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野田正明オーラル・ヒストリー 2011年2月7日

ニューヨーク市マンハッタン、野田正明スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、富井玲子
書き起こし:中山龍一
公開日:2012年5月13日
更新日:2018年6月7日
 
野田正明(のだ・まさあき 1949年~)
美術家(版画、彫刻、パブリック・アート)
1949年広島県福山市生まれ。大阪芸術大学を卒業後、渡米してニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに学んだ後、版画家として出発したが、近年ではパブリック・アートを数多く手がけ、子供への美術教育にも情熱を傾ける。聞き取りでは、柔道部と美術部をかけもちしていた高校時代から、大阪芸術大学で泉茂や津高和一から学んだこと、渡米後の生活、版画から絵画・彫刻へのシフト、ギリシャや中国での活動、地元の福山に設置したモニュメント彫刻と美術教育に関するヴィジョンについて語っていただいた。聞き取りは池上裕子と富井玲子が担当した。

池上:では始めたいと思います。1949年に福山でお生まれということなんですが、お父様が縫製業をされていたというふうに書いてありましたが。

野田:そうですね、もともとは備後絣(びんごがすり)っていう絣だったんですよ。あの辺りはね。で、福山市新市町(しんいちちょう)一帯は繊維の町ということで、その後縫製業に転換して、(僕は)縫製業の後を継ぐべく教育された。

富井:じゃあ、工場か何か持っておられたわけですか。

野田:ええ、そうです。従業員20 人ぐらいいました。ですから親父は僕が後を継ぐものとして、本当にちっちゃい時からね、小学生の時からずっと問屋回りとか、ソロバンを習いに行かせたりとか。

池上:じゃあご長男でいらっしゃるんですか。

野田:そうです。そういうふうに仕込まれました。それが嫌で(笑)。

池上:お母様の方はどういう。

野田:いやもう、家族企業なので、家族全部総ぐるみで全員でやってました。

池上:じゃあお母様も工場を一緒にされていた。

野田:そうです。

池上:ご長男で、ほかにご兄弟は。

野田:妹が一人、三歳下ですね。広島の地元におりますけれども。

池上:じゃあ男の子一人ということで、後継ぎになるっていうのは生まれた時から決まっていたような。

野田:そう勝手に決めてたみたいですね。

池上:ご両親やご親族の中で特に美術にかかわりがある方っていうのは。

野田:皆無。

池上:皆無ですか(笑)。

野田:皆無。周辺もいなかったですよ。

富井:芸術一般で、例えば文学とかでもいいんですけれども。

野田:ありません。全く何もありません。

富井:それもないですか。

野田:もう、芸術のゲの字もなかったですね。

池上:ああ、そうですか。

野田:僕の中には芸術という言葉はまずなかったし、アート、絵を描くっていうことばそのものがなかったですよ、周辺に。だから子供の時に何になりたいかって訊かれたら、「大工」って言ってましたから

富井:大工。

野田:そのイメージしかなかったわけですよ。物を作る楽しさって。

富井:じゃあ仕事系ですね。

野田:そうですね。ものを作るのが好きだったんで、まあそのくらいかなって感覚です。

池上:備後絣にしても、造形的なことや、パターンとか色とか、そういうことは関係してくるとは思うんですが。

野田:親父たちがデザインをやってたら、そういうふうになったかもしれないんですが、零細企業なんで、大手の企業からもらった仕事をして。(作っていたのは)まあ、作業着ですよね。普通で言うと。バラエティのあるいろんな柄ではなくて、決まった型の作業着で、非常に地味なものの繰り返し。

富井:下請けになるわけですか。

野田:下請けですね。町全体がね、昔は備後絣で、その後は縫製業という、そういう町だったんですね。

富井:備後絣は地元産業みたいな形で、手工芸みたいな形で残っていたわけですか。

野田:そうですね。でも今はもう残ってないでしょうね。当時はまだ民芸とかで残っていたとは思うんだけど、本当に企業みたいな形でやってましたんでね。そういう形では残ってないんですよ。

池上:じゃあ、そういう環境の中で初めて美術とか芸術を意識されたっていうか、出会われたのは、きっかけか何かあったんでしょうか。

野田:美術って言うと多分、福山なので近くに倉敷の大原美術館がありますので、中学校の時にそこに美術部員なんかで行ったりして、こういうものがある、と観たのが最初ですか。

池上:そうですか。

野田:たぶん絵らしい絵を見たのはそこだと思う。

池上:何か特に印象に残った絵はありましたか。

野田:印象に残ったのはマチス(Henri Matisse)ですね。本当に子供らしい発想なんだけれど、マチスの肖像、女性の顔の像があるんだけれど、要するに平面的で線でポッと描いただけの絵ですよね。こんな簡単なのが作家なんだと思って(笑)、じゃあ僕でもなれるんじゃないかっていう。その時の感覚ですよね。

池上:それが中学生の時。

野田:ええ、中学生ですね。

池上:小学校の時からお絵かきとか図画工作がお好きっていうのは。

野田:これはもう大好きでしたね。工作の方がもっと好きだったけれども、絵も工作もいつも、学校内では一番良くできる、子っていうんですか。もう好きで家でいっぱい作ってましたから。おもちゃ全部自分で作ったりもしてましたし。

富井:何で作られたんですか。

野田:木です。木とトタンね。基本的にはあの時代だからロボット。手塚治虫とか横山光輝とか、鉄人28号とか鉄腕アトムとかいろいろありますが(笑)。ああいうものとか、あと軍艦とかね、けっこう大きな、こんなのをトタンで作ったりして。

富井:じゃあもう1メートル以上あるじゃないですか。

野田:1メートルもないけど。当時子供だからこんぐらいか(笑)。でも子供だからとても大きい思いがする。

池上:大きいですよね。

野田:大きいです。で、そういうものを作って川がありましたんで、そこで浮かべに行くんだけれども、やっぱりトタン造りなんで途中で沈むんです(笑)。

池上:残念ですね(笑)。

野田:そこまで考えてなかったんで(笑)

池上:中学の時にもう美術部に入られてたんですか。

野田:そうですね。やっぱり絵が好きだったんで、美術部に入って勉強するわけですよね。女性部員の方が圧倒的に多かったんで、そういう中で美術やってんだけれども、結局先生が絵の描き方をこうだ、ああだ、スケッチはこう描け、ああ描けってんで、今まで好き勝手にやってて面白がってたのが、全然面白くなくなっちゃったんですね。

富井:その時はデッサンとか油絵ということですか。

野田:そこまでは中学校だからいかないですよね。ただ、イメージでものを描くんじゃなくて、見たまんま、見るものを写し取るような感覚。

池上:写実。

野田:写実とまでは行かないんだけれど、情景描写ですか。ただそれに対するハウトゥーまでは教えてくれなかった。陰影がこうついて、ただ風景でも面白くない風景ですよね。

池上:なんか指導されてしまうということですか。

野田:僕は思うんですよ。どうして絵にそんなに興味がなくなっちゃったか、面白くなかったかというと、媒体が良いのがなかった。描くものがね。田舎の風景で何もない山とか、がらくたがあった田園風景にしても、抒情的でもないし街的でもないし中途半端な風景で、全く感動がないんですよ。それは後になって分かった。うんと後になって。

池上:周りの風景そのものが、あまりいい風景でない。

野田:だからたぶんフランスに行って、フランスの街並み描いたら子供心にもっと違う風景描いたかもわからないですよね。

富井:あまりインスピレーションの湧かない風景だったんですね、じゃあ。

野田:そのとおりですよ。僕が今見ても「あ、この中に美はないな」と、思いますよね。そういう環境の中で育った子達が、感性が生まれるかっていうと、これもクエスチョン・マークだなと。

池上:それは面白い指摘ですね。

野田:ずうっと分からなかったもの。なぜか自分は下手だ、自分の感性は鈍いと思ってたのね、長い間。で、僕が作家になろうとして、やってる最中に何を描くか、どう描くべきか、なぜ描くべきか考えた時に、ものを選択するでしょう。ただ写実だから写せばいいんじゃなくて、何をどう描くべきか知った上でやって、ものの意味が生まれて、良さも生まれるわけですから。そういうものが周辺になかったということですよ。感動するべきものは何もなかったというか。それを探しに行けば良かったわけですよ、遠くまで。

富井:でも子供だと、遠くに探しに行くという発想自体がね、大人になれば探しに行けると思うんですけれど。

野田:そうです。それは選択の余地はないですね。

池上:ところで、福山は広島県ですから、日本の外で広島出身と言われると、戦争とか原爆との関わりが必ずついて回ると思うんですけれど。

野田:必ずきます。

池上:そういうことについては何か意識されたんですか。

野田:意識をさせられたっていうのはあるんじゃないですか。福山は直接原爆の被害は受けてないんですよ。親父も高級将校の運転手を満州でやってたんですよ。それで敗戦になってロシアで捕虜になって。4年間シベリアで抑留されてたんですよ。それが終わって帰ってきてるんで、戦後4年後なんですよね。

池上:そうか、お生まれになってるのも1949年ですもんね。

富井:そうか、じゃあ、ハネムーン・ベイビーじゃないけど、帰国ベイビーですね。

野田:そういうことです。ですから広島って言っても、僕にとってはそんなに広島市内の人みたいに重いものはないんですよね。

池上:福山はかなり岡山に近いですよね。

野田:ほとんど岡山ですよね、どちらかというと。

池上:でもまあ国外に出られると、県で言うと広島だから「広島です」っていうと……。

野田:それはありますね。展覧会なんかしてアメリカ人が来て、「どこから来たか」っていうと、広島っていうと、まず最初に「アイム・ソーリー」て言われるのね。何のことだ、ああ原爆か、っていうことですよね。ギリシャでやった時も、やっぱり戦争の話が出てくるし、政治の話が出てくるし……。ギリシャ人に「日本人は戦争で原爆落とされて、爆撃あれだけされてなぜ仲良くしてるんだ」って聞かれたりとか、「おまえはなんでアートでそのことを告発しないんだ」、とか(笑)。そういう話をするわけですよ、彼らは、政治的に。

池上:そもそもそういうことを特に意識していなかったけど、やはり訊かれるから。

野田:うん、基本的にね。まあ、ある程度年を重ねて思うのは、アートを描くときに、そういう政治的なものを僕は入れたくなかったんですよ。ものそのものというか、造形というか、そっちの方が強かったんですよ。(政治は)偏ってしまいがちでしょう。要するに日本は原爆落とされてある意味で被害者的な立場に立ってるけれども、アメリカに来てもう一つ感じるのは、中国とか、韓国とかいろいろなところから人が来ているでしょう。彼らに最初に会うと、「お前ジャパンがどういうことをしたか知っているか」と訊かれるわけですよ。

池上:今度はこっちが「アイム・ソーリー」って言う番ですよね。

野田:そうそう。そういうの僕ら知らないですよ。でもこっち来て、日本も加害者だったんだと。で、僕がやったわけじゃないんだけれどもなんか済まない気持ちになるというか。そういう立場でアメリカが戦争やったからどうのこうのとかやりだすとキリがない。そこにアートを持ってきたら、アートの本質と違うところに行っちゃうんじゃないかというのは感じましたよね。

池上:じゃあ特に作品の中では。

野田:僕は入れるべき(ものではない)……。僕の中ではね。違うと思います。

池上:それは立場としてはよくわかります。お父様はシベリア抑留のことについて何かおっしゃったことはありますか。

野田:親父は向こうで洗脳されて帰って来ましたから。完全なコミュニストで。あれはね、向こうで洗脳されなかったら、長期滞在が長くなるんですよ。親父が三年か四年で帰ってこれたのは、完全な共産主義国の頭になって伝道者として帰って来たわけ。だから子供の時からロシアの話ばっかりしてました。

池上:抑留されて恨みに思うとかではなくて。

野田:逆。日本の天皇制とかアメリカの帝国主義とか、そういうものに対して批判的な立場。資本主義は搾取しなければ大きくなれないんだってことを(聞かされた)。

池上:一方で工場の経営者であるわけですよね。

野田:だからそれも反面教師だったわけですよ。自分が大きくなるために工場を経営して、良い言いかたじゃないけども搾取しながら(笑)、資本主義者のやり方で大きくなるべきだっていう考え方になったわけなんです。起業家としての本人の欲というか意欲っていう形に転化したんだとおもうんですよね。

池上:このシステムで生きていかなきゃいけない以上は。

野田:そうそう。それでロシアで習った資本主義のシステムを日本に帰って使ったと。

池上:すごくおもしろいというか、倒錯していますね(笑)。

野田:そういう話を僕にずっとしていましたよ。非常に現実的ですよ、話聞いてたら。どうやって生きるのかとか、資本主義国家の中で生きるためにはどうすべきかってことをいつも言っていました。こういう社会だからこういう生き方をしなくてはいけないっていう言い方してました。

池上:それを野田さんはどういうふうに聞いておられたんですか。

野田:子供でしたからね、分かるとか理解するというんじゃなくて、「ふーん」という感じで聞いてただけで、「こういう人がいるな」という感じの聞き方ですね。

富井:お父さんがまた言うてはる、みたいな感じですか。

野田:そうそう、そういう感じですよ。

池上:そういうお父様で、美術部に入るぐらいはそんなに反対しなかったんですか。

野田:そこまでは言わなかったけど、「ほどほどにしろよ」といつも言われました。

池上:でも美大を受験したいと、高校生になっておっしゃったわけですよね。

野田:既成事実をどんどん重ねていったから、そうなっていったんですよね。親に隠れて絵を描いたりしてて。僕はもともと漫画家になりたかったんで、ちっちゃい時からずーっと漫画ばかり描いていた。高校1年の時に漫画家になろうと思って、投稿しようとちゃんと短編作ったんですよ。それ書くのに一年かかって。「あ、これはなれないな」と(笑)。

富井:あ、時間かかりすぎ(笑)。

野田:一個作るのに一年かかってたら生活できないし、漫画家として大成出来ないって言うのが僕の中の結論。で、絵だったら一枚で勝負できるでしょ。絵の方が実用的だということで、絵の方に行ったというか(笑)。

池上:実用的というか(笑)。お父さんはそうは思われないでしょうね。

野田:親父は何も知りません。漫画描いたことも何も知らない。全く知らない。

池上:でも「美大受けます」って言った時の反応はあるわけですよね。

野田:うん、まあそれまでに先生とスケッチ旅行行ったりとか、あちこち行ったりとか、よく泊まりに行ってたんですよ。個人的に先生の家に遊びに行ってた。

富井:ああ、美術の先生ですか。

野田:うん美術の先生とか担任の先生と、ものすごい仲が良かったんですよね。僕が高校生の時に彼らが24 、5歳ぐらいなんで、普通に泊まりがけでお話に行ったり、親しい人だった。まあ、そういう中で絵のデッサンとかハウトゥー、研究所行くとかね。先生がそうしろって言って、親に説得して、親は「いろいろやってるけどいずれ帰ってくるだろう」という気持ちでやらせていたんだと思います。で、「絵の学校に行かせてください」って先生が言ってくれたんですよ。美術の先生と担任の先生がきて、「野田君は絵の方に行かせてやってください」て言ったんです。親父とお袋が聞いてて。親父は一つだけ受験しろと。落ちたら家のことを手伝えと(笑)。

池上:それが条件で浪人も許さない(笑)。

野田:僕も他のこと知らなかったからそんなもんかと思ったんですよ。「うん」って言って、当時の大阪芸大を受けて、たまたま通って。

池上:大阪芸大を選ばれたのは。

野田:いや、そこしかなかったからですよ、関西で。できたばっかりの学校ですから。

富井:あ、できたところですか。

野田:出来て5年目ですね。東京までとても行かせてもらえる状況じゃなかったし。

池上:京都にもあると思うんですが。

野田:田舎の子ですから、技術も選択肢もなくて、僕にしてみたらここが一番妥当という先生の勧めもあって大阪芸大になったと思うんですよ。

池上:まあ、福山からは一番近いというか。

野田:まあ、それはありますよね。大阪ですので。

池上:高校の時には柔道部にも入られたそうなんですが。

野田:これはいろいろ理由があるんですよ。悪ガキでね、暴れまわってたんですよ。強くもないのにね。まあケンカばかりしていた。やるとやられたりするわけね。5人ぐらいにやられたときもあるんですよ。そういうのがあって、男として強くなりたいというのがものすごい願望の中にずっとあったんですよ。子供の時からね。でもスポーツ全然だめだったの。クラスで海に行くんだけども、病人組というのがあって4、5人僕らいつも浜辺で待ってたりとか、かけっこもいつもビリでね(笑)。蓄膿症だったんでね、当時。そういうのが何人かいたり、よく勉強のできる青ビョウタンみたいな人達と浜辺で一緒に待ってるとか(笑)。そういうのがいやだったのね。だから高校に行ったら何かもっと、一番激しいものをしようと。他のできないことをね。スポーツも何もするような人間じゃなかったけど、まずやってみようてんで、やり始めたんですよね。それがきっかけです。

池上:基礎をちゃんと積めば武道っていうのは。

野田:それで、入ったらやめられないんです。先輩が恐ろしいんで。ものすごくしごかれたりひどい目に遭いましたけれども。でも2年までなんですよ、きついのは。3年になったらもう上級生でしょ。2年の中ごろから教える立場になりますから。下が来ることによって、自分が、要するにちゃんとしてないと今度教えられないですから。

池上:そうですね。

野田:怠けた分だけ、上の学年になった時に自分が損するわけですよ。そうことが分かってきて、ものには順序があってやるべきことをやって次があるっていうことが、あれは目に見えて分かる。フィジカルにね。体と体でやるから勝負がはっきりしてますし、非常に分かりやすかった。だから体力もかけっこも弱かったけど、柔道3年やったおかげで黒帯になってかけっこも一番になったのね。マラソンも全校で10番とかそんなのになっていくわけですよ。自分で自分に驚いてるのね、それに対して。3年の間ですよ、それが。

池上:基礎体力がちゃんと付いて、ということなんでしょうね。

野田:柔道でもちゃんと練習して、基礎をやっていれば怪我しないし、人を投げるとかそういうこともできると(笑)。

池上:基礎をちゃんとやることが美術でも大事だ、ということをどこかで書かれていたと思います。

野田:そのときに、柔道やることではっきり分かったんですよね。そのしんどさっていうか、しんどいと思うよりも次のこと考えられるようになったっていうんですか。そこを通り越したらこっちが見えるっていうことが分かったんで、ただ好きなだけでやみくもにやっていても、ものごとは成立しないんだっていうのが分かったのが、高校の時に美術部に入った原因かもしれないですね。柔道の時にしんどい思いしてたんでね。美術の基礎に対しても必然性を理解してたので全然しんどくなくなったわけですよ、今度は。退屈でもなんでもなかった。

富井:石膏のデッサンとか普通は退屈なんじゃないですか。

野田:うん、そうなの、普通はね。中学校の時は嫌だったわけですよ。でも高校で、柔道でうんとしんどい思いしてたから、痛いばっかりでしょ。そういう中で、描くという行為がすごい贅沢に思えだしたのね。別に退屈とか全くないんですよ。延々と同じ行為でも平気だった。一人でね。あのころ美術部消滅寸前だったんで(笑)。一人で、僕だけ空いた美術室の中で描いてた。商業高校でしたから……。

富井:商業高校ですか。

野田:美術なんかなかったんですよ、ほとんど。商業高校になる前は普通科だったのね。で、普通科の時の石膏像が残ってたのね。僕はそういうのがあるんで、一人だけ勝手に行って、柔道の練習終わった後にね。一人で鉛筆デッサン描いてたんですよ。そしたら先生が来て「野田、描き方が違う」と。木炭で描けとかなんとか教え始めて、ちゃんとやるようになったんですよね。それが始まりで、1年の終わりぐらいかな。それからですよ、本格的に、徐々に。

池上:ああ、そうですか。では柔道も美術もということで。

野田:それが愉快だった。柔道やりながら美術やってるのがすごく愉快だった。

池上:ちょっと変わり種ですよね。

野田:スカーッとしてるんですよ。絵を描いて結果の見えない、悶々としてるところへ持ってきて、向こうでドタンバタンやって、大暴れして帰ってきて描いてるのがすごい爽快だった(笑)。

池上:ああ(笑)、なんか良い組み合わせですね。

野田:そうそう(笑)。

池上:それで浪人はなしだということで、大阪芸大にちゃんと見事に合格されて、進まれるわけですけれども、専攻は絵画ということで良かったでしょうか。

野田:そうですね。専攻は美術学科で絵画の方ですね。

池上:美大に入ってまずやらされたことは、どういうことですか。

野田:まずデッサンですよね。一から。

池上:あ、やはり。

野田:やはりデッサンで、石膏デッサンをずっとやるんですけど。もちろん油絵もありますけど、基本的にはデッサンをきちんとやらされて。やっぱり東京芸大落ちた人とか、すごいのがいっぱいいるわけですよ。

池上:上手でしたか、みんなやっぱり。

野田:あのころの僕から見たらものすごい上手だった。僕なんか田舎から出て来て、ただひたすら描いてるだけで、彼らと比べたら上手くはなかったけども、彼らは何年も浪人してるから見ずにでも描けるのね。で、そのときいつもAくれてた先生が「上手く描くことじゃない」って言うのね。「デッサンはものの見方を学ぶためにやってるんだ」と、それに対しては僕は良かったらしい。一生懸命な姿勢がね。

池上:それは先生の言うとおりですね。

野田:うん、今はそう思いますよ。姿勢を学んでいた。テクニックはあとでついてくるものであって、そういう一生懸命な、ひたむきな姿勢がものを描く時に大事だということで。で、そのとき空手やってたんで(笑)。同じ事ですよ。空手ドタバタやって、こっちで描いてるのが気持よかった(笑)。

池上:そうですか。お世話になった先生で泉茂さんの名前を挙げられてましたけれど、他にはどういう先生がいらっしゃいましたか。

野田:津高和一。あと、松井正。あと家永さんていう人がいましたけど。光風会かな、その人は。大学1年ですから影響受けたというよりデッサンですか。非常にアカデミックな。

池上:じゃあ、やはりその中で一番影響を受けてお世話になったのは泉茂さんで。

野田:やっぱ泉茂でしょうね。抽象の入り口でしたから、僕が抽象やるきっかけになったのはあの人ですしね。

池上:そのきっかけについて、もう少し詳しくお聞きしていいでしょうか。

野田:僕は1年のときから、きちんと全部習得しようと思ったんですよね。人物画をちゃんと描けるようになって、静物画を描けるようになって、風景画を描けるようになってという風で、まあ写実的なアカデミックな描き方をやって、その次にそれを応用したシュール的な絵を描くとか、自分の中で組み立てるんですよ。3年生ぐらいの時に、そういうことをやり始めて、いろんな美術書とかいろんな歴史の作家見てて、すごいのばっか出てくるわけですよ。どんなにやったってこの人たちと違うもの作れるとは思えなかったのね、自分が。このままやってたら全然面白くなくなるんじゃないかなと(笑)。で、あのころちょうど学生運動の時代ですから、改革の時代なんですよね。体制打破とか、そういう時代なの。そういうなかでひたむきに絵を描くことが非常にかっこ悪いっていうんですかね。

池上:そうですね。

野田:僕は人のことはどうでもいいの。自分は自分のことだけきちんとやりたい、ってね。でもこのまま行ったらしんどくなってきたのね。やってても結果が見えてこないって言うんですか。自分のものとして、技術的な意味でもね。それで泉さん見たら、泉さんがスプレーで描いてるわけですよ。丸、三角、四角だけなんで「なんだこれは」と、こう思ってね(笑)。

富井:泉さんが芸大に入ってきたのは。

野田:途中からですよね。たぶん僕が3回生の時ぐらいに、フランスから帰ってきて。松井正さんていう人が学科長かなんかで泉さんを呼んだっていう話聞きましたから。

富井:ちょうどいい時にいらっしゃった。

野田:と思いますよね。

富井:野田さんの模索の過程でいうと。

野田:そうですね。いちばん先生らしくない先生でしたね、作家だから。どっちかっていうと先生は教えようとするわけね、一つのスタイルを。泉さんてのは放任主義で、ひとのことはどうでもいい。自分の作品を作りたいだけの人でね。だから作家を見てたってのはありますよね。学校を利用して彼は作品を描いてましたから。他の人は先生で、学校で制作してる先生はいませんでしたから。

富井:そういう先生方は、じゃあ家で。

野田:他の先生はみんな自宅で絵を描いてましたから。泉さんは学校のスペース使って、コンプレッサーで、こうザーッとね。版画は版画で坪田さんていう人に版画作ってもらってましたから。そういった意味で彼の仕事をつぶさに見れたっていうんですかね。こんなのでいいのかな、というのはありました。マチスと一緒ですよ。僕は写実っていうか、アカデミックなもの描いてて、あと造形学科で遊びの抽象画を描いてて、それと両方持って泉さんのところへ行ったんですよ、行き詰ってたから。で、両方泉さんに「こういうの描いてます」って見せたら、「こっちはおしまい」って言われてね。

池上:アカデミックな方を。

野田:うん、アカデミックはおしまいって、で、こっちしなさいって、それだけは彼はっきり言ったの、最初にね。でもやったことないんで、「こっちの世界分かりません」て言ったら、「分からないなら分かるまでやりなさい」って言われたのね(笑)。

池上:良いアドバイスですね(笑)。

野田:だから、ああそうかな、って思ってね。で、「一年に百点ぐらい描いたら分かるだろう」って言ったんですよ。だから、じゃあ百点は描こうと。

池上:泉さんが一年に百点ぐらい描いたらと。

野田:たぶんそんな言い方したと思いますよ。はっきり言ったかは覚えてないけど、百ってのは一つの目標にしたんですよ。そしたらひと月10点描けば百点以上になるなってね。で、実際百点以上描いたんですよ。毎月担いで持って行ってね。

富井:どれぐらいの大きさで描いてらしたんですか。

野田:50号ぐらい。

池上:それはカンバスでちゃんと木枠に張って?

野田:当時ね、泉さんはコンプレッサー使って油絵で描いてたんですよ。僕は寮に住んでたんで、コンプレッサー使えない。それで網の上から、絵の具をブラシで擦りおろして、型の上にのせるように塗る。

池上:シュッシュッと、はねて。

野田:どっちかっていうとポスターカラーで紙に描いてパネルに張り付ける作品。そういうのを毎月、最低10点担いでね、持っていった。時々部活の後空手着で行ったり、下駄はいてカラコロと。泉さんはでも、ああいうの嫌いだったらしいのね。

池上:ああ、体育会というか。

野田:あの人はどうも体育会系は嫌いだったらしいですよ。「野田が来たぞ」って皆でこうかまえてたらしい(笑)。

池上:でも、持って行ったものについてはちゃんと批評をしてくださったんですよね。

野田:彼はすごくまっすぐでしたよ。だからいい加減なことやってる人には生徒に批評させるのね、あの人は。「君これどう思う」て、自分は言わないんですよ。僕に対してはその時その時に的確なことを言ってくれた。

池上:やっぱりどこが良い、悪いっていうのを。

野田:そういう感じじゃなくて、「こういうやり方もあるよ」っていう言い方ですよね。僕も抽象っていう世界を知らなかったし、とにかく全てを学ぼうと思ったんですよね、造形のハウトゥーを。知れる限りのことを本を読んだりいろんなの見たりして。最初は真似ですよ。真似を自分なりに変革しながらやってきたっていうかね。それを1年近くやってて、で、後半になったら真似じゃなくて自分のも出てくるのね。こてこてやってるうちにね、学ぶことに飽きてくるでしょう。で、自分のスタイルがどこかから湧いて来たような感じで、そっちの方が自然に成立し始めた。で、勝手に絵が独り歩きし始めたのが大学後半ですか。ですから、卒業前に個展できたのはそれもあるんですよ。

富井:特に真似をした傾向というか、アーティストとかいますか。

野田:菅井汲とかね。結構フランスであの時代に大活躍してましたから。やっぱり当時のスターかな。

池上:スターですよね、うん。

野田:それから版画では池田満寿夫でしょ。棟方志功もいたけどやっぱり古かったんで全く興味なかったし、あのころの池田満寿夫って花形でしたから。それに泉茂さんは先輩ですからね、池田満寿夫の。

富井:そうですか。

野田:(池田満寿夫を)富岡多恵子と会わせたのは泉茂さんなんで。そういう系譜もあったんで、後に版画やるのもそういうきっかけがあったかもわからない。

富井:版画は大学のときからやっておられたんですか。

野田:大学でやってましたが、全く興味なかったです。

富井:それは必要課程かなんかでやらなきゃいけないと。

野田:無理矢理ね。やるしかないからやってただけで、卒業してからですよ、版画やり出したのは。

富井:一応技術の習得は大学の内になさったということですか。

野田:中途半端だと思いますよね、大学の時代は。道具も大したことなかったしね。卒業前に個展やったんですよね。大阪の信濃橋画廊ってところで。そこで大阪の別の作家、河野芳夫って人が来て、「野田君まじめにやってるね、うち来てちょっと手伝わないか」と。彼の展覧会があるんでね。彼はペインターなんだけど、版画を始めたところだったの。「君に版画教えてやるから版画は君が刷ってくれ」と。で彼のところに行って版画を教えてもらったんですよ、ちゃんとしたやつを。で、彼もへたくそなんで(笑)。

富井・池上:ふふふ(笑)。

野田:彼も始めたばっかりで。だから二人とも間違いだらけでやるわけですよ。でも、すったもんだしてるからいろいろできたと思うんですよね。彼の道具使って、好きなようにやらしてもらったんで。まあ、もちろん彼の作品ですけどね、あの時に版画の技術はベーシックなこと全部習得して、絵具のこととか全部理解してね。それからですね。

池上:それで版画も面白いなあというふうに思われたんですか。

野田:うん、やっぱり油絵ではできないものがあるわけ、色の完成度とか。要するに、絵はいつまででも描けるんですよ、筆で描き直したりとかね。版画は版を作って決めたら直せないですから、思い切りっていうか、止められる。止めて次にいけるっていうのがあったんですよね。そういった意味で版画の切れが僕にすごく合ってたっていうか。

富井:信濃橋画廊で卒業前に個展をなさったということですが、貸画廊ですよね。

野田:貸画廊です。

富井:すると、当時は借りて個展をなさったわけですか。

野田:当時はそれしかないですからね。ただ信濃橋画廊は大阪では一番いい画廊でした、貸画廊としては。だから結構いろんな人がそこでやったんですよ。大阪の著名な人たちね。だからそこでやることが僕らにとっては一つのステータスみたいなところはありました。

池上:それは野田さんが画廊に声を掛けて、やらせて欲しいんですけどって言って。

野田:はい。そのまえにグループ展を一回やってるんですよ、三人で。それを踏み台にして、ちゃんと個展をやらなきゃいけないってことで。作品がありますからね。そういう意味でどこがいいかってことで探して、信濃橋画廊にして、ということですよね。

池上:大阪芸大の雰囲気ですとか、そういうことについてもお聞ききしたかったんですが、どういう感じの学校でしたか。

野田:僕が行った時に5期生で、できてまだ時間が経ってなくて、本当に若い大学でね。要するに何もできないから絵でも描くか、みたいな人が結構いて。ちょっと空手の話になりますけど、ケンカばっかりしてた人達が来てた。

池上:そうなんですか。

野田:ケンカ好きな人たちね。空手やりたいから来たとかね。

池上:それもおかしな話ですね(笑)。

富井:ここへ来たら空手できるだろうみたいな(笑)。

野田:うん。彼らは自分で空手部を作ってやってたんです。

池上:で、そこに入られた。

野田:僕は柔道の次は空手だと思ってましたから。

池上:ああ、そうですか(笑)。

野田:柔道やっててね、プラクティカルじゃないってことをものすごく感じたのね。柔道ってのは持って投げなきゃいけないんで、常に一対一なんですよ。二人と相手できない。空手は殴ったりけったりできるんで、一人で三人ぐらい相手にできるんですよ。

池上:実戦的ですよね(笑)。

野田:実戦的ですよね。で、大きさも関係ないですよね。柔道は重さで潰されちゃうから、重い人を投げられないですから。空手は殴って逃げたらいいでしょう。

池上:そういう動機ですか(笑)。

野田:それはそういうもんですよ、男って。強くなりたいって考えた時に、その結果は、はっきりしてたわけですよ。やっぱり空手やりたかった。福山には空手をできるところはどこにもなかったんですよ、空手のかの字もないですから、当時は。で、大阪芸大入って、空手部に入った。おっそろしい部でねえ。

富井:そこも(笑)。

野田:さっきの話で、空手だけやってる人が来てたから、鬼みたいな人ばっかりだったんですよ。皆ものすごい強かった。全国優勝してましたから。

池上:すごいですねえ。芸大って感じじゃないですよね、そうなると(笑)。

野田:そこは勘違いだった(笑)。主将は米軍キャンプで空手教えてた人でね、伝手を作ってフランスに行って、そこで道場を三つオープンして、それで大成功して。空手の道場が大成功した。

池上:もうアーティストじゃないですよね(笑)。武道家ですね。

野田:ナンバーワンで出世した人でね。当時世界中の人、まだ空手知らない時代でね、サウジアラビアの王妃とか、みんなそういう人たちを教えた。だから世界のネットワークを彼が持ってたんです。その人は家が服飾関係でね、「エスモード学園」てご存じですか。

富井・池上:はい。

野田:あれの創始者。その人がエスモード学園をフランスから持ってきたんですよ。だから今、空手の主将がエスモード学園のいちばんトップ(笑)。

池上:おもしろいですね。じゃあ学校での交友関係は美術というよりは……

野田:もう美術全くなし。あんなじめじめした人達じゃなくて(笑)、本当にスカッとした連中ばっかりでね。結構みんな面白いやつばっかりでね、中途半端じゃなかったんで。

池上:じゃあ野田さんは美術も空手も一生懸命やる一方で、お付き合いは空手部の人達と。

野田:僕は空手部です。付き合いはそっちだけ。で、空手部で卒業したのいないんですよ。

池上:そうですか(笑)。

野田:まともに勉強してないもんですからね。みんな中途退学か落第させられたりとか、自分で辞めたりとか。僕はちゃんと学校行って、美術の方もやってましたから。

池上:「も」って言うのもおかしいですけど(笑)。

野田:それが本流なんだけれども(笑)。僕が空手やってて良かったと思うのは、常に真剣勝負で本当の殴り合いしてますから、やられたくないんで一生懸命やるでしょ。あの集中力が半端じゃないんですよ。それを絵の方に持って来れた。いつもこの瞬間しかないんだっていう気持ちで絵に取り組めたんで、絵も真剣にできたってのはありますよ。

池上:それは素晴らしい。

野田:だから一年に百点描けたのも、たぶん反動でしょうね、空手の。

富井:だって50号を百点ていったらすごい数ですよね。

野田:今にして思えばね。

富井:それをまた一回に10枚、先生のところに担いで持って行くわけですから。

池上:それも大変ですよね。

野田:体力はすごいありましたよ。僕のことを好いてくれた後輩もいたんで、彼らを二人ぐらい連れてね。彼らに持たせて先生のところ行ってたのね(笑)。

富井:助手がいたんですね。

池上:そうか、じゃあ芸大の仲間でこういうアーティストになったよ、みたいな人はいらっしゃらないわけですね。

野田:うん、いないでしょう。たぶんご存じないと思いますよ。坪田さんて知ってます? 版画やってた人。泉さんのところで助手っていうか、お手伝いしてた人。僕が思い浮かぶのはその人ぐらい。

池上:なかなか面白い大学生活で。で、当時学生紛争やなんかあって、それにもコミットはされてなかった。

野田:空手部の主将が民生の委員長だった。ですから来るわけですよ。「野田君入らない」って。部活では鬼みたいに恐ろしい人なんだけれども、民主主義だっていうのがあって、絶対にプレッシャーで僕を引き込んだりはしなかったのね。だからいつも対等に話してくれたの。「いやです」って言ったら「そうかい」って引いてくれて。学生運動には一切関わっていません。

池上:大学自体がちょっと荒れたりとか、そういうことはありましたか。

野田:京都の大学が大阪芸大を占拠して、全部バリケードで封鎖された時がありましたね。大学2年の時かな。機動隊が来て……、あ、機動隊じゃなかった。塚本学園ですから、大阪芸大は。学長はわりとワンマンタイプでね。浪速芸大っていうのがあるんですよ。浪速短期大学。そこの教師という人たちが来たの、後援部隊として。これ載せていいかどうか分かりませんけど、ダダダっと数十人くらい、浪速短期大学から先生が来るわけね。皆これもんですよ(頬に傷をつける、ヤクザを意味するジェスチャーをしながら)。

池上:そうですか。

野田:「僕は浪速短大の教師だがね」って来るわけですよ。来たら皆これ(ヤクザ)ですよ(笑)。それが皆鎮圧に来た。

池上:機動隊ではなく、もう自分のところの(笑)。

野田:ですから全部封鎖されて、学生が車を火炎瓶を投げてバアーっと燃やしたりとか。

池上:それは大阪芸大の学生が……。

野田:大阪芸大の学生はそこまでやるガッツはない。外部ですよ。

富井:外人部隊ですね。

野田:そう、外人部隊です。

池上:京都の芸大系の学生ですか。

野田:ちょっとわかりませんが、まあ京都の方の。

池上:まあ、京都の方が盛んですもんね。

富井:芸大よりも京大だと思いますよ。

野田:そうですか。ですから大阪の芸大で、そういう人たちの中に入った人もいるわけです。要するに尻馬でしょうね。なんにもすることないんで、情熱をどこかにぶつけたいってのはあの頃の時代の人にはあったと思うんですよ。で、僕は大学の下の寮なんですよ。で、そういうところから火炎瓶ぶつけたりっていうのを見てたのね。「なんかやってるぞ、うるさいなあ」って言いながら。僕は絵を描いてたのね、全然関心なかったから。好きにやってろっていう感じでね。あのころ、反体制でしょ、合評会とかあるわけですよ。そしたらそこに「ナンセンス!」とか言って入って来るわけ。

富井・池上:「ナンセンス」って(笑)。

野田:「ナンセンス」とか言って、アカデミックな絵がどうのこうのとかって、まあ同じ学生ですよね来るんですよね。そういう連中はコンセプチュアルかなんか難しそうなことやってるけど、僕から見たら結局根っこも何もないわけですよね。ですからいつのまにか消えていったというか。

富井:野田さんもナンセンスって言われたんですか。

野田:僕は空手やってたんで、ぶっ飛ばしてやろうと思っていたんで(笑)、僕のところには来なかったんですよ。

富井:ナンセンスって来たら、論争したら面白そうだなと思ったんですけれども。

野田:論争はしないですね。あの頃は、あんまり良い言い方じゃないけど武力で全部片付けるみたいなところが(笑)。僕には筋が通ってるようには見えなかったの、その当時。なぜかっていうと、学生運動やってたトップの人はコンセプトとか方向性を持っていたと思う。でもデモに来てた多数の人はほとんど何もなかったと思いますよ。自分で何かやろうという本当の気持ちでやってたふうには見えないですね。

池上:時流に乗ってしまったという感じですか。

野田:ほとんどは。

池上:じゃあ野田さんはデモにも全然参加されず。

野田:全く。そういうこと自体、皆でやるのが好きじゃなかった。皆と何かやることが何の意味があるかなって。当時僕が理解していたかは別ですよ。民生で主将に言われて、「一回だけでも会合出てくれ」って出たことあるけど、全く政治的なことに興味なかったですよ。僕は学生がやるべきことをしたかった。親父が親父なんで、何もしてなかったら帰ってこいって言われたら帰らざるをえないわけですよ、それがあって、帰りたくない一心でなんとか既成事実を作ろうとして、ただひたすら描いてたんで。だからあんまり政治には関心なかったですよね。

池上:逆に帰りたくないというのが、必死で美術の道に進む原動力になってるんですね。

野田:それはもう、寮ではきちがいと言われてましたから。80人ぐらいいたけど、皆夏休みや冬休みは帰るんですよ、故郷に。僕だけ80人の部屋に一人残って絵を描いてるの。全然さびしくなかった。

池上:ご両親も、盆暮れぐらい帰って来い、というのはなかったんですか。

野田:言ってたかも分からないけど、気にしてなかった。なんかうれしくて仕方なかった、自分の好きなことできるのが、絵を描けるのがね。だから一人で残って絵を描いて、1ヶ月か2ヶ月の間誰もいないでしょ。その間にちょっと絵が上手くなったなとかね。ちょっと彼らと違ってきたというか。

池上:差をつけたぞという。

野田:そうそう(笑)

池上:そういうことが卒業前に信濃橋画廊で個展をされたってことに繋がっているんですね。

野田:たぶん、アカデミックなのを描いてて、気持ちがそういう方向に向けられたんじゃないかと。生き方ですよね。で、やっぱり抽象やるのに抜けてるところがあるのは、絵描きが、アーティストがどういうものか分からないでしょう。大阪芸大もできたばっかりで作家になった前例がないんですよ。泉さんは別だけれども、津高さんにしてもまともな先生に見えたんですよ。で、泉さんだけは枠がなくて作家らしかったの。だから作家の私生活っていうものが知りたかったから、作家のところに行ったんですよ。突然。

池上:泉さん以外の方のところに。

野田:うん、泉さんも行ったけれど、いろんな人いたんで、山中嘉一とか、津高和一さんの家にも行ったの。

池上:ああ、そうですか。

野田:学校の先生の顔じゃなくて、作家の顔を見たかったんで、電話せず突然行くのね。不意打ちで(笑)。ホントの姿見れると思ったんで、で、行ってみたらワッと驚くわけですよ。

池上:まあそうですよね(笑)。

野田:「お前なんで来た」とか言われて(笑)。で、実はかくかくしかじかだって説明して。怒られたけども、作品並べてね、やっぱちゃんと批評してくれましたよ。求めてるものに対して彼らは無碍にしなかったっていうのは、どの人もそうでしたから。

池上:ああ、そうでしたか。で、彼らの作家としての顔も見れましたか。

野田:すごいいいこと教えてくれましたよ。松井正さんなんかも学校では先生なんだけど、彼の家行った時には「無礼な奴だ」って言われましたけれども、真剣な感じが分かるんで作家の心構えを教えてくれた。

池上:それはどういう。

野田:絵以外の仕事するなって言われました。デザインもだめだって。絵に関した仕事、絵と似たような仕事するな。

富井:デザインもですか。

野田:仕事するなら絵と全く関係ない仕事しろと。あと一週間3日以上働くな。

富井・池上:ふーん。

野田:あと人とつるむなって言われました。何でも一人でやる。それがものすごい頭に残ってるんですよ。だから僕はそういう意味では仕事はほとんどしてないですよね、絵描きが何かっていうのは。そういう時代にそれぞれの人から意見を聞いて生き方というか、生活の仕方が身に入ってたというのはありますよね。

富井:作家の心構えですよね。

野田:そうです。

池上:実際に個展で高橋亨さんや山脇一夫さんに取り上げられて、書かれたりしてますけど、卒業前の学生にしたら反響はかなり良かったということになりますよね。

野田:と、思いますよ。乾由明さんも最初の個展に来て「すごくいいな」って言って「家にちょっと資料持って来い」って言ったんですよ。

池上:ああ、そうですか。

野田:あの頃は写真をちゃんと、上手く撮れてなかったのね。で、彼の家まで行ったんですよ。住んでる家が見たいから行ったんですよね。またこれも甲陽園のすごい豪邸でね。

池上:甲陽園、良いところですね(笑)。

野田:乾さんの家は、播半っていったかな、官僚が泊まるような旅館なんですよ。甲陽園駅に着いたら高級車が駅の前で待ってて、それに乗せられて行ったら番頭さんがずらっと並んで「いらっしゃいませ」って、そういうところですよ。もう行った先からびびっちゃってね(笑)。

富井:絵は担いで行かなかったんですか、資料だけ。

野田:展覧会を見に来てくれて、良かったっていうことで僕が訪ねて行ったんですよ。で、写真を持って行ったんです。話もしたんだけど、何を話して良いかわからなかった。ばかなこと言ったんでしょうね、当時。僕はもうあの頃、個展の後は抽象画に行き詰っていたんで。違う世界やろうとして茶碗、陶芸とか、ああいう世界をちょっと見始めた時があったんですよ。

富井・池上:へえー。

野田:一生懸命いろんな陶器の巨匠とかそんなの研究してたけど、なんか面白くないんだけど道がないんで、そんなの見てたり。そんな話を乾さんにしたんですよね、「そんな世界するべきじゃない」って言われましたね。「そんな伝統的な世界、君のためにはならないよ」って。で、「ああそうですね」って止めちゃった(笑)。いつもなんかの節目の時に目印ってのはあったんですよ、僕の中で。迷いもいつもあったけれど、そういう方向性を示してくれた人たちがいましたから。

池上:他にも批評家の方と交流があった方というのは。

野田:いや、やっぱ大阪ですので非常に狭くて、乾さんか、高橋亨さんかな。あの2人は対立していたから別個なんですよ。乾さんが京都大学で高橋さんが東京大学だったの。だから2人はちょっと上手く出来なかった。どっちかについたらこっちが難しいというようなね。だから派閥みたいなもの、なんかね。

池上:いかにもありそうな話ですね(笑)。

野田:どっちかっていうと、僕は大阪芸大だったんで高橋亨さんだったんですよ。高橋亨さんは僕の展覧会を必ず書いてくれたけど、ずっと批判的なこと書いてましたね。

池上:そうですか。

野田:幾何学的ないろんなことやるんだけれども、繰り返しになる、とかね。ありきたりだとか、そういう書き方をされてた。他の人が同じことやっててもそういう書き方はしてない。僕だけに書いてるのね。今思えば、それは正しかったと思うのね。システマティックなバリエーションになってたから、ああいう仕事は。手垢を残さず個性のないものを機械的にやるわけですからね。

富井:じゃあ、その当時の作品は割とハードエッジ的で。

野田:もう完全に。

富井:色彩が豊かっていうことですと、泉さんの系統で入ってきたわけですか。

野田:最初の入り口はね。でもそのあとはマックス・ビル(Max Bill)とか、いろんな人達を見ましたから。泉さんは、本当に入口だけです。

富井:画集とかご覧になるわけですか。海外の雑誌とか。

野田:いっぱい見ました。もう、ほとんどそっちの方が中心。

池上:なんか少しフランク・ステラ(Frank Stella)的な感じがしたんですけど

野田:それはだいぶ後です。

池上:じゃあ、当時はご存じなかったんですか、ステラの作品は。

野田:そうですね、卒業してしばらく経ってからでしたよ、ステラは。その前まではやっぱり違う作家でしたね。ヨーロッパ系の。

富井:(ハンス・)アルトゥング(Hans Hartung)なんかの方が近いですよね。気分的にいえば。

野田:そうです。当時僕は機械になりたいと思ってましたから。ですから、最初に抽象始めた時って有機的な仕事からなんですよ、空間的な。ああいうのは気分で作ってたところがあるから、だから構成とかシステムはそんなに分かってなかった。それですぐ限界が来たんで、やっぱりシステム勉強しようと。デザインでもなんでも、いろいろ参考にしながら実験して、要するに今までは何もないのに自分の内面的なことを、出そうとしてたわけ、表現として。じゃなくて学びとる、プラスなやり方ですか。まあ言えば真似ですよね。真似を通じて自分の世界を若干加えて発表するような形。だからいくらでも作れたの。「面白い、面白い」っていっぱい作ってて、後から見たら似たような作品ダーッと出来てたわけね(笑)。それはうんと後になって分かった。

富井:じゃあ高橋さんがおっしゃってた繰り返しになっていくってのは結構、当っていたんですね。

野田:うん、まさにその通りですよね。あの当時皆そうだったのね。ハードエッジが新しい時代ですから、泉さんを通じて、だーっと。みんな矛盾を感じずにやってたし、僕もやってましたし。やっぱり西洋の一番新しいものを学んで日本人はいかに取り入れるか、そういう時代ですよ。日本人はみんな当時それがモダンだと思ってましたから。

池上:でも、それを野田さんだけに言っていたというのは、逆にすごく誠意のある批評だったのかなあという気もしますが。

野田:それはね、大きく後になってみてそう思うことであって、当時の僕はかなりこたえてましたね。がっくり来てましたから。良いこと書いてないんで。

池上:それはまあ、落ち込んじゃいますよね。でもクリティカルなことを言われなければ、本当にそのまま。

野田:やっぱり疑問としてずーっと自分の中にありましたよね、「こんなんでいいんかな」って。それを自分でやりながら感じましたよ。ある程度のレヴェルを克服した時にね、ここから先は繰り返しだって分かっちゃったんで、いくらやってももう多分駄目だろうなと。それがちょうどアメリカ行きと重なったんですよね。もう学ぶものはない、学ぶレヴェルじゃなくなってきたっていうのかな。

富井:今度は作っていかなきゃいけない。

野田:そうですよね。でもそれはどうしていいかわからないっていうのはありましたよね。

池上:それが二回目の行き詰まりでしょうか。

野田:何回もありましたけど。

富井:でも、次にニューヨーク行くステップになったんですよね。

野田:だから精神的なもので克服できるステップではなかったと。やっぱりもっと違う異質なもの、違う環境の中でしか変えられないということ。

池上:もう環境そのものを変えたいということでアメリカに行きたいと。

野田:そうですよね。だから27歳で来ましたけど、日本でやってたことは全部捨ててね、ゼロからやろうと思ったんですよね。

富井:ニューヨークでなく、他のどこかへ行こうとは思われなかったんですか。

野田:いや、もうニューヨークだけです。フランスはもう終わってましたしね。世界のどこにも興味なかったんですよ。ただニューヨークひとつだけでしたから。当時も、熱い時代じゃないですか、まだ。ベトナム戦争あって、アメリカ美術はコンセプチュアルとかミニマルだけども、社会的には何か得体の知れないものを感じるっていうのかな。東野芳明とかも来てて、いろんなのが出てきた時代ですから。僕の知らない世界ですよね、そういうのは。

池上:行きたいと思われてから実際に3年かかったと書いておられましたが、それはなぜ。

野田:24歳で行く決心をして、27歳で出たんで、その3年間ていうのはね……。僕の先輩たちがアメリカやヨーロッパに行ってて、たまに帰ってきて日本で展覧会するでしょ。それで仲間に会うけれど、よそ者扱いね。「帰って来たね」っていうけど仲間には入ってないんですよ。だから行きっぱなしで、行った人達は居場所が無くなってるっていうかな。僕は帰るつもりで出て行きましたから、自分の居場所を作ろうって思ったんですよ。野田正明の存在を大阪できちんと定めておいて、ちゃんと帰ってこれる場所にしようと。

池上:じゃあ何年ぐらいいるつもりだったんですか、最初。

野田:3年ぐらい。こっちで生活できるとかそんなことなんて考えもしないことですから、全くね。

富井:じゃあ自費留学みたいな気分ですよね。

野田:基本的にはそうですよね。だから勉強しに来るような感覚ですよね。

池上:渡米してすぐにアート・スチューデンツ・リーグに入られるわけですけれども、渡米の費用や学費はある程度日本で準備して来られたんですか。

野田:卒業してすぐ幼稚園の先生やってたんですよ。これも面白いんで……。

富井:図画の先生ですか。

野田:うん。河野芳夫さんてね、さっきの、僕の展覧会に来た人。その友達で久保晃って人が大阪、奈良にいて、その2人のアシスタントを僕はやってたんですよ。あと泉さんの版画のアシスタントもやってたけど、まあ基本的にこの二人で、久保さんて人が幼稚園の先生をやっていた。アルバイトですよ。で、彼がフランスにちょっと行くんで、野田君、僕のやってる幼稚園受け継いでくれないかって。で、彼の絵画教室と幼稚園をもらったんですよ、二つ。一週間で二日だけね。

池上:いいですね。

野田:これがすごいビッグインカムで(笑)。一日300人教えるのね、子供たち。クラス全部教えて。

池上:すごいですね。

野田:で、終わった後別の絵画教室やって。またウィークエンドは子供のクラスやって。大人も入れてね。

富井:奈良でやったんですか。

野田:大阪です。それをアメリカに来るまでやってましたから。それが結構ばかにならないぐらい良い収入でしたから。

池上:それで貯金をされてという感じですか。

野田:そうですよね。卒業する時に大学に残る話もあったんですよね、副手か助手で残らないかって話もあったんだけども、やっぱり同じ年齢の人に教えるのはプレッシャーですしね。だからもっと気楽にできることっていうので。一番気軽なとこですよね。

富井:アメリカ行くっておっしゃったときのご家族、ご両親の反応は。

野田:うすうす感じていたでしょうね。要するに日本にいてももうだめだってのはわかっていたから。僕なりに毎年個展やってグループ展やって、結構がんがんやってたんですよ。ものすごい勢いでね。多分嫌がられるぐらい、うるさ過ぎるぐらい。あとで言われましたけれどね。そういう中で、親父も時々展覧会見に来てましたしね。画廊の人が野田さんよくやってるんですよ、とか話聞くでしょ。本人は絵描きになって欲しくないんだけど、そういう方向に向いてるんだろうって、感じてたんだと思うんですよ。で、親父は共産主義者なんで資本主義のアメリカ行くことにものすごい大反対だったのね。

池上:ですよね(笑)。

野田:「あんなとこへ」とか言ってましたけど、僕はやりたいことやるだけなんで。まず行ってみなきゃわからんっていうの、あったんですよ。アメリカのことも全く何も分からないんだけど、それよりも何よりも、日本にいてもどうにもならないっていうのがあった。じゃあ、日本で生きていけるのかって。そのまま、作家としてちゃんと生活できるのかと。そういう中で、20代の僕が50、60代の人たち見て、絵で自立してる人はいなかったんです。だから自分もいずれそうなると思ったときに暗澹たる気持ちになった。だから、なんか違うことしてみなきゃ、っていうのはありましたね。

池上:そうですか。でアメリカに来られる前にもうご結婚もされてたんですか。

野田:アメリカに行くこと決心した時に結婚した。逃げられたらいけないから。

富井:先に押さえておこうと。

野田:そうそう。うちのとは長いこと一緒にいましたからね。

池上:芸大の時に知り合われたんですか。

野田:そうです。卒業する前くらいかな。

池上:奥さまも芸大出身の方ですか。

野田:日赤、看護学生。日赤病院の看護婦。うちのはね、民生。

富井:奥さまは民生なんですか(笑)。

野田:民生の委員長やってたの。

池上:ノンポリの野田さんと気が合ったんですか。

野田:うん、気があったというよりも、僕はそういう世界を全然評価していないですから。だから僕がこういうことを一生懸命やってることに対して、彼女が理解っていうか、興味を持ったのかなっていうことだと解釈してますけど。

池上:看護婦さんとどういうところで知り合われるんですか。

野田:これは友達の紹介。当時ね、よくそういうサークルがあったんですよ。友達同士で、知り合いでこういう人を紹介するから、紹介しろよみたいな。たまたま僕の同級生で民生に入ったのがいて、一緒に食事して、それからです。

池上:アメリカに来られる前にご結婚されてお子さんも。

野田:結婚してすぐ子供できて、子供は置いてきましたから、一人で最初は来たわけです。

池上:最初は一人で来られて、奥さまとお子さんをあとから呼び寄せて。

野田:そうです。呼び寄せたのは、帰れないからっていうのはあったかな。

富井:じゃあそれで帰らないなっていうのが分かってお前たちも来てくださいって。

野田:そうですね。だから最初は子供置いてうちのだけ呼ぼうと思ったのね。生活できないから、生活できるようになってから呼ぼうと思ったんですよ。でもいつまでたってもそういうふうにはイメージ浮かばないですよね(笑)。

池上:いつになるか分からないから(笑)。

野田:いつ売れるか分からないでしょ。じゃあ仕方ないや、てんで。

池上:それが27歳で渡米されて何年後ぐらいに。

野田:いや、もう半年、一年弱ぐらい。だって一人で生活してて、僕日本人と付き合ってなかったから、ひどい生活してましたから。うちのが来たときもうがりがりでした。骨と皮になってた。

富井:そうですか(笑)。

富井:じゃあ奥さまは看護婦辞められて、こちらで。

野田:そうですね。やっぱり夜勤とかあったりして大変だったんですよ、見てて。だから「もう仕事したくない」って言ってた。主婦十年やってました。で、退屈になってまた仕事始めた。

池上:そうですか。じゃあこちらに最初一人で来られて、アート・スチューデンツ・リーグに入って学生ビザを取られたということですか。

野田:そうです。国外の学生が皆あそこ行くのは、まず第一にビザが安定してたから。

池上:ビザがおりやすいということで。

野田:アート・スチューデンツ・リーグ自体がモダンなことやってるわけじゃないんですよ。あそこはアカデミックな教育するところで、僕は抽象でしょ。それ見て、「なんでこの学校来るんだ」って言われました。お前みたいな仕事してる人間が「うちで何を学ぶんだ」って(笑)。

富井:学校へはちゃんと通われたんですか。

野田:1、2年行きました。

池上:それで奨学金も取られたんですよね。

野田:そうですね。作品が全然違ったでしょ。完成度もある程度高かったんで、レッド・ドット(注:優秀作品につけられる赤い丸)の良いのをもらったり、奨学金もらったりしました。

池上:こちらでも生活を立てるために、美術ではない仕事もされた。

野田:最初はお定まりのデリバリーボーイですよね。チケットの配達とか、それからペインタ―、大工、あと版画の刷り師を手伝ったりとか。できることは何でもやってました。その間に学校行ったりしてやってました。ただ、そういうことをやっててね、なし崩し的にそういう生活になっていって、生活のためにそっちが重点的になって、絵どころじゃなくなるでしょ。じゃあこれだけ働いて、これだけ絵を描こうとかそんなふうにはできません。絵は絵のことだけ考えないとできないですから。そういうことが分かったんで、適当にしなきゃいけないなってのがありましたよね。

池上:松井正さんが週3日以上働くな、というのは、それは守られた。

野田:守ったというか、働くのやめたんですよ。半年って期限決めて、その半年の間で何も出来なかったら帰ろうと思ってましたから。だからその間学校にもどこも行かずひたすらロフトで仕事してた。版画をバァーっとね。もう毎日作ってましたから。それをあちこちのコンペに出した。画廊は基本的にニューヨークに3軒あって、ちょこちょこ売れたんですよ。でも生活が成り立つとか、そんなんではない。

富井:版画の作品が売れたということですか。

野田:そうです。版画っていうのは数があるんでプラクティカルで、何軒かの画廊で、合同でできましたから。

池上:その画廊っていうのは、画廊の方が作品を目にして勧誘されたということですか。それともこちらから。

野田:それはないですよ。大事なのは自分で行くこと。ですから全て自分で。

池上:持ちこみで、飛び込みで行かれたんですか。

野田:持ちこみです。だから他の作家に訊くの、どこがいいかってね。当時あった画廊ではAAA、トリプルAっていう画廊が版画ではナンバーワンだったんですよ、5番街で。一番トップの画廊で日本人では池田満寿夫とか野田哲也とか、そういう作家を置いてた、一番売れた画廊なんですよ。アート・スチューデンツ・リーグのインストラクターが教えてくれたんですよね、ここの画廊が一番いいって。「お前は入れんだろうがね」っていう感じ。彼は僕が学校でやったリトグラフしか見てなかった。僕はリトやったことなかったけど、シルクのコースがなかったんでリトをやった。だから彼は僕のシルクを知らなかったんですよ。僕が日本で作った作品を持って、画廊に行ったんですよ。で、番頭、ディレクター、プレジデントと順に三人の人が見たのかな。見て、OKだったんですよ。帰ってその話をインストラクターにしたら、びっくりしてました。何か「しまった」という顔してるんですよ(笑)。

池上:意外とやるなあと(笑)。

富井:競争相手になってしまうんじゃないかと。

野田:言葉もろくにしゃべれないのが。で、僕もちゃんとできなかったんで、イタリア人の友達がいたんですよ。彼に段取り教えて、彼が間に立って通訳みたいに、やってもらってそういうのをしてもらったんですよ。

池上:作品を見せて、ちょくちょく売れるように。

野田:うん、ですからそれからは、とにかく飛び込み。めぼしい画廊に作品持って行って、断られたこと一度もなかった。

池上:すごいですね。

富井:それは日本で作ったやつも、こちらで作ったのも両方どんどん見せていったということですね。

野田:そうです。最初はまだ日本から来て二、三ヶ月ぐらいかな。そういう抽象の作品を見せて、だいたいみんな受けてくれた。

池上:それで仕事を辞められたということは、それでなんとか生活出来たんですか。

野田:それはまだ初期の話。その頃アルバイトしてたんですよ。結局アメリカに来たにも関わらず日本の作品でやってるわけでしょ。アメリカの作品じゃないんですよ。それが僕にとって一番良くなかったことですよ。だからアメリカの中で作った仕事で画廊に入っていかないとだめだということ。

池上:そうですね。

野田:だから今まで日本でやってた作品の作り方とか系譜で、入るべきものではないと。アメリカでしかできないアイデアとか何かでアメリカの中に入っていかないと続かないでしょ。それが僕の中にものすごいありましたね。だから新しい技法っていうかな、違う技法の版画を作ろうとしていた、ってのはありましたね。

富井:じゃあそれが、半年と期限を自分で決めて何も他のことはしないで、作品だけ作っていこうと思われた時の姿勢にということなるわけですか。

野田:そうです。ですから、一番基本的に技術ですよね。材料ね。昔はオペーク(不透明)の色を使って非常にメリハリのあるハードエッジのピシッとしたやつをやってたのね。で、アメリカに来て、ハレーションのある、そういうストロングのやつってかえってインパクトないのが分かったのね、基本的に。色が飛び出て強すぎると拒否反応起こすんですよ。だからむしろ、向こうに下がっていく奥行の方がこの空間の中では存在感があって重要になると分かってきて、色をどんどん抑えるようになってきた。で、色が変わるんですよ。色を透明にしたの。透明色を何層も刷って、空間作りをするようにして、作品がそれで変わって行ったんですよ。その間にコンペ出して、ボストンのコンペが当時一番良かったんですけど、そこに出して買い上げ賞をもらって、ボストン版画協会から僕の作品を買った画廊のリストを貰ったんですよ。11軒あったのね。そこに全部スライド送りつけて。「こういうものやってるからどうだ」って言ったら全部OKで、全部の画廊が扱ってくれる。

富井:それはニューヨークだけじゃなくて、全米各地で11軒ということですか。

野田:いえいえ、ボストンのエリアだけ。シカゴはシカゴであったんですよ。

富井:ああ、なるほど。

野田:ですから一番多い時で、画廊45軒あったの。

池上:すごいですねえ。

富井:あ、じゃあボストンだけで11軒だったんですか、それは。

野田:そうです。ニューヨークは3、4軒ありましたから。後はシカゴとか、ワシントンとか、そういうところ。

富井:じゃあそういうのも全部、コンペとか出て、注目集めて。

野田:あとはコンペで見て、向こうから電話を掛けてきたりする。結構多いんですよ、当時ね。フリーのディーラーとかいて、扱わしてくれ、とか。

池上:彼らも良いアーティストを探してるわけですもんね。

野田:そういうことです。ニューヨークはナイアック(Nyack)とか、郊外でも展覧会何回もやってますし、あちこちから電話かかってきてるんですよ、当時は。

富井:その時作られてた版画の大きさとか、だいたいどれぐらいのものになりますか。

野田:えーっと、後ろの左端にあるのが、変わる前の最初期のやつです。ハードエッジから透明になったやつ。あれが1978年か、9年ぐらいの仕事ですよね。

富井:じゃあ、割と大きい。

野田:そのあとから僕の版画はどんどん大きくなっていくんですよね。大きいのは1メートル20センチか30センチぐらい。

富井:それはどうして大きくなっていくんですか。

野田:やっぱり作家だからでしょう。

富井:ああ、そうですか(笑)。

野田:作家ってのは勝負したいってのがあるから。チャレンジですよね、大きさに対する。

富井:でも大きくなると、版画の設備がいろいろ大変になりませんか。

野田:そうです。ですけど、大きくなるけどビッシリ仕事しようと。大きいけど、非常にきちんとした仕事してましたんでね。刷る回数はやたらと多くなるんですけどね。

富井:何回ぐらい刷るんですか。

野田:(背後の作品を指さして)これで140回ぐらい。

富井:140回(笑)。

池上:すごい。

野田:同じ色ってないんですよね。これ、トランスぺアレント(透明)・インクと、油絵具なんですよ。

富井:あ、そうなんですか。

野田:シルクのインクっていうのは、ものすごい鮮やかなんですよね。そうでなくて、油絵具をトランペアレントに混ぜて使ってるんで、こういう種類になるんです。こういう薄いところは、白の上に透明色かけてる。見えないところに色がいっぱい入ってるんですよ。

富井:カタログで拝見してても、もうひとつよく分からなかったんですけど、こうやって見せていただくと……。

池上:綺麗ですよね。

野田:やっぱり実物見ないとね、作品て分かりませんから。

富井:さっきおっしゃっていた奥行きっていうのがすごくわかりますね。

野田:最初からずっとそうなんですよ。色と空間に対する願望がすごくありましたから。

池上:じゃあ、こちらではまず版画で認められた。

野田:そうですよね。日本でも最初はペインティングだけども、そこから後はずっと版画家のキャリアですから。もちろんペインティングも描いてはいましたけども、版画で足りたっていうかな。表現の重厚さから何からね。版画の回数は日本にいるときでも3、40回刷ってたんですよ。みんなが2、3回のところをね。全部ぼかしを使ってましたし、そういう意味ではペインティングでこういうもの描けないだろうなっていうんで、版画やってたところありますよね。

富井:なるほど。

池上:それが版画と絵画の違いですか。

野田:当時はね。アメリカに来てその考え方が逆転しましたけどね。

池上:逆転というと、どういうふうに。

野田:要するにね、版画のクオリティ云々とかいうことと別に、カテゴライズではっきりと段差が決まってるんですよ、アメリカは。

池上:ああ、ヒエラルキーがはっきりしているということですね。

富井:絵画の方が上ということですか。

野田:うん、これは日本人はわからない。良いものは良いっていう感覚でみんな見てるから。

池上:日本では版画が人気ですしね。

野田:そうです。版画はコンパクトで家庭の中に入りやすいし、値段も安いから持ちやすい。ただ、本当に勝負する媒体というか、相手ね、お金持ちとかもっと力のある人たちとのコネクションっていうのは、なかなか手に入らないけど、入ったらものすごい力持てるわけですよ。それはやっぱり彫刻であり絵なのね。すごくリスキーな世界なんですよ、逆に言っちゃえば。

池上:ですよね。

野田:版画っていうのは散弾銃みたいなもんで、バァーンとね。

池上:数撃ちゃ当る、ということですか(笑)。

野田:そうそう、そういうこと。だから画廊がたくさんあったんです、その時。

富井:ああ、なるほど。

野田:だからそういう考え方だったけど、アメリカの社会は違うってことは分かってきた。一番思い知らされたのは、ニューヨーク近代美術館の誰だっけな、キュレーター。

池上:(ウィリアム・)リーバーマン(William Lieberman)ですか。版画部門の。

野田:いや、女性。

富井:ドロシー・ミラー(Dorothy Miller)?

野田:いえ、リヴァ・キャッスルマン(Riva Castleman)かな、1980年代なんですけどね。

池上:そうか、じゃあ年代が違いますね。

野田:80年代に彼女は、版画家の作品は展示しないって宣言したの。重要な作家の版画だけを展示するって言ったの。ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とかそっちですよ。

富井:ああ、なるほど。

野田:ブルーチップス(注:「優良株」から転じて「有名作家」の意)も。ケネス・タイラー(Kenneth Tyler)ってね、版画の工房あったでしょ。あそこでもフランク・ステラ(Frank Stella)とか著名な作家の版画を作って。僕ら版画家がどう逆立ちしてもね、越えることはできないんですよ。そういう社会ができて、そういうもんだってことが見えちゃった。勝負のしようがないっていうのはアメリカの中で感じたんですよ。じゃあ転換してそっちにパッとなっちゃえるかというと、そうではなくて、ただ版画に対するコンプレックスって言うと正しいかどうか分かりませんけど、「このままじゃだめだ」っていうのはずっとありましたね。今つきあってるギリシャのディーラー(タキス・エフスタフュTakis Efstathiou)も版画は扱わなかったですからね。

池上:ああ、そうですか

野田:僕がやってる版画は「良い」って言ってたけれども、勝負するものではないって、そういう感じだった。

富井:良いというアプリシエーションはあっても、セールスにも商売にも繋がらないよということですか。

野田:うん、やっぱり彼の付き合ってるコレクターっていうのはものすごい大金持ちばっかりだったから、著名な作家を扱ってる中で僕の作品が良いって言っても、そういう人たちに対して「正明はこんなにすごいんだよ、買え買え」っていうような、そういう気持ちは持っていないって言いました。

池上:まず版画を勧めるわけにはいかないという。

野田:版画はつまり付録。なんかの付録。安いってこともありますよ。

富井:彫刻のついでに版画も作ってますみたいな感じですよね(笑)。

野田:版画は安いでしょ。高くて1,000ドルか2,000ドルぐらいですよ。そういうのをペインティング買ったから付けてやるとか。それは作家にとっては侮辱みたいなもんですけど。残念ながらそういうもんなのよね(笑)。そういうのは日本の中じゃ分からないですよ。

池上:そうですね。そこまではっきり分かれてないですよね。

野田:僕がこういうことをしゃべると、日本の中ではものすごい批判的に聞こえるかも分からないんですよ。ただアメリカに来てね、格差っていうか、市場とか付き合う人とか、そういうものがはっきり分かれているっていうことを……。

池上:現実にあるわけですよね。

野田:死活問題ですから、これは。ですから、ステージが違うっていうのかな、会う人の。

池上:でもその一方で、1960年代から1970年代にかけて、プリント・ルネサンスと呼ばれる、版画が非常に見直される動きっていうのがアメリカでもあったと思うんですが。

野田:その通り。

池上:それについてはどういうふうに思われてますか。

野田:僕もそういう時代に来て版画やってた人間ですから。アメリカもそういう時代があって、アメリカのあちこちでインターナショナル・コンペがあったんですよ。ブルックリン美術館でもね。だから良い時代。多分そういうものがずっと続いていれば、もっと変わってたと思う。あれもなくなりこれもなくなり、メディアもなくなりね、版画に対して。やっぱりそういう版画を後押しするものがアメリカの中でなくなってきたっていうのは、版画が孤立無援になって、画廊もブルーチップスの版画売るようになって、一点が1万ドル単位の著名作家の版画扱うでしょ、千ドル単位の版画家の作品なんか扱わないわけですよ。だから版画家にとっての市場そのものも消滅していったし、やりがいのない世界っていうかな。

池上:じゃあプリント・ルネサンスが結局一過性の現象で終わってしまったということが。

野田:アメリカは多分そうだと思いますよ。版画がそれでクオリティ落ちたとは決して思わないけど、ファイン・アート主導型の考えというか、そういうものは常にアメリカの中にあったんじゃないですかね。アメリカはパワーを世界に示すために何が一番パワフルかってことをいつもこの国は考えながらやって来たんじゃないですか。

池上:そうですね、はい。

野田:モノ動かして、世の中動かして、政治を動かして、価値観動かして、っていうことになった場合には、やっぱり版画だけじゃないっていうかな。

池上:より大きい文化の考え方にも繋がってるっていうことですよね。

野田:と思いますよね。僕ら一生懸命アートの歴史を勉強して、(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)とかいろんな勉強して、デュシャンの無限のコンセプトも学んだけども、これを版画に応用したってどうにもならなかったわけですよ、あの世界で。荒川修作も素晴らしい版画を作ってたけど、でもやっぱりペインタ―だし、彫刻家でありまた別の環境を作ったりしてた人だから。だから全部の枠を超えた人にとってそれは意味のあることであって、一つのメディアにこだわってる人間にとっては、なんかそれでおしまいというかね。その限界はアメリカの中で何回も経験させられて。ギリシャへ最初に行った時に、向こうの人と会って話をした時も、やっぱり作家として評価されるけど、ギリシャのディーラーも紹介しにくいっていうか。「正明は素晴らしい」っていうけども、僕は細かくてすごい緻密な仕事してる。だからパッと見て彼らが「わからない」と。そういうデリカシーの世界を彼らあんまり知らないから。だからパワーのある何かっていうかな……。

池上:うーん、まあ絵画の方がバーンと押しだしが良いという……。

野田:絵画であり彫刻であり。ギリシャは彫刻ですね、圧倒的に。絵画とかだけでなく。

富井:彫刻の方にも、そういう版画で追及しておられたような空間性なんかがずいぶん、動いてったようにお見受けしたんですけれど。

野田:ありますよね、はい。すべてはそっちに繋がってますよね。やっぱり版画作るときに絵画的に版画作ろうと思ってたんで、ああいう版画になったんですよ。版画だったらピシッとしたね、平面的なものとかで処理しますけども、僕は絵画的な版画作ろうと思ってたんで手間がかかって、こういうことになっちゃったっていうんですかね。

富井:ペインティングより手間がかかってしまうわけですよね。

野田:ですね。やっぱりね、止めたっていうかやらなくなったのはフューム(fume、におい)のせいなのね。

富井:あ、においですか。化学塗料ですね。

野田:シンナー使いますから。百回刷ると三ヶ月かかりっきりでしょ。その上からヒューム吸いますから、体力がだんだんおかしくなるんだよね。こういう染色業とか、揮発性のもの使ってる人間は、何十年やってるうちに腎臓病になったり肝臓病になるんだね。必ず癌になるんですよ。そういうのも分かってくるじゃないですか。体力がどんどん衰えてくるのが分かるし、一生懸命仕事したら次の日仕事できないんですよ。頭痛がするのね。

池上:ああそうですか。もう薬品が……。

野田:それ吸ってるから。若い時は浄化作用があるから平気でやってるわけですよ。版画刷った下で寝ててもね、次の日目腫らして起きて仕事してたりとかやってんだけども(笑)。

池上:そうですか。今ちょっと荒川修作さんのお話が出ましたけども、日本人の作家の方とはお付き合いされてましたか。

野田:うーん、佐藤正明って人ね。

富井:オーケー・ハリス(OK Harris Gallery)でやってるリアリズムの方ですね。

野田:ですね。ニュース・スタンドの作品やってる。彼が一番親しいかな。荒川修作とは何度も会ってるんですよね。僕の友達が荒川修作のアシスタントを当時やってたんで。

富井:大浦(信行)さん。

野田:大浦君。良くご存じですね。今は映画監督でね、面白いのを作ってますよね。

富井:日本でもいろいろ、戦争とか社会的な……。

野田:非常に前衛的というか。うん。彼とはものすごく親しくてね。彼から荒川修作の話を聴いたりしたし、荒川さんのところに何回も話を聞きに行ったことあるし。

富井:ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)さんもお親しかったんですよね。

野田:ああ、そうそう。ナム・ジュン・パイクとはね、一番仲良かった。亡くなる前まで。僕がアメリカに来た2 年後ぐらいに、彼が僕のところに来たんですよ。まだチャイナタウンのバウリー(Bowery)に住んでる頃にね。版画を作りたいって、日本の岡部徳三さん、版画の刷り師の人に紹介されて。岡部さんは靉嘔とかを刷ってる人ですよね。あの人が彼の版画を作ってたんだけど、ニューヨークでそう人いないかってんで、岡部さんに紹介されて僕のところに来たんですよ。

富井:あ、岡部さんがご紹介になったんですか。

野田:そうです。で、ナム・ジュン・パイクが僕のところに来て版画やってくれって。仕事を始めたのはホイットニー(Whitney Museum of American Art)での彼の回顧展からですかね。それからずっと長い付き合いで、彼の版画はもう僕がほとんど刷ってましたから。

富井:じゃあ刷り師ということになるわけですか。

野田:彼にだけね。僕は人の刷りをやる気はなかったんですけど、やっぱタイプが全然違ってたしね。なんか面白いんですよ、話しててね。

富井:じゃあ、どういうコラボレーションになるわけですか。

野田:いやもう、「野田さんこれ」って僕に原稿渡すわけね。「好きにやって」って(笑)。

富井:原稿っていうか、ドロ-イングみたいなものですか。

野田:ええ、ドローイングですよね。で、「好きにやって」って。「パイクさん、こんなん出来ました。どうですか」って言ったら、「ああ、良いですね」ってそういう感じですよ。それに対してああだこうだっていうのはほとんどなかったですよね。やりたいようにやらせてもらいましたよ。

池上:任せてもらって。

野田:完全に。

富井:じゃあ原稿っていうのは、やっぱりドローイングとかコラージュとか、そういうもので来るわけですか。

野田:そうですよね。あとテレビとかね、そのまんまのやつとか。

富井:あ、なるほど(笑)。

野田:それを写真製版でやったりとか。結構数作ってますよ。だから作品いっぱい持ってます。ナム・ジュン・パイクだけで展覧会できるんじゃないか(笑)。

池上:ちょっと後で拝見したいです。

野田:途中ね、やっぱりお礼にって作品くれたりしてるんですよ。キャンバスのやつも作ったりとかね。

池上:パイクは人としてはどういう人でしたか。

野田:僕は素晴らしい人だと思いますよ。彼からは人としての生き方を学んだかな。

池上:どういう生き方でしたか、パイクは。

野田:落差がないの、人との。あんな偉い人でも、温度差がないですよ、全く。どこでどういう人と会っても。

池上:誰に対しても同じ態度で接するということですか。

野田:どんな状態でもいつも一緒だし。だからああいう、いつも普通でいられるっていう生き方は素晴らしいと思うし、それでやっぱりああいう作品を作れたって言うんですかね。でも、僕と話する時はいつも経済的な話ばっかりするんですよ。それが面白い。

富井:経済的って世界の経済情勢的なことじゃなくて。

野田:自分のファイナンシャル。

富井:自分の、はい(笑)。

野田:「僕はもう生活できそうにないから、お兄さんにお金借りてアパート買ってね、リタイアしようと思うんだ」とかね(笑)。この企画やるのにこんだけお金いるからどうやって集めようとかそういうことですよ。

池上:野田さんは相談に乗ってあげたんですか。

野田:いや、彼はしゃべってるだけなの。

池上:聞いてあげてるだけ。

野田:そうそう、僕が何か出来るわけじゃないから。彼はただしゃべってるんだけど、それが非常に僕には役に立ちましたよね。やっぱりお金なくてもああいう仕事やってきたから、彼は。一番最初の大きなプロジェクトは『グッドモーニング・ミスターオーウェル』の、サテライトシリーズなんですよ、1984年のね(注:Good Morning Mr. Orwell、ニューヨークとパリを衛星生中継で結んだ番組。タイトルはジョージ・オーウェルの小説『1984年』にちなんでいる)。あの時に世界ネットワークで中継やったのかな、アメリカとフランスとかあちこちとね。マース・カニングハム(Merce Cunningham)とかサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)とかいろんな人たちを出演させたわけですよ。ジョン・ケージ(John Cage)もそうですけど。お金一銭もないんですよ。で、僕に版画を作らせたんですよ、その時に。

池上:それを売って……。

野田:ナム・ジュン・パイクの版画とヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)の版画と、それからマース・カニングハム、ジョン・ケージ、アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg)。この五人ですよね。それのセット作ったの。一枚1ドル。

池上:一枚1ドル?

野田:刷り代。

池上:ああ(笑)!

野田:うん。それを彼はお金ないんで、皆に渡すわけです。出演料の代わりに。そういうことやってたの。

池上:それを売って資金にするのではなくて、出演料の代わりという。

野田:断れないよね。そういうことなの。それを可能にしたのは彼のカリスマですよね。だから、やってないことやったわけですよ。皆がビデオやってる時代に、宇宙中継したわけですから。彼あの時にね、「僕は死んでもこれやる」って言ってましたね。

池上:そうですか。

野田:うん、だから壮大な計画なんですよ。あれには段取りがあって、ホイットニーで個展やることがまず目標だったわけね。カリスマって言うのを徐々に作り上げて、84年ですか、やったのは。僕が版画刷ったのは83年ですから。だからその時に家に皆来ましたからね。ジョン・ケージからカニングハムから。ここで作業やったんですよ。

池上:ああ、そうですか。

野田:ギンズバーグも皆来たの。僕はどんな偉い人かってよく分かってませんでしたけど(笑)。彼がひょいひょい連れてくるから分からないわけですよね。

富井:お友達みたいな感じで(笑)。

野田:うん。でも東洋人でそういうアメリカのトップクラスを、ああいうふうに仲間に引き込んでやってる彼の力、魅力って言うかな。ものをどうやって動かすかってのは、彼を見てて思いましたよね。できないことをどうやって可能にするか。だから全てのプロジェクトが全部マンツーマンなのね。彼一人でやってるんですよ。間に仲介者いないんですよね。

池上:人をそれで魅力で引き込んで、動いてもらうという。

野田:彼は35歳まで親からお金の援助受けて、それまで作品だけ作ってた。

池上:あ、そうだったんですか。

野田:そういう言い方してました。そういうこと全部話してくれたんで(笑)。

池上:それは参考になりますね。

野田:だから、彼は超前衛でしょ。

富井:そうですね。

野田:超前衛ですから売れないのは分かってるわけですよ。だから名を先に作るか、売れるのが先かどっちかっていう。彼は名の方を先に取ったのね。

富井:なるほど。

野田:まず有名になって次から売ろうと。僕と版画始めたのもテレビ売れないし、ビデオも売れないから絵とか版画やり始めたの。彼がビデオやったのは絵が描けないからビデオやった。「僕は絵が下手だからね」って。

池上:そうですか(笑)。

野田:だから誰もやってないビデオやったら一番になれると思ったって言うのね。貧乏な国から来たね、コリアンでしょ。韓国から来た貧乏な作家が最新衛の道具使って、最新衛のことやってるのは珍しがられるからだって言ったんですよ。だから戦略的には正解だったのね(笑)。

富井:非常に戦略的ですね。

池上:賢いですね。

野田:うん。僕はそういう話聞いてたんでね、なんでしょう、ものの組み立て方って言うんですか。やり方ってあると思うんですよね。彼にいろんなこと教えてもらいましたよね、そういった意味では。

富井:そうやって作家と、インタヴューじゃないですけど直に話を聞きながらやって、いろいろ学んでいくって言うのは、その後、中国新聞で連載なさったときの雰囲気にもちょっと似てるような気がするんですけど。

野田:それはあります。パイクさんとは普通にフランクに付き合ってたけども、新聞になって対面したらこっちが訊く立場でしょ。これまた自分の疑問ぶつけましたから。僕にとって一番足りなかったのはアートって何かって言うことなんですよね。アートの本質って何かよく分からなかったの。だから作家たちが何を考えてるか知りたかったんですよね。いろんなカタログとか文献読むんですが、分からないんですよね、これが。

富井:まあ、なかなか私たちだって分からないですから(笑)。

野田:難しい書き方してて、頭の中に入ってこないわけですよ。やっぱり著名な作家に会うと怖気づくしね。でもダメモトなんで、声かけて見ようって、徐々にかけていって。

富井:あの中国新聞の連載はどういう形で始まったんですか。

野田:もともとは何書いてもいいですよって言われたんですよ。

富井:じゃあ、地元の新聞社の方とのお付き合いで。

野田:そうです。今は社長になってる川本(一之)さんていう人なんですけど、その方がニューヨークの支社におられて、日本帰られてね。野田さん、ニューヨークの事なんか書きませんかって話になって、「いや、僕は文章書きじゃありませんから」って一回断ったの。そしたら彼が「野田さん、あなたそういう年ですよ」って言われたのね。要するに学ぶばっかりじゃなくて、人にも与えなさいってことだと僕は受け取ったんですよ。それでやる気になって、何やってもいいっていうので最初は自分の身の回りのことを書いてた。

富井:自分の知ってる作家の事とかを書いてたんですね。

野田:うん、作家とかいろんなことね。そしたら悲惨な話ばっかりになるんですよ(笑)。面白いけど暗いんですよ。大半の人が先がないのね、行き詰まりばっかりでしょ。それで方向転換したの。

富井:じゃあもう少し作家のランクを上げるわけですね。

野田:そうです。最初は友達でもかなり上の方の人をやったけど、次からはもう、完全に指名にしたんですよ。もうトップで先頭走ってる人達をやった。

富井:なるほど。

野田:ブライアン・ハント(Bryan Hunt)なんかでもそうですけど、当時ものすごいバリバリやってた人で、ハントに会いたいってんでハントに会ってインタヴュー。最初はデビッド・サーレ(David Salle)にやったのかな。

富井:あ、じゃあサーレさんも。

野田:うん。ハントのパーティーで会ったんですよ。ハントのパーティーでデビッド・サーレがいたんで、「インタヴューしたいんだけど」って言ったら「いいよ」って言ったんでそれが始まり。

富井:記事を書いてるからインタヴューさせてくれって言うのは、割と良いアプローチになるわけですね。

野田:ですけど、ハントのパーティだったから成功したんで。サーレをやったことによって次が出来たのは、やっぱり彼らは訊くわけですよ、僕がどういうインタヴュアーか。どのレヴェルか気になるから、必ず誰をインタヴューしたのか訊くんですよ。そこにちゃんとした名前が連綿とあると、OKなのね。だから後半は断られたことないんですよ。

富井:あ、なるほど。

池上:彼らがやってるんだったら僕もっていう。

野田:そういうことです。

富井:そうですか。後半になると、(ルーカス・)サマラス(Lucas Samaras)とか錚々たる名前が出てきましたので。

野田:もう指名で全部やってますから。だから僕の知りたい人に会いに行ったんですよね。興味のある人に、いったい何考えてるんだっていうか、どういうところで何をやってるんだっていうのをね、評論家が書いたものじゃなくて、それを知りたかった。サマラスなんかものすごい難しかった。なかなか会える人じゃなかったですから。

富井:そうなんですか。

野田:ものすごいプライヴェートな人で、自分の展覧会のオープニングにも来ませんしね。人の前に顔出さない人なんですよ。

富井:でも、行かれた時はビデオも撮ってということで、さっき仰ってましたよね。

野田:そうです。たぶん貴重な資料だと思うんですよね。(ロイ・)リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein) とかもう亡くなってますしね。資料に絵にする前の漫画とかそこら辺にバラバラに置いてあるわけですよ。そんなん一生懸命撮ってきて(笑)。

池上:それはすごく良い資料ですよね。

富井:じゃあいろいろ撮りながら話聞いたりしてたわけですか。

野田:そうです。だから僕が知りたいこと話してるんです。だからあそこに書いてるのは新聞用ですけど、実際もっと私事で面白いのがいっぱいありますね。

富井:なるほど。

野田:作家ってどういうもんかってことを知りたかった。ああいうすごい人たちはどうしてすごいかっていうことも知りたかったですしね。

池上:それは分かりましたか、なぜ彼らがすごいのか。

野田:ああいうのは協同作業なんだね、ほとんどね。作家ももちろんすごいけども、画廊があり美術館があり、評論家がいて作り上げたものでしょ。

池上:そうですね。アシスタントもいて。

野田:評論家は作家の代弁者だから、通訳みたいなもんですよね。ヴィジュアルな物を言葉にする人たち、専門家。だからそういうチームで成り立っているっていうか。そういう場を持てた人はそういう世界にいけるし、持てなかった人はそのまんま、立ち上がれないってうか。そういうのは分かったけど、じゃあ自分はどうするかっていうのは、またこれ別ですけどね(笑)。そういうインタヴューしてる最中にルーカス・サマラスの展覧会(「ルーカス・サマラス セルフ1961-1991」、1991年)を企画したりとかね。ペース・ギャラリー(Pace Gallery)と一緒に組んで横浜美術館と広島現代美術館でルーカス・サマラス展をやったんですよね。ブライアン・ハント展もやったし。ルイザ・チェイス(Louisa Chase)展もやったし。

池上:それ、企画に関わっておられたんですか。

野田:僕がやってたんですよ。最初はね、浜口陽三やろうとしたの、

富井:うーん、それはなかなか難しそうですけど(笑)。

野田:浜口陽三を扱ってたのはヴォーパル・ギャラリー(Vorpal Gallery)。あそこは難しい画廊でね、一年ぐらい交渉して、最後にやる土壇場になってキャンセルされましたから。次にサマラス展が始まって、やっぱりこれも一年以上ペース・ギャラリーと交渉しながらやってたの。絵描きと関係ないんだけれど、ああいう人たちと交渉したり話してるうちに裏方が分かってきたんですよね。もののシステムって言うんですか、組立てが、「How to make an artist」っていうかね(笑)。からくりって言うか、システムが分かってきた。まあこういうもんかっていう一部ですけども、そういうのは見えたかな。あのバブルの時にいろんなことやらしてもらいましたから。あちこち飛んで回って、勉強になりましたね。

富井:でもそういうことができたっていうのはやっぱり、子供の時に問屋回りに連れていかれたからでしょう。それは関係ないですか。

野田:分からないことは訊けということですよね。それはありますよね。だから体験しなきゃ何も始まらないっていうのはありましたから。人の知識は自分の知識じゃないからね。自分で体験しないと身につかないっていうのありましたんで。まず動いてみようということですよね。

池上:で、このインタヴューの新聞連載を始める前に、絵画や彫刻の比重が増えて。

野田:1992年ですから、そうですね。

池上:1980年代に既に絵画や彫刻にちょっと方向をシフトされてたと思うんですが。

野田:もともとそっちなんですよ、僕は。最初はペインティングですからね。だからまあ、言っちゃえばもとに戻っただけの話で、工作はもともと好きだったし。立体をやり始めて分かったことは、絵って平面でしょ。平面をいかに三次元に見せるか、っていうハウトゥーですよね。で、立体は実際後ろも見えちゃうわけね。だから全体バランスをどうやっていいのか分からなかったのね。これは難しかったですね。彫刻は大変だって分かりましたから。

池上:絵画に戻られるっていうのは分かるんですが、彫刻をやってみようと思われたのは。

野田:僕の絵自体が空間的な絵でしょ。だから、もう絵の中で絵は作れなくなっちゃったの。だから絵を描くために彫刻を作る。彫刻を作って絵にしようとしてたの、最初の頃は。

富井:はあ、なるほど。

池上:絵画制作の一環みたいな感じだったんですか。

野田:そうそう。アイデア作りのために彫刻やったの。絵がどんどん複雑になっていったんで、もう頭では考えられなくなっちゃって……。

富井:なるほど!

池上:じゃあそれを最初は独立した作品というふうには見ていらっしゃらなかったんですね。

野田:もう一緒、一体。

池上:もう習作みたいな。

野田:そうそう。ですからもうそっくりですよ。初期の頃は、彫刻と絵が。

池上:平面と立体がね、こうしているように。

富井:私はまた逆だと思って、空間的な絵を彫刻にしたのかなって。じゃあ逆ですね。

野田:非常にフィジカル。考え方もやり方も。ですから工場行ってね、最初は紙で作るでしょ。紙で作るとやっぱり紙なんですよ、所詮ね。オフィシャルじゃないから。

富井:こちらに置いてあるのは全部紙ですね。

野田:これは今原型ですから紙ですけれど、ここから金属にもっていくわけですよ。工場へ行って。ですから京都の工場へ持って行って、絵で売れた金を全部そっちにつぎ込んじゃうの。そこでやったことないから、最初は紙のモデルを渡して作ってくれって、職人さんに作らせたの。そしたら日本は湿気てるからね、紙もしおれてるわけね。職人さんはそれ見てね、このまま作ってるわけですよ。

池上:あはは、おかしい(笑)。

野田:「あ、これはいかんな」と思って。それから工場へ行くようになって一緒にやるようになったの。職人さんと二人で、マンツーマンで。

池上:なぜ日本の京都の工場じゃないといけないんですか。

野田:いや、知り合いがいたから。僕は大阪で、京都近かったから。たまたまですけどね。すごい頼みこんで、「やらせて下さい」ってんで、向こうも興味持ってましたから。銀行関係の看板とか作ってるところなんですけどね。やっぱりアートが好きな人だったんですよ、担当の人が。彼が個人的に僕のことをすごい押してくれたんで、彼の独断で仕事を。

池上:ああ、そうですか。

野田:十数年やりました。右も左も分かんないところでね。

富井:じゃあお互い右も左も分からなかったわけですね。

野田:全く。まず材料を何にするかっていうところからありましたよね。最初銅で柔らかいからやってたけど、銅だとやっぱりなんか安っぽい感じだったんで、、それからコールテン鋼かな、その後ステンレスになって。その頃ステンレスのヘアライン(注:細かく筋のはいった模様のこと)ですよ。今みたいに鏡面じゃなくてね。尖ったようなね。絵がこういう空間的なヒュッヒュッっとなってるやつなんで、それを作ってるわけですよ。そしたら「危ない危ない」っていうわけね、親父がね。「こんな危険なもの作るな」って(笑)。

富井:それもありますね。

野田:うん。ポインティだからね、ああいうの嫌いな先端恐怖症の人もいるわけでしょ。でもどうしようもないわけですよ、自分としては。それ以上のアイデアないですから。もうそれをいつか通り越さなきゃいけないんで、ただひたすら作って、発表する気はなかったから、それはものすごい気軽にやれたの。何やってもいいって思ってましたから。彫刻を作ってる意識があんまりなかった。だからこそ自由だったのかもしれません。

富井:そうですね。だってモニュメントとかになるとパブリック・スカルプチャーだから、やはり危ないとか。

野田:そう、あと天災ね。(天災に)対応できるかって。だから公共彫刻はみんな塊が多いでしょ。地震に対応できて頑丈な物とか。僕の最初の彫刻(《飛翔Ⅱ 時空を超えて》、2000年)作る時、平面の板がこうなってたんで、ものすごい問題になったんですよね。

池上:耐久性が大丈夫なのかどうか。

野田:対応規定で。これ保つのかどうなのかと。ないから、前例が。でもまあ、上の町長さんと一緒だったんで彼のトップダウンで作っちゃったの。今もビクともしてないんで、あれが基本になって、全部今何も言われなくなったのね(笑)。

富井:まあ、一つ作って大丈夫であればね。

野田:そういうことです。だから僕ね、パブリックワークやってそれが分かったんですよ。キャリアがないと何も始まらない。どんなすごい作家であっても、現物がなければ一般の人は関係ないんですよね。

池上:そうですね。最初のはどこに設置されたんですか。

野田:宇治駅。これは彫刻じゃなくてステンドグラス(《飛翔》(去来、流転、天空昇)、1997年)ですね。これが最初で、パブリックアートの始まり。初めてアーティストと関係ない人達、職人とかそういう鉄道関係の官僚ですとか、そういう人たちと調整して話し合いでやった。

富井:JRの宇治ですよね。

野田:あれは京阪電鉄で私線です。京阪は京都と大阪しかない、一本なんですよね。それの終点です、宇治駅は。

池上:じゃあ、自分としては特に作品と意識せずに作った彫刻が、作品として実際に周りから評価されるようになったっていうのは。

野田:これはもう自分でも表に出しましたから。

池上:それはどの辺りからですか。

野田:1999年にね、ニューヨークで初めて絵と彫刻の展覧会(70th Art Gallery、1999年)やったんですよ。で、やっぱりパイクさんと話してて、戦略としての見せ方の重要さを僕は知ってたんでね。僕はペインターっていうか、版画家で絵を描いてたけども、彫刻家は彫刻家で一生懸命やってる人いるわけでしょ。そこへ持ってきて絵描きが彫刻やり出したら彼らに対してものすごい嫌みっていうかな。

池上:テリトリーっていうのがありますもんね。

野田:そうそう。それも分かってたんでね。だから出すときは完璧なものっていうのがありましたから。それを発表する前に、僕はメトロポリタン美術館の学芸員だった(ロバート・スティーヴン・)ビアンキさん(Robert Steven Bianchi)とずっとやってましたんで、彼に論文書いてもらって、ちゃんと立証して。もうあの頃は、彫刻がちゃんと彫刻になってたのね。だから、展覧会も絵と彫刻と両方やったんですよ。で、オープニングの前に彫刻家が真っ先に来たのね、やっぱり(笑)。

池上:ああ、やっぱり気になるんですね。やっぱりテリトリーですね(笑)

野田:ぱっと来てね、これを見るわけですよ。ばっと見て、何か言おうとしたんだろうね。で何も言わずに帰ったの。

池上:ああ、じゃあそれは、もう文句言わせないだけのクオリティーが。

野田:そうそう。やっぱりその前15年以上ありましたから。発表する前が。

池上:そうですよね。転向されたのが1982年だから。

野田:はい。それは彫刻で自立できるなんて思ってませんでしたからね。そんなもんじゃあないって思ってたし。

池上:実際、この個展の評判が良くて。

野田:良かったですよ。作品も結構売れましたし、彫刻も売れたし。それからその次の年かな、日本で大きな彫刻と絵の展覧会をやりましたんで。そういうことがきっかけでモニュメントの話が来たんですよね。「野田さん彫刻やってるね」って言って。大きなのは見たことないわけですよ、皆。見たことないけども、彫刻はやってるのは分かったんで、「じゃあ」っていうことで。僕にとっても実験だったんですよ。

池上:じゃあ彫刻家としてこういうふうに大きい仕事されていくっていうのは、遅咲きというと言い方が失礼かもしれませんが……。

野田:まあ彫刻家としてはそうですよね。プランにはないものを始めたっていうことで。彫刻作るうちに、大きいものを作りたいという願望はありましたからね。パブリックなもの、大きなものを作りたいって。だから彫刻作る前に宇治駅でやったことはものすごい勉強になった。あの、調整とかハウトゥーの難しさ、ないものをどう作るかっていう段取りの難しさですか。説得する力。だからこれはたくさん作らないけないっていうのは僕の中にあったんですよ。まず作って置くっていうこと。そっから次がまたあるっていうのを、パブリックアートの中に感じました。だから一発目はものすごいものを作ろうと思ったんですよ。予算は1メートルぐらいの予算なんですよ。それを6メートルにしましたから。

池上:その予算が膨れ上がった分は。

野田:お金ないのにそうやったの。僕が絵を売って出しました。台座も予算なかったのね。で、町長が県に掛け合ってくれて、台座の経費を別に作ってくれた。それ3メートルです。台座が。台座が500万ぐらいかかってんだよね(笑)。

池上:大変ですね(笑)。

野田:だから全部見切り発車なんですよ。彫刻の方もやっぱり1000万円以上かかったんだけれども、予算なんかないわけですよね。それの3分の1もないわけですよ。で、工場の社長さんと話して、社長さんがすごくいい人でね。「先生、やっぱいいもの作りましょうよ」って。そこの工場も彫刻作ったことない工場でね(笑)。

富井:そういうところですか(笑)。

野田:ここもね、だから失敗するんですよ、どんどん。僕も知らないでしょ。

池上:はい。知らないもの同士がやってるから失敗するわけで(笑)。

(一時中断)

野田:あの、インタヴューで作家たちとしてる時ね、最初はインタヴューしてたんですよ。でね、後半になったら作家同士の話として対談になった。最初は隠してたんですよ。自分が作家だっていうのは。

富井:そうなんですか。

野田:僕はインタヴュアーとして、記者としてやってたの。その方がいいと思ってたから。後半から自分を出すようにして、対談形式になっちゃってね。僕の画集見せたりして(笑)。

富井:自分の作品も見せて。

野田:うん、そしたら結構いろんな良いこと言ってくれたんですよ。サマラスなんかも、いろんな批評してくれましたよね。それが面白かったです。

富井:それは気が付きませんでした。私たちは学者だから、作家の人に話聞くのが仕事で、こっちが何してるとかいうのはあんまり意味がないんですけどもね(笑)。

野田:やっぱ作家の立場っていうのかな。作家が作家をインタヴューする形になったんで、そういう意味で結構評判良かったんですよ。美術館の学芸員が「野田さんもっと書いてくれ」って言われたりとかね。学芸員もインタヴューしてくれって言われたんで学芸員もインタヴューしてるわけです。

富井:そう、そこが素晴らしいなと思って。ところで、彫刻の話をしていました。

野田:そうそう。彫刻は好き勝手に作ってました。だからなんでしょう。彫刻だと思って作ってなかったんじゃないですかね。

富井:何だと思って作ってらっしゃったんですか、じゃあ。

野田:何でもやってやろうと思ってたの。だから空中にぶら下げたやつとか壁のやつとか。こうであらねばならないっていうのはなかったです、僕の中に。だからその頃は無責任にやったから自由だったし、そういう中から少しずつ削ぎ落されて、今みたいな形になっていったんですよ。もしきちんとやってたら、普通の彫刻になっちゃったと思うんですよね。
そういう意味で、最初から彫刻をやってた人とは、論点がどこか違うかも分からないですよね。スタート地点ていうかな。

池上:ちょうどその立体で試行錯誤されてる時と、このインタヴューをされてるときと、時期としては重なってると思うんですけども、作家にいろいろ聞いたっていうのが実際に役に立ったこととかがありましたか。

野田:やっぱりそれは、さっきの版画の話でもないですけど、一つのメディアだけじゃないってこと。ものを追求する時に。やっぱトータルメディアでアートを目指すべきだっていう考え方です。荒川修作なんかもそうだったし、僕は版画やってたけど、なぜ版画なんだっていうのが一つありましたよね、疑問が。まあ、生活もあったし、レピュテーションをそこで得たからそれを崩しちゃいけないとか、メディアであの頃カテゴライズされてたんで、そういうものの中で生きるべきだっていうのがあったんですが。そういう中で自分は納得できてるのかっていう疑問も半分ありましたよね。だから自分の人生だから好きにやろうって思ったのね(笑)。

池上:はい(笑)。おっしゃる通りだと思います。

野田:評論家はこうだし、世の中はこうで、社会的にアートの世界はこうだからっていうのじゃなくてね。だってアートの世界ってどんどん価値観変わっていくわけでしょ、世代と共に。ものすごい無責任よね、一生懸命やってる人にとって。でもそれがアートって言われたらお終いだけども(笑)。だから後は自分のやりたいことをやって通用するかどうかだけですよね、社会的に。そこだけだと思ってます。自分は版画から絵やって、まあ新作もいっぱい描いてる。ペインティングもやって、そういう世界でトータルで自分を作り上げるっていうんですか。最初は絵から彫刻になって、彫刻と絵が行ったり来たりしてましたよね。だから関係あったんです。で、そこと全く違う路線で始めようとしたのね。長い間それやって。あそこにちょっと水彩画あるでしょ。あれはもう20年ぐらい前なんですよ。だから考えずにどうやって作品作るかっていうのをやり始めたのね。その前まで非常にシステマチックにきちんと計算して絵を作ってたんですよ。そういうものからもう外れて、無意識じゃなくて、なんかもっとルールのないところでしようとして、あの仕事をずっとやってた。あれはもう何百点も作ってるんですよ。

池上:ああ、そうですか。

野田:カタログはないですけどね、まだ。作品はいっぱいあります。それが面白いのね。あれが今度彫刻にどうなるかって。彫刻的な絵になっちゃってるから、今。

池上:ああ、逆転しているっていうか(笑)。

野田:だから機械的な決まったものの世界と違うものを作ろうということで。ああいう世界から遊びの感覚を入れながらやるっていうんですか。だから、なんでしょうね。本流の彫刻になる前の最初の遊びと同じようなことですか。

富井:そうみたいですね。

野田:うん。まあ無責任にやったから自由になったっていうのはありますよね。最初の10年間ぐらいは何も分かってないですよ。

池上:じゃあ今も、別にご自分を彫刻家であるというふうに決めているわけではなくて、アーティストとしていろんな媒体で仕事をされてるっていう。

野田:と思いますよね。カテゴライズすることは、説明する時に必要ではあるけども、作家自身の内実にとっては、それは一部かなと。僕が会った作家たち、ナム・ジュン・パイクだって、ロボット作ったり、彫刻作ったり、絵描いたり、ビデオやったり、いろんなことやってるでしょ。

富井:パフォーマンスもありますしね。

野田:ねえ。最終的にああなるのかなと思うんですよ。パイクさんも言ってたけど、「野田さん、出るときは最初は一つのメディアで出ないとだめよ」って言われた。

池上:また良いアドバイスを(笑)。

野田:あれこれやったらだめよって言われた。それも正解ですしね。

池上:ですね。何かでパーンと名前を出してから、いろんなことをやって、それだったら受け入れられるということですね。

野田:それはやっぱり一つの戦略かな、出るときの。やみくもに、好き勝手にやってもダメですし。ひとりよがりで通用するもんでもないですから。パイクさん見てても、ネットワークがすごいものね。あの人の周りの人達。ドイツ行ってたでしょ。当時荒川も、河原温も、皆ドイツですよね。

池上:そうですね。

野田:当時の東洋人はアメリカでは出れませんでしたから。ドイツに行って認められて、ヨーロッパ・コンプレックスのアメリカがそれを受け入れたわけですから。

池上:そういう見方もできますね。

野田:いや、全くその通りですよ。ですからああいうふうにして、ドイツから出発してここに来て。パイクさんもずっとドイツで教えてましたから。そういう意味で東洋人にとってのアメリカ・デビューはドイツから始まっている人が多い。

池上:新聞記事の仕事では、アメリカでいろんな方に話を聞かれたわけですけれども、一方で最初にアメリカに来られた時には、大阪の美術界でもちゃんと足場を作っておいて、とおっしゃっていました。結果的にずっとこちらにいることになって、日本の美術界とはどういうふうにコンタクトを持ってましたか。

野田:これはね、日本に帰るために一生懸命自分を作り上げて日本から出てきたって言いましたよね。

池上:はい。

野田:でも結局出てから個展をやってたの、日本で。作品だけ送って。人づてに聞いたんだけど、ある作家が「野田君はアメリカ行ってるのに日本に向いてるね」って言ってるということを聞いたの(笑)。それを聞いたときに、やっぱりこっちでは、日本を捨てて来た人たちがしのぎを削ってるわけですよね。そういう中に僕もいて、そのことも良く分かってたし、言葉でそれを言われたことによってね、「あ、やばいな」と思ったんですよ。

池上:それはその人の言うとおりだと思ったということですか。

野田:うん、思った。日本を捨てなきゃだめだと思った。一端断ち切らなきゃだめだって思ったんで、やっぱり90年ぐらいまで帰らなかったですかね。もうアメリカだけでした。

富井:で、また帰られて。

野田:それからはね、帰るようにしたの。なぜかっていうと、今度は浦島太郎になると思ったから。

池上:そうですね(笑)。

野田:あるでしょ。

富井:じゃあ、帰られた時はまた一から出発になるわけですか。

野田:いや、やっぱりアメリカのキャリアがありましたから。それはやっぱり作品に出てたし、自分のキャリアの中にはっきりしたものがあるし、一目瞭然ですからね。そういった意味では出発点はもう違ってましたんでね。だから出る杭は打たれるっていいますけど、出すぎた杭は打たれないと。

富井:はっはは(笑)。

池上:そういうことですよね。

野田:うん。それはありましたよね。だから中途半端が一番不味いと思ってましたんで。やっぱりあのころのアメリカは強力だったし、80年代はアメリカ主導だったから。だから日本のことはどうでもよいところもあったんですよ。でも、やっぱり長いこと空けると、いつか帰れなくなってしまう。友達も疎遠になって、帰るチャンスを失くしてしまうっていうのはありますよね。それからは一年一回帰るように、今度は自分で義務付けたの。何がなくてもね。

富井:それとやっぱり日本で、宇治のパブリック・アートなんかもあるし、ずっとコンスタントに作っておられるというのは、日本と行き来しているっていうことで。

野田:後から来たものですけどね。それはもう、今度は意識したんですよ。そっちの方に行き始めたのね。最初はただ帰るだけですけれども、その時にやっぱり知り合いができますよね。画廊とか行ったりしてね。それで展覧会やったりとかして、今度はその関係でまた人が広がったりして。宇治も、建築家の人が僕の画集見て、そういう話が来たんですよ。

池上:ああ、そうですか。

野田:勝手に宇治駅にプレゼンして、僕の知らないときにね。で、こんな図面送ってきたんですよね。野田さん、決まりましたからどうか受けて下さいって。

池上:本人に断りなく(笑)。

野田:うん。「どうか受けて下さい」って。勝手に僕の作品をそこに並べて、図面作ってね。

池上:取り込まれたというか。

野田:そうそう(笑)。

池上:惚れ込んだわけですね。

野田:僕はやりたかったからね、もう2つ返事で「はい」ってすぐ帰ったの。打ち合わせしに、建築家に会いに。

池上:素晴らしい。そうですか。

野田:僕はチャンスだと思ったんですよね、それは。なんか人と協働作業することに興味がすごくありましたから。入口としては絶好のチャンスかな、と思いましたね。

池上:それが今まで続いて。さっき見せていただいた福山市立大学の新技法の装飾合わせ硝子ですとか、そういうものに繋がっていくんですね。

野田:はい。

池上:福山の美術館での回顧展(「野田正明展:ニューヨークからのメッセージ」、2006年)っていうのは、やっぱり美術館の方から声をかけられたんですか。

野田:そうです。

野田:その前に中国があり、ギリシャがあったから。あの時56歳かな。だから若すぎるんじゃないかって話もあったのね。地元でそういう作家いませんでしたし、でも他に比較するものもなかったんで。もうギリシャでもやってたし、その前に中国でも大きな回顧展をやってるんですよね。だからそういうのもあって通っちゃった。で、一年もなかったかな。その話来てから。で、「うん、じゃあ実験しよう」ってことで。

富井:実験ですか(笑)。

野田:うん。学芸員と。僕にとっては実験ですよね。学芸員も下っ端の、一番若い人。彼にとっては初めての企画展だったの。僕は、彼を育てようと思ったのね。アメリカに来たの、すぐ。で、アメリカ見せてやって。日本じゃ上の人からの圧力あるから、こんな感じのしょぼしょぼした人が、こっちきたらね、意外としっかりしてて英語しゃべれてちゃんとできたの。

池上:あ、そうですか。

野田:だから能力を出せない環境の中にいたんだな、ってのが後で分かったの。彼がすごい能力持ってたの。だから、僕もいろいろやりたいことあるし、君もどんどんアイデア出してくれと。「いろんなことやろうよ」って言ったら、「先生、失敗したらどうしましょう」って言うから。「失敗してもいい」って言ったのね(笑)。もう何でもやろうってやり始めて、個展ではいろんなことやったの。ジャズ・コンサートやったしね。

池上:あ、そうですか。

野田:評論家っていうか、そういう招待する、三人呼んだのね。メトロポリタンの、ニューヨークからビアンキさん(Robert Steven Bianchi)呼んで、筑波大学の教授(守屋正彦) 呼んで、城戸真亜子さん呼んで。美術館を活性化するために、そういう人を呼びつけた。だって田舎の人は来ないでしょ、現代アートの作品見に(笑)。

池上:なかなかねえ(笑)。

野田:パイクさんが言ってたことですごく印象的なのは、「アートはエンターテイメント」だって言ったのね。「面白くないものは面白くないんだ」って(笑)。

富井:名言ですねえ(笑)。

野田:うん、だから「僕(パイク)は田舎っていうか、貧しい国から来てね、ああいうとこでは、皆娯楽を求めてる」って言うわけ。だから「皆が楽しめるものを僕は作りたい」、そういう言い方してました。僕はそういうのずっと見て来てたんで、どんな素晴らしい作品も見なかったらないのと一緒なんですよね。だからどうやって人を来させるかっていうのがまずあったんですよ。そのためにはやっぱりイベントなんですよね。いろんな違うもの。まず来てもらって、そこから作品見るとか、そういう形。

池上:で、実際の動員は。

野田:多分で抽象ではすごかったんじゃないですかね。真冬だけど7000人ぐらい来たんかな。田舎の美術館で抽象で、でもいつも誰かいましたからね、美術館に。僕も毎日美術館行ってたの。

池上:あ、それは大きいですよ。

野田:毎日行ってたの。館長がね、「野田さん、作家はそんなしょっちゅう表に出るもんじゃない」っていうわけね(笑)。

池上:いやいや、良いことだと思います。

野田:僕は毎日美術館で何かやってたんですよ。学校でね、授業やってたの。出張授業。美術館の中でもそういう実習とか、あと説明とか、それをやってたんです。

富井:皆興味持ちますよね、そうすると。

野田:皆分からないでしょ。だからそういう説明してた。こういう入口があるよって、子供達に。皆子供です。僕がなんでそんなことしたかというと、さっき言ったみたいに作家がいなかったわけですよ。絵描きになるイメージがなかったでしょ、子供の時に。僕みたいな人間にもし子供のとき会ってたら、目標が違ってたと思うんですよ。はっきりしてたと思う。

池上:そうですね。

野田:今はやっぱり景気が悪いしね、皆目先の生活で精いっぱいですよね。そういう中で生活とは別の次元で、こういう夢があって、それを実現している人間がいるってことを見ることによって、自分がその気になれる。だからそのサンプルになろうと思ったんです。だから子供たちにそういうものをどう見せるか。幸いなことに2000年にモニュメント(《飛翔Ⅱ 時空を超えて》、2000年)を作っていたから。あれを見てる子が来たの、何人も。

池上:あれを作ったおじさんだと。

野田:そうそう。6年前に見てね、あれなんだろうなと思いながら来て。

富井:変なもの作った人がね、いるんだと。

野田:うん、作家に初めて会って、野田さんが作ったんだ、っていうのが分かってね。

池上:具体的にイメージができて良いですよね。

野田:そうです。これがパブリックアートの重要さだと思った。展覧会場だけで見るんじゃなくて、そういう作品見ながら育ってきた人たちがいる。その影響力は、あそこに美術館があることによって、もろに彼らの言葉からそれを感じることが出来ましたし。

池上:いつも見てるんだよっていう。

野田:だから啓蒙っていうかな。僕らにとって5年て大した時間じゃないけども、子供にとって5年てものすごい時間でしょ。

池上:そうですねえ。

野田:あっという間なんですよ。それも分かった。今福山の町を変えることはできないけど、あの子達とずっとしゃべり続けていくことによってね、5年か10年後に大人になった時に、町が変わるんじゃないかっていう意識をちょっと持てるようになった。

富井:なるほど。よく現代アートいうと最近地域おこしとか、イメージアップとかありますよね。野田さんのああいう作品を普通のモニュメント的に考えてしまうと、そういうところはあまり思いつかなかったんですけども、お話聞いてると、こういう地域おこしっていうか、将来に向かった啓蒙に、作家が関わっていくやり方があるんだなってことがよく分かりました。

野田:中国でも、ギリシャもそうだけど、常にレクチャーとか、絵を描かしたりとか、そういうことをやってきたんですよ。イベントやってるの。(展覧会を)やるだけじゃなくて。そういう中でいろんな人と関わってやったことで、意識が変わるっていうのが見えたんですよ。それを日本でやろうと。

池上:中国とはどういうつながりで展覧会されたんですか。

野田:これは中国の深セン美術館の関係の人がいて。2002、3年ぐらいです、中国が深セン市に現代アートを紹介したいと思ったんですよ。で、アメリカの作家を探してたの。グループ展を持って帰る予定で、アート・ステューデンツ・リーグの展覧会(A Century on Paper Prints by Art Students League Artists 1901–2001, UBS/ Paine Webber Art Gallery, New York, 2002)を見に来たんですよ。そこでグループ展やってて、僕と会ったんですよね。で、「お前の作品見せてくれ」って僕のスタジオ来て。「グループ展は止めた、個展にしよう」って話になって、急に(笑)。

池上:そうですか(笑)。

野田:急にそういう話になって、「中国来い」って言われてね。中国全然興味なかったんですよね。ほらあのイメージ、自転車が走ってる。なんか保守的なイメージしかなかったから別に返事しなかったのね。すると「お前は中国を古いイメージでとらえてるだろ」っていうわけね。「まず来てくれ」って。で、上海に初めて行ったの。

池上:そしたら、もう21世紀に入ってますから、相当発展は進んでましたよね、既に。

野田:びっくりしましたよ。「あれー」て思っちゃった。で、深セン行ったでしょ。深センて、空港から深セン市まで100メーター道路がまっすぐ走ってるんですよね。ああいう政治の恐ろしさも見たんで(笑)。

池上:深センは最初の経済特区のひとつですからね。

野田:そうそう。深セン美術館には東湖って湖があるんですよ、真水の。あれは、中国と香港が国交樹立する前から、真水をあそこから香港に供給してた、蒋介石が。

池上:すごく近いんですよね。

野田:はい。そういう交流があったらしい。そこに美術館。丘の上にあるすごく綺麗な美術館ですよ、モダンな。そこで美術館全館使って展覧会やってくれって話になって。館長と話して、いろいろ資料見せた。「ああ、彫刻やるんだ」っていう。「彫刻(《天空昇》2003年)も作らんか」っていうわけね。「ああ、いいねえ」っていう話になって、どこに置かしてくれるんだって言ったら、「どこでも良いよ」っていうわけです。じゃあ、ってんで真ん中。美術館のほんとに、入口のまん真ん中です。芝生の。すごく話がトントン拍子に進んで(笑)。

池上:景気がいいですからねえ(笑)。

野田:いやあ景気がいいなんて、もうギリギリですよ。

池上:あ、そうですか。

野田:そんなもんねえ、もうできる状況じゃなかった。それは無理やりですから。これはチャンスでしょ。パブリックってのはチャンスなんですよ。

富井:そうですよね。

野田:中国と日本と友好条約締結25周年記念でもあったんですよね。で、大使館とも話して。でも場所が場所ですしね。中国っていうのは僕に縁がなかったけど、まあ始まりかなと思いましたね。で、やるの決まってアメリカに帰ってきたら、SARSが流行して。

富井:ああ。

野田:あの年は、皆キャンセルしたの。SARSで誰も行かなくなって、引き揚げた。で、僕も荷が重いと思ったから一回キャンセルしたんですけど。そしたら「正明どうしたんだ」って話になって、「展覧会しないのか」って言って。「うーん、ちょっと…」って。でもやろうよっていう話になって。で、考えると、誰も行かないから行こうと思えたのね、逆にね。

富井:なるほど。

野田:行ったら大歓迎でしたから。ものすごかったですよ。毎日つきっきりで、食事とかすごいとこ連れて行ってくれましたしね。日本から来た僕の関係者みんなホテルに泊めてくれたし。

池上:ああ、そうですか。

野田:中国はややこしい国ですからね。難しい。最初にすごく良い思いしたから、「ああいいな」って始めたのね。それから何年かは一年に三回ぐらい中国行ってた。

池上:ああそうですか。

野田:上海とか……。あとはだんだん大変なのが分かってきて、あの国は(笑)。

池上:まあ懐が深いというか(笑)。

野田:いや、懐というよりも、何でしょうね。僕らはアートのために全てを投げ打ってやってるわけね。あの人達はアートと経済。経済っていうよりもっと直接的な感じかな。学芸員もものすごい安いわけですよ、給料が。

池上:ああ、そうですか。

野田:給料が。だから美術館の展覧会はタダじゃないの。皆個人的に後ろからお金要求するの。そういうのが見えだすでしょ。深セン美術館は完全招待でしたから、全てが。でもそうじゃないのが上海で分かってきてね。なんかこう濁れた感じがしたの、僕は。

池上:深センの時は特別だったんだと。

野田:特別でしたね。だから中国をよく知ってる人は「野田さんよくできたね」って言ってたね。

富井:ああ、なるほど。

野田:僕はそんなもんかなって思ったけども、実際それから北京とか上海でなんかやろうと思っていろんな美術館と話してるうちに、そうじゃないのが分かってきたんです。

池上:普通はそんなに簡単じゃないんだと。

野田:簡単ではないですし、やっぱり常に、そういうものが絡んでくる。

池上:縁故も非常に大事な社会ですしね。

野田:ものすごい大きいですよ。もうひとつ中国で何かしようと思って止めたのは、なんでしょうね、やっぱり現代アートまでの系譜が絶ち切れているでしょう。突然始まっているでしょう。

富井:はい。

野田:歴史がないところへ持ってきてね、これは表面的な物はカバーできるんですよね。経済的な物。ただメンタルですよ。そういうディグニティー(dignity、尊厳の意)みたいなものがまだ確立されていないと思う、全てではないけどアートの中に。まず金ありきね。そこから来てるような感じを受けた。だから西洋の画廊とか美術館にもリスぺクトされてないんですよね。それははっきりしてた。だから中国の美術館であんな展覧会やってモニュメント置いたのに、ギリシャでやったのと評価全く違いますから。中国のことなんて誰も、何も言わない。

池上:ああ、そうですか。

野田:ギリシャでやったことなんか大騒ぎですよ。ギリシャのあそこでやったのは、皆ものすごく訊いてきましたから。「どうしてお前がやったんだ」とか「どうやったんだ」とか。中国のことは全く誰も何も言わなかった(笑)。アメリカの人は認めてないんでしょうね。

池上:アメリカでは、同じ個展でも受け止められ方が違う。

野田:全く違います。それはステージっていうことかな。良いものは良いのに、そうじゃない評価のされ方するっていうのは、世の中、それが現実っていうかね。だからもう無駄なことしないと思ったの。日本と、アメリカと、ギリシャでいいと。

池上:うーん。おもしろいですねえ。

富井:そうすると、これは皆さんにお伺いするんですけど、野田さんの生き方というのは、アーティストとして制作なさってるのはまず大前提だとして、ニューヨークにいる日本人として制作しているのか、ニューヨーカーとして制作してるのか、どういう気持ちで制作してらっしゃる……。

野田:ありきたりかも分かりませんが、国籍は関係ないんじゃないかなと思うんですよね。それはまず言われたくないってのはね。そこから話が入ってくる人は信用できないっていうのもありますよね。だからギリシャでやった時も、日本人だからということではやってないと思うんですよ、これは。野田正明として見てくれたから、あそこに置けたし、あったと思うのね。まして、日本から来たとか関係ないと思うんです。やっぱり作家に対して一番いい評価ってのは、そこだと思うんですよ。日本人だからこうなんだ、とかそういうのは必要ないと思うんですよね、僕自身は。ルーカス・サマラスもそんなこと言ってたし。

池上:個人として表現すればいいと。

野田:「お前がどっから来たとか関係ない、お前が何者かということだけだ」っていう言い方してました。

池上:では、これまで個人という立場で長年制作されてきているわけですけれども、その中で一番大事にしていることっていうのは何かありますか。

野田:それは言葉ですか、それとも生き方ですか。

池上:アーティストとして。

野田:どうやって生き残るかでしょうね。自分が作家としてね、どこまで全うできるかっていうことだと思います。僕はペインティングやって、版画やって、今は彫刻やってますよね。やっぱり予想外なことが起こってるわけね(笑)。

池上:そうですね。

野田:自分のプランとは違うことをやってるので、自分はこうなりたいっていうビジョンは最初あったけども、途中からなくなっちゃったのね。自分の目標と現実が入れ替わっちゃったっていうか(笑)、予測がつかなくなってきてるんで。でも彫刻やるようになって、次の目標は町づくりとか、環境作りまでやりたいし。今福山でも地域の人と、教育是正運動みたいなの(びんご文化力を繋ぐ会)やってるんですよ。文化をどう彼らに伝えるかと。だから異業種の、放送局のアナウンサーとか、演奏家とか、書道家とか、皆それぞれのトップクラスの人だけが集まって、学校で講演するんですよ。僕は現代アートでは一人だけで、あと刀の刀匠もいます。そういう違うタイプの人達がそれぞれ集まって、子供達にプロフェッショナルは何かということを伝えようと。広島県立博物館の館長(皿田雄三)さんも退官されたんで、彼が辞めた後にそういう話を二人で始めたんですよ。それが去年から始まったの。

富井:なるほど。

野田:それまで個人で、日本に帰ったときに大学とか小学校でいつもやってたの。その話を館長さんにしたら「面白いですね」って言うから、「一緒にやりましょうよ」って。「じゃあ僕声かけますから」って、今の人を固めてやるようになったの。だからそれと自分の作品と一緒。やっぱ受け手を何とかしなきゃっていうのはありましたから。

池上:次に、じゃあこれから何をしたいですかっていうのをお聞きしようと思ってたんですが、今まさにおっしゃっている……。

野田:うん、もうやってます(笑)。

池上:ていうことですね(笑)。

野田:だからやっぱり、ソフトとハード両方だと思います。作品だけ作ってても駄目だし、社会を待ってても駄目だし、やっぱり一人じゃできないしね。だからやっぱり、異業種の人の方が上手くいくと思う。作家同士だとどうしてもバッティングしたり、ライバル意識が生まれたりする。でも全く関係ない人達とのは競合ってのは、皆いいモノをぶつけ合えるんで。

池上:そうですね。

野田:ああ、こんな世界あるのかってお互い思うことはいっぱいあるんですよ。そういった意味で、やることの面白さ。世界が広がること。良い例が去年、おととしやったラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)の展覧会ですよね。ギリシャで最初にやりましたけど。ラフカディオ・ハーンの曾孫小泉凡さんと一緒にハーン展をやった。ギリシャのディーラーと一緒に始めたことですけど、文学とアートと初めて結びついたし。今まではハーンの文学の検証だったわけですよ、皆ね。それを発表してた。でもハーンという媒体を通して、現代アートで新解釈で絵を描いたり、彫刻を作った。これはかつてないんですよ。完全に未来形でしょ。そういう新しい境地を開いたっていう意味で、文学とアートが初めて結びついた。僕も初めてあっちの世界とまともに向き合ったわけですよ。面白いですよね。だから、ハーンを検索すると僕が出てくるわけね。

池上:面白いですね。

野田:面白いでしょ。これはね、予想の付かない世界で、違う視点が開けたかなと思うんですよ。違う世界も見えてきましたしね。それも出会い。

池上:もう本当に楽しいお話ばかりで、もっといろいろお伺いしたいんですけれど、最後にもしこれだけは言っておきたいというようなことがあれば、お伺いしたいと思います。

野田:誰に対してですか。

富井:私たちでも、インターネットでこれを読んでくれる人にでも。

野田:人に何か言える立場じゃないような気もするんですけどね(笑)。

富井:でも最後の、これから何をしたいか、それが私には一番気持ちに残るんですよね。

池上:そうですね。

野田:うがった見方かもわからんけど、文化とか芸術に対してもっと親しみやすいやり方かな、そういうことをしていきたいというのはあります。だから僕が美術館でいろんな説明を子供達にしたんだけれど、何が面白いかって言ったら、やっぱり後ろの話なのね。後ろっていうか背景の話ね。作品がどうのこうのもあるけども、そのいきさつとか人間とか、それに絡んだ物語ね。それを聞くと皆面白がるんですよ。

富井:そうですね。

野田:そういう話し方ができる人、あんまりいないのね。僕はインタヴューしたから作家の裏側を知ってるんで、「この作家こういうスキャンダルあるよ」とかね。そうなったらこう、皆一生懸命聴くわけです。そういう話は生なので、人は忘れない。だからそういう入口を作っていくと絵に興味持つしね。

池上:そうですね。入口はたくさんあった方がいいですからね。

野田:そうです。皆乱暴な言い方っていうか、「好きなように見たらいい」とか「良いものはいいんだ」っていう言い方するけど、僕はそういうもんじゃないと思うのね。勉強しなきゃ分からないし、歴史を知らなきゃ本当の意味で分からないわけでしょ。そこを皆バーンと飛ばしちゃって、美術館行って自分で感じろって言ったって、分からないですよね。

池上:そうですね。

野田:だから皆をそこまで持って行けるかってなあ。僕はどこまでできるかわからない。僕のできる立場で子供達に作家として見せていく、生の作家がどういうものかを、見せる。

池上:いやあ、大変参考になりました。

野田:いや、余計なことですけど、学校でレクチャーやったのね。美術館で展覧会した時に40校ぐらいやったんですよ。その時に最初のつかみがワールド・トレード・センターだったのね。ここから1キロなんですよね。

富井:そうですね。ここから近いですね。

野田:僕、ぶつかった瞬間に上に上がってるんですよ。

池上:そうですか

野田:それからずっと撮影してたの。だからその時の朝のTBSに僕ウィットネスで出たんですよ。

池上:ああ、そうですか。

野田:目撃者で。写真いっぱい撮って、それも出たし。そういうスライドいっぱいあって、それ見せたの。絵だと思ってるじゃない、皆。だからそれを最初に見せた時に「えっ」っと言うわけね。そこから話が始まって、結構アートだけじゃない、アートと絡んだ社会との関係、人間や町がこういうふうに変わってきたとか、そういう話するんですよ。そしたら、感動して泣いた子とかもいましたからね、中で。

池上:それは興味もって聴くでしょうね。本当に今日は私たちも本当に楽しく聴かせていただきました。

野田:まあまあいろいろ横道に逸れましたが(笑)。

富井:いや、横道が面白かったですよね。今おっしゃってたように、アートだけじゃなくて横道もないと面白くない。

富井・池上:ありがとうございました。