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白川昌生オーラル・ヒストリー 2010年8月23日

於白川昌生アトリエ
聞き手:福住廉、鷲田めるろ
書き起こし:齋藤雅宏
公開日:2012年10月28日
更新日:2013年9月15日
 
白川昌生(しらかわ・よしお 1948年〜 )
アーティスト
北九州市生まれ。哲学を学ぼうと渡仏するが挫折。美術大学に移り、デュッセルドルフ芸術アカデミーにて美術を学ぶ。滞在中、各地でパフォーマンスを行ったり、「日本のダダ1920-1970」展を企画したりする。1983年帰国し、群馬で美術を教えながら、立体、絵画、パフォーマンスなどの作品を制作。地域性を重視し、1993年「場所・群馬」設立。一方、『美術・マイノリティ・実践』『美術館・動物園・精神科施設』など執筆も行う。インタビューでは、白川のローカルな活動に影響を与えた、ヨーロッパの小都市での美術体験についても語られている。

鷲田:1948年に北九州の戸畑にお生まれなって、いつまで北九州におられたんですか。

白川:1970年まで戸畑にいました。

鷲田:日本にいらっしゃる間は戸畑にいらっしゃったんですね。

白川:そうですね、日本にいる間はずっと戸畑にいて他の街には住んでいないですね。

鷲田:高校生の頃から美術に関心が出てきたということなんでしょうか。

白川:その頃は美術には関心はありませんでした。ほとんど地元の展覧会などもみてないです。ただ、母が美術が好きだったんですよ。父親は四国の琴平の生まれで、丁稚奉公して北九州に来てずっと働いていたんですよ。

鷲田:何のお仕事をされていたんですか

白川:父親は呉服屋の丁稚から始めて、暖簾分けをしてもらって小さなお店を始めたんですね。父も母も小学校しか出てなかったんで。母は割と美術が好きで、僕に絵を描くことを勧めたんですよ。小学校に行くくらいのときから、小倉に絵を習いに、毎週日曜日に出かけて行ったんですよね。場所は鍛冶町って呼ばれている場所なんですけども、昔、小学校のころは、まだあの辺りには武家屋敷みたいなのがずっと残ってて、その中の小さなお寺(注:正福寺)で日曜日に絵を習う感じだったんですよ。

鷲田:他の子供たちも一緒に、お絵描き教室みたいな感じで習っていたんですね。

白川:そうです。小倉の絵描きの人がやっていた絵画教室でした。たまたま、僕らが行っているお寺の隣が、昔、確かね、森鴎外が住んでいた。

福住:むちゃくちゃSOAPの近くじゃないですか。

白川:そこに、絵を習いに来ている近くの子供たちや中高生が集まっていて、お寺の人がやっているんじゃなくて、場所を貸しているだけなんですね。地元の絵の先生がいて、その人が教えていて。今から思い出すと、北九州出身の絵描きさんに、田淵安一とかいますよね。国画出身で、確か、画材屋さんの息子かな。だから、近くに画材屋さんもあったりして、そういうところに行って絵を習ってはいたんですよ。

鷲田:その頃は水彩画ですか。

白川:鉛筆とかクレヨン、水彩とかですね。途中でだんだん行かなくなっちゃって、辞めて。

鷲田:お母さんは、美術関係の仕事をされていたのですか。

白川:母は呉服屋の手伝いを一緒にやってたんですよね。

鷲田:では、美術を見るのが好きで。

白川:そうそう、だから、うちの兄弟で僕が一番下で、上の兄と姉が2人いるんだけど、3人とも美術が好きで。兄は手先が器用だから、モノを作ったりするのがすごくうまくて。あと、上の2人は絵を描いたり、水彩描いたりするのが上手で。

鷲田:お兄さんとお姉さんは、今は美術関係のことをされているのですか。

白川:兄はね、今自分で大工まがいの小さな修理屋さんやっているんです。というか家の修理。リメイクの、一人で。一番上の姉は、うちの父は呉服屋から洋装店に変わったので。時代の流れの中で。僕が小さいときはすでに洋装店だったんだけども。商店街の中での洋装店の跡を、うちの姉は継いだんですよ。東京の文化(服飾学院)に行って服飾の技術を身につけて戻ってきて、家の跡継ぎをしてて。二番目の姉は、地元の大学に行っていたんだけども、小さいときからお茶とかお花をずっとやっていたので、資格をとったりして。昔、確か、ニューヨークで博覧会か何かやったときに、日本の裏千家か表千家がお茶のデモンストレーションをやるときに、それで行ったんですよ。

鷲田:本格的になさっていたんですね。

白川:そうそう。下の姉の方はね。北九州は近くに山口があるから、山口県はお茶とお花とかが昔からすごく盛んなとこだったんで。お寺もあったりして。
小さいときに絵をそういうふうにして描いていたんだけども。僕が一番へたくそで、途中から絵を描くのがだんだん面白くなくなっちゃって、やめちゃったんですね。絵を描いていてもいまいち、面白くないなあ、みたいな。ある種、拒絶反応というか、絵を描いたってしょうがないな、みたいなことを、小学校の5年生ぐらいに思ったので、その辺で絵を描くのを辞めちゃったんですよね。

鷲田:それでスポーツとか。

白川:いや、全然スポーツとか僕はできない人間だから。どっちかっていうと読書の方に。

鷲田:その頃からたくさん本を読むように。

白川:そうですね、本は前から読んでいました。あんまりスポーツやらないし。友達付き合いも良いというわけでもないし。

鷲田:小説とかを読まれていたのですか。

白川:日本の小説はあんまり読まなかったかな。うちにある本が、一番上の姉が平凡社の中国古典全集とかを持ってたりしたから、そういうのを出してきて、読んでたんですよね。そういう中国古典ものとか、ヨーロッパの中世の狐物語とか、子供向けの科学史や世界の歴史の本など、そういうのを読んでいましたね。

鷲田:そのあと高校に進学されて、高校の間に美術が面白いと思われるようになったのでしょうか。

白川:思わなかったですね。ただ、高校生の時に、ルネ・ユイグの『見えるものとの対話』(注:美術出版社、1963年)という本にはまって、3冊すべて読んでました。今でも手元に持っています。美術展には興味なかったです。

鷲田:高校の頃もあまりですか。

白川:高校の頃も興味なかったですよね。美術の成立、形成の過程や歴史には興味があったかもしれないけど、絵を描くこととか、絵を見に行くことにはあんまり興味がなくて。でも、僕らの頃は確かね、フォークソングが流行り始めた時期だったんです。それで、フォークソングの会がちょこちょことあったりとか、ギターを弾くような人とかがいたりして、そういうのには僕は興味があって、ライブを聴きに行ったりしてたんですよね。
おそらくそれの延長で、北九州戸畑の街を学校帰りに歩いていたら、街の中を荒縄かなんかを手に持ってざらざら、ざらざら歩いている人なんかいて。それで、アートをやる人なんだろうなあ、みたいな感じで。ずっと見ていたら、文化会館の方に行って、そこにゼロ次元のポスターみたいのがあって。何となく中に入って、見たというのは憶えているんですよね。中で、加藤(好弘)さんとかいて、舞台で儀式かなんかやって、おそらく見ていた人は10人もいなかったような感じだったと思いますよ(笑)。舞台の上でいろいろやっているんだけども、最終的には舞台の上で性行為をする感じになって舞台の電気が消えて、女の人が「なにすんのよ!」みたいに叫んだりなんかして。そしたら電気がついて、「これで終わります」とかなんか言って、「興味がある人は一緒に我々と来てください」とか言って一緒に行ったのがゼロ次元の人たちといた、集団蜘蛛の人たちの自宅だと思うんですよ。おそらくそのときに名前を書いたと思うんだよね(注:白川昌生『美術・記憶・生』、水声社、2007年、p. 56-57;真武真喜子「メールドの頃」、『フィールド・キャラバン計画へ:白川昌生2000-2007』、水声社、2007年、所収、p. 84参照。この文献で真武は「このとき、戸畑に住む高校生で」と記述しているが、万博破壊九州大会が戸畑で行われたのは1969年5月3日であり、この時白川は大学3年生)。

福住:そのときはゼロ次元や集団蜘蛛の存在は知らなかったんですか。

白川:知らなかった。そのときに集団蜘蛛の人の絵だと思うんだけども、浮世絵かなんかの絵をコピーした上に春画のポルノみたいな絵を描いたりしたやつを見たと思うんですよ。こういう絵を描いてるんだとか言ってみせてくれて、それがどうした、みたいな感じで。

鷲田:そういうライブは、お一人で行かれたのですか。それとも友達と。

白川:いや、いつも一人ですね、小学校のときなんかもそうだったけど、同じクラスの子とは、あんまり付き合いがなかったですよ。店が忙しかったから、ほとんどだれも構ってくれなかったんで、一人だったんで。僕が付き合う相手っていうのは、家の近くからちょっと離れたところにいる仲間で、北朝鮮の人達が多かったんですよ。まだ戸畑は戦争の後の朝鮮人部落とかがあちこちにあった時代で、そこに結構友達がいたんで、よくそこにはね、行って遊んでたんですよ。

鷲田:だいたい同世代の人ですか。

白川:同じクラスでも少しはずれた所に住んでいる子とかね、隣のクラスとか、行って友達の家の内職の手伝いをしたりとかしてたんですよ。封筒貼りとか。僕の家は商売を朝から晩までずっとやっているから食事の時間とかずれちゃうんですよ。だいたいそういうところに行って飯食ったり(笑)。

鷲田:ライブに行ったりゼロ次元のパフォーマンスを見に行ったりすると、同世代の人たちはいなくて上の世代の人ばっかり?

白川:いないですよ。誰もいなくって。上の世代の人ばっかり。

鷲田:その中では一番若い世代というような感じで。

白川:そうそう。

鷲田:その後は何度も通ったというような。

白川:いや。僕はその後そこには行ってないと思いますね。

鷲田:偶然そのようなところに入り込んでしまったという感じに近いんですね。

白川:そうですね。高校の時はそんな感じだったし、普通の県立高校だったから、クラスが受験クラスと、受験しないクラスと分かれていて、成績でずっとクラスが分かれているクラスで、僕は一番下のクラスだったから。でも、僕の頭の中では哲学をやりたいなあ、みたいな気持ちがずっとあって。でも哲学の授業なんていうのは高校に無いじゃないですか。全然学校の授業が面白くなくて、いつもふわあっと外に出てっていたわけです。高校の時に新聞にキルケゴールかなんかの研究会があります、とかいって、自分で哲学したい人は来てください、とかがあったから、それは聞きに行ったことがあったんですよ。そしたら10人くらい年齢の高い人ばっかり集まっていて。「キルケゴールっていう人がいて、」みたいな話をして、本を読んで。やっていた人はキリスト教かなんかの人だと思うんだけど。それは3回くらい行ったのかな。あんまり興味がないからやめちゃったんですよね。あとは本屋さん、古本屋さんを巡るのが趣味だったから、ずっと小倉とか近くの古本屋をあちこち回って。

鷲田:その頃は哲学の本も読んでおられたのですか。

白川:そうですね。なかなか理解できないんだけども、ひとりで哲学の本を読んでいて、自分では、その中で、現象学をやりたいようなイメージがあって。そのイメージがずっと抜けなかったから、全然学校の勉強はまじめにやらなかったですね。だから、ずっと下。3年になって受験が近づいて、どうするんだ、みたいな。「大学受けたいと思います」と言ったら、「どこ受けたいんだ」って先生が言うから、「哲学科のある学校に行きたい」とかなんとか言って、指導の先生から、「お前、何言ってんだよ。お前のところの兄弟は皆おかしい。」みたいな感じでしたよね(笑)。

福住:当時、現象学と言ったら日本に入ってきたばっかりですよね。

白川:僕は高校のときに、いろいろ手に入る仏教哲学から西洋哲学までの本をかなり読んだりして、勝手に自分で妄想していました。ストラスブールに行った理由は、フッサールの現象学の文庫がストラスブールにあるっていうのが本に書いてあったんで。あの時、せりか書房かどこかから、現象学の全集が出てて。そういうのがあったから、ストラスブールに行ってみたいなとかね。あとは、マルティン・ブーバーなんか読んだんですよ。3年のときに、本気でイスラエルに行って、ブーバーについて哲学を習いたいとかね。そういう妄想にふけってましたね。日本ではだめだ、みたいな。

鷲田:それで、すぐストラスブールに行かれたんですか。

白川:いえ、大学受験をするんだけど、ぼくは1回落ちてるんですよね。1浪して。

鷲田:哲学科のあるところを受けて。

白川:全部落ちて。家の方から、お前いい加減にしろよ、とか言われて、それでどこでもいいから近くの大学に行けとか言われて。ちょうど70年の時だったかな、九州産業大学の芸術学部ができたんですよ(注:1966年4月、九州産業大学、芸術学部設置。1967年、白川は九州産業大学芸術学部入学)。それでうちの家族は、おまえ小さい時に絵を描いていたんだから、こういうところだったら入るんじゃないかと言われて、えー、みたいな。おまえも後が無いんだから、いいかげんどこでも良いから、行ってくれないと困るみたいなことを言われて、それで入ったんですよ。ほとんど試験とかいう試験は無くて、そのときは。ほとんど全員合格みたいな。

福住:デッサンもなかったんですか。

白川:ありましたよ。

福住:デッサンは勉強したんですか?

白川:全然。入試のためのやつはなにもやってないですよ、僕。石膏デッサンとか一度もやってなくて。中に入ってからそういうのは。意外だったのは、僕は美術じゃなくて哲学やりたくて入ってるから、なんとなく大学にぴったりしないなと思うんですよね。周り見てると、僕みたいにぴったりしないやつが結構たくさんいたんですね、そのとき同じ、新入生なんだけども話聞いたら、みんなね、東京の芸大、武蔵美、多摩美とか落ちてあるいは浪人してて、だめだから今ここにいるけど、来年受け直したいっていう、かくれ浪人が結構たくさんいたんです。

鷲田:結構大きいクラスだったんですか。

白川:そうですね、クラスに40人くらいいたね。そういう中で、ここの大学で芸術をやります!みたいに、燃えている人は誰もいなかった(笑)。結局どこか落ちてみんな集まってたんだよ、あのときはね。一番最初にできた大学の芸術学部だからそんな感じだったんですよ。みんな不平たらたら言ってて僕なんか授業ほとんどでなかったですよ。電車に乗って、戸畑から大学のある香椎まで行くんだけども、博多に行く手前のところなんだけども、大学の授業出ないで、裏山あるんですよ、みかん畑があって、そこ行って一人で、みかん食べてた。

福住:九州産業大学には哲学を教える先生はいなかったんですか。

白川:いたけどね。一般教養の倫理・哲学で来てて、あんまり面白くなかったですよね。僕が知りたいなというタイプの話ではなかったんですよね。そのうちね、3年になってからくらいかな、大学紛争みたいのが起こってきて。3年くらいのときに。

鷲田:1969年頃ですか。

白川:そうそう。九大でオルグ活動している人たちが産大に来て、「ここの大学もやんなきゃだめだ」とかっていう感じで、わあとなって、それに賛同してうちの大学でも運動体作るみたいな人たちがいたんです。僕の知っている1年上の先輩とか彫刻科のあたりとか、運動しなきゃといって、マイク持ったりして、時々授業が中止になったりとか。ちょうど大学祭の時期にかかっていて、大学祭のときに、今の大学はこんなんでいいのか、みたいな論文募集が、大学の文化祭の中でありました。僕は刺激を受けて、文章書いて出したんですよ。カントの哲学から見たマルクス弁証法の問題をテーマに。マルクス主義じゃないんだよね(笑)。当然認められるわけがなくて。でもそういうのから、やっぱり哲学やんなきゃだめだな、と、一人だけ勝手に。

鷲田:東大とか京大で紛争があったのは、もう少し前なのでしょうか。

白川:そうだと思います。時間がずれる形で地方に伝播してきたんだと思うんですよ。うちの大学の場合は私立大学だったし、今から考えれば分かるだろうと思うんだけど、今で言う松下電器が関係して作った大学なんだよね。地域開発で。そういう大資本が入ってできた大学なんで、そういうことは運動していた学生は知っていたと思うんだけど、一般学生は知らなかったと思うんだよね。大学の中のお金の回り方とか、不良な会計とかそういう問題もあったりなんかして、反対運動が結構大きくなって、警察が来たりとか、そういうこともありましたよね。その中で芸術学部の中で派手にがんばってた連中が何人かいたんですよ、女の子も男の子も。彼らも大学辞めないで、卒業したのかな。僕はその後4年生になったときにすぐ大学辞めて、外国行きたいなと思って、ストラスブールの大学のこといろいろ調べたりして。

鷲田:4年生で、大学を卒業してから留学をしようと思われて。

白川:いや。あんまりそういう事考えてなかったですね。卒業とか考えてなかったですね。卒業すること自体意味ないなっていう。もう自分は哲学だけ、みたいな(笑)。

鷲田:すぐにでも行きたいというような。

白川:そうそう。だからほとんど妄想に近いような状況だったと思いますよ。

福住:学生運動とは距離があったんですか。

白川:ありましたね。仲間の連中がやってたんだけども、結局どこかの誰かのマルクス系の考え方でいろいろ言っていて、僕はそれを否定はしなかったんだけども、言っている事には納得がいかないな、みたいなところもあって。

鷲田:話が変わるんですが、1970年の万博のことは、何か憶えていたりとかは。

白川:ちょうど、ゼロ次元の人たちが来たときは、おそらくそれの反対運動の一環で来たと思ったな。おそらく。僕は小さいときから戸畑に住んでいたんで、結構戸畑の街は、北九州もそうだけども、労働者のデモとかは何度も街中であったりしたんですよね。そういう動きの中で、僕は個人的にも、大阪の万博自体に全然胸がときめかないし、なんでだ、みたいな。そういうふうになれないというか、自分の記憶の中では例えば、小さいときに小倉に絵を習いに行ってたじゃないですか、幼稚園とか小学校の時から。電車が戸畑から少し丘になった日明のところを下って通って小倉に入る。小倉の電車が降りてくるところは、小倉城のすぐそばなんだけども、小倉城の周辺は、全部アメリカ軍の基地だったんですよ。朝鮮戦争の極東作戦本部。昔の日本の陸軍の場所は、そのまんまアメリカ軍の作戦本部になっていて、そこは沖縄と同じような、鉄条網があるんだけども別世界なんですよ。こっち側は汚いんだけども、あっちは、アメリカのホームドラマに出てくるような緑の芝生があって、きれいな家がずっと並んでいて、日本の世界とは違う世界が見えるわけですよ。こっちはドヤ街みたいに汚いのに、あっち側は芝生が敷かれてるわけでしょ、きちっと家が並んでいて、むちゃくちゃきれいなわけですよね。小学校のときに日米交流なんとかっていうのがあって、僕が小さい時に体が弱いからって言うんで柔道を家の近くに習いに行けと言われて柔道習いに行ったんだけど、その柔道クラブの交流会がアメリカ軍基地の中であったんですよ。バスでアメリカ軍基地の中に入ったことがあるんですよ、小学校の時に。僕の記憶の中にあるのは、入って体育館みたいなのがあるんだけども、トイレがしたくなって、便所に行ったら便器があってどうしたらいいんだろうみたいな、座椅子用の。

鷲田:洋式ということですよね。

白川:すごい白いじゃないですか、全部きれい。クリーンで。ショックだったんですよ。家の便所と違う。すごく白いというか。マルセル・デュシャンの便器を見るたびに、小さい頃のその、白い!、おどろき、みたいな(笑)。万博はそれに比べてまったく胸がときめかなかった。

鷲田:小さい頃からデモは身近にあった。

白川:日常にたくさん見てるし、家の近くに共産党の運動やっている人たちがいたりとか、北朝鮮系、中国系の人たちもいたりとか、いろんな人がいたから。共産党系の人にはいろんなタイプがあって、戸畑には九州工業大学っていう大学があったんですよ。そこの大学の先生の中に、共産党関係の人もいたんですよ。そういう人はデモとかが近づくと町内とかで、わあっとアジテートして、やるわけですよ。家の地域の人とかが「あんなことやってるから大学クビになるんだよ」とか言って、でもその人は「革命!共産主義!」とかじゃないけどね、「大企業倒せ!」とか言っててね。それで、彼は大学をクビになって、塾かなんかやってたりしてたけれど。その人は良い家に住んでたな。それからもうちょっと向こうに行くと運送屋のおじさん、戦争で頭がちょっとおかしくなってるのかな、そういう人なんかが自分の会社のトラックに宣伝用のスピーカーつけて回るわけですよ。「福島運送をお願いします」とかなんとか言って、そのときに軍艦マーチかなんかかけてドアーッっと回るわけだよ。そしたら、だんだんおかしくなってくるんだよ、その人がね。また、製鉄所で汗まみれで、3交代で働いてる人とかいるじゃないですか。それから、戸畑は遠洋漁業の場所だったから、捕鯨船団の中心地だったんですよ。クジラを捕りに行ってる中継基地が戸畑にあったんで、日本水産の。今でも日本水産の大きな通信タワーが建ってるけども、クジラはそこでおろしてやってたんで、クジラで食べてる人達が結構いたんですよ。石炭売って生活してる人とか、あとは戸畑の港の近くに売春所があったから、水屋さんというか、その中にも小学校の友達とかいたんですよ。遊びに行くと、昼間は吉原みたいに桟がついてる通りがずっとあって、女郎街なんです。僕なんか、そういうところを出たり入ったりしてたのもあって。1970年の万博っていうのはね、いまいち僕にはわかんないんだよね。すごく超モダンなものは、そうかなあ、みたいな。もうひとつは、僕の記憶の中では、そういう変に入り組んでた街で、戸畑の山の手の方に行くと高級住宅街があるんですよ。八幡製鉄所の幹部の人たちだけが住んでいる地区が、戸畑の上の方にあるんですよ。その住宅地は工業大学のすぐ隣にあるんですけども、その中にキリスト教の学校があるんですよ。明治学園っていうのが。そこにはカナダ人とかフランス人とかアメリカ人のシスターとか神父が来てて、ある種の英才教育みたいなのを、やってた、日曜学校とか言って。僕も日曜学校に誘われたことがあるんですよ。中学校の時に。僕は後輩の男の子がいて、その子が「白川さん、日曜学校行きませんか」とか言って、その子はすごく英語ができてね、すごく優秀なやつだったんですよ。そいつは九大へ行って、その後、原理に入って南米へ行ってしまったと聞いています。その時は誘われて、それで一緒で行ったんですよ。行ってみたけどぼくは全然英語がだめで、でも外国人と話しているその雰囲気みたいなものが、興味があったのかもしれないし、ある種の外人コンプレックスみたいなものがあるじゃないですか、そういうことをやっていて、そのうちにね、外国人のシスターが走ってきて、向こうから走ってきたことがあるんですよね。それでなにかの拍子で目の前で倒れちゃったことがあるんですよ。バターン!っていって。そしたらスカートがパーン!とめくれちゃってね。全部おしりとか見えちゃって、そのときにこの人もこんなんなんだ。そのときに外国人のイメージがガサガサーって、崩れるような。

福住:それまでは映画の中のような外人のイメージしかなかった。

白川:そうそうそうそう。うちの親父はすごく映画好きだったから。毎週末、必ず家族を連れて映画に行ったんですよ。うちの兄貴も映画が好きだったんで。親父が行かなくなっちゃったら、つぎは兄貴が連れて行ってくれたんで、八幡の工場の中にあった映画館で、バスター・キートンとかデコボコトリオとか透明人間とか、洋画の映画ばかり見ましたよ。そういうものをずっと見てて、そのなかで海外ニュースがあるじゃないですか、映画が始まる前に。予告編もあるんだけど。その海外ニュースのなかで僕はイヴ・クラインをみたんです。

鷲田:こんなアーティストがいるというような紹介ビデオだったんですか。

白川:そうですね、イヴ・クラインがパリで展覧会やってて、パリの画廊で、何もない空間かなんかを展示してるときの話かな。何も無い空間なんだけどもそれを売りました、っていう(注:1958年、イリス・クレール画廊、「空虚」展)。それで小切手にサインしてやると、それに見合った金をもらうんだよね。最後にイヴ・クラインが、それをセーヌ川にぱーっと投げて「自然に帰れ」とか叫んで。

鷲田:それがニュースになってた。

白川:そうそう、それがバッっと記憶に残ってるわけですよ。僕はアートっていうと、そのイヴ・クラインのニュースのシーンがインプットされちゃってるわけですよね。そうだ、それがアートだ、みたいな。それが小学校くらいのときですよ。そのあと、ニュース映画で、マルセル・デュシャンのアパートに作られた扉の作品を見たのも覚えています。

鷲田:ストラスブールに行くぞ、という気持ちが出てきて、実際行くところまでは、どんな感じだったんですか。

白川:小学校の時に絵を描きたくないなという嫌な感じを持ったことがあって、それがある種、哲学を勉強しなきゃという気持ちになったんですよ。それは絵を描いてて、描いてたときに意識が、ふっと……。目の前のものを描いてるとしますよね、ここ(絵)の世界はこれ(実物)とは違う形で存在するんだみたいな、そういうリアリティーを強烈に感じたわけですよ。全然こっち(実物)とはちがって、こっちはこっち(絵)の法則があるんだよね。これをずっと描き続けて行くと、自分が元の世界に戻って来れない、気が狂っちゃうんじゃないかという、そういう恐れを感じて、絵を描くのは危ない、みたいな感じをもったんですね。そのことがずっと残ってて、何が何で、どうしてそうなるんだろう、それを知りたいというのがあって、いろいろ本を読んだりもしたんだけども、あまりはっきりしなくて、自分でやっていくと、それはやっぱり精神分析とか哲学とか勉強しないと、分かんないんだろうな、だんだんと絵を描くことよりも、現実と乖離が起こったその世界、意識というのは何なんだろう、みたいなことをずっと考えるようになっちゃったんですよね。それが哲学に向かう元になってるわけです。

鷲田:それで哲学を勉強するには、ストラスブールに行かないといけないということになったんですか。

白川:そうですね。哲学やりたくても、日本の大学はどこにも入れないし、調べていると、フランスの大学だったら高校の卒業証明書があったり、バカロレアのあれがあれば入れるって書いてあったから、フランスだったら行けるんじゃないかなって、わりと安易な感じだったから。ストラスブールにフッサールの文庫もあるって書いてあるし、行けば何とかなるんじゃないかみたいな。全然何にも考えないで親にも言って、最初は反対してたけど、最終的には。条件があって、家はお店をやっているから、お店を維持していくためのお金はあるんだけども、そのうちのちょっとの部分はおまえに使ってもいいけれども、これは今回しか使えないから、その後兄弟で何があっても、財産とか遺産とかありますよね。そのときにはいっさい口を出すな。出しません、みたいな。だったら出してやる、みたいな。それが条件で。

福住:奨学金とかいっさい当てにせずに。

白川:当てにする、っていうか、受験して通る能力ないですよ、僕。だって、フランス語だって自分でこうやって、調べてやってるくらいで、分かんないような状況だったから。

福住:フランスの滞在資金と学費はすべて親御さんから。

白川:途中までね。ストラスブールの時までは出してもらって、パリの時はずっとアルバイトしたりしたんですよ。ドイツの時は、全部奨学金が出たから、全然働かなくて済んだんですね。

鷲田:試験があるんですよね、ストラスブールに入るのも。

白川:僕のときは試験無かったと思いますよ。

鷲田:希望すれば入れたんですか。

白川:そうそう。高校卒業のバカロレアに匹敵する書類があればフランスは入れた、あのときは。語学証明書とかは必要ななかったんですよ。でも、初めは行っても分かんないから、1年ちょっと語学の勉強のためにストラスブールの中の講座に通ったんですよ。

鷲田:1年は語学の勉強をして、それから大学の方に。

白川:1年通っているなかで、僕には語学の才能がないなというのがだんだん分かってくるけど。 

鷲田:もちろんフランス語を勉強されてたんですよね。

白川:そうそう、フランス語してましたけどね。もう大変。

鷲田:1年間の語学の勉強の後、哲学のコースに入って。その頃はどういう授業だったんですか。

白川:ジャン=リュック・ナンシーの授業。まだ彼が若くて、心臓の手術する前ですよ。

福住:どういう授業なんですか。

白川:カントについて。

福住:カントについて!

白川:カントの純粋理性批判について。ジャン=リュック・ナンシーがいて、若い新入生の1年生のフランス人の学生がいて、「カントの話をやっていこうか」みたいな話になった瞬間に、フランス人のこちらにいる学生が、「そういう授業やめてほしい」とか言って、ジャン=リュック・ナンシーに。「なんでだ」とか言って、「こんなのブルジョア的でだめだ!」とか言って、「ジョルジュ・バタイユやれよ」とか「ニーチェをやれ」とか学生が言って、そしたら、ジャン=リュック・ナンシーが「いやいや、ここでは基本的なこととしてカントをやろうと思っているんだけども」とかって言ったら、さらにまた学生が、「カントなんかどうでもいいんだよ!」みたいな。議論がパーッって。白熱してきちゃって。「とにかくは、ここでカントを教えることになってるから」って言う感じで。カントの純粋理性批判の授業を始めるみたいになって、全部分担で、「誰さん誰さん何行から何行」って全部文章当てて、「こっからここまでおまえがやれ」みたいな。

鷲田:ゼミみたいな形式だったのですか。

白川:ゼミみたいな形式で。僕は1回しか出なかったですね。あ、これはもうだめだ、みたいな。これはおれ、もうわかんないや、みたいな。ドイツ語を参照してやらないといけないっていうのもあるから。パス!みたいな。

鷲田:他にも授業はいろいろあって毎日聞いているというような感じだったんですか。

白川:僕はその1回で完全にダメージ受けましたね。もうだめだ、みたいな。そのストラスブール大学の文学部から出てきて、どうしようかな、みたいな、ぶらあっと考えてたら大学の隣が美術学校だったんですよ。ストラスブール美術学校で。そこにふらふらっと入っていって。

鷲田:それは語学学校の後の1年目の時ですか。

白川:長く夢見ていた哲学だめだ、これは自分の能力を遥かに超えてるな、みたいな感じで。じゃあ日本帰るかなと思っていたんだけども、ちょうどビザの期限が切れかかっていたから、なんとかしなくちゃ。でも日本帰るかなと思っていたんです。そのときはね。それで、隣に美術学校があったから、ふらふらっと入って、上行っても誰もいないし。人があんまりいなかった。下の地下の教室に行ったら人がいて、版画のクラスかなんかだったんです。そこにいる先生が、「お前何しに来たんだ」みたいなこと言うから、「見学に来ました」って言ったら、「ここに入りたいのか」って聞くから、「ええ、まあまあそんな感じですけど」って言って、「そうか、ちょっと来い」って、そしたら石盤かなんかボンと渡されて、チョークあるじゃない、渡されて、「何でも良いから描け」と言われて、えー、何描こうかな、まあいいや、みたいな感じで、描いて、そしたら教師が、「明日から来いよ」みたいな、「事務所に登録しといてやる」みたいな感じで、「え!いいんですか」みたいな。その日から美術学校の学生になっちゃったんですよね(笑)。

鷲田:すごいですね。それからは毎日美術学校に行かれてたんですか。

白川:行ってましたよ。学生証もらったし、ビザもそれでもらったから、延長ビザがとれたんで。

鷲田:その版画クラスにいらっしゃったんですか。

白川:そうそう。

鷲田:そのままどのくらいそこに。

白川:そこに2年くらいいましたよね。そしたら教師にね、「そろそろお前、このクラスは小さいから、どっか他に行けよ」とか言われて、「ドイツに行くか、パリに行くか」と言われて、例えば、カールスルーエだったら(エミール・)シューマッハー(Emil Schumacher)っていう絵描きが、まあ版画も描いてた人だったんだけども、よく知ってるから紹介してやろうか、と言われて、パリに行くんだったらパリで紹介してやるぞ、と言われて、どうしようかな、みたいな。ストラスブールの時は充実してたんですよ。初めはフランス語が話せなくて、じたばたしてて、助けてくれる日本人なんかにも会って、その人が、「フランス語、白川くんできないんだったら、勉強しにくれば良いよ」とかって言って、語学学校のほかに、その人に毎週フランス語習ったんですよ。今和光(大学)の先生やっているんだよね。永澤峻っていうイコノグラフィー、パノフスキーかなんかの、翻訳した人いるじゃない(注:エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』筑摩書房、2002年を共訳)。彼は、早稲田大学出て、東大の辻さんについていたんでしたね。

鷲田:辻佐保子さん。

白川:そうそう。あの人についてたんだよね。

鷲田:その方がフランス語を教えてくださったんですか。

白川:ストラスブールの美術大学で、イコノグラフィーのビザンツ美術の研究してたんで、その人と偶然知り合って。その時に、日本人、何人かいたんですよ。たくさんじゃなくて、10人に満たないけれど、いたんですよ、その中の一人で、京都大学から来てる人もいたんだよね。京大の全学連の活動やってて、それで分かれて、それから来てた人がいて。彼と仲良くなって、よく飯をおごってもらったりしてたんだよね。ストラスブールはカトリックの学校もあれば、プロテスタントの学校もあるところなんですよね。ユダヤの学校もあるけど。プロテスタントの学校には神学の勉強をしに日本人の学生が何人かいて、その中に東大の歴史学から来ている石引正志さんって言ったかな、彼とも親しくなったんですよね(注:帰国後、青山学院女子短期大学教授となる)。親切で面白い人で。彼が「僕の友達がシュトゥットガルトにいるから、白川くんが遊びにシュトゥットガルトに行くんだったら紹介してやるよ」とかで、「じゃあ行きます」とか言って、シュトゥットガルトに内田(博文)さんと行ったんですよ。シュトゥットガルトにいた友達って言うのが三島さんかな。ニーチェ研究家の三島憲一さん。

鷲田:内田さんという人はどういう方ですか。

白川:今、退官したかもしれない、九大の法学部の先生にその後なったから。フランス革命時の刑法研究をやっていて、刑法の専門家なんですよね。

鷲田:ストラスブールにいらっしゃったんですか(注:内田博文は、1971年9月〜1972年7月、ストラスブール大学に留学)。

白川:そういう人との付き合いがあったんで。

福住:白川さんがその美術学校に招き入れた、その先生の名前は分かりますか。

白川:エデル。すみません、名前しか覚えていない。彼はすごく変わった人というか、職人上がりみたいな感じだけども、消防士やったりとか、普通の仕事やりながら絵が好きで、それで版画、というか絵を捨てないでやってきた人らしいんだよね。いろいろ話を聞いていくと。だから、いろんな仕事をやったり、いろんな街に行ったり、ニューヨークに行ったり、あっちにも行ったりこっちにも行ったりとかしてた昔の職人さんみたいな先生だったんだよね。90年代にサルキス(Sarkis)と知り合ったとき、パリでサルキスから聞いたんだけど、サルキスとすごく仲が悪かったみたい。サルキスがストラスブールの先生になったじゃない、その時、まだいたらしくて。でも、僕には親切だったよ、彼は、すごく。

鷲田:1年間、ストラスブールの美術学校にいらっしゃった後、パリに行かれたんですか。

白川:すぐにはパリには行かなかったんですよ。ストラスブールの学校の版画のクラスにいた時に、大学食堂に来ていて、知り合って話すようになって、よく美術学校に遊びに来るようになった日本人がいて、名前は今井真木君。彼は京美出身だったのかな。お父さんは芸大の音楽の先生だったと聞いています。彼がね、僕に、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)なんてのがデュッセルドルフにいるよ、というのを教えてくれて、彼は現代美術家。彼は美術じゃなくて、京美で建築をやってたんですよね。だから、学生運動とかにも関係してたんだけども。彼が僕に現代美術のいろいろなことを教えてくれて、それまで僕は現代美術の情報は無かったので、それで1度デュッセルドルフに行くのがいいとか言われて、でも、その時はヨーゼフ・ボイスはいなかったのかな。針生一郎がデュッセルドルフでボイスと会った時の通訳を今井君がやった。針生さんは、ドイツ語は読めても、会話ができなかったから。僕は1度ヒッチハイクでデュッセルドルフまで行ったことがあるんですよ、作品持って。そのときに、ボイスの親友という(エルウィン・)ヘーリッヒ(Erwin Heerich)とかっていう割と幾何学的なきれいな立体作品を作っている彫刻家の先生が、いるんですよね。彼に会ったんだよね。まあ、紹介されて会って、そしたら彼が「来るか?」とかいうから、「いや、デュッセルドルフ行きません」みたいな。で、戻ってきちゃって。

福住:なんでですか。

白川:ヘーリッヒの作品見て、ヘーリッヒの作品は幾何学的な感じで、きれいな作品なんだけども、僕は興味が持てなくて、パスした。そのときボイスはね、アカデミーにはいなくなっていたし。それでストラスブールに戻って来て、どうしようかなって考えてたら、ちょうどクラスの中で仲がいいイギリス人がいたんですよ。リチャード・ロバートソンっていう。彼と親友みたいに一番仲がよかったんだけども。彼はお父さんがストラスブールのヨーロッパ評議会ってあるじゃないですか。裁判所もありますよね、ストラスブールに。その評議会の議長に近いくらいの立場の人だったんだよね。イギリス人で、イギリスの外交官の結構上の人だった、僕は知らなかったんだけど。で、パリ大学とか、イギリスの大学でもお父さんが教えていて、彼と非常に仲が良くて、彼はお母さんがスペイン人なんだよね。バルセロナの出身で。お父さんは外交官だったから、あちこち行っていて、スペインの時にお母さんと知り合って、ストラスブールに評議会の関係で来てて。彼からも現代美術の話を聞いてて、彼に「ヨシオ、お前、ロンドン行かないか」とか言われて、ロンドンいいね、みたいな感じで。ロンドンの美術学校に資料を送ったことあったんですよ。そしたらなんか、「来るか?」みたいのが来たんだけども、ロンドン遠いしなんかやめよう、みたいな。ロンドンもやめて。

鷲田:ロイヤル・カレッジ・オブ・アートとか。

白川:そうそう。それでどうしようかなという感じで考えたときに、一番近いのは川越えて、ライン川越えて向こう行っちゃうと、ドイツじゃないですか。一番近いのは、カールスルーエが近かった。僕の教師も、カールスルーエにシューマッハーとかいうのがいるから紹介するぜ、とか言ってたから、じゃあ、カールスルーエ行こうかなと思って、カールスルーエ行ったら、シューマッハーいたんだけど、シューマッハーは、僕はフランス語ができないから、君に教えられないから、フランス語ができる先生を紹介するからそこのクラスに入れ、とかって言って、(ホルスト・エゴン・)カリノフスキー(Horst Egon Kalinowski)とかっていう、皮の彫刻やっている作家で、ポーランド系の作家(注:1924年、デュッセルドルフ生まれ)。中原佑介が評論書いてたね、その頃。そのポーランド人の作家のとこに入ってたんだけど、半年しないで出ましたね。けんかになって。

鷲田:半年間はカールスルーエにいたんですね。

白川:下宿して。

鷲田:そこで作っていたものは版画だったんですか、それとも立体。

白川:カールスルーエではね、僕は、版画の道具とか何にもないから、版画ってお金がかかんないから、道具さえあれば。油絵買うお金もないから。鉛筆と消しゴムだけだったから、デッサンやったりしてて。ドローイング描いてたり。カリノフスキーは面倒見が良かったんですけど、クラスのディスカッションは結構ハードだったんですよ。僕の他に日本人も、下村(宏)くんていって、今四国に住んでるのかな(注:高松市在住。大阪芸術大学卒業。1971年よりカールスルーエ国立美術大学で学ぶ)。東京でたまに展覧会やってるかな。下村くんはやっぱり版画。日本で黒崎彰っていう関西の版画家についてて、そっから来た人で、彼は版画専門で来てたんだけども。クラスの講評がある時に、彼がめちゃくちゃに言われるわけですよ。「お前日本から来てるのに、なんでパウル・ヴンダリッヒ(Paul Wunderlich)とかドイツの版画家みたいな作品作るんだ」みたいな。ぼろくそに言われて。それで、次、ヨシオ、お前、とか言われて、僕はある意味アカデミックな勉強したことないから、そのときに僕が出した作品は、こう、キャンバスがあるじゃないですか、キャンバス地に4つボタンを接着剤でつけて、こっちには同じ大きさのガラスに大型のスナップボタンがついてて、みんなの目の前で、ガチャっていって、はめて、こうして、また、はずしてみせるみたいな。

鷲田:がちってつくようなボタンだったんですね。

白川:ガラスがついたときのキャンバスの状態と、ガラスが外された時のキャンバスの状態。みんなが、ん……。誰も何にも言わないんだよね。「Das ist klar.」みたいな感じで。「もういいよ、お前」みたいな。僕の作品については、それ以後、彼は何にも言わないわけ。もう1人の日本人がぼろくそ言われるじゃない。だんだん話聞いてるとむかついてきて、クラスの中でわりと優秀なドイツ人がいるんだよね。がんばっているっていうか。彼は自転車を作っているわけ。すごくお金をかけて自転車を2つ3つくっつけたりとか。あるときに、関根じゃない、なんとかっていうのがいたな、自転車いっぱいくっつけて……。

鷲田:曽根裕。

白川:そうそう。ああいうタイプじゃ無いんだけど、アクションはしないんだけど、複数の自転車をくっつけて、オブジェみたいな、ある種のマシーンみたいなのを作る作家がいて、それが一番人気があったんですね。クラスの中でね。みんないいとか言って、ヨシオ、お前はどう思う、とか聞かれて、これは金があるからできるんじゃないか、とか言ったら、バーッっていってみんながなにー!みたいな。金があるからできるんだよ、金が無ければ誰ができるんだ、みたいな、僕たちは金が無いんだ、みたいな。そんなすごい激論が始まっちゃって。僕なんかできないフランス語だったけども、日本人のアイデンティティーみたいなものを要求するわけじゃないですか。お前たちの作品は浮世絵だろうとかなんだろう、とか。僕たちは、そんなこと言ったら、お前たちだってアメリカアートの影響受けてんだろうが、みたいなことを言ったら、ますますこう、カーッっとなってきちゃって、なにー、みたいな(笑)。

鷲田:そういうディスカッションのクラスは、フランスの時には。

白川:無かったですね。フランスの僕がいた版画のクラスでは、すごく特殊な人たちばかりいたから、そういう激論にならなかったんですよ。ストラスブールの版画のクラスはね、僕もそうだし、リチャードっていうそいつは全然関係ない版画作ってたし、一人のフランス人は完全に北方ルネッサンスの時代の版画、悪魔が出てくるやつとか、そういうやつを作ってたし。もう一人のやつは、大学のギリシャ古典文学を勉強して、卒業してきたやつなんだけど、そいつはサテュリコンとか、ギリシャ神話のテーマの版画作ってて、他の版画なんか興味ねえ、知ったこっちゃねえ、みたいなやつが僕の版画のクラスにはいたから。お互いにやっていることは分かっているんだけども。良いとか悪いとかは議論もしなかったですよね。全然。その中に一人だけ、前から版画のクラスにいる、フランス人の男の子、フランソワ・ガントナーがいて、地元のアルザス生まれの。彼はお父さんがその地方で有名なガントナーという絵描きなんですよ。その息子なんだよね。日本でも彼のお父さんはたくさん版画売ってるんだよね。アルザスの田舎のきれいな風景の。みんながそれを知っているわけですよ。その息子、彼はその重圧に耐えかねて、版画のクラスに逃げてきてるわけ。油絵のクラスとか彫刻のクラスにいると、ぐじゃぐじゃ言われるから、版画のクラスに逃げてきて、そういうやつがいたから議論なんてしないわけですよ(笑)。

鷲田:カールスルーエに行って、そういうのを初体験。

白川:そうそう。でまあ、議論議論でそういうふうになっちゃって、僕なんか、こんなクラス面白くないよ、とか言って、出て行くとか。次の日学校辞めます、とか言って(笑)。カールスルーエ出て、ストラスブール戻っちゃった。こんなのいれねえ、とか言って。最終的にどうしようっていうんで、じゃあパリ行くか、みたいな感じで。 

鷲田:その後すぐにパリに。

白川:そうです。パリに行ったんです。

鷲田:パリでも美術関係の学校ですか。

白川:パリの国立の美術学校ですね。その時も、僕の時は試験が無かったんですよ。だから、僕は自分のファイルだけ持って、セーヌ川のところにある美術学校に行って、ともかく入って、中庭から入って階段上って、上がった真向かいの教室、誰か分かんないけど、扉開けて入って。そしたら生徒がいてね、先生みたいのがいる。「ストラスブールから来ました」とか言って、「作品見てください」とか言って、作品見せて、そしたら「明日から来るか」って言うから、「来ます」とか言って、事務手続きも全部できて。ヤンケルっていう作家の人でしたね。ジャック・ヤンケル(Jacques Yankel)。彼はサルトルと友人で、1968年の時に学生の推薦で、プロフェッサーになった人らしいんですよ。ユダヤ人だけど、お父さんはあれだったな、名前ちょっと忘れた(注:ジャック・ヤンケルの父は、エコール・ド・パリの画家、ミシェル・キコイーヌMichel Kikoine)。ロシアからの亡命者ですよね。(マルク・)シャガールなんかと一緒に出てきた人。だから、昔のそういう話になるといろいろ出てくるわけですよね。(ハイム・)スーチンの話とかシャガールの話とかね。その頃は先生がそんな感じの人だったから、よく(ピエール=オーギュスト・)ルノワールの孫娘がクラスによく遊びに来てたんですよ。彼女はルノワールの孫なんだよ、とか言って、太って、おかしな女の子だった(笑)。

鷲田:その頃作られていた作品は。

白川:今度は絵を描く。絵を描こうかなみたいな。

鷲田:油絵ですか。

白川:いや、油絵はお金ないから、アクリルですね。

鷲田:カンヴァスにアクリルで。

白川:カンヴァス買うお金がないから紙ですね。パリのシャンゼリゼの屋根裏で描いてました。

鷲田:一つの画面の中で完結するような絵ですか。

白川:そうですね。

鷲田:具象的な絵なんですか。

白川:具象っていうか、半分ね、落書きみたいな感じかもしれないですけど。僕はすごくきれいに描けるわけじゃないから。

鷲田:抽象画ではなくて。

白川:それからだんだん抽象画になっていくんですよね。そういう風にパリで何年か、2年いたのかな、やっているうちに、サロンに出すかとか、いろんなこと言われたんだけども、サロンに行ってもあんまり絵が面白くないんだよね。当時は(サロン・ド・ラ・)ジュンヌ・パンチュールなんかは割と左翼的な傾向だったから、政治的なメッセージのあるような人たちがいて、やってたけど、他のサロンは全然何か、死んだような、サロン・ド・メイとかドートンヌとかとっくに死んでて、意味が無いような。外に行くと現代美術を扱っているような画廊があったりするんだけども、全然コミュニケーション(がない)というか、どういうふうにしたら繋がるのかが全然分かんなかったです。そういう世界と美術学校の。いろいろ考えたんだけども、パリの美術学校の中見ても、先生で一番あのときに現代美術に近かったのはセザール(César)ですよね。でもセザールは僕なんか作品見て、んー、なんていう感じだったし、日本からたくさん作家の人が来てたけれども、会う人会う人みんな具象の絵を描いたりしてて、イメージが違うんですよね。だから、その時に昔、デュッセルドルフに行った時のこと思い出して、じゃあドイツに行く方が良いのかな、なんて。

鷲田:例えば、イヴ・クラインとか、そういう人たちとは全く接点はなかったんですか(注:イヴ・クラインは、1962年に死去)。

白川:全然なかったですよね。彼のことは僕の記憶の中から完全に消えてましたよね。僕はデュッセルドルフに行くというので、ストラスブールのときに来ていた日本人、彼はまだヨーロッパにいたから、彼に連絡とって、彼の知り合いがまだデュッセルドルフにいるからっていうんで、この日本人に会えよとか言って教えてくれて、その日本人を尋ねて行って、アカデミーに作品持って行ったんですよ。
最初はなんか、その年にアカデミーのプロフェッサーになったばかりの先生で、(フリッツ・)シュヴェーグラー(Fritz Schwegler)、ドクメンタにも出た作家の人だけども、その人が新しくプロフェッサーになってて、その人紹介されて行きましたが・・・(注:フリッツ・シュヴェーグラーは、ドクメンタ5と8に出品。1975年から2001年まで、デュッセルドルフ美術アカデミー教授)。彼が作品は気に入ってくれたんだけども、事務所に行ったら、この日本人はドイツ語の証明書を持っているかとかいって、聞かれて、ドイツ語の証明書ありませんって言ったら、じゃあだめ、みたいな感じで。ぱっぱっぱって、はねのけられて。それでシュヴェーグラーに、「僕の力ではだめだから、ギュンター・ユッカー(Günther Uecker)っていうのがいるから、ユッカーに聞いてみたらどうか」って言われて、「彼は政治力があるからいいんじゃないか」って言われて、それでユッカーにアポイントをとって会ったんですよ。そしたら「自分のクラスはもう満員だから、新しい生徒はとりません」と。「でもまあ、わざわざパリから来てくれたんだから、作品についての批評だけは言うからそれを聞いて参考にしろ」、「はい」とかで、まあいいやと思って、作品見てもらって、そしたら、なんかユッカーが、「明日から来るか」とか言うから、「あ、そうですか」みたいな。「いいんですか」みたいな。「いい」とか言われて。「ドイツ語ができないんですけど」とか言ったら、「アーティストに語学は必要じゃない」とか、「誰がそんなこと言ったんだ」とかって言うから、「事務所の方でそういう話があって」って言ったら、「待ってろ」とか言って事務所に電話して、「ユッカーだ」みたいな感じで。「証明書が……」って、「関係ない!」みたいな感じで。その日からアカデミーの学生になっちゃった。

鷲田:ユッカーのクラスに入ったということなんですか。

白川:入ったんですよ。

鷲田:すみません、ユッカーっていう人、知らないんですけれど。

白川:ああ、ギュンター・ユッカーって、釘打ってる。東ドイツからの亡命作家。ひと世代前の作家ですが、ドイツ美術史には残る有名作家ですね。

鷲田:釘打ってる?

白川:(カタログを取り出して)こういう作品の。戦後の50年代、ドイツの最初の前衛運動始めたグループ・ゼロの中心人物。イヴ・クラインや(ルーチョ・)フォンタナなんかと仲間だった。ユッカーの妹さんはイヴ・クラインの奥さんなんですよ。

鷲田:そうなんですか。

白川:そうなんですよ。そういうので、イヴ・クラインの話は、ユッカーと知り合う中で、細かいイヴ・クラインの思い出とかね。彼からいろいろ。イヴはこうだったよ、とかね。話を逆に聞きましたけどね。ここで初めて、僕の小学校の時の記憶とイヴ・クラインが繋がりました。

鷲田:このクラスでは、みなさん、立体を作っている?

白川:立体も平面もいましたね。デュッセルドルフのアカデミーは、フライ・クンスト(自由アート)のクラスなので、絵画、彫刻というカテゴリーに分かれていなかった。本部のアカデミーの中ではなくて、アカデミーの外の、古い工場の跡を借りて、アトリエにしてたんですよ、アカデミーが。場所が無かったので。そこは、3つクラスが入っていて、ユッカーのクラスと、クラウス・リンケ(Klaus Rinke)、(ベルントとヒラ・)ベッヒャー(Bernd and Hilla Becher)のクラスが入ってたんです、3つ。ベッヒャーにもよく会ったし、(トマス・)シュトゥルート(Thomas Struth)とかいるじゃないですか、写真家の。よく知ってますよ彼も。

鷲田:シュトゥルートは学生としていた。

白川:そう、同級生だった(注:シュトゥルートは、1973年より1980年まで、デュッセルドルフ美術アカデミーで学ぶ。1976年よりベッヒャー夫妻のクラスに所属)。

鷲田:隣のクラスで。

白川:そう。おーい、何やってる、お前、みたいな。

鷲田:他のクラスの先生も一緒に作品を見てくれたりしたんですか。

白川:それは1年の終わり、ゼメスター(学期)が終わるときだけですよね。先生たちがずっと回ってくるわけですよ。普通は、担当の先生だけ。でも、どこのクラスも大体そうだったけども、月に1回くるかどうかですよね、先生が。

鷲田:その頃はどういう作品を作っておられたんですか。

白川:その頃は、僕はね、立体を作り始めてて、ドローイングと立体を作ってて。立体と言ってもね、お金がないので、捨てた木とか、そういうやつだけども。そういうのを作ってましたね。ユッカーのクラスに入って、部屋を見つけたりして、デュッセルドルフで住むようになったんだけども、初めはデュッセルドルフじゃなくてヴッパタールに住んでたんですよ、ダンサーのピナ・バウシュがいる。アカデミーの中に、学生の食堂で知り合ったのがいて、そいつがヴッパタールから来てて、ヴッパタールだったら安い部屋があるよ、とかって言うんで。ヴッパタールではよく、ピナ・バウシュの練習スタジオに遊びに行ったりしていたな。

鷲田:そんなに距離は無いんでしたっけ。

白川:電車で40分くらいだったかな。ヴッパタールには、ボイスのクラスにいて、ボイスと一緒に運動やった連中とか、そういうのもいましたよね。それから、ヴッパタールはアカデミーの学生仲間がいたし、(イルミン・)カンプ(Irmin Kamp)っていう女性の彫刻家のクラスにいた連中が何人かいて、そこのクラスの連中がヴッパタールに住んでたんだけども、彼らが自分たちでオルタナティブスペース、画廊やるとかって言うんで、画廊をやり始めて。展覧会をヴッパタールでやったりなんかしてましたよね。

鷲田:それに白川さんも参加されていた。

白川:はい。彼らは結構、フットワークが自由だったから、車でアムステルダムとかによく行って。あの頃はオルタナティブな活動をやる人たちがアムステルダムにもたくさんいたんですよね。コマーシャル画廊じゃなくて。自分たちで小さな印刷物を作って、ミニコミみたいのたくさん作ったりとか、そういうことをたくさんやってましたよね。フォルカー・アンディング(Volker Anding)が自宅を改造して、オルタナティブ画廊、出版をやっていた。

鷲田:デュッセルドルフには、そういうオルタナティブスペースは、あまり無かったんですか。

白川:僕が最初行ったときは無かったですよね。少なかった。結局デュッセルドルフは、メジャー中心のクンストハレがあって、有名なシュメーラ(Schmela)画廊があって、それからコンラート・フィッシャー(Konrad Fischer)の画廊があって。この3つがあったから、誰もがその3つのうちでデビューしたいと思っているのが普通だから。結局ね、ドイツの僕らの時代のときには、そのどこかでデビューできれば、やがて作家でやっていける道が開けるというような感じ。

鷲田:アムステルダムにも行かれたりしたんですか。

白川:行きましたね。

鷲田:それは旅行ですか、それとも。

白川:旅行じゃなくて、オルタナティブスペース回ったりとか。僕はデュッセルドルフでもあまり日本人と付き合わなかったから。日本人の作家の人とかいたけど、あまり付き合えなくて。偶然だけども、デュッセルドルフのアカデミーのそばのカフェでアメリカ人の作家、マイク・ヘンツ(Mike Andrew Hentz)、アメリカ人って言っても、国籍はアメリカ人だけども生まれはスイスなのかな。彼はパフォーマンス、音楽ライブが中心だったけども、アクションとか。マイクは、80年代に「ヴァン・ゴッホ・テレビ」(Van Gogh TV)というメディア活動などをやってドクメンタに出た。彼と知り合って、彼と一緒にいろいろあちこち動きましたね。初期の頃のアムステルダムのデ・アペル(de Appel)、あれの最初の頃の支配人、女の人、名前忘れちゃったけど(注:ウィース・スマルスWies Smals、1975年のデ・アペル設立時より、1983年までディレクター)、彼女に会ったりとか、彼女と、僕の知り合いのマイクは仲が良かったから、よくアムステルダムに行っていろいろ話したりとか。また、マイクはケルンにいるジグマー・ポルケの愛弟子と言われてました。

鷲田:ボイスとの接点はあったんですか。

白川:ボイスの接点は、僕がパリの美術学校に行った時に、同じ美術学校の中で知り合った、小西保孝、ヤスという日本人がいて。彼がその後日本に帰って、日本で画廊を始めたんですよ、江古田で。ギャラリー・メルドといって、その運営のためにいろいろヨーロッパから僕が資料送ったりしていて、その中で、ボイスにインタビューしてそれを画廊で出そうか、みたいなことがあって。それでボイスに手紙を書いて、返事もらって、3時間のインタビューに行ったりしましたけどね。その時ね、デュッセルドルフにいた日本人の人たちはみんな真面目に美術学校行ってたと思うんだけど、僕はほとんど美術学校にいなかった。スイスのチューリヒに行ったり、あちこち行ったりして。スイスのマイク・ヘンツがイタリア語、フランス語、ドイツ語、まあ英語もそうだけど、4カ国語全部自由に出来るから、ヨーロッパ中あちこち回ってて、人脈もたくさんあって。チューリヒのクンストハレかな、そこでパフォーマンスやるからお前も来いよ、なんて言って、行った事があって。そのときはフランスからはあれが出てましたね、オルラン(Orlan)とかっていう女の人、顔を手術する女の人いるじゃないですか、ポンピドゥーに出した、あの人が若い時に。

鷲田:その頃影響を受けたアーティストとか、面白いなと思ったアーティストはいるんですか。

白川:いやあ、いないなあ。

鷲田:この人、というようなピタッとくる人はいない。

白川:いないですね。周りの友達がそんなだったし、展覧会もクンストハレとか見に行ったりもするし、画廊も見に行ったりするけど、あんまり、他の人みたいにマメに行かなかったですよね。一番僕がたくさん行ったのは、シュメーラのところはよく行ったんですよ。作品っていうよりも作品を作っていく考え方は、シュメーラ画廊のオーナー、(アルフレッド・)シュメーラ(Alfred Schmela)氏から勉強したのかなって思いますよね。お金がなかったから僕は、クラスに入って1ヶ月経つ前に、ユッカーが僕に、「お前、金あるか」って言うから、「ありません」とか言ったら、「じゃあ」とか言って電話をして、「明日作品を見に来る人がいるから作品を机の上に並べておけ」とかって言って、作品を机の上に並べて置いていたら、シュメーラが来て、「作品見せろ」とか言って、見て、そしたら、「月にいくら必要だ」とか言って。その時の公費の留学生の人が月に8万円もらっていたんですよね。だから、「8万円、公費の留学生はもらってますけど」って言ったら、「8万円……8万円はちょっと高いかもしれないけど、6万円くらいだったら出せるんじゃないかな」とかなんとか言って。「じゃあ、月に6万円、お前渡すから、ここに行きなさい」とか言って、住所書いてくれて、「作品がんばって作れよ」とかなんか言ってくれて。「何かあったらいつでも画廊に来い」とか言われたから。シュメーラから地元の銀行の頭取を紹介されて、その人がすごいアートコレクターだったんですよ。それで、「シュメーラから電話もらってる」とか言って、「君に月6万円渡せばいいんだね」とか言って、「じゃあ、秘書に言っておくから口座教えてくれ」とかって。で、「時々デッサン、ドローイング持ってきてくれたらいいよ」とか言われて、それで、シュメーラのとこにも挨拶行って、いろいろ彼と話して、シュメーラは第二次大戦後、ドイツ美術を市場に持ち上げた人だし、ボイスとか、イヴ・クラインとか、荒川修作なんかもね、掘り出してやってきた人なんで、画商としてはトップクラスの有名な人で。彼のところにはよく遊びに行きましたよね。話していて、僕はいつか彼のところで展覧会できるだろうな、みたいに思ってたら、死んじゃったから。それでね、これはだめだあ、みたいな(笑)。

鷲田:デュッセルドルフにいらっしゃる間にお亡くなりになった(注:アルフレッド・シュメーラは、1980年没)。

白川:日本人だと、あそこでやったのは、原口(典之)くんと、筑波にいた彫刻家やってた篠田守男(注:原口典之は、1978年、シュメーラ画廊で個展。篠田守男は、1975年と1979年、シュメーラ画廊で個展。1979年より1994年まで筑波大学芸術学系教授)。

鷲田:篠田守男さんは筑波にいましたね。その後金沢にいらっしゃった(注:篠田守男は、2003年より2009年まで金沢美術工芸大学大学院専任教授)。

白川:そうかな。小さな金属彫刻で、金属の糸張ったりするような感じで、その2人とあと、荒川修作かな(注:荒川周作は、1963年、64年、65年、66年にシュメーラ画廊で個展。荒川修作オーラルヒストリー、2009年4月4日)。3人かな。

鷲田:シュメーラから作品について、コメントはあるんですか。

白川:コメントっていうかね、僕なんか言われたのは、ドローイングとかああいうの見て、「ダス・イスト・シェーン。カイン・プロブレム。」とか言われて、「もう、あとは自分のアートをやればいいんだよ」みたいに言われて。「はいはい」って。

鷲田:具体的にこうしろとかは無いんですか。

白川:フランスでもドイツでも、今まで僕の出会った先生方は、一度も僕にそうしたことを言わないね、そういうのはね。行くと、ちゃんとお金あるかとか、生活ができているかとかだけです。あとは先生たちの経験談、ボイスの話とか、他の作家のイヴ・クラインの話とかね。自分がこういう風にして出会って、ああいう活動をしたんだとかね。シュメーラからもいろいろな作家の話を聞きました。

鷲田:最初、奨学金とおっしゃっていたのは、その銀行との個人的な。

白川:そうです。個人的支援ですね。

鷲田:それはデュッセルドルフにいる5年間くらいは続いたのですか。

白川:途中でね、その銀行の人が警察に捕まっちゃうんですよ(笑)。収賄罪かなんか。知らないけど。コレクターのところはね、すごい良い作品たくさん持ってたんですよね。美術館に入れてもおかしくないくらいの作品をね、持ってた人なんだけども。それがだめになっちゃって。途中から、カール=ハインリヒ・ミュラー(Karl-Heinrich Müller)っていう実業家を紹介されて。まあ、この人だったら良いだろうみたいな感じで紹介されて。ミュラー氏は工業不動産屋で、フランクフルトとかデュッセルドルフに土地とか建物を持っている、大きな企業に工場を貸す不動産屋さんなんですよね。彼はデュッセルドルフの郊外に、インゼル・ホンブロイヒ、ライゲン美術館というプライベート美術館を持っているビッグコレクターでもあるんです。彼はデュッセルドルフの街の真ん中にも、いくつかのエリアで不動産持ってて。その1つのエリアに、彼のユートピアっていうか、考えだろうけども、戦争で残っていたのか、戦後建てたのか、安アパートが残っている一角があるんだけど、一般の人も入っているが、そこをアーティストにすごく安い値段で貸してたんですよ。演劇やっているやつもいれば、詩人もいたり、音楽家がいたり、美術もいるんだけども、そういう連中ばっかりが住んでいるアパートがあって、そこを僕も無償で借りて。

鷲田:デュッセルドルフの中ですよね。

白川:その銀行家のあとはね。それで、生活の方も面倒見てくれて。電気代はね、もらったお金から払えばいいから。

鷲田:そこに住んで、そこを制作場所にされてた。

白川:はい。制作場所は別。

鷲田:住む場所は提供してくれた。

白川:制作場所は、「クルトゥーア・アムト」っていう文化省がデュッセルドルフの市役所にあるんですよ。そこに行けばいいって言うんで、行くわけですよ。そうすると、一番上のディレクター、クルトゥーア・アムトのディレクターが出てきて、シュメーラから聞いてます、とか言って。赤字物件が、市が押さえてる工場があちこちにあるわけですよ。人が住んでない、競売にかかるようなやつが。それを出してくれて、その中のどれがいいかみたいな、1平方メートル1マルク。100円。メートル×メートルが100円なんですよ。

鷲田:月に1マルクなんですか。

白川:そうそうそう。だから、例えば、ここ(注:インタビュー場所の白川アトリエ)だと、1,2,3,4,5,6,7,8,9,10……だいたい2500円くらいで借りられる。そういう物件があって、そこを紹介してもらって。僕だけじゃないですよ。アカデミーなんかで、こう言ったらあれだけども、将来作家として有望だろうという生徒がいるわけですよ。例えばリンケのクラスだと、もうすでに有名になっちゃってるけどね、ラインハルト・ムハ(Reinhard Mucha)とかね。あの時、同級生だったけど。彼とかいろんな連中がいて、そういう人たちが、みんな揃って、そういうところに行くわけで。だからそういう古い工場に行くとそういう連中が他の階に入っていたりするわけですよ。そういうのは市で確保して持ってたから、アトリエはそこを使って、自宅の方は無償で。ユッカー、リヒター、リンケなども市から巨大な建物を無償に近いかたちで提供されていたと思いますよ。

鷲田:すばらしいですね。

白川:だからね、日本帰ってくると、全然違うなあ、みたいな。

鷲田:その頃は日本帰ってくるとは思ってなかったわけですよね。そうでもないんですか。

白川:いや思ってなかったですよね。

鷲田:このままドイツで作家としていこうと。

白川:いけたらなあ、とかって。いや絶対大丈夫だよとか、ずっと言ってて。でも、僕の方が個人的な問題もあって、家内の問題もあったし、いろいろ、個人的な問題もあったんで。家内の方はほら、精神科にも通ってたし、ちょっと心臓の方の手術もしなきゃいけないような状況もあったりして。いろいろね、そういうのもあるから。

鷲田:さしつかえなければ、結婚されたのはいつ頃だったんですか。

白川:結婚したのは向こうにいるときですよね。僕がパリの美術学校にいる時に知り合って。パリの美術学校でヤンケルのクラスに入って、1年目だったかな、僕がクラスの中でいろいろ任されて、半分助手みたいな感じでやってたから。その時に日本から留学生がくるわけですよ。そういう留学生の対応なんかも僕がしてて、その時に。

鷲田:奥さんもアーティストなんですか。

白川:絵描いたり。

鷲田:今も?

白川:作品作ってます。

鷲田:それで一緒にデュッセルドルフにも。

白川:いや、デュッセルドルフは一緒じゃなくてね。僕はデュッセルドルフに行ったけども、彼女はパリに残ってやってたんだけども。住んでいた場所っていうのがね、ちょっと人種偏見があるような人たちが住んでいる、安い労働者の人たちが住んでいるカルティエだったこともあり、ちょうど僕がいない間に結構近所から嫌がらせをやられたみたいで、それで精神的にもおかしくなっちゃって、それで知り合いから電報がきて、大変だ、みたいな。

鷲田:パリでということですね。

白川:それで僕がデュッセルドルフからパリに一時的にもどって、病院に連れて行って、全部手続きして、日本の両親にも連絡して、帰れるように、手続きして。僕も今まで何人か、ドイツでは見てないけども、パリにいた時は何人か、完全に精神的におかしくなっちゃった人を何人も見ているから、そういう人の対応、大使館に連絡しなきゃいけない、いろんなこと手続きのこと分かっているからね。

鷲田:それもあって、1回日本に帰ろうと。

白川:彼女は日本で生活していて、僕はデュッセルドルフにいて。それでユッカーとかから、俺の娘と結婚しろとか言われたんですよ。あとシュメーラからも、娘どう、とかも言われたんだけど。

鷲田:でもその頃は結婚されていた。

白川:いや、してなかったです。

鷲田:まだしてなくて、付き合っている状態。

白川:でも、よくよく考えたんだけどもね、僕には、シュメーラが死んだのがやっぱり大きかったですよね。シュメーラが生きていて、シュメーラが画廊として作家かかえているじゃないですか。よくシュメーラが僕に言っていたのは、「私の画廊で展覧会をすることはたいしたことじゃない。でも、私の画廊で展覧会をしたということは世界中の有名な画廊は知っている。それが重要なんだ。ここで展覧会をすれば、世界中のどこでも出て行ける」みたいな。「それだけの力がここにはある」とかって言うわけですよ。「だからいろんな場所で展覧会やらなくたって、ここでデビューできれば、後は勝手にレールが敷かれていくからいいんだ」みたいなね。そういう話を聞いたりする中で、いろんな話をしたり、個人的な話もあるけれども、彼ユダヤ人だったから、大変なときもあったりしたんだけど。「やっぱり作家と画廊の関係、交流は、単にビジネスじゃなくて、一緒になにかやっていく、クリエイティブにやっていく、そういう信頼関係がないと、やっていけないよ」とか言うんで、僕もそう思ったりもするし。シュメーラとボイスとか、見ているとビジネスだけじゃなくて、ひとつの信頼関係、そういうのが本来的な在り方なんだろうなあと思ったりもしてたから。彼が亡くなったのは、僕には、ドイツにいて僕を支えてくれる人がいなくなったな、という感じはしたんですよ。確かにね、残っていれば、残ってやれたと思うんだけども。でも、まあ、ねえ、難しいところですよね。うちのを切ってドイツに残るには、ドイツの人と結婚するのが普通だから。

鷲田:その後しばらくして日本に帰ってこられたのですか。

白川:そうですね。やっぱりシュメーラが亡くなり、一つの時代が終わったみたいな感じがした。次の時代、すでにコンラート・フィッシャーがずっとやっていたから、目先が利く人たちはみんなコンラート・フィッシャーにくっついて行くみたいな感じで。なかなかその後、シュメーラの後の画廊が、出てこなくて、デュッセルドルフからは。その後の画廊は、どっちかって言うと、ケルンとかシュトゥットガルトとかフランクフルトとか、他の土地から出てくるような感じですよね。

鷲田:日本に帰って来るのは、今度は逆に全然違う世界に飛び込むような感じですか。

白川:僕は何回か、デュッセルドルフにいる時に「日本のダダ」とか、いろんなことやってたから、日本に何回か戻ってきたこともあるし。それで少し日本のアート状況は分かってました。デュッセルドルフに初め住み始めた時だったかな。パリの関係があって行ったり来てたりしていたんだけども。原口くんがドクメンタで来た時にいろいろ彼も手が足らないし、言葉ができなかったりするんで、ちょっと手伝ったことあるんですよ。

鷲田:それが1972年頃?

白川:ドクメンタのときですよね。

鷲田:ゼーマンがやった時(注:原口典之が出品したのは、ハラルド・ゼーマンがキュレーションした1972年のドクメンタ5ではなく、1977年のドクメンタ6)。

白川:そうそう。《オイル・プール》を出した時だけども。その時もシュメーラとのやりとりもいろいろあったりするけども。いろいろそういうので、日本の作家の感じっていうのはさ、ものの考え方とか、全然ヨーロッパの人と違うな、みたいな。どっちかっていうと、先に社会的ヒエラルキーがあって、みたいな。人間関係もね。大学の閥みたいなのもさ。画廊の動き方なんかも、何回か資料探すために日本戻った時にちらちらと見たけども、ヨーロッパの画廊とは全然スタイルが違うし考え方も違うし、コレクターはいないし、評論家もなんか違う、美術館の館長も全然違う感じでしょ。だから、日本に帰ったら美術はもうやれないだろうな、とか思ってましたよね。

福住:最初の話で、絵画教室がすごく嫌で嫌でたまんなかったっていう話があったじゃないですか。それでヨーロッパ行って、パリに行って、ドイツ行って、いつの間にか版画やりながら、絵をやったりするようになったんですよね。その気持ちの変化は自分の中ではどういう風に。

白川:なかなかねえ、自分で自分のことが納得ができなかったですよ(笑)。自分がやだなと思って、やりたくないなと思っているもので、自分のいろいろの状況のときに、美術に助けられていく、みたいなのは、すごく納得いかないな、みたいな。こんなのやりたくないのにな、みたいな。ずっとありましたよね。

鷲田:美術を始めてからも、哲学の本は平行して読み続けていたのですか。

白川:読んでましたよね。デュッセルドルフにいた時も、フッサール、メルロ=ポンティ、フロイトとか読んでましたよね。

鷲田:ドイツ語やフランス語でですか。

白川:いや、できないんで、日本語で。読んでましたよ。やっぱり自分は語学の才能がないなあ、というのがつくづく、いろいろなところで身にしみて分かるんだけど。ユッカーのクラスにいる時なんか、ユッカーは顔が広い人だから、いろんな人が来るんだけども、デュッセルドルフの美学の先生は、名前ちょっと忘れちゃったんだけども、ハイデガーの直弟子が、デュッセルドルフの美術学校の美学の先生やってたんですよね。日本の理想社から彼の本が出ていました。ハイデガーのことも知ってて、ユッカーと仲よくて、よくクラスに遊びに来ていて。そしたら、お前も哲学やってたんだからいろいろ話をしろよ、みたいな、そんなね(笑)。だから、自分がやりたくないなあって思ってたもので、やっていくことで、周りの人に、それはいいんじゃない、みたいなことを言われること。違和感がずうっとあったんで、それもあったと思います、僕はパリの時もそうだけども、デュッセルドルフの時も他の日本人の作家の人と、あんまり付き合わなかったのも。あんまりアートの話をしても興味がなかったし。僕は学問としての哲学ではなく、生活の中の哲学をやるのがいいと思っていました。

鷲田:自分の美術作品に、哲学への関心が反映されていると思うことはありますか。

白川:それはありますね。デュッセルドルフで作っていた時に、例えば、運動とかエネルギーとか。空間の中にものとものを置いて、ぶつかって、運動が流れていくんじゃないか、とか、そういうインスタレーションを考えて、プランを立てたりとか。言葉と、形と、イメージ、意識を繋げるように丸のシリーズのドローイングをたくさん描いて発表したりとか。でも、自分はね、ストラスブールにいた時思ったんだけど、留学に来てる他の人たち見てて、語学の才能がある人っていうのは本当にいるんだなあと思ったりもしたから、人間的に良いか悪いかは別だけど。ストラスブールにいましたよ。親が大学の教授かなんかで、その息子さんで、まあ半分ヒッピーみたいな。ヒッピーとは言わないけどでもそんな感じで、来てて、やってる人で。でもすごくよく英語、フランス語ができて。他の日本人からすごく馬鹿にされてるけど、でも、そういう人いましたよね。小島剛一さんですね。トルコ語の専門家になったと聞いています。あのくらいフランス語話せないとやっぱり、哲学の話もできないだろうなって。僕なんかは現象学とかって思っていたけども、やっぱり自分の生活していく中で、現象学やればいいのかな、みたいな(笑)。自分の作品が現象学なのかなとかね、そういう風に思ったりしましたね。ストラスブールの時はそんなに日本人には会わなかったんだけど、パリは、日本人で来ている人たくさんいるじゃないですか。そういう人たちに会うわけですよ。何かのときに。別に友達とかじゃないけど。そうすると、何々会、何々会とかさ、みんなあって、全部日本とつながっているわけですよね。何々先生とか、みんな。

鷲田:それは美術の人のグループですか。

白川:僕が最初パリに着いた時に泊まるところが無かったから、ストラスブールの郊外に住んで彫刻をやっていた山根さんと知り合っていたので、山根さんから聞いて、モンパルナスの近くのホテルに行ったんですよ。そしたら、そこは代々、絵描きの日本人が泊まってるホテルで。そこに入った瞬間に、トントントントンっていって、人が来て、僕はどこどこで絵を描いている何々なんだけど、って言って、君が今度来た人だね、へえ、みたいな(笑)。

鷲田:そういうコミュニティーというか。

白川:エコール・ド・パリ以来の日本の画壇仲間。そういう話をあちこちでパリでは聞いていて、そういうところと僕は全然関わらなかったですね。デュッセルドルフはデュッセルドルフで、国費で来ていた人たちもいるから、やっぱりそういう人たちはまとまっていたりしてるし。植松くんはデュッセルドルフに前から来ていて、植松奎二。割といいアトリエもらってたんだよね。クンストハレの館長と仲が良くて、それの紹介とかで、やってて。彼はドクメンタに出たかったんだよね。でもドクメンタに出れなかったんだよね。でも、ヴェネツィア・ビエンナーレに出れたから、いいのかもしれないけど(注:植松奎二は、1988年にヴェネツィア・ビエンナーレに日本館代表として参加)。そういう話が日常に出てくるわけ。それでたまに、河原温さんが、ドイツに営業で来たときに、彼のところちょっと遊びにくるんだよね。麻雀でお金稼ぎに(笑)。そういうときに集まる作家がいるわけさ、日本人の。僕はそういうところにも出入りしなかったな。そういう人たちはみんな、話聞いてると美術信じてるんだよね。作品とか美術とか。僕はそういうのは、未だによく分かんないですよね。信じられないというか。こっちのイマジネーションというか、この自分の見てるこっちの世界に自立してるみたいな、繋がりがあるかもしれないけども繋がりがないような、そういうのがあって、そこをさらに行くと違う次元になっちゃって、二度と現実世界に戻って来られないような、気が狂うような状況の世界が開かれて、そういうのがあるんだろうなあ、芸術には美術には、って。そこまで行かないと、美術っていうのは見えてこないのかなって気もしたりするから、見えているもので美しいとか美しくないとかっていうのは、僕にはどうでもいいんだよ。未だに探してるんだよ。分かんないですね。