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白髪一雄オーラル・ヒストリー 2007年9月6日

尼崎市出屋敷 白髪一雄自宅にて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
書き起こし:池上裕子
公開日:2009年6月1日
 

白髪:こないだの名前思い出せなかった作家ね、あれデュビュッフェですわ。「世界・今日の美術展」で見ました。そんな名前でしたわ。あれ2回か3回やってるんですよね、あちこちで。サム・フランシス(Sam Francis)の作品、ほとんど白いところに、黒いのをぽとぽとっと落としたようなの、あれが2回目に僕が見に行ったときには出てて。びっくりして、非常に印象が強かったという記憶があるんですわ。

加藤:そうでしたか。では今日のインタヴューを始めさせていただきます。本日はまず60年代の扇シリーズについてお聞きしたいと思っています。これを作られるようになったきっかけをまず教えていただけますか。

白髪:はい。グタイピナコテカができて、僕の個展をしてくれる順番が回ってきて、何かを空間に置かんとすかすかするもんですからね、「なんか良い方法ないかなあ」と思って。それで紙をこう畳んで、かなり大きい紙で、広げたら2メートル以上あったと思うんですわ、下の底辺がね。それを作りましてね、赤だけで真っ赤に吹き付けして、それを空間に一つ置いたんですわ(注:《扇のオブジェ》、1965年)。それでかなり空間を埋めることができたんで、「こら便利なもんや」ということで色々このシリーズをしていこうと思ったときに、早川良雄さんの奥さんが人の作品を集めてやる展覧会を企画されて。これは僕の小学校の同級生でしてね、その人が「なんか作品ないか」言うから、こんなん(扇形の作品を指して)の小さいのをちょっと作ってたんですわ。それでそれをその展覧会にお貸しして。でもその作品がどこか行ってしもてね。現在ないんですわ。さっきのピナコテカでやった大きな赤い作品も、納屋かなんかへ預かられてる間にどっかに…。まあ「邪魔になる」思いはったんでしょうな、あんまり公表したくないけど(笑)。それでなくなってね。これ(《白い作品》1966年)はね、この後ろのカンヴァスと合わして作ったんで、ここがブルーですわね、こっちが赤で。初めはこれ(扇形のオブジェを指して)止めとこうと思ってね、カンヴァスだけ具体展に出したりしてたんですけどね、やっぱりこれを前に置くというのが最初の思いやったから、トゥールーズで個展してもらったときに初めてこの形にしたんですわ。

加藤:あ、そうなんですか。

白髪:それまではね、後ろの作品(カンヴァス)は並べて、前(扇形のオブジェ)はまた別に出してたんですわ。

加藤:じゃあ93年ですね、トゥールーズの個展は。ヴェネチア・ビエンナーレと同じ時にあった展覧会ですか。

白髪:そうですね。

加藤:吉原先生は扇の作品について何かおっしゃっていましたか。

白髪:「面白いな」とは言ってはりましたね。あの大きいやつ見てね。それで「これ君あとずっと作るんか」って言うから「小さいのやら大きいのやら作りますねん」て。それでこの面をですね、ハサミで切って変な形のものが飛んでるみたいにしたり。でもその作品も皆なくなってしもて(笑)。それはどこでなくなったんか分からんねんけどね。こういうものは人のところへ預けたり、変な運送屋に頼んだりしたら、なんか知らんけどなくなるんですな。昔はね。

加藤:これはどういう風に作られるんですか。

白髪:紙を畳んでいってこの形にして、下にベニヤ板のちょっと丈夫なやつで台をこしらえて、そこへ貼り付けるわけですわ。それでその下の台は半分に割れてて、こうやったら(両端から折りたたむような仕草をして)畳めるわけです。だから運ぶのは非常に楽なんです。

加藤:じゃあお経のような状態なんですね。

白髪:いや、お扇子のほうのイメージが強かったと思いますね。それでこれ作ってしばらくしたら「チャンバラトリオ」っていうのが出てきて、パーンと頭はたくのにこういうの使い出して、びっくりしたんですわ。「あれ、わしの作品みたいなの使ってる」って(笑)。まあそういうこともありました。

加藤:これはいつ頃まで作られていたんですか。

白髪:これはあんまり長いことやってませんでしたね。結局こういう扇の作品をやめて、この作品(カンヴァスの方)も作らなくなった。だからしばらくですわ。5、6年もしてなかったと思います。

加藤:このシリーズを作られるようになったきっかけは何でしょうか。

白髪:それはね、初め円を描こうと思ったんですよ。ところが円がどうしても描けなくてね。それで仕方がないからこういう風に半円にしたんですわ。それから半円の作品をしてるときにあの(扇形の)広げる作品を作って出してたんですけどね。比叡山から修行して帰ってきたときに、「法華経のデッサン」展ていうのをやらされて。やらされてっていうか、こっちがやりたいからやったわけですけどね。そのときにデッサン展やからね、20号の作品、しかも和紙を20号のをたくさん用意しといて、それで片っ端から絵の具で作品描いていって。それやってるうちにね、円を描きたくなってね。それでずっとこう(ヘラを)回していくわけですな、画面の上で。そうすると溜まってくるんですわ。絵の具が。ここまできたらだぶだぶに絵の具が溜まってきてね。「困ったなあ、またあかんわ」って思ってね、そこでぱーっとヘラごとほかしたんですよ。そしたらこういう筋が残ったけれども、こういう作品ができたわけで。「あ、これはうまいこといった」って、それから円を描き出して。それが何年続いたかな。それと同時に扇形はやめてしまったんです。それで円を描いてるうちに、やっぱりだんだん円も飽きてきてね、やっぱり足ばっかりで描くのが良いなと思って、あれは吉原先生が亡くなった記念の展覧会やったかな。兵庫県の近代美術館の。

加藤:「吉原治良と具体のその後」展ですね。

白髪:そのときにまた足で描き出したんですわ。それから後はもうずっと足でね。それで東京画廊の社長の山本孝(やまもとたかし)が「そらあ君、この方がいいよ」って言ってね。「せっかくね、足で描くっていう一つの方法を見つけてやってるんだから、これでどんどん行きなよ」って。「はあ、ほなそうしまっさ」って。それからまた足に戻って。

池上:でもこちらの扇と円のシリーズも、足でスキー板とか棒を操作されている部分があるんですよね。

白髪:そうです。下は足でしといて、そこへあの円を描いたわけです。半円の時はあまり下はやってないんですわ。ただ地塗りをするのにね、足でやった方が楽っていうとおかしいけど。

加藤:こちらの《丹赤》(1965年)も板を使われてるとか。

白髪:それは板使ってます。このときに初めて板を使ったんかな。

加藤:これは先生のお気に入りの作品だと伺っていますが。

白髪:そうです。それがやっぱり代表作の一つだと。それと兵庫県の県立美術館にある《赤髪鬼》(1959年)、京都の近代美術館にある《天暴星両頭蛇》(1962年)、あそこらが僕の代表作だと思ってます。

加藤:円を描こうと思われたのはどうしてですか。

白髪:うーん、やっぱりね、どんな人でも円を描きたくなるんちゃうかと思うんですよ。吉原先生も最後は円だったでしょ。だいたい抽象の画家というのは、円を描きたくなるんちゃうかと思うんですわ。円というのは何か一つの深い意味を持ってるように思うんですわ。それで何となく「円が描きたい、円が描きたい」と思ってね。それで円を描こうとするんだけど、さっき言ったようにずっとやっていくと絵の具が溜まってきてね、だめだと。それでしょうがないから半円にして発表したりして、それでさっき言ったように比叡山から帰ってきて法華経のデッサン展やって、そのときに円ができてね。20号やから小さいけど。それで大きいのしようと思って《あびらうんけん》(1975年)に。《あびらうんけん》を描いてから円は一応卒業というか、堪能したというかね。

加藤:次に得度のことについてお聞きしたいと思います。まず密教に興味を持たれるようになったきっかけを教えていただけますか。

白髪:はい。だいたいいろいろな本を読んでね、梵字とか手の印、そういうものは本で見てたんですわ。それでその時分は鉄砲担いで、別に鳥を捕るとかそういう意図はないんだけど、歩くために鉄砲担いで。一応兵隊にも行ったし、その前は旧制中学の教練でさんざんやらされて、鉄砲は馴染みのものになってたわけですね。なんせ刀とか鉄砲、そんなもんが好きなんですわ。男らしいと思っててんね、それをね。出来るだけ男らしいことをしたい、そういうものを持っていたい、というのでね、アメリカ製の薬莢がぽーんと飛び出す式の連発銃、それを東京まで買いに行きましてね。市ヶ谷の、進駐軍の鉄砲を扱ってる店へ行って鉄砲を買ってきて、それで見て楽しんだり、触ったり。それがだんだん高じて、その鉄砲をもって狩猟に行きたい、ということで尼崎の狩猟会に入りましてね。それで、猪狩りがだいたい一番勇壮なものなんですよ。尼崎から行くと能勢の方にいったり、京都の雲ヶ畑という郊外の山に行ったりして、猪がでてくるのを待ってるわけです。それで「この鉄砲は良いからきっと出てきたら撃ってやったろう」と。ところが出ないんですよね(笑)。他のところへは出ても僕が待ってるところには出ないんですわ。何回行ってもあかん。出ない。一つの目的は、「捕った猪で作品作ったろう」、と。それでこれ(《猪狩 弐》、1963年)とその200号の作品(《猪狩 壱》、1963年)作ったんですけどね。自分で捕った猪で作品が作りたかったのに、作れなくて、大阪の日本橋一丁目に猪肉売ってる店があって、そこに皮が置いてあったんですわ。それを買ってきてこれ作ったんですけどね。そうして山に鉄砲担いで行くようになって、そうするとやたらに目につくのがね、能勢あたりでは板碑(いたび)といいまして、ぺたーっとした大きな石に、梵字をもの凄く力強く彫ってあるわけですわ。宇治の中之島のところに十三重の塔が立ってるでしょ。あれなんかも梵字が彫ってあるわけですね。その梵字にものすごく惹かれましてね。その前から本で多少見て知ってたんやけどね。その梵字が意味するものとか、そういうことを考えたりして、本を買ってきて。京都の寺町に仏書屋で其中堂(きちゅうどう)というのがあって、そこに行って買ってきたりして、眺めてたんですわ。ところが密教をもっと勉強しようと思って本を買ってきてもね、何のことかもう全然分からん(笑)。それでどっかへ聞きに行かなあかん、いうので友だちの写真家の男に話したら、「僕のおじさんが東光寺という寺の住職やから、それ世話するわ」って。ところが東光寺から電話かかってきて、「うちは阿弥陀さんが本尊なので、全然密教はしてません。その代わり詳しい方のところへ連れて行きます」というので、連れて行かれたのがお座主(ざす)さんのところやったんです。そういうわけでだんだん密教から仏道へ入って、無常観も何も感じないで坊さんになって(笑)。させられたというか、なったというか。

加藤:素道(そどう)というお名前をいただいたということなんですが、これは山田恵諦(やまだえたい)大僧正(だいそうじょう)がおつけになったお名前ですか。

白髪:そうです。その時分はね、得度したら度牒(どちょう)というものをくれるんですわ。ちゃんと残してますけどね。その度牒というもの中に素道と書いて、誰の弟子やというのを書いて、それから天台座主(てんだいざす)はその時分は菅原さんという日光の方が座主やったんで、そのお名前が書いてあって、それが度牒なんですよ。お坊さんになった証拠っていうのかな。「あんた坊さんになってんから、これから修行しなさいよ」っていうような意味のものなんですけどね。

加藤:その後幾つも修行をされるんですが、まず四度加行(しどけぎょう)ていうのがあるんですね。

白髪:この加行っていうのが一番大事でしてね、正行(しょうぎょう)というのは通ってでもできるんですわ。何でかっていうと、そんなに時間に制限がないし。だから比叡山坂本へ通って、色々お経の読み方とか、立ち居振る舞いを習って。お坊さんになったら立ち居振る舞いが大事なんですよね。立ったり座ったりから始まって、それから投地礼拝(とうちれいはい)といって、立ち上がって前へ行ってこうする(膝をついて両手と頭を床につける仕草をして)礼拝が基礎になっててね。それが加行になると、その投地礼拝を何百回とやらされるわけです。皆それにへこたれてしもてね。僕の場合はちょっと方式が違ってね、個人で1人でやった。山下っていう人が付いてて、やらされたわけやけどね。日に3回、そのたびにこの投地礼拝を何百回くらいさせられたかな。三百回くらいかな、1回に。だから日に九百回くらいやってるわけですけど。それを1週間しないといかんねんね。そしたら1週間経ったら膝がもうねえ、こっち(右)のほうなんかもう腫れ上がって水が出そうで。こっち(左)はちょっとましやってんけどね。それでとうとう水出てね、治まりましたけどね。痛くて痛くて、水が出たとたんに。水が出るまであんまり痛くなかったけどね。それでその礼拝行は1週間で済んで、その次の行にまたかかるわけですけどね。一八度加行(じゅうはちどけぎょう)っていうやつがまた1週間、それから胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)を1週間ずつ、それから最後の1週間、五週目が護摩を焚く護摩行なんですわ。その時分になったらね、4月の終わりから入って5月いっぱいやって、満行したんが6月の5日やったかな。35日やからね。ところがその時分になったら暑くなってきてね。部屋は閉め切ってあるから、護摩焚くとたまらんのですわ。それでも「これも修行や」と思ってやりましたけどね。

加藤:その修行は、やはりかなり厳しい修行として知られているんですか。

白髪:そうですね。比叡山の行というのはね、わりと寝させないんですわ。睡眠時間がね。何でかっていうと頭に良く入るからって、習うことが。日に3時間くらいしか寝させないわけですわ、どんな行でも。だから戒法(かいほう)やってる人なんかでも、ものすごい寝る時間少ないんですわ。戒行(かいぎょう)してる間はとくに。その方が行がスムースに行くし、覚えないといけないことが非常に速く覚えられる。それが理由なんですわ。そやけどやってるほうはたまりませんわな(笑)。日に3時間ほどしか寝られない。予習復習してたらどうしても夜の11時くらいになって、それから寝て、2時に起きなあかんわけです、ひどい時はね。9時半か10時くらいに寝るとまだ良い方でね。日に2時間も寝てないときが多々ありましたね。行監(ぎょうかん)も同じように起きてないといけない。山下もあれはつらかったと思う。ちょっと風邪気味やったからね。しばらくして治りはったけどね。でも今ではそれが良かったと思いますわ。

加藤:どういうところが良かったですか。

白髪:まずね、物覚えが良くなりましたわ。家内がね、「あんた物忘れせんようになった。いらんことまで覚えてる」って(笑)。固有名詞は忘れますけどね、さっきのデュビュッフェみたいに。ところがしたこととか、あったことはよく覚えてるんですわ。過去のことはよく覚えてるって皆言いますけどね。でもその日その日のやったことなんかもよく覚えてると、家内は言います。

加藤:本当に白髪先生はよく覚えていらっしゃいます。その次に入壇灌頂(にゅうだんかんじょう)というのを受けられたということなんですが、これは具体的にはどういうものなんですか。

白髪:密教の卒業試験みたいなものなんですよ。阿闍梨(あじゃり)候補の人が、これはお寺のもう副住職とかになったような人で、希望する人が壇を開く、開壇者として全国からやってくるわけです。それがだいたい3人くらいなんで2組に分かれて、その下に入壇灌頂者っていうのが5、6人、少ないときは3人くらい付くわけです。それで開壇者と入壇灌頂を受ける者とが決まった方式で丸2日くらいかけて色んなことをするわけです。一番大事なのは結縁灌頂(けちえんかんじょう)というものです。敷曼荼羅(しきまんだら)といって、胎蔵界の曼荼羅なんですけど、真ん中に大日如来が描かれてて、ぐるりに四仏(しぶつ)やいろんな菩薩が描かれてる。そこへ目隠しされて、しきびを5枚ほど赤糸と白糸で根本を巻いた、華(はな)と言われるものをぽとっと落とすわけですよ、真ん中へ。その落ちたところの仏さんと縁ができるわけです。でも必ずどこへ落ちても「だいにちにょらーい」て言うんですわ。こっちは目隠ししてるから分からんでしょ、どこへ落ちてるか。でもその付いてるお坊さんが「だいにちにょらーい」て言うんですわ。僕が済んで次やってんの見えますからね。7人がやるんやから。でも前にそいつが立ってるから、どこに落ちてんのか見えへん(笑)。落としたと思ったら「だいにちにょらーい」って言うんですわ。それが可笑しくてね(笑)。笑ったら怒られるから、笑うに笑われへんから困ったけどね。その結縁灌頂が一番大事で、入壇灌頂っていうけど縁を結ぶ結縁灌頂なんですな。

加藤:その後広学堅義(こうがくりゅうぎ)っていうのを受けられて。それが一番大事なんですか。

白髪:大事。広学堅義を受けないでは天台宗の僧侶と認められないわけですわ。これは5年に1度やってくるんですよ。4年経ったら5年目。そのときに法華大会(ほっけだいえ)っていうのがありましてね。5日間やったと思うねんけど。10月の1日から始まって5日間。その間に広学堅義があるんですわ。法華大会の行事っていうのは、適当にやってますからね、時間が決まってて。こっち(広学堅義)の方はね、夜中までやらなあかんような人もおるわけですわ。僕なんか比叡山の一員の弟子やゆうので、わりと早い時間にやらされたんで、10時くらいにやらせてもらって。それでもね、昼間やけど「夜やと思え」って言うんですよ。前にね、山っていうこういう形(山の形を手で作って)の紋があって。浅草の浅草寺はそれがお寺の紋なんですよ(注:正しくは浅草寺境内にある浅草神社の神紋)。比叡山の紋なんかどうかちょっと分からないけど。それをもって、昼やのに提灯に火をつけてるんですわ。それをもった寺男の後にずーっとついていって、こっちの方から出て前をこう回って、向こう側行ったら堅者口(りっしゃぐち)ていうのがあって、そこでそのおっさんはそれ置いて、控えてるわけですわ。それでこっぽり(注:高下駄の一種)みたいなの履いてるんですよね。こうぶら下がって裸足になって、それでかまちの上に立って。そしたら中から音がしてばっと開くんです。その時にばーっと飛び込むわけやね。そしたら提灯持ってたおっさんが、こっぽりみたいなもんをどーんと投げ込むんですよ。それですぐにばたーんと閉まるんですわ。真っ暗でね。目が暗がりに慣れてないから、どこにそのこっぽりがあるのか分からへんねんね。それ履かんことには歩かれへんからね。そしたら小僧さんが2人ほど手燭で照らしてくれて、「あー、あったあった」てなもんで。それでそれ履いて、その前に「素道ー!」って言うわけですわ。そしたら3人ほどえらいお坊さんが迎えに来てくれてね、それと一緒にずーっとこっぽりを引きずりもって歩いて、本尊の前に行って。そこで本尊を拝んで、前を見たら表題が出てるんですわ。それが今日の僕が答えないかん問題の題なんですわ。初めから決められて練習は事前にさせられてるわけです。でも一応表題を見て「あ、これか」というわけで。それでずーっと回っていって、高い2メートルくらいのところにある八講壇(はちこうだん)というところで表白(ひょうびゃく)を出して読み上げるわけです。これが暗くて見えない(笑)。まあ見えんでも覚えてますからね、それこそ練習に練習してるからね、皆。節がついててね、ちょっと間違ったらもうそこで言えんようになるんですわ。高さがね。「そ〜れ〜」と始めても、その次の節がぱっと高くでたりしたら「れ〜」(高く音を外して)となったりして(笑)。でもそれが多いねん。「それおもんびればほっけらいえの〜」と始めても、ばっと「こうがくりゅうぎの〜」と声が高くなってしもたら続かへんのですよ。それが多くて、見学に行って見てても、「あ、高くなるんちゃうかな」と思ったら「こうがく〜りゅうぎの〜」(声を高くして)とやっぱりなる(笑)。「こうがく〜りゅうぎの〜たいぎょう〜は〜」(低音で)て言わなあかんのに。それが「こうがく〜りゅうぎの〜」(声を高くして)となると、ついていかれへん(笑)。急に落とすわけにいかへんしね。それで点が評価されて、上・中・下とか決まってるわけですわ。最後にちりん、ちりんって鳴らして、済んだらご苦労さん、いうわけやね。そこでだいたい点が決まって出るわけです。よくできた人には扇子みたいなものをくれるんですわ。ところが一山(いっさん)といって、比叡山の中の者ってことになってる人はね、それが出ない(笑)。

加藤:それは点数があまり良くなければ通らないんですか?

白髪:いや、全部通るんですよ。なんぼ下手でも。昔は絶対あかんかったら、「また来い」と。5年経ったらまた出てきてやる、ということだったんですよ。ところが今はそんなんしてたら煩わしいって。なにしろ全国から、ハワイとかアメリカの西海岸からも来るわけやからね。そんなんしてたらとてもやないと。僕が行ったときも、5日間で受ける人が全部で何人ぐらいおったかな。相当な数ですよ。写真がありますけどね。それで5日間の間に何人かずつやらされて。それで練習が3日間ほどあるんですわ。その3日も5日間も、6人一間で泊まらされて。それで一山の者は一山のものだけっていうわけにもいかんから、東京から来てる人も1人一緒になってね。面白いようなつらいような(笑)。

加藤:大変な体験ですよね。

白髪:でもそれ通らんと、この白いの(注:法衣の意か)がかけられないんですよ。帽子(ぼうし)っていってるねんけどね。お座主さんはあれをまともに着てるわけ。次に已講(注:いこう。僧職の位)というのは、耳出して着るんですわ。他の者は首に巻くだけ。頭へかけられへんのですわ。だからほんとはお座主さんがしてるみたいに帽子っていうねんけど、皆襟巻きになってるわけやね。まあ色んなしきたりやらがあるねんなあってそのとき分かりましたわ。

加藤:修行をされていらっしゃった間は、絵は描かれなかったんですか。

白髪:描けないですわ。加行のときはもちろん、広学堅義を1週間ほど受けに行ったときも、丸2日泊まって入壇灌頂したときも、絵を描くなんて思いもよらないことでね。「法華経のデッサン」展ていうのをもう決めてましたからね、帰ってきていつそれを描き出そうか、だいぶ悩んだですわ。それで加行から帰ってきたら、家内が「あんたなんかおかしい」って言うんですよ。「足下がなんかぽとぽとするだけで、勢いがない」って。「なんでやろ」って。それで「酒飲んでへんから違う?」っていうことになってね。(四度加行を)受けると決まった7ヶ月前から酒止めまして、入ってるひと月と、帰ってきてふた月と、10ヶ月以上酒飲んでなかった。「あんた酒飲んだほうがいいのちがう?」って言うから飲んだらね、3日くらいで元の木阿弥(笑)。「元の木阿弥ってよう言うたもんやなー」って思った(笑)。3日で分量もだんだん上がってきてね。今も酒飲んでますけどね、いっこうに減らへん。酒だけは一生つきまとうな。

加藤:修行される前と後で作品は変わりましたか?

白髪:変わりましたね。まず円が描けたということ。それから皆に「なんか絵がすっきりした」って言われました。「お前、なんか前は血みどろみたいなんが多かったのに、なんかえらい清々しい。清潔になったなあ」って言われてね。吉原先生はもうそのときは亡くなってたんですが。これなんかねえ(《東方浄瑠璃世界》1972年)、すっきりして。そういう絵がやっぱり増えましたね。

加藤:実際に制作されるときの気持ちはいかがですか。

白髪:あんまりそれは意識してないですな。なにしろ僕の制作方法というのは意識したらだめやからね。そのときの状態を何とかしてもろに出そうということばっかり。だからその時の心の状態がまっすぐ出るんだと。そのうちだんだん元に戻って、円もやめて、こういうがーっとしたもの(フット・ペインティング)にまた戻りましたからね。さっきも言ったように東京画廊の社長が「この方がいいわ。これやったら個展できる」って。「円はできまへんのんか」って言ったら「うーん……」って(笑)。

加藤:でもやはり修行された後はいつも制作の前にお経を唱えられますよね。

白髪:不動さんを祀ってますからね。それに対して不動真言(ふどうしんごん)と、その前にお経を唱えて。お経って言っても心経ですけどね。般若心経を1巻唱えて。長いこと拝んでたら疲れてもう絵が描かれへんから、般若心経唱えてそれから不動の真言を7回唱えて、それで制作に入るわけです。

加藤:やはりそれは必要なことなんでしょうか。

白髪:それせんとね、落ちつかへんのですな。描こうという気が起こってきにくい。それを済ませたらなんか安心して、「不動さんにお任せした」っていう感じになるんですね。だから全くの他力本願というのはこのことかなと思うんですけどね。うちはだいたい法華宗で、今日もお坊さんが母親の命日なんで来られたけど、法華経というのは自力本願なんですわ、考え方が。阿弥陀経とか浄土宗、浄土真宗なんかは他力本願で、禅宗なんかは自力本願なんですわ。それで法華経の日蓮宗は全くの自力本願で、その考え方がものすごい強いんですわ。ところが僕が密教やってて一番感じたんは、ご本尊、つまり大日如来または不動明王に縋って任せてしまうと。それで自分はあまり意志を示さないで行動すると。それが初めは不思議な気がしてね。密教ってもっと切り開いていって何かするもんやと思ってたからね。それが全く考え方が違うんでね。大日如来にお縋りして、その大日如来が命ずるままというかな、そのように行動するんやという考え方でね。これは全然思ってたことと反対でしたわ。

加藤:そうすると修行される以前は制作の前にお経を唱えられるっていうことはなかったんですか。

白髪:いや、なんとなくね、ちょっとずつはそういう感じになってたんですわ。だいたい山に行く前にね、お不動さんを買ってたんですよ。神戸に行って、阿弥陀堂っていう店の前を通ったら、今はセンター街に入ってますけどね。1階と2階に。その阿弥陀堂がまだ生田筋にあったときのことですけど、前を通ったら何かしらんけど、ばーっと呼ぶんですわ。黒いもんと赤いもんがなんかあって、中に引きずられるように入って見たら不動さんでね。今も祀ってますけどね。このぐらいの(大きさを示して)の台の上に。台っていっても岩のところに波がばーっとしてるもので、まあ波切り不動ですわ。それが置いてあってね。「これ幾らぐらいしますのん」って言ったら、なんぼやったかな、18万って言ったかな。それがねえ、持ってたから不思議なんですよ。

加藤:その時に(笑)。

白髪:それで「これいただきます」って。それで「お厨子に入れましょか」って言うんですよ。「お厨子のお金足るかなあ」って思ってね。それと合わせてきっちり持ってたんで足りてね。それで払って持って帰ったんですわ。それからアトリエの今と違う場所に祀ってましてね。それを絵描いてるこっちのところ(左を指して)やったからね、描いてる最中にも見えるわけですわ。それで何となくこう、気にしながら描いててんけど。あのー、中国旅行が一緒になった天台宗の女の方で大僧正になった方がね、「あんたどういうことしてんの」っていうから、「いやこうこうでまだ修行中でんねん」って言って、「実はこういうものがありますねん」って、加行したときにお厨子をもらったんですわ。今出川という人が加行が済んでうちに遊びにきて、お厨子くれたんですわ。それは今も祀ってますけどね。「中へこれ入れて拝んで下さい」って。それがこれくらいのブロンズの小さい仏像なんですわ。「これ何やろな。どうも祥天さんちゃうかな」って思ってね。ただそのお厨子に置いたんでは全然さまにならへんわけやね。「困ったなー。これは何かの台の上に載せないと、つるくせえへんわ(注:「釣り合わない」の意)。」て。そしたら家にこれくらいの、誰かがくれた香木があってね。白檀の。「これちょうどええわ。これの上に載っけたらええ」って。その香木を適当な大きさに切って、その上にお厨子入れて、その上にブロンズ像を入れて、開けっ放して時々手を合わせてたんですわ。そしたらその大僧正の、中島湛海(なかじまたんかい)っていう方やねんけど、うちに来られてね。その話をしたもんやから、「それをちょっと見せてください」ってアトリエのところまで来られてね。その時はそれどこに置いてたんかなあ。2階の今の場所くらいかな。寝てる部屋のところに置いてたんですわ、開けっぴろげてね。「こんなことしたら駄目ですー!」って怒られてね(笑)。「このお方はね、隠しに隠しとかないかんお仏像ですねん。人に絶対見せたらいかん。写真撮ったりしてもいかん」て。それで祀り方を教えられてね、香木をもう一度言われた寸法に切ってね、倒れはらへんように底の形にちょっと彫り込めて、乗っけて、「それでよろしい」って。それから布でこれぐらいの鞘を作りなさいっていうからね、それかぶせて、閉めて、「絶対開けたらいかん」って。だから開けられへんのです。それで「えらい大層なことせないかんねんなあ」って思ったけど、「この祥天さんを祀ってる限り、そういうことを絶対守って下さい」って言われて、それからもうずっとこわごわお参りしてるんですよ(笑)。その代わりね、祥天さんが来られてからね、なんとなく家が落ち着きましたな。まず経済的にあまり困らなくなった。だから良いことはやっぱりありましたわ。

池上:その祥天さんの小さな仏像を頂いたというのは、だいたい何年くらいのことですか。

白髪:あれ何年くらいになるんかな。

池上:得度される前になるんですか。

白髪:いや、得度してからですわ。得度したから中国の天台山ていうところへお参りに行くことになったんで。得度したんが46年(1971年)ぐらいやから大分になりますね。もう40年くらいにはなるね。

加藤:神戸で最初に先生が不動さんを買われたのはそれより少し前ですか。

白髪:それはだいぶ前やね。

池上:それは得度される前ですよね。

白髪:不動さんのほうが先です。それで加行に入ったときに今出川氏が遊びにくるって言って、くれはったんがそのお厨子とその祥天さんやった。何か知らんけど仏さんが勝手に入って来はってね、拝まなあかんことになって。ええことやとは思いますけどね。それでまあ加行を受けて、広学堅義も受けたから落ち着いてね。色んな天台宗のことを勉強もう一遍やり直したりして、今ではよく分かりましたけどね。やっぱり宗教の世界って難しいんですわ。しきたりやらがね。だから偉いお坊さんに接する接し方というのをね、習わないと。今日も上人が来て参りはったけどね、前と接し方が違うと思うんですよね。だからよう分かってくれてね。「比叡山行って修行したそうですな」ってだいぶ前に言われて「しましてん」って。「ええことでっしゃろ」って。法華宗の毎月出る本があって、それに僕のこと書いてくれてね。そのことを。「何でもええんや、仏門に入って、どこかに深入りしたかったら深入りして、それが仏教の建前や。その代わり法華宗の信心もちゃんとしてくださいよ」って。「へえ、分かってます」って(笑)。

加藤:ちょうど先生が得度された頃は具体の最後の頃で、吉原先生がその翌年に亡くなられたんですが。当時の具体グループのことについて少しお聞きしたいんですが。具体の最後の方になると、初期からいたメンバーと、60年代後半から入ったメンバーと、すごくいろんな年代の方がいらしたと思うんです。初期の方と後から入られた方は年代も違っていて、一つのグループとしてはどういう風な感じだったんでしょう。

白髪:前からいて主に活躍してたのは、家内も入れて11人ほどで、後から入ってきたのは元永(定正)くんのお弟子さんやったり、嶋本くんのお弟子さんやったり、そういう人たちですわ。それで「あれ面白いから引っ張ってこい」って吉原治良が言って引っ張ってきて入った人もいるんですわ。ヨシダミノルとかね。入ってから彼らがどんどん変わるんですわ。今中クミ子なんかでもね。それの集大成みたいな感じになって出たんが万博でやった具体美術祭り。お祭り広場でやった。その時それ(具体)が変貌してたからできたと思うんですわ。うまい具合に。自動車で走ったりね。それから大きいロボットみたいなのを動かしたり。あんなのは彼らやからできたんで、前からおる連中はああいうことちょっとできなかった。だから良い意味で第二次具体美術協会ができたようなもんですね。その集団も一つあっていいんじゃないかと。だから前川(強)くんとか堀尾(貞治)くんとか、ああいう人は前から入ってたんやけどそっちのほうに移ったような感じで。第一次具体美術協会の会員とはっきりと、確然と違う形のものができたような気がするんですわ。その次みたいなものもできかけてたんだけど、吉原治良が亡くなって具体もなくなったでしょ。まあなくしたわけですけどね、解散して。それで会員になりかけてた人たちも何人かいたんだけど、解散したもんやから会員になれなくて、フリーでやらないといけないようになった。それが具体の一つの流れですね。

加藤:吉原先生がお亡くなりになったときはどういうお気持ちでしたか。

白髪:まずね、倒れはってね、病院に飛んでいったんですわ。そしたらごーごー音がするから何やと思ったら、先生が唸ってるわけや。仰向けになってわーっと口開けて。「えらいことになったなー、苦しそうやなー」と思って。でもお医者がきて横を向かせたらぱたっと止んで。「あーやれやれ」と思って。それでどのくらいかな、ひと月くらい病院にいはったんかな、ちゃんと覚えてないけど。その間病院に絶えず行ってね。「お前らがぼやぼやしてるからこないなったんや」って院長に殴られて。(吉原)通雄さんと僕と吉田(稔郎)さんやら、げんこつで殴られてね。「なんでこんなんされなあかんのやろう」って思ったけど、「いやいや、それは我々が不注意で先生が倒れはったんやからしょうがない」って。そういうこともありましたけどね。それで「これはえらいことになったなー。しかしこれで具体続けていったら弊害が出てくるんちゃうか」と思ったんですわ。その前になんやかんやと、ごたごた万博のことであってね。辞めていった人がおったんですわ。田中敦子、金山明が一番早かったかな。先生と衝突したんですわ。それから元永やら嶋本やら村上が辞めていったりしてね。それで古い会員でおったのは吉原通雄さんと僕と、吉田稔郎くらい。それで「これはもう続けてたら弊害が起こる」って通雄さんと相談して、「解散しよう」って。吉原治良があっての具体美術協会やからね。解散したらどうやろうって。それで解散したんですわ。我々もみんなフリーになって。まあ、良かったんちゃうかと思うんですけどね。そうこうしてるうちになんやかんや、また古い具体の連中が引っ張り出されてね(笑)。ローマの具体展やら、ヴェネチア・ビエンナーレやらで引っ張り出されて、なんとなく同窓会みたいになって。

加藤:そうすると最後の方はやはり、初期のメンバーの方もそれぞれ気持ちが少しずついろんな方向に向いていったという感じだったんですか。村上さん、嶋本さん、元永さんなんかは具体解散の一年くらい前に辞めておられるんですけど、それは何か理由があったんですか。

白髪:それはね、一口にいうと、吉原治良と金銭的なことで、万博の後でぶつかったんですわ。それで「もう辞めたる」って辞めていったりね。やっぱりね、お金がからむとややこしいことになるんですわ。僕はもうそれは気をつけなあかんと思ってたからね。僕だけ残ったようになってしもたけど。一番最初は、早い時期に衝突して金山と田中敦子が辞めていったんですわ。そこらからもう始まってたんやね。何でもあんまり長続きすると良いことないもんで、そういう風になっていくんやな、と思いましたわ。

池上:白髪先生ご本人は吉原治良と意見の違いとか衝突とか、大きなものは一度もなかったんですか。

白髪:僕はなかったねえ。なんか知らんけど僕はもうその時に仏教に入ってたから、そういういざこざを起こすような気が全然しなかった。それが良かったか悪かったか分からないけど、そういう風になってしもたんですな。だから「あいつだけ良い子になっとる」と言われても、それはしょうがないと思ったけどね。

加藤:具体が解散する前とした後の先生の制作活動で、何か変化はありましたか。

白髪:結局解散した時、僕は仏教へ深入りしかけてたでしょ。だからこっち(仏教)の方へどんどん行ってしもたという形でね。それに気を取られてなんにもあんまり感じなかったですな。おかげで具体解散して、具体の方へあんまり出入りせんようになったから、こっちの方へどんどん行けたと思うんですわ。そうでなかったら広学堅義や何やって受けてられへんと思いますわ。具体が忙しかったらね。吉原治良の代わりにお座主さんが先生みたいになってしもたからね、何もかも。

加藤:具体美術まつりについて少しお伺いします。白髪先生は構成担当という風に台本には書いてあるんですが、実際にはどういう部分を受け持たれたんですか。

白髪:結局ね、監督は元永やとかね、企画は僕やとか決めたけどね、そんなもん名前だけですわ(笑)。結局みんなで寄ってたかってやったという形で。吉原治良が言うがままに行動してやったというだけで。だからどういうこともなかったですな。

加藤:やはり全体の監督は吉原先生ですか?

白髪:そうです。だから監督は元永や企画はなんやって名前書いてあるけど、何にもしてません。動くのはもうちょっと若い連中が動いてくれてたからね。今井くんとかああいう人が主になってやってたような感じですわ。

加藤:でも非常に大がかりでしたよね。

白髪:そうでんな。たった2日間やねんけどねえ。あれはして良かったとは思いますけどな。

加藤:どういうところが良かったですか。

白髪:みんなが自覚したね、具体が集団やということを。制服みたいにして紺色のジャージをみんなで同じように着てましたからね。仲間意識というか、そういうものが盛り上がって、「やっぱり具体はみんなで何かやるときにはやるんやな」と、「これは一人ではできへんし、個人発表じゃないんや、そいういうものもできるんが具体や」、ということがはっきり分かりましたわ。だから個人活動とはっきり違う、集団での具体の活動というのがあって、それは今までずっと振り返ってみると、野外展から始まってると思うんですよね。野外展や舞台展、空中へ(バルーンを)上げた展覧会とか、もちろん具体美術展と名前のついた東京でやった展覧会とか京都の美術館でやった展覧会とか、個人の発表でありながら個人だけではできない発表があるということ、それをまたやったということ、これが非常に意義があったと思いますわ。外国の人の活動を見てても、大勢でやるということはあまりないですよね。たいがいみんな個人の発表で、団体みたいな形で何か一つのものをやるということはほとんどやられてないけど、それをやったんが具体やなと、それははっきりとそう感じましたわ。もう個人でしかできないからだれもそういうことをあんまりやらないけどね。今の若い人たちでも、具体みたいなことをやろうとしてる動きがあるのかどうかは知らないけどね。

加藤:1980年代の半ばくらいから、国内でも海外でも具体の回顧展が開催されるようになりました。当時ローマとかいろいろなところにお出かけになって、それをどのように感じられましたか。

白髪:その時はもう、「ローマで今度具体展あるねん。じゃあローマ行かなあかんな」いうくらいのことでね、あまり意識してなかったんやけど、結局具体が再評価されてそういう場にもう一度出られたということはありがたかったですね。しかも(具体を)出て行った人たちと残った人たちとなんかいろいろあったけど、そういうわだかまりがなくなったからね。だから良かったですわ。ローマが一番早かったかな。ダルムシュタットよりローマの方が先やったからね。ああいうことがあって良かったと思いますわ。

加藤:本当に海外ではすごく皆さん興味をもって熱心にご覧になって、やはり国内より国外でのほうが評価が非常に先行していたんですが、当時そういう状況について何か思われましたか。国内との比較というか。

白髪:国内でやったんと国外でやった展覧会の差というのは全然感じなかったですな。まあ、もっぺんみんなで作品を並べられるようになったなあ、くらいで。だからそういう意味では、ローマに行ってもどこにも観光に行けなくて、その方が変な気がしましたわ。遺跡回っただけですからね。スタジアム(注:コロセウムの意)っていうんかな、あの大きなところ、あそこは写真撮るからって、読売の週刊誌かなんかに呼びつけられて行って、あそこで写真撮られて、週刊誌に出ましたけどね。そんな思い出しかない(笑)。

池上:だいたい予定していた質問はお聞きできたように思います。今日はもしご迷惑でなければ、奥様の富士子さんにも具体に入っていらした頃のお話を伺えたらと思うんですが。

白髪:わりとねえ、それを嫌うんですわ。この頃ちょっと人見知りというか、自分のしたことやなんか、あまり聞かれると嫌がるんですわ。それをえらい心配してましたわ(笑)。

池上:じゃあお願いしない方がいいでしょうか。私は先週イタリアに行ったんですが、ヴェニスで今、ビエンナーレとは違うグループ展をやっていて、そこで白髪先生と奥様の作品と両方出ていたんです。和紙を天井から吊る白い作品です。(注:“Artempo: Where Time Becomes Art,” Palazzo Fortuny, Venezia, June¬¬¬−November, 2007)

加藤:アクセル(Axel Vervoordt)さんというベルギーの方のコレクションですね。

白髪:ああ、はいはい。

池上:それが出ていて、先生の作品も奥様の和紙の作品もとてもきれいに展示されていて、やっぱりお話をお聞きしたいとその時思ったんですけど。

白髪:そら呼んできて座らせたら何か言うかも分からんけど、やっぱり嫌がるやろうなあ。それを一番恐れてましたわ(笑)。

加藤:では先生にお伺いできたらと思います。奥様は野外展のときに白い大きな板を展示されましたが、すごく体力的に大変な作業だったと思うんですけど、その作業をされてたときのご様子はご存じですか。

白髪:そらもう、のこぎりでこう切ってんの見てましたからね。途中で休みながらやって。親父が心配してね、親父がまだ元気やったから、「手伝う」って言ったら嫌がってね。「これは手伝ったらあかんねん。なんぼ時間かかってもこれ全部切り通さなあかんねん」って言って。それで結局自分で切って、かすがいで止めて、白く塗りだして。「これどない飾るの」って言ったら「こっち高くしてこっち低くしたい」って。「じゃあこっちに足みたいなんつけないとあかん」って。そういうことは言わんと分からないんやね。だから「こういう足付けて、1本やったら倒れるで」って。どんな足やったか僕は覚えてないけど、なんか自分でこんこんやってましたわ。

加藤:その作品をご覧になって、どう思われましたか。

白髪:「ようやったなあ」と思いましたな。発想がねえ、1枚の板をこんな風に切って間をちょっと開けて、という発想が、見ててよく分かる気がしたね。何でこんなことをしたんかっていうことも、よく分かるような気がしましたわ。それがずっと続いていって、途中でガラスとかも使いましたけど、2枚和紙を貼って真ん中を破るとかね。和紙を貼ったら乾かない間にやらないといけないから、そこらがしんどかったと思う。あまり早くしたらできへんし、下手したら横へわーっと破れたりするから、かなり難しい仕事やと思いますわ。

加藤:2回目の野外展では地面に井戸みたいなものを掘られて、あれも大変な作業だと思うんですけど、どなたか手伝われたんですか。

白髪:掘るのはね、そういう人たちが来てましたからね、作業員みたいな人たちが。その時分はアルバイトっていうものがあんまりなかったからね、若い学生さんとかじゃなく、土方というと言葉が悪いけど、そういう人たちが来て掘ってくれて。むこうはそれが専門やからね(笑)。それで中に入って仕込んで、ちゃんとして。あれはイタリアのヴェネチア(注:1993年のヴェネチア・ビエンナーレ)に行ったときにどうしようかっていってねえ。結局バルバラ・ベルトッツィさん(注:Barbara Bertozzi。ビエンナーレの具体セクション担当者)ともう一人の女の人が掘ってくれてね。それで掘ったらいろんなものが出てくるんですわ。欠片みたいなものが。それで「これ全部揃ってたら良い物じゃないか」ってね、笑って。男の人は誰も来なくてね。河崎さん(注:河崎晃一。1993年当時は芦屋市立美術博物館学芸課長。インタヴュー時は兵庫県立美術館常設展・コレクション収集管理グループリーダー)は田中敦子さんの作品にかかりっきりになってたからね。「どないしょう」って。「じゃあわしが掘らなしゃあないな」って言ってたら、二人がやってくれて。バルバラっていう人もよくうちに来たけど、絵を描くとこまで見てて。まあなんと言ったらいいか、ええ人やなあとは思ったけどね。

加藤:掘った中にこう、蛇腹のように仕込んであったものについて少し説明していただいてもいいですか。中がどうなっているかというのを。

白髪:あれはブリキかなんか、トタンをこう僕の作品の広げるやつみたいに畳んで、それをこう4つにしただけで。上は何もないんですわ。それを底にあるものでくっついてたのかどうか、その時に座卓を置いたのか、ちょっと覚えてないんですけど。

加藤:地面の上にあったものは。

白髪:あれは後から銀色に塗って、なにかシートみたいなものをその時に都合して作ったんですわ。こういうことなんかでも、僕の方がよく知ってる。(彼女は)もう覚えてないもん(笑)。

池上:富士子さんの作品について伺ってますと、和紙だったりガラスだったり、白い板だったりと、あまり色という要素を扱われないように感じるんですが。白髪先生はすごくいろんな色をお使いになりますが、奥様はあまり色は扱われなかったんでしょうか。

白髪:そうですな。だいたい単純なものが好きですわ。それで全く反対のものやけど、火が燃えてるのを「きれい」って言うんですわ。僕がライターをぱっと付けたり何かすると、「きれい」って言うんですわ。それから外に一緒に買い物に出かけたり何かすると、雲をすごく見てねえ、「あれが良い雲や」とか言うんですわ。氷なんかも好きやね。だから北極とか南極とか(笑)。まあ僕と反対の性質やと思うんですけどね。僕が陽やったらむこうは陰やし。それでなんとかかんとか五十何年一緒に(笑)。最後に挨拶がてらに出しましょうか(笑)。一遍呼ぶだけ呼んでみよう。(ベルを鳴らす)だいたいお茶出しとらへん。

加藤:奥様を呼びに参りましょうか。

白髪:これで聞こえたら来るやろう。

池上:なんとなく察して聞こえないふりをなさっているとか(笑)。

白髪:聞こえへんのかなあ。(さらにベルを鳴らす。白髪富士子さんが顔を出す)あ、聞こえた。

白髪富士子(以下、富士子):猫みたいに呼ばれて来ました(笑)。

白髪:お茶出して。

富士子:はい、忘れておりました。(退室する)

池上:もう時間もだいぶ経ちましたが、最後に何かお聞きしておいた方がいいことはありますか。

加藤:そうですね。先生がずっと制作活動を続けて来られて、制作で一番大事だと思われていることってなんでしょうか。

白髪:そうでんなあ。一番大事なこと。あんまり考えたことないけど、人との接し方かなあ、やっぱし。人と接するということが、この頃だんだん億劫になってきてますんでね、余計にそう思いますわ。

加藤:まえ、お話を伺ったときに、「他力本願」と言うことをおっしゃっていたんですね。描かせていただくっていうか、そういう部分を制作において大事にされているとおっしゃっていたんですが、やはり自分1人で描くということではなくて、ということでしょうか。

白髪:そうでんなあ。結局、1人で描いているようで1人で描いていない。さっきも言ったように、描かせてもらっているという感じですな、不動さんに。それから絶えず(富士子さんがアシスタントとして)くっついてますでしょ。だから2人でやらないと描けない、ということになってきましたな。だんだんね。初めのうちからちょっとそういう傾向はあったけど。

(富士子さんお茶を持って入室)

加藤・池上:恐れ入ります。

富士子:いえもうこんなんただのお茶で。

加藤・池上:ありがとうございます。

加藤:奥様に、ご質問ということではなくて、白髪先生の制作のお手伝いをずっとされていらっしゃるということで……

富士子:お恥ずかしいことで。

加藤:ご自身も昔は作っていらっしゃいましたけれど。

富士子:ちょっとだけね。ちょっとしたことで。

加藤:作られるようになったきっかけっていうのは何なんでしょうか。

富士子:それが何か、止むに止まれぬ、沸き上がってくるものがありまして。理屈でないんですけどね。どうしても表したいというものが燃えてきて。理屈で言えない。

加藤:それは白髪先生が作られてるのをご覧になって、だんだんにという感じでしょうか。

富士子:それが大きいでしょうね。制作するっていう緊迫した空気というものがね。それを体得してなかったら描く気なんか起こらなかったと思いますけどね。

池上:ご結婚をされるまでは制作はされていなかったんですか。

富士子:してなかったです。見るのは好きでしたけど、自身でしたことはなかったです。おかげさまでちょっとだけ。

加藤:でもほんとに私もすごく(富士子さんの)作品は好きなんです。

富士子:ありがとうございます。

白髪:イタリアのどっかにベルギーのあの人が買った我々の作品が出てたって。どこでしたかな。

池上:ヴェネチアの、ビエンナーレとは別の建物でやっている展覧会に先生と富士子さんの作品が並んで、部屋の左側と右側にかけてありまして、和紙を天井から吊る作品がとても美しいと思って拝見しました。

富士子:そうですか。よくご覧いただいてありがとうございます。

加藤:今でもお気に入りの作品はございますか。

富士子:そうですね。ただまっすぐ(和紙を)むしっただけのが一番好きなんですけど。色々後から変化を付けてしたものよりも、初めにただ一筋の道、という感じでしたのが一番好きなんです。

池上:和紙を使おう、というのはどういうふうに始められたんですか。

富士子:和紙というものがだいたい好きでしたね。あのマチエールというか、手触りというか。白さも真っ白じゃないんですね、和紙は。ほんのりベージュがかってるというか、真っ白じゃないんですね。それに惹かれてたもので。手触りも洋紙のようにピンとしてないんですね。なんか柔らかみがあるし、破ったら破れるという感じで。変なことばっかり言ってますけど(笑)。

加藤:いえ、すごく面白いです。

富士子:そうですか。ありがとうございます。(加藤さんのジャケットを指して)あの、その白いお召し物も好きです。

加藤:そうですね、これもちょっと生成りがかっていて(笑)。ガラスとかは……

富士子:ガラスも好きです。

加藤:かなり危険ですよね。実際には。

富士子:危険です。危険なものも好きなんです(笑)。

池上:火とか(笑)。

富士子:そうそう。ちょっとそういうのも好きなんです。

加藤:まえ伺ったときに、アトリエで同じところで制作されていたので、先生が割ったガラスを踏まないようにするのが危ないなあと思われたとか。

富士子:気の毒なことしたと思いますわ。いらんことして。

加藤:でもすごく良い作品だと思います。

富士子:ありがとうございます。理解していただけたらありがたいです。もう昔のことで。

加藤:でも作品はずっと残りますし。

富士子:そうですかねえ。ありがとう。

加藤:具体を途中でお辞めになりますが、やはり制作を続けるということは、生活していく上で……

富士子:この人の足かせになると思いましたね、第一に。もう夢中にならないと制作というものはできませんから、「こんなことしてたらいかん」と思いましたですね。またその力量もなかったし。ただこの人に一筋に絵の道を歩いてもらいたいと思いましたから。偉そうなこと言いますけど(笑)。

加藤:いえ、素晴らしいですよね。

富士子:ありがとう。

加藤:ほんとに(先生が)さっきもおっしゃってましたけど、奥様がいらっしゃって初めて制作も続けてこられたって。

富士子:そんなこと言うてはんの(笑)。とんでもない。

加藤:いえ、奥様がいらっしゃって初めて制作もスムースに進められると思います。

富士子:そりゃなんでも下ごしらえする者がいますよね。なんにしてもそうだと思いますけど。だから何も私のおかげというもんじゃなくて。ただ下働きで。

池上:具体を途中で退会されてからはもう制作は全くされてないんですか。

富士子:ぷっつり辞めました。「こんなことしてたらいかん」って。

池上:先ほどおっしゃっていた、「創作したい」という、沸き上がってくる衝動は、抑えたわけではなくて……

富士子:もうかなぐり捨てるという感じでしたね。「こんなんしてたらいかん。この人の足かせになる」って。(私の作品は)お為ごかしですけど、とんでもないことしてたと思ってね。

池上:とんでもないことはないと思います。

富士子:(床の間の書の掛け軸を指して)これは比叡山の天台座主が98歳の時に書かれたんですけど、この白さなんかを見たら、「この方も分かってられたかなあ」と思いますね。

池上:具体に在籍してらした頃のことを、白髪先生とのご関係もそうですが、他の具体の方々とのおつきあいも含めて、今どういうふうに振り返ってお考えになりますか。

富士子:他の方っていっても、悪いけど他の方のことはあまり考えてなかったから(笑)。えらい悪いことやけど(笑)。何しろ「我が道を行く」で一筋でしたから。他の方が何をなさろうが、「ああこんなことなさってて、こんなんも良いかなあ」とか思ったことないんですよね、悪いけど。えらい失礼なことですいません。(白髪さんを見て)いけませんかね。

白髪:ん?

一同:(笑)

富士子:「勝手に言うとれ」ていう感じですね(笑)。とにかく自分の行く道をまっすぐ、ずーっと天まで続く道を歩くというのが好きだったんで。だからもう死ぬまで、そういう感じでいきたい。死ぬときもそんな気持ちで死んでいきたいと思ってます。

加藤・池上:今日は長い間貴重なお話をありがとうございました。