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瀬木慎一オーラル・ヒストリー 2009年8月6日

ルノアール巣鴨店にて
インタヴュアー:宮田徹也、足立元
書き起こし:足立元
公開日:2011年4月30日
 

宮田:今日は(改めて)瀬木先生の戦時期の体験からお話しをお願いします。

瀬木:私が生まれたのは、昭和6年(1931)です。こう言えば分かる通り、丁度満州事変の年です。そしてそれから、戦争の範囲が広がっていくわけですね。中国大陸へいって、さらにそこで片づかなくて、太平洋戦争まで、途中色々な段階があったにしても、ついに世界大戦になります。東南アジアのほうまで、日本が関わるわけです。これを15年戦争といいますが、まさしく私は15年戦争の発端から終わりまでを過ごしたわけです。終戦の時は中学3年生、15歳でした。ただし、幼年期のことは分かりません。私の家は飲食店で、東京の銀座で、そこで生まれたのです。私が育ったのは、山の手の目白台です。店はしばらくそこあったのですけれど、住まいは別のところにありました。昔の商店というのは狭いのですから、みんなそういうものです。私にかすかな記憶があるのは4歳か5歳くらいのときでしょうか、そのときはもう目白台でした。
 私の親父は太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)の直後に亡くなるのです。その頃になると、飲食店という商売はできなくなるのです。統制経済ですから。昭和12年に日中戦争が始まった直後に、国家総動員法が成立して、それとともに経済の直接統制を国家が行うという、一種の配給制度が施行されたのです。それで飲食店は、軍や何かに関係がないといけない。そんなことで店もやれなくなって、山の手で飲食の卸業をずっとやっていたのです。それも、どんどんジリ貧になり、父が亡くなり、それで遺されたのは母と姉と私です。それまでは、盛んな頃は、若い衆といって、雇い人が三人も四人もいて、忙しい繁盛した店だったのです。いつもだいたい二人くらいの若い衆がいました。
 一族は新潟の山の中で、明治以降は農業をしていました。元々は平家の落ち武者で、儒者だと(言われていました)。要するに寺小屋の先生です。農業をしながら商いをしていたのです。親父は商売人らしからぬ人で、骨董屋めぐりをしたり、ある程度の教養もあった。そういう家に生まれ育った。そしてある程度蓄積があったのでしょう。何とか戦争中は生きられたのです。それから戦争が始まって激化し、空襲で家も焼けて、そして私一人になって、ひどい苦労をしたのです。それはまた後の話にします。
 そして、麹町とか青山はまた別ですが、山の手の周辺の住宅地では、高輪、目黒、目白というのは、最高の住宅地で、金持ちが住んでいた。金持ちというのは、実業家、高級官僚、軍人、それだけではなくて、外国人もずいぶん住んでいた。大使館、公使館もあった。そして外国人が住んでいるということは、当然カトリック、プロテスタントのキリスト教会もあった。それで、目白台の下は早稲田です。環境としては、早稲田の森というほどですから、森だったのです。丘陵地で、鬱蒼と森林がありました。そして富士山が見えた。そういういい自然環境に恵まれていた。目白台というところの特色は、墓地があることです。それから、寺が多い。学校も多かったことも特色だった。目白台の駅から近いのは、自由学園と学習院です。それから雑司が谷の方に行くと、小石川のほうに、日本女子大学、独協中学がありました。それから、坂の下を見ると、早稲田です。ですから、非常に文教的でもあったのです。
 そんなことで、商人の家に生まれ育ちながら、私には学問とか文化とかへの知的関心が自然に芽生えました。墓地へ行けば、夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲など、有名な文人の墓があって、自然にそういう名前を刻みつけられます。書棚を見るとそれらの本がある。本屋も多かったです。早稲田は神田に次ぐ大古書店街です。近所にもかなり本を備えている家が多かったです。そのころ円本という、一冊一円で何十巻を売るもののブームでした。文学全集や戯曲全集も、もっと大きくなってからは世界思想体系とかも読みました。そういうところで、文学関係者もいろいろ住んでいました。朝、家の前をぞろぞろ女子大生が歩いていくのです。その中に、有名な先生が、学生と一緒になって歩いていく。自然に茅野蕭々とか茅野雅子そういう名前が入ってきます。茅野蕭々という人は、ゲーテの翻訳者でドイツ文学者で、その娘の雅子さんという人は、女流歌人でした。
 近所にも(文学者が)何人か住んでいましてね、一番有名だったのは菊池寛です。芥川(龍之介)の親友として一緒にデビューしたのですが、この人は書くものだけでなく、事業面でも天才的でして、文藝春秋社を立ち上げて成功して大金持ちになっていました。豪邸でした。初めの頃は墓地のそばの普通の家だったのですけれど、そこは弟に住まわせて、自分で別個に豪邸を建てて、有名でした。水槽に金魚や鯉を飼っているのが自慢で、見に行ったことがあります。朝、菊池寛が散歩しているのですけどね、文豪といいながら、肉体的には小さな庶民的な人でした。よく二匹のシェパードを連れて、犬に引っ張られるようにして歩いていました(笑)。犬のほうが立派だと、よく言っていたものです。そしてその傍に、歌人として最高の窪田空穂が住んでいました。詩人では白鳥省吾という当時のモダニズムの尖端を行っていた人も住んでいました。そのお兄さんが有名な外交官で、日独交渉をやった人です。それから、私の学友の家の傍に、大木惇夫という詩人が住んでいて、そのころは新進詩人だったけれども、北原白秋の門下の詩人が住んでいました。戦争になるとものすごく愛国心に満ちた戦争詩を書いていました。今でも覚えていますけど、『海原にありて歌え』という詩集がベストセラーになって、毎朝ラジオから朗読の声が聞こえてきた。そのときは見たことありませんが、戦後、渋谷の薄汚い飲み屋でこの人と会って、ぱっとしない人だったことを覚えています。
 それから、もっと池袋のほうにいくと江戸川乱歩が住んでいました。それから、三角寛がいました。当時、二寛(ニカン)と言われて、三角寛は有名で、山窩小説で、特色のあった人です。戦後、この人は、小説よりも映画関係で有名になりましたが、この当時は菊池寛と並ぶ人でした。それから、林芙美子も目白の反対側の落合に住んでいました。今は記念館か公園になっています。当時は知らなかったけれど佐伯祐三も住んでいました。パリから帰ってきたとき彼が描いていた鉄橋のある落合風景など、私には分かります。後で知って、一番私にとって意外だったのは、数軒離れたところで、立派な樹木の垣根をめぐらせて、中のみえない屋敷がありました。戦後になって知ったのですが、それが杉山寧の家でした。絵描きだというのは、近所の人たちも言っていましたよ。その頃は美校を出て出品をはじめたくらいのときでしょう。戦後、スタートして(彼が)躍り出たとき、杉山寧、聞いたことがある名前だなあと思ったら、数件離れたところにいた杉山さんでした(笑)。戦後になって知ったのです。並外れて立派な家でした。
 そんな環境で育ったわけですから、私も色んなことに好奇心を持ちまして、スポーツにも興味をもって、野球と相撲には夢中になりましたね。早慶戦なんかも自転車に乗って見に行きました。あの熱狂はすごかったですね。プロ野球にはちょっと見られない応援合戦でした。それから相撲は、双葉山を中心とする昭和10年代の全盛期です。これは親父に連れられていきました。親父は非常に寄席が好きで、映画は行かせてくれないのです。小説を読むと怒るのです。流行歌は親不孝者の音楽だといって、ラジオを聴いていると止められちゃうのです。それから朝は、当時のラジオはクラシックを流してくれたのですけれど、ベートーベンなんか流れていると、うるせい、ガチャガチャーンって止めさせられた。だから教養があるといっても偏見のある人でした。でも、寄席は好きで、よく行きましたね。ちょうどあの頃は、落語の世界も新作物が流行っていました。特に柳家金語楼のようなすばらしい天才が現れてきて、金語楼の達者な芸をよく見ました。
 それから、(料理屋を経営していた頃は)家では若い衆もいたし、近所の店にも若い衆がいました。これは皆地方から出稼ぎに来た次男坊以下の人たちで、店の裏か二階に住んで、月に一回か二回の休みがあると、皆あのころは浅草に行くのです。浅草の映画館、劇場の数というのは大したものですよ。そういうのに連れていかれて、沢山見ました。国際劇場の松竹歌劇団(SKD)なんかも見ましたね。あれは、日本流のレビューなのですけれども、一種のミュージカルなんですよね。宝塚と並ぶものです。そして、歌とダンスで西洋の香りもするのです。この刺激も非常に私には強かったですね。戦争が始まってからも、空襲で焼けるまで、しばらく行きました。本当は親と一緒でないとそういうところは行けないのです。そうそう、「愛染かつら」なんかも大流行していました。三部作全部見ましたよ。あの主題歌も今でも歌えるくらい覚えています(笑)。あの熱狂はすごい。戦後の「きみの名は」もすごいけれど、「愛染かつら」ほどすごいものはなかったですね。芸能の世界にずいぶん私は子供の頃から興味を持っていましたね。
 子供でも一人で行ける映画館があったのです。それはニュース映画館というのですけれど、ニュースとともに、メインはマンガ(アニメ)なのです。新宿にはアサヒニュース映画館というのがあって、つまりマンガ映画館ですよ。そこで私は、「ポパイ」や「ミッキーマウス」を見ました。これは一人でも行けたし、愉しかったですね。紙芝居くらいしかなかったときに、アニメの漫画というのは、あの自由奔放な表現というのは、子供には本当に息を飲むような思いで見ていました。だから昭和10年代というのは、昭和15年に大日本翼賛会というのができて、文化統制まで厳しくなるまでは、ずいぶんモダンなところがあったと思います。店が銀座にあったし、それから親類が食べ物屋を新宿でもやっていました。新宿はよく行っていました。三越があり、伊勢丹ができ上がった頃、西洋の香りのする百貨店の光を良く覚えています。新宿では、浅草から来た芸能が山の手化する、つまり西洋化するのです。それがムーランルージュという劇場です。あれはフランス風のバーレスク、バラエティですね。色んな芸人が入れ替わり立ち替わり、歌もあれば踊りもあり、ドラマもあった。そして、すぐそばに新宿第一劇場というのができて、そこが、より進んだモダンな音楽物を上演するところだった。それが、川田晴久を中心とするミルク・ブラザーズというものでした。森川信という多分に西洋的な要素の入ったものなども観ていました。それが昭和10年代の終わり頃、太平洋戦争が始まるまでの東京のモダン文化でした。
 そういったものを子供なりに吸収できたのは、とても大きかったと思います。これらが、私の基底にあるカルチャーです。落語から、寄席、バラエティまで入っているんでしょうね(笑)。こうして、小学校の終わり頃から、私は何になろうかと考えはじめました。やはり私はそういう雑多なものに惹かれていたのですが、一番惹かれたのは、本を読むことでした。何時間読んでも飽きませんでした。学校はそっちのけで、文学全集とか、単行本の随筆とか、ずいぶん読みました。あるとき、雑司ケ谷の鬼子母神社で、八卦を見る占い師がいるのです。占い師が子供に頼みもしないのに、手相を見てくれるのです。「おまえは中将になる、おまえは大将になる」とか言うわけです。皆軍人が基準になっていた。私はそういうのはイヤだった。それで手を見せたら、「おまえはせいぜい、大佐か少将くらいだなあ」と言われた。私の場合はランクを落としたんでしょう(笑)。つまらないことだったのですが、癪に障りましたし、軍人なんて威張ったものは大嫌いでした。
 そのころは、講談社という大衆読み物をたくさん出す出版社ができました。少年講談というものもあって、楽しくて夢中になりました。猿飛佐助とか戦国モノの話を読んでいて、戦国時代というのは恐ろしい、というのが分かったんですね。つまり、殿様の命令があれば誰も何も言えない。切腹しろといわれたらそうしなければいけない。侍だったら、俺はイヤだし、少将にもなれないのに、一兵卒だったら殺されると思いました。その頃は軍人が非常に横暴で、中学に入れば、配属将校というのが学校に来ていて、それが軍事教練をやるのです。それは校長以上の権限を持っているのです。銃も担ぎました。一通りやったけれど、イヤでね。私は、文武というけれど、武ではなくて文のほうじゃないかなと思っていました。そして太平洋戦争が始まって、ものすごく軍の権限が強化されて、軍が政治を主導してしまう。特にこれが一番けしからんと思うのですけれど、軍が大本営というものを作ったのです。それは昔からあって軍事政策を協議し調整するところだったのですけれど、大本営というのは天皇を頭に頂いて、軍人がそこで軍事政策を決めるという機関だったのです。戦争が始まってから、ものすごく力を持って、天皇が決めたことというのを前に出して、議会・内閣を押さえて、軍事ファシズムといえる体制を日本で確立したのですね。それが太平洋戦争突入になるのです。そして無謀なる戦争、南太平洋まで範囲を広げて、敗戦に敗戦を重ねて、武器・物資の補給もできないまま、たくさんの人間を餓死させて、自滅させていくのです。それは大本営というのが絶対的な権力を持っていたからですね。恐ろしい状況でした。
 そのとき、子供の私はどうしたかというと、中学2年ですかね、昭和18年に中学に入りました。昭和16年(1941)、太平洋戦争が始まったとき、昭和16年(1941)でしょ。始まってまもなく驚いたのが、私は小学校5年生だったと思うのだけれど、学校で突然(アメリカの)飛行機がガーッと降下して、その後に、飛行機が見えなくなってから高射砲がバンバンと撃つのが聞こえてきました。それが最初の東京空襲だったのです。今、太平洋戦争を省みて色々批判が出ているように、あの戦争は、本当に初戦だけ闇討ちみたいにして成功したけれど、そんなものは半年でダメになったのですね。昭和17年(1942)6月5日のミッドウェー海戦の敗北というのが、決定的なもので、主力な戦艦を失っているのです。このときに日本の戦力の限界は見えていたのです。それにも関わらず軍が戦争を強行して、そして国内にまで本格的な空襲が続くようになるわけです。どんどん前線で兵隊が死んでいく。補給のための軍需生産に男が行って、間に合わないのです。
 それで、戦闘のためには大学生を動員するといって、学徒出陣というのが、昭和18年(1943)10月21日にありました。この壮行会が近くの中学校の生徒たちを集めて、神宮球場でありました。私もその中にいました。大雨ではなかったけれど、寒い日です。東条英機自身が途切れ途切れのマイクで大演説をして、何を言っているか分からないのです。学徒たちが出陣していくのを見送ったわけですけれど、それがやっと終わって、外に出ると、学校の机みたいなものが並んでいて、そこに署名簿が置いてあったのです。それで、中学から志願すれば、軍人になれるから署名しろと、先生が後ろからつっつくのですね。それで、私は震えていたのですけれど、次々に前のやつが署名するでしょ。私はしょうがないから名前を書いちゃったのですよ、書きたくないけれど。書いた後、「しまった、いよいよ大嫌いな兵隊にされてしまう。いやだなあ、これで死んでしまう」と(思って)、しばらく怖かったですよ。学校から呼び出しがあって、いよいよ手続きをしろと言われるのじゃないかと。なぜ何にもなかったのが今でもよく分からないですけれども、先生が配慮したのか、あるいは、雨が降り、風が舞っていましたから、署名簿が濡れて、私の名前がなくなったのか、分かりません。ともかく、無事通過して、やれやれと思ったけれど、同時に今度は勤労動員となりました。練馬の田んぼに行って草むしりとか、中学2年生のときからさせられていて、3年生になってから本格化しましたね。
 昭和19年(1944)8月、中学3年生の夏休みの前から、本格的に軍需工場で働いていました。板橋から王子まで広がっていた、造兵廠です。板橋の造兵廠に動員されました。中学3年生の子供ですよ。行って見たら、初めは火薬を蓄蔵している倉庫がありました。木製のリンゴ箱みたいなものがありまして、そこに黄色い火薬粉が入っているのです。それをどこかに移動するのにトラックに何段も積むのです。その上に馬乗りして、そして、何キロも離れた別の工場へ、遠いところでは、埼玉県の深谷まで運んだことがあります。大変ですよ。ガタガタ道をゆき、姿勢を低くしてペタンコになっていないと、電線に引っかかるんですよ。それで怪我をしたヤツもいます。辛いものですよ。何時間もそんな格好をして。そして、起伏があるたびに火薬の粉を眼に浴びるのです。戦争が終わったとき、2年ぐらい黄色い粉が落ちなかったですね。よく無事に済んだと思う。そしてあそこは、宮城がもし破壊されたときに、大本営をつくるつもりだったらしい。そこに火薬を運んだのでしょうね。それから本土決戦になって、アメリカ軍が上陸してきて、そこもダメになって、信州の、池田満寿夫美術館のある松代に最終的な大本営をつくろうとしていた。その前の、深谷の大本営をつくろうとしているところで、辛い思いをしました。ばかげたことですね。ただ、日本一の軍需工場でしょ。もう、太平洋戦争で勝ったといっているときに、どんどん船は沈んで兵隊も死んでいく、実際に武器もなかったのだと思うのです。すでに用意したものはなくて、ミッドウェー海戦後はつきちゃったと思うのです。
 そのとき日本最大の軍需工場に来て驚いたのは、そこで働いていたのが、我々みたいな子供か、女子大生、男の大学生も少しいたけれど、そんなのばかりなのです。工場をみても、まともな男というのが、指揮者くらいで、まったく実態がなくて驚いた。ああ、これはおかしい、これは続かないなと思いました。まあ、実際は東条内閣が崩壊した頃から、和平工作が進んでいたのですよね。でも、大本営はそれを押さえて、最後にあの天皇が我慢しきれなくなって、ラジオを通して終戦を宣言するまで止めなかった。それさえ阻止しようとしたのですから、実にばかげたことをしたと思います。そういう15年戦争というものを身をもって体験して、いやあ、日本というのは酷い国だと、酷いことをしたもんだなと。戦争が終わっても、この国に生まれてもこの国に生まれたのは不幸だなとしか思えなかった。戦後は、戦争中よりひどかったですね。

宮田:先生のように戦争を疑っていた人は少なかったでしょうね。

瀬木:少なかったですね。孤立していました。

宮田:その当時はまわりとはそういう話はしないのですね。

瀬木:そういう話はしなかった。クラスにスパイがいるんだ。告げ口を言われて、「あいつは反戦思想を持っている」と言われて、酷い目に遭ったことがあります。そんな細かいことを話してもきりがない。(あのころは)幼すぎた。もうちょっと大将の後ろの方になっていたら、大人になって、身の処し方があったかもしれない。ずるく、上手に(笑)。あの世代でまともに戦争を受け止めたやつらは特攻隊になった。これは気の毒だ。その反面、徴兵を逃れ、そして上手に生きた人間もいるわけです。

宮田:先生の同級生でも特攻隊に行った人はいるんですか?

瀬木:いえいえ、幼すぎていません。ただ、小学校を終えるとすぐ軍の幼年学校に入れるわけです。そういうのは一人いたよ。池田龍雄なんていうのは、そういうのじゃない? あれは軍国少年だった。

宮田:先生の親戚で、戦争で亡くなった方というのは?

瀬木:たくさんいますよ。それから、今日(インタビューを行った2009年8月6日)は、たまたま原爆が広島に落ちた日で、14万人が被曝者となりました。だから非難もされているし、アメリカのオバマ大統領も、その非を認めているわけです。しかし、東京も変わらない目にあっているんです。東京大空襲は、年表によると3月10日になっています。これは東京大空襲の始まりなのです。一回だけではないのです。実際には、夜中に来るものだから二日にわたるのですが、3月9日・10日、4月13日・14日、5月25日・26日の六日間です。特にすごかったのが、3月9日・10日の下町に集中的な焼夷弾が落ちたのです。ともかく大小合わせて19万個の爆弾が一晩に東京に落ちたのです。無差別です。非戦争地帯の、しかも、東京の庶民街の中でも一番下層のところです。そこに攻撃したということが非常に大きな問題で、我々は抗議しているのです。特に、今、東京都現代美術館がある菊川が一番ひどかった。あそこだけで、一晩で10万人も死んだ。今公園になっているところは、死体の山だった。川は死体だらけです。比較する必要はないけれど、広島だけが大虐殺ではなく、東京も変わらない目にあっていることを知っておかなければならない。全国の大・中都市はみんなそういう目にあっている。
 そういうなかで疎開した人はずいぶんいた。小学生は集団疎開がありました。しかし、残れる者は残ったのです。私の場合は残らざるを得なかった。親父はいない。家はありました。家は13日・14日に焼けたのだけど、家を留守にするわけにはいかないのです。私と姉さんが残って、おふくろを疎開させたのです。それから、家が無くなった後は転々として、それは戦後まで続くのです。10箇所ぐらい私は、転居なんてかっこいいけれど、転がり込むのです。それで、親父はいない、姉さんが結婚する、初めは姉さんがお袋の面倒を見てくれたけれど、そうもいかなくなる、ということで私は自活せざるをえなくなる。
 大学に入ったのが、昭和22年(1947)です。お金がないから中学を出るのがやっとでした。しょうがないから、大学に入ると職探しです。戦地から大人が帰ってきて、子供には職がないのです。仕方なかったのですけど、考えてみると、私には英語がいくらかできるということに気がついたのです。というのは、さっき言ったように、目白台という環境にいて、外人たちがいて、教会があって、日曜学校に行き、クリスマスの集まりにも行ったりして、英語で賛美歌を歌うと。学校でもある程度、勤労動員される前は、基礎的な勉強をしていました。初歩的ですけれど、英語ができた。その頃、ラジオから英会話のレッスンが毎日聞こえてくる。町を歩くと、まだ本屋なんてものはないですが、街頭には、綴じてもいない印刷した紙を束ねた本が売られていました。その中に英語の指導書があって、そういうものを買って読みながら、自分なりに短期間に勉強しました。大学に入るときには、英語の試験がありました。そのための受験勉強もある程度しました。子供の頃の素養もあって、割りと短期間に身に付いたんでしょうね。それから戦後、教会の日曜学校で英語の話も聞いていました。そこで英語のお話があったし、英語会話教室にも行って、会話の力も身に付けました。それで生きるしかないと思いました。
 その頃は、進駐軍が東京の至るところにいました。基地があり、軍事施設があり、どこもかしこも進駐軍だらけでした。そういうところで、通訳を募集している、というのがあったんだな。そうだ、これを受けてみようと思った。行ってみたら、「外務省で試験を受けろ」と言われた。どこにあるかも分からない。今と同じ場所ですけれど。行ってみたら、立派な建物で、おそるおそる入り口に入って、そこで試験官に会った。アメリカ人の年配の人が試験官で、私に英語で話しかけてきて、普通に答えたら、あっという間に終わっちゃいました。それで勤めだしました。何箇所か行きました。こっちも生意気なんですよ。面白くないところもあるんですよね。そういうところでは不満があったので、より良いところへと、二、三箇所を転々としているうちに、知りあった友達が、有楽町の元宝塚のアーニー・パイル劇場というところに入ったのです。その男がどういうわけか知らないけれど、半年かそこらで辞めると言い出した。「君、来ないか?」というので、ありがたいなと思った。定職が得られるし、のんきで自由な職場だ。フレックスタイムみたいなところだったから。「それはぜひ頼むよ」と言って、連れていってもらったんです。
 アーニー・パイル劇場というのは、進駐軍が東宝の建物を総合的な芸術施設として改装していたのですね。アメリカ人には軍人だけでなくシビリアンもいて、そういう人が劇場経営者となっていた。働いている人の半分が日本人で、指令するのがアメリカ人だった。そういう複合構造になっていた。面接で「良いだろう」と言われたけれど、「ただ資格をちゃんと取ってもらいたい」と言われて、民間情報局(CIE、Civil Information and Education)に行きました。これが日本の文化政策を統括していたのですが、そこで試験を受けた。その時は翻訳者という資格で、幸いにして試験を通って、めでたく採用してもらったのです。(アーニー・パイル劇場は)なかなかいい人たちでした。私は進駐軍に直属というより、東宝との契約社員なのです。フレックスタイムのように、自由で、ちゃんと仕事をこなせばいいと。劇場ですから。ただタイムカードがあるからね、行くと、ガチャンとタイムカードを押して、また別のところに行って、それから帰るときにガチャンと押して帰ればよかった(笑)。もう劇場の中の構造が複雑だから、誰がどこにいるか分からなかったのです。
 そういううまいところに潜り込めまして、そこでどういうことをしたかというと、もちろん映画を絶えずやっているんですけれど、同時にミュージカルを上映するところでした。アメリカ人にとってミュージカルというのは最大の娯楽なんですね。もちろん年に数回、ブロードウェイから来るのです。ウェストサイド物語とか。でも、それだけじゃ間に合わないでしょ。それで、日本人自身でミュージカルを仕立てる人たちが、そこに集まったのです。その中心にいたのが伊藤道郎です。ヨーロッパ、アメリカにかけて、バレエに始まってミュージカルにまで進出して世界的な評価を得た伊藤道男さんです。この人がディレクターです。その弟の伊藤熹朔が舞台監督だった。この二人のコンビのもとに、音楽は紙恭輔です。日本人でブロードウェイを経験した数少ない指揮者です。この人が、アーニー・パイル・オーケストラというものを編成していた。日本人の歌手としては、ナンシー梅木、旗照夫など、当時最高のジャズシンガーたちが起用されて、日本人を中心としたミュージカルの上演をしていた。ただし、やるものは向こうから台本が来るのです。それを翻訳するのが私の仕事でした。その台本を翻訳してこういう意味だと伝えるのは、プレーヤーだけでなく、スタッフに向けてです。照明の人とかコスチュームの人とか、英語が分からないのです。それからステージハンドルといって、舞台を実際に動かす人たちのために、台本の翻訳をしていた。だから必ずしも文芸的である必要はないんだけれど、これは良い勉強をしたと思いましたね。その前に知っていたのは、浅草のSKDであり、宝塚であり、新宿のミュージカルに近いようなムーランルージュです。それらは役に立った。なんとかやって、収入を得ていたのは、救いでしたね。
 元々私は演劇に興味はあったけれど、ミュージカルというのは、SKDや宝塚のレビューとはちがう、もっと高度ないろんなアーティストの組み合わせによる、総合的な新しい種類のエンターテイメントだというのが分かったのです。その頃、東宝では菊田一夫が、ミュージカルを研究していたのですね。彼が初めてミュージカルを手がけることになったのです。それをリードしたのが秦豊吉です。この人は、東大出のドイツ文学者だった。ドイツ体験があって、ゲーテなんかも訳していましたよ。この一流のドイツ文学者が、ドイツの大衆演劇を知っていて、東宝に帰属して、こういう分野を終戦とともにやろうとしたのです。日劇のミュージックホールのストリップも秦豊吉の発案でした。そこからたくさんのタレントが育っていました。森繁久弥もそこで働いていました。もうひとつの高級なほうがミュージカルですね。これは丁度私が結核で倒れるところだから、1949年か50年頃、帝劇をつかって初めての日本人によるミュージカルができました。それが「モルガンおゆき」というものでした。そのとき起用されたのが宝塚を辞めたばかりの越路吹雪、森繁久弥でした。森繁久弥は満洲に行ってそういうものを知っていた人なのです。この二人の主演で、これは大好評だった。これを私は見て、ああいいな、と。私もこういう世界に行けたらいいなと本当に思っていましたね。私も東宝に属していたわけですから。行けるかもしれないなと。そう思っていた頃、私は戦争直後の疲れと飢餓で、体力が限界に来ていた。結核になり、吐血して、療養所に担ぎ込まれた。それで、その夢が夢に終わってしまいました。それは1951年の春だと思います。
 それであなたがたの注文で、占領下の体験をお話しますけれど、アーニー・パイル劇場というのは、ミュージカルをやるのは夜、週何回でした。映画は封切りが飛行機で来るのですから、毎日夜、最新のものが見られるのです。だから、アーニー・パイル劇場で新しい映画を観るのは映画評論家たちの夢でね、ある日、支配人から言われたんですね。「どうしても見たいのがあるから、こっそり見せてくれないか」って。というのは、日本人はその劇場に入っちゃいけないんですよ。支配人といえどダメなんですから。私は実際に年中劇場のスタッフと一緒にやっていたから、私は自由に中でふるまえたのです。それで、何とかしてくれないかと支配人に言われて、何とかしましょうと私はいった。それが、それが植草甚一だった(笑)。ちょびヒゲをはやして、何だかドジョウみたいなおっさんだなと思った。照明室の主任に話して、ちょっと見せてくれと頼んだ。(照明室の主任は植草に)「あんまり乗り出すな」と(笑)。分からないようにしろと。そうやって何回か映画を見せた。それから、甚さんと仲良くなっておつきあいをしましたね。岡本太郎も、フランス映画を観たいと言っていた。あのころフランス映画というのは帝劇で昼間やっていた。夜になると、芝居を上映していた。藤原オペラの人たちがやっていた。アメリカ映画のほうは日比谷劇場です。太郎さんを帝劇に呼んでいました。太郎さんは一人で来ることもあったし、敏子を連れてくることもあったけれど、三人でよく映画を観ましたよ。フランス語が聞ける、パリの町が見られるというのは、彼にとって嬉しいことだったと思いますよ。そして、一緒に見た後、太郎さんはあんまり金がなかったから、だいたいガード下で焼き鳥と焼酎だ(笑)。そういうのから、我々の夜の会、世紀の会が始まっていった。1948年のころでしょう。
 アーニー・パイル劇場の中には図書室がありまして、なかなか良い本が揃っていた。本よりもむしろ、新着の雑誌が多かった。写真雑誌とか映画雑誌とか。うまいことに、アーニー・パイル劇場の右隣、今の三井ビルになっているところにあったのです。そこがCIE図書館で、そこは日本人向けに作った図書館なのです。だから、アメリカから新しい本がくるとそこに入って、興味のある人間が、先を競って見に行ったのです。その中には美術書もずいぶんありました。そこで私は、特に感銘が深かったのがMoMA(ニューヨーク近代美術館)の叢書です。あそこが一連の20世紀美術の本を出していた。出版社は、ウィッテンボーン(George Wittenborn, Inc)です。それが揃っていた。それに飛びついて読みましたね。その中の一冊にモンドリアンがあった。それを『世紀群』の中の一冊として、その一部ですけれど、翻訳したのです。あれはね、タイトルがぜんぜん違うのです。「新しいリアリズム」とか「造形主義の宣言」みたいなものだったのですけれど、それを安部公房が、「そんな固い題名はやめようじゃないか」と言ってきた。「どうしたらいいんだ?」と聞いたら、「アメリカの抽象芸術」にしようと。そのほうが売れるだろうと(笑)。モンドリアンはアメリカ人じゃないし、アメリカに住んでいたけれど、オランダ人だからダメだよと私は言ったんだけれど、彼が強引に「アメリカとつけちゃえ」と言った。「そうしたら売れるぞ」と(笑)。

足立:売れたんですか?

瀬木:『世紀群』は、1冊10円でも売れないですよ。受けとってくれるけれど、みんな金を払ってくれないから、結局皆それぞれで負担したのです。実際200部作ったけれど、10部残っているかどうかでしょう。だから古本屋に出ると高いのです。今は出ないけど、今そろうと、50万円とか100万円とかするでしょ。恐ろしいことに、10円だったのです。みんな未払いです。現在の100円ぐらいのものでしょうね。
 MoMAが監修した本の中に、単行本として出したものですけれど、ピカソの《ゲルニカ》の画集が一つありました。ホアン・ラレア(Juan Larrea)というメキシコ人の評論家です。彼はピカソと親しくて、この人が画集をまとめたのです。これはレアな本で今は手に入らないですね。もちろん日本の美術雑誌には《ゲルニカ》が載っていましたよ。でもこの本に、制作プロセスの詳細な写真が載っていて、ホアン・ラレアの分析も良かったし、これで私は分かったのです。それからもう一つ、ピカソ研究の先駆的なモノグラフですけれど、当時のニューヨーク近代美術館の館長だった、アルフレッド・H・バー・Jr(Alfred H. Barr Jr.)ですね。彼の『Picasso: Fifty Years of His Art』です。日本で新潮社から翻訳も出ていますよ。これを見たのが大きな収穫でしたね。あそこには、エルンスト、シャガール、ダリなど、ほとんどの画集がありましたね。ほとんどMoMAから出ていた。MoMAの回顧展の記録ですね。これらはみんなウィッテンボーンが出していた。
 さっきも話したけれど、病気で倒れて、神奈川の山の上の療養所で二年半くらい療養することになったのだけれど、初めの半年はしんどかったですね。もうダメかなあと思っていた。本を読むことも出来ず、クラシックを聴くしか出来なかった。半年を過ぎた頃から、良くなりましたね。まわりはバタバタ死んでいくのですけれど。あれは、ストレプトマイシンだとか結核の新薬ができて、なかなか手に入らなかったのだけれど、私はアーニー・パイル劇場にいたことがプラスして、進駐軍が送ってくれたのです。あれで、助かったと思います。ああいう薬は買えないですから。病院に来ても、それは重症者優先でした。でも、私は直接手に入った。そのせいだと思うんだけれど、奇跡的に回復して、そして一年くらいたってから、本が読めるようになった。そして、文章も書けるようになりました。だから、二年目になると、かなり書いて発表もしていました。
 そのとき、さあこれで助かるようになった。ああやれやれと思った。けれど、どうやって食っていこうかと思った。しかし、この体力では復職もできないし、学校に戻る体力もないし、卒業できなった。だからまた終戦直後の大問題に直面した。さあ困ったなと思った。しかし、ものを書けるようになってきたのです。(結核のとき)小説や哲学書は初めなかなか読めないでしょ。体力がないから。だから、このときは、美術雑誌や画集を見ていたのです。たまたまものすごく絵の好きな友達が療養所にいた。それはアララギの若い歌人で、絵が好きで、京都のボンボンだったんだな。彼が『みづゑ』や『アトリエ』などみんな取っていた。そいつと仲良くなると画集を貸してくれるんですよ。だから、寝ながら絵の勉強が随分出来ましたよ。さっきのCIE図書館からの継続ができた。実際療養所にいて、そういうものを見られるようになった一年半の間、毎日暇だからすごく勉強が出来ましたよ。ひととおりモダンアートの知識が身に付いたと思います。
 そして、(療養所を出たら)東京では、友達が編集者になっていた。友達が、書かないかと言ってきた。そんなことで、評論を書きだしたのです。あの時書いたものには、文学、思想にわたったものが多いのですけれど、小説はあまり療養所で読めなかったから、(文芸評論は)とても難しいなと思った。ところが、美術の方は、療養所でも自然に知識が蓄積していた。人と比較することも出来なかったし、そんなに自信があったわけでもないですけれど。(大学で)美術史をやったわけでもないですから。むしろ私は思想少年として育ったから、そっちに重点をおいてものを読んでいました。文学ではなくて。だから、それはそれで、一生懸命やったつもりですけれど、絵の知識が非常に出来ていたのです。やっと療養所から解放されて東京に戻ったとき、世紀の仲間を訪ねますよね。安部公房や関口宏だとか、それからあの時の夜の会・世紀の会の事務局をやっていた河野葉子が、美術出版社に入っていたのです。彼女を訪ねた。敏子は岡本太郎の秘書として活動していました。岡本太郎には、「良く戻ってきた」と言われて、アートクラブ(の運営)を託されて、立ち上げたのです。安部公房は、私が(療養所で)寝ている間に、一回療養所に来てくれました。そのころは芥川賞を獲って小説家としてスタートしたころでした。関根宏が中心になって、『列島』という雑誌をつくっていた。ただ、私は病気をして金がないものですから、同人にしても会費が払えないだろうから、そのままになっていたのですけれど、戻ってきたら、編集をやってくれと言われて、引き受けた。『列島』4号か5号あたりから、編集を私がやるようになった。しかし、そういったものは収入にならない。
 収入はやはり、河野葉子を訪ねたことが大きかったですね。葉子は『美術手帖』の編集部にいて、同時に『美術批評』という雑誌が出たばかりなのです。ここで書き手がいなくて困っていると言われた。「古い人たちはだめだ」(笑)。「どうしても新しい人が必要だ」と。それで、何か書けと言われて、編集長の西巻(興三郎)に紹介された。彼も気が早くて、「すぐ書いてくれ」と。一番初め、『美術手帖』に最初に書いたのが、独立美術の秋期美術展が丸善でやっているから、それを見て書けと言われた。それを書いたら採用された。その後、当時ブリジストン美術館でフランス人の夫婦の画家の二人展がやっているから、それを見て書いてくれと言われた。ブリヂストン美術館がオープンしたばかりですよ。あそこは今と全然構造が違うんですけれど、階段を上がっていくと小さな小部屋があって、そこで二人展があった。それが、フレッド・クラインとマリー・レイモン夫妻の二人展でした。この批評を書いたのですが、名前で分かるように、イヴ・クラインの両親です。最初の個人の展覧会の批評を書いたのが、はからずもイヴの両親で、それがひとつのきっかけとなりました。それで、二回もテストされたのですけれど、(西巻に)ある程度書けると思われたのでしょう。
 私自身も療養所を出る前に書き貯めて、未発表のものがあった。120枚くらい。それを持って花田清輝のところに行ったのです。「花田さん、読んでくれませんか」と。ただ、そのとき花田は『新日本文学』の編集長をしていたのです。あれは政治的な雑誌でしたから、これは政治的じゃないから、『近代文学』のほうが良いよと言われたのです。それで、佐々木基一に会いに行ったのです。佐々木さんに、「これを読んでくれませんか」と言ったら、「ああいいよ」と言ってくれた。そして、しばらくしたら、ある会合で佐々木に遇ったのです。そうしたら、みんなが座っているさなか、休憩があって、「君のを載せるよ」と言ってくれた。『近代文学』というのは、一つの目標でしたから嬉しかったですね。それが「リルケの世界」というものです。それで、もうひとつ(書き溜めていたの)は「レジェ論」。これは『美術批評』に載りました。そうやっている間に、書いたのが『美術批評』の1953年8月号に掲載した「絵画における人間の問題」です。これが思いがけない反響があって、あの反響によって、なんとかこの道でやっていけるかなと思いました。そんなことで、新聞(の美術批評)もやるようになりました。新聞は読売が一番早かった。読売アンデパンダンもやっていたし、私は、アンデパンダンの委員も頼まれてやりました。昔の仲間はみんなやっていた。読売からはレギュラーで展覧会評を書き、それで毎日、朝日にも書くようになった。まあ、私は必ずしも美術をやるつもりはなかったけれど、美術に集中するようになったのは、環境のせいですね。

宮田:やはり、軍隊が嫌いで、寄席から始まる広い素養があったところが良かったんでしょうか。

瀬木:でも、(文化の)バラエティのある生活というのは、東京の下町の特色なのです。(それは)普段の生活ですから、私だけが特別だったわけではありません。多かれ少なかれ、江戸以来の大衆文化と大正の震災後のモダニズムが、東京の中で育まれていったのです。そんなこといっちゃ悪いですけれど、震災後、地方出身の人たちが東京に増えてきたでしょう。軍人というのはああいう人たちによって構成されていた。地方出身者が多すぎたんですね。だから、(軍人たちは)地勢に欠如していたし、国際的なバランスを知らなかった。平和条約を結べるチャンスは何回もあったのですから、そういうのを何回も踏みにじって強行したのが、軍人たちですよね。だから、緒戦ですぐ死んだけれど、山本五十六のような教養ある軍人が、内閣にいて指導力を発揮したら、こんなにばかげたことにはならず、途中で処理できただろうと思います。残念ですね。今日のニュースを見ていたらやっと、今の総理大臣が、被曝者を何百人も救済すると裁判を打ち切って、政治的に救済すると言った。64年かかったんですよ。
(休憩)

宮田:(改めて)「世界・今日の美術展」の頃からお話しください。

瀬木:さっきも話したように、1953年に(療養所から)帰ってきた私は、美術批評家となって書き始めたのです。評論の先輩たちは、美術史とか美学とかを出た訳でしょ。(彼らは)私みたいなのを、どこの馬の骨と思った人が多かったんじゃないですか(笑)。私は美学や美術史を大学でやったわけではないけれど、美術評論家になって、先輩達に劣っている気はなかったな。この人たちはすごいなと思わせられたことは、なかった。そう素直に思った。私はひねくれていたのかもしれないし、そんなことを言うと思い上がりみたいですけど。(当時、大学で)美術を研究するなんて、金持ちのやることだと思われていた。もう一つは、他の学科に入れなくて、第二志望か第三志望のやつが美術史をやるものだと。東野芳明も仏文に落ちて美学に入ったと言っていました(笑)。もちろん中には非常に優れた、尊敬する美術評論家の先輩たちはいました。さすが、というような人もいらっしゃいましたね。ただし、それは狭い領域の特殊研究なんですね。一般の美術史とか、一般の美学では、そんなに優れた人に出会わなかった。それは、個人個人の問題というより、日本の学問というもの自体の、思想的基盤の浅さの問題じゃないかと私は思うのです。美学は学校によっては、哲学科に属しているけれど、しかし、哲学というのならば、哲学が不足しているんじゃないかと私は痛感しました。こういう人たちを見習う必要は無いし、私は私の自分の考えを行くのでいいのだと。
 大事なのはね、どんな学問でも、哲学という言葉を使うならば哲学ですよ。思想というものが必要です。そういうことを特に感じたのは、初めてヨーロッパに行ったときです。1957年、ナポリとパレルモで、国際美術評論家連盟の会議に行きました。連盟が出来てから3回目くらいだったかな、それまでオブザーバーとして出た日本人はいたけれど、正式な代表として出たのは私が初めてらしいです。そこで、行ってみて、各国の錚錚たる人々と接しました。これが大きな体験だった。イギリスからはハーバード・リード(Herbert Read)。ドイツからは、ビル・グローマン(Will Grohmann)、アメリカからはグッゲンハイムの館長ジェームス・スウィーニー(James Johnson Sweeney)。イタリアからはロバート・ヴェンチューリ(Robert Venturi)。ヴェンチューリは神様のように思っていたね。そういう目も眩むような大評論家がそろっていました。彼等は非常に優しくしてくれました。一週間近くも朝から晩まで、色々な話をしました。彼らは極めて普通の人間であり、専門研究に関してはものすごく深い。それから人間の問題としていえば、みんな思想がある。私にはとても強い印象を与えました。これがなきゃいけないと(思った)。批評というのは、ある意味、絵描きがいて、作品があって、それについて何やかんやを言う、というだけではない。何かを言うことについておのずから思想を示さないといけないのです。批評家に思想の指針がないと、批評はなりたたない。それがあるからこそ、セレクションもできるのです。
 日本では、そういう人が少なかった。それに近いと思わせたのが、さかのぼれば、岡倉天心は、毀誉褒貶あるにしても思想のある人でしょう。それから、九鬼周造がいましたね。この人はあの若さで亡くなったのは惜しいですね。それから東大アカデミズムを代表する児島喜久雄です。この人の研究はある水準に達していたと思います。ただ、あの人は、(やっていることが)狭いよなあ。
その後、我々の前に御三家と言われた、今泉(篤男)、土方(定一)、富永(惣一)。もちろんこの人たちとも知り合いましたけれど、そんなにすごさは感じなかった(笑)。というのは、この御三家はヨーロッパの体験が戦前にあったけれど、あまりに短かった。ちょっと申し訳なかったけれど、昭和前期に一世を風靡した人たちは、その前の人たちに比べると、日本の状況もあるかもしれないけれど、スケールが小さかったように思います。だからジャーナリズムは書き手の不足に悩んでいたのです。
 私たち三人の中では、針生一郎と私はほとんど同時期に評論家になり、東野芳明と中原佑介は少し遅れて世に出ます。針生は国文出で大学院は東大の美学にいましたが、のこりの三人は美学美術史の出身ではなかった。これは偶然だけれども、前の世代に欠如していたものがあったのでしょう。それはね、専門知識はある程度努力すればあとから習得できるのですよ。むしろ問題なのは、思想です。これはもっと手間のかかるもので、時間と蓄積と思考力が要るのです。それから、前の世代の批評家には、アカデミズムに関わりのない町の批評家で、絵描きや画商に依存して食べている連中もいたが、これは話にならなかった。わずかに、美術批評といえる、読むに耐えるものを書いている人が何人かいました。それは皆、外側の人です。例えば、瀧口修造という人がいた。あの人が書くものは、十分に読めたし、また学べたと思います。瀧口さんのことは、世紀の会の頃から知っていたんです。私が評論を書きだしてから、瀧口さんはすぐに私に会ってくれた。その頃は何も本がないから、本を貸してくれましたよ。瀧口さんは一人のエッセイストとして、充分やっていけた。
 もう一人は、久保貞二郎という人がいた。ただ、久保さんは傍系扱いされて、批評家としてあまり尊重されなかった。戦前パリで偽物を買わされて、たくさん背負い込んだ。それで、久保さんは眼のないやつだと思われていた。それが重なって非常に不遇で、国際美術展の審査員とかをやるのは私より後なのです。しかし、この人に会ってみたら、絵をよくみるし、判断できるし、明確な思想をしっかり持っている人だった。批評家らしいと思ったのは、あの人ですね。瀧口さんは、判断力は優れていたけれど、やっぱりエッセイストというか、自己志向型の人でした。久保さんは外向きの人で、本当の批評家でした。事実あの人が選んだ画家は、みんな今も評価されている。そんなことで、美学美術史をくさすわけではないけれど(笑)。それから、もうひとつ私が先輩達について苦言を呈したいのは、著書がないことです。翻訳はあっても、著書らしい著書がない。これも非常に残念なことです。やはり私は著書になるものを初めから書きたかった。もちろん私は近現代の現象に属してものをいう批評家であるけれど、自分のテーマや考え方を発揮できるものを持たなければいけない。そういうことを心がけてきました。
 それで、私は思うのですが、今が一番大事なのですけれど、しかし、今の先には長い過去があります。これはつながっているのです。そのつながりを自分なりにはっきりつかまなければならない。私において身近なものや関心のあるものとしては、室町末から私につながってくる感じがするのです。鎌倉時代というのは、勉強はしましたけれど、どこか違う感じがするのです。私は江戸時代を通して関心があるのですが、特にやらねばならないと思っていたのは、文化文政以降の江戸後期から末期の文化です。私がものを書きだした頃、昔のアカデミズムでは江戸や幕末には文化がないという定説がありました。そんなことないのですよ。私は子供の頃から、生い立ちにつながっている江戸の文化を通して、浮世絵や江戸の戯作にも自然に親しんでいました。むしろ、子供というけれど、東京の文化に囲まれて育ったから、(子供なりに)それはちがうと思っていました。むしろ、18世紀末から19世紀までに日本は変質してしまって、別の国になったのではないかと思います。それ以前は、京都がオリジンであった江戸が、真に江戸になるのは、江戸時代末期のことなのです。
 縦(歴史)を見るのと同じように、横(外国)を見なければいけない。横に目を向けるのは大事なのですが、明治維新後の日本人は横を見すぎて、欧米崇拝に陥り、自国の文化を把握できなくなっているのです。私はどこを見るべきかを常に考えてきました。もちろん1957年にヨーロッパに行って、私はかなりのものを見てきましたけれど、日本人が憧れてきたフランスはもう行き詰まっている印象を受けました。日本人が印象派を絶対視するのは間違っていると。最初にヨーロッパから帰ってきて書いた「フランス訪問」とかいう文章で、フランスはかつての遺産に安住して、もう活力がないんじゃないかということを書きました。ちょっときつすぎたけれど。1957年は、すでにフランスでアンフォルメルが頂点を過ぎていた。そのどさ回りみたいなのが日本に来て、アンフォルメル旋風となったのです。それは1956年の「世界・今日の美術」展でも感じたことです。そこでタピエとの論争があって、激烈にやったわけです。
 ところで、あなたの質問にあった、私がどうしてフランスの雑誌で書くようになったり、色々な展覧会を作るようになったりしたかというと、これは、私が1956年に、「世界・今日の美術」を組織したのがひとつのきっかけでした。あれを通してミッシェル・タピエと同時に、ミッシェル・ラゴンという若い批評家と知り合った。1957年、ラゴンのグループが擁護している画家の展覧会がブリヂストン美術館で開催されたんです。「ヌーヴェル・エコール・ド・パリ」と言ったんですけれど。ところが、それを開催したのが、それがタピエの日本襲撃が始まったのと重なったために、ラゴンの展覧会がすっとんでしまったのです。弱すぎて。というのは、どういうことかというと、その後ラゴンとは友好が長く続くんですけれど、ラゴンのほうは、トレ・フランセーズ(trés francaise)、あまりにもフランス的過ぎる。画家たちには純粋フランスが多い。あれは典型的なフランス人だった。一方でタピエのほうは、フランス人もいるけれど、多国籍なんですよ。それにアメリカのアクション・ペインティングも加わってくる。あの国際勢力に太刀打ち出来るものではないですよ。
 パリではラゴンに会ったら、雑誌『シメーズ(Cimaise)』のメンバーを呼んでくれました。あのころの抽象芸術の中心となった雑誌です。そこに私は何度も寄稿しました。あの雑誌もトレ・フランセーズなんです。というのも、それはアメリカを攻撃目標として、アメリカとの競争意識があるのです。自分たちの伝統や文化のほうが洗練されていると。それは政治的なこともありました。アメリカは世界でも嫌われていたのですから。コカコーラニゼーションと言われたくらい。戦後アメリカが経済を圧倒しましたから。でも、それは競争にならないのです。純粋フランス人のアーティストには、数において一部だし、大画家がほとんどいないのです。今になって言うように、フランスの美術マーケットは世界の6パーセントくらいなのですが、パリの画家は小粒すぎるのです。(ジャン・)デュビュッフェ(Jean Dubuffet)からイヴ・クライン(Yves Klein)、セザール(César)で終わったと言われるのです。戦後にパリで活躍したアーティストでも外国人が多いのです。さかのぼれば、あのエコール・ド・パリの画家たちも過半が外国人です。
 だから私の美術社会学から言えば、パリとフランスは別なのです。エコール・ド・パリはフランスではなく、国際的な環境です。実際に20世紀初頭以来のマーケット動向をみて分かるように、基準として、ワン・ミリオンダラー・クラブ(百万ドル台の画家たち)の水準に達している画家は、フランス生まれの画家では、マティスとブラックのみです。ボナール、ユトリロ、ローランサン、デュフィもそこに届かない。ピカソ、シャガール、モディリアーニ、ブランクーシ、ジャコメッティは外国人じゃないですか。ちょうど、フランス人の美術はクライン、セザールあたりで終わったと言えるのです。1957年に行った時、そういう意味でフランスは終わったのを感じたのです。私は視点を横に向けてフランスを熟視したのですが、多くの日本人は、そういう横に向けた視線が固定的で狭すぎるのを痛感したのです。事実、アメリカの美術が進出したのは、良い悪いはあったにせよ、当然で、刺激になったし、フルクサスのような国際的な動向が70年を過ぎると活発になったことは理解できる。簡単に言ってしまうと、パリでもめったに見ない日本人画家を扱ってきた日本の画商たちがやっていけなくなったのは、当たり前ですよ。
 面白いことに、90年代以降、フランス人もあまり評価してなかったフランスの画家たちがまた値上がりしています。レジェ、カンディンスキーです。レジェはフランス人ですけれど、ノルマンディーの田舎者です。それからカンディンスキー、フランスで過ごしてパリの郊外で死んだ。ぜんぜんフランスでは省みられなかった。私が57年にフランスに行った時は、パリの近代美術館には、カンディンスキーの絵はなかったですよ。1959年か1960年だったかな。私がフランスにいたとき、あるとき、シャガールが、「明日カンディンスキー展のオープニングがあるから来い」と私に言った。シャガールは「めったに展覧会には行かないのだけれど、行くのだ」と言うのです。それで私は行ってみるとね、パーティーであの人嫌いのシャガールが実に一生懸命カンディンスキーについてしゃべっているのです。「シャガールとカンディンスキーは、亡命前のロシアで仲違いしていたと言われていたけれど、そんなことはない、一番尊敬したのだ」と力を込めて語っていたのには感動的でしたね。シャガールもエキゾティックだとか言われて、自分が本当に評価されていると思っていなかった。
 1964年に一度、アンドレ・マルローの下にいたジョージ・アールも呼んで、シャガールと食事したことがあるのです。シャガール展が日本で終わったとき、パリの一番良いレストランで食事したのですが、その直前にやっとシャガールはアカデミーの会員になったのです。それでもシャガールは嬉しくないのです。遅すぎたと。パリのオペラ座の天井をアンドレ・マルローが強行したけれど、フランス人は猛反対だったのです。シャガールはいかにフランス人に評価されていなかったかを語っていました。ジョージ・アールさんは大物だから笑って受け流していたけれど(笑)。でも、あれは真実の声だったと思う。ピカソについてもそうで、フランスであれだけ評価されたけれど、最初はドイツ人が評価していたのです。それがアメリカに広がって、アメリカ人のコレクターがついてくるのですね。フランス人は、やっと世界中の人が評価した後に、やっとついてくるのです。それは誇り高い、トレ・フランセーズかもしれません。
 そういうことがあって、フランスへの間違った日本人の見方に気がついたのが大きいですね。フランス人が一番世界を広く見ていたのは19世紀末です。あのときフランス人はフランスの終末を敏感に感じていた。あの危機意識からアフリカや日本に目を向けることが始まった。これは大事なことです。あのときが、結果から考えると、一番開かれた時代だったと思うのです。そして世紀末を乗り越えて、20世紀になって、フランスには外国人がどんどん入ってきて、フランス人にとっては面白くないわけですが、そういう中からピカソやモディリアーニが出てくるわけです。それで、フランスは、よくも悪くも第一次世界大戦に勝利して、繁栄が来て、誤解してしまった。あの20年代、30年代の繁栄は、外国人の力が大きかったのです。それを彼らは良く自覚しないままきてしまった。私はそういうふうに理解しています。1957年(にフランスに行ったとき)ですけど、あのころでも200人か300人は日本人の画家がいたかな。戦前からいた荻須高徳がフランスの日本人展をやろうと言い出した。それで、日本大使館が資金を出して、戦後第1回の日本人展をやったのです。ちょうど私がそこに行ったものだから、カタログの序文を書いてくれとフランス大使に言われた。急だったけれど、どうせ挨拶文だから、きれいに書いたらいいかと思って書いたのです。どういうことを書いたかというと、印象派以来、日本はフランスと親密な関係にあって、日本の近代美術の発展はフランス人に負う所が多いと述べたんですが、今から見ると浅はかな、外交的な言辞を書いたなあ。まさかそんなところで批判的なことを書くわけにはいかないし。
 それでオープニングはかなり盛大なものをやりましたよ。そこにジャン・コクトーが来たんです。彼はスターですから、わあっと人が押し寄せてきました。なかなか近寄れないんですが、大使が、この序文を書いた人だと紹介してくれて、話したんです。そうしたらコクトーは私が書いたものを斜めに読んで、何て言ったと思う?「きみの書いたのは間違っている」と言った(笑)。「どこが間違っているんですか?」と聞いたら、「きみがそんなに称揚している印象派の時代、これはフランスの文化にとってはデカダンスだ。印象派こそフランス文化の末期症状だ。」ずばりと言われまして、あれは衝撃だった。正しかったですね。私もそういう思いはあったけれど、フランス人からそれを指摘されるなんて思わなかった。こんな迂闊な文章を書いてしまったと、今でもあの衝撃を思い出します。フランス人にとっては18世紀のヴェルサイユ時代がピークなのです。そこから下降しているのです。それから革命があって、整備されたかもしれないけれど、それでもどうにもならない地滑りが続いて、7月革命、3月革命を経て、70年代のパリ・コミューンに行くのです。結局、フランスは社会主義化しなかったし、それなりに落ち着いたかもしれないけれど、社会に活力はなくなっていたのです。そういう衰退からうまれた可憐な花にごまかされてはいけないと、コクトーは言いたかったのでしょうね。そういうことをフランス人自身から指摘されたのです。
 そういう体験から、私の中で横を見る視線が、かなり矯正されたように思います。その後アメリカ、ロシア、東欧など、いろんなところに行って、世界の状況を見てきます。57年のドイツのデュッセルドルフは、東京より復興が遅れていましたね。美術館は兵舎みたいなところでした。今からは考えられません。ミュンヘンに行ってもアルテ・ピナコテカはあったけれど、それ以外何にもないような状態です。東西の分裂がありましたから。それでも今のドイツはフランスより経済力があります。ドイツの現代美術はかなり活気があります。そして、ドイツ人は、一国だけではどうにもならないという自覚がある。
 問題は我が日本なのですけれど、国際化の中で、何を見て、何を蓄積してきたんでしょうね。もう一国主義ではだめです。旅行したり、住んだりしたりするだけではダメですよ。そこで活動しなければいけません。絵描きである以上、売れなければいけません。踊れないバレリーナはいない、歌えないオペラ歌手はいないんですから。そうしてみたら、日本人には絶対出来ないと言われていたオペラ、バレエでさえ活躍している人がいます。建築で、活躍している日本人がたくさんいます。デザインでも。絵描きは、確かにパリにもニューヨークにもいたし、今もいますよ。でも、日本人には年齢と家族という問題があって、日本人は骨を埋める気がないので、帰ってきてしまうのです。これは国際的に活動する芸術家にとっては、ちょっと難しいことですね。マーケットは非情にできていますから、20年絵が売れたら大したものです。30年続いたら大家です。実際、パリでも菅井汲のような人もいます。彼も最後には帰ってきてしまう。30年もいれば、コレクターも画商も変わるのですが、それに耐えるのは、大変なことですね。ニューヨークの荒川修作、篠原有司男が活躍しています。それは誰だって全盛期というのはありますけれど、それが終わっても続けていくことが大事ですね。今なら外国に住まなくても良いのでしょうけれど、しかし、住まないとコミュニケーションを持続していくことが大変ですよ。
 日本のコンテンポラリー・アートも活気づいたと思います。理想的なのは草間彌生ですね。草間彌生はニューヨークに住んでいないのに、絵が売れるので、今までにない珍しい現象ですね。初期の絵は非常に高い。だいたい歳をとって売れなくなると、初期のものほど値が下がるものです。もちろん晩年も売れなくなるので、さかのぼって値下がりするのです。ですが、日本のコンテンポラリー・アートは、そうした例外を除くと、いるのかなあ。堂本尚郎も帰ってきたし。今の世代はもっと勇気をもっていかないといけないんじゃないかな。初めから売れる絵を描いて、売れるところに持っていかないといけない。だから中国に負けてしまう。目標が低すぎます。昔ゲーテたちが、芸術に国境はないといったのは、音楽と絵画を意味したのだろうけれど、どうして見れば分かる日本の絵画はこんなにドメスティックなのか。思想というと唐突すぎるかもしれないけれど、大事なのは見る人を深く動かすことです。それは思想という以外はないのでしょうかな。

足立:(改めて)『東京美術市場史』(1979年、総美社)についてお聞かせください。

瀬木:美術批評に打ち込むようになり、国際的なマーケットを見てきて、日本のマーケットが特殊であることに気がついた。オークションなんてなかったわけですから。買い手ばかりでなく画家の競争を活性化すれば、もっと良いものが日本に出てくるだろうと思っていました。だから、新しい分野を開拓しなければならないと思っていました。ササビーズ、クリスティーズが進出してきて、80年代以降、日本にもオークションが根付いてきた。ああ、やっとここまできたかと思った。それで、日本の美術市場で特異だと思ったのは、業者市があることです。これは欧米にはないのです。魚屋や八百屋には仕入れ市があってもいいけれど、美術でこういう内々的なもので市場を動かしていくのはおかしいんじゃないかと思った。それで、その中心であった東京美術倶楽部が70周年を迎えるとき、その歴史を研究してみようという動きがあった。そこであそこに研究所をつくって、明治40年代以来の歴史を調べました。これは百貨店の歴史と重なるのです。当時始まったばかりのコンピューターを駆使して、初めてのデータベースができました。
 あれは二年ちょっとで終わったのですけれど、二階建てで庭があって、畳が千畳もあるような良い建物だったのです。あそこをゼネコンが狙って、高層化してしまったのです。テナントで悠々やっていけるからと。それに乗った役員が強行してしまい、今の大きなビルとなり、まったく雰囲気が変わってしまいました。その結果、テナントは充分入らない。逆に150億円くらいの借金を負ってしまった。それで、欧米のマーケットの研究なんかできなくなった。私に50坪の部屋を与えてくれることになって、そこで調査研究をすることになっていたんだけれど。それで私は、自分の研究を継続していくことになった。そして日本の美術史で不足している美術社会学を自分でやることになって、総合美術研究所を作ったのです。これはなかなか大変なことです。いかに機器が発達しても、費用と手間がかかります。今日までやってきたけれど、一向にこの分野が広がりませんね。日本の教育機関で美術社会学を教えることがほとんどない。あるとき美術社会学会をつくろうかと思ったけれど、名前が10人も挙がらないので、できなかった。私も講義では美術社会学を教えてきたけれど、やはり日本の教育機関が積極的にやってくれないと、これ以上にはならないでしょうね。
 美術館の数は増えたけれど、学芸員が私たちの先輩たちとほとんど変わっていない。美術館は研究の場であるけれど、同時に、経営というのを自発的にやらないといけない。国や県から事務系統がきて全部やってもらうのはよくないですよ。美術館の中から経営力を身に付けないといけない。それからコレクションについても、社会学的な見地から研究しないとだめです。住民サービスも社会との関わりとして大事です。そういうことを考えると、日本の美術史の教育は考え直されなければいけないと思います。美学美術史のまま広げていっていったって無理だから、欧米のように別コースをつくらないといけない。そこから、美術館に入る人、画商になる人、オークション業界に入る人、企業で文化活動に関わる人がもっと育たないと、この世界は広がらないと思います。
 これは個人でやるなんて大変ですよ。私は全部自分の収入をつぎこんでやっています。もちろんそのときどきで支援者はいましたけれど、最近の企業は無関心ですよ。慶應大学で社会人に開かれたアートコースができたけれど、何にもいいことを聞かないですね。他の大学でもそういうのを作ったけれど、上手くいってないようですね。学生も、そういうのを専攻するのが少ないのです。就職に困るんでしょうね。このことも含めて、批評家が自立するのは難しいです。美術評論家連盟は、今二百何十人もいるけれど、あれは評論家ではないのです。美術館学芸員かあるいは大学の先生の連盟です。美術評論に専心している人は10人もいるかどうか。美術批評は自立が大変です。原稿料では食べていけません。出版も危機でしょう。評論家が自立的に活動するのが難しい時代です。かつてないでしょう。しかし、嘆いてばかりでは、ちっとも良くなりません。国に依存していてはいけませんけれど、こんなに文化政策が脆弱な国はないでしょう。

宮田:そのように批評家の環境が悪くなったのはいつごろからですか。

瀬木:やはり90年のバブル崩壊からですね。あれ以降いっこうによくならない。バブル期はよくなかったけれど、バブル前の比較的ステディな状態がずっと続いていたらよかった。日本の国内マーケットを見ていても、87年の日本の美術市場には3,000億円の売買がありました。今はその三分の一しかない。逆にマイナスになったりする。今は国内で売れる画家がいない。バブルは特殊ですよ。あれは外国美術の輸入で膨れ上がったのです。ところが今は輸入どころではないし、逆輸出する作品もなくなった。オークションが十何社できましたけれど、シンワが今倒産寸前であるといってもいい。シンワが有明埠頭のほうに引っ越ししたでしょう。これが去年一年間でたった10億円の売り上げしかなかった。しかも2億7千万円の赤字を出している。平均価格が40万円くらいですから、その間、2、3万点売っていると思いますよ。だから今、日本の流通している画家の平均が40万円です。物故作家には売れるものがない。今まで売ったもので満杯です。価格が高すぎた。若手作家が小粒です。非常に悪い状態ですね。アメリカは世界の美術市場の30パーセントを占めていますが、1、2年の縮小は続くでしょうけれど、潜在的に買い手がいるのです。ニーズと分厚さと価格と。安いものは買わないのです。より高いものを買うのです。

宮田:批評家というのはアメリカで力を持つのですか?

瀬木:非常に力を持ちますね。特に新聞ですね。美術雑誌というのはそんなに力はないですよ。アメリカの批評家というのはほとんど新聞に属しています。フリーというのはあんまりいません。

宮田:アメリカの評論家で(クレメント・)グリーンバーグ(Clement Greenberg)はどのように思いましたか。

瀬木:彼はフリーだったけれど、商社の顧問になって、生活は安定していましたね。アメリカでもヨーロッパでもそうですが、美術館や大学の人は制約があって、あまり新聞に書けないのです。著書はいいのです。だから、どうしてもジャーナリストが発言力を持つ。日本では学芸員でも大学の先生でも新聞に何を書いてもいいのですが。

宮田:グリーンバーグについては、やはり瀬木先生が必要だと思って翻訳されたのでしょうか。

瀬木:グリーンバーグは、珍しく新聞記者型じゃないのです。やっぱり評論に徹して集中して活動した人じゃないですか。しかしそういう時代はもう難しいですね。批評家として自立して活動するのは難しいですよ。それはあなた、美術館とか大学に職があるのだから、評論というものに打ち込んでほしいですよ。

足立:ありがとうございます。

宮田:瀬木先生は50年代からずっと評論活動を続けてこられましたよね。

瀬木:私のころは職がなかったのです。東野芳明も中学の英語の先生だったけれど、二日酔い先生で勤まらなかった(笑)。針生一郎も東大から追い出されなければこうはならなかったかもしれない(笑)。今はみんな違いますよ。戦後は飢餓がありました。今は飢餓からものが生まれる時代ではないです。外見上からは見えない不満や不足があるのですよ。そういうところからしか、評論が出てこないと思いますね。

宮田:先生、1966年のMoMAで、「New Japanese Painting and Sculpture」という展覧会に関わられましたか?

瀬木:あの展覧会は(ウィリアム・)リーバーマン(William Lieberman)がまとめたもので、不評で、ひどかったですね。リーバーマンが日本に来て、見て、一通り当時のコンテンポラリー・アート、山口長男以下、具体なんかも入っているものをまとめたんだけれど、非常に評判が悪くてまいっちゃったんじゃないかな。それで、ニューヨーク・タイムズから私に批評を書けと言ってきた。日本の批評家として擁護してくれ、と。実際書いたけれど、ボツになりました。私の擁護する力が弱かったのかしらないけれど。それよりも、あまりに内容がよくないので、擁護する必要がない、と、エディターが判断したのではないでしょうか。ついに載らなかったのですが、ちゃんと原稿料は払ってくれました(笑)。ただ紙くずに捨てられたんじゃない。まあ、リーバーマンだって一生懸命やったんで、そんなに悪いとは思わないのだけれど、国際的に水準の高い所に持っていくと厳しく批判されるのです。
 ヴェニス・ビエンナーレもそうでしょう。日本のパビリオンに出しているのは良いけれど、版画もよかったけれど、最近日本人が受賞しなくなった。小さい賞は獲っていたかもしれないけれど。他の国の国際的な水準が上がっている。そういう中で残ってきているのが、「具体」なのです。それもちょっと狭すぎるとは思うけれど。あの中で個として見られるのが、5人ぐらいでしょうか。いつまでも「具体」と言っているのは残念です。みんな個性が弱すぎるのです。集団で出すと不ぞろいなコーラスみたいになってしまうのが残念です。一人一人が画家として自立しないとダメですよ。それが弱いのです。いつまでも具体、草間彌生、村上隆じゃ、ちょっと寂しいよね。個性的というのはね、まわりからつまはじきにされるくらい特色がないとダメです。私も変わっていて戦争中は酷い目にあいました。私なんか大した事ないけれど、芸術家というのは無茶苦茶でいいんですよ。何も自分を天才だと思う必要はないけれど、人のやれないことをやるという単純な原則ですよ。それがないと国際社会でやっていけない。エコール・ド・パリなんて、フランス人に嫌われたけれど、フランス人を圧倒しているじゃないですか。アメリカは雑種社会だから、人をぶん殴ってもやっていく国です。芸術はそういうものだと思います。
 私は教育制度がよくないと思います。美術に大学が必要だとは思えない。ましてや大学院や博士なんて。画家というのは専門学校で良いと思う。私は専門学校に戻せと言っている。教養は自分で習得できる。その代わり、プロフェッショナルな訓練を厳しくやる。ましてや大学院なんてありえないですよ。美術大学が多すぎる。あんなに要りませんよ。むしろ美術教育は専門学校で、3年間で充分だと思います。ちょっと日本の教育制度が根本的に間違っている。こんなところでいいでしょうか。

足立、宮田:ありがとうございます。