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関根伸夫オーラル・ヒストリー 2014年4月24日

埼玉県志木市、関根伸夫アトリエにて
インタヴュアー:梅津元、加治屋健司、鏑木あづさ
書き起こし:鏑木あづさ
公開日:2015年3月29日
 
関根伸夫(せきね・のぶお 1942年〜)
美術家
もの派を代表する美術家の一人。多摩美術大学・同大学院で斎藤義重の指導を受け、高松次郎と知り合う。1968年、現代日本野外彫刻展に《位相―大地》を出品、話題となる。《位相―スポンジ》(1968年)、《位相―油土》(1969年)、《空相―水》(同)などを発表。1970年、荒川修作とともにヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表となり、その後2年間ヨーロッパに滞在する。帰国後、1973年に環境美術研究所を設立し、奥久慈憩いの森(1979年)や多磨霊園のみたま堂(1993年)など、多数のモニュメントやランドスケープを手がけると同時に、国内外で多数の展覧会に参加する。現在はロサンゼルス近郊在住。1回目のインタヴューでは、生い立ちから、学生時代、斎藤や高松との交流、《位相―大地》の制作までお話しいただき、2回目のインタヴューでは、《位相―大地》やその後の作品制作、もの派の作家との交流、大阪万博やヴェネツィア・ビエンナーレへの参加、ヨーロッパ滞在、環境美術研究所の活動、国内外での作品発表などについて語っていただいた。

梅津:では早速、始めさせていただきます。よろしくお願いいたします。今回は今日ともう1回、2回インタヴューがあります。時代で言うと、第1回目の今日は生い立ちのところからエポック・メイキングである《位相―大地》(1968年)が生まれる辺りまで。どちらかと言うと事実関係というか、割と平易な質問です。2回目で少し難しい解釈、例えばもの派についてですとか、そういう込み入ったところについて質問させていただくという風に考えています。とりあえず今日は志木にうかがっていますけど、まず生い立ちについてということで。家族構成ですとか、ご両親がどういった方だったかなどをおうかがいしたいと思います。

関根:1942年、昭和17年9月12日に生まれました。私は記憶に全くないんですが、大宮市(現・さいたま市)で生まれたんですね。親父が埼玉県庁の役人だったもんですから、埼玉中よく移動しているんです。大宮は工業地帯がありましたから、比較的爆撃の対象になりやすい場所として、戦争で疎開することになりました。そこで同じく埼玉県の内間木村に親父の実家があり、そこに疎開したわけですね。その当時は親父は当然戦争に行っていまして、おふくろと僕以外に兄姉が3人いたわけですね。実際はその後ひとり生まれたんで、5人兄姉の4番目の三男という、かなりどうでもいいような感じですけどね(笑)。
ほとんどの幼年時代は、内間木村にいたわけです。そのあたりは水田とか竹林が多い田園地帯で全くの田舎でした。疎開した家っていうのは、親父の実家が昔、絹機織りをやっていた工場だったところで、それが故にかなり大きな家でね。女中部屋や離れがあって、そこで生活していました。荒川の主流であるその近くですから、昔はよく大水が出てね。だから必ずどの家にも天井に木造船が釣ってある。縄を切れば、それですぐ船が出せるという具合の場所でしたね。
2、3歳からそこに住んでいたわけですが、私の生まれが1942年ってことは昭和17年ですから、丁度戦争が終結する直前だったと思います。私には戦争の記憶はほとんどないんですが、荒川の堤防から東京の辺りが真っ赤に燃えている風景があります。たぶんあれを今調べると、東京が炎上したとき(東京大空襲)なんじゃないかなと思うね。みな家族とか近所の人が夜景というより、焼けている東京を遠望したという記憶があざやかにありますね。
あと、すごい低空の戦闘機とかね。それが何回もバーッと頭上に飛来して、ものすごくびっくりした記憶はありますね。それと戦後、近くに米軍の朝霞駐屯部隊が駐留していたので、そこに黒人や米兵が連れ立って、ジープであそびに来るんですよ。そのジープがものすごい勢いで堤防を駆け上っちゃうわけね。そういうのに乗せてもらったり。橋の上から飲んだビールの空き缶を川に流して、それをピストルで射撃する場面とかを見ましたよ。ピストルを発射するたびに薬莢が飛び出し、格好いい光景でしたね。

加治屋:じゃあもう戦後は疎開先の内間木村から、こちらの方へ戻られたんですか。

関根:いや、それからしばらく。私が小学校5年生まで内間木村にいました。だから幼年期はほとんど内間木の風景と共にあったわけだね。記憶としては非常に、自然の力というかな。自然の良さというか、そういう風景を満喫していた時代だと思います。私自身、非常に体が弱かったからよく寝ていましたね。寝て、ボーっと天井の木目を眺めてまどろんだりとかね。あるいはそういう模様をよく見て、空想している状態だったんですね。前も本に書いたんだけど(注:『風景の指輪』図書新聞社、2006年)、泥人形っていうのを作った記憶があります。それは大人から「土の人形は歩いて行っちゃうよ」と言われてね。堤防の上でもって、私が丹念に土の人形を作るんですね。親の一対と、子どもくらいの小さいのを作って。ちょうど、轍のところに並べて置いておくと雨が降ったり、誰かが歩いたりするんで、翌日見に行くと何故かなくなっちゃうのね(笑)。大人の人が自分をだまして「人形が歩いて行っちゃう」って言うけど、まさか「そんなはずはない」って子ども心に思って。何度もやるんですけど、結構なくなるんですよね(笑)。それが子ども心に非常に鮮烈な記憶として残っています。それからやがて彫刻家になったときに、粘土をいじっていたら「なんか昔にこれ、やっていたような気がする」って(笑)。その小話を思い出しました。そんな原風景がありましたね。
そう、上の兄貴がよく、魚捕りをするんですね、置き針ってわかりますか。こう、竹に長い紐がついていて、そこに点々と針があって。そこにミミズを刺して、先端には石がついていて、それをポーンと投げると、夕景の川にそれが円弧を描いて、鋭いきれいな波紋ができるんです。翌朝早く行って上げると、鯉とかフナとかウナギだとか、いろんな魚が捕れた記憶があります。それが戦後の我が家の、かなり貴重なタンパク源でしたね(笑)。タンパク源がない時代に、それを喜んで食べた記憶が残っています。病弱だったんで、四季の移り変わりの風景がその頃の一番大きな関心事ですね。

加治屋:泥人形を作られたり魚釣りをするときというのは、友達と一緒に遊んでいる感じですか。それともご兄姉、あるいはひとり。

関根:兄姉ですね。魚捕りは当然、次兄とやっていましたし。泥人形はひとりで(笑)。全くひとりで密かに人形を作る作業でしたね。

梅津:先ほどお父様は県庁の職員で転勤もあったということですけど、お母様は。

関根:大宮時代に私を生んだわけですが、彼女は小学校の先生だったんです。それで学校の行き帰りに庚申神社があり、そこへよくお参りして学校から帰ったそうです。そういう道程だったんで私が生まれたのは庚申様のお陰だと信じて、庚申の申を、申って書くんですが。申夫(さるお)ってつけようかって(笑)。申夫はちょっとなんだから、それににんべんをつけて伸夫にしたんです(笑)。サルを人間にしてあげようって。

一同:(笑)

関根:それで伸夫になったのは聞いています。お袋は根っからの教育者ですね。内間木にいるときは、よくリヤカーで僕を乗せて買い出しに行くんです。お米や身の回りの品を買いに行ったりね。彼女は当時、ちょっとハイカラおばさんだったのかな。ドイツ語の歌曲などを原語で歌うんですね(笑)。

梅津・加治屋:ほう。

関根:それを、僕に聞かせるんですよ。そういう、ちょっと飛んだお母さんでしたね。非常に自然の美しさを賞味し、僕に教え込むというかね。そういうことをよくしてくれましたね。

梅津:お仕事をされていたということは、お家にいらっしゃるという感じじゃなくて。

関根:内間木に疎開したときはもう退職していました。主婦業に専念していましたね。そのころ、非常に物資がなかったりしたから、畑を作ったりしていましたね。大宮にいたときは先生をしていたから、子育ては別に姉やが居ましたから。自分で育てなかったから、私のときは熱中して育てたみたいね(笑)。

梅津:ではほかのご兄姉のときはお仕事をされていて、直接お母様が手をかける時間が少なかったご兄姉もいらした。関根さんの場合はお母様の手でもう、しっかり(笑)。

関根:その割にいろんなことを教わってないけど(笑)。本来子どもの持つべき習慣がちゃんと根付いていないですけど。

梅津:先ほど少し病弱であったというお話もありましたが、戦争の時期ということもあったかもしれないんですけれど。学校生活や集団行動へは違和感なく順応されていましたか。あるいは少しひとりになりたいとか、その辺の気質がおありになったということは。

関根:うーん、そうですね。実家の隣の女の子が礼子ちゃんっていう子がいるんだけど。その子が同い年なんだけど、すごくしっかり者で私にいろんなことをやってくれるのよ。その子とは根っから、よーく遊びましたね。それこそ、おままごととかね(笑)。それから食事を作って、私が食べなきゃいけない、それは皆、遊びの話ですけどね。小学校に上がった頃、私はボーッとしてましたから、その子が連れてってくれたみたい。相当、幼く知恵が遅れていたんだと思いますね(笑)。今、思い出してもね。私は子どもとして非常に幼稚な子だったと思う。

加治屋:本の中で、幼稚園に行かない代わりに大学院に進まれたと書かれていましたけど、幼稚園に行かなかった理由というのは、何かあるんでしょうか。

関根:近くになかったんですよ(笑)。

加治屋:幼稚園がなかったんですか。そうか。

梅津:単純に(笑)。

関根:お店もね、ほとんどない。おもちゃも売ってなければ、食品も家で作るもの以外はほとんどなかったですね。普通の子どもなら買い食いしたり、おもちゃで遊んだりそういう楽しみがあるんですけど。私のときは全部なかったです。全部手作りで作ってね、おもちゃもね。そこのあたりは竹の産地なんで、竹でもっていろんなものを、鉄砲を作ったり刀を作ったり、ありとあらゆる玩具を竹で作りましたね。常に小刀をポケットに持ってて、何でもバーッと切ってね。だから非常にローカルで、なおかつ素朴な貧しい生活環境だったと思いますね。ただ圧倒的に自然の美しさ四季の変化というのかな。そういう自然に翻弄されていた感じがありますね。

梅津:小学校の高学年で志木にお戻りになられて。

関根:そう、5年生のとき。それは親父の転勤の関係で、あまりにも内間木村から通うのが大変なんで、志木に移住したんですね。親父の次兄が志木にいたり、その世話もあってこちらに家を建てて住み出したわけですね。5年生の途中から来たので、だから半年じゃないかな。4、5ヶ月かな。内間木の小学校へ自転車で通いました。

加治屋:志木から。

関根:そう。

加治屋:じゃあこちらの小学校は通わずに向こうの小学校を卒業した。

関根:いや、6年生からこちらに。学期の途中なんで、5年生のときは暫く内間木に通ったわけですね。

加治屋:引っ越されて随分環境が変わったんじゃないかと思うんですけど、いかがでしたか。

関根:まるっきり変わりましたね。親父の次兄に従兄弟がいて、こちらに来てからはその連中とよく遊びましたね。ちょうど僕の1歳上と1歳下の子がいるんで。志木に来たら、塾とかそういうのがいっぱいあるのよね(笑)。それで最初はそろばん塾に入りました。

梅津:習い事ですね。

関根:うん。あと、書道。そろばんはね、僕は手が非常にブキッチョなんだよね。そろばんをやっていると、弾いたつもりが2個ひっかけちゃって(笑)。だから、なかなかね。半年くらいやっても、ぜんぜん進級しないんだよ、結局、そろばんは途中で才能が無いのでやめました。書道の方はね、今はもうそんな先生は居ないと思うんですけど、前衛書道の人だったの。彼の教室に行くと、壁に前衛書道の作品写真とかがいっぱい掛けてあってね。それで漢字を書くより、どうも前衛の書道の方がおもしろそうと惹かれちゃってね(笑)。

梅津:珍しいですね。

関根:だから私はその頃は墨でドリッピングだとか、点描とかボカシばっかりやってたの。書道教室へ行って、本当に前衛書道をやっていた。始めからスタートが違うんだよ(笑)。

梅津:アンフォルメルに惹かれる理由は、その辺に出自があったと(笑)。

加治屋:その書道教室の先生のお名前って、憶えていらっしゃいますか。

関根:これはね、もうわかんないね。私も調べたことがあるけど、短い時期だったがよくわかんない。

加治屋:でも他の子どもたちは、普通にきれいな字を書いているんですよね。

関根:そう(笑)。

一同:(笑)

関根:きれいな字を書く部門というか。ほとんどの子がそうなんだけど(笑)。私はドロップアウトして、そっちの方がすごくおもしろいわけ。それはね、庭に行って練習をやるの。庭に紙を敷いて、そこでドリッピングしてました。

梅津:庭って、地面に紙を置くんですね。

関根:そう(笑)。

鏑木:書道の先生は関根先生のドリッピングを見て、指導とかしてくれるんですか。

関根:すごくおもしろいって言ってくれて(笑)。だって、もともと前衛の系統の先生だからね、なんだか妙に感心されるのよ。それも何だか不思議だったね。

加治屋:その頃、小学校とか中学校とかですかね。

関根:小学校だね。

加治屋:小学校! 早熟ですね(笑)。

梅津:小学校で前衛書道を(笑)。

関根:前衛書道が塾だったからね。今はあんな先生いないだろうな。いるかな。まぁ、お絵描き教室ならあり得ると思うけど。書道で前衛というのは、珍しいよね。だって皆、字が上手くなるように行くのに(笑)。

一同:(笑)

関根:きれいな字を描くのは始めから興味なくて、ほとんど前衛だけでした。

梅津:ご両親もそんなことをされているとは、知らずに通わせていたんでしょうね(笑)。

関根:あんまり、家に帰って来てもそんなことは言わないしね。「今度のはきれいにいったよ」なんて(笑)。説明しようがないしね。

鏑木:そろばんはあんまり得意じゃなかったけれども、書道は楽しくされて。

関根:そうですね。それはもう、熱中する遊びですからね。苦痛じゃないよな(笑)。発散する、しかも自由に紙が使えてね。まぁ、白黒であるのは間違いないけどね。相手は墨だし筆だしね。指だけでやったこともありますけど。

加治屋:でも小学生だと、たぶん前衛って言葉は知らないですよね。

関根:うん。前衛とは言わなかったのかな。

加治屋:どういう風に思われていたんですか。新しいとか、先端のものだという風には。

関根:いや、そこまで認識してなかった。ぼやっとしてましたから(笑)。ただ、やたら面白いってことですね。いわゆる整理した情報っていうのかな、前衛的で、先端的とかそういうのは全然知らなかったですね。だから書道って言うと、まずは小学校の塾の前衛のもんだってね、思っていたかな。(笑)。

梅津:小学校でそういうことをされていたというのは、ちょっと驚きです。中学校くらいになると一般的に自我が芽生えて、文学や美術への関心が芽生えてくると思うんですけれど、その辺の感覚というのはご自身のご記憶ではいかがですか。

関根:母の弟が絵の教師だったんですよ。内間木にいた頃も、よく母親と一緒に実家に行くでしょ。池田要っていう人なんだけど、その人のアトリエがあって、豊富な紙と絵の具とかクレパスとかパステルとか、すごく揃っていていたんだ。それを使って私、だいぶ描いたんですね。そこでは彼が私にフリーに描かせてくれる。全然注文なく自由にやらせてくれたのね。すごく彼は感心して「きれいだね」とか言うだけで、ほとんど指示がない。そういう中で水彩画っていうのを随分やりましたね。
彼のレパートリーは静物画、コップだとか瓶だとかリンゴだとか、そういうのを描いていました。後でよく聞くと、水彩連盟協会というのがあって、そこに所属していたわけですね。その会でいろんな分科会があるらしくて、それに私も連れて行ってもらって、偉い先生が批評したり合評に立ち会ったりしましたね。私が描いたものも、もったいぶっていろいろと批評するんですが、なんて言うのかな。偉い先生の言うことは、ちょっとインチキ臭いなと思いましたね(笑)。そうすーっと思っていましたけどね。ただ絵に関心を持ったのは、その池田要さんという人がいたからですよ。普通の人より絵に接した機会は多かったですね。その人が中学になって、私の担任になったこともあるんですよ。

加治屋:じゃあ中学校の教師をなさっていたんですね。

関根:そうです。絵の先生で、私なんかは特別に随分やらされた方ですね。やらされたって、強制ではないんだけど。仕向けられたっていうかね。

加治屋:そのとき関根先生は、どういう絵を描かれていたんですか。

関根:まぁ普通ですね。風景画が多かったですね。これはよく覚えているんですが、中学校の絵の時間というと、大体その当時は風景画を描くんですよ。皆、教室から近くの好きな風景を見つけて、絵を描いて来るんですね。始めものすごく真剣に風景を描いたことがあるんですよ。それこそ写実的に具象的にね。だけど太陽の元で風景を描くんで、すごく変化しちゃうわけね。太陽の位置によって、今までの影がどんどん変わっていったり。それから曇ってくると、また色が変わったりね。だからこれはとっても真面目には描けないというのが、実際に得た感触ですね。基本的に真実の姿は描けない、結局は描けっこない。それで思ったのは、自分の意志で描けばいいんだ、ってことですね。だから早く目覚めちゃった(笑)。絶対正確にその通りなんて描けないんだから、自分の意識で描きたいように描く。訴えたいように描くというのは、その頃からやっていますよね。それは風景を真面目に描いたときがあるから、そういう感触を得て。もう基本的には好きなように描く、それでいいんだって認識しちゃったんですね(笑)。だから割とそういう、自分の中で評価して考えるのが結構好きなもんですから。普通の人とはその頃から、ちょっと意識が違うかもしれないですね(笑)。

加治屋:中学の頃っていうのは、例えば図書室に画集があったり。そういうものを見たご経験はありますか。

関根:それは高校ですね。美術部に入って、休み時間になると部室へ行くんですね。『美術手帖』と『みづゑ』が全巻揃っていて。あとは岡本太郎の著作集。

加治屋:おお。

関根:その辺をいつも読んでいました。読んだり見たり。だからすごく、ある意味で美術的にはませてましたよ。みんな美術雑誌で知っちゃってるから。高校時代で前衛的な美術をほとんどね。目覚めちゃったから。当時、高校時代だとアンフォルメルが全盛期の頃です。アンフォルメルの作品はもう、毎日見てたっていうかな。その解説を読んだり、そういう細部まで知ってましたよ。ある時、気になる作家として、ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier)っていう人がいましてね。〈人質〉っていう作品があるんですね。その作品を初めは「なんだろう、この人。なんていう絵だろうな」と思って。全然わかんなかったから。しかし、なにか気になる作家なんだよね。何度見ても、すごく打たれる感覚があって。そのときに解説を読んだら、斎藤義重さんが一文寄せていて。そのタイトルが「伝統の終焉」(『みづゑ』第658号、1960年2月)なんですよ。つまり、近代ヨーロッパの近代主義の終焉を告げるのがフォートリエだと書いてあるわけ。まぁ文章の主意はさっぱりわからなかったけど、「すげえな、この人」と思ってね。絵描きがこんなに論理的に文章を書けるってすげえな、って妙な感心をしまして(笑)。その後、受験に失敗したら、「斎藤先生が行ってる学校はないかな」と思っていろいろ探したけど、当時は先生をやってなくてね。見つけられませんでしたけどね。

梅津:丁度、高校時代の話に入ってきていますが、川越高校っていうのは埼玉県内では優秀な学校ですよね。

関根:それに至ったのは、やっぱり先ほどの池田要先生が自分の母校だから、どうしても勧めるのね(笑)。そういう関係もあった。私は浦和高校に行こうかと思ってたんだけど、通うのにちょっと大変なのと、レベルが少し高いのと(笑)。それで無理だなということで、川越高校になったんです。
そこで出会った絵の先生が、強烈なんですよ。大沢寛っていう先生ですけどね。よく言う話なんですけど、最初の授業のときにツカツカって入って来て、全然愛想のない人なんだけど、皆の顔をちらっと見て、それから黒板に向かって白墨を持って、左から右まで黒板にずーっと1本の線を引くわけ。そして皆の方を見て、ニヤッと笑ってね。振り向いて、線の上にポーンと点を打つわけ。そして「君たち、この線をなんだと思う」ってしわがれた声で言う。皆、わかんないよな。だから無言ですよね。そうしたら「これを人類の歴史だとしようよ」。縄文時代、石器時代、奈良・平安といって、これから先が未来だと。ポーンと打つ点は、「あんたの人生だ」って言うわけ。長い歴史の中で、あなたの生きる時間はこの点と同じだと、あなたにはこれしか時間がない。「だから、おもしろいことをやろうね」って言うんですよ(笑)。それに強烈に反応しちゃってね。それから、その先生にくっついていましたね。
その先生は東京芸大の美学を卒業したの。美学っていうのはまた変わっててね。だからすごいいろんな美術書なんかを見せてくれたりするんです。非常に論理的な話ができるのね。皆が描く絵を批評する時に、ひっくり返しちゃったりしてね。そして「こういう風に見たらおもしろい」とかね。見る角度が、非常にフリーなんですよ。すげえおもしろい先生。考え方が全く独特だから。美術によって訓練されているから、言うことが常識的じゃない。僕らはすごく感化されたよ。それで、美術部に入っちゃったりして(笑)。あと高校時代に僕が一番よくやってたのは、読書ですね。本を読むこと。授業の三分の一は出なくていいんだよね(笑)。

一同:(笑)

関根:だからその三分の一の時間を、うまくローテーションを組みながら休むわけ。休むと何してるかっていうと、必ず本を読んでる。

加治屋:どんな本を読まれていたんですか。

関根:もう、ありとあらゆる物だね。一定なものはないんですけど、哲学的な本は随分読みました。それから宗教の本も読みました。ただ当時思っていたのは、高校で教えてもらうより読書がおもしろいってこと。

梅津:読書の方が(笑)。

関根:人生にとって有益なものは、はるかに本の方に詰まっていた(笑)。そういう風に自分は判断して。だから高校に入った当時は300人中20番くらいだったんですけど、出るときは200番台の末までなっちゃって(笑)。勉強はすごくできなかったね。ただ、本ばっかり読んでいた。

加治屋:美術部では、どういう作品を作られていたんですか。

関根:私はもう、その頃から抽象絵画(笑)。

加治屋:ああ、そうですか。

関根:だって、よーく知ってるんですから。毎日『美術手帖』を見ていて、おもしろい絵はアンフォルメルの時代ですからね。だからそれはもう、徹底的に見たり読みましたよ。

加治屋:その時っていうのは例えば、顧問の先生とか同級生とか先輩後輩と話したりっていうのは。

関根:うん、それは美術部ではありますよね。有名になった奴だと、長澤英俊が私より一級上。まだ、いっぱいいますよね、中野武夫とか。長沢秀之、彼もそうだな。岩田甲平くんも。川越高校の美術部は、かなりそういう人を出してる。というのは、さっき言った大沢先生が飛びぬけておもしろい人だったから。やっぱ感化される人が多いんですよ。私もそのひとりなんだけど(笑)。

梅津:やっぱり描くだけじゃなくて情報が集まっていて、そこで『美術手帖』や『みづゑ』、さっきの岡本太郎にしても、同時代の最新の情報を得られるっていうのがすごく貴重なことですよね。

加治屋:そうですよね。普通はやっぱり、アンフォルメルって大学に入ってから知る人が多いですよね。

関根:そうそう。僕はもう高校時代には、ほとんど前衛的な現代美術は理解しちゃったね。

梅津:(資料を見ながら)これは図版がモノクロなんですけれど、前に埼玉県立近代美術館で一度お借りしたことがあるんです(注:常設展特別プログラム:アーティスト・プロジェクト「関根伸夫《位相―大地》が生まれるまで」、2005年)。これが1960年の関根さんの作品で、裏の木枠に「県立川越高校3年E組関根伸夫」って書いてあるという(《アンフォルメル》1960年)。

一同:(笑)

梅津:高校生のときに、もうこういうアンフォルメル絵画を描かれていて、ちょっと驚きでした。1960年でしょう。ほとんど同時代。

鏑木:早熟な(笑)。

関根:ねぇ、早熟だ(笑)。

鏑木:周りのお友達も、皆さんこういった作品を描かれていたんですか。

関根:皆さんってわけじゃないな。何人かはそうだった。

鏑木:じゃあ関根先生は、その中ですごく先んじていた。

関根:私が一番先んじていたかどうかはわからないけどね。そっちに熱心だったね(笑)。

梅津:そういう美術部もあまりない気がします(笑)。

加治屋:大沢先生は美学出身ですが、ご自分でも絵を描かれていたんですか。

関根:ええ。その人は風景みたいな絵を描いてるの(笑)。

一同:(笑)

関根:それがちょっと未だに、なんぼ考えても合点が行かない(笑)。普通だったら前衛的なね。考えも前衛的だし、言うことも全部飛んでいるし。人の絵を逆さにしたり、それを平気でするんだからさ。すごい特殊な感覚を持った人だったろうけどね。ただ、本当に授業中でも抽象絵画を見せてくれて、「いいだろう」って言うんですよ。皆、なんのことかわからない(笑)。でもね、そうやって「いいだろう、いいだろう」ってね。「これを見ろよ」って言うのを聞いているとね、なんかそれが移っちゃうんだね(笑)。伝播しちゃう。そういうのがアリなんだ、みたいなね。だから一気に絵のカテゴリーがぶっ飛んじゃうというか、価値観が広がっちゃうというかね。その辺はすごい人だったね。あんな先生、なかなかいないわな。

梅津:アンフォルメル風の絵を描かれたり、そういうおもしろい先生がいらっしゃったりして、かなり進んだ考えで美術部の活動をされていたと思います。その時に自分の人生の選択肢として、画家になるとか芸術家になるとか、そういう意識はそれほど強くなかったのか。あるいはどこかの段階で、徐々にそういう意識が芽生えたんでしょうか。

関根:中学の池田先生にしても、大沢寛先生にしても生活がわかっちゃうわけよね。

梅津:あ、画家の生活が見える。

関根:だから思うに、「冴えないなぁ」と思ってしまう(笑)。

一同:(笑)

関根:ああいうのはあんまりなりたくないなって(笑)。美術の専門家になるに対してはずーっと、ある意味でちょっと拒否して諦めていましたね。できたらもっと、他の分野に突入しようと思って探したけど。まぁ他にあんまり、自分では発見できなかったね。それとさっき言ったように、フォートリエを「わかった」と思ってね。よく言う話だけど、フォートリエは普通の美学じゃないよね。もっとこう、人間の悪だとか嫌悪感とか、そういう人間の醜い要素をも含めた作品じゃない。だから人間における全方位的な考え方ですよね。今まで知ってる美術っていうのは、美の追求と云ったカテゴリーでしたから、それだと自分は漠然とやれないな、と拒絶していたんですよ。だけど全方位的な考え方でいいんだ、と合点したときに、「ああ、美術をやってもおもしろいかな」って思ったんです。だから高校の3年生ぐらいに、そういう風に思い始めたんだよ。それからですね、美術を本格的にやり出したのは。それまでは半信半疑で、絵を描くのは、まぁ嫌いではないけれども、かと言ってこれを仕事にするとは(笑)。到底思えなかったし、それは決してアリではないと思っていましたね。

梅津:文学に関してもかなり興味があって、小説家になりたいと思われた時期もあったとか。

関根:本をものすごい読んでいましたからね。文学も随分読んだし。だからある時、小説を書いてね。京都の三十三間堂のお寺を舞台にした時代小説を書いた。高校時代に書いたから、あんまりいろんなことを実感してないし、恋愛も知らないし、それでいきなり恋物語みたいなのを書いたからね。書けないことはないんだけど、なんかすべてがフィクションで、そうね。そのフィクションに恐れをなしたんだね。書けないことはないけど、書いてはダメというね。小説っていうのは、実感がないのに書いてはマズいと思ってやめたんです。

梅津:人生経験が必要だと。

関根:うん。だから10年か20年して、それから書こうと思ったんですけど。書きたいことが山ほど出てきたときに、書けばいいんじゃないか。だけど、ついぞ出てこなかった(笑)。だけどいろいろ。哲学者になりたいなとか、いろんなことを空想しましたね。

加治屋:当時、哲学だとやっぱりサルトルとか。

関根:うん、サルトルとか。そうですね。あと、まともに読んだのは宗教の本。禅とか。禅は昔から愛読書ですね。この近くの新座市に、そこには臨済宗の平林寺というお寺があるんですよ。そこへ本を持ってよく休みがてらに行ってね、本を読んでたんですよ。ある時その寺の玄関で、うら若き頭を剃った僧がバーッとひれ伏してるの。床に額がくっつくような感じで、ずーっと静止してるんだな。その前に屏風があってね、「関」って大書してあるわけ。そこへひれ伏していて、翌日行ったらまだひれ伏してる。その次の日は行けず一週間後に行ったら、もういなかったけどね(笑)。そのとき思ったのは、禅に入門するには即修行だということ。それが非常に肉体的に苦痛感もあって、門を叩くことはできなかったですね。それと、なんとなく今風じゃない意識が頭をよぎって(笑)。そのふたつがあって、それで私は行けなかった。ただ真剣に、僧侶になろうと思った時期もありますよ。

梅津:哲学や宗教という、根源的なものへの志向というか。なにかそういうものを、割と若い頃からお持ちだったんですね。

関根:あるよね。そういうのがずっと、自分が今存在しているというのをどう解釈するのか? という意識が、いつも私につきまとってるかな。なんていうかな。すごくそういうことに関心があった。もう、すごく読書したから、そういうことが一番の精神的な関心事だったんですね、私には……。

鏑木:読書以外に好きだったことはありますか。映画とか音楽とか。

関根:映画はよく観ましたね。映画はものすごく。あの授業をサボってね(笑)。あの当時、いい映画がいっぱいやっていた。

鏑木:印象に残っている映画はありますか。

関根:うーん、安部公房の……『砂の女』とかね。

鏑木:ああ、やっぱり前衛的な映画なんですね。

関根:そうかな。いや、意識してそういう方に行くわけじゃないけど、そういうのを観たり。日本映画でもあの当時、すごくレベルの高いものがいっぱいあったよね。白黒の、今はあんまり観られないような映画ですけどね。それが町場の映画館でやってたんだから(笑)。

梅津:確かにそれを考えると、かなりアヴァンギャルドなものが映画館で(笑)。

関根:でも、趣味はやっぱり読書だったな。読書がほとんどだったですね。

鏑木:本は図書館に行かれて借りていたんですか。それとも買ったりとか。

関根:そうですね。買うのはほとんどなかったけどね。夏休みの間に図書館で40冊ぐらい読んだことあるよ。それがその当時の記録だな。しかもね、厚い本を随分読みました。ドストエフスキーだとか(笑)。もう、本当に熱中して読んでいましたよね。ドストエフスキーがすごく好きだったの。それからは、だいぶ変わってきましたけどね。
なんか、でもドストエスキーも根源的にはわかんないのよね。なぜかと言うと、キリスト教を知らないから彼らの本当のテーマが、ちょっとわかんない。感覚的にはわかるけどね。まぁそれから、太宰治とかね。あの辺は愛読書みたいだけど。だから、彼には悪ふざけ半分みたいなのが沢山ありますね(笑)。

加治屋:高校時代は1958年からで、1961年のご卒業となっています。丁度高校3年生のときが60年安保だったと思うんですけど、なにか印象というかお考えというのはあったんでしょうか。

関根:えっとね。60年安保は、私はほとんど関心なかったね。高校時代にそう闘争をしてるグループもあったけど、私はほとんど興味はなくて。むしろ70年。あっちはちょうど大学院か大学4年くらいだから、そっちは少し。

加治屋:それはまた後で、お話をうかがえればと思います。

梅津:先ほどお話が出た高校3年ぐらいで、画家というか美大・芸大進学というのを意識的に持たれて、最初に受験されたのは芸大ということですよね。その後に浪人時代が1年間続くことになる。高校を出られて受験のための浪人期間の過ごし方は、本でもいろいろお書きになっていますが。

関根:いやぁ、浪人時代っていうのは私は本当に楽しかった(笑)。何故っていうのは、学校に拘束されないし、いつもスケジュールが自分で決められたでしょ。私のアトリエがあって、そこで午前中は抽象的な作品を描きますね。それから受験のために駒込美術研究所に通って、それで終わらないんだ。それから寛永寺坂美術研究所かな。それは上野の寛永寺にあるんですけど。そこで人体のクロッキーとかやってた。だからすごく自由に調整したのよ。その頃知り合った友達がモダンジャズ気狂いで、その人に連れられてよくジャズ喫茶へ行ってね。コーヒー一杯で随分長いこといてね。その間、いつもスケッチブックに線描の抽象画を描いたりしてました。ジャズに合わせて聴きながら描いていているのが、気持ちいいのよね。寄りかかってる壁が振動してね。東京駅の八重洲口あたりに「ママ」っていうジャズ喫茶があってね、そこへもよく行ってた。もうないかな。すげえガンガン音が響いて、やることはいつも抽象的なドローイングですね。

加治屋:抽象画を描いていらっしゃって、でも受験では石膏デッサンをやらないといけなくて。

関根:そう(笑)。それはそれで。

加治屋:それは割り切って。

関根:うん。でもね、初め高校のときに東京芸大を受けたんだよ。その時はデザイン科で受けたのよ。大沢先生がね、美術をやるにはとにかく食べなきゃいけないから、まずデザイン科へ行けっていうわけ。だからあの高校の人は、ほとんどデザイン科に行くんですよ。私もそれに従って、デザイン科を受けたんですけど。浪人になって駒込に通ったときは、そこの講師が芸大の助手の人でね。その人が僕の資料を見たらしいんだ。それで「君、デザイン科を受けるんだって」って言うわけ。「はい、そうです」と言ってね。「どうせ絵じゃ食えないでしょ」って(笑)。

一同:(笑)

関根:その講師はカチンときたと思うんだよね。自分が一生懸命やってるのに、それを全否定されたので。それで「お前、もっと人生にチャレンジしろよ」とかね、いろんなお説教を言うのよ。それを何度か聞いて、最もだと納得しゃって、それから私は変更しちゃった(笑)。それも親なんかには全然相談しないで、もう自分で変更しちゃった。なぜかっていうと、私はもう三男坊じゃないですか。子どもの進路なんて、親はあんまり興味持ってないから(笑)。だから自分で決めりゃいいんだな、と思って変更しちゃったんですよ。

加治屋:浪人時代は、展覧会とかもご覧になっていましたか。

関根:それは観ましたね。当時、すっごく観てました。一番代表的なのは、読売アンデパンダン展。篠原有司男なんかがボクシング・ペインティングをやり、それから工藤哲巳とかね。中西夏之とか、高松次郎とか。もう錚々たるメンバーが、皆すごい実験作をやってた時代だったから。アンパンは必ず観に行きましたね。それも何度も行って観ました(笑)。あとは銀座に東京画廊があり、当時は並木通りの1階にあったので、外からも観られる。そこにものすごい前衛的な絵が、バーンと道行く人に見えるわけ。そこにも行きましたね。あとは南画廊か。サム・フランシス(Sam Francis)や(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)だとか、当時のスターたちが随分生で観れたんですよね。私もその情報は熟知していたから(笑)。雑誌はよく読んでたしね、よく行きましたよ。受験半分なんだけど、受験よりそっちの方が相当関心がありましたよ(笑)。

梅津:そういう展覧会をご覧になるときには、お友達とか知り合いとか。

関根:いや、ほとんどひとり。というのは、友人とスケジュールを合せるのが面倒だからね。そして皆が関心あるとは限らないからね。自分は関心があるんで。

加治屋:篠原さんのアクションとか、当時、作品を作る過程、行為というのが話題になっていましたが、先生はそういうところに関心を持たれたことはありますか。後の言葉で言うところのパフォーマンスになりますけど。

関根:うーん、それに関心を特には持ってなかったですね。ただ、篠原さんなんか特にそうですけど、アクション、ペンティングの結果だけじゃ面白くないから。やっぱり実際に演じてみせるのを観に行きました。アンデパンダンはすごくおもしろかったね。あの頃、一番おもしろい展覧会だったね。しかも当時の東京都美術館、それがあんまり整然としてなくて。もう、でっかい作品があったり小さい作品があったり、もう様々だったし。よくあんな風に美術館を解放するなと思うくらいすごい(笑)。ある部屋なんて、天井からアンパンが、パン食い競争みたいに吊ってあるんですよ。その中に皆、入ってね。パンをかじってたり(笑)。それからボクシングをやってたり、いろんなことができる。そういう作品があったよね。ものすごい自由だったんですよ。あんな自由ってのは、なかなかないな。しかも今だったら、ピピピって警笛を吹かれる(笑)。しかしその頃はもう、参加して実際にやっていた。ハプニングのハイレッド・センターの動きなんかは知ってたけど、実際は観てないね。あれは場所とか時間を察知するのが難しい。予告してないからね。ただ、関心は持っていましたね。

梅津:その頃はまだ美大・芸大受験のための石膏デッサンをやったり、受験の準備をしつつ、そういう世界も熟知していて生でご覧になっていて、ご自分も制作する側として絵画だけじゃないこともやりたいというお気持ちはありましたか。

関根:ありました。なにぶん小学校から前衛書道をやってるからね(笑)。だから、全然抵抗感がなくバリアがなかった。しかも、そっちの方がリアルなことはリアルだね。瞬発力があるしね。見ていておもしろいし、こちらも参加することができたわけで。

梅津:そろそろ一旦、休憩しましょうか。

(休憩)

梅津:川越高校を卒業、それから浪人時代とお聞きしたので、大学入学の頃からをお話いただければと思います。多摩美術大学に入学にされた当初の大学の雰囲気ですとか、学生生活の前半はどういう形で過ごされていたかをお聞きできますか。

関根:やっぱり美術を志す人たちの常として、東京芸大を受けますよね。それで、落ちましたね。どこへ行こうかなと思って。それこそ斎藤義重がいる大学はないかな、とか探したけどなくて。それで多摩美に入ることになりました。やっとひっかかって、入れることになったんですけど(笑)。私は絵画専攻油絵科に入ったんだけど、私が同級生たちに現代美術の話をしても、通じないので驚いちゃってね。そもそも関心がないから通じないわけよ。おいおい、美大へ来たんだろ、って言いたいが誰も関心がない(笑)。弱ったな、これはどうしようかなと思って、たまたまね、空手部に入りました(笑)。

一同:(笑)

梅津:たまたま入ったっていうのも、すごいですけど(笑)。

関根:空手部に入って、そこで空手だけを一生懸命やったの。というのも浪人の時代の不摂生がたたり、体力がものすごく衰えて。大学3年の前半くらいまで、熱心にやっていました。同じクラスの人もいたりしましたが、とにかく大学前半は空手ばっかり(笑)。

鏑木:もともと空手をされていたんですか。

関根:そういうことは一切なく(笑)。

鏑木:そうですよね。だって高校時代までは、どっちかって言うと文系ですよね。いきなり……

関根:しかも、大学でやるべき目標を全く見失ってね。それで空手部に入ったってわけだ。その当時の空手部は糸東流っていう流派なんですけども、試合に防具をつけてやるの。格闘技みたいなね。初めのうちは順当に空手の訓練をするが、日大の空手部の人が教えにくる。それでその師範は、ものすごく絞るからもの凄くやるようになってしまう(笑)。

梅津:本格的な(笑)。

関根:プロみたいな感じよ。しごかれてね。(空手の身振りをしながら)だから学校のピロティで、よくこんなカタをやってた。美大の人たちは皆、遠巻きに見てる(笑)。なんでこんなことやってるんだって反応かな。近くに神社があり境内とか多摩美のピロティの辺りでやっていました。練習は昼休みから始めるのかな。

鏑木:授業はいつ受けてたんですか。

関根:学科の授業が午前中に、全部仕組まれてるんです。それはまぁ出ることになるんですよ。午後からはほとんどがデッサンだから(笑)。あんまりやる気もないし、空手ばかりですね。

鏑木:当時は上野毛ですよね。

関根:上野毛です。学科の先生でかなり面白かったのは、日本美術の吉沢忠先生がいたんです。本をその人が書いていて、それを説明しながらいろんなスライドを見せるんですよ(吉沢忠編著『日本美術史』造形社、1959年)。その当時私はなにをやったらいいか解らず、抽象絵画でも、自分なりに打ち出せるテーマがなかったわけです。アンフォルメルの位置づけの中で気づくことはあっても、もっと自分の問題点というか、立脚点というかな。そういうものが全然見つからなかったが、吉沢忠さんが日本美術の解説を延々としてくれてね。それを見ていたときに、突然ある光体が部屋中をながーく走って「これを真剣に捉えなければ……」という意識みたいなものを残して消えました。それで日本美術は当然、実地で現物を観ないことには話にならんと思ったわけね。
ところで大学ってめちゃめちゃ休みが多いですね。それでよく大学の休みを利用して、『日本美術史』を片手に京都・奈良へ自主的に行きました。自分ひとりで安宿に泊まって、端から観ていく。その当時良かったのは、公開だけども見学は自由になってるわけ。今みたいに、制限がついてない。美術品がボックスに入っちゃったり、ここから向こうは行けないという張り紙も少ないし。建築と当時作られたものが一体となって、しかもどれを特別視することもなく、作られた当時のままの状態の美術物を観ることができた。だから日本美術と言っても、殊にこれが観たいということではなく、雰囲気を含めて総括的にぜんぶ観ましたね。庭だとか建築、それから障壁画、水墨画とか。もうありとあらゆるものがそのままあったのを、しげしげ観て。行った先で長時間滞在というか、見ていい時間はいるとかね。空気を吸うとか、そういうことをしていましたよ。それを何回やったか思い出せないくらい、美術研修をしましたよ。特に好きだったのは、仏像と水墨画。今はもう忘れちゃったけど、当時よく私も勉強したから、ちょっと観るとすらすらっと言えたもんだけど。どこのお寺の何という仏像とかね。仏像の前で、3時間くらいボーっと観ているんだよね。今じゃありえないけど(笑)。そういうことが平気でできていました。庭なんかも、いろんな角度でしげしげ観てね。だから、日本美術がやっぱり私自身の根源のベースに入っていますね。それだけ自分なりに観たっていう経験が誇りにもなっているんです。

加治屋:特に印象に残っているお寺っていうのはありますか。

関根:それはなんと言っても銀閣寺。それから龍安寺とかね。意外とポピュラーなほど、独創性みたいなものがありますね。仏像関係だと神護寺の薬師如来とか、興福寺とかね。その辺が多かったかな。奈良はあと法隆寺を筆頭に、東大寺の大仏は必ず訪れるコースだったのね(笑)。『日本美術史』の図版があるじゃないですか。解説があって写真が載っていて、それと現物を対応しないといけないんで、端からチェックして。観るものがもう、ものすごくあるわけね。全部はチェックできなかったですよね、さすがに。期間とか観れないものもあるんでね。秘仏に近いものとかね。

加治屋:そうですね。

関根:観られるものはかなり観てますけど、ただ京都・奈良に限られますね。全国に散らばっている仏像なり美術品は観れていないな。その後、高野山を観て驚きましたね。ああ、この辺全然観てないやって。高野山は、すごく観るべきものがありますね。重文がものすごくあるし、国宝があるし。ちょっとその時代、逃してたな(笑)。そう思いますけども。
特にその後、私は環境美術をやったから思いますけど、トータルに観られたのがすごく貴重な体験だったし、今だとなかなか不可能な部分まで、その当時はずけずけ入っていけたし。正月に、業平寺かな。奈良のちょっと田舎の方にあるんですけど、そこへ行ったら新年初めのお客だっていうんで、いろいろ御馳走になりまして。お酒まで(笑)。お屠蘇ね。そういう特大サービスもあったりね。あとお経の本を、つまり板木をガーッと揃えてある経蔵に行って、実際に刷る作務を見せてもらったり。そこの坊さんと長いことしゃべったりしていました。
基本的に私は仏教とか禅とか、そういうのは昔からかなり関心があるから、ちょっと踏み込んで観たと思うんだけどね。普通の観光客の行く場所と違うから、専門的と言ったら言い過ぎだけど、自分のテイストに合わせて行けたからね。すごく貴重な体験をしたな、と思います。今でも私の現代美術のほとんどは、日本美術の基礎知識があるわけですから、それが今も小出しにいろいろと作品に発露されていると思いますね。

梅津:高校時代から美術雑誌でアンフォルメルとか、世界の現代美術の最先端を知っていて実際に展覧会もご覧になったりしていた。そういうものとの受け止め方の違い、例えばさっきキリスト教世界の理解がないと日本人がついていけないという話がありましたが、そういう表層的な美術のモードを追いかける限界みたいなものと、日本美術やお寺とかの受け止め方の差というのはいかがでしたか。

関根:現代美術にしてもね、やっぱり基本的にはテーマ性があると思うんですよ。だからテーマ性というより、自分が拠って立つ立脚点というかな。

梅津:立脚点。

関根:うん。自分が本当にやりたいテーマだな。そういうものが発見できないと。だから抽象的な作品を作っても、さっきの小説の話じゃないけど、経験もないのにそれをやることはできるけど、本当の実感が出てこない。

梅津:なるほど、なるほど。

関根:実感っていうか、自分が感じている一番のテーマっていうかな。底辺にある動機なり衝動で、それを自分なりに発見したかったわけ。だから、どこの馬の骨かっていう、それが言えないわけですよね。私の関心の一番深いところは日本美術って今は言えますよね。ヨーロッパに2年いたことがあるけど、その時も教会なんかをいっぱい観たけど、違うなっていう感じがすごくある。俺の関心とはちょっと違うって、それがはっきり言える。だから関心はやはり日本。私は日本、日本っていうわけじゃないけど、そういう日本美術の……なんていうかな。志向というか考え方とか感性が、それが自分の中では中心にある気がしますよ、未だにね(笑)。

梅津:ドローイングのシリーズは年代ごとにあるテーマがあって、〈鉱物〉シリーズとかいろいろと名前をつけられている中に、〈仏像〉シリーズっていうのがあって(笑)。

関根:あったね(笑)。

梅津:それはご自分の立脚点を探すような作業と、なんとかご自身の制作のヒントにしようという、そういう意識がその頃にすごくあったということですか。

関根:そう。そういうものが見つからないんですよ。見つからないから、関心が持てそうなことに吸い寄せられるというかな。そういうものを持った方が……持たないと本格的には作家として出せないよね。出ていけない。だからオリジンというかな、それを問われたときに、やっぱりはっきり言えないというかね。その辺をがっちり掴み取る必要があるかなと思うんですよ、どんな作家にしてもね。自分のオリジンがどういうところに立脚点があるかを表明しないと。まぁ表明しなくてもいいんだけど、ないとね。なんかこう、作っていくことがあんまり迫力無いというかな。そういうことなの。大学時代に一番やったことは中では空手と(笑)。その日本美術がありますね。

加治屋:先ほど高校の美術部の先輩に、長澤英俊さんがいらっしゃるということで。長澤さんも確か多摩美で。

関根:そうですよ。空手部で一緒なんです。彼はもっと強いけどね(笑)。しかもイタリアへ行って彼は空手の師範をしたり、空手教室をやっていて。前半はそれで食ってた。

加治屋:多摩美時代の空手部を含めて同級生、先輩後輩、特に親交のあった人っていうのは。

関根:そうですね、まぁ何人かはいますよね。

加治屋:では先生の話を。先ほど日本美術史の先生が非常に印象深かったとありました。この後に斎藤義重さんの話になると思いますが、斎藤先生に会われる前に印象深かった授業というのは、何かありますか。

関根:……(しばらく考えて)なんだろうな。取り立てて話すこともないかな……(笑)。

加治屋:すみません、質問が良くなかったかな。

関根:ええと、ちょっと困ったな。何かあるべきだよな(笑)。うーん。

加治屋:例えば大学に入って、絵画だと版画なんかもやりますよね。

関根:うん、版画もやってたんだけどな。……そうですね。当時私が作っていた絵は、アンフォルメルからちょっと変化はあっても、ほぼアンフォルメル。これは浪人時代からずっと続いていたのね。それは見た雑誌によっても影響あるけれども、やはり一番関心を持っていたのは、ジャン・フォートリエですね。それからアントニ・タピエス(Antoni Tàpies)。あれなんかもすごく好きだった。あと斎藤義重さん。杉全直。それからサム・フランシスとか、アメリカのジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)。それからロバート・マザウェル(Robert Motherwell)とか。アメリカの作家にも随分関心を持っていましたね。そういうところかな。

加治屋:ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とかラウシェンバーグなんかも。

関根:うん、そう。当時の多摩美は、結構教授陣が充実していたんですよ。油絵科にはもうちょっと後になるけど斎藤義重さん、杉全さん、それから大沢昌介。そういう人がいたし日本画には加山又造、横山操がいたしね。それから評論家では坂崎乙郎とか、それから瀬木慎一、御三家。それから……誰がいたっけな。とにかく錚々たるメンバーだったと思うんです。だから私もそれぞれ、必ず1回は授業に出ると決めてましたね。だから皆、授業は1回は出たね。(笑)。

梅津:おもしろい先生はいないか、みたいな(笑)。

関根:瀬木慎一だとかね。錚々たるメンバーだね。

梅津:今ほどインターネットとかそういうものは発達してないので、評論家の方ってやっぱりご自分の得意分野の海外の情報とか作家のこととか、生の情報をお持ちだったと思うんですよね。そういう点でいろいろな方がいらっしゃるというのは、貪欲に情報収集ができる。

関根:まぁ当時いろいろ聞いた結論なんだけど、皆、先生はこれはヨーロッパ、アメリカの宣伝マンだなって思えるね(笑)。

梅津:確かにそういうところは(笑)。知らないことを仕入れてくる、みたいなところもありますね。

関根:そう。それはね、単に紹介者であってそれ以上でない(笑)。その領域からなかなか逸脱してないんだよな。そこが私としてはちょっと不満だったんですけどね。生意気なことに(笑)。

梅津:物足りないところが(笑)。

関根:うん、物足りない。あと一度びっくりしたのは、瀬木慎一の授業に出てね。「これから講演会があるけど、お前ら聴きに来るか」っていうから東京芸大について行ったんですよ。丁度、文化祭だったかな。講演を聞いたらね、多摩美で語ったその通りを芸大でしゃべってる(笑)。二重に、それも寸分違わず。なおかつ笑わせる場面も同じ(笑)。だから、一種の芸人やなと思いましたね。

加治屋:評論家の方が授業するときっていうのは、スライドで作品を見せたりしているんですか。

関根:ああ、ほとんどがスライド。それにコメントを挟んでいって、自分がどう考えるとか感想とか。簡単な評論っていうかな。瀬木さんはもう本当に判で押したように、一字一句間違えずに(笑)。僕らが行ったからかな。でもそれがスタンダードな授業ですね。

梅津:型ですね。

(小休憩)

梅津:斎藤義重さんのお話に移る前に、聞き漏らしてしまったことがありました。浪人時代や空手に取り組まれた大学生活の前半辺りも含めて、アルバイトのご経験は。

関根:私はわりかし、よくアルバイトをした方でした。高校時代はね、友達の家が関口工業という土建屋をしていて、そのアルバイトをしていましたね。それは道路工事なんですよ。

加治屋:いわゆる土方の。

関根:土方の。

加治屋・梅津:おお(笑)。

関根:夏休みの間中とかね。すごくいい稼ぎをしてるんですよ(笑)。なぜかというと、ほとんどの労務者がこの近在の農家の人なんです。農家の人が道路工事に来るんだけど、彼らは図面が読めないわけ。指示するときに読めないから、その役が僕に回ってくるわけ。そうするとね、高校生なのに親方みたいな(笑)。計算してあげたりね。図面はこういう風に読むんだよとか、こういう風にするんだとか、まるで主任みたい(笑)。彼らはちゃんとお金くれるしね。しかも道路工事に、砂利トラがいっぱいくるわけです。順番に並んで砂利を空けていくんですよ。それでね、私が監督だから、積荷がどのくらいの積載量かっていう計算をしてやらなきゃいけない。私がやるわけですよ、トラックに乗って巻尺持って。そしたらね、僕のポケットにお金を突っ込むわけ。

梅津:ああ。

関根:避けていても、どうしても突っ込むわけ。そうして塩梅を加減してくれ(笑)。

梅津:なるほど(笑)。

関根:いや、それを嫌だ嫌だと言ってると進まないわけ。砂利トラが連続してるからね。瞬時にやっていかないと、次のトラックの待ち時間が多くなっちゃう。そうこうしているうちに、ポケットにいっぱいお金が(笑)。

一同:(笑)

関根:そういうことをしていましたね。それを良しとしてね、最後の方は。だからすんごい稼いだ。あとは浪人のときに、ある女性と知り合ってその娘とずっととつきあっていました。しかも絵具製造業の家の子だったの。その子は女子美に行ってたがね、絵具を僕にどんどん持って来るわけ。頼んでいるわけじゃないよ。それとか、キャンバスとかね。だから、大学時代はほとんど画材費はかからなかった(笑)。

加治屋:すごいですね(笑)。

関根:しかも私が4年の頃かな、その絵具屋が潰れて。僕のせいじゃないよ(笑)。その絵具がうんと残っちゃって、引き取ってくれとトラック一杯もらった。一杯って言っても小さいトラックですよ。それを多摩美へ持っていって、学生を集めて叩き売りしたわけね(笑)。

一同:(笑)

関根:すごい安くね。そういうことをしましたね。だから私はね、比較的アルバイトでお金を得るのがうまかったのよ。あるときは、当時ゴーゴー喫茶っていうのがあってね。サイケデリックなんていうのが流行ってる時代。お店の計画をするデザインナーと知り合ったの。それで頼まれて、受け持ったのは6店舗くらいかな、一晩で絵を描けっていう条件で。オーブリー・ビアズレー(Aubrey Beardsley)っていう人の線描の絵があるんだよね。それを拡大して線の上に鳩目で穴を開けて。それを現場に持って行って、目的の壁に広げて、白墨が入ったタンポンみたいなのでポンポンポンって。黒い壁面のところに白い跡がついてそこに白を塗って、ルミノサインっていうか蛍光色をテンテンテンって描きます。出来上がると、黒い壁面にブラックライトの光線で蛍光色の壁画が現出すると「わっ」てなる。それを一晩でやっちゃったの。その代り、一週間くらい下準備を請け負ってね。そしてお金を皆アルバイトに配るんだよね。要するに、僕が儲かっちゃうわけ(笑)。

梅津:もうその頃から、社長業の片鱗が(笑)。

関根:そういうのが、極めてうまかったね。だから大学院のときも月謝は自分で出していたし、金のない奴に奢ってあげたりしていましたね。その後、もの派のときにそれが少し生きてくるんだけど(笑)。あとアルバイトとしては、これは変わってるんだけど、新聞社の写真の加筆っていうのをやってたの。

加治屋:加筆?

関根:加筆。いわゆるスポーツの写真がくるじゃないですか。あまりにも平坦だったりすると、そのまま印刷すると判別しなくなっちゃうわけ。それに強調する墨入れをするわけ。あるところは消したりね。それを内外タイムスを出している、スポーツ紙のバイト。それも結構いいんだわ(笑)。そういうのをやったな。大学時代は、家ではお絵描きをやっていましたね。

加治屋:お絵描き?

関根:お絵描き。あの、子どもに。

加治屋:ああ、お絵描き教室。

関根:うん。それはずっとやっていましたね。そのうち嫌になってね、大学の女の子を連れて来て代行させて、その人に給料あげて(笑)。

梅津:巧みですね(笑)。

関根:お絵描きって大変なんだよ。子どもの鼻をかんであげたり、おしっこに連れて行ったりね。そういうのが主なのよ(笑)。だから意外と大変よ。子どもの面倒見がよくないとできない。その点、女性の方がいいのかもわかんない。僕はどっちかというと、お母さんの対策の方が守備範囲で(笑)。

一同:(笑)

関根:お母さんと話してた。そうするとすごく、喜ぶんだわ(笑)。それは3年くらいやってたね。だからアルバイトはよくした方じゃないかな。しかも嫌がらずに。

梅津:お金もしっかり(笑)。

関根:なんかね、アルバイトをするのがうまかったんだろうな。選び方とか、勘所が良かったんだろうね。

梅津:それでいよいよ大学3年生のときですね。斎藤義重さんが。

関根:そう。3年の後半に近くだろうと思うんだけど。ある時、斎藤義重が来てね。あっ、と思った。私は面識はないがポートレートはよく見てましたから。我々の油絵科の担当になったと聞いて、やった! って思いましたね(笑)。それからはもうひたすら、本当によく彼につきまとっていましたね。あのー、つきまとうの、なんて言ったっけ。

鏑木:ストーカーですか(笑)。

関根:そう、ストーカーみたい(笑)。当時はストーカーって言葉はなかったんだよな。

梅津:関根さんは個人的にずっと指導を受けるというか、授業の時間以外でもおつき合いされていたと思うんですけれど、学校での授業自体はどんな風になさっていたんですかね。

関根:斎藤先生がやっていたのは、主に講評ですね。

梅津:講評ですか。

関根:皆が描いているところに来てどうかでなく、1週間に1回だけしか来ないんだけど、そのときに先生に見てもらうのが主だった。皆、それぞれ順番を決めて見せますけどね。それに先生がいろんなコメントをしてくれる。
斎藤義重さんは、本当にものを良く知っているんですよ。もう雑学の名人みたいな人で。彼が美術界にデビューしたのは、55歳ですからね。それまで何をやっていたかと思うような(笑)。でもその間に雑誌社をやったり、まぁいろんな仕事を転々とされて。しかもいろんなアーティストのアドヴァイスもやったらしい。だから様々なことを勉強しているんですよ。斎藤先生が言うのはね「私は1日3時間は読書をする」って。その累積も膨大だけども、興味を持つことが多岐に渡ってるんだ。しかもそれをね、読んで全部自己消化しているのがすごいなと。だから普通にしゃべっても、あんなに知識豊富な人を見つけるのは不可能に近いですね。それほどレパートリーが広くて深くてね。
私が一番彼に教えられたことはね、いわゆる現代美術でも根源的には今の、現代という時代特有のテーマがあるということ。このテーマを掴まない限り、いくら美術をやっても駄目だという。それはすごいサジェスチョンでしたね。だから誰も指摘しないが、現代という時代があって、そのなかで何を目指していくのか。根底に如何なるテーマがあるのか。そういうテーマの存在を認識するのが、すごく大事なことなのだという。だからその現代のテーマが合致していれば、すごくいい作品になるし、なおかつ皆が関心を持つわけだ。しかもそのテーマがぼやけていると、どうやっても駄目だっていうわけ。なかなかそういうテーマ性の存在を教えられる人はいない。

そこで、先生は話し方はすごく分かりやすく丁寧だけど、話すうちにどうしても解らない言葉が出てくるのね。すると仕方がないから、私は率直に「先生、その言葉はどういう本を読めばわかりますか?」って恐る恐る聞くわけ。最後の方はもう、恐る恐るじゃなかったけどね(笑)。「先生そういうの、言葉はどこに出てるの」という聞き方ね。最初の頃はそう言うとね、「こういう本を読んだら、そういう概念がわかるよ」、あるいは「こういう分野の本を読めば」って教えてくれる。そしてまた1週間でわからないのを、こっちもバーッと瞬時に勉強するのよ。真剣だったから(笑)。そうしてね、「前に言った概念はこうでした。今はこうわかる」。するとまた話を続けてくれるの。そしてまた出てくる。それをまた1週間のあいだに勉強する。その代わり1週間でやるから、すごく大雑把なんだけど。とくに数学や科学の問題は、数式が出てくるでしょう。すると途端にわからないから。『百万人の相対性理論』とか、百万人のなんとかっていう、いわゆる解説本だね。それをいち早く読むわけね。そうすると概念はわかるので話をまた続けていける。その対話によって、さまざまな世界が勉強できましたね。
そういう対話を通して、彼の教え方は、「引けば押す、押せば引く」ですね。そういうスタイルで、決して人に強制しないが、しかし彼のペースにハマっちゃうんですよ。彼の思うように、我々が柔軟にされてるわけ。一番彼の望む真意は、個々の学生の興味を明確にするし、自分のテーマをはっきりさせるわけですね。それをいわゆる口伝で言ってくれる。だからすごいわけだけど。さっき言ったように、私はアンフォルメルのなれの果てみたいな絵を描いていた。しかも3年も4年間もずっと集中してたから、それなりに自分では自信があったわけですよ。そこで、先生に見せたら「この線は抽象的な線か、具象的な線か。どっちなの?」って聞くわけ。私はまったく抽象だと信じていたから、「抽象的です」って大声で言うんだけど。そうすると画面の細部まで見て、「これは何か表れているよ」って(笑)。それを指摘されてね。「あなたは抽象と言うけど、具象的な癖が残っている線だよ……」と断定されたわけ。そういう具象的なことや抽象性が私には明快に認識出来てないから、それでそういう癖が残るの。しかもなんていうかな、論理的に明快でない。そういうことを初めのうちに、随分指摘されました。そして自分で絵を描くでしょ。これは抽象的な線なのか、具象かな、なんて(笑)。考えたら、絵ができなくなっちゃって。ほとんど1年間が絵できなかったですね。先生に何を言われるかと思って(笑)。でも、もう1回ちゃんと勉強しないと駄目だとは気がついたし、実際その通りにやってみたわけです。ともかく先生に会ったがために、1年間絵が描けなくて。なおかつ先生が言うんだよな。「僕の言ったことは忘れて、自由にやれば」だって(笑)。だけども、それは無理だわな。私はほとんど病気ですからね。ただ本当に斉藤先生は優れた知性の持ち主だから、対話で相手を変える能力を持っている。

梅津:なるほど。

関根:それは他には例のない人で。私、今まで会った人の中であんな人はいないですね……。あんな人は、お目にかかれないね。

梅津:大学の3年の後半くらいに斎藤義重さんが着任されて、指導の結果なかなか単純に絵が描けないということになる。それで学部の方は終わりに近づいてきますね。それで大学院への進学を決断されるということになる。

加治屋:卒業制作っていうのはどういうものを描かれたんですか。

関根:やっぱり油絵の作品です。《切り売り》という。

梅津:〈切り売り〉シリーズですね。

関根:そういうシリーズがあったでしょ。

鏑木:(埼玉の資料を見ながら)この辺りのシリーズでしょうか。

関根:うん。それに近いですね。

加治屋:これはどういう色なんですか。

梅津:カラフルな。割と色彩はありますね。

関根:カラフル。それで大学院にはいってから、もう〈切り売り〉は完全にやめると決心しました。

梅津:なるほど。

関根:だいぶ考えて、それでガラッと変えたの。

加治屋:〈消去〉シリーズは、そのガラッと変えた作品ですか。

関根:(埼玉の資料を見ながら)ああ、これか。これだね。そうそう、ガラッと変えた最初の頃。これはどうかって言うと、人が椅子に腰かけている情景をスライドで撮るんですよ。それで、そのスライドを暗いところでキャンバスに投影して、鉛筆で輪郭を取り平坦に塗っていく。ポップ・アートの影響もあって、影は1色で簡単明快に表現するわけ。〈消去〉シリーズは、椅子を全部退けるから、だから支えを全部消去してしまう。階段に並んでいる人の写真を撮って、階段は退けてしまう。だから人々は空中に浮遊して奇妙である。大学院ではそんな作品をはじめる。

加治屋:随分変わりましたよね。スライドをプロジェクターで映したものを、もう機械的に写していくっていう。スライドを使うっていうのは、どういうことだったんでしょうかね。

関根:スライドを使うのは簡単明瞭にするのと、具象的に写生していくと、また違った要素を含むから、単に映像のままにする意識だね。まぁポップ・アートの連中は皆そうだから、明快さを踏襲した形式かな。ただ、椅子を消去し人間の映像だけにするのが、ちょっとポップ・アートの理念と異なるかもね。

梅津:アンフォルメルの延長上にある絵画制作から、視覚的なものを操作するという方向にがらっと変わっていく。それが恐らく斎藤義重さんの教えで徹底的にトレーニングされた(笑)。絵を描くとか絵画っていうことじゃない、結果的には平面作品なんですけど、なにか視覚的なものを操作していくっていう発想に切り替わったのかなと思うんですよね。

関根:先生がよく話すけど、美術学校では基礎、基礎といって石膏デッサンや人体デッサンをやることで、自分の関心を休止していると。だから本当に興味に率直になればいいのに、それをやめて基礎教育のみで安易な作品ばっかりだと。「それはすこぶる不満だな」って先生は言うわけ。だから「本当に映像として描きたいなら、写真を撮ればいいし、写真を引き伸ばせばいいじゃないか」と、そういう言い方なんですよ。腹が立つっていうか(笑)。ほら、苦労してる人にとっては、腹が立つでしょ。だからもう非常に直線的というか、ドライなんですよ。

梅津:そうですね。

関根:興味の方が大事だと。関心はどこにあるか、やりたいことに直線的に進む必要がある。変な基礎デッサンだとか、基礎の勉強でほとんどの美大生は駄目になっている(笑)。まるで挑戦的なことを先生はいうわけ。でもそれを納得できるから、ついに斎藤シンパになってくるけど(笑)。

梅津:公式な記録、略歴とか展覧会歴とかを拝見すると、67年の〈消去〉シリーズから急激に発表活動をしていますね。67年の始めくらい。やはり自分の制作しているものを外に見せていきたいという要求が、その頃に強くなった。

関根:直接的にはずっと将来、美術家として発表したいわけですよね。だから大学院にいる間に、そのキッカケを掴みたかったんですよ。だから大学院から一気に発表開始しました。それまで展覧会の発表もないし、団体展にも出品もしてない。一気果敢に始めた、調べると1年間ですごい回数をこなしているんですよ。何回やったんだろう、確かですね、11回くらいかな。

梅津:(埼玉の資料にある展覧会歴を見て)これも抜粋ですからね。全部じゃないと思います。公式には最初は小林はくどうさんと二人展というのが出てくる。それが最初ですか。

関根:そうです「個展個展」展(椿近代画廊、1967年)っていう(笑)。

梅津:「二人展」って書いてあるものもありますけど(笑)。

関根:まぁ小林はくどうも、おもしろいやつだから。「俺の個展だ」、「俺の個展だ」と譲らない、しかたがない『個展個展』展だというわけです」(笑)。それが初めての展覧会。それを合わせてすごい回数を、一斉にやりました。斎藤義重が背後に控えているわけよね。だから他のアーティストより、よっぽど僕らは恵まれていたんですよ。何故ならこんな最初の展覧会で東京画廊の親父とかね、批評家などがもう観に来てるんだよ。もう斉藤先生の宣伝力が違うんですよね(笑)。「最近、すごい奴がいるぞ」とか平気で広言からね、だれも疑いなく観に行きますよ。斎藤先生が断言するからさ。

梅津:なるほど。

関根:私は頼んだわけではないけど、先生がね。「いやぁ、すごいのが出てきたぞ」とか言って憚らず(笑)。簡単に挨拶代わりで告知したから、東京画廊のオーナーや評論家なんかもすぐ観に来たのよ。

鏑木:一番最初の小林はくどうさんとの展覧会は、持ち込んでやったものなんですか。

関根:新宿の椿近代画廊ですけど、もちろん一般の貸画廊ですから、こちらが展覧会をやりたいから、所定の金額を払って。

鏑木:じゃあ最初は貸画廊の一般的なやり方で。でも斎藤先生が言ってくれるから、すごい人が(笑)。

関根:最初から注目されながら(笑)。東野芳明さんとか、その頃もう知り合いですが彼も彼で吹聴してくれるから(笑)。私たちは周囲にじつに恵まれていましたね。下積みがなくいきなりだもんね(笑)。

鏑木:はくどうさんも初めての展覧会だったんですか。

関根:団体展には出しているかも知らんけど、ちょっとよくわからんな。私は団体展も出さなかったし。いや、新制作かな。1回出した時はけしからんことに落選したの。そんなのあり得ないと思ってね。それっきり出品を止めちゃった。

一同:(笑)

関根:だから出さなくしたの。

加治屋:学部時代に1回ですね。

関根:ええ。私は生意気だったからね。ものすごい生意気だった(笑)。

梅津:67年に出てきますけど、シェル美術賞はやっぱり普通の公募展とは違って、皆さんこぞって(注:第11回シェル美術賞展、白木屋ほか巡回、1967年)。

関根:作品を出した。それは佳作かな。

梅津:佳作という風に記録がありますね。

関根:その次の年かね、菅木志雄が大賞を取ったのかな。その前には、高松次郎の《影》が大賞を取って。一応その当時、シェル美術賞っていうのは結構ビックな賞だった。

梅津:そうですね。注目されているもので現代美術系の人は皆、そこで賞をと取りたいというか。応募されている。

関根:登竜門としては、一番手っ取り早い。

加治屋:前後でなさっている個展、これはなんてお読みするんでしょうか。「000plan」(ゼロゼロゼロプラン)?

関根:うん、「000plan」。オーオーオープラン。これはほとんど斎藤教室のメンバーの展覧会です(注:「000Plan」展、椿近代画廊、1967年など)。

加治屋:あ、これはグループ展で。

関根:私は斎藤教室の大学院にいたじゃないですか。他の人は皆、本科(学部)の方だから、どうしても私が斉藤義重の助手的立場になっちゃうのね。皆に指示したり、何か企画したりね。だから思いっきり飛ばしてやっていましたね。(展覧会名に)「000」なんとかっていうのが、いっぱいある。

梅津:いっぱいありますよ。

加治屋:これはO(オー)ですか、0(ゼロ)ですか。

関根:Oと呼んだり0と呼んだり。

鏑木:どちらでも良いんでしょうかね。

梅津:ゼロがふたつなのか三つなのか(笑)。最後がなぜかバツになっているから(「00X」展、村松画廊、1968年)、(後述の「1970年―物質と知覚」展で)資料調査をしたときに、皆が混乱に陥って(笑)。作家さんごとに出てくる答えが違っていて、「これはどれが正式表記なんだ」みたいな。

関根:そうですよね(笑)。数多くやりましたよね。まぁゼロイスト斎藤義重に因んで00なんです。

加治屋:ああ、そうかそうか。

鏑木:そういう意味だったんですね。

梅津:そうするとやっぱりOじゃなくて0って読んだ方がいいですね。作品の展開でいくと、〈時空概念〉っていうシリーズはほとんど現存していないけど、シリーズとしてはすごく重要な気がするんです。これは高松次郎さんのアシスタントをされる頃との前後関係で言うと。

関根:前ですよ。斎藤先生が教えてくれて「高松次郎がこれからヴェニス・ビエンナーレに出品するのでアシスタントを探している」と。「関根くん、君行けば……」それで「はーい」ってひとつ返事で行きました(笑)。高松さんの〈遠近法〉シリーズの大舞台みたいな作品の仕上げ作業をずっと、6か月くらい手伝いました。高松次郎は本当に議論が好きなんですよ。私みたいな小僧を捕まえて、すごくいろんな議論を吹っかけてくるの(笑)。私もほら、斎藤義重の門弟みたい存在ですから、現代美術のサワリを知っているわけです(笑)。高松次郎には最適な相手なのか、作業が終わって食事をいただいて帰るんですけど、その間ずっとしゃべり続けて。しかも、あるときは泊まって行けになって(笑)。朝が来る頃まで議論でそれも参っちゃいますね。だから高松次郎にはいろいろ教えてもらった。当時のトップ・スター、ビッグ・スターだったからね。

梅津:高松さんはどういうことをお話されるんですか。やっぱり美術のこととか。

関根:全般的でもう、あらゆること。自分の関心を持っていること。基本的にはそれが中心だと思うけど、あとは現代美術では何が流行かとか、流行っているかとか。それから海外の雑誌だとこれが出ているけど、どう思うかとかね。もう、美術情報のありとあらゆること。だけど当時、対話して高松次郎くらいおもしろい人はいないから、私も随分興味深く話してますよね(笑)。

加治屋:斎藤先生と高松さんって、どういう感じのご関係だったんですかね。

関根:えっと、彼らは東京画廊で一緒。そうね……、高松次郎は斎藤義重を大変尊敬していたね。なにかと斎藤義重に対して関心を持っていたし、他を押しのけても斎藤義重に触れたいというかな。そういう関係だったと思うね。斎藤さんも非常にフリーな人だから、自由に話し合いをしていましたね。しかも斎藤義重はものすごく懐が広いから、うまくリードした感じですかね。
その頃の我々の、特に私の関心は、現代美術っていうのは究極的には空間の問題だと思ったんですね。空間と言っても漠然ですけど、結局は空間に対する新たな切り口とか認識とか。そういうものを開発するか、もしくは提示できないとあんまり興味を持たれないですね。
〈時空概念〉もそうだけど、時空が異なる映像をひとつの画面に集約するのは、三次元というか、四次元的な世界をひとつの空間設定で見せることでした。そういう関心だったね。特にそれのプロフェッショナルが当時の高松次郎だったんですよ。だから高松次郎を超えないと、一歩も始まらない(笑)。なんていうのかな、壁体っていうのかな。われわれの前に立ちハダかるひとつの壁体ですよ。だけど私は高松さんと真剣に話をした経緯があるんですね。それが故に高松ショックから、冷静にスッと自分に戻れたんですね。まぁ感心することは多々あるとしても、「高松と自分は根本的に関心が違うな……」がよくわかったの。興味の持ち方も、それらの展開も根本的に私とは違うんだな、と認識できましたね。だから新しい空間認識の方法論は、もう高松とは違うレベルで捉えられる。

加治屋:〈時空概念〉のシリーズは、自立している平面なんですか。

関根:そう、平面でシェイプトキャンバスなの。

加治屋:ああ、シェイプトキャンバスなんですね。そうかそうか。

梅津:空間のように見える。

加治屋:空間のように見えます。ふたつの平面が重なって、立体なのかなと思ったんですけど。

関根:合板パネルですよ。変形させたパネルね。

梅津:その後、半立体の〈位相〉のレリーフに行くきっかけとしては、空間を感じさせるという点ですごく、平面ですけど重要な一歩かなという気がしますけどね。

関根:だからこんな作品も制作したから、高松と関心が非常に近接して空間について彼といろんな議論が可能だったですね。

加治屋:高松さんも多摩美で教えていらっしゃった時期がありましたよね。

関根:それはちょっと後ですね。でも1年ぐらいの間で。

加治屋:そうですよね、短いですよね。

関根:高松が来てから、多摩美は紛争になっちゃってロックアウトになってしまった。ちゃんと教えられないまま、学外教授を富士見町アトリエでやってたんだけど。そのうち辞めちゃったね。
高松さんの作品で一番印象に残っているのは、新宿にカッサドールというバーがあったんですよ。これはインテリアの倉俣史朗が設計したバーで、倉俣が高松を起用したんですね。壁面が真っ白けのバーなんですけども、そこに〈影〉を全面的に描いたの。私も行ってみたけど、人がいなくても人の気配がする。当然〈影〉の絵だと誰もが承知していたが、仮想だけどリアリティーがありバーチャルな世界っていうかな。そういう摩訶不思議な世界がリアルに体験できる。それはおもしろい試みだと思いましたね。高松の〈影〉シリーズをあんなに巧妙に設営したのは、あれが最初にして究極かもしれない。最近まで残っていたらしいけど、今はないと思うんですけど。
とにかく高松さんは、つねに饒舌でしたね。私の後は(アシスタントに)成田克彦とか、それからいろんな人が行ったりしたね。あるいは高松教室の塾みたいのがあったでしょう。

鏑木:「塾」ですね。

関根:「塾」か。そういうのを始めたね。

梅津:そうですね。

関根:だから高松さんも随分そういう面で、若いアーティストと交流があったと思いますね。彼は本当によく考えるんだわ。ものすごい考える。だから僅かなヒントで、ものすごく展開する能力がある。しかしね、私から言わせるとすごくジャーナリスティックなんですよ。最大の関心事はジャーナリスティックなところで、自分が現代美術の寵児でないと我慢ならないストレスがあった。だから先走り無理があるのよね。無理していろんな試みをやり過ぎるっていうのが、私の批判です。普通はそういう批判はないですけど(笑)。あらゆるものに興味があって考える能力があるが、それが多岐に渡り過ぎるので、自分がブレちゃうというかな。そういう性癖がありましたね。しかし今でもね、もの派などの関連を含めて、高松さんはアメリカ周辺でも大変興味を持たれていますよ。

梅津:少し違う角度からなんですけれど、斎藤義重さんや高松次郎さんと関根さんは、短い時間にものすごく深く接せられて、それが自分の芸術を展開する上でひとつの要因になっているということは、これまでもいろいろと語られてきていると思います。例えばグループ幻触との関係、この間も静岡で展覧会をされていたんですけれど(注:「グループ『幻触』と石子順造1966-1971:時代を先駆けた冒険者たちの記録」展、静岡県立美術館、2014年)、具体的に飯田(昭二)さんらと会われています。その辺りのきっかけも含めて、当時どんな形の交流をされていましたか。

関根:えーとね、大学院に行っている後半辺りに、確か石子順造と知り合う。なんで知り合ったのかな。その辺、正確に思い出せないんだけど。だからそのときは本格的じゃなくて、《位相―大地》を作った前かな。その時代は、えーと……当時学生運動がめちゃくちゃ華やかな頃で、石子順造さんは「青デ」って、青山デザイン(専門学校)の講師になったのね。そして、闘争のプロばっかり集めた教授陣ができたんです。その中に私もひっぱられて入ったのよ。そんなこともあって、結構よく会いましたね。

加治屋:その前に、「トリックス・アンド・ヴィジョン:盗まれた眼」展(東京画廊・村松画廊、1968年)に出品されているので、それでお会いにもなっていますか。

関根:もちろん会ってます。ただ、その前の段階。

加治屋:あ、青デはその前ですか。そうですか。

梅津:そうですね、「トリックス・アンド・ヴィジョン」が68年の春だから。

関根:彼の下宿先というか、渋谷じゃなくて新宿か。新宿のどっかにあって。

鏑木:十二社(じゅうにそう)ですかね。

関根:十二社か。そこにもよく遊びに行きました。たぶんその頃はもう、李禹煥と知り合う前後だと思うんだけどね。李さんと一緒に行ったことはないけど、私は青デの関係でよく石子さんの部屋へ行きましたね。石子さんは当然、幻触のリーダー的な存在だったからね。その前に幻触が西新宿で展覧会をやりますね。なんていう展覧会だったっけ。「幻触」っていう展覧会だったかな。

加治屋:「グループ『幻触』による( )展」というのがありましたよね。読み方はわからないですが。

関根:それは偶然にも西新宿にあるトップっていう喫茶店がわれわれの会合場所だったもんで、そこの近くに展覧会があったんですよ。ほんの近く。そのビルの管理の仕事で、李禹煥がそこに雇われてたんだよな。その1階に画廊があって、そのビルのオーナーがやっていたんだけど。そこが「ギャラリー新宿」ですかね。そこで幻触の展覧会をやったんです。それを私も観た記憶があります。それは何年だったかな。

加治屋:ギャラリー新宿の「( )展」っていうのが、67年ですね。

関根:67年? ああ、そうか。そうだったんだ。67年。あ? そうか。

加治屋:ギャラリー新宿は67年の9月ですね。

関根:はっきりは覚えてないですけど、石子さんが観ろって言ったのかもしれないな。67年くらいに。

加治屋:(「幻触」展、鎌倉画廊、2005年のカタログにある会場風景を見ながら)こういう展覧会です。

関根:……(しばらく見ながら)へぇ、こういう本があるの。

梅津:これは鎌倉画廊さんでおやりになっているんですね。

関根:ふーん。そう、だからそれからよく考えてみると、たぶん石子さんに言われて観に行ったんだ。それじゃないと誰かに言われないと、観に行く機会がないから。その観にいった時に、誰かと会ったな。鈴木慶則だと思うけど。その辺りに会っているね。李禹煥とは68年以降に会うわけだから。《位相―大地》を作った、1週間後くらいに会うの。

加治屋:そこで初めて。

関根:うん。だからその前は石子さんが話をよくしてくれて。石子さんは、……皆さんは会ったことはないか(笑)。

一同:(笑)

関根:もう本当に、石子さんは機関銃のようにしゃべる人でね。しかも、しゃべり出したら止まらない。「うわー、始まった……」みたいな(笑)。だけど本当に多岐に渡って深い知識があるんですよ。しかも自分の関心に対して、非常に情熱的なんだわ。率直であり、なおかつすごく深く知ろうとするわけ。えーとさて、青山デザインでは何をやったんだろうな、私は(笑)。

加治屋:授業をなさってたんですか。

関根:授業らしい授業をしないうちに終わっちゃった。やたら集会が多いわけ。理事者を吊るし上げる集会みたいな(笑)。そういうのがあったり、それに参加したりしていましたね。私はあっけに取られていたんだけど、本当に共闘している感じはしなかった(笑)。ただ、教授陣というか教える側に放り込まれちゃったから。もの凄い闘士というか、講師が、参加していたんですけどね。竹中労なんて知ってるかな。

加治屋:はい、名前はもちろん。

関根:竹中労とか、東大の全共闘のなんとかとかね。ああいう連中がごっそり来てるんだよね。もう皆の話がすごいんだ。そのなかに石子順造もいてね。彼もすごいんだよね、しゃべり出すと。そういう連中がいたもんですから、集会があるとものすごい盛り上がって。学生の中でも、そういう政治闘争に関心がある人が中心だから変な学校だったよ(笑)。だからほどなく潰れたんじゃない。でもまぁ石子さんはその頃、「と」とかね「間」のことね。そういう理論をしきりにテーマにしていましたね。だけど丸石神は、もうちょっと後ですね。彼の晩年に近い頃に、丸石神の話はしていましたね、小池(一誠)さんと。我々もね、正直なところあんまり幻触と交流はないんだよ。ただ、李さんが親しかった。それから僕の親友だった林芳史がいるんですけれど、その人も幻触と親しかった。特に鈴木慶則と、ものすごくつきあってた。それから小林なんとかっていう人がいるんですよ、幻触に。小林……小林じゃなかったかな。なんか、最終的には裁判かなんかの事件を起こす。……なんだっけな。

加治屋:死亡通知みたいので裁判になる人ですよね。

関根:そう。誰だっけ。その男がね、林芳史と義兄弟だね。つまり女房同士が姉妹なの。えーと誰だっけな。……思い出せないと気持ち悪い。

加治屋:(鎌倉画廊の資料を見ながら)えーと、これだ。杉山(邦彦)さん。

関根:そうだ、杉山だ。杉山邦彦の奥さんだった人と、林芳史の奥さんだった人が姉妹。そんな関係でよく彼は静岡に行ったよ、その時に幻触とつき合って。それを私は伝え聞きしていましたが。

加治屋:関根先生は静岡にはいらっしゃらなかった。

関根:幻触のためには行ったことないね。ただ後半ですけど、虹の美術館。あそこには何度も。そのときにしゃべりましたね。鈴木慶則はしょっちゅう、銀座の画廊でも。

梅津:石子さんを介しての間接的な情報が入ってきたり、後に李さんと出会われた後に直接じゃないけれど、なんとなく活動を知っているとか。人づてに情報が入ってくるとか、そんな感じの交流ですね。

関根:そう。特に「トリックス・アンド・ヴィジョン」だっけ。あれに出品したりして、そんな感じね、会ってはいるんですよね。

梅津:同じく「トリックス・アンド・ヴィジョン」にも後に出されますけど、関根さんのちょっと先輩の柏原えつとむさんとも交流がおありになって、いろんな話ができる方だったともうかがっています。

関根:柏原さんは在学中はあまり知らないで、彼が卒業した後ですね。彼は文芸部だったのかな。その時に菅木志雄と同人だったんだな。だから菅くんの方がよく知ってますね。それと柏原さんは、彼の展覧会で私と会った話を書いていましたね(笑)。

梅津:そうですね。私がうかがった話だと、柏原さんの個展会場に関根さんたちが数人でわっと押しかけてきて、いきなり議論を始めて。それは関根さんたちが斎藤義重さんから柏原さんの展覧会を観に行ったらいいよと言われて、柏原さんの記憶ではそれが初対面です。それからかなりお話をされるようになったとうかがっています。

関根:小泉博夫って奴がいるんだけど。3人でやってたグループの中のひとりね。

梅津:《Mr. Xとは何か?》(1968-69年)の方ですね。

関根:ええ。あと前川欣三。前川は空手部だったの(笑)。それでよく知ってるのと、小泉は私をよく泊めてくれたの。彼は当時池袋に住んでいて、乗り換えの時に電車がなくなると、あの辺が行きやすいので泊めてもらって、よく議論したな(笑)。それで柏原えつとむさんも自然に知るんだけど。さっきお話したように私は日本美術の研修で京都・奈良へ行っていたんですよ。その中で何回かに一回とかで、5、6回泊めてもらったと思う。

梅津:そうですね、柏原さんは当時京都にいらしたので。

関根:もともと東京にいたんだけども、その時期はずっと京都にいたんですよね。一時東京にまたね。

梅津:そうですね。

関根:柏原さんも話が好きなんだ(笑)。すごい好きでね、もう、話をし出すと尽きないんだね。いろんな話をしたけど、《Mr. X》だっけ。あの辺の話が全然、私に入らなくてね(笑)。失礼しちゃったんだけど。《サイレンサー》(1967年-)か。私もあの辺はよく観たんですけどね。《Mr. X》はなんかよくわかんなくてね。《Mr. X》を見せようと待ち構えていたとき、別の話題になったらしいんだな(笑)。でも彼はいろいろ僕がしゃべったのは覚えていて、ときどき「関根くんはこういうことを言ったよ」とかね。よく指摘されるんですけど、「そうだったかな」と思いますね。一時言われたのは、「美術家はそこそこにして、政治家になる」って私が言明したとか。そんなこと、本人はとうに忘れてるよ(笑)。

梅津:いろんな事をお話されて(笑)。柏原さんがすごくおもしろいことをおっしゃっていて、斎藤義重さんは割と柏原さんのことを気にかけていたところがある。卒業制作とか、関心を持たれたりしますよね。柏原さんは結局、大学を出るまではあんまり接点がなくて、むしろ関根さんらの世代の方が来ていろんな話をする中で、斎藤義重さんの考え方を運んできてくれたっていう言い方をしています。自分の関心を話すと同時に、斎藤義重さんの考え方も含めて自分にそれを伝えてくれるっていう、そういう相互の関係性とおっしゃって。そういうことをずっとお話されていたそうですね。

関根:そうかもね。当時は、私が斎藤義重の一番近くにいたからね(笑)。当時は伝えやすかったよね。

(休憩)

梅津:いよいよ《位相―大地》を制作される68年に入ります。〈時空概念〉というシリーズがあって、《位相―大地》に至る前に言葉として“位相”という言葉が明確に出てきて。ドローイングもありますし、半立体も、「トリックス・アンド・ヴィジョン」などに出されたレリーフもありますし。コンセプトとしての“位相”という言葉も含めて、それが明確に関根さんの中で出てくる辺りのことをお聞きしたいと思います。

関根:やっぱり高松のアシスタントを辞めて、それから私は自由になったと思いますが、その時に没頭してたのが位相幾何学ですね。トポロジーという空間の問題から、さらに新しい空間認識を発見するのは、どう考えても位相幾何学から発想した方がインパクトがあるんですね。それからずっと勉強するわけですよ。まぁ私の勉強っていったって解説本を読んだり、非常にたわいのない、研究者が聞いたら皆笑うでしょうけども(笑)。私なりに位相幾何学を読みこむんですね。その当時、いろんな数学とか勉強もしたんだけど、一番違うのはそれまでの幾何学はユークリッド幾何学なんですね。だからユークリッドを超えないとダメだというのが、常に念頭にあったわけです。高松次郎の逆遠近法の作品も、ユークリッドなんですよ。だからそのユークリッドに留まっている限り、新しい認識はないので位相幾何学にジャンプ・アップしました。位相幾何学の特徴は、計測的に組み立てる、長さや高さがあったり、それをユークリッド的に展開するのではなく、空間を捻じ曲げたり、くっつけてみたり。それから三次元四次元的に展開したり、それが可能な空間認識法なんですね。
例えば一枚の紙を可変性が自在と考えると、すぐ球にして一個穴が開いている状態ができるわけですね。いわゆる形態としては一枚の紙も、球に穴がひとつある形態もそれが同一だと考えるのですね。それは非常に刺激的なんですよ、空間を扱う者には。そういう考え方からすると、斬新な空間の解釈とか認識が可能ではないかと。そこで、ザーッと調べて思いつくことをスケッチして、位相空間を体験する感覚をすごく強く意識したんですよね。
最初の作品は平面のパネルがあって、そこに立方体の半分輪切りを接合して。その延長状を平面の方に描いてね。そんな作品を第1回目は作ったんですよ。それからいろいろまた考えて。立方体を使うのは、いわば一般的な幾何学的じゃないですか。

梅津:そうですね。

関根:で、これはマズイなと(笑)。非ユークリッド幾何学にいくのに、立方体はねぇだろと(笑)。

一同:(笑)

関根:それで立方体を円筒に変えたんです。円筒に変えてやり出したところ、それは感覚として位相空間的にかなり展開できてね。結局、わずか半年くらいの間に13点作ったかな。しかも大きい作品でね。

梅津:大きいですね。(埼玉の資料を見ながら)この辺りですね。

関根:確かね、13まで番号を振ったの。順調にワーッとできたんですよね。それで、その作品を毎日現代展(第8回現代日本美術展、東京都美術館、1968年)の、コンクール部門があってね。そこに私はあくまで絵の延長だとしたから、絵画部門へ出品したはずなんだけど。すると係に「これは立体だ」って言われてね(笑)。

一同:(笑)

関根:立体部門に入れられて、そっちで受賞しますよね。しかも毎日現代展での受賞がきっかけになって、神戸須磨離宮公園の第1回、現代日本野外彫刻展の招待出品者になるわけね。それはそれでいいけれど、唯、私はそれまで一回も彫刻を作ってない。それで、野外で彫刻を出せ、でしょ。そんな無茶な、という感じでしたね(笑)。

一同:(笑)

関根:それくらいの感覚だったんですよ。どうしたらいいかな、と思案しているうちに事務局から一か月くらい前ですかね。「関根先生、作品の集荷に行きますけど、どこへ取りに伺ったらいいですか?」なんて電話がきてね。いや、困ったなと、一瞬傲然としてしまったんですけど(笑)。「私は現場でやりますから、結構です」とか瞬時に平然と答えて、「わかりました」っていうから(笑)。それから一か月くらいかな、ものすごく考えたんですね。彫刻をつくる技術は全くない、野外空間なので作品が風で飛んだり、雨で消滅してはまずい、わずかなお金しかかけられない、など不利な条件しかなかった。しかし今回は熟考し、集中してマイナスをプラスに変換しようと考えた。
そして位相空間をテーマにしようと決めていたけど、どうやったらいいか。ある時、ちょっとひっかかりができてね、それを考えていたら山手線2周しちゃった(笑)。集中し出して、人に触られたり雑音が入ったり、集中が途切れるのがマズいから2周したんですけど。そこでは思いついたっていうより、アイディアを深めたっていう状態ですかね。構想としては地球に一点、穴を開け、そこから延々と土を掘り出す。そうすると、いつか地球は空っぽになる。それを展開して中からゴム毬みたいにつまみ出すと、地球が反転すると。当時の物理学、理論物理を読むと、「思考実験」という最適な手法がある。それは物理学の思考理論の中では必要だったら物理的な要因を、無視していいことになっている。アインシュタインなんてその通りで、相対性理論では光が基準になっている、光はinvisibleでね、見ることができないし、体験することもできない。しかし計算上には成り立つわけですね。
高度な物理的な事象を無視して良いという話は、地球はひっくり返すには都合がいい(笑)。マグマが噴出して爆発するとか、実験費用が莫大だなどと下世話なことを考えずに済む。それを具体的にどう試作したらいいか、で考え付いたのが、ネガティブとポジティブの円筒を作るイベント。それは大地に穴を堀り、そばに円柱に積み上げることだった。そういうところまで思いついたが、どう土が固まるか解らなかった。けっきょく東大の工学部まで電話をして「どうしたら土を固めることが出来るでしょう?」って質問した。そうしたら「ニガリを入れろ」だとかね、樹脂を入れろとかいろいろ言うんですよ。「接着剤を入れるしかない」とか。だけどあらゆる方面から突っ込んで聞いたら、ソイラーっていう方法があって「セメントを入れると、固まりますよ」って言うわけ。公園の園路は、土とセメントを混ぜる方法でやっているという。確信が出来ないから家の庭先で缶カラを用意して、そこに、セメントの粉を混ぜた土を入れて実験したら固まるんですよ。テストピース。これだったらOKかなの感触。仲間に「手伝ってくれるか」って聞くと、全員「行く行く」って言うからさ。当時、新幹線がなかったんだよね。え、そうかな。

加治屋:いや、あったと思います。64年の開通です。オリンピックの時ですから。

関根:あ、そうか。なぜ新幹線で行かなかったのかな。お金なかったからかな(笑)。結局、お袋に5万円借りて、それで行ったんですよ。5万円でよくできたな(笑)。

一同:(笑)

関根:今、思えばね。

加治屋:旅費とか滞在費とか含めて5万円。すごい。

関根:すごいよね(笑)。今じゃ考えられない。ともかく東京駅で皆で待ち合わせして、在来線を使って行ったんですよ。初めは皆、久しぶりに会ったもんだからギャーギャー、キャーキャー言うもんで(笑)。なかなか話は尽きないんだけど、まぁ1時間くらいしゃべると大体一段落。それで静かになった頃に、私は構想したプランを仲間に説明した。おおむね仲間は納得したけれど、吉田克朗は「ちょっとそれ、作り過ぎじゃない」って言うわけ。「自分だったら穴を掘るのはいいけども、その出た土をそのまま散らばしておく」と。まぁそれも一理あるとは思ったけど、これは一対の凸凹を厳密につくらねば駄目なんだと言い切った。小清水漸は、我々の仲間で唯一の彫刻科だが、ゆえに「本当に技術的に土が固まるか」って訝る。私が東大の工学部に相談して、じっさい庭先でやった話を説明した。そうしたら、吉田克朗は「いやぁ、わかったよ、あんたが大将、全部任せるから」って言う。まぁ当然だけども(笑)。
ただこれにはいろいろと手順があり戦略があることを説明した。決してこのプランを、公園事務所へ行って説明するなと。というのも公共の公園に大穴を掘っちゃうから、許可するはずがないわけだ。唐突にゲリラ的にやるしかない。いくら展覧会の招待者だからって、作品上の理由で押し切るのもたぶん難しいからプランは、いっさいシークレットにした。着いたその日は須磨の国民宿舎に泊まって、その翌朝に出かけた。公園の管理事務所に行って、明るい調子で「スコップ貸してください」って先ずは頼んだ(笑)。それも指示した通り、明るい調子で言えと(笑)。

一同:(笑)

関根:「何をやるんだ」なんて聞かれないようにね。公園に一番乗りで、まだ人が来てないんだよ。仲間の皆に相談して、どの辺がいいかって。ここで良いという場所を見つけて、先ず垂木を立てて紐で穴の円を書いてね。円をふたつ書いて、やおらスコップを突き立てた。そうしてまぁ大体円に沿って垂木を立てて、その内側にベニヤを貼る工法で凸の部分をつくっていった。片一方の凹は円の線から、それこそ丁寧に掘り下げていく工法でやり出した。大地はちょっと砂地っぽい、真砂土という土の質なんだよね。それだと固まるんですよ。できるなとは思ってたんだけど、なんせ穴掘りには慣れてない。アルバイトで土方はやってたが、監督だったもんだから(笑)。あんまり自分でやるのはね。まぁ交替で穴を掘ったんだけど、大体30分掘るともう体が言うことを聞かないくらいに疲れてね。で、仕方ないから代わってもらう。それが小清水、吉田克朗、前の私の奥さんの櫛下町順子、それから小清水の奥さんと私の5人。

梅津:上原さん。

関根:おお、よく知ってるな(笑)。上原貴子ちゃん。その5人が、一応主力戦闘員だったんですけど。セメントの袋をいっぱい積み上げて、土が出てきたら混ぜながらやったんですけどね。途中までいくと圧力で垂木とベニヤの型枠が、はじけそうになっちゃった。これはヤバいっていうんで、荒縄を買いに行ってぐるぐる外側を縛って。それで、水を撒くと張力によって縄がぐっと締まる。そういう工法で始まったんですよね。工期に一週間を見てたが3日くらい過ぎてから、「なんか終わりそうにないぞ」って話になってね。土量が膨大な数量なんですよ。「それでは知恵を使おう」って。その晩、飲んだ酒の残りの一升瓶を翌朝持っていって、職人に「一杯、ちょっとどうですか」なんて、コップ酒を次々振る舞った。その効果は絶大で以降はもうルンルンで彼らが手伝ってくれた。プロの彼らの決断でもうベルトコンベアは用意するわ、重機のすごいのは用意するわ、なんかもう一気にかなりの予定まで進んでしまった。いよいよ型枠を外そうという段階になって、しばらくお茶で休憩を入れた。その後、荒縄も外してね。開封するためベニヤをノコギリで切り目を入れると型枠が外れ、スルスルって固まった大地が躍り出た。あまりの素晴らしさに暫しの間、静寂が流れたんです。
目の前に現れた土魂の存在感がものすごい迫力でした。その存在感っていうのは、尋常じゃなかったね。凸と凹の一対の円筒の大地が、ある距離を置いて存在している。その凸凹が厳密なので、微妙だけどある精妙な存在感を発生させていたんです。

そこで見えたことは、物質感や材質感が存在性を獲得した状態性そのものでした。やっぱりこういう方法論も美術のなかであり得るんだ、と確信できた。提示する物質に存在感を発揮させて、それをもって美術の表現とする手法もあるんじゃないか、と皆その晩は飲みながら語り合いました。構想も大きいけれど、しかしながらその構想ですら従えて、現実に見える存在感はものすごく違う有り様と、存在の力強さが如実に現われるのに、私たち自身がびっくりしました。

梅津:制作の過程ですけど実際大きさの根拠というか、要するに円の直径ですとか、穴の深さとか、その辺を現場で感覚的に割り出すんですか。

関根:いや、もう初めから考えてました。

梅津:ちゃんと設計図が、プランがあって。

関根:設計図まではいかないけど。

梅津:プランは明確にあった。

関根:寸法を決める一番の手立てになってるのは、標準のベニヤと垂木の大きさが基準になる。

加治屋:ああ。

関根:それから垂木の大きさに関係しているんですよ。

梅津:ええ。

鏑木:なるほど。

関根:うん。だからそれから割り出して直径2m20cmっていうのがあるし、ベニヤを何枚重ねると高さはどうなるっていうのか。3×9=27でしょ。

梅津:なるほど。3枚で2m70cmっていう。

関根:そう。

加治屋:垂木もベニヤも現地調達。

関根:そうです。

加治屋:ただその大きさは、こちらにいるときから考えて。

関根:大体ベニヤが全国共通だから(笑)。そういう寸法からおのずと決まることと、人間の身体性をちょっと超えた寸法がありますので。

梅津:そこは重要なのかなと思っています。

加治屋:もしかしたら既に梅津さんがお聞きになっているかもしれませんけど、穴の方っていうのは固めるための工夫っていうのはされていたんですか。

関根:注意して掘り進めて工作してないんです。

加治屋:そうですか。でも全然崩れずに。

関根:うん。長期には知りませんよ(笑)。崩れたかもしれないね。わかんないけど。でも噂によると崩れてなかったですね。

梅津:土の質が良かったというのもあるんでしょうね(笑)。

関根:そう、土の質が極めて良かったんだよ。さっき真砂土って言ったけど、そういう恵まれた条件だったと思います。

鏑木:現地の土がどういう土かっていうのは、その時はわからずに……

関根:現地調査のないまま行ったんだよ(笑)。

梅津:しかもそこまで良い土っていう(笑)。2m以上掘り下げる訳なので、場所によってはうまく掘れない可能性がありますよね。何かが出てきてしまうとか、岩盤に当たるとか。

関根:配管があるとかね。まぁ配管は多少は気をつかったけどね。かなり土質もラッキーで好条件に恵まれたとは言えますね。その後でやってみた人がいて、それなんて、型枠を外したら見る前で崩れましたね。

梅津:須磨離宮公園の中で「ここで掘ろう」みたいなことも、行かれてから簡単な下見というか、検討をつけたり。

鏑木:ここでやってくださいっていうのは。

関根:だから言わないの(笑)。いきなりやっちゃうんですから、あんまり喋らないね。「何やるんですか」って聞かれるじゃない(笑)。

梅津:私も調べたんですけど、須磨離宮公園は67年なので、彫刻展の前の年にようやくオープンして、かなりヨーロッパ調に整備されています。開園当初の写真も見たことがあるんですけれど、広い公園だけども掘れそうな場所が意外にそんなにはないですよね。整備されて樹木があったり、噴水があったりして。

関根:そう、掘るところがないよね。特に中心部は整然とシンメトリーで。

梅津:土として掘ってなおかつ積み上げる場所っていうと、ある程度絞られてくる感じがある。

関根:それも全部調べて行かないで。ぶつけ本番なんだよ。だから相当、偶然が私に味方していたんだな。

加治屋:セメントを混ぜられたという話ですけども、でもやっぱり混ぜているだけだから柔らかいことは柔らかいんですよね? 手で崩せる感じですかね。

関根:うーん、手で崩すほど柔らかくない。しかも相当プレスしてるから。さっき話してなかったけど、踏み固めるという工程もあってね。セメントを混ぜてはいるんだけども、水も散布してやっぱりある程度圧力を与えないとね。均質に、なおかつ固くはならないね。

梅津:(『《位相―大地》の考古学』展、西宮市大谷記念美術館、1996年のカタログを見ながら)確かに、制作過程の写真で突然重機とかが現れて(笑)。

関根:これは職人を投入以降ですね(笑)。

鏑木:固めるのは人力で。足でドンドンドンって踏み固める(笑)。

関根:今だとドッドッドって、そういう機械があるもんね。最近はあれですよ、既製品の鉄の型枠がもうあるんですよね。コンクリートの柱脚なんかを作るじゃない。そうすると、高速道路の橋脚にダーッと作るでしょ。そのために型枠がもうレンタルで借りられて、連続的にバーッと構築する。

加治屋:重機を貸してくれた方っていうのは、この公園の整備をされていたんですかね。

関根:彫刻展の準備の人。その中にはクレーンもあるし、石の彫刻もあるし重量を想定して用意してあるんだ。

加治屋:そうか。そうですね。

関根:石の彫刻はクレーン車で動かさないと、人力では無理だから。だから一応の機材は揃ってる。ショベルカーだとかベルトコンベアーがね。

梅津:須磨の野外彫刻展自体は、関根さんの《位相―大地》で名前が残って歴史上有名なんですけれども、今から振り返ってカタログを見直すと、出品作家がものすごく広いですね。具象彫刻の柳原義達さんとか、そういう方もいらっしゃるし。あとは当時のキネティックとかライトアートとか、ちょっとキラキラピカピカ系の造形の派手なものが並んでいて、その中で関根さんのこの作品だけがかなり異色というか(笑)。そういう印象を受けますね。

関根:そうかもしれないね。なんか、テーマがあったんだよな。

梅津:テーマがあったんですよ。「夜」、「光と彫刻」、「風と彫刻」、「水と彫刻」っていうのが。やっぱり光でライトアート的なものと、風で動くいわゆるキネティックなものと、あと噴水があるから水とか。

関根:そういうのを想定してたんだね。私なんか、まったく違う(笑)。

梅津:土と彫刻(笑)。かなり幅が広い出品作家ですし。

加治屋:そうか、関根先生は招待されて作られてるから。会場構成に大高正人さんの名前がありますけど、特に関わりはなく。

関根:そうですね。本来なら大高さんに相談して、配置まで関って貰うのが本来でしょうね。私はその前に行って、やおらやっちゃった(笑)。制作のプロセスを飲み込んでいたんですよ。公共の場所で穴掘るとどうなるか、絶対許されないでモメるだけですよね。だからモメる前にやっちゃうと。穴を掘ってある程度出来上がった段階で人が見たとき、もうそれは止められないと思ったの(笑)。

一同:(笑)

関根:一応は計算していたの。それまでは黙っててね。黙って黙々とやってる。「なんですかー」なんて言われても答えないの(笑)。ある程度進んだら、もう答えてもいい。

梅津:関根さんの場合は当然掘る、固めるの作業で結構な長期間かかるので、現場にいらした時間は結構長いと思うんですが、そこで設置に来られた他の出品作家の方と会話をされたりとかっていうのはありましたか。

関根:ありますよ。知ってる彫刻家が多いけど(笑)。伊藤隆道さんは「崩れたらどうすんの? この穴の中に入れときゃいいんでしょ」って言うから「そうだよ」って(笑)。かなり理解してるなと思って。あとは印象的だったのは、写真家の村井修さん。写真を撮ってる人がいて、えらい熱心にやってるのよ。人を立たせて影を出したり、撮影する角度をさまざまに試みたり、けっこうセンスあるなと近づいて話したら、稀にみるほど素敵な人でね。その後村井さんとはお友達になっちゃいましたね(笑)。

梅津:確かに《位相―大地》は一過性の作品で、展覧会の期間が終わると埋め戻されて存在しなくなってしまう。その後、私も含めて後の世代の人は写真によって作品を知ることができるので、そのイメージの力は結構大きい。

関根:写真の力は大きいですよね。

梅津:それも関根さんご自身が村井さんの撮影の様子を見て、その作品(村井修の写真)を選ばれて、後に版画作品なども作られます。その力というのは作品が視覚的なものである以上は、ある種作品の同一性っていうのをその写真がずっと担ってきている感じがありますよね。

関根:全くそうだね。

梅津:公式カタログでは大辻(清司)さんが正式なカメラマンで、カタログには別なカットが載っているわけです。関根さんはそれを《位相―大地》の記録写真として選択しない判断が、その瞬間に起きている。それも作品の行く末を考える上では、割と重要な判断だったと思います。

関根:村井さんが一番、ドラマチックに撮ってくれた人だと思うね。村井さんは本来建築の人だからスケール感とか、どうやって撮ればいいかよくわかっている人でね。彼がおもしろいのは、彫刻を撮るのが好きなんだよね。彫刻と人との関わりを絶妙な関係でよーく解っている気がするね。特に流政之なんかは、多くは彼が撮ってるんですよね。

加治屋:制作過程の写真を撮ったのはどなたですか。

関根:これは小清水くんが主です。

加治屋:ああ、そうですか。

梅津:結局、小清水さんはほとんど写ってないという(笑)。というのは、小清水さんが撮っていたからですね。後半、集合写真でちょっと小清水さんが写っているのは、どなたか別の人が。

関根:そうなんだよ。小清水があまり登場しないの(笑)。

鏑木:それは関根先生が「小清水くん、記録係ね」みたいな感じでお願いしたんですか。

関根:お願いまでしたかどうかね。

鏑木:でも最初から、制作過程の撮影をするってことは決めていらしたんですか。

関根:うん、記録しようと考えましたね。なんにも残らないしね。しかもまた埋め戻しちゃえば、なんにもなしで終わりだからね(笑)。

鏑木:そうですよね。結果的には賞を取られたこともあって、いろいろな形で写真が残っていますけど、当時はまず自分たちで残しておかなきゃいけないという気持ちがあったんですか。

関根:あったの。ありましたね。

梅津:吉田さんの奮闘ぶりというのが、すごく伝わってきて(笑)。吉田さんは「関根さんは現場監督気質だから、俺が掘ったんだ」みたいなことを。

関根:「あいつは何もしない」とかね(笑)。書いてあったな。

鏑木:皆さん仲良しですよね。こうやって、(円筒を囲んで皆で)手をつないでいる写真があったり(笑)。

関根:青春真っ只中だったね(笑)。

梅津:やっぱり若いですからね(笑)。

関根:若いよね。僕だって26歳かな。

梅津:25、26歳くらいですよね。

関根:そんなもんか。

梅津:ちょっと話が前後するんですけれど、毎日現代展の受賞によって招待出品になっています。〈位相〉のレリーフシリーズを13点作られて、恐らく68年の「トリックス・アンド・ヴィジョン」ですとか、村松画廊で斎藤義重さんが作家選定された「The 9 Visual Points」展ですとか。あと「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)も68年ですよね。その辺りに〈位相〉のレリーフシリーズを制作してどんどん出品されていって、《位相―大地》っていうのはある種、彫刻家ではない関根さんに立体を、しかも野外に設置されたという外からの理由があるんですけれども。〈位相〉シリーズのレリーフを意識的にここで打ち止めにするという意識がおありだったのか、あるいはこの話が入ってきて、自動的にレリーフから《位相―大地》に飛んだことで違う展開に行ってしまったのかっていう辺りは、お聞きしたことがなかったと思います。

関根:作ったのは13点ですけど、野外彫刻展に呼ばれたのはその後なんですよね。《位相―大地》を作っちゃった後はなかなかね、レリーフはできない(笑)。前には決して戻れないんですよ。

梅津:そうですよね。

関根:それからやっぱり、私もスタイルが変わっちゃったんだな。先をいく意識があって。

梅津:決定的なものだった。

関根:決定的だね。

梅津:シリーズとしては〈位相〉のレリーフがちょうど終わる頃に《位相―大地》だったのかもしれないし、《位相―大地》がなければもう少し続いたかもしれないけど、これをやったことでもう決定的になった。

関根:そう、変わったの。まぁ言えることは、〈位相〉のレリーフは仮想の空間だったね。やっぱり位相空間であっても、常に仮想の空間なんだよね。あるバーチャルな空間といってもいい。それに対して、《位相―大地》で初めて実在というか、現実の存在性と対決したわけだから、またすぐには仮想の空間へ戻れなくなる。だからそれから作るものは、すべて現実の存在性に関わる材料であったり、やり方が変わったな。なんていうかな、実在のリアリティやものの存在性を知ったわけだから(笑)。

梅津:あとやはり、掘って積み上げて地球をひっくり返すという。関根さんは思考実験という言葉を使われています。私たちは写真から推測するしかないですけれども、実在しているという実感とともに、虚の空間が実在している。同じボリュームで虚の空間の存在感というんですかね。それを実感するというのは、すごく大きいという気がします。

関根:やっぱりそれが並列され、一対であるからね。なおのこと、虚の部分が力を持った実感がありますね。これは大きなホラ話になるかもしれないけど、禅でも不立文字といって禅を文字で語ることは出来ないとされている。非常に精神的な意味合いが重要だから。《位相―大地》は、禅の人もきちっと理解するんですよね。ひとつのアイコンという図像ともとれる。とくに東洋の思想は言語表現が難しいし、なかなか形態で表せない。あれは唯一、表現し難きを表記する点で全くうまくいっちゃったね。私もそんな深遠な世界までは考えてなかったけど(笑)。しかも図らずもネガティブとボジティブが合一することで、その精神世界のすごく簡単で明瞭な仕組みが軽やかに表現できる。

梅津:一方でご自身で彫刻家という意識がない中で、招待出品の依頼を受けてこれを作って、物質の生の存在感とか実在性というものに強く打たれる経験があって、レリーフのような仮想的なものにはもう戻れなくなるわけです。相変わらず彫刻をやっているとか、立体に移行したという意識は恐らくあまりない中で、あくまでも視覚的な表現というんですかね。立体や彫刻に移行して生の物質を素材にするということに、移行したわけではないのかなという感覚もずっと持っているんです。これは2回目のときにもうちょっと詳しくお聞きすることになると思いますが、これをやった後でもやはり彫刻とか立体という意識は、さほど強くなかったのかなと。

関根:なんていうかな。彫刻というカテゴリーが私にあんまり解ってないんだな。そして位相空間での思考では絵画も彫刻も、構造からくる差異はないというか。だから、そこに私は全然コミットしていないね。

梅津:ああ、そうなんですね。

関根:まぁその辺が例えば、峯村敏明は彫刻と言うわけじゃないですか。あれもよくよく考えると、長澤の話とだぶっているけどね。

梅津:そうですね。

関根:ただ驚異的なのは、彫刻に関しては私は素人だってずっと言い続けているのに、余りにもいっぱい作っちゃったの(笑)。だから、彫刻から回避出来ないほどに現実化してしまったんですね。特に環境美術がらみでね。随分つくっちゃったからもう知らないとは言えないよな(笑)。

加治屋:では今日の質問は《位相―大地》の制作まで、ということで。

関根:ちょっと早めに終わったのかな(笑)。

梅津:ちょうどくらいです(笑)。

加治屋:では1回目はこれで終わらせていただきます。今日はどうもありがとうございました。

梅津:本当に長時間ありがとうございました。

鏑木:ありがとうございました。