスに分かれますけども、共同で受ける授業はあったのですか。

松原:あ、なかったですね。日本画と洋画はあったと思いますけれど、ほかの学科とはなかったです。

宮田:ほかの学科、コースの方たちとの交流というのはあまりなかった。

松原:はい個人的な友達以外はなかったですね。今でも続いてますよ。同級生…同窓生、金属工芸出た人で、今ファッション界で活躍している人がいるのですけども、その人なんかとは続いてますし、はい。

宮田:授業で作品をつくって合評みたいな、先生から評価を受ける機会というのは。

松原:ありました。ありました、はい。でもそれがそこだけで前後とかも関係なく、横も関係なかったと思いますね。

原:じゃぁ洋画とはビシッと分かれて。日本画の20人というなかで。3年間通われたのですか。

松原:はい、3年です。

原:今でも手元に残っている作品とかは。

松原:引っ越しをようけしているし、もう処分してます。何もないです。
ええ、何なんでしょうね、生意気なね、若いのに。

原:小野具定さんのどういった作品に惹かれたのですか?

松原:日本海の舟やったと思うんですよね。

原:当時の時流というか、小野具定さんというのがどちらかというと、じゃあマイナーという存在としたら。当時多くの人に受け入れられていた作家さんというのは比較すると。

松原:もっと綺麗な日本画ですよね、きっとね。いわゆる……近いところで言えば加山又造とか、西山なんとか(注:西山英雄)とか高山なんとか(注:高山辰雄)とか、たぶんその時代のはずですよね。

原:日本画以外で興味を持って惹かれた作品とかあるいは出来事というのは。

松原:その頃岡崎(注:京都市岡崎公園内にある京都市美術館を指す)にダリが来たり、それからモナ・リザが来たり。その時代なんです。初めてきた。ダリなんて私知らなかったですから、びっくりしました。シュールな仕事を観て。

原:昭和30年代のはじめくらい。

松原:昭和30年後半です(「ダリ展 幻想美術の王様」1964年10月4-27日)。もう40年近いと思います。二十歳くらいで観たと思いますね、初めて。モナ・リザと、それからビーナスと、その頃じゃないかと思いますね。(注:《モナ・リザ》の初来日は1974年で展覧会は東京国立博物館のみで開催。「ミロのビーナス特別公開」展は1964年5月21日-6月25日に京都市美術館で開催。)

原:さきほど今井祝雄のお話が出てきましたけども、非常に早熟で具体に高校時代に入られて、そういう下級生の様子というのはどういうふうに見えたのですか。

松原:先生がね、その時「具体」っていう存在を教えてくださって、グタイピナコテカっていう……。

原:中之島(大阪市北区)にあった。

松原:「中之島のあそこは面白いから行きなさい」って言ってもらって、その後に今井さんの話を聞いて、ああすごいな、というふうな感慨はやっぱり持ちました。ピナコテカは今思ったら得難いところで、ヨシダミノルさんの泡とか、ああいうものにも本当に、もうびっくりしましたよ。

原:こんなことをやっている人がいる!っていう(笑)。

松原:はい、本当にとんでもないことしてるし、びっくりしました。はぁーと思って。その頃、向井修二さんとかもお若いですよね。松谷さんとか(メンバーのなかで)若い人ですけどもね。やっぱり素材というのか、全然私らの今までの想像の範囲を超えたものですから、それは新鮮でしたね。(ピナコテカの)一階(1回目?)の展覧会とか観ていますね。すごい恵まれた時間にいてますね。

原:やっぱり大阪市内に育たれたということで。

松原:高島屋の屋上でね、というような(「第9回具体美術展 同時開催:インターナショナル・スカイ・フェスティバル」大阪なんば燗屋3階ホールおよび屋上、1960年4月19-24日)。

原:例えばもっと遠いところに住んでおられたら、ちょっと情報があっても行けるようなかたちではないし。

松原:そうですね。先生が「具体」のことを教えてくださったというのが、教えて頂かないとわからないので、大きかったですね。

原:まず普通(科)の高校に行っていたら、たぶん美術の先生が「具体」の展覧会を観て来いとは言わないですよね(笑)。むしろ、そんなものは観てはいけないと、もしかしたら言う人も、中には考えが違う人もいると思うのですけど。非常に柔軟というか、どんなものに対しても……

松原:やっぱし大阪、なんでしょうね。

原:人によっては、自分が肯定できるものではないことを自分の学生に見せたくないと思う先生もきっといらっしゃられると思うのですけど。

松原:そうなんです。その先生は日本画の先生ですからね。

原:非常にオープンマインドな。

松原:オープンですよね。良かったと思います、それが。私もその頃の具体をリアルタイムで観ることができたというのは今おっきいですよね。何の役にも立つというわけではないですけども、気持ちのうえで観て知ってた、肌で感じることができたっていうのは……、これって無理ですものね。

原:私たちですと白黒の残っている写真をたよりに状鉅を想像するのみで、今のように記録写真がたくさんあるわけではないですし、限られた資料のから感じるしかないです。

松原:そういう意味ではすごい恵まれたというか、良い時代だと思いますね。

原:ほかの動向で何か気になることは。

松原:泉先生が「パンリアル」(注:「パンリアル美術協会」以下、パンリアル)ですから、私は基本的には具体よりもパンリアルなんですね、本来は。パンリアルって地味ですから、瑛九さん以外泉先生もなかなか難しいところに、もう没後17年もなるのに、市井の作家で終わってしまいつつあるんじゃないかと思うとすごい残念なのですけども。パンリアルは早川先生も出られたし、写真家の岩宮武治さんとか入っておられましたからね。異化な存在としては「具体」よりも「パンリアル」。全然違う性格のグループですから。

原:「パンリアル」に……。

松原:「パンリアル」じゃない!!! ごめんなさい。

画廊スタッフさんも一斉に:デモクラート!(一同笑)。

松原:「デモクラート」!(注:「デモクラート美術家協会」以下、デモクラート)ごめんなさい、ごめんなさい。なんということや! なんでデモクラシーが出てきいひんのやろ、と思って。パンリアルって何かなと。失礼しました。パンリアルは日本画や(笑)。……デモクラート。

原:下村良之介先生の。

松原:そうや、ほんまに、ほんま情けな……。

原:こちらも何も考えず聞いてました(笑)。大学へは進もうと思われましたか?。

松原:そんな思ってないんです、私。勉強嫌いやったんです。
何とも思ってないんです。行けなかったとも思ってなかったし、家が裕福でなかったことももちろんありますし。私一番下ですから、ほかの人が行けなくても、まぁ無理してでも行けたと思うのですけど、無理してまで行くほどの気持もこちらもなかったと思うのです。そのことに関しては何とも思ってないです。

原:続けて制作活動というのは。

松原:少し続けたいと思って、友達と部屋借りて。すぐに就職したんです。18で卒業して、卒業制作の前に父が亡くなったものですから。それまで就職も何にも考えていなかったのですけど、印刷屋さんに就職しましてね。活字の活版印刷ですよね、その頃。

原:どの辺りの印刷屋さんですか。

松原:遠いとこやったんですけど、それは池田(大阪府池田市)。これがまたヤクザな世界に入っていくのです、私(笑)。コマ劇場っていうのが梅田にあって(現)梅田芸術劇場,旧称;劇場・飛天←梅田コマ劇場)、小林一三がオープンしはってまだ間無しの時やったんですけど、コマ劇場が色んな催し、舞台をしますよね。そのポスター作ったり、カタログを作ったり、プログラムを作ったり、チラシを作ったり、新聞広告を作ったりって宣伝部というところに、私が就職したこの印刷屋さんの席があったんです。そこに私は入りまして、印刷屋さんに勤めに行ったわけじゃなくて職場はコマ劇場の宣伝部だったのです。

原・宮田:コマ劇場に、へー。

松原:で、そういう仕事を、デザインに近い仕事をしてたんです。楽しかったですよ。ものすごく面白かったです。

原:美術とも隣接しているのですけども、かなり工芸高校時代とはガラッと変わるわけですね。

松原:そうですね。そこで仕事しながら、やっぱり絵を描きたいなという時期が少しありまして、お部屋借りまして、仕事終わってから描きましょう、みたいな時期がちょっとだけありましたけど、すぐ諦めました。きれいさっぱり諦めました。

原:それはお仕事の方が忙しい、

松原:無理ですね、やっぱしね(笑)。終わってから用意して一時間くらい居ててもどってことないですよね。そこ借りてて、家にも帰らなあきませんから。

宮田:どの辺でお部屋を借りていたのですか。

松原:どこやったかな……。その頃は住吉に住んでいたから、その界隈ですね。

宮田:日本画ですか。

松原:筆持って行って。そんな(制作)したっていうのはないです。(部屋)借りた覚えはあったな、ぐらいのことです。

宮田:デモクラートだったり具体だったり、お友達とも観に行かれてたのですか。お一人で行かれていたのですか。

松原:友達と行っていました。

宮田:同級生とか。

松原:同級生、一人、具体にちょこっと関わった友達がいてまして、連れて行ってもらったりしてました。

原:その方も工芸高校の日本画の方ですか。

松原:えーと彼は、男の子でしたけど油でした。

原:そういうものに憧れを持って。

松原:その人はそうでしたね。今もまだ絵を描いてます。

宮田:デモクラートだったり具体に入りたい、っていうのは。

松原:ないです、ないです、とんでもないです(笑)。だって印刷屋さんの仕事しているんですもん。そっちの方が派手ですから、楽しかったですね、きっとねぇ。

原:当時コマ劇場の宣伝部でポスターを作られたりしていたということですが、高校生の頃美術館に行かれたり、具体の話を聞かれて行く、専門特化した学校なので情報がどんどん入ってくるというのもありますけど、周りに…当時は、そういった情報源というのはどういうところにあったのですか。

松原:なぁーにもなかったですよ。『みづゑ』や『芸新』(注:『芸術新潮』)があったんじゃないですか。

原:それは図書館とかで。

松原:図書館とか(へ行ったり)、家にあったりもしました。デモクラートの作品、泉先生の作品との出会いというのは、兄が店舗設計の仕事をしていましてね。

原:工芸高校行ってらしたお兄さんですね。

松原:はい。有名な店舗設計の先生の所に弟子入りしてたんですね。その先生が美術にすごく興味というのか、支援というのかなさっている人で。タツジ(注:不明)さんとおっしゃるのですけども、泉先生とも親しくて。泉先生がニューヨーク、ヨーロッパへ行きはる前に資金集めで作品をみんなで買って、

原:パトロン的な。

松原:パトロン、そうですね。そういう作品があったんです、兄の家に。津高(和一)先生の作品があったり、兄が勤めていた先生の関わりのある作家の作品があったりして、それは身近に見てましてから、泉先生の作品もかなり早い時代に見てましたね。

原:環境として一般の人と比べると圧倒的に生の情報が。

松原:圧倒的ではないですけど少しはありますよね、たぶんね。

原:でも普通の、そういうことに関わりのない家にいらっしゃる方だと、百貨店行ったときにたまたま見たというのがあっても、みなさんが普通に美術館に行かれたりとか、同じ時代に生きていたとしても具体っていうものがあったことすら知らない人も多かったと思いますけど。

松原:そうですよね、燗屋行ってもあんな上(屋上)の所で(具体が作品発表や)何かしているっていうのも知らずに行ってしまいますよね。なのでわりと身近に作品はありましたね。

原:そして華やかな劇場のお仕事を。

松原:本当に華やかでしたね。ものすごい華やかでしたね。バブルの前? の時代。

原:当時のスターというのはどういう方。

松原:それすごいですよ。美空ひばりさんとか……。

原・宮田:すごい、ですね。

松原:越路吹雪さんとか、すごいでしょう。

原:それは本当にすごいですね。

松原:コーちゃんとかって言ってね。江利チエミさんとか。その時代はミュージカル……。

原:東の日劇(日生劇場)で、西のコマという。

松原:もう東京コマ劇場ありました(注:新宿コマ・スタジアム、1956年開場)。

宮田:東京もコマ劇場があったのですか。

松原:越路吹雪なんてそりゃもうすごかったものですよね。ミュージカルというものを初めてしたんだと思うんですよ。『モルガンお雪』(梅田コマ劇場、1957年)とかね。ミュージカルなんて綺麗かったですもんね。

原:宝塚とはちょっと違う。

松原:東宝系ですかね。越路吹雪って宝塚?

原:ええ。

松原:生で見れるんですものね。舞台稽古とか。プログラムの第何幕に誰が出ていう(配役と出番)が当日とか途中変わったりすると差し替えなあかんわけですよね。だからへばりついて見て変更を確認しないといけない。

原:なるほど、今みたいにデスクトップでぱっぱっと変えられるわけではないので(笑)、写植屋さんに。

松原:そうそう、そんなんじゃないんですよ、写植屋さんに。活字をピンセットで取らなあかんですよ、こう箱に入れて。そんなこと私はできませんけど。徹夜で印刷して次の日に間にあわす、みたいなんでしたね。(舞台が)一つ明けて5日、一週間以内前後に記者会見総見日というのがあるのですよね。美術記者じゃないは、劇音楽なんとか記者、文化部でしょう学芸部ですよね。で、私ここ(番画廊)始めた頃、その頃にお世話になっていた新聞記者一緒の方なんですよ。おーって言う感じで繋がってました。

原:こんなこと(画廊)を始めたのか、みたいな。

松原:そうそう(笑)。

原:お仕事は(インタヴューの)最初の方で何度か変わられたようなことをおっしゃってましたけど、印刷会社でデザイン宣伝部にはどれくらいいらしたのですか。

松原:5年間です。なぜだか5年と自分で決めていたのですよ。その後ふらふらして、フリーターさんですね。アルバイトをちょこちょこしながら、スポーツ新聞の学芸部に1年お世話になったり……

原:それは校正とかそういう、

松原:そうそう校正とか、ラテ面。ラテ面てあるんですね。ラジオ、テレビ面ていうのが。

宮田:ラテ面…?

松原:ドラマとかありますやん、短く今日はこういうのや(略説)とかね。

原:文章というか記事も。

松原:共同通信とかからぱーっと送られてきますね(情報が)。文字数を合わせてそこ(紙面)に埋めていかないけませんのや。番組の校正したりしてましたね。コマ劇場に来てた学芸部の新聞社の人たちが誘ってくれはって、ちょこちょこ行ってました。

原:そこから画廊を開かれるまでというのはどれくらい、お幾つくらいで?

松原:33歳でここ、(番)画廊をしました。27歳から6年間、今橋画廊(大阪市中央区北浜)に勤めました。今橋画廊に行くにあたってはふらふらとしてまして。今橋画廊というのはデザイン関係の展覧会が多いんですね。早川先生の展覧会ももちろんありましたし、横尾さんとかいっぱいあって。早川先生の時は私は必ずもちろん行きますし。今橋画廊界隈をうろうろしていたのです。

原:お勤めになる前に周辺に、いらした。

松原:前に、何年も。そのうちに鳥山さん(鳥山健 1923–2013。インタヴュー当時ギャラリー白代表)に、今橋画廊の鳥山さん。

原:今、ギャラリー白(ハク)の鳥山さん。

松原:そうなんです。鳥山さんに来ないか? というふうに誘ってもらって、入ったのが26歳か27歳です(注:1973年から)、6年間行って。今橋画廊のオーナーが、ここと同じような貸しもしながら企画もしながらという画廊でしたから。私がそれこそ画商さんの所に行っていたらちょっと違ったと思うのですけど(笑)。だから同じようなことしかできていませんけど。いつまでたってもこんな儲からへん仕事はいやや、と思いはったんですよ、そのオーナーが。

原:今橋画廊の。

松原:で、やめようっということになって解散になっちゃったんです。

原:解散が契機となってご自分で画廊を開かれることになったのですね。

松原:自分でしたいと思ったんです。

原:同じ時に鳥山さんも白を始められて。

松原:そうです、同じ年です。今橋画廊もおもしろかったですけれどもね。

原:今橋画廊は今橋にあるから(名前が)今橋画廊なんですよね。

松原:そうなんです。美術倶楽部の前の地下にあって(注:現在の北浜駅南西のあたり)。

宮田:『美術フォーラム21』(「今橋画廊」『美術フォーラム21』第3号、醍醐書房、2000年、p.85)に書かれていたと思うのですけども、今橋画廊というのはいつくらいから始まったのですか。

松原:短かったんですよね、数えたら14年間しかしてないんですよ。1979年引く14年やから……。

宮田:65年ですね。

松原:1965年ですか、はい(注:『美術フォーラム』によれば開廊は1967年)。だから信濃橋さん(信濃橋画廊)より後から始めて、もっともっと先にやめてはりますね(注:1979年4月閉廊)。デザイナーの方たちがそれぞれ版画を発表し出した頃ですね。横尾忠則さんとか。

原:グラフィック・デザイナーの方たちも。

松原:はい、田中一光さんとか永井一正さんとか。

原:錚々たるメンバー。

松原:すっごい華やかな時代ですよね。そこをふらふらしていたものですから、そらぁ憧れますよねぇ。

原:当時というのは東京オリンピックがあって高度経済成長期でグラフィック・デザインというのは花形ですね。今でも田中一光さんや亀倉雄策さんとか色んな方の昔の(作品)を見ると本当にすばらしいデザインが。後に残るものを作られていて、消費されるものであるはずの商業的なところにあるけれども、決して消費されるものではない。

松原:そうですね。消費されるものではなかったですね。

原:そういう意味ですごく憧れがあったのですか。

松原:そうですね、何というのかな、あの独特の華やかな……、亀倉先生とかすごかったですよ、本当に。大阪は大高猛さんがいらして。私が今橋画廊界隈をうろうろしていた頃はみなさん東京に行ってられました。早川先生ももう東京でした。関西は大高猛さんだけでした。

原:デザイナーの方が版画をされるというのは、何か(理由が)あるのですかね。

松原:ねぇ、一光先生もされましたからね。

原:そのあたりを聞くとだんだん、ずっと私が観てきた番画廊のイメージと重なります。

松原:重なります? (笑)。私はまだデザイン関係の(仕事を評価する気持ちを)、きっちり持っています。それはそれでって、デザインは続けていきたいと思っていますし、この画廊は美術(が中心)ですけれども、デザインもそうやと思ってますし。デザインの世界の仕事をする限りは、一番すばらしいところで関わっていきたいと思ってますから、続けていくつもりはずっとしてます。

宮田:今橋画廊以外にどんな画廊がありましたか、信濃橋のほかで。

松原:「あの画廊」さん。ひらがなで「あの」って書く(注:画廊あの)。

原:どこにあったのですか。

松原:堂島の新地の中にあったんですよ。迎井さんとおっしゃって。迎井……、モリヤフミヨさんってご存知かしら。その方の画廊でしたけどね、お二階とんとんっと上がって(注:経営・担当者名 森清子、迎井千鶴子、迎井夏樹。「美術界一覧 画廊」『美術手帖』美術年鑑 1965年12月号増刊、p.116)。それと安土画廊というのがあったですね(注:ギャラリー安土)。信濃橋画廊さんと、あの画廊さんと安土画廊さんとで「100人展」とかっていう(企画)してますね。その当時。

原:100人。これはどういう100人が?

松原:現代美術の。高橋先生が……。

原:高橋亨さん。

松原:高橋先生が 関わっておられます。「20人の方法」とか信濃橋さんがそうですよね。最初の頃やってますよね。高橋先生はその当時、画廊の現代美術の(企画に)かなり関わっておられますよ。

原:あの画廊さんはいつ頃まで?

松原:あの画廊さんは私が(開廊)した頃にはもうなかったんちゃうかな。私は今橋勤める前によくまわってましたね。

原:安土画廊さんというのは(場所は)?

松原:(手を上げて方角を示しながら)そこのちょうど三角州がありますでしょう(注:御堂筋、新御堂筋、国道1号線に挟まれた三角州のこと。番画廊が入っているビルから歩いて3分程度の近さ)。リーチの隣にあったんです。最終的には工芸画廊になっていましたけれど、初めの頃はそういう(現代美術を扱っていた)。ハクホウ梅田とか(の近く)。辻本さんがやっておられたところです。

原:あー、安土画廊さんって二階上がった。

松原:そうです、そうです。あそこ。

原:何度も行ったことがあります。

松原:私なんかが工芸高校の時代に画廊まわりをする時は(笑)、すごいですよ。新御堂筋というのが無かったんですね。

原・宮田:ああ、……う〜ん?

原:えー、高校生が画廊巡りをするんですか(笑)。

松原:ねぇ、すごいでしょう。

宮田:私は新御堂(筋)が無かったという方に(笑)。

一同:笑

原・宮田:新御堂もなく、画廊巡りをする高校生って!(笑)。

松原:ああ、そっかそっか。だって、そうですね。梅新(注:梅田新道)の交差点がありますでしょう、今そこに。第3ビルなんてもちろんありませんし。宮崎画廊さんはありましたね。えーと、御堂筋を渡りますね、そこまでは御堂筋ですね。それから分かれて新御堂になる、違うか? ……なるんですけども。だから道順としましては御堂筋の、もうたぶんご存知ないから(わかるように説明できなくても)どうしようもないと思いますけど。梅田画廊さんがこの前までありましたね。あの通りがエンパイア通りと言ったんですね(笑)。

原・宮田:かっこいい(笑)。

松原:あそこから始まるんですね。ちょうど大映という映画館の会社があって、その次くらいに梅田画廊があって(新御堂筋と国道1号線の交差点より一本北の通り、東側)、それをまっすぐ(東)行きましたら左側(北側)にハクホウ・ウメダという荒木高子さん(1921-2004)がなさっていた画廊があったんですね。

原:えっ荒木高子さんて。

松原:陶芸の。画廊をなさってたんです。

宮田:えー知らなかった。

松原:(笑)、荒木さんがね。

原:どんな字を書くのですか。

松原:カタカナだったと思います。鳥の白鳳のはずですけどね。(注:前出の『美術手帖』美術年鑑によればハクホウ画廊、経営・担当者名は土井憲一氏。2013年時点では白鳳梅田画廊がある)それをしばらく東に行くんですね、新御堂ないからスッと行けるんですね。大阪画廊があったり越前画廊があったり、学生が発表する画廊がたくさんあったんです。そこで私たちの先輩がよう展覧会してました。

原:高校生がですか?(笑)

松原:はい、卒業してから。

原:大阪画廊ともう一つは?

松原:越前画廊、というのがありました。あと何があったかな…東向いていますでしょう、これを右折するんです。

原:地図がこう見えているような……(笑)

松原:国道1号線があって、それを渡るんです。それで老松通りに入ってきたら現代画廊があるんです。ちょこちょこあって、ずーっと来たら右側に安土画廊があったんです。それで終わり。で、新地(北新地)の方に行ってあの画廊があって。もう一つ何とかって言う画廊があったけど……忘れた。

原:そのあたりは貸しと企画と両方される画廊ですか。

松原:貸画廊やったと思います、学生相手に。ハクホウ、荒木さんの所は色々やっていたと思いますけど、先輩が(展示)してましたから。梅田画廊さん以外は貸しだったと思いますよ。現代画廊もそうでしたものね。

原:当時大阪で大きな画商さんというのは?

松原:梅田画廊さんちゃいます? それからフジカワ(画廊)さんになるのでしょうけどね(注:フジカワ画廊は本町寄りの堺筋に面してあった。現在も1953年竣工した村野藤吾設計の画廊ビルが残っている)。

原:キタの方が(画廊街としては)メインになるんですかね。

松原:フォルム画廊(大阪フォルム画廊)が心斎橋にあったんです。……あのビルやったかな?

原:東京の人が聞いてもまったくわからないですね(笑)。

松原:そうでしょうね、きっとね(笑)。…エンパイヤ通りっていうのがいいでしょう。もうそんなんわかって、ああ、って言って下さる方いらっしゃいませんよね。新御堂がなかったんですって、ねぇ。

原:京都の場合は市立芸大があって成安の短大があってというような環境で。大阪の場合は、大阪芸大……。

松原:ないです、そんなん。私が18歳の時に大阪芸大はできました。

原:今の場所ですか?

松原:今の場所です。河内(大阪府南河内郡)にね、できたー、へーって。私らできるの知らなかったですからね。同期の10人くらいは大阪芸大に入りました。

原:工芸から。若い作家予備軍のような人たちはどうしても京都に流れていってしまったのでしょうか。

松原:そうですよね。

原:大阪教育大の美術の方たちは当時は活発に発表されていましたか。

松原:大阪教育大と京都教育大の方で、今70歳前後の作家は多いですよね。やっぱり京都芸大しかなかったから。同じ年の工芸卒業した人は大阪芸大の1期生ですよ。途中から始まってますよ、あれ(大阪芸大)、夏くらいから、きっと。

原:そんなことってあるんですか?(笑)

松原:だらだらっと始まったんじゃないかな。私、友達に聞くんですよ。「大阪芸大できること誰に聞いたん?」って。そんなんでしたからね、全然情報なかったです。そしたら「中学の先生が教えてくれてー」って。高校の先生教えてくれへんかった(笑)。

原:高校の先生はそっちに目が向いてなかった(笑)。デザインでいうと京都工芸繊維大学も意匠(工芸科)が。

松原:ああそうですね。教育大にしてもどこにしても、勉強のできる人が行ける学校というのには私たちには縁がなかったんですよ。きっと、勉強できへんかったから。

原:単位が少ないわけですよね。京都でも今でも銅駝(京都市立銅駝美術工芸高等学校。2010年創立130周年,旧称:京都市立)とかは、専門科目以外の教科の授業時間は少ないそうです。

松原:あそこ普通科もありますよね、今ね。

原:今はそうなんですか、銅駝美術工芸。

松原:はい、前に毎日新聞にいらした山村(悟)さんは銅駝ですもん。銅駝兄弟言ってはりますもん(笑)。

原:昔は日吉ヶ丘高校のなかの美術科だったんですよね。1980年に京都市役所からすぐ近くの銅駝中学という市立中学校がドーナツ化現象で生徒が少なくなり、その跡地に日吉ヶ丘高校の美術科が分かれて移転し、京都市立銅駝美術工芸高等学校と名称になりました。

松原:京都にも工芸と同じような学校があるよっていうのは教えられました。

原:日吉ヶ丘出身の美術家の方も多いですよね。

松原:はい、あそこの場合も日吉ヶ丘だけの(大学進学しなかった)方が多いでしょう。特に工芸関係の方は。日吉ヶ丘だけで上にはそんなに進んでおられない。

原:それこそ五条坂の清水焼の窯元が実家の方も多いです。

松原:大阪の場合は金工が盛んだったと思うんです。お茶の方の。焼きものには……。

原:陶芸はもう京都があるから、大阪は金工。

松原:ですね。金工(金属工芸)、木材(木材工芸)。

原:金沢(金沢美術工芸大学)を目指される方も多かったかもしれませんね。

松原:金沢行った子います。金沢も実技がある。中馬泰文さんは工芸から金沢です。

原:画廊の場所をここに置こうとされたのは。

松原:ここしかないと、私思いこんだら何でも、ものすごいそうなんですけど。

原:今橋画廊の時は美術倶楽部の前にいて、当時は鳥山さん以外に何人くらいほかにいらしたんですか。

松原:2部屋あって(注:今橋画廊とプチ イマバシがあった)、鳥山さんがチーフの存在ですね。有川春代さんってご存知でしょうか。

原:はい、セゾンに行かれた。

松原:はい。あの人はオーナーの従姉妹でしたから。

原:京都芸大出身でしたか。

松原:神戸女学院英文とかじゃなかったかな。美術関係ないです。彼女がいて、私が後から来て、男の子がもう一人いましたね。4人ぐらいいました。

原:オーナーがいらしてそのほかに。

宮田:どんな仕事からスタートされるんですか。画廊に入って下積みというか。

松原:どんな仕事かな。作家の担当ははっきりじゃないんですけど、私は自動的にデザイン、早川先生の担当でした。あとは本当に一緒です。接客業ですからね。お打ち合わせは年に何回かさせてもらえて。

原:今橋画廊は年間どれくらいの数の展覧会をされて?

松原:展覧会は週の数と一緒です。毎週、1週間やったと思います。ここもそうですけど。一応1週間に一つで、年に何回か2週間というのをして。年に40くらいですか。2部屋あるから80。ここは40ですけれど。

原:最初からそのペースでやってらしてるから。

松原:そうなんです、慣れているんです。長過ぎたら間が持ちません(笑)。リズムになって。

原:ご自分の担当は4人で分けてらっしゃるにしても、その人数の作家さんと交渉、コーディネートの作業をされる。

松原:はい。

原:それで作品の販売もされる。

松原:それはなかなかね、画廊の性格もありますけど、画商さんのように売ることは長けてなかったですね(笑)。売る方法というものを教えてもらわなかったですね。それを教えてもらっていたらね、私ももうちょっとましやったと思いますね(笑)。もうちょっとはお金持ちにね。

原:今橋画廊はさきほどお聞きしていたグラフィック系以外の作家さんだと、どういう方が作家さんでいらしたんですか。

松原:鳥山さんは嫌がるかもしれへんけど、幅広かったんですね。団体展の方もいらっしゃいましたし。

原:絵画が主ですか。

松原:絵画が主です。未知の世界ですけども、山水展とか。俳句と日本画と。草書の偉い先生の展覧会。これはあきませんね、言ったら(笑)、たぶん。

原:そうなんですか(笑)。

宮田:いえいえ、事実として記録は出ていると思いますので大丈夫かと。

原:今橋画廊さんでそういう展覧会もあったと。

松原:あったことはあったんですね。それはそれで、いろんな事情がありますから。売れますものね。

宮田:需要があって。

松原:さっきの『美術フォーラム』に「これは困る」って言って省かされたのは、俳句の展覧会もしたっていうようなことを書いたんですね。「やめてくれ」って鳥山さんに言われて、そこだけぽかって抜けて「あれ?」って(笑)。だからこれは絶対嫌がりはるんです。私はいいことだと思うですよね、どこの画廊にもそれぞれ事情があるわけだから。

原:団体展系の作家さんたちは貸し、というかたちですか。

松原:いえ、企画展示してました。

原:この年間約80展っていうのはほぼ企画ですか。

松原:ほぼ貸しやったと思います。私も最後のほう(スタッフ)ですからはっきりはわかりませんけど。工芸の展覧会は最後の方、特に関わりがかなりありました。あの頃アート&クラフトとか、世界WTC…じゃないWCC、World Crafts なんとか(注:World Crafts Council = 世界クラフト会議/1978年に「第8回世界クラフト会議 京都国際会議」開催)、柳原睦夫さんとかおいでになりますよね、陶芸、染織……あの頃40代くらいでバリバリの方たちがWCCというのを立ち上げたのか、世界であったのかわかりませんけど。そういう展覧会に関わってました。村松(寛)先生がいらして、工芸も力入れてましたね。

宮田:勤め始めて、勤める前と勤めてからと変わったことは何かありますか。

松原:どうなんでしょうね、例えば、例えば?

宮田:見ていた世界からお商売の世界……。

松原:はあはあ、勤めていた時はやっぱり自分の仕事じゃないんですよね。たぶん。ここに変わってきてから大変さが身に染みてきた、というか。

原:最初にお勤めになったコマ劇場の宣伝部や新聞社というところと、ご自分のなかでは線は引かず、急に転向したというわけでは(ない)。

松原:そうですね、変わってるわけじゃないですね、ずっと。

宮田:(画廊に)勤め始めて自分で向いているな、と思ったきっかけというのはあったのですか。

松原:人疲れをあんまりしないんですよ。変でしょう。

原:いろいろな方が来られますよね。

宮田:それは大きいですね(笑)。

松原:大きいでしょう(笑)。すごいぬけぬけと言うようですけど。そんな疲れへんの。

原:画廊っていうのはお店といった場所と一緒で開かれているので、拒むことが出来ませんよね。

松原:そう、できませんね。だんだんとわがままをするようになりましたから、堪忍してって思う時はちょっと避けてしまうこともありますけども、基本的には人と接すること嫌いじゃないです。

宮田:さきほど新聞記者の方のお話が少し出ましたが、学芸員だとか特異的な画廊巡りをされている方などいましたか。

松原:ええ、たくさんいらっしゃいましたね、当時。

宮田:とくに印象に深いお客様とか。

松原:あの頃って派手でしたからね。オープニング・パーティーもしていましたし。何ぞ意味のある方にお越しいただきました。京都では「あの人にも来てもらえへんかったらあかんで」って言われるぐらいの有名な方もいらっしゃいました。

原:ああ、いらっしゃいましたね(笑)。

松原:そんな方にもいらして頂きました(笑)。

原:必ずオープニングに来られますよね。

松原:はい、いつの間にかお姿お見かけしません。

原:現代に特化した美術館という意味では国立国際美術館があって。ただ今みたいに同じ(大阪市)北区にではなくて、千里(万博公園内)にあったわけですけども。

松原:立ち上げの時に早川先生がポスターを作っておられて、早川先生に付いてノコノコとしょっちゅう行ってました。文字がどうのとか、国立国際美術館という白い文字。だから早川先生の秘書やと思われてた時期がありましたね。あの頃ね、誰でしょう。印象深い…中村敬治さんとか? 中島(徳博)さんとかって、兵庫(県立近代美術館)の、かなり強烈でしたね。途中からですよね。建畠(晢)さんが最初からいらして。建畠さんは芸新(『芸術新潮』編集部)から異動?

宮田:芸新ですね。

松原:芸新の頃、今橋画廊でお目にかかってますね。お若いんですもん。しょうがないですよね(笑)。私の方がはやーくに社会に出ているから、もっと早いわけですよね。ちょっとユニークですよね、建畠さん。私の場合はどうしても、もうずーっと最初からですけど、3人しか先生がいらっしゃらない、美術評論家と言われる方。私は大学で習ったわけがあるとかないし、この仕事に就いてからお知り合いになった先生方ばかりですから。乾(由明)先生と(木村)重信先生と高橋先生っていうのは、最初から。あとの方というのは本当に存じません。

原:コマ劇場にいらして総見にこられるあの文化部・学芸部の方たちは。

松原:まだご存命ですよ。もう現役退かれた方ばかりですけど。もちろんそうですよね。

宮田:コマにおられた時は美術より演劇の情報の方が多かったですか。

松原:そりゃもちろん、美術の情報なんもなかったです。

宮田:ではその方たちも初めは演劇だったけれども、だんだん画廊なり美術館ができて……。

松原:いえ、え? そこに勤めた方、ですか?

宮田:はい。

松原:は、もう演劇畑ずっとです。監督になられたり、いわゆる演劇青年とか。

宮田:出会った新聞記者の方たちは徐々に美術の方も評論を。

松原:学芸部のなかの美術記者あったり演劇記者あったりですから、共有なさっているところがあったと思うんですよ。旅行なんかもそうじゃなかったかな。

原:例えば万博の時(1970年)もちょうど挟んでいたりする時期だと思うのですが、具体の方たちがパフォーマンスをされたりとか、この演劇の方たちも。

松原:関わっておられると思いますよね、きっと。

原:新聞記者で美術担当というのはどういう方がおられたのですか。

松原:私がここに来て、知り合った方しかないですから。もう村松先生は(朝日新聞を)辞めておられましたし、高橋(亨)先生が産経新聞にまだ少しおられたかな……。あとは、池田弘さん、朝日の池田さん、アベさん。アベさんというのはコマで知っている人でしたね。読売新聞は安黒(正流)さんでした。朝日が吉村(良夫)さんになりはって、(毎日新聞の)山村さん(後任は田原由紀雄さん)。この3人の方が頻繁にまわって来てくださってましたね。産経が早瀬(廣美)さんじゃなくて、高橋先生の次に、前田(昌宏)さん?

原:ああそうだ。田中三蔵さんも一時期大阪朝日におられましたけど。

松原:大阪にいらしたけど、あの人は美術でなくて演芸、落語とか、そっちの方をされてましたよ。

原:そういう担当を大阪時代は。

松原:はい、亡くなられましたね、こないだね。面白い人でしたよね。

宮田:万博の話が出たんですけど、万博の時の印象について。

松原:ないんですよ。なぜか不思議と。

原:忙しすぎて(笑)。

松原:気があちこち散っていたんでしょうね。わりとないですね。あまりにも人が多くて近づくこともできひんかったじゃないかと思いますね。

原:周辺で文化的ないろんな出来事が起こっている。

松原:はずですよね。それこそ具体はすごく関わってますものね。

原:70年くらいっていうのは?

松原:70年はフリーターさんしている頃です。ようあんな遊んでたなぁと思う。どうして食べてたのかしらと。

原:ご実家からずっと(通われて)。

松原:はい、ずっと離れたことないんです。もう絶対自立はできないもんと思ってましたから。一人で生活なんてとんでもないし、思ったことないですね…、そうですね、思ったことなくて、もうなんとなく今に至ってしまったという。なぁんにも考えずにきているこの六十何年。もうなんとなく。

原:(番画廊がある)この辺りは元々老松通りがあるっていうのもありますけども(注:老松通りは骨董品屋街)、「ここしかない」とさきほどおっしゃっていましたが。

松原:今橋画廊から新御堂(筋)にこう抜ける一方通行の道なんですけど、このビルが好きで、ここがずっと長いこと空いていたんですね、その頃。窓から外からしか見たことがなかったから。お金もないし、けれど解散になるし、思い切って事務所に訪ねて行ったんですね。ここ画廊さんが予約をしてはって。その画廊さんっていうのはガレリア・グラフィカの栗田さん。ご主人の方ですね、玲子さんは東京ですから。老松通りに小ちゃなスペースを持ってはって、ここに移る判断をしてはって、でも栗田さんが「ここ全部は広いな」っておっしゃってたらしくって、そしたら私は半分って思ってたんです。そしたら栗田さんのご予定が狂って、諦めはって、全部になっちゃったんですね。2部屋分あるのですけど。この小っちゃなビルの部屋割で言うと2部屋なんです。両方になっちゃったんです。

原:このビルが裁判所が近いこともあって。

松原:ローヤービルですね。100パーセント弁護士さん。弁護士事務所やったんです。大正10年(1921年)とかから。

原:弁護士事務所入居のために作られた建物。

松原:そうなんです。小さなお部屋が集まって。私が入った当初、ものすごい有名な弁護士がおられたみたいで、古い弁護士さんにとってはここ(に入ること)はステータス。私たちのようなヤクザな仕事は、今やブティックまで入ってしまって(笑)。

宮田:入った頃は画廊は一つ?

松原:この界隈はもう一部屋、今、音さんという画廊してはりますけど、そこの前はブラウンさんとおっしゃって。あさご町と真砂町の間になります。マサゴ画廊があって、この前の通りが衣笠通りって言って。

宮田:画廊の名前を番画廊とされた理由は?

松原:それはね語呂合わせみたいなものなんですけどれも、1番でも2番でもないというのもありますし、順番に、とか、番をさせて頂くとか。両親は姫路出身なんです。播州の出なんですけどね。播州の播というのは、これが一番生意気なんですけど(笑)、てへんに番ですよね、語源の中に種を蒔くという意味があるんですね。すごいでしょう(笑)。で、それもちょっと引っかかっている。ちょっとだけ。種を育てるとか、おこがましく言えば。一番すごいのがそれですね。蝶の番(つがい)とは知らなかったんです。色んな方に今度画廊をしますってご挨拶に伺った時に「誰とするんや」「はぁ?」って、蝶番(ちょうつがい)の番ですよね。蝶番(ちょうばん)の番(ばん)ですから(笑)。

宮田:ロゴはどなたかにデザインを?

松原:早川良雄先生に。

宮田:かっこいい。早川先生は画廊をされると聞いて、画廊をするにあたってお言葉とかは。

松原:(早川先生は)東京におられたから、大阪には写真家の岩宮武治さんがお友達だから、お二人で(ちゃんと)見たってなってことだったと思いますけれど。あの字っていうのは早川良雄先生のカストリ明朝というのがありまして、それに近いんですね。書いた後「もうちょっと手を入れようか」と言って下さったんですけど「もうあれでいいです」と言って。

原:今橋画廊が解散になる時に、もう自分でやるしかないというふうに思われたのは。例えば33歳だとまだほかの画廊に勤めようかとか、そういう感じではなくて、もう自分で?

松原:そうですね、思い込んでいたんではないでしょうか、30すぎたら誰も使ってくれないと。

原:いまとは時代も違いますね。

松原:最初(の就職)で辞めたっていうのも、(若い頃に)それくらいになったら辞めるんやろうと思っていたと思うんですよ。お茶やらお花やら習って(花嫁修業)、みたいな普通の感覚で言えば。最終的に私は手に職もなければ、歳だけいってて、お勤めしてできることってなかったですね。(止むに)止まれずではないですけど、ま、自分でしたかったっていうのがまず(一番)。

原:どんな画廊にしていこうとかイメージはあったのですか。

松原:えーなんて?

原:今まで今橋画廊におられて、もっとこうしたいというような。

松原:そうですよね、結局ね今まで踏襲しかできていませんけども。より新しいものには関わりたいと思っていました。それは(いま)どこまで……。

原:ご自分でどうですか、従業員として勤められるのと画廊主と。

松原:一緒です、もう気持ちもしていることも何もかも一緒です。だって一人でこんな状態ですから。79年のオープンの時の(スタッフの方に声をかけながら)……あ、そのファイルかな。(ファイルとは別のB5サイズの黒色のノートを指されて)ずっと取ってある展覧会の一覧をご覧になりますか? いいですか。

宮田:次のインタヴューの前に、今のインタヴューが終わってから見せてください。

松原:はいわかりました。これ(ファイルを捲りながら)オープンの時のご挨拶とか入っています。画廊をしますっていった時に木村先生のところにもご相談に伺って。みなさんのところにご相談にあがったんです。今度致しますっていう。(開廊記念展の案内を指しながら)木村先生が「京・阪・神」、お一人ずつ、やっぱりそういうふうに(範囲を)広くした方が良いとおっしゃってくださって。

宮田:三尾(公三)さんと泉さんと元永(定正)さん。先生方にご依頼して。

松原:はい、3人展でオープンしました。4月に解散して6月(にオープン)でしたからすごかったですよ。5月は生まれてはじめて働いた(笑)、っていうくらい体使って動きまわりましたね。

原:33歳で自分の画廊を構えようというのは立派だと思います。

松原:本当にお金無かったものですから、借金して。国民金融公庫というのを教えてもらって、そこでお金を借りてっていうスタートですよ。初めから借金で始まってますね。こういう展覧会ですね(ファイルを見ながら)……最初に7月8月の予定を立てました。

宮田:2ヵ月ごとに。

松原:じゃないとどんな画廊かわかりませんから。

宮田:そうですよね。どんな作家を扱うのかっていう。

松原:元永先生は全然売れていない時期ですよ。

宮田:ここに構えられてから客層が変わったりされたのですか。

松原:客層は一緒です。これのオープンの時かな、(ファイルを捲りながら)あ、ここにありますね。(カラー写真を差しながら)こういう人たちですね。

宮田:当時の写真が残っているのですねー。

松原:これ吉原(英雄)先生ですよ。

原・宮田:はぁー。

松原:とか、元永先生とか岩宮先生も載ってはると思いますよ。村松先生とか。

原・宮田:79年のオープンの時の。

松原:具体もだいぶ人が減ってからの写真ですけども。

原:壁が白じゃないんですね。

松原:フィッシャークロスといって麻の生成りでした。

原:昔の京都市美術館の壁と同じですね。

松原:そうです、そうです。それですぐにペンキ塗りましたけれど。

宮田:わざわざ内装されたのですか。

松原:はい、そうです。

原:老松通り自体は昔から骨董とかそういう美術関係の商いをしている人が軒を連ねてらして。

松原:(画廊)はなかったですよ、きっと。あっ、うーん、なんていう画廊やったかな、あうん館がありましたね。ご存知です?

原:あぁーなつかしー。

松原:(笑)。あうん館っていうのが工芸で一つ下なんですよオーナーさんが、ヨシダさんいう。あ、うんのあうんですね。辞めはりましたけどね。

原:そうですね、ありました。

松原:あうん館が向こうにあって、で、私が6月にオープンしましたね。9月、10月で白(ハク)さんと天野画廊さんができたんです。だからほかに画廊なかったと思いますよ、この界隈は。

原:天野(和夫)さんの所は私が記憶しているのは一号線沿いのビルの2階です。

松原:そうです、2階でした。天野さんはカサハラ(画廊)さんから独立されて。最初イギリスの現代美術をなさってました。

原:美術作家としてやるとか美術への関わり方があるなかで画廊…。京都はご自宅の一角で画廊をやられている方もわりと近い世代でいらして、少しまた違いますか。

松原:そうですね、今橋画廊もテナントで入ってましたから、そうするものだと思っていましたし。もちろん家がそんなんに相応しい場所になかったですから。出てきてちゃんとするものだと思ってました。この頃大阪も増えてきましたね、お家でなさっている所が。いいな、羨ましいなと思いますよ。はい。いつでも休めますものね(笑)。

原・宮田:笑。

松原:どれだけ休んでいてもいいですもんね。やっぱりお家賃払ってしていくってかなりしんどいですね。こういう時代になったら……厳しいですよ。本当に。

原:当時は職業の選択肢がなく、今は選択肢が多様にあるわけですけど。同世代でお仕事を続けておられる方はもちろん多いとは思いますけれど、美術に関わるというお仕事はどちらかと言うとマイナー。

松原:本当にマイナーですよね。

原:そのなかでさらに「つくりたい!」という欲求がある人はたくさんいると思うのですけども、こういう画廊というかたちで関わりたいという方は多くないですよね。人と接することが嫌いじゃないというようなこともありますか。

松原:そうですね、私はそれが財産だと思ってますから。

原:ある意味、女性に適した仕事の一つという部分もありますか。

松原:のようですね。木村先生の記事、信濃橋さんが辞められる時に、いわゆる画商さんは男性が多いけども、レンタル画廊さんしかり、女性が多いと。女性が多いというのは儲からない仕事、だということですね。画商さんは儲けないとだめだから男性だというふうに言われているのと同じことなんですね。貸し画廊はそんな儲かるわけないですやん、貸し画廊なんですから。イロハがあるわけでもなし、こんだけしかないんですから膨らみようもないし。向いているんやろう、と言われているわけですよ。あははは(笑)。今、画廊をしている人はそんなに変わっていないかも知れないですけど、全体的に事情が変わってきていますね。少子化であるとか不景気であるとか、若い作家の状況がものすごく悪くなってきてますし、作家になりたいという人が少なくなってきましたから。美術系の大学を出てもそのまま卒業して(制作を)続ける人が少なくなってきました。親御さんも就職して欲しいと思いますし、就職したらもう作家を続けるのは厳しいですよ。画廊してたらもろにきますね。画廊巡りする人が少ないですね。皆さんまじめでしょう、勉強するの。サボって画廊を見に来るなんてこと。9時すぎまで勉強されていたら街に出てこられませんしね。学生がいない街ですから。

原:京都でも今は画廊巡りする学生は少ないです(笑)。

松原:でも学生の数が全然違いますからね。

原:京都市内にまだ学校がありますね。

松原:若者がいてる街というのはね。

原:今橋画廊にお勤めの頃はけっこう画廊をまわってこられる方たちがおられましたか。

松原:若い人いました。学生さんはそんなになかったと思いますけど、でも定期的に(まわられる)って人が圧倒的に、今とは違います。

原:そういう方たちは美術愛好家であって、作品をお買い求めになられるわけではない。

松原:たまにおいでになるみたいですけど。

原:そういう方たちも減ってますか。

松原:減ってきましたね。正しくはあまりいてはりませんね。大阪で今、小コレクターと呼ばれる方って、いらっしゃらないのではないですか。5人くらいかな。

 

松原:……これ永遠と続くんですか?

宮田:いえ、今回は。

松原:どこまで?(質問表の最後を読みあげながら)画廊スペースを持つことをいつ頃から……。あ、ここ(最後)まできましたね。

宮田:今日は生い立ちから画廊を開かれるところまで伺いました。

松原:はいそうですか。たよりないことで、すみません。

原・宮田:今日はありがとうございました。

松原:とんでもありません。