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水上旬オーラル・ヒストリー 2009年3月21日

名古屋市中区丸の内 事務所にて
インタヴュアー:坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2009年6月1日
更新日:2014年9月14日
 
水上旬(みずかみ・じゅん 1938年〜)
美術家
「万博破壊共闘派なる“不逞の輩”京大バリケード内に侵入、萎縮せる珍宝晒らせし緊迫の空間の、京大教養学部本館屋上より地上に向け、指向せる赤い矢印と造反有理の文字を縫ってするすると伸びたるロープを、ましらの如く滑り降りんとしたる男あり。水上なり。真下には白布で形どったる空無の円。この折、無念力及ばず墜落昏倒せし不覚の事故は・・・・・・」(『美術手帖』1971年1月ヨシダヨシエによる水上紹介文より抜粋)。1970年にゼロ次元が京大バリケード内に侵入し全裸のパフォーマンスを行った際、屋上から地上に張られたロープより落下し伝説になった男、水上旬が初期からのパフォーマンスをひとつひとつ詳細に語った長時間インタヴュー。

坂上:2009年3月21日12時14分水上旬さんインタビューを始めます。宜しくお願いします。

水上:宜しくお願いします。

坂上:水上さんの水上旬という名前ですが、どうしてこういう名前を付けられたのかというのがあって。美術のときは林敦夫の名前でしばらく出ていますけど、この詩集、『青炎』(注:詩の同人誌。1958年6月、7月、11月号に水上の詩が掲載されている)なんか京大に入って間もなくの頃に、詩でデビューというか一緒に詩の本を作ったり、そういうところから活動を始められてますけど。すでに一番最初の活動のときから水上旬という名前をつけてペンネームかなと思ったんですけど。

水上:本名の林敦夫(注:水上の本名)という名前で詩を発表したときもあったような気もしますけども、やっぱりペンネームというか、詩人とかそういう人達はペンネーム使う人が多くて、詩はかなりいろんなものを読んでいたもんですからね。そんなところから。何で水上とか旬とか言うものを出したのかというと、聞こえの音がいいなと思ったんです。「みずがみ」というと泥臭いけど「みづかみ」と澄ませて言うとね、それでまあそんなふうなことで、芸名を持つと。

坂上:お母さん方の姓が水上であったとか。

水上:関係ありません。「旬」も何も関係ありません。全部気に入ったアクセント

坂上:気に入った文字と気に入ったアクセントを組み合わせて。

水上:変な屁理屈をつけるとすれば、聞いた音がさわやかだと自分で感じる、それが好きだよ、とね。そんなようなところから音声的なところからどうも勝手を言い始めていたのかしらと。

坂上:「つ」に点々で「づ」ですね。「みづかみ」って。

水上:それはね、古いパターンのままで大和言葉でつかっていくと、水っていうのは「つ」に点々なんです。ところが戦後かな、国語審議会かなんかでにごるのは全部「さしす…」に点々にしようと決めてしたもんだから。当用漢字方式だと「す」に点々なんですね。こっちは意図的というか元の感じで行きたいと。だからまあまあ当用漢字方式でずっと習った方は、何で?っていうふうにするわけ?と。もうちょっと古いと違うんですけどね。今でも広辞苑でもいいんですけど、水なら「みづ」として旧字スタイルのときに「つ」に点々という表示が出るはずですよ。多分ね。

坂上:使い始めたのはやはり詩の時からですね。美術のときは、1962年のグループ展のときなんかはまだ林敦夫で。

水上:はじめのわずかのとき林でというのは、当時の美術系の時にはみんな僕のことを略称呼びでは「あっちゃん」と呼んでましたね。(ギャラリー)16でもそうだったでしょう?

坂上:いつしか「じゅんちゃん」になって。

水上:全部「旬」で統一してって。

坂上:ある日突然みんなに言ったんですか。今まで林敦夫だったけど実は水上旬だから、って。

水上:ちょっともう覚えてないですね。ただ、どこか発表するときに水上名の方へ。

坂上:いつくらいから切り替えしたんですか。

水上:わからないね。でも今ちらっと見せてくれた加藤由美子さんたちとのグループ展が(注:1962年11月26日〜29日、「4人展」、板倉陽三、林敦夫、綾田雄作、加藤由美子)。

坂上:62年。

水上:62年というと僕が(京都)アンデパンダンに出し始めた時期とかなり似てるんですね。

坂上:アンパンの方が先です(注:1962年1月11日〜15日)。

水上:というとひょっとすると1962年のアンパンには林の名で出しているかもしれない。

坂上:調べなおします(注:水上旬の名で発表している)。

水上:リストあるでしょ?

坂上:あるからあとで見ます。

水上:この時はこの4人展の人たちと結局どうなのかな。

坂上:この4人は……。水上さんそれまでアンパンは出していたけど、京大生で詩の方がメインだったじゃないですか(注:『筏』、『京大詩集』を1959年より編集)。どうしてこの4人がまず出会ったんですか。これが一番最初の美術的なグループ展に近いかな。

水上:ですね。当時、四条河原町の西側を少し上がったところに京都書院がまだあったんです。京都書院は比較的初期から2階にギャラリー空間を持っていたんです。そのうち建て直して3階から4階になって移ってそれから閉じていくんだけども。そんなことの辺りで、美術家がするというよりもどちらかというと学生さんの美術クラブってあるじゃないですか、一般学生も専門美術のところも一緒かな。例えば京都書院だとか他にいくつかあったんだけど、そういう画廊でね、自分たち発表するというかそういう機会がありました。だから専門画廊というのとはちょっと違ったんですけどね。そのときに加藤さんは同志社の女子大の方の美術部の方だったです。で、そこの発表会をしておられたわけ。いろんな展覧会に見物に行くわけだけども、あるとき(加藤由美子氏の展覧会に)行ったらかなりごちゃっとしたのが、(同個展中の)週末近くにいくと画面が真っ白になってね。油絵具で塗りつぶしてあって。

坂上:加藤さんって有機的にうじゃうじゃって感じの作品をつくってましたよね。

水上:はじめはオブジェクトみたいなのを作らない人だから、やっぱり絵画系等だけども、半具象かな。それでごじゃごじゃっと言っても、その頃すでに知られている風にいえば、合衆国の絵具ドロップさせていくポロック(Jackson Pollock)とかそういう人達を知る人は知ってるんですね。知っている以上になるというのは、今度は音楽の方に少し入りますが。ジャズのオーネット・コールマン(Ornette Coleman)というのがいたわけです。その彼のある時のジャケット(『Free Jazz』1959年)がポロックのドリッピング(《White Light》1954年)を表紙にしてるんですね。表紙っていっても全部表紙じゃないけど窓開けたみたいなところに、ポロックの仕事があるんです。そんなふうなことで、ぼちぼち知られるようになっていくんです。ポロックが広くね。そうこういいながら加藤さんもそういうものを見ていたかもしれないですね。美術雑誌といってもね、日本の美術雑誌にそういうものがあったのか、それとも国外の方の合衆国の美術雑誌を手にいれて見たのかもしれないしわかりません。

坂上:この時板倉さんとか綾田さんは?

水上:綾田氏と加藤さんは大阪の方かな、神戸かなんかで高校が一緒だったのか、または綾田氏の方はその時に後でいう京都美大(注:京都市立美術大学、現在・京都市立芸術大学)のデザインコースを出ていたかですね。で、板倉さんはどこをどういう風に入り込んでいったのかはわからないんだけども、やっぱりいろんなごちゃごちゃも好きな人で、好きっていうのの引っかかりは結局ジャズ喫茶なんですね。ジャズのレコードをかける。そうしたところで知り合っていくわけですね。

坂上:この4人展っていうのは。

水上:そういうとこで知り合っていったことと、僕の場合は加藤さんのその展覧会を見て「何でああしたの」(と彼女に聞いた)。「やりたいからしただけよ」って。「どこにいるの」って言ったら「御所の向こうの方に住んでる」って。「一ぺんそこへ訪ねていってもいいかしら」「いいよ」ってね。ガキもいいところで、この間なくなった檸檬の店が寺町二条にあったわけだ。

坂上:ありました。八百卯でしたっけ?

水上:あそこでレモンをひとつ買って(笑)。御所の向こうの方のかとこちゃん(注:加藤由美子のニックネーム)の下宿を訪ねていくわけですよ。そこへ上げてもらってそこで、2〜3時間美術話を聞かせてもらったわけですよね。まあそんなことやらのうちに4人展ができる。

坂上:このころ京都会館でも草月のイベントとかジョン・ケージのイベントとかなかったですか?

水上:京都会館はこの時よりも後に出来たんでないかしら(注・1960年4月開館)。ちょっとそこんとこ自信がありません。調べてください。っていうのは比較的初期に京都会館というものがあり、そのわずか同じコーナーの北側部分にですね、公会堂っていうのが京都の、それが実はそこでよく美術展をしていたというのがあって。

坂上:円山公会堂ではなくて?

水上:円山ではありません。平安神宮のすぐ前の通りと……。

坂上:みやこめっせの辺りですか。

水上:みやこめっせは二条通でしょ。今言ってるのは、西の方へ疎水がぐるっと回って通っていく、要するに何ていいますかね、音大があるんですね。武徳殿って覚えてません?

坂上:武徳殿?

水上:あそこの疎水を二条通から動物園を今度は横に行って、というか北へ。今度は西の方へ行くと東山通を越えて、その次深くなる、その何ていうか水泳場。

坂上:あるある。踏水会?

水上:そうそう。あの通りをつなぐと平安神宮のどまん前でしょ。あそこの通りの南側にいわゆる京都の公会堂っていうのがあるんですよ。今でも。

坂上:へえ。本当に。知らなかった。

水上:あるんですよ。ひっそりして。つまり京都会館のいったら裏側になるわけ。京都会館の事務所あるでしょ。事務所の方。あれの北側。その間になんだかちょっとした水周りめいたもんがあってさ。だからもう東側になると駐車場になってて。うん。

坂上:この時水上さんはどんなことをしてたんですか。(坂上の手元にある資料によると)ちょうど11月だと「Cell白ミサ4人展」とは違うんですか?

水上:それかもしれません。その年数ですか?

坂上:これ水上さんの年譜です。ちょうど62年11月っていうとこれなんです。

水上:そしたらそれです。「Cell白ミサ4人展」って。

水上:《Cell白ミサ》っていうのは僕自身の出したもの。あの当時のをひっぱりださないとわからないんだけども。誰風っていったらいいのかな。おそらくそれは、ベニヤ板を多分4枚で立てると90センチ四方の箱ができるじゃないですか。間に六割り(木材、ほぞを作るときなどに使用する)を挟んでベニヤ裏表からやれば畳一畳大のパネルが4枚できるわけだ。4枚を4つに組んでしまうんですよ。組むけど一方だけ開けて、閉じてるけれども蝶番つけると一方は閉じてません。内側にも外側にも石膏張りして、あの頃贅沢なもんだから油絵具をシンナーで消してそこへ塗りたくっていく。で、部分部分をほわっとした細胞体みたいなものを描いてうずめていくわけ。それだけじゃ面白くないから、そこのところにひょいとした図形っぽくなりかかっていくと、そうしたものへの筆伸ばしをしていくわけですね。それはね、ひょっとすると残ってるかもしれない。僕の家に。

坂上:ベニヤは一枚90かける180(センチ)じゃないですか。それを4枚を立方体みたいにして。

水上:上もない下もない。

坂上:それで4面をベニヤにしてそこに細胞体みたいなものを。

水上:内側にもやっぱり張るの。パネルを。それ自体の表にペイントしたものも一粒ずつの細胞体みたいになるけど、ちょっと姿が違うけど、箱というかパネルを組んだそいつも、ひとつの部屋兼細胞体だというふうに取れば、そういうふうな取り方をできる。それを置いて、そこの中で当時僕は、サックスも吹いているもんだから、それを持っていって中でその音を出すようなことをしたのかもしれませんね。おまけに白ミサっていうのは、もう一方にあるのは黒ミサって言葉があるんです。白ミサって言葉はあまり使わないんだね。つまりそこもうちょっと伸ばすとしたら、黒魔術っていうのがあるんですね。白魔術ってあまり言わないですね。っていうのは白魔術っていうのはブラックの方に行かないもんだから、むしろ空へ向かって飛んでいく、そっち側のもんだから、こっち側がするのはむしろ白っぽい方だよってね。そんな風のイメージをそこへくっつけた上でのことですね。そこへつなげていくのはどっちかと言うと細胞とかそういうのはどんどん暗くなっていくのだから、そう見えても実はそうじゃないぞとそういうような事で。当時に思っていたのは、もう一つ言うとね、とても触れたくないようなオブジェクトは実は触れたら離せなくなるようなものだっていうそういう見た目と意識の逆転作用みたいなものに興味を強く持ってましたね。

坂上:気持ち悪いもんだけど、魅せられたらのめりこんじゃうみたいな。

水上:そこをもうちょっと開いて持ち込む(笑)。そういう感覚って人間って時々持つんですね。どうしようもないけど。

坂上:東京のアンデパンダンでも結構そういうおどろおどろしいのとか気持ち悪いのとか当時出てきてましたから。

水上:ありましたね。

坂上:なんとなく時代的にそういうものだった。

水上:そうですね。やっぱりね、その現場にいようといまいが、実は戦争という風にしといていいのか、あるいは、もう貧民窟っぽいのとかそういう風なのでもいいんですが、そこらへんの要素みたいなものをどんどん打ち重ねていく。壊すんじゃなくて、またこれか、またこれか。そういう風にしてやっていくパターンっていうのが一方にあるんですね。なんかそこは、好きか嫌いかというと僕は好きじゃない。そうした陰惨な方に持ち込んでいくのは。だがそちらの方が、ひょっとすると今でもそうかもしれない。好まないもんだから、そういう特殊なもんだからっていうんで、ちょっとそこらなんか大喧嘩になってしまいそうな問題かな。

坂上:戦争っていうのはわからないけど、ちょうど京大入って2年生のときかな、1960年に《永田町追悼儀》(注:1960年7月)。これ樺美智子の時ですよね。

水上:そうですね、その後に情報で知って。すぐですからね、あの情報がくるのは。離れていたけども、何故かっていうのは、今みたいにパソコン類とかそういったものはないんだけども、電話というのがあって、ただし当時は電話をそう簡単にかける意欲は僕にはなかったわけだけども。

坂上:60年安保闘争で国会へ突入していった犠牲者の樺美智子の追悼のため、(彼女が)圧死した現場の路上に友人と紐を渡して、その紐の中央から小石を吊るした儀式ですね。

水上:そうですね。麻紐を両方の人がもって渡してその間から小石を吊るして、それぞれ人がいるわけだ、持っていて。

坂上:なんでそういう。それって今から思えば美術パフォーマンスなわけですけど。

水上:それはひとつの追悼儀という名前をつけているみたいに。そこで期せずして旅立ってしまったひとりの若い人、同年代みたいなもんなんだけど。その人にむけて冥福を祈るといえばいいのか、そういう場所を荒らさせない。それで通せんぼをしたわけだ。もちろんとても概念的というか観念的ですよ。というのはそうしても、もしそこを通るひとがいたら、ぱたっとひもを下ろしてしまいますからね。

坂上:それわざわざ京都に住んでいたけど、東京まで行ったんですね。

水上:そうですね。まだ当時は、今よりもそんなに時間が早くたたないわけです。そんなこともあるし、その時に、現場へ僕はよう行かなかったもんだから。現場といっても、現場でもないんだけど、ともかく祈りを兼ねてそこまで行こうと思って。行ってまあ、よくあるわけだけども、新宿あたりかな、なけなしの金で一杯飲んでいるわけだ。そしてその時にやっぱり似たような、崩れていく、僕も崩れていくわけだから、酒でって意味じゃないですよ、そんな人とふっと話を交わすようになって。「あそこへ追悼に行かないか」って話をしたら、「行こうか」と。そんな意味で友達と言っているけども、そういう意味では友達だけども、あっちで知り合った人。よくそんなことあるでしょ?旅先とかそんなのでも。

坂上:そこで気があって(追悼儀を)やって、さよならと。

水上:そう。「元気でいこうね、あとは」ってそういう感じ。

坂上:その人も学生みたいな人ですか。

水上:そうですね。

坂上:水上さんは自分も学生で、安保というものがあって、詩とかやってるくらいだから感性も鋭いところがあって。

水上:そこへ政治動向という方向じゃなくて、文化方向系等の――その時期、文化路線という言い方で、政治路線のほうからはほとんど見下された存在です。

坂上:水上さん自身は京大で安保とかやってないんですよね?

水上:いや、ちゃんと入ってますよ、メンバーに。でもね。

坂上:石投げたりとか。

水上:いや、まだ石投げっていうのはないの。それはどっちかというと70年系等へ向かっていくとき。

坂上:じゃ、この頃はまだ。

水上:まだかわゆいの。それこそね、何ていうのかな、じぐざぐでもってみんなでお手々つないでさ、道路一杯にひろがるわけだ。それで看板用のための棒切れを持ってる。それがゲバ棒へ変わりかけていくんだけどもね。まだその時はゲバ棒はない。

坂上:今みたいに、北朝鮮の人達を救うための運動みたいな、ああいう感じかな。

水上:そうですね。ゲバを振るうとかそういうことではなくって、何だったら新体操みたいにさ、ひょいっと紐でもいいんだ。ていうのはね、自分達のメッセージなりそうしたものをそこには吊り下げるなり看板張りをしてさ、そうしていくときの、手持ち棒みたいなもんだよ。

坂上:水上さんは安保の中に入っていたって初めて知りました。でもみんな入ってましたよね。

水上:みんな入っていたんですよ。学生運動っていうのはね。学生運動っていうとおかしいけど。

坂上:別に政治的な学生でなくてもみんな入っていたんですね。

水上:「行こう!行こう!」ってそんなですね。「行くの、俺やめとくわ」ってそんなのもいましたけども。だいたいみんなそれはまあクラブ活動よりももうちょっと当たり前に、みんなで行こうって。

坂上:水上さんはあまり政治的な感じはないですもんね。

水上:そうですね(笑)。

坂上:でもやっぱり安保のところに入っていて、樺美智子が死んだっていうのは、殺されたみたいなものじゃないですか。皆ショックだったんですよね。

水上:それがわずかでもって、どっちがどうしたって言い争いになっていくんですよ。

坂上:どっちがどうしたっていうのは、機動隊がやったかこっちがやったかって?

水上:向こうの方は、学生等が勝手にしたと。こっち側はあいつらがしたと。また余計しんどくなるんですね。

坂上:でもそれまで機動隊がああいう事はしなかったんですよね。

水上:それはああいうことと言えばああいうことで、つまり殺すというよりは圧殺、どういったらいいのか。結局大地震のときに後ろから駆けてくる人のために階段が崩れ落ちてしまうとかあるじゃないですか。いくつかあるよね。あんなふうなパターンとおそらく似たようなことではなかったかしら。

坂上:半分アクシデント、半分意図的みたいな。

水上:意図的というのはそのときにしかし、何十人の人たちがぶつかっていく、そのための空間は開けられていないとほとんど無理に近いという感じですからね。素直に無理だったと。悪いことしましたって。そこへ向かうのが筋だと思うんだけど、あいつらがやったって話をお互いがなすりあいやりはじめるわけですよ。

坂上:亡くなったのが樺さんっていう、ある意味でヒロインみたいな。

水上:もちろん女性でもあるし。理知的でもあるし。やっぱりそれこそお姫様みたいなね。

坂上:ジャンヌ・ダルクみたいな。

水上:うん。そういう人がなくなったっていうのは互いに使いやすいってわけだ。

坂上:それこそ政治の道具にされたみたいな感じ。

水上:政治の道具にしたのはいくつもいくつもあるんだけど、それもひとつのそういうこと。ああ、このとおりのことになっていくのね。じゃあもう、オレはどこからどう言われてもいいけど、もうバイバイだよっていうふうな事。だからそれでちょうどバイバイになるんですよ。

坂上:(表現を開始するのは)その時くらいですか。その前から詩とか書いてるけど。

水上:その時に詩というか、あるいはそういうイメージをどうこうしていくっていう感覚・感性ですね、そのことがあったっていうのはこっちにしたら随分助かったというか、逃げ場になったのかな。

坂上:別の表現が自分の中にあるっていう。

水上:することがあるって思うことと、もう一つは集団っていうのは気分が悪いと。気分っていうか気持ちが悪いっていうか。集団責任をオレはよう取らないっていうね。本当は誰も取れないんだけどね。

坂上:詩集でも集団といえば集団だけども。

水上:詩というのも、雑誌でもってどうこうっていうか、詩集っていうのはひとりの人だけのものだと集団とは言えなくなるんで。ただ、詩の同人とかなんだって言うと集団っぽくどんどん変わっていくわけで。そこらへんのとこですけどね。で、個々の力というふうなものか、そこら分類していかないといけないところですけども、アートワークスっていうのはほとんど単身でやっていくことが可能だってね。もちろんひとりで本当はいろんなことできるわけじゃないから、イメージやそんなものをずっと長い長い歴史とかあるいは同時期のいろんなところからの波及する何かでもって成り立っていくわけなんだけども、でも、なおそれをまだ個人の範囲内っぽく捉えることもできたと思ったんでしょうね。そこら話をしながら、ちょこっと読み替えをしないと駄目かなって感じがしてきた。人間っていうやつはひとりでできることなんてないんだよってそっちの方を強くとるもんですから(笑)。難しいね、本当に。

坂上:また戻るんですけど、京大の法学部に入学したっていうのはやっぱりお父さんが弁護士だったからですか。

水上:そうですね。

坂上:お父さんも京大なんですか。

水上:そうです。

坂上:京大一族。

水上:一族ったって二人しかいないですけど(笑)。北海道の話、前にしなかった? 父親は北海道で生まれているんですよ。網走。

坂上:知らない。

水上:そう? えっとね。明治の時期に開拓農民というような、そういうパターンをつくったわけだ。明治は。ていうのは国内でいろいろ人が増えていくと、そこだけじゃカバーできないと。もうひとつもどっていくとアイヌの人達の住んでいる土地を分捕ってしまったわけだ。ヘビーな言葉ですけど。

坂上:でもお父さん自身は日本人で、網走出身で。

水上:網走へ開拓農民にいった息子として生まれたわけ。随分後にね、見物にいきましたけどね。そこらへんの辺りをね。がらーんとしたすごい良いといえば良い場所ですね。

坂上:網走刑務所とか。

水上:建ってました。向こうの方に。サロマ湖っていう湖があるんですよ。季節によってね、雪解けで水が流れていくとそこの海と湖との間に溜まる土砂の掻き出しに行かないと溢れてくるってね。そんな湖があるんですね。その辺のところに比較的近いところに。

坂上:それこそお父さんは何で網走から京大なんですか?

水上:それはその時に、そこへ行った一代前というか僕にとってのおじいさまが出たのは大垣という地域があるんですよ、岐阜に。そこの奥のところの農家ですね、出るわけだ。それで、やっぱりこっち側でもぎりぎりになってしまうから、やっぱりどっかよそ行こうかというときに、初期の明治の植民じゃなくて、ほとんど後なんですね、中期かそれ過ぎる。そのときに岐阜一帯からそっちの方に行った一族があるんです。そこら辺のあたりは岐阜原野っていう名前が今でもついてるはずです。多分ね。

坂上:ブラジルに行くみたいな感じでいったんですかね?

水上:そうですね。

坂上:日系人コミュニティとかありますもんね。

水上:そこへは何も岐阜からばかり行ったんじゃなくて、例えば金沢の方からだとか幾つかの地域から人がそこへ行くんですね。もちろん農家・農民系統から行く人もあるし、武家の系統から行った人もあるらしくて。だけどもアイヌの人たちの地域だってなもんだから、それを結局武力かなんかで押しのけたんですよね。武力というか政治力ですね。そうするとやっぱりそこへ、もらったというのか買い取ったのか知らないけども、その土地にアイヌの人達がいるわけですね。その辺の話は聞きましたね。だんな様って言って、これだけの酒が取れたからそれをもらってくれって。つまり貢物でしょうね。で、そこへ住まわせろって。住まわせろっていうか追い出さないでくれってね。嫌な話だけど、牧場として囲ってしまうわけですよ。囲うったってイメージ上の囲うだけどね。それで季節に応じて熊が、といっても向こうはヒグマは滅多にこないけど、やっぱりツキノワグマなんかは出てくるわけでさ、そしてそれは人を襲うというよりは馬を襲うわけですよね。農民というのはそこで牧畜をしていったんですね。ま、そのときの馬というのは当時から聞いていたけど競走馬ですよ。競走馬というけどというよりばむしろ工作馬、馬車をひく馬。

坂上:ろばみたいな奴?

水上:ろばじゃなくて馬ですけどね(笑)。

坂上:それで岐阜におじいさんとおばあさんがいて。

水上:そういうこととやっぱりあとで聞くとそこのところで、お前達にそれを売り渡すというと安い金で買ったんでしょうね。そうするとそこにある山林も当然ついてくる。山林というとバンと放っておくと原野だからそこに杉であるのか何の木であるのか建物に使える木がいっぱいあるわけですよ。そいつを売るわけですね。製材業者に。そんなのもひとつの収入だったんだろうな。

坂上:それでお父さんが生まれて。

水上:生まれたけどもここじゃダメだという風にじいさまが思ったんですね。じいさまは岐阜にいながら時には江戸へ行って、どんなふうに状況が動いているかっていうのをどうも知っていたらしいです。そこらで新しいけども北海道のはずれの一番それこそ北の端っぽいところですからね。

坂上:19世紀の話ですよね。

水上:うん。本当ですね。向こうで生まれたのは何年目か知らないけども1900年代のはじめですよ。父親が生まれたのは。

坂上:ハブルさんと同じですね(笑)。林秋石(注:Lindley Williams Hubbell、日本名・林秋石。詩人。水上と坂上の共通の知人)1904年生まれだった、たしか。

水上:ですね。そんなんで行ってそして、やっぱりこのままじゃいけないということから、結局岐阜へ。岐阜が元々が出なもんだから、岐阜へ戻るんだけども、ある程度、馬を売ったり山林を売ったりして、わずかなお金は持っていたんですね。ですから岐阜市内の方へ移り住んだんです。でも向こう(北海道)の小学校はやっぱり程度が低いから、こっち(岐阜)は2〜3年遅れで入っているんじゃないですかね。それから順番に中学高校といって、どこへ行くつもりでどうしたのか分からないけど一応京都に。

坂上:法学部。

水上:そうですね。

坂上:水上さんは生まれた(1937年)のは京都ですね。

水上:それは僕の母親が京都の出だったから。だからそこの母親の実家で生まれたんです。宇治市っていうんですよ。だからそこの宇治市のところに、宇治じゃないんだけども、ずっと中書島を越えて西大寺とかいく途中に大久保っていうのがあるあそこ。あれが前は宇治市じゃなくて久世郡大久保村っていうの、そのときにそこにあった寺でね、今でもあるけどね。

坂上:そこで生まれた。11月12日。11時っていうのは?

水上:書いてあるの。ちゃんと。僕のじいさんはやっぱり坊主だから、林家長男敦夫って。僕の本名ですよ。11時ジャストそこで生まれたってね。

坂上:ちなみに先の話になっちゃうけど「2037年8月21日20時死望」っていうのは?(注:水上が自分の略歴にいつもそう書いている)

水上:99年9ヶ月9日9時間(生まれたときから経っているから)。

坂上:999999…9秒まではいいんだ別に。

水上:秒が入ってなかったから。入っていたらもちろんやるよ(笑)。それはね、お見せしてないんだね。日付が全部入っているのがあるの。いつか引っ張り出して。まだ何部か残ってるからあげますよ。ほんとに。それは6日刻みでね、生まれたときからバイバイデーまでね、きちんとしてあるの。どっか間違ってるらしいけどね。わかりませんよっていうのは、っていうのはそこに何年かぶりに何とか年単位の何とかっていうのが入るとかあるじゃないですか。だからそこら一切考えずに日付追いだけでやってますからね。それやったときに2037年になるわけ。

坂上:へえ。それが999999って。

水上:ぎりぎりまで。100まではいっちゃいけないと。いけないっていうのは十全数っていうのは、人間がそこまで望むのはいきすぎなわけ。

坂上:ぎりぎりまで望みたいと。

水上:だから999で追及したの。

坂上:なんで9なのかなと思って。こだわりの数字なのかなあとか思った。先の話を聞いちゃって。その前に、京都で生まれて名古屋に移るんですよね。

水上:結局ね、僕の二親とももう旅立っていってしまっているから細かいところ分からないけども、僕が生まれた時期は岐阜市に実家があるんですよ。もうその建物はありませんけどもね。えっとどういえばいいのかな。岐阜市ぼんやり分かります?

坂上:なんとなく分かります。

水上:岐阜市の公会堂って分かります?

坂上:金公園とか?

水上:美江寺とか裁判所とか。

坂上:うんうん。

水上:そこら辺のところに京町っていう、京都の町って書いた京町小学校なの。

坂上:宇治で生まれて、小学校に行く前に名古屋に移住した。

水上:いや、その当時公務員(裁判官)を父親はしてるわけね。

坂上:弁護士じゃなくて。

水上:まだね。そのときの関係でいろいろ動いていくわけだけども、配置転換。転勤です。そんなふうなことで、ぎりぎりに動いているのが仙台。まだ小学校前ね。戦争のとき、僕が生まれたのは昭和12年でね、太平洋戦争といったらよいのか、ごちゃごちゃ戦争のあたりに向かっていくってことは。

坂上:小学校に上がる時点で1943年ですね。まだ戦争中だったんですね。ってことは仙台時代は針生先生とクロスオーバーしてる。

水上:そう?

坂上:だって針生先生は仙台生まれで、味噌問屋の息子ですから。

水上:先生はわずかわたしより上ですけどね。

坂上:1925年生まれだから。(干支が)同じじゃないですか。(水上さんは)1937年生まれでしょ。(針生)先生は25年生まれだから同じ丑年じゃないですか。

水上:あっそう。今年当たり年だね。牛男。でもそんなこと、嬉しいけど悲しい感じしない? ときどき「あの馬鹿め!」って思うよ、三悪の筆頭者だからね(笑)。オフレコじゃないですよ、こんなもん、当時から言ってるんだから(笑)。それでまあまあそんなふうなことで。動いているのはそこ(仙台)なんだけども、その前っていうのはまだこっちもチビなもんだから、結局は(自分の故郷というのは)岐阜なんでしょうね。京都っていうのは(母の)実家だから、僕を迎えるために母親がそこへ動いただけでさ。それで単身赴任めいたことがあったのかと。それともうひとつほら、父親は兵役に取られてますからね。だってその範囲内だもん。おまけにそういう公務員だからどうこうっていう位置の公務員じゃありませんからね。だけど、運が良かったのかどうか、人によっていろんな言い方するんだけども、ともかく文筆が立つわけですよ、そういう仕事で。それから名筆まではいかないけどきちっとした文字を書くんです。昔は手書きだから、そういう役割は。なもんだから重宝したんでしょうね。だから静岡あたりの駐屯にもいたし、すぐ近くだから名古屋市関係もあったのかな。でも、ともかく分かっているのは、今の仙台、それからその次だんだん(戦局が)迫ってくるときに横浜。僕があとでいうとこんなこというのおかしいかもしれないけど、(父親は)ある程度の成績は持っていたんですね。そうじゃないと東京のすぐ横なんていけるわけないんだ。その次は残念ながらいろんな話があるけど大阪。横浜の場所はあとで訪ねていって場所見つけました。ただもう建物ありませんよ。仙台はもう駄目だね。なくなってると思うし。それから今度は大阪勤務のときは豊中ってあるでしょ、そこに官舎があった。小学校一日だけっていうのは豊中の国民小学校。

坂上:すごい大移動ですね。

水上:そうですね。そういうふうなことでもってどうしようもなくなってくるのね、軍事自体。ちょうど戦争終わる一年前の春に、「戻せ」っていうことを(父親が)上へ言ったみたいですね。そしたら自分の所に近い名古屋へ転勤させるっていうことで。それまでかなりの飛ばし方したもんだから、これは最後だから言うこと聞こうと思ったんでしょうね、上の方の関係が。(父は)喧嘩っ早い人じゃなかったからね、むしろしっとりとした人で。で、その後今度は岐阜へ一応は住む。そこへ戦争があぶなくなってくるもんだから。(岐阜の)小学校には1年の2日目から行くんだけど、その年の夏場にはもう岐阜から一山越えたくらいのところに伊自良村っていうのがあるんだけど、そこへ自主疎開。父親は名古屋だからそういうわけにいかないから単身赴任になるわけだけども。そうして、結局戦争の終りを迎えるわけですよ。で、ぼろぼろの時期に、僕は……母親の実家が京都にあるわけだ、京都で僕の名前をつけたりしたじいさまが旅立っていくわけだ。それ(葬式)へ向けて行くというので僕も連れてもらって。そのときに(名古屋の父親のところに)一泊するわけ。名古屋に。ここ(丸の内3丁目の事務所)のすぐ近くに。すぐそこに裁判所があるんだけどもね、そこの南側に官舎があって、プレハブみたいな建物があってそこに単身赴任の父親がいたわけよ。そこへ一泊して名古屋から京都に行くわけ。そんなふうなことがありますね。そういう風にして小学校の5年生までいたのかなあ、今の岐阜の奥に。それから今度こっちに戻ってくるんですね。そのとき小学校の6年生の3学期というふうに。東白壁小学校っていうんだけどね。そんなんですね。地名はナガヘイ町っていうんですけどね。

坂上:それで富士中学、明和高校。

水上:小学校はわずか、3学期だけ終わって。当時はテストみたいなことはなかったな。学区内関係ですね。中学の方は。高校は学区内だけどもテストありました。

坂上:(水上さんは)普通の高校生だったんですか。文学青年だったとか、美術好きだったとか。

水上:どうですかね。

坂上:55年体制とかいろいろあったじゃないですか。

水上:いろんな政治の方は、かなり父親が(息子の)目を塞いでくれていたみたいですね。こんなのあるけど、いやまあそれはそれとしてみたいな。

坂上:お父さんはもう弁護士ですか?

水上:もう弁護士になってましたね。だからそれがいつなんだろう、裁判官じゃやっていけなくなるんですよ。

坂上:裁判官でずっと移動していたんですか。

水上:そうですね、ずっと裁判官で移動して、戦後になってわずかのときに、今度は、裁判官は裁判官だけど2パターンあるの。民事の関係の裁判官と刑事関係の裁判官と。それで、父親は刑事関係の裁判官になりました。それでこまごました事件も多いんですね、その時期は。

坂上:でもそれだったら移動させないほうがいいんじゃないんですか。

水上:いや、そうでもないでしょう。でもずっと動いていく関係っていうのは民事系の裁判官で動くわけですからね。で、戦後になって刑事に動いていってからもうちょっとしておそらく人手がどんどん足りなくなっていったんじゃないでしょうかね。っていうのは、民事系のほうもあるけどそれよりは斬った張ったもあるしそんなようなことが多くなるんですね、町中っていうのは。斬った張ったよりはむしろ追いはぎだとか、そんなふうに町中そんな事件が多かったんです、あの頃は。

坂上:高校のときまでそうやってお父さんがわりと政治的なところから目を塞いでくれて。それで水上さんは普通に育ったと。

水上:まあそうはいかんですけどね(笑)。

坂上:でもまあゲバ棒もってどうこうということはなく。それで浪人したんですか。

水上:そうですね。

坂上:浪人して京大法学部に1958年入学。当時から京大法学部に入りたいという感じだったんですか。お父さんも京大法学部だったから?

水上:法学部というよりはむしろ京都に行きたかったなって。母親が京都だったし。小さいときにさ、京都でどんなふうな話をしたかとか。まだチビみたいなときに、その前も連れてもらっていったのかわからんし、どこで生まれたとかそういうのも。雑誌とかね、いろんな話を聞いて、連れていってもらったこともあるんですね。

坂上:行きたかった。

水上:そうですね。何故かね。っていうのは小さい時に話を聞くわけですよ。京都の。どこどこの山に行って景色がこんなんだったとかね。父親よりは母親の方が歌がうまかった、短歌。短歌のどっかに関わっていたみたいですね。アララギかな。もう一つ背景がある。万葉集の(研究者で)むちゃくちゃな人が一人いたの。澤瀉さんって(注:澤瀉久孝・おもだかひさたか)。澤瀉さんって万葉学者がいて、その人に大分長く教えてもらっていたらしい。学校が終わった後に。その辺に時期が時期でね、たくさんの人がいるっていってもたかが知れていて、そんな時期に当時でいう女子高に行くって人はそんなにいなかったわけだ。

坂上:お母さんはどこですか。

水上:京女(注:京都女子大学)。

坂上:今熊野にある?

水上:そう。寺の娘だということがひとつあると。ごちゃごちゃがあるわけ、真言の。だから母が生まれたのは、おそらくじいさんの関連で七条か八条の辺で生まれているらしいですよ。堀川っていうのは女子高だったのね。それから今の七条の京女に行くわけ。京都女専っていいましたけどね。そこでやっぱりどちらかというと文学系なのね。その中に万葉集の関係がいたの。あともう一つ、(母親は)永井荷風にめちゃめちゃ(傾倒した)。

坂上:文学少女だったんですね。

水上:そうですね。そんなふうな感じで、案外そういうのは知っていたもんだから。それと母方のじいさまが変だったのと、そこに真言系の寺っていくつかあるんですよ。大覚寺とか。もうちょっと向こうにも何とか院っていうの女の人の、照葉かな。鳥居神社でもない鳥居茶屋みたいなのがあるじゃないですか、川床の。鞍馬の手前の方にね、尼さんの。

坂上:鳥居本?

水上:なんとかさんっていう尼さんの人はじいさまがそこへ中継して行ってもらったとかね。何とか頼むからとかいって。照葉(てるは)っていってたかな。照葉さんって。つまり祇園かなんかの芸子さんだった人と、岐阜から遠いんだけど好き嫌い話がごちゃごちゃあって、その人がひとりでひっそりしたいっていうんでそこへ行くのが一番いいかということだったか。そんな関係と、もう一方は山科の方にある随心院っていったかな、そこにひとつ儀式のやり方が伝わっているの。いくつかあるんだけどね。そのひとつの小野派(注:小野流)、そこに阿に関係する阿字観っていうのがあるんですね。その流派をじいさまは繋いでいた。それを僕の叔父様っていうのが継いだけど叔父様もなくなって。その息子さんっていう人が僕より若いんだけど、継いだはずだけども。そんなところに宗教系の関係がね、随分深くひっかかってしまうんだけども、そんなんで時々坊様になってみたほうがよかったかなとチラッと言った事もあるし。でももう思ったときには遅いんでね。もう身体にいろんなものが入ってきてしまっているから。まあそんなようなこと。

坂上:そしたら予備校は京都なんですか。

水上:いやいや。予備校はね、河合塾ってのがあったんですよ。

坂上:あるある。河合塾って名古屋が地盤ですか。

水上:そう。それの一番初期の系統なの、僕の時期は。だから今みたいな感じじゃないの。場所的に言うと、名古屋大学のすぐ近くに河合さんっていうのが塾を作って持っていたんですよ。そんなところへ習いにいったの。河合さんっていうのは英語の先生だったね。習いながら僕はっきり教えてもらったのは、「何かのときには考えていてもしょうがないんだな」って。「歩き出さなくっちゃなっていうのを実は私は思った」って、満州で。というのを河合さんが話してた。塾長ががんばっていて、ここの2倍か3倍か程度の(小学校の教室の2倍か3倍くらい)もんだよ。しかもどちらかというと大正建築っぽいみたいなので。そんなところへ行っていたの。

坂上:56年57年のころですね。

水上:そんなようなへんでそうして、京都にやっぱり行きたいっていうんで父親は「しょうがないなあ、もうちょっと余裕みるわな」って言って。学費がいるわけだからね。

坂上:予備校はずっと河合塾で。

水上:河合塾はさ、やっぱり京都といったもんだから、今もあるかと思うんですが鞍馬口というか烏丸車庫の1〜2本手前の烏丸通に関西文理学院(北区烏丸通鞍馬口東入ル)か関西文理っていうのない?

坂上:聞いた事あるかも。

水上:じゃ、烏丸通。同志社よりも北。

坂上:今出川より北で鞍馬口より南。

水上:いや、烏丸鞍馬口から川の方へ入ったところにあったのかもしれない。あと1つ2つ越えると烏丸車庫でしょ。

坂上:相国寺の北ですよね。

水上:ええ、あのあたりに上御霊神社っていうのがあるの。上御霊よりもうちょっと北へ。

坂上:おはぎの丹波屋のあたりですかね。

水上:だからね、出雲路橋ってわかる? 北大路より一本手前の橋。まあまあそこらへん。北大路より電車でいうと2つ手前の駅をわずか東にはいったところに関西文理学院かそんなのがあった。

坂上:そこへ通っていたと。

水上:夏にね、夏期講習で京都に行ったほうがいいかなってことになったのは何故かといいますとね、その年の春に京大を受けたわけだ。京大での点数を昔の関係者がいてね。

坂上:高校3年で1回京大受けて、そしてその春にもう1回受けて、そのときですよね。2回受けた2回目ですね。

水上:3回目にパスしたんだけど。2回目のときにね、やっぱりいろんな関係者がいるの、母親がいたもんだから。それで、京大の文学部系の先生も何人かいるんですよ。その辺の関連からもうちょっといって点数を調べてくれた。そうしたらね、3点か5点だったんだって。ボーダーラインから。それならもういいやと思ったわけ。

坂上:下駄はかせてもらったら入れたのに。

水上:そんなこと(笑)。その時に今の何ていうの、京女の一番ヘッドの人がひとりいたんだよ。その人が僕の母親より2〜3年先輩ですごくよく面倒みてくれる人で、そんなんなら調べてあげるわといって手伸ばしてくれた。伸びますよそれくらい。そしたら3点か5点かだったってので安心したというのではないけどOKだと思った。もうひとつは自慢。全国の模試で、あれオレ1番だった。名古屋で受けて日本で1番だったの(笑)。

坂上:それ残ってないんですか。林敦夫(の名前で)。

水上:コレクターだから案外残っているかもしれない(笑)。

坂上:水上旬じゃないんですよね。

水上:まだ水上旬じゃないよ(笑)。いないわけ。そんなことがあった。そんなのが続いたもんだからね、まあそうこう言っても当時は真面目だったからね。世の中わかっていないもんだからやっぱし本当にガチガチ。でもその烏丸の予備校に行ったときに、まず夏だけ行って、なんかいけそうな感じがしたもんだから、そこへ。「どうする?」って親が。「近くの下宿かなんかでもってそこへこれから行きたい」と。そういったら今度は母親の関係の友達のなんとかっていうひとが大分の方にいてさ。大分のその息子さんもやっぱり同じように京都を受けたくてさ。そしてその京都の予備校へ行くって。それでまあどっちがどっちだかしらないけどこっちは関西文理へ行くっていうことにしていたもんだから。一応は文理の近くでもって、鴨川か高野橋で夕焼け眺めながらぼーっとして。またお部屋へ帰って勉強して。

坂上:どのあたりの部屋だったんですか。

水上:文理学院からひょっと出て、今の烏丸なんとかっていう駅の、それより川の方へ東になるんだけど、その川べりのほうのわずかなところに下宿がありました。それも面白いのね、京セラってあるじゃない。あれはもともと金箔会社なんだよ。そこの重役をしていたそう。

坂上:下宿屋のおっちゃんが?

水上:そうそう。重役だけどそうやって部屋貸すんだね。すげえなと思った。やっぱりね、無駄な事しないでおこうっていうのかな。そんな家だったのか、なかなか見識が高いのと同時にプライドの高いぼっちゃんだったけどもね。

坂上:で、文理学院に入って川ながめてぼーっとしていて。

水上:的確な随筆か小説かあったと思うよ。空をみてどうとか。

坂上:蟹とたわむるみたいな。

水上:そこまでいかないけど、蟹とたわむるのはさっき話した岐阜の山越えたところの谷で遊んでましたよ。

坂上:沢蟹的な。

水上:沢蟹、沢蟹。

坂上:それで3月に試験受けて。

水上:入れて、それでどうしたのかな。いろいろ行き来はしてるけど、そこに入ってから今度はどこにどうするってことがあったけども、結局は平安神宮の横手のあたりに下宿を決めたんですね。南御所町っていうんだけどね。そのとき実は学校の教養というか最初の方は宇治の方にあるんだけどね。

坂上:お父さんはなんで裁判官から弁護士になったんですか。

水上:あの人はキャリアがどうとかそういうことがあるもんだからね、だからどういうのかな。やっぱり年数が足りないってね。そうすると何だろう。何級何級とかそんなもんがあるんじゃないですか?そうすると費用(注:月給の意)が安いわけ。

坂上:裁判官の中で?

水上:公務員の中で、どこでもあると思うけどね。そうなると家庭のいろんなことの維持がちょっと無理になるなということを思ったんじゃないですか?

坂上:「判決!」みたいな。

水上:そんな現場も見た事ありますよ。父親の。

坂上:イギリスではまだ巻毛やってますよね。日本はどうなんですかね。

水上:やめたんだね。多分。

坂上:日本も昔は巻き毛だったんですかね。

水上:巻き毛であったのかあるいはそれなりの(ものを)ね、かぶってるはずです。

坂上:お父さんはやってなかったんですか。

水上:時期があれだからね。どういうの、僕が生まれたころにようやく裁判官になったかならないかくらいでしょ。だとそれはもう随分物資も……(笑)。

坂上:ちょっと話がそれましたが。水上さんは京大に入ってから詩を発表していくんですが、もともと水上さんのバックグラウンドにそういう素地があったのかなと思うんですが、どうでしょうか。

水上:自分とこの家に、そういう本だとか雑誌がごろんと放り出してあるのと、探しても滅多にそういうふうなもの(が無い家)とは随分環境として違いますよね。僕のところにはそういうものがあったんです。もちろん子供にはきつすぎるようなものもあるわけですよ。例えば性のものもあるし。一方は残虐といえば残虐だったようなそういうなものもあったわけですよ。話にも聞かれていて、見られたこともあるだろうけども、中国やなんかの方へ、当時は支那って言っていた、その辺りへ侵略に行っているときに、めちゃくちゃなものが写真葉書であるんですよね。捕虜を惨殺っていったらおかしいけども。どっかで見た事あるでしょう。

坂上:それね、誰かのインタビューにいったときに見た。柏原(えつとむ)さんだ!

柏原さんちに行った時に。(柏原さんは)「こうなんだよ」ってやさしく学生に教える姿と、「だけど現実はこんななんだよ」って怖いものを見せる姿とあって。展覧会の準備で行ったときに、面白いこといっぱい話してくれて、「こんなこと面白いだろう」っていって。その直後、「こんなこともあるんだよ」っていって柏原さんが作った鏡のボックスをあけたのか、なにか別のところから取り出したのか忘れたんだけど、拷問のそういうポストカード一杯出てきた。びっくりだった。そういうの出回ってたんですよね。

水上:出回っていたって言うのはいいすぎであって、しかしそういうものがそれ程秘密なような、裏本っぽいほどの隠し方じゃないんですよ。しかもそれがもうひとつそこで受け取っておいた方がいいと思うのは、かわいいとかやさしい話だけではこっちはきていないのであって、ちょうどどういうのかな、童話とかなんかっていうときに、もうひとつのイメージがあるじゃないですか。実はとんでもない生々しいこともきちっとそこで語っていたんだよって。グリム童話でもいいですよ。

坂上:本当は怖いグリム童話とかありますよね。

水上:うんうん、でしょ。そんな風にそこらへ惨殺話とか生活そのままでそういうものも入ってくるしさ、そういうのもある時期外していって、ある時期にまた取り戻したりしているんだけど、そんなことあって。で、本筋はそうやってごちゃまぜで育っていく方がいいんじゃないかいっていう話もあるんですよね。そういうのなしっていうか、後々育ってきたときに、大分たってからそんなものがあったって気付くというのは、ちょっとまた体温が違うのかなって気もします。僕はどこまで厳しいかしらないけども、押入れの奥だとかさ、そんな風にある意味では隠してあるんですね。

坂上:お父さんは政治的なものとかそういうものを水上さんにはなるべく知らせないようにしていた……。

水上:けれども。

坂上:押入れの奥に隠していたのは正しいと思う。

水上:正しいというか、やっぱりあの……。

坂上:無いんじゃなくて押入れの奥って言うのは正解ですね。

水上:それから状況としてですね、じーっとひとつのところにとどまったままで、移転をしなかったんじゃなくて、しょっちゅう移転が続いた動き方をしていたわけです。そういうときにあれ捨てるこれ捨てるって話もあるかもしれないけど、やっぱりそんなにどんどんものが増える事もない時期であってさ。そうするとこれもこれもって。それが昔は柳行李といって編んだね、あるじゃないですか。ああしたものか、またはダンボールというよりはむしろ木箱。

坂上:ロスにいったときに(日系人が)みんな行李の中に入れて(アメリカに)持って行ってました。

水上:そんなふうに行李か、もうひとつはその結局あの木の箱。箱といったらおかしいけど。

坂上:お茶箱みたいなの?

水上:そうそう。お茶箱風に、例えば酒瓶であるとかあるいはりんごであったとか。昔は木箱でそういうものを送っていたんですよ。だもんだから、そういった空き箱にものを詰めていたんですね。もうちょっと言い出すと長持ちとかそういうものもあるんですよ、塗りのが。でもまあそんなものそれようにつくるというような時期でもないし、いくつかありましたけどね。長持ちもね。そうしたへんのものに何かそこには本らしいものがあって。本といっても父親はそういう風な関係者であったもんだから、そういう周辺のもんが箱に入っているわけね。その中の書類系統とやっぱりその別個資料の方になってくると、まあまあそれもそれなりにあるわけですよ。それがどの辺かっていうのもこっちは強いよね。ほとんど部屋にいるわけでね(笑)

坂上:お父さんも「捨てない派」な人ですよね。

水上:そうですね。捨てなかったですね。ていうのは何がどんな資料になっていくのか分からんっていうふうなことがやっぱりあるんですね。

坂上:裁判官だったから余計に。

水上:その事もあると思いますね。でもほかに例えば骨董趣味がそれ程強いわけでもなかったし。でもよく見てましたよ。こういうの見に行くからってついてこいっていうかね。

坂上:でもそういう支那兵ポストカードは結構みんな持っていたんですかね。

水上:京都あたりでそんなもんを、例えば寺町でもいいしさ、そういうところの古道具屋から古本屋ね、以前だとおそらく古本系の方は出さないと思うけど、古道具屋だとそういうもんが、ばさっと置いてありましたもんね。いつかその辺に寄ったことあるから、二条かのそういう風な店。その中にああいうふうなものが売っていたといっても、売るような値段でもないんだけどさ。どさっと束ねて100円とかね。そんなようなことでしょうね。それはひとつの国なら国がこれだけのことまでやってきてるっていう、「こうやってみんなしてまっせ」ってそういうふうなあたりのひとつのもんとしてやっぱり作っていたのかもしれませんね。一応印刷物という基盤ですからね。

坂上:そういうポストカードって誰が作っていたんだろう。

水上:うーん。

坂上:共産党とか。

水上:いや、共産党ということもないでしょう。

坂上:普通の人が商売で作っていたんですかね。

水上:やっぱり商売系の方だと思いますよ。

坂上:ブロマイドみたいな。

水上:ブロマイドみたいなもんですよ、結局ね。だから、なんていったっけ、裏返ったらもらえるやつ。

坂上:めんこ?

水上:めんこ、めんこ。あんなもんいろいろ。

坂上:私たちもあったけど仮面ライダーとかね。

水上:あんな中に僕の時期なんかは、戦争で勝ってどっちがどうしたみたいなのが画面になってるのがあったわけですよ。

坂上:兵隊の匍匐全身カードとかですか?

水上:そうですね(笑)。写真は高いからそんなのはしないけども、絵でね。絵のことっていうと腕でいえば印刷工ってむちゃくちゃの腕持ってるひとが当時はいましたからね。ほとんど見事に細密画っぽいことできるひとがね。

坂上:じゃあめんこでもかなり質が高かったんですか。

水上:質が高いのかどうなのか。やっつけみたいな漫画チックなんもあるけど、もうちょっとしたリアルっぽいそれもありますよ。いや、子供なりそれを買う親御さんもさ、こういうのの方がいいとかね。

坂上:子供のおもちゃって親のセレクションですもんね。

水上:子供のうちはね。そうね。そこら辺はケース・バイ・ケースで判断しておいた方がいいですね。これは子供向けといってるけど、「どっちが買うの? 親が買うの? 子が買うの?」みたいな。

坂上:おもちゃは親セレクションですよ。

水上:ね。

坂上:戻りますけど。京大法学部入学。入学してまず一番最初に入ったのが京大交響楽団。4月にはいったんですか。

水上:あれはね、確か、おそらく部員募集なんてそんな頃にやるんじゃないですか。だから入学式かもうちょっとあとの学校の説明会みたいなのがあるのね。そんなようなあたりのときにぽつぽついるんですね。そんなとこらへんのところでオーケストラの募集もしていたわけですね。

坂上:もともとクラシック音楽を聴くとかそういう風な感じだったんですか?

水上:そうですね、案外。

坂上:レコード鑑賞が趣味だとか。

水上:ここの背景にもうひとつある。中学生の頃、真空管のラジオのおんぼろをね……。

坂上:1950年代前半ですね。

水上:家で聞かなくなった。家でもしょっちゅうそんなものを聞くわけじゃない。たまたまそれがあって、それを上のケースを外して、音をスピーカーの上をいじればどうにかなるっていうので、そこへ昔のヘッドフォンを結びつけてね。そうやって聞いていた。深夜。だからそういった広いところじゃないから。

坂上:どういうものを聞いていたんですか?

水上:FEN(Far East Network)というのが名古屋にもあったの。今のここをまっすぐいって突き当たると白川公園ってあるでしょ。あそこにFENがあったの。あのへんかあるいはこの辺りに放送局があったはずですよ。

坂上:私達が中学のときもFENを聞くっていうのがありました。かっこいいって。

水上:当時は現役がまだいるわけ。兵隊さんっていうか米軍が。

坂上:進駐軍ですか。

水上:そうそう。そういうのが。

坂上:朝鮮戦争があった辺りですね。

水上:そうです。そんなふうでね、そこ(米軍)向けなもんだから(兵隊を)退屈させないためにいろんな音楽をかけるんですよ。日本のもののあるしジャズもあればブルースもあればごちゃごちゃ。もちろん間に宣伝放送が入るんだけど。アジテーションとかコメントとか。それで順番にいろんな曲をかけていくんですよ。まあ当時まだあれはなかったのかな。あったのかもしれないレコードが。何ていいました?

坂上:ラジオ。

水上:ラジオですね。そういうのよくわからないまま、耳のなか放り込んでるものだからどの曲がどうだっていう判断基準持たなくなるんですね。「これはおもしろい」って。だから案外何の系統にってしばりつけられるっていうのがないみたい。そんなふうなことがありました。それについてまた書くなりなんなりって。そうすると定型詩だと文字あわせとかなんだとか勝手な文章つづりをやるわけですよ。それからさすが中学じゃ無理だったけど高校に入ったら図書館にいっていろんな文学系統ものを借りていましたね。あんなのまだ早いんだけど。

坂上:外国文学とか。

水上:翻訳文学ね。もちろん外国だけどね。どれと特定はしないからなにかかにかっていうのがあって全集出ているひともあれば全集を数冊読んでほとんどそれ以上は入れなくって。「ああこれ早かったあかんわ」って思ったりね。

坂上:アメリカン・センターとかそういうのは。

水上:アメリカン・センターはもちろんあったんですね。でもそこへはあまりいかなかったですね。やはり図書館です。ふたつ三つありましたかね。

坂上:当時アメリカン・センターで仕入れている人たちも結構いましたよね。

水上:アメリカン・センター系統の方はどうなんだろう。

坂上:アメリカン・センターは結構日本にきた作家のひとたちが来ていろいろ後援したりとか質問タイムあって交流がもてたりとかありましたよね。

水上:こっちにいるときというよりはむしろ京都に行って、京都のアメリカ文化会館っていったのかな。はじめは「アメブン」っていったから。

坂上:もうちょっとあとになるとアメリカのアンダーグラウンド・シネマとかでジョナス・メカス(Jonas Mekas)とか随分。

水上:僕が今話している時期よりもっとあとです。その時期に。

坂上:60年代後半ですね。

水上:京都でやるんですよね。それこそ1週間まるまるくらいだったのかな。それまでぽつぽつあったみたいだけど(注:当時はアメリカン・センターでアンダーグラウンド・シネマの上映会を多くしていた)。

坂上:それで交響楽団に入って、「よし、じゃあ音楽好きだし入ってみようか」という感じでフルートを。

水上:僕が行っていた学校に、音楽コースってあったのね。今でもあるけどね、明和高校。そこに知人がいてさ、教えてくれるわけじゃないんだけど、「ちょっとおもしろいの貸してくれません?」って聞いたら「吹いてみな」っていわれて。そこでちょっとだけフルートを。そのもうちょっと前にハモニカをもらったことがあるんだ。もっとチビのころ。それも習うわけでもなんでもないし。ただ譜面読み、123とかあるでしょ。あんなようなものを適当に覚えてしまって。

坂上:また後の話になりますけど、CD(注:第五列『社長は判ってくれない』(Alchemy、2005年))くれましたよね。京大の西部講堂でコンサートやったときに水上さんはハモニカ吹いたりしてなかったんですか。

水上:さしあげたっていうのはおそらく、ゲストじゃなかったかな? 金野の。

坂上:「社長は嫌い」みたいなタイトルで。

水上:おそらくそれ第五列かなんかぽっと忘れてるけどさ、そういうふうなもんではっきりしてるのはそれくらいしかないから。それは盛岡に住んでいる奴で、大阪大学に来ていたやつで盛岡の方で歯医者さんかなにかやってる奴じゃないかと思う。そいつに社長がどうのとか言うのが仲間にいてさ、その辺で第五列かなんかってチームをつくったんですね。僕はそのチーム自体に属してるわけじゃなくて、その後のにぎやかなごちゃ混ぜ時期があるんですよ。70年代末から80年代に。そんなころにそいつらの辺と交流を持って西部講堂でした奴のなかにそういうのがあるからそれを是非していいかっていうのと同時にコメントをちょっと書いてくれって。コメント書いて、こっちの思い通りのコメントは外されてしまったと思うけど。フリーの事をしていくとしてももう少し音専門の系統の方へ持ち込んでいく時期のものですね。

坂上:音楽自体はしかし小さな時から興味があったと。FENを聞いていて、フルートは交響楽団に入ってからやった。

水上:そのときやるものないし。

坂上:サックスは?

水上:その後。指使いが同じなんですね。同系統なの。サキソフォンは木管楽器っていうんですね。同じブラスでしていても。フルートとかあっちは金管っていうのね、だから音出しのパターンも違うので。そういうことを思ったのとその時にはもうジャズを案外一生懸命聴き始めているの。モダンジャズをね。

坂上:ちょっと自分でも吹いてみたいなと。

水上:吹いてみたいなと思って。どうせそうなら音域がちょっと違う方がいいなと思ってね。だからフルートよりもオクターブが下が出せるって言うのを持ってるっていうのが、テナーサックスだったのね。テナーだったらその頃持ましたからね。それをオーケストラで吹くわけにもいかないし、さっきなして4人展(注:1962年11月)でかかわりを持ったかってあったでしょ。ジャズ喫茶ってね、会ったわけだ四条の木屋町に。

坂上:アンパンとかで知り合ったわけじゃないんですね。どっちかというと趣味の世界で知り合ったんですね。

水上:もうひとつのお遊びの世界でね。

坂上:それで《CELL白ミサ》を。

水上:「そんなのしない?」って聞かれたから、そこら辺の関係みたいなもんと、市村司。青美(注:京都青年美術作家協会)の。あそこら辺とのかかわりが早くできてました。

坂上:市村さんは名古屋出身ですよね。

水上:あの方は名古屋で、絵付け工をしていたと言われるから、そういう関係がたくさんあったんですね。昔はね。

坂上:市村さんとはどのくらいの時期に知り合ったんですか。

水上:市村さんと知り合うのはそこらへんからもうちょっとしたくらいかなんかに、今度は祇園の花見小路っていいますか。

坂上:「主なき店」。

水上:そうですね。そこへ行くようになって。行くっていうのはもうちょっとあとに四条通にあった都雅画廊というところで展覧会することになっていくんだけども、そこでする少し前にはもうそこを知っているんですね。どうしてそこらへんのところに行くようになったのか。まあ学生みたいなもんだから。

坂上:みんな行っていたみたいだから。

水上:そうですね。そこへ行くようになったんだろうし。もうひとつ思うと全然雰囲気ちがってしまうけど、「赤垣屋」(川端二条下がる)っていうのが二条通からね、全然違うんだね、あれはね。

坂上:テーブルちっちゃいですよね。あそこ。昔は安くて。いまは高いですよね。

水上:もうだめ。2代目か3代目かになって。昔はそこにどっちかと言うと絵描きよりは演劇関係の人が多かった。演劇なり映画関係。

坂上:赤垣屋もこの時代からやっていたんですか。60年代前半のときから。近所だからですか。

水上:まあまあね。歩いて行くとそうするとほら、それこそ昔の(ギャラリー)16へ出て行くあの辺の途中に赤垣があって。

坂上:(水上さんが住んでいた)南御所町から歩いてくると、仁王門を歩くとちょっと二条寄りにあるのか。

水上:二条通を通っていくか三条を通って行くか。っていうのは当時は御池の橋はなかったから。

坂上:なかったんですか!じゃ、二条の橋を渡るか三条の橋を渡るか?

水上:そういうこと。

坂上:そうだったんですか! 聞かないとわからない!

水上:だから逆に言うと川を渡って。御池がないからさ、あそこの川を渡るわけだ(笑)。じゃぼじゃぼって。そんな馬鹿いないからさ。「あの馬鹿またやってるぜ」って。さすがに行きしな、つまりさ、岡崎の方から町に出るときにさ、行きを使うっていうのは滅多になかったけど、帰りによく使いましたね。

坂上:要は古本屋の道ですよね。二条通っていうのは。

水上:そうですね。古本もそうたくさんないけどね。むしろ今出川の方がありますよね。

坂上:京大があるしね。

水上:でもまあ少なくなったかな。でも今のところもうわずかさ、今行った通りわずか西にスーパーであるのか。上にバーンとしたビルがあるでしょ。高いビルマンション。

坂上:ジャスコの上です。

水上:あなたは御存じないかもしれないけど、小松辰男ってあそこにいたんだよ。

坂上:えー! そうなんだ。わたし小松辰男さんはそんなに実は知らないんだけど、京都新聞とか一杯見てるじゃないですか。すごく載ってる。なんだっけ。赤テントとか白テントとか黒テントとかのときに状況劇場か(注:実際は状況劇場ではなく現代劇場。現代劇場は小松主宰の劇団で、状況劇場は唐十郎主催)。

水上:小松は状況劇場じゃないんだけどもさ、小松は京都の呼び屋っていったらおかしいけどさ、そういうこともやってることがあったもんだから。

坂上:プロモーターってこと?

水上:プロモーターっていうと言いすぎになるけどね。でもやっぱり自分で売ったりいろいろしていきますからね。その中のもうけのある部分は小松の方に入るってね。

坂上:小松さんって赤垣屋で知り合ったんですか。

水上:いやあ、ちょっと小松はねえ。

坂上:立命館か同志社かですよね。

水上:いや、立命館とか同志社との関係ってもっと後になるんですよ。っていうのは、ほら、60年安保うんぬんって。今の話は70年代ですよね。その辺以前からなぜか知ってしまった。僕が58年に一応大学生になるわけだ。そして60年に例の樺女史の、あんなふうなことになっていくんだけど。その折、なんか誰ってわからないけど、変な奴がいるみたいなことは知っているんだけど、まだそうこうはないんですよね。

坂上:その変な奴って言うのは小松さんなんですか。

水上:小松は小松で運動体で動いていたはずなんで。ただしやっぱり彼だって政治主義ばっかり。幾分政治がかりが強かったかもしれませんね。でもまあまあどういったらいいんだろう。その頃大学関係っていうのはかなり壁が高かったの、京大は京大、同志社は同志社。立ちゃんは立ちゃんって。そんなことがあったの。その間をわずかに繋ぐ可能性があったのが女子大系統。さっきいった京女とか。

坂上:同志社女子とか。

水上:同女はやっぱり同志社だからね、そんなにでもないけどもね。

坂上:ノートルダムとか?

水上:ノートルダムは距離がちょっと向こうの方にあるし。

坂上:やっぱり京女と。

水上:そうですね。そこらの動きはまだまだにぎやかっていえば京女くらいですね。同志社はワンクッション、ミッションスクールってこともあるしさ、それから、ぼんやり感じられると思うけど、あのへんのところのね、ちょっとした位置だということにハイカラ方向にね。当時からね。

坂上:京大はバンカラ。同志社はハイカラみたいな?

水上:いや、京大もバンカラってとこまでいかないですね。結局は。でもやっぱり町中でいうと「京大さん」ってさ、尊敬付けだ。だもんだから「なにくそ」って思われるのはさ、態度に馬鹿がまだいるでしょ。そんなふうなところがあってちょっとクッションがあいてしまうんですね。

坂上:「なんだあいつ京大か」みたいな感じで逆に思われて。

水上:そうそう。そんな風に思うもんだから逆にはねてみたりとかさ。時期があったね。今でもまだそういうの残っているはずだけどそこらへんを別に小松ばかりじゃないんだけど、間つなぎをやりかかった僕の知ってる奴ではやはり小松ですね。

坂上:小松さんについては私本当に良く知らなくて、聞かないといけないんだけども、何歳くらいなんですか(注:小松は1940年生まれ)。

水上:彼は僕より若かったはずだよ。

坂上:でももう死んじゃってますよね。この間20周年とか言ってましたよね。

水上:だから去年が20周年でしょ。美術やなんかの運動体って言うのはかなり長くいわゆるどういうのかな、やっぱり美術とそれから文学と、音楽と、それ以外のものは以下だって感覚を持ってるんですよ。ね。だから工芸であるとか分けてるでしょ。多分。

坂上:第二芸術。

水上:それからもう一歩、今度はコマーシャルアートっぽくなっていく。そういうふうな感覚のものと同じように今度はやっぱり演劇というのも、映画もね、ワンクッション下になってる。そういう風な事を小松氏は自ら進んでやったわけですね。あの人は、大映か東映か僕はわかりません。そこらへんの辺りの関連ももっているんですね。舞台づくりですね。結局。

坂上:労映(注:労働組合映画協議会)とかあったじゃないですか。ああいうのとは関係ない?

水上:あそことも関係があったかもしれませんが、労映とかそこら辺になっていくとそっちはそれなりの縄張りがあるから、そんなところ追いそれと入れないんじゃないですか?小松さんは。

坂上:そしたらポチョムキンとかああいうのとは関係ない。もっとアンダーグラウンド・シネマとかそういう……(注:京都でのポチョムキン上映は1959年4月、祇園会館)

水上:そっちの系統の方ですね。

坂上:それこそ京都会館でやったような奴とか。アメリカン・センターもあるけど。

水上:アメリカン・センターがいつごろから開きはじめたのかよくわからない。開いたといってもいってもそれ程でもない。データ集めはやってるみたいだけどね。積極的にどうこうっていうのはやらなかったと思うしね。

坂上:非協力的だったんですね。

水上:「非」といっていいかどうかわかりませんけどね。

坂上:それほど積極的ではなかったと。

水上:そんな感じで僕はイタリア会館があるでしょ。あそこは協力的というか、むしろ一緒にやろうかってかんじで、やったことありますね。

坂上:小松さん。気になる存在。

水上:ぼちぼちあの辺の社会関係の中でどんな活動体があるかってことでいうと、やっぱり小松氏あたりはもっともっと中を知っていく方がいいみたいだし。青野(荘)さんって、彼は体も悪くしてるんだけどもさ、青野ってのが小松氏の活動を…大分早くから下についていたわけですよ。小松の毎年の活動とか彼が事務局っぽいことやったり、西部の実績の方の活動体も青野が全部やってきた。まだ中途半端だから出すわけにもいかないけど、青野氏が関わりだしてからの京大西部講堂の動きを表にまとめてるんですよ(以下、しばらく表を見ながら話す)。

坂上:チラ見します。巻紙みたいになってますね。

水上:これが一番楽だから。これはまだためし書きだから。参考までにね。ここらへんでやっぱしまあまあ。2006年3月までまとめてありますね。青野荘。

坂上:あ、ボ・ガンボスも。この人たちも京大でしたもんね。私達ボ・ガンボス世代だから。

水上:僕はもう名古屋にいっていなかったけどね。こういうものがあるっていうのを片隅に止めて置いてください。

坂上:本当特に70年代って西部講堂で赤テントとか白テントとかやってましたもんえ。こういうのってやっぱり小松さんたちが積極的に関与していたんですね。

水上:結局あんなこと手配したりとか運営委員会っていうと彼らしかないわけでさ。

坂上:維新派の松本雄吉とか。麿赤児とか。

水上:維新派は大阪で駱駝(大駱駝鑑)の方は東京でね。

坂上:道座って知らないです。

水上:これは僕もはっきりしないんだけど。

坂上:「犯罪友の会」って「犯罪者同盟」とは違うんですか?

水上:あれとはちがいますよ(笑)。犯罪者同盟っていうのはとうの昔に終わってしまってる。

坂上:あの犯罪者同盟って、64年の鎖陰(注:64年5月7日『鎖陰』上映会・祇園会館、円山公園)のあるじゃないですか。あれって。

水上:ここにはそれは入ってこないですね。小松の時期じゃないから。わずかな関連はあるとは思うけどもさ。

坂上:ちょっとだけ水上さんより年下。でも大体一緒ですよね。木村英輝の名前もありますね。円山公園でとかやってますよね。あと皆川魔鬼子とかともやってますでしょ(表をかたずける)。

坂上:ちょっと先の話になりますけど、あの『鎖陰』のやつって、結局水上さんは行ってないですよね?

水上:行ってないです。

坂上:ああいうのってね、結局まあ話飛びますけど、京都に反芸術の系統の人ってそんなにいないと思うんですよ。挙げられるとしたら加藤美之助とか真鍋宗平とか石川優、おおえまさのり(当時は大江正典)の実験グラウンド∧(ア)(注:1962年頃評論家武田恒夫を中心とした美術研究会が京都の学生らを中心に発生。それを母胎とし1964年5月結成された反芸術グループが実験グラウンド∧。彼らは64アンパン、64年京都アンデパンダンのときに、薬品を会場に撒き散らし騒音を立てるなどの問題で、撤去問題もからめ当時かなり問題視された。四条通のごみを集めながら這い蹲って歩いたり、ごみを画廊や美術館に持ち込んでいくなどの活動でも有名)くらいが反芸術的な行動。64アンパンでホルマリンとかサイレン鳴らすとかそういうのをやったくらいで基本的に反芸術の人っていないなっていうのが、今までの私の印象。

水上:僕もそう思います。

坂上:それでね、でも結構、京都以外の反芸術の人たちが、ゼロ次元はあとにして、その特に足立正生のときは犯罪者同盟とかね。1964年に要は足立正生の『鎖陰』の事件があって。『鎖陰』の上映のときに誰かがフィルムテープを盗むじゃないですか。ああいうのって、誰が引っ張ってきたのかなと思って。京都の祇園会館に。だれか京都に手引きする人がいなかったらこないし(注:インタビュー後、小松辰男が関わっていたことが判明)。話それちゃうけど、京都で反芸術やってるひとって、おおえまさのりとかそれくらいしかいないけど、おおえさんたちがああいう人達を呼ぶっていうような行為はしないと思うんですよ。まだ学生が終わってそんなにたってないし(注:実験グラウンド∧が当日祇園会館前に《生ごみ謹呈儀式》)。

水上:おおえたちが何時ごろに東京の方に動いていったのかっていうところが。

坂上:まだまだです。その頃はまだ京都で。そう、真鍋さんたちと一緒にゴミひっぱってやったりとか。でも大江さんってまだそんないろいろ。《ミロのビーナス》(注:ハプニング)とかいろいろやってたんだけど、そんな東京の人達と64アンパン(注:針生アンパンといわれる方)は出してるけど、東京の人達と密接な交流ってないはずなんですよ。話聞いていても、加藤さん真鍋さんからは聞いてない。おおえさんもなさそうだし。だから誰があの東京の人達を京都の祇園会館にひっぱってきて『鎖陰』を上映させて、だれがテープを盗んでああいう大事件になったのか。風倉匠も小杉武久も来てる。ゴミ袋に入ってもぞもぞとかあるじゃないですか。ああいうの誰がひっぱったのかっていうのがある。

水上:引っ張ったみたいな関係とはちょっと違うかもしれないけど、おそらく東京との繋がりめいたことを企画やいろんなことを含めてだとどう思っても小松以外ないかもしれませんよ。

坂上:64年。小松さん60年に同志社に入っているから4回生くらいですよね。

水上:そうすると、どうかなあ。

坂上:私よくわからないけど、小松さんが京都新聞なんかにバーと名まえが出てくるのはやっぱり70年前後、60年代後半なんですよ。小松さんのそういう報道は。だからその頃に小松さんが祇園会館に呼んで大騒ぎしてそれからしばらく活動がないというのもなんかおかしいかな。

水上:それもおかしいですね。祇園会館によんだりしていた辺の関係にそこらに記事やいろんなもんに誰か関連しそうな感じの名まえは全然出てこないですか。チラシめいたものもないわけですか?

坂上:ない。

水上:そこらが微妙な動き場になってるもんですから、僕の場合。つまりどうなんだろう。63〜64年、一度僕は名古屋に戻ってんですよね。学内浪人1年すると。

坂上:《人物御包帯式》(1963年10月)、《ほしのうわさ》とか《ラウンドテープ・ポエム》(注:共に1964年8月)とか、《ラウンドテープポエムとカードによるチャンスオペレーション》(1964年8月、名古屋)とかそれって63年3月法学部を卒業してから夏くらいからですね。

水上:その辺からあくる年には京都に戻ってますね(注:1963〜1964年)。だからそこら辺の妙な部分に『鎖陰』やちょっと騒がしい時期にかかっていたんじゃないかなと思うんですね。

坂上:水上さんがちょうどいない頃かもしれない。

水上:その頃安保からいろいろごちゃごちゃ中間系のものへ動いていくブントやいろんなものがようやく活動を始めるようなころにかかってますね。

坂上:64年ってちょうど、63年に読売アンデパンダンが終わって、64は針生アンパンがあってだからまさのり・おおえとか、真鍋さんが活動してるわけだけど、京都の人自体そんなに(東京へは)動いてない。

水上:もうちょっとわずかすると65年が岐阜のアンパン(1965年8月アンデパンダン・アートフェスティバル)になるんでしょ?

坂上:そこまでになると今度は池水さんも出てくるし。

水上:するとそこの所にそう言いながら、京都時代のアンパンのときにそれらしい姿が出てくるのかこないのか。

坂上:京都アンパンで反芸術的なものはまさのり・おおえ、真鍋宗平、加藤美之助、石川優(注:1964年の京都アンパンで大きな問題になった事件。具体的には大江が「1964年2月7日午後10時−11時の河原町角」という作品が各室を通り越して美術館入り口まで綱を伸ばすという違反をやって、作品が撤去される。抗して他メンバーも作品撤去。作品撤去後には「アンデパンダンは粉砕さるべきだ」と宣言した紙を配布、壁にも張る。真鍋、大江は64アンパンでも「ホルマリン事件」を引き起こしている)。

水上:ゴミ捨てて追い出されたわけですよね。「青ざめたぜ」っていうようなことを、どっちかな、二条通かな、仁王門で行き違うんですよ。

坂上:まさのり・おおえと?

水上:そういうときお互い馬鹿やってるってのはお互いに知ってるわけだから。真鍋もね。その辺で「何で」ってなこといっても、知らんとはいわんけどまあ何かニコッとした笑いでも苦笑でもないそんな感じ。「何をどうしたのかな」って感じしましたね。仁王門通かもしれません。

坂上:まあ置いておきましょう。ごちゃごちゃしてすみません。

水上:だってごちゃごちゃしてるんだからあの時期。

坂上:私はわかってるけど。私がわかってればいいかな。そしたら樺美智子で、儀式をしましたと。で、まあその後《KICK代理社より贈り物I》(1961年)っていうのありますね。

水上:その時学生運動政治っぽい辺から一人歩きの方っていったらおかしいけどね。

坂上:全国を旅して、その旅の途上であった杭や石の上に手持ちの品などを贈り物としておいていく(注:ビートのもっとも早い例にあたる。ビートとは=こじきという意訳もあるが、アメリカ西海岸のビートニクの影響を多分に受け、身の回りの品だけを持って、できるだけお金をつかわずに、歩き回り人にめぐり合っていく。労働を否定。詳しいビートについては北田玲一郎『乞食学入門』(ノーベル書房、1968年))。

水上:そんなもんです。それは別に何でもできるわけでさ。それこそ綺麗なリボンでなくてもちょっとしたヒモがあればそのヒモをちょうちょ結びとかダブル結びっていうか。

坂上:そういうのは全国を旅してみようっていう気分だったんですか?ちょうど(大学)2回生から3回生にかけてですね。

水上:そう動いているはずでもないけど、確かめるっていう感じで、遠いところへ。それには旅をするのが一番っていうかね。

坂上:ヒッチハイクとかで?

水上:ヒッチもあまりしたくなかったですね。だから結局ほら……。

坂上:この頃アンパンにもまだ出してないから、松澤(宥)さんとかとも知り合ってないですよね。あんまり全国の人達と知り合いってないですよね。永田町のときくらいしかないですよね。

水上:永田町っていうのは特別だから。誰かを訪ねて歩くっていうんじゃなくて、ごく何でもないっていうとおかしいけど、まあ各地の人ですね。だから町中に行くんじゃなくて。

坂上:目的地なき旅みたいな。

水上:ええ、ええ。だからそこらへんの始まりっていうのが京都名古屋間に鈍行でもって一駅ごとに降りていくようなパターンを。

坂上:山科、大津って……。

水上:そのときに次の列車くるまではその周りを歩くってね。でもさすがに山科、大津はやめていたと思うけどね。知ってますから(笑)。

坂上:まあアワーテリトリー(our territory)って感じですよね。

水上:もうちょっと先の方から、草津とかね。そうしてやっぱり、まあ何度か名古屋・京都間の往復はしているもんだから、そこで「あそこなんやろかな」って。

坂上:大垣も当然通っていくわけですよね。

水上:そうですね。だからそんなんで。その辺のあたりにそんな時期にも旅歩き(ビート歩き)している人達もいるわけですよ。まあ彼らはほとんどキセルやってるんだけどね。

坂上:水上さんはキセルは?

水上:しない。

坂上:法学部ですから法律にのっとっているわけですか。

水上:キセルのりっていうのは当時はまだそんなによくは知らないですね。むしろキセルとかヒッチとか、そういうのってもうちょっと後にそこらを歩いている連中から知るわけですね。でも知ろうともしなかったというのは、あ、そうかそうか、えーとですね、50年代末からごちゃごちゃいいながらも、ヨーロッパや合衆国あたりから向こうなりのビート歩きなり、留学してきている人達が何人かいるわけですよね。京都に。

坂上:スナイダーとか(注:Gary Snider。ゲイリー・スナイダーの本名はゲイリー・シュナイダー。スナイダーは文筆業での名前。1950年代後半、おそらく1956年頃から1968年頃まで日本とくに京都に居。大徳寺、相国寺などの禅寺で研究。ルース佐々木と禅の臨済宗について研究。翻訳書も手がける)。

水上:例えばゲイリー・シュナイダー。でもゲイリー・シュナイダーとは直接どうこうってこともないですよ。

坂上:なかったですか。ゲイリーとかビートニックと水上さん(は交流が)なかったですか。

水上:関わりありませんね。シュナイダーはしょっちゅういたわけでもありませんしね。ただシュナイダーの留守宅には行きましたよ。

坂上:大徳寺。

水上:の裏ね。でもそれもうちょっとあとくらいですね。

坂上:バイヤース(James Lee Byars)調べていて分かってるんですが、スナイダーもYMCAの斡旋で英語の先生とかしてるから、結構庶民とのふれあいが多いんですよね。庶民っていうか、本当に普通に英語を習いたい市民とかね。

水上:だからこっちがワン・クッションはずれていたんでしょうね。または外していたか。だから。

坂上:ビートニクの人たちが来ていたのは知っていたんですよね。

水上:知ってたどころかもうちょっと平たい、名まえも出ていないようなビートニックのひとたちと馬鹿を言ったりとかさ。そんなことはしてました。っていうのは、そこらが聞けるらしいなっていうのがだんだんぼんやりわかり始めるのは、例えばさっき言った夕日見ながらってあたりの近くの北大路の辺りの古本屋が1〜2件あったんですよ。そこに新書版の英語本がたくさん出ていたんですよ。

坂上:ゲイリーから出たのかな(笑)。

水上:そこらにまあ読みたくなるような本があったんですよ。それでそんなもの古本屋の親父も高いこといわないしね。

坂上:関係ないけどハブルさんは何時ごろ知り合ったんですか?

水上:僕もいつってよういいませんね。っていうのはあの人こそいろいろ歩いておられるわけだし、それからもう一つは今どういう風にいっていいのか。四条小橋ですか。つまり四条大橋、小橋ってあってそのわずか北側に木屋町画廊っていうのがあって、その橋わたらないうちにすぐに一軒「こはく」という喫茶店が……。今あるのかどうか知らないですよ(注:実際は西木屋町四条下がる)。

坂上:築地じゃなくて。

水上:築地は上手だけども、じゃなくて一筋目の何ていったっけ。

坂上:フランソワじゃなくてソワレじゃなくて?

水上:ソワレでもないね。わずか北にお風呂屋さんってもうなくなったかな。

坂上:ないと思う。

水上:それじゃもうひとつ言います。バー。というかスナックのファニー。

坂上:ファニー。はい(笑)。

水上:ファニーよりも一本手前の通りなんですね。南の通り。そのときにファニーへその河原町の西側を歩いていけるわけだけども、その川となんていうのか今の通りの角の間に挟まっている一番手前というか一番南側の店(注:西木屋町四条下がる)。今もう変わってるでしょう。下がなんか窓がぱちゃっとついていて。僕が言っているのはその2階なんだけどもね。2階にクラシックかそんなものをかけてる店があったんです。階段上がって行くとね。そこではほとんどぐらいにハブル氏の姿見ましたよ。案外そこで日にもよるんだけど、随分遅くまで先生おられてですね、こっちが気が向くと話でもないけどこんにちはって。

坂上:ハブルさん、ヨシダミノルも住んでる九条山に住んでましたよね。

水上:当時? 僕はそこらは良く知らなくて、どう歩いていくかって調べる気もないし。

坂上:同志社(注:当時のハブルの職場)から町中までてくてく。

水上:そして結局ヨシダミノルの近くにおられたわけ。

坂上:そうです。

水上:ちょっと道筋がちがったんだね。僕の方は、哲学の道の方だからね。ちょっとクッションがあるんですよ。あそこから永観堂とおってさ、南禅寺へって。そこは九条山のほうは出ずにほとんど南禅寺の奥の方へ入るだけですから、こっちは。

坂上:いつのまにか知り合ったんですね。

水上:そうですねえ。

坂上:ハブルさんが水上さんの名前も出していたっていうから。

水上:それはあとになってからそうなっていくのね。それは何故かというと僕が何をどうこうしているなんてことの話までは言いもしないし、あれはどうでしょうかってことだけど、その間に例えば亡くなった寺尾さん(寺尾恍示)なんかは大分前から知ってるんですね。

坂上:ハブルと?

水上:ほんと。

坂上:どこに接点があるんだろう。寺尾さん新し物好きだからかな。

水上:そのこともあるだろうし、それから寺尾さんがどこまではわからないけど、仏教の思考方法までにもかなり追求したいと思っていたところが。ところがどっこいハブル氏はそんじょそこらの付け入る予知もないくらいに深い人ですからね。思想の方にね。ある時大乗小乗関係のことについて……。その頃ハブルって名まえ知っている人殆どいないんで、秋石さんって言ってましたけどね。「秋石に聞いたらな、こんなふうに教えてもらった」って(笑)。

坂上:ハブルさんは日本語しゃべってましたか?

水上:ぺらぺら!

坂上:やっぱり! 同志社の人は「一切日本語しゃべらなかった」って言うんだけど、同志社以外の人はみんな「ぺらぺらでしたよ」っていうの。私絶対ハブルはぺらぺらだったはずだって思う。そうじゃなかったら『花伝書』なんて訳せませんよね。できるわけないでしょう。

水上:しかもそれが日本人の片言じゃないの。あの人らはほとんど訳せるだけじゃなくて話せるんですよ。

坂上:流暢だったんですよ。

水上:実はね。ジョークまでいえるはずですよ。こっちはそれ最初しらないから片言まじりで言うわけですよ。

坂上:なんで同志社の人の前では絶対しゃべらなかったんだろ、日本語。

水上:学問系のこともあるんじゃないですか?つまりほら、これから英語だけでいくってそんな時間ってあったことない?

坂上:私達も確かに中学の頃から英語の授業は「ハーイエブリワン(Hi, everyone)」からで。

水上:思考をそっちに移せるまではそういう風にしなきゃって。そうなると誰でもいいわけにもいかないから、あなたできるけどあなたにはってわけにはいかんからやっぱし英語で。あの方の英語はとても綺麗な英語ですもんね。

坂上:アメリカ人なのにみんなイギリス人だと思ってましたもんね。

水上:そこら辺の情報は、例の英語の先生、伏見の向こうの方の山本茂樹先生が。

坂上:そうですね。でも山本さんだってハブルさんが日本語しゃべってるの知らないですよ。

水上:あらら。じゃあ内緒にしておこう。

坂上:いや、暴露する。だって私このあいだハブルさんの教え子の山本さんが紹介してくれた、同志社の教授を終えたひとで、ハブルの事調べて本書いてるっていうから、「何か日本語ぺらぺらだったらしいですね」ってって言ったら、「え…」ってなったんですよ。

水上:深いところの話はね、やっぱし言葉詰まってしまうから、しなかったけども、本当に綺麗に日本語しゃべられましたよ。

坂上:まあ、置いておきましょう。そしたら《KICK代理社の贈り物I》をやって。そしたら(1960年に)《永田町追悼議》やって。(次に)《KICK代理社の贈り物I》をやって。この辺は、まだまあ何となく好きな事やってみようみたいなかんじで、詩も書いたりして。それで(1962年1月の)アンパンに出そうと思ったのは何でなんですか?

水上:やっぱりどっかで発表してみたいと思いはじめたんでしょ。ビジュアル系の事も。そのときに詩といったほうは、詩のほうはですね。雑誌が出てくるんです。名前忘れたごめん。

坂上:『筏』(注:水上氏が京大時代に作っていた詩の同人誌のひとつ)?

水上:そうじゃない。全国紙。これは同人誌だから。えっと、何ていったかな。あの、似たような名まえになるんだけど、伊達得夫って記憶に出てきませんか?

坂上:のりって言うのは「得」の得?

水上:ひょっとしたら『現代詩手帖』って聞いた事ある?

坂上:ある。

水上:じゃ、それ。それの第一期。それをしだすのが伊達得夫。そこへね、何年だったのか忘れたんだけどさ、こっち投稿するわけ、で、そこかどっかかなんかが出した詩人名簿みたいなのがあるの。僕持っていないけどね。そこに僕の名前も載ってます。

坂上:水上旬。

水上:水上か林かどっちかで。そのあたりのときに亡くなった方だけど、山本太郎っていう有名な詩人がいるんですね。もうちょっと前にいくと抽象詩とかそんな人達もいる辺から。現代詩というパターンの方になっていくときに、そんなあたりの人達が評論をやってるわけですよ。つまり評論というか選抜メンバーをね。そんな人がそこへ、これはなかなかの年の人だと言うのをその方書いてくれたですね。その時は重なりますが出始めているのかな。

坂上:それって水上さんが詩との決別(注:1964年7月)をする前ですよね。

水上:ええ。詩との決別は60年代中ごろのへんかなかそこそこじゃないですか?まえ差し上げた中にあるあれ、

坂上:『ほしのうわさ』。私の大好きな『ほしのうわさ』。64年7月。

水上:そこらへんのところでの関係で。そのときにやっぱり一方にね、何人か同人誌の関連者がいたわけ。そうするとひょっとすると「主なき店」と言うのは詩の系統から知り始めるんです。

坂上:あの辺はたしかに詩人も多いですね。でも全員来ていたから。

水上:主さんの方は……。

坂上:詩と芸術のアンソロジーみたいなの結構みんなやってますよね。

水上:西脇順三郎だった? 瀧口の師匠。

坂上:そうです。

水上:あの人系統のようにして言語を書いていくって人が京都に。

坂上:じゃあ、詩のことはあとで。とりあえず元に戻って。アンパン(について)聞いていた最中でしたね。アンパンになんで出したのかって(注:1962年1月の京都アンパン初出品について)。

水上:そうでした。発表しているというので思い出したのは、詩人名簿に出ていたのはつまりまだ美術手帖にはのっていないわけであって。というよりは「どこかで発表したいな」という感じのものが出てきて。ひょっとしたらひょっとするかしらっていうそこでひとつのきっかけみたいなことをしたのが、加藤由美子さん。かとこが「アンパン出してるよ」って言ったか、「出したよ」と言ったか。

坂上:アンパン誰でも出せるし、「主なき店」にきている市村さんとかみんなアンパン作った人達だから、出してみろよとか。

水上:あ、そうかもしれませんね。詩人系等の方からその詩人とどこで飲んでいたんだろう。ですがもうちょっとせまっくるしい店があって。

坂上:四条河原町の上手の築地じゃないけど、あの辺にやっぱりもう一軒、四条河原町の下手か忘れたけど、なんだっけ、私もすぐ忘れる。そこにみんなよく集まってた。

水上:そうそう。

坂上:「キサラギ」!

水上:そうだ、「キサラギ」か!そうだ。そうだった、「キサラギ」のママさん。あったあった。さらっとした感じのとこだった。そうでした。あれはどっち側だったか、あの辺にありましたね。

坂上:たしか南だったかと思います。

水上:そうですか。だからそこへよくごちゃごちゃ集まって、だからもう早く死んでしまった男とかいるんだけどね、この関連で。あ、そういえばそこら辺で例の、横話になってしまうけど、奇妙な小説書いていて、全集まで出ているなんでしたっけ、ヨーロッパっぽい話も入っている……。

坂上:京都出身で?

水上:いや違う。読むとちょっとぼんやりするような。ごめん、またあとで。

坂上:「キサラギ」でいいですか?

水上:いいです。

坂上:それで出してみようと。市村さんに言われて。

水上:うんうん。それなら出してみようかなということで。そしてそこが市村さんと少しずれ込みを起こすかなと思うのが、市村さんが「自分達の青美に出してもいいぜ」という背景に理由がおそらくかとこたちと一緒に展覧会をしているということがあるのと、アンパンにも出してるってあたりから「出させてやってもいいぞ」というふうな感じではなかったかなという感じがします。その時に知ってるということは今言いましたように「主」だけどもね、だけどどっこい「主」の市村氏とか、いろんな人達が知ってる詩人っていうのが結局は「キサラギ」の。狭いといったら狭いんですね。東京で「発見の会」とかいってるのがいるじゃないですか。あの辺の建築のひとたちとかごちゃごちゃ集まっていて。そんなような時期っぽいのかなという感じなのかなと。

坂上:ちょっとそういうごちゃごちゃも脱しつつある、っていう感じだけど。

水上:そうですね。そこで言い出しっぺがまだまだ若いわけですね。本当に、30にもなっていないくらいでしょ。でもその頃の20歳と21歳と22歳ってものすごい大きく違いますからね。感覚やら何かがそれこそ先輩さんって感じ。

坂上:質問が脱線ばかりしてすみません(笑)。それでアンデパンダンでは《墓標のかたちする呪文》。

水上:その言葉の一方で、(その頃)知った魔術やらいろんな系統の新書とかがあるんです。ああいうところから引っ張り込んできますからね。ですからおそらくその第一期のものはベニヤ板のタブローだと思いますね。

坂上:そのあとの《CELL白ミサ》もベニヤですね。

水上:そこに組み合わせてるだけの話ですね。

坂上:そのときにちなみにバイヤースも出してるんですが。

水上:へえ。

坂上:でもまだ知り合いじゃないですよね。

水上:知り合いじゃないです。

坂上:じゃその時は市村さんたちとは「主なき店」とかで知っているけど。

水上:ただバイヤースはね、あの姿ですからね。どういったらいいんですか、挨拶とかはしないけど、「ああいるね」って。

坂上:目立ちますもんね。

水上:その通りです。ブラックスーツとか。

坂上:白づくめだったりとか。

水上:どっちにしてもトップアートでしておられるわけだから。

坂上:そしたら、京都アンパンの頃とは市村さんたちとは「主なき店」とかで知っているけど、まだあんまり同年代のアーティストとかはそんなに知らないですよね。

水上:そうですね。まだあんまり知りませんね。それは。

坂上:かとこさんたちと知り合ったのもこの頃だけど、まだまだ輪は狭いというか。赤垣屋はもう行ってましたか?

水上:行ってますね。赤垣屋にはお絵かきやさんはほとんどきていなかった。映画というかそうですね。どっちかというと映画関係、大映とか東映とかあの辺の下っ端であるとか。

坂上:照明さんとか。

水上:そうですね。感じみたいですね。そこらでその人達と話すっていうのはまりしないでそれらしいなというだけです。その中には詩人なんかもいるわけだし。

坂上:でもそういうところの雰囲気に浸ってるのが大事ですね。

水上:そうですね。ひとりで居酒屋に行くのが好きなのはそういう感じ。

坂上:その後に《精神改造計画儀》(1962年6月)。

水上:それはどっかでイベントめいたことをやったのかしら。展覧会になってますか?

坂上:わからない。京都です。アンパン(1962年1月)と《CELL白ミサ》(同11月)の間に《精神改造計画儀》(同6月)っていうのをやってるんです。

水上:だったらこれは唯一僕が意図的に裸になったやつです。

坂上:どういうことですか。

水上:着てるものを。

坂上:どこで。

水上:名前も忘れた、どっかの喫茶店なんですよ(注:フレンチカンカンで行った)。

坂上:キサラギ的な喫茶店?それとも築地とかフランソワとかソワレみたいな?

水上:そういうふうな感じでお客さんがくるけども、あそこはどちらかというと仲間同士の店じゃないでしょ。キサラギは別だけど。奥はいったみたいな店でしたけど。

坂上:普通の喫茶店ですか。

水上:普通の喫茶店じゃなくてあれはねえ、えっと例えばあれなんていったかな。もうない店なんだけども。

坂上:四条ですか。

水上:四条からもう少し入り込んでるんですね。だから通りとしたら四条より上の通りだったのか。

坂上:大学4回ですね。

水上:その時にですね。結局は、中身をいえば、そこでちょっとしたサウンド系みたいなことを含めながらというのはすでに音はやるもんだから、でそれもしながら結局他のほうに音を任せたのか知らないけど、着てるものを脱いでいくわけですね。

坂上:6月だから半そでですかね。

水上:うーん。それを脱いで行ってしまって今度は自分で作った……。

坂上:パンツまで脱いで全部。

水上:意図的にオールヌードになった。

坂上:まわりは知らない人ばっかりですかね。

水上:知らない人もいたけども知っている人も何人かいるわけですね。そこで。

坂上:ジャズ喫茶じゃないですかね。

水上:ジャズじゃないです。

坂上:河原町三条ジャズ喫茶じゃないですか(注:小杉武久が袋に入るなどのパフォーマンスをしていた喫茶店)。

水上:そこじゃないです。どこだったかな?えっと…そういうふうなときに亡くなったんだっけ。藤谷しろうってなくなりましたか?

坂上:わからない。

水上:あの人も行方わからなくなってくるんだけども、田中君っていうフラメンコひく子がいたんだけどね。ちょっと違うかな。そういった時期に何人か詩人もいたりさ、その辺で行ってた、ひょっとするとシャンソンがかかっていたかもしれない、そこは。専門店ではないかもしれないけども。

坂上:六曜社でもないし。

水上:ちがいます。あそこは動く場所がないし、そういう雰囲気持ってないですね。あそこはコーヒーだけみたいなかんじで。

坂上:ジャズ喫茶だと小杉さんとかも袋に入ってやったとか。

水上:ジャズ喫茶といってもそれだけの広さを持ったところは…… あのね、もうちょっとあとにできたのが「こはく」か。こはくっていうのは、四条木屋町を下がった西側にジャズ喫茶があったんですよ。2階あがっていくところに(注:先ほど話題になった、ハブル行き着けの店)。

坂上:四条木屋町下がる。

水上:それがあの木屋町じゃなくて、ファニーなんかのある通り。だから西木屋町というの。あそこ下がったところに韓国系の人がしていたジャズ喫茶があったの、2階のほうにね。今の改造儀は別ですよ。改造儀はそこじゃないんだけど、その後にそんなところで小さな展覧会もしたことがありますけどね。

坂上:カオロウ館あたりの。

水上:カオロウ館は食べ物屋さんだしね。あの通り。だから西側なのね。だからそこへちょうど四条の角っこに昔そのえっと何ていったかな。ブルーノートかな、があったんですね。

坂上:今は蛸薬師ですね。

坂上:そこ(フレンチカンカン)で裸になったと。裸になって自分が持ってきた服を。

水上:そうそう。どれも自分の手作りのね。

坂上:どんなのですか。

水上:だから簡単なことでいえばTバックでもないんだけども……。

坂上:え!

水上:布です(笑)。そんなごわごわするのはしないわけですから、そのほうが自分にとって気楽というか、それを。それからそんな時期だからね。下のズボンとかそんなのはしないわけであって。そして上へ着るというのはひとつのローブでしかないわけだから、しかも白い方向の事を思っている(黒の対としての白。まがまがしいものの意としての黒というよりは、救いへの昇華?としての白。黒魔術に対する白魔術)のだから、白いものでもそれなりにポンチョ風に真ん中と両脇が開いていたのか。そこの地面に座り込みながら、音を出していたのかその時に書いていた詩かなんかを朗読を。叫ぶ事はしていなかったと思うけどそんなようなことですかね。

坂上:水上さんは自分のことを「古式汎儀礼派」(注:水上氏の別名)っていうじゃないですか。儀式っていうのは最初の頃からすでに儀式というのがある。ある形態を持ってると私には見えるんだけど。

水上:そういった何かの、どういえばいいかな。意識をはっきりさせるような位置づけに自分を持っていく何か。時々感がひらめくようなことってあるでしょ? 何かしてるときに。あれを持ち込んでくるの。あれは通常の使い方とちょっと違った使い方してるんですよね。気持ちって奴を。意識を空白にしていくっていう禅を組んでいったときに、そこへ入れるかどうか。それは悟りの導入口だと思うし、悟りなんていうのも実は導入口だと思うけどね、自分を全くなくすための。そこら辺のことへの願望というか傾斜を持っていたと思います。今も持ってるんだけど。まだ時々自分で思い返して、ふっと街角歩いていて、ふっと人様がこちらを見てくださったおりに、何でもなく見られたほうがいいのか、何かありそうだと見られた方がいいのかまだ解決がついてないです。さっきのバイヤース氏でもいいよ。彼なんかだとあの姿するから当然そこでもうそうなってしまうんだけど。そこで意識してもらうっていうのは相手の、ときのひとつの姿だとすればそういうことですよね。俗にいう言い回しでいうと、ある種のそういったところまで深く行けば、決まった方って言うのは、それらしい香を持つといいますね。僕はそこがまだわからない。香りがするほうがいいのかしないほうがいいのか。

坂上:でも水上さん目立ってますよ。「いるいる」みたいな(笑)。

水上:そんな方に向けての、ひとつの歩み方みたいなものに「儀式」と言う名づけをある時したんじゃないかと思って。だから比較的早くに「儀礼」であるとか「儀式」であるとかいう言葉を使っていて。そういうときに今言いましたようなのがひとつ。もうひとつは儀礼とかありますよね。あれは延々とした関係の中でも、こういうしきたりである、と。

坂上:有無をいわさない存在ですよね。儀式って。

水上:あるっていうそこら辺のとこでいうと、それは現実日常に対する課題だろうといってしまって。そうでもないのかな。「おりざま」というか「おらしてもらいざま」っていうのはなにかしら方向への意識を持とうとしてずっときているのかなと思います。そんな意味でさっき白ミサとか黒ミサとかいった、どっちかっていうとやっぱり僕は白い方が欲しいってね。そっちの方へ歩こうとしますって。だから儀式といえばそうですね。言い回しを変えても結局はうまく言いようがないからそういう言葉を使っているだけであって、そんな「ありざま」といいますか、「おりかた」、「おらしてもらいかた」、そんな風ですけどね。そんな風にしていて面白いのかとか言われると困ってしまうけどね(笑)。なんでしょうかね。

坂上:次は《古式スコッチ儀礼書またはオメルタの神話》(1963年3月、京都アンパン)。

水上:それはね、そういう名前のものがあるんだそうです。イギリスか何かのフリーメイソンめいた種の中のしきたりかな。「オメルタの神話」って何だろう(注:古式スコッチ儀礼書またはオメルタの神話はフリーメーソンの用語)。ギリシャであるのかイタリーであるのか、そこら辺のところにオメルタ云々ってのが。それも中身そうわからずにつかってるんですね。だからイメージとしては古式でありたいっていうのは新たにどうこうではない、そいつをきちっとそれに。

坂上:どんなことやったんですか。アンパンですけど。タブローみたいな感じで?

水上:おそらくタブローであるのか、一枚の布であるかあれはケント紙の紙のところに小さなオブジェクトをこういう風にくっつけていっただけかもしれない。オブジェクトといったら何かというと、布を包帯じゃないんだけど巻いたものがこういう風にかさねてみせてそれを紐か糸かで順番につなげていったようなものがそんなものであったかもしれません。

坂上:美大を出てる美術家だったら、この行為はポロックの影響だとかこれは大体こういう画集をみてそこからきてるとかいえるけど、水上さんはそういう感じではないですね。

水上:重なる部分はおそらくあるはずですよ。どうせ人間が考えていることだから。ただどれどれ風っていう感じがもし自分で見たときにあったらそれはしないですね。

坂上:そういうの(影響源)が分からない。

水上:もうまかせるわけ。もうどれかの姿。もし誰かがそれをやっていたら「どうぞやってください、おぬしがそこらだとしたらこんな風なことはどう思われますかね」ってね。

坂上:ちょうどこの頃ってアンフォルメルとか出てきて、ちょうど50年代はケラ(ケラ美術協会)とか出てきていたし、京都ではそういう人たちがアンフォルメルのグループを作ってやってました。

水上:そうでしたね。

坂上:(水上さんは)そういうのと全然違うの。当たり前だけど。いわゆる美術家の連中というのはこの頃グループ活動が盛んだったわけですよ、結局。そういうところと全く違う動き方をしてでてきたものがあとでクロスしてくるわけですけども。そしたらオメルタの神話をアンパンでやって、京大法学部民事訴訟法を卒業したのは留年もせずに卒業したんですよね?

水上:いや、学内留年を1年やってるんですよ。

坂上:それで京大法学部を卒業してまだ南御所町に住んでいるんですよね。

水上:そうですね。そこに結局は夏前くらいまでいたのかな。

坂上:63年夏くらいまで。

水上:夏までなのかちょっとそこら、よくはっきりしませんがね。その年の結局は3月か4月に卒業証書をもらうわけですよね。出た以上は、それから夏、夏まではいなかったかもしれませんよ。

坂上:《KICK代理社の贈り物パートII》(1963年7月)をやってます。この夏。

水上:あ、そうですか。

坂上:これはまたいろんなところに。

水上:それじゃあ(京大)出てからまだいたんですね。そういうこと(引っ越し)はそうおいそれとできないものだから、まだいるんですね。この時(64年の京都アンパン)はもう名古屋から持ってきてるという感じがしますからね。だから青美(1963年9月10月)にわざわざ名古屋から来るわけもないと思うんだけど。

坂上:名古屋は《人物御包帯式》(1963年10月)っていうので街頭の人物彫刻に包帯を巻いていくんですけど。

水上:はいはい。

坂上:名古屋でやってます。それが63年の10月。

水上:はあ。

坂上:アンパンやるじゃないですか。《スコッチ儀礼またはオメルタ》(1963年3月)。その年の10月には名古屋で人体彫刻に包帯巻いてるから、その間に京都から名古屋に引越しをしてるんですけど。

水上:そうですね。

坂上:そのあとも名古屋で《ラウンドテープポエム》(注:1964年8月)っていうので、テープ状の布に文字が書いてある、その場で座りこんでいる数人でその音声を読んで、そのテープ状の布を回転させていくみたいですが。

水上:これはね、ゼロ次元が今ある美術館じゃないんだけど、昔の方の愛知県美術館ですね。で、狂気見本市かそんなことをしたことがあるんですよ。その辺のときだったかな。と思うんですけどね(注:1964年8月30日〜9月5日、「日本超芸術見本市」、愛知県文化会館他)。

坂上:この頃もうゼロ次元のひとたちと知り合ってますか?

水上:それより1年前かへんに実家のある名古屋に休みかなんかで帰ってきた折に彼らが町中を歩いていくっていうのかな、裸になったりしながら、一連のそういうふうなことをしてる辺のとき、「おめえら何やってるのかな」ということで、彼らの集会場めいたところに行ったことがあるの。62年だか63年だかその辺は忘れてますけど。その辺のとき辺からゼロのこと知っていて、「参加しないか」と言われて、それは「オレはやりたくない」って言って。今度公の何かそういう展覧会開くっていうののはじめが狂気見本市かなんかってものだったのか、県の美術館の前でもって、やっぱりそうですね。これがラウンドテープっぽいのが第1回見本市ですね。多分。そこのところで、参加して長い3〜4メートル、直径2〜3メートルくらいで輪になっても十分まわれるだけの布なんですね。そこにこれが書いてあるわけですね。『ほしのうわさ』が。

坂上:これが詩との決別なわけですよね。

水上:それでそんなふうなこと。

坂上:《ラウンドテープポエムとカードによるチャンスオペレーションズ》は? これも名古屋です(1964年8月、「日本超芸術見本市」)。

水上:カードめくり、カードっていうのは普通にあるカードですよ、それでもってこれがでたらこれをするってよくあるほら、ケージもやってるじゃないですか、そういう系統。なんかでたら読むとかね。パターンはだから真似したのかもしらんし、同じようなことですよ。

坂上:このころはゼロ次元とこういうことをやってたんですか。

水上:ゼロ次元の何かのときにひょいとひっかかるだけでもって、別にゼロ次元のメンバーでもなんでもない。そういうことではないですね。

坂上:そのとき路上にいる人たちと知り合いだったんですか?

水上:町にいるひとたちとの知り合いは……。

坂上:包帯ぐるぐる巻いて。

水上:それは彫刻。

坂上:そうか。『ほしのうわさ』のときは。

水上:それは展覧会にかかわっていた辺りで「ちょっとやるから一緒にしません?」ってそういうところから参加したりですね。

坂上:この《路上の風葬式》(1964年3月)のころにも、名古屋にいますね。これはなんですか? (その前年の)夏、5月か6月に名古屋にいって。

水上:それはひょっとすると。

坂上:これはなんだろ、《SCAD〜INITIA 陳列棚儀式》って(注:1964年1月、京都アンパン)。

水上:僕はそれを、省略語にもちこんで、今忘れてしまってるんですね。そいつはアンパンに(出したんだけど)、布でロウみたいなのを順番に張り合わせながら作っていくわけ。巻きスカートってあるじゃないですか。あれがローブみたいになってる。ローブにした布っていうのは、がちゃがちゃしたシーツってあるじゃない。綺麗な布じゃなくて。あんなふうなシーツを順番に切ったか裂いたかして順番にくっつけていくんですね。そいつを結局針金のそれらしい姿にぼんと乗せるだけですよ。その下あたりに、布でぐしゃぐしゃって組んだオブジェクトめいたものをおいていたかもしれませんし。布袋みたいな。

坂上:青美のときは何をやっていたんですか。この頃だんだんパフォーマンス的になってきますよね。63、64年くらいって(注:1963年9〜10月)。

水上:さっき話した追悼儀みたいなものが、ようやくパフォーマンスじゃなくて、ハプニングだというふうにね、自覚し始めていくんですね。そしたらこれも表現のうちにいれてもかまへんのだなって思うんですよ。

坂上:そのときは何をやっているのかわからなくて、やっているものがあとで考えてみると、あ、っていうの。それだったんだって。

水上:あれを言うんだねと思って。しているときは何もパフォーマンスだとかハプニングだとか思ってない。そうすると何か取り決めての格好じゃなくて、やっぱりひょっとした状態のことだなって。だんだん状態表現ってどんなもんかなって、その時期らへんからぼちぼち(考え始めた)。言葉として言えばね、実はそうある姿を見ると言うことがすっげえじゃないかいってね。だからさっきまだ謎なんですって言った、なんでもなく感じられる方がいいんじゃないかっていうのと。何かあるって感じられるのとどっちがいのかって。それがあとあと自分で過去をどう見るっていうか。

坂上:反対に自分がやっていることがパフォーマンスだとわかると今度はそれに自分を当てはめていってしまうこともありますよね。

水上:それもありますね。

坂上:この場合はすごくいい具合ですね。

水上:単純にごく日常的ということでもって、そこでお祈りをね、そんなふうなことで動いていって、後日になると、ああそうかって思って。そしてまあそういうふうな辺りでいろんなことと重なっていく。

坂上:バイヤースも英語学校の子たちと、東本願寺にいって、夜が明けると同時にハスの花が開くとき、ポンって音がなるらしいんですけど、そのポンの音を聞きにいったことまで、パフォーマンスになっていたりとかしますもんね。

水上:僕はそこをさっきも言いましたように「意識しましょう」と。そのこと。何でもなくしているんじゃなくて意識しようってね。「しなさい」じゃなくて「しましょうよ」って。そういっていると別になんてことなくなるんですよ。何がパフォーマンスかって、そうじゃないんです。自分自身がそういうところに気配りが出来ていくということ。なんかそれ自体が存在しているってことのほんの第一歩かもしれないし。

坂上:今はラウンドポエムとか言っているけど、別にこういうリストの中に入らなくても、水上さんがたとえば、リボン結びをやったことがそれを意識したことであれば、ここに入ってもまったくおかしくないと。

水上:そんなふうに思いますね。つまり「(その作品を作るために)どれだけの努力がいりましたか?」って話されると、「馬鹿いうんじゃない、ここまで生きてきたことが努力のひとつだ!」ってね。「リボンだけなんて何の努力も見られない」って、「何を言ってんですか!」ってそんなこと。そこはいわゆる美学や美術論や芸術論の方向から少しずつはみ出していってしまうんですね。そうじゃない捉え方を芸術というのはしてきてしまったから、本当はそうじゃなくて、生きていること自体を対象にしようじゃないかと。そういうこと。

坂上:この頃、ゼロ次元と知り合っているじゃないですか。そういうので、知り合いが多くなったってことないですか?ゼロ次元と知り合ったことで、というのじゃないけど、京都にいるときってきゅっと収まることってないですか。それが名古屋へ出るなり東京にいくなり、外にいくと、わっと人の知り合いがふえるというか。

水上:そこらへんがおそらく、政治運動のあたりは、それ以外にすることがなければどうぞということで、あるとき学生運動やっている人がいて言ったことがあるんですよ。それは思いつきでいったんじゃなくて、自分自身で、俺、やることってこれじゃなくてやぱり単純にお絵かきというか、そこらだねって感じのほうにどんどん。そっちのほうがやっぱり集中するっていうかね。そんなことだったんですね。だからそんなの「アホか」っていわれたら、「アホです」って。まあそういうところと強くかかわりを持ってきそうな気がしますよね。その辺で人を見に歩いていったってことで、今どうかっておっしゃったときに、そっちのほうがむしろ強かったですね。意識が。

もっといろんな人たちと触れるようになったかというと、そのとおりです。それで、人というのはどっちかというと美術やそんな関係の人たち。そこら辺の人っていうのをもうちょっと広くとってしまうと、「人ってどうやって生きておられるのかしら」っていうものとして、ぽつぽつ歩き始めてですね、そこでだいぶいろいろ知りましたね。それも延々と旅していくやり方じゃなくて、まあ、月に2週間とかそこらくらいです。もうひとつはほぼ動けそうなお金の範囲で。

坂上:この頃水上さん、どうやって生活してたんですか。

水上:それはほとんど仕送りですよ。その時期はね、それから後の方へ出て行って名古屋へ来て、また京都に戻る。そっちは今度はバイトですね。バイト業は、ようするに家庭教師ですね。

坂上:京大法学部卒。

水上:まだまだね。さっき言いました在学中のときに、夏休みなんかにふらふら歩いていくときにね、やっぱり山じゃないんだけど、山に近いところを歩いていて、そして、ばあ様とかじい様が「どっから来た?」って、「京都です」って。それで、「よけりゃあちょっとお茶でも飲んでけ」って。「いただきます」って。それで「飲ましてもらってありがとう」。それから、泊まってっていいっていうから、泊めてもらって。そしてお孫さんとかいらっしゃる中には算数とかちょっとだけお手伝いして。あくる日ご馳走さまと言って帰る。そうやってそんなことをやってました。僕はそれが必然的でも何でもなかったのは、いつもどこでも寝るだけの準備態勢は持ってますからね。そんなことで、いろんな人たちの様子が(分かった)。本来はみんな善良だなという感じがしました。こちらの姿勢の問題もあると思いますけどね。そこで再度ありがたいなという感じを再勉強させてもらいましたね。

坂上:話がもどるんですけど、結局名古屋にいたのは、岐阜のアンパンのときにはもう名古屋ですか。それとも京都ですか。65年8月。

水上:もう京都です。

坂上:この《SEXOPHONIC》は名古屋ですか(注:1965年5月)。

水上:それはね、今度はちょうど今で言えば、セキソフォニックっていうのはヤマハって場所がこっちにもあって、もう今は形かわってますけどね、そこでいろんな変わったことをやるというから、「俺も混ぜて」といって、参加するわけですけども。まあ仲間とかじゃなくて、知人同士で、「今度こんなのやるけどお前も何かやるか?」ってそんな関係です。そのときは、やっぱり京都からそこへ参加しましたね。

坂上:じゃあここの辺りっていうのはもう……。

水上:そう、わずか1年たらずぐらいで、また向こう(京都)へいってるんですね。

坂上:それでまたゼロ次元に呼ばれて、セキソフォニック。

水上:「やるけどどう?」っていわれて。「いいよ」っていって。そうやって今度は、岐阜アンパンではもちろん費用を払いもしなくってさ。

坂上:ゲリラですよね。

水上:ゲリラで行くんだけども、そのときがどうかな、そのときは写真はたぶんないんだね。そのときとても感動的だったのは、岐阜へまず行って、そしてチラッと見てそこへゲリラでそれこそよくないんだけど、ペンキでもって河原の石に記号を……。

坂上:12345だとか。

水上:だとか、なんかよく三角とかいろんなのつけて、そして次に今度は伊良子岬っていうのがこの先にあるんですよ。名古屋の先ね。伊勢湾のあたりなんだけどね。そこへ行くわけです。そいでそれはどういう回り方したのかな?

坂上:岐阜からぐるっと回ったんですか。

水上:結局は旅費だけの問題だから。

坂上:水上さんだけで。

水上:はい。

坂上:一人旅みたいな。

水上:そのとき結局(岐阜の後に)こっちへ来るわけ。ひとりでね。で、持っているのは、ペンキを持ってる。あとカメラも持っていたはずだけどね。伊良子岬ですね、太平洋側に面しているそこへ行こうと。そこはテントも借りられるし、いやなら寝袋で寝ればいいだろうって。そんなふうに行ってそこで朝起きてそこで、浜を歩いたらラッコか何かの骨が乾燥して、骨だけになったのが砂浜にざっと落ちてるんですよ。そして誰かがしたんだろうけど、竹棒の先にあたまがぽんとおいてあってそれが風で揺れてるの。すごかった。なんだか。そのときに落ちていたいくつかあばら骨かな、そんなのを拾ってきてどっかに持ってるはずです。そして骨と骨の間の接合する別の小さな骨があるんですよ、あれがかわいくてさ。あれもいくつかそのまま入れてどっかに持ってるはずです。

坂上:関係ないんですけど、《SEXOPHONIC》ってどんなことやってたんですか。

水上:それはですね、サックスってやつはすごく粘っこいというか、ウワワワワ…ってすごいねセクシュアルな音を出すじゃないですか。そこら辺とサキソフォンのAをEに変えてしまってさ。

坂上:組み合わせのジョークみたいな。

水上:音だけですよ。映像はないし。

坂上:音楽会だったんですよね。このときは。

水上:うん。そこへさ、あまりメロディにもならない音の方へ一生懸命。

坂上:即興の音楽みたいな演奏。

水上:即興です。

坂上:岐阜アンパンでは《記号学。唇為のBUBLE》。

水上:唇っていうかブルブルブルブルって(唇を指でたたく)。

坂上:それも音楽といえば音楽ですね。

水上:それをもうちょっとまわりに、あれどこだったかおそらく……。

坂上:《記号学》は石にナンバリングですね。《BUBLE》はブルブル。

水上:ちょっとした集まりめいたものがあって、そこでこれやるわっていって。

坂上:なんかゼロ次元が「ホイホイ」とか言いながらテントの中から出てきたとかいうときに(注:岐阜アンパン会期中の夜のイベント)。

水上:そうですね。そこにテント小屋をゼロが作ったわけだ。そこにいろんな人たちが関わりを持つわけですよ。だからそんなところに松澤宥も来ているわけ。

坂上:(『機関』13号、松澤宥特集、1982年、海鳥社、を引用しながら)「8月9日から19日まで岐阜長良川上流一帯の川原で催されたアンデパンダン・アート・フェスティバルに行き、私…」これは松澤さんです。(引用を続けて)「ゼロ次元の特出しテント小屋の中で安部ビートに始めて出会ったそうだ。というのは安部、伊藤が会期中ずっとあさいの姉の医大生の部屋に転がり込んでおり、川原のござの上で安部は私を盗み見して一方的に出会ったのだと、秋になって八ヶ岳の伊藤のところへ転がり込んでながら私のところへやってきた安部に知らされたわけである。」ちょうどこの頃に安部ビートと松澤さんとゼロ次元もそうですけど、水上さんも全部テントで知り合う。水上さんともこの頃はまだまじわりはないですよね。もうちょっとあとですよね。

水上:そうですね。なぜか安部とは知っていた気もするんですね(注:『乞食学入門』によれば、1965年の前半時点ですでに阿部と交流あり)。

坂上:安部は……。

水上:それともそこなのかな。それじゃあもちろん彼と、あさい・ますおとはそのちょっと前に知ってるんですね。でもそこで松澤宥というのは……。

坂上:たぶんあとです。というのは1967年になって、松澤さんが京都のアヅマギャラリーで展覧会をやったとき(注・1967年1月)に、「安部ビートが画廊に来ていて水上旬を紹介してくれた。そして彼の東天王町のアパートに泊まりにいって、水上の弾く琵琶にあわせて安部ビートが即興の詩を朗読した。のちに水上夫人となった安部のいう天使の朝子さんとみなで雑魚寝をした。ヒップスター的一夜であった。」(『機関』13号より)と。

水上:しかしその前に堺のアンパン(1966年8月)というのがある。

坂上:66年あります。堺のアンパン出してます? あれも名前は入ってないですよね。

水上:出してはいないんだけど、そこに実はね……。

坂上:松澤さんは出してます。「人類よ…」って。

水上:「消滅せよ」って、そこに長いメッセージ文章があるんですよ。そいつを安部に届けさせるってね。

坂上:松澤さんが安部に。

水上:松澤氏は行けないから。そんなふうな話をこっちはとうにわかっているふうな。だから松澤宥も知ってるわけだし。

坂上:じゃあ家で会ったのは67年だけど、その前から知己なんですね。要は。

水上:いつ会ってもいいんだけどね。だから安部ともいわゆる歩き関係で知っていて。もちろん僕はもうそのとき京都のほうにいますからね。

坂上:安部ビートっていうのはどんな人なんですか。

水上:どんなんって言えばいいんだろう。どっからどう出ていったのかよくわからないけども、ほとんどひとり歩きが多かったけど、しかしそこの関連よりもっと前に今のあさい・ますおというのがそこらをリヤカー引いたりして歩いているんですね。

坂上:死んじゃう人ですよね。海で。

水上:それは実際事故だったっていうから、そうだろうと思うけどね。そのときのあくる年かそのあくる年くらいの夏に、突如亡くなって、俺は自殺かと思ってしまったっていうのは、その前に……。

坂上:みんな自殺だっていうけど自殺じゃないという人もいるからわからない。

水上:そのときに一緒に動いていたのがゼロ次元なんですよ。伊豆かなにかにね。しかもそこへ行く前に古い方の県の美術館でもって展覧会をやってるんですよ。俺にも参加しろっていうけど、俺はしんどいからやめたっていったけど、見に行くよって言って見に行ったときに、あさいは《シルエット》を出すわけですよ。どっちとも見れる。僕はそれみて「ああ遠くへ行くんかい?」とそのとき思ってるわけ。それからわずかしたら、あさいが死んだって話をゼロの岩田が電話かなんかくれるわけですよね。えっと思ってもうそれ以上聞かないわけ。聞いたってしょうがないから。で、「ああ、やっぱああいうふうにして旅立つ宣言こっちにしてくれたんかい?」って思ってたんです。で、もうちょっとして、「どうだったわけ?」って、名古屋にいるゼロの岩田に聞いたら、「あれはただの事故だった」っていうから、わからん。それはね、僕はあさい・ますおとそうむちゃくちゃ知ってるわけでもないけどね、そんな無茶酒を飲むような男でもなかったふうに僕思うし。もし無茶酒を飲んでですよ、海べりで。そしてそこへふわーっとわかった上で飛びこみゃさ、どっちにしても(注:あさいますおについて、ヨシダヨシエ『解体劇の幕降りて』(造形社、1982年)より引用。「……ビートニクの影響を受けながら、早くから「縄文人集団」というコミューンを、愛知県長久手村を根拠地にし、瀬戸周辺で街頭ハプニングを試み、『アンドロメダ』や『ゲゲ』などのガリ版ミニコミ機関紙を出し、66年の夏、自身の思想の昂揚期を目前にし、伊豆の海で岩に頭を砕いて、24歳で死んでしまったあさい・ますおは、アングラ・コミューンの嚆矢であろう。……」。水上によるとあさいは、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』のネーミングにも影響を、富岡多恵子他多数の詩人らにも影響をあたえたがそれについては全く語られていない(坂上))。

坂上:死にますよね。それを自殺ととるか他殺ととるかは分からない。

水上:あさいもその辺、リヤカー引いて山のなかばかり歩いているわけじゃなくて、三重の方も行ってますしね。行ったっていうふうに聞いてるし。それから三重っていうのはもうちょっと先へ行けば大王崎からもっと白浜のほうへ、そこらには荒磯がいっぱいあるわけですよ。そこがどんなに危ないかわかってるんです。僕は伊豆のどのへんか知りませんけども、外洋に近いところの磯といいますか、どっちかというと砂浜や砂利じゃなくて、岩石が並んでいるようなところだったら本当にあぶないですね。そこへ下手に入ったら。だからそんなに簡単に行くもんじゃありません。あの辺のさっき言った伊良子岬の先のほうへひとりで遊びに行ってますから、そこらで危ないところとそうじゃないところは分かってるんです。岐阜のアンパンであんな方へ行ってちょっとぼんやりしようかなと思って行って、そして今度帰りに岐阜へ寄るわけですけどね。そしてそこで今度は松澤宥氏の講演とか、そんなのも聞くわけだし。

坂上:でも岐阜のときにいろんな人と出会ってますね。なんで岐阜へ行こうと思ったんですか。おもしろそうだなって?

水上:そうですね、岐阜の川原というのはなぜか知ってるんですよ、前からね。っていうのはさっき言いましたとおり、岐阜に住んでいたっていうかね、わずかいたこともあって、ときどき金華山のふもとの川とかそこらへん遊びにいく場所のひとつでもあったんですね。だから。

坂上:いろいろやってきて、京都でやってきて、ゼロ次元と名古屋でこの辺でであって、ここの岐阜アンパンがそういう意味ではいろんな全国からきたひとたちに出会う一番最初ですね。

水上:そうですね。そういうことですね。あ、さっき言いました、ラウンドポエム云々(注:1964年8月)って、これに出したほうのあのとき、ゼロが呼んだけどそのときは関東系の方からも来ていたし、今度は九州派の連中がふたりばかり来ているんですよ。

坂上:だれが来ていたかな。超芸術見本市。

水上:その関連ですね。それからもう亡くなったけども、米倉徳さんかもうひとりが重原っていうんだけど、すごい良い版画もしたしまだ存命だと思うんだけど、もうひとつ自分の死の状況みたいなものを、手術してあぶなかったそれの写真とってる。そいつを東京でも見せてるはずだけどね、それくらいなこともしたりした男とそのときに会ってます。それから小杉もいたのかな。あ、いなかったのか。音関係の方でいうと小杉なんかとチームもっていた戸島三喜夫っていうのがこっちがわにいるんですけどね。もう一人いて3人チームなんだけど。その戸島っていうのがゼロの見本市のほうにきて、そこで戸島と知りました。最近なんかいい作曲史かなんかの本出したみたいですね。ただ戸島氏はほとんどもう眼が見えないんじゃなかったかな。ね。だいぶ前からね。最近そんなレーベルが出たっていうから、いっぺん探しに買ってみようと思って。ちょっとあとの方で戸島氏と関連がでてくるんですよ。インド音楽の関係とかね。

坂上:まさのり・おおえはどうですか?インド音楽。

水上:まさのり・おおえは結局いろんなところに知己が広いのか、『死者の書』とか。それともう一方はどっかのエジプトのなんかもまさのりが出してるんですね。どこまでがどうかよくわかんない。前はじめのほうの手作り本の『死者の書』をこっちへぱーんと送ってきていくら払えって。

坂上:3万、あ、違った、1500円か3000円か。

水上:そう、初めのほうのやつはね。「しょうがねえなあ」って。今思えば1500円っていうけど、当時はちょっとし(値段だった)。

坂上:ものすごい立派な。私一度見たことがあって、感激。真っ赤なのに金で。

水上:はじめの方の手作り版だけどもさ、そいつはあんまり腹たったから誰かに売り飛ばした(笑)。

坂上:それで岐阜アンパンがあっていろんなひとと知り合って。そのあと伊良子岬行ってらっこの頭みて。このあと伊良子岬いったけど(1965年)9月には《蛍光体展示胎内願望説》を円山音楽堂、京都でやってるんですね。

水上:そこら辺から徐々に蛍光塗料をちょっと使うようなことがありまして。ごくごく素朴だから黒いケント紙にそれで、その落書きでもないんだけどさ、自分流の記号をずっと書いていったり、その図形の背景のものと細胞体云々と、そこらへんで描いたものとちょっと似てくるんですね。

坂上:でもこれって円山音楽堂っていうことは、グループ展ですか。

水上:何かの音楽めいたことをするところの中に、「一組入ってくれないかい」ってことをその企画者から(言われて)。

坂上:でもブルブルとかサックスとかじゃなくって。

水上:いや、サックスも持って行きましたけども、ブルブルはそこではしなかったと思う。ただそのときに、こんな風に大きなものや小さなものにね、蛍光塗料で書いておいてそれを保存してつりさげるようなことと、来たひとにちっちゃなものを渡すとか、そんなプレゼント様式を含めていたと思いますね。音系統でどうこうって。そのときの一人はそのときには知り合っていた、田中くんて人がさっきもちょっと言ったけどフラメンコギターをかなりうまく弾く人でね、そんな人との関わりもあって、それにもしないかって。それからおそらくそこに藤田西洋氏なんかが(いた)。

坂上:木下茂森とか?

水上:いやいや。木下氏はちがう。別の関わりで。もちろん顔も知ってるけれども。そんなふうな関係とでそこで何かしたのかな。費用なんてもらいませんよ。こっちも払わないけど。

坂上:では次に行くとして、《貞操体に対する複合されたオストラシズム・フェティシズムまたは裏がえされた貝殻(貞操体例予告)》(青美展、1965年10月)とか、《貞操体に対する呪詛または結び》(1965年11月)。その次は《貞操体に対する複合されたオストラシズム、フェティシズムまたは裏返された軟体類(貞操帯例I)》(1966年1月個展、都雅画廊、京都)なんですけど。それがこのチラシで『ロベルトは今夜』のちょっと一説が入っていたりするんですけど、この貞操体って何ですか。

水上:これは貞操体なんてごくごくありふれた、なんていうのか。

坂上:《貞操体〜》シリーズが5〜6回続くんですよ。

水上:結局何かに対して、自ら閉じさせる方法、あるいは他者に向けてそこを何か密封してしまうとか、そんなような意味合いと、それがおそらくロベルトの中にも出てきたんじゃないですかね。だからそのロベルトの、誰の訳だったか忘れたけど、そんなものを見つけて買ってきたわけですよ(注:遠藤周作・若林真訳、1960年)。その頃出たはずなんですよ。それで何かその辺を載せていた。でも背景さえ書いておけばよかろうと思って下にちょっとその引用文ふうにしたことと、やっぱり先ほどの詩との決別めいたものも含むわけだけども、やっぱりそこでもう卒業したかったんじゃないですかね。だから書いてあるのは何もそれほどつながりがあるかといわれたら、そんなにつながりがないかもしれません。あの、まったく自動筆記っぽいようなものですね。いわゆる自動筆記とは違うんだけども、たくさん紙切れが落ちていて、そいつを勝手に拾ってはすぐそこにつながり書きをしていくようなね。そんなもんですね。

坂上:どんな感じの。実際は展示だったんですか? とくにこれは個展だから。

水上:具体物としてはどっかに残ってるかもしれんけども、袋をくしゃくしゃと丸めて、そこに当時はタバコを吸っていたからタバコをちょいとつけるとね。ふたしてしまうとこんなくちゃっとしたもんができるんじゃないですか。そんなときは、やっぱりお手拭なんかもそんなのもついてくるからそいつも丸めて。それをたくさんズタ袋をつくって放り込んでいった。そいつを壁面にびっしりくっつけていく。

坂上:床に置いたのではなくて壁面に。

水上:つけて。っていうかパネルにね。それからパネル自体に今度は自分でつくったオブジェクトっぽいものを。それからもうひとつ樹脂というかビニールだとすると、大きなビニール袋を探してくるわけ。そんなものをぼんぼんと置いたりして。それからあとはサックス吹くことそれからパートナーがそう上手でもないけど踊るっていってね。言うようなことを含め、そこで知り合っていったあたりの詩人だとかいろんな人がヨーロッパ人でもいましたし、一緒にくるかって言ったらくるっていうから、じゃあ一緒にしようっていうんで、そう誰これを選ぶわけでもないと同時に場所提供をするっていうふうにねなことを含めたんですね。そんなこといいかって聞いたら、都雅画廊がかまいませんと言ってくれたもんだからできたんですね。

坂上:誰かの紹介とかですか?

水上:いや、どっかの画廊どっかの画廊と思っていて。っていうのは結局ね、画廊の個展っぽいところの前に結局はグループ展みたいなものがあったりとかさ。

坂上:(ギャラリー)16にはよく行ってましたよね。

水上:そうですね、16にはだんだんよく見にいくようになって。これは16の前に居酒屋さんされていた折に。

坂上:「斗六」。

水上:うん。そのときにかすかにね、斗六あたりで結局は寺尾さん(寺尾恍示)と知り合うわけだし。

坂上:じゃあ、水上さんはまだ学生のころから斗六には行っていて。そこで美術家とも知り合いになってるんですね(注:ギャラリー16の開廊は1962年10月)。

水上:そうですね。どうも。だから何でというよりもおかしい。こっちはこちょこちょっとした居酒屋が好きなもんだから。しかも誰かと動くんじゃなくて一人で。

坂上:結局、居酒屋ベースでいろんな人と知り合いになってくケースがすごく多いですね。

水上:ほんと。だからほんとに美術家ばかりじゃなくってね。

坂上:詩人であったり。みんな居酒屋っていったら何だけど、そういうところでみんなと知り合って。

水上:そのころはそんなふうに。だからあの辺のやくざの親分さんとも知ったことありますよ(笑)。

坂上:桜之町(注:ギャラリー16の最初の場所、中京区寺町三条下がるの町名)の?

水上:2〜3人おられるんで。もちろん若手じゃないですよ。当然しっかりしたっていうのか(笑)。

坂上:あのあたりに、纏足のおばあちゃんとかいませんでしたか?

水上:ああ、かすかに。

坂上:まだねえ。

水上:でしたねえ。なんだろうねえ。やっぱりそういう方が(まだ)生きておられたんですね。

坂上:あの辺は浮浪者もいるし、ほんと、いろんなものがありますね。

水上:そうですね。一応洗濯はしてはいたけどもぼろぼろのジーンズでもって、ひょろひょろ歩いていって。ほんとズタ袋、こんなものをひょいとぶら下げて。肩からかけて。中にいろんなものをほうりこんでてさ。時々全部それをなくしたこともありますよ。それとくに記録とかいろんなもんが。「ああ、また消えたか。まあよか」って。そんなようなことですね。

坂上:それで都雅画廊でやるじゃないですか、貞操関係を。その次に《貞操帯礼II》(1966年2月)でまた今度はアンパンで《FCFS》(Figuring chart for sexophone、1966年3月、京都アンパン)。これはサックス?

水上:それはね、おそらく床面に何メートル四方かな、四方スペースを天井まで描いて、そしてタコ糸よりもうちょっと太い糸で9つ9つのね、立体を組んでいくわけ。組むというとおかしいけど、そのエッジがひもで出来ているわけ。で、四方から入ればなんとかなりますからね。

坂上:じゃあくまで演奏とかじゃなくって。

水上:もちろん演奏も中に入ってするんですよ。

坂上:それはずっとやってるんですか。アンパン中。

水上:いや、そのときだけ。だけどそいつはそういう舞台設定だから。床の方にはね、ガムテープでその位置がきちっとしてあるわけ。

坂上:アンパンでそうやってだれかがパフォーマンスをするみたいなの、ほかにありますか?次の年だったらアンパンで《〈As You Like〉 Snake》(1967年3月、京都アンパン)で作品に人間自身が出てくるけど(注:James Lee Byarsが京都アンパンでいくつかパフォーマンスをしている。一番早いのは1962年)。

水上:おそらくアンパンのときに、そこのあたりで真鍋さんら(実験グラウンドア)は拒否を受けてしまうんだね(注:1964年京都アンパン時)。それはやり方次第でね。そこを争うって気もなくて、整然とすればなんてこともない。で、まあそこで音もどうもだしてもかまわんみたいな状況だから、サックス持っていくわけですよ。もっとあとになるのかな、下の中央大陳(大陳列室)を借りたのはもっと後ですね。

坂上:え? 水上さんが大陳借りてやったんですか。

水上:それは《測定係数》ってやつだけどね。68、69年に多分あるはずですよ(注:1969年10月京都市美術館他各地、阿蘇山〜長野〜京都)。

坂上:《Pot Bottomless》は?(1966年4月、青美展、木屋町画廊)

水上:それ木屋町でしょ?

坂上:そう。青美展です。このころはやっぱり青美に出してますね。64、65、66年くらい。

水上:それも何てこともないんだけどね。ほら、丸型フラスコあるじゃないですか。それよりももうちょっとすっきりしたフラスコを見つけたわけ。実験器具屋さんに。そこの中にごくありふれたなんて言うの、魚釣のときにつかううじがいるわけ。

坂上:ゴカイみたいなやつ?

水上:ゴカイじゃなくて、ハエのうじが。サシ虫っていうんだよね。そいつはもうちょっと成長すると今度はつるっとした殻をかぶるわけね。そんなこと分かっていた上で木屑か何かの中でそれを飼っているわけですよ。僕じゃなくて業者がね。それをわけてって。

坂上:飼ってるの?

水上:だってそれ釣えさだもん。

坂上:それってうじですよね……。

水上:うじです。このくらいのね。それを箱っていうかの上にぽんと載せておくだけ。そこで作業をするわけね。そのうちに今度もうちょっとパフォーマンスっぽくなるとそいつを持っていって。何をどうしたのか忘れたけど前の高瀬川ですね、そこでちょっとしたパフォーマンスをするわけだ。わずかその通りを下ると、今度は「ダウンビート」っていうきわめて有名なジャズ喫茶があるわけ。そんなようなことですね。そこらへんで結局は今寝屋川にいる石田博と知り合うことになっていくわけですよ。

坂上:そうなんだ。

水上:そっからもうちょっと前かな。

坂上:その次の《ラルヴァの儀(巨大ラルヴァおひきずり式)》(1966年5月、京都)って何ですか。

水上:《ラルヴァの儀》ってどんなふうに(したのかな)。

坂上:ぜんぜん場所書いてないから、何か自分でされたのか。

水上:そうですね。これどこでどうしたのかな。

坂上:でも巨大です。《巨大ラルヴァお引きずり》(注:白い木綿を巨大な蛆虫状に仕立て上げたオブジェ)。

水上:それひょっとすると四条の地下道がもう出来ていたのかな?

坂上:できてると思います。「れまんだらん」(注:1967年3月に結成される水上参加のグループの名前)の頃だからもう出来ているんじゃないですか。(れまんだらんの)「地下道におけるほとんど」とか。それ1年後くらい。

水上:その関連で何かの展覧会をするとかじゃなかったかな。そうするとそんなに大きくないんだけど、今まで持ってるんですけど、これくらいの大きさの、分厚い綿布テントシートみたいなのでくるんでしまったその、こっち側に先があって、そいつをおそらくビニール袋かなんかでくるんで、そいつを路面を引いていくようなことを。単にそれじゃなくて、どっかへ展示するっていうようなこともひっかかっていたんだろうと思うけども。だからほら、いつかあなたがロスにいって会われた、当時留学してこられた方が「(誰かが美術館の前で)棺おけみたいなのを引っ張って」って(言っていた)……。

坂上:そうそう。

水上:あれがですねえ。

坂上:これのときかなあと思ったりして。ちょうど平安神宮の鳥居のちかくで、誰かが棺おけを引きずるんですよ。よいしょよいしょって。「なんか棺おけ引きずってるな」と思ったら、バターンと棺おけがあいて、中から死人が。

水上:ひょっとしたらこれですね。これのときに。

坂上:棺おけと死人。死人の役はたぶん水上さんなんだけど。

水上:この黒いローブですよね。

坂上:私はそう思うけど。

水上:そうだと思います。もと留学生が言っているやつとちょっと違いますけどね。

坂上:マス・コダニ(注:当時アメリカから龍谷大学に留学してきた仏僧。現在ロサンゼルス洗心寺住職)です。ちょっとそれも記憶があいまいかもしれないし。

水上:引いてずっと行くって、結局それ、何か乗せていくわけでもないもんだから。

坂上:お引きずり式、ラルヴァとは違うんだ。

水上:違います。このときはただの。そのときに使ったのはここら辺にあるような紐を使ってるかもしれません。これは四つ組みというやり方ですね。最短の4つをいくつも順番にしていく、という。その紐はたぶんまだどっかに残っているだろうけどね。時々それをしていたものだから。組みひもって言ったらおかしいけども、手作業は自分で勝手に動いてしまって、何も考えなくやっているから。それで、頭のほうは勝手に別のことを考えられるからね。たいした場所もとらないし。そうですね、それを含めての関係が、きっとそんなの見たよってときだと思います。はい。

坂上:引きずりが終わって、フレンチカンカンで《Happenings on Tune》(1966年6月)と《仮面儀》やってます。

水上:それを音の関係展示みたいなもんだから。あ、そうするとフレカンですね、さっき言った《精神改造計画儀》(1962年6月)は。あの、服やいろんなもの脱いだ。

坂上:フレンチカンカンなんだ。じゃこれは? さっきの《精神改造計画儀》ですよね。

水上:それがフレンチカンカンです。

坂上:えーこれ。フレンチカンカンって昔からあったんですね。じゃあこれもフレンチカンカンで。

水上:みんなフレカン、フレカンって言っていて。その次そこでね。

坂上:フレカンにはしょっちゅう行っていたんですか。

水上:シャンソンも案外すきだったもんだから。

坂上:あそこどこにあったんだっけ、やっぱり四条を下がったとこですか。

水上:いや、四条下がったとこじゃなくて、錦通市場。あれが四条より一筋北でしょ。あれの烏丸通にほとんど近い上側にありました。

坂上:烏丸と河原町通の間の。大丸の北側。

水上:大丸の北だけど、烏丸通のあるほうのブロック。

坂上:分かる分かる。

水上:もうないんじゃないかなと思うんだけどね。

坂上:ないと思います。

水上:どこかへ移ったって話を聞いたことがあるんだけどもね。だからそこではどんなことがあったかというと、詩の朗読だとかね。それからシャンソンを歌うひともいたしね。どっちかというとシャンソン系のフランス関係みたい。それでこっちが詩人であったり、お絵かきやらするそこへ聞きにいったり飲みに行ったりですね。そうやっていって顔見知りになっていって、そして「実は…」といって、なんでそんなことするのっていう答えは僕はしなかったと思うんだけど、「着替えがしたいんだ」って。「自分で作ったから着替えをしたい」っていったような気がする。そいつはいろんなことが背景にあったと思う。単純にしたかもしれません。そのときにもちろんBGMっていったらおかしいけどさ、流してもらったのかもしれません。

坂上:このときは《Happenings on Tune》(1966年6月、フレンチカンカン)。

水上:このときはまだはっきり音楽をどうのってようなことも美術系にそうわんわんでもなかったもんだから、音楽っていうより音の関係で行こうっていうの。それからそのときに自分で仮面を作ろうってね。だからそれがどんどんしていって紙の仮面もあれば、布の仮面っていうすごいやつがあるんだけどそんなこともまた範囲内に入れた上でそれでといったときに、仮面つけてね。

坂上:仮面舞踏会みたいなんですか。

水上:そんな、よう言わはるわ。舞踏会なんてできるわけがない(笑)。

坂上:そしたら、そのときはお客もみんな仮面をかぶったんですか?

水上:お客さんもかぶる人いたね。

坂上:ふーん。そういう仮面ナイトみたいな感じだったんですか?

水上:そんなようなこと。それと音楽らしからぬ音があってね。音楽じゃないですよ。音でいくって。でもまあ音楽になってしまったけどね。

坂上:ライブハウスとかでクラブでも何とかナイトとかいってそのときに合わせてバンドがやってきてってそういう一夜っていう解釈ですか?

水上:それとはちょっと違います。そこら辺の系統は、土曜日やいろんな晩にね、ジャズ喫茶やいろんなところでどっかでジャズやってる人がきて、楽器を持っていて、そこで酒飲んでだいぶ楽しくなってちょっとやろうかって。俗にいうセッションですね。そんなようなことがよくあったわけで。僕の行っているところでもあったりしたわけだけれども。その辺を参考にしたと思うけれどもそれとは違いますね。やっぱりまだまだ一緒にしていく姿、そういうサロン風なところでもないわけですからね。楽しかった。

坂上:ガリバーとかはまだ先ですね。

水上:ガリバーはね……。

坂上:もう知ってますか。その後「れまんだらん」を結成しますよね(1967年3月)。

水上:この《〈As You Like〉 Snake》ってさ、さっきの棺おけのときにガリバーと知り合うわけ(注:67年3月京都アンデパンダンにおいて)。そのとき僕の入っていた部屋の隣でガリバーがやってるわけで。それか、その付近にね。どっちか忘れました。そこで知り合って、外で何かしようっていったときに、今度はれまんだらんの岩倉正仁って人が、手作りの蒸気機関車を持ってきてそこでやってるわけ。

坂上:岩倉さんはもうアンパンで知ってますよね。

水上:いや、ここでやっぱり初めて岩倉さんを知るんですよ。おそらくアンパンへ機関車持ってきたのはこのときがはじめてじゃないですかね。でないとこれ以前に機関車があるっていったら、こっちも知ってますから。

坂上:あんな作品ですもんね。でも堺(注:1966年8月、堺現代美術の祭典)には出してますよね。

水上:堺には出してます。でもまだその折にはまだ知っていたのか知らんかったのか、よく分からんけどもともかくそこでようやくはっきり(知り合った)。で、ガリバーがチームつくるかって話で。

坂上:その前の《天と地の間またはポケットの間における方向指示装置》(注:1966年9月、青美展)。

水上:これは単純です。これくらいの箱をつくるわけ。そしてそれの中央辺から朱の布ってありますでしょ。昔の下着の。和服なんかのときの。裏布ね。あれでもって数メートルの組みひもをつくるわけ。そして、もうひとつこっちに箱があるんだけど、もう一方にこうポコンとした、あけびでもなんでもいいけど、そんなぶらさがるものを、銅線でもってくちゅくちゅっと巻いて作ってあるわけ。そこはもう一方の箱の側のほうに矢印をつけていたのかもしれません。方向をどんな風にするかというときに、僕は「赤い矢印」っていう発想をこのときすでに持っているもんですからね。だからそんなへんのところと重ねてつけたんじゃないかな。

坂上:赤い矢印は、どうして出てきたんですか(注:赤い矢印は水上のシンボル)。

水上:矢印っていうのは方向付けみたいなものでもあるし。もしそこの背景っぽく言えば、おそらくここら辺前後で聞くアローライン(1964年8月結成、岩倉正仁、福岡道雄、村松達也、平田洋一らが参加)ですね。

坂上:アローラインってグループありましたね。

水上:アローライン・グループですね、言ってみれば。

坂上:福岡道雄さんとか。

水上:そこらへんと関連があったのかもしれない。っていうのは彼らが出したのはこれより前でしょ。

坂上:アローラインはもうちょっと前ですね。

水上:だからそこら辺でもあったかもしれないけど、そこにやっぱり方向付けの問題があってね。そして具体物めいたものとして作るとしたらやっぱり矢印かな、という風にしていたか。僕もう一方の略語を使ってますね。赤い矢印って。だからどうもこの辺ではどっち行くみたいな、あの昔ぶらぶら歩きしていたとこらへんの時の方向付けやそんなときのことも含めてですね。意思の中にそんなことが入っていたんじゃないかと思う。だから探してみたらどっかから出てくるかもしれませんね。

坂上:水上さんの66年と67年の間でひとつの線引きができるんですが。

水上:そうですかね。

坂上:うまく説明できないけど……。

水上:もう少し外へ出て行きたがるような雰囲気が出てくるんですか。この66、67年で。

坂上:いや、66年っていうのはまだなんか準備中っていう感じで。

水上:ああそうですか。

坂上:67年くらいから、外へ出て行くっていうのもあるけど、分かりやすくなるのかな。

水上:そうですか。

坂上:分かりにくい。うまくいえないけど、それまではものがあるけど、(67年くらいから)それがなくなってくる。

水上:さっきの岐阜のアンパンでもいいし、その前のゼロ次元関係の名古屋のへんっていうかその前ですね、もうちょっとここらへんで少し、大阪なら大阪あたりへ。ていうのは大阪からこちらの京都のほうへやってくる人たちの中には「グループ位」もいるわけですよね。河口龍夫たちが。河口龍夫ともちょっと話するけど奥田(善巳)さんとかいろんな人と話して、ある一方では神戸の町に遊びにいくっていうこと。そこまで行かないとしたら、大阪あたりで、福岡道雄は別だけど平田洋一とかね、あの辺といっぱい飲んでわーっといって、「さあもう遅いから俺もう帰るわ」って言いながら、京都へ阪急でもどってくるとか。その頃にはバイトはやめてるわけだけどね。つまりエキストラはね。そんなへんでもうちょっと大阪系統や、神戸派を知り初めていくのかもしれませんね。つまり京都と近いけどものすごい違うってね。そんな感じ。だからちょっと今も言いました地下道云々とかあるその辺や、「それからちょっと話してくれません?」ってこといわれて「はいわかりました」って言って、そういったことさせてもらうとか。

坂上:「れまんだらん」結成っていうのは、《〈As You Like〉 Snake》で、ガリバーと知り合って何かやろうと。

水上:ええ。ガリバーというよりむしろ岩倉さんですね。

坂上:4人ですよね。中田和成と。

水上:中田和成も入っているんだけどね。なんかそこらへん、それぞれの馬鹿さ加減を持ってましてね。

坂上:みんな違いますね。確かにね。

水上:それでなんかチーム作ろうかって言ってね。だから当時風にいうとまだハプニングのチームっていうのはまだちょっと、そうおいそれ(とはできない)みたいな気もするんだけども。やっぱりそこでそれぞれが、和成氏は自分で作った馬鹿でかい赤い風船を階段にとめていくとか、その場でやるわけです。

坂上:あれ? コンドームじゃないんですか。

水上:そうそう。コンドーム。

坂上:そうですよね(笑)。

水上:それから岩倉氏は一生懸命火を起こして、それでひゅっひゅっていいながら止まったって。

坂上:《地下道におけるほとんど》(1967年4月9日、四条地下道〜円山公園にて)が最初ですか。

水上:そうですね。でも《地下道におけるほとんど》っていうのは誰と誰としたかといっても結局は「れまんだらん」とも違う感じかもしれませんね。

坂上:多分これ「ふたりれまんだらん」が(やった)。ここね、「安土修三水上旬左京区岡崎東天王町大西ビル4Fれまんだらん事務局ほとんど4月9日14時ほとんど四条地下道円山公園」だから。ふたりだけじゃないですか

水上:そうですね。

坂上:この地下道は。

水上:ふたりといっても朝子(注:水上氏のパートナー、後に結婚、結婚前は鈴木田朝子)もいるわけで。朝子はメンバーに入れてないの。

坂上:えー。それは男尊女卑じゃないですか。

水上:そうじゃない。僕がひとりの代表だから。

坂上:朝子さんとはいつごろ知り合ったんですか。

水上:何年でしょうかね。やっぱり名古屋にいっぺん帰る前に知り合ってるんですね。大学を出たときくらい。やっぱりジャズ喫茶で知り合ってるんです。ジャズ喫茶といってもブルーノートの方ですね。ブルーノートっていうのは今の店じゃなくて、もう一件、三条下がった辺にあったんですよ。三条ふた筋目あたりの下がったところに。

坂上:そこ今でもある。

水上:ブルーノート?あのね、だってそれがあったのが今もうないんで、横ちょに何とかっていうさあ、なくなったぶどう屋でもないスナックの長い店が一軒あったんですね。

坂上:ブルーノートも結構長いです。

水上:ブルーノートも長いですけどね。でも今おっしゃるブルーノートってその、カウンターだけの…こんだけの?

坂上:いや、もっと広い。

水上:はじめはね、一番初めは何とかって人がやって、ブルーノートのおばちゃんはそのあとにかかってくるんだけども。四条小橋の北の南西の角っこめいたところでやってた。それから今度移るのが、今のそのなんていいますか、三条からふた筋三筋下がったところでそんなに長くはないですよ。

坂上:じゃあ今のところとは違うんですね。

水上:違います。

坂上:それから今度は、次にやっぱり今の辺りかどっかを2階に上がっていくところ。で、そこへ動いてから。あ、そうじゃない、今の三条下がるふた筋目くらいのところですね。

坂上:《地下道におけるほとんど》は「ふたりれまんだらん」で、どんなことをやったんですか。

水上:そのとき結局えっと……。

坂上:《地下道におけるほとんど》だけじゃないような気がするんですけど。

水上:うーん。

坂上:「ほとんど地下道。円山公園」。

水上:だからそこから今度はガリバーがたしかいろんなこまごまとしたものを持ったり、乳母車を引いていたかもしれません。かわいいね。乳母車って小さいね。そんな風にしてそれから四条通をずっとね、円山公園のほうに向かって、円山公園で解散で。

坂上:どんな風に向かったんですか。乳母車をガリバーが引いて、水上さんは?

水上:僕はさっきの黒か白か、黒と白の両方あるんですがね、ローブはね、だからひょっとしたら……。

坂上:朝子さんも。

水上:朝子も一緒。僕が黒だったらあの人は白だし、僕が白だったら(彼女は黒)。

坂上:いつくらいから二人で、朝子さんと。

水上:そこで知り合って、ブルーノートで知り合うといっても、卒業してからの感じするんですね。顔見知りですよ。

坂上:63年の……。

水上:春以降に、話をしだしていったのかな。それまで時々来ていたんでね、パートナーがね。それからわずかですね。たとえば寒いけど琵琶湖行こうかって(笑)。泳ぎに行くって。

坂上:デート?

水上:デート、デート、デートです(笑)。

坂上:泳ぎに行ったんですか。

水上:まだ寒いねえなんて(笑)。それからもうほとんどできないけど当事はわずかだけヨットをね、一番小さいやつね。あれをしに琵琶湖へ一人で行っていたことがあるから、ヨット乗せるねって言って。よくやるよね。琵琶湖ってものすごい風が不安定な場所でね。ひょっとしたら戻れなくなるよ、あそこ(笑)。そんな話でその辺から。今の朝子とのかかわりは、そんな風に始まって、僕が名古屋にいるときもね、どこどこへ行くっていえば行こうっていうんで、連れていくっていえばおかしいけど連れて行く。そのときはどうしたのかな。あの時は志摩半島の方をまわりましたね。そして琵琶湖へ渡ってぼんやりして。残念だけどまたねっていって名古屋で別れたのか。今度はまた僕が京都のほうへ戻るもんだから、それからもうずっと一緒。

坂上:それでなんとなく朝子さんも水上さんが何かやるときは「じゃあ私も何かやるわ」みたいな感じで。

水上:うん、そんなふうでしたね。ガキだねえ。一心同体ってのができるように思っていたわけですよ。でももうちょっとたつとそうはいかなくて人間それぞれ。やっぱり経済的にそんなに豊かでもないから、誰かがひとつでもそれを見たらそれがどんなだったかってのを見た人が通じてこっちへ知らせる。お互いに知らせあう。ねえ。いくつかは見に行きましたね。映画とかね。それから僕は一人歩くっていうのは……。

坂上:それで思い出した。さっきの話じゃないけど松澤さんが、67年3月の《〈As You Like〉 Snake》の前に1月30日から2月5日にかけて京都のアヅマギャラリーで「9の無のカンヴァスと9のプサイの椅子と9の超未来的方法による松澤宥展V1010」をやった時に、乾(由明)さんの司会でシンポジウムが開催されて、そのときに画廊にあふれる参加者の中に安部ビートがおり、水上さんを紹介してくれたと(注:『機関』13号松澤宥特集に書いてある)。それでその晩に水上さんちのアパート、東天王町の(阿部と松澤が水上宅に泊まる)。だから引越しをしてるんですよね。南御所町から東天王町のアパートに。それで泊まって。

水上:その南御所町って結局あの、第一期といっちゃおかしいけど、そのときにそこまでで、名古屋に戻るんですね(1963年夏前)。

坂上:で、帰って来たときから天王町(1964年夏〜秋)。

水上:それかもしかしたらそれより年数があとですね。今の松澤先生が京都にこられるのはね。その間にですね。天王町に移るよりも前に実はあの、二条ですね。東山二条わずか上の。

坂上:徳成町。

水上:そうです。それがあるんですよ。やっぱり今の御所町のときに朝子と知り合って、そして今度は天王町に行く前に徳成町があるんですね。徳成町の方へくるんですよ。名古屋からね。そういうふうにしてだんだんに昔って、飲み屋にまた行くとか、朝子と知り合うもんだからあっちのほうに近い方の飲み屋にいくとか。あっちは西の向こうの方に店を持っていたんですね。朝子のところはこんにゃく屋さんをしていたわけですよ。だからその辺の卸屋だけど。店はもうちょっとね。そんなところに手伝いに行ったりね。

坂上:そのときに水上さんは琵琶を。

水上:そんなようなある時期にですね。中禅琵琶ってやつなんだけど、それを神戸で見つけるわけ。それで一辺弦楽器を勉強しようかなと思ったんです。でも琵琶の人につくわけじゃないから。あれが好きで、あのブーンってうなるやつ、音調がですよ。いまでいう祇園の少し東に何とかっていうお寺さんだかお宮さんだかがあるんです。そこが琵琶の発表会をよくやっていたんですよ。折々聞きに行きました。毎日曜にやっていたような気がします。月に一辺かもしれない。そこには筑前とか虚無僧もあったりですね。でもそこらへんは朝子は自分のことがあるもんだから、そこはひとりで行ってました。まだ結婚していなかったのか。そんなふうでね。

坂上:ふたりれまんだらんをして、その後4人で4月29日に(注:《天皇誕生日儀式・大阪城れまんだらん》)。

水上:大阪城ですね。それは。

坂上:どんなことしたんですか。

水上:僕が広場の方やいろんなところ、さっきも言った紐自体が見える姿で、キャスター付の箱を作って持っているんですよ。今でもどっかにあるはずだけど。それは道具入れたりとかしたままで。それを持っていってそこのところと、その現にいる場所の関係で、紐をずっと引っ張って持っていくと中に箱がね、わずか隙間あけると引っ張り出せる。そんな風にしながらそこへ紐をくっつけるなりいろんなことをしていき、何かの音が出るものをするとか、あとは、あの頃からぼちぼちカセットテープの音声を使い始めるみたいですね。そうすると音声をかけながらもう一方では録音もしていくわけで、そんなことをどうもしていたみたいですね。ようやくカセットが手に入るようになってたのかな。でもまだここにはなってないですよ。まだまだビデオデッキみたいな感じで。

坂上:わかる、厚さが8センチくらいで。こうなっていて発信みたいな。

水上:ボタンになるあれです。そこにもうひとついるかなってなったときにやっぱりラジカセめいたものがあると発音装置ができるとかね。だからそんなことをしたり、でもまだそのときはそれでしょうかね。今みたいな小さなものでイヤホンジャックにしたりするとスピーカーが出るとか、そんな装置も当事はありませんからね。

坂上:大阪城って大きいじゃないですか。公園の一角でやったんですか。

水上:公園といっても結局大阪城の見える中というか、中じゃないけど外というか。

坂上:大阪城をバーンと使ってやったわけじゃないんですね。

水上:そんなふうじゃないですよ。結局大阪城の城があってそこへ入っていく山門じゃないけど大門かなんか入ると広場じゃないですか。バーンじゃなくてね。あれだとほぼ中のファサードのような場所があるじゃないですか。

坂上:水上さんはそれでやったとして、岩倉さんはやっぱ機関車ですか。

水上:ええ、岩倉さんは機関車。だから入場料のかかる方じゃなくてね。

坂上:で、中田さんはコンドーム。ガリバーは乳母車。

水上:それとガリバーはバイオリンを弾いたりもするからね。ある種のパントマイムのしぐさね。そんなようなこと、しかも彼はそのときに背広を着たりさ。してるわけですね。

坂上:「ガリバーは旬ちゃんの腰ぎんちゃくみたいやった」って聞いたことあるんですが。まあ腰ぎんちゃく時代が始まったのは、その3月ですよね。《〈As You Like〉 Snake》で。

水上:そうこうしているうちに「東京の方へ出てやろうか」みたいな感じがガリバーに出てきたんじゃないですか。こんなときにどこか風来坊やってる三喜徹雄とかねえ。そんなのもいるわけですよ。

坂上:三喜さんともこの頃、れまんだらんの頃にもう知り合ってるんですか。

水上:れまんだらんどころか、さっきほら、僕が個展するやらなんやらで……。

坂上:石田博さんとは《Pot Bottomless》(1966年4月)で。三喜さんともこの頃ですか。

水上:そうですね。石田と三喜は小中高か同級生だったというんですね。

坂上:石田さんと知り合ったころに三喜さんも知り合って。

水上:そうです。その頃三喜は、何工芸っていったかな、七条か八条の方にあるマネキン会社ですね。そこの作業員で勤めているもんだから。

坂上:吉忠ではないですか。

水上:吉忠ですか? あっちの方にある有名なもんですよ。そこで現代製作に近いところにいるもんだから、樹脂がたくさんあって。それをかなりたくさんもらってると思うんですね。

坂上:三喜さんは何をやってたんですか。作品を作ったりとか、パフォーマンスをやっていたりとか?

水上:三喜はねえ、彼はそのときは外歩きを、つまりヒッチハイクとかそれはしていないもんですからね。ただしやっぱりサンフランシスコのビート情報をどっかから探してきたりとか、そこらへ希望を持っていたんですね。

坂上:ビート情報。水上さんもビートニク情報がものすごい。

水上:ぴったりビートかといわれるとそれも困ってしまうんだけど、そうやって一人歩きをやってみるとかね。

坂上:ビートってよくわかんないけど、基本的にはヒッピー文化に。

水上:つながっていくんだけども。

坂上:カウンターカルチャー的な。あくまでも本道があってのビートニク。菜食主義も入ってきたりとか。

水上:日本の場合は難しいのは、向こう、つまり合衆国、とりたてて言えばシスコなんてすごい楽だろうと思うのはね。経済的な状況、とくにある種の働きを3日間やればあと1週間OKってね、それだけのバランス関係を向こうは持っていたり。もうひとつは使えるものがたくさん落ちてるとか安かったりとかするのね。「そんな困ってるなら俺のところにきてもかまへんよ貸したるわ」みたいなそんな感じもある。

坂上:家が広いしね、アメリカは。

水上:うん。しかも「何か関係があれば雇うこともできるよ」とか「同士としてお前も迎えるよ」と。「毎日こられへん」。「いやかまへんよ、いついつこられるの」とそのパターンでしょ。たとえばシュナイダーにしたってさ。そんなふうなことが、日本ではほとんど不可能に近い。

坂上:山尾三省はビートニクっぽい感じですか。

水上:三省も実はその頃に知ってるんですよ。歩き屋。

坂上:歩き時代に。

水上:歩き屋関係。そこらへんやっぱりしょっちゅうべたついていたのは安部ビートでね。どこかいってはね世話になっていくっていうね。それは俺は嫌いだから。

坂上:安部ビートも歩き族の一人ですね。

水上:そうです。

坂上:歩き族って私よく分からからない。どんな感じで誰がいるんですか。たとえば水上さんも歩き族でしょ。山尾三省も歩き族。安部ビートも歩き族。

水上:もうちょっと前でいうと……。

坂上:何年くらいから始まったんですか。歩き族って。

水上:人によって違うけど。

坂上:岐阜アンパンは当然歩き族がはじまってたじゃないですか。水上さんは61年くらいから歩きはじめてるけど。

水上:そうですね。そこらへんの存在めいたところのもうちょっと前辺からいえば、ほら山頭火とかいろんな世捨て人っぽい人がいたじゃないですか。

坂上:でも大昔ですよね。

水上:でもああしたものを読んでるんですよね、僕たち。それから日本に進出してきた西海岸ビートですね。

坂上:あさい・ますおも歩き族。

水上:そうです。

坂上:リヤカーで歩いていたみたいな。

水上:彼は自分の実家が瀬戸のあたりで。瀬戸のひとつの問題ってのは、前々から俗にいう三国人とか、そんな人たちもいるわけですよ。

坂上:三国人?

水上:つまり中国人、韓国人、それから中近東人ってね。そこらが結局在日というような位置づけかもしれないし。あるいはそれをたどって日本の方に入りこんできてそこにいる人もいたりして。そのときにやっぱしどこ行ってもだけど、言わず語らず差別するんですね。そんな辺りを自分にしてもすごく気にしながら、「なんとかもうちょっとできないかしら」ってことをおそらく思ってたんですね。それでどこかないかと思って彼は放浪していく。放浪者みたいな方法で間をクッションあけていけるかと思ったのか、いろんなガリ版刷りの冊子を出してましたね。僕もどっかに何冊か持ってると思うんだけどね。それからケース・バイ・ケースでかなり自由な感覚を持つもんだから、土地にいる人に「それは硬すぎる、こんなふうですよ」とか、そんな風なある種の歩きじゃない、生き様か、生き方の知恵めいたことを彼は語っていったんじゃないかと思います。それはそのとおりなの。昔からのどこかしら歩いて行った人はね。

坂上:歩き族。松江カクさんとかは?

水上:カクさんっていましたね。僕あの人との関わりはないんですよ。

坂上:池水さんの奥さんが「カクさんすごくいい人だったわよ」って。優しくってって。あとだれだっけ、歩き族。

水上:ビートの話だった。僕も歩き族っていうか一人ビート。ビートのほとんどはつるむんですよ。つるんでもかまわへんけどね。「助け合わないといけないよ」といわれたら、「それはそうですね」って。

坂上:歩き族ってあと誰かいましたか。気になる存在です、歩き族。

水上:山尾三省。

坂上:ガリバーは?

水上:彼は違うでしょうね。今ちょっと忘れてますけど、何人かいましたよ。

坂上:山尾三省は歩き族っぽいですね。

水上:三省もだし、ナーガ(長沢哲夫)ってのもいた。いま思いだした(注:バム・アカデミーや部族周辺、ただし1960年代の後半。日本読書新聞1967年8月14日より引用。「ここに一つの集団を紹介する。この集団自体、動的でもなければとりわけ反逆の志向性が強いわけではない。ただ強烈な現状否定とありうべく姿を模索している点において、「かたちをかえた」青春の反逆の形態といえよう。“BUM ACADEMY”これが集団の名称である。集団の構成員に課せられる制約は何ひとつない。もちろん会則とか会員制といかいったものも。とりたてていうなら“BUM”という名のごとく、風来坊、流れ者などいわゆるフーテンといわれる状態が資格といっても変ではない。新宿を中心に早稲田大や多摩美大、明星学園などの学生を含めて約100人。全国に集団“同士”1000人くらい。彼らの多くは、金も職もなく、市民生活への参加を“拒絶”したというのが多い。だが、大部分が少し面倒臭がりやで、持続性のない連中が大部分だといっても間違ってはいない。新宿フーテン族の草分けといわれる雑誌『改造』の元編集者サカキナナオ、詩人長沢哲夫、ベトナム反戦直接行動委員会に加盟している山尾三省の三氏がこの集団の中核であるが、三氏ともいわゆる“ガキ”ではない。この集団の財産目録。先にあげた全国の同士たち、機関誌(プシュケ)、それに三氏が共同出資で買った共同農場(瞑想センターという)の長野県富士見町の600坪と奄美大島群島の一つ諏訪ノ瀬島に永久借用した35万坪。街でウロつくフーテン続と若干異なるのは、土地を所有していることである。……」)。

坂上:ナーガ。なんか自然食っぽいですね。

水上:その頃は山省はいろんなところめぐり歩きながら、あるときは奄美の方へへたれこむわけでしょ(注:屋久島)。それから今は長野にいるんですか。

坂上:わたし奄美までしかわからない。

水上:じゃあそこにいるんです(注:山尾三省は2000年に屋久島で亡くなっている)。今度は長野にも小梅線の辺に、今だと田中泯なんかが場所持ってるね(注:山梨県白州)。農業うんぬんって。あの付近にもあれよりもっと早く歩き族が入りこんでるんですね。多分田中泯もそこら辺を歩きながら、ここだと思ってそこを。ひとつの彼の能力でそこにいろんな人を集めていき、ってそんな風に今落ち着いているのかどうか知りませんけどね。だから田中泯はあるときこっちに訪ねてくるんですね。

坂上:わかった。それで岐阜のアンパンのときに歩き族が集結したりしたんですか。

水上:集結まではしてないけどもね。あそこで何かにぎやかなのあるよって。そこはどういう風に言ったらいいのか。たとえばデパ地下って。売り出しのときあそこで食べてほぼそれでおなかいっぱいみたいな(笑い)。そんな雰囲気もあるかもしれない。

坂上:でもたしかに一人で歩いていたら、たまにはデパ地下も行きたいわみたいな感じになるんですかね。

水上:だから一人じゃないって。

坂上:そうか、組むんですよね。

水上:組むんです(笑)。

坂上:まあ分かんないことは置いといて。後でヒントになるかもしれないから。次は《雨傘による見学》(1967年5月、京都バイオゴード・プロセス)。

水上:バイオゴード・プロセスってのは結局は表立ったパターンですね。だから誰と誰と忘れたかは小杉なんかもいたりしてさ(注:出演者・月尾嘉男、神田昭夫、高田修也、多田美波、大辻清司、刀根康尚、中西夏之、赤瀬川原平、風倉匠、清水晃、谷川晃一、川仁宏、塩見千枝子、水野修孝、京都大学オーケストラ、山口勝弘、牧谷孝則、ヨシダミノル、倉嶋暢、小松辰男)。

坂上:ガリバーとかも?

水上:ガリバーはバイオゴードには直接関係持ってないでしょ。あの、それは京都風でいえば小松やそこら辺あたりが、それからヨシダミノル、そのあたりがこっち側でしようとかしてよとか言ったのかなんかであの京都会館の第二の方でやるわけですね。

坂上:さっきの『鎖陰』のときはヨシダミノルは出てないですよね。ヨシダミノルの名前が聞かれるようになってくるのはやはり60年代後半ですね。

水上:そうかもしれませんね。彼はでも末期の具体メンバーですもんね。三つくらいのグループに分ければ。

坂上:今井祝雄とか。

水上:今井よりも後の方になるんですね。ミノルは確か。

坂上:で、バイオゴード・プロセスは結局どんなものだったんでしょうか。

水上:ある種のパフォーマンス兼、即興でもないけど、名前知ってるひとたちがそこで集まってするということでもって。「ほんじゃこっち見学に行きましょうか」って。たしか500円だか、いくらか忘れましたけど、そんな費用がかかっていたと思うんですよ。入場料ね(注:実際は700円)。そこに行って見る。(ただ見るのではなくて)ちゃんとした方がいいなってんで、こっちは持っていた雨傘をささせていただいた。そして楽屋から入った。

坂上:水上さんは何かやったんですか。

水上:何もしてない。見るだけです。

坂上:見るだけだったんですか。だから雨傘の見学なんだ。

水上:ちゃんと舞台の上に上がってですね。たまたま昔オーケストラとかいろんなところに関連を持っていたもんだから、楽屋裏からもそれほど抵抗なく入れたわけ。

坂上:小杉さんが雨傘をばっとひらく、一秒でひらくじゃないですか、それを5分かけて開くみたいなのあるじゃないですか。そういうのは関係ないんですか。

水上:いや、こっちは「見てます」という意識をするわけで、雨傘をさして。

坂上:特に小杉さんの雨傘に対してのオマージュというわけではないと。

水上:そんなことありません(笑)。あそこらのやり方ってのは、関東系のする人の仕組みとこっちの関西系の仕組みはちょっと違うの。僕らはもうちょっとストレートというか、ダイレクトというか。「ごちゃごちゃいわんとその通りやればいいんじゃない」って。だからいつか言ったような気がしますが、「痛いということをなぜそんなに延々といろいろな手をつかって書くんですか」って。「演技するんですか」って。「痛けりゃ痛いって叫べばいいんじゃないですか」みたいなのが僕の初期のパフォーマンス。「おもしろくないんじゃない」って言われたら「そうですね」って。「じゃ、そういうことやめましょう」って。

坂上:バイオゴード・プロセスって誰が結局、小松さんが……(注:主催・チームランダム、草月アートセンター、後援・財団法人日本電子工業振興協会、協賛・モダンアートソサエティー)。

水上:結局そうでしょうね。小松氏が京都でいろんなことをしながら、関東の方との関わりもそこにテント劇場とかいろいろなのが関連が関わってくるんですね。

坂上:60年代後半ですね。

水上:そんなときに瓜生良介ってのが劇団(注:演劇集団・発見の会)を、今やってるんだけど、例の『鎖陰』で出てきた関連、それから暗黒舞踏系との関わりがすでに出来上がっているはずですね。やっぱり土方(巽)氏がいろんなところ見物しながら動いていく、そういった動きはこっち側、つまり京都にも知れてくるんですね。まだチームもっていなくても、そこにだれだれがものすごく尊敬したとか、オマージュだしたとかいろんな話があるじゃないですか。瀧口修造も戦後の話ですからね。僕も知ってる。だからそれほどものすごいと思うのともちょっと違うってね。だからあまり簡単に言い過ぎるのもよくないと思うけども、そこらで、明確なのは情報中枢といかに近いかってことがもうひとつあります。ただ何でも情報にのせりゃいっていうんじゃなくて、どこが扱うかってことがありますからね。

坂上:結局どこでやったんですか?

水上:第一ホール。京都会館だったと思います。第二かな? 第一のような気がします(注:実際は第二ホール)。僕はそのときのチケットかなんか持ってるから、どっちかっていうの出てくると思います。

坂上:けっこう第二ホール使ってる方が多いですよね。

水上:そうですね。第一はちょっと大きすぎるのかな。費用もかかるかもしれないし。

坂上:そういう関係で第二が多かったんですね。

水上:それもあるんだろうと思いますね。音響効果なんてそういうことはパフォーマーには関係なくって。ただやっぱりそれなりのところというと、そこの収容人員のこともあるけど名前として京都会館って(ヴァリューがある)。

坂上:そーだ、急に思い出した。64年頃小野洋子も京都に来てるじゃないですか。水上さんも会ってるんですか。

水上:いやそんなことはありません。

坂上:けっこうみんな会っていて(なんともいえない)思いをしてるんですけどね。

水上:よくわかんないんだけどもね、本当はね、でも有名になっていってしまった人っていうのはそれなりの能力を持っていると同時に、周りへの気配りっていうのほとんどしない方が多いんですよ。

坂上:要はそういうことでみな(なんともいえない)思いをしたということだったんですけど。

水上:これも一連の関係と同じこと、たとえばさっき大学がどこかによってずいぶんの区分差別があって(という話をした)。そいつらアホみたいに「すげー」なんて思ってるんだけど「そんなのどうしようもねーなー」と僕は思ったみたいにさ。ほら、そんな体験もおありでしょ。京都におられれば。だからそんなのと大して変わらない。

坂上:次は《観念転移空気採集》。これ、京都は(1967年)6月5日〜18日まで? 「パーセントソーセージ展」はさっき出てきた藤田西洋と木下茂森の二人展ですね。

水上:それが前の(ギャラリー)16にね、されて、

坂上:そこに乱入みたいな感じなんですか?

水上:乱入っていうんじゃないけど、藤田西洋とは知ってるもんですから。「ちょっと何かさせてくれます?」って、「かまへんよ」って。

坂上:それってどんなことをやったんですか。「パーセントソーセージ展」のときに。

水上:そこのところで結局は単純なんです。空気採集なんてなんでもない。ただの注射器でもってそこの空気を吸い取って、別の方に今度はひゅーってやるだけのことだから。何でもないの。それ同じようなことで別の人が信濃橋(画廊)でやってるんです。

坂上:大阪で西脇久恵さんと、

水上:西脇久恵さんと平田洋一の二人展じゃなかったかと思いますね(注:1966年2月7日〜13日、信濃橋画廊)。そこへ行って「させて」っていったら「いいよ」って。そのときにぼんやり注射器とパイプといいますか、大きな注射針があって、こっち側吸引機みたいなね、そんなものを持っていたから、そいつを使ったかもしれません。

坂上:大阪でも。注射器じゃなくて、大きめの。

水上:そう大きめの。それはほら、実験器具屋なんかに行くとお馬さんに注射するとかそういうふうな品もあって。

坂上:どこでしたっけ。

水上:信濃橋(画廊)。

坂上:そうなんだ。大体この頃って、(ギャラリー)16と信濃橋(画廊)くらいしかないですもんね。

水上:ほかに小さなところもあったけど。「あの画廊」とかも大阪にあったんですよ。

坂上:そうか。西脇久恵さんとは知り合いだったんですよね。

水上:今はどうされているのかな。

坂上:平田洋一は知ってるけど西脇さんって聞いたことない。

水上:彫刻を作る方で、平田とそのときはカップルっていうか、平田は別個にうちがあるんですよ。それはそれとして置いといて。平田氏はそういうところ意識も旺盛な人なもんだから。

坂上:(平田さんは)ありんことか作ってますよね。

水上:ありんこつくっているのかな。そんなふうでなかなかすっきりした人だったけどね。

坂上:平田洋一もアローラインやってましたもんね。

水上:そうです。

坂上:福岡道雄と。

水上:ええ。だからアローライン系統ではアンパンに出した、ころんとしたこのくらいのを(作品)だったかを彼からもらいましたよ。再制作をね。「あれすげえから悪いけどわけてよ」っていったら、「あれもうどっかに消えてしまったから作ってあげるわ」っていってね。大阪のおふざけっていえば、飲み屋話だけど、平田洋一氏を訪ねて、飲むって。いいよって。

坂上:髪の毛もじゃもじゃだった?

水上:そうね。

坂上:そんなイメージが。

水上:ですね。

坂上:その次が《足跡運搬》(注:1967年6月、立命館前庭)。

水上:それは足跡運搬っていうとおかしいけど、そこへぽんっと立ったときに自分の足のまわりをチョークでもってつけるわけだ。そしてそこにナンバリングした小さなのをつけて渡す。

坂上:じゃ、何人かとやっていたんですか。ガリバーとか?

水上:そう、何人か。ガリバーもいたと思う。

坂上:岩倉さんとか。

水上:岩倉氏はそのとき、そこまではようこない。

坂上:石田博。

水上:石田も来ていたと思う。

坂上:三喜は。

水上:三喜も来ていたと思う。

坂上:プレイのメンバーみたいな感じですか。

水上:プレイとはちょっと違うんだけど、プレイにも重なっていくね。

坂上:プレイ前夜ですもんね。立命館前庭じゃないですか。ガリバーって立命館ですよね。

水上:でもちょっとそのときガリバーは東京に動いていたかもしれないしわからないです。

坂上:でもまあ立命館も使える場になっていたんですね。

水上:使える風になっていたんですね。昔はあそこからひょいと入ったところに広場があったでしょ。今みたいに新築じゃないけど、そこの庭っていうかそんなところで。そこだれが中継したのかな。ひょっとするとガリバーかもしれません。

坂上:立命館っていうとガリバーってイメージがある。

水上:そうですね。

坂上:同志社っていうとさっきのあの人。

水上:小松ですか。小松はそんなに。あ、同志社の大学生と関連があったな。

坂上:よし、次は《ついにピンクの雨》(注:1967年7月、水上旬、ガリバー、石田博、飢多孤児、三喜徹雄、石田博他)。

水上:これは三条朝日会館からね、御池の方あたりの辺でね。

坂上:「ついにピンクの雨。今夕7時3分市役所前ピンクの雨が降ることを感知。…」(チラシを読み上げながら)。これもらったけど、どんなものだったのか聞いてないんですけど。これを号外として配ったっていうのはこの間聞いたんだけども。

水上:単純に、はは。まじめに水をピンクに染めてさ、じょうろを何本かもって行ったの。

坂上:朝日会館の上からじゃーっと?

水上:やっぱり脚立を持っていって。で、路面に脚立を立てるじゃないですか、写真とるときに。

坂上:じゃあ道を歩いているひとが、「あ、雨だ」っていうんじゃなくって。脚立の上からまいている人がいるわけなんですね。

水上:そのままじゃなくてちゃんと傘を差して。

坂上:あはははは。じゃあすごい犯罪的ハプニングでもなんでもなくって。予定調和みたいな(笑)。

水上:予定調和(笑)。それを思い出すとわずかに感じが違うんだけど、市役所前の、どまん前よりも幾分東よりっぽいところでまずピンクの雨を降らして。それから今度はすぐ東側へ渡って。あの時御池ができたんですね。その向こう側でして。まだ御池通りがあんなふうになっていないとしたら、朝日会館の教会前のあたりで。

坂上:ジャズ喫茶もあの辺ですよね。

水上:それでピンクの雨を降らせるわけ。あ、さっきのジャズ喫茶? 今のは違いますよ、御池と三条の間だから。それで多分三条通近くまできて解散にしたんじゃないかな。簡単っぽいけど何人かで、しかも脚立を閉じたり立てたり、移動しながらいろいろしてると、やっぱりそこまでの人員は無理ですね。

坂上:これは何ですか。「清掃局M氏(63歳3ヶ月)」(注:チラシに書いてある登場人物)

水上:え?(チラシを見る)

坂上:その字は誰のですか。ガリバーですか。ちょっとプレイっぽい字ですよね、それね。中田さんとかかな。

水上:中田はこんな字じゃなかった。三喜がひょっとすると書くかもしれない。

坂上:飢多孤児とかは?

水上:そうね、そういえばさっきの足跡運搬も飢多孤児も、さっき言った三人なんです。飢多と三喜と石田博。

坂上:その三人が小中高一緒だったわけですか。

水上:小中高一緒なんですよ。

坂上:そうなんだ。じゃその三人はトリオみたいな感じなんですか。

水上:ちょっとそんな感じ。だから木屋町画廊の辺に確か飢多氏も一緒にいたんじゃないかな。

坂上:飢多さんってちょっと変な名前じゃないですか。

水上:あの文字は単純に上田ですよ。本来は。孤児も弘次ですよ、本来は。上田弘次。

坂上:普通の名前なんだ。本当は上田弘次って名前なんだけど、それを飢えた孤児みたいな感じに自分で変えただけなんだ。

水上:そうそう、よくあるじゃないですか、自分でペンネームつくるときに。

坂上:あるある。ずっと読めなかったんですよ。しばらく分からないって。

水上:そうおっしゃればそうですね。

坂上:もうすぐプレイ結成(注:1967年8月)になっていくんだけど、その前の段階でもうほぼ初期のプレイのメンバー的な人っていうのが。

水上:そういうふうなあたりでまあ、行き来があるわけですよ。で、一緒にするとか。まあそんな風にしていって順番にいくと、ちょっと後の三宮でしたハプニング。

坂上:「第一回プレイ展」ですね(注:1967年8月27〜29日、安土修三、阿部功志、池水慶一、イワクラ・マサヒト、岩橋篤子、岡本はじめ、杉本勝三郎、中田和成、西脇久恵、平田洋一、福永登代子、堀内昭代、水上旬、山崎ラン、ヨシオカシゲオ)。

水上:それが終わるときですね、その折は池水氏があっちに自宅のひとつを持っていたもんだから。尼崎ね。そこにあったところで、いろんなものつくったり、いろんなことをしていたりして、そして、三宮になるんですね。そんなようなことかな。

坂上:じゃあ、池水さんももう知ってるんですか。

水上:池水氏と知り合うのは……。

坂上:でもまだあんまり、中田さんとかとはやっているけどまだ池水さんは入ってきていないですよね、こういう一連の動きの中には。

水上:やっぱし池水氏は本来のハプナーじゃありませんもんね。結局造形作家だし、一番最初(の作品)は檻の系統(注:1964年〜66年頃)がひとつの池水さんの展開。それに次にどこのもんかわからない、卵どうのっていうのがもうひとつの関係になっていくんですね。檻が、ものを入れる檻から自分も入る檻になっていって、その次に卵って話になっていくのかな。卵ってどっかからのもんだって話を聞いたですよ。つまり卵の最初の存在を見るのは岐阜のアンデパンダン展(注:1965年8月)です。そのあたりで、池水氏という人がいるというのを知るんだけども、まだ行き来もできるわけじゃないし。そのあくる年くらいかな、僕の貞操体うんぬんっていう個展に平田洋一とトヨ子さん(注:池水氏の奥さん)が来てくださるわけだ。そしてなぜかその晩僕のところに泊まってくださった。そこでいろんな話しながら、ほんでほんでって話になっていって、「また会いましょう」ってね。そんなふうでよくいろんな話するのはトヨ子さんの方が先なんですね。

坂上:トヨ子さんって感性が豊かなんですよ。

水上:僕はね、前にもいいましたけどトヨ子さんのああしたポエティカルなあたりの……。

坂上:ひらめきパワーみたいな。

水上:ああいうの僕好きですね。

坂上:それになんて言うか平和な感じがするじゃないですか。本当にこうハッピーにさせてくれるようなね。

水上:そうですね。あそこの部分を失わないでほしいって思いますね。

坂上:じゃあ、とりあえずピンクの雨が終わって。和歌山の無人島で《10000メートルの糸。羊水儀、もう一つの世界へ行く方法I》(注:1967年8月)。

水上:これがだから、今度は大阪と関わりを持って。栄利秋さんって今、奈良にいるでしょ。あの人との関わりが出てきて、栄さんもアンパンメンバーの一人だったのかもしれませんね。

坂上:出してると思います。岐阜とかにも出してるし。

水上:じゃそうですね。そこで知り合っていって「こんなんやるけど来るか?」って、「じゃあ参加します」って。こっちが名前入れた催し(注:1967年8月5〜6日、「イヴェント(現代の会8月例会)」、無人島(不毛島、別名裸女ヶ島))。

坂上:パンフレットありますね。どっちかといえば大人数でハイキングに行くような感じののりですか(注:チラシに載っているだけで100人近い人が参加)。

水上:そんなような感じですね。それからもうひとつあるのは、結局建築家関係がたくさんそこにかかわっているんですね。京都じゃなくて大阪の方かな。デザイナーとか。

坂上:これって福岡さんたちが中心になったんですか?

水上:いや、福岡道雄はあまり中心じゃないですね。その今も無人島計画ね。

坂上:じゃあ誰が。結構大々的じゃないですか。

水上:そこらで美術家だけがというわけにいかないような関係みたいなものだし、だから、どうなのかなあ。いろんな人たちと知っていてって。実態は誰がどうしたってわからないんです(注:連絡場所は信濃橋画廊)。しかも場所としてはえっと、ああいう信濃橋とかああいうふうな付近とか梅田とかじゃなくて別のところでミーティングやったんですね。知らないところ。だから鶴橋とかそこら辺の喫茶店めいた感じはしたけどね。それが誰かその建築家か内装関係かな。デザイン関係みたいなもので、それがガラス張りのスペースでね。当時はまだガラス張りのスペースって珍しい方のところで。そこで。

坂上:じゃあやはり建築家のひとが、そういう斬新なものを建てたからそこへとか。

水上:そうしていってするのはこうだと言って。「おもしろそうですねえ」って言って。すぐそこで即座にイメージつくってしまって「よしよし」って「じゃあ、できてもできなくてもいいから糸を岸から島まで張ろう」って。結局は糸が足りなくって。

坂上:岸から張るんですか。

水上:港から。港にひょいと石ころでも何でもいいんです。下ろして。そしてひゅるひゅるひゅるって……。

坂上:それで船に乗って「さよーならー」ってやって。10000メートルの糸はあったんですか。」

水上:多分10000メートルっていうから10000メートルはあったんでしょう(笑)。それくらいあるんでしょうね。違うかな。

坂上:そうか。それでひゅるひゅるって糸を伸ばしたけど、途中で糸がなくなっちゃって。

水上:切れたんじゃなくてなくなって。そうして今度は向こうの岸についてからそれはなんていうか、やっぱり夕方でもないんだけど、浜辺で花火を打ったりしようってお遊びをたくさん。

坂上:本当にピクニックみたいな感じですね。1泊2日かなんかですね。

水上:そうですね1泊だったと思います。2泊じゃなくて。中にはすごく深い淵というかそんなのもあるわけで、そうすると奈良の栄さんはもちろん大きな人だからすごいもぐりがうまいんですね。それでもぐってとれたーっていって。サザエをとか。そんなようなことですね。浅いところもあるもんだからその周りの海で遊んで。

坂上:この頃アース・ワーク的なものが。

水上:ええ。そうです。そういったものが伝わってくるんですね。EATの関係とか。

坂上:スミッソン(Robert Smithson)とかウォルター・デ・マリア(Walter de Maria)とか。

水上:そうですね。

坂上:それでもっと視野が広がった。

水上:視野が広がったのかあるいはもうちょっと勝手をしたわけだよね。

坂上:で、次の《Territory》は高知で。

水上:これはもうご存知の通り池水氏が南日本現代のあれ(注:1967年8月、「南日本現代美術展」)に呼ばれて、そこに関わりをもって。

坂上:じゃあ水上さんこれもゲリラですか。そうですよね、水上さんの名前さがしたけどない。

水上:それはあるのは池水氏くらいでしょ。

坂上:平田洋一もあるけど。

水上:それはまた違うんで。「そういったところに呼ばれたから行かないかい?」って呼ばれて「行くよ」って。

坂上:丸本(耕)さんとか。

水上:そんな方もおられてね。どうされてるのかな。

坂上:横田建三とか。森内敬子。山口牧夫。堀尾貞治とか

水上:そう人たちがまあ、高知をもっと活性化っていうんで、かなりの分量さいて、関西系の人たちを。

坂上:浜口富治が(企画や組織運営を)やったんですよね。

水上:そうですね。

坂上:土佐派か。

水上:土佐派。だから大阪港から船に乗っていきましたよ。

坂上:池水さんも呼ばれたし。

水上:向こうでできるスペースちゃんと取ってお願いしますっていうかね。

坂上:それでどんなことをしたんですか。

水上:それはやっぱり何か紐との関係みたいなもので、ひょっとしたらだいぶ具象的になってるかもしれないけど、何か描いたか、描いていないか、小さな紙切れに紐をちょいと通してそれを人に渡したのかもしれません。繁華街めいたものが近くにあったりして。それをするときにね。ほかは向こうで1泊したか2泊したか3泊したか、やっぱり高知の酒飲みで、あのほら、よさこい踊りの広場で。

坂上:この頃お祭りかな。あ、お盆だ。

水上:でもやっぱり屋台はたくさんありましたね。

坂上:呼ばれた人たちはこうやってやるじゃないですか。これ(展覧会自体)は教育会館の3階でやったんだろうけど、外で岩倉さんが汽車走らせたりとか、やってる中で、(1967年8月16日の高知新聞を読み上げて)「男女の前衛グループが大道のあちこちで意味ありげな制作をくりひろげて、賛助出演…」。だから水上さんも賛助出演ってことですね。

水上:そうですね(笑)。そのとき夏場っぽいけど例の衣装を持ってたんでしょうね。黒と白の。黒の方はフードだけのがあるんですよ。上にかぶるね。そんなものでそれだけをかぶったときもあったのかもしれない。

坂上:ここに書いてあるのは、(新聞を読み続けながら)「長髪にあごひげのビートスタイルが道路に白墨でなにやらを描く。一方ではビルマの僧侶まがいに白布をまとって歩き、人垣に白紙を配る。もらったひとは裏返したり日にかざしたりするが、何も書いていないのでキョトン。グループは終始「わが道を行く」態度だが、見物からはいろいろ冷やかしの向きもあった。それでも「行動する芸術」の異様な手法にア然としながら、けっこう足止めされた格好だった」。そうじゃないですか。

水上:多分そうですね。

坂上:たぶん白布をビルマの僧侶まがいに白い布をまとって歩いて、人垣に白紙を渡す。もらった人は裏返したり日にかざしたりしたけど何も書いていないのでキョトン。だったんですよね。たぶんね。

水上:それを書いたなんとかさんって記者も多分知ってる。そのときに。ふふふふ。

坂上:たぶんキョトンの人かと思いつつ。なるほど。

水上:そんな風にしてこの折はどうしたんだろうか。あ、この折は僕は朝子と一緒に帰りは列車で帰りました。

坂上:でもね、その後、あの、香川とかでやってるんですよ(注:1967年8月、《もう一つの世界へ行く方法II》、香川本島)。これは違うんですか?

水上:いや同じことです。そのときにさっき言ったこのくらいの箱をもってるわけで。よく動けたな。そうやってずっと、神戸あたりも寄りたかったけどそうしたら動きとれなくなるから、結局は丸亀まで列車に乗って丸亀から今度は、すぐ前に本島って島があるんですよ。それが昔の海の族ですね、海賊じゃなくて、海山族の海族の本拠だったって。そこで泊まって、島だけども、ほら、埋葬窯がある。つまり火葬じゃなくて土葬の場所だから、そういうとこまで葬儀社に運ばせてそこでお祈りして、今度はそばの墓地へ入ってもらうって、そんなような場所もあってびっくりしてね。それを見て「へえ」って。そこの本島に古い芝居小屋があるんですね。使ってないけど。中に入れはしないけどどうもそれらしいって。

坂上:それは水上さんと朝子さんと二人だけで。

水上:そう。ふたりだけ。

坂上:だれか知り合いがいて訪ねたわけでもなく。

水上:そう。昔の体験持ってますから、そこら辺にふっとしたね、今はお盆やいろんな関係で何かあるはずだって。そこでまあなるべく安いね、何だろうあれはコテージでもない、借りていたんでしょうね。そしてぶらぶら歩き回ろうっていって歩きまわっていたときにそういったものがあったり、古い芝居小屋があったりさ。やっぱりそういう島だからがっちりお金は持っていたんですね。それからもうちょっとすると晩方になりはじめたら盆踊りがあって。そしたら懐かしいというかなんと言うか。お年のおば様がたがものすごい派手やかで、踊るんですよ。ああいうのは晴れの場みたいなものですからね。大事に残していて、今年もこれでってそんなようなもんですね。

坂上:で、パートIIって。和歌山の帰りだからパートIIとしたのか。

水上:これは僕ちょっと忘れてるんだけど、これ実はあれ、松澤さんが個展されたっていうアヅマ画廊で、もうちょっと後だけどアヅマ画廊が終わるわけよ。

坂上:あれ(アヅマギャラリーのオーガナイズ)はあの人がやったんですよね。染色のあの、田島征彦さん。

水上:そこの『ん』っていうひらがなの雑誌なんですね。そこのところにこれの関係が書いてるんですよ。多分そこら辺のところへこれを結びつけていってるはずなんですよね。

坂上:小牧源太郎も書いてますね。結局小牧さんがこのアヅマ画廊のをやったじゃないですか。小牧さんと田島さん。田島さんがやって小牧さんが助けるんですよ、アヅマギャラリーは。あ、あった。水上(『ん』を見ていて発見)。

水上:細かい字だけどそこに入れてるのがありますね。僕も具体的にどう書いているのか忘れたけど。具体的な姿もないといえばないんだけどひとつは……。

坂上:写真いっぱいのってる。ほら。

水上:ここらへんのものは、旅立っていくような、もうひとつの世界の関係ですね。

坂上:香川でやっているんですよね。全部。

水上:ええ。こっちの方は今の本島なんですね。

坂上:もうひとつの世界に行く方法で、もうひとつの世界に行くような感じ。

水上:ええ。で、そうですね。だからこれはほとんどパートナーが行為者ですね。それからこっちがさっき言っていた儀者っていうんだけども、こんなようなくるまでこの後ろにひつぎを載せるんですけど。これが棺を置く台ですね。恐ろしい仕事やってるなあ。こんな台の上に胸を(置いてる)……。ここがそのときのお守りで。

坂上:大仏みたいな(注:写真に大仏みたいなものが載っている)。

水上:大仏っていうか地獄の閻魔さんね(笑)。そんなようなものが小屋の中にあって、ここの外にあるんだけどもそこでしていくようなパターンをこのときは本島で。2つの方向に分けているんですね。つまりもうひとつの世界に行こうっていうような。

坂上:これが棺。へえ。中に入っているんですかね。

水上:棺を載せる箱ないでしょべつに。それは棺を載せる台。

坂上:あ、そうですか。その台の上に自分が乗って。

水上:通常使うときはそこへ棺を載せるわけだから。それが箱の場合もあるしもうひとつはもうなかろうけど、棺おけというか、釜風呂といって。

坂上:五右衛門風呂みたいな。

水上:そうです。あれを使った時期もあるんですね。

坂上:甕みたいなやつですか。

水上:甕っていうか樽ですよ。

坂上:座りで。

水上:お座りで。そんなあたりを、ここで思いついたんでしょうね。

坂上:その次は、同じ月にいろいろあって。

水上:そうですね。ここで戻ってきてプレイ云々って。

坂上:「あめふり門、他」(注:1967年8月、「第一回プレイ展」)。

水上:そうですね。ここらの《あめふり門》っていうのは、例のプレイという展覧会を三宮の公園でしたときのひとつで。

坂上:それは池水さんのプレイ(の本)だと、池水さんがはしごをつくってみんなが落ちたり。

水上:ええ。僕の方の作業は、柱で門をつくるんですね。上のほうに山水でもないけど、水のじょうろでもないけどさ、あれをひょいとつけましてね、こっち側から水道との関係でもってそこへ水を上から降らせるってね。木で作った門をつくったんですよ。その門の上のほうに水道管を通していきながら。

坂上:それって同じ日ですか?

水上:いや、もちろん。同じ日っていうかこれは3日間くらい(イベントが)あるわけで、そのうちのある部分にそこから雨を降らせるってことをして。そこで黒いのがどうの白いのがどうのってこれで。たとえばさっきもでていた大して変わらない。

坂上:こういうの美術館でもやってましたよね。

水上:そうですね。やっぱりそこの中に。

坂上:(1967年9月18日の神戸新聞を読みながら)「ハプニングで黒いマント。赤い包み。赤い紐。理想の中にまとまった時間を…たちまち黒山の人だかりとなった」。拘束着じゃないけど……(注:水上が拘束着みたいなものを着ている写真がある)。

水上:拘束着というのもあるかもしれませんし。もうひとつは四つ組紐をもっと大型化させて一本一本このくらいのですねふうに綿つめて、それを四本に組んだオブジェクトがあるんです。まだどっかに残っているかもしれませんけどね。ほぼそんなような作業のほかに小道具っていうかオブジェクトを持っているもんだからそれに応じてしていったり。それから、あまりこの頃はそんなに楽器らしい楽器を持ってませんでしたけどね。楽器っていうか音の道具はね。そこのところで結局1泊か2泊したのかな。公園でね(注:実際は「神戸三宮・交通センタービル前に黒服、黒マントに身を包んだ一組の男女が向かい合って立った。男はマントを頭からかぶり、真っ赤な紐を体に巻いたりほどいたり。かたわらでは長髪、異様な風体の男が巻尺でなにやら測り、他方では若い女がすわって植木鉢からしきりに糸をたぐりだす」(同新聞記事より))。

坂上:結局これが、これが「第一回プレイ展」になるわけだけど。

水上:第一回もなにもプレイ展っていうのはこれしかないんですね。

坂上:そしたらこのプレイの結成っていうのは別に誰かが「よしプレイを結成、こうしよう!」っていうんじゃないんですね。

水上:ひとつ野外展をしようっていうことでしたわけですよ。で、どれをしようかっていったときに、多分岩倉さんが「プレイにしときゃ、遊びだからな」って言って、そして「そうしよう」と。こいつをデザイナーに岡本はじめがこれを作ったんですね。で。これが29日に終わってそのあとだったかなんかか、もうひとつ別だったか反省会でもないそんなことをしようかという話し合いのときに今度は、岡本氏は当時、豊中に住んでいたもんだから、彼のところまで行ったかな。そして「せっかくこういうふうに集まったんだからもったいないからグループつくろうじゃないか」っていうふうに言いだすわけさ。

坂上:この中には当然れまんだらんのメンバーもみんな入ってますね。

水上:もちろんです、はい。でまあそんなふうにして行って、それでよしとOKした人たちだけでそうしましょうってね。ふうにいってOKしたのがその後になっていくへんで。一応は安土修三も入ったわけだ。

坂上:これはじゃあ本当に…・

水上:展覧会だけ。で、ここのあたりで、やっぱり卵流しやいろんな関連があるわけだけども(注:プレイの《VOYAGE》、卵流しは1968年8月、しかし流す一年前のこの段階から準備がすでに始まっている)、その辺で池水氏のところでいろいろなことをしていたもんだから。

坂上:そのあとに《反応儀》神戸三宮(注:1967年9月)ってあるんですよ。

水上:これはまた別個にですね。これはどっちが言ったのか。

坂上:プレイでも何でもないんですよね。

水上:「グループ位」がそういうふうなことを三宮の駅前でしようと。そこへそれぞれ集まって。僕自身も新聞写真に載っていたようなあんな様な仕事をパートナーと一緒にしたんじゃないかな。

坂上:じゃ「第一回プレイ展」のあと、プレイは別に毎月何かやるってわけじゃないんですね。

水上:そういうふうじゃなくて。

坂上:そしたら、プレイはそうやってなんとなく結成された。っていう感じですかね。

水上:そうですね。

坂上:中心的なメンバーとかそんなのはあったんですか?

水上:別にそんなものないですよ。今さっき(新聞に)載っていたへんで、この人この人っているけど、している内容がそれぞれ違うしね。

坂上:全然違いますね。たとえば山崎ランさんとか全然ねえ。

水上:うんうん、ランさんってよく存じ上げていたしね。あの方もよく(ギャラリー)16へこられたりしよく知っていたけども、でも、ランさんをメンバーにっていったら、それはこっちも違いますからねえ。そんなご無礼なことを言ってもいけないし。ヨシオカシゲオは結局メンバーにある時期までいたんですよ。

坂上:(プレイには)ヒゲ・ニシモトって人がいるじゃないですか。この中には名前でてないけど。

水上:いました。

坂上:ヒゲさんとか入ってましたね。

水上:あとそこらのグループでだんだんに、川流れ(注:《現代美術の流れ》(1969年7月20日))とかそこら辺から、羊飼い(注:《SHEEP》(1970年8月))とかチーム作業が多くなっていくでしょ。あの辺りでヒゲ・ニシモトさんなんかも行為をして「俺も行くわ」ってたぶん関わりを持たれたんじゃないかなと思いますね。

坂上:で、《反応儀》(のときのイベント)っていうのは「位」のあたりの人たちがなんとなく……。

水上:そうですね。ちょっと待ってくださいよ。《反応儀》なんてのはそれこそ位相だとかと同じようでどこでも使えるんですけども(笑)。どういう風にそれを申し上げればいいのかな。これは三宮で野外アートっぽいことかな、「パフォーマンスをしないか」と新聞社か何かが言ってきたと。それを「じゃあ受けたよ」というのがひょっとしたらこれがグループ位であったのか。そこらへ今のあのプレイ展にかかわっている関係で池水さんに声がかかって、「こっちもそんなことがあるけどしない?どう?」ってそんなようなことかとおもいますね。

坂上:次の年になると(1968年)5月4日に《ハプニング・神戸カーニバル芸術横丁》ってありますね。

水上:それがあるんですね。

坂上:これがやっぱりグループ位とか池水さんも平田洋一も。

水上:そうですね。

坂上:それには《Cloth Roll》を出してます。

水上:これは何をどうしていったのか……(ハプニングの場所が)花時計前っていうからやっぱりおんなじ場所みたいですけど。そういえば花時計のこっちの方だったかな、そこへ荷物を置いていたら、どうこうしたってことがある。その荷物がほとんどなくなってしまったんです。

坂上:盗まれたんですか。

水上:あんなもんなくなっても持ってかれてもしょうがない。

坂上:中に黒ミサの服とか入っていたんじゃないですよね?

水上:たぶんそれがそのときかもしれませんね。そのとき白の物を持っていっていたかもしれないし。でも白のほうを今持っているもんですからね。そこでひとつもったいないと思ったのは、平田さんが虫虫もあるよっていって、こんなね、ものをつくっていて、ちょうだいっていってもらっていたんですね。それも一緒に持って行ってしまわれたというのと、さっきの天と地のうんぬんって(行為用の小道具)いうのもそこの中に入れてもっていたわけ。それも消えて。金銭的なものと違うんだけどもね、こちらにしては大変大事な。そんなふうなことがありましたね。

坂上:でもなんとなく関西のそういう行為をしたいなと思う人たちがきゅっと固まったって感じですね。

水上:そうですね。だから理財状況っていうのもきっとその時期あるんだと思いますよ。そうですねそれから、当然そのくらいのやつになってくれば大阪万博のね、あのことは当然背景に入っているわけで。まだ神戸ハーバーとかは置いておいてね。

坂上:これは何ですか。《ゴーゴーミート》(注:1967年10月、《Boots》。同志社Go Go Meetにて)。

水上:それは誰が行ってきたのか忘れましたが同志社なんです。ひょっとするとやっぱり小松辰男の関連であったのかもしれませんね。だから小松たちと関わりを持っていたのは飢多孤児かな。それで「出ない?」っていうから、それしにいったんだけども。そいつはどうだったんんだろう。ひょっとしたら映像を。

坂上:(水上の行為が)《Boots》って書いてある。

水上:《Boots》か。当然パーティのブーツをはくわけですもんねえ。だからそれと何かの関係をもっていたはずですよ。足跡みたいなもんと。

坂上:映像?

水上:かな。ちょっとしたホールみたいなとこでしたもんね。これは僕が忘れてます。ブーツって名前つけたのはぼんやり思いますけど。何をどうしていったのかな。スペースは同志社の本部の烏丸はさんだ西側のところにある校舎です。1Fフロアーです。

坂上:そのあとにフィルム造形があるんですよ。《シネ・リアクション》(注:《Cine Reaction》、京都フィルム造形’67、勤労会館。このときのはがきでは水上作品は《Cine Reaction》ではなく《Ceremony》と書いてある。1967年11月11日)。

水上:そうですね。そこと関係しているかもしれませんね。

坂上:でもフィルム造形は、結局出したのは今井祝雄とか河口龍雄、真鍋さんも出してるし(注:グループ位、今井祝雄、石原薫、植村義夫、平田洋一、真鍋宗平、松本正司、水上旬、森俊三)。

水上:それは京都新聞かなんかのあの辺の場所で?

坂上:違うこれは。京都府立勤労会館です。

水上:そうですか。そのときのことは結局その後ともつながっていくわけだけども、こっち側にとってそのフィルムを白いローブにうつしていく作業ともうひとつはスクリーンに映していくっていう二重に重なっている作業です。だからそこら辺に行く手前の作業としてブーツがあったのかもしれません。

坂上:どんな作品だったのですか。

水上:今の造形のほうですか。それはとってやる作業はおそらく風景であるのかそんなようなものと。

坂上:8ミリですよね。「誰でも写せます」が出たんですよね。

水上:ええ。あんなものがようやくね。だから、そうして撮った普通の風景を、背景とスクリーンを二つ重ねてしまうやりかた。普通の衣装に写していくやりかたね。そんなような。

坂上:スクリーンに映すというのじゃなくて。

水上:その写っているものが結局影になってスクリーンにもうつるしその淵にはずれたものが写っていくわけで、そこのそのなんていいますか、ローブならローブの姿としてその手前にあるんだけどそこで、見れば見る位置によればかなりおかしな状況にも見えてくるんですね。

坂上:何かを撮ってそれをみんなにみせようと思ってやるよりは実験っていうか。

水上:そうですね。そこの中には多重系統って言うのが昔から好きな作業なもんだから。そこに多重というのは一枚の画面の中にぴたっと納まるんじゃなくて、多重は多重だけども、人って動くような動かないようなそこら辺の関係でもって多重になっていくっていうか。多重っていっていいのかな?ひとつに定まっていかないってね。そんなような作業としての映像だったような気がします。映像っていうか、見たときの感じです。おそらくそういうものを、同志社の方も(注:1967年10月の《Go Go Meet》の時)ですね、プロジェクターの位置を動かして、一人の人をそこへ向けてスポットライトみたいにそこで写したのかもしれませんね。その中身というのは別になんでもいいわけ。だからどうもその辺を歩いていのとか、木々とかとってるもんだから。ローブを着ている人がその中にも写っているわけですね。そんな意味合いの重ねとかしていたんじゃないかと思います。そこらへんのフィルムは残っているはずなんです。捨てやしないから。ただそれが順番順番にですね。編集しなおすというとおかしいけどさ、つなぎ合わせてもっていってしまうもんだから、一本の中にごちゃごちゃっと入ってしまって。これくらいのリールになると何十分になるのかしりませんけどね。そんなような種のもの。8ミリなもんだから8ミリってあれ2〜3分しか普通はつかえないけどももうちょっと長くっていうんで何本も何本もね外れるのもかまわずね、そんなふうなことをよくしてましたね。それであの普通だとこうならなければいけないってきちっとさ、見るやつですね。だけどこっちはイメージでいくもんだから、これは次につなげばいいわと。ずいぶん乱暴な。

坂上:これは誰が言い出したんですか。

水上:この展覧会ですか。展覧会の方はもうそろそろこの頃松本正司さんが。

坂上:アートコア(注:映像専門のギャラリー)は70年かそのくらいですよね。松本さんはもちろんこれに出してるし。植村さんとかも。

水上:やっぱし松本さん植村さんは近いこともあって、きっといろいろ話はしておられたと思うからきっとそこら辺に誰か美術の方にもうちょっと強いあたりを引っ張り込んだのかもしれませんね。

坂上:でも画期的なんですよね。映像のこういう展覧会をするっていうのは。

水上:そうですか。

坂上:草月の流れで、映像作家が映像をつくるっていうのはあったけど、美術家の映像の走りとしては早い。

水上:そうですか。やっぱりそこら辺の影響は多分アメリカのアンダーグラウンド・フィルムの上映会やもう一方はシネマテイクであるとか、そんなのが今の朝日会館あたりでやってたりしてたから。その辺をみて「面白い、俺もやってみたい」ってそういうことを思う美術家もいて当然でしょうね。

坂上:それとやっぱり8ミリが出てきて。そういう実験がしやすい環境が整った。

水上:ええ。

坂上:その走りが67年のこれかなと。

水上:きっとそうですね。そういう機材って重要なことですもんね。

坂上:《Cine Reaction》は大阪8ミリコンクールにも出してたんですね(注:1967年12月、信濃橋画廊)。

水上:その次に今度は信濃橋(画廊)のほうでもやろうかっていう話を向こうの方が出したんですね。それで「うちも入れて」って。そのときはもっと狭いスペースだもんだから。そこでまたもうちょっとかわいくさしてもらったっていうのかな。

坂上:ちょっと先の話になるけど、「映像は発言する!」(注:1969年1月、ギャラリー16)とかあるじゃないですか。

水上:あれはもうちょっとまとまった方向に入っていくのね。それたぶん僕関係ないと思いますよ。多分入ってないでしょう。

坂上:ええ、河口龍夫とか。それにもやっぱり皆川魔鬼子さんが白い全身タイツを着ていてそこに映像を写すとか。白いドームを作ってそこ。360度円体みたいなプラネタリウムみたいな、そこに映像をうつすとか。万博のね。

水上:ああ、全周展とかなんかっていうの言葉がある時期はやったと同時にそういう現実の映像ができたんじゃないですか、京都にも。いつごろか忘れてますが。

坂上:ええ。レーザリアムが。この「How to Get Thru Reaction」(注:1967年11月、個展、アヅマギャラリー)ってあるんですけど、リアクションって言葉をすごく水上さん使うじゃないですか。

水上:それはあの「反抗」っていうより「反応」って意味合いの。

坂上:じゃあさっきの反応儀と一緒だ。

水上:ええそういうことです。反応儀の場合はreactionsってエスをつけますけどもね。反応をどんなふうにしてこなしていくかというようなとり方で僕は。

坂上:アヅマギャラリーですね。これはどんなことを。

水上:これもおそらく雨降りの儀式めいたような作業だった気がします。っていうのは、今度は雨こそ降らさないけども、やっぱし前は張りぼての柱なんだけどこのときはがっちりこのくらいの柱を買って、そしてその上は組み方あるでしょ、木組みのあれでもってT字状に上に載せてそれできちんといくようにってむずかしいものだから、これくらいの棒ですかつけてそこに支えをつけたそうしたもので、そこへ通りすぎる過ぎないってことですけどね。

坂上:で「How to Get Thru Reactions」、そこで何か。

水上:ええ、そこをすっと……。

坂上:ピンポーンってなるんですかね。何か通り過ぎるみたいに、

水上:ははは面白いね。

坂上:ではないんですよね。

水上:残念。何でもなかった。そんなものをそこは比較的天井の高いね、額縁やさんだったからね、アヅマっていうのはね、だからしかも大して広くもないわけですよ。このフロアーくらいあったのかわかりません。そんなふうなところでそれを建てて、あとなんかそこへおそらく何かの作業は加えていたと思うんですけどね。ビジュアルっぽいのはそれ。あとそこで何かかんかのさっきのオブジェクトめいたものをしていったのかしらんと思いますけどね。このころ一生懸命反応することについて深入りしたかったんでしょうね。

坂上:メールアート的なものとかはまだですか?

水上:そうですね。メールの方へ、明確に向かっていったのは……。

坂上:電報体はまだだけど。

水上:明確にしていくっていうのは、それこそ年賀状やいろいろその程度のことだもんですからね。まだまだそれをアートっていうところまでの意識はまだよういれてないですね。それがようやくわかり始めるのが69年であるのか、何かその辺にそうしたものがあるというのと同時に、とりたてていえば国外の美術家あたりの住所がわかるんですね。こっちに。それまでまだわからなかったんですよ。そんなふうな辺でぼちぼちしかかっていくけど、少し伸ばせば先ほどの第一回個展のときのパンフレット(注:1966年1月)ですね。あれは別にそのときから意識してるのは何かのための案内状にもなるけども。例の予告の方(注:「暗黒葬儀予告」。《〈As You Like〉 Snake》のチラシに書いてある)もそうだし。

坂上:そうそうそう《〈As You Like〉 Snake》も都雅画廊もそうですね。

水上:それはそれ自体で別個に独立っていうとおかしいけどねでも、ここらへんでもこれはこの3つはシリーズものの意識の中で作ってるんです。

坂上:紙の大きさも同じですし。

水上:そんなようなつなぎ方をしたと思います。

坂上:その頃まだあんまりDMに対する意識って(あまりなかった)。バイヤースは高かったけど。

水上:こちらはやっぱり詩をしばらくしてたことと、その意味で名前書いたか忘れてますけども、「汎」ですね。『PAN汎会場レポート』っていうのをこの辺り(チラシ)一帯に全部つけてるんですよ。だから結局、ただのチラシじゃもったいないってね。

坂上:最初はなんとなくやっていて、紙に対する(意識が)……。

水上:ここら辺から出ていたのは、つまりこれもうナンバーがつくんですね。これならナンバー1号なんですけども。これが5号かわすれましたけども、そんな風にひとつのものを……。

坂上:そうですね、これ(注:1966年初個展)が1号で《Happenings on Tune》(注:1966年6月)が2号で《〈As You Like〉 Snake》が3号で。この《Happenings on Tune》は(チラシが)ないんですよ。フレンチカンカンが。

水上《Happenings on Tune》の紙切れってそれらしいものがあるんだけど、どうも今なくなってるんですね。あれはそのときガリ版刷りかなんかで出したんだけど、どっかへ紛れ込んでわからない。その辺にはっきりしてきたのは、僕と法律との関係。法律事務との関係でいうと、まとまった……。

坂上:でもまだ法律事務はやってないですよね。このときはね。

水上:事務所はまだだけど、大学ではとうにそこらの勉強してますよ。おまけにそこは一般法律というよりは、法律の事務系統の方をする、手続き法との関係で、民事訴訟法っていうのをわざわざここへ書き込んだんですね。

坂上:あ、民訴卒業。

水上:だからどこっていわれたら、純粋法じゃありませんって。手続き法ですよって。

坂上:素人にはわからない民事訴訟法って。

水上:ここらが法律事務屋のね、法律やってるとそこにほとんど漏れなく書いて行こうとするし。

坂上:民訴ですかって感じになるんですか。

水上:そうです。中身のほうはああなるほど、やり方をやってきたんだねって。そしたらなるほど、そこらはこいつにやらした方がいいかとそういうことになる。ここらの哲学的な話はこいつは民訴だから駄目だとか(笑)。

坂上:私全然素人だから、分からないんだけど。関係ないけど、アンパンで《Goin’ Thru Reactions On Feet Gauze》(注:1968年3月)ですかね。

水上:フィートゲージですかね。これはどっちに入るのかわからないけどおそらくね、(京都市美術館の)2階の部屋であったアンパンだと思うんですけども、もし(スペースが)まっすぐ行くならそうしようと思ったけど無理だからしなかったのか。北の壁面、それからもう一方は南の壁面というと、一番北の部屋がつかえないんですね。ドアがまっすぐはいかないもんだから。つまり奥の方ね、正面の東側の方のブロックが一番こっち側からのドアってやつは中ドアと別の位置にあるもんだから。

坂上:北側はお手洗いコーナーみたいなのがありますよね。

水上:そうですね。それと今度は北と東のところはひとつの展示空間でしょ。その次はまた展示空間でしょ。東西に普通はつかわないんだけども、部屋へのドアはあるけども。今度はドアっていうと今言いました一番角のもうひとつこっち側のほうから真ん中側の部屋を通ってその次までいけるんですね。そこをつなぎたかったの。それはどんなふうかというと、そのときに上へ張ってやろうと思ったわけ。紐を。でもあれ張れなかったのかもしらんが、一方の端のほうにひとつの鏡かなんか置いてるんです。もう一方の端のほうかな、に鏡を置いたのかもしれません。その鏡の中に矢印が刻み込んである。見えるわけない。それで。

坂上:赤い矢印ですか。

水上:ええもちろん。で、その一方の方のところでそれが見えたところで、あなたの位置を測ってくれって。それは図ってもらうための位置測りのためにしようかと思ったんですができなかったんですね。でも今言ったコンセプトの作業としてはそれをしたわけです。つまり方向とかいろいろいったときに、どこまでがどんな風になるわけ?って。あっちがあっちでこっちはこっちでってみたいなそんなことをしてみたかったんですね。だから鏡を確か、鏡と時計かなんかをそこへ貼らせてもらった。

坂上:それはコンセプチュアル(・アート)の早い段階だと思うんだけど。

水上:多分そうかもしれませんね。単純なのかよく分からないですね。

坂上:そういうふうに水上さんはどんどんものがなくなったりするけど、松澤さんの場合はもっとなんて言うのかな、呪いの言葉的な。呪いの言葉じゃないけどもっと民謡風な。昔の語り部が歌いながら続いていくようなああいう感じがするんだけど。

水上:9文字で書いてるあれね。

坂上:そういう感じもあるんだけど、白魔術っていうのもある意識の中であるかもしれないけど、(松澤の)古い民謡的な流れのコンセプチュアルでもなくて、かといって、コスース(Joseph Kosuth)みたいなさっぱりしたもんでもなくて。

水上:じゃあ私を真ん中にとりますか(笑)。

坂上:そうそう。

水上:松澤先生がコスースって話をしたことがありますね。

坂上:でも違うんです。根っこは全然違う。水上さんの場合、どちらともあてはまらないコンセプチュアルな方向みたいなものを……。

水上:結局どっかへ落ち着きたいと思うけど、どこにも落ち着かせてもらえなくてやってきたって感じですね。

坂上:そこに古くに例を求めない、かといって味気なさも求めない。だからリアクションって言葉が大事だと思うんですよ。何かこう反応みたいな。そのときの瞬間の観客との反応を求めるタイプのコンセプチュアル・アートで。コスースはそこで別に求めないじゃないですか、コミュニケーションを。松澤さんはそこのコミュニケーションを古い民謡とかに求めてやってるじゃないですか。水上さんはそこの一瞬性を求めるタイプだと思うんです。出会いリアクションみたいな。

水上:すごいですね。いや、もちろん全責任を持ちますけども、一瞬のすごさってすごいですね。

坂上:そうなんですけどね。そういう意識っていうのは最初から話を聞いているとあるんですけど。フルクサスとかもそうだけどもっと違う…… まだうまく説明できない、ごめんなさい。

水上:反応者がおられるかおられないか(の違いは大きい)。たとえば松澤宥にしろコスースにしろ、フルクサスにしてもですね、もう(反応者が)あるもんだから。こっちは(それが)ないもんだから。そうすると自然あたりはどうかしら、って。そうすると案外自然っていうのは反応してくれる気がして。木や星もね。

坂上:私はもっと、今日会ってるとか、そういうところの出会いのリアクションかと。

水上:それはものすごく思うけど、そんなことよう言いません。

坂上:でもこうして、美術館でたまたま通り過ぎる人がその矢印を見たときに、反応をしたらおもしろいな、みたいな。

水上:やっぱり興味深いというかね。どなたかがそこへかかわりを持ってこられるでしょ。すると僕はその人を捨てて置けなくなってしまう。だからその人に意識を集中するの。そうするとほかが外れてしまう。「そこは駄目だぜ」っていわれたことがありました。ものを作る人からね。じゃあ「誰にも反応しないほうに行くわけ?」とか「これは断定的に分からないなら分からないで行くわけ?」っていうのがふっと沸いてきて。

坂上:難しいですね。

水上:68年に卵流し(注:1968年8月、プレイ《VOYAGE》)。

坂上:67年のパークで第一回プレイ展みたいなのをやって、その次までそんなにないんですよ。プレイっていうのは。

水上:そうですね。プレイはずっと、池水さんの活動はいろいろあったとしても、グループと(しての活動と)いったものは年に一辺あるかなしかでしょ。

坂上:しかも、そのプレイ(の本)(注:『Play:1967→1980』1981年4月発行)でもあれは池水さんが編集をしたからっていうのもあるんだけど、プレイのすべてが載ってるわけじゃない。たとえばプレイグループって、反博のときに九州に行ってるじゃないですか(注:1969年5月)。水上さんたちが。それとか入ってないんです。プレイでも池水さんが参加してないのはあのカタログの中に掲載されてなくって、ちょっとそれについて聞きたいなっていうのがあったんですけどね(注:上記の本のうち、1973年までの活動は、池水、三喜徹雄、水野達雄、鈴木芳伸、岡本はじめの5名で編集した1974年発行のコピー版『Play』の原稿をそのまま用いている。池水によれば、編集時に、「九州反博」はグループとしての行為ではなく個人参加と見なされたか、あるいはページ数の都合で割愛された可能性があるという。他にも、《南日本現代美術展》(1967年)、《神戸カーニバル芸術横丁》(1968年)、《大阪反博》(1969年)の、同時期の4つのイベントが収録されていない)。

水上:そこはまあ前段階の話っぽいね。僕が「遺言状渡すからね」って言ったのはプレイの新聞第三号ですよね。あのきれいな紙で印刷してあるやつ。1,2号は私が一応完全編集でしたやつで3号は三喜さんにお願いしたんですね。っていうのはそのとき別れるっていうことがあるもんだから。

坂上:これかな。単独で別れるやつですか、水上さんが(注:水上は1969年11月にプレイを単独離脱)。

水上:ごめんって言って。それは実はね、三喜さんとはそれこそ池水さんを存じ上げるよりもっと前からの深い関わりを持ってたんですよ。深いっていったらおかしいが。

坂上:水上さんが出て行くのは69年11月ですよね。

水上:ええ。他がどうこうって話より、今チャンスだと思ったのは、結局この矢印流れ(注:1969年7月、プレイ《現代美術の流れ》)あたりからどんどんちょっと回路がずれ込んできたなって感じがして。ちょっと早いけどね。阿蘇より前なんだけどね。

坂上:《Voyage》が卵でしょ。「Zone」とかあって(注:1968年11月、「Time Zone ここにたっている―そして?」、毎日新聞ホール)。

水上:「Zone」ってやつはそこのアヅマ画廊の最終関係みたいなもんでいろんなひとがかかわってるんですね。東京関係の人やら含めてね。

坂上:演劇関係のひととか。

水上:ええそうです。だからそこらでいうと、実は演劇っていうかパフォーマンスよりもちょっと堅い方といったらいいか、その辺の関係者みたいなものもお願いしたわけ。っていうのは僕はあそこの維持者だから。「Zone」は。

坂上:維持者?

水上:維持者っていうのは計画者だから。

坂上:ああ「Zone」展の。

水上:ええええ。「Zone」っていう催しの。もちろん全部自分ひとりで決めたわけじゃありませんよ。小松に「そこらの関係どう」って聞いたら、「よしやってみるわ」ってさ。それはその現物としての表現物。それから今度それに対する、もう一方の理論家としての組み合わせをしてみたいって感じもちょっとあったもんですから。それでまあプレイメンバーでプレイを外すわけにもいかなくてね。「やりますか」っていったら「やりますよ」って池水さんが言われて。こちらはちょっとうまくいえないけど、少しずつずれ込みをおこしているなあと。僕はまあ状態派っていったらいいんだけど、池水さんはやっぱりある種の固定した表現物といったほうが強いんですね。

坂上:なんとなく言ってることは分からないこともない。あとたとえば九州の反博っていうことを(プレイの本に)載せたくなかったのかな、池水さんは。ていうのはその大阪反博集会(注:1969年8月)でも、池水さんは針生先生のティーチ・インとかゼロ次元の大阪城の反博集会に出席してるんだけど、あまりそのことについて語ることは少ない。反博とかそういう、ちょっと政治的なにおいのすることを避けたかったのかなみたいな。水上さんは政治性っていうのはうすかったけど、反博っていうのに参加していきますよね。何でですか(注:先述のように、池水によれば、個人参加と見なされたか、あるいはページ数の都合で割愛された可能性があるという)。

水上:あの、「ああしてまたいろんな表現系をしばりつけていくんじゃないかい?」って感じがすごくしたんです。しばりつけるっていうのは「こうやればちゃんとあんたも有名にしてあげる」みたいなね。

坂上:誰がですか。

水上:一般状況っていうか、あの場合は、企業になるんですかね。企業、国の背景を選んだ大阪府であるか。でもそうやって方向性を縛っていくと、「そういう縛り方は違うんでないか」って感じがするもんですからね。だからあまり意図的に見物しにいくつもりもなかったけども、あるとき、カナダかどっかが招待券くれたんですよ。だもんだから、バンクーバーか忘れましたけども、だから行こうかといって朝子と二人で行きましたけどね。例の万博会場ですよ。

坂上:でもその前に反博。

水上:自分自身で反博をどうこうまでの、そこまでのことは何も。アートで持ち込んでいけるっていうのがあるから、そこまでするっていうのはないですね。そこへゼロが「こんなんしてくるけどどう?」っていうから、「じゃあおいで、俺のできる範囲でアシストするよ」って。そんなことですね。

坂上:じゃあ特に反万博ということに対して何かっていうのは。

水上:それほど強い意見は持ちません。僕はそんなにそこへ強い感じは持たないです。

坂上:ゼロ次元なんかだとそこでまあ裸になったり。

水上:あれはひとつのメッセージだと思うんだけどでも、でも「ああ、そういうふうなしぐさですね」って。「ていうか演技ですか?」となってしまう。ゼロは僕はだいぶ深く知っていたもんだから。「そういう演技はやりたくねえ」って感じがあった。

坂上:でもね、どこの本だったかな、京都からきたプレイグループも、おどろおどろしい儀式かなんかやってませんでしたか。ろうそくかなんか持ち出して。

水上:それは結局、三喜(徹雄)と岡本(はじめ)ですね、豊中の。ほかに何人かいたけど、岡本はじめと三喜ちゃん系統が、先輩後輩にあたるのかな、そんなような人たちですね。プレイグループの中に入っていたのかな。その人たちが例のろうそくたらしをしたわけですよ。顔の上へ。SM遊びの中にひとつあるじゃないですか。

坂上:なんか「らしくないな」って感じがあったんだけど。それを九州でやったんですよね。

水上:そんなもん自分ではしたくないし。痛くないのもわかってますからね。だからでも僕自身は「ああそう」って、「そういうろうそくあんまり使いたくねえな」と思っただけで。

坂上:水上さんこのとき何かやりましたか。

水上:映像を持っていったけど、そこらのブルーフィルムも織り込んであるやつだけど、そいつを出せば理屈つけられるに決まってるもんだから。その他からね。それが出そうになったら僕さっとそれを。中途半端といわれるが、レンズの前を覆うっていうのでそれを上映したとか。あとは紐を持っていってるもんだから。紐っていうのはその関連みたいな、距離関係めいたもんだから。僕はそんなふう。ろうそくめいたのをしたときはひとつの農民会館のところでもって、ゼロ次元あたりは完全にすっぱだかかよく分からないんだけど、その10人か20人かで男女をひっくるめてでもって、わっしょいわっしょいと広間を通って別室に行くって。それへどうこうって言われたけど「俺いやだ」といってやらなかったんだけど。やったのかわかりません。その辺のときに写真はいろいろ撮ってるから、僕の顔も映ったものもありますよ。

(「万博破壊九州大会 アングラ映画とハプニングの夜」1969年5月3日戸畑文化ホール、4日農民会館、5日明治生命ホール。いずれも福岡)

坂上:その後に、落ちちゃうんですよね(注:1969年6月10日、《紐力学指向儀》。京都大学の教養学部の屋上にゼロ次元が裸で並び、そこから地上に向けて紐をはり、水上がその紐を伝って下に下りていくという儀式)

水上:そうですね。

坂上:これはやっぱりゼロ次元が京大でやるっていうのを水上さんに?(注:万博破壊共闘派と言われるゼロ次元、告陰、ビタミンアート、新宿少年団)

水上:それは違います。それは逆に「僕がそこの中に関わってもいいのかしら」って言ったら、「関わってもかまわないぜ」って話がだいぶ前にあったもんだから、そいでそこにゼロも入りたいって。

坂上:関わってもいいじゃないか、っていうのは。

水上:学生運動です。

坂上:学生運動か。それに水上さんもOBじゃないけど。

水上:OBっていうか、「パフォーマンスだと逆さくだりみたいなことをやりたいんだけどね」って言ったら、「いいよ」って。

坂上:そしたら最初はゼロ次元はなくって。

水上:うん。そのときはゼロ次元は「入るぜ」ということを言い出したわけですよ。

坂上:京大教養学部で69年の6月なんだけど。

水上:帰ってきてちょっとしたときくらい。

坂上:九州から帰ってきて、じゃあそれは学生が企画した集会だったんですね。

水上:そうです。集会っていっていいのかどうかね。結局みんな学園粉砕やってるわけでさ。そこへアピールやいろんな関係で、「俺はそこから逆さま綱下りやるわね」っていう。

坂上:それで自治会かなんかに言って。それはなんでそうしたいなと思ったんですか。

水上:やっぱりそこにある種の…… 甘いかもしれないけど、ひとつ決まり決まったふうにひとつの体質が決まっていくということに対して、「俺はそんなこと本当は思っていないんだけどね」みたいなひとつの表明みたいなもんですかね。だからそれがまあいわば70年云々で万博もあるし、そこら辺の関係みたいなもんですね。「ただしこっちはフリーでやりますよ」って。

坂上:だからこれ(ゼロの全裸の姿)があると分かりづらいんですよね。私もこれが(ゼロがまず)あってこう(水上の儀式がある)なのかなと思っていたから分かんなかったけど、そうじゃなくて、水上さんにはもともと紐があって。

水上:そうです。それからこのとき三喜さんが「それなら一緒にするわ」と言ってくれて。それでその折にアンチ万博やいろんな話をして。

坂上:京大の学園封鎖のときに、「学園闘争に自分もなんらかのリアクションをするぞ」ということで。

水上:そんなふうですね。

坂上:それで水上さんが今自分の表現としてここでやるべきことは、逆さの《紐力学指向儀》ですね。

水上:《紐力学指向儀》のとき、シルクスクリーンでつくったこんな小さなもの(チラシ)、そいつは三喜さんが刷ってくれましたね。「こんなふうでいいかな?」って。

坂上:どういうもんですか。

水上:「やりますよ」と。それは渡すだけです。《紐力学指向儀》って。どちらへ向かって動いているものを背景にした意味のメッセージを。

坂上:どちらに向かって動いているかみたいな意味だったんだ、あれは。

水上:それがごくごく自然っぽく下に向かって動くように落ちてと同時にやっぱり落ちたねと。

坂上:自然が動くようにって。逆さになって?

水上:いや、そのまま動くだけですよ。上昇志向じゃなくてこう下降志向といわれると困っちゃうんだけど。

坂上:その体制だと普通は上っていくじゃないですか。それをこうやって逆さに。前を向くかんじで?。

水上:ビルの方に背中を向けて、そして「下りるぜ」といって下りて、そっから落ちて混迷していくんだけど。するするすべりができないのはわかってるんですよ。こんなことはね。だからちゃんと手袋をしていくんだけど、その折に、やっぱり力足らずっていうのがなによりも。それからつけていた皮の防具っていうか手袋にしっかり慣れていないっていうか、買ったばかりのものですから、こう持ったつもりがこう、ざっとなっていった(滑り落ちた)。片手ならそれでいいんだが片手でも体力的には駄目だから結局滑り落ちていったっていうか。すべるったってここだけですね。

坂上:じゃあもうそういうことをするということで、本当に内輪。

水上:内輪っていうか、ようするに三喜さんと僕と、それから飢多孤児もいたのか数人ですね。そのあたりだけのことだったんですよ。

坂上:別にそれは反万博であるとか、そういう(ことではなくて)。

水上:そういうことであってもかまわないけども、こっちはそのときにやる作業はやっぱりそうやって下りていくからって。で、その背景位のことでここに出ているのはみんな知ってますからね、彼らは。

坂上:じゃあここで、水上さんがここでこれをやるから、それを聞きつけたゼロ次元がどうせ東京から大阪まで(来るなら、と)。

水上:行く間にそういうことがあるなら、そこへちょいとかかわろうかということで、「そしたらおめえのその背景に立っていいかい?」っていうから、いらんとも言えんし。「まあまあ勝手にすれば?」って。

坂上:そういうことだったんだ。

水上:しかも結局はある意味そういう、また馬鹿やるという意味での有名人でしょ。ゼロっていうのは。そこに金坂(健二)とか何人かのカメラ屋やそういうのが何かアホなことが起こるに違いないって。そんなもんで、数箇所の朝日や毎日のグラフ誌に(落っこち儀のときの写真が)載ってるんでしょ。そんなことをいって、そして集まったわけです。報道は、中にも入れることになってるから。そうして撮ったものをグラフ誌に。

坂上:猥褻物陳列罪みたいな。

水上:そんなようなものを入れてみたりですね。

坂上:水上さんは逮捕とかされたんですか?

水上:全然。こっちは関係ないもんそれ。

坂上:関係ないですね。

水上:逮捕とかそんなことはできませんよ。

坂上:ただこうやってみると一味っぽく見えるじゃないですか。

水上:そうですね。

坂上:でも関係ないと。

水上:関係ありませんってね。

坂上:でも結局病院送りになっちゃったんですよね。

水上:いや、病院には入らないけれどもね。

坂上:大丈夫だったんですか。

水上:いや、大丈夫じゃない。ここに朝子が。

坂上:え? どれどれ? あ、そうそう、座ってるんですよ。

水上:これ(写真)が白黒になってるけど、このときたしか赤い方(のローブ)を着ていたのか。僕は白でぶらさがってるんです。だから黒かもしれません。

坂上:でもこの人たち(注:ビルの屋上で裸で立っている「万博破壊共闘派」といわれるゼロ次元を中心にするメンバー)は、(水上さんが)落っこちたらすぐ退散したでしょ。

水上:そう。

坂上:すぐ行っちゃったんですよね。

水上:そういうことです。

坂上:うーん、やばいやばいみたいな感じかな。

水上:そこに(ビルの上の紐の付け根のところに)座りこんだりしてるのが、三喜やら何人かいるんですよ。この辺にいるんですよ。

坂上:手伝ってあげてるのが三喜さん?

水上:っていうか順番に降りていくっていうのでいたから。

坂上:で、トップバッターが水上さん。

水上:ええ。

坂上:だけど落ちちゃったからってことか。

水上:だからそこまでいけなかった。

坂上:なんとなく分かってきた。私なんで反博みたいな(ことしたんだろうって)。でも、「アングラ通信」もあるんですよ(笑)(注:1969年3月、発行人岩田信一)。

水上:僕はそんなの出してないですよ(笑)。それはゼロが持ってきたか送ってきたかで。

坂上:反博反。

水上:これがその次、男爵かなんかってね、ところでする(注:1969年3月、「反万博狂気見本市」、レストラン男爵4F)。

坂上:そうそう! 男爵ってなんなんですか?

水上:あのねえ、どういえばいいんだろう。あの、いわゆるディスコといっていいのかどうか。

坂上:3月ですよね。

水上:で、

坂上:アンチ万博。

水上:で、そこらへんのところで何かを(やろう)というんで、これはゼロが交渉したのか、ちょっと僕忘れてます。でもこうずっと見るとここにしてるから、やっぱりゼロとの関連があったんですよ。ああそうかヨシダミノルが引っかかってるんだな。

坂上:こっち(注:1969年2月名古屋)はちなみに、(『アングラ通信』を読みながら)「コウフンのゼロ次元大会。ゼロ次元+8ジェネレーション」。だから金坂さんとかのね、「クレイジー大会は2月の22、23の2日間にわたってシアター36において公演され、予想以上の迫力を持った」っていうので、水上さんも。

水上:映像出してますよ。

坂上:そうそう。ヨシダミノルとか水上さん。あとライトアートとかね。(読み上げながら)「京都のヨシダミノルは真っ赤なコートに虫歯をつけて現れ、インベーダーお得意の宇宙遊泳。水上旬は白のガウンに自製の丸太のようなろうそくを持って現れ、小さな箱スクリーンにあやしげなフィルムを写しながら、スクリーンからどこまでもどこまでも紐を繰り出す黒ミサじみた儀式」なんですよ(笑)。

水上:多分そのとき来てるから読んでるんだろうと思うんだけど、そんなの忘れてますね。書いてあったことを。ただそれは具体的にいうと、小さな箱だけども、箱ががちゃがちゃっとあけたりもできるような扉かな、ついていて、中に鏡の部分もあるしそれからあと銅版がはってあるとかで、映像を写すときに反射してみたりするってそんなようなこと。それからハーフミラーかなんか中にいれていたのかどうか忘れてるけどそんなようなものです。あの、なんでしょうかね。やっぱりスクリーンを自分でつくるみたいなことも、していたんだろうかなと思います。

坂上:そうです。お手製スクリーン。小さな箱スクリーンっていうかね。

水上:どっか探すとそれもあるかもしれません。

坂上:丸太のようなろうそくって何ですかね。

水上:それはほら、和ろうそくがあるでしょ。あれほとんどかけらみたいになってるのを、パイプがあるんですね。その中に溶かしては詰めていくわけ。溶かすっていっても結局、くずろうそくをたくさんどっかこっかでもっていたもんだから、そして。

坂上:より糸みたいなのを?

水上:そうそう、より糸のあれを、中へたらしてそして火がつけられるようにしたわけ。それは何箇所かもって歩いて結局そのときに持っていってゼロの家かなんかにおいてあるか、あとでほかしたんでしょうね。たぶんね。あと、これ以外に名古屋で何かしてると思うんですよ。ろうそくを使ってですね。

坂上:このころの名古屋については分かってないんですよ。

水上:名古屋自体のなにかってそれほどのこともなかったのかもしれないけど、わかりません。

坂上:水上履歴にはいってない。ま、とにかくそれで次は男爵だったわけですね。3月29日30日。ダダカンも来ているんですね。

水上:いや、来てないですよ。

坂上:結局は来なかったんですか。

水上:そう。風倉も来てなかったと思いますよ。来たのかな。いや、ダダカン氏はそんなに動きもしない人だからね(注:来ていない)。

坂上:京都に住んでましたよね。

水上:宇治のほうだっけ。いや、来ていなかったと思うんだけど。あの頃人によりけり、こんなものをつくるとき、来ない人もわかっていて、どんどん名前を載せて呼び込むってそういうパターンがあるんですね。

坂上:男爵はよくいってたんですか?

水上:よく知ってない。このとき一辺いったっきり。

坂上:私も男爵って名前聞いたことないから。

水上:でしょ。四条堀川かなよりも下がったとこの東側にあったんですね。場所書いてありますね。なんか誰がどうしていたのかわからないけど、その辺のこと店もったりするようなことができる人がそんなに年じゃなくてね、もっと若手ですね。そんな人がそこにどういえばいいんだろ、後ほどのディスコでもないんだけどもさ、あの、なんかどういうのか、どういいますか、その当時の流行っていうと何でしたか。ダンスというか。

坂上:ゴーゴーダンスとか?

水上:ゴーゴーっぽいね。そういうことをはさせるようなね。なんて言うか、レコードのあれも置いていたと思うんですね。ドーナツ盤とかかけるやつ。

坂上:ジュークボックス?

水上:そう。ジュークボックス。でもほかにひょっとしたら演奏する人たちがいたかもしれませんね。

坂上:大きいはずですもんね。こういうことやるっていうのは。でもそしたら、水上さんはゼロとの関係で参加するけど、結局ヨシダミノルの方が動いたんですかね。

水上:そうですね。ひょっとしたらヨシダミノル氏がそういうことしたら面白いからってんで。

坂上:小松さんも入ってますよね。

水上:そうですね。小松とそれからヨシダミノルあたりがそこにひっかかりを持ったんじゃないですかね。ま、そのとおり、善し悪しはともかくとしてゼロ次元って有名な存在ですもんね。

坂上:ああ、そうですか。有名なんですね。

水上:だからそんなふうなこともあったのかもしれませんね。でもここらへんでゼロはたしか危なくなってるんですよね、確か。追いかけられてるんだよね。

坂上:そうです。結局みんな逮捕されちゃうんですよね、一回。

水上:だから失礼しましたって謝ったのかどうかよく分からないんだけど、そんな感じみたいですね。

坂上:そうですか。反博は私もよくわからない。

水上:僕どうもそこまでは。「こうです」っていうだけみたいなことにも思えるし。そこに対してはっきりした姿勢を保っていくかといったらゼロはそんなことはしませんからね。だから危ないといったら隠れますしね。あの折は確か、加藤も隠れていたんですね。いや、まあもう一方の話でいけばごちゃごちゃいうへんとは関わりもたないほうがいいというので隠れるのかもしれませんし。

坂上:なるほど。ちなみに九州(アンチ万博)は誰かが呼んだんですか。

水上:えーっと、九州派が事務所結成しないとできないわけで、そのとき向こうの方に、もちろん九州派もいるしそれから、集団蜘蛛とかそういうパフォーマンスっぽいのがいるんですよ。森山何とかさんって。

坂上:安英?

水上:そうですね。そんな人たちがいて。僕はなぜこの時期に九州派系統とかかわりもっているかというと、一方には「ニルヴァーナ」って展覧会系統があるんですよ。(注:1970年に入って動き出す)その後に出るやつ。それのお知らせ兼呼びかけみたいなので、九州にも行ってるんですよね。そうすると昔のかかわりがもう一辺復活したりとかしてね。そんなときにもちろん、よく名前知れてる菊畑さんはもういませんよ。桜井孝身さんが当時博多っていうか福岡の横ちょにかえっておられて。それであの方にあい、それから尾花系統の尾花兄弟にも。そしてえっと山内重太郎さんにも会いましたね。それから旅立っていった米倉徳さんもね。それで「久方ぶりです」って言いつつ。それは両方またがっての関係ですけどね。まあもちろんこの反博のときはニル(ニルヴァーナ)のこと何も言いませんけどね。で、このときにすごく積極的にいろいろしてたのがひとり若衆でいたんだけどもね。新開(一愛)ってね。チーム作りのすごくうまい男だったけどね。彼は存命中だけどももうそういうことはしていないらしいっていうの聞きましたね(注:黒田雷児によれば、森山と行動をともにした集団“へ”の新開一愛氏は故人。1947〜88年)。だからどんどん動いていくと70年代に入って、アースデーが東京の方であったりするんですね。なんかいろんなものが重なってましたね。

坂上:そのころ美術が、万博っていうのがあるからだろうけど、ものすごく政治的な動きもするからよけい分からないんですよね。

水上:そこらはどうなんですか。僕はそういうことしたことないんだけども、自らの存在を売り込むっていったらおかしいけどやっぱり売り込むんですよね。

坂上:万博に乗じて。

水上:万博なりあるいはその他のなんですか、企業だったり美術館だったりね。

坂上:具体なんかは特に積極的に協力して。

水上:そうですね。経済的というかそこらへんでのあたりってのバランスよくわからないです、僕。

坂上:《きのこ栽培計画》って何ですか?(注:1969年6月)

水上:これはね、えっと、おそらくあのほら、紫色っぽい本があったじゃないですか。

坂上:バイオレットメール?

水上:そうです。あれのことだと思いますよ。その中に僕そんな名前をつけたかなんかで。

坂上:シャンピニオン計画とかそんなの。

水上:それで、書いていたんじゃないですかね。

坂上:黒いページですよね。あったあった、「墓地改装広告付きのきのこ製造に関する部分論。汎会場レポオト9号水上旬」。そうか、これが《きのこ栽培計画》。

水上:ええ。きのこ話はいろいろね、どれを食べちゃいけないとかいいとか、トリップするとか、そんな話はみんな知ってるんですよ。みんなって池水さんはどうか知らないけども、三喜とかね。だからまあ草っ葉(マリファナ)はあまりしなかったけどね。

坂上:シャンピニオン計画とかいうのがあったと思うんだけど、ちょっと待ってください。(ページをめくる)あれ。《デルモンテ黒魔団》(注:1969年4月27日〜30日、ギャラリー射手座)。

水上:それは(ギャラリー)射手座かなんかのもんじゃなかったですか。たしかこの時期、三喜は沖縄あたりまで旅行してるはずなんですね。なくなってしまったけど、ちょっと名前忘れてるけど、何とかちゃんって人(注:ジャムちゃん)と暮らすようになっててね。で、「ふたりで行ってきたよ」って。これおそらく全部三喜の制作で。

坂上:そうそう。前もデルモンテは、三喜さんがつけた名前だって聞いてますよね。

水上:そうそう。デルモンテなんとかってね。

坂上:黒魔団。じゃ水上さんがつけたわけじゃなくて。

水上:ここらの感覚は。

坂上:これはプレイの流れで?

水上:これはプレイの流れっていうか、プレイのうちのこれは前半後半になってるんですよね(注:後半の1969年5月1〜3日がプレイの「For You and For Your Family」)。

坂上:(デルモンテには)池水さんの名前は入ってないけど、(このときに行われた)《マシュマロと熱気》はプレイの(本の)中にははいってますね。

水上:だから結局このとき(ギャラリー)射手座がオープンしてわずかのときの時期なんですよ。

坂上:石原さんが。

水上:ええ。石原薫さんが当然深くいろんなことを。そして「水上もなんかそこらでなんかしないかい?」ってね。「お、いいんですか?」「いいよ」って。まあ結局、プレイ系統の方でしようかどうしようかってね。一緒に全部はしんどいから半々にするかってことになって、半分はこっちなんですよ。

坂上:半分は《マシュマロと熱気》(デルモンテ)で。もう半分が(プレイ)。

水上:(プレイの方では)箱をバンバンだしていって組んだんですね。これ池水さんがあそこのスペースをいくつ割りかにしていって、その1コーナー1コーナーを持つってね。

坂上:そうなんだ。

水上:そういうことがあってね。準備してもらった期間をふたつにわけて、結局僕たちは福岡のアンチ万博かなんかに動いたんじゃないかなって(注:福岡反博は5月3日)。

坂上:じゃあ池水さんたちは池水さんたちで。

水上:それはプレイなんですけどね。こっちはもちろん入ってますよ、そっちへもね。

坂上:でもこっち(デルモンテ)はこっちで違うと。

水上:ええ。

坂上:そうか。そしてこっちは池水さんが「俺は入らないよ」って。

水上:ええ。

坂上:それで三喜さんが中心になった《デルモンテ黒魔団》をやった。

水上:そうですね。これはもろに物質展示の方じゃなくって、パフォーマンスみたいなもんだし、そこにアップライトのピアノがあったんで、パフォーマンス系のこともしながら。ここでたとえば三喜が「飛ぶのするわ」って。このくらいの羽じゃないんだけど、ベニヤ板をいくつかつくって背中のところに縛り付けてここちゃんと持てるようにして、そんなのしながら、あそこの地下から出て、すぐそばの河原へね、ぱたぱたしながら出ていって。

坂上:翼みたいなのをつけてぱたぱたして。射手座のすぐ近くが河原だから。

水上:そんなふうにしながら何人かでね。そして、川の中には入らなかったけどすぐ橋の下までいったりしてね。そんなこともしてみたりね。もちろんいろんな意味合いのこともあるから、本当はいじりすぎだと思うけど、君が代をいじったりとかですね。

坂上:(チラシに書いてある)「バウ・ピ猊下」ってなんですか。

水上:バウ・ピはちょっと僕忘れてる。

坂上:もちろん三喜さん。

水上:そう。「つくるけどいい?」っていうから、「全部まかせたよ!」っていって、あの人が自分でいろいろ読んでいるからそんなもんからひっかけてきて。

坂上:たまたま4月29日も入っているから、「4月29日午後5時より祝天皇誕生日懺悔の火曜日の葬送式あるいは祝狂気見本市。懺悔のゼロ次元の葬送式」。

水上:ですね。そんなものもここへ盛り込んでいくんですね。

坂上:煙とかもこもこって言うような感じでしょうね。《マシュマロと熱気》」でやったやつは(注:おそらく「4月28日バウ・ピ猊下の月曜日。バウ・ピ猊下の16日煙」と書いてあるものが《マシュマロと熱気》)。

水上:煙をたてたのかな。もめたのかな、(ギャラリー)射手座と。うーん。

坂上:もめた?

水上:いや、もめはしなかったかもしれないけどよくわかりません。

坂上:これきのこ工場ですね。三喜さんがシャンピニオンについて書いてます(紫の本見ながら)。

水上:これ本と全部三喜さんがつくったんですよ。

坂上:だからか。

水上:だから「そこへ何か書かない?」っていうから「いいよ」っていって。

坂上:それできのこ。

水上:だから「計画を書くよ」といって。で「黒のページでいいの」っていうから「黒でいいよ」って言って。「黒がすきだから」って(注:水上のページは黒い紙の上に黒い文字で印字されている)。原稿書くのに三喜さんがその当時大阪城のすぐ横のところに住んでいたもんだから、裏に書いてると思うけどね、住所。だからそこへいって缶詰になって書いたのかなと思います。

坂上:へえ。これも同じときに(ギャラリー)射手座で。

水上:そうですね。こっちの方は乗ってるでしょ?

坂上:「For You and For Your Family」。

水上:これが後半になるんですね(注:1969年5月1〜3日)。

坂上:最初の3日が《デルモンテ黒魔団》で。あとの3日がプレイでってことか。

水上:このとき(プレイの時は)は(参加者)が8人。床面を8つに割るんですね。割ったところにそれぞれのしたいところをオブジェクトを置くっていう。

坂上:水上さんはどんなことをしたんですか。

水上:僕は箱ですね。透明な箱をいつか出してみたくて。なかなかガラスって作るの難しいし。樹脂じゃないと思うんですがね。この折は木の箱の中に透明なガラスをはめ込んで。つまりガラス箱らしくして、外側が木の箱で覆われてるようなもの。僕はどういうタイトルをつけたのかも忘れてしまってるんですね。

坂上:一応部屋を区切ってみんなその人なりのオブジェを作って。

水上:ええ。

坂上:で、こっち(デルモンテ)はパフォーマンス的な。一緒になって翼つけて。

水上:翼をつけたかもしれないし、ピアノがいいって言ってやったりとか。これは誰がどうこうしたようなものじゃなくって、そこでみんなで。

坂上:あれやろうこれやろうって。観客とかくるんですか。

水上:開いてあんまり日がたってないギャラリーなもんだから、そうすると……。

坂上:オープニングセレモニー的な。

水上:オープニングは誰と誰と。

坂上:(オープニングは)ピーターズ・アンド・カンパニーとかいう。

水上:それもありますね。ピーターズ・アンド・カンパニー誰が持っていたんだっけ。デザイナー系のほうかな。それと小松の関連者だったのか。ちょっとそこよく覚えてない。

坂上:小松さんの関係っぽくないですかね。なんとなく(注:小松氏の関連)。

水上:そうですねえ。

坂上:あそこって結局石原さんと小松さんでしばらく運営していたみたいなもんですよね。

水上:でしょ。そこに結局一言詩を書く人とかそんな人もこられたりね。あとは踊り手だったり、そこで考えを述べる講演者みたいな人もおられた。だから何も一週間で区切らないもんだから、一日の人もあったわけですよね。(射手座のオーナーの)藤田さんはどんどんいろんなことをしてくれていいよって感じでおられたし。

坂上:《ピンクスポット》(注:1968年3月)。これは1962年の綾田さんと(やった)(注:綾田雄作、板倉陽三、加藤由美子、水上旬の4人でやった同じメンバーでの展覧会)。

水上:これはさっきのと違って。

坂上:あれは1962年は京都書院。今度は同じメンバーで。

水上:お世話になったね、(ギャラリー)16で。

坂上:(62年の)6年後なんですよ。この4人でやるのって。だからこの4人展って二回しかやってないけど6年間すごいつながりがあって。

水上:これ(チラシ)のデザインは綾田雄作さんがしたんですよね。

坂上:“jun minakami”って書いてある。

水上:ちがうよ。これ僕してないんだから。参加者名がそこにあるんじゃないですか?私の名前はともかくとして順番に入っている。だからあの、例えば池水さんも僕のことをみなかみとおっしゃるのと同じようにですね、そういう呼び方があるんだよね。

坂上:水上勉とかいますもんね。

水上:みなかみも本当はみづかみなんだけどね。

坂上:これ4人でひさしぶりに(展覧会をまた)やるってどうして?

水上:4人それぞれがもう少し現在形というか、もうちょっと生身の関係みたいなもんに近づいたというか、もうちょっと自分のしたい方向へ向かっていった的なこともあったんだろうし。このときすでに綾田さんとかとこは結婚してたんですね。多分ね。前のときはしてなかったと思う。ちょっと忘れた。わずかあとで別れるんだけどもね。で、板倉陽三さんは染織の仕事をずっとしてるんですね。そこら辺でもってやろうかといって、会ってるのがジャズ喫茶のブルーノートか。やっぱしブルーノートにみんな顔出ししてたんですね。

坂上:この4人が。

水上:うん。で、そのときにかとこちゃんはですね、修学院のもうバスで行った辺の建売に住んでいた時期があるんですね。

坂上:ひとりぐらし?

水上:ひとりぐらしといっても、かとこちゃんの同級生の何とかちゃんって人もいたし、もう一人はもうちょっと若い女の人もいた。3人ばかりでいたのかな。そこらの関係もあったのかもしれませんね。そこへあるときから僕はときどき土曜日になると酒と何か持っていたりしていわゆるオープンハウスのパターンでよく行きましたから。僕はその時期は天王町に住んでいた時期だから。バスでいけば終点が修学院だったから。

坂上:これは4人でやりたいと。

水上:ひさしぶりにやらないかいと。これはね(ギャラリー)16さんに直接頼みに行ったのか、16さんが空き場があるから作らないかといわれたのかわからない。

坂上:そういうことよくありますもんね。

水上:ええ。だから僕なんかもあそこでグループ展っぽいのさせてもらったときには、どちらも、「ちょっとすぐ、一ヶ月しかないけどできないかい?」っていう話を。そのあとこっちはニル系の展覧会だから、電報展とかすぐできるしね。「わかりました」ってね。そんなようなことだったかもしれないですね。

坂上:62年のときはみんな描いていたじゃないですか。水上さんも描いていたし。今回はどんな感じだったんですか?

水上:このときね、どなたもが関わるのが「ピンクパックス」っていうからピンク色っていうのをひとつ、重要な色として使えっていうね。ピンク色のパターン。

坂上:ピンクの雨っていうのもあったじゃないですか。水上さんのアイデアで。

水上:かもしれないけど分からない。そういうときってみんなでワーワー話しているからね。

坂上:あ、ピンクにしようみたいな。

水上:だから誰のアイデアでもないかもしれませんしね。そんなふうなことでもって、16さんで。「わっはっは16さんってすごいところだね」っていいながらね。で、ほかの人は平面系統だったり、綾田さんはポスターらしいのを出されたし。それから板倉さんは布でもってピンクに染めたものとか布でしたようなオブジェクトの合成体めいたもんかな。かとこちゃんがパネルにそれらしきものをはりこんだやつかもしれませんね。僕は似たような箱だけど箱をピンクに塗りこんで、中に何をいれたか忘れたけど、さっきいったビニールをくしゃくしゃっとしたやつね。それをいくつも入れて。もうひとつは入っていないもんと二つ出したのかもしれない。それは《からっぽといっぱい》ってタイトルをつけたのかもしれない。なんかお互い利害関係めいたものより、わーわーやって騒ぐ方の関係だから、楽しい展覧会でしたよ。もうひとつの京都書院のやつもね。

坂上:でも(加藤由美子と綾田雄作が)結婚して別れちゃったのもあって。

水上:なんでか僕は理由も聞かなかったし。男が馬鹿をしたんじゃないかと思います。親しい関係でいえばかとこちゃんの方が親しいわけだし、かとこちゃん通じて知り合うわけだけどね。おそらくそんなふうじゃないかな。デザイナーってそんなふうで。

坂上:小松さんっていうのはあくまでもプロモーターだったんですか?私、状況劇場のプロデューサかなんかだと思っていたんだけど(注:実際は現代劇場のプロデューサー)。

水上:いや、状況との関わりはありませんよ。状況が京都まで持ち込んでくるようなことがあった場合に、小松氏がいろんな手配とかして、手配料めいたもんは入場料のうちの何パーセントかなんかでおそらく小松はもらっていたと思うけども。フリーで動いていく人じゃないから。はじめから東映とかの関係で動いてきてますからね。そうすると当然舞台装置にしろその関係だとその専門家に頼むわけだから、まあ比較的安くね。だからそんなふうでいわばこれだけのもんでいくらペイバックをもらえるかって、幾分引いたかもしれないけどやっぱりもらったと思いますね。だってそうしないと動けないんだからね。

坂上:(小松さんは)なんで亡くなっちゃったんですか。病気で? 急死?

水上:どうもね、フランスあたりに行ってそこでもって日本食の和食店をなんとかして作りたいなっていうふうに小松は思って。すごくいいながら、ついででもないけどアフリカ組んだりして回ってそして帰ってきたんだけど、どうもアフリカ辺でどうも食べもんじゃないか風土病拾って帰ったみたいですね。それで話にきくと、あるとき彼はいろんな作業してるもんだから、ひとりで家はあるんだけど事務所としてビルアパートを借りていて、あるときお子さんが尋ねていったら……。あのときお子さんはまだ小学生かなんかだから奥さんかもしれませんね。行ったらもう小松は亡くなっていたって。

坂上:急死。

水上:急死というか。でも、2〜3日、3〜4日仕事だと家に帰らないときもあるから。だからその意味ではぎりぎりまでなんか苦しんでおられたかもしれないし。なんも馬鹿なことは小松はしていなかったと僕は思う。っていうのは、付き合いが案外ありましたからね。ただいろんなところ動いたりはたくさんやってるもんですからね。だからきのこじゃなくて葉っぱ(マリファナ)に手出したりとかはやってましたよ。

坂上:でもまあその頃はねえ。

水上:それを奥さんは、「馬鹿をして!」ってきつい目でみておられましたけどね。なんだかいろいろですね。そういえばさっき話しにでた石原(薫)さんだって離れてしまっているからわからないけど、もうちょっと生きていてほしかったと思うけど。

坂上:そうですね。

水上:馬鹿ばっかり言ってみてさ。

坂上:寺尾さんだってそうですよね。

水上:そうですね。

坂上:寺尾さんもはじめてのフィルム造形(注:1967年)に出してました。石原さんもよく作ってましたよね。

水上:そうですね。あの人はやっぱり現場としてそういう行政やそんな世界の方に強い位置づけをもっておられたもんだから、映像がどんな力を持っているかもよくご存知でね。

坂上:じゃあ、今日はこの辺で。

水上:いいですか。

坂上:ありがとうございます。

水上:何をおっしゃいますやら。

坂上:明日もいっぱい聞いてもいいですか。ニルヴァーナのこととか。

水上:すごいね。ニルヴァーナ……。

坂上:本当は今日60年代やりたかったんだけど、無理だった。

水上:少し残りましたか。

坂上:これは松澤さんの自筆年譜です。

水上:こちらも自己流ですが、仏教の禅っぽいことはあらっぽくは追求してましたからねえ。

坂上:これは読むと、(『機関』13号を読み上げて)「1969年1月9日6時9分集合という「プサイアート集会」にこたえて京都の石田博他数名が虚空間情報探知センターに集まる」。諏訪ですね。「1月18日東大安田講堂攻防。19日消火栓放水。7月20日人類初めて月面に立つと。8月8日〜14日まで信濃美術館で…」――これ明日聞きます――「「絵画という幻想の終焉展」の組織へと続いた。中原祐介、峯村敏明両氏を講師とするシンポジウムあり。この展覧会の出品者の一人、臼田宏はこの展覧会に2枚の紙を出品して以降金輪際展覧会に作品を出品しなくなってしまった。作品を作らなくなってしまった。この展覧会は日本における初めての観念美術展であった。阿蘇山でプレイと九州派のジョイントで行われた一大イベントの後信州にまわってこの展覧会に合流した水上旬は、これが終わるやいなや諏訪の小生のところに立ち寄り、ただちに来年京都で第2回概念美術展公募の計画はじめ。9月はじめにはニルヴァーナという展名を打ち出す。最終美術という言葉も。11月下旬金坂健二氏来訪。朝日グラフのために赤砂湖畔の夕日の中で撮影……。ニルヴァーナ、ニルヴァーナ……」って書いてあるんです。69年1月って前に。

水上:それはおそらく何か(松澤に)送ったかもしれませんけどそれほどのこともしていないのかもしれませんしね。ここにはっきりそんな日付書いてないでしょ。

坂上:でも阿蘇山の69年に九州の《クロスミーティング》ですよ、阿蘇山だから。プレイの(イベントのひとつ)。これは(松澤は)プレイと九州派で行われた一大イベントって言ってるんだけど、《クロスミーティング》は九州派は入ってないから違う。でもまあ一応阿蘇山…(注:《クロスミーティング》が九州派とのジョイントというのは松澤の記憶違い)。

水上:クロスミーティングには僕は桜井さんのところに寄っていくんですよ。それで「こんな風だけどもいかが」って言って。「よしわかったじゃあ行こう」って。

坂上:本当だ、書いてある(注:プレイ新聞3号)。「九州派桜井孝身氏他2名は集合点阿蘇山麓に……」。水上レポートですね。これは。

水上:そういうことは他を外はずさずに僕はやってきたもんだから、僕の関連で入れたわけ。僕がこれ書かなきゃ誰も書ないわけで。

坂上:そうですね。(読み上げて)「7月31日午後プレイ氏の第一陣と九州派桜井孝身他2名は集合点阿蘇山ろく内内牧駅南方約3キロの山岳点(海抜365メートル)へ向けて旧登山道を登っていた。三角点を遠望できたのと、あとからやってきたものとのずれはあまりなかった。午後4時……」――だから7月31日午後4時ですね――「……を、すぎていただろうか。風雨のためテントの設営はあきらめ、一本松本牧地付近の2つの空小屋に泊まることにした。午後7時すぎ第二陣到着。時折強くなる雨を背景に対話とお酒。8月1日早朝、第三陣が到着。雨。午後九州氏と別れる」。だから九州派はとくに《クロスミーティング》をやったわけじゃないけど、お酒を飲みに来たってことですね。「石巻温泉にいって8月2日晴天、三角点に向かう。起用塩ビカプセル埋没。煙のモニュメント。そして夕刻半数のプレイ氏は岐路についた。われわれには片道切符だけできたのだろうか」とあるから。それを九州派とのジョイントという言い方に松澤さんは書いて。でもこのあとほら……。

水上:信濃美術館に。いろんなこと言いながら一応京都によって。

坂上:京都に寄ったんですか?

水上:でないと、衣類とかいろんなもんお金もあらへん。

坂上:そっか、8月2日に阿蘇を出て急いで京都に帰ってきて。

水上:急いでというよりは早朝に(京都に)つくわけ、向こうから鈍行でくると。で、京都駅について今度はその深夜便でもって信濃にむかうんですよ。そのときは天王町に住んでいるわけだけどね。今ここ(プレイ新聞3号の記事)に他2名っていうのは、僕と朝子の意味です。そういうことなんだけど、そういうことがさがさ出すのも僕いやだから出さないの。いつもね。そんなふうなことですね。だからそのとき行きし、行くときにやっぱり「久方ぶりだからシェンシェーに会ってくかい?」って、桜井氏のね。で、「行きます」っていったら「来ていいよ」っていうんで寄って。こうこうだけどって話をしたら「よし行く」ってそんなふうですね。で、なぜこれを書いたかっていうと、その後にもちろんこれが出るんだけど、池水さんあまりいい顔しなかったんですね。

坂上:桜井さんが来たときに?

水上:うんうん。

坂上:何でだろう。

水上:なんか分かんない。逆にいうと、そうすると松澤先生が九州派とのジョイントみたいなパターンになってみたり。

坂上:その前に九州アンチ万博のときにろうそくたらしとかやってるから、あんまりいいと思わなかったのかな。

水上:そうかもしれませんねえ。

坂上:ちょっと志向が違うぞみたいな。あと反博だから。

水上:うーん。反博のこともあるんでしょうねえ。いろいろ言ってたんだけど、学校の先生をしてたし(省略)。

坂上:じゃあ明日はここの続きで、松澤話をきくということで行きましょうか。