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田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月29日

福岡県福岡市田部光子氏アトリエにて
インタヴュアー:張紋絹、北原恵、小勝禮子、中嶋泉
書き起こし:小師順子
公開日:2014年8月24日
 

中嶋:ではさっそく始めさせていただいてもよろしいでしょうか。

田部:はい。

中嶋:今日もどうぞ宜しくお願い致します。今日は栃木県立美術館の小勝禮子さんと中嶋で、作品のことなどを中心に伺いたいと思います。昨日、福岡の岩田屋の美術界における存在感の強さというか大きさということと、53年に入社されて、バイヤーや売り子などのお仕事をされながら、組合活動やサークル活動などをなさっていたというお話しを伺いました。そこをちょっと整理させていただきたいのですが。済美会についてですね。もう何度かお話しされていると思うのですが、済美会というものはいつ頃出来たのでしょうか。
(注:以下、田部光子氏の基礎データについては断りがないかぎりすべて、小勝禮子「田部光子試論——『前衛(九州派)』を超えて」、『美術運動史研究会ニュース』No.93, 2008年5月を参照)

田部:それは分かりませんね。昔から、もう既にありました。

中嶋:そのころ、岩田屋に勤められていたころ、済美会というのは講師の方などはいらっしゃったんですか。

田部:おりましたよ。あの時には二紀会の青木寿さんという人が来ていました。

中嶋:どのような作品をお作りになりましたか。

田部:その頃は台所用品の写生とか、静物画。それと、自分たちはそれでは物足りないので、ヌードモデルを雇ってヌードモデルデッサンをしたんです。それは先生と関係なく。

小勝:上田新さんという方は……

田部:同僚なんだけどね、リーダーです。大声で怒鳴るんですよ。

中嶋:他にどのような方がいらっしゃいましたか。

田部:吉浦音雄という人と、私が大好きな原田……、なんだっけ。その人と私と2人仲良しで、いつも行き帰り一緒でね。

小勝:原田さんは女性ですか。

田部:そう、女性。あれなんていったっけ、おうちが牛とかを飼う仕事だったのよ。それで牛の絵とか上手でしたよ。

中嶋:ではいろんな人がおられたのですね。色々な絵が描かれて。

田部:そうそう。

中嶋:済美会の活動と組合活動というのは、なにかリンクするような事があったのでしょうか。

田部:無かったと思います。

中嶋:昨日、組合活動のことをお伺いしたんですけれど、1957年の岩田屋争議の時のお話しですが……

田部:ロックアウトがあったから。

中嶋:第一組合と第二組合の違いというのを、もう一度ご説明頂けないでしょうか。

田部:あれはね、第二組合にいったらまるで裏切り者のようにいわれますけどね。今考えたらなんてことないんですよね。どちらも違いはないし。

中嶋:どちらかが岩田屋さんと組んでいたのでしょうか。

田部:いえいえ、そういうことはないですね。御用組合だっていってたけれど、一応きちっとやってたんですよ、団体交渉とか。

小勝:第二のほうですか。

田部:そう第二。それは主任以上のクラスの人が、どこでもそうですけどね、会社は。

小勝:主任以上のクラスの人が第二組合に…… 

田部:それでどーっと流れたんですよ、みんな流れたの、ばーっと。

小勝:第二のほうに。

田部:うん。

中嶋:そして、それが争議になったんですか。

田部:いえいえ、争議の後です。とにかく給料が安いということで、そんなに58日もロックアウトされて公園で色も真っ黒になってしたのに、上がったのはたったの480円ですよ。やっとられんでしょう。私なんかすぐに計算しちゃうの。480円、10年経って4,800円、これはやめようと思ってぱっと岩田屋をやめちゃったの。

小勝:会社を辞めたんですか。

田部:会社そのものを辞めた。

中嶋:岩田屋争議やサークル活動や組合の活動の繋がりの中から、やはり知りたいと思うのが、九州のサークル村、谷川雁さんを中心としたサークル村の方々とこれからお話を伺う九州派の方々の何人かが交流がおありでしたよね。

田部:ありましたよ。私もサークル村ではないけれど、大正炭鉱の座り込み、ピケに行って取材しました。

中嶋:その後にも石牟礼道子さんと70年代に入ってからですよね。90年代でしたか。

田部:その時は、違う、森崎和江さんと谷川雁が結婚してたの。中間に住んでたの。それで訪ねていったんですよ。

小勝:お2人を訪ねられたんですか。

田部:そう、行ったんですよ。

小勝:それはいつ頃。

田部:大正炭鉱の争議のころですから、美目画廊でしたからね、1963年。美目画廊で発表したから、それを。63年か62年か。

中嶋:美目画廊で作品を発表されたんですか。

田部:九州派展があったんですよ。それちょっと銀座画廊が最後っていっているけれど、美目画廊でもう一回してます。

小勝:63年に美目画廊(九州派展、10月3−8日)っていう記録はあります。

田部:それそれ。じゃ、それに出してます。大正炭鉱を取材に行って……

小勝:書いてあります、ここの年譜にも(「九州派 反芸術プロジェクト」展カタログ、福岡市美術館、1988年、p.120。小勝、田部光子試論、年譜、p.11。田部氏は、大正炭鉱の鉱夫の写真を使ったオブジェを出品した)。

田部:そうですか、それじゃ間違いない。

中嶋:その取材の為に、谷川雁さんと森崎さんを訪ねられたんですか。

田部:いや、森崎さんを訪ねた訳じゃない、谷川雁さんを訪ねたんだけど。谷川雁さん、詩とかでね「東京へゆくな ふるさとを創れ」っていうんで、私東京行きをやめたんですよ、実は。それくらいに衝撃を与える詩なんですけど、なんか会ったら本人がつまんないんですよね。ぺらーっとした不動産屋みたいに見える。いつもそう思ってたの。森崎さんのほうがずっと格が上よ。だから森崎さんとばっかり話して帰ってきたのを覚えてる。

小勝:どんな話しをされましたか。

田部:覚えてない。

中嶋:森崎さんはその頃、運動とエロスについての本を書かれていた頃ですね。(『闘いとエロス』三一書房、1970年)

田部:なんかね、『非所有の所有』だったかな…… 何かあるよ、家に。それが一番良いね。(注:森崎和江『非所有の所有 性と階級覚え書』現代思潮社 、1963年)

中嶋:そういうものを事前に読まれていたんですね。谷川雁さんの作品もご存じだったんですね。

田部:その後かもしれないね、出版は。事の前後は分からないんだけど。

中嶋:『二千年の林檎』(西日本新聞社、2001年)で書かれていたと思うんですけれども、石牟礼さんと1958年に行われた九州詩画展でお会いになっているようですね。

田部:あぁ、来てましたよ。

中嶋:その時にもお話しなどされましたか。

田部:いや。なんかね、私は石牟礼さんという人とはあまりね。一度かは、会ったよ。会ったけどね、あんまり私も好かれていないみたいで。これ、この『無劫の人』でね、嫌われたの。小学校の同級生にインタビューしたりしたので、本としては面白かったけど、丸山なんとかさんに、オシッコをひっかけっこしたとかいらんこと書いた、ということで嫌われたの、私。(河野信子・田部光子『夢劫の人 石牟礼道子の世界』藤原書店、1992年)

小勝:石牟礼さんからですか。すごく良いインタビューでしたよね。

田部:そうなの。それで最首悟さんが、私の所だけ絶賛してね。『読書新聞』に書かれたんですよ。

小勝:丸山すみさん?

田部:顔写真もね「田部さんの」ってきたのにね、藤原さんがすり替えたの、石牟礼さんの写真に。

中嶋:そうなんですか。そんな経緯があったとは。

田部:最首さんから褒められただけで私はもう満足でした。「これは絵描きの文章だ、もう全然普通の人の考えと違う」っていうような。どっか載ってたけどね。最首さんの『読書新聞』。

中嶋:『読書新聞』ですね、確認してみます。

田部:もう、こんなに大きく取り上げてね。河野(信子)さんなんてちょこっとだったのよ。だから河野さんが、私なんか目じゃないね、なんていってたけれど。全部私の記事。

中嶋:やはり、水俣に行かれたときの水俣の海の描写がとても美しくて、とても印象に残っています。

田部:それとかね、同級生にインタビューしたのが凄い、といってね。凄い、これをした人はいないって。
みんな水俣に来るけれど、全部市の職員だった人がお膳立てしててね、自転車から何から全部借りてあげてたんですよ。だから何も手を煩わせなかったのは、宇井純さんと最首悟さんだけだった、と。自分で全部手配して、自分でまわられたのはこの2人だ、と。書いてるかもしれない、私。

小勝:はい、宇井純さんについては書いています、ここに(『夢劫の人』p.88)。

田部:ね。最首さんもそう。書いたと思うの、どっかに。一行くらいですけれど。そういうことは大事なことだからね。そして水俣の運動している人がね、もう全然石牟礼さんは出てこんって。なにしても。田部さん、ちゃんと言って下さいっていうからね、「私はいう立場にないですよ、あなたが直接言いなさい」って。もうメジャーになったからね、そういうところがあるんですよ。

中嶋:なるほど。当時は谷川さんと俣野(衛)さんが…… 

田部:俣野?

小勝:俣野衛さんです。

田部:関係ないよ、その人。その人は、丸山豊の…… 

中嶋:「母音」ですね。詩のサークルに入っていた…… 

小勝:九州詩画展の話し?

中嶋:九州詩画展ではなくて…… 

田部:いや、それはね。

中嶋:詩人の方ですよね。

田部:詩人ですけど、アルメの…… なんだったっけ。なんとかっていう詩の人も多いし、それは俣野さんは関係ないと思いますよ、出しとったかもしれないけれど。

中嶋:そうですか、分かりました。

田部:だから桜井さんとか私とか九州派の連中と、詩家の各務章さんとか、今まだ生きてますよ(注:2012年に87歳で他界)。福森隆とか、映画の…… 「記録と芸術」の人、近藤(源三)さんとか。俣野さんは印象にないけれど、私。

中嶋:そうですか。

田部:サークル村も、あんまり関係ないんですよ、九州派は。

中嶋:そうですか。個人的な付き合いがそれぞれちょっとずつあったという感じですか。

田部:うん、桜井さんは詩を書いていたからね。それとか、河野信子さんがサークル村だったんで、そういう意味で河野さんがずっと機関誌を出していました。

中嶋:『無名通信』ですね。

田部:そう、それをずっと出してたの。

中嶋:それをずっとお読みになっていたので、依頼をなさったんですか。

田部:私は河野さんをものすごく尊敬しているの。

中嶋:河野さんとはずっとその頃からお付き合いがあったんですね。

田部:はい、私が「我が師」っていうんですよ。そうすると河野さんは「和菓子じゃないわよ」って冗談をいうんですけどね。もう、あんな素晴らしい人いないですよ。誰にでも同じ態度で、私はあの人から多くのことを学んだんです。「芸術家は傲慢になったら終わりよ」とか。

中嶋:他にどんなお話しをなさいましたか。

田部:もう色々しましたからね。

北原:ちょっとお聞きしても良いですか。さっきの谷川雁の「大地の商人」ですよね、「東京へゆくな ふるさとを創れ」という。あれで東京へ行かなくなったということですが、その詩は九州派の人たちはみんな読んでいらしたんですか。

田部:みんな読んでた。いや、みんなじゃないね。桜井さんが読めっていったから…… 読んだ人の方が少ないね。

中嶋:あの本の装丁は、俣野さんがなさったのではなかったですか。装丁と書いてあるものと、編集と書いてあるものとがあるんですが。

田部:装丁するはずが無いですよ、俣野さんの本の装丁は私がしたんですもん。

中嶋:そうですか。俣野さんのどの本ですか。

田部:なんか『聊齋志異抄』かなんか知らんけど。そんな本の名前。中国の物語です。菊のお化けが出る、なんかあるでしょう。どっかその辺にあるけども、出せないの、あの辺にあるもの。

中嶋:後で調べてみます。ではやっぱりその頃から詩のサークルと、サークル村の周辺の人たちと九州派の人たちというのは、集団的にでは無いけれども交流は個人的にはあったということですか。

田部:さぁ、どうですかね。私はあんまりそういうものは無かったと思うけど。むしろ影響を受けたのは私ぐらいで。

小勝:文学的趣味のある人は、桜井さんと田部さんだった、と。

田部:そうそう。桜井さんもすっかりやめたからね、詩は。絵ばっかり、一本に絞ってたでしょう。だから、そんな感じで。ジャスティン(・ジェスティ、美術史家)なんか、サークル村を一生懸命取材してたけどね。上野英信さんの奥さんとは仲が良かったんですよ、私はね。松原新一の文章教室にね、あの方は英信が亡くなられてがっくりしていたからお誘いして、そしてそこで書いたエッセイをまとめて『キジバトの記』という本を一冊出しましたよ。それこそ、松原先生のお陰で出たんですけど、その息子さんはそういうことが分からないもんだからね、「ある小さな文章教室」とか書いたので、むっとしてたのよ松原さんが。「僕がいっているのは良いけど、人が小さなとかいうな」って。

中嶋:上野さんの奥様のお名前はお分かりになりますか。

小勝:それはすぐに分かりますよ。晴子さんです(『夢劫の人』、p.173)。

田部:そんなのは関係ないんだよ、私には。だから、そこまで広げんとこう。サークル村は関係ない。

中嶋:はい。

小勝:田部さんの最初の、絵を始めた頃のお話しに戻りませんか。

田部:そうそう。サークル村はまた別の取材でお願いします。

小勝:では、済美会で初めて……

田部:そう、済美会。そこもあんまり関係ないんだな、私は。

小勝:それから、地元の展覧会にいろいろとご出品なさいますよね。「福岡県美術展」とか、九州の女流でしたか。

田部:それは自分が創ったんだから。主宰です。

小勝:そうではなくその前、「西部女性美術展」。

田部:「西部女性展」は出しました。それは朝日新聞が主宰をしていて、女性展というのが初めてだから出しましたよ。いきなり賞をもらって、ずっと賞をもらって。結局は……

小勝:最初の回から出されているんですよね。

田部:最初の回からだと思います。

小勝:57年が第1回。そこに《ヤマトタケルノミコト》(『田部光子 TABE MITSUKO Recent Works』掲載、p.11、福岡市美術館寄託)を出されたのですか?(注:1957年第1回西部女性美術展に関する新聞記事等の資料は未発見)

田部:それが最後。

小勝:え?

田部:最後に出したんですよ。これが賞を取るといいねって、山内(重太郎)さんがいってたけど、佳作賞に終わった。

小勝:だけれども、《魚族の怒り》(1959年、福岡市美術館蔵)で賞を取られたんじゃないですか。(注:第3回西部女性美術展、朝日銀賞一席、1959年。「第3回西日本洋画新人秀作展」でも金賞受賞、1960年)

田部:そうそう、朝日新聞社賞をとったの。それが後?

小勝:その方が後だと思います。

田部:もう後先が分からないのよね、あの頃の。58年に結婚したから、その時にその絵があったか描いたか、その程度の判断の仕方なんですね、私。だから、いつも山口洋三さん(福岡市美術館学芸員)が「違う違う」っていうの。

小勝:「西部女性美術展」には、記録ですと4回(1960年)まで出していらっしゃいますよね。

田部:そうですね。そのくらいしか無かったと思うんですよ。

小勝:この地元の展覧会としては。

田部:うん。岩田屋でやってたんですけど、結構命は短かったですよ。もう女性のためにそこまでする必要ない、と。女性が十分強くなったとかいって。それをね、由本(みどり、美術史家)さんが調べてくれっていうからね、朝日の女性記者に調べてもらったんですけどね、全く残ってないんだって、記録が。

小勝:どういう人が出品していたかとかが分からない訳ですね。

田部:北九州の本社で、吉原君ていうのが企画してて、私もよく遊びにいっていて、呑みにいったりしてたんだから。その人の記録で分かるはずっていうんですけれどね、全然残ってないって。だから諦めたんですよ。

北原:当時、それは新聞に載らなかったんですか。朝日新聞主催だったら朝日の地元版には載ってますよね。

田部:残ってますよ、批評とか。

小勝:もちろん新聞には記録としては残っています。ただどういう人が出品したのか、とかリストとかはないんですね?(注:第2回展の福岡県からの入選・入選者の一覧は掲載。朝日新聞福岡県版、1958年11月23日)

田部:そういうのが一切ないんだって。だから、由本さんもそこに注目して、小勝さんと違う視点でいこうと思って、女性展のその辺でいこうと思って、調べてっていうけどですね。全然残ってないから、しょうがないです。

小勝:でも珍しいですよね、そういう女性だけの美術展というのはね。この時期だと、本当に早いです。

田部:そうそう。その当時ね、すごい面白いことだから……

小勝:ただ、由本さんもインタビューで聞いていらしたと思いますが、東京では女流画家協会が戦後すぐに出来た時代だったので、女性の画家というのを持ち上げる気運というのが恐らくこちらの福岡でもあったのでしょうかね。

田部:あったんでしょうね、その関係でね。それで「西日本新人洋画秀作展」(注:正確には「西日本洋画新人秀作展」)で、「西部女性展」の朝日銀賞の私が大賞(注:正確には金賞)をもらったから鼻高々ですよね、「西部女性展」は。他の並み居る県展とか市展の上位賞を集めて、なおかつ賞をやる。これもまた、私は運が良いというかね。地元の評論家の岸田勉は、九州派が大嫌いだったんです。その人がご病気で、たまたま嘉門(安雄)さんが1年だけ来たの。その時に私があたって、それで嘉門さんが「これだ」っていって大賞を下さったの。批評もちゃんと書いてくれて。どんだけ、私の運が良いか。

小勝:嘉門さんはその前に、「自由美術展」でも田部さんの作品を褒めているんですよね。(嘉門安雄「萎縮している線と形、自由美術展評」、産業経済新聞、1959年10月27日)

田部:そうらしいですね。私それね、嘉門さんが書いたってことを知らなかったの。

小勝:この時は、《繁殖する》(1959年)っていう作品でした。

田部:はい、あれを出しました。それね、落選してたんだって。それを(井上)長三郎さんがね、こんなもんを落選させたらいかん」とかいってね、又持ってきて陳列させたんだって。という話しを後から聞きましたよ。

小勝:この《繁殖する》(1959年)は今、福岡市美術館に所蔵されている、あれなんですね。

田部:そう。返してっていってるんだけど、そんなことできんって。

小勝:それともう一つお聞きしたいのは、先程の済美会時代には、身近な家庭内にあるような静物や風景もお描きになっていましたよね。

田部:シャルダンみたいなね。それと中州の風景。

小勝:そういったものをお描きになっていたのが、突然では無いのでしょうが、この記録だと突然、57年に《ヤマトタケルノミコト》を描かれて……

田部:大きいですよ。それがなんで突然か。これはね、私は自分が描いたのも忘れていたんですけど、私が嫁に行くときに母がね、私の間借りしていた処から持って帰ってくれていて、実家に。そしてきちっと座布団を自分で作って四隅に当ててね、紐で結んで押し入れの一番奥に入ってたんですよ。それが、母が亡くなったので家も売って、処分したらこれが出てきて。うわぁ、これ懐かしいとかいって持って帰ってきたの。

小勝:ご実家でずっと保存していてくださったんですか。

田部:そうなの。親は有り難いね。そうしたら、また(山口)洋三さんがひょこっと来て、私この奥の方に置いていたんですよ。

小勝:はい、私も最初に(こちらに)伺ったときに、ここで拝見致しました。

田部:そうしたら洋三さんが、「あれ何ね」っていうからね、「これはアスファルトの最後やろう」っていったの。「これ面白い」、とかいってね、早速持って行っちゃったよ、美術館に。

小勝:今は福岡市美術館に寄託されていますね。これもアスファルトを使っているんですか。

田部:これは唯一アスファルトをしっかり使っていますね。

小勝:アスファルトを使い始めたのはいつからでしょうか。

田部:あぁ、だからね、もう最初からですよ。その《魚族》(1957年)には使ってないかもしれないけど、《魚族の怒り》(1958−59年)からは使っていますので。

中嶋:《魚族の怒り》よりも、《ヤマトタケルノミコト》のほうが早いですね。

田部:こっちのほうが、沢山使ってるね。これもベースは全部アスファルトですよ。

小勝:ただ《ヤマトタケルノミコト》を出品されたという第1回西部女性美術展(1957年11月)の前に「グループQ18人展」が8月にあるんですが。そこには何を出したかというのは覚えていらっしゃいますか。

田部:これと同じ版画でしょう。こんなのがあったじゃないですか。

小勝:版画ですか、これですか(《魚族》、機関誌『九州派』2号、1957年12月に図版掲載)

田部:うん、それを出した。

小勝:これは、記録だと、他のところに出しているように書いてあったんですが。

田部:機関誌に載ったんでしょう。

小勝:ええ、そうです。九州派の機関誌に載ったんですが、「第1回九州アンデパンダン展」の目録に(《魚族1》《魚族2》と)書いてあるんです。

田部:これ? その辺記憶がないね。小さい絵ですよ、これくらいの。小さいからね。

小勝:それで、先程のお話に戻りますが、済美会時代のサークル活動として、静物や風景を描いていた田部さんが、急にこういう前衛的な抽象っぽいアスファルトを使う作品に転換したきっかけっていうのは、どういうところにあったのでしょうか。

田部:そうですね。絵とはどいういうものかということで始めたんでしょうからね、写生から。

小勝:基礎を一応なさったんでしょうけれども。

田部:だけど、そういうものではどこか満足できないというところがあったんですよ。そして九州派のハチャメチャな……

小勝:この辺りに九州派との出会いがあったわけですよね。

田部:そうそう。そしてアスファルト・ピッチによる制作、とにかく油絵を使うな、筆を使うな、カンバス使うなと制限をまずして、新しい絵画を目指すんだという宣言です。

小勝:それは「グループQ18人展」のときには、もうそういう……

田部:いえ、その時にはまだ曖昧だったと思うけれども、九州派という名称が出来てからは、ひたすら新しい、という……

小勝:田部さんが、九州派の人たちとつきあい始めたのがいつかというのが分からないのですが。

田部:57年。結婚前だったから。

小勝:57年は「グループQ展」が8月にあったんですが、その年からですか。

田部:それと、県庁の横にあったでしょう、あれには私は出していないんですよね。

小勝:県庁の横に展示した時ですか。(注:「ペルソナ」展、福岡県庁西側大通り壁面、1956年11月2−4日)

田部:だから、あまり大作が出来ないというかね。

小勝:岩田屋争議が同じ57年の3月から5月なのですが、九州派とのお付き合いが始まったのはその前でしたか後でしたか。

田部:はぁ、そうね。それね、前ですよ。

小勝:前でしょうね。

田部:だから私が第二(組合)に入ったら怒ったの、桜井(孝身)さんが。除名するぞ、って。

中嶋:桜井さんはその時に、西日本新聞の組合に入っていらした……

田部:でも俣野さんなんてね、もの凄いリンチにあったらしいよ、言葉の。それは齋藤秀三郎さんがいってた。もう、かわいそうで聞かれんかったぞ、っていってましたからね。私にはそういうことは知らんけども、私は自発的に「あらそうなの、じゃまた戻ろう」って戻ったりして。どうでもいいのよ、私にとっては(笑)。

中嶋:桜井さんとは、昨日うかがったように岩田屋のギャラリーで、個展か展覧会をやった訳ですね。

田部:そうですね、その頃に一緒くたんに来てますね。

中嶋:では岩田屋がそういう場所になっていた、ということですか。

田部:そうそう。

中嶋:一度お聞きしたかったのですが、九州派が「福岡」ではなくてあえて「九州」とされた理由や経緯はご存じでしょうか。

田部:いや、それは俣野さんがね、ほととぎす派とか自然派とかそういう「派」をつけないと有名になれない、と。だから何派にするかということから、じゃあ九州派がよかろう、と。グループQからの流れもあるし、九州派にしよう、と全員一致で。

小勝:グループQのQは九州の九なんですか。

田部:そう。

中嶋:ではこの「グループQ展」では、何を出されたのかは判然としないのでしょうか。

田部:あれと思う、あれ、版画。

小勝:これに似たサイズの……

中嶋:どんな作品が他にあったのかはご記憶にありますか。

田部:とにかくね、無茶苦茶ですよ。なんか御簾かなにか出してたりね。

中嶋:前衛生け花もあったとか。

田部:前衛にもなってないんじゃないかな。それこそおもちゃ箱でもないかな。

小勝:生け花の方も出してたんですか。

田部:そう、生け花の先生も。

中嶋:徳田淳子さんという方ですね。

田部:あの人はね、一回くらいしか出してないですよ。大衆路線です。桜井さんも大衆路線。いつもそうやって、「質より量だ」とかいいだすのよ。それで、茂久馬(菊畑茂久馬)さんが「量より質だ」ってやりだすの。そして、「公募展やらに出している奴は出て行け」となる。

中嶋:そのお2人の対立があったんですね。それではいわゆる抽象というか、アンフォルメル的という絵画と出会ったのも、九州派を通じてだったのですか。

田部:だから、アスファルトだからアンフォルメルなのよ。先に材料があるわけ。アスファルトをばーっと板に流してごごらん、アンフォルメルでしょう、それ。それがフランスから入ってきたということ。

中嶋:そういう作品は当時美術雑誌などでご覧になったことはありましたか。

田部:美術雑誌を取るほどお金もなかったね。給料がとにかく6千円くらいですから。

小勝:昨日も言いましたように、同じ1957年の3月5日から10日に岩田屋ホールで、「世界・今日の美術」展というアンフォルメル展をやっているんですよ。

田部:記憶にない。

小勝:記憶にないですか。

中嶋:その次の年のお話ですが、「第2回九州派展」銀座画廊で。

田部:第2回。何年ですか、61年?

中嶋:1958年です。それは、1回目といえば1回目ですね。「Q展」の次に九州派グループとしてとして行われたものです。

田部:ああ、そういう意味ね。60年が最初でしょう? 61年にあれを出したんですから私、《人工胎盤》(1961年)。

小勝:そうですね、61年が東京でやった最後ですよね。

田部:最初。最後じゃないよ。

小勝:いやいや、58年に銀座画廊でやっている筈ですから。

田部:美目が後ですよ。

小勝:美目は後です。

田部:だから最後じゃ無いじゃないですか。

小勝:東京ではなく、銀座でやった最後ですね。

田部:ああ、銀座で、ね。美目は新宿かなんか、どこでしたかね。

小勝:あぁ、そうですね。銀座画廊でやった最後ですね。

田部:銀座画廊でやったのは、2回しかしてないです。(注:記録によれば、1958年、1959年、1961年の3回開催)

小勝:そうですか。

中嶋:その1回目の時に東京に行かれたわけですよね。

田部:行きましたよ。それは《繁殖》じゃなくて、《魚族》(1957年)っていうだけだから50号を2枚位を出したんですよ。(注:出品目録によれば、《魚の笑いA,B》を出品したのは第3回九州派グループ展、銀座画廊、1959年)

中嶋:その時は、東京へ行くのは初めてだったのですか。

田部:初めてかもしれないね。アンデパンダンはその後ですからね。初めてですよ、ここに20万くらいの。あ、それは61年だ。

小勝:そうです。

田部:それが初めてだと思ってたけど。61年に私は正式に、(九州派の)会計係になりました。会計係は女が良いとかいって、男はすぐ使い込むから。それで妊娠5ヶ月の腹帯の上に、そのお金を巻いていったんですよ。なにしろ(東京まで)24時間かかるからですね。それでスリがものすごく多かったの。だからこんなのをこうかけてたらね、一発で無いですよ、お金。だから、ここにはめてる以上はね、無くならないから。

中嶋:東京に行かれた時の印象をおうかがいしたかったのですが。

田部:銀座画廊の下で浮世絵を売ってたよ、ばんばん。外人が群がって買ってたね。それが印象に残ってます。あと、丸山明宏が、銀座のなんとかってお店(注:銀巴里)で歌ってたから、それを聞きに行ったりして。六本木がすごいらしいよっていうので行ったら、何にもないところで、間違ったかな、なんていいながら帰ったりして。

中嶋:では、結構色々な処を見て回られたんですね。記録によると58年の銀座画廊の展覧会の時に、針生(一郎)さんと池田龍雄さんがいらっしゃっているということになっていますが。

田部:58年なの?それも来ましたよ、写真もありますし。それは載ってるよ、九州派の写真。九州派。載ってるはずだけどね…ほらほら、これ。これ何年って書いてありますか

中嶋:これは61年ですね。

田部:そうですよ、だから58年なんか無いって。60年と61年です。

中嶋:これ、中原佑介さんが居ますね。

田部:58年に東京ではしてないよ。

小勝:ですが、ちゃんとここに書かれちゃっていますし。(注:「九州派展」カタログ、p.112。「九州派グループ展」目録がある。銀座画廊、8月2日→7日、年記なし。針生一郎による九州派展の展評で、石橋光子の作品について触れている。「時評的評論」『みづゑ』No.660,1958年9月号、p.75。)

田部:なんか揺れたような写真があるでしょう。何人かで南画廊で撮ったの、あれは何年だろう。

小勝:田部さんは《繁殖1〜4》を出した、という記録になっていますが。

田部:全然記憶にない。

小勝:菊畑さんも出してますし、皆さんいっぱい出していらっしゃいます。桜井さんも。

田部:南画廊に行った写真があるよ、ちょっとピンぼけの。わざと動くのよ。
とにかく何年かということを(記録に)書かないのよね。あれが欠点なの。11月2日〜4日とか書くでしょう。ここに必ず年号を入れんといかんね。あとで気がつくのよ、みんな。入れてたら絶対に人がなんといおうとね。

小勝:この『二千年の林檎』(西日本新聞社、2001年、p.188)の田部さんの座談会のご発言で、「お兄さんの石橋和美さんが制作者懇談会に所属していたので、その関係で針生一郎と池田龍雄が九州派展を訪れる」とあるんです。これが58年のことだと思ったんですが、ここには書いてありませんけれど。

田部:これが58年。それならそうかもしれない。

中嶋:56年にはすでに石橋和美さんと針生さんが知り合っていらっしゃいますので、可能性としてはありますよね。

田部:結構長いんですよ、付き合いは。無いね、あの写真。どっかで見たんだけど。60年からはちゃんと記録があるんだな。これを出したのはいつかな。

中嶋:これは60年ですね。これは『芸術新潮』に掲載されたものです。

田部:その辺からは記憶にあるんですけど。58年にこれが出たんなら……確かにこれは4枚作ったからね。

中嶋:《繁殖》(1958年)ですね。

小勝:4枚作って、2枚なくなっちゃったんですか。

田部:そうでしょう。東京に置いたまんま、どっかに捨ててきたの。

小勝:当時は東京には送ったんですか、作品は。

田部:井尻にいましたから雑餉隈(ざっしょのくま)までリアカーで持って行って。

小勝:汽車の貨物便ですか。

田部:汽車貨物。それでしょっちゅう送ってました。それで、笑うんだけど。自分が若ければ全オフィスの人が加勢してくれるの。年取ったら知らん顔。相手の対応で年齢が分かるね、っていつもいうんだけどね。若かったらみんなが親切でしょう、あなたでも。年取ったらだれも親切にしてくれないのよ。

小勝:貨物を送ったときは、親切だったんですか。

田部:もう全員でね、この荷造りじゃいかん、とかいって手伝ってくれるんですよ。だけど、そのうちに宅急便とかが出たからね。面白いよね、人間て。

小勝:この時期、いろいろと東京の展覧会に出品されるようになっていますね。昨日も伺いましたが、「自由美術展」にも57年から59年まで出していらっしゃいます。それと九州派と平行していらっしゃるんですよね。その中で、公募展を選ぶか九州派を選ぶかで、九州派を選ばれたわけですね。

田部:激烈な戦いがあって、とうとう一番先にね、寺田健一郎というのが二科に出してたからね、それで怒って障子をピシャーンとしめて出て行ったの。「やめる」といって。私と大黒(愛子)さんが追いかけていって、説得したけれど全然ダメでしたからね。あの人は二科の会員になるっていってたから。でも結局なれなかったのよ。その次は尾花(成春)さんが標的にされて、尾花さんは九州派をやめたの。座布団投げつけて出て行ったからね。

小勝:それと、日本美術会のアンデパンダン展に、59年に1回だけ出品された(注:第12回日本アンデパンダン展、《ジャン・ジュネへ》《魚族の怒り》)。こちらには行ってはいらっしゃらないんですね。

田部:行ってないですね。いや、行ったかもしらんね。もう一人の友達と行って、うちの兄の処に泊まった記憶がある。行ったかもしれません。

小勝:1回でやめた理由というのは。

田部:面白くないもん、みんな社会主義リアリズムで。山下菊二さんも、みんな面白いっていうけれど、あの人より私は中村宏のほうが面白い。

小勝:61年からですからね、田部さんが「読売アンデパンダン」に出品されるのは。九州派の方々と一緒にご出品されました。

田部:そうですね。

小勝:では、九州派のお話の続きにまいります。61年の「九州派展」というのは、皆さんオブジェを出品した。それまで、アスファルトを流すとはいえ一応、絵画だった訳ですよね。それが61年からオブジェを出品するというのを皆さんがテーマにしていらしたと思うんですが、その辺はどういう理由があったのでしょうか。

田部:私は、自分が妊娠したから、女性の解放。必然性があるんですけど。石橋泰幸さんも、それこそ《奴隷系図》(1962年)みたいなものを出していましたよね。

中嶋:絵画から離脱したいという意識ですか。

田部:それはありますよね。絵画ではどうしても限界があるからね。こういう活動としては。

中嶋:どういう限界でしょうか。

田部:やはり、平面ですし。貼り付けたりはしますよ、縄とか。だからジャスティンもこれ選んでるんだと思うんだけどね。ロープを貼ったのをね。

小勝:縄を貼り付けている作品ですよね。それは61年の「読売アンデパンダン」です。(注:第13回読売アンデパンダン展、《同族同志》、「九州派展」カタログ、p.81に図版掲載)

田部:それを「後家の頑張り」って針生一郎がけなしたっていうわけよ。だけど後で、「針生一郎っていうのは、純情な主婦と後家の頑張りとに分けとったんだ」とかどっかで……

小勝:女性を褒める場合、その2つだっていっているんですよね、針生一郎が。

田部:あら、そうなんですか。褒める場合なの。けなしたっていってね、桜井さんは長頼子に首ったけでしたからね。長頼子だけなの、私なんてもう目障りなんですよ。「あんた、後家の頑張りってけなしちょったバイ」ってなったのよ。そしたら茂久馬さんが「そんなことはない、あの絵は良かったんだ」ってバーンと弁護してくれたの。だから私はね、菊畑さん好きよ。

小勝:この展覧会に、江原順が「オモチャ箱をひっくり返したような」という批評がある後に、「九州派展」のカタログは、それだけで引用が終わっていたんですが、田部さんの作品について「グロテスクな生理的形態のオブジェ、……面白い可能性が感じられる。……ただ、もう少し自覚的なものにする方向が出てこなければ話にならない」とありました。(注:江原順「画廊から《9月初旬ー10月初旬》」、『みづゑ』1961年11月、p.76)

田部:そう、良いとこついてるもん。わたしはいつでもぱーっとやるけどね、そのことについての自覚がないって、どこかに書いてますよ自分で。自覚して出来ないというかね。

小勝:ただ、《人工胎盤》(1961年)を作られたきっかけとか、こめられたお気持ちとかをもう少し詳しくお話しいただけますでしょうか。

田部:人工胎盤があったら、自分がこんなに大きなお腹をかかえて苦しまんでもよかろう、とか、そういう短絡的な考え方をする馬鹿ですよ、私は。

中嶋:苦しいことを表現なさったということですか。

田部:苦しくもまだなってないと思うよ、妊娠数ヶ月位だから。でもやっぱり、悪阻は苦しいから。安定期に入ったらなんてことないんですよね。だから人工胎盤があったら楽だなとか思った、軽薄な。

小勝:そう軽くおっしゃいますが、この残された当時の写真を見ますと、ものすごくグロテスクですし痛そうですし。

田部:そうなんです。ぞっとする。なぜかといったら、米倉徳というのがね京屋マネキンにいたの。だからマネキンが安易に手に入るの。こんなふうに切ってというと、なんでもしてくれるんですよ。それがなかったら、出来てないね。

小勝:田部さん以外にマネキンを使われた方はこの時にいたんですか。

田部:いや、マネキンは意外といないんですよね。私は「英雄たちの大集会」でも使っているんですよ。なんかやっぱり女性の体という興味があったと思うんです。マネキンというのはほとんど女ですからね。今は男のマネキンもあるけれど。

中嶋:デパートにもマネキンはありましたか。

田部:ありますよ。どんどん進化はしているけど、一応どこの売り場にでも。繊維課はトルソーだけでいいし、洋服課には全身があるし。(注:田部氏は1958年1月まで岩田屋というデパートに勤務)

小勝:子宮ではなく、胎盤というものに敢えてしたのには、どういう意味があったのでしょうか。

田部:やはり子宮じゃないんですよ、胎盤だから。妊娠するというのは、胎盤がないとできないんですよ。子宮に胎盤がくっつくんですよね。

小勝:ええ、母胎と子宮の中の胎児の間をつないで栄養を与えるわけですよね。

田部:だから、胎盤とはどんなものかということも知らないのに、真空管は男性性器に見立てて、いっぱいの電気のコードは血管ですよね、アスファルト・ピッチにパテを……

小勝:アスファルト・ピッチは、振りかけたんですか。

田部:そう、下地にすると何でもつくんですよ。パテでも何でも。マネキンには何にもくっつかないんですよね。

小勝:最初にアスファルト・ピッチをかけて、接着剤として使ったわけですか。

田部:あれは優秀な接着剤なの、熱いときは。何でもくっつけちゃうから。

小勝:それはもう絵画で使っていらしたんで、オブジェでも、ということですね。

田部:火傷はしますよ、どっかにケロイドの痕があるもんね。

中嶋:マネキンを逆さまにした理由はありますか。

田部:それは安定感があるから。ここが木なのよ。これくらいの厚い木で出来てるの。

中嶋:台座ですか。

田部:いや、マネキンがよ。ここだけね。だから、ここに差し込んで全体を作るんでしょう。ここにこの木があるから安定するんですよ。これをひっくり返したってしょうがないじゃないですか、全然。こっちが上になったら意味ないよ。

小勝:安定の為だけですか。

田部:いや、そんなあれじゃないんだろうけどね。

中嶋:見るからにすごく痛々しいような感じもしますし……

田部:熊本の再制作(注:後述)を見た一般の人からね、この人の作品は「痛い痛いっていってる」とか「この人は3体作って、3人子どもを産んだのかしら」とかね。いろんな事が書かれていて、面白かった。

中嶋:九州派の他の作家の方は、この作品を観てどのような感想をおっしゃっていましたか。

田部:全然評価しないのよ、私なんか。

中嶋:どんな感想を。

田部:感想もなんも。

小勝:感想も何もないんですか。つまりお互いの批評会みたいなものはしないんですか。

田部:ありましたけどね、とりあえずは。

小勝:あまり実のある批評はありませんでしたか。

田部:そうねぇ。その前にね、みんなの家を廻るのよ。桜井さんと米倉徳とか、何人連れかが来るのよ。それで私の作ってるこれを見てね、「あんたこんな作品つくりよったら、変な子ができるばい」とかいわれました。覚えてるよ。

北原:そういうのを創るなってことですか。

田部:そんなのを創ったら、変な子が産まれるっていうわけよ。でもね、それが若さだって思うのよ、私は。今ならすぐに止めますよ。「あら、縁起が悪いのね、やめとこう」って。だけど、若さは強いんですよ。そういわれようがどうしようが、へっちゃらなの。さっさと作り続けて、平気で出品してちゃんとした子どもが産まれたじゃないですか。そこが若さの強さですね。20代の強さ。だから若いときにしか思い切ったことは出来ないですもん。

中嶋:この作品を創っているときに、どういう感じがしたかというのは覚えていらっしゃいますか。

田部:面白かったですよ。「おー、なかなか面白い」とかいって、「これはきっと有名になるぞ」と思ってました。それは付け足しだけどね(笑)

中嶋:ご自身でも、特別な作品だという大作の意識がおありだったんですね。

田部:ありましたね。

中嶋:この横の輪っかはなんですか。(注:《人工胎盤》の横に金属製と見られる輪がついている)

田部:それは足よ、足。そこから先が足なの。ちょん切ってるの。

小勝:こっちがウエストで、こっちが足。

中嶋:この輪っかです。

田部:ああ、それはね。何個かつけてるんじゃない、あっちこっちに。これは吊すときの為かね。

中嶋:吊るそうと思ったんですか。

田部:何だかわからないよ。その辺にあるもの手当たり次第にくっつけていくのよ、何でも。

中嶋:マネキンはもう一つの「英雄たちの大集会」(1962年)に出されたものもありますね(注:マネキンに釘を打つというハプニング)。

田部:「英雄たちの大集会」もね、頭に釘を打ち込むとかいって、勇み足でしたけど、このマネキンの堅さ。

小勝:頭に打ち込むつもりだったんですか。

田部:うん、打ち込む事でね。だから案外、オノ・ヨーコより先だったと思うの、釘を打ち込むという行為としては。

小勝:それを参加者にやらせるつもりだったんですか。

田部:いや、自分でどんどん一晩中するつもりだったんだけど、絶対入らないのよ、ドリルでも持ってこないことには。それで変更して、風倉(匠)さんがちり紙かなにかをさすりながら、延々とちり紙がどんどん出て行くような、変わったパフォーマンスにしちゃったのよ。私は、壁から足が出てきて、ストッキングを履かしているということは、作ってましたから。パフォーマンスは、もう。

小勝:壁から横に出てきているんですか。今まで下から生えてるのかとイメージしていましたが、横から出てきているんですか。

田部:そうそう。どこまで覚えてるかっていうとあんまり覚えてないんだけれど。何面作ったかも覚えてないんだけど。風倉さんのほうが覚えてたね。風倉さんが、トイレットペーパーを使って、あっちこっち参入してパフォーマンスに参加するわけよ。

中嶋:でも、田部さんが釘を打ち込むことと、風倉さんがティッシュペーパーでさするというのでは、だいぶ意味が変わってしまいますよね。

田部:違いますよね。ぜんぜん違うんだけど……

小勝:釘を打ち込むというのは、どういう意味を込めようとされたんですか。

田部:この《人工胎盤》の釘から来てるんでしょうね。

小勝:なるほどね。やはり痛みとか女性の美しい体に対して……

田部:そうでしょうね。

小勝:あ、あんまり私が言っちゃいけないんですけど。

田部:いいんですよ、言って(笑)

中嶋:こういうものを使うのは、諸刃の剣というか、 自分の性についてどう考えているかということを誤解されることもあるんじゃないかと思うんですが。

田部:どういう風に誤解されるんですか。

中嶋:例えばマネキンの足にストッキングを履かせるという事が……

田部:あぁ、媚びてるって思われるっていうこと。

中嶋:媚びてるかどうかはわからないんですが、現にヨシダ・ヨシエさんはわりと明らかに性的に楽しんだという感じがするんですね。

小勝:「色情狂的、ニンフォマニア的聖堂」といっています。

田部:ふーん、ほんと?

中嶋:そういうことに関して、どういう風に感じていらしたかというのもおうかがいしたいんですが。

田部:そういうところの女性意識っていうのは、私にはあんまりないよね。

中嶋:でもストッキングというのは、すごく特別な……

田部:あの頃はすぐに伝線して破れるんですよ。一本いくらで修理に出してました。

中嶋:すごく大切なものですよね。

田部:そう、大切なものですよ。今みたいに3枚いくらというようなものはないのよ。すごく大事にしてたね。

小勝:ではそういう大事なものを沢山履かせたんですね。そうすると田部さんとしては、女性の足の美しさを……

田部:私足が綺麗でね、自慢じゃないけれど。「あんた足のモデルになり」、とかいわれて足だけ出てるモデルとかあったんですよ、繊維課といって下着とかの課があるんですけれど、そこで出らんね、といわれたりしてね。足の格好だけは自信があったの。今でも鍼灸師が、あんたの足まっすぐやね、っていうからね。

小勝:やはり、美しいものを並べるという感じでもあったわけですか。

田部:それもありますね。やはり芸術は美しくなければいけないというのが、どこかにありますよ。だから、私のトークショーに来ていた大阪の人が変なのを送ってきたけれど、やっぱああいうグロテスクなものはあんまり受け入れないね。グロテスクはグロテスクで、なにか美しくないといかん。

小勝:ちょっと胎盤の話しに戻ってもよろしいですか。《人工胎盤》(1961年)の再制作を熊本の美術館の依頼で2004年になさいましたよね。

田部:絶対に再制作はしないと決めとったんだけどもね。あの方(南嶌宏氏、当時熊本市現代美術館館長)がね、1年以上経って「出来た?」っていうからね、え、本気なんだと思って。いくらくれますか、とかいって。そしたらうん百万円ていうから、それじゃしますって。お金が欲しいから(笑)

小勝:再制作にあたって、今度は最初の時とは違いましたか。

田部:うん、ちょっとあまりにもグロテスクだから、そのものを制作することは不可能ですね。パテも手に入らないし、アスファルトももう今はコールタールになっちゃってね。固まってないから、コールタールは扱い切らんですよ。あれも熱したら固まるとかって、誰かがいってたけどね。

小勝:再制作では、綿を使っていらっしゃるんですよね。

田部:そうですね。最初は脱脂綿かなんかだったんだけど。今は人工綿がいっぱいでてるから。それとか、毛細血管もアメリカから赤くて細い針金を取り寄せてもらって、お店で。子宮の中に毛細血管を、べーっと入れてね。

中嶋:1回目に作られたときと2回目に作られたときと……

田部:だいぶ違いますね。1回目は子供もちゃんと産んで、子供の可愛さも分かったし。ちょっとばっかり可愛いのにしよう、という意識は働いています。あんまりグロテスクだとね、かわいそうだし。こんな所に入ってる子供もかわいそうだしね。産まれてきたらわかりますよね。とにかく細い細い指にちゃんと爪がついてるのよ。あれは感動でした。みんなお産の後はグーグー寝るっていうけどね、私は寝れないの。24時間眺めてた。これは最高の芸術作品だ、と思ってね。こんな完璧な芸術作品はない。これをうちの息子にいうとね、「これは最高のなんとかだというのは、職業によって表現が違う」とかいってたよ。

小勝:なるほどね。自分が作るものの中で一番いいもの。アーティストなら芸術作品。

田部:そうそう。芝居かな、何の例を引いたかは忘れちゃったけど、誰それはこういったというようなことを、よく知ってるの。

中嶋:最初の作品を作られたときに仰っていた、妊娠から解放されなければ女性の解放はないという考えは、今は持っていらっしゃらないわけですね。

田部:持ってないですね。だけどね、それがおかしいのよ。今から10年以上前になるけれど、藤原書店の勉強会がよくあったんです。ときどき河野さんがいくからついて行っとったんだけれども。東京医科歯科大学の教授がきてね、話したの。人工胎盤はもう実用の段階になっていると。人工胎盤というそのことばに反応したのね、私。「じつは61年に私、《人工胎盤》(1961年)という作品を創ったんですけど」って。言ったらなんかもうKYなんですよ、言ったこと自体は。もう実用の段階で、あとは倫理の問題だけだっておっしゃってました。だから私は再制作にあたってね、東京医科歯科大に見に行こうと思ったんですよ。だけど、絶対見せてくれないしね。企業秘密というか。ちょっとあたってもらったけれども、ぜんぜん見せてくれないし、無理だと思ったんですよ。もしそれが巨大なものだったら、どうしますか。こんな巨大なものだったら、出来ないし。だからもう、前のものと同じように、簡単にしておこうと思って。今はもうそういう段階ですよ、生殖テクノロジーというのは、画期的に進んでいるんです。あとは倫理の問題で普及しないだけですよ。だから子どもが出来ない人は、試験管ベビーとして一応着床させてから子宮に戻すんですよ。知り合いの夫婦がそれで成功して子どもを産みました。1人産んだら、すぐにもう1人出来るの。2人も産んだの。そうとうお金はかかったらしいんですけどね。

中嶋:そういう生物学的な生殖テクノロジーというのはどんどん変わっているわけですね。

田部:どんどん発展してるんです。だからそのうちに男も子どもを産めるようになる。

小勝:それこそ、クローンとかね。

田部:そうそう。だから女も早く産んどかんとね、産めなくなるわよ。私が寝たきり老人になったら、ここに着床させてっていうのよ。ちゃんと産んじゃるけん、って。いくらかは社会のお役に立たなきゃいかんもんねっていうと、みんなは「相手にすんな、ばかなことをいう」て(笑) 

小勝:《人工胎盤》(1961年)については、一応お終いと致しまして。同じ61年の九州派展に《プラカード》(1961年)を5点出していらっしゃいますね。(注:襖に、アフリカ大陸をかたどった図を表し、人工の毛や雑誌からの切り抜きなどをコラージュをした作品)

田部:あれは一緒だったんじゃないですか、セットで。

小勝:セットでしたか。

田部:セットだった気がするけど、違うかね。

小勝:(《人工胎盤》と)同じ時に出していらっしゃるんです。

田部:あっちとこっちに並べたんじゃないかな。

小勝:《プラカード》はどういう意識で創られたんですか。

田部:あれは、とにかくいっつも労組のプラカードを見る度に、つまらんねと思ってたのよ、通り一遍でね。

中嶋:「左翼のプラカードは右翼のそれに似ている」と書いていらっしゃいますね。

田部:そうそう。「右翼のそれ」よ、ことばがまず。右翼がまだ今でもやってるじゃないですか、日教組がどうのこうのと。

小勝:プラカードをアートとして作る、ということですか。とくにアフリカのコンゴの独立……

田部:そう。アフリカのコンゴの独立があってね、私たちは民族独立ということで大変に喜んだんですよ。そうしたらあっという間に、今度は民族同士の殺し合いになったじゃないですか。あれを何とか次の世代の人に、あなたたちに考えて欲しいの。そのことを。なぜ民族独立が幸せに繋がらないのかということをね。もう私の思想では、考えられないよ、ああいう風になっていくことは。コンゴはせっかく独立したのに、一番不幸になってるじゃない。ソマリアもそうだし。そういう風な落差といいますか、非常に文明国家として発達すれば、そういうことを当たり前として受け入れられるけれども、まだ女性のクリトリスを切り取るじゃないですか。朝吹登美子さんのエッセイに書いてあるじゃないですか。ああいうことが未だ行われているということを、グローバルな視点で許しているということをね、あなたがたに考えて欲しい。何とかしないと永久に女性の悲劇は収まらないよ。インドでも、嫁に来ても持参金のスクーターがなかったっていうだけで、焼き殺したりするでしょう。調理中に火が付いたとか、嘘をついてるの。それを許している社会、世界。

小勝:この《プラカード》はアフリカをモチーフとしたものが3点あって、キスマークは、祝福をしたんですよね。

田部:私の唇につけて、ばんばん押していったの。

小勝:可愛いというか、それに加えてエロティックなところもありますよね。この毛はマネキンの毛をつけていらっしゃるんですか。

田部:そう。そういうものは何でも手に入るからね、手当たり次第に。

小勝:このコラージュしている写真は……

田部:それは有名なミュージシャンだったりするらしいですよ。一人一人解説した人がいたの。これはジャズの誰々、これは誰って。

小勝:これは田部さんが好きなものを……

田部:無意識に。

小勝:無意識に選んでますか。

田部:それこそ、アサヒグラフかなんかから破って貼ったんじゃないですかね。

小勝:このマネキンの髪をつけたのは、どういう意味なんですか。

田部:やっぱり、エロティシズムかな。エロティシズムというのは、作品にとって大事だと思うんですよ。それが無いような作品はつまらないよ。やはり、人間の本質というのはエロティシズムから来てますから、どっちみち。

小勝:この《繁殖する》もね、私これを見て、卵が増殖している、と感じたんです。

田部:そう、卵です。魚の卵です。

小勝:これが箒の柄で作られたというのをうかがいました、面白いですね。

田部:竹がないから箒よ。

中嶋:それにアスファルトをかけて。

田部:そうそう。あれはつけたらどこでもひっつきますからね。

小勝:この《プラカード》の方は、もう一つがアフリカの真ん中に……

田部:ここに女性の性器をつけてたの。

小勝:性器の写真ですか。

田部:そう、写真。うちの旦那は映画関係だからいくらでも手に入るの。ちょっと持ってきて、っていえば、何枚でも持ってきてくれるのよ。

小勝:その写真の上に、このマネキンの髪の毛を。

田部:そう絶対にばれないと思ってたのよ。

中嶋:そしたら『土曜漫画』で言及されているんですよね。

田部:ばれちゃったの。それで慌てて剥いだのよ。やはり日和見主義者よ、私は。覚悟がないのよ、覚悟が。ちょっと面白がってするだけで、これだってすぐに剥いじゃうじゃないですか。逮捕されるのは嫌だもんね。

小勝:アフリカのプラカードが3つで、あとの2つはアメリカの国旗ですか。

田部:そうですね。やはり、アメリカから支配されているという風な、ね。これは河原温のまねやないの。

小勝:あと鉄条網がありますよね。

田部:やっぱり基地問題。砂川の基地とか、あとは成田。成田の闘争。私は加勢には行かないけどね、そういうの嫌いだから。心の中では応援してます。(赤瀬川)原平やらは、砂川基地にも行ってるもんね。風倉さんも多分行ってるんですよ。原平さんが行こうっていったらどこにでも行くんですよ。

中嶋:この色彩は樹脂ですか。非常にポップな感じもしますよね。

田部:それね。そうそう、なんでもポップよ、私は。一番ポップな果物は林檎だから、林檎にしたの。ポップアートが大好きなの。

中嶋:ですが、この頃はまだポップアートというものは、それほど日本では知られていなかったのではないかと思うのですが。

田部:63年だからね。この直後よね、ポップアートが入ってくるのは。だから63年は林檎をテーマにしてますもんね。

小勝:そうですね。

田部:でね、こんな事ばかりしてても飯くっていけん、と思ったのよ、私。だから売れる絵も描かんといかん、綺麗な絵を描こうと思ったのがこの63年ですね。こうした作品が確かに今でも通用するんですよ。

中嶋:《プラカード》も色など綺麗です。

田部:そう、綺麗だからお金にせんといかん。

小勝:これ、襖にやってらっしゃるのが面白いですよね。

田部:そう、襖屋がうちの近くにあったの。どんなにでもしてくれる。真四角にしてっていえば真四角にも。(この作品は)真四角じゃないけどね。

小勝:では既成の襖ではないんですか。

田部:注文です。

中嶋:いろいろな独自の試みがあったんですね。

田部:そう、画材というか、それを選ぶのは大変よ。今度は何にしようか。私の兄がいうの、「お前まだあるのか」って。アイディアがあるのかって、いつも笑ってたけれどね。

小勝:そのアイディアといえば、次に行ってもいいですか。63年の最後の「読売アンデパンダン展」に、《裏と表》(1963年)を出品されましたね。(注:ファスナーが多数取り付けられたボディ・スーツ状の着衣の作品)

田部:これ出したんですね。これはだいぶ使いましたよ。シティ銀行の前での、これを着たダンサーが踊ってね、朝日(新聞)に載ったりしたんです。その記事がどこかにあるんだけどね。どこにいったかわかんない。

小勝:はい、あります。いただいたものを持ってきました。まず、《裏と表》というのはどういう意味なのですか。

田部:どういう意味ですかね。そんな素敵な名前をつけたなんてぜんぜん覚えてない。

小勝:覚えていないですか。

田部:やっぱりサルトルからきてるんじゃない、たぶん。

小勝:具体的には、サルトルからどういう……

田部:なんでもサルトルですもん。私は育児もサルトルでしたから。同じ知能指数ならね、想像力が優れている人のほうがはるかに学力が伸びるって書いてあるの。だから字なんて小学校いくまで知らなかったの、うちの子は。一にも二にも想像力。どうやってしたかは忘れたけど。具体的に筆記しておけば良かった。だから想像力だけは、ばんばんと。このダンサーは優秀だったけれど、なかなか生活苦にあえいでね。

中嶋:マユミ・ウィスニュスキーさんですね。

田部:そう、生活苦なのよ、子どもが3人も4人もいるかなんかで。だから芸術活動ができないのね。若い人にさせようと思っても、若い人は金稼ぎで大変でしょう。就職もないし。うちの「ノンセクション」だって、定職に就くために今は事務局から外してるんですよ。そうしないと中途半端になるからね。西短の教授を目指して。

小勝:このオリジナルの発表時に戻りますと、この《裏と表》というのは、タイツなので、当然人間の皮膚と内側、女性の体の皮膚と内側とか。

田部:そうそう、そういう風につけたら成立するのよ、思想的に。

小勝:いやいや、田部さんの言葉で言っていただけないと。

田部:だから小勝さん書いてよ。それを英訳して、今度ああいうカタログをもう一度出すから、それに載せて。私はこんなに考え深いんだ、と(笑)もう、頼む以外ないよ。

小勝:それと、ファスナーをいっぱいつけるというアイディアと…… 

田部:これに何を入れようかと思ったんだよね。コンドームを入れて、ずっと繋いでしようと思ったけれども、また旦那が怒ると思ってね、ちょっとやめた。今でもね、何を入れていいかわからないの、このファスナー。(注:上記着衣をダンサーにきてもらい、コンドームをポケットから取り出すパフォーマンス、2011年1月、福岡3号倉庫、福岡)

小勝:そうですか。でも逆に何でも入りますよね。何を入れる可能性もあるという。

田部:そう。だからこれ、今度荒尾日南子に着せて、私の個展でやらせようかと思って。ね、彼女なら出来るよ。国際的なパフォーマンスに出てるもの。ことばがなくて通用する演劇、フィラデルフィアの。

小勝:この間、通訳でいらした方ですね。

田部:そうそう。あの人にしてもらおうと思うんだけど。再来年かな。

小勝:面白いですね。それから、田部さんが『二千年の林檎』(西日本新聞社、2001年、p.210)での対談で、小杉武久さんのチェンバー・ミュージックに影響されてこういうファスナー付きの作品を作ったんだっておっしゃっているんですが……

田部:ほんとね。私、健忘症ですよ。

小勝:そうおっしゃっているんですけれども、でも違うと思うんですよ。調べてみますと、小杉武久さんが「読売アンデパンダン」に出したのが第15回(1963年)で、田部さんこの《裏と表》が出たのと同じ年なんですね。だから、それに影響されるということはないと思うんですけれど。

田部:なるほどね。もうなんか刑事さんみたいね。

小勝:やはり、裏付け調査をしないと(笑)。

田部:なるほど。裏付けがいるんだってね、新聞記者も。

小勝:それと、小杉さんのチェンバー・ミュージック……

田部:チェンバー・ミュージックなんて書いてあったの。どういう意味ですか、チェンバーって。

中嶋:部屋という意味ですけれど。

小勝:ですから、袋の中が部屋であって、袋の中に入って自分の着ているものを次々と出していって、最後に裸になって……

田部:あぁ、それはオノ・ヨーコがしたのよね。切っていくのとか。

中嶋:オノ・ヨーコの《カット・ピース》ですか。

小勝:オノ・ヨーコも、袋の中に入るのもしたんです。(注:《バッグ・ピース》1964年、「前衛の女性 1950−1975の女性」展図録、写真掲載、cat.no.204)

田部:あぁ、そうなの。風倉さんもね。「英雄たちの大集会」の時に、素っ裸で天井の梁を走っているうちにね、ようやくふくらみかけた風船にぽたんと落ちたの。怪我はせんですんだんだけれど。それがヒントだったのよ、風船の中に入るという。風倉さんはちゃんと、死ぬ前にそのことをいってました。そのことがあって、入ることをしたんですよ。

小勝:そして小杉さんのその作品については、赤瀬川原平さんも、「読売アンデパンダン展」を振り返った著書の中に書いているんです、どういう事をやったかというのは。(赤瀬川原平『反芸術アンパン』、1994年、pp.194-197)

田部:これはでも、「シーツ2枚を縫い合わせていろんなところにジッパーをつけた」って書いてあるのね。私のあれとはちょっと違うね。

小勝:違いますよね。そのチェンバー・ミュージックで使ったシーツ2枚の袋を、今現在は久保田成子さんが小杉さんから譲り受けて、自分の作品の《ヴィデオ・ポエム》(1968−69年)っていうのにしているんです。(「前衛の女性 1950−1975の女性」展出品、cat.no.211)

小勝:では、そのチェンバー・ミュージックに影響を受けたとかいうのは嘘、ということですか(笑)

田部:嘘だね。いや、そんなに格好いいことはいってないと思う。

小勝:嘘というか、座談会で話の流れで(リップ・サービスとして)ちょっと出てきただけなんですね。

田部:そうそう。しかしこの、芦屋でやった小杉さんのバイオリンだけは素晴らしかったね。こんなバイオリンを聞いたのは初めてだと思って、これは一生バイオリンを聞かなくてもいいやと思ったの、私。即興なんですけどね、もう凄いんですよ。今度いつか聞きたいね。

小勝:《裏と表》(1963年)は最初、第15回最後の「読売アンデパンダン展」に出したときは、ブラインドに吊したという話を前にうかがったんですが。

田部:そうですね、ブラインドに吊したかもしれないね。

田部:今日は九州派までで終わりですかね。

中嶋:いえ、その先まで伺いたいです。

田部:九州派っていうけどですよ、今はネオダダみたいに一緒に集まるわけでもないしね、なんてことないんですよ。たいしたことないの。

小勝:すみません、今途中になってしまった話で、《裏と表》をその後何回やったかということを確認したいんですけれども。この間うかがったときには、1968年のRKB毎日放送で、「九州派再発見、九州の前衛美術」というのを放映した時にも使っていらっしゃったということでしたね。

田部:そうね。ヴィーナス像をがーんと金槌で割ってね。

小勝:それは、田部さんが割ったんですか。

田部:はい、谷口路子っていうモデルを使ってね。

小勝:谷口路子さんがこのタイツを着て、ヴィーナスを割ったんですか。

田部:ヴィーナス像を創ったのは私です。あの人は髪が長かったから髪を梳いて、私がぐるぐると紐で撒いて、という。ほんのつまらないものよ。

小勝:その全体の演出というのは、田部さんがお考えになったんですが。

田部:それは私。

小勝:では、全体としてどういう事を表現しようと思われたんですか。

田部:女性の決まり切った退屈な日常性、それを表現するという。

小勝:それを破壊する、ということですか。

田部:う〜ん。

小勝:破壊でもないですか、ヴィーナスを割るということは。

田部:そうね。

中嶋:このヴィーナスを金槌で割るというのと……

田部:それは伝統的な美に対する反発というか。

中嶋:それと、マネキンに釘を打つという行為が……

田部:通じてるかもしれないよ。

中嶋:繋がっているように、思えます。

田部:マネキンもヴィーナスも、美女だもんね。美女に反発してるんじゃないの、私がブスだから。ブスの恨みというか(笑)。

中嶋:では、やはり既存の美しさの規範に対する……

田部:いや、美しい人は好きですよ。イングリット・バーグマンはめちゃくちゃ綺麗ね。

中嶋:でも、それに対して割ったり釘を打ったりという行為があるわけですね。

小勝:でも、芸術家である田部さんとしては、田部さん(独自)の美を作るというお気持ちがあるのではないですか。

田部:それはありますよ。だから小説でもね、美人って書いたらね、あなたこんなつまらんことばを書きなさんなってすぐにいうのよ。「美人」と書かんで他の表現があるでしょうといって全部書き直させてね、成功したことがあるんですよ。「そんなことしたらジェンダー会にやられますよ」っていったらね、その人が「美人」ということばを削除したのよ、素直に。そしたら新聞に取り上げられて。

小勝:マユミ・ウイスニュスキーさんのパフォーマンスというのが何年に行われたかというのは、ご記憶ではないですか。新聞記事のコピーは頂いたんですが、何年のものかは書いていなかったので。

田部:そうなのよ、この人ねそういう記事もとってないのよ。この記事もとってないのよ。だからね、これは朝日新聞の、ええと。

小勝:「第6回コンテンポラリーアート展」なんです。

田部:今は10回位ですからね、4〜5年前ですよ。

小勝:もっと前かな、と思ったんですが。

田部:いや、そんなに前じゃない。この人が入ってきてね、本展のほうでもダンスをしましたから。この人のダンスのチームがあるんですよ、教室とか。その人たちを全部連れてきてね、ゆっくり動くダンスがあるでしょう。ああいうのをして、とても賑やかだったことがありますから。10周年記念展ですかね、6〜7年前ですね。

小勝:なるほどね。では2003年とか2004年とか、そのあたりですかね。

田部:それくらいですかね。

小勝:はい。それで先ほどもおっしゃいましたように、今後も現代の若手のパフォーマーに着せて……

田部:私が着るわけにいかんからね(笑)。

小勝:はい。といいますか、そもそも田部さんはご自分が……

田部:いや、作った頃はスタイルが良かったからね。

中嶋:ご自身で着ていらしたんですか。

田部:はい、着ましたよ。

小勝:でも公開はしてないですよね。

田部:人の前では着てない。公開はしてないです。

小勝:もうひとつ、田部さんがなさったハプニングといいますか……

田部:ありましたね。泡をかけるの。

中嶋:SNACK BOBO(スナック・ビオビオ)の、1967年ですね。

田部:そうそう、ありますよ。どっかに載ってます。

中嶋:尾花さんとのハプニングですね。

田部:いや、違う。大黒さんが途中で嫌って言いだしたの。それで尾花さんが参加して、やってくれた。加勢してくれたの。

小勝:あら、そうですか。尾花さんと田部さんが2人でヌードモデルに泡を塗りつけたんですね。

田部:ヌードモデルを雇ってね。

中嶋:今度は泡を塗りつけるわけですね。

田部:そうですね。

小勝:これはまた、美の規範に何か関係するんですか。

田部:この前ニューヨークのロバート・ミラーでのUNCENSOREDという展覧会で似たようなのを観たの。アンセンサーという「検閲なし」という展覧会、ロバート・ミラーがしてたんだけれど、そこのビデオ作品で、こうして両手で自分の性器をがっと開いてね、(何かを塗り付けて)ビデオ2台で見せてるんですよ。それでもね、誰も見てないのよそれを。私ともう一人のアメリカ人がいて。あんなのアスファルト・ピッチをつけたら火傷するからね、何だろうと思って後で調べたらチョコレートでしたね。チョコレートのお風呂みたいなものに入ってたから。

小勝:それは田部さんがやった、ずっと後の話ですか。

田部:ずっと後。最近の話ですそれは。でも5年前から行ってないから、7年前かな。

中嶋:それをご覧になったんですね。思い出されましたか、当時の泡を塗りつけられた時のこと。

田部:思い出してはいないね。あぁ、ここまでしてでも有名になりたいんか、と思ったよ。有名になったんですよ、その女の人。でも一遍だけよね、そういうのは結局使い切り。

小勝:田部さんのお話しに戻りますと、最近の黒田(雷児)さんの大きな本(注:黒ダライ児『肉体のアナーキズム』、grambooks、2010年)に、田部さんが「第3回九州現代美術の動向展」のパレード、1969年2月のパレードに参加して、人形を背負って歩かれたとか。

田部:マネキン人形。真っ白に塗って、子どものマネキンを背負って歩いたの。これは私、画期的だと思うんだけど、話題にはならなかったけどね。法被かなんかを着て、そこにマネキンを。まだ倉庫の隅っこにありますよ。その子どものマネキン。

小勝:これはどういう……

田部:それは日常性、女性の。子守ですね。子守と茶碗洗いと、なんとかに明け暮れるこの女性の生活を何とかしなきゃね。だから、55年の主婦退職宣言に繋がっていくわけよ。もうこれ以上出来ない、と。もう茶碗を洗わんぞ、と。

小勝:もう1つ、やはり女性の日常性にも関わるかとも思いますけれど、1968年の「グループ連合による芸術の可能性展」、ここで「セックス博物館」というテーマで田部さんがなさった……(「グループ連合による芸術の可能性展」、福岡県文化会館、1968年)

田部:鏡に描いた。(抱き合う裸の男女と、大きな乳房を抱えて哺乳瓶に乳を絞る女性の下半身を大きな鏡に描いた一対の作品)それとね、こけし人形を男性の性器に見立ててね、10個作ったのよ。こっちから見ると人形で、後ろから見ると性器に見える。そうしたらね、それが5個盗まれて。帰りにみたら5個しかないの。まだありますよ、そこに。見ますか。今は4個しか残っていません。

小勝:是非お願いします。

田部:残ってるのは4個。私よく盗まれるんよ。これ、この写真のパフォーマンス。長い長い性器を縫って……(注:「セックス博物館」で、田部氏がミシンで長いひも状のものを縫った。)

小勝:これはやはり性器ですか。男性器ですか。

田部:イメージ。それと内職。日本経済は主婦の内職で成り立っているっていう、こんなのははっきりとコンセプトを作ったの。ここの洗濯機の中はね、小さい瓢箪に臍の緒をつけてがらがらまわしてね、「生まれ出でざる嬰児たち」(年表には「生まれ出でなかった胎児たち」とある)。これは私、自信を持ってね。すごいパフォーマンスだと思ってるのよ。

小勝:この紐と嬰児はくっついてはいないんですか。

田部:くっついています。嬰児ですから。

田部:これこれ。宝物。(注:田部氏が「セックス博物館」に用いた作品のこけしを4体取り出す)

小勝:宝物ですね。

田部:え、たった4個しかない、6個も盗られてるんだ。こういうね、こっちから見たら、ね。

中嶋:可愛らしいですね。

田部:かわいいじゃん。なんでも可愛く作らなくちゃ。

中嶋:ピンクをよくお使いですね。

田部:この頃ね。

中嶋:このピンクの色は、何の画材で作られたんですか。すごく色が現代的ですね。

田部:なんだろうね。アクリルがあったかしらね、もう。

中嶋:アクリルは出てきていると思います。蛍光塗料も出てきた頃ですね。

田部:かもしらんね。そういうのは全部批評家が後づけすればいいの。作る人は、全部作るだけでね。後は批評家とかね、おたくたちの人がね、勝手につければいいの。

中嶋:これはご自分で作られたんですか。

田部:いやいや、これはろくろまわしきらないよ。吉井町よ。吉井町はこけしの名産だから。

中嶋:これは売っているものを買って……

田部:違う違う、注文。こんなもんは売ってないよ。

中嶋:特注、売ってはいないですよね。形がちょっと奇妙ですものね。

田部:だから、こんな形にしてっていうんだけど、作ってる人があんまり分かってないのね。

中嶋:分かってない。どういう風に説明されたんですか。

田部:これがやっとですよ。自分も持っとろうがっていうのに(笑)。

小勝:すみません、少し元に戻りますが、このミシンで縫っているのはやはり長い男性器なんですか。

田部:そうそう。ずっと長いんですよ。10メートルくらい作ったんですよ。

中嶋:これ、桜井さんが首に巻いてますよね。

田部:そう、だから10メートル以上作ったかもしれない。そしてそれを全国放送ですから。溝上健二モーニングショーとかっていう番組の、死んだのよね、このキャスターが。40代で亡くなっちゃったの。

小勝:そのパフォーマンスをしているところを放送された…… KBC九州朝日放送ですね。これが先程お話しした、RKB毎日放送の「九州派再発見」とKBC九州朝日放送は同じ1968年という記録なんですが。

田部:そうですか。「セックス博物館」も1968年。こっちはKBCの全国放送(注:「モーニングショー」日時不明)ですよ。だから、そこから全国放送に流したんでしょうね、映像を。

小勝:ではこの年は割とテレビに出演されて。九州派が再発見されたんですね。

田部:やはり再発見しようという……何年?

小勝:68年です。それとこの紐状に縫っておられる性器、これが長いというのはどういう意味なのですか。

田部:それはもう、万人の男を繋いだんじゃない。

小勝:洗濯機の中の胎児は、それとはまた別なんですね。

田部:うん、別でもないよね、あの頃は堕胎が流行ってましたから。

小勝:堕胎された胎児。

田部:そう「生まれ出でざる嬰児たち」。

小勝:この瓢箪に付いた臍の緒というのは、

田部:なにかゴムのようなものをこのくらいに切ってつけたんですよ。瓢箪は、亭主のお父さんが作っていて、なんでかこんなに送ってきたの。面白いやろ、とかいって。私がなにかそんなのが好きだと思ってるの。それを早速使ったんですよ。洗濯機も全部レインボーに染め上げて、ミシンも。

中嶋:そんなにカラフルだったんですね。

小勝:カラー写真があったら良かったですね。その一方でこちらのガラスに絵を描いたんですか。

田部:鏡絵です。これはもう、真面目に描いたんです。

中嶋:これは何で描いてあるんでしょうか。

田部:アクリルでしょうね。

中嶋:普通少し半透明という感じですよね。

田部:それはもう手におえんからね、88年に九州派展の時寄贈したの。

小勝:福岡市美術館ですね。

田部:時々出してますよ。一個はひび割れてるしね。だからもう危ないからね、美術館に……

中嶋:このパフォーマンスについては、九州派の男性の作家の方達はどのように。

田部:この連中が参加してるからね、面白かったんじゃないですか。

小勝:といいますか「セックス博物館」というテーマを立てたのが、この中の……

田部:小幡(英資)やろ。

小勝:小幡さんですか。ただ他の人たちは、いわゆる男性器を巨大に作ったんですね。

田部:それが大山右一、こっちが。

小勝:何人かの男性メンバーがこの巨大なペニスを作ったと(記録に)あるんですが。割とまぁそのまんま(のマッチョ)といいますか、何も(ひねって)考えていないというか。

田部:そのまんま、面白くないの。大山右一というのは面白くないのよ。

中嶋:では、ぜんぜん違う意図や目論みが、同じパフォーマンス、同じ展覧会の中で一緒になっているんですか。

田部:いや、これはテレビには私が出演しただけですから。他の人は出演してないの。

小勝:他の人は他の作品を出した、という訳ではないんですか。

田部:それを撮したかどうかは知らないけれど、パフォーマーとしては私だけが出演したの。これは後で撮った記念写真だから。(注:「九州派展」カタログ、福岡市美術館、1988年、p.107 )
映像というかテレビには私だけが出たの。

中嶋:そのテレビに対して、反響などはありましたか。

田部:それは分からないね。

小勝:黒田さんの本で、田部さんについて、「彼女自らが女性性を打ち出したパフォーマンスを打ち出すということはほとんどなかった」と書いてあるんですけれども。

田部:自分が裸になってするとかさ、そういうことは一切しない。

小勝:そうですよね。色々と田部さんのなさっているのは……

田部:岸本(清子)(きしもと・さやこ、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーのメンバー)さんくらいにね、打ち込んでないもん。主婦だもんね。子どもを育てている最中じゃないですか。そんな恥ずかしいお母さんの姿を見せたくないというのが基本です。

小勝:というか、私は田部さんというのはパフォーマンスに関しては、自分が演じる人ではなく、演出者、仕掛け人である、とそのように思いました。それは、今もそうですか。

田部:仕掛け人ですね。今もそうだと思います。だからやってくれる人がいたら遠慮なくやります。

小勝:昨日もちょっと話題に出ましたが、「万博破壊九州大会」ここで田部さんは8ミリで撮影なさっていますね(注:1969年5月3日〜5日、北九州市、福岡市にて行われ、ゼロ次元や桜井孝身、集団蜘蛛、集団“へ”らが参加した)。
田部:ゼロ次元のね。
小勝:ゼロ次元と「集団蜘蛛」も。
田部:これ(注:8ミリの記録)はありますよ、美術館に。
小勝:「畸形三派狂乱大集会」という名前がついています(注:実際には、「畸形三派狂乱大集会」は「万博破壊九州大会」の後の1969年7月5日、小倉労働会館にて、集団蜘蛛や集団“へ”、桜井孝身らによって行われた)。
田部:どこ、場所は。農民会館かなんかあったんです石城町のホールが。今もありますけどね、火の見櫓みたいな。
小勝:「万博破壊九州大会」は戸畑文化ホール(注:戸畑文化ホールの他、農民会館、明治生命ホールでも行われた)、あ、その後の、そう小倉労働会館ですね。
田部:この大会(注:「畸形三派狂乱大集会」のこと)はそれは悲惨なものだった。最後は糞尿痰やらを投げてね、
小勝:それは「(集団)蜘蛛」の森山(安英)さんでしたか。
田部:そう、「蜘蛛」。それで捕まったでしょう、柳川のデモ(注:1970年11月29日、伝習館救援会結成大会デモ)で。私達は全部写真に(赤外線フィルムで)撮られてたね、警察に。
小勝:田部さんはその時には8ミリでそれを撮影していたんですか。
田部:うん、してたのよ。大事なところをね、カメラを外して肉眼で見ちゃった。プロじゃないね。
小勝:昨日のお話だと、ちょっとエロティックなパフォーマンスを……
田部:蜘蛛でしょう。
小勝:それは蜘蛛のですか。田部さんが仕掛けたんではないんですか。
田部:ないない。それはね、森山。
小勝:森山さん達の路上でセックスをするとか……
田部:蒲団敷いて寝る(注:1970年11月29日、伝習館救援会結成大会デモ)、とか。なかなかしないのよ、それが。するするっていって、だからデモの取材に行ってるうちに、ちょろっとしてんのよ。
小勝:それを撮影しようと……
田部:いや、それはしてない。
小勝:それはそもそもどういう理由で撮影しようと思われたんですか。
田部:なんかやっぱり、面白いから記録にしておこうと思ったんだね。だってあなた、天神の真ん中の交差点でやったんだもの。いくら午前5時とはいえ。午前5時くらいだったらね、電車とか通ってないから出来るんですよ(注:実際には、1970年2月26日〜27日における「九州ルネッサンス 英雄たちの大祭典」(博多プレイランド、BOBO)の際に、集団蜘蛛のメンバーと集団“へ”の新海一愛らが午後5時ごろに天神の交差点で行った)。まだベトナム戦争の頃で、詩人の福森隆っていうのが、ベトコンの旗をたてて出てくるの(注:実際には、福森が旗をたてたのは1969年4月27日の「万博破壊九州大会キャンペーン」のとき)。
中嶋:ベトナム反戦運動でもあったんですか。
田部:そうでしょうね。福森隆はしっかりそういうコンセプトを持っている人だから。詩人で。
小勝:田部さんとしては、そういう彼らの行為への共感というものはあったんですか。
田部:それはね、森山を支援したかったよ。もう徹底してるから。九州派は徹底しているといいながら徹底してないところばっかりだったでしょう。
中嶋:政治的な活動に関してですか。
田部:うん。桜井さんにしろ、絵が売れたいとか売りたいとか。アメリカに行ったりフランスに行ったりしてたじゃないですか。だから売れてなんぼのもん、というところにいってますよ、みんな結局。立派な事ばっかりいってるけど。
中嶋:では田部さんとしては、九州派は政治的な運動としての活動と……
田部:無いと思うね、やってないと思うね。
中嶋:それと前衛美術の活動とがあまりリンクしなかったという風にお考えなんですね。
田部:うん、してない。
小勝:その九州派の活動としては最後になったのは、先程おっしゃったのが……
田部:70年でしょう、結局は。県立美術館でしたのが最後だと思う。そう、私が死に損なったの。
中嶋:4日間徹夜した時のことですね。
小勝:ベトナム絵画ですか。「可能性の意志」展。
田部:「可能性の意志」展はね、あれは県立美術館じゃない。
小勝:これは八幡市立美術館(注:北九州市立八幡美術館)です。《迷彩を施された風景》(1970年)というタイトルになっていますが、これがベトナム絵画ですか。

田部:そうです。男性性器を丸出しにしているのがあるんです。路上に倒れて。警察がいかんとかいって、満生(和昭)さんという学芸課長がいたんですけれど、その時だけは立派でしたよ。「僕の首をかけて展示する」っていってね。あとは大分の美術館長になった。そんな勇ましい人じゃなかったけどね。その時だけは燃えてね。

小勝:その男性性器が描いてあっても……

田部:そうそう。それで県立美術館に来たんですよ、また同じ展覧会。そしたらそこに紙を貼ってから。紙を貼れっていうから、貼ったの。

小勝:この「可能性の意志」展が県立美術館にも巡回したんですか。

田部:そう、巡回。巡回っていうより、その展覧会をしたのかな。

小勝:田部さんの作品だけが出たわけでなく……

田部:そうそう、みんなのものが出たんですけど、私のには紙を貼れっていうから貼ったの。こうしてめくったら分かるように。

中嶋:あ、めくれるようにはなってるんですか。やはり、そういう検閲は厳しかったんですか。

田部:いや、厳しいほどではないよね。

中嶋:それよりも、世間の目のほうが厳しいのでしょうか。

田部:いや、世間の目なんてどうでもいいのよ。全然厳しいとも厳しくないともなんも感じない。自分のやりたいことをやってるんだから。要するに警察に捕まらんようにする、ということよ。

中嶋:そういうことですよね。

田部:捕まったら、お母さん犯罪人、ってなるからね。子どもがね。「そしたら僕もなっていいたい」とかいうようになったら困る。親子でなったら困るもの。

小勝:それでそれ以後、九州女流画家展を主宰されて(1974−84年)。

田部:それから暫くしたら、何かしないといけないなと思って、九州女流画家「展」てわざとつけたの。展覧会をするための女性、という風にしたんですよ。

小勝:女性で集まろうと思ったという理由はありますか。

田部:もう男性はせからしいけんね、一緒にしたら。

中嶋:それまでにはそういうことを考えたことは……

田部:なかったんですよ。何人かいたからね、大黒さんと私と。

中嶋:大黒さんと、中西和子さんもいらっしゃいましたか。

田部:まだ生きてたか。あの人は39才とか40才で亡くなったからね。もう居なかったよ。早かったんですよ。

小勝:他のメンバーの方でお名前を覚えていらっしゃる方は。

田部:大国留美子とかね。大黒愛子とか、谷口路子とか。

小勝:さっき(1968年のパフォーマンスで)タイツをはいた(人ですね)。

田部:和田康恵とか、一緒になって最初は6人で旗揚げして、東亜画廊でしたの。東亜画廊で社長にとてもよくしていただいたので、出来たんです。

中嶋:ちょっとよろしいでしょうか。これはもっと前の九州派の面々が登場する有名なポスターですけれども(注:1961年「九州派展」、銀座画廊のポスターを出して)。

田部:これ61年です。だからもう、すごいですよこの(九州派の)死亡率はね。もう、残ってるのは私と尾花さんだけでしょう。後はみんな死んじゃった。ここは全滅。ここは結構……この人は死んだね。ここは生き残ってるわ、ならず者が。

中嶋:この中で田部さんの写真って一番大きいですね。

田部:勝手にするのよ、もくさん(菊畑茂久馬)やらが、ふざけて。

中嶋:石橋康幸が座長で田部さんは「女座長」とありますけれども、それはどういう意味合いがあったんでしょうね。

田部:勝手に付けてんの。意味はないんじゃない。顔が座長的だから座長にしよう、とかいってから。ここら辺の下の段の人が勝手に決めてんのよ。

中嶋:この(顔写真)小さい人たちが。菊畑さんや桜井さんですね。

田部:自分のは小さくしてるのよね。

中嶋:それぞれの写真には色々と面白いコメントがあるんですけれども、それは誰が考えたんですか。

田部:これもこの人が考えたんですよ。

小勝:菊畑さんですか。

中嶋:田部さんのところには「一見して日本人に見えるが台湾生まれ」と書かれていますね。

田部:だから子どもが「お母さん台湾人だったの?」って心配して。

中嶋:これは、どういう事だったんでしょうか。結構今読むと色々な意味で驚いてしまうんですけれども。台湾生まれ、植民地出身ということがなにか意味がありましたか。

田部:そんなことまで考える連中じゃないって。政治音痴だから。オチ(・オサム)なんか、全く政治音痴。

小勝:それはやはり、菊畑さんが考えたんですかね。

田部:と思いますね。ことばに関しては菊畑茂久馬。

中嶋:台湾で生まれたことに関して、なにか話題になるようなことはあったんでしょうか。

田部:それはみんな知ってるから。

小勝:みなさん戦前生まれですよね、当然。1930年代。

田部:桜井さんやらはもっと年が上ですね。

小勝:つまり戦前生まれの人にとっては、台湾も日本だった訳ですが、それに対して……

田部:ジャパンコロニアルよ、知らねぇか、って。

中嶋:九州というのは満州ですとか台湾ですとか朝鮮半島からの引き上げの人たちが多かったんじゃないかと思うんですけれども。

田部:多いらしいですね。熊本もブラジルに行ってるしね、一番たくさん。

中嶋:たくさん移民に行かれた方がいて、そしてまた帰ってこられた方が多いと思うんですね。50年代から60年代にかけてそういった人たちは、そのことについてどういう風にお考えだったんでしょうか。やはり田部さんは故郷について書かれていますよね。

田部:そう、故郷がないのよ、私。「書物は家なき子の家」と寺山修司がいってるけど、私もそうなの。

中嶋:その故郷がないということと、九州にずっといらしたこと、東京に行かずにですね。そのこととの間にどういう繋がりがあったのか……

田部:それはお金がなかったから行けんかったというのも一つだし。だから私はニューヨークに移住するって決めとった。何で行くのっていわれても、理由はない、と。ただ行くことに意味がある、とかいってたんですよ。だからお金を一千万貯めたら行くって言ってたんだけど、なかなか貯まんないのよね、お金って。そのうち、年取っちゃったから。今行く自信はないね。

中嶋:では、行けたら行くと。

田部:うん、元気になったら行くよ。80才超えたら行くかもしらん。やけくそで。

中嶋:谷川雁の「大地の商人」で、「東京にいくな、ふるさとを創れ」とあって。ふるさとになっていく過程があったのかなと……

田部:とにかくね、自分の産まれたところを失った人の孤独感、これだけはね想像出来ないですよ。だから寺山修司が1番。2人でいても1人、ひとりという名の鳥、青い鳥赤い鳥たくさんいるけど、1人という名の鳥が1番好きだ、とかさ。とにかく面白いよね、寺山修司が1番よ。2人で居てもひとり、すごいですよ。1人で居ても2人、といえるかどうか。1人で居てもみんな、みんなと一緒といえる人と。2人で居ても1人という気持ちで行かないと、作家にはなれないね。

中嶋:「孤独」、ですか。

田部:そう、孤独に耐えうる人でないと、作家精神は無いと思いますね。

小勝:また孤独を感じていないと、作家にはなれない。

田部:なれないと思う。絶対になれないと思うね。だから渡辺一民という東大の先生が、『故郷論』という本を出してます。中村真一郎とか色んな作家を例に挙げながら、故郷喪失について思考しているのがあって、私は寝室に置いて何回読んだか分からないんだけど。「幸福は絶望なのです」というカフカのことばが大好きで貼ったりしてますよ。だから、幸福を追い求めている人は幸福になれないんですよね。人生の全てのものに絶望した人が幸福なんですよ、逆説かもしれないけど。絶望からしか幸福は生まれない。

小勝:絶望を知らない人には……

田部:幸福はつかめない。つかめないっていうか、考えられない。

中嶋:田部さんには最初からその喪失感というものが絶望と同じように、人生の中に横たわっているのですね。

田部:ありますね。だからといって、みんなと喧嘩して一人で住むわけではないからね。それはちゃんと家族としての力は認めてますよ。家族力というのは。

小勝:田部さんが昨日おっしゃった、15〜6年前ですか、台湾にもう一度行かれたお話。その時には何をお感じになったんですか。

田部:食べ物が美味しくない、と思った。台湾料理なんて不味い不味い。日本が統治していたころの中華料理とぜんぜん違うの。それも、外務省の人が呼んだくらいの、一流のレストランなんだけど、なんか臭いんですよね。油の匂いかなにかがつーんとくるの。もう、これじゃない、これじゃないって。

小勝:やはりイメージの中の故郷や、イメージの中の台湾があるんですね。

田部:そう、台湾があるの。食べ物に残っているの、赤いスープみたいなものとかね。不思議な。だからそういうもの、ホイコとか、そういう味はないですね、台湾に。みんな台湾のお料理は美味しいっていうけれど、私は不味い不味いって思ってね。そしてついでに帰りに韓国に1人で行ったんですね、リュウ先生が全部紹介状を書いてくれて。韓国の先生。韓国料理の方がずっとおいしいと思いました。

中嶋:台湾では思い出の地に行かれましたか。

田部:行ってない。

中嶋:とくに故郷を再び訪れるという気持ちではなかったんですね。

田部:ないですね。行ったってしょうがないもん。海の波の高さだけは見てみたいね。本当にあんなに高かったのか、自分が小さいから高かったのか。

小勝:引き上げの時の波ですか。

田部:いや、引き上げる前にしょっちゅう地引き網とかに父が連れて行ってくれたでしょう。それで兄がカショウ(表記不明)島くらいまで泳いでいくのよ。遠泳で。怖くて怖くてね。O型っていうのはね、用心深いんですよ。一見大胆に見えるんだけど、非常に用心深いのね。だから冒険しないんですよ。だから冒険は嫌いなの。冒険でみんなどっかへ行くとか、ハーレムに行ってみたなんていうけど、そういうことには一切興味がないのよ、私。

中嶋:ですけれど、色々な所にご旅行されていますよね。

田部:1人で行くけどね。それは自分の興味があるから行くんであってね。絵の上の興味とか。バーゼルに1人で行ったのも、「バーゼル・アートフェア」を「ヴェネチア・ビエンナーレ」でポスターを見て、ぱっといくのよ。

中嶋:それは凄い瞬発力ですね。

田部:そういう瞬発力はあるよね。スピード感というか。

中嶋:もう一度女性のことについて戻りたいのですが、1974年になってから、九州女流画家展というものをなさるんですが…… 

田部:これはね、26人くらいまでいたんですけど、まず決められたことは、男性の審査員の展覧会に出さない。それから会合の時に、「主人が」っていわない。これを決めたんですよ。

中嶋:やはり、奥様的な集まりにならないように、ということですか。

田部:そう、すぐに主人がどうのとか、息子がどうのとやりだすからね。そういうことを禁止したの。ちゃんと守ってくれました。

中嶋:そうですか。そこでなされた試みの中や作品中で印象に残ったものがありますか。

田部:作品が良くならないね。そして、(会員の人の)旦那が入り込んできてね。パーティーからなにから取り仕切るのよ、その人が。だから私は解散しようと思って。この会が私の死んだ後にも残って、愛国婦人会になっとったら目もあてられん。それで、田中幸人を呼んで立会人にして、いきなり解散ですよ。「私達はどうなるのー」って叫んだ人もいるけども。

中嶋:かなり急な解散だったというように伺っています。

小勝:丁度10年くらいですか。

田部:12 年位経っとったと思うんですけども。なんか勝手なことばっかりしてね。

小勝:途中で公募にしたんでしたか。8回展から公募と受賞。

田部:でも大して応募してこなかったもんね。でも賞は出したりして、一応啓蒙的な意味で。

小勝:その公募や受賞の制度に反対して大黒さんが脱退したんですか。

田部:うん、まぁそれは口実よ。もう出来ないのよあの人。病気だし、小幡が働かんから。自分が画塾をして身をすり減らして、とうとう死んじゃったんですよ。やめなさいって言ったんだけどね。あんな呑兵衛3年で捨てなさいって言ってたんですよ、私。

中嶋:そういうお話しを聞いていると、やはり女性同士の連帯のようなものも……

田部:連帯、じゃないのよ。そういう風に全部ステレオタイプの言語を使っちゃいけないのよ。友情とかさ、親密度があったの、とかそいういう言葉にしないと、連帯とか思想とかジェンダーとか、もろに使うから若い人が付いてこないの。ごめんね。

中嶋:いえ。どういうご関係なのかな、と思いまして。

田部:だから、そういう関係よ。中西和子さんが消える前に、私にだけはいっておこうと思って来たのよ。それよりも、この哀しみは10年語っても語り尽くせないっていうところに感動しないと。その言葉は私は死ぬまで忘れません。連携じゃなくて、ね。そこがわからんと、分からないよ人生は。

中嶋:そういうことが、あまり九州派の活動の中では見えませんよね。

田部:そりゃ見えんですよ。そんなのはどこも見えないよ。岸本さんがどれだけ悩んだか、とかね。そんなのはもろに見えないじゃないですか。どれだけ悲しんだか、とか。源氏物語の昔から悩み抜いて死ぬのは女ばかりですよ。

小勝:そういうところで、またちょっと下世話な話ですが、つまり九州派に所属した女性の方々は、田部さん以外の方は(メンバーの)男性画家とパートナーになって、結局破綻された方が多いじゃないですか。

田部:長さんも桜井さんに利用されただけでね。菊畑さんなんかは絶対に自分の家族に指一本触れさせない。ものすごくもてた男ですよ。女の人が床下に入ってくるほどもてた男よ。

小勝:他の九州派の女性画家が、男性画家の稼ぎのない人、しかも浮気な人やとんでもない人とくっついては破綻していたのに対し、田部さんは毅然としてしっかりと、稼ぎの良い素敵な旦那様と……

田部:毅然としてますから。だって男の子2人ですよ。あと旦那でしょう。3人の男にかなうような男はおりませんよ、この世に(笑)。

小勝:夫と子ども2人。なるほど。そのあたりが、田部さんのまずひとつ、自分の人生はきっちりと作り、それとともに作品も創り、という……

田部:だから、割り切ってたって、誰かがいったそうだ。田部さんは公私混同しない、と。九州派は九州派。自分の家族は家族、と分けとったって、誰かが言ったと聞きましたよ。

小勝: くっついたり離れたりしている人が多い中で、田部さんは自分の家庭は家庭で大切に……

田部:興味ないですもん。私はね、20代のころから絵描きと自衛隊と銀行員とは結婚しないと決めてました。絵描きなんかと結婚したら、最悪よ。絵描きは貧乏だし、いやらしいし。頭は馬鹿だし。銀行員も同じくらい馬鹿ですからね。自衛隊は、戦争反対だから。銀行員は、けちでお金を奥さんにくれないのよ。用心しときーよ。だからこの3種類とは結婚しないと決めとった。

小勝:それで若いうちからちゃんとした方と結婚なさって。九州派が始まる頃から……

田部:そう。だれが一番私のために尽くしてくれるか、ちゃんと見ますよ。

小勝:それでありながら作品はエロティックなところとかもありますね。ですから人生ではなく作品にエロスを発散していたわけですか。

田部:いや、そんなことはないけどね、うちの亭主がやはりそういう、上手なんじゃないですか(笑)。開化させていくというか。性的に、成熟させていく。

小勝:それは、最後に素晴らしいおのろけを頂きました。

田部:そうですね。最後におのろけ。今は耳が聞こえないから、全然話されないんだけどね。

小勝:でも、すごい大病なさったのを看病されて……

田部:私が助けたからね、もうこれで終わりですよ。

小勝:2年くらい前でしたっけ。

田部:2007年ですから。

小勝:もう3年前ですか。

田部:あれはすごかったね。医者の力が。もちろん本人の生きる遺伝子もありますよね。本人の遺伝子と医者と家族の力。三位一体で助かったの。先生が「だいたいこの状態だったら、みんなずるずるっと死にます。でも今田部さんは頑張ってるんですよ」っていうんです。それを聞いて、また息子が感動してから「じゃあ助けんといかん」といってね。みんなで一生懸命に。私も朝も昼も晩も通いましたからね。《健康作品》を拝みながら。いや、ベッドの所に東向きに掛けてるのよ。

中嶋:今年のオーラル・ヒストリー・アーカイブのテーマの1つが、地方の前衛というものでもあったんですね。東京の前衛集団だけではなく、九州派とか色々な地域でおきた同時代的な活動について伺っているんですけれども。これは愚問になるかもしれませんが、今振り返られて田部さんにとって九州というものにはどのような意味があったとお思いになりますか。

田部:両親が九州生まれだしね。まだお墓もあるしね。浮羽高校がやっぱり好きですね。もう無くなったんですよ。変な名前に変わってるのよね。

小勝:合併されたんですか。

田部:いや、合併かなにか、ぜんぜん違う名前になって。それから吉井町の豊かさ。柿がおいしいしね、葡萄が美味しいし。豊かな所ではありますよ。ただスピード感がないね。

中嶋:変化について行かない、ということですか。

田部:そうそう。スピード感がないから、私に付いてこられないかな。だから「ノンセクション」の連中もね、このスピード感に付いてこられないからね、新しい人もどんどん増えていますけどね。私は厳しいから、辞めていく人もいますよ。10年もいてノンセクションという運動を10年続けてきても、辞めて二科に出したりするのよ。もう絶望ですよね。

小勝:ノンセクションというグループですか。

田部:どこにも属さないというのを、市美術連盟の中に作ったんです。私が初代理事長になるときの約束です。ノンセクション。

小勝:それは何年頃ですか。

田部:2005年に作ったの。初代理事長に私がなったんですよ、色々な事情で。選挙ですけど。とにかく作品勝負だ、と。あくまでも。そういうモチベーションがなくなってるのね、いまは。だからノンセクションだけがなんとか生き延びているというか。

小勝:これは福岡市の美術連盟の中で……

田部:なんか県展なんかのミニ集団みたいになって、もうすっごい保守的になってるよ。

小勝:そのノンセクションが、ですか。

田部:いや、ノンセクションだけは違う。

小勝:福岡市の美術連盟が、ということですか。

田部:連盟が、全然ダメですよもう、絵も。絵も彫刻も全部ダメ。だから、そのダメさ加減がわからないのかな、と思うんだけど。

中嶋:やはりノンセクションということは、どこにも属さない作家であることが……

田部:だから公募展なんかに出したら首ですよ、今でも。

中嶋:九州派みたいだ。

田部:九州派でなくて、男性の審査員に出すなっていってるの。

小勝:それは九州女流…

田部:九州女流画家展だけれども、とにかく公募展反対は貫いてますよ。公募展に出している人とつきあわないもの、私。これが前衛です。だから、ずっと20代から私を見てきた人がこの前亡くなったんですけれど、残念ながら。「田部さんの好きなところは、ぶれないところだ」っていうんですよ。ぶれが全然ないと。最初から一貫して、20代から。「いいえぶれますよ、私はお金に直ぐぶれます」っていうんですけどね。そんなことはないっていうの。ずっと支持してくれたんですけど、この前急に亡くなっちゃったんです。その奥さんは韓国の人で、奥さんとはまだ交流がありますけどね。絶対にぶれないという所は貫かないとね、やっとられないですよね。

中嶋:女性についての評価も年々変わっていますし、色々とアップダウンがあって、良くなり続けているというわけではないですけれども。

田部:悪くなってるよ。

中嶋:一貫して九州派に関わられていた頃から、自分の表現に女性性についてのメッセージを込めながら発表し続けられてきたということが、私が田部さんに関して凄いと思う部分です。

田部:そう、これが前衛で、ただ一つ民族独立についての考察だけは、もう私には出来ないです。だからそれを次世代の人にしてもらいたい。民族独立の悲劇。これをどうにかして下さい、っていいたくなるのよね。若い世代が。だから、いつまでもこんな黒いの(注:ブルカ、イスラム女性の被り物)を被っいるな、と。女自体が立ち上がらんといかんじゃないですか。この前マラソンにも出てましたよ、あれをはめて。馬鹿たれって思った。イスラムのベールよ。あんなもん被ってから、マラソン走れるもんですかね、暑くて。

小勝:でも被ってても出てくるだけ、まだ偉いと思いますけどね。

田部:ええ、その人はね。

小勝:何か他に聞いておきたいことはありますか。

田部:なんか役に立ったんですかね。

小勝:いや、すばらしいですよ。さっきの「絶望を知らない者に芸術は出来ない」とか、素晴らしいお言葉でした。アディロンダックでなさっていた「非芸術で遊ぼう」という講演にも、私は非常に感銘を受けました。

田部:このハースト教授とのインタビューはね、作り上げたんですけどね、英訳して送ってそれに対して回答を書いたんですよ。通訳を頼んだんだけど、勝手なことをいい出したからやめたの。自分の意見やらをいい出したのよ。「後で質問を送りますから、それについて英語で回答して下さい」といことで、こういうことになったの。

小勝:田部さんの芸術の特徴というと色々な事があると思いますが、ここで語っていらっしゃる中で、「芸術は深刻で深い悲しみを表現する暗いものだという考えを否定します」と。

田部:否定しますよ。

小勝:それで、「弱いものへの思いやりや、心の豊かさが芸術の力である」と。

田部:うん。松岡正剛が書いてますよ、「フラジャイルなものにしかエネルギーはない」と。

小勝:松岡正剛の言葉なんですか。岸本清子さんも亡くなる前に松岡正剛を読んで、80年代に対談とかして、傾倒していたようですけれども。

田部:やはりあの人は凄いですよ。女とか男とかじゃなくてね、弱者というか、弱者の中にしかエネルギーがないのよ。だけど、あまりにもなくなると、エネルギーもでてこない。北朝鮮みたいに。食べるものもないようになる前に何とかしないと。国家権力の恐ろしさはね、考えておかないとだめですよ。赤紙一枚で、大事な命だろうが何だろうが取ってってしまいますからね。そこは戦っていかんといかん。それはジェンダーとかウーマン・リブではなくて、もっと枠を広げて。だいたいね、フェミニズムっていうのは全てを受け入れていくということが、フェミニズムの基本だったんですよ。保坂和志によれば。だからその精神が、今は反対する人は排除していこうという方向に変わったところで、ダメになっちゃったんですね。

小勝:変わってはいないと思うんですけれどね。

田部:小勝さんは、ないんです。最初から。だから私も尊敬するの。若桑みどりはダメなのよ。そればっかりで成り立ってるんだから。

小勝:好き嫌いというのは、ちょっとあるかもしれないですね。

北原:福岡は、リブや女性の運動がわりと強かったと思うんですけれど、そういう人たちとは関係がおありだったんですか。

田部:衆議院とか、たくさん立った事がありましたよね。社会党とか。ああいう元気があったんですけどね。今はものすごく保守的。

北原:田部さんは、女性の運動とは関係があったんですか。

田部:いえ、全然ないです。でも民主党の藤田一枝は支持しています。

北原:いや、70年代とか、昔は。

田部:特別そういうものには…… 自分がやってるからね。あまり人と連携する気持ちはないのね、自分中心主義っていうか。

北原:そういう女性の運動から呼ばれたりすることはありませんでしたか。

田部:あんまり無いですよ。野口(郁子)さんが館長の頃は、アミカスでいろいろとやりましたけどね。それ以外の所ではないですね。

北原:それから家事育児という生活とアート活動を分けていたと仰いましたが、すごく時間がかかりますよね。外にも出て行かないといけないし。

田部:だからそれは連携ですね、それこそ。夫との。幸いに子どもも寝たら3時間くらいは寝ますからね、岩田屋の休憩所にぱっと渡してね、そして私は色んな所に出ていったりして、終わったらぱっと取りに来て、まだ寝てるから。そして連れて急行電車で家に帰って。という風な連携プレーは上手くいってました。

北原:旦那様は、映画の仕事でこういうビジュアルがあるよ、というように、制作活動をサポートして下さっていたんですか。例えば、こういうことを今の制作で考えているんだというような会話がご夫婦の間であったのでしょうか。

田部:いや、全然無いね。今でもないよ。見せんもん、絵は。あんたたちはね、私の絵は鑑定できないよっていってるの。見せたら文句いうからね、見せない。腹が立つから。

中嶋:そこは自分の世界。

田部:そうですね。長男は興味があって、適切なことばが返ってくるからね。「林檎作ったんだってね、ラベルも作らんね」とかいうんですよ。私はラベルをスーパーから盗んできて貼ってるんだけど。「自分のラベルを作らな」とかそういう適切なことばがぱんぱん返ってくるから、帰ってきたらすぐに絵を見せる。わからん人には見せない。なんだろね。単なるわがままかもしれないですよ。

北原:先程台湾について、自分の故郷が失われてしまったということをおっしゃいましたよね。その喪失感というもの、家族が居たわけですよね。やはり孤独感というか、喪失感がずっとベースにあるんですか、田部さんの作品の場合。

田部:あると思いますね。喪失感とかね、命名するとまた違和感がでるんですよ。要するに「名づけ得ぬもの」よ。もうなにもかも名づけ得ぬもの。

北原:今から台湾のことを思い出したら、どんなイメージなんですか。少女の頃は食べ物がふんだんにあって、食べ物も美味しかったと仰っていましたよね。お腹を空かせたことは一度もなかったと。そういうカラフルな、豊かな島のイメージですか。

田部:それが、こんな絵になって出てきてると思うんですよね。だからといって、今行こうという気はないの。

中嶋:もう、それは無いんですか。

田部:もう終わったことだから。終わったことは、言いたくないのよ、実は、あんまり。過去を振り返るというのは嫌いなのよ。

中嶋:そこを何とか。色々と聞いておかないとなりませんので。

田部:だから、ちゃんと伝えたよ。植民地の、民族独立運動はなぜ全部失敗しているのかということを考えるのは、あなたのお仕事です。これをいうだけのために、昨日と今日と会ったの。

中嶋:それが目的だったんですね。植民地の民族独立運動ですね。

田部:民族独立っていうのは、どこかから支配されているから民族独立の運動が起きるんだけど、それが全部失敗しているでしょう。

中嶋:それは田部さんの台湾での経験とも関係がありますか。

田部:台湾の人も民族独立運動をしてたけれども、何人かの青年が銃殺されているもんね。最初に。後藤新平も見事な統治をしましたけどね、最初には見せしめで殺してますよ、青年を。それでまず脅しておいて、それからきちっと台湾の人の為になるような統治をしたんですよ、一応。だから台湾の方は、日本のほうが良かったっていっているくらい、一時期。

中嶋:それはいつ頃のお話しですか。

田部:それはこっちに聞いて。

張:それは親から聞いた話しですか、それとも台湾にいた時にそういうような感じがしていたのですか。

田部:それはだから昨日いったように、現地の人との接触が無いから分からないんですよね。

張:先程ありました「日本人だけれど台湾生まれ」ということばに私は引っかかっているんですが、政治的な意識は含まれていないかもしれませんが。

田部:一つの差別用語だった。

張:いや、でも、その時代では、ご自身はどのように周りの人に台湾生まれのことを語っておられたんですか。

田部:私は引き揚げ者だということをプライドにしていますよ。「あんた達とは違うとよ、私は引き揚げ者よ」っていつもいうよ。「引き揚げて来た人よ、違和感あるくさ」っていうんだもん。

小勝:逆に引き揚げ者への風当たりというか冷たさというようなものはあったんですか。

田部:あるといえばあったね。修学旅行とか、引き揚げ者ばっかりで一つの部屋に押し込んだり。

一同:え〜。そんなことがあったんですか。

田部:そう。それでみんなでわんわん一晩中泣いとった。

小勝:それは浮羽高校で、ですか。

田部:あれはまだ学制改革が無かったから、浮羽高等女学校やろうね。中学だったから。だから私は二度と修学旅行へは行かんって決めたの。

中嶋:それはなんでその人達だけが同じ部屋にさせられたんですか。

田部:それは知らないよ。先生がしたんでしょう。

北原:先生の態度も、引き揚げ者の子どもに対しては冷たかったんですか。

田部:だけど私はね、その先生は別だけれど、引き揚げて来たときに浮羽町にいたコレクターの金子文夫さんのクラスに編入したんですよ。そうしたら4月に来て、秋の文化祭に私が主役ででたの。だからあの先生にはね、私は非常にかわいがってもらったと思ってるの。だから恩返しに、同窓生に呼びかけて彼の何十万点に及ぶガラクタのコレクションだけど、資料館をつくってあげたんですよ。(注:浮羽郡吉井町立金子文夫資料館)
 彼も同窓会に来てね、田部さんが呼びかけてくれて資料館が出来たことを感謝しますってちゃんといってくれましたよ。95才まで生きたの。瀬木(慎一)さんも連れて行ったの。瀬木慎一先生、鑑定しなさいって。

小勝:今もあるんですか、その資料館は。

田部:あります。吉井町に。それで金子先生が、これは一億だなんだって勢いでいうから、鑑定してもらったのよ瀬木先生に。そうしたら、「これは明治の何とかで、一万の価値もない」って選り分けてね。その代わり、48枚揃っている風俗画があるんですよ。これは今なら2,000万円で売ってやるって瀬木さんがいったの。とにかく金子先生は絶対に売らない人なのよ。時々電話があったけれど、「あの話はどうかね」っていうから、「先生、瀬木さんも偉い人やけんね、売るか売らんかわからん時にいわれんのよ。売るって決まったらすぐに電話してやるけん」っていったら、かかってこなかったの。この前息子さんがね、瀬木さんに逢いたいっていうから仲をとって。私は絶対に仲介しないのよ、面倒くさいから。直接行きなさいってしたら、今は200万だった。2,000万が200万になってるの。彼も売らない人になってます。

張:引き揚げ者としての誇りを持っているとおっしゃったんですが、帰ってきてから学校などのことなど、社会的な違う眼差しが……

田部:そりゃ貧乏っていうところだけでね、他は負けんですよ。

小勝:それどころか英語は逆に、教育が良かったっていいますよね。

田部:そうそう。100点とってた。

張:それはまた60年代に入って、その時代の雰囲気は、また引き揚げ者…… 

田部:だんだんとね、引き揚げ者住宅っていうのが町に出来たんですよね。母にあそこに入ったら良いんじゃないっていったらね、「そういうところに入ったら、もう何代にもわたって差別される」っていうんですよ。あの人は見識が高いんですよ。絶対に入らない。そういう色分けを拒絶するっていうのは、偉いと思うよ。その時その時の利益で動いていると、大変な事になっちゃうから。

小勝:お母さんの実家にいらしたんでしたか。

田部:うん。シナリオで成功した布施博一もね、『純ちゃんの応援歌』で成功したんだけどね。田主丸とその辺に引き揚げて来た人はね、みんな冷遇されてるの、親戚から。彼なんか一年間学校に行ってないんだから。お父さんが引き揚げて来て、烈火の如く怒ったって。だからあの人は私達の一年上なんですよ。吉井町の人だけは、昔から豊かな所だから、吉井町に引き揚げて来た人たちは全然差別されてないわけ。「みんな助け合っていかんといかんよ」っていってね。

中嶋:地域によって違うんですね。

田部:違うんですよ。貧乏地域はやっぱりね、1人でも余分が入ってきたら排除しようとするでしょう。

小勝:分ける牌が少ないとね。

中嶋:そうすると故郷は無いし、今居るところでも……

田部:住めば都と思うけどね。なんか、ここで死にたくないという気持ちは、どこでもあるね。

小勝:気持ち的にコスモポリタンなんでしょうね。

田部:そうでしょうね。根っからのコスモポリタンになっちゃったのね。どこでもいいっていうかんじ。だから私は斎藤義重が好きよ。98才までうろうろとイタリアまで1人で行ったりして。どっかに1人で行って、田中幸人が斎藤義重展を企画してたでしょう。帰ってきてから、自分が並べる図面を作るっていったんだって。驚くべきエネルギーですよ。じゃ、帰ってきてからねっていって田中幸人がヨーロッパに行ったら亡くなっちゃったの。私が、斎藤義重展(「斎藤義重展−97歳、そのすべてが前衛だった。」展、熊本市現代美術館、2004年2月−3月)のオープンに行ってね。それはそれは南嶌さんのすばらしい会場演出でした。それですぐ幸人さんのところに急いで行ったのよ。九大に入院してたの。どうだったっていうから、もう素晴らしい展覧会だったよっていったの。そうしたら「あぁ、そうね。よかった」っていったの。それが最後やったね。幸人さんと話したのは。

中嶋:今後はどのような活動をされたいとお考えでしょうか。

田部:今後はですね、ニューヨークとかドイツとかでばんばんと個展をやりたいけど、するところが無いから。

中嶋:それも探さなければならないですね。

田部:自分で売り込むのが出来ないんですよ、意外と。(向こうから)言ってきたのは全部受ける。だから、福井でも大阪でも。言ってきたのは全部こなしますけど。

中嶋:このインタビューも含め、小勝さんの今までのお仕事ですとか、由本みどりさんのインタビューとか色々ありますから、田部さんの作品への評価は高まると思います。

田部:もう、小勝さんのお陰ですよ。

小勝:いえいえ、とんでもない。

田部:小勝さんがついてきたからインタビューも受けたのよ、悪いけど。ごめんなさい。

中嶋:いえいえ、ありがたいと思っています。

小勝:英文がどんどん出ますので、来年早々。不肖、私の下手な文章ですが、由本みどりさんが素晴らしい英語に翻訳して下さったものと、由本さんご自身のインタビューと、続けて出ますので。(注:Reiko Kokatsu ,“Mitsuko Tabe: Beyond Kyûshû-ha”, n.paradoxa, Volume 27: Women’s Work, January 2011、及び、Midori Yoshimoto, "Tabe Mitsuko Interview" in Yoshimoto and Reiko Tomii eds., “Collectivism and Its Repercussions in 20th-Century Japanese Art,” a forthcoming issue, Positions: East Asia Cultures Critique , Durham, N.C.: Duke University Press))

田部:反応がありますかね。

小勝:きっとアメリカとか英語圏からの引き合いがあると思います。

田部:あればすごいけど。あったら百万でも出しますよ。

中嶋:そうしたら、これからの展開が……

田部:出来るか出来んかね。風任せよ。どうでもいいっていうかんじ。

小勝:こちらはどこで発表されるんですか。(注:アトリエにある新作を指して)

田部:これでしょう。これはヴェネチア・ビエンナーレもんなのよね。これを全部貼ってね、上から下まで。中に映像を一つ入れたらね、ヴェネチア・ビエンナーレもんよ、って南嶌君がいったからさ。これ、縦なんですけどね。うまく成功しなかったんですけど、これは何とかしないといけないの。縦にして、これだけではダメだから、線をひかなくちゃ。この線をひかないとみんな眩暈がして倒れちゃうのね。後ろの絵もね。だから線を引くことによって眩暈から解放されてるの。その線がまた難しいのよ。

小勝:こちらのこの感じが、こうなってるんですか。

田部:いえいえ、だからこれを更に進んで。この上にはもう線だけしか引かない、とかね。

小勝:林檎の木の葉っぱの感じですか。

田部:いや、そういうのも全部卒業っていうか……

小勝:あちらの小さい作品とこう、似てますよね。

田部:そう、だいたいこういう、光だけの

小勝:これは大阪の(個展に出品された)……

田部:うん、これはこれですもんね。これじゃね、まだだめなの。余分なものが多すぎる。

小勝:そうですねっていったら何ですが、もっと少ない方がいいですね。

田部:私はね、これじゃ、メアリー・ブーンとかさ、そういうのをいつも頭に入れてるの。

小勝:これは、なんか本当に素晴らしくなりそうな。

田部:これは何とかならないといけないんだけどね。いままで考えんで作ってきたからね、考える力がなくなってるんですよ。

小勝:いえいえ、やはり直観で。

田部:何年かかるか分からないね。

北原:作られるときはこれ全体の構成を作られるんですか。それとも部分部分で増殖していく感じですか。

田部:ほとんど無意識でやってきているからね、それが今こたえてんのよ。最新作はこれですけどね、《デュシャンのパイプ》。また、多すぎるでしょう。なんか俗っぽいところが多いから、私。通俗人間で。

小勝:教養がありすぎるんじゃないですか。

田部:教養が無いから困るの。ミーちゃんハーちゃんなの。ミーちゃんハーちゃんしかね、小説は書けないのよ。頭のいい人は書けないの。肝心の、これこれ(文芸雑誌『ガランス』17号、2010年、田部氏の小説、ミツコ田部「肝心の「家」」掲載)。これを誰か(に差し上げます)。

小勝:私はいただいています。

中嶋:私も見せてください。

田部:これは、ここの編集長にね、これはようできたって褒められた。

中嶋:では、今日はもっと本当は伺いたいことが沢山あったんですが、そろそろ時間になってしまいますので、お開きとさせていただきたいと思います。2日間も有り難うございました。