文字サイズ : < <  
 

高崎元尚オーラルヒストリー 2012年12月28日

高崎氏自宅(高知県高知市)にて
インタヴュアー:中嶋泉、池上裕子
書き起こし:加藤順子
公開日:2016年7月10日
 

高崎元尚(たかさき・もとなお 1923年~2017年)
美術家高知県出身。早稲田大学専門部工科在学時にモダンアートに出会い、東京美術学校(現・東京芸術大学)で彫刻を学ぶ。戦後、文部省職員や自衛隊を経て郷里の高知に戻り、土佐高等学校で美術教員を務めながらモダンアート協会(1951-1957年)や地域の前衛美術運動「前衛土佐派」で作品を発表し、高知の前衛美術運動を牽引してきた。1952年モダンアート展協会賞受賞。1966年にジャパン・アート・フェスティバルに出品し、同年より具体美術協会に参加する(1966-1972年)。1996年に高知県文化賞を受賞。
 今回のインタヴューでは、高知での生活や戦中の体験、戦後の日本の前衛芸術の展開について当事者の立場から詳しく聞いた。ご自身の芸術については、土佐派の活動、代表作《装置》の制作経緯や具体との関わり合い、近年の前衛芸術の見直しへの見解など語っていただいた。

中嶋:本日は宜しくお願いします。まず、1923年に高知で生まれていらっしゃいますが、高知のどの辺りでしょうか。

高崎:高知のずっと山の奥の、山のずーっと高い所でね。だから高崎という名前がついてる。

中嶋:ああ、そうなんですか。

高崎:昔はね、平民は姓がなかったでしょう。だから僕たちの先祖はどこか向こうから、平家の落人みたいな形で山の上に昇って逃げたと思うんですよ。それから、明治時代、徳川末期かな、下からほら、山の下からだんだん開拓してね、開拓民が上がってきてね、それでこう一緒になった。こうして。

中嶋:では長い間、その高知にいらした家系。

高崎:そうですね。だから山の上に小さなお城があったりしてね。今はもう山になっちゃった、みな。だけどその、下から上がってきた侍が指揮して、山を開拓したでしょう。そこでこう、その人たちと一緒になったのが、僕のひいじいさんぐらいの時代でしょうね。だから僕は山の上で生まれたんだけど、足が悪かったんよ。

中嶋:足は生まれつきですか。

高崎:うん、股関節。脱臼でね。それで歩くのが遅いわけですよ。

中嶋:登るのが大変ですね。

高崎:それで、親父がそれを見とったんですよね。百姓してたらね、足が悪いってことは、要するに一人前じゃないわけよ。だから勉強でもさせようかと思って、土佐中学校に入れてくれた。

中嶋:ではご家族は農家。

高崎:農家ですわ。

中嶋:作物はどのような物を作っておられたんですか。

高崎:米ですね。

中嶋:お米なんですね。

高崎:それで、ずっとこう段々畑で山の上までこう、横から小さな水道でずっと水をひっぱってきて、そこから下を開墾するわけでしょう。で、次の侍が百姓を連れてきて、もう一段高い所に水を引っ張ってくるわけ。そこの間がまた棚田、田圃になるのね。その3番目、つまり一番上の所に僕が生まれたわけ。だから高崎という名前が明治時代についたと思うんだけど。

中嶋:明治なんですね。そう伺うと、割とその裕福なご家庭だったように…… 

高崎:裕福じゃないね。その最後に来た侍の家(うち)はね、一応武士なんですよ。百姓を一杯引き連れて上がってくるわけだから。だけどそこへまぁ、うちのじいさん、ひいじいさんが従兄みたいになって。初めはその人は良かったよね。今はもう落ちぶれ果ててますけどね。立派な真っ白い蔵があって、山の上にね。下から見たらすごいお城みたいに見えるんだ。立て直しなんて出来ない、もう、こんどはみんな山から下りる時代が来たわけだからね。

中嶋:それで今は降りていらっしゃる。

高崎:僕が一番先に降りた(笑)。

中嶋:なるほど(笑)。学校に行かれるわけですよね。ご兄弟はいらっしゃいましたか。

高崎:弟と妹が、3人おりますね。

中嶋:3人もいらっしゃるんですか。

高崎:ええ。

中嶋:じゃ、妹さんたちは学校には行かれなかった…… 

高崎:まあ、普通の、普通の女学校へね。僕は特殊な少人数の土佐中学校っていうところへ。いまは土佐高っていうんだけど。それはね、秀才教育。30人しか生徒がいないんでね、1学年が。そこへ入れたわけよ。

中嶋:何か試験があるんですか。

高崎:うん。

中嶋:優秀でいらしたんですね。

高崎:町、高知ではね。ところが灘高なんかに行くと相手にならない、ぜんぜん。人口が違うからね。

中嶋:でも、高知では進学校。

高崎:だったの。でも、戦争中に焼けてね。焼けて。それでこれを潰すか再興するかということで、大いにもめてね。教頭が再興するっていうことになって、再興した。海軍の軍隊のいろんな建物を廃材を貰ってきて、掘っ建て小屋を建ててね、始めた。それで2代、3代、今は3代目かな。今が一番立派な建物になってる。

中嶋:あれですよね、(来る時にみた)土佐高等学校ですよね。

高崎:人数もほら、お金集めなきゃいかんからね、人数もたくさんおって。昔は30人だったけれども、今は300人。一学年300人。

中嶋:それは高校のような教育なわけですよね。

高崎:うん。

中嶋:どんなことをお勉強されたんですか。

高崎:いやそれはね、まぁ秀才だってもう世間の人は言うわけだけれど、僕は一番駄目なんだよ。田舎はね複式学級というものがあってね。

中嶋:複式学級。

高崎:ええ。5年生と6年生はね、1人の先生に教わるわけね。田舎いったらそうです、人数少ないからね。

中嶋:なるほど。

高崎:それでぜんぜん町の人と違うわけでね。これは、出来ないのはぜんぜん出来ないなと思って。それでなんか特徴がなくちゃいけないなと思った。もう普通の勉強したって駄目なんですよ。国語なんてみんなね、論語、孟子なんていうのやってるわけだから。僕は田舎から出てきて、もう今からやってもぜんぜん追いつかない。だからなんか教科がないかなと思って待ちよったらね、2年目に幾何学っていうのがでてきたわけ。数学の幾何がね。それでこれだって思ってね。これは昔からみんなやってないから、最初から始まるんだから俺は頑張ろうと思って、全部の教科書じゃなくって参考書をね、幾何の参考書を全部マスターして、他のものはやらない、と。こればっかしっていう。それでトップになっちゃったんだけど。幾何だけがね。

中嶋:すごいですね。

高崎:幾何だけがトップになるとね、代数もね、だいたい出来るようになって。数学だけでもってた、僕は。あとはもうぜんぶ駄目。体育が一番駄目。

中嶋:ああ、足が。

高崎:足が悪いからね。高飛びなんかできないんだよ。こう跨いで歩くぐらいの。それでいろいろ考えて、親父はまあ、軍人にしたかったけど、できない、なれないわけだよね。だから、こいつはどうにもと思うけどね。

中嶋:土佐高校はやっぱり、軍人になる方が多かったんですか。

高崎:そうじゃない。学者とか、官僚ですね、昔のね。それを目指したわけですけど、学校としては。それで、一番の生徒はね、必ずもう第一高等学校(旧制一高)に行って、そこから東大に行く。で、他の連中は、高知の高等学校行って、京都大学か東京大学か、どっちかに行くと。東京の大学に落ちたものは東北大へ行くと、そういう風に決まってたわけ。

中嶋:なるほど。

高崎:で、一番駄目なのはね、駄目だって事はないけど、まあ家(うち)が貧しいとかねいろいろな人は、一部専門学校に行くということになっていたわけよ。仕事のことを将来考えたらね、僕も軍人になりたかったけど、駄目。まあ役人になったとしても体力がないから、あんまり成功しないだろうと思ってね。なんか僕に出来る事ないかと思ったらね、モンドリアンが出てきたわけ。

中嶋:どこで出てきたんですか。

高崎:数学。

池上:数学との関連ですか。

高崎:ええ、数学の幾何学のほうね。こんな事なら俺も出来るかもと思って。

中嶋:幾何学を勉強しながら、モンドリアンをどこかでお知りになった。

高崎:いや、その前にね、早稲田へ入った。

中嶋:高校で幾何学をやって…… 

高崎:戦争中だからね、特別にその技術者が必要だっていうんでね、高等専門学校がずらーっと出来たんですよ。

中嶋:ああ、なるほど。

高崎:昭和14年にね。その時、早稲田はね、理工学部があったけれど、別に専門部を作った。

池上:そういうことなんですね。

高崎:それから、専門、高等専門学校が全国に出来てね。それから医学部もね。東大とか京大も、昔からある医学の、専門コースを作ったんですよ。医校といって、特別に早く医者をつくるっていう。早稲田は工学部の専門部を作った。

中嶋:工学部。

高崎:工学部っていうのはね、専門部工科っていうんだよね。

池上:そうですね、工科。

高崎:で、建築ならね、その中で一番楽な仕事かも知らんと思ってね。どうせみんな兵隊に行くんだから、早く建築士になってね、設計図作ったりいろいろね。そういうのがあるから楽かなと思って行ったら、楽じゃないんだよね。

中嶋:楽そうではないですよね。

高崎:それがものすごいきついわけよ。で、成績良かったからね…… 

中嶋:良かったんですか。

高崎:満点、試験が全部。

中嶋:やっぱり、土佐中学の教育がすごい。

高崎:非常に楽だったよ。教育のお陰でね。

中嶋:その幾何学とか、そういう数学の勉強をなさりながら、昭和14年に早稲田の専門学校に入った。

高崎:入った。一番で入ったよ。

中嶋:すごいですね。

池上:すごい。

高崎:それでね、級長、クラスの委員長になったわけよ。そうしたら雑用がいっぱいあるでしょう。みんな野球ばっかしやるんだよ。

中嶋:野球?

高崎:野球をやったことのない自分がマネージャーになってね、クラスの世話をしなきゃいけないんで、応援団で行かなきゃいけない。それから一番酷かったのは、習志野の演習場があるわけよ。今は、習志野は自衛隊がおるかな。そこで一週間、教練があったんですよ、昔は。

中嶋:教練とは…… 

高崎:兵隊になる準備。だけれども土佐中学校の時は、それは遊山みたいなものでね。山行って、鉄砲担いで山に登って、暢気に遊んで帰ってくる。そういう状態だったわけなんだけれども、後がすごい。それ一週間、いっぺんだけね、土佐中学ではあったわけよ。これはもう、散歩するみたいなもんでね、楽なもんだったけど。早稲田はね、その敷地がない関係もあるけど、習志野で1週間、1年分をね、1年分のカリキュラムを1週間で終わる。僕は小隊長になっちゃってね…… 

中嶋:小隊長。

高崎:うん。ほんで、それでも小隊長が一番後ろのほう走ってやっとこさついていく状態で。これは駄目だと思ったわけよ。

中嶋:どんなことをなさるんですか、教練っていうのは。

高崎:兵隊ごっこよ。匍匐前進とか「突撃!」とかね。

中嶋:武器も持つんですか。

高崎:鉄砲だけだけどね。それでね、考えたんだよ。この1年間は、考える時間にしたわけよ。それで、まぁ辞めよう、と、これは。いずれにしても、もうそういう、建築家で偉い人がいっぱいおった、早稲田は。東京タワー造った人とかね(注:内藤多仲)、早稲田の講堂を造った人とかね(注:佐藤功一)。長崎のなんとか…… なんとか聖人の教会とか(注:日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会)。 

中嶋:長崎。

高崎:今は有名な観光地になってる。あそこにガウディのような建物を作った人がいたの、有名な人よ(注:今井兼次)。それはもう、ずいぶんいたけど、僕はもうついて行けない、と。ほんで、美術学校というのが浮かんできたわけよ。

中嶋:建築の仕事は、あんまりもう…… 

高崎:建築は面白いけどね、バウハウスがあるから。早稲田の連中は非常に新しいことをやるからね。

中嶋:そのことについてちょっとおうかがいしたいんですけども。早稲田の建築で、バウハウスの勉強をしたということですか。

高崎:名前は忘れたけど、製図の先生はね、まだ若かったけれども、その長崎の、舟越(保武)さんの彫刻がこう、ずらーっと並んでる有名なところがあるわ。それの、教会塔やわね。それをガウディ式のね、一部やけどね。ガウディ方式を取り込んで、有名になった人がおるんです。

中嶋: 今井兼次さん。

高崎:そうそう、今井兼次。今井兼次がね、その製図をしてるわけですよ。それで一番最初に製図法を教わってね、それがバウハウスっていうんですよ。

池上:製図がバウハウスなんですか。

高崎:バウハウスをね、デザイン化しなさい。立体化してね、文字を。製図式にね描くわけ。

中嶋:バウハウスっていう文字を、製図化しろっていう。

池上:そういう課題なんですね。

高崎:そうそう、だから僕はぜんぜん知らないから、バウハウスってなんだっていうんでね。一生懸命調べてね。

中嶋:なるほど、そういう時。

高崎:その時初めて、現代美術っていうのをやった。

中嶋:バウハウスのことはどういう風に、調べる物はありましたか。

高崎:戦争中はね全部それは、軍隊がもう没にしてしまってね。だから神田の古本屋に行って捜すより仕方なかった。

中嶋:やっぱりみなさん古本屋で捜すんですね。で、バウハウス関連の書籍をみつけて…… 

高崎:そうそう、それからロシア・アヴァンギャルドとかね。

中嶋:なるほど。

高崎:そういうことをやって、次の年に学校を退学して、今度美術学校へ入る準備をした。川端画学校っていうところね。

中嶋:川端画学校って、有名な美術の画塾ですよね。

高崎:その頃受験校だったわけ、美大のね。

中嶋:川端画学校っていうのは…… 

高崎:本郷、本郷にありました。

中嶋:どういうことをなさるところ…… 

高崎:デッサンですよ、結局。石膏デッサン。

中嶋:先生はどんな方がいらっしゃるんですか。

高崎:覚えてないね。

中嶋:じゃあそれほど印象に残る人はいなかった。

高崎:そう。

中嶋:バウハウスのことを建築科のほうで勉強して、それでその川端画学校で
デッサンをするっていう、ちょっと矛盾を感じたりとかありませんでしたか。

高崎:いや、辞めたからね、早稲田は。

中嶋:そうですね。

高崎:1年で辞めて。それからとにかく1年間、その美術学校に行くための予備校へ行って。

池上:美術学校に行きたいと思われたきっかけというのは。

高崎:だから、他に何にも出来ないわけよ。

池上:でも製図とか、その描くのがお得意だったから…… 

高崎:得意じゃないね。

池上:早稲田の建築から美大を目指すっていうという、その流れを、もう少しよく知りたいです。

高崎:いやいや、それはある。図画が上手かったわけじゃないんだけど、中学校の上級生になると、透視図っていうのがあってね。それが高橋(正人)さんっていって。ビジュアル…… これも(学校の)名前忘れた(注:ヴィジュアルデザイン研究所。高橋正人は創立者兼所長)。要するに戦後の3つのデザイン学校っていったら、千葉、それから……桑沢。それからその、高橋先生が卒業した、教育大(現:筑波大学)の教授だった人が開いた学校。名前を忘れてしまって、申し訳ない。隣が女子師範学校だったからね、彼が講師になって、(自分の学校にも)教えに来るわけよ。貫通体とかね。こんな立方体をほら、立方体を貫いた形、そういう物を製図で表すわけよ。2つの目から透図したやつを。そういう図学っていうやつだね。それを高橋先生に教わった。それがむしろ、幾何と関係あるわけよ。それは割と得意だったからね。それで建築っていうことになったわけだ。高橋さんも有名だったけどね。上手かった。天皇陛下の前で絵を描いたりした人だけど。

池上:それで建築科でバウハウスやロシア・アヴァンギャルドのことを、やっぱり面白いと思われて、じゃあ美学校もいいかなっていうふうに思われたんでしょうか。

高崎:面白いということもあるけど、自分にはそれしか出来ないので。それを使って軍隊でいろんな兵舎を造ったりね、船を造ったりしたら面白いかなと思ったけど、それは体力がもたない。だから自分でこつこつ、やる。一人だけでやる。

池上:一人だけで出来る事っていう。

高崎:そういうことになったら、アートっていうことになったわけよ。

中嶋:現代美術がどんなものかっていうのは、他の所でもどこかで観られましたか。展覧会ですとか、あとは…… 

高崎:やっぱりそれはね、戦争が始まっても、多少生き残りの展覧会があったわけですよ。アトリエはもう、ほとんど禁止だらけ。絵の具も配給してくれないし。そういう人たちもみんな、兵隊にとられて活動も弱まってしまったということがあるんだけどね。だから岡本太郎なんかもその一人よ。折角ヨーロッパでかなりやってきたんだけども、帰ったら軍隊で酷い目にあったっていう、ね。

中嶋:岡本太郎さんはご存じでしたか、というか有名でしたか。

高崎:帰って来た時、やっぱり芸大で話しましたね。

中嶋:ああ、そうですか。それは、高崎先生が芸大にいらした時に。

高崎:いた時、うん。

池上:じゃ、話を聞きに行かれた。

高崎:行った。

中嶋:では、芸大では、その美学校ではどんな勉強をなさったんでしょうか。

高崎:なんにもしなかったね。

中嶋:なんにもしない…… 

高崎:出来なかったんだよ。行ってね、彫刻科に入った。

中嶋:そうですよね、彫刻科ですよね。

高崎:だから素材そのものにこう、ぶつかったほうがね、正面づらを描く絵よりも良いんじゃないかと思ってね、行ったわけよ。そしたら、彫刻科入ったらね、粘土が堅いんですよ。それをこう錬って、使えるようにするのがものすごい体力がいるわけ。ほんでろくにやらなかったね。

池上:なるほど。

高崎:だから専ら芸大行って、本をあさって、アヴァンギャルドの研究して。それとモダンジャズを一生懸命聴いてた。新宿の喫茶店でね。

中嶋:その頃、お住まいはどの辺りだったんですか。

高崎:住まいは中野におったね。それから後、美術学校入った時は上野の池之端っていう森鴎外の小説に出てくる、お妾さんがおって、蛇がなんとかっていう、その家が隣にありましたね。

池上:隣だったんですか。

中嶋:そうなんですか。芸大で何にもなさらなかったと言っても、いろいろこう授業とかはあったわけですよね。

高崎:それは、うん、戦争前はね、ほとんど行かなかったね。

中嶋: そうですか。

高崎:戦後、もう学校の授業やらないで、単位だけいっぺんに1年で全部取ってしまったっていうかね。

中嶋:じゃあ、芸大にいらしてる間に戦争が終わったんですね。

高崎:みんな戦争に行った。

中嶋:みんな…… そうですか。

高崎:それから終わってもね、あの、戦争中に大改革があってね、芸大の。梅原(龍三郎)とか…… あとね、もう一人、梅原と並んで安井(曾太郎)。

池上:安井曾太郎、はい。

高崎:その、2人が油絵で、彫刻は…… うーん。名前忘れた。あの、宮本武蔵の挿絵を描いた人。ものすごい、封建的な人ですね(注:石井鶴三)。その人らは、(学生が)彫刻を造って良くできていなかったら、その助手がすごいのよ。棒でこうひっぱたく。彫刻をよ。

池上:彫刻をですか。

高崎:それでぐにゃっとなったらね、「うーん、精神が入っとらんから、こんなんだ」って。

中嶋:精神が入って…… 

高崎:そういう人がおったから、みんなね、暴動を起こしたのよ。彫刻の仲間は。ほんで学校から出てね、あの、えー…… 、誰だ、岩田…岩田健。

中嶋:岩田健。

高崎:美術館の本(注:岩田健母と子のミュージアムのカタログ)送ってきとったがね。(美術館は)しまなみ海道っていう(ところ)のでね。温厚な人でね。でもやっぱりこの人も怒って。

中嶋:同級生でいらっしゃるんですか。

高崎:同級生よ。生き残った唯一の同級生。親父が貴族院議員の議長していた。

池上:それで兵隊にとられなかったんですか。

高崎:とられたの、最後は。最後はとられて。

中嶋:岩田健。建築ミュージアムを造ったんですね。

高崎:これは建築家が造ってくれた、美術館をね(注:伊東豊雄)。彼の作品で埋めたの、全部。

中嶋:そうなんですね。

池上:これはどちらにあるんですか。

高崎:これはあの、大三島(おおみしま)っていうところ。あんまり人の行かないとこやけどね。その、大三島海道っていうのがあるでしょう、橋が繋がって。松山と繋がってる、そこに。彼が廃校になった小学校の庭に、母と子のミュージアム(注:今治市岩田健母と子のミュージアム)を建築家が、作ったわけよ。

中嶋:ずいぶん立派な。

池上:ねえ、綺麗ですね。

高崎:で、この人が一番真面目にやってね。それでこの人も怒って、この人のアトリエ、川口ですけどね。そこでみんな集まって勝手に勉強したわけ。芸大行かないで。

中嶋:もう一度聞きたいんですけれど、梅原さんと安井さんがした大改革っていうのは、軍事的な指導がゆき渡るような改革だったんですか。

高崎:そうよ、それがおかしいんだよね。梅原、安井が出てきたのはね、まあ明治以来ずっとヨーロッパ的であったでしょ、大学の制度が。それを日本人の学校にするんだって、大和魂だって。そういうのが、戦争中の大改革で…… 

池上:梅原、安井の…… 

高崎:だから梅原、安井はね、日本精神を注ぎ込んだ日本の芸術家、ということで出て来たわけ。だからほら、戦争が終わったらそれはぜんぶ変わらないかんと僕らは思っちょったわけよ。ところがその、梅原さんの人気がものすごく良いわけですよ、一般の人にね。

池上:ですよね。

高崎:不思議でしょうがなかったね。女の子が入ってきてね。(芸大に)女の子が入ってくるようになったんです。

中嶋:ああ、戦後ですね。

高崎:そう、戦後ね。女の子がもう、本当にこう梅原さんが来たら、ばーっとこうね、スターが来たみたいにじゃれついてね。

池上:女子生徒にも人気だったんですね。

高崎:人気がある。

池上:戦争が終わって、それまでの軍事的な美術教育というのは、改められたんですか。

高崎:その軍事教育はなくなったわけよね。でも梅原っていうのは、ますますもてはやされた。そのうちに目が病気になって、死ぬる間際にね、まだ自分の作品が一番良いと信じているからね、全作品を東京国立近代美術館に寄贈した。ほんで、寄贈したものは貰わなきゃしょうがないからね、美術館も貰ったんだろうと思うんだけど。僕は試しに観に行ったのよ。そしたらまぁ、5階か6階の一番奥の端の、蔵みたいな暗いところでね、「梅原龍三郎」とあるわけよ。一般の人に見せる1階2階の良い部屋じゃないんですよね。もう、隠してあるみたいな感じだな。だから僕は、まぁそうなるのが当たり前だなと思ってね、観てたんだけど。今は表に出てきて。

中嶋:そうですね。

高崎:東京近代、国立近代美術館の看板みたいになってるんでしょう。

池上:看板かどうかまではちょっと分からないですけど。

中嶋:重要な作家だと思われていることは確かですね。それは、梅原さんの展覧会を観にいかれたのはいつ頃ですか。戦後、すぐ…… 

高崎:そうですね。

中嶋:大学にいらっしゃる間に戦争が終わって、その戦争が終わった時には、何をなさって…… 

高崎:僕は海軍に行ってね…… 

中嶋:そうか、軍隊に行ってたんですね。

高崎:2年間行ったけどね、コンバタント(注:combattant、フランス語で戦士、軍人の意)がだめなんですよね。戦争が駄目なんです。匍匐なんか出来ない。だから。

中嶋:海軍に入られたのは、お幾つの時ですか。

高崎:21歳ですよね。学生はぜんぶ(軍隊に)行った、21才になった人は。それまではね、学生期間中は兵役を猶予するっていう制度があったけど、それがなくなったから21才になった者はぜんぶ行ったんです。陸軍と海軍に分けてね。僕は海軍に入って。そしたらやっぱり、下士官と将校のコースを分けるわけよ、テストやってね。海軍は数学だけだね。それで出来るわけよ。

中嶋:なるほど。

高崎:成績は良いのに何で僕はとらない。で、発表貼ってみたらね、美術学校の生徒はぜんぶね、あの将校の試験に通ってないわけよ。

中嶋:ああ、落とされるんですか。

高崎:美術部は全部落とされる。反軍国的だからね。それで横須賀の通信、暗号通信(の下士官がいく部隊に行ったところ)ですごく可愛がって貰ってね。これは、海軍でも要するに優秀な下士官、頭の良い下士官ばっかし集まったところでね。体力、戦闘に向かないような人がいる。そうするとね、丁度僕にあったわけだよね。海軍だから船も漕ぐ、ボートを漕ぐんだけどね、それを一生懸命に漕いだらいかんっていうんだよね、頭に「来る(悪影響がある)」からね。
遊山のようにね、ゆっくりと楽しんで、それからその暗号の計算をするときは、ものすごいスピードでこう、足し算引き算をやるわけよ。そういうことであったわけです。それで成績が非常に優秀でね、5%の者は次期将校のコース、次期予備学生に入るという約束だったんだけどね。そういう命令が来たのは、僕が下士官になってね、 佐世保の通信隊に向かって出発するその玄関でね、止められた。「お前は残れ」と。そしたら、だらだら海軍の将官、中将、少将中将連中が大本営から来てね、口頭試問やってね、ほんでまあ、次の予備学生になっちゃったわけよ。

中嶋:ああ、そうなんですか。

高崎:それで、なんか仕事みて、やっぱり向こうが構えてるわけだね、面白いことに。あの、その選抜した5%の優秀な生徒はね、次の予備学生に編入して、新しく入ってきた、娑婆から入ってきた学生をね、それはもう年齢はずっと下がって、17才くらいまでなってた、次の年にはね。それを引き連れて、旅順へ行く。

中嶋:旅順。

高崎:うん、旅順へ行って次の営巣へ行く。旅順っていうのはものすごいこう崖の下を通って入っていく、入り口がものすごい狭いんだけどね。ロシアが固めちょったわけだから。全部施設はロシアが造ってる、それを日本が取り上げたわけでね。それを使って、学生を教育して。その隊長がね、その船をそこに沈めて、ロシアの艦隊が出てこられないようにする作業をした時の有名な杉野(孫七)兵曹長っていうのがおったんです。

中嶋:杉野兵曹長。

高崎:うん。その杉野兵曹長の息子が杉野少将になってね。その予備学生が校長になって来たわけ。で、そこで訓練。でもいくらやったって体力が無いからね。で、体力使わないで頭だけでお役に立つ仕事がないかって聞いたら、「お前に丁度良いとこがあっぺ」って言われたのが、気象学校ですね(注:海軍気象学校)。ほんで、お天気屋になったわけ。

池上:ああ、気象学校。

中嶋:そのお仕事で、どちらかに赴任を…… 

高崎:気象学はね、 霞ヶ浦に、あって。そこで教育を受けて、隣はあの飛行機の、予科練の横でね。土浦じゃなくって、土浦海軍航空隊のね、その隣にあって。航空隊、土浦じゃない、霞ヶ浦と土浦。土浦は教育だけど、霞ヶ浦は戦闘部隊だけどね、その間に気象学校があって。そこで勉強したけど、ものすごい爆撃がありましてね。これは凄かったね。学校はそんなに相手にならんけど、その予科練のほうをね。予科練はものすごい死にましたね。僕は横着に飯を食ってたから、待避もしないで。悠々と一人で飯食ってた。毎日のことだから、ほら。

池上:爆撃の音とかすごいわけですよね。

高崎:それが凄かった。それがいつも東京、富士山めがけて来るわけだから。富士山高いからね。富士山めがけてきて、そこから東へ行くか西へ行くか。西へ行ったら大阪、名古屋のほうへ行く。爆撃したら、やっぱり、そっちのほうはもう行っちゃうんだ。そこが、静岡辺りまで来たのはね、やっぱり富士山中心にして爆撃して、帰りは霞ヶ浦。銚子の岬の上を通って帰っていくわけよ。そこにアメリカの潜水艦がいっぱい待ってるわけだ。飛行機落ちそうになってもね、たいてい、海の中へ落ちるわけよ。だからみんな助かるわけね。そんな状態になってたからね。それで毎日来るわけ。で、来たら空襲警報で昼食を中止して、大急ぎで走って穴の中に入るわけだけれど、僕は横着で、穴ん中入るのしんどいからね。走るのがしんどいからね。

池上:ご飯を食べてた。

高崎:ご飯を悠々と食べてた。そうしたらね、すごいでっかい爆弾が「どかーん」と来て、そんですぐ近くに落ちたんでしょうね。これはすごい音がして、窓がぜんぶこんなになってね。窓がこう曲がって、それがぱっとこう元に戻って、地面にこう立ってるわけだわ、あなた。地面ていうよりも、部屋の中にね。

池上:もう、割れてざーっと床に刺さっている。

高崎:いや、割れないで。割れないでにゅーっとこう曲がるわけだわ、圧力で。

池上:曲がってとれちゃうんですね。

高崎:曲がって、外れる。距離が短くなるからね。外れたときに、また元へぱっと戻るからね。綺麗に真ん中が抜けてね。

中嶋:すごいですね。

高崎:これは素晴らしい景色だな、と思ってね。これは今日は逃げないかんと思って、パンをポケットに入れて外へ出て逃げたら、とたんに今度は銃撃が来たわけよね。超低空でね。ほんでもう、それでもう穴の中突っ込んで、こう世間を眺めてた。だから、そのことは本にも書いたけど、英語の本(注:Takashi Motonao, Sekida K?ji et all., Chit-Chat, Art &, 1997)にも書いたけど、面白かったね。とにかく2時間みっちり攻撃されてね、予科練はものすごくたくさん死んだね。千人くらい死んだ。山の上、山の下へこう穴あけて逃げるなんていうのは、もうみんな毎日の事だからね、予科練の連中はみんな山の上へ上がってね、眺めとったわけだ。そいつらぜんぶ銃撃されてね。

中嶋:ああ、そうですか。良かったですね、ご無事で。

高崎:うん。だからね、死んでなかったのが不思議でね、今も生き残ってるのが不思議で。美術学校で生き残ってるのは僕だけだね。だから、真面目に人の決めた道をちゃんと行く人は、みんな死ぬる、と。僕みたいに不真面目にね、横着で、変わり者で、人の言うことをぜんぜん聞かないのはね、生き延びる可能性があるんだよ。

中嶋:それはいろいろな考えを変えてしまいそうですね。

高崎:うん。具体(具体美術協会)の人もそうよ。僕だけが生き残ってるでしょ。他の人はみんな若いから生き残ってるんだけど。

中嶋:先生はとても本当にお元気ですよね。

高崎:そう、元気じゃないけど。僕の歳で生き残っているのはないからね。

中嶋:そうですね。1923年生まれだとは思えない。

池上: 来月90歳になられるというのは、びっくりしました。

中嶋: 本当に、お元気で。

高崎:元気ではないんだけど。だからそういうわけだからね、僕はいつも普通の事をやってたら、僕はなにも存在価値がないと思ってね。まあ、人のやらないことをやろうと。

中嶋:ああ、もう具体の(モットーですね)。(注:具体美術協会のリーダー吉原治良は、「人がやっていないことをやれ」という言葉を繰り返し会員に言っていた)。

高崎:うん、そう。具体の精神と丁度一致した。どうして一致したかというと、東京でモダンアート(協会)へ入ってね、モダンアートはその頃一番早く現代美術をやるっていうことを決めた団体でね。村井正誠とかね、山口薫がいて。僕の尊敬してる人がいたから、さっそく参加したら、非常に丁重に扱ってくれて。なんか訳の分からんことをやる男やけども、面白いんじゃないか、とゆうて優遇されたわけよ。

中嶋:戦争が終わって芸大に戻られて、その芸大にいらっしゃる間にモダンアート協会に入った…… 

高崎:いやいや、まだあるけどね。まあ兵隊から戻って、また学校へ行ったけれども、ろくに勉強はしない。しないけども、兵隊帰りだからね、学校が丁重に扱ってくれて、卒業証書も出して下さいましてね。ほんで、教師を、師範みたいなのを東京でね。

中嶋:ああ、東京で学校の先生になられたんですか。

高崎:うん。川崎でね。

中嶋:川崎のどこ、なんていう学校ですか。

高崎:普通の臨海中学っていうのかな(注:川崎市立臨港中学)。

池上:美術の先生ですか。

高崎:美術の先生。だけどもね、あまりええ仕事じゃない。

中嶋:ああ、そうですか。

高崎:するとね、うちの親父がサポートについてた代議士がやってきたから一緒に会うたらね、「お前なにしとるが」って言ったから「中学校の先生しとる」って言ったら、「そらいかん」っていうんでね。

中嶋:「そらいかん」ですか。

高崎:うん、「そらいかん。大学の先生にならないかん」て言って。ほんで、どうしてなるのかなっておったらね、わからんけど、結局「文部省に入れ」て。

中嶋:文部省に入れって言うんですか。

高崎:文部省には入れって言うから、文部省に入ったわけよ。

中嶋:文部省に入ったんですか。

高崎:うん。公務員試験なんかないんだよ、その頃は。

中嶋:その頃、どんなことを文部省でなさったんですか。

高崎:だから、文部省も困ってるわけだよね。丁度ね、白銀台に自然教育園(注:国立自然教育園)ていうのが出来たわけよ。あれは誰か、伯爵か侯爵かの人の住居なんだけどね。それを国が買い上げた、取り上げたっていうかね。その庭がものすごい広いからね、それを自然教育園にしようっていう計画があって、そこへ僕がやられたわけよ。自然教育園を計画するっていうことと、自然をみんなに分からせる活動をする園となったわけ。ところがその自然教育園が今はね、名前が変わってね、博物館になってる。博物館の所属になってるの(注:国立科学博物館附属)。で、その自然教育園の隣にね、吉田茂がおったの(吉田茂の目黒公邸、現:東京都庭園美術館)。それで朝鮮戦争が起こってマッカーサーが日本の再軍備をしろと言うのでね、吉田さんが一生懸命それを拒んで、もう毎日、新聞記者が詰めかけてね。自然教育園と入り口一緒やからね。それを毎日僕は見とってね。ほんで自然教育園あんまり面白くないからね。

中嶋:あ、面白くない…… 

高崎:まあ、気晴らしにね、どこに行ってるかわからんからね、まあ自衛隊に行って。

中嶋:自衛隊。

高崎:自衛隊。自衛隊に行って昔の軍隊と違う軍隊を、作れるかもわかんないし、まあ行ってみようかと思って、行って。

中嶋:そうなんですか。

高崎:それから、昔行きたかった海軍兵学校が、アメリカの学校になった、アメリカの武器学校になった。そこへ行ってね、アメリカの使っていた兵器を使う練習して。

中嶋:自衛隊が。

高崎:ああ。帰ってきて、それから、八戸の連隊に入ったの。

中嶋:八戸に行かれたんですか。

高崎:うん。八戸には、三月(みつき)かいたね。僕は小隊長でおったんだけど…… 

中嶋:自衛隊の。

高崎:八戸の自衛隊はね、非常にたるんでるところでね。東京へみんな呼び戻されて、再訓練みたいな形になって。僕はもう、匍匐前進できないから、ボタンなんて全部取れてぼろぼろんなってね。もうこれは初めから予想してたことだけども、辞めないかんな、と思ってね。

池上:そうなんですか。

高崎:で、帰ってきてから副隊長のところに行って、僕は先生になりたいんだけど、って言った。そしたら、もうそれは1月だったからね、もう先生はみんな決まっててないわけよ。ほんで多摩川の奥の方に一つ学校があってね。

中嶋:はい。

高崎:そこがまだ欠員があるというので、そこに行くことにして。で、隊へ戻ってきたらね、あそこは行けないぞ、と。副隊長が困ってるわけよ。あの、公務員規定でね、他の試験を受けたらいかんということになっているわけよ。だから懲戒免職になるからね、行ったらいかんと。

中嶋:なるほど。

高崎:ということで、しょうがないわね。で、もう(高知に)帰ろうかっていうんで、 それが契機で高知に帰ってきた。

池上:ああ、そういうことなんですね。

高崎:それから自分の村でね、親父が村長やっとったし。

中嶋:何村ですか。

高崎:昔は暁霞村、あかつかむらと言ったけどね。合併したから、香美町(かみちょう)。それで今は香美市になってるわけね。そこで、小学校、中学校の先生を2年間やって。で、生徒が非常に活発で活動して、いろんな展覧会にも入選したりなんかしてね。そん時高知の大学にね、僕の同級生、昔の同級生が助教授しておったの。それがね、ものすごい社交家なんだよね。「お前そんなとこにおったら、いかんで。はよ、こっちにでてきいや」って言って。ほんで宴会を開いてね、教育長とかいろんな人集めてね、あの接待して。そしたら次の年には高知市へ転勤になっとったのよ。

中嶋: そうなんですか。高知の学校に…… 

高崎:高知の城北中学校に転勤になって、2年間そこで教えて。丁度僕の母校の土佐高等学校が、美術の先生が辞めないかんことになってね。ほんで大急ぎで欠員を捜して、僕の同級生の人が土佐高の先生をしとったんで、その校長に僕のことを紹介してくれた。その校長が数学の先生やからね、だから勘違いしてるわけだよ。僕が非常に優秀な生徒だったもんで。

中嶋:優秀だったじゃないですか。

高崎:数学だけね。で、印象がほら、数学強いから優秀だと思ってたんでしょう。すぐ対応してくれて。それ以来ずっと、土佐中学校は有名だから、先生も立派な先生だろうと思われて、今まで誤魔化してきたわけ。

池上:本当に立派なんですよ。

中嶋:美術の先生をなさってたんですね。

池上:モダンアート協会に出品、始めたのもその頃になるんでしょうか。

高崎:そうそう、高知に帰って来てからだからね。

中嶋:ああ、高知に帰ってから。

池上:帰ってこられたのは1950何年になるんですかね。

高崎:ちょっとまてよ。1949年に卒業して、51年に文部省へ入って。52年に退職して自衛隊に入って、同じ年にもう懲戒免職になるんだ。懲戒免職じゃないけどね、準懲戒免職。

池上:モダンアート協会に出品されたのも、52年にされてるみたいなんですけど。

高崎:そうそう、52年からよ。

池上:同じ年に帰ってこられて、出された。

中嶋:その作品はいつ作っていらしたんですか。

高崎:それは、その山の(暁霞村の)学校で作ったの。中学に勤めてたら、高知で活躍していた土佐派が僕の名前を見つけて。モダンアート(協会展)で入選したっていうのが新聞に出たの、ちっちゃく。そうしたら「一緒にやろう」って手紙貰ってね。それで土佐派へ属したわけよ。

中嶋:モダンアートの時の出品作品ていうのは、こういう…… (当時の作品の図を見ながら)

高崎:こういうのよ。

池上:幾何学的な。

高崎:うん。

中嶋:これはでは、芸大の頃にご興味があった(ような形態なのでしょうか)。

高崎:やってないね、芸大の頃は本読んでたばっかしでね。なにしていいかわかんなかったね。

中嶋:作品はあまり作られてなかったですか。でも、モンドリアンとは大分違いますけど、こう幾何学的で。

高崎:そうそう。それで、だんだん、この時ね…… 

中嶋:54年のモダンアート協会展に向かって。 

高崎:この作品で新人賞貰って。

中嶋:これが賞に入ったんですね。

高崎:その当時芥川紗織と、新人賞貰ってね。

中嶋:そうですか。

高崎:それから、具体の人だけどね、これ。瓶を投げつけたりなんかしてた人。

中嶋:嶋本(昭三)さんですか。

高崎:嶋本も、ずいぶんモダンアートで出してたからね。

中嶋:あ、そうなんですか。

高崎:で、嶋本が、協会賞(注:1952年モダンアート展協会賞受賞)っていう一番ええ賞をもらったわけよ。

池上:ああ、そうでしたか。

高崎:ものすごい大作を出してね。で、僕と芥川さんが新人賞を貰って。で、そのうちにね、これがだんだん発展して、その…… こういうのだったけどね…… (図をみながら)

中嶋:ちょっと曲線も使うように。

高崎:これが最後やね。これ、曲線。曲線がこう出てくる、少しずつね。この角っこのところに。それもだいたいもうぜんぶ曲線になって。で結局この腕をね、絵を描けない、僕は。だから腕を半径にしてこう線を描く、と。ほいで、また、その続きをまた、こう。そうやっていくとね、こう形がね、(エルスワース・)ケリーという人がいてね、

池上:あ、はい。

高崎:非常にこう、形に似てるんだけどね。ケリーも非常に平面ですよ、完全なね。僕の絵はなんかこう、ふっくらと膨らんでくる。そういうところがあるんでね。そこはぜんぜん違うんだけどね。ほんでこんなん達磨みたいなのが出来て。

池上:やっぱり手の動きに左右されてるからなんですね。

高崎:手の動き。そういうのが僕の特徴になるのかなと思って。それで、植村鷹千代さんが選んだ、日本の現代美術っていうかな。

中嶋:「抽象絵画の展開」(国立近代美術館、1958年4月25日-6月1日)ですね。

高崎:「展開」に出たらね、具体じゃなくて、初めてパリからやってきた日本人の……

池上:今井…… 

高崎:今井俊満(いまいしゅんまん)。

池上:はい、俊満(としみつ)ですね。

高崎:今井俊満がね、ものすごい作品を出したんですよ。僕にとってはものすごい、色もちょうど緑でね(注:高崎の出品作品も緑を使用していた)、それがアクションですよね。これには参ったと思ったね。ほんで、僕の(大画面の作品)がとまったわけ。それで、俊満さんの影響をうけて、アクションを僕もやったんだけども、アクション向かないから、結局細分化したアクション。座ることで(アクションのように立ち上がらず、座って描くことで)ずっと4、5年苦労して。

中嶋:こういうのですね。

池上:はあはあ、ちょっとタッチが。

高崎:で、こういうようになってきてね(《装置》1958年の写真をみながら)。

中嶋:これ観ましたよね。

池上:これは今、展覧会に出てますよね(「高知の戦後美術と前衛土佐派」、高知県立美術館、2012年10月17日 -2013年1月6日) 。これは素晴らしいと思います。

高崎:これをもう一つ進めて、始めから正方形を作ってね、それをこう貼り付けるという作品になったのだけれども。そこで発見した、僕はいつも偶然発見するんだけど、この絵の具を塗った正方形の片(へん)をね、このばらついてるのをね、地面に置いて、こういうのをやったわけよ。

中嶋:これは、どういう風に造ってるんでしょうか。

高崎:要するにこれは色をね、まったく無機的に並べると。でもこれ一つ一つ描くの大変ですよ、描いたらね、もう。

中嶋:ですよね。

高崎:消してまた描かないかんから、大変な作業だからね。ちょっと横着して、こうカッターでこう切ってね、正方形をまず作って。

中嶋:キャンバスを…… 

高崎:それをこう並べて、毎日朝起きたら戸を開けて見て、並べ方がまずいのはちょっとこう動かしてね。一つ動かしたら全体がざーっと動くからね。ちょっとコンピューターの画面みたいだけど。で、そういうことやってるうちにね、その曲がり、曲がりの面白さっていうかね(注:小さな正方形に切り取られたカンヴァスが乾燥して反る状態のこと)。これはパラボラアンテナみたいなもんでね、なんか人を引っ張り込む力があるなと思ってね。で、白がうんと流行ったんですよ、その頃。もう絵を描かないぞ、っていうのがね。真っ白の絵を描いたりね、キャンバス白のものを出したりね。

池上:モノクロームですね。

高崎:キャンバスの裏側を出したりね、いろんな事をみんなやったんだけれど。僕のやつが一番成功したと思うんだけど。パラボラアンテナみたい。それで、その次に、これが評判になって。

中嶋:『芸術新潮』(に掲載されたときの話ですね)

高崎:『芸術新潮』がきてね。あの『芸術新潮』の土屋という、名前までは忘れたけど。この人がね、僕のこの達磨さんの絵を聞きつけて『芸術新潮』のその「ニホンノカタチ」という特集をやったわけね。画廊をまわって来たわけ。それで、僕のこれ見てね、考え方が変わったんだよね。

中嶋:これは何年くらいですかね。

高崎:これは1964年でしょう。

中嶋:『ジャパンインテリア』にも載ってますね。

高崎:インテリアのデザインとして見ているわけだよね。

中嶋:『ジャパンインテリア』は結構、美術のことやってますよね。ヨシダ・ヨシエさんが、批評されてます。

高崎:ヨシダ・ヨシエさんは、あまり関心無かったんでしょうけれども…… 

中嶋:ああ、そうなんですか。

高崎:編集部からね、まあ指名されたんでしょうね。

中嶋:この作品、《装置》(1966年・1978年)という風に呼ばれていると思うんですけれども、《装置》という風に名づけられたのは、なぜですか。

高崎:絵じゃない。

中嶋:「絵じゃない」ということですか。

高崎:だからコンピューターのイメージが非常にあったね。

中嶋:コンピューター。

高崎:とか、二進法とかね。

中嶋:なるほど。オンとオフということでしょうかね。

高崎:そうそう。

池上:コンピューターも二進法ですもんね。

高崎:(切り取られたカンヴァスが)1つだけだったら意味がないみたいだけれども、全体としてはこう、1つの意味がある、と。それからあの、ばらばらと人の気持ちを引っ張り出すっていうか、いろんな部分をね。泣く子を引っ張り出す、すると自分のやってきたこととか、生きてきたいろんなものを反省するチャンスがあんだよね。ただそこにあるんじゃなくて向こうからこう、その相手を引っ張り込むような力がある。その力があるということが、非常に大事じゃないかと思って。

中嶋:自分が描くのではなく。

高崎:そういう、その人の人生を反省させる、思い出させる機械だという意味で、《装置》と。

中嶋:じゃあ、こういう風に聞いても良いでしょうか。なぜこういう、キャンバスをはったものが、人々の気持ちや反省などを促すというふうにお考えですか。

高崎:うん、だから僕はね、パラボラを思い出したのね。パラボラっていうのは非常に小さな力を集めて、跳ね返す。それを《装置》だからね。

池上:受けとめて、また自分も発信するっていう事で。

高崎:そうそう。

中嶋:確かにそういう感じはしますね。

池上:これに辿り着いた時に、「ああ、これだ」っていうような、手応えみたいなものはありましたか。

高崎:そうそう、偶然に発見された。こうやって張っても、あまり完成しなかったけど、うわっとこう曲がったときにはびっくりしたね。それで、丁度中曽根(康弘)さんがまだ若いときに、「ジャパン・アート・フェスティバル」(1966)っていうのをね、計画したわけですよ(そこに出品される)。

池上:1966年ですよね。

高崎:昭和40…… うん、1963年か64年かな。東京オリンピックがありますよね。

池上:オリンピックは64年ですね。

高崎:丹下健三さんが大活躍して国際的に有名になって、日本の経済も非常にこう上向きになってね。これみんなアメリカがやった朝鮮戦争のお陰だけどね。その前には(アメリカは)日本はフィリピンみたいに農業国にするつもりだったけど、日本に能力があったからアメリカからタンクなんかこう持ってくるよりも、日本で修理して簡単なものは日本で生産して、朝鮮に持って行ったほうが早いからね。で、日本の経済復興が起こったわけです。それでオリンピックが成り立ったわけだけどね。で、その勢いで、日本の美術は素晴らしいに違いないからね、あの、浮世絵なんかあんなに外国でもててるんだから、日本の美術を今度は売ろう、というのが中曽根さんの発想なんだよね。中曽根さん自身は自分が趣味でやってるお茶とか俳句とかね、そういう考え方しかないんだけど。まあ日本芸術祭というものを組織してね、お金をどっさり集めて、第1回がニューヨークだったわけですよ。で、そこで作家を選ぶについていろんな美術館の館長たちが集まって選んで。それを見たらね、ああどうもその、やっぱりアメリカに行くんだから、アメリカ人に分かるようなアメリカ的なものも入れなきゃいけないんじゃないかっていうんで、ゴードン(ベアテ・シロタ・ゴードン、Beate Sirota Gordon)ていうね、ジャパン…… なんだ?

池上:ジャパン・ソサエティじゃないですか。

高崎:ソサエティかね。ジャパン・ソサエティの、評論家のよね。

池上:ディレクターだったんですね。

高崎:ゴードンを呼んだんですよ。彼女が日本に来てね、美術館を見てまわって、で京都で僕の作品を見た、これをね。

中嶋:「秀作展」(注:朝日秀作美術展)をやってたんですね。

高崎:これは国立近代美術館に呼ばれて京都で展示してた(「現代美術の動向」展、京都国立近代美術館、1964)。乾(由明)さんに呼ばれてね。この作品は「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)にもともと出したんだけど、朝日にでて、他の美術館にも引っ張られていって、京都の展覧会にも出されて。京都でその、ゴードンがこれを見つけたわけよ。ほんで、これだっていうんでね、これを絶対入れろっていうんで。ほんで、国外展示で、「ジャパン・アート・フェスティバル」の展覧会が(ニューヨーク)近代美術館であってね、行ったら僕のやつがあって、元永(定正)、ええそれから、だれかね大将、御大将は(注:正しくは、Japan Art Festival はニューヨーク近代美術館の開催ではなくUnion Carbide Building が会場。近代美術館では同時期に「新しい日本の絵画と彫刻」展(New Japanese Painting and Sculpture)を開催していた)。

池上:吉原治良。

高崎:吉原治良、これが並んでるわけだね。吉原治良、白髪(一雄)、元永、高崎。これはええコンビだなぁと僕は思ったわけよね。

池上:ご自分で。

中嶋:それは、近代美術館でやってたんですか。

高崎:この展覧会は、近代美術館。

中嶋:ああなるほど。

高崎:白髪さんもおったけどね。他の作家もいっぱいあった。

中嶋:これ元永さんですよね。

高崎:それも元永さんと僕が、ここにおるわけだけどね。この玄関に。で、これを見て、僕を入れてくれたわけよ。それで、美術館の館長もみんなびっくりした。京都の美術館の館長誰やっけな。今泉篤男さんが見て飛んできてね。「君すごいことが起こったよ」って。アメリカ人がくると、もう、革命が起こる。

池上:動向展の時点では、高崎先生は具体の作家さんたちと、直接の面識はなかったわけですか。

高崎:ないわけよ。

池上:一緒に並んでたっていうだけで。

高崎:並んでてね、これから競争相手になるのはこの連中だと思ったわけだよ、僕はね。競争相手としてもね、お互いにちょっと中身が違うしね、向こうはやっぱりアクションだけ。吉原さんだけが一番僕に近いと思ったわけよ。ほんで、吉原さんは大歓迎でね、引き受けてくれて。

池上:高崎先生のほうから、具体に入りたいんです、と仰ったんですか。

高崎:そうそう、展覧会を見てね。それで、ちょうど具体はヨーロッパを向いていたからね、他の人は僕の絵がええと思わない。吉原さんは、なんか新しい物をやりたかったから大歓迎で、具体の代表でニューヨークへ行けというわけで行ったんですね。

中嶋:じゃあ、「ジャパン・アート・フェスティバル」が66年に行われる前に、具体に入られてるんですね。

高崎:66年に入ったんじゃろうと。

池上:入って、その後に同じ年に、「ジャパン・アート・フェスティバル」があって。

高崎:そうそう、日本であって…… 

中嶋:そうか、日本でもあって。

高崎:日本で、一応展示してね。

池上:お披露目みたいなのをやってからアメリカに。

高崎:やってから、僕が入って。それから一緒に行ったわけよ。具体の人、誰も行かないからね。具体の人はアメリカなんて問題にしてないのよ。

中嶋:そうなんですか。

高崎:この頃はね。専らヨーロッパを向いているからね。それで、吉原さんだけがちょっとね、アメリカ的なものに興味があったんですね。それから吉原さんの店のほう、会社のほうで送別会をやってくれて、壮行会やってくれて、行きましたけど。 元永さんはあまり興味があるようではなかったけどね。

池上:ああ、そうですか。

高崎:それから後たくさんね、あの、今中クミ子とかね、いろいろ新しいの出てくるんですよね。だけども、具体の主たるメンバーは、あまり興味を示さなかったね。

池上:そのニューヨークに行かれたのは、その時が初めてですか。

高崎:初めて。

池上:アメリカというか、ニューヨークの印象というのはどのような感じに。

高崎:だから日本のやってることはね、ほんとうは政治家の社交場になってるわけだから、ニューヨーク市長とかそんな人たちが集まっていろいろして。

池上:「ジャパン・アート・フェスティバル」という場が。

高崎:作家なんかそっちのけで。お茶のサービスをしたりしてね。だから(ニューヨーク)近代美術館が怒ってた。というのは近代美術館はね、日本の作品を集めて時々こう展覧会をやってたわけよ。ちょうどその展覧会がサンフランシスコで始まってね、それからずっと回ってくるということだったんですよ。(注:前述にもあるThe New Japanese Painting and Sculpture展はニューヨーク近代美術館のドロシー・ミラー(Dorothy C. Miller)とウィリアム・リーバーマン(William Lieberman)のキュレーションによって1965年にサンフランシスコ近代美術館で開催され、1966年にはニューヨーク近代美術館に巡回した)

池上:そうですね、具体も。

高崎:あのキュレーターは誰だっけ。

池上:ウィリアム・リーバーマンと、ドロシー・ミラーっていう人がMoMAのほうでやってて。

高崎:リーバーマンだ。それで、本の政治家たくさん来てね、絵描きは4人か5人しかおらなかったね。で、もう日本の人間国宝みたいな人は誰も行かないからね。焼き物とか。そんで若い人ちょっと来たけど。あんまり作家の展覧会ではなかったわけよ。だけども、近代美術館が大きなパーティーはやってくれてね。

中嶋:ニューヨーク近代美術館で。

高崎:うん、大使館から、あとはいろんな在米邦人がいっぱい集まって、かなり大きな歓迎会、レセプションをやってくれましたね。その時、東野芳明っていうのがいましてね。ええ、リーバーマンを紹介してくれた。それがリーバーマンがね、俺はあの展覧会(「ジャパン・アート・フェスティバル)を観ないんだって言うんだ。

池上:リーバーマン自身は見ない、と。

高崎:そう、観ないってはっきり言いましたね。

池上:「ジャパン・アート・フェスティバル」の何ヶ月か後に、MoMAでその「ニュー・ジャパニーズ・ペインティング・アンド・スカルプチャー」っていうのがオープンして…… 

高崎:そうそうそう。

池上:アート・フェスティバルのほうがちょっと早かったので、MoMA側は企画したのは自分たちが早いのに、っていうので結構悔しい思いをしてたんですよね。

高崎:アメリカ人ははっきり言うな、と思ったね。

池上:そうですね。高崎先生は、そのアート・フェスティバルの後数ヶ月いらして、MoMAのほうの展示もご覧になったんですか。

高崎:見ない。

中嶋:見てないですか。

池上:ではもう、それよりも早く帰って。

高崎:一週間位で帰ってます。

池上:それは間に合わなかったんですね。

高崎:その時、アクション・ペインティングのコレクションも観ていけって言われてね。MoMAが持ってたアクションのペインティング、ものすごいたくさんのやつがあったね。それからその頃僕は『TIME』を見てね、『TIME』の一番最後のページにはかならずその新人のアクションペインターが出てくるわけですよ。ほとんどが女の人だよ。毎月、毎月、毎月それを見るのを楽しみにしとったけどね。ところが、ポロックが出てきたらもう、全部ポロックになってね。他の人が表に出る機会が無かったね。でも、美術館は見事に全部、集めてたね。

池上:それは、収蔵庫みたいなところでご覧になったんですか。

高崎:収蔵庫、収蔵庫だ、うん。

中嶋:どんな作家がいらしたか…… 

高崎:名前は覚えてない。それもうホントにもう、消えてしまってるの、全部。だからアクション・ペインティングのその動きのすごさっていうかね、その当時の終わりを見たわけ。画廊街では僕なんかの作品のようなものがもう始まってた、すでに。

池上:そうですよね。1966年なら。

高崎:あそこは行くたんびにね、(目が)ちかちかっとするわけですよ。

池上:キネティック・アートみたいなものがすごく盛んになっていた頃ですよね、

高崎:キネティック・アートだよね。

中嶋:どんな画廊に行かれましたか。

高崎:いや、忘れた。

中嶋:ニューヨークはどうでしょう、アメリカのほうがやっぱり美術は盛んだというように思われました?

高崎:いや、ヨーロッパの美術が最後にアメリカに行くと思いますね。アメリカの文明、いや、ヨーロッパの文明が向こうに行って、他のものもこう吸収して、なにか出来るんだけども、最後のたまり場がアメリカだっていう感じがする。

中嶋:この時の渡航の費用っていうのはご自分で出されたんですか。

高崎:自分で出した。

池上:当時は大変ですよね。

高崎:大変ですよ、借金してね。それから3年くらいは、まったく何にも出来なかったね。

池上:ああ、そうですか。

高崎:家内が怒るわけだよ。

中嶋:もうその頃はご結婚なさってたんですか。

高崎:ええ。

中嶋:ご結婚はいつなさったんですか。

高崎:それは土佐へ行ってからだね。

中嶋:高知に。

高崎:うん。

池上:こちらで出会われて、戻ってこられてから…… 

高崎:いや、僕を紹介してくれた同級生の人がね、あとで県会議員になったけど、土佐の市長したり、いろいろした人で。先生をやってた時に、その弟を教えたわけ。だからお母さんの躾が非常に良いということを知っててね。あんたにはこの人が一番良いと…… 

中嶋:それで、出会われたわけですね。土佐の事もちょっとおうかがいしたいと思うんですけど。昨日、高知県立美術館のほうで、土佐派の作品をたくさん観て、とても前衛美術が高知で盛んだったということがよくわかったんですね。土佐派というものに参加されたきっかけや、濱口(富治)さんとの出逢いなども…… 

高崎:濱口はねやっぱり親分肌でね、ちょっとでも現代美術の作品を作っているっていうニュースが入ったらすぐに手紙を書くわけですよ。「一緒にやろう」と。俺たちの時代が来るぞっていうのでね。僕がモダンアートに初めて入ったのが、新聞にちょこっとこう出たらね、すぐ電話がはいって、彼の家(うち)へ遊びに行った。けど濱口さんの子分になるとは言わない。(自分は)モダンアート(協会)で、彼は美術文化(協会)のほうだからね。一緒にやるのはいいんだけど、僕はモダンアートを大事にしようってんで、モダンアートの作品を描いて、モダンアートの巡回展を、一番最初に僕が高知へ持ってきて。普通だったら名古屋、大阪とか、九州とかそういう大きなところでやるんだけどね。

中嶋:モダンアート協会の…… 

高崎:数は絞ってね。でも結局全部持ってきて。見せて、それから高知でも展示会作ってね。

中嶋:とても活動的でいらしたんですね。モダンアート協会の展覧会はどこで行われたんですか。

高崎:まず、土佐高等学校の応接室で見せて。そこが保管室になるわけよ。ただ保管するのもったいないから、生徒に見せながら。それから展示会は公民館。中央公民館てのがあったんです、昔のね。

中嶋:中央公民館。じゃあそういうところで展示しながら、結構若い人に影響があったんじゃないですか。

高崎:あったね。だから変なこというと、濱口の子分も、子分いうたらおかしいけど、子分みたいにして可愛がってやって。で、僕のほうはあんまりそんなじゃない(子分のような扱いをしなかった)けどね。一応飲み会場を貸したり。うちのアトリエがそこにあったけど、木造のアトリエで、呑んだりダンスパーティーやったり。

中嶋:土佐派の作家さんというのは、なんか組織的に展覧会をなさったり勉強会をなさったりっていうのはしてたんでしょうか。

高崎:うん、僕はあんまり積極的に参加しなかったから。まあ展覧会の時だけだね。

中嶋:展覧会は土佐派展という形でなさったんですか。

高崎:うん。それで、読売のアンデパンダンが潰れてね。それから名古屋にもそういうのが似たのがあって。京都、それから九州、それぞれこう独自のアンデパンダンがあったわけだよね。で、名古屋がまず潰れて、それから僕らもね、名古屋まで応援に出かけたね。名古屋でやるっていうんでね。

池上:応援ていうのは、出品された。

高崎:出品したわけよ。

池上:ああ、そうですか。

高崎:それから、ちょうどその頃京都でも。

池上:「京都アンデパンダン」ていうのがありましたね。

高崎:あれも長いこと続いてね。それもずっと出してた。

中嶋:最近四国のいろんな所に行くことが多かったので、土佐派に限らず、高知が四国の中でも前衛がとても盛んだったという風に私は思ったんですけども。それはどうしてだとお考えになりますか。やっぱり、高崎先生や濱口先生のご活躍がそういう感じをつくったんですかね。

高崎:うん、やっぱりそういう、伝統みたいなのがあることはあるんだね。

中嶋:伝統と仰いますと。

高崎:ジョン万次郎という男が昔いましてね。どっかへ行っちゃった。

中嶋:『Chit-Chat』(注:上述の英文で書かれた著書)にも書かれてますよね。

高崎:ああ。ジョン万次郎、それからあとは、坂本龍馬ですね。

池上:そういう新しい物を受け入れる…… 進取の気性に富んだような土壌があるんでしょうか。

高崎:うん。

中嶋:濱口さんも親分肌だというふうに仰っていましたけれども、高崎先生もやっぱりお弟子さんというか、高崎先生を慕われて作家になった方っていうのは何人もいらっしゃいますよね。

高崎:それはいると思いますね。それでまあ、合田(佐和子)、田島征三。

中嶋:その方たちはどのようにして。あの、土佐高校ではないですよね。

高崎:土佐高校で。

中嶋:あら、そうなんですか。

池上:教え子だったんですか。

高崎:僕がいった時はね、丁度その「何でもかんでもじゃんじゃんやれ」という時代だからね。で、そのうち今度はその美術学校でね、研究会をどんどんやってね。

中嶋:どんな人を呼ばれたんですか。

高崎:もう亡くなられた人ばっかしや。

中嶋:そうですか。でも、京都や東京から呼んだんですね。

高崎:そうそうそう。

池上:その土佐派はお聞きしていると、何となく、濱口派と高崎派に分かれるようなところがあったんでしょうか。

高崎:うん。土佐派は土佐派でね、今たかお、武内(光仁)っていうのがね、今土佐派のシュール系の作家を集めて。僕もまあ一応名前が入ってるから作品もあるけど。山の中の故郷にね、白木谷っていうところにね、白木谷国際現代美術館っていうのを彼がつくってね。あの山の中つくって、奥さんと2人で経営してるの。大変だと思うけど、全部手作りでね、建物から何から。もと土建屋をやってるからね。

中嶋:それは行ってみないといけないですね。白木谷国際現代美術館ですね。それは、高崎先生のお弟子さん。

高崎:じゃない。純粋にその、富治派だ。

池上:彼は少し年代も若くて、濱口さんに師事してって書いてありましたよね。

中嶋:合田佐和子さんはどんな方でしたか。その学生さんの時とか。

高崎:どうかね、とにかく美人でしたね。もの凄く美人でね。それで美術大学に行きたいって言いだしてね、それで親が反対するのでね。合田綿業っていう綿を製造する大きな会社だったけど、今は潰れてしまった。それで、その家(うち)へ行って、その美術学校に行けるようにみんなを説得してくれって、行ったことがある。

中嶋:そうですか。

高崎:うん。ほんでまあ、デザインならご飯も食べれるだろう、デザイン科ならまあいいかということでね、デザインへ行ったわけ。

中嶋:なるほど。どんな風に美術を教えていらしたんですか。高崎先生のことを色々調べてると、とても奇想天外な先生だったという事がいろいろ書いてあるんですけれども。

高崎:ええ、面白いことをやれ、人のやることをやるなって、吉原さんと一緒やね。ほんで、僕も生徒の喜ぶのは、今までは数学とか国語とか、ぜんぜん成績取ったことない人がね、突然1番の良い点をとったりするとびっくりするわけですよね。そんで、弾みがついて、他のことでも元気がでてくる、と。

池上:嬉しいですよね。

高崎:だからそういうチャンスをね、なるべく与えるほうが良いじゃないかと僕は思う。絵そのものはね、みんな勝手に描いたらいいわけだから。

中嶋:どんな授業をなさってたんですか。

高崎:だから、僕が見て面白いものをこう取り上げてこう、見せるだけですね。

中嶋:好きにやりなさいっていうふうに言って、面白いものを、評価していく。

高崎:そうそう。

中嶋:田島征三も、面白いものをかいていましたか。 

高崎:これはもう初めからね、変わってるからね。しょうがないねこの2人は。

中嶋:そうなんですか。

高崎:だからそれを伸ばすよりしょうがない、と。

池上:変わってらしたっていうのは、どういうところが。

高崎:いや、絵が普通の絵とぜんぜん違うの。それが面白いという人は、滅多におらんがね。で、高知の観光協会なんかのサポートで、高知を宣伝する展覧会をやって、彼がリーダーになって。で、鰹釣りの絵、漫画みたいな絵やけどね。その絵を描いて、でもへったくそで。ところがそれを主催した県の課長さんがね、「面白い」っていうわけでね。その人のお陰で、彼は馬力が出て。ところがそれがたまたま、オーストラリアへ行ってね、特選か何か貰っちゃった。うん。

中嶋:その絵画がですか。

高崎:そうそう。ほんでもう、その方向へまっしぐらに行って。今は越後のなんとかいうわね、ありづまじゃなくて…… 

中嶋:「越後妻有トリエンナーレ」(注:越後妻有アートトリエンナーレ)ですね。

高崎:あそこへ行ったり、それから去年はパリへ行ってあの、ハンディキャップのある子供の絵ね、そういうのを彼は興味を持ってずっと指導したりしてるから、焼き物とか色々ね。京都の近くで。そういうので行って。なんていうんかね、そういうアートのことを。

中嶋:アール・ブリュットですかね。

高崎:ああ。その2人は双子の兄弟で、自然に、生まれながらにそういう変わった絵になるわけだ。だから生まれながらに持っているものを素直に育てたっていうのはその課長さんと、それから私だと思う。

中嶋:そうですね。なるほど、両者ともご活躍ですね。

高崎:それから合田さんはね、これは特殊な才能だね。昔は寺山修司とか、瀧口修造っていうのにものすごく可愛がられた。美人だから可愛がられてね。それでテレビに出てね。

池上:ああ、そういう活動も。

中嶋:テレビにも出たんですか。

高崎:テレビにも常連だったから。

池上:そうでしたか。

高崎:なんとか、11時頃、お喋りする会があって。

中嶋:「11PM」(イレブン・ピーエム)じゃないですよね。

高崎:「11PM」だよ。

中嶋:そうですか、すごいですね。

池上:あんな大人の番組に。学生としても教えていらした頃は「あ、この子は才能あるな」という感じでしたか。

高崎:それは、思いましたね。

中嶋:かなり変わったオブジェとかを造ってらっしゃいますよね。シュールレアリズムっぽい感じ。

高崎:そうそう。

中嶋:特にバウハウスとかシュールレアリズムとかヨーロッパの美術について教えていらしたわけではないんですね。

高崎:うん、そんなに組織だって教えたわけじゃないね。とにかく僕が見て面白い、変わったもの、見たことないもの、そういうものをみんなに見せてね。

中嶋:なるほど。

高崎:みんなと違った事が出来たら、理想の世界だということをという。

中嶋:そう教えられながら、作品をご自身で作っていらしたわけですよね。先生は土佐派を1966年に辞められるんですよね。退会されたんですよね。

高崎:うん。それは退会というよりも、ほとんどもう会が活躍しなくなったからですよ、土佐派が。

池上:土佐派自体の活躍が…… 

高崎:だから、アンパンの最後が高知に来た。名古屋へ来て大阪へ来て、それから岡山がしばらく「瀬戸内美術展」というのをやっていた、アンパンみたいなものだけど。それにずーっと僕が出してるから。それが高知へ来て、高知で大きな展覧会があってね、まあ関西全体あげて、みんな変わった絵描きさんたちが、みんな来て。野外で小さな汽車作って行進したりね、色々やったわけ。

中嶋:それが1966年。

高崎:そのくらいだね。それが最後になったね。お金がものすごくいったから、問題が起こってね。借金も払えない。

中嶋:それはどのようにこう資金集めをなさったんですか。

高崎:僕はあまり資金のほうには関係してないけんね。

中嶋:そのイベントに関しては、久万美術館の館長さんにうかがったんですよ。高崎先生がその時に非常にご活躍だったというふうに聞いています。

高崎:うん、それは具体の関係で高知にもそういうのがおるぞってことで。うんで、誰だったかな、坪内(晃幸)さんかね。

中嶋:そうですね。

高崎:坪内さんが、野外で展覧会やろうってんで、高知のメンバー引き連れて僕も行ったことがありますね。

中嶋:ええとそれは、どこで。

高崎:高知の城の堀の。

中嶋:ああ、お城の堀の周りの野外でなさった。それは具体の野外展みたいなものなんですか。

高崎:具体という名前は出てこなかったね。

中嶋: 実際、具体美術協会というのは、その四国の周辺の作家さんの間では、よく知られていたんでしょうか。

高崎:そんなに広くは知られていないと思うけど、坪内さんはまあ、具体という名前は出さないけど、現代美術の坪内と(自分のことを名乗っていた)。

中嶋:「読売アンデパンダン展」とかはご出品する作家もいて、高知に招待することもあったけども、具体はもうちょっと小規模な感じだったんですか。

高崎:いや、具体という展覧会がやらなかったもんね。ただ彼が死ぬ前にね、具体の展覧会をやったの。それが具体の作家を呼んで、具体の白髪、元永、あの具体作品の代表作を持ってきて、美術館でやったでしょう。

中嶋:久万美術館ですよね。

高崎:久万じゃないですよ。本当の展示物があるんだよね。

中嶋:ああ、そうなんですか。それは知らなかったですね。話が戻りますけれど、土佐派の大きいイベントをやった時に、パフォーマンスなどもなさってましたよね。よく拝見する、あの顔が紙から出ている(注:土佐派のパフォーマンスで、メンバーが看板のような板から顔を出しているものがある)。

高崎:あれは、パフォーマンスというほどでもないけど。なにか看板になるものをつくらないかんということで、記者が構えた。

中嶋:なんかとてもユニークな活動をなさったようにみえるんですけれども。

高崎:あんまりそういうやる才能がなかったね。九州派みたいにね。

中嶋: そういう感じではなかったんですね。九州派は結構……

高崎:指導者がしっかりしてるわな。

中嶋:ひどくはちゃめちゃなことをやりたいという感じが、九州派はあったかも知れないですね。それよりももうちょっと、土佐派のほうが美術的な感じかも知れない。

高崎:パフォーマンスもいっぱいあったけどね、室戸岬を真っ赤に塗るとかね。
それが沖ノ島っていう島があるんだけど。そこの大きな岩をね、真っ赤に塗ってね、怒られてね。そんなことを昔考えたけども、実際はやらなかったね。

池上:先生はやっぱり、あまり体を使ってっていうタイプではないんでしょうね。

中嶋:知的な操作が。

高崎:僕はやっぱり、自分のことは人にはよう、要請しないね。自分は一時的にアクション・ペインティングに転向する時なんかは、3ヶ月で100点描いたりしたけどね。

中嶋:すごい。

高崎:したけど、作品はみんなばらばら、散らばってしまってないわけだけど。

中嶋:ああ、そうなんですか。

高崎:これもその1つだね(注:《朱と緑》1959年)。

中嶋:これは(高知県立)美術館に入っていますよね。他の作品も拝見したかったですけれども。
具体に参加した後は、阪神エリアにはお住まいではないけれども…… 

高崎:具体に参加したっていうけど、具体の人は僕の絵をぜんぜん認めてないからね。吉原さんだけがね、広島で広島美術館が出来て、具体の展覧会やってくれって言ってね、小規模だけども。吉原さんが選んだのは、白髪、元永と私、ということになるわけだけどね。でも白髪、元永の世代は、あんまり僕の作品を理解しなかったみたいよ。そんで僕もあんまり言いもしないけどね。

中嶋:傾向がだいぶ違いますもんね。

高崎:だから、もうだんだん2、3年したらもう、あんまりやる気がなくなって。具体としては、あんまり出来ない。んで、だんだん違った方向、破壊の方向に行った。ほれで、具体に置いてあった作品はぜんぶ反故になって。引き取らないわけだからね。美術館壊してしまったときに。

池上:ああ、グタイピナコテカに。

高崎:(ピナコテカにおいてあった作品を)廃棄してね。みんなガラクタになって消えてしまって。それで平井さんがね、若い学芸員が来て。

中嶋:平井章一さんですね。

高崎:ええ。ほんで、第3期を入れなきゃ具体の全貌が見えないんじゃないかっていうことになって。その始め(発端)は僕だと思うけどね。フランスの美術館長が来てね、具体で歓迎会やったわけよ。その時僕は英語で書いて、これを読んでいてね、渡しといたの、その館長にね。だから多分、それを平井さんが見てると思うね。だから第3期。

池上:その前にちょっとお聞きしたかったんですけど、先生が具体に入られたことについて、土佐派の他のメンバーの方はなにか仰ってましたか。例えば濱口さんとか。

高崎:いや。そんなに僕は積極的に具体にも土佐派にも積極的に参加したわけじゃないから。

池上:「なんで抜けてそっち行くんだ」みたいなことは言われなかったですか。

高崎:言われなかったね。もう土佐派もほとんど解散状態になってたから。ただ高知には「高知県展」ていうのがあってね、完全にこう別れたのは1970年でしょうけどね。「高知県展」の洋画を斎藤義重が審査に来た。そしたら斎藤さんは、立体作品ばっかしを特選にしてね、普通の絵は全部特選にならないわけよ。ほんでみんな怒ってね、新聞社のほうも困って。新しい傾向の作家たちには、辞めて貰うわけにもいかんわけだね、自分が育てたもんだからね。だから名前を変えて、別の部門にして貰いたい、ということになったわけよ。それで濱口と私がそれを引き受けるということになって。濱口はね、俺は絵を売って生活しなきゃいかんし、お前は絵を売らんでもええから、お前がやれ、ということになって。だけども濱口は、お前だけを新しいものの審査員にするのはね、ちょっと気にくわないから、俺の子分を入れると。

池上:もう一人の審査員に。

高崎:寺尾(孝志)くんていうのが来て、2人で会ったけれどもね。まあ寺尾くんもやがて、本当に立体が分かっていたわけでもないでしょうけど、始めは大きな作品を作れてたけどね。うちが材木屋だからおおきな材木を切って、ムカデみたいにね、小さいのを立て掛けたりしてね、やったけど。まぁ、2、3年でやめましたね。それで後は、私だけになった。

池上:じゃ、そこが転換期というか、一緒になにかやるっていうのはもうその辺りで終わりになった。

高崎:終わりになった。それでいまは立体作品ていうのを名前を変えてね、先端美術って。

中嶋:先端美術。

高崎:それは立体のほうが定着してるから良いじゃないのって僕は言うんだけど。ま、やってることはやってますけど、あんまり触れはしない。でも面白いところはあると思うけどね。もう洋画のほうはまったく面白くないから。安定しきってるからね。

中嶋:なるほど。そろそろ時間なので。また高知に来ますので、またお話聞かせていただきたいですけれど。

高崎:また来てください。

中嶋: 今日は具体以外のお話ということでしたが、ちょっと一つ聞いてみたいのが、その具体美術協会がこう、また注目をされて、今年も展覧会、新美(国立新美術館)でもやりましたし、グッゲンハイムでも来年行われますけれども、再評価されることに関してどのようにお考えなのかな、というふうに思うんですが。

高崎:だから僕はね、美術なんてのは、天気図と一緒だなと思うんだよ。

中嶋:天気図。

高崎:天気図。高気圧、低気圧とかね、いろいろあるけれども、要するにこうでしょ、曲がってるわけですよ。だから、まあ、具体はほとんど消えてたけどね、関西だけに核があって、それがこう気流みたいになってヨーロッパに吸い込まれてね。その一部になって、それからずーっと行くとまた、庭へ帰ってくるようなこともあるかもしれん。

中嶋:流れのように。

高崎:ところが日本の、日本っていう国は天皇陛下がおってね、なかなかそう良いように動けないところがあるからね。言われんことがいっぱいあるからね。

中嶋:美術界にも天皇制のような感じがあるというふうに思います。

高崎:でしょう。これだけは動かさないっていうのがね。

池上:例えばそれは、どういうところですか。

高崎:だから、安倍さんなんかもそこで苦しんでいるわけじゃないでしょうかね。

中嶋:安倍晋三ですか。

池上:やっぱりなにか、ここは動かしてはいけない所みたいなものが、政治でも美術でも何かあるっていう。

高崎:そうそう、どこの国でもあると思うけどね。日本は一番それが酷いんじゃないかな。

中嶋:そうですか。グッゲンハイムで展覧会があるのは、やはり大きな事になりますかね、そうしたら。

高崎:いや、それはまだ分からんね。要するにアメリカにまぁ、ちょっと吹きだまりみたいになってるわけよ。

中嶋:そうですね、アメリカにこう全部。

高崎:そうそう、ヨーロッパ美術の伝統とそれにアジア、いろんなものが入ってきてね。それが行くところがないんやろね。

中嶋:なるほど。じゃあ、アメリカでそういう展開になるのは、ある意味必然のような感じなんですかね。

高崎:と、思うけどね。僕はあんまり将来のことは考えられないけど。僕としては、昔アメリカに行ったことがあって、やっぱりこれはアメリカ人なら分かる、と。だからいつかアメリカの美術館でやりたいなと思いよって長生きして、やることになったので、非常に嬉しいわけだけどね。

中嶋:良かったです。今回最後の質問なんですけども、高崎先生にとって美術活動を通じて最も印象的な出来事というのは何だったですか、お話聞かせていただけますか。これが一番楽しかったとか、この展覧会が良かったとか、この作家が、ご自分以外に、面白かったとか。

高崎:やっぱり毎回天気図みたいにこう変わっていくからね。自分はその先端を行っているのが面白いと思うね。だから今のところ一番、今度の具体展、ただ残念な事にはね、こうした流れのなかで日本の美術館なんかが追い出されているのがね。けどそんなのは当然だと思うね。

中嶋:それはなぜ当然だと思うんですか。

高崎:だから具体を世界に押し出してね、具体をこの国の美術の歴史の核にするっていうことは難しいわけですよ。

池上:芦屋ではそうだったんですよね。

高崎:ぐるぐるぐるぐる、また戻ってくるかも知らんけどね。僕らが高知におったらね、ぜんぜんその、なんて言うかな、具体の動きとは、中に入れて貰えないね。無関係ですね。

中嶋:ああ、そういう風にお考えですか。

池上:具体でいながら、ちょっと具体になりきれないようなところが…… 

高崎:うん。 具体はやっぱり大阪って、これに書いてあるのを見てもそうだけどね。それに対して、東京ってのがあって、東京・関西。

池上:そこでまたライバル関係が。

高崎: 今はまた関西がでてきようね、アメリカでね。

中嶋:そうですね。じゃ、高崎先生はいつも割と特殊な場所にいらっしゃるっていう。

高崎:そう、僕は高知だから。高知でいるとやっぱり客観的にこうね、見ることができる、と。

中嶋:東京に対しても。

高崎:そうそう。だから坂本龍馬なんかもいつもこう、徳川幕府とね長州藩、薩長派とね、見てるわけ両方をね。それをいかにミックスするかっていう。

池上:じゃあやっぱり土佐の気質が、ちょっと引いたところから大きい流れを見てらっしゃるっていう感じでしょうかね。

中嶋:高崎先生とお話ししていると、そういう感じはやはりちょっとしますね。具体からの距離があるっていう感じが。

高崎:いや、ぜんぜん評価されなかったからね。平井さんが取り上げてくれるまではね。だからこの絵が、この作品がただで取り上げられることはないだろうと思ったから、全部破棄してるわけですよ。一番最初の作品をね、東京画廊の松本さんという人がね、具体担当だったけどね、だからその人がこう具体第3期というかね、それを集めとったわけですよ。東京画廊で売ろうと思ってたわけでしょう。だから倉庫にはあったんだけどね。吉村さんていう、朝日に書いてた関西の人があるとき言ったね。「あんたの絵は1つも売うれないのでね、いつ見てもあそこにある」って。

中嶋:でも東京画廊はそんなに売らなかったんじゃないですか。

高崎:でね、その松本が言うのにね、東京画廊はもう白髪、元永で具体を取り扱うのを辞めるということに決めたから、だからあなたの作品はもう扱えないと言われたね。ただこれだけ集めたものをばらばらにしてはちょっと惜しいし、いつか日の当たることがあるかもわからんから、まあお金にはならんけど、宮城が美術館を開くからそこへ入れるでっていってね、電話頂いたことがある。それ以来忘れとった、俺はね(注:東京画廊に保管されていた高崎氏の作品《装置》の一部は宮城県立美術館に収蔵された)。

中嶋:そうなんですか。

高崎:そう、今度出てきて、びっくりしてる。

中嶋:宮城には結構具体の作品がたくさんあって。しかも保存状態が良いんです、東京画廊さんがすごく良かったんですよ。だから、高崎先生の《装置》(1964)も、宮城県立美術館にある作品は(汚れがなくて)真っ白なんです。他の所のは、ちょっと黄ばんだりとかしていますけど。

高崎:しょうがない。あれはね、黄ばんだやつ、黄ばんだっていうよりも灰色がかったやつはね。東京美術館、や、北九州(市立美術館)はね、ほとんど常設みたいになってたからね。それで傷んだと思う。

中嶋:そうですか。それではまた宮城にも見に行きたいですね。

高崎:僕もそれを久しぶりに見るからなんだ、あることすら忘れてたから。

中嶋:とても素晴らしい作品です。

高崎:ああ、そう。それがこれで見たら、あるんじゃないかなと思うんだけどね(高知県立美術館の「高知の戦後美術と前衛土佐派」のちらしをみながら)。

中嶋:たくさんあるんですよね。その、昨日拝見したのは中央が迫り出してるような構造になってました。

池上:面白かったです、あれも。

中嶋:目の錯覚が起こったり。

池上:ああ、良いですね。格好いい。沖縄にあったものは、廃棄されてしまったというのが、残念ですね。

高崎:これも廃棄されたね。

中嶋:残念ですよね。

高崎:だけど、再制作をつくって、皆さんが再制作でてるかってんでね 、来てくれた、2回。

中嶋:そうなんですか。

高崎:その時はもう、これに箱をちゃんと作ってね、送ってきてくれてね。で、僕の、これはもうずっとあるんですけど。これはね、具体にね、やっぱり出したんで高いわけでね。で、具体の第何回やったかな、高島屋で…… 

中嶋:第17回具体美術協会展ですね。

高崎:横浜の高島屋へ行ってね、出すっていうんで持っていったんだけどね。背が高くて入らないわけよ。でも下だけ入れて。さっぱり(思い通りの展示に)ならなかった。

中嶋:これは新美の「「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡展」(国立新美術館、2012年7月4日-9月10日)にでてたものですかね。

高崎:うん、これはね、寄贈した(注:宮城県立美術館所蔵の《装置》1978年)。

中嶋:ああ、そうですか。

高崎:これは再制作、つくり直ししたらって言われてつくったものだからね。で、寄贈して貰った。こんなのはね、ここ、箱になってるんだよ。こういう風に箱になってるからね、捨ててしもうたね、重いから。

池上:ああ、残念ですね。勿体ない。

中嶋:これがそうですね。

高崎:宮城でしょう。

中嶋:これがグッゲンハイムに出てます。

高崎:これ、今見たらええわな。

池上:ねえ、素晴らしいですね。グッゲンハイムの展示も必ず拝見したいと思います。

高崎:はい。

中嶋:じゃ、次はグッゲンハイムが終わってから、その感想などをお聞きしたいですね。具体後の作品もとても面白いんですよね。

高崎:これは、具体の後期の作品でしょう。これは、具体(ピナコテカ)に残ってた壁ですよ。

池上:壁。

高崎:壁にね、杉の枝並べて(あって)。それに全部貼り付けることもできたけど、これ、壁がね固定してないんだよ、ぶらんぶらんしてるの。これ叩けない、叩いてもくっつかないからね。それをを区切ってね、ちいさくして(作品にした)。

池上:良いですね、面白い。

中嶋:この辺りの作品、本当にぜんぜん違う感じで。

池上:再制作していただきたいですね。

中嶋:本当ですよね。

高崎:で、これがほら…… 

中嶋:大阪万博の時(に出品した作品)ですね(注:大阪万博の際に展示された具体メンバーによる《ガーデン・オン・ガーデン》(1970)と題される作品。潜水艦を彷彿とせる金属の形態に、突起状の小さな形態がいくつかつけられていた)。

高崎:これもね、立てたら重くてたまらないんですよ、鉛でね。このでっぱりをつくってね、この出っ張りは壁にこう…… 

中嶋:打ち付けて。

高崎:ねじで留めてあるわけよ。だからくっつくわけだけどね。これは、鉛の箱でできているんだけど。(具体後期からその後の時期の自分の作品に)鉛の時代がだいぶある。これは非常に最初の作品だけどね、東京都の美術館(に展示した)。床が非常に奥の深い煉瓦でできてたからね、これは非常に効果的だったね。写真に写らないんだ、これがね。光るからね。

中嶋:そうですね、あんまりよくわからないですね。

高崎:これが、頭の骨みたいなもんで、ミイラみたい。これは良いんだけどね、この鉄がやっぱり錆びないように出来てるからね。これ、溶けて流れていけば良いんだけどね、そうはいかない。

中嶋:これを腐食させる…… 

高崎:写真は良いんだけどね。

池上:いや、すごい素敵です。

高崎:腐食させても、なかなか溶けるほどにはならんのです。

中嶋:では次回にまた。

池上:本当にお話がつきないですが。ありがとうございました。

中嶋:この、後期の作品ですね。このあたりの作品って、どこでもやっぱり拝見できないんですよ。もし写真など残っていたら、今度拝見したいです。 

高崎:ええ、纏めておきます。(今日は)あなたに渡すのだけ引っ張り出したけれど。

中嶋:この具体展が終わったら時間がありますので、整理にも来ますし。是非お願いします。どうもありがとうございました。