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塩見允枝子オーラル・ヒストリー 2013年6月25日

大阪府箕面市、塩見氏自宅にて
インタヴュアー:小勝禮子、坂上しのぶ 
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2014年1月13日
 

坂上: 2013年6月25日、塩見允枝子インタヴュー2日目を開始いたします。よろしくお願いします。

小勝:昨日はニューヨーク渡航を決意されて行かれるというところまででした。その時、久保田さんと一緒の飛行機で。

塩見:やっぱり何となく不安でしょう。東京へ渡航の手続きに行った時に彼女に会ったら「私も行こうか行くまいか迷ってる」って言って。

坂上:まだ(久保田さんも)迷ってらしたんですか。

塩見:まあ、ほぼ決めてはいたのかなあ。「私、行くわよ」って言ったら、「じゃあ、私も」って。「同じ行くなら一緒に行こう、その方が心丈夫だから」と言うので、同じ飛行機で行ったんです。(でも、フルクサスのコンサートには間に合わなかった。)

小勝:道中の印象とかそういう事は。

塩見:あれは初めての飛行機だったの。何しろ2人で疲れて寝ていると叩き起こされて、機内食のトレイが出て来て食べさせられる。食べ終えてやれやれと寝ていると、また出て来る!(笑)。「何だか食べさせられてばっかりだね」っていう話をしながら行きました。

小勝:到着したらマチューナスと秋山さんが(お迎えに…)。

塩見:そうです。空港に朝7時頃だったのに来て下さって。それでリムジンに乗せられて、マチューナスのロフトに連れて行かれたのです。その時に確か斉藤さん(斉藤陽子 さいとう・たかこ、1929−)がおにぎりとか作って、靉謳さん(あいおー 1931—)やパイクさんも呼んで、ささやかながら仲間同士で歓迎パーティーを開いて下さったの。とても嬉しかった。マチューナスは、YWCAのホテルを2日間予約しておいてくれたのね、2人の為に。そしてその間に住むアパートを探してくれたの。サリバン・ストリートっていう、マチューナスのいるキャナル・ストリートとワシントン・スクエアのちょうど中間位かな。マチューナスのところから歩いて10分位のところで、気軽に行き来出来て。新しいアパートでエアコンも付いてるの。彼等はね、ロフトだからエアコンなんてないでしょう。7月の初めでものすごく暑いのよ。すごい大きな音のするエアコンだったんだけどね、とにかく付いていてありがたかったわ。あのゴー!っていう音、今でも覚えている。(笑)

小勝:そこは久保田さんと塩見さんと靉謳さんたちもお住まい(だったのですか?)

塩見:靉謳さんはマチューナスの隣のビルディングに。靉謳さんと斉藤さんは上下で住んでいたの。マチューナスの上はディック・ヒギンズ(Dick Higgins, 1938-1998)が住んでいたと思う。1Fはもちろんお店ですよ。2F、3F、4Fがいわゆるロフトで、そこへ住み着いていたんです、アーティスト達が。(註:ビルは5階建)

小勝:いろいろなところへ既にお書きになっていますけれども、家具までマチューナスが……

塩見:そうなの。自分が「いらっしゃい」って言った責任を感じてでしょうけどね、まずベッドを提供してくれた。自分が使っていたベッドよ。「これを持って行け」って言って。それは男の人達、マチューナスとかパイクさん、靉謳さん達が運んで下さって。台所用品や洗剤まで「これ持って行け」って言ってくれて。いくら何でもそこまでは「もういいです」って言うのに、「自分は何とかするからいいよ、持って行け」ってとにかく気前がいいのね。一生懸命ケアして下さったの。彼はそういう心底人のいい、気の毒になるようなところがあるの。善意のかたまりというか。ちょっとシャイな感じはした。あまり冗舌で人をもてなすという感じじゃなくて、少し控えめで影があるといったら変なんだけど、やや暗い部分があるような印象だった。それにものすごくでかい人でね! すぐに「ヘヘヘヘへ!(物まねしながら)」って変な声で笑うのよ。

小勝:ああそれで《マチューナスの笑い声》みたいに(作品に取り込んだり)。

塩見:そうそう。あの笑い声はまだ耳についているけれど独特ね、あんな笑い方をする人、他には知らないわ。

坂上:自分も移民だったから新しく来る人を大切に。

塩見:そうね。それもあるかもしれない。確かにね、あったでしょうねえ。

小勝:行かれてすぐフルクサスの仲間達に引き合わされる…?

塩見:引き合わされるというよりも、マチューナスのロフト(にいると、みんな入れ替わり立ち代わり訪ねてくるのね。ロフト)は一番奥が彼のプライヴェートなスペースで、真ん中が「フルックス・ショップ」と言って出版した作品が棚にズラーっときれいに並んでいるわけ。でも買いに来ている人なんて誰もいなかったわね(笑)。で、通りに面した前のお部屋が、昔はそこでパフォーマンスなんかもやられていたみたいだけれども、私が行った時はパイクがそこでロボットを作ってた。それとジョー・ジョーンズ(Joe Jones, 1934-1993)が《アンブレラ》って、天井から大きなこうもり傘(の骨)を拡げて、その先にヴァイオリンなどの楽器を吊るして、その楽器の弦の上をプロペラみたいに回る皮の紐で奏でる作品を制作中だった。全体が揺れるから奏でる弦も変わって来るし、リズムも変わってくる。すごく素敵な作品でしたね。

小勝:そういう発表というかイヴェントがしょっちゅうある感じ……

塩見:さあ、それ程でもなかったわね。皆それぞれ勝手にいろいろやっていましたね。マチューナスがプロデュースしたのは「パーペチュアル・フルックス・フェスト」(ワシントン・スクエアー・ギャラリー、1964年9月18日〜11月3日)。パイクはパイクで、ロボットを5thアベニューで歩かせるというパフォーマンスを勝手にやっていたらしいけれど。フルクサスのメンバーといっても、いろんな人がいて、ショップでは、ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young, 1935-)にも会ったわ。ちょっと強面で、作品も鋭いしね。畏敬の念を持っていたの、彼には。で、彼がやってきて紹介されたら、いきなり「僕は君の《エンドレス・ボックス》のピュリティが好きだ」って言ってくれたの。そういえば、彼とは似たところもあるかなあ。(《エンドレス・ボックス》の)中へ中へと収斂していくところと、彼の《直線を引いてそれを辿れ》(註:彼のパフォーマンス作品)などは、方向性が明確だという点では、お互いに通じるところがあるのかなと思って、ほっとして打ち解けたんだけどね。そこでは、ブレクト(ジョージ・ブレクト, George Brecht, 1926 - 2008)にも会ったし、ボブ・ワッツ(Robert Watts, 1923-1988)にも会ったしね。シャーロット・モーマン(Charlotte Moorman, 1933 - 1991)にも会った。すっごいヴァイタリティなの、あの人。さすがテキサス生まれは違うわねえって。久保田さんも相当タフな人なんだけれど、それでもかなわないわね、なんて言ってたわ。

小勝:久保田さんや斉藤陽子さんとニューヨークでお話になった事が何かありましたら。

塩見:久保田さんとは(2ヶ月程)一緒に暮らしてましたから、いろんな話をしたわねえ。だけど一番印象に残っている彼女の言葉はね、「私、今は下積みでいいの。だけど私が50歳になった時に華麗な生活を送っていたい」って(いう事だった)。ああ!すごいなあって思ってね。「アメリカの社会でやっていくためにはまず英語がちゃんとしゃべれなくちゃいけない。片言じゃバカにされるから英語の勉強したい」って。彼女はニューヨーク大学の英語のコースを受講していましたね。

小勝:では久保田さんは(はじめから)結構長く行くつもりで。

塩見:そう。彼女は親から「帰ってくるな」って言われたとかで、とにかくニューヨークで成功したいという思いが強かった。

小勝:塩見さんはまだ、行ってから考えるみたいな。

塩見:そう。私は全然野心というのがなくて、何しろ自分がやりたい事がやれればいいというだけで。だから面白ければ、しばらくいるかも知れないけれども、ニューヨークにずっといるという気持ちは全くなかったわね。一応半年のヴィザで行ったでしょう。もう半年延ばす事は簡単なの。マチューナスだったか、アリソン(アリソン・ノウルズ, Alison Knowles,1933-)だったかに推薦状みたいなのを書いてもらって、久保田さんと2人でイミグレーションに行ったのは、はっきり覚えてる。難なく半年は延ばしてもらったんだけど、そこから延ばすとなると、1つには学生ヴィザを取る事、あるいはアメリカ国籍の人と結婚する事、あるいは一旦ヨーロッパ辺りに出て、それからもう1回帰って来る事。でも私はそのどれもしたくなかった。1年経った時には自分でも帰ると思っていたの。私は生徒を沢山、知り合いの先生に預けて来たのね、代稽古してもらうために。生徒が私を懐かしがっている、なんて(聞かされるとねえ…)。

小勝:岡山に帰るおつもりで。

塩見:そう。いずれはというか、半年か1年後には岡山に帰るつもりで。

小勝:そうですか。

塩見:ニューヨークは渡航が自由になったでしょう。ニューヨークに来たいと思ったらまたいつでも来れるわけだし、それこそ、かつて岡山と東京を行ったり来たりしていたように、飛行機代はかさむけれども、チャンスがあればニューヨークとも行ったり来たりすればいいという気軽な感じで、帰って来たの。

小勝:斉藤陽子さんの印象はありますか。

塩見:彼女はいい人でねえ。すごく手先が器用なの。お料理にしても、作っている木の四角いオブジェクトにしても、ものすごく精巧に綺麗に出来ているのね。プロフェッショナルという感じ。あれは天性のものでしょうね。私なんかぶきっちょだから、到底そんなマネは出来ない。彼女にもお世話になったわねえ。やっぱり先輩でしょう。私や久保田さんよりも。

小勝:63年に、確か(ニューヨークに)いらしてる。

塩見:ああそう。じゃあ1年かそれ以上先輩だから、いろんな事ご存知で。だからいろいろ教えて下さって、買い物にも、何とかユニオンというスーパーマーケットへ、よく3人で一緒に行ったわ。

小勝:斉藤さんから塩見さんに箱の作品を……

塩見:そうそう。本当にポンっと下さるんです。何て言うんだろう…フルクサスって…作家の集まりではあるけれども、マチューナスは、(全ての作品を)作家個人のものではなくて、フルクサスとして発表したい、だから理想は各作品にサインをしないで、ただフルクサス・ブランドで出すという、ちょっと共産主義的な(思想があるのね)。でもそれって作家のエゴとか責任とかと矛盾する事でしょう。やっぱり作品にサインして、自分の名前で出すという事は、その作品について責任を持つという事だから、誰かから質問を受けた時には、きちんと答えられるようじゃなくちゃいけない。それが名無しの権兵衛になってしまったら、(第三者が)それを活用しようとしたって、どうしていいかわかんないしねえ。(全体の)ブランドだけじゃねえ。

坂上:それに悲しいですよね。自分の思考がそのまま残って活かされてっていうならいい事だけれども……

塩見:だからオリジナルのスコアにも、私はちゃんと名前は入れるべきだと思う。だけど、それは誰がどのようにやってもいい。特殊な演奏を考えてやる場合には、それをリアライズした人の名前をちゃんと書いて、その人がリアライゼーションに関して責任を持つ。オリジナルはオリジナルを書いた作家が責任を持つという二段構えのリスポンシビリティを持った上で、いろんな風に演奏していいと思うんですよ。

坂上:その辺でマチューナスと対立というか。

塩見:うーん。ただね、マチューナスも、私の作品に名前を入れる事には抵抗はしなかった。(それは他の作品も同じだったでしょうね。)ブレクトの作品だって名前が入っている。マチューナスは作家達の作品を、いわゆるマルティプルとして出版する自由が欲しかったわけ。だから私達の作品はいいネタで、そこからヒントを得ていろんなエディションを作ったの。

小勝:「フルクサス・ボックス」みたいな(《Fluxus1》1964年、《Flux Year Box2》1966年)。

塩見:(あれは皆の作品を集めたもの。フルックス・キット(註:1964年の《Fluxkit》には)《エンドレス・ボックス》も真ん中に詰め合わされている。さっきも、彼から来た手紙を読んでいたんだけれど、《スペイシャル・ポエム》(1965〜75年/註:No.1-No.9 )も4番目までは、いわゆるスペシャル・エディションを彼は出してくれているわけね。いろんな形で。1番目(1965年)は、彼がカードを印刷してくれて、「これで糊付けしなさい」って糊とシンナーをくれて、私が旗を作ったんだけれど、2番目(1966年)は屏風型に折った地図を作ってくれて、3番目(1972年)はカレンダーの形。《落下のイヴェント》だからね。4番目(1972〜1973年)は《影のイヴェント》だから、(小さなヴューアーで見る)フィルムのエディション。(それで、ここからは実現していないんだけれど、)5番目は《開くイヴェント》なので、1枚の大きな紙に印刷して、それを8回か9回折って、小さな丸まったオブジェクトにするというアイデア。それから8番目の《風のイヴェント》は、同じく大きな紙に印刷して、風車のプロペラを折るような形のエディションを作りたいって。そういう夢はいっぱい持っていたわけ。それを実現する前に亡くなってしまったけれど、9つエディションが全部出来ていたら、それはそれは素晴しかったと思うわね。

小勝:実際に「パーペチュアル・フルックス・フェスト」でもいくつかイヴェントを発表されたわけですけれども、その時のことで特に記憶に(残っているものは)……

塩見:全体のコンセプトとしては、自分がやって見ていただくというのではなくて、そこに居合わせた人々皆が出来る事をしたい、皆が体験出来るようなコンサートにしたいというのがあったわね。それには、まず《ウォーター・ミュージック》(をやろうと思って。とにかくそのために、)私は綺麗な形をした瓶を探してたの。リキュールのサンプルの瓶なんだけど、(近所のお店の)ワゴンの上にいっぱい面白いデザインの瓶が並んでいるのね。それを毎日1つずつ買っては中身を飲んで、毎晩酔っぱらって(笑)。(空になった瓶を)綺麗に洗って取っておいたの。50個くらい溜まったかしら。それにマチューナスが印刷してくれたラベルから「水に静止した形を失わせて下さい」っていう行だけを貼って、(中に水を詰めて、台の上に)並べたの。

小勝:CHIEKO SHIOMIと書かれたこのラベルでは……(『フルクサス展―芸術から日常へFLUXUS-Art into Life』展図録、2004年、うらわ美術館[註:以降“うらわ図録”]57ページを参照しながら)

塩見:いや、私が貼ったのはLet the water lose its still formっていう行だけ。これがその時に出品したものの1つね。

坂上:これはもともとマチューナスへのお土産。

塩見:そう。日本からのね。やっぱり私の対象は自然なんですよ。自然が大好きだから。水には本当に楽しく遊ばせてもらったし、いろんな救いをもらった。水には憧れてたし、こんな奇跡的な素晴しい物質はないんじゃないかと思ってた。そしてこの水に対しては、どんなイヴェントが出来るかなあ、って考えたの。一番簡単なのが、「水に静止した形を与える」という事。それは何かの容器に水を入れればいい。今度それを「失わせる」という事は、そこからどんなパフォーマンスでも出来るという事だから、出来るだけいろんな可能性を含んだインストラクションの書き方をしたかった。それでそういうインストラクションを書いて、手に入った小さな綺麗な瓶に水を入れて持っていったの。彼には他にもいわゆるスーベニア的な、扇子だとか日本的なものを持って行ったんだけど、そんなものにはろくに見向きもしないのね(笑)。「これが一番素晴しいお土産だ!」って喜んで。「これは綺麗な水なんだろうね」って言うから「来る前に岡山の水道から取った水だ」って言ったら「じゃあ僕はそれを演奏する」って言って飲んで。「これはいい、これはいい」って言って、すぐこういうラベルをつくって、自分でもいろんな瓶を集めて来てエディション作っちゃったの(笑)。

坂上:エディションきちがい。

塩見:そう、そういう才能があったのね。彼はいわゆる作家としての才能はどうかわからないけども、まずデザイナーとしての才能があったのね。彼のデザインが今でもアピールするようなものだったから、フルクサスが未だに注目を浴びているわけでしょう。あれがへたくそなデザインだったら忘れられていると思うの。それが1つ大きなポイントね。それから、マルティプルとしてエディションを作って、それを安く販売してフルクサスを広めようという、これも新しい発想だと思うんですよ。他にはそういう事をやっているグループというのは…

小勝:やっぱりアーティストとしての唯一性が(大切にされて……)

塩見:そうですよね。オリジナル・ワンで、この絵は一点しかないから価値があるみたいなね。かたや、本などは何千部何万部って大量生産して、そこら中で売っている。その中間がフルクサスなのね。半分は既製品を使うんだけれども、例えばキャナル・ストリートにあるボックスとか、ネジとか、いろんな小物を使うんだけれども、やっぱり手(仕事)も入っている。既製品と手を加えたものを一緒にしてハンディなものを作って、作家のコンセプトを伝えようとするんですね。彼はそういう意味ではすごく才能のある人だと思う。それに非常に博識。すごく勉強している。日本の事をいろいろジョージから聞かれるんだけど、わからないのよ。彼の方が詳しいの。それで斉藤さんや久保田さんと「恥ずかしいねえ」とか言って。

小勝:なぜ日本にそれだけ興味があったんですかね。

塩見:さあ、それはわからないけれどもねえ。

小勝:やはり禅とかそういう(方面から)……

塩見:それはあったかもしれないね。鈴木大拙(すずき・だいせつ 1870-1966)の(影響かな)。ブレクトやケージ(ジョン・ケージ John Cage, 1912 - 1992)もそうだけど、フルクサスの一部の人達は、禅的なものの考え方には魅力を感じていたみたい。そういうこともあって、マチューナスは日本的な美学にも興味を持っていたんじゃないかなあ。

小勝:《エンドレス・ボックス》の今の形、CHIEKO SHIOMIのこのロゴですとか、薄紫のヴェールのような布で包んだという、これは最初に送った時からこういう…(前述 うらわ図録p.15参照)

塩見:このラベルは後から(マチューナスが)作ったものなの。布はね、木箱の中の紙製の箱をプロテクトするという意味と、布の端をつかまえれば取り出しやすいじゃない。(だから布でくるんだの。)

小勝:ではこの布は最初から……

塩見:もちろん。

小勝:このロゴのデザインは……

塩見:それはマチューナスです。彼は各作家にそういうロゴ・デザインを作って。「ああ、私のは細いなあ」って思ったわ。私は痩せてたから。ラインが細いでしょう。他の人は非常に太いのもあるけれども。

小勝:すごく繊細で合ってますよねえ。塩見さんのイメージに。

塩見:合ってるかなあ(笑)。そこはよくわからないけど。

小勝:この「水にその形を失わせなさい」というデザインの他のものも……

塩見:もちろん、一切マチューナス。コンサートでは、(水を入れた瓶を)皆さんに、自由にパフォーマンスして下さいって、サイン帳も置いて。サインした人もいるけれど、しなかった人も多いと思うの。窓から滴らせたり、こうやって飲んでいる人もいたし。

小勝:それ(サイン帳)が今、国際(「コレクション1 特集展示 塩見允枝子とフルクサス」国立国際美術館、2013年4月6日-7月15日)で展示されて…(うらわ図録p.57、「前衛の女性」展図録cat.no.180にも掲載)

塩見:そう。確かナンバー48まではあったらしいわね。

小勝:瓶にナンバーが入っていた……

塩見:そう。瓶の下に置いていたかもしれないけども。皆さん、不思議そうに寄って来ては、読んで納得してそれを持ってどこかへ行ってましたね。それから後は、《Disappearing Music for Face》って皆でニコっと笑って、それから微笑みを消して行く作品。これはアリソンが解説してくれて、皆で演奏したり(註:《顔のための消える音楽》)。それから《ディレクション・イヴェント》というのは、(私が、10本の指の)先から長い紐が出ている黒い手袋をはめて座って、(10人の演奏者が)その紐を引っぱって行きたい方向(をカードに書いて、それを括りつけてから、実際にその方向)に引っぱって行ったというもの。その引っぱって行く方向についての、皆さんの解釈が面白いと思ったわね。いろいろありましたよ。《エアー・イヴェント》というのは大きな一息で、つまり1つの肺活量だけでゴム風船を膨らませて、それにサインをしてオークションするの。ディックがすごくうまいオークショニアーになってくれて、殆ど売れちゃった。いくらか忘れたけど何十ドルか(入ったわね)。で、(終わってから)皆にそれでご馳走したの。だから、これは私が企画して作品も私のものなんだけれども、結局、フルクサスの仲間やそのお友達がたくさん来てくれて、皆さんで楽しんで下さったみたいな感じでしたね。

小勝:これは1日塩見さんの日として。

塩見:そうです。皆1人ずつ誰の日っていうのがあって。私の前は「フルクサス・オリンピック・ゲーム」とか言って、穴の開いたラケットでピンポン玉を打つとかっていうような。でも、その画廊も間もなくクローズされて、久保田さんの有名な《ヴァギナ・ペインティング》は別の場所でやりましたね。

坂上:《顔のための消えるイヴェント》はマチューナスが本を作ってくれた。

塩見:日本に帰って間もなく彼から手紙が来て、「《顔のための消える音楽》をオノ・ヨーコさんにパフォーマンスしてもらってピーター・ムーア(Peter Moore, 1936-1993)に写真を撮ってもらって、フィルムを作りたいけど、どうか」って、ちゃんと許可を求めてくれたのね。「どうぞ」って言ったら、それはフルックス・フィルムの中に入れるんだって言ってきた。その後でね、彼はそれだけでは物足りなくて、今度はその中から何コマか、40コマ位かな、抜き出して、フリップ・ブックにして、パラパラパラっとめくると微笑みが消えて行く、とっても小さなかわいいエディションを作ろうとしてたの。

小勝:これ(モデル)はオノ・ヨーコさんなんですか。

塩見:そうです。彼女からも手紙が来た。「この間ジョージに言われてこの作品を演奏しました。とても素敵な作品だと思いました」っていうような丁寧な手紙でした。

小勝:オノさんとも当然、お付き合いはされていたんですか。

塩見:いや、私がニューヨークに行ってからは会っていないわね。行った時は彼女は日本にいたと思うの。向こうで会った記憶はないな。私がお付き合いしていた日本人のお友達というと、久保田さん、斉藤さん、それから宮脇さん(宮脇愛子 みやわき・あいこ、1929-)ね。

小勝:宮脇さんがヨーロッパから帰る途中にニューヨークに立ち寄られて、結構長く滞在されたんですよね。(1963-66年)

塩見:そう。私は『美術手帖』か何かで彼女の手記を読んで、写真の顔もそれとなく覚えていて、素敵な人だなあと思っていたの。で、ある展覧会に行った時に、彼女が階段を上がってきたの。あ!宮脇さんかもしれないって思って「失礼ですけど、宮脇愛子さんでいらっしゃいますか」って聞いたら「そうです」っておっしゃったので、私は自己紹介をして、それから(お付き合いが始まったのね)。その頃、彼女は展覧会を開いていて、招いて下さったの。行ってみると、おぼろげに四角形に分割されているような黒い絵なんだけれど、「実はこの黒い四角の後ろにはね、それぞれ字が隠されているのよ」って。それを聞いた時にはゾクッとした。「うわー、この人好きだ!」って思ってね。何という字かは聞かなかったけれども、それを想像するだけですごいでしょ。表面に出さないで隠している。そういう姿勢って奥行きを感じさせるわね。彼女はチェルシー・ホテルに滞在していたのね。で、もっと親しくなったのは、或る時、私がアップタウンのオープニングに着物を着て行かなくてはならない事があって、着物は母に送ってもらってたんだけど、帯が締められない! (仕方がないから宮脇さんに電話して)「私、着物着なくちゃいけないんだけれど、帯が締められないの。申し訳ないけど結んで頂けるかしら?」って尋ねたら、「いいわよ、持っていらっしゃい」って。(それから何回かお邪魔したんだけど、)或る時、お食事しましょうって、下のレストランでパエリアをご馳走して下さったの。(初めてで)すごく美味しかったから、後でウェイターが「もう少しいかがですか」って来る度に「お願いします」ってペロっと食べて。彼女、いつまでもそれを覚えていてね。「貴女はパエリアを3回もおかわりした!」って(笑)。「よっぽどお米のお料理に飢えていたんでしょうね」って。全く頭が上がらないのよ(笑)。大きなお姉さんという感じで。彼女も一人っ子だから、(私のこと妹のように)かわいがって下さった。

小勝:日本に帰ってからもお付き合いが続いて……

塩見:そう。彼女は芝の日活アパートというところに住んでいて、私も高輪に住んでたから、タクシー拾えばすぐに行けちゃうの。電話がかかってきて「蟹が届いたから食べにいらっしゃい」なんて言われるとね、「行く行く〜!」って(笑)。山口さん(山口勝弘 やまぐち・かつひろ、1928-)と宮脇さんもすごく仲がいいのね。よく3人でつるんでは一緒に食事に行ったり、宮脇さん家で一緒にディナーご馳走になったりしてね。9歳位違うのよね。だから素敵なお兄様、お姉様という感じでねえ。すごくありがたい存在だった。彼女は私の拒食症を直して下さったのよ。

小勝:ニューヨークで拒食症に…?

塩見:いや、ニューヨークではなくて、帰ってきてから。きっとシンナーにやられたんだと思うの。(《スペイシャル・ポエムNo.1》のために)6000本くらいの旗を(糊付けしたから)。その糊はすぐ蒸発して硬くなるからシンナーで薄めて使ってたの。部屋中シンナーのにおいが充満している中で何週間も生活したのよ。日本に帰ってきた時は梅雨だったし、空気と水の中間の物質を吸ってるみたいな感じで胸が重くてね。その頃からあまり食欲がなくなって、世の中食べる事がなかったらどんなに楽だろう。丸薬だけで済んだらどんなにいいだろうって、思っていたの。(宮脇さんに)そういう話をしたら「貴女ねえ、美味しいものを食べなきゃ駄目よ。うちへいらっしゃい」って。(行くとね、)生のトマトをコトコトコトコト煮詰めて、お塩と粉チーズだけで食べるスパゲッティを作ってくれたの。「これ美味しいでしょう〜。(イタリーのお茶漬けね)」って。ああ、こんな気持ちで食生活をしなきゃ駄目なんだなあと思ったら、ころっと直ったの。だから彼女は、私の拒食症を直して下さった恩人でもあるのよ。

小勝:今お話に出た、旗を作られた《スペイシャル・ポエムNo.1》ですけどそれは帰国される直前くらいに。

塩見:そう。(完成したのは帰国直前。)64年の10月に「パーペチュアル・フルックス・フェスト」でやって、その後キャフェ・オ・ゴーゴーというところでジョー・ジョーンズとの2人展をやって(1965年11月)。その頃からマチューナスとメンバーとの間が、私は良かったのだけれど、気まずくなったのね。それで何て言うんだろう…年が変わった頃から、閉塞感みたいなのを感じ始めてね。あまりやる機会もないし、どうすればいいか自分でもわからないし。それで他の地域の人達とコミュニケーションを取りたいという気持ちがすごく強くなってきたの。ヨーロッパの人達、ロベール・フィリユー(Robert Filliou, 1926-1987)とか、エリック・アンダーセン(Eric Andersen, 1942-)なども来ていたんだけど、帰っちゃって。ああいう人達ともう1回コンタクトを取りたいなあ、日本の人達とも作品の上で交流したいなあと思い始めて、それでふと思いついたのが、(《スペイシャル・ポエム》なの。)イヴェント作品というのは本質的にDO IT YOUESELFでしょ。それとコミュニケーションというのは矛盾する事だと思ってたんだけど、「いっそのこと地球をステージにして考えればいいんだ!」って。それで航空郵便で(皆で一緒に)っていう発想になったんです。

小勝:それで送り先の名簿をマチューナスが(提供してくれて)……

塩見:そう。そのアイデアを、これはジョージも喜んでくれるかもしれないと思って、すぐに行って伝えたら「That’s a good idea!」って言って、「この人達に案内状を送りなさい」って、アドレス・リストをくれたの。だからほとんど知らない人ですよ。ジョン・ケージくらいは知っていたけどね。いろんな国の人達がいて。ヴィタウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis, 1932 - リトアニア共和国の政治家、前最高会議議長)は、住所がリトアニアだから、多分ジョージの幼なじみかなと思ったけど、どんな事をする人かは知らなかったの。

坂上:ちょっとだけ話が戻ってしまうんですけれども、ワシントン・スクエア画廊というのは実際、斉藤さんがやろうとしたら(閉じてしまって)…で、塩見さんがアドヴァイスを……

塩見:そうそう!私の次は斉藤さんだったの。そして…。

坂上:彼女はきちんと準備をする。その姿をやっぱり塩見さんは見ていらした。

塩見:彼女は非常にまじめな人で、きちんと物事をやる人だから。そうしたら(画廊が)クローズになったというのでね、インヴィテーション出した後だったのかな。「私の展覧会は延期になった」っていうアナウンスメントを出したの。その後、ジョージが他の所を見つけて来て、そこでやろうとしたのだけれども、それもうまくいかなくて。それで冗談まじりに「貴女、永久にポストポーンのインヴィテーションだけ出すという、そういうイヴェントにしたら?」って言ったら、彼女は「それがいい!」って。もう何でもイヴェントになっちゃうんだから。日常生活のつまずき自体もね。だから成りゆくままをすべて受け入れて、それを全部アートに転換しちゃうというような発想になってきちゃってね。

坂上:まわりもそういうアドヴァイスというか。

塩見:そうそう。しゃれのめして生きてたというか(笑)。貧しい、生きにくい社会だったけれども、そういう被害というか不慮の出来事に出会いながらも、それを笑い飛ばして、クリエイティヴに解釈して生きて行くっていう、その精神が私はすごく好きでね。

小勝:また先ほどの《スペイシャル・ポエム》に戻りますけれども。送った先のリストで日本人の方、さっき国際美術館(「特集展示 塩見允枝子とフルクサス」)でリストを拝見しましたけれども、瀧口修造さん(たきぐち・しゅうぞう 1903−1979)が入っていましたけれども、日本人に関しては塩見さんが。

塩見:そうです。日本人に関しては私が。

小勝:ヨシダ・ヨシエさん(1929—)もいましたね。

塩見:お名刺を貰っていたのだと思うの、以前に。「グループ・音楽」の時代の後に、ちょっと世の中に出ていた事があって、その時に出会ったんでしょうね。瀧口さんなんかは結構親しくさせていただいていましたね。行く前にね。北園克衛さん(きたその・かつえ 1902—1978)も、確か草月でお会いした時にお名刺交換をしていたので、出したらお返事下さったので、びっくりしたんだけれど。

小勝:武田明倫さん(たけだ・あきみち 1938−2003)は……

塩見:彼は楽理科の一級下。

小勝:この方は「グループ・音楽」ではないんですか。

塩見:「グループ・音楽」にはしょっちゅう顔を出していたけど、そうじゃない。でも、私の《モビールI,II,III》(「即興音楽と音響オブジェのコンサート」1961年9月15日の際に演奏)というデヴュー・コンサートで演奏した曲は、武田さんに指揮をしてもらったのだと思う。なかなか重厚な人なので、舞台に立たせると格好よかったわね。

小勝:《スペイシャル・ポエムNo.1》を、ニューヨークにいる時にお返事を受取って(形にして)……

塩見:そう。地図(板と旗)を作って。帰る間際になってマチューナスから「これを新聞にしないか」って電話があったの。「でも今出したばっかりなのに、またそれと同じものを新聞という違った形で直ぐ出すのは、スマートなやり方じゃないと思う」って断ったら、怒ってね(笑)。大分言い合いしていたんだけれども、「もう貴女は頑固な子だ! これからは勝手にしなさい!」って言われたので「はい、勝手にします!」っていう(笑)感じになっちゃったのね。でもまあ帰る時はちゃんと電話して、「今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました。日本に帰ったらまた連絡しますね」って一応儀礼的な別れはしましたよ。けじめとしてやっぱりね。せっかく招いて下さったのに、黙って帰るわけにはいかないからね、喧嘩は喧嘩として。そしたら彼は、2番目のが終わったときに「今度はやらせてくれ!」って。「あれを新聞にしたい!」っていうわけね。「どうぞどうぞ」って、今度はありがたく受けたわ。彼はそれを新聞じゃなくて、アトラスの形にしたの。
 さっきの久保田さんとの会話で思い出した事があるんだけど、彼女は50歳になった時の自分の人生の理想があるって聞いて、私はすごいなあ、と思った(ことは言ったわよね)。だけど、逆に(こんな事もあったのよ。)行ってすぐの頃に、ジョージがハイヤーを頼んで、ニューヨークのいろんなスポットに2人を案内して下さったの。で、最後は国連ビルまで行ったのね。お部屋に帰ってから久保田さんがね、「貴女、今日のコースっておのぼりさんコースじゃない! 私達、よっぽど田舎者に思われたのよ!」って言うわけよ(笑)。「そうかなあ、私はね、岡山にいようが東京にいようが、ニューヨークにいようが、自分がいるところが世界の中心だと思ってるから、そんな田舎者コンプレックスなんてないわ。貴女だって同じでしょう、新潟にいようがニューヨークにいようが貴女は貴女だし、貴女も自分がいるところが世界の中心だと思えはいいじゃない。そんなコンプレックス捨てなさいよ」って言ったら、「うわー、すごいこと言う!」って(笑)言ってたわね。でもそういう風に、あらゆる人にとって自分のいる所が世界の中心と思って暮らせばいいっていうのが、私の基本的な考え方だったの。まさに《スペイシャル・ポエム》はその通りで、自分がいる生活空間の中で、イヴェントを行なって楽しむ。ただ、それだけで終わったのでは面白くないから、報告を送ってもらってそれを編集してまた送り返せば、知らない人同士の間にもコミュニケーションが生まれるでしょう。(人々の間の)ネットワークを拡げるということも、私にとっては、やり甲斐のある事だったのね。

坂上:今日は(国際で)リゲティ(ジェルジ・リゲティ Ligeti György, 1923 - 2006)の(返信)も見ました(笑)。

塩見:会ったわよ、リゲティには。彼が京都賞を受賞した時(2001年)にね。それがその言葉でしょ。クソっていう言葉でしょ。(註:リゲティの返事の内容は→「MERD[R]Eという言葉が、ジェルジ・リゲティのアパートのトイレから、ウィーン市の下水道に吸い込まれて行った」)すごいフルクサス的だなあって思ったの。だってジョージがやりそうな事でしょう、そういうのって。だけど私には立派な作曲家としてのリゲティのイメージがあったから。《アトモスフェール》っていう素敵なオーケストラの曲もあるしね。ひょっとして同姓同名の別人かなあって思っていた。ずっと謎だったの。それで確かめるいいチャンスだと思って(彼からの)手紙を持って行ったの。そして「失礼ですが、これは貴方が私に送って下さった手紙でしょうか」って見せたらね、「あ!これはフルクサスだ!」って言ってね。「これは僕が出した手紙だよ。君、ウィーンのジェルジ・リゲティだよ。他に誰がいる! Who else!」って言われちゃった(笑)。すぐに「ジョージは残念だったねえ」とか「パイクはどうしてる?」っていうような話になってね。ああ、やっぱりあのリゲティか。あんなに理論的な難しい曲を…その時はピアノ曲についての分析的レクチャーもあったりしてね。そんな曲を書く人があの回答か!って思った。アイロニックでシニカルな人なのね、彼も。だからフルクサスって本当に多士済々というか、個性がものすごい豊かというか、バラエティに富んでるでしょう。それがフルクサスの最大の魅力よねえ。組織としてはぐちゃぐちゃなんだけど。

小勝:どこまで誰がメンバーなのかって……

塩見:それも曖昧ですね。

小勝:それこそリゲティも回答した時はフルクサス(だった)……

塩見:誰かから「北園克衛さんもフルクサスって言っていいんですか」って言われて「ちょっとそれは無理でしょう」って(笑)(答えたことがあるわ)。あれは《スペイシャル・ポエム》に参加なさったからなんだけど。でも北園さんがキャナル・ストリートあたりに住んでいらしたら、ジョージが早速取り込んで、プラスティック・ポエムのエディションを出したかもしれないけどね。

小勝:それでいよいよ1年経って、ヴィザが更新出来ないと言うか、もともとお帰りになる予定で、帰国されたという事ですが、帰国されてすぐ、山口勝弘さん、秋山邦晴さんのお誘いだったのでしょうか「FLUX WEEK CHIEKO SHIOMIの日」(1965年9月8日)って。(註:「フルックス週間」画廊クリスタル、1965年9月6日〜14日 秋山邦晴、山口勝弘、一柳慧企画。幸美奈子、塩見允枝子、武田明倫、刀根康尚、林三從らが参加)

塩見:「なぜ私だけローマ字なの? 日本人なのになぜ漢字で書いてくれないの?」って言ったらね、「いやまあ、帰ってまだ2ヶ月だから、まだ国際人だから」とか言うのよ(笑)。「そんなださい事しないでよ!」って。逆に、いかにもおのぼりさんみたいじゃない(笑)。ひどいねえ(笑)。

小勝:いったん岡山に帰られて。

塩見:そう。生徒達にごめんね、ってまたレッスンを再開したの。こういうお仕事が入ると、レッスンのスケジュール調整がなかなか大変なんだけどね。で、その日も1人じゃパフォーマンスをやりにくいから(林)三從(みより)さんに電話してね、「一緒にパフォーマンスやってくれる?」って聞いたら、「いいよ」って承諾してくれたので、2人で行ったわけ。

小勝:あと山口勝弘さんも参加してくださった……

塩見:もちろん参加して下さった。その時に《ウォーター・ミュージック》のひとつのリアライゼーションとして、水溶性の糊を薄く(塗って乾かした)レコード盤をプレイヤーにかけて、スポイトで水槽から吸った水をその上にたらすと、糊が乾いたところは針がすっと滑るけれども、糊が溶けたところはチラッと音が鳴るのね。で、垂らす水滴の数を少しずつ増やし(ながら何度も再生し)ていくと、だんだん音が鳴る部分が増えていくの。そういうパフォーマンスをやったのだけど、これをジョージにも知らせておこうと思って、手紙を書いたらね、彼、「A spark of genius!(天才のひらめき!)」なんて大げさに喜んで、早速そのエディション出すって言うの(笑)。私の所には送られては来なかったけれど、(亡くなった)後で、レコード盤と糊のセットがいくつか出て来たって。だから彼は本気でつくろうとしていたのね。1つくらい欲しかったなあ。

小勝:あと《二人の演奏者のためのPIECE》を、林三從さんも山口さんもやっていましたね。

塩見:そうそう。山口さんが写真撮りながらね、カメラを《ウォーター・ミュージック》のボトルへ徐々に近づけて行って。西山(輝夫)さんが写真を撮ってらっしゃる。(うらわ図録pp.89—100)

小勝:この風船があるのは《エアー・イヴェント》でしたね。

塩見:だと思います。

小勝:瀧口さんもいらっしゃる。これは別の日ですか?

塩見:別の日だと思います。私の時にはいらっしゃらなかったようです。

小勝:引き続いて66年、翌年には「空間から環境へ」のコンサートっていいますか、イヴェント(をされます)。(「空間から環境へ」主催:エンバイラメントの会 銀座松屋 11月11日〜16日 瀧口修造、東野芳明、靉謳、高松次郎、永井一正、大辻清司、奈良原一高、磯崎新、一柳慧、宮脇愛子、多田美波ら前衛芸術家の総合展。期間中に草月会館ホールでハプニングが行われ、塩見允枝子は、靉謳、秋山邦晴、山口勝弘とともに《コンパウンド・ヴューNo.1》を行った。「前衛の女性 1950-1975」展図録に写真掲載、p.137。撮影:西山輝夫)

坂上:《コンパウンド・ヴュー》というタイトルを(作品に)つけた意味は。

塩見:(その頃は)イヴェントの作品の可能性を考えていたのね。コミュニケーションという点では《スペイシャル・ポエム》の方に発展して、それはそれで続けていこうと思っていたんだけれど、もう1つはね、簡単なイヴェントを、日常の中で各人が楽しむというような事から飛躍させ膨らませて、ステージの上でもっと複雑で時間的にも長く、リッチなパフォーマンスに拡げて行けないかな、というのが私の課題だったのね。《コンパウンド・ヴュー》って「合成された風景」っていう意味なのだけれども、幾つかのイヴェントをくっつけたような舞台作品を作ったの。秋山さん、靉謳さん、山口さん、私の4人で演奏したのね。それを御覧になった瀧口さんがね、後で「あれは一体何なんでしょうねえ、詩的寸劇のような、何か不思議な…」って、それ以上何もおっしゃらなかったけれど。ずっと後になって、森口陽さんっていう美術評論の方が、その時の舞台の写真を送って下さって、「何だか、僕は貴女の深層心理を見た様な気がした」というようなお手紙を下さったの。

坂上:それまでは割と身体の大きさにあったようなパフォーマンス…というかわりと詩的な感じだけれども、この辺りからだんだん肥大化…それこそコンパウンドじゃないけれども。その一番最初の兆しというか、きっかけがこれだったのかなあと。

塩見:そうですね。

坂上:それは誰かと協力して、もっと大きくして行きたいという気持ちを持って(いらしたのか)、それとも……

塩見:自分の中で、いわゆる舞台作品のイメージが広がって行ったのね。それにはパフォーマーが必要だから、(その都度)お願いするわけね。他にもテレビの番組、これも山口さんから話が来たんだけれども、「ヤング720」って関口宏さんがやってらっしゃった朝の番組があって、作品を頼まれたの。その時も、山口さんに「こういうことをするパフォーマーが何人要る」って言ったら、彼は顔が広いから集めてきて下さったわね。ハイレッド・センターの人達もいたかなあ、それから他の美術系の人達も。これは《コンパウンド・ヴューNo.2》。

坂上:ちょうどインターメディアという言葉が出て来て……

塩見:世の中どんどん肥大化。テクノロジーがすごく発達してきて。

小勝:まだちょっと早いですけれども、70年の万博に向けて……

塩見:その前に《コンパウンド・ヴューNo.3》って言うのがあるわね。「再現 草月アート・フェスティヴァル」っていうのが80何年かにあったんですよね。(「再現 草月アートセンター」1987年) 秋山さんから電話がかかってきて、「またあの時の4人で演奏したいから、最初の作品をもっと膨らませたような、詩的なイヴェントを作ってくれませんか」って言われたの。オムニバス形式で、最初は山口さんがビデオ・インスタレーションをなさって、次に靉謳さんが虹のベルトをずっと3Fのバルコニーまで引きあげて行くというのをやって、3番目にそのままのシチュエーションで私の番になったのね。私はピアノ(で、25枚のカードの短いフレーズ)を弾いて、言葉を読み上げて、いろんな方向へそのカードを投げ飛ばすという(パフォーマンスをやったのだけれど)、その途中で靉謳さんの虹のベルトの上を丸いもの、おにぎりだとか、りんごがねえ、転がってきてピアノの弦の上にギャーン!って(衝突するの)。怖いよねえ。ベルトはピアノの上を通っているんですよ。次のリンゴに直撃されたらどうしようと思ったら胃が痛くなっちゃって…。私が投げたカードも観客の頭にコーン!って当るわ(笑)、豆がパラパラパラってステージの上に落ちるわで、お客さんは笑いっぱなし。それは面白かった。すごい緊張感。靉謳さんって、私にそんな恐怖を与えておきながら、終わった後でニコニコしながらやってきてね、「僕のパフォーマンスと貴女のピアノはよく合ってたねえ!」だって(笑)。よく合ってたねえ!もないわよ。どんなに怖かったか!(笑)。秋山さんには、(スパイスと時間論についての)レクチャーしていただいたり、山口さんにはパフォーマンス用の大きい《エンドレス・ボックス》を螺旋状に並べてもらったり。お互いに全然関係のないような事をやっているんだけれども、関係がないだけにピーンと良い調和があってねえ。87年。20年後ですね。

小勝:戻りますけれども、69年に「インターメディア・アート・フェスティヴァル」(企画:小杉武久・塩見允枝子・刀根康尚 ポスターデザイン:杉浦康平、ガリバー、風倉匠、小池龍他が参加 1969年1月18日〜19日:銀座キラー・ジョーズ 1月21日:日経ホール)があり、「グループ・音楽」のメンバーが再び一緒に…

坂上:日常ではよく会っていたんですか。

塩見:会っていた人も、疎遠になっていた人もあるわね。

坂上:一緒に何か…即興音楽をやったりとか…… 

塩見:それはなかったの。小杉さんと刀根さんと3人で「インターメディア・アート・フェスティヴァル」をやろうって(事になって)。ディック・ヒギンズがインターメディアっていう概念を言い出したのよね。考えてみたらフルクサスの作品って、そういうのが多いし、ということで3日間のフェスティヴァルを企画したの。それは大変だったけれどねえ。フルクサスのいくつかの作品を、新しくインターメディアの概念でささやかな技術で解読しようとしたのね。それと同時にその2週間後に「クロストーク・インターメディア」(1969年2月5日〜7日 主催:東京アメリカ文化センター、ディレクター:アーノルド・オールブライト、企画構成:秋山邦晴 ロジャー・レイノルズ 湯浅譲二、会場:代々木国立競技場 第2体育館 照明:今井直次、音響技術監督:奥山重之助)。これは秋山さんとロジャー・レイノルズ(Roger Reynolds, 1934 - )と湯浅さんの3人の企画で、アメリカン・センターが主催。バックが大きいよねえ。私達は3人でお小遣い出し合ってやったのにね(笑)。向こうは海外からもアーティストを呼んでね。で、秋山さんは「もう一度「グループ・音楽」を結成してやらないか」って提案してくださったの。解散っていうか、バラバラになったままだったからね。でも刀根さんは「僕は降りる、やらない」って言って。

坂上:「インターメディア・アート・フェスティヴァル」の時は一緒にやったのに。

塩見:そう。俺はいいや、って。それで水野さんと小杉さんと私の3人が参加する事にしたんだけども、いくら話し合っても、お互いがやりたい事があまりに違うので、しょうがない、オムニバス形式にしようって。タイトルもお互いの電話番号をズラーッと並べただけ(笑)。その時はいろんな電子テクノロジーを使ったけれども、果たしてそれが本当に有効に使えたかどうか、はなはだ疑問なんだけどね…。普段からその技術に自分がなじんでいて、こうやればこうなるって熟知した上でそれを使っていれば別だけど。例えば草月の音響技術の奥山(重之助)さんなんていう立派な人にお願いして、コンタクト・マイクを作ってもらったの。立派なマイクなんだけれども、出て来た結果というのが、そういう技術が生かされているかっていうのは、ちょっとわからないのね。ただ、パフォーマンスとか音っていうのは強いから、そっちをしっかり計算しておくと、どこかでうまくいかなくてもカバー出来るかな、というのはあるわね。グランドピアノを3台使って、真ん中に大きな風車を作らせてもらって。それも予算が出たからね。私の生涯の作品の中では、個人の作品としては一番大がかりな《アンプリファイド・ドリーム》というのをやらせて頂いたわけ。

坂上:ほんの数年でテクノロジーがどんどん肥大化していて……

塩見:自分達もそれに乗って、イケイケドンドンという感じだったんですよね。私自身も、作品をどんどん肥大化させていたから。

坂上:でも(そうしたテクノロジー革命時は)何か大事な核になるところが取り残されるというか、2極に分かれるというか…テクノロジーばかりあっちに行っちゃって、どこかでそれに取り残されてしまうような気持ちがあるというか……

塩見:その辺をアートが仲介すべきなんですよね。人間とテクノロジーの間にアートがあると考えれば、アートというのは非常に柔軟性のあるもので、作家の考え次第でどうにでもなるものでしょう。(私の場合は、)結局その2つのインターメディア・アート・フェスティヴァルを終えた後で、はっきり言って、「ああ、こんな生活が一生続くんじゃたまらない!」って思ったの。

小勝:この頃も岡山と東京を行ったり来たりで。

塩見:いえ、67年からは東京です。往復はもう嫌だったので、もう少し腰を落ち着けて、東京でもう1回やらなきゃっていう気があったからね。(五反田駅近くの)カワイ音楽教室の指導教室へ就職して、それで食べながら高輪台の辺りに小さなマンションを借りてピアノをそこに持ち込んで、そこでもレッスンして、創作活動もやっていたの。充実してすごく楽しかったけれども、本格的にそういうフェスティヴァルなんかをやると、生活がめちゃくちゃになるんですよね。やれるだけやって、もう疲れちゃって。それに五反田の駅前から白金台の方に抜けて行く広い坂道が、住み始めた時は車もそんなにいなくて、環境も良くて気に入っていたんだけど、あっという間に車の量が多くなって騒がしくなって、どこかへ引越しようかなあって思い始めたの。ああ、じゃあ引越するんだったらいっその事、結婚しようかな〜(笑)って。

坂上:その前に改名をしているのは……

塩見:ああ、昨日言ったでしょう。中学高校時代にピアノと文学で親友だった人。彼女は大学出てから直ぐに嫁いだの。ところがその一家が、いわゆる相学に熱心なお家で、彼女も染まってしまってね(笑)。(ニューヨークから帰って)しばらくして会ったらね、「(私、名前を変えたの。)貴女も見てもらいなさいよ!」って、いわば強引に彼女の先生のところへ連れて行かれたの。で、名前を言ったら「一格足りないなあ」って。「千枝子の“千”という字を4格の字にしたら、芸術学問をやるには後押しするような名前になるんだけどなあ。変えたらどうだ」って言われたの。急にそんな事言われてもねえ。私、いかにも信じていないって顔をしていたんだと思うの。そうしたらその先生がこう言ったのね。「西洋的な合理的な考え方では原因があって結果がある。だけどこういう東洋の相学では、実体、つまり“人間”と“相”とはお互いに“共鳴”し合うんだ」って。原因があって結果があるという線的な合理的な考え方じゃなくて、目には見えないけれども、どの程度確かかわからないけれども、「相と実体とは共鳴し合う」っていう考え方に、それこそ私の心が共鳴したのね(笑)。ああ、そういう考え方もあるのかって思って。それに私はもともと千枝子っていう名前は好きじゃなかったの、音が。7歳上の浅野家のお姉さんは、「美枝子」って言うんだけど、そっちの方がいいのになあって思ってた。そういう事もあって「この字はどうか」って「允」を出された時に、じゃあ、ペンネームとして使うならいいか!って、あっさりとね。まだ子供だね。でもその相と実体は共鳴し合うという考え方、それは結構私にとって魅力的なのね。音だってそうでしょう。共鳴し合う。こちらである周波数の音を鳴らすと、あちらは元々は鳴っていなくても、固有振動数が同じであれば、共振し始めるわけよね。その考え方はすごく音楽的だなあと思った。

小勝:塩見さんの《二人の演奏者のためのPIECE》というのはまさに……

塩見:そう言えばそうね。ただこれは検証できないわよね。だって変えなかった人生と変えた人生を比べるわけにいかないじゃない。まあ曖昧な事って、曖昧なままでもいいんじゃないかなあって思うんですね。

小勝:それで「クロストーク・インターメディア」までやって、あまりにも慌ただしく忙しい、最先端を行くような生活を変えたいという事で、ご結婚という事を考えたわけですね。

塩見:親が持って来た縁談に「お見合いしてもいいよ」って言ったら、親は喜んでねえ。で、この家でお見合いをしたの。お庭にハマユウが咲いていてね。相手の人も知的で誠実そうだし…まあ、ご縁だったのでしょうねえ。

小勝:大阪というのは地域としては初めてですか。

塩見:叔父一家が(ここからすぐ近くの)豊中に住んでいるので、しょっちゅう遊びに来てました。私もレッスンで大阪に通って来ていたし、なじみがあったわけね。叔母に宝塚まで連れて行ってもらったとき、この宝塚沿線や箕面の山が見えて、「こんなところに住んでいる人はいいなあ」ってチラッと思ったのね。結局、自分が住むことになって…(笑)。

坂上:東京に住んでいると五反田の辺りだと緑も全くないし、やっている仕事もテクノロジー。疲れてしまいますよね。そういうときにハッとこの緑を見たら……

塩見:ホッとするわね。でもその時は、仕事の事は何も考えていなかったの。でも一応念のためにと思って、「将来、私が音楽の方の仕事をする事についてはどう思われますか」って聞いたの。そうしたら「せっかく今まで続けて来た事を、結婚したからってやめることはないでしょう」って言われて、じゃあ、やりたかったらやってもいいんだなあって。それは一つの安全保証みたいな感じで…(笑)。

小勝:ピアノの先生みたいな事は……

塩見:すぐ始めましたよ、ここで。そしてあの東京の喧噪から離れて、もう一度、インターメディアで経験したいろんな媒体から、自分が扱いやすい“音”と“言葉”を取り出して、もっと密度の高いものをつくりたいという気持ちになったの。東京で「グループ・音楽」でワーっと(激しい音の応酬を)やった後に岡山へ帰って、余分なものを削ぎ取った時に、《エンドレス・ボックス》とかイヴェント作品みたいなのが出来た。今度またやっぱり…人間って放っておくと肥大化するのよ(笑)、肥大化して「インターメディア・アート・フェスティヴァル」まで行って、そこで限界を感じて、またもう一度スリム化して、《ファントーム》(1977年)だとか、いろんな音楽作品を書くようになったの。

坂上:突然音が蘇ってきた、って本(塩見允枝子著『フルクサスとは何か』フィルムアート社、2005年)に書いてありますが。

塩見:ここへ来て子供もすぐ出来たので、とにかく自由がないわけね。で、家にいて出来ることを考えたときに「そうだ、スペイシャル・ポエムを再開しよう!」って思って、すぐに4番から9番までを毎年みたいに続けたの。インヴィテーション出した後2週間位すると、郵便受けに外国からいろんな封筒が入ってきてねえ。すごくうれしかった! 9番が終わった後、1976年に本に編集して送り返して、これで一段落したと思った途端にね、今度は「Back to Music!」という気持ちになって。音楽作品書きたい!っていう風になっちゃったの。

坂上:《スペイシャル・ポエム》が9番で終えたっていうのは理由があるのですか。

塩見:それ以上考えつかなかったのと、最後は《消えるイヴェント》にして、消えようという感じで。

坂上:もう1回ピアノで作曲したい。

塩見:いろんな音が頭に浮かんできてね。

坂上:今度の作曲は、単なる作曲ではなく、舞台というか、登場人物が出て来てとか、ひとつのストーリーを感じるような音楽かなと。

塩見:声楽やナレーションを含んだ音楽であれば、私はまずテキストから書き始めるの。最初に書いたのは《鳥の辞典》(1977年)っていう、学生時代以来初めて五線紙を使って書いた作品なのね。その前に《ファントーム》だったかなあ。多分《ファントーム》が先だったかもしれないなあ。(註:《ファントーム》が先)当時、大阪のドイツ文化センターというところで、いろいろな現代音楽を演奏していたんですよ。私は最初は聞きに行っていたんだけれど、こちらの若い作曲家達と友達になって、今度は何か私にもやれという事になったの。この(歌い手の)岩田(孝子)さんという人も、他のコンサートで聞いて、いい声だなあ、こういう人に私の音楽を歌ってもらえたらいいなあと思ってた。この《ファントーム》はモノオペラですから、先ずシナリオを日本語で書いて、それをドイツ語に訳していただいたの。歌手は歌いながらピアノを弾いたりもするのだけれど。

坂上:このシナリオが非定量記譜法という(方式で譜面が書かれている)。

塩見:定量記譜法の“定量”っていうのはね、音の高さとか長さ、例えば「高さはソで長さは2拍」という風にきちんと決まった(という意味で、そういう音符で書く)のが定量記譜法。そうじゃないのが非定量記譜法。これは、記号は作曲家が自由に選んで「この記号は何を意味します」って書いておけばいいの。

坂上:じゃあこういうカクカクしているのとかナミナミしている記号は、塩見さんが作曲家として作った記号。

塩見:そう。この記号はどういう風に歌います、っていうのを必ずインストラクションとして書かないと駄目ね。作曲家同士で取り決めた共通の記号はないから。例えば、この記号は少しハスキーな声で発音するとか、この記号は非常にドラマチックに歌うとか、これはレシタティーヴ(話すように歌う)風に同じピッチで歌うとか。いろいろな歌い方の指定を簡単な記号でやるわけね。

坂上:この(《ファントーム》の)劇場型のシナリオと(図形が一杯で読めない)楽譜がずっと謎で…長年疑問でした。

塩見:これの初演はドイツ文化センターだった(大阪ドイツ文化センター、1978年12月16日)のだけれど、その後、兵庫県立近代美術館の「ライブアート・シアター」で、もう一回やってくれって言われて、岩田さんにお願いして歌っていただいたの(「LIVE ART THEATER」 1982年4月28日〜5月30日 兵庫県立近代美術館)。その時はねえ、(出品者の)ヨシダミノルさん(吉田稔 1935-2010)が美術館の一角にずっと住んでいらしたの。ニワトリもいてね。そこに住むリビング・アートって事かな? ところがね、岩田さんが歌い出すとニワトリが反応して、コケー!コッコッコッって(笑)鳴き出すのよ。もう可笑しくってね。彼女も「私、ニワトリとデュエットするのは初めてだ〜!」って(笑)。で、向かいが王子動物園でしょ。(これはソプラノの声に反応してかどうか分からないけれど)、動物園からもウワオーって遠吠えが聞こえるの(笑)。これは傑作だった! 山脇一夫さんが企画されたんだけれど、(これではまともな演奏にならないので、彼に)「あのニワトリ…何とかなりませんか」ってお願いしたのね。そうしたらヨシダさんがしぶしぶ外へ連れてって下さったんじゃないかな。2回か3回公演があったのだけれど、後の方は聞こえてこなかった(笑)。

坂上:この頃、塩見さんって《いわば漂う粒子たち》(1975年)とか《もし我々が五角形の記憶装置であったなら》(1979年)とか、タイトルがすごく詩的というか。そういう詩的な言葉も音と一緒にもう一度蘇ってきた、それともずっと自分の中にあった…?

塩見:どうかなあ、その時思いついたんでしょうねえ。《もし我々が五角形の記憶装置であったなら》はね、「コレギウム・ヴォカーレ・ケルン」っていうケルンの五重唱団から頼まれて書いた曲なの。5人の歌手が、それぞれ違った母音を持つ言葉を記憶している“記憶装置”という設定なのね。”ou”とか”ai”とか”en”などを含む英語単語を、(彼らは歌詞として内蔵しているわけ。それと同時に、)五角形の記憶装置が或るシチュエーションに陥った時に、(どうしたらいいかを議論するような、会話で成り立っているの。例えば)我々はエネルギーをどこから得たらいいかとかね。ドラマチックなSFっぽい会話で成り立っているのだけれど、テキスト作りも私大好きなの。作曲と同じように。

坂上:それも非定量記譜法で書いた。

塩見:いや、それはちゃんとした音符でした。だけどピッチが決まっていないところもある。つまりリズムは決まっているけれども、×印の音符で大体その辺りの声で下がって来るとかね。これはCDにもなっていて、とってもいい演奏。ドイツの放送局がちゃんと録音してくれたのよ。本番の前にスタジオで演奏したのを。本番は本番で録音したんだけど、どうしてもノイズが入るでしょう、聴衆からのね。送ってくれたのはすごくいい音質でした。

小勝:70年代後半から80年代くらいまではずっと音楽の方に……

塩見:はい、ずっと音楽に帰ってました。

小勝:また美術的な作品に戻ってらっしゃるっていうのは90年代に入ってからでしょうか。

塩見:90年にね、ヴェニスでフルクサス・フェスティヴァル(「ウビ・フルクサス・ウビ・モートゥス」1990年5月〜9月)が開かれたのをきっかけにね。ある日、電話がかかってきたの。すごい巻き舌のイタリアン・アクセント(の英語)で、「貴女は僕の事を知らないでしょうけど、僕は貴女の事をよく知ってる」って(笑)。で、「自分はこういう者で、ヴェニスでフルクサスのフェスティヴァルを開くので、全員を招待するから貴女も来てくれ」って。招待っていう事は旅費も出すし、作品も展覧会だから送って欲しい、その費用も出すからって。そ〜んな、突然来てくれって言われてもねえ。しかも結構日にちが間際だったんですよ(笑)。それで「ちょっと考えてみます、家の人達とも相談しなくちゃいけないし」って言ったら「僕の日本での連絡先はここだ」って電話番号を教えてくれたのね。私はそこに滞在しているのかなと思って、すぐに聞きたいことがあったので(その番号に)電話して「恐れ入りますがそちらにジーノ・ディマジオ(Gino Di Maggio)さんっていらっしゃいますか」って言ったら、女の人の声で「いえ、いませんけどぉ」って。「変ですねえ。先ほどジーノ・ディマジオさんから電話がかかってきて、日本での連絡先はここだって伺ったんですけど」って言ったらその女の人がね、「え? 塩見さん?」って言うのよね(笑)。「郁子です!」って。靉謳の家だったの(笑)。「何だ〜、靉謳さんのとこだったの!」って皆で大笑い。

坂上:靉謳さんのところにもジーノから既に。

塩見:もちろん。ニューヨークから帰って25年経っていたのかな。それまでずっと外国には行ってなかったし、どうしよう!って思ったけれど、でもすごく行きたい気持ちが強かったから、思い切って行ったんですね。

坂上:事前打ち合せとかもないわけですよね。何をやってくれとか。

塩見:それはなかった。でもなるべくたくさん作品を送ってくれって言われたの。フルクサスの作品をね。だからマチューナスが出版してくれたものだとか《エンドレス・ボックス》とか《ウォーター・ミュージック》とか、ちょっとした新しいインスタレーションみたいなものを作って、それを船便で送って、自分も行ったわけね。いやはやとにかく素晴しい所だと思った。何しろあそこは水上交通しかないでしょう。水上タクシーで指定された船着き場のホテルまで行く時は、左右の建物が皆それぞれ彫刻がほどこされて、1つずつ作品みたいだし。ホテルにチェックインしてからすぐに会場まで行ったのね。そこで25年ぶりにいろんな人に会ってね。本当に懐かしかった!

坂上:アメリカで会って以来……

塩見:ですものねえ。メインのメンバーは皆呼ばれたわ。だけど小杉さんは来なかったわね。確か他に仕事があって。

小勝:久保田さんとか斉藤さんもいらしたんですか。

塩見:来た来た! 会った! 久保田さんも斉藤さんも靉謳さんも。初めての人もいるし、ニューヨークで会っていた人もいるし。皆さん25年の間にすごく成長して、作品の作り方なんかとっても逞しくなって。昔は、ほんの一寸した作品だったものも、うまくリアライズして立派に見せるように(工夫してね)。だけどまあ何て言うんだろう、フルクサス見本市みたいな感じでね。あそこは倉庫だったのかなあ、大きな空間で。いろんな作品がごっちゃごちゃに並べられているわけだからねえ。私のは小さい作品だから、ジーノがヴィトリーヌって立派なショーケースを2つ程用意してくれて、その中に全部を入れて蓋をして(展示したの)。久保田さんから「貴女、なるべく作品のところにいた方がいいよ。いろんな人が訪ねてくるからね」って言われて「ああ、そういうものか」と思って、2日目からはなるべく自分の作品のところにいたら、確かにいろんな人が来て下さったわね。

坂上:パフォーマンスをしてくれというような指示もなく。

塩見:そんなのはなかったんだけど、皆で集まればパフォーマンスをするというのが、何かまあ習慣になっていたのね。

小勝:塩見さんも何かなさったのですか。

塩見:《エアー・イヴェント》をやりましたね。それはフィリップ・コーナー(Philip Corner, 1933—)がオークショニアーになってくれて。そうしたら全部欲しいっていう子がいてね。ある評論家が3歳位の坊やを連れて来てくれて、1つだけ買って帰ろうとしているのに、その子が「もっと欲しい! バルーン!バルーン!」ってお母さんの手を引っぱってね。お母さん、困ってた(笑)。

坂上:この時にグランドピアノで。

塩見:そう。それは後の方の日だったんだけれど、入っていくとグランドピアノがあったので、近づいて行ったらベン・ヴォーティエ(Ben Vautier, 1935—)が側に立っていてね、「君、このグランドピアノで《フォーリング・イヴェント》やらないか?」って。その時私、《ウォーター・ミュージック》のインスタレーションのために、ビー玉をポケットにいっぱい入れていたの。それで、「これを落としたらどんな音がするだろう?」と思って、普通に落としたら結構弾んだり転がったり面白い動きで。「あ!これはペダル踏むべきだ!」ってペダルを踏んだら、結構いける音なのよ!「これは使える!」と思って、翌日ピアノを弾ける人に協力してもらって、私はこれを落として、オブリガート(助奏)を付けよう、と思って楽しみにして行ったら、(ピアノの)脚は取っ払われちゃって、三段重ねのお座布団みたいになってるの(笑)。(そのピアノは)ケージのイヴェントのリアライゼーションに誰かが持ち込んだものらしくてね。でもそれはいいヒントになって、日本に帰ってから、《グランドピアノのためのフォーリング・イヴェント》になった。(それは、ピアニストが)皆が知ってるようなゆっくりした曲を弾くの。そこへもう1人のパフォーマーがビー玉を落としたり、低音弦にバーン!と投げつけたりするわけ。そういう作品に発展したり、今度は水平の動きで、《ピアノの上のビリヤード》に発展したりね。ビー玉を使っていろんな事が出来たわね。

坂上:マチューナスが亡くなって、中心人物だったのにヴェニスの時は……

塩見:いなかった。でもここでこうして皆が集まれるのもマチューナスのお陰なんだなあと思ったわ。私はマチューナスへのレクイエムを作曲して、シンセサイザーのチェンバロの音色でそれを録音して、テープレコーダーと一緒に持って行ってたの。いろんな人達に「これ、ジョージへのレクイエムなんだけど聞いてくださる?」って聞いて頂いた。オノ・ヨーコさんにも聞いてもらったら、「きれいな曲ねえ」って言って下さって。皆さん、(「beautiful!」とか)「so soothing」とか、本当に感に堪えないような、ジョージの事を偲んでいるような表情だったから、嬉しかったわね。

小勝:それをきっかけにフルクサスの皆さんと(交友が…)

塩見:そう! いろんな人たちと知り合ったものだから。名刺も交換したりして。その後、いろんなグループ展に誘われて出品したり、クンスト・フォーラム(『Kunst Forum』)という雑誌のインタヴューなんかも頼まれて。

小勝:その後、世界中でフルクサスの総括イヴェントみたいなものが(次々と開催されて)……

塩見:90年代は一番盛んだった。フルクサス・ルネッサンスとか言ってる人もいるくらいでね。作家もまだ元気だったし、ちょっとバブルっぽい時期だったからかな、あちこちでフェスティヴァルをやってたわね。

小勝:塩見さんご自身も《フルクサス・メディア・オペラ》(1992年7月24日、ジーベック/神戸市)をされて。

塩見:はい。外国ではそうやってどんどんフェスティヴァルが開かれるんだけど、日本では全然開けないんですよね。作家にはお金もないし、余裕もない。ちゃんと開くには、経験豊かなオルガナイザーと資金が必要なのね。マネージャーみたいな人とか、大勢の人で分担してやらないと、作家だけがいくらやろうって頑張ったって駄目なんですよ。だから、私は1人で出来る範囲内でやろうと思ったの。(尤も、これはジーベックという後ろ盾があったからこそ、実現出来た事なんだけれども。)これの特徴は一種の遠隔・フェスティヴァルなんです。国際電話で直接、リアルタイムでコンサートに参加してもらうっていう。事前に「こういうコンサートを90年代のテクノロジーを使ってやりたいので、作品を送って下さい」とか「コンサートの時間内に電話で参加できる方はして下さい」とかお願いして。これはパフォーマンスとしては、私の中では大きなコンサートでしたね。2時間みっちり40曲くらいを演奏しました。(関西の若い人たちと)チーム組んで、電子テクノロジーを使えば、どういう風に解釈出来るかを検討して。

坂上:話がそれてしまうんですけども、具体の人達と面白い交流があったとか。

塩見:そう! 先ずね、高校2年生の時に母校が甲子園に出たので(笑)、応援に来たの、例の親友と一緒に。で、帰りに芦屋の親戚の家に泊まる事になったので、芦屋駅を降りてから海岸の方へ向かって松林を歩いていたら、何か妙なものがいっぱいぶら下がったり置いてあったり。(具体の)第一回野外展だったのね。たまたまそれに遭遇していたのよ!(「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」芦屋公園、1955年7月〜8月)その時は意味が何もわからなくて、ただ妙なものがあるなあ、と思っただけなんですけどね。
(具体の人とは)3人とコンタクトがあったかな。元永定正さん(もとなが・さだまさ 1922-2011)とは、芦屋で高橋悠治さんのリサイタルがあった時に、知り合っていたの。その後外国の人から、具体の研究をしているので、メンバーの誰かに会わせてくれないか、みたいな問い合わせがあったので、元永さんにお電話して「こういう人がいるんですけど、お連れしてもよろしいですか」って言ったら「ああ、いいですよ」って言って下さったので、私も付いて(宝塚市)逆瀬台のお家までお邪魔して、何時間かお話したことがありますね。
もう1人は村上三郎さん(むらかみ・さぶろう 1925—1996)でね。94年に横浜美術館で「戦後日本の前衛美術」(1994年2月5日〜3月30日)という展覧会があった時に、どういうわけか帰りに靉謳さんと村上三郎さんと3人で食事をする事になったの。どうしてこの3人が一緒になったのか全然覚えていないんだけれど、3人で食事して、その後、新幹線で村上さんとはずっと一緒に大阪まで帰ってきたの。彼はウイスキーを出してちびちび(舐めながら)。わたしはアイスクリームを買って舐めながら(笑)。ずーっとしゃべりっぱなし。もう楽しくて面白くてねえ、あの方のお話は。南方熊楠とか稲垣足穂についてもお話して下さったわ。でも最後にこんな事をおっしゃったの。「フルクサスはいいなあ」って。「まるで確執がない。本当にサラッとしたさりげない関係で。だけど靉謳さんなり、塩見さんが出会うと、そこにものすごいエネルギーが生まれるような気がする」って言葉でフルクサスを評して下さったんです。これは褒め過ぎだなあと思ったんだけど、そんな風におっしゃって下さったのはうれしかった。その後も村上さんとはよくお会いしましたね。
嶋本昭三さん(しまもと・しょうぞう 1928—2013)とはね、嶋本、塩見って字が近いから名簿でよく一緒になるのよ。だから嶋本昭三っていうお名前は何度も見てるわけ。向こうも同じなわけよ。1回だけ村上三郎さんの展覧会でお会いして少しお話しただけなんだけど、よく招待状を送って下さったり、電話を下さったり。電話と郵便とで結構コミュニケーションがあった方なの。去年(註:今年)亡くなられて本当に残念ね。もっとお近づきになって、お話もしたいなあと思うような方だったんだけど、お互い忙しいからねえ。なかなか会えなくて。

坂上:フルクサスは(いいな)っていうのは…具体は個人プレーというか……

塩見:先生がいて後は生徒さんでしょう。生徒さん同士の確執があったと思うのね。フルクサスだってね、私は離れているからそれこそサラッとしたいい関係なんだけれど、比較的近い所で仕事をする頻度の多い人は、ひょっとしたら確執があるかもしれない。やっぱり皆キャラクターが違うからね。あからさまに或る人の名前を挙げて「あの人はフルクサスで最低だ」とか言っているのを聞いた事もあるわ。だけど私はどっちかって言うと、皆違って皆いい、っていうのが好きな方なのでね。だから……

坂上:ジョークで笑い飛ばすとか。50パーセントフルクサスとか20パーセントフルクサスとか。

塩見:そうね、ハーフ・フルクサスとか。

坂上:塩見さんは50パーセントフルクサスとか。

塩見:ジョージはそう言ったわね。結局彼の側にいて彼と共に行動している人、彼をいろいろ支えている人達は100パーセント・フルクサスで、離れた所にいて、作品なんかだけで交流している人は50パーセント・フルクサスなのよ。

小勝:では最後まで一緒にいた、久保田さんとか斉藤さんは100パーセント…

塩見:そういう人達は100パーセントだと思いますよ。私は半分というか、私のテリトリーは広くて、音楽もあれば、フルクサスもあれば、他の事もある。広い領域を行ったり来たり、風の吹くまま気の向くままに、あるいはチャンスが与えられるままに、うろうろしているのが好きで。同じ事ばっかりやるよりも、多角的に創作していく方が私には合ってるの。

小勝:2000年代に入ってからは、旧い方の国際美術館でフルクサスのイヴェントといいますか、《フルクサス裁判》というパフォーマンスをされて。(「ドイツにおけるフルクサス1962—1994」2001年4月26日-6月10日の際のパフォーマンス/「《フルクサス裁判》破壊的ピアノ・パフォーマンスとコンピューターによる」5月12日)、それから2004年(5月)にベン・パターソン(Benjamin Patterson, 1934—)が来日されて、いろいろ塩見さんが(面倒を見られて) ……

塩見:あれは大変だった! 私はマネージャーに徹したから。

小勝:その同じ年にうらわ美術館で、日本では初めてと言っていいんでしょうかね、フルクサス展というのは。この規模で(開催されたのは)。(「フルクサス展―芸術から日常へFLUXUS-Art into Life」うらわ美術館、2004年11月20日-2005年2月20日)

塩見:国内の個人のコレクターが持っている作品を集めただけでやったっていうのは初めてですね。その前に94年だったか、ワタリウム美術館でありましたけど、あれはシルバーマン・コレクションから借りた、よそから来たものだったんですね。(「フルクサス展」1994年11月29日-1995年3月12日)

小勝:日本のコレクターからだけでも……

塩見:こんなにある。しかも靉謳さんのは含まれていないのよ。これで。

小勝:靉謳さんとは (意思疎通の)連絡がうまくいかなかったらしいんですね。

塩見:靉謳さんは、「日本の美術館でフルクサス展をやるならば、海外からも招聘したいと。自分達がこれまで招いてもらったようにしたいと。じゃなかったら僕は皆に悪いから参加しない」という靉謳さんなりの考え方なのね。だけど予算的に一美術館がやることだから、それは不可能なのね。いろんな人を呼べば何千万もかかるわけでしょ、それは無理。だからやむなく考え方が一致しなかったという事で、靉謳さん抜きでやったんですよね。でもこれだけの事が出来たんだから。

小勝:本当にそうですよねえ。

塩見:(企画者の)吉本(麻美)さんの尽力は、すごかったでしょう。

小勝:翌2005年に栃木県立美術館で、これはフルクサス展ではなく、「前衛の女性」という事でフルクサスもそうですし、具体もそうですし、いろんなタイプの(前衛的活動をした)女性のアーティストだけを集めた展覧会というのをやらせていただいて。塩見さんとかオノ・ヨーコさんとか斉藤陽子さん、久保田成子さんにも出して頂いた。(「前衛の女性1950—1975」栃木県立美術館、2005年7月24日-9月11日)それで2008年に今度は豊田市美術館で「不協和音」という(展覧会)。これは6人の女性で、フルクサスの(4人の)作家+草間彌生さんと田中敦子さんでしたね。(「不況和音—日本のアーティスト6人」豊田市美術館、2008年9月30日-12月25日)まあ、まさに本当にバラバラで…(笑)。

塩見:この「不協和音」ってね、何故このタイトルがついたかというと、作品をずらっと並べて見ていたジーノがね、「Oh! Dissonances!」って(頭抱えたんですって(笑)。それを聞いていたスタッフが)「それいい!」って言って、そのタイトルになったんだって。皆バラバラ。そりゃあそうよね。

小勝:斉藤さんもあの時はドイツから、あるいはイタリアからたくさん作品送られてね。本人もいらして(展示や)パフォーマンスされて、あれは本当に貴重な機会だったと思います。塩見さんも新作をこの時発表されたんでしょうか。

塩見:ええ、発表しました。《日食の昼間の偶発的物語》と《月食の夜の偶発的物語》。これはねえ、アリタレーション(頭韻法)、韻を踏んだというか、同じ文字からはじまる英単語を出来るだけ多用して、作った詩なんですね。それはバッハのパルティータの1番から6番までを下敷きにして、日食や月食の時間と、バッハのパルティータが演奏される時間と、いろんな出来事が起こる時間と、その3つの時間が3層になって流れて行く物語なの。

坂上:何か昨日の話のインドの話みたい、ラーガの。

塩見:そう、自然と一緒。だから日食や月食の開始と同時に、ピアニストがパルティータを弾きはじめて、例えば「サラバンド(三拍子の重厚な舞曲)の最初の和音を弾いた時」だったら、Sで始まる単語を出来るだけ多用して或る情景を描くわけ。「ジーグ(8分の9もしくは8分の9の舞曲)の最後のコードを弾いた時」なら、Gからはじまる単語を多用して、っていう風にして物語を作ったの。それを小さな本にもしたんだけれど、展覧会ですから、大きなアルバムを買って来て、アルバムのページに拡大して入れて。大きな机と椅子を用意して頂いて、お客さん達がちょっと休みながら、ページをめくって物語を読んで頂けるように、という趣向にしたんです。ベン・パターソンからもらった、玩具のグランドピアノをデンと置いて、月食や日食を見るために望遠鏡も置いてね。

小勝:ちょっと飛びますけど、2012年に東京都現代美術館で、塩見さんの作品を収蔵されたものを展示するという形だったのでしょうか。「MOTコレクション クロニクル1964−OFF MUSEUM」という展覧会で展示をし、かつ塩見さんに来ていただいてレクチャーとイヴェントの演奏をされた。(塩見允枝子トーク&パフォーマンス
「インターメディア/トランスメディア―多様な作品群を繋ぐ手法」、2012年4月29日)

塩見:そうなんです。藤井亜紀さんというキュレーターが前の年の秋にここに来られて、(私の作品を展示するので、それに関連するレクチャーやパフォーマンスを依頼して下さったのね。で、展示される多様な形態の作品群を総括できるような概念はないかと、)自分の作品を回顧している時にふっと「トランスメディア」という言葉が浮んだの。インターメディアっていう言葉は周知の事なんだけれども、私の場合は1つのコンセプトを、いろんなメディアでもって作品化してきたわけね。でも考えてみれば、それを一番最初にやってくれたのは、マチューナスなんですよ。《顔のための消える音楽》は、先ずパフォーマンスとして、(ワシントン・スクェアー・ギャラリーで演奏したのだけれど、マチューナスはそれを)フィルムにして、次はパラパラ本を作ってくれた。私は私で、女性コーラスの指揮者であり音楽学者でもあるミネソタのミシェル・エドワーズさんに頼まれて《スマイル・ミュージック》(というパフォーマンス付き合唱曲)を書いた。という様な事で、1つのコンセプトからいろんな媒体を使った作品になっているの。他の、例えば《エンドレス・ボックス》とか《ディレクション・イヴェント》とか《バランス・ポエム》などについても、過去にどのように(トランスメディア)してきたか、っていう実例を映像で示しながらお話したのです。そして後半では、それらを新しいヴァージョンで演奏して頂いたの。(詳細は、東京都現代美術館HPの2012年度紀要を参照)「トランスメディア」というのは、人々がトランスファーとかトランジットとか、乗り物を変えて旅を続けていくように、メディア、つまり媒体を乗り換えて創造の旅を続けていくという意味なんです。インターメディアっていうのは1つの作品について言える事だけれども、トランスメディアっていうのは、一連の作品があって初めて成立する概念ですね。これはやり出すといろいろと出来るんですよ。面白いの。切りがない、本当に。

小勝:まとめに入らせていただきたいと思います。塩見さんが今おっしゃったトランスメディアの手法で、いろいろなイヴェントを、これからも(新しく)作っていったり演奏したりされていくと思いますけど、その目的っていうとちょっと直接的ですけど、何を求めてそういうイヴェントを制作される、作曲されるのでしょうか。

塩見:ただ面白いからですよ。それだけ(笑)。

小勝:面白さを他人に分かち合うっていうか、次々と人を巻き込んで行きたい(というような)…?

塩見:パフォーマンスって、若い人達、大好きなんですよ。パフォーマンスやるって言うと、たくさん集まって来る。本当は7人しかいらないのに、(募集すると)二十人以上も集まって来るから、オーディションをした事もあるの。パフォーマンスをやった人は「またやりたい!」とか「新しい自分を発見した」とかって、とっても喜ぶんですね。それは結果的に派生した事なんだけれども、一種の励みにはなりますね。ただ一番の動機は、自分がそれを見たいから。こんな事があったら面白いだろうなっていう、単純な、子供時代と全然変わらない、単なる好奇心。それだけなの。

小勝:子供時代とおっしゃるのは、昨日うかがった玉島の自然(とか)、その中のご自分が感じられる喜び(につながる)…?

塩見:自然から受ける喜びじゃなくて、どんな遊びをしようかって、工夫して考えて、実際に作っていく(喜び)。1つね、面白い遊びで、昨日言い忘れた事があるんだけど、或る雨の日に、外へ出られないからゴロゴロしてたのね、四畳半で。部屋の四隅からは蚊帳の釣り手がブラさがっているの。ふと思いついて、「あの取手のところに紐をくっつけて、引っ張ったらどうだろう」と思って、対角線状に一本の紐を張ったの。そうしたらその空間が、まあ、今までとは全く違った、ものすごい緊張をはらんだ空間になった。これはしめた、面白い!っていうので、家中の紐を持って来て、四方八方に紐を張り巡らせて、立体的な蜘蛛の巣みたいなのを作ったのね。途中で、紐がなくなっちゃったから、何かないかなあと思って見回したら一番下の弟のおしめが置いてあったから、おしめを細く裂いて繋ぎ合わせて使ったの。今から思うと最初のインスタレーションよね。得意になってね。紐を跨いで違った位置から部屋を見ながら、弟と2人ですごく興奮していたんですよ。そこへ母が帰って来たの。喜んでもらえると思ったのよね。ところがね、ハッと見て、紐の正体に気付いた時にね、「まあ!何て事をしてくれたの! ただでさえ足りないのに!」って(笑)大叱られよ。でもその時のワクワクした気持ちと同じような事なの。
 (今度の7月7日のパフォーマンス「Music Today on Fluxus 蓮沼執太 vs 塩見允枝子」では)国立国際(美術館)で《落下のイヴェント》というのを紙飛行機でやるのだけれども、ただ紙飛行機を飛ばして落としたんじゃ面白くないから、これを音楽的にしようと思ったの。メトロノームの指揮(による空間のコンポジションね。)バルコニーとウィングの3カ所に(25人の)パフォーマーが位置して、(200機の紙)飛行機を飛ばすのだけれど、どのタイミングで飛ばすかは飛行機にナンバーを書いておくのね。1人が8機ずつ持って、下でカチカチと鳴っている(メトロノームの拍を心の中で数えていて、)そのタイミングが来たら飛ばすわけ。そうすると1分少々で終わるんだけれど、副題は《滑空するフーガ》。(他にも、《スペイシャル・ポエム》の中から全部で4つのイヴェントを取り上げて、最新のヴァージョンで演奏するんです。)美術館のキュレーター(註:橋本梓)の人達や、一緒にやってくれる蓮沼執太フィルの演奏家の方達も、皆わくわくしてくれているの(註:詳細は蓮沼執太さんのHPで公開されている/ http://www.shutahasunuma.com/performance/2344/)。

小勝:皆さん30代の若い人たちばっかり。塩見さんは60年代、それこそ今から50年くらい前に書かれたイヴェントが今現在、新しく演じられる……

塩見:そういう事に大の大人が夢中になっているのよ。紙飛行機もどうやったら飛ぶかって研究してね。一番滑空時間が長くて遠くまで飛ぶのは、この折り返しが8.5センチが一番いいというのを発見したりしてね。パフォーマンスの楽しさというのはお祭りの楽しさ。1回きりの楽しみ。ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)としての本性丸出しで、ただそれだけのために、楽しみの為にやっているだけなの。それを通じて世の中をどうこうしようとか、それを後に残そうとか、そんなことは何も考えてない(笑)。

小勝:でもやっぱり、その日常生活を塩見さんのアートによって、ちょっとひとつ違う見方で見て、それで皆ワクワクする。(日常が)面白く楽しくなる。アートの基本的な、それこそ役割じゃないですけども、(精神的な)力みたいな(ところがある)。

塩見:ありがとうございます(笑)。少なくとも一緒にやる人達が準備段階でいろいろとアイデアを出したり、(議論したり、試作品を作ったりする、)そのプロセスがやっぱり私は好きなのね。本番ももちろん大事だけど、何でもそう。作曲でも出来上がった曲も大事なんだけれども、そこに至るまでのいろんなプロセス、ある漠然としたイメージに向かって、どうしたらそれを実現出来るかいろいろと考えながら、試(行錯誤)しながらやっている、そういう毎日そのものが、私にとっては大事なの。

小勝:それはやっぱりフルクサスで、ごく若い時に1年間過ごされたフルクサスのメンバーというか、精神に触れたことがそれに関わっていらっしゃるのでしょうか?

塩見:(というより、もっと本能的原初的な次元の事じゃないかなあ)。私は子供時代の遊びの楽しさ…遊び(のルール)を考えるのも遊びだし、遊びの道具を作ることも遊びっていう、(工夫しながら新しいものを創造して)遊んだ楽しさ。それがまだ心の中に残っているんじゃないかと思うのね。遊びの楽しさを知っているから。味をしめているから。

小勝:それが同時代的な現象として、ニューヨークでそういう同じ遊びの楽しさを知っている人たちに(出会った)……

塩見:まあそうでしょうね。それこそ共鳴し合ったんじゃないですか。(例えば)久保田さんみたいに、「パフォーマンスは儚くて、自分はもっとしっかりしたものを残したい」というのとは全く逆で、打ち上げ花火みたいなものなんです。それを準備するまでのプロセスが楽しい。そのハイライトが本番ということで、終わってしまえば、もうそれっきり。するとまた新しい何かが出て来る。私、消えるってことはすごくエレガントなことだと思うの。(というのは、消えるってことは、次に生まれてくる何かの為に、場をゆずるってことでしょ。)いつまでも残っていたら、新しいものは生まれないですよ。

坂上:久保田さんは彫刻で、塩見さんは音楽。全然違う表現方法……

塩見:音楽は消えるものだからね。もちろん彫刻というジャンル、インスタレーションというジャンルの価値は認めていますよ。けれども、それは私のタイプじゃないという事ね。

小勝:「消えるということはエレガント」というのは、ほんとうに素晴しい(発想ですね)…!。

塩見:アインシュタインの(方程式は)エレガントだとか…私はエレガントなものが好きですね。そして消えるものは全てエレガントだと思う。だから最後は《消えるイヴェント》!

坂上:ああ!エレガントという言葉をこのインタヴューに入れたいと思ってました!良かったです。

小勝:塩見さんはとってもエレガントですよね。…最後にすごくよくまとまったような気がします。

塩見:ただ何も構えないで、録音されていることも気にせずに、素のままでお話しできたので、ありがたかったです。

小勝、坂上:どうもありがとうございました。