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斉藤陽子オーラル・ヒストリー 2014年1月16日

斉藤陽子宅(デュッセルドルフ)にて
インタヴュアー:坂上しのぶ、森下明彦
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2015年10月4日
 

斉藤:ほんの少しだけど、これが昔の。

坂上:ああ、「前衛の女性」にもああいう(絵が展示されていました)。すごい。ああ。
(註:グループ展「前衛の女性 1950-1975」、栃木県立美術館、2005年7月24日−9月11日)に平面作品を6点出品した)

森下:これはニューヨークからずっと持って。

斉藤:日本へ母の看病で帰ったでしょう。2回目の帰国の時に個展やって。(註:個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」、ディマンシュホール、福井、1991年7月25日−8月12日)その際、こちらに作品を返すのと一緒にディマンシュ(ホール)の人がお金を払ってくれて。小さなものだけその時に。だから大きいものは持って来れなかった。

森下:ではこれは発表されてはいない。

斉藤:発表していないです。ここでは。

森下:創美の研究会の時に持って行かれたことは。

斉藤:ないです。全然。年代が実際に正確にいつかというのはわからないです。年代を書かなかったから。ただ、後から年代を書いたけれども。

森下:これはちょっと表面が盛り上がってますね。

斉藤:名前だけは書いてある。
(※斉藤記:全部に書いたわけではなく、書いたり書かなかったり。出品するなども考えもしなかった。ただ自分自身の時間を満たすために絵を描いていました。)

坂上:「1958年8月たかこ」って書いてある。

森下:これは後からだからおよそだ。

坂上:このピンクのぽつぽつは1958年8月ね。

斉藤:大体同じ時期だから。

森下:いろいろきちんと取っておかれたから。

坂上:北海道に行く前ですね。

斉藤:これも。行く前。

坂上:これは「59から60」って書いてありますね。

斉藤:シルカ(circa、の頃に)だからこれも大体ね。だから、まだ川上と一緒に住んでいた頃だと思います。

森下:木水さん達が浦和の瑛九を支援する形で、版画を福井の人達がみんなで購入する会をやっていましたね。

斉藤:ああそう。

森下:亡くなるまでずっとやっていて。最後の瑛九の大きな絵というのは木水さん達が本当に10人位で応援していたから瑛九がああいう展開が出来たというね。

斉藤:あれは昨日か一昨日か見せた果実のジュースの実験で、下の方はアイロンかけたので、上の方はろうそくで。

坂上:果物の種類によって出方が全然違う。

斉藤:これはビートです。ビートと日本の墨を混ぜてやったんです。

森下:本のように束ねたりこのように1枚1枚にしたりいろいろ見せ方があるんですね。

坂上:陽子さんは昔からいろいろな明るい色を使ってたんですね。色合いが。ピンクとか赤、青とか。

斉藤:初めて言われた(笑)。

(リビングに戻る)

斉藤:昨日か一昨日話したエッチング。昔のエッチングがこれら。私っていうのは本当にたくさん仕事があるんだよね。(作品を見せてくれながら)これはニューヨークのやつだけど、ほんのちょっとだけエッチングが。

坂上:これは創美の研究会の頃にエッチングのマシンを持っていて。

斉藤:そうそう。

坂上:「55」って書いてあります。

斉藤:随分昔のですよね。

坂上:55年だとちょうど中学校をやめられて川上さんが山奥に。

斉藤:さあ、どうか?

森下:55年はまだ一応、家を飛び出していない。

斉藤:そうそう。
(※斉藤記:…と言ってますが本当だろうか。)

坂上:モチーフっていうか誰をモデルっていうのは。

斉藤:何もないです(笑)。

坂上:鳥と髪の毛の長い、お母さんっぽいですね。

斉藤:何も関係ないです。これは何年だ? 55年?

坂上:これは55年です。「空」って書いてあるか。「2/2」か。どっちだろう。

森下:「2/2」

坂上:じゃあ多分2枚刷ったんですね。

森下:ここに(裏に)「A」と書いてあります。

坂上:ここには「B」と。

斉藤:何の意味だか全然わかんない。随分昔の絵だね。本当に。

坂上:動物と人間が半々になっている。

斉藤:少しシュールに近いよねえ。何故か全然わからない。自分では。

坂上:鳥の手みたいな。

斉藤:本当?よくわかんない。

坂上:こっちは「54」で、「2/2」で、「Takako」って書いてある。こっちは「saito」だけど。

斉藤:本当。

坂上:これも福井に戻られた時に家から持って来た。

斉藤:そうです。

坂上:じゃあ何十年と家の中に陽子さんの作品が大事に置かれていた。

斉藤:日本を出てアメリカに行った時は何も持って行かなかった。それこそ身の回りのものだけで。

森下:これは(裏に)「F」って書いてある。組、なんですかねえ。ABCとFで。

斉藤:これは多分…

坂上:「63」って書いてある。アメリカに行く直前位かもしれない。

斉藤:そうでしょうね。これはドライポイントじゃないかな。エッチングじゃなくて。直接銅板に針で描いたんだろうと思います。時にはサンドペーパーを使って。銅板っていうのは柔らかいですからね。

坂上:これは推測なんですが、54年55年頃はまだ具象的なシュールに近いような絵を描いていて、58年頃になると抽象に近いような形になって、○とか☆とか□とかそういうのを画面に散らばせるような感じの表現に。

斉藤:なんか知らないです。

坂上:60年代に入ると……。

斉藤:パステル。栃木(グループ展「前衛の女性 1950-1975」、栃木県立美術館、2005年7月24日−9月11日)に出した作品と同じ時代ですね。そういう時代のものだろうと思います。何年かな。

坂上:63年3月29日。

斉藤:アメリカに行く前で、ビザが下りるのを待っている時期ですよね、これは。

坂上:久保さんが買ってくれたのも。

斉藤:そういうものだったと思います。覚えてませんけどねえ。

森下:これは「61」ですね。

斉藤:アメリカに行く前の期間。それこそ……。

斉藤:エッチングがここにも。

坂上:こわいお姉さんが……。目に花が突き刺さって。(註:「55」)

斉藤:目から花が飛び出してる(笑)。とにかくたくさんあるんですよ。

坂上:鳥と女性多いですね。シュールの頃は。

斉藤:ペン画もあります。 >

森下:あ、これは詩が描いてありますよ。「1238、16たまのくだける音、がくがくがく犬の声……」

坂上:国語の先生の時も詩を書いていたって。
(※斉藤記:国語の先生をしていた頃、割と沢山、詩みたいなものを書いていました。はじめて日本に、母に会いに帰った時は、私の部屋はまだそのままで、私の机もそのままで、そのノートが入っていましたが、その後に捨てられてしまったのか、2度目の帰国の時にはもうノートはありませんでした。)

斉藤:これは何年だかわからない。

坂上:日付しか書いてないけどこういう作品だから50年代後半から60年代初め位ですね。

森下:「4月20日」とか「4.20」とか書いてあります。

斉藤:日にちが書いてあるんでしょう。

森下:これはいつなの?62年8月31日。

坂上:「1,700」って書いてあるのは何だろう。(「63 Saito」)。これも63年4月。アメリカに行く直前にこれだけ毎日描いて待っていたという事ですね。だけどアメリカに持って行かなかった。こんなに毎日描いていたのに。ちょっと宇宙空間っぽいよね。(堀栄治『福井創美の歩み』、発行:石田俊夫、1990によると「1963年4月 斉藤陽子ニューヨークへ」との記述あり)

斉藤:いっぱいありますけども。

坂上:写せる限り写して。

斉藤:ここにも何か書いてあるけど。こうかなあ。

坂上:「血ヨハシレ高木ノソラへボクノアタマへ アバラボネモオレテシマツタ ハネクチテ アシ目ミミナニモナイ ノコツテイル ナニモナイナニモナイ ムネノイタミガカスカニ ヤマドリモアルク カモガトンデイク トーキヨノソラモアサハウツクシイ ワタシノカオモツルツルシテイル ボクノカオモカガヤイテイルダロウ タカギノソラガウツツテル  61 Saito」

斉藤:(笑)。

坂上:63年3月9日。

斉藤:これも63年だ。

坂上:これも63年4月26日。

坂上:あ、ここにも何か書いてある。「ホーキボシ」だ。銀河系とか宇宙空間っぽいなと思っていたけど、星の星座になぞらえているのかな。「ホーキボシガナイタソラワムラサキイロ ニンゲンノナミダワキイロ」(笑)。「ミドリイロシタハトノムレ」が「ミチヲマチガエマシタ」だって(笑)おもしろいねえ、色鉛筆で。何か後ろに描いてある。紙芝居みたいになっているのかなあ。

森下:文字の並びがほうき星みたいな。

坂上:これも星っぽいの。21、22って星っぽいの。これが63年…

森下:これだけ版がいっぱいあるということは、銅板がいっぱいあったって事ですよね。

斉藤:見て御覧。こんなにいっぱいあるんだよ。もう一つさらに包みがあるんだ。

森下:こんなにいっぱい送って頂いて。

斉藤:本当に助かりました。ディマンシュ(ホール、福井。1991年の個展会場。開催後、展示作品共々斉藤の元へ送ってきた)の人達が払うという事でね。それでなかったら私は持って来れなかったから。

斉藤:それとこれは貴方達に見せたいと思ったの。マーゲマイヤーで展覧会をやった時にね、こういうカタログを彼女達が作ってくれた。こういうふうに(註:マーゲマイヤー〔Buchgalerie Mergemeier〕は製本工場も持つアーティストブックを扱うデュッセルドルフの画廊)。

森下:マーゲマイヤーの展覧会。

斉藤:マーゲマイヤーのガーテン(Garten、庭)っていう展覧会(個展「庭〔Garten〕」、1999年5月4日−6月30日)。こういうふうに部屋の中でさあ、本物の芝だよ、これ。そして画廊の人達は毎日水をやるの(笑)。下にはプラスティックのシートを敷いていて。網の板を持って来てその上に本物の芝生を置いたんです。花はこの辺の近くの野原で取ったものを(笑)。私の70才の記念の為にライン川の畔でパフォーマンスとマーゲマイヤーとキキ・マイヤー=ハーン(画廊〔Galerie Kiki Maier-Hahn〕)と3つ展覧会を(開いたのです)。

森下:さっき(ここに来る前に)キキ・マイヤー=ハーンの前まで行ったんです。そしたら開いているのは2時から6時まで。それも火水木の3日間だけ。

斉藤:これはパフォーマンスだよ。ライン川の畔でやった。

坂上:このキューブは、また明日聞きますけれども、川の水に(溶けていくという)。

斉藤:これはほんの一部です。コラージュの作品だけでも170作品位あるので。

坂上:今日は大回顧展だねえ(笑)。

(実際にキューブを落としてみるとカランという軽い綺麗な音が鳴る)

坂上:ああ、これを落としている陽子さんの姿こそ記録写真。

森下:いい音しますねえ。

斉藤:でしょう!床がそんなに堅い床じゃないからそれ程じゃないけど、いい音するんですよ。もし下がセメントだったり石だったりするともっとピーンピーンって音がする。

坂上:こんなにいい音がすると思わなかった。

斉藤:それをたくさん作ったんですよね。そしてその中に潜ってパフォーマンスをやったんです。そして最後に川の中にみんなでキューブを流したんです。

坂上:私もその写真を送ってもらったので見たら、キューブがあまりにも大きくて。

斉藤:大きいのはこれ位あるんですよ。小さいのは1センチ。だから結局これは音のパフォーマンスなんですよね。本当はね。

森下:ししおどしの音に似てますね。あるいは鼓の音、近いのはね。それはコラージュですね。

斉藤:フォトコラージュです。たくさんあるんです。

斉藤:これが少し大きいものです。

坂上:ああ、フォトはこうやって印刷されていて…。

森下:やっぱり梯子ですか。

斉藤:これ(梯子)はねえ、私とは関係なくてこれはライン川の畔を行く船です。パフォーマンスをやっているところの写真を小さくしてここに合わせた訳ね。写真を拡大したり縮小したりしてコラージュを作ったんですよ。コラージュしたものをコピーショップで透明なプラスティックにコピーして、そして貼付けた訳、ガラスの上にね。

森下:この箱も自分でつくられたんですか。

斉藤:もちろん。

森下:それがすごい。立派です。

斉藤:機械があるからきちっと計れば出来ます。

坂上:プロの木工屋の仕事だよ。

斉藤:そうだよ(笑)

坂上:「1999-2000」。「D-TAKAKO」って書いてある。

斉藤:もっともっとありますけどね。ただ気をつけないとならないのは、ガラスが壊れたらもう一度再製することは出来ないんです。それだけ気をつけて開けないと。私一つ割ったの。

(しばし雑談)

斉藤:私は公募展に一度も参加したことはないんですけど、何だかひょんな事に私が賞を貰えた。その年のアーティストとしてね。たくさんポスターをくれたんですね(「デュッセルドルフ大芸術展(Grosse Kunstausstellung NRW Düsseldorf 2000)」、デュッセルドルフ・メッセ、2000年12月10日−2001年1月7日)。

(中断)

斉藤:マーゲマイヤーに行ったら聞いてみたら?カタログが余分にあるかどうか。彼女が作ったものだから。

坂上:いやあ、素敵ですね。1枚1枚作品の説明が書いてあるから。値段もついているから。

斉藤:そんなにたくさん作らなかったと思いますから、彼女。

坂上:この作品をすべて出品した。

斉藤:そうそう。

坂上:これありますよね、いまそこに掛かってる。

斉藤:そうだ。

坂上:「DM2,600(ドイツ・マルク、ユーロ導入以前のお金の単位。1DMが約60〜70円)」って書いてある。ああいう本とかアーティストブックを扱うような画廊だとこういう小さな……かえって手の内で見せるような作品で素敵なのを展示出来ますよね。大きい空間だとなかなか。

斉藤:彼女は画廊だけだけじゃなくて製本も。それが彼女の本業ですからねえ。今は、元は画廊だけに使っていたスペースも、本業のいわゆる製本業のために使っていて、そんなにしょっちゅう個展をやらないです。

森下:展覧会の時の作品の数がすごいですね。ハーレキン・アート(Harlekin Art)のを見てもよくこんなに、って。(個展「斉藤陽子:チェス、ゲーム、本〔Takako Saito: Schachspiele, Spiele und Bücher〕」、ハーレキン・アート、ヴィースバーデン、ドイツ、1989年6月23日−7月28日)

斉藤:モェース(Moers)でやった展覧会なんて、出した作品の量って、それこそ小さいムルティプル(マルティプル)も合わせると300点に近いものです。25メートルの長さある奥行きのある部屋が2つ。(個展「ゼーヴェルク(Seewerk 2012)」、モエース、ドイツ、2012年9月9日−10月19日)

森下:毎日少しづつおつくりになられているんですよね。

斉藤:ああ、森下さん、あなた大阪の国立国際美術館の橋本(梓)さんってご存知でしょう。あなたは私が送ったこれを見ましたか? 資料を。

森下:ちょっとだけ見ました。(美術館の)資料室の中に(は)斉藤さんの(資料)がありました。

斉藤:ノー。これは見ましたか。これは何故かというと、メアーブッシュ(Meerbusch、デュッセルドルフの北隣)にルンゲ(Runge)という名のコレクターがいるんですね。彼はフルクサスでは他の作品を買っていないけれども、私の作品だけは買ってくれていて、40点位持っていてくれて。彼は今年89才になるはずです。奥さんはもう亡くなったんですけどね。肝臓がんで。見つかってからすぐ手術したのですが間もなく亡くなってしまったんですね。発見されるのが遅くてね。「ここが痛いんだ」って言っておられる頃、ちょっと前に私は彼等の家に招待されて、その時に言われたのは、彼等のコレクションをどこかに寄付したいって。そしてその条件というのは、必ずそれらを地下室に眠らせておくんじゃなくて展示するというのが条件だったんですね。それでなければ寄付しない、と。その資料を送ったんです。大阪の(国立)国際美術館に。そしたら橋本さんって人から手紙が来て、日本ではどこの美術館でも、寄付を受けたとしても全部、常時展示する美術館はないだろう、と。

坂上:常時は難しいですね。

斉藤:そういう事はあり得ないですか。日本では。

坂上:この方が付された名前の部屋を作るという事ですね。

斉藤:小さい作品ばかりです。大きいのはないです。大きくても箱位で、全体で40点位です。

坂上:この間、塩見(允枝子〔みえこ〕、1938-)さんが(国立)国際美術館にいろいろ寄贈された時は、すべてを2-3ヶ月全部見せるっていう展覧会をやっていたんだけれども(註:「コレクション1 特集展示 塩見允枝子とフルクサス」2013年4月6日-7月15日、国立国際美術館)。終わったら多分また出るのは何年か後ですね。

斉藤:いろんな資料を送ったんですけどね(註:後述にあるように主に新聞記事のコピーにパフォーマンスのスナップ写真のカラーコピーなどが含まれている)。これだけじゃなくて。だけどそれは全然帰ってこなかったですね。ただ手紙が来ただけで(註:斉藤さんからのお手紙のやりとりの内容からこれらの資料は国立国際美術館の資料室で作家資料としてファイリングのうえ登録されている)。

森下:戻さないといけないですか。

斉藤:国立国際美術館にあるでしょうから、あなたが見る事が出来るだろうという事です。これ以外にもモェースでやった展覧会の写真とか新聞に出たニュース等そういうものも送ってますから聞いてみてください。

森下:ちなみに僕初めてこの「ヌードル・エディション(Noodle Edition)」とついた作品を見ました。「ヌードル・エディション」ってどんなのかと思っていたら、これだった。

坂上:ヌードルって麺ってこと?

斉藤:私のエディションです。

森下:陽子さんのプライベート・エディションなんですが。なんでヌードルなのかわからないので聞こうと思っていたんです。
(※斉藤記:その少し前に、”→“a story of noodle”というのを書いていたんです。公開はしていませんが、さあ、完成したんだろうか?探してみなくてはわかりませんが、その頃、自分のエディションの名前を考えていて、すーっと、「Noodle」という言葉が出てきたのです。)

森下:それでは探してみます。もう一度お名前を。

斉藤:ホルガー・ルンゲ・コレクション(Holger Runge)。彼ももう年ですからねえ。でも別に彼等が私に頼んで、探してくれって言われた訳じゃないですけれどもね。何かしなきゃならないと思って。本当はリトアニアのカウナス(リトアニアの都市、斉藤陽子は2002年に個展を開催)も欲しがっているんですけどね。ルンゲだけじゃなくてもう一人ニュルンベルクにコレクターがいるんですよね。彼等がこのコレクションを一緒に、同じところに寄付したいって言っているんです。だけど彼等、クランツ(Kranz)って人だけれども、プロフェッサー・クランツ。元は大学の考古学の教授で奥さんは芸術の歴史なんだけれども、彼等はカウナスじゃあまりに遠過ぎるって(笑)。日本は私が生まれたところだけれども、カウナスって彼等にとっては関係ないみたいな感じがするでしょう。カウナスじゃあって言うもんですから。ですけども日本には私の作品なんてないですからね。

森下:国際(国立国際美術館)にはありますよ。(註:《エッチング・ボックス》、エッチング、紙、13.8×13.8×13.8cm、1968年)

斉藤:箱のやつね。あれは誰かが。私が売った訳じゃないですけども。

森下:じゃあ塩見さんかなあ。

斉藤:あれはニューヨークで作った作品なんですよね。あの頃、私は自分自身を本当に芸術家だと思っていませんでしたからね。美術学校に行くとしてもヴィザの為に行かざるをえなくて行った訳ですからね。本当に私がやりたい事はやっていなかったですよ、あの頃。まだ。だから、つくって友達にあげたもので、誰にも売っていません。

坂上:塩見さんがおっしゃってました。陽子さんって、本当にこう、何の躊躇もなくぽんっと作品をくれるのよ、って。

斉藤:だってニューヨークという場所で、ある機会を得て塩見(允枝子〔みえこ〕、当時は、千枝子〔ちえこ〕、1938-)さんに会い、靉嘔のロフトにも住んでいて。そういう状態でフルクサス(Fluxus)の友達も出来て。だけど私自身は本当に自分のやりたい事はやれなかったですもんね。美術学校に行っても本当に自分のやりたい事はやれなかったですからね。何故かというと、一番最初に美術学校で行ったのがブルックリン美術館美術学校(Brooklyn Museum of Art School)(註:個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」カタログ〔ディマンシュホール、1991年〕によると、1965年から1966年同美術学校在学)。そこには油絵科と彫刻科しかなかったんですよね。それで私は油絵科を選んだけれども、私には他にやりたい事があって。科には毎日必ず真ん中にモデルがいてそれをデッサンし……と、そういう事。それをデフォルメしていく。だけれどもあの頃問題が起きたのは、吉村さんって日本人でね、籍だけを学校に置いてね、後は全然学校に行かないで。そして大工さんの仕事をしてアルバイトをして稼いでいたのね。それを移民局に見つかって追い出されたんですね、彼は。
(註:吉村益信、1932−2011。1966年、「ヴィザの切り替えのトラブルで移民局に摘発され、やむなく帰国した」「吉村益信の実験展――応答と変容――」カタログ、大分市美術館、2000年、42ページ)。
そういう事が彼だけじゃなくて、よく起こったんですね。それで美術学校では毎日出席したかどうか確認する為に、行った時と帰る時とサインする制度を設けたんですね。ですから必ず出席しなければならなかったんですね。だけど私が本当にやりたい事は油絵を描く事ではなくて。だけどもちろん時にはデッサンをやったりして、それを何か私の方法で利用して。だけども時には廊下でね、木のキューブを磨いたりして(笑)。そういう事をやっていたの、その頃。荒川修作(1936-2010)さんっているでしょう、私は彼を個人的には知らなかったんだけれども何年も経って、ドイツのどこかで会った時に、彼が私に「あなたはよく外で木をサンドペーパーかけていたなあ(笑)」って(笑)。まあそういう状態でね、本当の意味で自分のやりたい事は出来なくて。何とかコンバイン、絵を描く事と、自分のやりたい事と一緒にした作品を、という事で、本当の意味で私のやりたい事は出来なかったんですよね。

坂上:でも日本にいた頃は、今、作品見せてもらったけれど、絵を描くことでしたよね。

斉藤:あの頃はね。だって手近い事だったですからね。特別アトリエがあったわけでもないしさ。日本の住宅でね、畳があって。もちろん木工をやろうと思えば、私が生まれた家ではいくらでも外に小屋があって出来る事は出来ましたけれども、まあそういうことは考えられなかったし、あの頃は。そういう状態だったから、私はニューヨークにいた頃は決して自分から作品など売ろうとは思わなかったんですよね。で、友達にあげていた。感謝の意味で渡していました。その後、ブルックリン美術館美術学校から私は追い出されたんです。美術館の館長は私がやっている事を見ていて。私がもう一度学校の証明を……ヴィザを貰おうと思って館長のところに行ったら「あなたは本当にやりたい事を知っている、だから来る必要がない」って。それでしょうがない。どっかの学校に行かなきゃならない。そうでないとヴィザが取れない。それでアート・スチューデンツ・リーグ(The Art Students’ League)に行ったら、エッチングコースともうひとつ他に何かあったのかどうか知らないけど、エッチングコースに入った時につくったのがあの国際(国立国際美術館所蔵)のキューブの作品です。あれは本当はキューブの大きさがみんな同じなんですね。だけども落とすとそれぞれ違ったトーン(音)がするんです。そうなるようにつくったんです。箱の中にコルクだとか金属だとか違ったものを入れて。落としたら大きさが同じだったら普通は同じ音がするわけでしょう。ところが同じ大きさだけどトーンが変わるように中にいろいろなものを貼付けたんです。ところが年月が経ったら貼付けた糊がはがれて、振ると音が出るようになっちゃったんです。サウンドボックスみたいになっちゃった。
(註:個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」カタログによるとアート・スチューデント・リーグには1966年−1968年在学)

森下:直すのに一度箱をばらさないと直らない。糊付けされちゃって。

斉藤:だから出来ないんですよね。壊すとなると。

森下:でもまあ美術館に収蔵されたら落とすことは許されないでしょう(笑)。

斉藤:ところがね。大阪の美術館だけでなく、イスラエルの美術館も一つ買ったんです、誰からか知らないけど、ニューヨークで私があげた人が売ったんだと思います。非常にいいカタログに私の作品も載っているんですけど、そこに「振ると音がする」って書いてあるんですよね(笑)。残念ながら糊がはがれちゃったんですよね。紙にもよるのかもしれないし。しょうがないですよね。まあ、私がそういう事を知らなかったものですから。木を貼付けるための糊を使っているんですから。普通の紙と紙の接着じゃないですから。コルクと紙、金属と紙……と。だから……本当はちゃんとくっつくはずだったのですが、くっつかなかった。

森下:音が鳴るんだけど別の意味に。

斉藤:振ると鳴っちゃったんですよ。落とすとトーンが違うはずなのに(笑)。そういう事もある。

坂上:昨日の話に戻るんですけど、ニューヨークに行く前の話から。創美の頃の58年頃にニューヨークにいた靉嘔さんがニューヨークの話をされて、その靉嘔さんが語るニューヨークの状況にすごく刺激を受けたって書かれた文献がありますが。

斉藤:それも一つの刺激か知らないけれどね。それもニューヨークに行った要素であっただろうと思いますけどね。昨日も言ったように、昔はパリが文化の中心で、だけどもアメリカは新しい国だから、何か新しい動きがあるだろうというものを感じていたっていう事。これは靉嘔と関係なくても。だけども靉嘔が先に行っていますからね。
(※斉藤記:勿論AY-Oがニューヨークに行っていたというのは大きな要因になったと思います。美術雑誌に、あの頃の何が載っていたかなど特別思い出せませんが、ポロックはあの頃出ていた作家だろうか? それと不思議な事に創美は何かとアメリカとの関係がありました。ヘンリー・ミラーの絵の事など。それに初期の頃、久保さんは学校の先生達に明るい雰囲気をつくるために、明るい服装をする事を奨励され、アメリカのセカンドハンドの安い洋服を買う事をすすめられた。私は買った覚えはありませんが、市の公会堂に何回か見に行った事を覚えています。)

坂上:当時、山口勝弘さんがニューヨークに行っていて、『美術手帖』に「ニューヨーク・レポート」っていうので当時のロバート・モリス(Robert Morris、1931-)とかあの辺の作品を見て衝撃を受けたというレポートを書いていたりするのですが(山口勝弘「瀕死の芸術観 2 ニューヨークにて」『美術手帖』)1962年6月)。
(※斉藤記:これ等の事どもを私は特別意識して読んではいませんでしたし、覚えてもいませんが、無意識の内に刺激されていただろうと思います。何かを感じていたかもしれません。)

斉藤:私は別に美術雑誌から刺激を受けたっていう記憶は全然ないです。

森下:美術雑誌は。

斉藤:時々は読んでいましたけどねえ。美術雑誌の中にあった記事は一つも覚えてません。特別に何かあるかと言われたら全然覚えてません。

森下:さっき荒川修作さんの話が出ましたが、50年代の終りというのは日本でも読売アンデパンダンとかがあり、そういう新しい美術がたくさん出て来た頃なのですが、そういう新しい美術の動向はお耳に入ってられましたか。

斉藤:入っていたかどうか知らないですけど、特別記憶は何もないですね。全然関係ないです。まあ私は美術学校出じゃないですから。他の人達は美術学校を出てそういう教育を受けてこられたのでしょうけども、私はそういうところから入っていませんから。自己を表現する材料として絵を描き、ものを書きという状態で。美術学校で教育を受けた人間じゃないですから、知識的なものは全然ないですからね、私には。
(※斉藤記:でも言える事は、創美の運動、又、芸術家、瑛九、AY-O、〔北川〕民治……等との交わり、又、他の作家の作品に接し、それを通して、それ以前の私の人生にはなかったものを感じたからこそ、ここまで来、私も美術家(と言えるかどうかわかりませんが)まがいの人間として生きて来たのだろうと思います。)

坂上:そういう人達と出会ってどうこうというのは。

斉藤:なかった。ただ創美の間だけで。その動きだけで育った人間ですから。

森下:55年の、さっきのエッチングを作られていた頃に、福井で岡本太郎展というのがあったんですけど。(「岡本太郎展」福井市ステーションビル2階、1955年8月1日−8月7日)

斉藤:そう? 私覚えていない。

森下:そうですか。

坂上:北美とも全然関係がなかったとおっしゃってましたね。

斉藤:全然ないです。

森下:岡本太郎は講演もしてるんですよね。(福井市公会堂、1955年7月31日)
(※斉藤記:この頃、案外、私は東京にいたのかも知れない?)

斉藤:私は美術と関係なかったです。本当に。残念ながら。

森下:ただ久保さんのコレクションをだるま屋で見られた。そういうのはあったわけですね。西洋版画展を見られたとか。(久保コレクション「西洋版画」展、だるま屋、1954年11月)

斉藤:もちろん私が、いわゆる主として動いた人間ですから、展示したりとか。

坂上:さっき日本で描いていた作品をいっぱい見せてもらったら、日付とサインが入っていたので、やっぱりまああれだけ見ると、画家として何か自意識みたいなのがあったのかなという感じも。

斉藤:さあねえ、どうか知らないけれども、あの頃、創美ではいろんな、久保さんを通じて作品を扱っていましたから,それを見る機会がありましたから。それには必ずサインがしてあって。まあそれ位のものです。特別の意味はないと思います。

森下:また話が戻りますけど、木水さんが久保さんに会った時に、「久保先生」と呼んだらしいんです。初対面だし目上ですから。そしたら久保さんが「いや、久保さんと呼んで」と。だから木水さんが「久保さん」と呼んで。そしたらすぐに変えちゃったから変なヤツだなあ(註:面白いの意)と言っていたようなのですが。木水さんを見ていると、生徒と先生が対等の関係にあるという事をものすごく意識されていたなと思ってまして。陽子さんもどうでしょう。

斉藤:対等ですよ。もちろん。

坂上:創美の頃にいろいろ得た事、感じた事、学んだ事が自分をたくましくしてくれた、大切なものを教えてくれたといつもおっしゃる。それが何だったのか。もちろん昨日聞いてぼんやりはわかっていたのですが、もっとしっかり聞いておかないとな、とは思っていて。例えば上下関係がないリベラルな感じとか、押しつけがましくなくて自主的なとか。

斉藤:そうです。上下関係。久保さんと我々の間では何ら上下関係っていうのはなかったですよね。セミナーの時かな、お弁当だって一緒に分けて食べたりとかね。それは久保さんの人柄から来るものだと思います。それから我々が受けたものは非常に大きいと思います。

坂上:誰かが「教育とはこういうものだ」上から押し付けたことはない。けんけんがくがくで何かいろんな意見が出たというのは。

斉藤:創美の会員の間でけんけんがくがくなんて覚えてません。だけど我々はある意味で正直に話し合ったと思います。だから創美以外の人々には、時にはカオスで混乱状態に見えた。

森下:今でもそれが《ユー・アンド・ミー(You and Me)》に生かされている(註:斉藤陽子の作品の題名)。

斉藤:今でも私は同じ精神でもって同じような気持ちで生きています。今、芸術家として生きるのも、同じような気持ちで生きています。私は非常に大事だと思っているのは、《ユー・アンド・ミー》のショップをしたり、《ユー・アンド・ミー》のマークト(市場)をオーガナイズするにしてもね、私がオーガナイズする立場じゃなくてみんなと一緒にやる、ただそれだけです。みんなと同じです。それは非常に大事な事だと思う。何故かというと、残念ながら美術の世界も美術館という権威と、芸術家という権威がどこにでもあるものですよね。そういうものをなくしたいと思っています。そして私にとっては美術館と芸術家の関係がどうのっていう問題じゃなくて、芸術家と鑑賞者ね、一般の人も同じだっていう。だから、私の作品は、遊びの作品。人々が遊べ、人々が構成し、そういうおもちゃみたいな作品が多いんです。

坂上:鑑賞者が参加して。

斉藤:彼等が作るんです。私は、子どもであろうと年寄りであろうと参加者が遊んで出来た作品がいかに素晴しいかっていうのを身をもって感じていますから。私がやるよりも彼等が一つに集中すれば、彼等が作った作品の方がユニークでもっと光ってます。本当。
(※斉藤記:今(2014年夏)、Lehmbruck Museumでやっている私の”→“You and Me Shop”で、あなたと私の共同作というのがあり、皆がそこにある材料を使って何かをつくり、彼等がサインをし、私もサインをするというのがありますが、初め書いたそれぞれの値段は大体30ユーロ、20ユーロ、35ユーロでした。そういう値段でイタリーでもドイツでも、オープニングには私が店番をし、大体、2、3人の人々が買いましたが、それ等はコレクターとか画廊の人で、オープニングのアクションとして私としてはそれでいいと思っていました。オープニングにはそれだけではなく他にも沢山の作品がある事ですし、パフォーマンスもありますから。だがLehmbruck Museumのオープニングでその値段が高過ぎるのではないかという事に気づかされました。場所が大きく、そして沢山の人々が来られ、やろうという人が沢山いましたが、その中に自分がそこにある物で何かを作ったけれど、それに対してお金を払う段になって、難色を示し、払わない人が何人か現れました。私はそれをそのまま受け取り、皆に見せるように展示しようと言ってー。そしてはじめてそれ等の値段について考え直す機会になりました。私自身かなり控えめな人間だと思っていましたし、人からも言われてきましたが、私の中にも何か芸術家としての尊大さがある事に気づきました。2回目、美術館に、値段を安く書き換える事と、オープニングでかなり買い物袋を使ったので、その補充をする為に行った時、You and Me Shopの壁の一部にあるらくがき板に誰かがポムフリット(日本語で何というのか知りませんが)が紙の皿に乗っている絵を描き、その横に30ユーロと値段が書いてありました。それに対して私は“どうも有難う!あなたの言っている事は正しい。Takako”と書いて帰りました。だが私は自分がポムフリットやフランクフルトのソーセージを屋外のスタンドで食べた事がないので、実際にそれ等がいくらかわからず、帰ってからRealにその値段を見に行きました。それらは3ユーロから5ユーロでした。次の日又美術館に行き、それ等の値段をポムフリット並みに下げる決心をし、書き換えました。1ユーロ、2ユーロ、3ユーロ、5ユーロと(今ちょっと正確な事は覚えていませんが)、このように書き換えました。その時私は自分自身が開放された事を感じました。)

(中断)

斉藤:こういう構成は私だけでは考えられない(陽子さんがつくったパーツを、いろいろな人々がそれぞれの発想で並べたり展示をしたりしていくの意)。あなたが豊田でやったのはこれね。
(註:グループ展「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」豊田市美術館、2008年9月30日−12月25日で斉藤の作品《フィギュア》2003年、合板にペイント、コラージュはマグネットの作品がある。インタヴュアーの坂上が展覧会前にフィギュアのパーツをつかって壁面で遊んだものが初日に展示された)
モェース(Moers、「ゼーヴェルク〔Seewerk 2012〕」展、2012年)ではぶ厚い絨毯を床に敷いてくれたら(例え落としても作品に傷がつかないから)誰でも出来たんだけど、ミューゼアムの人がそれはやりたくないって言って絨毯は置いてくれなかった。けれど、ある美術館だけは下に敷いてくれて。豊田ではあなたに頼んだように、私自分でこの作品の展示はする気がしなかったから。だけどこれは他の展示とは全然違う構成でしょう。それこそ私じゃ考えられないような。

坂上:マグネットになっていて。いっぱい重ねるといくらマグネットでも落ちてしまうから床に絨毯が必要なんですよね。落ちるとどうしても作品の角が欠けてしまうので。

斉藤:落ちるとそのショックで鉄板が離れたり、鉄板やマグネットが離れた時は直せますが、角がへこんじゃう。するともう直せないんです。ただ鉄板が離れた位だったら違った糊で着けられますけど。ですから厚い絨毯を床に敷いてもらえないとなかなか頼めない。だがこの時は絨毯を敷いてくれて、頼めました。そして出来たのがこれなんて!だから本当にびっくりした。私でもこんな構成しないですよ。

坂上:陽子さんの作品はまさに場作りですね。

斉藤:そうです。

坂上:場の提供。

森下:観客の創造力の素晴しさですね。

斉藤:それぞれの人がね、創造力というものを持っているわけですよ。だけど残念ながらそれを発揮する場がなくて押さえつけられているわけだけれども。

坂上:それこそ創美がなくても、国語の授業の時から、陽子さんはそういうふうに。

斉藤:そうです。もちろん。

坂上:ですから創美があって陽子さんというのもあるし、創美に出会う前からそういう気持ちを持っていたから……

斉藤:これもあなたに写真を送ったけれども、いろんな人達が一緒につくった作品ですよね。1979年の作品ですから相当前ですけど。誰が参加しているか説明して書いてあるでしょう。その写真があまり良くないので、私は昔の事でよく覚えていませんけどもね。特殊なものとしてはダニエル・スポエリ(Daniel Spoerri、1930-)が紙を取り出してビールでボールをつくった。それを吊って、あれ?って思ったけどねえ(笑)。もともとの素材は私がつくりました。硫酸紙(Pergament)の薄い紙に、1979年頃ですから水とインクの実験みたいなことをしていた頃でしたから、水にインクを落として、その紙を両面ガラスである額の中に入れて。額は閉まるようになっていて、そこを開けると取り出せるんですね、その紙でもって何をやってもいいわけ。ベン・ヴォーティエ(Ben Vautier)の場合は細かく刻んでそれにABCとか書いたり。ダニエル・スポエリはそれを取り出して、私の目の前でビールを取り出してぐるぐるっと丸めて私にくれたんですね。だから、えーっとどうしたらいいだろうって。そして特別な分厚い額にしてね、そのボールをガラスに糊を貼付けないで、けれども真ん中から落っこちないようにするための工夫が大変だったですね。とかいろんな人々。これはイタリーの友達で芸術家の友達じゃない、子どもも入ってんで、それぞれに何枚かの紙に描いたもの。ボブ・ワッツ(Robert Watts 註:Bob Wattsという名前も使っていた)とかも。あの頃はフルクサスも何も有名じゃなかったですからね。その頃は私の周囲には偶然にそういう人がいたという。ジョージ・ブレクト(George Brecht)とか、ボブ・ワッツとかディック・ヒギンズ(Dick Higgins)だとかそういう人達がいたというだけで。これは必ずしもフルクサスのアーティストだけじゃなくて、全然関係ない芸術家もいますしね。まあ、そういう人達に頼んでやってもらったんです。
(註:下記は作品ひとつひとつの説明。斉藤陽子の説明は英文で記されている。
「Took a very thin pergament paper 25g/m roll. And tore the paper with hand, each different size. Then again tore it smaller pieces like that.(坂上注:うろこのようになっている)Then made a drawing on a water in a big vessel with different inks(here I don’t write about how different between a water and each inks and another water with each inks. Then each piece of paper into the water to take a image, and let them dry. Each piece was different drawing of inks on a water and sizes also different. The trams were both side glass.
1, From the family of Robert Filliou(1926-1987) (註:写真一番上の左端)They played with the piece of paper how to put them present. And they made a drawing.
2, From Italian friends.(註:写真一番上の真ん中)they were not artists and I think one of them was a child. Each one made something on a piece of paper.
3, From Gerhard Rühm(1930-) (註:写真一番上の右端)He made different tores with the piece of paper together and made drawings of them.
4, From Daniel Spoerri(1930-) (註:二段目一番左)I don’t remember why I went to the art fair in cologne with some of small frames? It must had heard a gallery showed Daniel Spoerri’s works or??  When I saw Daniel, I showed him a pieces and asked him to do something with. He took it and took out the pieces of paper. He took some beer, near him he had on his hand and piece of paper put together and made a ball and gave it to me. It was a surprise. First I did not know what to do with it. Then came an idea to make a special frame both sides glass, and put it without gluing the paper ball on glass to let him stay in the middle of the frame. It was not so easy. Then a few days later I went to the art fair again to meet him. I showed him what I did, he was very happy and he signed on the glass (I brought a pen which could scratch glass to sign.)
5, From Wolfgang Feelisch(1930-) (上から二段目左から3番目)I think he put together with the brown cello-tape.
6, From Ben Vautier(1935-) (上から二番目左から5番目)He teared each piece of paper more smaller like it. And on the each small pieces he wrote something or just Alphabets (I don’t remember exactly) and put them in the frame.)
7, It must be from Drothee Iannone (1933-)(三段目一番左)I think she made drawings on the piece and painted the frame in black.
8, George Brecht1(1926-2008)(三段目左から6番目)He did not do anything with the pieces of paper. And he just wrote a word “Shin-Shin min””→ “信心銘” (I don’t remember which word was) on the glass of frame (scratched on the glass).
10 or 11,From Alison Knowles (1933-) (三段目左から4番目か5番目)She put only one piece of paper in the frame. ( I don’t know what she did the rest of pieces? Threw them away?? And sent it back to me and wrote me “One is enough!”
?, I don’t know which one was? From Hertfried Hergenberg (1940-) He put all the pieces of paper together and all together perforated through.).
9, From Bob Watts(1923-1988).(棚)He put some objects together sent it to me. So I made a special box for them.
The rest I don’t remember exactly, I am sorry.
There are more. Nam-Jun Paik(1932-2006), Dick Higgins(1938-1998), Alan Fisher, Erik & Drothee Andersch, Emmet Williams(1925-2007), but I don’t know which.」)

森下:これはどこか美術館に収蔵されているのですか。

斉藤:マルセイユの美術館にあります。こういう具合に私にとって大事なのは芸術家だとかそういうのじゃなくて、普通の人達も非常に大事です。

森下:あともう一つ。久保さん木水さん経由の事で私がわからないのはユーモアという言葉。木水さんの本でも、「子どもと接する時は、教師はユーモアを持っていなければならない」と書かれてましてね。これは難しいなあと思ってねえ、斉藤さんご意見ありますか。

斉藤:私は全然特別意識はしないですけどもね。ユーモアというものは、自然に出て来るものだと思います。もし私がある人に対して、対等に対すれば自然に出て来るものだろうと思います。ユーモアが大事だというよりも、むしろいかに対等に相手と接するかだと思います。

森下:対等になると自ずと……。

斉藤:自ずとユーモアが出て来ると思います。だってさ、そうでないとユーモアは出て来ないですよ。誰かが上に出て来ると、どうしても心っていうのはほぐされないでしょう。ユーモアなんて自然に出て来るもので、作るものではないと思う。私は。

坂上:その対等にするという事が実はものすごい難しい事。

斉藤:そう。社会的な普通の状態においては難しいですけどね。それが出来ればさあ、自然とユーモアっていうのが出て来るものだろうと思います。

森下:大分先の話になりますが、陽子さんの作品の、《ヌードル・エディション(Noodle Edition)》という言葉も私は最初見た時に、え〜と思って。これはユーモアなのかジョークなのか。(註:「Noodle Edition」の語源については前出)

斉藤:自然に出て来たのだと思うけれどね。まあまああまり難しく考えないで(笑)。難しく考えない方がいいですよ。本当だよ。

坂上:それではニューヨークに少しずつ入っていこうかなと思うんですけど。最初、高島屋でアルバイトをされるのは、やっぱり酒伊繊維さんの口利きで。

斉藤:よく覚えていないですけどね、ある伝手で。誰かからどういう風にして聞いたのか覚えてないけども、酒伊繊維と関係があったのかも知らないですけれども。アメリカの商社に勤めた事がある人で、どこかで聞いたんだな。

坂上:陽子さんは、英語はどうだったんですか。高島屋はもちろん売り子さんじゃないから。

斉藤:私が女学校の頃は英語教育はほとんどなかった。止められていたんです。一年生の時に「This Is A Book」それ位でね。敵国の言葉を教えるべきじゃないって言われて、英語の授業はなくなっちゃったですよね。

坂上:それでは英語はどこで。

斉藤:行く前に。英語のぶ厚い教育本みたいなので。

坂上:アメリカへの準備を重ねている時に、ある程度の勉強をして。

斉藤:もちろん。

坂上:コミュニケーションを取れるようにしてニューヨークに。

斉藤:そうです。掃除婦をしていて、しゃべる英語なんて知れてますからねえ(笑)。だってさあ、店員さん達だってアメリカ人もいれば他の国の人もいて。高島屋は日本人経営ですから日本人はたくさんいるんですし。私が部屋を借りたところはアメリカ人の女性で部屋が余っていたので、その部屋で私は寝起きしていたから、自然に彼女との会話で少しずつ覚えていったでしょうしね。

坂上:間借りみたいな感じですか。

斉藤:そうそう。間借りです。

坂上:台所は。

斉藤:彼女と共同で。彼女はドリストル(Dristle)とか言う名前だったかな。場所は割とアップタウンでね、59番ストリート(59th Street)かな、ドライヴウェイ(Driveway)。そこにもう一人、間借りしていた日本人がいたんです。彼は、ああ!それは確か靉嘔から聞いたのかもしれない、靉嘔は奥さんが来られる前にグリニッジ・ヴィレッジにあるジャパン・フォーク・クラフト(Japan Folk Crafts)っていう日本のお土産屋さんで売り子のアルバイトをしていた事があるんです。そこで海下(かいげ)さんという人を知ったんだと思う。彼は学生で何かアルバイトをしていたんだけど、そこでアルバイトをしていた事があるという関係で、私は部屋をもらえたんじゃないかという感じがしますが、確かな事は覚えていないですけど。そういう関係で一部屋間借りをやっていたんですけどね。そうしている間に、一度靉嘔の家族を訪ねた事が。そしたらその場でジョージ・マチューナス(George Maciunas、1931−1978)に偶然会ったんですね。

坂上:それはあそこのカナル・ストリート 363番(363 Canal Street)のところで。

斉藤:そう。それから高島屋を何故やめたかというと、そんなに長くは掃除婦はしなかった(と思うが、長くやっていたかも知れない)。掃除婦の仕事自体はそれほどハードでもなかったですけどね、私一人が掃除婦で2 階建ての全体の掃除をする。そんなに簡単な仕事ではない、肉体労働です。まだ若かったんだ、私も(笑)。そして1年に1回位かな、棚卸しっていうのがあるんですよね。徹夜に近い感じで倉庫にいくらの商品があってというのをチェックする訳ね。そうすると夕食も私が作らなきゃならなくて一人で何十人もの夕食も作って。今考えてみると大変な事よくやれたと思いますけどねえ。ところがねえ、その棚卸しの時の夕食を私がその職を得る為に何等かの手助けをしてくれた男性に対して特別扱いをするということをしなかったんですよね。みんな同じ料理で。そしたら彼は腹を立ててしまった。それがきっかけ。それと同時に、菜食マクロビオティックをやっていた人が、レストランを開けたいから誰か料理人を捜していたというのをどっかで聞いたんですね。それで私が応募したら、私は特別料理の免許もないですけど、ただ日本女子大の家政科を出たというのと、高島屋でみんなの為に食事を作ったという経験だけで、使ってもらえて。来て欲しいって言われてね。

坂上:という事は、高島屋の掃除婦の仕事の後はマクロビのレストランで。

斉藤:そう。

森下:高島屋はどれ位いらしたんですか。期間は。

斉藤:どれ位働いたんだろう。さあねえ。何ヶ月位いたんだろう。

坂上:2-3ヶ月?

斉藤:もっとでしょうねえ。2-3ヶ月じゃない、もっと長かったような気がします。何故かというと棚卸しを2回した記憶があるからです。よく覚えていませんが。ただあの時は酒伊繊維の職員としてのヴィザでニューヨークにいた頃ですからねえ。

坂上:その頃はカナル・ストリートに引越して?

斉藤:ノー。カナル・ストリートじゃなくて。あそこのアップタウンの部屋では絵を描いたりするのは不可能でねえ。それで新聞ニューヨーク・タイムズとか見ていて、家を探し歩いたんですね。アップタウンのアパートってみんな高いんですよね。で、ダウンタウンで探していてもなかなか見つからないし。偶然ウエスト・ブロードウェイのカナル・ストリートから近いところでねえ、2-3人のプエルトリコの人がね、道路で何か仕事をしていたんですね。その人にね、「私は安い部屋を探しているんだけどどっかない?」って言ったら、「俺達のところが空いてるよ」って。そして見せてくれたのね。そこは幾つも部屋が空いていたのよ。そしてすごく安かったの。大きくはないけれども、一間の間借りとは全然違う。自由があるでしょう。台所もあって。トイレは共同だったですけどね。だけどとても安くてね。早速、決めたんです。それがカナル・ストリートから本当に近いところでね。そこにどれ位いたか覚えてませんけど、私が一番にそこのアパートを発見した人間なんです(註:349 West Broadway)。その後、久保田成子(1937-)さんとかねえ、小杉武久(1938-)さんだとかジョー・ジョーンズ (Joe Jones 1934-1993)とか紹介したんです。まあその後、さっき言った吉村さんっていう人が強制送還させられたでしょう。学校に行かないで仕事をしていたもんだから見つかって。それが靉嘔の借りていたロフトは2階ですよね、2階分の賃を払わないといけない。だけど彼は2つ払うのは大き過ぎる。誰かと共同で、って。それで吉村さんが出て空いたっていうので、それじゃあ私が入るっていう事で、靉嘔の上に住むようになった。

坂上:塩見さんと成子さんが来た時はもうカナル・ストリートですよね。
(註:二人は1964年7月 4日にニューヨーク着。)

斉藤:そうです。

坂上:塩見さんがいらっしゃる1年位前の1963年(おそらく4月)にアメリカに行っているので、1年間の間に2回引越をしたということですね。

斉藤:そうです。

坂上:荷物は日本からどれ位持って行ったんですか。

斉藤:そんなに沢山じゃないですよ。だけどね、送りました。後から。初めの間借りしている時は送れませんからカナル・ストリートのロフトに移ってから、荷造りをしてあったのを母に頼んで送ってもらったんです。

坂上:その頃は一生懸命働きながら、自分の力で絵を描いてという生活をして。

森下:ニューヨークに行かれてもさっきのような絵を続けてられた。

斉藤:何かやる事は。絵だけじゃなくて何かを。私はいつもよく何かをやっている。自分で作っていく人間ですから。

森下:その時の何かというのは全然残っていないんですか。

斉藤:初めは何をやっていたのか、どうかなあ。間借りをしていた時かウエスト・ブロードウェイに住んでいた時は何もしていなかったかもしれない、まとまったものは。だけどカナル・ストリートのロフトに移ってからは、ジョージ・マチューナスの関係とかジョージ・マチューナスの周辺にいるフルクサスのアーティストとの関係が自然と出来るようになって。そしてロフトですから、大きい場所があって。木工の機械だとかそういうものを買い始めて。つくったのはおもちゃっていうかゲームが多いですよね。そしてジョージ・マチューナスが私に聞いたのは「何かチェスにおもしろいアイデアはないか」って。それがきっかけでチェスをいっぱいつくるようになったんですね。次から次へと。

坂上:陽子さんは靉嘔さん達と麻雀をやっていたんですよね。

斉藤:そうです。だけど私は働いてましたからね。夜働かなきゃならない時もたくさんあったから、そんなに。だけど靉嘔のところは麻雀大会がいつもあった(笑)。

坂上:陽子さんといつも麻雀をやったみたいなことがいろいろなところに書いてあるから。

斉藤:私はそれほど。彼等とは違ってそんなしょっちゅうじゃないけど、たまには麻雀しました。ヨーコ・オノ(註:オノ・ヨーコ、1933-)、ヨーコさんだって来た事ありますよ(笑)。
(※斉藤記:池田満寿夫さんが来るまでは、川上夫妻もよく来ていた。)

森下:マクロバイオティクのレストランにお勤めの時ですよね。

斉藤:はい。
(※斉藤記:と言っても、私は昼も夜も働いていましたから、私は二階に住んでいたので、人数がたりないと誘われた。磯辺(行久)さんと言ったかな?東芝の重役の息子とか、日付だけをカンバスに描いて並べて有名になった人(河原温)も来ていました。)

森下:麻雀お強いんですか。

斉藤:ノー。強いのは小杉さん。すごくうまい。麻雀が好きでねえ、しょっちゅう来てました。

坂上:フルクサスの人達の事を面白いと思いましたか。刺激になった。

斉藤:もちろん面白いと思った。それでなかったらそこまで関係が続かなかったと思います。何もフルクサスとか何とかっていう概念とは別に、彼等のやっている仕事が面白くて。アメリカを離れてからも、ヨーロッパ各地でも、そしてドイツに来てからも、いつまでも何らか関係が、友人関係が、そんなに深い友人関係がないにしても続いてる。後になってからもフルクサスっていうのはいたるところでイベントがあるから、そういうところに招待されて一緒になるという事もありますけども。ま、長く続いてきましたね。

森下:当時面白いなと思ったことで、パッと記憶に出てくるような事ってありますか。

斉藤:さあねえ。さあねえ。

坂上:陽子さんはその頃ゲームをつくり始めた。どんなゲームをつくっていたんですか。

斉藤:そうねえ、いろんなことをやっていたねえ、何だろう。箱をつくって、そこに仕切りがあって、ところどころに穴があいていて、その玉を……だけど玉をうまく落としていく事がすごく難しい。うまくコントロールしないと出て来ないとか。

森下:日本でも遊技場でスマートボールとかありますよね。うまく玉が落ちてこないとか。

斉藤:ああそう。

森下:アメリカではピンボールっていうのがありますけど。

斉藤:そういうふうなものも。それとか《ミュージック・ボックス》っていうのとか。さっきやったでしょう。ガラスのボトルに入れて、カクテルっていうのは振ってつくるわけです。《音楽として、シェークし注ぎなさい(Shake It and Pour It As a Music)》ってそういう音の作品も作りました。

坂上:陽子さんは木工が上手ですよね。チェスももちろんの事。やっぱり当時、木工の道具をアメリカで仕入れて買って来て自分できれいにつくって。

斉藤:一番最初はそうじゃないんですよね。カナル・ストリートに移った時には私は多分学生のヴィザに変えていたと思いますからね。半日学校に行かなきゃいけない。12時までは学校でしょう。そして学校から直接仕事場ね。私はあの頃ジャパン・フォーク・クラフトの売り子をしていましたから1時から夜の9時まで働く訳でしょ。ほとんどうちにはいない訳ですよね。ただお休みの時だけ。土曜日と日曜日にお休みをもらって。初めは土曜日も働いて欲しいって言われて土曜日も働いてましたけど、やっぱり土曜日はお休みが欲しいって。自分の為に。ともかくそんなで空いている訳ですよ、私のロフトは普段。そこのロフトの半分を靉嘔と川上高徳(註:川上は斉藤陽子より先にニューヨークに来ていた)が大工仕事をして稼いでいたの。私のいない時には、私のところを使ってもいいって言ってたから。そしてのこぎり盤(table saw)を買って彼等が大工仕事をしていたのね。

坂上:その大工仕事の道具を陽子さんも使うと。

斉藤:彼等と話をして、休みの時は私が使わせて欲しいと。だからそれ以外の時は彼等が私のロフトを使って。

森下:ロフトは結構広いんですね。

斉藤:広かったです。ここ全体位よりも。ここよりも幅も広かったですね。もう1メートル位広かった。(註:ということは幅が6-7メートル?)

森下:工作の機械とかあったら鉋屑とか出ますよね。

斉藤:私は、住むところに仕切りをつくったんです。それでなかったらね、突抜けだったら大変だから。大きなロフトですけども仕切りを真ん中につくって、住むところと仕事をするところを作って。

坂上:そういうゲームをつくって、みんなに見せたりとかしたんですか。

斉藤:特別見せるとか、特に展覧会をやってというのはないです。どこかで、そうだ、《サウンド・チェス(Sound Chess)》こういう小さいもので、木で出来ていて音がする。それを「ボックス・ショー(Box Show)」っていうのでアップタウンのどこかでやって、すごく好評だったのを覚えてますよ(註:1965年頃、その他不詳)。出した事があります。

坂上:いろんなゲームをつくるけど、チェスということに関してはジョージ・マチューナスが。

斉藤:そうです。ジョージ・マチューナスが、私がゲームや箱をつくっているのを見てましたから、だからチェスのアイデアはないかって。そう言われてやりだしたのがあれです。

坂上:ボルトとナットとか。

斉藤:ボルト&ナット(註:《ナットとボルトのチェス〔Nut & Bolt Chess〕》)。あれが一番早い。そして私は別に年代もサインもしていないですから、フルクサスの関連で載っているのは大抵65年制作ってなっていると思いますけども、あれはもっと早いです。あれは64年の終り頃だと思います。

坂上:そのナットとねじ(Nuts and screws)のチェスをつくってから、《サウンド・チェス(Sound Chess)》とか《ウェイト・チェス(Weight Chess)》とか《ジュエル・チェス(Jewel Chess)》、《スパイス・チェス(Spice Chess)》……と次々。ナットとスクリュウのチェスを見て面白いからもっと作って!みたいなリクエストが来て。それに答えてあげるみたいな。

斉藤:ええ、というより何か次から次とアイデアが出て来て……。

森下:その時点で陽子さんのチェスの腕前は。

斉藤:私はチェスのゲームをやる人間ではなかったですからね。ただ子どもの時に弟とか川上とやった位で。私はチェスマニアではない。

森下:チェスマニアではないけど、弟さんとやって。知っていて。

斉藤:知っています。

森下:強くはないと。

斉藤:私はチェスの気違いではないです。チェスのマニアはドイツにもいっぱいいますけどね、私はそんなのと全然関係ないです。むしろチェスを作る事の方が面白くて。みんなが匂いを嗅いだり、音だとか錘りだとか、どういうふうにみんなが反応するか考えると何だか面白くってねえ。それから段が違ったりマグネットで作ったり。100以上つくりましたね。
(※斉藤記:私はチェスを勝負として本気で勝とうと思ってやるより、場接ぎみたいにやっていた。麻雀も同じです。だが本気になると案外強いのかもしれない。というのはイタリーにいた時だと思いますが、ある時アムステルダムに住んでいたメキシコ人のアーティストUlises Carriónを訪れた時、夕方、彼はチェッカーをやりたいと言う。私は子どもの頃しかやっていなかった。だが彼はチェッカーをやるのが好きで、よく友人達とやっていたようです。何十年かぶりで初めてチェッカーをやったので、私はただ一生懸命やったら、私が勝ってしまった。そしたら彼から「今まで誰にも負けた事がなかった。あなたが初めて私を負かした」と言われて、私自身でも驚きました。)

森下:チェスマニアではないにしてもそこそこ強いと理解してよろしいですか。

坂上:アリソン・ノウルズ(Alison Knowles 1933−)が、陽子はそんなにチェスを知らないと。

斉藤:「チェスの遊びを知らないでチェスを作るなんて全く意味がない」って。
(※斉藤記:これを言ったのは由本みどりさんの最初の卒業論文*の時で、多分その本の評価のためにAlisonも呼ばれた。なぜならその本には、フルクサスについて沢山書かれているからだと思います。その時にAlison は“陽子は沢山チェスをつくっているが、チェスの遊びを知らずにチェスをつくるという事は意味がない”と言ったと、みどりさんから電話がありました。)
(*博士論文の公刊である Midori Yoshimoto, Into Performance: Japanese Women Artists in New York, Rutgers University Press, 2005 )
アリソンがそういう事を言ったんですが、それで私が彼女に書いたんだけど、「ジョージ・マチューナスと食事をするあれ(食事のイベントとよばれるもの)があるでしょう。塩見さんと久保田さんが来た時にね。まさか我々だけに食事を作らされる事になるとは考えてもいなかったんですけどね。女性だけが食事の準備をして。全くねえ。そして久保田さんと塩見さんとがしばらく夜ウェイトレスで働いたでしょう。彼等は抜けちゃったわけ。私一人だけが残っちゃってさ。それでしょうがないよねえ。そういうふうに我々が受けてしまったんだから。それで続けたんです。ジョージと私だけが食事をするわけでしょう。

坂上:だけど陽子さんばっかり料理をしてジョージは全くしない。

斉藤:そう。そして彼はチェスのゲームをするのが好きだったんですね。食事後彼はいつもチェスのゲームを私とやりたがってさあ。だからやったんですけども、私はそれほど。もっと自分の為の時間が欲しいと思っている時だったから。だけどとにかくやる事はやって。それでいつも彼の方が勝ったんだけど。だから私はその事をアリソン・ノウルズに書いたわけね。「私は全然チェスを知らなかった訳じゃない。だけどあなたは私が知らないくせにやるとは全くナンセンスだってみどりさんに言ったでしょう。でもチェスをつくるという事は、何もチェスのゲームを知らなくたって出来るはずだって。ゼロから出発することだって出来るはずだって。そしてその例としてヨーコさんの白いあの作品は非常にいい作品だ。彼女はチェスの遊びをきっとしないだろうし。だからヌル(註:ドイツ語のゼロ)からだって作品を作ることは出来るはずだ」、と彼女に書いた。そしたら彼女はアリソンはね「どうもありがとう」って言ってね、手紙が来た(笑)。

  • 斉藤からアリソンへの手紙 17. 6. 02(2002年6月17日付)

Dear Alison,
Now you must be preparing for the Fluxus concert in Strasburg and Marseille. Now I have a feeling some kind of empty. I may not do the show in Kaunas. I don’t know.
So I am using this time to write you because after Bremen I wanted but I could not have found a time for. I told you George I played chess after dinner almost every evening and almost or always he won that story. I thought Midori said to me that you said “you don’t think George liked to play chess.” Probably my mishearing. But it seemed you said “you don’t think Takako liked to play chess” I don’t know, it’s not so important. You said you did not know the story that in the beginning George, Mieko, Shigeko and I ate dinner together. After Mieko and Shigeko were off, George and I ate together. After you knew the story, said “If you did not know how to play chess, does not mean much to make chess sets”. I said “oh ja,!?” But I was not sure it’s right?? I had to think over about it. On the train back to Dusseldorf and during wandering on for the show in Kaunas, time to time came out the question. And I thought No, one should not put weight on that kind of matter to give judgement the works. One can start any point, with or without knowing hot to play chess or other things also the same I think. Important thing is the work is interesting or not. Of course knowing how to play chess or not, it would make quite different. Just by chance I knew how to play chess. It may not be the same case. Yoko Ono made a piece with chess. I don’t remember exactly how is called something “chess with trust”?? All painted in white, that is the beautiful piece. I don’t think she plays or played chess. It seems the piece is made someone who is not interested to play chess. One thing I want to say is there is tendency when someone specialty critics or teachers try to talk about someone’s work, try to find small things and on that, put weight and criticize no the important points that make people sometimes confuse and unsure oneself. I am wrong?? Much love and enjoy in France!! Takako

坂上:塩見さんが、成子さんとアメリカに来た時に、陽子さんがわざわざおにぎりをつくって出迎えてくれたのがすごくうれしかったとありますが(註:塩見允枝子オーラル・ヒストリー、小勝禮子と坂上しのぶによるインタヴュー、2013年6月25日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)。

斉藤:そう? 覚えてない(笑)。全然覚えてない。

坂上:近くにあるスーパーマーケットの場所とかそういうのを陽子さんに教えてもらったって。やっぱり1年先に(アメリカに)行っているから。

斉藤:もちろん手助けしましたよ。日本から来たんだからアパートは見つかったとしても食事をするとなるとテーブルもいるだろうし。で、私のところに来て私の材料でもってテーブルを作ったりねえ。

坂上:とても助かったということをおっしゃってました。

(中断)

斉藤:チーズケーキいかがですか。私はニューヨークに行って初めて食べて大好きになったの。違いますか。日本のチーズケーキと。

坂上:濃厚だけど、くどくなくておいしい。

斉藤:日本でチーズケーキって見た事ないです。私の知ってる範囲では。

森下:最近は多いですよ。

坂上:チーズケーキはアメリカで食べたのが初めてですか。

斉藤:初めて靉嘔の奥さんの郁子さんが私に食べさせてくれて。えー!って思った。

坂上:アメリカに来てそれこそ見た事ない食べ物が多いじゃないですか。

斉藤:よく覚えてないけど。

森下:食べ物は口に合ったんですか。

斉藤:アメリカの食べ物って何だろう。食べなかったですよ。

坂上:ハンバーガーとか。

斉藤:ああハンバーガー食べた。ジャパン・フォーク・クラフトで仕事していて夕食はどうしても外でしなくちゃならなかったんですよ。働いている途中にね。夜9時まで働きますからねえ。そうするとハンバーガー屋さんの小さいレストランが最前にあって、いつもハンバーガー食べてましたよ(笑)。

坂上:塩見さんはそれほどアメリカでおいしい食べ物に出会わなかったみたいで、(それが原因か知らないが)日本に帰ってきてから食が細くなったみたいです。

斉藤:チャイナタウンの近くですからね、カナル・ストリートは。私達はよく行ったのはチャイナタウンで、そこで一番安いのはチャーシューロー麺っていうの。麺とお野菜とそれから少しお肉が炒められたのが入っていて80セントで。1ドル以下で食べられる。

坂上:1ドル360円の時代ですから日本からしたら高いですよね。

斉藤:私は働いて給料をもらってましたから。だけどねえ、チャイナタウンにもいろいろ段階があるわけですよね。そういう市民的な人の為のレストランと、いわゆるお金持ちのアメリカ人の為のレストランとね。チャイナタウンにはいっぱい違ったお店があって。我々が行くのはいつも同じレストランでチャーシューロー麺しか食べませんでした(笑)。

坂上:カナル・ストリートって珍しいものがたくさん売っていたストリートだって。

斉藤:そうそう。珍しい。

坂上:金物とか。道を歩くだけで珍しいものが目に入ったって。

斉藤:いろんなものがあったですね。

坂上:ゲームの材料とか、そういうところを歩いているだけでこんなものを作ってみようかとか。

森下:《グラインダー・チェス》がそうですよねえ。電動工具の先のところ。あれは実際にはお使いになっていたんですか。電動工具は。

斉藤:実際には使うことはあまりなかったですね。だけども、近くにお店がたくさんあったからねえ、プラスティックのお店もあったし、それこそ材料には。ランバード、機材を売るお店もカナル・ストリートにあったし。何故かしらねえ。
(※斉藤記:大きな材木屋がCanal st.と少し入った所にもあった。)

坂上:じゃあゲームの材料はほとんどカナル・ストリートで調達。

斉藤:そうそう。もちろんそうです。カナル・ストリートだけですよ。

坂上:じゃあ時間があればカナル・ストリートをふらっと材料探しに出掛けたりとか。

斉藤:(笑)。

坂上:チェスをつくってくれってジョージ・マチューナスに頼まれてつくるじゃないですか。それは陽子さんのサインがなくて、フルクサスの作品だっていう事で。

斉藤:それとは関係がなくってねえ、とにかくジョージって人は非常にエゴセントリックな人。
(註:斉藤陽子からのインタヴュー前事前資料によると「Chess(チェス)は1964〜65年までで、どうしても彼の言動に同意する事が出来ず、彼に全てのチェスを渡してから(彼から何かチェスのアイデアがないか言われてつくり始めたのだから)は、N.Y.ではチェスをつくってません。1965年に(私が彼にFluxus Chess(《フルクサス・チェス》)として使って欲しいと渡したすぐ後に)George(ジョージ)の出したFluxus News Paper(フルクサス新聞)にすべてのチェスが写真入りで私の名前はなくFluxus Chess(《フルクサス・チェス》)として出たがチェス以外のゲームはそのまま私の名前になっている。チェスを渡した時点で、はっきりとFluxus(フルクサス)のGeorge(ジョージ)から距離を置く事にして私の道を歩き出しました。」)
(註2::2008年「DISSONANCES 不協和音—日本のアーティスト6人」展カタログに掲載された文章について、後に斉藤から「ジャンルカ・ランツィの文章のための校正文」が送られてきた。それによると、同展カタログの「90ページ上から2行目 作品にサインする事を拒否したり、パフォーマンスの後に破壊したりする事もある。」というジャンルカの文章に対しての斉藤の返答は以下の通り。私が日本にいた時参加した創美運動においては、それぞれの個をいかに大事にするかが最も大事な柱であったから、その精神からは作品にサインする事は当然であり大事な事だと思っていました。だがNew Yorkに行きGeorge Maciunasに会い、彼の周囲のアーティストとの接触で、Fluxusが日本にいた時から知らなかった何か新しい事をやろうとしているようで、とにかく彼から頼まれれば作品を作って渡していましたが、私はまだGeorge M.の考えている事に100パーセント賛同していたわけでなく、又、その頃の私の英語では充分彼の言っている真意を把握する事が出来ずにいた事もあり、彼の言う新しい芸術運動のために個人的な自己を犠牲にして盛り上げて行く事が大事で、そのために芸術家は自分の作品にサインすべきではない(彼は芸術家が作品にサインするのを嫌悪していた)という事に対してはじめは好意的に取ろうとしましたし、色々な意味で彼に協力してきましたが、何か彼のやる事の端々にひっかかるものを感じていました。だから彼がFluxusのために何か作品をと言われて、簡単なマジックボード(折り紙)を渡しました。そのFluxusのために彼はそれぞれの作家の名前をデザインしたラベルを作り、私に私の名前のデザインもしていいかと尋ねた時、私はその必要ないと断りました。なぜならそういう状態でずるずるとFluxusの中に押し込まれたくなかった。あの頃Eric Andersonと何人かの人々がFluxusの作家と言われるアーティストの作品をソ連圏で演奏したのを知ったGeorge M.はそれに対してFluxusの委員長であるGeorge M.の許可なしにどこでもコンサートをやってはいけないという抗議文を出しました。その芸術家の名前の中に私の名前も入っています。そんな権利を彼に与えた覚えもないのに、また、誰も彼をFluxusの委員長と決めたわけでもないのに、このような事をうすうす感じていましたが、実際に抗議文を見たのは彼の死後です。私ははじめはいくつかのゲームボックスを作っていたので、Georgeが何かチェスのアイデアがないかと尋ねたのがきっかけでチェスを作り出しました。1965年頃までにボルトとナッツ、宝石(ガラス石)と光、音、重さ、匂い(香水、香料)、グラインダーなど、そしてチェッカーも。そしてそれ等のいくつかをGeorgeに渡しましたが、彼からそれ等について何も聞かなかったし、音のチェスなどはもっと作ってほしいといわれて、小さいのを3つ作り渡しましたが何の音沙汰もなく、そのかわりに私の所へ画廊や他の所からの仕事(箱や額ぶち)を持ってきました。私はGift shopでの仕事を持っていたので、それ以外に特別お金を稼ぐためにアルバイトを求めてはいなかった。そういう彼にやり方に対してNoそういう訳にはいかない、そのようにGeorge (Fluxus)との関係を続けていく事はやめ、自分の道を見出していこうと思い、とにかくチェスを作りはじめたのは彼がその事を尋ねたからなので、私の作ったすべてのチェスを彼に渡し、私の名前を言明する必要はない、ただFluxusチェスとして使えばよし、その他のアーティストも他のFluxusのチェスを作ればいいのだからと……(だが彼は私の香料のチェスやガラス石と光のチェスのアイデアをデザインをかえて作っていた。それだけでなくミュージックチェアなど私の所でただ見ただけで何の許可もなくつくっています。これ等は彼の死後知りました。)。1964年頃、彼は芸術家に彼がFluxusのオブゼクトとして芸術家のアイデアを作品化した場合80パーセントをFluxus (George M.)がとり、芸術家は20パーセント受取るという手紙を送っていますが、私はまだFluxusとの接触のある前でそういうものを受取っていませんでしたが、周囲の芸術家たちが不平をもらしている事を感じていました。芸術家たちのうち何人が本当に20パーセントを受取っていたか、ぜんぜん聞いた事もありません。私の場合、私のチェスは100パーセント私がつくりましたが、1銭も彼からもらった事がありません。チェスのすべてをGeorgeに渡してから、解放された気分になり、その後作った作品には皆サインをする事にしました。その当時チェスと平行して作っていた一組みの音のする箱の一つをサイン入りで“あなたの静かな時間のために”と書いてGeorgeにあげた時、彼は“アッ!”と言っただけで何も言いませんでした。作家が作品にサインする事はその作品に責任を持つという「しるし」で非常に大事な事だと思います。私がYou and Me shopをつくった時は、20人位の友人アーティストを招きましたが、その中で一人のアメリカの友人は自分の作品を完全に完成させずにサインもせずに送ってきた時、私は彼に私はGeorge M.のようにあなたの作品から何か利益を得ようとしているのではないのだから、あなたは自分の作品に100パーセント責任をもって完成し、そのしるしとしてサインをしてほしい、もし作品が売れたなら画廊が40パーセントとり、60パーセントはあなたがとるという条件だからといって送り返しました。だから私はサインをする事を拒否した事はなく、ただFluxusの名の下に拒否されただけです。(私だけでなく他の芸術家たちも))

坂上:(ジョージのエゴセントリックな印象は)初めて会った時からそういう人だったという感じでしたか。

斉藤:初めは割と親切なんだけど。ある面ではね。だけどもある面では非常にエゴセントリックで自己中心的な。残念ながら彼が育った環境が非常に父親から抑圧されて、いつも完全でなければ、叩かれるか何かしていたんだろうと思います。子どものようないたずらを子どもの時に出来ないで育ったのね。

坂上:厳格な親の元に。

斉藤:そう。それでお母さんは優しいんですよね。だけど母親は父親に依存して生きているでしょう。だから何も言えないのね。ジョージが何かで反抗したり泣いたりとかあるっていうとただなだめて、ボンボンを与えて、なだめてきたんです。だけどジョージの心の中にあるものは、それに対して反抗がいっぱい貯まってきていたんですね。だからそれがいつまでも。大きくなっても、大人になっても、いつも母親に……。お父さんは早く亡くなっちゃったのね。だからいつも頼るのは母親。母親になでてもらう。それで最後までもだろうと思いますけども、母親と住んでましたけどね。ある時は一人でも住んでましたけれども、どうしても一人では無理なので、母親が必要だったですね、彼は。

坂上:そういう家庭環境はその当時から聞いていたんですか。

斉藤:私は、何て言ったらいいのかなあ、感じていた訳です。後になってはっきりわかったのは、どの本だろう、誰かが出したジョージ・マチューナスの本の中に彼のドローイングが、16才か何かで描いたドローイングを見た時に。この人は抑圧されてきたのだってわかった。私はたくさん子どもの作品を見ているわけでしょう。だからちゃんとわかるんです。
(註:イタリア、ミラノにあるムディマ財団から発刊予定だった斉藤の手記によると「……He had the sickness of asthma which made him very impatient. When I was in New York, George said to me “I can not be so patient like you are!!” I never thought myself so patient as I withed to be, but from his side may be I was. Bob Watts helped him economically and mentally. When I think of Bob Watts and Georges M. they were very different. Unfortunately I did not have much chance to know Bob. I don’t remember exactly when it was, once I visited Bob Watt’s farmer house in N.J. I saw many his works in his house. Among them on small wall in a narrow corridor, there were 2 small color pencil drawings with figures, very different from others but in similar sense. They were very beautiful and sensible. I asked him “are they yours?” “Yes when I was 16 made them.” I said to him “oh,,, you must be a very fine boy.” He did not say anything just smiled. I had never seen George’s drawings when he was young made until Emmett Williams “Mr. Fluxus” came out. There, there are two drawings of him that almost the same age of Bob Watt’s drawings. His drawings show only the hard side of his ambition and normal feeling was hidden. When he was small, could be sometimes very mischievous boy and annoyed others. In a way that is quite normal for a small boy . But it must had been after scoled and punished his childish mistake from the parents or teacher or someone else. In the book of “Mr. Fluxus” his mother said Georges was very afraid of his father, that kind of person is very difficult to open his feeling freely and often desire to the other under him to command. Normally even though that kind of person, sometimes shows some kind of aggressive feeling or confusion in the drawings. But George’s just show his ambitious what he was told how he should had been. But it is possible some one chose his drawings only that kind to show his perfection. I think Bob and George were quite different ways brought up. It’s not because of George was brought up under the communistic system. When I was in Japan I saw many creative free minded children’s drawings from the East side of Europe, Poland, Czechoslovakia, the Soviet Union, Hungary… which Mr. Kubo had collected.」)

坂上:付合っていた当時から何か普通の育ち方じゃない、何か歪んだ環境で育った特有のものが感じられた。

斉藤:だけどただひとつ、人に影響を与えたとすれば、彼は何とかして自分を発散させたかった訳ですよね。ある意味では、だから他のいっぱい周りにいる芸術家達のいわゆる伝統的な芸術からハミ出して何かをやろうとするものを認めたという事ではないでしょうか。そして一緒に何とかしたいという事をやったって事は彼のある意味では業績ですよね。そう。だけども彼はそれらの芸術家達を自分の腕の下に。

坂上:フルクサスという名前を使うには自分の許可を得なければ駄目だと。

斉藤:そう。私なんて彼に。

坂上:創美とは正反対ですね。

斉藤:そうですよ。彼が一番オーソリティーで、彼と一緒に働いた芸術家達はすべて彼の配下に置こうとした訳ですね。それをどうしても彼は自分自身で解決する事は出来なかったんですよね。何故なら彼は子どもの時に抑圧されて。その抑圧が非常に大きかった。どうしようもない。だけども最後に死ぬ前になって、彼はそういう事がわかったんだけど。だけども……。

坂上:陽子さんがつくったチェスの作品はフルクサスのものだと。

斉藤:そう。

坂上:そういう風に出るというのを承知でつくってあげたんですか。

斉藤:ノー、そうじゃないですよ。私は自分のチェスをつくるとすぐに彼に見せた訳です。まさかそれを彼が取って、自分だけのものにするなどおよそ思わなかったです。何故かというと私の創美的な発想から言うとあり得ないことなんですよね。芸術家の作品を我々が他人に売った小コレクターの会は、それを売っても我々は収入を取ろうとせず全部作家に渡していたんですよね。そういう状態で生きていたし、それが私は当然だと思ってました。ところが彼の場合は反対。自分が所有する事しか考えていなかった。芸術家達が作品にサインする事も許さなかったですから。

坂上:売上があったら80パーセントはフルクサス=(イコール)ジョージ・マチューナス。20パーセントは作家っていうのも暴利をむさぼっているなあと思うのですが(笑)。

斉藤:80パーセント20パーセントって何かに書いてありますけどね、そんなのねえ。だけど実際には20パーセントだって誰にも与えてないです。私なんて一銭ももらった事ないです。彼から。一銭も。ヌルです。本当に。だから段々離れて行っちゃうのね。

坂上:でも離れて行っても自分が悪かったなと思うのではなくてより頑固になってしまう。

斉藤:頑固にするっていうよりもまた違ったことで。そうやって離れて行くと、そこに集まって来る若い人達がいるんですね。それもまた離れて行く。それをくり返していたみたい。そうだろうと思います。私はもうアメリカを去っていましたから何とも言えませんけれども、そうだろうという事は想像出来ます。私は72年に彼に請われてニューヨークに行きました。私はその頃、南フランスのレストランに住み込みで働いていたのを辞めてから、何ヶ月か2-3ヶ月か何の仕事もしていない……。イギリスのフルクサスの巡回展に紹介されてね、それを機会に、私は自分の仕事をしたいという気持ちもありました。それと同時に、その頃は(南フランスの)畑の中にある、本当は畑仕事をする為に作られたちっちゃい家が空いているという事を人づてに聞いてそこへ移っていたんですよね。(住み込みから)独立したんです。そしてそろそろ仕事を見つけなくちゃならないなと思っていた時にジョージから手紙が来て。ジョージがオランダからセカンドハンドの古い船を買ったって。ところがその船の床が非常に壊れていて直さないととても使えないから手伝って欲しい、と。その為に1時間4ドルを支払うからって。ちょうど仕事を探そうとしていた時でしたから「それじゃあ行く」って言ってね。その船はウェストインディーズにあるって言う。私はそこへ行くんだろうと思ったら、彼はその間にその船を買うことをやめてしまったらしい。私に送って来た切符はニューヨーク行きの切符だった。おかしな事だと思って。でもとにかくニューヨークに行ったんですね。そしたら彼が新しく買ったウースター・ストリート(Wooster Street)のロフトで働かされたんです。彼のやり方たるや、本当に何て言うのかなあ、どう言ったらいいんだろう……それこそ、私が何かやろうとすると、「そんなことは『ウェイスティング・タイム(時間の無駄だ、wasting time)』だ!」って怒りつけるんですね。時間の浪費。人使いがすごく荒い。例えば棚を作る場合、普通は桟(支え、のこと)を作って棚を乗せるでしょう。ところが彼はそれを「ウェイスティング・タイム」って言って。そしてねえ、その頃ちょうど出来たエポキシグルー(註:エポキシ系接着剤)、初めて出来たばかりでそれが非常に強い糊だという事で、それでただ「つけろ!」って。とか、そういう事がいっぱいあるわけよね。私が去った後、すぐ棚は落ちてしまったと思う。当たり前だよね、そんなもの。棚に何かを乗せたら、どんな糊で貼っても落ちてしまう。ばっかみたい。彼の言う事は。

坂上:早く結果を求めてしまうのかなあ。

斉藤:早く結果を求めるというよりも、自分のやり方を他人に押し付ける。

森下:ジョージ・マチューナスが(カールハインツ・)シュトックハウゼン (Karlheinz Stockhausen、1928-2007)の《オリギナーレ(Originale)》(上演)の時に陽子さんもデモかなにかに参加、それはどういう。
(註:シュトックハウゼンのコンサートに抗議するデモ。「文化的帝国主義に抗議する」と書いたプラカードを持ってタウン・ホールの前を歩く。タウン・ホールで開催されるシュトックハウゼンに対し「西洋音楽はフォークソングやジャズなどよりもっと優れた音楽だというシュトックハウゼンは文化帝国主義者である。彼の名声とその影響力を考えるとだまって見過ごすわけにはいかない。彼に抗議するデモをやるから来い」とヘンリー・フリント(Henry Flynt、1940-)が書いた研究論文を持ち出しジョージ・マチューナスが言い出し決行された。1964年4月から5月頃。靉嘔「連載エッセイ18 虹のかなたに」〔「美術手帖」、1988年3月〕による。なお、同文章には、シュトックハウゼンの作品《オリギナーレ》の上演初日、8月30日にもデモがあり、その時はマチューナスとフリントのほかに「あとは誰がデモっていたのだろう」と書かれている。この文章の記述は、通説に対し、別の事実関係があったことを示している)

斉藤:それについては、私は何も言えないですけどねえ。何が理由かも覚えていませんが、私が参加したのは一回だけです。あの頃は英語もそれほど堪能じゃないし。靉嘔も一緒にやってますよね。ただそう言われて、そうかなと思って、そういう状態でやりましたけど。その後シュトックハウゼンの音楽についてよく考えてみました。あのデモの時にはヘンリー・フリントが主導ですよね。彼が言うには、「シュトックハウゼンの音楽っていうのは、彼はキャピタリストだっていうことは、資本主義的なものの考え方から来ていて、本当に前衛ではない」というのが主張だった。よくシュトックハウゼンの音楽を聴いてみてそれは間違えていないと思います。けれどもその後、日本がオリンピックをやったでしょう、長野で冬季のオリンピックをした時にシュトックハウゼンが音楽を作ったんですね(調査中)。それは非常に面白かった。私は今でも忘れないです。長野は山に囲まれているでしょう、彼はそのエコーを使って。あれは本当に素晴しい作品だったですよ。初めて彼が作った、ある意味でオリジナルなものっていうか、前衛というとおかしいけれども、私の好みで言うと素晴しいものだったと思います。
(※斉藤記:何もそんなにストックハウゼンの音楽を知らずにデモに参加した事が気になり、呵責を感じ、特にドイツに来てから、注意して彼の音楽をラジオで演奏されている時は聞いていました。そして思った事は、フリントの言っている事は間違いない、本当の意味の前衛ではない、と。だが彼の長野でのエコを使っての音楽は素晴しかったと思います。)

森下:でもその頃にナム=ジュン・パイク(Nam-Jun Paik)さんだとかシュトックハウゼンの方に行っちゃったから、ジョージ・マチューナスはある意味除名みたいなことをしていきますよね、フルクサスのメンバーの何人かを除名していくという。

斉藤:何人もだよね。小杉さんだって除名だし。もちろん小杉さんもその後はジョージ・マチューナスと関係持たなかった。いっぱいいますよ。ヘンリー・フリントだってそうだし、アル・ハンセン(Al Hansen)もそうだし、それだけじゃない。
(※斉藤記:ヘンリー・フリントの場合はどういう関係で彼とジョージの間がおかしくなったのか。彼から退っている。)
だけども後になってすり寄って行った人もいます。何故かっていうと彼が、特にジョージ・マチューナスが死んでから、フルクサスが非常に有名になったでしょう。それで出て行った人もすり寄って行ったっていうのが多いです。それはあまり私の好きな事ではないです。

坂上:話がご飯の事に戻っちゃうんですけど、最初に成子さんや塩見さんがご飯をつくってあげたりしたじゃないですか。その時にものすごく「倹約をしろしろ」とジョージ・マチューナスが彼女等に言って。

斉藤:そうですよね。

坂上:あとぜんそくがあるからスパイスを使ってはいけないって。

斉藤:あっそう、私は全然覚えてないです、そんな事。

坂上:陽子さんはどんなご飯を作ってあげていたのか。

斉藤:覚えてないよ。

坂上:何でも食べましたか。

斉藤:食べましたよ。私が作ったもので、何かしちゃいけないとか、そういうのを言われた覚えはないですけどね。

坂上:塩見さんはかなりいろいろ言われたようで。

斉藤:言われたかもしれない。初めて来たんだから何とか新しく来た人間を押さえつけて、自分のところの配下にしたかったのでしょう。そういうものがどうしても抜けなかったですね、彼は。残念ながらそれは子どもの頃に受けた教育であり、特に彼のお父さんが彼に与えた影響は大きいと思います。残念ながらそういうものですよ、子どもの教育というのは。

坂上:アメリカに渡ってから子ども達の児童画とかそういうのを見たりは。

斉藤:全然ありません。

坂上:自分の生活と。

斉藤:そうです。私にとっては子どもであろうと大人であろうと、同じ事ですからね。

坂上:日本にいた時は絵を描いたりしていたけど、まだ自分がアーティストだ、作家としての自覚はまだ自分でも持っていなかったと思いますが。

斉藤:なかった。アメリカでも。それは本当の意味で私のやりたい事は出来なかったです。何故かっていうと、残念ながらおかしな美術学校に行かなきゃいけなかった。妥協して行かなければ、アメリカに住むことが出来なかったですから。だから結局アメリカを出ようと考えたのもそこにある。

坂上:いつ位からアーティストとして。

斉藤:アーティストとしてではなく私自身人間として。私の本当にやりたい事をやっていきたい。生きて行こう、と。もちろんニューヨークで正式のヴィザを取れてアーティストとして生きる事が出来たら、それはそれでよかったけれど、私の立場としてはそういう事は許されなかったわけですからね。だからです。それだけの事です。とにかく自分の力で自分の本当にやりたい事をやってみたいという欲かなあ?何かあったのでしょう。
(※斉藤記:先の質問に簡単に答えるとすれば、私がやりたい事を生きれるようになったのはイタリーに行ってからです。)

坂上:塩見さんが、「陽子さんからプレゼントしてもらったいろいろなゲームみたいなものは木工なんかでもものすごくつくりが綺麗で素晴しい出来映えで、プロの仕事、あれは天性のものだ」っておっしゃってました。
(※斉藤記:先週、東ドイツの美術学校で教えている教授が二人来られ(一人の方は夫婦で来られ、奥さんもDr.芸術史。彼等が私の1つの頭のゲーム、玉を頭の上の穴から落とすとどこからか出て来る木の作品を買ってくれました)、彼女(Barbara)が女性が木の仕事をするのは珍しいと言っていましたが本当かしら? 今までそんな事知らなかったし考えもしなかった。)

森下:さっきの箱を見ていてももうプロですよね。

坂上:アメリカに行ってからどんどん腕を上げていったんですか。

斉藤:そうじゃなくて私は子どもの時から家に来る職人さんや大工さん達のやっている事に興味があって、いつもそういう話を聞いたり見たり手伝ったりしたでしょう。そして私は川上と住むようになったでしょう。その時も私が食卓だとか作っていたんです。私の家にはいろんな機材や木の材料がいっぱいあったんですよね。それでいろんなものを直すとか。みんな機械じゃなくて手で切って。

坂上:陽子さんが?

斉藤:ええ。

坂上:当時から?

斉藤:そうよ。

坂上:日本のあの50年代の時から。

斉藤:そうよ、私がみんな食卓だとか椅子だとかねえ。みんな自分で作って住むようにしたんですよ。

坂上:初耳!

斉藤:(笑)。私は好きだった。

森下:好きだというのと同時に長い間やってきて熟練しているという。

斉藤:熟練工だとは思わないですけども。

森下:機械を使わずに、例えばのこぎりなんかを使ってちゃんと出来る人は、今度は機械をやればよりちゃんと出来る。

坂上:ニューヨークに行って木工に目覚めたのかと思ったんですよ。

斉藤:ノー、そうじゃなくてもう昔からそういう何かがあったみたい。同じように洋服を作るのも自分で作るのが好きだとかねえ。ハンドバッグを作るのも自分で作る。袋を作るのも手で作るとか。そういうところから来ているんでしょう。同じ事だと思います。

坂上:それだったら美術学校に行ったってモデルさんを描くよりはもっと……。

斉藤:モデルさんを描くのもいいですけど(笑)。

坂上:まあそればっかりを押し付けられるのもちょっとと言う感じですね。

斉藤:何だか知らないけどさあ。

森下:ニューヨークのブルックリン(美術館美術学校)でも廊下で箱を磨いていた訳ですよね。

斉藤:(笑)。ひまを見ては一生懸命サンドペーパーで箱を磨いていた。それを荒川さんが見ていた。

森下:今でも残っていますかね。当時つくられた椅子とか食卓とか。福井の方に。

斉藤:そんなものは残ってないですよ。

坂上:塩見さん達がいらした後にパーペチュアル・フルック・フェスト(Perpetual Fluxfest)というので皆がそれぞれ週代わりや日替わり展覧会を開くという時ありましたね。その時に陽子さんがやる時、画廊がつぶれちゃって、じゃあ次ってなったらその次もつぶれちゃって。それでどうしようというときに塩見さんが「つぶれちゃってなくなっちゃってじゃなくて、いつまでも延期っていう《ポストポーン・ピース(延期する作品)》をしたらどう?」って。

斉藤:ああそうだそうだ。そういう事があるよね。

森下:斉藤さんの「パーペチュアル・フルック・フェスト(Perpetual Fluxfest)」というのは64年の11月に予定されていたのが延びて。
(註:1964年、ジョージ・マチューナスはワシントン・スクエア・ギャラリーを会場とした、連続イヴェント、「パーペチュアル・フルック・フェスト」を企画。第1回、9月18日には「フルックスポーツ(Fluxsports, Olympic Games)」が、次の10月30日には塩見允枝子のソロ・コンサートが実施された。11月に斉藤陽子のショウが予定されていたが、画廊が閉鎖になり、実現出来ず。また、マチューナスもアリゾナへ一時転居。その頃、ジョージ・ブレクトとボブ・ワッツが企画した、「マンデイ・ナイト・レター(Monday Night Letter)」というカフェ・オウ・ゴーゴーでの別な催しも始まっていた〔参考:塩見允枝子『フルクサスとは何か?――日常とアートを結びつけた人々』フィルムアート社、2005年、97-104ページ〕。それに参加が予定されたが、またしても中止。その経験から斉藤はマチューナスとともにポップコーン・シアターという架空の場所で、誰かに贈り物をするなどのイヴェントを設定。その案内を違う日付で送り続ける《ポストポーン・ピース(延期する作品)》というイヴェントを思いつき、木の板にスタンプをつかって指示を書いた案内状を知り合いに数回送った。)

斉藤:私は知らない。「ボックス・ショー」があったのはいつかという事ですが、誰かがもし知っているとすれば、あの時にジョージ・マチューナスはぜんそくを直すためにアリゾナに療養に行ってました。その期間中にその「ボックス・ショー」があったの。それは覚えてる。何故ならば、彼から、アリゾナから何の為なのか何が書いてあったのか覚えていませんが、葉書があった。それに対して、「『ボックス・ショー』に《サウンド・チェス》を出品した。非常に好評だし、自分でも、『ボックス・ショー』に出品されたものの中で非常にいいものだったと思う」と自分で書いたのを覚えていますから。いずれにしても靉嘔のロフトの上に住んでからの話だよね。そうじゃなきゃ木の仕事は出来ないから。

坂上:あとちょっと職業の話を。ニューヨークに住んでいた頃、ディック・ヒギンズとアリソン・ノウルズの子どもの。

斉藤:そう、子ども達のベビーシッターもしました。ベン・パターソン(Ben Patterson 1934−)の子ども達のベビーシッターもしました。

坂上:それは向こうから空いている時間に。

斉藤:何かあったんでしょうね。だろうと思います。私も職が必要だったから。

坂上:彼等も働いていますよね、昼間。ディック・ヒギンズはペンキ屋さんに勤めていて、アリソン・ノウルズはシルクスクリーンの印刷屋さんに勤めていたって。だから、ああ、みんな働きながら助け合っていたのだなあと。

森下:ディック・ヒギンズはもう少しするとサムシング・エルス・プレス(Something Else Press)というのを作り始めるけど。その前ですよね。

斉藤:ちょっと前ですよね。
(※斉藤記:前にも後にも彼等のベビーシッターをしました)
とにかくディックは両親から遺産が入って、そしてサムシング・エルス・プレスを。20thストリートかな、ビルを買って、そしてサムシング・エルス・プレスを始めたのですから。

坂上:皆それぞれ仕事があって大変だから、そうやって大変な時は頼むから手伝ってみたいな感じで呼び掛けあっていたのかなと。わからないですけど。

斉藤:うーん。わかんない。あの時はアリソンとディックの家の押入に住んでいた時があるの。何故かというと、一番最初の学生ヴィザはニューヨーク大学(New York University)の学生として取ったんです。

坂上:一番最初というのは日本から行った時は。

斉藤:日本から行った時は酒伊繊維の職員でしょう。B2のヴィザで6ヶ月いれて。
(※斉藤記:ビジネスのヴィザには2種類あった。B1とB2。)
そして1回位は社長にもう一度手紙を書いてもらって延期したんですよね。だけども実際に彼等の為に働いている訳じゃないからあまり頼みたくなくって。そうしたら学生ヴィザを取れると滞在できるという事で、一番最初はニューヨーク大学に入ったんです。ブルックリン美術館美術学校の前に。夏期の学期だったんですけどね、3ヶ月で500ドルの授業料。そして保険料と合わせると600ドルも3ヶ月に払わないといけない。とてもロフトに家賃を払っては生きて行けないし、授業自体も朝から午後の4時位まであるんですよね。そうすると働けないでしょう。残りの時間で稼いでなんて。そしてロフトに住めないから、アリソンとディックの建物の押入みたいなところにおかせてもらって。そこで彼女達の子どものベビーシッターをしながら。そしてベン・パターソンの子どものベビーシッターをしながら。そしてその時ちょうど版画の池田満寿夫(1934-1997)ね、彼がニューヨークに来たんです。そしてどっかに住む場所と仕事をする場所を探していた。なので私の場所を使って欲しいという事で住んでもらって。靉嘔のロフトの2階。そして私は押入に住んでいた。(註:池田の渡米は1965年7月)
(※斉藤記:マクロバイオティックのレストランでクックをしていた時、349 West BroadwayからAY-Oのロフトの2階に移った。ニューヨーク大学に行った時、既にCanal Streetに住んでいました。その3-4ヶ月AlisonとDickの家の押入に住んでいる間、池田満寿夫さん達が私のロフトに住んでいました。)

坂上:じゃあそれまでは頑張って家賃を払っていた。

斉藤:もちろんそれまでは払っていたけれども、ニューヨーク大学の授業料があまりにも高くてね、とてもそんな余裕がないし貯金もなかったし。それで母に頼んだんです。何とかお金を送ってほしいって。授業料だけね。それでお金を送ってもらったんです。それでニューヨーク大学に行く事が出来た。そして私はアリソンとディックの家へ。ディックの押入じゃなくて、下の階にはベン・パターソンの家族が住んでいたんですね。そして上にはアリソンの家族が住んでいたんですね。そしてベン・パターソンの子ども部屋の横にある押入みたいな小さい部屋に住んでいたんです。

森下:それは家賃なしで。

斉藤:そのかわりにベビーシッターをすると。

森下:ニューヨーク大学では、どんなことを勉強されたんですか。

斉藤:一番最初は英語です。基礎となる英文を知らなければ専門の科を選ぶ事も出来ないし。だから夏期の学期っていうのはもちろん外国人ばかりの。

坂上:夏ですね。

斉藤:夏期講習みたいなの。3ヶ月。9月前位まで。6、7、8かなあ。そんなもの。

坂上:よく大きい大学であるやつみたいなのかもしれないですね。海外の大学だと3ヶ月位ありますね。外国から留学生呼んで夏期講習やったりしているので。

森下:そうすると3ヶ月お続けになったんですか。

斉藤:ええ、もちろん3ヶ月。私は割と成績が良かったらしいですよ。そう言われました。(笑)。だけどもニューヨーク大学を続けていくには余りにも授業料が高過ぎて。だから友達にそういう事を言ったら、美術学校だったら午前中だけでいいし、そうしたら午後働けるし、そして授業料が50ドル。1ヶ月50ドル。安いですよね。それでブルックリン美術館美術学校に行く事にした。私はいつも出席していました。そして池田満寿夫さんに「私はロフトに戻りたいから」って言って。そして彼等が他に場所を探して移ったんです。だけども仕事場はないので、私の仕事場を使わせて欲しいって。だって私は午前中も午後もいないわけでしょう。午前中は学校で午後は働いているでしょう。だからどうぞ使って下さいって言って。

坂上:その時はマクロビのレストラン?
(※斉藤記:レストランで働いていたのはAY-Oの2階のロフトに移る前から。)

斉藤:ノー、その時は何かの伝手でジャパン・フォーク・クラフトの売り子。あそこはちょうど午後から開けるのでね。ヴィレッジのお店っていうのは夜が中心でね。だから1時から9時まで働いてました。

坂上:アリソンの押入に住んでいる時はやはり作品をつくれなかった。

斉藤:もちろん無理です。英語を勉強する事の方が大事でしたね。ニューヨーク大学の授業ですから、一生懸命英語を勉強しました。

森下:ちなみに池田満寿夫をご存知だったのは瑛九とか福井の関係ですか。

斉藤:池田満寿夫は靉嘔の友達でした。靉嘔との関係だと思いますね。

森下:池田さんが来られる頃には靉嘔さんも川上さんももういらっしゃられなかった。ロフトを使わなくなっていた?

斉藤:そうじゃなくて。池田満寿夫が来たでしょう。靉嘔にとっては川上よりも池田満寿夫の方が大事だったです。友達としても芸術家としても何とかかんとか。そしたら川上が、何ていうかのけものにされて。そして彼の方が怒ったのかよく知らないけど靉嘔と川上君とは別れてしまって。そういう事です。だって池田満寿夫は日本では有名だったし、もちろん日本にいた頃から靉嘔も池田満寿夫もまあまあ創美の中で芸術家として大事な存在でしたから。だから、まあ、私は良くわからないですけども、そういう関係だろうと思います。

坂上:その後、明日以降お聞きしますがヨーロッパに渡ります。ニューヨークでつくった作品は置きっぱなし。

森下:椅子がもったいないです。

斉藤:ああ、椅子つくりましたね。私あれ、みんな捨てちゃったんですね。だってヨーロッパには持って来れないし、ジョージにはあげたくなかったんです。彼はそうでなくっても見ただけで模作をつくってますから、《ミュージック・チェアー(Music Chair)》として。そういう彼の性格を知っていたから彼にはあげたくなかった。かと言って他の人にあげるには、絵なんてのは薄いものだからどこにでも置けるけど、こういう箱を人に頼んでもらってもらうのは……だから木村利三郎(1924-2014)にポリスが来ないように見てもらっていてね。本当は許されないんです、そういうものを捨てるのは。ニューヨークのバスケットって大きいでしょう。だけどもそこにそういうものは捨てちゃいけないんです。ポリスに見つかると罰金取られる。それで木村利三郎さんにポリスを見はってもらって、そこに捨てて。

森下:その椅子も実体はよくわからないんですけど、多分ロフトの木工の機械から出来て来て。それで中に仕組みがありますよね。座ると水が出たり音がしたり。そういうのはどういう仕組みだったんですか。

斉藤:どういう仕組みって(笑)。

森下:あの椅子は幻なんです。

斉藤:一度どこだったかな、ウエスト・ブロードウェイかどこかでフルクサスの展覧会だって名乗られてその一部だと思って私が出品したら他に誰もいなくて私だけ。だからフルクサスだと名乗られて、私だけが「嫌だ」って言って、会場から持ち出してという事が一度あります。

森下:ジョン・ヘンドリックス(Jon Hendricks) が「水が飛び出すこの椅子はフルクサス版は見た事がない」(註:Jon Hendricks, Fluxus Codex, 1988による)と。ということは、別な版があるんですね。模造品なんですかねえ。だけどこれも言ってみれば水がどれ位出るんですか。
(※斉藤記:水が飛び出す椅子のフルクサス版はないと思います。ただ音のするものだけで。だけど私自身は見ていません。ただ写真だけで。)

斉藤:水の場合2つあるんですね。座ると真ん中に水が出て来るやつと、座ると四方から水が出るのとある。他人を濡らすのと自分自身が濡れるのと(笑)。2つの種類があった。

森下:それは座ると何かが押し下げられて。ポンプか何かで。

斉藤:ポンプじゃなくて。よく覚えてないですけどね、ゴムのボールで中にいっぱい水が入っていて、真ん中に管がこうなっていて、上の方のあれが何かそのゴムのボールを押す、座ると押す、そういう原始的なもの。

坂上:座ってもらって初めて意味が分かる。

森下:斉藤さんの仕事の中でも遊びというか遊び以上のいたずらですかねえ。おもしろいなあと思っていますが、そうですか。

斉藤:座るとブーっと音が出る(笑)自分でも意識しないでね、ブーブーって。(笑)そんなのも。案外いたずら好きなんですね。子どもの頃はいたずら好きだとは思わなかったですけど、だけど好きみたいです(笑)。特別そうだったとは思わないですけど。

森下:あと玉が入っているのとかですか。《ローリング・ボール・チェアー(Rolling Ball Chair)》とか。《イベント・チェアー(Event Chair)》とか。フルクサスの皆さん、よくイヴェント(event)っていう言葉をつかってましたから。

斉藤:誰かが名付けたんでしょう。

森下:ヘンドリックスの本から。(註:Jon Hendricks, Fluxus Codex, 1988による)

斉藤:ああヘンドリックス、ああ。これはジョージが後で勝手につくったので、確かシュツットガルトのミュージアムだったかな、ハンス・ゾーム(Hanns Sohm 、1921-1999)のコレクション中にあると思います。

森下:栃木のカタログ(グループ展「前衛の女性 1950-1975」、栃木県立美術館、2005年)に載っていたんだよ。《1つの椅子の10のイヴェント(A Chair 10 Events)》って。

斉藤:大変でしょう。私の事は。

坂上:とにかくいろんなことがあってそれに追いついていくのに目一杯で。
(話が変わって)

斉藤:これは私が撮った写真じゃないですけど、渡邉光一さんと照子さんが撮って下さった。母が病気になって病院に入って、そして私がひとりで母の家に住んでいたでしょう、この家に(1990年と1991年頃)。その時に、家の塀がひとところすごく壊れていて、外から人が入れるようになっていたんですね。それを彼女達と一緒に直したのね。手伝ってくれたんです。そのうち母が死んでから弟がこんな塀を作ったのね。それを見てね、彼女達は腹を立ててさあ。「昔の塀の方がずっとよかった」って。これはあまりにも豪勢で権威を強調しているようで……。

坂上:昔は自由に子ども達も出入りが出来たって言ってましたよね。
(※斉藤記:自由に子ども達が出入り出来たといっても、家の前の庭だけで、両脇、後へは誰も入れませんでした。)

斉藤:我々は野球をやったりしたんだけれども。まあそれとは違って裏の方の塀が壊れたのを、こんな権威ぶった塀を作って。私は一度もこの塀は見ていないんですけど。彼女達が写真を送ってくれたんだけど、それに対して私は「何故そこの塀に落書きをしなかったんだ?」って(笑)。「そんなに腹が立ったら落書きをしてくればよかったのに」って書いたことがあった(笑)。

坂上:農地改革で大分土地がなくなっちゃったとは言うけれどもやっぱりまだ大きいですね。

斉藤:大きいし、農地改革で土地を失ったとしても、町の宅地だとか酒伊繊維にも宅地を貸してますし。それから信越化学という大きな会社が武生にもありますがそこにも宅地を持っていますしね。

坂上:管理だけで大変ですね。

森下:弟さんのお仕事というのはそういう土地の管理。

斉藤:ノー。弟は元は自治医大の教授だった。彼は動物学です。それから関西大学に移ったらしいです。

森下:そして定年で鯖江に戻ってこられた。

斉藤:そう。

坂上:久保さんも栃木だしね。今度小勝(禮子:栃木県美術館学芸員)さんが栃木県美術館で創美の展覧会するから楽しみですね。久保さんのお宅に残っている資料を元に。(註:「真岡発:瑛九と前衛画家たち展——久保貞次郎と宇佐見コレクションを中心に」、2014年4月19日-6月22日)

森下:面白いのは、木水さんが指導した子ども達の絵はずっと残っているんです。そして何年かかかって展覧会をされているんですね。その図録、多分細長いのがあると思うんですけど、それはすごいですね。久保さんのコレクションが残っていたのもすごいですけども。

斉藤:だけども私は少し気になることがあります。何故かっていうとね、子どもの描いた絵をね、教師がそんなに簡単に所有しているというのは、どういう具合に所有したのか。私だったら考えられない。あなたが描いたものはあなたが所有するもので、勝手に、そう簡単に、まあ子どもの場合それほど重要な事もないのかもしれませんが。ちょっとそれが気になります。だって、どうして、そんなに沢山彼が所有しているかって。どういう具合に。それがちょっと気になります。よくわからない。だって彼の作品じゃないんですもの。子どもの作品でしょう。どうしてそんなに子どもの作品を彼が所有出来たのかっていうのが気になります。そしてそれらの子ども達が大きくなってどう思っているか、どう感じているか。それがちょっと気になります。私は。それじゃあまた明日にしましょう。