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斉藤陽子オーラル・ヒストリー 2014年1月18日

斉藤陽子宅(デュッセルドルフ)にて
インタヴュアー:坂上しのぶ、森下明彦
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2015年10月4日
 

斉藤:昨日(註:1月15日)のユーモアの話が出たでしょう。ユーモアというのはつくるものではなくて自然に出て来るものだって。それは私のものの考え方でね。そして……。

(来客で中断 上に住んでいる方が来る)

斉藤:ユーモアは非常に大事なものです。私の場合はユーモアをつくろうとは思っていないですけどね、自然に起きたものをそのままとる。私の思うように人を動かすっていう事はしないですね。それを私は大事にしています。これは一つの小さい例ですけど、私がイタリーにいた頃。75年位だよね。イギリスから追い出されてフランチェスコ・コンツ(Francesco Conz、1935-2010、フルクサスのコレクターの一人)とジョー・ジョーンズからの招待状、手紙でもってね、ただ彼らを訪れるんじゃなくて、イギリスからイタリーに移動しようとして。そしてフランチェスコ・コンツの別荘があったアゾロ(Asolo)へね。その時にジーノ・ディマッジオ(Gino Dimmagio)のミラノの画廊でパフォーマンスをやることになったんです(ムルティプラ画廊〔Galleria Multhipla〕、ミラノ、1976年)。ところがそこへ行く前に、アゾロは山の上でねえ、とても自然がいっぱい……。

(また来客で中断)

斉藤:……自然が沢山あって、道の両側に雑草がいっぱい、花が咲いていてね。それでパフォーマンスに行く前に散歩して、いろんな道の花を集めたんです。それをバケツに入れてミラノのパフォーマンスに持って行ったの。そしてパフォーマンスを始める前にミラノの人々にその花をあげたのよ。そして私はただそれだけで終わると思っていた。アゾロにはジョー・ジョーンズも住んでいたでしょう。だから一緒に行ってキューブで遊んで。パフォーマンスが終わった後、キューブはナイロン(糸)でつり下げていますからね、彼はタバコを吸うものだから、タバコの火でナイロンを溶かしてキューブを落として。私ははさみで落としてというミュージックパフォーマンスをやった。キューブが落ちる時にポンポンポンって音がしたでしょう。その後は観客たちも一緒に遊んだの。で、これでパフォーマンスは終りだなと思っていたら、ある一人が花を持って行ってね、花をナイロンにつり下げたんです。そしたらみんなやりだしてね。それが本当に素敵でさあ。隣に住んでいる人まで、すごくいいって!

本当にすばらしかったですよ(笑)。そういう自然に起きるものを私は大事にする。決してその事を止めたりしない。

坂上:タバコの火で落とすのもすごい面白い。

斉藤:彼はタバコ吸いだったからね(笑)。この事は私にとっては非常に大事な事で。すごく良かったです。こんな自然に置きた事!私も考えもしない事!一人の人がし出したらみんなが吊るし出したんですよね。

坂上:このスペースは今のムディマ・ファンデーション、ミラノ、(Fondazione Mudima Milan、ジーノ・ディマッジオ〔Gino Di Maggio〕が主宰)とは……。

斉藤:(ムディマの前身の)ムルティプラ画廊でした、76年。

森下:この「ムルティプラ(multipla)」というのは英語でいう「マルティプル(multiple)」。

斉藤:そうです。たくさんつくるという。だから彼らは、いろんな出版をしたりとか、やってます。

坂上:お花を下げたという話は初めて聞きました。

森下:いいですね。でも時には自然に起きた事が良くなくなる事もあるんですよね。

斉藤:ええ。普通はなくなっちゃうんですけどね。いつも、特にブレーメンでのパフォーマンス(2004年)なんて、それこそ私が考えた風景とは全く違う方向に行ってしまいましたからね。ある一つの事件の為にね。それでも放っておいたけれども、人々はそういうものをむしろ楽しんだみたいです。

坂上:幸せな気持ちにさせてくれるっていうことが大事なことですよね。

斉藤:幸せというよりも自然な雰囲気ですね。観客の一人が始めたのよね。そしたらみんなが始めた。そういう事です。それからもう一つ。ちょっと読んでください。
(朝倉さんからのお手紙を拝見する:木水育男を研究している朝倉俊輔から斉藤陽子への2014年私信)
ここに書いてある内容ですが、木水さんの持っている作品の中にドイツの子どもたちの絵の収集があるらしいんですね。それらは私が収集して木水さんに渡したように書いてあるんです。だけれども私はそういう事をしていないんです。何故かというと、私がディマンシュで展覧会をやった時(個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」ディマンシュホール、福井、1991年7月25日−8月12日)に木水(育男)さんも来たんですね。長い間会わなかったのに、会えた訳ですけども。それがあって何を彼が考えたのか知りませんけども、何の前触れもなく、どっさりと日本の児童画の大きい包みを送ってきたんです。それで手紙が来て、どこかで展覧会を、とか。私はそんな事はとても出来ないですよね。生活だけでいっぱいだし、とても出来ない。だけどちょうどその時にね、ある一人の若いドイツ人の女性で児童画や子どもの教育に興味のある人がいて、彼女にそれを全部渡したんです。そして彼女に「自由に日本の子ども達の展覧会をするとか何とかどうぞ」って。ただそれだけをやった。彼女ならきっと木水さんと英語で交信は出来るだろうから、そうしてもらってほしい、と。それで彼女にすべてを渡してしまったんですよね。

森下:今の話ですと、木水さんが突然外国に児童画を送って来て、それをドイツの女性の人にお渡ししたと。つないだということですね。

斉藤:そうです、つないで結局うまくいったのだろうと思いますけどね。それで交流が出来て、ドイツの児童画なんかきっと彼女から送ったんだろうと思います。私は日本を出てから18年経って初めて日本へ帰った時もね、母の所に住んで、たったの2週間だけですけれども、その時に木水さんのところも訪れていますからね。あの年は大雪の年でね。3メートル程雪が降ったひどい年でしたよ。だけど歩いて。あの頃はバスもなくて。河和田まで歩いて行って彼に会いに行ったんです。

森下:同じ鯖江だからご自宅は近かったという事ですよね。

斉藤:河和田までは遠いですよ!相当ありますよ。歩いて(笑)。あの時は本当に雪がもの凄かった年でね。私は2メートル降ったのは経験してますけど3メートルというのは初めてですよ。本当にすごい雪だった。ま、それは他の話です。

坂上:今日お聞きしたいと思っているのは、昨日、ちょうどニューヨークのバーバラ・ムーアの所に。

斉藤:ああフランスからニューヨークに行ったって。

坂上:それでニューヨークで終わっているんです。次にイギリスには直接行かれた?

斉藤:たしか私のチケットはフランスの……。

坂上:フランスの家はずっと家賃を払い続けていて。

斉藤:続けて払ってました。もちろんイギリスに行ったとしてもイギリスからすぐ戻りましたけどね。

坂上:イギリスに行くことを決めたのはニューヨークですか。

斉藤:まずジョージとのことで、ボブ・ワッツがお金を持って来た時に「何故ニューヨークを去るんだ」って言われた時に、ジョージの為にそんなに働くということは「私の為には、時間の無駄(Wasting time for my life)」って。

坂上:ニューヨークにいる間にフルクサスのお手伝いも少ししていたみたいですが。展覧会とか。

斉藤:手伝ったんじゃないですよ。それが主な。だって彼から1時間4ドルのジョブ(仕事)があるからって言うので行ったんです。それで彼の為に働く為に行ったわけです。毎日毎日彼らのところの地下室で、ボブ・ワッツのエディションの箱をつくったりとか、ハープシコードを組み立てるとか、それから棚をつけるとか、いろんな、そういう仕事を毎日毎日やっていたんです。ニューヨークの彼の地下室で。その為に、私はお金を稼ぐ為に行ったんですから。そういう仕事の為に行ったんですよ。

坂上:船の修理だと思っていたのに。

斉藤:いわゆる木工仕事。それから輪を作ったり。あれも私が一人で作ったんです。そういう事をやっていたんです。

森下:昨日のお話でボブ・ワッツがマチューナスに代って陽子さんに2000ドル払ったというのはその一時間4ドルが貯まったお金。

斉藤:そう。

森下:なるほど。それをマチューナスは持って来ないで。

斉藤:ボブ・ワッツからもらった。

坂上:不動産関係のことでもボブ・ワッツがほとんどお金を出して。

斉藤:よくわかんないですけどね、どういう関係か。あの時もまさかと思ったですよね。ボブ・ワッツが絡んでいるお金をもらうとは(笑)。

坂上:でもボブ・ワッツはそういう意味では最後まで(マチューナスと一緒にいた)。

斉藤:そう、最後まで。だって彼は、どこの教授だったのかなあ。ジェフリー・ヘンドリックス(Geoffrey Hendricks)も先生をしていた同じ大学、ニュー・ジャージーにある(註:Rutgers University)。多分彼の生まれた家は割とお金持ち、お金があったかと思う。何故かと言うと、私は一度彼に呼ばれて、一回彼を訪れた時がある。ニュー・ジャージーの広い敷地でね、敷地の中には大きな池があって、古い大きな家だったですね。教授としての給料以外にもその土地……もちろんアメリカというのは大きな国ですからあれ位持っていたって普通でしょうけども、そんなに特別とも言えないかもしれないですけど、でも相当大きな家だったですよ。そして彼は最後まで。彼はジョージ・マチューナスと違って非常に温厚な性格の人で、そして、何かに書いた事がありますけども(註:前出の1月16日インタヴュー、ムディマへの文章参照〔英語〕)、彼の家を訪ねた時に狭い廊下の中にたくさん作品がある、その一つに小さい色鉛筆で描いたみたいな絵があって。「これはあなたが描いたのか?」って聞いたら「そうだ」って言う。「いつごろ描いた?」って言ったら「16才」とか言うんです。すごくセンシティヴな(sensitive)、感情豊かな。ジョージ・マチューナスが同じ年に描いたのとは両極端。だから彼は自分がプロフェッサーとしてのジョブを持っているということもあったでしょうけども、いつもジョージ・マチューナスを助けたというか。『フルクサス・コーデックス』(Jon Hendricks, Flux Codex”, 1988.)の中にもボブ・ワッツの作品がいっぱいあるんです。フルクサスの作品として。ええ。もちろんジョージ・マチューナスは売れても一銭もボブ・ワッツには与えなかったでしょうし。彼はやっぱり助けているんだなあと感じた。

坂上:陽子さんも何だかんだ言いながらもつきあってあげてるっていうか。ボブ・ワッツもそうだけれども、マチューナスに賛同して一緒にいる訳じゃなくって、だけどやっぱり仲間がどんどん離れていくから……(つきあってあげた)

斉藤:そうねえ、何とか柔らかい雰囲気でもって接すれば、彼が根本的に癒され、変わってくれれば、って。

坂上:森下さんと昨晩、そういう気持ちみたいなのがこのインタヴューで伝わればいいのにね、という話をしていたんです。何で一緒にいてあげたのかっていう。利害関係を越えた思いやりというか、仕方がないというか。

斉藤:思いやりっていうか。それは特別ジョージ・マチューナスに対してだけじゃなくてね、それは人間関係として誰でも同じ事ですからね。

坂上:レストランも嫌なのになるべくいてあげたりするじゃないですか。その辺の心みたいなものを(伝えたい)。普通は、はい、嫌い、はい、おしまいっていう。

斉藤:ある時期、ジョージ・マチューナスに「おしまい」って言って去りましたから。だけどけんか別れじゃないんです。けんか別れはしない(笑)。

坂上:ニューヨークからイギリスに。

斉藤:イギリスに行ったのはね、「フルックスシュー(Fluxshoe)」展の時に、私は、デヴィッド・メイヤー(David Mayor)が好きになったんですよね(笑)。

坂上:当時、彼は大学院生だったんですよね(笑)。

斉藤:「フルックスシュー」展をやった時に住んでいたのは大きな農家でね。彼とメキシコ人の家族と……それから2人名前 は忘れましたがプリント会社に勤めている夫婦がいてね。我々もそこに一室をもらって。小杉さんもそうだし。すごくいい雰囲気だったんです。そして(1973年、一時ニューヨークに滞在していた時に)バーバラ・ムーアの所に住んでいた時にもデヴィッド・メイヤーと文通が続いていたんだなあ。それで彼に書いたの。「アイ・ラブ・ユー」(I love you.)って。(笑)。そしてフランスに帰るチケットだったのを、飛行機会社に頼んでイギリス行きに変えてもらって、イギリスに飛んだんです。

坂上:そういう理由だったんだ!

斉藤:そうだ!(笑) それから一旦フランスに。私の家がありましたからね。そして荷物を送ってイギリスに住む事にした。イギリスに移ってボー・ジェスト・プレス(Beau Geste Press, 1970-76)の手伝いを一緒に。アーティスト・ブックの製本をしたり。その時はプリントはしなかった。

森下:製本といってもただ綴じるだけじゃなくて、装丁とか、おもしろいですもんね。

斉藤:我々だけでやっていたんですからねえ、製本。みんな自分でやってた。大きな農家でしたから大きな部屋があって、仕事場があって、我々みんなで。フェリペ・エーレンベルグ(Felipe Ehrenberg、1943-)、彼女のマルタ(Martha)、彼らと一緒に芸術家達を招いて本をつくっていたんです。フェリペがプリンターで。ボー・ジェスト・プレスは小さなオフセットプリント(印刷機)を持っていましたから。そして、どれ位してたかな、ある事件が起きて、フェリペの奥さんがオランダ人の芸術家と恋に落ちて飛び出しちゃったんですよね。

坂上:奥さんはそれまでは手伝ってくれていたけど。

斉藤:2人子どもがいたんですよね、彼らには。それもあれして。

森下:子どもを置いて。

斉藤:ええ。オランダに行っちゃって。そういう事もあってフェリペと子どもたちはメキシコに帰る事に。その後はそんな大きなところに住んでいる訳にはいかないので、私とデヴィッドは小さな……あれは家だったなあ、家を借りて、そして私が印刷を始めたんです。

森下:オフセットって……。

斉藤:これ位ですね。(7-80cm位の大きさでA3位の紙に印刷)手で回す印刷機じゃなくてモーターでタッタッタッタっていう小型印刷機。自分で印刷して。今はもう本はないんだけど、外側だけあって(笑)。残念ながら中身がない(笑)。箱だけしかない(笑)。その本っていうのはたくさんのドローイングが描かれたものなんだけど、その他に小さい半分位の本が一緒になっていて、さらにもっと小さい本も一緒になっているという。めずらしい。ある人が言ったけど「めずらしい」って。

森下:入れ子になっているんですねえ。この茶色も染めているんですね。

斉藤:これは蝋燭で描いて…ろうけつ染めですよね。普通は布を染める染料で紙を染めてつくったの(笑)。《To my friends》っていうタイトルになっていますね。

森下:どの位おつくりになったんですか。部数は。

斉藤:どの位つくったんだろう。覚えてないです。昔の事だもの。73-4年でしょう。忘れました。

坂上:フェリペがいなくなってしまって、デヴィッド・メイヤーと陽子さんと二人で切り盛りに近いような。

斉藤:そうです。いくつも本をつくりましたよ。私の特徴は、ローラーがあってインクを入れるところがあるでしょう。そこに例えば黒がなくなれば普通は黒を補充するのだけど、私は黒じゃなくて他の色を補充するんです。そうすると色が変わって。そしてまた違う色を補充する。だから1ページ1ページ、1本1本が同じ本であってもそれぞれ色が違う本が出来る。これは私が始めたことです。バーバラ・ムーアが言ってましたけど、「それは陽子が始めた」って。そして後でどこかの出版社が同じ事をやったそうです。いろんな色を次に次に差していくんです。

森下:僕も「フルックスシュー(Fluxshoe)」展はカタログを持っているんですけど。

斉藤:もしどこかでボー・ジェスト・プレスの出版物が残っていたら。

森下:普通は同じ色のインクを入れてやるのが普通ですが、そこがアーティストの陽子さんにかかると、インクをいろいろ……。

斉藤:入れてね。1ページ1ページ違ってくるし、一つの本でも同じタイトルの本でも、一冊ずつ違うわけですよね。

坂上:希少価値も高まりますね。

斉藤:私は特別そういう事を意識してやった訳ではないですけど、随分経ってからバーバラ・ムーアが、「こういう事をやったのはあなたが初めてだ」って。「ああそっか」って思った位で。私はただ楽しんでやっただけに過ぎないですけどねえ。

坂上:デヴィッド・メイヤーと仲良くなって、フランスの家はもうなくして。

斉藤:もちろんなくして移った。何年位イギリスに住んでいたのかなあ。そして滞住許可をもらう時にね、私はただツーリストビザで、と思っていたのですが、彼は私に「ちゃんとした働くビザを取れ」と言ってね。そしてボー・ジェスト・プレスのプリンターとして申請をしたんです。ところが私は実際にはそういう経験がない。イギリスという国は組合が非常に強いんですね、プリンターとしての。だけども私はそういう経験をなくしてプリントをやっている訳でしょう。全然専門家じゃないですよね。それで結局拒否されて、「出て行け」って言われた。それで出て行かざるを得なくなって。私は結婚をする気がなかったものだから。彼と結婚すればイギリスの市民権を得られるけれども、私はそうは思っていなかった。私は自分の自由を保っておきたかったから。

坂上:でも陽子さんの方から飛び込んで行ったのに。

斉藤:だってね、彼は、私より19歳も若かったんです。

坂上:陽子さんはこの頃44、5才だから。

森下:デヴィッド・メイヤーは24、5才位。デヴィッド・メイヤーは陽子さんに去られてどうだったんでしょう。

斉藤:申し訳ありませんけど。それから、私は一番最初イタリーのアゾロ(Asolo)に行ったわけです。フランチェスコ・コンツの別荘と、それからジョー・ジョーンズの住んでいたところと。アゾロっていうのは非常に小さい山の上にある村。だから例えば私がこういう箱をつくりたいとしても、お店なんてないんですよね。(一番近い)大きな町がバッサーノ(Bassano)で、そこまで行かなきゃ材料を買えないんですよ。ところがそこに行くには一日かけて行かないとならない。一日1本しかバスがないのよね。そして帰って来る。1日がかりで1つの買い物。とてもすんなりやっていけない。その時にパリ・ディスパリ(Pari & Dispari)のロザンナ・キエッシ(Rosanna Chiessi)、彼女が我々を訪れてきて、「レッジオ・エミリア(Reggio Emilia)だったら大きいから生活がしやすいだろう」と言ってくれて。そしてレッジオ・エミリアに行ったんです。その時デヴィッドはイギリスから私に会いに来たんですけどね。私は初めロザンナ・キエッシの家に彼女と住んでいたんです。だけども彼女の伯母さんが、何だか小さいアパートを持っていて、それを人に貸していたんですね。そこのロザンナ・キエッシが物置に使っていたところを私が住めるようにしてくれて、貸してくれたんです。そこへもデヴィッドは来た。だけど私はちょうどいなくて会わなかったんですけど。申し訳ないけど、彼を……。ああ、まあ、とにかく。そして彼は、まあ後で、結婚して子どもも出来ましたし、それで良かったと思います。そういう事があります。(間)まあそれこそイタリーに行ってからですよね、私の仕事が始まったのは。本当に私の全ての時間を自分の仕事の為に使えるようになったのはね。

森下:イタリーにいる頃はもうお仕事はしないで。

斉藤:全然しません。何も仕事をしないで、自分の制作だけで。

森下:すると生活の為のいろいろなお金などは。

斉藤:それは今まで。ニューヨークでもらった2000ドルのお金とか、フランスで何とか節約したお金と、それからフェリペ・エーレンベルグがメキシコに帰った時にある人にボー・ジェスト・プレスの権利を全部売ってしまったので、それで得たお金のいくばくかを、私も一緒に働いていましたからもらったんですね。

森下:一種の退職金みたいですね。

斉藤:そうそう。だから確か私がデヴィッドと一緒に住んでいた家のオフセット機っていうのは我々が買ったもので、ボー・ジェスト・プレスとは関係のないものだと思います、多分。

森下:そういうお金でオフセットの小型印刷機を買ったりされたという事なんですね。では相当貯まっていた。貯金が出来ていたんですね。

斉藤:そんなに大したお金じゃないですけどね。それからイタリーに行った時にフランチェスコ・コンツが私の古い作品を買ってくれて。ほら、見せたでしょう、近代美術館が買ってくれた箱とかね、エッチングの作品だとか、そういう風なものも彼が買ってくれました。そういう事もあってそれからロザンナ・キエッシのところに住んでいる時も《ミュージック・ボトル(Music Bottle)》をつくったり。とにかくイタリーの場合にはツーリストビザですから3ヶ月しか滞在出来ないんですね。3ヶ月ごとに国外に出なきゃいけない。そして国境で紙をおまわりさんに渡すと私は出たという事がわかる。そういう風にしてまた入って来るわけでしょう。

坂上:イタリアにいる間はずっとそれを続けていた。

斉藤:そう。ところが必ずしも3ヶ月じゃなくて、隠れていて。3ヶ月で出るって大変ですよ、旅費だとか。友達のところに泊めてもらう。デュッセルドルフにいたこともあります。友達がいるしコレクターもいたし。だけどとても3ヶ月ごとにっていうのは不可能です。だから大体5ヶ月位かなあ。レッジオ・エミリアに私が住んでいた頃は、東洋人なんて誰もいなかった。今でこそいっぱい中国の人達がレストランなんか持ってますけどねえ、あの頃は誰もいなかったです。そういう時期だったですから。私の住んでいるのが町の真ん中じゃなくて端っこでね、だから隠れていても(笑)。大体5ヶ月か、時には6ヶ月も警察に申告しないで隠れてました(笑)。いつもドイツに来てました。デュッセルドルフにいくらか作品を持って来てコレクターたちに売るとかそういう事をして生活してました。

(註:下記は、本インタヴュー後、斉藤から我々に送られてきた私信(2014年6月14日付)である。
「イタリーでの4年近い生活は、ある意味で、私にとって最も大事な時で、初めて芸術家としてのみ、生き、仕事をしました。イタリーには旅行者として登録していたので、3ヶ月毎にイタリーを出なくてはならなかった事は大きな負担でしたが。私はなるべく3ヶ月より長くひそんでいて、仕事に熱中し、5ヶ月、6ヶ月時に警察に申し出ていましたが……。2、3年時、ある時、警察署にヴィザをもらいに行ったら、あなたは何回も何回もイタリーに来ているけれど、こんなにいつまでも有効なパスポートは見た事がない。日本の領事館に行って証明の手紙をもらって来るように言われ(パスポートに英語で、このパスは日本に帰るまで有効であると書いてあるにもかかわらず)領事館に行ったら、手紙と同時に、数次式に変えた方がいいと言われて数次式のパスポートをもらう事になりました。
 ある時、イタリーとスイスの国境Chiassoに来てもPoliceがパスコントロールに回って来ず、警察署からの紙を渡す事が出来ず、汽車が発車し出し、急いで紙を飛行機のように折って窓からホームにいた警察官に向けて投げ飛ばし、“掴みなさい!”と叫びながら。そしたらPoliceがホームでそれを見、おろおろして紙の飛行機を追っている姿が今でも見えます。
 そしていつもドイツの友人達Eric & Dorothee Andersch家に、又はHergenberg家に泊めてもらい、時間をかせぎ、又はAmsterdamにいたメキシコ人の芸術家Ulises & Artを訪ね。
 一回AmsterdamのUrises & Artを訪ねようと荷物をDüsseldorfに残さず、皆持って、丁度その時DüsseldorfのAltstadtにある一つの古物を売っている店(骨董品でなく)で大きなガラスのつぼを買ったものを一つのトランクに入れていたので荷物が大きくなり、それを提げてAmsterdamへ(Amsterdamから直通でイタリーに帰りたかったので)。ところがオランダとの国境でPoliceが車内に来、私を見、私の持っている荷物の大きさを見、友人を訪問するだけだと言っても、イタリーへの往復の切符を見せても信ぜず、日本へ帰る旅費を持っているか見せろと言い、そんなお金を身に付けていなかったので、Amsterdamに行く事を許されず、2人の警官が両方から腕を取り、汽車から降ろし、ドイツ行きの車が来るまで待って付き添い、汽車に乗せてから、やっと腕を離してもらえました。
 Düsseldorfに着いて、誰も訪ねる気になれず、荷物をロッカーに入れて、待合室に座って、イタリー行きの夜行列車が来るのを待ちました。荷物を持たず、待合室に何時間も座っているので警備の警官がジロジロ私を見、私の回りにやって来る。いやな感じでしたが……。いつまでたつとも私は座っているので、とうとう一人の警官が私に、一体あなたはここで何をしているのだと尋ねるので、イタリー行きの汽車を待っていると言って切符を見せたら、もう私の回りをうろうろしなくなりました。多分彼等は私を客を待っている売春婦とでも思ったのだろうと思います。」)

坂上:陽子さんのコレクターというか、作品を買ってくれる人がヨーロッパに増えていて、それで生活も出来るような。

斉藤:そうです。だからイタリーに行ってから初めて自立した芸術家として(生活出来た)。そしてその家には地下室があってね。それこそ汚い土間で、電気もなかったけれども、台所からコードを伸ばして小さいテーブルソウ……木を切る機械も持ってました。

森下:さっそく買われたんですね。丸鋸ですか。

斉藤:そう。小さいもの。だからあそこではたくさんいろんなものをつくりました。

坂上:倉庫というか、作品をつくって置けるスペースが出来た。

斉藤:ニューヨークを出てから初めて仕事場を持ったんですよ、イタリーで。

坂上:それまではもっといろいろやりたいけれども。

斉藤:まあそれなりに、印刷を始めれば印刷で新しい事を見つけたり、とりあえずやってましたから。

坂上:でもやっぱり木工というか……。

斉藤:それこそ地下室があったっていうのが幸運でした。そして近くに木材を売るお店もあったんですよ。

坂上:その頃からインクを使った作品もつくり始める。

斉藤:そうそう。インクと水ですよね。

坂上:ソーヤ(soya)?

斉藤:ああ、ソーヤ・オイル(soya oil)、大豆のね。普通に炒めたりする油。何故かというとその仕事は台所でやったんです(笑)。そのアパートっていうのは2階あって、下が台所で上が寝室なのだけど、続いてなくて、一旦外へ出て共同の階段を上がって自分の寝室に行く。中央2階のところに共同のトイレ。シャワーもなくて、台所にプラスティックのタブを置き、その中へ少しお湯を入れて体を洗う、そういう状態です。

森下:レッジオ・エミリアといえばイタリアの真ん中位ですよね。ドイツほど寒くはないけど寒いでしょう。

斉藤:もちろん寒いです。だけどストーブがあったでしょう。あの時はフォカッチア(Focaccia)っていう、いわゆる石炭の屑を固めてつくったものが石炭よりも安く売っていたんですね。そういうので炊くストーブがありました。そこでお湯を湧かしたり。お鍋の中に水を入れてストーブの上に置いておけば一日あったまりますよね。2階にはストーブもなくて、煙突の頭が少し……壁が少しあったまる位のものでねえ。まあまあ。そういう状態ですよ。

(註:下記は、本インタヴュー後、斉藤から我々に送られてきた私信(2014年6月14日付)である。
「イタリーに行ってから4年位、便所は外に一つ、その家に住んでいた皆と共同、シャワーもなく、電話も洗濯機も電気冷蔵庫も持たず、2つの部屋は離れていて、台所から寝室へ行くには皆共通の一つだけある階段を登って行くというものでしたが、N.Y.を出てから6年目に初めて得た自分の住処で、地下室もあり、電気は来ていなかったけれど、私は台所から電気を取り、小さいが電気のこぎりも買い、木の仕事も出来、ある意味で楽しみ、沢山の木の仕事をしました。イタリーの材木屋にはN.Y.では見なかった色々の面白い木材があり、それらを利用して色々のチェスの作品を作りました。」)

坂上:アメリカを離れる時に《ミュージック・チェア(Music Chair)》とか失ってしまったものをもう一度そこで再制作した。もう一度つくりたいという気持ちを持っていたんですか。

斉藤:うーん、まあどうか知らないけどねえ。まあそんなに大げさには考えないで下さい。

坂上:けれどそれまでつくれなかったから喜んでつくっている感じ。

斉藤:本当に幸運でした、住む所が与えられたということは。

坂上:じゃあもう本当に毎日毎日ものづくり。

斉藤:そうそう。

森下:同時に画廊の展覧会も増えていきますよね。

斉藤:たくさんやりましたよ、ロザンナ・キエッシとは。いたるところでパフォーマンス

坂上:ミラノでもローマでも。

斉藤:ボローニャでは個展もやったし。いろんな事があったですねえ。

(中断)

坂上:イタリアでどういう作品をつくっていたかが気になるところで。

斉藤:(写真を見せながら)これが《ミュージック・チェア》ですね。座ると音がするか水が出るかどっちか。見た所わかりませんけどね。そしてこれは、ドアを開けると手がくっと飛び出してくる。何ていうのかしら……バネになっていて手が飛び出してくるのよ。これはしめることが出来る。

坂上:これはチェスが出来る二人掛けの椅子。

斉藤:《サウンド・チェス(Sound Chess)》か《ウェイト・チェス(Weight Chess)》ですよね。そしてね、これがボローニャの画廊でのパフォーマンスです。(個展、ペレグリーノ画廊〔Galleria Pellegrino〕、ボローニャ、1977年)

その画廊は、何と言うか……非常に高い筒みたいな部屋でね。キューブを落とすとピーンピーンって。初めてです。あんな凄い音がしたのは。下が石でね。

坂上:もちろん観客の人たちも自由に(参加出来る)。

斉藤:もちろん。だけど誰も参加しなかった。

坂上:見ているだけですね。

斉藤:ここではね。これは同じペレグリーノ画廊(Galleria Pellegrino)でゲームをやったの。

坂上:(大きな紙に描かれているのが)顔とか手みたいになっているのは。「1977ボローニャ」って書いてある。

斉藤:29日土曜日のジェナイオ、1月だ。の1977年。

森下:パフォーマンスの日付ですね。

斉藤:パフォーマンスの日付と同時に展覧会のオープニングですね。

森下:これはどんなゲームですか。

斉藤:そんなに覚えていないけど。

坂上:大きな手とかが描いてあって、手前に瓶みたいなのがあって。

斉藤:人が遊んでいるんだなあ。私はもう忘れちゃった、昔の事は。何だろうって。

森下:この写真はムディマ財団の展覧会の時の(「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」豊田市美術館、2008年9月30日−12月25日)。

斉藤:彼はこのゲームを彼は買ったんです。ジーノ・ディマッジオがね。

坂上:これは、目隠ししています。

斉藤:これはボローニャでやった。(グループ展「ボローニャ・アートフェア」、ボローニャ、1976年)写真の真ん中の女性がロザンナ・キエッシ。

坂上:壁に着物がいっぱい掛けてあって。観客がその着物を、コスチュームを着て。

坂上:この案内状はアヴィニョンですね。「国際芸術祭」での《斉藤陽子のフルクサス・ゲーム》(Jeux Fluxus de Takako Saito)。

斉藤:これがアヴィニョンでのパフォーマンス。ゲームですね。

坂上:顔にお面みたいなのをつけてますね。

斉藤:何をやったかよく覚えていないけれども。77年7月30日。

坂上:ああ、やっぱり生活が落ち着くだけでここまで出来るんだっていう感じがすごいする。《アヴィニョンのボディ・ミュージック(Body Music in Avignon)》(1977年、 Photo by Christophe Schimmel) 。追いかけて行って何かやっている。ボディタッチして。

斉藤:これは 1978年、オランダの展覧会の時に(案内状に)ムルティプラ画廊の個展の写真を使ったんだ。(註:斉藤陽子はこの時、アムステルダムのA画廊〔ギャラリー・アー、Galerie A〕とアザー・ブックス・アンド・ソー画廊〔Other Books & So〕とで展覧会(4月21日〜→-5月20日)、また、4月21日にはデ・アッペル〔De Appel〕にてパフォーマンスを披露)

坂上:1978年4月21日金曜日。

斉藤:これと同時にオランダの他のところで。ああもう忘れちゃったけど。

坂上:これも何かみんなコスチュームを着ていますね。

斉藤:本当だねえ(笑)。

坂上:オランダ人の伝統衣装みたいなのを着て。これが陽子さんの衣装。陽子さんが着せてあげているところですね。

斉藤:これはアムステルダムのギャラリー・アー(Galerie A)の展覧会の会場です。

坂上:ああ、チェスの中にいろいろな液体が入っているやつですね。78年。

森下:これは作品リストかな。

斉藤:プライスリストじゃないの。

坂上:日付が書いてあるみたいです。1979年4月19日。ああこれはエッセン大学。

森下:大分先に来ちゃった。

坂上:ああじゃあ大体今まであたりがイタリア時代のものですね。

斉藤:イタリアからドイツに移ったんだよね。イタリーにいる時に友達の奥さんがエッセン大学の教授をしていて。そして私が布を使った仕事をするということを知って私をエッセン大学に招待してくれたのね。それでドイツに来る事になったんだ。79年です。

森下:今はルール大学と言っていますが、元はエッセン大学と言ったんですね。

斉藤:この時はエッセン大学と言っていますが、元はエッセン大学ではなかったんです。大学ではなかった。何故かっていうと医学部がなかったんですよ、私が行った時は。その後に医学部が一緒になって大学になったんです。

斉藤:これはドイツで一番最初にやった展覧会ですが(インゲ・ベッカー画廊)イタリーでつくった作品を展示しています。(Galerie Inge Baecker、ボフム、1978年)

坂上:イタリアでは幸せでしたか。仕事とか。

斉藤:うん。はじめて作品が出来てねえ。

森下:これはインゲ・ベッカーのDMですか。

斉藤:イタリーのギリギリの時で、ドイツに行ってつくった作品ではなくて、イタリーから汽車で作品を送っています。

坂上:これはチェスをお客さんが楽しんでいるところ。陽子さんが覗いているのは《ミュージック・チェア(Music Chair)》。一緒にいるのはお偉いさんなんですか?地元の。

斉藤:これはね、コレクターです。最近亡くなりましたけど、ハーマン・ブラウン(Hermann Braun)っていうドイツではフルクサスのコレクターとしては割と有名。チェスをしている割と体格のいい。一緒にいるのは彼の奥さんです(Hermann und Marietta Braun)。

坂上:綺麗な人ですね。

斉藤:彼らの友達のヴォルフガンク(後出のヴォルフガンク・フェーリッシュの事)って言ったかな?彼らも私の作品を買ってくれた。写真に写っている彼(エリック・アンダーシュ、Erick Andersch)もコレクターで、彼は残念ながらフィルムをなくしてしまったけれども、このパフォーマンスの時に、ナム=ジュン・パイクがピアノを弾いてくれて。

坂上:このピアノですか。グランドピアノみたいな。

斉藤:私がこのキューブをグランドピアノの上に。そうするとそのバイブレーションで音が変わってくるんですね。

坂上:微妙なたわみなので。

斉藤:私がインゲ・ベッカーからフィルムをもらってね、それをプリントしてもらったら彼がどっかでなくしてしまって。だからナム=ジュン・パイクがピアノを弾いて私がやっているところがないんです。

坂上:パイクとはニューヨークの時から。

斉藤:知ってます。何かの機会があれば会っていた。それ程の交流があった訳じゃないけど。

坂上:会えば何かが始まる。

斉藤:もちろん。

坂上:それが楽しいところですね。

森下:4月28日のパフォーマンスですね。

坂上:このピアノはもともと画廊にあったんですか。

斉藤:そうです。インゲ・ベッカーが元々持っていたピアノです。

森下:パイクさんどこにも写っていないんですねえ。

斉藤:本当に残念ながら。(なくしてしまったのは)エリック・アンダーシュ。たくさんフルクサスの芸術家達のエディションをつくったりした人なんですけどねえ。

斉藤:これは確かヴォルフガンク・フェーリッシュ。

斉藤:これはまた違った時にインゲ・ベッカーのところでパフォーマンスをしたときのもの。(インゲ・ベッカー画廊:〔Galerie Inge Baecker〕Bochum, 1979年)

坂上:横にいるのは小杉さんじゃないですか。

斉藤:小杉さんですよ。アリソン・ノウルズもいますしジェフ・ヘンドリックスもいますしね。フィーリッシュも。インゲ・ベッカー画廊でフルクサスのアーティストを招いてお祭りみたいなのをやって。79年のパフォーマンスで私がやったゲームです。

他に誰がいたのかよくわからない。マスクをかけているからわからない。ああ、これはエリックの息子だ。

坂上:マスクをしているから誰だかわからないけどわからないから面白いというような。

斉藤:こうして見るとみんな楽しそうに遊んでいるわねえ(笑)。

斉藤:これはハータ・クランク画廊(「斉藤陽子 本とゲーム」Galerie Herta Klang、ケルン、1979年)

坂上:1979年、ハータ・クランク画廊、ケルン。1979年5月11日(オープニングの日付)。

斉藤:ここに出て来る作品はね、いわゆる……友達とした作品で(註:1月16日に話題にしていた)。これはダニエル・スポエリだし…。まあそういう……この作品を発表したのはケルンが初めて。それからもっと後にパリでまとめてね。

この作品はイタリアのだけれども、デュッセルドルフではエリック・アンダーシュ(Eric Andersch)、コレクターの彼。彼は学生寮の寮監をしていたのね、そして私に一つの部屋を融通してくれて。ハウスマイスターという寮内に何か故障が起こると直す人がいるんですよね、その人が使う地下の大きな仕事場を私に使えるようにしてくれて。それで私は作品をつくれるようになった。

森下:それとは別に生活する部屋もあった。

斉藤:ええ、だけれども生活はとても小さい部屋で。寮の一室で。作業場の一部を使えてとても助かりました。

斉藤:これがイタリーの時にやったインクと水の仕事ですね。これも。

坂上:レッジオ・エミリア(Reggio Emilia)で始めた仕事。

斉藤:そうです。これはゴム版のインクを水の中に落とすと出来る。皮が残る訳ですよね。そしてこの切れ目にオイルをちょっとつけると別れて。

坂上:この箱の中のものは一つ一つ手づくりで。

斉藤:ノー、ノー、拾ってきたり見つけてきたものを。

坂上:(ハータ・クランク画廊は)結構大きな画廊ですね。

斉藤:そう。大きい画廊です。これは玉。玉の下の表面が高さがいろいろ違うようになっていてね。

坂上:山あり谷ありみたいになって。

森下:これはご自分でのみで彫られていて。

斉藤:もちろん。

森下:仕上げがね、すごくきれいですよね。

坂上:昨日、レナーテ・マーゲマイヤー(Renate Mergemeier、デュッセルドルフの画廊主。斉藤陽子の個展も何度か開催。坂上・森下は1月17日、調査にうかがった)さんも言ってた。とにかく陽子さんの仕事は神経をつかってつくられている仕事で、他の人には絶対にマネ出来ないって。

斉藤:(笑)。

坂上:レナーテさんはお父様が製本の工場を持っていたのが画廊の前身だっておっしゃられてましたけど、陽子さんはその製本の頃からのお知り合いだったのですか。

斉藤:ノー、そうじゃないです。全然。

坂上:これは? 「信心銘」と彫ってある。

斉藤:本になっているでしょう。それで私の信心銘をつくったの。これはジョージ・ブレクトがつくったもの。まあ、信心銘自体は中国から来たものですけどね、それをジョージ・ブレクトが英訳し、ロベール・フィリュウがフランス語に訳し、それから誰だっけな、ドイツの言葉に翻訳して。

坂上:ここに入っているんですね。

斉藤:全部信心銘です。ああ、これは新聞の切り抜きですね。(「ケルン文化」という名のこの新聞には、ハータ・クランク画廊での斉藤陽子展についての記事が掲載)

(註:下記は、本インタヴュー後、斉藤から我々に送られてきた私信(2014年6月14日付)である。
「イタリーに行ってから何年目だったかはっきり覚えていませんが、何かで、たしかGino Di Maggioがオーガナイズしたもので、Milanoに招待され、それにGeorge Brechtも来ていて驚きました。彼のほほを張り飛ばして別れてから、7、8年目の再会だったと思います。他に誰が来ていたか覚えていませんが……。その時泊まったのはホテルだか? どこか覚えていませんが、私に与えられた部屋はだだっ広い部屋で、寝台が真中に一つあっただけで囲いは日本の障子の様な、勿論、紙が張られているのではなく曇りガラスが張られた、おかしな部屋でした。
 夜寝ていたら、ガタガタ戸を叩く音がして目を覚まし、戸を開いたらGeorge Brechtが立っていて、ベッドに押しやられて、又、彼との関係が始まってしまいました。だが、決して深入りする事はすまいと自分に言い聞かせながら、その後、イタリーからドイツへ——。
 Essen大学で週2回教えるために。だがその給料はとても安く、やっと学生寮の一ヶ月の家賃が払える位のものでした。イタリーのアパートは保ったままにして、その家賃は1ヶ月25DM。今のユーロに替えれば13ユーロ位だったので——そうでないととても学生寮の一室住まいでは皆の物を送るわけにはいかなかったので—
 ドイツに来、Düsseldorfの学生寮Regenbogen Studentenheimの一室に住み、地下室のHausmeisterの仕事場を使わせてもらえるよう寮管長のErik Andersch(彼は収集家でもあったので)が手配してくれ、木の仕事が出来、ケルンのHerta Klang画廊で個展(これは多分Georgeが彼女に話をしたのだろうと思います)。その時点では、彼と彼女の関係を知りませんでしたが——何かのきっかけで準備中にそれを感じ、openingに彼も来ていて、終りに私を彼のアパートに招きましたが(彼はその時ケルンに住んでいました)私は彼に何等のうらみや嫉妬の気持ちはなく“あなたはHertaと一緒のはずだ”と言って断りました。
 彼との文通も遠のきはしましたが続いています。最近、回りのものを整理していたら、一つのファイルの中にGeorgeからのハガキが入っており、それはまだ学生寮に住んでいた時で、多分私は彼等(George とHerta)にKiKi Maier-Hahn画廊での個展の案内状を送った返事だと思います。“残念ながら我々はOpeningには行けない、だが多分次の週に行くだろう”というハガキが来ています。もう2つハガキを見つけました。Herta Klang画廊でのOpeningの時で、“Your work at Herta Klang is wonderful, full of wonder, openingではなく外の日に静かにもう一度見たい—→”と。又もう一つのハガキには“Your books are so fine! I was surprised at.”と書いてあります。彼は私の事を理解していたはずです。だが彼は私のようには生きれなかったし、その必要もないでしょうが。本当の事を言えば、私がアメリカを退ってヨーロッパに来たのは一つにはGeorgeのためです。我々には何か通ずる物があったようです。Roberet Filliouのコンセプトを受けてRené BlockがPeace Biennale(1985年12月1日—1986年1月12日)を組織した時、おかしな方向に向けようとした時、それに対してRobert(ドルドーニャのチベットの仏教協会に隠退していた)と文通し、それをGeorgeに送ったら(彼は参加しないと言っていたので)、我々(Robertと私)の文通は平和に捧げる作品だと言って来たように、我々には何か通じるものがあったと思います。勿論彼と私の仕事には大きな違いがありますが——。
 ずっと後になってたしかHerman Brownを通してか、から、Hertaの父親が亡くなり、画廊も止め、父親の住んでいた家を売り、Georgeのアパートの前に一つのアパートを買い住んでいるという事を知りました。芸術家として、しかもそれだけで生きる事は大変な事です。それだけで生きようとすれば、金持の女性か男性、又は良い収入のある職を持った人と生きるか、そうでなければ自ら一方に他の職を持つか、もし親からの遺産がないならば——。又はある機会があればそれを利用して膨大なお金を要求するか(もしそういう能力があれば)。
 何年だったかはっきりしませんが、René BlockがPresident of the institute for foreigner relationshipであった時、“A long history with many knots, Fluxus in Germany 1982-1994”をオーガナイズした時、彼等は沢山の作品をFluxusのアーティスト(何等かドイツと関係のあった)から買い取って展覧会をしました。そのショウは世界のいたる所で行われ、大阪〔国立国際美術館〕でも行われました。
 その時René BlockはGeorge Brechtから7、8点(私は今カタログがどこにあるのか、又はカタログはなかったかよくわからず正確な数字はわかりませんが)買い、それに対してGeorgeは280,000DM(だったと思います、オイロではなくて)を要求したという事を何かの機会にHermann Braunに会ったとき言い、今Georgeは税務署から手紙が来て、どうなるか心配で恐怖に落ち入っていると言っていました。私は彼に、私は15点位作品を売ったけれど28,000DM.しかも私はRenéに、画廊から売れば50パーセントだから20パーセント引きでいいと言った事を話して、自分でも笑ってしまいました。
 それから何年か後、たしかAlisonだったと思います、ヨーロッパに来た時ケルンでGeorgeのKunst-Kunsthausでのショウを見たと言って小さいカタログを見せてもらいましたが、それ等の作品は木の箱の作品で、大体25cm x 22cm x 5cm位のもので30,000オイロだったが何一つ売れてなかったと言っていました。驚くべき値段です。何か残念ながら本当の意味の忍耐を身に付けてこなかったような気がします。
 その後、何年か忘れましたが、GeorgeとHertaは結婚したという知らせが来、それと一緒に、日本の画廊360°が作ったエディション“water yam”が送られて来ました。
 その後、彼等は養老院付きの、というか属するアパートに入り、食事も運んでくれ、時々身体のチェックもしてくれるとの事——でHermanに何かの機会に会った時言っていました。そしてその為彼等は月に5,000ユーロも払っていると言った時、私は“5000ユーロで一年過ごす”と言って笑った事を覚えています。どこからそんな大金を得ていたのか知りませんが……。生きる事へのわずらわしさもなく楽に生きれればこした事ありませんが、その分芸術に専念出来るかと言えば必ずしもそうではないと思います。これはGeorge Brechtとの話です。」)

斉藤:これ(註:次の写真)は他の時ので、インゲ・ベッカーが確かオーガナイズしたどこかでのパフォーマンスか。(イーメ・センターにおける芸術週間、「遊び」〔Kunstwoche im Ihme – Zentrum, “Spielen”〕、ハノーヴァー、1979年9月18日-22日)

斉藤:これはチェスですよね。《ワイン・チェス》。

森下:1979年の9月19日。

坂上:シュピールって書いてある。

斉藤:シュピールは遊び。

坂上:アラン・カプロー(Allan Kaprow)

斉藤:ああ、アラン・カプローも来ていたんだ。これがインゲ・ベッカー(アラン・カプローの後ろに見える)ですよね。

坂上:ハノーヴァー新聞記事(Neue Presse Hannover、1979年9月19日)。「アランが斉藤陽子の《鶏のミュージック・チェス》を吹いている(Alan is whistling a piece of chicken music chess of Takako!)」って書いてある。笛を吹くんですね。チキンの形をした。

斉藤:そうそう。音が違うように出来ているんです。みんな形は同じだけれども音が違うように工作して。だから王様とクイーンでは音が違うんです。吹いたらわかる。見た所は皆同じなんだけど。今持って来て見せてあげる。

坂上:ああ、よく縁日とかで売ってる!

斉藤:プー(吹く、一つ一つ)音が違うでしょう!

森下:台はあるんですか。

斉藤:向こうにあるんですよ、チェス・ボード(チェス盤)が。これはチェスの駒をそれぞれ入れる為の箱です。

坂上:この《鶏のミュージック・チェス》(Chicken Music Chess)を79年のハノーヴァーの時に発表をした。

斉藤:その前にももちろん発表してますよ。遊んでいる人達が今に出てきます。

森下:《鶏のミュージック・チェス No. 2》(Chicken Music Chess No. 2、1982年、左側の写真)。これはNo.2だから。

斉藤:これが写真。ここで人が遊んでいるでしょう。これは学生寮で居間が割と大きいのでそこでチェスのチャンピオンシップ(試合)っていうので。それだけじゃなくてインヴィテーション(招待状)で……。

森下:レーゲンボーゲン(Regenbogen、註:ドイツ語で虹) 、デュッセルドルフです。

坂上:1979年11月

斉藤:寮の名前がシュツデンテンハイム・レーゲンボーゲン(Studentenheim Regenbogen)とか言うんです。寮の居間です。

坂上:正式な展覧会というよりは、遊び心で。

斉藤:友達やコレクター達を集めて遊んだ。

坂上:これはグラスが置いてある。さっきも映っていた人達だよね。やっぱりさっきエッセンの人達が来てる。

森下:郵便番号4000 デュッセルドルフ、コペルニクス通り78番地、レーゲンボーゲン学生寮(Im Studemtenheim Regenbogen, Kopernikusstr. 78, 4000 Düsseldorf)。で、1979年11月24日

坂上:16時から22時って書いてある。

森下:長いや(笑)。

斉藤:チキン・ミュージックの他にね、フロッグ・ミュージックっていうのがあるんです。これも音が違うわけよね。

坂上:うわあ!カスタネットみたーい!ところでデヴィッド・メイヤーはデュッセルドルフまでは追いかけてこなかったですか。

斉藤:彼は結婚しちゃったんですよね。この頃は。

坂上:もったいない。いい男だったのに。ねえ。思いません?

斉藤:さあ(笑)どうかしら、ねえ(笑)。

坂上:もったいないと思うけど。

(註:下記は、本インタヴュー後、斉藤から我々に送られてきた私信(2014年6月14日付)である。
「ここに私がかかわったもう一人の男性David Mayerについて書いておかなくてはならないと思います。
 私がイギリスを退らなくてはならなくなり(働くための滞在許可を申請したら拒否されたので)イタリーに行く事に決め、AsoloのFrancesco Conzの別荘、そしてFrancescoから与えられていたJoe Jonesのアパートの一室を経て、Reggio Emiliaに移り、Rosannaの家に住んで、どこか安いアパートがないか探している時、Davidが私を訪ねて来ました。その後、Rosannnaから彼女の伯母さんの持ち家の二部屋、物置に使用していた所を空けてくれて、住むようになって、しばらくしてからDavidが又訪ねて来ました。私は丁度家に居らず、私の前に住んでいた人達と話をしていても中々私が帰って来ず、彼は私に会う事なく又イギリスに帰って行きました。だが私はもう彼の所へもどりませんでした。
 私は彼との生活の中で、ちらっと見せる行動から、彼の世界は私の生きる世界とは異なった所にあるのではないかと感じていましたし(彼はまだ若かった)又、私自身、彼に甘えようとする自分を感じ、それでは駄目だというものも感じていました。
 彼は2度目の私の訪問の後、だんだん彼の世界を生きて行くべく、そして何かのキッカケで生態学に興味を持ち、同じ事に興味を持って学んでいた一人の女性に会い、その人と結婚し、新しい医学治療法を開発し、2人でホメオパシーの治療師として働き、子どもも出来、その事どもを私に書いて来ました。
 彼は私の事をtakytaと呼び、手紙に書いて来、彼等の生活が充実したものである事を感じさせていました。
 4、5年前、彼から一度私のパリでの個展に2人で行きたいと言って来ました。私も彼等に会えるのを楽しみにしていましたが、その矢先、妻の肝臓癌が見つかり、すぐ手術して、手術は良好に終わったと言って来、喜んでいました。
 2009と2010年の私のパリの個展の案内状の2010の方のために小さい旗を皆に送り、興味のある人はその旗で何かを作り送ってもらえば、私もそれにサインして送り返すというものを送りました。Davidはそれで面白い物を作って送って来ました。
 その後いつだったか、彼から電話があり、メキシコのFelipeがイギリスに来るがあなたもその時期来ないかと——その時丁度とてもそんな余裕はなく行けませんでした。これは彼がイタリーに来た時話してから初めて彼と肉声で話しました。
 その後2012年、Moersでの展覧会「Das Seewerk」の案内状を送りましたが、いつもは必ず何か書いてくるのに何等返事もありませんでした。あの時は展覧会自体だけでも大変でしたが、その上眼の問題をかかえ、その後すぐMünsterでの個展と続き、私の方も大変で、ちょっと気になっていましたが——。
 去年の初めに、イギリスのDevonで一緒に住んでいたメキシコのMarthaから電話があり、Amsterdamに居るのだが、あなたを訪れたいと言って来ました。彼女がここに来た時、Davidからいつもなら必ず何か送れば返事が来たのに、この頃何も言って来ないので、どうしたのだろうと気になっていると彼女に言ったら、メールしてみると言っていましたが、彼女からも何も言って来ず、気になっています。ただMarthaも含めて無事を祈るだけです。彼には息子もいる事ですし、弟もいる事ですから。)

坂上:ところでこの人は日本人みたいに見えるんですけど。

斉藤:ノー、この人はインドシナの青年で学生寮にいた人です。

坂上:みんなそれぞれのテーブルでいろんなチェスを楽しんでいるっていう展覧会ですね。

斉藤:これはエッセン・ユニヴァーシティにあった、確か、図書館での展覧会じゃないかな。

坂上:この頃になると毎回個展でたくさんの作品を展示していますよね。やっぱりつくる時間っていうのが出来て来て。

斉藤:そうそう。いっぱい貯まってたんだと思う(笑)。

坂上:セント・マーティン・ホスピタル(St. Martin’s Hospital)って書いてありますね。

斉藤:何だろ。

坂上:《ボトル・チェス》(Bottle Chess)みたいなのとかいっぱいありますね。瓶の中に白い箱を詰めたものとか。アーティストブックみたいなのもあるし。家型になっていて。家の中にパズルみたいにいろんなのが入っていたりとか。1980年エッセン大学で個展。(「個展」Essen Universität、1980年)

斉藤:この時にはちょうど私は行かなくて、入院していたのかな。確か何かで入院していたの。

坂上:これは寮の人ですよね。寮監さん(註:前出のエリック・アンダーシュ)。

斉藤:そうです。

坂上:やっぱりこの寮監さん、いい人ですね。

斉藤:うん。

坂上:あれこれ楽しいことを考えてくれて。

斉藤:そうそうそう。

坂上:ここに写っているのはエッセン大学の先生とか?

斉藤:そうじゃないですよ。

坂上:一般の方とかも。

斉藤:そう思いますよ、私は知らない。私はその場にいたわけじゃないからねえ。

ああ、この女の人は多分エッセン大学の事務員だったと思います。

坂上:陽子さんの展覧会というのはテーブルの上にものを置いて見せる普通の個展と、参加して楽しんでもらう個展と2種類ありますよね。

斉藤:これはウィーンのモダン・アート・ギャラリー。

坂上:1981年1月28日から2月12日。(個展「オブジェ、本、チェス、パフォーマンス」モダン・アート画廊〔Modern Art Galerie〕、ウィーン)

斉藤:この頃はヨーロッパは合同されていなかったでしょう。この案内状は私が作ってウィーンに送ったんですね。そうしたらわざわざ輸入みたいにすごい税金をとられてね。だから画廊の人は受取りたくなくて。お金を相当払わなきゃならないから。そして彼女は違う案内状を出したの。あの頃は本当にまだ……輸入っていうことになるのね。案内状なんて自国で出来るものをわざわざ外国から輸入するなんて、って。税金が凄くかかるからって彼女は受取らなくて返ってきたんですよ。

森下:これ実際穴が空いているんですよねえ。もしかして一つずつ……。

斉藤:ミシンで。

坂上:モダンアート画廊(モダン・アート・ギャラリー)で個展とパフォーマンスを81年に。この頃陽子さんはエッセン大学で非常勤を。

斉藤:3年間エッセン大学にいたんですから。

坂上:79年から83年にかけての3年間ですね。どんな授業をしていたんですか。

斉藤:ゲームみたいなものですよね。一緒に。

坂上:こうして欲しいああして欲しいみたいなのは大学の方から。

斉藤:ノー、 それはなかったですね。

森下:授業科目のお名前は覚えてられます?

斉藤:覚えてない。テキスタイルですから、そういう科があったんです。繊維を使っての芸術っていうかね、そういうもんだったんですよね。ところが3年後には潰れちゃって。結局エッセン市がその特別科を設置しておくだけの余裕がなくなって、そこにいた先生は大体10何人かいたんですけどみんな解雇。

森下:その頃、石炭が斜陽になってきて。

斉藤:そうそうそう。

森下:エッセンという町は石炭の町でしょう。ルール炭田ですからね。

斉藤:それで市が予算がなくてね。テキスティル・ゲシュタルツンク(Textilgestaltung、テキスタイル造形)を保存しておくわけにはいかなくて閉鎖になったんです。私もそれで。でもある意味で私にとっては良かったですけどねえ(笑)。

坂上:先生をやっている間はずっと寮に住んでいたんですか。

斉藤:多分そうだと思います。デュッセルドルフの寮に。ある一人の友達がね、家を持っていたんです。アルトシュタット(旧市街)ってわかりますか? アカデミー(註:デュッセルドルフ芸術アカデミー)の裏側にね、一つの家を持っていたんです。「そこにいる人が出て行ったから入らないか」って言われてそこに移ったんです。そこも地下室に仕事場があってね、恵まれた。部屋も大きい部屋と寝室は2Fにあって。だから非常にいい。ところが2−3年してから、持っていた人がその家を売る事になって私も出なきゃならなくなった。そしたら偶然に友達が、ここの場所を教えてくれて。

坂上:そしたらここに引越してきたのは何年位ですか。

斉藤:1986年かな。シュタットムゼウム、市のミュージアムで展覧会をちょっとやる前にここに移った。

森下:シュタットムゼウムは確か88年。(個展「斉藤陽子:デュッセルドルフの一人の日本女性:オブジェ」デュッセルドルフ市立美術館、Takako Saito: Eine Japanerin in Düsseldorf; Objekte, Stadtmuseum Düsseldorf、1988年3月10日-4月10日 )

斉藤:それじゃそれのちょっと前です。

坂上:ドイツに来て最初は学校の寮。

斉藤:そう。

坂上:そして次がそっちの市役所の方、そしてここ。やっと。

斉藤:そう。やっとですよ。やっと(笑)。

坂上:昨日話を聞いていたときはどうなることかと(笑)。

斉藤:(笑)。

坂上:よかったー。

斉藤:そうですよね。

森下:イタリア以降本当に制作に専念できる環境が出来て。

斉藤:本当だねえ。

坂上:そういうこともあって90年に福井に帰られたという事ではないんですか。

斉藤:ノー、関係ないです。

坂上:81年の帰国時は。

斉藤:その時は寮の一室。

坂上:何となく落ち着いてきたし、一回顔をというのではなくて。

斉藤:ノー、そうじゃなくて、81年の時は母が85歳だから。その次に90年に帰ったのは、何故帰ったんだろう。よくわからない。もう母は94歳でしたからね、2回目に帰った時は。85歳の時はひどい状態で母は一人で住んでました。あの時は雪がすごかった。それで彼女はたくさんの人夫に来てもらって雪下ろしをしたんですよ。

坂上:3メートルの雪の時ですね。

斉藤:そうです。それから人夫たちの為に食事をあげないといけないでしょう。大抵人夫さんを雇う場合には2回食事を与えるんですよね。その為に彼女は走り回って。その年でね、10何人かの雪下ろしに来た人たちの為に……もちろんそれはお魚屋さんから持って来てくれるとしても、ご飯は自分で炊かないとならないし、お手伝いさんはいなかった頃でしょう、だから動き回って。それで歩く事がすごく不自由になっていたんです、私が帰った頃は。それで私はよくお灸をしてました。それで弟に随分強く……「あんな状態で母を一人で置いておくのはもっての他だ」って言ってね。その後、母の為に24時間の家政婦さんを置くようになった。なので、母はその後は一人じゃなかったんですね。それで何の為に彼女が94歳の時に行ったのか……。何故かよく覚えていないですけども、そして行った時に確か渡邊(光一)さん(註:ディマンシュホール主宰、創美時代から斉藤と交流あり)から「一度個展をやらないか」って言われたんだと思います。母が94歳の時、何かの機会で藤本よしこさんに会ったんです。彼女を訪れたのか、よく覚えていないですけれども。その後、ある日彼女が母の家に何かを送ったんですね、ところが誰もいなかったの。それでおかしいって言う事で彼女から私に連絡があったんです。そして母が入院しているということがわかったの。それでまたすぐ帰ったんです(91年)。

坂上:ああ、それでずっと看病でついていて。

斉藤:そう。5ヶ月間。もちろん家政婦さんがいましたけども、私は毎日大学病院に通って、家政婦さんにお休みをあげて私だけが看病したり。だから母が94の時と95の時と2回帰っているわけです。94の時は2週間しかいませんでしたけどね。そしてその次の時には病院に入った時で5ヶ月。その期間にディマンシュをやったの。(個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」ディマンシュホール、福井、1991年7月25日-8月12日)

坂上:81年の帰国の時は2-3週間だったんですよね。そして久保さんの所にも行った。

斉藤:そうです。

坂上:久しぶりに日本に帰って来て、変わったなあとかありましたか。

斉藤:みんな私に言いましたけどね、「日本は変わったよ」なんて。だけどちっとも変わったとは。ただ家がたくさん(笑)建ってましたけど。特別変わったとは思わなかったですよ。私はそんなに歩き回ったわけじゃないから、どっか福井の町に行ってみようとも思わなかったし。ただ母の傍にいる事の方が大事だったし。ただ、一日、木水さんに会いに行った事と、藤本さんに会いに行った位で、後はほとんど母と一緒にいましたから。それに雪が山のように屋根の上に。それをのけてやったりとかねえ。母は何の管理も出来なかったから電話線なんかも雪の重さで折れて通じない状態だったですね。そういう風な世話をしたりとかねえ。

坂上:お姉さんも嫁いでしまっていたし弟さんももう遠くで仕事をしていたから、あまり見てあげられる人もいなくて。

斉藤:そうそう。

坂上:81年の時はエッセン大学で非常勤したりして充実しながらも、家に帰って。

斉藤:冬休みに行ったんですね。そうだね。

これはハーゲン・ムゼウムでしょう。シュピール・ヴォッヘか、遊びの週間。(グループ展「遊び〔ゲーム〕+芸術〔Speile + Kunst〕」、Karl Ernst Osthaus Museum、ハーゲン、1981年10月20日以降、長期間。複数の企画が行われた)

坂上:陽子さんは81年の10月22日。

斉藤:遊びの週間だよね。

森下:「シュピール+クンスト」(「遊び〔ゲーム〕+芸術」)。これは他にもいらっしゃるんですね。

斉藤:一週間ごとに違った人がやったんだと思う。遊びですよね。ジョー・ジョーンズも《ソーラー・ミュージック(Solar Music)》を。

坂上:遊び+美術ですね。この写真見た事ある。

斉藤:ある? ジョー・ジョーンズが後でハーゲン・ムゼウムの学芸課長をやっていた人と結婚したんです。もう彼女は癌で亡くなりましたけども。

坂上:みんなが遊んでる写真がいいですね。

森下:みんなが生き生きしてるから写真として気持ちいいですよね。これがその時の展評か何かですね、「日本女性の斉藤陽子が美術館でチェスを教えた……(Japanerin Takako Saito lehrte im Museum Schach…)」

坂上:毎回遊びは新しく考えているんですよね。ルールとか。

斉藤:毎回違いますね。違うみたいだけど私は覚えてない(笑)。

森下:もうこの時陽子さん50を越えているんですよね。

斉藤:そう?

坂上:51歳とか。

森下:生き生きしてますよねえ。

斉藤:(笑)ハーゲナー・ルントシャウ(Hagener Rundschau)、新聞の名前。もう覚えてない。私は。

坂上:これはオストハウス・ムゼウム(Osthaus Museum)の方。

森下:シャフ(Schach)っていうのはチェスだからね。次はヴッパータルの81年(グループ展「フルクサス:一つの現象の多様な外見〔Fluxus - Aspekte Eines Phänomens〕」, Kunst- und Museumsverein Wuppertal、ヴッパータル、1981年12年15日-1982年1月31日)

坂上:ヴッパータル美術館。久しぶりにフルクサスの。

斉藤:カタログがありますよ。

坂上:「フルックス・イヤー・ボックス・セカンド(Flux Year Box Second)」って書いてある。

斉藤:これはまた違う展覧会ですよ。ここが私で右がジョージ・ブレクトで、これが寮監の奥さんです、ドロテ・アンダーシュ(Dorothee Andersch)。どこでやったか覚えてません。ケルンであったことは覚えているんだけども。何かねえ、ナム=ジュン・パイクが舞台の上で何かをやった事を覚えています。それを見ているんだと思う。

坂上:これは。キューブがパズルみたいになって。

森下:これ綺麗ですねえ。

坂上:これも自由に組む。

斉藤:ミュージック・ボックス。

森下:不思議なんですけど、チェスの盤が格子になってますよねえ。ハーレキン・アート(Harlekin Art)のカタログ(個展「斉藤陽子:チェス、ゲーム、本〔Takako Saito: Schachspiele, Spiele und Bücher〕」Harlekin Art、ヴィースバーデン〔Wiesbaden〕、1989年6月23日-7月28日)も(各ページの文章と写真が見かけ上、市松模様になっている)。

森下:これはボフム(Bochum)。

坂上:82年2月27日。インゲ・ベッカーって書いてある。

斉藤:これはキキ・マイヤー=ハーン(KiKi Maier-Hahn)での初めての展覧会です。(個展「斉藤陽子:ドゥ・イット・ユアセルフ絵画、チェス、ゲーム、オブジェ、ドローイング〔Takako Saito: Do It Yourself-Bilder, Schachspiele, Spiele, Objekte, Zeichnungen〕」マイヤー=ハーン画廊〔Galerie Maier-Hahn〕、デュッセルドルフ、1982年3月5日-4月16日)

坂上:「ドウ・イット・ユアセルフ・ビルダー」って書いてある。82年です。

斉藤:この案内状はもうありませんから。

斉藤:これはキキ・マイヤー=ハーン(KiKi Maier-Hahn)のオープニングです。

坂上:またあの寮監さんだ。このグラスがいっぱいあるのもチェスですよね。

斉藤:《ワイン・チェス》です。

(中断)

坂上:イタリアに行って落ち着いたからか、イタリアの頃から資料が充実してる。

斉藤:そうです。

坂上:でも日本にいた頃の記録も残されていて。小勝(禮子、栃木県立美術館学芸課長)さんからメールが来てて。小勝さんが「4月からの久保(貞次郎)展も頑張りますってお伝え下さいって。今朝メールが来てました。(「真岡発:瑛九と前衛画家たち展—久保貞次郎と宇佐見コレクションを中心に」、2014年4月19日-6月22日)」)

斉藤:いい事です。そんなに久保さんの業績って日本でそんなにね、だけど非常に大事な事を彼はやっていたから。本当にそう思いますよ。誰か本当に久保さんの業績を書くべきだと思います。彼は大げさな事はやらなかったけれども、非常に大事な事を人間としてやったと思いますよ。私は外国に来て人間関係を見ても、彼がいかに大事なことをやってきたかって事を強く感じますよ。

森下:戦前、若い頃にアメリカとかヨーロッパに行かれたっていう事もありますが、視野が広いんですね。ここだけって事を考えずにやられているから。

斉藤:視野が広くて、本当に。

(中断)

斉藤:これはキキ・マイヤー=ハーンのところで初めてやった展覧会して出品したんですね。

坂上:この間売れた作品ですよね。

斉藤:そうそう。売った作品。

森下:わ、これも綺麗だなあ。《ア・ストーリー・オブ・レインボー》(A Story of Rainbow)なるほど。虹がお好きなんですね。レーゲンボーゲン。いろいろ使われてますね。

斉藤:偶然ですよね。だってレーゲンボーゲンの寮の名前だって私がつけたわけじゃないですから。

森下:これは確か《虹のチェス》ですよね。

坂上:「ア・セット・オブ・ボックシーズ 78(A Set of Boxes 78)」って書いてある。

斉藤:これは一番最初の展覧会。(個展、インゲ・ベッカー画廊、1978年)確かその後(デュッセルドルフの)シュタットムゼウム(市立美術館)、市のミュージアムにも出して。(個展、デュッセルドルフ市立美術館、1988年)

坂上:木の箱が沢山あってその中に種が入っていたり穴をあけたり。いろいろなものが入って。

斉藤:ここがキキ・マイヤー=ハーンです。(個展、キキ・マイヤー=ハーン画廊、デュッセルドルフ、1982年)

森下:今日、(訪ねたんですが)外からしか写真取れなかったので。へえ。

斉藤:キキ・マイヤー=ハーンは元はアカデミーのほんの近くの前にあったんです。この写真は今のところ(ベルゼンプラッツ〔Belsenplaz〕)かもしれない。

坂上:「写真、ミルバッハ(Milbach)」って書いてある。この写真に載っている人はいつも来ている人ですね。

斉藤:彼はヴォルフガンク・フェーリッシュ(Wolfgang Feelisch)で、フルクサスのエディションをたくさん作っているコレクターであり。

坂上:デュッセルドルフの初期の頃からずっと顔を出している人たち。今でも皆さん元気ですか。

斉藤:彼は今フランスに生きていると思います。

坂上:今度作品が収蔵されたこの作品。《ドゥ・イット・ユアセルフ絵画(Do It Yourself Bilder)》。ちゃんと遊べるようになっているんですかねえ。

斉藤:遊べます。遊ばせるかどうかは知りませんよ。だけども鉄板、壁に鉄板で。だからもちろん遊べます。

坂上:もしかしたらたまに遊ばせる時間を持たせるという事になるのかもしれないですね。

斉藤:それはわからないです。彼ら自身が違った構成で展示するってことはあり得るけれど、お客さんに遊ばせるかどうかはね。この作品は高い作品ですから、(幅)4メートルに(高さ)2メートル20の大きな作品ですから。そして、ただ一面に絵を描いたってわけじゃなくて、小さな絵の集合体ですから、高い作品。私にとっては非常に助かった(笑)。これはキキ・マイヤー=ハーンのところで、彼女が遊んでます。キキ・マイヤー=ハーンで働いていた人。大きな新聞、「ライニッシェ・ポスト(Rheinische Post)」(1982年5月)の文芸欄に記事が載ったのね。彼女は画廊で働いていた人でエーラという人で。

坂上:32年経ったってことですね。

森下:32年経ってようやく収蔵された。

斉藤:そうです。長いねえ。

斉藤:これは「ダス・クンストヴェルク(das kunstwerk)」誌が私について記事を書いたんですね。この人(執筆者)はもう亡くなった、ピーター・ヴィンター(Peter Winter)でしょう。彼はヴッパータルであったフルクサス展を見て。(グループ展「フルクサス:一つの現象の多様な外見」、1981年−1982年)私の名前なんて知らなかったんですよね。フルクサスに全然出て来ない斉藤陽子を発見したって。そして記事に書いて。それ以来彼はいろいろと。

坂上:フルクサスの時はフルクサスとしていましたもんね。(斉藤陽子の名前は表に出していない)

斉藤:ええ。

(福島孝・世津子ご夫妻到着)(註:福島世津子さんはドイツ在住アーティスト)

坂上:いついらしたんですか?デュッセルドルフの方に。

福島孝:84年。

坂上:30年前。陽子さんがこっちに引っ越してきたのは86年位でしたねえ。88年か?

森下:(デュッセルドルフの)シュタットムゼウム(市立美術館)の展覧会の前だというから88年位ですかね。こちらでは先輩なんですね。

福島:そうです。

坂上:さっき何年にこっちに引越をしてきたのかという話をしていて79年にエッセン大学の職を得てこっちに来て、最初は学生寮(デュッセルドルフ大学)の一室を得て、その次に市役所の近くの家で、最終的に安住の地(笑)を得たのはここ。それまでニューヨーク、フランス、フランスの中も点々として、イタリアも行ったし、イギリスも行ったし。その度に荷物も何もかも持って移動するわけじゃないですか。仕事も探して作品をつくる為の道具とか。今日ようやくデュッセルドルフにたどり着けました。

森下:そうですね。今日が(予定しているインタヴュー日程)6日間のうちの5日目で。

(断続的に)

斉藤:豊田の時に行ったねえ。あれはいつだったかな。

坂上:もう6−7年前の話。確か2008年でした(註:「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」豊田市美術館、2008年9月30日−12月25日)。

斉藤:早いもんだねえ。私が79才だったんだ(笑)それだけ覚えてる。いやあ、早いね。

坂上:塩見(允枝子)さんも来て。二人、花が咲いてましたね(笑)。話に(笑)。すっごいおもしろくって。さっきも話していたんだけど、あの時オープニングパーティがあって。ああいう田舎の美術館って仰々しいんですよ。テープカットやったり赤い絨毯敷いたり、市長が挨拶したりとか。その時塩見さんはすっごいドレッシーな、本当にもう深窓のマダムみたいな格好でちょこんと座って。その横で陽子さんが顔が見えない、目の所だけ空いてるような、全身覆われた格好で、くだけて座っていて(笑)。出品者だから一番偉いところにこうやって座っていてね(笑)。

斉藤:(式次第を全く)知らなかったのよ。私は少し遅くなって開会式に行ったの。そうしたら、館長さんがもう話始めていたし、館長さんの後に今度は塩見さんが何か立って話をして。で、「あれ?」って。私聞いていなかったから。それで、あそこで歌を歌ったのよ。

全員:爆笑

斉藤:イタリー語でね。私、考えざるを得なかったのね。で、首をこうして(ひねって)何を言ったらいいのかわからなくって。

福島:それはわざとそういうアトラクションとして考えたんですか。

斉藤:ノー、ただその場で。そしてイタリー語でね、「私の名前はオンコー、私の年は120才〜どこから来たか私は知らなーい」って。

坂上:みんな凍り付いて(笑)、だって誰がいるのかわからないわけだから。その後偉い人が挨拶するたびに、陽子さんは席を立ってちょっかい出したりして(笑)。あれは見物だったよ(笑)。皆どうリアクション取ったらいいかわからないって感じだった(笑)。それに私達以外はみんな背広を着た偉い人たちばっかりですよね。

福島:陽子さんはすべてがアートですからね。佇まいから日常生活から何から。

森下:展覧会のタイトルが「不協和音」。ちゃんとタイトルに相応しいですね。その場にいたかったですけど。

坂上:楽しかった(笑)。

斉藤:何であんな歌を歌ったのかわからないですけどね。短い歌ですけどね。塩見さんが立って話しだしたからね。

坂上:「皆様…」っていう感じでねえ。

斉藤:誰も何も言ってくれなかったもの。

森下:歌が出て来るところが陽子さんの本領。

斉藤:何故イタリー語で歌ったか。(主催者の)ムディマはイタリーの財団だわね。そしてホテルでもねえ、ジャンルーカ(ジャンルカ・ランツィ、Gianluca Ranzi)とイタリー語で話をしていたですからね。だからかイタリー語が出て来た。

坂上:イタリア語がお話出来るのでびっくりしました。

斉藤:だってね、不思議だけども、イタリー語って私にとって覚えやすかった。というのは、イタリー人って非常に人懐っこいんだよね。外で公園なんかで座っていても必ず人が話しかけてくるの。私本当は一人でいたいんだけど(笑)。そういう事もあったんだろうと思う。住んでいた家でも年寄りのおばさんたちがよく来てねえ。私と話をして。そういう事で早く覚えたですよねえ。そして今でもイタリー語って割と話しやすいんだ。ドイツ語よりも(笑)。

坂上:ドイツ語って難しいですか。

斉藤:難しいですよ。

福島:難しいです。

斉藤:文法がねえ、すっごく。私なんて年を取ったからなおさらドイツ語っていうのは本当に文法がややこしい。イタリー語だって本当に話そうと思うと非常に難しいです。文法は非常に難しい。ただ普通の会話なら。スペイン語も文法は本当に難しい。一度、メキシコで展覧会を頼まれた事があって、その為にスペイン語を勉強しようと思ってやりだすとドイツ語の文法とは違うところで動詞が出て来たりとか。ああ、本当に。

森下:イタリア語とスペイン語は似ているでしょう。

斉藤:似ているけど似ていないんだ。似ている言葉はありますけどね。びっくりしちゃった。イタリー語で今でも電話をかけてくる人がいるんですけどねえ、今でもイタリー語で話が出来ます。そうするとイタリー語で話をした後にドイツ人から電話がかかってくると、頭の中が(笑)。しばらく困っちゃう。こんがらがっちゃう。それにフランス語とイタリー語もこんがらがっちゃうし。

坂上:結局何カ国語くらい出来るんですか。普通に話をするくらいで難しい文法はなしで。

斉藤:普通の話ぐらいなら英語とドイツ語とイタリー語とフランス語も聞けばわかるけど話し出すとイタリー語になっちゃうの(笑)。

福島:やっぱりどこかラテンで似ているのかな。言葉の音がきっと。

坂上:すごいねえ。脳みそ分けて欲しい(笑)。

斉藤:たいしたことないですよ、英語にしてもドイツ語にしても日本語にしても今や本当に日本語がどんどんと。しゃべる機会がないし、そして目が悪いから読まなくなって。

福島夫:イタリアには何年いらしたんですか。

斉藤:4年はいなかったと思うけど、4年近くいたんです。

福島夫:4年かあ。4年経ったとき俺はまだドイツ語話せなかったもんなあ。

斉藤:そう?(笑)

福島:孝は最初からドイツ語話してたってみんなに言われてる。当時は英語でね。