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峯村敏明オーラル・ヒストリー 2008年12月4日

峯村敏明氏の仕事場にて
インタヴュアー:暮沢剛巳、加治屋健司
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2013年9月15日
 
峯村敏明(みねむら・としあき 1936年~ )
美術評論家
東京大学文学部卒業後、毎日新聞社に勤務(1971年まで)。1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」展の組織・運営に携わる。1971年から1975年までパリ・ビエンナーレの国際審査員・同運営委員を務める。国内外の近現代美術に対する批評活動を行う一方で、「平行芸術展」(1981年~2005年)など展覧会を多数企画。1979年から2006年まで多摩美術大学で教鞭を執る。多摩美術大学名誉教授。2012年より美術評論家連盟会長。聞き取りでは、東京ビエンナーレでの活動、もの派との関わり、「システム」という考え、企画した展覧会や多摩美術大学での教育などについてお話しいただいた。

暮沢:生い立ちから始めたいんですが、長野県の生まれということがプロフィールでは公表されています。ご両親はどのようなお仕事をされていたのでしょうか。

峯村:普通のサラリーマンです。お袋は仕事なし。

暮沢:長野県のどちらの方だったんですか。

峯村:長野市に後で編入されましたが、篠ノ井というところです。中央線と信越線の合流する地点です。マイナスの意味で重要なのは、何もないところなんです。近辺では一番重要な市が長野市ですね。もうひとつ、江戸時代に重要だったのが松代。真田家が守っていたところですね。私の高校時代は松代から来ている同級生がいましてね、何人か優秀な人がいました。
 私が育った町には、親父が仕事の関係でやって来ました。それまでは両親ともに長野市の出だったんです。何もない新開地でしたね。仕事の関係でそこに住んでいたんですが、生まれた子供にとっては、何もないというのは後で気がつくんですよ。最初は分かりませんけど、だんだん何もないところだなと。伝統がない。外の世界への憧れが異常に強くて、今いるところが自分の本当の居場所ではないだろうという感覚がそのときに育ったんじゃないかと思います。別に自己合理化しているわけではないですけどね。いろんな機会に長野市に出ていたので、気持ちの上では長野市民なんですね。でも距離的に言うとバスで15分くらい。歩いてではとても行けないところ。それが私の生まれたところです。

暮沢:そちらのほうにずっとお住まいだった。

峯村:篠ノ井にね。

暮沢:ご兄弟はいましたか。

峯村:いました。

暮沢:美術の仕事には、幼いころから関心はおありだったんですか。

峯村:美術だけじゃないですよね。ごく普通のことかもしれませんけど、音楽が好きでしたね。ただ聞くのがほとんどだった。結局、文学少年。文学好き、美術好きが一挙に自覚的に開花したのは高校時代です。中学まではとにかく泥だらけになって遊ぶ、そんじょそこらの洟垂れ小僧ですよ。無我夢中で転げまわっていたような感じですね。親がそう言っていましたから、多分そうなんでしょう。
 高校になって急に、いわゆる年頃ですよね、様々なことを考えるようになった。芸術的なことに関心をもったきっかけは、分からないです。なぜその分野が好きになったか。音楽は、レコードなんか家になかったから、もっぱらラジオだった。朝から昔はいい番組がありましたよね。朝の9時だったかな、ちゃんとクラシックを流していた。大音響で、親兄弟に嫌われましたけどね。音楽はずっと好きだったけど、どうしてやらなかったかというと、耳がよくないことが分かったんですよ、かなり早い段階で。高校の終わりくらいまではピアノも弾いたりしていた。作曲もやりたかったんですが、田舎だとできない。高校生ではちょっと無理ですよね。それで、通信教育を受けたんですよね。だけどピアノの前でやってみると、音が正確に掴めていないのが分かった。和音をしっかり捉えていないのね。それで残念ながら、以後は聞くだけになってしまった。美術も、やっぱり田舎の少年だから、やっているうちに限界が分かってしまう。それで結局、それは見る方だけになった。しかし今のように深くなるきっかけは別にあります。ごく普通に美術は見るようになった。文学は当たり前のもので、おのずから大学の進学の理由になっていったんです。

暮沢:美術に関しては、長野で、そして中高生ですと、展覧会を本格的に見る機会がなかなかなかったと思いますが。

峯村:でもね、内容のことを問題にしなければいくらでもあるものですよ。

暮沢:地元の団体展とか。

峯村:そうそう、県展なんかもあるでしょう。そんなに自覚的に見に行ったわけではないけど、高校生くらいになると少し生意気になって、世の中の芸術的なことについて、そこそこに分かるようになりたい、分かったつもりになりたいと。何か機会があれは見にいくわけですよ。

暮沢:県の美術館とか公会堂ですよね。

峯村:公会堂というのはなかった。美術館はよく覚えていないけど、何か機会があれば見に行っていた。それと、画集。ちゃんと揃えて持っていたわけじゃないけどね。ボナールの絵を部屋に掛けて、親に変な絵だねえって言われた。まあそうだよね、歩いている人間が半身で切れてしまっている絵ですから。ところがガキながら、何故かこれでいいんだ、これがおもしろいんだなって。そういう生意気なことを言いたかった季節ですから。高校時代には、デ・キリコの初期の形而上絵画を額絵で知ったことも大きい。都会の高校生だったらもっと先へ行っていたかもしれないけれども、田舎ですから。そこそこの程度じゃないですか。

暮沢:当時、高校のクラスメートと美術の話などをされていたんですか。

峯村:美術部とかありましたよ。文芸部とか。一緒に同人雑誌をつくって、県のいろんな高校と交換会をやったりした。文学雑誌づくりをやる人間の中に、同級生で絵を描いている子がいましたね。芸術というのはどういうことなのか、おのずから話すし、音楽のことも話す。女の子もいれば男の子もいた。中学だったかな、学校の先生で、直接の担任じゃないけど、その時の縁で、後々になっても押しかけて行って話し込むような先生はいましたね。そういうところに行って、分野を特定しないでいろんな話をしたことはありましたね。まあ、特別なことではないですよね。日本のような、ある程度基盤ができている国であれば、どこでもみんな子供がやっていることだと思います。

暮沢:高校では文芸部だったんですか。

峯村:体育嫌いで(笑)。

暮沢:ようするに、文科系。

峯村:そうですね、精神的不良。悪いことはしたことないですけどね。

暮沢:子供社会の中で体育が嫌いな子は、序列が低かったりしますよね。

峯村:いや、私たちの育ったところでは、そういう序列作りというのは全くなかった。今の新聞を見ていると驚きますね。どうしてそういうことになっているんだろうと。かわいい形で、そういう序列があったのは中学までです。クラスの中にガキ大将がいるでしょう。ガキ大将というのは、高校になればもう存在しませんよ。いても、全く馬鹿な体育系のワルで、誰も相手にしません。中学までは、クラス全体に羽振りを利かせているガキ大将、番長がいた。女番長もいた。私は番長になったことはないけれども、番長が参謀にしておくわけですよ。そういうときにおのずからいじめられる子がいた。いじめもあまり陰惨なことはなかったですね。

暮沢:高校で進路が分かれるので、番長タイプは、進学校に上がってこないんでしょうね。

峯村:番長というのは、不思議な統率力があるんですよね。そういう意味で頭もいいんだけども、勉強好きなタイプじゃないですからね。

暮沢:1936年生まれということですが、名前を挙げていくと、荒川修作、高松次郎、李禹煥といった作家と同じ生年になります。今になって、こういう方々、あるいは、ここに名前が挙がらなかった他の作家でもいいですが……

峯村:膨大な数が同じ年にいるはずですけど、後になって職業が決まってくると、おのずから、あ、この人もそうなのかと分かってきた。36年生まれって何でこんなに多いんだろうと、みんなで不思議に考えていたね。

暮沢:ここでは3人挙げましたけど、他に挙げていただければ。

峯村:あのねえ、暦とか生年月日とかをおもしろがって話をする人がいるけど、全く興味がないですよ。彦坂(尚嘉)なんて大好きで、占いまでやる人です。でも、たまたまそういうのが同じ年に束になって出てくる現象はおもしろいと思う。大学で教えていたときも思ったんだけど、今年はすごく生き生きとしておもしろい子が多いなという年と、全然駄目だなという年がある。どうしてなのかと思うけど、そういう波がある。これは生まれつきというよりも、たまたまその周りに刺激になる要素が少なかった、多かったの違いなのかもしれない。運命論的に言って、これは星まわりの問題だと言いたくなるようなケースもあります。

暮沢:大学の場合、浪人もありますから、同級生が全員同じに生まれたわけではないですね。

峯村:荒川修作は1962年にアメリカに行っちゃいましたね。私が大学を出たのが1960年ですから、彼が日本にいた時には、全く見たことがなかった。後になってアメリカに行ったときにお会いしました。縁がなかったんですが、大きな存在であることはよく分かった。それから高松次郎。彼はずっと日本にいて、私が毎日新聞で美術展をオーガナイズしているとき、評論をやるようになって、その頃かなり親しくよく会って話をした。67年前後かな。

暮沢:そのときハイレッドセンターは……

峯村:とうに終わっていました。彼も落ち着いていたけれど、まあおもしろい人だったですね。それから、李禹煥はまさにちょうど同じ頃ですが、もの派――私自身はもの派のシンパではないんだけども――もの派について否応なしにいろいろ書いたり、間近で見ていた。それでかなり親しい存在ですね。高松や李は友だちと言っていいですね。ずっと後になって知ったのは横尾忠則ですね。彼も1936年生まれなんですね。ただ、私のいけないところですが、デザインに対して認識が甘い。愛情がないからね(笑)。彼のデザインは非常にユニークであると分かっていても、現実はちょっとずれているかなというくらいの気持ちでいたんですね。彼が1982年に画家宣言をして絵を描き出した直後も、ひどい絵だと思った。いや、ひどいとか下手とかではなくて、その頃アメリカから出ていた2、3人の絵の影響が余りにも濃厚に思えた。でも考えてみれば、何かをやるときに最初は自分に強いインパクトを与えた人の影をひきずるのは当然です。それを全然ないかのごとく語るのも変な話です。彼は素直に始めたんだと思うんですね。でも私は最初それがいやでね、文章の上でも「こんなことでいいんだろうか」と書いた覚えがあります。ただ、その後、ある展覧会を見たのがきっかけで、がらっと彼に対する認識を変えました。その後は非常に親しくなりました。で、気がついてみたら同じ年だったんですね。他にも、外国に行くとクロード・ヴィアラ(Claude Viallat)なんかそうですよね。

暮沢:シュポール・シュルファスの。

峯村:彼もなんとなく親しい人。李禹煥が言っていましたね、クロード・ヴィアラは峯村さんみたいな感じの人なんですよって(笑)。俺、あんな田舎のおっさんと違うんだけどなあと思ったんだけども、李禹煥がそういうふうに私を見ていたんだなと思いました。同い年というのはそんなに意識しているわけじゃないけど、とても親しい感じがあるのね。だから批評家では藤枝晃雄がそうですね。世間では犬猿の仲と思われているかもしれないし、表向きはそうならざるを得なかったんですけども、むしろ非常に親しい感情を持っていますね。向こうもそうだろうと思います。すぐその後の岡田隆彦には全然共感しなかった。それは単に年齢が同じということからきているのか、いまだに私にはよく分からない。不思議な感情ですね。

加治屋:1936年生まれというと、戦争もご経験なさっているかと思うんですが、幼少期にどのようなご記憶がありますか。すみません、質問リストにはないことですけれども。

峯村:いや、いいですよ。重要ですね。田舎ですから、ほんのわずかな戦争の記憶しかないんですけれども、結構大きいですね。反戦少年に育ったわけではないですよ。私の場合、アメリカ嫌いになっちゃった。長野は、山に囲まれた盆地の穏やかな土地柄で、ひとつだけ空港があったんですね。私の兄がサイエンス少年で(模型)飛行機をつくっては大会に出て、かなり飛ばしていたんですね。私の生まれたところから長野市は離れているんですけれども、長野市の郊外にこぢんまりした飛行場があってそこで大会をやっていた。いい飛行場の記憶があったんですよ。ところが戦争が始まって――そこは私の住んでいるところからも見えるんです。または見えたと幻視したのか分かりません、結構遠いですからね――米軍の飛行機がきりもみをして、駐機している飛行機を銃撃して、ざっと沖合いに帰っていった。私の家の上空ももちろん通るし、近くに爆弾も落ちた。機銃掃射はすごい音がするんですよ、タタタタタって。それで国道で人馬がやられたとか、ほんのわずかなんですよね。いくつかそういうことを聞いている。けれども、私にとって一番衝撃的というか、心に刻まれたのは、飛行場をきりもみ状態で襲ってくるアメリカの飛行機ですね。広島、長崎の方にそんなことを言ったら笑い話かもしれないけれど、少年の心の中では、たったそれだけの襲撃でもすごい屈辱感ですね。サイレンが鳴っても、長野には防空施設はほとんどなかったですから、向こうは意気揚々と引き上げていくわけです。それから、都会から疎開して、戦火で完全に丸裸になった少年少女らが都会の空気を送り込んでくる。中学くらいから憧れて、私にとってのマドンナになった人も都会から来た人でした。おしゃれで綺麗で、頭が良くてよく知っている。男だと、悪賢くて、都会の悪いちょっとしゃれたこともいろいろ吹き込んでくれる。それが田舎での戦争体験ですね。後々まで私の頭の中にささやかなトラウマとして――というと私が何か大きな被害を受けたようですが、私自身は全然被害を受けていないんですけどね――心に残ったのは飛行機の襲撃ですね。今は見ませんけど、大人になってもよく、夢で飛行機の撃墜を見ました。墜落することを望んでいるんです。悠々と飛んでいる飛行機が許せないって。戦闘機ですよ、もちろん。民間機ではありません。

暮沢:終戦のときは8歳か9歳ですね。

峯村:そんなもんですね。小学校の5年生くらいだったかな。

暮沢:次の質問と関連するんですけども、高校卒業されて東大の仏文科に進学されます。仏文に進まれたというのも、今のアメリカ嫌いと関係あるのでしょうか。

峯村:いろいろとあります。ただひとつ、はっきりと(覚えていることが)あります。高校のときにウィリアム・フォークナー(William Faulkner)がやってきて、長野市に滞在したことがあるんです。私は大学受験(の勉強)というのはほとんど自主的にやったことはないんですが、中学までは遊びほうけていたし、高校2年生までは、今度はガキではないんだけれども、文学の方で遊んでばかりで、受験(勉強)をやったことがなかった。それはあまりに格好悪いというんで、3年生の時かな、長野市にあったアメリカンセンター――アメリカ文化センターかな――そこにバスで通った。これはアメリカ好きでなくても(気に入るところだった)。県立図書館はあまりにも受験生に占領されていたし、それに陰気で嫌だった。アメリカ文化センターの図書室は、おしゃれで綺麗で、とても美しい女性の司書が二人いらして、いい雰囲気だった。そこに遊びがてら(通っていた)。その時もまだ遊び気分ですけどね。ある時、「今ウィリアム・フォークナーさんがいらしていて、日本の若者とお話がしたい」と(アナウンスがあって)、突然(2階から)降りてきたんですよ。びっくりしましたね。私はフォークナー好きで多少読んではいたんですが、あの人が来ているのって。もっと驚いたのは、受験生がたくさんいるわけですよね。で、フォークナーに質問といっても、私には質問できるだけの能力がないんですが、ある受験生が彼に質問するときに「へえ」と思ったのは、彼の『響きと怒り』という小説には、The Sound and the Furyと定冠詞があるのに、シェイクスピアは定冠詞を付けなかった。受験生がそれを質問した。シェイクスピアから来ているはずなんだけど、その定冠詞の付け方が違うのは何故かと。そんなこと知ってるのかとびっくりした。ようするに原文で読んでいるわけですよ。そうしたら、フォークナーは、それはサウンドの問題で特に深い意味はない、そのほうが語呂がいいからと答えていました。とても穏やかな口調でいろんな質問に答えていましたが、感銘を受けましたね。そんなことがあったから、アメリカと縁が切れちゃったとか、一切関心がないとかということは、毛頭ないですよね。ただ大づかみに言うと、今よりも昔の方が、フランスの方が威光がありましたからね。だってサルトル全盛期ですからね。アメリカは比じゃないですよ。美術だって、アメリカが完全に覇権を握るはるか前でしょう。(アメリカ美術が強くなるのは)60年代初めですからね。美術で大学に行こうと思ったわけじゃなくて、文学、フランス文学ですけどね、その方がよさそうだからと思って。

暮沢:当時の東大って専門の学科の決定はいつだったでしょうか。たぶん入試の段階では一括だったかと思いますが……

峯村:一括。でも文1、文2とか(の区別はあった)。

加治屋:文3がなかった時代ですね。

峯村:3年になるときに決められる。アメリカの学制の影響ですかね。そういうやり方したのは。だからちょっと変なんですね、日本があまりにも専門化しすぎたのが軍国主義になったんだろうという理屈がどうもあったらしくて、それで先ず最初に教養を身に付けろというのがあった。これは苦痛でしたね。結局私の遊び好きがそのときまで持続しちゃったんですがね。

暮沢:興味のない科目を無理やり取らされるという……

峯村:でも、それがある意味でいいことだったのかな。数学は、幾何学が抜群にできたんですよね。高校時代に、ほとんど勉強しなくても、試験もいつも30分遅れて、それでも全部正解で満点だったんだから。だけど極端に嫌いで理解できないのは解析なんですよね。統計とか解析。だから私は近代がダメなんですね。ユークリッド時代で止まっちゃった(笑)。それで結局数学は嫌いになっちゃってね。数学をやらなくて、大学は文学部だろうと思って行ったら、やらなきゃならない。驚きましたね。だって文学部の学生だけを集めた教養学部としての数学の授業で、若い助手なのか講師なのか、いきなり問題が出て、記号を書くわけ。それで射影論。(射影という)言葉はとても美しいですね。おもしろい話を聞かせてくれるのではないかと思った。私は高校時代からデ・キリコが好きだったので、影と聞いただけでうれしいんです。ところが全然分からないんですよ。全部記号だから。「はい、これでこうですか。」と言って、いきなり講師が100人以上の学生を相手に質問をぶつけてくるんですよ。

暮沢:全員文学部ですか。

峯村:全部文学部です。僕に分からないならともかく、(ある学生が)即座に答えて、「はい、正解」と先にいく。即座に正解を言う奴は、恐らく日比谷高校あたりを出た奴だと思うんですがね、あれは参りました。で、私は結局数学の講義に一切出なくなりました。今はどうでしょうかね、昔は修了試験の時に、「私は文学青年で、数学は嫌いで勉強しなかった。しようともしなかった。それではいかんと思うがもう間に合わない、どうにかしてくれ」と答案用紙に書いて出したら、こんな馬鹿を相手にしてもしょうがないと思ったんでしょうね、通してくれました。役に立っているものもあるんです。生物学です。選択した生物学で、その当時学会で発表になって間もなかったDNAのことを大変実直に話してくれる先生がいました。これはその当時に思っていた以上にいい話を聞いたんだなあと思いました。でもおかげで、志望していた仏文に進んだのは良かったんでしょうね。

暮沢:美学や美術史の方に進もうとは、その時点では思わなかったんでしょうか。

峯村:その時点では思わなかった、まだ文学ですね。それで、仏文というのは英文学の次に人気があったんですよ。それを全体の成績で切っちゃうんですよね、あれはひどいですよね。私は多分数学の先生が拾ってくれたおかげで通れたんだと思うんですけどね。亡くなりましたけど、私の同級生だったのが久世光彦。テレビディレクターの彼が同級生で、親しかったんです。あれは遊び人で、いろんな同人雑誌を一緒にやりましたが、おもしろい人だった。彼は(仏文に)行けなくなっちゃったんですね。その頃、一緒に芝居をやっていたんですが、彼は楽屋の長椅子に仰向けになったきりで、泣いていたんじゃないかと思います。仏文を目指して駄目だった人は、美学が多かったですね。心理学もいた。彼は美学だったんじゃないかな。まあ、長い人生で見れば、仏文に行かなかったほうが彼にとっても良かったのかもしれないし。

暮沢:当時の東大仏文にはすぐ上の世代に、大江健三郎さんや蓮實重彦さんがいらしたはずですが……

峯村:蓮實は同じですね。大江さんはひとつ上だったかな。講義のときには彼は一年留年していたのでしょうか。あの人は渡辺一夫さんの秘蔵っ子みたいなところがあって、渡辺一夫さんの講義に顔を出していたことがありましたね。既に何かの賞を取っていて、私たちも文学雑誌をつくっていたもんだから、「大江がいる、大江がいる」って言って。

暮沢:芥川賞は大学在学中でしたよね。

峯村:正確に覚えてないです。その前になんかとってなかった?

加治屋:東大新聞の五月祭賞ですかね(注:1957年に「奇妙な仕事」で東大新聞五月祭賞受賞)。

峯村:そう、その頃だったかもしれないですね。既に何か賞をとっていて、渡辺さんも壇上にいながら「大江さん」なんて言って、学生にえらく丁重で、気持ち悪いなあと思って。

暮沢:あと下級生で立花隆さん。

峯村:そういうことだとしか知らなくて、学内では全く。

暮沢:仏文でなくても、さっき出てきたような、別の世界で活躍している同級生や下級生で、当時親しかった方はいらっしゃいますか。

峯村:いやあ、知らんね(注:後で詩人になる天澤退二郎とはかなり親しかった)。私はできのいい学生じゃないしねえ。大学は仏文に進んだんですけども、ご存知のように仏文に進もうとしている頃から、つまり2年生の頃からアンドレ・マルローにいかれだしちゃったんですよね。その影響で、仏文学を続けるということに対してためらいが出てきたけれども、まだ完全に思いをふっ切ったわけじゃなくて、マルローについては書こうと思って、それで仏文に進んだ。仏文の3年生に進んで、3年生、4年生の頃は仏文の講義とほとんど同じくらい、他の講義を取りました。美学は少しだけど、竹内敏雄さん。美術史は非常にたくさん取りましたね。単位数はほとんど同じかそれ以上でした。

暮沢:どんな講義を取られたんですか。

峯村:秋山光和さんの中世美術、王朝美術。絵巻物とか。秋山さんは、フランスにいらしたことがあった。私は、中央アジアとか、インド美術とか、ペルシア美術が好きなんですよ。それで、米沢嘉圃さんのインド美術の講義だったかな、とても胸に響きましたね。それからフランス美術だと、吉川逸治の、あの人、中世のロマネスク建築のサン・サヴァンで有名になった人だけど、フランス語を学生に勉強させようという気があったのか、ゼミでアンドレ・ロート(André Lhote)っていう、画家としては三流なんだけど、キュビスムの理論家がいましてね、その人の書いた理論書をフランス語で講読していた。学生に読ませて先生が注を加えるという、まるで講義になってなかった。でも、吉川さんの人柄が良かったので随分学生は熱心に聞いていた。変な学生、いましたよ。その後、南極探検に憧れてそっちに行っちまった人とかね。その後どうなっちゃいましたかね、朝日新聞に入ったのかな。
ひとつ残念なのが私の友達で、亡くなっちゃったんだけど、新潮社に入って美術の編集をやっていた。『新潮世界美術辞典』ってありましたが、あの担当になってもう何年もかかりきりになってやっていた人がいましたね。この人とどういうわけか吉川さんの講義が縁で親しくなって。おかげで後でね、卒業するしばらく前ですけど、アンドレ・マルローが日本に来て、学士会館かなんかで講演会があったときに、私は一介の学生だから入れない、でも彼が吉川さんに頼んで入場券を用意してくれてね。ただその人は、残念ながら早死にしちゃってね。貝島明(かいじまあきら)さん。それから小説家になっちゃった人もいるんですよ、寮生活で一緒だった。

暮沢:寮に入っていらしたんですか。

峯村:1年、2年の時にね。文学研究会の部屋に入っていて、そこで、縁のあった人が中心になって3年、4年になっても同人雑誌作りをやっていた。その合評会かなんかで知り合った縁かな、吉野(光)――ペンネームかな(本名は中島純司)。その本が昨日片付けていたら出てきたんだけども――は美術史の人で、美術史の教室で会っていたのか、文学のほうで会っていたのか覚えていない。何冊か出ているけど、大衆的な人気はない。だけど、僕は読んでおもしろいと思った。ミステリー仕立てにしているんだけど、詳しいんだ、ものすごく。ここには無いんだけど、彼が大学を出るまでの自分の前半生を3部作でつづった小説があるんです。3回目の小説に大学時代が出てくるんですけど、それが痛切におもしろい。モデルはあの人だなと分かるような人が次々と出てきてね。教師とか助手ですね。だけど、著名な人っているかなあ。総長になっちゃったけど、さっきの蓮實重彦さん。彼は、お父さんが重要な美術史家でしょ(注:蓮實重康。雪舟などを専門とし、京都大学で教えた日本美術史家)。学者の家に生まれているせいもあって、何でか知らないけれども、滑らかに、少なくとも滑らかそうにフランス語をべらべらべらとしゃべるんですよね。あれも在学中からですからね、驚きます。それでまあなるべくしてなっちゃったなあと。ちょっと別格だったですねえ。それで映画が好きだってのも大学のときからで、彼ともうひとり非常に仲がいい映画キチガイがいたんですよね。で、講義中、授業を受けていたんだけど、今飯田橋――飯田橋佳作座ね――であれやってんだけど行くか、行こうって、非常に好きだった。彼がずっとその後も映画の評論をやっているのは付け焼刃じゃなくて、本当に腰の据わったものだろうと思います。

暮沢:さっきマルローには2年の途中からいかれ出したとありましたが、結局マルローで卒論を書かれたんですよね。

峯村:卒論は書かないと卒業できないからね。

暮沢:指導教官はどなただったんでしょうか。

峯村:マルローとは関係なくて。誰も引き受けたくなかったのだろうけどね、井上究一郎さん。

加治屋:プルーストの。

峯村:プルーストをやっている人がアンドレ・マルローとは、ご本人も不本意だったと思いますよ。他に杉捷夫さんという人もいらして、杉さんの方がより近いのかなとも思ったけれど、私は誰でも良かった。別に先生から教わることはなかったし、誰も教えてくれませんし。東大ってのはものすごく冷たいのです。一切相手にしませんから。多摩美行ったらあきれかえっちゃった。手取り足取りやってくれるのを期待されているから。

暮沢:当時の仏文科は、サルトルとかカミュとか、実存主義全盛時代ですから、マルローでやるというのは……

峯村:マルローも一応実存主義の系譜に入っていたんですよ。一年生は一般教養ですけど、文学部仏文目指していますから、自分なりに一生懸命、そういう方面の文献をあたっていますでしょ。そうするとその中にだんだん好みというのがはっきり分かってきますよね。サルトルは非常に破竹の勢いで、サルトルでなければインテリにあらず、みたいなすごい雰囲気だったですよね。

暮沢:大江さんもそんなことを言っていましたね。

峯村:そういうの、僕はなんか嫌い。覇権を握っている国だとか流行しているやつというのはどうも私には気に入らないところがある。そういう、へそ曲がりのせいもあるかも知れないけど、ちょっとそれとは違って、サルトルという人は本当にインテリであることは間違いない、だけど、信用できないなという感じがあってね。それでマルローには様々な点で共感するところがあって、カミュもわりと私の周辺ではサルトルと並ぶくらいに人気がありましたね。誠実な人といいますか、人気ありましたけれども。マルローはやっぱり美術の思想家でもあったでしょ。そっちのほうもあってかと思いますが、まあ渾然一体ですね。小説も好きだったし。いい男だしね(笑)、マルローって。サルトルは……

暮沢:やぶ睨みで。

峯村:やぶ睨みはいいんですけどね。やぶ睨みだって魅力のひとつになりうるんですけれども、なんかねえ、書物とともに生きているみたいなのって、なんか信用できないところがあった。マルローは多くを言わないで。彼の一番私に与えた影響は、人間とはその人の為すところのものである、ということです。

暮沢:著作物リスト(注:http://minemura.blogspot.jp/)にありましたけれども、『新潮』にお書きになられたマルロー論(「若き日のマルロオ」『新潮』1960年4月)が、恐らく最初に(商業媒体に)出たものだと思います。残念ながら現物を見ていないんですが、あれは何をお書きになったものだったのですか。

峯村:あれはねえ、いろんないきさつがありましてね。私が縁があって人生初めての海外旅行というのがカンボジアだったんですよね。ベトナムとカンボジア。1958年だったかな、9年だったかな、そんな頃です。まだ在学中ですね。
 どうしてそういうことになったかというと、マルローの関係もあるんですけども、私をかわいがってくれた上智大学の神父さんがいたんです。フランス文学が大好きで不思議な人でした。井上ひさしが――あの人、上智大学の出身だけれども――自分の文学というか、遊びほうけてその頃からすでにもの書きを志していたんでしょうね、アルバイトもかねて浅草でストリップ劇場の座付き作家みたいなことをやっていたんですね。それで大学になかなか行けないわけ、時間がなくて。それでも、どこか優秀な子だったんでしょうね。先生のリーチさん、ポール・リーチ(Paul Rietsch)さんが井上ひさしのことを気にしていた。「どうして出てこないんだ」「バイトで忙しくて」「どこでバイトしているんだ」「いやちょっと劇場で」「劇場で何を」「いやちょっと台本書いたりして」と言ったらしいんですね。「どこだね」と言ったのが、フランス座だったかオデオン座だったのか、私、浅草で遊んだことないんで知らないんですが、そう言ったらね、リーチさんはびっくりして、そんなすばらしい、名前を聞いたら由緒あるフランスの劇場と同じような名前で、そうしたら見に行きたいと言って見に来ちゃった。で、会っちゃった、ストリップ劇場でね(笑)。そんな人でした。
 井上ひさしはリーチさんを愛して、お互い愛していて、小説家、劇作家として出てきた後で、随筆で何回かその人のことを書いている。みなさんも手にすぐ入る『モッキンポット師随伴記』(注:正しくは『モッキンポット師の後始末』)かなんか。モッキンポットって私は知らなかったですけども、そういうあだ名をその先生につけていたらしい。その名前でお分かりのように元気がよくて、まあマンボを踊るみたいな格好で通りの真ん中で突然喧嘩するみたいなふりをしてみたりね、私たち若者に愛情を持って、だけど、同じ少年みたいにしてけんかを売ってくれた人なんです。その人が上智大学だったんだけど、私どもの大学、東大によくいらしてたんですね、フランス語を教える、文学を講じる。でもまあ本当は神父さんですからね。カトリックに導き入れなければいけなかったんでしょうけど、実際に医学部なんかで大変リーチさんを尊敬してそっちの方に入った人がおります。で、ところが変わった方でね、その人の素質を見ちゃうんでしょうね。私みたいな人間には、カトリックに入れとも教義とか一切言わない。文学の話ばっかり。で、君はマルローが好きか、彼はなかなか優秀で才能のある人だけど、ちょっと共産党員だったのが気に食わないねっていうのとかね(笑)。熱烈な反共主義者ですから。でもとてもマルローのことは尊敬していてね。独特の意味でね。サルトルよりもむしろマルローのほうが本当はいい魂を持った人だと見ていた。だから私がマルローが好きだということを揶揄はしても否定はしない。
 リーチさんは私が好きだということを知っていたもんだから、何か私にチャンスを与えようと思ったんでしょうね。戦後の学生がみんな国内に閉じ込められて、海外に目を開くという機会がない。これは残念だということで、色々工夫して、上智大学の学生さん(いまクメール学のオーソリティーになっている石澤良昭君など)を中心に、東南アジアとか比較的安く行けるところに行って、カトリックの施設にタダで泊まらせてもらうということをリーチさんは始められたんですね。私はその中で行かないかと言われた。ベトナムは、その頃ゴ・ディン・ジエムという独裁者がいた頃です。ベトナムには何の興味もなかったですけど、アンドレ・マルローのことで縁がないこともなくて。彼もベトナムで活動した時期がありますしね。それからアンドレ・マルローの翻訳を日本である時期まで一手に引き受けてやったのは小松清さんという仏文学者です。全く独学でフランスで勉強して、沖仲仕から何からあらゆる職業をやって、自力でフランスの知識人に分け入って、フランスの思想、文学を学び、戦前に行動主義を日本に紹介した人なんです。マルローともその一環で友人になった人なんですね。マルローの『人間の条件』という小説に清(キヨ)ジゾールという人物が出てくる。一種のコミュニストですけども、上海で、最後に決起して死んでいく、そのキヨ・ジゾールというのがその小松清の清から取った名前です。名前だけで、人間像と重なったわけではないでしょうけどね。私はマルローが好きでわりと早くから小松さんに知己を得て、二度ばかり自宅を訪ねたことあるんですけど、その小松さんが、どういう縁でしょうか、フランスで知り合ったんでしょうか、ベトナム王朝の最後に連なる人なのかな、独立の志士で日本に亡命していた人がいたんだけどね、その人のことを紹介した(文章を書いた)ことがあった。それを読んでいて、ベトナムに全然興味がないわけじゃなかった。
 誰もまだ海外に出られない時期だったのね。小田実さんがぐるっと一回りして『何でも見てやろう』を書いたのは、そのちょっと前でした。非常に珍しく思われていた時期ですから。冬のことでね、僕がためらっていたら、神父さんはにやっと笑って、アンコールワットに行けますよって(笑)。本当に行けるのかって、後で工面して連れてってくれたんですけど、僕は一も二もなく「行く!」ってね。これは、つまり私がそっちのほうが好きだっていうのを察知していたの。アンコールワットのそばにある(バンテアイ・スレイという)昔のクメールの遺跡で、アンドレ・マルローが若気の至りということもあるけど、牛車を引っ張ってそこの素晴らしい美しい遺跡の、まぐさ石っていうのかな、柱の上にあるすばらしい彫刻があるんですけどね、その下にある舞姫をかたどった彫刻を掘り出すというか、要するに盗掘ですよね。完全に砂に埋もれていたわけじゃないけど、実質上放置されていたそれを引っ張りだしてプノンペンまで持ってきたところで、捕まっちゃう。捕まって植民地当局から裁判にかけられるんですけども、本国でアンドレ・ジッドがどういうわけかマルローをかわいがっていたんですよね。ジッドなんかが中心になって運動を起こして、前途有為な青年を穏便に扱ってほしいと言って、それが功を奏して何とか釈放されてフランスに戻るんですよね。その事件は実際にあったことなんだけど、それをネタにして彼の独特の死生観、人生観、芸術観を盛りこんだのが『王道』いう小説なんです。王道というのはクメールの遺跡とイコールではないけども、ああいう非ヨーロッパ系の芸術にそうとう関心がありました。それが好きで、アンドレ・マルローに縁があってっていうと、これはやっぱり「うん」と言っちゃうわけですよね。それで行ったんです。そのときに、リーチさん、モッキンポット先生がいなかったら、そんなチャンスは絶対に訪れなかったんですね。何でそんなモッキンポット先生の話になったんだっけ。

加治屋:『新潮』に文章をお書きになった経緯について。

峯村:それで帰ってきたら、先ほど話した貝島明さんが――そのときは『新潮』の編集部にいたのかな――「峯村さん、ものすごく貴重な体験して帰って来た。何か書きませんか」と言ってくれた。で、書いてみた。それがアンドレ・マルロー(についての文章)。私が実際に行って歩いたということですけど、まあ若気の至りの文章です。

暮沢:大学を卒業された頃ですか。

峯村:リストを見れば分かる。1960年の4月号に出ているということは2月か3月発売で、卒業直前ですね。その後、僕は「アンコールの遺跡群」というのを書いているんですよ。何年か後、1967年ね(注:『藝術新潮』1967年2月号)。これは『藝術新潮』の方で、アンコールワット周辺の全体の遺跡がどのようにしてヨーロッパ人に発見されて知られるようになったか、どういう問題があったのかということをかなりくわしく文献に従って書いたのですね。私の中ではちょっと変り種。(著作物リストの)一番上の「若き日のマルロー」にはCがつけてありますね。どういうつもりでCにしたのか分からないけど、多分こんなの恥ずかしいから残しておくのに値しないと思って。

暮沢:大学を卒業されて毎日新聞社にお入りになられましたよね。卒業するにあたり、いろいろ進路は考えられたと思うんですけども、毎日新聞社を選ばれた理由というのは。

峯村:別に何もないです。まず新聞社というのは全然興味がなくって、興味がないどころか好きじゃない。ただね、これは私が馬鹿だったんですよね、先ほどお話したアンドレ・マルローとの縁で、小松清さんと知り合いになって、ある日訪ねてね、私そろそろ卒業なんだけど文学をやっていきたいと、小説を書いていきたい、文章を書きたいんだと言ったら、そうかそれじゃ新聞社がいいよと。なぜかと言うと新聞社はひまだからと。これは驚きました、実情に合わないわけですね。小松さんは本当にそう思っていらしたようなんだけどね。ずっと彼はフランスにいて、フランスにいる日本の新聞の特派員、その頃ひまだったのかな、知らないけど優雅に見えるんですよ、みんなね。多分だから結構何とか私的な時間が作れると思われたらしい。
 私はもうひとつはマルローの影響で、美術に関わりたいと。ものを書くのが一番好きなんだけど、それだけと違って美術の世界的な広がりの中で勉強したいと。まだ勉強したいという気持ちです。まだ知らないことだらけですから。世界中に残されたこんなものやあんなものをやるのに、新聞社の事業部というところに行くと(できるのではないかと思った)。毎日新聞はいい企画を、小さいのから大きいのまでいろいろやっていましたからね。かなり漠然とだけど、それが狙い目としてあった。だから大学で美術の勉強をしていたとはいえ、おそらく一生私はそれに関わっていきたい、できたらものも書いていきたいと。そうすると雑誌社でももちろんかまわないんですよね。でも雑誌社だと、限られるからあまりさぼれない。『藝術新潮』みたいなところに行けば話は別かもしれないですけどね。新潮社は受けなかったと思う。でも光文社とか平凡社とか文藝春秋社とか受けました。新聞社は朝日、毎日。
それで最初に採用通知が来たのが毎日新聞だったんでしょうね。これで会社勤めになってあまり自由に歩き回れなくなるなと思ったものですから、京都からずっと和歌山、奈良と古寺めぐりを一月(旅行した)。卒業直前で、回っている途中で旅先に朝日新聞から電報が来て、入社おめでとうございます、手続きお願いしますと、いやいや冗談じゃないよ、俺は毎日新聞と決めているからといって、断わっちゃったんですけどね。あとは平凡社、文春は落とされたんですけどね、面接で嫌われて。おもしろい面接だったですね。平凡社は、今でも忘れられない。色彩についての問いが出たと思う。急に言われたってね、理屈の通る話ができるわけがない。赤と黒に何か関心があるみたいな話をしたと思う、たいしたことだと思っていなかったら、面接のときに「アナーキストかね」とか言われてね。色の好みがどうもアナーキストっぽいと。私、それほどませた人間じゃありませんと思ったんですけどね。それでも興味は持ったみたいですけどね。だけど、そうですと言ったらとってくれたかも知れないですね。平凡社っておもしろいところだから。
文春はいまでも笑っちゃうんですけど、面接まで行っちゃう。池島信平とか錚々たる編集陣が偉そうにしていて、天下取るみたいな生意気盛りの私ですから、あれは池島信平じゃない、痩せたあの人がね、「余計なことかもしれないけど、君のその髪の毛の形うるさくないかね」と。私は後にゲゲゲの鬼太郎に似ていると言われたけど、その頃は長髪で、それも前にざっと垂らしていた。「私の自由でしょ」と言ってね。それで落ちたのか分かりませんけどね。全然どこでもよかったんでね。私は。ただ就職はしなければならない。決してゆたかな家庭ではなかったから食べて行かなければならなかった。ぶらりぶらりする余裕はないしね。で、勉強っていうか芸術のことずっとやっていきたいから、そこそこに仕事があって自分のことができるのがいいと。美術で受かれば一番いいとね。当時美術館なんてありませんでしたからね。あっても美術館は入れてくれないかな。

暮沢:学芸員の資格を持っているとか、美術専攻じゃないと。

峯村:あの頃はそんなこと全然問題にしなかった。

加治屋: 1960年の春に卒業なさったので、60年安保が時代の中の大きな事件としてあったと思うんですけれども、峯村先生は何かその時の印象はおありでしょうか。

峯村:基本的には私はノンポリですね。別に恥ずかしくもないし、誇りにも思わない。単純にそうなんですね。

暮沢:それは当時から。

峯村:アンドレ・マルローはあれだけ政治的なことにコミットした人だけど、特に政治が好きなわけじゃない。人間が生きていることの付随する結果として、政治的な場面に出会ったときに、それから逃げないということです。政治に興味がないわけでは毛頭ないですけど、自分がそれで動くっていうことには切実さを感じたことがなかったですね。
 大学のときも、学生自治会があって、砂川闘争、反基地闘争がありましたね。それで砂川に行こうって言うんでね、そんなことを話すと不謹慎だけど、なかば見物気分かな。何人か同級生と行きましたが、現場に行って赤とんぼの歌なんか歌っていて、何かうそ臭いなあと。そういう情緒的なところで関わって。だけど、そんなことをしてスクラムを組んでいたらもう寸前のとこでぱくられそうになりましてね。ごぼう抜きにかかって来たんですよね。乱闘服着た機動隊なのかな。それで非常に苦しくなって苦し紛れに噛んじゃったんですよね。あれはまずかったですね。「噛んだぞ!」って、どどっと隊員が寄ってきてもうちょっとで引っこ抜かれそうになったんだけど、みんなで守ってくれて。あのとき捕まっていじめられていたら人生変わったかもしれない。

暮沢:そういうことってありますね。

峯村:だからそんなことくらいで、そういう方面で動くという必然性が、私の心の中で感じられなかったんですよね。今にいたっても同じですね。ちゃんと新聞は一面から丁寧に読むくらいに興味を持ってはいるんですが、政治の動きっていうのはリアリティを感じないんですよね。

暮沢:ちなみ今でも毎日新聞ですか。

峯村:うん。他の新聞も取って比べるんですが、毎日新聞が一番いいですね、愛着じゃない。私、自分に帰属意識がまるでない人間です。それは私の生い立ちの生まれ育ったところが愛郷精神を持ちようにも持つほどの郷土ではなかったということかな。ここに帰属するということに強い執着がない人間なんですね。だから新聞社に行っていたのも11年間だったけど、そのことで毎日新聞を取るということは全くない。同じように大学に27年かな、多摩美にいましたけども、他は知らないから多少親近感はあるとはいっても、そう特別なことはない。

暮沢:11年間、毎日新聞に在職されたわけですが、最初から事業部にいらっしゃったんですか。

峯村:最初入った時に、事業部に行きたかったんだけど、会社というのはそういうわけにはいかない。まず入るとね、編集に進む人間も営業に進むのも、みんな一緒くたに教育期間があって、サツ回りとか写真の現像の仕方とかみんなやった。サツ回りしているとき先輩がいるわけでしょ。「どうして編集の方を志望しないんだ」とか、「今からでも進路転換できるんじゃないか」と言われたけど、全然その気がない。ところがその営業でも、広告部に入れられちゃった。これは人生最初のつまずきで失敗したなと。それで一生懸命運動して、事業部に移してもらった。大きな会社だと普通はなかなかわがままを聞いてもらえないらしいですね。

暮沢:文化部とかは。

峯村:文化部は編集でしょ、編集は嫌だって。記事を書くのが嫌なんだ。ブンヤとしてもの書くのが嫌なんだ。

暮沢:事業部での具体的なお仕事というのは。

峯村:最初はもうなんでもやりました。私にとって悪くなかったのは、古い美術が結構好きでね。日本で言えば、宗達とか琳派とか、江戸時代の美術があったし、国際交流はそんなになかったけれど、日本人の持っているコレクションで外国の古いものや近代美術を扱ったような展覧会があった。今でも覚えているのが、あの頃日本画の作品を借りるために奈良を駆けずり回ったり、セザンヌのいい絵が日本に来ていましたから、借りるために大阪の気難しいコレクターに画商と一緒に頭下げに行ったりとか、そんなことがありました。それは私の実践的な勉強なんですよ。
 それをやっている間に、ただ今現在の地点に立ってものを見たい、古いものもそういう目で見たいという。今の美術はどうなっているんだといった、おのずからそういう方に関心が行きますよね。毎日新聞が現代日本美術展や(日本)国際美術展がやっていたので、いやおうなしにそういうものを知るようになりました。外国のものなんかも知るようになってくると、やっぱり飛躍的に自分の知識の幅と奥行きを広げたいなと。
 それで、質問事項にありましたけども、留学という形でフランスに行くんですよ。1967年ですね。

暮沢:先ほどのアンコールの文章書いた頃ですね。

峯村:それはたまたま一致しただけで。

暮沢:奨学金制度があったんでしょうか。

峯村:会社は休職の形ですね。フランス政府の給費留学ですから、向こうの政府のお金で呼ぶということですね。これは奨学金というのかな。

暮沢:政府給費留学生というと、留学中にドクター論文書いて、大学でフランス語教員のポストを得るという形の人が多いと思うんですけれども。

峯村:職業人、社会人を対象にした枠組みでしたね。

暮沢:半年くらいでしょうか。

峯村:半年。これはくやしかったですね。

暮沢:くやしかったというのは?

峯村:一年くらい行きたかったんですよね。会社は一年行くと言ったら許してくれたかもしれないんです。会社も人材を育成したいけど、本人がフランスの大使館と渡りをつけて行くんだから悪いことはないんですね。
 向こうに着いたときに、いつも私と一緒で向こうの事務所に顔を出すときも一緒だったのがいて、一人、名前はあえて言いませんけども、とても素晴らしい人だったんです。着いた時点で私が一番フランス語ができたんですよ。だってまあ仏文出ているわけだからね。出ているっていってもたかが知れているけど、でもまあ比較的できたわけ。それが失敗したんだな。受付でその二人の代わりに私がみんなぺらぺらしゃべって、で、どうするこうするって言っていたら、あなたはもうフランス語は充分ですから明日からの語学研修は必要ないと。このままパリにずっといなさいと。冗談じゃない、私のフランス語で通用するわけないし。田舎の語学研修に行ってもそれなりにやっぱりいろいろ勉強できますからね。語学以外にも。だから認めてもらいたかったんだけど。それで半年ってされちゃったんですよ。フランスはその頃経済的に豊かでなくなって、反対に日本が豊かになりつつあった。なるべく期間を削りたいというのは当然ですね。でも、最後に6ヶ月のところを理由をつけて2ヶ月延ばしてもらった。私がいる間に1968年5月、五月革命、パリ動乱が起きた。私は学校に籍を置いたわけではないし、自由にいろんなものを見て、それが私の勉強だったわけだから、私の人生経験で決してマイナスじゃなかったんですけれども、それでちょっとマイナスがあったからその分追加して延ばしてくれたのかなと思いますけどね。

暮沢:五月革命の時はパリにいらして、現場を見られたわけですね。

峯村:そうですね、石は投げなかったですよ。

暮沢:パリでもフランスの現代美術は見られましたか。

峯村:車を運転してヨーロッパのあちこちに行きました。行ったところは、古いものから新しいものまで、ことごとく時間の許す限り見まくっていました。マルローの子ですからね。現代美術に特化する気持ちはなかった。ただ、ものを書くという気持ちがあるから、現在の私が生きて目撃しているものという地点から書きますよね。ですから、現在のものに関心があったのと、その時点で、そこが一番私の中で知識が薄かった。1965年頃から新聞社の催しでも、現代美術の方にかなり目を通すようにしていました。最初に強烈だったのは67年の第9回東京ビエンナーレです。有名になった70年のひとつ前です。二年前のはずですけど、三年前でした。東京ビエンナーレは準備に時間がかかるというので、一年延ばしたのです。
 1967年にそれをやったとき、私がパリへ出る前だったんですけどね、初めて国際審査員制度というのをつくって、外国から3人審査員を呼んで、その頃からまあ、現代美術の場面でおっちょこちょいに動き出した。日本の美術批評界は、私の直前に御三家がいて、結構その頃大きな顔をしていたけども、まだ十分には働けなかったんですよね。というのは、その前に厳然たる勢力をもった大御所たちがいた。前の世代の方です。会議なんか見ていても、この人たちは駄目だなと思った。こちらは若くてムキになって生きていましたからね。作家の選考の仕方を見ていても、「まあこの辺は僕、長年の友達でね、この間も贈り物をもらったりしたから、まあ入れてよ」、みたいなことを平気で言っているわけですよ。やっぱりこういう人たちは、ずれているなと思ってね、私にとっての直接上の世代である御三家から非常に刺激を受けるようになった。
 1967年というのは、私がささやかに動き出した最初ですが、その後すぐにフランスに行っちゃったもんですからね。68年の展覧会も私はタッチしなかった。68年はかなり前進したらしいですね。帰ってきて、69年に国内の現代美術展、これはほとんど私が関わった。それをさらにその次の70年の東京ビエンナーレに向けて押し上げていったという感じです。その辺のところは、一日一日が自己革新みたいな感じでした。フランスに行っている間もそうで、ほとんど目が覚めて寝に就くまで神経を全開にして、「一体何なんだろう、世界はどういうふうに動いているんだろう」と、そういう張り詰めた時期でしたね。

暮沢:東京ビエンナーレ、通称「人間と物質」展についてお伺いします。これまで峯村さんが最も人に質問された部分かと思います。今までのお話で、事業部に入るまでは分かりましたが、展覧会に関わることになったときに、10回目はこういう方針で行こう、こういう作家で臨もう、ということはいつ頃から決められていたんですか。

峯村:そうですね。他の会社はまともなことを何一つしていませんでしたからね。例えば朝日新聞は秀作美術展をやっていたけど、あれは全く形式的に秀作を集めてやっているだけでしたし、読売新聞はとっくにアンデパンダンをやめていました。だからその時点でそこ(毎日新聞の展覧会)しかなかった。
 だから、世間的に見れば、毎日新聞が一年交替でやっていた日本美術展と国際美術展は、最も権威のあるものだったのでしょう。でも実際に見ていると、ものすごく変なものだなと思った。例えば国際美術展は、諸外国から作品を集めるといってもお金がないということもありますが、当時はまだ外国とのルートが開かれていない頃ですよね。大変だったと思うんですけれども、結局それぞれの国と何かの縁で繋がっている外国団体に依頼して作品を送ってもらう。アメリカにはアメリカの、インドにはインドの、イタリアにはイタリアの団体があって、それぞれの国で取りまとめてくれるんだけど、あれが非常にバランスが悪くてね。これは本当に今の世界の美術を映し出していると言えるかなという疑問が出てきましたし、そういうものを受け入れて相手にする日本側もどうかと。審査して賞を出しているわけですが、今言った御三家は情報を持っているけれども、その前の世代の人たちになるとほとんどない。こんなやり方でいいのかというので、日本人の審査員といってもいないですから、外国人を連れてくるならもっと早いわけですね。それで67年に外国から3人、それと日本の審査員を合わせて、国際審査制をやりましたでしょう。それがステップになっているから、それをもっと徹底したかった。賞を決めるという段階だけ外国人を連れてきて国際審査員制にするだけでなくて、展覧会を立ち上げるときからすでに完全に開かれた情報の場にしてやらなきゃいけないんだと、あの頃はそんな乱暴なこと考えたなと思いました。考え方としては当たり前のようだけど、当時それをできるんだろうかと。もう少し冷静に考えたら身がすくんだと思うんですけどね。

暮沢:それでかなり手間取った。当初の開催予定より一年遅れたというのは。

峯村:実質的にそうですね。次の69年は当然東京ビエンナーレのときだったけど、68年は私はいなかった。私は68年に帰ってきて、大改革をやるべきだと言ったんだけど、そんなこと世界相手にできるわけがない。こちらは全くノウハウを持っていないわけですよ。会社の中の意識も全然で、「それは難しい。気持ちは分かるけどちょっと簡単にはいかない」と。でも、何かやるのはいいだろうと、ひとつ足固めのためにもう一度国内展、現代展をやろうということになった。今までと違って、ちゃんとしたコミッショナーを立ててその人に独自の批評眼で固めてもらう、そして若手を大量に登場させるというのをやったんです。

暮沢:それで中原(佑介)さんを選んだんでしょうか。

峯村:1969年は中原さんじゃないですよ。針生一郎です。「現代美術のフロンティア」というタイトルです。針生さんはなかなかこういうのが得意で、幕の内弁当みたいに、項目が9つくらいあったかしらね。項目を作って、それらしく作家を並べるわけですよ。独特の才能ですね。それはそれでよかったんだけれども、針生さんは温情主義があるからね、自分がそれまで深く関わってきた作家にも、それと若い者にもちゃんと日の目を見てもらいたいというところがあった。混成部隊なんですね。何かすっきりしないところもあるわけです。もっと時代の最先端のところを明快な批評眼で切るようなやつをやりたいなと思って、それが東京ビエンナーレになるわけです。

暮沢:それでコミッショナーが中原さんになった。

峯村:そうじゃないですね。最初は東野さんが元気だったんですね。御三家みんな元気だったんですけど、東野さんは如才のない人だからね。私はしばらく前からあの人たちを知るようになったんだけど、毎日の現代展、国際展が急速に変わりつつあってとてもおもしろいことになりそうだとなると、批評家は自分がやりたいと思いますよね。何か私に接近してくるんですよねえ。東野さんはそういうところが非常に率直でした。「峯村君、峯村君」って来るわけですね。それで乗ったわけではないんだけど、東野さんは才能と情報を持っている人で、中原さんと全然違うタイプでね。中原さんは、情報量は東野さんと同じかそれより少ないものかもしれないけど、その頃評論を読んでいて、中原さんの文章が一番好きだったんですね。非情な客観批評の装いがあり、実質的にもそうだった。私はどちらかというと激情肌というかパッションが強いところがあったので、(中原さんの)その要素を取り入れたいという意識が働いたんだと思う。東野さんは(私と)似ているんですよね。文章の書き方が。しかしどちらもそれぞれにいいところがあって、お二人にやってもらったら、違った性格のものがおもしろくまとまると思ったんです。大きな規模の展覧会だったらそれがうまく機能できたかもしれないですね。だけど最初にその話を話したのが中原さんだから、どちらかというと中原さんにまず引き受けてもらうという気があったんでしょう。それで、中原さんに東野さんと二人でやってもらえないかと言ったら、しばらく考えていて、それがあの人のずぶといところというか、慎重なところで、僕だったらまあいいよって言っちゃうんだけど、「いやあ、二人ってのは難しいよ」と。言われてみると全くそのとおりで。ただお知恵拝借だったらともかく、「単独コミッショナーと同じようなことを二人でやるのは逆に非常に難しい問題が出てくるね。ひとりの方がいいんだけど」と言われて、じゃあそうしようと決めたんです。

暮沢:中原さんは当時まだ30代でしたね。

峯村:30代でしたね。

暮沢:毎日新聞社のコミッショナーだと50、60代の人がやるという感じがありますけど、会社の上の方から何か言われたりしなかったんですか。

峯村:言われたでしょうね。とにかく峯村っていうのはとんでもないことをやっていると。私はひとりで任にあたっていたわけじゃなくて、私の先輩で一番熱心にやっていた人がひとり、その上にも周りにもいて、みんなで協力し合ってやってきたんですよね。だから、一種の奪権闘争みたいなものですよ。67年頃からね。
 最終的に69年の展覧会が終わった時点で、「峯村とは一緒にできない、勝手にやれ」と言うんだよ。本当に困りましたね。ひとりも助けてくれる人がいなくなった。秘書もいない。バイトひとり呼んでやったような状況でね。だからよく許してくれたと思う。それは今の時代だったら想像できないですね。その頃だって苦虫噛みつぶしたんでしょうけど。ただ、毎日新聞の事業部長っていうのは大体編集の方から来るんですね。で、どこか広い見識をもっていて、まじめな話はちゃんと聞くという姿勢を持っていた。だから僕が一生懸命説明しているのを聞いて、それはそれで理屈があるのかなというくらいには分かってもらえたんでしょうね。だけどよく許してもらえたと思いますよ。

暮沢:参加者は40人くらいでしょうか。中原さんが国内から作家の選考を始められて、最終的に出てきた作家は、当時だと日本国内でもほとんど無名な人が多数を占めていましたよね。当時峯村さんは中原さんが選ばれた作家の作品は知っていたんですか。

峯村:国内作家のものはそこそこに知っていましたね。国内の作家で知らないというのはごくわずかです。それまでに現代展とか国際展で急速に勉強しました。非常に親しく知り合うようになった人もいるし、作品だけを知っている人もいました。
 ただ外国のことになるとね。クリストなんかはよく知っていました。本人(との直接の面識)じゃなくてね。東京ビエンナーレの一年前の69年に、私は『美術手帖』にクリスト論を書いているんですよ。あれは日本で出た初めてのクリスト論です。それから、カール・アンドレとかダニエル・ビュランとかはそれなりに知っていた。ただ、全く知らない作家も何人かいた。中原さんに外国を回ってもらったんですよ。というのは外国の機関に頼んで送ってもらうと信用できないというか、はっきり統一がとれたものできない。だからコミッショナーが自ら見て自分で判断しなきゃいけない。当たり前のことですけど、安い渡航費で中原さんにぐるっと回ってもらったんですね。ポーランドからずっと南下していって、その過程で私どころか日本で誰も知らない作家を一人、二人入れましたね。コミッショナーになると誰でもそうだけど、どこにでも招かれているような作家は入れたくない。2、3人は新鮮な顔を入れたいと思う。中原さんはポーランドにずっと前から関心があって、親しい友人、美術館人がいて、その人なんかと相談したんでしょうけども、非常に変わった、概念的にオブジェを扱う(エドワルド・)クラジンスキ(Edward Krasinski)という人を選んだ。それからもうひとり、後で中原さんは「あれは工藤にしてやられたなあ」って頭を掻いて言っていたけど、ドイツのディートリッヒ…… これは中原さん、あまり認識なかったんですよ。誰だっけ。

加治屋:ディートリッヒ・アルブレヒト(Dietrich Albrecht)。

峯村:そうそう。パリまで行ったらね、中原さんと親しくしていた工藤哲巳(に会ったそうです)。工藤は、自分は中原さんの考えに入らないから出ないだろうと分かっていたんだけれども、中原さんに「ディートリッヒ・アルブレヒトはなかなかいいよ」と薦めたらしい。中原さんは工藤を買っていたので、そうかと言って入れたらしいんだけど、これは私も変なのを選んだなと思ったし、中原さんもちょっとしまったなと(思ったようです)。しかしそういうのは非常にわずかで、よくぞこれだけいい玉を選んだなあと、僕は本当に感心しております。

暮沢:作家が決まったのは前年の秋くらいですよね。

峯村:うん、秋くらいから確定していった。そんなにたくさん準備期間があったわけではないですから、短い間にやっています。70年に入ってから決まった人もおります。例えば野村仁なんかそうですね。それから狗巻賢二。このふたりは京都の大学で、大学を出たか出ないくらいじゃなかったかな。私もよく京都に行っていて、中原さんと一緒だったこともあるんだけど、京都のアンデパンダン展というのがあったんですよ、京都市美術館で。その頃はおもしろかった。行くたびにおもしろかった。とりわけ狗巻賢二というのはすごい早熟な作家で、中原さんも私も注目していた。もう一人野村仁が彗星のように出てきた。出てきたんだけど、もうひとつというところだったんです。70年に入ってだと思いますが、まだ寒い時期に彼が北山に入っていく自動車道路を歩行しながら10分ごとに止まって時刻と自分の位置を記録していくという仕事をやったんですね。中原さんはあれで最終決定したんですね。

暮沢:会期は70年5月からでしたっけ。最終的に決まったのは3月くらいでしょうか。

峯村:2月くらいの人もいたかもしれないですね。野村仁は多分2月だったんじゃないかと思います。その前から注目はしていたんだけれども、そういうところに選ぶというのは大変なことですからね、ぎりぎりまで見定めたいというのはあったんじゃないかな。それから、あの時点でイタリアのアルテ・ポーヴェラが5人ばかり来ているでしょう。あれは彼に外国に行ってもらったことの成果でね。行く前にそれほどその方面について彼が認識していたとは思えないんですよ。

暮沢:正にリアルタイムの動向ですね。

峯村:彼が帰ってきて会議をやっているときに、「アルテ・ポヴェーラというのがあってね」と言う。本当は「アルテ・ポーヴェラ」という発音なのに、「ポヴェーラ」というくらいだからかなり怪しかったんだけど。そこで、ちゃんとしかるべき連中に会って――全員に会ったかどうかは分からないんだけれども――それでジルベルト・ゾリオ(Gilberto Zorio)にかなり関心を抱いたらしいんですね。他にも何人かいて、いい顔ぶれであったと思います。(マリオ・)メルツ(Mario Merz)とか(ヤニス・)クネリス(Jannis Kounellis)とか。(ルチアーノ・)ファブロ(Luciano Fabro)はすごくいい作家だし、(ジュゼッペ・)ペノーネ(Giuseppe Penone)もいいしね。アルテ・ポーヴェラの中ですでにちゃんとした認識が得られていたということかもしれないけれども、でも僕はいい人選であったと思います。
 ただ残念なのは、彼が行ったときに長沢英俊に現地で会っているんですね。長沢はアルテ・ポーヴェラとほぼ同じ世代の人なんだけど、日本から行った人で、彼らの仲間というわけではない。ルチアーノ・ファブロとは非常に親しい無二の親友だったんだけども。中原さんは当然関心を持って長沢英俊に会って、かなり興味を持ったらしいんだけども、ちょっと早すぎたんですね。僕はそれでよかったと思うんです。というのは、長沢英俊がブレイクするのは71年なんですよ。その前までやっていたのも、なかなかシャープではあったものの、アルテ・ポーヴェラふうであったり、あるいは、僕の感じでは高松次郎的だったりした。高松次郎的な要素というのはイタリアにもあって、例えば、ジュリオ・パオリーニ(Giulio Paolini)(がそうです)。

加治屋:「高松次郎的」というのは。

峯村:コンセプチュアルでね、現実に実在しているものと、そのように見えるもののギャップを利用するというトリッキーなものです。高松のように様式化してしまってはいないから、トリッキーとは言えないんだけれども、知覚と実在のギャップに関心を持つというのは非常に重要な問題で、存在を問う系譜というふうに私は書いています。高松以来、日本のアーティストには珍しく連綿と受け継がれていて、それがイタリア行ってからの長沢君の仕事にもある時期まであるんですよね。その後全く独自の個人様式が確立するのが71年です。だから東京ビエンナーレの時期は、彼の本当のいいものが出て来る直前なんですね。でもその時に入っていたらどうだったかは分かりませんけどね。

加治屋:質問が戻るんですけど。先ほど中原佑介さんがポーランドに関心があったということをおっしゃっていました。それは具体的にどういった関心なんでしょう。

峯村:よく知りませんけれどね、中原さんは物理学やっていた人でね。自然科学分野では当時のソ連圏が強かったんですね。今では想像つかないけども、ソ連のほうが物理学でも化学の方でも何でも進んでいたんですね。だからロシアについて勉強する人は非常に多くて、実際実利的にもその方が有利だった。中原さんも当然のことながらロシア語を勉強していた。
 彼の芸術観からして、感情表現的な芸術は全く興味を持たない。むしろ構成主義的なものに一番関心が強いわけですね。ポーランドにも、人間が入り混じるようにして構成主義がある。スチェミンスキ(W?adys?aw Strzemi?ski)といった人たちに関心があったようです。どこかの国際会議か何かで、ポーランドの評論家で、年がほとんど同じだった人と仲良くなった。リシャルト(・スタニスラウスキ Ryszard Stanislavski)と言っていました。ポーランドのウッジの美術館の館長になった人です。その人も中原さんのことを尊敬してね、日本のわが友人というように言っていた。だからこのときも彼に会って情報を得ていると思うんですよね。そういうことでポーランドに共感をもっていたんでしょうね。

暮沢:質問に戻るんですけど、参加者が決まって具体的な準備に入りますよね。外国からの参加作家はけっこう来日したんですか。

峯村:18人だったっけ。カタログに書いてある。そのときのことは克明に書きましたから。

加治屋:カタログの経過報告という形で。

峯村:そこに苦労話と称して、それぞれがそれぞれの特殊な事情を背負ってやってくると書きましたね。かわいそうに、ファン・エルク(Ger van Elk)というオランダのアーティストは、渡航費が出るというのを知らないで、こっちが何も言わないうちに、勝手にシベリア経由で苦労してやってきて、来てみたら他の作家は、安い切符だけど世界周遊切符をもらって来ている。僕は別に差別したつもりはなかった。

暮沢:他の人は飛行機ですか。

峯村:予算がないから非常に苦労しました。新聞社だからありがたいことに広告部が扱っている航空会社というのがありますよね、その縁で格安の切符を融通してもらえるって話を聞いた。その頃まだ健在だった、世界一周で有名なアメリカのパンナム航空の周遊券をもらった。あれはよかったですね。ヨーロッパから来てそのままアメリカ経由して帰った人もいるんですよ。

加治屋:この時の事務局というのは、峯村先生以外に何人かいらしたんですか。

峯村:いや。

加治屋:ほとんどおひとりでやられていたんですか。

峯村:はい、多摩美の学生を誰かの紹介で呼んできたんだけどバイトでして、実情は事務局私ひとり。

暮沢:会場構成から何から、一ヶ月から二ヶ月間それにかかりっぱなしですか。

峯村:当然ですね。ほとんど寝食を忘れて。

暮沢:美術館でですか。

峯村:美術館はこちらは借りているだけですから、違います。新聞社のすぐ近くの一ツ橋の学士会館。あそこに宿をとった。もちろん全部自腹です。それでも寝る時間がないんですよね。夜中の12時過ぎにホテルに帰って、(寝るのは)大体2時頃かな。それでホテルの人に頼んで朝7時か8時頃に起こしてもらった。最後の2週間、3週間くらいはそういう状態だったかな。

暮沢:作家もそこに?

峯村:違います。安いところに泊めたいというのがあったのと、早めにアメリカの方から来た連中が日本びいきだったんで(旅館に泊まってもらった)。まあ芸術家だから当然なんですけども。クリストは日本に対してそんなに幻想ってないんですよ、どっか彼は(別に)手当てしたと思いますけど、カール・アンドレは日本に対する思いが強かった。イタリアから来た連中もそうだったかな。上野の純和風旅館(に泊まってもらった)。英語なんかぜんぜん通じないですよね。それで日本酒を飲みたがってね、みんな飲ん兵衛で、アンドレなんか部屋の中にずーっと徳利並べてあった。ビールの瓶を並べるのは分かるけど、徳利なんてすぐなくなるでしょ。あれをずらずら並べているんですよね。

暮沢:開催日数20日間くらいですが、動員数はどのくらいだったんですか。

峯村:全然記憶にない。覚えていない。動員の数なんてみんな気にしない感じでしたからね。入ったら入ったで大手振って歩けますけども。

暮沢:新聞社の事業なら、当然本社の方は気にすると思うんですけども。

峯村:ですね。でも、私も最初からたくさん押しかけてくるなんて想定していませんでしたからね。そのわりには来てくれたかなと。でも会社としてはどうでしたかね。もっと国内の作家とか長老とかそういう人たちを手厚く扱った展覧会のほうが、縁故関係が来るだけでも手堅い入場者数でしょう。ところがこっちはもう日本作家だったら若造とかそんな感じ(の作家)だったし、外国の作家だって誰も知らないような奴ばかりですから、(会社が)期待したほどには入ってなかったと思いますよ。

暮沢:当時の記録を見ると、現代アートの展覧会としてはよく入ったけれども、新聞社の主催事業としてはあまり入っていないんじゃないかと書かれていますね。

峯村:その通りですね。

暮沢:僕は実体験がないので分からないんですけどね。

峯村:私自身がかなり関わりましたけど、毎日新聞はその前にミロ展(をやりました)。非常に真面目な、いい展覧会でしたね。どこかから丸ごとごそっと借りてくるんじゃなくて、非常に丁寧に、オーガナイザーの私たちがこの作品欲しいなというのを、ひとつひとつ外国のコレクターと何回も交渉して集めたりした。その前はピカソ展をやっているんですよね。こういうのは押すな押すなで人が来ましたから、それと比べればお寒い感じですよね。

暮沢:東京ビエンナーレは70年の5月ですから、大阪万博と全く同時期なんですよね。

峯村:万博は6月か。

暮沢:3月(開幕)です。

峯村:そんなに早いんだ。

暮沢:3箇所に巡回している間、もろかぶりなんですね、時期的には。峯村さんは万博に関しては『美術手帖』で酷評されていたような記憶がありますが。

峯村:美術的に見るものはなかったと。その通りだと思いますね。

暮沢:時期的なことで、万博は意識されていたんですか。

峯村:やったところが新聞社ですからね、私自身が関心なくても。万博のときに関連の事業で国際鉄鋼彫刻シンポジウムというのがあったんですよ。

暮沢:鉄鋼館というのがありましたが、そこが会場だったんですか。

峯村:そうだったかなあ。毎日新聞が主催で、万博が始まる前から何回か現地に取材に行った。これもやはり中原さんが関与していた。
 言い出しっぺは飯田善國という彫刻家だったのね。彼が一生懸命に経団連とか日本製鉄とか、そういうところを説き伏せてお金を出させて、彼のよく知っている彫刻家もそうでないのも含めて、外国からも何人か呼んでやったものです。
 そんなことがあったので、万博が行われる場所ということは意識していたんですけども、ようするに現代芸術の応用の場ですよね。あそこで本当に新しい部分が出てきたのかっていうと(そうではなかった)。岡本太郎の塔は別問題ですよ。そこそこの作家が呼ばれて普段かなえられないお金と資材をたっぷり使うことができたときに、今まで打ち出さなかったことをここで打ち出そうというほどの気持ちで仕事したアーティストが、本当にいたのだろうかと思うんです。
 鉄鋼シンポジウムのときに、日本の作家で進化した人に若林奮さんがいます。若林さんはもともとそういうところがあったんですけどね。私は若林さんの作品が好きでね、彼の作品全体の中でもいいほうだと思うんだけど、地下に埋めちゃったんですよね。地下に埋めたといっても表面は見えているんですけどね。構造体は埋めた。(地面の)中に入っちゃった。これは、万博というお祭り的なものにあえて背を向けた作品だったと思うんですが、それと同時に彼の芸術観・存在観に根ざしていたはずで、あそこまで過激な形でやったというのはクリエイティヴな仕事だったと思うんですよね。それに匹敵することを誰かやったのかというと、寡聞にして私知らないんだよね。結局応用の場だったんじゃないかという感じがした。カラス――大ガラスだったっけ――(をつくった作家が)いましたね、吉村益信。これも万博に対する一種のアンチテーゼですよね。しかしカラスはその後展開しているわけじゃない。つまりあの時にぶつけているんですよね。だからそういうのは、芸術の問題として考えたときに意味のないことをやったとは全然思わないけど、前後関係を考えたときにどうかなという感じがします。

暮沢:世間は万博、万博と盛り上がっていた時期ですよね。万博を意識して、うちはこういうことをやるという意識はどこかにあったんですか。

峯村:東京ビエンナーレにはそんな意識はないですよ。スケジュールがもともとあの時期って決まっていますから。だけど、あれが同じ時にやるんだなと、おのずから対抗的な仕事になるなというのは、当然そういうのは(あった)。中原さんがああいう渋いことをやってくれて非常にうれしかったですね、私としては。

暮沢:結果的には、そういうこともあって歴史化されたというのはありますよね。

峯村:東野さんを入れるとその辺がぼけたかもしれないね。東野さんの特徴だからね。

暮沢:万博と整合性を取るようなこともあったかもしれないですね。この展覧会については語りたいことが山ほどあるかもしれないですが、オーラル・ヒストリーの主旨に沿って進めます。東京ビエンナーレが毎日新聞社時代の最後の仕事になりました。これがきっかけになって会社を辞められることになったかと思うんですが、その経緯を少し。

峯村:東京ビエンナーレやったら、あの組織の中ではもう何もできないって当然分かるわけですね。大迷惑をかけて大赤字だったのでね。私は経理のほうに全然興味がないから分からないけど、いくら損したか知らないけど、とんでもないことですよ。普通なら即刻首でも文句言えないくらいです。でも、昔の家風のある会社ですからね。その後は、しばらくもう会社では何もできないなあと。ただ意識がもの書く方にどんどん行って批評家みたいなことになってきた。それでしきりに外にものを見に行って書いて、人と交わったりするようになった。いろいろな誘惑もあったけれども結局最も貧しい道を選んだんですね。アルテ・ポーヴェラじゃないですけど。それが良かったのか悪かったのか。ただ僕の性には合ってましたね。

暮沢:他にはどんな選択肢がありえたんですか。

峯村:他に何があるかなあ。例えば、山口勝弘さん。私は、現代展、国際展と関わっていて、現代美術の最も生きのいい擁護者と思われていました。現代美術といったら、最も広くて、極限にシンパシーを持っている、とみんなが期待するのは無理もないのだが、私は頑固で自分の好みが(確固としてあった)。まだもの書きになっていないから表現はしていないけど、現場を経ているだけに、おのずから好き嫌いがある。でもそこに曖昧なところがあって、いろんなことに興味があるからいろんなところに顔を出していて、世間の方でも勘違いされたこともあったですね。
 それで、山口勝弘さんはあの頃、活発に仕事していましたよね。私は実験工房の頃は知らないですけど、その後、ドンゴロスを壁に貼り付けたような半立体の頃に知り合ったんですね。その後、68年に彼はヴェニス・ビエンナーレに参加しまして、68年私がパリへに行った時に見に行った。そういうことで、少しずつ知己になっていったんですね。69年の現代日本美術展の時に多くのアーティストと非常に交流を持つことがあった。そのひとつとして、なぜか山口さんが、自分たちの進めようとしていたエレクトロニクスの新しい時代に、峯村というのが、作家じゃなくてプロデューサー、またはそれに類した存在として好適なんじゃないかと誤解されちゃったんですね。
 あの頃エレクトロマジカというのをソニーとかでやっていましたよね。やるんだけども、何しろ作家はみんなそっちのほう不得手なんで、事務局をやってもらいたいと。困りましたね。それを言われるとハッとするんですね。八方美人じゃない。エゴがいっぱいある。あれもこれも、それなりにいろんなことに興味があるような顔をしてきたけれども、具体的にそう言われると、それはオレの趣味じゃないなとハッと突きつけられた。それでお断りしたんだけど、それから逆にその方面に神経が細かくなっちゃって。
 山口さんのやっている仕事は、ビデオを使うようになってからどうしても私の納得できないところで。山口さんだけじゃなくて、山本圭吾さんとか、いろんな方がビデオアートであの頃出てきた。隣の国から出てきたナム・ジュン・パイクは、イメージ・シンセサイザーなんて最も早くからやっていて、大したものだと思う。評価はめちゃくちゃ高いけど私は全く興味がなかった。年を重ねるとともにはっきり、自分には受け入れる土壌はないと(分かるようになった)。ナム・ジュン・パイクで一番好きだったのは、ニューヨークで見たもの。テレビの受像機の中身を抜いて金魚鉢を入れて。あれはよかったね。それについて私は書いたことありますけどね。でも、イメージ・シンセサイザーでイメージをいじくりまわしても、芸術ですらないと思うようになりました。その時別に、事務局長をやってくれと言われてお金を用意されたわけじゃ毛頭ないから。すごいお金を積まれて、これでやってくれと言われたら、多少気が向いたかもしれないけどね(笑)。私は本質的にそういう方面ではないと。
 もうひとつ大きいのは、会社の中で誤解されることです。新聞社では、新聞記者になるのが一番の花だと思っているから、君は本当は新聞記者になりたいんじゃないかと言われる。その当時の名物記者が新聞社にいたんですね。船戸洪吉さんという、胆力というか腹の据わった凄い人だったんですね。この人が飯に誘ってくれてね。(でも)どうこう言わない。彼は僕が事業部にいるのが仮の姿だと思っていて、美術記者をやらないかと言われたんだけど、私はもう少し優しい言葉で断ればよかったのに、にべもなく、「いや、全然興味ありません」と。言葉を考えて断ってもよかったのに。彼はちょっと呆れたような顔しながら、もう何も(言わなくなった)。船戸さんの後、二人ばかり記者が変わりましてね。特に安井収蔵さんって、どこかの美術館長やっていますけど、非常に仲が良くて、毎晩のように飲んだ仲です。彼は僕に記者になれとは言わないけども、原稿は時々書けと言ってきて、書かされたんですけど、そのうちに止める。
 大赤字を出しちゃって、ふらふらしているうちに、年度替わりが来ました。2月くらいかな、横浜支局に行ってくれと言われた。ようするに、このまま置いておくわけにはいかんと。だから、しめしをつけないといけないと同時に、どうもあいつは学芸の方に行くのが一番いいと思ったんだね。いきなり学芸はまずいから、記者として経験も積んでもらいたいと、あまり遠くじゃかわいそうだっていうので、一番近い横浜(になったようです)。一番贅沢なところですね。これは進退に関わっていると、即答を避けたんですね。即座に辞めるとは言わないで。新聞記者は性に合わないと思っていたんだけど、実態もたいして知らない人間だから、ちょっとだけ行ってみるかと、嫌なら辞めればいいと(思った)。だから会社には悪いことをしましたね。やる気がないんだったら早く辞めればよかったですね。行ってみてやっぱり駄目だった。全然これは俺のいる世界じゃないと思ってね、4(月)、5(月)、6(月)と3ヶ月いたのかな、71年の。
辞めたって別に食っていけるわけじゃないけど、ちょうどそのとき踏ん切りつけるために良かったのは、パリ・ビエンナーレから審査員をやってくれという話が来た。これはお金がもらえる話じゃないんだけれども、まあ蹴って行くのはちょうどいいと(思った)。だから、その時から貧乏は予測されていましたけどね。ですから貧乏がそれほど気にならない。

暮沢:それで会社を辞めて、当面はフリーとして活動されていたわけですよね。最初はどういう仕事をやっていこうという意識だったんですか。

峯村:仕事という意識じゃないけど、生きているだけでは目的がないでしょう。生存しちゃっているそっちのほうが先ですから。欲望としてはずっと、芸術というものが好きというと他愛のないことだけど、(芸術のことを)知りたいというか、芸術が私を動かしている(ということがあった)。その実体はどういうことなんだろうと。あまりにも知らないことが多すぎるんですよね。だから、ある分野の芸術、ある時代の芸術じゃあ駄目なんだ、芸術という現象そのものじゃないと(考えた)。そのことをいろんな機会に知って学んでいく。文章を書くということは、理屈ぬきに私のクリエイティヴィティに関わっている。どういう書き方をするかは別にして、書きたい。だから小説も何点か出していますけど、5つほど書いたところでやめているわけですね。これも挫折なんでしょうね。だんだん悪くなっていく。最初は随分多くの人から注目されたんだけど、だんだん悪くなってしまった。評論の方がいいみたいだとだんだんと思ってきた。そんなものですから、何をしたいかといっても、結局これといった目的はないんです。何かあるのかしら。

加治屋:例えば、批評を書きたいとか、展覧会を企画したいとか、あるいは他の形で美術に関わりたいというのは。

峯村:批評を書きたいといっても、批評の姿がすごく分からないですね。それから、普通に頼まれて文章書くのはできるけども、それが自分が本当に心の底で望んでいるもの書きとしての姿かどうかと。評論家って茫漠としていて、結局、折りに触れてものに触れ、考え、感じ、書くという連鎖がどういうところに開いていくのかと。大げさに言えば結局、思想、芸術思想みたいなもんですよね。そんな偉そうなことを言えるわけはない。でも、レヴェルは低くとも、基本はそういうもの。だからそういうフォルムがあるのがはっきりしていなかったんです。
 70年代は暇がたっぷりあったので、新潮美術文庫から仕事の注文が来るんですね。4~50枚ですけどね。一冊書くと好評だから、「次も」って言われてやった。マティス、モネ、ボナールと、結局三冊書くことになった。書くということが私にとって、作家の持っている芸術観や世界に接するまたとない仕事です。ただ見ている、本読んでいるより、書くというのが一番入ってくる。だから、書くことというのは、私にとって芸術により深くはまっていくための道で、その道を一番いい形で歩んでいるだけなんですよね。だから、展覧会をやりたいなんて気は毛頭なかった。これは誤解されているかもしれないけど、縁があって展覧会をやることになりましたし、やっていると結構おもしろいからね、でもそれは興味のあることをやったというだけで、本当の私の中のクリエイティヴィティじゃないと。

暮沢:当時は美術雑誌の仕事がメインだったんですか。展覧会のカタログとかは。

峯村:展覧会のカタログはほとんどないんじゃないかな、その頃は。美術雑誌ですね。新聞の文化欄なんて呼んでくれないですからね。日本は外の人になかなか書かせませんですからね。

暮沢:まして辞めたから。

峯村:それもあるかな。でもまあ時々ありましたね。非常に変わったケースでは、もっと後になってからだと思いますけど、私の出身地の長野に信濃毎日新聞といういい新聞社がありましてね。地方紙の雄としての(新聞社だった)。ここの人が私の名前をどこかで知って。これはもう大変だった。ほとんど毎週書かないといけない。コラムがあったり、特集記事があったり。それも、彼らが抱えている鬱憤を晴らすために私を使うみたいなところがあった。例えば、県の美術行政はこれでいいのかというのを僕に書かせるわけ。外からもこういうふうに言われているよと県の当局者に示すために。だけど、大いに恨みを買いましたね、県の教育委員長から。信濃美術館があまりにもろくなことをやっていないと書いたら、知事は、いいことを言っているじゃないかと言う。これは選挙で選ばれた人ですから、外の声にも耳を傾けるんですが、教育長はとんでもないことを言う奴だと怒るんですね。まあ、そういう特殊なケースありますけど。
 もうひとつありがたかったのは、一番貧乏をしていた時に、本当にひょうたんから駒で(仕事が来た)。小原流という生け花の組織がありますよね。『小原流挿花』という月刊の機関誌があって、早稲田で美術史を勉強したお嬢さんがここに入ってきた。西も東も分からず、評論家も誰も全然知らない。アミダかサイコロを転がすみたいに僕の名前を割り出してきて、頼んできたんですよね。その前は藤枝(晃雄)君とかいろんな人が書いていたらしいんですけど、彼女のサイコロがたまたま私にあたってきて頼んできた。峯村というのは何を考えている人間か知らないが、ちんたらちんたら書いているのがおもしろいと。それで毎号、ほとんど欠けたことがないくらいに書いた。それが、芸術に触れながらものを書く、書くことによってアートの問に少しずつ肉を切り裂くような形で入っていくことの一つになりましたね。といっても、雑誌が美術に特化した人たちじゃないから、どうしても書き方に制約があって、突っ込んだ議論ができないままだから、それはマイナスだったけど、後々それが平行芸術展をやらせてもらうきかっけになりましたね。

暮沢:当時の美術雑誌というと、『みづゑ』や『三彩』、そのあたりですか。

峯村:そうですね。『みづゑ』はかなり経つまで縁がなくてね。いつから書くようになったのかな。70年代の終りくらいだったかな、よく覚えていないんですけど、雑誌というのは、編集長の人柄、芸術観があって、僕みたいなのが一番嫌われた。私は概念芸術擁護者だと非常に思われていて、そういうのが嫌いな人が編集長だったんですね。『みづゑ』は、後になって、椎名節が編集長になってから書くことが多かったように思いますね。その前の時にもイヴ・クラインについて書いたね。僕としては一番『みづゑ』で好きな文章ですね。これはたまたまなんでしょうね。雑誌の何十年記念かの特集号かな、イヴ・クラインに興味があると話していたらしくて、書いてくれと言われて書いた。今でも気持ちのいい僕らしい文章かな。70年代終りか80年代ですね。
『美術手帖』はかなり早くから、細かな記事を書いていました。60年代終わり頃から。展評が始まったばかりでね。71年に新聞社やめてしばらくした頃、頼んできたのかな。編集長は福住(治夫)君だったと思う。東京ビエンナーレをやったとんでもない奴なのでおもしろかろうと。それがどのくらいでしょうね、2年か2年半か。その間しょっちゅう外国に出ちゃって抜けている時期もあるけど、だいたい書いていましたね。その書き方が非常にわがままで、僕のやった後(の筆者たち)はこぼしていました。編集部から注文をつけられて、かなり万遍なくいろんな催しについて触れないといけないと。だけど私はその時に書きたいと思うことしか書かなかった。でもそれは展評ですから、まさに出てきたばかりのアートを感覚で書いただけです。菅木志雄について一番早く書いていたかな。

加治屋:1972年から73年にかけてですね。

峯村:そうですか、『美術手帖』で一番気持ちが良かったのは、どうして可能になったのか分からないんだけど、「生きられるシステム」という文章です。74年(4月)です。

加治屋:「生きられる美術」という……

峯村:それは小原流の記事のタイトルです。『美術手帖』の方は、何かの特集なんじゃないかな。それで僕に何か書いてくれと言ってきた。何でなのかよく覚えていないんですが。それでそういうタイトル(「生きられるシステム」)の文章を書いたんです。書いているうちに編集者が乗ってきて、これはおもしろいからもっとでかくやってやろうって。最初はそこそこの小さい記事のつもりだったんだけど、わりと大きくしてもらって、文章長くしてもらった。その時は、一番新鮮な形で僕の考え方が形成されていた時なんですよね。芸術は一種の生命現象だという頑固な考えが私の中にありましてね、それがおのずから「生きられるシステム」というタイトルになっているんですが、今でも私は、芸術は一種の生命現象であると、芸術はひとつのシステムであると考えている。生命というのはひとつのシステムなんですよ。後で多田富雄さんの文章を読んで、はっきり指摘しているのを読んで感激した。彼は免疫学の立場から、生命とは生きられるシステムだと言うんですね、これは本当にわが意を得たりと思った。芸術はシステムです。逆ではないけど。
 「生きられるシステム」の中に、私が今でも一番気に入っている比喩で書いているんですけど、芸術というのは筏のようなものだと。筏というのは、ある構造を持っていますよね。構造を持っているけど、その構造は大変ゆるく、正確にいうとシステムです。構造というと一本外すと成り立たなくなるけど、システムは違うんですよね、相当な部分を外されても、世界がどんどん変わっていっても、システム性は変わらない。生命というのはそうだよね、日々新しい外部要素を取り入れながら、自己変化するし、変化しながらも一貫して自己同一性を保っているんだよね。その自己同一性を保つというのが、後に平行芸術展に繋がっていくと思う。後になって考えてみると、そういうことだったのかと思うんですね。それはまた平行芸術展のところで話ができると思うんですけどね。当時「生きられるシステム」を書いたときは、芸術がシステムだということと、芸術が一種の生命現象だということをどうやってうまく説き伏せようかと、実際に私の見聞きしている様々な作家を取り入れて。ものすごくうまくできたと思う。
それで、この間、評論家連盟の会合があったでしょう。あの時久しぶりに岡﨑乾二郎に会って、あとで話したら、彼はよく覚えているんですよ、その記事のことを。

暮沢:彼はその頃10代ですよね。

峯村:「峯村さん、あの頃かっこよかったなあ」と言っていた。読解力がある人だなと思った。(私は)システムという言葉をその頃よく使っていたんですよ。「峯村さんがそのシステムという言葉を何で使うのか意味が分からん」と言っていた。堀浩哉も全然分からないと言っていた。その頃、日本全体があの頃、システムを、硬直した動きの取れない体制というドイツ語から訳しちゃったものだから、悪いイメージができ上がっていたんだけど、システムというのは、本当は言葉のとおり大変可変性を持ったもので、変化しながら保っていくという構造体なんですね。だから僕は直感的に「生きられるシステム」と言ったんだけど、岡﨑がそれに注目していたんですね、「システムって意味が分からなかったけど、峯村さんは生きられるシステムと書いていて、あの『生きられる』というのに意味があるんだ」と言っていた。ああ、読者がいたんだと思って、うれしかったですね。
その記事とほぼ同じときに、『芸術倶楽部』という、フィルムアート社が出していた映像・映画の雑誌が……

暮沢:中原さんの関係ですよね。

峯村:うん、そうだろうと思います。奈良さんという人が編集実務に関わっていて、中原さんが奈良さんと親しくて中心になっていた。その前に何号か出されていたんだけど、たまたま概念芸術を特集しようというので、中原さんが自分で書けばいいんだけども、彼は他にもいろいろやらなきゃいけない仕事があったからでしょうね、じゃあ峯村に書かせようと言ってくれたらしい。それで書いたんだけど、概念芸術批判になっているんですね。「誰彼(たそがれ)の概念芸術」がタイトルで(1974年)4月号です。その文章は、多くのアーティストが読んでくれた。同時にスタッフにかなりはっきりした見解の人がいたものだから、あの時が70年代の一番気持ちいい時だったかな。

暮沢:フリーで評論家になって自分自身のポジションが確立されたという感じですか。

峯村:確立されていませんよ、そんなの。僕自身なんて今でもペーペーですからね、ははは。

暮沢:その後、美術雑誌がなくなっていきますよね。今でも残っているのは『美術手帖』くらいかな。

峯村:そうね。

暮沢:毎日新聞をやめられたきっかけはパリ青年ビエンナーレの国際審査員を委託されたということですが、パリビでその後何度かされていますよね、コミッショナーを。

峯村:うん。こんなこと言っては誤解されるかもしれないけど、成り行きなんですね。ひとつ何かやると、それを見ている人がいて(次の話が来た)。東京ビエンナーレは外国でも非常に強いインパクトを与えた。ドイツにヴァルター・ケーニッヒ(Walther König)という美術書専門のお店がありまして、そのお兄さんがカスパー・ケーニッヒ(Kasper König)という人です。オーガナイザーとして有名だし、後には河原温のマネージャーになっていました。後々にヨーロッパを旅行していると、ヴァルター・ケーニッヒのやっている店に当然寄るでしょう。そうすると、あれをやった峯村かと(言われた)。あのカタログは何部でも売れるから、あるだけ送ってくれと(言われた)。だけど、会社(毎日新聞)が処分しちゃっていた。中原さんもそうですけど、私も実際オーガナイズをやっていて、峯村が深く関与しているというのは作家たちが言うわけですよね。そんなことで、パリビの主催者だった人が、パリ五月革命を経て、今までのままではまずいだろうということで、71年に、若い人でやろうと言って極東からひとり私を呼んだんですね。

暮沢:きっかけは東京ビエンナーレだったんですよね。

峯村:東京ビエンナーレのことが向こうで知られていた。私の意識の中ではそれを引きずっていたわけでは毛頭ないですが。

暮沢:コミッショナーとしても仕事していましたよね。

峯村:正確にいうとコミッショナーじゃないですね。71年に行った時は、いわゆる国際審査員ですね。私とほぼ同じくらいのが、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ、イギリスと、そんなのばかりが集まってきたんですね。イギリスはちょっと年上だったな、ブリティッシュ・カウンシルの。
 やっているうちに、もう審査員審査だの、賞制度だの、国別参加だのというのはまずいんじゃないかと、いい気になって、とうとう制度自体を潰しちゃった。上に立って取りまとめをやっていた人がジョルジュ・ブダイユ(Georges Boudaille)という、なかなか物分りのいい人で、女性には目がない非常に愉快なコミュニストでした。彼が僕ら若い連中の言い様を全部克明に聞いて、それじゃあ大改革をしようって言って、賞制度をやめ、国別参加をやめた。それはいいんだけど、国別参加をやめると作品が集まらないでしょう。パリなんて全然金がないですからね。それで結局、同じようにそれぞれの国のしかるべき機関から送ってもらうようになった。それで、その時の審査員だった若いメンバーが、私もそうだったけど、作家を選ぶことになった。
 1973年の(ビエンナーレの参加作家)を決めたんですが、その連中だけに門戸を開けるのはまずいので、なるべく候補をいろんな国から集めようとした。それで、それぞれの国にコレスポンデンスを取って資料を出してもらった。その頃中国は全く視野に入っていませんので、私は韓国と日本。韓国は李禹煥の協力を得て推薦してもらった。日本は、私以外の人々に協力してもらって名前を出してもらったんですね。でも、最終的には私が現地に行って作家を決めました。かなり私の意向が出たけど、私でない人の意見もそれなりに入るようにした。だから71年は、私は日本の国と完全に関係ないし、直接向こうから呼ばれて行った。73年は、本当は向こうが勝手に決めたシステムで、作家の出品も前の通りですが、私の渡航費とか、金がないから、外務省の外郭団体の、今だったら国際交流基金、その頃はその前身の国際文化振興会ですか、目黒にあったんですよね、白金台にあったのかな、そこに足を運んでお願いして協力してもらった。
私が国の代表として作家を選んだことはないです。だからコミッショナーというわけではない。パリビから委託されているから審査員ではあるけど、コミッショナーではない。その次の75年も一緒です。

暮沢:77年までですか。

峯村:77年は記憶が薄れてきているんですよ。77年も同じでしたね。多分。

暮沢:選ばれた作家の名前は覚えていますか。

峯村:いま言えと言われてもね。71年は審査員で、私が選んだんじゃないから覚えてないけど、73年はわりと覚えている。私の意向をかなり強く出したところもあった。長沢英俊、菅木志雄、大阪なんですけど北辻良央、高山登、河口龍夫。もうひとり、藤原和通かな(注:正しくは狗巻賢二。藤原は1975年に参加した)。どちらかというと音楽の人なんですね。前衛音楽の人。彼は73年だったかな。75年は、かなり薄くなってきているね。彦坂尚嘉は間違いなくあの時です。パフォーマンスしている。それと田窪恭治。これは私よりも若い評論家が推薦して出したと思う(注:他に柏原えつとむ、中井恒夫、野村仁、渡辺哲也が参加した)。彼もそうだったんじゃないかな、ニューヨークで亡くなっちゃったけど。写真のピンホールカメラの山中信夫(注:山中の参加は1982年)。(当時の資料は)段ボールに入れちゃったので、あとで誰が参加したかは見てもらって(いいかな)。

暮沢:同じ時期にサンパウロ・ビエンナーレにも関わっていましたね。

峯村:あれは77年ですね。77年にパリのビエンナーレで向こうに行っている時に、パリの宿舎に連絡があって審査員で来てくれと言われた。パリビに似ているんです、パリ・ビエンナーレのやり方をサンパウロでも参考にしたいという気持ちがあったのかな。

暮沢:サンパウロの方は国別参加が残っていますね。

峯村:いや、一時期は違うんです。私が行っていた時に悪いことばかりやっているんだよ。私は迷惑をかけている。77年にはまだちゃんと国別参加、賞やっている。審査員で来てくれと言われてね。マーシャ・タッカー(Marcia Tucker)というのがいますね。アメリカで「悪い美術」の美術展があった、バッド・ペインティング(注:マーシャ・タッカーはニューヨークのNew Museumの創設者で、1978年に同館で 'Bad' Painting展を企画した)。なかなか美人の素晴らしい女性だけど。彼女がアメリカから来ていて、その時はじめて会った。前から知っている人では、パリビで一緒にやったトマゾ・トリーニというイタリアの批評家が来てました。あとはそんなにたくさんいなかった。それでやっぱりその時にどちらかというとマーシャ・タッカーもみんなでくだらないこと言ってね、賞制度、国別参加をやめた方がいいんじゃないかと。それがまた簡単に通っちゃうですよ。これが少し世の中安っぽすぎると思っちゃうんですけどね。その時までは本当にそう思っていた。だけどその直後にかなり考え方が変わってきました。あれで本当はまずかったんじゃないかと反省するようになりましたけどね。
で、その時に確か日本からは針生さんがコミッショナーで行ってますよね。で、彼は工藤哲巳とあと誰を選んだかな。一番よく覚えているのが、工藤哲巳というのは、あの頃、賞制度がありまして、工藤哲巳が間違いなく大物だから賞を取るだろうと、針生さんもそう踏んでいたし、工藤がもう同じようにそう思って。で、羽振りが良かったですよ、コンコルドで乗り込んで来ましたからね。で、ところが賞をやめましょうってしちゃってね。工藤だけじゃなくて他にもいたんですけど。これだけ著名な作家にまた賞をやるっていうのは何の意味があると。その賞金は将来有望な若手に回すことにして、工藤とかなんかは今までの功績を讃える名誉賞に留めていいんじゃないかと。僕はこれで充分彼らの栄誉を讃えたはずだからいいんだけど、やっぱりお金っていうのは怖いですよね。針生さんが怒っちゃってね。工藤はああいう人だから、峯村さんあれでいいんだよ、僕は若い連中が育つのがいいと思っているからなんつってね。工藤っていうのは、人類は次の世代にかかっていて、我々の世代はみんな死んでいくんだと言っていた人だからね。言っていたんだけど、針生さんがすごく怒っちゃって、こんな若い未経験の連中を審査員にしたこと自体が間違っていると。どうもその時から針生さんとはうまくいかなくなっちゃった。今だに尾を引いている。

暮沢:それで先ほど、概念芸術批判をされていますが、峯村さんが批評活動を始められた70年代というのは、コンセプチュアル・アート、概念芸術の時代として語られることが多かったと思うんですよね。それ自体どう思われますか。

峯村:私はもう早く概念芸術に関心を持ったひとりでね。中原さんもおられたけども、かなりそれで勉強しましたよね。芸術というのはすべて概念から離れたところでは成り立たないんだけれども、概念というのは応用として使うことが極めて容易な種類なんですよね。ものをつくるときに、概念が全然無いとものが立ち上がらないし、それから(ものをつくると)応用ということも難しい。だから応用芸術というのはみな、概念なんでしょうね。概念を越える働きだけが、本当に貫くものだけが芸術だと思っている。私の概念芸術批判というのは、芸術はまさに概念を越える、それだけが芸術だという言い方をしているんです。しかし、概念芸術の功罪はそこにあって、芸術の根本は概念の働きじゃないかと着目した人々は、それなりに聡明だったにしても、それが容易に堕落への道になるということをその当時見抜けていたかどうかね。
で、最初から既に1969年に、ニューヨークの美術館(New York Cultural Center)で黒人評論家の何とか(Donald Karshan)という人がオーガナイズした「概念芸術と概念芸術のアスペクト」(Conceptual Art and Conceptual Aspects)というのは、二つに分けて展示したんだよね(注:1970年の展覧会)。アスペクトというのは、概念芸術がひとつの様相を持っているけれども、概念芸術の原理そのものによって成り立っているのとは違うという意味です。ある意味で応用、イメージをいろいろ転用する、あるいは写真なんか特にそうですけども、地図を持ってきて、描く代わりにするとかね。これはまあアスペクトに近くなるんだけど、一番最も概念芸術の一番厳しいのはよくも悪くもジョセフ・コスース。

暮沢:アート・アンド・ランゲージとか。

峯村:言語になっちゃいますね。で、だから概念芸術って根本的に矛盾があるんだけども、純粋にその方面を見ていこうとするとコスースみたいなもの(になる)。少し緩めて河原温さんですよね。

暮沢:当時はもうニューヨークに行っていましたから、完全に海外の文脈ですよね。河原温は。

峯村:当然そうですね。彼は1965年か66年、67年頃に始めてね。ヨーロッパ、アメリカで概念芸術が出てきた時の一番最初から彼は注目されていた。コスースと河原さんっていうのはタイプが違うけど、概念芸術の硬派のトップ。一番中核。その他にたくさんいるでしょ、言語だけ使っているならローレンス・ウェイナー(Lawrence Weiner)とかいるけども。

暮沢:ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)とか。

峯村:ずっと後ですね。60年代終り頃というと…… その頃の雑誌、ここには置いていないけどね、最初はヨーロッパでやってますね。それから、69年にニューヨーク市の美術館だかでやったのは、アスペクトがあるという指摘でなかなか鋭かった。アスペクトっていうのは限りなく拡散できるんですよ。もともと芸術は概念的な操作によってどのようにでもいじることができますから。
その後70年代まで続いていると思うんですけど、基本的に、概念芸術が定義した、概念の操作によって芸術の見かけ上の発展、展開を保証するというやり方は、ずっと今に続いていると思って、私の現代美術への興味の喪失は多くはそれにかかっている。そういうものが出てくる必然性は分かるんですけども、それをてこにしてやっていることは、ひとつの歴史的な必然性と称して、坂を転げ落ちているだけという。

暮沢:概念芸術批判はそこにあるんですね。

峯村:そうですね。

暮沢:日本に概念芸術があって……

峯村:どういうのがあると思う?

暮沢:例えば高松次郎とか、先ほど出てきた……

峯村:私はねえ、「日本の概念芸術」と語るのにためらいがある。もっとひどいのはミニマルアートですよね。日本にミニマルアートがあったかのごとく言う人がいるけど、事実上無いんですよね。それでアメリカで特に発達した進化論的な芸術観に基づくような現代芸術の展開軸をそのまま日本に持ってきて用語まで当てはめようという評価をみんなやってるんだけど、これは私、実に良くないことだと思ってるんですよね。全ての要素は芸術にみんなあるんで、否定できないですけど、ミニマルアート、日本的ミニマリズムっていうのはありますよ。しかしミニマルアートっていうのは様式のレッテルでして、アメリカである時期、非常に短い期間に作家たちが切磋琢磨して芸術を成立する最低の基軸を追い求めていくといったときに初めて出て来たものなんですね。日本のアーティストではそれはないですよ、追い詰める姿勢っていうのはね。李禹煥なんかは、ドイツに行くようになってから向こうで様式的に彼の絵とか彫刻がミニマルアートなんだって言われて、本人はそう言われるとその方が有利ですから、自分はミニマルをやっていたために良かったというようになっているけども、これは全然噴飯ものだと思っています。
その前に国立国際美術館でミニマルアート展っていうのをやっていますけどね、そのときに日本では、もの派が選ばれてましたね。私は実に良くないと。ミニマルアートはアメリカのものですからね、で、日本はもの派。僕は、もの派、もの派って言いたくない、どっちかっていうと。でも、何でアメリカでの名付けの系譜の中に日本を入れるかと。この間、国際美術館でもの派って言葉をはっきり入れた展覧会をやってくれて、ようやく、まともなことになったと思うんだけれども。ひとつの言葉で括られるようなことは限界があって、しかしそれを一般化するなら、一般化するような概念をもうひとつ出さないとですね。
これは私、暮沢さんにひとつ注文があるんだけど、もの派というのは実は非常に限られた現象に対してだけしか言うべきでないと。だから例えば狗巻(賢二)はそういうところもあるけど、野村仁さん、あれは全く相反する芸術傾向なんですね。これはもう全く違うんですよね。だけどそれがもの派じゃないかっていうことは、あの展覧会でだまされちゃう。岐阜(県美術館)が立ちあげて関東では埼玉県立近代美術館でやった……

暮沢:「1970年―物質と知覚」(注:「1970年―物質と知覚:もの派と根源を問う作家たち」展)ですね。

峯村:原理か何かを問う作家という。もの派と言っていますけどね。もの派というのだけではやりたくなくて、その時期を全体として扱いたかったんですね、だからもの派も、その原理をある方向に視線を特化させながら、原理を極めようとしたのは間違いないけど、野村仁は全く違う方向だったと思う。もの派はいくら広げてみても、まあ高山登、榎倉康二くらいではと思いますけどね。だから概念芸術は本来そうだと思っているけど、人間、同じ言葉で全部ひっくるめたいという欲求がどうしてもありまして、ニューヨークでも「グローバル・コンセプチュアリズム」って(展覧会が)ありましたね(注:1999年にクィーンズ美術館で開催)。

暮沢:日本からはどういう人たちが……

峯村:日本からは彦坂が出ている。富井玲子さん、私は彼女に幾つか翻訳してもらって大変感謝しているし、非常に聡明な方だと思うけれども、彼女にコンセプチュアルで彦坂ってどういうことなのって言ったら、いや、アメリカではこれがコンセプチュアリズムなんですって。コンセプチュアル・アートじゃなくてコンセプチュアリズムといわれるなら、それでいいだろうと。ただそれはようするに包括的に見ていくわけですね。そうするとコンセプチュアリズムっていうのは、東ヨーロッパのかなり政治的な想いを持っていたいろんな人間だとかそういうのがグローバルにすくい取れるところがあって。それならば、まあ分からないでもないけど。そうなった時に、そのコンセプチュアリズムの中にどんな意味があるか。もともと芸術というのはコンセプトが中核にあって、それをそういうふうにして広げて、これもそうあれもそうと囲い込んだところで何?という疑問が僕にはあります。話がちょっと拡散しちゃったけど。

暮沢:多分それが80年代に平行芸術に関わったポイントでもあるわけですよね。

峯村:平行芸術という考えはものすごく様々なものをひきずっていて、私の中でもよくよく考えていくと、私自身がまずよく考えなければならないことがあるんですけども。直感任せにああいう言葉を出したけど、だから今日はちょっとそこのところは……

加治屋:平行芸術展ともの派の話は来週伺います。今の関連で、松澤宥さんの活動はどういうふうにお考えですか。概念芸術と括られることが多いと思いますが。

峯村:同じですけどね、松澤さんというのは、どちらかというとシュルレアリストの仕事をしていたんですよね。和風シュルレアリスムでね、オブジェ、奇妙な呪術的な文字とか装飾品とかそういうものを用いたオブジェがあって。土着性の強いものですね。土着性が強いからどうってもんじゃないんですけど、彼はそれを後で文字だけでメッセージを出すようにしていますが、メッセージの内容もそうですけど、彼独特の観念を訴えるという強烈な方なんですね。
で、これは松澤さんに限らず、どんな民族でも土着的なところはある。つまり近代的な様々な要素を払いのけていくのを承知しないと、土着性の強い芸術家は、どこにも強烈な観念のしこりみたいなものを抱えていて、どんなやり方であれ、アカデミックな要素を一切抜きにして、なんらかの形で出していくんですね。松澤さんの場合でしたら、シュルレアリスムと習合した日本の土着の色彩をまぶして出してくるというのをやっていた。だけどそれだけですと、ちょっとまさに土着性で終わっていたんだろうと思いますけど。彼が注目されるようになったのは、結局オブジェを見捨てて、あれ全部天井裏に封印したわけですよね。文字だけでメッセージを出すことになった。だけど、彼の中ではっきりこのメッセージというのがあるわけなんですね。それでそれを表明するための形式とか道具というのももう決まっていますね。主題と形式との間の往還関係で、芸術家が人生を歩むと同時に絶えず自己変革していくという近代的な道筋を閉ざしちゃっている。これが土着性ということですね。自分の訴えたいメッセージを出すことが最大の目的で、それは叫びなんですよね。それが好きな人は分かるけど、私みたいな近代主義者は、ある意味でね、芸術というのは自己変革する、その自己変革というのはメッセージの内容ですらも場合によっては変えていってしまうことがあるわけなので、それが形式に沿いながら形式を変化させる。形式の変革、形式内自己批判というのは当然あるわけで、それを松澤さんは全部封印してしまっている。松澤さんには自己批判がないんですよ。
 ところがいわゆるアメリカではっきり出てきた概念芸術、概念芸術アスペクトじゃなくて概念芸術というのは、とことんまでモダニズムなんですよね、つまり芸術の本質を抽出するために、過激なところ、崩壊するところまででもいってしまおうとやってきたところがある。それと折り合わない全然違う筋のものだと思うんですね。ただどんな手段使ってでも自分のメッセージを出したいという時に、オブジェじゃなくてメッセージの文字を選択したときに、見かけ、アスペクトが概念芸術になっている。しかし本質は「観念」芸術だと思っている。アイデア・アートなんですね。「観念」を表明する。だから、絵でも、自分の死生観みたいなものをかなりどろどろしたような絵で表明している芸術家というのはたくさんいますけど、本質的には変わりないんじゃないかと思っていますね。
私、松澤さん、人柄好きだったしね、とぼけていて、本当に好きだったけど。彼を日本における概念芸術だと思いたいというのはみんなアメリカを基準にするから。私は今言ったアメリカはアメリカの、日本は日本のやり方で来ている。何か概念芸術なるものを突き詰めたものができていればそれを認めたらいいんじゃないかと思うけど、それと松澤さんとは違うように思いますね。松澤さんという人を評価するしないじゃなくて、あれを概念芸術だと言う必要はないんじゃないかと気がしているんですね。
河原温さんは難しい。彼には、彼の立場からすると松澤さんが日本にいてくれるっていうのは助かるんですよ、自分ひとりだけっていうのは、根っこがないみたいに思われちゃう。松澤さんがいてくれるっていうのは助かるって。政治的ですね。今でもそう思っているか知りませんが、そういうふうに言ったことがある。芸術家が自分の立場をどれだけより有利にするかというのはあたり前ですけどね。河原さんが日本という名前のついた展覧会に出さないというのは、自分がどれだけ明快な形でひとつのブランドの綺麗さを維持するかでしょ。同じようなことで、松澤さんが概念芸術の作家としてどれだけ純粋であるかどうかという議論だけじゃなくて、日本にひとつ類型かどうか知らないけど、あるいは類似活動というのがあるというのは、彼の立場を良くするんじゃないかと思うんですよね。

加治屋:河原温さんがそういうことをおっしゃっていたのは、いつくらいでしょうか。

峯村:もう随分前ですね。私ももう随分河原さんにお会いしていないので。もう10年以上前ですね。

暮沢:定期的に日本に戻ってきているみたいですけどね。毎年帰って来ているみたいですね。ところで、5年ほど「アートレポート」という現代美術紹介のTV番組を担当されておられました(1976年から1982年まで)。実際には僕は見てなくて聞いただけなんですが、どういうことをされていたんですか。

峯村:岡﨑乾二郎とは同世代?

暮沢:僕は10歳くらい下です。

峯村:じゃ無理もないね。岡崎乾二郎、それもよく見てたんだよね。この間会ったら、僕が忘れていることまで克明に言い出すのよ、峯村さんこうやって登場してきてこうやってしゃべりだして。何でこんなことよく覚えているんだろうというくらい。

暮沢:何曜日の何時くらいにやっていた番組ですか。

峯村:日曜日じゃなかった? 時間帯変わりましたから。最初は深夜にやっていたんですね。貧乏番組だし、世間もありがたく思わないのをやるわけですから、深夜くらいしかあいてないわけですよね。それがよかったんですね。美術界の人は宵っ張りだからよく見てくれましたね。そんなこと言うと叱られるかもしれないけど、あれを見て美術の世界に入りましたとかね、あれで現代美術を勉強しましたといった人が多いんで、僕自身がびっくりしているくらいなんです。逆に、いくら美術関係者が見たって視聴率には反映しないわけ。視聴率を調査するとものすごく低いんですよね、だけど何とかもっていたのは、日本教育テレビNETの一番の筆頭株主かセカンド株主が旺文社の社長だったのね、社長さんの息子さん(長男)がアート・エージェンシーっていう、画廊でもあるんだけどテレビをやるというところで、最初から多角的なことをやろうと思っていたのですかね。その線がしっかりしていたので、つぶされなかった。一番のピンチが来たのが何年でしょうかね。石油オイルショックはもっと前だったかな?

暮沢:(1979年の)第二次オイルショック?

峯村:第二次オイルショックだね。それで節約令がでてね、不用品、不必要なものは全部消せと。あのとき消されていてもおかしくなかった。だけど生き残って。生き残った代わりに朝、早朝に持ってかれちゃった。夜はできないっていって、朝6時半くらいの時があったかな。そうすると美術の関係者、誰も見なくなっちゃった。「あの番組惜しいですね、もう終わっちゃったんですね」「いやぁ、やっていますよ」って、みんなびっくりしてね。ところがそうなって移った途端に視聴率がうんと良くなったの。一般の人が朝、別にその番組を期待して見てるわけじゃないですよ、チャンネル回していたら変なのが出てきた、見てたらこんなおかしなことあるのっていう。それで多くの人に注目され始めた。

暮沢:テレビの美術番組は、一般的には教育テレビの「日曜美術館」を連想する人が大半だと思うんですけど、(スタートしたのが)同じくらいですよね。あれは1975年くらい。

峯村:そうですか。

暮沢:意識はされましたか?

峯村:うーん。もともと私そんなに美術番組見てないし。NHKがそんなに好きじゃないから見てることはなかったけど。そうですね、制作者の方は少し意識していたかな。それと最初、宣伝というか知名度を上げるために伊丹十三さんにワンクールつまり三ヶ月担当してもらったんですよ。台本は私が書くんだけど、知恵を出したりアイデアを出して、非常におもしろく進んで、本人も出演して非常にユニークな映像づくりに情熱を燃やしている。テレビの活用の仕方というのに並々ならぬ情熱も見識もあった伊丹さんが、これこそ俺がやりたかったことだと言わんばかりに非常に喜んでやってくれてね。伊丹さんの頭の中にはNHKをぶっ飛ばせ、「日曜美術館」を吹っ飛ばせという意識があったかもしれないですけどね。

暮沢:テレビの美術番組は、東京12チャンネルでやっていた「美の美」というのがありましたね。

峯村:ああ、あったねえ。

暮沢:映画監督の吉田喜重が……

峯村:そうそうそう。吉田さんね……

暮沢:映画が取れなくなった時期にやっていました。暗い感じのナレーションで。どこかでフィルムで見たことがあります。それで、これ(アートレポート)はいい経験にはなられたわけですよね。5年くらいですか。

峯村:これはちょうど6年です。経験というか、私はこれをそんなに覚えてないんですよ。心の中で私が本当に欲求してやっていることじゃないから。ただこれの時に海外取材に出かけたんでそれは助かりました。ヴェネツィア・ビエンナーレとかアメリカのいろんなところに行きますとね、経費節約で一回出て行くと6回分、あるいはある時にはまさにワンクール三か月分撮り溜めする。つまり撮り溜めするっていうことはそれだけいろんなところを見るわけですね。いろんなところ巡るわけですね、ドクメンタ展もそれで巡ったことがある。それはありがたかった。だけど、テレビに出るというのは、映像作家、映像表現者であれば大きな経験になるのかも知れませんけど、私はその気が全くないもので、基本的には随分知識の持ち出しになった。海外取材に行ったときに見聞きするものが返ってきた感じですね。ただ社会的には私の想いとは別に、結構それなりのインパクトはあったかもしれないですね。

暮沢:映像がどっかに残っていないですかね。

峯村:伊丹さんが亡くなって大分経つけども、伊丹十三記念館というのが愛媛にできたでしょ、出身地。本当は伊丹さんが、お父さんの伊丹万作記念館を作ろうと生前に語っていた。ところがご本人が亡くなっちゃって未亡人の信子さんが中心になって、万作さんよりやっぱり十三さんの方が大きくなっちゃて、伊丹十三記念館をつくる。その間に一生懸命探して、その友人たちの認識の中で伊丹十三にとっては全ての仕事の中であれだけいろんなことをやった人だけど、おそらくあの美術番組が最高の仕事だったんじゃないかと言うんですね。私あの人の仕事を知らないんで、映画はちょこちょこ見ているけどエッセイって読んだことないし知らないんですけど、少なくとも映像の仕事の中で彼が一番やりたかった仕事なんじゃないか、ということで、それをきちっと記録に留めて記念館に入れたいと言われたらしいんだけど残ってなくて、わずかに信子さんがうちで6本くらい録画したものがあるだけだっていうんですね。

暮沢:家庭用ホームビデオがまだ出始めた時期ですよね、75、6年って。

峯村:どの程度の画質か知らないけど。一応その中から三篇か、選んで伊丹記念館に収めたとか言ってましたね。相前後して京都のNHKの伊丹十三を回顧するという番組の過程でこのことを知りたいと。断片的にそれを知って、見たらとんでもない番組だったんですねと質問されて。それから本当に調べてもらったんだけど、何しろものが出てこない。でも美術館で持っているところがありますよ。名古屋市の美術館、コレクション(河原温作品)と一緒に買って、というかその資料として持っている。広島市の美術館も持っているのかな(岐阜県美にも入っているはず)。

暮沢:特定のアーティストを取り上げたときのものを持っている。

峯村:そうだね。

暮沢:では、今日最後の質問になってしまいますが、毎日新聞社を辞められたのが1971年ですよね。多摩美に着任されたのはいつですか。

峯村:最初は非常勤講師で来てくれといわれて、一年行くわけですよ、そういうやり方でみんな行くわけですね。それが記憶がはっきりしないんだけど78年に行きはじめたんじゃないかな。それで翌年79年に助教授でそこに就職という形ですね。

暮沢:ということは8年間フリーだったわけですね。その他は小原流に助けられた云々ってありましたけど、この間が人生において経済的には厳しかった時期でしょうか。

峯村:ですね。

暮沢:書きものとか、展覧会とかそういったことで生計を立てておられた。

峯村:他に何もなかったですね。よく首つらずにきたと。

暮沢:そういった意味では、テレビ番組の仕事が大きかったんじゃないですか。

峯村:それはそうですね、76年からですからね。いや、非常にペイは低かったですよね。ただ毎週ですからね。毎週ということは、全部やれば52週、最低でも50週、単価安くても50倍になるからね。今までの生活から変わりましたね。

加治屋:もの派とか平行芸術とか、今日お伺いできなかったところは、来週改めてお時間をいただければと思います。

峯村:私はもの派に特に入れ込んでいるわけじゃなくて、批評家のあり方として他に誰もやらないから異様に関わっちゃったけども、共感するところが深いわけでもないですね。だから、考え方といって平行主義、平行主義という言葉だけだと変なんですがね。さっきもちょっと話したように例えばシステムという考え方とか、それから私のイデアという考え方。イデアと情調ってずーと引きずっていて、今でも私の中で課題としてある問題なんです。イデアという概念を納得するのにまだずっと時間がかかっていますけども、私の中で非常に強いのは種子、種ですね。生命。芸術は生命だという考えがあるというので、その生命現象の中の種子に類するものが四方にあると考えていいかと思うんです。で、それを突きつめて考えていくと平行主義が出てくると。平行主義についてあれやこれやとお話すると、かなりのところ私の芸術観が出てくると思う。ただ情調論っていうのはちょっとそれと違っていて、私の最後に死ぬまでにちゃんとしなきゃいけない大テーマなんですよね。大きすぎて大変なんだけど、非常に先行きが明るい。というのは…… 次の時に出てくるね。今話すのはやめとこう。

暮沢:では来週改めてお時間いただいて。

峯村:来週の木曜日でしたっけ。そうですね。みなさまご苦労様です。

暮沢:ありがとうございました。