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杉浦邦恵オーラル・ヒストリー 2008年9月15日

ニューヨーク、チャイナタウン、杉浦邦恵の自宅兼スタジオにて
インタヴュアー:富井玲子、池上裕子
書き起こし:鈴木慈子
公開日:2009年8月15日
 
杉浦邦恵(すぎうら・くにえ 1942年〜 )
写真家、美術家
名古屋生まれの東京育ち。1963年に単身渡米、シカゴ・アート・インスティテュートで写真を中心に学ぶ。在学中に制作した、人物と風景をモンタージュしたカラー写真のシリーズで独自の様式を生み出す。大学卒業直後の1967年にニューヨークに移り、写真誌に作品を出版したり、画廊で個展をしたりして、写真家としての生活を始める。カンヴァスやアルミニウムに現像液を塗って、画像を拡大して焼付ける方法もこの頃見出し、1970年の「ホイットニー・バイアニュアル」展に作品が選抜された。1981年にはフォトグラムに移行する。第一回目では、写真家としての生活を成立させるまでの苦労、制作プロセスなどを詳細に語り、第2回目では、交友関係やギャラリー、美術館での展覧会のいきさつ、そして近作の《アーティスト・ペーパー》シリーズの制作背景などを語っている。

富井:じゃあ最初の方から、一応年代順に、生まれたところから聞いていきます。前に、生まれた年を公表したくないということがあったんですけれども、今でもお気持ちは。

杉浦:今度のニュージャージー(サミット(Summit)市ヴィジュアル・アーツ・センター・オブ・ニュージャージー (Visual Arts Center of New Jersey )での個展)のも、入ってないんですよ。たまたまレスリー(Leslie Tonkonow、レスリー・トンコノウ・アートワークス&プロジェクツ (Leslie Tonkonow Artworks & Projects)のディレクター)からバイオ(グラフィ)渡ったら、あれには入ってないんですよ。そしたら、そのキュレーターの方(チャールズ・スタインバック(Charles Steinback)は「自分が3ページ書くところに、あなたがいつアート・インスティテュートに行ったと書くから、(生年がなくても)全然かまわない」って彼は全然、気にしなかった。だから私は、このインタヴューはいいです、入れます。私もまじめな作家だから、まじめな場合っていうかな、そういうのがいいときはいいけど。何て言うのかな、「メイキング・ア・ホーム」みたいなショー( “Making a Home: Japanese Contemporary Artists in New York,” 2007年にジャパン・ソサエティ(Japan Society)ーで開催)で、若いジェネレーションと古いジェネレーション、て言われると、やっぱりカチンとくるわけですよ。なぜかっていうと、やっぱり古いところで出したっていうのが目に見えてるから。だから嫌だって言ったんです。作家として、作品が若いんだからいいじゃないって思って。それは全然、偏見と独断の反対側かなんか知らないけど。だって私の入ってるショー、いっぱい20代の人とやったりして、別に私は自分が60代でも作品は20代だって通ってたっていいと思うんですよ。でも何となく見る人は、やっぱりフィルターを付けると思うんですよ、歳が書いてあれば。だからしたくないって、そういうときもあるって。だから頑強にいつでも嫌とは言わないです。だから逆に私なんかは、ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)ではないけど、私みたいな人でもまだ制作やってるよって言って、若い女性の作家とか、そういう人に励ましになると嬉しいし。そういうことも重要だとは思うんですよ。だから、その場合によって。だけど、あのときはね、なんか嫌だなと思ったの。

富井:わかりました。じゃあ、1942年ということで。何月何日っていうのは。

杉浦:11月の23日で。日本では、勤労感謝の日なんですよ。いつもお休みだったんで、よかったんですけど。

富井:名古屋でお生まれになったんですか。

杉浦:そうです。ていうのは、父が名古屋の人で、母は静岡だったんですけど。結婚して名古屋に住んでいたので、そこで産んだんですけど。戦争中に、すぐに静岡の方に母と私たちは戻ってきて。だから私の記憶には名古屋は全然ないんです。だから1年半ぐらいしか名古屋には生まれてから住んでないんです。

富井:1年半、名古屋に住んで。

杉浦:42年の11月に生まれて。戦争が終わったのが44年(45年の意)の8月で。だから2年足らずなんですって。父(田中誠三、母の氏を称する入籍親権で、杉浦邦恵を名乗る)が死んだのが、戸籍帳簿を見ないとわかんないんですけど、私が1歳半ぐらいのときだから。ほんとに短いときしかいなくて。私の中で名古屋っていうものは何もないんですけど。いつも「名古屋」って出てくるから、名古屋に行ったら、すごく名古屋の人は、すごい意識が強いんですよね、それでいつも歓迎してくれるんで。なんかすごい照れくさいんですよ。

富井:じゃあ静岡にお母さんと一緒に疎開されて。

杉浦:おばあさんとで。なぜかっていうと、父がその時点で死んだので、うちの母は仕事を求めて、友達の助けで、東京に働きに出たの。私とおばあさんだけ、子どものときは住んでて。小学校の1年から東京に移ったんです。

富井:ああ、そうなんですか。それでお父さんはどういうお仕事を。

杉浦:うちの父は、いまのセイコー時計に勤めてた技師だったんだそうですけど。戦争中はそこが爆弾なんかつくる工場になったので、そこで爆弾かなんかつくってて、それで爆撃されたの。だから名古屋はすごくやられたそうなんです。それで、全然、いわゆる死んだ様子とかわかんなくて。もうビルディング自体が飛んじゃったらしいんですけど。だから私の記憶には、写真が、両親の結婚式の写真が一枚あるだけで、父ということはわからないです。最初からエンプティです。

富井:で、お母さんは東京へ行かれて。お父さんが亡くなった後。

杉浦:うちの母とその伯母(母の妹)、伯母が母みたいな人なんですけど、ふたり行って、友達と東京に住んでまして。おばあちゃんと私と、一番下の伯父さんっていうのがまだ若かったんですけど、3人で田舎の家にいたの。

富井:お母さんはどういうお仕事に就かれたんですか。

杉浦:うちの母は、昔は音楽の教員とかしてたんですけど。東京に行ってからは、テイラー、洋服がちょっと縫えたんですよ。

富井:洋裁ですか。

杉浦:うん。それで男の人のテイラーのとこに入ってたんだけど。そのお店が、立川の米軍基地にお店を出して、そこに一緒に彼女も行かせられて。そのうちに、そこのデパートメントみたいなPX(注:Post Exchangeと呼ばれる駐屯地の売店)というところで、スーパーヴァイザー(店長)を求めてて。うちの母は、ちょっと音楽とかで、耳がわりかしよくて、すぐ英語とかがわかったんで。応募して、そこでスーパーヴァイザーになったの。それで、アメリカ人の友達とか家族とかがいっぱい友達にできてきて。私も子どもの頃、うちの母が連れてきたりして。うちの母も私もアメリカはすごくいいとこだって思って。うちの母は、ハワイとかウィスコンシンとか、遊びに来たこともあって。で、「邦恵ちゃんはいつかアメリカに行って勉強してほしい」って思ってたんです。だから、日本人の中ではとっても変わってたかもしれないですね。

富井:そうですね(笑)。

池上:すごく進歩的な。その世代では。

杉浦:進歩的っていうか。アメリカにパッと触れて。でも、うちの母なんかが言うには、戦争終わるまでは、戦争が終わったら皆殺されるとかね、アメリカに殺されるとかすごい怯えてたらしいんですけど。来てみたら、アメリカの人たち、個人的にはすごいフレンドリーで。それで、うちの母たちはすごいころっと寝返りして、アメリカ側になって(笑)。それでだから私も何か、すごくいいところなんだなと思ってたんです。それからいろんなカルチャーとか音楽とか、全部アメリカから入ってきて。だから、行くかどうか、でも行きたいと思ってました、小さい頃。

富井:お母さんが音楽の先生をなさってたっていうことは、師範学校か何か。

杉浦:何かね、短大ぐらい出てね。田舎だったんでね、短大ぐらいで教えられたらしいんですよ。だから23歳ぐらいで結婚して、その頃田舎では23歳っていうとオールド・メイドだったらしいんですよ。それであわてて結婚して、名古屋に行って、子ども産んだ(笑)。

富井:他にご家族の中で、芸術関係っていうか、アート、音楽、何でも芸術一般でいうと、何かそういう関係されてたっていう方は。

杉浦:今京都に住んでる、いとこになるんですけど。うちの母の姉の息子が、樋上千哲っていうんですけど。彼と奥さん(樋上さや子)は染色美術、工芸っていうんですか、それをずーっとやってて。日展系なんです。

池上:ひょっとして、京都にいらっしゃる?

杉浦:京都です、今も。

池上:息子さんとお友達です。

杉浦:あ、ほんと?全然知らない。

池上:彼、阪大所属で(笑)。

杉浦:ほんと?全然知らない(笑)。

富井:じゃ、つながってましたね(笑)。

杉浦:つながってましたねえ(笑)。私全然知らないんですよ。千哲ちゃんというのはね、すごい憧れてたんですけどね、子どものとき。バレー、野球とか上手かったんですよ。だけど、なぜか芸術の方にいって。でも彼の影響は全然ないですけど。わりかし、彼はすごい尊敬されてるんで。いい人らしいですけど、あんまり知らないです。

富井:「メイキング・ア・ホーム」のインタヴューのときに、8歳のときに最初にアートを意識したっていうかたちでおっしゃってたんですけれども、そのときのエピソードもう一度お聞かせいただけますか。

杉浦:3年のときの担当が男の先生で。もう名前は忘れちゃったんだけど。すごい文学とかアートが好きな方で。それで、すごいそれに力を入れてくれて。それで最初に、春、私たちのすぐそばに明治神宮があって、桜がいっぱい咲いてるわけですよ。それで「今日はみんなで桜の絵を描こう」って連れてってくれたわけですよ。みんな何か描いてるんだけど、私はね、その中で、古い松の木がとってもきれいだと思ったんですよ。それで何だか知らないけど、松の木をばーって描いちゃったんですよ。しょうがなくて端っこも、ちょっと桜入れたんですけど(笑)。何かね、すごい、できちゃって困っちゃったなと思ったんですよ。他の子はピンクにやってるのに(笑)。先生がそれなのに最後に「これはすごい、これはとってもいい」って取り上げてくれたんですよ。それで、そのときに「ああ、何か勝手なことしていいんだな、アートは。言われたことしなくても」。それで「すごい嬉しい」と思って。それから、その先生がすごいポエトリーが好きで。放課後のときにポエトリーを教えてて。ポエトリーっていうのも、すごい、自分の思ったことを勝手にぱんぱんぱんと書けばいいんだなって。彼がすごい誉めてくれたんですよ、いつも。それで、私は何かああいうところにいきたいなあっていうふうになって。そのうちに、何かね、絵を描くと、いつもいつもほめられたり、何か表彰されたりして。小学校時代のクラスメートは、私が絵描きになると思ったんです。ところが、そう思われると、私もまたすごい生意気なものだから、絵描きにはなりたくないと思って。体操がすごいできなかったんですよ。鉄棒なんかぶらさがると、ぶらさがったっきりで、何もできなくて。それで、一生懸命練習して、体操ちょっとできるようになって。中学校からバレーボールやったんです。バレーボールとテニスやって。いわゆる、スポーツができるとちょっと格好がいいとみんなも思われるし、自分も気持ちがよかったから。それで、絵とかは、ずっとあんまりしなかったんです。

富井:しなかったんですか。

杉浦:ていうか、したけど。それを、絵描きになろうとかいうことを抑えたんですよね。

富井:ちょっと戻りますけども、いま明治神宮の近くの小学校と。じゃあ東京のおうちはどこだったんですか。

杉浦:一番最初は、山谷小学校(渋谷区)って、代々木ですか。そこのところに新興宗教があって。そこが拡大してきて。うちのところの隣まで買っちゃったんですよ。で、すごいうるさいから、その人たちに家も売って、それでもって、代々木から初台に移ったんです。中学校が初台のところだったんで。小学校もすぐそばで、今度中学校もすぐそばで通えるようになったんですけど。そのへんちょっと動いたんです。でも渋谷区です。

富井:わりと中高とスポーツを一生懸命やったので、ということで。でも自分で何かお絵かきをするとか。

杉浦:絵はやっぱり好きだった、すごい好きだったですよ。だけど私のおばあさんが、すごいオリジナル・フェミニストみたいな人で。すごい、女の人も大学とか、弁護士とかお医者さんにならなければいけないって、自分の体験から思った人で。それで、私が5年か6年、5年の終わりぐらいかな、家庭教師をつけてくれた、住み込みの。

富井:住み込み!

杉浦:ていうのも、家に一部屋余ってたんですよ。そして近所に東大の先生がいて。その弟子で、学生寮にいるんだけど、うるさくて勉強できなくて困ってる人がいるって。その人(田中利雄)がうちの部屋を借りてくれて。その部屋代の代わりに私を教えてくれたんですよ。それでその人が重要な人になったんですけど。彼は、科学しか頭の中にない人で。アートとかそういうものは全然認めない人で。絶対そんなものしない方がよくて。とにかく、何というか、アインシュタインとかああいうのをやって、科学になった方がいいって言うんで。彼はそれだけ私に教えたわけです。

富井:家庭教師は、数学と物理と、そういう理科系の。

杉浦:そうそう、そういうのだけやったんです。それで、何となく、ほら、そっちの方にいって、お茶大(お茶の水女子大学)の物理に入ったんです。

富井:お茶大ですか。

杉浦:そうなんです。

池上:では物理を専攻された理由というのは。

杉浦:彼の影響がすごい大きかった。彼は、彼も絵が好きだったんですけど、「絵はホビーにしておきなさい。日本では伝統的に学者はいつも絵を描いていたから、それは当たり前のことだから。でも、それで生計をたてるとか考えると、ゴッホみたいになるから」(笑)。そういう感じだったんですよ。

富井:でも、ちょうど1950年代ですね、それはね。

杉浦:ていうか、私が63年に、63年ですよね、アメリカに行ったのは。そのとき20歳だから。その頃は、まだそういう考え方の人が。まだ豊かでなかったですよね、戦後で。

富井:代表で出てくるとしたら、ゴッホみたいになると困るからっていうことになるわけですね(笑)。

杉浦:止められるわけですよ。

富井:今だと誰かわからないけど。

杉浦:今だったら村上(隆)とか派手な人がいっぱい出てきちゃったから。逆に親はアーティストになれって言うかもしれないけど。

富井:そうですね(笑)。

池上:一発当たるかもしれないという。

杉浦:そうそう。

富井:そうすると、物理やめて、アートにやっぱりしようと。20歳で。

杉浦:それで、私、駒場高校っていうとこだったんですよ。

富井:駒場って、進学・受験校ですか。

杉浦:ていうかね、昔の府立第三で。何というか、女性の方が多くて、プロポーションが3分の2女性で、3分の1が男の人だったんですよ。女性の方が、何というかな、点数がよかったんですよ。それで、女の人も、たくさん優秀な友達がいたんですけど。とにかく、どう言ったらいいかな、そこで、お茶大に入って。一年間したときに、「アルムナイ(Alumni)」っていう同窓会があって。そしたら同じクラスの女の子が一浪して芸大に入ったって言うんですよ。それを聞いたら、すっごいうらやましくて。私は物理に入ったんですけど、お茶大の物理は、受験以上にもっとやること、勉強しなければいけなくって。それこそデートとかそんな遊ぶ暇もなくて。もう毎週、毎週、実験室に入ったり、勉強しなきゃならなくて。それでもううんざりしてたんですよ。そうしてわかってきたことは、その挙げ句の果てに、物理で修士課程に行って、博士課程行って取っても、まだその時代は女性だと高校の先生ぐらいになれるのが一番良くて、下手すると小学校の先生とか。すごい先がわかって。優秀な先生はみんな外国に出てたんですよ。原子物理とかそういう派手なところは外国に出てて、残ってるのは、何か粒子力学とか古い物理の人で。あんまりとりたく、何て言うかな、フォローしたくないような先生は残ってるんですけど(笑)。それで、こんな勉強して、ああいう端っこに押し込められちゃって、それで、ばかな男の子かなんかがいる高校に入り込ませてもらうのができるかできないか。こりゃ、やだなーとか思い始めて。それでもって、その女の子が入ったっていうのを聞いて、私も絶対アートやりたいと思ったんですよ。ところが日本では芸大とかの試験では、実技がすごいあるでしょう。私、それ全然やってないから、日本じゃ無理だっていうんで。それでシカゴの学校を受けたんです。

富井:どうしてシカゴだったんですか。

杉浦:どうしてシカゴかっていうと、ちょうどそれもうちの近所に、ミルウォーキー(Milwaukee)の学校を出てきた人がいたんですよ、女の人で。その人にみてもらったら、ミルウォーキーのそこもいいけど、そこはアート・センターっていったのかな、いくつかいいところを教えてもらって。でも、「シカゴ・アート・インスティテュート(Chicago Art Institute)がいいから」って言って。それでアメリカの大使館かどっかに行って、資料取り寄せたりして。あそこだったら日本から受験できるっていうんで。やったら、受かって、入ったんです。

池上:そのミルウォーキーに行ってらした方というのは、日本人で行ってらした方ですか。

杉浦:日本人の女性で行って勉強して帰ってきて。その人はデザイナーだったんですけど。それで、受験の時の実技の作品とか見てもらったりしたら、一回目持って行ったら、「これじゃ絶対落ちるから、もう一回やり直し」って言って(笑)。もう一回、6週間かけてがんばったんですよ。で、持ってったら。

富井:絵を描いたんですか。

杉浦:それもあったし。思いっきり覚えてるのは、つまようじで3Dのデザインをするとか、彫刻みたいなのするとかね。それからドローイングとかもあったんですけど。いくつか課題があって、それをやったんです。彼女が、2度目に持ってったら、「これなら大丈夫」って言ってくれたの。彼女どんな人だかもう忘れちゃったけど、すごい彼女にお世話になった。

富井:大学へ入るときに科学を教えてくれた人、それからミルウォーキーから帰ってきたデザイン家、節目節目で重要な人が立ち現れてきてますね。

杉浦:そうですね。そのときは別に何でも、たまたまその人が知ってるからとか言って、誰かが紹介してくれて、会いにいったぐらいなんですけど。今思うと、ピヴォタル・ロール(pivotal role)っていうんですか、重要な役目を私にしてくれたと思いますよ。

池上:で、シカゴのアート・インスティテュートを受けられて、入った。

杉浦:一応、入ったわけ。

富井:何か専攻とかあったんですか。

杉浦:一年目は、あそこは自由なんです。ただファイン・アーツかデザインか。そんな決めなくてもよかったと思う。とにかくクラスが6つあって、一年間。そのひとつに、オリエンテーション・コースっていうのがあって。ウィーヴィング(weaving)とか、セラミックとか、写真とか、それを6つぐらい教えるんですよ。で、それを取ってるときに、私がすごくひっかかったのが、私はウィーヴィングが好きだったんですよ。でも1学期しても、このぐらいしかいかなくて。

富井:このぐらいって。

杉浦:何か、織るんですよ。手で、自分たちで、買って。それが、もういくら織っても、6週間だとこのぐらいしかいかなくて。

富井:じゃあ、10センチか20センチぐらいしかいかないってことですね。

杉浦:でもすごい好きだった、やってるのはね、何か。それからセラミックはね、先生が私のことをすごい好いてくれて。「そこに来なさい」って言ったんだけど。何か、爪に粘土が入るんですよ。それがすごい自分で何か嫌だったのね。それから写真は、他に誰も取る人がいなかったの。写真の先生が一生懸命「取れ、取れ」って言ってくれて。

池上:勧誘されたんですね(笑)。

杉浦:そう(笑)。それで写真に入ったんですよ。

池上:じゃあ、シカゴを受けるときから写真でやろうとは思っていなかったんですか。

杉浦:最初はね、だからほら、理科系だったから、工業デザインか何かを、アートだけどやろうかなと思ってたんですよ。アートとサイエンスの両方を結んで。入ってみたらデザイン科はよくなかったんですよ、アート・インスティテュートは、私が思うには。それで、やっぱしアートがいいなあって思ったんですけどね。その頃ちょうど、ポップ・アートが入ってきたんですよ。それで、最初のすごい大きなショーが「シカゴ・アンド・ヴィシニティ・ショー(Chicago and Vicinity Show)」って、ホイットニーのバイアニュアルみたいなショーなんだけど。シカゴあたりのアーティストと、ニューヨークなんかで流行ってるアーティストが招待されているんです、アート作品が。それで、最初にね、何だっけ、アンディ・ウォーホルのコカ・コーラの絵とかをみたの。全然わかんないんですよ。なぜかって言うと、抽象表現主義が好きな、やっとそのへんまでいって、デ・クーニングとかね、ジャスパー・ジョーンズとラウシェンバーグすごい好きだったけど。そのへんがすごい良いと思ってるのに、何かすごい変な、馬鹿にしたような絵が出てきて(笑)。それで、絵はちょっとこわいなあと思ってたんです、ちょうど。

富井:あっそうなんですか。それは、インスティテュートでの展覧会ですか。

杉浦:美術館での展覧会なんですよ。だけど学校がね、美術館の後ろにあって、くっついてるんですよ。私たち毎朝、美術館通って冬は学校にも行けたし。それから学校の授業でもよく連れてってみせたりしたから、すごく美術館のことはよく知ってたし。このカタログにも書いてるけど、写真の展覧会なんかもうやってるの。アメリカの美術館では、早くから。写真はアートとして。

池上:早いですね。

杉浦:うん。ダニー・ライアン(Danny Lyon、写真家、アクティヴィスト)のショーなんかみてるんですよ。だからこの間、ダニー・ライアンが、何だっけ、ホイットニーで個展してて。だから、なつかしかったけど。

富井:じゃあ、抽象表現主義をようやくわかってきたとか、ジョーンズとかラウシェンバーグがいいなと思ったのは、そのインスティテュートの美術館ですか。

杉浦:ていうか、それは日本にいたときにもうみてますね。日本で、西武の、ほら何だっけ、美術館とか。西武がやってた。

富井:アメリカの美術展。

杉浦:そう。そういうのでみてます。ていうか、やっぱアートが好きだったから、うちの母とよくデパートのそういうとこは行ってるんですよ。アートをみてます。

富井:展覧会は、比較的日本で。

杉浦:見てたと思う。だから、ヴァン・ゴッホとかポール・クレーとか、すごい感激したの覚えてる。

富井:もっぱらそういう特別展のようなものをご覧になった。

杉浦:だからまだ、画廊に行って、そういうことまでは知らなかったですけどね。

池上:お茶大の方は中退されて行かれた。お母様もそれは応援して下さったんですか。

杉浦:うん、でも一応、休学を3年間できるんですよ。だから嫌だったらすぐ戻れるようにして。毎年休学していたんですけど。入ってみたら、すごい楽しくて、周りの人もすごい助けてくれて。すぐに奨学金もとれて。日本と違って奨学金が、返さなくていいんですよ、くれっぱなし。で、4年ぐらいになると材料費とか全部出るんですよ。だから写真の初期のもね、モデルとか、男の人と女の人いるんですけど。あれも学生なんですけど。ああいうのも学校が全部払ってくれるんです。

富井:ああ、そうですか。次の質問が「留学費用はどうやってまかなったんですか」ていう質問だったんだけども。だって、一応私学、プライヴェート・スクールですよね。

杉浦:でもその頃、アーツ・スクールは、今でも安いんじゃないかと思うんですけど、3000ドルぐらい、安かったんですよ。だからその頃、NYUとかは1万ドルだったかもしれないです。でも40年前だからわからないけど。でも、アメリカってすごいいいシステムで、卒業生でみんなお金がある人が学校に寄付したりするでしょう。フォーリン・ステューデント(外国人学生)用の奨学金がもうあったんです。行くまでわかんなかったんだけど。その頃は360円が1ドルだったんですよ。で、あんまり送ってこれなくて。だから、ブラック・マーケットの現金を送ってくれたんですけど。でも行ったらすぐに学校が紹介してくれて、アルバイトもできたし。

富井:そうですか。アルバイトは何をなさったんですか。

杉浦:アルバイトもすごい運がよくてね。ダウンタウンにネクタイ屋があったんですよ。そのネクタイ屋さんが、いろんなネクタイが余っちゃうと、それをちょっと色変えたりして、また売るわけですよ(笑)。それを私みて、ちょこちょこ描いたりね。それからスカーフに「ハンド・ペイント」っていうんで、描かされたんですよ。私は、ポロックなんかそういうのに夢中なときだから、しゅっしゅって描くわけですよね。だから、すごい派手なのも地味なのも。そうすると、それを、マーシャル・フィールドって、サックス・フィフス・アヴェニューみたいなデパートに、そのおじさんが持って行くわけですよ。そうすると、クリスマスとかそういうのの注文が、500とか1000とかくるんですよ。そうすると、私が同じようなハンド・ペイントで、がちゃがちゃ描くわけですよ(笑)。それは自由なときにできて。学校が終わってから1、2時間やってよくて。土曜日やりたかったらやってて。よかったんですよ。その仕事がぽっと来た。

池上:ものすごくいいですね。

杉浦:でも、日本食のレストランのアルバイトもしましたよ。ウェイトレス。気の毒に、私みたいな(笑)。料理も全然できないのに、着物着せられて。何かすき焼きなんかつくったんですよ。

富井:それもやりましたか(笑)。

杉浦:それもやりました。夏休みとかは。そうすると、食べられる。二度食べられるんですよ(笑)。そういうのもやりましたよ。何か、やっぱし、紹介してくれる。学校には日本人の学生が、やっぱり10人ぐらいいたんです、アート・インスティテュートにすでに。

池上:バイトしている。

杉浦:ていうか、もう入って、入学してた。

富井:学校にね、もう10人ぐらい。

杉浦:だいたいは日本で美大を出たような人が、マスターの人が多かったんですけど。そういう人がやっぱり仕事とか教えてくれたり。すぐにね、そういうアルバイトもできたんですよ。で、「アメリカってすごいいいなあ」と思った。だって学校が斡旋してくれるんですよ、アルバイトとかも。ちゃんと就職口とかも。20時間までは、学生に。

池上:すごく、待遇がしっかりしてたんですね。

杉浦:ていうか、何か、現実的なんですよね。だからもちろん学費も借りることもできるんです。後で返す人もいっぱいいるし。だけど、そうじゃなくて、仕事も斡旋してくれるし。いろんな意味で、例えばパートタイムで来ても学校に行かれるし。そのかわり、日本と違って1年のときから入って4年までいるっていうんじゃなくて、みんな出たり入ったり多かったですね。途中から入ってくる人とか、途中からどっか行っちゃう人とかね。

富井:邦恵さんは、だから、4年間いらした。

杉浦:私はちゃんと行ってから3年半ぐらいいたんですけど。一応、大学に2年半ぐらい日本でいたから。それのクレディットが振り込まれたの。だからサイエンスとかほとんど取らなくてよかったんですよ。幸運なことに。

富井:ラッキーでしたね。

杉浦:ただ歴史とか、3つぐらいは、ユニヴァーシティ・オブ・シカゴで夏の間行って、それは取ったんです。だからそのときにアルバイトしながら、それから夏の時に、普通の一般のクレディットを。

池上:英語の問題っていうのは、すぐに授業についていかれましたか。

杉浦:全然わからない。だから最初の1年はフォーリン・ステューデント用の学校にも夜間行かされるんです。

池上:語学学校みたいなところですか。

杉浦:そう。語学学校に1年ばっちり行かせられて。だから、私が覚えてるのでは、その最初の1年っていうのは、だいたい睡眠時間、まあそうじゃなかったかもしれないけど、記憶では、だいたい5時間ぐらいで。ものすごいハードだった。霧の中みたいにもやもやしていて、もう覚えていないんだけど。昼間、アートの学校に行って、何言ってんだかわかんないんですよ。先生が冗談言ってるのか、まじめなこと言ってるのかわかんないし。最初の日なんて、日本と同じで入学式があるかと思って、白い手袋なんかはめて行っちゃったぐらいで、帽子かぶって(笑)。

富井:おしゃれしていったわけですね(笑)。

杉浦:そう。そしたら、アメリカって、ぱっと授業が始まるだけなの。

富井:そうなんですか。

池上:儀式は、ないんですか。

杉浦:そうなんです。まあね、一応講堂に集まって、校長先生みたいなのが10分ぐらいちょこちょこっとしゃべったけど。で、解散したから、もう帰っていいのかと思った。そうじゃなくて授業の自分のクラスにみんな戻るだけなの。で、もう、すぐ始まるんですよ。だからそういうのも、すごい、大学に日本で行ってたのにもかかわらず、すごい違った。でも、すごいみんな、クラスメート親切だった。きっと今だとオリエンタルな生徒っていっぱいいるから、別に珍しくないんだろうと思うけど。その頃はあんまり、少なかったんだと思うんですよ。それでみんながすごい親切にしてくれた。

池上:杉浦さんの学年では、お一人だったんですか。

杉浦:いや、もう一人、井出咲子さんて。後にもいたかも。井出咲子さんっていう人が、私より半セメスター先に入ってたんですよ。彼女は絵描きで。彼女は私よりずいぶん年上だったんですけど、すごく文学少女的な、ロマンティックな人で。彼女がウェイトレスの仕事とか紹介してくれて。彼女が住んでるところがとってもよくて。1年ぐらいしたら彼女のところに空きが出たから、2年半ぐらい同じビルに彼女と住んでて。シカゴからニューヨークに来たときも、もう一人の友達と彼女と3人で来たの。井出さんていうのは、それから、メキシコも一緒に旅行したし。私より16か18ぐらい上だったんだけど。ちょっとぐらい上の感じだったんですよ。学年一緒だったから。すごいよくしていただいた。

富井:学校の方は、1年目がオリエンテーション的なかたちで、いろんなものを。

杉浦:オリエンテーションのクラスもあるけど、でもその他に普通のクラスもちゃんとあるんですよ。だから一応ドローイングとかそういうのもあったんだけど。トゥー・ディメンショナル・デザインとか、スリー・ディメンショナルとか。でもやっぱし、すごい衝撃的だったんですよ。私は日本の美術学校は行ったことないですけど。まず、課題を与えられるんですよ。こう、べらべらしゃべっていいの、これ?

池上:大丈夫です。

富井:うん、そう(笑)。

杉浦:課題を与えられるでしょう。そうすると私なんかは、課題を与えられたら、「次の週ぐらいにそれをやるのかな」と思うんですよ。ところが、そうじゃなくて、すぐにやり出すの。だから「今日は明暗をやりましょう」って言ったら、「黒と明るいので何かやれ」って言ったら、すぐみんなやり出すんですよ。先生が材料みたいなのを持ってきてるときもあるんですよ。みんなが、ぱーっと目がけて、それを取りに行くわけですよ。私なんかうろうろしてるから、みんないいのはなくなっちゃって、後に残っちゃうんだけど。何しろ、そこの時間、2時間とか3時間でつくるんですよ。で、その30分ぐらい前に終わって。そしたら、みんな生徒が一人ひとり、自分の作品についてしゃべるわけですよ。それが、英語がわかんないし、英語も話せないし。それで、何て言うかな、ほんと困ったんですけど。とてもいいことは、アートっていうのはやっぱり作品なんですよ。だからしゃべれなくても、こうやって何かやると、みんなが「いい」とか言ってくれるんですよ。

富井:何人ぐらいいたんですか。クラスは。

杉浦:そうですね、クラスは20人ぐらいだった。でも、私たちのクラスはね、和気あいあいとしてて。すごくひょうきんな黒人の男の子とかいたり。すごいいい人が多かった。それから私に一生懸命勉強を教えてくれたのは、エレーナ・スターンっていう女の人がいたんですけどね。彼女は46歳ぐらいで。もう卒業してから、ずっとたってから戻ってきたんだけど。彼女は先生になりたくて入ってて、アーティストにはならないんだけど。すごい頭がいい人で。彼女が家庭教師でいつも教えてくれたんです、私に。だからそういう人が、バービーなんとか、あと2、3人クラスメートに一生懸命教えてくれる人があって。それで、教えてもらったの。だって試験なんたって、全然、もうカンニングのしようもないんですよ。

富井:それ以前(笑)。

杉浦:だって、どっか書こうと思ったって。人の名前だか都市の名前だかもわかんなくて。「レイプ・オブ・サビネ」とかそんなのアート・ヒストリーでやると、手上げちゃって、「レイプって何ですか」とか聞いて(笑)。すごい、先生が真っ赤になっちゃって、(私が)わかってないから。

富井:「普通そういうことは説明しなくてもいいんですよね」って(笑)。

杉浦:だけど、わかんない英語があって。テープレコーダーいつも録ってたんですよ。だけど、うちに帰っても、わからないところは何回聞いてもわかんないじゃないですか、スペルは。そんなときに限っちゃって聞いちゃってね。そしたら「変なこと言ったんだなあ」とか思って、後で真っ赤になったけど。何かね、そういういろんなことがあったけど。だから私も、意外と、きっと何か、おどけ者だったんだと思うんですよ(笑)。私、こっちは必死なんだけど。だから、すごい楽しかったです。

池上:すごく愛されていたという感じがしますね。

杉浦:すごい居心地よかったですよ。

富井:そうですね(笑)。

杉浦:私の友達でね、上智に行ってる人で。すごい英語ができて、文学少女だった人が。彼女が来たら、彼女はすごいひどい目にあったんです、そこでね。

池上:どこに行かれたんですか。

杉浦:その人はね、だから、上智で。あ、セントルイスかな。それで、またアメリカン・ヒストリーを専攻してたんで、アメリカン・ヒストリーに入ったら、もちろんアメリカ人だから、みんなすごいわかるわけじゃないですか。それでもって、彼女はすごいしたたかな目にあって、全部自信を失って。小説家になるのもやめて。「ただ平凡な主婦になりたい」って言って、平凡な主婦になっちゃったんですけど。ま、それでよかったのかもしれないけど。だけど、だから彼女なんかは2年ぐらい遅れてきたんだけど、彼女なんかの人生のお話を聞くと、本当に、すごい大変な思いを。

池上:つらい目にあって、帰られた。

杉浦:そうそう。

池上:美術学校で作品があるからっていうのが、よかった。

杉浦:それから、美術学校ってね、そのすぐ後ヒッピーになるんですけど(笑)、こぼれた人がみんな集まってくるようなところで。だから、何て言うのかな、みんな自分を違った人とアイデンティファイするっていうのかな。だから、すごくソリダリティがあったんですよ。だからすぐに、やっぱりヴェトナム戦争なんかがあったら、みんなすごくデモとかして、私も一緒にくっついてったことがあるけど。すごい時代だったんですよ。そのかわり、カフェテリアはもんもんで、みんな煙草吸って。今考えたら考えられないぐらい、煙草吸ってたし。ジャンクフードをみんなオートマットで温めて食べてたんですけど(笑)。

富井:じゃあ、写真を専攻するっていうか、写真を学ぼうっていうかたちで考えたのは、そのオリエンテーションの後ということですか。

杉浦:オリエンテーションのときにやったのが、やっぱり6週間の間に、先生がやっぱり利口だったなと思うんですけど、教えたのがフォトグラムとピンホール・カメラだったの。で、私はフォトグラムもおもしろいなあと思ったし、ピンホール・カメラもおもしろいなあと思って。カメラつくる自体もおもしろかったんですよ。

富井:ああ、カメラからつくったんですか。

杉浦:そうそうそう。それからそのフィルムをどう入れるかとかね。それですごくおもしろくて。だから、両方ともすごい興味があったんですよ。でもそれはオリエンテーションだけで、もちろんほんとの写真始めたら、ヤシカのとかキャノンのカメラを買って始めたんですけど。オリエンテーションはそのふたつだったんです。

富井:そしたら、写真の先生っていうと、どういう方が先生だったんですか。

杉浦:その写真の先生がですね、ふたりいたんですけど、そのときはもっといたけど、私が関係したのが、ケン・ジョゼフソン(Kenneth Josephson)というのと、フランク・バラサーティ(Frank Barsotti)っていう人だったんですよ。ふたりともIITっていうイリノイ工科大学(Illinois Institute of Technology)の、インスティテュート・オブ・デザイン(Institute of Design、I.D.と略称)の修士課程を出てるんですけど。そのイリノイ工科大学っていうのは、モホリ・ナジ(Moholy Nagy)がアメリカに行って最初につくった「ニュー・バウハウス」っていうのがあって。それがつぶれちゃって、マージして、IITの中でI.D.となったものなんです。それで、だからモホリ・ナジもそこで教えてて。モホリ・ナジの生徒がハリー・キャラハン(Harry Callahan)とかいたんですよ。それで、私のケン・ジョゼフソンとかフランク・バラサーティはその生徒だったの。

富井:ケン・ジョゼフソン?

杉浦:今ね、レスリーの画廊の下の、ヤンシー・リチャードソン(Yancey Richardson Gallery)だっけ。あそこでやってる。

富井:もうひとりの方がフランク。

杉浦:フランク・バラサーティっていうんですよ。イタリア系の名前。

杉浦:ジョゼフソン。彼はノルウェー系の人で。ま、アメリカ人だけど。すごくMoMAとかに気に入られたの、ジョン・シャカウスキー(注:John Szarkowski, 1925−2007。1962年から1991年までMoMAの写真部門のディレクターを務める)に。私が卒業するときに「ジョン・シャカウスキーに「《Cko》っていう作品を見せなさい」って言って、手紙をつけてくれたんですよ。

富井:ああ、そうなんですか。このケネス・ジョゼフソンさんとかフランク・バラサーティ、どんな写真撮ってらしたんですか。

杉浦:ケンとかフランクって、みんなそういう名前で呼んでたんですけど、彼らはもうコンセプチュアル・アートとかシークエンスとか、すごい現代写真撮ってたの。

富井:そういうかたちで。

杉浦:うん、そう。それで、彼らのふたつぐらい上に、石元泰博(いしもとやすひろ)さんがいたんですよ。石元さんのことをすごい尊敬してて。私にいつも言ってたんです。「石元さん知ってるか」とか、「日本に行ったら会うか」とかね。まあ、日本には全然戻ってこなかったんですけど。「すごい教育してくれたんだ」と。だから、写真はあんまり本気でやり始めたんじゃないんですけど、やり始めたら、「あ、これはすごくいけるんじゃないかな、このフィールドはすごいいけるんじゃないかな」っていう勘はした。

富井:前にお話をうかがったときにね、ケネス・キャラハンとか、その年代の人。

杉浦:ハリー・キャラハン? エイロ・サツキンだとか。

富井:そう。そういう人たちに「女はフォト・ジャーナリズムでもやったら」って。

杉浦:それは、ケン・ジョゼフソン。

富井:ケン・ジョゼフソンが言ったんですか。

杉浦:そう。だから彼はいつも「カメラ持って、ミシガン通りとか行って、撮ってこい」って言うんですよ。それで行って、撮ってくるんだけど、くたくたになって何も撮れないの、私。人が見ると撮れなくて。そしたら先生が「ジャパニーズ・アメリカンのストーリーをやれ」って言って、見つけてくれたんだけど。それも日本人独特の、嫌なところは全然見せたくないんですよ、その人たち。

富井:そういう家族を紹介、探してくれて。

杉浦:紹介してくれて、行ったんだけど。何かおいしいもの食べてるとか、そういうところはいいんだけど。何かけんかしているとか、そういうことになると「撮っちゃだめ」とかね。それで、そのシリーズもできなくて。だから私はあるところで本当にすごい自信を失ったんですよ。「私、写真できないんじゃないか」と思って。そういう写真は全然だめだったの。ただ、例えば、「シークエンスを撮ってこい」とかそういうタイトルだと、勝手に撮って。車のタイヤいっぱい撮って重ねたりとか、それから、おもちゃみたいにねじ巻く、写真で、こう動くのとか、そういうことはやったんですよ。だけども「いわゆるフォト・ドキュメンタリーには絶対行けないな」ってすぐわかった。

富井:すぐわかった。

杉浦:彼は「女の人は絶対そうだ」って言ってたから、それでもプッシュしてたんですよ。でも、私が4年になったときに、彼自身がティーチング・エクスチェンジ(teaching exchange、教育交換プログラム)で、ストックホルムに1年行ったんですよ。それで、ケーンがいなくなって。そしたらフランクがカラーをし始めて。「カラーのプロセスをやらないか」って言って。カラーをやり始めて。そのプロセスはすぐ2、3ヶ月でマスターできたんですけど。

富井:カラーって難しいんですか。カラーのプロセスって。

杉浦:全然難しくない。ただ、めんどくさいですよ。ドラムでやってて、今とはちょっと違うんだけど。薬が8つぐらいあって、それを、最初の3ステップぐらいは真っ暗な中でやるの。こう、じょぼじょぼかけるんですけど。だからクッキングよりかは全然簡単だけど(笑)。真っ暗な中でやって。あるところで電気つけて、今度はできるんですけど。そのかわり、いろいろエクスペリメンテーションできるんですよ。だからブリーチ(漂白剤)を使わないでやったり、ブリーチを薄めたり、ブリーチを濃くかけたり。そうすると、すごくいろんな色ができて。ソラリゼーションっていうのも、現像してる時点でぱっと光を当てると反転して、こう、いろんな、あるのね。そういうのが、ケンがいたらそういうことはあんまりさせてくれなかったかもしれない。それから、人体をスタジオで撮るなんてことはケネス・ジョゼフソンはあんまり好きじゃなかったですよ。「わざとらしい」って言って、彼は。だけど、フランクは「何でもいいよ」って、私のやりたいようにやらせてくれて。学校と話をつけて、モデルもちゃんと払ってくれて。それでやり始めたら、やっぱし私の中では「ランドスケープの中に人がいる」とかあるんですけど。だけど実際にランドスケープのとこに行って裸にするわけにいかないから。しょうがないからスタジオで撮って、それでモンタージュにし始めたんですよ。木やなんかは自分でミシガン・レイクに行って撮ってきて、それで合わせてやるの。

富井:ひょっとすると、それが今度(ニュージャージの個展で)出てたシリーズ。

杉浦:そうそうそう、あれ。《Cko》なんですよ。コっていうのは、日本の孤立の「孤」なんですよ。

富井:あれ、シーケーオーckoになってたのでね。

杉浦:そう。だからあれはそうなんです。だからコって読む。最初から私、コって言って。

富井:コって読むんですね。これでコと私たちは読めなくてね。

杉浦:ただkoにするとね。ケーオーkoとかにするとね、向こうの人読まない。

富井:koだとノックアウトだからね。

杉浦:だからckoにすると、「コー」って。まあ、大丈夫らしいんで。

池上:そういうことですか。「何でしょうねえ」って(笑)。

富井:解説をみたら「ckoっていうのは日本語でアイソレーションのことだ」って書いてあってね。じっと見てね、ソリテュードかなって。

池上:ckoと孤独の「孤」っていうのは、ちょっと結びつかなくって。

杉浦:日本の雑誌には孤立の「孤」って書いて。ツァイト・フォトで、日本で最初やったときは、その「孤」が使ってあるんですよ。孤立の「孤」が。

富井:ツァイト・フォトで見せたんですか。

杉浦:1979年の3月にやってるの。

富井:1979年。ああ、この「孤」ね。はいはい。

杉浦:そう。こういうのが出たんです(『週刊新潮』、『写真工業』、『日本カメラ』などに載った展評を見せながら)。

富井:今度見せたのと、ちょっと違いますね。

杉浦:だって100枚ぐらいあるから、いろいろあるんですよ。だから、日本にも少しあるんですよ。日本の国立近美(東京国立近代美術館)とか。

富井:これ入ってるんですか、このシリーズ。

杉浦:国立近美が4、5枚もってると思う。

富井:はあ、そうなんですか。

杉浦:そうなんです。だから。で、石原悦郎さん(注:ツァイト・フォト・サロンのディレクター)も6枚ぐらい「自分のだ」って言ってるから。「まあ、そうでいいや」って言って。あげちゃったの。こういうのでやってる。そのときのアナウンスメント・カードです。これです。

富井:じゃ、100枚ぐらい撮ってたっていうと。

杉浦:そう。100枚ぐらいあるんです、全部で。

富井:なるほどね。じゃあこれだと、ちょっとカラーじゃないか。これカラーだったんですか。

杉浦:全部カラーです。うん。

富井:これだとわりと、はっきりとしたシークエンスみたいな感じになってて。

杉浦:何と言うかな、フィッシュアイ・レンズで撮って。それから最初このひとつだけでプリントしてたりしたんですよ。そのうちにそれだけじゃ物足りなくなって、いろいろ始めたんだけど。全部一応カラーです。木とかいろんなのが入ってくるところは白黒のフィルムを使ってる。海岸とか。

富井:ネガティヴはね。

杉浦:混じっちゃって。

富井:それで、後、全体がカラーになってるっていう感じですね。

杉浦:そうそう。カラーのペーパーで、カラーのプロセスだけど、白黒のネガも使ってる。

富井:オーヴァー・レイヤーっていうか、重ねて。

杉浦:そうそうそう。それでつなげるために、グラフィック・デザインの市松模様とか、そういう紙を焼きつけたりして。

富井:そういうのもありましたね。

杉浦:そういうのもある。だから、違うんですけど、何か1年間ごちゃごちゃやってたんです。

池上:ケネス・ジョゼフソン先生は帰ってきて、そういうのをみられて、どういうふうに言われたんですか。

杉浦:いやあ、でも、すごい認めてくれて。「じゃあ、シカゴでマスター(修士課程)に来るね」って言ったんですけど、私は「絶対にニューヨーク行きたい」って言って。「ニューヨーク行くんじゃしかたがないから、でもジョン・シャカウスキーに会いなさい」って手紙書いてくれた。

富井:ああ、じゃあ、それでその写真にお手紙がついたんですね。

杉浦:そうそうそう。

富井:作品ができてしまえば、わかるわけですね。

杉浦:すごい認めてくれた。

池上:最初は、女性はフォト・ジャーナリズムが得意なんだって思いこんでいらしたんですか。

杉浦:ていうか、歴史的にみて、マーガレット・バーク・ホワイトとか、ドロシア・ランゲとか、『ライフ』の写真とか、それからWPA(Work Projects Administration)。ああいうときの女性写真家はみんなジャーナリストとして優れてて。だから、「僕は女性の写真家はジャーナリズムやるべきだと思う」って言ったんですよ。「あなたもこれから努力してそういう方向に行ったらいい」って言って。

池上:別に、そういうのしかできないとかいう卑下ではなく、そっちの方面が向いてるはずだっていうような。

杉浦:だと思ったんですよ。で、私にも、だから一生懸命勧められて。私はまあ始めたばっかりだから、何が何だかわかんないけど。とにかく撮りに行かされたんだけど。もう何か、すごいくたくたになって帰ってくるんだけど、あんまり撮れない。

池上:ちょっと向いてなかった。

富井:向き不向きっていうのはずいぶんあるんでしょうね。

杉浦:でも、それなりに、一生懸命撮ったんですよ、いっぱい。最初の1年ぐらいいっぱい撮った。

富井:ああ、そうですか。

杉浦:そういうシリーズもあるんですよ。《ミシガン・アヴェニュー》とかいうシリーズがあって。それで、撮りました。何か、『週刊朝日』かなんか、日本のカメラ雑誌が、こういうのがあるでしょ。それに1回応募したら、なんとかきねおさんとかっていう人がほめてくれた。

富井:ああ、えっと、桑原さん。桑原甲子雄がほめてくれたんですか。

杉浦:そうそう。その人だと思います。ほめてくれた。

富井:そうですか。

杉浦:だから、それなりに、それほどだめでもなかったんだと思うんですけど。一生懸命やったんですよ。

富井:本人の気持ちがついていかなかったんですか。

杉浦:でもね、すごい苦しかった。何かもう、すごい向いてなかった。

富井:なるほどね。

池上:こういうスタジオでの作業の方が、やっぱりおもしろくなっていったという感じですか。

杉浦:ていうか、それも大変なんですけどね(笑)。それも大変ですけど。でもやっぱり、いわゆる、火事があったから火事を撮るとか、そういうのはあんまりだめですね。

富井:そういうことをしてた人もいたんですか、写真やってる人、学校で。

杉浦:ていうか、とにかく私しかいなかったんです、最初は。あともうひとりマスターコースにひとり男の子がいたんだけど。

富井:本当にひとりしかいなかったんですか。

杉浦:写真を専攻してるのは私だけだったんです。

池上:おふたりの先生のアテンションを一身に集めて。ものすごく良い教育ですね。

杉浦:でも、デザイン科とかそういう人も、みんな写真のコースを選択で取らなきゃいけなくて。だから、写真はみんなやってたんですよ。でも写真、ファイン・アート・フォトグラフィーを、例えば絵と同じように、専攻してる人は私だけだったの。でも私が卒業する4年のときになったら、その時代にちょっと変わった。もう10人ぐらい写真を専攻する人が出てきてた。私は2年からやってるでしょ、2年3年ぐらいはひとりだったですね。でも4年ぐらいから、すごい写真にみんな興味が出てきたから。67年ぐらいには、出てきた。

池上:ファイン・アート・フォトグラフィーが専攻としてアート・インスティテュートにできたの自体がその頃だったんでしょうか。

杉浦:ああ、そうかもしれない。ていうか、その先生たちが来てまだ2、3年だったかもしれない、彼らも。

池上:新しい専攻だったということもあるんですか。

杉浦:だと思いますね。彼らもIITを卒業して写真家になりたかったけど、結局写真では食べれないわけですよ、全然。それで、何て言うかな、職業口を探したら、すぐ隣のインスティテュートが今度写真部を設けようっていうんで、あいた。その辺なんだったと思います。

富井:なるほど。じゃあ、卒業制作展みたいなものには、この写真を出して。

杉浦:でも、卒業制作展があったかどうか覚えてないから、なかったと思いますよ。

富井:そうですか(笑)。

杉浦:うん(笑)。覚えてないもの。

富井:ニューヨークには、やっぱりどうしても来たかった。

杉浦:ていうかね、在学中に2度ニューヨークへ来てるんですよ。それで、その頃ね、日本人の学生、外国人の学生はスポンサーがいなきゃいけなくて。私のスポンサーっていうのが、ボルティモアに住んでるジャパニーズ・アメリカンの軍人の家族だったんですよ。最初に、だから、シカゴに来たのが9月なんだけど、そのクリスマスの休みに彼らのところに遊びに行ってるんですよ。そして、その途中にニューヨークを通ってるの。グレイハウンドバスで行ったんですよ、シカゴからボルティモアに。だからワシントンDC通って。そのときにニューヨークに2泊ぐらいしてるんですよ。それで、もう、ちょっと写真をやるつもりだったから、ロックフェラー・センターとかいろいろ撮ってて。それで、行って。ニューヨークは、すごい最初から好きで。たぶんそのときに、最初にね、クリスマス近くですよ。マディソン・アヴェニューに画廊があって、その辺を歩いてたら、一軒イタリア人の画廊で開いてるとこがあって。そこに、草間さんのマネキンがあったの、マカロニが付いてる。そしたら、そこの人が出てきて「入れ、入れ」って言うんですよ。で、入ったら、いろいろ他の草間さんの作品を見せてくれたの。

富井:カステレーン画廊(Richard Castellane Gallery)ですね、じゃあ。

杉浦:そうかな。そんなようなイタリア人の名前だった。

富井:イタリアの名前だったら、カステレーンですね。

杉浦:うん、マディソン・アヴェニューで。

富井:マディソンで。

杉浦:すごいいい人だった。

富井:じゃ、そのとき初めて草間さんの作品を見たんですか。

杉浦:作品は見てるの、うん。印象は強かったですよ。だけど実際、草間さんも知らないし、その人がどういう存在かも知らなかったけど。67年に戻ってきた辺には、彼女がすごい、何て言うんですか、ハプニングなんかやってる頃だった。それから、もう一回、ニューヨークにもう一回遊びに来てるんですよ。そのときに、「もう絶対に卒業したら」、プラクティカル・トレーニングっていうのが1年半取れるんですよ、そのときに「半年でも良いから、とにかくニューヨークに住みたいな」と思ったんです。卒業したら次の次の日に飛んできたの、ニューヨークに。友達ふたりと。

富井:さっきおっしゃってた井出さんと、もうひとりのお友達と。

杉浦:井出さんと。もうひとり、その頃、写真を夜学でやってたモリー・ケリー・ライアン(Molly Kelly Ryan)っていう友達がいて。今も友達なんですけど。彼女、今ワシントンDCの方に住んでるんですけど。ずっと友達なんですけど。だから、その3人で出てきたの、ニューヨークに。

富井:最初。67年とおっしゃって。

杉浦:67年の5月の何日かに出てきてるの。

富井:学校が終わってすぐっておっしゃったね。本当に。

杉浦:次の次の日に飛んできた。

富井:どのあたりにまず落ち着かれたんですか。

杉浦:まず、私の友達で、高校時代の友達が、日本人の絵描きと結婚してて。その人のところに3人で転がり込んだんですよ。その人が毎晩どっかに泊まりに行ってくれたんだけど。それが、アムステルダム・アヴェニューと107丁目ぐらいだった。コロンビアのそばで。そのへんを探したんですよ、まず。そしたら、そのうちに、その井出咲子さん、わりかしインディペンデントで、人とうまく行かない人で。彼女がすぐ他のところを見つけて、ひとりで移っちゃったの。それで私とマリーが一生懸命見つけて。それで、ウエストエンドの100いくつかに、やっぱり夏だけのサブレットしたんですよ。そこに移って、それで始まったの。それで、学校出るまでは、どうやって生活するなんて全然考えなかったんだけど。結局、どうやって食べるかしなきゃいけなくて。モリーって子がすぐに、写真家のアシスタントの仕事を見つけたんですよ。『ニューヨーク・タイムス』で見つけて。それで彼女が働き始めて、私も一生懸命探して、アシスタントの仕事を見つけたんです。

富井:写真の。

杉浦:写真の。で、始めて。でも、最初の2週間は給料くれなかったんですよ。それで、その頃は、ホットドックとかピッツァが25セントだったんですよ。で、モリーって子が家計とか仕切っててね、「邦恵、あなたね、給料が入るまで、私たちは毎晩25セントで夜食べなきゃだめだ」って言うんですよ(笑)。ところ、昼間、ランチのとき、その辺すごい商業街で。35丁目とサード・アヴェニューぐらいなんだけど。いっぱい良いレストランがあって、どこ行っても一食25ドルぐらいなんですよ。25ドルなんか食べれないの、ランチが。でもって、おなかすいたけどうろうろ歩いてね。すっごい大変だったの覚えてる。でもね、地下鉄も25セントだったの。でも私たちが住んでる107(丁目)から35(丁目)までは歩けないんですよ。

池上:そうですよね。

杉浦:しょうがないから、食べるのにしようか、歩こうか。やっぱり乗っちゃったんですけど。その最初の1、2週間はすごい大変だったですよ。ていうか最初の夏の1、2ヶ月はすごい大変だったです。なぜかって言うと、文句言うと親は絶対「帰ってこい」って言うから、言えないんですよ。

富井:そうですね。

杉浦:そう。だからもう、がんばって。でもそしたら、そのときに、すごいいいことに、いろんなことを紹介してくれる人がいて。《Cko》をね、いろんな他のアドヴァタイジング・エージェンシーに持ってったんですよ。そしたら、コロンビア・レコードがね、すぐにフリーランスの仕事をくれたの。マーラーとかね、ピーナッツ・バター・コンスピラシーとか。レコード・ジャケットのアサイメントをやったの。

富井:こういう、抽象系で。

杉浦:カラーのソラリゼーションとか。そしたらね、そうするとね、250ドルぐらいくれたの。

富井:ええっ! それは大金なんじゃないんですか、その頃。

杉浦:そうそう。だって私の家賃が50ドルぐらいだったんですよ。だからすごい嬉しかったけど。だから、そういうのも何だかわからないけど、すごいニューヨークってみんな親切で。私なんかわかんないんだけど、英語もそんなしゃべれないから、持ってくわけですよ。すると、みんな次の人次の人って紹介してくれるの。それで、何と言うか。

富井:じゃあ、わりとそういうかたちで。生活資金というのは、何らかのかたちで。

杉浦:できたの。

富井:それも、写真のアシスタントっていうのも、スタジオ・アシスタントですか。

杉浦:写真のスタジオのね。その人も、スタジオのアシスタントがいたんだけど。それも、この人これ(《Cko》のことか)見て気に入って。その子をくびにして雇ってくれたんです。どういう人だか知らない。ところが、もう一人の男の人と一緒にやってて。私のエド・ラートー (Edward Latteau)って人は、ファッション系の写真家だったんですけど。結局、来る仕事は赤ちゃんの写真とかね、つまんない写真だったんだけど。奥さんがレップ(注:representative、エージェントの意)やってて、女の子が5人かなんかある人で、わりかしフェミニストの男の人だったんですよ。で、私を雇ってくれて。

富井:その後も写真のアルバイトを探したんですか。

杉浦:それで、辞めた。それから、「あずま」ってとこに働いたんですよ。おみやげ屋さん、日本人の。そこにやっぱし働いて。そこも週に2度か3度行ったんだけど。そうするととにかく家賃だけは払える、最低限の収入があって。他の日に自分の写真撮ったり、それからまたそういうアドヴァタイジングの店に行ったりして。何とかやってたんですよ。それで1年ぐらい。最初の1年は自分の作品は全然つくれなかった、ニューヨークでは。

富井:シャカウスキーのところには行かなかったんですか。写真持ってMoMA行かなかったんですか。

杉浦:それはすぐに行きました。MoMAのシャカウスキーは会ってくれて、すごい人だったんですよ。ところが、彼が2枚ぐらい出して、「自分のとこでは、まだカラーの写真は1枚25ドルでしか買わないんだよ。それでもいいか」って言って、2枚取ってくれたんですよ。それで、他の作品は、ぱーっと置いて。ところが、彼が行っちゃって、取り仕切る女の人がちょっと冷たくて意地が悪そうな人で。ぱっぱって一緒にしまっちゃったの。「はい。あなたは帰っていい」って言っちゃったから。「実はこの2枚はシャカウスキーが買ってくれる」って言えばよかったんですけど、言わないで黙って帰って来ちゃったの。

池上:もったいないですねえ。

富井:じゃあ、買ってもらえなかったんですか。

杉浦:買ってもらえなかった。

富井:ああ、残念。

杉浦:でも、シャカウスキーがそのときに、「だけど、「『USカメラ』と『モダン・フォトグラフィー』に持って行きなさい。そしたら使ってくれるかもしれない。写真を使ってくれれば、写真は戻ってくるんだけど、使用料が150ドルとか入るから、そうしなさい」って。行ったら、両方とも使ってくれたの。

富井:一応認めてもらって、「25ドルだけどいいの」って言われたんだけど。

杉浦:2枚ぐらい出してくれたんですよ。残念だった。

富井:残念ですね、あれ結構おもしろい。この間ね、ニュージャージーの展覧会で拝見して。「えっ何だこれは」みたいな感じで。とくにこれよりも、もっと複雑な。

杉浦:いろんなのがあるんです。

富井:この雑誌に載ってるよりは複雑なやつで。みんなでびっくりしながら見てたんですけどもね。

池上:MoMAのコレクションに入っていたら。

富井:入っていたら良かったんですよね。

杉浦:時代的にはね、何だっけ、ほら今、ウィリアム・エグルストン(William Eggleston)とかがやってる。ちょっと前なんですよ。でもストレートのカラー・フォトグラフィーじゃなくて、カラー・モンタージュだから。でもあんまりああいうのやってる人は、その頃いなかったの。

富井:だから私たちも、「これが1967年だったら、珍しいね」って言って。それは部分的に見ればエグルストンなんですけれども。そうですかね、残念でしたね、作品が入らなかったのはね。

杉浦:残念だった。でも『USカメラ』とか、そういうのには載ってるんですよ、ちゃんと。

富井:なるほどね。今からでも何点か入ってほしいね。

池上:そうですよね。

杉浦:そうですね、でもねえ。

池上:「40年前の約束なんですけど」って。

富井:そう。「25ドルで売ってきたんです」(笑)。

杉浦:でも、この数年、何回か彼に会ったんですけど。80歳ぐらいの彼に、亡くなる前ね。でもさすがにそんなことは言えなかった。だって全然向こうも覚えてないし、私も「会った」なんて言わなかったし。遠くから眺めてるだけで。だから、縁がなかったんだけどね。

池上:惜しかったですね。

杉浦:惜しかった。

富井:残念でしたね。

池上:その秘書の女性がもうすこし優しければ。

富井:やっぱり「そこで言わないといけない」っていうのは、人生の決まりみたいなもんですね。言わなきゃいけない(笑)。

杉浦:でもね、今の私見てたら分からないかもしれないけどね、すごいおとなしかったんですよ、昔は。人の顔が見れないくらいに、すごいおとなしかったんですよ。だから、もちろんジャーナリストなんか絶対なれないけど。日本語でもあんまりそんなしゃべれなかった。だから英語でなんて。ていうか、話さなくていいからアメリカにいたんだと思う、人と。ある意味では。もちろん変わってきましたけどね。

富井:それはだんだん、成長して(笑)。

池上:だんだん「話さなければいけない」ということを、そういう失敗から学んだりするわけですよね。

杉浦:そうそう。そうですねえ。

富井:ニューヨークでの最初の個展が、ポートガロ・ギャラリー(Portogallo Gallery, 565 Fifth Avenue)っていうところで。

杉浦:それはこれ(《Cko》のシリーズ)を持ってったんです。

富井:67年のシリーズで。

杉浦:そう。それでそれは一応『ニューヨーク・タイムズ』にもレビューが載ってるの。ジャーコブ・デシン (Jacob Deschin)っていう人が書いてくれて。それも持ってますよ。

富井:知らなかった。また見てみます。じゃあ、わりと注目されて。

杉浦:でも、そのポートガロっていうのが、写真をプロセスする、現像所の壁なの。まだ写真の画廊なんてなかったんですよ。しばらくしてウィットキンズ (The Witkin Gallery, 237 East 60th Street)っていうのが開いたの。たぶんそれ、68年かなんかにやってるはずですよね。

富井:ええっと、69年っていうことで一応、レゾネの方には入ってるんですけども。

杉浦:いやあ、もっと早いと思ったけど。まあいいや。

富井:一応、69年って入ってて。

杉浦:かもしれない。とにかく、その頃は、そのちょっと同じぐらいにウィットキンズができたぐらいなんです。だから、ポートガロでやるっていうのは、かなり良かったんですよ。

富井:業界、写真する人のなかでは。

杉浦:写真の中では。

富井:なるほどね。何点ぐらい出したか覚えてます?

杉浦:覚えてないけど。小さいスペースだったけど。でも30点ぐらい出してたと思う、小さいから。

富井:小品ですからね。その後、あれはわりと小さい作品だったけども、大きい作品に移るわけですね。

杉浦:なぜかって言うとね、カラーのドラムっていうのをうちでやろうと思って、機械も全部買ったんですけど。水道というかお湯の温度が、プラスマイナス、ハーフ・ディグリーでも違ったらいけないんですよ。ところがアパートでやると、がくっと2、3度違っちゃったりするの。そうすると色をこの色にしようと思って一生懸命フィルター変えたりしてやってても、がさっと温度が変わっちゃうと、変わっちゃうんですよ。できないってことがわかって。その頃はレンタルのラボもなかったから。「カラーは自分のとこではできないな」っていうのがわかって。だからコロンビアの仕事なんかは、やっととにかくやり遂げたんですけど、何とか。みんな、何というかな、エクスペリメンタルな方法でやってた作品だから。例えばマーラー、ベートーベンの彫像をやるんでも、ソラライズしたり、色変えて。白い石膏像なんですけど、終わったときにはピンクや紫になってるわけですよ。何とかし終えたんだけど。自分の作品としてやるには、あまりにも不安定だったの。それで「カラーだめだな」とか思ってて。それでしょうがないから「白黒やろうかな」と思って。そしたら白黒はうちでできるわけですよ、温度は5、6度違っても平気だから。ところが普通の写真じゃ嫌だなと思って。学校で、終わる頃に、「ロックランド・フォト・エマルジョン」って言ってたと思うんですけど、液体になる現像液みたいのを、自分はやらなかったんだけど、興味があるなと思ってた。それを、写真屋にニューヨークで行くと、売ってるわけですよ。最初はね、うんとちっちゃいので試して。紙にもできるし金物にも塗れるし、カンヴァスにもやったの。カンヴァスが一番おもしろいっていうんで、こんなちっちゃいのからやってたの。そのうちに、「でも、小さいイメージを大きくするとおもしろいな」と思って。アンディ・ウォーホルのカンヴァスの作品とかすごい興味があったから。それで、そばで撮ったものをばーっと大きくするのをやって。それで、だんだん大きくなったの。

富井:それは、特別なエマルジョン。

杉浦:ていうか、それを売ってるの。写真の材料屋で。全部暗室でやんないといけなくて。塗って、乾かして。すると写真の紙みたいになるんですけど。

富井:感光紙の代わりに、カンヴァスを、そのエマルジョン付けて、塗って、乾かすわけですか。

杉浦:うん。だけどね(小さい作品を取ってきて)、だから最初はちっちゃいのでテストしてたんです。こんなちっちゃいので。かわいいでしょ。

池上:かわいらしい。

杉浦:それがこういうサイズになったの。だから、アートっておもしろいんです。

富井:ああ、これもカンヴァスですね。

杉浦:これ、だれかにあげようと思ってしたんですけど。だから、最初はこういうちっちゃいのしてたんだけど、何かだんだん野心的になって大きくなったの。

富井:これいいよね。

池上:これすごくいいですね。

杉浦:これ、サブウェイのステーションなんですよ、ほら。いいけど。

富井:そっち! あ、ごめんなさい! 私、縦に置いて。家だと思った、すいません。

池上:家だと思いました。

杉浦:ははは、そっちの方がいいかもしれない(笑)。

池上:失礼しました。

富井:これ横位置でした、すいません(笑)。そうなんですか。サブウェイと言われれば、わかりました。これ、ここだけエマルジョン塗ってあったわけ?

杉浦:そうそう。それで、ただぽちぽち止めただけです。

富井:これだとだいたいハガキ大ですね。ハガキの大きさですね。後は、このまわりは後から色塗ったわけですか。

杉浦:だからその頃、ちょっと絵も描こうかな、とかっていうのがあって。ていうか、普通のカンヴァスだから。

富井:そうですね。

杉浦:それが、あそこ(ニュージャージーでの個展)で見た、ふたつに。

富井:割りカンヴァスに。

杉浦:ディプティックとかに転換していくわけです。

富井:見た途端に、「これはもう次、移ってるな」と思って。今見たときにね。このあたり、エッジのところ、エマルジョンが乗りきってないわけですね。

杉浦:たまたま。乗りそこなってる。

富井:ここ、だって鉛筆の跡があるから。塗ってないとこはムラムラになって。逆に、でも、何か良い感じになってますよね。

杉浦:かもしれない。でも、自分では一応全部塗ったつもり。でも、こうなったんです。

富井:やっぱりで暗室でやると、そういうところが見えなかったりするわけですか。

杉浦:最初は1回だけ、ばちゃって塗ってた。そのうち、大きいのは4回ぐらい塗るようになったんですよ。そうすると、平均に塗れるようになった。

富井:4回も塗るんですか。

杉浦:塗って。だいたいそのぐらい塗ってます。

池上:大きくするっていうのは、イメージをプロジェクションで拡大して。

杉浦:そう、エンラージャーにね。鏡を買って。売ってるんですけど、写真(用)の(鏡)。だから、こうやって、こうなるわけです。

富井:直角に。エンラージャー、普通上から来ますよね。

杉浦:そうそうそう。それを45度に。

富井:下にカメラが置いてあるから、そこに45度の鏡を置いて。

杉浦:そっから、また反射して、壁に。

富井:そういうかたちで。

杉浦:それで2時間ぐらい座って。

池上:斜めにすることによって大きくなるわけですね。

富井:2時間ぐらい待ってるんですか。

杉浦:大きいときは2時間ぐらい待ってた。それで、ちゃんといないとだめなんです。なぜかっていうと、ぼけて写っちゃったりするの。

富井:シャープにしようと思うと、ちゃんと。

杉浦:できるの、これは。エンラージャーで、ちゅっちゅっと。だけど、いないとだめなんです。

富井:2時間。

杉浦:そう。それでね、だんだんそういうのやってるうちに。それから、いつも聞かれることが、長持ちしないんじゃないかっていうことと。それから、自分も音楽かけたりなんかして、いたんだけど。「こうやってるうちに人生が済んじゃうんじゃないか」と思って。それでこういうのをやめる、ていうか、他のに動いていくんですけど。これをどのぐらいやったんだろう。7、8年やってますね。

富井:69年。あれが69年、70年代の。ヌードのやつが年代入ってて。

杉浦:だから68年に最初はやったと思いますよ。

富井:68年ですか、最初に。

杉浦:終わったのが、78年ぐらいだったんですよね。だから、ずーっとやってたの。

富井:いろんな大きさでやってらしたわけですか。

杉浦:それから金(かね)とかもやったり。金の。

富井:メタル?

杉浦:アルミニウムに塗ったりとか。

富井:ああ、アルミニウムにね。

池上:そこにまたエマルジョンで、焼き付ける。

杉浦:だから何か、「写真彫刻みたいにしようかな」と思ったりとか。ただ何となく、他のものはピッと来なくて。カンヴァスのときはね、こう補正もできるし、何かこれが好きだったんです。

富井:補正は鉛筆でやるっておっしゃってた。

杉浦:鉛筆と。アクリルが出てきたの、その頃。それでアクリルで、両方で。てか、一緒にやってることはほとんどないけど。鉛筆かアクリルか、どっちかで補正するの。

富井:アクリル、黒のアクリルですか。

杉浦:黒とか。それから白がちょっと入ってるときもあるし。それからミディアムで薄めたりして、薄いグレーみたいにして。これは鉛筆なんですよね。

富井:ヌードの方は鉛筆だっていうのは、前、聞いたことはあるんですよね。

杉浦:ほとんど鉛筆。うん。

富井:これは一応、モデルさん? ヌードの方の写真は、モデルさん雇って、写真撮ったんですか。

杉浦:それはたまたまなんだけど、知ってる子なんですよ。知ってる子で、その人とボーイフレンドと、私のところで会って。彼が事故で病院に入ってて、1ヶ月半ぐらいで出てきたんですよ。「(退院後)初めて会ったから、ここでメイクラヴしたい」って言うんですよ。「写真撮っていいから、あなたのベッドでやっていいか」って言うから、しょうがないから「やっていい」って(笑)。それで写真撮ったの。

富井:それで写真になったんですか。

池上:すごいですね。

杉浦:それで、4本撮ったんですよ、結構。

池上:フィルム4本分。

杉浦:そして撮ってみたら、おもしろいから、大きくしたの。作品に。

富井:何枚ぐらい大きくしたんですか。

杉浦:4枚。記録だと4枚してるの。だけど、今あるのは3枚しかないんですよ。

富井:3枚ですか。

杉浦:1枚売れちゃったから、今2枚。

富井:売れたやつはおしりが写ってるやつ?

杉浦:おしりが斜めに写ってるやつ。

富井:ななめに写ってるやつ。じゃあわりと、本当に、「セックスしてるな」みたいな、もろにわかるやつ。

杉浦:わかる。これのもう一個。

富井:これのもう一個のやつね。

杉浦:それは、でも、イスタンブールに行っちゃったの。

富井:おめでとうございます。

杉浦:だからあんまり会うことはないと思います。

富井:4枚つくって3枚残ってて。一枚売れて。

杉浦:もう一枚はどこにいるかわかんないです。今残ってるのが2枚、大きいの。

富井:アスファルトとか、抽象的な表面のものがありますよね。それは何枚ぐらいつくったんですか。

杉浦:それはずいぶんつくった。それだけで展覧会もしてるし。それはホイットニー (1970年のWhitney Biannual)も出してるし。それから、いろんな美術館も買ってくれてるから。それは20枚ぐらいつくってると思う。

富井:その次の質問は。ホイットニーで見せたっていうのは、一応ある意味で、作家、アーティストにとってはブレイクみたいなところがあると思うんだけど。

杉浦:そうですね。だから、そのときも、マーシャ・タッカー(Marcia Tucker。1970年のWhitney Biannualのキュレーター)も全部見てるわけですけど。結局こういう、アブストラクトの、クロース・アップしたイメージを選んでる。

富井:それは展覧会かどこかで見たんですか、マーシャさん。

杉浦:いや、マーシャ・タッカーが、やっぱり、(出品作家を)選んでるときに、デイヴィッド・ヒッキー(David Hickey)っていう人とディック・ベラミー (Richard Bellamy)と両方に「(候補作家を)指名してくれ」って言ってるんですよ。そのときは、わりかし女の作家を入れたかったらしくて。それで、とにかく12月近くに、マーシャ・タッカーから電話が突然かかってきて。「スタジオに来たいんだ」って言って、それで来て。私自身は、ホイットニー(・バイアニュアル)なんてものがあるのも(知らなかった)。展覧会とか見に行ったりはしたけど、そういう展覧会に入るなんて、全然思いもよらなかった。

富井:ということは、デイヴ・ヒッキーと。

杉浦:ディック・ベラミー。

富井:ディック・ベラミがー、どこかで。その方たちが展覧会を見た。

杉浦:その人たちはね。その頃、こういった作品がたくさんたまってきたわけですよ。私、もう最初の結婚をしてたんですよ。その人はサイエンティストで。でね、「自分はサイエンティストのときは、ペーパー(論文)をパブリッシュする」って言うんですよ。「あなたも作家だから、作品を発表するべきだ」って言うんですよ。私は「まだ準備できてない」って言うんだけど。「自分がスポンサーだから、インシストするから、行け」って言うんですよ、どっかへ。それで「どこの画廊がいいか」って言うから、私が「一番好きなのはレオ・キャステリだ」って言ったの。「じゃ、レオ・キャステリに電話しろ」って言うから、電話したら、その反対側に出た男の人が、「自分とこに電話してくれて、とってもありがとう」って言うんですよ。「だけど、自分たちはもう75人も作家がいて、とてもみられないから、だからポーラ・クーパー(Paula Cooper)とアイヴァン・カープ(Ivan Karp)のオーケー・ハリス(OK Harris Gallery)に行ったらどうですか」って言うんですよ。それで、ポーラ・クーパーがちょうどソーホーにお店始めたときで、行って。それからアイヴァン・カープも行って。そしたらポーラがスライドを見て、「私はダウン・タウンで、あんまり時間がないけど、アップ・タウンにディック・ベラミーっていうのがいるから、そこに行きなさい」って言ったの。それでディック・ベラミーのところへ行った。そしたら、ディック・ベラミーが見に来て。それからもうひとつ、デイヴィッド・ヒッキーは、リース・ペリーっていう画廊があったんですよ。

富井:何ていうところ?

杉浦:リース・ペリーっていうの。すぐつぶれちゃったの。

富井:リース・ペリー(Reese Paley Gallery)。ああ、はいはい。

杉浦:つぶれちゃったんだけど、わりかし派手にやってて。そこは、デイヴィッド・ヒッキーっていう人がディレクターで。デイヴィッド・ヒッキーがスライドを見て、すごい気に入って。「見に行くから」って見に来てくれて。デイヴィッド・ヒッキーはマーシャとすごい友達だったんですよ。その人はテキサスから引き抜かれてニューヨークに来てて。カウボーイのブーツ履いて、カウボーイ・ハットかぶって、「すごい、何か、ふざけたやつだなあ」と思ったんだけど。今はすごい良い批評家になってるんですよ。

富井:西海岸の方にいますね。

杉浦:そうそう。

富井:その人でいいんですね。

杉浦:そう、その人なの。

富井:その人かなと思ったんですけども。

杉浦:うん。だから私も全然会ってないんですよ、もう何十年も。でもその頃はニューヨークにいてね、すごいいろいろしてくれたの。だから、リース・ペリーではショーしなかったけど、デイヴィッド・ヒッキーは、やっぱり恩人のひとりです。

富井:リース・ペリーは中川(直人)さんが一回してる。

杉浦:ああ。そうして、ふたりから推薦がいったから、マーシャ・タッカーが見に来たの。

富井:そういう経過だったんですか。

杉浦:それで最後の頃、私が入ったの。なぜかっていうと、3月ぐらいだったんですよ、ホイットニーの「ペインティング・アニュアル」が。

富井:今でもそうですね。

杉浦:そうかな。それで「すぐ作品の図版写真がほしい」とか言って。でも私、写真なんか撮ってないから。だからカタログには載ってたかな、白黒が1枚。だけど、とにかく、かなりお粗末なプレゼンテーションだったと思う。そのときのカタログもあったんですけど、もう今はどっかいっちゃったの。

富井:じゃあ、何枚出したんですか。

杉浦:だから、そのとき、一枚だけです。今、何だったかな、ニュージャージー(の個展)に出てる、あのぼわぼわっとした《セントラル・パーク・スリー(Central Park 3)》(1971年)です。あれが出たの。

富井:なるほどね。そういうかたちで入ったんですか。

杉浦:うん、一枚だけ。

富井:ちょうど72年にウォーレン・ベネディック・ギャラリー (Wallen Benedick Gallery)っていうところで個展してるから、そういうところで見たのかなあと、私は勝手に想像してたんですけど。

杉浦:ああ、違う。そうしてアイヴァン・カープの前に開けたのが、ウォーレン・ベネディック・ギャラリーだったんですよ。アイヴァンが先生みたいで、いろんなことをアドバイスしてて、アイヴァンが「ここでやりなさい」って言って、ウォーレンが見に来て。で、すぐやったの。

富井:ああ、なるほど。

杉浦:でも、そのウォーレン・ベネディックは2年ぐらいでやっぱり閉まっちゃうんですよ。だから一回だけ、私、展覧会しただけで。グループ展ぐらいあと二度ぐらいやったかもしれないけど。それで、そしてしばらくしたら。77年ぐらいに、アイヴァン・カープのオーケー・ハリスでも一回個展してます。それはディプティックの作品でしてるの。

富井:ここ(カタログの年譜)には載ってませんね、それ。

杉浦:ああ、載ってないかもしれない。全部は入ってないです。

富井:78年に、オーケー・ハリスで。

杉浦:オーケー・ハリスでしてる。

富井:ディプティックのやつを、あそこでやってるんですか。いやちょうど72年にウォーレン・ベネディックでやって。ここで、今持ってる、鎌倉(画廊)からきた、ツァイト(・フォト)か、見たら。78年で、次、銀座になってて。グループ展みても、そのあとやっぱり78年までないから。「あれ、その間、何してはったんでしょう」と思って。

杉浦:ちょこちょこはやってます。何か、フィラデルフィアの画廊とか、グループ展とかそういうの、やってます。

富井:やってらしたんですか。

杉浦:やってます。

富井:そうですか。いや、だから、何か全然。そのわりには、ディプティックの作品とかは作ってらした。今回も展覧会に出てたし。

杉浦:それから、アニーナ・ノセイ(Annina Nosei Gallery)でやろうと思ったの。それで、アニーナがすごい気に入って、全部彼女が買ってくれて。やる気になってたのに。

富井:それはどの作品?

杉浦:みんなディプティックの。写真と。

富井:組み合わせね。はいはい。

杉浦:ひとり、彼女のコレクターでフランチェスコ・ペリーツィ(Francesco Pellizzi)って人が、今もいるんですけど。彼が5、6点買ってくれてるのかな。それは良い作品です。それからアニーナも2点買ってくれたんだけど、アニーナは返してきて、あのへんにあるんだけど。それで、夏にイタリアに行ったら、ネオ・エクスプレッショニズムに変わっちゃって。もうころっと変わっちゃったの。

富井:そうですよね。アニーナ・ノセイって、私も、ネオ・エクスプレッショニズムの印象が強いから。ああいう、ディプティックで組み合わせにするっていうのは。あれは、片方は、10年ぐらいしたっていう、写真の拡大っていうか、写真の焼き付けで。

杉浦:そう、そのままで。あとが絵なんです。

富井:あれはどういうところから。

杉浦:だから、そのときに、こういうの(写真の焼き付けをしたカンヴァス)をやって。何かこう、アクリルとかやり出したら、どんどん絵に近づいていって。

富井:これアクリルですか。この赤いやつは。

杉浦:そうです。そして、あるところにきたら、「写真はもういらないんじゃないか」と思って、写真をやめちゃったんですよ。絵だけにしたの。絵だけの時期があるんですけど。そしたらやっぱり、ものすごい難しいんです、絵は。それで悪戦苦闘してて。それが2、3年、あるんです。ちょっと、だんだん、何て言うかな、アグネス・マーティンみたいな、ぽちぽちした絵描いてた(笑)。

富井:そう。3枚組になっているやつの真ん中も、ちょっとぽちぽちっと、ちょっとストロークになってましたね。

杉浦:うん。何かそんな感じになってきて。それである日、友達に見せてたんですよ、写真を。絵があるところの横に。そしたら、何か、すごい聞くんですよ。そして、誰に見せたかな、そしたら、その人も「これがいい」とか言い出すんですよ。それで、私も絵でとてもつまってるときだったから「そうだなあ」と思って、組み合わせてやり始めたんですよ。だから、かなり最初は黙ってやってたんですよね。絵でもないし写真でもない。でも、そのうちにやってたら、またちょっと反響がよくなって。で、やってたんです。

富井:だいたいサイズ的には、今、展覧会に出てるのものはそれほど大きくないみたいですけども。

杉浦:でも、大きいのもある。

富井:大きいのもあるんですか。

杉浦:大きいのもある。でもあそこ(ニュージャージーの個展会場)に大きいのと思ったけど、こっち側(会場の大きな部屋)が大きくて、(ディプティックを展示したスペースの天井は)低いから。

富井:そうですね。天井が低いスペースだから。

杉浦:小さい方が。それはだから、キュレーターの好みなんですけど。でも私も彼はそれで正しかったと思いますけど。

富井:大きい色面と、大きいプロジェクションした、写真を焼いたカンヴァス2枚というのもあるわけですね。

杉浦:ある。それから、写真が大きくて、カンヴァスが小さいとか、そういうのもある。

富井:いろいろ。

杉浦:いろいろあります。それも、だからね。それは25枚ぐらい売れてるんです。

富井:結構売れましたね。

杉浦:だからね。でも、うちにも25枚ぐらいあるかもしれない、全部で。

富井:それが3年ぐらい続いたんですか。

杉浦:それは、だから74年ぐらいから78年ぐらいまでです。4年ぐらい。

富井:なるほどね。そうか。たしか、次、フォトグラムになるのが81年ぐらいだからね。

杉浦:そう。それで、そのあと、またちょっと変わってきて。それで、ある日フォトグラムになるんですよ。ドローイングをやったのが、暗室でやり始めて、それがフォトグラムに変わる。

富井:そうしたら、美術で生活をたてるっていうのは、結構最初からたってますね。

杉浦:美術で生活。

富井:美術というか、作品というか。

杉浦:ああ。作品はね、結構。そのディック・ベラミーとか。彼はすごい変わった人なんですよ。すごい伝説的な人物なんだけど。レオ・キャステリとかの作家は、彼がほとんど見つけた人で。だけど、彼はすごい売るのが下手だっていう人で(笑)。そういうのでも有名だったんですけど。でも何か、ぽちっぽちっと、たまに売ってくれたの。それで、そうじゃないときは、マーク・ディ・スヴェロ(Mark di Suvero)の写真を撮るとか、そういう仕事をくれたんです。

富井:さっき、他の作家の作品のスライドを撮るっていうようなことをおっしゃってましたが、その頃から。

杉浦:そうそう。だから、学校時代からそういうのやってたの。学校の。

富井:作品のスライド。

杉浦:作品って言うか、他の学生がアプライするときに、頼みに来ると、私が撮ってたんですよ。アルバイトで。(注:当時は、デジタルカメラがないので、スライドで作品を記録していた)

富井:ああ、そうですか。

杉浦:学校時代から。だからわりかし、そういうのはやってて。でも、ちょこっとやってそれだけだから、ずーっとやってて。それでニューヨークに来てからも、しばらくやってなかったんですけど、また何となく頼まれたりしたり、自分もオープニングなんか行って、そういう仕事を取ってきたりして。1週間に1回ぐらいはやってましたね。その時期、10年ぐらい。

富井:わりといい収入になったんですか。

杉浦:そう。そのとき、すぐ100ドルぐらい。そのときはコンピューターとか何もないから、みんなスライドを送ったんですよ。それで、アーティストはほとんど(自分で)撮れないから、必ずやって。だから、いろんな人に会ったけど。レッド・グルームズ(Red Grooms)とかも、いっぱい仕事したし。そういうので知った人もいっぱいいるんですけど。一応、彫刻もいたし、絵もいるんですけど。行く前にいろいろ聞くわけですよ。持っていくものが違うのね。彫刻と絵は違うし。大きい作品だと違うし、電球がたくさんいるから。なるべく無駄にしたくないから、いろいろ聞くわけですよ。みんなこっちの作家、すごく話がうまいっていうか、上手なんですよ。だから、すばらしい作品があるなって思っていくと、だいたいすごいひどいんですけど。みんな、話はすごいんですよ。デリダから、何て言うんですか、エグジステンシャリズムから、全部出てくるんだけど。行ってみると「ええ!?」とかいうんで。

富井:ちょっと待って。写真のために、どういう作品の内容か聞いてるときに、そういうのが出てくるんですか、デリダとか。

杉浦:どんどん出てくるわけですよ。それでもう何か、こっちは圧倒されて、おそるおそる行くわけですよね。だけども、作品はすごいひどいのが多くて。30人撮ると、ひとり良い人がいるんです。29人はすごいひどいの。すっごいディプレス(depress、落ち込む)しちゃって。お金にはなるんですけど、すっごい嫌気がさしてて。その頃、ジョン・ダフ (John Duff)と一緒にいたんですけど。ジョンも最初は貧乏だったんですけど。今度、ジョンが売れ始めたんですよ。ジョンが、「そんな嫌な仕事しないで、自分が全部そういう、メインテナンスとか、生活費は出すから、作品だけやったら」って言うんで、作品だけやった。それをやめたのが、いつぐらいかな、90年ぐらいにやめてたかもしれない、そういう仕事。

富井:じゃあ結構長いことやっておられましたね。

杉浦:うん。10年か15年ぐらいやってた、写真の仕事。最初は、日本のマガジンの仕事とかも来たんですよ、ファッションとか。ファッション誌はしないんだけど、楽屋裏の写真とか撮らされた(笑)。

富井:取材とかに行くわけですか。

杉浦:取材の人、日本人の人が来たの。その人たちの、何て言うんですか、道役と言うか。

富井:案内ね。

杉浦:(彼らは)いろんなとこ、わからないでしょ。だから通訳兼ねて、どこで食べたらいいかとか。そういうのをお世話しながら。白黒なんです、ほとんど私が撮るのは。だから、オスカー・デ・ラ・レンタ(Oscar de la Renta)がピンしてるところとか、撮ったり。そういう仕事なんかもした。すごい楽しかったですよ。

富井:写真だと、結構。

杉浦:そう。そういうのが、ツァイト・フォトで写真展を見て言ってきてくれたりして、ちょこちょこっとあったんですよ。だから、いつもあったら閉口しちゃったけど。ちょうど、だから、よかったですよ。

富井:わりといろんなかたちで。

杉浦:まだその頃だったら、杉本(博司)さんなんかも、仕事が余るとくれたりしてね。だから、楽しい時代だったんですよ。

富井:もしよかったら、さっきも出てきたので、ちょっと結婚のことをおうかがいしたいんですけども。

杉浦:いいですよ(笑)。

富井:最初、サイエンティストの方、科学者の方で。学者の方ですね。

杉浦:ていうか、その頃ブルックリン・ポリテック・インスティテュート (Brooklyn Polytech Institute)っていうところの、アシスタント・プロフェッサーしてたんですけど。今はカリフォルニアに住んで、今はコンピューターの仕事をしてて。だから会わないですけど。

富井:アメリカ人の方ですか。

杉浦:そうです。ジューイッシュで、すごくいい人です。今でも、「いつもニューヨーク・タイムズとか見てて、あなたの名前が出てこないかなあと思ってるんだ」って(笑)。

富井:何年ぐらい結婚なさってたんですか。

杉浦:本当に結婚してたのは5年ぐらいなんですけど。でも彼が「(自分が)再婚するまでは結婚しててくれ」って言うんで、12年ぐらいしてたんです(笑)。

富井:5年ぐらい、一緒に住んでたっていうことで(笑)。

杉浦:そう。それで後は、別れたんですけど。でも「一週間に一回ぐらい会ってくれ」とか言って、会ってたし。それで、他の人が出てきて結婚するまで、ずーっと一応、籍は入ってた。自分が今度結婚するときに「抜いていいか」って(笑)。

池上:最初のご結婚はいつされたんですか。

杉浦:1968年です。だからニューヨークに来て1年。

富井:すぐですね。

池上:早いですね。

杉浦:ていうか、最初にサブレットを、夏、したんですよ。サブレットしたところの人が、ジュリアード(音楽院)の学生で。その学生とデートしてたことがあって。私たちのことを見張りに来たんですよ、楽器とかいじらないかと思って。それで会ったの。それで最初、私のルームメートのモリーって子を連れ出したんですけど。二人は全然うまくいかなくて。今度は写真やってる私も連れ出して。私もあんまりうまくいかなかったです。後は3人で、いつも、私たちはお金がなかったんで、おごってもらってたんです(笑)。

富井:一緒に住むのをやめたのが、何年。

杉浦:1975年です。7年ぐらいか。

富井:なるほどね。次は、ジョン。

杉浦:ジョンですね。でもジョンはね、ずっと同棲っていうか、一緒だったんですけど。結婚したのは2年ぐらいなんです。最後の2年ぐらい。

富井:あっ、そうだったんですか。

杉浦:だから、本当はそこで別れるべきだったんだけど(笑)。「もうちょっと何かしてないことを」、「じゃあ結婚してないからしてみよう」とか言って、したんですけど、したら全然うれしくなくて。墓場に入ったみたいで、やめたの。ははは(笑)。

富井:そうなんだ(笑)。ジョンと一緒に住み始めたのは、何年ぐらい。

杉浦:だって、ジョンは(アパートの)上にいたんですよ。だから最初からジョンはいるのね。でも友達だったんです、最初は。私が他の人と結婚してるとき。

池上:この上に。

杉浦:このビルの上にいたの。それで私、結婚してるとき上に移ってたんです(笑)。だから、ほんのちょっとだけ動いただけなんですけど。だから、でもジョンは今、一番いい友達です。

富井:みたいですね。この間(個展のオープニング)もいらっしゃってたし。

杉浦:そうそう。毎日来てるから、だいたい毎日会ってるし。とってもいい友達です。でもやっぱり結婚は無理。

富井:まあね。

杉浦:まあ、いろいろあります。

富井:でもその場合も、パートナーだったっていうか、科学者の方も「自分が論文を発表するみたいに、あなたも発表しなきゃだめだ」っていうかたちで、ある意味でよいサポートを。

杉浦:うん、すごいサポートしてくれた。

富井:ですね。

杉浦:私思うけど、ある意味では、その相棒が日本人だったらもっとすごい消極的に動いてたと思うんですよ。やっぱりそれがアメリカ人だから、やっぱり考え方とか行動が違うんですよね。それでプッシュされるから、しょうがなくて、動くから。まあ、嫌だったけど、それがよかったかなって。

池上:ご結婚されたことで、作家としての生活は、わりとプラスの影響が。

杉浦:ていうか、なぜ結婚したかって、最初のサイエンティストの彼なんかは。私は「あずま」で働いたり、フリーランスでやってたりしたら、絶対に作品ができないと思ってたんです。1年間だって、何もできなかったから。そしたら彼が、その頃は「自分はアカデミックなのに、女の人とただ住んでるっていうのはよくないから、結婚してくれ」って言い出したんですよ。私は全然クッキングも何もできないし。それから、あんまりそういう主婦には興味ないから。「アーティストとして自立するだけで、そのヘルプとしてならする」って言って、「それでもいい」って言ったの。だから、すごい人だったんですよ。私もプライドがあったから、ただボーイフレンドからお金もらうわけにもいかないから、四苦八苦してたんですけど。でも、一回すごい病気になって。ぎっくり腰になって動けなくなったんですよ。そしたら彼が「すぐ来い」って言うから、行ったら、彼のアパートはすばらしいアパートで。リンカーン・タワー(注:リンカーンセンターの近くにある高層アパート)っていうとこで、こう、ニューヨークが全部見はらせて。とっても便利がいいんですよね。それで、だから、「ああ」って、居着いちゃった。

富井:居着いちゃったんですか。

池上:そこを出られて、こちらに移ってきた。

杉浦:ていうか、それから、86丁目ぐらいのアパートを借りてくれて。結婚してから、いたんですけど。やっぱし、そのときはまだ自分の元住んでたアパートをスタジオにして通ってたんです。そしたら、やっぱし、私がいつも戻ってこなかったりして、だめだから。そうしてたら、レーガンが大統領になったんですよ、アメリカで。そしたら彼はすごいリベラルだから、「もうアメリカに住みたくない」って言って、「日本とかに行って住みたい」って言い始めたんですよ。「私はやっぱりアメリカで作家として生きたいから、あなたは日本に行って、私はニューヨークにいて住みましょう」とか言い始めて。そのうちに日本では職業がなくて、結局とれた仕事がウィーンに行く仕事だったんですよ。それで、私はウィーンに行くつもりはないから、ただ彼が、「アップタウンのそんなアパートに住んでてもしょうがないから」って。そのアパートもすごい良いとこだったんですけど。床に、全部、スーパー(管理人)とか怒ってくるんですよ、私が絵描いてると、汚くするって。きれいに紙とか敷かないとだめなんですよ。すごい、何かというと文句言うんですよ。写真なんかやってても、「汚いことに使う」とか。自分たちがレンタルしてんですよ。それで、そんなとこ嫌だから。そしたら「ロフト」っていうのがあって、彼と一緒に探して、ここが見つかったの。彼が「ここにいて仕事して。自分はウィーンに行って仕事するから」って言って、こう、別れたの。

富井:でも友好的ですね。

杉浦:うん、そう。だから、よかった。

富井:なるほど。そろそろ終わる?

池上:そうですね。今日はだいぶ長いことお話をお聞きしたので。

杉浦:何か、全然おそまつですよ。

富井:おもしろかったです。一回これで切って、次、またフォトグラムのことなど。

杉浦:わかりました。

池上:今日はありがとうございました。