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松本哲夫オーラル・ヒストリー 2010年12月19日

新宿区下落合、剣持デザイン研究所にて
インタヴュアー:齋賀英二郎、辻泰岳
書き起こし:成澤みずき
公開日:2012年2月19日
更新日:2013年8月19日
 

齋賀:1958年、ブリュッセル万博のデザインを剣持事務所で担当されている。これは前川國男さんとの共同ですね。前川事務所が建築を担当されて、中の展示物から構成までを剣持勇事務所で担当されたということです。まず一つは剣持事務所と前川事務所が共同でやることになった経緯と、その作業過程のお話をお聞きしたいです。

松本:(剣持勇の世界編集委員会編『剣持勇の世界』(河出書房新社、1975年)を見ながら)あれは剣持さんが働きかけてやらせてもらったわけではなくて、前川さんが展示は剣持さんがやってよって(言って)、それでグラフィックは山城隆一さん。それで頼まれたんですよ。それは前川さんが選ばれた。それでこの仕事の担当者の中に三上祐三という、これが終わると帰ってこなくってさ、そのまま、ウッツォン(ヨーン・ウツソンJorn Utzon)の事務所に入ってさ、オーストラリア、シドニーのオペラハウスのコンペを手伝ったんだね。それで結果的にどこかで色んな問題があって。これは芸大の建築科なんですよ。そいつの同級生でうちに松井宏方っていうのと、藤本英治っていうのがいたの。この2人と僕と3人でこの仕事をやったわけ。僕らはなんとかやらざるをえないんだよ。チームだから、みんな大抵そういうものにタッチせざるをえないの。剣持が全部関われないから。僕らは結局ブラッセル行くチャンスが無くってさ。それで三上だけが行っちゃったんだよ。向こうで展示のことも全部やって。(註:前川事務所からは雨宮亮平、木村俊彦がブリュッセルの現場へ派遣されている。)

齋賀:三上祐三さんは前川事務所の方ですか?

松本:そうです。前川事務所の所員。芸大出て前川事務所に行っちゃった。

齋賀:三上さんが現地で指示されたんですか。

松本:はい。組み立てから何から一切合切を。現場管理をしていたのね。

齋賀:前川事務所と共同作業をしていたのは設計段階までということですか。

松本:そうそうそうそう。(資料で説明しながら)設計段階で、なおかつこういう材料も全部集めて、展示するものも剣持が(集めて)。

辻:写真の中には埴輪みたいなものも見えます。

松本:そういうものも並べるのも剣持でしょう。

辻:埴輪だったり、メインの展示は大工道具になるわけですけど、どういった経緯でこういったセレクションになったのでしょうか。

松本:「日本人の手と機械」というテーマなんですよ。働いたね。それを効果的に見せるにはどうしたらいいんだろうっていうことをやっていたの。歴史、産業、生活なんていうふうなテーマで。日本独特の檜生活とか。

齋賀:この日本館は金賞をとったんですよね。

松本:そうそう。それで前川事務所と同時にこれを展示して、グラフィックを手伝った三者も頂いたんですよ。

辻:受賞の経緯だったりとか、やっぱり嬉しいと思うんですけど、何かその時の印象は覚えてらっしゃいますか。

松本:そうねえ。もうだいぶ昔にもらったからな。みんなで大騒ぎした覚えがありますよ。前川事務所で集まって何かをやった記憶はありますね。

辻:当時、前川事務所にはもうちょっとキャリアの上の方々がいましたか。

松本:大高(正人)さんもいましたし、田中誠さんという方がいたんですよ。番頭役でね。まあいたよな、いっぱいな。もちろんだけどこれだって三上だけがやっていたわけじゃなくって、構造は多分横山(禎徳)さん、横山さんは大抵前川さんの構造をやっていた。これ鉄構造だからね。外側はコンクリートだけど足があって、(図面で説明しながら)それでその上に梁があって、うちの連中と三上が色々と相談したんだけど。あいつは年中、あだ名は「ミカゾウ」っていうんだけど、三上の祐三のゾウだ。

辻:この万博にあわせて松本さんご自身は渡欧されてはいないということだったんですけど、他のスタッフはどうですか。

松本:他のスタッフも全然。

辻:他のブリュッセルの万博に出展していた、例えば他国の展示などは意識されたんですか。

松本:意識してないですね。剣持(勇)は行ったんだよね。

辻:それでは他の展示がどうだったとかは別に意識することなく。

松本:意識することなく、全くこれだけに集中してやった。三上からいろんな情報が送られて来て、行きたいな行きたいなって、みんなで言ってたんだけど。とても行かせてもらえるようなデザイン料じゃないし、まあやっぱり大変ですよね。まあ国の仕事ではあったんでしょうけど、でも基本的にこれはどこが予算もったのかな。文部省じゃないと思うんだよな。通産省じゃないかと思う。万博っていうのはだいたいさ、商業ベースになっちゃうんだよね。

辻:今のお話と関連するんですけど、少し時代が前後するんですが、1952年に第一回毎日新日本工業デザイン展(註:新日本工業デザイン展示会、1956年より毎日産業デザイン展)が三越で行われました。あとはグッド・デザイン展が1956年に松屋で行われています。展示空間としての戦後の百貨店についてお伺いしたいと思います。戦前より毎日新聞社が主導で商業美術だったり、産業美術というような名前でデザインが呼ばれていたと思うんですけど。

松本:商業美術というのは明らかにグラフィックデザインです。産業美術っていうのは難しいんだよね。通産省の研究機関であった工芸指導所が戦後に産業工芸試験所になった。産業工芸というのは、言ってみればインダストリアルデザインだと。工芸というとちょっとね、美術工芸というのがあるからさ、一品生産でね。だからそうじゃない、産業に関わっている大量生産の工芸だと、こういう言い方をしたんだよ。わかったようなわかんないような。恐らくカタカナを役所は使えないんだよね。だからジャパニーズ・モダンだって「新日本調の研究」(註:近代日本調(日本近代調)の研究)って名前だったからね。ジャパニーズ・モダンなんて名前、絶対に国が予算つけてくれるわけなかった。だけど新日本調の研究だったら(予算がついた)。ほら、このごろさ、またでてきたんだよね、新日本なんとかって運動(クール・ジャパン)が始まったでしょう。何をまだジャパニーズ・モダン、って思ったらさ、あれはやっぱり通産省(註:経済産業省)なんだよね。だからまあ僕らの頃の新日本調っていうのと、今はもう違うんでしょう、ワンステップ進んだ新日本調なんでしょう。

辻:当時先ほどお話した限りでは、三越だとか松屋などで展示の機会があったと思うんですけど、松本さん自身が剣持事務所に入ったばかりのころだと思いますが、1955年前後はどうしていましたか。

松本:1955年はまだ僕は役人で飯食ってたの。1957年に正式に辞めて移ったの。55年は剣持が役所を辞めた年なんですよ。僕が入ったのが53年でしょ。53年度の研究成果を三越で展示をするというのがあったんですね。それは毎年やってたのよ。戦前からどういうわけだか三越の催事場で産業工芸試験所が、一年間の研究成果を展示して民間の方々に見てもらうという。百貨店だから色んな人が来るわけだから。それをずっとやってたんだね。僕が入った年もやってた。それがあんまりひどいんで、文句つけたんだけど。でもあの時53年だから、もう新日本調の研究は始まってたんだよね(註:近代日本調の研究は1953年4月から)。展示でエレベーションだけ考えろって言われて、それでプランからやらなきゃって生意気にも噛み付いたんだよ。それでいわゆるジャパニーズ・モダンってやつを、ジャポニカだってそれを見た建築家の友達たちが、特に吉阪(隆正)さんだと思うんだけど、これ、ジャポニカじゃないの?って言ったらしいんだよ(註:吉阪隆正「ジャポニカ是非論」『朝日新聞』1954年4月2日朝刊)。そのへんですよ。だから1956年の4月に松屋でグッドデザイン展、これはたぶん剣持は関わっていない。あの時もう国際デザインコミッティっていうのができていたから、そこのメンバーがそこでそういう展示をやって、同時に松屋の7階にデザインコーナーを作ったんですよね(註:1954年にグッドデザインセクション、1955年にグッドデザインコーナーが設置)。そこで日本デザインコミッティという名前で始まって(註:当初は「国際デザインコミッティー」という名称で1953年に創立され、世界デザイン会議開催の直前である1959年に「グッドデザインコミッティー」と改称、さらに1963年に現在の名称である「日本デザインコミッティー」に改める)。一つのデザイン啓蒙運動ですよね。

辻:当時展示のところで、展示品そのものの販売も一緒になさっていたんでしょうか。

松本:それはね、販売はしてないと思うよ。あくまでもデザインの啓蒙。これがグッドデザインだよって。そういうのを見せようっていう。それを松屋とデザインコミッティのメンバーでやりました。だから岡本太郎もいたし、建築家もいた。前川さんだって一応メンバーではあったんだよ。

辻:すこし話が変わりますが、1958年の11月に、JIDA(註:日本インダストリアルデザイナー協会)でのGマークの選定制度をめぐって、剣持さんがJIDAを退会するんですけど、そのあとの1960年5月の世界デザイン会議も、JIDAは参加拒否を行いますね。当時のデザイン運動体としてのJIDAについて、松本さんご自身がお仕事の中で関わりが深い団体だと思うんですが、JIDAと剣持事務所との関係はどうだったのでしょうか。

松本:剣持はまだ役人時代だったけど、JIDAを設立するためにかなり積極的に動いたわけだよね。あの時はJIDAで意見が食い違ったというよりもね、ようするに彼はあくまで産業工芸試験所のデザイン部長。まあ意匠部長。だから(仕事が)できちゃって、できるということはかなり一生懸命やったんだね。豊口克平さんなんかはその頃、産業工芸試験所の機能実験室長だったのね。もちろん豊口さんも賛成してそれで(JIDAを)作ろう作ろうっていうんで。でもやっぱりそういう連中もいないと、剣持とか豊口みたいに役人であってデザイナーでもあるやつがいないと、なかなか全員が揃わない。それから海外事業なんかは一番剣持がやっていたし。それとメーカーの工業事業団体とかそんなものも参考にして、それで作ろうっていうんで作ったんですよ。だけど小杉(次郎)さんはあんまり積極的ではなかった。柳(宗理)さんはわりあいと積極的だった。それでできたら、いろんなフリーのデザイナーさんがたくさんいらっしゃるから、そういう方々にも啓蒙して始まった。始まったらやっぱり、役所のデザイナーが中心にいるのはどうのこうの言う人が出て来て。それでまあそれはもっともだねえって。なんだこのやろうっていうんで辞めたわけではないんだろうしさ。まあできちゃったから、これを育てて行けばいいんだから、「俺(剣持)は何も中にいなくてもいいやって。それでフリーになったらまた入るよ」って、そう言う話だよ。結構いたんだよフリーの人たちが。いざとなるとね。それでJIDAが始まるわけだよね。それはそれで剣持も自分が関わって作っていったものだから。話は飛んじゃうけどインテリアデザイナー協会も、室内設計家協会から、インテリアデザイナー協会って名前にするわけだけど、それはアメリカにインテリアデザイナー協会っていうのがあるから、それをベースに作ろうっていうんで。まあそれも動いた。だけど剣持が考えたのは、JIDAもそうなんだけど、フリーランスのデザイナーの団体を、剣持はずっと作りたくてしょうがなかったんだよ。建築家との付き合いはもうずいぶんその頃からあったから、だからフリーの建築家。今は組織で事務所大きくなってたくさんやってるけどさ、その頃はそんなのなかった。日建だったら日建設計公務っていって、大阪にあったんだよね。本社がね。それで東京は東京本社っていって、出身は大阪なんだよね。だからそこの営繕なんですよ、住友のね。住友の営繕部が独立するわけ。だから三菱地所設計ができたみたいに、あれは三菱地所の中にあった営繕部なんだよ。それで自前のビルだけ設計してたの。だからちょっと似てるんですよ。それが今の地所設計でしょ。でも自分の所だけじゃ食えないわけだよね。それは色々な歴史的なバックグラウンドがあって、だからしょうがないんだな。だから剣持がJIDAを辞めるっていうのも、インテリアデザイナー協会も作っては辞め。だから理屈はどうもね、ずっと見てて聞いてて、彼はだから自分と同じようにフリーランスで、デザイン料を施主から頂いて、それで事務所を経営してみんなでいい仕事をする。だからインハウスのデザイナーは入ってほしくなかったんだよ。それでインテリアも純粋に室内空間を扱うんであって、家具のデザイナーは、あれはプロダクトデザイナーだと。だからそれはJIDAに入るべきだという考え方だったの。JIDAだってフリーランスであるべきなんだ。その目標となったのが日本建築家協会なんだよ。色んな意見は彼らからなんかも聞いてるし。だからやっぱり前川、丹下(健三)、坂倉(準三)なんていう大看板がいて、ああいう人たちが食ってるんだから、我々だってやっぱりさ、上に食える奴を集めて、一つの団体を作るんだって。それが剣持の理想よ。いざ蓋を開けてみると、家具のデザイナーがいっぱいになっちゃってさ、室内(のデザイン)をやっている、だから建築的意味合いの、インテリア空間をいじってる人なんていないんだよ。それはうちの事務所が独立するときに最初に入れた6人くらいの人間で。もちろん産業工芸試験所にいた人もいたし、それから木工だけしっかりとした技術を持っている人もいた。あとの4人は全部芸大が2人、早稲田が1人。とにかく建築出身者を一生懸命集めたの。もちろん僕もそうだけどね。なぜかなあと思ったんだけど、彼の頭の中にあるインテリアっていうのは、やっぱり建築だったんだよね。そうじゃないと、単なる家具の集合体作ったって意味が無いと彼は思っていた。そこのところですよ。なかなかそうはいかないんだよな。そういうのに豊口克平さんなんかは、あんまり賛成しないんだよ、剣持の考え方にね。だいたいプロダクトデザインとしての家具をやらないと、食っていけないわけよ。一つのインテリアに対して新しく図面を起こして、ちゃんと設計料ももらえるようになってね。あんなの無いよね。僕らの時代はそんなプロダクトしても、ずっと家具はほとんど無かったから、だからそのたびに、設計図おこしてはメーカーとちゃんちゃんばらばらやりながら作る。そのうちに剣持は何か作ったら、何年かたったらその特殊解(で作ったもの)を、一般解に展開させることを一回やらなきゃならない。だから一回必ずデザインされたものが使われてるわけだよ。いい面もあるけど悪い面も見えちゃうわけだ、申し訳ないけど施主さんには。デザイン料もらってるんだからね。だけどデザイン料もらってるからって、モノはもう差し上げちゃってるわけじゃない。だけどホテルなんかの場合には僕もずっとやったけど、剣持はそこまで考えてはなかったらしいけど。やっぱりホテルの客室のファニチャーなんかは、商品。そこのホテルに泊まらなければあの椅子には座れない。椅子に座りたいためにそのホテルに泊まりたいわけじゃないだろうけど。でもその一つとして京王プラザっていうホテルがあるけど、そうするとすぐ側にヒルトン作る時に、昔は今の東急、キャピタルホテルがなるわけで、その時も手伝った。だけどまだそれは京王プラザの前。同じ地区でね、目と鼻の先にヒルトンホテルが建つ。それで手伝って、松本さんやってくれるかなあって話が出たんだよ。京王プラザあそこまで入れ込んでやって(《京王プラザホテル(内装、家具)》1971年)、もう剣持さん死んでるから、だからちょっとねえ、あんまりにも近いのは無理だって。これが池袋くらいだったら少しは違うと思うんだよ。だから断ったのよ。そしたら「断ったんだって。助かったよ。かわりに俺の所で仕事もらえて」なんて言うやつもいたよ。だけどそれは一種の不文律として持っていた方が僕はいいと思っている。うちの事務所はだから、絶対同じ地区で競合するようなホテルは一つもやってないよ。建築事務所でもね、すぐ側に同じ建築スタッフでさ、ホテル設計したけどね。だからそんなこと考える方がおかしいんだって言われるけど、俺はちょっと鼻白んじゃうなあ。僕の倫理観とかを誰かに押し付ける気はもちろん無いですけど、だけどそれは言う方がおかしいかね?

齋賀:面白いなと思ったのは、インテリアデザインというのは、今あるプロダクトデザインを選択してくるだけで、もしかしたら同じ所に同じようなものを建てるという考え方もあるかもしれないんですけど、今おっしゃったように剣持さんにとっても、剣持事務所にとっても、もちろん松本さんにとっても、インテリアというのは建築と不可分だっていう考え方が先にあるって考えると、そのための設い(しつらい)としてインテリアを作っている。選択しているわけじゃないって考えると、筋が通ってるんじゃないかと思います。

松本:僕は今でもずっとそれを通しているつもり。だからね、難しいんだね。今時そんなこと言って食ってけるのなんて確かにピンチだけどさ、でも僕はそうあるべきだと思う。だってそのために全力投球してさ、これでもかっていうぎりぎりのやつ絞り出してさ、そこのためにやるわけでしょ。そしたらその次すぐ側でさ、またぎりぎりのもの絞り出せるなんて、カスしか残ってないんだから。絞り出したから。それにそのホテルのために一生懸命考えて、一種のノウハウとしてはありますよね。でもそれを使わざるを得なくなっちゃうじゃないですか。そうすると競争するわけですよ。受け入れはいっぱいになってるけど、実際にそこに泊まる客が倍になってるかというと、まあなってないわけだから。そうするとこっちが引っ張るかこっちが引っ張るかだよ。それで両方ともこっちが関係してたらさ、僕はダメだな。

辻:そういった意味では、1950年代のデザイン界が背景にしていた大量生産の問題に対して、今のお話は、いわゆるホテルごとに一品生産をしていくような過程になっています。態度としては大量の生産で、隣のホテルにも同様の一般解としてのデザインというものを普及させていくという形とは、異なる態度にはなるのですよね。

松本:うん、そうだね。それにねやっぱり態度というでもない、そんなに何百万台なんて作ってるケースは無いんだよね。売るための商品として、例えばマルニ木工とか、あるでしょ。大量の住宅用の家具屋さんがあるんだよね。それはその方が安いよね。そういうのがマスプロダクションだと思うんだよ。だけど一般的にたとえば天童木工あたりが既製品だと言って売ってるものなんてね、(数は)たかが知れてるんだよ。唯一、秋田木工で僕らがデザインしたスタッキングのスツールがあるでしょ。あれだけは本当にね、もう今では200万、500万(台)くらい作っちゃってる。まあ、あれだけの時間だからね。でも月に5千とかは出てるっていう。年間でも6万台とか出てるのがあったのね。それ以上作れないんですよね、生産方法として。だから、たかがしれてるんだよ。そうじゃないものは大抵やっぱり新しいものに(なる)。それで外国の家具は確かにきてる。だからそれを入れちゃうっていう方法はあるよね。丹下さんなんかの、今度壊されちゃうけど赤プリ(赤坂プリンスホテル)は、どんどんKnollとかね。ほとんどKnollだね、ハーマン(註:ハーマンミラー、Herman Miller)のものは少ないね。それの既製品を、みんな入れてるわけですよ。だからそれはそれでね。高くて普通の人じゃとても自分の家に買って置いておけない。それにのっかって生活するなんてしないから。そうすれば少し家で寝ればタダなのにさ、一晩1万2万も3万も、寝るだけでそれだけ金払うわけだから。ただそこにある非日常的な空間とファニチャーがあれば、それはそれでもっといいですよね。だいたい向こう(海外)のやつだとプラスチックとか、金属とか。さすがに剣持が聞いて来たデンマークのとかスウェディッシュ・モダンなんて言われているああいう椅子はね、あれはホテルにはあんまり入ってないね、どういうわけだか。だから結局、設計せざるを得ないわけよ。同じものをコピーするわけにはいかないんだから。そうするとやっぱりオリジナルを考えて、少なくとも似て非なるって言われちゃうと、うーんと唸らざるをえないものも中にはあったけど。でもほとんどが新しいものを考えるっていうのがうちの習慣だったんだね。それは今でも続いている。文句言うわけ。だけどうちが契約して作っているものだから、いいでしょうって言うわけだよね。それを使えばロイヤリティが入って来るわけだからさ、僕らが使ったって。だからいいには決まってるんだけど。だけどそんなインチキなことするなって。俺たちだってあの椅子だっていろんな所でさんざんさ、使って直し直し、直してあれになったんだから。最初にホテルの客室用の椅子として使う前に。それと同じ。黙って使うっていうのは・・・まあ使ってもいいけどちょっと考えろよ、なんて僕なんか言うわけ、今でも。一つでも二つでもいいから新しい家具をその中で育てて、それが一般の人たちに使っていただけるようにならないかは、それはそれぞれの腕だから。一つくらいでいいから、ホテル一つくらいやったら、一個くらい新しいロイヤリティの稼げる家具が変換できるといいんだけど。僕は京王(ホテル)とやった時だって、契約書にはちゃんと書いたんだね、向こうが言わなくても。オリジナルの家具を作るわけだけど、そのデザインは他のホテルで絶対使わないようにと。ただし、既製品化するのはね、ありうると。ただし5年間は絶対これは他のホテルでは使わないこと。だからお宅のオリジナルですよね。僕の所はそういうルールにしちゃったのよ。よそがどうやってるかは知らないけれど。

齋賀:丹下さんとの共同、例えば《香川県庁舎》(1958年)のために椅子を作るというようなことがあると思いますが、その規格化していくということを特殊化する、例えば京王プラザだったら京王プラザのための家具、《香川県庁舎》だったら《香川県庁舎》のための家具というように作っていく態度と、それを一般の既製品化、数多くの物を生産するということは、両立するのかしないのか、難しいところが出てきますよね。

松本:変な言い方だけど、そういう理屈を立ててるんだけど、確かに京王プラザのためにこれをデザインしたと。だけどそれが5年経ったら既製品になる可能性がある。でも逆に既製品化されれば、こっちが5年も経って壊れたら買い替えることができる。だけどそうじゃなくてもう一つは民間のところは確かに微妙なところがあるんだよ。その家具の価値に対してそれにふさわしい設計料が払われているかというようなことになると、これまた問題なんだよ。それで結局それが一定の時間を経過したならば、全く同じ物でないにしても、それをベースにしたもう少し進化したものを設計して、それを大勢の人に使ってもらう。そういうのはデザイナーとしてはね、欲望としてはあるんだよ。ロイヤリティが入って来るという問題もあるけれど、それ以前にね、あそこだけで終わりになっちゃうのが嫌だなと。一番はっきりしているのはね、万博とかね。大阪万博の時も僕らはストリートファニチャーやったんだよ。ベンチを作った(《万博ベンチ FRP-77178》1970年》。そのベンチは大阪万博が終わるとさ、それはどこへ行っちゃうのかなと。まあ偶然それは札幌に持って行って、冬期オリンピックでまた使ってた。だけどそれはデザイン料もらっちゃってるから、終わりなのかというと、もっと使い道があるはずで。もっとバリエーションも増える。だからあれもベースにして、コトブキ(寿商事)に作らせたんだね。型はあるし。だからもっとストリートファニチャーとして公共の役に立つようなものだったら、向こうも売りたいって言うし、じゃあそれをもう少し色んな場面で使えるように直して。

齋賀:一回一回は特殊解かもしれないけれど、その後はケースバイケースだということが結構あるわけですよね。

松本:そう。特に自治体とかさ、商業ベースではない、そういう所に提供したものは、そこで終わりになっちゃったらもったいないなっていう話はあるんですよ。

齋賀:今のお話だと公共とか、民間とか一般的に性格の問題になりますけど、例えば丹下さんなど建築家である自分たちが提案していく家具とかインテリアというのが、ある程度規定されていくという面も多分出て来るんじゃないかと思います。そういう時の自治体の性格と、民間の性格とはまた違った、建築家に対して共同する時に、丹下さんなら東京カテドラル(《東京カテドラル聖マリア大聖堂》(1964年))もそうですし、《香川県庁舎》もそうですけど、デザイナーとして作ったものがある程度、汎用性を持ってほしいなって気持ちもおそらくあると思います。その一方で建築家が作る建築に対して、置くものとしてそれにふさわしいものというか、負けないものを作りたいという気持ちも、もちろんもう一方ではある。その時の丹下さんの建築とのやりとりとかはどうですか。

辻:《香川県庁舎》だったり、東京カテドラルとか代々木の総合体育館(註:《国立屋内総合競技場》(1964年))のお仕事の中で、丹下さんと喧嘩とかは、あったのでしょうか。

松本:喧嘩は無いでしょう。だけど僕がご指名でやることになった東京カテドラルは、カテドラル専用のものとして考えた。それで原寸なんかを書いて全部。あのころはまだ丹下研あそこにあったんだね、早い時期だからね。東大行って先生に見てもらったの。そうすると「松本さん、ちょっといじってもいいですか」ってちゃんと言ってくれますよ。だから原図じゃないからね、赤で入れて下さって、ここのところはこうした方がいいとかね。それから僕は空間がでかい、そこが少し考えが足りなかったと思うんだけど、大きい空間で。そうするとユニットとしてあんなものいくら置いたってね、スケールからいったらうんと小さなものだから。だからそれを出来るだけしっかりした形で。いつもそうなんだけど僕は建築家たちがつくってる空間に対して、家具が殴り込んでやろうという気持ちはいつもあるんだよ。だからかなり大振りなものを(作って)、大きいのはよろしいと。このぐらいじゃあ丹下さんの建築では、芥子粒みたいんもんだなって思ったに違いないからさ。だからその時、丹下さんが言ってちょっと直したのはね、形じゃなくてね、スケール感なんですよね。ようするにカテドラルというのは、神の空間。まあ実際にはいないけど、そこで祈る。集団でお祈りしてるんじゃないの。一人一人の人間が、一対一で神様と対してる。とすれば一人一人が、例えばこれが5人がけだったらね、やっぱりちゃんと5人座れるんだっていう、間に切れ目なんか入れてくれると、それが彼の唯一の用件だったの。なるほどって思った。1対、神が1。それが千人いたとすれば、千人一人一人が神様と対峙してるんであって、1000人集団が神様1人に対して、唯一の神に対してそこで祈るわけじゃないんだって。っていう言い方だったよ。それで納得だよ。だから1人分ずつに、目地でもいいから入れて下さいって。それによって空間の大きさの意味がもっともっと出て来るから。あれわかんないんだよ。図面で見ても、模型で見ても、どんな大きさかわからない。あそこ行ってもね、まだ本当に大きいのか小さいのかがね(わからない)。(身振りで)だってこういう空間でしょう?あれは本当えっ?って思ったけどね。だけどそう言ったら失礼だけど、丹下さん、色使うのへたくそだよなあ。コルビュジエも似てるけどさ。丹下さんが使うのは、コルビュジエと同じでさ、赤とか黄色とか原色しか使わないんだ。ブルーとかね。あれ不思議だぜ。一度聞いたことがあるんだけど、「先生、設計してる段階では、全部黒白で考えているんですか?」って聞いた。「ちょっと塗り絵みたいに、この色塗ろうって考えられるんですか?」って。インテリアはそうじゃないからね。黒白で考えないから、最初からテクスチャーだの色だのね、全部あるんだよね。それをここのところにこう使ったらどうなるかなとか考えるんだけど。黒白なんだよね。割合とそういう人多いよ。丹下さんとは限らない。コルビュジエ(Le Corbusier)だって僕は多分そうだと思うよ。あれは不思議って言ったら失礼な言い方だけど、うーん、あれは面白いわあ。そのくせフェルナン・レジェ(Fernand Léger)を使うとかさ、コルビュジエだったらね。やっぱりそういう作家を使うわけですよ。それはもう色の制限なんか恐らく僕には言ってないと思うけど。丹下さんだってそれは色んなアーティストと色々あれ(共同)してるから、それでも篠田桃紅さんなんかと早い時期から使っておられたから、書だけど。抽象画だから、彼女は「墨象」と言って称してたけど。書ではありませんってさ、はっきり言ってた。

辻:もうすこし深くお聞きしたいのですが、例えば《香川県庁舎》は、当時も今もですけど、鉄筋コンクリートに柱と梁の繊細で簡素な美しさを評価されていますし、一方東京カテドラルや代々木体育館は、大きな壁で構成された建築で、それぞれタイプの違う建築ですが、丹下健三という一人の建築家との共同の中で、丹下の作る建築空間と、それに対する剣持さん、ないし松本さんのアプローチの違いはあったのでしょうか。

松本:少なくとも《香川県庁舎》というのは、あくまでも知事さんも使うけど、事務空間なんだよね。だから事務所建築であることは間違いない。でも例えばもう壊されて無くなっちゃったけど、戸塚カントリークラブ(《戸塚カントリークラブ・クラブハウス》1961年)っていうのをその頃やっていたのね。それなんかはカントリークラブという性格と、それから丹下さんがやった、特にダイニングルームの所を彼はものすごく気にしていて。こういう(コンクリート)打ちっぱなしの天井なんだよね。まあコルビュジエに似ているわけだけどさ。それを大きな柱で支えて、あとは内側にサッシュがあって、外側に構造体があって。あとはダイニングに仕立ててくれる。ただし天井にはライトが入らない。それはそうだよね、打ちっぱなしにしたし、防水されているしさ。穴開けるわけにいかない、そこに。サッシュにはね、アッパーライトみたいなものを、こういう所についていたんですよ、建築的にね。でもとっても足りない。冬なんてすぐ暗くなっちゃってさ。なので家具として照明器具を考えてくれって。それでその光はこれ(天井)に反射させて、全体が明るくなる。っていうふうに僕らは考えたんだよ。それで煙突みたいなのを、こうやってやって。上に行く程に細くなる。成型合板作らせたんだよ。それでそういうのはどうでしょう、ってプランを作って。それで上に普通の電球じゃしょうがないから、とにかく相当光量のあるものを入れて。それで柱と同じ位のピッチで真ん中に2個ずつ並べて外側にもこう並べて。それも入れて家具のレイアウトを全部やった。その時作った椅子がこれ(註:現在の剣持デザイン研究所の打合せ室で使用している椅子)なんですよ。丹下さん、非常に気に入ってさ。「これでもう少し大振りのができない?」って言ったのがこれ(註:同室にある別の型の椅子)なんだよ。それでもう少し大きいのというと、これ(註:椅子の腕部分を差す)を少し伸ばすんだよね。それでもうちょっと幅を広げて。それでこれはあそこでしか支えてないからこうなるでしょ?それでしょうがないんで、下から支えを出して外側から六角ネジでとめる。ステンレスのこれくらいの大きさのもので支える。それで今回は使わないけど、既製品として作っておいてよって向こう側からそういう要求もあるの。それが丹下さんのやった中で随分使われたよ。ご自分の所でもやったけど、なかなかできなかったんだね。

辻:当時のそういった事務所のやりとりで、例えば丹下事務所での担当の方々は、どういった方が多かったですか。

松本:それは香川県(庁舎)のときは神谷宏治さんが一番あれ(担当)だったよね。だからみんなあそこのトップになった人たちは、荘司(孝衛)さんたちもあとで神谷さんたちと事務所を作るけど、荘司さんはカテドラルの担当だったの。だから《山梨文化会館》(1966年)なんかは、やっぱり神谷さん。だから神谷さんはやっぱり僕と同じような立場だから、何にでも全部関係してるよね。香川県は入れ込んでた。熱海ガーデン(《熱海ガーデンホテル》1961年)は、この前亡くなっちゃった別の方だった。それはそれぞれ担当が違う。総括的にはやっぱり神谷さんが全部見てたけど。でも東大教授が設計事務所の所長というのはやっぱり問題が出て来てさ、それでURTEC(註:都市・建築設計研究所)に移ったんだけど。そこの株式会社になって。そこで神谷さんが社長になったんですよ。丹下さんは「丹下健三+URTEC」と。今は東大教授でも別にいいんでしょう?

齋賀:そうですね。難波(和彦)先生なんかもやっておられます。

松本:自分の事務所持ってるよね。

辻:次の質問お願いします。1959年の2月にJIDAの中に、日航ジェット旅客機のインテリアデザイン(註:客室装備)の研究会が開設されます。日航機ボーイング747のインテリアのお仕事(《日本航空B-747内装》1968年)があると思いますが、その時の松本さんご自身の経緯やどういうお仕事の進め方をされたのか、おうかがいします。

松本:まあJIDAでは研究会あったのかもしれないけど、あんまり関係なかったよな。日航がとにかくジャンボをやると。その内装に関して、特にファーストクラスなんかに乗って下さるお客さんたちを集めて、それで建築家が菊竹(清訓)さんでしょう。最初のDC8かなんかのインテリアは、梓(建築設計事務所)がやってたんですよ。菊竹さんに、それと大高猛っていうグラフィックデザイナーがいるんですよ。大阪万博のときにかなり色々やった人。それともう一人グラフィックデザイナーいたんだよな。それで誰かインテリアデザイナー必要だねってなって、それで剣持の名前があがったの。なぜあがったかというとね、DC8に乗る度にね、もうけちょんけちょんにそのインテリアデザインをいっつも文句書いてた。必ずアンケートどうぞと言われたらガーっと(文句を書いた)、国辱的だとかね、日本の家紋みたいなものをレイアウトしててさ、壁にね。それで窓が開いてる。こんなの冗談じゃないって、さんざんけなしたの。それを彼は乗る度に書いたの。だもんだから有名になってたの。それで彼でしょ、って梓が担当だったの。それで担当のインテリアについて文句書かれるわけだからさ、それは梓に回るんだよね。剣持勇のサインが入ったものがいくわけだよ。だから梓事務所は、剣持憎し(笑)。それがコンペになっちゃったわけだよ。それで菊竹さんはグラフィックデザイナーの田中一光さんを引っ張り込んで共同で。やっぱり色を使わないとね、あんな広大な席にね、自分がおしっこ行って帰って来たときに、自分の席がわからなくなっちゃう。だから色を使う、それはうちも考えていた。それで剣持は頼まれて、よーしやってやるって、今まで文句言ってきたんだから、ちゃんとしたもので絶対取らなきゃって。彼のコンセプトはやっぱり装飾、この場合はもう飛行機だから機能的な問題は全部決まっちゃっているから、あとは見える限りでの壁だとか家具だとかいろんなものがあるでしょう。椅子の色とかね。日本で一番、歴史の中で装飾という意識があって。すごくいい芸術が生まれたっていうと、安土桃山時代なんですよ。それで障壁画がすごく発達していた。したがって障壁画という考え方で絵描きを誰か選んで、やろうって。それで加山又造をつかまえたんだよ。まあ新制作(協会)のメンバーだったからね、知ってはいたの。加山さんその頃はどっちかっていうと白黒に近くてさ、枯れ木がいっぱいあって、そこにカラスがいっぱいとまってるとかさ、そういう絵ばっかり描いていたんだよね。だけど彼は絶対描けるって(剣持勇は)言うんだよ。それで口説いてさ、やってみようっていうんで。彼はその後に途端に、今度は白黒の絵から色んな色がたくさんでてくるキレイな絵になっていくわけですよ。最後はヌードなんかキレイだったもんね、彼が描いたヌード。色もはっきりわかってくるようになるし、唇は赤いとかね。全体は白っぽいとかね。なかなかね、すごくよくなったんだよね。だから結局、加山又造さんにお願いして、それで先頭のファーストクラスの所に(描いてもらった)。2階がファーストクラスのラウンジだったんですよ。そこで寝たければ寝られるようなベッドを設計して作った。半円形のやつとかね。最初はね、青海波があって、海は勘弁してくれって言うんだよね。それをススキに変えるとかね。半月みたいなのを加えるとか。それはね、飛んでるから浮き袋とか入ってるでしょ。どっちにしても落っこちるならさ、海に落ちれば間違いない。壊れないから。それは事故だからさ(笑)。だから最初から海のイメージがあるのはあまり(よくない)。それで結果的にみんな同じ条件でね、壁も窓1つ空いたね。ワンユニットがきてね、それも芸術に(なった)。紙に描いたものを貼るとかね、そういう色んなことをやった。みんな同じ条件で作って、それで5種類のものが出て。それでいつもファーストクラスに乗る100人くらいの乗客を集めて、それで投票させたのよ。それで圧倒的に剣持がいっちゃった。菊竹さんとたまに話してると、「やーあれは参りました。剣持さんの所がああいうものをおやりになるとは思ってなかったんですよ」って。菊竹さんは割とあっさりした色だけで戦う。剣持は完全にパターン。そういう障壁画みたいなものをベースに。ファーストクラスのゲージか何かは、ちゃんとこういう雲が飛んでる地模様があって、色が紫って難しいんだけどね、なかなか彼はうるさかった。紫と、朱ではないんだけど、紅っぽい赤なんだけど少し朱が入ってる独特の赤の刺し糸でね、ファーストクラス全部を決めた。あとの他の所は全部普通の織物。それをブロックごとにどう変えて行くか。ブロックでまとめてはいるけど、全部が1つのブロックだからっていいって訳にはいかないんだよね。

齋賀:グラデーションにしたということですか。

松本:そう、少しずつ色が混じって。だけど全然反対色じゃないよね。全体としては同系色だけど、それでまた次の所へ行くと、地の色はあるけどそこに色んな色が混じってる。そういうやり方だったの。それも割合と大変だった。それからスプーン、フォーク、ナイフ、カトラリーでしょう。全部これまたヤクルトの瓶(註:《ヤクルト容器》1969年。剣持勇デザイン研究所が、乳酸菌飲料ヤクルトの容器の素材を、ガラスからプラスチックへ変更した)と同じでさ、重さが決められているんだよ。カートがあって、トレイがあるでしょ。トレイも全部重さが決められてるんだよ。それに乗っかる一般のエコノミーだとプラスチックのカップからさ、お皿とか、それがこのトレイの中にきちっと収まって、なおかつ全体で風体だけで何g以下とかさ。

齋賀:積載重量がやはりありますものね。

松本:あるよ。

辻:飛行機そのものが完璧に、機能主義的な一つの作品だとすると、その内部空間に装飾を選んだというのは、すごく印象的です。菊竹さんと一緒に組まれた田中一光さんに対して、剣持勇、ないし松本さんたちのお仕事は、装飾を選ばれたということですよね。

松本:ようするに僕らは、かなり装飾に対して拒否反応が強い方。でも剣持は無いんだよね。特にこういう飛行機の場合は乗ってる時間が長いから、そうすると飽きちゃうのは困るねと。

齋賀:ファーストクラスに乗る方々の趣味も、ある程度わかっていたのですか。

松本:それはそうだね。だって梓さんだってそういうパターンを一生懸命考えてやってたんだからさ。DC8なんかもね。4発のプロペラ機だったかな。ジェットは初めてだからね、ジャンボはボーイング747が。737も入ってたけど、あれは短距離用のやつだから。海外に飛んでくやつとしては4発。だからやっぱりちょっと違うんですよね。ガーデンジェット、なぜガーデンと言うかというとね、結構植物が描かれているんです。それと屋根があるような、中間のある箱がいくつかあるんですよ。トイレが入ってるやつ。あれなんかはテレビを投射するためにさ、投射しない時はそこに蓋がかかってるんだよね。それに例えば紅葉が描いてある葉っぱが大きくとか、椿だったりとか、それはみんな加山さんが描いたやつなんだけど。それを称して言ってるのかもしれないけど、全体的に花園みたいな感じがして、日航のトップは割合と気に入っていたの。ガーデンジェットだってそういう言い方をしていた。だからもういっぺん、松本さん、あれやろうよってそのあと社長が言っていたけど、日航の何十周年かのパーティーがあった時に会ったら、そう言われたの。うちの役員がもう一度あれを再現したいって言ってるの、その時は頼むね、なんて言われたんだけどさ。でも実際にはいかなかったね。

齋賀:ちなみにこれは、何機くらい同じデザインで作られたのでしょうか。

松本:どのくらい?最初に入ったやつはほとんどそれですよ。

辻:それは世界各地に飛んで行く飛行機だと思うのですが。

松本:剣持の話を聞いてると、日本を象徴する飛行機なんだよね。だからそこに乗った人たちは、最後まで日本の飛行機に乗ってるって印象(を持つ)。日本人が乗るよりも海外の人たちに乗って頂いて、日本の現代の装飾技術というか、装飾芸術、そういうものを理解してもらえるといいなあ、というのは確かにあった。

辻:海外というときに、飛行機そのものは世界各地に飛ぶものだと思いますが、その時に剣持さん自身、ないし日航の社長さん、あとは審査の時に重要になった100名のお客さんの方々、その方々の言う海外というのは、ヨーロッパであるのか、アメリカであるのか、それともアジアであるのか、いかがでしょうか。

松本:アジアにはあの頃、ジャンボ飛ばしてなかったんじゃないかなあ。長距離だから、アメリカか、あとはヨーロッパ便でしょう。

辻:欧米の眼を意識したということですよね。

松本:そうです。少なくとも日本のパターンを単色で摺ってるんだからね。それはなんだかわからないよね、日本の飛行機なんだから。あれと同時にガーデンジェットの制服は、男性はアイビールックなんかをやった石津謙介。それで森英恵が女性の新しい制服を作って。なおかつファーストクラスなんかは、振り袖でスチュワーデスがやってるんですよ。それは外国のお客様は喜ぶよな。日本人は、なんであんな格好して、と思うけどさ。やっぱりね、そういう演出も、全部彼が考えたんですよ。そのかわりやっぱり大変だったよなあ。ファーストクラスだけは、全部食器もプラスチックじゃなくってさ、焼き物なんだよね。お茶だってさ、湯のみから土瓶から全部デザインしなくちゃならない。だけど重さ決められてるからやっぱり。お箸も、もちろん。そのうちくつろぐための上着も脱いじゃうと、ワイシャツの上から、ハッピコートなるものをさ、ハッピみたいになるの、それもこっちがデザインしてさ。ある程度デザインして、それからどこかのデザイナーがやってくれたんだな。とかね、色々といっぱいありましたよ。スリッパみたいなものまで。徹底的にやらされたね。重量だけは依然としてついてまわってたけどね。面白いといえば、面白いよ。あれだね、徹底させてやってもらったのは、後にも先にもあれしかない。政府専用機の時は、もう僕の代だったけど。これはもういつか話したみたいに白黒がテーマだったんだね。アメリカのボーイングを担当している工業デザインの事務所があるんですよ。ボーイングの工場がシアトルにあるんですよね。そこにブランチがあってね、インテリアデザインの件で私が向こうに3ヶ月も滞在してさ、日本の政府専用機だからって言って。それで日本の美術館、色んなものを見ていて。それで提案してきたのが、雪舟の絵だったんだよ。やっぱり白黒だったんだね。白黒はまあ日本的だっていうんだけど、雪舟の絵というのは日本の絵じゃないんだよね。ありゃ中国なんだよ、南宋画なんですよ。だからそれはわかんないから。わからないけど、日本と中国というのは、どうやってもヨーロッパの方が少し知識があると思うんだよな。アメリカじゃダメね。全く理解できないみたいだね。みんな同じだと思ってるわけですよ。それでさすがの政府も、官房副長官が日航にさ、あー困っちゃったって。誰が見ても、首相が見ても、あの頃は中曽根(康弘)だったかな、「これ、日本じゃないよ」って、みんなが言ったっていう。なんとかしなきゃなんないんだけど、誰かやってくれる人いないかなって言うんで、日航が、だったらガーデンジェットやったことがあるから、剣持さんやってくれないかな。じゃあ、一回話してみましょうかっていうんで、来てくれって言われて、それで僕の所にその話が来たわけ。まあ今更ね、絵描きさんにやってもらうことはない。だけど白黒は悪く無いなと。それをベースに考えましょうって言って、それでその頃はご存命で剣持の友達だった富岡惣一郎がすごく喜んで協力してくれて。とても親切な作家なんだけど。この人の白黒の絵を(使った)。これはもっぱら雪と森林と一生懸命描いてみたり、全部白と黒だけで描くんですよ。描くっていうよりも削るわけね。バックに特殊な絵の具をこんな長い刀鍛冶に作らせたパレットナイフで、ビューっと真っ平らにそれを塗るわけ。その上に彼が独特の調合をした白をね、またビューッと壁塗り。それがまた全部乾くと、今度は普通のパレットナイフで上を削っていく。それで白いところが残ると、そこが渓谷の川の流れのようになる。それで石の上に雪がぽっこり乗るじゃない?川なんかにね、ぽんとおまんじゅうみたいに。それがちゃんと表現されている。そういうものを作っていた。もうでかいんだよ、絵がね。そのうちに富士山なんかも描くようになって、山も相当描いていた。だからアラスカあたりの写真撮ってきてさ。もともと(富岡惣一郎は)グラフィックデザインやってたんですよ。三菱化成の広報部で。例えばクライアントの会社の報告書なんかで表紙を作る。そのための写真いっぱい撮って、これが面白いんだよね。ようするにソラリゼーションっていう方法があるでしょう。ハーフトーンをどんどん消して行くとさ、それでもう形が見えるわけだけどさ、その手法が実は、彼の油の手法で展開しているんですよ。それでその方法で描いた油絵が、一発で新制作の会員になるわけですよ。それで剣持と知り合うわけ。だから相当面白いものができたの。富士山もあって。だけどそれは絵を付けるわけにはいかないから、飛行機だから。結局それを川島織物に全部綴れみたいに織らせてさ。

齋賀:そうですね、織物だったら曲面にも対応できます。

松本:どうにでもなるからね。これはね、面白かったですよ。それを提案してみたら、これならいい!これなら日本だって、首相官邸以下みんな喜んだっていう。だって俺、首相官邸2回行ったもん、昔のね。今は公邸になってるけど。

齋賀:日航の政府専用機を作られるお話は、ガーデンジェットと先ほどおっしゃっていた日航のジェットの内装をやったからきたお話ですか。

松本:多分日航さんが、僕らが(ジェット機の)内装をやっている事務所だって知っていたから。だから剣持さんにやらせればいいと。

辻: 60年代のお話です。1964年に剣持勇(の作品)が日本の家具としてはじめてマルセル・ブロイヤー(Marcel Lajos Breuer)の推挙によって、MoMAのパーマネントコレクションに選ばれます。この椅子は1960年のホテルニュージャパンのインテリア制作(《ホテルニュージャパン(内装、家具)》1960年)の際に作られたものですよね。

松本:最初に作られたのがそれで、それからニューヨークでコレクションされたものは、それから3代目から4代目のやつ(《丸椅子C-315-E》1960年)。最初のやつはわりと寸胴だったんですよ、ホテルニュージャパンのやつは。下がスポンとしていて。それで竹を切っていてこうなっていて、そこが座りやすくなっている。それを全体的に丸っこくしていったんですよ。それが例の籐の椅子になっていくわけですよ。それはかなり色んな種類を何回も作っているけど、どれがどうだかわかんないんだけど、作る方はこれをこうしましょうとか言って決まっちゃってね、それでそうなっていったんですよ。だからあれはあれで意味があったんだろうけど。

齋賀:これは制作はどこがやられたんですか。

松本:これはやっぱり、その頃は山川(ラタン)。まああれはつぶれちゃったもんだからね、YMKという名前の所がそれを引き受けてくれたんですよ。そこにいた職員たちがちゃんといて、所長はもうパクリにあっちゃったわけだからさ。

辻:MoMAの選定に至るような経緯はご存知ですか。

松本:いや、何も。

辻:急にご連絡があったんですか。

松本:そう、急に。こっちから押し掛けて行って見てもらって入った、とかそういうんじゃないよね。デンマークかなにかにディッツェルっていう女性のデザイナー(註:ヨルゲン・ディッツェル(Jorgen Ditzel)、ナンナ・ディッツェル(Nanna Ditzel)夫妻)がいたんですよ。その人の有名なやつは、上から鎖でぶら下がってて、こういう籐で編んだ前が少し開いててね、みの虫が下がってるみたいな、そこへぽこっと入って座れる椅子(註:ハンギング・チェア Hanging chair)があるんですよ。それをやった人が、ニューヨークでも結構、ああいう形のものではないんだけど、スツールで、形でいうと断面が臼のようなこういう形。それがやっぱり当時あった。それがやっぱりニューヨークで。ちょっと我々は知らなかったんだけど、それが『domus』か何かに出て来て、(剣持デザイン研究所で作ったラウンジ・チェアがハンギング・チェアに似ていたために)、剣持が、君たちがホテルニュージャパンでやって、こういう経緯でこうなったと。今それをまた作り直してということを書いて僕が(『domus』に)送ったんですよ。そちらはいつ頃これを発表されて、どういうものか、出来るだけ情報が欲しいと。もしもバッティングしているんだったら考えなきゃいけないなあと。でも何にも言って来ないんだよ。返事来ないの。じゃあ、まあいいやって。来ないなら、こっちは一応礼儀は尽くした。もしも同じで、我々のを見たからね、偶然でも。っていうんで、どんどんその2人掛けのやつとかね、色んなの作ったんですよ。丸いのでもかなり色々あるんだよ。それが今のYMKのカタログに出てる。番号が変わってみんな載ってますよ。だからそれであれがかなり剣持の代表作の1つになった。神代雄一郎はあれはやっぱり赤物だと。形としてはね、白物ではない。白物っていうのは貴族的なものね。赤物っていうのは民衆的なものね(註:神代雄一郎「インテリア断章」『剣持勇の世界』(河出書房新社、1975年)。神代雄一郎・磯崎新「「赤物」堀口捨己の視座」『堀口捨己の「日本」』(『建築文化』8月号別冊、彰国社、1996年)でも言及)。あれをやっぱり赤物の一つの代表にしたの。そのうち柏木博が出てきたから、ますますそういうふうに彼は言い出した。

辻:マルセル・ブロイヤーと剣持勇は関係があったのでしょうか。

松本:おそらくブロイヤーとあったとすれば、彼がアメリカに行った時に訪ねているかもしれない。それから次の時に行った時にはアスペンの頃にやったデザイン会議に参加しているから、その時にいたかもしれない。バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)なんかと仲良くなるのは、やっぱりアスペンですよ、2年目。最初の時もブロイヤーの所へは行ってると思うんだよね。とにかく奥目の無い人だから、もう色んな所へ申し込めば会いに行っていたみたい。だからグロピウス(Walter Gropius)にも、もちろん会ってるし。

齋賀:剣持勇が1971年に京王プラザホテルが竣工した後に、自ら命を断って亡くなります。その後、松本さんが所長に就かれるわけですが、剣持さんの死というのはスタッフの方々にとって、とても突然のことだったと思います。その対応に追われて行く中で、事務所が存続していくことを決定されます。その前後の状況、どういうふうに存続が決まっていったのでしょうか。

松本:難しい問題だね。色々な噂が流れているみたいだけど、結局僕は剣持勇がもしかするとやるぞ(自殺する)というのはね、彼を看ていた医者から言われていたんですよ。それはようするに鬱だからさ、初老期の59歳だから、鬱病だったわけだよ。もともとそういった傾向はあるんだけど、誰だってあるよ。俺だって自分だって、あれ?今日なんだかやたらとはしゃいでるなとか、ぺらぺらぺらぺら喋っちゃったりとかさ、それはやっぱりあるんですよね。それは誰だってあるんだけど、彼もそうだったはずなんだけど、あの時はすごく深い鬱になっちゃった。人に会うの、嫌がるようになっちゃったから。だから面倒くさいのよ。そういうことがあったの。そこがやっぱり一番大きな問題で、奥さんにはいくら話してもわからないしさ。医者はやっぱり「あんたいくら親しいからといってね、ダメよ」と。人格が崩れているわけじゃないからさ、だからそれをある程度抑制しなければいけないわけしょう、行動に対して。(自殺が)起こらないように、起こらないように。それはやっぱり肉親じゃないとダメだと。だから長男(剣持ク)がいたから、長男にその話をして、気をつけてくれと。事務所にいる間は僕らの目が届いているからいいんだけど、ということになったんですよ。そう言ったけど、「俺が産まれてからの時間よりも、あなたの方がずっと長くいるじゃないか」って言われてさ。だからさあ、そんなこと言ったって、医者がそう言っているんだからさ、こういうことをやらなきゃなんないんだから、あんたが親父を(見ていてくれ)、事務所に来たら僕ができるだけケアするけど、できるだけ側にくっついているけど、家帰ってまでそれはできないよと。奥さんにいくら言ってもね、「それは理解できない部分だから、あなたがわりあいと理解できるから、あなたが出来る限り(やってほしい)」。「頼んだよ」って言って電話切っちゃったんだけど、だけどやっぱりね、ダメだったね。もう人に会うのを嫌がるようになっちゃったから、ライオンの本社ビル(《ライオン油脂本社(内装、家具)》1971年)が出来た時に、もうもうすでに嫌だとかなんとかごちゃごちゃ言ってたんだけど。だけどそれは出たの。その後で4月だったかな、それで6月(京王プラザホテルのオープニングパーティー)でしょう。そしたらもうその時着ていくタキシードなんか、どこいっちゃったかわかんないとかさ、色んなこと言って逃げようとする。じゃあ、貸衣装がありますからどうぞって言われて合わせられて、否応無しに出るはめになったわけだよ。6月1日はそれで、2日は僕が替わりに出る。3日目はデザイナーとか建築家が中心となったパーティーで、2人で出るって決めたの。役割分担して。それで1日目。2日目の前にはさっき言った富岡惣一郎と会って、アメリカからちょうど帰って来てね、ニューヨークにずっといたんだけど。「何だお前、何があったんだ?剣持の抜け殻みたいなのに今日会ったぞ」って。ちょっと話聞かせろって。それで剣持がわりとよく使ってた、わりあいプライベートな料理屋に入って、3人で話して「こういうわけだ」って。「わかった」って。だから2日目は僕が出て、明後日は2人で出るから、「終わったら一週間俺が預かるから、一緒にどこかに旅行して、それで治るよ」って言ってくれたんだよ。それでしめたと思って、(剣持勇に)電話入れたんだよ。それはもう10時半ぐらいだったね。そしたらね、事務所行って朝日(新聞)の原稿書かなければなんないって。確かにね、もう締め切り来てるの。剣持知ってるんだよ、俺も。それで事務所行って書くって出て行ったんだよ、8時頃に。えって思ったんだけど、こっちも酔っぱらってるしさ、確かにそれは書かなきゃならない、明日出さなきゃならないの知ってるから。だから2日目は僕が(パーティーに)出ることになってたんだから。まあいいやって思ったの。それで結果的にいい話が出たから、奥さんにその話伝えて。それで明け方6時過ぎくらい、奥さんから電話かかって来て、夕べ帰って来ないって言われた時には、もうこっちも素面に戻ってるから、しまったと思ってさ。慌てて飯もそこそこに、その頃は西荻窪にいたから、事務所まですっ飛んで行って、そしたら事務所の前に救急車で、何が起こったのかよくわかんないけどさ、変だなと思ってたら、玄関の扉が開いて、そしたら亡くなってたんだね、ガス自殺して。だけどなんとなく何が(自殺した)理由って書かないわけにいかないからさ、だからかなり脚色して芸術的苦悩の果てにっていう言い方をしちゃったんだよね。だって所員は全然知らないんだもんその状況。僕とかみさんが一生懸命カバーしていたから。だから他の譜代の大名たちも、なんだか変だなあ、松本さんだけが剣持さんをみんなに会わせないようにしてる、とかね。そんなことを言い出すわけ。彼(剣持)はとにかく迎えに行って事務所へ一緒に車に乗って来て、僕が3階に上がって、彼はそこの部屋。するとすぐ電話がかかってきてさ、「ちょっと来い」って。ハイって言って、でも何にも無いんだよ。言わない。ちょっとそこに座っていてくれって。そのうちに京王プラザの方はどうなっているとかね、報告をする。「じゃあ俺も行くかな」って。「僕もこれから行きます」と。それで現場行って、色々説明して、それでちょっと上も見てきますからって客室行って、帰って来たら(剣持勇は)同じ場所にずーっと立っているだけなんだよ。あら、やっぱりマズいなって、それが最初にね、これはまずいぞって思った最初なの。まあ大変ですよそれからが。結局一応ご自宅でお通夜をやって、葬儀も出して。ご自宅って言っても剣持クの家があってそこだった。借りてたんだよ。本来の自分の家は、土地を売ってくれた人が買い戻したいって言って。彼(剣持勇)自身は東松原に百何十坪という大きな土地を手に入れて、東南の角地でね。そこへ二世帯住宅を作って長男と一緒に住みたかったんだよ。だけど長男は自分の家(を他にすでに)作っちゃってるわけだよ。だから行かないっていうわけ。宙に浮いちゃったわけ。それも1つの引き金なんだよ。色んなことがいっぱい重なったね。まあしょうがないですよ。でも原因はさっき言ったような、極めて深い鬱。それが治りはじめたんだって、医者はそう言う。少し回復期に入り出した時に、ああいう性格の人はやるぞって言う。だから気をつけてって言われた。それでまあ結局その後大変だよ。株式会社剣持デザイン研究所だから。株の7割はさ、剣持先生が持ってたんだからさ。あとは大名だとか、僕なんかも持ってたけどさ。3割近く持っていた。だけど7割持ってるんだから、株主の意向で次の(代表)が(決まる)。ようするに剣持クっていうのは、自分の事務所を持ってるわけだよね。同時にあの人はかなり剣持勇と違ってね、営業的センスもかなりある。なかなかうまい。彼の頭の中で作り上げたパターンはね、剣持デザイン研究所も、剣持クの持っている綜デザイン研究所になるということ。綜研究所、綜研の傘下に入れようとしたんだね。その中で工業デザインだけプロパーでやっているうちから出て行って、工業デザインだけやる事務所の所長にさせられた奴がいる。その一つに入れちゃおうとしたんだね。ところがお葬式は出さなきゃならないし、僕は前川(國男)先生の所に行って、とにかく葬儀委員長をお願いしたいんだって言ったら、「なあに言ってんのお前は」って。「葬儀委員長はお前だよ」って言うんだよ。でもなかなかそうはいかない。でも(前川は)、「友人相談になってやる」って、そう前川さんに言われてさ。じゃあ、まあ前川先生のお墨付きならいいかって。それで葬儀委員長。そしたらさ、当然葬儀委員長の挨拶しないとならないじゃない。出来ることなら剣持の遺志を継いで。みんなも亡くなった後、ガタガタしたんだけど、とにかく周りからね、だって施主がたくさんいるわけじゃない。施主さんたちがみんな集まって来てね、「剣持事務所続けてくれないと俺の所も困っちゃうんだ」って、「だからぜひ続けてくれ」って。「あんたがやってくれるしかないんだから、やってくれや」って。相当声がかかってきた。それでみんなもそれ聞いてたから。とにかくそう言われてるんだから、取りあえずこのまんまじゃ、「じゃあやーめた」って言って、葬儀の後、解散っていうんじゃ。俺たちは(解散を)いいよって言ったんだよ。あっという間に某建設会社からインテリア部長になってくれないかとかさ、そういう打診がくるわけだよ。でも全然「僕はそういうところに入る気はありませんって、やるんだったらフリーでやります」って断っちゃったんだよね、みんな。そうしたらそんなんじゃなくて、剣持デザイン研究所をやってくれって。あれは大変だったですよ。それで葬儀の時は挨拶しなくちゃいけないんだから。だからなんとかして剣持勇のね、遺志を継いで事務所をね、更に発展させたい。ある程度のところまで軌道にのったら、またその時に考えればいい。僕は暫定的に一番年上だし、長いこと一緒にやってきたから、責任取ろうと思いますっていう話をしちゃったんだよ。そしたら剣持のせがれがさ、「松本さん、あの場ではそう言うしかないだろうけど、うちが7割の株を持っていること忘れないでね。我々の意向で松本さんが所長になれるかなれないか決まるんですから」そういうこと言ったの。その時初めて、ああ株式会社っていうのはそういうもんだって(笑)。そんなの思ってないもん。剣持勇だってそんなこと考えてもいなかった。それからがもうすったもんだ。建築界からも、もう色んな人から(剣持クに)電話かかってきてさ。「お前が考えてることは間違ってる!」とか夜中に2時間くらいやられたりさ。「お前(剣持ク)が考えてる組織のありかたと、剣持さんの仕事の内容と組織の内容は違うんだと。だからあれは絶対、松本にやらせるしかないんだ」って、そうとうやられたらしいね。それで彼もすこし考えを変えた。だけど7割の株主がいたらね、まあ大変だよね。だから最低でも50、50にしてくれって申し出て、20%こちらに譲ってもらうことにしたんですよ。「だけどそれは松本さん、言っておくけど、会社の金を使ってはダメなんだよ」って言うわけよ。もちろんそうだよって言って。みんなの金だし。みんな(金が)無いんだよ。俺はかみさんと働いていたから少しはあるけどさ、しょうがねえなあと思ってね。だけど20%分けてもらわないことにはどうしようもないからっていうんで、一応20%、剣持の金で買った。それで(剣持クが)「JIDAが…… 」とか言い出したからね、それは財政的に豊かなのはさ、500円の株が700円とか800円になっているかもしれない。それはないだろうと。僕らは500円で額面で買うしかない。そんなに金無いよ。じゃあやっぱり(ダメ)って言う。そしたら色んな所から、ヤクルトの社長なんかもさ、もしもあれだったら俺の所で少し引き受けてやるぞなんて言ってくれたけど、よそに迷惑かけるのはマズいから我々の方でなんとかしますからって言って、それで色んな所かき集めて、とにかく買ったんですよ。それで50、50になったから。そのうちにだんだんだんだんと。やっぱり他の若いスタッフたちもね、ちゃんとしなくちゃいけない。僕らはとらないけど、少し増資させる。まあ次の年にクが死んじゃったもんだから。クが生きていたら大変ですよ。そういう問題だって年がら年中やっていた。まあそれはともかくとして、それに動いた建築家たちが結構いた。芦原義信と、圓堂政嘉と、2人がものすごく気にしてくれた。圓堂さんは「建築家は一代限り、だから剣持事務所は無くしちゃえ」と、「その代わりその仕事を引き受ける組織を作ればいい」と、「連合艦隊みたいなのを作ればいい」と、「みんなそれぞれが3、4人いるわけだから、それがそれぞれ自分の事務所を持って、それぞれが食って、大きな仕事が入った時にはみんな集まって僕の所に来て、一緒に仕事をすればいい」と。それが彼の意見。「剣持の名前はこれで終わりにした方がいい」って言う。だけど芦原義信さんは全然違った意見で、彼の話もよく聞いて。それで僕は芦原さん、昔からよく付き合ってるから、圓堂さんより長いからね。それで芦原さんは、「いや、これは自分も事務所どうするかって、いずれその問題に遭遇するわけだから人ごとじゃないんだ」って。「だけど松本さん、剣持デザイン事務所は1つでこれだけの人間がいるから、色んなことができるんだよ」って。「だから一緒にやらなきゃダメだ」って。「だから解散しない方がいい」っていうのが彼の意見。それでその話を圓堂さんにもして、それで「結局みんなで話し合って決めなさい」と。それで「最終的に芦原さんの意見に従います」と言ったら、圓堂さんは、「まあそれも一つの選択だから、それでいいよ」と。「また何か頼むことがあれば、頼むから」って言ってくれたんですよ。それで一応僕がトップで、全員でやるという話になったわけ。それが現実。簡単に言えばそういうこと。まあもっとドロドロの汚い話もあるんだけどさ。

辻:その後も「剣持」という名前は残ります。

松本:それはね、剣持夫人が、なんで勇さんが自殺したのか、どうしても納得いかないわけだよ。盛んに僕に聞くわけ。だからさっき話したことを色々話してあげたんだけど、だけどどうしても彼女はダメなんだよな。それで剣持一族としては、「剣持デザイン事務所」なるものが、名前が無くなっちゃうのはやっぱり嫌だと。できれば続けて欲しいと。だから「勇」は取りますよと言ったの。だっていないんだから。それだって久米建築事務所だって、久米権九郎(1895−1965)さんがいたから久米権九郎建築事務所だった。それが久米建築、今は久米設計でしょう?でも久米は残しているよな。みんなそういうのはあるんですよ。結構名字だけでやっている事務所、佐藤事務所だってそうですよ。佐藤(武夫)さんが亡くなっちゃったんで、それで今は佐藤総合(註:株式会社佐藤総合計画)になってるでしょう。だけど最初の頃は佐藤建築設計事務所(註:株式会社佐籐武夫設計事務所)だったんですよ。やっぱりそれはみんなやってらっしゃるんで、だからうちも「剣持デザイン研究所」にしようと。だからよそ様に行くと(現在の事務所のことを)「剣持さん」と言うよね。そうすると何となく、最初のうちは変だったよね。もういないのに「剣持さん」と言われるのは。それと一番びっくりしたのは、僕がだいたい設計交渉とかさ、色んなことを剣持の代わりにやっていたわけだけど、うまくいかなければ、「剣持に相談します」と言って引き上げて来た。(今は)ハッと振り返るといないじゃん。だから俺が決めないといけないんだよ、その場で。これはマズいなと思ってね。それから昔からいるメンバー1人1人に「今度は君たちがやってくれ」って。「僕が後ろにいるよ」って。「それでどういう交渉をしたらいいのか教えるから。あの会社はね、いくらで設計料金が出て来る。あそこは必ず値切るから、100万だったら、110万にして出せ、そしたら1割値切られてもお前が考えていた100万という数字になるでしょう」っていうようなことを教えて。それで彼らが交渉してきて。それで何かもめたら僕が前に出て行く。やっとそれが定着したんですよ。今でもそうしているんですよね。それはまあこういう事務所で、たかだか20人足らず、一番多くて22、3人いたけど。そういうような事柄は、こういう小さいアトリエ事務所は大変ですよ、みなさん。どこでも似たようなことが起きてると思う。ただ株式会社にすることだけは、僕はどうしても納得がいかない。なぜなら株主のためにある、というこの資本主義社会の中ではさ、株式会社というのは株主のためにやっぱり仕事をするんですよね。それで利益を上げないといけないんですよ経営者は。2年に1回、クビになるチャンスがくるわけだからさ。だって成績が上がらないと役員はクビになっちゃう。本来の建築家の仕事というのは、それを商売にして、それで利益を上げてみんながいい生活をする。それじゃないんじゃないの、と。設計料って一体何なの?と聞きたくなってきたわけ。いわんや株式会社なんて本当はならない方がいい。さっき言った圓堂政嘉さんのところは個人会社ですよ。株式会社じゃないんですよ。圓堂政嘉の名前、個人でやっていたんです。それでもう大事務所だもんね。給料いいしね。本人だって優雅な生活してるもん。だから本来は個人であるべきなんだと思うんだよね。だから一代限りって言えるんだよね。僕なんかはやっぱりそれはできないだろうね。やっぱり20人くらいスタッフがいてさ、子供達まで合わせると40人くらい、いるんだよね。この事務所でそれだけの人間が食ってるんだからさ、簡単にやめたなんて言えないよな。そういう発想しちゃうから、僕なんかはダメだ。

辻:剣持勇さんが亡くなられて、それでも剣持デザイン研究所という名前で松本さんご自身が中心になって動いていく、具体的なお仕事のお話をお聞きしたいと思います。1979年頃に、当時の国鉄の総裁、高木文雄さんより、車両の設計のデザイン専門委員の打診を受けると思います。これは1973年からの小原二郎先生が委員長を勤める研究会が元になって、そのあと新幹線の車両のデザインの仕事などに繋がっていきます。そのあたりの経緯をお伺いします。

松本:あれはね、小原さんが委員になってやった研究会はね、これは国鉄だよ。僕らが高木さんから辞令をもらったのとは別口で、鉄道なんとか技術協会っていうのがあるんですよ。そこへ委託研究で出してね研究費を、それを使って、色々とたくさんクレームが来てるんで、それをどう処理したらいいのか、という研究会を作ろうというんで、小原さんが色々構想練って、それで僕らも小原さんに集められて、そこで委員会に入った。それはだからあの時出て来た、木村一男とか、手銭正道っていうのは入ってない、僕だけなの。それは小原さんの意志で集められた人間だから。だからだいたい小原研の人間が多いんですよ、千葉大連中が。

辻:新幹線の車両のデザインのお話は、これはまだ剣持勇さんがご存命の頃からの繋がりで、お仕事自体も生まれたんですか。それとも全く小原さんの研究会が元だったのでしょうか。

松本:剣持ではなく、小原さんの研究でそれはそこで終わっちゃった。だからそれでデザインのお話になるのは、やっぱり僕と手銭と木村一男っていう3人が、その時高木総裁の時代に取り込まれたのがベースですよ。結局それがJRになると同時に、各社がみんな民間会社になるわけだから。最初にJR東海から頼まれたリニアの車両のデザイン、まだ海のものとも山のものともわかっていない。ただイメージで人が中に入れるだけのポップアップを作るという話ね。それは面白くてやろうかっていうんで、浜松工場でそれを作ってくれるんで、それを色々といじくっている時に、これは00X1という名前だったけど1988年に、まずは東口の所にそれを置いて、人が入って来て中に座ってみる。ようするに実際座れるようになったの。そういうやつ作ったんですよ。その次にたまたま同じ時期に85系っていうんだけど軌道車ですね、ディーゼル車で、飛騨高山本線を走る特急のデザインを、やっぱり(JR)東海が頼んできたの。よし、それやってやるって、それも一生懸命やったんですよ。今でもワイドビュー飛騨っていう名前で走ってる、あの車です。それが2番目でね、その次が東日本から651特急電車っていう、スーパー日立という車を頼まれた。これももうある程度図面ができちゃって、動き出してるやつに対してデザインを付加したいという言い方しているから、それはもう間違いだってさんざん文句言ってね。でもまあもう物は作り出しちゃってるからね、それをこうしろああしろって言って直させて、それで作ったやつがね、もうケンカ腰でやって。でも出来上がった時は、やあ良かった、やってもらってって言って、あの所長は俺に抱きついてきたけどさ。それから仲良くなったんですよ。そういうのやったでしょ。

辻:時代が大きく民営化に動きます。

松本:そうです。初めてスーパー日立ができた時は、東日本のトップはみんなすごい喜んだんだよね。デザインっていうのは、これは商品なんだって。

辻:それはどなたのお言葉ですか。

松本:それはもう亡くなっちゃったけどね、山之内(秀一郎)ってね、最後副会長やって、宇宙航空事業団の会長やって。

齋賀:JAXA(註:宇宙航空研究開発機構)ってことですよね。

松本:2つあったんだよ、東大の航空研究所(註:東京大学宇宙航空研究所、ISAS)と、それともう1つ、航空宇宙技術研究所(NAL)がやっている、その2つが最後一緒になったでしょ。最初は打ち上げの方のあっち(註:宇宙開発事業団、NASDA)にいたんだよ。その後で一緒になって、合併して、合併した時の初代の理事長もやったんだよ。だけど虚血性心疾患になっちゃったんだねえ。相当だからストレス溜まってたんだと思うよ。それで結局何回も倒れたんだってさ。それで全部(打ち上げを)ストップさせたでしょう、4回か5回かなあ。打ち上げをさ、土壇場でストップさせてるんですよ。そのプレッシャーはすごかったと思うよね。自信なんて持てないもん。失敗したら大変だ。それで最後にOK出したやつが完全に成功したもんだからさ、それで本人は非常に気分的に良かったみたいだけどさ。長いことお付き合いしてたから、個人的にも付き合っちゃったんで。そういう人たちが最初に651系を作ったの。日立あたりに向かって、大きな会社がいくつかあるけど、その人たちがみんな(通勤のために)車で常磐道走ってるのにさ、これ(新幹線)ができたらこのグリーン車の方がいいやって、みんなこれに乗り換えたって言うくらい。そのうちに新しい車両だから、やっぱり旅行客が結構面白がって乗るようになっちゃって。だから2割だか3割上がったんだよ、売り上げが。この車入れただけで。あれ?これはデザインっていうのは、絶対商売にプラスになるってわかったんだよ。その考え方が今みたいな時代になると完全に消えちゃっているね。みんないかに経費を減らしながら利益高上げていくか。デザイン料なんてたかが知れてるよって言ってやってるんだけど。今や設計施工になっちゃった。JR東日本も。僕らに頼んでもデザイン料払うのは車両メーカーの設計費の中に込み込みで入れて、車両メーカーから払ってくるんだよ。気持ち悪いんだけどね。施主からもらうのが当たり前だからね。最初は施主がくれたの。(今は)ダメ。もうだんだんと悪い習慣がついてきたね。それでまたリニアのエクスプレスっていうのをやって。これはね、名古屋でデザイン博(註:世界デザイン博覧会、1989年)っていうのがあったんですよ。その時に向こうでもう一回作りたいっていうんで、じゃあ同じのじゃなくて、さらにもう一歩進歩したのやろうよってやったんですよ。今走ってるやつとは全く関係無い。

齋賀:名古屋のデザイン博というのは、名古屋城の敷地内でやったものですか。

松本:そうそうそう。東海が東海館作ったんだよ。そこで一つ、ブースでやった。その後は軌道車をいくつかやったけど、その後に1989年にJR東海で300系の新幹線。これは完全に0からのスタートだから、これは面白かったですよね。ただようするにこの時はじめてわかったのが、こういう車両っていうのはものすごい精度が悪いっていうのがわかったの。もうセンチ単位で(誤差が)くるっていう。ようするに建築とちょっと似ているところがあるんだけど、車両自体は車両限界っていうのを持ってるんですよ。その断面の中でね。これ以上外側に出っ張っちゃダメよという寸法があるわけ。プラットホームを含めて建築限界、だから信号機とかいろんな電柱があって高架線が立ってる。これがある一定の内法を持って、それで外側からじゃなくて、内側に入って来たら車両と干渉するのが大きいと言われている。それが建築限界っていう。車両限界と建築限界を確実に守らなくてはいけない。車両作っている側は車両限界をたとえ1oでも飛び出したらアウトなんだよ。許可にならないの。そうすると作り直さなきゃならないんだよ、うっかりすると。だから一両一両に職場長がいるからさ、一両ごとに責任者がいる。その責任者は自分の責任の範囲内で絶対に(車両限界を)出ない。できるだけいつも内に内に、小さくしようっていう意思がある。だから車両の高さとしてはみんな1pくらい、違うんだよ。グランドラインがどこかっていうと、レールの上なんだよ。レール上面がグランドライン。そこから全部床の高さいくら、窓の高さいくら、そういう風に書くんですよ。

辻:建築家にとっての敷地だったりとか、都市の区画のような制限ということですよね。

松本:そう。今はもうそうやって図面が全部出来ると、国交省に出して確認申請を取るために出すんです。同じなの、建築と。

齋賀:完成してからは1号車2号車3号車ってなると思うんですけど、車両ごとに作るチームが違うということですか。

松本:そうそうそう。一緒に作り始めるからね。流れ作業で作ってないから。そりゃ全部の車両をいっぺんに作るわけじゃないけどね。それともう最初から1号車2号車ってね、もう決まってんだよ。どこにどういう機器を乗せるかとか、何もそういうものが床下についていない車だとか、みんなあるわけですよ。そうするとそれぞれに作り方がある。作る現場そのものは、建築の現場にかなり近いですよね。極端なことを言うと、図面は車両メーカーの設計者が書いているんだよ。ところが設計セクションでの会社内でのポジションっていうのは、そんなに高くないんだよ。もの作ってる方が一番強いの。だからその図面を渡されると、それぞれの人によってその読み方が違っちゃうとね、隠れちゃう部分に不思議なものがいっぱいついてたりするんだよ。なんだこれはってね。僕なんか(現場に)行くから必ずね、途中段階で。見に行くと、あれこんなところにこんなもの、図面に入れたかなあって。それで一緒に付いて来ている設計のセクションの人に、「これ、こんなに細かく入ってた?」って聞くと、「いやあ僕も不思議でしょうがないんですが」って。馬鹿じゃないか、お前の所の目の前で作ってるのに。そしたら「今日初めて現場入って見た」って。もう全然ダメなの。つくる奴が一番強いんですよ。設計なんてもうぺーぺーなの。これは設計の人かわいそうだと思うけどね、俺の書いた図面通りにできてないって、怒れるようなポジションにいないんだよ。そこがね、車両っていうのは不思議だなあ。まあ現実にはそうだけどね、建築でもね。現場の所長が1番強いんだよ。いくら清水建設の設計部が書いたからって、書いた通りになってないって、文句なんて絶対所長には言えないんだよ。所長の権限の方が大きいから。その代わり失敗したらもうクビになっちゃうからね。どっか飛ばされちゃう。降格になっちゃう。やっぱりね、それはちょっと似てるっていえば似てるな。完全に請け負いだしね。完成して初めて(設計料が)支払われるんですよ。途中で支払ってないんだあれ、すごいよね。だから1両が2億も3億もするようなものが、16両編成ってなると何十億もでしょう。出来上がって公式試運転やって、それで仕様書通りの成果が出て初めて受け取ってもらえるんだもん。同時に支払いが起こる。だから設計料だってさ、設計もデザインも、もうとっくに終わっちゃってるよね、2年前くらいに。でも車両が出来るのは2年後だ。そうするとその時初めて設計料も一緒に払われるからさ、その中に僕らのデザイン料も(入ってる)。僕らはさ、手伝っちゃってから2年くらいたってからやっとデザイン料が入って来るという、そういう馬鹿みたいなことになってる。それをいくら税務署なんかに説明してもわからない。そんな馬鹿なことありますかって、そうなんだもん。隠しようがない。本当にね、大変ですよこれは。TPOっていうトランスポートオーガニゼーションっていう非常に緩い組織を作ってね、それのコアメンバーが僕と、さっき言った木村一男と、それと手銭正道、東海大の教養学部長までやった。もともとは木村と手銭は、芸大一緒に出て、日産自動車のデザインのセクションにいた男。なんでそういうのに僕らが引っ張り込まれたんだろうなって。結局はやっぱりギャンブルなんかやったりして、ということが一つなんでしょうね。それからまあ僕が建築出てるっていうのと、わりあいとインテリアやってるから。東海もデザイン、させられてますよ。辞令をもらった。東海とそれからJR北海道。北海道も先週、別海に行って来たよ。

辻:松本さんが中心になってからのお仕事がある一方で、例えば1973年に剣持勇さんの展覧会が松屋で行われたり(註:「剣持勇 その発想と造形」展)、1983年の6月に「剣持勇の世界」展という展覧会が西武で行われたり、剣持勇さんのお仕事を振り返るということが、展覧会を契機にあると思います。展覧会のお仕事だったり、その当時の経緯を教えてください。どういった人が動かれたとか。

松本:(「剣持勇の世界」展は)あれは武蔵野美術大学に行った、新見(隆)がやったんだ。柳宗理(の展覧会)はちゃんとやったんだよ。その時、剣持さんもやるって言ってて、結局できなかったんじゃないかなあ。それでジャパニーズ・モダンなんてやつは、あとで森(仁史)さんとね、やったあれになるんですよ。松屋でやったのは催事場でやったのかな。前やったのはデザインギャラリーで、「剣持勇の無名文化財」(註:「剣持勇のあつめた「無名文化財」」展)っていう展覧会やったの。

齋賀:それは生前ですか。

松本:いえ、亡くなったあと。僕の事務所に置いてあったものを集めて。がらくた。

齋賀:それは『週刊朝日』の連載(註:剣持勇「日本美発掘かたち」『週刊朝日』1969年)とも、繋がっているものですよね。

松本:そう、ちょっとね。とにかくくだらないもの、一生懸命やってるんだよね。

齋賀:剣持さんの変転という時代があって、その後70年代、80年代、松本さんが中心になって剣持事務所を切り盛りしていく時期がずっと続いてきて、今に至っています。最近のお仕事に、森谷延雄の家具の復元があります。そしてイサム・ノグチが来日した時に、籠で編んだものの復元の仕事依頼があったと思います。ようするに、剣持が生きていた時代の仕事を振り返るような仕事、復元の依頼というのがあります。

松本:そうなんだよね。あれはなぜかなあ。イサム・ノグチのはねえ、「2人のイサム」展という企画がニューヨークの美術館で立てられて(註:「Design: Isamu Noguchi and Isamu Kenmochi」展、Noguchi Museum、2007年9月〜2008年5月)、そのためにどうしても剣持とイサム・ノグチでやった、2人で考えたあの椅子(《竹製家具(バンブーチェア)》1950年)
が無いと成り立たないって言われてね。じゃあしょうがない、やるかって。あれは写真しか無い。図面も無い。物は見たことも無い。座ったことも無い。するとどうやって作るの?だからその方が大変だった。構造がわからない。原寸大まで(写真を)伸ばしてさ、穴が空いてるんだけど、その穴の所から中の骨が少し見えるわけよ。だけどこれが骨かどうかわからない。そうしたらなんと、下の方はロッドにこういうふうに黒で塗装されたというのがちゃんとわかるわけだよ。だけど背中の部分だけはね、どうもその下から上がって来た足、背中を支える足と、背中の構造から出て来てる足があるんですよ。それがほんの僅かだけど、全部揃ってるんだけど、こういうふうに作られてる。押しネジが見えるんですよ、拡大してみたら。多分これ抜けるんだろう。押しネジで留めてる。というのだけわかった。それでじゃあもうちょっと拡大してみようって、中の骨見えるんじゃないかって。なんと見えないわけ。だんだん拡大していったら、同じようなロッドがね、中に入ると、あれ竹なんだか、籐なんだね実際は、恐らくこれくらいの幅の広いね、全部巻いてあるんですよ。だから見ても金属の骨が見えないわけ。そういう作り方してる。そこまで全部やらないと。それで図面書いて、それから今度5分の1くらいの模型にして、それは全部編んでなんて作れないからさ、プロポーションだけ。それを今度ね、撮られた写真と同じアングルで撮って、それでまたコンピューターの中で部分的に拡大してってさ、同じように見えるかどうかって。もう大変だった、1年がかりだったねあれね。それで作る奴誰か探さなきゃならないんで、友達に声をかけて。竹でもってね、こんな籠の、ヤマギワでみんな既製品で売ってるんだけど、ペンダントなんか、それを作ってる男でね、昔から友達なもんだから、「お前さ、こういうの難しいと思うけどやってくんないかなあ」って言ったら、「今ちょうど暇だからいいよ。やってあげるよ」って簡単に引き受けてくれたの。ところが大変なんだよね。骨まで作る気が無いからさ、骨だけはこっちで作ってあげて、それを渡すとさ、これが無いとうまくいくんだけど、これがあると(うまくいかないと言う)。だって「これ(骨組み)入ってるやつを、少なくとも産業工芸試験所の実行の研究室長が作ってるんだぜ」って言われたら、「なんだお前作れないのか」って言おうと思ったけど、あんまり喧嘩して、やめたって言われると困るから(笑)。大変でしたよ本当に。それでやっとこさっとこ作ってみたものの、写真もちゃんと撮って、向こうのカタログにもちゃんと載ってるけどさ。いやいやあれは大変だよ。

齋賀:今まで剣持事務所でやってきた新しいものを、この新しい場所に作るというのとは全然違う課程ですね。

松本:全くね。森谷延雄だってさ。

齋賀:森谷延雄は今年、INAXギャラリーで展覧会をやりました(註:(「夢みる家具 森谷延雄の世界」展、2010年)。

松本:あそこに入ってるものは、あれは僕らが作ったものだ。森谷延雄のお兄さんのせがれ、だから森谷の伯父さんになる奴がいるんだよ。そいつも千葉県の佐倉の美術館で1回(展覧会を)やってるんですよ、ずっと前に(註:「没後80年 森谷延雄」展、2007年)。ちょっとそれをやってみて、よかったんだけど、どうも違うらしい。少なくともうちが手に入れたものから、資料からちょっと違うんじゃないかって。それでよせばいいのに森谷延雄は原寸図まで書いてね、それで渡してるわけですよ、職人たちに。ただ面白いのはね、その本の後のページにね、職人たちの感想文を載せているんですよ。それはもう酷いこと書いているやつもいる。あんないい加減な原寸図で作らされて迷惑したとかね。でもちゃんと載せてるの。あれね、今だったら絶対載せないよな。設計者の権威としてもさ。だからあれを載せてるっていうのはね、大正デモクラシーの何らかのあれがあると僕は思う。それはもちろん森谷さんという人の、非常に謙虚な部分もあるだろうけど。確かにね、原寸が縮めて本の中に入ってるんだけど、絶対に足の向きがね、図面と違うんだよ、写真見て。うちの担当者さんも頭抱えちゃってさ。どっちが本当でしょう?って。できちゃったけど、昔戦前に作ったやつ、それが正しいでしょ。写真に撮られてるのは、写真で変にひん曲がるはずは無いから、これが正しいだろうって。そうすると図面が間違ってる。案の定、後ろでもっていい加減な図面書いて困っちゃった。だから自分の字なら自分の方がいいかもしれないね。それで納まりまで書いてないんですよ、原寸っていっても。書き方は我々が書いているのと同じような原寸だけど、読めるんだけどね。あれは大変だったなあ。それでパターンが書いてある。それがね、唐草みたいなんだよ。写真しかないからさあ、どういう風なものかわからない。写真を見ながら、どうだったかなあ、こうだろうとか言って。それで写真を添えて。結局芸大のやつでね、漆やってる奴が書いてくれるっていうんで頼んで、説明してくれて。ちゃんとそれは写真に撮ってみると、昔撮った写真と全く瓜二つになってる。やっぱり専門家は専門家だなあと思ってさ。面白かったよ。だからやっぱりね、大変なことでございましたよ、あれは。でも面白い。あの時代にああいうものができる。それで最後に木のめ舎っていうのを作るんだけど、いわば一種の理想なんですよ。そういうものを大衆に使ってもらいたいために、利益なんか度外視したような木のめ舎っていうのを作って、そこでそれを売ると。作って売るという方針を立てるんですよね。そのへんはもったいないなと思うんだけど、それで木のめ舎が工場が出来上がる直前に死んじゃうんだよね。でも一回は高等工芸学校(註:東京高等工芸学校)の教授までやってるんですよ彼は。あれはれで面白いね、ああいうことをやるとね。

辻:最後の質問お願いします。ずっと時間軸にそってお聞きしてきましたが、松本さんご自身がご自分のお仕事を振り返られて、剣持勇さんがご存命の時から、その後中心になってお仕事をされてきた中で、ご自身として思い出の深いお仕事だったりとか、ご自身を振り返ってということをお聞きしたいです。

松本:僕自身もまだ整理しきれてないねえ。やっぱり考えなきゃいけない問題だと思ってますよ。何が面白いって、これだけやっちゃうとねえ、何もかにも夢の中みたい。面白かったことは、みんな面白くて、こんなのやらなきゃよかったなんてものは、一つも無いの。

辻:ではまだまだということですね。

松本:例えばヤクルトの瓶だってさ、あれだってあの時代に作ってさ、まださ、やっと立体商標か何か取れたでしょう(註:ヤクルトの容器について、商品名の文字がなくても形だけで商標とする権利を争った裁判。容器の立体的な形状を立体商標と認めなかった、特許庁の審決を取り消し、ヤクルト本社の請求通り、立体商標を認める判決を言い渡した)。あれは地方裁判所、だから高裁のレベルだよね、あそこがそれを認めたわけでしょう。だけどそうするともういっぺんね、特許庁にあれを申請しなくちゃいけないんだよ。そこがお役所だね。裁判の結果を踏まえて、もういっぺん申請するんですよ。そこでハネられるとまたやらなきゃならない。そういうバカみたいなこと。まあ恐らくはね、無いとは思うけどね。だってあれ(裁判所で)全部話しちゃって、それで何百人という人に見せて、90%以上、みんなこれはヤクルトの瓶だって言ったって言うんでしょう。

齋賀:そんな実証の方法をされたんですか。

松本:そうよ。それで裁判所の方は、それはもうこの形がヤクルトそのものを表しているのであって、そこに書いてあろうとなかろうとこれはヤクルトの瓶。そうみんな認識した。だから牛乳の瓶を見せればさ、どこの牛乳でも、これは牛乳瓶って必ず言うに決まってる。僕らはそういうものを作りたいって思ったんだよ最終的には。だから誰が作ったかなんてどうでもいい。剣持デザインのもの。だから僕らは最初ずーっと言ってなかった。ある時何かの時にそれがバレちゃってさ、剣持事務所があれやったんだってみんな言い出してさ。しょうがないから確かにそうだって言わざるを得ない。

辻:アノニマスというか、不変的なデザイン。

松本:そうなんですよね。コカコーラの瓶だってそうでしょう。でもあれ国によって形違うんだよ。遠目はみんな同じに見えるけど、寸法を合わせてみると(違う)。僕は松屋のデザインギャラリーでね、たまたま展覧会に行ってみようと思ってさ、全部ラベルもはがしてさ、コカコーラの文字も全部落としちゃってさ、印刷されてるやつも。だから面白いですよ。イタリアのキャンティのボトル、長いやつあるでしょ。あれなんかカッコいいよねえ。フラスコみたいいに見えるんだけどさ、首が長過ぎるけどね。あれなんかを全部裸にして。すごくキレイ。やっぱり職人だろうと何だろうと、誰かがデザインしてるんだよ。美意識があろうと無かろうとそんなの関係無い。キャンティなんて、あんな長いのどうやって注ぐんだろうね。あれだけはちょっと不思議だったなあ。

(10分休憩)

松本:(註:車両のデザインに関して)山手線の一番混む始発電車にくっつけてね、それで中でお客さんがどう押し合いへし合い入って来て、どういう風に動くか。いわば人間が川の流れみたいにしてさ、何かが障害になってそこでつまっちゃってるとかっていうのがわかるんじゃないか。それで、(カメラを)つけて撮ろうって。それで付けに行く所まで一応スムーズに動いていたんだけど、いざ付けに行こうってその電車に入って来たら、国鉄が出て来て、ダメだって。国鉄本社はそれを押し切れないんだよね。なんかそれで車掌や運転手の何かが撮られるんじゃないか。あるいは駅の中で押したり剥ぎ取ったりしてる人がいるわけだから、あの時代は。それでしょうがないんで、彼は目視でやるしかないっていうんで、満員電車の中を、学生を扉の脇に2人ずつやって、見ながら勘定して。そしたらあの扉と扉の間に80何人詰まってるんだよね、満員電車の中。こっちの方は空いてるわけよ、わりあい真ん中へんは。また個別くらいあってさ。それでうんと押さえる時、ここの人がどのくらいこっちに流れてって、それ以上行かないか行くか。そういうのやった。電車の構造自体が間違ってるんじゃないか。僕なんかその時、腰掛けにみなさんね、座ってる。あれはだいたい千葉発とかね、東京へ走ってくるやつなんですよ、東海の方からとかね。7人掛けの所に6人しか座ってない。それでイライラする。パーセンテージで調べてみるとね、やっぱり2倍もいないんだよね、10数パーセントくらいなんだよ、そういう問題のある電車っていうのは。だけどやっぱりみなさん不満なんだよね。それでどうしたらいいかっていうんで、あのことになったんだけど。まあ、ああいうのね、国鉄時代もまともに一生懸命どうしようかって考えていた人がいたっていうこと自体はね、僕はすごく良かったと思う。民営化してから、だから何か方法が無いかってね、みんな腰掛けられる方法。まあお年寄りは車端の方はみんな普通の椅子でね、今でもシルバーシートがあるよね。あれに腰掛けて。真ん中はね、シート辞めちゃえって言ったのよ。みんなちょっと腰を支えるくらいのものをトントントントントンと並べてね、後ろ向いてようがそんなの関係無いやって言って。そこにみんなこうはさまってね、お尻よっかけるくらいで、もしもつり革欲しいならそこにつり革付けて。こうやって立って揺れてるよりはね、少しはね、足ふんばってこのくらいの高さの所に腰当ててればね、大分違うんじゃないかって。そうするとかなりたくさんそういう席ができて、大勢の人たちがそこへ、こうやって座るよりはたくさん座れるぞって。2人ずつこうやってくれれば。ただし出る時にここの人が立たないと、こっちの人がちょっとどかないと出られないかもしれない。やっぱりね、そういう方法ってあると思うんだよね。やっぱりそんなことを一生懸命言ったんだけど。じゃあ混んで来たんだから、7人掛けの所6人掛けの所を入れない。なんとかしてハードで(対応させようとした)。金が無いからさ、こんなポールなんて付けられないしさ、今はついてるけれど。まあしょうがない。真ん中の1人分だけ色を変えるくらいが関の山だったの。でも色が何で変わってるかってみんな気になる人がいて。それに向けて大きな版のポスター作ってさ、色が変わってるのはここに1人座ると、7人掛けになりますよっていう方法としてこういうのを考えたっていうね、それを各駅にみんなその時付いたの。まあ姑息な方法だね(笑)。

辻:そういった車両のデザインの取り組みにも、(建築)計画学の先生方も参加されていたということですよね。

松本:そう、高橋(鷹志)さんなんかね。だってみんな考えるわけだからさ。だから小原研なんかでは、それこそモーションカメラを付けたりね、赤外線とか暗くしてさ、学生寝かせてね、どのくらい寝返りうつか。それで寝返りをうった時に、なぜかというとどのくらいの移動をするかとかね。寝台車の寝台の幅を決めるためにね、最適な寝台車の寝台の幅はどうしたらいいか。それを小原研で助手がやったの。

辻:そういった車両の領域になると、土木の方々がインフラストラクチャーで関わられている中で、建築の方々が入って行ける領域だったんですかね、車両のデザインというのは。

松本:だと思いますね。やっぱりあれは建築しかないでしょう。他の本当にかわいそうだけど、工業デザインプロパーで勉強した人はね、そういうものの考え方が出来ないんだよね。建築というのは僕はやはり、最初に建築やって良かったなと思うのは、つぶしがきくんだよ。応用問題が解けるわけ。

辻:ある種の総合性ですね。

松本:そうなの。教わることも極めて(豊富)。だって材料学だってあるんだよ、工業意匠の授業の中にはね。だけどそれはあくまでも材料の性質がこうであるよという、ただ本とか講義で聴いてる時だけでしょ。建築は実際にコンクリートはこういうふうに圧力かけるとこんなふうに割れるとかさ、鉄だってある所まで引っ張ると突然ぶっ切れてバーンとなるとかね、その断面はどういう形してるかとか、実際に実験させられるでしょう我々は。あれやらないとダメなんだよね。材料学でもそういうのがあるんですよ。施工はダメだね。いくら講義聴いてもね。僕は建築の設計やりたいと思ったけど、学生時代それでもバイトしなくちゃいけないんだけど、夏休みは必ず3年の時は鹿島(建設)の現場(に行く)。もう無くなっちゃったけどレーモンド(アントニン・レーモンド Antonin Raymond)の設計したヤマハホール(《日本楽器ビル・ヤマハホール》1951年)のね、ヤマハの銀座のビルのメザニン(中二階)があったんですよ。そこのコンクリートを打つ時に、僕はそこに訪ねてさ。その時に帰りがけに水を撒く。水撒く前にゴミ拾い。「学生ゴミ拾え!」って、一生懸命這いつくばってゴミ拾ってさ。その時25oのスペーサーを作るためにさ、色んなのがあるんだね。キューブのものを置く場合もあるし、それからもう最初からリング状になってて、これに鉄筋が入っててさ。そんなのこういうのがあるんだよって教えられてもさ、現場で実際にそれがそこにあってさ、それを拾いに行くんだよ。それほとんど大工さんの仕事だから。(コンクリート)打ちっぱなしでしょう。だからどうしても木屑がいっぱい落っこってるわけだよ。それをみんな拾わなきゃならない。まあそれをやる。「次、水撒け!」ってホースか何かでジャーっと全部濡らしてさ。それから「コンクリート打つから下降りてこーい」って言ってさ。それで降りて行くと今度はあんまり叩きすぎると当然、またジャンカ(註:コンクリートの打設不良)ができるから。取ったらわかるってったってわかんないよな。でもね、すごいいい経験だった。学校で教わるなんかよりも、あんなの一発で。学生を現場連れて行ってああいうことさせればね、すぐわかっちゃうね、そんなことは。僕はだから測量学なんてさ、千葉大は園芸学部が近いもんだから、園芸学部で測量学を教わるんですよ。その時レベルとかね、トランシット(註:経緯儀。角度を計測する測量機器)とか全部使い方教えてくれたの。休み時間になると、こうやって向こう側の米軍の宿舎の将校の家なんかがあって、あそこ入れてごらん、面白いぞって。もう素っ裸の男の子とかがやってると(笑)。鹿島の職員、職員だよね、あれね。社員たちが、「松本、ピント合ってるか、覗いてごらん」って。だからね、僕よかったと思う、今考えると。