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岡上淑子オーラル・ヒストリー 2013年3月8日

高知県立美術館にて
インタヴュアー:池上裕子、影山千夏
書き起こし:永田典子
公開日:2014年4月19日
 
岡上淑子(おかのうえ・としこ 1928年〜)
元コラージュ作家
高知市生まれ。幼少期に東京に移り、代々木上原と下北沢で育つ。今回の聞き取りでは、生い立ちから戦争と重なっていた東洋英和女学院時代、その後進んだ文化学院デザイン科で課題として出されたちぎり絵に始まり、それからヒントを得たコラージュ制作、瀧口修造との出会い、タケミヤ画廊での二度にわたる個展(1953年と1956年)、東京国立近代美術館の「抽象と幻想:非写実絵画をどう理解するか」展(1953年)への出品など、1950年代の活動を中心にお話しいただいた。また、実際のコラージュ制作の手法や、その後手がけた写真表現、さらに1990年代後半以降の再評価についてもお話しいただいた。インタヴュアーは池上裕子と高知県立美術館の学芸員、影山千夏が務めた。

池上:今日は岡上淑子さんにお話を伺います。よろしくお願いいたします。

岡上:こちらこそどうぞよろしく。

池上:簡単な質問状は以前にお送りしましたが、お生まれから、主に1950年代にご活躍された際のご活動について、お聞きしていければと思います。よろしくお願いします。

岡上:はい、どうぞ。

池上:お生まれは1928年1月と伺っております。2〜3歳の頃に東京に移られたということでしょうか。

岡上:そうですね。高知市の一宮(いっく)で生まれて、父の実家ですね、三つぐらいの時、1930年か31年に上京しています。上京したところは代々木上原ですね。

池上:お父さまは、お仕事の関係で東京に移られたのでしょうか。

岡上:そうです。父は農林省にいました。私は、生まれたときはちょっと弱かったんですね、未熟児で。それだからしばらく高知で育てられて、それで父のところへ行ったんです。

池上:ではもともとお父さまは東京でお仕事をされていて。

岡上:ええ、そうです。

池上:お母さまはどのような方でしたか。

岡上:昔の母親と言いましょうか、家事専門でした。優しくておとなしい人でしたが包容力があって、家にみえた方のお世話をよくしてみんなから慕われていました。

池上:ご兄弟はいらっしゃいましたか。

岡上:弟が一人いましたけど、それはすぐ亡くなりました。だから一人っ子でずっときてます。

池上:お父さまはどのようなお父さまでしたか。

岡上:昔の父親っていうの? ワンマンの、そういう人でしたからわりに厳しかったですね。だけど趣味が多かったのね、カメラとかスポーツとか映画とか。それでしょっちゅう連れて行ってもらってました。だから小さいときから映画は観てたの。

池上:どんな映画かというのは覚えていらっしゃいますか。

岡上:昭和の時代劇でしたね、チャンバラ(笑)。ああいうのばかり観てたわね、小さい頃は。あとスポーツね、野球とかラグビーでした。日曜日は連れて行ってもらってましたね。カメラなんかは、父がしょっちゅう写してましたでしょ。だから見てたし。小学校の時に、小さいこんなカメラがあったんですよ、豆カメラみたいな。それを買ってくれて、写したりしてました。

池上:じゃあわりと小さい頃から岡上さんご自身もカメラには親しみがあったんですね。

岡上:ええ、ありましたね。

池上:そういうような環境で、自然に文化的なことや美術に関する興味というのが出てきたんですか。

岡上:その頃はまだそんなにはなかったですね。ただ面白くて、写して、お友だちに見せたりして楽しんでるぐらいで、あまり美術とかそういう意識はなかったです。映画も時代ものとか西部ものでしょ。私が絵の大きな展覧会を初めて見たのが、小学校の4年か5年なんですよね。図画の先生が私ともう一人の方をモデルにして作品を描いて、日展か院展のどっちかに出品なさって、それが入選したんです。そのときに初めて上野の展覧会に連れて行ってくれて、その先生が。大きな絵が並んでいる展覧会というのを「すごい」と思って見た記憶があります。

池上:では、ご家族とかご親戚で美術に特に興味がある方というのはいたわけではない。

岡上:ないですね。私もそういうことがあるかと思ってね、質問をいただいたときに考えたけれども、特にないんですよね。ただ、母の父、祖父になりますが、その人は農家でお百姓さんだったんですけど、すごくお料理が上手で、お華の免許も取ってるんです。だから花を活けたりしてね、そういうことはありました。それから祖母が、昔の人は織物をしますでしょ、織るのが上手で、配色がとてもよかったので評判だったというのは聞いています。そのぐらいでしょうか。

池上:でも十分文化的な環境だなという風に。

岡上:特にそういう風には思いませんでしたね。

池上:代々木上原にお住まいで、どういう雰囲気の街でしたか、当時は。

岡上:ほんとの郊外で、林もあったし、お店は少なかった気がします。よく原っぱで遊びました。トンボ捕ったり、バッタ捕ったり、レンゲで首飾り作ったりして、草むらには糸トンボがいましたね。ここには2、3年いて、小学校に入る前には下北沢に越しましたの。
下北沢もあの頃は郊外でしたが、上原よりはお店も多くて賑やかでした。まだ井の頭線が通ってなくて小田急だけでしたから、出かけるのはいつも新宿でしたね。ここもまだ原っぱや竹藪みたいな空き地がたくさんありました。

池上:私の母の実家も、下北沢なんですよ。そこでどのような小学校時代を過ごされましたか。

岡上:私、小学校の頃は一時期『少年倶楽部』を取ってたの(笑)。近所に男の子(の友だち)が多かったのね。父の影響でそんなのばっかり観てるでしょ、映画も。『少年倶楽部』に怪傑黒頭巾が連載されていて、毎号が楽しみでした。小学校も上級になってからは仲良しの女の友達もできて、一緒にお人形さんと遊ぶようになりましたね。お裁縫の時間ができると人形の服をよく作りました。その時大人の真似をして型紙を使って小さな洋服を縫ったのを覚えています。

池上:小学校を卒業されて、東洋英和女学院に入られるんですね。そちらで環境がちょっと変わったと思うのですが。

岡上:ほんとに変わりましたね。あそこはクリスチャンの学校でしょ。朝、礼拝があるんですよね。礼拝から始まって、授業になるんです。初めてでしたね。普通の小学校でしたからね。

池上:何か思い出深いことはおありですか、女学校時代に。

岡上:戦争に入ってたので。東洋英和の、「英」という字がいけなくなって。それで永久の「永」に変わったり、英語も、私が入ったときは6時間あったのが減らされました。

池上:キリスト教系の学校ですよね。礼拝とかそういうものについてはどうだったんでしょうか。

岡上:初めてだから、びっくりしましたね。聖書の時間がありまして、1時間。それでだんだんキリストの教えが分かってきました。うちは特に宗教的なことはしてなかったですから。仏教ですが本家がお祀りしていて、行事的なことはしていませんでした。教えを聞いてお祈りするというのは初めてでしたね。

池上:戦争中になって、「礼拝はもうやめなさい」ということはなかったんですか。

岡上:礼拝は続けてましたね。

池上:それは面白いですね。

岡上:4年になってから、勤労動員に行ったんですね、蒲田へ。それからは礼拝はなくなりました。

池上:蒲田では何をされましたか。

岡上:電気製品を作る工場だったので、いろんな部品を作っていましたね。

池上:部品を組み立てたり?

岡上:もっと単純で、ハンダ付けとかニクロム線を巻いたりとか、製図を手伝ったりとか、いろんな職場に回されましたね。作業中に警戒警報が出たら防空壕に入って。そんな学生生活でした。

池上:女学校時代が丸々戦争時代に重なってますよね。

岡上:そうです。1、2年は授業はしましたけど、3年頃からは授業も少なくなったし。勤労奉仕や避難訓練が多くなりました。

池上:疎開をされたりということはなかったですか。

岡上:空襲が激しくなってきて、それから疎開しました。あの頃女学校は5年制だったのね。だけど私たちは4年で卒業させられて、みんなどこかの工場に行くことになってました。でも進学すれば免除されるというので、みんな受験したのね。私は昭和20年に4年で卒業でしたがね。その頃はもう空襲は始まってました。英和には師範科といって、保母さんになれる学校があったんですね。分校みたいなのかしらね。そこを受けたんですよ。学年で10何人か受けたの。そしたら私ともう1人、2人だけが落ちたのね(笑)。それはすごいショックでしたね。

池上:しかも内部進学といいますか。

岡上:そうなの。受けるにあたって受け持ちと相談するでしょ? そうしたら「大丈夫ですよ」とおっしゃったのね(笑)。私も大丈夫だと思っていて。本当にショックでしたね。なんで落ちたか分からないでしょ? それで担任に聞きに行ったのね。そうしたら「絵が悪かった」って言われました。

池上:絵ですか? えー、なんて見る目のない(笑)。

岡上:「絵」と言われたってね、どこが悪いのか分からないわね。絵はどうでも批評できるから。

池上:ですよね。

岡上:だけどショックでしたね、あのときは。

池上:どのような絵を描かれたか、覚えていらっしゃいますか。

岡上:コーヒーカップが置いてあって、それを好きな場所から写生するんですけれど、私はカップを上から見て描いたので、カップの縁を大きく丸くしたんですね。それがいけなかったのかもしれませんが。発表を見た後は六本木飯倉あたりをしばらくうろつきましたね、帰るのがいやで。そんなこと覚えてますね。昭和19年に父がシンガポールへ行ったんです、軍属で。それでその頃は母と二人だけでしたの。空襲が始まったのが19年の11月で、卒業した20年に、渋谷とか蒲田、下町の大空襲があったんです。渋谷の空襲が5月にあって。下北沢のうちのそばまで焼夷弾が落ちました。

池上:近いですもんね。

岡上:ええ。それが不発弾だったのね、それでなんとか北沢のあたりは助かって、下北沢から池ノ上、梅ヶ丘の一帯は残ったのよね。東北沢から代々木上原の方にかけては焼けましたね。それからもう怖くなって、疎開ということになって、7月にしたんです。疎開と言っても後を人に頼んだり、荷物の一部は町田の農家に預けに行ったりして、大変でした。

池上:疎開先はどちらに。

岡上:高知です。

池上:ああ、こちらに来られたわけですね。

岡上:そうです。それで8月に終戦になりました。

池上:じゃあこちらに来られて三ヶ月ぐらいで。

岡上:ええ、9月に東京へ帰りましたね。疎開の時、岡山に着いたちょうどその日だったかしら、高知と高松が前夜空襲に遭ったの。その頃は四国へは宇高連絡船で渡ってたでしょ。その連絡船が出なくて、岡山駅の地下道でそのままこう、うずくまって寝たわよ。だから戦争はいっぱい体験しました。ただあんまり悲惨な状況に巻き込まれてはいなかったですけれど。

池上:空襲は避けてこられたので。

岡上:ええ。でも、行った工場は焼けましたね。

池上:高知に来られて、東京に戻られて、焼け野原は見られましたか。

岡上:高知でも東京でも見ました。渋谷が焼けたときはいましたから。高樹町のお友だちのお家が渋谷に近いでしょ。どうなったか心配で、何日かたって自転車で行きましたね。渋谷に近くなるともう全部焼け野原でした。たった一晩でこんなにも無残に壊されてしまうのかと呆然と立ちつくしましたね。ただあの時は、なぜかまわりに人一人いなくて、空が真っ青に晴れていて、不思議なくらい静かでした。道玄坂の上から見た荒れ果てた光景は今でも鮮明に残っています。それ、作品にあるじゃない(注:《廃墟の旋律》、1951年)。それにはあの時の光景が重なりましたね。お友だちの家に行ったら、焼けていましたが、疎開して無事でした。ご親戚の方が片づけてました。それから目黒のお友達のところへも回りました。自転車を夢中でこぎましたね。

池上:戦争が終わって東京に戻られて、お父さまもシンガポールから戻ってこられて。

岡上:そうですね。帰りました。

池上:戦後も農林省のお仕事を続けられたんでしょうか。

岡上:農林省は途中で辞めて、そのときは商社に行ってて、そこから軍属でシンガポールに行ったと思います。

池上:帰国されてからはその商社にまたお戻りになって。

岡上:そうですね。帰国してからはずっと商社でしたね。

池上:戦争が終わった後のご生活というのは。

岡上:普通のサラリーマン生活でした。あの頃、新円切替(注:戦後のインフレ対策として取られた新紙幣の発行などの通貨切替政策)とかあって、全部キップ制でしょ。お米も布地もキップで買ったの。ものがなかったから、なんでも廃物利用して作りました。私は縫うのが好きだったから、それで洋裁をしましたの。

池上:それで恵泉女学園の家事科に進まれたという。

岡上:そうです。師範科落ちたでしょ。だけどどこか行かないと、「徴用が来る」ってその頃言われてたでしょ、それで近くの恵泉に決めて。ここは2年だったんです。英文科と両方あったんですけれど、あまり勉強したくなかったから、家事科の方へ行きました。そしたら武満浅香さん、旧姓・若山浅香さんと同じクラスになったんです。師範科に受かってたら、あの方とお友だちになってないでしょ。そうしたらコラージュも作ってないかもしれないし。コラージュにとっては、これは運命的な出会いになりましたね。あの方は、立教中学を出て家事科にいらしたのね。それにお家も近かったの。浅香さんは代田で私は下北沢でしたから。彼女は恵泉を出て、演劇の勉強をしていました。私は洋裁の方に行ってましたが、時々会っていました。

池上:家事科を出られて、今度は小川服装学院というところに行かれて。

岡上:そこで洋裁をやるつもりでいたんです。まだ校舎ができてなくて、どこかの講堂を借りてお勉強したんです。1年やって、今度校舎ができたら専門的に進めるようになるというお話だったの。ところが突然小川先生が亡くなられて、学院も閉じられてしまったのね。よそへ行ってもよかったけれど、型紙が違ってくるでしょ。なぜ小川を選んだかというと、ここの型紙で縫った服が私にはいちばん着やすかったのね。お友達も「ここがいい」って、2人で行ったんです。だけどその学校がなくなっちゃったのね。どうしようかと思いましたね。でも一応縫えましたから。ワイシャツとか男物のズボンも縫ったの。あの頃は自分の服は全部縫いました。今みたいに、そんなに既製服は売ってなかったでしょ。だから、皆さん自分で縫ってましたね。それで、その頃スタイル画があったの、ファッション画というか。それを習ってみたいと思って。それで文化学院へ行ったんです。

池上:小川服装学院がなくなってしまったということもあって。

岡上:ええ。一応縫えるから、あとファッション画をやったら、ファッションのデザインもできるでしょ? それで行ったんですね。だから帽子も習って、いろんな形のを作りました。

池上:好きで縫われているうちに、ご自分でデザインもしたいという風に思われたんですか。

岡上:ええ。それでデザイン科へ行ったの。デザイン科だけど、その頃はすごく自由な学校でしたから、特に基礎的にやるとかいうのじゃなくて、美術や文学系の先生がみえてその講義を自由に聞くようなシステムでしたね。デザイン科だけの授業も少しはありましたけれど。

池上:印象に残っている先生のお話はありますか。

岡上:いちばん残っているのは柳(宗理)先生の講義ね。遠藤周作さんも見えてました。あとモダンアートの村井(正誠)先生のお教室があったんですね。デザイン科だからデッサンを勉強するので、どこのお教室を選んでもいいということでした。私は村井先生のお教室を選んで、でもあまり描かないで遊んでいましたから(笑)。教室では描かないでおしゃべりしてる人たちと、一生懸命描いてる人といるわけね。そこでみんなとお友だちになって、先生のいらっしゃらない時はおしゃべりばかりしていて。あんまり描かなかったですね。

池上:でも、楽しい学生生活を。

岡上:そうです。遊びに行ってたみたいな(笑)。ものがない頃だったから、学校の帰りに銀座へ行ってもね、何かを買うとか、そういうのじゃないの。ただ歩いて楽しむというか。喫茶店に入っても、みんなあんまり持ってないじゃない。それでみんなで出し合って、ケーキ1つ頼んで、それを3人だったら3等分して。お紅茶だけはいただいて。でもウェイトレスの人もニコニコして大きいのを持ってきてくれましたよ、あの頃は。

池上:事情はみなさん同じというか、分かってますものね。今だったらツンツンされちゃいますけど(笑)。では、この文化学院にいらっしゃるときにコラージュの制作も始められたということですか。

岡上:そうですね。これ何年と書いてあるかしら。

池上:1951年、昭和26年になっていますね。

岡上:文化学院のデザイン科に行ったのは1950年ですね。ファッション画をここでしましたでしょ? 1952年が卒業ですよね。その卒業のときに、ファッション画をみんな描くわけね。フランスからファッションの先生が見えたのね。その先生が推薦する人を伊勢丹の洋裁の部門に紹介するということになって、私と二人選ばれたのね。良かったらそちらに行かれるかなと思いましたが、それも落ちたのね(笑)。伊勢丹へ行った友人は仲良しだったし、私より縫える方だったので、特に残念とは思いませんでしたね。その前の年に武満さんに(瀧口)先生を紹介していただいてましたから、その頃からちょっと作ってました。でもコラージュの方に行くというところまでは行ってなかったわね。やっぱりそっち(洋裁)をやりたかったですね。

池上:最初のコラージュを作られたのは授業の課題だったんでしょうか。

岡上:そう。お授業の、貼り絵でした。

池上:それは村井先生ではなくて。

岡上:村井先生ではなくて、美術の先生でした。「切り絵」とおっしゃっていました。色の付いた紙を、ちぎって作りなさいということでしたね。私もちぎって作ったんですよ。そしたらそのときに、ちぎったのにたまたま人の顔が入ってたの。それが笑ったすごくかわいい顔だったのね。それが面白かったのね。そのときにふっと、「人のそういうのを使ったら面白いな」というのがひらめいたわね。

池上:最初はちぎり絵を。

岡上:今でいうちぎり絵ですね。それは、何でもいいから色のついた紙をちぎりなさいということでしたから、1色ということじゃないわね。ちぎったのにいろんな色が入ってて。そういうのを並べたのね。そのなかに人の顔が入っていたというのが、私は面白かったし、先生も「これ面白いね」とおっしゃってくださったのね。

池上:その後、コラージュを続けられて、基本的には白黒の写真を使われて、ちぎるのではなく切っていかれますね。その方法というのは?

岡上:そのとき顔が面白いと思ったでしょ。そういうのを切って貼っていったらどういうのができるかなと思って、羅紗紙に切り抜いた写真を貼ってみたんです。作って、自分の部屋に飾ったりしてましたが、人に見せるとか、そういうことはしてなかったんです。

池上:ハサミでやってみたいと思われたのは、どういうところなんでしょうか。

岡上:人の顔を見たときにそう思って。ちぎらないで、ちゃんとした顔を載せたらどういう風になるかなと思ってやり始めました。

池上:ちぎるとやっぱりきれいには取れないですもんね、顔は。

岡上:なんとなく思いついたんでしょうね、そのとき。

池上:面白いなと思われて、いくつか作られて。

岡上:そう。浅香さんとはお友だちだったから行き来してたでしょ。浅香さんに見せたら、ご近所でお友達だった武満(徹)さんを紹介してくれて、それで武満さんに見せたのね。そしたら「瀧口先生に見ていただいたら」ということになって、作品を持って武満さんと先生のお宅に伺ったんです。そしたら先生が「面白いですね。続けてごらんなさい」っておっしゃって、帰るときには「できたらまた見せてください」って言われたのね。それまでは何となく作っていましたでしょ。見てくださる方がいらっしゃると思うと、張りが出てきましたね。村井先生にも、ほかに2、3人の先生方にもお見せしたんですけれど、みんな「面白いですね」までで、次がなかったのね。瀧口先生だけ「続けてごらんなさい」とおっしゃったの。じゃあ続けた方がいいのかしらって。そんなことがきっかけで学院を卒業してもコラージュを続けましたの。先生は見てはくださいましたが、特にどうしなさい、とかいうことはなかったですね。それが良かったんでしょうね、きっと。

池上:瀧口さんの第一印象はどういう感じでしたか。

岡上:もの静かな方でした。私が伺ったのは成城のお宅だったの。すごく暗いお部屋でね、周りには本ばかりいっぱいあって。そこにお着物で座ってらして、武満さんに気さくに話しかけられていました。どんなお話だったかは覚えていませんね。作品をお見せしたときは、5、6枚だったでしょうか。1枚1枚を畳の上に並べて腕組みしたままじっと見てらしたのが印象的でした。私、その時はまだ先生が美術評論家でいらっしゃることは知りませんでしたの。武満さんも先生について詳しい説明はしないで、「こういうのが分かる先生だから」って、ぶらっと遊びに行く感じで連れて行ってくださったんですね。私も先生のお書きになったものも読んだこともなかったので、先生のお仕事とかお立場についての認識はほとんどなかったですね。

池上:じゃあ逆に特に緊張もされずに。

岡上:ええ。ご覧になって、何ておっしゃるか興味はありましたが、この時は洋裁もしてましたし、この世界に行こうという気持ちはなかったですね。ですから、なんかのんきなもんですよね(笑)。

池上:その世界を目指している方だったら、もっと主張したり。

岡上:もっと質問するとか色々あったと思うんですけどね。この頃、お見せしてるけど、作ってどうこうというのはなかったですね。作家意識があまりないのね。自分で楽しんで作ってるっていう感じでした。他にもいろんなことをしてましたので。

池上:瀧口さんの方も、特に「この画集を見てごらん」とか、そういうこともなかったですか?

岡上:特には。ただ(マックス・)エルンストを見せてくださった。あれがすごく刺激になりましたね。でもそれも見せてくださるぐらいで、特に説明はなさらなかったような気がします。私、始めた頃は「シュール」という言葉も知らなかったんですね。伺っているうちに刺激されて、少しずつ美術関係の本を読むようになりました。

池上:エルンストの何を見せてくださったんですか、そのとき。

岡上:コラージュとか画集。普通の家に画集はあの頃なかったですね。

池上:ないですよね。

岡上:専門の人とかお好きな方のお家にはあったけど、普通のサラリーマンじゃそういうものは買ってなかったですね。両親は本が好きでしたから文学関係の本はありましたが、画集はなかったですから。良い美術書はほとんど洋書だったと思います。

池上:高いですよね、当時は。

岡上:ええ。だからそういうきれいな画集などは初めて見ましたよね。先生のところへ伺ったら、見せていただくのが楽しみでした。だからあまりお話って特にしないで、見せていただいてました。先生も時々そばで書き物したりしていらっしゃったですね。あまり美術の話とかはしなかった気がします。言っても分かんないと思ってらしたかもしれません(笑)。

池上:でもエルンストのコラージュを持ってきてくださるあたりが、岡上さんの初期の作品にすでに似たようなものを感じていらしたのかなと思います。

岡上:そうですね、きっと。

池上:エルンストのコラージュで特に印象深かったものはございますか。

岡上:初めて見たときびっくりしました。「すごい」と思って見ましたわ。《百頭女》(1929年)はどれも好きでした。素材の古いのがかえって私には新鮮に映りました。

池上:エルンストの絵よりも、コラージュの方が面白いと思われましたか。

岡上:ええ。デザイン科というのはその頃は美術史の勉強はしていませんでしたから、コラージュ集があるのは知りませんでした。

池上:「こういう作家がいるんだ」という感じで。

岡上:そうそう。あまり作家さんのことも知らなかったですね、わたくし。質問票に、「シュールの方との交流は……」とありましたが、全然なかったです。

影山:瀧口さんのお宅にはよく通っていらっしゃったんですか。

岡上:そんなには。作品ができたら伺うぐらいでした。私もそんなにしょっちゅう作ってたわけじゃないのよね。気が向いたときにしてたし、たまに外へ出たときに、材料の古雑誌を買ってましたね。

池上:材料の雑誌についてなのですけれども、どのあたりの本屋さんで買っておられましたか。古本屋さんになるんですか。

岡上:六本木の角に誠志堂という大きな本屋さんがあったんです。今はどうなってるか知らないけど。そこに進駐軍が、帰るとき売るんでしょうね。こんなに古本が山のように積まれていて、『LIFE』とかがあったですね。下北沢にもあったんです。神田の古本屋にも行きました。たまに行ったら4、5冊買ってました。ほんとに偶然ですよね、たまたま買ってきたのと、もともと家にあったのとで、貼り合わせて作っていましたから。

池上:当時、そういう古雑誌のお値段は。お小遣いでも買えるようなものだったんですか。

岡上:そんなに高くなかったと思います。

池上:新しい雑誌だと、図書館に行かないと見られないような、結構お高かったと思うのですけれども、古くなっているものは。

岡上:『VOGUE』なんかは高かったです。だけど『LIFE』が主で、『LIFE』の古いのはそんなでも。新しいのはそうじゃなかったですけど。

池上:古いというのは、どれぐらい古いんですか。

岡上:それがねえ、積んであるのから、写真の多そうなのを無造作に選びましたね(笑)。進駐軍が置いていったのが多かったので、そんなに古くはなかったと思います。雑誌もたくさんあるときと、あまりないときがありました。

池上:進駐軍が置いていくわけですから、いくら古くても1940年代の後半からとかですよね。

岡上:そうですね。そういうのが出回り始めたのね。初めはなかったですけどね。「これでしてみよう」と思って。「エキゾチックな感じがする」って誰かが批評したんですね。「なんで日本のでしないのか」という風に。エキゾチックな感じが出るのは、向こうの本でやっているから当然だとか言われました。でもあの頃はまだ印刷も紙も悪くて、日本のではできませんでした。

池上:そうですよね。

岡上:初めて日本でも『スタイル』というファッション雑誌が出ましたが。でもわら半紙みたいな紙で、印刷も悪いし、使えないんですわ。それからああいう大きい版がなかったし。結局、向こうのがきれいだし、手に入りますからね、あちらの雑誌だけで作りましたんです。

池上:特にお気に入りの雑誌はありましたか。

岡上:『VOGUE』がよかったですね。『LIFE』もあの頃はいい写真がいっぱいあったんです。

池上:背景は『LIFE』の写真を使われていて、人物とかドレス姿の女性は『VOGUE』から取られているのかな、というような作品がありますよね。

岡上:『Seventeen』や『バザー』とか、『LIFE』以外の雑誌も使いましたね。

池上:『Seventeen』というのは、若い女性用のファッション雑誌?

岡上:そうです。

池上:日本ではまだそういう雑誌が出てなかったということもあると思いますけれども、そういう雑誌には非常に魅力があったのでしょうか。

岡上:ええ、ありましたね。写真もきれいでしたもの。やっぱり父の写真を見てたからでしょうね、きっと。それと映画だと思うの。戦後、フランス映画がいっぱい入ったでしょ。もうしょっちゅう観に行ったんです。

池上:お父さまとですか。

岡上:それはお友だちと。ほんとによく映画を観ましたね。あれがすごく、参考になっているように思います。

池上:アメリカ映画はそんなにご覧にならなかったですか。

岡上:観ていました。『若草物語』とか『風とともに去りぬ』とか、『オーケストラの少女』とか…… でもなぜかフランス映画の方に惹かれましたね。ジャン・マレーとかルイ・ジューヴェとか、モノクロできれいでしたでしょ。ああいうのも影響してるんじゃないでしょうか。

池上:でも実際に日本で手に入る雑誌はアメリカの雑誌なんですよね。

岡上:そうですね(笑)。

池上:そのへんが面白いですね。そういう映画や雑誌を見て、フランスとかアメリカに行ってみたいというようなことは?

岡上:ありましたね。だって憧れみたいだったでしょ。私たちはまだ配給の生活をしててね、向こうはクルマ社会で、華やかに見えましたし。行ってみたいとかはとてもありましたね。でも結局行かないで終わりましたけれどね(笑)。

池上:フランスとアメリカ、どちらにより憧れていたというのは。

岡上:やっぱりヨーロッパでしたね。あの頃先生に作品をお見せして、映画の話もしていました。ただ、作っていても展覧会なんて考えてもいませんでしたから、先生に「タケミヤ(画廊)でしたら」と勧められた時は本当にびっくりしました。嬉しかったですけれど、不安の方が先で、すぐお返事できなかったですね。両親は反対でした。

池上:そうですか。お父さまもお母さまも。

岡上:「そんなことしたって……」と。あんまりこういうこと理解してなかったし。だから私がタケミヤでやったとき、両親は来なかったんですよ。「もううちで見たからいい」とかって。

池上:そんなぁ(笑)。

岡上:近代美術館のときは父が来てくれましたけれどね。

池上:美術なんかじゃなく、ちゃんと洋裁の方でやっていきなさいとか、言われましたか。

岡上:あの頃は、卒業したらすぐ結婚するのが普通でしたでしょ。私が展覧会をしている頃、みんなお子さんがあったですから。女の人が仕事をするという時代じゃなかったですね。父なんか、「早く嫁に行け」の方で。私に直接には言いませんでしたが、母にはいろいろ言っていたようです。ただ近美で見てからは少し変わりましたが。

池上:お見合いのようなことはされなかったですか。

岡上:しましたね。まあご縁がなかったんですね。(タケミヤ画廊での)2回目のときには、写真を入れました。ファッションの方もだめらしいし、どうしようかと思って。コラージュも、あのぐらい作ったとき、私ちょっと限界だと思ったんですね。それで先生にご相談しましたら、「写真の方へ行ったらどうですか」とおっしゃったので、2回目のときに写真とコラージュを一緒に出しましたの。

池上:最初のタケミヤでの個展についてもお聞きしたかったのですけれど。ここに瀧口さんが書かれた紹介文があって。「明けましておめでとうございます。岡上さんは画家ではありません。若いお嬢さんです」という紹介文なんですけれども(笑)。「若いお嬢さん」というのは、もうその通りだという風に?

岡上:そう。絵を志していたわけでもなく、要するに普通の女の子ですよね。あの頃、「女性」という言葉はあまり使われていなかったんですね。

池上:今ですと作家を目指している女性なんかだと、「若いお嬢さん」なんて言われると逆に怒ってしまう人もいると思うんですけど。

岡上:時代ですね。

池上:この時代ではごく普通という感じだったんでしょうか。

岡上:「普通の女の子ですよ」ということだと思うんですね。

池上:そう言われることにべつに抵抗もなく。

岡上:全然!(本当に)そうでしたから。あんまり美術のこと知らなかったし。シュールがどうして生まれてきたとか、そういう運動、そんなこと全然関係なかったんですね、私が作ってるのは。「ああ、これがシュールっていうものか」って自分で思ったくらいですから。シュールを目指して作ったわけじゃないんですね。たまたま作ったものがシュール的だったということになりますかしら。

池上:切って組み合わせたというのが。

岡上:そうですね。

池上:1回目の個展ではどういう作品を展示されたんでしょうか(注:「岡上淑子コラージュ展」、タケミヤ画郎、1953年1月4日〜10日)。

岡上:それはコラージュだけです。

池上:何点ぐらい展示されたか覚えていらっしゃいますか。

岡上:30点ぐらいだったと思います。

池上:作品を選ばれたのは?

岡上:自分で選んで、それから先生にお見せしましたね。題も、展覧会をするということになって付けたの。

池上:それまでは?

岡上:付けてないです。ただ作って、お見せしてましたね。題は後からです。

池上:題も自分で付けられた。

岡上:ええ。「題がないといけませんね」と言われて。「そうだわ、題がいるんだわ」って、しばらくは作品を前にして題ばかり考えていましたね。

池上:こちらの作品集で、1回目にこれを出したというので覚えていらっしゃるものはありますか。

岡上:この黒いのなんかそうですよ。これなんかもそうだったと思います。

池上:《月夜》(1951年)という。

岡上:あ、これもそうよ、《轍》というのが1951年でしょ。これがそうですね。だいたい黒の無地のはそう。

池上:最初に作られた頃の、羅紗紙がベースになっているものですね。

岡上:これもそうですよ。これも覚えてます。

池上:《魔法の時代》(1951年)という作品。こちらの《海のレダ》(1952年)という作品もございますね。《海のレダ》は岡上さんお気に入りの作品だと聞いたことがあるんですが。

岡上:私、いちばん好きなの。

池上:その理由をお聞かせいただけますか。

岡上:ちょっと理由は…… わりにこの表情が好きだったの、女の人の。

池上:女性の。

岡上:何に使いたいか、このころ、まだ白鳥の写真はなかったわけね。これ(女性の上半身の写真)だけ切ったのを手に持って、何かに使いたいと考えてたのよ。そうしたらたまたま、何かの雑誌を開いたら、波が立ってるこのバックがあったの。

池上:やっぱり『LIFE』か何かの雑誌ですか。

岡上:『LIFE』じゃないかしら。それでこれ(女性の写真)を置いてみたんです。そしたらわりにトーンが合ってたでしょ。この表情にも。どうしてというのはちょっと言いにくいけど(笑)。

池上:ほんとにピタッとここに合ってますね。これは水上スキーかなにかですか、この波の立ち方は。

岡上:そうだと思います。そしたら羽(の切り抜き)があったのよ。わたくし、見て、時々使えそうなのは切り取って置いてあるのね、箱に入れて。そしたら羽があって。この羽に合った白鳥の写真を探したように思うわ。

池上:この羽と白鳥は、もともとは別の写真を?

岡上:この白鳥の羽じゃないと思うの。

池上:そうですよね。ちょっと違う感じですよね。

岡上:違うでしょ。でも偶然すごく合ったと思って。これはとても好きですね。

池上:この羽が、白鳥の羽にも見えるし、女性の背中から生えているようにも見えて。

岡上:この表情が好きだったの。白鳥に合っていて。

池上:ちょっと流し目のようで、素敵ですよね。これはタケミヤの最初の個展には出されたんですか。

岡上:出したと思います。1952年ですから、きっと出てますね。これはわりにすっとできたんですよ。

池上:《魔法の時代》の方ですか。

岡上:ええ。なんかすっとできないのと、すっとできるのとありますよね。偶然に合ったのが箱の中にある時と、ない時とあるでしょ。ないときは、箱を見て「これ合わない」と思うとしばらく置いておくのね。

池上:何かほかのものが出てきて、いい出会いがあるまでということですか。

岡上:そう、置いておくんですの。

池上:今日もこちらの美術館にある岡上さんの作品を拝見して、切って貼るという、単純な技術だとは思うんですけれど、でも私だったらこういう風には絶対に切れないです。

岡上:そんなことないわ(笑)。

池上:すごく切るのが上手でいらっしゃるんですよね。

岡上:普通のハサミです。

影山:ものすごく小さい人の形とか切ってらっしゃいますよね。

岡上:普通のハサミと、あとフェザーという、男の人が昔ひげ剃りに使った、薄い刃を使ってました。影絵の、藤代(清治)さんが使ってらした。テレビで見たんですけれど。

池上:カミソリみたいなものですか。

岡上:そう。あれがすごく切れるのよ。それで切ったんですね。女の人の写真は、ここを切って、はめ込んであるのよ。

池上:この胸元の、白鳥のところですね。

岡上:ええ。それはフェザーです。

池上:カミソリみたいなもので切り込みを入れて。

岡上:それで差し込むの。

池上:ただ貼っているだけじゃなくて、そこから生えている感じがするものがいくつか。

岡上:すごく切れたのよ、昔のって。

池上:いや、でも私だったら切りすぎたりすると思うので(笑)、やっぱり非常に。

岡上:ハサミは選んだことはないわね。普通に買ってきたハサミです。

池上:やっぱり洋裁をされていたり、もともと器用でいらした。

岡上:洋裁してたからじゃない? それはありますよね、きっと。

池上:細かい作業も多いですものね。

岡上:ええ。それからヤマト糊使ったの。ヤマト糊をちょっと固くするの。

池上:乾かしておくとか?

岡上:ほんのちょっと蓋を開けておくと固くなるじゃない。ほんのちょっとね。それでベタッと付けないで、チョンチョンと付けるの。そうするとちぢらないのね。だからべったりくっついてないのよ、これ。そうしないとちぢれちゃうでしょ。

池上:水分を吸収してキュッとなりますものね。

岡上:(チョンチョンと付けると)ならないでしょ。それがコツみたいね。

池上:それは最初の頃に何度かやり方を試されて?

岡上:ええ。自分でやってて、ベチャッとなっちゃったから、これはいけないと思って。ちょっと硬めにして貼り付けると、よく付いてベッタリいかないのね。

影山:シワが入ってないので、どうやってやられたのかなと。ちょっと浮いてるのは、剥がれてきているのかなと思ったけれども、もともと糊がついてない部分がふわっとなってるんですね。

池上:剥がれたんじゃないんですね。

岡上:ええ、ちょっと硬いとそうできるのね。それで案外よくくっつくのよ。

池上:粘度が高まるんでしょうかね。

岡上:そのヤマト糊がよかったの(笑)。

池上:それは非常に納得です。個展のお話に戻りますと、「じゃあ個展をしましょうか」という風に言われたのは瀧口さんから?

岡上:そうでしたね。両親に相談したら、反対だったの(笑)。それで「一人で全部するから」と言って。額縁はタケミヤで作っていただいて、額の寸法とかも自分で決めました。今みたいにマットを作品の大きさに切らないんですね。作品を直接ガラスに当ててマットで押さえるんです。そういうやり方でしたね。

池上:個展に出された作品というのは、実際に買いたい人がいれば買えるようになっていたんですか。

岡上:いえ、そんなこと。買うような人はいなかったし、そんなこと考えたこともなかったです(笑)。

池上:もう発表するだけで満足で。

岡上:そうです。作品は全部自分で持ってました。

池上:買いたいという人は現れなかったんですか。

岡上:そんな人! あの頃はいませんでしたね。

池上:値段も付けていらっしゃらなかった?

岡上:そんなこと考えてもみなかったです。先生もそれはお考えになってなかったと思いますよ。

池上:瀧口さんに差し上げた作品というのはあったんですか。

岡上:2点あったんですけどね、それが今はないのね。《変貌の一夜》というのと《忘れもの》という。《忘れもの》というのは、先生が付けてくださった題なの。これだけは題が浮かばなくて、先生にお願いして付けていただいたんです。

池上:今どちらもどこにあるか分からない。

岡上:分かりませんね。先生のお宅にあったのね。書棚のところに置いてあったのは覚えてます。だけどあとからいろんな方の作品も増えたし。お部屋も改造なさったみたいなので、どういう風になったかちょっと分からないですね。

池上:きっとどこかにはあるんでしょうね。

岡上:多摩美の方も分からないそうです。

池上:見つけたいですね。

影山:それはどのような作品だったんですか、《変貌の一夜》と《忘れもの》というのは。

岡上:それは、先生が選ばれました。

池上:気に入られた。

岡上:《忘れもの》と二つね。「お好きなのをどうぞ」と言ったら、先生がお決めになったの。

池上:どういう写真を使われていたんですか、その二つは。

岡上:《忘れもの》というのは、無地でした。

池上:無地というのは、黒羅紗の。

岡上:そうです、《忘れもの》は黒羅紗に3点貼っただけの、シンプルな作品です。もう一つの《変貌の一夜》というのは普通のコラージュです。(注:《変貌の一夜》は『机』1953年4月号と『カメラ』1956年3月号に図版掲載。《忘れもの》は『美術手帖』1953年3月号に図版掲載。)

池上:再発見したいですね。特に売るつもりでもなく個展をされたということですが、瀧口さんの周辺の作家さんたち、皆さんご覧になったと思うんですけど、反響や感想を聞いたりなんかは。

岡上:そういうのはあまり聞いていませんでした。

池上:個展の後に書かれた文章についてもお聞きしたかったんですけれども。雑誌で岡上さんのコラージュはよく取り上げられて、「私とコラージュ」という文章も(注:『机』1953年4月号、12−13頁)。これは1953年の4月ですから、個展が終わって……

岡上:これ『机』(注:1952−1960年に発行された紀伊国屋書店のPR誌)のでしょ。

池上:そうです。

岡上:それは北園さんから、「書いてください」というお話しがあって。先生に、「なんでもいいから好きなこと書いてみては……」と勧められて、それで書いたんです。

池上:北園さんというのは編集の方ですか、この雑誌の。

岡上:北園克衛さん。詩人と伺ってました。

池上:この雑誌に関わっていらしたんですか。

岡上:この雑誌の編集長をしてらしたのよ、北園さん。これは紀伊国屋から出てました。

池上:雑誌によく取り上げられたりされているので、すごく個展の反響があったんだなというふうに思っていたのですが。ご本人はそういう認識ではなかったですか。

岡上:あまりなかったですね。

池上:でもこの文章も、これ自体が詩のような感じで素晴らしい文章だなと思って。

岡上:そんなぁ(笑)。何を書いていいか分からないから。「好きなこと書きなさい」とおっしゃったので、自分なりに書いたんですけどね。

池上:すごく素晴らしい文章だと思います。金子(隆一)さんもたしか引用されておられるんですけど、コラージュ自身が岡上さんに向かってしゃべるような感じの文章ですよね。「私たちは自由よ」っていうフレーズが素晴らしいなと思って。

岡上:そうでしょうかね(笑)。若かったから書けたんでしょうね、きっと。もう少しこういう世界に目標を持ってたら、書くことも違ってたと思いますね。写真でどういう風に行くかも決まったと思うんですけど、結局それはできなかったですからね。

池上:でも逆にそういうはっきりとした目標とか、絶対こうなってやるというのがないから、それこそすごく自由に文章も書かれて、作品も作ることができて。それで、当時の方も、今拝見しても、(作品が)非常に新鮮に見えるのかなと思うんですけど。

岡上:そうでしょうかねえ。なんにもなかったのが良かったんでしょうか。思想的なものもなかったし。あんまり目標を持って、こうだ、というふうに傾いてなかったから、いろんなものができたんでしょうかね。自分のそのときの感性みたいなもんですよ。カンみたいなものよね、どれを選ぶかって。あ、これこれ! 《変貌の一夜》。

池上:ほんとだ、ここに載ってますね(注:『机』1953年4月号、12−13頁)。これはあまりコピーが良くないですが、なんとなく分かりますね。

岡上:それが先生、お好きだったの。

池上:『机』の原典を当たればもう少しいい写真が見られると思います。

岡上:作るとき、私、お座敷で作ったのね。座卓で座って。障子を開けると、廊下を通して、空と雲しか見えないんです。そういう家の造りだったのね。高台で、前にお家がなかったのよ。いつも、作りながら空ばかり見てました。空が作品と関係してるのかもしれないって思いますね。そのときは気づかなかったけれど、今考えると。だから金子さんたちが海外の展覧会に出してくださった時にも、「空を撮ってきて」とお願いしました。どんな空のもとで展示されるのかと思って。

池上:背景に空がパーッと広がっているものも結構よく使われてますね、写真で。

岡上:何もないところに空からすっと降りてくるような感じがするのよね、できる時って。

池上:最初、顔を切り取るのが面白かったとおっしゃってたんですが、逆に、顔を切り取ってしまって、顔がないものもたくさん作られていますね。金井美恵子さんの小説(『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』)のカバーになった作品だと思うんですけれども。《彷徨》(1956年)という。(注:この作品では、ドレスを着た女性の頭部が銀食器のボウルと差し替えられている。)

岡上:これはこの形が好きだったの、この女の人の。

池上:いいですよね、なんかすごくワクワクする感じで。

岡上:形がいいでしょ。これは、苦労したのは、この男性の手首のところでした。(注:女性が高く差し出した手を男性が取っているが、写真は男性の手首のところで終わっている。)

池上:手を伸ばしていて、握手してますね。

岡上:これ(男性の手首に貼り合わされた宝石の写真)をさがしたの。これはすごく時間がかかってるの。

池上:握手した男性の手から、アクセサリーみたいなものを。

岡上:宝石をね。そこをきれいに隠したかったのね。

池上:手がここでちぎれちゃったら不自然ですもんね。

岡上:面白くないでしょ? それはすごく探したの。

池上:これは適切な出会いがあるまでかなり待った作品なんですね。

岡上:それは待ったと思います。形はパッと置いて、すごくきれいだと思ったのね。だけどそれをどうしようかと思って、それは考えましたね。探したの、何かないかしらと。これちょっと流れ星みたいな感じでもあるでしょ。それに出会うのに時間がかかってますね。

池上:これは、ほんとに私も大好きな作品で。

岡上:きれいね。

池上:こういうきれいなドレス姿の女性を見て、若い女の子がときめくじゃないですか、ファッション雑誌なんか見て。そういう感じがすごくよく出てると思います。

岡上:あの頃は特にそうよ。そんなものがない時代でしたから。たまたまこの犬の写真があったので、ちょうど置いたんですね。

池上:これも貼り合わせているんですよね、取っておかれたものの中から。

岡上:そうなの。それは置いてあったと思います。

池上:夜の背景の上に女性をペタッと貼ってという。

岡上:きれいですよね。金井さんがその写真を撮影した人の名前を書いてくださった。

池上:リチャード・アヴェドン(Richard Avedon、1923−2004)と書かれていたと思います。

岡上:うちでネットで調べてもらいました。私は知らなかったんです。

池上:もとの写真もぜひ見たいと思うんですけれど。顔があるとないとでは雰囲気がすごく違うので。顔をよく取られてますよね。それは何か理由が。

岡上:その顔が合わないのってあるのよね、自分の作品に対して。だから合ってるのはそのままにしてるし、合ってないのは取っちゃうわけね。

池上:先ほどの《海のレダ》なんかは表情が合ってたから。

岡上:あれは表情を主にしてるわね。

池上:これなんかはこの女性の顔が。

岡上:あんまり合わなかったんじゃないかしら、自分の感覚にね。

池上:取ってしまって、これですとボウルというか。

岡上:ボウルだと思います。

池上:すごく豪華なボウルですけど、ボウルみたいなものを合わせてらしたり。ほかのところでも、これも私大好きなんですけど、《刻の干渉》(1954年)。

岡上:頭からその人、手が出てるじゃない? それ探すのにずいぶん苦労してるの。

池上:これはどういう写真だったんでしょうか。

岡上:ファッション雑誌で手とか手袋が出てるのがあったの。ちょうど肩の線と合うでしょ。「これ」と思ってそれを持ってきたんです。だけど継ぎ目を隠すものをまた探したんですよね。

池上:《イブ》(1955年)もそうですし、やっぱり首を取ってしまったものが多くて。頭部があまりお好きでないということもあるんですか。

岡上:何て言うの、通俗的と言うとおかしいけど、ただきれいだけではつまらないのね。何か表情があるとか、モデルさんでもすごく個性的な人と、あまりそうでない方がいらっしゃるから。

池上:首が何かにすげ替えられているという、そのポエティックな効果がすごくあるなと思って。先ほどの《彷徨》もこの作品も、私はすごく大好きなんです。

岡上:これはすごくきれいに入ったわ。それとこれは別なのよ。これは貼ってるのよ。これも貼ってるでしょ。で、これも貼ってるの(《刻の干渉》)。

池上:半月の。

岡上:そう、貼ってます。これは栃木(県立美術館)に入っています。小品でしたが私も好きな一つでした。

池上:ああ、そうですか。

岡上:これはわりに面白くできたわ。

池上:窓のところに、こちらもそうですけど、別の何かがニョキッと生えているという。

岡上:でもほんとに単純に分けると、きれいか、楽しいか、面白いか、哀しいか、四つぐらいよね。そういう雰囲気よね。あまり色々考えなかったから、単純にそういうふうに自分では分けたと思うわよ。でも始めに主になるものを決めても、それがどんな作品になっていくのか、自分でも分かりませんですね。何となくまとまってきて、複雑に見えてくるんですね。

池上:あとは廃墟のイメージとか。先ほどもちょっと「空襲のイメージと重なって」とおっしゃっていた、例えば《廃墟の旋律》(1951年)というものですとか。

岡上:これは渋谷の焼けあとを思い出したわね。

池上:これは、もともとは何の廃墟の写真だったんでしょうか。

岡上:これは日本じゃないと思うの。あの頃、戦争に関した写真がずいぶん出てましたでしょ。これは『LIFE』だったと思います。

池上:廃墟が世界中にたくさんあった時代なので。

岡上:ヨーロッパもそうでしょ。

池上:そうですよね。英語のアルファベットの看板ですか、何かがこの辺に見えますので。

岡上:あるでしょ? 日本じゃないでしょ。

池上:ないと思います。

岡上:なんかあの時代が出てるわね。こういう一枚の大きな写真が『LIFE』にはよくあったんです。

池上:当時の『LIFE』を探して、元になった写真を見つけたいといつも思うんですけど、『LIFE』はすごくたくさん出ているのでなかなか大変ですよね。

岡上:綾さん(注:The Third Gallery Aya代表、綾智佳)がMoMAに納品に行かれたでしょ。その時にMoMAのキュレーターが《恋路》(1953年)の裏を見て、綾さんを通して質問されたのね。裏が一部、二重になっているのはどうしてかって。私、裏のことはよく覚えていなくて、コピーを送っていただいたんですね。よく見たら建物の上まで空を貼ってあって、それが重なっていたんです。あの時はびっくりしました。裏まで念入りに見たことはなかったですから。その裏の記事も調べておられたようです。

池上:ものによっては、ページ数が入っているものもありますものね。

岡上:そうなの。『LIFE』でしたら、記事でいつのものか分かりますよね。でもこちらは、そんなこと考えたこともなかったでしょ(笑)。びっくりしましたね。

池上:雑誌があって、好きなイメージ、写真を切り抜かれて、あとは置いておかれたんですか。

岡上:写真?

池上:いえ、古雑誌の方です。

岡上:そんなのもう捨てました。

池上:それがもし残っていれば、岡上さんの秘密が(笑)。

岡上:分かるのよね。そういう考えがなかったわね、残しといてどうとか。今こういうふうになったから、皆さんに聞かれて、「ああ、置いておけばよかった」と思うようなことでね。

池上:当時は、もう用が済んだから、という。

岡上:そうでしたね。だから何月号のどうとかいうのは全然覚えてないですよね。

池上:コラージュを全部で100点以上作られているので、それに使った古雑誌は結局、何冊ぐらいあったんでしょうね。

岡上:だいぶあったでしょうね。要るのだけ取ったら捨ててましたから。資料として残すとか、そういうことは考えていませんでした。あの頃そういうことは先生もおっしゃらなかったですね。「どこを貼ってあるんですか」って聞かれた覚えはあるんですが、どの雑誌の写真かと聞かれた覚えはないですから。

池上:そうでしょうねえ。

影山:1冊からだいたい何ページぐらい切り取っておかれるんですか。

岡上:良さそうなのを切り取って、置いておいて。例えば、これだったらバナナですか、これ面白そうだから置いとこうとか、それを切って小さい箱に入れておくの。顔を入れた箱とか、手を入れた箱とか。

池上:結構こわい感じですね(笑)。

岡上:そういうのが置いてあって、たまたま合うものもあるし、使わないのもありますけど。これは、このテーブルと、この踊ってる人の上半身と下半身に分けて切って貼ったんです。だからあまり写真を使ってないですね。

池上:《変貌の一夜》という。

岡上:ええ。これ写真は2枚しか使ってないですよね。

池上:ここは頭とか、ここは手というふうに、箱がいくつぐらいあったんですか。

岡上:いくつかあったわね。顔と手と、それから動物。猫とかネズミ、そういうのがありましたね。欲しい動物を探したときもありました。馬がほしいとか思ったら、「馬の載ってるのはないかしら」って、買いに行ったことはありましたね。

池上:じゃあ1冊あると、いくつかは取れるものがあるという。

岡上:何かしら取れましたね。

影山:そのパーツの入った箱はもう残ってないんですか。

岡上:そんなもの! 全然ないわ(笑)。

池上:それももったいないと思います。ところで、武満さんとか瀧口さんを通じて実験工房の方たちとも?

岡上:それがないの。

池上:交流みたいなことはなかったですか。

岡上:ないですね。先生もあまり実験工房のお話はなさらなかったわね、わたくしに。私も実験工房がどういうことをしてらっしゃるのか、詳しくは知らなかったし。始めの頃は武満さんが作曲をしてることも知らなかったの。音楽の勉強をしてるとは聞いていましたが。作家さんとの出会いというのは、あまりなかったですね。

池上:彼らは岡上さんの個展を見てらしたんじゃないかと思うんですけど。

岡上:でもそんなにいらしてるような様子ではなかったですね。

影山:岡上さん、お写真をどなたかに、大辻清司さんには習ってないですか。

岡上:大辻さんを紹介してくれることになってたのね。だけどそこまで行かないで終わりました。写真は、知ってる方に習ったの、現像とかは。現像は自分でしましたからね。写真の方に行ってればね。ファッションかなんかの写真はやりたかったですね。

池上:ぜひやっていただきたかった。

岡上:でもそういうふうにいかないというのは、そうならないのよね。やっぱりいく人って、そういうふうになっていくわ。私はそういうふうになっていかなかったですね。この年になると、そう思いますね。

池上:最初の個展の後、また何年か制作を続けられて。

岡上:ええ。2回目のときに写真も展示して、それで「じゃあ大辻さんについたら」ということになってたんですけど。

池上:最初の個展から2回目の個展になるまでに、コラージュ自体も、作品の作り方ですとか、作風というのでしょうか、少し変わっていくのかなと思ったんですが、いかがですか。

岡上:私、そういう意識はあんまりなかったですね。

池上:どんどん複雑になっていくのかなという気はしたんですね。

岡上:それはありますね、きっと。

池上:最初は、こういう羅紗紙にポンポンとイメージを置かれて、強いインパクトがあって。背景を『LIFE』とかから取られるようになって、組み合わせるイメージですとか、1953年の個展の後ですか、より複雑になっていくのかなと思ったのですけれども。

岡上:意識したというより、自然にそういうふうになっていったのかもしれません。

池上:どんどん、今度はこういうふうにしてみよう、というのがきっとおありになったと思うんです。

岡上:それはあるでしょうね。一度個展をやって、こういう美術の世界も少しは分かってきましたし、それは影響はありますよね、きっと。展覧会も見に行くようになったし。それはだいぶ違いますね、感覚的にも。

池上:展覧会はどういうものを見に行かれましたか。

岡上:文化学院に行きだしてからは、お友だちと二科展とか色々行きだしたんですけど、それまではそんなに行ってないですね。

池上:展覧会に行かれるようになって、この展覧会はよく覚えてるなとか、印象深かったなというものはありますか。

岡上:院展がわりに好きでした。あと、先生がいらっしゃるとき、たまにお供して行ったりしましたけれど。それからあの頃はデパートで大きいのがあって、それは行きましたね。芸術家との交流というのはあまりないんですね。学院のお友達くらいでした。

池上:ちょっと意外な気もします。話は戻ってしまいますが、東京国立近代美術館の展覧会(「抽象と幻想:非写実絵画をどう理解するか」展、1953年)にも作品を10点出されて。当時、もう作家さんとして活躍されていたんだなというふうに、キャリアを見ると思ってしまうのですが。

岡上:そう思うでしょ。でもそんなんじゃないんです。展覧会のことは私は知らなかったんですね。瀧口先生からお電話で、「2、3点持ってきてください」って言われて、それで3点ぐらい先生のところへお届けしたんです。先生も入ってたでしょ、選考委員というのに。そこでお見せになったみたいなのね。だけど全然、作家活動はしてないでしょ。作家として世に出ているわけでもないですし。植村鷹千代さんとか、一部の方は「面白い」ということで推してくださったようです。他にも2、3人、候補に上がっていたそうです。後で聞いた話ですが。あの頃、本間正義さんという学芸員の方がいらしたんですね。作品をお預けしてしばらくしてから、先生から「本間君が行きますから、あなたが良いと思うのを4、5枚見せてあげてください」ってお電話があって、私お見せしたんですね。畳の上に並べてね。そうしたら本間さんが座って見てて、「まだありますか」っておっしゃって。私、自分がいいと思うのを14、5枚並べたんですね。そうしたら10枚ぐらい選んで持って帰られたんです。それから出展が決まったんですね。

池上:その展覧会は見に行かれたんですよね。

岡上:ええ。でも、その展覧会場も大きな絵ばっかりなのね。小さな写真はなかったと思います。わたくしが見に行ったら、自分のがないのね、絵ばっかりあるでしょ。どうなってるのかしらと思ったら、展示室というより少し広い応接室っていう感じの、休憩室みたいな部屋があったんです。昔の京橋の美術館でした。そこにソファがいくつかあって、休めるようになってたのね。その部屋に私の作品だけが展示してあったの。父はそんなこと知らないで行ったでしょ。そしたら、「おまえのはない」って電話がかかってきて(笑)。「もうちょっと歩いたら休憩室があるから……」って私が説明したのを覚えてますけれど。

池上:そこへ並べたという意図は何だったんでしょうか。

岡上:別にしたんでしょうね。

池上:それは絵じゃないからですか。それとも……

岡上:絵じゃないからじゃない? ほとんど絵でしたから。あとは立体作品と、版画が少しあったかしら。あのとき写真はなかったように思うの。写真というよりコラージュとして展示されたんだと思います。そうしたら、『美術手帖』に上甲さんという方がいらして。

池上:上甲ミドリさん。

岡上:ええ。あの方があのときご覧になって。「面白かったわよ」って、おっしゃってくださって。女の方に初めてほめられて、嬉しかったですわ。

池上:どこか批評で書いてくださったんですか。

岡上:『美術手帖』で、私のを取り上げてくださったの。阿部展也さんとか植村さんも取り上げてくださったけど、一部ではやっぱり、名前もない、それこそ女の子の、どうかな、というのがあったみたいですよ。だけどあそこへ出るって大変なことでしょ? それで私もびっくりしたんですが、でも当時はその大変さをよく分かっていなかったですね(笑)。

池上:ちょっと不思議なというか、面白い経緯ですね。

岡上:そうなの。だからそこの部屋へ行かない人は見ないで帰られることになりますよね。

池上:その扱いにはちょっとがっかりされましたか。

岡上:そんなの全然ありませんでした。

池上:欲がなくていらっしゃる(笑)。

岡上:だってその方がかえってまとまって見てもらえるので良かったと思いました。作品が小さいでしょ。

池上:確かにちょっと小さい空間でゆっくり見るのにはすごくいいですよね。

岡上:いいとこですよ、かえって。休んで見られて。立派なソファもありましたから。

池上:逆に印象に残ったりして、ということはありそうですね。

岡上:先生や本間さんが考えられたんじゃないかしら。本間さんが工夫してくださったと思うの。2000年のときに、わたくしあの方いらしたらと思ったけど、もういらっしゃらなくて。あの方が選んだのも展示したので、見ていただけなくてほんとに残念でした。

池上:でも「もっとありますか」と聞かれて、10点も持っていかれたということは、本間さんはとても気に入っていらしたんでしょうね。

岡上:そうでしょうね、きっと。

池上:そのあとも積極的にどんどんこういうことをやっていこうというふうにはならずに。

岡上:そんなにはねえ。私やっぱり洋裁の方をしたかったのね。ファッション関係とか。そっちの方に自分では惹かれていましたね。

池上:では、2回目の個展(「岡上淑子個展」タケミヤ画郎、1956年5月21日-31日)ですけれども、これは最初の個展以降もちょくちょく瀧口さんに作品を見せておられて。

岡上:そうです。それと写真ですね。「今度は写真も一緒に出したらどうですか」とおっしゃってくださって、それで写真も見ていただきました。

池上:さっきおっしゃっていた、なんとなくコラージュの方に限界を感じて、というのをもうちょっと詳しくお聞かせいただけますか。

岡上:なんか同じことやってるような気がしてきて。自分で飽きてきたというのかしらね(笑)。(コラージュの素材は)人のものからでしょ。だからもっと全部自分のもので作りたいなと思って。そんな時に「じゃあ写真はどうですか」って先生に言われて、写真をしたんですけれど。でもどういう写真というのは、まだそのときははっきりしてませんでしたね。ファッションは撮りたかったですけどね。ドレスのひだが好きだったの。あの陰影がね。いろんな生地で違うじゃない? ああいうのを撮って、というイメージはありました。でもね、やっぱり時代がありますよねえ。今だからこういうのを見てもすぐ反応があるけれど、あの頃はこういうのを見たって、お友達にもそんなに理解されなかったですね。

池上:じゃあ浅香さんが「面白い」と思ってくださったのは、ちょっと珍しいというか。

岡上:そうです。だから先生にお会いしなかったらできてなかったですよ、きっと、これはね。先生が「続けてごらんなさい」って勧めてくださったので、作品ができたんですから。何かあると思ってくださったんだと思いますよね。

池上:なにかどころではないと思うんですが(笑)。

岡上:その何かは今でも分からないですね。

池上:写真の方は、前もこちらで拝見したと思うのですが。

影山:やっぱり普通の写真じゃないですよね。やっぱりシュールな。

岡上:これの最初のとこにありました(《夢のしずく》)。

池上:このあたりですね。

岡上:これは栃木県立美術館(《少女》、1955年)、これがヒューストン美術館に入りました。

池上:木を見上げたような感じの写真(《風》、1955年)。

岡上:木が風にゆれるままにして、シャッターを開けておいたんですね。

池上:それは中森(康文)さんが選んでいかれたんですか。

岡上:もっと前にヒューストンが選んだんです。あのときに写真を2枚。これともう1枚だったと思うの。写真美術館がこれで。

池上:じゃあ全部、この3点はちゃんと収蔵されているんですね。

岡上:ええ、入ってます。

影山:ヒューストンに《女》と《風》が入ってますね。

岡上:これが《風》。これは何と書いてあるの?

影山:《女》と《少女》。

岡上:それ《女》って書いてある?

池上:はい。コラージュは100点以上あったわけですけれども、写真の作品は……

岡上:写真はそんなにはないですね。もうネガは捨てちゃったの。

池上:なんてもったいない(笑)。

岡上:置いとけばよかった。

池上:たくさんありましたか、ネガは。

岡上:いろいろ写したので、大分ありました。

影山:リンゴに釘を刺したものとか。これは岡上さんのアイデアですか。

岡上:ええ、懐中時計とリンゴとか、そんなのも写してたけど、そんなに見てもらうこともないと思って、写真も大分処分しましたね(笑)。

池上:残念ですね。こちらの写真(《りんごと釘》)はいま高知(県立美術館)に入っているんですか。

影山:いや、入ってないですね。

岡上:これは出さなかったと思います。

影山:これは入ってます(《手》)。

池上:これは拝見したのを覚えています。

影山:これとおばあさんの写真は入っています。

岡上:これはあそこだわ、栃木。

池上:二重写しみたいになっているんですね。

岡上:焼き合わせてるの。

影山:多重露光ですね。

岡上:同じモデルさんよ、この人と。お友だち。これは帽子のお友だちで。帽子を作りに行ったときに来てた方。ちょっとエキゾチックな人だったの。

池上:コラージュと違って、写真というのは、テクニックといいますか、技術的にはどういうふうにお感じになりましたか。

岡上:難しいわね。いろんな技術があるでしょ。だけどそんなのも習ってないし。だから大辻さんに付いたらまた色々教えていただこうと思っていました。でも教えてくださった方はね、舞台の写真なんかを写していた方で、現像とかそういうのを教えてくれて。暗室も貸してくださったし。

池上:現像するときはそこに出かけられて。

岡上:はじめはそうしてましたけれど。うちの納戸をそういう部屋にして、うちでも現像するようになりました。

池上:暗室をつくられたんですね。

岡上:ええ。写真はやりたかったので。

池上:それはお父様、お母様は。

岡上:写真は、父はあまり言わなかったですね。これ(コラージュ)のときは言ったけど。

池上:自分の趣味でもあったから、「写真ならいいよ」という感じですか(笑)。

岡上:そうです。だからカメラは買ってくれたんですよ、ローライフレックスを。それで写しました。

池上:お父様は、実は応援もしてらしたのかなという感じがしますけど。

岡上:写真は自分が好きで若い頃は随分写していましたから。

池上:大辻さんに師事しようかというお話はあって、実際にされなかったというのは、何か理由というか。

岡上:母が体調を崩しましたの。私が写真をやりかけた頃から少し悪かったんです。で、家事をしなければならなくなって。あの頃は掃除機もなかったし、洗濯機ももっと手間がかかったのね。それに、お客さんの多い家でしたし。そんなことで、写真どころではなくなったんですね。家のことに追われて。

池上:おうちのお手伝いをしないと。

岡上:そう。そんなことで何もかも中途半端になりましたね。コラージュだけは、これを始めて、ひとつ終わったけれど。あとは全部中途半端で終わりました(笑)。

池上:2回目の個展の翌年にご結婚をされるんですよね。

岡上:翌年になってましたか。

池上:1957年と資料では見ました。

岡上:1957年……、そうですね。写真をやめたんですね。そして、結婚しましょうかということになりましたですね(笑)。

池上:プライベートなことはあんまり、とおっしゃっていたのですが、差し支えない範囲で、藤野一友さんとの出会いとか、そういうことを。

岡上:文化学院の村井さんの教室で一緒だったんです。彼はもう卒業していて、卒業生で教室に来て描いてたんです。私は時々しか出ていませんでしたから、グループでお付き合いをしてました。

池上:でも出会い自体はわりと早くされていた。

岡上:そうですね。あの頃はみんなグループで、お教室で遊んだり話したり、どこかへ出かけたりしてましたから、そういうお付き合いでした。私が最初のコラージュ展をしたときも彼は知らなかったんです。案内を送ったらびっくりして。それから少しお付き合いするようになっていって。私が瀧口先生に彼を紹介したんです。それで彼もタケミヤで(個展を)しています。

池上:藤野(一友)さんの絵もやっぱりシュール的な感じだと思うんですけれども。

岡上:似てますよね。どこか共鳴するところがあったと思うんですけれどね。

池上:お互いに作品について感想を言ったりとか。

岡上:絵については彼からよく感想を聞かれました。私流に批評しましたね。たしかに画家として優れていたというか、独特なものをもっていましたね。私と違って、本当に芸術家でした。描くことには自信があって、自分では職人だと言ってました。彼が絵を描いて、私が写真をして、作風がどことなく似てましたでしょ。だから理解し合えて良いかと思ったのですが。それはまあ夢でしたけれどね。結婚しましたら家で描きますからね。そうすると自分のことにはならないんですね。一日いるわけでしょ。それで父はサラリーマンの生活スタイルでしょ。両方に人もみえて。

池上:じゃあご結婚されてからもご実家のお手伝いを。

岡上:ええ、一緒に住んでましたから。だから結局、自分が引いていくしかなかったんですね。

池上:お仕事が増えるだけという感じになりますよね。

岡上:うちのことがね。自分のことをする余裕はもうなくなったんですね。そして子どもができましたしね。だから結局、彼を支える形になっていきました。

池上:日々忙しくされているなかで、写真だったり、コラージュだったり、「またやりたい」という気持ちはあまりなかったですか。

岡上:あんまりなかったですね。その頃あの方がみえましたの。寺山さん。

池上:寺山修司さんですか。

岡上:ええ、突然みえて。寺山さんの詩と私の挿絵で本を出しましょうと言ってきてくださったんです。彼は「君の好きにしたら」でした。私、迷いましてね。瀧口先生に相談しましたの。そしたら「ちょっと君とは合わない」とおっしゃって。私、あんまり彼の詩は知らなかったんですけど、色々有名だったでしょ。出してみたいとは思ったんですけれど、先生が勧めなかったんですね。それから少しして「僕が書きますから」とおっしゃってくださったんです。

池上:(寺山さんに対する)お断りの返事を?

岡上:そうじゃなくて、先生が詩を書いて、私の挿絵(コラージュ)と一緒に出しましょう、ということでした。

池上:寺山さんのではなくて。

岡上:ええ。書いてくださるとおっしゃったんです。それで寺山さんの方はお断りしたんです。だけど新聞の挿絵は一つ作りました。

池上:それは拝見しました。寺山さんが書いて、岡上さんのコラージュで。

岡上:あれは寺山さんからお話があって作りましたの。

池上:本みたいな企画ですよね、挿絵というか、コラージュの詩集というか。寺山さんの方の企画はなくなって、瀧口さんのとの企画は結局……

岡上:企画というほどはいかなかったですが。先生なかなかお書きにならない方だったから。あの頃一時やめられたでしょ。お書きになるのを。「書けなくなった」とおっしゃったことがありましたから。ただ、「このぐらいのサイズの本にして」とか、それはお話したことはありましたけれど。

池上:じゃあ具体的なプランは一応あったけれども、結局実現はしなかったという。残念ですね。寺山さんのは合わないからやめておけ、というアドバイスの真意がちょっと気になりますけれども。

岡上:でも寺山さんとちょっと違うわね。

池上:確かにそれはそうかなと思います。

岡上:私も、そう言われてあの方のを読んでみましたけれど、「ちょっと違うかな」とは思いました。でもあの方もすごいですよね、才能があって。

池上:それは全然知らないお話でした。

岡上:そういうことで、自分は引いていきましたですね。

池上:そのあと高知に移られて。

岡上:はい。

影山:ご家族で移られたんですか、こっちには。

岡上:そうです。東京で父が亡くなって、それから色々事情ができて離婚しまして、わたくしと母と息子と三人でこっちへ帰りましたの。

池上:移られてからは、お仕事はされてはなかったんですか。

岡上:ちょっと身体をこわしてまして、それで2年ぐらい養生してました。よくなってから少し勤めましたが、続きませんでしたね。それでお友だちが、「それだったら子どもを集めてお絵かき教室、やってみたら」って言ってくれて。それじゃあ今から絵を習ってやってみようかしらって、ちょっと習ったんです。けど結局それも駄目になって。

影山:どちらで習われたんですか。

岡上:山本梅尾さん。

影山:日本画?

岡上:日本画でね。2年ぐらいでしたか。でも母の病気や、絵にも疑問ができたりして、続かなかったですね。

池上:じゃあ瀧口さんとのお付き合いは、文通で。

岡上:高知に帰ってからしばらくの間は、お電話やお手紙などはしていましたが、先生もご病気なさったりして、なんとなく疎遠になりました。

池上:時に東京に行かれたりということもあまりなさらなかったですか。

岡上:あまり行かなかったですね。

池上:そういう短い作家生活については、そのあと自分の中では「そういう時期もあったなあ」というぐらいですか。

岡上:そんなところね。だからこっちへ来てそういうことを話したことはなかったですね。過去は過去ということでしたね。だけど2000年からこんなふうになってきましたの。

池上:そうですよね。その前に目黒区美術館の「1953年ライトアップ」という展覧会(「1953年ライトアップ─新しい戦後美術像が見えてきた」展、目黒区美術館 主催: 多摩美術大学, 目黒区美術館、1996年6月8日-7月21日)があって。

岡上:あの時、美術館では私の住所が分からなかったんですね。それを実験工房の秋山(邦晴)さんという方が、浅香さんに聞いて知らせたそうです。それで美術館から連絡があって、取りに来てくださって、何点か出したんですね。そのときに(東京都)写真美術館(当時)の中原淳行さんがコラージュを見られて、以前から金子(隆一)さんが私を探してらしたそうで、金子さんに報告したのね。「住所が分かった」って。それで金子さんからお電話があって、見にいらしたの、お二人で。あれにはびっくりしましたねえ(笑)。あまりにも唐突なことで。

池上:目黒区美術館の方にまず出されたときに、「今になって」というか、予想はしていらっしゃらなかったんですよね。

岡上:ええ、そうです。思いもよらないことでした。

池上:でも作品は、大事にとっておられて。

岡上:置いてあったんです。東京でのいちばんの思い出でしたから。でもしまったままで、ほとんど見てなかったですね。あまり見るのもね、なんかこう忘れたい部分ってあるじゃないですか。でも開けないのが良かったんですって。

池上:作品の保存のためには(笑)。

岡上:開けなくてよかったって、金子さんに言われました。

池上:どういうところに入れて保管されて。

岡上:茶箱に入れて。そしたらあんなに。全然きれいでしょ。あんまりいじらないのが良かったんじゃないでしょうかね。でもお話があって出しましたでしょ、目黒に。それからこういうふうになるなんていうことは考えてもいなかったですね。

池上:目黒だけでしたらね、グループ展というか、たくさんの作家さんのなかの一人ですけど。

岡上:そうです。私、見に上京しましたの。そうしたら実験工房の北代(省三)さんなんかとご一緒の部屋でした。

池上:皆さんとお話をされたりは。

岡上:それはなかったですね。一人で行きましたから。

池上:ではオープニングに行かれたのではなくて?

岡上:いえ、そうじゃなくて。

池上:展覧会が開いてから。

岡上:そうです。

池上:やっぱりその当時のことをなつかしくご覧になりましたか。

岡上:ええ、それはなつかしかったですね。

池上:まさに1953年ですものね、この展覧会。

岡上:だけどそれは、それで終わると思ってましたからね。回顧展みたいなもんでしょ。実験工房なんかも今はいろいろなところで紹介されていますね。

池上:されていますね。岡上さんへの注目も高まる一方なんですが。

岡上:そんなこと考えてもいなかったです。2000年の第一生命での展覧会に金子さんが推してくださってから、こういうふうになってきました。

池上:金子さんが写真美術館にいらして、行方を探されていたという。

岡上:そうなの。私は全然知りませんでした。

池上:第一生命ビルでの個展は、岡上さんの44年ぶりの個展ということになるのですけれども。

岡上:ええ。初日の日に行ったとき、誰も来てなかったのね。ギャラリーの中に入ったでしょ。私、作品に取り囲まれて立ちすくみましたね。「自分で、これ作ったのかしら」って(笑)。ほんとそんな感じでした。あんまり離れてたでしょ。だから「こういうの作ったんだ」とあらためて思って、見始めたときは別の自分が作ったのを見てるようでした。

池上:あらためてご覧になってみてどうでしたか。

岡上:「どうしてできたのかしら」と思ったですね。あのときの感覚ってすっと戻ってこなかったですね。それだけ離れてたし、距離があったんでしょう。年月ってそういうもんね。自分も変わりましたから。

池上:距離をとってあらためてご覧になって、やっぱり良い作品だなと思われましたか。

岡上:良いというより、まあ面白いっていうところでしょうか。良い時代を過ごしたというか。考えてみると、あれを作っている頃がいちばん自分らしかったわね。好きなことができたし。それは思いましたね。いちばん自分らしく生きたなって、あの頃は。

池上:作品の選定、選ぶのは金子さんが選ばれたんですか、どれ出しましょうというのは。

岡上:写真美術館の方と、第一生命ギャラリーの方たちとご相談なさって。それで決められたみたいです。お任せしてましたから。

池上:手元に持っていらした作品を一度全部お渡しして、そこから彼らが選んだ。

岡上:そうですね。写真美術館にしばらくあったんです。金子さんは色々当たってくださったんですって。だけどなかなか展覧会をしてくれるところがなかったそうです。

池上:ギャラリーだけでなく、ほかのところでも。

岡上:なかなかなくて、置いてあったら、たまたま第一生命で、埋もれた作家展っていうのがあって、わたくしじゃないのが決まっていたそうです。何かの都合でそれができなくなって、今すぐ揃うものはないかということで、たまたま金子さんのところにお話が来て、それでこれが決まったそうです。だから第一生命も初めからこれを予定していたわけじゃなかったのね。どなたのか、聞きもらしましたけれど。

池上:今だったらもっといろんな場所が手を挙げて、「うちでもやりたい」ということになりそうな気がします。

影山:すべて並べて見てみたいという気持ちがあります。

岡上:だから運が良かったんですね。広いですからね、あそこ。ずいぶん並べましたよね。

池上:何点ぐらい並んだんでしょうか。

岡上:30点以上いったでしょうね。50点ぐらいあったかしら? 私、それも写してないのよね(笑)。

池上:残念(笑)。

岡上:どなたか撮ってるんじゃないかしらね。

池上:そう思いますけどね。

岡上:そのときに上甲さんもいらしてくださったの。

池上:じゃあ上甲さんにとっても40何年ぶりに。

岡上:そう。ほんとなつかしかったですね。お友だちもその頃はまだ皆元気で、来てくださって。クラス会みたいだったですね(笑)。

池上:それで、「ああ、こんなにすごい作品を作ってたんだ」ということがいろんな人に知れて。

岡上:それほどのことはなかったと思いますが…… 展覧会は10月からでしたが、決まったのは5月で、その打ち合わせに私も上京したんです。でもその時、金子さんと会場を見に行ってあまり広いので、どうなるかと思いました。タケミヤは店先のこじんまりしたギャラリーで、そこで2度しただけでしたので、この広い壁面に作品がもつかしらと本当に不安でした。どんな反響があるのかも、正直なところとても不安でしたの。古い作品でしょ。それで金子さんに何度も「大丈夫ですか」って聞きました。そしたらその度に「大丈夫です」ってきっぱりおっしゃったので、それで気を取り直してましたの。ちょうどその時、国際交流基金の関係でヒューストン美術館のアン・タッカ−さんと石渡真弥さんたち(注:Nazraeli Pressの編集者)が来日していて金子さんが作品を見せたのね。それでこれができたの。その時私、お二人に初めてお目にかかりました。

池上:英語の作品集。(Drops of Dreams: Toshiko Okanoue: Works 1950–1956, Nazraeli Press, 2002)

岡上:石渡さんが、コラージュを見て出版したいということになって。タッカーさんが、ヒューストンで展覧会をしたいとおっしゃって。その頃から動きだしましたね。

池上:あちらも目のつけどころがいいし、目をつけたら動きが速いですよね。ポンポンと話が。

岡上:そうですね、動いたっていう感じよね。わたくしから言うとすごくラッキーだったわけね、作品が。

池上:そうですね。展覧会は、本物が観られるという意味ではいいんですけど、やっぱりちゃんとした図録が残らないと、展覧会が観られなかった人に伝わっていきにくいところがどうしてもありますね。だからこういう作品集が出たというのはほんとに素晴らしいと思います。

岡上:これでしょ。わたくしもほんと嬉しかったです。これを持ってお墓参りへ行ったんですよ、瀧口先生の。

池上:ああ、そうですか。

岡上:(瀧口先生とは)出せなかったでしょ。「こういうのがでました」というんで。富山の(県立近代)美術館に行って、杉野(秀樹)さんに連れて行ってもらいました。

池上:それは喜んでいらっしゃるでしょう。装幀もすごく素敵ですし、ほんとにいい作品集ですね。

岡上:石渡さんがこれを作ろうと思ってくださったのがよかったのね。

池上:それと前後して、東京の近代美術館ですとか、写真美術館ですとか、いろんなところに作品が入るようになって。

岡上:近代美術館のほうは、前に出したのを納めましたの。それが残ってたので。

池上:どれを出したかというのが。

岡上:そうです。

池上:国内の美術館だけではなくて、ヒューストンもそうですし、ニューヨークの近代美術館にも入ってますよね。

岡上:MoMAね。あれはね、日本の招きでリサーチに見えていたMoMAのキュレーターの方が、大阪の綾さんのギャラリーに来られたんですね。

池上:サードギャラリーの綾さん。

岡上:ええ、そうなの。その前に私、「変容」という個展をしたので、オリジナルがまだ置いてあったんですね。それでオリジナルの《恋路》(1953年)と他の方の作品を含めて、キュレーターの方に見ていただくのに、綾さんが展示してあったそうです。そこでお話しが進んで収蔵が決まったのね。《恋路》のオリジナルがたまたまギャラリーにあったのが、本当にラッキーだったと思いましたね。

池上:英語のタイトルが《In Love》という作品ですね。先日MoMAで掛かっていたので見ました。

岡上:「恋路」って「In Love」になるの?

池上:うーん、微妙に違う気がします(笑)。

岡上:オリジナルの題は《恋路》になってるの。

池上:でも確かに通りみたいな写真で、あれもちょっと複雑というか。

岡上:あれが1枚だけです。

池上:大きい顔があって、遠くにも人がいて。ちょっと遠近が不思議な感じの。人のサイズがバラバラなので、ちょっと不思議な印象の作品ですね。それがニューヨークのMoMAに入って。

岡上:それの裏について聞かれたんです。

影山:あとはどれですか。2点入ったんでしたか。

岡上:1点です。

池上:こちらだけですね。この冬にMoMAで、「東京」というのをテーマにした展覧会(「Tokyo 1955-1970: A New Avant-Garde」展、2012年11月18日〜2013年2月25日)をやっていて、この作品も出ていて。「ああ、岡上さんの作品もちゃんと出ている」と思って。

岡上:いらしたの?

池上:はい。それも大きいグループ展というかテーマ展なので、いろんな作家の方の作品が少しずつ出ているというものだったのですが、「ああ、ちゃんとこれも出してる」と思って、嬉しかったです。

岡上:そうでしたか。その前の展覧会のときは、これと、石内(都)さんのと、オノ・ヨーコさんの3点が出ましたね。オノ・ヨーコさんて、いろんなことなさっていらしたんですね。

池上:そうですね。ニューヨークのMoMAに作品が入るというのは、どんな作家でも、それが最終目標というと言いすぎかもしれませんけれど、やっぱりすごいことですよね。

岡上:そう言われました、綾さんに。「MoMAですよ」って言われたときは、「はあ?」とかって。一瞬「モマ」っていいう言葉がピンと来なかったですね。信じられないようなことですものね。後からゆっくり分かってきましたけれど。

池上:やっぱりほかのどこに入るのとも違う特別な意味が、MoMAにコレクションされるというのは、作家の方にはあるんじゃないかと思うんですけど。

岡上:そうですか。そういう場所でみんなに見ていただけるのは嬉しいですよね。いろんな国の方があそこに見にいらっしゃるでしょ。

池上:そうです、そうです。やっぱりご自分では全然そんなことは考えていらっしゃらずに作っていたものが、何十年後にこういうことになって。

岡上:そう、ずっと流れていくのね。なんか不思議な気がするわね。だから作品の持っている何か流れというの、運命的なもの? それが作者を離れてあるんじゃないかって、それぞれに。そんな気がしましたね。

池上:作品がひとつの命を持って、しかるべきところに。

岡上:そう、行くのね。だって《恋路》というのは、私好きで置いてあったんですよ。どこかに収蔵していただいていたら、ないわけでしょ? あれは先生もお好きだったの。それで私、置いてあったんですね。

池上:いろんなところに作品が。この高知県立美術館にもたくさん作品が入っていますし。作品をどこに入れようというのはどうやってお決めになったんですか。

岡上:それはね、金子さんが、どうしても私が欲しいのはよけてください、とおっしゃったの。で、少し置いてありました。写真美術館が選んで、それから(栃木県立美術館の)小勝さんも選んで。そういう風にしたですね。

池上:今はお手元にまだ少し残っていますか。

岡上:ええ、少し。

池上:じゃあやっぱり最終的にはそういう公的なところに入るのが、岡上さんとしても。

岡上:そうしたら残りますね。ただ、見ていただく機会は限られてきますわね。

影山:また月末から展示させていただくので。(注「高知の美術 ア・ラ・カルト―所蔵品による」展、2013年3月16日〜4月7日)

池上:そうやってファンが増えていくというのが素晴らしいなと思います。

岡上:若い方がね。

影山:そう、展示するたびに若い方のファンが増えていっているというのはあります。

池上:問い合わせとかありますか。

影山:「本はないですか?」とか。

岡上:私の頃は、若い人は全然、そうじゃなかったから、タケミヤでやった頃は。写真雑誌で紹介されたのがほとんどで、見る方も限られていましたね。

池上:ですよね。でも厳密に言うと写真作品ではなくて、やっぱりコラージュ作品なので。

岡上:だから美術雑誌のほうでしょ。でも素材が写真だから、写真雑誌で紹介されてました。その人たちはご存知だけど、ほかの方はあまりご存知なかったと思いますね。

池上:受け入れ側の感性が、当時はまだ追いついてなくて、50年、60年たってようやくというくらいですね。

岡上:いまこういうのって珍しくないじゃない。コマーシャルを見てても。

池上:そうですよね。

岡上:だからあまり不自然じゃなく入っていくんじゃない? 若い方に。

池上:そうかもしれないですね。

岡上:そう思うんだけれど。

池上:絵なんかより写真の方がずっと入りやすいというのは、今の若い人はそうみたいなので。

岡上:ああ、そうですか。

池上:絵は逆に、自分たちは描かないので分からないっていう。写真だと気軽に。

岡上:写真はね、今すぐ撮れますもんね。それは言えますね。私たちの頃は、ピントを合わして、写るかどうかがまず問題で。写ったというだけで嬉しかったですよね。今は全部機械がやってくれて、きれいに仕上がりますからね。

池上:今は自動でなっちゃいますからね。昔は全部合わせて、現像するまで分からない。

岡上:私の頃は、写ったというだけで大変だったの(笑)。でも、苦労するからかえって面白いですよね、その頃は。距離から絞りから。

池上:こういうふうに今いろんなところでちゃんと評価されて、素晴らしいと思います。私たちの今の感覚で見ると、これだけの作品を作られた方が制作から遠ざかってしまって、やっぱりちょっともったいないような気がどうしても…… 勝手な感想として思ってしまうんですが。

岡上:そんなことはないですよ(笑)。あの時期にそれだけできたって、そういうものじゃないかしら。だって作家さんだってずっと一生やってて、すごくいい時期とそうじゃないという時期もあるでしょ。だから私がもしずっと続けてても、やっぱりこれがいちばん良かったぐらいになるかもしれないし。

池上:いちばんいいところが集中的にパーンと出せてしまったという。

岡上:そうだと思います。第一生命でやったときに、もう一度やりたいとか、そういう気持ちはなかったです。「自分がこれを作ったんだ」って、懐かしかったですし。「どうしてあれができたのか」とも思ったですから。

池上:じゃあ今こういうふうにすごく再評価されても、「あのときやめずに続けていればよかったかな」とは思われない。

岡上:思わないですね。だからこれは、あの時のものじゃないかなと思うのね。どこかが刺激されてね、パッと。感覚的でしょ、こういうのって、作るときって。考えて作れるものじゃないのね。そのときの感覚でポッと置くじゃない? そういうのが年とともになくなって(笑)。やっぱり若さかしら。

池上:あとやっぱり、時代といいますか、日本はまだまだ貧しい復興の時代なんだけど、そういう雑誌が入ってきて。

岡上:自分のあこがれているものが雑誌の中にちりばめられているようでした。写真もきれいでした。

池上:それがやっぱり1960年代になっていくと、アメリカが置いていった雑誌とか、そういうものに対するあこがれも、またちょっと違ってきたかもしれないですよね。日本の雑誌もまた出てきますし。

岡上:そうです。『婦人画報』、あれなんかもきれいでしょ。あんなのが出てきますものね。あの頃日本にはなかったから。だからやっぱり時代的なものはありますよね。

池上:制作された状況は非常に特有なものがあるのですが、今の、それこそ美術にあまり詳しくないような若い女の子が見ても、たぶんそこにキューッと惹きつけられるんですよね。やっぱり作品の持っている力がすごいんだと思います。

岡上:おんな心が出てるんじゃない? どこかに、潜んでいるというか。

池上:そうなんですよ〜。

岡上:どの作品って言えないけれどね。だから女性のファンが多いんだと思うのね。それは時代を超えてみんながひそかに持ってるものなんだと思うのですが。

池上:そうですよね。私も10代の頃はこういうあこがれみたいなものを持っていて、でも大人になると忘れて。でも岡上さんの作品を見ると、「そうそう、これこれ」みたいな感じで、かわいかった自分を思い出してしまうというか(笑)。それはあります。なんか乙女心を。そういえば自分にもそういうのがあったって。

影山:ここに「不思議の国のアリス」って書かれていますが、まさにそういう。(注:瀧口修造が岡上の最初のタケミヤ画廊での個展案内に寄せた文章の一節。「不思議の国のアリスの現代版がこのアルバムになりました」とある。)

岡上:なんかそういうものが漂ってるのね、雰囲気として、この作品に。それではないかなと思うのね。だからあんまり難しく考えたりするとできないのよ、こういうのって。あのときの私の感性なんでしょうね。

池上:岡上さんも非常に若くて。

岡上:夢多き頃でした。

池上:そういう時代というか年齢でいらしたから、それが素直にパーンと出せたという。

岡上:できたのね。先生がそれを後押ししてくださったんだと思うわね。それがたまたまシュールのオーソリティでいらしたということでしょ。

池上:では、やはり瀧口さんは岡上さんにとっては特別な存在ですか。

岡上:そうですね、あの先生がいらっしゃらなかったら私の作品はなかったと思いますね。でも先生もこんなことになるとは思われなかったでしょうね(笑)。びっくりなさってるかもしれません、ほんとに。

影山:美術の教科書にも出てますよね。(注:『美術T』、光村図書出版株式会社)

岡上:ええ、あれもねえ。驚きました。

池上:時がたって、ほんとにいいものがちゃんと残っていくというのは、ある意味当然なんですけど、なかなかこんなにドラマチックな例というのはなくて。

岡上:流れですね、そういう風になっていく。自分流に自然に作ったのがよかったのかもしれません。目標を持って、それを目指すとかはしてませんでしたし。なんかイデオロギーがあったりすると固まっちゃうじゃないですか。

池上:そうですね。「続けなきゃいけない」というのがまたプレッシャーだったりしますからね。

岡上:なんにもないでしょ。遊び心っていうか、それがかえって良かったのかしら。先生も、指導とかそういうのじゃないでしょ。ただご覧になるだけなのね、自分もお好きだなと思うのは。見てて、「面白いですね」と言うのはだいたいそうなの。そういう言い方しかなさらなかったですね。でも1枚1枚、丁寧に見てくださいましたね。

池上:ほんとに出会うべくして出会ったというか。

岡上:私は師範科に落ちてガックリしてたけど、あとで考えると、あれがなかったらこんなにはなっていなかったし。「人生って分からない」ってよくみんなに言うんですけれどね。なにが良かったかは、最後までほんとに分からないですね。

池上:制作に関してはもう「悔いなし」という。

岡上:コラージュはね、ないです。もうこんなにまで良くしていただいて、ほんとにありがたいと思っています。このご本だけでも、ほんとよかったと思うし。

池上:ほんとに素晴らしい本だと思います。

岡上:石渡さんがこれを作りたいと思ってくださって。あの方も女性でしょ。

池上:やっぱりグッとくるというか、そういうところがあったんでしょうね。

岡上:でもそういう方に出会わないとね。

影山:いろんな方に出会うというものを持っていらっしゃる。

岡上:作品が持ってるんじゃない? 私じゃなくて、作品が何かそういうものを持ってるんじゃないかしら。だって作品はもう離れちゃってるし。

池上:惹きつけるものがすごくあるんだと思います。

岡上:これがなにか持ってて、そういうふうに本を作っていただけるとか。MoMAのことだって、キュレーターの方がギャラリーに見えたとき、たまたま私のオリジナルがあったので見ていただけたとか。

池上:そうですよね。名前もご存知ないわけですもんね。

岡上:MoMAに限らず、たまたまの出会いが多いですね。

池上:その作品がしかるべき出会いを待ってたんでしょうね。

岡上:そう、待ってたんでしょうね。だから作品が持ってるものよね、きっと。でもそんなこと考えて作ってなかったから、いつも驚かされますよね。分からないわねえ、と思って。先生がいらしたら喜んでいただけたのにって、いつも思います。

池上:今日はお話をたくさん聞かせていただいて。影山さん、いかがですか。

影山:話が少し戻ってしまうかもしれませんけど、占星術のお勉強をされてたんですか。

岡上:それはね、何かしようと思うといいところまで行くの。でも、そこから先へ行こうとすると行けなくなるのよ、洋裁もファッション画も、なんでも。だから写真も行けなかったでしょ。そういうようにいろんなことがあったので、自分の努力じゃどうにもならないものがあるんじゃないかと思ったのね。宿命とかそんなことを考えていました。
 そんなとき、父がスポーツ新聞を日曜日にいつも買うのですが、それに「占星術」というのがあって。あの頃は珍しかったのよね。「占星術」ってね、そこに名前と電話番号が書いてあったの。それで占星術ってどんなものかなと思って電話したのね。日本で初めて占星術を広めた方で、門馬寛明さんとおっしゃる方です。その方が占星術の勉強をしてらして、人もみてらしてたの。私がお電話して、「教えてらっしゃるんですか」って聞いたら、「いまちょうど一人申し込みがあるから、よかったら教えましょう」と言ってくださって。それでその人と一緒に、習いに行ったの。その頃は本もないでしょ。イギリスから取り寄せた本を先生が全部翻訳して、それを読むの。それをただひたすら書きましたね。

池上:ほんとにお勉強ですね。

岡上:だから覚えるわね。だけど今のよりもっと単純なのね。「星の勉強をしてます」って先生にお話したら、「面白いからやってみたら」とおっしゃって。「僕の星も出してくださいよ」なんておっしゃってたのを覚えてます。

池上:瀧口先生が?

岡上:ええ、瀧口先生が。それで先生の星を調べて、出生図を作ったんですよ。先生に「どうでしたか」って聞かれて、「肺が弱い」というのは出てたんですが、私は習ったばかりでどう説明していいのかよく分からなくて、門馬先生にみていただいたんですね。そうしたら、「この方は肺が弱いから、タバコは止めた方がいいですね」とおっしゃったの。そのことを先生に申し上げたんです。「先生、タバコはいけないそうです」って。タバコがお好きでしたから。

池上:そうですか。

岡上:「そうか、それじゃあ止めなきゃね」っておっしゃって、私が伺う時は止めてたのね(笑)。それで奥さまが、「淑子さんが来るとやめるけど、いつもは吸ってますよ」って、そんなことおっしゃってたのを覚えてます。習い始めたのは早かったんですけれど、途中で止めましたから、全部マスターしたわけではないんですね。私の頃は星の数も今みたいじゃなく、少なかったですから、見方も単純で、もう古いですわ。でも勉強してたときは面白かったですよ。それなりにね。みんなで例題を議論し合ったりして。

影山:時々どなたかの星をみてあげたり?

岡上:昔はね、時々しましたね。お友達でしたけれど。運命って性格が左右するように思いましたね。血液型の性格診断があるでしょ。あれよりは詳しいですよ、星は。長いあいだ積み上げてきたデータをもとに星の働きを決めていくのですから。まあ統計的に出た答えですね。星の暦というのは、イギリスから出てるんです。水星は何座の何度とか、それで生まれた日時の星の位置を計算して、出生図を作るのね。それから判断していくんです。習えばどなたでもできますよ。だけど歳をとると星を忘れるし、計算も間違ったりするでしょ。だから今はしてませんの。四柱推命とか九星とか占いも色々ありましたが、星がいちばん向いてたみたいでした。他のは覚えませんでしたの。

池上:(占星術は)伝統というか、歴史がありますよね。

岡上:直されていくのは直されていくし、新しいのもまた取り入れられているみたいですね。イギリスが本部なのね、その先生の。だけど今はいろいろな派があるみたいですね。

池上:いかにもありそうですね。

岡上:何で見てもらっても、行きつくところは同じみたいですね。ただ、今でも昔の癖が抜けなくて、ときどき「何月生まれ?」とか。

影山:みてもらおうかな。

池上:みていただきたいですね(笑)。

岡上:何座とかね。そういうのは出るわね。

池上:やっぱり人に会うとそういうことが気になったりされますか。

岡上:そんなことはないですね。人さまざまですから。テレビを見て、あの人何月かしら、って。政治家とか芸能人の。面白いですけど。一人ゲームですね。もうこの歳になると全ては「さだめ」論になって、素直に行くしかないのではと思いますね。

池上:素直に来られたからこそ、作品が時を経てまた羽ばたいたのだと思います。今日はすごく時間をとっていただいて。最後にもし何か、これはお話ししておきたいというようなことがありましたら。

岡上:そういう(作家との)交流はあんまりなかったことよね。それはお話したわね。あとは特には。何かお聞きになりたいことがあったら、お電話でまた聞いてください。私も思いついたらまた。よろしくお願いします。

池上:またお知らせください。今日は長い間本当にありがとうございました。

岡上:こんなことですいません。年なので、思い違いもあるかもしれませんが。お役に立ちましたでしょうか。

池上:とんでもないです。とても楽しかったです。ありがとうございました。

影山:ありがとうございました。