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水上旬オーラル・ヒストリー 2009年3月22日

名古屋市中区丸の内 事務所にて
インタヴュアー:坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2009年6月1日
更新日:2014年9月14日
 

坂上:今日は3月22日日曜日朝10時19分水上旬さんインタビュー。

水上:こんにちは。どうもよろしく。

坂上:よろしくおねがいします。昨日の話の続きで、ちょうど松澤さんの本(機関13号)をちょっと読んで。

水上:そうですね。

坂上:1969年の夏にプレイとのジョイントで、九州派の桜井孝身さんも阿蘇に来てくれて(注:実際はジョイントではなく、桜井が水上ら2人と同行した)、それでちょっと会って。阿蘇の例のプレイの《クロスミーティング》。

水上:阿蘇で出会おうって《クロスミーティング》。そこらの発想は結局僕と三喜がいろんな話したこと。「そろそろ旅歩きの方しない?」って。

坂上:ちなみに水上さんは1969年(11月)にプレイを脱退、単独離籍するわけですけども、(プレイの)どれが誰の企画とかありますかね。

水上:(池水氏が編集したプレイの本の中に誰の企画であるとかそのあたりのことを)ある程度のどこかに載せてますか? 載せてはいないですか? まず最初のどうこう(プレイの行為)いうのは卵流し(注:《Voyage》、1968年8月)だと思うんです。で、卵流しはプレイというよりは池水氏の企画ということになってるんです(注:池水によれば、プレイの行為は特定の個人の企画ではなく、話し合う中で作られていくものだったが、《Voyage》は、グループとしてのプレイが存在していなかったので、ポスターに池水の名前を書いた。「企画 池水慶一」の文言はポスターのみで、『PLAY』誌(1974、1981、1991年)でも、その後の展覧会でも、《Voyage》はプレイの行為としている。)。

坂上:池水さんの大きな卵を和歌山の串本から……(流す)

水上:それを(プレイが)手伝うと。池水さんはこの卵(の発想)がどこから出てきたか言いましたか?言わない?

坂上:卵がどこから出てきたかっていうのは言いません。

水上:これがさっき話していてふっと出てきた平田洋一とか……つまりアローラインです。言わず語らずっぽいけどあれが元版かなっていうのはちらっと言いかかったことがあった。というのは、そういったことを言うっていうのはお互いの倫理に反するっていうのか、無礼に当たるふうなもんだから、雰囲気っぽくは卵は池水のもんじゃないって話を言っていたのはありますね。

坂上:ちょうど昨日の(話に出てきた)男爵でやった(時に配られた)アングラ通信。ゼロ次元が出した(アングラ通信のチラシ)。この中にも(注:海の上をプレイじゃない違う卵、しかも違う国のものが流れていたという記録が書いてある)。

水上:それはそういったコピー(の話)ではなくて、それの写しとかいうんじゃなく。卵自体をつくって出すっていうのは……これ(池水氏が絡んだ卵)自体は岐阜のアンパンに出ていたのかな?

坂上:出してます。岐阜のアンパン。「大阪グループ」(というグループとして)で卵をだした(注:卵は、太田隆三を代表とする、池水、平田洋一など計8人からなる大阪グループが出品した。池水によれば、皆で大卵を作ろうと提案したのは池水であり、池水が材料費を負担し、平田が技術を提供した。当時は、後のようにプロジェクトに要した経費を分担する取り決めがなく、費用の大半は企画者が負担した。)。

水上:そのときの卵っていうのは実は別の人の発案だって話をちらっと聞いたわけよ。今これはどれどれって話みたいだけど、そんな話を聞いたことがある。

坂上:ちょっと待ってください。今日私、岐阜のやつ(資料)は今日そんなに持ってきてなくて。

水上:いいです、いいです。そのとき池水さんは小さな檻の中に入った。川原で。それ以外に卵が出ているんです(注:池水の作品としては《檻》(注:正しくは、《THE MAN HOMOSAPIENS》)が。大阪グループの作品として卵が展示された)。

坂上:太田隆三とか(注:大阪グループのメンバーの一人)。

水上:次に堺のアンパン(注:1966年8月)系統は太田隆三が一番ポイントになるんですよ(注:「堺現代美術の祭典」は、大阪グループが中心になって現代美術研究会を組織して準備された。大阪在住の作家10数人が参加した)。

坂上:そうそうそう。

水上:あの時期なもんだから次々みたいな感じで。次々に「社会でやりてー」っていうか、そういうふうな話を何人かの人に太田隆三その他が言った。そこへ「グループ位」もかかわっているわけです、岐阜のほうへ。そこら辺の話はこちらもいろんな領域のことを知っているもんじゃないから個々にぽつぽつと知っているわけですね。

坂上:じゃあこの卵自体は。

水上:そのとき大阪グループが出したそれを、池水氏が買ったのかもらったのかあるいは「捨てるのか」って言うから、「もったいないから俺のところへくれ」と言って「それからどうするか」ってね。海へ流すとかその辺でそのための小さな実験はしてましたね。

坂上:(1969年頃になると)たくさん卵つくったじゃないですか。そのときは京都教育大学の同級生(注:正しくは大阪教育大学下級生)の松本雄吉さんもそうだけどみんなで卵をたくさんつくったっていう話は聞いてます。でもそれは遅いじゃないですか、69年だから。その65年のときに、64年までは“檻”で、65年でなぜ“卵”が出てきたか(注:池水個人としては65年も《檻》の出品)。その卵の発生に関しては大阪グループが(卵を)やったということはあるけど、池水さんのアイデアでとかその辺の話は出てきてない(注:池水によれば、岐阜アンパンで卵は長良川の河原に置かれたので、卵を水に浮かべたり流したりすることは、大阪グループを中心に出品者の間で話題になっていた。「堺現代美術の祭典」の後、池水はそれを実現しようと考え、海洋物理学の中村秋甫大阪教育大学助教授(当時)、竹田幸一・串本漁業組合長(当時)に助言を求めた。調査したところ、海上保安庁の許可が必要であることが分かった。1967年8月に実現可能な企画が固まり、池水は、第1回プレイ展に参加したメンバーに協力を呼びかけて計8名が参加した。ポスターに行為者として8名の名前を入れて企画・池水とした。ポスター制作時、プレイは展覧会名であって、グループはまだ誕生してなかった。《Voyage》が進行する過程でグループ・プレイが生まれた)。

水上:(卵を)流す、うんぬんっていうときに、池水氏はあまり(プレイ特有の)旅の意識はもたなかったんですね。ほら、いろいろこの後に阿蘇もそうだし、川流れ(注:《現代美術の流れ》、1969年)もそうだし。その後の羊飼い(注:《Sheep》、1970年8月)とかそこらへんの旅関係の発想っていうのはほとんどが三喜のもんだった。そこら辺の手前側にこちらも(プレイを)やめる前に「どうせならエジプトまでもそんなところまでもいけるとおもしろいね」って、そんな話をふたりでわーわーとやってたんですよ。

坂上:三喜さんと水上さんの間で?

水上:うん。三喜がその頃“紫の雲の閣”だかって(注:自らの家を「紫雲閣」を名づけていた)大阪城の東西南北よくわからないんだけども、大阪の環状線でいいますと、大阪城へ降りるよりもう一つ先くらいの駅なんですね。そこから大阪城の方へ向けて行くっていうかな。

坂上:そういうの三喜さんですよね。

水上:そうです。

坂上:ちょっとヒッピー的な。

水上:彼はちょっとビートにもあこがれたけどどっちかというとヒッピー系なんですね。

坂上:そうですね。ちょっとビートっぽい。サンクチュアリとかね。

水上:年齢的なところでいうと僕のあたりが最終ビートっていうとおかしいけど、やってるわけです。彼は10ばかり(年)下になるからね。僕は浪人したりしながら美術の方にかかわりを持っていくもんだから。池水さんは僕と同じなんだけども、年齢が、ほぼ10くらいずれるんですね。

坂上:そうか、それ(卵の発想)は平田洋一のあたりのものだったかな。

水上:そこでしているのが…… 村松さんって人知らないかな? 奈良のほうにアトリエ工房持っている人。マネキン屋。

坂上:村松。

水上:村松達也って。

坂上:知ってます、知ってます。会ったことないですけど名前は知ってます(注:アローラインのメンバー)。

水上:あの人あたり。平田さん何人かがそのマネキン工房に勤めていたわけ。そういうところから独立したのが今の村松さんです。その人は大和郡山ですね、あそこに自分で工房もってね。そこへ関連者みたいなのでそこにいる、奈良のほうに住んでいる……誰だっけなあ。

坂上:デルモンテ? 三喜さんですよね。

水上:あ、吉岡シゲオ(注:プレイにもよく参加)。

坂上:あ、はいはい。

水上:彼が村松を訪ねていって、マネキン作りの関係でアシストに入るわけ。それで対応して三喜は三喜ですから昨日言った七条か八条か九条の西大路の向こうの……誰か他の人も勤めていたけどあの辺(の樹脂の職場)で。池水さんは造形やいろんなこともするけれどもそこまでの樹脂扱いっていうのはしていないんですよ。そこらはさっきの話で平田とかそこら辺の人たちが関わり持ってる。(他にも)樹脂系の扱いめいたことをいっていくと、福岡道雄さんが一番初期に「病気になりそう」って言ってね、閉じた部屋でもって樹脂いじりやるわけですよ。

坂上:(福岡氏の)《ピンクバルーン》とかも樹脂ですよね。

水上:そうそう。そこら辺のものの一番原型っぽくなるのは平田洋一なんですよ。

坂上:平田さんと福岡さんは一緒にアローラインもやってるし。大阪で。

水上:だからどうなんかな。おそらく村松達也氏だとかそんな人も背景関係でいたんじゃないかって気がします。池水さんどっかで言っていたんじゃないかなあ。樹脂扱いをいろんな人が手伝ってくれた、あの時は自分が主体でああしてくれこうしてくれだけども、専門が別個にいて。その前にこの卵ですね。

坂上:卵に関しては別の人のアイデアであったと。

水上:そうですね。

坂上:大阪グループでしたからね、そういうことはありますね。

水上:そこら辺のことは「グループ位」のごちゃごちゃもなんかよくわからない。あんまりいろんなこと中まで入りたくないから気がしなかったけど、河口さん奥田さんの問題があったみたいですね。僕もその程度かもしれません(以下省略)。

水上:矢印(注:1969年7月プレイ《現代美術の流れ》の矢印)は当然僕ですよ。川流れやそんなっていうのは旅の(発想の)中に。ええ(注:池水によれば、「川を流れる」というのは三喜の提案だった。海で行った《Voyage》はメンバー以外に誰も見ていないので、街中でやりたいということであった。矢印形は水上、発泡スチロールは池水の提案だった。企画の段階から皆で言い合って、費用も分担しながら一つのことをするというプレイのやり方が生まれた)。

坂上:じゃあ一番最初の《Voyage》は(まず)卵があって池水さんが流してみようみたいな感じで。

水上:それでどこどこって。あの人(池水)は調べだすとそういうところ、なんて言うか海上保安庁とかそういうところまでしていって。

坂上:「ZONE」あるじゃないですか。毎日新聞ホールで。あれは水上さんでしたね(注:1968年11月、「Time Zone ここにたっている―そして?」、毎日新聞ホール)。

水上:何さんだったか名前忘れたが、(その人が)ギャラリーの役割持っていたんですね(注:ギャラリーで働いていたの意)。

坂上:アヅマギャラリーで田島さんともうひとり。今、静岡のほうに住んでいる女の人なんですけどその人がいろいろと(注:原雅子のこと。現在もコーディネーターで活躍中)。

水上:おもに女の人(原)がそこら辺のことをどうこうって。「こちらとはこうだけどこちらの関連はどうしますか」っていうようなことを(言ってやってくれた)。あそこの三条通の(毎日新聞ホール)あるいは別の人も使っていったり、他(の場所も)使えるってことかなり知っていて。「そこで合同企画めいたもんでいきません?」って。

坂上:一応、(『機関』13号を読みながら)「同志社大学を出た諸君がやってる“ん”という企画で」っていうのがありますが、「“ん”の企画で」って。“ん”の企画で(「ZONE」が)出てきたんですか?

水上:その“ん”自体は一号雑誌じゃないのかな。

坂上:1号だけで終わってる。

水上:そういうの作ろうプラスアルファで動いていって。そしてあの折に合同企画っていうか。美術家だけのものじゃなくてあの時どんどんパフォーマンスっていうかハプニングが。

坂上:山崎正和とか福島(敬恭)先生も出てる。あと刀根(康尚)さんもですね。

水上:ええ、ええ。そこへいろんな人を呼び込んで呼びかけて。もう一つ、ケースバイケースだけど京都でなんかっていうと関東のひとがやってくることがあったんですね。

坂上:そうですね、刀根さん関東。山崎さんは関西。福島先生関西でシンポジウムやってますね。そこに松澤さんも出していたし。

水上:そうですね。

坂上:どんな感じだったんですか?一日ずっと……。

水上:そうですね。ごちゃごちゃ混ぜみたいにして順番順番をしていき、それからシンポジウムをもって。そこにどんなふうな話が動いたのか忘れてしまった。おそらくもうないんだろうけど、その頃ビデオもあるわけだし、当然録音機もあるんでアヅマ画廊側かそこらがそれ記録をとっていたはずだけども。

坂上:田島さんにアヅマのことを聞いて、田島さんからその静岡の女の人のことを教えてくれて、女の人(原雅子氏)ともコンタクトをとったんですよ。だけどアヅマ関連の資料はなくてあまり思い出せなくてごめんみたいな感じでした。

水上:そうですか。

坂上:結構いろいろ答えてくれてね、やったんだけど、やっぱり駄目でね。アヅマギャラリーもやっぱりもう(当時の主人が)亡くなってるじゃないですか。今息子の代でやっていて、ちょっとわからないって突っ込めなかったんですよ。

水上:その時期だともう、さっきの展開でいろんな人のごちゃ混ぜ系で、「それぞれ自由な話や自由な表現でそういうことしていこう」ってあたりで、先が少し明るみめいたものが出る可能性があるんじゃないか、そんなこともありました。

坂上:たとえば昨日の話もそうだけど、三喜さんの《デルモンテ》(注:1969年4月27日〜30日、《デルモンテ黒魔団》、ギャラリー射手座)もごちゃ混ぜ系でやってますよね。でもこれ次の(注:1969年5月1〜3日、プレイ、「For You and For Your Family」)は単独でみんながやっていたわけですよね。

水上:単独でほとんど何かをしたということはなかったと思います。みんなで集まった関係でもってその話をしていた。前半の《デルモンテ》の鳥の話もね。

坂上:(《デルモンテ》のチラシを読み上げて)「1969年4月28日午後5時よりバウ・ピ猊下の月曜日」ってこれどんなのだったのかなって。「1969年4月27日午後5時よりコプト算法による太陽年第一日目の儀式」。儀式って水上さんじゃないですか。あと「4月29日午後5時より祝天皇誕生日懺悔の火曜日の葬送式あるいは祝狂気見本市。懺悔のゼロ次元の葬送式」とか。

水上:こういうふうに三喜が書いていくのは……関係ないのもあるし。

坂上:このへんは三喜さんのテイストだけど、ふっとこのへん(儀式やゼロ)は水上テイストな感じがするんだけど。

水上:まあそこら(注:チラシに書いてある予告)は「ずいぶん先のことも載せてしまうじゃない」って言っていて。「それで作るわね」って言って。

坂上:じゃあタイトルはそうやってやったけど、中身っていうのは別にそれ(予告)に沿って(行われたわけではない。)……たとえば儀式の火曜日の葬送式。

水上:そこらの意味の黒魔術とか、あるいは秘密結社みたいなものを読んでいると、そこにいついつの何かっていうのが出てくるんですよね。それは、あそこらのもん(黒魔術関係の本など)白水社かどっかの新書版にいくつかあるんですよ。そんなのお互いに読んだりしていたわけ。あるいは「これ読んだ?」とかってね。それでそんなようなところから引っ張り出していって。

坂上:アイデアを?

水上:アイデアというか名前をね。

坂上:(そういう名前やイメージをつかって行為を)やったけど。

水上:そういうイメージはもっているけど、そのイメージが具体的な何かっていうのはこっちは知らないわけです。そのへんでゴチャゴチャってある感じ。その形をとるっていうよりはそういう気分で動くみたいな。

坂上:そのとき(《デルモンテ》のときに)に三喜さんが翼をつけようって。翼くらいは前から用意してあったんですよね。ゼロ次元は来ていたんですか?

水上:いや、ゼロ次元はその次その次へ行くって。男爵話ですね(注:1969年3月29日、30日、「反万博狂気見本市」、レストラン男爵4階)。

坂上:男爵は3月ですね。これ(《デルモンテ》)は4月だから男爵のあとです。男爵のあと(《デルモンテ》、「For You and For Your Family」、《九州アンチ万博》があって)。その後、京大の落っこちです。

水上:(《デルモンテ》の後の)3日間だけのそれぞれ区画区切ってやったっていうあれ(注:「For You and For Your Family」)の作品引取りは僕はできなかったんです。あれを出してしまってから九州に飛んだんじゃないかな。感じとして。

坂上:「For You and For Your Family」を5月1、2、3日とやるじゃないですか。それやってから今度九州へ飛んで。まあそれでろうそくたらしやって(注:「福岡反博」は5月3日。「万博破壊九州集会」、北九州会場、戸畑市民会館ホール。4日、5日と場所を変えて続く)。

水上:そうですね。そのろうそくたらしのろうそくも、おそらくこっち側の方に入っているんですよ。

坂上:《デルモンテ》の。

水上:珍しくないって僕が言ったのはなぜかというと、僕自身がいろんなマジック本とかサドマゾ話だとかそんなもの(を知っていた)。ヨーロッパ系でいうと鉄の処女なんかその装置があるんですね。それは人体の外側も鉄でできたのでバンと閉じ込めてしまうんですが、中にいっぱいとげとげが出ていて、ぎりぎり背中から人体にぶつかるかぶつからないかみたいなふうな状態。

坂上:昔の拷問みたいな。

水上:ええ、ええ。昔の拷問道具とかそういったものをその時期からだろうけど、いわゆるサドマゾっぽいの使っていったりするわけです。だからなんだろう、意識とか気持ちを逆撫でするって言ったらおかしいけど、反するようなことをですね。そういうところの落差みたいなものをお互いに楽しむような部分をもってんですね。あれは。

坂上:なんか関係ないけど(当時水上さんは)断食したりとかもしてましたよね。

水上:そうですね。仏教や中からミイラ(即身仏)って存在があるじゃないですか。日本の中に。ああしたのは方法のうちの一つっていうかほとんどは何も食べないで、そこへ自らを枯らしていき、そこに罪やらいろんな人のも背負って別の方へ旅立っていくってそんなようなもんらしくて。それは各地に残っている。東北にももちろんあります。それから熊野信仰のあたりだと穴の中に閉じこもって。何も持たずにずっと沖のほうへ出て行くといういうこともあって。それは本体はそういうふうなことであるけれども実はそれ以外そうやって(即身仏になるようなふりをして)他人の関心を集める、ある種の詐欺っぽいようなこともあったようです。

坂上:即身仏になるひとたちですか。

水上:即身仏になると言ってならずに逃げてくるのですよ。

坂上:関係ないけど男爵が3月(29日、30日)にあって九州が5月(3日)でここにもゼロ次元いるじゃないですか。ずっとゼロ次元が京都に居座り続けたってことですか。

水上:そういうことじゃない。彼らはかなり異常に動き回っていきますからね。たとえば「暗黒舞踏」でも、「暗黒舞踏」って名前が出ても彼らはそこで居座るってほとんどないですもんね。次の(場所に)歩いていくんですね。

坂上:じゃあ別にこの一ヶ月かなんか水上さんも一緒に暮らしてというわけじゃないんですね。

水上:そういうわけじゃない。ここへ来て一泊か二泊か泊まってもらって(ゼロは)次の方へ動くんですね。

坂上:では、このとき(《デルモンテ》のとき)はいなかったと。

水上:いなかったと思います。この頃はプレイやいろんな話系統で、ある種の行為表現はゼロみたいなやり方をしない、っていうね、それは池水氏もそうだし三喜も僕もそんなふうで。もう少し「演技としてじゃない、本体として動こう」とそんなようなこととだったと思いますね。だからゼロさんたちも儀式とかいうけど、彼らは決まりきったパターンをそうやって言っているだけで、個々の内側までの関係ではない。断食っていうのは本当にある段階から抜け出していて、もう一つの状態へ入っていく。精神じゃないですよ。心の方の問題。ただ食べないようなふりして、その週に入ると昼間は食べちゃいけないとかいうイスラムの、なんかそれじゃなくて、本当にその間食べないんですよね。

坂上:(断食が)だんだん楽しくなりますよって(当時の新聞に)書いてましたもんね。水上さんも。

水上:ええ、ええ。本当にそうです。ただ残念なのはそこまで行ききるんだけど、そこで定着できなくて戻ってくると、やっぱりなんか……いろんなことでもって食べ始めてしまって、つまりあのなんていいますか食べる方へ……感覚はある程度取り戻せるようになりましたけどね。

坂上:じゃあ話をもどすとして。プレイの旅系のものっていうのは。

水上:そうですね。阿蘇へ行く話も結局はどこにするって話になって。

坂上:この《7 Dimensions》、これは水上さんですか?(注:1969年8月〜9月《7 Dimensions ハロゲン化するプレイ氏の触媒調合あるいは12090帯での追跡計画》、「現代美術の動向」展、京都国立近代美術館。ちなみにこの動向展はいわゆる“もの派”の作品が大量に出てきた歴史的な展覧会でもある)

水上:いやこのとき(動向展に)およびがかかったのは池水さんじゃなかったのかな?

坂上:「現代美術の動向」ですね。69年。水上さんも声かかってなかったですか?

水上:僕は70年に(動向展に)単独で呼ばれて。そのときに今度、あれが……「測定係数」ってやつと、もう一つはディスプレインっていうので超心理学っぽいので旅をするっていうのかね。そっちの方の系統だとあそこ(動向展)と、市のアンデパンダンでいうとそんなふうなもんで(紐を)つかっていたんですね(注:1970年7月、《超上感覚訓練之弐》「現代美術の動向」)。

坂上:どんな感じのものを。

水上:この折は、(美術館の間取りの説明)入ると右と左と真ん中って(部屋の)間についたてが立ってましてね、それと真ん中に(こんなふうに)切れ目が入った(パーテーション)。そのときに奥面の方の壁とこちら側の壁とに“三角コーナー”をつくったんです。それもぴたっとした三角じゃなくてちょっと斜めにした。その下にこのくらい(30センチくらいの高さの)の組み立てキットみたいな椅子があったんで、(椅子の座るところを)八角形に切ってそこで組み紐をするわけ。毎回(会場に)行っては。(会期は)何週間かあるわけだけども行ける限りで(行って組みひもをしていた)。そのときにやっぱりどれにも矢印が。三角形にも重心っていうか、これがその真下にくるようにしたのかな。そんなふうな計算でもって。そこへ毎回思うようなことを、ガリ版持っていたからガリ版に書いてそいつをそのそこへ置いて「みなさんお持ち帰りください」ってね。それが何十通までつくろうと思ったけどそうはいかなくて。

坂上:水上さんのそのお持ち帰りください系統っていうのは。

水上:それははじめのほうに“贈り物”っていいましたよね。いくつかあるでしょ。あんなふうにもらう一方じゃなくて差し上げるべきだよって。それがあるんです。通常もらっているっていうともらい乞食ってあるけど、もう一方はさしあげ乞食ってね。もう一つ結局できないんだけども、例えば禅でもいいんだけど全部いろんなもんを振り捨ててそして身軽になっていこうって発想あるじゃないですか。

坂上:でも水上さん紙で押しつぶされそうですよね……(笑)

水上:笑。ほんと、自分だけの紙だけじゃなくて他のひとの紙ですとか。街中でひろった紙切れとか。

坂上:身軽になってないですね。

水上:全然なってない。あるときね、ニルヴァーナ自体が作品表現をどんどん減らしてしまってそして一枚の紙切れまでどまり(注:最後の意、坂上)というふうな発想を持つわけだけど。だからもちろんそれも大オッケーなんだけども。池水氏に「そんなこといいながら紙の山じゃないかい」って言われた(笑)。「そうだねー」って。だからあそこで、(プレイ新聞の)第一号に書いてる(REACTIONSにおける)9か条宣言(「ハプニングスに関する九個の基礎的宣言」)ってあるんです。あそこに、「全部捨てるべし」みたいなことを書いていると思うんだけどね。実はそうじゃないのになってね。

坂上:(注:プレイ新聞2号を読み上げて)“Did it happen with reactions?”(注:このフレーズは水上の紙類によく出てくる)。

水上:それはみんなの感覚でもってしようってことが、多分(他から)反対が出たもんだから個人名入れたんでしょうね。

坂上:そしたらプレイのことはまたあとで聞くかもしれないけど、置いておいて。三喜さんのアイデアで「クロスミーティング」に(阿蘇に)行って帰ってきて、(朝子さんと)二人で帰ってきて、朝子さんと一緒に夜行列車に乗って。

水上:鈍行っていうのは、長野の方まで行くものもあったんですね。中央線の東京の方へ向かう中央線じゃなくて塩尻からまっすぐ長野の方ね。それが長野どまりだったような気もするし、それがあるのはこっちも知ってるわけだから、朝ともかく九州から鈍行で(京都に)帰り着いて。着替えといっちゃおかしいけど、当時は下着とかそういうのも詰め込んで持っているもんだから、それも「置こうね」といって。あとわずかだけども、現金を部屋においていたもんだから。そして「さあ行こう」とね。

坂上:それでふたりで夜行列車に乗って早朝に(信濃美術館に)着くんですよね。

水上:ええ。それこそ5時か6時かって時間で。それでその頃はやっぱりお金も……。

坂上:それはこのオープニングの日の朝に着いたんですか?(注:1969年8月8〜14日、「美術という幻想の終焉」、長野県信濃美術館。シンポジウムは8月10日1時開始、長野名店デパート2階ホール。講師:中原佑介、峯村敏明)

水上:ええ、そうです。オープニングの日じゃなくって、シンポジウムの日。

坂上:じゃあシンポジウムなら8月10日の朝に到着するんですね。

水上:ええ、そういうことですね。着くとまだ美術館は開いてないんです。そこが今も同じか知らんが、前の広い公園めいたほうから階段で上まで登っていくと2階が美術館になるんですね。で。階段で「しょうがないねえ」って言いながら。

坂上:まえにいっぱい(この時の)写真見せてもらったときに。

水上:なんかありましたか。

坂上:ふたりで何か。儀式みたいなことをやったりとか。

水上:ええ、ええ。そうです。儀式っていうか、やっぱりそれはおそらく阿蘇へも持っていったんだと思うんですが、これでもぽんぽんって音が出ますよね(音を鳴らす)。このくらいのもん、ちょんぎったこれくらいの筒、鼓がわりにして、「するねー」っていって。そうすると朝子がそこらで「体動かしてみるよー」ってね。そんなことを、階段ゆっくり上ったり下ったりね。そんな時期にはすでに関東系の、たとえば小杉というよりは風倉が、ゆったり動いたとかそういう過去の話を知ってるもんですから。スプーンを落としてまたゆっくり拾ってとかね。そんなこともあるけど、ゆっくりっていうのは、一歩一歩一つ一つ指先まで意識を届かしてからって、誰かがそんなことを書いてましたねえ。学者がね。精神統一の問題でもって。で、順番に通していくってね。そんなようなことを二人で読んだり話し合ったりしているもんだから、「じゃあ」ってね。そうやってやっぱし時間がたち。そうすると美術館の出品者らしい人がやってきて。どなたもほとんど存知上げないわけ。だけども、まあ会場へっていうから会場にあがって。そうするとあそこの上の方に喫茶室があってその外側が、もうすぐ野外になってしまうんだけど、ビルの上ですね。屋上っていうかその手前に喫茶室めいたものがあるんだけど。ここ面白いからここでしようって。例のパタンと倒れるといってべちゃってあるじゃないですか。人の姿を。それで線で描くわけ。それで終わったらその次って。そんなようなことをしながらそこでもまた楽しんだの。それは誰かに見せるとかそういう感じじゃなくて自分たちでするだけのこと。そうやってまあしているうちにだんだん時間がやってきてそしていろんな人が集まってくるわけね。シンポジウムでもって。

坂上:この展覧会は(シンポジウムの講師を)中原佑介と峯村さんがやってるんですね。

水上:ええ。その人たちを呼んだんですねえ。これはもちろん松澤さんの発想でもあるんだけど、実は……。

坂上:これ(展覧会)は誰の企画なんだろう。

水上:この辺になると松澤さんでしょう。それからその前に、諏訪から上田へ抜けていく間に丸子かな、そんな地域かあってそこに春原(すなはら)っていうやつ(春原敏之)が住んでいたんです、当時。彼、折々松澤先生のところとつながりあったし、(出品者の)杉村敏明っていうのが上田の方にいたのかな。そんな辺の関係で、ここらが松澤先生っていうか下諏訪の方に顔を出したりしながら相談にのっていったっていうのがあった(注:展覧会出品者は、臼田宏、杉村敏明、春原敏之、竹内茂理愛、竹田潔、福島晴彦、前山忠、松澤宥、森仁志、山崎秀人、狗巻賢二、成田克彦)。

坂上:じゃあすでに長野は長野で松澤さん周辺の……。

水上:そんなのがいるんですね。ええ、ええ。しいてグループっぽいことはされなかったと思うけども、珍しい人がおるんでそこを訪ねていこうじゃないかってね。そんなとこみたいですね。

坂上:それでまあ臼田宏。

水上:その人はもともと版画系のほうかそれらしい姿をするタブロー(注:平面作家の意、坂上)、この人は関わり持ったといっても直接系統のニルヴァーナ系ではないもんだから、僕あんまり存じ上げないんですよ。

坂上:狗巻さん入ってるのも不思議ですよね。

水上:だからそこにさあ、きっと中原さん。中原、峯村……。

坂上:そっか、そっか。誰か面白い人いないかなって(松澤が二人に)相談したんですかねえ。

水上:そうだと思います。

坂上:(二人を)講師として呼んでいて、企画者は松澤さんだけど、だって成田さんだってこの人もの派の炭の人じゃないですか。なんでだろうって。前山さんも。

水上:(GUNの)創立者のへんですよね。今東京でGUN(注:前山のグループ)の展覧会やってるでしょう(注:2009年4月6〜12日、「GUNの軌跡 新潟現代美術家集団GUN結成そして今」、トキアートスペース)。このときに僕は、ニルの前ですね、このわずか後くらいに前山、それからあのなんていったか、信濃川の石ころおくった堀川紀夫。

坂上:そういう人たちもシンポジウム来ていたんですか。

水上:来てたと思うよ。ただちょっとワンクッション、松澤さんのほうは松澤さん系統のもんで、「GUN」はがんとして自分たちのものがあるっていう感じだから。そう身軽に近寄りはしなかったですね。これに竹田潔なんかこの人なんかもかなり長くかかわりをもった人なんだけども。

坂上:この臼田さんって人、なんか聞いたことあると思ったら(ギャラリー)16でも展覧会やってるんですよ。「可能性の実験」展(注:1968年8月26日〜9月1日、「可能性の実験」、ギャラリー16。信濃橋画廊でも開催)とかにも出してるはずだし。それで松澤さんがこういうのやるからって言ってお誘いがきたんですか?水上さんに。

水上:いや、僕の方へは誘ってはきません。結局僕はパフォーマーだし行為表現はここには関わりもってないですね。誰も。だからまだまだ行為表現なんていうのはそんなふうに美術家がごちゃごちゃするような時期でもないし。

坂上:でもまあこういうのやるからって。

水上:そういうの面白いんで。旅先の一つで、回路まわって「そういう場所でもしようか」ってパートナーと話していて、「面白いから行こうね」といって行ったんですね。というのは、それほどたくさん旅はパートナーとはしていないもんだから。だからまあせめてせめてと思いながら動いていたんですね。

坂上:「美術という幻想の終焉」。

水上:この時期、すでにその美術作品云々の問題ともう少しもう少しで(注:この時期急速にいわゆる芸術が“概念芸術”と“ものの存在に依拠する芸術”とに別れていく。前者は言葉でもって、行為、最終的には紙一枚、何もかもなくしていく方向、後者はものに手をくわえずものをもののまま提示する、どちらも究極へとたどりつき、ものをつくること、手仕事がなくなっていく。手仕事がなくなっていくという討論もこのころ多くあった。坂上)っていうようなことを思っているもんだから。自分の行為表現っていうのは出ていって。

坂上:水上さん自身もそんなに作り手としてバンバンタブローとかつくってるわけじゃないけど。作品っていうのが小道具だけっていうか。

水上:小道具と名づけているわけで。ものを捨てていく辺で(自分が)駄目なのは紙切れにうずまっているっていう。本当にそう。そこら辺のあたりに関わってしまってっていうのは、やっぱり一方に法律なんてことをしてしまって。どこでどんなふうなことがどうやって展開して……みたいなことを意識範囲内の中に持っているもんだからついついいらない紙切れも(残してしまう)。そのときに、状況がどう動いたかってこともあるけど、自分の意識がどんなふうに動いていたかのための参考物になる可能性を(紙が)すごくもってるっていうふうな。

坂上:興味もってることが書いてあったりするわけですものね。

水上:そうですね、あれはふっと。別の解釈の仕方みたいなものがあそこにあるとすれば、そこら辺系統のが、前に「108セクション」と言っているのを差し上げたかどっかにありましたね。あの、ナンバーが001から……(注:汎儀レポート)

坂上:はい。

水上:あれをもうちょっとこういうふうに……つまりいたし方ないといえばいたし方なく名古屋に移っていったとき(注:1971年に仕事の都合で名古屋に転居)に、どうしようと思ってね。

坂上:これですね。「汎儀レポート」の。

水上:「汎儀レポート」の中に一つ。それが1年か1年半くらいかかって、一つずつ書き溜めていったの。108項目書いてあるんですね。「リポートアンドソウ」って冊子めいたもんの中に108入れていたんじゃないかと思います。

坂上:入っていました。

水上:それが(始めた当初は99のナンバーをつけていくつもりだったが)99じゃなくて(いつの間にか今は)108の煩悩数みたいなもんだから。とっくに99を超えて。

坂上:でも増えちゃって、(108でも収まらないから)仕方がないから枝(番)でって。

水上:枝番にしてるんですよね。でも。それからもう駄目と思って番号ついてないですけど(笑)。

坂上:「美術という幻想の終焉」。これ面白かったですか(注:くどいようだが、物質と観念が引き裂かれていく、その最後のぎりぎりで両方が共存していたおそらく一番最後の展覧会がこれであり、また一番最初の物質と観念とが分離しそれが半分意識的に表出された展覧会にもあたる)。

水上:あんまり。何かそれこそタイトルだけの問題であって。中身ねえ。それから話がやっぱり中原さんにされたって峯村さんにされたって……。

坂上:(1970年の)「人間と物質」に松澤さんも出してるからその関連で呼んだのかなというふうに。

水上:そうかもしれませんね。なんだかそうどきつくような話もなくて。つまりよく肩書きめいたふうに何々展に出したって話あるけど中身がなんだったかって思い出せないのってあるじゃないですか。そんな種(注:類の意、坂上)のことかなと思いますねえ。

坂上:(『機関』13号を読み上げて)「この展覧会に合流した水上旬は終わるやいなや諏訪の小生のところに立ち寄り直ちに来年京都で第二回観念美術展公募の計画はじめ。9月はじめにはニルヴァナという展名を打ち出す。最終美術という言葉も」。

水上:それはですね、帰るっていうと方向少し同じなんですね。長野から塩尻までね。そうこうしているうちに「そこまでご一緒に」ってしていたら、(松澤氏が)「よろしかったら僕のところに泊まりますか」ってね。そうするとこっちも旅先だから、まあ後は京都へ帰るだけのことだから、「お世話になってよろしいですか」って言ったら、「いいからいいから」って言うんで。そして晩方に下諏訪に着くんですね。そしてようやく(松澤氏の)奥様方それからお子様かな、と引き合わせてもらって。まだ小さいですね。それで列車で帰る途中でも、「こんなふうなプランが実はありましてねえ」って。「それは?」って言ったら、「すでにスケジュール呼びかけのそんなのはつくってあるんだ」って。「へえ」って。その折に、展覧会めいた関係をですね、つまりどんどん作品系統少なくしていく話。「その辺が成立するか」って松澤さんがおっしゃるわけですよ。僕は当然状況がどんどんとパフォーマンスやいろんなもん、それからものをなくしていく、いろんなもんものすごくある(注:状況として前述したとおり、ものをどんどん作らなくなる方向へ向かっている美術状況があったから、何もつくらなくなって観念だけで芸術が成立するかもしれない、の意、坂上)って感じだからそれへの可能性(紙一枚で、何もなくても芸術は成立する可能性)はものすごくあると感じた。僕は。そうすると「なんかスタートしますか」ってなった。はじめ京都でって話でてこないで、東京でって。そしたらそこら辺のことを検討されたらって。そこらで「やっぱりそういうふうにものがなくなっていくっていう意味合いでもって結局は“ニルヴァーナ”っていう言葉もありますね」、くらいのことを僕が言ったのかもしれません。

坂上:「ニルヴァーナ」という。9月はじめには「ニルヴァーナ」という展名が打ち出される。

水上:ああ、なるほど。その辺で結局考えていってそんなようなことで、そしておまけに東京じゃ貸してくれるような美術館類がないって。

坂上:「最終美術」ということばも出てくるって。

水上:そうですね。だからなんだかな。あの方もやっぱり自分でほら、ものを消すとかなんかってその辺の発想を一番はじめに公にされた方でしょ。で、なんか「最終美術」って意識もあるって。僕は最終って言いすぎだから、僕自身は「究極美術」って言葉を出したんだけど、それだとインパクトがないと思われたのかね。そして僕はぱっとはずしていって自分自身で究極の表現のほうだってそういうふうな名前を自分の方につけていったんだけど。そんなへんのあたりで、どこがどうどこがどうって僕が話したら、松澤さんが「京都に来る」って言われたときに、「近美の方に(展覧会開催の)交渉に行く」と言われた。「ちょっとそれは駄目じゃないか」。「あそこはそういう意味じゃ貸さないと思うけども」ってことを(こっちは)言ってね。(当時近美に勤めていた)乾さんとの関わりが松澤さんあったもんだから(1967年1月30日から2月5日にかけて京都のアヅマギャラリーで「9の無のカンヴァスと9のプサイの椅子と9の超未来的方法による松澤宥展V1010」の時に、乾さんの司会でシンポジウムが開催)。挨拶かたがた……っていうんで。僕はその辺だったら市立(美術館)のほうの平野重光氏(注:当時学芸員)といろんな話をするようになっていたもんだから、あそこなら貸してくれる可能性を持つと思ったんですよ。で、「そうした方に動くならまあどうぞ」って。でも乾さんとの関係でそれははっきりそうじゃない(展覧会はできない)って感触を受けた、と(松澤が言った)。「じゃあまあ平野さんに僕頼みますから」って。そして当時(市美)は中日(8月)15日が休みだったんですね。「だったらば最終日が休みの日にするってそういうプランはどうです?」って言ったら「そうしましょう」というので、結局は会期を12、13、14日というふうにして。そして(展覧会開催まで)1年足らずあるもんだから「そこらに何とか(展覧会期を)はめてもらえないか」と言ったら何とかオッケーになって。

坂上:結局(1970年)8月12日から3日間。会場スペースが讒言消滅するという形式の「ニルヴァーナ最終美術のために」を京都市美術館で開催。

水上:ええ。まず(初日に)2階全室を借りるんですね。そうしてその明くる日には2Fの半分にして、3日目にはその一室。入った右。

坂上:12日は2F全室で。

水上:2Fの半分。南側半分。それから一番手前に入った一室の方へ持ち込んでしまうんです。

坂上:最後消滅って。

水上:取り除けば、明くる日(15日)何もないと同時に休みの日だしってそんなような仕組みでいこうって段々なっていって。

坂上:(『機関』13号読み上げて)「会期中出品者参加者全員地獄谷不動尊本堂で合宿」。

水上:それは地獄谷っていうのが長野かなんかにあるもんだから。松澤さん書かれてるけど、実は地蔵谷ですよね。

坂上:そうですね。地蔵谷。

水上:比叡山の方に登っていく途中のね。

坂上:これなんか、ねえ地蔵谷のどこなのかなと思って。

水上:そこに地蔵谷温泉かなんかって。

坂上:あります(注:北白川地蔵谷不動尊ラジウム温泉)。

水上:ええ、あそこ。頼みにいって「その間ずっと貸していただけないか」って言ったら「そいじゃ一応そういうふうにする」と同時に横っちょにバンガローかそんなもんがあるんですよ。そこも全部押さえて。

坂上:出品者たくさんいたみたいですね。どっから集まってきたんですか。

水上:九州からも何人か。ていうのはほら、こう始まっていくふうになって。僕が1月に福岡に行くんですよ。それは何かっていうと、向こうで何かの関係の集会があるっていうのを連絡もらったもんだから。そこ参加するために「ちょっとお願いめいたことあるけどよろしいかね」ってなことを。

坂上:もうプレイを単独離籍したあとですよね。

水上:そうですね。二重三重にっていうのはおかしなことだと思うし。僕はこっちのニルのほうにはパフォーマンスコーナーをつくらないかって話もちらっとあった。僕はもうその時期すでにパフォーマンスかハプニング――ハプニングですね、名前は――と言いながら、ごちゃごちゃになっていってる感じしたから「それやめましょう」っていったんです。何でもありっぽくなるなって。「違うと思う」ってね。

坂上:結局ニルの展覧会ってどんなもんだったんですか?

水上:それはですね、ニルのときのざら版紙的なものに刷ったものがあるんですね。カタログ。綴じてませんよ。そんなふうなところが重なる感じなんですね。それはあなたまだお持ちじゃないんですね。

坂上:それは画廊(ギャラリー16にも)にもなかった。

水上:その当時はあれだから(16にも)一冊差し上げてるはずなんですが。でもどっか探し出すとそれがあるはずだから、見つけたらあなたのところに送ります。これが別個。

坂上:それがこれ(手元のチラシ)だったんですか。

水上:それのうちの一つ。で、これがおそらく全部の裏側に刷ってるんですね。ガリ版で。こっち側読みづらいのかな。そうか、これはそのうちの一つだけど依頼状みたいなもんだから、「夕日に向かって進んでいくバスのバックミラーを見る」って、ものすごいまた一つのディスカッションを持つんですよ。お日様が出てくる。それはもう一方で言うと、(水上が)映画を上映する場合に人のローブの上に映し背景になるってそんなようなものとの関係もあって。ゼロ次元の企画のシアター36のところでも映した。入り組んだような機械の動きが気になってそんなようなものだったり。今はちょっとどうしたのか忘れてますが、十数枚くらいはたしかあったはずなんです。大箱かなんかに入れてしまってるもんだから。残っているのはちょっとそれ(今は)取り出しづらいんですが。ニルヴァーナのところ。これ辞書引いただけですよ。これを貼っただけじゃないかな。

坂上:ニルヴァーナの展覧会にですか?

水上:ええ。

坂上:でもみんなそれぞれ、出品者たくさんいて。何か出してきて。

水上:文字系だったり、メッセージだったり。

坂上:紙ばかりですか。

水上:そうでもなかったですね。タブローみたいなもんとかちっちゃなオブジェとかそんな人もあって。その人にとっての削減していったときにそのところまでくらいな。それぞれが持っている美術の(かたち)。

坂上:その人なりの最終美術というのを出してきたと。

水上:そういうことですね。

坂上:それは最初は全室だったけど。減らしていくんですか?

水上:減らすというよりはそれをそのまま展示するんだけど最終だから、ごめんなさいっぽくなるわけだ(笑)。そんなうちのなかにオブジェクトというのよりは紙切れになってきたふうな人が何人かいるわけですね。そんな辺りの人たちと、そういう関係をもう少し維持っていうか追究していこうっていうのがニルヴァーナ・メンバーっていうふうになっていくんですね。

坂上:合宿ではどんなことをやったんですか?

水上:何かかんかするっていうよりはそこでもうなんていうんですか、あの折のテーマでもないけどいくつかあるもんだから、それについての話し合いをするんですね。ある程度1時間か2時間かしたらあとはお茶なりお酒なり飲みながら。その後の話をしていくそんなパターンですね。温泉らしい温泉でもないけどともかくお湯もあるもんだからちょっと浸かってくるとかですね。

坂上:ちょうど万博のときと重なってるというのもあるじゃないですか。万博のあり方と……。

水上:もうほとんど全員万博批判ですね。

坂上:反博っていうのはゼロが動いたけど、それとは違う形でニルヴァーナっていう……。

水上:つまり経済側面の方がどんどん巨大化していってその一つの姿が万博だってね。その折まで来るあたりでは万国博覧会っていう意識の方が強いんですね。だけどもう一方の本体は見本市なんです。(万博なんて)そんな名前つけるなっていうようなもんで。そこでもいろんな問題も出てきた。長野や奥の方から来る人が名古屋付近を通って……そして京都っていうのは煤煙の多いところを通りながら来るんですね。そうするともう大幅に空気の状況が違う、実感として。それわかるわけですね。朝きれいなところ出て列車に乗ってはっと気づいたらトンネル越えて町自体がグレーっぽくなってる。僕はそこは「スモッグばりだね」って言っていたんだけど、その前後辺ですぐ横っちょの四日市とかものすごい煙関係の問題が起こっていたんですね、

坂上:このニルヴァーナはすぐ終わっちゃうんですね。

水上:それだけで終わっちゃうんだ。機関誌みたいなことをして集まりっていうか相互の意識をもうちょっと展開していく方がいいんじゃないかというので、集会を何度かもちました。はじめの辺は諏訪でしたのかな。する前にね。諏訪には金子昭二さんって人がおられて。もう一人飯山の方へ戻っていかれる小林起一さんって方がおられて。それでまあしていくわけだけども。小林さんは「退化の宴」っていうのでもってどんどん。金子昭二さんはニル系でもなくなっていくんですね。あの辺にも古い踊りやそんなものがあってそれを自らしていくとか。というか地域民法にニューギニアかどっかのほうの人と関わりもっていって。その人のところに行ったり、その人たち家族を自分たちのところに呼んだりとか。そんなようなことかな。つまりやっぱり金子さんは上諏訪の宮にとっても近いんですね、お住まいが。そのあたりで上諏訪のっていうか諏訪神社でもって諏訪信仰の意識を強くもっていらっしゃるんですね。

坂上:松澤さんも……。

水上:一番始めの「オブジェを消せ」かなんかの関係で出されたの、結局言語というわけじゃないけど、図形ですよね。図形というか、よくこんなふうにして引いちゃう丸っぽかったりね。だからそこらかな。(松澤さんは)フルブライトの留学生で招待留学かなんかするんですよね、初期に(注:1955年〜57年にかけて)。そこら辺前後でそんなこともしつつ。それからなんだか若いというか中学とか高校からそこら辺からいろんなことしておられたみたいで。はじめは詩を書いておられたと。早稲田にいって卒業したけど「建築家にならねえ」って言っていたら、みんなに変な顔をされたとかね。

坂上:松澤さんに会ったときはシンパシーを感じたから一緒にいたんですか?

水上:そうですね。やっぱしなんか本当は孤高とかいう方じゃないんだけどね、あの方は。でもやっぱりふとみるとそういう感じもするわけで。

坂上:飛びぬけて一人年上っていうのもある。

水上:それもそうかもしれませんね。

坂上:ビジュアル的に。他が若くて年取ってると。

水上:それもあると思いますし、それから僕はある時期に西脇順三郎の詩、ヨーロッパ的というかそこら辺のところ気がかりになっていた時期ってあったもんだから。そしたら今度は瀧口さん―松澤さんってつながり。だけどそのうち死ぬんですね。そういうこともありますね。でも今思えばなんだかそれこそ今も幼いけどその頃も(自分は)幼いですねえ。どうなんだろう。松澤さんを知りながらもう一方はなかなかそこにたどり着かないんだけども仙台の方におられる糸井貫二さんとの。

坂上:ダダカンさんと松澤さんはなんかそんな関連とかありました? 年も近いけどないですよね。そんなことないですか。

水上:ええないと思います。ただ異端者というニュアンスでもってそれぞれおられると。僕そこはわかんないんだけども、松澤さんはダダカンさんと会うなりなんなりされたことがあるのかどうか。ないんじゃないような気もします。

坂上:水上さんはダダカンさん、みんな反芸術の人はダダカンさんと交流があったりとか、あの時代の人はみんなダダカンダダカンっていうけど。

水上:ないような気もしますね。僕もねえ。

坂上:かなりそれって(お互いに)意識してたんじゃないかって。だってダダカンさんだってアンパン出してるし。松澤さんと同じように。それでものすごい反抗意識みたいなものをダダカンさんは出しているわけじゃないですか。

水上:そうですね。そこらでへんてこなるもんなら自ら身引くみたいな意識がダダカンさんにはあるんですね。

坂上:でもとっぴな二人といえばこの二人だし、お互いに知りえないわけはないなというのがあるなと思っていたけど。

水上:どうなのかな。人数がまだ少ないもんだから、案外会う会わないはともかく、そういう人がいるっていうのはそれぞれが比較的近くいたんですね。(お互いを簡単に知りえるような)時期だろうなと思うんです。今だとほら、たとえば暗黒舞踏なら暗黒舞踏をどうこうっていうと、まあまあ人によっては知らない。でも当時はすごくよくあの人たち(は知られていて)、なんだかそれこそ知らないうちに土方氏と会わせようみたいなことをおっしゃったりとかね、そこらも不思議ですね(注:つまりこの頃は互いの距離が近くて、何か自分と似たような行動をしていたらすぐに知りえる関係にむすびついていった時代であった)。

坂上:シンポジウムがニルヴァーナのときにあったみたいで、(シンポジウム報告者が)山崎秀人、金坂健二、河口龍夫、山内重太郎、尾花茂春、松澤宥。

水上:それはですね、たしかその山の中じゃなくてどっかホールを借りてやったのでは……。

坂上:ラジウム温泉。

水上:そうですか、やっぱりあそこ。そうですか。それもなんか忘れて、あのときどっちかというと中身のこともあるけど事務の関係でものすごいごちゃごちゃしてたりして。そしてもう一つはニルヴァーナの図録ですね。それが要るからっていうのでガリ版刷りだったら出せるからっていうので。ケースバイケースだけどもかなりの分は――当時は蝋紙だけじゃなくて青色のものも出ていましたからね。鉄筆じゃなくてボールペンでもできると。そんな種(注:類の意)のもの、それからもう一つは印刷をするのに、これじゃとてもじゃないけどやってられないんで手回し輪転機めいたものを買いました。

坂上:池水さんが、水上さんは仕事の関係で印刷機を持っていたから彼が結構印刷したりしていたって。

水上:ええ。それは印刷機といってもそれはもうちょっとあとでね、はじめはやっぱりガリ版刷りなんですよ。印刷機自体のほうは、もう少しあとにリコピーといってる簡易オフを比較的ましな値段で出すって。

坂上:ゼロックス?

水上:ゼロックスじゃなくて印刷機です。この手のね。それは名古屋に移ってからやっぱり要るなと思って買ったわけ。ニルヴァーナの終わりころに「そんなのが要るから何とか共同出資でしないか」といったけど誰も乗らなかったですね。「しょーがねーな」と思って月賦買いをしました。もうそれ使ってないんだけどね。だいぶ使いましたね。ものによっては原版を、原紙をつくる機械があるんですよ。そいつでもって印刷版にして刷りました。始めの方の第9回までの表紙印刷は制作から僕がしてるんです。それかなり遊びました。でもやっぱり同じようにはいかないわけだからどれも一つずつずれたりしてね。ずれたりしてもかまわない構造にしてますから。色印刷なりケント紙の色ケントに刷ってみたりとかかなりいろんなのをしました。「自分用じゃなくて、関係のものでそんなの作りたいけどどう?」って。「じゃあこんなふうなアイデア盛り込むけどそれでどう?」「OK」とか。そうやってだいぶそれこそさっきの紙の山っていうか、試し刷りの紙があってそんなのあるとき使ったことがあったかな。それこそ同じものはないわけで。しかも意図的に試し刷りっぽいことを同じ紙でやってるもんだから。

坂上:「ニルヴァーナ」はそれでやって。次の年(1971年)に今度は「音会(おんえ)」ってあって(注:1971年7月10〜11日)。

水上:それは松澤さんの持ち山でね、そこに瞑想台って名前のね。

坂上:(『機関』13号読み上げて)「ちょうど71年の7月7日よりニルヴァーナ同士7人8人9人と毎日瞑想台建立に協力。10日に屋根のかやぶきにより完成。ただちに音会に入る」。これやっぱり水上さんも行って一緒に……。

水上:手伝いは僕もこっちにいていろんなことがあるもんだからようしなかった。ただその「音会」がスタートするってときにそこへ向かいました。その間にこんなふうなところにこうするんだよって山の関係、松澤さんのところを訪ねたおりに、そのときは美学校ってところに行ってるんですよ(注:1970年4月〜1973年3月まで美学校講師)。

坂上:なんで美学校で教えることになったんですか。

水上:それはですね……。

坂上:今泉(省彦)さんの?

水上:今泉さんじゃなくて川仁宏さんって人がそこにいたのね。もう亡くなったんだけど。川仁さんかな? ごめんやっぱり今泉さんだ。さっき(「ニルヴァーナ」開催のために松澤氏が)近美の方に交渉に行ったというね。そのときに実は今泉さんと松澤さん二人で来たわけ。それ何かっていうのは、なんて言ったかな、伏見の方に住んでいて、ごめんね……えっとお絵かきもするような人でもって詩をかいたり絵も書いたりするって。そこに住んで結局いわばホモのじいちゃんなんだけどなんて言ったかなごめん。今の現代思潮社からその人の全集が出てる。なんて言ったかなごめん。そのうち思い出します(注:稲垣足穂)。その人の本を出すって関係の相談兼ねて今泉さんが京都に来るわけ。そのときに重なっているのは向こうの、つまり現代思潮社の塾っていいますかね、美学校を立ち上げているんだけども。第一回目は赤瀬川原平らとか高松次郎かな。ハイレッドのうち二人がそこに関わってるんですね。三人。高松次郎は高松塾って自分のところでしてるから美学校じゃないんだけどもそれとほら、菊畑茂久馬とか中村宏とか何人かね、あの人たちの辺の何人かでもって。中村宏それから赤瀬川原平、松澤宥の三人でごちゃごちゃの講義をするっていうのそんなふうなことを最初の年にしたんですよね、69年。それあんまりうまくいかなかったって、最初についた先生がいってしまうから、あかんわって話で。今度それぞれ分類してしまうと。ただし松澤さんも諏訪の方で高校の先生やってるわけで、夜間だけども。だから「毎週毎週っていうのは厳しいからそこの半分(の授業)を(水上が)してくれないか」と。僕はその折に「言語派」といわれるパフォーマーっていうかハプナーですから「その辺について話せ」って言うから、ハプニングスとかそこら辺の話はいらなくなってしまうんだ。「わずか数項目でこいつは済むんだから、後は人生話のほうにいきますから」って言ったら、「わかりました。そしたらもう一つの方法を考える」って言って、「図書分類っぽく自然科学から何学何学って年間どうだろうね」「そうですね」2週間一単位にするもんだから結局15か20かそこらの項目をつくって、それについての話をすると同時に生徒諸氏にもそれ関係の本をざっと出すから、それ以外でもいいからそれ一冊読んで心理学なら心理学って。授業っていうのは午後1時から晩の9時まで。そのパターンは始めに話したときに決めていったのは、午後から夕方までは講義時間で、その晩の方はその具体的な作業なりなんなりあるいはその作業をしていくってね。だから音楽っていうものがあったとしたら、僕はジャズ話とかいろんなことするわけだけども、他にも現代音楽の話とかね。で、晩方は竹でつくる音の道具ってね、一番簡単だから「たとえば笛というものがあると。笛っていうのは横笛もあるし縦笛もあると。縦笛というのはいわゆるこれじゃなくて尺八のことだ」って。そんなふうなことです。弦楽器になるともうちょっと面倒くさくなるもんだからそんな話をしつつ。だから「次は竹の棒をどっかからもってくるなりなんなりしてください」ってね。そしているもんっていうのはただの切り出し一つで済みますからね。だからたとえばそんなふうなことで、そして、一年目になぜか二回目かな、僕が二回目くらいのときにそのうちの生徒が「酒買ってきたー」って。「そんじゃそうしましょう」って。次から毎回講義時間は酒だめ。ただし夕食に行ったときに酒買ってくるって。それにまかせっきりじゃいけないから毎回1000円か2000円かくらいを渡してね、そんなふうでしたね。

坂上:じゃあ(講義は)松澤さんと半分半分だったんですね。

水上:そう。半分半分だった。そのときにどっちが何を話すっていうのもあったけど、僕が(松澤に)「毎回そのときの系統(授業)のことをちょっとメモっていうかそういうものを書いてくれ。そしたらそいつを起こしなりなんなりしてそして自分の京都の方のガリ版の輪転機でつくったそれ(に印刷して)その次にみんなに渡す」ってね。2週間に一辺ずつ渡すって。松澤さんに「そういうことでの一つの節目をつけたらどうか」って言ったら「それよろしいな」って言うから、「はいはい」ってね。そんなふうなこと。大体は京都へ帰るときに、松澤先生のところに夜行で深夜の5時くらいに下諏訪に着くんですね。おりて向こうに着くか、逆に京都出て松澤さんとこに泊めてもらってそしてその明くる日に……その方が楽なんだけど新宿経由で美学校出るってそんなことをしてました。その話をさっき言っていた(1969年)9月かな、そのときにこられた折に今泉さんがもってきたんですよ。「即答というふうなことはしなくてもいいから」って言うから、「じゃあ2〜3日考えさせてください」って。その日松澤さん泊まったのかちょっと忘れたんだけど、そこで別れるときに「受けますからどうぞよろしくお願いします」って。ちょうど「ニルヴァーナ」の関係の話と両方していけるもんだから、「都合もいいですね」ってそんなことですね。急速に松澤さんの考えとかいろんなことをその時期に一応はアシスタントだけど講義をすることはできないけどもだいぶ奥深くまで松澤さんに話聞きました。もうメモしないし頭にそのまま入れていたから、ある状態の方へ頭がかかってしまったっていうか何があったかもう忘れてます。

坂上:いつも最終芸術の話とかそんなだったんですか。

水上:そうですね。美学校での講座名が「最終美術志向工房」かなんかそんな名前がついているんじゃないですか? そうこうしながらだんだん「ニルヴァーナ」の方への動きはもうすでに出ていて関東っていうか東京に出るときについでがあるからってそこへその辺の関係もつかってそんなことがありましたね。

坂上:ちょっとだけ話もどると、「音会」やったじゃないですか、松澤さんの瞑想台。水上さんは入らないけどあの辺の人たちでつくって、

水上:つくり手伝いはしなかったけども、結局現場へこっちもいくわけですよね。

坂上:現場にいったその晩から、その日から音会に入るって(『機関』13号に)書いてある。

水上:ええ。

坂上:それはどんな音会だったんですか?

水上:音会っていうのはそれぞれみんなが音道具を持ってくるとかあるいは舞踊というか踊りですねをそこでする人もいたし、中には誰だったか忘れたけれどもあれ誰かやっていたか、土に穴ぼこ掘ってその中に全部入ってしまうって。ここ(口)だけ出してね。で、ちょっと危なくなった人もいましたね(注:古沢宅の肉体によるパフォーマンス。このときの模様はかわなかのぶひろが映像に収めている)。

坂上:水上さんは?

水上:僕はそのときは、石笛って石の笛ですね、持っていったのかな? どっかで見つけたかなんか、そいつをそこで吹くっていうね。でもそれメロディらしいものは出ないどころか出しもしないもんだから。ぎーっていう音がしばらく出るだけでね。あとは紐めいたもんも実はもっていったんですね。だけどそのところに上っていく通常の道じゃない、裏から入り込んでいく道を始め松澤さんに「ここら辺につくるよ」って言われて連れてもらったところが、さっき話した古い言われのある社で、そこのところにあるとき寄ったのかな、「音会」のときかなあ、そうですね。そのときの写真、フィルムがどっかに探せばあるんだけどももうすでにそんな時期から多重露出(の作品)をやっていたもんですからね。だからそれがよくわからん、ある種の心霊写真でもそんな像が出ている写真もあるんです。そいつは現物としてはもっとあとに、松澤さんがサンパウロ・ビエンナーレかなんかに呼ばれたとき(注:1977年)に(松澤が)ニルヴァーナ系の連中に「一枚くらいものを出してくれ」と言われて僕も出したけどね。それ松澤さんのところから戻ってこなかったけども。多重とか何でも重ねていくっていうのは、たとえば音声テープで言えば、磁気を消す行為。普通は消しながら録音していくんだけど、そこの部分を外してしまうと(音が)多重になって(録音されて)いくんですね。

坂上:前に多重のやつ(写真)見せてもらいました。

水上:映像ですか。それもあるし音声も多重とかね。いくつも重ねていくとか消していくとか、最終的には意識の断食に持ち込むんだけど。具体的なところで言うと白い断食と黒い断食ってね。白色断食黒色断食というものがあると言えると。それはどんなことかというと、いろんなもんどんどん重ねていってしまう。そこで中身はわかんなくなっていくって。もう一方は消しゴムで消していくとそこら辺の単純な名前づけです(笑)。

坂上:それは水上さん命名で?

水上:ええ。

坂上:関係ないけど音会は(参加者は)田中孝道、水上旬、春原敏之、金子昭二、藤原和通、宿沢育夫……。

水上:宿沢育夫っていうのは、いまほら、あそこにいる山本育夫。

坂上:え?あの人山梨の人?え?

水上:(雑誌の)『ドーム』を作ったりとか。

坂上:山梨県立美術館?

水上:前いてね。そこやめて今度は大門かなんかにある和紙会社のところで。僕あの時期ふと思ってやめたんだけど、あそこにパソコン雑誌かなんか初期に出し始めるのね。そのチームがあるんじゃないですか。結婚した相手がつまり彼は婿入りしたわけ。

坂上:それで苗字が変わったんだ。

水上:宿沢から山本へね。

坂上:ええ。そんなの聞かないとわからないですね。じゃあ私がこれから名前言っていくなかで言われのある人がいたら教えてください。

坂上:田中三蔵。それは朝日だもんね。

水上:それは何かっていうとね、あの、田中三蔵が1〜2年遅れかなんかで東京芸大出るわけですよ。朝日へまず入るんだけどそれからドサまわりさせられて、神戸から四国、神戸戻って大阪それから東京。早く戻りましたね。数年か後だけども。そこらでやっぱし美術のあたりでどんどんどんどん朝日の中で力を持っていくんですね。

坂上:三船健吉。

水上:三船健吉っていうのはえっと、庭園師っていうか造園師。

坂上:赤土類ってこの間もなんかやってましたね。

水上:赤土類は3人ね。舞踏チームをもっていて(注:パーリニヴァーナ・パーリヤーヤ体。松澤の命名)。3人で「ニルヴァーナ」に関わってくるんです。辻村(和子)ともう一人なんとかってね(注:鈴木裕子)。そこら辺での関わりは結局土方氏につくんじゃなくて、「駒場アンソロジー」していた邦千谷さん。

坂上:あります。(邦千谷)舞踊研究所みたいなの。

水上:ええ、あの人との結局その後だんだん共同者になっていくんですけどね。それからちょっと僕邦さんのところへ関わっていろんな関連含めてのこのくらいの冊子が出てるの(注:『凛として花として』アトリエサード、2008年)。

坂上:いろんなことやってますよね。

水上:ええ、ええ。古いんです。だからあれはあんまり関係ないのかな。もしもそんなふうなものも必要なら僕それ取り寄せて送りますよ。

坂上:ちょっと気になる。もしあったら。

水上:あります。多分。赤土類が結局「どうしてもしとかないと」っていうふうにして去年かな。そこに彦坂あたりもそこに関わって。駒場アンソロジー。東京にいる関係のあの人この人っぽくね。

坂上:で、水上さんたちも邦千谷さんのところで「16人のステートメント」(注:1972年10月開催の展覧会。ギャラリー16と邦千谷舞踊研究所)やりませんでしたか?あれ水上さん入っていなかったかな?

水上:あれは僕入っていないと思いますよ。あの、関東系の段階でこちらは関西だしっていうんで、いくつかね、関わりをもたなかったか、もてなかったか、あるいはまあやらなかった。そんなこともありますね。でも邦さんの方はかなりどっかこっかから情報がはいってきて、ただしこちらはそんな立場でもないしね。邦さんとはっきり知るのが「アーティストユニオン」っていうのがその後にあるんです。

坂上:嶋本(昭三)。

水上:あっちで言えばね。だけどユニオン自体は、読売アンパンっていうのが(1963年に)終わったでしょ。さっきの岐阜アンパン(1965年)の前に。それからその10年経ったかなんかで、再度その10周年記念展かなんかをやろうかという話が出てきた。で、そこらを誰が言い出したかというと、吉村益信というホワイトハウスっていうの昔持っていた。

坂上:磯崎新が(ホワイトハウスを設計した)。

水上:磯崎氏とかそこらへんの関連者もあるわけで。それらしい雰囲気でもって「何かを再度してみようかしらん」っていうんで、そんなようなことが向こうはどう勘違いしたか、僕は読売アンパンは一切出してないんだけどね。どっちでもいいんだけど、そんなような話がこっちにもくるわけ。「それ面白いから」と言ってるうちに展覧会あるならどうしても参加したいと思ったらそうじゃなくって、その辺の芸術関係のネットワークの方へって。それがアーティストユニオンって名前でいくってことになったから、それはまたおもしろいからって。美学校への関連もあるもんですからね。だからそんなことで関わりができていったのかな。それでしましょうってね。東京集会みたいなことがあったり、そこへ出かけていってそのときに邦さんと初めて知るわけね。名前は存じ上げてたわけだけど。邦さんも最終メンバーではなかったかもしれないけど、そこへやっぱりそういうものがあるからって顔出しされたんですね。で、そのときに赤土類が僕に邦さんを紹介してくれたんです。

坂上:じゃあもうこのときはまだ、赤土さんはいる。でも邦さんを知るのは、邦千谷舞踊研究所でいろんなことがあった、その後くらいになってからですね。

水上:そうですね。存じ上げるのは。それからだんだんしていくと、なんかある段階じゃ暗黒舞踏の関連もあり。横浜の大野一雄との関係もあったり。だからどっちが先生だったか生徒だかそんな時期もあったりして。そこからそうこうしてる辺のときにもうひとり下の美学校の関係で笠井叡って男が表にでてくるんですね。田中泯はもっと後だからね。でまあ、なんかのときに美学校かなんかで笠井叡氏とも話をして、どんなふうふうな展開みたいなことをそのとき少し聞かせてもらいました。こっちはパフォーマーだから。そんなへん。でもまあそれ覚えておきます。邦千谷さんの。

坂上:あとクスノタカオ、田中広行、ヨシダヨシエ。ヨシダヨシエさんは水上さんの紹介文を『美術手帖』にも書いてますんで。

水上:そうですね。あの人はもう一方、そのときは三悪人と言っている針生先生とか東野さん中原佑介そこから一歩離れていったっていうかもう一方に別個存在としてヨシダさんはおられたわけですね。

坂上:ヨシダさんはどう思いますか?

水上:そうですね。

坂上:ヨシダさんはいつも人のうちに泊まりこんでって話を(聞いて取材していたと聞いたことがある)。

水上:そこら中をよく回り歩いておられましたね。そんなところで、しかもかなり気さくな感じがするって応対を、そんな感じで覚えていたもんだから。ただし何ですか。いろんなところに書く場所はお持ちだけども、さっき言った三悪人ほどの機会はないということ。ただし現場をよく見てるってね。するとそこら辺すっと重なってくるのは瀧口先生が現場をよく見ておられたんですね。そんなふうな辺なのかな。『美術手帖』とあと昔あった『美術ジャーナル』って週刊誌綴じ(注:実際は月刊)みたいなのあったでしょ。当時の初期の『美術ジャーナル』がいろんなところ扱ってましたね。

坂上:地方のちっちゃなアンデパンダンとかもよくやってましたね。

水上:あの辺の感覚っぽい側の方に。位置づけとして僕はもってましたね。

坂上:小林起一、羽永光利、長谷川真紀男、古沢宅、辻村和子。

水上:それがさっきの三人のひとりで。

坂上:鈴木裕子、赤土克子。奥さんなんですかね。

水上:ちょっとわからないです。

坂上:河津紘。飯村隆彦、飯村和子。前田常作。池田龍雄、栗山邦正、かわなかのぶひろ。楠野裕治、上原剛、小林啓一、岩崎洋二、いとう・せいぶん、西村義百利。

水上:西村っていうのは向こうの“山博士”って言ってる左官屋さんなんです。いや、まだ存命中だけども、結局諏訪祭りって御柱みたいなのがあるあれのリーダーシップを持ったりすることもある人ですね。下諏訪の人だと。

坂上:まあそれに松澤さん。後身に瀧口修造、日向あき子、風倉匠、青木靖恭。

水上:その人(青木靖恭)松澤さんのまあ昔からの友達でもって詩人ですね。学校の先生やっておられたですね。松澤さんも学校の先生ですが。

坂上:そこで「音会」をやったあとに、(1971年)7月18日新宿セバスチャンにて「パーリニヴァーナ・パーリヤーヤ体の発表会」。

水上:それがさっきの赤土類たちの松澤さんがつけた名前です。

坂上:そっかそっかそっか。(『機関』13号を読み上げて)「そのときに私の東欧送会を行う」。これ、水上さんも行ってますね。写真撮ってるじゃないですか、行くときに。「壮行会夜行アルプスにて田中孝道と白猫黒猫(わが家の猫族の祖先)をたずさえて帰諏。28日午前3時長野。新潟経由にて東欧の旅に立つ。29日に水上旬の赤い組紐儀をもって彼の汎儀に送られて新潟港出航」。

水上:「渡してくれ」って言ったのに何にもしないで持って帰ったのね、松澤さん。あのね、組み紐って前お見せしたことあるのかな。こんなもんです、丸くなって輪になってこんな程度のもの。赤い糸だったか紐なんかで9本つくったわけ。そいつのとこに通してもう一つ太いものを渡して(組みひもつくるジェスチャー)。「太い方は(日本に)持って帰って、細い方は旅先旅先で木に結びつけるなり、人にあげてほしい」って渡したわけだ。ところがどっこい全部持って帰ってきたわけだ。そのときに上の何とかさんってお嬢さんがご一緒でね。写真お見せしたことあったかな。

坂上:そうですね。

水上:その折に話したと思うんですけども。(新潟港から出発する前に)始めは堀川紀夫のところへ寄るわけ。

坂上:新潟からだから。

水上:新潟の手前の上越のところから入るんだけど。(行くって)連絡入れてなかったもんだから彼は赴任先みたいなもんだから、留守でいなくて。タクシー待たせたままちょっとそのあたり見て、それからすぐもう新潟へ、上越から行ったわけだ。今度は、松澤さんを明くる日の昼間に船出を送ってその日の晩は川岸かなんかのところで寝転んで、そして明くる朝今度は仙台のダダカンさん訪ねるわけ。それが具体的にはっきり……。

坂上:水上さんは仙台まで行くんですか。汽車で?

水上:僕はもうどのラインを通ったか忘れてしまってるの。

坂上:私も聞いてもわからないけど、東京通るんですか?

水上:いや、通らないです。だから弘前っていうかそっち側の日本海側の途中から山形かなんかから入り込んでいく列車があるんですよ。

坂上:在来で全部乗りつぎ乗りつぎって……。

水上:そんなふうな鈍行で時期に応じてラインがあったりなかったりしてしまうでしょ、JRはね、っていうか国鉄。で、当時はあったもので、長町っていうか仙台市の一つ手前の駅だけどね。そこで降りて、朝に電話番号は知らないもんだからそのときに電報を打つんです。本日午後何時頃ってね。

坂上:(ダダカンが住んでいるのは)太子堂とかいうところですよね。

水上:ええ。でも太子堂って東京にもあるんでしょ?そんなとこにあの人いたっていうんですね。なぜかへんてこな関係なんだけど。まあまあそんなふうなことでもって訪ねていって、もしも素っ裸になれっていうんだったら、指示がきたらこっちも裸になるけどなってこっちもその覚悟はしてるわけだけども(笑)。

坂上:朝子さんも一緒ですか。

水上:いやいやあのね、ほら、当時もだけども一緒に動くだけの経費持ってないんですよ。だから一人で行くわけ。もう一つは知る以前に在学中っていうかそこらから一人歩きをやっていたでしょ。

坂上:あと子供も生まれたりとかいろいろ。

水上:まだそのときはチビ。あ、71年の初めに上の子がやってきたわけだ。だからそんなふうなもんだから、そのこともありましたね。朝子は京都に実家があるもんだからそのとき「お家へ帰っていればいい」って言って帰ってたんだけどね。そうやってして、ダダカンさんのところに行って一泊していろんな話を聞かせてもらったり。

坂上:ダダカンさんとはいつ知り合ったんですか?

水上:あのねえ、あの方の姿を見てるのは何度かあるんだけども、そこでお話をどうこうするってこともしなくって、そしてまあ文通友達ぽいんですね。それ出すのおそらく67〜8年じゃないかと思いますね。そこらへんの文通っていろんな人に、なんていうか年賀状に版画使ったりして折々送ったりしていたもんだから、その友達って意味で、メールアートにもあまり抵抗感無しにはいっていけたし。そんなニュアンスとちょっと似ていて、ダダカンさんに手紙を。なぜかダダカンさんの住所がどっかからまわってきてわかったもんだから。でもダダカンさんの仕事知ってるのは、さっき話したラウンド系の仕事したゼロ次元の第一回見本市のときに(注:1964年8月)あの人も作品出していたわけです。そこには来られなかったけど。あ、来られていたかも、わからない(注:来ていない)。それがとってもかわいいもので、真綿かなんかでつくった桃っていうか女の人のお尻とおいどだって言っていてね、ものすごくかわいかったんだけどね。どこへ消えたのかなあれ。

坂上:誰かの本でダダカンさんが水上さんにお金を送って水上さんが焼いちゃったみたいな(注:書いてあったのは、赤瀬川原平『反芸術アンパン』。「株券といえば、これはアンデパンダンではないが、美術家水上旬のところに糸井貫二から一万円札五枚を半分燃やしたものが作品として送られて来たという。当時の糸井の生活費の何倍かである。水上はそれを手にしてゾッとした、という話を聞いた。その「ゾッ」というのは、芸術をはるかに超えてしまったところの、しかも超えながら芸術のまったくの中心点に刺さるところの「ゾッ」であろう」)。

水上:それじゃないですよ。ある年に、5万円分の半分なんだけどね、はたしてどう焼いたのかわからない。ただしそのときはきれいになっていて、丁寧に包んであるんですよ。

坂上:それがある日ダダカンさんから送られてきたと。

水上:なんかそれは何だろうか。と言っても2万5千円って値段じゃないんじゃない? アートワークスというふうにとったらちょっとものすごい値段で、どう返していいのかわからないくらいのもんだけどね。それがいろんな話を聞くと、なんかダダカンさんって存在を兄弟の姪か甥かの結婚式に持っていったと。ところが何かそれを受け取らなかったって話が正しいっぽいかな。何かよくわからない。

坂上:そうそうそう。娘の結婚式か息子の結婚式かそんなんだったと思います。それでダダカンさんが5万円を包んだんだけど、つき返されたか(注:このあたりはうろ覚え)。

水上:そうするとその5万円の半分半分、誰か別の人がそれ持ってるんですか?それがどこへ今きちんと、と思ってどこに置いてしまったのかわからなくなってるんだけどね。でもまあさっきの紙束の山か。ダダカンさんのもう一つはね、折々手紙を下さったわけですよ。

坂上:この間もラジオのお姉さんに(送ったものを見た)。

水上:中には転送してくれってそういうふうな注意書きのもあったんだけど、全部転送しないでとめてしまって。悪いけど。

坂上:ああ、それがラジオ局のおねえさんの。

水上:たとえばあれですね。そうですね。たとえばおそらく全部集めればこの箱(ダンボール)いっぱいは超えてしまうんじゃないですか(笑)本当に。

坂上:それって全部エッチなもんばっかりなんですか?

水上:あの例の赤ちんぽこちゃんとか。それのしてあるものもあるし、全然そういうこともしていないのもあるし。

坂上:普通のもあるんですか?

水上:まあまあ普通っぽいっていうかあの方やっぱりあの方流のなんていいますか、恐怖みたいなものを折々されるもんだから、そういうものが一行書いてあったりね。こっちもふと思うと、いいのかなと思いながらひょいひょいと書いてね。そうしてそこに挿絵でもなんかそういうの入れて、あそこへ送るわけで。でもそれはダダカンさんところに止まらずに別の方へまたそこから順番に動いているかもしれません。というのはそういう手紙も折々来ましたから。ちょっと細工がしてあって。で、その辺で、ダダカンさんとのかかわりでもう一つ、中島由夫っていうのがいるんですよ。

坂上:スウェーデンかなんか。

水上:ええ、向こうの方へ行ってしまって。いま息子さんも大きくなられて。そこら辺の関係みたいなものもなんかあるのかな(注:1960年代前半京都でもアンビートの中島由夫の行為が行われていて、ダダカンも参加していた)。だから中島由夫はダダカンダダカンって言いながら、いろんなことを話したりいろいろしておられたみたいですけどね。でもそこらのひっかかりはゼロ次元の狂気見本市の第一回でその話していくんですね。

坂上:その頃に知り合った可能性高いのか。

水上:かもしれません。

坂上:松澤さんともずっと続いて行くような感じですもんね。

水上:ニルヴァーナ展から以降、一年先に京都ビエンナーレが集団による展覧会っていうのをやるんですね(注:1973年8月10日〜19日「1973京都ビエンナーレ−集団による美術−」出品グループ:ニルヴァーナ、知ってる人+知ってる人+知ってる人、5人組+5人、神戸ジャパンゼロ、ザ・プレイ)。

坂上:73年か。そのときに「ニルヴァーナ」も出してますね。

水上:そのときに「集団として「ニルヴァーナ」を指定するけどどんなふうにいけるかな」ってのを平野さんから言われて、「ありがとうございます、ただ今までの関連で……(注:展覧会内容としては、最終美術思考について参加者それぞれが考えていることを知らせる内容の紙ものだけで立体物なし。紙も寸法30×40センチ。その中に入るもの。)

坂上:あれは平野さんが5つのグループを選んだんですか? たとえばプレイとニルヴァーナと5人組みとか。神戸ゼロとか。

水上:その辺の状況を見ながら、もちろん他の人も意見出しただろうけど、結局は代表責任は平野さんですね。

坂上:一番良く知ってそうですよね。

水上:そうですね。あの人は昔のこと話す気になってくれるともうちょっとね、わかるんだけど(以下省略)。

水上:(プレイの本にプレイのハプニングの)ほとんどは載ってるわけでしょ。僕たちが、僕と三喜がしたようなのはあまり入っていないけど。

坂上:あんまり入っていないけどそれ以外は入ってます。ただそれ以外はアースワークの流れ的な捉え方ができるというふうな本作りかな。そんな感じ。儀式っぽい打ち出し方と、さっきの話でもろうそくたらしとかそういうのは載ってないですね。ヒッピーっぽい三喜さんの考え方みたいなのもある意味アースワークにつながるような。トロッコ(注:1974年7月〜8月)とかやったりとか。

水上:ああ、サトウキビのあそこ(注:南大東島)ですねえ。

坂上:ああいうのとかすごい。

水上:《羊飼い》も結局母体にあるのは三喜さんの、三喜の旅志向と。

坂上:あと、《風》(1976年8月)って。風の吹くままに方向にみんなで歩いていこうとか。

水上:そこらへんの風問題っていうのはあの風倉匠がもうやってるんです。稚内の先まで単身で動いていって、もちろん風倉さんが東京にいる時期だけどね。そこら辺のところ、たとえば諏訪湖に風船を浮かして自ら中に入っていって。それもそこら辺の志向を風倉がもってるんです。ある意味で必然性を感じるのは、風倉さんが大分出身っていうことがあるでしょ。あれがなんかやっぱりかなりそこらと。でも池水さんもお父さんが外国船って言うか外洋船かなんかの船長さんかなんかじゃないですか?

坂上:そうなんですか。知らなかった。

水上:そんなような位置づけ、機関長かそんなような位置づけだったと思いますよ。なんか何船か忘れたけど、外国船でも客船じゃなくってなんかそういうなことかもしれないけど、そんな意味でずいぶん国外関係いろんなことを聞かされたってちらっと言っていたことがありましたね。

坂上:ちょっと話が戻りますけど、六飛島(指向儀)、70年2月。これプレイ辞めた後だけど、実質プレイのメンバーと一緒に行動してますよね。

水上:これはね、行動したっていうより、三喜さんがいろんな話、旅旅と言いながら何かそんなふうなものっていうか、動くような話系統みたいなことをいい始めて。それ「こんな話でもな」って言いながら。

坂上:プレイをまずその前に、単独離籍した理由はなんですか。

水上:それは「やっぱり行為表現っていうのは物品展示はよろしくない」ってね。そこら辺のことプレイの新聞のどっかに書いているんです。物品展示化していくってね。もうすこし風が赴くままみたいなそういうふうなことで、より自ら時代の方へ入っていかなきゃって。こっちは宗教意識を持つもんだし、風来坊意識も持つもんだからして。そこら辺あたりから見るとプレイはやっぱり芸術家の表出物っぽい感じがするなってね。美術家って感じですかね。そこにもしも飛ぶなら飛ぶでもって3ジャンルでも5ジャンルでもいいんだけどそこらへんの芸術関係表現みたいなところにひっかっかっていくんですね。もっとひと飛ばししていくような話を池水氏ともしたし、何人かでいるときにね。一方、前からのかかわりで三喜ちゃんと馬鹿話したりですね。

坂上:(結局、1969年11月)単独離籍で。

水上:そのとき僕は壊そうと思ったの。プレイを。そのときに重要だったのは三喜ちゃんが言うのはね、「三喜ちゃんもうプレイ終わろうか」っていったら、だいぶ考えてから、「やっぱり他にすることなくなるからプレイにはいたい」って。「わかった。じゃあ僕だけやめるわ」ってね。ただ仕組みとしては本当はあそこで消しておかないとまずかったんだけど、本当はね。でもやっぱり三喜ちゃんが、「何で」って言ったら、「誰の作品になろうがかまわない」っていってね(以下省略)。「その場を楽しみたい」って。小さいオブジェクトでもあの人たくさん面白いものつくってるんですよね。あの人はときどきぽつぽつと1年にいっぺんか2年にいっぺんか(オブジェの発表を)やって来てたんじゃないですか。戻りますが、西のはずれのマネキン会社にいたとき、樹脂ってやつを他は固まってしまうだけで戻しようがないから、そこで使い余ったやつを丸めていく。そこにいろんな色が混じってものができる。そんなものがすごく僕も面白いと思うしかわいいしさ。彼は展覧会のところにそれを飾ってみたりしてね。

坂上:ちょっと疑問があって話戻すと。まあプレイが水上さん抜けるわけだけど、実質プレイじゃない六飛島(指向儀)でプレイのメンバーほとんどほぼ同じ人たちとやるし。三喜さんのなかでも、これ(六飛島)も三喜さんのものだとしたら、これはプレイでやろう、これはプレイでやらないっていう線引きはなにですか?

水上:「これはプレイでやろうとしてもやれない」っていうんです、結局。

坂上:プレイでやろうとしてもやれないことがある。それはどんなことですか。

水上:それはこんなふうに風来坊だったり、さっきのおっしゃった池水さんの持ってないようなところね。彼はもっと本体としてやりたいんですよ。

坂上:話し合いでそういうの却下されてしまう?

水上:却下っていうかね。もう長年って言うのは何年か一緒にいれば、いつに会議するとかそういうんじゃなくて、会えば馬鹿話したりですね。それから次のプロジェクトするっていうとそのときは泊り込みの場合もありうるわけでさ。それからプレイのことをやっているとき自体も一緒にいるわけですよ。だからそんなふうなことで「これはお受けしないね」ってそんなふうなこともあるんでしょうね。だからそこじゃどうもできないようなことをためて。「そいつをやりたいね!」って三喜さんが思ったわけですね。そんな関係で「書かない?」って。「ちょっとへんてこなところでもかまわない?」っていうから「かまわないよ」って言うと、「じゃあ」って言って。そこへこっちがいろんなことを書いたわけですね。で、このおそらくどうする云々この文章(六飛島のパンフレットに書かれた文章)僕が書いたんだと思いますよ。

坂上:六飛島のやつ。

水上:三喜ちゃんはもうちょっとくだけた言葉で書きますからね。

坂上:もうちょっとヒッピーっぽいですよね。図柄とかも。写真とか入れるよりはちょっとかわいらしいイラスト入れたりとかね。サイケな文字ロゴとか。

水上:これ僕が書いた文章ですね。これをする云々ですることあって。「ちょっと待て」とかいろいろありながら。いろんな話のだいぶ前から三喜ちゃんとはいろいろ馬鹿話をしているもんだから、ある分じゃ三喜ちゃんこっちに信頼をもってくれていたんだよね。だから最近あの人のところから出たのか知りませんが、内装云々をしていたの全部息子さんにさせて、自分は一人歩きをしてるって。数年前に奥さんなくなってるから。ジャムちゃんって名前つけてましたね。奥さんの愛称(注:JAMというペンネームが三喜の関わったチラシや本によく登場している)。

坂上:前、(三喜さんが)紫雲閣ってところに住んでたんですか。言ってましたね。

水上:大阪城の向こう側にね。だから大阪城でしたら「ホスピタル」ってのがプレイでありましたでしょ(注:1969年4月、プレイ、《HOSPITALエイプリルフールハプニングス》)。

坂上:ありました。なんか廃墟の病院の中にはいってみんなでいろいろして。

水上:してみたりね。そんなところでどうこうって話してったときに、三喜ちゃんはよくそこへ遊びに行くんだからさ。

坂上:そうなんだ。

水上:本当に近いわけですよ。感覚では「向こうに行こう」みたいなそういう感覚。

坂上:病院が廃墟になった感じの。

水上:廃墟になってしまってね。まだまだ診療器具のかけたもんとかいくつも落ちているわけで。

坂上:散乱して。

水上:散乱っていうほどでもないけどね。それから使ってない帳簿とかね。それ一冊か持って帰ってる。どっかにある。そんなふうで僕も「ホスピタル」やる前にね、三喜ちゃんのところ紫雲閣に行ったりして。いろんな雑談して、「ちょっと病院行く?」って言うから「行くよ!」ってな。何度か行きました。

坂上:じゃあそういう面白企画みたいなの結構三喜さん。

水上:三喜さんも旅歩き関係みたいなもんで、「やっぱしあそこ使おう」ってね。「ホスピタル」ってタイトルも僕がつけたのか忘れてますけどね。

坂上:池水さんはもうちょっとかちっとした感じなんですか。

水上:そう……かちっとっていうかやっぱしもうちょっと堅性だったりね。そうですね。まあ、プレイの僕がいる段階まででも、誰がどれ、発案者どれっていうのはだいたいどれも言えるはずなんだけども。僕が落っこちパーティ(1969年6月)をしてしまって、その次にやるのが結局円山公園でやる我楽多市(1969年7月)。

坂上:我楽久多市って何なんですか。

水上:それはもってるものをね。

坂上:それはプレイじゃないですよね?

水上:プレイっぽくないんだけど、やっぱりプレイでやろうっていうんで。

坂上:そうなんですか。我楽多市も(本からは)抜けてるからわからない。

水上:あ、そう。だからそのよくあの東寺でもいいし北野でもいいけども、縁日あるじゃない、こんなときに市やるじゃない。あれの一つ。

坂上:ああ。それでいろんなものを売ったりしたんですか?

水上:あんなところでそれぞれやったりしたじゃないですか。あれの走りといえば走り。そこには古本っぽいのもあったりさ、そういうのをいくつか持ち寄るわけです。そこで「うんうんこれこれ」って言いながらですね。お客さんあるかって言えば、お客さん来ることもないわけでね。行ってみたらね。だから仲間同士で売り買いみたいなことを……してみたり。それは、僕がだいぶ体が弱ってるわけですね。心理的に。落っこちてしまっているもんだから。それならちょっとにぎやかにしてみようってなもんで、三喜ちゃんあたりが。

坂上:「我楽多市」やろうかって。

水上:おまけにあの……。

坂上:次の月ですもんね。落っこったのから。

水上;そうですね。ではちょっと元気ださせなきゃと思ってくれたのでしょ。多分。ね。

坂上:水上さんは入院してたんですか?

水上:いや、してない。あのね、まず入院関係みたいなものをするよりも、はじめ「救急車呼ぶ」って学生が言ったんです。だが、そういうへんてこな理由でもっておまわりさんって入りこんでくる可能性すごくあるもんだからね。それで、「やめろ」ってね。「大丈夫か」って言うから「大丈夫だよ」って言ったときに、その中にいた人のおじさまか誰かが大丸の近くの病院っていうか小さなのをやっていて。そんなところへ心配だからって診察に一緒に行ってくれて。それならありがたいし。

坂上:じゃあ水上さんは意識はあったんですか。

水上:ええ、ええ。そうです。だってそのときハッて思ったのは、「ああ良かった」って思ったのは、ほら、小さなこのくらいの昔井戸から落としたつるべを引き上げる碇を持っていたわけよ。それをぶら下げてひっかかっていたわけ。っていうのは持っている(紐を握る用の)皮手袋を、そうたくさんも買えないから一組だけ買っていて、(紐をつたって下に下りたらその皮手袋を)置いて引き上げてっていってね(次の人が紐を下げるために使う)、(そのために手袋を上に)引き上げるためのこれ(碇)ね。「これいいな」ってね。そいつで持って上げるためにして。そいつが本来は真下にあるはずなんだけども、下りるときにごちゃごちゃしたから引っかかってしまったわけ。それがこんなふうにぶら下がっていたので刺さらずに押しつぶしたわけ。だからもしそれが刺さっていれば厳しいあれはあったかもしれないけど、まあまだ生かしてもらったけど。

坂上:じゃあ全然平気だったんですね。骨折とか。

水上:骨折はしてないです。どこがどうなったかわからないけども、だから足がこう下りて、こう逆じゃなくてこんなふうになったみたいですね。

坂上:わりと高いところからおっこったんですね。

水上:やっぱりあれで高さが8メートル以上ありましたから、そっから体をぶら下げてわずかで下りるから、やっぱしそこそこですね。怖かったっていうか。あとで思うと。

坂上:もうできないですよね。

水上:もう……せっかく美術館やいろんなところをはしごで登って上の方から(ってやっていた)もうそれが終わってからだいぶ長いこと怖かったですね。でもそのプランはもう一つあって、あそこ(京大)に本部があって本部に時計台があるでしょ。はじめはあそこから下りようかってプランを持っていたんです。

坂上:よかったですね。

水上:死ぬよね。でもそのための練習もしたんですよ。三喜ちゃんやらいろんな人たちと天王町の近くでね、当時もうちょっと平たい感じの公園があったから、だいぶたってみてから歩いてみたら、その公園のところにテニスコートができていたりね。ちょっと雰囲気が変わってました。そこで知ったのは落ちるっていうことをまだまだ思ってもみなかったもんだから、つくった組み紐のこのくらいのものがね、大丈夫、もつかどうかってそっちの方でした。心配したの。

坂上:あれ結局いろんな人が写真とってて雑誌に出たりしていたけど、水上さんの名前は出てないですよね。

水上:そうですね。ゼロ次元の名前出ていて。

坂上:だから長いこと水上さんは誰何だみたいな感じになっていたんですかね。わかんないけど。

水上:そこをなんかかんかで松本雄吉も見ていたっていうんですね。だからあるとき、松本雄吉が「あなたは水上さんですか」って言うから。そうして松本雄吉はどんどん動き始めてるから、「活動されてますね」って言ったら、「そういう活動もなんも一つのきっかけはあなたがあんな高いところから落ちたあれですよ(笑)」って言われて。はずかしーって。

坂上:あれって目黒の美術館で美術家の映像のとき(注:1988年2月〜3月、「美術史探索学入門」)に、水上さんのあれも組紐儀の映像出してますよね。

水上:かもしれません。そういった状況のところの写真をとってくれた人が三喜ちゃんの若い友達かなんかがいるんですよ、三喜ちゃんの弟さんだったかだれかわからない。その日、8ミリをくれたんです。そいつをいれこんで。フィルム一本つくっているから。そいつどこかに入っているはずですけど、だけどそいつはそんなに何度も外へは見せてないし、そうですね。上映したとしても3回あるかなしかくらいじゃないですか。

坂上:うんうんうん。

水上:やっぱりある時期だけでずっと撮り続けているわけじゃないですね。僕は一応倒れて足をぴくんとさせるそこまでは写っているんですね。仰向けになってね。でももうあとはそのままじゃないと思って、ともかく駆けつけてくれたんでしょうね。

坂上:朝子さんは座ってましたよね。

水上:ええ。だからそこで立会いっていうか見るっていうイメージの方にいたから、だけどもとんでもないって半狂乱になってるわけですよね。

坂上:でもゼロ次元とか逃げちゃったんですよね。

水上:逃げる理由の一つは自分たちつかまったら大変だっていうこともあるのと同時にそういうところきっかけにおまわりさんが入りこんでくる可能性がすごくあるもんだから。だからさっきの救急車呼ぶっていうのに「やめろ」って。

坂上:そういうのでも証拠がそれでできちゃって逮捕されたんですもんね。それを撮っていて写真に撮っていて雑誌に出たのがきっかけで逮捕されるんですよねえ。ふーん。マークはされていたけどまだ尻尾は(つかまれてない)って。

水上:そうですね。まだやったことは自分たち知っていても証拠がなきゃ、「どこに証拠がある」って言えばねはっきりした証拠がないってことで。そういう状況みたいなものを証言してくれる人もいませんからね。

坂上:でも今から思ったら、たかが万博でね、そうやって警察が万博に反対してお尻とか出して全裸になってるひとたちを執拗に追い掛け回す状況の方が異常ですよね。

水上:そうですね。

坂上:おかしくないですか。

水上:いや、なんかそこへ何かが逆にもっとなにか起こる何かではないかってそういうほら、疑心暗鬼みたいなのを日本人っていうのは持つケースが多いでしょ。とりたてておまわりさん系統。一番最悪状況みたいなのね。僕自身も法律事務してきていて、中まで知ってるもんだから、一番危ない状況どこらへんまで行くかって読むんですよ。何も人に言わないけどね。だけど彼らは東京ではすでに拘束するうんぬんみたいなのですね。それの現場であるもんだから、京都ではまだそこまでのことあまりなかったんですよ。

坂上:京都であまりそういうこと(反芸術や反博芸術運動)やるひといないじゃないですか。本当にね。

水上:そうですね。僕もいつか忘れたけど、どこの橋かも忘れたけど、半分よっぱらいながら四条だったかどっかの橋を歩くわけですよ。それで引っ張られたことがある。

坂上:えー。マークされてたんですかね。

水上:やっぱりへんてこなことするってね。どういうんだろう。犯罪というふうなことでもないしそれから反政治運動っていうのはあのとき、60年系のときに僕も政治活動のほうには行かないけど文化活動の当事者の一人でね、そこで馬鹿をしているもんだからね。

坂上:全然話違うかもしれないけど。ちょうどベトナム戦争も激化していて、北白川の芸術村では鶴見さんに頼まれてたんだけど、

水上:預かったことがあるんですね。

坂上:そうなんです。ヤン・イークスって(反戦運動家)。

水上:やっぱりそういうことって京都では高校生あたりからそういう運動体もってますもんね。

坂上:ええ。要はマークされていて、北白川の人たちもかくまって。車走ってるとつけられて、車で。覆面パトで。

水上:僕はもう一つの政治って言う運動系というよりは、ほら、グラス、葉っぱ、あれの系統で「ニルヴァーナ」のときもそれを持ってきてるやつもいましたけどね。

坂上:あれってちなみに法律違反だったんですか?

水上:いまでもそうでしょ?

坂上:今でもそうだけど、70年代ってトリップとかいろいろ出ているからまだ合法なのかと思ってた。

水上:いや、あんなものはそれほどひどくはならないってなことはすでに実験で済んでいるんだけども、「ただしあれが一つの導入口でもって正規の方へどんなもんかって入り込む可能性を持つ」って言うんです。だから。そこら辺の予備的な処置みたいなのもあるんですね。それともう一つは、僕の時期はあんなものは手出しは怖いっていうのが思っているのか、睡眠剤っていう時期がありましたね。だからそれはたとえばマルハって言い方してたけど、ハイミナールっていう睡眠剤今でもあるでしょ、たぶんね。それを飲んで酒を飲むとマリファナ以上にトリップするってね。トリップ話っていろいろありましたよ。バナナの筋を食べるとか、舌を巻いて煙を吸うとかねえ、他あるんじゃないですか?ナツメグの粉をどさっと大匙いっぱいくらいのですね。飲むとか。

坂上:でもLSDアートとかいって、結局LSDを摂取すると幻覚を見る。それを要はLSDを摂取しなくてもそういうものを見れるっていうのでコンピュータアートみたいなのがわーっと出てきたりとか。

水上:それもあるんですね。

坂上:そんなんですよね。そんなんと万博ってすごくクロスオーバーするわけじゃないですか。いいのかなーっていう感じもありますよね、日本国として。

水上:だからそこにもう一つあるのはそういう薬剤系統ってやつは結局は当時のさっき言ったハイミナールって睡眠剤ですね。あれがほとんど店で売らなくなったもんだから、一粒100円だか200円だか300円だか忘れましたけどそういうふうな値段で取引されていたわけですよ。そこでその間にそういうので「飛ぶぜ」ってなったら収入源になるんですね。そこらへんのことも一つじゃないですか。そういうのが口コミがどんどん強くなってるから、名古屋あたりじゃヤクザさんも強くなってるけど、もう一方に夜店出す人たちがもう一方の存在でもって香具師っていうのの収入源でそこも一つの組組織みたいなのであって、でもそれも最近どんどんなくなってきたって言いますね。

坂上:ヨシダミノルも逮捕されてますよね。だいぶ後になるけど。

水上:そうやねえ。

坂上:話を変えましょう。安部ビートって昨日聞いて中途半端だったんですけど、安部ビートっていうのは、どういう人なんですか。この間安部ビートのものいっぱい実は持っているっておっしゃってなかったっけ。

水上:そうですね。ある時期に彼とまあ結局は……。

坂上:もともと安部ビートの名前はなんていうんですか。

水上:安部健司と思います。

坂上:どこ出身なんですか。長野とか?

水上:どこであるか、岡山であるか兵庫であるか、忘れてしまってるんだけどその辺の出身だと言いましたね。

坂上:で、歩き族とかそんなんで。

水上:そうですね。結局そうやっていろんなところ歩いて行きながら、恵んでもらって食べたり飲んだりしてる。そこらのもらい方がとってもうまかったみたいですね。というのは彼が現実に僕のところに泊まったりし始めてくるのは天王町のときなんだけど、こっちもお金ほとんどなくなって酒もなくなって「ちょっと調達してくる」ってひょいと出て行って、20分かそこら辺に宝焼酎を一本持って帰ってきますもんね。盗んではいないんだろうと思いますね(注:このあたりについては『乞食学入門』に詳しく載っている)。

坂上:ちょっとわからないですけど精神病院みたいなところに入ってたみたいな感じじゃないですか。

水上:結局だからね、そこらの酒のせいということではないんだろうし、本体自体にそこらへんのもう一つ別存在めいたところも見せるときがありましたね。つまり異常ふうな。

坂上:最初のときから?

水上:ええ。

坂上:一見普通の人だったんですか。

水上:気軽な感じでね。だが何でしょうか、何かに集中していくときに何かそっちにひょいと滑り込んでしまうようなものがあるんじゃないですかね。でもこっちはそこら辺のところがふっとしたら、「もうちょっと寝ようか」ってふうにしてちょっと戻してもらって。だからこっちがそんなふうにしてなんでも会うし、「ちょっと歩きに行ってくる」って延々と出て行くんですね。もういつ帰ってくるかわからんわけで。別に鍵が閉まっていたら閉まっていたらで、彼はどっかその辺に泊まって、開くまでそこらにいてまた来るわけだから。そんなふうなことでだいぶ長くいてそのうち比較的始めからかな、「こっちは詩も書くよ」って言ったら、「詩の交換しよう」とかね。

坂上:やっぱ60年代に知り合ってるんですよね。歩き族みたいなので。

水上:いや、僕は歩きみたいなへんは、何年くらいにやめたのかな、やっぱり屋根なしじゃなくて屋根が要るって辺のことがわかるもんだから。やめてやっぱり家の中にいようって。そのうちの一つがいくつかあるんですね、やることが。もう一つ別の方は外にまったく出ずに部屋のなかでこもりっきりでいつまでできるかって。それ一ヶ月しかもたなかったけどね。だからそっちも×だってことで。だからどういうことですかね。知り合うのはもしかしたらひょっとしたらジャズ喫茶かもしれません。それで、「今日泊まるとこねえから泊めろ」って言うから「かまへんよ」って。そして、一緒に連れて帰って。そしてそこでごろんと寝転びながらいろんな馬鹿話しながらですね。それがどっちなんだろう。徳成町のときかもしれませんし。そうなりますと2度目、京都に戻ったわけですね。その辺の時期(注:1964年秋前)のもうちょっとくらいかな。徳成町自体が……。

坂上:松澤さんを安部ビートが紹介してくれたのは天王町(注:1967年1月)ですがね。

水上:ああああ、そうですか。そうするとそのときにはすでに僕のところには安部ビートに泊まったり知ってたり、もう一つ前でしょ岐阜アンパンが。

坂上:65年だから。

水上:岐阜アンパンのときには、僕は徳成町のところにいる時期ですね。こっちからつまり京都から岐阜経由して行っていてしかも、伊良子岬まで行ってるから帰ってきたときに、あの、部屋の鍵を朝子に預けたままにしてたから入れないんで。「あ、そっか」と思って、南禅寺の奥のほうに滝がありますでしょ。あそこのところに服脱いだりするそんな場所があるんですね。そこで寝ました。帰ってきたとき。だもんだから、そのときにも安部ビートのことは知ってるんですね。

坂上:安部ビート、今みていて、あさい・ますおも安部ビートも岐阜アンパンですれ違ってる。

水上:そのときには、長良川の金華山より反対側のところに、あさい・ますおのお姉さんかなんかが住んでいて、そこへ安部は泊めてもらうんですよね、たしか。

坂上:サークル村とかそういうのとは関係ないんですか?

水上:そうですね。関係もなかったんじゃないかと思うんですけどね。でもその後になって今度は……。

坂上:これもまあ詩の……。

水上:安部がですね、えっと、諏訪というよりは諏訪の北のほうというか、もっと上諏訪の向こうの方に原村っていうのがあるのね。そこのところの一人の幼稚園の先生なんかと暮らし始めるんですね。

坂上:安部さんが。

水上:「何とかちゃん」とか言っていたけど、時々無理なこと言うと、「お前もう帰れよ、原村へ」ってね、言うと「うん」って言って。彼はほとんどキセル乗車やりますからね。

坂上:安部ビートって誰が精神病院に入れたんですか。

水上:え?

坂上:「精神病院の中から洞窟の中から助けを求める叫び。安部ビートよ」って(『機関』13号に)書いてある(注:精神病院からの安部の手記は1980年になっている)。

水上:ひょっとしたらそこらへん、今の原村の関係かもしれませんよ。

坂上:村の人たちが要はちょっとおかしくなってきたから、病院に入れようって。

水上:自分自身でも「病院に入らなきゃなあ」と言った時期もありましたもんね。

坂上:あさい・ますおはすぐ死んじゃうんですよね。

水上:そうですね。

坂上:ふーん。

水上:九州から先のほうまで船に乗ったりしながら行ったことも安部はあったわけだけども、でもある時期からおそらく岡山かその辺に多分実家かなんかあったんだろうと思うんだけども。そこからずっとしながら東京の方には前からのフーテン友だちがいるもんだから、そういうところに行きゃあ、泊まることもできるわけだし。で、そうこうしていって。そして今、田中泯のいるところね(注:山梨の白州)、あの辺に別に田中泯以前の関係みたいなものがあそこら一つの何か泊まり歩きバーみたいなもんであったもんだから、そんなところに行きそうこうしているうちにおそらく原村の幼稚園の先生と知り合うんじゃないですかね。

坂上:安部ビートってもう死んじゃったんですか。生きてる?(注:亡くなった)

水上:どうも死んだといううわさか何かは……。

坂上:これ(『機関』13号)出た時点で1982年なんだけど、そのときはもう入院してるんですよ。(写真を見ながら)こんな感じでね。で、岐阜のときからもうそういうふうな兆候があっていつ入れられたのかわからないのだけども。

水上:ここらへんはしょうがないけど松澤さんはきっとご存知だったんだろうけど、松澤さんあんまり言わないってこともありますからね。

坂上:水上さんもいくらなんでも交渉ないですよね、こういうところに入ってしまっていたら。

水上:そうですね。そういえばどこでどう聞くか松澤さんかなんかしらんが、僕の名古屋のところにも彼訪ねてきましたね。

坂上:安部さんが。

水上:それで「お前みたいにべたつかれると追い込まれてこっちもやってられなくなるから、泊まるのを許しもしないし、またおいで」って言うのでね。「ついでがあればくらいのことで」って言って。そうするとそこらもう一方ゼロ次元といっても名古屋の岩田ってやつだけどそこら辺とも(安部は)関わりもっていたみたいだからね。でも案外勘がいい男だから、僕がもうゼロとのかかわりを絶ってしまってるっていうのは、感じたでしょう。そうするとそこらどうこう言わなくなりますからね。一人歩きとかそれやっていたもんだから、かなり人を読む力を持ってましたね。それと被害瞑想めいたことを何度か言ったことがありますから、何かのときに「あっ」と思うんだけど、「まあまあまだまだよかろう」と僕は思って、まあまあってことで。でもそれからもうちょっとで言い出すとさ、「もう寝ようか」ってね。そんなんでしたねえ。

坂上:(水上さんの話を聞いてると)あさい・ますおと安部ビートがちょっと悲劇的な感じだなと言う感じがしてね。

水上:そうですねえ。

坂上:ねえ。

水上:当時いろんな話を彼がしてくれたことがあって、その人の名前ももう忘れているし、人っていうのは何だろ、ちょっと今忘れてますね。週刊誌からこれくらいの本なんかを出してわんわんなった女性もいるわけですね。安部ビートの関連者かなんかそこらのような話だとかそんなことをいったようなことがありましたね。ちょっとごめん、これまとまってない。引き出したりしてなくてどさっと貯めたままね、放り込んであります。彼との往復書簡じゃないけど、往復日誌みたいなのね。その現場でやるわけだから。

坂上:それがありますよってこのあいだ(聞きました)。(安部は)詩人だったんですか?

水上:詩人っぽいところ持ってましたね。だからやっぱしその辺で言うと『北回帰線』かどっかそこら辺のものを見つけて何度も読んでましたね。

坂上:さっきサークル村でって言ったのは、ちょうど針生先生と谷川雁がずっとくっついたり離れたりしながらいてて、たまたまちょうど安部ビートとかあさいさんがって頃にサークル村で、田舎の方に行ってそこで地方から東京を狙撃じゃないけど襲撃するってそういう地方の拠点としてサークル村みたいなものをつくろうみたいな感じでやるじゃないですか。結局それをほっぽりだしてまた戻ってしまうんだけども。それでラボとかつくって商業的にやっていくわけだけど。ちょうどその詩人谷川雁が詩人としていて、そういうサークル村活動をしようとする。そういう地方の意識っていう、詩人の地方の意識っていうのと、美術家が地方でうわってやるのと重なってくるから、その中で詩を志向するあさい・ますおなり安部ビートなりの歩き族がそういうサークル村的な動きとか。水上さんもそうですけども、何かしらのこととか。三喜さんだってヒッピー、三喜さんは詩人じゃないから違うけどそういうのなかったですか。あったのかな?

水上:政治問題とかそこらの方へは安部も僕らも持ち込んでいかないですね。サークル村系統がある程度あるからそこらの関連めいたことになってくると今度はさっきも話しに出てきた京都で言えば結局は小松だとかもう一方で白樺って持っていた、まあ関西ブントの走りですよね。

坂上:ブントはすごいですよね。

水上:ブント本体でいくと関西ブントが出発点なもんですからね。

坂上:小松さんもブントなんですか?

水上:ブントとは言えないけど、そこよりは小松の方が早く動いてしまってるもんだからね。しかも演劇の方。そこへの関わりはいろいろあったみたいですね。もうひとり石田博もどういう系統であったか。彼は教育大を出て、結局どうだったのかな、寝屋川の高校の先生をしたのかな。それから今度は河合玲っていうデザイン(河合玲デザイン研究所)の、そこに所属してるへんに、なんていいますか70年安保の系統のほうにいって、そしてそこでしてることがおかしいとかで追い出されるわけですね。学年途中に。だもんだから今度は、熊野神社の近くにスペース借りてそこで最後のレッスン、「まだやり残したことがあるし」って。生徒そこについてきたわけですね。そんなときへんあたりにもうどういうのかな、西部講堂なんかの関わりを持ちながらそこで彼は技術での何とかもう一つそんな作業をさせたみたいですね。シルクスクリーンでアジびらつくるとかですね。

坂上:河合玲さんっていうのは普通の女の人ですよね。

水上:そうです。その、まあお嫁入り学校みたいな感じの。それから洋裁学校ですね。そんなような関係みたいなふうだから、そこに美術の人のこんなふうなのもあるって時に当然いろんなパターンのへんの絵描きやらいろんな人に教えてもらうんだけども、先生で。そのところにまあまあかなり以上に石田氏は行ってそこでいろんなことを話したりするじゃないですか。僕も二、三度呼んでもらいましたけどね。講義か講演にね。

坂上:ここにも「ハプニングについて」というので。

水上:そうですね、そこを軸にして考え方をもう少しゆるやかにしていくってそんなようなこと。こっちも当然ビジュアルめいたこともするもんだから、ちょっとデザインなんかと関係付けた話しながら。こっちは助かったのはお金もらえたもんだからね。

坂上:ワイヤーピース(注:1971年2月「WIREPIECES ―電報体提示―」、ギャラリー16)。

水上:それはニルヴァーナ系のことで、16さんに空き間ができたから(注:実際は1970年2月7日付けの電報求むチラシにすでに1971年1月会期予告が掲載されているからこれは記憶違いだろう)。

坂上:電報体提示は、71年2月なんだけど、ワイヤピース事務局がすでに70年に2月7日にできてるんですね。電報体提示自体は、みんなが電報は、要は言ったら送るだけだから早いのかもしれないけど。

水上:アンデパンダン展であったかのときに、電報で何かを送ってくれってそういうことをアンパンの何かに出してるんですね(注:1970年3月京都アンデパンダン、水上出品《超上感覚訓練》)。

坂上:「誰でも持って行ってください」のときかな。

水上:いや、どうなんだろう。

坂上:ワイヤーピースっていうのは思いついたのはもちろん水上さんだけど、こう、紙の究極のミニマムの……。

水上:公の関係みたいなものを通していくっていうので、今度は。メールアートっていうのは郵便物の系統だけども、電報も実はそんなふうで早いからね。それからもう一つ普通そんな挨拶みたいなものより、特有の、あんなふうな理屈のような感覚があるんですね。「へ? 何で電報来た?」みたいなね。

坂上:大体そういうのって家族が死んだときとか。

水上:そうですね。電報であれだけで「あなたを愛してる」ってそういう電報をもらったこともありますよ。すみません、これは私のパートナーから(笑)。前にね。

坂上:じゃあまだ電報多用時代なんですね。

水上:そうですね。そんなようなことだから馬鹿なことをパートナーがするときもありましたね。そんなふうにね。

坂上:でもワイヤーピースって、電報なんですか?

水上:そうです。

坂上:その英語版がテレグラムとかじゃなくって。

水上:ワイヤーピースっていうのが、その名前が出てきますよ。辞書引けば。

坂上:じゃあすでに電報についてはなんとなく興味を持っていて。

水上:そういったもので、交信するなりなんなりのときに、電話もあるし電報もあるし。前ねテレグラムなんてのもあるでしょ。あれはちょっとした送書なもんだから電報局へ行ってそして向こうに打ってもらわなきゃできないんだけどね。

坂上:でもまあワイヤーピースということで電報のコミュニケーションみたいなものも水上さん……。

水上:そうですね。それだけのもの。定型パターンでいけるのと、字数といってもまあまあというのがあるから一辺使ってやろうと思っていたわけです。で、その手前に電報で「反応ください」って。そんなようなことをなんて言うの、あの、多分紙切れ表現としてアンパンかなんかのときにぽんと入れて出してることもあるんですね。だもんだから、そこでバラッと調べたらそれだからっていうのですでにつけていたんですね、このときに。で、突然言語表現に移るもんじゃないですからね。昨日も申し上げたように、(紙表現の)ナンバー1が都雅画廊の個展の案内状(1966年)だっていうんで、内容といってもいくつかのメッセージも持ってるし、使い方として別個の位置としてこれだけでもそれなりの展覧会展示ができるってね。そんなようなものを含めたものとしてつくったんですね。もうその時期には松澤宥の存在も知ってましたからね。たぶんね。直接はしらなくてもね。

坂上:65、6年ですね。

水上:そこいってもですね、北園克衛っていうビジュアルポエトリーが動いていくらへんね。そのようなもの、だいぶ前に知ってましたからね。おそらく。中高校生のときのそんなの知ってるんですね。そんなもんでしょ、興味があると。そんな展覧会が名古屋でもありましたよ。ビジュアルポエトリーの。

坂上:なんかそう、詩人のそういう表現っていうのは五七五七七とかじゃなくって、もっと自由な感じで。ハブル(注:Lindley Williams Hubbell、日本名:林秋石)さんとかもそうだったし、全然違うふうに見えるかもしれないけど、ハブルさんも、詩人といえば詩人だけど。

水上:あの人、詩人なんですよ。

坂上:本当に箱のなかに小石をごろんと入れて送るとかね、そう、私も本当不勉強だからわかんないんだけど、日本にもコンセプチュアルアートというものがもしあるとしたら、詩人たちの動きの方がずっとずっと前からコンセプチュアルアートですよね。

水上:そうです。ですから画家というふうないいまわしはやめて「なんかやってるな」と。それをもっともっと戻していくと、やっぱしかなり以上に中国のですね、文学とかその辺と深い関わりを持っていたりするの。それから、やっぱり詩なら詩というかたち、漢詩でもいいんだけど、形になってくる。そこに言ってるイメージみたいなのだと、「うぉー」って……コンセプトって、そんなのありますね。あの話は松澤さんもよくされたけど、誰だか坊様が島へ向けて手紙を送るってかな。そんな話があったじゃないですか。いまちょっと誰かがね、一つの沖にあるあそこに手紙を送るって。でもそんなのは孔子やいろんなものの背景のところみていくとそれらしいのがいくつか。

坂上:ありますね。うん。

水上:もう一方言うと、日本の場合も古神道という姿でもって伝わっているあのあたりの存在はすべて神の名前をつけるって。そんなものは宗教じゃないって言っても、西洋ふうな哲学から神学からいうとそうだけど、そういうことじゃないし、人が歩いているっていうのが、宗教とか宗教概念とは違うかもしれませんが、そういう部分が宗教性っていうかね。

坂上:宗教っていうものを、ネーミングの中に閉じ込めなければ宗教性ですよね。

水上:そうですね。

坂上:仏教は閉じ込めないからね。

水上:そうですねえ。だからそんなふうなものでいうと、あまりかわっていないのかもしれませんね。あるいはもう一ついいましょうか。そういうところの展開を人間はしてこなかったみたいだった。

坂上:詩っていうのがそういう面白いじゃないですか。イマジネーションをかきたてる。“あ”とか“ん”とか書いてあるだけで、そういう面白さみたいなのが、美術の方向にも意識的に取り込まれていった時代になってくると思うんだけど、でもそういう詩を今度はエセ詩みたいに使うのが最近増えてきてますよね。今度は詩がファッションになってきて。

水上:結局誰も彼もできるってなると、限定がある程度していってかないとね。なんだかねえ……(省略)。ですね。

坂上:じゃあ、それでワイヤーピースをやるのは。

水上:具体化するのはそういうイメージをこっちが持っているもんだから、(16の)井上さんから「ちょっと空いたけど何とかできない」っていうから、「わかりました」っていくつか持ってますからね、紙切れのもので。そのときはでも、紙切れ表現がどうのとは言わないわけで。「じゃあお願いします」って。すぐに関連者のほうへ依頼状を送るんですね。

坂上:電報募集みたいなので、(いろんなひとたちに)送ったじゃないですか、水上さんが。電報体提示って一週間の展覧会で、その一週間の展覧会にどんどんどんどん電報が集まってきたわけじゃないですか。でも初日の時点ですでに水上さんがある程度持ってる電報をもう並べていたんですね。

水上:もうすでに送ってもらったものですね。

坂上:ソル・ルウィット(Sol Lewitt)まで出していたりとかしてませんでしたっけ?

水上:あったかもしれない。

坂上:ねえ。なんか見たら外人の名前が多くって。何の名簿見たのかなと思ってた。人間と物質のときに出した作家かなとか、結構出ていて。あの辺の人たちって、ソル・ルウィットとかでも、言ったら外国版もの派みたいな人たちだったと思うけど、と同時にものに還元していく人たちの中にもそういうコンセプチュアルなそういうものも両方持ってたんだなっていうのが面白い。

水上:それを持っていても問題はなかったようなあたりがどっちかというとヨーロッパでしょう。つまり壁は立ってないんですよね。こっちだとあんなようなってもので壁がそれぞれが狭いところにあってそこから出られないっていうか。そこらが昨日話していた同行者がさ、口つぐんでしまうみたいな、これがね、間違ったのかどうかわからないんだけども、おそらく小さな島国でもってあまりたくさんのことをやっていく他のところへひっかかってしまうみたいなことがあるのかもしれない。一ついいですか。京都にはギャラリーが軒を並べる可能性がいくつもあったわけだ。そうしてましたもんね。隣同士が画廊同士みたいな。ところが名古屋の場合はそれがなかったんです。行ったときに。

坂上:それは数が少なかったんですか?

水上:いや、少なかったということもあるけどもう一つはすぐそばにはつくっちゃいけないとかね。でも結局見る側にしたらですね、たくさんあるほうがあれも見これも見るでね。

坂上:画廊街ってあるじゃないですか。

水上:そうですね。て言うのが名古屋にはなかったんですね。

坂上:名古屋の方が監視は厳しいんですかね。

水上:でもお上さんみたいなのはとっても強いし、つまり、そういうのは、自主性のなさみたいなのでいうのか、なんでもいいからそっち任せておいてあとは好きにするみたいな。

坂上:でもごっと洞とかのギャラリーたかぎもそうだけども面白い画廊いくつもありますよね。

水上:そうですね。いくつかね。

坂上:ねえ。

水上:なっていってしまったんだけど、ごっと洞にしろギャラリーHAMの神野さんとかあそこらももうちょっと手前に戻すと、たかぎの関連関係もってるんですね。たかぎ関連のなかに神野さんがだいぶ探究されてから独立されて、独立されたところのへんのところにアシストのかたちでごっと洞さんがいたわけですね。まあ独立していったっていうかね。そんな系統あるんですね。前も様子は違うけど、たかぎが毛織会社なんですね。そこの手仕舞いの方にもっていくときにそこのところの織物工場のあとを、画廊に変えていくんですね。イギリスの方でスタートしていったその、なんとかっていう、地域状況を追究し美術とかそういったものをもう少し幅をひろげていくようなそんなイメージをもった画廊でそこに今森美術館の館長やってる、南條が前にいたんですね。

坂上:そうそう、やってましたね。ICA。倉庫みたいなところ。

水上:そんなふうにして、そこへ南條がかなり以上にイタリアの作家やるんですよね。

坂上:アルテ・ポーヴェラの作家をずいぶんやってましたよね。

水上:アルテ・ポーヴェラ系のほうを日本がほとんど扱わなかったのは、南條がずいぶんやって(以下省略)。

坂上:電報体提示に戻って。国外16名が参加予定。出していたんですね。結局。ソル・ルウィット、カール・アンドレ(Carl Andre)。

水上:そうですね、結局もうこの辺でメール対象がよりはっきりしてくるんですね。

坂上:その電報、今でも大事に持ってるんですか。

水上:僕の手元に置いてるとしたらどっかに入り込んでるんだけども、いくつか、こっちに直接来たっていうのは宛名がこっち側になってますからね。そのうち何通かを「美術館がそういうことやるから貸してくれ」っていうから貸し出したわけ。そこに何人か、たとえば河原温とかそんなのもある。松澤宥が持っていってしまった。松澤宥は松澤宥で自分がもらっているものがあるはずなんだけどね。当然。こっち側の名前書いてあるやつを、「東京系だから私のところで」って言って、持って帰って。ちょっとした取り込み主義みたいなところをあの人は持ってますね。いや、僕もそういうところあるんだけどね。

坂上:でも画期的な展覧会といえば画期的な展覧会ですね。普通に水上さんがやってることって全部ちょっと早いんですよ。うん。それは私がまとめるべきことなんだろうから。いいんですけど。うん。映像も早いし。

水上:したいけどできないとかそんなようなこともあるわけですよ。

坂上:そうだそうだ、映像で、水上さん67年のあれはいろんなところ写したりとかして(注:1967年11月、「京都フィルム造形’67」、勤労会館)。

水上:どこかに一つ念写フィルムを写したのがあって、そいつは(何年かの)フィルム造形かもしれませんね。そいつは16ミリなの(注:「フィルム造形」系の展覧会は1967年と1970年〜1981年まで毎年開催)。

坂上:うーん。

水上:16ミリの装置はですね。松澤さんが……。

坂上:(「フィルム造形’70」のカタログに掲載されている水上コメントと写真見ながら)こんなんではない?

水上:これはねえ、天王町にいたときのビルでですね、一つそういう写真を撮ろうというので、カメラはパートナーが「わかったわかった」ってしていったへんの記念写真の。

坂上:じゃあコマの一個ではない。

水上:スチールでですね。何重にも写すみたいに8ミリも数回まわしてるんですよ。中にはコマ撮りのものもあるし。そのときに結局念写云々っていうのはどうせその時期に知ってるどころかやったりしてるもんだから、そこで一枚ずつ一枚ずつ意識を、ただし何を写すっていうのはしないでおこうと。コマ撮りできるじゃないですか、がちゃがちゃと。それと。

坂上:それはカバーをしてっていうことですか。

水上:ふたをしていたですね。

坂上:何も写らないようにして。

水上:でもそれだけのフィルムじゃなくて、そいつをそうしていき、別もそこに重ね写しているもんだからどれが一体どうかわからないんだけど、そこで風景関係のものと、もう一つがさっき言いましたね、ガリ版刷りをするときに輪転機いっぺん洗うために何度か紙を回すんですね。その紙のものが印刷本みたいなものにしたものを持ち込んでいったんだけども、たくさん出るわけですよ。そいつを一枚ずつとっていって。そういうコマもあります。だからそれはそういう3回か4回のうちのコマ撮りが2回。一つは念写したものだし。もう一つは二重撮りが一枚ずつアニメみたいにしていって景色のものといっても結局はこれですからね、フィルムのものは。だからバーンとほら、24コマ回すのすぐですからね。3分かかるかかからないかみたいなものだから。だからまあ、それをどれかに出してますね。だけどその折僕は、もう名古屋に。

坂上:名古屋にいったのは71年ですか(注:仕事の関係で名古屋に移転。現在に至る)。

水上:71年の11月。だからその後にあった方のフィルム造形というかそのどっかへ出しましたね。それを僕は16ミリ装置というのを持っていないもんだから、そのフィルムは見ていないんですよ。

坂上:でもみんな見てなかったみたいですよ。みんな寝ちゃって。つまらないから要は寝ちゃってたみたいな感じ(注:その頃の映像は、ただその場で足踏みしているものが延々とうつされているものとかそういう状態をそのまま撮っただけのものが多かったため、会場で寝る人が多かったという談が結構ある)。

水上:そうですよね。

坂上:それでそのあとまた飛んじゃって、70年代の話になるんですけど、60年代の水上さんは自らが行為するという、一緒にやるような感じなんだけど、松澤さんと知り合ったあたりから、「ニルヴァーナ」という単語をばっとサジェスチョンしていくそのへんのころから、今度は自分が参加するだけじゃなくって組織をすることが増えてきたかなって感じがしますが。

水上:そうですね、そこら辺の組織をするののそういった仕組みの一番の元版は詩の同人誌をつくるってね、時期があるんですよ。学生時代に。

坂上:『青炎』とか。

水上:その辺の中に、いろんな学校で、学校自体の詩集も出すんですね。それが京大詩集っていうのがあるんだけどもそれを僕は編集して、発注からなにから。

坂上:Kyoto University Anthology(注:水上は『筏』『京大詩集』を1959年より編集)。

水上:あ、そうですね。そのデザインも全部私です。そんなもののあたりからようやくそういうことをすることを知るんですね。でもそれはやっぱり書物とかそういったほう出のものだから、今度は展覧会企画かなんかと重なるぜと思い出すのは、やっぱりそうですね、ニル前後へんのことになるのかな。

坂上:プレイのときはまだみんなで……。

水上:まだ仲間っぽい内側だから、企画といってもちょっと違うんですね。

坂上:でまあ実際にはニルがあって、そのあと「すっかり駄目な僕たち」展とか、蝉のとか(注:1971年11月12日〜19日、「すっかり駄目な僕たち」、京都書院4階+京都市美術館。1972年8月4日〜9日、「活躍する僕たち」、京都市美術館他、1973年8月4日〜8日、「しずかさと蝉の声/表現物と表現理論」、京都市美術館)。そういうふうになってくると今度は水上さんが最年長みたいなかんじで、そこに八田さんとか米津さん野村狗巻とかあの辺がきてって。

水上:その時期、一般学校出っていうのはまだまだ位置が低いんですよ。美術界では。そんなことなんだそんなもんかいってとられてしまうね。

坂上:美術っていうものが戦後は総合芸術みたいなかんじで詩とか音楽とかみんな交じり合っていて、別に美大なんて出ている人も少なかったじゃないですか。

水上:それはそうですけどね。

坂上:反対にそういうもんの垣根も少ない部分もあったかな。でも逆に70年代、60年代とか入ってくると美術は美術で固有のもの、音楽は音楽でって、総合芸術的なものがどんどん細分化されていく流れのなかで美術的教育を受けていない人っていうのは、デッサン力がないとか造形力がないとかいうので、「違うわ」みたいな意識ってどんどん進んでいくような。

水上:そうですね。一つの立体物なら立体物でもこいつは彫刻を知ってると、こいつは絵描きの方だと。「そんなふうなのはどうでもいいんじゃないか」とこっちは思うんだけど。実はそんなふうな。

坂上:とくにコンセプチュアルアートだったら関係ないですもんね。でもそういう人たちと知り合うっていうのもギャラリー16なのかもしれないし、フィルム造形とかそういうもんなのかもしれないけど、そこで水上さんがそういうものをやってみようかなと思ったのは……。

水上:企画をですか。

坂上:「すっかり駄目な僕たち」展とか。

水上:やっぱりあの辺で一つあるのは、ちょうどアートワークスに入るときにやっぱりあるものはそれでいいし、よしあしはどちらでもいいし、「自分にないからつくるんだよ」ってそういうのが現代美術の始まりなんですね、僕にしたら。そういうことを同じく思うのはやっぱり他の先ほどから名前出てくるその人たち(「すっかりだめな……」系出品者)もそういう感覚を持つひとが多かったですね。で、そんなふうにしていってそれを「公募団体ならそういうところに出すけど入らんかい」というのもあるし、アンデパンダンっていうのはそれこそ勝手に展覧会も京都で延々と長く保ってきてくれたもんだからそういうのが一つ公表場みたいになっていって、そのうちの人によっては個展でそれをしたいという方もおられるわけだし。僕みたいなのも、それもそうしょっちゅうタブローをいじっているわけでもないってなこともある。でもまあまあ言いながら、でもやっぱり自分たちで気に入ったような詩の系統の内容をもった展覧会を組みたいなっていう気持ちがぼちぼち増えてくるんですよ。それで一番だだっ広い関係でいうと結局は、一方がニルヴァーナだし、もう一方はそうこう言いながら野外造形(注:京都新聞主催で1968年1969年と2年にわたって開催されたアンデパンダン方式の展覧会)のパターンからそこでそれをつぶしてしまったかでそこから外れてしまった人たちが何人かいたわけですね。外れたっていうかいやだって。脱出した人。そんなうちの関係に結局は駄目展シリーズの人たちもそういう人たちが似たような年齢っていったらおかしいけども、僕も(注:「すっかり駄目な僕たち」の出品者は、狗巻賢二、石田博、五辻茂、八田淳、星野高志郎、片岡友和、金崎博、郭徳俊、米津茂英、田代幸俊、中村勉、植松奎二、梅本建夫、野村仁、文承根、芥川耿、佐野芳樹、宮崎豊治、水上旬、鈴木重夫。「活躍する僕たち」の出品者は、狗巻賢二、金崎博、倉重光則、佐野芳樹、鈴木重夫、田中俊昭、高山登、野村仁、八田淳、羽生真、彦坂尚嘉、藤井博、星野高志郎、水上旬、米津茂英。「しずかさと蝉の声」の出品者は、狗巻賢二、梅本建夫、金崎博、鈴木重夫、田中俊昭、中村勉、野村仁、八田淳、星野高志郎、宮崎豊治、水上旬、米津茂英)。

坂上:学生終わって間もないような。

水上:そうですね。どっちかって言えばね。そこらで組んでいくとすると何がどうっていったって、って言う意味じゃ、ほとんど知らないし、こっちも知ってるようで知らないわけだけどもふっと背景に同人誌の頃とかそんなふうな頃をふっと思って。ふっと思ったら人間自体を集めて同時にしていくっていうのさほど変わりはないなってし始めるんですね。ほしいからっていうのと違うんですよ。そうしていったへんでやっぱり向きが企画を組んでいくような部分、でも、一般に何々会とかは企画組むやつとものつくりは別個でなければならないってことをいう人があるのね。僕はそれいやだって。

坂上:まあそういうふうに言いますよね。作家の癖にとかね。

水上:だけどもまあ僕はそういうことじゃないと思うもんだから、いっしょにしていくなりなんなりでみたいなへんの一番最初が結局「ニルヴァーナ」になるんですけど、それもまあまあ会うようにして出会ってそして、いろんなこともわかっているもんだから、京都でするなら市立の美術館で平野さんがいて、そういうことに対しての具合はしてくださっているから「あそこだと動き安いなあ」という感じで松澤氏に「なんだったらこっちで」っていうように傾くんですね。でもここでもうちょっと「ニルヴァーナ」っていうのはまだまだ広いわけですよ、発想が。だもんだから現代社会との関係みたいなもんで。

坂上:ほんとにごった煮みたいな感じで。

水上:持ち込んでいこうというふうに思い始めるのがそれから一つは実は名古屋での関係なんですね。「ART FOR」何のためのアートっていうのを名古屋に移ってきてからつくるんですね(注:1970年代半ば〜)。その少し手前かなんかに空と書いた空展がある。名古屋に話がちょっと横に飛ぶかもしれないけど、白善ギャラリーというのができるんです。それは白善ギャラリーの奥様が国画の会員さんでそこからもう一つ言いますと小牧源太郎さんが国画の会員なんですよね。

坂上:白善ギャラリーっていうのは名古屋ですか。小牧さんは京都ですよね。

水上:ところが国画会っていうのは一応全国組織っぽいのがあって、そこのうちの小牧さんはずっと長い方でしょ。しかももう一つはとり方次第だけど関西存在だといえば小牧さん、東京だと瀧口っていうような関係みたいだとこっちは思っていて。

坂上:なんとなくわかります。

水上:しかも小牧さんはいろんなところよく見回ってましたからね。

坂上:アヅマギャラリーも小牧さんが。

水上:ええ、かなり以上の力をお持ちだったですね。で、あるとき、あ、これ前話したけどもう一辺繰り返しておきます。あのね、これは1969年のプレイの関連でもって関わりをもった現代美術動向ですね、あれを見て小牧さんが、「ハプニングスっていうのはじっと見ていることだね」っておっしゃった。

坂上:うーん。

水上:つまり「ずっと見ているその時間帯だね」っておっしゃった。「おうっ」と思った。その通りだもん。「先生よくそこまで見抜かれますね」って、はっと思った。この方、心理分析も読んだりしておられるんだと思って。その辺の時期に西洋医学と東洋医学の話がちらっと出て。それで言ったら、どうしてもすごい緊急事態の場合は西洋医学のほうを使うけど、でなきゃ東洋医学だって。それは漢方薬とかそんな話も含ませた上での話でね。同じときじゃないけどそんな話もしつつ。そこまで「おーっ」となるとある種の状況が見えてくるわけです。その少し前だったかにあの人が教育大におられた時期ですね、「ちょっと話、君ちょっと話してくれないか」って呼んでくだすって。そこで2時間たらずですね、話をさせてもらったことがありますね。教育大に2度ほど呼ばれたんです。別個のまだ八田淳氏が学校(注:教育大)にいるころの、学生存在のときにハプニングスの講演を頼むってさ。小牧先生こっちに移ってしまってからなかなかお目にかかる機会もなくて、そんなこともあり、亡くなられたときもよう行かずで。そんなんですね。

坂上:「すっかり駄目な僕たち」とか「ALL OVER&OVER ALL又は回顧展」(注:1974年4月16日〜27日、アートコアホール、1974年4月30日〜6月16日は、一人一週間単位の連続展でギャラリー16+oneの2階で開催)とかあるじゃないですか。大体ネーミングは水上さんですか。

水上:いや、そうばっかりでもないですよ。あそこだと狗巻氏が案外いろんなことああでもないこうでもないというふうで、野村仁さんは「うん」というだけで、そういうことはあまり言わない人で。

坂上:発言少なさそうですね。

水上:ええ。そんなふうで。それから、東京に動いていった八田淳も結構案外いろいろふざけながら言ってるし。

坂上:星野高志郎とか京教が多かったんですよね、あの頃は。

水上:そうですね。それでまあ、どこでかわからんけど米津さんが「おれがじゃあデザインするわな」って。

坂上:ピストルシリーズみたいなので全部。

水上:ええ。それでいくってね。言ってしまえば米津事務所にただでお願いしたわけ。

坂上:でもかっこいいですよね。でもそれにシンポジウムとかいつもやっていたじゃないですか。

水上:そうでしたね。

坂上:そういうのはやっぱり水上さん。あとほら、一人一人のステートメントとか考えていることをやっぱりガリ版で残していたりとか。

水上:そう、それをなんとかしようっていってかなりのをガリ版でいったんだけど、あるとき野村氏が「もういやだ」って言い出す。そういうことよく言う人いるんだ。

坂上:ん? 書くのがいやだ? 出すのがいやだ?

水上:それ(表現が作品本体だけでない)文字方向(注:自分の考えについて文字についてあらわさないといけない。それのほうにも重心がかかっていく)になる。こんなことそんなことなるとやりづらいってわけですよ。そういう人よくいますよ。していったことを何も隠すこともないってこっちは思うんだけど、まあそんなふうで、それらしいものができなくなっていくんですね。

坂上:それらしいものっていうのは。

水上:記録集めいたものとか。

坂上:出して終わりでいいじゃないかみたいな感じ? 展覧会だけすればって。

水上:展覧会だけでいいっていうの。だけどちょっとそうじゃないんじゃないかって思い始めたり。いろんなへんのところにぽこっとニルのあとに関わってくるのがこっちの企画でですよ。「シグニファイイング」(注:1974年11月6〜10日、「自主企画・国際展 シグニファイング(意味化)−言語・事物/態度の表明とともに 展示/討論/カタログ/事後記録集」)ってあれで。いっぱいいろいろあるけど、お互いお互いで何をしてるかそれぞれしかわからなくなってしまっていて、広い意味じゃちょっと物書きさんも入り込めないし書き込めないからね。そんなものを一辺やってみないかっていったらどうかしらって。ちょっと荒っぽいパターンで言ったら中原・峯村の人間のあれ(注:「人間と物質」)の説明書きね。あれを自主的にいこうと。たとえばでいえばそういうことです。そうするとそういうプロジェクトが面白かったのか、河口龍夫なんかも参加してくれたんですね。河口龍夫は、でも原稿用紙に空けるだけですけどね。

坂上:「ALL OVER&OVER ALL又は回顧展」とか74、5年ころまでやっていたけれど、あれは水上さんは名古屋から。

水上:全部が全部じゃなくてだから、彼ら(出品者)に言ったのは、「名古屋からということをあまり気にしなくていいけども、僕自身も仲間としてっていうふうなことで思うならその限りで呼んでくれ」って。「じゃなきゃそれでいい」って言ったんです。こっちは名古屋の方じゃ理由つけて京都見物に来れるしね。オールオーバーオーバーオールは僕メンバーじゃないはずですよ。こちらへいくと、理論やそんなことどんどん言うし、しかももう一方は言語派の系統の、紙のニル派のあたりだとちょっと邪魔くさいときもあるじゃないですか(注:平野重光「活躍する僕たち展について」『美術手帖』1972年10月号を引用。「水上がとくに言語による表現形式を採ったのは、一つの暗示的な意味を感じさせます。水上の提案は彼のこれまでの仕事からいって決して奇異ではありません。ただどう暗示的かというと、水上と他の連中との間に明らかに亀裂が生じているということです。子供であったとはいえ、戦争を多少知っている水上と、戦争が終わって生まれた他のほとんどの連中との意識の差異が明確に出ていると思われます。つまり若い連中の方が〈美術〉に対するこだわりが強く、水上はあっさりと決別をしていると見られる点です」)。

坂上:まあ年も違うし、考え方が違いますね。

水上:だもんだからそこら辺ですね。で、あるとき名古屋でも持ってこないかなってことあったりして言ったこともあったけど、一応は何人か来てくれたんだけど、やっぱり名古屋いやってことになって。

坂上:八田さんなんかはそれこそ当初から東京でねえ。「点展」とか東京でやったりとかしてたし。

水上:そうですね。でも八田氏は大学やそんな関係なんかかんか、もともと京都だってこともあったりでやっぱし、あれですね、おそらく全部メンバーでしょ。

坂上:今でも深夜バスで移動してるし、今でもある意味では歩き族ですよ、船旅とかね。富士山みたいなものをもって写真撮ってるの全世界回ってやっている意味では、最後の歩き族ですよ(笑)。

水上:あのね、それはっきりした言い回しだと、フーテンって言い回しをしました。

坂上:ガリバーはフーテンですね。フーテンのガリバーとか言われてましたよね。

水上:うんうん。だから、もっと古い時期からフーテンフーテンって言葉があって。

坂上:寅さんとかも。フーテンですね、また違うんですね。

水上:まあ違うんですね。まあまあそんなような時期もありましたかね。一個は野外造形(注:1968年1969年に開催された「野外造形」展。そもそもその前に「次元」という展覧会がある。それは寺尾恍示の呼びかけでギャラリー16ら辺に集まる若い作家に声をかけて実現させたアンデパンダン形式の展覧会)かなんかを壊してしまった関係のなかの若手から始まったのが駄目展シリーズのあのへんで。あの時期っぽくいうと狗巻もそうだし、なかなかの位置づけを持っていて。そのときにたとえば針生先生は関わりなかったけども中原佑介は良く関わりもってますね。そのときまた別個になるけども彫刻の堀内正和さんが若い衆をよく連れては木屋町というか三条四条あたりへよく飲みにつれてましたね。

坂上:辻晋堂とね。

水上:辻晋堂さんそうでしたね。

坂上:辻先生は「ファニー」ですね。

水上:(笑)ねえ。

坂上:ま、古いタイプの。

水上:あなたの時期にはなくなったかどうかわからないけど、南座のまえに「杉作屋」って店があったんですよ。飲み屋が。そこがなんかいろんな人がいましたね。そこのおばあちゃんがすごくいろんなことを知っていて。それから常連客っぽい人が何人かいてですね。

坂上:ちょっと話飛ぶんですけど、「シグニファイイング」っていう、これはどういうもの、これはハブルさんなんかもいっしょに冊子も出してますよね。あれも持っているんですよ。これ、どういうもんだったんですか?

水上:それは態度表明の。

坂上:また70年代のニル的なものがもういちどぶり返してきているようにも見えるんですが。

水上:ニルとはちょっと違うんで、言語派ということではなかったんですね、ものを出してもいい。ただし出すものと、こういう姿勢で表現しているってそれをしてくれないか言ってね。そういうことのお願いをそこにだいぶ長い文章で書いたんじゃないかと思いますね。状況こんなふうこんなふうこんなふうだからって。入ってるでしょ。へたちくりんだけど英訳もつけたんですね。

坂上:ついてます。全部。ただそこにハブルさんも出していて、山本茂樹さん(詩人、ハブル氏の教え子)も出しているんですね。

水上:そこら辺のとこで、もうそのときに茂樹さんはハブル先生という関係位置で、おられたわけだけども、まあ、茂樹さん通じてじゃなくて、僕はハブルさん自体に「こうこうこんなふうだけども、へたくそな文章でもうしわけないがお願いできますでしょうか」っていうふうに言うと、うん、「じゃあ一辺読んでみたからな」って。そして「うんうん」ってね(それで参加してくれた)。そんなことですね。

坂上:これ結局どういう展覧会だったんですか。多彩じゃないですか。彫刻家もいれば画家もいて。今から見れば。ハプナーもいればダダカンもいるし(注:国内海外合わせて100人以上が関わりを持った)。

水上:ええ。美術表現自体をどんなふうに俺たちがしようとしているのか。そういうことを一辺言ってくれませんかってね。そういうこと。

坂上:文字で。

水上:文字だけど文字だけじゃありませんよ。表現物と表現姿勢を文字で書いてくれと。つまりそういうときに表現姿勢を別物でするとちょっとずれてくるもんだから、どうしても言語が要るということをその辺に書いてるんですね。そういうふうにして、この人はどうかしらんって、いろんな人に送りだしたわけ。必ず参加しろとは思わない。しかしそうやって自主企画ってめずらしいもんだから、誰がこういうふうにして誰に送るということを、指示を受けたかみたいな質問がいくつかありましたね。「なんだか興味深いもんですからお願いしたい、よろしければどうぞ関わってください」ってそんなふうなことで。しかもこの時期あたりから実行委員みたいな名前が、出始めてくるわけだ。

坂上:本当だ、実行委員会ですね。

水上:ここの少し前らへんか。だからそれを使ったわけ。つまり考えれば、展覧会自体は実行しているわけだから。だからこんなふうにいろんな人に送っているわけだ。出しましたよ、結構。その折に誰か評論家がこの背景にいるんじゃないかというふうに取る人が案外いたわけです。そんなもん冗談じゃないって。こっちは、「いやそういうふうなことではない。評論家先生とかそういった関わりとか当然参考にさしてもらってますが」というへんで、何もないっていえばそういうわけでもないもんですからね。そこは素直にそう答えて。おまけにここに書いた文章を読めばほとんどそれで何をしたいかわかるんじゃないかってそういうこともあって。しかもここ入場料をとることにしたんですね。わずか300円。まあ300円くらいならなって。コーヒー代プラスアルファくらいですね。

坂上:いままではずっとゼロ円だったんですね。

水上:いわゆる自主企画もそろそろこういうことを考えて言ってもいいんじゃないって。ただ見せっていうのはちょっと違うんじゃないかってこともあったもんだからしたけど、人数は忘れましたけどね、極端に少なかった、あとでその来てほしかったってそこらを、文章読んだらそこで終わってしまったって。変な話。

坂上:そのあと「やろまいか」(注:グループ展)とかやりますよね。

水上:「やろまいか」っていうのは名古屋でね。あれはだから庄司(達)さんあたりとかその他何人かの人たちが関わって。僕自身はそこには関わりをもっていなかったと思いますよ、確か。

坂上:この辺あたりからちょっと手を引きますね。水上さん。

水上:そうですね、やっぱり気に入った集団系統の方の関わりのほうがいいのかなと思うのと同時に、かつてしていたパフォーマンスというかその辺りから、音の領域だとかもうちょっと入り込もうかしらんとぼちぼち起こし始めるんです。もう一つはいわゆるメールアートというとおかしいけど、コミュニケーションアートですね、メールコミュニケーションですね、それをどんどん増やしていくんです。この辺っていうか70年代に入ればです(以下省略)。

坂上:いわゆる組織してみんなをくるんでやるみたいなの。そこで、なんか怒ってやめるなり何かいやだなって思ったなりの理由があるのかなと自分の中でちらと思ったりしていたんですけどね。それまでかなり精力的にきていたからぷちっと終わるように見えるから。それからはごく個人的なところでもう一度やってるから。音楽参加にしろ(現在の仕事のひとつである)篆刻にしろメールアートにしろ。自分がオーガナイザーとしてやるよりは。

水上:オーガナイザーっぽくしていくへんの限界みたいなものはようするにオーガナイズしたやつは下働きでしかないんだからっていってその展覧会っていうのはこういう仕組みでこうでこれやってすれば迷惑がかかるってそんなこと考えもしないっていうのが何人も何人もいるわけですよ。

坂上:文句ばっかり言いますもんね。

水上:それね。だもんだから「ああ何のためにこんなことをしているのか」って状況としてこっちはしてるんだけど、「あのね、俺金儲けのためにやってるんじゃないし」って、いろんなそんなことも思って。そしてこんなふうなところで無駄遣いするならもうちょっと自分自身どこに向かいたいのかはっきり自分の方へ問いかけを持ち込んでいった方がいいんかなって。だから、どれにどう怒ったみたいなそんなような典型的なものは何もないですね。ああこんな状況かなって。そこの相手っぽいところに亡くなってしまった高橋一雄さんっていう元読売新聞の記者。よく京都にいたころだとすれば、ちょっとうまいものをだす、高瀬川のところの。

坂上:めなみ。

水上:そこへときどきよったんですね。別に向こうの人と顔見知りでもなんでもないだけど、そんなところへ高橋さん「あそこいこうか」って「はいはい」って。「今日はもうちょっと安いところお願いします」とかね。

坂上:めなみはみんな言っていたけど、どっちかというとめなみは高い、赤垣安い、みたいなね。

水上:赤垣はなぜか高橋さんとあんまり行かなかった。高橋さん御所の裁判所の南側くらいですからね。あの人の家が、だもんだから御所の正門の前へんをふた筋三筋南へ下がったとこのあたりにあるんですよ。僕は行ったことありませんよ。そこらしいって感じで。そんなふうで、「美術なんてばかげたことをやめろ」って何度も何度も言われた。

坂上:松澤さんも「美術作品なんて作るのやめなさい」みたいなことをみんなに言ってましたよね。

水上:そうですね。でもどんどん終わりっぽくなってきてまたものが出始めるんですね。

坂上:反動で。

水上:かもしれないし、あるいは潜在みたいなものかもしれないし、わからないですけどね。あなたはふと呪文ぽくっておっしゃったあれを同じことを何枚も何枚も書いてそして展示したりですね、

坂上:人類よみたいなやつとかね。

水上:僕はテープとらなくって残念だったけど、広島市現代美術館での松澤さんに呼ばれてそこへニル系っていうかね、そこにしていったへんのもののときに(注:2004年12月〜2005年3月、「松澤宥作品&松澤宥キュレーション作品展「消滅と未来と」」)、松澤さんがスタートのときに自ら宣言文めいたことをやるわけですね、正門前でね。それがすごく良かったです。ただテープレコーダ持っていっていたんだけどちょっと奥の方へ置いていたもんだから結局とれなくて、あれちょっと惜しいことしたなあと思うんですけどね。まあなるように、それがもう最終っぽく、こっちにしたらですよ、なってしまったわけだし。おそらく、松澤さんの文章アートっていうのはほぼ始めに近いころのあの9×9のですね、あの辺でもう終わったのかもしれません。その後追いみたいなことをたとえば豊田でもしてみたり。それは何かと言ってみると結局はまあ「消滅せよ」っていうのは自ら白いスーツを着て。そして宣言っぽいことをされると。あの人はそれを何とか自分流のハプニングスだとおっしゃってたわけだけども。そんなもんこっちから見たらなんでもないんだけどね。人としての姿のままで成り立っていくようなへんのことだったのかもしれません。まだつかめませんけどもね。

坂上:まあ、私の考えだから、何か切り開くコンセプチュアルアートだったら何か別のものが開いていったと思うんです。うまく言えないけど。松澤さんの場合は、消滅せよ、あのときは新しかったと思いますよ、オブジェを消せって、消滅せよって。ただしそれを、過去に求めてるわけじゃないですか、過去のスタイルに求めてる。だから消滅せよというのもうまく言えないけどあまり前向きじゃないんですよ。コンセプチュアルアートでも何か切り開く新しいものなにか見ようとするコンセプチュアルアートというよりは、いつかお前は死ぬんだいつかお前は死ぬんだと呪詛的な。

水上:そうですね。あのグループの名前付け、ニルヴァーナの下につける、松澤さんは最終美術云々って。最終ってつけるんですよ。僕は最終っていうのは違うのであってやっぱり究極の方がいいってねそんなふうなネーミングにしたわけですよ。つまりそこらへんが宣伝的なんですね。最終ってわかりやすいっていえばわかりやすいし、ほんまに終わるわけ?みたいなさあ。

坂上:過去に帰ってばかりでそこで開かないんですよ。

水上:そうですね。ここで終わりって。ね。

坂上:だから作品展開もないわけじゃないですか。要は同じことの言い回しってさっきも言ったけど。

水上:そうですね、難しいのは特殊な系統をはじめるともうそれ以外の特殊性ってなくなってしまってしまう。それで終わりなんですね。どうも一方に最終もう消滅するって長い吹き回しがあって。ぶら下げるってそいつと、もう一つは文章曼荼羅っぽいものの直系でもう終わったのかなと僕は思います。

坂上:結局それが悪いとは言わないですけど、おまじないみたいなもんじゃないですか。こういうのでもお寺にあるようなものに見えるし、呪いの言葉じゃないけど。

水上:まあようするに呪文というかね。

坂上:そうなんです。アートとはまた違う人への脅しっていうかね。それ松澤さんの問題だから、水上さんに聞くべきことでもないんだけど。

水上:でもどう捉えるかっていうとそんなふうなね。それともう一つどうもはっきりしないのは、つまりなんで、回答を僕いったかどうか。つまり今泉さんが『機関』の中に、何で(水上が)松澤のアシストをしているのかって。

坂上:書いてます。何で水上みたいに頭のいいっていったら何だけど(注:『機関』13号より引用。「私には水上旬とともども、松澤宥は悪いひとだと云わなければ収まりのつかない思いがある(もっとも水上旬がそう云いたいと思っているかどうか、私は知らない)。あるいは松澤宥は、本当は、もっと悪いひとでなければならないとでも。と云うのは、虚空にとばす檄は地上に落ちて、水上旬などをオルグしてしまうことになるのが自明なのに、そのことに無自覚だからなのであり、かつ、その無自覚性を承知の上でオルガナイザーとしての役割を演じてきたからなのである」)。

水上:それがどういう意味だということを今度は松澤さんが亡くなってしまったあと、去年だったかつまり3周忌かなんかのときに今泉さんもきていたんです。お体だいぶお悪いけども、だいぶ前から悪くしておられるから。「あれはいったいどういう意味だったんですか?」って、「いや、何の意味もない、ただそう感じたから書いただけだ」って。だって、「それってどういう意味ですか」ってだいぶ前にこれ(『機関』)でたときに聞いてるんですよ。そしたら「ウフ」って言ったもんだからね。何も言わなくて、「僕考えます」って。だいぶ長く考えたけどどうもなんかわからんもんだから、どんどん会う機会もなくなってくるもんだから、3回忌のときにね、たまたまそうだったから。

坂上:(松澤さんには)ペテン師というところがあるじゃないですか。

水上:ありますね。だましっていうのは、もっとやわらかく言えばアートなんて全部だましかもしれないしね。だけどまたそれとは違うっていうか、そういう系統の意味じゃないものとしてちょっとした占い師だったり予言師だったりよくやるみたいなそこらへんの姿を持ってますね、松澤さん。

坂上:コスチューム自体も意識的にペテン師的なコスチュームにしているし。

水上:そうですね。

坂上:それをありがたがる若いファンみたいなのも。豊田のときはあれで面白かったんですけどね(笑)(以下省略)。

坂上:それで水上さんそれでとにかく自分の表現を……。

水上:戻っていくのと同時に、ものの手を借りずに自分自身をどうこうって、それは自分自身が演者とかそうことじゃなくて、もうすこし意識の問題もっと深く深くまで入り込んでいかないといけないなってね。

坂上:ゲリラ的なことが増えて。そんなことないですか。それまではやりますよっていってやるけど。あの京大のCDのあの社長は何も知らないっていうのとか(注:第五列『社長は判ってくれない』Alchemy、2005年)。実際どういうふうにコンサートができてCDに収められたのかわからないけど、なんかほぼゲリラ的に出演しているように見えるけど。

水上:あの西部講堂自体僕はもっともっと昔の状況は知ってるんだけども。あそこは、青野や小松やらの代になって、誰だっけな、忘れたけど、金野がどうってわけじゃないですよ、金野は大阪大出て、そして向こうへ盛岡の郡部に彼は家があるわけだから。それちょっとローマ字逆にするとオニックって読めるもんだからね、オニクオニクっていうふうにいってるんだけど。霜田誠二って踊り手がいるのかな、そいつがもう一人、なんとかって3〜4人が大阪系統から関東の方へ行き戻ってきて音チームを持ったりして。それからライナーノートをやっていて、何だったかな――その人の名前忘れた――その人がいろんな自分でも音というかそういう即興演奏をしてみたりする、そういう催しを組んでいくわけですね。そんな人のときに京大西部講堂を何度か使っているわけだけども、そのうちの一つにまあこっちはチームで動いているわけじゃないから一人で動いて独演するっていうんじゃなくてごちゃごちゃの中にこっちも勝手をさせてもらうっていうのは、相手の音を聞きながら自分も反応するっていうのが、僕のやり方なもんだから。

坂上:それはリアクションズ。

水上:ええそうです。そういうこと。だからそんなふうなあんまり静かだったらそこを打ち破るために何かしますけどね。音をね。金野とかの関連者がものすごい馬鹿でかいラッパあるでしょ。それを吹いたら面白いってね。そのことの関係を収録したいけど何か書いてくれって。だもんだからうれしくなって、あれだったら覚えてるから、その場の状況をね。「じゃ、何か書きます」っていうので状況を書いたのかな。そこで考えていることをある程度出したのは、存在状況でもって状態っていう表現についての関係ですね。生命体といってるものは実は生物といってるものだけじゃなくて、非生物といったものも実は生命といったふうな範囲からもっていくと存在してる。そういうふうに生命ってやつはいろんな現れ方をとるって。だからものに応じては石ころのかたちをとるときもあるって。その辺りのことを多分書いたと思う。順番順番で解説っぽくしていったんだけどもそれを送ったら、文章長いからちょんぎるってわけ。ちょんぎると意味なくなるんだけど、「もう一辺そこ短くしますから」っていって。そうするとやっぱり全然違うふうにずれ込んでしまったのが、あそこにちょっと載ってるやつですね。それはそれとして、あなたといわゆる音の話ってほとんどしていなかったと思うから。なもんだから、こういうのがあるから、ちょっと聞きづらいけどって。

坂上:でもよく聞いてみると琵琶やったり、サックスフルートからやって、結構いろいろ。

水上:そんなことしているうちに今度は音自体の方向へ行くんです。音楽ではなくて。そうすると耳を横切っていく音っていっぱいあるなって。それからいわゆる機械ノイズってありますよね。電気関係のジーみたいなの。あんなもんも聞いていると面白い。しかもそれが動いてはいないけど、自分自身が波打つわけだから波打って聞こえるわけですね。一定のリズムだけでリズム刻みでとることができるもんだからそこらへんのこと過去モダンジャズなりヨーロッパモダンってあるんだけどそこらへんのところに誰か書いていたのをふと思い出したり。それの具体的な実験をするってね。そんなふうな辺のことも含めていって、結局は呼吸するって、息をするっていうののプロジェクトがあるんだけど、それは一般には無理だから。あの、面白くもないかもしれんから、始めはね。息をしながら音を聞きながら出すって面白いことになりますよ、本当は。入り込み過ぎないでって(笑)。しかもそれのもう一つは二人でしてもいいんだけども、50人か100人くらいになっていって、おそらく同じリズムに変わっていく可能性をもつんじゃないかって。

坂上:ああでも木魚とか叩いていて、何か最初ばらばらに叩いていても最後は揃うとかありますよね。

水上:もう一つ、人同士みんな同じじゃないかという部分があるぞと。ばらばらがひょっとしたらうまくいくのではないかと。過去方式のいろいろに戻ることは戻るけど、戻るんじゃなくて実は元版のところから再スタートをしようじゃないかってね。そんなのをひょっとすると文章だと、絵画とかそんなんじゃなくて、ある意味の行為であるとか、生きること自体のほうへ持ち込んでいくとすれば、ひょっとするとひょっとするかもしれない。そこであんまり堅いこと言うとみんな嫌がるから、ただ呼吸するだけですって。それでまあその折に、思いっきり吸ってください。今度は思いっきり全部吐き出してください。ワンクッションおいてって、呼吸法の一つの方法を使ってくれってね。そんなふうなことで。そんなへんなへんやらに音の関係はたどりついてきたのかなという気がします。だからようやく出発点にこられたのかもしれないけども。

坂上:話が昨日まで戻っちゃうんですけど。リアクションインサマーについて聞くの忘れてました。68年(注:1968年8月28日、「Reaction in Summer’68 衝撃をめざす芸術の集団の夕べ」、新朝日ビル地階SABホール)。

水上:これは無人島でそれなりにお遊びをやるわけですね(注:イヴェント・現代の会8月例会、ところ・無人島〔不毛島別名裸女ヶ島〕1967年8月5日6日)。海の水もある。その辺のとこでこんなんをどっかでやろうかいって、建築家もいろんなもんも含ませての話で出てきて。そのときに言ってみれば、プレイ系のもんとかそんなんもうちょっとわかってるもんだから、これはおそらくあの人が、岡本はじめが刷ったんじゃないかと思いますけど。

坂上:(岡本さんは)《In Out》っていうのやってるけど。

水上:うん。ここにいくつかある(手元にチラシがあって参加者やその出し物が載っている)んですね。だから、そんなような関係のだから知らない人たくさんあるのは結局大阪系だとか建築系だとかいろんな人がおられたもんだから。

坂上:岡本さんが企画したんですか。水上さんがリアクションじゃなくて。

水上:いや、企画したのじゃなくて、これを印刷したのが岡本さん。僕もそういいながらどんな話をいろんな人としていったのかは、あの、もうほとんど覚えてませんね。

坂上:(水上旬+水上朝子)《区分帯積算反応、REACTION宣言》(注:チラシによると「反応」)。

水上:これの解説かそんなような紙切れがあるんだけどそこに「リアクション宣言」ってね、プレイの新聞の方に載せたものをやっぱし載せてるんですね。そこへしたのが一番始めかな。リアクション宣言のもののね。ことは。それで、やっぱりここらへんのものともう一つつながってくるのは、このあとくらいに関西テレビ、関テレの番組に呼んでくれるんですよ。何人か。

坂上:「11PM」。これと同じ時期ですね(注:1968年8月13日に放送された読売テレビ放送「11PM」の「ハプニングだぞ!」)。

水上:そうです。これとほとんど似たようなことの、例の映像関係ふうなことでいいますと、やっぱり人自体が一つの被写体というか、つまりスクリーン代わりにしていくようなことでもって(やった)。そして、この折も、距離やいろんなこと、方向やらの関係で組み紐はそこに持ち出していたわけです。長いやつね。そいつともう一個、キャスターっていうかころころのついてる箱に入っているもんだから、そいつを全部引き出してしまうと、あとは、そこにバシッと釘付けにしてあるもんですからね。そうやって箱を引っ張っていくようなことも間に入れながらですね、どんなふうな物語っていうか、何も物語なんてないよってわけだけどね(注:この回はハプナー特集で、水上は《Polimage Reaction》)。

坂上:ここに集まった人たちっていうのは、11PM。イレブンの方が先ですよ。8月の13日に放映してて、こっち(《Reaction in Summer》)は8月28日だから。

水上:そうですか、そうするとおそらく同系統のことをしてると思うし。もう一つ、前話しましたね、そのイレブンのときにね、和田アキコが若い子で歌うわけだ。

坂上:あ、そう、和田アキコの一番最初のデビューがこのイレブンのときだったって。

水上:あのときの司会者、今もどこかでいるんだろうけど。

坂上:藤本義一。

水上:そうそうそう。だからそういえば安部ビートは藤本義一のところに訪ねていったりしたこともあったみたいですよ。

坂上:安部ビートが? 俺もイレブンにみたいな。

水上:いや、そんなふうじゃなくて藤本義一は文筆家でしょ。いろんなことしながら結局そこへ引っ張り上げられたわけです。言ってみればね。だからそこら辺の文筆家業めいたときに、こんなおもしろいのもいるっていうな売り込みぽいこともしに行ったのかもしれない。

坂上:安部ビートってすごい気になる。でも私全然、安部ビートの詩とか知らないんだけど。

水上:ほぼの位置(安部の資料の位置)がわかってるんだけど、紙の山なもんだから。積み込んであって奥の方にはいってるもんだから。

坂上:生きてるのか死んでるのかもわからない(注:亡くなってる)。

水上:僕はどうも亡くなってると思います。っていうのはね、あのよっぽどぼろつかない限りは僕のところに立ち寄ってくるんですよ。あるときから来なくなってしまった。と言っても、昨日話したかな、原村の奥のほうの幼稚園の先生だったと思うんだけど、いっしょに暮らした人ね。結婚とかそんなことはしないと思うからね、その辺でいて、結局はおそらくさっき教えてくださったそのへんの病院へ出たり入りを繰り返していたのかもしれませんね。

坂上:この11PMでは。

水上:つくりが決まってしまいますからね、枠が。だもんだからあれは、僕はあのものを当時一辺記録したものを見たけど、あとはもう知らないわけだけど、池水さん持ってるんじゃないかな、あのときのダビングを。でもそれは朝子に白いローブを着せてそして、そこへ映像を写していくへんの。

坂上:《ポリイメージリアクション》。

水上:そして同時にスライドですね、スライドフィルムというか。あれを実は多分いけるはずだというのは実は数枚重ねて入れてあるわけ。一つのフィルムフレームに。そしてそこにボーっと映るけど、今度は距離関係があるもんだから近づくごとに映る部分がちょっとずつずれていくみたいなものと重ねていったんじゃないかと思う。つまり多重多重っていうけどもう一方の多重のそれを今度はスクリーンっていうかそれが動くとそのときの関係でもって焦点が合うっていうかそんなことをしてそれをそのまま固定カメラで写してくれて。そこに僕のあのそこらで知っていたへんの音楽のサウンドを入れていたんじゃないかと思います。で、あ、そういえばシュナイダーやいろんな話とかたとえば何でしたあの、えっと、『ハウル』書いた詩人。『吼えろ』。

坂上:アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg)。

水上:彼らがね、シュナイダーの留守のところに上がりこんでいわゆるLPにそういったものがあるってそいつを選んでそいつをオープンリールの方の小さいカセットテープ、オープンでとったものがあるんですよ。もうぼろぼろになってしまってるんだけど。そいつを他のものと重ねて使って、それをかけてくれって。だからいわゆるぎりぎり著作権にひっかかる関係みたいなところなんだけど。

坂上:それもイレブンで。

水上:イレブン。そのときにね。音バックを。そのときに言葉しゃべられるのいやだから。そういうふうにしてそしてお願いしますって。一応向こう引き受けてくれたの。複雑なことをやるもんだから、企画室のところで説明しましたけどね。音もごちゃつくといけないから、こういうのですがこういうのでかかるような関係でいいからってね。

坂上:そもそも11PMにどうして出ることになったんですか。

水上:それが誰の関係なのか、誰かがそこらに一口、11PMはすでにスタートしてるもんだから、ですよね。そこはテレビでのどうのってそんなことをいわば誰でもやってみたいことがあるもんだから、だからそこに誰かがそこへコネつけるんですね。

坂上:こういうのはやってるしやってみても面白いんじゃないかなって。

水上:へんてこなことだから、ちょっとしたふうになるんじゃないって。台本あるし。

坂上:結局出たひと、リスト見ると、喜谷繁暉。藤井英美子、山口治、岡本はじめ。山崎ラン、福永トヨ子、水上旬、池水慶一、三川由貴、三喜徹雄、中田和成、なんですけど、こうすると水上さんにイレヴンの会合とかいってね、はがきを送ってきた飢多孤児の名前が入ってないんですよ(注:1968年7月2日消印の飢田から水上へのはがきには「7月4日木曜午後3時大阪梅田『バンビ』1階来れ!!イレブンの会合。注(案を作成のこと→放送局)参加KITANI, OKAMOTO, NAKATA, IKEMIZU etc and UEDA本番は後日(16?かな) 場所未定。変なハプニングをやるとのこと。そのつもりで」とある)。

水上:そうですね。

坂上:そうなんですよ。中田さん出てるし、水上さん出てるし。池水さんも三喜さんも出てるのに。飢多孤児が出てないんです。

水上:飢多孤児はどうなのかな、何かの関係なのかな。飢多孤児は一方ではデザインとかそういうことやってるんです。今でもなんかっていう名前もった大阪に事務所あって、彼自身はその関係のホームページ持っていて。で、どこどこで何何食べてすごいうまかったとかね。

坂上:え? ホームページに? 飢多さんって何の仕事してるんですか?

水上:デザイン関係だと思いますよ。

坂上:ふーん。それで何々食べてうまかったって。

水上:そのときにどこどこの用事が入ったのでそれしながら、金沢なら金沢行って何とかっていう店でどうこうしたとかそういうこと。それが実はいろんなところ食べ歩きの話になるの、結局は。仕事があったっていうのはほんのそれが。そんなふうなことしてますね。ちょっと今なんて名前か忘れた。ごめん。

坂上:飢多さんが出ていないのが気になって。

水上:そうですねえ。なんだろうな。あの人は企画とかその辺のことをたくさんやってるもんだから。

坂上:飢多って名前がちょっとへんじゃないですか。だからそういうへんな人なのかなと。

水上:そんなことない。あの、かなりおしゃれですよ。

坂上:デザイナー的。実は意外。何々食べておいしかったってすごい意外だなと思った。もっと三喜さんっぽい人(ヒッピー的なイメージ)なのかなと思ってた。

水上:スマートボーイですよ。だからいろんなところいろんなところに顔出しをしたいということもあったり、当然安土ガリバーとも知り合っていくわけで、精華か、北の奥のほうの大学に画廊空間持っているところがあって(以下省略)。

坂上:ガリバーって水上さんといっしょにれまんだらんやってるときは安土修三。いつからガリバーなんですか?

水上:彼がそうこうしてるうちに新宿に行く。まあフーテン集団ぽいのが起こってるってそんなのが情報で入ってくるわけですね。それで向こうに行ったときに自分でガリバーって名前付けたんじゃないですか。彼はいろんなことを面白おかしくなんだかうそ八百で並べてしていく男だから。で、そこら辺のことですかね。こっちはそうふざけもせずに、安土のそこらのうさんくささもわかってるもんだからね。適当にあしらうっていったらおかしいけどあしらいつつ(笑)。

坂上:ガリバーが偉いのは一度も働いたことがない。

水上:って言いますよね。それはね結局相手さんが食わしてくれるって。

坂上:そうそうそう。ジゴロみたいな感じで。

水上:だから前も会ったときにイタリーに行くのがとても多いって言うから、すばらしい、そういう企画でも組んでくれるわけですか、って言ったら、そういうこと、順番にあそこに行ったりするとかそういう口調だから。向こうにもそういう港港をつくっているんだなって。

坂上:すごいですよねー。

水上:どの程度彼が英語をできるのかわからないけども。いつかこの間何のときにあったのか、松澤宥の3回忌に来てた。安土。関わりあってもおかしくないですからね。でもまあその折に今のイタリー話とか、今度滋賀であるから是非きてよとかね(以下省略)。

坂上:関係ないけどシネリアクション京都教育大っていうのは、京都教育大でやったのって何でやったんですか?(注:1968年12月、《Cine Reaction》、京都教育大学)

水上:それが僕がなんだろうな。教育大で。そこは向こうで何人かのアングラフィルムめいたへんをするってときにやっぱしそれようにつくったっていうかそれまでに作ったものをごちゃまぜに編集しなおしたものをそこへうつすこととやっぱり、さっきの11PMでもしていったふうとかいろいろある重ね写しめいたことをさせてもらうことと。ひょっとしたらもう一つ。そのときに話をしたのかもしれませんし。映像っていうのはあまりそう変わったようなことでもないんですよ。内容自体はどうこうつくるっていうのはかなり薄いことになってるから。薄いっていうか自分の中に。だからちょっと僕具体的にどういうことをしたのか忘れてますね。

坂上:教育大には誰かが手引きみたいなのを。

水上:その辺の時期に教育大は、寝屋川の石田博とかそれの後輩とかね。寝屋川の石田は教育大出だしね。八田さんもそうでしょ。そこらへんの八田氏辺りの回路で。

坂上:でも八田さんってまだ若いんじゃないですか。68年だから。

水上:そうすると在学生というふうな位置であったのかもしれんし。八田氏は。すると別の人が呼んでくれてそのときに八田氏がそういうのがおるのかということでの何かもし在学生の段階だとしたらですよ。だったかもしれん。

坂上:ああでも狗巻さんも京都教育大で、この頃みんな卒業するかしないか頃かもしれない。

水上:かもしれませんね。美術関係のあたりを出ると、もの書きさんもまずそこら辺のあたりでまず何をするかっていうふうなその辺の関連みたいなものもあるだろうし、もちろんその折主任教授だった方々にも今度こういうのが出るからそこは見てやってみたいなことを言われる場合もあると思う。どうもやっぱり野外造形やあの辺の関連みたいなへんからまた学校との関わりがあって、その背景か前後関係に京都書院の杉本さんっていう人が当時まだおられて、そういうもんの方へね。

坂上:冊子とかつくってられますね(注:『キョウトショイン』)。

水上:そういうもんのほうへ記事ない?みたいな、書いてもいいんですか?みたいなことで。

坂上:「天皇誕生日に関する小集会に於ける身元不詳某氏発言の部分報告書」(注:水上の書いた文章のタイトル。1969年3月)。

水上:そこら辺で少しまた他の学校だとかそんなところの卒業生があそこへちょっとこういうものあるからやらしてやらないかみたいなこと。その折の新任か副主任の人に話してくれて、それじゃ学園祭かなんかのときにちょっと呼ぼうかとそんなこともあったのかもしれませんね。どなたがどなたとか忘れてしまったすみません。

坂上:でもそういう関係じゃないと。あとに続いていく流れからすると。ギャラリー16細野個展の《大蝋燭儀式》っていうのは(注:1968年12月細野毅美展「密猟の形而上学=極東破門情」における水上ハプニング)。

水上:それは昨日話したと思うけど、和ろうそくのくずみたいなのをああいうふうにつめて。それは何本も作らない。一本だけつくる。それくらいしかろうがないんですよ。シアター36のどっちになってるのか、ゼロ次元云々のですね。

坂上:これが大体69年の方にゼロ次元じゃないけど反博みたいなのでいっぱいあるじゃないですか、九州のアンチアンパンとかゼロ次元たちのやってる。これちょっと前にやってるんですね。

水上:だんだん思い出しましたが、徳成町の北隣に奥に入る道があって、となりが古道具屋だったの。名前が「太陽」って。そこのところに通り道に和ろうそくのくずがばーっと放ってあるわけだ。向こうのもんだけど、それを時々くすねたわけ。で、だいぶたまったからこれでつくってやんべえって、どうやったらいいかなと思ったら。まず筒がいるってね。和ろうそくの作り方なんてようしないもんだから。で、筒はそういう意味でちょっとこのくらいの筒をそこら辺で買ったのかね。そのままじゃ抜きがたいから縦に切れ目を入れてしまうんですよ。で、そこの中へたてて順番順番にね、ちょっと太めによじったタコ糸をそうやっていって。めいっぱいのところまでとかしこんで。それを持っていくわけですよね、時々。その前に細野たちのところにいって、ちょっとこういうのやらせてくれない?って言って。

坂上:細野さんっていうのは知り合いだったんですね。それで入れてよって。

水上:させてよって言ってね。

坂上:この間の西脇さんのときみたいに(注:1966年2月7〜13日、信濃橋画廊)。

水上:そうそう西脇さんのときはあれは平田氏に頼み込んで。だから人様の関係だから。

坂上:この「墓地改葬公告付のキノコ製造工場に関する部分論」っていうのは、要はこの間のやつみたいなもんですよね(注:1968年12月)。プレイの中に入っている。バイオレットメールですね。きのこ関係ですね。この次「たまごミニアチュール展」(注:1969年1月、アヅマギャラリー)って。卵といえば池水さんと思うんだけど。

水上:それは、そういうことでもなくて、卵はですね、卵関係の展覧会をアヅマがするので何か出してくれない?ってさ。

坂上:じゃあ、池水さんの卵と全然関係ないんだ。

水上:関係ありません。僕はそれは卵を何十個かなんかをね、一つの箱の中に入れるっていうので木箱を作りました。そしてもうそのときには例の棺おけにドアノックが付いていたわけ。そのドアノックを取っ手にしたわけ。それで卵を何十個。

坂上:棺おけの中ならかなりの卵を入れないと。

水上:いやいや。棺おけじゃなくて小さな箱を。全部で9個並びかな。たぶん9の関係でしたと。だから81個入るんですね。9と9列して。その一つずつにいじりもしないわけだから、レタリングというか、何ていいました、今もうなくなった転写できるやつの数字を買ってきて1から81まで。

坂上:1234って。

水上:そんなふうにしていって、99なもんだから、例の曼荼羅方式の組み方のナンバー付けをしたんですよ。そいつでやっていったものを開いた形で出して。中側に朱色の系統だから昔の裏地が古道具屋で売っていたもんだからそいつをそこにぴったり張り込みましてね。そして開くと真っ赤ななかに白卵が並んでいて、そこ見ればそこにナンバーがこんなふうになっているってそんなようなことで出しましたかね。

坂上:ふーん。

水上:まあ、小道具の一つです。結局は。

坂上:ふーん。

水上:でもそいつは、その日の終わりのときにもらって帰って、どっかで酔っ払って置き忘れてきてしまった。

坂上:えー。そしたら卵だったら誰か食べちゃいますよね。

水上:食べちゃってもいいし、そんなものなんかしてあったら胡散臭いわけで。箱を持って行ってしまった。しょうがない、それは。

坂上:どこに置いたのかわからなかったんですね。

水上:わからないねえ。

坂上:全然話違うんですけど、初めて水上さんと話したときに(伺った)「シージャックと万博と三島」ってまたあとで聞きます(注:前に水上氏が「これまで生きてきた中でかなり心に引っかかる出来事」としてこの3つを挙げたことを受けてる)。前に、なんかに、水上さんが「これからある人たちのことが気になってるからそれについてまとめたいと思ってる。それが自分の課題にしているんだ」って(書いていますね)。

水上:それはね四季の人の話じゃないかと思うの。

坂上:一人は桜井孝身。

水上:ですからね、四人。一番向こうの方は桜井孝身さん。

坂上:四季の人って。

水上:ほら、シーズン。4シーズンの意味。もちろん日本語っぽく持ち込んでいくと、奇が奇人変人の奇にもなるわけだし。

坂上:そしたら春がとかあるんですか?

水上:そんなようなことで誰が誰と当てはめるかしらんっていったときに、人名だけで言えば、向こうの方の桜井さんから、次に行方不明か亡くなっただろうなっていう岩倉正仁さん。

坂上:夏ですか。

水上:まだ季節あわせはしてないんですけどね。で、次が松澤宥。そして次が仙台のあのダダカンさん。

坂上:どうしてその4人にしたんですか?

水上:やっぱりどう思ってもみんな変人奇人の類ということのへんで。

坂上:4人が突出してた?

水上:突出っていうと、あの人たちそれぞれの現在おられるへん、どういう関わりか、どんなもんでこられたかってそれぞれの略歴なんか書くつもりはないですね。そこらへんに向けた感じをずっと書いていってそれがひょっとしたらそれがちょっとした読み物っぽくなるのもいいなってね。そんなことも思ったんですね。

坂上:個人的にはすごい読みたい。水上さんはそれを書く気があるのかなと思って。

水上:いつか書こうと思ってるんだけどね。いくつかの課題のうちの一つ。なもんだからこれはもう一つは『あいだ』さん(福住さん)。『あいだ』のあの方にふっとそう一人話というよりも、というよりも松澤さんのあたりを頼まれてはじめOKしたけどだいぶ考えてからこれまた何か後追いみたいなもんで、松澤宥をダシにして売るというふうに読まれるに違いないからやめとこうと思ってね。ちょっと書きづらいもんですが申し訳ないって。実は、そういうふうな四方について書きたいと思って延々とあっためているんだけども、それは。

坂上:書いてはいるんですか?

水上:書いてはいないのよ。メモくらいはちょっと。あるかもしれないくらいのもので。だからどなたか一人でも存命中にと思っているんだけど、どうも。いかんかもしれんね。

坂上:桜井さん生きてますよね。

水上:桜井さん、もう宗像かなんかの奥さんの実家かな。そこら辺戻っておられるみたいですね。

坂上:桜井さんにはいつ会ったんですか?

水上:桜井孝身は……。

坂上:だって阿蘇に行ったときは来てくれてるし、九州のゼロ次元たちとの反博大会とかでは会ってるんだけど、2回だけじゃないですか。

水上:もっと前なんですね。だから僕もどこで会ったんだろう。そこらちょっとボーっとしてますね。そこちょっとだいぶぼけてますね。でもなぜか九州の諸氏が博多周辺使って、英雄たちの大集会ってね、そんなようなことした。その後のそこら辺のものを、その時期はこっちは行ってもいないわけだけども、そのとき出した資料類をもらったりしてるんですよ。そのもらったのがどうもどうなんだろうな、やっぱり桜井孝身さんからかもしれないし。

坂上:しょっちゅう会ってたんですか?

水上:そんなしょっちゅうじゃないです。というのはニルヴァーナの関係を解説に行って当然知ってるわけですよね。ある時期にこっちのゼロの岩田が市長選に出ることがあるわけ(注:1973年、名古屋市長選挙)。通りもしないけど。

坂上:名古屋の市長選ですか。

水上:うん。その辺の時期に結局栄町から大須の方へ行く大須通りっていうのがあってそこんところが交通規制でもって車通れなくして、それくらいの催しを各地でやってらへんのうちの関係にちょっとあたるんですよね。そのときもちょっとくらいアシストくらいしてやろうか言って、岩田のところへ来てそして桜井さんとその折もだいぶいろんな話を聞かせてもらいました。

坂上:いつくらいですか?

水上:ちょっと年数ね。というのは、やっぱりそういうふうな辺は市長選系統になると結局こっちはあれですね、京都からくるわけじゃなくて名古屋の方に来てしまってるんですね。そんなへんのときは名古屋へ来られた折、僕のところにも桜井さん一泊二泊されたこともあるし。あの人は静かにといえば静かにできる人なもんだから。あの、さっきの安部ビートみたいなことはないもんだからね。

坂上:安部ビートはうるさいんですか?

水上:うん。騒ぎ出すこともあったわけですよ。騒ぐっていうか大声でね。ごめん。どこでどう会ってるんだろう。

坂上:九州の反博のときは初めてじゃないんですよね。

水上:初めてじゃありません。

坂上:まあいいや。で、次が岩倉さん。

水上:岩倉さんはさっきのほら、「れまんだらん」をつくる。アンパンのあの時期には棺おけなんかの折に、機関車(注:岩倉氏は小さな蒸気機関車を走らせることで有名)。

坂上:堺にも出していたけどまだそのときはそんな知り合いじゃなかったんですよね。

水上:ええ、ええ。そうですね。

坂上:そっか。それで面白い。なんでそれも面白いのって。

水上:どう言えばいいんですかね。機関車自体も面白いといえば面白いし、よくやるっていう感じもあるわけだけども。やっぱし社会状況に対してある種の疑問姿勢を持っておられるわけですよね。

坂上:なんかぱっとみ、こんな感じじゃないですか?ぎょろって(注:世を斜めに見てる感じ)。

水上:そうですねえ。皮のハンチングで列車で……。

坂上:はすにかまえて、こんな感じの人に思っていたけど。

水上:そうですね。ほら、彼そこら辺に書いているかどうか、彼が出していた雑誌の名前確か『反』(アンチ)っていうね、んで、ガリ刷りを出しましたね。しかも、わら半紙大のB4ですね。そいつをそのまま何ページも刷って、ホチキスで閉じてあるだけのものでね。で、やっぱしまあ、機関車のときに知って、へんてこな兄ちゃんだなって思ってね。おっちゃんだなと思って。そこでおーっと話をしてると、案外状況に対するいろんな問題を岩倉さんが言いだしてこられるし。そしてまあ細工ものとして言えば汽車なんて出しておられたからそういうこともあるわけだけども。これは自分で関係しているような鉄鋼工場に行ってるから、そんなところでちょっとつくってやろうかっていうから、そこでつくったんですか?っていったら、そうじゃなくて、どうも持ってきては自分とこのところでつくったって。で、遊びに来いっていうようなもんだからね。そんなような話をしていくうちに、まあまあガリバーっていうか安土もそれから中田和成も来るわけで。来るっていうかね。というふうなことでいったら、名づけを岩倉さんがするわけですよ。

坂上:「れまんだらん」の名づけ親。

水上:どんな名前にしましょうかっていったら、「れまんだらん」で行こうかって。それよろしいなって。

坂上:「れまんだらん」って何かの名前なんですよね。

水上:ええ。フランスの誰かの小説のタイトルなんです。中身も忘れました。あんまり抵抗がない感じの話だからそれでよかろうって。で、まあそれをどう動かす云々って話も一方であるけど、そういうことよりはやっぱり岩倉さんの、あーだこーだって話とか寂しがりの部分もそうやってこっちは感じ取るもんだから。ときには訪ねていったりとか。

坂上:もう結婚されてたんですか?

水上:ええ。もう結婚はとうにされていて、そして奥さまもおられたのかなーと思うんだけどもそこがよくわからない。お嬢様が一人おられたわけ。奥さんは結婚したかあるいはフーテン歩きをしていって男といっしょに暮らしていくようになって。働くことをする人だったもんだから。お嬢さんがですね。で、ついた先が寝屋川だった(注:1960年代の岩倉氏の住所は城東区放出)。

坂上:じゃあお嬢さんが結婚されて、それといっしょに岩倉さんも。

水上:一緒っていうかそのあとを追うみたいにして、岩倉さんも寝屋川に動くんですね。

坂上:同じ家に住むんですか?

水上:はじめは同じだけどもやっぱりいくらいってもあばら家、結婚している夫妻とそう近くもよくないってんで、性的なことをごちゃごちゃいう人じゃなかったからね。で、

坂上:職業とか。でもヒッピーっぽい感じだったんですよね。

水上:そのときにはほら、鉄鋼場の工員をやっていたわけですよ。下請けいろいろなところで縄手のある場所で、なんて言うのかな、いろんな人がいる、貧民窟っぽいね、ごちゃごちゃの場所なんですね。住んでおられたところは。

坂上:どこですか?

水上:大阪地図めいたものがここにあるか。大阪駅よりも少し東北にあたるのかもしれません。

坂上:そのあとに寝屋川に引越し。

水上:で、寝屋川で今度は二度目にまた別のところのアパートに動かれるわけだけど、そこが結局火事になってしまうっていうのは、おそらくタバコかなんかの関係でもって自分とこが火元になったようなふうだから、そこにいられなくなって、追い出されるかなんかして、そして、仰木の里っていうかね、琵琶湖の。

坂上:じゃあ、寝屋川のときはまだ発表とかされていたんですか。

水上:ええ。発表といっても、機関車だけだから。でももうその頃はどっかにもちだしてることじゃなくて結局は、それまでずっとつくっておられた冊子かな、反岩倉っていうメッセージ含め状況批判を含めた、そんなようなことが書いてあるんですね。それをどんどんどんどん次に一冊部ずつ出ていくんだけども、たいした部数も刷らないもんだから、巡回させてくれみたいなことを言ってましたね。巡回方式っていうのはたしか、だいぶ前になるけど、あさい・ますおもそんなことを言ったりしてましたね。

坂上:巡回?

水上:つまり出すものを順番に回覧していってくれって。

坂上:反も。これをつくったら、私が岩倉さんで、水上さんに回す。水上さんが……。

水上:また誰かに。だからそこらへんは……。

坂上:回覧板みたいな。

水上:回覧板。ダダカンさんがこれまた違うけど、「これを誰々の方に送ってくれ」っていうふうなそれ(方法)をとられるのと同じように、ダダカンさんに来たものをちょっと加工して、彼の赤ちんぽこ入れてみたりとか。そのようなことをしながら別の方へぽんと送り出すわけ。前も話したと思いますが。ダダカンさんが送ったものがこっちにこない場合もあるんですね。誰か取り込んだなってね。結局は配達人だろうけどね。おまけに封がしてあっても宛名のところだけセロファンの封筒になってるから中が見えるようにしてあるもんだから、どこかに送ってこちらに届いているはずのものが届いていないってんで、調査してくれってこっちも出すし、ダダカンさんの方も出してくださるわけで。そうするとそこらたどっていって、だいぶ中身の減ったものがこっち来たこともありましたね。減ったらしいもんが。てのは、封筒が折り目がついているんだけど、その折り目いらないくらい薄いものが。

坂上:関係ないけどなんであさい・ますおは自殺したんでしょうか。

水上:そこがわからない。事故死じゃなくてどうも自殺じゃないかと思うんだけども。僕もわからないです。もう少しいろんな話を深くしてみると彼がどんなふうに後先をどうしようと思っていたのかがわかったんだろうけども。そして彼にはね、何人か兄弟がいるわけ。あさい・ますお自身に。

坂上:おねえさんが医大生っていうことは、かなりかしこかった人じゃないですか。

水上:どうなのかね。だけど先読んでいくともうふっと駒をはずすとばいばいの方へ急激に傾斜していきますもんね。

坂上:特に頭がいいと。

水上:で、あと退(路)を遮断してしまうもんだから後戻りが聞かなくなるんですよ。

坂上:退?

水上:戻り路を消していくっていうか、これっていって断定して動いてしまうもんだから、その断定をもう一辺って、あたためて考えなおせばってあたりのところまで、意識に入れていないと思う。そっちにいく一方でね。もしあれが自殺だとすればどうもそんな感じがする。というのは、だって、そこが変に飛び込めば危ないのはわかってる。それからそんなぼろぼろに酔っ払うこともないはずなんだっていう感じもしているし。彼はおそらくね。だもんだから、心臓麻痺っていうわけでもないだろうし。というのは後で聞いたら頭を岸壁に波で打ち上げられて、そういう意味での外傷のある事故死だってことを言うけど、外傷みたいなもの、自殺であろうとなんであろうと、海の関係がどっちもあるわけだしね。

坂上:岩倉さんももう亡くなっちゃったんですよね。

水上:たぶんね。

坂上:それもひとりでだったから、もうわかんないんですかね。

水上:おそらくね、だから(仰木の里)番外地といってる廃村めいたもんに近いところで、過疎村になっていて、そしてそこらに入り込んだといってもそう大して広くもない。ひょっとしたら農作業小屋みたいなものが、畑にぽんと建っているところもあるから。そんなところであったかもしれない。そこでといっても現実にお金もどこもなくて、おそらくひょっとしたらそのお嬢さんはそこに仕送りしておられたかもしれないけど。

坂上:でも番外地だったら、届かないですよね。

水上:いや、番外地届くんですよ。

坂上:あ、そうなんですか。

水上:どこどこの番外地ってね。つまり番だからね。何々町字何々番外地っていうナンバーがついていないだけ。

坂上:ふーん。

水上:川べりとか森のへりとかそんなものは街中でもあるんですよ。

坂上:いつくらいに亡くなったんでしょうね。

水上:そうですね。僕も年数は。

坂上:もう没交渉だったですか。

水上:手紙を送っても(すでに移っていて)寝屋川の方の新しいアパートではないもんだから、(移ったことを知らずに手紙送ったが)戻って(返事が)こないのでどうしたのかなと訪ねていったところが、そこが焼けて、つまり焼けこげのものすごいある部屋になっていた。そして後で聞いたらそしたら火事おこしてそしてもうどっかに行ったってね(注:四季の人の岩倉氏についてはほとんど知る人は少ないので一応紹介しておく。『オール関西』(1967年2月)の「特集 現代の冒険 芸術家の冒険アローラインに聞く」より引用。「岩倉正仁さんは47歳。旧制池田師範を出て、美術と音楽の教師を永年勤めた。しかし、岩倉さんの純粋な精神には、教員社会が耐えがたかった。いじましさに満ち、戦前と戦後、同じ教員がまったく別の倫理観を教えているのを見ながら、彼はことあるたびに教員の自己ぎまんに腹を立てていた。図画の教師としての天真らんまんな振るまいの故に、校長といつも職場を変遷したという。そしてついに教員生活に別れを告げようという決意が、彼の身体の中にぬきさしがたい思いで湧きあがり、十数年にわたる教員生活に彼は終止符を打った。一般に俸給生活者、つまり、サラリーマンが、自分の職を投げすてて、次の見通しもないままに退職するのは、決して安全なコースではない。岩倉さんは、教員生活に別れを告げたとき、あとのことは考えなかった。それは危険を冒すことなしにできることではない。岩倉さんは、その後ビルの清掃会社、鉄工所など多くの職場で働いた。通天閣の展望台の窓ガラスを清掃したこともあった。大阪中の高層ビルの大半を、窓の外から掃除したという。その方が、教員生活で感じた自己ぎまんを、どんなに取り除いてくれたかー。そうして働きながら、自分の勉強を重ねた。自分の生き方に関係のありそうな、サルトルの著作をむさぼり読んだ。5年間ほど没頭した。そして、今はみずから実存主義者と称している。コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」も彼の愛読書だ。一昨年から、「蒸気車」の制作にとりかかった。エネルギー感を造型したい、という欲望によるものだった。現代社会のメカニックなエネルギーと、多元的なものの存在を造型したというこの作品は、一年のちに発表され、見る人びとの微笑を誘い関心をよびおこしている。岩倉さんは、自分の生き方をつらぬくために、敢然と危険を冒さなければならなかった。それは、日常生活のなかで実存的冒険ではなかっただろうか。(編集部・高橋)」)。

坂上:水上さんはなんで四季の人にしようと思ったんですか。

水上:さっきの番外地じゃないけども、そんなふうに、ある意味じゃちょっと特殊に見えるのが一つの生きていくところの何かを含んでいる場合があるんですね。回り道みたいなものが。それともう一つ言うと、どっかに対して批判なら批判を持つっていうのは、結局その町並みの動きから外れるわけですよ。何で外れるわけ?って。それだったらこっち外れないだけでも、ものすごいことだと思うけどね。(こっちは)あんちきしょうと思ったりですよ。(だけど向こうは)それがそのままでいいと、あんちきしょうと思ってもいい、とは思わないものだから、本当にすごい劣等感いっぱいでおりますねえって。そんなような。だからこっちは行きつ戻りつやってるわけだけども、あの人たちも行きつ戻りつはされておられるんだろうと思うけど、どこらへんでどんなふうにそこの姿を持つように動いたのかなって。一方で松澤宥といったらさっきも言われたように、もう詐欺師っぽい服装を昔からしてる。

坂上:反対といえば反対ですもんね。

水上:だからそれはまあ街中の自分のいたところにそのままいてて、ずっときておられるって。前に話に聞いたのは、(松澤さんの家は、江戸時代の頃)街道筋の宿屋さん、宿場町の宿屋をしていたことがなんかあるみたいだから。それで僕ね、この間ようやくつまり10月か、9日に3回忌があったときに、下諏訪から上諏訪の方にある、有名なホテルなんだけどね、そこへ「おとき」(注:「お斎」と書く。法事や法要の際に振舞われるお食事のことを「おとき」と言う)を頂きにあがるその途中に実は松澤家の墓があるんです。もう下諏訪駅から歩いてもそんなにかからないところでね。そこへようやく寄りました。そしたら、そこはおそらくお墓をどっかに移したんだろうと思うけどね。墓地自体が。そうすると、この幅の倍くらい墓石が並んでた。

坂上:たくさんの人の墓石が?

水上:松澤家の。

坂上:ああ、代々の松澤家の。

水上:ええ。代々。

坂上:10メートルくらいだーっと?

水上:ええええ。本当に。どーっと。

坂上:1代目、2代目、3代目、4代目、5代目、6代目ってわけですよね。

水上:ところがそういうふうなわけじゃなくて、代々墓みたいなのがあるじゃないですか。中にどんどんね。そんなふうなのが一つあって。長男筋なんでしょうね。そのとなりに松澤宥家の方のね。その横に松澤宥かな、そんなのが刻んでありました(注:松澤宥は次男家の流れ)。(法事の際には)いろんな人がそこにね、関連者がたくさんおられるわけだし。しかも、思えばその松澤先生の(家の長男の)本家筋の方が「ようこそ名古屋からお越しくださいました」って話を(して)、「おとき」の会の方へ、献杯の挨拶をしてくれってね。「おとき」の時に。だもんだから、僕もびっくりした。と同時にうれしかったし。そこに花梨の酒が出てくるわけ。そんなふうでそれが出て。おおと思って。もうちょっといらしてほしかったと。実は奇妙な縁から松澤先生のところへ時々お邪魔する機会ができて、ある晩、花梨酒をご馳走になって。それで結構酩酊しましたって。そんな話を。

坂上:そしたら四季の人のもうひとりが松澤さんで。それでもうひとりがダダカンさん。

水上:ええ。だからまあ、ぼんやりなんだか、変人奇人っぽい感じが。

坂上:言われてみるとそうなのかなと。今まで話を聞いた中で。

水上:そしておそらくいろんなことへある種の反論めいたものも持ちながら、しかもそれを折々に出していきながら、そういう位置づけに動いていくっていうのはそう簡単にできることじゃない。例えば、一人だけというのは九州さん、つまり桜井孝身さんがですね。いつだったか会ったときに、折々こっちに帰ってこられるんですねって言ったら、彼すごい素直に、日本にも何人かの買ってくれる方がおられるわけで、そういう方に自分の仕事をまた買ってほしいから帰るんだって。素直。それでどんな絵かなと思ったら、何でもないただの具象、半具象みたいなんです。で、「元始、女性は太陽だった」と、平塚雷鳥が言ったことを実践してるんですよ。

坂上:肉体派な人なんですかね。

水上:でしょうね。ある面でいうと岩倉正仁氏もそうだし、当然ダダカンさんも土俗派っぽいしね。

坂上:ダダカンさんの場合は反骨精神がある。

水上:そうです。どんなもんでも体制というものがついたら全部駄目。わっと言い切るんですね。それから反戦運動とか戦がつくのも全部駄目って。それは戦に対する戦でしかないって、そういうふうなニュアンスですね。

坂上:ダダカンさんは戦争に行っているんですもんね。

水上:行ってますね。九州です。

坂上:特攻隊ですか。

水上:特攻隊系統に近いんじゃないかと思う。戦車部隊だったと言いましたね。あそこに、川内と書いてせんだいと読む地域があるんですね。鹿児島の方にちょっと左に、日本海側というか朝鮮海峡側に面している、そこにあるんです。ちょっと山回ってようやく鹿児島市に入る桜島、その山越えた向こう側で、そこだって言いましたね。

坂上:仙台出身なんですよね。

水上:仙台出身だったのか、僕そこも忘れてしまってる(注:大分出身)。京都といってもご子息――五郎君かな――が(注:孝太)、世話になりながら、つまり兄さんかなんかの方が伏見か桃山かどっかあの辺りにおられるんですね、宇治か。で、そこへ五郎君(注:孝太)ってご子息が世話になりながら、そこの仕事を手伝いながらおられた時期があった。そんな時期に、そこへお母さんも世話になられるわけで。そこへ母を看病に行くっていうのが70年代前後の系統の(ダダカンが)京都へちょっと行くというね。京都に住むんじゃなくて、その意味で出張するみたいなもんですね。そんな時期があったへんから万博の話につながっていくんですね。だから、ひょっとすると九州のどっか生まれかもしれませんよ。いつかなんかそんなこと、もともとこんなようなこともあったぞという、私何々族のひとりらしいってね。織田信長家のどうのじゃないけどそんなようなニュアンスのことを聞いたことがありますね。そんなへんで今度は丹後半島のあたりのそこらと関係があるっていうのは、丹後半島は古い古神道の意思的といっちゃおかしいが存在があるんですね、あそこにね。鈴木昭男が動いているよりもうちょっと手前っていうかね。それで、なんかそんなのが丹後半島にどさっと重なって、それがもう少しへんで伊勢の方へ落ち着いてのかもしれないみたいな話をね。

坂上:なんか結構みんないろんなドラマがありますね。

水上:そうですね。

坂上:結局なんかこうタブロー、絵描きの人は絵、彫刻の人は彫刻が作品になるけど、水上さんの周辺にいる人っていうのはみんな人生、くさい言い方をすれば人生がアートみたいな(笑)。

水上:僕はそっちの方へ落ち着きそうですね。

坂上:話聞いていると、例えば作家がいてその人のインタヴューをするときに、この絵についてはどうですか、あの絵についてはどうですかとか言うけど、例えばそのときにあの人に会ってどう思いましたかとかいうことを聞けないし、聞いたら悪いと思うし、こっちも言いたくない、全部これについて語ってくれみたいな感じ。でも水上さんについて聞きたいときは、周辺を聞かないとわからない。

水上:それはついてはもちろん語ることはしますけども、たとえばそんなところに行ったみたいな、そこらの感覚を意識的に持ちますって僕はそっちの方なのね。ちょっと僕まだわかったりわからなかったりするのは、ほら、一応人話っぽく言えばですよ、合衆国の場合なら合衆国の作品自体しか語らないっていう、その人の人柄みたいなのは全然関係なしだっていう日本の絵描きさんもいたわけですね。「ああ、そういうふうなビジネスでいくんですか」って。

坂上:でも本当はちがいますね。例えばセザンヌだってこういう山みたいなタブローを描いていても発表されないところでいやらしい絵を描いていたり。発表されないところでいろんなことをやってるんですね。結局その人を研究するとかするにはそういうものをすべて統合しないと、セザンヌって言えないわけであって、だからそういうふうに作品だけ見てどうこうっていうのは、作品ありきだと思うけども、そういう人、絵描きとか、でもそれは間違いだって。

水上:それからもう一つの、裏側にこんな作品もあるっていうらへんのときに言うのは、また違うようだけども、やっぱり生きるためには金もいるからなみたいなへんでポンと飛ばす人もいますしね、違うだろって、そういうことじゃないですよ。なんかそんな。とんでもない別回しっぽい言い方をいま使いますけども、たとえばサドの人、マゾのひとと区切るけど違うんだって。人間自体実は両面を持っているんだけどねってね。ケースバイケースのことじゃないかいって思ったりもしますね。

坂上:そうですね。マゾのひとでもSM関係が成立するのは、Sの人が自分が信頼できる人だからそういうことを受けられる。信頼関係があるというのはこっちだって喜ぶことをしてあげようっていうマゾ的精神でサドアクションを起こしたりとかするわけなんですもんね。で、されるほうこそわがままじゃないですか。やってよってね。とか不思議だなと、話それちゃったけど。

水上:結局同じことです。今話したのは。そんなふうな人間っていうのはいろんな面をもち、売るもんだからってね。そこらでさっきの表も裏も両方とも知らなきゃ本当は語れないんだよっていうのがそこで出てくるわけだもんね。

坂上:話変わりますが、水上さんを知るのに、まず水上さんの周辺の四季の人っていうのがまず聞いておかなくちゃと思った。それともう一つは昨日も聞いたけど、作家とか生きていくなかで社会状況というのは自分と切っても切れない関係にあって、だからその中で印象に残ったかって馬鹿な質問なのかもしれないけど。やっぱりでも自分が形成されていくなかで、何かあのときああいうことがあって、大きなショックを受けたとか。

水上:そこらへんのことは命話としてつながっていくのかもしれない。落っこちパーティの折に、さっき申し上げていたふうに、もし釣瓶をひっぱり上げるあれがその私の体と合体してくれたらもうアウトだったねみたいなですね。もっともっとチビの頃に、これおそらく豊中にいた頃かと思うんですね。通っているのは阪急だっけ。そこの電車の道を渡ろうとしたときにチビもいい加減なものだから電車が走ってくるのを、別の方に意識があるから知らない。それを僕の親父だと思うんだけど首根っこで引っ張り出してくれたことがあるんですね。だからそのとき大丈夫だったと。もう一つはもう少し大きくなっていて、岐阜から一山越えた伊自良村に来たとき。山の谷あいに貯水地があるんですよ。栓をつけて田んぼに水を入れたり閉じたり。そんなところに夏場かなんか遊びに行くわけですよ。ところがそういう水場を知らないときだから、ずっとそこの中に入り込んでしまって、あんよを泥沼みたいになってるもんだからとられてしまって。そしたらそのときに村のあんちゃんが引っ張り上げてくれたというよりは足を出してくれるのかな。その足につかまってはいずりだすと。そんなのがやっぱり生き死に話っていうのを二つばかり思い出しますね。っていうのは俺がつながるっていうの、まだ生かせてもらえるっていうのをだんだん後になって自らがまだまだっていうふうに意識し始めるんだけど。

坂上:あとはシージャックとか、万博、三島由紀夫。

水上:万博自体がそうやって金銭問題の方でいろんなものを区分していくようなところの形をまたあんなふうに出したねというのがあるけど、シージャックのほうはそれを扱った報道機関がそこまではいきすぎって、こっちは思っているし。

坂上:三島由紀夫もそうでした?

水上:写真ですね。こっち側に人体の一部があるわけだ。そういうのが夕刊に載っているんですよ。第一面に。

坂上:夕刊に?

水上:うん、第一面に。

坂上:夕刊にごろんって載ってるんですか。

水上:うん。前面じゃなくて新聞があるとしたら半面それがあるんです。写真で。うおっと。三島由紀夫がどうこうしたっていうのはそれは彼なりのことで。でもそこにそういうふうに転がっているもんですよ。それには当然首のない人体もそこにあるんですよ。つまりそれが結局シージャックの後の段階に入るんですね。

坂上:シージャックもみんなが見ている前で、殺されたわけですよね、ライブ映像で。

水上:あの、植村さんが撮っていて写ってしまったってね(注:1970年、《Shoot》)。

坂上:植村さん、とんでもないもんが写っているなと思って、思わず撮影してしまったと。

水上:そしたらその最終段階までのわずか手前までがあるんですね

坂上:はい。

水上:僕もあれは最初の映像を見ているはずなんですね。だもんだから、うそやって感じ。そんなものを報道するなんて。

坂上:あさま山荘(注:1972年2月)とかどうでしたか。それこそライブで。

水上:やってましたけどね。あれはもうちょっといろんなもうごちゃごちゃの感覚がこっちに入ってしまったもんだから、どちらかに立つような気力もないわけだし。そこにどれだけ報道機関の物語っていうかお話が加味されているかもわからない感じがする。というのはかなりずっと延々と何度も何度もくるわけでしょ、時間は違いながら、ライブが(繰り返される)。そうするといろんなことをいろんな人が言ったりしていくへんで、なぜなぜというとおかしいんだけど、そうやってうまく、昨日話したかとこちゃんが(絵を)真っ白に塗りつぶしてしまったじゃないけど、そういうふうな感じのことを感じるもんだから、まあ適当にしておけって感じも。見るのをね。そんな感じでしたね。もっときつく再度思ってしまったのは、例のグランドゼロです。それの映像はなんてこともないわけだが、そこへ向けて日本の新聞関係がはじめはどう書いたか、あとは全部右へ倣えに変えてしまって。わあもうこれ以上動かないなと僕は思った。もう全部アメリカって感じのほうに視線をばんと向けてしまうんですね。

坂上:結局あれででも帝国主義的なものが崩れてもっとゲリラ的なものになっていこうとしていますよね(以下省略)。

坂上:水上さんって今おいくつですか?

水上:72に入ろうとしているのかな。きちんとした届けは1月だけれども正規はほら、11月11日ですから。それが1937年なんですよ。今年11月がやってくれば、ようやく次の年を歩き始めるわけで。

坂上:年男なんですね。