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瀬木慎一オーラル・ヒストリー 2009年2月23日

ルノアール巣鴨店にて
インタヴュアー:宮田徹也、足立元
書き起こし:河村明希
公開日:2011年4月30日
更新日:2018年6月7日
 
瀬木慎一(せぎ・しんいち 1931年〜2011年)
美術評論家。東京都中央区出身、中央大学法学部中退。1953年に雑誌『美術批評』でデビュー。1956年に「世界・今日の美術」展の運営に関わる。主著に、自身が伴走してきた同時代美術について論じた『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)などがある。他にも西洋近代美術史や浮世絵についての評論でも知られる。また欧米での美術評論の発表、日本の美術市場の調査研究においても先駆的な役割を果たした。本インタヴューは、瀬木と交流のあった美術評論家の宮田徹也と行った。銀座で生まれたこと、雑司ヶ谷での少年時代の思い出と戦争体験、占領軍の図書館で西洋近代芸術史を独習したこと、戦後のアンフォルメル旋風の背景、フランス体験、『東京美術市場史』(東美研究所編、東京美術倶楽部、1979年)、今日の美術に対する苦言などが語られている。

宮田:瀬木先生は、日本を始め世界中の作家さんとお付き合いなさって、先生自身も数多くの文章を書かれたり、インタビューをされたりしていると思うのですけれども、瀬木先生自身がこうやってインタビューされることは今までにありましたか。

瀬木:ありますよ。それはだって、インタヴューというか、新聞や雑誌とかテレビとかメディアからの取材もあるし。それは専門の美術史ということになりますけど。そのようなことはしてきております。まとめてということはあまりないけれど。

宮田:今日は作家さんにインタヴューする時のように、瀬木先生にもいろいろとお聞かせいただきたいと思います。それでまずは、先生の生い立ちをお聞かせ願いたいと思いまして。これは、あまり書かれていることがないじゃないですか。

瀬木:そういうわけでもないけれども。あんまり、歴史に記録するに値しないという。

足立: いやいや。東京の中でもどこでお生まれになったか、ということでもやはり結構性格が変わってくると思うのですが。

瀬木:私は東京の銀座で生まれたんですよ。気がついた時にはもう山の手、雑司ヶ谷にいました。だから、そこで育ちました。終戦直後のしばらく、大学に入るまでおりました。その後、また転々とするのですけれど。私の家は料理屋だったのですよ。ちっぽけな料理屋ですよ。「銀座の料理屋」なんて言うと皆すごいイメージを抱くけれど、そんなことはないですよ。一膳飯屋なんていくらでもあったわけですから。とはいえ、銀座のね、今の服部和光ですとか、資生堂があったりね。モダンな、洒落た街だったけれども。しかし、東京の中心は銀座じゃないですよ。日本橋です。なので銀座は、いわば「サブ中心」ですかね。「サブ・センター」みたいなもの。非常にモダンな、洋風化した、そういうような街でした。それはまぁ、ちょっと大きくなってからなのですけれど。要は銀座の店は皆すぐになくなるのですよ。だって戦争になるでしょ。そうすると食べ物屋はやっていけないんですよ。認可されないと。軍や何かに関係ないと。もう営業出来ないのですよ。だからおのずからやめてしまって。

宮田:もう戦前で。

瀬木:もちろん。気がついた頃はもう、やめてました。

宮田:先生は1931年生まれですよね。

瀬木:そうです。ちょうど満州事変が起きて。その31年というのは、お分かりのように、世界大恐慌が起こって。それから、日本はその前の昭和2年、ですから1927年に日本の金融恐慌が起きた。

足立:そうですね。

瀬木:これで大きな企業がみんな潰れていくのですよ。すごい状況だった。そこで今度は世界的な大恐慌が覆いかぶさってきて。だからね、いちばん初めに、子供の時に覚えた歌があって、それは小学校へあがる前から耳についた歌がある。OLやその世代の人たちが飲むとよく歌っていたのは、(メロディをつけて歌う)「おれは河原の枯れすすき……」。貧乏臭いような。それから、ちょっとモダン調ではありますよ。(メロディをつけて歌う)「まぼろしの影を慕いて……」。藤山一郎ですよ。もう貧乏な、暗い歌ばかりでしたね。貧乏臭い。そういう中で成長してきました。でもそれなりに国内は平和でしたね。結局ね、今から考えてみると、満州事変によって日本は国内の不景気をなんとか乗り越えてきたというような感じがします。そして、昭和12年の日中事変ですね。それで経済が完全に立ち直り、逆に発展していくのですね。満洲から中国にかけて大きく経済圏が広がっていった。

足立:ご両親が美術に関心があったとか。

瀬木:父は一介の商人のくせにね、自分自身は書に興味を持っていて、よく字を書いていましたよ。それからもう一つは骨董趣味がありましてね。よく自転車の後ろに乗せられて、近所の骨董屋歩きに連れていかれました。それで、家にもちっぽけな、書だの軸だのがありました。

宮田:その料理屋というのは、和食ですか。

瀬木:料理屋というものではないですよ。一膳飯屋みたいなものですよ。昔の食堂みたいなものです。ただね、私の一族というのは、みんな飲食店なんですよ。私の親父のお姉さんが洋食なのですよ。それから親父の弟というのが、日本食というか、魚を主とした仕事をしていました。それからまた、親父の弟の甥というのが、中華料理で。自分でやったわけではなく、そこに勤めて支配人みたいなことをやっていて。洋食の方は、神田のYMCAに入っているレストランです。今はもうなくなりましたけれど。子供のころによく行きましたよ。それから新宿へ行くと中華料理があったでしょ。私のいとこがやっている。だから中華料理も食べられたし。

宮田:では、お父様のお父様もやはりそういった関係で。

瀬木:違います。それは、みんな田舎から出てきています。三代なんていうものは、なかなかいないものですよ。

宮田:どちらから。

瀬木:新潟です。

宮田:それでおじい様は何を。

瀬木:農業ですよ。農業。

宮田:なぜこちらに出てこられたのですか。

瀬木:いや祖父は出てきていないです。兄弟はみんな出てきてしまった。きっと農業が嫌でね。そう思います。

宮田:それで、出てきた結果、偶然仕事を選んだら飲食だったと。

瀬木:そうです。ただ我が家は、よくいわれるように、「平家の落ち武者」であると。それで、代々儒者だと。侍じゃなくて、学問の方面、要するに儒者。だから、幕藩体制がなくなれば、学問が軸になるのですよ。要するに。「半農半学」という。そういう家だったようです。

足立:瀬木先生が大学に入られたというのは、ご両親の勉強好きみたいなものがあったのでしょうか。

瀬木:一部勉強好きではあった。そういった意味で。そのような家というのもあったけれど、あともうひとつは、周りがよかったですね、近所が。やはりね、雑司ヶ谷ってところは、あの当時の文化人と高級官僚、それから大商社に勤めている人が住んでいて。

足立:すごい時代ですね。

瀬木:住宅地としては一等地でしたから。毎日富士山が見えるのだから。下を見下ろすと新宿の街が見えて。それで、百貨店があの頃、伊勢丹ができて三越ができて、まあアドバルーンがいっぱいあがってね。だからあの頃の流行歌に(メロディをつけて歌う)「東京の空には……」。そういうモダニズムの、銀座から新宿へモダニズムが広まっていった歴史、そういうニョコニョコとビルが出て。それだから割に知的な人たちが住んでたからね。どこの家に行っても絵画的なものとか、あるいは本もありました。昔の人はみんな本を読みますよ。だからそういった本で、私は隣の家とか近所の家とか(指をさして)こっちからいうと右隣の家には、なんかそりゃもう四書五経みたいなね、昔の漢文の本みたいなものがあったし、(指をさして)左隣の家に行くと、そこの肺病で死んじゃったちょっと上の息子がね、これは文学青年なので、文学全集が揃ってて、円本全集ですよ。ああいうもので私は漱石、芥川、他にもいろいろ読みましたね。だから図書館まで行く必要がなかった。それから本屋はいっぱいあった。早稲田もそう。坂の下でしょ。早稲田の学生がいっぱい下宿していた。それから日本女子大もすぐ隣にあったでしょ。だからもうね、小さいけどいい本屋がいっぱいありました。詩集、歌集、ああいうものがね、(両腕を広げて)こんなに置いてある。素敵なクォーターでしたね。

宮田:では普通の中学校、小学校に通われたのですか。

瀬木:もちろんそうですよ。それから親父はもう、私が10歳の時に亡くなりましたから。

宮田:そうなんですか。

瀬木:ええ。結局だから、お袋とお姉さんだけですから。そりゃもう、戦争が終わって、大学へ入る時は自活ですよ、一種の。自分でやってきました。そういう学生生活でした。まあ普通でした。

宮田:じゃあお父さんは戦争に行かれて(亡くなった)。

瀬木:そういうことですね。

足立:お姉さんがいらっしゃるとおっしゃったのですが、お姉さんは?

瀬木:まあ平凡に結婚して、子育てをして。雑司ヶ谷というね、素敵なクォーターで生活していたからね。文化人を早くから知っていまいた。
足立:例えば。

瀬木:例えば菊池寛。文藝春秋社の。今でも覚えている。菊池寛がね、立派なシェパードを二頭連れて毎朝散歩するんですよ。菊池寛自体は、そういっちゃ悪いけど、チンがくしゃみしたような(笑)。これがあの菊池寛か、といって。近所ではね、変な不倫小説ばっかり書いているって評判だった人ですよ。

宮田:今はもうすごい作家さんですけど。

瀬木:それからね、そのすぐそばには、窪田空穂という大歌人がいました。それは斎藤茂吉と並ぶ昭和前期の大歌人ですよ。それから詩人だがね、白鳥省吾がいたな。昭和モダニズムの先駆者ですよ。教科書に白鳥省吾の詩が載っていたのを非常によく覚えている。「東京駅」という。(メロディをつけて歌う)「東京という呼び声の なんと明るく響く……」っていうあれなんだな。それからね、詩人でいうと大木惇夫がいたな。

宮田:大木惇夫。

瀬木:これはね、北原白秋門下の抒情詩人でしてね。ちょうどその家の前にいた子と、私は小学校が一緒だったのかな。そいつの家に行くと、大木惇夫という人の顔を見ることもありました。この人は戦争中にね、戦争詩人に躍り出るのですよ。『海原にありて歌へる』っていう詩集です。毎朝ラジオでね、この人の朗読を聞く。ただ、子供の時だから、そういう人だなって思ったけれども。戦後、渋谷の飲み屋で会った時に、こんなヤロウかって思った。もうひどい酔っぱらいのからみ屋でしたよ。ふふふ。今でも思い出します。

足立:瀬木先生は戦争体験が子供の頃ですから、なにか印象的なことは。

瀬木:そりゃもう犠牲者ですよ。戦場に行った人も行かなかった人もね、犠牲者なんだ。私は中学の2年生の終わりかな、あるいは3年生の終わりに勤労動員でしょ。

宮田:やはり工場で?

瀬木:もちろん軍需工場で。いやもう、ひどく働かされていたね。爆撃から何から全部。私はあれを覚えてますよ。昭和19年の学徒動員のときの神宮外苑球場。あそこで東条英機自身が大演説をして、「君たちは国の犠牲になれ」って言うのを見てました。それはね、特攻隊の壮行会ですよ。有名だよ。テレビで今でも出ますよ。

足立:そうですね。

瀬木:近所の中学生と小学生でしょうね、その頃動員された生徒が全員あそこを埋めたのですから。その中に私がいるんです。テレビに映る度にね、拡大すると私が分かるかなって。座っていた位置も覚えているから。それでね、あれはもう強大な感じだね。もうね。雨が降ってね。もう本当に凍えるくらいに寒い。「大雨」って書いてあるのは、あれは誇張ですよ。雨は小雨です。ただ風が強くてね。それでガタガタでしたよ。東条英機の演説はね、マイクがあの頃は悪いから、何言っているかわからないから、要するに「お前ら犠牲になれ」っていう(笑)。そういうことだったらしいから、もう終わった時にはガタガタでね。それでどうにか場外へ出たらね、机が置いてあって、雨の中でね。こういう机みたいなものが置いてある。それで「続いておまえら志願しろ」。「署名しろ」って。後ろに先生がいて押すんですよ。もう震えている私はね、手がきかない。それでもうしょうがない順番で、何か書いてあるんですよね。いずれにせよ雨が降っていたから、消えちゃったんだろうと思うのです、幸いなことに。あれ、どこに行っちゃったのかなっていう。

宮田:やっぱり書くということが重要だったのですね。

瀬木:そうそう、証明記録。どうしても学校なんかもう授業ありませんから。もう朝早く起きて、目白の駅から王子ですよ。「造兵廠」っていうのは、お札を作るところとは違いますよ。兵を造ると書いて造兵廠ですから。日本で一番大きい軍需工場、それが板橋から王子まであった。中にちゃんと線路みたいなものがあってね、そこへトロッコみたいな小型の輸送車が走っていて。今では平坦地になっているのかな。夜中の空襲の対象は、始めはそういう軍事施設でしょ。一晩で十何万人死んで……。それはけしからん。原爆で十何万人死んだかもしれないけれども、同じくらいの人間が、一夜ですよ。一晩だけで何十万人って死んでるわけですよ。そういう状況下で、大体みんな疎開したんですよ。学校単位で。ただまぁ、行きたくない奴は行かなかった。私は疎開に行けないんですよ。というのは、母親と姉さんが女だから、疎開しちゃったでしょ。でも家は誰もいなくなるわけにはいかないから。

宮田:家を空けられない。

瀬木:そう。それと私は行きたくなかったんですよ、田舎っていうのは。だからまぁ仕様がなく東京にいようって。結構そういうのがあった。ただね、授業はないけど工場で働かされたよね。まぁ昼休みとかそういうのはあるんで、その時間に本を読んでました。大体何にも娯楽がないのだから。文学書、教養書、たくさん読みましたね、その中で。

足立:一番印象に残っている本は。

瀬木:だからさっき言ったような文学全集的なものですかね。それからまぁ、少しは外国文学全集の片割れみたいなものがあったから。主に詩ですよね。詩は随分読みましたね。世界文学全集の中に詩集があった。あるいは世界名詩撰みたいな。そういう持ち運びのできるような。詩を読むのが一番良かったですね。短いから。トルストイとか工場で読んでいられませんから。詩それから短歌、俳句の類ね。そういうものは電車の中でも読めたから。もう万葉集、古今和歌集なんてもうずいぶん読みましたね。俳句にいたっちゃもう何度も読みましたね。だって30分電車に乗ってりゃあね。

足立:ご自身の詩作というのはありましたか。

瀬木:もう始めてました。

足立:同人誌とかそういったものはあったのですか。

瀬木:あったね。そりゃ少しはある。少数だったけどね。そういうのに書きだしたのは戦争が終わってからですね。大学へ入った頃からです。

足立:大学へ入ったのは戦争が終わった直後ですか。

瀬木:ええ、1947年です。そして、大学に入るとまもなく、ある程度運が良くて、いろいろ友達との接触が生まれました。その頃はもう、雑司ヶ谷の私の家はもう空襲で焼けちゃっていました。だからもう転々と知っている人を頼って、転がり込んで、それでまた新しい友達ができて。そんなことで、ある日、私が書いている詩を持って行って見せたらどうかと友達に言われ、友達に連れていかれたんですよ。そこに野間宏がいた。野間宏が大阪から東京へ出てきて、そして新進作家として『暗い絵』という本を1947年に出していた。それを出版していたのが、真善美社です。その真善美社っていうのは中野正剛の息子二人が経営していた。それを実質的に推進していたのが花田清輝です。それで野間宏のところに行って、詩を見てもらって。そしてある種の激励を受けたときがあるんですよ。その日に野間宏がね、「ちょうど真善美社へ行くから、一緒に来い」と言われましてね。それで僕も都電を乗り継いで赤坂溜池に行くんですよね。そこに真善美社があって、それがかつての中野正剛の政治活動や出版活動の本拠地で、東方会っていう団体の事務所でもあった。

足立:瀬木先生が中央大を選ばれたのには、何か理由があるのですか。

瀬木:あのね、私の家は商人でしたから。でも中学の終わりのころにはもう、私は、何になるかというのは明確ではなかったけれども、文言を書く人間にはなっているだろうと、大体そう思っていましたね。サラリーマンとかそういったものではないです。どういう分野を選ぶかというのはともかくとして、私は物を書く人間になると。まぁ先祖が儒者なんて言われたし、そういう線もあったかもしれないけれども。ともかく学問的なものをやる人間になるという自覚が、戦争が終わった時にはもうかなりありましたね。その時に、自活していかなくてはならないでしょ。だから月謝が安い学校を考えていた。中央(大学)っていうのは、戦後では一番月謝が安かったですね、ともかく。それから、私はもう一つ、周りに文学青年みたいなのばっかりがいたでしょ。やっぱり文学青年というのが好きじゃなかったんですよ。私はどっちかといえば思想青年だったかもしれないですね。早くから詩は読んでいたし、書いていたけれど、私は小説家になるという気持ちは全くなかったですよ。私はだからね、どっちかと言えば思想青年みたいなものでした。中央大学というのは文学部なんてないですから、法・経・商しかない。それで、あそこで一番難しくて良いのは法学部だった。東大と拮抗しているという。司法試験とかには中央のほうが有利だった。だから、どうせ入るんだったら一番難しいところにと思って受験勉強したら受かっちゃったんだ(笑)。

足立:司法試験は意識していたのですか。

瀬木:いや、だから私は弁護士なんて目指してなくて。それよりは思想というものですよ。

宮田:漠然と受けたら受かっちゃったんですね。

瀬木:うん。経済学部だとか商学部とかでサラリーマンになる気持ちはなかったですね。法・経・商の中だったら法しかないのですよ。法学部っていうのは間口が広いんですよ。法律っていうのはその一部にしかすぎない。法学というのは、天下国家を扱うものですから。ちょうどあの頃ね、終戦直後ですから、憲法が改正されて。「国家とは何か」とか「主権とは何か」とか、そういうことが盛んに論じられていましたよ。私はやっぱり、「国家」というものにいじめられてきたから。

足立:そうですね。

瀬木:絶対に私はね、「国家」に殺されたくない、という気持ちを持っていました。「国家」っていうものは一体何だろうというのが、大きなテーマでしたね。だからおのずから思想の世界というものに目が向くのです。それが大きな動機でしょう。今でいう社会学とか、心理学とかそういう細かい科はなかったんですよ。文か、法・経・商なんですよ。あとは理工でしょ。当時はこれしか学部はないんですから。中央大に文があったとしても私は入らなかった。さっきから言うように、社会学みたいなものに漠然と関心があった。僕は実際そのとおり、来ているわけだから。芸術社会学みたいなものにね。

宮田:全然美術関係に行こうとは思ってなかったのですね。

瀬木:文学に行く気がない、という意味ですよ。美術史とかはなかった。行く気持ちは全然なかった。もちろんあの大学にはそういうのはなかったけれど、国家とは何か、世間とは何か、民衆とは何か、そういうのが大きな関心でしたから。

足立:大学の授業とかで印象に残っているものは何かありますか。

瀬木:ところがあなた、想像できないかもしれないけれどね、殆どの人間が仕事をしているのですよ。稼がなきゃいけない。生活しなきゃいけない。多少イキがよくてもいろいろな問題があった。お金のない、すごく危惧的な状況ですよね。みんな働いていたんです。それでね、学校が3分の1くらい休校だったんですよ。先生もアルバイトっていうか、学校の給料じゃ食えないから。だから年中、交通事故があり、停電があり、電車が動かない、休校だらけでしたね。終戦直後の世の中だからね、もっけの幸いなんですよ。先生によっては出席をとらない人がいてね、3分の1出ればなんとか大目にみてくれた。だから、みんな働いてましたよ。アルバイトなんていう言葉はもうちょっとしてからできた言葉じゃないですか。ドイツ語のアールバイテン。あの頃はまだ、ドイツ語の名残があったからね。でも当然、圧倒的に語学のコースでは英語が半分以上。そんなもんかな。フランス語もあって、ドイツ語が一番少なかった。

足立:外国語というのは、大学から、それとも中学からですか。

瀬木:大学ではドイツ語をとりました。でも英語は実は子どもの時からできていた。というのは、あの雑司ヶ谷というのはね、外国人もたくさんいてね、外国の大使館、公使館があるのね。それで教会があって、アメリカ人やら外国人の宣教師やね、牧師さんがいたんですよ。だからもう、子供の時から教会へ行ってた。幼稚なりに英語に親しんでいた。戦争が終わって大学に入る前に、もう英語の勉強を自分なりにちゃんとやりましたから。だからもう大学で英語のコースをとる気持ちはありませんでした。

足立:教会に通われていたとうのは、洗礼を受けていたというわけではないのですか。

瀬木:いや、受けたいという気持ちもあったけれども、ついに受けなかった。でも、キリスト教に入り浸ってたので、随分その後、西洋文化史を勉強するときに役に立ちましたね。

足立:まさにベーシックのベーシックですよね。

瀬木:ええ。旧約の世界なんてやろうと思ったら難しくて仕方ないですね。でも新約に関しては分かります。

宮田:まさに、本当の教養人ですよね。

瀬木:いやいや環境のおかげですよ。周りに外国人もいたし、それから、家の店がなくなっても時々銀座へ一人で行ったりしたし。それから昭和10年代の新宿はもう当時モダニズムの一番のフロンティアでしょ。その新宿には歩いてだって行けたんだから。だから新宿に伊勢丹ができたあの当時をよく覚えていますよ。エレベーターに降りたり乗ったりして子供たちが遊んでいた。それから銀座に行けば知り合いがいたし。あの頃の銀座はよくわかりますよ。銀座と新宿は一番よくわかる。覚えています。

足立:子供心に戦争というものは、変なものだと思っていましたか。

瀬木:あの紀元二千六百年というのが、昭和15年なんですよね。その前の前の年にね、国家総動員法というのができて、そして昭和15年に大政翼賛会というのができて、そして軍国主義化というのが急速に進むのですよ。もちろんその前からあったけどね。それでも、モダンでしたね、それはもう。東京の先端的な変化っていうのは、日本なりに、大正から始まったものは最初から成熟してましたね。たとえば、私が読んだ世界文学全集とかそういったものは、欧米の文学はかなり訳されてました。それもかなりの範囲に広がっていましたね。しかし、昭和15年というのが一つの転回点でしたね。あれで世の中が圧力に変わっていきました。だっておかしいでしょ。野球をやるのにね、「ベースボール」と言わないでもちろん「野球」と言ってましたけど、「ストライク」って言っちゃいけないんだから。「真ん中」って言うんだよ。「はずれ」っていうのが「ボール」。そんなところまでね。

宮田:そういうのがいつもあった。

瀬木:ありえないよ。

足立:英語を勉強していた子供なだけに、英語を強制的に排斥していくというのが、気持ち悪かったのですね。

瀬木:ええ。

宮田:その当時、お母さんはどういう風になさっていたのですか。庶民なりにご理解があったとか。

瀬木:いやいや、そんなもの何もありませんよ。親父だけはちょっと変わっていたかな。それは子供なりに思っていました。

足立:大学に行っていた時に関して、ご著書の『日本の前衛1945-1999』(生活の友社、2000年)の方では、アーニー・パイル劇場(注:Ernie Pyle Theatre、第二次大戦後GHQが東京宝塚劇場を接収した際につけられた名称)で働いていらっしゃったと。

瀬木:そうなんです。ちょうどその時なんですよ。大学に入った時でしょ。だから自活しなきゃいけないでしょ。色々やったけどね、もうろくな収入にならないのですよ。それで、英語はまぁそれなりにできたから、そっちの仕事をしたほうがいいと。それで友達に良いやつがいて、進駐軍のところに連れてってくれたんですよ。そしたらちょうど年配の人がいたとこなんですよね。それで私を見て、まぁ若いでしょ。役に立つかどうか分からなかったんだろうけど、なんか好意を示してくれてね。「外務省に行ってとりあえず試験を受けてくれ」って言われたんですよ。それで一応行きましたらね、あっけないんですよ。年配のアメリカに行った経験のある人が英語で話しかけてくるから、すぐ英語で答えたんですよ。5、6分したら「もう君いいよ」って。そうそう、あの時の職種は通訳じゃないんです。翻訳者だったんですよ。文章試験もされたかしらないけど、覚えていないね。簡単な日本語訳みたいなものがあったと思うけども。受け答えしたら、「日本人なのになんで話せるの」って言われてね。へぇって思ってね。そんなわけでうまくいきましてね。それはね、あそこは劇場ですから、単なる翻訳じゃないんですよ。文民軍の一部なんですよ。これは良い人脈に触れましたね。アーニー・パイル劇場といえば伊藤道郎です。その弟は舞台装置の伊藤熹朔です。その弟が千田是也で俳優もやってました。それから、あの劇場はアメリカ人のためのものだから、今でいうミュージカル、音楽劇的なものをやったのですよ。それで伊藤道郎は唯一のネイティヴの経験者で創作ができる人だった。要するに映画の台本があるでしょ。それを日本語に翻訳するような仕事はいらないのですよ、お客さんがアメリカ人だから。しかし技術屋たち、要するに照明の人とか屋上の人は英語が分からない。私が訳した台本を見て、ここは暗転するだとかここはどうだとか言ってました。こういうストーリーでこういくからこうだとか言ってね。それがわかるための翻訳者でした。ものすごく日本人離れしたコンテンツでしたけど。それから、音楽が紙恭輔っていう、日本ジャズのいわゆる先駆者です。アーニー・パイル劇場オーケストラっていうのは、この紙恭輔が指揮者だった。この人からも仕事が来るわけ。「これを日本語に訳せ」とか。

足立:ジャズの訳詩とかもやったのですか。

瀬木:やりました。ちょっと訳しましたけど、どうなったかあとは分からない。アメリカ軍がいましたからね。

足立:瀬木先生の訳したジャズというのは

瀬木:あると思いますね。今覚えているのはね、(メロディをつけて歌う)「South of the boarder, West of the sun…」っていう有名な歌がありますよ。ジャズの素晴らしい歌じゃないですか。私が訳したのは、こんなの今の日本語では歌えないって言われてね。あの時の歌詞は、本当は歌えるように訳せなきゃいけなかったんだけど、できませんでした。あの時ちゃんと訳していれば、著作権半分入ってきたかなぁ。

足立:訳詩家としてのお名前は。

瀬木:ないですよ、全く。そんなことで、あのアーニー・パイル劇場っていうのはそりゃよかったなぁ。新着映画もどんどん来るでしょ。ある時、日本人の社員と友達がね、どうしても見たいのがあるから、こっそり見せてくれないかって頼んで来た。というのは、日本人はその劇場に入っちゃいけないし、正面からだといけないから、私は照明室から入って映画を見せたのだけど、それが植草甚一だった。1947、48年のころでしょ。その頃はまた、本も良かったですよ。外国の本や雑誌ね。これがアメリカから一番早く到着するのが、アーニー・パイル劇場のすぐ右隣、今の日銀本店になっているところにあった、CIE図書館です(注:CIEはCivil Information and Education Sectionの略)。民間情報局ですよ、GHQの。そこに大きなライブラリーがあって、それは日本人も見ていいの。すぐ隣ですから、僕は時間があるとよくそこへ行きましたよ。そこへ行くと、映画評論家の「さよなら、さよなら」のオジサン(注:淀川長治)とか、ああいう人が、みんな映画雑誌がくるとそれをゆっくりと見て。それであの人たちはね、映画を見ないのに、アメリカ映画の紹介やなんかを書いていたんですよ。そういう時代でね。CIE図書館で私はね、美術書をいっぱい見た。特にMoMA、(ニューヨーク)近代美術館が監修して作った現代アートの有名なシリーズがあって、その中には色々なものがありましてね。モホリ=ナギ、モンドリアン、いろんなものがあって。
 モンドリアンってのはアメリカの抽象芸術家じゃないですか。『世紀群』(注:1950年9月〜11月までの間に「世紀の会」が刊行した小冊子。安部工房、瀬木らが参加)をやっているときに、モンドリアンの論文を訳したのが一つあったんですよ。これを見て私は、抽象とはこういう考え方かということで。「モンドリアンの芸術論」と私は題したんだけれど、安部公房が「これは駄目だ」って言った。今はアメリカ流行りだから、アメリカで抽象をやってるオランダ人なんだから(って言って)。確かにアメリカに移住して、あそこで死んだけど、アメリカ人じゃないんだし、アメリカのアートじゃないんだから(と僕は思ったけど)。でも安部が強引に、「アメリカの抽象芸術」という題にして、「そうすると売れる」なんて言っていたけれど。結局出なかったけどね。だって全然金儲けにならないんだもの。その中に《ゲルニカ》の画集が一つあったの。これが《ゲルニカ》の最初の画集ですよ。ホアン・ラレア(Juan Larrea)というね、メキシコの評論家で、ピカソの友達で。この人がピカソから頼まれて。今言ったように、《ゲルニカ》の最初の立派な画集ですよ。今だとなかなか手に入らない《ゲルニカ》の画集があった。これを見て初めて《ゲルニカ》を知ったんですよ。もちろんね、『みづゑ』とか『アトリエ』では《ゲルニカ》は紹介されているんですよ。ドラ・マールが撮った制作風景の写真があそこに全部載っていた。あれに感動してね。そしてもちろんここにはピカソ、マチス、もういろんな画集もあって。

足立:西洋美術の本格的な勉強というのは、そのCIEの図書館で?

瀬木:そうです。『みづゑ』、『アトリエ』以外は。そこでたっぷり数年間。

宮田:『みづゑ』とか『アトリエ』というのは、ある意味で当たり前でしたか。

瀬木:そう、ある意味で複写ですから。それが半年や一年遅れて来た。『カイエ・ダール』とかの複写ですよ。それでね、世界の美術っていうのを、あの時期に私はかなり接することができたのですよ。それでね、こんな話ばっかりになっていいのかな。アーニー・パイル劇場にギャラリーがあったんですよ。そのギャラリーを運営していたのが普門暁だったのですが、日本の未来派美術協会の設立者ですよ。あの普門暁が落ちぶれてね、食うことができなくて。そんなとこと言ったら悪いけれども、アメリカ芸術の何とかギャラリーのマネージャーをしてたんですよ。それで、あの人は食えないもんだから、浴衣のデザインみたいなこともやってたんですよ。それを実際着たりなんかして。

足立:その時に普門暁のお手伝いをされたんですか。

瀬木:いや、私はしてませんよ。私はちょっと見ていただけ。普門さんの隣のすぐにいましたから。覗いて、武者震いをしたり。昔は普門暁が何をやってたか、ということは、後になって調べたんですけどね。

足立:アーニー・パイル劇場っていうと、まさにアメリカ文化の最前線じゃないですか。一方で、世紀の会とか、まさにその当時の安部公房さんとかは、非常に日本共産党に近いところにいたのですよね。つまり、アメリカとソ連の両方に接するところに先生はいて、分裂というのを感じたのですか。

瀬木:いや、そんなことはないですよ。時代そのものがあなた、共産党員の選挙のためにどれだけ代議士がいたかというと、社会党を含めるとね、社会党サブを含めたらすごい数ですよ、本当に。二大政党なんてできていたのだから。だから別になんでもない。そのくらい社会主義に対する期待があった時代ですよ。それから労働組合の強さ、メーデーの参加する人の膨大な人数とか、完全に二極化していましたね。今は、二大政党なんて言ったって(比べものにならない)。(当時は)社会党が跳躍するわけだ、二大政党として。すごい緊張感で。世界の方もそうでしょ。米ソが対決して、それから冷戦が続いて。

足立:そうですね。

瀬木:結局あれですよね、ソ連が自己崩壊していく。そして中国が台頭して、そこでまた対立が起きる。ていうのは、そういうのが日本の政治にもまた関わって、共産党の分裂が起こった。幼稚な、醜悪な分裂でしたけど。それから大学の先生は殆ど共産党みたいなものですから。その頃の京大なんか特にそうだった。

足立:瀬木先生ご自身は、共産党にかかわったことは全然なかったのですか。

瀬木:ないですよ。私は学生運動なんか全くしたことないです。政治運動は全くかかわりません。ただ文化問題で随分発言をして、ことごとく共産党とは摩擦でした。共産党の学生に会うんですよ。原稿を書くときに。例えば美術の統一戦線、国民戦線について書きましたがボツでした。返してくれませんでした。抗議をさんざんしたけどね、原稿さえ返してくれませんでした。

足立:困りますね。コピーのない時代に。

瀬木:ええ。共産党とはうまくいきませんでした。ただ周りには共産党員がたくさんいたから。みんな私の周りにいた奴は、入党したのはいいけれど、みんな分裂の時にやっぱり放り出された、除名された連中ばかりですね。

足立:最初から共産党、共産主義に対する違和感というのはお持ちだったのですか。

瀬木:いや。そうじゃなくて私は、社会主義というものを資本主義に代わる唯一の政治システムだと思っていたし、今でも思っているかもしれません。ただ、ソ連の崩壊とか、社会主義の未来そのものを駄目にしたのはあの国自身だと思いますね。ただ反対ではないですよ。でも原理として言えば、社会主義そのものの未来性というのはまだあるのかと思うけど、これは難しいですね。東欧諸国もあれだけいろんな人が出てきて、随分改革もやったけど、結局どこでも実現していない。それは社会主義の運用の問題だと思いますね。

足立:周りにたくさん入党している方がいた中で瀬木先生が入党しなかったというのは、あえて入党しなかったのですか。いや、誘われなかったのか、分からないですけれども。

瀬木:いや誘われましたよ。誘われたけど、あの時は戦争中と同じですよ。いや、小便しようっていうときに隣でね、周りであなた、誘ってきて。勅使河原宏や桂川寛など、世紀の会の親友で、一緒に寝たり起きたり、寝食を共にしていた連中、ああいうのがみんな共産党に入っていったから、なんか悪いのかなぁって思ったことがあって。でも、やっぱりみんなダメになりましたね。今から考えるとあまり明確ではない。やっぱりスターリニズムっていうのは私には馴染まなかった。特にね、埴谷雄高の書いた本に啓発されたんですよ。埴谷さんはスターリン批判を早くからやってましたから。埴谷さんともう一つサルトルです。サルトルの批判。この二つは私に早くから入ってましたね。

宮田:それは雑司ヶ谷にあった、自由な感覚なんでしょうか。

瀬木:それはあるかもしれないけど、よろめきながら来たんです。それはさっき言ったように、国家とは何か、国民とは何かと考えたときに、あの時代の思想的状況というのは、簡単に要約するとヘーゲルかマルクスか、あるいはマルクスかニーチェか、それか新しい人ならサルトルだったんですよ。あるいはルカーチかサルトルかっていうね。そういう実存主義の系列っていうのに私は触れていたんですよね。それは何故かというと、安部公房は医者ではなかったですけど、精神病理学をやっていたんですよね。彼はヤスパースの信奉者だったんです。それで彼に薦められて、ヤスパースを読んで実存哲学というのを知った。この実存という考え方、あれはもうヘーゲルにも、あるいはニーチェを媒体にしてね、私はヤスパースを読んだら、当然ハイデガーですね。それでその時サルトルという人が出てきたんですよ。フレッシュでしたね。

足立:それで国家から人間へと。

瀬木:そうそう。それと並行して私の社会学に必要だったのは、マックス・ウェーバーの資本主義論ですね。今でも私の中で、根付いている。あの頃はマルクスかウェーバーっていうのは対立してたのですよ。

足立:話は変わりますけど、瀬木先生の一番初めの美術批評で評判になったのは、1953年8月の『美術批評』に掲載された「絵画における人間の問題」でしたね。これも国家から人間へと関心が深まったことが関係しているのですか。

瀬木:あれはね、結核が治って神奈川県の山から下りてきて、友達を訪ねたんですよ。その中に河野葉子という人がいたんですよ。岡本太郎の秘書になった平野敏子と東京女子大学の同級生で。河野葉子は美術出版社に勤めていて、『美術手帖』の編集をやっていたんですよ。ちょうど『美術批評』が出ていたところで。彼女を訪ねたんですよ。私は物書きしかできなかったし、生きるためにしょうがなかった。「何とかしてくれよ」と言ってね(笑)。葉子さんに頼んだんですよ。そしたら、『美術批評』編集長の西巻輿三郎がすぐそこにいてさ。だから西巻とちょっとしゃべったのね。「ちょっと来なさい」とか言ってね。それで展覧会評をすぐ頼まれて、それでもう書くようになったんですよ。その時には美術についての知識は(すでにあった)。さっき言ったように終戦直後のCIE図書館ですけれども。それと、結核で2年寝たきりでね、割と直ぐに元気になったけれども、なかなか本を読めないのですよ。やっぱり疲労があるから。(だから)絵を見てたのですよ。それですぐ近くの通りに、絵画青年というか、随分知識がある人がいましてね。彼が私に多くの画集をどんどん貸してくれるのですよ。あれでおさらいができましたね。モンドリアンなんかその時にもう訳していたのです。それから、今言及された私の「絵画における人間の問題」は、展覧会評を書いているうちに、何か書きなさいって言われるから、長いものを30枚くらい書いたのですよ。ちょっとあれはね、時間も何もないから、考え方がちょっと浅くて熟してないと思いますけれど。それからもう一つ同時期に『近代文学』という雑誌に、もう一本、病室で書いた「リルケの世界」というものを送ったんです。これをね、佐々木基一が読んでくれて、そして載せてくれたのですよ。2回連続ですよ。私がベッドで書いた100枚くらいが世に出たのですよ。それを書き上げた頃に退院して出てきたのです。僕はそのとき発表するなんて考えていなかった。それでも河野葉子さんが『美術批評』、『美術手帖』にも書かせてくださって。「絵画における人間の問題」は、あれは未熟だったけど、幸い反響があったものだから、こちらも気を良くして。

宮田:結核というのは、大学を卒業してからですか。

瀬木:いや、途中です。

足立:何年くらい。

瀬木:2年です。51から53年です。

足立:療養の場所はどちらでしたか。

瀬木:秦野療養所。丹沢のふもとの方で。毎日窓から富士山が見えるんだ。子供の時は、家の前から富士山を見ていてあんなアイスクリームみたいな、つまんないような。もう退屈で、ああいうのは憂鬱でしたね。

宮田:中央大学は卒業なさったのですか。

瀬木:しなかったのですよ。結局ね、東京へ戻ってきたでしょ。それで復学しようと思ったら、今言ったようにね、もうあっという間に今度は新聞から来る依頼を書くのに忙しくなっちゃったのですよ。

宮田:じゃあ、中退したということですか。

瀬木:そうですよ。

宮田:いつの間にかという感じですか。

瀬木:そうなんですよ。本当は戻りたいとも思ったけど、じゃあもういいやって。もう船に乗っちゃったから良いでしょ。

足立:いつ中退したか、ということはもう全然分からないですよね。

瀬木:2年。2年の終わり。結局結核なのですよ、それは。それでもう勤めも駄目になるでしょ。でもまぁなんとか将来生きてたら、大学に戻ろうと思っていたからね。つなごうと思ったけどね。それでね、教務課長みたいな人のところへ行ったのですよね。そしたら、ああいう軍国主義みたいな奴がまだいてね。「精神薄弱だから、駄目だ」って言われて。そんなの絶対駄目だって。それともう一つね、「医者がこう言っているのですからお願いしますよ」って。戻れるようにしてもらえるように。そしたら、翌年から申請が始まるのです。私の次の年に。そうするとね、「君みたいな者が戻ってきても、どこへ入れていいか分からないから、学校としては困る」っていうのですよ。呆れるでしょ。たまらないよって。病気をそこまで言われて。嫌な思いがあってね。それで嫌気もさしてきたから…… 幸い皆さん好意的に受け取ってくれて、色々とそのまま続いてきたわけだけれども。苦しい思いでした。

足立:そうですか。じゃあ結核の51年くらいまで、アーニー・パイル劇場に勤めてらした。

瀬木:そうですね。51年。その始めですね。ちょうど世紀の会の解散とほぼ期を一にして。

足立:アルバイトは他にされていなかったのですか。

瀬木:してません。幸いある程度の給料はくれてたからね。食べて、お袋のほうにある程度の仕送りの方ができて。

足立:アーニー・パイルの仕事をしながら、無事に世紀の会の活動ができたのですか。

瀬木:そうそう。結構さぼれるのですよ。また恵まれたのが、朝鮮戦争が起こったでしょ。(僕は)文芸部だったのだけど、本来のレビューの仕事ができなくなった。それで劇場が映画館になった。だってGHQの兵隊がみんな朝鮮に行っちゃっていないのだから。それが戻ってくるとあそこで映画観ると。こんな広い、3000人も入るところがあなた、下の方でしょぼしょぼとやっているのです。することがないのですよ。だからさぼろうと思えば、いくらでもさぼれたしね。それに、要するに私は東宝から派遣された職員だったのですよ。何というのですか、今の派遣社員みたいな(笑)。だから、日劇、芸劇、日比谷映画にタダでどんどん行けた。顔パスで入れるからよく行きましたね。日本映画も見たけど、フランス映画も。岡本太郎がよく来たよ。「おう、入れてくれ」って。あれ何だっけなぁ。そう、ジャン・ルノアールの『国境を越えて』っていう反ナチス映画。(注:1937年の『大いなる幻影』のことか。第一次世界大戦時のドイツ捕虜収容所からフランス軍の将校が脱走を企てる物語。)

足立:岡本さんもよく来たのですか。

瀬木:来たよ。私がみるみると結核じみて痩せていくのを心配してくれたりしたね。本当に友達には恵まれたよね。好意的に接してくれて。

足立:結核から復帰後に、批評家として生活されたわけですけれども、暮らしは結構よかったのですか。

瀬木:いやいや(稿料は)少なくてねぇ。1枚何百円とかいうのだけれど、驚いたのは美術出版という会社は、今もけちんぼだけど、例えば3枚書けというでしょ、3枚オーバーしちゃったら、それは無視ですよ。ところが2枚半で終わるとね、原稿料が半分にされちゃうのですよ。びっくりしてね。まぁ細かい会社だったなぁ。芸術では多いですよ。今もそうでしょ。いや安かったですね。でもそのうちに、割に早く読売新聞が私を抜擢してくれたんだよ。それで読売の文化部に。文化欄、夕刊に週2回、展覧会評とか。その頃は展覧会が積極的にとり入れられたから。画廊がいろいろできて。村松画廊とか、タケミヤ画廊とか、そういったエリアで画廊歩きをしました。毎週2回、忙しかったですね、歩きながら絵を見て。そしてもう、大体3時ごろが締め切りなのですよ。そこにつっこむと夕刊にでるか、朝刊にでるか。それで建物が古かったから、輪転機が動き出すと、もうグラグラで。字が書けないのですよ。もうそんな貧乏時代ですよ。あの読売に書いたのが注目されて、それから毎日、朝日、いろんな人から注文が来て、なんとか食えるようになった。新聞のおかげですよ。

宮田:じゃあ雑誌よりも新聞の批評で。

瀬木:いや、だから合わせてですけれど。最低生活はできました。皆あの頃はね、人間が優しかったから。飲ませてくれる人や連れてってくれる人がいた。そういう貧しいけど、ゆとりがある。助かったですね。

足立:結核のあとに、秦野からおりてきて、そのときはどちらに。

瀬木:あの時は大森です。大森山王。さっき言ったように、目白の家が焼けてから、三カ所か四カ所、玄関先みたいな狭いところに生活していた時がありますよね。転々としていた頃は。今でいう池袋のアトリエ村、あの傍ですよ。そこで私はあのころから前衛美術会の山下菊二たちを知っていたのですよ。彼らの野外展示とかで、そういう時に知り合ったのですよ。大塚睦とかとも。

足立:そうだったのですか。

瀬木:それでね、世紀の会のとき、前衛美術会と合同研究会をやっているのですよ。あれはサルトルをめぐって、サルトルの共産党批判。それで彼らは皆共産党員だからね、サルトル批判をした。それで安部公房はあの時共産党批判をやってたのに、あっという間に共産党に入党しちゃったのね。あれ程の慎重な人間がね。なぜ急にあんなパラノイアみたいになったか、不可解でしたね。そして勅使河原宏が入って、桂川寛が入っていきました。

宮田:立ち入った話になるので、お答えいただかなくてもいいのですけど、大森山王の頃はじゃあお母様たちと一緒に。

瀬木:そう。今にして思えばね。お袋が洗濯してくれたりね。山王も良いところです。東京でもあそこは焼けなかったから。文化的なところで、徳富蘇峰の豪壮な家の裏側でしたよ。こんもりとした木が植わったいい家でしたね。そこへ転がりこんで。玄関の奥みたいなところに。

宮田:お姉さんというのは。

瀬木:もう結婚しちゃったからね。そして大森でまた恵まれたのはね、今でもあるけど、駅の近くにね、葡萄屋という、喫茶店のようなものがあったのですよ。今でもありますよ。夜になると、そこに大森族が集まるのですよ。大森はたくさんの文化人がいたのですよ。よく行ってましたね。その中でいろいろな人と知り合いました。特に松尾邦之助が葡萄屋のすぐ裏に住んでましてね。年中来てました。この人はほら、パリにずっと、戦争の近々までいて。何十年も。藤田嗣治やら薩摩治郎八やらを皆知っている人でしたよ。そして戦後、読売の嘱託員になって、それでフランス通信員をやってましたね。この人はいろいろなパリの新しい情報を伝えてくれました。あんな人がいたりして。それから、後になってわかったのだけれど、小説家の中村真一郎は、私の家のすぐ近いところに住んでいたのですね。

足立:交流は(ありましたか)。

瀬木:『近代文学』とかで書いたりしてたから、こっちは知ってたけど、あれはもう外国人だ。この人は何を考えているのか、何を書いているのかと思った。あの中村真一郎はね、佐々木内科という医院があったでしょ。そこの2階に、6畳に文学座の女優の新田瑛子と結婚して一緒に住んでいたのですよ。それで、隣の部屋は新劇女優の杉村春子。杉村春子もあんなところにいたのですよ。それからね、詩人の山本太郎はいつも隣にいたよ。太郎とすぐ知り合って、おまえそんなところにいたのかってことで、よく遊びに行って、それから葡萄屋もよく行き、彼とはよく飲み歩きましたよ。新宿から最後にタクシーに乗って帰ってね。飲み屋から金借りて(笑)。そしてまた馬込文化村というものがあったのですけど、あそこにもいろいろな文化人がいたのですよ。小説家の萩原葉子さんもそうかな。画家では仲田好江さんがいました。仲田好江さんの旦那さんっていうのは、仲田定之助さんっていうバウハウスの紹介者ですけど。大森に住んでいてよかったですね。仲田さんのところへ行って、あの人の蔵書でどれだけ勉強したことか。私は単行本としてはね、『表現主義』っていうのが一番早いと思うのですよ。みすず原色版美術ライブラリーの1冊です(1956年)。これは仲田さんの蔵書のおかげで書けました。

足立:仲田さんの蔵書は、ドイツ語の本ですか。

瀬木:もう全部。

足立:全部ですか。

瀬木:雑誌もね。バウハウスの叢書とか。仲田さんはドイツのあの頃のセセッションなんか知ってましたから。

足立: 評論家時代といいますか、50年代にフランスの美術雑誌に投稿されていたというのは。

瀬木:ああ、ずいぶん書きましたよ。

足立:それはどういったものですか。

瀬木:私は1957年にフランスへ行きましてね。ヨーロッパを見てきたのですよ。その時にいろいろな交友関係ができたわけです。その中であの頃の抽象芸術運動の中心となった雑誌は『シメーズ(Cimaise)』っていう雑誌ですよね。その雑誌が割合抽象芸術の派閥に近くて、中心となった。もう1つは『アール・ドージュルデュイ(Art d’Aujourd’hui)』ていうのがありましたね。あれは幾何学的抽象の一派だったのですけど。あの頃、フランスでアプストラクシオン・リリック(Abstraction lyrique)という芸術運動がありました。その中心が『シメーズ』という雑誌ですよ。

足立:フランス語もできたのですか。

瀬木:ええ、だからにわかにフランス語を覚えましたけれど、自分で勉強したのですよ。

足立:幼少から?

瀬木:いいえ、違います。これはもう大人になってから。

足立:なるほど。

瀬木:それで『シメーズ』の編集長をやったのがミシェル・ラゴン(Michel Ragon)ですよ。あそこにフランスの抽象芸術運動の、(ハンス・)アルプ(Hans Arp)から、(ピエール・)スーラージュ(Pierre Soulages)、(ジャン・)デュビュッフェ(Jean Dubuffet)、(ジャン・)フォートリエ(Jean Fautrier)、みんないた。ミシェル・ラゴンとも友達になったし、それからピエール・レスタニー(Pierre Restany)もいたし。みんなに頼まれて書くようになった。

足立:57年以降ですか。

瀬木:そうです。『シメーズ』は58年だったかな。いろんな人を書いたな。日本の前衛芸術運動で、単独では斎藤義重論も書いてますね。

足立:では、日本のものを紹介していくというスタンスで。

瀬木:もちろん。それからそうやって書いているうちにね、ドイツの『ダス・クンストヴェルク(Das Kunstwerk)』からも頼まれてね。それからもう一つは『ラール・デュ・デュジエム・シエークル(L’Art du XXe sie`cle)』に書いていた。20世紀の、豪華本の雑誌です。あれに紹介されてね、あんなところからね、ピカソ特集とか、ミロ特集とかで有名な。その発行者のサン・ラザール(Saint Lazare)がじっと見つめるからね、もうすくんじゃって。ところが少し話しているうちにね、書きなさいっていうから、それで書くようになって。最初はなんだったのかなぁ。日本の幻想について書いた覚えがある。これはヴィル・グローマン(注:Will Grohmann、ドイツの美術評論家)が推薦してくれたのですね。分かるでしょ? ヴィル・グローマン。彼といろいろな審査で一緒になってね。

足立:欧文のドイツ語とかフランス語とかで書いた文書っていうのは、どこかでチェックしたのですか。

瀬木:ドイツ語は自分で書いていない。

足立:フランス語はご自身で書いて。

瀬木:ええ。ドイツ語なんて自分で書けるものじゃない。あれは英語で書いたのを翻訳してくれた。

足立:欧文で書いたのは、まとめて本にしようとは思われなかったのですか。

瀬木:それはある時あったけどね、うまくいきませんでした。それはね、やっぱり文体の統一とかできないから。パリのアシェット(・リーヴル)(Hachtte Livre)とかすごい出版社があったんですけど。うまくいきませんでした。結局一通りフランス人ならフランス人の力を借りて、出たでしょ。文体って難しいですよ。

足立:そうですか。

瀬木:日本語の作家だったら、たとえば安部公房さんだったら、ドナルド・キーンさんとかああいう良い訳者がいてこそ海外に出るものですよ。文章は文学ですから。

足立:難しいものですね。

瀬木:難しい。

足立:その頃に瀬木先生による(日本美術の)紹介がまとまって出ていたら、海外で日本美術の紹介がもっと早く出ていたのではないかと思ったのですけれど。

瀬木:でもあれですよ。私の最初の斉藤義重なんかは、最初のものだと思いますけど。あとは北斎関係の本も共著であるのですよ。こうして話しているときりがないね。もうちょっと細かいこともあるし。

足立:いえ、今日全部聞けるとは思っていないので、また明日ということで。聞かせてください。