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田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月28日

福岡県福岡市田部光子氏アトリエにて
インタヴュアー:張紋絹、北原恵、小勝禮子、中嶋泉
書き起こし:小師順子
公開日:2014年8月24日
 
田部光子(たべ・みつこ 1933〜 )
美術家
日本統治下の台湾に生まれる。1951年福岡県立浮羽高等学校創業後、岩田屋百貨店に入社。独学で絵を学び、福岡県美術展や読売アンデパンダン展に、アスファルトや竹を使った独特手法による絵画を次々と作品を出品した。1957年に結成された福岡の前衛美術グループ九州派の代表的作家としても知られるが、その後も現在まで旺盛に制作発表を続ける。今回は、占領期の台湾の研究に詳しい張紋絹氏や、同時期の美術を研究する北原恵氏をインタビュアーに迎えて台湾での幼少期や美術をはじめたいきさつを詳しく聞き、また、田部氏も出品した「前衛の女性 1950-1975」(栃木県立美術館、2005年)のキュレーター小勝禮子氏を迎え、田部氏の長きにわたる制作や活動、表現に関する思想についてもお話を伺った。

中嶋:では、始めさせていただきます。今回は大阪大学北原(恵)先生が代表の科学研究費助成事業と、日本美術オーラルヒストリー・アーカイヴの共同でインタビューをお願いしたいと思います。1日目は、田部光子さんの生い立ちのお話から、美術に携わられるところくらいまでを、1時間半から2時間ほどでおうかがいしたいと思います。今日は張さんと北原さんに、主にインタビューをお願いしたいと思いますので、宜しくお願いします。

張:お願い致します。

北原:お願い致します。

北原:今日はだいたい台湾時代のことを主にお話をおうかがいしたいと思います。すでに(2010年)夏におうかがいしたときに、1回おうかがいしたんですけれども、それは今回はもう一度まっさらな状態で聞くというようですけれども、田部さん自身の口から語っていただくことに意味がありますので、その様な形でもう一度お話しいただけますか。

田部:はい。それで。

北原:それで、じゃ、順番にお話を伺っていきます。私が主に時系列順に伺っていきたいと思います。まずいつどこでお生まれになったんでしょうか。

田部:台東、台東街っていったね、台東庁っていうのがあるんですよ、庁舎がね、あの、産まれたのは、ダイブじゃないですかね、ダイブっていうところ。ちょっと奥地に。父がね、まず警察官に応募して渡ってるわけですよ、霧社事件のあと。そして、母がそこに嫁ぐんです。その蕃社で、武器をね、武器を放棄させるという、蕃社のひとに。霧社事件以来、で、そのことは私は母から聞いてるんですけれど、母はね、やっぱどこでも女が強いですよ。台湾に行ったと同時に、蛮語を覚えてね、あの、マイクでね、「今なら罪にとわれないから、この運動場に武器をみんなもってきなさい」と、呼びかけたそうですよ。そうしたらぞろぞろと。いろんな武器を持って武器放棄に協力したそうです。

北原:お母さんが、ですか。

田部:お母さん、父は何年居ても蛮語をわからないって。どこの男もそうなんですよ。だから、そうしたらね、どんどんと持ってきてくれてね、それで、まぁ、そこは治安が安定したんじゃないですか。

北原:それはいつ頃お母さんからおうかがいになったお話ですか。

田部:あの、とにかく私はずっと母と一緒でしたからね。

北原:お父様と一緒ではなくて、お母様と主に一緒に暮らされた。

田部:父はね甘木にいましたからね。私はこっち、甘木の柿添っていう町営住宅にお世話してもらって、入っていたんですよ。両親ともに、で、あとでそこは払い下げになったんですけどね。で、だから母はしょっちゅう、私も下宿して岩田屋に勤めていたからね、下宿してるところにしょっちゅう来てましたよ、あの人は私が大好きで、もう結婚するのも大反対して。

北原:戦後ですね。じゃ、ちょっともう一度戻りますがけれども、1933年1月8日に台東のダイブという奥地でお生まれになったということですね。

田部:全部ね、父が取り上げてるよ。産婆さんとかその産婦人科は無いからね。あの人は衛生局にいたから、そういう知識がすごいあるらしくて。勉強するのよ一生懸命、あのその本を読んで。だからみんなでべそでもないし。

北原:お父様が臍の緒を切って。えと、お父様のことをおうかがいしますが、お父様のお名前と、どういうところで育てられたのか。簡単に。

田部:石橋光五郎。

北原:あの、どこで産まれたんでしょうか。

田部:それはね、朝倉郡松末村っていうところ。「松」に「末」と書いて…… 

北原:福岡県ですね。

田部:松末村赤谷っていうところですね。

北原:朝倉郡、松末村、赤谷。

田部:父のところは製材所で裕福だったらしいんですけど、なにかで破産して、だから、父が長男だから、なんで長男が光五郎ですかね…… 長男だから一家を支えるという意味で台湾に渡ったの。あの、ブラジルにしようか台湾にしようかってね随分迷ったそうですよ。だけど近い方に行こうと思ったんだって。

北原:何年に行かれたんですか。

田部:さぁわからんね、そんなのはもう全然。歴史…… 

北原:それは、じゃ、後に霧社事件の後に行かれるの前のお話ですか。

田部:いやだから、後に行ったんでしょう。

北原:霧社事件の後に行かれたのがはじめて…… 

田部:霧社事件がいつか、知らないけどね。

北原:1930年なんですけども。

田部:30年。そうしたら私は生まれたのは33だから、もっと前。霧社事件のころいたのよ、父は。

北原:そうですよね、だってお母様も台湾で結婚されるんですよね。

田部:そうそうそうそう。私が末ですからね。あの、姉はね、10才上よ。姉もあそこで生まれてるんだから、じゃ、10年足した、もっと足して、13年ぐらい足した頃ですよ。

北原:1920年ぐらいですね。

田部:うん、そうそう。

北原:もうすでに行っておられた。父様は明治23年にお生まれになったということで……

田部:ああ、母が30年、明治30年だったと思うから、多分そうでしょうね。
(注:日本植民地時代の台湾に起こった先住民族の反抗事件は多くあったが、地理関係と時代関係から考えると、田部さんのお父様とお母様は「大分事件」の後に台湾に渡ったと思われる。「大分事件」は1915年に台東に隣接する花蓮のほうの蕃地で起った事件であり、有名な霧社事件と似たような事件であるため、記憶違いがあったのではないかと思われる。また、最初に住んでいたという「だいぶ」も、台東の「大武」ではなく、花蓮「大分」ではないかと推測される。)

北原:お父様のことをもう少しおうかがいしますが、実家のお仕事はどういうお仕事だったのでしょうか。

田部:なんかね、製材所だったとかいってましたよ。そしたらなんか友達がその赤谷村に行ってね、その友達はもう亡くなったんですけれども、原鶴で旅館をしていた友達が、調べに行ったらしいんですよ。そしたらね「あんたと私は親戚なんだよ」とかいってね、全然知らなかったんだけれど。でも、すごい、商売がはやってて、赤谷の川が逆に流れても、石橋は潰れんっていわれるほどだったのよ、って。その畑古枝(ひさえ)さんていうんですけどね、その人がいってましたよ。私もそこの出で、あんたと私は親戚よって、徹底的に調べてきたって(笑)。道理で仲が良いのねって。あてにならんですよ、そんなの。

北原:30歳代くらいで行かれたって事ですよねお父様は。

田部:そうでしょうね。

北原:小学校を出て行かれた。

田部:明治のころは小卒ですよ、みんな。でも父の家は裕福だったので中学に入ったかも知れない。字が上手で頭も良かったから。そうしないと警察官になれないからね。

北原:ご兄弟は他におられたんですか。

田部:沢山いたそうですよ。母がね、兄弟6人って言ったから嫁に行ったらのに、12人くらいいたよって。ぶーぶー怒ってました(笑)。母もね、あの母の家も、破産したんですよ。八十松(やそまつ)っていうのが祖父ですけど、それが政治に立つ人の保証人になって、潰れたんです。それを再興するために母は婚期が遅れたの。普通二十歳までで行くんですけど、もう23になってて、あの、それでその、増太郎、父の父です。増太郎さんが、畑で働く母の姿を見てね、3年も通って来たって。だからとうとう行ったのよって。母が良く言ってました「私がね、美人だからね、53軒からもらわれた」んだっていつもいばってたよ。「53軒からももらわれたのに、そして選って選りかすにいったのね」って私が言ったら、「そうそう」とかいって(笑)。

北原:お母様はお名前はなんて仰ったんですか。

田部:母?キミ。

北原:字はどんな字ですか。

田部:カタカナのキミ。あのころカタカナの名前流行ってましたよ。母の母もリエ。

張:ご実家の苗字は何ですか。

田部:田中。まだお墓がありますよ、杷木町に。それと昔の家が、井戸塀だけ、あの塀だけ残ってる。

北原:お父様とお母様は、どんな方だったんでしょうか。あの、なんか、あのお裁縫が上手だったとかおうかがいしましたが。

田部:母はそうですね。もう十二単も縫えるほど。だから私がいろいろとすることをね、援助したんですよ。自分も東京に出てね、和裁の専門家になろうと思ってたって。だけどあの不本意ながら台湾にお嫁に行ったから、あんたは好きなことしなさいって。父はそんな汚い絵を描いてたらもらい手がないとか、いつも怒ってましたけどね。母は「やんなさい、思い切って。やりたい放題しなさい」って。家庭科とか。和服を一枚縫うとか。「和服をね、一枚ぐらい縫ったってなんもならん。私が縫っちゃるけんね、あんたは英語を覚えとき」そう言うのよ。なかなかの見識ですよ。あの人。いったこと、いろいろなことを思い出すとね、見識があるね、と。「あんまり上手に縫いなさんなよ。あの、背筋と前とを縫うって笑われたぐらい、あんまり綺麗に縫ったらね、お母さんが縫ったってわかるから、適当にしとき」って。悪い親子で。

北原:あと、ご兄弟は。

田部:3人ですね。

北原:お兄様とお姉様。

田部:はい、姉まだ生きてます。87だな、来年米寿やね。(注:88歳で亡くなった)

北原:お2人ともじゃ台湾でお生まれになったんですか。

田部:そうです。で、兄はあの、予科練で戦争行ったからね。海軍兵学校に痔が悪くて落ちたんですよ。それで帰ってきて父はすぐね、地元のお医者さんをいろいろ専門家を知ってるの。痔の専門家を呼んでね、家にきて盥でこう煙で燻し出すの。でだんだんだんだん責めていってね、ある日「落ちたー」って、一生懸命探し回ったとかって(笑)。それから出ないからね。なかなか名医ですよ。私も扁桃腺が悪くて、朝熱出したらね、台湾のお医者さんがね、人力車で来るんですよ。で、注射を一本打ったらもう、けろっと治て、すぐに学校に行ってました。学校にまた人力車で行って。病気ん時だけね。校門に入ったらすぐ治るんですよ。

北原:学校はどこに行っておられたんですか。

田部:学校?あの、台東の国民学校。

北原:じゃ、人力車で行ける距離。

田部:ああ、近いんですよ。500メートルぐらいしかないのに、乗っていくの。

北原:街の中に住んでおられたんですか、台東の。

田部:そうですね、だから官舎はあの、山手の方ですからね。だから北町っていうんですよ、北町に官舎街があったんですよ。

北原:何件くらいあったんですか。

田部:結構固まってましたよ。そして台湾は台風と地震が多いからですね、2階建てが建てられないんですね。あの、呉服屋さんぐらいしか。旅館が(2階建てをたてても)よかったかな。2階建てがようやく許可されて。普通の家は全部1階です。だからその、そのかわりに床が高いんですよ、洪水でもいいようにね。内地に引き揚げてきて一番驚いたのはね、玄関が低いことでした。ひゅっと上がれるでしょ。あれっと思って。台湾は廊下とかもぐーんと高くて、下をコンクリートで塗り固めてあるんですよ。だからそこで、ままごと遊びが出来るの。

北原:そのころの小学校のころの1日の生活はどんな生活でしたか。

田部:だからもう学校が大好きで、とにかく早く行って誰か来たらドッチボールしようと待ち構えていました。帰ってきたらね、母が家の門から出たらいかんっていうわけよ、蕃人にさらわれるから出たらいかんっていうでしょう。だから家の近所でしか遊べないんですよね。なんか、あの、なんかの研究所の空き地で日が暮れるまで遊んでましたね。その官舎の人たちと一緒に。

北原:えーど、じゃ、全然あの、地元の人たちとの付き合いは……

田部:台湾人?全くないですね。それをみんなね日本の人ってね、「あんた、台湾行っとったんなら中国語できるやろ」とか言いますけどね、全く分かれてるんですよ、植民地政策で。そして、あの、その現地人の入ってる住宅に行ったのはね、敗戦の後の旗行列です。その旗が、中国の旗に換わっているんですよ。持ってる旗が、日本の旗から中国の旗にいつの間にか換わって。そしてその時にやっと、その台湾人が生活しているところを通ったからね。やっぱり貧しい生活をしてましたよ。あの、玄関先で立ったまんまご飯食べてる、とかね。そういう状態だったのね。

張:そうしたら、官舎街の生活はどんな違いがありますか。みんなご飯は家の中で食べていたんですか。

田部:うん、官舎街はもう日本人の生活ですから。あの、きちっとして。で、戦争中、日本みたいに食糧不足もないからね。七面鳥と豚肉と、たっぷりある、毎日。

北原:それはどこで買っておられたんですか。

田部:商店よ、市場。

北原:日本人のための市場。

田部:そうそう。だからそんなものもね、電話一本で持ってきますよ。届けてくれるの。

北原:お母様は、その、地元の先住民のことばも喋れたわけですよね。

田部:それは、蕃社にいたころ。必要であればすぐに覚える。

張:蕃社はどれくらいいたんですか。小学校の時にはもう、街の…… 

田部:幼稚園に行ったのは、兄弟で、私だけだからね。幼稚園から行ったのは。だからあの人たち(兄姉)は寮に入れられたりしてるよ。かわいそうですよ、だから。母親の愛情に、恵まれないで、あの小学校から寮生活でかわいそうですよ。だから姉もね、なかなかこう、人とうまくいかないの。

北原:田部さんは幼稚園から、幼稚園に入られたというのは、台東市内にその頃移られたということですね。

田部:そうそう、そうです。父も警察官から文官(警部補)の試験を受けて合格して、だからこんな風になって(写真をみせながら)、文官として、生活できるようになったからですね。

北原:えーと、それ以前幼稚園に入るまでは、じゃ、山の中で生活しておられたんですか。

田部:そうでしょうね。

北原:田部さんも一緒に。

田部:私は全くあの、その記憶があんまりね、ないからね。そういう、そこまでは。

張:幼稚園前ですよね。

田部:うん、幼稚園前だからね。

北原:5歳くらいでしょうね。そうしたら。

田部:うん。

田部:だから、でも、温泉に行った。知本(ちぽん)温泉とかあるよね。今もあるでしょう。

張:はい。

田部:あの、知本温泉とかよく行ってたから、そういうのは覚えてるよ。それとか父親が魚釣りに。あの、大ーきな川があったんですよ、台東に流れてる。そこによく行ってました…… 魚釣りとかね。海岸の地引き網にも言ってた。早朝に、

張:で、先に、お母様のことをちょっと少しおうかがいしたいのですけれども。お母様はあの、お父様と結婚してから、台湾に来られたんですか。

田部:いえ、結婚してないよ。写真かなんかでね。もう、だから、今みたいに恋愛していくんじゃないのよ。写真結婚、ブラジルの人もそうでしょ。だから行ってみて初めて会うんですよね。必要なければ、10日でもものを言わなかったとかいってました。無口で。

小勝:お父さんが。

田部:そう。

張:結婚して初めて台湾に来られたんですか。

田部:いやだから、父は居たのよ。そこに母だけを増太郎さんが送って、いって、お嫁さんになったわけ。一緒に行った訳じゃないのよ。

小勝:増太郎さんは、福岡にいたんですね。

田部:あの、だから、福岡県松末村。

小勝:光五郎さんの父。お父さんですよね。

田部:そうそう。

小勝:増太郎さんが、福岡でお母さん、キミさんを見初めたわけですね。

田部:そうそう、田圃の仕事とかね。全然休憩しないで仕事するんだって。この女は凄いって思って。

小勝:同郷の方ですよね。

田部:同郷っていうか、ちょっと離れてるけどね。

小勝:朝倉郡ですね。

田部:うん。

北原:お母様は教育は、女学校に通っておられたんですか。

田部:だれ。

北原:お母さん。

田部:お母さんは、小卒でしょう。行けないもん、家が潰れて。下の子をおんぶして行ってたってよ、小学校に。みんなそうですよ、あの頃。それであの人は、女はたばこの栽培が出来ないんだって。でもそれをしないといつまで経っても家を再興できないから、たばこの栽培までしたよ、って言ってた。

北原:たばこの栽培が出来ないというのは、

田部:たばこのハッパ。男しかできないって、体力がいるんで。働きもんですよ、あの人は。体も丈夫でしょうね。後に、引き揚げてきて苦労した頃にね、結核にかかってんのよ。でもそれでも自然治癒してるの(笑)。なんでもかんでもね、全部自然治癒してるの。

北原:あと、ちょっと生活のことをまた、お話をおうかがいしますが。たとえばお正月なんかは神社に参拝されたりしたんですか。覚えておられますか。

田部:正月だからっていう何かは、無かったですね。

北原:よく行っておられましたか。

田部:神社?

北原:はい。

田部:それは学校から連れて行くからね。よく神社の夢を見てた。神社の境内の、同じ夢をよく見てた。能楽堂みたいなものがあって、踊れるんですよ、祭り時に。で、私も踊りたいなぁ、なんて思ってた。

北原:1人で神社に行ったりは、やっぱり危ないからないですか……

田部:1人は危ない。どこも行けない。だから何年生…4年生かの時にね、仲の良い友達の家が蕃社にあるんですよ。蕃社っていうのはね、2キロも離れてないかな。蕃社の現地の小学校の校長先生の娘だったの。そこまで遊びにいったことがあるよ、内緒で。そしたらばれてね、帰ってきたらね、今度行ったらお尻を叩くよ、って言われていたの。それ1回だけだね、母から叩かれたの。ぜんぜんそういう躾というか厳しさが無いのよ、うちの家庭というのは。

北原:でもよっぽどそれが禁じないといけないようなことだったんですね。

田部:そうそうそう。危険だから。キャンデーも食べられなかったよ。あの暑い台湾でね、キャンデーを1本も食べたことない。赤痢になるって言うんですよ。衛生観念だけは厳しかった。他は何にも勉強しようがしまいがね(笑)。あれは大したものですよ、あの教育は。

北原:じゃあ、その頃でよく記憶に残っている、楽しかったこととかそういう思い出は…… 

田部:楽しかった頃ね。なんか、劇場でね、軍国主義の挨拶をさせられるこことかね(ママ)、覚えてますよ。

張:どのような挨拶なんですか。

田部:映画の合間にね、ステージで5年か6年になったらできるんですよ。良いお洋服着て、先生が原稿を書いて、ただ暗記して言うだけ。

北原:田部さんが前に立って言うわけですね。それはでも、級長とかそういうことですか。

田部:そうそう級長任命があったでしょ。

北原:ええ、ありました。じゃ、リーダーシップを持って……

田部:もう、幼稚園からリーダーシップですよ。どこでもそうだなぁと思う。だからこの小学校もね、軍隊に全部接収されるんですよ。そして遠いところに、ちょっと駅の裏の広場を通って、川を渡っていく、そして掘っ建て小屋みたいなのが建てられて、そこで、勉強してたんですよ。

北原:学校が移ったわけですね、軍隊に接収されて。

田部:そうそう、(写真を見て)私の横に小ちゃい人がついてる、山下由美子ちゃんていう友達がね、いっつもなんかここらへんに小ちゃい…… の子はね今でいう登校拒否ですよね。だから、朝迎えに行って連れて行くの。またそれが、丸太橋から落ちるのよ。そしてまた川にいって、救い上げて連れて行って。ずっと面倒見てたの、私。そしたらね、その由美子ちゃんお父さんと一緒のとき機銃掃射で亡くなったんです。空襲が激しくて。空襲も機銃掃射って、ご存じないでしょうけれど、あのB29か26が来てね、ばーっと機関銃で撃つのよ。で、子どもが遊んでるから、にやにや笑いながら。もう操縦士の顔が見えますよ。見えるほど。だから、あんなに近いから当たらんかったんでしょうね。だから私は「みんな逃げろ」ってみんな連れてね、キニーネ畑に。この引っ込んだところにばーっと臥せるんですよ、みんな。

北原:キニーネっていうのは、どんなものなんですか。

田部:インゲン豆みたいにこう、添え木で伸びていくの。キニーネは、マラリアの薬なんです。それがあったから、まぁ、助かったかな。キニーネ畑に逃げて潜む。なんか池もあってね、ひしの実を取ったりね、遊びながら帰ってきてたの。だからその空襲でも面白がってるのよね。

北原:怖くなかったですか。

田部:怖くないです。面白くてしょうがない。

張:空襲って、毎日だったんですか。

田部:いや、毎日はこないけど、あの台東は軍事基地だったからね。あの、ミンダナオ島の敗戦がなかったら、台東に上陸するはずだったんですよ、アメリカの軍隊が。台湾をすっ飛ばして沖縄に直行したんです。だから石運びの陣地造りの動員も無駄だった。その陣地の動員、3年4年、そのころから行ってましたよ、あの、海岸のこんな丸い石をね、なんかこんなのに入れて、どんどんとトラックで運ぶのよ。それがこの台東の神社の向こうかなんかの山を掘って陣地を造っていたらしいんです。

北原:子供も手伝ったんですか。

田部:うん、私達は動員されて、8歳か9歳ですよ。

張:だいたい小学校の何年くらいですか。

田部:3年4年ですよ。ほんとにもう。

北原:石運びを手伝った。

田部:うん。でも、少しでも重たいものを持とうと思ってね。人が1個持つときは2つ持とうという、忠君愛国。

張:みんなその時はどういうような気持で。

田部:みんな一生懸命炎天下に働きましたよね。だけど宮田っていう中尉が居てね、剣吊って監督してるのよ。「あんたなに遊んでんの」というような感じでね。だから、そしたら「あんたんとこ、どこ」って聞く、「北町のどこどこ」っていったらね、「遊びにいっていいかな」っていうから、「来ていいよ」って言っとったのね。まさか来るとは思わんでさ。中尉ですよ、相手は。ある日四畳半で勉強していたら、こんこんって窓叩くの。見たら来てるんですよ。それから大騒ぎでね。それから毎日毎日宴会、うちで。姉は満州から帰ってきて、姉は若い娘ですからね、またそれ目当てにも来るんですよ。私が連れてきたのに、私は台所の四畳半の隅っこで本ばっかり読んでるの。不公平でしたよ(笑)。ただ一人渡辺さんという人だけはね、「秋の日の ヴィオロンのひたぶるにうら悲し」ってヴェルレーヌですか、あれとか、野口雨情の詩とかをね、読んで聞かせてくれてたんです。

北原:その人も兵隊さん、日本兵・・・。

田部:当然日本軍の下士官でしたね。で、その宮田中尉はね、終戦後日本に帰ってきたそうですよ。姉に結婚を申し込んでいたけどね。彼には許嫁がいるのに、よ。うちの母はね、問い合わせてるの、本籍に。本籍から許嫁がおりますってきてるのよ。しっかりものですよ、母は。

小勝:そうですね。

北原:当時、どういうものを食べていらしたんですか。衛生が厳しかった、アイスキャンディーはダメだというお話ですけど。毎日、たとえば朝ご飯昼ご飯はすき焼き、ホイコウ鍋、巻き寿司、豚汁、七面鳥の肉など。

田部:私がは小さい時食が細くてね。明太子をこうほぐしてね。「ほら、さくらごはんよ」って、それとあの筋子、いくらっていうかね、あれが好きで、あれをご飯の上に載せたりしてね。もう苦労してましたよね母は。私に食べさすのに。なぜかっつったら回虫がいたの。それが映画館で映画を見ていると…… あの時はね軍国主義といいながら、ちゃんと海人草を小学生に全部飲ませるんですよね。軍国主義といえども、いい加減じゃないんですよ。ちゃんと将来を担う子供は大事にしたみたい。海人草って煎じてね臭くてね、それをコップかなんかでいっぱい飲ませられるの。で飲んだら出たんですよ。映画見に…… うちの父は映画が好きなんだね、よく映画に連れて行ってくれて。「帰ろう帰ろう、とにかく帰ろう」って(私が)いいだしてね、なんで帰ろうっていってるのかが分からないんだって。帰ってきたらねトイレに行ったら、出たのよ、回虫が。こんな長いのが。それからは元気になったの。それまではもうあなた、リュックを背負わしても、ふーっと後ろに引っ繰り返ってね、細くてね、生きられるかと思ってたって母が言ってましたけど。

北原:日本からは何か送ってもらうってとかそういうこともあったんですか。

田部:ありますよ、りんごを送ってきたよ、りんご。もうそのりんごでやっぱり、《林檎》ですね。台湾はりんごがならないからね、りんご箱に入ったりんごを送って来て、こう、取り出すときの感動がね、まあやっぱ、絵描きになる要素ですかね、全部ヴィジュアルに覚えてる。ヴィジュアルで覚えてるね。そのシーンシーンで。

北原:誰から送ってきたんですか。

田部:内地でしょう。内地にやっぱりお金を送ったりしたら、お礼に何かを送るのよ。

北原:親戚。

田部:そうそう。光五郎さんの家に送ってたんじゃないの。

張:学校のほうの生活はどんな…… 例えば授業とか。

田部:授業はね、ええまあ普通にありますよね、今のように。5教科プラス、音楽とか体操とか。

北原:小学校から英語が入っていたんですか。

田部:英語は、どうだったのかな。あれでも、英語はね、戦争中もやってた記憶があるよ。私。だからかなりルーズでしたね、植民地台湾は。そんなほら、「なんとかにむかって遙拝」とかさ、あんなの無かったよ。教育勅語だってね、最初だけ覚えておけばいいの。要領が良いからね。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」だけ覚えておけばさ、はい、次っとかいって、あたしよ。そこだけ当てられるってわかってるからさ、そこだけ覚えてるの。

北原:1クラス何人だったんですか。

田部:何人いたかね、やっぱかなりいましたよね。

北原:台湾からの方は…… 

田部:1クラスに二人ぐらいでした。

北原:(写真を見て)これで、2つクラスぐらいですか。

田部:これだけいたんじゃないの。40人ぐらいいるんじゃない。これが2クラスよね、これが、先生が2人居るからね。

北原::通っている子どもは日本人ばかりですか。

田部:そうです。あのね、納税者、あの、えと、なんっていうのかね…… 高額納税者の子どもだけ来れたの、国民学校に。それでね、林玉蘭(りんぎょくらん)さんが来てた。林玉蘭さん、すっごく頭が良くてね。その人に台湾に行くときに連絡したんですよ、会いたいっつって。台東にいるからっていうから、そうしたら何にも言ってこなかったの。来てくれなかったのよ。で、なんか友達に聞いたらね、級長になれなかったのを恨んでるんだって。自分がね、頭良かったって言うんだって、それはね、算数だけなのよ。人間てとんでもないところで恨まれてるのよ。そしたら3ヶ月ぐらい経って手紙が来ましたよ。「失礼しました、私アメリカに行ってた」って。アメリカと貿易をしてるんですよって。やっぱ、頭が良いからね。林玉蘭さんの家にうちの母が、兄の剣道着を預けたのよ。それをまだ預かってるんだけど、どうしたら良いでしょうって言ってきて。いや、もう処分して下さいって。で、はい、それじゃ処分しますって。それぐらい義理堅いのよ、台湾の人は。中国と違うよ。

小勝:林玉蘭さんのお宅は高額納税者だから、国民学校に行けたんですか。

田部:そうです。そうです。まぁ、多くて(クラスに)2人ね。もう、普通1人です。

北原:男の子のクラスと女の子のクラスとじゃ別々なんですか。

田部:別でした。その、疎開してからも別でした。

北原:疎開はどこにされたんですか。

田部:疎開地は、いやだから学校が疎開地だったんです。

北原:軍に接収されて…… 

田部:もう兵隊さんだらけでしたよ、街の中は。家の前の教育会館も。でもそこそこにね、やっぱりあの知識人もいるのよね。その教育会館にいた人も、今井さんていう人はね、毎日夕方になったらね星座を教えてくれた。あれが蠍座だ、これがオリオン座だっていうのをね。全部の星座を。台湾からは南十字星の半分しか見えないのだということも教えてもらいました。それで私は天文学にえらい興味を持ったんですよ。だからどこに行ってもね、インテリっていうのはいたのよね。野蛮な下衆な兵隊がいる一方では、そういう立派な人もいましたね。

北原:アメリカ兵の機銃掃射だったりとか、死んだのを見たというようなこともありましたか。

田部: 陣地に1人大砲の名人がいてね、何機もB29かB26を落としたの。ばーんと命中して墜ちたっていってばーっと見に行ったのよ私。そしたら、足がこんなに大きくてね。こーんなに大きいのよ子どもだったから大きく見えたのか、まぁ、やっぱり蒸し焼きになってたからね。

北原:飛行機の中でですか。

田部:中でね。だから特に足が膨れとったのかも知れないし、大男だったのかも知れないね、ガリバーみたいに。で、それでトラブルが起こったんですよ。あの歯医者さんが、(アメリカ兵が)金の指輪をしてて、その金の指輪が抜けないから指をちょん切ってね、持って行ったんですよ。それと外科の先生。うちの父はとってもその人尊敬していましたけどね、手術が上手で。そのひとがね、ペニスを切り取ってね、ホルマリンに漬けたの。

北原:その死んだアメリカ兵の…… 。

田部:そう。もうそれでね、その人はね、その歯医者さんは15年か16年の刑で帰ってこられたそうです、刑を終えて。でもその外科の先生は20何年だからね、とうとう獄死されたんだって。それね、やっぱり密告者が居るんですよね、どこにでも。復習するは我にあり、です。

張:でそのB29があの墜ちたのは、終戦直前ですか。それとももっと……

田部:そうね……あの零戦がだーっと帰ってきたのよね。旗を屋根に上がって振りましたけど日本の旗をね。この前ネットで調べてわかったんだけど、あれが多分レイテ島沖海戦に出陣する最初で最後の神風特攻隊の隊列を組んで飛ぶ姿だっただろうと思うのよね。それを私はこの眼に焼き付けているんです。あの大本営発表は滅茶苦茶だったからね、信用できないもん。凱旋だ凱旋だっていって、実は大負けしてる。私は疎開しないっていうことになってたから助かったんですよ。1人で行くのは嫌っつって、しないっていったら、夜中の2時頃その渡辺さんが来てくれたんですよ。それで、光子さんはいざとなったら陣地に連れて行く、と自分が。責任もって連れに来るから、ご安心下さいってわざわざ言いに来てくれたのよ。そういう人がいらっしゃるんですよ。いつでも、どこでも。

張:空襲がその時は、あの……

田部:あ、空襲はね、もう街にね、 韓国のなんとかヨンピョン島なんてもんじゃじゃないよ。50キロ爆弾が落ちたらね、ぶわーっと穴が空いてね、池が出来るのよね。そしてもうほとんど全滅なの。もうあんな、かけらやらもないですよ。立派な防空壕に入った人がみんな死んで、蛸壷に入ってた人が助かったらしいです。

張:みんなその時は、いろんなところで(蛸壷)掘っていましたんですか。

田部:そう、そうでしょうね。街ん中でね。で、私の友達の旅館も焼けましたからね、その爆撃で。

北原:敗戦はどこで知られましたか。

田部:あ、敗戦は、いよいよ危ないとかいってどっか山の奥を父が買ったっていってね、その近くの旅館に行ったんですよ。いよいよもう危ないからみんな引き上げてそこに行こうっていって、家族全部でだったら私も行くでしょう。で旅館に泊まってたの。そうしたら、ばたばたばたばた突然騒がしくなって、もう負けたと、戦争に負けたということが、ニュースが入ったの。玉音放送は聞いてないよ、だから。

北原:その時にはご両親はなんて言っておられましたか。

田部:うちの父はね、前からね、とんでもないこと言ってたのよ。私6年生とかを捕まえてね。映画が好きなんですよね。映画の前に必ずニュースがあるのよ。そのニュースから、東条英機がね、あの、飛行機のタラップから降りてくるところから始まるのよ、ニュースがね。そしたらうちの父がね「この男は大した男じゃないぞ、眼がきょろきょろしてる、戦争も負けるぞ」。そんなこと言うんですよ。私がそんなこと学校で話したら大変なことになるのにね。

北原:しかも警察官でしょう。

田部:(警察官)上がりでしょう。もう文官になっていたから気が許したのかどうか知らないんですけどね。あのもう、とにかく新進気鋭というか、写真が流行ったら写真に凝って。暗室まで自分でつくるのよ。で綺麗な写真を撮らんと気がすまんの。で弓が流行ったらね、自分の家に弓の的をつくってね、私がいるのに、バシンバシンと、危なくてしょうがないですよ。で鶏も飼ってたし、鶏小屋と一緒に兎も飼ってたし。鶏はお客さんとかんときに絞めるのよ、でご馳走するのよね。正月とかも。それでいっぱいどんどん増やすの。雄が1匹だけ居て。ものすごく大きいんですよ。私が小さかったからか、綺麗なしりっぽでね、私が時々からかうと、怒ってね、ババババって横に走ってきてね、ここの足のとんがりで刺そうと。

北原:田部さんは戦争に負けたときどう思われましたか。

田部:あぁ、なんも……。すぐね、女学校が始まったのよ、考える暇もなく。それで行ったですよ。そうしたらね、剣吊った北京から来た人がきて北京語を教えるんです。「ペッペッモッホッ」って、その発音記号からですよ。標準語だからね。難しいのよね、これがね、発音が。

張:でも、さっきすぐ分かりました。発音すごくいいので。

田部:そうそう、それそれ。それでね、テストがあってね、私75点とってねがっくりきて。そんな点とったことない。いやぁ、これで落第やねって思ったらね、一番良いんだってそれ。75点が最高点だって。で、褒められたの。

北原:学校で聞いていてたのは、要するににほとんど日本人ばかり……

田部:うん、げらげら笑いながらね、おかしくておかしくてね、「ペッペッモッホッ」が。

張:先生たちには怒られなかったんですか。

田部:怒られなかったよ。

張:優しい先生……

田部:優しい先生だったと思う、みんな。

張:軍人さんだったんですか。

田部:中国国民軍じゃないですか?蒋介石ですよ。制服で来るんだから。剣吊ってたよ、うちの父だって。会社に出勤する時。背が低いから、剣がズルズルするとか思ってた。

北原:どこに通っておられましたか、お父様は。

田部:台東庁。役所の職員だから。公務員ですよ、今言えば。衛生局だから。それで、マラリアとか腸チフスの予防に貢献したのよ。出張所みたいな、分室みたいなもの作ってね、そこに台湾人を住まわせて、定期検診して予防注射して、というふうに。だから終戦と同時にね、やっぱりほら明日から日本人の家に出入りしたら、捕まるかも知らんっていうその晩にね、どんどん米一俵ごととかね砂糖とかね、それから台湾の餅こんなに大きいでしょう、あれ2つとかね、運んできてくれたの、台湾の人が。

張:台湾の人。先住民ではなくて。

田部:じゃなくて、台湾の人と思うよ。原住民はもうちょっとこう、農耕っていうか、毎日水牛に乗って行ったよ。だからそういうちょっとした台湾人の、台湾の小学校出たり中学校出たりして、一応頭のいい人に教えるわけよ。だからそういう人がしてくれたんですよね。で、それで(日本人と接触しても)大丈夫だって分かって、引き揚げる前に自分の家のディナーとか、呼んでくれてね。そこで一つ覚えてんのはね、真っ赤なスープが出たの。

北原:どんな味でしたか。

田部:真っ赤なスープがでてね、これがもう、本当に美味しかったんです。だから台湾に行ったときにね、みんなに聞くけどね、そんなスープは無いって言われたね。

張:甘いスープですか。

田部:いや、甘くもない、自然な味だったね。

北原:中に何が入っていたんですか。

田部:何も入ってないの。だから鶏ガラかなんかでとってるんじゃないかな。ここのスープみたいにね。他のいっぱい出てたけど、とにかくその赤いスープだけが、またヴィジュアルですよね。目にバーンとその赤いスープが飛び込んで来たんでしょうね。

北原:それは引き揚げの前に頂いたスープなんですね。

田部:はい。それで、次の年引き揚げるようになったからですね。

北原:1946年に。

田部:1人1,000円持って帰って良いんですよ。1人1,000円もって、ずらーっとならんで、柳行李一杯ずつ。開けて検閲があるんですよ、台湾の兵隊さんの将校みたいな人のね。

北原:1人、ということは田部さんも1,000円持てるっていうこと。

田部:そうそう持てる、柳行李に。みんなね姉の嫁入り道具を持たせられた。だから柳行李はずっととってたんですけどね、最近はなくなったね。実はそのとき、七五三の時に持つ綺麗なバックがあるでしょう。あれの中に300円入っとったんですよ。私の小遣い銭かなんかで。検査官がそれをぴっと取ったのね。で、開けようとしたけど開かないんで、ぽんと置いたんですよ。後で開けたら300円はいってたの。これが開いてたら、わたしは殺されたんじゃないか。なんかそこから運の良さというのがね、ずーっと続いてるんよ、私。命拾いしたと思って。

北原:どなたと一緒に引き揚げられたんですか。

田部:家族。父は残るっつったけどね。そんなこと許されんとかいってね、母が。まぁ父は残った方が楽しかったと思うよ。

北原:それが昭和21年の何月でしたか。

田部:そうそう、4月。4月8日でしたね。寒かったね。鳥栖についたときには雪が降ってたよ。こんな寒いところで暮らせない、って思った。

北原:出港はキールン(基隆)ですか。

田部:キールン(基隆)か。あのね、巡洋艦がね、たった1隻か2隻残っとったの。それを使ったのよ、台東庁は。だからもう揺れて揺れて、速いから。私もう「死ぬ、死ぬ」って言ってからね、叫び廻ったのよ。誰かがおじさんがね、あんまり私が苦しむから、甲板に連れて行ってくれたんですよ。甲板に出たとたんに、すっと気分が良くなって。酸欠ですかね。それ以来、船が嫌い。海が嫌い、水が嫌い、船が嫌い。水難の相があるっていわれてね、19才で死ぬとかいわれて。ほんとうに水難はその2回ぐらい遭ったしね。
…… こんな事話したってしょうがないですよ。もうちょっとなんか、あの戦争反対のメッセージを出しますよ。だからどんなことして、どんな原爆を持とうがどうしようがね、日本は負けます。どこと戦争しても負けます。私が予言します。負けても良いならしなさい。今度負けたら国はないですよ。

張:なぜ負けると……

田部:負けますよ。戦う気持ちのある人がいますか、日本に。誰もいませんよ。逃げるところもないですよ、ねぇ周囲が海だから。だから私はアメリカに移住するっ言ってたのよ。一千万貯めてね行こうと思ってたの。でも一千万がなかなか貯まらんのね。とにかく、永久ビザですか、労働ビザでも、市民権、これを取る。何のためにっていうけど、いや取ることが意味がある。取ることが私のパフォーマンスなんだってね、頑張ってたけど。若い子が取るからっつって、私ついていったことあるの弁護士のところに。そうしたらね、その人が「貴女のほうがすぐに取れますよ」って言った。こっちの新聞にも載ってるし。こっちでずっと個展してるし、実績があるから。あなたはすぐ取れますよ。あの時にすぐ頼めば良かった。すぐ、「そうですか、じゃあお願いします」って書類をぱっと出してたら、取れたのよ。今はこんな帯状疱疹になったりするとですよ、健康に自信もないわね。61才から行ったんですよ13年間ね、ずっと。ニューヨーク、ワシントン、アディロンダック、パリ、ブルゴイユなど。

北原:ところでお父様とお母様と、お姉様と4人で引き揚げられたんですか。

田部:兄はね、予科練に行っとったからこっちで帰ってきました。特攻隊で、もう飛行機がないんだって、行った時には。あの人もラッキーなのよ。なんでも1人同僚が肺炎になるんですよね。間質性肺炎とかいって、で、その看病を兄がして自分もうつったんですよ肺炎に。それで飛べなかったんですよ。

北原:それはどこですか。

田部:江田島の辺じゃないですか。それでその友達は肺炎で死んだんだって。でもうちの兄は助かったの。体操してましたからね、器械体操。大車輪とか。だから体が強いんですよ。それで生き延びて、最後は佐世保の通信隊かなんかにね、行ってて、毛布1枚もらって帰ってきたの。

北原:では日本でまた再会されるわけですか。

田部:うん。

北原:それで、船で大変な目に会いながら引き揚げてきて、次にはどこに行かれたんですか。

田部:母の実家に引き揚げてきたんですけどね、そこからだいたい近いとこにあるのよ、女学校。でも母はね教育ママでね、浮羽高等女学校が名門だからって言って、そこに(入りました)。浮羽高等女学校は、あの辺で有名なんですよ。それね、私は平気で2年に編入しましたけどね。うちのおじさんが政治をやってましたからおじさんの知り合いで稲富隆人っていう、民社党の代議士に母が頼みにいって。黒塗りの自動車で乗り付けたんですよ、浮羽高等女学校に。そして簡単なテストがあって、テストは100点とって。満州とか朝鮮から引き揚げてきた人は1級下がったんですよ。編入の時に。私はそのまんま2年生になったの。

北原:なんのテストだったんですか。

田部:数学と英語だったの。こっちより向こうの方が進んでたから。だから、すごく簡単ですよ。一次関数ぐらいのもので。

北原:台湾では小学校は国民学校ですか。

田部:いや、もう女学校入ってました。

北原:小学校をでて、それから台東高女ですか……

田部:そうそう、台東高女。

北原:の1年生だったんですね。

田部:2年生になってた。で、2年の時に帰ってきたから2年生に編入したの。そして学制改革があったんですよね。それで高等学校になって、2校あるんですよ浮羽は、東校と西校。で東校は家庭科みたいなものになって、西校は受験校になったの。今もそうですけど。その西校に私達のクラスだけ行ったの、受験クラスだけ。私も負けん気が強いから、成績だけは良いんですよ。通信簿見たらわかるんだけど。だから学芸大学、今の教育大学、推薦で行けるよって言われてたんです。担任が国語の先生で、私はとてもかわいがってもらってたからね。文学趣味はここから来てるんです。でも私、先生になるのはどうも好きじゃなかったのね。そしてあの頃まで、あそこ(教育大)を出たら、2年ぐらいお礼奉公をせんといかんかったの。それが嫌で断ったんですよ。早く勤めに出て親を助けんとね、飢え死にしちゃうからね。働いたの。

北原:それは何歳ですか。

田部:だからそれ、18才からずっと働いてるのよ。ちょうど香蘭のなんか専門学校の証書が出てきたの。香蘭学院(現香蘭女学院)て今もありますよ、香蘭短期大学(香蘭女子短期大学)とか。あそこがまだ夜間部もしてたころ。出てきとったよ。そんなの忘れてたよ。

小勝:(田部さんが用意されていた卒業証書などの資料を見ながら)あ、本当だ出てきました香蘭女学院。

田部:そうそんなのがあるって、知らなかった。

小勝:これは高校を出た後に行かれたんですか。

田部:そうそう。で自分のブレザーとか全部縫ってましたよ。

北原:洋裁学校みたいなものなんですか。

田部:そうです。買うお金がないからね、生地だけ買ってくればぱっとできるでしょう。それでも泥棒が盗っていくんですから。そんな貧しい時代ですよ、戦後の。

北原:物盗りですか。

田部:泥棒に2回入られたよ。緞子でつくったスーツもね、ツイードのスーツもね、コートもねみんな取られたの。よっぽど洋裁上手だったんだよね(笑)おかしいね。

中嶋:(香蘭学院の卒業証書を見ながら)こっちの卒業証書と、こっちの卒業証書は…… 2つある。

小勝:昭和28年10月と昭和29年3月、2つある。

田部:だから出て(卒業して)、また行ったのよ。

中嶋:レディドレス香蘭女学院に2回行かれたということですか。

田部:ドレスメーカーと、2回行ったのよ。

小勝:こちらは夜間裁断科。

田部:そうですそうです。働きながら行ってるのよ。

小勝:働くというのは、すでに岩田屋に入られて……(注:岩田屋とは福岡市の老舗百貨店。戦中戦後、美術展の会場として頻繁に使用された)

田部:いや岩田屋じゃなくてね、その前にちょっと知り合いの人を介して、石炭会社に行ってましたよ。2年。

張:石炭会社。

田部:うん、それはね、面白かった。

北原:ちょっと待ってください。18才で、学校を卒業して。

田部:そうそう、2年ぐらいね石炭会社で勤めて、二十歳の時に岩田屋に入ったの。最初はね、臨時雇いで入ったけど、1年ぐらいでですぐ本社員になって。

北原:石炭会社でどんなお仕事をされていたんですか。福岡市内ですか。

田部:うん、石炭の販売ね。本社の頃はね、銀行のね、その会社ももうすぐ潰れそうでね、あっちのお金をこっちに持っていって、こっちのお金をこっちに持っていくっていう、そういう仕事よ。私銀行の電話番号を全部覚えてんの。「石橋(田部さんの旧姓)、富士銀行」「はい、何番です」電話帳を引かんでいいのよ。特技よ。「行ってきて—」って、30万からを、あっちから出してこっちに入れる仕事。でとうとう潰れたの。でどうしようかと思ったら、兄がちょうど帰ってきて、その岩田屋の人事課にいたの。行徳(後に三重野)栄子っていう後に参議院議員になった人と友達だったの、兄が。それで入れてもらったんですよ。で、1年間の臨時職員をして、その間にいろいろ功績をあげてね、検定に通ったり1万円の商品券の不正使用を見つけたりね、勘が良いからね、すぐわかる。賞状があったでしょう。

小勝:表彰状、「勤務中盗難商品券の不正使用…… 金一封を贈る」。

一同:(笑)。

田部:おかしいね(笑)。勘が働いてね。「ちょっと待って下さい」って言ってねレジーのところで。あの、登録してあるんですよ、不正番号。すぐ保安科に連絡して、ぱっと捕まえて。

小勝:岩田屋との労働契約書も出てきた。

田部:ね、それが私面白かった。労働契約書まで出てきた。だんだん紙が上等になったっていうか。あの国民学校のものは、だんだんと紙がボロになってるね。薄く。やっぱり国家のあれを反映してます。岩田屋はちゃんとしてましたよね。済美会という社員のための、教養を高める(サークルも持っていたり)ね。私は美術とフランス語(のサークル)とを取ったの。

北原:それは岩田屋がお金を出してくれて、習えるんですか。

田部:そうそう、そうです。フランス語の一番最初は、「マンショーン、マンショーン」っていうの、フランスの国歌を習いました。

北原:岩田屋って戦時中も戦争画の展覧会が廻ったりしているんですけれども。

田部:そうですよ。

北原:どんな位置づけにあったんですか。岩田屋っていうのは。

田部:百貨店で展覧会があるのは、常識だった。

北原:ええ、だから、民間の美術館みたいな感じですか。

田部:そうそう。地方では、展覧会は地方のデパートに廻るんですよ、どこでも。美術館がない時代なので、デパートでやってたんです。「西部女性展」も岩田屋の7階か8階で。

小勝:「アンフォルメル展」も、岩田屋ですよね、たしか。

田部:アンデパンダン?グループQ?

小勝:グループQではなく、海外の……

田部:え、ほんと?(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu, 1921-2012)が来た時?

小勝:そうそう。それが、こっちにも回ってきてるはずなんです。

田部:へえ、それは知らん。

小勝:そうですか、「世界今日の美術展」岩田屋ホール。ちょっと話しが飛んじゃいましたけれど。1957年。

田部:そういえば、そんな気も、してきたな。

小勝:グループQがやった年と、同じ年ですね。それはまた、明日詳しくお伺いしたいと思ってたんですが。ま、そこまでいかなくても、岩田屋に入った頃に戻り…… 

北原:その頃は、岩田屋ではどういうお仕事をされていたんですか。

田部:売り子ですよ。1階のスカーフとかマフラーとか傘とかなんとかの。だからマフラーとかは、絵を描くから、売れるのを仕入れるのがうまいから、全部任せられて。

北原:仕入れまでやってたんですか。

田部:だから仕入れまで任せられて、自分が仕入れたものは全部売る、という。絶対に下に残さないように、毎日全部入れかえて、やってましたね。

中嶋:その頃まだ50年代ですけど、売れましたか。 

田部:スカーフは良い柄だったよ、あの頃の方が。

小勝:そのへんはどういう人が、やっぱり多少お金持ちが買うんですか。

田部:いや、そんなのは、普通の人が来て買いましたよ。

中嶋:岩田屋というのは、その地域で一番大きなデパートなんですね。

田部:そうそう、そうだった。

北原:今もありますよね。

田部:いや、今は潰れてね、社長が私財を投げ打って、再興したからね、それに感動した九電と西部ガスが、あの場所を使わせてやってるのよ。本館の方はNTTでしたから。それじゃあまりにもかわいそうっつってね、したんですけど。
一番始めは、社長は中牟田喜平衛で次が喜一郎で、次の社長がボンボンだったらしいですよ。喜一郎さんのときに私の同僚の、吉増、上野、あともう一人、なんだったっけな、取締役の息子。あの3人が3人組で。吉増は九大で、マルクスか何かを学んだ人で、なんでも私はその人たちに相談していたんですね、組合のこととかね。この3人がブレインでいる間は大丈夫だったの、潰れんで。その社長が、持ち上げるお世辞マンだけにしたの。3人も切ったの。そうしたら潰れたのよ。ぱっと。見事に。

中嶋:その3人の人たちが、やはりサークル活動とか美術とか、組合の活動に……

田部:そうそう、組合の活動も、それは第2組合ですけどね、御用組合のほう。第1組合は共産党系だったからね。

中嶋:組合が2つあったんですね。

田部:組合員もどんどんもう減っちゃって、最後はもう10人ぐらい。そこで、まだどっかに写真があったけども、八柄さんていう人が、あの共産党でやってたけれど、あの人があの定年と同時に死んじゃったのよ。この茶山四丁目にいた古賀さんという人もずっと、なぜかあの人も残ってたんだけど、あの人も割と早く死んじゃったのよ。

北原:明日、多分もうすこしこの辺りから話しが続くと思うんですけども、今日は台湾での生い立ちとか、育ったところとかを詳しく教えていただいて、すごく面白かったのですが、その時代のことというのは、ご自分が作品を作るなかで、なにかヒントになったりとか、なにかあるんでしょうか…… あんまり関係ないですか。

田部:りんごぐらいでしょう。りんごの箱から出てくる鮮烈な印象が。だからポップアートをするならりんごよね、と。迷いもなく。みかんでもない、バナナでもない。りんごしかないんですよ、私の中で。
生来の楽天性は台湾ですね。引き揚げて来た頃は、台湾ボケって言われてましたから。

北原:それは1年に1回くらい送ってきていた、りんごですよね。

田部:そうそう。りんごの美しさというのはね、味は知らないよ? 味はもっと美味しいのがいっぱいある、台湾でもマンゴーとか釈迦頭とか、釈迦頭は美味しい。うちの塀の上を伝っていったら、そこでちぎれるのよ。これぐらいの塀をうまく、ととととっと行けるのよね、子どもだから。

張:台東が一番有名な産地で、あとで写真みせます。

田部:それを香港で見つけたのよね。「あ、釈迦頭がある」とかいってすぐ買ったのよ。それで冷蔵庫に入れとこうねっていって。そして忘れて帰ってきたの。食べるの忘れて帰ってきて、飛行機の中で「あ、釈迦頭わすれた」って。食べようっていって買ったのにね、結局は食べたことないわよ私釈迦頭、帰ってきて以来。

張:私今度、こっそり持って帰ります(笑)。

田部:とにかくうちはパパイヤもあったの。庭にざーっと。今みたいにこんな、ちょん切ってないですよ、背が高いから棹に袋をつけて、パクっパクってとるのよね。

張:その時は官舎街はやっぱり、みんな果物とか作っていたんですか。

田部:いやそんなのあるの、うちくらいよ。だからもう、石橋さんの所のバナナがいちばん美味しいっていってね、兵隊さんが。「持ってきて、持ってきて」って言ってた。なったまま、パシッパシッと割れるのよね、皮が。とにかく私はね、引き上げてきて3年くらい帰ってきてね、バナナは口に入らなかった。不味くて不味くてね。

北原:台湾バナナですよね

中嶋:小っちゃいですよね。

田部:あんなの嘘ですよ。小さいうちにとるの。そして蒸らすの。本当に野生だったらこんなに大きくなるの。うちは鶏小屋の横にあったからね。肥料はいっぱいある。

小勝:今でも台湾バナナの方が高いですものね。

田部:そうでしょうね。

小勝:台湾では産業としてバナナをやってるんですか。

張:はい。やってます。結構重要な。

田部:あれもね、パイナップル。当時オンライって言ってたけど。

張:パイナップル。その時代は特に、パイナップルとバナナが一番重要な経済的な…… 

田部:パパイヤは傷むからね。あんまり、こう、輸出とかは、向かないよね。とにかく美味しいのよ、うちのパパイヤは。熟れるまで置いてるから、とろけるように。オレンジ色の。

小勝:いろいろな美味しいものがあっても、やっぱり画材としてはりんごというのが……

田部:そうそうそう。りんご。絶対りんごだね。63年からりんごですもん。

北原:味というよりも、なんなんですか。日本から来たということがすごく嬉しかったわけですか。

田部:いや、そういうね意識っていうものは、私はだいたいにおいて予感は鋭いけど、あの自覚がないの、何事もね。

中嶋:田部さんの記憶ってビジュアルですよね。台湾のほうがいろいろ色彩も豊かな果物の色ですとか、先住民族のお洋服の色とか、色彩の鮮やかなところで育たれて、日本に帰ってきてからがっかりされませんでしたか。

田部:がっかりしたね、まず、食い物がないのにがっかり。こんなところ来るんじゃなかったって。台湾にいて、弁護士になっとけば良かった。小さい時から正義感が強く、弁が立つので弁護士になろうと思っていたので。

北原:台湾時代で辛かったこととか、そういうご記憶ってあんまり無いんですか。

田部:ん、辛かったこと。

北原:ええ、嫌だったこと。

田部:辛かったことは。台湾はね。毎日楽しかったし・・・・・・。

小勝:これを読むとね、田部さんの全貌がよく分かるんですよ。(注:田部光子『田部光子 TABE MITSUKO Recent Works』ギャラリーとわーる発行、2002年)

張:(アトリエにある作品を見て)これ買いたい。私、いつか買おうと思って。その、アフリカ、この間お聞きした……

田部:そうなのよ、アフリカは(主題として)自然に出てきてるのよ、もう無意識よなんでも。無意識で、宗教と民俗が人々を不幸にするって思いついて。コンゴだけきちっと描いてね。アフリカの地図かいてさ。「喜望峰」だもん。「きぼう」の「き」が違うのよね.喜ぶっていう字。

中嶋: 一端時間を戻してもよいですか。

田部:もう台湾はいいよ、大概で。

北原:あの、話しがいろいろ展開したので……ここで切りますか。

小勝:そうですね今日はもう四時半だから

田部:いや、あのいいですよ、まだ。ごゆっくりどうぞ。なんか、嫁さんが作ってますから。

北原:明日が長いので、今日聞ける話は……

中嶋:じゃ、あと30分くらい。

小勝:じゃ、中嶋さんが始めます……

中嶋:お願いします。じゃあまず美術に関心を抱いたきっかけのようなものからなんですけれども、小学校の頃から絵を描くのがお上手だったという。

田部:いや、それはだから、それは交換日記とかね、してましたからね。好きでは……嫌いではなかったけど、高校の時に私よりも巧いのがいたのよ。木を描くのが抜群にうまいの。

中嶋:じゃあそれは、台湾の小学校でも、こっちに引き揚げて来てからの学校でも、図工や美術の授業というのはありましたか。

田部:ありましたよ。

中嶋:お好きでしたか。

田部:特別に好きでは無いと思うね、だけど、だからほら習字と美術と音楽と、どれをとっても良かったの。

中嶋:で、美術をとった。

田部:だから3年間で、1つずつとったの。欲張りだから。

中嶋:美術はどんな、水彩画とかをやりましたか。

田部:えーっとね、美術は、静物画とかそんな面白くない授業だったよ。

中嶋:結構伝統的なものを習うんですね。

田部:うん。

中嶋:そうではないような前衛的な絵画に触れられたのが、その岩田屋での……

田部:そうですね。九州派…… あれは桜井(孝身、1928-)さんの大声が階段中聞こえていて、なんだろこの大声はと思って入っていったところが、桜井さんの展覧会だったの。

中嶋:岩田屋で桜井さんの展覧会があったんですね。

田部:踊り場で、あの、小さな画廊がありましたからね。

中嶋:岩田屋には、ホール以外に画廊もあるんですね。

田部:後で出来たんですよ、階段の所に。ちょっと小さいけどね。

中嶋:岩田屋では、そのサークル活動、これは済美会(さいびかい)というのがあったと伺っているのですが。

田部:済美会で絵画部に入ったというところで、やっぱり興味があったということなんでしょうね。油絵の具とかも、兄が置いていったりしててね、兄もその、兄は早稲田の政経で、代議士になる夢があって、誰かの秘書になるはずだったんですよ。そしたら結核になって、その結核になったのが石田さんとかいって、第一美術協会の会長かなんかの家に下宿してて、「お前もう、療養中に絵でも描かんか」って言われて、絵を描き始めたのが始まり。

中嶋:東京で和美さん(田部さんの兄の名)は絵を始められたんですか。

田部:そうそう。で、時々帰ってきてね、どっかスケッチに行ったりして。「お前は色彩感覚が優れている」とか(私に)言ってね。俺よりすごいとか言ってましたよ。

中嶋:一緒に風景画とかを描きに行かれてたんですね。

田部:あっちは男だからさ、やっぱり真面目に描くっていうかね。あの、色彩感覚が悪いんだって、自分は。

中嶋:もっと独創的な色彩感覚で絵を描かれていたんですね。その頃田部さんはおいくつくらい、高校生ですか。

田部:いや、もうまだ、20から26才まで(岩田屋に)居たからね。その間ですよね。

小勝:ちょっと、そのお話なんですけれども。その前に、田部さんこの本(注:田部光子『着信人払い地球郵便局』葦書房、1984年)に書いていらっしゃいますが…… 

田部:うん、『フクニチ(新聞)』に連載したの。当時の文化部長の深野治さんの推薦で。

小勝:ええ、「引き揚げて高校に行ったときに」

田部:高校?

小勝:高校。それで、その「浮羽高校に行ったときに、吉井町在住の画家尾花さん、尾花成春さん」

田部:そうそうそう、九州派。成春。まだ生きてるよ。

小勝:「その『ともだち座』という演劇をしていた」。

田部:それが鳥越俊太郎のお父さんよ。監督とか色々したのが。書いてないよね私。

小勝:書いてないですね。「それに刺激されて、『アラジンの不思議なランプ』を脚色衣装装置等、全部を自分たちで整え、リアカーにつんで、それで中学校の講堂で公演をして廻った」。これもまず、最初の美術、芸術体験ではないか、と。

田部:そうですね、本格的な美術体験というか、あの、シナリオも書きましたからね。

中嶋:総合プロデュースですね。

田部:そしてこの1人2役もしてね。あの、もう、ものすごい巧いって褒められたの。

小勝:出演もしたんですか。

田部:演技が。じいさん役から、門番から、モンナバンナ主役まで何でもこなしてましたよ。学園祭で。

小勝:そもそもちょっとまた前後しちゃうんですが、台湾の女学校時代でしたっけ、交換ノートみたいなものをしていたっておっしゃってましたね。

田部:それを捜すっていってたでしょう、もうあるところをみたら無いのよ。もう一箇所そこに、見当があるけれど。

小勝:それは台湾時代ですか。

田部:そうです、台湾時代。

小勝:そこに詩を書いたり、絵を描いたりしてた。

田部:下手な絵よ(笑)。

中嶋:紙や画材というのは、結構ちゃんと手に入った……

田部:だから紙がボロボロだから面白いのよ。戦争中のボロボロの紙に描くの。あのノートを一生懸命見つけてるのよ、今。

小勝:その女学校時代のお友達というのは、日本人なんですか。

田部:向こうでしょ。うん、全部日本人。

小勝:その台東高女。

田部:そうそうそうそう。いや、台東小学校かな。高女ではそんな余裕は無かったもんね。

小勝:そうですよね。敗戦ですもんね

田部:小学校。本当にそのね、あの忘れられないのはね、あの、草刈りとか行くんですよ。奉仕作業とかいってね、動員されるわけですよ。何故か先生が居ないんですよね。結局私が責任者になるでしょう。そしたらね、鎌で安永さんが、ここをざっくり切ったの。骨が見えるほど。もうそんなのも全部私がせんといかんのよ。で、私がなんか幸いなことに、布の帽子を被っていっとったから、その帽子で手がしびれて手が折れるかと思うくらい止血して、そしてずっと泣きながら大きな道を歩いてたの。そうしたら兵隊さんのトラックが来てね「どうしたんか」っていってね、もう「怪我してるんです、助けて下さい」って言ったのよ。そうしたら「分かった、僕たちが病院に連れて行くから、あんたは帰っていい」って言われて、ほっとしたの。ほんっとうに運が良かったと、もうちょっと歩いたらもう手がしびれて、あの人は大出血で死んでるよ。それであとからね、あの止血が非常に良かったって、あれがなかったら助からなかったかも知れないっていう言付けがあったって、兵隊さんから。それで私も満足したんですけどね。

中嶋:命の恩人ですね。

田部:そういうこともあったの。

北原:小学校時代から、絵を描くのが好きだったんですか。

田部:好きですね。

北原:いつ頃から書き始めていたんですか。

田部:まぁ、どっちかっていえば文学が好きね。講談全集ってこんなのあったでしょう。ずらーっとうちの父が(持っていて)。

中嶋:それをお持ちだった方多いですね。

田部:年配の人がね。ベストセラーなのよね、あれ。それと銭形平次。その講談全集、私が学校に行けんくなって空襲で。全部読むんだって、父親が心配してた。「あんなもん、読んで良いのかね、子供が」って言って心配してたんだって。

北原:特に何が好きですか。

田部:「天野屋利兵衛は男でござる」(笑)。忠臣蔵よ。

小勝:忠臣蔵ね。

田部:商売人なのにね、武士より堅いの。絶対に大石内蔵助に頼まれたっていうのを言わないんですよ。どんな拷問にあってもね。「天野屋利兵衛は男でござる」。

中嶋:そういうものを読まれて育って。

田部:だから私の文章はね、リズムが良いんです。

中嶋:そうですね。

田部:よく考えたら、これは講談からきてるんとちがうかな。講談口調だからね、リズムがいいって、すごく読みやすいっていわれるんのが、やっと分かったんですよ。

中嶋:文化的な家庭で育たれたんですね。

田部:家庭的にはね、結構レベル高かったと思うよ。父もほら、何でも物好きで凝り性で。母はもうほら、やりだしたらもう帯とかね一晩にこんなにつくるんだよね。それもね、絹の糸でこうダイヤ形にして、ここにひらひらひらひらとつけるわけですよ。そんないらんことせんで良いのよ。ただ渡しとけばいいのに。それがしたいの。だから毎朝おきてね、綺麗ねーって、私言ってた。美しいものを見るのが好きかな。

中嶋:これも金色ですものね。
(注:金箔で彩色されたりんごの作品《健康作品》(2001年) を指して)

田部:そうそう。これまた面白いとよ。個展会場に誰かがぴゅーっと入ってきてね、ギャラリーとわーる、「これは凄い。これは東向きに掛けたら何でも手に入る」っていうのよ、あなたは何をされてる方ですかっていったら、「私はですね、風水をやっている者です」って。何でも手に入るなら、やっぱり健康やね。それで《健康作品》にした。もうお金なんかあったって健康が無ければなんもならん。でも実績あるのよ。この前ね、白寿で亡くなったの。これまだ若い頃買ってくれとった方が。白寿まで生きたって。やったーって。

中嶋:それは、置いておいた方がいいですね。

田部:いいですよ。お金があったら、買ってね(笑)。100まで生きるよ。それでも私が死んだらどうしようかと思ってね。このまえ一週間心配したの。膵臓が、膵臓は助からんけんねって思ってさ(笑)。

北原:4つあるから、400才まで。

田部:半額にしますよ。

中嶋:お父様も写真をやられていましたよね。

田部:巧いですよ。職業的な三脚つきの……

中嶋:写真機を使ってみたり。

田部:写真機もある…… 暗室までつくるんだから。あの人は凝り出したら凄い。たあ俳句だけは上手にならんかったね。帰ってきて俳句をねよく、『朝倉』(注:朝倉俳句会の機関誌)とかいうのに投稿してたけどね。なかなか入選しないわけよ。入選したら喜んでね、送ってきてた。山が好きで山歩きが。古処山(こしょさん)とか、なんたらかんたら歩いて、あの、うちのあそこの紅葉とか大きくなってるの、あれとかみんな父が持ってきたの。60年70年経ってる。だから私紅葉が好きなんですよ。文学趣味だね、あの人。私が原稿代とかもらったらすぐにあげるのよ、お金を。喜んでね。買う本は徳川家康とかさ、しょうもない本買うけどさ、本を買うということは良いじゃないですか。

中嶋:じゃ、ご家族も田部先生が画家になることについては、特に反対はされたりはしなかったんですか。

田部:父は反対してましたね。早くよかとこに嫁に行けって。こんなもらい手がおるわけないやろって。あの、見合いするぐらいなら私は一生独身で暮らすよって、嘯いてましたから。

小勝:でもお兄さんがまず最初に画家になったわけですか。

田部:そうですね。なんとか文部大臣賞とかとってるんですよね。だから未だにね、前衛で頑張ってたらね、良かったんですよ。それがねある日、あの人も凝り性で信楽に凝ったんですね。信楽焼。そして私が行ったとき丁度、耳の不自由な人の人を連れてきて窯を作らせてたの。窯まで作って、したら腰を痛めてね、死にそうになったんですよ。その時に大塚なんとかっていう、漢方医の有名な人がおるでしょう(大塚敬節)、その息子さんで、北里大学の教授(大塚恭男)。あの人から助けてもらったんです、漢方で。それ以来は、世の中の無常、命の大切さと「あんな前衛の絵を描いていてもつまらん」とか、なんか色々考えて、仏画に転向したの。だから私ともあんまり話が合わなくなったの。

中嶋:その後は会わなくなってしまったんですか。

田部:うん、仏画も売れたのよ一時期は。あの景気の良いときは。70万80万って。私なんかゼロで頑張ったんですけど。「人生は投機である」サルトルが言ってますよね。未来への投機だって、言ってますでしょ。それですよ。自分がなりたいものにしかなれないと。意志ではなくて、なりたい物になるという実存主義ですね。実存主義に凝ってたから。だから、やっぱり前衛で行きたいと思ったら、徹底して前衛で行くという、それはサルトルから学んだんです。

小勝:そのサルトルは、やっぱり岩田屋のサークルのフランス語とか……

田部:サークルよりもね、組合の事で役に立ったね、私。どっちだっていいんだという、第1だろうと第2だろうと、どっちだって良いんだっていうふうなところから発想していくからね、あの第1からは嫌われるわけ。で、もううるさいから、辞めた。辞めたーって。組合長が裏切るよって聞いとったの、私。三重野さんの弟から。「田部さん、ようく気をつけとき。三重野組合長が裏切るよ」って。そしたら、ほんとに彼が会社と手を組んでね、たった480円で手を打ったんですよ。

小勝:岩田屋争議の時ですね。

田部:それで、彼はよう見とったね、と思うけど、その姉ちゃんが三重野さんと結婚したのよ。あの人はね堤さんだったのよ。最初行徳さんで、それから堤さんていうね、穏やかな教授みたいな人が良く会いに来てましたよ。その人と別れて、あのチビの嫌な三重野と結婚したの。

小勝:お姉さんがですか。

田部:うんお姉さん、行徳さん。行徳さんの弟が私に「石橋さん、よう覚えとき、あいつが裏切りよる」って私に囁いたの。よく見とったな、と思って。

北原:それは第1組合の。

田部:うん。それで辞めて。だから第2組合、向こうが私をね、中牟田和夫さんとかみんなかわいがってくれて、人事課長もボーナスっていったらAクラスを貰ってたから。と、組合の方は、私を大事にしないでしょう。だから三重野さんから嫌われとったもん、私。だからそんなこんなで合わないで、「どっちにも行けんくなったね、じゃ辞めよう」っていって、辞めたの。

小勝:組合を辞めたんですか。

田部:岩田屋そのものを辞めたの。

北原:岩田屋そのものを。あぁ、そうなんですか。第1組合が主流派の組合で、第2組合が…… 

田部:だけどあっという間に50人に減るのよ、第2が出来たら。西日日本新聞社なんて8つ出来たんです、組合が。編集から記者からなんから、広告から何から、ぜんぶ部門毎に8つも出来たの。

中嶋:そんなにあったんですか。

田部:なんにもならないのよ、組合に忠義立てして共産党に入ったってしょうがないでしょう。あ、この中(注:「九州派」展カタログ、福岡市美術館、1988年)にね、九州派は学歴が低くてどうのこうのって出てきます、2ヶ所。あの黒田(雷児)さん。だけど、私はね学歴コンプレックスゼロです。私たちが大学に行く頃に行っとったらね、えっと、共産党の主流派と国際派でね、しのぎを削ってました。殺し合いの。どうせそれに私巻き込まれるじゃないですか。そしたらリンチ受けるか共産党から立候補するか。そんな人生嫌ですよ、私。もうサルトルに違反しますよ。だからね、なんともないのよ。学歴コンプレックスゼロです。そういう気持ちも分かって欲しいよね。あの人東大出てるからさ、東大出てない人はみんな学歴コンプレックスと思い込んでるのかなと思って。一度酒呑んでゆっくり私のこの気持ちを聞いて欲しい。私の息子は東大を出てるし。

中嶋:コンプレックスとは書いてなかったですけど、多分。

田部:それは書かんですよ。だけど学歴が低いって何回書いてるんですか。88年にも書いてる。

中嶋:ただ、東京との違いを書きたかった……

小勝:つまり、他のグループの画家たちといいますか前衛の人たちが、大学生のぼんぼんで……

中嶋:頭でっかちだったのに対して、九州派は……

小勝:(東京の前衛たちは)豊かな生活の中で、こう……

中嶋:実存的だと、生活に即した美学を持っているということなのでは。あの、そこでお伺いしたいんですけれど。1958年の1月に岩田屋を退職され3月にご結婚されてるのですが、田部健二さんと。

田部:田部健二さんね、声がよくてね。うっとりする声ですね。

小勝:どこで知り合ったんですか。

田部:私が仲良くしてた女の友人がおるんですよね。で、その友人が結婚したの。その結婚した男の方の知り合い、うちの旦那だったの。私がその女の人の友達で、新所帯をもったから2人で加勢にいってたの、で、色々とお掃除したり加勢して、そこで出会ったの。

小勝:そうなんですか、それでは岩田屋とはなんの関係もない。

田部:なんの関係も無い。私の友達がね、男癖が悪いから、最後の最後まで内緒にしとったの、結婚するってこと。すぐ邪魔するから。面白い趣味の人がいるんですよ、世の中には。人の物っていったら欲しがるの。岩田屋にたくさんいましたから。結婚するまで内緒にしてたの。

中嶋:岩田屋を退職する前からお知り合いだったんですね。

田部:1年前くらいにね。

中嶋:恋愛結婚ですね。

田部:もちろんですよ、恋愛結婚以外しませんよ。見合い結婚なんてしません、恥ですよ。

中嶋:どのようなお仕事をなさってましたか。

田部:新聞社の広告局。

中嶋:新聞社の方なんですね。

小勝:西日本ですか。

田部:いや、フクニチ新聞。

小勝:ああ、フクニチの方なんですね。

田部:後にフクニチ広告社。で、映画関係をしてたんですよ、一手に。あの、だからそのお客さんをもって会社を作って独立したの。それで私は左うちわになったの。そしたらその、あの、ちょうど高度経済、バブルがきて、もう株も上手だしあの人。花王の株、無償株で10回位海外旅行に行った。私が全部使ってやったから、よかったろうって言ってんの。全部ここ(頭)にはいっとるよ。

中嶋:海外旅行はどこに行かれました。

田部:ヨーロッパですね、だいたい。観光はヨーロッパですからね、パリとかイギリスとかイタリアとか。イタリア、オランダは何遍もいった。スペインもいったし。

小勝:それは旦那さんと。

田部:いや、いかん。私1人。友達と。お医者さんの奥さん。循環器センターの総長夫人と行くのね。あの人、ご主人と行ったら全部無料ですよ、WHOの理事だからね。でも途中で別れたら全部自分で出さないかんのにね、ちゃんと私のプランでね、ホテルのランク下げてよ、あの人達はもうファーストクラスだからね、エクセシソワールとかいうようなホテルにね、泊まるでしょう、「私はそんなところ泊まれんよ、私はボロホテルだから朝迎えに来て」って言ってね、別の所にとまるの。でもご主人もちゃーんとしてくれて、途中でご主人とバイバイして、私とスコットランドの果てまで行ったね。

中嶋:田部健二さんは、美術は……

田部:上手ですよ。絵描きでない方が上手な人おるじゃない、こうラフスケッチとか、あの。広告の時にねもう、広告をここに何々の写真を入れてっていうラフスケッチがものすごいはやいの。

中嶋:田部先生が絵画教室を始められたのは……

田部:私がお金に困って、九州派の高い出品料を払えないからね。

小勝:それはじゃあ、旦那さんから貰わないで自分の絵画教室で出品料を払われたんですか。

田部:あ、あの人がまだ勤めているときは、給料が安いからね。私の方が高給取りで、毎日ビーフステーキ食べて。

小勝:岩田屋ではなく。

中嶋:もう岩田屋じゃなくて、絵画教室ですね。

田部:岩田屋はもう辞めてるよ、辞めて良かったのよ。240人も教えてましたから。いくら月謝が安くても、それだけ教えれば何十万かになりますよ。

小勝:それは週に毎日やっていたんですか。

田部:毎日のように授業をね、子どもが帰って来るのを待っとて自転車の後ろいに後ろにのせて、ばーっと走ってね、あっちのこっちの集会場を回って、教えてました。

小勝:これは、ご自宅で。

田部:これはね、40才の時ですから、ここ(自宅のアトリエ)も開いてましたけど。ま、ある日55才で、私はこんな事してて、絵描きになれんと思ったんですよ。それで、全部やめたんです。主婦まで定年退職宣言して、「茶碗洗わんぞ」、もう明日から茶碗洗わんって決めたの。

中嶋:芸術活動に専念すると。

田部:そうしたら一銭も入らんてこと、分かってるでしょう、分かってるのに経験しないと分からないの。一銭も入らんかってご覧なさい、もう貧乏もどん底ですよ。月謝は帰りに無くなるくらい無駄遣いしてましたからね。

中嶋:旦那様がサポートされてたって事ですよね。

田部:旦那さんの給料は旦那さんの給料よ、ガッポガッポっと。だから使うところが違うもんね、生活費。生活費は私の方が稼いでましたよ。それで独立してから、もう辞めたんですから、良かったんです。生活には困らない。

中嶋:でもだいぶその、美術にも田部さんの活動にもご理解があったんですよね。

田部:ああ、理解はありましたね。最初からそんなやつと結婚してるんですから。覚悟して。へんちくりんの変わった九州派と結婚してるんで。

小勝:最初は九州派に入る前は自由美術に出品されてたのは、やはりお兄さんが自由美術にいたっていうのもありますよね。

田部: そうですね。それで、井上長三郎(1906-1995)が時々こっちに来てましたから、会いに行ってね、そうしたら「あんたもう、(自由美術協会に)入らんね」って。「俺がいきなり会員にするけん入らんね」って言ったんですよ。

北原:井上長三郎が。

田部:大将ですよ大将。私はあの井上長三郎の絵だけは好きなの。

小勝:ちょっと前にお聞きしたときに、富山妙子(1921-)さんのパートナーの人が、福岡まで会いに来てくれたって書いて下さったんですが

田部:それもあれだったんですよね。それとか一木平蔵(1923-)とか。みんな来ましたよ、主だった人は。

中嶋:田部さんを誘うために。

田部:誘いに来たのか、遊びに来たのかは知らないけれど。

中嶋:九州には結構人が来てた時代ですよね。

田部:そうそう。

中嶋:あとは東京の繋がりといえば、お兄様の和美さんが、制作者懇談会にいらっしゃいましたね。

田部:そうそう。あの頃はあんまり知らないよ。うん、あの頃は私もこっちで。

中嶋:そこで針生(一郎)さんと後に知り合われるのですよね。

田部:そう、針生さんなんかをね九州派に紹介したのは兄です。

中嶋:なるほど、和美さんなんですね。

田部:だから61年の(九州派の)展覧会(「九州派展」銀座画廊、東京)の時に、針生さんとかを紹介したの、兄が。だから兄の家にみーんなで押しかけていってね、荻窪の団地に。(菊畑)茂久馬さん(1935-)とかみんな。

中嶋:東京で展覧会をやる時にですよね。

田部:そうそう、行ってましたよ。

中嶋:じゃあ、石橋兄妹あっての九州派ということになりますね。

田部:そう思うんだけど、恩知らずばっかりで。私もそうだけど。でも茂久馬さんはとても優しい人よ。

小勝:自由美術には記録によると、57年58年59年と3回出してるんですけれども……

田部:3回も出してるの、あら。

小勝:それ以後出さなくなったのは、やはり九州派に専念というか……

田部:そうそう、あの、「公募展に出しているやつは出て行け」ていう……

小勝:で、九州派を選んだわけですね。

田部:そうです。どっちを選ぶかだから。だから井上長三郎さんが「会員にするから入りなさい」とそういったときにね、「先生、私たちは公募展粉砕運動をしてるんですよ。なんで自由美術に入りますか」って断った。

小勝:その前にすこし時間的には前に戻ると思うんですが、富山妙子さんがお好きだったというのは……

田部:それはまだ石橋光子の頃ですよ。あの、ほら、それこそ炭労の世話でそれ読んでて思い出したのよ。小勝さんの今度の全部、2、3回読んだんですけどね。炭労と岩田屋労組は仲良しだったから、炭労の命令で、「あんた絵も描くし富山さんの腰巾着をしなさい」って言われて。富山さんがインタビューや音の録音をするのに(録音機の)ハンドル回さんといかんかったからね。古い機械だったから。

小勝:では富山妙子さんを知ったのは、その時が初めてなんですか。

田部:そうです、会ったのは。

北原:絵は前から知ってたんですか。

田部:絵は一応、知ってましたよ。

小勝:それで、富山妙子さんの炭鉱の絵なんかはご覧になったわけですか。

田部:はい、見てます。でも、あんまり好きじゃない。絵づらが好きじゃない。ああいうメッセージそのものが絵にはいったのは嫌い。だから私もことばとかばんばん書きますけどね、読めないように書くしね。自分のことばです。

中嶋:では社会主義レアリズムみたいなものは、

田部:あぁ、嫌い。

中嶋:面白くない、ということですね。

小勝:助手を務めたときに、富山さんとはそういう絵の話とかはしなかったんですか。

田部:いや、しないね。あの人もほら偉い人だから、わたしなんか小使いくらいにしか思ってないから。あんまりそんな人間的交流はなかったよ。

小勝:そうですか。やはり年代の差がありますからね。

田部:そうそう。ただこの人は手伝いに来てるって言う…… 

中嶋:そうなんですか。他にその頃好きなアーティストとか作家さんとか画家とかいましたか。

田部:それがね、意外と私ね、好きな作家というのがね聞かれたらいっつも困るんですよ。

中嶋:ああ、そうですか。日本でもヨーロッパでも……

田部:あ、ヨーロッパ、アメリカはおりますよ。ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930-)とかね、(マーク・)ロスコ(Mark Rothko, 1903-1970)とかね。みんなゴッホ、ゴッホっていうけど、ゴッホも好きじゃないし、ゴッホならマティスの方が好きだし。

小勝:そうそう、深刻な絵は嫌いなんですよね。

田部:そうやろね。

小勝:暗い絵が嫌いだと仰ってます。

田部:暗い絵が嫌いなんかな。

小勝:赤い本(注:『田部光子 TABE MITSUKO Recent Works』ギャラリーとわーる、2002年)に書いていらっしゃいます。アディロンダックの講演(注:Adirondack CommunityCol Collegeにおける1999年の田部による講演)で仰ってましたけれど。

田部:でも、ロスコ好きですよ。限りなく暗いよあの人は。違うもん。命を絶つくらい暗ければ、好きなのよ。ニーチェ、ニーチェリストなら好きなのよ。

中嶋:生半可なものはダメなんですね。

田部:うん、深刻ぶったとか、その社会主義リアリズムの「これが労働者だ!」なんていうのは大嫌いね。

中嶋:やっぱり、そう言うもので無いものが、その桜井さんの……

田部:桜井さんは結構そういう組合活動家だから、そういうところありますよ。だから絵はあまり好きじゃないの。ビュッフェの、えっと、ビュッフェじゃなくてあの死んだの誰でしたか。

小勝:自殺したのは(ベルナール・)ビュッフェ(1928-1999)。

田部:ビュッフェのまねのような、あのこんな手の時は良かったけどね。

中嶋:じゃ、桜井さんの岩田屋での個展が直接の原因というか……

田部:大声。個展というか、声。声がものすごいでっかいのあの人。

小勝:それは「グループQ」(注:「九州派」の前の名称)になる前の話ですよね。

田部:うん。

小勝:グループQ展は1957年ですが。

田部:もうその年に九州派は立ち上げてますよ。Qっていう字が面白いからって私が言ったんだけど、こう一筆書きで。一筆書きに凝ってるところがあるからね、この星なんかもね、小さい頃から一筆書きしてるでしょ。ユダヤじゃないのよこれ、5つだから。一筆書きですることは、どれが一筆書きで出来るかなといっつもね考えてるの。アルファベットでも。

小勝:その桜井さんの大声につられて、「グループQ」に入ったわけですか。

田部:うん。

小勝:この「18人展」というのに出してらっしゃいましたね。

田部:そうそう、出してましたね。だからそれが、版画みたいな。出したの。えっと、あれがあのその絵を使ってたね。

中嶋:時間も長くなりましたので今日はここで終わりにしましょう。
一同:有り難うございました。