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清水晃オーラル・ヒストリー 2015年1月17日

埼玉県北葛飾郡 清水晃自宅アトリエにて
インタヴュアー:平野到、宮田有香、鏑木あづさ
書き起こし:鏑木あづさ
公開日:2016年5月1日
 

清水晃(しみず・あきら 1936年〜)
美術家

富山市出身。石川県公立金沢美術工芸大学洋画科卒業後上京。1960年代前半から廃品を用いた作品やコラージュを発表し注目され、68年からは舞踏家・土方巽らの美術をも手掛けた。1970年代以降は幼少期の原体験を深く見つめ、素描や立体作品によって独自の世界観を表出し続けている。
インタヴュアーは2012年に「清水晃 漆黒の彼方」展を企画した平野到氏にお願いした。
1回目のインタヴューでは作家が「突き刺さっている」という原風景となる幼少期の思い出を中心に、1963年読売アンデパンダン展や《色盲検査表》での第7回シェル賞受賞後の初個展までを伺った。塗装業や工場勤務と作品制作の両立、駆け出しの頃の画廊巡りで考えたこと、初個展を開催した村松画廊や内科画廊に集まる同世代の作家、評論家、画廊関係者との交流についても語って頂いた。

鏑木:それではよろしくお願いします。今日は2012年に埼玉県立近代美術館で「清水晃・吉野辰海 漆黒の彼方/犬の行方」展を企画された平野到さんと、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴよりお父様が内科画廊主であった宮田有香さん、そして埼玉県立近代美術館に勤務する私の3人で、清水さんのこれまでのお仕事のことだけでなく、交友関係などについてもお聞きできればと思います。

清水:交友関係と言えば平野さん、谷川(晃一)さんが埼玉の展覧会に来てくれましたね

平野:はい。今度、ギャルリー東京ユマニテで個展があるんですよね。

清水:その時、彼は「清水とは親友ですから」と、言ってくれましたね(笑)。

鏑木:仲良しですね(笑)。

清水:読売アンデパンダンの頃に出会った友だちが、未だに友だち。それっきり、友だちらしい友だちは全然ないんです。本当にないです。だからさっき交友関係とおっしゃいましたけれど、本当にその頃知り合った数人の友だちだけです。あと中西(夏之)さんとギュウチャン(篠原有司男)くらい。 

宮田:中西さんと、谷川さんと、ギュウチャンと。

清水:あと刀根(康尚)くんとかね。本当にそこら辺。あれが最後のアンデパンダンですよね。63年かな。

宮田:それは、アンデパンダンの会場でお会いしたんですか。

清水:そういうこと。そして美術館に作品の大きさの制限があったの。僕の場合は、床置きのベッドと地図と卓球台の、3点セットで出したんですよ(《リクリエーション》1963)。全部、鳥が刺さっているの。そうしたら美術館の方が来て、サイズを測りだした(笑)。丁度僕は四畳半、2m70cm四方のテーブルを出していて、それがちょっと大きかった。だから「これは撤収」とか言われたのよ。3cmかそこら、大きかったんです。

宮田:厳しいですね。

清水:厳しかったです。(平野到ほか編『清水晃 漆黒の彼方』埼玉県立近代美術館、2012年のp. 94「清水晃主要作品集」C4を指しながら)これです、これです。

鏑木:この台が大きかったんですか。

清水:いや、3点ともサイズが大きかったんです。だから、四畳半の空間があるんですよ。

鏑木:それは大きいですね。

清水:大きいんです。でも、口説き落としてね(笑)。「せっかく作ってきたし、車で運んで来たんですから」って言ったら、「じゃあいいでしょう」っていうことで、目をつむってくれた。そして、僕が丁度作品を組み立てている時。ちょっと青白い顔をした男が寄ってきて、「これ、君の作品ですか」って声を掛けてくれた人がいた。

平野:それが中西さん。

宮田:青白い顔だったんですか(笑)。

清水:うん、なんかそういう印象がありました。その前に僕は川崎の、南武線の尻手駅の近くに住んでいて。駅のすぐ横に、石原裕次郎とか小林旭とかを再映するような、日活の安い映画館があったんです。そこに観に行ったとき偶然にニュースで、若手の現代美術家の紹介をやったんですよ。

宮田:えーっ、映画館でですか。

平野:昔の映画館は、最初に時事的なニュースが流れたりするんですよね。

清水:そうそう、映画が始まる前にやるんですよ。今でもそうですか。

平野:今はないですね。昔はそうだったけど。

清水:必ずニュースっていうのをやったのよ。そこで偶然、中西さんが溶接して制作しているシーンが出てきたんです。あの彫刻、今はどこかが持っているはずなんだけれど、いい作品なんですよ。僕は、彼の名前は知っていたのね。僕はまだどこにも出品していない状態だったし、「ああ、中西さんだな」と思っていたら、アンデパンダンで声を掛けてくれたのが中西さんだった。

宮田:じゃあ声をかけられたときに、中西さんだっていうのはわかっていたんですか。

清水:映画のときは(溶接のマスクをしていて、はっきりとした顔は)わからなかったの。で、聞いたら「中西です」って。だから「憧れの中西だ」って、本当にそう思いました。だってその頃は赤瀬川(原平)とか高松(次郎)とか、皆デビューしていましたから。
だから話は前後しますけれども、正直な話、振り返って60年代の自分を考えると、最終列車の最後尾のデッキに飛び乗ったっていう感じです。皆さんはもう、作家として確立した存在でした。中西さんは(東京都品川区)大井かな。(宮田に)お父さん(宮田國男)はそこから近かったよね。

宮田:はい。大井町です。

清水:ね。僕は川崎でしょう。帰るときに中西さんと電車が一緒だったんです。そして、「俺の家、大井だから寄って行かない?」って言ってくれて、それから彼との交流が始まった。だから土方(巽)さんのところに連れて行ってくれたのも彼だと思うし、彼には本当にいろんな所へ連れて行ってもらった。

平野:中西さんの作品を最初に観たのは、「現代美術の実験」展(国立近代美術館、1961)ですか。

清水:そうです。あれもすごかった。

鏑木:(「現代美術の実験」展リーフレットを見せながら)これですか。

清水:ああ、そうそうそう。懐かしい。写真、載ってます?

鏑木:写真は載ってないんですよね。ほとんどの作品が載っていないんです。

清水:(リーフレットを見ながら)これが中西です。

宮田:〈韻〉のシリーズですね。

清水:印象に残ったのはね、銅を叩いてボコボコを作って、スプーンがバーッと波のように連なっているの(註:1958年、櫟画廊での個展「内触覚形態」の頃の作品と思われる)。あれはもう、鮮烈に残っていますよね。川崎にいた時に『美術手帖』とかで、いろいろと見ていて名前は知ってたし、作品もだいたい見ていたもんですから。

平野:「現代美術の実験」展で、他にも印象に残った作家はいますか。

清水:荒川修作。あと、菊畑茂久馬かな。

宮田:瀬木慎一さんがテキストを書いていますね。

平野:大体同じくらいの世代ですよね。工藤(哲巳)さんとかはどうですか。

清水:工藤さんはアンデパンダンの時に、ぶどう棚みたいなものを作って、いろいろいっぱいぶら下げていましたね(《インポ分布図》1962)。工藤さんとはあんまり話をしたことはない。なんでかね。きっかけがなかったというか。一番きっかけがあったのは中西さん。それから彼の家によく遊びに行くようになったし、ほら、川崎から車で近いじゃないですか。仕事が終わってから彼の所へ行ったり、彼もよくつきあってくれたし。僕、川崎で第二国道なんですよ。中西さんを僕が迎えに行って、夜中に横浜をドライブしたりしましたね。ひどい車で、床が腐っていて下がボロボロになっていて、(穴が空いていて)道がこう、去ってゆくのが見えるんですよ(笑)。ヤスコちゃん、ご存知?

宮田:奥様ですね。

清水:そう、乗せたりしてね。夜の港をドライブして。行く時にひどくて、2回もパンクしてね(笑)。
荒川さんもすごく印象に残ってる。菊畑の(作品)と。あとはちょっと頭にイメージが残っていないです。

平野:具体の作家なんかも出ていますけれどね。

清水:そうですね。

平野:当時具体美術というのは、情報としてはご存知でしたか。

清水:現物の展覧会は、なぜかほとんど見た事がないんです。今、ニューヨークでも具体がすごくクローズアップされていて、市場でも動いている感じを受けましたけれど、僕自身は具体とはあんまりね。

平野:接点はなかった。

清水:ええ、交流もなかったし。興味がなかったわけじゃないんですけど、なぜか。後は一番ビッグな人との交流は、土方(巽)さんですよね。僕は60年代は〈ブラックライト〉をやったり〈色盲検査表〉をやったり、〈地図〉(〈ガイドブック〉シリーズのこと)をやったり、〈ポスト〉をやったり。要するに、欧米の美術が入ってきた時代。(ジャン・)ティンゲリーとかジャスパー(・ジョーンズ)とか(ロバート・)ラウシェンバーグとか。そういう時代だった。
富山にいて、やっぱり美術雑誌って見るじゃない。においとして感じるのね、ひたひたと何か「来てるな」って。それで東京に来て見てみたら、現物が見れたじゃないですか。やっぱりあの頃、すごく触発された。あの頃の自分の仕事を見ると、そういう時代の流れっていうか、〈地図〉も〈ブラックライト〉も〈色盲〉も〈ポスト〉も、自分の中で育んだものを作品化するんじゃなくて、自分が生身の現実へこちらから出かけて行って、そこのシステムをぶち壊そうという意識があった。赤瀬川の千円札なんて典型的じゃないですか。そういう風に、出かけて行って変革をしてしまう。意味をひっくり返してしまう。
通っていた学校が金沢でしょう(石川県公立金沢美術工芸大学、現在の金沢美術工芸大学)。金沢の駅に着くと学校に行くのが嫌で、行った汽車でまたすぐに帰って来ちゃって(笑)。なんで嫌だったのかなぁと思うとね、やっぱり肌に合わなかったのかな。今もそうでしょうけれど、伝統的なことがものすごく重んじられていたんです。でもそれは批判することじゃなくて、それはそれで勉強すれば良かったなと、今では悔やみますけれど。60年代はやっぱりアメリカの方に興味があったのね。
だから60年代はそれをずっとやっていて、70年代近くになって一応自分ではどこかでやり切ったな、という思いが生まれてきて、丁度その時に土方さんに出会ったのね。周りに視点を配置していたのが、今度は自分の中のものをもう一回。牛が反芻するのに似ていますね。

宮田:それまではどういう作品を作っていたんですか。

清水:学生時代ですからもう、石膏デッサンとか。全く美術学校のやり方そのもの。あとはヌードのデッサン。

宮田:洋画科に入られたんですか。

清水:洋画科です。批判する意味じゃなくて、日展系の先生だったもんで、若い時はどうしても反発してね。まぁその時は僕も青かったんですけれど。そういうことが引き金になって東京に出たっていうことも、正直あったと思います。
川崎の町工場にいて、会社が終わってから画廊回りをするでしょう。見るもの見るものが皆、新鮮でしたね。そうすると、圧倒されるのよね。とにかくパワーに圧倒される。それをどう自分のものとして生かすか。まずはやっぱり、頭で勝負するしかないと思った。パワーじゃ負けるって(笑)。頭脳で勝負する。最も現代的で、しかも先鋭的なこと。周りの中西とか高松とか赤瀬川原平とか、彼らの作品を見て触発されることも多かったし、ジャスパーとかも見て、自分になにができるかっていうことを考えた。あの頃は頭を使いました、やっぱり。頭を使うって、頭がいいとか悪いとかじゃないですよ。そういうんじゃなくて、それしか勝負のしようがないと思うものを考えた。
僕自身ははっきり言って、〈色盲〉が自分の代表作だとは思ってないのね。正直な話、仲間からも〈色盲〉に関してはすごく評判が悪かったんです。

宮田:そうなんですか。例えばどんな感じで。

清水:せっかく知り合った仲間にも、「アメリカナイズだ」って。要するに生の自分から出た世界じゃなくて、変な話、やくざが渡り歩いて流れていく、みたいな。そういう姿勢が皆さんに合わなかったんじゃないかな。そういうことの反動があった時に、土方さんに出会った。土方さんの世界を観て感じたことは、「ああ、こういうこともしていいんだな」って。捨てた故郷がさ……ヤクザってほら、故郷を捨ててもやがて、故郷を恋しがるじゃないですか(笑)。
皆さん「清水はいちいち極端すぎる」って言うけれど、僕なりに自己の一本の線としての筋道を立てなきゃいけないっていう気持ちがどこかにあった。その時に土方さんと出会ったのは、またひとつのなんていうか……そういう意味の宿命めいたもの? でもやがて多くの方は「土方さんと出会ったことで、清水が生きた」みたいな言い方をするんです。それはもう、間違いないの。でも、それだけじゃないのよ。こちらからも、土方さんに投げたものがいっぱいある。それを語り出したら、きりがないと思いますけれどね。
土方さんというのは、本なんかを読んでもらえばわかると思うけど、実はどこで誰が何をしたとか、そういう文法的な展開は絶対しない人なの。だから突然こちらに質問が飛び込んで来るし、逆にこっちも「こういう言い方をすればわかってもらえるだろう」と感じると投げ返す。キャッチボールみたいなことが、結構あったんですよね。

宮田:例えばどんなことを聞かれるんですか。

清水:例えば僕は子どもの頃に新聞配達をしていて、大通りまでの道に雪が積もると雪分けをするんです。そうしないと、火事の時には消防車が入れないわけ。今でこそ雪がちょっと降ったとかで大騒ぎしていますけれど、昔は本当に一晩に1mくらい積もるんですよ。新聞配達をすると、朝が早いでしょう。そうするとね、道もついていない。田舎ですから、東京みたいに一軒一軒、配りやすくないのよ(笑)。しかも大通りから、回っていかなきゃならない。また大通りに戻って配って、こう行かなきゃいけない。子どもの頃だから、帰ってきたらもう、体から湯気が上がりますよ。配っていた新聞は中部日本新聞。名古屋かどっか、あっちの方が本社で、高山線で新聞が来るわけ。雪があると汽車が遅れてくるのよ。それを待っていなきゃいけないでしょう。学校の始まる時間があるから、慌てる慌てる(笑)。もう雪があれだけ積もると、ちっちゃい川なんか、どこにあるのかわかんなくなっちゃうのね。そしてゴボッと入っちゃうの。おっかないですよ、落とし穴みたいで。学校に行くのもそう。
そういう話を土方さんにすると、そのまま踊りのひとつのいき方としての、典型的な世界だと彼は言うのね。彼流に言えば、「ザクラッと落ちた」っていう言い方をする。「ザクラッ」って何かと言うと、彼独特の言い方なんですけれど、思いもかけずくらっとして、床へ落ちるとか、あるいはちょっと凍った雪がざらついていて、そこをすり抜けながらながら落ちるとか。そういう言葉だと思うんですけれど。そういう言い方をする人。例えば、「清水、滝とは何?」と、こう来るわけ。あの人はいつも、突然来るわけ。だからそういう時は、迷ってちゃダメなんです。こちらも思いついたことは、どんどん言っちゃう。「天国が動いて滝になると思います」って、僕は何気なく言ったのね。そうしたら彼は何回も「清水が『天国が動いたら滝ができるんだ』って言い方をした」って他の人に言っていた。僕なりにも何気なく言ったことだったけれども、後から思うと土方さんが、僕の中にあるものを引き出しているのね。あの人はその天才。だからこちらもそれに向かって行けば、すごくしゃべりやすい人でした。振り返ってみると文法もなにもない、言葉の天才だと思う。

宮田:年齢は少し離れていたんですか。

清水:一回りくらい違うのかな。そろそろ、もう没後30年。展覧会をやるらしいですけれど(「土方巽の芸術 DANCE EXPERIENCEからDANCE METHODへ」青森県立美術館、2015。常設展示内での特集展示)。とにかく、一事が万事そういうことがあって、僕が60年代にやったことと、全く違った世界があそこで展開できた。土方さんに出会えたから、そういう意味では自信を持ってやりましたね。こういう人もいるんだ、って。
例えば雪道を歩いていると、子どもですから、すぐ体が埋まっていくんですよ。学校は遠いですからね。帰り道なんかもう、(体が埋まる仕草をして)こんなになっちゃうのね。道なんかすぐなくなっちゃうし。ある時、学校の帰りにものすごい吹雪に出会って、子ども心に「これはもう本当に埋まっちゃうんじゃないかな」っていうくらい、動かないと埋まっちゃう、でも動けない、みたいなことを経験したことがあるの。それこそもう、ホワイトアウトって言うんですか。一面、白くてわからなくなっちゃう。そんな凄まじいことが、毎日ありました。今だったら学校の帰りに先生が「今日は危ないから」とか言うけれど、当時はそういうことはないのよ(笑)。そうしたらその時、黒いマントの男の人が、ヒューッと目の前に現れてきたの。僕はギャーギャー泣いていたと思います。その人が目の前に現れて、すーっと僕を持ち上げて、自らの後ろにポンと下ろして、どこかへ行ってしまった。僕はその人の足跡をたどって、家に帰れたんです。僕が土方さんに出会った時、なんだかその人と重なったんですよね。だからそういう話を土方さんにしてね。土方さんもほら、裏日本の人ですから、そういう話が通じるんだよね。だから平野さんにも(『清水晃 漆黒の行方』掲載のインタヴューの時に)言ったと思いますけれど、富山ではホワイトアウトみたいな世界が日常茶飯事だった。暗い中、空は鉛色だし、海も波も本当にどす黒い色で。僕が間借りしていた家は、漁師だったのね。

宮田:なんていう場所でしたっけ。

清水:岩瀬です。時間がなくて、約束したのに平野さんを連れて行けなかったんですけれど(注:前述のインタヴューは2011年、富山市で行われた)。

平野:戦後に、岩瀬海岸にお住まいになっていたんですよね。

清水:そうです。岩瀬でそういうことがあったっていうことも、土方さんはよく汲み取ってくれたし、お互いに一を話して十を分かり合えるみたいな、濃密な空気が流れるっていうか。

宮田:そういうお話は、どういうタイミングでされるんですか。

清水:丁度、『目沼』(シリーズ『絵次元』大門出版、1971年)っていう本を作った時に、土方さんに文章を頼んだんです。それで土方さんにお願いに上がった時ね、初めてサシで延々と話し合いました。ゆっくり話し合えたのは、それが最初で最後だったと思う。
例えばホワイトアウトの日もあれば、たまに目がつぶれるんじゃないかと思うくらい、眩しくて天気のいいときもあるの。雪の反射がすごいんですよね。もう目が焼けるくらい。やっぱりそれも学校の帰りです。道端で馬が倒れていたんですよ。まだ足がクラクラと動いてる、でも倒れてるの。なぜそうなったのか、全然わからなかったですけれど、「ああ、まだ生きてるんだ」と思って……そのときにね、たてがみが風に綺麗になびいているのよ。そして馬の目に、青空が映っているの。目を見開いているんですよ。そういう光景が子ども心に鮮烈に残っているっていう話も、土方さんにしたと思います。あと富山には、水力発電が多いんですよね。

宮田:(下山芸術の森)発電所美術館とかもそうですね。

清水:僕は行ってないですけど、あるみたいですね。それで発電所の男たちは雪が深いから、一冬、山で過ごす。父親が床屋だったもんですから、男たちの頭を刈りに行くのを手伝いに山へ一緒に行くわけ。それも行くのは大変。駅を降りてから延々と恐ろしい道を歩く。僕の頭に残っているのは、男たちの刈った髪をどっかで始末すればいいのに、なぜかしら外に持って行って、撒いたことがある。それが本当に本当にきれいだった。髪の毛がパーッと雪の山へ散っていくの。風が吹いている、よく晴れた日でしたけれどもね。そういう光景とか皆、土方さんに話したと思います。

宮田:そういう光景が心に留まっているっていうのは、ご自分ではなぜだと思いますか。

清水:なぜかはわからない。鋏も未だに(作品のモチーフとして)残っている。なんか、刺さっているんですね。刺のように。物として音として、自分の脳裏に。例えば鰤起し(ぶりおこし)。今、丁度、寒鰤の季節ですよね。そのときは定置網。今年もまた大漁だったって聞きましたけれど、鰤起しという稲妻が落ちるんですよ。漁師が「鰤起しだぞ」って言ったら、必ず鰤が獲れる。魚市場に吹雪いている朝に行くともう、こんなにたくさん獲れていて、船が沈んでいるんじゃないかと思うくらい。朝行くと、最初にポンポンポンポン……って音が聴こえて来るの。それから吹雪の中から船が現れて、今度は鰤を上げて。市場に並べるでしょう。あの時の鰤の白さ、眩さ。鰤自身が発光してるような感じがするのね。そういうことが、刺さったまんま。自分の中に未だに残っている。なぜかな。あと音も。
例えば平野さんには話したと思うんですけれど、岩瀬で大火があって。元日の夜ですよ。僕は子どもでしたから、母親たちは火事場の馬鹿力じゃないですけれど、2階から港の倉庫の横へどんどん荷物を運んで、火の中からタンスを担いで来るのよ。僕はそれを、泥棒に盗られないように守っていたわけ。その時もものすごい吹雪の夜でね。真っ白い雪が降っている中に火の粉が混ざってるのね。そういう光景とか。その時に家が四百何十件いっぺんに燃えちゃったんですよ。岩瀬の港の一町が全滅したの。

平野:燃料タンクかなんかで。

清水:そう、漁村のね。しかもあの頃、船の燃料のドラム缶を玄関に置いておくんだよ。それが引火しちゃって、爆発するし。そういう光景とか。音の話にまた戻ると、平野さんには話したかな。焼け出されて急遽、父親が仕事をしていた製材所へ行ったんです。そこで父親が何をしていたかって言うと、アミノ酸醤油とかを作っていたんですよ。今だったらもう、衛生法に引っかかるでしょうね。そこは隙間だらけで寒いから、まず部屋を囲う。角材の不定形な材木がいっぱい残るでしょう。それを利用して、急遽部屋を組み立てた。隙間が空いているもんですから、短冊形に切った新聞を貼るんですよ。ところが冬ですから、木が乾燥して縮むのね。そうすると、ものすごい音。新聞とは思えない。稲妻だね、あれ。新聞がビーッと破れるの。「バーッ」と音がして、それも次から次へ。だからそういう音とか。父親の鋏の手入れをしたりとか、それが刺さったままで未だに残っているのね。

宮田:刺さっているんですね。

清水:刺さっている。そうとしか表現できないです。そういう子ども時代の経験を、土方さんに話したと思います。

宮田:幼い頃は、どんなお子さんだったんですか。

清水:僕? やっぱり食べるものがない時代でしたから、母親を喜ばせたかった。岩瀬に行くと今でも、でかい貨物船があります。ロシアへ運ぶ中古車が、山のようにある。その岸壁の所へ潜ると、牡蠣が獲れるんですよ。下の暗くて見えないくらい深い所。そこで獲った牡蠣を、母親が料亭へ売りに行くの。今行くと汚くて、こういう所で泳いでいたのかと思うと、ゾーッとしますよ。
あるいは魚市場に並んでいる鰤が、口を開けているでしょう。覗くと鰯を飲み込んでいるのが見えるの。それは漁師が取ってもいいって言ってくれたから、朝早く魚市場へバケツを持って行くわけ。子どものちっちゃい手で、鰤の口の中へ手を入れて、せっかく鰤が飲んでいる鰯を抜き取ってさ(笑)。おふくろがそれで、つみれを作ってくれたのね。それは牡蠣と違って、売り物にならないからさ(笑)。手はすっと入るんだけど、抜くときに鰤の歯に引っかかるの。それで手が血だらけになる。
でも今から思うと、その時に岸壁で泳いだのはもちろん遊び心もあるし、生活のためもある。それからなんて言うのかな。勉強? 効率よく捕るにはどうすればどうなるかっていう。全部重ねて、泳ぎながらね。それは遊びも生活も勉強もひとつになっての泳ぎだった。今の子はプールで何級取ったとかですよね。
一事が万事そういうこと。まず、食べるためにどうするか。だって、お袋だって一生懸命なんですよ。雪道を歩いていると、米がこぼれていてね。「晃、これを拾って行ってご飯を食べよう」って言うの。ところが突然だったから、入れるものがないでしょう。だからお袋は自分の手袋に詰めるとか、袂に入れるとか。要するにどういう少年かと言われると、とにかく腹が減っていた(笑)。きゅうり1本を三軒で分ける時代ですもん。おばあちゃんは呉羽山っていう山で、さつまいもを作っていたのね。それも思い出しますよ。土砂降りの寒い日。リヤカーを引いてお袋と僕とおばあちゃんと三人で収穫に行って、おばあちゃんが作ったさつまいもを雨の中リヤカーに積んでいたの。そこに丁度、兵隊さんたちがいる宿舎が近くにあって「僕らに少し下さい」なんて言ってくるのよ。彼らも腹が減っているんだよね。でもせっかく食べるために作ったんだから、「あげられません」なんて心を鬼にして、三人で山を降りたところでお巡りに捕まっちゃった。没収ですよ。
その頃、どうしようもなかった。とにかく腹が減ってた。だからそれをどうすればいいか。今でもありますけれども、富山に大丸百貨店っていうのがある。丁度おばさんが勤めていて、7階が食堂だったんです。そのおばさんの好意で月に一回、食券がもらえたんですよ。お袋が「晃、これで食べて来いや」なんて言って、トコトコ歩いて行って。ところが、お箸を入れるとご飯がふわーっと浮き上がってくるような、そんなお粥なの(笑)。でもそれが最高のごちそうだった。さつまいもの蔓なんていうのはしょっちゅうですけれど、終いにはえがらくなっちゃって喉を通らないですもん。とにかく食べるのに精一杯。

平野:1936年生まれと言うことは、終戦のときに9歳だから、丁度一番おなかが空いている頃ですよね。

清水:そう、食べ盛りなのに。

平野:戦争中は8歳とか9歳ですけれど、日本がどういう戦争をやっていたかというのは記憶に残っていますか。

清水:あります、あります。当然、いい話ばっかりですよ。大本営発表みたいなのはいい話ばっかりなんです。学校の先生がまず兵隊に行っちゃうでしょう。で、学校でやることといったら勉強じゃなくて、竹をこのくらい(拳サイズ)に切って、要するに手榴弾を投げる練習。ある日「学校の先生が死にました」とか言ってくる。先生がいなくなるんですよ。そういう時代でしたから。他の土地もそうだったんでしょうけれど、富山も空襲にあったし、聞いた話によると僕の親戚のお姉さんも、おなかに焼夷弾を受けて、腸を出しながら走っていて倒れたって。街の回りをまず焼夷弾で火の海にしちゃうんですってね。そうすると真中の人は逃げ場がなくなっちゃう。そういうやり方でやられたみたいです。

宮田:周りにご親戚の方もおられたんですか。

清水:そうです。後でお医者さんになられましたけれども、さっきの話の焼夷弾で亡くなった人の妹さんの親が、絵の具屋さんをやっていました。

宮田:絵の具屋さん。

清水:絵の具。富山では珍しいです。油絵の具とかキャンバスとか置いてある。だから僕が絵を描くきっかけも、そこでできたんです。

宮田:そうなんですね。それは何歳ぐらいのときなんですか。

清水:それはね、中学校。終戦後、随分経ちますけれども。

宮田:通っていた小学校は、おうちからどれくらい離れていたんですか。

清水:僕が話したのは、疎開してた頃の話。遠いわけよ。

宮田:富山でも、疎開が必要だったんですか。

清水:そうですよ。富山にいながら疎開しました。

宮田:富山にいながら、富山にですか。

清水:そうです。山の方にある、吹上っていう所でした。親戚の農家です。そこで天皇陛下がなんだとか、終戦を知りましたから。学校がものすごく遠いわけ。夏だったらまだいいんだけど、冬に雪が降った日にはもう、とてもじゃないけど遠い。

宮田:じゃあ疎開先のお家から、通っていたんですか。

清水:そうそうそう。熊野小学校っていう。

宮田:同級生は何人くらいいたんですか。

清水:いやぁ、要するにそういう時代ですから、方々から来るから。僕がいた所は、友だちはほとんどいなかったような気がします。単独だったんじゃないかな。疎開していた時に、友だちと遊んだ記憶ないもん。ひとりで遊んだことは頭にありますけれど。

宮田:では、ご家族で疎開をされていた。

清水:ううん。お袋はいなくて、僕だけ。

宮田:おひとりで。じゃあ、寂しかったですね。

清水:でも親戚のおじいちゃんがいい人でね。盆踊りの音頭取りっていって、祭りの村々を回るの。今はもうレコードですけれども。それが八尾のおわら節ですよ。

宮田:じゃあよく歌ってくれたんですか。

清水:いや、おじいちゃんは作業しながら稽古していただけ。冬は藁仕事するじゃないですか。俵を作ったり、歌を歌いながらやってるんですよ。

宮田:じゃあいい声を聞きながら(笑)。

清水:そうです(笑)。まぁ幼い頃のことを話したら、あなたたちは何回も(話を聞きに)来なきゃいけなくなっちゃうから(笑)。大変だったことだけは確か。おなかが減ってるわけでしょう。例えばある時、岩瀬の岸壁の深い所に、でっかいタコがゆらゆら泳いでるの。そうしたら、獲りたいじゃないですか。ところが初めからタコを獲るつもりなら道具を持って来ますけれども、とっさのことで持っていない。ふっと特攻隊のことが頭に浮かぶのね。だから岸壁の上から、タコに体当たりよ。頭から。

宮田:飛び込んだっていうことですか(笑)。

清水:そういうこと(笑)。だからとっさに、おなかが減ってるからこそ出る発想っていうか。それはもう飛び込んだ時点で、家庭のことから時代背景から全部、背負い込んでるのね。

宮田:捕まえたんですか。

清水:捕まえましたよ。食べ応えあった(笑)。

宮田:どうやって食べるんですか(笑)。

清水:もう、焼いたり煮たり。お袋も喜んで。ある時、散歩していて、おいしそうな草が生えてる所があってね。子ども心に「おいしそうだ」って思うのね。持って帰って母に見せたら、セリだった。そうしたらお袋が「晃、そこにセリが生えてるの、人に言っちゃダメよ」って言うんだもん(笑)。本当にそういう時代だった。また採りに行ったけどね。

宮田:お母さんとは仲良しだったんですね。

清水:まぁそういうことだね。仲良しもなにも、親子だから。母親だって一生懸命食べさせたかったんだろうけれど、手に入らないしね。だから着物を持って、おじいちゃんと田舎を回ってお米と替えて、家の近くになってお巡りに捕まったってことも何度もあるし、食べるっていう事に関しては本当に大変な時代だった。そういう話もある程度、土方さんにしたと思う。
生活の話ばっかりじゃなくて、例えば冬になると山が雪で光り輝くとか、富山は光るものが多いんですよね。ホタルイカもそうだし。僕が床屋の手伝いで鋏の手入れをする話もしてた。そうすると冬の光っていうのは、薄暗い床屋の隅々まで、浸透してくるような光なのね。子ども心に鰤の肌が光って見えるとか、鰤起こしの稲妻とか、独特の光に対しての自分なりの感じ方はしてきたんじゃないかな。子どもの頃にそう思っていた訳じゃないですよ。ただ今から振り返ると光も物も、今も刺さっているんですから。

宮田:幼い頃に絵を描いたりはされていましたか。

清水:好きだった。これも平野さんには言ったと思うけど、疎開していた所で、親戚の絵の具屋さんがあったせいもある。その絵の具屋さんで、初めて油絵の具を手に入れてね。雪山を描いたら、そこのおばあさんにえらく叱られた。生意気な描き方だとか(笑)。

鏑木:じゃあ、上手だったんですね。

清水:いや、そうじゃない(笑)。

宮田:絵の具をたっぷり使ったんですか(笑)。

清水:だって、油絵の具を揃えるなんて憧れでしたもの(笑)。疎開した所に横浜から来てたお兄さんがいて、そのお兄さんは寝ても覚めても戦闘機を描いているんです、零戦を。それが上手なの。空中戦を描いているのよ。だから子ども心に憧れてね。疎開した家で、描き方を教わったりして。
昔は風呂が五右衛門風呂でしょう。疎開してきた人は、その家族も入れると10何人もいて、しかも昔のことだから当番みたいなものがあって、風呂を沸かすと近所の人も呼ぶんですよ。お互いにそういう風に助け合いをしていた。最後に僕が入ると、水じゃないねあれは。ドロドロ(笑)。それでも入った。
一事が万事そういう生活をしてきて、自分のそういう事を捨てて東京に出てきたはずなのに、60年代に自分の仕事がはたと止まって、土方さんと出会ってまた、絵の原動力になった。それでできたのが『目沼』のコラージュなんですよね。あれは目沼のこの家で作りました。だから捨てたものが捨て切れていなくて、むしろ未だに作品を作るのに、どっかでそれが刺さっている。そういうものから発想していくと、不思議と絵にリアリティが出るのね。何か歴史の勉強をしたとか、そういうことじゃなくて。
それは僕がまた批判される原因ではあるんです。60年代の仕事に受けた批判とは逆の、単なるマイナーな仕事でしかないと。でもそこら辺から発想を起こしていくと、何をやってもリアリティが出るっていう感じは、ちょっとしますよね。絵空事じゃないっていうか。変な話、未だに思うのは、ぼた餅ってあるでしょう。

宮田:棚からぼた餅の、ぼた餅ですか。

清水:そうです(笑)。絵に描いたぼた餅は食えないっていう言葉があるじゃないですか。絵空事っていうか。僕はね、絵に描いたぼた餅をどっかで食わせたいっていう気持ちがあるの。その方法はわからない。命に肉薄するしかないのよ。でもスーパーリアリズムで描くとか、そういうことでもないの。なにか自分の、先ほど話した故郷の話とか、一つの原動力を核にすれば、可能じゃないかなって(笑)。絵に描いたぼた餅を食わせてみせるって。刺さった物を原動力にすれば、絵にリアリティが出ますから。それは古い生き方かもしれないです。今、遊園地みたいな展覧会が多いですけれども。テーマパークみたいなのが流行ってるわけでしょう。

平野:今、子ども時代の記憶についてずっとお話されていましたけれども、それは歳をとるにつれて、一層頭から離れないものなんですかね。

清水:さっきも言ったように、正直に言うと刺さったままなのよ。だからそこから発想を起こすしかないみたい。

平野:例えば金沢から川崎とか東京に来て、60年代にもそういうものっていうのは、頭の中にあったんですか。

清水:だから、捨てたつもり。

平野:ああ、その時は。

清水:そう。ふるさとを捨てたんですよ。ヤクザじゃないですけれど(笑)。

平野:むしろ後から、やっぱりそういうものが。

清水:ぶり返してきたんですね。そして今は、そうした僕の核になっている過去は、未来に待っている過去という気がします。

宮田:美術大学に行こうと思ったきっかけは、なんだったんですか。

清水:だからやっぱり絵が好きだったから。それだけの理由しかないです。

宮田:中学高校と、興味があったことっていうのが絵を描くことだったんですか。

清水:そうです、そうです。美術館が、僕が習った高校時代の先生の展覧会をやってくれたらと思うくらい。僕に言わせれば、北国の印象派ですよね。北国の風土でしか生まれない美しい作品です。

宮田:なんていう先生ですか。

清水:浅井景一って言います。(『浅井景一画集』刊行委員会、1990年を見ながら)この先生がデッサンを教えてくれたの。オーソドックス極まる絵ですけれども、美しい絵を描く先生です。

宮田:富山出身の方なんですか。

清水:もちろんです。富山出身で東京の藝大を出ている方なんですけれども。

宮田:高校でこの先生と出会ったんですか。

清水:そうです。美術クラブに入ったでしょう。もちろん、絵の授業で習ったんですけれども、あとは放課後に残ってデッサンの時間を持っていて、よく教えてくれた先生。

宮田:絵は毎日描いていたんですか。

清水:富山にたまに帰るでしょう。そうすると僕の作品が、あちこちの家に飾ってあるの(笑)。

宮田:へぇ。

清水:未だに。自分が描いた絵が、どうしてか人にあげたかなんだかで、なくなっている。でも、あげた人は皆、大事に。

宮田:飾ってくれてるんですね。

清水:この前も帰ってね、「久しぶりに、上がって行けよ」なんて言われて上がったら、飾ってあって。「えー」なんて(笑)。座敷にその家の祖父母の肖像が飾ってあった。

宮田:嬉しいですね。

清水:弟も持っていますから。

宮田:そうか、弟さんがおられるんですよね。

清水:そう、ふたりいますから。

宮田:金沢の美大に行く人は、周りでも多かったんですか。

清水:僕の高校は富山県立中部高等学校って言うんですけれど、出た先輩はふたり東京の藝大に行きました。僕は金沢でいいと思ったもんだから、ひとりだけだったと思いますよ。

鏑木:その時、東京の藝大に行きたいというお気持ちはなかったんですか。

清水:なぜかね。経済的なこともあったと思いますし、金沢は近かったし。

宮田:金沢に行く機会は、それまでにもあったんですか。

清水:あんまりなかったです。あの頃は蒸気機関車ですから。

宮田:どのくらいかかったんですか。

清水:えーと、片道一時間半くらいかかったかな。今だったら、あっという間に着きますけれど。

宮田:(前述の画集を見ながら)小磯(良平)さんとほぼ同期ですね。金沢の美大は、入るとまずどういう授業があるんですか。

清水:普通ですね。もちろん一般の授業もありますけれども、洋画科ですから、午前中はまずデッサン。だから4年間デッサン漬けでしたよね。

宮田:入学するときにもデッサンがあったんですか。

清水:もちろんありましたよ。それから水彩画ね。もちろん一般科目もありました。

宮田:水彩は何を描くのが課題だったんですか。

清水:花。花を描いたのを覚えています。皆で囲んで、写生する。入学試験はそうだったと思います。

宮田:入ったら同級生は何人くらい。

清水:20人くらいだったかな。その頃知り合った友だちはふたり、今でも年賀状を送ったりしていますけれど、まったく疎遠です。

宮田:その他にはどんな学科があったんですか。

清水:彫刻と日本画でしょ、あと陶芸だったと思います。金沢は九谷焼の伝統があるでしょ。だからそれははずせないんじゃないですか、きっと。

宮田:他の学科の方たちとの交流は、そんなになかったんですか。

清水:そのときに仲が良かったのは、だから……あえて言わせて。言っていいの?

宮田:はい。

清水:うちの人です(清水東洋子。アーティスト、俳人)。1年下。

宮田:ああ、そっか(笑)。

清水:僕が富山の駅から汽車に乗るじゃないですか。途中の高岡駅で、髪の毛の長いかっこいい女がいるなぁなんて、いつも窓から見ていたの。あの頃、浜村美智子って言って「デーオ、デオデオ」っていう歌の、髪の毛が長くてタイトスカートをはいている女の子が流行っていたのよ。そしてある時その子が、絵の具の鞄を担いでいるのを見た。そうしたら、1年下の洋画科の子だった。それが彼女だったの。これはカットしてください(笑)。まぁそういうこともあったりしてね。

宮田:絵の制作をしながら、絵っていうのが自分にとって特別な方法だな、と思ったきっかけっていうのがあったんですか。

清水:まぁ好きだったっていうことだけですね。だって通信簿はあんまり良くないし、自分に才能があるとか関係なく、ただ描くのが好きだったから。

宮田:金沢では当時、お互いの作品を見せ合ったり、個展をするということはあったんですか。

清水:うん、しましたよ。個展はしたことはないです。

宮田:何か観に行ったりするのは、どういう場所があったんですか。

清水:金沢は文化的には盛んな場所でしたから、いろんな展覧会を観た記憶はあります。特に水彩連盟のなんとかとか。いろいろあるよ。

宮田:どういうところでやっていたんですか。

清水:デパート。

宮田:デパートって、先程のご親戚の方がお勤めだったところ以外にもあったんですか。

清水:いや、今のは金沢のデパートです。あんまり記憶にないですけれど。その時にできた友だちは数は多かったけれど、東京に出てきてからはなにせ遠いもんですから、疎遠になってしまって。会いはしないんだけれども、年賀状のやり取りは続けている。友だちもまた、亡くなったりもするし。

宮田:大学を卒業するときに、働くとか東京に行こうと思ったのは。

清水:なんせ東京に出たい。現代美術の現物を見れる。そして、そうした空気の中に身を置きたい。ただそれでけの願いで東京、東京と思って。

宮田:その頃、読んでいた雑誌とかって……

清水:『美術手帖』。それだけ。

宮田:それは大学にあったんですか。

清水:そうそう。僕、買った覚えはないもん。学校の図書館にあるからね。あとは『みづゑ』かな。そのくらいですよ。

平野:前のインタヴューでも少しお聞きしたんですけれども、その時、池田龍雄とか鶴岡政男とかに興味を持たれた。池田龍雄さんとか鶴岡政男さんは、いろんな側面を持っていると思うんです。例えばちょっとシュルレアリスム風の表現だったり、あるいは社会的なものをテーマにしていたり。どの辺りに興味を持たれたんですか。

清水:ある程度時間が経てば振り返って、あれだこれだと思うかもしれないけれど……。その頃はともかく、学校は日展系の先生とかで埋まっているから。『美術手帖』は池田さんとか鶴岡政男さんとか、あとは福沢一郎とかが載っていることが多かった。見た事もない絵。「ああ、こういう絵もある」って。あと、印象に残ってるのは……誰だっけ、〈浴室〉シリーズを描いた人。

鏑木:河原温ですね。

清水:河原温さん。あと、中村宏さん。その頃まだ僕は、中西とかは知らなかったです。

平野:そういうものはやっぱり、金沢美大の先生とは全然違う。

清水:全然、全然。

鏑木:当時の学校のお友だちで、同じように『美術手帖』を見ていた人はいましたか。

清水:それぞれ皆、思うことがあったんだろうと思いますけれどね。今から思うと、大阪から来ていた学生もいた。彼らの絵はすごくいい絵で、でも先生の評判は悪かったです(笑)。でも僕にとっては、すごくいい絵でした。ちょっと(シャイム・)スーティンみたいな絵でね。皆こういう、メチャクチャな描き方(笑)。そういう友だちとは、喫茶店でお茶を飲んだりはしました。でもこちらへ来てしまったらもう、全然。金沢とは切れましたね。一緒に出た友だち、いないもん。

平野:金沢時代は、雑誌を通して海外の美術もご存知だったり、興味を持ったりしたんですか。

清水:それはなかった。そこまでは。

平野:まずは日本の戦後の前衛ですね。

清水:そうです。だって、富山から出たことがないんですもん。さっきも言ったように金沢も1、2回しか行ったことがないじゃないですか。富山っていうのは全くの山に囲まれていて海があって、そこから出たことがないんです。金沢に行くだけでも、ルンルンでしたもん。行動範囲が広がったっていうか。

平野:じゃあ西洋の美術の情報というのは、やっぱり東京に来てからいろいろと出会った。

清水:そうです。ただ、高校のときにね、なぜかしら東京に来る機会が1回だけあったのよ。そのときにブリヂストン美術館へ行ったの。それで、未だに好きなんですけれども、セザンヌの絵を観たの。あれは本当に衝撃を受けましたよね。僕、今でもセザンヌが好き。余談になりますけれども、かたやセザンヌが好きで、スーティンも好きなの。全く違う世界じゃないですか。でもその中のすべてが絵の世界な気がして(笑)。両極端、そういう意味も含めてね。去年ニューヨークに行った時に、ニューヨーク近代美術館の5階に行けばその作品が観られるっていうから、着くなり5階へ登って入口でいきなりセザンヌに出会ったの。すぐ裏側にゴッホとかピカソとかもあるんですけれど、セザンヌが一番衝撃を受けた。だって、あんなにサービス精神のない絵描きっていないじゃないですか(笑)。人物だってモノみたいに取り扱うし。もっと象徴的だったのはニューヨークで個展をやらせていただいて(Akira Shimizu: Scattering Scare, Pouvel Zoubouk Garelly, 2014)初日に来てくれた、ニューヨークでやっている『美術手帖』の女の方に「僕、スーティンが好きなんだよ」って言ったら、「そこでやっていますよ」って言われたのよ。僕の画廊の裏側だったの(笑)。だから、なんか象徴的でね。セザンヌに出会ってスーティンに出会って。スーティンも心が震えましたけれどもね。今、国立西洋美術館でスイスの……

平野:(フェルディナント・)ホドラーですか。

清水:ホドラー。見てきた。彼が天才だとは思わないんですけれども、昔から並んでいるスーティンの《狂女》(現タイトルは《心を病む女》、1920)があって、やっぱり震えたね。

鏑木:ところで1963年の『美術手帖』に清水さんのご紹介があるんですね(奥英了「新人登場 清水晃」『美術手帖』第229号、1963年12月、pp. 64-65)。「金沢美大の在学中の作品は、暗い色調で労働者の群像を主題にした作品を残しているが、卒業制作は当時流行のキュビスム(注:原文は「チュービズム」)の抽象作品」と書かれています。学生の頃はどういう作品を作っていたんですか。

清水:そうそうそう。労働者っていうのはね、今、やっと思い出しました。こんなの(記事のコピーのこと)、あるんですねぇ(笑)。
またまた冬の話になりますけれども、近くで大工のアルバイトをしていたんです。古い家を解体して自分のところで一回、鉋(かんな)をかけるんですよ。それを使って建て直すんだけれども、安く建てる。鉋をかける時に、釘があっちゃダメなのね。僕は釘を抜く役目だったの。1回、五寸釘を踏んづけて、足を突き抜けたことがありました。

宮田:痛そう。

清水:その時に、僕の相手をしてくれたおじいちゃんがいたの。皆から乱暴な扱いを受けている、かわいそうなおじいちゃんだった。解体した木材をトラックに入れて運ぶんですけれど、その時はふたりでリヤカーで運んで。春、5月、4月かな。富山で全日本チンドンコンクールっていうのが、今でもあるの。全国のチンドン屋さんが集まるのよ。桜の咲く季節で、華やかだったね。おじいちゃんと材木をリヤカーで引いていたら、チンドン屋に間違えられてね(笑)。そのおじいちゃんをモデルにして描いた絵。残しておけばよかったんだけど、誰かにあげたと思う。それがこの記事の労働者の絵だと思います。会社が終わってから、夕ご飯を奢ったりしてモデルになってもらって、何枚か描いた記憶があります。

鏑木:そうだったんですね。当時の作品は、今でも取ってあるんですか。

清水:弟が2、3枚持っています。それから農家の家々の仏壇の上に、肖像写真があるでしょう。確か美術学校の頃かな、それを絵で描いてくれって言われて、描いた。この前行ったらその時の肖像画が未だに飾ってあった(笑)。近所のおじいちゃんが「大事にしていますよ」って、そういう残り方はしているんですけれども。僕自身は美術学校で結構やったデッサンはどこに行ったかな、と思うんです。ちょっと記憶にないね。人にあげたんだと思います。弟は家に持っていると思いますけどね。水彩の風景画です。

鏑木:アルバイト先の方をモデルに描かれたりしていて、卒業制作では何を描かれたんですか。

清水:“チュービズム”って、それもね。今、言ったように『美術手帖』で河原温とかに憧れていたことは確かなの。どんな絵かって、チューブみたいなのがニュッと出てくる絵だったと思う。だからいろんなことをやっていたんだと思います、自分でも。そういう気持ちの動きは、向こうにいたときに自然にあったと思いますよ。現物を見た覚えはないですから。

平野:1950年代って、キュビスムの日本の第2の受容期で、割とブームになっていた。それで多分、さっきいろいろとお話になっていた池田さんにせよ鶴岡さんにせよ、皆そういうスタイルを折衷的に取り入れている時期でもあったんですよね。1951年に読売新聞社がピカソの展覧会をやったりして、その頃はキュビスムのスタイルが日本にも浸透していった。

鏑木:展覧会は行かれなくても、雑誌でそういうものをご覧になっていたんでしょうか。

清水:そうですね。ずっと『美術手帖』だけでしたもん。そんな展覧会は金沢では観られないじゃないですか。だから本でしか見ていないですね。ただ、いろんな突破口を自分なりに探していたんでしょうね。だから本だけが相手ですし。だけど昔、西洋美術の『白樺』? セザンヌとか皆、雑誌で知ったでしょう。安井曾太郎がセザンヌの影響を受けたのは、雑誌でセンセーションだったからだって聞きましたけれども。遅れてきていますからね、現物はなかなか。

平野:金沢美大から東京に行こうと志す学生というのは、同じ学年でどのくらいいたんですか。

清水:僕の親しかった友だちは皆、富山と金沢でした。(就職先は)学校の先生。ほとんどそうです。

平野:じゃあ東京に行く人っていうのは、非常に少ない。

清水:だから僕だけだったと思います。その辺の友だちで深入りした人はあんまりいなかったし、あの人たちはスーティンみたいな絵を描いていたので、東京よりも関西派じゃないかな。僕はよくわからないけど、東京に出た人っていうのは聞いたことがないです。だから未だにたったひとりで出てきたっていう気持ちはありますもん。それで出会ったのが中西とか宮田さん。

宮田:こういうときの作品の変化に対して、奥様は何かお話していたんですか。

清水:〈色盲〉を描いたときも、僕はシェル(美術賞)に出す気持ちは甚だなかったんですよね。でもうちの人が「パパ、絶対出しなさい」なんて言って、彼女が持って行っちゃったの(笑)。だから未だに言われていましたよ、「パパは私のお陰よ」とか(笑)。何年か前にうちの人と東京都現代美術館で何かの展覧会を観に行った時、常設展の受付の人に何度も僕のことを説明したんだけど、わかってもらえなくて。でも「〈色盲〉の清水です」って言ったら、すぐに通じるのね(笑)。そのときは、こっちに赤瀬川の絵があったかな。ああ、こういうことなんだ、と思った(笑)。「〈色盲〉の清水」で、わかっちゃうんだもんねぇ。

(休憩)

鏑木:吹き抜けが素敵なお宅ですね。

清水:白い天井が見えるでしょう。それを自分で剥がしたの。大きい作品がどうしても入れないもんですから。

平野:上の階は、作品の置き場なんですよね。

清水:後で見てください。2階は最初はアトリエだったんですけれど、作品で埋まっちゃって。娘のための手作りの離れもあるんですけれど、それも作品で埋まってしまって。今は、サンルームで制作しています。

鏑木:窓もちょっと変わった形ですね。

清水:あれもね、娘のベッドをばらして作ったの。

鏑木:え?! すごい。なんでもご自身で作られてしまうんですね。

清水:いや、もうとてもじゃないけど今はそんな元気がないです。

平野:日光が上から入るのがいいですよね。

(インタヴュー再開)

清水:本当に絵が好きだったから、絵描きになろうと思った。ただ、それだけの理由ですよね。なぜ好きだったのかと聞かれると、ちょっと困りますけれども。

宮田:同じアンパンでも絵を立体的にするとか、絵の具を厚く塗るとか、絵画の形式や決まり事から脱出するために絵画を引きずりながら描いた人もいますけれども、清水さんは飛び越えていった……。

清水:そこですよね。アンデパンダンは本当に、美術館が埋まるほどの作品が出ていましたもんね。例えば高松次郎が60年代、「俺等は何かの扉を開いた」というようなことを発していますけれども、それは事実なのね。でも僕はどっかで、死んだっていうイメージもある。だからあそこで終わってしまっている作家は、やっぱり死んでいるんだろう。やっぱり今やることの先を見て、作品を作るというか。生意気ですけれども(笑)。先のことを見て、今のことをやる、その繰り返しでやらないと、今のことだけ見て消滅していく作家が多いじゃないですか。今でもすごい作家はいっぱいいますけれど。僕が死んだって言うのは、改革したっていうイメージもあるけれど、ご破算にしてしまったというか。それには死のイメージも漂うのね。じゃあ次に何が展開として待っているかということを見据えてやらないと、滅びると思うね。だから生きながらえようとして、女々しく描いているというイメージは未だにあります(笑)。でもそれはそれでまた、楽しいしね。だから60年代で終わってしまっている作家も多いし、それはそれでまた見事だと思うんです。(マルセル・)デュシャンみたいに、絵はやーめた、みたいにして後はチェスで人生を楽しむみたいなのも見事だとは思いますよ。

宮田:東京に出る時、誰かの紹介とかはあったんですか。

清水:全然ないですよ。まず、食べるために勤めなきゃならないでしょう。それだけは横浜の親戚のつてで(鶴見に住んで)、一番最初は下町(東京池上千鳥町)のメッキ工場。メッキをする前に金属を磨くのね。夕方になると、それがほこりになって体に積もっているのよ。そういうところで働きながら、じゃあ絵を描いたかっていうと、なかなか描けない。画廊回りだけで終わっちゃったかな。

宮田:その頃、どんな画廊を回ってたんですか。

清水:あまり記憶にないですけれどサトウ画廊とか、村松画廊もあったかな。宮田さんと知り合ったのは、もっと後ですから。

宮田:ではお仕事の後で、銀座まで。

清水:後。だってお父さんが内科画廊を開いたのは、もっと後ですもんね。

宮田:はい。

平野:画廊に行くにしても、どの画廊に行くかという情報があったと思うんです。それはやっぱり『美術手帖』なんですか。

清水:村松画廊やサトウ画廊は、若い連中がたむろしてるって言ったらおかしいけれど。内科画廊もそうだったのよね(笑)。あそこに行けば誰かに会えるとかさ。そういう、身の置き所みたいなものは昔、あることはあった。その最たるものは、やっぱり内科画廊なんですよ。

宮田:じゃあお勤めを始めて、また制作を始めるっていうタイミングはいつだったんですか。

清水:メッキ工場が体に悪いと思って、移ったのがまた体に悪い所で塗装工場なの。川崎のコロンビアのすぐ横の、今でもあるかな。ストーブとかを、スプレーで塗装する。普通の家庭の2階に夫婦ふたりで住んでいたんですけれど、うちの人が近くの電信柱にまた求人広告を見つけた。それを頼って行ったのが第二国道の(川崎市)尻手の、日本電子の下請の工場だった。ところがそこがまた体に悪いの。ガラスの粉末を足で踏んでプレスして、それを長いコンロに入れて焼くのね。ガラスの粉末だけをプレスしても、接着していないと崩れちゃう。だから接着剤として蝋を溶かすんだけれど、蝋を溶かすのが水じゃない。今で言う劇薬で、トルエンっていうやつ。しかも早く仕事しなきゃいけない。ガラスの粉末にトルエンを溶かしたやつを、冬なんかストーブの上に置いて手で早くかき回して乾燥させる。そうすると蒸気を吸っちゃう。しまいに痰に血が混じるようになっちゃって、これも体に悪かった。
ただ川崎の第二国道から遥か彼方に、東京タワーが見えるのよ。「あのふもとに画廊があるな」なんて思いながら仕事をしている。それであれは63年かな。その時に僕は図らずも《色盲検査表》(No.4および9)が、(第7回)シェル美術賞で1等を獲ったじゃないですか。そのとき、賞金が20万円だったと思う。それでこの家を買ったんです。

鏑木:工場のお仕事をされていたときは、やっぱり将来は作家さんになりたいというお気持ちだったんですか。

清水:もちろん。憧れの人がいっぱいいたもん。赤瀬川とか、今からしても錚々たる人たちですよ。赤瀬川は、ゴムの作品に衝撃を受けた。真空管がついているやつね(註:「現代の呪物」展、サトウ画廊、1961年)。

平野:それはアンパンで観たんですか。

清水:いえ、あれはサトウ画廊だったかな。あとは赤瀬川のコラージュね。

平野:《あいまいな海》(1961-1963)ですね。

清水:そうそう! 赤瀬川も川崎に何回か遊びに来てくれたし、谷川も。中西はもう、しょっちゅう来てたし。

平野:それはいつ頃なんですか。読売アンパン以後ですか。

清水:そうですね。それまでは憧れの人で、お会いしたこともなかったですから。

鏑木:じゃあそういう憧れの作家たちの仕事を見ながら、制作されていたんですね。

清水:作家になりたいなぁっていう。

鏑木:では将来はやはりお勤めは辞めて、作家一本で暮らすことを考えながらですか。

清水:そうですね。でもやっぱり、生活なんてできないじゃないですか。だから絵画教室をやったりね。

宮田:絵画教室は、川崎でされていたんですか。

清水:いや、ここへ来てから。女の人って大胆ですね。今でこそ家が建っていますけれど、当時はキツネが走っているような所でしたから。だって街からここまでガタガタの道で、舗装されていないんですもん。そういう所だった。何で食べていくかもわからない、考えもしないうちに、うちの人に「パパ、行きましょう。家を建てて」なんて言われて(笑)。「はい、はい」ってついてきた。〈色盲〉も彼女が(シェルに)持って行ったしさ、サンルームもそうなの。「パパ、サンルーム作りましょう」なんて、行動力があるの。ここへ来てから勤めたのが、絵画教室。何年だろう、20年? もっと勤めたかな。中野幼稚園と白金と2カ所、週に2回ずつ。うちの人は東武動物公園の近くで、子どもに教えて。全く行き当たりばったりで生きてきたっていうか。

鏑木:少し遡りますが、小さい時に新聞配達のアルバイトをされていたり、大学の時は大工さんのお手伝いをされていたということでしたが、これまでにどんなアルバイトをされてきましたか。

清水:さっき言ったように大工さんのアルバイトとか、新聞配達とか。それ以外にもちょこちょこやったかな。夏休み、春休み、冬休みはだいたい、その野村組っていう大工さんの所。で、古い家を壊しに行くじゃないですか。その時は大変なの。トラックに乗せられて山奥まで行って、農家を壊すでしょう。掛矢(かけや)って言うんですけれど、木のでっかいこーんな(両腕を広げて)木槌(つち)で壁なんかを壊すわけ。昔の家だから、土壁じゃないですか。そうすると砂煙っていうか、もうもうと砂煙が出る。それをバラしてトラックに乗せて持って帰ってきて、それを鉋をかけるのに釘が残っていると、刃が欠けるのね。そうするとまた、叱られるのよ。さーっと薄く鉋をかけるの。釘が残っていても、潜ってる釘はわからないのよ。さっき言ったじいちゃんと、えらく叱られて(笑)。
あと、氷屋さんをやったね。氷の配達。富山の駅前にあるんです。今でもありました。平野さんと行ったかな。富山駅のビルの食堂に入ったじゃないですか。

平野:ええ。駅ビルの中のね。

清水:そうです、そうです。あそこに氷を持って上がるのにね、氷をガチャンと挟むものがあるじゃないですか。あれだとぶつかるから、階段を登れないの。だから手のひらでこうやって運ぶわけ。冷たくて、手が痛くなるの。終いには慣れましたけれども。旅館なんかは、昔は電気冷蔵庫がないから、氷なんですよ。でっかい木の箱の冷蔵庫。中を見ると、ごちゃごちゃ入ってるの。それを丁寧に出して、下に氷を入れて、また上に入れなきゃならない。それで一番叱られたのは、鮎。

鏑木:鮎?

清水:「こんな扱いをしたら、鮎が使い物にならない」って散々叱られた。丁寧に出しているんですけれどね。下に氷を入れなきゃならないから。旅館の木製の冷蔵庫って、でっかいんですよ。まぁいろんなアルバイトをしましたね。

鏑木:新聞配達のアルバイトっていうのは、小さい時だったんですか。

清水:えーと、あれは高校生の頃だったかな。たぶんそうだったと思います。あ、中学にもかかっていたかな。中学に行っていた覚えがありますもん。母親が「晃、ちょっと(お金を)貸して」とか言うんですよ(笑)。あげたら、それっきりよ(笑)。それはこっちも承知しているからね。母親が喜んでくれるから。「お前が絵の具が欲しくてせっかく働いたお金を、ごめんね」の一点で終わりよ。ははは。

鏑木:そうだったんですね。学校に行きながら、お母様と二人三脚で。

清水:そうそうそう。そうね。

鏑木:あと、アルバイトには絵の具代というのがあったんですね。画材は高いですもんね。

清水:だから親戚の画材屋さんに「後で払うから」って言って。「持ってけ、持ってけ」で、随分いただいてしまった。お金が返せなくて。一応、叱られるのよね。

鏑木:そうですか。美術雑誌は買われていましたか。

清水:それはゆとりがなかったね。学校で見れるしね。

鏑木:では絵を描くための画材が、アルバイトの一番の理由だったんですね。それは大学の時も、そうだったんですか。

清水:奨学金を受けていたから。夏休みとかそういう時ね。

鏑木:大学のときの大工さんのアルバイトは、後々の制作に結びついていたりもするんですか。

清水:働いたことが?

鏑木:なんというか、技術として。

清水:ああ。それはどうかな。特別、なかったかな。

鏑木:そうですか。いや、お家の設えが素晴らしいので(笑)。

清水:そういうことか(笑)。ただ、さっきも言ったように、家を壊すときに、どこから壊せばいいかって、やっぱり順番があるのよ。いきなりこういうところは壊せないじゃないですか(笑)。だから、上から下へ。
さっきの先生のデッサンの話になりますけれども、もちろんアカデミックなデッサンもデッサン力だと思うんです。今なんかもう、パソコンでやるからデッサンなんかする必要がないという意見もある。岡本太郎もそういうことを言っているくらいですから。でも僕は未だに古いところがあって、浅井先生もデッサンを教えてくれたし、僕なりに考えてみたことですけれども、……どう言ったらいいのかな。もちろんアカデミックに描く訓練も必要だとは思うんですけれども、なぜデッサンが必要なのかというのを、やっぱり自分なりに考えたいよね。
例えば自分がここにいて、誰かに「郵便局に行くにはどう行ったらいいですか」って聞かれた場合に、「ここの隣が豆腐屋で、床屋で、魚屋で……」なんて説明していたら、大変じゃないですか。だから「10m行ったところに大きな信号があります。そこを左に何メートル行くと郵便局があります」って、四捨五入した説明の仕方をする。これを一軒、一軒言ったら、聞く方も大変だもんね(笑)。でもそういうことも大事だと思うんです。壊すことじゃなくて、聞く方の立場になって、ポイントを明確に相手に伝えるということ。それがデッサンの骨格じゃないかな。それをしっかり押さえておいて、必要があれば後からやっていけばいいと思うんです。
これは絵の描き方もそうですけれども、作家としてのひとつの姿勢というか、生き方もひとつのデッサンだと思うのね。それができていないと、見た人も一緒に沈没しちゃうの(笑)。平野さんには手紙を書いたと思いますけれど、60年代に漠然と一生をかけて大きい円を描きたかったのね。生意気な言い方だけど、山手線みたいに重要な駅をしっかり押さえて、この円から「出れるもんなら、出てみろ」みたいな絵が描きたい、と思ってたわけ。
自分の生き方、作家としての表現、姿勢。核を明確に掴むには、こういうことを頭に置いておかないと、途端に迷子になってしまう。そういう作家も多いと思うのよ。こちょこちょやっている作家さんにも、いい絵はある。でも僕には真似できない。だって人の作品を見る時は、どこかに連れて行って欲しいんですもん。どこにも連れて行ってくれないで、共倒れになったら困る(笑)。それはそれで、魅力はあるんです。でもこれがひとつの姿勢でないと、その部分が生きてこないっていうか。自分はなぜここに行くために、これをやっているのかっていうことの説明もできない。そういうことって、すごく大事だと思うのね。だからAからBへ行くのに必然性がないと、やっぱりCが出てこないと思う。デッサンとは何かというのは、自分なりにそういう風に感じたの。絵を描く力ももちろん、それで大事だと思うんです。

鏑木:学生の頃から、そういうことを感じていたんですか。

清水:漠然とね。東京に出てきてからね。中西くんとか、皆に会った時にね。もちろん、そんなに見事にはいきませんよ。でもそれは意識の骨組みとして置いておかないと。

平野:持続的に相当たくさんのスケッチやデッサンを、毎日のように描かれていますよね。

清水:描いていますね、未だに(笑)。

平野:そういう作業っていうのは、60年代から時間があればされているんですか。

清水:そう、そうやっていましたね。「先を見て今を見ろ」なんてかっこいい言い方をしましたけれども、なかなかそうはいかない。だから描くっていう。だからあえて自分で意識して、外れていることをやっているときもあるの。そうしないと、姿勢が太ってこないのよ。外から見れないっていうか。だからそういうのも含めて、自分らしくスケッチブックにメモしておくというか。そのときは生きなくても、後で生きてくる場合もありますし……それはちょっとうまく言えませんけど。つまり、それは円の各駅からの支線のようなものです。
石子順造さんっていたでしょう。あの人が「清水の作品は自己完結型じゃない」とか、「次から次へと変貌するところがいい」と書いてくれたことがあるんです。

平野:「グラフィズムの異色A清水晃 飛翔する季節は」『週間読書人』(1971年4月26日)ですね。

清水:石子さんも亡くなられましたけどね。「自己円熟型じゃない」とか。

平野:(記事コピーのファイルを見せながら)これですね。

清水:ああ、これ。石子さんの文章ですよね。最後の文章だけ覚えているの。「いずれ『お兄ちゃんにまかせておけ』っていう時代が来る」とかって書いてある(笑)。中西くんも谷川くんも、僕のことを“お兄ちゃん”と呼ぶの。なぜかと言うとうちの人と電子工場へ勤めているとき、夫婦で住み込みはダメだって言われたんですよ。なぜ住み込みかっていうと、朝、電気のスイッチを入れるわけ。皆さんが来るまでに釜を暖めておかないといけない。そういう意味で住み込みなんだけど、夫婦がダメだって言われたので、兄妹ですって言って入ったんですよ。そうしたら赤瀬川は皆に“赤ちゃん”って呼ばれるし、僕は“お兄ちゃん”って呼ばれるし(笑)。そういう言い方が流行ったの。で、ここに“お兄ちゃん”と出てくるんですよ。

鏑木:じゃあ清水さんは、皆さんに“お兄ちゃん”と呼ばれていた(笑)。

清水:そうそうそう(笑)。年下の人ならばいいですけれども、年上の人までもが“お兄ちゃん”って言ってくる。あだ名になっちゃった。

鏑木:奥様は、1学年下だったんですよね。じゃあ奥様は卒業してから、東京に追いかけていらしたんですか。

清水:そうそうそう。向こうで結婚式を挙げて、僕が1年早く出たわけです。

鏑木:奥様も制作をされていたんですか。

清水:いや、彼女はいつも「芸術家がふたりいると大変だ」って言うんだけれど、僕はそう思わなかった。だから彼女なりに悩んだこともあったと思います。うーんと、僕はね……のろけてもいいかな(笑)。彼女の絵っていうのは、僕は好きなのよ。さっきも言ったように、ここに行くのに、迷路を行ったり来たりしている(笑)。だから迷路でしか拾えない世界っていうのが、やっぱりあるんだよね。彼女にはそういう良さがあるし、俳句をやっていたから。

平野:石子さんとは、お会いしていたんですか。

清水:そう。

平野:じゃあ石子さんは60年代の作品を、結構見ている。

清水:そうですね。石子さんはあの頃、すぐに亡くなられたから。病院にお見舞いに行ったのを覚えています。

鏑木:そうですか。これは『絵次元』が出た頃の記事ですね。

清水:そうかな。そうですね。

宮田:“絵次元”っていう言葉は、清水さんが考えられたんですか。

清水:違う、違う。加藤郁乎(かとう・いくや)さんっていう詩人がいらして、彼がこの4冊の本の序文を書いたのかな。その中に“絵次元”っていう言葉を使っていたと思う。それを持ってきたんだと思います。だから赤瀬川、谷川、野中ユリ、僕の4人で。土方さんと交流が始まって、しばらくしてからの時代ですよね。土方さんのことも、語り出したらいっぱいあるんです。

鏑木:先程、石子さんの話が出ましたけれども、他にも読売アンパンの後に内科画廊で「不在の部屋」展に出されています。

清水:そう。あれがこけら落としだったんですよ。

鏑木:「不在の部屋」は、中原佑介さんが企画されたものですね。

清水:そうです。要するに中原さんが読売アンパンを観て、そこからピックアップしたんですよ。

鏑木:その時は、中原さんから出品依頼があったんですか。

清水:そういうことです。

鏑木:どういう感じでおっしゃっていましたか。

清水:それは僕は全然覚えていないんです。中原さんから声がかからなかったら、出品するはずないですもん。

鏑木:そうですよね。中原さんが、清水さんの作品についてどう思われていたかとか。

清水:それは説明なく。(「不在の部屋」展のチラシを見ながら)ああ、これですね。

鏑木:はい。チラシの中でも清水さんは他の方より写真の扱いが大きいですし、中原さんは当時、清水さんのことを書かれてもいます。

清水:中原さんとか東野(芳明)さんとのつきあいは、なかったですね。なぜかなかったです。

鏑木:では批評家の方とはあんまり。でも石子さんはその時は。

清水:石子さんは、すぐに亡くなっちゃったからね。

平野:ヨシダ・ヨシエさんも最初の頃に書かれていますね(「見えない絵から見える絵まで」『三彩』第155号、1962年10月)。

清水:そうそう。ヨシダ・ヨシエさんも、かなりいろいろ書いてくれました。

平野:70年代以降はやっぱり、おつきあいするという感じでは。

清水:なかったですね。

鏑木:そうですか。「不在の部屋」の時は、この作品(《リクリエーション》)を出してくださいっていうことだったんですか。

清水:もちろんそうです。これは、内科画廊のこけら落としなんですよね。

宮田:ええと、この前に和泉達さんが(個展を)やっているんです。あとはハイレッド・センターが内科診療所から、内科画廊に変わる時にイベントをやっていて、そこから始まっているのだと思います。

平野:実際にこの展覧会をご覧になって、どう思われましたか。ハイレッド・センターのメンバーももちろん出ているし。

清水:うんうん。これは中西から聞いた話だったかな。「高松次郎が『ハイレッド・センターに清水も入れた方がいい』って言ってたよ」なんて、俺に言ったことがあるの。だから「高松さんは、僕の作品の何に興味があったのかね」って聞いたら、「《色盲検査表》だった」って言っていた。今、思い出したことですけれど。でも高松次郎から直に聞いた訳じゃない。ただ、これ(「不在の部屋」展)はあくまで読売アンデパンダンのピックアップでしたから、やっぱり中原さんは一流の眼でものを見ているな、っていう感じはどっかにありましたよね。

宮田:内科画廊に一番初めに行ったのはいつですか。

清水:やっぱりこの頃だと思う。中西くんの家と、(宮田の)お父さんの家が近かったじゃないですか。歩いて何分かで。

宮田:はい。私はそこには住んだことはないんですけれども。

清水:そこにでっかい木の鋏を(看板として)かけていた、金物屋さんがあったような気がするんです。だから宮田さんのお家も、中西と僕は何度も行ってるよ。あなたのおじいさんが、まだお元気な頃。

宮田:その金物屋さんは、中西さんのご実家じゃないですか。

清水:ああ、そうか。木でできた大きな鋏が飾ってあったのを覚えている。

宮田:その頃、中西さんは近くのアパートでひとり暮しをしていましたか。

清水:いや。だって彼はアパートを経営している、お父さんが経営者だと思うんだけど。

宮田:なんか、その一室に皆がよく集まっていたっていう。

清水:そうそうそう。

宮田:じゃあ内科画廊が始まる前に、既に中西さんと大井町のお家に。

清水:そういうことだと思います。だから中西の奥さんと、コウタロウっていう息子さんも覚えてる。お父さんと知り合ったのも、当然中西を通してだと思います。今から振り返ると、お父さんに迷惑をかけたこともいっぱいあった(笑)。でもお父さんが皆(の展覧会を)やらせてくださったからね。内科画廊ってもう本当に、伝説的な画廊です。

鏑木:さっき宮田さんから聞いたんですが、内科画廊で一番たくさん個展をされたのは篠原さん、その次が清水さんだそうですね。

清水:そうらしいんですよ。何をやったかな。〈色盲〉を1回やっているんですよね(清水晃個展、1964年1月20日-25日)。なぜそれを鮮烈に覚えているかっていうと、それはシェルで賞を獲った後なんです。前だったら良かったのね。
病院に縁起の悪い数字ってあるじゃないですか。4と9。シェルに出すのに、僕はあえて縁起の悪い数字を出したの(笑)。

平野:《色盲検査表》のNo. 4とNo. 9を出品されたのは、そういうことだったんですか(笑)。

鏑木:初めて聞きました。

清水:そうなんです。図らずもグランプリを獲れたんですが、他にもいっぱい描いているじゃないですか。だからシェルを獲った後、どうせたくさんあるからっていうことで、1回お世話になったの。そうしたらまた、評判が悪かったの。「シェルを獲った後も、同じことをやってる」って言われてさ。「ああ、それもそうかな」と思ってね。ビルの屋上で自分ひとりで思案に暮れたのを覚えている。「ああ、いけないことをしたのかな」とか(笑)。そういうことを思い出しますよね。

鏑木:ちょっと遡ってしまうんですけれども、62年に村松画廊で初めて個展をされていて、その時の写真が埼玉の「清水晃 漆黒の行方」展のカタログに掲載されています。

清水:ええ、平野さんが見つけてくださったの。僕は全然、覚えがないんだけれど、預けたフィルムにあったと言われて(笑)。

鏑木:ねぇ。今回初めて、その時の様子などがわかったと思います。(埼玉のカタログを見せながら)この時のことというのは、覚えていらっしゃいますか。

清水:これもなんというか、ネオ・ダダとかにかぶれた展覧会でしたよね(笑)。絶対そうなの。かぶれています。ただこの中に、後の作品の原型みたいなものが含まれています。地図とかベッドとかブラックライトとか、全部やっちゃったの。

平野:そうなんですよね。全て含まれている。ブラックライトは、その次かな。

清水:村松は2回やっているのかな。

平野:そうです。2回やってるんですよね。地図が出てきて、コラージュがあって、廃物が出てきて。この辺も漆黒のオブジェにつながるようなものがある。

清水:ちょっと似ていますよね、やっぱり。

鏑木:(「清水晃主要作品集」『清水晃 漆黒の行方』p. 93のA2 [題名不詳]を指しながら)これはどういう作品なんですか。

清水:これ? これは地図です。何枚も貼ってあるんです。繋ぎ合わせてね。その中央に穴が開いていて、薬屋さんにこうやって左右に人形が動くのが今でもありますよね。

鏑木:ああ、看板とかに使うような。

清水:うん。小さいこのくらいので、電池で動くやつ。それが仕掛けてあって、中にレンズがあって心臓の写真を貼ってあって、中で動いているのが見える作品だったと記憶しています。

鏑木:初めての個展が、いきなり最先端の現代美術ですよね。

清水:そう言うとかっこいいですけれどね(笑)。恐らくこれは、中西くんとか赤瀬川とかに出会って衝撃を受けて作った作品。それは間違いないんですよ。

鏑木:じゃあ当時、憧れていた作家の影響が出ている。

清水:そうそう、そういうことだと思います。

鏑木:村松画廊はその頃、よく行かれていたんですか。

清水:そうです。覚えているのは、村松画廊のおじいちゃん。名物じいちゃんで、確かギュウチャンに聞いたんだっけな。僕はお金がないのに展覧会をやってしまったのね。普通は最終日にお金を精算して、「ありがとうございました」って帰るのが礼儀ですよね。でもどうしてもお金がなくって、それをギュウチャンに言ったのかな。そうしたら「清水、村松のじいちゃんはお酒に弱いから、一升瓶を前に置いて談判してみろ」って(笑)。だから一升瓶を買って持って行って、「実はお金がなくて、どうしてもできませんでした。できたら持って来ます」ってお詫びしたのね。そうしたら、お酒ばっかりじっと見てた(笑)。あの時のセリフは、今でも覚えていますよ。「お前らはネオ・ダダじゃなくてネオ・タダだろ!」なんて叱られて(笑)。「お金はいいから」って、それで勘弁してくれたの。もう伝説のおじいちゃんだったと思います。

平野:(前述の「主要作品集」p. 94を見ながら)村松画廊で2回やっていて、これが2回目ですよね(清水晃個展、1962年8月25日−30日)。この時にベッドを用いた《リクリエーション》が出ていますね。

清水:出ているんですよね。これはブラックライトが光るっていうのをやったんですよ。そして僕、最終日にやったパフォーマンスでは医者の手術用手袋を、空気入れで破裂するまで膨らませた。直径2mほどになったかな。そして「バーン!!」と破裂させて、個展の終わりとしたんです。

平野:地図のコラージュに繋がるような、絵画的な作品もありますね。この辺を観に来た作家というのは、中西さんとかですか。

清水:来ているはずです。音楽の刀根くんとかね。あとは誰だったかな。

平野:批評家とかでこの頃の個展を観られた人っていうのは、いるんですか。

清水:いらっしゃるんじゃないですかね。この時に知り合ったのは、音楽家の……小杉(武久)さん。

平野:村松画廊でですか。

清水:そうです、村松で。小杉さんとの思い出はね、昔、関西の方で「11PM」っていうバニーガールが出てくるようなテレビ番組があったんです。中西もその時、行ったかな。あと、誰が行ったかな……とにかく現代美術の作家たちが行ったんです。僕と小杉さんがやったのは、今思うとひどいことをしたんだけど、バケツに墨汁を入れて、僕ひとりじゃ持てないから、小杉くんとふたりでバニーガールを抱っこして、頭の毛をバケツに突っ込んで、絵を描いたんですよ。女の子が筆になるの。女の子は最後には泣き出したと思いますけれど。

平野:それはいつやったんですか(笑)。

清水:いつだったかな。司会したのが、文学で賞を獲った人。亡くなられましたけど。

平野:60年代の半ばですか。

清水:ですね。たぶん、その頃だと思います。調べればわかると思いますけれども。

鏑木:テレビに出られたということは、もうその頃には清水さんが有名になられたから。

清水:いやいや、それはないんですけど。なんだか徒党を組んで行ったのは覚えています。

平野:その話は最初に、小杉さんを通じて来たんですか。

清水:違う違う。それは大阪に行って、僕がとっさに考えた。中西がやったのはね、番組の進行? 泥棒みたいな男が屋根を歩いていて、何かを追いかけているんです。何を追いかけているかと言ったら、猫なの(笑)。そういう進行に関係のないショットが、ポンポンポンと出てくる。それを中西がやったの。

宮田:(その場で調べて)司会は藤本義一さんですか。

清水:ああ、そうそうそう。こちらではほら、太った人。

平野:大橋巨泉。

清水:そうそう。

鏑木:関西と関東で、司会が違うんですか。知りませんでした。

平野:そういう風にやるっていう案は、誰が出したんですか(笑)。

清水:それはうろ覚え(笑)。思いつくままに言うと、僕は土方さんとつきあっている時に、高井富子(たかい・とみこ、舞踏家)さんのために、砂利の衣装を作ったんです(《高井富子舞踏公演「まんだら屋敷」砂利の衣装 娘》1968)。土方さんの展覧会を岡本太郎美術館でやった時に(「肉体のシュルレアリスム 土方巽抄」展、2003)、僕の砂利の衣装があって。そのときに元藤子(もとふじ・あきこ、舞踏家)さんからいろいろと協力を求められて、「砂利の衣装を着て踊りたい」って土方さんが言ったし、元藤さんも言ったの。でも役者さんって、当たり役っていうのがあるじゃないですか。高井さんは、最後に必ず砂利の衣装を着て踊るっていう風になってしまっていたのね。だからあえて元藤さんには「それはやめた方がいい。その代わりに元藤さんには別のものを考えますよ」と言ったんですよ。それで元藤さんに提出したのは、白い長い反物。それをお客さんが持ってくれていて、その中心を元藤さんは鋏で切って登場していく。
それは僕の友だちが元藤さんを富山の猿倉っていうスキー場に呼んで、実現したんです。その前に足利市立美術館の個展の時に実現したけど。きれいでしたよ。真っ赤な夕焼けがあって、かたや満月が上るのが丁度、その時間でね。たいまつを並べて、その中で元藤さんが踊って、地元の中学の女の子たちがセーラー服を着て、反物をずっと持ってくれた。その1週間後に元藤さんは亡くなっちゃったんです。
でも、それはまた元藤さんの当たり役になったみたい。土方さんの展覧会がまだ続いていたのに、元藤さんが富山に来てくれてすぐに亡くなっちゃったんです。その時、若い人たちが何人か来て相談されて、じゃあこれをやったら、という話をしたのね。彼女、キャバレーかなにかを経営してたでしょう。皆、白塗りで踊るような。その時、元藤さんのコレクションって、みんなキャバレーに置いていたらしいのね。じゃあそれを皆、リヤカーに乗せて登場すればいいかな、という話をしていて。元藤さんの踊りの手伝いをした時、北斎の絵で中国の武将を描いた絵があったんですよ。蛇の目傘を逆さまにして、それに乗って武将が川を渡るきれいな絵なのね。「じゃあ蛇の目傘を逆さまにして……」って言ったら元藤さんが気に入ったんだけど、実現はしないの。乗っかったら骨が折れるし、バラバラになっちゃうし(笑)。でも元藤さんが亡くなっちゃったから、実現したかったけどできなかった傘を逆さまにして、リヤカーの上に乗っけて、白い布をずっと切断しながらお弟子さんたちが登場したらしいんです。江尻潔(えじり・きよし、足利市立美術館学芸員)さんが観に行ったんですって。江尻さんが言うには、「その時に一陣の風が吹いて、傘が揺れた」って。「ああ、元藤さんが喜んでいたんじゃない」なんて冗談を言っていたんです(笑)。
富山の友だちが何故元藤さんを呼んだかっていうと、富山に布橋っていうのがあるの。立山連峰が昔、女人禁制だったらしい。それで女の人はかわいそうだというので、ふもとにある常願寺川にある赤い橋に真っ白い布を渡して、女の人は白い着物を着て目隠しして通るんです。それは要するにそういうことで女人を浄土に導く、みたいなこと。昔はやっていたけど、中断していた。僕は知らなかったんだけど、友だちが「清水くんのこれは、布橋の灌頂会(かんじょうえ)にそっくりだ」と言うんです。きれいな写真ですよ。(アルバムを取りに離席)だから偶然のこともありますね。

鏑木:偶然お生まれの所でね。

清水:足利市立美術館(の個展)のときに種村季弘さんが来てくれて、あの方は博学なので、灌頂会のことを知っていました。(アルバムを見せながら)これ、これ。

鏑木:これはすごいですね。

清水:しばらく中断していたらしいんですけれども、また再開したんですって。これはどんな女の人でも、申し込めば参加できるんですって。この写真です。それで友だちが元藤さんを呼んでくれたことで、僕が中に入って、富山に来てもらったんですよ。立山は女人禁制だったんだよね。今はもう、誰でも登っていますけれども。

鏑木:ところで小さい頃のことを、もう少しお聞きしてもよろしいでしょうか。

宮田:実は今回、2回インタヴューをお願いするにあたって、1回目は本当に生い立ちから聞こうと思って質問票を用意してきたんです。なので一番初めの話に戻ってしまうんですけれども、最後に、お生まれの確認をしてもいいですか。

清水:はいはい。

宮田:1936年の4月に。

清水:1日ですね。

宮田:その時の場所は。

清水:えっとね、富山市清水町です。

宮田:清水さんが多かったんですか。

清水:さぁ、わからないです。僕の清水と町名の清水は全くの偶然です。

宮田:生まれた日のことを、ご家族に聞かれたことはありますか。

清水:お袋が言うには、本当は4月4日だったらしいんです。ところが、たった4日間で学年が1年遅れるから、ごまかして1日にしたら、ギリギリ前の年度に入ったって(笑)。昔はそういうことをやってたらしいんですよ。だから本当は4日なんですって。

宮田:そうだったんですか。ご兄弟はおられたんですか。

清水:その頃はまだ僕だけです。岩瀬の大火の頃に次の弟が生まれて、製材所に行ってふたり目の弟が生まれたの。

宮田:何歳ずつ離れていたんですか。

清水:えっと、上の弟は僕と一回り違うのかな。末の弟は2歳くらい離れているかな。

宮田:じゃあ、結構離れていたんですね。結構年下の弟さんがいたらやっぱり、お兄さんとして「支えていかなきゃ」っていう気持ちがありましたか。

清水:そりゃあ、ありますよ(笑)。正直あります。

宮田:プレッシャーだったんですね。

清水:いい思いをさせてやりたいな、と思いますけれど、弟ふたりは2番目の、床屋さんの父親の子どもですから。

宮田:床屋さんのお父様は……

清水:ふたり目の。はい。僕の父親は5歳の時かな、亡くなっていますから。

宮田:5歳の時に亡くなったお父様は、どういうお仕事をされていたんですか。

清水:売薬さん。富山は売薬をするでしょう。

宮田:お母様はお仕事をされていたんですか。

清水:今はもちろんないけれどね、その頃は(官営)模範工場というのがあったの。紡績会社。女工さんっているじゃないですか。清水町の話です。家から歩いて行けるくらいの距離の、模範工場っていう女工さんたちがいっぱいいるところへお袋と行った。門の横に子守り部屋って言って、母親が子どもを預ける部屋があるの。そこへ預けられて、お袋が会社を終わるとまた連れて帰る。母はそうした女工さんをずっとやっていましたよね。

鏑木:託児所つきの職場のような感じですね。

清水:今で言うとそういうこと(笑)。

鏑木:お母様のお名前は。

清水:アヤです。弟は山岸っていうんですけれど、今また父親が亡くなっちゃったもんですから、また清水に戻って清水アヤ。漢字で書けば綾。

鏑木:あ、そちらが正しいんですか。

清水:本当はそうらしいんですけれど(笑)。聞いたことはないです。そういう字なんですけれどね、カタカナです。僕、手紙出すときもカタカナで。

宮田:幼少期に地域のお祭りなどで印象に残っていることっていうのは、ありますか。

清水:ありますよ。高校の時は村の祭りの獅子舞の獅子打ちもした。僕はおばあちゃんっ子でね。あれは何歳のときかな……腸チフスにかかっちゃったんですよね。夏なのにガタガタ寒くて、病院に行ったらすぐ入院って言われて。毎日、熱が41〜42℃くらいの日が続いて、お医者さんにも助からないかもしれないって言われて。そのときにおばあちゃんが毎日来てくれて、エンゲル注射とかって、こんなところに打つんですよね。それは野球のボールみたいにふくれちゃうの。太ももへ温かいタオルを当てて揉むんですよ。それがまた痛いの。それをおばあちゃんがやってくれたの。おばあちゃんとはよく行動を共にしましたけれども、仕事っていうのは、お祭りがあるでしょう。今で言う、フーテンの寅さんですよ。テキ屋さん。うちのお袋の兄さんっていうのはヤクザで、それを取り仕切っていたの。

一同:へぇー!

清水:すごいケンカをするんですよ。ヤクザ同士で、自転車のチェーンなんかを振り回して。それである時に警察に踏み込まれたのも、僕はそばにいて見てるしね。賭博、花札。そういう伯父さんだったから、おばあちゃんはお祭りの一番いい場所で、鳥居の下。一等地なの。そこでおばあちゃんの手伝いをしたのはこんにゃく、田楽ですよね。竹ひごにこうして(差して)、三角にペランペランに薄く切って。味噌を入れておいて、ルーレットがあるの。昔のこういう字(勘亭流)ですよ。8本。それを止まったところの枚数だけ、食べていいっていうの。それがこの写真です。ちょっとボケていますけれども。

宮田:すごい!

清水:これ、おばあちゃんです。

平野:この写真は初めて見ました(笑)。

清水:これがこんにゃくです。

宮田:ではお家で過ごされているときは、ご家族としておばあさまとお母様と。

清水:一緒です。新しいお父さんと。

鏑木:腸チフスにかかられたのは、おいくつぐらいの頃ですか。

清水:えーっと……(しばらく考えて)あれは小学校2年生くらいかな。

鏑木:低学年ですか。

清水:もちろんそう。

宮田:じゃあ、お祭りとかがあると、親戚の伯父さんの取り計らいで、皆で。

清水:そうです。今で言う6月1日、山王祭っていう富山で一番大きなお祭り。全国のテキ屋さんが集まって、今でも街に溢れそうにテントを張ってやっていますよ。で、鳥居の下なんです。

鏑木:なるほど。それでおばあさまのお手伝いをされていたんですね。

清水:そうです、そうです。水を汲んで来たりね。このおばあちゃんに、かわいがられたんです。

宮田:おばあさまはお名前はなんて言うんですか。

清水:サト。カタカナです。

宮田:おばあさんは富山出身だったんですか。

清水:そうです。

宮田:代々富山だったんですか。

清水:そうです。

宮田:じゃあ今もご親戚の方々は富山に。

清水:いることはいますけれど、もう大分、縁遠くなりましたね。僕は富山に帰っても、友だちに会うこともないし。弟に会うくらいですから。

宮田:じゃあ弟さんたちは、今も富山におられるんですね。

清水:そうです、そうです。それで平野さんが富山に来たときに、母親が借りてた汚い部屋へ呼んだら、弟たちにさんざん叱られた(笑)。

平野:そこで(埼玉のカタログの)インタヴューをしたんです。

宮田:でも、そこだからこそ聞けた話かもしれませんね(笑)。

清水:懐かしい思い出ばっかり、本当に(笑)。

宮田:当時、好きなことと嫌いなことはなんでしたか。

清水:好きなことはね、どじょうすくい(笑)。なぜかと言うとね、おばあちゃんを喜ばせるため。昔の人はね、川魚を食べるんですよね。特におばあちゃんの頃は、ナマズ。それもね、ぶった切ってみそ汁にするの。おばあちゃんはどじょうも食べるしフナも食べるし。だから僕、しょちゅう川へ行っていたもん。それで腸チフスになったの。

宮田:ああ、なるほど。

清水:すぐ向いに病院があって。病院の排水がどんどん流れている所はまた、魚も多いんですよ。おばあちゃんは煮たり焼いたりして食ってるからいいんだけど、僕はそれで病気になっちゃった。だから平野さんには話したかもしれませんけれど、ザルって言うんですか。竹で編んだカゴね。こうやって(掬う仕草をして)やると、汚い川ですから泥水なのよね。でも水がダーッと降りてくるじゃないですか。水が降りていって水が動くと、「あ、ナマズかなんかがいるな」と思うじゃない。あの時のスリル。だから僕が未だにトレーシングペーパーをよく使うのは、そのせいなんです。水面のこちらと向こう側。だんだん近づいていって、お互いに焦点が合う、みたいな。それはタブローだっていう意識が、どこかにあるのね。だから氷を張ったようなところに絵を描きたいと思う。薄いところね。まぁそういう話は余談ですけれども。まず川ばっかり行っていましたね。そこから思い出すのは、鮎を獲るのね。春になると、浅い所をバチャバチャ泳ぎながら、鮎の稚魚が群れをなして遡上してくるんですよ。そういう所の鮎を獲るにはね、このくらいの電線を持って行くの。それで水面を引っ叩く。そうすると背中が切れて、鮎が浮かんでくるでしょう。そういう鮎の獲り方をしたし。川遊びが好きでね、僕は泳ぎもそれで覚えたんですよ。

宮田:この頃、一番怒られたことってなんですか。

清水:お袋に怒られたことねぇ……しょっちゅう怒られていたから(笑)。一番覚えているのは、お袋は夜は夜で、仕立物でミシンを踏んでいたからね。子どもっていうのはほら、おもちゃの電車を窓からのぞいて運転手の気分になったりするじゃないですか。ミシンもこう、足踏みですから、動きがおもしろいのね。勢いよく動かして、壊しちゃって叱られたことがある。だってお袋にとっては命の綱ですもん。ミシンっていうのは、ベルトが切れるのね。そういうこともあった。でもお袋とは、楽しい思い出もいっぱいありますね。親戚の家にお袋と遊びに行った帰り、スイカをもらったの。ところが、重たいのよ。じゃあもうふたりで食べようかってなって、道で割って田んぼの中でふたりで食べたとかね(笑)。そういう思い出はいっぱいありますね。お袋にこっぴどく叱られたっていう印象は、あんまりないですよね。
今はもう亡くなったけれど、床屋の父親と出会うまではひとりで僕を育ててくれていたから。食べるものがなかったしね。苦労したんだと思います。今、施設に入っている母親は、もちろんもう100歳近くですからね。この前行ったら、僕の顔を見て「あんた、畳屋さん?」って言うの(笑)。まぁそれは仕方のないことだと思いますけれどね。悲しかった。

宮田:小さいときに、嫌いだったことはなんですか。

清水:まず食べるものはなかったね。嫌いだったことっていうのは、特別なかったんじゃないかな。ただ嫌だったのは、戦争中っていうのは、学校と学校ってすごく仲が悪いんですよね。なんでか知らないけれど。朝、登校する時、他校生とすれ違うときがあるじゃないですか。そうすると、すぐにケンカが始まるし、今でこそ考えられないけれど、決闘の日っていうのが決まってるんですよ。お互いに木刀を持ってくるんだもん。僕は怖いからさ、後ろからついていくとね、行かないとまたいじめられるしね。あれは嫌な思いをしました。でも朝、学校ですれ違うでしょう。皆、小学校の帽子を被ってるんですよ。今の子は被らないかな。それをこう、取られちゃうんですよ。それで相手の学校の帽子の校章のバッジを取って、自分の味方の上級生に渡すとね、「でかした」って言われるのよ。「ようやった」って(笑)。

鏑木:それは戦争中だからですか。

清水:そういうこと。戦争中だったから。

鏑木:要するに戦争の真似というか。

清水:そういうことなの。それが子どもにも来てるんだと思います。雪の降る日が一番の激戦でした、僕、逃げてたら橋の上から川へ落ちたもん。

鏑木:えー。

清水:滑って(笑)。先輩にすごく叱られたけど。あとはやっぱり、いじめられたこともあるしね。

鏑木:どちらかというと、クラスの中ではおとなしい子だったんですか。

清水:そうだったと思います。争い事とかは、嫌いでしたね。

宮田:初恋とかって、いつなんですか。

清水:今から振り返るとね、高校生のときにある女の子にお茶に誘われてね(笑)。今から思うと、彼女は告白したかったのかなって、勝手に(笑)。僕も馬鹿だからさ「じゃあね」ってそれっきりだったこともあるし。それから朝、汽車に乗って金沢へ行くでしょう。富山は始発なんですよ。着くところは静岡の掛川。朝、7時何分かな。始発ですから、ガラガラなのね。にもかかわらず、いつの間にか女の子がひとり、僕の前に来て座るんですよ。

宮田:あら。結構アプローチされていたんですね(笑)。

清水:僕も鈍いからさ。四方山話。彼女は途中の高岡で降りるんです。で、黙って座ってるから、黙ってさ。声かけないと悪いかな、なんて思ったり。後から思うと、同じ富山駅から乗るから、「(降りる)駅はどこですか」っていう話になるじゃない。うちに遊びに来たいっていうから、来たんですよ。僕のうちはほら、製材所だから、風呂なんてドラム缶。そうしたらそれきり彼女、ピタッと来なくなった。そして僕の前に座らなくなった。それで良かったかなと思うけれども。ある時、何気なく汽車から高岡の駅を見ていたら、彼女が他の男と歩いているのが見えて、ちょっと切ない思いをしましたね(笑)。そういうこと、書かないでね(笑)。

鏑木:清水さんは、女の子に人気があったんですね。

清水:平野さん、もうひとつ言っていい?

平野:どうぞ、どうぞ。

宮田・鏑木:(笑)

清水:これ、誰が言ったのかね。平野さんに展覧会をやらせていただいて感謝しているんです。足利市立美術館と三鷹市美術ギャラリーでも、個展をやったでしょう。そのとき、三鷹だったかな。あそこに女子美の生徒さんがいっぱい来たらしいのね。それもあると思うんですけれど、「清水の絵は女の子に人気があるね」って言われたの。なんか、色っぽさがあるんだって。「えー」なんて思うけど。誰に言われたんだっけな。
だからこの前もArt Spaceはね(東京・茅場町のギャラリー)でやったじゃない。やっぱり言われるの。女の子に人気あったよって。ただ本人を見てがっかりしたって言ってたよ(笑)。

宮田:そういうのって、無意識に出ているんですかね。

清水:これは無意識かどうかわからないんですけれど、母親のなんかがあるかもしれない。母親の手で育てられたでしょう。いつも抱っこされてた記憶があるし、昔のことだから母乳でおんぶでしょう。だって母親は働くときは、僕を放っておけないから、そういうことになっちゃうのね。そういうときの、母親の独特のにおいってあるじゃないですか。父親にはない、乳臭いにおい。そういうのをさんざんかいできたせいもあるかもしれないけれど、どうなんだろう。平野さんにも聞かれたことがあるんですけれど。(アルバムの写真を見ながら)ああ、これだよ。典型的なの。

鏑木:かわいい! お母さんが大好きだったんですね(笑)。

清水:そうなんですよね。

平野:この前のインタヴューでも、自分の中に女性性みたいなものがあるっておっしゃっていましたね。

清水:ええ。平野さんには随分質問されたけど、答えられなかったと思う。

鏑木:子どもの頃の写真を拝見すると、いつもとてもニコニコされていて、本当にお母さんがお好きだったんだなぁという感じがしますね。

清水:母親の言ったことにはね、妹が野口英世みたいに、こたつで大やけどして死んじゃったの。それは僕が腸チフスで入院している最中で、帰ってきたら妹がいないのよ。お袋に「どうしたの」って聞いたら、「いや、実は」って初めて明かされたんです。こたつで泣いて泣いて。おかしいなと思って見たら、手遅れだったんだって。妹がいたときに、母親と妹と、川の字に寝ているじゃない。母親が僕のことをかわいがってくれたらしくって、夜中でも抱っこしようとしてたんだって。僕は記憶にないよ。でも母親がね「僕はいいから、妹の方で寝て」っていつも言ってたって。まぁそれは余談ですけれども。作品がなぜ色っぽいのかなぁ。自分ではわからないですけれども。

宮田:お父様との関係はどうだったんですか。

清水:ほとんど記憶にない。5歳のときに亡くなっているし、その時は兵隊に行っていたから。父親の印象は全然ないんです。

宮田:新しいお父様とは。

清水:その時はね、お袋が「晃、新しいお父さんだからね。『お父さん』って言ってごらん」って言われて、恥ずかしいのに「お父さん」なんて言ったのを覚えている(笑)。新しいお父さんも根はいい人だったから、よく面倒は見てくれました。

平野:床屋さんでの記憶は、新しいお父さんですよね。

清水:そういうことです。初め製材所にいた頃はアミノ酸醤油とか、石鹸とかを作ってたのね。浅草かなんかで昔、丁稚奉公で床屋さんをやっていたらしくて。おじいちゃんっていうのはまた道楽者で、女遊びして身代を潰したらしくて、自分の子どもまで売ったって言っていた。父親はそれで浅草かどっかの床屋に売られて、その技術で後に床屋さんを始めたの。それが丁度、富山駅から神通川へ行く所のすぐ下にガードがあるんですけれども、今でもそこに床屋さんはあるんです。それが『目沼』の最初の《煽夢燈》で作ったコラージュのイメージなんです。

宮田:どんなお父さんだったんですか。

清水:いやぁ、僕が美術学校に入っても、辞めさせようとばかりしましたね。働けって。そういうお父さんだった。でね、辛くなると、ふっといなくなるお父さん。その間、またお袋が苦労しなきゃならないでしょう。今から思うと母親も悪いところがあったとは思うけれども、夫婦のことはわからんからね。お袋が五右衛門風呂で水飴を作る仕事をしていて、あれはちょっとでも焦がすとアウトなんですよ。みんな焦げ臭くなって。そのタイミングがものすごい微妙で難しいのね。お袋が一回、失敗してさ。ふたりで五右衛門風呂にすがって泣いてた記憶もある。父親はその時、いないんですよ。ところがうちの人もカンカンに怒ってたけど、お袋が言うには、僕の本当の父親よりも、そのお父さんの方が私は好きだったっていう話をしてたって。うちの人は怒って「なんで?」とかって言っていた。悪口は言いたくないけれど、いいお父さんではあったんだけれど、そういうお父さん。失敗すると、すぐ行方不明になっちゃう。茂っていう名前でしたけれどね。生まれの父親は……なんだっけ。ちょっと覚えてない。それくらい記憶がないの(笑)。

宮田:その後、大工さんたちの親方とか、男社会に入って、そういうところで、違う男性像っていうか。父親像のようなものを感じたりしましたか。

清水:うーん、あんまりその時は……どうなんだろう。お袋に少しでもお金をあげたかったっていう一心で働いていたから。ただ、かわいそうなおじいちゃんは印象に残ってるかな。

鏑木:弟さんもアルバイトをされていたんですか。

清水:していたみたいですよ。

鏑木:そうですか。一家の皆さんでお仕事をそれぞれ持たれていたんでしょうか。

清水:弟が物心つく頃はもう、僕は東京に出てきてしまっているし、年が離れてしまっているし。弟で覚えているのは、一番下の弟、元治って言うんですけれど、修学旅行に東京に来て。父兄に会ってもいいということで、僕は川崎に住んでいたから会いに行ったんですよ。それが湯島かどっか、あの辺の旅館だったと思うの。行ったら弟の中学校が修学旅行に来ていて、先生が「連れ出してもいいよ」っていうことで、雨の降っている日にふたりで歩いていたら、お巡りに捕まってね(笑)。誘拐事件が流行っていた頃で、警察が飛んで来て「ふたりの関係はなんだ」なんて言われて。そういう思い出もあります。
あとは僕が東京へ出てきて、ジャノメミシンってあるでしょう。仕事がまだ決まってない時に、面接に行ったことがあるんですよ。そうしたら今日もテレビで見たけれど、面接試験のテクニック? 結構あるのね。どっしり構えて、言いたいことは端的に言って、最初に言ったことが最後まで道筋が通ってて、姿勢もきちんとして、とか。あ、やっぱり、とか思ったけど。面接に言った時、ジャノメミシンの人に言われましたもん。「君はいい人だと思いますけれども、この道に向いてない」って(笑)。そういう思い出もありますね。

平野:また話が前後しますが、いくつか質問させてください。ネオ・ダダといろいろと関わりがあったと思いますが、最初にホワイトハウスに行かれたのはいつでしょうか。1960年、要するにネオ・ダダが一番活発に活動していた頃に行かれた経験っていうのはあるんでしょうか。

清水:ホワイトハウスって言うと、マッさん(吉村益信)。彼とも読売アンパンで知り合ったんですよね。「吉村さんの家に遊びに行ってもいいですか」って聞いた記憶はあるの。ただ、行った記憶はないです。

平野:ネオ・ダダは60年に一番活発に活動していて、62年に磯崎(新)さんの送別会がありますよね。その頃に行かれた記憶はありますか。

清水:はい、行きました。その夜は大変でした。確かギュウチャンが屋根からオシッコしたりで、最後にはパトカーが来ました。

平野:赤瀬川さんと知り合うのは、もう少し後ですか。

清水:そうです。読売アンデパンダンがきっかけです。63年。

平野:読売アンデパンダンに、62年と63年に出品されていますよね。その前に読売アンパンに行かれたことはあるんですか。

清水:ないないない。見たこともない。あの頃はニュースとかで(情報は)入ってたんでしょうね。でも人を通じてじゃないです。

平野:じゃあ自分が出品した62年に、初めて読売アンパンを観たっていうことですか。

清水:そういうことですね。その時、地図の作品も出品したし。

平野:なるほど。読売アンパンに2回出された時に、他の作品で印象に残っているものがあれば教えてください。先程、工藤さんの《インポ分布図》についてお聞きしましたけれども、他に例えば高松さんが1962年に《極質》っていう、紐の固まりみたいな作品を出しているんです。そういうのって記憶に残っていますか。

清水:それは残ってないんですよね。

平野:そうですか。63年は清水さんも《リクリエーション》という大きな作品を出されていて、中西さんはクリップを出されています(《洗濯バサミは撹拌行動を主張する》)。その辺りの印象というのは、どうですか。

清水:63年の印象は結構残っていますね。風呂桶から泥棒が出てくるとか(広川晴史《そろそろ出かけようか》1962年出品か?)、読売新聞がさすがに面倒を見きれないって言い出した。あるいは、会場を歩いているとでっかい布を敷いてあるんです。中に絵の具の入った風船が入れられていて、踏むとバッと散って白い布に模様になる。

鏑木:時間派ですか(注:中沢潮《無題》1962のこと)。

清水:そうです、たぶん時間派です。あとはどんなのがあったかな。なにせごちゃごちゃして、会場が滝壺みたいな感じでしたから。

平野:(作品図版を見せながら)これが高松さんです。

清水:これが、なぜか印象にないんです。ただ、「不在の部屋」で彼が紐の作品を出したのは覚えてる。(図版を見ながら)ああ、これです。これは中西ですよね。

平野:中西さんと、作品の前で何か話されたりしましたか。

清水:うん、この時はね、さっきも言った「これ、君の作品ですか」って聞きに来たのがのっけの言葉です。それだけは鮮烈に覚えてる。憧れの人がそばにいるからさ。

鏑木:中西さんは清水さんの作品について、なんておっしゃっていたんですか。

清水:いやぁ、彼が僕の作品に対して言ったことは一回もないね。ただ、うちの人がね、僕が留守の時に中西から電話が来て、中西は人には絶対そういうことは言わない人なんですけれども「『清水は素晴らしい作家だ』って中西さんが言ってたよ」なんて。中西は俺だけじゃなく他の人のことも言わないし、中西も他の人に聞くタイプじゃなかったかもしれない。

鏑木:じゃあその時、奥様にはポロッと本音が。

清水:そうですね。まぁ興味があったから、彼はそういう風に声を掛けてくれたんだと思いますけれども。

平野:他に読売アンパンの記憶はありますか。

清水:そのとき友だちになったのは中西とか谷川とか、あとはギュウチャンか。あとは「不在の部屋」。そのとき、初めて高松と声を掛け合ったのかな。田中信太郎とかね。

鏑木:先程、読売アンパンで作品の大きさについてお咎めがあったとうかがいましたが、会場の中で割り当てられる場所などは、どうやって決まっていたんですか。

清水:それは自由だった気がする。大体、壁が多いじゃないですか。床に置く作品も結構ありましたけれども。早いもの勝ちだったかな。「ここは清水」とか言われた覚えはないもん。とにかく周りを見渡して。狭い部屋もあるし、広い部屋もあるから。僕は一番広い部屋がいいと思って、しかも3部作だったから。

鏑木:じゃあもう搬入の日に、作品を持って上野に行って。

清水:そう。自分で組み立てて、飾り付けするしかない作品だから。普通の絵を搬入する人は飾り付けする必要がないですから、それで終わったんだけど、これだけは自分でするしかないから。恐らく中西もそうだったんじゃないかな。

鏑木:ああ、そうですよね。

清水:だから彼もいたんだと思いますよ。飾り付けの日にね。

鏑木:そうか。じゃあ絵画を出す人たちは、自分で行っていない人もいるんですか。

清水:だと思う。だって地方から出している人も多いから。運送屋さんに頼んで。

鏑木:なるほど。じゃあ、送るだけの人もいたけれども。

清水:僕の場合は、自分でやるしかなかったということだと思います。だから僕は自分で部屋を選んだ記憶がありますもん。広い部屋。

鏑木:それでバッチリ3つ並べて置いて。

清水:そうです。この頃、印象に残っているのは丁度ジャスパーが日本に来ていて、ラウシェンバーグの作品も日本に来ていて。ティンゲリーもいた。

鏑木:そうですよね。南画廊で個展をやっていましたもんね。

清水:あれはすごい展覧会でした。

鏑木:ご覧になりましたか。

清水:観ました。ギュウチャンが何か言ったら、ティンゲリーが怒ったって言っていた(笑)。いたずらかなんかしたんじゃないかな。あれだけめちゃくちゃやるティンゲリーが、怒るくらいだからね。
この時、ティンゲリーがアンパンを観に来ていたからね。「全体的におもしろかったけど、清水が一番おもしろかった」って言ったのがティンゲリーだったの。それは美術雑誌に書いてあったの(J・ティンゲリー、聞く人:東野芳明「東京のニュー・リアリスト」『芸術新潮』第14巻5号、1963年5月)。僕が彼に会って聞いたわけじゃないけれど。「きれいだった」っていう言い方をしていた。

鏑木:そうですか。ところでこの辺の作品(地図を用いた〈ガイドブック〉シリーズ)っていうのは。

清水:これは絵の具をドッリッピングっていうの。

平野:コラージュもしてるんですよね。

清水:そうなの、ヌードの写真の。だからこういうものが卓球台になったと思ってもらえればいいのかな。

鏑木:そうですか。ちなみにコラージュという手法は、どの辺りからですか。

清水:コラージュを最初にやったのは『目沼』。でもその前に高井さんの踊りを手伝うことになって、ポスターを依頼されたときが初めてかな。

平野:でも最初の個展(1962年、村松画廊)に出した、この辺の作品にもコラージュがありますね。

清水:そうか、コラージュあるねぇ……ああ、赤瀬川のコラージュ(《あいまいな海》)を観たときだったかもしれない。

鏑木:それが始めるきっかけだったんですか。

清水:うん。やっぱり一番影響を受けたのは、赤瀬川だったような気がする。自分に近いなぁ、というのはね。恐らくそういうものが、出ていると思います。『絵次元』にも赤瀬川のコラージュがあるじゃないですか。あれが好きだったのが、きっかけだったかな。

平野:1963年の読売アンデパンダンを観て、中原さんが「不在の部屋」への出品を依頼してきたというお話でした。当時、他に批評家の人はご存知でしたか。

清水:この頃、批評はひとりも知りません。知ったっていうか、顔を見たのは、シェルの授賞式のときですよ。その時に瀧口修造さんがいらしていて、絵の批評をしたわけじゃなくて、まぁ審査員のひとりだったんでしょうか。中原さんとか東野さんとかが審査員だった。あとは針生(一郎)さんとかだったと思うんですよ。

鏑木:当時、批評家の人たちが見に来ていたと思うんですが、その時は直接お話はしなかった。

清水:全然知らないです。だから「不在の部屋」展の時の中原佑介さんが、初めて言葉を交わした批評家だったと思います。それ以前に村松画廊でお会いした記憶も全然ないし。

平野:読売アンデパンダンで、他の作家と知り合いになったお話をうかがいました。さっき具体美術のことはあまり情報を知らなかったとおっしゃっていましたが、当時、アンフォルメルも盛んに紹介されていたと思います。そういうものはいかがでしたか。

清水:はい。(ジョルジュ・)マチウだったっけ、街頭制作をする。そういうのは僕はテレビか何かで映像で観た記憶があります。あと今井俊満さん? も観たことがありますけれども、アンフォルメルにはあんまり興味がなかったんじゃないかと思います。でもこの前、ニューヨークで初めてポロックの大作を観て、やっぱりすごいなぁと思いました(笑)。しつこい、しつこい、しつこい、もう。飛沫が何層にも重なっているんですもん。だからあれはただのドリッピングじゃなくて、彼なりに描いているなぁと思いましたけれどもね。絵だな、と思いました。その頃、アンフォルメルはどんどん入ってきました。いろんなものが入って来ましたもんね。でもアンフォルメルも具体も、僕はあんまり。興味がなかったのかな。方向が違ったせいもあるかと思います。でも中西たちが何をやるかということには、えらく興味がありました。「次、何をやるんだろうな」って。

宮田:そういうことを、直接聞いたりはしなかったんですか。

清水:聞いたことない。彼も僕に聞いたことない。さっきのデッサンの話じゃないけど、展開をしていくのに、自分なりの筋道を通って行く作家だけじゃないじゃないですか。いろんなルートがあると思うんです。それをいちいち、聞けないですよね。ちょっと秘密の自由みたいなところもあるし。僕なりに筋道をつけたつもりだと思うんです。どんな作家でも「ああ、ここがあってここがあるんだ」っていう、そういう明確な進み方をしている作家はあまりいないじゃない、きっと。どっかで迷路に入ってしまっている。そこからはみ出すかもしれないし、見事な生き方してる人っていない。あるいは同じ事をやっているとかね。あとは円熟だけに帰るとか。でもピカソは違う。新古典主義だって戻るんじゃなくて進んでいるんだと思う。あの変貌の仕方をたどると、あんまり必然性は感じない。その時にやりたいことを勝手にやってる、みたいな(笑)。めちゃくちゃなやり方だと思いますし、僕はピカソは何かを追いかけている作家には違いないんだけど、何かに追いかけられている一生だったような気もする。そういうことまで考えると、本当に明確な点があって、そこに到達するまでの道筋をきっちりやってる作家って、たぶんいないんじゃない。自分も含めてね。でも人の作品では、それが一番観たいね。遠くへ連れて行って欲しい。それを読めないとね、その場その場でいい悪いとか言ってるだけで終わっちゃう。難しいと思いますけれどね。
宮田さんは、今日京都へ帰るの?

宮田:帰るんです。

清水:本当? 東京駅から?

宮田:はい(笑)。

清水:送って行けなくてごめんね(笑)。大変だね。

鏑木:それでは今日のところはこの辺で。貴重なお話をたくさん、ありがとうございました。