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中山正樹オーラル・ヒストリー 2010年2月13日

埼玉県所沢市、中山正樹アトリエにて
インタヴュアー:坂上しのぶ、加治屋健司
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2014年4月20日


 
中山正樹(なかやま・まさき 1945年〜 )
美術家
1945年、山梨県甲府市に生まれる。長年にわたり、身体をテーマとして多様な素材を用いた「BODY SCALE」の作品を制作する。藍画廊、ときわ画廊、トキ・アートスペースなどで個展を行ない、2008年から2011年まで、所沢ビエンナーレ「引込線」の実行委員長を務める。聞き取りでは、美術家を志したきっかけや、初期の写真作品や「BODY SCALE」などの作品について伺いつつ、1970年の現代美術野外フェスティバル、1970年代における写真を用いた美術の状況、チェコ出身の美術批評家ヴラスタ・チハーコヴァーさんとの交流、所沢ビエンナーレ「引込線」が生まれた経緯などについてお話しいただいた。

坂上:生まれた山梨県の頃など聞いてもいいですか。

中山:僕は1945年。昭和で言うと20年の6月26日生まれです。

坂上:終戦の年。

中山:そう。終戦の年だけど、終戦は8月だから、ちょっとまあ被ってる。

坂上:6月26日でしたっけ、例の人と一緒。

中山:そうそう。彦坂(尚嘉 ひこさか・なおよし 1946—)がひとつ下なんだけど、彼は21年で僕と同じ誕生日。

加治屋:そうなんですか!

中山:そう。それと『引込線』のカタログ(2008、2009、2011年)をデザインしてくれてる大石一義(おおいし・かずよし)さんも6月26日。

坂上:えー!

坂上:大石さんって何年生まれなんですか。

中山:大石さんはもっと下だと思うんだけど、(昭和)24、25年くらいじゃないかなあ。ちょっと年は忘れちゃったけど、誕生日は6月26日。身近に同じ誕生日って少ないと思うんだけどね。で、小学校、中学校と(山梨に)いて、中学校2年の時に、親の仕事の関係でね、東京に出てきて、石神井中学という学校に転校して、石神井公園の近くに住んでいたんです。後はずっと東京なんですけど、その間に、島根県に、小学校5年の……あ、6年ですね、3学期から中学1年まで松江に行っていたことがあります。それは何故かというとおふくろの妹夫婦には子供がいなかったんですね。農林省に勤めていて、ずっと転勤を繰り返していたんですけど、その時は松江の農林省に勤めていました。僕は小さい時からよく遊びに行ったりしていて、日本各地を転勤して歩いていたから、逗子にいた時代もあって。その時も2〜3ヶ月くらい遊びに行っていてよくなついていたんですよ。4人兄弟で僕が一番下で、で、養子にくれって。僕のおふくろも親父も駄目だって言っていて。小学校6年の時に、またそういう話があって、親が僕に「そういう話があるんだけどどうする?」って言うもんだから、「それちょっと行きたい」みたいな、子供だからね。向こうに1年ちょっとくらいかな、行っていたんですよ。それでまあとてもかわいがってくれていたんですよ。逆にかわいがりすぎて怒らないものだから、感じが違ってきて。1年たったら、気分としては遊びに行っていたみたいな感じだったから、「うちに帰る」って言い出して。それで、帰ったんですよね。そういう経験があって。また甲府に帰ってきて一年間いてそれから東京で、生活するんですけど。石神井中学というところに通っていました。もちろん通っていた頃は知らなかったんだけど、卒業して何年か経ったら、美術評論家の千葉成夫(ちば・しげお 1946—)さんが1級下にいたんだよね。

坂上・加治屋:えー!

坂上:千葉さんは1946年生まれ。

中山:そう、1つ下。それでまあ、東京に転校してきたし、下級生なんてもちろん知らないんだけど。話をしていたらそういう話。もっと下には青木野枝(あおき・のえ 1958-)。野枝ちゃんも後で聞いたら石神井中学だって言っていましたね。高校は駒込高校っていう高校に行ったんですけど、その時の美術の先生が中林忠良(なかばやし・ただよし 1937—)っていう版画家。

坂上:そうそう。何で中林忠良と知り合ったのかっていうのをお聞きしたかったんです。

中山:その時の先生だったんです。高校3年の時だったかな。藝大で助手か何かやっていたんだけど、講師で教えに来ていて。それで刺激を受けて美術のほうを志したと思うんですよね。それで1級下に、もう死んじゃった有元利夫(ありもと・としお 1946−1985)がいてね。

坂上:ああ、あの女の子の絵の……横顔とか遠くから見たのとか……。

中山:そう。安井賞取って人気作家になったよね。有元が1級下にいて。で、中林さんってクールな人で、相談に行ったんですよ。そしたら、「だったら藝大に来ればいいんじゃないの?」って言うんですね。「じゃあ藝大に行くにはどうしたらいいんですか」って言ったら、「どっか予備校に行ったらいいんじゃないの?」って言うから、それでお茶の水美術学院という予備校に行って。

坂上:お茶美!

中山:そう。お茶美の現役の夜間部に行って。デッサンをして。まあ、受けたんだけど落ちて、浪人して。

坂上:その頃って何科を受けていたんですか。倍率はどのくらいだったんですか。

中山:最初の年は、親が、美術、絵描きだとか彫刻だとか食えないから駄目だって。デザインだったらいいんじゃないかと言うんで、それでデザイン科受けたの。何倍くらいあったのかな。相当倍率高かったですよ。40倍くらいあったんじゃないかな。

坂上:そうですよね。

中山:その時は彫刻なんてよく知らないっていうのがあって。それで美術展見に行ったりとかいろいろしていて、彫刻に興味を感じて、彫刻がやりたいなって思ったんです。それで一浪して彫刻科を受けたんですよ。

坂上:1967〜8年の頃の話ですか。

中山:僕がねえ、昭和38年に高校を卒業だから……。

加治屋:63年。

中山:63年ですか……。じゃあ63年、4年、あ、そうそう東京オリンピックの前だった。

坂上:ああ、オリンピックが1964年。

加治屋:うんうん。

中山:それから1年浪人して、今度は彫刻専攻にしたもんだから、当時合格率の高かったすいどーばた(美術学院)のほうに行ったんです。

坂上:その頃、どばた(すいどーばたの略)って榎倉(康二 えのくら・こうじ 1942-1995)さんとか教えていませんでしたか。

中山:記憶にないですね。彼は絵画科のほうだったから。教えているとは思わないなあ。多分その後じゃない? っていうのは榎倉さんはねえ……。

坂上:年は同じくらいでしたよねえ?

中山:榎ちゃん17年生まれじゃない? ただ浪人しているはずだから、たぶんまだ学生だったんじゃないかな? だから教えるのはもうちょっと後なんじゃないかな。それでまあ、結局大学受験に2年浪人するんだけど、いつも最後まで残るんだけど、落ちちゃって。当時ね、考えたら武蔵美とか、多摩美とか受ければよかったと思うんだけど、中林さんに出会って、中林さんが、美術大学だったら藝大がいいって言うもんだから。私立は受けなかったんです。親も何年も浪人駄目だって言うんで、まあ、どうしようかなって。その当時に『美術手帖』で、池田満寿夫が伝記みたいなのをずっと連載していたの(注:「私の調書」、『美術手帖』1968年1月号から12月号まで連載)。それが、彼が大学受験失敗して作家になったというようなことをずっと書いていて、こういう道もあるんだなあって思って。じゃあ作家になろうって思ったんです。それで大学受験はやめました。でもどうしたらいいのか分からなかったんです。就職らしきことはしなくて、いろいろなアルバイトして生活していましたね。

坂上:一人暮らししていたんですか。

中山:いや、ずっと親元にいました。その頃は大泉学園に住んでいました。別に生活には困らなかったんだけど。それでね、藝大に行った友だちが、「日本青年彫刻家木彫シンポジウム」っていうのが秋田であるからって誘ってくれたんです。

坂上:1969年ですね。

中山:そうそう。で、あ、その前に当時アルバイトをしていてねえ。鈴木信太郎(すずき・しんたろう 1895—1989)っていう絵描きがいて。文化勲章だったか功労賞だったか取った芸術院会員の人がいて。その人は、障害を持っていたので車椅子でね。その鈴木信太郎の車椅子を押すアルバイトをやっていたんですよ。写生旅行に軽井沢に行ったり倉敷に行ったり伊豆に行ったり。その時に車椅子を押す人が必要なんで、おぶって車椅子に座らせたりとか。浅間山とか。軽井沢にもよく行ったんだけど。そのときにゴザを敷いて、だいたいこの辺かなっていうところに敷いて下ろして、で、先生が絵を描くっていうアルバイト。お小遣いというかバイト代をたくさんくれたんだよ。だから、随分助かっていたのね。そんなことをしていたときに秋田のシンポジウムに行って、作品を作ったんですよ。

坂上:どんな作品を作っていたんですか。

中山:たいした作品を作ったわけじゃないんだけどね。ちゃんと勉強していたわけじゃないし。友だちにノミの研ぎ方とか教えてもらったり、ノミも4、5本買い揃えて持って行ったんです。

坂上:その場で作るんですか。

中山:そうそう。公園みたいなところで、そこにでっかい材木がごろごろごろごろ置いてあって。そこで好きな材木を選んで彫り出すわけ。

坂上:みんな?

中山:みんな全国から集まって。誰がいたかな? いろんな人がいて。そうだなあ、皆さんが知っている人だと、山口牧生(やまぐち・まきお 1927—2001)さんとかいて。山口さんも奥さんと一緒に来ていてね。そこで知り合ったんだけどね。

坂上:山口さんって石の彫刻家というイメージが……。

中山:そう、石の彫刻家。その前の年が小豆島で、ちょうど万博の基礎石を切り出すんで、そこで石彫の青年彫刻家シンポジウムっていうのをやって。僕はそれはもちろん参加しなかったんだけど。その次の年が、秋田で木彫のシンポジウムで。

坂上:誰が主催者だったんですか。

中山:誰だったんだろうねえ。多分秋田の作家たちが実行委員会をつくって開催したと思うんだけど。その人が呼び掛けて、40人くらいいろんな作家が全国から集まって。あと今アメリカに行っている三浦重男(みうら・しげお 1936—)さんとかも参加していましたね。

坂上・加治屋:ふーん……。

中山:彼はギャラリー手を(彼の)奥さんがやっていたのかな。そこで2点制作して木彫を覚えたんです。出来上がった作品をうちに持って帰っても置き場所がなくて困るので、どうしようかなと思っていたら公募展があることを知って、その間に作品の置き場所を探したらいいんだって(教えてもらった)。ああ、そういう手があるんだなって思って探したら、ちょうど秋だったんで一陽会が公募していたんですよ。

坂上:一陽会って、何かシュールな感じですよね。

中山:そうそう。

坂上:スーパーリアリズムみたいなのが多くって。

中山:そう、北山泰斗(きたやま・たいと 1931−2006)とかね。森秀雄(もり・ひでお 1935—2012)とかね。それで一陽会に出してみようって思って。

坂上:特にこういう会がこういうカラーを持っているとかそういうのは……。

中山:全く知らなくて。それで、秋田から作品をトラックに積んで行って、搬入口にそのままつけて出品し、その間に置き場を探そうって。で、2点受かるわけないよなって思ったら2点とも受かっちゃったのね。2点受かって、気を良くして。何か褒められたりしてね、来年期待しているみたいなことを言われてね。それで翌年も出したら……。

坂上:特別賞受賞。

中山:特別賞ていう賞をもらって。翌年また出したら賞をもらったんですよ(1970年と1971年)。2回賞をもらってね。で、その頃に神田の画廊とか『美術手帖』とか観たり読んだりしていると、公募団体でやっている作品と何か画廊で見たものがまるっきり違うんですよね。で、少しずつだんだん知識がついてきてね。これじゃあ駄目だなと思って。公募団体はそれから出さなくなったんです。

坂上:24、5歳の頃ですね。

中山:今度は個展で行こうと思ったんだけど。何か公募団体っていうのは彫刻なんかでもやっぱり塊でぼんと置いたような置物的な作品ね。インスタレーションっていうのは成立しないし、美術館でやるしね。で、画廊なんか行くと全然違う。

坂上:よく行っていた画廊はどこですか。

中山:神田や銀座ですね。田村画廊、ときわ画廊とか、銀座の村松画廊とかね。当時は神田から新橋、新橋に第七画廊ってあって。ずっと歩くと日本の最先端が見れた時代だったから。翌月の『美術手帖』を見ると、この間見て、あれ何だ?って思っていたのが載っていたりするんですよ。菅木志雄(すが・きしお 1944—)さんとかね。菅さんの作品を田村画廊で見た時に、網かネットみたいなのが立て掛けてあって、そこに石が詰まったような作品で。あれ見たときに「ひどい作品だなあ」なんて。分からないから。で、「こんなの誰でもできる作品じゃないかあ」なんて思ってね(笑)。それで、翌月『美術手帖』見るとあれが載っていてさ。「あれが何で載っているの!」なんてね。(注:おそらく1972年に田村画廊で開催された展覧会。作品は《臨界状況》)

3人:(爆笑)

中山:「あれが何で載ってるんだー! あんなもの俺だってできるよ、誰だってできるよ、あんなのが何でなんだー?」って。その頃、美術っていうのは技術だと思っていたから。それで、えー?って混乱したんだよね。「これはどうなっているんだ?」ってね。

坂上:そういうふうに『美術手帖』を自然に見て、いいのか悪いのか分からないけど、何となく自然に……。

中山:そう。自然に見て……っていうか混乱だよね。混乱。形あるものとかきちんとしたものがいいと思っていたから。だから、石が転がっているような作品があったりとか。

坂上:「人間と物質」(1970年)とか見に行ったりしたんですか。

中山:もちろん見に行った。覚えているのは、クリストの作品が、昔の都美術館の彫刻の部屋でちょうど中2階になっているところから降りるところがあったんだけど(大陳列室)、そういう欄干みたいなところから全部をシートでくるんだりしていて。その上を歩くんだけど呆然としちゃうんですよね。「どうしてこれがいいのかな?」って。「どうしてこれがいいのか、国際的な作家で評価もされているんだけど、何なのかなあ」って。

坂上:あの布って白なんですか。あの布って、白黒写真でしか見ていないから。

中山:あの布はね、ちょっと草色っぽいようなグレーっぽいような色だったね。いわゆるシートの色だよね。建築で使うような。あのシート。ちょっとグリーンがかったシートだったような記憶があるんだけど。で、みんなそれを見て、その上を歩くんだけどね。みんな困惑した顔しているわけですよね。僕もそこに佇んでいるんだけどね。これが何なのか、どうしてこれが評価されているのかちょっと分からないし。で、まあ見ても……。そうそう、さっき車の中で話した、高山のが《地下動物園》っていう作品で、枕木とかベッドのソファとか、マットか、あれが壁のところにあったりとかして。で、「これはなあ……」って思ってね。混乱していた(注:高山登は1971年の「第10回現代日本美術展 人間と自然」に《地下動物園》を出品している)。

加治屋:その頃、見たものを話し合うのは、どういった人だったんですか。

中山:一陽会で知り合った人もいたし、どばたの時の友だちもいたんだけど、そういう人たちって、現代美術っていうよりも公募団体とかそういうのを目指していた人たちで、現代美術と言われるような方向に興味を持った人たちは少なかったなあ。ほとんどいなかった。魚田元生(うおた・もとお 1945—)っていう作家が……

坂上:ラテックスの……。

中山:そうそう、ラテックスで人の型を取るような作品で。彼が、どこで知り合ったのかはっきり覚えていないんだけど、当時『美術手帖』でも取り上げられたりしていて。櫟画廊ってあったんだけど、そこでラテックスで人型を取ってばーっと積んだりとか。当時話題になったんですよ。『美術手帖』なんかで。彼とは知り合いで。

坂上:60年代後半。

中山:そう、60年代後半だよね。彼なんかちょっとシュールっぽい作品なんだけど。彼を通して、いろんな人たち、眞板雅文(まいた・まさふみ 1944—2009)、この間亡くなった眞板さんを通して、若江漢字(わかえ・かんじ 1944—)さんだとか原口(典之 はらぐち・のりゆき 1946—)だとかああいう人たちと知り合っていったと思うんだけど。そうねえ、特に芸術論を戦わしたりというのはあんまりその当時はなかった気がします。すいどーばた時代の友たちとはいろいろ話した記憶はあるんだけどね。あとは神田の画廊に行ってね、ときわ画廊なんかで堀内正和(ほりうち・まさかず 1911—2001)さんが奥のほうに座っていたりしてね。当時から偉い人だから、彼が座っているからなんだか居づらくてね。で、(画廊主の)大村(和子)さんがああいう優しい人だから、「中入ってお茶でも」とか言ってくれるんだけど、堀内さんなんかいると僕なんか入りづらくて、あそこでお酒飲むようになったのはもっと後になってからなんです。それから神田の山岸(信郎)さんのところ(田村画廊)でもみんなそこで集まったりして議論していたんだけど、僕はあまり長くそこにいたりとかしたのは少なかったね。

坂上:60年代後半に多摩美で美共闘なんかがやっていたりとかそういうのは……。もう、そんなに、知ってはいたけれども……。

中山:そう。知ってはいたけれど。これは印象なんだけれど、さっき言ったみたいに、藝大しか受けていなかったんで、僕の周りは藝大に行った連中が多かったのね。多摩美っていうとね、何て言ったらいいのかなあ、僕のイメージですよ、何かお坊ちゃんの学校っていう感じでね。逆に武蔵美っていうのは蛮カラな感じで。言ってみると慶応と早稲田みたいな感じだったんですよ。で、多摩美は割合現役で入っているような感じで、すいどーばたにいても、都会っぽいような人が多摩美に行ったよね。武蔵美だと蛮カラな連中が行ったりとか。藝大なんかももちろんそうだったんだけどね。だから多摩美ってね、我々の世代なんかだとあまり魅力を感じないっていうのが多かったのね。後になって、先生たちが、高松(次郎 たかまつ・じろう 1936—1998)さんとか斎藤義重(さいとう・よししげ 1904—2001)さんたちとかが行っていたから、その影響っていうのは大きかったんじゃないかなあ。多摩美は学生闘争やっていたけれども、多摩美だけじゃなくて武蔵美もやっていたし、それから一番すごかったのは日大だったんじゃないかな。日大の芸術学部なんか学生闘争はすごかったですよ。あと藝大でもやっていたし。当時は全国的にやってましたからね。すいどーばたのときの友たちで、彼は愛知芸大に行ったんだけど、社青同(日本社会主義青年同盟)っていうグループのリーダーで。

坂上:シャセイドウ?

中山:社青同っていうのは社会党系のグループ。

加治屋:ああ。

坂上:どういう字ですか。

加治屋:社に青に……

坂上:ああ。

中山:それから共産党系のグループが、あと共産同(共産主義者同盟)か。

坂上:ああ。

中山:それから共産同から別れたのがブント。それがどんどん分かれたり連合したりして、連合赤軍になったりしたでしょ。そういう友たち連中が周辺にはたくさんいたんですよ。で、当時はみんなそうだったんだけど、共産主義とか左翼思想が非常に強かったんだけど、あんまり僕はそういうのに……。

坂上:興味がない。

中山:興味がなかったわけじゃないんだけど、一線を置いていたんですよね。新興宗教みたいな感じを受けていて、信じ込んでいて、向こうにすごいパラダイスみたいなのがあるんだと信じていて、そういう感じを受けていた。そんな馬鹿な話あるわけないよなって、どっかで冷めていて。それで、これは、さっき言った魚田さんを介してだったと思うんだけど、新宿なんか、夜ゴールデン街の飲み屋とかねえ。

坂上:いつ頃から行っていたんですか。(中山さんは)何かゴールデン街の主っぽい(笑)。

中山:ゴールデン街の近くにセバスチャンっていう飲み屋があったんですよ。ちょっと地下に入っていく。そこに芸術家ぽいのがたくさんいて。よく飲みに行っていたね。

坂上:この間行った久絽さんのお店はどうですか。あのお店はいつ頃からあったんですか。

中山:久絽はその後で。その前、あの店は、その時代を知っている人は少ないけど、記者クラブっていうバーだったんだよね。新聞記者がみんなでお金出し合ってやっている店で。新聞って夜中の仕事だからね、その後に飲みに行くような店で。あそこには誰に連れて行ってもらったか記憶がないんだけど、1回行ったことがあるんだよ。それがなくなって久絽になったんだよね。

坂上:中平卓馬(なかひら・たくま 1938−)とかねえ……

中山:そうそう、中平さんとかねえ、それから……みんな行っていたんじゃないかなあ、森山大道(もりやま・だいどう 1938−)さんとかね。中上健次(なかがみ・けんじ 1946—1992)さんだとか。店によってだろうけど、文学関係が集まる店と美術関係者が集まる店とか店によって違うんだよね。その頃に、60年代の作家……秋山祐徳太子(あきやま・ゆうとくたいし 1935—)さんとかね、あの辺で知り合ったんだろうけど。あとゼロ次元の加藤(好弘 かとう・よしひろ 1936—)さんとかね。

坂上:みんな60年代……。

中山:そうそう、彼らはみんな過激だったから(笑)。だから僕らの世代になるとちょっと60年代作家と距離を置いていたんだよね。だけど魚田さんは僕らより早く出たから。19か20歳くらいの時にデビューしたから、付き合いがあったんですよ、60年代の人たちと。だから魚田を通してそういう連中と酒飲んだりとか、あと吉村益信(よしむら・ますのぶ 1932—2011)とか。吉村さんの家も行ったことあるな。下北沢にあったと思う。夜中に行ったりしたことある。だから余計どんどん公募団体とか距離を置いていくようになった。といって作品をどういうふうに作っていったらいいのか混乱状態でしたねー。そんなことしているときに、こどもの国で展覧会(注:横浜市と町田市にまたがる「こどもの国」で開かれた「現代美術野外フェスティバル」、1970年4月1日—5月31日)があって、誰かに誘われて出したんですね。その時に、まだ自分ではよく分からないような状況だったから、野村仁(のむら・ひとし 1945—)さんなんかが下でドライアイス並べていてね。僕は丘の急斜面の上のほうに乗れないブランコという作品作ったんだけど。こどもの国だからって単純だよね。乗れないブランコを作ったんだよね。で、丘の上から見ていたら、下でドライアイスを積み上げているから、「展覧会1ヶ月以上やっているのに溶けちゃうじゃないか」って。「なくなっちゃうじゃないか、あいつ何やってるんだ」って思っていたのね(笑)。で、その年かな、翌年かな? 毎日の現代(日本美術)展で野村仁の作品が写真で並んでいるわけよ。「あれ? このあいだの作品だ!」と思って。「彼は写真撮っていたな」って思って。その時に初めて「ああ、時間を見せていたのか」ってその時初めて分かったんだけど。会場で見ている時は溶けて。美術は形だと思っているから、「あいつ馬鹿じゃないか、なくなっちゃうじゃないか」(笑)思っていたのね。向こうのほうが早熟だったのね。こっちはそんなんでやっていたけど、こどもの国の展覧会も、このあいだ電話でちょっと話したけど。かなりいろんなことがあった。川村直子(かわむら・なおこ)さんっていう作家だったと思うけど、その人が、その頃ベトナム戦争があったから、こどもの国のポスターに、ソンミ村の大虐殺の写真をシルクで写真製版して、刷ってそれを10枚くらい、こどもの国の入り口のところにバーッと並べたのね。そしたら、公園側が許可なく全部取って捨てちゃったの。あれは後で分かったんだけど、皇太子、今の天皇が美智子さんと結婚して子供が生まれたのを記念して公園にしたんですよ、あそこは。今の皇太子が生まれるのを記念して公園にしたの。その前が弾薬の貯蔵庫跡だったんですよ。そういうのを払拭させるために、展覧会なんかさせたんだと思うんだけど。ところがそれ、そういう場だったもんだから、ベトナム戦争のそういう写真なんか持ち込んだりなんか問題で。

加治屋:ソンミ村の写真っていうのは、子供が虐殺されている写真ですか。

中山:そうですね、死んでる。それをシルクスクリーンでポスター上に刷ったんですよ。川村さんに聞いてみないとわからないけど、あれ自分で撮ったやつじゃないよ。新聞か週刊誌に載ったやつだと思うけどね。で、それを撤去したもんだから、今度は海老原暎(えびはら・あづさ 1942—)さんっていう女性作家だったと思うけど、毎日の交通事故の現場をパネルに書いていくというコンセプトで、交通事故があった現場図をそこに書いていっていたんだけど。

坂上:絵で描いていくんですか。

中山:文字と図で書いて。

坂上:どこどこ、何月何日って……

中山:そうそう。新聞記事に出たやつを書いてたんだと思うけど。そういうのをやっていたら、ポスター作品の撤去事件が起きたもんだから、今度はその事件の詳細を書き出しちゃったの。「公園側が……」って。そしたら今度は公園側がその作品まで撤去しちゃったのね。それでまあみんな他の作家たちは怒り出しちゃって。ところが実行委員の人たちは継続させたいという気持ちもあったんだろうけども。そうするとそれ以外にも子供にふさわしくないという作品が何点か撤去されたりしちゃったんですよ。他のはちょっと忘れちゃったけど、何点か撤去されちゃって。そしたら今度はみんなが怒り出しちゃって。実行委員の中でも分裂になって。まあ、喧嘩みたいな感じになって。

加治屋:実行委員は作家の方たちなんですか。

中山:委員長が小室至(こむろ・いたる 1941—)っていう作家ですね。眞板さんなんかも実行委員だったと思うけれども。水本修二(みずもと・しゅうじ 1941—)さんとか。

坂上:当時、若いけれど小旗を挙げたような人たちですか。水本さんもこういうの(手を壁面にするようなしぐさ)雑誌出たりとか。

中山:箱根の彫刻の森美術館に、こういうやつ(手の指全体を上下に動かすしぐさ)がありますね。

坂上:眞板さんもそれなりに名前が出てきていて。

中山:出てた。そういう若い人たちが。小室さんにしたって、当時若いからね。小室さんはゼロの加藤さんたちと同じくらいだと思うから、(現在)70代半ばくらいだと思う。あと出品した人たちだと、原口とか、野村とか、それから眞板、水本とか。60年代作家と70年代作家がみんな出していた。

坂上:現代美術系の人たちが出しているんですね。

中山:現代美術系が多かったよね。ほとんどね。何だっけ、あの足跡の人。有田(暁子 ありた・あきこ 1944—)さんだっけ。あの人もあの辺で出たんだよね。足跡で。会場でも足跡やっていたけど。あと、うーん……植松奎二(うえまつ・けいじ 1947—)も出していたと思ったね。植松さんいたよね。それから山本衛士(やまもと・えいし 1946—)とかね。当時みんな若かったけど。そういう人たちがみんな出していたから。あと公募団体系の人たちも少しは混ざっていたかもしれないね。石井厚生(いしい・あつお 1940—)だとか、知らないかもしれないけど、「あ」の松本さんって、知らないよね? 今でいうポップアートで。「あ」ってひらがなで、「あああああ」って描いてる作家で、松本何て言ったかな。

坂上:ももじ。松本百司(まつもと・ももじ 1933—)って。

中山:そうそう(笑)。よく知ってるね。

坂上:あの頃の野外展にたくさん出してますよね。

中山:松本さんロスかどこかに行っちゃったんだよね。その後の消息は僕は知らないんだけど。
松本さん出していた。小室さんは委員長だから全部知っていると思うけれど。

坂上:その話ってみんな封印しているんですか。

中山:いや。もう封印はしていないんだけど。あまり語りたがらないよね。

坂上:でも遠藤(利克 えんどう・としかつ 1950—)さんとか、所沢ビエンナーレの最初の頃に、飲み会の最初の日に「こどもの国を忘れるな」みたいな感じのことを言っていたような。熱く語っていたから。

中山:遠藤は後で知っているんだよね。1970年だからその当時は発表していないし、作家にもなっていないしね。何かで後で知ったか聞いたかで知ってるんだと思うけど。遠藤にしても戸谷(成雄 とや・しげお 1947—)にしてもね。

加治屋:『美術手帖』にヨシダ・ヨシエさんが記事を書いていて。

中山:誰が書いているんですか。

加治屋:ヨシダ・ヨシエさん。

中山:ああ。

加治屋:ヨシダ・ヨシエさんが当時、「雑誌、週刊誌などで報道された」と書いているんですけど(ヨシダ・ヨシエ「告発はすべての内側にも」(『美術手帖』1970年7月号))。わりと知られた事件だったんですね。

中山:そうそう。週刊誌でも取り上げられていて、雑誌もいくつか取り上げたと思うんですよね。で、これもね、ヨシダ・ヨシエさんに近い人と、あとねえ、またそういうのとは違う、日向さんなんかも関係していたと思うんだけど。日向あき子(ひゅうが・あきこ 1930—2002)。日向さんにわりと関係した人たちなんかもいたりしてね。いくつか分かれていたんですよね。ばらばらになっていたんですよね。(藤枝晃雄「作家による自主的運営」(『美術手帖』1970年4月号)のコピーを指して)これもそうですか?

加治屋:これは始まる前に藤枝晃雄さんが書いたもので……。

中山:ああ、藤枝さんは批判的に書いていたんですよ。たしか。

加治屋:ああ、そうかもしれない。

中山:ああ、楢葉雍(ならは・たかし 1930—)さんもいたんだ。藤枝さんは確かねえ、こういう展覧会自体を批判的に書いたと思うんですよね。前、藤枝さんに言ったら忘れていたけど。ま、後で読んでみる。そんなのがあって。

坂上:ものすごい大事件だったんですか。

中山:うん。ところがね、そういうのに関わらなかった人たちは冷めていて、李(禹煥 り・うーふぁん 1936—)さんなんかは最初ここに出すって言っていたらしいんだけど。李さんとか関根(伸夫 せきね・のぶお 1942—)さんとかああいう人たちは逆に冷めて見ていたらしい。後で聞くと。ああいうの、やってもしょうがないみたいな感じでね。

坂上:これは政治的には色濃いものだったんですか、当時としては。始める前から。こどもの国でそういうものをやることに対して、フェスティバルの実行委員側っていうのは、元弾薬庫だったことを隠蔽してやることに対して否定的な流れでフェスティバルやろうとしていたとか。ただ単に場所を得てとか。

中山:そんなに考えていなかったんじゃないかな。眞板さんたちはそういうの考えていなかったと思うし、小室さんなんかもそういうことより展覧会やりたいみたいなことのほうが先にあって。あまりそういう思想性みたいなものは考えていなかったと思う。で、後になっていろいろ考えてみて。途中から問題になってきたからいろいろ考えたと思うけど。楢葉雍さんなんかでも、実行委員だったんだけど、あの人わりあい慎重な人なんだけど、あの人も考えていなかったと思うね。多分。それよりもグループ展やろうって感じで。そっちのノリのほうが強かったと思う。

加治屋:これは作家たちが自主的に企画したグループ展ではかなり大規模なものだと思うんですけれども。

中山:かなり大規模ですね。

加治屋:これはどういった経緯で。過去にあまりなかったんですかね。

中山:作家が自主企画でやったはしりだったと思いますね。東急からかなりお金は貰っていたみたいですけど、あの、その時代ってやっぱり公募団体が全盛で、あともうひとつには、そうそう、あまり語られないんだけど、毎日の現代展とか国際展だとかコンクールが当時は主流だったんですよね。思想的には左翼系がものすごく多かった。

坂上:逮捕もされていますね。

中山:どばたにいる時代でも、「これからデモに行ってくるんだ」って言って、石膏デッサン描き終わってからみんな出かけていったりとかね。「中山行こう」なんて。「俺行かねーよ」って。

坂上:中山さんは行かなかったんですか?

中山:僕はほとんど行かなかったね。新宿に飲みに行ったりとかはしていたけど、一線置いていて。また、新宿に飲みに行くと、ベトナム兵がいっぱいいて、あそこの風月堂なんて喫茶店行くとねえ……。

坂上:あの、イントレピッドだっけ。(イントレピッドはベトナム戦争にも使われた空母の名称。1967年同空母からアメリカ兵4人がベ平連の助けにより脱走し、スウェーデンに亡命したことがその名が知られている)一番最初に逃げ込んだのが風月堂ですよね。

中山:逃げ込んだ?

坂上:ベトナム脱走兵4人が。

中山:あー、そういう事件があったねー。あそこ行くと、文化人もたくさんいたし、マリファナのにおいがぷーんとしていてね。

坂上:当時は合法だったんですか。

中山:当時でも……合法じゃないよ。

3人:(爆笑)

坂上:『美術手帖』だって、「トリップ〜」とか書いてあるから……。

中山:そんなに神経質な時代じゃなかったから。だってゼロの加藤さんたちなんか、新宿を素っ裸で走り回ってさ。

坂上:逮捕されない。

中山:加藤さんに「どれくらいやってたの?」って聞いたら、「まあ30分はやっていた。30分や40分は捕まらなかった」って言ってたよ。

坂上:えー。全裸で……。

中山:全裸で。男も女も。

坂上:見たくない……。

中山:走り回っててさ。で、西口は土曜日になるとべ平連の連中が、ベトナムに平和をとか言って、みんなギター抱えて唄を歌ってさ。西口広場のところは毎週輪になっていたし。紀伊国屋に本を買いに行くと、あの地下道にはフーテンが髪の毛長くして、シンナー吸っていたりしてさ。

3人:(爆笑)

中山:シンナー捕まらなかったんだよね。あの当時はね。

坂上:あそこで吸っていても?

中山:いっぱいいて足伸ばして坐ってるわけ。足を蹴っ飛ばしたり、踏んづけちゃったりすると、喧嘩になるから踏まないように、足をよけて紀伊国屋に本を買いに行ったりとかしてたんだからね。表に出ると機動隊がばーっといたりとかね。ま、刺激的な時代だったよ。当時はね。藝大でも門にバリケード張ったりしていたしね。確か。彼なんかも逮捕されたりしていたでしょ、越後妻有やってる……。

坂上:あ、そうそう、そうです、フラム。

中山:北川フラム(きたがわ・ふらむ 1946—)さんとかね。

坂上:この間、飲み会でも、飲み会の話ばかりですけど「あの頃北川さんもかなり大胆なことをやって逮捕されたりしていたのに、ああいう人たちがみんなああいうふうに転んで右翼になるんだろうね」って言っていた、そういう話で盛り上がっていたんですよね。

中山:そう。ほとんどそうだよ。美術に限らず。当時の経験した人たちは。だって、西部邁(にしべ・すすむ 1939—)だって、昔は学生闘争っていうか、左翼だったんだもんね。今右翼でしょ。

坂上:でも、こどもの国とかそういうのに関しては「やろうやろう」という感じで深く考えないでやっちゃうみたいなところもある。

中山:デモもノリでやったりとかしているんだよ。みんな。本当に思想を持ってきちんとやっている人たちっていうのは少なかったし。ただ、何て言うの、若者って誰でも持っていると思うけど、反権力っていうか、権力者に対する何かこう鬱憤を晴らすとかね。当時は安保でしょ、それからベトナム戦争の問題でしょ。本気でそういうことを考えていた人たちは少なかったと思う。ノリでやっていたような部分があって。みんな共産主義、中国やソ連や北朝鮮を支持していたわけだけど、本気でソ連や中国がいいのかっていうのはさ、まあそこまで勉強していなかったと思うね。後に70年代入ってから、(ヴラスタ・)チハーコヴァー(Vlasta ?iháková 1944—)さんってチェコ人と話すんだけど、彼女なんかはソ連が大嫌いなんだよね。その後チェコに行ったときプラハを歩いていたら、当時は共産圏だから、チェコの旗とソ連の旗がかかっていて、色がきれいだったから「ああ、あの赤がきれいだね」って言ったんですよ。グリーンの中に赤が入ってきれいだったんですよ。そしたら怒りだしちゃってさ。「あれが不愉快なのよ」って。

坂上:そういうのは言ってもいいせりふなんですか?

中山:日本語で言っているからね。彼女もチェコ語ではそういう時は絶対言わない。チェコ語で言う時は小さい声でひそひそ、チェコ人同士で話している時はね。僕なんかには日本語でソ連の悪口とか不愉快なこと言ったりとか、「あの人に気をつけなさい」とか言っていたけど。

坂上:道歩いていて?

中山:展覧会とかに行って、あれはどうも秘密警察みたいとか。西側の人間が行ってるわけでしょ、こっちは。だからそういうのが偵察っていうか来るんじゃないですかね。僕らにはさっぱりわからないんだけど、彼女には直感みたいなものか、情報が入っているのか知らないけれど、「あの人には気をつけなさい」って。ちょっと発言に気を付けてとかそういうことを言っていたよ。日本の当時の若者は本当の現実を知らなかったんですよね。時代的には日本が豊かになっていって、若者の不満が、ひとつの権力みたいなものに対する抵抗という表現として表出した時代。はしかみたいなもんだね。そういうのがあった時代だったんだろうと思いますね。僕の場合は、というか、多くの人たちはそうだと思うんだけど、学生闘争やデモには参加しないで、ちょっとはすに構えて見ていた部分がかなり強かったんです。

坂上:こどもの国の時って、その後、問題が起こって毎回毎回会議みたいな。

中山:そうそう。年中手紙が来た。新宿で会合をやるとかね。こっちのグループはこっちで、こっちのグループは別の場所でやるとかね。僕は中間的な立場だったので、両方から連絡が来るわけ。いろんな通知とか報告とかも来るんだけど、なんかよくわからなくてさ。で、まあどっちもどっちだなあって思っていて。2、3回参加したけど、熱心ではなかったですね。

坂上:そういう話を知らなかったから、そう思ったんですけど、そういうところの反省から所沢野外展(注:1978年から84年まで開催された「所沢野外美術展」)みたいなものを立ち上げたのかなと思ったんです。

中山:それはまた全然違う。全然別だよね。

坂上:所沢も航空公園だから。

中山:ちょうどあれも米軍基地を返還されて空き地になって、日大の芸術学部にいた佐々木(実 ささき・みのる 1945—)っていう作家が所沢にいて。彼が代表で開催した展覧会。彼と、この間(2009年に開催された第2回所沢ビエンナーレに)出した北澤一伯(きたざわ・かずのり 1949—)さんとかね。北澤から所沢で野外展やろうって誘われて参加したんですよ。

坂上:ちらっとカタログ見ていいですか。

中山:どうぞ。

坂上:これは中山さんが中心ではないんですか。

中山:僕は声を掛けられて出したの。

坂上:もともとは誰が……。

中山:今言った佐々木と北澤一伯。その辺りが中心になって。みんな日大芸術学部の出身者なんだけど。

坂上:この辺の人たちはみんな、所沢に住んでいたんですか。

中山:砥上賢治(とがみ・けんじ 1948—2011)はたまたま僕のうちに遊びに来ていて。久野(利博 くの・としひろ 1948—)もそうなんだけど、僕が声掛けてこの2人は僕が誘って出したんです。戸谷は所沢でしょ。多和(圭三 たわ・けいぞう 1952—)も所沢。この辺も所沢だったかな。清水誠一って、あの山梨にいた画家の清水誠一(しみず・せいいち 1946—2010)じゃないの。同姓同名なの。

坂上:あの入れ歯みたい(作品)なの。

中山:そう。あの清水誠一とは同姓同名なんだけど、どっちかひらがなかカタカナにしたほうがいいんじゃないのとか言っていたんだけど。

坂上:(清水さんが経営していたのは)スナック「消しゴム」だっけ。

中山:そうそう。西武線の椎名町で飲み屋やっていたんだよね。

坂上:そうですよね。

中山:消しゴムって飲み屋。

坂上:消しゴムはみんなよく行っていたんですか?

中山:行っていたんじゃないかな、みんな。田窪(恭治 たくぼ・きょうじ 1949—)とか高見沢(文雄 たかみざわ・ふみお 1948—)とか。

坂上:高見沢さんはずっと飲んでいたみたいなことが記事になっていた。

中山:高見沢も、家が西武線だから。ちょうど通り道だからね。

坂上:そうなんですか。消しゴムってこの時代ですよね。

中山:そうそう。峯村(敏明 みねむら・としあき 1936—)さんなんかも行っていたみたいだよ。

坂上:これ(所沢野外美術展)は佐々木さんが気に入った人というか。

中山:そう。佐々木さんも、確かこどもの国に出していたと思うんだよね。それでやろうと思ったのかどうか分からないけど。で、声掛けられて、地元だし、じゃあ僕も参加することにしたんですよ。戸谷も遠藤も一緒に参加した。僕が誘ったわけじゃないんだけどね。僕が誘ったのは久野と砥上だけ。

坂上:カタログだけだとみんな似たような作品を作ってますね。

中山:そうだね。そういう時代だったんだよね。

坂上:テーマが木、重力、影みたいな(笑)。

中山:(笑)。なんか共通性あるよね。あの当時のね。

坂上:何かを確かめようとしているのかなあっていう感じがするんですけど。じゃあ、これは航空公園の由来とは全く関係なく。

加治屋:航空公園が整備された頃でしたっけ。

中山:そう。公園が返還されて整備しているときですよね。

加治屋:中山さんの作品はこれはその場でやって写真撮って。

中山:そうですね。写真は写真で他のところで展示したりしたんですけど。会場でこういう写真をいっぱい撮って。(横たわった木材の写真と同じ位置に寝ころんだ自分の写真からなる作品を指して)これも木。帰るときは木にして、その場にいるときはこうやって(寝ころぶ)。

坂上:この航空公園がきっかけで所沢ビエンナーレに結びついていくんですか。

中山:僕の頭の中ではそういう意識はあったんだけど、戸谷と遠藤はまた違っていたんじゃないかな。ただ、飲み屋で話した時に、昔遠藤や戸谷と所沢に限らずグループ展を何度もやったことがあるので、また地元で展覧会やろうかみたいな話をして。そしたらあの会場が見つかったんですよ。最初は少人数でやるつもりだったんだけど、西武鉄道の車両工場という広い会場が見つかったのでビエンナーレになったんです。そういう成り行きで始めたんだよ。最初からビエンナーレをやろうと計画したわけじゃない。

加治屋:78年のこの展覧会は、佐々木さんが中心になってその後も。

中山:続けてましたね。多和なんかも続けて出していたんじゃないかな。まあ言い方変だけど、多和の親分だから、佐々木が。

坂上:そうなんですか。

中山:佐々木の子分っていうか後輩なんだけど。佐々木っていうのは剣道をやっていて、何て言うんだろう、下級生には体育会系のノリで接する人だったから。それで出していたんだろうと思うけどね。

坂上:中山さんが一回でやめた理由というのは。

中山:なんかね、佐々木さんのやり方が気に入らなかったっていうかね。今思えば、しょうがないのかなと思うんだけど。会合なんかでも、行くと体育会系のノリで、お前もっと下のほうへ坐れとか。中山さんもっと上座に来てくださいとか、そういうような公募団体的なんですよ。ちょっと嫌だったんです。それで一回しか。戸谷も遠藤も僕と同じように感じていたみたいで、それで別に話し合ったわけじゃないんだけど、2回目からは出さなかったんだよね。北澤一伯は佐々木が先輩なものだから声を掛けられて一回目は出したんだけど、北澤も一回しか出していないんだよ。

坂上:北澤さんのことは私よく知らないんですけど、あの人もなんか過去にありそうな感じの人ですね。

中山:うん。彼は日芸出身者なんだけど、彼の先輩だと原口典之や彫刻家の山本衛士っていうのがいて、二人は割合仲良かったと思うけど、他には倉重(光則 くらしげ・みつのり 1946—)とかね。倉重は絵画科だったかな。北澤はその後輩で、何て言うか、フットワークのいい人だったから。神田の画廊、山岸さんのところ(田村画廊)でもよく個展をしていたし、顔は広かったよね。彼はね、いろんな人に対して親切な人なんですよ。

加治屋:たしか展示した作品をそのまま公園に残しておくっていうのがありました。

中山:残しておくっていうのはなかったと思うんですけど。あったかな。

加治屋:彫刻はいくつかあったと。

中山:彫刻は残したりしたのがあったかもしれませんね。

坂上:1回目のカタログを見た感じでは、(作品として)残るようなのはないですね。

中山:そうそう。この時はそういうのはなかったんだけど、2回目から県に買ってもらおうとか、所沢市に売りつけようとか、そういうことを言っていたからね。そういうのはちょっと違うんじゃないのとか思っていたから2回目からは参加しなかったんですよ。

坂上:これって継続したっていうことは市民には好評だったんですか。

中山:いやあ、どうだったかな。

坂上:分かんないですよね。

中山:そんなにね、所沢ビエンナーレみたいに拡がりはもたなかったからね。だから、注目を受けた展覧会ではなかったよね。

坂上:中山さんの中でこれと所沢が継続しているっていうのはどういう点でですか。

中山:僕の場合ね、地元っていうか、土地って大事だと思っているんですよ。美術の歴史を考えると、たとえばバルビゾン派にしても土地だし、印象派って言うけど、あれもパリ芸術ですよね。未来派だってイタリアだけど、どっちかと言えばミラノ未来派だし、ニューヨーク・スクールとかね。日本で地名があるのは九州派くらいで、ほとんど地名っていうのはないんだよね。だけれど、基本的には、例えばダダなんかでも、吉村さんたちや篠原(有司男 しのはら・うしお 1932—)さんたちが、ネオダダってやったから多分駄目だったと思う。あれをね、たとえば「東京ダダ」ってやっていたら、周回遅れのダダなんだけど、それなりの位置づけもあったんじゃないかと思う。それはチューリッヒ・ダダからベルリン・ダダがあってニューヨーク・ダダがあって、遅れて東京ダダになったと思う。一つの世界の流れとしてあったと思うんだけど、ネオダダっていうふうにした時に、やっぱり存在感が薄れたと思う。国際的な意味でも。そう思うと、やっぱり土地って重要な要素を持っているんじゃないかと思うの。所沢展も、所沢っていう地名が割合重要なんじゃないかなと思って。で、たまたま近所に作家がいたから、じゃあまあ一緒にやろうかなみたいなね。そういうのが僕の中にはあったよね。

加治屋:石神井にいらっしゃって、その後すぐに所沢に移られたんですか。

中山:いや。結婚して、国立に2年くらい住んだんですよ。国立に住んでから今の所に移ったんです。あれは昭和何年かなあ。もう30何年以上経ちますね。35年くらい経つのかなあ。まあ、直接的に所沢とは関係ないんだけどね。でもさっき言ったみたいに、野外っていうのと地元っていうところで、どっかで経験がつながっているかもしれないね。あとね、ニュー・ジェオメトリック・アートグループ(1960年代に全盛を迎え、70年代にかけて活動した前衛グループ)っていうのに誘われて出したりしたことがあって。そこはね、狗巻賢二(いぬまき・けんじ 1943—)とかが前に――途中で僕とすれ違いで彼はやめるんだけど――入っていたグループですね。関西を中心にしたグループですね。あそこで何か幾何学的な作品を作ったりしていた時代もあるんですけどね。

加治屋:それは70年代。

中山:70年代ですね。

坂上:狗巻さんは針金で(中空に線描のように線をひろげた作品で60年代後半に鮮烈なデビューをとげた)……。

中山:そうそうそう。

坂上:あれが60年代後半。69年7月とか8月とかそんなだったと思う。それで認められるから。

中山:中原(佑介 なかはら・ゆうすけ 1931—2011)さんに認められたりしたんだよね。(自分がグループに入ったのは)73年くらいからだと思うです。

坂上:あれ? でも72年に既に都立産業会館でニュー・ジェオメトリックを……

中山:そうだ。やってるんだ。じゃ、72年くらいからですね。で、72年、73年、74年って3年くらいやったのかな。

坂上:おもしろかったですか。

中山:それはね、それなりに面白かったんだけど、若い人がいなくてね。関西の須賀(卯夫 すが・としお 1910—不明)さんとか……

坂上:(ニュー・ジェオメトリック・アートグループは)ドイツでもやっていたんですね。ミューラー・ギャラリーとか。

中山:そう。ドイツでやったりしていた。僕は作品だけ出して実際に行っていないから分からないけど、ドクメンタの周辺でやったらしいんだよね。グループとして。須賀さんの経歴を見たら、「ドクメンタ協賛展」って書いてあって。何か照れくさくて書けないんだけど、何かいかがわしい感じがしちゃってさ、協賛展。ジェオメトリックのグループの経歴にそう書いていた。僕も出したんだけど、何か胡散臭い感じがする。

坂上:オプ・アートとかジェオメトリックとか、60年代の半ばにばーっと出てきた感じがするんだけど……

中山:そうそう、60年代半ばですよね。メンバーの中で一番最初に出ていたのはね、大野さんっていう。大野増穂(1936—1998)って、もう亡くなっちゃったんだけどね。その人は、シェルかな、高松(次郎)さんが1席だったか、その時に2席か3席取っていて(注:1965年のシェル美術賞の1等が高松、2等が大野)。高松次郎なんかと同じ時期に出てきた人で、神奈川県立美術館にも作品が入っていると思う。かなり出た人だよね、大野さんって。途中でやめちゃったけどね。

加治屋:ニュー・ジェオメトリック・アートグループは60年代半ばから活動していたんですね。

中山:そうですね。

坂上:ちょうどタダスキー(桑山タダスキー 本名:忠佑 くわやま・ただすけ 1935—)とか出ていたあの展覧会、何て言ったっけ。何とかの眼って……。

加治屋:「応答する眼」(The Responsive Eye)。

坂上:そうそう。あの時に、その流れでばーっといって。その時に出ていた人とかがいたりとかして。

中山:関西の人が多かったよ。具体とダブっていたんですよね。ニュー・ジェオメトリック・アートグループをやめて具体に移った人とかいたから。名前忘れちゃったけど。

坂上:これは何となく呼ばれて入ったみたいな感じですか。

中山:そう。これは大野さんに呼ばれて。若い人があまりいないから、出さないかって言われて。それで、あまりよくわからなくて出したんですよね。(写真見ながら)最初に出した作品がこれなんですよね。ニュー・ジェオメトリック・アートグループに出した作品。

坂上:どれですか。

中山:これ。

坂上:ちょっともの派的な面もある。

中山:そうだね。木を切ってずらしたみたいな感じ。

坂上:木を使うっていうのは。

中山:僕は木彫。さっき言ったみたいに、木彫で最初入ったもんだから、木彫をやって。これがスルガ台画廊で。あ、これ、植村鷹千代(うえむら・たかちよ 1911—1998)だ。

加治屋:ああ。

中山:なつかしいなあ。植村さんだ。

坂上:針生先生(針生一郎 はりう・いちろう 1925—2010)が大嫌いな(笑)。

中山:いやー、神経質な感じの人でさ、一世代前の人だよね。

加治屋:じゃあ、60年代も作品は見続けてらっしゃったんですね。

中山:誰ですか。

加治屋:植村鷹千代さん。

中山:ああ、見ていたんじゃないですかね。知り合いだから来たんじゃなくて、画廊に何か用事があったみたいで。で、話し込んでいったんですよね。

加治屋:批評は50年代までは見るんですけど。その後だとあまり……。

中山:どこだったかな、新橋で研究所みたいなのをやってましたよね。

加治屋:ああ、そうですか。

坂上:植村さんが?

中山:うん。何とか研究所。

坂上・加治屋:へえー。

中山:これが72年だもんね。

加治屋:「レスポワール」ってスルガ台でやっている。

中山:そうそう、スルガ台画廊でやってる。

加治屋:今も続いていますね。

中山:今も続いていますか。

加治屋:うちの学生が出してますね。

坂上:へえー。

中山:へえー、若い人に声を掛けて、紹介で。

加治屋:そうです。

中山:このスルガ台画廊って、山口さんって姉妹がやっていて。いま串田(光子)さんって人がやっていると思うんですけど。山口さんってお姉さん(の名前)。それが山口薫(やまぐち・かおる 1907—1968)かなんかの……。

坂上:そうそうそう。

中山:姪だか何かだよね。(写真見ながら)最初はね、こんなような……。これは公募団体に出していた頃の。

坂上:ああ、一陽展。

中山:これもそうだ。こういう作品ですよ。

坂上・加治屋:ほー。

中山:彫りまくったような作品で。これは鉄だったのかな。

坂上:これが。で、これが木彫で。

中山:これが最初の年に賞を貰ったやつで。

坂上:下にブロックが敷いてある。

中山:外に展示してくれと言われたから、でかかったんだよ。翌年はこれを作って、これもでかかったんだけど、これも賞をもらったんだよね。あ、これがこどもの国(の作品)。乗れないブランコ。これはグラデーションにしたんですよ。ちょっと傾斜になってるんだけど、これの下のほうに野村仁がドライアイスをやってたんだよ。これしか残ってないんじゃないかな。子供がこれくらいの高さだから、上で止めた記憶がある。かなり上にしてやったんですよ。見せるブランコっていうんで。ただ、この頃の作品は良くないですよ。自分でもよくわからないで作っていたから。

坂上:へー、でもこれは面白いなって思うんですけど。

中山:時代なんだよね。アイデアでやった時代。

坂上:これは全部70年代前半の作品ですか。

中山:そうですね。

坂上:『美術手帖』見て戸惑いながら、ああいう作品を……。

中山:そうそう。

坂上:作っていった。

中山:自分の身体を使い出して、こんな〇△□みたいなのをやったり、こういうのをやったりとか。何かいろんなことやっていたね。これはインスタレーションですね。いろいろやっていた。これは京都でやっていたのかな。

坂上:そうですね、京都市美術館。

中山:そうです。これは田村画廊だったかな。真木かな。これは藍画廊。これは名古屋のウエストベス。これの古いほう。これはテーマ展かな、ときわ画廊。これはパリでやったのかな。

加治屋:最初は木彫とか彫刻を作っていて、写真を使われるようになったのはどういうところから。

中山:あの、彫刻って形を作るもんだっていう概念があったもんだからやっていたんだけど、さっき言ったみたいに途中で悩み出したんですね。その時に初心に戻って、最初、具象で人物を作ったりしていた時に、モデルとの間に距離感があって、それをもっと縮められないかと何となく考えていたんです。そうしたら、じゃあ自分がモデルになれば、その時に眠たいとか、ちょっと足がしびれてきたとか、そういう感覚が分かるから、自分がモデルになって作品を作ろうと。で、自分がモデルになるにはどうしたらいいんだろうと思って。で、ああ、写真があるなと思った。自分でひとつのポーズをとったものと、その延長でつくった立体(彫刻)とを重層的に展示して。まあインスタレーションですが。それで、この辺のときからタイトルは《BODYSCALE》で身体をテーマに始めたんです。

坂上:70年代は写真を使う作家は多かったけれど、実際に写真が現代美術として認められたというか、そういうカタログが出ているのって、82、83年じゃないですか。「現代美術になった写真」(1987年 栃木県立美術館)とか「現代美術における写真」(1983年 東京国立近代美術館)だとか。

中山:そうかもしれないね。

坂上:この頃っていうのは写真を使っている人はいても、違う捉え方だったんですか、今とは。

中山:たくさんいたんだけど、何て言うんだろうな。

加治屋:『美術手帖』だと、たしか78年か79年に多分チハーコヴァーさんが書いてる「写真と美術」とかいう特集がありましたよね。

中山:そうですよね。あれ、あの、「写真としての芸術、芸術としての写真」っていう(注:「美術に拠る写真、写真に拠る美術」『美術手帖』1980年3月号)。

加治屋:ああ、それです。

中山:われわれが「はまのや」って画廊で写真作家を集めて「芸術としての写真 写真としての芸術」っていうタイトルの展覧会をやっていたんですよ。1978年だったかな。そのときにチハーコヴァーさんに書いてもらったんです。書いてもらったっていうより、チハーコヴァーも参加したんですよね。で、その後にこういう本を作ったりするんだけど(『EXPERIENCE BOOK』1978年)。それで特集になったんですね、あれは。

坂上:これがもとでああいうふうな。

中山:これ(『EXPERIENCE BOOK』)ね、評論家からもお金を取ってって(作った)。

坂上:所沢スタイル。

中山:これもチハーコヴァーさんが買ったページなんですよ。だから自筆。こっちが英語でこっちが日本語で、両方とも彼女の自筆。

坂上・加治屋:ふーん。

中山:いくらだか忘れちゃったけど、彼女もお金を払って。我々(作家)もみんなお金を払って、こういう本を作ったんです。

坂上:ちょっとこれは気になる。後でゆっくりと……。

中山:あげますよ。たくさんあるから。

坂上:(ページをめくりながら)あああ、いやだー。これ大嫌い!

中山:ステラーク(Stelarc 1964−)。

坂上:大嫌い。気持ち悪い。

中山:ステラークって、何度も一緒に展覧会をやってるんだけど、彼はすごく知的な人だよ。これはアブラモヴィッチ&ウライ(Marina Abramovi? and Ulay)で。今は別れちゃったでしょ、アブラモヴィッチとウライ。

坂上・加治屋:うん。

中山:これもね、本気で蹴っ飛ばすんだよね、他の人が。それでひっくり返って。体張ってるよね。ボルタンスキー(1946—)だって、今は、偉くなっちゃったけど。これだよね、ボルタンスキー(注:Christian Boltanski《Descending the Ramp of Stairs 15000 49》1970)。

坂上:何してるんですか、これ。

加治屋:なんだろう。

中山:多分これは滑ってきているんじゃないかな、螺旋の階段を。

加治屋:あ、階段の手すりを。

中山:それから彼の前の奥さん、メサジェ(Annette Messager アネット・メサジェ 1943—)。

坂上:これはみんな体張ったものを写真に収めるっていうコンセプトのものだけを集めたんですか。

加治屋:展覧会ですか。

中山:いや、これは本を作ったんですよ。これは自分でメーキャップして。

坂上:やなぎみわ(1967—)みたいですね。

中山:もっと早いけどね。

坂上:うん。

中山:こういうのもね。

加治屋:へえー。

中山:こういうのもね。写真が主になったんだけど、それはチハーコヴァーさんの好みだと思う。彼女の紹介がほとんどだったから、外国の作家は。本を作ろうっていうんで、本を作ったんです。

坂上:チハーコヴァーが作った。

中山:いや、我々で。

坂上:お金を出して。

中山:みんなでお金出し合って。チハーコヴァーさんも出して。で、広告料をちょっともらったりとかしてね。いくらだったか忘れちゃったけどね。

坂上:ギャラリー16は(協賛に)入っていないですね。

中山:ほら大体こっち(関東)の作家だったからね。関西の作家はあまりいなかったからね。

坂上:でもちゃんと(東京以外の画廊からも協賛を得ているので)……。

中山:ウェストベスは(画廊主の)小塚さんがたまたま来たんだよね。あ、久野の紹介だ。久野。久野が(広告を)とったんだ。

加治屋:これは何年ですか。

中山:何年でしたっけ。

坂上:1978年12月って。

加治屋:へえー、すごいなあ。チハーコヴァーさんは海外の作家とも交流していたんですか。日本にずっと住んでいたんですよね。

中山:彼女は時々チェコに帰っていて、その途中にパリやアムステルダムなんかに立ち寄ったりしていたからね。僕は70年代にどっかの画廊で知り合ったんです。

坂上:どこの画廊ですか。ときわ画廊?

中山:藍画廊だと思うね。藍画廊で知り合った。あ、違う違う。はまのやって画廊で77年に「芸術としての写真・写真としての芸術」展っていうのをやるんですよね。それを彼女が見て、私も参加させてよって来た。評論家として文章で参加させてって言うんで。それで次の時に「写真の〈事〉」展っていう展覧会のチラシに彼女が文章を書くんですよね。その頃に知り合ったと思う。その前から知ってたのかもしれないけど。知ってなかったら言うわけないもんね。知ってたのかもしれないけど。この辺は『テオリア』の…… これ、よくやったよね。これを毎月出したんだよ(注:『テオリア』は、『アートコム』全7冊(1995年5月—1997年12月)の後継誌で、第2期は全14冊(1999年11月—2001年1月)、第3期は全7冊(2001年6月—2002年12月)、合計28冊刊行された)。

中山:これ見たことある?

坂上:中山さんからもらった3冊だけ。

加治屋:これは99年から……。

中山:1年間。毎月出したんですよね。

加治屋:へえ……。

坂上:まだみんなパソコンできるかできないかみたいな。

中山:早かったんだよね。

坂上:これって富井(玲子)さんも出してるんですけど、これって「グローバル・コンセプチュアリズム」(クイーンズ美術館、1999年)の関係で出したりとかしているんですか。

中山:いや、最初は彦坂がこういうの作ろうって言って。それで叩き台みたいなのを彼が作ってきて。自分だけではできないっていうから。これが『アートコム』の一番最初なんです、第1号。第2号と出していって。最後は、ギャラリー手を中心にしてこれを出して。それは東京画廊を中心にして。

坂上:こういう本を出さなければいけないと思ったのは何でですか。

中山:こういう文章を書くのが彦坂が好きだというのと、何か形に残したいっていうのがあった。僕もそう嫌いじゃないほうだったから、じゃあやるかみたいな感じでやりだしたんですよね。

加治屋:富井さんってこの頃もうアメリカに行ってらしたんですか。

中山:アメリカに富井さんは行っていましたね。パソコンがあったから、メールで原稿を送ってもらって、それをやるって感じで。

坂上:石川翠(いしかわ・みどり 美術評論家)って変わってますよね。

中山:知り合いじゃないんだけどね、突然書かせてくれって言ってきたの。あ、これは彦坂と清水(誠一)と3人でやった展覧会のカタログ……。

坂上:あ、『さまざまな眼』(注:「さまざまな眼78 壁の向こうの聖ヨハネ〈HNS〉」かわさきIBM市民文化ギャラリー、1996年)。いつですか。最近ですか。

加治屋:もしよかったらコピーさせていただければ。あ、これはチハーコヴァーさんにインタヴューしていますね。

中山:そうそう。それは『アートコム』6号。

坂上:活用させてください。

中山:どうぞどうぞ。

坂上:中山さんは、初期はああいう木彫で模索して作っていたけど、こういうふうに身体、写真と実体的なものを繋げてやってみようと思ったのって……。

中山:最初はねえ……。

坂上:もの派じゃないですか。

中山:もの派……。

坂上:もの派への反抗なんじゃないのかなと私は勝手に思っていたんですけど。

中山:反抗じゃないんだけど、何か、物を集めて置けば作品になっちゃうような時代だったよね。どうもそれが納得いかなくて。さっき見せたけど、自分の身体を使って写真に撮って使い出すようにして。今でも変わりないんだけど、作品は、作家が作った行為の集積だって思っているんです。で、やっぱり人のほうが重要だというふうに思っているんですよね。見るのも人だしね。物はそんなに重要じゃないと。だけれど、我々は、物がないわけにはいかないから、表現として作っていくんだっていうふうに考えている。で、まあ、行為、人間のほうに力が入っていっちゃうという感じですよね。

坂上:本の中にも書いてあったけど、単なるカセットテープで外見は同じでも、中に宇多田ヒカルが入っているのと、何か重要なものが入っているのとは全然違うだろうと。カセットテープが大事なんじゃなくて、その中にあるソフトが。

中山:そう。

坂上:そのソフトのために人間は発展してきたっていうふうに中山さんは語っていて。

中山:といってハードを否定しているわけじゃないんだけどね。ハードとソフトっていう部分では両輪なんだけど、今の時代にはソフトのほうが重要になってくるんじゃないかっていうふうに思っていて。例えば70年代とか60年代か、あの時代はやっぱりハードみたいなものが必要な時代だったんだろうと思う。僕の考え方で言うと、デュシャンがやっぱり大きく変えたと思うんですよね。レディメイドのオブジェっていうのをやりだした時に、何でもオブジェ、既製品が作品になっていく。もちろん美術を進めたんだけど、そのもっと前の、「デュシャン前派」なんて言葉はないけど、仮にもしそういう言葉を使うとすれば、もっと描く行為とか作る行為とかが重要で、そういう結果として作品が出てくるんだって思う。それで、あまりものに依存したくないって部分があったんだよね。

坂上:デュシャンは便器に依存したわけじゃなくて……。

中山:行為だよね。だけれども、そのインパクトが強かったから、デュシャン以後の人たちっていうのは、ものを持ち込めば作品になっていっちゃったんだよ。例えば、コラージュやアッサンブラージュからコンバインとかメルツとかそういうものも含めてだけど、何か既製品のものを持ち込めば作品になってっちゃうよね。

坂上:デュシャンはそういうつもりじゃなかったですよね。

中山:デュシャンはそういうつもりじゃなかったと思うよね。だけれど、一つの概念そのものをデュシャンは言ったわけだけど、その影響が次々に展開していってもの派につながるようになっていって、石ころを持ち込めば作品になっちゃうとか。石に番号、あれはコンセプチュアルだけど、石に番号を打てば作品になっちゃうとかさ(注:高松次郎《石と数字》1969年)。そういうふうになってったでしょう。そうじゃないんじゃないかなっていうのが僕の中にはあったよね。

坂上:ちょうど70年代って、今言っていたもの派がどんどん結晶化していく。最初の(頃の)もの派は、(本来物質と繋がっていた「意味」や「物語性」を意識せずに物質のことだけ)を考えて物質だけを出していたとは思わないんだけど、けれども、どんどん物質の面だけが際立っていっちゃって、画廊に小石を置けばいいとか、墨を燃やしたの置けばいいとか、そういうふうにものだけになっていっちゃったじゃないですか。それと同時に、コンピュータアートだとか(意味や概念が、物質性を無くしてひろがりを見せる)。この間も柏原(えつとむ かしはら・えつとむ 1941—)さんのことでちょっと書いた(2009年「引込線」カタログ掲載)けど、概念だけで「水を汲んで飲め」「紙から水飲んで」みたいな感じになって、何だか(本来くっついていた物質と概念が)2つに分かれちゃったような感じがして。(中山さんの作品は)それ(分離)を繋ぎとめるための作業なのかなと勝手に思った。

中山:どっかで作品にしようと思った。アイデアだけ、まったくのコンセプチュアルみたいなのだけ、っていう。それは、ちょうど(ジョゼフ・)コスース(Joseph Kosuth, 1945−)と僕は同じ年なんだけど、コスースの作品を見るとちゃんと空間を意識しているんだよね。単なるアイデアだけじゃなくて。前、千葉(市美術館)で見たときも、空間の使い方がものすごくうまいんですよね。やっぱり単なる概念だけとは違っていて。だけど、例えば日本の場合、とくに70年代はそうんだけど、概念だけで成立するような時代だった。高松さんはいい作家なんだけど、「この七つの文字」って書いてもさ、作品になってないっていう感じがするわけですよね。そういう作品に対する批判はあった。それともうひとつは、物質だけに依存して、それを持ち込んでやればというのに対しても批判があった。どっかで作品化しないといけないって。これね、多分後で読んでもらえばわかると思うんだけど。彦坂と清水と、ここで話ししてるんだよね。「非芸術」とか「反芸術」とか「無芸術」とか言われた時代があって、そのことを話している。彼は芸術から外に出るって話をしていて。僕は、いや美術の中にとどまらないと美術にならないみたいなことを言ってるんですけど。反芸術といっても非芸術といっても、美術の中にとどまらないと美術にならないし、外に出たら普通のものになっちゃうじゃないかってそんな議論をしているんです。

坂上:前に中山さんが「俺はもの派を認めない」って、藤枝(晃雄)さんみたいなことをおっしゃっていて。もしもの派の存在を認めるならば、「こと派」も認めるべきだって。

中山:そうだよね。認めるべきだよね。こと派なんてないんだけど。もの派もなかったんだけど、もしもの派があるとすれば、物質と行為ということが盛んに言われたんですよね。

坂上:もの派がなかったって? 日本の美術の教科書を見たら、多分もの派ってでかっく出ていると思うんですけど。そのもの派がなかったって? 同じ時代を生きていながら、もの派がなかったって断言するのは……。

中山:ようするに「派」ではなかったんですよね。当時の原口にしても高山にしても榎倉にしても「俺たちはもの派じゃない」って言ってみたりした時代もあるわけね。今は面倒くさいからもの派って。李さんだって、一番最初、もの派って言われたときはすごく怒ったんですよね。それは『美術手帖』に残ってる。

坂上:今は「もの派の李です」みたいになってますね。

中山:なってるね。『美術手帖』にチハーコヴァーさんとジョセフ・ラヴ(Joseph Love 1929-1992)と3人で(鼎談している)。その時ももの派って言われて、ものすごく怒ってるんですよね、李さんは。当時、もの派ってね、誰がつけたかもちろんわからないんだけど、我々の中で、例えば神田あたりで、室町の角で田村画廊に行くのとときわ画廊に行くのが出会ったりすると、「こっちはもの」「あっちはこと」なんていう会話があったんですよ。そうすると一方は石や鉄か何かが転がっているんじゃないかなと。こっちは、当時イベントって言ったんだけど、何かやってるのかなと。そういう会話があった。日常会話の中であったんで、誰となしにもの派って言ったんだと思うのね。誰が命名したって言うんじゃなくて。それは例えば、一時期ミニマル・アートがあって箱を作ったりしていると、その時はそういうのはないんだけど、「あ、箱派」なんて言ったりしてたんだよ(笑)。ミニマル・アートって、箱みたいなのを作るのが多いんだよ。ジャッドとか。「ああ、箱派だ」とか言ったりしていたからさ。それなら、こと派もあってもいいんじゃないかって。

坂上:こと派っていうのはイベント派っていうことですか。

中山:やっぱり行為性を重視した表現をしているものだよね。身体をテーマにしたもの。直接的。それは前にも言ったかもしれないけど(紙に「物事、事物」と書く)、同じ字なんだけど、入れ替えによって、物事って言うと事のほうに比重がかかるじゃないですか。で、事物って言ったときには物のほうに比重がかかるじゃないですか。だからセットはセットで、作品を作る時にどっちに比重をかけているかだけの話なの。だから、もの派と言われる人たちもみんなパフォーマンスをしているんだよ。当時はイベントって言ったけど、みんなやってるんだよ。高山にしろ榎倉にしろ原口にしろ、みんなパフォーマンスやっているんだよ。だけどもののほうしか語られていないんです。

坂上:でも最初、関根、小清水、吉田は、イベントとかやってない?

中山:だって、関根さんが穴を掘ったのはまさに行為じゃない。会期中に穴掘っているんだよ。会期中に穴掘って、最後にでき上がったのしか、みんな見ないからあれなんだけど、最初に堀ったから展覧会が始まったんじゃなくて、会期中に穴掘っている。ってことは、会期中には行為を見せているんですよ。それから《油土》だって、行為の痕跡を見せているんだよね。そのものを見せているってよりは、粘土にやった痕跡を見せている。

坂上:でもそういう意味だったら具体だってもの派ですよね。

中山:そう。あれはアクション・ペインティングみたいなものの流れだとか、アンフォルメルの流れとか色々あったんだと思うけど、行為性ですよ。その結果、白髪(一雄)さんなんかのやつだとまさにそうで、その結果、絵具が散らばってるわけじゃない? だからこと派ですよ、もちろん。もしそういう言い方をすればね。だけど、ハプニングがいけなかったと思うんだけど、なんか不快な出来事みたいな感じで、語るのをやめちゃったんだよね、みんな。

坂上:その時はよく語られてましたか。

中山:ハプニングはちょっとジャーナリスティックには語られたよね。だけどちゃんと分析されたものは、美術として分析されたものは、ほとんど日本の場合はないんじゃないかな。アラン・カプロー(Allan Kaprow 1927-2006)が去年だか一昨年だか死んだけど、ちゃんと日本で紹介されていないんじゃないかな。どうなんだろう。

坂上:このあいだロサンゼルス美術館で、死んだ後に大きな展覧会をやっていたけど、アメリカでも行為自体はすごく面白いじゃないですか、面白いなと思うけど、死んだ後に美術館に並べられると、全部ものでしか残ってなくて、それは本当につまらなくて、見るに耐えうるものではないから、忘れていってしまいやすいですよね。

中山:多分消されていくと思う。だけど、便器じゃないけど、便器もあの一枚の写真で残っているわけじゃないですか。関根さんの穴彫ったやつにしたって、あれ一枚の写真だけで残っていっているんだよね。当時をちゃんと見ている人なんて少ないわけだから。そういう意味では残っているかもしれないけど、影響はものすごくあったと思うのね、アラン・カプローなんかの影響は。当時のアメリカの作家はかなり影響を受けたんじゃないかな。リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein、1923-1997)なんかもかなり影響を受けたみたいなことを言っている。

加治屋:カプローに?

中山:カプローに。

加治屋:ああ、そうですか。

中山:どこかで出してるビデオを見ていると、アラン・カプローに影響受けたってことを言っていますね。日本だとなかなかちゃんとアラン・カプロー紹介されてないんじゃないですかね。

加治屋:カプローの文章の翻訳が『美術手帖』に出ていますね。

中山:山口さんが翻訳してますね。山口勝弘(やまぐち・かつひろ 1928—)。

加治屋:そうですね。

中山:ただ美術評論みたいな形でちゃんと紹介して、反芸術から非芸術から無芸術なんて言われた。反芸術までは紹介されたんだけど、非芸術、無芸術なんてのはほとんど日本ではちゃんと言われていなかったと思いますね。まあ、さほど重要でなかった部分も確かにあったんだろうと思うけど。

坂上:でも、まあ、もの派もこと派も写真でしか残っていないじゃないですか。そうしたら何でもの派ばかりが残ってわーわー言われるんですかね。

中山:あれはねえ、やっぱりその……。

坂上:ものはないじゃないですか。

中山:峯村さんとか、それから千葉さんなんかの影響が大きいと思うね。語りやすい部分があるんじゃないかなと思う。評論家って、変な話だけど、あまり作品を見ないじゃない。作品にあんまり反応しないけど、言語には反応する。書かれたものには反応するんだけど、だけれど、実際の作品を見て、まあカオスのものが目の前に来たときに言葉をつけていくっていうのはなかなか大変で、あまりする人が少ない部分がある。ところが、何か言葉にされたものを見たときは、書いてるから、それに余計反応する人たちが出てくる。書かれる人とか書かれることっていうのは、どんどん増えていくんだよね。で、広がりを持つ。それで、書かれないものとか書かれない人っていうのは、それだけ反応する人が少なくなるからどんどん消えていくことが多いんじゃないかな。でも物的証拠じゃないけど、最終的には作品が重要だけどね。

坂上:アーティスト自身も行為の痕跡みたいなものを写真で残したり映像で残したりということが70年代前半に多くて。とくに京都は多くて、そういうのを8ミリで撮ったりしたの。しょっちゅう上映会をしていて、アーティストはこぞってみんな8ミリカメラを持って、もう全員やっていたと思うんだけど、アーティスト自身が75年を境に(映像を)作らなくなっちゃって忘れてっちゃうっていうのがあるじゃないですか。何でアーティスト自身がそういうものを放棄したのかというのが気になる。

加治屋:映像ではなくてものを作るようになったってこと?

坂上:ものだけだけじゃないけど、ことっていうかそういう身体性みたいなものをどこかで捨てたような気がする。飽きちゃったのかなあって。

中山:難しいんだけどねえ……。

坂上:こぞってやっていたのに、こぞってやめたっていうのが……。はしかみたいにやって終わっちゃったみたいな感じがすごくするんです。

中山:ひとつの要因として考えられるのは、美術館が急に増え出したでしょう、80年代くらいから。美術館に入らないんだよね、そういうものっていうのは。美術館が少し買い出していったときに、もののほうを買って行ったんだよね。そういう映像は、ほとんどあまり価値として認めていかなかったのね。だから、作家のほうもどうしてもそういうもののほうに流れていったというのがあったんじゃないかと思う。ひとつの要因として。それが全てじゃないんだけど。それともうひとつには、まあ、なんだろうなあ、いい作品があまりなかった部分もあるかもしれない。作家のほうにも問題があった。というのはね、例えば、当時の『美術手帖』を見てもらえればわかると思うんだけど、70年代の『美術手帖』に島州一(しま・くにいち 1935—)とか眞板雅文っていうのはしょっちゅう載っていたんだよ。榎倉や高山たちのように、年がら年中載っていた。ところが評価としては低いよね。で、ここは本当はちゃんと位置づけていかないといけないんじゃないかと思うけど、島州一さんは当時はものすごくいろいろやっていた。で、高山や榎倉たちが戸塚スペース(スペース戸塚 高山登のアパート敷地内で70年代初頭、様々なイベントや展覧会が開催された)でやったでしょう。ああいう中にも島さんとかも加わってやってるんですよ。彼を担いだのは東野芳明(とうの・よしあき 1930—2005)なんだよね。ところが東野さんが病気になって亡くなっちゃうと、島州一の存在がぐっと薄くなっていく。島さんも、文化庁の派遣員でアメリカ、ヨーロッパに行って帰ってきたら、絵画になっちゃったということもあるけど。ああいう行為性の強い作品をやらなくなっちゃった。本人もそういうものに疲れてしまったっていうのもあるんだろうし。眞板雅文さんもいろんなことをやっていたけど、あの頃が一番評価されていたと思う。だけど、いわゆる彫刻作品やモニュメントをつくる作家に転向しちゃった。保守化したように思えるんです。それから植松(奎二)さんも気にかかっている作家です。最近の作品は知りませんが。

坂上:矢印みたいなもの(注:円錐形を造形に取り入れて重力を意識させる作品)作ったりしていますね。

中山:今?

坂上:はい。

中山:何かちょっと作品が変っちゃったよね。

坂上:デザイン化っていうか、すごくデザイン的だなって、見ていて思います。

中山:デザイン的っていうかアイデア的なんだよね。植松さんはどうか分からないけど、アイデアで仕事していくような人っていうのは、アイデアが出なくなってくると、何か全然つまらないものになってっちゃう。一番いい例が高松さん。高松次郎はアイデアでやってって、だけど、影の作品にしたったって、本当にプラトンのイデアみたいなところまで煮詰めてやっていったら、もっと違う作品になっていったと思うけど、そこまでは高松さん絞らないで、次から次へとアイデアにいくわけだよね。だけど感性のいい人だったから、時代を見て作品を作っていくんだけど、今となってみると「何これ」って感じが残っちゃうよね。まともに絵を描きだすとあんまり評価されないとかね。藤枝さんに言わせると,「鳩サブレ」みたいな絵だって(笑)。

坂上:似てるかも。

中山:面白いんだよね、藤枝さんは。たぶん僕の作品なんかは全然認めないんだけどね。藤枝さんや中村功(なかむら・いさお 1948― )たちと月1回勉強会してるんです。「現代芸術研究会」っていうのを月1回やっているのね。毎月第3土曜日にやってる。藤枝さんも相当変った人で、もちろん知識の広い人なんだけど、認める範囲が僕とは違うけど、お互いに話も合うし、すごく勉強にもなるんだけどね。

坂上:私の学校、京都の大学(京都市立芸術大学)だったんです。院だけ京都。女子美が大学だから。福島敬恭(ふくしま・のりやす 1940—)って(先生が彫刻に)いて。福島先生はミニマルで、藤枝さんがバックアップして(60年代70年代に)バーッと(世に)出てきたのに、福島先生がアメリカから(80年代初頭に)帰ってきて、松の絵みたいなの(注:実際はエンタシス 1980年8月から1981年4月までアメリカに滞在し、その後1982年11月伊那ギャラリーで発表されたエンタシスが描かれた一連の作品)を描いたら、藤枝さんがそっぽ向いてそれ以来、本当に二人は別れちゃって。一昨年(ギャラリー)16で福島先生の展覧会をやった時(2008年4月「80年代考」)に、福島先生が「藤枝さん、本当にわかってない」って言い方をして。自分が当時(60−70年代)はミニマル(の作家)として認められている、そういう枠の中では認めてくれたけど、作家っていうのは生きていて歩いていていろいろ考えていて、いろんな変化が自分の中に訪れて、新しい作品に生まれ変わっていく。そういう変化をあの人は全然受け止めない人だって。

中山:藤枝さんって作品至上主義だと思う。

坂上:うん。

中山:だから、その作家が何かやったとか、どういう作品を制作したかとか、それが評価に値する作品なのかどうか。そういうんで福島さんのことも言うよ。ミニマルの作品の時に何点かいいのがあったって。あとは駄目だって。その前、福島さんはポップ・アートみたいな作品を作っていたでしょ、花みたいなの。ミニマルの時の作品だけがいいんで、あとはよくないっていうような言い方するよね。作家至上主義じゃなくて、作品至上主義だよね、あの人の場合は。

坂上:私の頭の中で、全然整理できてないんだけど、70年代って、コンセプチュアルなものと物質的なものが一致していたと思っていたら、もの派の“もの”だけカセットテープだけになって、反対に、(もう一方は)カセットテープの中身だけになって、分離して行ったって私は思うんです。それが『美術手帖』とかによると、80年代に絵画が復権してくると、そういうふうに分離していたものを、何て言うか、頭だけで考えていた人が身体性を再度獲得して絵を描く、そういうふうな表現に帰っていったみたいに言うんだけども、なんか自分の中(私の見方)では、身体性を獲得したんじゃなくて、身体性がなくなっていった感じがする。

中山:なくなっていった。僕もそう思う。

坂上:ねえ、なくなっちゃいましたね。

中山:身体っていう言い方が盛んに言われるようになっていったのが、だいたい70年代からですよね。それまでは肉体。二元論的で、肉体と精神。ゼロの加藤さんたちは肉体って言っていたんだけどね。ところが、市川浩(いちかわ・ひろし 1931—2002)さんなんかの影響が大きいと思うんだけど、市川さんはそれを一元論的に身体っていう言葉を非常に使っていって、それでみんな身体、身体って言い出す。それも効き目があったのは70年代のほんの10年くらいの間で、それがまたその辺の意識がゆるんで、80年代入ってくると肉体って言葉を使う人が多くなってきてるよね。身体って言葉も使うけど、その辺を曖昧にして肉体って言ってみたり。

坂上:体って言ったり、KARADAってローマ字で書いてみたり。

中山:そうしてるけど、大きくは一元論か二元論かっていうような裂け目があったと思う。彦坂のラテックスの作品(《フロアイベント》)。あれは僕に言わせると、一番遅れた作品、60年代的な作品だと思う。なぜ裸にならなければいけないのか。70年になったときは、みんな洋服を着ていたよ、ほとんどが。なぜかって。肉体って概念じゃなくて身体っていうあり方だから、別に裸になる必要はない。その前のゼロ次元とかの場合は、やたらとみんな裸になりたがる。ところが70年代のイベントをやった人たちって、菅木志雄にしろ誰にしろ、ほとんど裸になる必要性がない。だから、彼があれをやったのは何年だっけ? フロア・イベント。

坂上:70年。

中山:70年?

坂上:70年の12月に最初、家でひとりでやったみたい。

中山:あれは決して70年代の代表的なパフォーマンスじゃないよ。

坂上:確かに身体っていうよりは肉体ですね。

中山:身体性とは表現が違っていると思う。

坂上:何か肉体っていうと、白黒なイメージがある。あの作品の写真は実際にモノクロ写真で……。

加治屋:70年に一度やって、71年に案内状を出してやっています。

坂上:うん。中山さんは70年代からBODYSCALEって言ってるじゃないですか。そのBODYっていうのは身体っていうことだと思うんだけども、まだ私の中で本当に未消化のままで言うけれども、その身体みたいなものが復権したんじゃなくて、本当になくなっていったなあって気がするんだけど。そこで何か昔からずっと、昔の名前で出ていますじゃないけど、BODYSCALEっていうのをあえてずっと持って来ているっていうのは何か理由があるんですか。

中山:これは自分でもまだわかっていないんだけど、美術が、美術以外のいろんな分野と接近したりだぶったりしている時代があるじゃないですか。宗教とか数学とか哲学とつながっていたり、科学とつながっていたりとか。あるいは文学とか音楽とつながる。僕の中ではずっとスポーツとつながっているようなところがあって。スポーツって言っても、勝ち負けを競うゲームみたいなものとはちょっと違っていて、体育学だとかとつながりがあるように思っているのね。それが具体的な形ではっきりはしてこないんだけど。例えば僕は、高校時代、体操部にいたんだけど。ははは。

坂上:え? それって吊り輪とかああいう感じの?

中山:鉄棒とかね。大車輪できたんだけど。ああいう中に芸術点って出てくるじゃない?

坂上:ありますね。

中山:瀬古って選手いたじゃない? マラソンの。昔、明治神宮のところであの選手が練習で走っていてね。偶然だけど見たことあって。美しいんだよね、すごく。さーっと駆け抜けていく。他の人たちもジョギングしているんだけど、全然違う。もうね、すーっと。本当に美しいもの見たって感じで。

坂上:芸術点が高いんですか(笑)。

3人:(笑)

中山:そういうのって本当になんか感激するんだよね。で、感動とか人間の心を動かすというのは、なんか、美術とどっかでつながっている部分があるんじゃないかなって前から思っているんだよ。

坂上:なんか前これ、彦坂さんから聞いたと思うんだけど、昔、芸術、中国の芸術っていうのは、ほとんど体育みたいなものだったって。弓とか。

中山:それは武術だとか弓の弓術だとかああいうものを指して芸術っていう言い方をしていたんでしょう。それは日本もそうじゃない? 日本も明治になって初めて、美術とか音楽とかを入れたけど、その前っていうのは馬術とかああいうものに対して芸術って言っていた。芸術っていう言葉自体は、平安とかあのくらいの時代に出てるんですよね、たしか。

加治屋:ああ、そうですか。

中山:確か『後漢書』か何かに芸術って言葉が出てくるらしいんですけど、その時は、美術とか彫刻とかそういう意味は一切入ってないんですよね。もちろん言葉もなかったんだろうけど。それで、明治になって初めて美術って言葉が作られていったんだから。

加治屋:スポーツとかの関連で言うと、近代オリンピックでも……。

中山:ありましたよね。

加治屋:芸術っていう競技があって。

中山:そうですよね。

加治屋:絵画部門とか。

坂上:えー???

中山:日本人がメダル取ってるんじゃなかったっけ?

加治屋:そうですね。

坂上:(爆笑)

中山:銅メダルかなんかね。

3人:(爆笑)

中山:馬の絵かなんか。

坂上:気になる! すごい気になるー。

中山:オリンピックにちゃんと芸術部門があったんだよ。

坂上:ほんと? 何でなくなったんだろう。

中山:確か日本は2回ぐらい参加しているよね。

加治屋:そうですね。

坂上:へー。

加治屋:難しかったみたいで。

坂上:採点が?

加治屋:うん。評価が。

中山:しにくいよね。結局は主観と客観の問題だけど。タイムを競う競技は主観は入らないけど、芸術って主観的なものだから。

坂上:たしかに評価しにくい。評価されたものも多分良くないんでしょうね、きっとね。

中山:うん。良くない。なんか小さな写真で見たことあるんだけど。乗馬か競馬の絵だったよ。良くないんだけど。だけど、例えば、この間所沢のやつ(《BODY SCALE - movement》も、未来派がちょうど100年たったから、まあ作ったんだけど、絵画って静止画でしょ。それに対して動画、止まっているものを動かしたいっていう願望は、絵描きにしろ、彫刻家にしろ、止まっている絵や彫刻を動かしてみたいっていう願望がずっとあったと思う、イタリア未来派の(ウンベルト・)ボッチョーニ(Umberto Boccioni 1882―1916)が一生懸命やったりしたけれど、まあ、動かすことはできずに、結局後の世代がアニメとか映画とか映像でそれを可能にしていった。で、立体のほうも、モビールやキネティックアートや、ロボットみたいな動く作品を作っていった。芸術作品ではないけど、足の延長として円を選んで、自転車とか汽車とかを作っていったりしたでしょ。僕の場合は、実際に動かすものを作らないで、動きを感じさせたい。基本的にはそれがもとになって多重露光なんか使ったりとかしているわけ。あそこにある作品は僕なんだけど。あの中にいるの。足で何かやったりしてるの。あれは型をやっていて。昔少林寺拳法ちょっとやったことがあったもんだから、それの型をやっています。この間の所沢の作品は自分が走っている姿だけど、何かスポーツというか運動と繋がっているんだよ。

坂上:ちょっと話が飛ぶんですけど、戸谷さんとか遠藤さんが、所沢に引っ越してきたきっかけっていうのは中山さんが作った?

中山:いや、偶然。

坂上:偶然ですか。

中山:偶然。遠藤はひょっとしたら戸谷の影響があったかも。影響というか仕事。戸谷は「アトリエアイ」って造形屋さんをやっていたんだけど、そこで彼は仕事やっていたから。だから、その関係もあって住むようになったんじゃないかと思う。それは全くの偶然なんだよね。

坂上:いつも飲み会ばっかりやってるんですか。

中山:いや、会わないよ。会わない時なんか2〜3年会わなかったりする。ここんところは所沢ビエンナーレをやるようになったから、会合で会ったするんだけど。会ったとしても、偶然銀座の画廊で会ったり、美術館で会って。「お、ひさしぶりだね」って一緒に所沢まで帰ってきて、「じゃ、その辺で飲もうか」って言って飲んだりってことはあるけれど、日頃はほとんど会わないよ。

坂上:私、中山さんが呼んだのかとずっと思ってた。

中山:いやいや、全然。

坂上:じゃあ、高見沢さんとかも偶然住んでるんですか?

中山:そうそう。高見沢も偶然。高見沢近いんだよね、ここからすぐだよ。10分くらい。

坂上:あ、そうですよね。「ちょっと中山さんのアトリエ見に行ってくるわ」っていう事件とかもあった(笑)(注:所沢の打ち合せの際、中山さんに緊急に連絡をとるため)。

中山:まあ、それでチハーコヴァーさんとの出会いっていうのは、僕にはやっぱり大きかったね。70年代半ばくらいに。

坂上:いつどこで会ったんですか?

中山:さっきも言ったみたいにはっきり覚えていないんだけど、多分藍画廊か何かで会ったんじゃないかと思うんだ。彼女も僕の仕事にすごく興味持ってくれて、いまだに付き合いがあるけれど、ヨーロッパでは身体を使った作家が多かったみたいなんだ。で、興味を持って一緒に展覧会に誘ってくれたりね。いろんな話をしたんだよね。彼女の家に遊びに行くと、海外の本が、送られてくるのか買ってくるのか、あるから、そういう画集を見せてもらったりとか。ボルタンスキーなんてすごく早く知っていたよ。アブラモヴィッチとかいうのもそうだし、チハーコヴァーさんを通して早く知っていたね。

坂上:意気投合したのは中山さんの他にいるんですか。

中山:えっとね、よく一緒に展覧会やったのは、大坂日出男(おおさか・ひでお 1943—)って、彼も写真を使っていて。大坂さんはやめちゃったんだけどね。それと砥上賢治。彼は眞板、原口の後輩。眞板、原口って同じ高校だから。横須賀の三浦高校って。そこの後輩に砥上がいたんだけど。彼もやめちゃったね。

坂上:それからここ(『さまざまな眼』(かわさきIBM市民文化ギャラリー、1996年)、15ページ)にも書いてあるんだけど、ルノアールでワーッと会合じゃないけど、話し合いが(注:以下引用「彼女はヨーロッパと日本を行ったり来たりしていたからコンセプチュアルな作品に着目していた。1976、77年頃に銀座のルノアールという喫茶店で毎週のように議論していて、(1978年にはまのや画廊で)「写真の事」という展覧会をやったんだ。事(こと)性、行為性、身体性ということを言っていて、そういうことをやって行こうとしていた」)。

中山:それはね、グループ展をやろうって。で、大きなテーブルがあって、そこでよく「どういうふうにしようか」ってよく会合をやったんだよね。チハーコヴァーさんのおかげでいろいろな展覧会に出した。これもパリでやったやつなんだけど。これは、「余白」っていうあれ(展覧会)で、パリのカチャ・ピサロ・ギャラリーっていうピサロの孫娘がやってる画廊なんだけど。そこで展覧会やったりとか(1980年)。これはポーランド。印刷がすごいね。当時だから。

坂上:(表紙に漢字で)「道」って書いてある。(Droga: wystawa fotografii japo?skiej (Warszawa: Stara Galeria ZPAF, 1979))

中山:これもそうだ(Japonská fotografie: krajina, portrét, zátiší (V Praze: Um?leckopr?myslové muzeum v Praze, 1981)。

坂上:ふーん。

中山:こういうのもみんなポーランドでやったりとかチェコでやったりとか。当時向こうの印刷は良くなかったんだよね。

加治屋:共産圏で西側の人が展覧会をするってことは普通にあったんですか。

中山:いや、少なかったみたいですよ。まあ、チハーコヴァーさんの関係で美術館でできたりしたんだけど、彼女はチェコの事情をよくわかっているから、無難な状態でやれるようにしてくれていたから。

加治屋:チハーコヴァーさんっていうのはどういう事情で日本いらっしゃったんですか。

中山:彼女に聞くと面白いんだけどね、1968年にプラハの春がありますよね。そのときにプラハ大学、カレル大学とも言いますが、まあ東大みたいな学校ですよね。カレル大学に入った年かな? 1年くらいの時に、ちょっと上にハヴェルって、この前大統領になった(ヴァーツラフ・)ハヴェル(Václav Havel)大統領がいたりして(注:ハヴェルはチェコ工科大学中退)。で、当時針生一郎と千田是也(せんだ・これなり1904- 1994)がチェコに来たって聞いたんだけど、針生一郎さんに聞いたら、チハーコヴァーさんは勘違いしていて、針生さんと中村真一郎(なかむら・しんいちろう 1918—1997)だった。針生さんは中村真一郎とモスクワに行った帰りにプラハに行ったらしいんですよ。その時の通訳をしてくれたのがチハーコヴァーさんで。彼女に「何で日本語勉強したの?」って聞いたら、最初は現代美術じゃなくて美術を専攻したんだけど、アジアの美術に興味を持ったんですって。で、共産圏だし、最初は中国かなと思ったんだけど、中国の美術を見たら面白くなくて、日本のほうが面白くて、日本語を勉強し始めたらしいんですよ。で、今はあるらしいけど、当時は日本語とチェコ語の辞書がないから、英語の辞書で日本語を勉強したり、フランス語の辞書で日本語を覚えたようですね。頭がいいんでしょうね。大学生の時は日本語をしゃべれたらしいんですよ。で、針生さんたちが来たときに、積極的な人だから、日本人が来たっていうんで通訳を買って出たらしい。そしたら、当時若くて美人だったから、みんなちやほやするじゃないですか。「日本に来たら?」とか、「日本語どうしてこんなにしゃべれるの?」とか、「日本に遊びに来なさい」とか言うじゃない。で、当時共産圏に行く人っていうのは、知識人とかちょっと左翼系がかった人じゃない? だから、その頃に安部公房だとか松本清張だとかそういう人たちも行ったらしい。で、知り合ったりして。日本に憧れがあったし、プラハの春があって。ちょうどその頃、日大の先生が来たらしくて、その人が留学手続きを全部してくれて、助成金みたいなのがとれて、日大に留学したようです。それから、積極的な人だから、針生さんのところとかいろんなところを訪ねて。当時三島由紀夫の何かを読んでいたらしくて、三島由紀夫の家も行ったらしいんだよ。

坂上:三島由紀夫も肉体っぽいですけどね(笑)。

中山:針生さんの関係で知り合ったのか、中原さんとか池田龍雄(いけだ・たつお 1928—)さんとか、みんなよくしてくれるんだけど、彼女の言い方をすると、「その人たちにとって私はマスコットなのよ」って。

坂上:マスコット?

中山:マスコットの扱いなわけ。瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう 1903—1979)にもかわいがってもらったって言っていましたね、これじゃあ駄目だと思って、同世代の人を探してたの。同世代の人たちと活動しようと思って。それで361度って高木修(たかぎ・しゅう 1944—)がやってるグループで、大石さんたちもそこにいたんだけど、そのグループとどっかで知り合って、それで一緒に活動し始めた。ところが、当時はみんなそうなんだけど、グループになると喧嘩なんですよ(苦笑)。

加治屋:へー。

坂上:361度も?

中山:みんな喧嘩やったりとか議論なんかやったりするでしょ。最初は面白かったらしいんだけど、だんだん面倒臭くなって。僕はそのグループじゃなくて、眞板とか若江漢字とかとグループ展やったり写真使っていたんで。で、はまのやで山中なんかも入れて、写真を集めた展覧会をやったんです。そしたら、チハーコヴァーさんが「私も仲間に入れて」って言うから、「じゃあ今度チラシに文章を書いて」って言って、翌年に「写真の《事》」展っていうのをやったんですよ。チハーコヴァーさんもその間に日本人のカメラマンと――能代さんっていうんだけど――結婚して子供が生まれて。フィリップって言って、今ウィーンに住んでいるけど。チハーコヴァーさんの家にはよくお客が(来ていた)。若い人もみんなうちに来なさいみたいな感じで、よく行きましたね。チェコに帰ってしばらくは共産圏の時代だったから、大変だったみたい。ところがハヴェル大統領になってからは、文化大臣のブレーンみたいな感じになって、発言も強くなって。今は、チェコの美術評論家連盟の会長をしています。その後もチェコの展覧会に声を掛けてくれますね。『EXPERIENCE BOOK』という本を作ったときなんか、年中会合していたね。打ち合わせとか議論とか。よくやったな。

坂上:議論の内容は残ってないんですか?

中山:残ってないよ。

坂上:議事録(笑)。

中山:そういう会合じゃないよ(笑)。彼女は、もの派には否定的だったよね。日本的で……。

坂上:日本的?

中山:うん。彼女の言い方をすると、だんだん上手になっていって、李さんたちも、ものの置き方とかそういうのが上手になっていって、何て言ったかな、ようするに日本的な感じがするって言っていたよね。そう、職人的になっていくのが私は嫌だって言っていたね。

坂上・加治屋:へー。

中山:置き方がだんだんうまくなっていって、なんか作り物みたいな、工芸的な感じになっていくと。

坂上:見せ方がうまく?

中山:うん、見せ方がうまくなってるのね。

加治屋:それは、初期のもの派は評価していたんだけどだんだん批判的になっていったっていうことですか。

中山:いや、初期もあんまり評価していなかったんじゃないかな。

加治屋:そうですか。

(中略)
坂上:(中略の話を受けて)でも、何て言うのかな、李さんそっくりみたいな作品って(李さんが韓国にいた時代の韓国書道界に見ることができる、点点点…など)、韓国の書道は50年代にみんな(そうした点のような作品を)書いてるじゃないですか。だから李さんの作品っていうのは、本当にみんな韓国のそういうふうなものだと思う。実際、韓国の作品を見て、李さんと変わりないって(見える)。だから、日本で思想的なものは(見せては)駄目っていうのもあってるけど、(国籍によって反応がまちまちで)チェコ人ならOK、韓国人なら難しいみたいなところもありますよね。

中山:李さんの作品って、あれもそうだよね。(ヤニス・)クネリス(Jannis Kounellis 1936—)の綿のやつ(Cotoniera, 1967)なんか……。

坂上:そう!

中山:全く同じでしょ。形が少し台形なのか正方形なのかって違いだけで。似たものがいっぱいあるよね。初期の作品でね。70年代の美術に関して、思想的なものを排除されてったってのは、李さんの影響ってのは大きかったんだよな。そういう意味で。

加治屋:李さん自身は、統一運動に関わっていて、70年代半ばまで政治的な運動もやっていたんですけど……。

中山:作品には出てなかったね。

坂上:もの派を打ち出すときに、韓国のバックグラウンドがあることも打ち消しますよね。

中山:うん。

坂上:わたしこれは嫌だなと思う。

中山:あのね、作品至上主義みたいになって、思想なんかどうでもいいみたいな感じになって。いい作品を作ればいいという。政治的な要素があったのは針生さんで、その前に、山下菊二(やました・きくじ 1910—1980)の《あけぼの村》(注:1953年に発表された山下菊二の代表作。1952年に山梨県で実際におこった農民と地主の間におこった事件を下敷きに描かれた)とかあったけれど、それ以後はほとんどないよね。

坂上:あっても見るに耐える物が少ない。

中山:うん。ないんだよね。少ないんだよね。いい作品が少ない。80年代、70年代となると、ヨーロッパとアメリカが入り混じっていたからね、日本に入ってきたのは。戦前なんかだと、全部ヨーロッパで、アメリカからはほとんど影響受けてなかった。戦後になって、ヨーロッパとアメリカの影響がずっときて、60年代頃からアメリカの影響がぐっと強くなってきて。70年代に入って、これは(ヨーゼフ)ボイス(Joseph Beuys 1921—1986)だとか、クラウス・リンケ(Klaus Rinke 1939—)だとか、ああいうドイツ美術みたいなのがかなり紹介されてきた。、あれは中原さんの影響が大きいと思うけど。あの当時の中原・東野・針生さんの影響、藤枝さんの影響、あるいは宮川淳(みやがわ・あつし 1933—1977)の影響みたいなものは大きかったよね。

加治屋:海外の動向を知るとしたら、やはり『美術手帖』が主なメディアだったんですか。

中山:もう、ほとんどは『美術手帖』。教科書のようにみんな読んでいたんですね。

坂上:福住さん時代(60年代後半〜70年代の福住治夫編集長時代)。

中山:そうそう。ただ、僕の場合はさっき言ったみたいに70年代半ばくらいからチハーコヴァーを通して、『フラッシュ・アート』とかああいう外国の雑誌を見たりしていたから、ああ、随分違うなあと思っていましたね。

坂上:でも本当にヨーロッパ、アメリカは行為のものは、(マリナ・)アブラモヴィッチ(Marina Abramovi?、1946−)でも何でも、いい写真といい映像と本人のものと全部3点セットで揃っているからこそ力がある。日本はそれがないから。

中山:体張ってるんだよね。ステラークなんか、みんな嫌がるけど、知的な人なんだよ、本当に。日本に住んでいたでしょ。彼は日本に10年も住んでいながら日本語しゃべれないんだけど、秋葉原に行ってはいろんな電気の回路を買ってきて研究して。日本で彼は義手を作って、体のどこかに付けて義手が動くようなのを作っていた。酒飲まないし煙草吸わないし、京都で展覧会をやった時、一緒に車で行ったんですよ。一緒のホテルに泊まったんだよ。何人かで、大阪とか京都にね。いつも本読んでるんだよね。

坂上:ここ(『テオリア』)に書いてあることばかり言うんですけど、日本の作家って、何でもタブララサだとか白紙還元だとか。ヨーロッパとかアメリカの考えっていうのは、誰かが考えたものをさらに誰かが踏み台にして人柱でどんどん来ているから、その厚みの差が歴然だって言う。日本の美術の弱さみたいなのもそういう考えにはありますよね。タブララサ。

中山:あると思うね。やっぱり歴史って大きいと思うよね。

坂上:知識とか蓄積とかが美術に結びつくっていうことを日本は否定する。李さんの発言じゃないけど、思想的なものも日本では駄目だからっていう言い方をして、そういう蓄積を捨てようとするじゃないですか。李さんは言うことはある面では当ってますね。日本では受けないって。

中山:日本の場合ってさ、どうなんだろうね、明治になってやっぱり変ったんだろうね。ヨーロッパの場合は、かなり保守的な部分もあるけど、もうずっと先祖代々100年住んでるとか16世紀からずっとここに住んでるとかそういうのがあるじゃない。そういうのに誇りを持っているっていうのもあるけど。日本の場合はそういうのがなくなっちゃったよね。過去のものを否定して、白紙還元して、そしてまた次のものをって。

坂上:アーティスト自体も……。美共闘ばかりも何だけど、彦坂さんは、中山さんの言葉を借りれば、後付けでうまく言葉をつけて、美共闘を美化して話すと言うけど、逆に堀(浩哉 ほり・こうさい 1947—)さんとか石内(都 いしうち・みやこ 1947—)さんとかそういう人は語らなくて。多分堀さんは、前委員長だったけど、今は多摩美の教授やっているっていう立場で多分隠蔽しているかなと(勘ぐってしまう)。

中山:多摩美行く前からそうだよ。隠蔽はしていない。堀は一番よく分かっていると思うんだ。美共闘って芸術運動じゃなくて学生運動だったってことを堀は知ってるわけだよ。

坂上:でも、過去を美化するのであれ、どんどん語っていったほうがいいと思うんです。いろんな人が、自分のことを語ってこそいろんな説が出てきて、私たちもそこから、どれがいいとか悪いとか考えていけるけれども、日本は言うことですら……。

中山:いや、みんな言うことは言うと思うんだけど、ちゃんと文章にきちんと書いていくっていうのがね。どうしても残るから。その点、彦坂はああやって書くのは好きだし、それから能力もそれなりにあるから、ああやって書いていく。後で思い込んでっちゃうところがあるんだろうと思う、都合のいいところだけ書いていくからさ、都合の悪いところは触れない。彦坂の本を読んで千葉さんがああいう本を書いていくわけだから(注:1986年に発刊した『現代美術逸脱史』)。

坂上・加治屋:ふーむ……。

中山:まあ、歴史って大体そういうもんだけれどね。

坂上:中山さんは高校を卒業して、まあ浪人生活じゃないけど、それを経て、自分でいろいろと人脈を作っていったわけだけれども、今活躍している同年代の作家っていうのは、多摩美だとか大学出ていて。堀さんとか、美術評論家だけど千葉さんにしてもそうだし、あと団塊の世代にもたくさんいると思うけど、そういう人の活動とか作品とかを見ていて、ああ思ったとかこう思ったとか、ありますか。思いつきでもいいんですけど。感じることでも。

中山:さっき車の中でも話したけど、この間(宮城県美術館の)高山(登)さんの(展覧会)(2010年に開催された高山登展)を見てきて。高山さんの作品は真木画廊とか田村画廊とかで見ていた時は迫力があったんだよ、ものすごく。枕木があって。防腐剤を塗っていて。クレオソートのにおいが鼻をツンとついてね。今回はあれは有毒だから使っちゃいけないらしいんだよね。だからあのにおいがしないわけ。美術館の地下室の一部には防腐剤を塗った作品があったけど、中に入れなくて外から見るだけで。300本の枕木を使ってやっているんだけど、ちょっと暴力的な感じのする空間を感じなかった。天井も高いし、会場も広いから。

加治屋:画廊で展示されるのと美術館で展示されるのとの違いも。

中山:そうですね。空間で全然違って見えるんですね。

坂上・加治屋:うーん。

加治屋:ところで、藤枝さんと交流がおありなんですね。

中山:ええ、時々飲んでいます。

加治屋:藤枝さんは卒業論文がデュシャンで、イサム・ノグチの紹介でデュシャンに会ったそうです。

坂上:へえー。

加治屋:そこから変わってモダニストになっていくんですけど。

坂上:(藤枝さんは)前はデュシャンが好きだったんですか。今でも好き?

中山:好きじゃないんだけど、デュシャンに対しては否定的なんだけど、功績は認めているよね。藤枝さんが嫌がっているのは亜流なの。日本のはみんな亜流だっていうの。

坂上:その通りですね(笑)。

中山:デュシャンは自分で切り開いたんだから、そりゃ立派だって言うんです。だけど日本のものは答えを見てから答案用紙書いているような話で、そういうのをすごく嫌がるね。僕は最初藤枝さんと話す時すごく緊張していたんですよ。だけど、彼のいいところはね、作家は感覚で作っているんだから、作家としての矛盾した言葉で、作家の言葉でいいんだよって考え方ですよね。よく分かったのは、藤枝さんは感覚なんですよね。たとえば森村泰昌(もりむら・やすまさ 1951—)を否定するときも、ぱっと見た瞬間に「なんか嫌な感じするだろ?」って。論理よりも、「嫌な感じするだろう」って。「不快感を感じない?」って。それはすごい大事だって言うんですよね。絵を見た時も、ぱっと見たときに、「何か不快感を感じる」とか、あるいは「すごい引き付けるものがある」とか、非常に感性とか感覚を大事にしますね。

坂上:あの、藤枝さん、私はほとんど知らないんですけど。まるで知らないんですけど。

中山:坂上さん、手紙出したんじゃない? 東京来た時。

坂上:書いてない。結局書いてない。めんどくさくて書いてない(笑)。やっぱりすごい人だなって思ったのは、私は知らないんですけど、京都で昔アンデパンダンがあったときに、アンデパンダンってほんとに現代美術もあれば、バラの絵を描いているような人もたくさんいるんだけど、藤枝さんはそういう日曜画家の人たちに対しても現代美術の人に対しても同じ態度で質問して、返って来る言葉に対しても全部馬鹿にしないで、全部まじめに答えていったっていう。やっぱり何かそういう態度ってなかなか取れないから、そういう意味で藤枝さんっていうのはすごい人なんだなって、その話聞いたときに思った。

中山:うん。変わった人だよね。

加治屋:僕はアメリカにしばらくいたんですけど、美術関係者はグリーンバーグと直接面識があって、毛嫌いしてるんですよね。「いかに嫌な奴だったか」って何度か言われました。あるいは、「やっぱり彼は権威だから」とも。具体的な人間関係の中で彼の評論が読まれてきたんだって強く感じましたね。

中山:ああ。そうでしょうね。

坂上:でも、最後は身びいきみたいな感じでやっていくから、格が落ちる。格が落ちるって言ったらなんだけど嫌われる。

中山:藤枝さんは、まあ、どっちかって言えば嫌われているよね。あれだけ敵を作ってるから。

坂上:ふーん……。

中山:評論家は、孤立していかないと駄目なんだって。「じゃあ作家もそうですかねえ」って言ったら「作家もそうだ」って言ってたけど。

坂上:中山さんが今まで見てきた中で、すごく印象に残ってる展覧会とかありますか。

中山:印象に残ってるのは、1968年だったかな? 近代美術館が前の竹橋じゃなくて、京橋に、今のフィルムセンターのところにあった時代なんだけど、アメリカの展覧会がきたの。68年かな?

加治屋:67年……(注:「現代アメリカ絵画展」は1966年開催)。

中山:7年でした?

加治屋:えっと、MoMAのが来ていたやつですよね。

中山:そうそう。あれが来たときって、やっぱりカルチャーショック受けたね。「これが?」って言うのがね。「人間と物質」もそうだけど。「人間と物質」が何年でしたか。

加治屋:70年。

中山:70年ですか。その前の年かその翌年だったか忘れちゃったけど、ドイツの展覧会があったんですよ。あ、ごめん。ドイツじゃなくてイタリア。そのときにフォンタナとかそういうのを知った。あれもかなり記憶に残ってるね(注:「現代イタリア美術展」は1967年開催)。

加治屋:イタリアのはたしか近美で……。

中山:やったんですよね。なんでしたっけ、カステラーニでしたっけ。キャンバスがでこぼこしたレリーフ状なのは。

坂上:ああ。

中山:ああいうのとかいろいろ来ていて、ああってびっくりした。だけどやっぱりアメリカの展覧会かな。あっちのほうが記憶に鮮烈だったね。若い時に受けたっていうのは、それと「人間と物質」とかね。神田あたりの画廊をずっと歩いていって、都の美術館でやってる公募団体の展覧会とまるっきり違うでしょう。これもやっぱり驚いたよね。何でこんなに違うのかって。

加治屋:毎日(新聞社)がやっていた2年に1回の現代展(現代日本美術展)と国際展(日本国際美術展)は、やっぱり御覧になって。

中山:あれも、すごく日本の現状がよく分かったっていうか。国際展やっていたから、外国の作家も出していたりして分かって。あれもすごく印象に残っていますよね。ただ、一時はまだ公募団体の作家なんかも出していたから、交じり合ってはいましたけどね。僕もね、何年だったかな、出してます。

坂上:あ、出してますね。

中山:受かってる。落ちたこともあるんだけどね。何年だったっけ。

坂上:第11回現代日本(美術展)。そうです。75年。

中山:75年か。

坂上:こと派とかそういう意識はいつぐらいから意識しはじめたんですか。

中山:それはね、78年。はまのやでやったときにチハーコヴァーさんたちと話していて、それでことの展覧会をしたの、「写真の〈事〉」展っていう。

坂上:ついこの間、私が(2009年の)所沢ビエンナーレ(のカタログ)に「もの派にあらずんは人にあらず、作家にあらず」みたいなことが京都で言われていたって聞いたから、そう書いたんだけど(坂上しのぶ「『もの派』の外縁 柏原えつとむ論」『引込線 第1回所沢ビエンナーレ美術展』(所沢ビエンナーレ実行委員会、2009年))、椎名さんとかが「そういうことは全然言われていなかったんだよ。もの派っていうのは誰も認めてないし、全然取り上げられもしなかったんだよ」っていう言い方をしてたんです。実際そうだったんですか。

中山:あの当時の『美術手帖』を見てもらえば分かるんだけど、さっき言っていた島さんとか、眞板さんとか、もちろん榎倉、高山、関根さんとかもみんなそうだけど出ていた。あの辺が出ていたから、特にもの派っていうのはなかったよね、全然。

坂上:もの派について、峯村さんが、鎌倉画廊のやつだけどあの時、みんなが忘れ去ろうとしているから取り上げたみたいなことを最初に書いていたように記憶をしているんですけど(注:峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」『モノ派』(鎌倉画廊、1986年))。

中山:ああそうだったかな。

加治屋:80年代後半くらい。

坂上:そうですね、うん。

中山:ただね、李さんの『出会いを求めて』っていうのが……。あれは70何年でしたかね?

坂上:72年か……(注:李禹煥『出会いを求めて 新しい芸術のはじまりに』(田畑書店、1971年)。

中山:72年か3年くらいだったかと思うけど、あれはみんな読んでいたね。それからあの、中原さんの。何だっけな。

加治屋:『人間と物質のあいだ』(中原佑介『人間と物質のあいだ 現代美術の状況』(田畑書店、1972年)ですか。

中山:そう。『人間と物質のあいだ』。あれもみんな読んでたよね。僕も持ってるけど。ああいうものの影響は強くあっただろうね。

加治屋:ふーん。

中山:それをその……何て言うんだろうな、誤読したっていうか。誤解して物を持ち込むとかさ。それが流行みたいになってた。

坂上:なってた。やっぱり当時……。

中山:どこの画廊に行ってもそういうのが多かったよ。

坂上:実際、ギャラリー(16)の展覧会記録とか見ていても、本当にそういうものばかりだったから(注:多く目についた)、やっぱりそういうふうな大きなムーブメントがあったんだ!っていう解釈で、私たちは動いているんだけど。

中山:だってさ、関西の狗巻賢二さんなんかだってさ、持ち込んだだけでしょ。

坂上:週刊誌をぽっと置いただけとか。

中山:そういうのをみんな評価したりしてたからさ。

坂上・加治屋:うん。

中山:あと中原さんね。箱根の彫刻のコンクールの時に、友たちの手伝いで搬入に行ったの。野外展だから、みんな大きな作品とかトラックで持ち込んで搬入してるじゃない。そしたら狗巻賢二がさ、針金いっぱい巻いて持ってきてさ。それで作品をやおら針金で組み立ててつくっていたよね。僕が知ってる範囲では、もともとはカルダー(Alexander Calder 1898– 1976)が針金で彫刻を作ってましたよね。

加治屋:そうですね。

坂上:京都でも同じことを言われてました。みんなが重量級のものを作ってるときに、狗巻君がポケットの中に――ポケットかどうか本当は知らないけど――針金を持ってきて、やおら作り出して。あれのギャップにみんな驚いたって。

中山:そうそう。だからあれも一種のパフォーマンスだよね。会場で搬入やるでしょ。そうすると、みんな「え?何やってるの?」って。そういうひとつのパフォーマンスみたいなものだと思うよ。

加治屋:先ほど、中原さんの『人間と物質のあいだ』とか李さんの『出会いを求めて』がよく読まれたとおっしゃってましたけど、他によく読まれた本とか、よく話題になった文章はありますか。作家の文章でもいいし批評家の文章でもいいんですけど。70年代、80年代で何か。

中山:やっぱりね、作家で……。まあ人にもよるんだろうと思うけど、学習のための本と、それから何か創造力を沸きたてるような文章とはやっぱりちょっと違っていて。今言った中原さんだとか、評論家の書いた人たちの本を読むと、創造力が沸き立つっていうよりも理解できてくるっていうか、そういう文章なんですよね。唯一違ったのが宮川淳。例えば、タイトルの付け方も「レヴィ=ストロースの余白に」とかさ。なんかちょっと「ああ、余白かぁ」とかさ……。

3人:(笑)

中山:思ったりするわけよ。そうすると、(頭の)中で創造力っていうか創作力っていうのがわーっと(笑)こみ上げてくるような感じがしてね。宮川さんのは随分読みましたね。あとは藤枝さん。あれは『美術手帖』で読んだ。あとは、後半になってから、市川さんの身体論を読んで、勉強会とかしていた。あとね、吉本隆明(よしもと・たかあき 1924—2012)とかああいうのはみんな大体読んだんじゃないですかね。理解はできなくてもね。それから哲学書を読むよね。

坂上:でも、中山さんくらいの年の人くらいまでは、いろんなもの読んでいて、知の蓄積みたいなのがあるんですけど、それから急に、私たちも含めてなんですけど、何もなくなりますよね。

中山:そうかなあ。

坂上:本読まなくなる。

中山:マンガになるの?

坂上:いや、何だろうな。話していても、みんな映画のことも知っていれば、小説のことも知っている。詩のことも知っていて、政治も語れる。ある程度年齢以上の人は「ああ、よく勉強していたんだなあ」って素直に思う。

中山:これも李さんの影響があるのかもしれないけど、ちょっと哲学を読みかじったようなことが会話の中で出てくるからね。もちろん彦坂もそうだし、高木修とかさ。僕がアトリエに行って、一番本がすごいなって思ったのは、量的には彦坂かな、やっぱり。

坂上:よく読んでますよね。速読してるって思うくらい。

中山:本の量が。アトリエ行ったことある?

坂上:一回行ったことある。

中山:ずっと本でしょ。

坂上:図書室みたい。

加治屋:へー。

中山:その次に本の多いのは、高木修さんだね。この一面くらい全部本で埋まってるよ。天井まであるかな。もうちょっとあるかな。彼も本持ってるね。本オタクだね。彼も読んでるよ、ものすごく。

坂上:哲学でも、例えば中山さんがレヴィ=ストロースって言っても、普通なんだけど、私がレヴィ=ストロースって言うと、ちょっとファッションっていうか格好付けて言ってる感じが自分でもする。かしこぶって言ってる感じが自分でもしちゃう。どっかでそういうのがファッションになりましたよね。

中山:ああ。

加治屋:坂上さんはどのぐらいの世代から違うと思いますか。

坂上:私、いっつもぱちっと区切ってるんだけど、81年くらいで何かが終わったなってすごく感じる。

加治屋:81年くらいから知識の蓄積とかがなくなったと。

坂上:うーん、81年で区切ってる。自分でも直感だけなんだけど。何かその頃に大学生くらいだった人、大学生以上だった人っていうのは、まじめにちゃんと取り組んでる感じがする。生まれだと57年までがまじめ。58年以降が違う。実際そうなんですよ、会うと。57年生まれまでの人っていうのは、本当にいろんな本を読んでる、58年以降の生まれになるとちょっとちゃらけてる。実際そうなんですよ。

中山:まあ、個人差もあるけど、結局、時代が……。何だろうな、ベトナム戦争があったり、その前は朝鮮戦争があったりして、身近に戦争があったでしょ? 当時、70年代の頃なんてのは、さっき言ったみたいに、戦争に行って帰ってきた米兵が銀座なんかを歩いていたり、上野のアメ横に行くと、米兵の払い下げみたいなのが売ってたりとか、そんな時代だったから。まあ、どっちかって言ったら、思想の時代っていうかさ、思想みたいなものが底辺にあったことは事実だと思う。ところが、80年代になってくると、ベトナム戦争も終わり、学生闘争も蓋開けてみたらおぞましいものであったってことがみんな分かってきて、そういうものの反省と、それから国策もあるんじゃないかなと思う。大学がみんな郊外に移って行ったでしょう。これは文部省の策略で、環境のいい場所っていうことなんだろうけど、事実上は大学がみんなアジトになっていったもんだから、中心にああいうものを置かないようにして。郊外に持っていかせて、60年代、70年代のような学生運動を起こさせないようにさせたわけだよね。そうすると学生同士の交流みたいなものもなくなってくるだろうし。

坂上:ないですね。

中山:当時なんてさ、他の学校の授業に出たり、他の学校にデモ行ったり、そういうのが年がら年中だったでしょう。そういうのがみんなバラけていって、中心性がなくなっていったっていうのがあるんだと思うね。これは学校に限らず、脱中心みたいなものがあの辺から始まってたんだろうね。

坂上:話が長くなっちゃってすみません。でもこれを聞くの。同じ神田に(81年に)パレルゴンができて、若い世代の人たちが出て来て、地図が変ったのかなって思うんですけど。

中山:我々の中でパレルゴンっていうのはさほどたいしたことはない。

坂上:伝説の画廊みたいになっているけれど。

中山:なってるらしいけどね。そういうのは全然なくて、やっぱり神田のときわとか田村とかね、あそこの存在感が圧倒的に大きかった。あそこの周辺にパレルゴンができて。パレルゴンの(主宰は)誰だっけ、彼。

坂上:藤井(雅実)さん。

中山:彼も、山岸さんのところや、ときわ画廊なんかにもよく来ていたのね。で、画廊開いて。彼もいろんな話をするのが好きだから、しゃべっていて。確かに当時、若い作家が集まってはいたと思うけど、言ってみれば、山岸さんの当時の現代版みたいな感じではあったよね。だけどそんなに長く続かなかったでしょう。何年くらい?

坂上:2、3年で第2パレルゴンに、学生の自主企画みたいに(なっていった)。

中山:うん。名前、何て言ったかな。

坂上:パレルゴン。

中山:パレルゴンだけど、藤井さんがやめて別の人がやったんだよね。名前、出てこないけど。短かったし、そんなに伝説的な画廊じゃなかったけど、岡普i乾二郎 おかざき・けんじろう 1955−)なんかが出て来て、彼もほら、割合論理が立つから。パレルゴンなんかに岡浮ニか行っていたんじゃないかな。

坂上:そうそう。でも、何でか分からないけど、中山さん以上の年齢以上の人たちは、知識も豊富でいろんな本を読んでいる割には、さっきの李さんの話もそうだけど、ピュアに真似をしますよね。

中山:(笑)

坂上:そっくりそのまま。あれも信じられない。前も中西(夏之 なかにし・なつゆき 1935—)さんが神智学のなんとかさん……。

中山:(ゲオルギイ・イワノヴィッチ・)グルジェフ(Георгий Иванович Гурджиев、George Ivanovich Gurdjieff 1866-1949)。

坂上:グルジェフのをそっくりそのまま使っていた。李さんもクネリスの綿のやつをそっくりそのままやってるじゃないですか。そのピュアさにびっくりする。今、私たちはああはできない。

中山:やっぱり今は情報の時代だから、すぐ分かっちゃうし、彼らは分からないと思ってやっていたんじゃないの? 分からないと思ってやっていたんだけど、後になればもちろん分かっちゃう。あれは引用とは違うし、パロディーでもないよね。模倣だよね。引用の場合は引用として使う。僕も、例えばジャコモ・バッラ(Giacomo Balla 1871—1958)の犬をくっつけたりとか、引用として使う場合があるんだけど、あれはもちろん向きも違うし、引用として意図して使った。だけど、彼らの場合は隠して使うよね、ネタを。

坂上:やってることは模写みたいな……。でも、オリジナルとして出している。やっぱり情報と時代?

中山:時代だろうね。ほら、芸術は終わったって話があるじゃない。僕はこういうふうに思っているんだよね。例えば農業社会の芸術、バルビゾン派みたいなのがあって、それは確かに終わったんだけど、その次に産業社会の芸術っていうのが出てくるよね。コラージュだとかアッサンブラージュとか。20世紀なんかまさにそうだったと思うけど、産業社会の芸術は一応終わったんじゃないかって気がする。で、いま情報化社会と言われているでしょ。となると、情報化社会に適合した芸術があるんじゃないかと。それは別に終わってはいない。これも見るに耐えないものが多いんだけど、横浜のトリエンナーレなんかに行って見るとほとんど映像だよね。あれは情報社会の表現がそのまま出ている。情報化社会だからああいうもので全部いいのかとなると問題で。人間が最初に判断するのは6秒間だと言われているけど。美術館に行ったって、10秒くらいしか見ないよね。ルーブルに行ったって。気になったのはもっとゆっくり見るけど、それだって5分。5分見てれば長いほうじゃないの? 10分は見ていないよね。作るほうは何時間も何日もかけて作るんだけど、見るほうはその瞬間の判断で見れるんだよね。もっと研究していこうとなれば、それからもっと見て読み込んでいくということになるんだけど、映像系の作品を見るのに、例えば、15分とか20分かかるとするでしょう。そうしたら付き合ってられないよね。だから展覧会は失敗しているよね。キュレーターがいけないと思うけど。最近思い出してるのは、さっきの話に戻るけど、動画に憧れを持っていて、動かしたいと思って。ああいうものが出て来て、実際に動かしたときに、振り子が逆に振れてきて静止画の良さが出てきているよね。写真の良さとか、こういう作品にしても(自作を指す)、絵画の良さとかね、静止画なんだけど、その中に動きを感じさせるものとか、そういうものの良さが再認識されるんじゃないかって思うよね。映像としてああいうふうになっていったときに、展覧会としてじっと見てられないし、じゃあ、前に川俣(正 かわまた・ただし 1953—)がやったみたいに、体験型のものが出て来て、アートが娯楽になり得るっていうのは、確かにないわけじゃないけど、だけど娯楽って言ったらディズニーランドとか日常のほうによっぽど娯楽があるわけだから、別にアートにそんなに求めなくったって成立するだろうと思うと、ああいうものも行き詰っちゃうと思う。そうするとやっぱり、何て言うんだろう、静止画の中、止まっているものの中でそういうものを感じさせるものが再浮上してくるんじゃないかなと思うんだよね。情報化社会の中で。最近の展覧会ってだいたい映像系が主体ですよね。

加治屋:所沢ビエンナーレが始まったきっかけを聞きたいのですが。まず運営体制についてお伺いしてもよろしいですか。

中山:今は、基本的に実行委員会主催で、所沢市が共催という形でやってもらってるんです。実行委員会って言っても、実行委員と運営委員がいて、実行委員は運営委員を兼ねるんです。僕が実行委員長で、メンバーは戸谷、遠藤、多和、高見沢、建畠(晢)、伊藤(誠)がいるんですけど、それが2年もやったので、あんまり継続して公募団体みたいになってもいけないっていうんで、実行委員をもうちょっと広げようと今考えていて。まだ決定はしていないんだけど。何人かは降りて、何人かは続けようと。作家も今度広げていこうとしていて。来年やる予定でいるんです。作家選別は、今回も反省もあったりして、声掛けをどういうふうにしていくかっていうのを考えていかないといけないなって。

加治屋:今までは運営委員の人が声を掛けていたと。

中山:推薦は実行委員でみんなにしてもらって。プレ展(2008年)の時は最初だったのでああいう形でやったんですけど、1回展(2009年)の時はプレ展に参加した人は全員参加して、それ以外にっていうことでやったんです。今度は2回目になるので、プレ展に出した人とか1回展に出した人とかに関係なく――もちろん2回展に出す人もいるかもしれないけど――関係なくもっと広げて考えていこうと。それをどういう形でやろうかと。まあ、民主的にやるとつまらないものになっちゃうかもしれないし、誰かがキュレーターみたいな形でやるとこれがまたいいのかどうか。普通の展覧会と変らないじゃないかっていう話もあるし、その辺はまだ結論が出ていないんですよ。これは市のほうも協力してもらっているし、会場も西武鉄道に協力してもらっているものですから。まあ、僕とか戸谷や遠藤がやっているから協力してくれているんだけど、それが別の人たちになると今まで通りにはいかない、というようなことを言われるので、遠藤と戸谷と僕とは残らざるを得ないなという感じはあるんです。それから、どういうふうにしていくかっていうのは、もうぼつぼつやっていかないといけないって思っています。何回続けられるのかっていうのも分からないですよね。あの会場を使わせてくれるのか。会場ありきなんです。まあ、あまり長く続けてもしょうがないなって感じはあるんですけど、でもまあ後2、3回はやりたいです。

坂上:継続することも大事ですよね。

中山:そうなんだけどね。あんまり継続してもさ、だらだらになっていっちゃうし、その辺難しいところだよね。

坂上:すごい面白くって、最初は飲み会みたいなので、中山さんと戸谷さんと遠藤さんと多和さんの4人が話していて、多和さんの作品に対してみんなが「お前の作品(本来あるべき美術とは筋が)違うだろう」みたいなことを言っていて、「だったら俺たちみんなで並べてみようじゃないか」って話し合ったって私は聞いていて。その時に、所沢市のほうに、その時に小学校か何かの跡地があって、そこを使いたいなと中山さんたちが思って、それで所沢市のほうに「ここ使わせてもらいたいんだけど」って言ったら、所沢市のほうが、「そうじゃなくって、西武鉄道の引込線っていうのがあるからそこを使ったらいい」って逆に提案してくれたんですよね。

中山:そう。紹介されて、あの会場に行ったんですよね。ところが最初、市のほうもそうだったし、西武鉄道のほうも何だか全然乗り気じゃなかったんですよ。市も、果たしてどうなるもんかみたいな感じだったんだけど、やってみたら世間の評判がすごくあったんで、みんなびっくりして、協力的になったんです。1回目の時なんか、特に西武鉄道のほうは、この人たちは何をやろうとしてるんだろう、みたいな感じだったんだよね。

加治屋:市から助成を受けたりはしなかったんですか。

中山:助成は市からはもらっていないですよ。そりゃ何百万も出してくれるんだったらいいんですけど、何十万程度なんですよ。そうするとかなり制約も出てくるから、それだったらもらわないで、こっちで集めてやろうっていうことで、いらないって言ってるのね。なんかね、他にいろんな所沢市の団体があるらしいんですけど、そういうところ以上に出すわけにはいかないって言うんですよ。そういうところに出ているのは、50万とかそういうものなんだよね。その程度でかなり制約が出て来てね、市民を入れろとか、前も言われたんだけど、それは入れなかったんですよね。市の在住作家とかいるじゃないですか。そういう人たちを入れてくれとかね。そうなってくると全然違って、本当に公募団体みたいになっちゃうから。

加治屋:カタログが分厚くて、非常に充実したものでした。作家と批評家の両方が入っていますよね。あれは、批評家はカタログにおいて活動するということですか。それとも会場でも何か批評活動を……。

中山:いや、カタログのみ。書き手の人たちはそれを自分たちの表現ということでやったらどうだろうっていうので声掛けて。それで、賛成してくれる人は書いてもらうという形なんですよね。

坂上:入場者数も多いですよね。

中山:うん。今年(2009年第1回)はね、8128名か何かだったかな。

加治屋:すごい。

中山:去年(2008年のプレ展)が4708名だったかな。

坂上:今年、会期の最初のほうに全然人が見に来てくれなくて。別に入場者数が少ないから失敗ってわけじゃないけど、去年あまりにもばーっとやったから今年は飽きちゃってみんな来ないのかなとか、いろいろ反省も思っていたら……。

中山:後半伸びてきた。前半天気が悪くて、台風とぶつかっちゃったりしていたから。出だしが悪かったね。

坂上:シンポジウムも、別に今年のほうがってわけじゃないけど、内容は充実していたかと思うんですけどね。

加治屋:シンポジウムはあの会場でやったんですか。

中山:いや、前に西武デパートがあって、それの8Fだったかな、前、映画館だったんです。その映画館がなくなって、会場だけ残っていて。そこを借りてやったんです、今年のほうが全然良かったです。その前の時は市役所の会議室を借りたのでちょっと離れていた。

坂上:観客として思うと、もっとシンポジウムで喧嘩とかしてくれたらいいのにって(笑)。

中山:プレ展の時とかそうじゃない(笑)。やったじゃない! みんな勝手なこと言ってるんだよ。

坂上:峯村(敏明)さんとか、自分がいかにここに出したことで本にしたいかとかPRされたりして(笑)。

中山:峯村さんは勝手なこと言ってるし、本江(邦夫)さんは本江さんで勝手なこと言ってるし、手塚(愛子)は手塚で勝手なことを言ってるし、みんなばらばら。

坂上:そうだった。

中山:司会者としては大変だった。

坂上:同じテーマで喧嘩してくれるのが一番見ている側としては面白いんですけどね。

中山:谷(新)さんはそういうタイプじゃないよね。ああいうところで議論するってタイプでは。藤枝さんが加わればやるだろうけど(笑)。

坂上:藤枝さんは見に来てくれたんですか。

中山:見に来た。

坂上:そうですか。

中山:そう。あそこで何か代表作品みたいなものが出て来てくれたらいいなって思うよね。それを自分が作りたいんだけど。自分じゃなくても誰でもいいんだけど。若い作家でも誰でも。あの作品っていうようなものが出てくればね。

坂上:こどもの国はそういう作品がなかったのかもしれないけど、いろんな意味で歴史に残る……。

中山:こどもの国はね、やっぱり野村仁だよ。野村仁がドライアイス使ったのはあそこが初めてだし(実際は前年の1969年の京都野外彫刻展で発表)。それはちゃんと残ってる。他にもいい作品は一杯あった。原口の作品もそんなに悪くなかった。鉄の……あれやったんだ。何かそういう代表的な作品があそこで出てくればね。

坂上:あそこだからこそっていうものが……。

中山:出てくれば一番いいんだけどね。

坂上:アトリエにあるものを持ってきましたっていうのが特に若手の作家で多かった。もったいない。

中山:絵の人とかそういうのはしょうがないけど。来年はどういうふうにしようかって本当に頭が痛いんだ。交渉も。ほら、あそこ(車両工場で)汚染物質が出てきたでしょう。で、昔のことだからしょうがないんですよね。周辺の住民が反対運動しているんですよ。

加治屋:それは展覧会に対して? それとも汚染物質?

中山:西武鉄道に対してなんですけど、あそこの土壌を解決しろって。そういうのを僕たちは知らなかったもんだから、間際になって知って、住民のほうには挨拶にも行かなかったんですよね。で、展覧会やっていたら反対するとかって。向こうは結託してやっていると思っていて。で、僕が説明しに行って話をしたら、最終的には向こうも理解してくれました。展覧会自体はぜんぜん問題ないんですけど、西武鉄道のほうはもっと積極的に土壌改良をしてもらわないと困るということで、今年はあそこから地下20メートルだか掘って、そこから水を吸い上げるとか、そういう工事をしているのね。それがモーターで1年間くらいずっとやるらしいです。あとは、物質が、鉛だっけな、何かよく分からないけど、そういう化学物質があるらしいんだけど、土が出ているところは全部アスファルトで固めて飛ばないようにして、液体みたいなものは吸い出してっていう工事を一年間やるんだそうです。あそこは都市開発の場所なので、その時には土壌を全部変えるってことです。あそこは最初使っちゃ駄目だって言われて、一時探したんだけど、別の場所をね。ところが地元の周辺の人たちはそういうのを知っていて西武鉄道と所沢市と我々が一緒になって隠蔽しようとしていると誤解して、それで反対していたの。説明したら納得してくれたと思うけど。

坂上:突き当たりのところも結局使ってないですよね。メイン会場の突き当たりにある線路の……。

中山:そうそう、あそこも汚染されてるの。だから駄目って。なんか地下を検査したら、我々が使ったところは大丈夫だったの。それ以外のところは汚染されているから駄目だって、使わせてくれなかったのね。最後の時は、あそこを全部使ってやりたいなって思うけどね。

坂上:でもせっかくみんな所沢まで見に来るんだから、みんな見ごたえのあるものを求めますよね。ちょこっとだけじゃなくて。

坂上:最後に、今の私たちに言いたいことを何でも言ってください。

中山:何だろう。日本にちゃんとした美術雑誌がないんですよね。

坂上:『あいだ』じゃ駄目ですか。

中山:『あいだ』じゃあ……。『美術手帖』も昔は役目があったんだけど、今の『美術手帖』はほとんど役目を果たしてないから、今後の人が困ると思うんだよね。今の時代をちゃんと知ろうとしたときに偏った歴史になってしまう。まだ70年代くらいまでは一応『美術手帖』で載っている部分がある。あれでも全てを網羅しているわけではないけど、拾い上げていましたね。ある程度。日本の美術雑誌はちゃんとしたものないから。ちゃんとした美術雑誌が欲しいなって思うよね。今の『美術手帖』は全然駄目じゃないですか。偏っていてね。それぞれの国にちゃんと美術雑誌が何冊かあるじゃない? 日本の場合は、『芸新』はまたちょっと違うし、他に『みづゑ』とかああいうのもなくなっちゃった。ないんだよね。書き手の人たちもそういうところで書いていくから、評論家も育っていかないですよね。

坂上:自分も含めてそうだけど、今のものを取り上げにくい。自分ももの派とか書いたし、沢山さんも彫刻論とかあるけど、昔書いた人に対して批判をするとか、そういうふうなスタイルになっちゃって、今の時代をどう捉えてどう流していくかっていうのをすごく怠っていると思う。そういうふうに語る人が松井みどりとかそういう人しかいなくって……。

中山:雑誌の上で議論がないでしょう。前は藤枝さんと峯村さんで議論し合ったりとか、谷さんとやったりとかあった。そういうものがないから、まともな雑誌が欲しいなっていう部分がひとつ。それから、画廊……。まあ暗い話ばっかりだよね。山口画廊(ギャラリー山口)もそうだし。村松画廊もなくなっちゃったし。

坂上:手もなくなったし、もう南天子しかないですよね。

中山:画廊もちゃんと……見る側も大変だろうけど、あちこち散らばっちゃってるでしょう。中心的なものがないから、そんなものが育ってほしいよね。

坂上:そういう中心的なものがもうなくなっている時代のあり方なんだろうなとは思うけど、海外なんかではちゃんとありますね。

中山:あるよね。

坂上:ないことに対してきちんと……。

中山:そうそう、今思い出したけど、上野の都美術館建て直す前だけどね、当時はあそこがやっぱり中心的な要素を持っていたんですよね。中原さんがやった「人間と物質」もそうだし、毎日がやった現代展だとか国際展だとかもそうだった。それと画廊が。神田から新橋、銀座。そういうところがないよね。

坂上:画廊まわり自体をもうしなくなって。

中山:もうしない。学生もしないんだよね。全然。いま画廊で個展をやっても150人くらいしか来ないっていうよね。

加治屋:ひとまずこれで終えて場所を移しましょうか。

(以下は夕食を食べながら話す)

中山:(彫刻の制作に、誰がどんな新しい道具を持ち込んだかという話になって)……電動丸ノコを最初に持ち込んだのが小清水(漸 こしみず・すすむ 1944—)さん。で、グラインダーを持ち込んだのは畦地(拓治 あぜち・たくじ 1948―2000)。それから電気ドリルでやったのが寺田(武弘 てらだ・たけひろ 1933—)さん。チェーンソーを持ち込んだのが戸谷なんだ(爆笑)。そういう分析は誰もしてないじゃない。僕が勝手にしてるんだけどね。丸ノコやチェーンソーや電動工具はみんな途中の段階で使ったりしていたけど、それをそのまま残して表現したのが彼らだよね。

加治屋:面白いですねー。

坂上:全然違うけど、小清水・関根・吉田って、《位相―大地》の3人は、もの派じゃない作品も作ってるじゃないですか。だけれども、後から出てくる人たちがみんなこぞってもの派的な作品を作っているっていうのが面白いなあって思う。

中山:菅さんもそうだし、李さんもそうだけどさ、あの頃やっぱりシュールの流れが強かったんですよね。だからトリック的な作品を作ってたんだよね、みんな。で、「トリックス・アンド・ヴィジョン」(1968年)にみんな出して。菅木志雄さんなんか、最初の頃はそういう(トリックの)作品なんだよね。それで、だんだんそういうものから離れていった。《位相―大地》だって基本的にはトリックじゃない? 基は関根さんなんだけど。それから原口は展開したよね。もともと水をプールにしたのは関根さんだけど。

坂上:ほんとにそう思う! 四角い水面に水を。あと、(ヴォルフガング・)ライプ(Wolfgang Laib 1950—)って……。

中山:あれは、原口の真似してるんじゃないの?(笑) 僕は、そういうのを真似って思わないで、発展したって思っているんだよ。真似っていうのはそっくりそのままっていうことなんだよ。

坂上:クネリス?

中山:あれは真似だよな。クネリスと李さんのは真似だよね。だけど関根さんが水張って、円筒立てたりして、原口は油をそこにひき詰めて横に置いて。あれももとはトリックなんですよ。あれも液体と固体があって。だけれども、ああいう要素を全部はずしてミニマルにしたじゃない。あそこが全然違うところだったな。あれは真似とは言わないで、僕は発展したんだと思う。

加治屋:部屋に低い壁を立てて油を張る作家がいますよね(注:リチャード・ウィルソン Richard WILSON 1953−)。

中山:水戸芸でやった作家ですか。Vの字になってそこに油を張って。

加治屋:普通の部屋でに1メートルくらいの壁を作って。

中山:水戸でやった人だと思うけど。あれは多分原口のを見てる。原口は、何年だっけな。僕が「余白」展でパリに行ったときかな。ものすごい評価されていたの、ヨーロッパで。美術雑誌に原口の(作品)がでかでかと出ていました。ドクメンタでね。あれはかなり影響を与えたと思いますね。で、パーレビ国王が買ったとか自慢してたけどね。

加治屋:山中信夫さんっていうのは、美共闘から出て来て……。

坂上:美共闘ではないですよね。

中山:美共闘にはいたんじゃない? 多分。でも彼はそんな意識ないと思うけど。

加治屋:ずっと後の作家ですけど、笠原恵美子さんが、山中さんはすごかったみたいな話をするのを聞いたことがあるんです。どういう感じだったのかなと思って。

中山:早く死ぬと、みんなそうなっちゃうんだよね。今どんな作品作っていたかって考えると、きっと行き詰っていただろうなって思う。僕も、はまのやって銀座の画廊で「写真としての芸術、芸術としての写真」展をやるときに「山中やらない?」って声を掛けて、彼を出してたんですけど。人間はすごくいいし、性格もすごくいい。

加治屋:へえー。

中山:だから東野さんかわいがったんだよね。

加治屋:亡くなられたのはいつぐらいですか。

坂上:81年。

中山:81年? ニューヨークで死んじゃった。文京公会堂でしのぶ会をやったので、僕も行ったけど。

坂上:山中さんの作品はギャラリー16に残っていたんですよ。

中山:ああー。

坂上:「山中君がアメリカから帰ってきたら展覧会しようね」って言って、作品を置いたまま死んだんで。結局作品を預かりっぱなしで。今も。

中山:山中も写真使っていたけど――ピンホールね――美術の中で写真が認知されてきたのは、やっぱり今中クミ子(いまなか・くみこ 1939—)だよね。

坂上・加治屋:へえー。

中山:キャベツ畑を撮った単なる写真なんですけど、あれが僕の記憶の中では一番最初。もっと先にいるのかもしれないけど。その後に眞板さんたちが出てくる。

加治屋:それはいつ頃ですか。

中山:60年代後半から70年代前半ですね、多分。今中クミ子さんは60年代後半だと思うけど。外国のものがとびとびで入ってくるわけ。それで、写真を使うようなのが出てきたんだ。僕なんかも、最初に使い出したのは75、76年くらいだと思うんだけど、もう眞板さんも使っているし、野村さんなんかも使っていた。もう当然使っていい素材だって思って、疑いもなく使ったけどね。

坂上:実際に写真が現代美術として認められたのは、80年代に入ってから?

中山:いやいや。だって70年代に眞板さんはそれでパリ・ビエンナーレとか行ってるんだから。賞取って。海に蛍光灯(の作品)。あれは70年代だから。それで(71年の国際)青年美術家展の大賞を取ったんだよね。だからもう70年代には認められていたよ。70年代前半。

坂上:眞板さんって、あの作品しかいいと思えなくて、後は……。

中山:僕は仲良かったんだよ。だからパリから帰ってきて、彼は青年美術家展で大賞取ってパリ行って、1年間行って戻ってきたんだけど、その時友だちの魚田もパリに行っていて。シュールの作家だけど、平賀敬(ひらが・けい 1936—2000)っていう敬さんもパリに行っていて。で、眞板が向こうで結核になって帰ってきて、仕事ないからって言うんで、当時僕は専門学校で教えていたもんだから彼を呼んで、一緒に教えていました。

坂上:眞板さんって、なんかすごい元気な印象。すごい元気だった。

加治屋:ものだけの表現とか、写真だけの表現ではなくて、写真とものを組み合わせているのは面白いなと思いました。

中山:ああ、これはどっちかって考えはなかったんですけど、もともと僕は彫刻のほうから入ってきて、もの、立体物のほうが主だったわけ。自分もそうだと思って作っていた。だから、あんまりそういうことを深く考えたことなかった。写真だけで見せたこともあったけど、あんまりその辺のことは考えてなかった。ただ、(ジョン・)マックラケン(John McCracken 1934—2011)の壁に立て掛けた作品がありますよね。あれの解釈を考えたことがあって。あれは壁からずり落ちてきて、あの角度に止まったのか、床から這い上がってきてあの角度に止まったのか。そこの解釈で随分違うだろうなって思って。マックラケンの場合は、あれは壁からずり落ちてきて角の場所で止まったと思う。絵画のほうから立体のほうに来た作家たちは、床を壁のようにして作品を置くんですよね。ところが彫刻の人たちは、床から立ち上がってくる。絵画出身の人は、垂直的な作品と水平的な作品ってあるけど、水平的な作品を作る人が多い。

加治屋:ジョン・マックラケンの作品は立て掛けているんでしたっけ?

中山:壁に立て掛けているだけの作品を作っています。

加治屋:あ、分かりました。

中山:フランク・ステラ(Frank Stella 1936−)の作品の変化を考えると、フランク・ステラは、壁からせり出して、床に落ちて、ジャンク・アートになって、どうしようもない作品になっていくんだけど、作家って、自分にとって未知な世界に憧れていくから、そういうふうになっていくわけです。フランク・ステラは、最初は平面作品で、平面の形をいじり出す。シェイプト・キャンヴァスになって、行き詰って、地と図の関係をなくしたと思ったけど、壁に置いてみたら、より地と図の関係が明確になったわけですよね。そうすると今度は飛び出さざるをえない。するとレリーフになる。レリーフになると今度は床に落ちてジャンク・アートみたいになって。僕は、フランク・ステラが一番可能性があったのはレリーフだと思っている。あそこで止まれば、作品はあまりよくないけど、あそこで頑張って作品を作れば、歯をくいしばれば、もうひとつステラの作品が成立したんじゃないかと。

坂上:私、油絵出身なんですよ。言っている意味がよく分かる。

中山:作ってる人は分かるんだよね。絵画という矩形の世界でいろいろやってきた長い歴史があるから。

坂上:地と図って言葉を思い出すだけで、若い頃を思い出す。

中山:ははは。

加治屋:授業でやっています(笑)。ちょっと戻りますけど、マクラッケンはどこで知ったんですか。

中山:どこで知ったのかな。講談社で出してる12巻の……。

加治屋:「現代の美術」のシリーズですか。

中山:そうそう。12巻あって、藤枝さんの担当が『抽象と構成』(注:正しくは『構成する抽象』(9巻))だったかな。その中にマックラケンが出てくる(注:87ページ)。それがいつだったかな。

坂上:前半だったかと思います。1972年、73年あたりかと(注:1971年)。

中山:うん。72、3年だったと思う。それで知ったんじゃないかな、僕は。「何だろう、この作家は」って思った。あれで知って、その後、確かセゾン美術館にマックラケンの作品を見た記憶があります。

加治屋:そうなんですか。それは何ていう展覧会なんですか。

中山:多分ね、アメリカの展覧会だったんだけど、何だろうな……。

加治屋:何でしょうね……。

中山:それで実物を初めて見ました。ピンクのかなり大きなものだった。2メートル50センチくらいあって、厚さも10センチか15センチくらいあって。単色なんだけど、いろんな色の作品があるね。ピンクがあったりグリーン系があったり。日本で立てかけた作品は、高松さんが作っているね。鉄板を。

加治屋:へー。

中山:鉄板を壁に立て掛けるわけ。立て掛けて後ろに電球入れて間接照明みたいにして(《光と影》1970年)。あれは何年だったか。70年代かな。高松さんって思考を掘り下げないで、広げるばかり。だから、さっきも言ったけど、影で、イデアで、ずっとプラトンまでさかのぼって掘り下げてやればさ、もっと深さが出ると思うけど、アイデアをどんどん展開していく作家だった

坂上:さっきの話じゃないけど、早くして亡くなっているから神格化されたのかも。

中山:何かね。でもね、高松さんの場合は生きてる時から神格化されていたの。俺もずっと年とってから高松さんと話をするようになったけど、その前は、高松次郎って雑誌で見てるし……。高松塾って。高松さん、生活が大変だから、自宅のアトリエを使って高松塾を開いたっていう話を聞いたことがあったけど。

加治屋:知らなかった。

中山:高木修さんも、高島直之(たかしま・なおゆき 1951—)さんも、ドイツに行った片瀬和夫(かたせ・かずお 1947—)も高松塾ですね。僕も学校に行ってないから、高松塾でも行こうかなって思ったことがあったけど(笑)。

加治屋:いつ頃ですか。70年代初頭くらい?

中山:60年代後半。高松塾が募集していたんですよ。片瀬と高木は一緒だったと思う。高木は第1期生かな。高木に聞けば分かるけど。

坂上:361度の世代で。

中山:高木と僕は一番仲がいいんだよ。

加治屋:熄シさんは60年代後半は、やっぱり飛ぶ鳥を落とす勢いだった感じがするんですけど、いろんなところで賞をとっても、生活の足しにはならなかったんですね。

中山:ならないですよね。あの当時、高松さんくらい知名度があればもうちょっと作品が売れてもいいんだけど、売れないですからね。美術館がなかったでしょ。ちょっとその後潤ったのは、美術館が買った時代があるじゃないですか。どんどん。あの時代に潤った人たちはいる。高松さんはその後は潤ったかもしれないけど、あの時代は美術館そんなないし買わない。コレクターだって、日本はそんなにいない。多摩美にも行ったけどやめちゃってるし、生活大変だったんじゃないかなー。
逆遠近法(の作品)なんかにしても、高松さん、掘り下げないんですよね。アイデアはいっぱい見せるんだけど。

加治屋:藤枝さんは1980年くらいに『みづゑ』で批判なさっていますよね(注:多木浩二・藤枝晃雄「解体と創造 前衛主義を超えて」『みづゑ』(1980年5月))。

中山:高松さんについて? なるほどね。ところで、酔ってきたので聞き取り調査はこの辺りで終わりにして、後は雑談にしませんか?