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斉藤陽子オーラル・ヒストリー 2014年1月14日

斉藤陽子宅(デュッセルドルフ)にて
インタヴュアー:坂上しのぶ、森下明彦
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2015年10月4日
 
斉藤陽子(さいとう・たかこ 1929年〜)
美術家
1963年に渡米直後から深く関わりを持ったフルクサスの活動、60年代後半よりヨーロッパに渡り、フランス、イギリス、イタリア、ドイツと渡り歩いた生活、ジョー・ジョーンズ、ジョージ・ブレクト、ロベール・フィリウーらとの精神的な関わり合いから交流まで、一週間連続インタヴューで語っていただいた。

(ご自宅内のすべての部屋を見せて頂いた後にお話を開始。写真はリビングのみ)

坂上:2014年1月14日デュッセルドルフ斉藤陽子さん自宅にて。今からお話を伺います。今日はお誕生日だということで! 改めて!おめでとうございます!(笑)

森下:85才とは思えません。

坂上:思えないねえ。

斉藤:そーう?(笑)

坂上:本当。全然しわがない!

斉藤:本当?(笑)

坂上:本当に。何かクリームでも使っているんですか。

斉藤:全然してない。クリームってのは。本当に。若い時からつけたことがないと言っていい位。ただ石けんで時々洗いますけれども、普段はお水でジャボジャボっと!

坂上:へえ!ドイツは乾燥しているから、私はドイツに着いたら顔がカサカサになっちゃってオイルを塗りました。

斉藤:私は全然そういう事をしないです。面倒くさい(笑)。何かべとべとしてねえ。私はそれこそ女学校位の時にね、姉達がクリームをつけてるからつけてみたんですよ。そしたら何だかべとべとして嫌だなって。それ位で。それこそクリームって買った事がない。他の人が、「一度位今までの間に買った事があるんじゃない?」って言うけど、使った事がない(笑)。

坂上:お姉さんがいらっしゃるという事ですが、何人兄弟ですか。

斉藤:3人兄弟ね。姉が一人。弟が一人。私が次女です。

坂上:福井県鯖江市生まれ。1929年1月14日生まれ。もともととても大きなお屋敷というか、お金持ちの家に生まれて。

斉藤:そうです。私はもう家とは関係なくなりましたが、生まれたのは。

森下:いろいろなカタログや本に(子どもの頃の)写真が載ってますが、1940年撮影ですから11才でしょうか。(註:展覧会カタログ『DISSONANCES 不協和音—日本のアーティスト6人』、豊田市美術館、2008年9月30日−12月25日 他に掲載)

斉藤:小学校6年位だと思いますね。5−6年で、弟は小学校1年位だったと思います。これは父で、隣は姉です。

森下:お父様が後ろでお姉様が隣。

斉藤:そして眠っているみたいに見えるのが母です。隣はお手伝いさんで、右端は外の仕事をしてくれていた……

坂上:その男の人もお手伝い。

斉藤:お手伝いさんです。前に座っているのが弟。

森下:これがお家ですか。

斉藤:家です。相当大きな家。25部屋位。

坂上:敷地はどれ位広かったんですか。

斉藤:さあ、とにかく広かったですね。どの位あったんだろう。知らない。庭は日本庭園だったんですけど、後ろに果樹園だとか花壇だとか。大きな家だったんですね。普通の農家は普通の街の家よりも大きいですけどね、その15倍位大きかったですね。

坂上:代々続く何かの家だったんですか。

斉藤:代々続くのかよく知らないですけど、大地主だったんですね。私は今まで父がどれ位金持ちだったかなんて事は言った事がないんですけども、ある時、随分後になってからですけど、私の部屋の隣に大きな客間があってね、そこに本棚があったんですね。そこに多額納税者の本があって、それまでは興味がなくて見なかったんですけど、ひょっとした事で見たら、父は福井県で2番目の多額納税者だったんです。だから、ある意味では相当の。だけど私自身は全然そういうものを感じないで、お百姓さんの家にもノコノコと(入って行ってしまうような女の子でした)。兄弟の中でも私一人だけ何故かお百姓さんの家にノコノコと入って行って友達と遊んだりっていう事で。私自身は金持ちって事を感じない。父が非常に自由な精神を持っていて。家の前には大きな庭があってそこが広い日本庭園で、そこには自動車が入り込めるような道路があって、門が割と広くて、いつもそこに近所の子ども達が遊びに来て。私も一緒に野球をしたりかくれんぼをしたり、そういう事を平気でするのに父は決してそれを怒らない。それに対して何も言わなかったです。むしろにこにこしながら。子ども達が遊んでいるとそれをよけながら外に出るような人物。それを今非常に感じていますが当時はそれを当たり前の事だと思ってましたからね。だけども外国に来て自分の敷地内で子ども達に遊ばせるのを見た事がない。あれ?どうしてだろう?って思う様になってね。ああ、本当に良くやったなと思います。そういう父があって今の私があるのかもしれません。

坂上:お父様は学生の頃に肺結核にかかって体が弱かったということですが。

斉藤:そうです。父は学生の時に肺結核にかかって。

坂上:お父様は鯖江の人ですよね。

斉藤:そうです。それで東京の國學院か、慶應かどっちか。2つ行ったのかもしれません。その間に肺結核になって、千葉県にあるサナトリウムに長く入院していたらしいです。そういう事もあって家から一歩も外に出なかったのです。家の中で客の相手をするとか、家の前の方にも敷地があったものですから、そこで畑仕事をする人達がいたりして、その人達とも話をしてました。私が後に自分について本を書こうと思った時、父は怒った事があるだろうか、大声を出した事があるだろうかって考えてみたのですが、思い出せないんですよね、全然。家人に対してもお手伝いさんに対しても決してそういう事はなかった。ただ思い出すのは、彼の笑い声です(笑)。何て言うかなあ。大げさな笑いじゃなくて楽しんで、人と話をする。たくさん人が家に来ますから。いつも彼が楽しそうに話をする。そういう事しか思い出せないんですよね。そして私のやりたいようにさせてくれた。不思議な事に私は一度も怒られた事がないんです。ホントに。私は非常にお転婆でねえ(笑)。柿の木にも登って。女の子が柿の木に登るなんて(笑)。柿をもいだり。それから北陸は雪が多いでしょう、時には2メートル位。だから雪を下ろさないと。温度はそれほど低くないですから、雨が降ると雪が雨を含んで危ないんですよね。だから絶対下ろさないとならない。私の家は大きいものだからたくさんの人夫が来る。そして私一人だけが女の子で雪下ろし(笑)。私は家の中で一番お転婆で体を動かすのが好きだった。そして大工さんとかいろんな人が家に来るでしょう。私はそういう人達と話をしたり、そういう人達がする事を見ているのが好きだったんですね。その時は何も考えはしなかったけれどもそういうものが今あるのかもしれない。

森下:戦前ですよねえ。女の子がそんな風にお転婆だったら結構厳しく言われても(おかしくない)。

斉藤:そう!言われてもいい。今考えてみるとそうです。私の家の事を考えると。女の子がそんな事したらねえ。だけど何も言われた事がない。一度も。その時は何もそういう事を感じなかったし、そういう事を長く考えもしなかったですけどねえ。今、私がやっている事を考えればね、そういう育ちが基本的にきっとあるだろうと。そういう意味では感謝すべきかもしれない。私は小学校の時は走るのが速かったんですよ。一番走るのが速かった!

坂上:小学校は家の近くだったんですか。

斉藤:そんなに近くはなかったです。30分位歩かなきゃならなかったですね。

坂上:特別な私立の小学校とか。

斉藤:ノー、ノー! 普通の小学校。そんな特別な学校はなかったです。鯖江には。

森下:普通の尋常小学校。

坂上:お母様はどんな方だったのですか。

斉藤:母は物静かでしたね。特別な記憶はありませんが、あるのは戦後、母が非常に大変だったという事ですね。戦後の農地改革で殆どの土地を失った訳でしょう。それに財産税とかいろんなものがかかってきて。だから女中さんも雇えない。今まで家の向こう側に畑があって、そこで野菜をつくったりっていう事もみんな元は人夫がしていたのがみんな母の肩にかかってきた訳ですから。父は戦後2年後(1947年)に亡くなりましたから。そして父は体が弱いものですから、牛乳屋さんも配達してくれなかったんですよ。若い人達はみんな戦争にとられて出来なくなって。母は父にミルクを飲ませたい為に、山羊を飼って、山羊に食べさせる草刈りも自分でやって、山羊の乳を絞ってね。だから母は大変だった。良くやったと思います。

坂上:お姉さんや弟さんは。

斉藤:当時どうして私だけがこんなに違うんだろうって!(笑)思うけれど。私は斉藤家ではそれ程、重要な人間ではなかったかもしれない。次女でしょう。弟の体が弱かったから。小学校1年の時かな、母と私と弟とで敦賀の海岸で1ヶ月過した事があるんですよね。そこで弟が肺炎を起こして敦賀の赤十字病院に入院して、それからなかなか直らなくて、その後、福井の赤十字病院に移された。だから彼は1年生を2回やってるんです。落第しているんです。家では弟っていうのはたった一人の長男でしょう。大事な人間でしょう。姉はもし弟に何かあったら彼女が養子を取って跡を継がなきゃならないでしょう。対して私はどうでもいい人間で(笑)。ある意味ではね。

森下:結局家の方は弟さんが継がれていくんですか。

斉藤:ええ。今でも元気らしいです。私は今、全然交流はないけれども。最近いとこが手紙をくれて、彼女が書いているのには、弟は元気でいると。

坂上:伯父様が貴族院議員だったとか。

斉藤:そうです。戦前の話ですよね。昔は貴族でしたから。

坂上:お父様はいつも外には出掛けないけれども、伯父様が貴族院議員に出馬した時は投票の為に外出て行ったそうですね。

斉藤:そう。人力車に乗って。外へ出て行ったことがあります。

坂上:貴族院議員だということは、しょっちゅう東京と福井を行ったり来たりですね。

斉藤:何て言う名前だったかな。池田って言っていたかな。父の兄弟(姉妹)が嫁に嫁いだ先だったとか、そういう関係だったと思います。だけど彼女は早く亡くなったものですから、私は一度も会った事がないです。

坂上:お父様はほとんど出掛けず、買い物も家にいて、業者さんがいろんなものを持って来て。

斉藤:そうです。

坂上:同席されたりしていたんですか。

斉藤:時々はありました。私は関係ないけれども。

坂上:医者は勿論、理髪師も町からやって来たし、金物屋、食料品店、骨董屋、呉服屋さんなど珍しいものとか普段見れないものとか彼らは持って来て、家に並べてお父様は買い物をしていたという事ですが。

斉藤:そうそう。父は人が良いので、そういう風にして持って来てもらうとただでは帰せないんですね。それで必要じゃないものも買っちゃうんです。それでいっぱい買ってしまっては蔵に(笑)、余計なもの、必要のないもの、いろんなものが詰まってました。ただそんなに私は見た事がないです。骨董品の蔵とか3つも大きな蔵がありましたからね。何だか知らないけれども。窓が上の方に小さいのがあるだけでねえ。

坂上:25部屋位家にも部屋があるとなると客間だけでも何部屋も。家族も。

斉藤:そんなにたくさん部屋があると、日本の家というのは冬と夏に障子を張り替えるんですけど。絨毯でも冬と夏とでは違うものを敷くし。そういうものや骨董品とかを仕舞っておかなければならない。それと私の家では月に2-3回はいろんな人を招待したんですよね。何故かというと父は自分で出掛けて自分の土地を管理しないでしょう。だから代納者というか、代わりにやってくれる人達が、それこそいろんな村にいろんな人達がいる訳でしょう。そういう人達を招待しなくちゃならない。そうすると何十人もの人達のお膳だとか食器も用意しないといけないし。食事も父はいつも同じものじゃなくて、変えるとかね。そういうこともあるんでしょう。なかなか大変。

森下:そういうおもてなしをする為に料理を作ったり運んだりする人手もまた必要。

斉藤:そう。それが大変なんです。一人だけ年寄りのおじいさん、じいやが住んでいましたけど、あと住んでいたのは女中さんだけ。他の人は住んでいない。男の人達は普通のお百姓さんでね。今はあの家に弟が住んでいます。人づてに聞いたのは、母が死んでから弟は新しく家を建てたということを聞きました。鯖江市の、昔は鯖江市舟津町上鯖江って言ったんです(註:当時は鯖江町、1955年、周辺町村と合併し、鯖江市になる)。今どういうふうに言うか。日本の区画は昔と変わってるでしょう。だから詳しくは今わかりませんが。

坂上:インタヴュー前の事前資料によると、お父様は他の人々を大事にし、思いやりを持って対した人で、どんな人をも叱りつけたり、声を荒げてどなったのを見た事がない、と。そして斉藤さんが小学校4-5年の頃、家に長く住んでいたじいやが80になり、2階建ての新しい家を建ててやり、200平方メートル位の畑をつけ、彼の親戚の中に40を過ぎても結婚せずにいる女性がいたので、その人を彼の老後を世話してもらえるよう手配した、と。それが長く我が家のためにつくしてくれた彼への感謝の贈り物でした、とありますね。ところで、斉藤さんは小学校中学校を地元に通っていたのですが、得意科目とかどんな本を読んでいたとかありますか。

斉藤:全然覚えてないですね(笑)。勉強もそんなに好きじゃなかった(笑)。でも体を動かすのが好きな人間だったんですね。走るのは早かったし。宿題を済ますと少し離れたところに小さな山があって、兄弟で一人だけ、私にだけスキーを買ってくれたのでスキーに行ったり。長い坂があるんですね、そこで他の人が帰っても私一人だけ滑っていてね。今でも思い出すけれども、人が滑っている間は雪は摩擦で柔らかくなる。ところが夕方になるとカチカチに凍ってくる。そこがスリルで(笑)。

森下:成績はよかったんですか?

斉藤:悪くなかったですよ。優等生で卒業しました。賞をもらいました。

坂上:本を読んだりはしなかったんですか。

斉藤:そんなにしなかったです。何も特別読んだものを覚えていませんが、我々の部屋の押入れには、世界少年少女文学全集、世界文学全集、日本文学全集などが入っていました。

坂上:美術が好きだったとか。

斉藤:特別に。だけども私は体を動かしたり、ものを自分で作ったりするのが好きでしたねえ。絵を描くのはよく褒められたですね。選抜もされました。ひとつだけ覚えているのは、小学校6年の時だったかな、私がチューリップを描いたんですね。ところがチューリップの花があって茎があるでしょう、それを本当の様に描かないで、想像で描いたら、先生が「茎はこうやってちゃんとしなさい!」って。そう言われてから、本当だろうかと反問し、絵を描く気をしばらくなくしました。しばらく絵を描かなかった気がします。本物のように描かなかったのを先生に言われて。私はそれを、何て言うかなあ、納得しなかったのでしょう。今でも覚えてる。

森下:今でも覚えているということはかなり大きなショックで。

斉藤:そうだったと思います。

坂上:性格は頑固だったとか。

斉藤:そんなに頑固だったとは思わないです。うん。それとね、幼稚園の時にね、私、どっから知ったのか知らないけど、指をパチパチと鳴らすのを覚えたんですね。そしてそれを幼稚園の時にやったら、幼稚園の先生が私の母に、私の事を不良だって言うの。気をつけなさいって母に言った。それを今でも覚えてますよ。

森下:それはわかりますね。僕らもそれを不良だとは思いませんが、まともな子どもはしないです。戦前の幼稚園の頃ですから1930年代ですよね。それはいろいろ言われたと思います。

斉藤:それをいまだに覚えてる。そして今でもわからない。

坂上:斉藤さんが小学校の頃には既に戦争が始まっている訳ですが、そういうことは意識されていたんですか。

斉藤:別にないですけども。うーん。別に戦争に対して……ただ今でも覚えているのは、小学校の時かな、女学校の時かな、小学校の時だろうか、何て言うの? 天皇の勅語(教育勅語)が収めてある木で作った箱があって、校長先生か学校の先生がその勅語を読むっていうのがあったんですね。それと、ああ、小学校の時よりも女学校の時の方があの頃は戦争が激しくなって、そして若い人たちが取られて※、特に農家の人達は非常に働き手を取られて大変だったんです。だから女学校ではよく勉強の時間を割いて手伝いに、田んぼの稲刈りだとか、植えるのとか、よく行きました。それから炊き出しも。女の人達も田んぼの仕事が忙しくて時間がなくて食事の準備をしておれないので、我々が炊き出しをやってというのはよくありました。近所の若い人たちがどんどんいなくなって。(註:このあたり、思い出すのに苦労されている感じ)
(※斉藤記:あの頃、日本軍がどこかに侵入したとか、陥落したとかあると、我々は奉安殿の前に集められ、校長先生の話と頼語(教育勅語)の奉読があり、日射にさらされ、倒れていく人々が何人もあり、それを苦痛な思いで見守ったのを覚えています。)

坂上:女学校へは歩いて。

斉藤:もちろん。小学校よりも近かった。私の家との間位に女学校があって、そこは師範学校も併設していて。

坂上:この写真は女学校の制服ですか。

斉藤:小学校の制服です。セーラー服。私は割と体を動かす事の好きな人間で、人の手伝いをするのが好きな人間でね。私の家にはある意味で贅沢な話ですが冷蔵庫があったんです。氷の冷蔵庫ですね。普通は氷屋さんが配達してくれてたんです。ところが終戦近くになって、若い人がいなくなって配達出来なくなって、氷をつくらなくなったんですね。それで私がかって出て、武生(福井県中部、現・越前市)まで自転車で夕方、私が氷を買いに行ったんですよ(笑)。武生まではなかなか大変だったですよ。鋪装もされていなかったでしょう、あの頃。道はジャリでトラックが通るのにはいいけど自転車は滑るんです。危ないったらありゃしない。それを自転車で私は毎日毎日武生まで(笑)。

森下:それで今でもどこに行くのにも自転車に乗っているんですね。

斉藤:そう!

森下:その頃からキャリアがおありなんですねえ。

坂上:今に通じる(笑)。

斉藤:考えてみるとそうねえ。(笑)。

森下:氷の冷蔵庫があるって凄いですよねえ。だからやっぱりお魚はいいやつじゃないと駄目だって言う訳だ!(註:インタヴュー前に食べ物の話になった際、斉藤が、ドイツでは新鮮な魚が手に入らないのでこれまで魚はあまり食べなかったが、最近は健康の為に食べるようになったという話をしている)

坂上:女学校の頃に刺繍などやり出したりとかは。

斉藤:ないですねえ。刺繍などをやり出したのは女学校を出て日本女子大に行って。その頃からだろうと思います。

坂上:刺繍とは関係ないようですが、女学校の中学2年の時に学徒動員でパラシュートに使う布をつくる工場で働いていたという事ですが。

斉藤:そうだ!そういう事があったんだなあ。工場の寮に住んでね。女学生は工場の酒伊繊維の寮に住んで(ただし3年生だけだったと思う)。羽二重の絹の織物を。ああ、そういう事がありますね。そして勉強の講義が夕方にある訳です。でも私は案外そういう事も楽しんでやりました(笑)。一部屋に6人位住んだかなあ。大きな工場だったんです。相当長くいたですよ、どれ位かは覚えていませんが。

坂上:戦争が終わるまで。

斉藤:うーん。まあそうでしょうねえ。いつ戦争が終わるんだろう。私は覚えていないんだけど、私が女子大に行った時に戦争はまだ終わっていなかった。入学式はたしか8月か9月まで延ばされた。

森下:1950年に卒業ですよねえ。という事は47、48、49、50…っと。4年制だとすれば46年に入学ですね。日本女子大が新制の大学になっていたかは調べてみないとわかりませんが、戦後だと思いますが。入学は46年で。女学校を卒業されてから日本女子大ですよねえ(註:日本女子大学の沿革によると1948年に日本女子大学として新制発足)。

斉藤:確か普通は入学が4月でしょう。それが少し遅れていたような。

森下:終戦の翌年だとすれば、46年だとすれば考えられますね。ごちゃごちゃで。でも45年っていうのはないと思います。大学はやっていても。(註:これまで出版されている文献によれば斉藤の大学入学は1947年)
(※斉藤記:こう言われると私の頭は混乱してあまりよくわかりませんが、私としては終戦の年に、その8月か9月に入学式があったような気がしますが???)

坂上:東京の日本女子大の児童教育に入学ということですが、どうしてこの大学を。

斉藤:さあ。私は何も自分で選んだ訳ではなく、行かされた訳です。父でしょうねえ。あの頃は女性が大学なんて。男女共学でもないし、男性の大学に入ることは出来なかったし、自分で選ぶすべもなかったですよね。

森下:しかも東京ですよねえ。

坂上:何でそれを許したか。行かせたのは。

斉藤:父の意向で行ったと思います。まあ割と父はリベラルな、自由な心を持っていた人だったと思います。そして彼は人を助けるのが好きだったし、戦争中お百姓さんの稲を掛けるための櫓みたいなの、何て言うんだろう、掛けるでしょう、その為に棹と杉の木が必要なんです。それが雨に濡れてしまい、新しく買わなきゃいけないけれども高いという事で、父が問屋の値段で全部まとめて買ってそれをそのまま、彼は全然一銭ももうけないで農家の人たちに渡したり。肥料も問屋の値段で買ってそれをそのままお百姓さんに分けるとかね。もちろん金持ちですからね、どうってことはないですけれど。
(※斉藤記:ここで一つだけ、今まで言わなかった事で、言っておきたいのは、彼はとても自由な、大きな心の持ち主だったけれど、自分の家の持っている格から出る事は出来なかった。その塀を越える事は出来なかった。それは久保さん(註:貞次郎。後に出る創美創始者)についても言える事だと思います。だがそれを彼等に要求する事は、無謀な事だろうと思いますが。)

坂上:でも大事な家の女の子をわざわざ東京の大学に行かせるっていうのは。

森下:まあ次女ですけど。で、すいません、お姉さんはどういう教育を受けられたんですか。

斉藤:姉も東京です。姉はもちろん戦争と関係ない、平和な時に。姉は14才年上ですから。

坂上:1914年生まれ。

斉藤:すごく年代が違います。彼女は東京の家政学院に。

森下:斉藤さんは日本女子大の児童教育科でしたっけ。

斉藤:育児科です。確か。私は申し訳ないけど不良でね、ちっとも授業が面白くなくって、毎日のように映画を見に行っていたんです(笑)。

坂上:でも試験を受けて入ったんですよねえ、一応。

斉藤:試験って言っても正式な筆記試験じゃなくって、ひとつあったのは、日本女子大を創立した人(註:成瀬仁蔵)、何て名前か忘れたけどその文章を書く位で。あとは成績が女学校から送られてそれで決まりました。

森下:今で言う内申書ですか。

斉藤:そう。

坂上:受験勉強をして入ったという訳ではない。

斉藤:全然(笑)。自分で選んだ訳でもないですし。それと本当に申し訳ないですが、私は出席を代弁してもらうのも嫌で(笑)。

坂上:今の性格に繋がってますね(笑)。

斉藤:ある意味で今の性格と似ているかもしれませんけど。だから卒業する時に出席日数が足りなくて(笑)。どうしたんだろう。何か試験を受けて許してもらってやっと卒業したんです。児童心理の時間とかそうした授業が多かったんですね。でもちっとも面白くない。ただ知識だけで、私の生活と関係するものがない。それで申し訳ないですけど、出席しなくて。

坂上:寮は大学のすぐ近く。

斉藤:寮と言っても、そこに小高い山があって、いっぱい家が建っていたんですね。私がいたのは自敬寮(じけいりょう)って言ったんです。何人位いたかなあ。20人か30人位か。そんなに大きなものではないんです。寮はね。

坂上:何人かの同級生とルームシェアしていたんですか。

斉藤:もちろん。一部屋に3人か4人。

坂上:どんな映画を見たんですか。

斉藤:覚えてません(笑)あんまりたくさん見たものだから(笑)。

坂上:福井の時は映画を見たりとかは。

斉藤:してないです。禁止されてました。映画に行く事は許されていなかった(親に禁止されたのではなく学校に禁止された)。

坂上:では映画を見たいなあと思ったことは。

斉藤:いくらかあったでしょうね。「ねえや」と2回位行った事があります。どんな映画かは覚えていないけれども。映画はねえ。何か家から解放されたような気がして(笑)。いろんな映画を見ましたがちっとも覚えてない(笑)。

坂上:映画の他に遊びに行ったりとか。

斉藤:ノー。それはないです。映画の他には全然覚えていない。(サーカスを見るのも好きでした。)

坂上:歩き回ったりとかはしなかったんですか。

斉藤:あの頃、東京は焼け野原ですもの。進駐軍とかねえ。

坂上:お父様は大学生の時に亡くなられてしまう。東京におられたときに訃報を聞いた。

斉藤:そうです。

坂上:ショックですよね。

斉藤:ショックでした。私は母を怒ったんです。何故もっと早く知らせてくれなかったのって。肺炎で、急に。あの頃、終戦後でペニシリンが日本にはなくて姉のハズバンドはお医者さんだったんですけどGHQとの関係が全然なくて。もしGHQと、アメリカの関係があればペニシリンを入手出来ただろうに、と彼が嘆いていました。それは覚えています。そうしたら父はもう少し長く生きていただろうに。

森下:そうするとお母さんとしても早く知らせようにも容態が急に悪くなって。だから遅かったと。

斉藤:そうです。

坂上:何才位だったんですか。

斉藤:63才かなあ。まだ若い。

坂上:63才という事は1885年生まれ?

斉藤:知らない(笑)私は数字に弱いから。何年に卒業したとか覚えてなくて(笑)。何年とかいくらだとか。

森下:お父様がお亡くなりになった事と戦後の農地改革でお家の方もそれまでお持ちになっていた土地を売るというか、ほとんど二束三文で。

斉藤:はい。殆ど農家に。もちろんただで解放したんじゃないですけども、すごく安い。だから入ったお金というのは少ないものだと思います。そうじゃないと農家の人達だって買えなかったでしょう。どれほど土地をなくしたのか知りませんが相当なものだったと思います。農地だけじゃなくていわゆるお百姓さんの持っている宅地も解放しなきゃならなかったんですからねえ。父の持っていたものは、農地とか農家の方の宅地が多かったですから。

坂上:農地改革で土地が切られて行く時は、陽子さんは大学にいらしたんですよね。

斉藤:そう。

坂上:では斉藤さんはあまり詳しいことは当時は知らなくて、たまに家に帰るといろいろな事が起きていて、えっていう感じ。悲しいなあとか思いませんでしたか。

斉藤:ノー。別に悲しいとは思わなかったですね。
(※斉藤記:私の父というのは不思議な人で、あんなに沢山の財産を一時に失うというのは、ある意味で大変な出来事です。その上、あの頃、急に警察官たちが来て、隠匿物資の摘発とか言って、倉の鍵を皆持って行ってしまい、次の日かに、又、何台ものトラックと一緒に何人もの警官が来て、倉の中をかき回し、反物や瓶詰、寝具などトラックに10台位持って行きました。その中には、それらは兵隊さんが海外に行かれる前に兵舎はとても皆を収容することが出来ず、時には一ヶ月位も民家に分けて泊まった際に使った、沢山あった布団や毛布、寝間着がありました。戦争中、我々は兵隊さんたちの為に寝具を準備しなければならなかったし、時には45人位の兵隊さんたちが泊まったという事が2回ありました。トラックに沢山持って行かれてしまったけれども、その時も父は、嘆きや感情的な言葉を吐かず、「誰かが言いつけたのだろう」と言っただけで、その事をただ事実として受け止めていました。)

坂上:お父さんお母さんは大変だったですね。

斉藤:父よりも母が大変だったと思います。実質的にはね。

坂上:ああ、お父様がほとんど家にいらっしゃるのでお母様が出られて。

斉藤:そう。出て、っていうよりも、母は特別前に出て行くような人ではなかったですけど、何かいろいろな事……今でも覚えていますけれども、いわゆる農地改革の後で財産税の問題とか何だか税金関係で、私が出て行った事があるんです。日本女子大の学生の時に会合に私が出て行ったのを覚えています。税金に対する何かで内容はよく覚えていないですけど。それから私が税務署に母の代わりに行った事を覚えてますけど、実際の事は知りません。何よりも本当に大変だと思ったのは、母が背負わなきゃならなかった沢山の事。自分で野菜作りもしてました。それまで人夫を雇ってやっていたものを彼女が自分でやり出しましたし。年寄りのおばあさんで、息子が戦争で亡くなって、孫が2人いて、家がないという人を私の家に住まわせて、彼女と一緒に畑を耕したり。私の家は大きかったですから、以前は沢山の人達が来て大きな庭の草取りだとかやっていたものも母とそのおばあさんと2人でやってました。

坂上:お母さんは大金持ちの奥様だったので、当然そんな事はやった事ないですよね。

斉藤:でも彼女はそういう事を。よくやったと思います。

坂上:お父様が63才で亡くなったという事はお母様のその位の年ですか。

斉藤:ノー。母は14才若いです。まだ40代。

森下:49才位。

坂上:ではお姉さんを生んだのは。

斉藤:まだ若い。18才位か何かで。

坂上:それから15年間子どもが出来なくて。

斉藤:ノー。その間に一人子どもが、息子がいたんですけど、2才か3才かで亡くなったようです。

坂上:本当は4人兄弟だったんですね。

斉藤:そう。本当は。

坂上:お母さんがそうしている間、陽子さんは東京と福井を行ったり来たり。結構頻繁でしたか?

斉藤:そんなに頻繁ではなかったです。ただお休みの時に帰った時位で。

森下:先程、大学の話で、児童心理が理論ばかりで面白くなかったと。実習みたいなのはなかったんですか。

斉藤:実習っていうものは……料理の時間があったんです(笑)。それと衣服の実習というか実験というか、そういうものがあっただけで。

森下:卒業したら福井の学校に(就職して)入られますから、学校の教育実習ですとか、教育に関する授業もお勉強されたんですか?

斉藤:学校で教える為の授業なんてないです。学校の先生を養成する学校ではないですから。

坂上:児童心理ですから子どもに教える為の科ではないんですか?

斉藤:自分の子どもに教える為のものだけです。

坂上:ああ。いいお母さんになる為の。

斉藤:そうです。いいお母さん。日本女子大っていうのは金持ちの娘たちが行く学校で。そして私立学校でしょう。それは自分の子どもを教育する為のもので、学校の先生になる為のものではないんです。花嫁修業です。
(註:インタヴュー後に知った事であるが、平塚らいてうも日本女子大を卒業していたのだが、長らく卒業生名簿に掲載されていなかったらしい。澁澤華子『澁澤營一、パリ万博へ』、国書刊行会、1995年、17ページによる)

坂上:児童心理と聞くと、陽子さんは教育にものすごい興味があって果敢に東京の大学に行ったように聞こえますが。

斉藤:全然関係ないです。

森下:お父さんが大学に行かせていたのは陽子さんも将来良妻賢母になりなさいというメッセージだったのでしょうか。

斉藤:そういう意味です(笑)。だから教育免状は持っていなかったです。どうして私が後に学校で教えるようになったかと言うと、戦後で、私は母の生活を見ていて、私も何とか働きたかったんですね。さっき渡植彦太郎(とのうえひこたろう、1899-1992)さんっていう人が書いた本を見せたでしょう、経済学の。(『経済合理主義と生活文化』1991年9月10日発行)福井は戦災にあい、その後震災にあい(1948年6月28日福井大地震, 死者およそ3900人)、そして福井の大学は全滅したんですよね。それで今の鯖江市の神明に兵舎があって、そこに福井大学が移ったんです。

森下:福井大学にはまだなっていないです。福井師範学校。

斉藤:あっそう。あとで福井大学に変わりましたね。そして私が後に勤める(現在の)鯖江市中央中学校っていうのは福井大学の付属中学だったんです。さっきの本の彼等が住む所がなくなったからということで渡植教授の家族には離れと座敷を、もう一人の先生には一部屋三食付きで、何ら部屋代も下宿代も取らずに貸しました。それは父が同情して彼等を私の家に住まわせてあげていたということです。彼が福井大学の教授だったから、私は学校で働きたいって聞いたんです。だけど私は免状を持っていないでしょう。だから事務員として働き始めたんです。

坂上:そうなんですか。先生としてではなくて。

斉藤:ノーノー。初めは事務員だったんです。そして学校の動きだとか子ども達を見ていて私も教えたくなったんです。学校の先生になりたくなって。あの頃は若い男の人達が戦争で亡くなって、学校の先生を必要としていたんですね。私がただ日本女子大を卒業したというだけで、いわゆる教育委員会に申請したところ教諭の免許状を貰えたんです。私はあの頃、詩を書くのが好きで、書いたりしていたんです。それで国語と家庭科とを中学校で教えたんです。戦後すぐでないとそういう事は出来なかったです。

森下:ご卒業になったのは(これまで出ている年譜を見ると)1950年(※斉藤記:50年ではなくもっと卒業は早かったのではないかしら?)。中央中学校に勤められたのは51年なんです。1年空いてるんですね。と、いうと、その1年というのは事務員をされていたんですか?

斉藤:その1年は東京にいたんです。何故かというと、私は自分でものをつくるのが好きで、自分の洋服は自分で縫っていた位で、それで文化学院ってあるでしょう、そこに入った事があるんです。しばらく。1年もいないですけど。何故かというと面白くなかったんです。ただ型紙を作るだけでバカみたいな事。簡単に洋服は出来るのに、たかが型紙を作るのに何時間も費やすなんて愚かな事だと(笑)。

坂上:ではその頃も自分の洋服をつくっていたんですか。今も昔もですね。

斉藤:ええ。

坂上:どんな服を作ってたんですか。

斉藤:特別な事はないんですけれども。まあとにかく縫いものをして仕事に就きたいと思ったのでしょう。自分で稼いで。自分の家の状態を見ていて、自分で生きたいという何か。だからそこに何ヶ月いたのかなあ。そこも洋服を作るお店で、2階が空いていて下宿して、そして文化学院に通って。

坂上:その下宿していたお店というのはどこですか。東京の。

斉藤:覚えてないです。
(※斉藤記:そんなに日本女子大から遠くはなかった〔註:目白〕。下宿では自炊が出来なかったので、女子大の寮、私の住んでいた自敬寮の寮監に頼んで、寮で食事が出来るようにしてもらった。勿論その分は支払って。)

森下:その時の生活費は。

斉藤:仕送りです。だからある意味で言えばそれ程の仕送りをしてもらえていたんですから。下宿代も払ってどれ位か、まあ私は知りません。どれ位の土地を農地改革で失ったのか、もちろん大変な量を失ったのでしょうけれども、でも私は仕送りを受取れた。

森下:そして洋服で身を立てて行こうという決心はされていたんですね。

斉藤:そうそう。

坂上:大学では映画を見て遊んでいて。不良って訳じゃないですよね。

斉藤:だけどさあ学校から見れば不良ですよね(笑)。

坂上:文化学院はすぐ数ヶ月でやめちゃって。

斉藤:それで鯖江に帰ったんです。

坂上:それが1年位ですか。

斉藤:それがそうじゃなくて、初めは日本女子大の衣類科、衣服科?の教授をしていた人が助手を必要としていて。繊維に対する知識、いかに繊維を作るとか、私は実験をするのが今でも好きですけれども、草を集めてそれで繊維が出来ないかとか、そういう事で繊維科の教授をしていたウエダ先生かな?その人が助手にならないかという事で(笑)しばらくいたんですけど、すぐにやめたんです。ですから日本女子大を卒業してすぐ助手をしてすぐやめてその後文化学院へ。

坂上:日本女子大で映画ばかり見ていたというけれども、やはりそういうファッションとかには興味があった。

斉藤:ファッションか何かはわからないけれどもね。作りました。

坂上:そうして自分で洋服を作っていたら型紙の授業はバカらしい。

斉藤:そうですね。本当に。基本的な型紙を作る為に何時間も。ここは何度とかね。そんな必要全然ないんですよ。私の型紙の基礎はとても簡単なんです。

坂上:その頃は詩を書いたりはしていない。

斉藤:その頃よりもうちょっと後です。福井に帰ってから。

森下:福井に帰って詩を書き出す。それは何故でしょうか。それともうひとつ。渡植先生にお願いして福井師範学校のところで最初は事務員として働き出してそのうちに教えることが面白くなって自分も教えたいと思われて。ということは事務員として働き出したのは1951年の4月からですか。

斉藤:知らない(笑)全然覚えてないです。(※斉藤記:多分もっと前だと思います。)

(オーラルヒストリーはここで終了。部屋の中の案内へ。)

(斉藤陽子さんが手づくりの洋服を次々と見せてくれる。最初は原色に近い鮮やかな色調の糸でパッチワーク風に編まれたベスト、そして次は生成りの生地の端切れを縫い合わせてつくった洋服……次々と見せてくれながら語られる話)……

斉藤:後にフランスに行って友達の家族と一緒に住んでいた頃、彼女達は私が縫いものが出来ると知ってミシンを貸してくれたんです。そしてお金を稼ぐために洋服を作って、サン・トロペ(Saint-Tropez)っていわゆるブティックの市場があるから、そこへ持って行って売ったらいいって。そんな事もありました。

この布はね、すごく目が詰んでいて、漂白していない。面白い布だと思って買ったんです。それでベストを作ったり。あの頃(70年代前半)ミニスカートが流行っていたから作ってそれに刺繍をしてサント・ロペへ持って行った。これはそれの残り布なんですよ。この布が私好きだったんです。だからとっておいて、その後フランスからイギリスに移動しても布を捨てないで(笑)。

坂上:すごいですね。端切れをパッチワークしているという事ですね。

斉藤:そしてこっちはこのように、黒で、詩を日本語で書いて、こっちは赤で、英語で書いて。で、これを着ていたら靉嘔(Ay-O/1931-)がすごく贅沢な布だって(笑)。

森下:裏はペイズリー柄だし。これは大阪のドイツにおけるフルクサス展の時ので。(「ドイツにおけるフルクサス1962-1994」、国立国際美術館、2001年4月26日-6月10日)

斉藤:裏は私が一回目に日本に帰った時(1980年頃)母が色々な布をくれた、そのうちの一つです。これはオープニングの時に着たんです。

坂上:これは自分で作ったようには見えない。

斉藤:見えないでしょう(笑)。

坂上:型紙もちゃんととっているように思う(笑)。

斉藤:型紙はいるけれども、いわゆる文化学院が作るような型紙の作り方じゃない。ただ自分の体のサイズに合わせて、サイズだとかどれ位肩が下がっているとかそれ位ですよ。
(註:斉藤陽子から坂上宛のインタヴュー前の事前資料によると「私の着ている洋服のほとんどは、ジーンズとTシャツの外は皆自分で作ります。ブラウス、ジャケット、コートなど買った事ありません。残りの布を縫い合わせたり、時にはまったくごみと言われる、セーターを作る工場からの糸くずだけで作ったチョッキもあります。もう30年以上のものですが。時にはそれ等が外の人には高価な衣服に見えるようです。随分前の事ですが、大阪の国立国際美術館でのフルクサス展のオープニングに残り布を縫い合わせた上衣、前の半分に日本語で詩とも言えないものを黒で書き、後の半分は赤で英語で書いたものを着て行ったら、靉嘔も来ていて、私を見て『何だゼイタクなとか、上品なとか(残念ながら彼が使った正確な言葉を覚えていませんが)上着を着て。おれはTシャツだぞー』と言いましたが、私はその上着の長い歴史を話しておれなかったので、説明しませんでしたが……。」)

斉藤:これも簡単なものだけど自分で作ったブラウスに、ハンブルグの美術学校が毎夏する夏期のセメスターの客員教授っていうのに呼ばれた時に毎日起こったことをつぶやいて書いているの。

坂上:クローゼットの中が作った服でいっぱい!!

斉藤:これは私が1988年にデュッセルドルフ市立美術館(Stadtmuseum Düsseldorf)で個展をやった時の、オープニングに出た時のです。

坂上:これは全部描いているんですね。

斉藤:そう。描いているの。この時の為に作った。ズボンもあるの。

森下:こっちにちゃんとミシンがおありなんですね。

斉藤:ミシンあります。

坂上:ボタンも全部自分でつけているんですねえ。

斉藤:そう。(しばらく洋服の話の後)とにかく全部自分で作っています。クッションだって表と後ろで描いているものが違う。

斉藤:これはみかんの皮です。でもそれは重要じゃなくて。私は普段、黒いオイルペイント(ペンキ)を塗って乾いてからもう一度黒い色を塗るんです。だからイタリーで買ってもドイツで買ってもどこで買ってもオイルペイントはどこでも黒は黒だと思っていたの。ところがそうじゃないですよね。これを一体何の為に、何故したかは覚えていませんけども、ミカンの皮の中にオイルペイントを入れてみて、それが乾いていない時に赤い色を落としてみたんですね。私は全部こういう風になる(全体的に平らな面となって黄色の中に落とした赤い色が残る)と思ったんです。ところがこれは黄色を入れてその後に赤いペイントを垂らしたのね。そしたら、見て御覧なさい。

坂上:穴があいているみたいになって。

斉藤:そう。これは特に穴が引っ込んでいるでしょう。そしてこれの場合はただ引っ込むだけじゃなくて、赤い色が沈んでしまって黄色が上に上がって真ん中だけが赤い。それを見た時に驚いちゃったの。違いがあるっていう事に。いわゆる化学反応を起こすんでしょうね。乾くのに時間がかかるから廊下に3日位置いてあって。で、見たら皆違う結果として現れたから、おお!って。それが一番初めの驚きです。それからこれとあそこにある2つとあっちの部屋にあるのをやり始めた。
(※斉藤記:普通ペンキは一度塗り、もう一度その上に塗る時は同じ色のペンキだろうと、違う色のペンキだろうと、乾いてから塗るのが普通で、黒いペンキはどこで買ったものでも黒色に仕上がります。)

森下:紙の上にイタリアの水で日本の墨か何かを垂らすっていうのもありましたよねえ。どっちが早いんですか。

斉藤:水の方が早い。水はドイツに来る前、イタリーにいた時ですから。これは1−2年前からです。これの場合には黒と白。白の上に黒を落とすとこういう風になるのは普通ですよね。ところがこの白と黒の場合は白の上に黒を落とすとこういう風になる。2つの色の反応の違い。何もこうやって筆で塗ったわけじゃなくてただ落としただけなのに、まわりだけが残って、他のところが沈んじゃうのね。これだって焦げ茶か何かを塗って乾いていない時に黄色を落とす。そして次の日になると焦げ茶色が飛び出し、ある色は沈んで……と、本当に…。

森下:実験と、ある意味、自然の現象でしょうねえ。それが実験する事によって思いがけない事になる。そこにまた発見をしてそれを制作に使っていく訳ですね。

坂上:ということは、これらはただ単に作品として並んでいるだけではなくて実験結果の提示。

斉藤:まあそうですよね。それともうひとつ……。これの場合もねえ、黒のインクと紅花から取った色と、これはタマネギの皮から取った色。そして乾いてからアイロンをかけて。その時はどれもみんな同じだったんですね。ところがこれはバラの実からとった色を塗って、乾いてからそこにアイロンをかけたらそこだけがこういう風に。

坂上:膨らんできてる。

斉藤:これが一番最初の驚きです。植物性のものから取った色の違い。

坂上:学校でテキスタイルの事を学ばれたじゃないですか。ああいうのが生かされているんですね。

斉藤:さあ、どうか知りませんが、おもしろいものです。我々の知らない事が自然の中にいっぱいある。これらはタマネギの皮です。全部見せるには時間がかかる位ものすごい量なのでそう簡単には見せられないですね、全部は。

森下:タマネギの皮の絞り汁や桜の絞り汁。フリッケの文章(Christiane Fricke, Takako Saito: ACDKLMNQRUVYZ, in Kustforum International, Bd. 139, 1997-1998) を読んだら全部書いてあったもん。私、知ってますから。1平方メートル140グラムの硫酸紙にアイロンをあてた。硫酸紙にアイロンをあてると白いふつふつが出るというのがまずすごかったんですね。後この日本語がよくわからなかった。ロートベーテ(Rote Beete)。あかとうじさ。

斉藤:ローテベーテというのはビーツです。赤かぶ。これは赤かぶと日本の墨で描いたものです。赤かぶの場合はこういうストラクチャーが。

斉藤:これはビートのジュースの特徴です。この泡の出方は。

坂上:ひとつひとつ覚えていらっしゃるんですね。

斉藤:ええ。もちろん。これの場合はビートジュースと黒のインクだけど、ここの線はハーゲブート、バラの実からです。私はここだけが違ったようになると思った。ところが全体に変化が出て来てね。私はよくわからない。何故だ。反対にここのところは全然変化がないでしょう。何故か。何故あの時はああいうふうに変わったのに、何故ここの場合にはこうなるのか。

坂上:毎回描いていて最後にどういうふうになるのかは最後に出来上がる時までわからない。

斉藤:そう。

森下:ある種の偶然とかあるでしょうねえ。

斉藤:今のところはわからない。もっと実験をやってみないとわからないでしょう。1回だけやっただけでまだ何とも言えない。

坂上:アイロンを最後にかけるのって、直接かけるんですか。

斉藤:裏からです。

森下:これ写真だけで見てたらわかりません。そこらの表裏は。

斉藤:そうよね。それから、こちらはアイロンの熱でもって、こちらはろうそくの火で熱したんです。するとこういうふうになった。

森下:これも裏からですよね。

斉藤:そうそう。アイロンを当てる場合には裏から。
(※斉藤記:ローソクで熱する場合には、裏を上にして、絵を描いた方を下にして、ローソクの様子を見ながら、焼けないように、何か変化が起こったら、すぐ次の点に移動する。)

森下:焼けるか焼けないかですよね。

斉藤:焼ける場合もある(笑)。ビートのジュースっていうのはね、糖分が入っていてニチャニチャしてお砂糖を煮たみたいにくっつきやすいの。だからそのままだとくっついちゃうんですよね。だからここにベビーパウダーをつかっていてそれが残っているんです。

森下:ビートのジュースっていうのはどの位の濃さなんですか。

斉藤:ああ。相当濃いですね。こういう事は誰もやってない(笑)たぶん(笑)。

(ヨーグルトの蓋でつくった本)

(ペンキの秘密の作品。しばらく作品を見せてもらう)

森下:いつもは大体11時頃から仕事をされて。何時頃までですか。

斉藤:まあ状況によります。私は若くないですから。そう簡単に。一日一日年を取っていきます。

森下:さっきの木工の部屋を見て、《グラインダー・チェス》がわかりました。あれ皆さん《グラインダー・チェス》って言ってるけど、グラインダーじゃないんです。ドレメルってメーカーご存知ですか。アメリカの。僕使っていたんですけども、電動工具なんですね。チェスの駒になっていたものにそれを差し込んで。僕も工作するのであれはわかるんです。あれは昔、日本では高かったんです。だからあれだけのチェスのコマを作る為にいろいろ買うと結構高くなるのではないかと思ったんですけどね。

(食事をとって1日目終り)

(近所のスーパーマーケット。斉藤さんが買い物に来る)