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斉藤陽子オーラル・ヒストリー 2014年1月19日

斉藤陽子宅(デュッセルドルフ)にて
インタヴュアー:坂上しのぶ、森下明彦
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2015年10月4日
 

坂上:(日本にいた頃につくっていた作品を見せてもらいながら)これも55年って書いてありますね。これも55年。この頃はシュールっていうか。

斉藤:みたいだねえ。その時期何だか知らないけど。

坂上:せっせせっせと作っていたんですね。創美の活動で、いろいろガリ版やりながら。これは銅版ですけど。

斉藤:誰にも見せた事ないですけどね。本当に。どこかに出したことも個展をやったこともないですけど、自分で自分の為に。

森下:版画の技術的な事はどうやって勉強されたんですか。

斉藤:聞いて覚えて。だってそんなに難しい事じゃないから。

森下:そうですか? エッチングだったら酸につけてとか。

斉藤:エッチングどっかで習った事あるのだろうか。ドライポイントもよくやりました。エッチングなのかドライポイントなのか自分でよくわかりませんけど。これなんかドライポイントじゃないかと思うなあ。これは63年のです。

坂上:ちょっと盛り上がっているのが面白いですね。

斉藤:アメリカに出る前です。

森下:木水さんの本を見ていたら、銅板を福井で手に入れられるとか難しいみたいに書いてあったんですが、エッチングの為の銅の板は手に入りましたか。

斉藤:ええ入りましたよ。だろうと思います。私は何も覚えはありませんから。特別難しかった覚えは。これです。写真。

坂上:あ、豊田!(昨日、1月18日に話題となった展覧会のオープニング)

斉藤:ふふふ。

坂上:ああこれが塩見(允枝子)さんでこれが謎の人(笑)。

斉藤:遅く行ったらここに座らせられた。

坂上:話をしているのがジャンルーカ(ジャンルカ・ランツィ)で隣が私。

森下:司会を坂上さんがしていたの?

坂上:司会は豊田市美術館の人がやっていて。

斉藤:通訳でしょう。

坂上:そうです。

斉藤:ジャンルーカが書いた英語のね。

坂上:でも通訳めちゃくちゃだったけど(笑)。

斉藤:ああそう(笑)。

坂上:思い出の一枚(笑)。

斉藤:この時は一つのジョークみたいな。いたずらです、私の。何故そういう悪戯をしたかというと、ドイツではオープニングというのは一般公開です。招待された人だけが来るんじゃない。ところがここは招待された人しか来ないっていう事を聞いたものだから、それに対する一つの悪戯です。

坂上:いやあ、ジャンルーカも懐かしい。みんな斉藤さんだってこと知らないから「誰?」っていう感じで。偉い人がしゃべりだすとこの辺でうろうろうろうろ(笑)。

斉藤:この洋服を一番最初に着たのは、イタリーのジェノヴァでパフォーマンスをやった時につくったんです。

坂上:(左側上部を見て)ああ後ろ向き。

斉藤:この時に確か一人の女の人が児童画に興味があるっていう事であれしたんだと思う(「ビバーク(BIBAKU)」、1992年)。これがフリッケ(M+R・フリッケ画廊、デュッセルドルフ)の展覧会。これは案内状。82年のフリッケ。2回やっています。続けて。(個展、第1部「梯子とともに〔Mit den Leitern〕」、第2部「秋の遊び〔Herbstspiele〕」、Galerie M. + R. Fricke、1982年12月3日-12月15日、1982年12月17日-1983年1月15日)

これがはじめの展覧会で1回目は梯子。だから梯子のデザインの案内状ね。これがそれです。ここに(久保田)成子さんとジョー・ジョーンズがいます(写真左中央)。

坂上:これが陽子さんですね。

斉藤:そう。これが一回目でしょ。そして人々が遊んでいるっていうか、構成を自分でした。

坂上:ひもを渡せて、壁に直接いろいろ。

斉藤:一番最初はこういうのだったのが、こういう風に変わった。

坂上:最初はわりと整然と梯子が並んでいたのが、

斉藤:壁にまで穴をあけてこういう風に変わった。本当にたくさんの人が来ましたからねえ。

森下:梯子は好きなモチーフですか。

斉藤:何故かやり出すと違った梯子のアイデアが浮んで。これが2回目の案内状です。

梯子は一つだけね。

森下:タイトルの意味は「秋の遊び」ですかね。

斉藤:こういうオブジェクトが沢山並んで。

斉藤:みんなが何かやってますねえ。何やっていたのかよく覚えてないけど。

坂上:たぶんオブジェクトがゲームになっていてみんなが遊べるような感じ。

斉藤:そう。これは何かね、ラジオで放送されたらしいです。これがテキストです。フリッケ画廊の人が書いた。

斉藤:これはフルクサス。ヴィースバーデンの。(グループ展「ヴィースバーデン・フルクサス1962-1982」、ヴィースバーデン美術館〔Museum Wiesbaden〕、ほか、1982年9月19日-11月14日、ヴィースバーデン、その後、カッセルとベルリンへ巡回)

森下:有名な展覧会ですよね。陽子さんにご結婚しているかと聞いたのは、このカタログに載っていたんです。

斉藤:大阪の国立国際美術館にこれに似た作品が出ましたよね。(「ドイツにおけるフルクサス 1962-1994」、2001年4月26日-6月10日)これを持っているヴォルフガンク・フェーリッシュがやったもので、これはまあ(註:《たくさんの喜びを!》Viel Vergnügen、1980年)。

斉藤:ここが入口なんですよね。上に隠れていて、人が来るっていうとプロペラを上から落とす。

坂上:まさか上にいるとは思わないからびっくりしますよね。陽子さんの展覧会の時は上見て下見て右見て左見てってやらないとね(笑)。何が起こっているのかわからない。見過ごしちゃうかもしれない。

斉藤:これがどうも私のドローイングらしいんだけど、誰かに手紙を出したみたいなんだけど覚えてないです。

森下:これは《ワイン・チェス》をやっているところですね。

斉藤:これはベン・ヴォーティエです。これはレネ・ブロック(René Block)だと思う。

森下:このヴィースバーデンはレネ・ブロックの企画だから。

斉藤:これはまた違った展覧会。

坂上:83年8月25日にこの新聞記事は書かれている。これも何かやってますね。パフォーマンス。

斉藤:これはジョー・ジョーンズの《ソーラー・ミュージック》(Solar Music)。アンブレラ。

森下:デュッセルドルフのホートン(Horton)、ですか。

坂上:「Photo Joe Jones」って書いてありますね。

斉藤:ジョー・ジョーンズが撮ったんです。これがジョー・ジョーンズの奥さんでね、これがヴォルフガンク・フェーリッシュ。フルクサスのコレクターが一緒に遊んでいるんだ(笑)。

坂上:この芝生は。

斉藤:これは山のチェスです。片瀬和夫さんって言うのかな、あと10人位の日本人が招待されて。ホートンの大きなゲレンデ、敷地に何かやったんですね。その時(註:1983年、「ドイツで学び、仕事をしている19人の日本人作家展」、ゼーシュターン彫刻公園)。

森下:場所は僕らが乗って来た電車の橋渡ってちょっと北のライン川のそばの。

斉藤:もしウーバーン(U-Bahn)に乗って行かれると、プリンツェンアレー(Prinzenallee)ってあるでしょう、そこにオフィス街が出来たんですよね。プリンツェンアレーから少し……こっちから言うと左になるんだ。アム・ゼーシュターン(Am Seestern)。そこはいっぱい新しいオフィスが出来てオフィス街になったんですね。その端っこのところにホートンのいわゆるデパートメントじゃないけどそういうのがあるんです。

斉藤:コマは人間。人間のためのチェス。

森下:この人はこうやって動いているわけですね。

斉藤:そう。これはクンスト・アカデミーでのパフォーマンスです。(パフォーマンス、デュッセルドルフ芸術アカデミー、1984年11月10日)

坂上:ピアノを弾いたりとかしてますね。こっちではフルートを吹いている人もいて。コンサートをしたんですか。

斉藤:そう。

坂上:陽子さんがピアノで。陽子さんは小さい頃からピアノを習ったりとかしたんですか。

斉藤:ノー、私のピアノは自己流です(笑)。

斉藤:これはボン(Bonn)でやったんだ。

坂上:クンストボッチェ。

森下:芸術週間ですね。ボン芸術週間。(「第1回ボン芸術週間〔1. Bonner Kunstwoche〕」、1984年9月21日-28日)

坂上:「Photo: Kazuo Katase」って書いてある。《ペーパー・ミュージック(Paper Music)》。これは誰かをぐるぐる巻きにしてるんですかね。

斉藤:そうだねえ。

斉藤:これはフリッケ画廊のその次の展覧会のね。84年5月19日から6月18日(個展「本の展覧会〔Bücher Ausstelung (1983/84)〕」、M+R・フリッケ画廊)

坂上:ああこれはギャラリー・マーゲマイヤーでこの間(1月17日に訪問)見せて貰った本の。

斉藤:《ブック・チェス(Book Chess)》。

坂上:この間見せてもらったのは中にシェイクスピアとかの……イギリス版では。

斉藤:ノー、これは違います。2つあるんです。これは彼女(レナーテ・マーゲマイヤー)がつくったエディションと同じものですが、下のはまた違う。

坂上:そういえば厚みも違う。

斉藤:中身も違うんです。これはチェスのパフォーマンスをオープニングに友達とやっているところです。このチェスはね、本の中に「文」が書いてあるんじゃなくって、クエスチョンマークとかコンマとか点とか記号が書いてあってね、その記号に合わせて自分でジェスチャーを決めるわけです。キングの場合にはこういう風にするとかね。舌を出すとかね、それによってキングかクイーンかわかるとかね。

斉藤:すごい喜んで笑ってる!

坂上:本当だー。

斉藤:ああ、これジョー・ジョーンズでジョー・ジョーンズの奥さんだ。ああこれはジェフ(リー)・ヘンドリックス(Geoffrey Hendricks)だ。何かの機会にジェフが遊びに来てたんだ。

坂上:これは雑誌に載ったんだ。

斉藤:「芸術の現在」というタイトルで私の写真が載ったんだ。このパフォーマンスはナポリでやったので。

坂上:ここに「KYOTO, 29」(生まれ)って書いてあるけど(笑)。

斉藤:京都じゃないよね。時には東京生まれっていうのもあるしさあ(笑)、何だかよくわかんない。

斉藤:シュツットガルトで本の展覧会をやったんです。(個展「斉藤陽子:本とヌードル・エディション〔Takao Saito, Bücher und ihre Noodle Edition〕」、ユリウス書店〔Buch Julius〕、1984年10月10日-11月23日)。誰が撮ったのか知らないけど、私ばっかり撮っていて作品はちっとも(笑)。

坂上:これは「デュッセルドルフ・バフェット」って書いてある。(オープニングは)1986年9月15日月曜日19時から。(個展「チェス、遊びの箱、本〔Schachspiele, Spielkasten und Bucher〕」、デュッセルドルフ・アクツェンテ〔Dusserdorfer Akzente in Sparkassen Zweigstellen〕、1986年9月15日-10月10日)

森下:アクツェンテ(Akzente)。シュパーカッセ(貯蓄銀行Sparkasse)の支店にあります。

斉藤:これはシュパーカッセの展覧会評ですね。

Performance Takako Saito, Altstadtfest: Tralala, am 28, Sept, ca 15:30 Uhr, Merktplats vor dem Dusseldorf Rethaus(斉藤陽子、アンナ・コイゼン(Anna Keusen)、パフォーマンス《○+△ 紙のささやき(○+△ Papiers Flüstern)》、旧市街フェスティヴァル「Tralala」の一環、デュッセルドルフ市役所前市場広場(Marktplatz vor dem Düsseldorf Rathaus)、年代不詳9月28日)。

坂上:うわあ、何ですかこれは凄い。埋もれた感じ。

斉藤:パフォーマンスを友達の娘とやったんですね。

坂上:古新聞ですか。

斉藤:そうそう。

坂上:着物みたいなのを着て、二人とも。

斉藤:確か日本週間だったと思う。だから着物を着たんじゃないかなあ。

森下:○+△ 面白いですね。

斉藤:これはフンデルトマルク(Hundertmark)、ケルンでの展覧会での案内状。(個展「本、木の本箱、本のオブジェ、ドローイング、音楽を伴ったドローイング、フォトグラム、紙のオブジェ〔Bücher, Bücheholzkästen, Buchobjekte, Zeichnungen, Zeichnungen mit Musik, Fotogramme und Papierobjekte.〕」、フンデルトマルク画廊〔Galerie Hundertmark〕、1986年3月15日-4月30日)

森下:ここからだいぶエディション出されてますよね。

斉藤:「クンストフォーラム(インターナツィオナル、Kunstforum International)」の記事でしょう。誰かが書いたんだ。
ああ、これがシュタットムゼウム。1988年3月10日から4月10日(個展「斉藤陽子:デュッセルドルフの一人の日本人女性:オブジェ〔Takako Saito: Eine Japanerin in Düsseldorf; Objekte〕」)

森下:この時は沢山作品を出されたんですか。

斉藤:そんなでもないです。

森下:すごい大きな美術館でしたけど。

斉藤:展覧会は一部屋だけで小さなものです。これはパフォーマンスをやってます。

坂上:ご飯を炊いてますね。あ、髭つけて。

斉藤:ご飯が炊ける時のパッパっていう音に合わせて、私一人ともう一人、ここの下に住んでいたフランス人の若い芸術家と一緒にパフォーマンスを。いわゆる即興的な会話をこのパッパっていう音に合わせて。それをやりながら、顔にいろんなものを塗ったりとかしながら。

坂上:向こうの方の人とか笑ってるんですけど(笑)。

斉藤:ああ、これが会場ですねえ。

坂上:普段はこうやって整然と並べられてる。ケースに入れて。頭もこんなに綺麗に並べられて。

斉藤:これはその時の記事ですよね。

森下:これは顔の間に挟まれて(笑)。

斉藤:これはオランダで出た記事ですね。オランダで多分何か本の展覧会でもあったんだろうと思うんだけど。

森下:展覧会評ですね。これも。

斉藤:これはイタリーだ。レッチェ(Lecce)。

坂上:「1989年 Paris Dis paris, Il Sesto Senso Della Natura.」「1989年、パリ・ディスパリほか主催、イル・セスト・センソ・デッラ・ナツーラ」(グループ展「六番目の自然感覚〔Il Sesto Senso Della Natura〕」、レッチェ美術館)

斉藤:ロザンナ・キエッシのね。レッチェのミュージアムです。コムーネ・デ・レッチェ(Comune de Lecce)。COMUNE。コムーネ(Comune)っていうのは市です。

坂上:Seven Senses of Nature.

斉藤:7人の違った人間の自然に関する。

坂上:フィリップ・コーナー(Philip Corner、1933-)も入っているんですね。

斉藤:フィリップ・コーナーはあの時はまだイタリーには住んでいなかったと思う。ああジェフリー・ヘンドリックスも入ってますね。

斉藤:あれ?何だろうこれは。覚えてない。手紙でもないんでしょうけど。個人のいろんなものが入ってて。

斉藤:これがラーラ・ヴァンシィ(Lara Vincy)ね。1989年5月12日から6月15日(個展「斉藤陽子 フルクサス〔Takako Saito: Fluxus〕」、ラーラ・ヴァンシィ画廊〔Galerie Lara Vincy〕、パリ) 

坂上:ああ、チェスをやったりとか。

斉藤:彼ら、《ワイン・チェス》をやって本当に酔っぱらって。おもしろかった。取った場合には相手のワインを飲み干さないといけないから。この時はそうしたんです。そうしたらワインを飲む事の好きな人が若い人で。後で酔っぱらって本当に大変で(笑)。

坂上:ああ、これは陽子さんがお給仕をしてあげて。

森下:それは面白いルールですねえ。

斉藤:彼は特に愉快だった(笑)。

坂上:ああ、で、こうやってシーソーで遊んだりとか。

斉藤:いい写真。子どもが遊んでる。

斉藤:これ等は、他の画廊で個展の時、フランチェスコ・コンツがシルクスクリーンで印刷した私のゲームのテーブルクロスの一部で、皆が遊んだのですが、私は行けなかった。私はまたパリまで出掛けていくお金がなくて行かなかったんですけどね。これはディック・ヒギンズ。展覧会で出した遊びを彼らがやっているわけ。

 

斉藤:これはジェノヴァじゃないですか。これはね、グループ展でね、ジーノ・ディマッジオがオーガナイズした「ピアノフォーテ」(2回目をミラノで開催の「非常に強いピアノ〔Pianofortissimo〕」。後出)。グランドピアノの展覧会で。ピアノだけの作品です。私だけのじゃないよ。ナム=ジュン・パイクもあれば。そして私はフィリップ・コーナーとパフォーマンスをやって。作品は出したかな? 覚えてないや。(グループ展「ピアノ」展、オペラ劇場、ジェノヴァ、1990年)

坂上:ピアノ線の上に箱を落として。

斉藤:これはヴィースバーデンの。(個展「斉藤陽子:チェス、ゲーム、本〔Takako Saito: Schachspiele, Spiele und Bücher〕」、ハーレキン・アート〔Harlekin Art〕、ヴィースバーデン、1989年6月23日-7月28日)

森下:これがカタログですね。

坂上:で、今でも屋根に残っている。これ(チェス)が。

斉藤:そう言ってました。

坂上:これがやっている時の写真。

森下:ああ、登ってますか。

斉藤:私じゃないよ。

坂上:違う人か。

森下:これは何ですか。

斉藤:チェスです。

森下:ハーレキンの時のですか。

斉藤:そうです。ここに果物が乗っかってるんですよ。チェスのピース(コマ)として。

森下:高いんですか。

斉藤:高い。考えて御覧。ここに梯子をして乗っているんだから。これはジョー・ジョーンズがオープニングに来れなくてねえ、その代わりにね、人参をオープニングのお祝いとして送ってきたの(笑)。普通こんな人参なんて。大抵は花とかでしょう。それが人参なの。で、この人がハーレキンのミヒャエル・ベルガー(Michael Berger)なんですよね。

坂上:「ゲーム(A Game)」と書いたこのコスチュームも何着か。ああ、これでまたチェスをしたり。

坂上:「デア・ボンナー・クンストフェアラインとフルクサス、1962-1989年〔Der Bonner Kustverein und Fluxus 1962-1989〕」展(ボン市内外各所、1989年5月9日-9月21日。斉藤陽子は9月21日に、《ドゥ・イット・ユアセルフ・パフォーマンス1989〔Do it yourself performance 1989〕》を発表)

坂上:ミラノ。ああ90年に近づいて来たのか。「ミラノ・ポエジーア」(Milano poesia:註:1989年9月18日-9月24日開催のグループ展)。あ、イレーネ・ディマッジオ(Irene Di Maggio)パフォーマンス。ジーノ(ディマッジオ)の娘!写真!ああもっと髪の毛が長かったのに。この時は男の子みたいねえ。

斉藤:これは2回展覧会があって(「非常に強いピアノ〔Pianofortissimo〕」展、ジェノヴァとミラノで開催。前者については前にも言及されている)。ミラノでもあったし、はじめのはジェノヴァです。二人で立方体を落としているのはジェノヴァ。

斉藤:これが私の作品。1990年1月11日がムディマ財団(Mudima、ミラノ)ですね。これはセロファンです。セロファンを引っぱるとキュキュキュッキュって面白い音が出るんですよ。それとキューブの音と彼女が弾くピアノの音とでパフォーマンスをやったんですね。

斉藤:これはジーノ・ディマッジオの為に作ったんじゃなくて、フランチェスコ・コンツが。コンツが持ってる。もうコンツは亡くなりましたけど。同じようなものをその後でニューヨークの展覧会の時にやったんです。エミリー・ハーヴェイで。だけどこれは展覧会の後に壊してしまいました。

斉藤:これは私の個展です。90年です。個展「ゲーム〔Games〕」、エミリー・ハーヴェィ画廊〔Emily Harvey Gallery〕、1990年4月20日-5月29日、ニューヨーク。

坂上:この髭のマークがトレードマークみたいになって。

森下:この髭は何かいわれがあるんですか。

斉藤:別にないです。何故かっていうと、私にね、フルクサスに対するステートメントを書けって言われてきたんですね。その前に既にフルクサス・コレクターのアメリカのシルヴァーマン・コレクションのカタログのためにステートメントを書いているので、同じものを書くのがもう嫌で、髭をステートメントの代わりに(笑)。これが初めですね。(註:ギルバートとライラのシルヴァーマン夫妻の大規模なフルクサス作品のコレクション。これをまとめたのがジョン・ヘンドリックス編の『フルクサス・コーデックス』〔1988〕)。

坂上:ハンコを作ったんですか。

斉藤:ゴム版。この案内状はすごく評判がよくって。エミリー(ハーヴェイ)が言ってきたけど、案内状だけの展覧会もニューヨークであってこれが一番評価されたって(笑)。

森下:これがエミリー・ハーヴェイの時の。

坂上:ああいろんなチェスがあって。

斉藤:これがピーター・ムーア(Peter Moore、1932-)でね。

これが刀根(康尚、1935-)さん。これがバーバラ・ムーアだし、アリソン・ノウルズだし。

森下:よくニューヨークに持って行かれましたねえ。

斉藤:送ったんですよ、郵便の小包で。だけどこれ(ピアノ)はニューヨークでつくったんです。そんなものまで送るのは何だったからニューヨークの画廊で。

坂上:久しぶりに会った友達とかいますよね。

斉藤:フルクサスの展覧会がこの頃ありましたからね。しょっちゅう会ってます。

坂上:「フルクサスアーティスト斉藤たかこ」! 何これは。斉藤陽子ニューヨークに帰る。え? ゴメスさんのピックアップルアートのまるかじり? ゴメスさんって誰なんですか?

森下:『いけ花龍生』という雑誌。たぶん書いた人が陽子さんの作品を気に入ってこの雑誌に書いたんでしょう。1990年の1月号。ここで日本の雑誌を見るとは夢にも思いませんでした。エドワード・M・ゴメズ。写真もちゃんと写ってますからねえ。ベニスのことも書いてありますねえ。

坂上:すごいおもしろい、これ。「リトアニア生まれのグラフィックアーティストでもあり建築家でもありまた印刷工としての腕もなかなかのものであった故ジョージ・マチュウナス」だって(笑)。すごい言い方してる。なかなかの腕であったって(笑)。すごいなあ。

森下:エミリー・ハーヴェイのを見て、取材してそして日本の雑誌に書いたんですね。

坂上:これは1990年11月7日に出た新聞ですね(West Deutsche Zeitung)。

森下:これはいい写真ですねえ。

斉藤:これはジーノ(ディマッジオ)がオーガナイズした「ウビ・フルクサス(・イビ・モートゥス1990-1962〔Ubi Fluxus Ibi Motus 1990-1962〕)」(1990年5月23日-9月30日)の時です。ヴェニスで。

森下:あの時、運河の横で皆さんの《アドリアーノ・オリヴェッティへの追憶》(註:ジョージ・マチューナスの作品)ですか、演奏している写真が載ってますよねえ(『フルクサス・ヴィールス〔Fluxus Virus〕』、1992)。一番右側に陽子さんがいらっしゃって。たしかこの服じゃなかったかなあ。

斉藤:あの時この服を着てたんです。

坂上:この新聞にも「サダジロウ・クボ(Sadajiro Kubo、前掲のドイツの新聞)」って書いてあるから、陽子さん事有るごとに、こういう時に創美っていうものがあってというものをきちんとお話されていたということですね。

斉藤:これが作品ですよね。ヴェニスでの。

森下:ヴェニスにも持って行かれたんですね。これは歴史的な作品だ。

斉藤:ある意味で私にとって大事な作品でしたからね。

坂上:節目節目で展示されている感じですもんね。

斉藤:人が遊んだらしくて頭が逆さまになってた(笑)。誰が写真撮ってくれたのか知らないけど。私は滅多に自分で写真を撮っている余裕がないもんだからやらないけど。

坂上:この時に塩見さんにも久しぶりに会ったりしているんですよね。

斉藤:そうそう。あの時はみんな来ていましたもんね。洋子(オノ・ヨーコ)さんも来ていたし。それこそ殆ど来ていたでしょうね。ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young、1935-)なんて滅多に来ない、フルクサスなんて関係ない、彼だって来てましたしね、いっぱい来てました。

森下:久しぶりにお会いになってどうでしたか。

斉藤:どうってことないですよね。ラ・モンテ・ヤングは非常に冷たかったなあ。何でか知らないけど。ラ・モンテ・ヤングはフルクサスに対して距離を持った人ではあるからっていうこともあるからねえ。

森下:で、ようやくディマンシュホールの。これがDMですか。(個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」ディマンシュホール、福井、1991年7月25日-8月12日)

坂上:じゃあヴェニスが終わって福井に帰る。これは90年。

森下:これは91年です。この間にも(展覧会は)いっぱいたくさんあるんで。突然ディマンシュのが出てきちゃいましたけど。これがディマンシュホールですか。結構大きな建物ですねえ。

斉藤:そうです。大きな会場だったですよ。

坂上:福井の創美の人たちが、陽子さんの展覧会をという事で。

斉藤:ノー、渡邊さん夫妻(註:1月16日—2インタヴュー参照)が私の展覧会をしたいって。それでやったんですよね。

坂上:陽子さんがお母様の看病も兼ねて5ヶ月位帰られている間に。

斉藤:そうです。

坂上:福井の創美の人たちとは海外にいる間は何もないですよね。

斉藤:何もないです。

坂上:久しぶりに帰ってもう一度コンタクトを。

斉藤:木水さんも来てますよ。これが原田さん、谷口さんですしねえ、これが平子ちゃん……

坂上:しましまの服が平子さんで。

斉藤:奥さんの愛さん。これが谷口さんです。どっかにねえ,平子ちゃんと木水(育男)さんが一緒に《ワイン・チェス》をやっているところがあったのかなあ。どこかわかんないや。

森下:これがお母様に捧げたパフォーマンスですね。

斉藤:そう。母の着物を控え、(着ていた服を)全部脱いで、母に変わっていく訳です。

坂上:ああ自分が来ていた服を脱いで。

斉藤:そしてその頃、中村一郎さんが亡くなったんですよね。私が福井にいた頃に癌で入院していたので一度、渡邊昭子(テルコ、と読む:『土岡秀太郎と北荘・北美と現代美術』、84ページ)さんと一緒に病院を訪れた。それからすぐ亡くなったんです。ですからこのパフォーマンスは中村さんの為に。それと、叔父にあたる母の一番下の弟が同時にその頃亡くなってね。そして彼は、私が前に訪れた時に、「ワインを一緒に飲もう」と言っていた。一度も飲む機会がなくて。ですからこれが彼の為の赤ワインのボトル。彼らの為のパフォーマンスです。

森下:追悼みたいな。

斉藤:そうそう。

坂上:こういう作品は持って来たんですか。

斉藤:そうです。みんな手に提げて来ましたからね。

森下:手荷物で持って帰ったんですね。

斉藤:大変だったですよ。とても両手に作品を下げて階段を上り下り出来ず、一つを上に置いて下り、片方を下に置いて、又、長い階段を上に、そして一つの方を取って下に、その間に誰も取っていかないよう願いながら……。

森下:帰りは福井の方々が(イタリアに)、こういうもの(若い頃の作品も)も一緒に送り返してくれたので今、私達は見る事ができる。

斉藤:そう。そうでなかったらねえ。送料高いですからねえ、本当に、とても自分では送れなかったけれども、ディマンシュ(ホール)の人達がいろんなものを一緒に。助かりました、本当に。あの時。これは平子ちゃんと谷口さんだ。《ワイン・チェス》。福井新聞に2回でています。

森下:1991年7月29日、文化欄。ともう一枚(『朝日新聞』1991年8月7日)。

森下:これは『アート・マガジン』、イタリアのですね。

坂上:1991年10月から11月。

斉藤:そこの窓の写真を使って(註:「遊び:ボェーラーバラ〔Böhlerbara〕、第3番 窓にて」)。ラーラ・ヴァンシィ(前出)。(18 Giogno – 14 Luglio 1991 gioco Bohlerbara Nr.3)ラーラ・ヴァンシィでは2回展覧会やってますからねえ(1989年5月12日-6月15日、2009年12月4日-2010年1月16日)。

坂上: BöhlerBara!

斉藤: Böhler Bara!(Böhler〔ボェーラー〕は斉藤陽子の居住地の地名)(笑)

1991年6月18日-7月14日、ジェノヴァ、テキスト:サンドロ・リカルドーネ(Sandro Ricaldone)

パフォーマンス、インター=コンチネンタル・ホテル・ベルリン(Inter-Continental Hotel Berlin)、ベルリン、1992年4月1日

グループ展「フルクサス・ヴィールス(Fluxus Virus)」、ケルン芸術協会(Kölnischer Kunstverein)ほか、ケルン、1992年9月1日-9月27日

森下:カタログと一緒だ。カタログも鏡を使っているの。カタログの文字がひっくりかえっていて、カバーに銀色の印刷がしてあるので写して読むと読めるという。

(中断)

斉藤:これは、モェース(Moers)で2012年に個展をやった時に友達が撮った写真を使ったんです。
(※斉藤記:これはBeilizhouがつくってくれたもので、彼女も一人のパフォーマーでした。彼女はアーティストですが、他の人は皆アーティストではない。)「ゼーヴェルク 2012(Seewerk 2012)」展。そこにレナーテ・マーゲマイヤーもいるんですよ。どれかって言うとね、あれあれ。それ。このお尻は彼女です(笑)。

坂上:見てはいけないものを見ている(笑)。

斉藤:一人だけが芸術家であとは違う人。マーゲマイヤーだとかプリンターだとか、マーゲマイヤーのところで働いている製本をやっている人とかねえ。

坂上:参加したいと思う人はどんな人でもどんな年齢でも男子でも女子でもみんなウェルカムですね。

斉藤:この男の人2人はプリントをやっている男の人で日本人で私は全然知らない。レナーテが知っている人で。

森下:みんなレナーテさんの知り合いが参加したと。

坂上:なかなか初めての人が脱いだりとか出来ないですもんねえ(笑)。

斉藤:でもみんな楽しんだみたいで(笑)。

(中断)

坂上:ジーノ(・ディマッジオ)が展覧会を初めて開いたのは1976年。かなり早いですね。ムルティプラ画廊(Galleria Multhipla)。

斉藤:そうねえ。

坂上:どこで知り合ったんですか。やっぱりイタリアで。

斉藤:イタリーで。
(※斉藤記:ジーノを知ったのはフランチェスコ・コンツを通してです。まだアゾロにいた時、ジーノのところでパフォーマンス〔ジョー・ジョーンズと一緒に〕それが初めて。)
あそこでは2回展覧会やってるよ、確か。イタリーではよくいろんな事やりましたよね。行ってすぐにいろんなパフォーマンスをいたるところでやったしねえ。

坂上:アーティストとして生活出来たからっていうのもあるかもしれないけど、ローマ行ったりナポリ行ったりミラノ行ったり、移動が激しいですね。

森下:落ち着いても移動されてるんだ。動くのがお好きというか、端から見ていると。

斉藤:さあねえ、今は全然動かないですけどねえ(笑)。

坂上:ジーノとももう40年位の縁なんですねえ。

斉藤:本当によく生きてこれたと思う。ある意味で幸運だったんです。(間)まあまだ若かったんだな。だから動けたんだ。今はとてもじゃないけど。

坂上:住処の心配と仕事の心配をするっていうのは、日本にいて生活してるだけでもすごい大変。どうしよう、次お給料もらえなかったらどうしよう、って。それがもう異国の地ってなったら。

斉藤:ねえ。でもいっつも私幸運に、いつも誰かが助けてくれて。うまくいったんだねえ。何か知らないけど、偶然的にさあ。それこそジョー・ジョーンズと(フランチェスコ・)コンツがねえ、私がイギリスでどんな状態を置かれているかっていうのを知りもしないで。

坂上:知らなかったんだ。

斉藤:知りもしないですよ。偶然。そういう手紙が来たんですよね。それで、行こうって思い立ったんでね、本当にそういう偶然が、うん。おかしいねえ。ロベール・フィリウーたちが南フランスにやって来た時も本当に偶然ですよ。ちょうど私が滞在許可を拒否されて、ドイツの領事館から。その時期でしょう。そしてレストランの仕事が。本当に偶然重なってたんだなあ。何か知らないけれども、感謝しなきゃならないと思う。自然にそういう風になっていったんだね。私が別に頼んでいた訳でもないし。彼らはドイツに住んでいたんだしねえ。偶然と。

坂上:陽子さんも彼らにそういう風にやって。

斉藤:もちろん南フランスにいた時には彼らと一緒に近くに住んでいて、そういう関係もあったし。そして後からも呼んでくれたしね。彼らが移動してからも。

坂上:ありがたいと思う何かがあったんですね。

斉藤:私は彼の作品をニューヨークにいる時に買ってあげた事がありますねえ。私は、それこそ創美の精神と関係があると思います。ジョージ・ブレクトの作品も買っていますしね。ジョー・ジョーンズの作品も買っています。ベビーシッターをしたりそういう風な仕事をして働きながらも、彼らの作品、ジョージ・ブレクトがアメリカを出る時にオークションをやったんですね。その時私は夜働いていて行けないから、その時ジョー・ジョーンズと塩見さんは一緒に住んでましたからね、彼らが私を訪れた時に、彼らに頼んだんです。何か買って来て欲しいって。小切手にサインして。何も値段を書かないで、彼らのオークションに出してもらったの。それとかジョー・ジョーンズの作品も2点くらい買った。ロベール・フィリウーが何かエディションを、フランスに帰ってからですけどね、つくったものを買ってます。そういう事もあるのかもしれない。
(※斉藤記:AY-Oの作品も今でも覚えています。40ドルだった事。《島》という作品でした。塩見さんのパフォーマンスの時のオークションでも、風船を私が買いました。)

森下:創美の精神のひとつの動きですねえ。ブレクトだとかジョー・ジョーンズの作品は今でもお持ちですか。

斉藤:ノー、持ってません。欲しいって言う人が、後から、フルクサスが出て来て「欲しい」って言う人が沢山いて、売ってしまったですね。残念ながら。ドイツに来てからね、特に。

坂上:売れない頃に作品を買ってくれた事って忘れないから。

斉藤:そういう事もあったのかもしれませんねえ。ある意味ではそういう雰囲気はフルクサスの中にはなかったですからねえ。だけども私は創美からの精神でそれは自然な事で。自分はいかに働いて生きていても、彼らよりもある意味では大変なはずなんだけれども、スッと私は買いましたよね。もちろんその頃そんなに高い事はなかったですけどねえ。

森下:自分の生活をするだけで大変でも、やっぱり他の人の作品を買おうとしたその心意気ですよね。

斉藤:そういうものがみんなとの関係を築いたのかもしれません。友達関係のねえ。

森下:やっぱり(ジョージ・マチューナスの周りに)誰もいなくなっても最後まで残られたりとか。

斉藤:そういう事もあるのかもしれませんね。

森下:先ほどフルクサスにはそういう精神はなかったとおっしゃいましたけど、フルクサスを家族に例えてますでしょ。するとあまりその例えは……フルクサスっていうのは大きな家族だという言い方をされますけど。

斉藤:本当には違いますよね。ええ、違いますよね。

(中断)

坂上:福井の時にエッチングもいっぱいつくられていたじゃないですか。あの銅版は。

斉藤:もうないと思います。残念ながら。私の部屋があったんですけどね。そして初めて行った時(1981年)にはいろんなものが残っていたんですけども。ところが、私が母が一人で大変なので弟に少しきつく言ったんですよね。そうしたもんで彼らは腹を立てたんだと思うんです。弟は母に「お姉ちゃんから怒られた」とか何だとか言ったんだと思います。母はもうそれこそ父からの遺産もゼロでしょう。弟がすべてを握っているわけですから、弟に依存しているわけです。だからあまり荒立てないようにしてきたのだろうと思います。それでもって私が言ったもんですから、母も私に対して腹を立てて。だけどもある意味では良かったと思います。それでやっと、初めて24時間の家政婦さんを雇ってくれたんですから。だけども私の荷物は……。(68年に)ニューヨークからヨーロッパに移動する時にたくさんの荷物を日本に送ったんです。とても持ってヨーロッパには行けないから。作品とかもらった手紙とかそういう風なものを。そして私が一番最初に行った頃(81年)は一番ちゃんとしたお蔵に入れていたんですね。……そして私の部屋のものもみんな……ある意味で本当に残念。
(※斉藤記:母が入院した時、5ヶ月一緒にいましたが、私は一言も母を責めるような事を言いませんでしたが、母はわかっていたはずで、ある時、「どうもすみませんでした」と言っていました。私は何も言わず「ああ」と言って手を振っただけで……。

坂上:それが後々すごい財産になるなんて思いもしないわけですよね(笑)。

斉藤:どこへ置いてたのかねえ。私はあの頃サムシング・エルス・プレス(Something Else Press/註:ディック・ヒギンズが主宰していた出版社)の出版した本もみんな買っていたんですよ。みんな何処へ置いたんだろう。みんな濡れたところに置かれたんでしょう。ひどいものになっちゃって。次に帰った時にね。ああ。まあまあ、まあそういう事もありますよね。

森下:でも逆に言うとこれだけ残って来たっていうのも幸運なんですね。いい方向に考えるとね。

斉藤:私にも責任があるんでしょうけどねえ。まあ。あなた方には言わなかったけれども、一度……一番最初かな? ロベール・フィリウー達が、私がパリで住み込みのベビーシッターをやっている時にデュッセルドルフに呼ばれたでしょう。そしてその時にジョージ・ブレクトもデュッセルドルフにいたんですよね。他にもロビン・ペイジ(Robin Page)なんていうのもいましたけども。私はその時ジョージ・ブレクトと一緒に住んでいたんです。それでもってデュッセルドルフに移動することを決めて。ですからしばらくジョージ・ブレクトと住んでいた事があるんです、デュッセルドルフで。その時に私は稼がなきゃ生きて行けない人間でしょう。ジョージ・ブレクトがどうやって生きてきたのか知りませんけども、私は寮の掃除婦を始めたんですよね。そしたら彼が非常に嫌がったんです。そういう事があって彼と離れたんですけども。まあ、その前に、ジョージ・ブレクトが私と一緒に住んでいた頃に、(彼は)一度イギリスに帰って、元々一緒に住んでいた人と一緒になって。何だかややこしいでしょう。そしてその時にねえ、どういう事あったかなあ、ロベール・フィリウーが私の肩を持ってね、「(彼等がニューヨークに行っているなら)そういう事だったらニューヨークへ行け」って。でも私はそんなお金ないでしょう。そして、ああ、自分でも情けなくなりますけど母にね、お金を送ってもらったことがあるんです。そういう愚かな事もしました。その時は自分が情けなくて。泣きに泣きました。ああ。まあそういう事もあります。(註:この話の詳細は1月17日のインタヴューでも語られている)

坂上:お金の苦労ってほとんど全員しているじゃないですか。でも本当に借りれない、本当に言えなくて、ホームレスになってしまう人もいるから。陽子さんもそういう意味で本当に頑固で「絶対他人に頼らない」って思いながらも最後の最後にお母さんがいたっていうのが、自分を保ってくれた事だと思うし、大事だと思う。

斉藤:そうですね。私の家はなくしたといってもねえ、土地があり大きな家が今でも保っていてねえ。本当にゼロになったならばまた別の話ですけどもねえ。

坂上:陽子さんに対する愛がずっとあったからこそ。

斉藤:だけども私自身は、それからはもう絶対そういう事をしないと思ったですよね。自分が情けなくって。本当に情けなかった。

坂上:いろいろあるんだね。

斉藤:長い人生。でも、でもその後はそれこそ自立の自立で生きてきましたし。

坂上:でもフィリウーっていい人ですね。

斉藤:そう。何故か知らないけどね、ロベール・フィリウー達は、彼らもまた彼らだけで生きていってる人々ですから、私をよく理解出来たのだろうと思います。

森下:お金の苦労をしても一人一人差があってね、「掃除婦をしている人は恥ずかしい」とブレクトは言ったのですか?そういう事は言わないと思うけどな。

坂上:恥ずかしいというのは、女性は働いて欲しくないという意味ですよね。

斉藤:そうじゃなくて、寮の掃除婦、いわゆる掃除婦なんていう仕事をして欲しくなかった。

坂上:じゃあもっとステイタスのあるような仕事だったらオッケー。

斉藤:そうだったんでしょうけど。彼には彼の、何て言うのか、おかしな虚栄心っていうのがあったから。

森下:陽子さんは他の人の……ブレクトの作品もオークションで買ったわけでしょう。オークションはブレクトの渡航費用、旅行のお金をつくる目的もあったわけですよね。

斉藤:渡航目的というよりも、海外に出る為にはお金がねえ。

森下:そういう事です。

斉藤:何故かというと彼のガールフレンドのドンナはどっかの出版会社に勤めていて、彼女は派遣されたみたいな形だったです。ですからそんなにお金に困っていたわけじゃないけども、もちろん自分の持っているものを整理してヨーロッパにということで。

森下:そういう時に陽子さんは苦しいのに買ってあげた。

斉藤:苦しいってねえ(笑)。

森下:おまけに小切手にサインして金額を入れなかったという太っ腹。

斉藤:だってわからなかったでしょう。落とすかねえ。だってオークションですから。

森下:よっぽど信用していないとねえ、その相手をねえ。いやあすごいなあと思いましたねえ。さすがだなあと思いました。

斉藤:塩見さんとジョー・ジョーンズにブランクの小切手を託して。もしジョー・ジョーンズだけだったらそんな事しなかったでしょうけど(笑)。塩見さんと二人だったから(笑)だから彼らに「買って来てくれ」って。
(※斉藤記:ドイツに来てから、Hermann Braunがジョージ・ブレヒトの作品を欲しいというので、それを売った時、2000DMと言ったんです。私としては随分高く値をつけたつもりですが、Hermannが、もしジョージが彼の作品がそんな安い値をつけられたと聞いたら、さぞ嘆くだろうと言っていました。)

(中断)

斉藤:これですよ。日本に。どこへ置いておいたのか。

森下:ネズミがかじってますよ、それ。

斉藤:こんなになってしまっていたんですよ。2回目に帰った時にサムシング・エルス(・プレス)で買った本がねえ。これですよ。あなたに言ったでしょう、ジョージ・ブレクトとが。

森下:僕も何冊かサムシングの持っていますが良く出来ていますからねえ。サムシングの人気が出てきましてね。市場で高いんですけども。これは欲しいなあ。

坂上:もったいないですね。

斉藤:いろいろ買ったんですよ。エメット・ウィリアムスの本も。

ジョージ・ブレクト、ロベール・フィリウー『セディーユ遊び、あるいは、セディーユのほほえみ』1967年(Robert Filliou and George Brecht, Game at the Cedilla, or the Cedilla Takes Off, 1967)

斉藤:お店の写真が確かあった。前に箱で、木の箱で……。

坂上:ジョー・ジョーンズの作品を買わなくて木の箱を買ったやつ(ニューヨーク時代)。

斉藤:そうそう。これだと思うなあ。そしてこれが「セディーユ」のお店だと思う。小さい。ロベール・フィリウー達のお店で、いろんな芸術家達が彼らに送ったのを展示しているお店で。ヴィルフランシュ・シュル・メール(Villefranche-sur-Mer)で。彼らの住まいからそんなに遠くないところでね。これもそうですよね。そのお店の中。小さい部屋だったですけどね。

森下:サムシングの本は面白いですもんねえ。だから余計、ちょっと汚くなっていてがっかりされたんですよね。

斉藤:ヴィルフランシュ・シュル・メール自体が小さい町ですしねえ。そしてお店があったところは細い道のちょっと行った様なところですから、人がそんなに行かなかった。お店としては全然機能しなかった。

これはマリアンヌ(・フィリウー、Marianne Filliou)とロベール(フィリウー)とブレクトとドンナですよねえ。これがヴィルフランシュ・シュル・メール。小さい小さい町ですよね。

斉藤:ああこれは、フルクサスの30年かなあ。(前出:グループ展「フルクサス・ヴィールス(Fluxus Virus)」、1992年9月1日-9月27日)ケルンでやった私のお店ですよね。

森下:これは最初ですか。お店(《ドゥ・イット・ユアセルフ・ショップ〔Do it yourself shop〕》)。

斉藤:これがお店をやった一番最初です。

森下:駐車場だったらしいですね。会場が。

斉藤:駐車場です。でも広い駐車場でねえ。

斉藤:私の記事が出たんだなあ、どっかで。

坂上:「92年11月 DM14」って書いてあるから(DM14、雑誌の価格が14マルク)。

斉藤:「Fluxus nicht totzukriegen」 わかんない。死ぬ事なく未だに戦っているという事ですね(註:文字通りには「不死身のフルクサス」)。

坂上:何か手紙が入ってますよ。(一緒に読む)「ニュー・ミュージアム(New Museum)、ニューヨークって書いてありますよ。

森下:ニュー・ミュージアムからお誘いがあったのですか。

斉藤:そう。それを拒否したんだ。

森下:拒否された理由があったんでしょうねえ。

斉藤:そうじゃなくてね、あれは本当にひどいと思うけども、ニューヨークのミュージアムっていうのがね「フルクサスの精神と態度(Fluxus Attitudees)」っていう題で、ショーをやりたいっていうので私の参加を求めてきたんですよね。ところがひどいったらありゃしない。作品は作家自身の費用で送るんだって。それだけじゃないの。ショーが終わって撤去する場合も自分で。終わってから10日間以内に私が現れないとその作品はミュージアムのものになるって。すべてのアーティストが自費でニューヨークの美術館に行ってその作品を取り戻すか、そうじゃなかったら、10日以内に運送屋に頼んで送ってもらうか。そしてそれをアーティストが払うわけ。そんなバカな。考えられないです。だから私ははじめ返事も何もしなかったんですね。「何て怠け者の人なんだろう(Whats a lazy people you are!)」って手紙の裏に書いて。全然返事しなかったんです。そしたら又言って来たんですね、参加を求めて。それでも2回目の手紙によると、ジョン・ケージ(1912-1992)とディック・ヒギンズが何らかの抗議の手紙を書いていたんですよね。「だけども我々は態度を変えない」っていうんですよ。そして「参加してくれ」って。そういう手紙がまた来たんですよね。だけどね、ジョン・ケージやディック・ヒギンズが手紙を書いてもなおかつ態度を変えないんだったら何もする必要はないって放っておいたんです。そしてデッドライン(期限)が切れて。これで終わったなって思ったらまた手紙が来たんですよ。「期限を伸ばしたから参加しろ」って(笑)。私は返事に「アイ・アム・ソーリー・トゥ・セイ・バット(I am sorry to say but)貴方達の手紙を貰った時にね、なんて怠け者の人達だろうと思った。そしてその事をね、あなた方の手紙の裏に書いておいた」ってそういう風に書いて、「そんな事はありえない」ってね。「あなたたちはキュレイター(学芸員)、いわゆるミュージアムの職員として働いて給料をもらっている。私はアーティストとして生きているんだし、アートをつくるために生きている。それが私の職業だからそういうわけにはいかない」って手紙を出した。

森下:多分遅れたのはね、他の人の参加がなかったのだろうと。

斉藤:そうだと思う。

森下:展覧会は開かれたんですか。

斉藤:開かれたの。

森下:参加した人がいるんだ。

斉藤:いるんです。

森下:ニューヨークにいる人はねえ、自分で。

斉藤:持って来る。それでいいでしょうけどねえ。そしたら電話がかかってきたんですよ、私に。そして、「ディック・ヒギンズやジョン・ケージからも言ってきたんだけども、貴方の手紙はもっともパワーフル(powerful)なものだった」って(笑)。そんなちょっと考えられない態度ですよね。
(※斉藤記:そして私の手紙を一般に公開したい、してもいいか?と言われたので、私は、「どうぞ、それをあなた方が欲されるならば—」と言いました。そして公開されたようです。アリスンから「ありがとう」と言ってきました。

坂上:「あなたの手紙が最もパワーフルだった」って言って来る事自体が非常識だと思うけど。

斉藤:考えられないですよね。結局私は参加しなかったんだけれども。もちろん、そう言われても。でも若いニューヨークの人々は参加したらしいです。そういう事もあったです。

グループ展「アンダーシュ・コレクションによるフルクサス〔Fluxus aus der Sammlung Andersch〕」、ビーレフェルト芸術協会〔Bielefelder Kunstverein〕、1992年10月31日-12月20日。

斉藤:アンダーシュっていうのはね寮長、寮監さん。ビーレフェルトの芸術協会。エリック・アンダーシュ(Erick Andersch)。彼はフルクサスの作品をたくさん持っているんですね。カタログも出たんですけどね。

坂上:「George Brecht, Robert Filliou, Nam-Jun-Paik, und Takako Saito(ジョージ・ブレクト、ロベール・フィリウー、ナム=ジュン・パイク、斉藤陽子)」。これは4人ですか。で、こういういろんなプログラムがあって。またこういうパフォーマンスをしたんだ。さっきもご飯炊くやつでやってましたね。

斉藤:うーん、ああ、彼女と一緒にやったんですよね。

坂上:ああ髭を着けている彼女と。

斉藤:彼女は若い韓国の人でね。デュッセルドルフのアカデミーで学んでいた人ですけども、あの頃はやめていたなあ。そして彼女と一緒に本当は簡単なパフォーマンスをやるはずだったんだけれども、彼女は自分を売り込みたくて、張り切りすぎてさあ。本当は私のパフォーマンスなんだけどもうそんな事を忘れてねえ、ズボンを下ろして自分のお尻を観客に見せたりとか。全く共同の作品にはならなかったんですよね。彼女とデュッセルドルフの駅で打ち合わせて一緒になった時に、私は彼女にちゃんとどういう事をやりたいか言ったんですけど、彼女は何も言わなかったんですよね。そして「何だかおかしいなあ」と思っていたらね。汽車の中で一緒にビーレフェルト(Bielefeld)に行く時に何かおかしな雰囲気で。そして私が結局「あなたの好きなようにしなさい」とは言ったんだけどもね。とにかくもう(笑)彼女は自分を見せる事に一生懸命になって(笑)私は一人でパフォーマンスやって。共同のパフォーマンスじゃなくなってね。このパフォーマンスの時にベン・ヴォーティエも来ていたんですよね。ベン・ヴォーティエもやったんですよね。そして、ベン・ヴォーティエが後で書いていたニュース・ペーパー(Newspaper)に「陽子のパフォーマンスはすごく悪い」って批評したんですよね。「イッツ・ノット・フルクサス、バッド・シアター(It’s not Fluxus, bad theatre.)」フルクサスのパフォーマンスじゃないって。私はその時何も言わなかったんですよね。随分経ってから私が彼に書いたのは、「フルクサスであるかどうかは大事なことではない」。そして「名前忘れたけど彼女とは簡単なコラボレーションパフォーマンスのはずだったのが、全然違ったものになって非常に……何と言うか、シアターみたいに、私は私、彼女は彼女みたいになってしまったなあ」っていう事を後から彼に書きましたけどね。彼女はすごく若かったせいもあるけども、初めてのパフォーマンスに参加という事で。

坂上:チャンスを掴みたかったんだろうけど、陽子さんのパフォーマンスで大事なのはやっぱり……。

斉藤:まあ、だけどもさあ、それはそれでいいですよ。どうってことはない(笑)。

坂上:参加者の一人がアーティストだったということですね。

斉藤:そうです。まあそういうことがありました。

森下:これはまた新聞と展覧会評ですね。

斉藤:『フュア・クルツーア(Für Kultur)』ですが日にちはわからない。ピーター・ヴィンター(Peter Winter)が書いてますね。

森下:『ヴィースバーデナー(Der Wiesbadener)』ってこれは雑誌かな。
(註:この雑誌は1992年のヴィースバーデンのフルクサス展のついての記事を掲載)

斉藤:これはビーレフェルトの批評かな。エリック・アンダーシュ氏のコレクションの作品の批評。これは私の作品ですよね。イタリーでつくったもので1976年だ。《生命(La Vita)》。これは92年ですよね。シャーロット・モーマン、ジョー・ジョーンズ、ジェフリー・ヘンドリックス、ナム=ジュン・パイク、ベン・パターソン、ミラン・ニザック〔Milan Knízák、1940-〕、アリソン・ノウルズ、斉藤陽子、ディック・ヒギンズ。

森下:92年にヴィースバーデンでフルクサスの展覧会があったんですね。道路に広告を作った時ですか(註:森下は2002年のヴィースバーデンでのフルクサス展と勘違い)。

斉藤:覚えてません。違うと思う。その前だと思うよ、これは(註:雑誌記事の通り、「ヴィースバーデン・フルクサス 1992(Wiesbaden Fluxus 1992)」展、1992年9月6日-10月18日)。

坂上:(次の写真を指して)「Communities and Museum」(コミュニティズ・アンド・ムージアム)。

斉藤:何だろう。

坂上:お人形みたいな。1993年5−6月、7ドル。美術館の会報かな。チェスが載ったんですね。《リカー・チェスLiquer Chess》(註:「フルクサスの精神において(In the Sprit of Fluxus)」展、ウォーカー・アート・センター(Walker Art Center)、ミネアポリス(Minneapolis)、1993年2月14日-6月6日、その後、5カ所を巡回に関してか)

森下:次は何だ。「ブック・アンド・ゲームズ(Book and Games)」、1993年。

坂上:「studio gennnai, Genova.」(ジェノヴァのストゥーディオ・ジェナーイ)。

斉藤:これ(次の写真)はマーゲマイヤー(Mergemeier)。初めてやった。

坂上:91年に出来た画廊ですよねえ。

森下:で、93年に(ヤヴォルスキー〔Jaworski〕との2人展、マーゲマイヤー画廊(Buchgalerie Mergemeier)、デュッセルドルフ、1993年3月7日-4月4日)。

坂上:93年2月12日の新聞。

斉藤:(新聞の写真は)画廊があった前(中庭)でチェスをやっているところ。《ブック・チェス(Book Chess)》。

斉藤:次がアーヘン(Aachen)でしょう。これがアーヘンでのパフォーマンス。(個展「ゲーム・遊ぶ〔SPIELE-spielen〕」、フォン・デア・ミルヴェ画廊〔Galerie von der Milwe〕、アーヘン、1993年3月5日-4月18日)

斉藤:これはねえ、元はメキシコのショール。それでジャケットをつくったの。ツー・セコンド(2 seconds)かスリー・セコンド(3 seconds)パフォーマンスでねえ。ああ、ここに福島さんたち。孝さんと世津子さん。

坂上:わあ、ムディマ(財団)だあ。1993年12月16日、タカコ、メルカート(Mercato)。ああタカコの市場ですねえ。ああ、すごいいっぱい持って行ったんですねえ、こういう作品、イタリア人、すっごい喜ぶと思う。(個展「斉藤陽子 0 + 0 + (-1) = 私の作品〔Takako Saito, 0 + 0 + (-1) = my work〕」、ムディマ財団〔La Fondazione Mudima〕、ミラノ、1993年12月16日-〔終了日時不詳〕)

森下:これは実際にはお売りになってるんですか。それとも売らないお店で展覧会として。

斉藤:ああ、もちろん売ります。この時には何人か、10人位の若い作家たちを招待して売れましたよ。

森下:お店という場をつくってるんですね。

斉藤:人が遊んでる場が、写真がないですけれども、これはジーノ・ディマッジオと遊びみたいなパフォーマンス。ただやっただけ。

坂上:ジーノ(・ディマッジオ)、若い!

森下:《カフェ・テアトロ(Caffé Teatro)》もこの時なんですね。

斉藤:この時はまた違ったパフォーマンスもやったんですけどね。ふたりでね、着たものを脱いで、そして私が彼のを着て、彼が私のを着て。

森下:お互いの服を取り替える。

坂上:そしてギャラリーが見ているんですね。(註:次々と取り替えていき)最後はこれか。毎回パフォーマンスをする時にそういうことを考えて準備をして。

斉藤:そう。あ、これがお店で売買している時。これはエミリー・ハーヴェイです。

森下:わざわざニューヨークから来られたんですね。

斉藤:彼女はヴェニスにも画廊を持ってましたからね。このお店の前に《カフェー・テアター》をやって。

森下:この写真、覚えてますけどね。コーヒーを飲んでもう一人の人に話しかけるというのを。

斉藤:これはルイジ・ボノット(Luigi Bonnoto)って言って。コレクターです。(註:左からアル・ハンセン〔Al Hansen〕、ルイジ・ボノット、斉藤陽子、ロバート・スカラ〔Robert Scala〕

坂上:李禹煥来ていましたか。ああ、でジーノがコーヒーを入れているんだ。

坂上:これは壁を塗ってるんだ。

斉藤:そう。

坂上:ああ、マグネット!

斉藤:そう。10何メートルある壁でね、15メートルか、それで6メートル位高さがある所に、私が賞を貰った時に赤い壁に白いキューブがあったでしょう。

これがそうです。これがジーノのところでやった展覧会ですね。本当はこの写真ではよくわからないけれども、太陽が沈んで行く絵を大きな壁に描いて。そしてその上にキューブをさげたんですよね。

坂上:太陽が。よく見れば。夕陽みたいなものが(見える)。

斉藤:まあ大変だったですよ、ある意味で。この本は私が賞を取った時のカタログで(「デュッセルドルフ大美術展〔Düsseldorf Grosse Kunst Ausstelung〕」、2000年。この展覧会で賞を受けた)。

坂上:デュッセルドルフの作家として認められたというかねえ。

斉藤:本当に偶然ですよねえ。これは公募展なんです。デュッセルドルフだけでなくノールトライン・ヴェーストファーレン(Nordrhein-Westfalen)州内の大きな公募展で毎年か隔年か良く知らないけど、それに参加するためには何十ユーロか払わなければならない。だから私みたいなものは、一度も参加したことないんですね。だのに、私が選ばれたんですね。どうしてかよくわからないけど。

坂上:結構ムディマでは大がかりなプロジェクトをしていたんですね。

斉藤:そう。

坂上:豊田(「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」豊田市美術館、2008年)で展示したのもこの時のムディマのが結構出てました。

斉藤:そうですよ。この作品も。

このお店ねえ、小さい作品以外はムディマがつくったんです。お店も壁もみんな彼らがしてくれたんです。デザインは私ですが。こっちからとても送れないですからね。随分高い費用がかかったらしくって、ですから《ドゥ・イット・ユアセルフ・ブックショップ(Do it yourself bookshop)》だけを彼らにあげたんです。代償としてね。ところがね、みんな壊されてしまった。影も形もなくなってしまって。これらの小さい作品はみんな私のものなんですけど。

坂上:ジーノにとってはすごい大事な作品じゃないですか。

斉藤:今としてはね。だけどその時にはそう思わなかったんだろうと思う。そしてジーノはそれを知らなくってさあ。豊田の時にね、展覧会をやりたくてジーノとジャンルーカ(・ランツィ)が私のところに来たんですね。彼らは「ショップを展覧会に出したい」って言うから「こっちのブックショップはあなた達持っているはずだよ」って言ったの。そしたら彼知らないんですよね。そして彼の物置を探して。だけど影も形もなくなった。誰かが捨てちゃったか。それだけじゃないの。それこそねえ、何故か知らないけど、他の作品も壊されたりある部分がなくなったりね。何故かっていうとその物置っていうのはムディマの会場とは別のところにあるの。私が行ってそこにあるものをすべて出して調べ出したら、全然ないし、他のものも壊されたりなくなったりっていうのが発見されたんです。まったくひどいもんですよね。

斉藤:これは私が持っていてありますけどね。ひとつは売れましたけど。ミュンスターでの個展で。

斉藤:これはジェノヴァでの。ここにもお店を、《エクストラ・ユー・アンド・ミー・ショップ》を。(個展「斉藤陽子 エクストラ・ドゥ・イット・ユアセルフ・ショップ『ユー・アンド・ミー』ゲーム〔Extra do it yourself shop “You and Me” I giochi〕」、レオナルディ・V・イデア〔Leonardi V-Idea〕、ジェノヴァ、1994年4月9日-4月23日)

斉藤:これがフランチェスコ・コンツ。

坂上:ああ、あの赤いジャケットを着ているのが。何か撮影していますね。

斉藤:彼はもう亡くなりましたけど。もう何年にもなりますよね。

斉藤:(次の写真を見て)これはどこだったかなあ。デューレン(Düren)のミュージアムかな。この作品はデュッセルドルフのクンストパラスト(Kunstpalast Düsseldorf)が買ったんです。 (グループ展「ペーパー・アート 5:第5回国際ペーパー・アート・ビエンナーレ〔Paper Art 5: 5. Internationale Biennale der Papierkunst〕」、レオポルド=ホエーシュ美術館、デューレン・ペーパー美術館〔Leopold-Hoesch-Museum, Papiermuseum Düren〕、デューレン、ドイツ、1994年6月12日-9月25日)

坂上:ペーパー・ワーク。

斉藤:衣装から全部。ここにも福島さんがいるよ。一緒にパフォーマンスやって。

坂上:本当だ。

斉藤:この3人がパフォーマーです。

森下:これがペーパー・アートですね。「ペーパー・アート 5」、5回目なんですね。ビエンナーレで。

坂上:(書類を見ながら)これはCV(履歴書)ですね。(右側の写真を指して)この写真の男の人は誰ですか。福井のですよね。

斉藤:ディマンシュホールの店長の小林さんじゃない?

坂上:「Leopold-Hoesch-Museum/ Papier Museum Duren」(レオポルド=ホェーシュ美術館、デューレン・ペーパー美術館(グループ展「ヨーロッパのブック・アート 1/ペーパーで出来たブック・オブジェ」)、1993年11月28日から94年2月27日)。ペーパー・ミュージアムというのがあるんですね。デューレンミューゼアムのすぐ隣にあります。

斉藤:デューレンミューゼアムのすぐ隣にあります。

斉藤:これはロベール・フィリウーの生まれたマルセイユの近くの小さい町(註:ソーヴ〔ギャール〕、Sauve〔Gard〕)で、彼の死んでから何年かの。

坂上:「ポイ・ポイ・ランド」!(笑)。 「94、タカコ(Poi Poi Land 94、Takako)」って書いてある。

斉藤:(笑)。そう。ポイ・ポイ・ランドは鳥の為のです。

坂上:ロベール・フィリウーの追悼の何か。

斉藤:そうです。「Art Birthday」(アート・バースデー)(註:ロベール・フィリウーが1973年にドイツのアーヘンで行った、アートの100万10回目の誕生パーティが発端。なお、「ポイ・ポイ」という言葉も、フィリウーの創出した「ポイポイドローム〔PoÏpoÏdrome〕」にちなんでいると思われる)っていう。何て言う町だったかなあ。山の上にあったかなあ。小さい町。

坂上:こっちはペーパー・アートのですね。カタログか何かですよね。

坂上:これは何ですか。「こんにちは、親愛なるエリックとドロテー、タカコ、招待状(Hallo…! Liebe Erik & Dorothee  Takako  Einlandung)」

斉藤:ああそうだ、何かの記念にね、パフォーマンスをシュタットムゼウム、デュッセルドルフで。オーバーカッセルでやって(斉藤陽子もオーバーカッセル方面に居住している)。エリック・アンダーシュっていうのはコレクターの。(グループ展「アートの場所としてのオーバーカッセル:交通・都市美化協会90周年〔Kunstseite Oberkassel - 90 Jahre VVV〕」、デュッセルドルフ市立美術館、1994年10月1日-10月30日)

斉藤:この時のパフォーマンスです。

坂上:ああ、これがご飯の炊けた時に顔のパフォーマンス。

斉藤:他にもやったんですが。これだけが新聞に載って。

斉藤:これは《ショップ・ユー・アンド・ミー(Shop You and Me)》でこの時はメアーブッシュ(Meerbusch)のガレリー・イルフェリッヒ(Galerie Ilverich)で。1994年12月4日-1995年1月14日。マグネットの作品も。これは新聞に出た時の記事です。

森下:これも個展ですよね。

斉藤:大きな個展です。いくつも記事が出ましたよね。

坂上:大体同じ写真が使われていますね。

斉藤:オープニングの時だから。

坂上:だからか。新聞記者が同じ時に撮ったんですね。

森下:メアーブッシュの中心街にこういう画廊があるんですかね。

斉藤:あったんです。元の学校を買い取ってね。だから会場としては大きかったです。小学校なんか、昔のを。

森下:そこに展示するとなると沢山の作品が必要ですね。94年。

斉藤:これはニューヨークの時の。

斉藤:これはムディマの時の。写真がちょっといろいろ入ってきてますね。

斉藤:これはイルフェリッヒ(Ilverich)の時にいろんな人たちが書いてくれたもの。

森下:芳名帳ですね。

斉藤:これは随分昔のですよ。ローマで、イタリーにいる時の頃です。ローマでのパフォーマンス。ジェフリー・ヘンドリックス。1974年か75年。

坂上:うずくまっているのがジェフリー・ヘンドリックス。

斉藤:これはナポリでのパフォーマンス。キューブが吊るされている。これは(ミラノの)ムルティプラでやったほんの後だったんだよね。だから相当昔のですよ。76年。これもみんなナポリです。ペペ・モーラ画廊(Pepe Mora)。

森下:ペペ・モーラ(Pepe Mora)っていうのが画廊の名前なんですね。

斉藤:でありオーナーの名前でもある。これらはみんなナポリの写真だ。

森下:展覧会もされてパフォーマンスも。両方だ。

斉藤:これはニューヨークだ。何かのために。エミリー・ハーヴェイ。

坂上:いっぱいテーブルの上に作品がありますね。

斉藤:フィリップ・コーナーもいるし。ジェフ(リー)・ヘンドリックスもいるし。

坂上:ペイズリーみたいなのを着ているのがフィリップ・コーナーでジェフ・ヘンドリックスが髭が生えてる。

斉藤:これもニューヨークの。

斉藤:これはローマでジェフ・ヘンドリックスです。(パフォーマンス、文化センター、ローマ、1975年)

坂上:真ん中で白い箱を持って何か聞こうとしてますね。音を。

斉藤:一生懸命遊んでいるわけです。75年ローマです。

斉藤:これはもっと前です。ラ・スペッキア(La specchia)(註:鏡、と言う意味)で。インターコンチネンタルね(写真のメモ書きには「a performance, at incontri internazionali d’arte, in Rome, 1975 in May」—「incontri」は、出会い、とか、出会いの場とか会談、対戦といった意味の「incontro」の複数とあり、会場名の意味は、国際芸術センター)。このボトルでもってパフォーマンスを。

坂上:ボトルから出して。拡げてみんなで音を聞いて。

斉藤:そうだね。一番最初はボトルから出して。あ、これはボローニャでの「アートフェア」(1976年)。

白い服を着ているのがロザンナ・キエッシ。パリ・ディスパリの。この人が

坂上:で、これがニューヨークの送別会ですね。

斉藤:これは私のロフトです。

坂上:これはキャナル・ストリート。

坂上:手前にいるのは誰ですか。

斉藤:確かジョーじゃないかなあ。ジョー・ジョーンズじゃないかな。

坂上:じゃあ、ジョー・ジョーンズはしょっちゅう。

斉藤:来てました。

斉藤:ああ、これは乗っているのはフィリップ・コーナーで、横を一緒に歩いているのが私で後ろがジョー・ジョーンズ。横は普通の知らない人。

斉藤:これはゲーム。(《フルクサスの芸術家のためのゲームTシャツ〔Game T-shirts for Fluxusers〕》)。

坂上:白がジョージ・ブレクト。黒(黄色?)がダニエル・スポエリだし。ピンクがジョー・ジョーンズ。赤がアリソン・ノウルズ。黒がベン・ヴォーティエ。黄色がナム=ジュン・パイク。白が(ジョージ・)マチューナス。

斉藤:これはペンティメント(pentiment)って、ハンブルクで、夏期の講座の為に私がゲストプロフェッサーとして呼ばれて。(ハンブルク美術工芸美術館〔Museum für Kunst und Gewerbe Hamburg〕、1997年。後出)写真は参加した人々の講習生の作品です。

斉藤:わあ、これはカウナスだ。リトアニアの。(個展「斉藤陽子:ジョージ・マチューナスのためのユー+ミー・シアター〔Takako Saito, You + Me Theater for George Maciunas〕」、カウナス絵画館〔Kaunas Picture Gallery〕、リトアニア、2002年7月26日-9月8日、後出)

斉藤:これはデュッセルドルフで《ユー+ミー・マルクト》市場を野原の中でやった。2002年。暴風が起きてね、雨になって。その後に撮った写真です。(グループ展「ユー+ミー・マルクト〔You + me Markt〕」、ボェーラーバララント〔Böhlerbaraland〕、デュッセルドルフ、2001年9月7日—9月9日、後出)

坂上:これはフルクサス。大阪の。(グループ展「ドイツにおけるフルクサス 1962-1994」、国立国際美術館、2001年4月26日-6月10日)。

斉藤:一番最初はドイツでやりましたね。巡回して。

森下:4-5年して大阪に巡回して。

斉藤:これは一番最初のゲーラ(Gera)。ゲーラっていうのは東ドイツの方の。この展覧会の一番最初。ゲーラ。巡回展の一番最初ですね。大阪でやったのと同じです。ゲーラです。

斉藤:これはその後に大きな展覧会に招待されて(註:「デュッセルドルフ大芸術展(Grosse Kunstausstellung NRW Düsseldorf 2000)」、デュッセルドルフ・メッセ、2000年12月10日−2001年1月7日、のこと)。賞を貰ったから招待アーティストとしてひとつの部屋を下さって、その時にデュッセルドルフでやったんです。これはケルンでやった92年のフルクサス30年のね(「フルクサス・ヴィールス」、1992年9月1日-9月27日)もうありませんけどもショップの模型です。10分の1です。これもひとつの部屋を壁も天井も塗って。

坂上:ぽんぽんぽんって何か布かなにかで淡く塗っているんですか。

斉藤:布じゃなくてスポンジにつけてぽんぽんぽんってやったの。

坂上:で、天井近くに陽子さんちみたいに椅子をセットして。

斉藤:何かヴィースバーデンであったときにハーレキン(・アート)か何かの展覧会かなにかの会場。で、エメット・ウィリアムスとダンスしているの。もう一つの写真は、ベン・パターソンのガールフレンドと遊んでいる所です、ハーレキン・アートで。

坂上:間にペンみたいなのをくわえあって。

斉藤:何のルールもないですが。

坂上:この人とも何かをくわえ合ってる。くわえ合うみたいルールがあったのかなあ。

斉藤:知らないよ。(笑)。

森下:これはジェノヴァのカテリーナ・グアルコ(Caterina Gualco)、 1996年11月(個展「移動する旅行かばんを1つ持った斉藤陽子〔Takako con una valigia ambulante〕」)。

斉藤:もう覚えてません。何をやったのか。

坂上:梯子の上で何か。「スーヴェニール何とか」って書いてある。

斉藤:ああそうだ。この洋服が遊びになるんだ。

坂上:この着ている洋服が。赤と黒の。

斉藤:そう。じゃんけんか何かして勝ったら、そのポケットから何かを選んで取ることが出来るという。

坂上:ポケットがいっぱい体中にあって、その中に。

斉藤:何かが入っているんですよ。そしてじゃんけんか何か。この場合はどういう風にゲームをしたのか覚えていないけれども、もし彼が勝ったら私のポケットから取ることが出来る。

坂上:陽子さんが勝ったら、陽子さんは何かもらえるんですか。

斉藤:そうそう。この中に彼らが何かを入れなきゃいけない。

坂上:じゃあ他の人がポッケに手を入れた時に陽子さんのものじゃないものが手に入る。おもしろいねえ。

(アトリエ内散策)

坂上:おもしろいねえ。美術館に行くよりここの方がおもしろい(笑)。みんなそれぞれ表現が違うけど。

斉藤:ジョー・ジョーンズもいるしアル・ハンセンもいるし、(ナム=ジュン・)パイクもいます。

森下:ここ(の棚の上のもの)はどんどん増えているんですねえ。フリッケ(Christiane Fricke)さんの雑誌の(文章執筆)時はまだ少なかったけれども。

斉藤:そうそう。私の作品を沢山持っているコレクターっていうのはこの人。水色の。彼女は奥さんだったの。亡くなったんですよね。彼は新しいガールフレンドがいます。もう89才です。彼は。

(再び、写真を見ながらお話をうかがう)

斉藤:ああこれはジェノヴァでの展覧会だね。(カテリーナ・)グアルコ。マーケットのも。(個展、カテリーナ・グアルコ、ジェノヴァ、1996年、前出)

斉藤:ペンティメントというのは、いつもハンブルクの美術学校で夏の講習をやるんです。その時に客員教授で呼ばれて(前出)。

坂上:「FOR EYES AND EARS  PERFORMANCE FESTIVAL ODENSE」(パフォーマンス「オーデンセ・パフォーマンス・フェスティヴァル:目と耳のために(Odense Performance Festival:  For Eyes and Ears)」、オーデンセ(Odense)、デンマーク、1997年)

斉藤:一回きりしかやらなかったパフォーマンスだからよく覚えていないよ。紙の洋服です。みんな紙でつくって。でも何をやったのか覚えてない。

坂上:「フルクサスは若い芸術の先取りしている・・・〔Fluxus anticipo el arte joven,…〕」

斉藤:これはスペインで。98年。オーデンセが97年で、そしてこれはフォステル・ミュージアム(註:ヴォルフ・フォステル〔Wolf Vostell、1932-1998〕がスペインに造った美術館〔Museo Vostell Malpardita〕)の。

森下:行きました。日本人で行っているのは私と陽子さんくらいでしょう。塩見さんも行っていないって言ってましたから。

斉藤:そこでジーノ(・ディマッジオ)がフォステル・ミュージアムと一緒にフルクサス・ミュージアムかなにか作ったときのオープニングの時のパフォーマンス。私のやった、何とかオペラじゃないの?何て書いてある?

坂上:ああ、(アキーレ・)ボニート・オリーヴァ(Achille Bonito Oliva)の企画ですね。

斉藤:何オペラって言ったかなあ。みんなでやる、目隠しをして、参加者が全部目隠ししてね、やるオペラです。ハッ、ハッ、ハッ、ホ、ホ、ホ、オペラ。

坂上:そしてこれがペンティメント。(1998年7月20日−8月8日)

斉藤:2回やったからね。98年と

1997年7月27日から9月14日 「EINE AUSTELLUNG IM REISS-MUSEUM MANNHEIM」(グループ展「馬:神々の関知者(Pferde: Mitwisser der Götter)」、ライス美術館(Reiss-Museum)、マンハイム(Mannheim)、1997年7月27日-9月14日)

斉藤:これ、馬っていう意味。プフェルーデ(馬、pferdの複数形)。ここに出て来るものは馬になったコマね。みんなナイト。

坂上:ガーテン(Garten)!ようやくここに。99年。きたか!(レナーテ・)マーゲマイヤー。

森下:この時は3つ展覧会をやっているんですね。マーゲマイヤー(1999年5月4日−6月30日)と(キキ・マイアー=ハーン画廊(Galerie Kiki Maier-Hahn、1999年5月1日−6月19日)とライン川(共に、デュッセルドルフ)。

坂上:この白い壁はキキ・マイアー=ハーン。

斉藤:言ったでしょう。ジョージ・ブレクトの作品を買った時にね、オークションで買ったら、それから2-3日たった後にアリソン・ノウルズが黄色い封筒を私に持ってきたんです。ジョージ・ブレクトからだって。

坂上:この黄色い封筒。

斉藤:そう。この黄色い封筒の中に、彼がいろいろ集めた新聞の記事だとか、友達からの手紙とかカードとかいろいろ集めたものが、3オンス(約90グラム)の重さの彼のアーカイヴとして私にくれたんです。私が作品を買った御礼としてね。そしてそれをね、長く放っておいて。そして94年かな、初めて私はテスタメント(testament)、遺書を書き始めたんですね。私の作品をどうしていくかって。そしていろいろ自分のものを整理し始めたの。そしたらこれが引き出しの下から出てきたんですね。どうしたらいいかわかんなかったんです。私が死んだらきっとみんなこれを捨ててしまうだろうと思ってね。それで机の端っこにこうして置いておいたんです。彼の息子がサンフランシスコに住んでましたから、そこに送ろうかどうしよう。だけどもそれもあまりいい考えではないなと思ってね。それで、ふっとね、ああ、使おう!って思って。もらったものを。そして自分がイタリーでつくった箱の作品に一緒にあるものは貼付け、いろんな風にしてつくったのがこれなんですね。これは今パリのナショナル・ギャラリーが買ったんですけども。そして出来たものなんです。

坂上:彼もそういう風にしてもらえたらなって思ってプレゼントしたのかもしれない。

斉藤:さあねえ(笑)。そこまで考えてなかったと思います。どうか知らないですけどもねえ。

坂上:これもキキ・マイアー=ハーン。

斉藤:そうですね。

森下:この時のキキ・マイアー=ハーンはまだ市内(中心部)の。

斉藤:ノー、もうあそこのベルゼンプラッツ(Belsenplats)です。

坂上:引き出しの上にもいろいろオブジェを置いたりとか。

斉藤:これは《オムレツ》という作品。

坂上:丸いシミが見えるような。果汁のとか。

斉藤:これはキキ・マイアー=ハーンの時の記事ですね。

斉藤:ここからがガーテンで、マーゲマイヤーでしょう。

坂上:この白いジャケットの人は。

斉藤:エディっていう友人のボーイフレンドで、このガーデンを床に設置した時手伝ってくれた人。

坂上:これはお孫さんって。

斉藤:そうそう。レナーテ・マーゲマイヤーのお孫さん。

坂上:この洋服のポケットの中にいろんなものが。歌を歌う為のものが入っているとか。

斉藤:そう。そして会話をするわけですよね。いろんな方法でね。ジェスチャーを交えながら。

森下:そうとう広かったんで、草の水やりが大変だったんですね。

坂上:(マーゲマイヤーさんによれば)でも本当に思い出に残るすごいいい展覧会だったって。やっぱりあの空間で芝生を中に入れてって言う人はもういないだろうし。

斉藤:まあそうでしょうね。

坂上:ああいうパフォーマンスをね。あのアーティストブックのところでやるっていう人もいないだろうしねえ。

斉藤:これはヨーグルトのふたの本ですね。

坂上:ああ、これがライン川で。

斉藤:準備中ですね。この箱をね。

森下:この箱も全部おひとりでおつくりになって。

斉藤:全部。5000位あります。

坂上:ライン川のどの辺でやったんですか。

森下:電車がオーバーカッセルの橋を渡りますよねえ。

斉藤:ライン川のあっち側。オーバーカッセルはこちらでしょう。ではこっちの方か。

森下:じゃあ旧市街の方かな。クンスト・アカデミーからちょっと。

斉藤:クンスト・アカデミーよりは離れているけれども、南の方だけれども。

坂上:テレビカメラのクルーですね。テレビが来たり大がかりなイベントだったんですね。これだけ人が集まって。あらかじめ予告とかしていたんですか。

斉藤:やるというのは招待状の中に書いてある。そして最後にみんなでキューブを川に投げたのよね。

斉藤:その後にピクニックをやったのよ。これはレナーテだ。レナーテ・マーゲマイヤー。福島さんも。5月だったと思うけど。違うかな。

坂上:記事にもなって。「デュッセルドルフの芸術家(Künstler in Düsseldorf)」って書いてある。

斉藤:ライン川でのパフォーマンスの後でね、たくさんのフォトコラージュを作ったの。その展覧会。マーゲマイヤーに130何点、140点位作ったんですね。で、展覧会をやったんです(個展「斉藤陽子:フォトコラージュ「ライン川沿いのパフォーマンス」〔Takako Saito: Fotocollagen“Performance am Rhein”〕」)。

斉藤:で、これが飛行機で、ブレーメンでの展覧会。(個展「習作 1番、2番、3番、及び、秘密〔Übung Nr. 1,2,3 & Geheimnis〕」、バイム・シュタイナーネン・クロイツ画廊(Galerie Beim Steinernen Kreuz)、2000年5月2日-6月10日)。そしてこの写真がポスターになったんです。

坂上:これはみんなが遊んでるところ。

斉藤:この女性が画廊主でね、ブリギタ(Birgit)。ギャラリスト。最近亡くなったんです。私の展覧会をやりたいって言っていたんだけれども。実現できなかったんですよ。はじめ心臓の手術をして、そして直って、私も時間が出来たから電話したら、肺に炎症を起こしてまた入院しなきゃならないんだっていうことを聞いたんです。そしたらうまくいかなくて亡くなりました。残念ながら。

斉藤:これはアリソン・ノウルズです。その後、彼女はここにいるハーマン・ブラウン(Hermann Braun)というフルクサスのコレクターと一緒になりましたからね。一緒に住みはしなかったけれどもしょっちゅう来ていましたから。これは子ども達が遊んでます。

斉藤:ここの写真を撮って。(斉藤陽子自宅のベッドサイドの作品)

坂上:わあ、これは顔がパズルになっているんだ。

斉藤:この画廊の彼女は、よく私の仕事を理解してくれてね、非常に。子ども達にも自由に、注意深く遊ばせてくれていたんですね。だからみんな非常に楽しんだ。

坂上:「グーテンベルク 2000」。ギュンター・ユッカー(Günther Uecker)とか、アーヌルフ・ライナー(Arnurf Rainer)とか。

斉藤:これは《コミュニカティーフェ・モーデンシャウ(Kommunikative Modenschau)》ね。

斉藤:私は2人の若い作家を紹介して。これはエーリッヒ。彼です。エーリッヒ・ヒュルグラーベ(Erich Füllgrabe)。それとヴォルフガンク・シュパニエー(Wolfgang Spanier)。彼は私の下にアトリエを持っています。

坂上:なるほど。服でコミュニケーションが取れるような。おもしろい。

斉藤:そう。この洋服っていうのはね、ルイジ・ボノットって繊維の織物工場を持っているコレクターがいるんですね、イタリーに。彼が私を招待して彼の工場を見せてくれたんです。そしたら、工場の角っこにある透明なプラスティックにいろんな色のものが詰め込んであるのを見て、私が「あれ捨てるのか?」って聞いたら「そうだ」って言うのね。「何が入っているんだ?」って見せてもらったらこういうものが。糸巻きに被せて。糸巻きってひっかかって怪我しないように袋が被されているんです。そして織物によって色が違う袋が被されている。それがいっぱい詰まっていて。ところが織る時にそれを捨ててしまうんです。それを私が見て「それ私が欲しい」って言って送ってもらった。そしてつくったのがこれ。コスチュームなんです。簡単。これは両方とも穴が空いている筒ですよね、それで片方だけ止めてつくったのがこの洋服なんです。

森下:材料を思わぬところで発見して。それから発想してつくられたということですね。

坂上:いろんな人が着て。このおじさんも着て。

斉藤:彼は弁護士。亡くなったですけどね。

坂上:背の高そうな人でもおじさんでも陽子さんでも。

斉藤:それぞれ糸巻きによってサイズが違ってくるんですね。歩いているのはパフォーマンスをしている人達を紹介するためのもので、洋服を紹介するためのものじゃない(笑)。

坂上:ファッションショーかと思ったら。

斉藤:この赤いシャツは《フルクサスの芸術家のためのゲームTシャツ(Game T-shirts for Fluxusers)》のいろいろなアーティスト達の為のね。私が着てるこれはアル・ハンセンの為の赤いシャツ。わかるでしょう。黄色いやつはダニエル・スポエリ。

3人それぞれがパフォーマンスをして。最後に私がやったのは、みんなに紙を被せて穴をあけて首を出してさ(笑)。最後に紙を粉々に破いてしまうっていう。

斉藤:これは賞を取った時のですね。(グループ展「デュッセルドルフ大芸術展(Grosse Kunstausstellung NRW Düsseldorf 2000)」、デュッセルドルフ・メッセ、2000年12月10日−2001年1月7日)

森下:これが賞を取った時の新聞記事ですね。

森下:ようやく《ユー+ミー・マルクト》に来ました。 (ボェーラーバララント、デュッセルドルフ、2001年9月7日−9月9日、1月19日インタヴューに前出)

斉藤:これはその時の記事です。この日の前に嵐が来て店が吹き飛んでさあ。その後、これは福島さん達のお店だと思う。

森下:ちなみにこの場所はボェーラーヴェーク(Böhlerweg)でここの辺りですか。

斉藤:向こう側にね、大きな野原があるんです。そこです。非常に広いです。みんな壊れてしまってね、嵐で。この写真は嵐の後です。

これは嵐前にみんなで集まって話し合っているところ。

ドキュメントは残念ながら出来なかったんです。何故かというとオープニングの夜に嵐が来ましたから、残念ながら。

坂上:ああ、これは国立国際美術館だ。《コミュニケイティヴ・モード・ショー》(2001年4月28日、グループ展「ドイツにおけるフルクサス 1962-1994」の一環)。

森下:この時にも日本にお帰りになっているんですね。それからしばらくあって今度は豊田の時(2008年)と。

坂上:この時は鯖江の方には帰ったりとかは。

斉藤:母はもう死んでましたからねえ、お墓参りだけに行った。鯖江の家には行かなかったです。

坂上:(国立)国際美術館もこの時は万博公園だけれども、今はもう大阪の真ん中。

斉藤:変わったよねえ。

森下:ああ、出ているんだね、新聞記事が。

坂上:首だけ出るやつ。

森下:やはり紙ですよねえ。

坂上:「コンサート・フルクサス(Concert Fluxus)」

斉藤:これはベン・ヴォーティエのコンサート。

森下:10月27日でどこだ、アヌシー(Annecy)。アニメーション・フェスティバルで有名なところ。何年だろう、2001年か。

森下:これはカウナス。2002年7月26日から9月8日。「Kaunas Picture Gallery, Kaunas, Lithuania」(個展「斉藤陽子:ジョージ・マチューナスのためのユー+ミー・シアター」、カウナス絵画館、リトアニア、前出)

森下:この方はどなたです?

斉藤:この緑の人、誰だかわからないけど、日本にね、滞在した事があって、日本語を話す人でインタヴューを受けた。1回会ったっきり。これはオープニングの時で、話しているのは館長でねえ。右の黒いシャツを来ている人が荷物を運んだり世話をしてくれた人で、割とデュッセルドルフと関係がある人でね(註:後出の時にはザウリウス)。デュッセルドルフにもアトリエも持っていて、話をしたんだろうと思う。

坂上:このかもめみたいに見えるのって、これ(斉藤陽子の自宅の部屋にある)ですか?

斉藤:これみたいに見えるので2つ作ったんです。
(※斉藤記:まったく同じではない、というのは、これ等は一つ一つが完全なチェスになっているけれど、もう一つのは2つで一つのチェスになるもので、それ等3組はパリの個展の時に売れました。)

坂上:チェスが飛んでいる。飛ぶチェス。

斉藤:これがパフォーマンス。それまた作ったんですからね。一回川に捨てたから。

坂上:誰かに手伝ってもらったりはしなかったんですか。

斉藤:全然しなかった。一人で作った。

森下:これもカウナス、リトアニアまで持って行ったんですか。

斉藤:彼が大きな車を持っていてね。バスみたいなの。大きなね。それでみんな彼が運んでくれて。

坂上:陽子さん、(ジョージ・)マチューナスが亡くなった時はすぐにニュースが入ってきたんですか。

斉藤:入ってきました。私がイタリーにいる時です。レッジオ・エミリアに住んでいる時に彼は死にましたからねえ。癌になったっていうニュースもすぐに入ってきました。彼から手紙が来たと思います。

坂上:その前も殴られたとかで目が見えなくなって。

斉藤:ええ、そうです。そのニュースも私のところに来たんですよね。その時に、彼は私を使ったように働いている人を使って。それでやられたんだと思います。

坂上:「do this do this(ドゥ・ディス、ドゥ・ディス(これやれ、あれやれ)」みたいな感じで。

斉藤:イヤー。 だろうなって思いました。恨みを買って。だからねえ、他の人は彼に訴えてはどうかって言ったけど、彼は訴えられなかったんですね。負い目があって。当然ですよ。当たり前です。うん、まあ、私を扱ったように他の人を扱っただろうという風に考えられます。建物を改造するために、人を雇って来てもらって。アルバイトにはすごく高圧的な。だからその恨みできっとやられたんだと思います。想像することが出来ます。彼の行動やものの言い方とかねえ、芸術家に対してだってねえ、本当にもう、あれですもんねえ。

森下:このカウナスの展覧会はマチューナスとの関係は全然。

斉藤:関係ないです。ただ、マチューナスが生まれた土地だというだけですね。何もないです。

坂上:これは陽子さんがやったのですか。

斉藤:これは子どもたちが。ああこれは面白い。パフォーマンスをやった会場と、マーケットの向かい側のここは大きなホールだったんですよね。パフォーマンスの後、私にインタヴューというかいろいろなことを聞きたがって、私はもうあっちに行っちゃったんですね。子ども達に「遊んでもいいよ」って言う間もなくて。そうしたら自然に子どもたちや人々がこのキューブで(自然に)遊びだしたんですね。そしたら美術館の人が私のところに来て、こわごわとしてね、「ちょっと来てみて下さい」って。「みんなが遊んでいるんだけども」って。そして行ってみたんですね。そしたら楽しんで、静かに何も壊すこともない、注意深く扱いながらやっていて。私は一言も言わず、ああいいないいなって思って見ていたんです。次の日私は、ビルネストに行かなきゃならない予定があったので、それで行かなかったけれども、レナーテ・マーゲマイヤーやデュッセルドルフから何人もの人が来たんですね。そして彼らは次の朝、美術館に行ってみたらこんな風に積み上げられていたって写真を撮って持って来てくれたんだけど。すごく面白いでしょう(笑)。
(※斉藤記:美術館の人に言ったのは、大事な事は、どうか壊しちゃいけない、そして遊んでいる人をナーバスにしないでほしい、静かに見守り、手助けをしてほしいと伝えました。)

森下:自然に出来るのが。誰でもこういうものをつくる力があるって言うのをねえ。

斉藤:そうですよ。何かマンハッタンのビル街みたいなね。

森下:高層ビルみたいな。リトアニアにはない。

斉藤:あのねえ、ここに私は《ユー+ミー・シアター》っていう場をつくった。美術館にあるいろんな家具を集めて場所をつくって。赤とグリーンのところでね、来た人達が自由に使えるように。ここから自由に観客を眺める事も出来るし。そしてそこの上にね、ひとつだけ、古いタイプライターを置いたんです。そうしたらここの場所を彼らはショップの延長として使い出してね、いろんな人達が共同で、手づくりで。それでタイプライターが邪魔になって(笑)動かされたんだけども(笑)。それは構わないんだけども、それを読んでみるとね、いかに彼らは楽しんだかっていうのがここにいっぱい書いてあるんですね。

森下:タイプライターに感想や文章が書き込まれて。

斉藤:そうそう。

森下:おもしろかったですね、その事は意図されてなくて。

斉藤:全然。移動されたにも関わらず彼女は一生懸命(笑)タイプを打ってる。誰かが写真を撮ったんだな(笑)。ああ、これもそうだ、これも延長で、今でもあるんです。いわゆるパーマネントコレクション(常設展示)みたいに、美術館の一角に部屋をつくって。

斉藤:前に見られたでしょう。

坂上:スポンジでポンポンポンっていう。

斉藤:そうです、それをここにもう一度やった。
(※斉藤記:前のは完全に壊してしまった。前にデュッセルドルフでやった時、一人のコレクターJürgen Mayerが私に、あなたはそんな大きなパネルを置く場所があるのか?って聞かれた時、私は、このショウが終われば皆壊され、壁は皆白に塗られてしまうと言ったら、あー、とため息を吐いていました。)

森下:さっきとは違うところですね。

斉藤:違います。会場は1階で、これは2階の一角に部屋をつくって。

坂上:集えるところがいっぱいあるんですね。天井も床も床の角も。

森下:ああこの作品も。いつも活躍ですねえ。《ドゥ・イット・ユアセルフ絵画》。カウナスの展覧会は大きいんですねえ。

斉藤:すごく大きい。場所がすごく大きい。
(※斉藤記:本当は衝立でいくつもの部屋に仕切られていたのですが、皆、取り払ってもらいました。)

森下:ポスターがシルクスクリーン(印刷)で出来る理由がわかりました。

森下:五線譜にオブジェか記号が付けられていて、音符のように。これは演奏出来るんでしょうねえ。

斉藤:出来ますよ。人によりけりで(笑)。

斉藤:これもカウナスです。日本の人が来てたんですよね。たくさん。日本の芸術家たちの展覧会がカウナスの他の建物でありました。これはその会場だと思います。

坂上:これはピクニック?

斉藤:ピクニックじゃなくて、何て言う名前だっけなあ、ザウリウスだ、作品を全部こっから持って行ってくれたザウリナスが、非常に大きな敷地と、建物は小さかったですけども、持っていて。そこに招待されてみんなでパーティがあったんですよね。

坂上:素敵ですねえ。お箸みたいなのがあったりして。

斉藤:そうそう。そこでパフォーマンスをやったんです。みんなで。何て言ったかなあ。覚えてないけど。

森下:(この写真は)さっきのですねえ。(嵐の時のショップ、《ユー+ミー・マルクト(You + me Markt)》、2001年)あ、切って貼ってある。

斉藤:ああ、みんなこれ嵐の後ですよね。

坂上:もう一度つくりなおして綺麗に。

斉藤:ノー、作り直して綺麗にじゃなくて、した人もいるししなかったグループもあるしいろいろですよね。(福島)世津子さんのテントは壊されて潰れたのを半分だけそのままにして。直して。そういうグループもいたし、いろいろですよね。

斉藤:「フルクサス・メッセ(Fluxus Messe)」、2002年10月20日-21日。ヴィースバーデンのね。

斉藤:この写真に写っているのは、ミラン・ニザック、ジェフ・ヘンドリクス、フランチェスコ・コンツ、そして私。

森下:これ私見たんですよ。道路に看板が立っていたんじゃないですか?(森下は同地で10月13日まで開催されていた「フルクサスと後継者たち〔Fluxus und die Folgen〕」展に言及)

斉藤:さあ。これは亡くなった人の為の。

坂上:フルクサスの友人で。

斉藤:私は後に行ったら、もうジョージ(・マチューナス)のしか残ってなくて。特別私が選んだわけじゃないです。

坂上:でも誰よりも持つにふさわしかったのかも。

斉藤:これがエメット・ウィリアムスだし、ベン・パターソン。

坂上:帽子を被っているのがエメット・ウィリアムスで、こっちがベン・パターソン。

森下:この時は展覧会もあったのですか?

斉藤:展覧会っていうのはフルクサスのアーティストの展覧会じゃなくて若手の作家。

森下:デパートなどで。

斉藤:はい。

森下:見ました。

斉藤:エメット・ウィリアムスとダンスしているところで(笑)。

坂上:ルールみたいなのがあってダンスしてるんですか。

斉藤:ノー全然。全然(笑)

坂上:これはダンスと言うのだろうか。押し倒されてるみたいな。

斉藤:(笑)。これはエメットの奥さんです。

斉藤:これはジェフリー・ヘンドリックス。

坂上:この坊主の人がジェフリー・ヘンドリックス。これが陽子さん。いろんな顔をして。

斉藤:(笑)。この時に教会の上を飛んだんです。

坂上:そうそうこれ!これが見たくて。空を飛ぶというのはこの時は初めてですか。

斉藤:初めて。

森下:これがヴィースバーデンの時ですか。

斉藤:の、「メッセ」です。

坂上:ああ、これが空中を飛んで。

斉藤:さっきのがリハーサル。飛べるかどうかっていう。

森下:怖くはなかったですか。

斉藤:怖いとは思わなかったですねえ。

坂上:実際は箱がいっぱいついたやつで。みんなの前で飛ぶと。

森下:アーティストブック。「Libros de artista Ulises Carrion(リブロス・デ・アリティスタ(Libros de artista))。(註: Ulises Carrión〔1941-1989〕はオランダに住んでいたメキシコ人の作家。講演に招かれたのだと推察。Other Books and Soを主宰していた。)

坂上:これは全部陽子さんの作品ですね。

斉藤:メキシコのどっかでやった展覧会かもしれないですね。だと思いますけどねえ。

森下:メキシコに行かれたんですか。

斉藤:展覧会の為には行きませんでしたけどねえ。

森下:何とかさんを尋ねてとかいうので、

斉藤:行きました。ええ。この展覧会をオーガナイズしたマルタのところに逢いに行きました。マルタ・エーレンベルグ(Martha Ehrenberg、今の名前はHellion)彼女はここに何回も来て泊まっています。

坂上:「ニースのフルクサス(Fluxus in Nice)」(2003年)

斉藤:写真ないですねえ。

坂上:これはラーラ・ヴァンシィ(Lara Vincy)画廊。(個展、パリ、2003年9月21日-11月8日)

斉藤:リリアーナ。画廊主。ラーラっていうのは彼女のお母さんなんです。彼女のお母さんが画廊を始めて。その名前を取って。ラーラの娘です。リリアーナ、画廊主、ラーラの3人ともゲームの出来る上衣を着ています。オープニングに来た人々とそれぞれ自由に遊べるように。

森下:グループ展「セントラール・フルクサス・フェスティヴァル(Centraal Fluxus Festival)」 (セントラール美術館〔Centraal Museum〕、ユトレヒト、オランダ、2003年10月23日−26日)

坂上:何ですか。丸太が転がってるの。

斉藤:これは私の作品ですよ。わかんない。覚えてないもう。

森下:チェスか何かついていない? 子どもが触っているところ。

斉藤:これはチェスとは関係ない。斧です。斧でもって、この木をどのようにでも刻んでいいとか。そういうゲームだったように。だけどよく覚えてません。

森下:これはグループ展ですね。

斉藤:そうです。

斉藤:これはパフォーマンスですよね。

坂上:みんなで吹いてますよね。綿?

斉藤:種を。《サイレント・ミュージック(Silent Music)》です。

斉藤:これはどこだ。ああ、これはエミリー・ハーヴェイのところの。

坂上:「ポートレート・フォー・エミリー(Portrait for Emily)」って書いてある。

斉藤:何故かというと、彼女が癌になってね。これが自分で出来る最後の展覧会だということでグループ展をやったんですね。ヴェニスで。ヴェニスにも彼女が画廊を持ってましたから。その時のオープニングです。

坂上:ああ!で、これが。

斉藤:ブレーメンの展覧会の案内状です(笑)。(個展「斉藤陽子:あなたと私。ドゥ・イット・ユアセルフ・ポートレート、ショップ、本(Takako Saito: “Ihr+ich”. Do it yourself Porträts, Shops, Bücher)」、バイム・シュタイナーネン・クロイツ画廊〔Galerie Beim Steinernen Kreuz, Bremen, Germany〕、2004年9月11日-10月23日)

坂上:かわいい。本当にカワイイ!

森下:一個一個違うんですよねえ。

斉藤:違います。

森下:昨日ね、おっしゃった印刷機のインクを変えるっていうのもこういうところにある。

斉藤:そうそう。

坂上:こうやって木の実とかゴミになってしまうのも大事に。

斉藤:これはゴミじゃないんですよ。新聞なんです。これがねえ、1日分の新聞です。それをみんな細かく刻んでね、そして、ミキサーの中に入れて、水も入れて、パーパー・マッシェ(papier-mâché)みたいに。そしてつくった。そしてこれが完全な1日分。朝日新聞なんてのもあるんですよ。これの場合には、ニューヨーク・タイムズかもしれません。そういうようにしてつくった。これが完全に1日分の新聞です。ここに書いてあるんです、何月何日のどこの新聞かって。

坂上:タグみたいなのが付いてます。

坂上:ここの楽譜ってあそこ(陽子さんの部屋の壁)にありますよね。

斉藤:そうそう。

森下:2004年ですかね。短期間でよく次から次にアイデアが出て来て。すごくつくるのにお時間がかかりますよねえ。

斉藤:そうです。普通の人だったら印刷させて終りですけど(案内状)。私は全部自分で。切って、ハンコを押して。みんな自分でやるんですから。

森下:はしごが出てきましたねえ。

斉藤:はしごばっかり。この時は。

森下:このドキュメントのはしごの写真にもドローイングが(書き込まれてる)。

斉藤:そう(笑)。

森下:これも作品(笑)。家の中にも同じような作品が飾ってます。

斉藤:これは多分、2つか3つで一つのチェスなのかもしれない。これは一つ一つが完全なチェスですけれども。

森下:箱にいろんなものが入っていて。これはエディション、16ですか。エディションごとに箱もかたちも違うんでしょうね。

斉藤:エディションは16ついてますけど、とても全部出来なくて、もう2-3個しかないです。これなんて2つしかつくらなかったと思います。2つとも売れちゃってないし。もうありません。なかなかねえ、出来ないです。

斉藤:ブレーメンのクンストハレでやったパフォーマンスです。個展「たくさんの喜びを!(Viel Vergnügen)」(ブレーメン・クンストハレ(Kunsthalle Bremen)、2004年9月28日−10月12日)。これはフィリップ・コーナーとの奥さんのフィーベ(Phoebe)と。

坂上:寝転がっているのがフィリップ・コーナーで、前にいるのが奥さん。

斉藤:そうです。招待して(パフォーマンスを)やったんですけれどもね。ところが私が思ったようにいかなくてね。途中で事故が起きて全く違った方向に行ってしまった(笑)。このキューブが6メートル位あるところから落っこちる。木の箱ですから落っこちてきてもそれほどの事はないですけれども、もし角から大きいのが落ちるとやはり痛いですから特別のコスチュームをつくったんです。で、私は彼がしゃがんていると思ったんですよね。だから(コスチュームのプロテクトを)腿位の長さまでにしておいたら、彼が寝ちゃったんです。そしたらね、どうも一つのキューブがお尻か足に落っこちたんだな。彼が「あ!」って言ったんです。あの一声がすべてを変えてしまったの。それからたくさんキューブが下に落ちるでしょう。観客の中には彼が怪我をしたのではないかと思った人がいて。彼の足を持って引きずり出してしまったんですよ(笑)。本当はキューブの山の中に潜ってしばらく中にいてほしかった。何故かというと、ここにマイクが2つ(仕込んであった)。私がライン川のほとりで潜っていた時にね、何も動かないのに小さい1センチ位のキューブが、ちょっとした体の動きや私の息の仕方でね、カラカラカラカラっていい音をたててキューブの間を落ちて来る音がとても面白く、それを観客に聞いてもらいたかったの。それでミュージアムの人に頼んで、2つのマイクを突っ込んでもらったんですよね。だけども出来なくなって。何故かというと彼を引っぱってしまったから。それで完全にパフォーマンスが違った方向に行ってしまった。でも、私はストップをかけないでそのまま続けてね。そのまま終わったのだけど。残念ながら。

斉藤:彼は何も怪我をしたわけでもなく、ただ少し声を上げちゃったんです。それでもう。だけどね、遊んで。私にとってはあまりいいパフォーマンスとは思わなかったですけどね。次の日に私はミュージアムの人と約束があって行ったんですよね。そうすると廊下であった助手さんから「昨日のパフォーマンスは非常に楽しい生き生きとしたパフォーマンスだった」って言われたんですよね。私も驚いていたんですけどもね(笑)。それから画廊の人とデュッセルドルフに帰るためにブレーメンの駅に行ったんですよね。そしたら途中で向こうから中年の女の人が自転車で我々の方に来て、「ああ、昨日の芸術家さんだ!昨日のは非常に良かった!」って言われて(笑)。

森下:観客の皆さんにとっては事故じゃないわけですよねえ。

斉藤:だけどねえ、問題はね、子ども達がこういうところに箱を積んだりとか、こういうの。ああ、ミュージアムの人っていうのは無神経なんだな。このキュレイターっていうのは、ジョン・ケージの本も出しているんですよね。だけどジョン・ケージの作品の中には「すべて聞こえるものは音楽だ」っていうのがあるんです。それだったら子ども達がこういうものをつくったら残しておくのが普通、本当なのに、無神経で。次の日行ったら、(せっかくつくったものを)みんな崩して。私は彼にも言ったんですけどね。「せっかくこうしてつくったものを何故残しておかなかったのだ」ってね。残念ながら。この(観客の)女の人がキューブを積んでいる時に私は「ああ素晴しい!」って言ったんですよね。またある人はそれを見て写真を撮ってくれて。そういうものを彼らは無神経にかき集めてしまうんだ。残念。

森下:陽子さんの仕事の意味をわかっていないのかもしれないですね。

斉藤:私の意味をというよりも、何の為にジョン・ケージの本なんて作っているんだって事ですよね。本当に。

森下:ジョン・ケージの事もわかっていないということですね。もしかすると。

坂上:これはデュィスブルク(ドイツ)のレームブルック美術館。ここでもこういう……。(グループ展「ゲーム空間〔Spielräume〕」、Lehmbruck Museum, Duisburg, Germany)、2005年6月5日-9月4日)

斉藤:ああ、キューブをやったんですけどもねえ、これはねえ、天井が非常に低くて。

坂上:低いですね。頭のすぐ上にネットが来ているような。

斉藤:だから私の思っているようなことは全然出来なかったですよね。

斉藤:これはまた別の展覧会ですね。リヒテンシュタイン美術館。私のお店が出品されたんです。(グループ展「賭金を出せ!:ダダ以降の芸術とゲーム〔Spielraume Faites vos jeux! Kunst und Spiel seit Dada〕」、ファドーツ(Vaduz)、Kunstmuseum Liechtenstein、ファドーツ(Vaduz)、リヒテンシュタイン、2005年6月10日-10月23日)。

グループ展「遊べ! ゲームの芸術(Play! The Art of the Game)」、コブラ・ミュージアム(Cobra Museum)、アムステルフェン(Amstelveen)、オランダ、2006年6月17日-9月24日。

斉藤:これは巡回の展覧会で3カ所かどこかでやったと思うなあ。

坂上:いくつか新聞に載って。

斉藤:ジョージ・マチューナスのピンポンのゲーム。

斉藤:私はコブラ・ミュージアムは行きませんでした。ああこれが《シーソー・チェス》。

坂上:テーブルの上に置かれて遊べるようになっているんですね。

斉藤:人々が遊びました。

坂上:ああそしてこれが「前衛の女性」。(グループ展「前衛の女性1950−1975」、栃木県立美術館、2005年7月24日−9月11日)この初期の絵を選んだのは陽子さん。

斉藤:私ですよ。もちろん。私が送ったんですからね。

坂上:ああ思い出した!それで豊田(市美術館、「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」、2008年)の時に、「前衛の女性」でやった小勝さんとか、うらわでやった吉本麻美さん(うらわ美術館学芸員/「フルクサス展——芸術から日常へ」を2004年から2005年にかけて企画・開催)とかみんなが前乗りして来てくれて居酒屋で飲んだりしたんですよね。

グループ展、「メッセ・デュッセルドルフ」、2006年12月10日(オープニング)

グループ展「ダダ以降?(APRéS dAdA?)」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、パリ、2006年9月22日-11月22日。

坂上:これはお風呂ですか? お風呂の中で何か。

斉藤:ノー、これはお風呂じゃない。ホテルのトイレの中でね、日本人でパリに住んでいる松田さんとその夫のポワロ(Poirot-Marsuda)さん達に、私の体に何でもいいから書いてほしいと頼みました。これがその一部。残念ながら会場は暗く、良い写真は得られませんでした。

坂上:コンサートみたいなのがあったんですか。

斉藤:そうそう、フルクサス・コンサートが。ベン・ヴォーティエがオーガナイズしたんですよ。

個展「タカコ・メルカート(Takako Mercato)」、ヴィラ・クローチェ現代美術館(Museo d’Arte Contemporaonea di Villa Croce)、ジェノヴァ、2006年10月5日-11月30日。パフォーマンス、「ゲーム・ファッション・ショー(Game Fashion Show)」、10月14日。

坂上:缶をいっぱいぶら下げていますね。

斉藤:これはトイレットペーパーの芯(笑)。

坂上:ゴミをゴミと思わず(笑)作品にしちゃうんですねえ。

斉藤:これは画廊の外の広場でねえ、パフォーマンスをやってね。その後、彼についてみんな画廊に入って行く。

坂上:電車みたいになって。
(※斉藤記:皆、目をつむって。先頭の彼だけが目を開いていて画廊の入口へ。)

斉藤:これが展覧会です。(「タカコ・メルカート(Takako Mercato)」)

斉藤:これはラーラ・ヴァンシィでの、シルクハットを被っている展覧会です。オープニングのパフォーマンスですね。(個展「斉藤陽子:1988年から1994年までのゲーム〔TAKAKO SAITO Les jeux de 1988 -1994〕」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、2009年12月4日-2010年1月16日、パフォーマンスは内覧会時の2009年12月3日。)

坂上:マグネット(の付いたキューブ)も展示していたんですね。

斉藤:そうです。

坂上:ああ、そして(また)友達に描いてもらって。

斉藤:そうそう。これはタイトルが《80歳の悪戯》。80歳のディアボロ(diabolo、独楽遊びの一種)。

この帽子にね、糸がついているわけでしょう。これを観客の誰かに被せるでしょう。

そしてこの人に糸を引っぱってもらうと、段々服の継ぎ目がほどけていくんです。そういう風になってちょっとずつ取れていくわけよ。

坂上:で、気がついたら(笑)

斉藤:こういう具合に線に沿って解けていくわけ。帽子が3つあるでしょう。前と後ろと袖と。3人の観客に帽子を次々渡していって引っぱってもらうわけ。そして最後に、こういうふうになるわけ。

斉藤:これも同じでこれもいろんな人に。安全ピンがついているわけよね。そして目の場合には、安全ピンを誰かにくっつけて動くと目が落っこちる。ある時には袖が落っこちるっていう。

森下:洋服をつくるのと反対の作業ですよね。壊されていく。そうすると本人が見えてくる。逆ですねえ。

斉藤:これは81歳の時。箱の中に入っていて。

森下:また悪戯ですか?

坂上:旗が立ってますね。

斉藤:旗を送ったでしょう。案内状と一緒に。で、送り返してくれた人達の作品をこうやって展示して。

坂上:私も旗をもらいましたが、かわいいから、送り返さず手元に持ってる(笑)。

斉藤:後で私は送り返すんですから戻ってくるんです。普通の場合はね、メールアートって送ったら送りっぱなしになっちゃうんですよね。私の場合には、私も何かをして送り返す。だから、送りっぱなしにはならないです。

《81歳の誕生(Birth of 81)》、個展「斉藤陽子:2004年から2009年までのゲーム+ユー・アンド・ミー(TAKAKO SAITO Les jeux de 2004-2009 + You and Me)」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、2010年1月22日-2月27日。

斉藤:ある意味では大変ですよね。この場合には150人位(戻ってきた)。本当にびっくりした。私ね、40人位だと思ったんですよね。リタイヤしたミュージアムのディレクターだとかね、画廊の人だとか、キュレイターだとかそういう人まで参加してきてねえ。驚きました。

森下:何かおもしろいメッセージはありましたか。

斉藤:いっぱいありました。驚くようなの。福島さんのも面白かった。パリに行く時にねえ、ドリルで穴を開けて立てるように大体40位しか持って行かなかったんですよ。だから場所がなくてねえ。この箱にいっぱい穴をあけて継ぎ足して。元はこんなところに穴はなかったんですけどね。パリに行ってから穴をあけて立てたんです。

斉藤:この衣装を着ている写真は、ゲーム・ファッションショウ。Villa Croce Museum, Genova。

そしてこれはトロント(カナダ)。 (グループ・コンサート「リユニオン:1968年開催の電子音楽とチェスのコンサートが2010年に演奏〔Reunion: 1968 Concert of Electronic Music and Chess Performed in 2010〕」、ライアーソン劇場(Ryerson Theatre)、2012年10月2日)

坂上:ハープに何か箱が仕込んでありますね。

斉藤:マルセル・デュシャンとジョン・ケージのフェスティヴァルがトロントであって、それに招待されて。その前にレイキャヴィクのチェスの展覧会に招待されて。キュレイターがここに来たんですけどもね。その後アイスランドがバンクラプト、破産してしまって、私の作品の送料を払えないからって言って。それで《ワイン・チェス》と《カナッペ・チェス》のアイデアだけを送ったんです。でも彼らは非常に楽しんでやったらしく、私はオープニングに彼らがやるのかと思ったら、オープニングではなく特別に日を設けて。《カナッペ・チェス》と《ワイン・チェス》の日を特別に設けてやったらしく、新聞にも結構載ってね。楽しんで。これは《カナッペ・チェス》ですしね。

 

斉藤:食べてもいいし、まわりの人にあげてもいいし。どちらでもいいです。まあとにかく非常に楽しんだらしい。それでトロントの「リユニオン」でもう一度《カナッペ・チェス》と《ワイン・チェス》をやってほしいと。それだけじゃ面白くないので、ハープを一緒にやったんです。ハープは向こうが借りて来て、キューブや他に色々なものを貼付けたハープを弾いたんです。

森下:その時に観客席が暗くてわからなくてすごく不安で、みなさんの結果を聞く前に陽子さんは出ちゃったと。

斉藤:残念です。あんなんじゃちっとも面白くない。舞台が非常に高いんです、観客席から。だから観客との交流もなければ。もう一つはチェスをするプレイヤーが、本当の専門家で、アメリカのチャンピオンだとかそういう風な人を選んだんですね。レイキャヴィクの場合とは全然違う。そういうチェスのマニアっていうのは噛む必要も味を見る必要もないんですよね。だからちっとも面白くない(笑)。レイキャヴィクの場合はね、ワインをかいだり、飲んだりってことがあったけどもこの場合は全然面白みがなくて。そういう人達は勝負しか頭にないから遊びの心がなくて勝つ事しか考えていない。そして彼らはよく頭に入ってるんですよ。だから残念ながら(笑)まあまあ。

斉藤:これらの写真はゲーム・ファッションショー、ジェノヴァ(Genova)。

坂上:もう超速球で……!

斉藤:ホント、超速球だ!

グループ展「不思議の国! フルクサスとゲーム(Wonderland! Fluxus & Play)」、ゲント、ベルギー、2006年11月18日-2007年2月18日。

個展「斉藤陽子:本、オブジェ、チェス(Takako Saito: Bücher, Objekte, Schachspiele)」、小空間クラージンク/エタージェ画廊(Kleiner Raum Clasing & Galerie Etage)、ミュンスター、ドイツ、2007年3月16日-4月28日。

グループ展「DISSONANCES 不協和音―日本のアーティスト6人」、豊田市美術館、2008年9月30日−12月25日。

グループ展「豪華の極致:フルクサス(le summum du luxe Fluxus)」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、パリ、2009年2月6日-3月28日。

個展「斉藤陽子:1988年から1994年までのゲーム(TAKAKO SAITO Les jeux de 1988-1994)」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、2009年12月4日-2010年1月16日。

個展「斉藤陽子:2004年から2009年までのゲーム+ユー・アンド・ミー(TAKAKO SAITO Les jeux de 2004 -2009 + You and Me)」、ラーラ・ヴァンシィ画廊、2010年1月22日-2月27日。

斉藤:フォトコラージュを一部だけ見せます。ライン河の。写真を切り取ってね。箱は一番大きくても30センチから40センチですね。いくつか拡大して貼付けたものです。

坂上:インタヴュー前の事前資料の中に、小勝さんからの質問で、「ライン川に四角い箱を流して大丈夫だったんですか」という事が書いてありました。それに対して陽子さんが「いずれ水に帰って行くものだから大丈夫、特に何もなく。後でピクニックに行った」って書いてあったじゃないですか。でも私は2メートル大のキューブだと思っていたから「何であんな巨大な箱に対して誰も何も言わないんだろう」って思ってました(笑)。

斉藤:そんな大きいものじゃないです(笑)。そして、普通の紙ですからね。もし彼らがおかしいと思ったら、取ってきてそして分析してみればわかることなんだし、次の日には、新聞記事と写真と、そして名前も載っているんですから。私は隠れていたわけじゃないですから(笑)。

彼も一緒にパフォーマンスをやったんですね。山が2つあって一つには彼が潜っていたんです。弁護士の人でもう亡くなったんですけども。

森下:これはどこかで発表されたんですか。

斉藤:マーゲマイヤーで。あとカウナス(リトアニア)でも発表しました。カウナスでは全部発表しました。彼らは額ぶちを作ってくれましたしね。

斉藤:じゃあこれで終りにしましょうか!